☆ 大雨と強風で、すっかりと梅の花が散ってしまいました。急に寒さが戻ってきましたが、奥様ともどもお風邪など引かれませぬように。
今日は歌舞伎座で『義経千本桜』の昼の部を見てきました。
安徳天皇の乳母役の藤十郎が粛然として気高く、そして幸四郎の知盛が大碇とともに海へと、舞台のそこそこへ惜しみなく拍手を送りながら、舞台に没入できる喜びを味わってきました。
二幕目の大物浦の場面は能の「船弁慶」の趣向が取り入れられてあるとのことでしたが、能の話のほうから見ると主体が違うように思いながら、歌舞伎の話の面白さに引きずられました。
能の拍手のことを思っていました。
先月、矢来の九皐会「蝉丸」の舞台で、蝉丸が姉宮の去った後一人になり、舞台をひいていく折、橋掛かりの三の松に掛かったときに拍手が起きてしまいました。コツ コツと杖の音が幕内に入らないうちに拍手の音に消えてしまいました。
師は演者の力量が足りないからだと残念がっておられました。
観客は蝉丸の哀しさ 寂しさは充分感じて、好演技に、一人拍手が入れば、続いてしてしまったのです。私も胸締め付けられそうにもなりながら、遅れながら拍手しました。
能の舞台では感動を拍手で表さないのが昔からのことでしょうか。また拍手すらできないほどの感動を求められるのでしょうか。他の演劇やコンサートのように熱狂的ではなくて、能の舞台でも終わりには静かに拍手があって良いように思いました。
また先日東京交響楽団のコンサートでチャイコフスキーの6番「悲愴」を聞いたのですが、さすが指揮者が指揮棒を台の上に置くまで拍手はでませんでした。その後に大ホールを揺るがすような拍手が沸き起こりました。
それぞれの舞台の拍手を思いながら胸に響いたものを持ち帰りました。 晴
* 能の場合、三役が、つまりは笛方が最後に幕に入ったところで、能一番の好演に感謝し静かに拍手を送るていどが、礼としても、許される限度だろうと思う。能舞台は、ただの藝能の演技・演奏とは本義を異にしている。超越した「翁」の、さまざまに姿形を変えた、「影向」の能なのであり、松羽目はただの装飾ではない。来臨の神のよりましである。神前の柏手は神の所為を称賛するのではない、来迎を促し頼むのである。その気持ちをワキが見所にかわって演じてくれる。
少なくもシテのひきあげる橋がかりや幕入りにもう拍手するのでは、幽玄また清明な舞台の感興を無惨に殺してしまう。あまりに無残である。感銘は見所の一人一人が胸奥に深くたたんで、感動に堪え黙して座を立つのが本筋の深切だとわたしは考えている。深い深い静かさからあらわれ、また深い深い静かさへと去って行くのが、能、ではなかろうか。
2007 3・7 66
* 有り難う存じます。
ときどき、ひと様の日記や作品を読んでいるだけが、申し訳なくなると、割り込んでしまいました。
意識の流れのような「私語」で、もし「表現」していることがあるとしたら、「今・此処」で「生きています」という呟き、だけ。
平安神宮の桜をみるために『細雪』のひとたちが例年繰り返した「用意」の深さ・佳い意味の贅沢。谷崎をよりよく「読む」には、そういう「用意」が大事だとわたしは伝えたいのです。そのためにわたしの「谷崎愛」とは、と思い直す機会になりました。
週末には友枝昭世の能『邯鄲』そして狂言は『文蔵』です。能はこのごろは喜多の昭世、観世の栄夫ぐらいにほぼ限って、せいぜい歌舞伎や新劇に行きます。眠くて目の玉が「でんぐりかえる」から、お能は「勘弁」という家内なので、能には一人で行きます。
漱石の『心』の「先生」を翻訳する海外の人は、「sensei」としているそうです。教師と先生とは「兼ねねばならないべつもの」だなあと、わずかな体験で、よく思いました。とりとめなく。
お元気で。 湖
2007 5・22 68
* 六時に起きて先ず仕事を。
* 正午過ぎ、千駄ヶ谷の能楽堂へ向かい、保谷駅で、財布を忘れてきたのに気づく。愛用のカード入れに予備の千円札、小銭入れに五百円硬貨。SUICA カードなのを頼んで、そのまま向かう。右脚痛くまともに歩けない。昭世の『邯鄲』だけ堪能して、帰ろうと。
* 能の前に、狂言『文蔵』は面白い大曲なのだが、野村万蔵たち、退屈の極み。眠たく、こんな辛気くさいへたな『文蔵』には、初めておめにかかった。
昭世の『邯鄲』はさすが。
この能、前に観世栄夫で観たときは正面席だったが、正面では、肝心の邯鄲の枕して「大床」で魯生が眠るのも、立ち居するのも、長い舞を舞うのも、存外に観づらいのである。畳一つほどの細長い大床の、いわば頭側がまっすぐこっちを向いている。つまり床への視野は床の短辺を観ることになる。今日はどんな席をもらっているだろうと思っていたら、昭世の能会では珍しく中正面の七番。ここは舞台から橋がかりから揚幕まで一望に視野がひろく、しかも矩形の大床長辺が真正面に見える好位置。考えてくれたんだと、嬉しくなった。
廬生の大床の、ほとんど大床の上でだけのぜんぶの舞や、所作が、精緻に美しく見えた。なんてうまい能役者だろう、栄夫さんは高齢で脚のおぼつかなさが真剣さになり、悩ましく感動させた廬生だったが、昭世師の廬生は邯鄲の夢枕になにかを教わったと謂うより、夢見る前からつよい洞察が自身の人生に対し用意されていたかと思わせるほど、動揺のない毅然とした達観を想わせた。夢を見て夢だと気づいたというより、夢だろうと想っていたのが夢を見て夢と確かめられた、思い残すことはないという風趣に富んだ佳い廬生だった。
囃子が壮んでよろしく、地謡も聴かせた。ああ『邯鄲』ってやっぱりおもしろさもすごみでも、卓越した能の一つなんだと納得した。昭世はいつもわたしを落胆させない。
* こんなことを想っていた、『邯鄲』一炊の夢に頓悟する廬生は、あくまで自身の人生を問うている。その限りでは廬生は廬生の手の内で問題を解決しているのだが、廬生から離れて廬生を取り巻いている政治的。社会的現実の方は、邯鄲』という能で何か有効に示唆されるだろうか。
