* 明日は「翁」「高砂」「末ひろかり」と目出度い梅若の初会。千葉の勝田さんを誘っているが、連絡がない。どうなるか。勝田さんに何事もないといい。
2005 1・9 40
* 渋谷は成人の日で沸騰しているかも知れない。松濤の観世能楽堂で梅若万三郎「翁=高砂」を、千葉のE-OLDと楽しんでくる。忠犬ハチ公での爺さん同士のデイトは、無事に出逢えるといいが。
2005 1・10 40
* ハチ公前で無事出会い、渋谷「松川」で軽く鰻重で昼にし、能楽堂へ。快晴で暖か、けっこうな散策になった。
能楽堂で開場に十五分ほど行列して待ち、わたしの気に入りの席へ勝田さんと並んだ。うしろの右隅だが、視野広く、グラスを二人分持っていっていたので、舞台は思う様に見られる。
* 「翁」は万三郎もとより、今年の野村萬齋「三番叟」は気力充溢、去年とうって変わって、颯爽とめでたく。鈴になってからは前半との比較でふつうちょっと退屈するのだか、鄭重に全身で鈴をあつかい、姿形もきっぱりと弾んで美しく、申し分なし。
萬齋はあとの狂言「末広がり」の大名でも、出色の好演で、おもしろいこと限りなし。なるほどこういう「末広がり」も出来るかと、思わず手をうつ剽軽な感じであった。石田幸雄のアドが狂言顔に成ってきて巧みな出来。こんな上等の「末広がり」には久しくお目に掛からなかった。神能から居座りの囃子方が、狂言小舞を引き立ててくれたのも幸いした。
「翁」から、そのまま「高砂」になり、今日の抜群のよろしさは、小鼓幸清次郎一門と笛松田弘之、大鼓亀井広忠、太鼓助川治の囃子の鳴り、心地よいアンサンブルと音色とで、これまためったにない上出来の美しさであった。囃子がいいとシテも引き立てられる。
「高砂」のワキはちと頼りなかったけれど、万三郎の小書「流し八頭 八段之舞」で住吉の神と高砂の翁とは清々とした。ことに前シテが目出度く美しかった。
* 新年をことほぎ、清まはり、E-OLD二人は大いに満足したので、つづく仕舞と能「田村」勝修羅とは遠慮し、渋谷駅で別れ、夕食前にわたしは帰宅。こころよい一日であった。
2005 1・10 40
* 勘三郎の五月芝居、幕が開いたようだ。今回、辛うじて昼夜座席はとれたが、夜評判の「研辰の討たれ」は、二階四列目。ちょっと遠いか。遠眼鏡を手放さずに楽しんでくる。十九日夜の友枝昭世「安宅」も、とても楽しみ。
六月は帝劇の「ラ・マンチャ」、初めて松たか子が父幸四郎と競演するのが観られる。渋谷では扇雀丈らの奮闘「コクーン歌舞伎」があり、ひきつづき木挽町歌舞伎座の昼夜興行が待っている。秦建日子も、初めての中野で、また新しい工夫と演出で人気の「タクラマカン」を再演すべく、猛稽古中と聞いている。どれもこれも梅雨をふっとばしてくれるだろう。
気の早い、十月日生劇場で、高麗屋親子の評判作「夢の仲蔵」も、今日予約した。大首の役者繪を描いた天才写楽がらみの舞台である。歌舞伎名人と称えられた中村仲蔵のことは、これも名人だった圓生の人情話でたっぷりお馴染み。染五郎が演じるという中村此蔵もややこしく登場するというから、高麗屋お家藝の、じっくり・がっちりした演劇的な歌舞伎が楽しめるに相違ない。
2005 5・3 44
* うらうらと晴れて明るく、気持ちがいい。仕事、追いついてきた。今日はこれから来客。明日は眼科診察を受けに行く。
* 昨日来、久しぶりに三遊亭圓生の「髪結新三」「中村仲蔵」「淀五郎」「猫忠」「豊竹屋」をテープでつぎつぎ聴いて、たっぷり堪能した。
2005 5・17 44
* 明日は晩の七時に友枝昭世の能「安宅」へ行く。明後日夕刻には、バルセロナと逢う。ご夫婦、もう無事に日本へ着いていて、京都などを楽しんできたことと想っている。
2005 5・18 44
* 妻が聖路加への留守に、用事をこつこつと済ませていた。もう帰宅する頃、入れ替わりにわたしは千駄ヶ谷の能楽堂へ友枝昭世の招いてくれている能「安宅」を楽しみに出かける。
発送の用意も、上巻分はともあれ間に合うところまで、しかし直ぐさま追いかけて下巻の校正を急がねば。
明夕、バルセロナと、二年ぶりか知らん。その前にも、校正刷りを持って早くに街へと思っていたが、これはやめにして、昼過ぎまで、家での作業にあてる。
2005 5・19 44
* 能は秀逸。勧進帳は一二に好きな歌舞伎だが、能舞台の「安宅」は、その「勧進帳」のホンモノの基盤=お手本というに値する高雅の格。満々員の見所へ、心身の志気を美しく開いて、友枝昭世の弁慶は、威あって猛からず、智勇兼備の静かさで一舞台を悠然と押し切り揺るがなかった。また子方の義経が、生い先見えて末頼もしい、凛々と美しい、可愛い義経で、感情移入した。謡も、また四天王以下の総勢直面の緊迫に一糸も乱れなかったのも、上等の「安宅」すばらしい「安宅」であった。楽しみにしてきた甲斐があった。
知った顔は、ただひとり馬場あき子さんだけ。顔が合い、彼女は例の親しみ溢れる笑顔と声とで、手を握りあい、わたしが「元気そうで良かった良かった、嬉しい」と。馬場さんもいつもよりずっと元気に美しくみえた。気持ちよくさよならを云い、彼女を能楽堂に残しておいて、一路帰宅。行きの電車では、校正。帰りの電車では『戦争と平和』を。
