* 二階で、「清水坂(仮題)」をグイグイと書き増していった。書きたいものを書き続けたい。書ける嬉しさがあれば、なまなかには潰れないと自信している。
* 元日は、もう逝く。
2017 1/1 182
* 夕方まで建日子と過ごした。雑煮も食事もともにし、建日子はこつこつ仕事をしていた。わたしも機械の前で昔々の谷崎潤一郎を語り合った鼎談の色淡くなっ い原稿を苦心しながら読んでいったりした。ときどき階下へ降り、親子三人で「剣客商売」など、好きなテレビドラマの録画を楽しんだりした。夕方、車で帰っ ていった。二人で呑みさしのまだ半ばは残っていた「櫻室町」の一升瓶をもたせてやった。高田芳夫さんに送って頂いた「又玄」筆の洒落な鶏の墨絵に「結構結 構」と書かれた色紙も持たせて帰した。
* 疲れているが、昨日から今日へ小説「清水坂」が前進したのが心強い。
しかし、もう、休みたい。
2017 1/2 182
* 長谷川泉さんに司会して貰った橋本芳一郎さんとのいわば鼎談を、ながく置き忘れていたが、いま克明に読み直していると、つっこんで重要な谷崎論のポイ ントを押さえていたと想われる。この鼎談は、勤務先でわたしの上司であり目標でもあった長谷川さんが、わたしのためにこういう「場」を設定してくださった のかと、今にして有り難く頭が下がる。ほぼわたしの独演会に近いまま進行していて、思わず首をはくめてもいる。「国文学 解釈と鑑賞」昭和五十八年(一九 八三)五月号に載っていた。わたしは四十七歳、「神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎」をもう世に出していた。わたしの創作生活は、「谷崎愛」の日々と 併行していたのだった。
2017 1/3 182
* 選集第二十一巻の編輯に苦闘している。内容にではなく、編成と組指定とに。もう少し。
* ようやっと大づかみ出来たが、仕上げにはもう一手間も二手間も欲しい。確認に必要なものからしてさがさねばならない。もう眼はまったく見えなくて、いま緑内障の目薬をさし、文字が見えてきた。
点眼するとしばらくそのまま瞑目していなくては。そんな時に数をただ数えててもつまらなくて、いつも神武から桓武まで五十代を一気に唱える。百が必要なら 百代後小松天皇まで数える。せいぜい一分から三分までで達するが、ま、その程度にしている。百二十五代の平成の天皇さんまで唱えるとほぼ四分ほどかかる。 神武、桓武、明治、昭和、平成などはいいが、後白河、後醍醐、後小松、後花園、後土御門、後柏原、後桃園などは舌が縺れそうに時間がかかる。
いま、源氏物語「五十四帖」を覚えている。四十八帖ほどは思い出せるが、順でなくてはいけない。順に、桐壺、掃木、空蝉、夕顔、若紫と出てくると、自然物語そのものが甦ってきて、おおいに物語の風情まで思い出せて楽しめる。
よほど「数える」というのが好きで、子供の時にわりあい孤独に遊んでいたと謂うことだろう。そういえば、「畳の目」一つに、じーっと見入ってものを想っていたりしたなあ。
2017 1/5 182
* 自殺した兄恒彦に、生きていて欲しかったなとしみじみ思う。
* 小さなメモ用紙にボールペンで走り書きしたのが出てきた。かなり昔のもの、自分の走り書きの字を、向こう側に置いて眺めるのは初めてかな。
ありとしもなき抱き柱抱きゐたる
永の夢見のさめて今しも
来る春をすこし信じてあきらめて
ことなく「おめでたう」と我は言ふべし (言ひたくもなし)
* むかしむかし『斎王譜』(慈子)を私家版の本にしたとき、関西の友人のひとりだけが、「繪空事の不壊の値」という言葉にたちどまり、言おうか聴こうか という様子だったが、それ以上は言わずわたしも話さなかった。のちに論者たちはむろん此処へ立ち止まってはいたが、ま、通り過ぎていった。
* 絵空事の一生だったかなと、小さな息をついている。もう少し、夢を見ていたい。 2017 1/6 182
* 九時過ぎた。「清水坂(仮題)」を検討しいしい推敲しつつ、またひとつ山の語り場へ来ている。寒いので湯飲み酒も呑んでいた。物語と謂うよりも述懐で はあるが、わるくも良くも縦横無尽に話は交錯している。ひょっとしてこういう書き方はこれが最期かとも思いながら、好き勝手に書いている。
途中でもいいから「湖の本」にし、「選集」で書き終えてもいいかなどとも、ふと、思うが、根をつめて「繪空事の真相」をやはり書き上げたい。
2017 1/10 182
* 湯飲み酒がまわってきた。午後は、寝て過ごすか。「清水坂」を夢のように飛翔してまわりたい。
2017 1/10 182
* 頸が痛く強張ってきた。それでも、小説は生き物のように柔らかに動いて、やや複雑な十字路へ身をすすめてきた。どっちへどうとりあえず展開するか、また思案のしどころへ来た。むずかしいのだ「清水坂」という世界は。
2017 1/10 182
* 今日は『ユニオ・ミスティカ(仮題) ある寓話』の方へ掛かってきた。読者にどう届けうるかは若にないが、丁寧に推敲し補筆しているのが嬉しいような 照れる仕事にすすんでいる、と云っても今日読み進んだのは書けてあるぶんの二割にも及んでいない。どう仕上がって行くか、実は初稿としては仕上がっている のだけれど、ことりナイショで楽しみながら推敲し添削し補筆しているので。かなり長い作になっているんで、冗長や饒舌は避けたいのである。
こういう仕事をしていると、外出はつい、またねとなる。健康ではない。なんとかして「京都」へ帰ってきたい。
2017 1/11 182
* 「井伊大老」は、しみじみ胸にせまる新歌舞伎の一名作。今年一年で「幸四郎」を卒業する九代目の井伊大老は、さながらに父先代の口跡風貌を甦らせた思 いの深い懐かしい役づくりで、玉三郎のすばらしい愛らしい「しづ」とさしむかいに、彦根城あの「埋木舎」へ帰りたいと相擁する場面では、思わず、わたしは 声をもらし京都や来迎院の恋しさに泣けた。
初世白鸚と六代目歌右衛門の舞台はじつに佳かった、決して忘れない。だが九代目幸四郎と美しい極みの玉三郎しづとの双璧も、このさき幾度も情け深く熱く 光りつづけるだろう。来春には十世幸四郎となる子息染五郎が、長野主膳というむずかしい人物を、たじろぐことなく、きりっと演じた。もう一人正室の人と格 とをこころよく見せていた、芝雀あらため四代目の新雀右衛門にも、うんうんと頷けた。後場の側室「しづ」との対比が品位を保ち得た。
* わたしがこの芝居を愛してきた理由のひとつには、井伊直弼と日本との、外向きには開国・外交の決意、内向きには埋木の昔から独自に培ってきた一期一会の茶と愛と、に若くから心惹かれかつわたしなりに物思うこと多かったからである。
井伊直弼の{開国}への覚悟、尊皇はともかく「攘夷の危うさ」にたいする認識に、わたしは反対を唱える気になれなかった。井伊なくて、むやみな攘夷に 走っていたなら、日本はたぶん西欧列強に分け取りに占領されていただろう。列強の対抗を巧みに必死に操りつつ、開国の姿勢を保ったことで、不平等条約には ながく泣かされたものの、日本は西欧の帝国主義をなんとかすり抜け、明治維新と近代とを迎えることが出来たとわたしは信じている。井伊直弼大老たる頑張り は、多く若き幕末の俊英らを死なしめたものの、まこと危うい瀬戸際を通って日本國の壊滅を防いだ。天皇制をすら結果としては護ったと、わたしは、ま、そう 思ってきたのだ。彼井伊直弼を人としても信頼する基盤には、名著『茶湯一会集』があった。「一期一会」の思想としての高さをわたしは井伊直弼から学んだの だ、云うまでもない長編『慈子』はその真実のレポートであった。
2017 1/12 182
* 「ユニオ・ミスティカ」にかかり切っていた。面白かった。機械向きの目が疲れると階下におり、昨日茜屋のマスターに貰ってきた、染五郎が座頭、ラスベガ スのホテルで公演してきた歌舞伎尽くし「獅子王」の録画を観た。佳い外交である、演者達も楽しみ観客も大いに楽しんでくれていた。
2017 1/13 182
* これだけむきだしに性を書いてしまっては、読者の九割九分が背を向けられるだろうと思うと、気に入ってはいても本にしにくい。絶筆ではない、文字どおり遺書として選集の最期の巻にするかと思いつつ、気を弾ませて半ばを推敲した、が。
2017 1/14 182
* 好調に『ユニオ・ミステイカ』を読み進んでいて、この分だと少なくも初稿としては九割九分の余も出来上がっていると自信が持てる。それでも徹底して推 敲している。こう直せばこんなに文章がかわるのだと一つ一つ驚くぐらいに気をいれて歌わない音楽として完成を願っている。推敲はしすぎても作を殺す。難し いこれぞ創作というもの。
それに。此の老境の性を語っている「ある寓話」も、もう一つの仮題『清水坂』も、思いなし従来のさくよりも一入に「述懐」口調を受け入れていて、そのぶん行文(文をやる)息づかいの推敲が難しい。また面白くもある。
ま、どう纏まるか纏まりが付かないか、「寓話」は性の露出ゆえに破産の懼れも濃い。
2017 1/15 182
* 本の山のしたから一冊『日本人の心情 美と酬の感受性』を見つけた。芸術生活社の本じゃないかオヤオヤと、目次をも見 るといきなりの一等先に「消えたかタケル」秦 恒平と出ていて驚いた。「”建”を喪った日本民族の底に連綿と脈打つ負の心情」と編集部が添えている。十九人の文章を並べていて目次最初の頁だけ見ても、 筆頭のわたしに続いて、奈良本辰也、吉田知子、笠原伸夫、松永伍一、谷川健一と続いている。奈良本先生を随えていたとは畏れ多い。そういえば、祇園「梅 鉢」の止まり木にならんでよくお話しを聴いたなあと懐かしい。
上の「消えたかタケル」は太宰賞受賞直後に雑誌「芸術生活」の依頼で書いた作家ほやほやの時期の一文だが、文中に「日本俗情史」こそ必要なものと強調し ていたのを覚えているし、「芸術生活社」もヤケに共感してくれて「書け書け」とすすめられたが、新米作家がそんな方面へ脱線はおろか小説を書けと筑摩にも 新潮にも絞られていた。わたしが書きそうにないので、芸術生活社は上のような編輯本を企画したらしい、しかも新米作家の一文を巻頭に置いてくれていた。今 させに首をすくめる心地である。
とはいえ、「消えたかタケル」という問題提起は大事であって、わたしのその後の厖大な批評や論攷の仕事のさな゛ら原点を実は成していたと思う。「湖の本 エッセイ」のごく早い巻に入れていたと思う。ちなみにこの本最後の締めくくりは尾崎一雄さんが書かれていて、ホオッと畏れ多いのである。大方の先達が、も う亡くなられていて感慨深い。戸井田道三、楠本憲吉、山本健吉、高橋義孝、暉峻康隆、武智鉄二、三宅藤九郎、山本太郎、秦秀雄、坂東三津五郎、壇一雄と並 べば、わが駆け出しの頃のすべて著名人。なら、これはまさしく露払い役をそせてもらっていたということ。ほっと肩の荷がおりた。
芸術生活社からは立派な造本で『廬山』を出して貰ったが、あの会社は今もあるのかなあ。
2017 1/17 182
* 『亂聲』を、ほぼ編み終えた。歌いまた舞い遊ぶ宴のまえに、幕の内で、鼓笛また鉦鼓を以て盛んにもて囃したのだという、古人らは。わたくしに、もうそんな晴れやかな宴はない、終焉のほかには。ま、思うがまま、わが為わが手で出放題に囃しおく一巻になろうか。
2017 1/19 182
* 湯に漬かってわたしの「夢の浮橋」論を読み返し、また源氏物語「梅枝」巻を読み上げた。『源氏物語』だけは、世界文学のどの時代へもっていっても、どんな名作と並べても、ビクともヒケをとらない。読み物としてでなく、文学表現としての底力なのだ。
2017 1/19 182
* 『ユニオ・ミスティカ 或る寓話』にかかり切っていた、が、終始めがねの視力が機械面に組み合わず、気を殺がれて苦労も疲労もおびただしい。眼を閉じ、闇に埋もれ沈んでいるのが、らく。
機械を離れていい照明で読書している方が、らく。
2017 1/26 182
* ある人の亡くなった頃から静かに想い描いていた現代の物語へ、もう近づいてはと思いかけている。和泉式部の日記と歌とをより新鮮な気持ちで読み込みた い。こんな時節になって、なんでまたわたしはこんな別世界を想い描きたいのか。いまいまの着想ではなくて愛着失せていないからとだけ書き留めておく。
2017 1/26 182
* 夜前就寝前に珈琲を二杯喫んだ上に。床についてから「藤の裏葉」巻、「ヘンリー四世」、「蘆刈」論、「弓張月」、「小笠原物語」、「和泉式部日記」を二冊 読み、新しい小説の構図を考え考えていてまったく眠れなくなり、眠れずじまいに朝になった。朝一番に「蘆刈」論を読み終えた。
2017 1/27 182
* ハテ、わたしは。情けないが旋頭歌のように繰りかえし謂うなら、
尿が出て便出て食えて目が見えて
読み書きできて睡れればよし 疲れたくなし
根本は「食えて」にある。美味しく、噎せず、詰まらせずに食べたい。見た目の色かたちにも嫌悪感ヵ゛先だってしまい、できれば食べまいとする。しかも、 ラチもなく間食し、繰りかえし呑んで居眠りしている。いわば「食鬱」症か。明後日からの湖の本133発送、二月十五日からの選集18発送を終えた下旬ご ろ、鞄を背負い杖をついて、思い切って短い旅でも出来るといいが
* 湯に漬かって、「春琴抄」論を読み。また古典の物語を読んだ。新しく書いてみたい小説の大きな想を、ほぼ掴み得た気がしている。あることを想ってい た、が、乗れなかった。べつのことを想いついた。これは行けるぞと感じた。たくさんたくさん時間と体力が欲しいが、欲深くなってはいけない。
2017 1/28 182
* もう長く書き書け書き続けている長い二篇とはべつに、小味な別の小説一篇がほぼ書き上がっていたことに気づいた。今書いている二作の一つの、いわば露 払いのように先行していたようだ。見失っていた子にはからずも再会した心地だが、そういうふうな仕上がったか、仕上がりそうなもう幾つかの小説が荒削りな 初稿のまま他にも有る。有るモノだなと苦笑いしている。
2017 1/29 182
* 長くはない小説を一作、それなりに仕立て上げた。この近年書き続けているうちの一作を、方法的に導き出してきた、いわばその前を走って、ま、走り終えたという一作である。仕掛かりの長編のためにもこの一作、出来ていてくれた方が良い。そう思って仕上げた。
* もう一作、まるで他に似たどんな作もない変わったふうな未完の小説を、仕上げておこうと、今の仕事のなかへ付け足すことにした。放っておいては残り惜しい、モチーフのつよい作と思えるから。容易い仕事でない。が、仕甲斐がある。小説を書くのはわたしの仕事だ。
2017 2/1 183
* 「私語の刻」のこんな「私語」、誤記・誤打をおそれぬ書きッ放しではあるのだが、それでいて、わたしの日々の意識では、こういう短い感想や雑駁な記録 であれ、「文章」の勉強は十分出来ると自覚している。「文体」という、自身に根をはった「歌わない音楽」をどう養い引きだし奏でるか、こういう場がこれで 貴重なエクササイズになってくる。句読点一つ、音韻の流れ、組み立てを、こういう簡単な行文を通じ、なかば無意識にこころがけて、勉強している。機械打ち の行文のこれは恵みであり励ましにもなっている。「私語の刻」また文藝。勉強の時間である。
* 朝から、もう三時近くまで、たぶん百五十枚まででおさまりそうな小説(仕掛かりの長編とは別作
)に取っ掛かっていて、面白くなってきた。いちばん機嫌のいい折りである。しかし何より眼精疲労は甚だしく目薬をつかい、濡れた綿をつかい、眼鏡をうるさいほど取り換えて、とどのつまり機械の前でお手上げになり休息する。
休息にはそのへんの本へ無差別に手を出すのだから、やはり目はつかってしまう。音楽がいちばんいいのだが。
で、さっきから寺に触れ手に取っていたのが、金版捺し表紙の字も絵もくすんだ漢詩集で。なになに、越山芳川伯爵題詩 清国公使胡大臣題詩の志士必誦 袖珍版「宋 謝畳山 輯」の『千家詩選』で、「日本 四宮憲章 訓」とある。秦の祖父旧蔵の遺品だ。
ちなみに奥付をみると明治四十一年十二月二十五日に東京神田の光風楼書房から初版出版、翌年三月十八日には訂正四版が出て、「定価金五拾銭」百五十頁にやや満たない。
こういう本は、表紙をめくってから目次へ辿り着くまでに盛んに偉い人たちの題詩や揮毫や緒言が十人近く居並ぶ。清国との友好だか交流だか親善の高まって いた時期とみえ、日清一如のていを成していて、しかし、ありがたいことに宋の謝畳山輯に背かず精選編輯された詩はすべて漢詩、和製漢詩は含んでいない。 「志士必誦」の志士に拘泥しなくていいようだ。
巻頭に宋の程明堂「春日偶成」と風雅の作である。
雲淡風軽近午天 雲淡ク風軽シ近午ノ天
傍花随柳過前川 花ニ傍ヒ柳ニ過随ヒ前川ヲ過グ
時人不識予心楽 時人ハ識ラズ予ガ心ノ楽シキヲ
將謂倫閑学少年 マサニ謂ハントス 閑をヌスミテ少年ヲマネブト
一読、なかなか、単なる風雅ではない。むしろ「程子オモヘラク」時節時好を楽しみ思っているものを、時人の蒙、知己ならざるを慨嘆するの気味が濃い。「閑学少年」とは、少年の遊蕩に堕していると。「明堂先生」は宋河南の人である。朱子とともに程朱とならび称された。
* よろしき休憩であったけれど、目は休まらなかった。
秦の祖父鶴吉の遺してくれたこうした漢籍の類が、はるかに立派な大冊までいまもたくさん家に在る。とりわけて『韓非子』を読んで、盗用のマキァベリズムを識ってみたいのだが、時間がねえ。
* 乗りかかった舟かのように、根をつめていた。二枚腰に粘ってでも土俵を割らずに仕遂げたい。
* 十二時が目の前に。よく頑張った、よく思案もした。さ、機械からは離れる。
2017 2/2 183
* 量よりも、構図構想面から質的に新創作は前進した。弛まず進むあるのみ。十一時。機械終える。階下で校正し、読書する。
2017 2/3 183
* あと十日、「選集⑱」送り出し用意に取り組みだした。数は「湖の本」より遙かに少ないが、荷造りの手間は掛かる、というだけでなく手指の痺れているわたしには出来そうになく、すべて妻に托さねば済まないのが、難。
それにしても書架にすでに並んだ『秦 恒平選集』十七巻にさらに十六巻を加えて行くというのだ、ビックリしてしまう。この時節、かつて盛行した作家や批評家の個人全集など、ほとんど聞かなく なった。自力で世に問える作品やエッセイをたっぷり持った作家も批評家も容易には見当たらないらしく、寂しい「日本文学」世代と謂うしかない。リッチを 誇っているのは通俗な読み物・売り物の人ばかりらしく、まことに「寂しい極みの現今日本文学」世代と成り果てているらしい。
* 小説文学の痩せ・貧しさもさりながら、今一つ目立つのは、今日、小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、臼井吉見、唐木順三、福田恆存、山本健吉等々、更に やや時代おくれて活躍した何人かの批評家、論客らに匹敵した批評家も論客も、わたしり目が疎いためか知らないが、まことら貧弱という払底しているかに想わ れる。創作と批評は健全な両輪となり文学という藝術を走らせる。
どうなっているのか、だれか教えて欲しい。上に挙げたような人たちは、批評自体が文学の文章で気品や気概を湛えていた。
今日、たまに目にとどく批評・評論の頁をくると、ただガサツに乱暴で、読む「嬉しさ」よりも「苦痛」を持ち込んでくる。作と作品とはべつものだという機微がまるで分かっていない、らしい。
* いま一つを敢えて謂えば、かつては桑原武夫、吉川幸次郎・吉田精一・森銑三・角田文衛、紅野敏郎と謂った幅広く底深い学匠たちが研究と論攷・批評・行 為の質を高めていた。優れた大勢が亡くなってしまい、いまや色川大吉も梅原猛もあまりに年老いられた。若きカリスマを蓄えた俊秀の名を教えて欲しい。
* 思いがけず懸命の創作になろうとしている、構成や推敲の便を考えていま途中までプリントしている。
2017 2/4 183
* 「かたる」のはラクなようで「文学」として達成するのは容易でない。いまも「源氏物語」「和泉式部(日記)物語」「石清水物語」「椿説弓張月」と、平 安盛期、或いは鎌倉初期かも、そして中世室町時代、近世江戸時代の四つの物語を読んでいて、しみじみとその「文学達成度」の差異を思わずにおれない。確実 に時代を降るにつれて不味くなる。しかもいまわたしは現代平成の「物語」そのものを書き表しつつあるのだず、忸怩たるを免れなくて、恥じ入っている。困 る、困る。
* 今日も、でも、無性にガンバッテいた。もう疲れて疲れ果てた。やすみます。
昨日今日の感激の一つは、政治でも経済でも無い。Dlifeドラマの「NCIS」が泣かせた。同じ一時間ものを昨日観て感動し今日も観て、父と息子との久しい再会と熱い抱擁に涙した。嬉しかった。
2017 2/4 183
☆ <小説を書くということは
物語を作るということ。
物語を作るというのは自分の部屋を作ることに似ている。
部屋をこしらえてそこに人を呼び、そこがまるで自分だけのために用意された場所であるように、相手に感じさせてしまう。それが優れた正しい物語のあり方だと考えます。>
ーある作家の文章を読んでいて、思いがけず「部屋」という言葉に出逢いました。
<相手がその部屋を気に入り、それを自然に受け入れてくれることで自分も救われることになる。なぜなら僕とその相手とは、部屋という媒介を通して、何かを共有することができたから。
それが僕にとって物語の意味であり、小説を書くことの意味です。
物語という部屋の中で僕はなにものにでもなれるし、それはあなたも同じです。それが物語の 力であり、小説の力です。
どこまでが自分の夢で、どこからがほかの誰かの夢なのか、境目が失われてしまうような小説。そういう小説が、僕にとっての「良き小説」の基準です。>
そんな風に言葉は続いています。
別の文では、彼は<希望や喜びを持たない語り手が、我々を囲む厳しい寒さや飢えに対して、恐怖や絶望に対して、どうやって説得力を持ちうるだろう?>とも記しています。
昨夜、湖の本を受け取りました。
まず読み始めた「京の散策」に、「ものがたり」の「もの」とは鬼・霊にこそ通じて> とあるのに頷きつつ、八一さんの声と重なっていくような先の文章を 思い起こしました。「清経入水」「風の奏で」から「冬祭り」へと連なっていくお作の流れも自然と思い合わせられ、興味深く。
立春大吉。明日は雨模様のようですが、月曜には明るい日差しも戻ってくるでしょう。
新作の成りますこと、とても楽しみですが、日々お大切に。
* わたしが作の中の「部屋」で、自在に古人や非在の知己と会話談笑していることを書いたのは岩波「世界」に『最上徳内』を連載し始めたごく最初での発明で あった。上古中国の趙岐も自ら築いた墓室に出入りしては故人と話していたのは識っている。しかし創作と「部屋」とに関わって、わたしが先の連載に「部屋」 を書いたよりも以前、昭和五十七年(一九八二)「世界」十月号よりも以前、三十五年前よりも先だち「作家」である誰かの、上のような発語が著述されていた のなら、寡聞の不明を驚かずにおれない、が、上の読者のメールは、「ある作家」としか書いていない。教えて欲しい。
2017 2/5 183
☆ 先の文章の書き手は
村上春樹です。
「小説を書くということは~」は2001年8月執筆(タイトルは「遠くまで旅する部屋」。
「どこまでが自分の夢で~」は2005年3月27日発表「温かみを醸し出す小説を」。
「希望や喜びを~」は2009年秋発表「物語の善きサイクル」。
何れも『村上春樹 雑文集』2011年1月収録)、
「物語を語るというのは、心の闇の底に~」は、『職業としての小説家』2015年9月です。
村上春樹の「部屋」は、読み手(聞き手)と共有する場として思い描かれています。 九
* 村上春樹はわたしの十四年後に生まれ、わたしの十年後にデビューしている。ふしぎなほど現世の縁のない作家で、何処の國かでしていた演説にだけ、感服した覚えがある。
世紀を隔てて前後していた小説・創作における「部屋」の弁であると分かった。感謝します。
いましも、わたしはわたしの「部屋」で、奇妙のもの語りの入れ替わり入れ替わりつづくのに、聴き入っている。
2017 2/5 183
☆ 「和久傳」節分の掛紙には「福は内・鬼も内」と書いてありました。
メール頂戴しました。ありがとうございます。ご心配頂いた花粉の飛散は、まだのようで…助かってっています。どうぞ、先生もお大事になさって下さいませ。
京の「神楽岡」 神あつまりて遊ぶところ。
今年 今月 今日 今時 神祇官宮主の祝ひまつり…平安宮に、大儺「鬼やらひ」の声が響くころ。
二月二日節分に、先生からの御本が届いて、嬉しくて。
読み始めたら引き込まれ、気が付くと三時間が経っていました。このまま、お休みの一日を楽しく読んで過ごそうとしたのですが…先生への御礼に「追儺」の気分をお伝えしよう、そう思いたちました。
「吉田山には、ときどき神様が降りて来るんだよ。」
母方の祖父は生まれたばかりの私を膝にのせて、話し聞かせたそうですが… 翌年には鬼籍に入ってしまったので、覚えがありません。学生時代を京都で過ごした祖父は、毎朝吉田山中の道を遠回りして通学していたそうです。
山頂の社殿 [ 斎場所 大元宮 ] は、 祭事に限って開かれるとか。茅葺の八角形の本殿に、六角形の後房がついた珍しい形。屋根の上には、方形と円形の勝男木と並んで、宝珠を戴いた露盤がありました。
神仏は習合しているのだなぁと、面白く拝見していると、三人の殿方が後房正面を目指して歩いてこられました。そして静かに一列に並ばれました。それから ゆっくりと謡本を開いて、「神歌」が始まりました。聞き慣れた観世の様ではなく、独特のたゆたう風がありました。本殿から低く漏れ聞こえてくる祝詞と、普 段着のお能。
こんな稀有な機会に恵まれる。京都は、不思議の面白の街です。
「ちはやふる神のひこさの昔より」と謡ったその時、東の方角で鐘が鳴りました。真如堂でしょうか。それとも、くろ谷さん?
お寺の鐘の音を、日に何度も聞くのが京都の日常で す。黄鐘調か、盤渉調か、聞き分けられる耳をもちませんが…何処のお寺の鐘の音も、耳ではなく心に響くので、ただ聴き入るばかりです。
東京の先生のお耳にも、何処かの懐かしいお寺の鐘の音が、蘇りましたなら幸いです。
お身体、くれぐれもおいとい下さいませ。 百 拝
追伸 ———-
今回添付させて頂く写真は、吉田神社の勧請元である春日大社節分會へ以前行った時に写した燈籠です。もう一枚は、疫神祭の時、散供の米が蒔かれる辺りです。
吉田山と神楽岡が、同じ場所を指す言葉だと、京都に来て知りました。
祖父は敬虔なクリスチャンでしたが、神楽岡でたくさんの神様と出逢って楽しんだのだと思います。
* 濃厚に京の風を頬に感じる。よしだじんじゃ、だいげんぐう、しんにょどう、くろだに、かくらおか。 いましも、その界隈を体感しながら奇妙に歪んだ物語を仕上げてやろうと、書き継いでいる。
2017 2/6 183
* 九時半。もうムリが利かない。きのう戴いたいい酒の、瓶にもう少し残ったのを湑みに、階下へ降りたようかと誘惑されてもいる。
昨夜も寝床でたくさん本を読み灯を消したのは、二時半だった。目も胸も躯も休ませないとと思う。起きて何かしている時だけが生きている時間ではない。分かっている。やれやれと首も振っている。
みの数日打ちこんでいる小説、よほど奇妙に怖くなってきた。こういうモノは他に書いたことなかったと思う。夢に見そうだ。
2017 2/6 183
* もうよほど前から金久与市という著者の『古代海部氏の系図』という本も読みつづけてきた。
太古からの「海・水」の民を想う思いは私の大方の小説世界に浸透している。ことを日本という世界に囲ったうえでいえば、国宝に指定されてある「祝部氏系 図」はほとんど「神代」とも連袂した幽邃の歴史を、他の、類似のいかなる文献資料よりも遠く古くから微妙に証言しており、古事記や日本書紀世界を謂わば分 数式の分子とみるならこれは不動の分母に位置している、と、それがわたしの理解であって、そのためにも上に挙げた金久氏の著は、身震いがするほど興味深く 多くを教われる。
* 上の『無門關』また『古代海部(あまべ)氏の系図』らはこの後も「私語の刻」へ何度も登場して貰うだろう。
2017 2/7 183
* 京恋しさが乗り移ってか、「京の散策」三度目、喜寿の歳であった「2005年分」も、幸い反響が好い。日録「私語の刻」の私語を抜き出したに過ぎないが、一年を通じて柔らかに主題を追ってのエッセイに成っていようとは、むしろ心がけてきたこと。
2017 2/7 183
* 「選集⑱」送り出しの用意は半ば出来た。あと二日も要すればいつ納品されても送り出せるだろう、納品は十五日。いま精出して初校しているのは「選集⑳」で、その次巻ももう初校が出てきている。
* 仕掛かりの小説、じりじりとクライマクスへ動いている。こんな小説を書くのかと大方睨まれそうな異色作だが、ま、いいでしょうよ。仕上げを待っている 小説が、長い短いあわせると少なくも五作ある。その二つが旧作、三つが新作。それでいて、別の新しいモノも書き起こそうかと思いかけている。宜しくない傾 向かも知れない。
2017 2/7 183
* このところ組み付いている小説が、みごと爆発してほしい芯の場面の目前へ逼迫している。さして長くはならず、無駄なく引き締めたいが。
2017 2/9 183
* おっ師匠(しょ)ハン やっぱり手紙も呉れた。
先日送ったわたしの『もらひ子』を読んだらしい。
子供の頃、自分が「もらひ子」であり、じつはあの子も「もらひ子」と初めて知った一人が、此のおっ師匠(しょ)ハン だった。五年生か、六年生よりまえであったろう、突如、キリッとして顔も身なりも綺麗な女の子が隣の組へ転入してきた。敗戦して二年と経ってなかったの で、学校中に戦災や引揚げの転入生は溢れてたのだが、その子は、驚いたことにわたしの叔母、むろん血縁のない叔母といたって仲良しの小母さんの「もらひ 子」だった。叔母と小母さんは幾世代も大昔からのわれらが共通母校の卒業生・同級生同士、まさしく近い親戚のように感じていた家へまるで降って湧いた「も らひ子」であったのだ。
わたしは生まれて初めて、「もらひ子」という身上や心情を分かちあっているらしき美少女を識り、率直に動揺も同情もし、血縁なんか問題にならない一と組 の従兄妹同士の気がした。「もらひ子」には「血縁」とは奪い取られたものと小さいわたしは思っていたから、この「従兄妹同士」には、わたし一人が勝手な想 像で思い込みであれ、ある種「同盟」感覚が通っていた。わたしに小説というモノを、それも「もらひ子」小説を書かせた一つの「動力」かのように此の「おっ師匠(しょ)ハン」はけっこうに「機能して」いたとも謂えようか。「おっ師匠(しょ)ハン」とは、昔から若柳だか藤間だかの舞踊の先生をしていて、今でもそうであるらしい。
とはいえ、この若き日々のおっ師匠(しょ)ハンの先行きは、わたしとまた天地ほど、北と南ほど懸け離れていて、およそわたしが東京へ出てこのかた六十年近く、消息もふっつり絶えていた。
それが、ふうッと、便りがきたのだ、此のわが家へ。ああ、もうはや「小説世界」へ入っているかと惘れるほどであるが、懐かしくもある。向こうもとても懐 かしいらしい。呉れた菓子の「梅の壺」を追っかけてきた比較的長い手紙も、まぎれなく「もらひ子」であった運命に殉じて触れてあり、しかも交々の物思いに 今も悩まされているという風情を籠めている。妻もわたしものけぞったほど不思議な事実も語られていた、「この手紙笑わずに読んで下さい。思ったままに書き ました。」と結んである。だが文面を此処に披露はしないでおく。
2017 2/9 183
* 十時半、もう限界。字も、強い照明を当てながらただもう手探りでキイを探している。もうダメ。しかし今日はよく頑張った。諦めずに、粘った。初稿でこ そあれ、初稿からも書き殴りはしない。句読点の位置にも繰りかえし神経をつかい、目で読み、口でも読み、目を閉じてでさえ読む。日記とはちがうが、日記で も深切にと気は遣っている。
* びっしりと水に浸かったほどに疲れた。こんなでは、病院ででもないと、着替えて家の外へなど半歩も出られない。着替えるのがむかしから面倒な人である、わたしは。
疲れました。階下へ行ってや すみます。朝寝も、出来るとき休まるときは、強いて起き急がない。けど、寝る前の読書はムリにも読みたい。読まねば惜しい本があまりに家中に満ちてあるの だ、角川の「新修日本絵巻物全集」の充実した月報32巻を束ねて持ち出した。「日本の中世風景」を四人の研究者が衆議検討している中公新書上下巻にもまた 惹かれて持ち出した。読めるうちだ。読めるうちだ。読めるうちだ。
2017 2/9 183
* まるで眠れなかった。夜中二度も灯りをつけ、校正し、「為朝」を読んだ。灯を消すと書きかけの小説のことが目の奥で渦巻いた。
2017 2/10 183
* 「異様」な作、じりッと前へ進んだ。さ、もう逃げ隠れできない大山場へかちっと脚を掛けねばならない。山が崩れてはならない、崩れないと限らない。踏ん張りたい。
* いちばんの長編、しかもほとんど仕上がっているのにうかと手放せないのが、『ユニオ・ミスティカ 或る寓話』で、まちがいなく幾昔か前なら発禁で裁判 所へ送り込まれかねないこと。三部校正になっていて一部は。いや、打ち明けていいことでない、小説のためには。もっとも吹っ切れないのは二部にあたるとこ ろ、すべて「あのひと」としか呼べない無数の「あのひと」を妄想して妄想の極みを歌い尽くした百数十もの性欲・性愛の「短歌集」に出来ている。作家として 読者や知己を一挙に喪うそれは愚劣な暴挙であるのかも知れないが、表現と想像との限りを尽くしてある。それだけに見る人は何を勝手気ままに思われるかしれ ず、そんなことは文学であれ他の芸術であれ「お断りします」とは言えない。手が後ろに回りかねないのは作者著者だけなのである。しかも作者のわたしは微塵 も「猥褻」などという言葉に拘泥していない、そんな概念は無いと見切って表現している。しかし「世の中」は簡単ではないと承知もしていて、だから踏み出さ ないでいる。書いたのは徹して「性」であり「性愛」である。文学の作者として歩んできて、「書く」ときめそして「書いた」のである。
そして第三部がいちばん長い。三部を通して選集の厚めの一巻にほぼ当たっていよう。「選集」なら非売の限定出版ということで、本に出来る。「湖の本」では、きかえって久しい読者に厭悪・嫌悪で背かれてしまうかも知れぬ。「遺作」にしておいても、棄てるよりは好い。
* 『清水坂(仮題)』は面白い物語に纏まると、纏めたいと思って粘っている。筋も筋だが物語るという述懐の文学的な質をだいじに考え、ひしと抱えている。
* 中断している『初稿・雲居寺跡』は、現状の中断でも、それなりにトルソのような生気は持てているが、さらに「いい恰好」でおさまるなら、ぜひ収めたいものと思案も勉し強もしているところ。
* いま、もう一つ。これは、見ようでは、いちばん先に問題視した『ユニオ・ミスティカ』という長編をわたしの身内から引き擦り出してきたともいえる「題未定」の一作が、もう書き上がっている。軽くて俗な新しいスタイルで通せてあると謂うてもよい。
* そしてこのところ十日ほどもウンウンと書きコミ続けてきた新作は、異様なものに纏まるだろう、異様なら異様でシッカリ異様に纏めねばならないと、今日もウウ、ウウ唸っていた。
* 九時。疲れた。昨夜「小説」に搗き混ぜられあまりに眠れず閉口した。からだはへとへとに懈いが創作欲はダレていない。が、もう休まないと。
2017 2/10 183
* ちょっと願い事があり、当今國文学関係で有力な出版社を人に尋ねたら、大学等の文系にたいする政治的な圧迫や軽視の影響であろうか、たとえば有精堂出 版のように曾てはいい仕事をしてくれていた会社が倒産したり、また縮小分散した会社も廃刊になっている著名だった雑誌もありますと教えてくれた。
思わず天を仰ぐ、が。
だが、また文系学の退潮や被差別事情は、一つには関係してきた文系知識人や学者・研究者また文藝団体等の能力や見識や矜持が情けなく衰えているからで、 自業自得とさえわたしは眺めている。作家・批評家にも、自分たちの仕事を、稼ぎに換算こそすれ、日本の文化を担おうという高邁な自負がのほほんと磨滅して いる。
「いま、どこにいるの? 文豪」と、かつてわたしは嗤った、むろんわたしなりの自己批判であり自覚だった。まこと、漱石も志賀も谷崎も川端も三島も秋声 も鏡花も、みな地を払って、代われる者が文藝家協会にもペンクラブにも見当たらない。情けなくて、そんな「騒壇」の外へわたしは身を置いた。
「云々」も読めない総理の政治や追随者らが、文系は金儲けの役に立たないと邪魔にするのは、あるいは理の当然。
いい政治に必須は、「国語」教育こそと柳田国男の往年の憂慮がはっきれ現実になっている。国語の先生がたはなにを思って教壇に立っているのか、聞きたい。
わたしは、売るために売れるものを、など書いてこなかった。心ゆく作が書きたかった。書こうとしている、力不足でも苦悶しながら、昨日も今日も。
2017 2/11 183
* もう少し、少しだけで一編の小説が終えて好いのだ、だが、息をのんだまま堪えて堪えて、待つ。待っている。
* 今日晩の七時、百枚近い書き下ろし新しい小説を少なくも初稿脱稿した。此の作をいつ書き始めていたか、俄には日付ようの書留めが見当たらないが、「枕 草子現代語訳」を草稿の用紙裏を利して手書き稿が残っている。最初の機械稿は、初めて「最上徳内」連載途中から購入使用した「二行」ワープロで出来てい る。「枕」現代語訳が学研から出たのは昭和五十五年(一九八○)二月のこと、「徳内」連載は今少し以前のことと思い出される。何に しても、三十年前後の昔に書き起こし、半ばで棚上げになっていた作と想う、しかも棄てきれないでワープロ稿もその後を画策し構想したメモの類がたくさん 残っていたのを活かしながら今回は仕上げたいと踏ん張った。わたしの創作としては桁外れに異色かも知れない。
とにかく、問題はこれからの徹底推敲で左右される。出来るか、棄ててしまうのか。この先のことだ。「題」は替えるかどうかも推敲次第、原稿題は『蒼い雛』としてある。 2017 2/12 183
* 明後日からの「選集第十八巻」送り出しに備え、とに書くも受け入れて積み上げるため玄関先を片づけた。西隣棟へも幾らか保管できる場所を用意してき た。腰がきつく痛むが、直前にチオビタを一本飲んでおいたのが、すこしは効いたか。西隣はちいさい家一軒分がほとんどすき間無く物置き(本と資料)に成り 果てている。
わずかなすき間に坐り込んで古い資料を見始めると時間が流れ去る。
断乎見もせず棄ててしまえば畾地(らいち・余地・田畑の空き地)が出来るのだが。
昭和三十四年(一九五九)三月いらいの例えば郵便物が以降少なくも去年までほぼ一通も余さず保管してある。私史年譜資料として惜しい私信や記録もあれば、著名人肉筆の来翰来信もある。六十年分近いそれらをせめて五分の一に処分できても畾地はよほど拡がる。
湖の本三十余年分の記録や書簡や読者カードを躊躇無く捨て去れば広い場所が空いてくれよう、しかし惜しんで思いの残る来信をだけでもと想うと選別はたいへんな労作になり、しかもわたし自身の目や思いを注がねばならない。「湖 の本」は稀有の事業であるだけに、出版史てきに関心を持たれて当たり前なのだが、とかくこの仕事は文壇的・出版業的には、とんでもない例外として「無視し ておこう」ということになっているとも洩れ聞いている。そうではない有り難い声や言葉もたくさん寄ってきている、今も、むろん。
2017 2/13 183
* ほんとうに、妻もふと思い立って一緒に出てくれれば、一泊の旅ぐらいは出来ると思うのだが、妻の健康のことも配慮しなくてはいけない。ま、それでも、気の晴れる気を晴らすことは大切と、しみじみ感じてはいる。
新婚のすぐ二、三ヶ月後には、霞ヶ浦を舟で潮来へ渡ったのが懐かしい。
「冬祭り」で描いた鞍馬の火祭、比良のケーブルも、妻と二人だけの旅だった。
名古屋のボストン美術展や熱田神宮へ行ったのも、水戸の偕楽園や袋田の四度の瀧へも、仙台松嶋へも、足利の藤見へも、みな、ふっと思い立ち二人でふいと電車に乗ったものだ。
旅は、やはり劇場での観劇の楽しみと、また味わいが格別にちがう。
前から、いちど、銚子のトンガッタ岬へ立ってみたかったが時間が掛かりそう、全く不案内だし。大きな都会だとなんとか宿もあるだうが。
小説も書きたくて新潟県の村上へも久しく願を掛けてきたが。
なににしても今時、雪國へ向く手はなかろう。
2017 2/13 183
* ワインをのむと、とろりんと酔いが早く睡くなる。そんなとき校正ゲラをもって床へ行き、坐ったまま校正し始めるとすぐシャンとする。『昭和初年の谷崎 潤一郎』のおもしろいこと、こけを通読しているとこの時期の「痴人の愛」「蓼喰ふ虫」「乱菊物語」「吉野葛」「盲目物語」「武州公秘話」「蘆刈」「春琴 抄」から「猫と庄造と二人のをんな」のまで全部を同時に読んでいるくらいに面白い。
* しばらく少し気楽にさせて貰えたが、もう明日からはそうは行かぬ。仕事の大波が次々に寄せてくる。むろん搦め手の雑用があるが、雑用こそが促進剤であり意外に大事でぜったいに省けないのだ。
2017 2/14 183
☆ いわふね せなみ
大化の頃、越國に置かれたとある【磐舟柵】は、『紀記』『続日本記』にみえるそうですが… 白鳳には、もうみえなくなるとか。
【磐舟柵】は、新潟県村上市北西の港町岩船にある『石船神社』境内に在ったともされて、石碑が立っていました。並んで『奥の細道』の句碑もあったような気がするのですが… うろ憶えです。
物部と罔象、能の檜垣もからんで、此の世と此の世ならぬところが交錯する感じがして、その場に長く居ることも、もう一度訪ねることもできない場所でした。
先生、メール頂戴しました。ありがとうございます。
先生の文章を拝読すると、様々なモノ・コトが枝葉のように広がって行きます。もう四十五年近くも前のことを、たった今、其処に居るように感じて、様々に蘇るものがありました。
高校に入学してすぐの頃、下宿から車で十五分ほど離れた『石船神社』に連れて行ってもらいました。
誰が【磐舟】に乗ってやって来たのか? もしくは【磐舟】に乗せて逝かせたのか? それとも又、それらは思いや願いに過ぎないのか?