たとえばわたしが邯鄲一炊の夢をみたなら、安倍やブッシュや金正日らの悩ましくもいきどおろしい問題もともにうち捨ててしまえるのだろうか。それなら簡単だ、鉦と太鼓でわたしも一炊の夢に世界をかえてしまえる枕をさがして夢を結びたい。そうは行かないだろう。悔しいが。
* 脚は痛み、ひきずって、ゆっくりしか歩けない。情けないほど人が横を通りすぎてゆく。ガラスにうつるわたしは嘗て見知らぬほどふけこんでよぼよぼしている。こりゃいけない。着るものも持つものも大事に気遣いして、若い活気を忘れないようにしたい。
2007 5・26 68
* 観世栄夫さんが亡くなったと新聞で知った。痛惜にたえない。こまやかに話し合う機会はなかったが、短い立ち話にも独特の親しみがあった。何といっても恵美子夫人は谷崎潤一郎のお嬢さんであり、つまり潤一郎や松子夫人にはお婿さんであった。それだけでなく保谷のご近所で親しくしていた喜多流の重鎮だった後藤得三さんのところに栄夫さんは永く身を預けて修行されていた。
後藤夫人はわれわれに気さくな好意溢れるお人で、栄夫さんのこともよく話された。『少将滋幹の母』の新聞全編切り抜きを下さったり、谷崎の限定本もいくつか後藤さんに戴いている。
そんな関わりから、栄夫さんのお能には、能界に復帰された頃から、毎度招いていただいた。「楊貴妃」「景清」「檜垣」そしてわたしとしては最期になった「邯鄲」など、すこぶる感銘を受けた。そして「子午線の祈り」や「東は東」など。懐かしい。
また一人知己を喪った、死なれたという寂しさ、堪えがたい。お通夜にもお葬式にも例により出ないけれど、観世栄夫という希有の藝術家とはこれからも、これまでより頻々と脳裏の「部屋」で談笑するだろう。喜多実、後藤得三夫妻、喜多節世夫妻。先代梅若万三郎。そして観世栄夫をいままた見送る。
2007 6・10 69
* 昨夜期待の的にした「船弁慶」の知盛が、妙に気ぜわしく空回りに長刀振り回して海上を退散したある種の「騒がしさ」の理由を考えていた。
おそらく、染五郎は演技は先輩に教わったろうが、知盛と義経との関係をモノに当たって勉強などしていないだろう。知盛の義経に対する敵愾心は平家のなかでも一段と熾烈であった。彼は壇ノ浦でほぼ必勝の策を呈しながら叶わなかった。愛息知章を身代わりに源氏に討たせて泣く泣く自らは沖の御座船に逃げ帰った恥辱も忘れていない。
* 『能の平家物語』(湖の本エッセイ22)にわたしは「船弁慶」一編も書いて、源平の両武将のこみいった関係を、参考源平盛衰記によりながら、少しく解析してきた。そんなことまで若い染五郎に期待はできないが、あそこで、なぜ前シテに静が出、なぜ後シテにほかでもない知盛が出てくるのかを課題として考えねばならないところだ。義経との一騎打ちなら、強豪教経のほうがあの海戦ではおなじみであるが、海底の平龍王国を代表して知盛が現れ出たのには、それなりに知盛の方に必死のモチーフがあった。それを表現しないと『船弁慶』の本意は生きてこない。
またああもへなへなと強い弁慶にあっさり調伏されてしまっては、知盛の必死の哀れは生まれてこない。クワッと赤口をあいて絶叫し反抗する知盛の悲痛は生きてこない。感動に繋がらない。なんだか強いお父さんに、まだまだの息子が叱られてふて腐ったように花道へ逃げこんだ体であった。
わたしはすこし染五郎に厳しいが、彼に期待が大きいだけに、やはり、ここまでは言っておきたい。思いは尽くさないが、上の本の「船弁慶」の章を以下に抜いて掲げておく。校正不十分で誤記が少し残っているかも知れないが。
☆ 船弁慶 ─潮を蹴立て悪風を吹きかけ─ 秦恒平著『能の平家物語』より
歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくりした。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口をあいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だけ真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威嚇ではなく、無念の思いで舌を巻くのである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護のもとにある。能では子役が演じる。
土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に、朝敵にならずにすむ手立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たちは、難儀な相手にその場限りの宣旨を与えてすぐ逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てればよろしいと、まさに「政治」的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。頼朝追討と日本国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そういう義経への都人の視線は暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年まで勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもうなかった証拠に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中もならなかった。
