ぜんぶ秦恒平文学の話

能・狂言・古典芸能 2018年

* 暖房していても、寒い。二十年前は、どう寒くても此の部屋、暖房でなかった。

* 朝日賞のパーティに招待状が今年も来ているが。ま、推薦の役は務められても寒い中を宴会には、ま、遠慮。喜多流のシテ方香川靖嗣が春に『櫻川』を舞う ので観て欲しいと。四月一日とは、ちと震えるが、ま、化かしもしまい。むかし『櫻子』という「櫻川」絡みのこわい掌説を書いたなあと思い出す。
すぐ見つかるかな。見つけた。

櫻子

能一番が見ていられなくて、男はよく眠った。鼾が気になった。それでも負けた。睡魔の誘惑は美しい極み、舞台のシテがその睡魔人であるかのように、男 は、うっとり性根をとられて行くのである。演能にささげる最上の頌辞かのように男は寝入った。目をあくと、寝入るまえのままにシテは舞いつづけたり佇ちつ くしたりしていた。笛も、鼓も、さながら媚薬のように男を誘い、夢中の人にしてくれた。
その日の能は「櫻川」だった。人買いに奪われた子を慕う母なる狂女が、シテであった。散る桜を川波に網で掬う舞いあそびに、惜春の花の色が匂う。
母を慕って狂う子はいないのに、「隅田川」でも「三井寺」でも、うしなった子をたずねては、母が狂う。狂う母がなんでこんなに美しいのか、男は自分を生 んだ見知らぬ母のことを想像し、おなじ泣けるなら夢のなかでわが母と出会って、いっしょに泣きたかった。だが、これまで、何度「櫻川」をみて眠っても「三 井寺」をみて眠っても、一度も母の夢を見なかった。母の顔を男は覚えていなかった。覚えているのはもっとべつの顔だった。
ほどよく目覚めて、男は、舞台の狂女がわが子と再会の場面を、ぽっちり目尻に涙をためて見届けた。シテの黄色い装束が櫻子を抱き寄せて、うつつの夢は羨ましいまで美しかった。三役も退き、見所(けんしょ)に無用の拍手がわいていた。そっと男は眼鏡をとって、ぬぐった。
しつれいですが、と、隣の女客に名を呼ばれた。
「鼾を、かきましたか」と男は恐縮した。きもちよくおやすみでしたわと、皮肉でなく和服の似合った人に、慰めるように言われた。たまに会報などのはしに解 説めく文章など書いている名前と知っての挨拶であった。少々男は恥ずかしかった。能を見ながら眠るのは功徳なんだとわけ分からぬ寝言も書いたことがある。 照れて、逃げようとした、だが逃がしてくれなかった。若い、四十にはまだ幾つも間のある、眉のきれいな女だった。狂言ともう一番の能は失礼するつもりだと 言うと、わたくしもと女も椅子席から腰を浮かした。
能楽堂をでると、針を撒くような雨だった。「矢来の雨はふりやまず、か」と、男が能楽堂の名前にひっかけ呟くと、女は朱い傘をぱちんと開いておいて、タクシーを片手でとめた。袖をぬけた手首が白かった。乗ってしまうしかなかった。
女は名乗るのも忘れていた。忘れたふりをしているのかも知れず、男はどうでもよかった。ひとこと行き先を告げたらしく、それきり女は行儀よく黙ってい た。男も黙って前を見ていた。雨は勢いを増して、いっとき、どこを車が走っているのかも男は見失っていた。濠端だと思ったが川のようでもあった。「櫻川」 ですかと冗談のつもりで言った。「わたしが、櫻子です」と女が名乗った。冗談のようでもなかった。はぐらかしたかった。「サクラコ…さんか…」だと、お母 さんは木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)でしょうと愛想を言った。
「そうよ」と、すかさず膝でにじり寄られ、そのとき男は色めき、そして悲鳴をあげた。若い女の向こう隣で、むかし棄てた女が、能面のように男を見ていた。年老いもせず、なんと…小蛇を髪の上でとぐろまかせ、満開の花の枝を剣ほどに胸のまえに立てていた。
「お父さん、お母さんのおなかの子を疑ったでしょう。一度の愛で孕むもんかと。あなたのお母さんも、同じことを言われ、独りであなたを生んで死んだんだわ。知らないの」
お父さんは卑怯と、櫻子は泣いた。いちめんの櫻の馬場だった。櫻子の母も男の母も花に霞んで姿を隠していた。
男はふっと二度覚めた。子方の櫻子が、今しも能舞台で母御に抱かれていた。

