* ジリっと「寓話」第二部を、衝き、動かした。
2019 1/2 206
* 録画しておいた徳川家康二部作、いわば江戸開府のための二大要項である「水」と「金」との上水篇を感動とともに見終えた。立派な歴史劇、あの「阿部一族」に継ぐ秀作であった。涙をこらえる場面も再三。
しかしわたしの期待しているのは今夜に放映の「金」篇である。もう数年の余も苦心惨憺の長編「オイノ・セクスアリス 或る寓話」のなかで、どうあっても 関わり無しに済ませ得ない話柄と絡んでいて欲しいのだ、さらなるヒントが得られるかどうかと願っているのだが。さ、どうか。
何にしても「江戸開府」はこの際わたしの関心外ではあるが、歴史的に「江戸開府の二大要件」が「水」と「金」であったことは、確実。そこへしかと着目し た原作者も企画・脚色者も見るべきを見ていた。テレビ劇で大きな足跡をのこしたいなら、こういう抜きん出て確実な「着目」と「勉強」が不可欠。子供だまし のような思いつきだけで「殺し」の「刑事」の「犯罪」のと浅はかに繰り返されてては叶わない。
今晩の「金」篇に期待したい。わたしにもわたしの「ドラマ」がいくらか見えているので、さらなる刺激を受けたいと。
* よほど手こずったが「選集」第三十巻が編成をほぼ終えた。確認し入稿できれば、第二十九巻の責了へことを運ぶが、その前か後かに「湖の本」143巻を発送せねば。
* 三が日、無事というば無事、あっけなく過ぎて行く。寒い。
年賀状でアドレス確認・修正するのが、細字見にくく、苦痛。五分の一ほどでやめる。
七時。九時からの「家康 江戸開府」ドラマの下巻、江戸に金座を起てる「後藤」の系譜を、叮嚀に参考に確認したいので、休息する。
* 「家康の小判づくり」面白く観たし、わたくし関心のそして推理してすでに小説に書き入れていた問題点もわたしなりに確認できた。も少しく小説が書けるだろう。
もう今夜はやすむ。三が日は終えた。熊本でのつよい地震の報道を心配している。
2019 1/3 206
* ちょっと気のしんどい上・中旬の開始。着々、用意して進むだけ。
眼目は、小説『オイノ・セクスアリス』
悪なれば色悪(いろあく)よけれ老の春 虚子
☆ 初蝶來(く) 何色と問ふ黄と答ふ 虚子
* 小説の、難所ではあるがわたしには格別興味深い、ま、穿鑿にうちこみながら、疲れると階下で「湖の本」封筒にハンコを捺していた。このハンコ捺しがま た草臥れる、単調な、しかし力仕事になる。で、疲れると二階へあがりまた小説世界を杖をひきひき探索する。そして疲れる。
入浴して、今度は「選集29」責了への最終校正を、眼を洗い洗いしつつ重ねる。読みかけの、湯気に濡れにくい本も選んでもちこむ。
2019 1/4 206
* 小説では まっかなウソも書くし、うそとしか思われないホントも書く。書き冥加。 2019 1/4 206
* 昨夜おそくに「秦 恒平選集」第三十巻を「入稿」した。
* ウーン。深入りが過ぎても創作の本来を傷つける。傷つけずに面白く興あるさまに仕立て、そこにリアルを建てねば。小説は、まこと手強い真っ暗闇である。思いがけず余分、ないし過分の道草を食っている、わたし自身はまったく楽しめるのだが。
2019 1/5 206
* ひとつ 景色面白い山を越えたが この山、三笠山のていで、山路は難儀にアトを引く。アトを引くそれに引かれ惹かれて踏破して行くのだが。その辺の同 人誌などに溢れているあっさりの私小説なら 話題は、身辺にも機械の中にも私語の日記にも いっぱいある。いっぱいあると、わざわざ書いてもショウがない と放っておく。疲れ休みに、そういうのを瞑目のまま頭の中で文にして想っている。いくらでも出来る、が、やはり佳い創りの小説は簡単ではない。容易に成功 しない。
そんなにガンバッた事が云えるのに、仕事を離れれば心身の茫然は惘れるほど。飲食の、何にもどれにも気も湧かず手も出ない。
八時過ぎだが、今朝も七時半頃から休みなく、幾いろもの仕事や用事をつづけてきた。
* 明治二年に生まれた秦の祖父は昭和二十一年閏の二十九日に亡くなった。七十九、ウソのような長寿だと惘れていた、小学校四年のわたしは。しかし秦の父 は九十一、母は九十六、叔母は九十三歳で三人とも気の毒に東京へ移り住まって亡くなった。たまげた長寿だった、わたしはまだ還暦にもなってなかったろう。 だが、満八十三、今は。母に届くのには、もう十三年も野越え山越えねば。「最後の長編」を今書いてますなんて言ってはならんわけだ。
2019 1/5 206
* 日曜朝の討議番組(じつはいっこう討議ではなく、出席の識者が問われて答えるだけなのだが。)は、「昭和をかかえた平成の評価」「技術と人 間」の二大問題を掲げていて、心して聴いていた。此処の発言はさすがに聴かせるものがあったが、それにしても何という「遅々(おそおそ)」な問題の認識で あることか。
わたしは雑誌「myb」に「『平成』は穏やかな時代だったか」と問われ、独り、はっきりと「穏やかではおれなかったて『平成』」と七、八項を掲げ、否認 した。上の「時代の推移」に絡めてはアメリカ帝国主義というしかない「グローバリズム」に屈してきた政経の結滞と沈下、「機械技術と人間」に絡めては人間 の精神と知性が機械力に屈従し続け、危険なまで腐蝕の度を深めてきたことを、殊に指摘しておいた。
わたしの斯かる指摘はまったく今にはじまらず、前のも後のも遅くも前世紀の80年代から、繰り返し栗の返し此処でも「私語」を重ねてきた。なにより人間 精神の環境破壊と腐蝕を懼れてきた。「平成」のいましも終えてしまう今にしての識者らの「歎きブシ」は、こっちも悲しい。
どう元号が新たに変わろうと、「日本と日本人」の明日は、手さぐりを強いられる暗さの中で、無分別な人性放棄に陥りつつ「機械・技術」に奉仕し隷従して 行くことだろう。機械が日本人を根から変質させ、乗じて他国が、「日本と日本人を占領し労力化」して行き兼ねない。恐怖とともに予言しておく、日本と日本 人は正気を取り戻さないと、「家畜人ヤプー」へ現実に陥りかねない。
* 昨日わたしは、心身疲れたまま、或る一つの「史的で美的な推理」をほぼ「アソビ半分」に全うした、アタマの体操として。ちょっとキゲンはよかったのである。
* アレコレまったく忙しい。十七日には「湖の本」143が出来てくると、即日発送にはいるが、そのための用意もまた大方、躯を主に遣う。できれば、数日 の余裕をもって納品を待ちたいのだが、「選集」29巻を責了へコシを運んでおかないと、追うように「選集」30大冊の初校ゲラがドッサーと飛び込んでく る。
しかし何というても、昨日の「推理」も栄養にして長編小説を、しっかりした健康体で起たせてやらねばならぬ、第一に。或いは第二部まで「仕上げた」のか も知れぬが、それも「第三部(一応は<完>まで書けているのだけれど、まだ明らかに<未完>)」がシカと落ち着いてこそ云えること。まだまだガマンが大 事。
九時前。もう 二階仕事は限度。
2019 1/6 206
* 七草粥も祝い終えて、世の中、平常の空気に、と願いたい。もう印刷所との年初の打ち合わせも終えた。角田光代のため歳末に頼まれていた写真も、何かしらん企画進行の事務所へ送ってある。
十七日から「湖の本」発送の準備も、ま、難儀な七割がたを済ませていて、宛名を封筒に貼り、印刷した挨拶を各個に切り分け、荷置きの隣棟玄関をくつろげておく、そして「補充」の宛名手書きを何十人分かすれば、済む。
それまでに、年初の外出、初春興行の歌舞伎座へ半日、また新年初の歯医者通いが有る。
だが、アタマの中は蜘蛛の巣を這い回るように書きかけの小説のこと。
2019 1/8 206
* 難しいことになってきた、途方もない別の小説が進行中の小説の中へ割り込んできて大手をひろげかねない。それもおもしろい、けど、仲をとり持ってやらねば ならない。その腕力を遣うのに疲れる。どうなるかと楽しみであるが御破算でみな崩れ落ちないと限らない。退く気にはなれない。
2019 1/8 206
* 八時前。また、ヤヤコシサに屈しないで小説へ戻る。
2019 1/8 206
☆ 秦 恒平 様
賀正のメールありがとうございました。毎回ご本を頂きながら、お礼も滞りがちで申し訳ありません。
私の方は、湖の本で、秦さんの文章に毎月出会っており、なんとはなしにお会いしているような気がしていましたが、考えてみれば、一度お会いしてからずいぶん長い年月(=数十年)が経ちました。
私もこの3月で65歳の(=東京大学)定年退職になります。本郷に勤めるようになって26年ですが、本郷界隈
お店も変わり、和食の店は少なくなりました。ハヤシライスの万定とカレーのルオーと、それに森川食堂だけが、昔の雰囲気を残しています。本屋も蕎麦屋も店じまいするところが多くなり、昭和は遠くなりにけりです。
医学書院の裏にあった料亭というのは、百万石でしようか。百万石も、何年か前に店じまいしました。もっとも私の知っている時期の百万石は、貧書生にはすでに高嶺の花でした。
一度今の東大と、東大近辺をご案内しがてら、江戸末からの金魚屋が、二十年ほど前からでしょうか、和洋折衷の料理屋を兼業していますので、話の種にでもな ればと、先年お誘いしたことがありましたが、折悪しく、ご体調をくずされた後でした。お声を掛けるのが遅すぎましたね。
私も医者に禁酒を申し渡されて5年以上経ちますが、うまい肴を食わせるところが少なくなり、禁酒がこたえないことが、かえってさびしく思われます。
一愛読者として、ご健筆をお祈り致します。 長島 弘明 東大名誉教授 近世文学
* 受賞して間もない頃に 東大五月祭に講演を頼みに来られた、当時は学生さんであった。ルオーで歓談しながら、秋成の 話題になり ぜび書けと励まされた。わたしはついに母を書いた長編『生きたかりしに』の程度で秋成から脱落したが、長島さんは今や圧倒的に秋成研究の第一 人者である。すばらしい。ますます、お元気で。
2019 1/10 206
* 「決定的に」少年のわたしを「先」へ押し出した「愛読書」は、と、思い出してみると。
一気にはとても思い出せない、が、ゆっくりと、順不同で。
2019 1/13 206
* 機械温まらず延々不調をガマンして此処へ辿り着く。ひたすら辛抱。その間「北越雪譜」を拾い読み楽しむ。また中村光夫の岩波新書『日本の現代小説』をも興深く拾い読む。午前、もう九時半に
なっている。
「私」という自身をさながらに構築した土台石のような書物を昨日から思ってきた。もう少し書き足さねばならない。
● 国民学校、小学校時代
「現代語訳・古事記」 「小倉百人一首(ないし「一夕話」) 「家庭大百科宝 典」 通信教育教科書「日本国史」 頼山陽「啓蒙日本外史」 袖珍版「選註 白楽天詩集」 五冊本「唐詩選」 「般若心経」
● 新制中学時代
豪華本与謝野晶子訳「源氏物語」 岩波文庫「若山牧水歌集」 岩波文庫「北原白秋詩集」 春陽堂文庫夏目漱石「こころ」 岩波文庫「平家物語」 岩波文庫「徒然草」 新潮社版デュマ「モンテクリスト伯」 樋口一葉「たけくらべ・にごりえ」 谷崎 潤一郎中公版「細雪」岩波文庫「蘆刈・春琴抄」 新聞連載「少将滋幹の母」 「天の夕顔」 岩波文庫バルザック「谷間の百合」 ゲーテ「若きヴェルテルの悩み」 ガードナーの処世エッセイ「道は開ける」など二册
● 高校時代
岩波文庫「源氏物語」 斎藤茂吉自選歌集「朝の蛍」 角川文庫高神覚昇「般若心経講 義」 倉田百三「出家とその弟子」 島崎藤村筑摩版「家」「新生」 トルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「復活」 エミリ・ブロンテ 「嵐が丘」 ドストエフスキー「罪と罰」 ホフマン「黄金寶壺」 創元社版「谷崎潤一郎選集」全六巻 志賀直哉「母の死と新しい母」「暗夜行路」 上田秋成「雨月物語」
●大学・院から上京初期
裏千家茶道誌「淡交」 美学者小林太市郎の本 「国民文学論」 角川版「昭和文学全集」全巻
寶文館山田孝雄「平家物語」 田邊爵「徒然草諸註集成」 岩波文庫「梁塵秘抄」 岩波文庫新井白石「西洋紀聞」 谷崎潤一郎中央公論「夢の浮橋」 森鴎外「阿部一族」「渋江抽齊」 幸田露伴「運命」「連環記」 円本徳田秋声集「あらくれ・ 黴など」 講談社版「現代日本文学全集」約百全巻 他に 研究書何冊か。
* つよく、切実に感化され影響されたと思える本や作のみ挙げた。およそ、こんなところか。
かなりの読書が、のちのちの創作ないし創作生活へ影響していたと分かる。
そして、これら以外・以降に大量の読書の日々があった。よほど貪欲雑食性の本好きであるが、通俗の読み物に惹かれたのは、「モンテクリスト伯」だけ。
* 今日 明日 明後日と、幸いに少し余裕がある。小説に向き合える。
2019 1/14 206
* 薄紙を貼り重ねながら不要を裂き棄てるようなことをしている。いいのかまずいのか分からない。この作を、本屋に売り込むなど考えていない。ただもう小 説が書きたい書きたいと思っていた六十年昔の青年の気分に戻っている。とんでもない、とほうもない、極限までバカげた妄想の網にひっかかって藻掻いてい る、幾分の楽しみを味わいながら。
結局この発禁ものの長編は、本には出来ないで棺桶に入れてもらうことになろうかも。
2019 1/14 206
* 八時半。小説「ある寓話」は、えらいことになってきた。譬えては畏れ多いが出雲の大注連縄のように二筋のはなしがひしと縒り合わさってきた。わたしの非力で縒り締められるかしらん。こんなことに成ってくるのだな小説というのは。
発送をいっそ幸便に、数日、堪える。想いかつ案じる。
