* さ、秦の、その「おじいさん」「鶴吉さん」となると、これはもう、途方も無く山ほど蔵された「和漢の書籍」で、まさしくわたくし「秦恒平」を文學・文藝の生涯へ推して出すべく「手渡して呉」れたわば「師父」であった。国民学校四年生で丹波の山なかへ母と祖父とで戰時疎開したとき、私は祖父が明治の昔に「通信教育の教科書」に用いた「日本歴史」その他を、むちゅうで読んで「勉強」しはじめていた。父・長治郎も叔母つるも「本」を読まない人だった、だから「おじいちゃん」は、家で揉め事があると口癖に「恒平を連れて出て行く」と脅していた。わたくしが「感じ」を小さい頃から苦にしなかったのは「おじいさん」からの「たまもの」なのであった
* 秦の叔母「つる・裏千家で宗陽 遠州流で玉月」が、九十過ぎまで茶の湯・生け花の先生で多勢の社中を聴いていたのが、どんなに「私の趣味」をそだてたか、謂うまでもない。この叔母は、ちいさかったわたくしに、寝物語に、日本の和歌と俳句の最初歩の手ほどきもしてくれた恩を,決して忘れない。私の「女文化」とい「日本」の認識は、この叔母の膝下でこそ掴み得た。
そうそう、秦の父 長治郎は、観世流謡曲を身につけ「京観世」の能舞台で「地謡」に遣われるような趣味人で、おかげで、謡曲の稽古本は家に悠々二百冊を超し、それが少年私の「日本古典への親炙」に道を拓いてくれたのだ。
父は、また、私に「井目四風鈴」から囲碁も手ほどきしてくれ、後には私、その父に四目置かせるほどになった。
秦の母は、趣味にあてる時間や躰の自由の効かない主婦という嫁であつたが、讀書の出来る人で、私に、漱石や藤村や潤一郎や芥川の名前を聴かせてくれた。後年、敗戦直後に、谷崎の『細雪』や与謝野晶子訳の『源氏物語』などみせると、それは喜んで読み耽り、ことに『細雪』はよくよく良かったようだ。
つまりは私、讀書好きのお蔭で、祖父にも母にも孝行できた。まちがいない「作家」へ歩んで行く最初歩であったよ。
* まだ、早朝六時四十五分。八十年もの「読む想い出」は,豊かに豊かな山のように私の胸に生きている。
2024 8/31