2005 5・19 44
* 湖の本エッセイ「日本を読む下・わが無明抄」下巻を責了にした。上巻のペースより二日早いから、月内には本が出来てくる。月末は二十七日に電子文藝館の委員会二時半から、三十日に言論表現委員会四時から。七月二日は梅若万三郎の橘香会。こういうのを合間に置いての今度の発送は長丁場の力戦になる。じたばたしまい。
2005 6・16 45
* 作業進行し、あとは流れに応じてで済む。二十九日の午までに本が出来てくる。三十日に言論表現委員会があり、二日には梅若能の橘香会。とまれ、七月八日の聖路加通院までに九分九厘送り出しが済んで欲しい。
2005 6・20 45
* ゆうべは「フアウスト」のあと、「旧約聖書」の途中で寝てしまった。七時間ほどの睡眠。今日をやすむと三日間の余裕が出来て、月曜に委員会、水曜に本が出来てきて、木曜にも委員会。土曜は国立能楽堂で万三郎の古式「葵上」。成るようにみな成ってゆく。
2005 6・24 45
* 国立能楽堂の橘香会は、梅若万佐晴の「鷺」が還暦記念の能であったが、失礼した。キリの万三郎古式の「葵上」だけに絞って出かけた。指定席券をもらっていたので、ゆっくり出た。空席が目立っていたので、もっと佳いと思う席へ移動して、ゆったりして観てきた。
珍しいものを三つ観た。
一つは仕舞のキリを舞った梅若善高の「実盛」で、仕舞と云うよりリアルな組み討ちという勢い猛な仕方で、かつて一度も観たことのない勇猛果敢、気魄もあらわな老武者の躍動仕舞で、これで装束のついた本番の能であれば、素晴らしいのかも知れないなあ思い、つい拍手を送った。仕舞というとみな行儀の佳いのがふつう。筋骨隆としてリアルに舞われたのは珍しい。
もう一つは「葵上」のワキツレで出た臣下役(野見山光政)の演技。さっきの仕舞といい勝負の、甚だ生に、居丈高にエバリくさって、凄い芝居ぶりであった。しかもこれがワキ座に直り、ワキには横川の小聖があとから出て、六条御息所そして後シテの鬼女と対決する。舞台正面に産褥の葵上を見立てた女装束の置かれることはむしろ普通だが、他に牛車が花道に持ち出され、侍女役がツレで出る古式も珍しい。
* そんな設えのなかで万三郎は葵上に恨みを抱いてあらわれる前シテの六条御息所と後シテの鬼を演じた。万三郎のこと、わるかろうワケもないのだが、今日の演能にわたしは満たされなかった。鬼の悲しみがすこしも伝わってこない。ただただ光源氏正妻葵上に祭り見の車争いで羞じしめられた「恨み」「怨み」の一辺倒では、ただの女の争いだけに終始し、そこに在る光源氏の「男」にかかわる女の悲しみが表現されない。それが無くて表現に豊かなふくらみがどうして表れ得よう。こういうところのツメのあまさに、万三郎のまだ一流とは許し難い至らなさが残っている。葵上と六条御息所の争いの、本当の主役は源氏へのひとしき「片思いのつらさ悲しさ」であるのに、そこがドラマとしてボコンと抜けてしまう能「葵上」では、情けない。
しかし般若の鬼面の凄かったこと、あれはよほどの秀作面に思われる。怖かった。
* 能楽堂ではドナルド・キーン氏にだけ会った。ほかに知った顔が全く見当たらなかった。キーンさん、「今日御本を戴きました。ありがとう御座いました」とにこやかに。日本人よりもはるかに礼儀正しい。キーンさんでも鶴見俊輔さん竹西寛子さん馬場あき子さんらもみなそうだが、こういう人達は、本の形で、たとえば上製本だから、豪華な装幀だから、などということは問題にしないで、本のなかみで観てくださる。気の低い人だと、本の姿形、つまり外見ひとつで値踏みし軽く観ようとする。あの「雑誌は」などというふうにコトサラに云う。
* 徒然草の研究のために、勤めをサボッて東大国文科の研究室書庫に入れて貰い文献を読みあさった中でも、もっとも印象深く感嘆したのは、りっぱな単行書の研究でなく、ザラ半紙にガリ版印刷された或る篤学の特殊研究だった、襟を正して読んだ。源氏物語の構成論ででも、そういう似た思いをしたことがある。
本は形でない、中身である。気の低い人は、立派な形をした本が本だと思いこむ。それは書籍である。「本」とは、中身の価値である。
* 朝から何にも食べていないし呑んでいない、何処へも寄らずに七時過ぎには帰り、入浴して体重をはかったら、昨日より二キロもすくない。ではお蕎麦でもと、戴いたばかりの蕎麦をゆでてもらい、これも今日届いた萬歳楽のお中元古酒、大吟醸「白山」を有難く栓を抜いて湯呑みにイッパイ頂戴した。うまーい。血糖値はいっこう下がらない。
2005 7・2 46
* 土曜日はやさしい温かいメールをいただきありがとうございました。気が晴れました。
メールは、失意と喪失感の中で書いたものでした。国立能楽堂で、お目にかかれなかったせいかもしれません。狂言の「腰祈」から入りました。舞台に向かって正面右手の前列から二番目の比較的良い席におりました。どのあたりにいらしたのですか。
「葵上」は初めて観たので、佳い悪いの判断基準がなく、能そのものの迫力に強い感銘を受けました。般若の鬼面が現れた瞬間に、あまりの怖さに背筋がぞーっと冷たくなりました。前の方で観ていたせいで鳥肌立つようでした。恐ろしい姿でした。わたくしの女の中にもある修羅です。最後は御息所の霊が救われたとは思えず、ただあきらめた哀れさだけが残り、涙が溢れていました。