* 香川靖嗣 せめてこの噺よりもおもしろい能を観せてくれるといいな。

* 俳優座のいまやベテラン女優早野ゆかりが、「秦先生、いつもご本を有難う存じます いつか朗読したいと思っております 夢は叶いますでしょうか…」と、賀状に。こわい掌説が、百篇ちかく書けてある。どうぞ、お好きに挑んで下さい。
2018 1/6 194

* 小林保治さん(早大名誉教授)から送られてきた、勉誠出版刊 写真の豊富な『能舞台の世界』を、手に執り ゆっくり見せて貰った。これは小林さんの仕事の中でも一、二の、現代に資した有意義本に属するのではないか。
どれだけの人が日本列島に散開するこれら佳い能楽堂にじかに関われるか興味があるかは別ごとであるが、この「能世界」のためには、初の、そしてかなり完 備した事典性に富む一冊に成っている。私には、ネコに小判であるが、写真に魅されて、こういう堂もあるのか、そうかそうかと感心している。やはり故郷京都 の舞台が懐かしい。
わたしの知友や読者にも、むしろ 茶の湯人以上に 現に能や謡・仕舞のプロもアマも何人もおられて、アレを舞う、コレを謡います、お稽古しています、来て下さいと 便りがある。
体力と視力の衰えで シテ方から能会へのお誘いをいろいろ頂いても、もう久しく、臆病なまま能楽堂へ脚が遠くなり、よほどガンバッて 友枝昭世 梅若万三郎 のお誘いには出かけているが。
ま、小林保治氏の優れた仕事が形を成したのを、同じ仲間だった亡き堀上謙も想い出しながら、喜んでいる。
2018 4/16 197

* 亡くなった聖路加日野原院長の先代、聖路加を病院管理・看護管理日本一の病院に仕上げられた橋本寛敏先生の時代にわたしは医学書院で編集職に励んでい た。作家になってからも五年二足草鞋で頑張ってたが、そりころ私の課に寛敏先生の孫だか末っ子だかの成敏君がいた。のちに退社し今は陶芸作家になり何度も 作陶展に誘われている。十三日から渋谷松濤でまた展示会らしい。
能楽堂もある松濤へ、もう十年ほども脚を運んでいない気がする。
2018 6/6 199

☆ 梅雨の晴れ間で、
この二日ほどは、過ごしやすうございました。
此度は、「京都」への思いのこもった選集廿六巻をお送り下さり誠にありがとう存じます。大切に、拝読させていただきます。
慥か、先生は亡き(片山=)慶次郎叔父と同じ同志社美学専攻であられたかと思います。どうか御健勝でいらして下さいませ。 お礼まで   井上八千代   京舞井上流家元

* 同じ新門前通りの八千代さんは西之町、わたしは東隣の仲之町で育っている。慶次郎さんは京観世先々代片山九郎右衛門の次男で、同じ美学専攻の三年先輩 で親しくしてもらった。慶次郎さんから借りたというより貰った日本史の一冊が私をより強く深く「日本」の奥へ押し込んだと覚えている。八千代さんはわたし より少なくも二世代ほど若く、少女時代から知っている。木挽町の歌舞伎座で「あらあ」と声を掛け合ったりもしてきた。なつかしい。
2018 6/18 199

* 今朝も『風姿花伝』をはらはらめくっていて、「物学(ものまね)條々」に目をとめ、もう久しい自身の思い理解に触れてくる「科」という一字に出会っ た。ああ是へ立ち止まるとながくなってしまうなあと躊躇ったが、日頃も気になり気にしている一字だけに、通過しかねるのである。