2019 1/16 206
* 少なくも残る三巻の選集の二巻には小説・創作を加えておきたい。何方かが、全書誌をと言って下さってたし、最終巻にはそれも考えていたが、それは或る意味ではわたし自身の仕事ではない気がしている。可能な限り三巻分とも小説のために取っておきたい。
ただ、いま書いている長編のうち一作は、少なくも定価のついた「湖の本」では剣呑に想われる。非売本の「選集」収録が穏当に想われる、が、書き上げるこ とこそ第一。作者当初の意図を踏み越えるように作が勝手に発酵していて、取り押さえられるのか、それが心配。それも楽しみだけれど。
2019 1/18 206
* 日本酒が切れたので、12年モノのオールドパーを飲みほし、12年モノのシーバスリーガルを美味しく戴いている。「湖の本」を送り終え、次には「選集」第 30j巻の初校が出てくるまでに、落ち着いて心して創作を先へ追いたい。いま絶好の集中時になっている。落ち着いて落ち着いて落ち着いてよく読み返し返し 徹底した推敲に集中したい。もう一月も下旬に向かっている。時の滑りの速いこと。
2019 1/19 206
* 小説「ある寓話」 じりじりと煮詰まりつつ。所詮名作でも秀作でもなく、このよへ生まれてきたわたし自身のきついこだわりを、ま、よほど気に乱暴に祈り籠めたようなただ結び目の長編になるだろう、うまくすればもう一編の『清水坂(仮題)』も、また。
幸いにこの二た山を越えうれば、また先へ書きまた語る嬉しい時が戻ってくれるかも。
2019 1/21 206
* 明日には、『選集』第三十巻の初校が出揃うてくる。いよいよ『選集』も最期の大台に乗るのだ、体調をシカと作ってしっかり対応しなくては。そのためにはシッカリ新作の長編を仕上げねば。
2019 1/21 206
* 大きな蜜柑函ほどの嵩で、ドッサンと「選集」第三十巻の初校ゲラが届いた。ま、慌てまい。
腰を据え 小説の方を書き継ぎたい。食いついて放さず引き締めたい。目がよく見えて欲しい。
2019 1/22 206
* ゆっくり湯に漬かって疲れをとりたい、但し校正しながらデス。
* 冒頭にいわば私自身の「総論」ふう三編をあえて置いた、うち巻頭二編を読みかえし、納得した。私なりに「選集」の批評を呈しうると思う。
2019 1/22 206
* ほんとうにわたしは八十三の老耄であるのか。わたしが毎朝毎晩苦慮に呻いて書き継いでいる小説はまさしく恋愛と思慕と愛欲の老境 「オイノ・セクスア リス 或る寓話」なのである、及びもつかないが、しかし目のマン前から瞬時もおかずいつも菲才のわたしを睨んでいる写真・谷崎潤一郎の晩年には絶妙の「夢 の浮橋」あり呵責ない「鍵」ありしたたかな「瘋癲老人の日記」があった。書き上げたい、そのためには容赦なく書ききれる体力を保たねば。疲れ果てて寝入っ ていては意味がない。
2019 1/24 206
* 妻が歯医者通いの留守、思うほどは進捗せず、じっと辛抱。ただ。この三月、二た月かけて、自分が何を書こうとしてきたかは、しっかり見えてきた。存外 にこの長編は、変は変なままに処女作からすくなくも長編『生きたかりしに』までの諸創作を束ねて結ぶ意図せざりし意図へにじり寄っているのかも知れない。 作者が作者を解説にかかった按配なのかも知れない。凍えたような血と熱い血とがとっ組んで泣いているみたいで、笑える。
2019 1/25 206
☆ 少し落ち着かれましたか。
お酒の呑み過ぎも水分不足もよくないですが、水分の取り過ぎによる「水毒症」というのもあるそうです。
腎臓の処理能力を超えると、細胞が膨張して低ナトリウム血症を引き起こし(特に脳の細胞はデリケートで影響を受けやすいそうです)、(胃)腸機能の低下、口の渇き、疲労感やだるさ、神経過敏や注意力低下、頭痛、めまい、吐き気、痙攣、昏睡なども。
脛を指で押して指の跡が残れば、その部分の細胞が膨張している証拠だとか。
水分補給は少量をこまめに、体を動かして血行を良くすることが大切とのことです。
『湖の本』、読み終えてからメールをと思ってましたが、ちょっと気になったので。
こんな心配は無用なら、その方がいいのですけれど。
せっかく先週のうちに送って下さったのに、今週は何かと立て込んでしまい、車中での読書もままならずでしたが、まずは「美の散歩」、次いでそうした日々の中で紡ぎだされた「秦テルヲの魔界浄土」を、タイトルも興味深く読みました。
(この講演、4頁に「2003年」とあるのは「2004年」の誤りですが、日にちも「1月16日」ではなく「17日」ですね。
「美の散歩」184頁にも2004年1月「16日」に「講演無事終えた」と記してますが、15日に「明日夕刻前に打ち合わせ」とあり、18日に「昨日」国際美術館の閉館式があったのに臼井さんが来てくれたとあるのですから「17日」のはず、と疑問に思って調べましたら
「日時:2004年1月17日(土)13:30~15:00
講師:秦 恒平 氏(小説家)
演題:「秦テルオの魔界浄土」
会場:京都国立近代美術館1階講堂
聴講料:無料
定員:先着100名
※当日午後12時30分より美術館エントランスにて整理券を配布。 」と判明しました。)
「秦テルヲ」との出会い(といっても、本物はまだ見てませんが)はいつだったか、何を見たかは覚えてませんが、第一印象は「こわい」―でした。
「過去未来にわたって想像の垂線に沿い上下する」のが性に合ってる(「清水坂」もそのような作品と推察してますが、もう一作の方は秦さんの「魔界浄土」になるのでしょうか)にしても、時には「現在の地面や水上を平ったく動きまわる」ことも必要です。
出掛ける目的地が考えつかないなら、久しぶりの「美の散歩」、行けたらと前に書かれていた竹橋の美術館の特集展示あたり、よろしいのでは。会期中に、インフルエンザの流行も下火になるといいですね。 葦
* 上の年次日付の齟齬など、責了のころには気づいていたが、妙にメンドクサクて、調べれば分かることと放置した。いい態度はないが、このアタマと視力で の誰の補助もない大仕事で、言い訳にはならないが沢山な誤植があろうと思っている。三十三巻の大尾をまち、次は第一巻から叮嚀にかつ楽しんで読み返しなが ら、正誤を拾って行きたいと実は切望している。谷崎先生も、そんな思いを吐露されていたのを覚えている。
2019 1/26 206
* 朝から、超細字の文献をイヤほど読んで、ほとほと降参しているが。読みかつ調べてものごとを納得するのは興深い務めではあるのである。
両腕で胸を抱いて瞑目すると全身がひびくように鼓動している。やすみやすみ。またやすみながら仕事はやめないでいる。
2019 1/26 206
* コツコツと「選集」29巻の送り出し用意にもかかっている。今度の巻はわたしの文学生涯に省くことのならない歌集『少年』『老蠶(光塵・亂聲)』に加 え、「名鑑賞の極」とまで喜んで貰えた詞華集『愛と友情の歌』をとり纏め「秦 恒平選集」を自愛の結びへと近づけた。ことに後者の詞華集を私の詩歌に寄せた愛の深さと受けいれて戴ければ嬉しい、自分もふくめ、たった200册しか送り 出せないのだけれど。
2019 1/27 206
* 堅い壁に身も気も削っていて、しんどい。ガマンの日々をもうよほど重ねている、が、ガマンしてアキラメない。疲れは、寝て癒す。六百頁にせまる「選集30」の初校も疲れを癒やすのによく役だってくれる。仕事をしているのが、結局は憩いであるのだ。
2019 1/27 206
* じりじりと、小説、前進。ひたすら行きつ戻りつ、先へ奥へ。
2019 1/28 206
* 仕掛かり創作の機械画面を睨んでいるばかり、字が、言葉が、文が書けないのを、ただ辛抱して潮を待っている。
2019 1/29 206
* ジリと半歩ほど、数行を書くのに半日、昼食後いままで気が付くし機械の前で睡っていた。安眠ではない。
2019 1/30 206
* 今回の「湖の本」 反響広がっていて、思いの外。一枚の写真も入れられなかったので、文章として「読んで貰える」ことを大事に思っていた。文章は、志賀直哉のように書きたいといつも願っているのだが、問屋が卸さない。
2019 1/31 206
* 次の次の「選集30」でわたしは「文学と(大勢の)文学者」を読むことで前半の三分の二を締めている。夏目漱石について、ことに作品「心 こころ」に 関しては戯曲や上演台本も含め、「選集」第十七巻で、また谷崎潤一郎については、「選集」第二十、二十一巻両巻を挙げて収録してあり、第三十巻にこの二人 の文豪に関わる文章は入れていない。
* 落ち着いて、ガマンして、一行でも二行でも物語を掴み出したい、今日も。もう午ちかくなった。
* 食後、夢のような景色に逢い、そしてはっと機械の前で目ざめた。窓から頭を出し外の路を見ていたが寒くなかった。また機械へ戻ってきた。
途方に暮れている。何とも、はや。
2019 2/2 207
* 通常の「湖の本」でほぼ四册分ほどに作が延びていて、何処かへ手を加えると内容上関連の箇所へも推敲や添削が必要になるが、九百枚に逼っている作の前 後の関連箇所を機械画面を前後させながら見付け出すダケでも狂いそうに目が回る。この煩瑣に気強く気永く耐えないと長編作は安定してこない。身のそばのプ リンターが故障し働かないのが、実に痛い。グチグチと愚痴るのもせめてのクスリと呑み込んでせいぜい気をとり直しているが。「尾張の鳶」はわたしの作意の 幾つかに乱交叉している幾らかに察しが付くらしく、鳶なりの「京都」で示唆も送ってきてくれる。摂れるものは有り難く摂りたい。
「湖の本」145頃には第一部をという目算は、むしろ放棄した方がいい、まとめて「選集」三十三巻の殿軍を任せるぐらいを考える。秦 恒平の文学世界を最期にむちゃくちゃに打ち崩してしまうかも、それも一興の、まさに「亂聲」か。
いま七時だが、何よりももう眼がしかと見えなくて、斯くも読むもママならない。ブルーライトはきつい。目をつむり腕組みし思案し、そのうちに寝入ってしまう。
* やっさもっさ頑張ったが、身が保たなかった。
2019 2/2 207
* 『日本の出版業界はどうしてこうなってしまったのか』と題し、日本書籍出版協会専務理事の中町英樹氏が「本の未来研究会リポート」として日本文藝家協会会議室での講演録を、文藝家協会が会報に添えて会員である私にも送ってきた。
一読、失礼だが、笑ってしまった。わたしが「秦 恒平・湖の本」を創刊した三十三年もむかしにすでに予見できていたことだ、すでに143巻、今も障りなく「湖の本」は刊行されつづけ、一巻ごとに、書店に 並ぶ単行本と同量ときにそれをも凌ぐ内容を保持し続けているが、出版界の成績の惨憺たること、中町氏の講演が示す各種の数字、なにより講演の表題そのもの が無惨に表している。
わたしは出版業という商業を念頭に置いていない、何よりも「創作と文学・文筆」に深く強く愛着してきた。もしわたしと同じ思いの文筆家らに有効に示唆す るなら、文藝家協会は上記講演の表題よりも、むしろ率直にこの「秦 恒平・湖の本」という稀有の例を以て、会員諸氏の自覚や奮起を促すというのが本筋であろう。
文藝家協会を現に会長として率いておられる出久根達郎さんは、有り難いことに「湖の本」創刊の昔から今も「継続購読」して下さっており、一作家による「作家自身の文業」を「三十数年、百五十巻ちかく」刊行し続け得てきたのを、よく知っておられる。
いまでは、「秦 恒平・湖の本」そのものを手にもし承知もしている文壇・各界の人は実は千、二千に止まらないのが事実なのであり、だが、それを口外し評判するのは「タ ブー」のようですよと笑って告げてくれる人もいる。亡き鶴見俊輔さんはわたしと対談の折も、秦さんの「湖の本」につづく書き手が十人もできるといいんだが と述懐されていたのを、はしなくも中町氏の慨嘆講演録を読み、わたしは痛々しくも思い出した。
但し鶴見さんは明言されていた、「湖の本」に続くには、何より自身文業の質と量とを持ち得ていること、編輯・出版の技術を持っていること、そして家族の協力 が絶対的に必要ですがね、と。
* 第三部をこまかく推敲しながら読みすすめて、展開にヘンな遺漏なきよう地がため。
2019 2/3 207
* いよいよ、ほんとうの難関にさしかかった。どうなるか分からないが、遣ってやろゃないかと気張る。気張るしかないから気張る。何をどう、どのように書 けばいいかの見晴らしはついている。難儀は、ただただ視力の不備不足。そのためにはよく睡って早起きし、視野の明るい間に書き継いで行く
べし。今日はかなり集注でき、十一時になった。もう、中止。獺祭をすこし味わって、寝る。
2019 2/4 207
☆ 前略
湖の本143 ご恵贈 ありがとうございました。 高齢のため(一九三○生)、心ならずも購読の継続を断念したものにとって 思いがけない贈りものでした。
母方が秦姓なので、ずっと関心をもっておりましたので「ハダテルヲ…」は興味深く読ませていただきました。
練馬美術館も近いので、わりあいのぞきますが、二○○三年の展示は存じませんでした。
湖の本122册 選集三冊も ハードカバー本数冊と共に愛蔵しています。
いつまでも ご健勝で。 お礼まで 草々 一月 雪もよひの日 杉並区 江藤利雄
* 嬉しい有難いお便り。こういう方々に私の文学・文藝と「湖の本」とは支えられてきた。わたし自身がいまや八十三歳、受賞以来の作家生活満半世紀、しぜ んと読者の大勢もわたし以上に高齢で、亡くなられた方ももう数え切れない、積算されている出版赤字がもう相当なのは当然の成り行きであり、だが、わたしは それも苦にしない。文学活動のために生まれて、五十年も本や原稿で稼いできたものを今こそ「秦 恒平・湖の本」「秦 恒平選集」のためにつぎ込んで遣いきって何が惜しかろう。大事なのは、もうこの上に怪我や大病はせずに、気力を充たしてなおなお「可能性」へ向け生きて努 力することだ。