能楽堂に参りましたのは、たとえ短い時間でも、立ち話でも、お話しできるかしらと思ったのです。お目にかかれるかどうかは賭けでした。会場にお姿がないので、やはり賭けに負けて、お出でにならなかったのだと失望しました。帰宅して「私語」を拝見し、ただ会えなかったのだとわかりました。
能楽堂で突然お声をかけても、「あなた誰?」と言われるだけとは思ったのですが、座席からロビーまで何度も往復してお探ししました。ドナルド・キーンさんしか見つけることができませんでした。
同じ場所にいながら、あれほど求めていながら会えなかった。運命……を感じてしまいました。 都内
* ビックリする。能楽堂で「葵上」とは繰り返し此処にも書いていたから、その気ならこういうことは誰にも出来るのだろうが。橘香会だから、当日の座席があった。友枝昭世の会だと、とても席は取れない。大阪の読者・編集者で昭世の熱心なフアンはいつも東京までも来て姿を見かけたり立ち話などするが、昭世の人気は、藝の深度に比例して今や右肩上がり、席の確保がたいへんですとメールをもらっている。
それにしても、ビックリ。
初めての「葵上」なら、だれでもアレには慄然としたことだろう、凄い鬼であったから。源氏物語のなかでも貴女のなかの貴女六条御息所を、ただあのような徹底した怨恨の権化に表現して済ませたのは、だが、万三郎の理解の浅さと思う。彼女の、鬼にもなるほどの「悲しみ」が伝わってこないのだ。
* こう書いていると、「闇」の向こうで、秦は、小説の書き出し場面を創っているのだろう、と想う人があるかも知れぬ、そうわたしに尋ねた人も、一人二人ではない。
2005 7・6 46
* 文楽「仮名手本忠臣蔵」九段目の「雪転(こか)し・山科閑居」を 住太夫、文雀らで、聴きかつ観ていた。忠臣蔵でいちばん好きな段。まえに玉三郎の戸無瀬と七之助の小浪で歌舞伎の舞台を観た。戸無瀬の大泣きで私も泣くか知らんと思っていたが、やはりほろりとした。小浪の「可愛(かい)らしさ」を、「声」で出しては出し切れるものでない、「音(おん)」で出す、と住太夫が初めに話していたのが胸に落ちた。住太夫のお話しぶりは、恩師の橋田二朗先生に声音も調子もまったくそのままで。上方言葉のふくらみとあたたかさとやわらかさ、堪能した。浄瑠璃以上に堪能したなどと謂うと失礼。戸無瀬と由良之助妻お石との人形遣い、お見事な、情と意地と位。
2005 7・24 46
* 八月末まで予定がつまってきた。二十九日、利根川裕さんの会合。三十日、言論表現委員会。三十一日、臨時のペン理事会。二十一日、友枝能「安宅」。それでも三週と四週とはかなり余裕がある。妻はとてもよう動かないようだが、わたしは、一二泊のちいさな旅でいい、旅の空で胸郭をひろげたい。
2005 8・5 47
* 明日は午後から夜まで歌舞伎座に。五日休んで日曜には友枝昭世人気の「安宅」をもう一度観せて貰う。第四週きれいにあいている。二十八日に帝国ホテルで、ハワイアンの食事をどうかと宣伝されている。妻はノーサンキューだと、わたしは一人でも行こうかなあと。翌日の利根川裕氏の出版記念会はまだ出席の返辞をしていない。三十日は四時から、三十一日は一時から言論表現委員会、臨時理事会が決まっている。二十五日も。
2005 8・14 47
* 今夕は友枝昭世再演の能「安宅」に行く。二度観せてもらえるとは、幸い。
2005 8・21 47
*「安宅」 今日は脇正面のいいところに席が用意されていた。七月は真正面から、八月再演は脇から観られて、興味深かった。今日の演能はワキが宝生閑、ねばった謡だけは気になる人だが、流石当代一のワキで、昭世の弁慶に一段の気力満ち、舞台に真剣の気魄が光るようだった。昭世は鬼の弁慶ではなかった、聡明な思慮と鋭い反射神経、長者の威力に満ちた静かな弁慶で、したがえた八人の誰より小柄でありながら、富樫某よりも小柄でありながら、終始抜きんでて偉大にみえ、瞬時も気抜けがない。
歌舞伎の勧進帳も大好きだが、能の「安宅」には部分的に歌舞伎を圧倒するほどの生気がみなぎり総員の演舞が冴える。たいへん楽しんだ。
* 先日歌舞伎座の帰りにも「やあ」と顔の合った、詩人の高橋睦郎氏、今日も帰りがけに人中で「やあ」と。彼、寄ってきて思いがけず「ペン電子文藝館」の短歌に「招待」しておいた九十過ぎの老女石久保豊さんの短歌を絶賛してくれて、ぜひ讃辞を病院の歌人にとどけておいてくださいと。我が意を得て嬉しかった。
石久保さんは会員でもまた既成の歌人でもない。おそらく歌集も持たないであろう、が、その才能はなみの歌人の域を超えているとわたしは観ていたので、病牀にあるのも構わず、作り置きの書き留めから自選をつよく勧めて、あえて「招待」しておいた。
高橋氏がよく目に留めまたよく記憶していてくれて、じつに嬉しかった。
高橋氏はわたしが「芸術生活」という雑誌に盛んに連載していた頃、よくアチコチで一緒に書いていた人。詩人で小説も書き、趣味生活豊かな人として知られている。それにもかかわらず立ち話といえども暫時言葉を交わしたのは、今日が初めてであった。ありがたい。石久保さんに伝えてあげたい。