☆  風姿花伝第二 物学條々
物まねの品々、筆に尽し難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり。しかれども、また、事によりて、濃き、淡きを知るべし。
先づ、国王・大臣より始め奉りて、公家の御たたずまひ、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならん事難し。さりながら、よくよく、言葉を尋ね、科を求めて、見所の御意見を待つべきか。

* こと細かには立ち止まらない、ここに謂う「言葉を尋ね、科を求め」とは、何かということ。

* いま、舞台で謂う「せりふ」を漢字に書くに「台詞」とする人の方が多い。台本にある詞とい理解か。しかし、もう一つに、昔から「科白」という表記があるが、どういう意味か、今日では大方の舞台・演劇人が忘れ果てているように歎かれる。
「科」とは何、「白」とは何。
「白」には、表白、自白、告白、白状などの熟語があり、何らか「言葉」で言い表す状況が察しられる。
一方の「科」には、「シナ」をつくるなど謂うようにな、肉体・身体による表現行為が察しられる。「言葉を尋ね、科を求め」という言句には「セリフ」が本 来持ちかつ表すべきものが謂われている。それの分かっていない俳優は、喋っているときは「躰」での科よき表現が置いてきぼり、躰を使っているときは「言葉 (表白)」での表現が置いてきぼりになる。ちゃちな初心の演劇を舞台で見るとこの「科」と「白」との有機的な美しい調和が成ってない。セリフといえば「台 詞」としか考えていない不勉強がバカバカしいほど露呈してくる。
建日子のごく初期の作演出舞台にも、口を酢くしてよく「科・白」の注文を付けたのを思い出す。
もう久しく、こっちのからだが言うこと聞かず、建日子の作・演出芝居も観ていない。
2018 8/26 201

* 花伝書の問答條條の最初は、能の「場」と演能の始めにかかわってまことに微妙に的確な教えが語られていて、唸るほど頷かされるが、しかもなお、さも姿 勢を正し行を替え言葉も慎んで、「さりながら、申楽は、貴人の御出(おんいで=来会、その刻限の不同)を本(ほん)とすれば」とあるのに、胸を衝かれる。 観阿弥、世阿弥父子らにとって「貴人=当時の将軍足利義満や有力大名佐々木道誉ら、また高位の公家がた」の贔屓と扶持とにひたすら縋りながら「藝」を研き かつ社会的に存在を容認・支持されねば浮かばれなかった事実が、ありありと証言されているのだ。
2018 9/13 202

☆ 花傳第七 別紙口伝  に聴く

一、この口傳に、花を知る事、先づ、仮令(けんりやう)、花の咲くを見て、萬に花と喩(たと)へ始めし理(ことわり)を辨(わきま)ふべし。
そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫(もてあそ)ぶなり。申樂も、人の心に珍しきと知る 所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く比(ころ)あれば、珍しき なり。能も住する所なきを、先づ、花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、珍しきなり。     ′
ただし、様あり。珍しきといへばとて、世になき風体をL出だすにてはぁるべからず。

* 「風姿花伝」にはじめて接したころ、此処に胸打たれ首肯いたのを嬉しく覚えていて、気持ちを正すためにも書き抜いた。
2018 9/23 202

 

* 友枝昭世の能「卒塔婆小町」への招待を戴いている。十一月四日一時開演と。だんだん能会もからだで受け取りにくくなって行くだろう、これが最期かも知れぬ知れぬと思いつつ、昭世の能であるだけに出掛けたいと思っている。
今月は、久しぶり先代幸四郎、新・二代目松本白鸚の舞台を観に行く。
昼夜といいたいところだが妻の体力を考慮すると、夜の仁左衛門、七之助の「助六曲輪初花櫻」は諦めた。
昼は七之助らの「三人吉三巴白浪」大川端庚申塚の場、勘九郎らの「大江山酒呑童子」そして白鸚、七之助・勘九郎そして歌六らの「佐倉義民伝」といささか重いが、亡き懐かしい十八世中村勘三郎の七回忌追善とあれば、気を入れて参る。