* 我慢よう、粘って書き進んでいる、まだ幾フシもの我慢・粘りが要る。
* 梅園の謂う、諸事万事「泥(なず)み」という「習気」 「慣れ癖」という「筈」依存。これあるうちは深層の真相真実へは定まって行けない。これほどの真実は無く思われる。
2019 2/5 207
* もう三時。ここへ「私語」が来ないのは、仕事に向き合うているということ。ただし、ときどき休息して長大で胸の痛くきしむ激変の革命映画「ドクトル・ジバゴ」を「継いで観もしていた。「革命」などといえど悪しき支配の権力・権勢がただ交替し人格が喪われて行く、だけ。
そしてわたしは今、放埒無慙な最後ッ屁を放とうとしている、のかも。雑然とまとまりに欠けながら整然と構築された無慙な物語になろうとしている。悲惨の二字が加わるのかも知れない。わからない。
* 「ドクトル・ジバゴ」 これぞ凄い映画作品の第一級だった。革命の無残もさりとて、この「愛」の画きかたも頭抜けている。いい作に出逢えて嬉しい。
2019 2/6 207
* 機械の煮えがことのほか遅く、じっと我慢して、そのあいだ『風の奏で』上巻を手にし読み始めていた。わたし自作のほとんどに愛着を喪っていないが、ことに「風の奏で」は愛着ことに深切で、この世界、堪らなく懐かしい。
ま、いわば『慈子』も『畜生塚』も『清経入水』も『秘色』も『みごもりの湖』も『隠水の』も『冬祭り』も『四度の瀧』も、いささかの差異なくわたしはどの作のヒロインたちも真に「身内」として深く深く愛している。
わたしは「文学」を創ってきたという以上に愛しい「ヒロイン」たちを創ってきて、常に倶に日々生きてきたのである。深くまことに愛するが故に、ただただ 恥ずかしくない文章・文藝をそれら世界へそそぎこみたかった。いまも、『風の奏で』を久しぶりに読み返し始めて、文章・表現に些かの遺憾も無いのを自認で き、思わず嬉しく胸をなで下ろせた。
わたしのヒロインたちは、虚構・仮構の生命でありつつ、すくなくも私一人とは万世生き続けてくれる。その確信がわたしの「文学」であり、「生きる」実感であり、世の諸作者のことは知らない、凡そ。べつの次元に在る、のである。
* いま、まさにもう一つの奇妙の世界を創ろうと日々苦悶している。苦悶、良いと思う。
* 太宰治が芥川賞を欲しいとあれこれしたとき、選者の一人であったか川端康成は苦言を呈していなかったろうか。だが、わたしは観る気なかったが妻の観て いう限り、川端と三島由紀夫とをとりあげたテレビ番組では、二人ともノーベル賞が「欲しくて欲しくて」堪らずに、三島より年長の川端は自分が先にと熱望の 余り三島に「推薦」を懇望してやまなかったというハナシ。
正体見たり。そんなのは、ハッキリ言って根から察し得ていた。まことに、バカらしくバカげたハナシだ。けれど、作品は見捨てたりしない。
2019 2/7 207
* 自身にとってまさしく刺激的ないよいよの場面へ、ぎりぎり寄ってきた。今一度、第一部、第二部を慎重に点検して第三部との致命的な齟齬がないかを調 べ、その上で吶喊する。じつはこのところ「湖の本」も「選集」の仕事も、意識してワキへ避けている。此処を乗り切ってしまうしかない。
2019 2/7 207
* で…、いよいよ一等ムズカシイところへ割って入らねばならぬ。凝然。アタマへ綺麗な寒気でも容れてこないとイカンかな。
中村光夫『日本の近代小説』を、「敗戦」の頃まで、ペン片手に気 を入れ読んできた。沢山なたくさんな諸先達の作家の足跡をみてきた、幸いわたしは、新婚の貧の貧の中でも講談社版『現代日本文学全集』を一巻一巻買いとと のえて全百巻余をつぶさに教科書のように諸年譜ともども愛読した往年を経ていて、次から次の作家の名も作もアタマにあり、多くの代表作を敬意を払って読ん でも来ている、中村先生のきびきびとした口跡で教えられる大方が水のしみるようによく分かり、時に目を閉じてジイッと固まってしまう。この本は昭和四十四 年の日付で出ていて、実におなじ此の年の桜桃忌にわたしは作家として文学界に登録されたのだ、この著者中村光夫の授賞講評をもらって、だ。
* 五十年の作家人生には、幸いにイヤなことよりも嬉しかったことが何度もあるが、あれはいつころになるかピアニストの中村紘子のリサイタルに招待された 晩、その会場に中村光夫先生も見えていてご挨拶したとき、先生はわたしの肩に手を置かんばかりに近寄られ、小声で、「あんたのような人が、もっといなくて はなあ」と殆ど嘆息されたのを忘れることができない。「このまま行こう」とわたしはあのときこころを決めた。
過ぎし昔を偲ぶのは、わたし自身のいわば衰弱であるのかも知れないが、わたし自身のさまざまな作家としての記憶のなかに、いわば「敗戦後・平成の日本文学」に対する厳しいアンチテーゼを呈しうるのなら、それは後々の文学史家たちのためにも必要と、ほぼ信じている。
* 選集第三十巻の口絵写真を入稿した。
2019 2/8 207
* 長編。手探りでクライマクスへ進んでいる。じりじりと。じりじりと。深い濃い闇へ足を踏み入れる怖さ。創作は、それ以外のなにものでもないのだが。
2019 2/8 207
* 小説、ただもう、じり、じりと足先の闇を踏んでいる。もう今日は堪えよう。書くから、読むへ、そしてやすむへ。
あの昔の「般若心経講義」は高校生にも愛読でき、決定的な何かを心柱へ加えてくれた、それにくらべ今読んでいる中公新書の「法華経」は、わたしのような 一般の読者を斟酌無く、モーレツに難解で観念のままをつき出され、身に沁みて法華経の有り難さが伝わってこない。やたらに佛教の原語を羅列してあり、わた しの未熟は云うまでもないけれど、なにも有り難くは身についてこない。例文をあげて問いたいけれど、ただただヤヤコシイので、こっちの根気がもう消耗して いる。語義はわかる。組み合わせた論理もわかる。しかし「法華経」の「妙」が嬉しく優しく尊く説かれていない。伝わってこない。 2019 2/8 207
* どうにもこうにも、一歩二歩が進まない。想と言葉とが容易に馴染まない。暗闇へ身を投げねばならないのに動けないまま、数行しか書けていない。ぐっすり寝てしまうのがいいかも。建日子の作・演出劇も覧てりたいが。
今日、久しぶり不覚にも健康の懸念を口にしてしまった。挫けてはいかん。一月前、歌舞伎座の帰りに三笠会館で撮った、すこし元気そうな写真を、関守石のつもりで置いてみる。
2019 2/9 207
* 疲れやすみに下へおり、やっていた市原(弁護士)の法廷ドラマで、安達祐実の芝居に泣かされた。結婚していなかった父と母の娘として不運・不幸に育ちながら父と母とを愛しつづけていた娘の物語だった。
わたしも、結婚できずに別れ別れの父と母とが産み落とし他人に育てさせた子であり、上の安達祐実の役の娘のように純然と両親を愛するということなく、拒 み通して父も母も愛さず大人になって結婚し、親にもなった。そのことで不幸という実感はほとんどもたなかった、愛の幸せは他人から真実の「身内」を得て育 てるのが本当だと確信しつつ大人になったし、老境の今もそれこそが真実だと疑っていない。簡明にいいきればわたしの文学は「身内」の可能をしっかり意識し て求める文学世界。安達祐実の芝居に泣かされたけれど、「おれのとはちがうなあ」である。
2019 2/11 207
* 「選集」29巻の出来へじりじり近付いていて、送り出し用意はほぼ出来ている。この間にナニとしても小説の大山を越えたい。今日も務めねば。しかし両の肩と頸筋が締め付けられ、痛い。よろしくない徴候である。しばらく、この姿勢のママ睡りたい、九時五十分。
* ひたすらガマンして、自ずからな行文の成り行くのを待っている。すでに夕五時。堪えるときは、そのまま手近な法然和上の「和字選擇集」を克明に読み進 んでいる。三浦梅園の哲に聴いている。鈴木牧之の「北越」譚に耳を傾けている。こうも優れていい本がたくさんあるのに、機械に観も心も売って「炎上」の怪 を貪って生きるなんてモッタイ無い。しかし読書には眼を用いねば済まぬ。目はひにひに弱る。
* 容易に展開しない。疲れてしまうと気づかずに睡ってしまう。いまも、てっきり床にいると感じながら熟睡していたが、ハと気づくとソファで睡っていたのだ、ゆっくり入浴し、しばらく階下にいたが、機械に融け込めぬママソフアへ逃げたらしい。
十時四十五分。
いっそ寝てしまった方がいい。明日は歯医者だと。一日一日無為に費消してしまう。ここで弱気になってはいかん。
2019 2/12 207
* 地図に見入るのが好きなわたしが、いろんな京都地図に眼を曝して、ほとんど昏倒しそうに眼球を痛めている。それでも、歯医者通いは失敬しネコたちと留 守番のママじりり、じりと書き進めて夕暮れに。妻は治療が長く、まだ戻らない。ナニがナニでも匍匐前進、ガマンして一字でも書いて言葉を創っている。はな しにならぬテイタラクかも知れないが頓着も躊躇もしてられない。しがみついて諦めない。腹具合、わるい。ふうっと戦時疎開の丹波の山奥暮らしが思い出され たり。ああこれはシナリオの「懸想猿」などを手繰り寄せているのかな。
* 夕食後、昏倒するように九時まで寝入っていた。もう、このまま休む方がいい。
2019 2/13 207
* しんぼうよく、根気よく、食いつくように、この十日ばかり難渋して書きついだ文章を読み直し書き直しまた繰り返していた、目が見えればもっと頑張れる かと思うが、此の文字盤もうすぐらい蔭のようで、ただ心当てに捺している。有効にコトが進んだのではない、コトを運ぶ瀬戸際へ辿り着いただけ。しかも、も う一と展開の想も萌していて、オイオイ、マダかよとすこしはボヤク心地ですらあるが。慾ハイはかかず意欲的には慣れる限りと願っている。想うだに難しい荒 い水際へ逼っている。疲れきらないようにしたい。しかし眼も腹も背も足腰もアタマも疲れている。酒も飲み尽くした。茶筅も遣わず熱湯に抹茶を匙で溶いて呑 んでいる。七時半。もう三時間は続けたい気だが、この仕事は想うだけではサマにならない。しかし想うだけでも 必要で有効な段階もある。そんな時は躯を横 にし夢うつつへ入り込む。わたしは、リアリストのではないリアリティを望んでいる。それは「ことば(文章)」で
つかむしか道がない。
2019 2/14 207
☆ 最近のHPの文面から
鴉の苦闘が偲ばれます。言葉は時に(常に)両刃、烈しく人を消耗し傷つけます。心配していました。命あってこそ、です。命惜しんで、大切に、大事に、元気に。
最近『風の奏で』を読まれていると書かれていたので、わたしも手にしてみました。三日ほどかかって再読したのですが、こんなに難しかったかしらと・・わたしの頭も老化しているのだと再認識しつつ。最後の「灌頂」の辺りは繰り返し読みました。
来週数日は京都にいます。何がしかのお手伝いができるならおっしゃってください。
40号の絵に難渋しています。
少しでも向かい合えばそれだけ少し進んでいますが。 尾張の鳶
* らくに作れるものは有ろうが、らくに創れるものは無い。
創るとは、無かったものを新しく生むこと と思いながら。
* 剣戟だけが切り結ぶのでない。小説・物語もいろいろ幾重に切り結ばねばハナシが生きない立たない成らない。これが容易でない。参ったと何度も謝らされながら、機をうかがって奔り抜ける。躓いたらもう御破算。やり直し。「剣客商売」という好きな時代劇がある、なかなか、ああ切れ味よく商売が出来ない。参る。
2019 2/15 207
* 十時二十五分。とにもかくにも、そこまでこう書きたいそう書こうと願っていたところまで、書いた。書けた。まだ添削も推敲も出来てないにしても、こう 書き遂げるまでは遂げた。むろん、まだこの先がよほど難しいけれども、ある程度までは書けている。この半月十日、今日只今辿り着くまでは真っ白い何もない 空気でしかなかった。
2019 2/15 207
* 今日は「選集30」の校正を、寝床に坐り込んだまま、たくさん。短い一編を前半の後に付け加える用意もした。後半は、全体の三分の一量、どんどか進められ る、が、長編『或る寓話(仮題)』を気を入れていよいよ収束すべく、熟慮もし、進展もさせたい。意欲と体力との釣り合いをうまく付けたいが。
2019 2/16 207
* なんと。
三時半、一気に最後まで重々書き込み書き新ため読み込んできた作を、最後まで手を入れ入れ読み通した。最新稿の「脱稿」とするには、いま少し書き新ためて書き添えて視野と鮮度 をもちたい場面が書き残されているけれど、ま、暗い長いトンルだったが、遠くに、小さい出口が白く見えてきた。だが、まだまだ。第一、二、三部を通し、ウムと肯き表題が書き込めるまでは。
* 四時過ぎから六時まで草臥れきって睡る。睡るのが、なによりの休息、イヤな夢に襲われなければだが。とは云え、夢はわたしのような物書きには財産でもあります。
2019 2/17 207
* 来週は、またまた、力仕事で数日追われるだけでなく、聖路加へも行かねば。
そして早や、弥生三月。結婚して満六十年になる、昼と夜と二日かけて歌舞伎を楽しみ、下旬には、内視鏡検査などを受けねばならない。胃全摘から、まる七年。無事に通過したい。
ま、それまでには今日メドの立った長編小説(選集の大冊一巻分)に、せめて表題を決めてやりたい。ただ何としてもこの作、作家秦 恒平の晩節を真っ向蹴散らして、狼藉を極めている。「湖の本」という売り本には、とても出来まい。