あまりにも多くの、渦巻くモノやコトが見えるような、聞こえるような気がして… その場に長く居られず… 連れて帰ってもらいました。
村上高校に通った三年間、すぐ近くに暮らしながら、もう一度行ってみたいと思いながら、【磐舟】を再度訪ねることは出来ませんでした。
下宿先は羽黒山の麓で、御神体の山の中腹には【西奈彌羽黒神社】の社殿がありました。毎日ではありませんでしたが、社殿に続く参道の階段を数え切れないほど上り下りしたので、その時吸ったり吐いたりした空気の喉を通る記臆は消えません。
創建は、持統元年。現在「臥牛山」とも「お城山」とも呼ばれる山中に元あったものを、寛永に遷座させたものと聞きました。緑深く連なる隣の峯への遷宮は、社殿を見下ろすのが畏れ多いとの理由からと聞きましたが… 神籬の、美しい山の頂を傷つけて、城という人の棲家を建てておきながら、合わない理屈と、子供ながらに思いました。でも黙っていました。
その遷座を祝って、寛永に始められたのが村上大祭と聞いております。
初めて祭を見た時、笛も鉦も鼓の音も、歌う声も何もかも、海の人の祀りだと感じたのを覚えています。
京都の祇園囃子は、神幸祭と還幸祭で調子が違っていますが… 村上の海人の祭は、それとは違う「なにか」があるように感じます。
それは、今はまだ、私には解りません。解らないから京都に居るのかもしれません。
昨夏、『伯牙山』の町内で聞こえて来た声が耳から離れずにいます。
「悪さしたりするモンや、困ったりする基(もと)んところを、どっか余所へ行ってもらうんやのうて、キツうに追い出すっていうんやのうて、なんていうんかな、おさまる所へおさまってもろうて、なんとかあんじょうにやってこ、な。そんなんが鎮めること違う?」
「鎮める」を探して「鎮め方」をまだ見つけられなくて、京都に居るのかもしれません。
長々と失礼いたしました。
思いつくままに、書き散らしてしまいました。
今回添えた写真は、凍てつく雪の朝も、裸足に草鞋履きで托鉢に出かける『大徳寺僧堂』の雲水の姿です。
冷え込む日が、まだ続いてゆくそうです。
どうぞ、お大切になさって下さいませ。 京・鷹峯 百
* これは思惟の輪を重ねたかのように、わたしの越後へ寄せてきた関心に響き合う。わたしの書きたいな書けるのではと願っていたのは、「百」さんの体験し た世界とはなはだ似通いつつ、時代は降っている。が、つよい刺激を受けた。そしてわたしはわたしの「鎮め方」を凝視しなくてはならない。感謝します。
2017 2/14 183
☆ お元気ですか。
あっという間にお正月が過ぎ、1月のスケジュールを終えて、ほっとしたとたんに寒くなって風邪を引いてしまいました。まだすっきりしませんが、今日は街なかへ行き、用件を終え、お菓子を色々と送りました、楽しんで下さい。
湖の本-なつかしく楽しんで居ります。
今日は先日の雪の写真を送ります、わが家の近くでは小鳥が元気に歌って居ります、早く温かくなってほしいな!と思いつつ、無理をせずにお元気でと。 京・北日吉 華
* 感謝。
写真は、渋谷通り坂の途中、小松谷正林寺總門を見入れての雪景と想われる。懐かしい。お寺というと、不思議に「門」に惹かれる。漱石に『門』という秀作がある。禅の『無門關』も在る。
この辺、小松谷というように小松の大臣、平重盛の邸宅があったところで、墓もこの正林寺に在ると思う。いわゆる六波羅の東南極を固めていた。渋谷坂を越 えればそのまま山科へ、近江へ抜けて出られる。つまり都へ入っても来れる。『冬祭り』終焉の場の歌の中山清閑寺は京と山科の境に位置している。
わたしが京都幼稚園へ園のバスで通っていた頃、(真珠湾奇襲・開戦の年だ、)昼御飯をみなでこの正林寺門内で食べたある日、給食に煮た茄子が入ってい て、どうしても「イヤ」、どうしても「食べなさい」で、先生付きで独り境内に残され、大泣きしながら、ぐちゃぐちゃのを嚥み込んだ思い出がある。あれ以来 今日まで煮た茄子をゼッタイに食わなかったが、やはり家では母に口へ押し込まれ嚥み込まされた思い出がある。
さようにもわたしは茄子の煮たのが大っ嫌い。しかし茄子の生っているあの姿形も紫紺の美しさもまた花の優しさも大好きなのであります。茄子は天麩羅でもダメ、漬け物は食べます。
ついでながら、南瓜を煮たのも大嫌いだった。戦時中の代用食で飯にも混ぜて炊かれたが、茄子ほどでなくても辟易した。空腹でも食い気が湧かなかった。そ れが、この二十年ぐらいは薄く切って天麩羅になって出ると甘みを味わえるようになった。青唐辛子も牛蒡もかろうじて噛めるようになった。人参にはいまも手 が出ない。「ずいき」という、なにものだか分からない奇妙な食い物にも辟易した。
ちなみに、茄子喰い大泣きのあの日、同じ幼稚園児で同じその場にいた我が家の真向かいの女の子に「アホや」と嗤われた、嫌いなものが出たら(何と謂うたか)「エプロン」だかのポケットに突っ込んで帰ったら「ええのや」と。そういう知恵も勇気も持ち合わさなかった。
も一つちなみに、この正林寺の界隈、いま書いている小説で使っていて、見確かめにゆきたいのだが、情けない。
* 美学の後輩で京都暮らしの人が、上品な京の干菓子やお香や、わたしにはまさしく故郷・地元「祇園界隈」のいろんな情報を送ってきてくれた。ありがとう。
* 京都へ行かずとも、ただ思い出しながらあれこれ書いていったら、上のような思い出や関連の感想で、すぐに本の何冊も書けてしまいそう。「人」も交ぜて書いていったら、おのづから小説に成って行くだろう、だがもうそんな暢気な残年は恵まれまい。
* さ、明日には幾らか送り出せるだろうか。
2017 2/15 183
* 歌集『亂聲(らんじゃう)』をほぼ編み終えている。
2017 2/16 183
☆ いつも
お心づかいをいただき恐縮し感謝いたしております。
小説(=仮題「清水坂」)が進んでいますこと、期待と喜びでいっぱいです。「先生が大変な状態で執筆されている」と感じつつ、早く完成された作品を読みたいと願っている自分です。すみません。
ご健康 心よりお祈り致します。 今治市 元図書館長 木村年孝
* この木村さんのお住まいがある四国へ実地に渡ってこないと、十分でないと分かっているので、とても苦しい思いを抱いたままジリジリと物語を組み立てている。
2017 2/24 183
* 「湖の本135」にすぐにも持ち出せる用意を終えた。書き下ろしの短編小説二篇(仕掛かって煮つめている長編ではない。)と、エッセイとで。「134」の出来を確かめながら、「135」も起動に載せたい。
「選集題十九巻」はすでに責了していて、おそらくいつでももう製本可能にまで用意されていると思う。そのあとの「第二十・二十一巻」は二巻相伴っていて、校正には当分かかる。仕上がるモノは躊躇わず仕上げておき、次との間は空いても、着々と「選集」は仕上げていきたい。
あと十五巻を予定していて、所収内容は溢れるほど確保しており、さらに新作も仕上がって行くだろうが、流石に資金的にはもう十五巻分にキリキリ一杯届くか、一、二巻分は不足してくるかと。
ま、そんなことは気にしない。成るようになる。ただ内容本位に、シッカリ充実した「秦 恒平選集」にしたい。健康でさえあれば、確実に出来る。要は、「質実」相伴って小説もエッセイ・評論も優れて「文学」たり得るかどうかだけ、他にものさしは無い。
2017 2/25 183
* 「序論・演戯としての茶の湯点前の成立 美学的課題の発掘のために」という怖ろしいような題目の卒論の副論文100枚が、一学年下にいた妻に清書しても らったまま、ひょっこりとものの下から現れた。主論文は「美的事態の認識機制」と題していたはず。びっくりボン。書庫へはいると何がかくれているやら知れ ない。
2017 2/25 183
* 「水甕」という大きな短歌結社が臨時増刊で「五十年史」を出したのは、昭和三十八年(一九六三)五月だった。わたしはもう東京で、勤めながら独りで小説を書き始めていた。
その四百数十頁もの分厚い雑誌に、386人の「水甕人自選歌」も掲載されていて、作者五十音順と思われる一等最初に、「給田みどり」の名のあるのには、 これまでも何度も目をとめてきた。五十音のトップであるからは、「きゅうた・みどり」ではない、姓は「あいた」と読まれているのだ。
わたしの中学時代の、また、亡くなられるまでもわたしの懐かしい恩師であった「きゅうた・みどり」先生は、たしかに歌を詠まれ、当然にもわたしの短歌に つよい後押しをして下さった。尾上柴舟門の「水甕」に加わっておられたかは知らないのだ、が、いかにもという印象はある。
で、今回は掲載十首を丁寧に読み返し、まちがいないあの「きゅうた」先生だと確信した。
もともと「あいた」と苗字を読むのが本来で、しかし戦後の新制の栄中学では、だれにも分かりよく「きゅうた・みどり」先生で通されていたのだろう、他の先生方も例外なく「きゅうた先生」と呼んでおられた。生徒にも慕われて、ほんとうに優しいいい先生だった。
* ここまで書いて急に先を書くのが惜しくなった。べつに、新ためてていねいに一編の私小説なりエッセイなりに仕立てられる、そう催すちからが湧いてきた。
この「私語」は、文藝連鎖にもと心がけてきたので、ここから出発して別作として書き進めたらと感じたり思ったりした例・箇所は沢山ある。その可能性を実 感していながら、つい、そのまま通過していた。それでいいとも思っていた。わたしのこれらの「私語」を或る程度の分類に応じて、只、並べただけの例えば 「京の散策」や「詩歌断想」や「文学を読む」や「ペンと政治」などがそれなりに読者の皆さんに許容されてきたのも、断片の発語なりに文藝という意思や意欲 を持ち続けてきたからだろうと、ま、思っている。
わたしの「内」に、書かれて膨れようとしている酵母のような種がまだ無数に生きていて、出番を待ってくれているという実感がある。なかなか、ボヤッと遊んでいられない。
* 昨日妻に確かめた、三十三巻と目指している「選集」を、急がずにゆっくりと出していくか、急ぐというでなくても出来ればサッサと出し続けたがいいか、 どう思うかと。妻は、言下に、後者を採った。わたしも同じ思いでいる。残年・余命にもう限りが見えている、夫婦ふたりともに。心ゆくまでの仕事をつづけな がら「選集」を願ったままに完成させて、なおその後が可能な限り「湖の本」で文学を実践すればよい、命の限りと。
こういう気持ちでいる。心ゆく最晩年をわたしは「仕事する」という「無心の禅」境にと願っている。妻も同じとわかり安心した。
2017 2/26 183
* 森銑三先生の著作集の各月報記事がとてもオモシロイ。誰もがその研究業績の徹底した成果と多彩を讃歎されている森先生の、ことに独自の論及と達成は、 西鶴の真作は「好色一代男」一作のみという驚愕の論旨にあらわれている。学会は容易に認めない乍らに、じりじりと先生の論壇の精確さが証明されつつあるの が今日の成り行き、まことに「好色一代男」は信に名作の名に背かないのをわたしは読んで知っている。もう一度作も森先生の論攷も読み返したく、ウズウズし てきた。
このような森先生からのお手紙にはげまされてわたしは『最上徳内』を書いたのである。書庫へはいると先生に戴いた本が何冊もある。嬉しくなる。
2017 2/26 183
* 「同じ釜の飯を食った仲」と、むかしは耳にもした。今でも云う人はあろう。たいていはそれを「同士」と謂った語感で諒承しているが、実は底の深い意思表明でもあった、とわたしは思っている。
同火の食を分かちあう仲という同士たちは、別火の食を同士・同類外に強いることがあった。差別である。「別火」の根底は神・霊へのささげものを人とは別 の火で調理して供した、敬神敬佛の振る舞いに端を発していたに違いない。修二会の「別火の勤め」も聖なるものとの深い接触にさいして厳重になされた次元の 高い差別の認識行為であろう。俗の火ではない火で、会式が成し遂げられる。そういう意味でこの「別火」俗界より尊い「お別火」として堅く守られる。
これが世間化してくると「同じ火で炊いた釜の飯を食う」のという同士感へ転じて行ったのだと思う。「おべっか」は「お別火」であり、「お別火をつかう」 とは、だれとなく煙たい他者を他へ逸らして尻を背を向ける一種へつらい気味の差別行為になる。上司を外しておいて部下だけで呑みに行くようなものである。 もっと深刻な差別もあったに違いなく、いまでもあるであろうと想われる。
これが、わたしの「別火」観であります。そのように書いたことも有る。
2017 2/28 183
* これが書きたさに先ず作家の名を望んだという、最初の「谷崎潤一郎論」を読み返し始めた。三十四歳頃か、とにかく「谷崎論」の次元を置き換えたほどの仕事 として、以降「谷崎論者」としての強い発言権を文壇で確保した仕事だった。谷崎伝記の著者として知られていた野村尚吾氏がいちはやく、かつて無かった谷崎 論の画期的に大きな新生面と受けとめて、盛んに紹介してくださった。『神と玩具との間』を貴重な資料を大量に遺託し書かせて下さったのも野村氏だった。論 の中でむしろ異を唱えて批判した中村光夫先生や篠田一士さんも力強く称讃して下さった。おかげで、わたしは小説の創作と評論、エッセイとの両翼を最初から 拡げて大量の原稿を書かせてもらえたし、ほぼ十年で六十冊を越す著書も持てた。
そして、半世紀近く、今なおわたしは書いているし、読んでいるし、思惟思索を重ね続けている。
2017 3/1 184
* 高橋事務局長から送ってもらった「会員通信」の同じ頁の末で、文末は次頁へ消えているが、興味をひかれる一(半)文を読んだ。筆者は谷真介さんとあり、存じあげないが「ある出版」と題してある。
☆ ある出版 谷 真介
安部公房氏の文学語彙に関心を持ったのは、もう二十年も前のことであった。新作が発表されるたびにそのフレーズをチェックしているうちに、その数も四百 種六百項目以上にもなったので、このあいだそれを『安部公房文学語彙辞典』として友人と費用半分持ちで自費出版をした。刷り部数は一〇〇〇部、定価一五〇 〇円でともかく一冊の本を造ったが、個人で書物を刊行するということは大へんなことであることを改めて知らされた。
まづ印刷所へ支払った一冊当りの製作費は、B6二一○頁の本で六八七円だった。造った本を書店に出してもらうには取つぎ店、書店に手数料を払わなければ ならない。それが約三割の四五〇円。つまり定価から一一三七円が差引かれることになるから、直接的には一冊当り約三六〇円が手元に入ることにな (次頁 へ消えている。手元に次頁無い。)
* 昭和五十一年八月という四十余年も以前の事例ではあるが、またそれたけにこれは貴重な証言で、此の成り行きを失礼ながら推測すれば、一○○○部製本の殆 どとは謂うまいが大方は手元に山積みになったろう。購読者を持たないまま千冊も本を造ればまさに「積んでおく」だけになる。どうかして読んで欲しい本な ら、本は心籠めた手作りで街の印刷屋で作り、読んでくれるかも知れぬひと、どうか読んで欲しい人へ「寄贈」するしかなく、手元へはいる金額を勘定しても文 字どおりの皮算用に終わる。
* わたしの初期(昭和三十七、八、九年頃)の私家版四冊は、平均しても各册二百部未満を形にし、当時、たった一人だけが三冊目のために「五百円」下さっ た。大方は、知友と著名文人へ、やみくもに、しかし敬意をこめて贈った。それが大成功した。「太宰治賞」がまさしく天から舞い込んできた『清経入水』は私 家版四冊目に、受賞第一作になった『蝶の皿』は三冊目に、『畜生塚』歌集『少年』は二冊目に、『慈子=斎王譜』は三冊目に、『或る雲隠れ考』は四冊目に、 『シナリオ・懸想猿』は第一册に、みな、作品としてもう仕上がっていた。作家生活に入ってからとんとこと、みな新たに出版され単行本に成って行った。
私家版を千部もつくって売ろうというのは、特異例はあるにせよ至難というより無謀と謂うにちかい。昨今、本は、ますます売れなくなっているとか。本よりも、小説にせよエッセイ・批評にせよ、むしろ「原稿」で雑誌・新聞等に売れるようにと勉励した方が確かな道だろう、か。
2017 3/2 184
* 選集⑳ の初校を終えて全体を修訂中。すこしでも頁を減らしたく。
2017 3/3 184
* キムタクと「清盛」君らのドラマ、しっかり盛り上げてきて、大門未知子ドラマとは味わい異なった一労作に盛り上げてきたと思う。
* わたしはテレビを、コマーシャルも含めて、出演者の「魅力」をさまざまに検討評価して愉しんでいる。人物の「魅力」とは何であるか、ほたしがまだ六十 代なら「書き下ろし」て論じたかも知れない。人の「魅力とは」何か。しっかり書かれればベカトセナーになるかも知れないな。
2017 3/5 184
* ともあれ目の前で大きく固まっていた仕事の山の大半を、慎重に片づけた。明日からは、吹っ切った気持ちで「創作」や、「選集」21巻の初校や、「湖の本135の編輯、「選集」22巻の編輯に取り組んで行く。春が来る。
今日「湖の本134のために書いた「私語の刻・跋文」は、老境の心事を画する一文になったと思う、そういう覚悟で書いた。吹っ切ったということだ。
2017 3/8 184
☆ みづうみ、お元気ですか。
今日は陽ざしが明るくて春の気配を感じます。どうぞお元気に、昨日のようにお疲れにならないで、お大切にお過ごしください。
雨 いつ濡れし松の根方ぞ春しぐれ 万太郎
* 藝術を無心に語ってたいそう面白い長いメールだった。私自身の仕事のためにも、いつか役だってくれそうと欲が出て、私蔵し、ここへは引かないことにした。感謝。
2017 3/8 184
* 浄瑠璃寺へも父方当尾の家へも、もう訪れる機会はないだろう。父の敗戦もしっかり書いておきたいのだが。島尾伸三さんの撮ってくれた浄瑠璃寺三重塔を 振り向いて観た写真を選集十八巻の口絵に入れることが出来たのを、なにともなく実父への挨拶のようにも感じている。高木さんの繪が有り難かった。
2017 3/8 184
* 書いてきた「或る寓話 ないしユニオ・ミスティカ」から、どうにか手が離せそうになってきた。
三部に分かれていて、第二部が、一と三とを狂瀾怒涛の気味に、そう長くはなく繋いでいる。そこを乗り切れるかビビッていたが、いいんじゃあるまいかと、 腹がくくれてきた。第三部は、べらぼうに長い。いくらでも削れるけれど削れば削るほど高い砂山は崩れ落ちて行くかも。ま、も一度、きっちり読んでみようと 読みはじめている。
* さ、もう目が見えない。機械から離れる。機械の画面や文字が堪らなく眼に堪えるが、機械からは解放はされない。
2017 3/9 184
* 書き継いでいるし小説をじっくり推敲していた。もう機械から離れる。
2017 3/10 184
* 四人の誰か知り合いを四人の旧知の医師を紹介していたが、その四人のドクターから次々に電話が来て、懐かしく久闊を叙している夢を見た。なんらの事実もないただの夢だが、ヤにリアルであった。最近に類似の実例があったか。まったく無い。
これなど尋常に類したもので、奇妙奇天烈な夢を毎晩のように見る、さもなければ夢の中で仕事をしている。
とにかく、夢は大嫌い。やたら「夢」を美化したり目標視したりの言動を見聞きすると顔をしかめてしまう。生きていると思っていること自体が夢で、この夢から覚めたとき、決定的に変わらずに変わる。正覚がある、と、古人の願にちかくわたしも願っている。「夢」は好かない。
* 昏睡というにちかく睡くなる。全身が違和の渦を巻いてくる。寝入るか、仕事に耽るか、どっちかでしか身が保たない。いまは、今も書き進んでいる小説の 推敲に心身を預けている。散髪したいのに、そのために着替えるのが面倒で躯も気持ちも動かない。とても健康とは言えなく情けない。
2017 3/11 184
* 高知から少年をつれて転勤上京した読者が、この三月末で定年退職と。美味しい大きい土佐文旦を故郷からたくさん送って下さった。息子さんももう立派な 社会人のはず。ああ人生、と思う。その人生に伴走して「湖の本」はまだ走り続けている。三十の人が三十年読んで下さっても六十余歳。まして創刊の頃もう四 十、五十、六十台であった読者は…と思うとうたた感慨なきを得ない。十人に八人九人は過ぎ去ってゆかれた。多年のご愛読感謝に堪えず、また、そのおかげで 今や収支の均衡は大きく負に傾いていても、気持ち悠々と刊行を続けられるのである。ありがたい晩年をわたしたちに下さったのは、間違いなく読者の皆さんで ある。
* いま、永く書き続けている小説のほかに、「黒谷」「女坂」と題した新作二つがほぼ出来上がっていて、次の次の「湖の本」へ送り込める。出来ればもう一 作短編を加えて三作一巻にしたくはあるのだが。これと同じ頃には、新しい長編(ほぼ選集一巻分に相当)「或る寓話(仮題)」も送り出せそう、だが「湖の 本」では三巻分にもなろう、これを二巻分に強硬に縮めるべきか思案している。
もう一つの「清水坂(仮題)」は、気は乗っているのだが題材からも何とかして瀬戸内海を見に行きたい、しまなみの大橋が渡りたいと苦慮している。車が使 えればと願うが、タクシーでは気儘が利くまいし。むかし丹波篠山へやきものの取材に行き、「冬祭り」にも活かすことのできた丹波や室津探訪は、姫路の陶芸 家が自身で親切に案内してくれた。あの時に篠山で買ってきた丹波の重い重い大壺、いまも玄関外を護ってくれている。
ま、慌てずに機を待ちたい、健康を気づかいたい。
* 「女坂」を仕上げた。
* べつのもう一つの小説を着想した。あすからもう書き出し始められるか、想を胸にし発行の期間をみるか。これは作柄による、間違えると元も子もなくなる。さ、キムタクの「A Life」録画分を観に降りる。
2017 3/12 184
* 『枕草子』の抄読・抄訳を始めた。予期を超えた大冊ではあり、根気仕事であるが、内懐へとび入ってスッキリした現代語訳を遂げたい。
2017 3/19 184
* 清くて旨い水を呑んでいるように『枕草子』がおもしろい。
2017 3/21 184
* 興味深く「枕草子」を読み進んでいる。女文化の精粋という認識にあやまりを覚えない。女たちの肉声が聞こえてくる。
2017 3/22 184
* 選集第十九巻が刷り上がってきた。二十九日には「本」になって我が家へ届く。
第二十巻、ドッカーンと「再校ゲラ」出そ ろった。この大冊を丁寧に校了にするのは、かなりシンドい。第二十一巻の初校了を先行させたい。
「湖の本134 亂聲・詩歌断想(二)」の三校出を頼んである。「湖の本135」新作中編二作等がすでに入稿してある。いずれも作者のわたしが、さあドン ナかと、ワクワクしている。次第によって、量的にも湖の本で三巻の大作となりそうな『或る寓話(仮題)』を一気に刊行するか、と、息を呑んでいる。
2017 3/23 184
* 枕草子の読みが、清涼剤の役をしてくれる。賢しい女房達の肉声が聞こえてくる。笑ってしまうこともある。
鳥は、(と、仰せに。)
異国のものだけれど、鸚鵡に心惹かれる。人の言葉をそのまま真似るというではないか。
郭公
水鶏。
鴫。
都鳥。
鶸。
ひたき。
山鳥。友を恋しがり、鏡を見せるとよろこぶそうだが、いじらしくて、とても心惹かれる。雌雄が、夜は谷を隔てて寝るという話もかわいそうだ。
鶴は、えらく仰々しい恰好だが、鳴く声が天にとどくとは、すばらしい。
頭の赤い雀。
斑鳩の雄鳥。
巧婦鳥。
鷺は、見た目がわるい。目つきなど、ともかく親しみにくいが、「ゆるぎの森に独りでは寝ない、と妻を争う」というのが、おもしろい。
水鳥では、鴛鴦に心惹かれる。寒夜、夫婦して場所をかわり合っては、「羽の上の霜を払う」というのなど、とても佳い。
千鳥も風情がいい。
鶯は、詩にもすばらしい鳥と書かれ、声をはじめ姿かたちもあれほど上品でかわいいというのに、宮中に来て鳴かぬ、とは感心できない。誰かが、「宮中では 鳴かないのよ」と言ったのを、まさかとは思ったが、十年もお仕えして気をつけていたけれど本当に、一度として声を聞かなかった。嘘でない。呉竹に近く紅梅 の木もあって、鴬が来て鳴くにはじつにうってつけの場所と思うのに。宮中から退って聞いていると、みすぼらしい民家の、貧相な梅の木などではうるさいくら い鳴いている。
鶯はまた夜鳴かないのも寝坊の感じでいやだけれど、今さら、どうしようもない。
夏すぎて、秋の終り頃まで年寄りくさい声で鳴いていて、そんな時季には「虫喰い」と下々の者が名をつけ替えて呼んでいるのが鶯のために残念だと、奇異な気がする。
それも、雀みたいにいつも居る鳥ならそう気にしまい。春に鳴けばこそ「あらたまの年立ちかえる」元旦からもう待たれるのは鶯の声だと、歌にも詩にも作ら れるのだろうに、やはり春のあいただけ鳴く鳥であったらどんなによかったろう。人のことにしても落ちぶれて、世間の評判もわるくなりかけたような人を、わ ざわざ非難はしない。鳶や烏といった手合いにそう目をつけ耳を立てる者も居はしない。
だから言うのだ、鶯は「すばらしかるべきもの」と思うにつけて老い声を嗤われたりするのが、納得できない、と。
それでも賀茂祭の帰りを見ようと雲林院や知足院の前に牛車をとめて行列を待っていると、郭公ももう待ちきれないでか鳴き出す、と、鶯がとても上手に真似て木高い茂みから声をそろえて鳴き立てるのには、さすがに聞き耳を立ててしまう。
郭公については、今さら言うこともない。いつしか鳴き声も得意げに、卯の花や花橘にいつも来てとまっては見え隠れしているのがじつに心にくいまでの、風情の佳訃さ。
五月雨の短夜に目ざめして、どうかして人の先に初音を聞こうと心待ちのあげく、夜の闇のかなたで鳴吝はしめた声のなんとも巧者に、魅力あふれた佳さというものは、まあ、心も空の思いでどうにもならない。
それが六月になるとけはいさえなくなってしまう、もう、何から何まで、言うもおろかというもの。
夜鳴くものは、郭公にかぎらない、みなすばらしい。
もっとも赤ん坊だけが、そうは言えない。 (第三八段)
虫は、(と仰せに。)
鈴虫がすてき。
茅蜩。
蝶。
松虫。
蟋蟀。
促織。
われから。
蜏。
螢もいい。
蓑虫はことにあわれを誘う。鬼が産んだというから親に似て恐ろしい心があろうと当の親が粗末なものを引き着せて、「もうすぐ秋風の吹く時分にはね、迎え に来るから。待っておいで」と言い含めて逃げてしまったとも知らず、風の音を聞き知っては、八月、秋半ばともなれば「ちちよ、ちちよ」と、心細げに鳴くの が、あんまりかわいそう。
額ずき虫。これがまた殊勝な虫で。そんなちいさな虫は虫なりに、道心を発してあちこちと拝んで歩きまわるとは。思いがけぬ暗い所などをほとほと音を立てて歩いているのがおもしろい。
蝿ときいては「憎いもの」に数え入れたいくらい、これほどかわいげのないものはない。人並みに目の仇にするほどの大きさではないけれど、秋になってもむやみに何にでもとまり、人の顔に湿れたような足でとまるなど、もう……。
人の名前に蝿の字がついたのも、ほんとに気味がわるい。
夏虫はちょっと愛嬌もあってかわいい。燈火を近づけて物語など読んでいると、本の上を飛びまわるのが、おもしろい。
蟻は、いやらしいと思うけれど、身軽いことはなかなかで、水の上などをどんどん歩きまわるのがおもしろい。 (第四〇段)
* 憂き世ばなれがする。
2017 3/24 184
* テレビも鬱陶しく、すこし部屋は冷えていたが暖房もせず「枕草子」を読み進んでいた。枕草子は本来、清少納言単独の著作などではなく、定子皇后のサロ ンを構成していた才長けた女房達が、后の宮のいわば主宰のもと、各種の話題に花を咲かせたのを書記役の清少納言が簡潔にとりまとめつつ、ごく自然に彼女の 類想、感想、回想ないし創作に近い話題にまで筆をのばしていったもの、というのが私の根底の理解なのである。その理解に沿って読んでいると、いましも、そ のそこに女たちの声・言葉が花咲くように交錯している息づかいまでが感じ取れる。じつに雅やかに面白く、しかも「女じゃなあ」と笑えてしまうほど露骨な本 音も平気で飛び出してくる。こういう面白さは源氏物語ほどであっても、物語からはナマには聞こえてこない。枕草子のきわだった効果である。
ここ数日来、快い薬効のように楽しんでいる。が、冷えてきたので、機械の前を退散する。
2017 3/24 184
* 終日「枕草子」に向きあっていた。こまかな作業で、目もからだも疲れた。
2017 3/25 184
* やがて櫻が競い咲くだろう。花に浮かれることも無い、風に誘われもすまい。
来週、出来てくる選集は、『花と風・日本の永遠について 手の思索・手さぐり日本 日本を読む・一文字心象日本史』 わが前半生に培ったわたしの「心根」である。
2017 3/25 184
* 長谷川泉先生のお声がかりで、橋本芳一郎さんと鼎談した「谷崎論」でのわたしの発言は、読み返してみて重要なポイントにつぎつぎにほぼ適切に触れ得て いたと分かり、昔懐かしかった。長谷川さんはわたしの勤務先の編集長であり、他方では森鴎外研究などに大きな業績を遺されたこの世界で泰斗といえるお一人 だった。この忙しい編集長にしてあのような研究・業績が積まれるのなら、わたしも懸命に勉強や創作に努めようと思った。B5版の、雑誌のような私家版を初 めてつくったとき「畜生塚・此の世」をみてもらった。次の機会には四六版にし頒価も入れなさいと言われた。
太宰賞を金原社長ともどもとても喜んで頂いた。長谷川さんには「花と風」も賞めて頂き、なかの「生け花と永生」を国語の教科書にとって下さった。「手さ ぐり日本 手の思索」からも「じょうず・へた」の箇所を国語教科書にとって下さった。初の井上靖論を書いたのも長谷川さんの編輯本だったし、幸いそれが井 上先生との御縁をもたらしてくれた。長谷川さんと一緒に井上家へ招待されたり、のちには訪中国作家代表団にも入れて下さった。
先達・大先輩とのご縁というものは、顧みれば、じつに無数に生じていろんな方々へ結ばれて行ったが、その前提には、懸命の勉強や仕事の実績が必要にな る。わたしはエライ人たちににじり寄ってなど行かなかった、そういう方々からいつも声を掛けて下さった。わたしに心嬉しい誇りがあるといえば、なによりも それだ。
熱い志をもって自身の仕事を大切にしている若い人たちに助言出来るただ一つは、黙々といい仕事を積み上げよということ。浮かれていてはいけない。
2017 3/26 184
* 昨日の大阪場所千秋楽、大怪我らしい新横綱と角番ながら横綱に一勝先んじている大関との相撲、百人が百人横綱に分がないと予想しているようだったが、 わたしは本割りの取り組み前から、これは横綱が勝つと予告し、事実勝ち、決勝戦もまちがいなく横綱が勝つと予告して、その通りだった。わたしは此の横綱贔 屓ではないので、気持ちでは大関に本割りで勝って優勝して欲しかったのだが、二人を見ていて、とても大関に勝ち味が見えないと確信した。まったくその通り だった。
むかし、娘の朝日子がなにかのおりにわたしが口を利きかけるのをほとんどヒステリックに「言わないで! パパがそう言うとそうなってしまうんだから」叫 んだのを思い出した。何のちからもちでも無いけれど、まま、そういうことはあったので、むしろ自分で自分に用心もしている。
二〇一一年一〇月二三日にわたしは前歌集「光塵」を締めくくる歌を詠み、ほぼ一月後に本になっている。その歌は、こうであった。
この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ
年明ける前にわたしは自発的に人間ドックを予約し、年明け早々の正月五日には、動かし難い胃癌二期を見つけられた。
死んで行く「いま・ここ」の我れが生きて行く 老いも病ひも華やいであれ
と、その日に述懐している。
二〇一二年二月十五日、八時間の胃全摘手術を受けた。術後の一部に、癌転移を残していたという。
あれから、五年過ぎた。この五年、老いの華やぎは我ながらめざましかった。
「湖の本」は一三四巻に達し、『秦 恒平選集』は、明後日、なんと第十九巻が、早や出来てくる。小説の新しい未発表作もいくつも送り出して行く。不安が、無いではない、が、ただただ一日一日を生きて行くだけ。誰にも真似をさせない。
2017 3/27 184
* 「枕草子」は定子皇后の光るような知性感性を光源とみて読みすすんでいる。その背後に、摂政兼家の三子、道隆・道兼・道長らの権力交替のすさまじい歴史変 動がある。たいへんな女文化期の動乱に根生えて「枕草子」も「源氏物語」も「後拾遺和歌集」も大輪の花に咲いた。
2017 3/28 184
* 「枕草子」を読んでいると、清少納言にであるよりはるかに率直な憧れ心をもって皇后「定子」に魅了される。わずか二十五歳ほどて亡くなったと憶えてい るが、女性として、いやその上を行く人柄の完成されたほどの気稟の清質もっとも尚むべきを覚える。白い紙を拝領したり上出来の畳を頂いたりして少納言が嬉 しがる気持ち、よく分かる。