* それにしても、妻も同伴で歌舞伎を大いに楽しんできた今世紀初めからして、なんと大勢の役者に死なれてきたろう。
2018 10/7 203

* 昨日届いていた 岩手・一関の読者千葉万美子さんの郵便の中に随筆集第5号として「万華鏡」と表題のA4版小冊子が含まれていた。今朝早起きの第一番に収 録七編の随筆「根雪」「一畳台の宇宙」「さらばよ留まる」「邯鄲の宿」「夢の国 夢の時間」「蘇える者 蘇えらぬ者」「降る雪に」を、みな読んだ。しっか りした達意の文章で一編一編に云いたい思い行いが書き切れてあり、まず、めったにはなく感じ入った。
同封されていたお手紙も此処へ添えさせてもらう。

☆ 秦 恒平先生 2018.10.20
一筆申し上げます。秋色の候、お元気でいらっしゃいますでしょうか。

先月9月30日、昨年から準備を進めて参りました「喜多流能楽祭」が無事終わりました。その中で私自身も二度目の演能、今回は「龍田」を半能で勤めさせていただきましたが、そちらもまずは舞い切った感があり、今は充足感でいっぱいになっております。

今回はチラシやポスター、番組の作成、祝賀会の準備まで先頭に立って行う立場になっての能楽祭でした。それだけに全体がイメージ通りに仕上がったのは嬉しいことでした。

遠方でご案内はいたしませんでしたが、頑張ってやっています、とお伝ぇしたく、番組(プログラム)と個人随筆集をお送りさせていただきました。

当日は、台風の影響で祝賀会を早めに閉じることとなり、会場では私の感謝の挨拶を割愛してしまいました。その際に出席の皆様にお話ししようと思っていたことを、代わりに手紙でお話しさせていただいております。

昨年の1月か2月、たまたまテレビを見ていたら、私と同じ年頃、出身地も新潟と近い女性の冒険家が、今は早稲田の留学生センターの先生となって出ていま した。その人は大学生の煩から、留学や、アラスカの山、凍った北極海などの冒険など、誘われると二つ返事で挑戦してきた人でした。では、私はどうして冒険 をしなかったかな、と思いました。それは常に私の支えを必要とする家族がいたからだ、と答えに思い当たりましたが、すぐに、いや、違う、違う、私の冒険は 謡と仕舞だった、と思い直しました。当初は他の皆と同様に舞囃子という面も装束も付けない形式で参加するつもりでおりましたが、それが私の冒険ならば、能 楽祭では高い山に登ろうと、能をさせていただこうと志願したのでした。

今回龍田川を渡りました。今後も山があれば登り、川があれば渡るつもりです。

次は10年後100周年記念の能楽祭です。自分の内側に根拠のある曲を舞いたいと思っております。

能楽の方が一段落いたしまして、いよいよ、書くことに力を注いでいかなければ、と思っているところです。

最後になりましたが、先生の一層のご自愛をお祈り申し上げます。
失礼いたします。 千葉万美子

* 千葉さんとの出会いは、小説「畜生塚」 そのなかで触れていた謡曲「羽衣」への共感であったと思う。今度の冊子表紙にも「邯鄲」の写真が大きく掲げて あるように、この人は喜多流を汲んで自身も舞台でシテを勤めるほどの能世界の住人なのであるが、初めてご縁のできた頃は小説を書いて送って見えた。ちょっ と佳い感じの藝道ものだったように思う、激励の感想など返事していたが、いつしかに小説よりは能樂のほうへ大きな力がかかり、わたしは時折り、「文章」も 書かれるといいと奨めていた。こういうことを奨めるのは稀なことで、それだけ推敲の効いた文才を、そして見え隠れの自信自負をも惜しむ気持ちがあった。そ のまま「湖の本」の欠かさぬ読者として三十余年をわたしの方が励ましてもらってきた。
「万華鏡」五号とあるが、創刊からの分も送って欲しいと思う。
随筆というのは何を書いてもいいようで、なまじ小説のまねごとより遙かに難しいのである、文章の斡旋にゆるみが出れば雑文ないし記録に過ぎなくなる。
わたしは能謡曲の実演には縁遠い部外の者だが、中学高校から親しんできた。東京へ出てからは縁あり馬場あき子さんの手引きで喜多流、亡くなられた喜多 実、後藤得三、喜多長世、喜多節世さんらとも物静かなお付き合いが出来ていたし、今でも喜多流を一身に支える友枝昭世の能は心して見続けている。十一月四 日には、国立能楽堂での「卒塔婆小町」に招かれている。この人も「湖の本」をつづけて手にしてくれている。
まさしく千葉さんとは喜多流を介してもご縁があったわけで、ほっと胸あたたまる。折角、随筆集も永くこころよく書き続けて頂きたい。もう娘さん達も成人されているようだ、目黒の喜多能楽堂まで新幹線でこられることもあるとか。佳い日々をと願います。
2018 10/23 203