2019 2/17 207
* さ、今日も、また、一つでも二つでもケッタイな長い小説の何箇所かに味付けをしてやりたい。まだ十時半なのに、きつい目薬のせいか目がヒリヒリする。
2019 2/18 207
* さ、もう一箇所へ書き込みたい視野がある、それで、一応は「完」と書き込めようか。2009年5月ごろに着想試筆が残っている。まるまる十年に近い。 最初の着想時には夢にも思っていなかった奇想の展開で、むかし伊藤桂一さんにいわれた、「秦さんは一つの小説で三つも四つもの小説を書いている、ボクらは その一つ一つを別に書きますがね」と、まるで、そんなことになってきた。
のちには熱愛してアツアツの愛読者に成ってくれた人が、『風の奏で』の単行本を初めて手にしてなんでこんなにムズカシイかと腹を立て、本を壁に投げつけ たと笑い話を聞いた。やはり、時空を隔てて幾重もの歴史現代小説だった、「尾張の鳶」が読み返してくれても、こんなに難しかったかと思ったとヘキエキして いる。わたしは「秘色」や「みごもりの湖」や「風の奏で」「冬祭り」「秋萩帖」等々みな読者を悩ませてしまう組み立てを好んできた。秦 恒平の作を愛してくれる人は、余程の読み手であるか、失礼だが稀有な人なのかも知れない。稀有な人に、この新作を、穏やかな仕方でどう手渡せるか、これか らはそれが難儀な思案になる。ちなみに、全編でおそらく湖の本の五冊ほどに相当する。150册限定で非売品の「選集」でなら、パンパンに張った大冊一巻に 相当するだろう。しかし150册では「湖の本」の全巻継続読者分にも、当然ながら数が足りない。特別な材料をつかった美装本なので、臨時に数をたくさん増 やすわけに行かない。 2019 2/18 207
* わたしもポロ、機械もボロ。うまく仲よく釣り合っている間は、仕事はつぎつぎに出来るはず。最後は目前と覚悟して、出来る仕事を快楽したいもの。早く 帰ってこいとうるさいほどなもう一つの新作「清水坂(仮題)」にも組み付きたい。瀬戸内を実際に走れないなら魔法を使う。
新しく始められるなら始めたい創作への思案は、可笑しいほど「在る」のである。覚悟は覚悟。しかし野放図でもいいと思っている。したいだけ、したい。
2019 2/18 207
* 1998年3月からだったろう、東工大院生田中君のおかげで、わたしは、この「ホームページ」を運用できるようになった。着々、様々に組み立て始めた。以来二十年を越えて、わたしは日々に「私語」 し、まは大勢の知友・読者とメールを交換し続けてきた。それら厖大量の全部が今も保存されてある。何年の何月何日かの交信が、みなたちどころに拾い出せ る。
ひとつには、多彩な「メール語」「メール表現」にわたしは作家・小説家として津々の興味をもち、創作上の表現資料として、いつでも多彩に組み立て組み替 えながら利用できるよう「心用意」しつづけてきた。無数のメールにも、明らかに、すてきに可塑性の豊かに佳いもの趣味のあるのもあれば、思わせぶりに我勝 手なだけの味もそっけもないのもある。あきらかに個性の反映であり、巧みに入れ併せ組み併せフィクションを加味し再構成すれば、小説家にとりじつに多彩に 利用価値がある。
そしてまた厳然と受信データのついた「記録」「証跡」でもあるから、かりにヘンな言いがかりがついても、ほぼ即座に日付明らかな保存メールを点検し、有 無と是非の判定が明瞭に利く。小説家、創作者としてのこれらはじつに価値ある「取材」であり「佳い財産」になっている。なによりもメール交換の往時がたちどころ に復元される。いいお手紙やメールのごく自然に温かに書けるお人をわたしは自然敬愛する。お人柄である。此のわたしは、ヘタである。
* 元朝日新聞社の伊藤壮さん、「越乃寒梅」の無垢純米大吟醸と特選の二升を送って下さる。有難う存じます。
「秦 恒平・湖の本」創刊の三十三年前、伊藤さんの全的な応援を戴けてなかったら、出だしの苦戦苦闘はたいへんだったろうと思う。おかげで創刊の「清経入水」は三刷りも出来たのだった。その土台に載って三十三年を乗り切ってきた、いまや赤字はとても免れないけれど。
むかしは懸命に読者数を殖やしまた維持すべく、刊行の作業のほかに随分手をかけていたのだが、読者の多くがあまりに高齢化しわたしたちも高齢となり、過分の作業は諦めるようになり、本の質をこそ大事にとこころがけてきた。
伊藤さんは、いまなお、嬉しい御褒美と激励とを続けて下さる。感謝感激に堪えない。
2019 2/21 207
* 書き下ろしの第三部を ずうっと読み下して行きながら、適切な補筆や修訂をしている。
* 夕方になると、めっきり疲れ、夕食への意欲がほとんど失せてしまい、冷奴の四きれに削り鰹をかけ、伊達巻きを二きれ食べて棲ませてしまう。食後、そのままの姿勢で暫く寝入っていた。
二十五日にはわたしが聖路加へ出掛け、翌二十六日の朝一には「選集」29巻が出来てくるが、妻は午後には定期の診察へ地元病院へ。その診察無事を心より願っている。「選集」の送り出しを無事に、疲労困憊せずに着実に済ませたい。
三月には、満六十年の結婚記念日も来るが、不安心をかかえての腫瘍内科のカメラ検診などが下旬早々には予定されている。幸いに凌ぎたいと願っている。胃全摘の手術を受けてから満七年の検査になる。
* まだ宵の口、七時までにもう少し。もう少しは頑張ろう、目の衰えも押し切って。こんどの長編は、どう受け取られるか極めて懸念はされるけれど、わたし としては動機の強い、所詮は書かねば済まなかった境涯を構造的に、美的かどうかは別として、組み立てようとめちゃに頑張った。本人だけが、ホウ・ホウ (好・好)と少し喜んでいる。どんな組み立てか予想できているだれ一人もいないだろう。それに励まされ、ま、今晩ももう少しは頑張ります、まるで受験勉強 の生徒のように。
* 九時になる。機械の光にはもう眼は限界。また明日に。
2019 2/21 207
* まだまだ、手が離せない。息を呑み堪え堪えながら読み継いで手を加え、いろいろと思い直している。いつでも通常することで特別な何事でもない けれど、いちばん気を遣う段階で、投げ出すことはできない、躓き躓き、しかし通り抜けねばならない。それに煮た怖い細道を夢で何度か通り抜けたことがあ る。
八時半。疲れた。朝も昼も晩もまともに食べた、食べられたと云えない。よく謂うゲップなんてモノではない、あの十倍も、表現できない凄いツマッた嘔吐音 で食道から空気を吐き出している、一日中。さながら破裂音を吐いては、ぐったり疲れる。食べるからか、食べないからか、分からない。
2019 2/22 207
* 第三部を叮嚀に読み進んだ、最期の最後の大事に想う少なくももう一場面を創り出さねばならない、その仕事の直前箇所まで書き込み書き直し読み直してき た。かけるかしらんともう歳ご案じてきた箇所は乗り切った、と思う。もう少しだ、重いけれどもそこを担いで通り越したい。
眼も眼だが、ものを食べるとすさまじいのどが破裂音をあげて在りもしない空気を吐き出したがる。ときにいくらか食べた物も戻ってきそうになる。これに困惑、これに迷惑する。滅入る。
それでも今夜は、柔らかに柔らかに炊いた妻の握り飯を二つも食べられた。卵のスープも一碗吸った、あとで、えづいたが。越乃寒梅もすこし頂いた。そしてすぐまた機械へ来た。わたし一人が懐かしくて、他の人にはほとんど意味も無さそうな他界へわたしはいそいそと駆け込む。
* わたしはほとんど健常な理性も悟性も喪いかけていて、片脚はもうこっちでない側へ引っ掛けている心地がする。
* まだ先へ行くか。今晩は休むか。すこしだけ階下でお茶を飲んでこよう。
2019 2/23 207
* 今日は血のめぐりわるいか、焦れたように筆先が渋り渋り衝っかかってばかり。こういう時はどう疲れようと諦めず、意地になってこっちからも衝っかか る。退がれば追い込まれ、むちゃくちゃになる。わたしは、原稿用紙の時代から、「書けない文士」の見せ場のような、書きかけの紙をくしゃくしゃに丸めて投 げ散らすようなことはしなかった。原稿用紙20行のほとんどが書き損じの真っ黒でも明いて行には文章を試み続けた。破れば負けと。
今日は朝からもう夕方まで、苦戦。
2019 2/24 207
* よくネバッて、勝ち。場面がきれいに嵌ってくれた。まだまだ。
2019 2/24 207
* 小説を続けたいが、さきに湯に入れと。では、「選集」を校正しながら。中村光夫「日本の現代文学」も読み進みながら。明日の二時過ぎには、暫くぶりに、築地の病院へ通います。
* 湯をあがったあとも機械の前へ来て。小説にさらに場面を加えていった。十時過ぎ、もう今夜はヤメて。
2019 2/24 207
* 汗っぽい力仕事から、小説へもどってきて、ここはいっそ必要とおもわれる感傷の虚空へ暫時身を寄せていた。が、もう病院へ出掛ける用意に。
* 五時に家に帰る。
* 夕食、うまく入らず。機械の前で寝入る。七時過ぎ。明日からの用、がある。手順にもかなりの変更がある、そのうえに妻は明日が循環の診察日。疲れない ように、疲れないように。そう思いながら、やっぱりわたしは小説世界へしのび入っていた。願ったようには明日までに仕上がらなかったが停頓していたのでは ない、作者の慾も出てきている。ま、ゆっくり遣ろう。
2019 2/25 207
☆ お元気ですか、みづうみ
少し暖かくなってまいりましたが、通院のお疲れとれましたでしょうか。
先日、杖の話を書いていらっしゃいました。
* 「杖」のはなしをしたが、胃全摘の手術後に二本ほど安物買いの銭失い電車などに置き忘れてきた。で、松屋で、妻に紫檀のやや高価な一本を買ってもらい 以来失くしていないが。
杖というとわたし、漱石『彼岸過ぎ迄』に出てくる、なんでも蛇のアタマを握りにしたとかいう杖が 初対面から気になり 今も妙に忘れがたいばかりか、わたしも何かしら恁う、竹でも木でも何でもいい珍しいツクリの愛用に耐える杖が見つからんかなあと、ずうっと半ば夢見ている。
古道具や古物をあつかう店が無いのかなあと思いつつ、東京では知らない。京の街中にはときどき古びた店があったものだ、落語に出てくるようなハナシにならない珍物も 店の隅や表に転がっていた。
東京では、識らない。浅草でそれとなく探したが、表を厚い硝子戸で締めてあるような店では、弁慶が小野小町にやった恋文のようなヤツは見当たらない。
仙人が背丈より高い「杖」をついてる繪などみると、どこかしらにわたしにも妙なシロモノが見つかりそうな気がするのだが。
そうそう 長い自然木の杖は地面をつく先っちょがよく小さな二股になっている。あれは、杖の安定のためでない、蛇を抑えくるっと巻いて掴み取るのである。なんとも、はや。
何か「珍しいツクリの愛用に耐える杖」をみづうみのためにお探ししたいなあと、ネット上で探していました。
大量生産大量消費の昨今のものはまったくツマラナイものばかりなのは分かっていましたので、アンティークもので探してみました。そうしましたら、多種多様な杖を発見し驚きました。とっても面白い世界です。杖にも熱心なコレクターがいるのですね。
一本とても気に入った杖は、イギリスのアンティークでした。製作年代は十九世紀から二十世紀初頭と推定されるもので、銀製のハンドル、シャフトは木製、石 突きは水牛の角。一番の特徴は 純銀のハンドル部分が美人の裸婦像であることです。胸もお尻もボリュームのある女性ですが、その横たわる裸婦の形状がとて も握りやすそうでした。少し摩耗して丸みが増している感じがするのは、百年以上の時間の中で何人かの持ち主に愛用されてきた証拠かもしれません。遊び心あ る富裕な顧客の注文によって作られた逸品だと思いました。杖一本にも手間と時間とお金をかけられた時代が羨ましくなります。この一本ならくすりと笑えて、 みづうみが手にして出歩くのがちょっと楽しみになるのではと思いました。
オークションで 八十件ほど入札が入っていましたが、少し無理すれば落札できたかもしれません。
それでもやはりわたくしからプレゼントするのは憚られました。息子である、妻である、というような関係なら、ユーモアのある贈物ですが、女性読者から、アンティークのコレクターズアイテムとはいえ、古びた裸婦像つきの杖などお送りしたら常識を疑われてしまいます。
というわけで、想像の中でみづうみにプレゼントしたつもり、みづうみも手にしたつもりになっていただければ幸いです。
文学以外には欲のないみづうみが、珍しく欲しいとお望みなのですから ひき続き面白そうなものをお探しいたしましょう。
鹿の角を使っていたり、ゾウや犬のハンドルのものや純銀、純金の贅沢な彫物入りなど、なかなか奥深い趣味の世界ですので そのうちこれというものが出てくるかもしれません。
全然話がかわりますが、みづうみに二点質問させてください。
一、 選集一冊には原稿用紙にすると何百枚、あるいは千枚程度入っているか、およその量でかまいませんのでお教えいただけますでしょうか。
二、『慈子』の中で、お利根さんはよく紙衣の着物を着て描写されています。なぜ紬ではなく紙衣なのでしょう。京都のひとは紙衣を日常によくお召しになるの でしょうか。かるくて丈夫で、作るのに手間がかかるとは聞いておりますが、東京の呉服屋の店頭ではまず見つかりません。わたくしも存在は知っていますが、 見たことはないのです。
お利根さんに紙衣を着せたことは、お利根さんの人物像を表現するためのものと思いますが、まったく見当違いのことを考えている可能性がなきにしもあらず。紙衣そのものを触ったこともなく知らない読者が大多数の現在、何か作者からのヒントをいただけますと嬉しいです。