清少納言の筆には「思わせぶり」がときに臭みになるが、皇后定子のことばや振る舞いにはそれがない。
2017 3/29 184
* 喜多能楽堂へは、四十八年昔に馬場あき子さんに誘われたのが初めてで、太宰賞をもらったばかりのわたしの「清経入水」は新鮮な話題にされた。次の機会 には桶谷秀昭や村上一郎を紹介された。おいおいに喜多節世や後藤得三、喜多実、新しい喜多六平太らとも懇意を得ていった。見所では数十年のうちにそれは大 勢の知己を得てつき合いを深めたが、だんだんに亡くなられて、今では、意の一番の馬場あき子としか出会えない。実に寂しい。むろん今日も言葉を交わしてき たのは馬場さんだけ。実に寂しい。
* しかしながら夢うつつに舞台を遠望しながら、もやもやとした煙が渦巻くようになにかしら新しい私の物語へ柔らかく結晶して行く予感にもわたしは恵まれ てきた。うまくすると、むかしむかし「畜生塚」や「慈子」を書いたように能の小説が倦まれてくるかも知れない。そのためには、わたしは、一日も長く生き続 ける覚悟をしなければ。
2017 4/1 185
* 三田文学 早大図書館 山梨県立文学館から選集第十九巻受領の挨拶が届いていた。第一巻いらい「小説・戯曲・シナリオ」を揃えてきた(まだ二、三巻は 小説・詩歌で編めると思っている。)が、概ね「エッセイ・論攷・随筆」へ推移してきたので、数少ない寄贈先を、学者・研究者・批評家、研究施設・大学・図 書館等へ移して行く気でいる。気鋭の研究者に出会えると幸せなのだが、だいたい教職という地位を願っている学級ほど、新鮮な研究対象へは臆病で、「お馴染 みの」似たり寄ったりの撫でさすったような「試論」「序説」ばっかり追いかけていると見えるのは、残念だ。
2017 4/1 185
* 「枕草子」を「雪山の賭け」「此の君」などまで読み通してきた。もう数編でおさめがつく。「雪山の賭け」は大事な一編。何度呼んでも胸がつまる。清少納言を女としてさして好きとは思わず久しく来たが、此度ばかりは、しみじみ身のそばの人のようにあわれに観じた。
紫式部はなかなか斯うは正体を見せてくれない。
* すこし眼をやすめたいと、まだ六時だが、もう、どうにもならない。
* 「ユニオ・ミスティカ」の仕上げへ一歩一歩にじり寄っている。
* 晩は、階下で「選集第二一巻の初校戻しのための大きな整頓にかかっていた。
十一時過ぎた。熟睡したい。昨夜は夜中に目が覚めてしまった。
2017 4/2 185
* 今回の「選集」では最初篇に「花と風」を、次篇に「手」を置いた。前者では「永遠」の文化を思い、後者では「現実」の「文明」を 考えた。手を持たずに人間は構造的な文明を創りも保ちも出来なかったろう。文字パレットで「手」ヘンの漢字をときどきズラーァっと眺めてみる。文明の根源 を眺める気がする。わたしは美や思想をばかり観ても思ってもいない。もう一方に手のちからを見ている。
2017 4/3 185
* 「枕草子」の仕事をし終えた。予期していたより遙かに楽しくも面白くもあり幾重にも感銘を得た。いい仕事が出来たと喜んでいる。
* 小説にと願う「想い」が雪の玉にうたれるように次々へ湧いて、思わずニゲだしたくなる。時間も体力も足りるだろうかと思案が先立つ。さっきも、すでに 一応書き上がってある(しかし、躊躇って放置した)小説、百七十枚も書けていて先の有る小説の原稿が二つ出て来た。作家に成ってからのと成る前の二つだっ た。実を言うと、高校から大学時代へかけてレポート用紙一冊分に小さな字で書いていた小説(らしき)長い原稿も見つかってある。とてもとてもそれらを電子 化している時間の余裕はもはや無い。時間は目の前の仕事に使い切らねばいけない。
しかし何をそんなに書いていたのだろう。大学にいたら、筆耕アルバイトしてくれる学生が居たかも知れないが、あの研究室で忙しい東工大では無理だった。
* 十時。階下にもしごとは幾つも待っている。もう機械は閉めよう。
* ポカンと遊びに出られるとなどと想うが、根からわたし遊びは苦手らしい。
* 瀬戸内海の海運にかかわる本があると、報せてもらった。詠めるなら読みたい。
さ、今日の機械仕事は終わり。
2017 4/3 185
* ときどき思う、もしも私の創作・著作の全解説をと頼まれて、だれが書けて書いてくれるか、結局は懇篤の「読者」にしか出来まいと思う。
2017 4/4 185
* 春風や闘志いだきて丘に立つ という虚子の句にひしと背を打たれる。
* 風雅とはおおきな言葉老の春 という同じ高濱虚子の句も胸に抱く。
* 遠山に日の当りたる枯野かな というやはり虚子の句を忘れたことがない。
* 虚子とは何の縁もない。子規の弟子で俳誌「ホトトギス」を興して近代俳句を領導した巨匠で漱石に名のない猫の物語を書かせたひとといった史的事実しか知らないが、その句の大きくも堅牢で風雅な味わいにいつも魅了される。
虚子の句を噛むほど読んで力とす
と、八年前の一月に述懐したのが『光塵』に容れてある。
* 昨日、しばらくぶりに建日子と食事して、一つ、珍しい、ま、「収穫」があった。何要が有ってのことか「源氏物語」を読んだ、いや、読みかけたがマッタク何が何やら、エロだかグロだか、とても読めなかったと。与謝野晶子の訳で読みかけたのだが、と。
建日子からもちだす話題に源氏物語とは豹変もいちじるしくて嬉しかったが、さて、彼も母も父のわたしもそのままに捨て置きたくはない。
わたしのように中学生だったら意訳と省略もある晶子訳からでもいいが、もう五十歳の作家には向かない。さりとて原文でなど逆立ちしても今は、ムリ。とに書くもなんとかしよう、しなくてはと、話は半分笑い話に終えてきたが、「湖の本」で何か読めないかと。
* 源氏物語に触れてわたしの理解を書いた文章は、エッセイ、小説ともに少なくないが、真っ先に書いたのは小説「或る雲隠れ考」で、質的にも主題的にも 「畜生塚」「慈子(斎王譜)」とで大きくわたしの処女作世界を成している、が、源氏物語に取材した自愛の小説ではあるが物語の絵解きでも解説でもない。小 説としては他に短編「加賀少納言」「夕顔」があるが、これは物語を手引きするものではない。
源氏物語に触れて論じた最も早いエッセイは、三十四歳、1970年に「ちくま」に書いた「桐壺の巻」で、これを読んだ京大卒の、後々も今も名だたる碩学 が「嫉妬した」と告白されたものだった。この一文を基盤に以後のわたしの源氏物語観は構築されていて、「源氏物語の本筋」「講演・桐壺と宇治中君 源氏物 語の美しい命脈」や「古典独歩」中の源氏物語諸エッセイ等にほぼ尽くされているが、今一つ興味深く接して貰えるのが「谷崎潤一郎の<源氏物語>体験 夢の 浮橋」という論攷がこの世界史的に稀有の名作物語の心の臓を強烈に腑分けし得ていると思う。「夢の浮橋」とは源氏物語五十四帖の最終巻の題である。
* これぐらいを前置きしておいて、関連の本を建日子へ送ってやろうと思う。所詮元文は読めないのだから、谷崎松子夫人から朝日子へ署名入りで贈られた見 るも美しい「潤一郎訳 源氏物語」新書版一箱を添えて送ってやろうと。荷造りが難しいので受け取りに来てくれると助かるが。
松子夫人に戴いた「谷崎源氏」を朝日子は、持って行かずに嫁いでいった。建日子にひとまず譲り伝え、大切に、機会があらば朝日子次女のみゆ希へ遣って欲しい。
* 目先の仕事へチョイと役立てたいだけの源氏物語への関心らしいが、それはそれ、源氏物語への継続した関心が興味となり大きな敬愛へ、そして息の大きな 糧とまでなりますようにと願う。源氏物語はそれほどの文学の至宝だとわたしは思っているし、そう思ってきた人が古来夥しいことに静かな敬意を深めて欲し い。それはこの語へのたいへんな財産になると思われる。わたしに源氏物語無しの人生は思い及べなかったほどだ。
2017 4/6 185
* 「選集 第二十二巻」の編成を決めた。
原稿の一部が機械の中で発見できず、延々と検索。発見できて好かった。入稿の用意にかかるのだが、慌てることはない。近いうち、四月二十八日に「湖の本 134」が出来てくるので、先に発送用意を早い中からゆっくり手がけたい。懶けていて間際に急かれると、わたしも妻も気づかれしてしまう。作業仕事にはむ しろ永い時間かけても、ゆっくり進めるようにしている。
☆ 術後五年 御快癒おめでとう御座います
京都はいよいよ桜開花 明日から観光地付近には近寄れません
先生の「中世と中世人」唐木先生の「千利休」を読ませて頂いております
能には親戚もおり何度も招待されるのですが 足が向きません 室町期の「能」はどうだったのか? と考え 専門故か 衣装もどうしても腑に落ちません そして明かりが駄目です そんな風に感じて観ていても本当につまらないのです
茶会も参加しません
呉服業界の付き合いも有りません
先生と唐木先生の御著書は本当に有り難いのです
のんびり御来洛の節は 是非 運転手させて下さい 食べ物の制限が有るかも知れませんが
案内させて下さい 御回復祈念致します 京・室町 源兵衛
* さもあらんと思います。懐かしい唐木先生の名前も出て来た。可愛がって頂いた。「いい文章でときどき怖い毛ずねを出すなあ、きみは」と笑われ たのを思 い出す。筑摩の全集では月報に一文も頂戴した。亡くなられてから先生の故郷の方々から呼ばれて話しにも行った。選者の臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中 村光夫の四先生にはことにいつも親しい励ましや評価のことばを頂けた。幸せ者であった。
2017 4/7 185
* 「選集22」の本文を読み直しはじめた。かなりの時間がかかるだろう。
2017 4/9 185
* 昨夜、『石清水物語』をまことに興深くおもしろく読み終えた。この一巻の中世物語の背景へひろがっている「実」話世界はまた確実にわたしの仕掛けの小 説世界へ繋がってきて呉れるかもと、希望ももてた。なかなかの、心にくい情緒と姿勢とで組み興された物語で、ただのツクリ話でない堅い手応えがある。出会 えてよかった。このような平安擬古の物語に「武士」が主役で登場するとは、その武士に実の源氏武士の影が見えているとは。 おもしろいし、少なくも当分は 座右から手放せない。
* 今一つ、多年の念願を心新たにまた呼び起こせた、仕様によってはこれまた花やいでしかも重たげな恐怖へも繋がって行く小説世界への意欲を、鬱蒼とした中世の風景から昨夜の或る読書で甦らせることが出来た。欲しいのは、時間、時間、時間。時間と健康。 2017 4/10 185
* 快晴。気持ちいい。
血の臭いのしている世界情勢など、耳にしたくない。
青葉の青、ちりしきる雪柳の白に心洗われる。
とても、あれにもこれにもとは心を分割できない。読み・書き・出版に思いをあつめながら、政道世道の非理はゆるすまいと願う。
* と、思っていたら、雨にもなった。
今日は終日も「選集」の第二十二巻の編成に取り組んでいて、大方、終えた。おかげで、目、ぼろぼろ。
2017 4/12 185
* 選集二十二巻を入稿。二十三巻の編成も出来ている。残す十巻に心残りのすくない編成をよくよく思案したい。
選集二十一巻の初校ゲラが明日届く。選集二十巻は、責了のための再校をつづけている。
湖の本134巻発送の用意を進める。
135 136巻は入稿してあり、初校出を待っている。
2017 4/13 185
☆ 拝啓
その後 如何おす過ごしでせうか 毎々「選集」御恵投にあずかり有難く存じます。
十九まきまで頂戴して その量と内容とに殆ど呆然としてをります。作家とはかくなるものとの感を一層深くしてゐる次第です。不備 前・文藝春秋専務 寺田英視
* 巻中の誤植をときおりご指摘いただく。多くは「は ば ぱ」等の濁点、半濁点で、実際虫眼鏡で確認しないとわたしの眼では見えない。半盲に近い視力 で、吾一人で校正しているので、魯魚の誤りもきっと免れ得ていないと残念だが、斟酌・忖度の可能なミスに止まっていて欲しいと願っています。部会が混乱す るような間違いはしたくない。
* もう、第二十巻が責了にまぢかい。二十巻で、いま目の上に作り付け書架の、まる一段を埋める。もう、十二巻 落ち着いて、いい編集に励みたい。
創作、論攷をふくめて、一つにそれら仕事の量、むろん質も、そして今ひとつに、それらの仕事をに積み上げていた年齢の若さに、漸く、プロの読み手方も、気づいてくれてきた。
2017 4/13 185
* 湖の本134発送用意のなかで封筒に住所院など捺す作業に力が掛かる。今日一日でほぼ八割余を仕遂げ、これを終えると、宛名を貼り付けて行く。宛名の 出来ていない人には手書きで宛名しなければならない。あと数日、発送用意に手がかかるが、創作と取り組める時日も十分あり、或る大事な判断を下さねばなら ない。書き下ろしている長編を、少なくも、先に「選集」一巻として仕上げて、状況判断の上で「湖の本」で異例の造版をするか、だ。決心はついていない。わ たしの瘋癲老人日記は、まだ先途の確認が着かない。
* 家中の書籍をそうは減らせないが、毎日のように妻は重い大きな荷づくりをしては、図書館等へ寄贈しつづけている。惜し観て余りある珍しい戴き本も多い のだが、秦建日子に皆目似た方面の読書・蔵書の習いが無いので、受け入れてくれる図書館へあずけて処置を任せるしかない。ある若い書き手の胸をたたいてみ たことがあるが、自分は当面の仕事に用のある本だけ手に入れ、仕事が済んだらみな捨てていますと。
わたしは、永井荷風の教えのように、目的の仕事に必要な 本を調べるだけでなく、無縁と思われる洋の東西古今の文献や創作をいっぱいとりこんで「栄養食」にしながら仕事してきた。絶えず、あ、これも、あ、これも読ん どきたいという書物や資料や事典に取り囲まれている。機械の辞書検索で用が足るような仕事はしたくない。機械では、目的の文字や事項の「前や後ろ」が調べられない。
しかし、もう残年余命は限られている。今日は、「植物」の事典数冊、重さにして20キロにもなりそうな荷を図書館へ寄付した。
信じられないほどな大先生、大先輩からの戴き物や戴き本が、ある。無神経には施設へ送れない。すこしずつでも心通った人たちに遺して行きたいが、そうい うものの好きそうな人が少なくなっている。街へ出れば、魂をぬかれたような「スマホ亡者」の群れにイヤほど出会えるけれど。
2017 4/15 185
* 安倍内閣の粗製お友達・濫造大臣、出るわ出るわ、防衛、文科、法務、復興、地方創成等々、昔の内閣なら、総辞職ないし解散が当然だった。厚顔無恥内閣と謂うべし。
* ま、厚顔無恥は、此のわたくしでもあろうけれど。
* この前の「光塵」と、こんどの「亂聲(らんじゃう)」と、どうかしらんと思い思いいたが、今朝新集を読み返し、なるほど、こういう老境を歩いてきたか と、想像や創作を我からおもしろく、納得した。納得できた。大嗤いされよう、罵倒さえされようか、だが、厚顔無恥でござると知らぬ顔でまかり通る。
2017 4/18 185
* 妻が近くの病院に定期の診察をうけに出ている間、成瀬ミキヲ監督の映画、原節子、山村聡、上原謙、杉葉子、丹阿弥谷津子らの、川端原作「山の音」を観 ていた。観ながら発送用意の作業をしていた。いい映画で、川端文学ではもっとも早く親しんだ佳作だが、久しぶりに観て、すこし病的にシンドかった。吉永小 百合の「伊豆の踊子」の方にいまなら手を挙げる。
映画「山の音」をはじめて観たのが、東工大の教授室でだった、そのころお茶の水女子大から「副手」とでもいったか、アルバイトのようにして私の講義時間 ごとに駆けつけてくれていた谷口幸代さんが、テレビのためりフィルムを持参してくれて教授室のテレビでみせてもらったのだ、かなりの時間かけて二人で「山 の音」の読みを語り合ったと覚えている、なかみは忘れたが。
* わたしが川端康成に就いて原稿を書いたのは、大昔の処女評論集『花と風』の中へ「廃器の美」と題して載せた短文だけだろう。この感想、今も、今日久々に観た映画「山の音」を介しても、変わっていない。
谷崎文学は ちからづよく満開の花、川端文学は雨に濡れた花、三島由紀夫は贅沢な造花とも、どこか、いつか、日録にでも書いた覚えがあり、いまも変わら ぬ感想であって、「山の音」は川端文学では好きな方の最右翼の一作ではあるけれど、たとえ話にしても「伊豆の踊子」「雪国」にならべると、侘びしい。「千 羽鶴」と並べて色合いは異なりしかもぐっと「山の音」は佳いが、ともに心病んで寂しく思われる。いま谷崎潤一郎の昭和初年につきあっているから、よけい、 そう感じるのだろう。しかも「山の音」より以降の川端作は、もっと良い意味の健康を欠いて迫力が沈んでいる。川端康成を既往へ溯れば、つい泉鏡花へ突き当 たる。谷崎を溯れば、親和的には永井荷風へ、対抗的には夏目漱石へ突き当たる。
わたしは、やはり、藤村、漱石、潤一郎の大きさと強さとに文学の核心をいまなお観てとりたい。
2017 4/18 185
* 夜中に目が覚め、そのまま電灯をつけ、源氏物語「横笛」「夕霧」「鈴虫」の巻を読み、好色一代男を丹念に読み、沙翁の「十二夜」を読み進め、最後には日本と西欧との「中世」論を熱を入れて読み耽った。いずれも特級の面白さで、しみじみ教わった。
余の物はともかく西鶴の一代男から何を教わると嗤う人もあるか。いやいや、そうではない。
わたしは、べつだんの趣味など無いけれど長編「ユニオ・ミスティカ」をよほどの昔から年老いてからはと志してきた流れで、男女の性行為・性交のスキルに 関わる文献や書画や描写・表現には気を入れて触れてきた。その点、一代男はまこと仰天の好色行動の連鎖小説なのであるが、一方森銑三先生ほどの碩学が、源 氏物語とならび称されるほどの傑作であり、小学館版の詳細な頭注などからも莫大に教わるものがある。体験はできないが、リアルに的確な知識と生来の想像力 とを綜合すればかなりの「表現」は得られる。読者はちかいうちにされを納得されるだろう。
2017 4/19 185
* 話はまるで変わるが、わたしは何十年も前に『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』という大冊を論述し出版した。そのベースには谷崎 伝記でいい仕事をされた野村尚吾さんのあたかも遺託の体で、二百通にも及ぶかという実に貴重な谷崎書簡等々の写真またコピーを取り纏め手に入れていた。そ の書簡類の価値にはここで贅言を費やすまでもなくて、いましもわたしの迷っているのは、これら資料をどう誰にないし何処へ手渡して伝えるかなのである。資 料はたしかにつぶさにもうわたしが使用仕切ったと云えなくもない、が、わたしの仕事をさらに再検討してさらに新たな谷崎論の展開や谷崎松子論や佐藤春夫論 や、が生まれ得なくない。可能性は大きく、わたしに残年と余力が恵まれるなら、『晩年の谷崎潤一郎」論へも拡張して行けるのだろうが、正直の所、確信でき ない。むしろ最後まで小説を書きたい。
さて、谷崎論者ないし文学論者の誰ならば、期待に応えて呉れるだろうか、というのが、今のわたしのかなり強い願い・期待なのであるが。
2017 4/20 185
* あれをしよう、これをしようとしても、目も疲れ、集中力を欠き、残念だが機械から離れてできる仕事(たくさん有る)をしようと。いちばん気を惹かれる のは、やはり「読む」こと。「中世」研究書が面白く読める。なにかしら力も得られる。いま欠いている小説への刺戟もある。
源氏物語は「夕霧」の巻を読み終えたら、「御法」「幻」はとばして、いっそ「竹河」へ飛んでおいて、宇治十帖へ進みたい。島津さんの「放談」も読みた い。島津さんは源氏物語専門の学者ではないが、数十年の読みの特異さに自負もおありであった。わたしは、源氏物語というと亡くなった今井源衛さんにいろい ろ教わった。島津さんも今井さんと親しかったと聞いていたが、今度の本をまさしく置き土産に亡くなった。所沢か保谷かでいちどは私と話したかったと言われ ていた、と
* 思えば、数えきれぬほど大勢の人文・文学の碩学・研究者に親しくして戴いた。名前など挙げはじめたら懐かしくてかえって悄げてしまうほど、殆どの方々に死なれてしまったが御恩の嬉しさは忘れていない。
2017 4/21 185
* いま、もし海外にいるなら建日子に冷静に状況を洞察して強いて帰国するなと、両親には両親だけの覚悟があるから案じなくてよい、聡明に生き延びて自分の生涯を心ゆくまで全うせよとメールした。
* そして、こつこつと、落ち着いて今日は「ユニオ・ミスティカ」を書き継いでいた。それで、いい。
* 「選集」の二十巻をもう百頁も読めば責了に出来る。二十一巻も再校が、二十二巻も零校がやがて出てくるだろう。二十三巻入稿の用意も着々進んでいる。
「湖の本」134巻は来週末に出来てくる、135巻は初校が届いており、追いかけて136巻の初校も届くはず。
書き下ろしている小説は風をはらむように着実に成熟しつつある、丁寧な仕事をしたい。心がけている短編中編小説への気も機も動いている。死ぬまでは生きている、少なくも。
2017 4/22 185
* 今日は小説に時間を掛けてきた。その勢いで、面白い話材を展開できそうな、小説のすべり出しを気持ちをかき立てるほどに検討してみた。関連の資料がど うも手元に在るらしくて、さて何処にと急には見当がつかず探さねばならない。探す抽斗のたぐいがバカに数あってしかも満杯、探索に骨を折らねばならない。 とっかかりだけで謂えば珍しく東工大ダネなので、学生達から手に入れてある莫大な文書やメモ、ノートを調べることになるが、果たして見つかるか。見つから ねばまたそれなりに話は展開するだろう。思いも懸けないまるで別の興味が湧いてしまうかも知れない。
* もう機械へ向かい続ける視力が散ってしまっている。
2017 4/23 185
* 書きかけてそこそこ纏まっている「ある寓話」は現状で湖の本にすると五巻分に迫っていて、選集なら優に一巻分になっている。おおまかに、第一部 そし て長くない第二部 一部二部に何倍してとても長い第三部の仕立てで、その分担自体に構成上さして問題はない、のだが、それにしてもどう絞るか、絞りすぎれ ば全体を殺して仕舞いかねない。よく寝かして、しんぼうよく味わい佳いお酒にしたい。慌てまい。願わくはわたしに寿命が欲しい。
* 「清水坂(仮題)」の方へ精魂を振り向けて行きたい。これはさほども長編にはすまいと想いながら、じつは楽しんでもおり、苦渋もなめている。視野をどうかして瀬戸内へ開きたいのだが。
* 学生に返った気分で、またまた「中世」を、「物語」を、人の世の「歴史」を学び直そうとしている。教えられることの嬉しさが老耄の芯をあたたかにほぐ して呉れる。今西祐一郎さんの『死を想え 「九相詩」と「一休骸骨」』を学んだ。島津忠夫さんの『源氏物語放談』では「放談」という学問道に教わり続けて いる。森銑三先生に手をひいてもらって江戸時代の人たちと膝つき合わせるように会っている。「一代男」のような途方もない好色道の背後背景に奇妙に懐かし い人の暮らしや想いが観て取れる。なんと現代世界は愚かしくも喧しいのだろう。
2017 4/24 185
* わたしが『父の陳述』という長編で最もアピールしたかった一点は、「ソシアル・ネットで」の発語・言説に「文責明示」をという願いであった、市民社会での その確率が、少なくも良識の慣行が無ければ人は、社会は、國も世界もムダで有害な混乱へかき回されてしまうことになる、と。作を成したあとからケイタイ、 スマホ等々のネット利用は爆発的に増殖し、その有用も便利も否認しないがそれに倍するとすら嘆かわしい、人間の機械化、機械依存ないし機械による被支配傾 向が強まって来ている。そこからデマゴギーは氾濫し、狭く見積もっても都市人間が、若きはもとよりいい大人まで人間らしい表情や言葉を喪ってきている。せ いじまでが、そのような危うい感興へ粗末なことばを抛つことで自己満足しかけている。
少なくも、ねっと社会での発語・発言には「文責明示」を明瞭で譲らぬ認識により制度化しないと、世は挙げて無責任な落首・デマの乱雑境と化してしまう。すでにそうなりかけている、いや半ばなってしまっている。
わたしは、いま、いかなるネット社会情報も自身の「此の機械から」は受け取っていない。ツイッターもフェイスブックもミクシーも、わたしの機械は全く繋 がらなくなっていて、私自身がどう発言しようも読み取ろうも成らない。その意味でも私個人の現今日本や世界の情報源はわずかなテレビ情報番組の域を出ない し、買っている新聞一紙もいまやわたしの視力では「無」にちかく遠い存在である。わたしが、いま、日々にここで発言・発語しているのは、「情報源」による ものというより、つまりは「私」自身の根から生えて出ている思惟や感想や意見なのである。それをもし支持している何かがあるというなら、おそらくは私の 「歴史」感覚ないし「人間」観なのであろう。
世界情勢や日本の今日から明日へ、わたしは、無用に悲観も無用に楽観もしない。危ないと痛いほど感じているだけは真率な体感という近い。だから、どう疲 れてもわたしのしたい仕事に日々はげんで「間に合い」たいと思っている。何に。何故に。それは考えないことにしている。永遠は考えて実感などできない。考 えないから永遠は在る。
* あす、湯気の立っているような中編の二作が「湖の本135」の初校として届く。これはわたしも気になる。校正するのにドキドキしそうだ。
あさってから「湖の本134 亂聲(らんじやう)」を送り出す。世間にいわゆるナミの短歌集ではない。散文集でないだけで、好き放題まるで雑纂されてあ り、中に、思い切って放埒な、顰蹙を買うであろう「つくりうた」も並んでいて、長編小説「ある寓話 ユニオ・ミスティカ」の「為の」モーレツな試作も混 じってある。送り出すのにいくらか気が重いけれど、ま、終幕へと舞い遊ぶまえのまさしく「亂聲(らんじやう)」と、幾分は居直っている。それよりもやはり仕上がろうとしている「ある寓話 ユニオ・ミスティカ」で長編構造の一廓として読まれる方が無気味に効果的かもしれない、が。
* 関わってあえて謂うワケではないが、谷崎を論じた長編の『神と玩具との間』を脱稿の「おわりに」に添えて当時「谷崎全集」に未収録であった短文を今しみじも読み返して、わたしはいまさらにホクホクとして心地で嬉しくなる。
☆ 趣味と娯楽 谷崎潤一郎
文学上の労作は私に取つては職業である。しかしながら、何がいちばん楽しいか、いちばん好きかと云はれれば、やはり思ふやうに筆が動いて、自信を以て仕 事をしつつある時である。さう云ふ時、全く此の道ばかりはいくつになつても止められないと云ふ気がする。年をとればとる程、小説を書くのが楽しくなる。と 云ふのは、すつかり手に入つてラクになつたと云ふ意味でない。なかなかムヅカシイものであることが分つて来るにつれ、一層精魂を打ち込むかひがあるのを感 じる。私はその点で故二葉亭とは反対に考へる。文学は男子一生の仕事として有り余るほどに思つてゐる。もし私にして生活に追はれる心配がなければ、書き上 げることよりも書くあひだの道程を、もつとゆつくりと楽しむであらう。食ひしんぼうが一と箸づつ物を味はふやうに、今日は一行、明日は一行と云ふ風に、書 いては眺め書いては眺めして行くであらう。そして倦んだら釜の湯を汲んで、こころしづかにお茶のうまいのをすすりたい。多少でもそんな工合にして何物にも 妨げられずに暮れて行く一日が、私には最も愉快である。趣味も娯楽もおのづからその中にある。実に晴れ晴れとした気持ちになれる。外にも道楽はないことも ないが、そんなものは第二次、第三次である。
(『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』の=)最初の校正を今終え、明年には谷崎潤一郎十三回忌および(谷崎の伝記作者=)野村尚吾三周忌を迎える。重ねて、感無量というしかない。 秦 恒平 一九七六年大晦日
* 心底から、今、わたしは、上の谷崎先生の感想に共感し同感出来るのを幸せに感じている。谷崎先生は老いれば何を楽しむかも時分の旧作をゆっくり読んで 楽しむと謂っておられた。いましも日々に関わっている『秦 恒平選集』の仕事は先生の言葉を早くはやくに読み知っていて、いつかわたしもと思い願っていたそれなのである。
2017 4/26 185
☆ お見舞い
みづうみ、お元気ですか。
* 突如のきつい胸苦しさに脈も微弱に呻いたまま気が遠くなりそうになったのを、妻が所持のニトロを口に含み、辛うじてもとに復した。
と ありましたので、昨夜からとても心配しています。奥様がいらっしゃらなかったらどうなりましたでしょう。ニトロカプセルを首にかけている方も見かけます が、そのようなご用意もあるいは必要かもしれません。でも何よりそのようにならないのが一番です。どうか早めにご受診くださいますように。そして食生活に もお気をつけてください。(セシウム蓄積されませんよう)
みづうみがお元気で、存分にお仕事をお進めになれますようにと毎日お祈りしています。 みづうみのご体調のお見舞いをしながらこのようなことお訊ねするのは大変申しわけないのですが、一つお許しください。
みづうみは以前湖の本で出版された年譜の続きを作成なさっていらっしゃるでしょうか。
「湖の本134 亂聲(らんじやう)」発送作業はくれぐれもご無理なさらないでください。お大切にお大事にお過ごしください。
春 春昼や魔法のきかぬ魔法瓶 安住敦
* あの胸の痛さにはビックリした。千枚に及ぶほどの再校ゲラを、こともあろうに「故紙回収」の方へわたし自身で廻していた(回収は今日であった)その大失錯に自、身老耄を案じて衝くように胸を痛めたのだろう。妻にも心配かけました。
わたしの機械仕事の部屋は二階にあり、手洗いは二階にもあるが、少しの息抜きも兼ね洗面所に近い階下へ降りることが多い。自然朝から夜まで昇降を繰り返 しているのだが、正直な物で、午前中はすたすた上り下りしていても、昼下がりからは疲れてよたよたしてしまえ。ゆっくりになる。そのうちかすかに胸が重く 感じられたりする。ひういう自分と気ながに付き合ってゆくのが老の坂というもの。気を付けて暮らしています、つもり。
* さてその「年譜」だが大きな気がかりの一つで、「湖の本」版では、昭和四十四年末までを詳細にしあげただけで、それ以降のは、五十歳記念の限定本『『四度 の瀧』巻末に、昭和五十九年八月末までの分をあらまし作りだしてあるにとどまり、以降三十年余りが出来ていない。仕事の「初出」に関してはわたしは妻に頼 んでそのつど記録を励行してもらっていた筈であらゆる「初出誌・初出本」等は家中に保管されているのだが、手をかけて年譜化して行く労力も時間も無いまま に打ち捨てられてある。せめて初出記録カードの有るかぎりだけでも年譜化しておけると、と、あの織田一磨画伯を敬い羨んできた。
わたしは、勤務の昔から社長譲りの几帳面さで手帖への記録も欠かさず、他に大小のノートへの手書き日記も、大学ノートだけで何十册になっている。みな、 捨て去られて何の役にも立たなくなっており、或いは朝日子ならばと希望しないではないのだが望みはなく、さりとて今のわたしにそれに割ける残年余命は無 い。出来れば、選集を引き受けてくれている「京都府立京都学・歴彩館資料課」がそれらも引き受けてくれるなら収めたいなと願っている。以前に若い研究家に その辺を期待し委託したいと思ってはみたが、会って話して断念した。
ま、そういう次第です。
* 昨日辛うじて廃品故紙の山から探し出せた「選集⑳」再校ゲラ、見つかったと安心していたのに、中ほどの18頁分が脱けていたと今日夕過ぎて判明し、かろう じて印刷所が控え余分に出してくれるゲラから逸失分をひき抜いて校正をし直した。この程度の逸失で済んでいて助かったが、昨日、564全頁数を追って確認 しておかなかったわたし自身の怠慢に惘れてしまった。かつがつ二度助かった。
2017 4/26 185
☆ 骸骨さん
23日のHPには・・「部屋」に(源氏物語の)夕霧、(一代男)世之介、(九相死骸骨版の)「一休骸骨」が、「呼べば襖の向こうから顔を出してくれる。骸骨さんは凄いと書かれてあり、気持ちが引っかかっていました。
『清経入水』以来、或いはこれまで折に触れて述べられてきたこと、夢の中に襖があり、開けても開けても世界が部屋が広がり続いていく、自在にものに出会う。それは秦文学の原点であると読者であれば十分に理解していることですが、それでも胸衝かれる思いになります。
そして昨日25日の胸苦しさと・・浴槽に浸かって校正をされた・・!