* 手洗いに立ったあと、寝そびれる思いがしたので枕元の「湖の本」対談ゲラを読み、そのまま床をはなれてきた。ラジオは宝生流の謡曲を聴かせている、ワキか たを謡っているのは東川光夫さん、久しい「湖の本」の読者である。この早朝に謡曲は懐かしい。聴きながら後鳥羽院の「時代不同歌合」の一番一番をわたしの 思いで判じている。百五十番のやっと二十五番まで。
「持=勝ち負け無し」としたのは、
四番  あすからは若菜摘まむと占めし野に
きのふもけふも雪は降りつつ     山部赤人
ささなみや國の御神のうらさびて
古き都に月独りすむ          法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)
六番  和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ
葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る    山部赤人
わたの原漕ぎ出でて見れば久方の
雲居にまがふ沖つ白波         藤原忠通
十五番 嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の
千代の古道跡はありけり        中納言行平
世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる         皇太后宮大夫俊成
二十番 色見えで移ろふものは世の中の
人の心の花にぞありける        小野小町
松の戸を押し明け方の山風に
雲も懸からぬ月を見るかな       正三位家隆

* 謡曲「通盛」がちょうど終えた。通盛に死なれた小宰相の悲しみ。静かに静かに清々として楽屋の囃子が聞こえている。 七時になる。
2018 10/28 203

* 昨夜から、古今亭志ん生を大いに楽しんでいる。いま、「千早振る」を聴いて笑い、次いで「たがや」の江戸っ子を楽しんでいる。幸いわたしも、望月太佐衛さ んの御好意で浅草の花火を永年堪能させて戴いた、噺の風情もおもしろく江戸っ子(江戸言葉)も生き生きと伝わってくる。耳をぴくぴくさせて聴いている。
追っかけて「岸柳島」「たいこ腹」が待っている。きのうは好きな「幾夜餅」などをしみじみ聴いた。イヤみな政治家の顔などテレビで見せられるより、よほど世離れて気が晴れる。
名人圓生の百番もあったが今では残念にもテープなのでうまく機械に適って呉れないのが口惜しい。
2018 11/3 204

* 志ん生を聴き続けている。天才的な咄家ではあったが、「中村仲蔵」とか「鰍沢」などは柄に合わないか、語りがグサグサして、巧くない。こういうのは、 三遊亭圓生が凄いまで巧かった。いま「井戸の茶碗」を聴いている、が、このたぐいは志ん生の本領。楽しんでいる。つぎは、「後生のうなぎ」です ハテ ど んな咄だったかな。

* なんとなく志ん生に慰められ、今日は ボーンやりと過ごしてきた。郵便局の都合で、コレまでは送り先宛名を貼ればよかった「選集」の送りが、ぜんぶ宛 名を、当方の住所も、所定の用紙に手書きしなくてはならなくなった。十字架なりの「包み」に謹呈・書籍小包・当方の住所印を捺していたのは不要になった が、手書きの宛名書きはシンドい。しかし、わたしは医学書院の編集者時代から郵便の大勢の宛名書きの手早いのが得手であった。同僚であった、近年先に亡く なってしまった作家の中島信也が「秦さん、いつのまにそんなに仕事してるの」と驚いてくれたほど仕事の量も多くハカもいった。わたしの外に「時間」があっ たのでなく、わたしが「時間」だったと今も思っている。
2018 11/3 204