勿論、この質問、ご興味なければどうかご放念くださいますように。
そうそう、今まで申し忘れておりましたが、二月九日の三笠会館のネクタイ姿のみづうみのお写真は好きです。知識人かくありという一枚でした。
選集楽しみにしておりますが、くれぐれもご無理のないペースでゆっくり作業なさってくださいますように。 燈 春の灯や女はもたぬのどぼとけ 日野草城
* 疲れの抜ける、面白い、嬉しいメールを、ありがたく。
杖のはなしに反応してもらったのが楽しい。
文学作品で「杖」に印象を濃くしたのは漱石先生のアレだけだが、杖は、からだの弱味を庇うだけでないとは、明 治や大正 多くの例でなんとなく納得していて、しかし妻にも杖をついたらと奨めると、「イヤっ」と声が大きくなるのは、女と杖とは食い合わせがわるいらしい。 『彼岸過ぎ迄の』を手放さないを彼など、書生の若さだった。杖が弱った爺さんの専用でないと、あの小説でなんだか愉快に納得したのだった。
お尋ねのわたしの「選集」一巻収容分量だが、此の選集、一頁 10ポ組み 一行42字 一頁19行と 決めてある。一巻の頁数はこのところ600頁を越すことも あり、終盤へ来て収録分をつい増やしたくなるのだが、大体580頁ぐらいが平均か。大雑把に400字原稿用紙一枚で計算してもらえば、大きくはちがうまいと思います。
『慈子』に書いたお利根さんの紙衣のことは、夕食後の作業を奨めて休憩の頃に、あらためて。
* 紙衣姿で一に思い出すのは、上方歌舞伎のわたしの好きな「吉田屋」へ、勘当されている伊左衛門が、夕霧の顔見たさにやってくる「やつし」姿が紙衣で。
伊左衛門はチョー大店の豪儀な若旦那であり、とくに卑下して紙衣に身をやつして居るとも云えない、また紙衣じたいが貧相の衣類というより、心持ち身を引いて慎んだお洒落の行儀に近い。
お利根さんの処世は、卑下ではないが、慎んで控えめであり、そこにまたひそんだ気概・気品を抱いている。紙衣は、お利根さんの場合、どんな衣裳、装いよりも慎んだままに身の晴れの出来る心がけであり、よく「似合う」と思って採用した。
紙衣は、もとより紙であり手荒には着られない、それだけにまた決して粗末な仕上げでない独特な渋などで紙の質を守ってもいると聞いている。
2019 2/26 207
☆ 感謝
みづうみ、お元気ですか。
発送作業にお疲れの中、早速質問にお返事いただき恐縮でございます。ありがとうございました。
お利根さんの紙衣については、なかなか良い質問をしたのではないかと自画自賛したくなりました。
>お利根さんの処世は、卑下ではないが、慎んで控えめであり、そこにまたひそんだ気概・気品を抱いている。紙衣は、お利根さんの場合、どんな衣裳、装いよりも慎んだままに身の晴れの出来る心がけであり、よく「似合う」と思って採用した。
最高の作者解説です。わたくしは、自分の財布の範囲内とはいえ着物道楽をしてきましたが、それでも紙衣との出会いはなくてイメージが掴みにくかったのです が、これで長年の疑問が解決いたしました。紙衣が絶滅危惧種の衣類になりつつある現在、みづうみのこのご説明は将来の読者にも大きな助けとなるにちがいあ りません。みづうみが作品を隅々まで完璧に創っていらしたことが改めて身に染みます。
私見ですが、女には染めの着物、い わゆる「やわらかもの」の似合うタイプと、織の着物「かたもの」の似合うタイプがあります。お姫さまタイプとお手伝いさんタイプというとわかりやすいけれ ど、お姫さまが上でお手伝いさんが下という誤解を与えてしまいそうで差別的でしょうか。
ある大学の先生が「女には奉仕され る女と奉仕する女の二種類しかない」と言っていましたが、それに近いのです。前者は着物を父親なり夫なり恋人なりに買ってもらい、「やわらかもの」が似合 う女。後者は自分で着物を買う、経済的にも自立した働く女で「かたもの」が似合うのです。前者は昭和の女に多く、後者は現代のデキル女。美醜にはまったく 関係ありません。お姫様系のブス、お手伝いさん系の美人はたくさんいますから。
『細 雪』の蒔岡四姉妹は間違いなく着物を買ってもらう「染めの着物」が似合うお姫様たちです。平安神宮の花見で松子夫人と姉妹たちが華やかに着飾って写ってい る写真をみたことがありますが、「はんなり」そのものの「やわらかもの」をお召しでした。『慈子』の肇子や慈子は、やっぱりお姫様のほうでしょう。
着物に関する著作がおありで「かた もの」の似合うのは、学者の鶴見和子さんや田中優子さんです。お二人とも美人ですから友禅などのやわらかものも勿論お似合いですが、紬などの「かたもの」 がスーツのような仕事着であり、こちらをお召しの時のほうがニンに合っていますし、そちらのほうがお好みでもあるようです。
「紙 衣」はどちらかというと「かたもの」に分類されるのでしょうが、堅牢な結城紬や郡上紬とは違うものです。「やわらかもの」ではないけれど所謂「かたもの」 とも言い難いような気がして、わたくしはどうしてお利根さんは「紙衣」を好んでいるのかしらとずっと思ってきました。控えめな装いであろうとは思いつつ、 水を通すほど身体になじむ結城紬ではない理由があるのだろうと。「紙衣」という微妙な選択に、作者の深慮がおありだったことがよくわかりました。色々お教 えいただき本当に感謝申し上げます。
今日の作業のお疲れが残りませんように。
衣 繕ひて古き紙衣を愛すかな 虚子
勿体なや祖師は紙衣の九十年 大谷句佛
* わたしは、『畜生塚』の昔から、作の女たちにずいぶん和服を着てもらってきた。わたし自身の好みがつよいが、いましも初稿脱稿まちの今度の長編でも、ところどころに好みの和服を用意している。さ、似合うのかどうか。
2019 2/28 207
* 「選集」第29巻は576頁。前巻は600頁を越えていたと思う。すべてが本文頁ではないけれど、概ねこの数字に近い。選集では、一頁本文が、42字 19行、ほぼ800字、原稿用紙2枚に相当している。実質本文550頁平均とみると、1100枚平均となり、全33巻仕上げの総収容原稿量のほぼ確実な数 字が読み取れる。おそらくそれと等量ないしはそれ以上が「収録洩れ」になる。「全集」とは謂えない。
2019 2/28 207
* 新刊の「選集」29 には前半に、前後二つの対照的な歌集『少年』と『老蠶』とを収め、『老蠶』には「光塵」「亂聲」の二集を収めた。序や跋のたぐい、また全一巻の後記も、いの読み直してみた。これらがきちんと書けていてわたしの重いと齟齬するまた欠けるなにも無いので、安心している。これはこれで、よろしい。
後半の鑑賞詞華集は、わたしの全仕事の一角を成す代表作であり、愛読して戴くに十分足りている。詩歌、ことに和歌短歌はわたしの文学・文藝の欠かせぬ先駆であり一角であり、この集の成ったことで、「秦 恒平選集」を心がけた半ばが満たされたと喜んでいる。
逢えて掉尾とは謂わないが、仕上がりへ日々近付いている或るいみでは猛烈をきわめた長編小説『オイノ・セクスアリス 或る寓話』も、大いに顰蹙を買う末期の暴作になるだろう。
2019 3/1 208
* 七時すぎ。まだ宵も宵の口、だが、グタグタに疲れている。「寓話」は、とにもかくにも難所を通り越してきた。その気なら今晩にも仮のエンドマークがつ いている其処まで「読む」だけなら読み上げてしまえる。しかし、もう少し腹をくくって其処へ行き着きたい。逸るまいと…・
* 選集でほぼ作だけで520頁ほどでおさまるだろう、選集は400字用紙の頁2枚に当たる。1000枚はすでに越えているが、搾れる限りは搾りたい。急 ぐ必要はない。少し温存して『清水坂(仮題)』を再稼働!に懸かるのも良い。腹にある別の新作にしかと色目を遣ってみるのもいい。
何にしても健康と視力だ、近所の眼科へ通おうか。
2019 3/1 208
* 創作『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、おそらくこの一両日にも初稿脱稿といえそうになってきた。ということは、この作を今後どう待遇するのか。 「湖の本」だと各厚めの上中下三册本になるが、定価つき売り本の「湖の本」で公開するには過激で過酷で危なく、それは避けたいと思っている。「選集」だ と、短篇「黒谷」と二作で600頁前後の大冊一巻にまとまるだろうが、かりにそうなっても、その巻は、これまでのように気軽に差し上げることは出来ない。 せいぜい50册ていどを従来どおり選ばれた大学や図書館、そして井口哲郎さんのように多大にお世話になってきた数人ないし十人ほどにしか差し上げられな い、と、いまは思っている。いかにも秦 恒平そのものの小説ではあるが、「オイノ・セクスアリス」 過激で過酷で危ないのである。ホントしての仕上がりで謂えば、昔風に『慈子』『三輪山』『墨牡 丹』『四度の瀧』などと同じ、『豪華少数限定本』ということに成る。
2019 3/2 208
☆ お世話になります。
「シグナレス」の森野です。
新作の完成が近いとのことで、おめでとうございます。
自分がほんの少しでもお役に立てていれば、本当に光栄で、うれしく思います。
遅くなりましたが、郵便物、本日受け取ることができました。
貴重な本をお送りいただき、本当にありがとうございます。
少しずつ、読ませていただきたいと思います。
「シグナレス」も次号に向けて、動き出しました。
今回は執筆者の方が製作に係わっておられる映画を特集する予定で、4月には発行したいと思っています。
3月になりましたが、春はまだもう少しという感じですね。
季候の変わりやすい季節ですので、お体を大切になさってください。
ありがとうございました。
* この、事実上未知の人の実のある援けが得られていなかったら、この長編『オイノ・セクスアリス』は仕上げられなかった。感謝に堪えません。
2019 3/3 208
* 「或人」が云うた、「婆子焼庵」の「則」があるが知っているか、と。『畸人伝』中の「僧無能」の伝のなかでわたしはこれを読んだ。「婆子」は固有名詞ではあるまい、「婆さん」であろう。
「婆子一庵主人供養す」とある。坊さんに「庵」を施与し日々供養奉持していたのだろう、それも、もう多年のこと。
ところで、この「婆子」 或る年の「一日」つまり或る日 「二八の好女子をして抱住していはしむ。師恁麼時如何」 妙齢の美女に抱きつかせて、「お師僧、どんなお気持ちか」と問わせたのである。
僧の曰く、「寒巌枯木三冬無暖気」と。
女子はそのまま婆に告げた。
婆はどうしたか。 「婆二十年来此俗庵主を供養すといひて、終に僧を放出して庵を焚」いたと。「是非如何」と「或人」が問うている。
* 「則」というから、禅家では公案に類してよく識られているのだろう、わたしが疎いだけのハナシだが。
「予曰、凡古則は別に一隻眼を開いて看べし。此和尚の実徳と相通ぜず」と。「予」とはこの場合『近世畸人伝』の筆者自身、つまり著者伴蒿蹊であろうか。その上で「予」は「或人」に向かい反問して云う、もしこの和尚の言句態度が「もし然らずといはゞ、誠に子に問はん。庵主あるひは女子に婬せば、また婆子何とかせんと。」「寒 巌枯木三冬無暖気」を婆子は「俗」答と怒って多年供養の庵を焚き棄て和尚を追い出したが、美少女を抱いて婬していたなら「婆子」はどうしたとと謂うので しょうと。「或人微笑して去。」とこの項はひとまず結ばれているが、禅問答はややこしい、が、思案は強いられる、そして思案など棄てよとも逼られる。
「畸人伝」の「僧無能」の一文に含まれた「婆子焚庵」の則であり、実は当該の「無能」という名の坊さんにのまったく似た話が書かれている。この僧無能は深 更にも端座念仏していたが、無能の美貌に惚れぬいた「女子やがて背より抱くに、おどろくけしきなく、念誦気平らかなるさま」微動だにせず、「半時ばかりを へて、女自放て出たり。朝に及て狂を発し、獨言して恥をのぶ。和尚(無能)憐みて、為に念仏を授けて後、やうやう癒ることを得たり。女子是よりのち終身嫁 せず、念仏して逝せりとぞ。」とある。先の「婆子焚庵」は、この僧無能への「批評」ともなっている、らしい。
* ただいま読み継いでいる『近世畸人伝』で、問いを突きつけられたのはこの「僧無能」の一編しか、まだ、無い。どうも、というか当然というか、伴蒿蹊は無能や庵主僧やあとにも出る王陽明の挙止を肯定していると読める。当然と謂える、けれども、一抹、なにか、たゆたいのこる疑念もわたしは払いきれないまま、余分な時間を費やしてここへ提出しておくのである。
* 『オイノ・セクスアリス』は直訳すると「老人の性的生活」ということになる。容易ならぬ「千枚」小説であるが、やはりあの鴎外先生生涯唯一の発禁小説 『ヰタ・セクスアリス』にわたしは一度も感じ入らなかった反動を、この歳になって爆発させたことになる。書き始めたのは今から丁度十年前、古稀を過ぎてい た。
しかし十年ちかくもかかって何とも手から放せなかったのは、「小説」としてマダ足りない何かを感じ続けていたからで、その「何か」をやっと掴みかけ掴みかかって掴み取れたのは、じつはこのほどの一年前ぐらいからであった。
* あんまり長いので、読み返す便のためにも何となく三部に分けて手を掛けつづけたが、ようやく、全編を一つなぎに取り纏めてもう一度二度、叮嚀に、慎重 に、大胆に読み直してみようと思う。そのためにさらに表現されることが増すか、ガックンと削り取られるか、分からない。三部でなく一編の作として徹底した 読み直しに、今日から取り組む。
2019 3/4 208
☆ 拝復