とにかくまず第一にお身体ご自愛ください。
わたしは骸骨さんは怖いし出会いたくありませんが、ただただ優しく美しいものばかりに出会えたらと思っています・・。
桜が散り、若葉の季節ですが、わたしの庭の八重桜は今が満開です。明日は風が吹くらしく、やはり花に嵐・・でしょうか。庭に木を植える余地は既にないの ですが、まゆみと藤を買い求めました。そして課題で描くことになっている白牡丹も。今はまだ蕾ですが、この状態から何枚もスケッチする予定です。
繰り返し、どうぞ大切にお過ごしください。
『乱聲』楽しみにしています。 尾張の鳶
* 「一休骸骨」は一休作と仮託された、中世「九相詩」本の剽げた骸骨版で、「九相詩」 のように生々しくも凄まじい美女が死屍の九変相を「不浄観」のように描いたり歌ったりしたのと趣がちがい、全て、陽気そうでさえある骸骨たちが立ち現れ、 さまざまな愛慾変相などを演じて見せてくれるので。
わたしのいわゆる「部屋」とは、「清経入水」の冒頭にあげた前文中の、あのアケテもアケテもとは違い、ま、気持ちは似ているのだけれど、長編『最上徳 内』冒頭に書いていある、さまざまな人たちとの「出会い部屋」のことである。紫式部とも会うが紫上とも逢える、いっそ陽気に喜戯愛慾にはげみ合う骸骨とも 逢える「部屋」のことである。ま、「蛆たかりととろぎ」たる女神の死屍によりは、ものも訊ねやすい。
「亂聲(らんじやう)」は、楽しみにされない方がいいと思います。
* 藤の植えられる庭とは羨ましい。
ひよどりの来啼かぬままの隠れ蓑
葉は満ちたりてかぜに光れる 八一
2017 4/26 185
☆ 「ユニオ・ ミスティカ」へと
連なっていく『亂聲』、ドキドキしながら待ってます。 九
* このドキドキは、厭わしいほどに裏切られる。 ☆ 「ユニオ・ ミスティカ」へと
連なっていく『亂聲』、ドキドキしながら待ってます。 九
* このドキドキは、厭わしいほどに裏切られる。
* 今日届いた「湖の本135」の初校は、半分以上も読み進んだ。巻頭一編の小説は、ま、読みようにもよろうが、わたしの作世界に少し変わった一郭を加え た、または添え得たかも知れない。愛着はしながら、しかも五分の一へも進まぬママ棚上げになっていたのを、一気に書き上げた。
もう一作は、「一作」とも謂いがたく、いずれつづく長編『ある寓話 ユニオ・ミスティカ』を導くための前哨とも前蹤ともいうべき「試作」、または「露払い」というに近い。なんら長編の下絵ですらない、とはいえ、よほど頭も手も想像も用いて、すこし異様な、発火への「導線」のような役を永い時間かけて押しつけた。感銘とは異質の読み物になっている。
2017 4/27 185
* 夜九時、一日の作業を切り上げてきた。疲れた。クロネコのケース一つに、荷造りした本が60册入る、のを幾つも幾つも幾つも持ち上げて、朝から晩まで、キッチンから玄関へ運びつづける。
発送の合間に中休みに二階で創作の手入れもし、昨日届いた「湖の本135」の初校も昨晩以来もう三分の二進めた。残る三分の一も今夜のうちに読み終え、それなりに納得したい。
発送の作業は明日も終日。なんとか明後日には終えたい。
そのあとは暫く、第四週まで、予定的にはらくになる。四週には病院・医院通いが固まっている。そしてそのあとはまた、何かと仕事が固まって追いかけてくる。「湖の本」創刊三十一年の桜桃忌前後には、さらにまた新しい小説を一作、また一作と心がけている。
2017 4/28 185
* 一仕事終えての今の願いは、美味いなあと思えるモノが食べたい。想いも寄れないのである、なさけない。
* 真作の小説「黒谷」を読み終えた。走り書きほどに筆を運んであるが組み立ては出来ていて、読み味さらさらと、気に入った。短編か中編か、新たな一つ を、ともあれ創作歴に加えたかな、と。「女坂」の方は文字どおり思いつきの走り書きで、想像力はこまごまと使ってあるが、次へ新たに展開する長編構造物の 試作ふうな地固めのな作業。
* かりに「湖の本」が終熄しても、みう二三年は「選集」がある。そしてわたしの手には、前世紀らいの「秦 恒平の文学と生活」という大きなホームページがあり、六百作にあまる各ジャンルの文藝作品を収録した「e-文庫・湖(umi)」がある。此の発表機関をわ たしは手中に主宰し得ているので、いざとなろうとも此処で死ぬる日まで「創作」し「執筆」して行ける。もっと公開しやすい設定上の工夫を人手に委ねて改訂 してもらうことも可能だろう。
2017 4/30 185
* 初めての谷崎論を書いた三十数歳の昔は遠くなったが、仕事はピカピカで残っている。太宰賞こそ貰っていたが、先行きの知れない新人だった。授賞式の挨 拶で中村光夫先生は、芥川賞なら三年は世間も文壇も憶えていてくれる、太宰賞なら二年は憶えていてくれるから落ち着いて書けばいいと挨拶されていた。そん な中で小説ならぬ谷崎論を書き下ろし、谷崎伝記の当時決定版を書かれていた野村尚吾さんが「かつて無い谷崎論が現れた」推賞され、新人小説家の処女評論に 花が咲いた。遠慮もなく中村光夫先生ら何人か先達の谷崎論も批判していたが、温かに迎えられ会えば励まされた。わたしは新人でコチコチに小さくなっていた けれど、思い起こせばずいぶん目立った新人時期を歩いていたのだった、文壇のことはなにも知らず馴染まずわたしは小さくなっていた。銀座や新宿の酒場へ出 てもにで呑んで語るなどと言う真似はしなかった。出来なかった。自分なりの世界を書き続けたいとウカと言ってしまい、河上徹太郎先生、吉田健一先生に即座 に「そんなの在るの」と授賞式の会場で遣られていた。わたしは私の世界を探し築くことにのみ熱中し、それは小説だけでなく批評や論攷にも延びひろがって いった。十年もせぬまに六十册も著書を持っていた。
* 勉められるときに勉めた。学びもしたし思索もした。しておいて好かった。よそ見しているヒマもなかった。ビックリ仰天の東工大教授の話が突然の電話で きたときも、キョトンとしたまま建日子に「お父さん、一流校だよ」と奨められて引き受けた、その当時、何人もの学界人から「名人事です」と祝われたときも 「なんで」としか思えなかった。わたしよりも人の方がわたしを見ていてくれたのだと、今頃になって嬉しくなる。
* 日付が変わったが、幸い、数日はラク日がつづく。天気がよければ、ふらふら出歩けると佳いのだが。
2017 5/1 186
* わたしが東工大へトビ込んだ一つの狙いは コンビュータへの縁を求めてだった。ワープロは文壇でも最も早い時期、東芝が売り出した第一号機を買い入 れ、即日、連載小説の途中から書き始めていたが、パサコンには手が届いていなかった。わたしは根は機械音痴に近いのだが、コンピュータはわたしの作家生活 に役に立つはずと言う確信に近い予見を持っていた。しかし独りでは使いこなせまいと言う懼れも深く、東工大からのお呼びは、その意味で渡りに舟だった。任 官し研究費が出ると直ぐさま学生生協でパソコンを買った、だが、教授室へ顔をみせる学生達がみな笑ってしまうようなヤスモノだったらしい。結局東工大に在 任中は、機械、ほとんど活用できなかった。やっと退官後になって家へ遊びに来てくれた天才のような学生の一人がわたしの希望をあれこれ聴きいれながら、 あっというまに現在の此の「ホームページ」を創作してくれたのだった。わたしは日記を書き始めメールを保存しはじめた。
わたしは「メール」という表白・表現の秘めもっている「文藝」の素質にいちはやい予感をもち、「佳いメール」を収拾しつつ、それらを取り混ぜ培養するか のように小説の文章への素材化を意図し続けてきた。信じられぬほど面白くも豊かにも人間を感触させ表現させる「味の素」に成り得た。「メール」は作家であ るわたしの表現を刺戟する「栄養」に造り替えうる素材の意味を持った。十人百通のメールを文藝というすり鉢にいれてすり下ろすと一人の新たな性格が立ち上 がってきたりする。
2017 5/2 186
* 「湖の本135」のために、必要な「覚書き」と「跋」とを書いた。校正も終えてあるが連休明けまでは返送しても仕方がない。「選集二一巻」の再校、 「湖の本136」の初校を連休中にせいぜい済ませておきたい。うかうかしていると「選集二二巻」の初校もでてきてしまう。「選集二三巻」の原稿読みがなか なかタイヘン。入稿には桜桃忌過ぎにまでかかるかも。
* 長編『或る寓話 ユニオ・ミスティカ』は少なくも分冊にしての第一册分は仕上がっていて、此処だけで場面はしっかり三変する。そのあとは変化なげにし かもきつい変化へ転覆しそう。第一册分三変の「中一変」分は途方もなく頼りない妄想・空想・幻想で埋められながら前を後ろへ橋渡し役をする。それがうまく 行くか、だが。ま、成り行くだろう。
いずれにしても、この作は公刊できるのか、作者にも分からない。
* 『清水坂(仮題)』は楽しめる、作者自身には。長々しい作にしないで、語り味を楽しんでいる。慌てまい。
今一つ「信じられない話だが」これまた後白河院絡みの蜘蛛の巣のような現代の物語が書き始めてある。成ればいいが。今いまの思いつきでなく、落想はやき り四半世紀も遡れるが、これも願わくは取材確認の旅へ出たくなる。ああ、その気になれば、ほかにも抱きしめている怖いモノ語りが在るよなあ。唐突だが必要 条件はしっかり栄養を食することだが、色や形や匂い、それに堅さだけで食い気が失せてしまうのではハナシにならない。佳い焼酎に蜂蜜を少量まぜながら、 750mlを二日半で飲み干した。谷崎先生は焼酎三分の一ほど酒をまぜ砂糖を加味して氷で呑むと暑気払いにいいなどと人に手紙を書かれていたが。
食の細ってしまう原因はやはり胃袋の失せたこと、腸がいきなり食道へ繋がれているので、胃で溜めて消化することが出来ず、細い麺類や茸類や堅めのものは常住腸閉塞の危険をともなうので、怖くてついつい美味しい上等食でも咀嚼しにくくてはつい敬遠する。
新茶を戴く季節になった。お茶は嬉しい。和三盆のような口当たりの優しい甘味も好き。酒も甘味も好きなので助かっている。
2017 5/4 186
* 「谷崎の歌」を読み終えた。松子夫人のおゆるしを得て豪華限定の『谷崎潤一郎家集』を手書きの原稿から克明に再現し刊行した昔を懐かしんでいる。わた し自身も『少年』のむかしから、老いてのちの『光塵』そして今度の『亂聲』をつくってきたが、少年好きの人からはなんたる雑な変貌よと笑われているか知れ ないが、それもこな谷崎愛という方へこかしている。谷崎先生は歌を国風おそらくは和歌と思い徹しておられながら、しかも歌はいわば汗や小便のように自然に 排泄していいものと言い切ってられた。わたしはこの谷崎流へためらいなく身を寄せていったのだ。
谷崎の歌は、歌人や評家また身よりからも酷評されることしばしばであったけれど、どうして、なかなか手誰の歌人でもあった。ぎくしゃくして面白くもなん ともない、わたしからいえばヘタクソとしか言いようのない有名短歌人は世間に溢れているが、その無味乾燥ぶりには和歌しらず、和歌わからずの鈍な不勉強が 禍していることに気がついていない。
ま、わたしの歌は、そんな批評すら承けるにあたらない私の好き勝手な妄想であり、お嗤いください。
うそくさいモノ・コト・ヒトやわれも然かと
痛いほど目とぢなみだこらへつ
ウソでないホントのオモヒに身を燃して
オロカなままに歩き果てばや
瀬をはやみいなともいはで稲舟の
行方もなみに漕ぎぞかねつる
* メールには、書いていいことと、書かない方がいい範囲とが、確実にある。柏木という貴公子は源氏の正妻女三宮への文をあまりに不用意に書いてしまい、源氏 の目にふれたとき痛く軽蔑を買った。文の作法を知らない男も女も、あさはかに軽いのである。メールも源氏物語での文のやりとりも同じ。いまどき、他所の メール往来をでも覗き見する技くらいは、かなり大勢がおもしろづくに所有している。ハガキなみなのである、だからこそ、メールの書きわざには神妙なおもし ろみが添うと云える。メールの表現は文藝なのである。
* 眩しかったり暗かったり 読みにくい機会の字を懸命に読んでいると知らず知らず歯を噛みしめていて痛んでくる。歴史物の原稿を正確に復元しようとすると、無数のフリ仮名に脚を取られ続ける。参る。じんじん痛みが強まる。たまりかねてバファリンの厄介になる。
2017 5/5 186
* 疲れ果てた。下へおりて、機械の字でない字の本を読んで寝よう。ついにわたしの連休も終わる。この二三日一の楽しみの読書は、昔に井口哲郎さんに戴い ていた、石川近代文学館編の大きな『近代戯曲集』巻頭の鏡花作「天守物語」。せりふや場面の端々隅々まで何度もの観劇、ことに玉三郎演出の舞台を楽しみ尽 くしてきたので、活字から舞台が立ち上がるように甦るのだ、それが途方もなく面白く、いまでは鏡花の代表作は戯曲の「天守物語」し「海神別荘」と極めが着 いてしまっている。小説をあげろと言われても突出して一つ二つがでてこない、ま、学研版のために私の選んだ『高野聖』『歌行燈』に、現代語訳もした『龍潭 譚』か。
わたしにはことに「天守物語」「海神別荘」は魂の故郷のように懐かしいのである、怖いクセして。わたしの初期作の多くがその同じ懐かしさをひしと抱いている。
2017 5/7 186
* 枕草子の類聚篇わたしのように現代語訳するとすてきに嬉しく恰好の石清水のように胸ら落ちる。
源氏物語の「夕霧」が柄にない恋を野暮なほどぎりぎりと、柏木に死なれた女二宮へ向けて行く。源氏の正妃女三宮に横恋慕し現在の妻を「落葉の宮」などと 疎んじ続けた情け薄き柏木よりも、根は実直な夕霧の方がこの未亡人を結果は優しくすくい上げて行く。この恋の沙汰がおさまるともう光源氏の世界は夕闇へ沈 んで行くのだ。わたしは「御法」「幻」の二巻は近年はパスして「雲隠」あとの繋ぎ三帖「匂宮」「紅梅」「竹河」へ跳ぶ。
2017 5/8 186
* 妹尾徤太郎夫妻の元へ昭和初年に集中していた、谷崎潤一郎と三人の妻達、佐藤春夫、谷崎鮎子、谷崎終平、谷崎すえらの二百通ちかい親書(多くは毛筆・ 但し写真とコピー)とを、一括して谷崎研究家の永栄啓伸さんに譲り渡した。わたしの書き下ろし論攷にすべて紹介はしたものだが、大冊をくり返し校正してい る間にも、論及仕残された「かなり大事な問題や課題」の幾らも残っているのに気がついた。もうわたしには追いかける余命乏しく、思い切って永栄さんに託し た。この人には谷崎論攷にすぐれた著作も論文もあると同時に私の作品を論策されたお仕事も粘り強く続けて戴いている。譲り渡した資料はどのように使われて も処置されても差し支えないので、せっかくの活用があれば有り難い。
谷崎の原著書で初版の原形をのこした何冊かも手元にあり、おいおいに委ねていきたい。谷崎に関する大勢の論者の著書も、このさき、谷崎論。谷崎学に向かおうとされる若いすぐれた学究にとり纏め差し上げたく、佳い出会いを願っている。
* もう、機械目が限界。階下で裸眼で校正、そして読んで、眠る。
2017 5/14 186
☆ 長い間
ご無沙汰して相済みません。選集と湖の本134のお礼も申し上げず失礼しています。
『花と風』は40年近く前岡山市内の細瑾社という書店で見つけたのが、秦さんの単行本との初めての出会いで、特に思い入れの深い作品です。
日記に食が進まないとあり,また奥様がご不調だともあり心配しています。
天満屋デパートにニューピオーネの初入荷がありましたのでお届けします。 吉備の人
* 恐れ入ります。有難うございます。
『花と風』はわたしのいろいろな思いや行いの原点に位置する述懐であって、いつも、そこへ帰って行く、行ける思いがある。今一つを挙げるならわたしの根 の思いと気概とをみせて滞りない一冊は「ちくま少年図書館」にいれてもらった『日本史との出会い』をわたしは思う。私の思想や言動の起点はよくいわれる平 安王朝古代にではなく、間違いなく「中世」への思いに根ざしている。この少年達に向いて「後白河院と乙前」「法然と親鸞」「足利義満と世阿弥」「豊臣秀吉 と千利休」をとりあげて「日本」を問い続け語り続けた気概は、今もわたし自身の力になっている。亡き安田武が、「こういう本で歴史を知りたかった、学びた かったなあ」と大きく嘆息してくれた昔をありありと思い出す。
いま、中世が忘れられ、昭和の大政翼賛体制、国家総動員体制への強引な政治の誘導に日本は立ち枯れようとしている。もう何年も前に「いま、中世を再び」と湖の本を一冊編んだ。その思い、今なお切に切であるが。
2017 5/15 186
* 国文学研究資料館の館長を退かれた今西祐一郎さんから、館でも、よろこんで「秦 恒平文学選集」を頂戴したいのですとお手紙を戴いた。ありがたい。
2017 5/15 186
* 重苦しい疲労の底で、湖の本のために小説「黒谷」また「女坂」に次いで小説ではない「女の噂(一)」の校正が楽しいし、枕草子の読みも楽しい。助かる。
2017 5/18 186
* 選集二十二巻の初校出。
しばらくは、どれの進行もよくよく考えて、うまく停滞コントロールしながら進めて行く。これまでが特急なら各停程度に進める。瞼が重い。
2017 5/19 186
* せめて、選集⑳巻 送り出しの 出来る限りの用意はしておきたい。
* 今朝だったか、NHKでなんと田原総一朗が「高齢者の性衝動」を主題に話していてあれあれと思った。田原氏へも「湖の本」を送っている。
おやおや、ほぼ仕上がっているわたしの長編「ある寓話 ユニオ・ミスティカ} 何処かへ売り込んでやろうかな、時節に当たっているなあと、ニヤッとした。
2017 5/19 186
* 『女文化の終焉 十二世紀美術論』を読み返している。書き下ろしたのは四十五年ほども昔、また三十台だった。背丈にも及ぶかの参考文献を全部読み終えてから書き始めたのを想い出す。
いま、三十代作家でこのような論考を書き下ろし続ける人はいないと思う。あの当時でもじつはいなかった。わたしはあたりまえのように小説も書きエッセイも書き、長い広い両翼のように思いながら空高くをよほど孤独に飛翔していた。
しかし、いま想い出せばわたしは太宰賞以後、出版社づきあいはともあれ、けっして孤独な書き手ではなかった、ある時ある場所で吉行淳之介と筒井康隆とに 「よくまああんなに書くねえ」と冷やかされたほど、本は売れないけれど原稿依頼はひっきりなしに続いて、自然それらか本になっていった。十年で六十册も単 行本を出していた若い作家は事実は珍しかったのだ、しかもわたしは通俗読み物は一切書かなかったのだ。井上靖は訪中国日本作家代表に誘ってくれた。江藤淳 は東工大教授の後任に推してくれたという。梅原猛は日本ペンクラブの理事に引っ張ってくれた。文藝春秋の寺田専務は、わたしの「湖の本」刊行に凸版印刷所 を推薦紹介してくれた。
ずうっとわたしは、そういうあれこれをただ偶発的な幸運としか思えていなかった。そうではなかったと、近年つくづく思い当たるようになった。
「清経入水」のような不思議な小説が、石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫ほどの難しい大先生達の満票で太宰治賞に選ばれてい たというほどの当選はよく見聞きすれば稀有の一語にすでに尽きていた。そんなこともわたしは判らなくて、ただただおずおずと「売れない作家」業を遠慮がち に歩んできたのだった。
「女文化の終焉」は古代と中世のはざま百年の文士的論攷として、いま八十一歳の見聞から推しても、懸命の力作であるとともに、文藝としての批評でありたくしんじつ勉強したものだと微笑ましくなる。心ゆく仕事をわたしはし続けてきた。そう、いま、はっきり言える。
* またまたものの下の下の中の方から、手荒に破った紙にこんな夢の句が三つ おおきなボールペンの字で書かれて出て来た。裏の印刷文には前世紀末の経済記事が出ていて、前歌集「光塵」期の作だろうと思うが意識して棄てていた句とも云える。記録だけしておくか。
妻抱いてなすにすべなき夢の夢
曙のありとしもなき姫ごとや
春愁といはでやあらん妻の尻
なんだこりゃ。
2017 5/22 186
* 妻は病室での読書に歌集を求め、てもとに届いていた正古誠子さんの新刊歌集を皮切りに何冊も病室へ運んだ。高校時代の国語の上島史朗先生、中学の給田みどり先生のも。俳句よりも歌が分かりよかったらしく、ことに正古さんの歌に共鳴を覚えたらしい。
* わたしは、高校へ入るすこし前に東山線(京の市電通り)菊屋橋わきの古本屋で斎藤茂吉自選の歌集『朝の蛍』をなけなしの小遣いで買ったのが最初で、愛 読のうちに一気になにかしら眼が開け、歌集『少年』の歌が出来ていった。茂吉本は寶と謂うてよく、ほかに導きは無用なほどであった。あんな貴重でやすい買 い物はなく、書庫のなかにうもれて光っている。和歌は『小倉百人一首』に、短歌は茂吉の自選一冊で徹底して学んだ。
いい大人になってからは谷崎潤一郎の国風歌二冊の自筆稿に触れる機会があり、松子夫人のお許しを貰って『谷崎潤一郎家集』を編み大阪の湯川書房で二種類の豪華本を創った。
わたしの第一歌集『少年』は高校の三年間の作を大きな中心に、朝日子が生まれる頃までの作で編み、数種の本に成って世に容れられた。先ずは茂吉の、つい では牧水の感化があったろう。岡井隆が自選二度の「昭和百人一首」に、二度とも『少年』から各一首ずつ選抜してくれていた。嬉しいことであった。
第二歌集『光塵』は、はるかに遅れて平成二十三年秋に編んだ、その直後に癌を病み、五年を過ぎたところで第三歌集『亂聲(らんじやう)』を編んだ。気儘に自在な行儀のわるい放歌録である。
* 九時過ぎた。今夜こそ安眠したい。ともあれ妻が諸検査の結果も、険悪でなくて何よりであった。よかった。お見舞い下さった皆様に、お礼申し上げます。
2017 5/24 186
* 私の第二歌集『光塵』に添えた「詩歌断想(一)」を見返していてふとこんなところへ目をとめた。
今の時節に、まんざら遠くない発言なので、ここへ再録しておきたくなった。2001年の2月2日の述懐である。15年も以前であるが。
☆ 何の番組だか、昼ごろ、歌壇の将官や佐官級が一般の短歌を品評し顕彰している番組があった。推薦して、「じつに」とか「きわめて」とか強い言葉で褒めてい るいる短歌作品を読んでも、いっこうに感心できないことに驚いた。説明的な歌、ガサガサした歌、舌をかみそうな歌、観念的な理屈の歌、要するに感動のまっ すぐ伝わってこないへたな歌が、次から次に推され、褒められ、それでは作者より「玄人」を自認しているらしい推薦者・選者の鑑賞眼の方を疑うしかなかっ た。
たとえば俵万智の褒めあげた作には、「コンビニが」「コンビニが」と二度出てくる。二度出るのは必要なら少しも構わない。しかし、「が」という助詞の用い 方に歌人として何故疑問をもたないか。「が」は、格助詞の「の」にくらべて、いやしい、きたない、という語感を国語の伝統ではもってきた。そしてその短歌 では、「コンビニの」でむしろ正しい表現であった。事実、直ぐ次に登場して馬場あき子の推した短歌では、同様の第一句にちゃんと「の」を用いていた。散文 を書いていても、「が」と書いて、すぐ「の」の方がここではいいなと、書き直す例が多い。「が」は濁音の響きも感じわるく、必要なら必要だが、一音一音に 心を入れるはずの歌人詩人にして、俵万智のような無神経なことでは、なるまいに。国語の先生ではなかったのか。いや、国語審議会か何かの委員ではなかった のか。
☆ ソ連崩壊に関して、こんな歌が或る歌集にあった。気持ちは分かる、が、あるいは「短歌」での表現の限界をも感じさせる。こんなに簡単にいわれては受け取れない、もっとややこしい感想が胸にあるだろう、一頃の大人なら誰にでも。
搾取して富まむ所業を罪悪と断ぜし思想はいさぎよかりき
人の理想かなへし国と言ひあひて恃みたりしが無力にほろぶ
しかし「戦陣回顧」しての次の作など、とても秀歌とは言えないけれど、届いてくる毅い何かはある、はっきりと。
直立し吸ひし煙草は恩賜とか味は格別のものにあらざりき
菊の紋の煙草恩賜と渡しやる人死なしむるなんぞたやすき
人間を神とまつるはなじまずと靖国神社参拝を問はれ答ふる 畔上知時
さきの番組のような場合、わたしなら、この三首にも少し立ちどまりはしても、推さない。だが、ものは感じさせてくれる。そういう作品に出逢いたいと思うが、ただの概念ではいやだ。この場合など、これは実感だなとよく分かる。
楯などにされてたまるかその上に醜(しこ)はひどいとひそひそ言ひき
天皇は神にあらずと口ごもり部隊長に答へき二等兵われは
慰安所とは何かと問ひし少年兵帰隊し笑ふここちよかりきと
たはやすく鎮魂といふなたましひの鎮まるべきや蛆わかせ死して
侵略と言ひ敢へしばし黙したり戦ひ死にし友があはれに
営庭に集められ学生服に固まりぬかく兵とさるる思ひ惨めに
慰安婦にふれず戦地より還りしと言へば不具かと呆れられたり
毛一筋残さず爆死せしありき笑ひて戦争體験語るを憎む
こういう記憶に久しく堪えながら同じ作者に以下の短歌が出来てくると、読むわたしも、ほっと息を吐く。
とりし掌の温みは知れり年長くたづさひしもの妻の掌ぞこれ
家建てて移り住みきし九世帯それぞれに喪のことありて三十年
門過ぐる我にかならず吠えし犬この頃吠えずただよこたはる
畔上さんはかつてわたしの上司であった。上司としてよりも歌人としての畔上さんをわたしは敬愛していた、今も。お元気でと心より祈る。
歌集『時を知る故に』はお名前にからめた好題で、ほかにも印象的な歌、胸に残る歌がいくつも有った。いずれも「私史の玉」であり、上に挙げたどれ一つも わたしは先の番組のような場面で安易には称揚しないだろう。「歌史の玉」とまではいい得ないのだ。 2001 2・2
* 何も付け加えずにおく。こうした感想は、感想として単独に書き下ろしてきた原稿ではない、このホームページの「私語の刻」と題してある日々の日記であ り、二十年近い間に原稿用紙にすれば十万枚できかない感想を日々に書き置いてきた。そのままでは読み返すのも大変を極めるが、一人の親切な暑い愛読者が、 これら全日記を三十種類ほどに主題別に分類してくださったので、望めば直ちに「詩歌断想」だの「京の散策」だの「ペンと政治」だのとして独立編纂が利くの である。感謝して余りある恩恵であった。すでに何冊も何冊もの「湖の本」として編纂されている。
2017 5/25 186
* 私の第二歌集『光塵』に添えた「詩歌断想(一)」を見返していてふとこんなところへ目をとめた。
今の時節に、まんざら遠くない発言なので、ここへ再録しておきたくなった。2001年の2月2日の述懐である。15年も以前であるが。
☆ 何の番組だか、昼ごろ、歌壇の将官や佐官級が一般の短歌を品評し顕彰している番組があった。推薦して、「じつに」とか「きわめて」とか強い言葉で褒めてい るいる短歌作品を読んでも、いっこうに感心できないことに驚いた。説明的な歌、ガサガサした歌、舌をかみそうな歌、観念的な理屈の歌、要するに感動のまっ すぐ伝わってこないへたな歌が、次から次に推され、褒められ、それでは作者より「玄人」を自認しているらしい推薦者・選者の鑑賞眼の方を疑うしかなかっ た。
たとえば俵万智の褒めあげた作には、「コンビニが」「コンビニが」と二度出てくる。二度出るのは必要なら少しも構わない。しかし、「が」という助詞の用い 方に歌人として何故疑問をもたないか。「が」は、格助詞の「の」にくらべて、いやしい、きたない、という語感を国語の伝統ではもってきた。そしてその短歌 では、「コンビニの」でむしろ正しい表現であった。事実、直ぐ次に登場して馬場あき子の推した短歌では、同様の第一句にちゃんと「の」を用いていた。散文 を書いていても、「が」と書いて、すぐ「の」の方がここではいいなと、書き直す例が多い。「が」は濁音の響きも感じわるく、必要なら必要だが、一音一音に 心を入れるはずの歌人詩人にして、俵万智のような無神経なことでは、なるまいに。国語の先生ではなかったのか。いや、国語審議会か何かの委員ではなかった のか。
☆ ソ連崩壊に関して、こんな歌が或る歌集にあった。気持ちは分かる、が、あるいは「短歌」での表現の限界をも感じさせる。こんなに簡単にいわれては受け取れない、もっとややこしい感想が胸にあるだろう、一頃の大人なら誰にでも。
搾取して富まむ所業を罪悪と断ぜし思想はいさぎよかりき
人の理想かなへし国と言ひあひて恃みたりしが無力にほろぶ
しかし「戦陣回顧」しての次の作など、とても秀歌とは言えないけれど、届いてくる毅い何かはある、はっきりと。
直立し吸ひし煙草は恩賜とか味は格別のものにあらざりき
菊の紋の煙草恩賜と渡しやる人死なしむるなんぞたやすき
人間を神とまつるはなじまずと靖国神社参拝を問はれ答ふる 畔上知時
さきの番組のような場合、わたしなら、この三首にも少し立ちどまりはしても、推さない。だが、ものは感じさせてくれる。そういう作品に出逢いたいと思うが、ただの概念ではいやだ。この場合など、これは実感だなとよく分かる。
楯などにされてたまるかその上に醜(しこ)はひどいとひそひそ言ひき
天皇は神にあらずと口ごもり部隊長に答へき二等兵われは
慰安所とは何かと問ひし少年兵帰隊し笑ふここちよかりきと
たはやすく鎮魂といふなたましひの鎮まるべきや蛆わかせ死して
侵略と言ひ敢へしばし黙したり戦ひ死にし友があはれに
営庭に集められ学生服に固まりぬかく兵とさるる思ひ惨めに
慰安婦にふれず戦地より還りしと言へば不具かと呆れられたり
毛一筋残さず爆死せしありき笑ひて戦争體験語るを憎む
こういう記憶に久しく堪えながら同じ作者に以下の短歌が出来てくると、読むわたしも、ほっと息を吐く。
とりし掌の温みは知れり年長くたづさひしもの妻の掌ぞこれ
家建てて移り住みきし九世帯それぞれに喪のことありて三十年
門過ぐる我にかならず吠えし犬この頃吠えずただよこたはる
畔上さんはかつてわたしの上司であった。上司としてよりも歌人としての畔上さんをわたしは敬愛していた、今も。お元気でと心より祈る。
歌集『時を知る故に』はお名前にからめた好題で、ほかにも印象的な歌、胸に残る歌がいくつも有った。いずれも「私史の玉」であり、上に挙げたどれ一つも わたしは先の番組のような場面で安易には称揚しないだろう。「歌史の玉」とまではいい得ないのだ。 2001 2・2
* 何も付け加えずにおく。こうした感想は、感想として単独に書き下ろしてきた原稿ではない、このホームページの「私語の刻」と題してある日々の日記であ り、二十年近い間に原稿用紙にすれば十万枚できかない感想を日々に書き置いてきた。そのままでは読み返すのも大変を極めるが、一人の親切な暑い愛読者が、 これら全日記を三十種類ほどに主題別に分類してくださったので、望めば直ちに「詩歌断想」だの「京の散策」だの「ペンと政治」だのとして独立編纂が利くの である。感謝して余りある恩恵であった。すでに何冊も何冊もの「湖の本」として編纂されている。
2017 5/25 186
* 選集第二十三巻 入稿した。のこる十巻で思いを尽くすのはなかなか難しく、何を断念して剰すかを慎重に考えねばならない。優にあと二年半で予定へ到達 するだろう、願わくはその余は「湖の本」が生かせればいいのだが、これは作品や資金以上に、わたしたちの体力が働いてくれるか、妻は休ませて、わたし一人 の力で「発送」できるかどうかだ。作品の編輯や校正はわたしには何でもない。体力は発送にだけかかる。急げば疲労に負ける。従来五日かかったのなら、二週 間かければよい、少しずつ送ればいい。老齢読者のご健勝をと何より願う。赤字はもう余儀ないと諦めている。
* それにしてもよく働いているなあと、我ながら、思う。ひと様には呆れられているが、わたくしには、励み楽しみなのである。
2017 5/26 186
* 印刷所へ原稿を添付フアイルとして送付したのが、メールごと、何度も届かないという事故が起きている。やり直していると「届きました」という時もある。案じている。仕事の能率が違ってくる。今回は三度送って三度届かない。
で、同じ方法で同じモノを妻のメールへ送ってみた。メールは届いている。メールならは他の何方へもちゃんと届くのだろうか。
* 気が腐る。
☆ メール届いています。安心して下さい。
通信不安定なところあれば、やはり心配ですね。
この五月はいろいろなことがありました。天気も急に夏の暑さかと思えば翌日は冷えたり。
病院の予約が取れなければ、長いこと待って一日がかりになりますが、それは苦しいでしょう。
わたしより歳上の人、歳下の人、この五月には親しい人のつらい消息を知りました。晴れ渡った空の青が哀しい。
めげず、日々を生きます。
鴉、 元気にお過ごし下さい。 尾張の鳶
* ま、なかなか想うままにはこの世のこと、成らないなあと思う。不思議なことかどうだか、こんなときこのところ無条件に手を出して頁を繰っているのはわたし自身の三册の歌集。なんとなくなんとなく自身の気持ちを納得したいと思うのか。
みなづきといひし水菓子なつかしく隠れ蓑うつ雨のおと聴く
と、五年前、二月十五日に胃全摘のうえに胆嚢も摘除したあの歳の、六月(みなづき)に歌っている。それ以前にもう一度入院し、七月にはまた目の手術で三度目の入院もした。
眼を病んで手術(オペ)受けて暑い日退院(かへり)来ぬ
あるがままあるがまま仕事に向かふ
子供の頃、お菓子「みなづき」の当たるのは、嬉しかったなあ。
* 印刷所とのやりとりを重ねるうち、「無事に届いた」と。ああーあ、よかったよかった。
2017 5/29 186
* 印刷所から、製本時に事故があり、「選集⑳巻」の五日納品を七日にさせてと。それはいいが、製本は完璧に願いたいと、希望。
* なにもかもがスムーズにとはいかないモンだなあ。
ISをかかえクルドをかかえ、米ロが構え、トルコも我を張る「中東」事情を解説されながら、暗澹とした絶望感にとらわれる。
こんなとき、わたしを清しく洗ってくれるのは「老子」を語る、和尚バグワン。バグワンは、どの優れた宗教者よりも老子を身にしみじみと共感豊かに語り聴かせてくれる。涙が出そうに、ありがたい。老子にもバグワンにも毛筋ほども狂信がない。
* 老子はロジックを用いない、アナロジーで語っている。わたしの最も惹かれるのがそこだ。わたしは論攷や評論や研究めく仕事を、「花と風」でも「女文 化」でも「趣向と自然」でも「谷崎論」でも、詞藻をつくしてのアナロジーとして、極端にいえば「詩」かのように書いてきた。バグワンに融け込めるのは彼も またロジックに毒されていない、毒されるな毒されるなと手を引いてくれるからだ。
* 弥栄中学にいら した万年元雄先生から、雅なかぎり彩々のあられを大きな缶にたくさん頂戴した。先生は、いまもお寺のご住職。橋田二朗画伯もご一緒にお三人仲良しであられ たわたしの担任、西池季昭先生は、菅大臣神社のご神職であった。京都やなあ。京都が恋しいほどなつかしい。おととい京都美術文化賞のことしの授賞式であっ た、行きたいと願ってはいたが、妻の入院がかりに無かっても、とても思い立てなかった。よほど臆病になっている。
幸いわたしの厖大量の仕事の少なく見積もっても九割は「京都」に触れて語り尽くしている。谷崎潤一郎が述懐していたとおりに、わたしも「秦 恒平選集」三十三巻ができたあとは、ゆるりと心静かに読み直せる日々をもちたい。
ただし、いま、もう複数の声で、おまえ自身で「秦 恒平論」を仕上げてから死ねと、きつく嗾されている。秦建日子に父・秦 恒平の全作を「解説」する力があるとは思われず、他の誰にも、「小説・創作」「論攷・批評」を綜合して作家世界論の書ける誰ひとりも今は思い浮かばないの だから、と。
そんな必要は、ない。さほども遠くなく、わたしは日本国は文物も自然も猛火に灼かれると感じているのだ。
2017 6/1 187
☆ 『谷崎潤一郎を読む』「夢の浮き橋 余白」に
近藤信行さんがお宅に伺ったという記述がありました。
近藤さんは私の所属する日本山岳会の先輩で、ご夫妻とお付き合いがあります。とはいえ、もう長い間お目にかかっていませんが。
近藤さんは、秦先生が中国にご一緒なさった辻邦生さんを世に出された方で、その辺の経緯は、辻さんの『のちの想いに』に詳述されています。
近藤さんは、20年ほど前岩波の『図書』に「荷風潤一郎」を連載されていて読んだことがあります。
湖の本を読んでいたら、近藤さんについて書かれていたので、一筆啓上いたしました。
気候不順の折柄、呉々もおからだおいといください。 仁
* 仁さん お元気であってと願っています。
わたしは、ひょろそょろ、よろよろと観るから情けなく歩いていますが、気は慥かに仕事しています。
近藤さんが我が家へ見えた日のこと、昨日のように覚えています。そしてこの初対面が、私の「谷崎」世界を豊かに押し拡げた大きな契機になりましたし、中 央公論社や雑誌「海」での仕事も増えました。いまもいつも感謝しています。山梨の方へ引っ込まれましてからは、私もめったに出なくなっていて、お目に掛か る機会は有りませんが「湖の本」は送り続けています。
辻邦生さんとは 一緒に訪中国作家代表として、井上靖夫妻らと一緒に、毛沢東や周恩来逝去の直後に、人民大会堂で周恩来夫人との会見に臨みました。巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、大岡信さんが御一緒でした。
辻邦生さんと私とは、「反リアリズム作家」とくくられ、よく一緒に論じられました。最も懐かしい先輩作家のお一人で、優しくして頂きました。よく読みました。
谷崎の大正期の優作「アヴェ・マリア」などに、ご関心の谷崎プラトニズムがよく現れています、概して谷崎ははっきりプラトニズムをアチコチで自白的に告白しています。
選集二十・二十一巻には、谷崎関連の論攷やエッセイを結集しました。
暑くなります。くれぐれもお大事に。我が家は五月なかごろに十日ほど家内が胆石・黄疸で入院し、幸い退院しまして一息ついています。 秦 恒平
2017 6/2 187
* 私・秦 恒平の自筆書簡がオークションに出ているが御承知かと言うてきた匿名個人か識らない機関がある。わたしの手紙など、悪筆でしかも走り書きで頂き物の礼か、 恋文に類するようなものばかり、何の値打ちもない。「恋文に類するようなもの」には註釈しておいた方が良いが、わたしは自筆書簡であれメールであれ、手紙 は「恋文かのような気持ちで書くのがいい」という誠に良き思想の持ち主である。たとえ用件の手紙でも。九割がたはそういう風に書いている。けんか腰や抗 議・非難の手紙もすこしはあったろう、そういうのは読んで面白いでしょう。
とにかくも手紙は文藝のジャンルとわたしは確信しているので、創作の中でも比較的多くいろんな作中人物に手紙を書かせているが、これからはメールを方法として用いた短編や長編の実作を用意している。むろんそれはみな「創作」である。