* 帰りに酒を呑まない算段をして、池袋東武地下の「寿司岩」に入り、ビールの小瓶一本で、寿司は特上、さらにずわい蟹二貫と中とろ一貫を追加して、簡明な夕食。デパートを出る間際に、金柑ほどにまるめた餡いりドーナツ一袋を買ってしまって持ち帰ったところ、妻はピアノの稽古に余念無く、これ幸いと一袋(二十玉ほど)みな喰ってしまったが、一つ一つ小さく食べやすく美味かった。わたしを美食家だという人は間違っている。
2005 8・21 47
* 九月七日十一時に、二ヶ月ぶりの聖路加糖尿の診察。正午には済んでいるだろう。うまい昼飯、そして午後いっぱい胸のひろがる嬉しい時間がもてるといいが。
その次週には定例理事会と、歌舞伎の通し。二十五日には宝生のシテ方東川さんが「半蔀」のシテを初めて勤めるのでと誘われている。水道橋能楽堂。二十九日には俳優座招待がある。もうだいぶ涼しいであろう。そのまえ月火水のどこかで、電子文藝館委員会の予定。この隙間へ、何としてもモロー展、根津美術館、泉屋博古館、五島美術館などを挟みたい。メガネの新調にも出かけないと。
2005 9・1 48
* スーパーインポーズ 甲子 05.9.19
お初にお目にかかります。いえ、きのう「私語」を開き、冒頭の大きなお姿。
ははあ、これが「慈子」を書き「無明抄」をお書きになった先生かと感慨しばし。
他のPC ではとうに取得、写映されていたのでしょうか。わたしのPC ではこれが初対面となります。対面ではありませんね、一方的に拝見するのですから、覗き見、というのでしょう。
なるほど、お書きになる文体そのまま、ふくよかなお面相であられる、と思いました。
「一文字日本史」「わが無明抄」繰り返し読ませていただいております。わたくしは、あるがままの心根をそっくりそのまま、文章に移された、その力に圧倒され、思いのうちにただもう、じぃっと耳をすます。そんな反応、としか申し上げられません。しいて申せば、闇の深みへ、奥へ奥へと導かれてゆく、怖ろしいのではなく、心地よい。これぞわが褥。
元来わたしは、見る・聴く・読む、まだ他にもありますが、その中へ没入してしまうたち(性向)です。たとえば30年ちかくN響の定期会員でしたが、毎回、演奏が終わると間髪入れず、「ウオー」と叫んで拍手に先駆ける人がいました。聴いているというより終わるのを待っていた、というかのよう…。饒舌の果ての絶句。その沈黙の中に、音響によって提示された大いなる言霊を、その人達は聴こうとしないのでしょうか、あるいは聴こえないのでしょうか。いずれにしても味(つや)消しな、にがにがしい、ことでした。
十何年か前、フィルム・ライブラリーが火災で、過去上映されたフランス映画のフィルムすべてが焼失したということがありました。ああ、あの懐かしき「パリ祭」「ペペル・モコ」「カスバ」「大いなる幻影」・・・ルイ・ジュベよ、アリー・ボールよ、ジャン・ギャバン、クロード・フランセス、シモール・シニョレ、シャルル・ボアイエ、その他・その他・その他。と嘆いていたところ、なんと、フランス政府からそれらすべてのプリント版を寄贈する。と申し出があったそうです。ああよかった、もう一度見たい。などと思ったわけではありませんが、そしてそんな機会があっても出掛ける余裕があるわけでもありませんが、在る、という事実だけでこんなにも心安らぐものか・・。
ところが、映画評論家の一言がわたしの喜びの灯を一気に吹き消してしまいました。
「フィルムは戻ったけど、スーパーインポーズは永遠に戻らない。いまの人達で直訳はできる。が、意訳は、時代を踏まえた者でなければ出来ない」
お姿を拝見できて、ある意味、安らぎをおぼえます。いつまでもご健康で、喰い、呑み、且つ心おきなく遊んでください。わたしもその方向で残りの時を遊び暮らします。
彼岸、季節の推移、東南アジアなど熱帯地域は夏が年二回あります。春と秋の彼岸です。日本の四季、なんと恵まれた桃源郷でしょう…。
お 写真を見ていると、「そこはそう書くのではなく…」、など、厳しく、いえ、優しくお叱りくださっていただいているようで…、 お大事に… 甲子
* ひとまわりもお年上の男性から戴いたラブレターのようなものと、感謝。
明月やここにも一人 キネ・フアン
ジャン・ギャバン、シモーヌ・シニョレ、シァルル・ボアイエが、分かる。もう三人は思い出せない。その程度に甲子さんとのキャリアに差があるにせよ、ハナシは合うのだろうなと嬉しがっている。いつ会えるか分からないが。
* この「述懐」で思いを同じくすることが、思い出すもにがにがしいことが、ある、
それは一番の能の果てたあとの「拍手」である。演者たちへの感謝と称讃の善意の拍手なのは疑わないが、せっかくの能の清寂が瞬時にふっとぶのである。あの「拍手」は犯罪的、ぜひ、やめてほしい。
わたしが友枝昭世の能舞台を愛するのは、この人の舞台だけはこの野蛮に暴力的な「拍手」を見所(けんしょ)が堪えてくれる。シテの幕入りを待っていたかのように拍手を浴びせる不作法が、殆ど無い。舞台も見所も静謐の緊迫をたたえたまま、シテが幕に入り、ワキが入り、三役が入り、地謡も消えて行く、その間の息づまる静謐。あれこそが能の魅惑のエッセンスなのである。