『秦 恒平選集第二十九巻』 またまた厚く御礼申L上げます 秦さんの本を見るといつも 「あの頃
秦さんはもう こーんなことまでしてたんだ!」と思います
大学病院のエレベーターがまだ蛇腹扉の頃 ひょいとリ乗り込んだら 品のいいおじさんがニコニコLて妻が抱いていた赤ん坊の頭を撫でてくれました 高見順!(と後で気付いたのですが)ドアを押さえて待っていてくれたのでlす 本を戴いてすぐ頁を捜しまLた
今日はゆっくり『亂聲』で遊べました いつも素晴しい印で 見入っています
春ですが呉々もお大切にされて下さい 敬白 千葉 e-OLD 勝田貞夫
* 井口哲郎さん刻の「亂聲」印を喜んで下さったのも、嬉しい。勝田さん、此の二字をハガキ一杯の大きさに色刷リして楽しまれたらしい。
高見順の記事がひとしお嬉しく懐かしい。『愛の歌』には高見順の佳い詩を三作採り入れている。何ともいえず佳い詩である。小説家高見順と同じく伊藤整と の詩は、胸に沁みる。詩人と名乗る人の詩作が、独り合点の意味不明、表現雑然という例が多いのは残念だ。「詩」とは何なのであろう。
2019 3/6 208
* もう此の機械、絶息やも知れない、起動に延々と掛かる。それも正常を欠くこと繁く、やり直しを重ねて漸く「仕事」にかかれる。持ち主も老い機械も老い、せめて仕事は若々しくありたいが、新作が『オイノ・セクスアリス」とは若々しいのかボケたのか。
機械がヤバイので、思い切って活字のゲラにしてもらい、慎重に推敲・添削し初稿を成し遂げるか。
2019 3/9 208
* 晩方まで、「選集」第三十巻の初校了、要再校請求用意にかかりづめだった。九割五分がた進み、もう一息で、明日にはみんな揃えて送り返せる。「平成」最期の巻になる。
ついで「選集」第三十一巻を、思い切って入稿したい、作家生活満五十年の桜桃忌に新作の長編小説として、原則「門外不出」の一本にしておこうと思う。
☆ 芳醇浩瀚の『秦 恒平選集 第二十九巻』を
嬉しく拝受いたしました。
いつになくまとまった時間のとれぬ中、折々に気ままに読ませていただいている 『愛、はるかに照らせ』、各項それぞれに切々と身にしみ、とりわけ「さま ざまの愛」の諸歌に感銘を受けています。<愛ならぬ詩は、ない> そのことを深く感じます。日本の歌は豊かですね。そして、その豊かさは秦さんが開示して 下さったもの、 遅くなりましたが深くお礼申しあげます。
寒さは幾分かゆるみ、櫻の蕾もふくらんできたようですが 油断大敵、どうぞお身体お大切になさって下さい。 敬 講談社役員 元・出版局長
* 無類の読み手が、「さまざまの愛」をとりわけ取り出して下さった。
いま、一巻のそれらの頁をひらいて、わたしの心籠めて選び取ったさまざまな愛の詩歌と「あとがき」を読み返し、諸作の「うたの品位」に嬉しく親しく新た めてあたまをさげた。と同時に、ああこの「あとがき」を書いた日に、丹誠育てた愛する娘の朝日子を、押村高(現・青山学院大教授)に嫁がせたのだったと、 きりきり、胸が痛んだ。
だれよりも朝日子と建日子とに、生涯かけて『愛、はるかに照せ』よと、懸命に書き下ろした一冊であったが。
娘・朝日子の顔を、婿押村高の顔を、ちらとみた最後は、もう十数年前、押村夫妻共同で、名誉棄損の損害賠償請求裁判「被告席」へ「父のわたし」を立たせた、あの日。ありうることか。
懸命に、仲に入って祖父母の傷心を慰め和ませつづけてくれた孫のやす香は、肉腫に斃れ、成人の日を前に急逝し、もう一人の妹孫みゆ希とは、久しく不自然に往来遮断されたまま。
肉親の愛を、うまれながらに喪って「もらひ子」で育ったわたしは、もともと肉親以外との「身内の愛」を早く、年幼く、少年の日々から慕い始めていた。繪に描 いたようなわたしのそういう人生だったなと、今にしてしみじみ思う。
新作『オイノ・セクスアリス 或る寓話』も、老境の性を無慙に書いたなどというより、遙かに重く、ほかへ ほかへ、べつの事件へ逸れて行く。
2019 3/11 208
* 昼夜通しでも平気で楽しめた歌舞伎を、演目二つを辛うじて見えぬ眼で観たのがやっと、メインの大切りを失礼し、飲まず食わず、家までくるまで帰ったなど、初体験。ほんものの老後開幕か。ま、ふつうの成り行きと受けいれる。
* 平常心で、とにかくも、いまのうちに長編の脱稿に集注したい。
諸検査は、腫瘍内科二十二日の上部消化管内視鏡検査や心電図などから始まる。ひきつづいて別の日に内分泌科糖尿低血糖関連の心エコー等の検査が続く。
* 「病院へ行くと、新しい病気を呉れる」というわたしの持論と苦笑が、この先でわるく実現しませんように。いままさに小説のなかでも、同様のそんな所感に触れて書いているのを読み返している。
2019 3/15 208
* 打ち込んで、長編の綴じられて行く第三部に読み耽ってきた、今日は。ときおりは熟睡もしながら。読者のことは分からない、今度の此の長編も、むろん、 わたし自身のために書き進んできた。そして今、まずは満足しかけている。もしいま死んだとしてもわたしの一生は、かなり相応に、かなり手を掛けて書き結ば れてある、と感じられる。十年掛け、最後の一年を掛けて、書けて、書いてよかったとさらに先へも意欲が動いている。
このマエの書き下ろし長編は実の生みの母を追いかけた、『生きたかりしに』だった、が、今度の作は徹底的に創作(フィクション)であり、それでいて作者 自身をよほど追究して書けてある。いま目のうえの書架に「選集」が29巻、そのうち17巻が小説等の創作であり、この作が第31巻に入ると、創作は18巻 になる。こころづもりではもう一巻分を創作・小説に残し、多くの随筆は心残りだが省くことになるだろう。
顧みると、わたしは、これで上げるのも手間なほどかなり多数の長・中編小説を書きのこしていて、おもったより短篇は数少ない。つまりフィクションを書い てきたということか、今度の長編は、初中期のフィクションとは一見一読、タチのちがうものに成った。それでいてある種凄惨な総括にも成ったかと、そのこと を今、わたしは少し喜んでいる。まだ脱稿はしていないけれど。
* 十一時。もう、最後の場面へまで来た、明日には読み上げられよう、か。
2-19 3/15 208
* 書き下ろし長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を、午後一時過ぎ、ともあれ「脱稿」した。
* 間をおかず、おとらず難儀にフクザツな『清水坂(仮題)』へ取り組む。このあと『選集』はもう二巻しか余裕がない。予定している小説集の、いい感じに巻頭へ入れたいのだが。
問題はわたしの、体力・健康。なんとか ムリにも乗り切りたい。
2019 3/16 208
* 機械の転送機能に不安あり、どうなるか。コンテンツの全部、別に保存はしておいたが。
*とにかくも入稿だけでも無事にしたいと。懸命にややこしい機械と話し合いの交渉を続けている。
* 未完成の「清水坂(仮題)」原稿も展開して、入念に読み直さねば。目の前に、何が問題でどこへ物語を運ぶのか、かなり詳細な覚え書きが書き出され、貼 り付けてある。うまく運べると、これは問題なく興趣に富んだ展開になるはず。欲深く用意しているのが、障りにもなりかねないので。もう気持ちはこっちの進 行へ向いている。
* 予告ではない、物語本文と関わるとも云えず、つまりは「序詞」であるが、こんな一文に催されるようにして小説「清水坂(仮題)」は述懐され語られ始める。わたしの気分を励ます気持ちで、異例だが披露しておく。
☆ 序詞
あ…分かった…。
男のもしもしを聞くときまって、それが女の最初の挨拶だった。三十数年電話をかけてきた。いつも男がかけた。いつ、どこから突然かけても、女は声ひとつで男を受入れた。前置きはぜんぶ省けて、寄り添うほど温かに女から話しかけた。
「なにかあったん」
「なにもないけどね。そっちはどう」
「変わりないわよ。きのう**へ行ってきました」
「お母さんは達者」
「こっちより元気なの。いっしょに**寺の紅葉をみてきました。すこぅし冷えましたけど、よかったわ。今日は、どこから。大学…」
「ちがう。出張費をもらって、天の橋立の根っこの…松林のなかにある、宿屋。すいててね。絶景をひとりじめ」
「蕪村なの、また。加悦…。それとも浦島太郎の方かな」
「そっちに近いな。元伊勢の籠宮(このみや)さんの狛犬にも逢いたくてね。それと、国宝の、海部(あまべ)氏系図がお宮に里帰りしてて、見せてもらえる段取りができた」
「やれやれね」
「なんだい、やれやれってのは」
「よかったわねということよ。それで…あと、京都に寄るの」「逢ってくれるならね」
「逢ってあげたいわよ。でも逢うと、あなた、命がないわ」
「命は惜しいな、まだ。も、ちょっとね。やっぱりやめとくか」
「電話が無難でいいって、いっつも、おなかン中で思てるくせに」
「それはちがうよ。もう一度でいいから、いっしょにあそこへ行きたいよ」
「言わないでそんなこと」
女は毎度のこと、ここで、しおれた。男はじっと受話器に耳を押しあて、女が、ひそめた息のしたで泣いているのを聴いた。どっちからも、さよならとも言わず、男が先に、いたわるように電話を切った。
高校の卒業生名簿に、旧姓なにがしの女名前に添えて「死去」とあることを、男は二十年もまえ、東京駅の新幹線ホームへ向かう改札口ちかくで、擦れ違った 昔の同級生から聞いた。バカなと言い返しかけ、口を噤んだ。数日まえにも電話で彼女と話してるなどと、それは誰にも、妻にも、言えたことでなかった。頬の 毛のそそけ立つ恐れと悲しみに負け西へ向かう指定席に沈んだが、やがて立ち、車内電話から三年坂わきの女を呼んだ。あ…分かったと例の科白がすぐ出迎え て、「なにかあったん」と驚いたふうもない。いつものように、数日まえ話したことも無かったかのように、女は次々に時節季節の話題を追い、笑いさえした。
とうとう男は絶句した。声を堪え、そして、もう一度だけでも、いっしょに「あそこ」へ行きたいと口にした。
「言わないで」と女は声を放った。
男は震える手で受話器を置き、立ちすくんだまま肩を縮めていた。目の前のベルがすぐ、激しく鳴った。受話器から女の声が、こころもち遠く、しかしはっきり男の名を呼んで、「またかけてや…」と、こと切れた。
* この未刊の作は、書き上げた新長編よりなお一、二年前から書き始めていて、つまり十一、二年も抱いている。まだ当分かかるのであるが、このからだで、 是非見たい行きたい瀬戸内海へ行けない、それで停頓を余儀なくしてきた。脱稿した京都の長編は、さいわいに力を貸して下さった方があり。いい写真をわざわ ざたくさん撮って送って下さり、それで書き上げられた。瀬戸内海は、やはり肌で触れてこないとと、アタマが痛いが、魔法を使うしかない。
2019 3/16 208
* 「選集 第31巻」を、もう思い切って入稿しておいた。全身気怠く重いが外出する。うまく気が変わるといいが。
2019 3/17 208
* 『清水坂(仮題)』をまたまた(もう十度できくまい)読み返しだして、ひとら読ませるのが惜しいくらいとんとこと面白く読み耽っていた。ほとんど手入れの必要が無く書き進んである。
それにしても、なんと「こだわり」の深いわたしであることかと、一生おなじことを繰り返し書いてきたような気がする。血をわけた「肉親」よりも、まるきり世間の他人から見つけた「身内」たちをわたしは、途方もないまで生涯愛してきたと思う。
ともあれ、手の掛かる初校も再校も責了もいま手元に無いあいだに、『清水坂(仮題)』というまるで破れ障子のような手荒い、だが物語に富んだおはなしに 打ち込みたい。あんまり途方もなくて瓦解してしまう懼れもあるけれど。なんだか小説を「書き始めた」昔へ帰ってきているような弾んだ気持ちもあり、そんな ときは、つぶれそうな疲労も病識も苦痛も忘れていられる。
* 階下のテレビも、どうしようもなく、つまらない。
また機械へ来た。
2019 3/17 208
* 『清水坂(仮題)』は自動車と電車と船とオートバイと乳母車とが連結して走っているような展開で、書いた当人のわたしがビックリしている。めまぐるし いが基本の色と線とは同じである、つもり。まだ半分ほど読み進んだだけだが。この「列」車、どこでうまく停車するのだろう、運転しているわたしにもまだ見 えていない。
* 今日は、もっぱら『清水坂(仮題)』に向き『清水坂(仮題)』合って、少し呆れかなり楽しんでいたが。この先の難路はナミでなげに想われる。本題は、もう書こうと意図した初めから決まっていて、仮題は改められる予定。本題を書くとタネが割れてしまうので、今は伏せている。
☆ 最近の病院の検査などもあり、そこでは腹くくる想いも覚悟もなさったり、鴉ご自身が切実に全身で感じていらっしゃる。
それにしても最近の記述には 生きる辛さが滲み出て・・ 日々の食欲のなさ、消化に伴う困難、胸や脚の痛み等々、そのことをわたしもまた
遠くから受け止めています。
京都行も断念しているのに 「歩き回っていますよ」とおっしゃる。実際の京都よりも脳裏の、懐かしい山河や街の京都の方が現実味を帯びていますよ、と。 何回も京都へいらしてくださいと書いてきましたが、脳裏にあるものが現実を超えることにも思い及びます。納得しています。ただ悲しい。エネルギッシュな 鴉、元気な鴉を見たい。
京都はまだ寒かったと書きましたが、直前には暖かな日もあり既に桜が咲き始めたりしていました。
たくさん歩いてさまざま感じ考えましたが、先回歩いた葛野という地名、平安京造営の頃の葛野氏の存在もいささか気になっています。
花粉症も、お疲れも、みんな飛んでいけ!!!