2017 6/3 187
* 日本史と西欧史の中世学者四人の討論、中公新書上下巻『中世の風景』を再び熟読し終えた。あいつぎ網野良彦の『無縁・公界・楽』の気を入れた再読にかかっている。「中世」はわたしの思想上の活力に溢れた源泉であったとしみじみ思う。
* 騒壇 とは、はやい話がほぼ文壇・出版、文人世間の意味でありわたしはもう三十年も昔から「騒壇餘人」と名乗ってきた、もうこの世間で何を何といわれ ようと御勝手にということ、だ。知りたくもない、知ろうともしない。なにかと知らせて下さる方もあって感謝もするが、時に耳目よごれる思いにもなる。やす い魂胆だが自分のことなど知らぬが仏という気持ちだ。
2017 6/4 187
* 書きかけの長い『ある寓話』を読み返し読み返し手を入れながら終結部への問題提起を思案している。
* おそらくは小説のために「選集」最低もう二巻、歌集等のために一巻は必要。すると七巻しかもう余裕がない。どう精選し編輯するか、アタマが禿げそうだ。年譜や作品年表へは手も回らず、余裕もない。かなり残り惜しい気分で打ち上げねばなるまい。ま、そういうものだ「仕事」とは。だからこそ「湖の本」という舞台は残しておきたい。
* 明日だった第二十巻の納品が、水曜へ延び、木曜には聖路加の眼科検診に行く。送り出しは慌てずゆっくりと手を掛けて。
いま湖の本は新しい小説二篇の135と、枕草子の選抄・現代語訳136が、十分進行しているのだが、選集よりも送本作業が重労働になるので、すこし、交通整理上の小休止をはかっている。
* 九時 もう機械仕事から離れ、階下で、読み仕事へ移動する。機械の眩しさにどうしても目が眩んでくる。
明日、明後日を幸いに安息日と受け入れて大きく息をつきたい。
2017 6/4 187
* 新しい小説二篇に「女の噂」を添えた「湖の本」135巻を、全紙「責了」で送った。「選集」第二十一巻も「責了」になっていて、これらがあまり相次いで出来てくると発送作業の重みで潰されかねない、せめて二週間以上は間隔をアケて製本して下さいと頼んでいる。
明日には「選集」第二十巻 谷崎潤一郎の名作を徹底読み直す重い大冊が出来てくる。これらが書きたい目にわたしは本気で「作家」に成りたかった。小説家 として認められれば批評やエッセイを書いたり本にしたりの機会に恵まれようと期していた。時代も良くて、まさしく願いは完璧なほど的中した。「秦 恒平選集」予定の三十三巻が勢揃いしたとき、わたしが異色の、「異端の正統」とさえ言われた小説家であることが、新たに成るだろう。続々重々しい論攷本・ エッセイ本が居並ぶ。
2017 6/6 187
* 選集から、私なりの詞華集は省けない。少なくも、実作と鑑賞とは。詞華集は、組み付けが難しい。ことに歌も句も詩のようなのも混じっていると。少しずつ、用意はしておかないと、急には入稿用意できない。
* わたしの歌集は『少年』で始まるが、それ以前、また時期も重なって、沢山な割愛作がある。電器屋をしていた父の店で剰っていた裏白宣伝用紙を丁寧に畳んで、沢山な日々の歌作を几帳面に書きためていたのが手元に溜まっているハズである。ちょいと読み返してみたいとも思い、割愛したものだ処分した方が良いとも。けっこう思いでも詰まっていて、電器資料としても興味は在る。
* 十時になる。機械からは離れようか。
2017 6/6 187
☆ 数日前、
夜中に ほととぎすの啼くのを聞き、息を呑みました。来年もこの声を聞くことができるかと、想ったからでございます。
本日はご高著をご恵贈たまわりまことにありがとうございました。百六十四頁 ほんとうに好きなものは、たにんに言えないものでございます。 私も「蝶の 皿」が なかなか人に話せなくて困っております これほど素晴らしいものほ教えるのが もったいない… 私だけの胸に秘めておきたい、大事な大事な世界と 思っております。 松子夫人の水茎の跡も麗しいおたよりに感動いたしました。
梅雨ら入りましたが、どうぞご無理をなさいませんよう、 くれぐれも御身体お大切に、
益々のご活躍をお祈り申し上げます かしこ 京・鳴瀧 浪
* 大学へ入って専攻をきめるのに、日本史かと思っていたのをふらふらっと美学・藝術学にかえた。面接された園頼三先生のお誘いに乗ったのだ。そのとき、 どんな文学作品が好きかと聞かれ、直哉の「暗夜行路」トルストイの「復活」と答え、何故かと聞かれて「男」が主人公なのでと返事した。我ながら驚いた返事 だが先生方も思わず沈黙された。本当なら、当然も当然に谷崎潤一郎の「吉野葛」や「細雪」と答えて当然であったのに、黙っていたのだ。
あのときのこと、今もよく憶えている。忘れたことがない。谷崎について思うさま書きたくて、その為には先ず小説家になろうと本気で思っていた。その通りになった、なれた。今回の、そして次回にも続く「選集」に二巻の谷崎論は、この方面で私の代表作と観て貰えるだろう。
「浪」さんのお手紙を嬉しく戴いた。いつものように過分のご支援まで併せ頂戴した。感謝に堪えません。
2017 6/12 187
* 荷風原作を脚色した映画「濹東綺譚」を山本富士子、芥川比呂志、新珠三千代らで観た。胸に迫るものが時代背景も巧みに描き取られ、ヒロインの生きのありさまが美しいまでに哀しかった。わたしの今書いている長編は、似もつかないが、しかもかなり深く重なってくるだろう。
* 身も病み、人も病み、世も病んでいる。淋しいことだ。もう機械からは離れる。 2017 6/12 187
☆ 秦恒平様
『秦恒平選集第20巻』を昨日昼に拝承。忝う存じました。早速読み始め、日付が変わってからも熱心に活字 を追いました。読み飛ばせません。「眼光紙背に徹する」推理に敬服しつつ、また漱石に対抗する文学的世界の構築者を叙述する試みとしても、谷崎における人 間の性(さが)への探索・「離見の見」的な耽溺と想像力・想像力・構築力の湧出の秘密に触れる思いを味わいつつ、さらにはキリスト教的な人間観との差異と 人間的な現実との重なりを意識しつつ、と、読みつつ複雑に心を動かしました。
著者の力業と文章力には敬服のほかありません。私とは違った日本人の伝統と心術に根ざした美意識があるのだと、つくづく感じました。感想は当たり前ながら、深い衝撃が残ります。
一つ、お赦しをいただきたいことがあります。
私の死後ーーこの年になると不意に意思伝達不能に陥る危険もありますーー他の書籍ともども『秦恒平選集』が古書店に売り払われないように、前々から考え ていたことですが、集を東北学院大学図書館に寄贈する件の実行に入りました。東北学院大学には、「東北弁のシェイクスピア」の劇団をその都度結成して実行 してきた下館和巳教授(私の大学の後輩で親しい友人)がおります。下館君を介して、図書館長の意向を確かめたところ、実にありがたい、とのお返事を先週末 に受けました。そこで早速昨日、既刊分19冊を宅急便で送りました。今回の20巻以降も読了し、しばし美しい著作を手元に置いて愛でてから、逐次送り届け るつもりです。寄贈先を東北と決めたのは、文化までもが東京一極集中となることへのささやかな抵抗です。東北学院大学泉キャンパスの教養学部図書館の、開 架式の書棚に並べられます。
ありがとうございました。 ICU 浩
* このお申し越しは、まことに有り難く、私の願いのままを為し下さろうとしている。
この『秦 恒平選集』を謹呈している方々の多くは、殆どというに近く私なみの高齢の知己であり、願わくは、いつかは、然るべき施設なり個人なりにお預け頂ければどん なに有り難いかと思い続けてきた。亡くなられた国文学者の島津忠夫さんは、所縁のおありの或る記念図書館へ寄贈の手続きをしておいて下さり、わたしは安ん じてご遺族のもとへ本をお届けし続けられる。「浩」先生のおはからい、とても有り難い。
この私家版が、数は知れないがネット上に売り物として出ていることを親切な読者が心配して知らせてくれている。文壇人・出版人ないし読者の中にも贈った 本をそのように始末される人の有ろうことは、察している。屑として廃棄されるよりは有り難いことと、一人にでも多く目に触れて頂ければわたしは本望と思っ ている、が、もしご縁あって、然るべき個人や図書館や施設へ移転して行くなら有り難いことと念願している。それは、私の方からむしろお願いしたいことで あって、島津先生生前のご配慮や「浩」名誉教授のおはからいに、わたしは感激している。
他の多くの多くの方々にも、本の御処分はお任せしていますとお願いも籠めてお伝え申したい。願わくは故紙・塵屑として廃棄はご勘弁願いたい。
2017 6/13 187
* なぜ睡れなかったか。悩んだのではない、どの本も本もすこぶる面白かった、いや心惹く物をもっていて、ついつい読み進んでいたのだ。
源氏物語は、宇治十帖「橋姫」の巻が、平易でしかも静かに息の籠もった佳い文章で、宇治八宮の境涯へわたしを誘い込んだ。高徳の山僧や、冷泉院、中将薫らの心優しい登場も嬉しく、まだ幼いほどの姫姉妹、大君、中君の姿にももののあはれはひとしお増した。
わたしが、日本の古典ものがたりに触れて文を綴った最初は高校の新聞に寄稿した「更級日記の夢」そして大学へ入学早々創刊された紀要にまだまだ心幼い 「宇治十帖と人間形成」なるモノを掲載して貰った。三度目が、会社勤めの合間を盗むように東大国文科の「書庫」ゑとくべつに入れてもらい、小説『斎王譜= 慈子』を生み出す下地のような「徒然草の執筆動機について」であった、コレも母校の紀要に送り二回に分載された。もうあの頃は何としても、きっと谷崎潤一 郎論をと願っていた。谷崎へとわたしを導いたのは、むろん源氏物語であった、母と「母」とへの生得の関心であった。一冊の文庫本「吉野葛・蘆刈」がわたし のなかで源氏物語と化合していったのだ。
* このところ「絵巻」月報を次から次へ興味深く教わりおそわり読み進んでいて、「源氏物語絵巻」「一遍聖繪」「鳥獣戯画」「平治物語絵巻」「伴大納言繪 詞」「信貴山縁起絵巻」と孰れ劣らぬ名作について、作家のエッセイ、専門家二三氏の考察や解説、珍しい写真そして美術史家と作家との長めの対談を、大方興 味深く読んでいる。月報の全部を一揆に通読して行けば、関連の知識だけでなく絵巻という不思議な美術への敬愛をしっかり持てるだろう。
但し、読めば読むほど初読でなく、克明にわたしの入れた朱線が「お先に」とわたしを招いている。今度は黒いペンでさらに要点や要所を確認しながら読んで いてまことに興味深い。こんな一連の、すっかり忘れていたが、わたし自身が早々の二番バッターとして「一遍聖繪」をえらい先生と対談していた、きれいに忘 れていた。辻邦生さんや木下順二さんのエッセイも読み返せて懐かしかった、まだもう六、七倍も月報「絵巻」は続く。楽しみなことだ。
これを終えたら、森銑三著作集の月報に次いで、柳田国男全集の全月報、折口信夫全集の全月報もまとめてシコシコと楽しみたい、読みたいと思っている。
2017 6/16 187
* わたしの名前でわたし自身がツイッターやフェイスブックに所感を寄せていたのはもう数年以前の以前のことで、機械操作上の理解不能な障害が起きて、以 降、ただ一行の投稿も不可能になっている。それもまた良いことと諦めて放置したままである。たいへんな量のわたしへの「お知らせ」とか「友誼」の通知が経 営当局には届いているらしくしばしば通知がくるが、その内容をわたしの機械はガンとして読み出さない。そしてそれもまた良いことと諦めている。
もしかして、私の名前などを用いて世に放言の悪戯をする人がいても、全く私の関知しない無縁のよそ事であることを、こういう「イヤな時勢」であればこ そ、シカと確言しておく。わたしの処世と思懐とは、殆ど全部がこのホームページ「作家・秦 恒平の生活と意見」、ないし湖の本・選集という出版活動とに尽くされている。
* 「e-文庫・湖(umi)」への原稿転送がどうしても全面的にはうまくいかない、半端な形では読み出せもするのに。よっぽどややこしいツクリになって いるらしい、人手を頼んでできたものゆえ、わたし一人の手で難所を通り抜けることが難しすぎる、しかし、やってみつづける。老いのアタマでは複雑な機械の 回路を容易には通り抜けられないが、くり返し粘り強く試み続けることは出来るハズである。頭の体操と思えばいい。あわてふためくことはない。
* ゆっくり湯の中で枕草子を嘆賞した。枕草子を通読した日本人はたぶん源氏物語を気張って読み通した人よりも数少ないのではないか、随筆としてもかなり の量がある。岩波文庫の徒然草と枕草子を比べても分かる、倍以上も枕草子の文庫本は分厚い。正確にわたしがどれ程の量を精選したかは覚えないが、優に湖の 本一巻分にはなっている。おおかた取るべく選ぶべきは選んだという実感がある。もう初校を終えるが、校正にかなりの時間を要したのは、普通のほんとちが い、無数にルビをふらないと、古典世界に馴染まない人ほど生活具や衣裳や官職や人名など読みにくいであろうから。また和文脈を念頭に現代語訳しているか ら、モノ・コト・ヒトの名ばかりでなく、言葉遣いにもなるべく柔らかに静かにとこころがけた。漢字熟語の音読みにはしらず、和語で読みを振っている。原著 者の日本語ではあれ、現代のわたくしの日本語としても静かに柔らかに書き進めたかった。それで、かなりの時間が校正にかかった。もうすこし、で、要再校に まわせるが、現場には手間を掛けてもらうことになる。
* わたしは詩歌の現代語訳にははっきり反対で、大意を紹介しても訳さないようにしている。詩歌はあくまで原作のままの「うったえ」に応じるべしと。散文 でも、古典ないし文語の作を成るべく現代の散文に訳したくはない。上の学研版「枕草子」の選訳のほかには同じく学研版「明治の古典」シリーズ中の泉鏡花篇 を担当し、なかの一短編「龍潭譚」だけを今日語に訳した。主部にあたる現代語の名作「高野聖」「歌行燈」には、チエを絞って深く読みかつ慎重に、すくなか らぬ脚注を附した。その脚注にわたしは自信をもっている。煎薬
「龍潭譚」は佳い短編で、訳して行きながら、これにも丁寧に脚注を補った。その一部で大先輩の批評家とちょっとした論戦が生じかけたりしたが、訂正はしていない。これもいずれいいかたちで「湖の本」で取り上げたい。
* このホームページ「作家・秦 恒平の文学と生活」には、入れ子になって、厖大な日記部分「作家・秦 恒平の生活と意見」のほかにも、現に掲載六百作を越している秦 恒平責任編輯の電子文藝館「e-文庫・湖(umi)」を始め、湖の本本百数十巻等大量の作品・原稿(コンテンツ)のアーカイヴをも成している。
これらをすべて万一に備えて「保管」して下さるという声も届いていて、有り難く預ける用意をしているのだが、どうしてどうして簡単に整理がつかないで、毎日のように少しずつ複雑な手順で手を掛けつづけている。
ところが、実は私の機械で、上の「ホームページ」部分は、大きく云って全体の半量、その他に、やはり莫大な「一太郎」領域が在り、此処にはたやすくは外 へ持ち出せない、たとえばこの二十年の無数の知人のメールや、住所録や、メルアドや、むろん創作のためではあるが機械の奥から採集してきたアブナイ写真 や、真っ当で厖大な自慢の家庭写真などが、書きためた数え切れない原稿や資料やコピーなどとともに唸るほど溜まっている。これらも、いつでも人手に托せら れるようには分類整理しておかねばならず、しかし今分はバンザイ状態。ここには、全日記(私語)を三十数種に分類した全部も入っていて、思い切ってホーム ページに含ませておくことも必要かと思っている。
とにかくも、今は、親切に送ってきて戴いている外付けのハードディスクに、みそもくそも全部ひとからげに移転・保存しつつあるが、これは個人情報的にも 門外不出とするしかない。早く、無難に整理しておきたいと、この歳になって、なかなか俗用から離れられない、そのおかげで或いはわたしはまずまず日々を精 神的には活溌に生き延び得ているのだとも思うことにしている。
つまりは、こんな、今いう何もかもが、すべていつか、いつかどころか意外に早く烏有に帰し地球の埃となり失せるのだと、わたし自身は想っている。だから、出来ることはしておこうと思っている。この混乱思考はなかなかに趣味に富んでいるのかも。
2017 6/17 187
* 選集を送り終え、病院も医院も今月は一段落し、静かに心寛いでいる、にくむべき権道に図に乗っている政権への嫌悪の他は。
明日は、わたしにとって四十八年目の桜桃忌、歌舞伎座の幸四郎や仁左衛門を楽しんでくる。可愛い限りの米吉も「御所五郎蔵」でいい役をする。実はこの芝居、いまも書きかけの小説「清水坂」で役に立ってくれる、はず。
わたし久しぶりに散髪した、妻も髪を綺麗にしてきた。
雨だろうが、慈雨の季の風情とうけいれ、傘も持って出よう。
2017 6/18 187
* けさのテレビで あの志ん生の娘夫妻(七十・六十台)が「終活(死に支度)」を語っていたのはいちいち胸に落ちて教えられた。夫婦の気がまだ慥かであ るうちにこそ、「二人にのみ大事なモノ」を今のうちに「処分」できる。思い出はだいじだが、思い出の「モノ・シナ」は場所を塞ぐだけでなくアトの者が迷惑 するだけ。
「モノを捨てない」歳月をわたしは過ごしてきた。むろんそれが役立ってきた、創作や執筆の生活には。しかし、もう処分をためらうまい。
* そんなことを言いながら、次の「湖の本137」の編輯をと、とにかくも原稿類の大量にストックさけた大袋のなかのたくさんな小袋を点検し始めたら、まだ出番を待っている作物が我ながら呆れるほど溜まって在る。戸惑ってしまい、どう手を着けていいのやら。
2017 6/22 187
☆ 秀逸な谷崎論
おどろきました。
谷崎の義母あるいは生母との相姦の説 賛成です。
貴兄の谷崎にかける情熱 どこから来るのか興味あります。 梅原猛
* 梅原さんにしか書けない自筆の悪筆、「夢の浮橋」や「蘆刈」を読まれたのであろう、その「興味」とあるのへ「まるで直に応えた」ような、ある「樫」署 名の人の「秦 恒平」を語る、大昔きっちり四十年まえの新聞記事が、さっき云ういろんな関連資料の袋からすぐ現れ出た。ビックリした。
せっかくであり、その一文を、ここに転載しておく。
☆ 作家の群像 秦 恒平
象徴夢の空虚さ埋める営為 (見出し)
京都新聞 昭和五十二年(一九七七)十二月三十日
ここのところ谷崎への傾倒が目立つようで、松子夫人をたすけて『谷崎潤一郎家集』を編んだり谷崎に関する評論を一本にまとめたりしている。
ここのところ、といっても秦恒平の谷崎心酔の根はふかい。それは小説を書く以前からのもので、極論すれば谷崎がいたから小説を書き出した、といってもい いほどだが、見逃せないのは、彼の捉(とら)える谷崎の背後には源氏物語があることだ。そして彼の谷崎論は、そこに源氏を重ねて徹頭徹尾母恋いの谷崎論で あるところに特色がある。源氏における桐壺、藤壷、紫の上の、紫のゆかり三代の面影を谷崎の人と作品をたずねて、その分析はまことにあざやかだと言わねば ならない。「夢の浮橋」や「蘆刈」をこの独自のキイから解く手際など、ちょっとした推理小説もどきのおもしろさなのである。
秦恒平をして、こういう源氏重ねの母恋いという、独自の谷崎読みにしたものは何か。この年代の作家にめずらしく古典につよいことも理由の一つにちがいないが、根本の理由は、もちろん、もっとこの作家本来のモチーフにかかわるもののなかにあるだろう。
彼が「清経入水」で太宰賞をとったのは昭和四十四年だが、この作品は、疎開した先の、丹波の山奥における鬼女めいた美少女との出会いというストーリーを 持ち、それに清経塚の伝説がからんで怪奇小説の趣向になっている。私小説の傾向のつよいわが国の文学的風土に沿うかのように、一見、私小説とみまがう入り 口を用意しながら、やがて夢幻の世界に招じ入れるという秦恒平の特色はすでにこの処女作によく出ている。そしてここで彼は、次のような、主人公が繰り返し 見る夢の光景を描いてみせる。
それは、どこか坂の上に、なつかしい気分をさそう一軒の家があって、主人公はそこへ入って行くのだが、入って行くと、人の気配が散ってしまう。さっきしていた声を求めて部屋をつぎつぎに開けて行っても、人影に出会うことがない。そういう夢である。
のち、「貰い子」という主題を明瞭(りょう)にする作者にとって、この空虚な部屋は彼の存在の根であり、生まれた場所である。それは彼に拒まれており、 還(かえ)ろうとしても還って行くことの出来ない場所である。そこには人がいない。あるいは居ても、それが誰(だれ)であるかわからない。
この象徴夢の空虚さを埋めることが、すなわち秦恒平の文学的営為だと言えば、先の谷崎論のこの作家においてもつ意味は解けたも同然だろう。大きく摑(つか)んで、秦恒平の文学もまた母恋いの文学だと言っていいのである。
しかし源氏における生母桐壺、またその亡き桐壺に生き写しの義母藤壺の場合とちがって、秦恒平の作品では生母は何者であるとも知れず、また知れたところでそれは主人公を拒んだ。源氏=谷崎の幸福な例と、彼がたもとを分かたねばならないのはそのためだ。
ここから彼は肉親の立場を超えた特殊な身内観に導かれる。たとえ、血はつながらなくても、出生以前の闇(やみ)において同族であったことの結果として、 この世にはふしぎな出会いというものがあるのではないか、と。「清経入水」の、疎開地で出会う鬼女めいた美女はそういう身内の一人であり、年齢のことを考 えなければ、やはり母の代理と言えるだろう。
秦恒平の文学は、わが国の文学風土には根づきにくい作風である。仕事の割に文壇に評価されないのはそのためだが、どうかクサらずに、谷崎を念頭に、気長に大成を期していただきたい。(樫)
昭和十年京都市生まれ。同志社大学文学部卒。
著書「清経入水」「秘色」「閨秀」「みごもりの湖」「誘惑」など。
* 第三者としてはたいそう良く観てもらっている。少なくも記事の当時のわたしの思いとしては「その通り」と応えても言い過ぎにならない。「秦恒平の文学は、わが国の文学風土には根づきにくい作風である。仕事の割に文壇に評価されないのはそのためだが、どうかクサらずに、谷崎を念頭に、気長に大成を期していただきたい」とは知己の弁と、感謝を新たにする。思えば何人も何人もの人からおなじ事を言われいぶや激励を受けてきた。そもそも最初に受けた新聞の文藝時評や書評でも、何人かが、わたしを名指しで「異端の正統」と大きな見出しを書かれていた。まさしくわたし自身の思いに触れていた。
さて「その後」の成り行きは、おのずとまた新たな別の知己の批判と評価にまちたい。
* 東大大学院文学部、京都府立京都学・歴彩館から選集第二十巻受領の挨拶があった。
☆ 労作有難うございます。
秦先生、昨日は台風並みの大荒れの天候で、眠れぬ夜をすごさざるを得ませんでした。昨今の気候はちょっと予想を超えることが多く大変です。
ヨーロッパから戻り、少しはゆっくりできると思ったのもつかの間、共謀罪をめぐる大紛争に巻き込まれ、国際ペンとして2度目の抗議声明を発表する羽目に なりました。サンケイ、読売が内政干渉だと大騒ぎを始め、日本ペンも右翼からの抗議電話で追いまくられたとの事でした。だんだんいやな社会になってきまし たが、それにしても我々の無力さに絶望せざるを得ません。なんとも口惜しい気分です。
こんな折、たて続けに先生からの著作が送られてきて元気を頂きました。これだけ規則正しく出版を続ける先生の熱意と言うか、動きつづけるエネルギーと覚悟にはただただ脱帽するばかりです。
とあれ、梅雨もこれからが本番。先生におかれましてはくれぐれもご自愛のほど切に願っております。 国際ペン専務理事 昭
* 御苦労をかけている。どうかお怪我など無くご尽力下さい。
* 安倍総理と内閣との卑怯としか言いようのない不誠実な政治対応の数々、反吐が出そう。
2017 6/22 187
☆ 『秦恒平選集』第20巻を頂戴し、
誠に有難うございました。
谷崎潤一郎研究に逸することの出来ない名著『神と玩具との間』を中心とした谷崎研究の数々
を改めて拝読しています。
第21巻も谷崎論集とのこと、秦様の長年に亘る熱意が窺われます。当時、-部で流れたという谷崎の隠し子との噂も、今となっては興味深いエビソ一ドです。
新『谷崎潤一郎全集』も完結。研究の進展が期待できる一方、谷崎研究会が閉じられたことが残念です。
鏡花研究会は健在。 田中励儀 鏡花研究家 同志社大学教授
* 鏡花研究会は結集の当初から熱心な研究ひとすじで、羨ましいほどだった。
松子夫人のお元気な頃から、「谷崎研究会」の結成を熱く望んで、わたし自身は研究者ではないけれど、いろんな面で応援もしたかった。だが、わたしに声を 掛けてくるだれ一人もなかった。谷崎学のためにわたしはあくまで「外野」に過ぎなかったらしく、研究会がどんなふうに開かれていたのか、どんな見るべき成 果をあげたのかも、全然、目にも耳にもしたことが無かった。もうすでにわたしとしてやれる「谷崎愛の成果」は出し切っていたし、けっきょく、「谷崎研究 会」などというモノが本当に存在していたのかすら今日まで知らずじまいだった。知らぬままに、いつ知れず「閉じられた」と。
「鏡花学」もまた「川端学」も「健在」と聞いている。「谷崎学」には適切で的確な太い柱になれる学者・研究者が寄らなかったのか、ぜひ将来の優れた学究に期待を掛けたい。
* 光明寺の黄色瑞華さん、大阪池田市の陶芸家江口滉さんからも、お便りがあった。
* 発送用意もしながら、書きかけの長編二つの進行や仕上げに心身を励ましたい。
2017 6/23 187
* 長い小説の推敲や補強に昨日今日手をかけてきた。「湖の本136 枕草子」への「私語の刻 あとがき」も書いた。いま大量二巻分の初校と再校も抱えているが、慌てる必要なく、ていねいに読み進めたい。
2017 6/25 187
☆ 参考文献なしで卒論をお書きになったとは。ふつうの学生は参考文献の切り貼りでフーフーしながら卒論書いていますから、担当教授は驚愕なさったのではありませんか。参考文献なしということだけで落第ものなのに、卒論が認められたというのはそういうことです。
テレビや新聞のニュースを観ると憤死しそうで、心落ち着くのは難しいものです。
みづうみは、いつものようにお仕事でございましょう。どうぞご無理のないように、いつもいつも楽しんでくださいますように。 蘆 満目の青蘆に雨やむ間なし 蒼石
* 参考文献無しの卒論、自分でも今になってビックリしているが。評点の80だったのは覚えていてそのまま院の文学研究科に進学したが、一年で中退し東京へ出 た。しょせん学者にはなれなかったろう。東工大でもわたしはガンとして「作家」教授だった。博士号も大学院教授も奨められたが受ける気はなく六十歳定年退 官を選んだ。続けていれば、「今」はなかった、たとえたいしたことのない「今」であろうとも。
白状すると、谷崎論も、書架をこぼれるほど人様の研究著書など頂戴していながら、殆ど頁も開いていない。自分で書いた批評や鑑賞や読み・書きは、ただ谷崎全集を読み耽るだけで済む論攷であった。事実それで事足りている。
2017 6/26 187
* 秀歌秀句をさりげなく引いてくるのは、たやすいことでない。いつもメールに添えて季の俳句を呉れる読者がいて、よく吟味されている。
わたしの好みと知っていて古歌を添えて、また主にしたメールももらうことがあるが、かなり意味や意図の直か付けになり、とかく歌の妙や秀がしみじみとれていない。秀歌・秀句の「撰」は容易くはない。優れた物語での相聞・応酬や引歌のうまさにはいつも感嘆する。
* とはいえ近年のわが作歌・作句の行儀悪く構わないことは、度が過ぎているとあちこちで叱られているだろう。
2017 6/30 187
* 「ある寓話」に取り組んでいた。芯から疲れた。
2017 7/1 188
* 老いの自覚では、わたしの場合、脚力の衰え、手先の痺れ、視力の喪失、記憶力の低下、食欲の減退が挙げられる。もう一ついえば、いい意味でも、宜しくない のかも知れないが「無雑作に」慣れるないし流れること。こまごまと執着せずに「やっちゃって」いる例が増え、広い意味で行儀がわるくなっている。つまり 「構わなく」なっている、衣食住や物言いに。よろしくもないが、よくない一辺倒とも思っていない。しぜん「文学・文藝」にもそれはよかれあしかれ表れてい るだろう、往時『少年』の短歌と近年・昨今の『光塵』『亂聲』の述懐をみくらべても歴然としていて、それが衰えの表れとばかりは云えない。
この七日に出来てくる「湖の本135」の小説二作「黒谷」「女坂」も無雑作なほど短い時間で或る意味書き流している。若い日々の入念に入念を積んだ創作とはあっさり書き置いている。
この二作をいっそ気軽に合間に書いて、現にうんうん云いながら書き継ぎ書き直し続けている長編にしても、姿勢も方法も念の入れ所もやはり若い日々のもの とはちがう。違って当然と思いながら根気よくやっている。この根気よく気を入れてまだ書けていること、を、生き延びている老いぢからと思っている。
いい感じに無雑作な作も創り続けたい。
2017 7/5 188
* 暑さに参る。仕事にミスも出ているかと案じられる。気分を遊ばせてやらないと、千切れる。
* よほど疲れた。
* かなり以前から右手の指が五本ビンとまっすぐ延ばせない。握りもならない。ことに中指は骨が途中でナマって曲げても伸ばしてもペキッと音がしそうに痛む。
昨日今日たてつづけに湖の本を封筒に入れ封をする手作業の途中から掌ぜんたいが攣縮し拗くれてくるのに参った。激痛ではないが、掌も指も攣れて捩れてくるのは気味が悪い。左手はさほどの不便はなく、やはり右手の使い過ぎなのだろう。
* そんなでありながら、頭の中では仕たいしごと、仕掛けたいしごと、もう半ば思いついて呼ばれている新しいしごとが、渦まくようにわたしをかき混ぜてくる。調べたり、したい仕事のためにこのところは読書していない、面白そうに感じたさまざまに実に浮気に手を出している、もっとも通俗な読み物はむろん、あのり小説を読もうとしていない。古典か専門書か図録などを脈絡なく拾い読んでいる。そんな中から刺戟が来る。オとかオオっとか立ち止まって同じ箇所を何度も読んだりして興がっていると「書けよ」「書けるんじゃないか」と内心に促される。これって、かなり落ち着かないことでもある。
* なによりも濫読していて、突き刺されるように関心を持たされてしまうことが、たとえ断片でも、しょっちゅう胸の中へ跳び込んできて、それは痛み、ま、快い痛みに類する。興味をすぐ覚えてしまうのだ。わるいことではないが、必ずしもいいこととは言いにくい。
* そんな中からいまきつい痛みのように突き刺されている「地名」があり、その向こうにまだ書き出しもしていない物語がもやもや動きかけている。おれは今あまりに忙しいんだよとニゲを打っているが許してくれないかも知れぬ。わたしはモノやヒトの名に惹かれるタチらしい。「折臂翁」「清経」「秘色」「蝶の皿」「三輪山」「廬山」「秋萩帖」「加賀少納言」いましも送り出している「黒谷」もそうだし書きつづけているのも「清水坂」にひそんだある「名」だ。
信じられない話だが…」という大きな表題で、掌説よりは長い興味も趣味もある短編を幾つも書いてみたいなと催しかけている。気はある。時間と体力とが欲しい。
2017 7/8 188
* このホームページは、まだ、幾らでも纏めて書き入れ可能の部屋がもてている。部屋を創りふやすことも出来る。
で、感想のようなことはこの「私語」の日誌でいいが、微妙に創作的な着想・落想ないし試筆の類は、その為の部屋を建てて、随時書きためて行こうと想う。
2017 7/10 188
* 今度の「湖の本135」には新作の小説二篇に、「女の噂」と、ちと露骨な題で感想が付け加えてある。「こっちの方」が先に読まれてしまうかなあ。
2017 7/10 188
* 長編「ある寓話 ユニオ・ミスティカ」 三度び四度び 読み返して、また終結部へ来ている。これは、どう理屈をつけても、無惨な物語である。そういう無惨なものが作者のわたしに沁みこんでいるのだろうか。たいていの創作はひとさまに読んでもらいたいのだが、これは誰にも読んでもらいたくない、それほど無惨なもののように、今は、思えている。どう諦めをつけて手放せるのか。
2017 7/10 188
* さ、十一時。機械から離れます。 京都は、祇園会。宵山もまぢかく、コンコンチキチンが聞こえてくる。わたしの腸にまでしみとおった祇園会への思いは、『慈子』にある。寺町で後祭りの山や鉾をみたあと、紙屋川にお利根さんの家を訪ねて慈子に逢っている。あの静かさ、のなかに通り過ぎてきた祇園祭の本当の魅力が溶け合うていた。あの静かさへ帰りたい。
2017 7/11 188
* 頭の中が蜘蛛の巣の崩れたようなめちゃくちゃな網目になっていて、よくいえば万華鏡のよう。持った両手が痺れてくる重い大きな本をかつがつ支え持って、たくさん古い歴史を調べ読んだ。同じ京都でも、比較的わたしにも暗い地域がある。目は、思いは、今は鴨川ぞいに下流へ、南へ南へと向いている。掴み出せるといいのだが。しかし正直な所いまのわたしにそんな穿鑿や探索のヒマは無いはずなのである。「或る寓話」はともかくほぼ全容を掴み取っていて、推敲しての納得得られれば済むが、「清水坂」は複雑怪奇にまだまだ半ばで、世界を広めながら組み立てねばならない。厄介なことにいましもムクムク関心を持ち始めた歴史空間が、この「清水坂」世界と無縁でなくどこかで連携してしまいそうなので、ややこしくアタマがきしむのである。どうしよう。成るようになるなら好きに成らせてみよう。
* もう一つまるで別に思案のしどころに逼られているのは、目の前の目の上の書架をどう強引にデモ整理して本を入れ替えたり動かしたり省いたりしないと、わたしの選集が、もう十三巻、みなで三十三巻、おさまらないことになってきた。大小四段八劃の書架のきっちり一段一劃を選集二十巻で占めてしまった。もう十三册が加わる畾地を確保しなくてはサマにならない、つまりは他の本を抜き出して庭の書庫へ仕舞わねばならない。たださえ、脚の踏み場もないほどモノの積み重なったこの機械仕事の書斎を日々なんとか片づけたいと思いつつ、にっちもさっちも行かぬまま放置してある。放置というのは、さらに更にひどいことになって行くわけで、しかもこの始末はわたし自身でつけるしか手がない。しまいに天井ではない、床が抜けて階下へ転落しないか心配で心配で。
* が、そんなありさまだからこそ生き生きとしてられるのか、も。機械三台、附属の機械も幾つか。しかもものに埋められたように暮らしている六畳の小部屋は、ごく当たり前にあったかいのである。大小の書や繪や写真がこまめに数えると二十七点も場をふさいでいる。いかに雑然か、けれど、ま、あったかい気分でおれる。電話は一切来ない。音楽は好きに機械から聴き出せる。ちょっと手順を覚え直せば録画した映画も観たければ好きに観られるはず。いいじゃないかこれで、死ぬまでこれで、と、結局は思っている。
2017 7/12 188
* 記憶力は落ちていく一方だから、時間を待ったり何か待機したりやり過ごしたりの折り、今では神武から平成まで百二十五代を念仏のように諳誦して、済ませている。ほぼ二分半ほど掛かる。
おかげで各時代のいろいろを付随して思い出せ。上古から奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、江戸時代の色合いまでが事変や人名とともに脳裏に描けている。歴史に親しめていて、今日の日本や世界の方がうすぐらくなっていたりする。伊勢や和泉や少納言や西行や兼好や世阿弥らの時代が、何とも云えず身近に感じられ、なにかというと古典の全集へ近寄って行く。裏切られない確かなものがそこにあり、それらを味わい推しはかる際の目盛りのように歴代天皇の諡がしまりを付けてくれる。
* 「谷崎」世界を卒業して、いまは「中世」に、追っては「平安」へ、選集は動いて行く。わたしも動いて行く。世界は滅亡するかもしれないが、わたしは生きて行く。
2017 7/13 188
* このところ、というより、もう久しくわたしのために一等身近に欲しい読み物は、じつは一冊一冊が重い重い何巻もの「日本史大事典」だと思い当たり、同志社の田中研究室へ送り届ける春陽堂版『鏡花全集』十五巻を目の前の書架から抜いたあとへ平凡社版六巻を移し入れた。吉川弘文館のこれより何倍もある「日本歴史大事典」はとても入り切らず階下の小書斎に架蔵している。古典そして歴史、その面白さが身に沁みているので「現代」への強い関心も生まれる。そう信じてきた。
とにかくも他の本はともかく、事典・辞典は少なくも大小五十種以上、大切にしている。
* ちくま少年図書館におさめた少年らに語りかける『日本史との出会い 中世に学ぼう』をまた初校し終えた。生涯の一代表作ともなれと熱と愛をこめ語りかけたもの、「ちくま少年図書館」はたしかサンケイ出版文化賞を受け、わたしへも記念品が贈られてきたのを覚えている。本読みでは名うてのうるさ方だった安田武が、わざわざわたしを掴まえに来て「こういう教科書で日本史を習いたかったよ」と大まじめだったのを懐かしく思い出す。『選集第二十三巻』では他の何よりもこの一作を今の大人の人たちにも読まれたい、今のような情けない日本なればこそ、と願っている。今年中には刊行できるはず。
2017 7/15 188
* 東大名誉教授久保田淳さんに戴いていた「源平盛衰記」の第七巻に久しい関心事への言及のあるのをいまごろ見付け出し、呆れ、また喜んでいる。仕事を押してくれる。
2017 7/16 188
* 作者が過去に日記などで喋ったり書いてたりを足がかり手がかりにする小説の「読み」は、しばしば作者にだまされバカされる結果になる。谷崎読みで徹底的にわたしは覚えた。
作の全ては現に書かれ只今読んだ「現作の表現」に尽きていて、それを眼光紙背に徹して如何なる行間からも読み取らねば、ただ賢そうな「知ったかぶりの読み違いや読み落とし」に陥る。
過去の古証文にばかりとりついて、眼前の本文から心眼を逸らした「研究と称する軽い読み」が、とかく、はやりがち。作者たちはたいがいそう思っているだろう、作者が万能で神の如き者とは決して言わない、とても言えない、けれど。
2017 7/17 188
☆ 祇園祭
暑い日、市役所前、河原町御池角で山鉾巡行を見て、これから尾張へ帰ります。
昨日宵山はやや雨にたたられましたが、わたしは宵々山に行き、昨日は教室でした。
(中略)
今は列車の中、改めて書きます。
泉山戒光寺の仏さんに叱られに行きたいでしょうね。叱られなくてイイですが!