ほんとうは一つの拍手も聴きたくないし、拍手は禁物、それが作法の筈なのである、むろん喝采が最大の讃辞になりうる能もあろうと思うけれど。
友枝ではかねてそういう観客層への予備の指導がなされているのではないか。どのシテ方、ワキ方、三役達も、傘下の人へのそういう日常の指導を口コミとして徹底させて欲しい。
せっかくの能を毎度無意味な拍手でぶちこわされるのは、堪らない。拍手さえすればいいと思う客がいて、ほんとうに、その瞬間を待ちかねたように得意に拍手する人もいるようだが、拍手のぜひ欲しい舞台と、慎みたい舞台のちがいのあることは、常識であって欲しい。
2005 9・19 48
* 戸外の方がからりと秋の空気で心地よさそうに感じる。調べてみたら、招待されている美術展や演劇や催しが、十月だけで三十から四十も溜まっている。つい目も届かず失礼してしまう。都美術館、国立工芸館、菊地寛美記念智美術館、根津美術館、文化村ザ・ミュージアム、泉屋博古館分館、五島美術館など、欠かしたくない。デパートの美術案内の中にも日本伝統工芸展などがある。画廊の個展案内もむ溢れている。
どうしようかと、書きだしてみて、数の多さにおどろく。中には日の重なる招待もあり、困惑する、どっちへも行きたいのが劇団昴公演「八月の鯨」と梅若万三郎の珍しい能「三山(みつやま)」で。先約の昴をとるけれど、能は復曲された珍しい劇的な能であり、地謡も後見も観世流の贅沢なほど一流どころがならび、さらに狂言に野村萬齋が来ている。仕舞三番も言うことなしの佳い顔ぶれ。まいっている。招待座席は中正面だけれど、悪い席ではない。
2005 9・30 48
* あすは二時ごろから、水道橋の宝生能楽堂で、東川光夫さんの能「半蔀」を観るつもり。明後日は新劇「八月の鯨」を、木曜には日生劇場で幸四郎・染五郎の「夢の仲蔵」。土曜は言論委員会と電子メディア委員会が共催で、上智大学でシンポジウム。そのあと卒業生クンが家へ来て、ピアノを弾いて聴かせてくれる。火曜も水曜も、ひょっとすると金曜も。
2005 10・8 49
* 後楽園で地下鉄をおりるのは久しぶり。ゆっくり歩いて水道橋の宝生能楽堂に入る。勤めていた頃、本郷の会社からそう遠くなく、ゆらゆらと散歩半分にこの辺まで来たことは何度もある。懐かしい記憶もある。
むかしの壱岐坂、春日町、後楽園界隈に比べると、やはりドームに変わって、駅舎も変わって、地下鉄三田線も通って、一帯がスマートな街の顔になっている。能楽堂近くにも高級な佳い店も出来ていて、気軽な店はま増して多く、なにしろ目の前が後楽園遊戯場でありドームであり、若々しい賑わいに満ちている。
* この能楽堂、むかしは戸外の物音が割り込んでくるほどであったけれど、改装されて、格好もよくなった、それももう、だいぶ昔のこと。此処では、だれであったかの「三井寺」の能のすばらしいのを観た記憶が活きている。アイを野村万作がつとめ、それがまた溜まらなく良かった。万作の狂言を久しく観ないのが残念だ。
* 今日は能楽堂についたとき、「枕慈童」の終わる時分で、用意してもらっていた席にはいると、やがて狂言「魚説経」であった。恐縮したのは、二席分用意してもらっていたこと、たしかに、大概の所へは妻と二人で行くから、気を利かせてもらったらしいが、わたし一人のご招待と思いこんでいたので、一人で出かけた。
で、その野村万蔵らの狂言たるや、足の運びも粗忽軽率な素人狂言のようにヒドイしろものであった。「万蔵」の大きな名が泣いている。名人万蔵が死に、嗣いだ万蔵もいい役者であったが息子に嗣がせて自分は萬になり、ところが意欲的な新万蔵が惜しいことに若死にしてしまった。そしてまた粗忽なほど素早く万蔵がまた出来ていたらしいが、少なくも今日の狂言は完全に落第もの、お話しにならなかった。
もともと現代の狂言にわたしは厳しい。味の落ちた干物のようだと書いたこともある。万蔵万作、また千作千五郎あたりまでは観られたが、評判の萬齋でも上出来の狂言はめったに観ない。それでも彼など、映画や演劇など他の領分へ出て、演技者の底力を発揮してくる。万作も千作もそのくちで他の舞台で活躍できた。
そんなところだろうと狂言の済んだ刻限を見計らって出かけたのだが、まんまと不出来ものを観せられた。くすりとも笑えなかった。
* だがお目当ての「半蔀」は、さすが美しい能であった。東川光夫は初演であるらしかったが、初々しいゆったりとした姿態が美しい。
源氏物語本文で、夕顔の魅力は「こめきて」書いてある。子(のちの玉葛)も産んでいるのだが、いまなお少女っぽくあどけなく、けっして根くらでなく、はなはなと笑ったりもする可愛い女であると説明してある。
東川さんの面のつかいようが時に微笑しているとも見えて、夕顔というと悲惨な末期に印象があるからいつも泣きの涙顔かと思いがちなところを、古典に則して陰気にしないで演じて見えたのが、わたしにはそれがおもしろいと思えた。なにしろ、夕顔の忘れ形見の玉葛は、帝に信頼され源氏に愛され堂々たる尚侍を勤めて豪家の主婦として立つ女性である、母親が不出来な陰気な女であるわけがない。「半蔀」という屈指の美しい能のヒロインは泣きの涙の幽霊ではない。有数の男たちに愛された女であるのが基本。