少しでも良くなりますように、元気でありますように。 尾張の鳶
* ありがとう。ありがとう。
実地に「歩ける」のは、宝を抱いているようなもの。
しかしもう羨んでみても叶わず、それならそれなりの「道」を創って歩く。
今度の『清水坂(仮題)』の京都は、ほぼ知悉しているものの。知っていることがジャマになるということは、まま有る。知らぬふりして知らない世界を探し たり創ったり。ま、そういう日々をこれから当分楽しみたいが、やがては「選集」30の再校、31の初校が、高波のように逼ってくる。よほど、しんどくなる が乗り切らねば。一作だけ前に書いて置いた、『女坂』というのの、第二、第三作もじつは念頭にあり、もっと本格の創作・小説もこれからだこそ書ける・書き たい気が、機も、動いている。ムダに疲れないよう気をつけたいです。
* 奈良の歌人東淳子さん、過分のご支援を下さった。感謝。
* 九時半。もう機械を離れる。眼を休めねば。
2019 3/18 208
* 作家で駆けだした頃の、最高にこわい先生は雑誌「新潮」での担当編集者だった、小島喜久江さん。寡黙で峻烈。鉛筆での短い傍線だけで教えられ 鍛えられ、小島さんがタダの傍線だけでなにを指摘しているのか、その意味を、歯噛みしながら覚えていった。「蝶の皿」「畜生塚」「或る雲隠れ考」「青井 戸」がフリー・パスし、「青井戸」がもうちょっと長い作だと芥川賞に推せるのにと小島さんは惜しがってくれたのを嬉しく覚えている。
しかし、筑摩書房の<展望>で井伏、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫 六選者満票当籤の太宰治賞「清経入水」と 瀧井孝作、永井龍男に推された芥川賞候補作の「廬山」とは、どう悪戦苦闘しても、「新潮」編集部では通らなかった。
作品の評価とは、それほども微妙にややこしいことを、作家志望の若い人たちは心得ていて、やみくもに自信喪失しないようにと励ましたい。
とにかくも、しかし、夥しい人数の編集者たちと「満五十年」もつきあってきたが、小島喜久江さんの鞭撻はわたしには最高に有り難くまた怖かった。「作 品」読み取り励ますとはこういうことかと、この「女弁慶」の鉛筆一本に追いまくられた私「牛若丸」は大汗をかいた。感謝しきれない。わたしよりも一回りほ ども年長であったのだろうか、いまもお元気か、どうか。
* 夜前の夢で、じつはその編集者小島喜久江とのうれしくも親密な夢をみたのである、ビックリ、そして夢のあとあじは温かに嬉しいものだった。それを書いておきたく、余計かも仕入れない前条をも書き置いたまでである。
* 『清水坂(仮題)』をずうっと読み進んでいた、思いの外に長い作になりそうだ、まだ先はよほどの転変 を践んで行きそう。落ち着いて探索して行く。よく識った世間をよく識ったままに書く気はない、「ありし」世界でなく「あるべかりし」世界へ入って行くので なければ踏み込む楽しみがない。
☆ 拝啓
「秦 恒平選集」第二十九巻をご恵送くださり、ありがとうございます。御礼のお葉書を、と思いながら、例によってずるずるてと遅くなってしまいました。どうぞお許し下さい。
所収の「少年」、以前文庫本でいただいたとき、あヽ、秦さんはなによりもまず”歌を詠む人”なのだ、と感じたのを憶えておりますが、「亂聲」は、その思 いを増々深くさせる歌集で、どきどきするような「うったえ」に、心を、ぐい、と掴まれる感覚に陥りました。有難うございます。
お身体くれぐれもお大事に願います。 敬具 久間十義 三島由紀夫文学賞作家
* 「亂聲」には、新作長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』のため、作者自身を鼓舞すべく、想像の限りをつくしたモーレツな試作歌がならべてあり、お行儀のいい方々にはとてもお勧めできない、顰蹙を買うだけと警告もしてある。
それもあり、この「老いの・性的生活」を寓話として書き上げた長編新作は、森鴎外先生唯一の発散作「ヰタ・セクスアリス」のあとを慕って発禁などという厄はさけたく、「非売本」の「選集」へ入れてしまうと決めた。
これまでも、自分もふくめ200部(150部限定)しか製本していないが、それだけの「装幀・造本」であるとともあれ自負している。願わくは収録の中味も相応した仕上がりでありたいと、ま、懸命に努めてきました。
* 一方、相次ぐ予定の『清水坂(仮題)』は、或いは早い時機にまず「湖の本」で発表し、「選集」最終巻 になる第三十三巻に、まだしゅ収録されてない小説の何作もと併せ締めくくりたいというのが我が皮算用である。そのためには、何より、健康な気力と想像力 と。癌の胃全摘から、満七年を恵まれた。三日後に、腫瘍内科で、上部消化管の内視鏡や循環系の諸検査を受け、四月三日には内分泌科で心エコー検査も受け る。一つ一つ、また一つ一つ。
2019 3/19 208
* 『清水坂(仮題)』は、やんちゃ坊主のように手足をひろげ振り回している。書き手には面白い。読み手のことは棚上げに、楽しもうとしているが、「清水坂」で跼蹐し、「瀬戸内」へ物語をかっ飛ばすのに苦労しそう。
2019 3/20 208
* 十一時。温かな一日だったのが、冷えてきた。ゆっくり睡りたいが、夢にも、「清水坂」の古来今往を、物語りながら歩きたい。私ならではの物語り方をさらにさらに見出して行きたい。もう、ほんとうに良かろう、好きに好きに書いても。語っても。一厘の損得もかかわりない。
2019 3/22 208
* 井口哲郎さんから、実は、渇望していたお手紙を頂戴した。ただ、書き上げた長編新作との濃い関わりがあって、詳細をここで公表するわけに行かない。ただただ井口さんの慮り優しいご厚情に頭を垂れて感謝のほかはない。嬉しい。
☆ 庭の
紅梅の花が衰えはじめました。山茱萸は咲き続け、木瓜が元気になってきました。
三月六日のH・Pに「勝田貞夫」さんが、「亂聲」印を楽しんでくださったという記述を発見し、ちょっといい気分にんりましたが、これは秦さんの「おことば」だからこそ、さりぬべしと、思い直したことでした。
ただ、それをお示しくださったこと、気にとめたお人があったことは、嬉しいこと、でした。
(あえて、中略)
秦さんのお気持ちに応じた私の思いとお受取りください。
お口添えのあった『北越雪譜』を引っばり出して、「眺め」ています。(著者鈴木牧之の洒脱に巧みな挿画も数多い。 秦)黄色の帯は健在?ですが、頁の上 部はうっすらと汚れ(ヤケ)が入ってきています。昭和四六年八月一○日 第一八刷発行の岩波文庫です。高校時代に読んだはずでしたが、それは図書館で借り たものだったのかと思い返しています。さし繪だけでも楽しめますが、お示しの「佳い文章」を読みかえしてみます。
「雪」で雪国に住む私のことを思いつなげてくださったようですが、今年の当地(=石川県・能美)、全く頼りない?くらい雪が少く、関東地方の雪の情報を気にしたくらいです。
田んぼでは、もう春の動きが始まっています。荒耕(あらおこし)も済み、水がはられている田もあります。稲田は、六反を標準に区画されている(集落の周りは二百歩前後の水田が残っていますが)そうで、そこに夕陽が映えて、ちょっとした眺めです。
平凡な日常には、お伝えするようなニュースはありません。無理に書くのも「おたいくつさま」でしょう。 文章も内容も乱れ飛びました。
先だってはH・P作で出会った秦さん、目ざしに何か「意欲」みたいなものを感じ取りました。念願の思いが達成なされることを念じています。
お二人の春を願っています。 井口哲郎 前・石川近代文学館館長 県立小松高校校長
* 何十度頂いても、嬉しい、温かい、思わせぶりもゴアイサツもない、ほんとうに自然にお声の聞こえてくるお手紙で。こうありたい、こう書きたいといつも思いながら、わたしはしゃちこばっている。人間の出来がちがうんだなあと、情けない前に、懐かしいと思う。
申し訳ない、タネはあかせないが、おかげで、新作長編に華を添えて頂けた。嬉しい。
* 追いかけているもう一つの創作も、長編へと歩みながら作者を翻弄してくれる。たくさんにメモに近い試行錯誤も機械の中で積み重ねてあって、それを便宜に利 用して行く「参照」が煩雑でへこたれていた。メモに類する書き置きを取り纏めプリントしておいて参照し使用したいのに、プリンターが故障して働かず、買っ て帰ったプリンターはまだ荷も明けていない。アタマに来そうなとき、雑然と積んだ新編のサマザマのなかから、大きな字ですでにかなりの試し書きや予備知識 の印刷束が、ふっと、見つかった。腰の抜けそうに驚喜、つまり、すっかり忘れていたほど永くこの「清水坂(仮題)」は『オイノ・セクスアリス 或る寓話』 に道をゆずって待機していてくれたのだ。ゴメンよと云うしかない。
* 初期作とかぎらず、かりにも創作をわたしは「絹」のように編んできた気で居るが、後期高齢の今は、触感を分厚に「藁」で手編みした「茣蓙」のように 「書こう」としてきた。感触に手荒いほども差をつけながら、久しく心がけ追いかけてきた「主題」を、露骨なまで露表させ、作家生涯の首尾をつけたいと。
そう行くかどうか、まだ中途で、しかももっと先も考えている。谷崎先生は六十年を、立派に、やすみなく書き続けられた。成ろうなら、わたしももう十年、 小説を書き批評を書き、闇に私語もたくさん言い置きながら、追いつきたい。「パソコン」という機械機能の片端をでも手にし得た大きな恵みに感謝する。そし て「秦 恒平・湖の本」にも類のない道を付けえた自身の意欲に感謝する。願わくは、致命的なまでボケずに済みますように。
2019 3/23 208
* みっちり勉強し思索し推知し検討して、「それ」か「あれ」か、「こう」か「そう」かと表現へ身を寄せて行く。ラクでない、が、苦痛なのではない。匍匐前進ということば、コンパットの昔にはよく聞きよく読んだ。創作は匍匐前進にまぢかい。
* 京都でひとを案内して歩くらしい人から、比叡山の印象的な洛北円通寺の写真が送られてきた。小説『畜生塚』での一等美しかった景色である。懐かしい。
ひとは観てわれは観もえでなつかしむ
比叡の嶺にたつおもひでの樹々
遠地借景の典型例のお庭であり、等間隔に庭さきを明るく区切った小高い樹々が印象的。
帰りたい、訪れたい先が山のように。建日子に委ねてある萩の寺の秦の墓地は草むしているのだろうか。
2019 3/24 208
* 『清水坂(仮題)』も想えば思うほど、ものすごい(嫌いなもの言い)ありさまで、ひたすら、待って辛抱して幾筋もの隘路を繋げ繋げ突貫して行くしかな い。途方に暮れながら闘志のようなものも涌いてくる。勝つあるのみ。いまは機械に字を書くより、白い大きな紙をひろげてありとあるキイを展開し結び放し繋 ぎ書き加え消し去るといった作業が必要。
一つには、行きたい、行かねばと思っていた瀬戸内へ、とどのつまり行けずじまいになっているのがきつい痛手。飛行機では瀬戸内を眼下に四国へ二度渡っているが、船は、松山から向かいの中国筋へ渡っただけ。ま、地図、海図は穴の開くほどみているのだが。
蛮行も敢えてするのみ。
2019 3/26 208
☆ お元気ですか、みづうみ。
腫瘍の検査がご無事に合格でおめでとうございました。喜んでいます。そして、ようやく循環器科への診察の道筋もついて安心いたしました。良い先生にしっ かり診察していただき必要な治療の始まりますことを願っています。本格的な診察も検査もこれからですから、それまでどうかご無理なさらないように、いつも ニトロをお手元に用意してお過ごしくださいますように。
選集第三十一巻『オイノ・セクスアリス 或る寓話』が一体どのような作品なのかまったく予想もつきませんが、「呆れかえって殴りかからないで下され」というようなものでしたら、それは大成功なのではないでしょうか。
女には絶対にわからない境地が表出されていて、世の中に溢れている男女の性愛を描くポルノグラフィックな作品と一線を画す、ありそうでなかなかない、男という力の真実、男の性と生の実相が迫ってくる、独創のように思います。
話変わりまして、本日火曜日夜7時半よりBSプレミアムの「イッピン」という番組で「究極の帯」と題して山口源兵衛さんが誉田屋として出演なさるようで す。以前、みづうみにお会いになりたいと熱心に言ってこられた方です。個性の強い方ですから、好き嫌いはあるかもしれませんが、逸品を創る創作者としてみ づうみに感銘を受け共感なさっていらしたのだと思います。ご参考までにお知らせしておきます。