お元気で 尾張の鳶
* いま、「京都」の地名とともに、むせるほど想いをめぐらせている「或るモノ・コト・ヒトたち」のために、帰りの車中から、的確でたくさんな「オフレコ」のアドバイスがあった。おおかたは自身もう目を向けてはいたが、背後を支えられたようで自信ももてる。ありがとう。
* 誰もいない畳敷きの御堂にあがりこむと、内陣の奥に大仏さんがおいでになる。座像でない立像で、お顔は覗き込むように見上げる。静座したり胡座になったり、時には昼寝もした。だーれも来ない。戒光寺の丈六釈迦はわがものては言わなくても、いつも二人きりで向きあってきた。日吉ヶ丘高校に通って、一つは泉涌寺の来迎院、二つは奥の観音寺、三つは広大な東福寺の全部、それら泉涌寺末寺のひとつ戒光寺の丈六さんの御堂。安らかにいつも一人きりになれてお釈迦さんに日により叱られたり笑われたり知らん顔をされたりした。高校時代も、大学へ行ってからも、東京で暮らして帰ってくるたびにも。
たまらなく懐かしい。
2017 7/17 188
* 頭の中 交通整理して 思案の程を区分けし整頓し連絡を付け合わないと、狂いそう。
2017 7/18 188
* 「湖の本135」へ大勢の払い込みがあり、なかには選集へ支援のお志もまじり、また、何人もの方からお便りも戴いている。
ただ「黒谷」へ手が出ないで、「女の噂」から読んだというひとが多いのに苦笑。「黒谷」は、そんなに難しい作だったろうか。かなりの読み手であって可笑しくない人も、読みが届いてなくて、ひとこと示唆を送ったら、「予断によって、すっかり目を眩まされてました。降参です」とあやまって来られた。
谷崎先生と同じにみるのはオコガマシイが、「蘆刈」「春琴抄」「夢の浮橋」などあたら名作を何十年も正しく読み解かれぬまま亡くなったのは、残念を越してさぞ可笑しかったろうと想う。
* それにしても書きかけの「或る寓話 ユニオミスティカ(仮題)」に期待が寄せられ、有り難いが困惑もしている。これは、とてもこのままは本にしかねるほど性の秘儀に嵌って行く。どうしよう。これよりも早く『清水坂(仮題)』を進展させたいのだが。これと絡み合うようにいましも「賽の河原」へ関心が向いている。「信じられない話だが」と前置きの連作にも心惹かれている。こんな浮わ気ではいかんなあと手綱をしぼるのだがこの年になって「意馬心猿」のあばれようにヘキエキしている。
2017 7/18 188
* 夜前、床に就いてからものを「読み」に読んで、おまけに夜中に、録画してあった「NCIS」を一時間観て、さらに横になってから『絵巻』月報や中世王朝物語全集の『いはでしのぶ』の超入り組んだ関係系図を検討したり、京都市内地図に見入ったりして、四時頃、リーゼの助けを借りて寝入った。寝過ぎたかと思ったが八時過ぎに目ざめた。
国内外をとわずいま現代小説にまったく手が出ない。宇治十帖のみごとな文体にふれたり、和歌や秀句を読んだり、絵巻の世界や史実の闇をまさぐったりしていると、とてもかったるい現世ものへ気が向かない。あきらかにわたしが異常なのであろうが、しようがない。宇治十帖「椎本」巻では八宮が薨じ、のこされた二人の姫に薫や匂がからみついてくる。もののあはれしみじみと行文の確かさ美しさ、これはもう現代では稀有というより絶望的に出会えまい。
文学という藝術は溌剌とした生きの命である文体と表現の個性で自立する。独自の文体を持てなくては作家などと謂えない。いま世間にばらまかれている、私の所へも送られてくる安い同人誌の作のほぼ全部は、ただの自伝風か回顧録ふうに止まっていて、文体なく表現なく雑な「説明」に終始している。情けない。
歌わない音楽、独特な息づかいが刻む「間」の流れの飛沫くほどの確かさ美しさ、ちからづよさ。
むかし、亡くなった杉森久英さん巌谷大四さんと銀座を歩いていたとき、ある中年過ぎた作家志望の女性が熱心にあとを追ってきて、しきりに杉森さんからの助言を求め続けていた。しまいに、何が一番大事でしょうと訊ね、するとそれまで黙って応えなかった杉森さんは一言、「文体」とだけ言われてそれだけだった。
そのあと、わたしは巌谷さん杉森さんに「はちまき岡田」でご馳走になった。わたしは店が自慢の美味しい料理以上に、作家でもあったし名編集者でもあった杉森久英さんの、端的に「文体」といわれた一語を公案のように胸にとりこんだ。一緒に中国へ旅した巌谷さんも名編集者だった。後に、亡くなる日まで丁寧にお付き合い下さった、大久保房男さんも、いまもことあるつど励まされている新潮社の坂本忠雄さん、講談社の徳島高義さん、天野敬子さん、文春の寺田英視さんらもみな勝れた名編集者だった。もっともっと早くには、太宰賞に満票で選んで下さった選者先生もとびぬれた名編集者でもあられた。おそらく、どのお一人も違うことなく「文学は」とお尋ねすれば「文体」と言われたに相違ない。
* 「季節風」という百巻を超えて続いた同人誌があり、三原弘といういい作家がいた。在野というのもへんだが、そういう風に書き続けて最も立派な仕事をしていた、三原弘は、もうひとり四国の と並んで光る双璧であった。「季節風」は手慣れた書き手達の同人誌で、いつも送ってこられる作を読んでいたが、三浦さんが亡くなってからは、雑誌がただ届くだけになっていた。たまたま片づけごとをしていて「季節風」百一号が出て来た。懐かしくて同人の一人に電話したら病気だった。別の一人にかけたら娘さんで、お父さんは三年も前になくなり、じつは同人の只一人市尾卓さんだけが健在と教わった。声を呑んだが、聞けば皆さんわたしより一世代上であった。
2017 7/20 188
* 若尾文子らの初めて見る、変わった、しかし面白い映画をみながら、月末刊の発送用意を終えた。大きな画面のテレビに張り付くぐらいに近寄らないと役者達の顔が見えにくいとは、情けない。
まだ十時前だが、もう機械からは離れるしかない。
* と言いながら、信じられない話を一つまた二つと手探りしていた。面白い仕事になると、つい時間を忘れている。
「夏バテに気を付けて、元気にお過ごしください」と何方からも言われている。わたしも似たことを言うているのだろう。わたしの場合、一日一日がいわゆる「終活」と思っているので、かなり気ぜわしい。それをうまく和らげて日々を生きて行かねばエンジンが灼けてしまう。幸い「騒壇余人」に徹していて、余分な雑音は希にしか聞こえてこないのが、安楽、有り難い。
2017 7/21 188
* 材料過多でアタマが音たてて呻いている。寝てしまえ寝てしまえと心臓がわたしを揺する。
* 京都の「まるごとイラスト・マップに見入り、詳細な地名辞典をさぐり続けている。イラストマップは遠い記憶を印象濃く甦らせてくれる。ただ、字の小ささに目をこらすのが辛い。
* 整頓もならず手当たり次第に(仕事上の)モノを投げ込んである14段整理棚がこの部屋だけで三つ、階下にも三つ、整理すれば必ず効果が現れると判っていても手が出せない。手を出すには棚の中身をみな吐きだした上で分類整理してまた棚へ戻さねばならないが、ぶちまけられる場所が無い。棚の他にもダンボール詰めの資料も押し入れに幾つもある。それぞれに面白い資料のはずだが、もう活かす余命は望めないのだから棄ててしまえばいいようで、しかしいちいち眺めるだけでも面白い楽しいという未練で、放ってある。
* いま、大学ノートで九册もの、「創作ノート」が見つかった。創作を進めて行く上でのとめどもない自問自答や構想や思いつきが、書き込んである。いろんな小説がそこから鍛えられ出来上がっていった。
そして今また、機械書きでなく、このノートの残る余白を利して、新たな着想にかかわる手書き「ノート」を書き始めようとしている。活気でアタマが灼けそう。加えて、必然、カラダは運動不足。
* 小さな字の重い本で地誌を読みつづけるうちに寝入っていた。寝るのは、わるくない。目が回復する。よくもない。時間が足りなくなる。
2017 7/22 188
* もう昔だが、「竹取物語」について三回にわたり名古屋、京都、東京で連続の講演をした。
おそらく「竹取物語」の問題の悉くを、あげて話し切っていると、いま速記録を読み返してみても思う。
源氏物語についても枕草子についても平家物語についても放送や講演で話したことはあるが、竹取物語についてほどことを分け話し終えたことは無い。
それほどもわたしに竹取物語の「動機」へ踏み込ませたのは、この物語が、学会でのどのような議論にも見たことのない、即ち、真実愛したものに死なれ・死なせた隠れた体験があったのではと言いたかったからだ。
まだ少年の昔から「かぐやひめ」昇天をかなしんだ気持ちには、まだハキとはしないがそういう推測がいつも胸の底に在ったからだた。その意味でも、残念ながらいまだ書けぬままの長編か短編かの心惜しい題材は、即ち「竹取物語」作者考なのである。三回連続の長い講演録はその詳細な下調べであった。『選集』第二十四巻の巻頭に、枕草子観、源氏物語観に先立て、収録のつもりでいる。
* 秦恒平の名でツイッターに記事が出ていると「ツイッター」通知が来るが、わたしはもう三年ほども機械設定の無効から、自分で記事を書くも読むも、そもそもツイッターを開くことも全然出来ないで居る。「フェイスブック」も同じで、どっちも百パーセント起動書き込みも読み出しも不可能状態にある。是までにも同じことを此処に書き置いたが、いままた繰り返しておく。わたし秦恒平の発言をツイッターやフェイスブックで見たのなら、誰かが悪意の所為であると明言しておく。
2017 7/26 188
* 創刊三十二年へ向かっている「湖の本」 よく続けられていると我ながら驚いているが、読者のおかげである。残念ながら経費的には累算赤字はもう何年も前から赤々と積み重なってはいるが、高齢読者からよぎなく人数が減って行く以上当然のことで、この程度の赤字でよく保てていると、それも感謝に満ちた驚きである。廉価どころかかなり高い一冊値段でお願いしているが、送料を加算し送金して下さる方も多く、値上げしてもいいよとまで言われたり、加えて特別のご支援を下さることもある。読者にまもられていると、しみじみ思う。ますます慎み、頑張りたいと思う。
2017 7/26 188
* 福縁善慶 尺璧非寶 と、千字文のなかに。まことや。
* 要事満載の実情であるが、ほっこりと放心の体でいる。一種の幸せといえようか。
* と言いながら、朝から夕過ぎまで、長編『ある寓話』に取り組み、「源氏物語」論にも「枕草子」校正にも真向かい、さらに新しい「泉鏡花の仕事」にも取り組んで、ほとほと食欲も失せるほど、疲れた。
2017 7/27 188
* 鏡花の美しい名作「龍潭譚」の口語訳を点検し始めた。
2017 7/27 188
* 今日も、伊勢、紫式部、清少納言、泉鏡花らと、ひたとお付き合いの一日だった。清々しい。
* 無雑作なほど歌や句を日記にも書いているので、妻が羨ましがる。歌に簡素なもの言いから親しみたいなら、まずは正岡子規の竹の里歌に親しむことを奨めたい。口語歌やそれに類した現代の短歌と称する例は、送られてくる歌誌に満載だが、なにが藝術やら、大方は無惨にひどい。
優れた歌人は明治以降にも大勢いた。大正にも昭和前半にもいくらも敬愛に値する歌人や歌作に出会えた。わたしの選し鑑賞した『愛、はるかに照せ』を読んでご覧なさい。心打つ短歌のむねにしみいる表現が満載されている。
現在今日の歌誌集団が、いちばん野放図に乱雑でいけない。美しくもおもしろくもクソもない。ヘタクソである。惘れる。
なんとか組といった親分の権力組織としか見えない集団もある。
しかし真摯に良く打ちこんで静かな結社もある。個性豊にいい表現につとめている数少ない優れた歌人もむろんおられる、が。
2017 7/28 188
* さ、あすには選集第二十一巻が出来てくる。第二十四巻の編成、ほぼ出来ていて、読み返しを進めている。
つぎの「湖の本137」編成のメド、建ってきた。今年も、とうに半ばを過ぎた。
新作の長編をどう仕上げ、どう発表するか。仕掛かりに中断している作をどう仕上げるか。選集はもう九巻と予定しているので、どう収録分の折り合いを付けるか、とてもムズカシイ判断を強いられそうになってきた。
* ま、出来ることを出来るあいだは無欲に仕遂げて行くだけのこと。わたしも妻も、なんの酬いも望んでいない。ただ歩んで行く。
2017 7/30 188
* 秦 恒平選集第二十一巻 出来。ついに本棚の一棚を越境した。敬愛やまぬ谷崎潤一郎夫妻に献じた、いわばわたしの、卒論。いいあとがきも書けた。真実、ほっとし、そして嬉しい。
あわてず、荷造り丁寧にゆっくり送り出す。
あますはもう僅か十二巻。いい智慧をしぼって、うまく編輯できますように。それとて「此の世」という「あのよからあのよへ帰るひとやすみ」での、これはわたしたちにしか出来ない、心はずむ遊び。それで良い。
* 「湖の本136 枕草子」現代語・選訳 全紙を今日責了で送った。
2017 7/31 188
* 笠原伸夫さんの司会で、篠田一士さん、脇明子さんとの座談会「鏡花文学をめぐって」(解釈と鑑賞)に加わったのは、もう大昔になるが、懐かしい。
笠原さんは早くにわたしの「祇園の子」を力籠めて推奨して戴いて以来、御縁が濃かった。何度も出会い何度も話しあった。
篠田一士さんは、この一度しかお目に掛からなかったが、何方かとの対談で、「秦 恒平は、この先々まで文学的に大事な存在」と発言しておられたのを、人の送ってくれた雑誌で知り、恐縮した。まったく同様のことを別のやはり対談か座談会 かで臼井吉見先生が発言されていたのを、筑摩書房の編集者が教えてくれたのと合わせ、否応なく有り難く印象に刻まれている。いっこう奮発も爆発もしないで 老いて、申し訳ありません。
脇明子さんには、飜訳されたマキリップ三部作『星を帯びし者 海と炎の娘 風の竪琴弾き』を戴いたことで、わが読書しに痛切な足跡がのこせた。愛読とい う意味ではかほどに心惹かれた体験は、ル・グゥイン作の『ゲド戦記』にならぶ。今も心から感謝し、どうされているかなあとよく思い出す。
上記の「鏡花」座談会では、臆することなく鏡花論へわたし自身の切り口をつけて発言している。やがて、「湖の本」でわたしの鏡花世界をはらりと繰り広げてみたい。
2017 8/5 189
* ひとしお眼にきつくて難儀を極めた一仕事を、やっと終えた。一時間で読めてしまう大昔の座談会録を全面新たに書き写したが、極く薄の細字を読みとるのに、四日間、しんから草臥れた。しかし、相次いで「湖の本137」佳い一巻に纏まりそうだ。
* 推敲を重ねてきた長編「ユニオ・ミスティカ ある寓話」は、もう手を離せる直前まで来ている、が、大冊で、湖の本の三巻でも足りまい。それに売り物で ある「湖の本」で此の全編を公表するには懸念がある。すこし厚めに、前半だけを最初巻として本にし、余は封印して蔵っておくか、非売の『選集』へ強って収 めるか。作者としては、思った通り「書いてしまった」のだ、もう済んだという気もある。
* 『清水坂(仮題)』は、何としても今一度少なくも京都の地を踏んで歩いて見てきたい。この作のためにもどうか健康を維持したい。余をみな措いてもこの 作を書き上げたい。幸いに今日の屋も川も町も道もリアルに描き込んだ「まるごと京都」の地図繪を眺めて記憶に生きてある実感を掘り起こし彫り起こししてこ の頃を過ごしている。これまた眼がくらむほどの難儀なのであるが、少なくも京都市街の東側半分は今そこを歩いて通っているほど思い出せる。しかし地図本か ら音は聞こえない、匂いもしない、声も聴けない。
* 泉鏡花を論じた仕事をかなりの量、読み返していた。
* もう機会の字がむらむらに入り乱れて来始めた。もえ、やめ。
2017 8/6 189
* 「口絵」に苦戦。
だいたい、自分の写真はたいていプロが撮ってくれて、数多くはない。自分では景色や草木花や美術や家族や猫たちばかり好んで撮り、自分を人に撮って貰うことはめったにない。第一、妻も建日子もそういう写真はお話にならず下手なのである。口絵写真、種切れになりそう。
* それにしても、仕事、しごと、仕事の代表作にもなろうというどれもみな、若い若い頃にすでに書き下ろしたり連載したりしていたことに、我ながらビックリしてしまう。文章も同時代、同世代の大勢とかなりちがって速度はやく、語彙が多い。
小さい頃から人はわたしに向かい、口をひらくと、「おまえ、変わってるナア」「あんた、変わってるわ、ほんま」と、それしか言われなかった、が、そうなのか。そうかもしれない、どうでもいいが。
* 「選集」23の初校をツキモノみな添えて送り返した。「選集」24本紙 跋以外のツキモノ 口絵、函表紙 全部電送入稿した。
* ウエーッ、暑い。
* 今日はひときわ視力の衰えがきつく、昼間、あかるい電灯の真下でキイの字がとても見にくかった。疲れたが、しいて仕事をつづけた。夕方、三十分ばかり横になって「源氏」「絵巻」そして「海部直」の系図をしらべているうち眠気にまけて一時間あまり寝た。
「湖の本」136発送の挨拶や謹呈挨拶を全部印刷し終え、封筒へのはんこ捺しも全部し終えた。
2017 8/17 189
* 今日も終日、よくつとめた。「枕草子」の発送用意も、もう二日ほどでし終える。
* 書きかけの「清水坂(仮題)」「ユニオ・ミスティカ 或る寓話」で想いが、ことに真夜中の夢うつつに錯綜し、熟睡出来い。各種のこまかな地図に見入り、地誌を探索し、そして寝入りながら想像するものだから、怖くすらなってくる。
* 関根正雄訳『出エジプト記』に引きずり込まれてもいる。実の父が遺してくれた『新約・旧約聖書』全一冊で長期間かけて全部を通読したときより、さすが に岩波文庫一冊でしかも平易な現代語になっているので、すくなくも前半は神話というより物語を読む感じ。加えてチャールトン・ヘストンがモーセを演じた映 画『十戒』の記憶がありありとある。それが、いくらかは邪魔でもあり助けにもなっている。
『創世記』も同じ岩波文庫に成っていて、『ヨブ記』とともに買ってある。
岩波文庫の新版『源氏物語』をアタマから読み進んでいて、小学館版の全集本で「宇治十帖」をゆっくり夢の浮橋」へ近づいている。「絵巻」月報は全三十六册ほどのちょうど半分を楽しんで、当分続く。
いま「湖の本」の校正からは手が離れているが、「選集」第二十三巻の最終稿を毎日読んでまだ四分の一ほど。新しい巻の編成で、入稿前原稿を仔細に検討もしていて、根気が要り、芯が疲れる。
食べて楽しもうという欲が失せ、自然 酒を生なりで飲んでいる、いろんな酒を。最近では岡山の「喜平」が近江の「鮒鮓」を肴に数日堪能した。いま、貴重品の「粒雲丹」を戴いているので、生協から酒の配給を待っている。
ほんとうは、京都へ行きたい。宿が取れないなら、晴れた日に富士山を眺めに行くか、温泉へ行きたい。
2017 8/22 189
* わたしは京の祇園町へ抜け路地一本で通える背中合わせの知恩院門前通りで育った。祇園は甲部も乙部もよく知っていた、両方の銭湯にかよったし、国民学 校三年生まを終えるまでは、つまり丹波へ戦火を避けて疎開するまでは、秦の母に手をひっぱられ、女湯でからだ中を洗われていた。敗戦後の新制中学は祇園町 のま真ん中、八坂神社石段下にあり、「祇園の子」は大勢が同級で、同窓生だった。なつかしい。
そんな次第で、わたしはいわゆる色里へ客として遊びたいという欲求は一滴ももたずに大人になり、そういう世界へ近寄ったこと、ただの一度も無い。女を買 うという感覚はこの身の上でも皆無だった。一代男の世之介を羨む気持ちは滴ももたないのである。しかしもう本卦還りの世之介は、と同好の友を語らい、豪奢 に渡海の大船をつくって、ありとある性具や強精・催淫の薬や食物、衣裳を満載し、はるか海の彼方の「女護が島」へ旅だって行く。ウーン、すこしは羨ましい のかなあ。
ちなみにこの世之介が僅かな期間ではあれ祝言して理想的に美しくも聡い妻女にしたのが、名高い高尾太夫だった。しかし永くは専有しなかった。
いま一つちなみに書いておく、「世之介」の「世」とは、世の中とは男女の仲の意味で、これは平安の大昔から日本人の誰もが心得ていて、近代現代人がただ 忘れているだけなのである。わたしが、閑吟集の小歌、「世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり」を評釈したとき、専門の学者からそうは読まな かった、学者は窮屈で」と謝られたのを思い出す。わたしの『閑吟集』をまた御覧下さい。
2017 8/23 189
* 夜前「総角」のあとで、久保田淳さんに戴いた『藤原定家全歌集』の四十頁余の「解説」を一気に通読、久々に定家卿の生涯を要領よく復習できた。幾つも新たに教わった。定家と限らず「侍従」という官職名の意味は「おとしものを拾う」ことと。侍従の唐名は「拾遺」と聞くと、あ、なるほどと。わたしも歌集を編んで『光塵』のあたまには前歌集『少年』拾遺を、『亂聲』のあたまには『光塵』拾遺を置いていた。
朝廷での「侍従」とは、では何を。要するに「あれこれ」か。定家はわずか五歳で正五位下に叙せられ侍従となって以来延々とじじゅうであったことに不満だった。中断して以降よほどの大人になって官位をあげてからもまた「侍従」だったことがある。一種なんでもやの無任所官なのか、定家は熱心に「蔵人頭」を願ったけれど叶わなかった。蔵人所というのは令外官で、天皇に直属して諸事に応じる。「侍従」は、ま、朝廷内の「あれこれ」に随時に応じていたのだろう。定家一代の自選歌集の総題は『拾遺愚草』である。拾いに拾い取ってある。
* 今朝は、食後二階へ上がろうとして、堪らず心身重苦しくそのまま寝室にからだ横たえて、『絵巻』月報の十九を、これはもう目から鱗の何枚も落っことしたほど面白く二、三大先達が蘊蓄を煮つめて語った短文を食い入るように耽読した。ただの単語的な知識ではない、大きな時代を深く読み取って興味津々の吐露に出会えたのである。ありがたく、すぐにも役だってもらえそう。
* ちいさく狭く凝り固まって執着するだけなく、いわば出会い頭にハッとくるような濫読体験の面白さ有り難さを思わずにおれない。
* わたしは生来いわゆる「研究」という方法に従ってこなかった。大学の卒論にも一行の参考文献も副えなかった。作家生活に入って以降も、小説と両翼をなして数多い論著を出し原稿も書いたが、それら著作に「註」はつけても「参考文献」をそえたほとんど一点も有るまい。わたしは「研究」という穿鑿の「方法」には従わず、谷崎にも学び「エッセイ」として『花と風』や『手さぐり日本』や『女文化の終焉』や『趣向と自然』等々を書き下ろした。「エッセイ」は、旺盛で平静な観察・洞察と理解ないし会得・直観によって「言葉の藝術」になる。正しく正しくと追って行く「研究」を文藝と呼んでは、エッセイにも研究にも失礼に当たるだろう。
谷崎潤一郎の『藝談』『陰翳礼賛』などが優れたエッセイとしての論攷であるのに、わたしは迷いなく従った。すべて最も言葉の真意にしたがって「エッセイ」として批評し論攷したのであ。とても世にはびこれなかったわたしを、突如として「国立東京工業大学」の教授に指名し推薦してくれた人たちは、そのようなわたしの、研究ならぬ「エッセイ」をもって「文学教授」にふさわしいと鑑識してくれたとしか思われない。そう鑑て貰えたらしいことこそが、今にしてわたしを喜ばせる。
「エッセイ」は、繰り返すが、旺盛で平静な観察・洞察と理解ないし会得・直観によって言葉の「藝術」になる。正しく正しくと追って行く「研究」は、しばしば言葉が蕪雑に騒がしい。それをしも文藝と呼んではエッセイにも研究にも失礼に当たる。
2017 8/25 189
☆ 黒谷
如何お過ごしでしょうか。
東京は、太平洋側の東日本は八月に入ってからの日照時間少なく、野菜やコメの生育が打撃を受けていると。
こちら(=尾張)も幾分ヘンな夏です。
火曜日午後に小牧のメナード美術館に出かけて、日本画家・田淵俊夫の作品を見ての帰りに少し雨に遭いました。その夕方から夜にかけて、絶えまない雷雨と強烈な雨でした。スーパーセル謂われる巨大な雷雲、トルネードが、名古屋の西、清州で起きたとか。
早や八月も終わろうとしています。暑さを乗り切って無理せずお過ごしください。
『黒谷』より『女坂』や『女の噂』について大勢さんが感銘され書いてくださるのを解せない・・と21日のHPにありました。感銘されるかどうか以前に、読みやすいと言えば読みやすい、分かると言えば分かりやすいのでしょうか。
『黒谷』 現代物雨月物語は、鴉ご自身にとって極めて近く親しい愛しい物語世界。そしてかなり多くの読者がそれを「前提」として読み進むでしょう。「黒谷」「両親を亡くしている」信子さん、出町の萩の寺「常林寺」等々、想像できる馴染みの設定があり、そしてそれらを存分に操るように書き進めていらっしゃる。
小説の最後に棚から大皿が幼い紘子の頭上に落下する瞬間を述べて、物語が終わります。
どなたでしたか、だいぶ以前、七月でしたが、『黒谷』について述べてらして、大皿が紘子の頭部顔面を無残に害することを予測した人は、紘子を不憫と思いつつ、同時にそれが因果応報とも霊となった正美の怨念とも読み取ったように思いました。
わたしも一読した時はその解釈でそのまま納得しました。
後で読み返していくと本当にそれだけでいいのかなと疑問も湧きました。確たるものではないけれど、もしかしたら・・というほどの微かな・・。
内裏雛の顔、びっしり生えた黴の壮絶な「群落」はまさに告発すべきものの証でもあります。
お雛様を飾るという行為が、この小説の中で「象徴的な」意味をもっているのも感じます。
八朔という言葉が出てきましたので「八朔雛」という言葉も思い起こします。(わたしが以前
住んでいた地方に、中世から? 瀬戸内海で重要な港だった室津があります。その室津では八朔雛を飾ります。黒田官兵衛の妹が浦上氏との婚礼の日に龍野城主赤松政秀の急襲に遭い死んだのを悼んで、八月一日、八朔の雛祭りを行ったとか。)八朔雛には健やかな成長を願うよりも哀しさの方が感じられました。
物語を読み返していきますと、さまざまな箇所で「祖母」のひそかな目論見、願望として正美と信子(三歳年上の姉さん女房であっても成立したかもしれない)、その延長線上の異なる展開を小説世界は内包し隠しもっているように思われます。隠しているというより、正美と信子の間には十分な感情の往来があることが窺えます。寧ろ二人のささやかな好意、次第に迸りでそうになる感情は随所に語られています。黒谷の二階の、まさに北岡と郁恵の行為が行われた、あの場所での、結婚生活に失望した信子と正美の行為もまた仄見えてきます。取り落としてしまった過去の時間をどのように手にするのか、そのような時間は、正美には十分に残されてはいませんでしたが。
そして北岡との関係と同時進行かは不明ながら、正美郁恵夫婦の間には新婚以来それなりの性関係がありました。少なくとも白い結婚ではなかった。
郁恵と北岡の関係がいつ始まったか、これは重要な問題です。郁恵は妊娠が分かった時、自分の子宮に宿った子が誰の子かと断言できたのでしょうか。生まれてきた紘子に正美の面影は乏しいとしても、正美・郁恵夫婦の子供である可能性もまた否定しきれないのです。
この場合、紘子に向かって落下していく大きな重い皿の意味するところは、曖昧なままに終わるだろう紘子誕生の秘密に終局を引き寄せたいということか。正美自身の血脈への、紘子という存在を拒否峻拒し、血脈の切断を自ら図ったという、これもまた重く重い行為になります。
書き足りないことはありますが、今日はここまでにします。『黒谷』に関してページの引用など抜かして大雑把なところでストップしています。
18日の記載
ロシュフコーの箴言「一つの問題に幾つもの打開策を見つけるのは、創意工夫に富むからというより、むしろ明知を欠くために、頭に思い浮かぶことのすべてにこだわって、即座に最善の策を見きわめることができないためである。」の後に、鴉自身の「しかり而して、小説に行き詰まると幾つもの打開策ばかりが跳梁する。やれやれ。」と。これは書き手としての率直な思い。
読者としてのわたしは「最善の解釈」など出来るはずなく、幾つもの妥協ともいえる誤読・・「可能性ある解釈?」を述べるしかありません。
黒谷の墓地、真如堂、宗忠神社、吉田神社、(京都大学の学生のころ=)どれほど多くの時を過ごしたことか。本を読み耽った独りの時間がありました。休講になると必ず吉田山に出かけました。(蛇足ながら、黒谷の塔の下で露出狂の男性に出遭ったこともあります。石段を一目散聖護院の方に走り降りましたよ!)