後シテのために舞台に持ち出される半蔀のツクリものが、実に美しい。そこへ入り、そこを出て舞う夕顔がまた美しいのである。わたしは遠眼鏡をほとんど手放さずに見入っていたが、シテと半蔀とが一つに重なって見える場面は陶酔する美しさで、暑い夏をおえてきた季節の絶好の演目、東川さんは横や斜めからみせる姿態に色気をにじませ、正面ではかすかに頬笑んで見えたりして、能の演技の基本などなにも知らずに勝手に観ているわたしには、ああ観に出て来てよかったと思わせた。
声の質もかかわるが、謡がすこし重い。それに、最初の、たぶさに穢る立ちながらの和歌からして、詞章詩句をつまり記憶して謡っていて、シテの身にすみついた詞が自然と流れ出るようではないのが、不満といえば難であった。
だが、屈指の名曲、満たされた、豊かに。楽しんだ。
残念で悔しいのは、シテが幕に入る前に拍手、ワキが帰って行くのに拍手、三役が引っ込むのにまた拍手と、能の清寂は無惨にぶちこわし。あれは流儀や能楽堂がいけない。顔見知りのつまり此の道の通などは、誰も拍手なんかしていない。拍手するものだと思い込み、ただもう拍手しようと待ちかまえている客までいるのだから、堪らない。
最近のお芝居では決まって携帯電話を鳴らさないでくれと劇団員が前へ出て頼んでいる。あれと同じく、能楽堂も、能のはじまる前にだれかが拍手は自粛されたいと注意するなり、ロビーや入り口に書いて貼り出せばいいのに。
* 帰りに後楽園の遊戯場というか遊園地を通り抜けてきた。昔は入場料というのをまず取っていたので入ることは無かったが、今は入れるのである自由に。中にいっぱいいろんな店があり、乗り物や遊戯場がある。そこで支払わせている。その方がいつも人で賑わいお金も自然使われるだろう、知恵者がいたわけだ。
わたしのようにお金も使わず、楽しんであちこち覗いて写真を撮って通り抜けるだけのフラチな老人もいるわけだけれど、それこそ枯木も山の賑わいではないか。わたしは、フンフンと楽しんで後楽園からまた地下鉄に乗った。
池袋西武の地下売り場できれいな弁当と酒の肴をかい、景気の良さに感心してきた。電車に乗っている間は、西武でも地下鉄でも、一心に校正していた。アタマの切り替えは我ながら実に早い。すぐ、それへ熱中し没頭出来る。
2005 10・9 49
* 秦恒平様 昨日は天候の悪い中、おいで戴き有難うございました。
仕事から帰り、今サイトを開いてご批評を読みました。
色々思いは錯綜しますが、何よりもこれほどの批評を貰った事がないので、私の事だけで行数をこんなに使っていただいて…と恐縮しております。
本三番目という能の位が、まだ全然わかってないのだなという事が良くわかった、というのが今の心境です。
来年は「百萬」「歌占」「六浦」の予定です。
本当にありがとうございました。 夕顔
* わたしの感想など、ドのつく素人の思うままで、本職の役には立ちませんが、感じたままはウソなしに書いています。お元気でご活躍を。 湖
2005 10・10 49
* 午前中機械の前にいた。午後、思い切って美術館へ出ようと思う。明日の午前に納本があれば、即、家中がいくさ場に成る。
* 妻が、付いていって上げるというので、かしこみかしこみ二人で上野へ行き、創画展を観た。
案の定、観るに堪える展覧会ではなかった。橋田二朗先生の草野の繪など美しいと謂える少数に属していて、石本正氏の半裸婦も見苦しく、上村淳之氏の鶴も、亡き松篁さんの鶴の半分も描けていない。大森運夫ほか指を折って片手に満たない程度にちょいと立ち止まっただけで出て来た。
妻が久しぶりに寄席で笑いたいというので、鈴本の昼席、中入りの少し前に入って四時半の打出しまで腰掛けていた。大笑いはなかったけれど、川柳の唱歌漫談など、満員の寄席で楽しんできた。トリは菊千代。これは話藝としては大いに物足りなかったが、話題が西行の出て来る「和歌もの」なので、おやおやと思い聴いていた。
伝へ聞く鼓ヶ瀧に来てみれば岸辺に咲けるたんぽぽの花
と歌を詠んで木蔭に臥しまどろんだ歌詠みが、夢に、山中のあばら屋に一夜の宿を求め、請われて、瀧のもとで詠んだ上の歌を披露すると、爺が一個所の手直しを勧める。伝へ聞くよりは鼓の縁で「音に聞く」がいいだろうと。歌人は閉口する。
すると婆がまた一個所の手直しを勧め、来てみればより「うち見れば」の方が鼓ヶ瀧にふさわしかろうと。歌人はぐの音も出ない。
すると少女まで現れ出て、岸辺ではあるまい、鼓に縁をもとめれば「かは辺」と直した方がいいと。
音に聞く鼓が瀧をうち見ればかは辺に咲けるたんぽぽの花
と直ったわけで、たんぽぽは、別名が「鼓草」である。なにしろ最初の歌を聴いたとき、落語じゃもの仕方ないが、まずい歌やナアと惘れていたら、そこそこに直されたのが面白かった。この歌人、じつは西行法師で、夢の三人は、住吉の神様や人丸たちであったという。笑って「鈴本」を出て来た。
横丁に入り、天麩羅の「天壽々」の店明けにとびこみ、菊正純生の冷酒で、小味な、からっと揚げた天麩羅を堪能してきた。魚づくしに扮装した初代吉右衛門をはじめ、時蔵(先々代)、染五郎(先代幸四郎)、もしほ(先代勘三郎)、梅枝(先代時蔵)らの居並んだ「戯画」の額を珍しく観てきた。良い店をみつけた。