* いま夜九時半。国立能楽堂で午後一時開演の友枝昭世の能「卒塔婆小町」だけを観て、帰って、そのまま今まで寝入っていた。灼くようなのどの渇きで目ざめた。池上彰の番組でフランコ政権に手荒に揺れたスペインの現代史を現地で解説していた。
能は、さすがの老い小町であった、二十年ほど以前の昭世初演もわたしは観ていたはず、その記憶はたどれなかったが、今日の昭世小町の毅然とした境地の不思議な美しさとあわれさには胸打たれた。ワキの二人があまりに歳も藝も若くて気の毒であったが。
一時間四十五分の能と心得て行き、じつにピタリと一時間四十五分で終えたのにも感じ入った。 「九十よ」と云う馬場あき子と、ほんの少し言葉をかわしたのが、能楽堂で唯一の知人だった、大勢のかつての知人達の、他にだれ一人ももう見当たらなかった。
わたしは能一番で、十二分に体力を使い切ったようであった。能楽堂を出ても、もう池袋へもどるだけ、それでも頑張ってメトロポ地下の寿司「ほり川」まで行ったが、半分ものこしてしまうさんざんの不味さ。そのまま、帰宅したが、機械の前で寝入り、階下へおりて寝入り。
想っている以上に自分のひ弱いのに惘れている。
今夜は、もうこのまま寝てしまおうと思う。
2018 11/4 204

* 気の沈んだまま、志ん生の咄を聴いている、まず「おかめ団子」、あとへ「天狗裁き」。 湯に漬かりに降りようか。校正するゲラもなく、『モンテクリスト伯」をユックリ湯に漬かって楽しむか。気宇を
大きく持つために久々にトルストイを読みだそうと手近へ運んでおいた。『復活』からか、やはり『戦争と平和』からか。
2018 11/5 204

* 志ん生の「大津繪」を久しぶりに聴いた。
志ん生の小唄、都々逸、端唄そしてこの「大津繪」は、咄以上に、ことに長めの人情話などよりも、しみじみと味わい佳い。
2018 11/7 204

* 八時三十分 何から何まで志ん生で対話する粋な「志ん生正月」の、ことに大津繪などの歌をしみじみ楽しみ聴いていた。聴きながら瞼を重く閉じていた。
2018 11/9 204

* 音楽というモノに踏み込む気持ちでふれた最初は、秦の父の「謡」であった。父は大江の舞台で地謡に出されてたこともあった人で、謡は子供の耳にも落ち着いて上手く、このひとつだけで父を尊敬したほど、父が気儘に謡をうたいだすのがいつも好きで憧れた。
そんな次第でわたしは能楽堂でも、つい謡と囃子へ気が行く。「歌・舞・伎」の舞台でもそうで、歌と囃子に先ず心惹かれる。それなのに、わたし、楽器の何 一つにも、ハモニカもろくに吹けず、触れたことがない。歌も唄えない。中国への旅の日中懇親会で、一座最年少のわたしに「歌え」と指名されたときは実に恥 かきで、荒城の月が、夜空から落っこちそうであった。
それでも、只一度、中学の頃、講堂の上で独りで「ローレライ」だかを歌わせられたことがあり、音楽の女先生を恨んだ。通知簿が全優やオール5であって も、本人は「音楽」だけは露骨に「ヒイキ」だと感じ、凹んでいた。「声」に出して歌うというのが恥ずかしく、学期試験ごとに音楽室で一人一人歌わせられる のが凄くイヤだった。声に出し歌うのは、浴室で独りのときで足りていた。
そんな反動でか、「声」で歌わず「ことば」でうたう「短歌」のほうへ、中学・高校のころ遮二無二すすんで、今に繋がっている。わたしの音感は、あげて字で読み字で書く「短歌」のために貢いだわけである。
あ、思い出した、牧水短歌の例に憧れて、わたしも、自分の短歌に 節をつけ、ひとりで歌えるようにしていた、高校時代に。音符にできないので記録がない、記憶もうすれて仕舞った、想い出せるかなあ。
2018 11/20 204

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