能の「船弁慶」は奇妙な前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二幕物の狂言仕立てに出来ていると見られる。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に退散する。しいて理屈をつければ、船上でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女の同船を足手纏いに忌避したといえる。歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。間を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されている。能の作者は賢しくも、「静」かを拒めば海は「荒れ」ようという因果を探っている。
海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやいかに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲いかかったのが、知盛の亡霊だった。
なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に沈み果てた平家の、知盛は事実首領であった。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官の指示にそのまま従っていたなら平家には勝つ機会があったのである。
むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、諸本が一致している。阿波民部大夫重能の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して成良は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしまい、源氏は一気に平家の芯のところへ攻勢をあつめて撃滅できた。
知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、宗盛は首を縦に振らなかった。大きな失策だったことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとんど私憤にも近い敵意であったけれど、かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、この本だけが伝えていて、荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ちている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、
早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、いかにも兵士たちの兵船と見える船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけて自身で迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している事は誰もが認めている。事実、かなり平家に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていなかった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけても「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」いうのが、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。
唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メテ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。
わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテである。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何としてもと、勇猛の教経でなく知盛の現われたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのか考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで危ういとみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いところで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚えていたのではなかろうかと。これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の民である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて海の神意に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語とも臍の緒を繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の藝能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。
* 二日続きの快かった疲労に甘く負け、少し朝寝を貪った。さて、またこころよからぬ日々をもさもさと過ごしてゆこう。