その脚で地下鉄大江戸線に入り、妻は、遠回りして帰りたいというので、両国、大門、新宿都庁前などを大きく経由して練馬へ。保谷からは例のタクシーで帰ってきた。タクシーの運転手が「ハタさんですね」と覚えてしまっているのに驚いた。ほんとは歩いた方がいいのだが。
芝居以外に妻と出たのは久しぶりで、上野の山は好天。
* 家では黒いマゴが待っていた。
2005 10・30 49
* 明日は、昭世の能と萬の狂言。
2005 11・5 50
* さ、国立能楽堂へ。宇治十帖のヒロインに逢い、そして彼岸を示唆する神秘の獅子にも逢ってくる。万作に会えないでいるこの頃、兄野村萬の狂言藝もほんとうに貴重なものになっている。素早く帰って、日のうちに済ませたい仕事や用事が幾つかある。
* 能楽堂に入るまぎわに馬場あき子さんと会う。わいわいと立ちながら歩きながら、歓談。能楽堂の中ではかなり瘠せてしまった堀上謙さんにびっくり、思わず「元気なの」と聞いた。十数キロも減ったらしい。高齢の大河内さん、小山弘志さんにも暫くぶりに会う。
* 「浮舟」前シテての白綸子に純清の黄の表着の美しかったこと、それだけでも観ている甲斐があった。「浮舟」は重々しい美女ではない、二人の貴公子の間をたゆたう、どちらかといえば「こめい」た可愛い女である、入水を決意などする人だけれど。その感じが前シテにも、後シテにもよく表されて、昭世の美しい能一番の思い出がまた一つ出来た。橋がかりや舞台から真っ向に向き合う幾時・幾度かがあると嬉しいものだ、そのためにこの席をもらっているのだろうかなどと勝手に一人どきどきする。物語はよくよく心得ているからいろんな背景やあやとともに味わえる能である、佳い夢をみていた。
* 狂言には点のからいわたしだが、今日の「舟渡聟」の野村萬は期待通りの至藝、つられて息子の万蔵もなんとかよく付き合った。しかし眼鏡で眼をのぞきこむと眼がきょろきょろしている。役が身に付いていない。歌舞伎でも能でも狂言でも新劇でも商業演劇でも、なまみの眼でキョロキョロするような役者にはロクなのはいない。万蔵、よく心得ていて欲しい。集中力が足りないのである。
それでも「舟渡聟」がけっこう楽しめて良かった。ふつうの日だと、目当ての能一番がすめばさっと帰るのだが、今日はこのあとに半能「石橋」があり、昭世と友枝雄人のいわば連獅子。これは観たくて、残った。残っていた甲斐が十分あった、獅子の面がともに素晴らしい迫力と魅力、親は親の大いさと確かさ、子は子獅子の勇ましさ華々しさで、短い時間を爆発するように魅力と美とで満たしきった。大満足。
そして、すうっと家に帰って、五時。
* 国立能楽堂の資料室で、装束と面とのじつに充実した展観があり、舞台と匹敵するすばらしい内容であった、っつとりし、感動した。この資料室は能をみなくても別の入り口から入れる。こじんまりした資料室であるが、展示の一点一点、特筆ものである。「白萌黄段籠目牡丹松藤流水模様唐織」だの「紅繻子地枝垂櫻鳳凰波鴛鴦模様縫箔」だのと装束につけた名を読んでいるだけでも佳い。「小尉(しょうじょう)」「万媚(まんび)」「邯鄲男」「平太」「二十余(はたちあまり)」「茗荷悪尉(みょうがあくじょう)」「曲見(しゃくみ)」などという能面の名前について観て行く楽しさ。能で居眠りする人も、この資料室では溜息が出るだろう。
2005 11・6 50
* 読書セラピー
hatakさん 歌舞伎で体調も改善されたようですね。泣き・笑いは免疫力を高めるという実証でしょうか。
雪降る二日間、非常に難儀な会議の座長をして、体中の関節がぎしぎしいうほど疲労困憊し、そのまま体調を崩して、ついに今日は仕事を休みました。
久しぶりにゆっくりと、「湖の本」最新刊を読み始めました。
『好き嫌い百人一首=秦恒平百首私判』、痛快です。朝日ジャーナルで作家秦恒平を知った私としては、通説・常識・生解釈をばっさりと覆してゆく痛快さが魅力です。
午後は、書棚からNHKブックス『閑吟集』を出してきて、再読。読むほどにくすんでいた身心に精気が戻ってきました。読書セラピーとでもいいましょうか、閑吟集の時代の陽気に心が共鳴して、均衡を崩していた体が平衡を取り戻してくれました。
世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり
ふむふむ。
新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ こちや知らぬ
ははは。いま日本中で茶壷の口切をしている、しかめ面が聞いたら腰を抜かすはず。
思ひ出すとは 忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば
思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし
ああ粋ですこと。
ところで、最近米グーグルが著作権切れ書籍の全文検索を開始、米アマゾンが本をページ単位でばら売り、米マイクロソフトが大英図書館の蔵書を閲覧と、米国で図書館とネット企業が手を組んだ電子書籍事業の展開が進んできました。