そして吉田山で命を絶ったクラスメートを思い出します。
真如堂に下宿していた友人、男子も女子も思い出します。
今は、フランスの修道院の絵を描きあぐねています。
京都の絵も描きたいです。
日本画の紙やパネルはやはり油絵より値段が高いです。絵の具も種類によりますが高いものもあ
ります。来月の教室では金箔銀箔を使って切り箔や砂子を学びます。
白牡丹の絵に砂子を散らそうと思っています。
京都に行きたいと書かれています。ホテルは心配しなくても予約できると思いますよ。暑さを避けて、もう暫く待って、ぜひぜひ行かれますよう。
必ず必ず京都を歩かれますよう。作品のために。鴉ご自身のために。 尾張の鳶
* ありがとう。この「鳶」さんは、たしか、わたしより十ほど若い、敗戦直後の生まれではなかったか。世界中を「トビ」まわって、旺盛な知性と意欲とを磨いている「詩・画」人。たくさんなことを教わってきた。
鳶と鴉とは、一対の世界史的な嫌われ者なんだけれど、わたし自身は敬愛して已まないあの与謝蕪村描く、雪中の鳶と鴉の繪が好きである。
* 順不同、祇園の子 蝶の皿 絵巻 三輪山 青井戸 隠沼 加賀少納言 鷺 夕顔 於菊 余霞楼 孫次郎 露の世等々 その他連載した短篇集、掌説集などこつこつ書き置いてきたが、 今度の黒谷 も、この中へ加えてよしと思っている。先行作のどれに通うかと指さすことで、作の性根の読み取りも変わってくるか。
2017 8/26 189
* 『ある寓話』は着々成ろうとしている。繰り返し繰り返して推敲・添削を重ねてきた。作者として書き読者として読み、もうそれで気が済んではいないか、と思ったりもしているが。よほど長い作になっているが、その長さの評価でなにかしらふっ切らねばならぬと思っている。
作としては、そうは長編に成るまいけれど、構造や内容としてはよほどこみ入った世界で『清水坂』の険しさに喘いでいる。『ある寓話』はむしろ淡泊あるいは雑駁なほど無頓着に書き進まれてそれでいいのだが、『清水坂』はわたし自身でたじろいでしまいそうに複雑に時空と話柄が交錯する。その交通整理と、なによりの隘路は、書いている書こうとしている空気の揺れや色や音を現地で感じてこれてないこと。それが致命的な条件と云うことは無い、決して無いのだけれど。
『みごもりの湖』は近江の光景がじつに的確に美しく書けているといわれたけれど、大方は見知らぬままに想像力で表現した。それは出来ることであり、腹をくくればいいと思いかけている。
2017 8/27 189
* 湯槽のなかで、中世を考え、ロシュフコーとしばし対話し、鳥辺野と化野の地誌をしらべていた。
2017 8/28 189
* 書いている小説を、過剰にならぬよう気を付けながら少しずつ太らせて行けるとき、わくわくする。弄くり廻すのは下策だが、舞い手のいい後見のように、つかず離れず面倒を見て行くのが、小説という生きもののためには、いい。
2017 8/28 189
* 「ユニオ・ミスティカ」を慎重に補強している。ほんのわずか、口を挟む感じにコトやモノやヒトをさしこむだけで話が弾んだり膨れたりする。小説とそんな風に向きあっているときは疲れを忘れているが。
* 十一時過ぎた。もう、機械は離れる。瞼が重く塞いでくる。
明後日で八月が逝く。十一時前には聖路加へ行かねばならない、熱暑にすこし遠慮を願いたいが。「湖の本136」発送までになお八日間の余裕がある。九月には、歌舞伎座へ。月末近く、歯医者も、幸四郎の「アマデウス」も、聖路加の診察もあって「選集二十二巻」の送り出しが迫ってくる。九月はがいして気忙しくなる。いまのうち寛いでいたいが、疲れ切っていては仕方がない。
2017 8/29 189
* 薬局で処方薬を受け取ったあと疲労感がつよかったので、築地で簡易な喫茶店で強いコーヒー
を飲んだ。不思議とコーヒーはわずかでも活力を呉れる。「NCIS」のボスも天才検査官のアビーもしょっちゅう強そうな大量そうなコーヒー・カップを手放さない。
昼食は、食べ物よりも美味いワインをのみ、あとエスプレッソをお代わりした。往きも帰りも車内で校正。これが、なんとも懐かしい、連載していたのは三十七、八歳頃のエッセイだった。
想い出すとクスッと来るが、医学書院勤務の頃の私家版の小説を読んで声援して下さった医学教授や病院長先生らは、異口同音、「八十の人が書いたような文章だね」と。
作家になり、小説の他にすぐさまエッセイも次々連載した、「花と風」「手さぐり日本」「女文化の終焉」「趣向と自然」など、みな四十前の仕事で、やはり「八十の人が書いたような文章」だった。いやもっと踏み込んで然様であったろう、よかれあしかれ同時期・同時代の作家・批評家に類をみなかった。世は、まだまだ身辺雑記・私小説ふうの時代だった。つまり、はなから、わたしは「騒壇餘人」へはみ出ていた。評価してくださる、作家・批評家と限らない各界大先達の諸先生がつぎつぎ亡くなってゆかれ、わたしは「湖の本」という赤坂・千早城に躊躇いなく立て籠もった。それも決して孤立無援ではなかったから、三十余年なお継続して、第百三十七巻の初校が今日家に届いている。ま、程なく湊川で討死にするだろうが、誰への忠義立てか。当然、「文学」にである。わたしは生涯バカ正直な「文学少年」で終わるだろう。
2017 8/31 189
* 友人たちの繪を観ている。細川君は中学で同年、堤さんは高校で二つ若く、高木さんは「いい読者」で十ほど若い。繪の描ける人、羨ましい。図画工作はに がてだった。観る方へまわって、言葉で美しいモノを書き続けた。京都美術文化賞の選者を二十数年担当した。京都にいた若いうちに観られるかぎりをよく観て 歩いた。茶の湯の御蔭で広い範囲でじかに触れたり近づけたりもした。京都はそれだけで大きな美術館・博物館であり専門学校であった。『花と風』『女文化の 終焉』『趣向と自然』『手の思索』『茶ノ道廃ルベシ』らは、いわば京都「学部」生としての気負いの卒論であった、か。
2017 9/1 190
* 「湖の本137」再校出についで「選集第二十三巻」の要再校ゲラも出て来た。いま「選集第二十二巻」の責了へと再校に励んでいるが、どおっと津浪のよ うに要校正ゲラが押しよせてきた、しかも九月は中旬に「湖の本136」を発送しなくてはならない。全部のボールがこっちへ帰ってきて、この分では「選集第 二十四巻」の初校まででてきかねない。ウヘッ。どうしよう。仕事の浪というのはこんな具合に差し引きするのだ、分かり切ったハナシだ。
幸い「枕草子」発送の用意は出来上がっているし、「選集」送り出しの用意にももう取り組んでいる。この用意さえ出来ていれば、気苦労はせずに済む。忙し くなると分かっていれば早めから用意。どんなに忙しかったときでも会社で編集者の時代、その要領で、みな無難に凌ぎきった。生産計画を百パーセント欠いた ことなど一度もなかった。編集管理職の多忙のまま新米作家の身で書き下ろしの連載の放送のテレビのと追いまくられた。だが、対処為すべきは「用意」に尽き ていた。
2017 9/1 190
* 「ユニオ。ミスティカ ある寓話」 三分の一ほどを第一部として「湖の本」版にするかを考慮している。今日も、作を堅めの仕事に励んだ。
* まだ九時半だが、もう「機械目」は使用不能。階下で、裸眼の校正と、読書と。そして寝る。寝られるときに寝る。
2017 9/1 190
* 泉鏡花にかかわって過ぎ越し日々の感懐をしみじみと確かめている。鏡花を語る感懐は潤一郎を語ってきたそれらより、はるかにわたし自身の根に絡んでい る。わたしの鏡花観は、わたしの谷崎愛よりもなおなおわたし自身を露わにしているといえようか。谷崎を直に思わせるわたしの小説は一点も無いだろうが、鏡 花へ響きあう小説は、わたし自身ビックリするほど数多い。そこを抑えてわたしを論じてくれた論攷も、残念だが少ない。
* 泉鏡花の一冊を大半、一気に校正した。あと一編を丁寧に読んで、初校を戻したいが、もう二、三日か。
問題は大冊の選集が二巻分、再校と初校を待っている。加えてもう一巻の初校も出て来かけねない。これも再校分の校正を奮発して数日で、可能な限り八日までに終えたいが。
* 書き下ろし長編小説の、三分の上册を「湖の本」に入れるのは、もういつでも可能になっている。もう二册分をどうするか、これもほぼ仕上がっているが、 内容上、全册を公刊する「遠慮なさ」が持ちきれない。自信が持てないのではない。わたしの創作としては、未だ嘗てなく踏み込んだ「新」作になっているけれ ど、公開するには、踏み込み過ぎているか、とも。
ま、いい。わたしとしては「書き上げた」と思っている。
もう一作の「清水坂(仮題)」へ打ちこみたい、これは我ながら難路を築き上げている、だから面白いし書き上げたいのだが。少なくも京都に、なか三日も居 坐って「歩いて」「空気を吸って」「見定めて」きたい。人を頼んで写真にして送ってもらうのでは、協力してくれる人はいると思うが、足りない、達しない。 活字で調べても、それでは生きてこない。
* 八十二になろうとして小説の創作でこうも生き生きと悩むようなことが出来るなど、予想もしなかった。幸せなことだ。時間が惜しい。わたしの時間、いま、パンパン、はち切れそう。
朝日子がそばにいれば、なにかしら手伝って呉れたろうか。
謙虚に、そして大胆に沈潜して書き継いでいたなら、まちがいなく一風ある作者として世に起てていた。まだ、六十前。遅過ぎはしない。
2017 9/3 190
* 「龍潭譚」の現代語訳を、丁寧に丁寧に校正し、懐かしく楽しんでいる。本当は、「高野聖」「歌行燈」に附した脚注をも生かしてみたかったが、これは別に故紙を据えた作品論で生かすしかない。
泉鏡花で湖の本一冊が立つとは思ってなかったが。おそらくわたしの鏡花論は、わたしの谷崎論が「画期的な業績」と云われていると同じほどの特異な「開発」になっていることを疑わない。次の「湖の本」はその意味でも仕甲斐のある一冊になった。
2017 9/4 190
* 「黒谷」は、最初の一行、最期の一行、の二行で書けている。意外に気付もしなかった人多いらしく、笑えた。
「女坂」は書かなくてもよかった手すさび手ならしに過ぎない。ただ、長編「ユニオ・ミスティカ ある寓話」のための柔軟体操にはなった。あんなのなら「女坂」いくらでも書けようが、「作品」を得るのが難しい。
2017 9/4 190
* 今日も、仕事のハカを行かせた。目が見えればもっとガンバレルけれど。
* 長い小説に「ヒトクセ」差し込みたいとやり始めたが、さ、収まるかしらん。夜中にまた目が冴えてしまうか。
2017 9/6 190
* 今日責了紙を印刷所へ送った次の選集「第二十二巻」は、全編「中世の美術と芸能」にかかわり「日本文化」を批評的に語った「エッセイ=私の思想」にな る。幸い読者にも知友・知己にも、美術そして歴史方面の人が多く、数少ない中で、今回はそういう方々に主にお送りしたいと用意している。第二十三巻も真っ 向「中世」を論じた「エッセイ」として纏まっており、前巻同様に、その方面に向かわれている読者・知友知己に主に贈りたいと心用意している。
第二十四巻は、源氏物語を中軸に平安時代文学を縷々語ったエッセイ篇で、大册に纏まっている。もう初校が届いている。
2017 9/8 190
☆ 黒谷
お忙しいことと察します。作業はかなり捗りましたか? 無理なさらずお身体大切に。
(ワードの画面から 送り忘れていた部分があったので送ります。)
『黒谷』をよく読んで・・と言われれば赤面、恥じ入るのみ。
作者としてもう少しヒントを与えて下さればと思っていたところでした。先日のHPには最初の一行と最後の一行に物語は書きつくされていると述べられています。
最初の一行では 母が肩越しに死者である正美の存在を意識しています。
最後の一行では 幼な子の上に落下していく大皿に、父であるはずの霊になった正美が載って落ちていくことを明確に認識しています。
母は霊になった息子正美の存在を感じ、無意識であるにせよ恐らく彼女が棚の上に置いた皿の行方を、起こるべき事態と顛末をどこかで願っていたのかもしれ ません。既に疑いをもっていたとも言える・・ その潜在的な疑いと失望と、いえそれ以上に強い嫌悪感や、正当な血筋が保たれない事
への強い怒りが、彼女を家中を奇妙な洋風に変えていく突飛な行為に走らせたのかもしれません。
端的に述べれば、母と正美の共同犯によって事件は惹き起こされていると。
黒谷や浄土寺、吉田山などの、時間を取りこぼしたかのような界隈の雰囲気が小説に大いに書か
れていたら、それも興味あることでした。或る意味、恐ろしいような・・・。
元気に秋を迎えられますように。 尾張の鳶
* これで、ま、「黒谷」は読み尽くされた、か。感謝。
この作、はじめから「蒼い雛」の題で書き進められていたが、成り行きを憶測ないし推測されてしまうかと、しかるべき改題をずっと思案しながら書き終え、 書き終えてから他に佳い題も思い浮かばぬまま、この小説世界が「黒谷」という真如堂や大墓地地域の不吉な「でき物」みたいと想っていたのでいっそ「黒谷」 が佳い、文字づらも音もすこぶるいいと即決した。問題の家庭・家屋の外へ空気を極力拡散させたくなかったので、必要最小限度しか黒谷や吉田山界隈は描写し なかった。
* ごく初期に「於菊」という怪談を、秋成の吉備津の釜を借りて書いている。いつか秋成を書く気でいたが、結局、書ききれずに、書ききれなかった絡みのま ま生母の「生きたかりしに」で強引に秋成を置きざりにした。秋成学の最先鋒長島東大名誉教授からも「秋成八景」が「序の景」だけではいけませんと謂われて いるのだが。どうも上田秋成には身につまされるところが濃くて。「黒谷」でもいくらか秋成投げだしの申し訳の気分があった。もう幾つか、怪談いや恠談を書 いておけるといいのだが。ちなみにこの怪談や恠談の「かい」の音の漢字には無気味な意味の字がたくさん有る。「恠」は「あやしい、あやしむ」の意味であ る。
2017 9/10 190
* じつはこの瘋癲不良老人に、まつたく新たな、文学史にも同様主題はなかったのではと思う新着想があり、そんなのが成り立つだろうかと、ナイショで人に 意見を求めていたりする。まだ欲があるのでここへそれは書かないが。成るとも 成りそうとも とてもムリでしょうとも まだ意見は聞こえてこないが、 ひょっとして若い作家ででも可能とならば乗り出して試みる人もあるかもしれない。早稲田の教室から背中を押して文壇を志させた角田光代なら、ただ面白いだ けでない現代文学の問題作を送り出せそうな気がしている。
* 亡きつかこうへいに強く背を押して貰って世に出た秦建日子に、まだ「蒲田行進曲」の真実感に肉薄した切実な現代の「人間」「個性」大作小説が書けていない。売りものづくりに精魂を風化させられていないか、案じている。
2017 9/12 190
* はやばや「湖の本137 泉鏡花」一巻の再校が出そろってきた。選集二十三の再校ゲラ、選集二十四の初校ゲラがもう届いていて、湖の本も。息を呑むほ どの仕事量の上に、選集・湖の本ともに新しい次々の巻の編輯と入稿も必要になってくる。そして小説も要注意の微妙な仕上げにまさに今取り組んでいる。
病気も怪我も、とても、していられない。幸いどの仕事にもわたしは興がって打ち込める。残念だが京都へ帰っては行けそうにない。あれが食べたい食べたい などと云う欲もない。酒量だけが、気を付けないと日に二合がこなからの二合半に上がりかけていて、べつにワインと缶ビールに手を出していることもある。熱 量は摂れるが、蛋白質がつい不足しがち。
* 選集第二十二巻「日本の中世論攷」の前篇、九月三十日に納品と連絡あり。追いかけて、十月中にも「湖の本137 泉鏡花」篇もほぼ間違いなく発送となるだろう。まだ腕力はあるが重量の持ち運びで足腰を痛めないようには気を付けねば。先は長いのだ。
* 「お城」の教授小和田哲男さんから、枕草子本文と戦国武将の手紙との「句読点」に触れて、「恐々謹言」のお便りがあった。「三田文学」「早大図書館」「山梨県立文学館」からも、受領挨拶あり。
京都の森下辰男君からも。
* 「ある寓話」に読み耽っている。どうしようかと思案の首をあっちへこっちへ投げながら。売り物にしてはならないか、しかし湖の本の読者にはお目に掛け たい。二册では入り切るまい、三册とも無料の非売献呈もたださえ出血しており、キツい。ま、きっちり仕上げたい、まずは仕上げて納得したい。
2017 9/13 190
* 『ユニオ・ミスティカ ある寓話(仮題)』は、湖の本で一部分などといわず、「選集」特別版一巻本にし、有料で、読者全員にというありがたい提案があった。残念だが、ああいう贅沢な限定小部数製本なので、製本材料のすでに用意されてある分量に限度がある。
2017 9/15 190
* 亡き阪大名誉教授島津忠夫さんの遺著『老のくりごと 八十以後国文学談義』をご遺族(藤森佐貴子さん)から頂戴した。まさに「珠玉のエッセイ集」であ る。嬉しい事に「秦 恒平氏の『京都びとと京ことばの凄み』を読む」一編まで含まれていて頭が下がった。京ことばは国文学古典の読みにもことに大切な関門であり、よく書いて置 いた、よく読み置いて下さったと感慨深い。
滋味掬すべく、「エッセイ」の本義を体した魅力の一冊である。読み進むのが楽しみ。
2017 9/16 190
* 亡き島津忠夫さんの『老のくりごと 八十以後国文学談儀』から、「秦 恒平氏の『京都びとと京ことばの凄み』を読む」の一文を転載させていただく。
秦恒平氏は「湖の本」という創作とエッセイのシリーズを私家版でつぎつぎと刊行している。最近(平成二十三年二月)「京と、はんなり 京昧津々(二)」 が送られて来た。「私語の刻」と題する後記の冒頭には、「雲中白鶴」と題して、二首の和歌を読み、「七十五叟 宗遠」と記した平成二十三年の年賀状をおい て、賀状の返礼に替えるといったいきな計らいのあとに、正月前半の「闇に言い置く私語の刻」を摘録して跋とする。この私語もおもしろく、考えさせられるこ とが多いのだが、今回、収められている「京都びとと京ことばの凄み」という長文から、いろいろのことを考えさせられた。これは、平成二十二年の京都女子学 園創立百年同窓会での記念講演とある。
京都を離れ、東京にもう五十年以上も暮らしているが、若き日を京都で過ごした思い出が、氏に終生付きまとっていることは、今まで何度も書かれ、読んで来 た。「京都に五十年、六十年暮らしている方の京都より、また幾味かちがった、歴史的な視野と批評とに培われた「京都」が見えている」という立場、これは私 も重要だと思う。
京ことばを散りばめられながら、話されて行く中に、平安朝文学を研究する上にも多くの重要なヒントを与えられる点がある。
では京の「美学」つて、何でしょうね。
春は、あけぼの。
これが「京の美学」です。これだけで、モノの分かった人になら「十分」なのです。
という。「春は、あけぼの」といえば、当然『枕草子』(雑纂本)の冒頭が思い出される。もとより、そうなのだが、氏は、「佳いものをいくつも選び出す。それぞれに、順序を付ける。つまり「番付け」をする」ことだと。
ある日、皇后さんは女房たちに、問題を出しました。
春夏秋冬、季節により、もっとも風情豊かな美しい「時間帯」はいつやろね…と。
女房たち、質問に身構えます。
まず「春は……」と聞かれて、おそらく、いくつもの答えがブレイン・ストーミングよろしく口々に出たことでしょう。しかし皇后さんは、そのなかから、 「あけぼの」という趣味判断の力に、最良の価値を認めました。そして、書記者として優れた才能を認めていた清少納言に、「春は、あけぼの」と記録を命じた のでありましょう。これぞコロンブスの卵と同じでした。かくもみごとな選択の出来たことで、定子皇后のサロンと、記録『枕草子』とは、歴史的な名誉と評価 とを得たのでした。
研究者による論文ではないから、考証はしていない。しかし、『枕草子』の性格と定子サロンの一面を生き生きと映し出しているではないか。
「京ことば」は、まさに千年の政治都市の培った「位取り」の厳しい日常の暮らしを、その現場感覚を、反映しています。夥しい敬語の微妙な「敬」度差は、それが世渡りの武器として駆使されてきた実態を、まざまざと、反映してあまりある。
という敬語の問題、それを、「祗園まぢかに生まれて七十五年、京都を一歩も出なかった」叔母を、にわかに氏の東京の家に引き取っての話、
お医者さんがこう「お言やした」、御用聞きがこう「言うとった」、御近所の奥さんがこう「言うたはった」、それを直接話法のまま全部京都弁に翻訳して叔母は喋ります。(中略)
それにしても叔母の翻訳の見逃せない点は、例えば、「慣れたかな」が「お慣れやしとすか」とか、多分「風邪をひかんようにね」と言われたのが、「お風邪 おひきやしたらあきまへんえ」とか、相手の普通の物言いを、自分に対する「敬語」に置き換えていることです。私でさえ聴き過ごすほどですから、京都慣れし ていない妻や子や、よその人の耳には、ただもうもの柔らかな物言いとしか響かないということです。
という、氏に取って卑近な日常の実例を取り上げて、
暮らしの現場で、コンピューターなみに「人の顔色」を読みながら繰り出される、その場その場での「物言い」の微妙さこそが、「京ことば」の、ひいては「日本語」の、タンゲイすべからざる、怖さ畏ろしさなんです。
という結論に導いてゆく。『源氏物語』に見る敬語はまさしくこうした見方を肌で感じながら読んでゆかねばならないのだと思うのである。私は三十年以上も名 古屋の「源氏の会」で『源氏物語』を読み、放談を繰り返している。いま「玉鬘十帖」を読んでいて、源氏方と内大臣方への微妙な敬語の違いを、注釈を頼りに 説明しているのであるが、これは、当時の女房社会では、それこそコンピューターなみに使われていて、作者はそれをいきいきと描き、当時の読者はそれを直ち に感じ取っていたことだろうと思う。
* 日ごろ思いかつ語ってきたわたしの要点を、平安文学・中世文学の泰斗であられた島津さんにきちんと読み取って貰えていたのだ、嬉しいことだ。折しも「枕草子 現代語選訳」を湖の本で出したばかり、わたしの思い切った現場感覚のかつて例のなかった読み込みを、「『枕草子』の性格と定子サロンの一面を生き生きと映し出している」と受け容れて戴けたのは、まことに嬉しいことだ。「敬語の使い分け」という京都びと日ごろ微妙の物言いを源氏物語の読みで裏付けして戴けたのも嬉しいことだ。
2017 9/17 190
* 月末三十日からの「選集第二十二巻」送り出し宛先用意などに取りかからねば。用意は少なくも六割方出来てはいるが。
「湖の本137」も、もうはや責了可能の直前へ来ている、と、十月発送「用意」の段取りにもう逼られている。選集より数が断然多いだけ、シンドイけれど、だから時間をかけ、ゆっくり用意にかかりたい。
* 浴室で三種類のゲラを読み、薫中納言は帝の二宮降嫁を受け容れ、匂宮は二条院に妊娠の宇治中君をいたわれ愛しつつも夕霧の六君との結婚を拒むことが出来ない、そんな「宿木」巻を読み進んだ。岩波文庫版の第二巻が送られてくるのをもう待望している。
* おおけないことだが、わたしに、いまから「宇治十帖」現代語訳の仕事は出来ないものだろうか。大学へ入り、その年に創刊された「同志社美学」創刊号に、新入生の分際で寄稿し掲載されたのが「宇治十帖」にかかわる幼稚な感想文であった。
わたしの源氏物語読みの「命脈」は、「桐壺更衣と宇治中君」とをストレートに結ぶもの。桐壺、藤壺、紫上そして宇治中君。その裏とも表とも、桐壺帝、光源氏、冷泉帝、明石中宮、匂兵部卿宮。他はこの世界を洩れ零れている。
2017 9/19 190
* 紙切れに書き散らしてある歌のようなもの。棄てても良いのだが。順に構わず。
ヤブランは藪蘭と聞いておどろいて
さゝやかな花の色うつくしむ つい先頃とおもう
木守りの柿ひとり照りて日新たに
われは八一の冬を迎へむ 去年の誕生日か
(去年)
九月七日八時二十分 黒いマゴは
ややに顫へて生きおさめたり
その時し無言電話ひとつ鳴り来しか
マゴを迎へくれしやす香の声ぞ
(腸閉入院)
黒いマゴをこれへ眠らせ見送りし
膝掛けを胸に病室の眞夜
黒いマゴのいまはを抱いて濃緑(こみどり)に
やはらかき毛布よ今し抱き締む
しづかにも息ひとつ遺し逝きにしか
恋しよマゴよ トーサンらのマゴよ
(よほど以前のものと思う)
蟲ひとつ夜長を啼きてなきやまず
吾もひとりの秋を睡れず
睡れずに少年の秋を恋ひゐたり
少女幾人(いくたり)も夢をよぎれり
夢をよぎる幻の中のまぼろしと
一人の名をば呼びてなげくも
* のこしておいてもしかたなく、電動で断裁。
2017 9/21 190
* 創作も含め校正の仕事や発送、送り出しなどの予定も輻輳してくるので、ともするとフアンに浮き足立ちかねない。おちついて、病気に落ちこまないよう気配りもして努めないと。
明日は歯医者へ行く。月末には幸四郎劇の「アマデウス」サリエリを見に行って、すぐさま{選集第二十二巻}の送り出しを終えねばならず、待ったなしで次 十月半ば過ぎの「湖の本137」発送の用意をせねばならぬ。十一月下旬か師走初めには「選集第二十三巻」が出来てきて、それが今年内出版の最後になろう。 余すは、もう十巻。さ、二年で出来るか三年目にかかるか。編成に苦心を要するだろう、所詮は何かが残ってしまうだろうが、慌てまい。 願わくは新しい小説の巻を三巻ほども入れられるといいが。
2017 9/21 190
* 昨夜 寝る前になって書庫へ入り鏡花選集の一冊を抜いてきて短篇「清心庵」を楽しんだ。話し言葉の面白さに話の不思議が綺麗に加上される。
怪異篇と称して十ほどが編まれているが、長広舌の寺田透の「解説」は無用である。
作者の言葉ならまだしも有り難いが、一介の他者が作品集にそえて読者に読みを誘導ないし強要するにひとしい真似は、僭上の沙汰。論は論として別の場ですべし。
* もう一冊持ってきたのが「口説音頭集成」上巻。古来盆踊りで音頭として延々口説きうたわれた歌詞の集で、冒頭には「会津の小鐵」ついで「赤垣徳利の別れ」。七五調なみに延々と語りつぐ。まことに面白い。
わたしは、もうむかし、戦時疎開で丹波の山の中へ逃げ込んでいたとき、部落の祭に「友さん」という小父さんが聴いたこともない名調子で延々と八木節とや らを謳うのを小さな神社の拝殿に腰かけて聴いたことがある。意味のある言葉は何一つ覚えないが、「よいとよいやまっか どっこいさぁのせぇ」と何度も挟ま れる囃したては耳に残って忘れない。もう一つ、この祭の時、たまたま秦の父も京都から来ていてわたしの横にいたが、友さんの口説きか音頭かとにかくも紅潮 に達していたときに父は、突如として「友さん、ばっかりィ…」と大声を投げた。そんな父もかつて知らなかったし、その叫びが声援に類するらしいとは察した が、かつて知らず意味不明に奇妙だった。あのとき拝殿前の猫の額ほどせまいところで女の大人や子供がせいぜい六七人でへんに侘びしげに影のように踊ってい た気もするが夢のよう。
* 奈良県宇陀郡菟田野町で採録された「会津の小鐵」は長い長い口説きだが、
人に親分親分と
立てられますが悲しさに
引くに引かれぬ男の意地
剣の刃渡り数知れず
浪花で生れ江戸育ち
今ぢゃ京都の会津部屋
本名向坂仙吉じゃけれど
差した刀が長曽根小鐵
部屋と刀が仇名と成って
会津小鐵と人が呼ぶ
梅の浪花の皆の衆が
唄ひ出したるそのまた唄が
此の赤万膏薬でも
会津の小鐵がソテツでも
難波の福さんお多福でも
薬缶藤平が鉄瓶でも
馬屋のつぼ竹が竿竹でも
衿に大瓢箪背中に兵の字揚げりゃ
年期が増すばかり
あれが小林兵吉さんと
唄われました名物男
会津小鐵の売出しを
これ持ちましてよ
弁賊姫事 実明らかな
説明も成らないけれど
学びましたるお粗末だけを
悪声ながらも伺ひませう
京都北野天満宮の
東門に宅構へたる
男前なる文治と言ふて
やくざとせいの一匹鴉
ひょんな事から間違い起し
けんかの相手と役人と
間違いまして一刀の元に
斬殺したるそのために
軽くて打首重ねて磔
どちらにしても命のない所
小鐵の子分の小太郎が
親分小鐵に話しして
以下、延々延々延々と音頭の口説きが続いて行く。それに乗って盆踊りが続いているのかどうかわたしには見えないが、どうもそうらしい。敗戦後の京都でも 爆発的に流行った「盆踊り」の唄とはめちゃくちゃに異なっている。わたしらはあの頃、「瑞穂音頭」「京都音頭」「東京音頭」「炭鉱節」「真室川音頭」など で踊り狂っていて、「会津小鐵」や「赤垣源蔵」や「赤木谷悲恋心中口説」等々のごときは夢にも知らなかったが、田舎田舎には独特の音頭口説が遺っていてちゃんと唄い語りえた役の人がいたのにちがいない。書庫から持ち出した二大册には二百に及びそうな「音頭口説」が書き取られてあり、堪らなく刺激的に面白そうである。こういうのをわたしも、よく買って置いたと感心する。
じつは「説経」が読みたかったのだ、「山椒大夫」などのような。説経節と音頭口説とは筋が違っているような気がする、よく知らないので何とも謂えない が、「音頭口説」出来れば全部読みたい。もう四半世紀早くに読んでいたらわたしは不思議な小説を何編か書けていた気がして、もったいないロスをしたとやや 悔いている。わたしの身内にひそんだ「根の哀しみ」にかならず何かが触れて来るに相違ない。
*とにかくも「音頭口説」の多方面に多彩なのにおどろく。伝説や説話への、伝説や説話からの、双方向での浸潤のほどを察して、日本の文学文藝の理解から取り外してはなるまい。
2017 9/22 190
* 今夜は創作「清水坂(仮題)」にもぐり込んでいた。
2017 9/22 190
* わたしの小説は、たいてい京都に触れている。小説の仕事をしていると自然に京都に触れてられる。今日もそんな時間を持っていた。
* 晩がた、京都の「華」さん、東山安井「柏屋光貞」の京菓子「おおきに」を抹茶に添えて送って来てくれた。なんと懐かしくて美味しいか。安井は祇園の南 寄り、建仁寺の東、絵馬のおもしろい安井金比羅宮がある。「おおきに」とはおかしな名付けと思われるかしれないが、祇園の舞子藝妓たちは日ごろから「お互 いに 思いやり 気をつけ合うて にっこりと」と躾けられ、「おおきに」を、欠かさぬ口ごとにしている。わたしがきっと懐かしがるとよく察して選んで、こ の日ごろ草臥れきったわたしに送ってきて呉れたのだ、「おおきに」ありがとう。
先日は、大学で妻と同期の友達が、「京便り」のいろんなパンフなどをやはり好きな和三盆を添えて送ってきてくれた。
みなが、元気で元気で長生きしてくれますように。
わたしは独りの孤りっ子で育ったので、根が、すこぶる人懐かしいタチなのである、根の哀しみを琴線に晒して暮らしてきたと思う。
2017 9/23 190
* 妙な夢ばかりみていた、もう思い出せないけれど。なにかしら「数え」るようにものを覚えている。むかし、そんな掌説を書いたことがあるなあ。
☆ 光
ああ愉快、愉快ーーと、こんなふうに言ったことがただの記憶のかけらになり切っていた。男の子らしいいたずらをまんまと仕了せた時、また男の子らしい生真面目な仕事を成し遂げた時、すこし胸を張って、こんな言葉を使ったものだった。
男は、久しく愉快を感じたことがなかった。
毎日毎日、男の心には不等記号が愉快より一層多く不愉快の方に開かれ、もはや頑なに生活の下絵をつくっていた。
一、二、三、四ーー、歩けば男は歩数をはかっていた。一段、二段、三段ーー、昇れば階段の数をかぞえていた。
一人、二人ーー、道行く人影を男は意味なく数えていた。そして一日の暮れてゆくのを二時、三時、四時と、呟き呟き見送っていた。
数えられるものばかりが多く、数えても数えても、あまりに虚しくて男はしかとした印象を何事からももたなかった。俺は何をしているのだろうーー、そう考えることもあった。答えは見当たらず、男は自分が無数の数の一つであることだけを朧ろに知った。
数の内かーー。それは救われたような空々しいような気もちだった。
男は眼をつむることを覚えた。
眼をつむってしまうと、たちまち何一つ数えようがなかった。濃い闇の中では凝り堅まって確かな手ざわりで自分が自分に生き返った。静かな秩序が、整然と歩調をとって男の中で高らかに活躍した。
男は眼をつむって嬉しそうに歩いた。 だが、十歩も行けば不安がはっと捉えてきた。眼をあけてみて、男の胸はときとき鳴った。男はほぼ真直ぐ歩いていた。危なげはなかったのだ。
十五、二十、三十歩とやがて安らかに男は自分の闇を支配して進めるようになった。歩数をかぞえることもやめて、男は大きな充実にとり包まれ、むさぼるように一足一足愉快に歩いた。
走ろうとすれば走れた、だが眼をあけて見る外の世界は、あまりと言えば狭苦し過ぎた。 広い場所、人のいない場所を探ね歩いた。そのような場所があれば ふっと眼をつむって、男は自在に足早に確実に、あたたかい陽ざしへうつつに顔をふりむけ、悠々と愉快に歩きまわって過ごした。眼をあいて暮す世界より、眼 をつむって確と手に触れてくる世界の方が男には親しめた。安らかで、美しかった。ただのくらやみだったこの世界にあざやかな光と色彩が満ち溢れていて、紛 れもないものの像を日ごと男の眼の底にかたちづくって行った。
或る日も男がこの新しい領分をのどかに満ち足りて歩いていると、一人の少女に出逢った。遠い以前、男が男の子らしい清々しい声で、ああ愉快、愉快と言っていた頃愛していた、その少女だった。
昔通りの微笑を優しくふりむけ、少女は、あら、あなたもいらしたのと叮嚀に挨拶をした。あたくし、もう二年になりますの。それから、もっと早く来て下さると思ってたわ、と言った。
男は少女の傍を少年のように歩いた。ああ嬉しい、と少女は昔のように可愛く甘えて男を見上げた。
男は黙っていたが、幸福だった。闇にぱっと光が射して、なにもかも明るく、はっきり見えたーー。
崖を踏み外した男の死体は直ぐ見つけられた。
引き取り手のない死顔が愉快そうに微笑っているのを、人は無気味だと思った。
* 上のこれを書いたときわたしはまだまだ若く三十代だった、作家とも成る成らずの若い日にこんな世界へ紛れ入っていた。今にして、おそろしい気がする。
2017 9/29 190
* 選集第二十二巻の送り終える。
☆ 秦 恒平 様
この度は(谷崎を論じた=)貴重なご著書を、2冊も賜りすっかり恐縮しておるところです。夏休みに入り、研究室へ行く機会がなく、お礼をながく仕損じてしまい、誠に申し訳ございません。
豪華な装丁の選集の一巻一巻として、これら二つの大著が加えられたことは、谷崎の研究者にとって、また新たに越えなければならないハードルが大きく目の 前に現れた感がする、というのが偽らざる感想です。丁度、今年をもって、長くあった研究会もひとまず閉会となり、研究の方向性が、全集の刊行完了ととも に、やむかのように見えた矢先だったので、これは大きな励みとなる、と実感する次第です。
そう言えば、作家の方で、旧来の日本近代作家に自分を意識的に近づけていこうとする方も、めっきり減っていったような気がいたします。丁度、我々が大学 の教員になりたての頃に、テクスト論が学会を席捲し、カルスタやフェミニズムなどの流行から、まだしも谷崎は忘れられなかったですが、志賀直哉などは研究 者自身も、どうかかわりを持ち直していけばよいやら、まだ模索中の作家になってしまったようです。時代の推移といえばそれまでですが、直に彼らの文学を滋 養とする現役作家の方はもういないという中で、秦先生のように、研究史的にも重要な仕事をされた方は、きわめて稀でしょう。そして今後、こういった研究の スタイルは生まれないと断言できると思います。
また、研究文献目録を作りながら、網羅はできなかったとはいえ、多くの貴重なご論考を見落としていたことを改めて知り、申し訳なく思います。特に今個人的関心からですが、「谷崎潤一郎を語る」二十五篇を、あちらこちらとひも解くのが、大いに楽しみです。
私は、先生の注目される美としての谷崎より、大正時代の模索期の彼の方を追いたいと思い、直接先生のご論に何か申し上げることはありませんでした。正直 谷崎の研究も、今は積極的にしておりません。しかしこの労作を徐々に徐々に解読しながら、また新たな谷崎を自身の中で取り戻せるかを考えてみたいと思いま す。本当に、貴重なご労作を下さり感謝に堪えません。ありがとうございました。 平成29年9月 専修大学教授 山口政幸
* お手紙を、嬉しく拝見した。谷崎学のお一人として私の「思い」を深く汲んで下さり、感謝に堪えない。
☆ 秦 恒平様
謹 啓
「秦 恒平選集」第二十一巻(「谷崎潤一郎論 藝の魅惑と本質」「谷崎潤一郎論攷 全三十四編」をご恵贈賜り、まことに有難く、心より御礼申し上げます。全部読んでから、と思い御礼を申し上げるのが大変遅くなりました。お詫び申し上げます。
「春琴抄」改めて心を入れて読み直してみました。春琴自傷も佐助失明も「愛すればこそ」の自然な帰結と感じることが出来ました。春琴火傷ののち、佐助が 自らの目を針で突き、完全に失明してから、春琴に、もうお顔を見ることはないと告げる。「佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思し てゐた佐助は此の世に生まれてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった」なぜなら「佐助それはほんとうかと云った短い一語が 佐助の耳には喜びに慄えているように聞こえた。」からであると、作者は佐助に述懐させています。二人の愛の本質がこの一語に凝縮していると感じることがで きます。
佐助も春琴の自傷を理解すればこそ、自らの目を突けたのであり、春琴に恨みを抱く門弟や美濃屋の利太郎の犯行、あるいは暴漢の行きずりの犯行であったな ら、犯人に向かう感情一怨嗟や絶望が春琴を、恨みと後悔が佐助を捕らえ、こうも二人だけの純粋な観念の世界に向き合うことは出来なかったろうと思います。 春琴の自然と佐助の無私がここで見事に結晶して、論理を超えた形象による人間学が語られていると感じました。
改めて気づくことは、句読点、とりわけ句点を強力抑制した文体でした。文章を停滞させる「。」を夾雑物として極力排除し、語りの息遣い、抑揚さえ感じさ せるように書いています。谷崎潤一郎はよほど視覚に鋭敏なタイプの形象性を重んじる作家であったと感じました。また人物の名前 鵙屋琴、鴫澤てる、と鳥の 名が連なり、加えて春琴が最も飼い慣らし難い鳥類 鴬や雲雀、駒鳥鸚鵡目白頬白を飼う。佐助の名もまた、鳶や隼などの俚諺にあるのではないかと感じまし た。このあたりにも谷崎潤一郎の仕掛け(思想)が透かし織されているのではないか、このような細部にまで象徴を行き届かせて「春琴抄」は古典的な名作に なっているのだと思います。
また歴史小説について語られた「歴史的な現象、あるいは事件というのは現代に及んで、往々持続的な多くの意味を持ち、その理解も変わっていく、理解が変 わるにつれて時代の意味、あるいは解釈も変わっていく。そういうアクティビティをはっきり作中に抱擁しているのが歴史小説で、ただの時代ものとは峻別すべ きだ」(座談会 谷崎潤一郎の軌跡)に、まさに秦文学が語られていると、秦文学はこの歴史小説観で書かれている
と感じました。座談会(無論論攷を含めてですが)には鋭い示唆に富む沢山の思想を見出しました。考え、噛みしめるべき思想、文学観は谷崎潤一郎をより深く 読む指針ばかりでなく、私にはむしろ秦文学を読み解く重要な鍵になる言説、思想に満ちたものと感じさせていただきました。
その意味で、選集第二十一巻は秦文学の研究に欠かせない重要な一冊になっていると思います。
日本語で書くことの難しさについて、また小林秀雄についての疑念など、どこか裸の王様的なところのある世界への覚醒を促す提言であり、理解できない自分 の非力を託(かこ)っていたものには、もういちど新しい目で、小林秀雄という文芸評論家を再評価してもよいのではないかと思わせてい
ただきました。判らないものは判らないといえる自己に対する信頼がなければ、真に良い作品との出会いは実現しないだろうと思います。
いろいろ思い沸くことはありますが、御著書を拝読しながら「ああ。やっぱり」「そうか」「そうだったのか」と何度も何度も思わせていただきました。楽しい、有意義な真に読書に値する時間を持たせていただきました。
有難うございました。改めて御礼申し上げます。
この週末から気温が下がり一気に軟から冬の気配へと陽気が変化するとの予報です。どうぞ先生、お奥様ともに呉れぐれも御体大切に、ご自愛くださいますよう、心よりお祈り申し上げます。
本当に有難うございました。 敬具 平成29年9月28日 小滝英史 (作家)
* くわしく、よく呼んで頂き、感謝に堪えません。
* 選集世界が論攷とエッセイ篇へ展開して、「花と風」「手の思索」「日本を読む」という私基本の思想を枕に、わたくしを作家生活へかりたてた動因の「谷 崎潤一郎」を語る二巻を送り出し、かく有り難い感想や激励をいただいたところで、今日からは、「私の、中世」論攷とエッセイ篇とが大冊で二巻続くことにな る。私がいかに「現代」への悔しいまでの飽き足りなさを「中世」への思いで支えてきたか、それは昨日今日の政界へのほとんど憎しみに近い思いの分厚い裏打 ちちでもあることを率直に断っておく、その思いは主に美術を語っている第二十二巻よりも次へ続く巻に吐露している。
「日本」を語り、「谷崎」を語り、「中世」を語り、次々にこの選集は「私」を容赦なく「暴露」して行くだろう。
2017 10/1 191
* もう永らく角川版絵巻物全集の月報「絵巻」を全編愛読しているが、刊行ののっけに「対談」に呼び出されていて今さらにびっくりしたことは前に書いた が、ずんずん読み進んでもう二十何冊めになる、突如「月報」の筆頭に自分の名が出ているのをみつけ、仰天した。前の「一遍聖繪」対談はさすがに記憶してい たが、こんなところで巻頭エッセイを求められていたとは記憶からまったく洩れていた。「千秋楽」という題で書いていた。何十年も昔だ。
こんな調子で、四方八方からの依頼原稿を律儀に、手を抜かず無数に下記に書いていたまさにその「御蔭で」いまの私の生活は「稼ぎ無し」でも幸い成ってい る。誰の眼にも豪華な「選集本」も、極少部数ながら誰にも、妻子にも一円の迷惑をかけず、創り出せている。本はむずかしくてか売れたとは義理にも謂えない が、書く原稿は結果的にはベラボーに「売れていた」と今さらに幸い自得するしかない。
もう、余命は少ない。日本は、ますます危うい。未練は無い。
2017 10/1 191
* 今日は気をらくにしたまま、『ヨニオ・ミスティカ』の仕上げへ、じりじりと。まだまだまだ、細かいところへも思いをしかと添えて書き置きたいと。
2017 10/2 191
☆ 夜雨 微雨夜行 白楽天
早蛩(こおろぎ)啼きて復た歇(や)み
残燈滅(き)えんとして又 明らかなり
窓を隔てゝ夜雨を知る
芭蕉 先づ 聲あり
漠々 秋雲起り
稍々 夜寒生ず
自づと覚ふ裳の湿ふを
點(燈火)なく 聲もなし
* わが昔人らが白楽天の詩をことに慕い愛したきもちが分かる。
いまわたしはこれらを少年の昔から秦の祖父の蔵書に見出し愛玩してきた、国分青厓閲・井土靈山選、文庫本よりなお幅の狭い『選註 白樂天詩集』(明治四 十三年五月初版)で毎日読んでいる。この本には、忘れがたい反戦・厭戦の七言古詩「新豊折臂翁」が入っていて、国民学校三年生を終え丹波の山奥へ秦の祖父 や母と戦時疎開するより以前から愛読していた、「兵隊には行きとない」と思いながら。その久しい思いから作家以前の処女作「或る折臂翁」(選集⑦巻所収) を書いたのだった。秦の祖父は、夥しい数のこういう漢籍や古典を所蔵していた、ただし読んでいるのを観たことは無かった、長持の底や箪笥の戸袋などから発 見していったそれらすべては少年・秦 恒平のまつしく所有に帰し、その大方を京都から東京へ移していた。祖父はちいさい「もらひ子」のわたしにはこわい人であったが莫大な恩を受けている。「古 典」という詞藻と表現の結晶をさながらに「思想(エッセイ)」としてわたしは敬愛し親愛できた。これが無かったらわたしは作家に成れていなかったろう。
だが、これらの古典籍も、やがては廃棄されてしまう。「精神」としてこれらを引き受け得る子孫をわたしは持てていない。やんぬるかな。
2017 10/3 191
* 四国・今治市の木村年孝さん、ここ数年心がけ書き継いできた小説へ応援の地誌資料をたくさん送ってきて下さった。有難う存じます。行きたい、が、とても行けそうにない、どうしようと思い歎きつつ辛うじて近縁のテレビ番組などで辛うじて想像していたが。
読まねばならない。いまわたしは「読む」という好意に生活の大半を捧げているが、じつのところ視力はサンザンで小さな活字は見えない、読めない、インクが薄くても読めない。ひどいときは、源に今もそうなんだが、いろんな眼鏡を「三つ」も重ねている。
それでも読まねばならない、読みたい意欲はむしろ旺盛で、だから家中の到るところに積み重ねた本の幾分かでも処分したくても出来ない。手に取ると、あ、 も一度読んでからなどと思ってしまう。読書に趣味のない息子にでも命じて、おれの留守に一斉に始末しといてくれとでも頼まねばならない。
本の誘惑というのは、きつい。目下は徳に関心も用もない本なのに、手にとり題を見てしまうと、あ、これはまた読みたいと思ってしまう。まだしも「お寶」というに値する書画骨董茶道具を人様に差し上げてしまう方がし易い。ほんを貰って喜んでくれる人はあまりに少ない。
* 愚痴っているより、送って戴いたのを今晩は読もう。幸い妻にも手伝って貰い、「湖の本137」発送の用意はもう七、八割がたできている。『ユニオ・ミスティカ』最期の仕上げも近づいている、手を掛ければ際限ないけれど。
* ナニの勢いでだか、美術の世界にひたひた浸りながら機械に向かいづめの一晩であった、十一時、もえ目玉が灼けている。
2017 10/6 191
* 選集二十四巻の初校残りが、まだまだ嵩がある。此の巻も、第二十巻なみに大冊になる。フー。
2017 10/8 191
* 今治の木村さんに送って戴いた地誌も興味津々読みかけている。
鏡花は次は何かな。源氏物語は「東屋」の巻を進んでいる。「音頭口説」大冊の一冊目をほとせなく読み上げてしまう。京都の地誌もこれまた興味深く読みあさっている。
ダンボール箱から、医学書院の原稿用紙をつかってなんだかアタックしていた五十枚ほどの原稿用紙があらわれた。棄てるのか、読み返すのか、なやましいこと。
* 明日もまだ休日だと。ヘンなの。
2017 10/8 191
* 奇妙な夢ばかりを連日見る。夢で疲れる。昨日は なんとなくイヤな一日だった。歯医者帰りの夕食があまりに不味かった。つまらぬことをした。
幸い、選集の校正はハカが行った。{選集123」をやがて責了出来る。「選集124」初校了にはもう暫くかかる。そのあとへ何んな一巻を入稿するか、思案している。
長編「ユニオ・ミスティカ ある寓話」は、最期の仕上げにこまかな手入れを重ねながら随所にモチーフの補強も試みている。いきなり選集へ入れてしまおう かとも。すると湖の本の読者に待ちボケをさせてしまう。しかし「湖の本」読者全部の方がこの作を受け容れて下さるか、どうか。
2017 10/18 191
* 選集24の初校を終えた。つきものなど添えて要再校、印刷所へ送り返すことになる。この感の刊行は正月にと思っている。
選集23の再校を終えたので、建て頁確認しも不審箇所など見直して、責了へ、そして十一月末には送り出したい。
選集25の編成が決まっていない。落ち着いて決めなくては。妻の快癒と退院とを心待ちにしている。
2017 10/22 191
☆ さすが小説家
迪っちゃんの日々の回復の様子に、ほっと胸を撫で下ろしています。
リハビリが始まったのは本人にとってはつらいこともあるかも知れませんが、大きな一歩だと思うので 本当に喜ばしいことですね。
それにしても毎日、ご自分の様子を逐一書かれていることに驚いています。
自己観察者の目で、まるで日常がまたひとつの小説のようです。
仲良しの文鳥の絵が、とても心温まります!