2007 6・13 69
* 梅若橘香会、万佐晴の「鸚鵡小町」にかなり思案した。「鸚鵡小町」は観たい、万三郎ならぜったい見遁せないが、万佐晴の能で満足した覚えが一度もない。どうも乗り切れない。もう一番が紀長。まだもう一つぐっと呼び込まない。結局、せっかく招かれていたが失礼した。
2007 7・8 70
* 田中傳左衛門 亀井広高 田中傳次郎を中心の『三響会』公演の案内が高麗屋からあり、すぐ申し込んだ。好企画。
鳴り物、囃子。いいものだ。染五郎、亀治郎、勘太郎、七之助らも共演、能界からも観世喜正ら若い生きのいいのが出そろってくる。楽しみ。
2007 9・1 72
* 明日、歯医者。明後日、打ち合わせ。金曜には観世栄夫さんを偲ぶ会。九月、十月。猛烈。
2007 9・25 72
* インターネットが、復旧しない。
榮夫さんを「偲ぶ会」の前に、用をかねて早めに出かけようと勇んで着替えもしたが、両脚が、異様に張って、痛む。以前こういう脚のママ駅からムリに家まで歩いたら、玄関前で、痛烈に攣った痛みでぶっ倒れ、醜態だった。出かけるのは、しばらく様子を見てみる。
いま、四時になってやっとインターネット直っている。脚の攣りはなお不穏である。雑誌「ぎをん」のファックス校正、責了。眼は霞んで、不調。
2007 9・28 72
* かつがつ「観世榮夫を偲ぶ会」に馳せ参じた。
* いい「偲ぶ会」であった、開会前の会場では、榮夫さん出演の映画が映されていた。杉村春子、乙羽信子らとの新藤兼人監督映画だった。
清楚に飾られたいい遺影に頭をたれて。恵美子夫人と久しぶりにお目にかかって、おくやみを申し上げ、しばらく話した。お母上の面影をたぶんに持たれていて懐かしかった。
後で司会者がいうように、能界劇界は当然として、各界錚々の来会者で賑わった。文壇人では大岡信氏とだけ顔が会った。老い込まれていて愕いた。コメンテーターの轡田氏とも顔があった。
狂言の萬氏、ワキ方の宝生閑氏らと目礼。萬さんの最初の挨拶が立派で面白かった。最近の文壇のパーティーでの挨拶の面白くなさとくらべ、今夜はみな役者ぶりがよかった。
ビデオ映像がが二つはさまれ、一つは世阿弥にふれながら、是非の初心、年々の初心、老後の初心に的確に絡め「老いを語る」榮夫さんのNHKインタビューが、さすがに聴かせた。もう一つは去年の、わたしも拝見した能「邯鄲」の夢醒めてのちの終幕を大きく映写し、感銘を新たにした。これには拍手を送らずにおれなかった。
堀上謙氏が元気に参会されていて、嬉しかった、健康をいつもわが家で心配していたので。で、彼と暫く歓談してわたしは失礼し、日比谷のホテルへ席を移して、ひっそりとブランデーを二杯。クラブもずいぶん人が動いてサマ代わりしていた。
帰りに、いつもボストンの「雄」クンに吹聴されている「フォー」という東南アジア、ベトナムであったか、の麺を帰り道で食べて、銀座から池袋、満員の西武線で保谷へ帰った。脚の攣りは危うくかわしかわし、それでも辛うじて「偲ぶ会」には出られてよかった。こうしたかった、ああしたかったと想っていた他の何一つ用が果たせなかったが、校正だけは往きの電車とクラブとでそこそこ進められた。
2007 9・28 72
* もう一度珠光の『心の文』に戻ってみる。
よく知られた彼の言葉として、「此の道の一大事は、和漢の境をまぎらかす事、肝要々々」とある。先には「此の道、第一悪き事は、心の我慢・我執なり」の「此の道」を、珠光は当然「茶の湯(茶道)」と観ていたし、わたしなら例えば「文学」と置き換えると云ってみた。
しかし、茶の湯とも文学とも限らない、かなり広い意味でこれの謂えることは、誰しも察しているに違いなく、「和漢の境」のはなしでも、同様に拡大解釈が利くのである。
「和漢の境をまぎらかす」と珠光の謂うのを、ふつうは「唐物」「和物」といった「茶道具」のうえの和漢の調和や、取り合わせの工夫なり妙味を云っていると読み取ってきたし、間違いないけれども、人間の、謂うならば同時代知識人の、「人間として偏した臭み」をも戒めていると、わたしは少し深く読んできた。
偏したものには臭みがでる。我慢・我執がからみやすくなる。
今日ないし近代でいえば、たとえば「フランスかぶれ」「中国ひいき」「アメリカンナイズ」あるいは「日本趣味一辺倒」といった臭いヒトもコトもモノもある。
「和漢の境をまぎらかす」 よく高次に昇華する知性がなくて、鼻の先にさも「抱き柱」をぶら下げて歩いているような「自称の外国通や日本通」が知識人の代表者めく顔で闊歩していた、している例に、よく出会ってきた。
要するに体験や見聞が、ただの「知識のレベル」でその人に不消化に沈澱していて、ヒトの血や肉として「こなれて」いない、つまりよく「まぎらかさ」れていないのだなと眺めていた。あれもつまりは「我執」なのだと思っていた。そして、むろん、それが自分には無いだろうかと身を抓ることも忘れないよう警戒した。
* 観世榮夫という藝術家は「大きな混沌の存在」に見えたほど、この「和漢の境をまぎらかす事、肝要々々」を生涯かけて実践していた。そう見えていた。この人には当然ながら、能も演劇であった。そして能しか観ていない人の眼には能として純熟していないとワケ知り顔に謗る人もいないではなかったけれど、それと似たことは、例えば当代の松本幸四郎も謂われている。ま、ケチを付けたい人はいるのである。
しかし、珠光の思いに身をそわせて謂うなら、観世榮夫や松本幸四郎の藝の「そこ」に在る感動や感銘の「光」を受け取れるか受け取れないか、和漢の境をまぎらかすだけの人の「力」の問題に帰ってくる。観る側に「無用の我慢・我執」ができてしまっていれば、素直に感動も成らず、感銘も得られないという、つまりは「受け手」が問われていることになる。
そういうだいじなところが、茶の湯にも文学にも演劇にも、そして「生きる」ということにも、在る。