学術文献の検索閲覧では、一般書籍の先を行く勢いで電子化が進んでおり、図書館では電子媒体での保存の危険性と、紙媒体での保存経費を天秤にかけて悩んでいるところです。
米ネット界の三つ巴の覇権争いがどうなるのか気になるところです。 maokat
* この後段の状況は電子メディア委員会でも把握して注目している。情報インフラの底知れない変動は足取り早く社会の各場面に荒波を立てて進んできている。
韓国ではもう新聞がおおかたIT情報の前に潰滅したと聞いていて、日本の新聞もどうごたくさご老体が頑張ろうとも、この数年内に音を立てるように崩れ落ちるであろうと観測されているが、その前に図書館事情が大きく変わる。図書は捜して手にするより、検索して読むものに変わりつつある。
もっとも幸か不幸か日本語はタテ読みがまだ普通で、ヨコ読みの機械文を毛嫌いしている人が圧倒的に多い、それが僅かに検索図書化への速度を抑えていると言えるだろう。
2005 11・15 50
* 明日は、その高麗屋の長女松本紀保主演、鴻上尚史作「トランス」を観る。来月には高麗屋父子の「天衣紛上野初花」を観、次女松たか子の「贋作罪と罰」を観る。そのあと暫くして、古稀の自祝もかね、京都南座まで出かけ、成駒屋や松嶋屋に肩入れしてくる。中村鴈治郎は坂田藤十郎になり屋号を替えるのだろうか、それも佳いと思うが。
いい芝居をいい席で観る。わたしたちのささやかな贅沢である。いっこう稼ぎもしないで贅沢を楽しんでいる。
京都から帰ると、今年の舞台見納めは、国立能楽堂クリスマスイブの能「定家」シテは観世栄夫。どっしりと大曲でのオオトリになる。なんという嬉しさ。
そういえば来週早々の月曜には、明治座の「細雪」に招かれている。雪子役は紺野美沙子で、澤口靖子ではない。何度も同じ舞台を観ているので珍しげはないが、これまでは帝劇だった。明治座という舞台でどうなるか。そのあと、「ペン電子文藝館」の委員会へかけつける。浜町と茅場町のこと、遠くはない。
2005 1・18 50
* 立川談志という噺家は必ずしも好きではないが、今夜深夜になって日本近代の藝人達をものの百人以上もたてつづけに思い出語りして聞かせてくれた話藝には敬服した、惹き付けられて、妻も私もテレビの前を動けなかった。ああなんと懐かしい名前と顔と藝とが登場したことだろう、すっかり忘れかけていて、しかしフィルムが出ると歎声の漏れるほど懐かしい人・藝・風貌。懐かしのメロデイではない、懐かしい藝風にふれてふれて堪能した。ちょいと嬉しい時間であった。
* あすから少しのあいだ、落ち着ける。
2005 12・2 51
* 来春はどんな「翁」に逢えるか知らんと想っていたところへ、妻の親友から、矢来能楽堂の一月八日、観世善之の「翁」へ招待して貰った。矢来が久しぶりなら、観世善之の「翁」は初めて。これも古稀の慶び。ありがたい。
2005 12・12 51
* 二日間の留守中もふくめて、ようやく古希の「少年」も一段落し、元のペースに戻れるようだ。
明日は、観世栄夫さんの能「定家」がある。大作で重い、じつに重い能。榮夫さん、体力の限界を渾身の気で舞われるだろう。
正月八日に矢来で観世善之の「翁」があり、つづいて九日にも松濤で、梅若万三郎の「翁」 (野村萬斎の三番叟)引き続き「賀茂」があり、久しぶり野村万作の狂言「福の神」がある。そして十三日は、木挽町での初春の大襲名歌舞伎、今度は昼夜で楽しむ。
2005 12・23 51
* ともあれ落ち着いて、榮夫さん二時間の能大曲「定家」と向き合ってくる。野村萬の狂言「入間川」がきっと面白いだろう。
2005 12・24 51
* 国立能楽堂での「幽の会」は、まず野村萬の「入間川」で、大名第一声が大きく立派であった。ちかごろあれだけ大柄な大名風情は珍しいほど。
次いで観世栄夫の能「定家」は、ことに長々しい前シテが、幽玄の体でもの哀れに式子内親王の愛欲ゆえの苦悩がにじみ出て、面使いの巧さ、抑制した榮夫の謡の確かさ、繊細な身働きの美しさで、充実した。むろん後シテも、おのが愛欲を否定しきれない内親王のほとほとの苦悩と、僧の効験にも救われきらない永遠の歎息がよく表現された。大鼓の鳴りのよろしさに感嘆した。大鼓というのはやたらカンカン鳴らして威勢を誇りがちだが、今日の大鼓はさすがの第一人者、深々と佳い音色で貫禄十分。ワキの宝生閑も謡がしみじみとよくなり、少しワキ座での棒立ちが気になりはしたが、うま味が加わり前々よりは遥かに安心して観ていられる。またアイを語った狂言の野村万蔵が今日はたいへん立派に落ち着いて聴かせたのは、おおいに宜しかった。
「定家」という能は、いかにも厳しくいかにも重いが、頻りに頻りに小説家の本能に訴えてくるものがあり、わたしは、そっちの方の欲念にもとらわれとらわれて落ち着かなかった。
* ドナルド・キーン氏、小山弘志氏、能評の大河内氏、また高田宏氏らと顔を合わせてきた。
* 能楽堂から近い、千駄ヶ谷駅よりの地下食堂で、タラバガニを蒸したのやナマの刺身や餃子にしたのや、そして鯛の刺身やホタテ貝の蒸し物などを食べ、酒を三合あまりは飲んで寒風の保谷へ帰ってきた。
2005 12・24 51