どうぞお体を大切に、 いつも応援しています。 妻の妹 琉
* ありがとう。わたしなりに気を晴らして怪我なく生きて行かねばならず、それには、自身に向きあいながら家のことも仕事も大きな粗相なくやって行かねば ね。しんどいのも、つらいのも、意識して自分と向きあって隠れたり逃げたりしないのが、結局は素直な道なんでしょう。逃げ道なんて無いんだもんね。
それと、も一つ。書きっぱなしの誤字脱字はいつも迪子があとから注意して直してくれるのですが、そうはいうものの、この「私語」は、これなりに文章の稽 古のつもりでもあるんです。息継ぎの句読点の位置や、自分の文体をより確かに創って行くために、けっこう気を入れ、わたしふうに、書いているのです。推敲は、相当にしているのです、だから小説家の とホメてくれたのは、少年のようと云われたのとともに、嬉しいです。
「二人」の文鳥は、二人とも喜寿のおりに描いて貰ったんです。迪子の大のお気に入りなんです。
二時になりました。そろそろ病院へと。心用意します。
からだ 大事に大事にして下さいよ。 恒平
2017 11/2 192
* 妻は、病室へ向かうと、廊下でのリハビリ中、歩行訓練をしていた。声は擦れたままでよく出ないが、起ち居もしっかりとしてきた。六時の食事も三分の二もよく食べていた。ナースから退院後のケアについて、施設と相談して決めよと示唆があった。
予想を超えわたしの訳した『枕草子』を面白がっていて、わが意を得た。枕草子はほんとうに面白い古典なのであるが、日本中で、インテリジェントな大人で もかつて「春は、あけぼの」をかすった程度にしか読んでいない。清少納言描く王朝男女の日常も心情もじつは身近にありありと面白いのであるが。妻は今一 つ、学研のこの「日本の古典」の各巻担当者の豪華さにも一驚していたのが可笑しかった。
玉置主治医も来てくれて、あす、もう一度血液やレントゲン検査で状態を確かめたいと。慎重に慎重に、もうこの上は怪我も事故もなく元気に我が家に帰還して欲しい。
2017 11/7 192
☆ 福田恆存の「日本への遺言」に聴く 言語 Ⅰ 抄
言葉は手段であると同時に目的そのものである。自分の外にある物事を約束にしたがつ
て意味する客観的な記号であると同時に、自分の内にある心の動きを無意識に反射する生
き物なのである。一語一語がさういふ両面の働きをもつてゐる。
ある人がある時に「あわてる」ではなく「狼狽する」を選んだことには、適否は別として、意味とは別の世界に、その人、その時の必要があるはずで、彼が言葉を選ぶのではなく、言葉のはうがその時の彼に近づいて来て、彼を選ぶのである。
* 同じ感想を、少なくも小説を書き始めて以来久しく、わたし自身も持ち続けてきた。たった今、こんな「私語」を綴るにも、同じ。
2017 11/8 192
* 午後二時間、二人とも昼寝した。体力気力の戻りを実感する。不行き届きの家事、仕事などいろいろ有るにしても出来ることを一つ一つ片づけて行く。
そして、創作に力を入れたい。
妻は好きな大相撲を嬉しそうに楽しんでいる。
日馬富士の不祥事を二人して歎いている。なんとか穏当におさまって欲しい。阿馬の昔からいい相撲取りだった。白鵬と並べて甲乙無く、応援し続けてきた。
* 書き始めたいと背をつよく押されるような新しい仕事への衝動が次々に来るのは苦しいほどだ、とても今、その時間すら恵まれていない。われながら不思議 な気がする、頭だか心臓だか知らないが、何がどうなっているのだ。活気を帯びて日を暮らすのはそれはそれだが、息苦しいまでに追われてはいけないだろう。
* 七册ほどの大学ノートで「創作ノート」と表題したのが見つかった。数十年も昔のだ、夥しい「着想」の類がこまごまと、あるいは殴り書くように、しかし 生き生きと書き留めてある。そこから仕上げてきた仕事も多いが、仕残したままになったのも、在るわ在るわと歎くほど在る。今からでも手を付けて佳いと思う のもある、その上に、今も今、思いついて胸ぐらを掴まれてしまう「材料」も湧いて出るから堪らない。
* 「貨狄」という二字ににわかに想像の展開する人はそうはいまいと思う。アアと超えも出そうに、引っ張られる。そんな時かお前と、自分の頭を今朝から叩いている。
2017 11/14 192
* ジリジリとにじり寄るように長編の終盤を固めている。 十時半。
妻も幸いに安定感をましつつ日常の家事に気を向け手がだせるようになってきた。ありがたし。
もう今夜もやすもう。鏡花の『風流線』が面白くなりだし、「浮舟」はいわば苦しい佳境へハナシが煮詰まって行く。
「絵巻」月報三十二冊ももうそろそろ終えそう、想像を遙かに超えて勉強してしまった。小説『絵巻』はもう書いたし、もう強いてこの楽しかった勉強を何か 形にしようと謂う気は無い。「月報」バカにならないという感謝の思いを大事に持っている。「絵巻」について、こんなに多彩に広く詳しく勉強したとはね、オ ドロキました。
2017 11/14 192
* 選集第二十三巻送り出しの宛名印刷も出来て、手書きを覚悟していたのも乗りこえた。無事の納品を待つ。
* やすみやすみ大事に仕事している。やすみやすみ。それでよい。わたしの仕事はもはや「量」ではない、「質」でしかない。ていねいに、ていねいにと思う。
* 太宰賞を受けた翌年の桜桃忌だった、第二回受賞の先輩吉村昭さんに教えられた、仕事を欲しがって焦らないこと。きたない仕事に目が眩んで焦ってしまう と、たちまちに低俗な雑誌から「うまそうな」話が来ます、それに乗ったら、ただ「売り物の読み物屋」に落ちてしまい、足が抜けなくなります、秦さん、じっ とガマンして、いい仕事をすべきですよと。
痛いほど身に沁み、よく分かった。
そういう誘惑は受けずじまいで済んだが、巧言に乗せられ低調な読み物作家になろうなどとは毛筋ほども思わなかった、只の一度も。おかげで(物的贅沢な) お蔵は建たなかったが、「湖の本」の150巻もまだまだ不可能でなく、人も驚く内容ある美しい本の「文学選集」も、誰のご厄介にもならず自力で世に送り出 し続けている。大事なのは此の「自力」で出来ているという結果にある。
売り本で手元にあつめる売り金の多寡など、何の意味もなく、物質的な贅沢を奢るに過ぎない。
ひとたび文藝に携わった者に求められるのは、優れた「作品」を遺すこと、それだけ。
そのために真実願わしいのは、志し揺るがぬ良き妻と、七つ道具で追い回し牛若(作家)をサンザンに鍛えてくれる弁慶のような「本物の編集者」だ。わたし はひういう編集者達に恵まれた。「売れるものを書いて下さい」と。やわい志の書き手をおだてに掛かる編集者は、身を滅ぼす「猛毒」だと思えばよい。
2017 11/15 192
* 「ある寓話」の結び目へ少しく展開を試みかけている。が、明日に。十一時。明日水曜の午前はいろいろいそがしい。
2017 11/21 192
* 選集の仕事が、編輯が「京都」へ動いているので、京の便りはひとしお身に沁みる。京そだちだから成った仕事、京育ちでなければ成らなかったろう仕事を、莫大にと云えるほど積んできた。
ただ、思うのである、わたしの京都には、二年にも満たなかったが京都府下の深い山村疎開暮らしも含まれていて、この体験には感謝を禁じ得ない。俳優のひ の野正平が自転車で日本列島をはせ廻っているあの「故郷」感覚をわたしは、一方で京都市街での暮らしと同列にあの丹波の山奥にも篤くまた熱く抱いている。 京都や東京だけが日本ではないという国土愛を大事に大事にしている。処女作の「或る折臂翁」も文壇処女作「清経入水」も丹波というわたしの「京都」に根を 生やしたのだった。時折り、ひの正平にてがみを書きたくなる。
* 十時。階下での「読む」仕事へ移動する。明後日の今自分は、新しい選集の送り出し荷造りで草臥れているだろう、急ぐ必要は無いのだからゆっくり進めたいが。
2017 11/25 192
* 吉川幸次郎、小川環樹が編集・校閲した『白居易』上下巻(岩波書店)を送ってもらった。文字の小さいのが残念、作は辛うじて読めそうだが註はあまりに細字で、視力は届かない。しかし、詩は読める。
毎朝読んでいる「選註 白楽天詩集」は国分青厓・閲 井土霊山選、明治四十三年八月第四版、定価金六十五銭の袖珍版で、文庫本より小さめだが幸い字は大 きい。絶句、律、古詩に分類してあり、かなりの厳選で、戴いた岩波版ほどは網羅されていない。この愛読してきた明治の本に出会ったのは国民学校の三年生以 前、そしていつしか「新豊折臂翁」を識って、小説という物が書きたくなった。根気よく胸に抱きしめ、会社勤めの第一次安保闘争時に刺戟され、とうどう書き 始めたのが処女作『或る折臂翁』だった。わたしの白楽天は、平安古典からの照り返しでなく、秦の祖父が蓄えていた数多い漢籍中のちいさな一冊『白楽天詩 集』に直かに衝突していたのだった。
残年は幾ばくとも知れないが、白楽天の詩、陶淵明の詩からは終生多くを恵まれ続けるだろう。
高木正一注の上記『白居易』上下を送ってきて下さった「尾張の鳶」に、感謝感謝。初見の作にたくさん出会いたい。ことに白詩の極めつけ自選の「新楽府」全五十詩が上巻に揃っている。公任や少納言の気分で読み続けたい。
2017 11/27 192
* 夫婦とも、昨日今日、送り作業に根を詰め、よく頑張った。ほっこりし、佳い煎茶が美味かった。
まずは、長編『ユニオ・ミスティカ ある寓話』を仕上げて、「選集」に一挙に収めたい。久しい「湖の本」読者、いわば赤穂の四十七士のように結束して戴 いた有り難い「いい読者」にすら、あるいは忌避される怖れもあるが、作者である以上、良い形で、やはり、多年の読者には謹んで呈すべきが道だろうと思って いる。
2017 11/28 192
* 建日子が階下へ帰ってきている、ようだ。
* 建日子もいっしょに、やす香が生まれた当時のアルバム二冊を大いに楽しみ、七時からは一緒に「大忠臣蔵」を観てくれて、母親のようやく無事に生還復帰 の実感を喜びながら、八時過ぎには次の仕事の吉祥寺方面へ出向いていった。次回、第二十四巻の口絵には、『古典愛読』を中公新書に書き下ろしていた当時に 父と息子と二人して旅した中禅寺湖畔での写真が入るのを見せたり、短いが和やかな親子三人の時が楽しめた。有り難かった。
2017 11/29 192
☆ 真冬日
hatakさん
奥様ご退院後、お加減はいかがでしょうか。お一人の危機数日間をサバイブされ、ほっとしまして、何か滋養のつく食材でもお送りしようと思案しておりまし たが、家内が調理に手間のかかるものは却ってご迷惑というものですから、今は考え中です。多分速やかにカロリーが摂れる液体(お酒)になるのではと考えて おります。
秦恒平撰集第二十三巻『いま、中世を再び』をお送り頂きありがとうございます。
「刊行に添えて」は「『受け手』の感受性が茶の湯、文学、演劇、人生で問われている」で結ばれていました。研究も まったくその通りだと思いました。
今年は冬の訪れが早く、札幌は師走に入る前から真冬日が続き、雪もどうやらこのまま根雪になりそうです。インフルエンザも流行ってきております。お二人がお健やかに年越しを迎えられますことをお祈りしております。 maokat
* ありがとう、maokat さん。友の「存在」をいかほど距離はあろうとも体感できている幸せを、しみじみ思います。年々歳々、そう実感します。
* 能美市の井口さんも選集の跋に触れて下さっていた。身の内に散点している火薬のような熱源が弾ける気持ちで、「あとがき」し、述懐している。
2017 12/3 193
☆ 白楽天に聴く 「独り在る」
飲徒 歌伴 今何くにか在る
雨と散り雲と飛び尽く廻らず
此れより香山風月の夜
ただ応に是れ一身の来
* いろんなものを読む、小説も以外も。そして気が付くと他の何よりもわたしは源氏物語の豊かな丈高い「面白さ」に心酔し感嘆している、心酔も感嘆もごく 自然当然に出来ることに驚きと感謝の思いを禁じ得ない。岩波文庫では「花宴」巻を読み終え、小学館版では「蜻蛉」巻を読み終えて、何のガンバリもなしにた だ自然にその文藝の偉さに頭を下げまたホクホクと嬉しかった。
* もとより平安の物語と限らず、日本の古典がおおきな偏頗をも抱え込んで日本の歴史と文化とを反映していることは重々認識し、そのうえでわたしは、わた しのオリジナルな提言として「女文化」という提唱をし続けてきた。『女文化の終焉』と題して十二世紀美術を書き下ろし論策したのは一九七三年、昭和四十八 年五月刊本でだった。以後、わたしは、間をおくことなく、必要に応じて随時、日本文化を「女文化」の称呼において語り続けてきた。「女」の文化を語ったの ではない、日本文化を「女文化」と捉えて日本の男女を念頭にしたのである。それも小説という日宇作の実践と帯同して認識し続けたのである。
だれもが触れても確かめてもこなかったが、日本で「フェミニズム批評」が日本近代文学会ではじめてとり上げられたのは一九八六年秋季大会「日本的近代と女性」という小特集が「最初」であったはず。
しかもそれは、またその以降も、フェミニズム批評やジェンダー論は、概ね、ほぼ例外抜きに「近代」でもって語られつづけ、しかもそれを「日本文化」の論として安易に置き換えてきた嫌いがある。
しかしそれらは、概して、「日本」を意識し冠しつつ。しかも「日本の古典」からの深い検討は欠いていたのではないか。日本の近代文学研究者には、日本の 古典を識らないだけでなく読めない人も少なくないという。さもあろう、と、わたしの見聞でも察しられるし、論攷を読んでみてもわりと容易く察しられる。
「日本文化と歴史」とへの、基底に達した論策が無い、ないし著しく乏しいないし不足のままで成されてきた「フェミニズム批評」や「ジェンダー」論議の分 厚さはとは、いかがなものか。例えば少なくもわたしの「女文化」という提議に誰が触れてものを思案してきたかを問いたいと思っている。
どうも「文化」という二字が安直な記号のように観られたままの議論展開ではないのか、とても気になっている。
上野千鶴子さんらの社会学的な仕事は、上野さんさんにたくさん本を戴いてかなり熱心にわたしも読んできた。が、文学・文藝研究の面では、上野さんを含む 「三女士」の勇ましい男子「文豪」退治を知ってはいるが、一面的で、こと「日本文化」と関わる「ジェンダー論」としては幅も深みも乏しすぎた。少なくも古 事記、万葉集、竹取物語、古今和歌集、伊勢物語、枕草子、源氏物語、夜の寝覚、和歌・歌謡集以降を含む日本古典文学をも「日本文化」の名において認識し得 たほどの議論は殆ど見聞に入ってこない。前提としても、結語としても、「日本文化」のそもそも「把握」が目に見えず耳に聞こえてこないまま、西鶴も近松も 抜きのママ躍起に「近代」ばかりが語られている。それでは、多くは学べず、出てくる議論も切れ味に欠けているのではないか。
* 九大教授だった今は亡き今井源衛さんが、たとえば源氏物語等での男女の性関係はほとんどが「レイプ」だと明言されたとき、なに不思議も感じなかった と同時に、そういう視野から見わたして何がどう論策されねばならないかなど、いっこうに発展の気配希薄なのをわたしなどは奇妙に思っていた。
わたしは「女文化」といい「平安女文化」といってきたが、近代日本にわたっても例えば一葉、たとえば松園、たとえば湘烟らを「近代女文化の旗手」とも掲 げてきた。こう掲げられた女の心身を介してジェンダー問題が語られているかどうかに好奇心ももってきた。概して、好奇心を豊かに面白く満たされたような記 憶がないのである。
* いま書き続けている長編『ユニオ・ミスティカ ある寓話』が、上のような視点観点のためにかなり刺激的な材料になるかどうか、「女文化」論者として一応気に掛けている。わたしにはわたしの反省というのも変か、視点と感想とは有るのである。
2017 12/8 193
☆ 白楽天に聴く 「独り在る」
泰山は毫末を欺くを要せず
顔子は老彭を羨む心無れ
松樹は千年なるも終に是れ朽ち
槿花は一日なるも自ら榮と為す
何ぞ須ひん世を恋ひ常に死を憂ふること
亦た身を嫌ひ漫りに生を厭ふこと莫かれ
生去 死來 都べて是れ幻
幻人の哀楽 何の情にか繋けん
* 白居易の最も自負自愛したのは自身名付けての、「諷喩詩」であった。彼自選自負の詩集『新楽府』に収めた大方の作がそれであった。
彼には、他に、「閑適詩」また「感傷詩」さらに数多の「律詩」があり、わたしが毎朝此処に引いて愛誦しているのは、大方が先の「諷喩詩」以外の詩句であ り、かの平安朝男女ら以降後世にまで、日本人の「白詩」愛好はもっぱらそれら「閑適・感傷」の詩、美しい情感に溢れた「律詩」へ集中し、時世・事変への烈 しい諷諫や批判をこめた「諷喩詩」から感化や影響を受けた例がほとんど見られなかった。その事実は、碩学吉川幸次郎、小川環樹両師が編輯校閲の『白居易』 下巻解説が明記している、即ち「国情の相違によるのか、それともまた、これを受けいれた人人の、文学にたいする心がまえの違いによるものであったのか、」 「いずれにしても注目すべき現象」であると。
* わたしは実のところ白居易の詩のを包括的な予備知識など、此の最近ですらほとんど持たなかった。大人になってからもそのような知識はほとんど望まず、国民学校の少年以来ただただ、秦の祖父の遺してくれていた明治版『白楽天詩集』にとりつき、好き勝手に読み耽ってきた、それだけだった。
ただ、こういう事実がハッキリしたのである、即ち上の吉川・小川先生らの「指摘」を受け、新ためて顧みれば、わたしはその袖珍版『白楽天詩集』の中から、他の多く「閑適・感傷」の律詩によりも遙か強い思いで、文字どおり終始一貫「新豊折臂翁(新豊の臂を折りし翁)」という反戦詩に強い関心や共感をもち、いつしかに、その詩から小説の創作を願いつつ、ついに昭和三十七年(一九六二)満二十七歳の誕生日に、処女作『或る折臂翁』を脱稿したのだった。その日その地点から、わたしは事実上「小説家人生」へ踏み出したのだった。
知るよしもなかったが此の、白楽天原作「新 豊折臂翁」こそは、彼が最も自負した詩集『新楽府』「諷喩詩」群の最たる一作であったのだ、そんなことを、わたしは、「尾張の鳶」から最近に戴いた上記の 本で初めて承知したのである。日本の文学史で、白楽天の「諷喩詩」に影響された例の無きに等しかったと聴くにいたって、また一つ私自身を証言しうる一項が 確認できたとは、望外のことと云わずにおれぬ。
こういう詩であった。
☆
新豊(しんほう)の老翁八十八、頭鬢髭眉(とうびんしゆび)は皆雪に似たり。玄孫扶(たす)けて店前に向うて行く。左臂(さひ)は肩に憑(よ)り、右臂(ゆうひ)は折る。
翁に問ふ、「臂を折りしより幾年ぞ。」兼ねて問ふ、「折ることを致すは何の因縁ぞ。」
翁云ふ、「貫属は新豊県。生れて聖代に逢ひ征戦なし。聴くに慣る黎園歌管の声、識らず旗槍(きそう)と弓箭(きゆうせん)とを。
何(いくば)くもなく天宝大いに兵を徴(め)し、戸(こ)に三丁(てい)あれば一丁を点ず。点じ得て駆り将(もつ)て何処にか去る。
五月万里雲南(うんなん)に行く。聞説(きくならく)、雲南に濾水(ろすい)あり。椒花(しようか)落つる時、瘴煙(しようえん)起る。大軍徒渉(としよう)すれば水湯の如し。未だ十人過ぎずして二三は死すと。
村南村北哭声(こくせい)哀し。児(じ)は爺嬢(やじよう)に別れ、夫は妻に別る。皆云ふ、前後蛮を征する者千万人、行きて一も廻(かえ)る無しと。
是時(このとき)、翁の年二十四、兵部牒中(へいぶちようじゆう)に名字(みようじ)あり。夜深(ふ)けて敢て人をして知らしめず、大石(たいせき)を偸(ぬす)み将(もつ)て槌(つい)して骨を折る。弓を張り旗を簸(ふ)る倶に堪ず。茲(ここ)より始めて雲南を征することを免る。骨砕け筋傷む、苦しからざるに非ず。且つ図(はか)る、揀退(かんたい)郷土に帰らんことを。
此の骨折り来たる六十年、一肢廃すと雖もー身全し。今に至りて風雨陰寒の夜、天明に到るまで痛みて眠らず。痛みて眠らざるも終に悔いず、且つ喜ぶ、老身今独り或るを。然らずんば当時濾水(ろすい)の頭(ほとり)、身死し魂(こん)孤にして骨収められず、応(まさ)に雲南望郷の鬼と作(な)り、万人冢上(ちょうじょう)に哭すること呦々(ゆうゆう)たるべし。」
老人の言、君聴取せよ。君聞かずや、開元の宰相宋開府。辺功を賞せず、黷武(とくぶ)を防ぐ。又聞かずや、天宝の宰相楊国忠(ようこくちゆう)。恩幸を求めんと欲して辺功を立つ。辺功未だ立たずして人怨(じんえん)を生ず。
請ふ、問へ新豊の折骨翁に。
* 読み下しは全てにルビがあった。読めれば「折臂翁」の曰く、ほぼ完全に国民学校の三年生は理解した。すでに当時、兵役を科されての出征を見送る町内外 の儀式は頻々として有り、わたしはそれを勇ましい儀式だなどと夢にも思わず、自分なら、イヤと内心に拒んでいた。白楽天という詩人のこれこそ胸を打つ作品 と全身で受容し続けていた。
白居易のこれが「諷喩詩」である。毎朝にひいている閑適・感傷の律詩とははっきり異なっている。わたしの文学は、此処に樹ったのである、本来は。今も、逸れてなどいない。
2017 12/9 193
* いちどその気になってしまうと、手放せない本が目の前に立ち現れる。島尾さんの遺著「琉球文学論」も島津忠夫さんの遺著「老のくりごと 八十以後国文 学談儀」も、手にしてしまうと教えられる多さに負け、つい読み耽ってしまう。老いて草臥れたこのからだにまだ好奇心をかりたてる吸収力が残っているのに、 途方にくれさえする。生きる力はまだまだ「書く」ために大事に温存しなくては、あまり「読む」ために浪費は謹まねばと思うが、読むと書くとは表裏していて 切り離せない。「読み書きソロバン」と謂うたものだが幸いソロバンは気に掛けなくて済むのは有り難い。
* 長編『ユニオ・ミスティカ ある寓話』の第一部と終幕部とに関連の新しい物語を加えたくなっている。出来不出来は分からないが、此の作がなにかしら 「かなめ石」に成って行きそう、根負けしないで書き抜きたい。『清水坂(仮題)』もめり込んでくる肩の荷になっているが、根負けしてはならぬ。
* 九時半。もう機械の字がよく見えない。今夜はもう休んだ方が良い、どうも体調、違和の重苦しさをはらんでいる。疲れであろう。
2017 12/10 193
* 凸版印刷株式会社へ「秦 恒平選集」第二十三巻の支払い送金を終えた。送料が無茶に値上がりしたのも加わって、一巻ごとに二百万円近く支払う。もう「十巻」を出し続ける予定だが、 さ、満足できるかどうか、別巻が難関か必要になるかも知れぬ。何処かでは断念するしかないにしても。
第二十四はもう責了、第二十五巻はもう初校が出ており、第二六巻は入稿用意が進行している。
2017 12/11 193
* わたしの「京都」を選集のために「掴み採り」したいと四苦八苦。両掌から、ぶわぁッと溢れ出てしまい、手に負えない。随筆や散策まで含めると「京都」だけで三巻分にもなり、それは困る。小説など編輯の巻数を用意しておかねば。
* 九時半。機械仕事は視力の限度へ。困る。目の疲労は心神の疲労へ直行してくる。健康なんだという自覚がとかく砂のように崩れてくる。
2017 12/11 193
* 『能の平家物語』という本を出しているが、論攷というでなく、しかし感想・随筆というのでもない。能という不思議の演戯・文藝と遊び合うて、どうやら 自身の小説世界をいろいろに網掛けるように好きに感覚してたらしい。小説にもう成ったのもあり、成ろうとしたのもあり、成る可能を孕んでいる文章もある。 読み返してえらく楽しいから可笑しい。
2017 12/14 193
*妻の風邪けは一進一退、わたしの体調は宜しからず、ぞわぞわとしたかすかな寒気に集中力を奪われている。
思い切って、寝入ってしまおうとおもう。
* それでもやはり仕事していた。幸いに、いまむやみに追い立てられる仕事は何も無い、なら今こそ仕掛かりの創作を打ちこんで追いかけることだと思う。も う熟して枝から落ちそうな果実は、「ユニオ・ミスティカ ある寓話」が一番、これを収穫できれば、攻城で大手門を抜いた気分に成れそう、どう発表するかな どは二の次で良い。
アレもしたい、コレも、ソレもとわたしは今何かに追われるように浮わ気になっている。それで気疲れもしている。凡の凡人の証拠のようにうろうろと、あげく疲れている。
2017 12/17 193
* 昨日、原稿依頼が舞い込んだ。以来原稿を断り続けて近年はまったく影もなかったのに。
「平成」がやがて改元される。「平成」時代を顧みよと、用紙二十枚が宛行われてある。原稿料は無いも同然、一頃の一枚分稿料にも足りないが、それは気にしない。書けるかどうか。書いてみたいか、どうか。
* 機械の変調、辛うじて身を躱したが、不安定限りなく。
2017 12/20 193
* 京の華さんから、抹茶とお菓子を戴く。いつもいつも、戴いている。京都の、東山区のいろんな地図を送って下さる。地図があればわたしはいくらでも好きなままに歩き回れるのだ、京都なら。昔の京都が目に、脚に、肌によみがえる。
いま無性に、小松谷正林寺界隈へ思いが走る、しかも森々とした夜景に。わたしの小説がその辺で迷子になっているのです。
2017 12/21 193
* 「ある寓話」に、夕方から取り付いていた。
自分からふっかけた難儀な問題をどうかして解いて細道を通り抜けねば。作中にもう一つ新しい別の物語を組み込もうというのだ、ブチコワシになるかも。
八時半。しんどい。
2017 12/23 193
* 撫でた程度だが小説を少し動かした。
入浴し、大石と遙泉院南部坂の別れを見届けておいて、明日の、今年最期の聖路加受診に備えている。済めば、風邪を引き添えぬうちに休みたい。
2017 12/26 193
* 「能の平家物語」を通過し、いよいよ「茶ノ道」へ入ってきた。若返って行く心地がする。
2017 12/26 193
* 選集台二十四巻送り出し(一月十九日)用意に、掛かっている。追われると落ちつかなくなる。
* 「或る寓話」を、大結びして行く「結び目」に一と綾をと工夫している。
2017 12/28 193
* 体感宜しきを得ず、見にくい目のまま懸命に難しい道をくぐるように小説を書き進め書き直し、呻いていた。それはそれで、最も賢い「時間との馴染みかた」なのだ。
2017 12/31 193
* 特別大晦日のようにも過ごしていない。八時過ぎたし、ま、やすもうかと、思いつつ「選集第二十七巻」に宛てても良い「編輯」手始めを順調に終えた。機械の中に往時の全仕事が幸い整備保管できていることの有り難さを思う。
来年も、なんとか無事に仕事を続けたい。
* 九時半。さ、階下へ。美味い酒をすこし飲んで、やすみたい。源氏物語の、版を異にした二册、泉鏡花選集の「芍薬の歌」、筑摩版現代文学大系、四女性作 家らの最後の巻、音頭大系、その他の資料類を枕元に積んで読み継いでいる。三十二巻の「絵巻全集」の全月報は大満足して読み終えた。
機械の側でも、白楽天や陶淵明の詩集を愛読中だが、明日の元日からは、またバグワンを読み返して行きたく思っている。
* ではでは。新年には是非新作の小説に自身納得したい。
2017 12/31 193