2007 9・30 72
* ようやく「校正」の大山を越えた。歴史的仮名遣いでせいぜい正しくルビをふろうとすると、たいへん神経を労し眼精を疲れさせる。もう一息で、初校を遂げる。今日も午後へかけて外出する中で、この宿題も果たさないといけない。著作権の没後保護の年限延長などよりも、当面の仕事を大事に正確にしたい。
ムンク展も観てきたいのだが。
梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観て欲しいと招待があった。萬三郎さんにご不幸があったと漏れ聞いている。お悔やみ申し上げる。
2007 10・12 73
* 高校生の頃に東福寺の通天橋でよんだ短歌一首を、大岡信さんが採ってくれた、その掲載された新刊岩波新書の『折々の歌』が、留守に贈られてきていた。一文を送っておいた雑誌「ぎをん」も届いていた。俳優座の、また劇団昴の招待状も来ていた。
明日は歯医者のあと、梅若万三郎が招きの『卒塔婆小町』を観てくる。
2007 10・19 73
* 午になる前に、妻と歯科医へ。そして江古田駅ちかくへ戻って蕎麦の「甲子」で天麩羅蕎麦の昼食。
この店は、堅固な蔵屋敷のように出来ていて、設えが風情に満ち、飾った絵もひときわ面白く、置いた雑誌もよく吟味され、大きな卓も椅子も、そして用いているやきものの食器なども、すべて立派なのである。
蕎麦もいいが、酒と肴のいろいろがいい。肴というより、上品な惣菜。ただし今日は酒も肴もとらないで、あつい汁蕎麦に、大きな海老天麩羅が二本。
で、江古田駅で妻とわかれて、わたしは千駄ヶ谷の国立能楽堂へ。梅若の橘香会。時間をはかって、その前に、喫茶店「ルノアール」で世界史を小一時間読んだ。ひっそりと静かな店内。
* 能楽堂にはいると、狂言の『宗論』をやっていた。湯冷めのしそうな、冷え冷えした舞台で、見所に、笑い声も沸いていない。
まずたいていな狂言ほど、いまどき寒々と冴えない伝統藝能はめずらしい。数少ない秀作をおけば、本気で演じるなら、もう、時代にフィットした新作でなければ、「狂言」たる意味がない。「コント55号」が藝能界に現れたときに、やっと今日の新狂言が出来るかと期待した。いまなら「爆笑問題」などに期待する。
萬斎がやろうが万蔵がやろうが、いまどき五百年もまえの狂言を、まともな狂言顔も持たない、持てない連中が、ど真面目な顔して演じてくれても、可笑しくもなんともないのである。「冷えた情念」と題して批判したのが、もう四半世紀も昔のことだ。
「宗論」など、先日の演舞場で『連獅子』の間にあらわれた、亀蔵・弥十郎の宗論ふう掛け合いの方が、よほど今日向きである。
狂言は、萬や万作や茂山の棟梁格の「話藝」だけで、もういい。つくづくそう思うほど、もう二十年、三十年来、能楽堂での狂言はつまらないものの見本になった。
* で、展示室へ行って、高島屋が秘蔵の、美しい珍しいみごとな能装束を、つぶさに、たんねんに、何度も何度も見入って、一つ一つについたおもしろい呼び名までメモしてきた。
茶地花入格子秋草模様唐織 紅水浅葱段扇夕顔模様唐織 鬱金地源氏車秋草霞模様縫箔 紺地籠目花束蝶模様縫箔 白地破菱葛模様縫箔 紅水浅葱段斜格子花唐草模様摺箔 萌黄地牡丹扇模様舞衣 白地簫紅葉模様長絹 紫地冊子懸守模様長絹 紅地聞く唐草模様舞衣 紅萌黄段花菱亀甲打板模様厚板 紺地雷紋龍丸模様半切 鬱金地薔薇蝶模様側次 紅地垣八手模様半切 紺地椿扇模様袷法被 等々。
* 観世銕之丞の仕舞『実盛』を待って、見所に入る。
さすがという仕舞の凛々美に納得した。喜んだ。わずか十分間に満たない仕舞ひとつで、歌舞伎の一幕にも当たるほどの充実感がつかめる。舞い手は、亡くなった榮夫さんの甥に当たるか。紹介されてパーティーで立ち話に興じたこともある。
観世三兄弟とうたわれた、寿夫以下の人たちがみな亡くなり、この銕之丞らの時代が来ている。彼の後見で、今日『卒塔婆小町』を舞った梅若萬三郎、また喜多の友枝昭世らの時代が来ている、いやもう事実しっかりと来ていて、期待は大きいし、ちゃんと応えてくれる人たちである。
* 『卒塔婆小町』はことに前シテがよかった。萬三郎の演能ではむしろ珍しく、きりっと男性的につよい老い小町の風貌で、宝生閑のワキ僧が、頭を地にすってその境涯に平伏した気合いが、よく生きた。むしろ深草の少将の風体に変わってからの後シテが平凡だった。
萬三郎の能の魅力の一つに、いつもじつに美しい装束を選んでくることがある。急逝されたと漏れ聞いている奥さんの修子さんと、むかしに食事したとき、萬三郎の装束選びには自分が大いに力を入れていますと聞いた。さもあろうと聴いた。夫人の助力がなくなり、どうなるか。、
* それにしても後見座についた観世銕之丞の、炯々と眼光を研いで萬三郎の能を追う気合いが、見所のいちばん後ろ隅の席へ移動して終始遠めがねで見守る私にまで、つよい波動を伝えてきた。あれほど気の入った後見役、観たことがない。萬三郎の嗣子紀長も、じっと父の演能を注視して、いい顔をしていた。彼の能も伸びてゆくだろう。わたしは彼の結婚披露宴にも出ているのである、縁は濃い。
大鼓の亀井、小鼓の幸、笛の一噌。大物の三役、今日は、ことに立派であった。ことに小鼓がふくふくと美しく鳴った。嬉しかった。
* 空き席ありと見越していたので、中正面にもらっていた席を、さっさとはなれ、最後尾、いちばん上手の隅から、ずうっと橋がかり幕まで見渡し、一番の能を、のうのうと心ゆくまで堪能した。
知った顔には一人も出逢わない、いやひとりだけ馬場あき子ならぬご亭主の岩田さんの顔をちらと見かけた。それだけ。これも珍しい。
* 五時過ぎて能楽堂を辞し、空腹をどう満たそうか‥と、今日はあれだ‥と。池袋パルコに戻り、「船橋屋」で、ひさびさに「笹一」を朱の枡で二杯、天麩羅をたっぷり。松茸の売り切れていたのが残念だったが、顔なじみの職人と機嫌良く話しながら、また世界史をとっくり読みながら、十分に美味しく戴きました。どのタネがよかったか。みんな、よかった。
2007 10・20 73
* 夜前は床の灯を消したのが、五時前だった。九時に起き、血糖値、108。
みるみる目前に仕事の山か出来た。儲け仕事ではないから、ご安心。
山の高さにひるんではいられない。手の着くことから、順繰りに、つまりやすみなく、やって行く。
明日は夕方から休憩する。歯医者のあと、「三響会」は前々からの楽しみ。田中傳左衛門、亀井広忠ら元気いっぱい三兄弟の鳴り物が堪能でき、染五郎ら歌舞伎役者も助勢する。亀井は能舞台ではやくからわたしの大の贔屓。田中らは歌舞伎座の舞台ですっかり顔なじみ。
そのためにも、少し眠くても今日は大わらわに。
2007 10・26 73
* バグワンの『十牛図 究極の旅』は、第三「見牛」に入った。いま、就寝前に三冊を音読し、床に入ってから九冊を順次読んでから灯を消している。
いま『千夜一夜物語』がべらぼうに面白く、観世栄夫の遺作自伝『華から幽へ』も興味深く読み進んでいる。
この家の近くに、昔、喜多流の宿老後藤得三さんが住まわれていて、榮夫さんは観世流を離れて一時、後藤得三の藝養子になっていたことがある。わたしたちが気さくな後藤夫人と親しくなっていたころは、もう栄夫さんは観世流に復帰のころで、能以外の劇界での多彩で旺盛な活躍はよく耳にしていた。後藤夫人からも良く彼の名前がおもしろそうに口をついて出た。
栄夫さんとのご縁はそれだけではなかった。彼は谷崎夫人の娘さん、恵美子さんと結婚していたから、谷崎潤一郎のお婿さんでもあった。その方角からもわたしは榮夫さんとご縁を繋いでいた。
観世に復帰されて最初の『楊貴妃』から最期に近い『邯鄲』までわたしは幸いたくさんな彼の能をいつも見せて貰えた。『景清』や『檜垣』や、小町の老女ものなど印象に濃い。舞台や映画にふれあう機会が意外に無かったけれど、能は観てきた。彼の生涯を載せた分母は確実に「能」であった。やはり「能」であった。
ひとまわりは私より年かさであったけれど、おだやかにいつも応対して下さり、「ペン電子文藝館」に谷崎作の欲しかったときも、お頼みすると「秦さんがなさることなら、なにも問題ありませんから。どうぞ」と簡単であった。恵美子夫人もいつも親切にしてくださり、夕日子がサントリー美術館への就職を熱望したときも、谷崎夫人の口利きで、じつは、この観世夫人恵美子さんが親しい自分の友人を動かして、只二人の採用の一人に夕日子を押し込んで下さったのだった。夕日子の結婚式にもその三人が揃ってお祝いに参加して下さった、谷崎夫人には新婦側の主賓をお願いしたのであった。列席の尾崎秀樹、加賀乙彦、長谷川泉、紅野俊郎、藤平春男といった人たちが、松子夫人の主賓を、とても歓迎されていた。わたしも嬉しかった。わが谷崎愛のひとつの結晶のようにそれはそれは嬉しかったのである。
2007 10・26 73
* 午前中、仕事をすすめる。
* 折悪しい雨風台風の接近をおして、妻と、三時予約の歯科医に。治療のあと、池袋へ出て、新橋演舞場へ。築地の地下鉄駅から地上へ出たときがいちばん強い雨と風で、演舞場までに、持った傘がふっとばないかと案じたほど。
* 「三響会」を楽しみにしてきた。高麗屋の手配で前から三列め中央の通路ぎわという絶好席がとれていた、「能」「狂言」「歌舞伎」仕立て三番の、趣向の舞台を堪能してきた。主宰は能大鼓の亀井広忠、歌舞伎小鼓の田中傳左衛門、同じく太鼓の田中傳次郎三兄弟。これへ各界から若き俊秀が寄って助勢した。
最初に能の神・男・女・狂・鬼五つの舞囃子を連ねてみせた、いや聴かせた。
広忠の例の熱演。小鼓も太鼓もうつくしく鳴り、シテは観世喜正、梅若晋矢らが意欲的に舞った。
二つめは『月見座頭』を藤間勘十郎がおもしろく舞ってみせた。歌舞伎の勘太郎、狂言の茂山逸平がアドの役を軽々とつきあった。
重層・重厚な囃し・鳴り物演奏の競艶が楽しめて、勘十郎の舞の宜しさを引き立てた。狂言まわしの語りに野村萬斎を花道せり上がりから巧みにつかい、ひとつの「狂言」活性化の試みとしても注目できた。
大キリは歌舞伎仕立ての『一角仙人』で、松本染五郎の一角仙人が力演し、立派だった。力みなぎり、人物を深くとらえて見えた。中村七之助の凛々しい美しい男役にもほほうと喜びを覚えた。市川亀治郎の女役を久しぶりにみた。テレビの大河ドラマで武張った武田信玄をやっている。なんだか女形芝居が懐かしかった。美貌ではないが巧い。踊れる役者であり、からだがよく切れて動く。
いわば『鳴神』を色仕掛けでおとす雲絶間姫の原形のような芝居であり、要所での亀治郎の目づかいや身ごなしは的確だった。
龍神二体と一角仙人のいわば殺陣は必ずしも上乗のたちまわりではなかったけれど、染五郎は終始いい気合いで、所作を、きびきびきめ、躍動感で舞台を強く立派にしたのは偉い。幕切れの見栄、みごと。
親切なカーテンコールを添えてくれて、みな、楽しんだ。さすがにというか、演舞場の今日の客は和服のよく似合った女客が多く、こういう世間もあるんだなと、きれいなご婦人がたをよろこんで観察していた。男客は一割ぐらいではないかと感じたが。
鳴り物は、ほんとに楽しい。
* 幸い雨風はすこしおさまっていて、有楽町線の銀座一丁目駅まで、そう苦労せずに歩けた。座って帰れた。前の席に、練馬まで乗って、親子づれがいた。その四つか、五つにはなるまい元気のいい可愛い女の子が、どうみても昔のやす香によく似ていて、懐かしくて嬉しくて、妻も私も眼が離せなかった。それでも車中、「湖の本」の校正もしていた。もう本文は責了に出来る。
2007 10・27 73
* 三響会でニアミスのマイミクさんがいた。
☆ あああああ~!!! 淳
湖さま~!
私も夜の部、9列目中央やや上手よりに座していました~!!
台風の中を見に行って、劇場から出てみると風はすっかりなくなっていました。
こんなに近くにおられたのに~!! 気づかなかったのが不覚! 不覚!
勘十郎さんの舞踊、とても美しくて私もうっとりでした。
最後の一角仙人もとても面白かった。
ただ、太鼓や鼓や笛の音を聴かせる、という意図ならば、最初の(能の)五変化につけた舞はいっそ、いらなかったようにも思いました。
道成寺も、高砂も、みなそれぞれの舞の一歩一歩に、感情の高まりがあるのだ(ろう)けれど、メドレーでやってしまうと、時々肩透しを食ったような気分になります。。。
いろはの「い」の言うことですから、悪しからず…。
若手さんたちの舞台を堪能できたのが、やっぱり一番楽しかったです。
最後に地謡をしておられた方たちも、一緒に立ちあがってカーテンコールに参加して欲しかったです。
残念。
* ニアミスでしたね、残念無念。
能の五変化は、「舞囃子」というきまりの演目をメドレーにし、神・男・女・狂・鬼により舞も囃子も変わる景気を見せていたんですね。舞にうまいへたがありすぎて調和がよくなかったけれど、趣向は尋常でした。
一角仙人の地謡は上手でしたね。謡のおもしろさを躍動させていました。
勘十郎も納得させてくれましたね。
十一月は、山城屋の玉手御前を、国立劇場で大いに楽しみにしています。歌舞伎座は夜の部の「山科閑居」に期待しています。
またニアミスならぬ、出逢いがありえますように。 湖
2007 10・31 73
* 朝から眼が霞んでいる。乾いているのだろう。午後は友枝昭世の『山姥』を楽しんでくる。袴能であったと思う、青山の銕仙会で、喜多実の舞った『山姥』が忘れられない。あの日も観世栄夫さんからの招待だった。会場に大岡信さんの姿もあった。
今日は他に萬の狂言がある。これは楽しみ。そしてそのまえに昭世子息の雄人の『巴』がある。これを観るか、すこしゆっくり行くか、思案中。
友枝の会は、ただもう待ちかねたように客が拍手するという愚挙がない。無い場合が多い。あれはすばらしい。
先日の萬三郎の「卒塔婆小町」など、シテがまだ橋がかりにいるうちから待ちかねたようにぱらぱら拍手が来て、みなぶちこわしにした。演能中は居眠りしていて拍手だけはぜひともというような見所になるのは、師匠筋の弟子筋への指導や教育が足りないからだ。お能だけは、軽率な拍手はぜひぜひ勘弁して貰いたい。
* 友枝雄人『「巴』の後シテの出から観たが、幕をはなれて橋がかりをゆく巴の運びが、気の弱い小娘のようなのに、ガッカリした。巴というのは、大の男を一度に二人もかかえて首をねじ切るほどの剛の者。いかに幽霊とはいえ、長刀かいこんでの登場に充満した気概も力量もなく、ひわひわと揺れる草のように出てこられては叶わない。急に眠くなった。
* 萬と扇丞との狂言『杭か人か』はさすがに萬が狂言らしく聴かせまた見せてくれたものの、中身はなにもない。萬ですら、こんなことになる。狂言はつらい。
* 今日友枝会の眼目は、だが、昭世の『山姥』これが宜しければ有り難い。そして実に有り難かった。
前シテは凛烈の気合い、所作の切れ味美しく迸る生気に胸を押されるほど充実感があり、ツレとワキの四人がかりが気圧されるほど。
そして後シテの山姥の山廻り、昔観た喜多実の舞と所作との忘れがたい感動をより美しく堂々と凌駕して、わたしは見所で痺れて堅くなってしまった。後シテの舞や所作を大ベテランのワキ宝生閑が茫然としかも克明にからだ全体で注視しているのも、演技とは見えず彼の深い感歎や共感にみえて、それもわたしをおどろかせ、よろこばせた。すばらしい山姥の面だった、生彩という二字に深遠とか躍動とか諦念といった文字まで添えたくなる。とにもかくにも、久しく、すばらしい「山姥」には逢ってこなかったんだなあと思い当たるような絶品だった。びっくりした。
* 池袋までもどり、「伊勢定」の上乗の鰻を食べて帰った。静岡産の、焼きも照りもみごとな美味い鰻だった。一合の銚子に、しっかり大きめの猪口が出たのが店ものでは珍しく、気に入った。親指の先みたいにちっちゃい猪口は好かない。
世界史の第十八巻『帝国主義』を読み終えた。いよいよ第一次大戦になる。
2007 11・4 74
* 喜多流の塩津哲生さんから、師走と正月との喜多能楽堂の招待券を頂戴した。一月の「翁」にぜひ出逢いたかった。ちかごろ、梅若は正月に限って満席になり「翁」に出逢えなかった。塩津さんのご厚意に、こころから感謝申し上げる。師走の「道明寺」も楽しませていただく。
喜多では、友枝昭世とならんで、塩津哲生、香川靖嗣というもう二人に、四半世紀も注目して、たいていの場合、期待を裏切られることがなかった。ふとしたことから、メールもつながるようになり、ひとしお身近に感じてきた。友枝昭世、塩津哲生、また梅若萬三郎、また宝生流で久しい読者でもある東川光夫さんも、来年から能に誘ってくださるという。能にふれる機会がまだ幾らか残っているのをわたしは喜んでいる。
2007 12・5 75
* 声が出ないので、ここしばらくわたしは音読していない。もうそろそろと思いつつ、いざとなると空気の抜けたように自分の声がちぎれて掠れる。そしてかすかな腹部不穏と気怠い無力感。
「萬歳樂」「獺祭」のような名酒、そして異母妹がくれたワインなどあるのに、手が出ないで、むしろ寝てしまいたい。
次の日曜に久しぶりに喜多の能楽堂で塩津哲生の「道明寺」をみせて貰う。翌日はペンの理事会。週末には七十二歳の誕生日。
2007 12・13 75
* 明日の喜多の能『道明寺』が朝の十時半始まりと思いの外に早い。もう、やすもう。
2007 12・15 75
* 早く起きて。血糖値は低くないが、まずまずのところに。冷える。今朝は十時半始まり、昼過ぎまで二時間余りの能一番を観に出かける。
2007 12・16 75
* 目黒駅に降りて外へ出ると、無性に懐かしい。
ここから目蒲線に乗り換えて大岡山・東工大まで、四年半も講義に通った。
それだけではない、今日も行った喜多能楽堂は、東京でいちばんさきに誘われた能楽堂、誘ってくれたのは馬場あき子さん。
ここではじめて亡き村上一郎や、桶谷秀昭氏とも引きあわされた。喜多節世とも、むろん喜多能楽堂ではじめて逢った。太宰賞の『清経入水』のころだ、すべては。
この能楽堂で、一度二度は存命であった先代の喜多六平太翁を見かけている。宗家の喜多実、兄の後藤得三、高弟友枝喜久夫、佐藤章またワキの宝生弥一らの舞台にいつも引き込まれた。そしてあの、前田青邨描く見事な松羽目。
節世もハンサムだったが、節世の夫人もじつに佳人だった。わたしは結婚披露宴で祝辞を述べている。
名をあげたみんながとうに亡くなってしまった。友枝昭世の能もたいてい国立能楽堂で見るようになった。塩津哲生のご厚意で今日は久しぶりの喜多能楽堂だった。そこで馬場あき子と会った。親切な彼女は、わたしに正面前から三列まんなかの絶好席を譲ってくれた。わたしは風邪薬の副作用とと咳込みとで気が気でなかったが、おかげで哲生の「道明寺」を遠めがね無しでしみじみ観られた。すばらしい後シテだった、神能に準じためでたい能一番で、年の瀬を清めてもらった。嬉しかった。
* いまの体力では、つづく『玉葛』まではムリだった。馬場さんも堀上さんも、席を変えて梅若能へ移動するというので、わたしも『道明寺』だけで失礼し、ひとり香港園でかるい昼食のあと、やす香の墓参りをしてきた。
風が強く、しかし雲一つない晴天。日射し明るくさして寒くはなかったが、瑞聖寺墓地に人ひとりの影もなかった。
三十分ほども、やす香に話しかけ話しかけ、持ち合わせていた本から、少し長い詩をやす香に読んでやった。読みながら泣けて泣けて、どうにもならなかった。墓へ来て泣くなという歌のはやっているのは聞いているけれど、それでも堪らなかった。
じいやんやまみいを、おまえこそが見送ってくれるはずであったのにと、愚痴まで聞かせてしまった。「やす香」と刻んだ文字に何度も何度も触れて、話しかけ話しかけて来た。
あんな寂しい墓地にやす香がいるとは想わない、いまこうして機械に向かうすぐ左にも右にも、ご機嫌のやす香がいるではないか。「おじいやん」とちいさいときにも、亡くなる前にもやす香はわたしを呼んだ。耳に聞こえてくる、その声が。今も。
2007 12・16 75
* 正月の歌舞伎座の券も届いた。能の「翁」で明けて、はんなり、歌舞伎。俳優座の春芝居もある。
2007 12・22 75