わたくしは親不知が時々痛むし、細々した不具合が他にもいつもあってすっきりしません。丈夫に生まれていないのはしかたありませんが。晴れやかに元気であるために、美しいものを身近に置こう、読もうと心がけて暮らしています。
朝晩はまだ肌寒さを感じます。お風邪など召されませんように。
蝶 方丈の大庇より春の蝶 高野素十
* ここで自作を暴くのは、良い趣味と思えないので沈黙します。
* 女の「帯」を気を入れて書いたのは、『蝶の皿』かも。昭和四十一年八月五日に、二週間かけ一気に脱稿しており、三十歳半の当時まだ多忙も多忙のサラリー マン医学編集者だった。あの厳しくも難しかった「新潮」編集部が、一字の変更もなく受け容れてくれた作品で、太宰賞受賞後翌月の「新人賞作家」特集号(昭 和四十四年九月号)に載った。
実は此の作、私家版の第二冊『齊王譜』巻頭に入れたのちに、「小説新潮」へ送ってみたところ、編集長から、この作は、むしろ「新潮」の方へ送られてはと示唆があったのを覚えている。
* 「選集」第三十巻の表紙や口絵の初校がきた。やがて再校が出て、これが、新元号での第一
作となり、追って「選集」第三十一巻の初校が押し寄せて、これが桜桃忌には作家生活満五十年記念の、名作でも秀作でもないむしろダメ作かも知れないが、「問題作」には成ってくれよう。良くも悪しくも私のこれまでの多くの小説を、或る意味で「締めくくる」でもあろう。
但し、それで「おしまい」では、決してありません。すぐその次の難儀な坂で喘いでいる長編を、なんとしても坂上まで押し上げたい、できれば、「湖の本」のために。
五月の永い連休より先に「選集」30の製本納品は所詮無理と観て先へ延ばすことに決めた。
2019 3/26 208
* 小説の運びはいったん脇へわすれ置き、古の清水坂や六波羅界隈、鴨川東岸などの地理をことこまかにアタマへ入れ直した。大小の史料や地図の文字の小さ さにほとほと難儀しながら、わたし自身の久しい記憶を補正し納得しておくのが大事と思ったかので、一日、手間を惜しまなかった。
2019 3/27 208
* 十年がかりの長編の二つが錯綜し、身の回りに関連の参考資料や試筆やメモや地図・地誌の類が混在し幾山にもなって気が狂いそうなので、入浴後だった が、時間かけて整理と分別とをこころみ、なんとか二た山に分類した。さてそれですぐ効能があらわれるでもなく、湯冷めして心地悪くなってきた。
明日の通院・検査のために、十時半、もう機械を離れる。
2019 4/2 209
* 羨ましい 京都行き。
わたしの分も 泉山 眺め 歩み 楽しんできて下さい。
いそがしい毎日と。忙しさを楽しまれるのは大切な老境の良薬です。
わたしは、心臓不安に対処の「心エコー」検査をうけに今日出かけます。今朝も、血圧低く 脈搏速く。けれどカメラでの検査も心電図もキレイに穏やかでした。
仕事は、しっかり続けて、十年がかりの新しい長編小説二編の一つは仕上げ、もう一つの仕上げに勤しんでいます。京都を観られないのには困るのですが、さすがに京都は、「分かり」ます。また協力してくれる読者や友人も居ます。
瀬戸内海を舞台にと願っている作が、この弱りようでは危険で行けず、観られず、魔法を使うしかありません。気はシャンとしています。
無理しないで、長生きして下さい、少なくも私よりは。 湖
2019 4/3 209
* さ。気を励まし、われながら得も云われない「清水坂」へ、おもひを燃やしたい。
2019 4/3 209
* 「選集」30の再校がまだ半ばへ行かない、「選集」31の新作長編の初校はこの週明けに届く筈。そして書き下ろしの小説『清水坂(仮題)』にいま苦 戦の最中にいる。「湖の本」144巻の入稿も手がけておきたいし、この十日過ぎからの、新たな循環器科の、また低血糖気味の内分泌科での 新検査データを 踏んだ診察も気が抜けない。
苦しい四月、五月になりそうだ。いちばんは食べて体力を戻すことか。今朝の体重は、術後七年余の最低であった。あんなにウマイものの食べたがりであったのに。これでは、妻を支えてやりにくくなってしまう。
春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
ぐあいに久しく、やってきた積もりなのだが。
六月、三谷幸喜作の歌舞伎座初登場、九月白鸚の「ラ・マンチャの男」の予約もしてある。崩折れないよう、シャンと立たねば。
* かねがね、藤村、漱石、潤一郎に、もう一人加えるなら「愛読はしない」が松本清張と答えてきた。その考えに変更はない、が、作を読んでもドラマをみて も、不愉快すさまじく、まるでカタルシスを得ない。「文学」以前の「読み物」アクがしみついている。しかし先の三者のまるで触れ得なかった人間悪・社会 悪・政治悪の世界へ深く切り込んでいる。無視は成らない。清張に代わる文学作家に出会いたいと、よくよく思っている。
2019 4/5 209
* うんべルト・エーコ原作、ショーン・コネリーの演じる映画「薔薇の名前」を、落ち着いてもう一度見直したいというので、かなりコワイ思いをしながら、 じっくりと観た。以前に観たときにはまだ胸にも腹にも入ってなかった基督教、それも正統派基督教にかかわる勉強や思索や判断を幸いに『オイノ・セクスアリ ス』のために重ねていたので、よほど踏み込んで理解も批判もしながら、わたし楽しみもしたし理解もした。直ぐにもまた、とは云わぬまでも、いつか、きっと また見直したくなるだろう。
やはり力のこもったいい映画は、テレビドラマより遙かに本格の重みと面白さとで惹きき入れてくれる。ショーン・コネリーにも満足した。
2019 4/5 209
* 正直に言うと、もう寝入りたいが、床に就くとかならず枕べに山積みの本へ手が出る。いまはトルストイの『復活』 安田武の『昭和青春読書私史』 に先 ず手が出る。 今日、笠間書院が送ってきてくれた中世古典文学全集の新刊中二作の一つ源氏物語「蓬生」の巻の別巻といえる作も直ぐにも読んでみたい。陽気 は暖かであったのにすこし寒気を感じている。『清水坂(仮題)』をもう少し上って行きたいけれどからだは傷めるわけに行かない。寝入れと躯は命じている。 しかし上野千鶴子さんに貰っている新しい単行本は代表作に上がりそな力作で、呼び込まれている。
熱っぽい。
2019 4/6 209
* 機械 絶不調 四時間余かけて作動はなはだギクシャク、マウスまで働きわるく。困惑。
* 正午前、やっと尋常な画面になった。アキラメの境地で機械と老老の付き合いで「仕事」を優先する。
京都への観光客は稲荷か清水という人気だが、この神社も寺院も容易ならぬ庶民の牙城でもあった、まさに牙城であった。その牙をおそれつ確かめつ「清水坂 (仮題)」で息を喘いでいる。出来のことはワキへ置けば、少なくもアラアラとびっくりして貰える「かたり」ものになるだろう、と、気を励まして、機械の機 嫌をとりとりちょっとずつ坂を越えて行きたい。
2019 4/8 209
* この分なら、わたしの『清水坂(仮題)』は、みなさんに、よっぽどビックリしてもらえそう、「清水坂」は、仮題だけれども。
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』がどんな顔をして、明日、初校ゲラ現れ出るか、息をつめて待っている。この歳になって、創作・小説の仕事でこうも毎日毎日コーフンしてられるなんて、幸せな爺さん作家ではあるまいか。
* 選集30の再校を捗らせないと全体に、キツクなってくる。「文学と文学者」を読むだけで300頁を越している。短文のもまじるが、相当の長文でわたし なりに力も思いもこめて書き上げた作が相当数ある。井上靖論など一冊の本にしていいほどの量と内容、十分気を入れて書いている。秋成、紅葉、花袋、折口、 小林秀雄等々、フレッシュな気分で思い切った筆を運んでいる。
このあとへ更に250頁ほども「美術と美術家」を語っている。再校といえども容易でない。かなり纏まった一巻に成ってくれるだろう。
2019 4/8 209
* 「選集 31」の初校、出る。苦心惨憺の日がつづくだろうが、楽しみも。二月三月は時間に余裕があり、おかげで『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、ともかくも成った。
さあ、今度は時間に追い立てられるぞ。大きな大きな校正が、二つ。難路の長編小説の匍匐前進。「湖の本」144入稿用意。 そして聖路加病院での、あれもこれも。
2019 4/9 209
* 『オイノ・セクスアリス』の初校、数十頁いっきに読んでみて、十年も推敲し続けた甲斐があったと、すこし、ホッとしている。
十一時になった。もう休む。
2019 4/9 209
* 小説『オイノ・セクスアリス』初校、気がかりなまま、昨日のうち一気に六十頁分読み終え、ま、この分なら 今ぶんは 快調という実感がもてた。特別な意味はないが、大よそ「三部」に編成してある、その第一部だけなら 「湖の本」としても送り出せるかなあと感触している。 おそらく明日の病院外来待ちで第一部は読んで仕舞えそう。面白く読ませる(少なくも私には)ものを持っている。
ともあれ、いまぶん、ホッとしている。作者冥加というか。
この勢いで、つづく『清水坂(仮題)』も書き抜きたい、が、何としても実地の取材・見聞の利かない世界へ入らねばならない。ま、あの(いまでもわたしの 代表作として先ず指を折ってくれる人が多い)『みごもりの湖』の近江、ことに湖北の表現・描写は賞讃の的にからなったが、実は皆目わたしの見知らぬ世界 だった。ただただ地図だけを眺めて書いた。そういうことは不可能でない、けっして容易ではないのだけれど。
2019 4/10 209
* 新作の小説を三分の一近く、つまり緩やかな第一部を読み終えようとしていて、我ながら、小説家というのは奇妙な世界を創り出す生きものなのだと惘れて さえいる。小説としては、いっそ快調に書けまた駆けている。へへえと思う。しかし、こんなシロモノは広い世間様になら いくぶん胸を張って読んで戴くが、 身のそばの人らには、近寄っても貰いたくないと閉口している。小説家って、(と謂うては逃げ口上になる、明らかにワタシって) 実に奇態、変態な生きモノ なんやなあと閉口している。
それでも、もう、いつお迎えがあるか知れぬ今に、この長編作を書き上げて置いてよかった、文字どおり「妙」に首尾を綴じめる事になったナと思っている。 いま、わたしは、どっちかというと、もうあの世へ先だった人たちのほうへ身も心も寄せているのかも知れぬ、たぶんそういう作に仕上がっているらしい。
* さて置き去りになど出来ない「清水坂」が嶮しい、「選集30」の再校そして責了にも精をださねば。
2019 4/12 209
* 終日、ゲラを読んでいた。たくさん読んだ。小説「女坂 二」を読み直してもいた。 2019 4/14 209
* 新作長編の校正読み 最終三部の半ばへかかってきた。乗り切っているか、どうか。
おそらく「オイノ・セクスアリス 或る寓話」と題してあるこの長編が、どんな、ト拍子もない「劇・寓話」をはらんで展開しているか、当然ながら察し得られまい。十年前に試筆の時には、わたし自身、夢にも想ってなかった。成功したか、大失敗か。わたしにもまだ分からん。
ただ、第一部は、ま、なんとか公表できても、第二、三部は、文字どおりに「私家私蔵」のほか無いかもしれぬ、物語はかなりに花やいで展開するのだけれども。
赤裸々な描写や表現、展開にもビビらず「強いご希望」の方とは、ご相談したい。
* 長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』510頁分の「初校」を終えた。感慨有り。目をつかい、思案・判断をわずかな日子で重ね、さすがに心身ともな疲れ切っているが。
『黒谷』一編を副え、「再校」でもきちんと推敲した上で、六月十九日の桜桃忌を期し、作家生活「満五十年」記念の「紙碑」として、『秦 恒平選集』第三十一巻に収めたい。
「跋」ももうほぼ書き上げて置いた。
* 六百頁にも及ぶ「選集第三十巻」の「再校」分も、なお百数十頁読み残していて、なによりコレを先ず「責了」にし終え、早く本として送り出したい、五月中にも何とか。
* 目の霞みには五種類の目薬を時にあわせ使い分けているが、目まわり洗滌の綿が比較的瞬時に視野を明るくクリアにしてくれる、ものの三分間と保たないけれど。暫時でも視野が明るむと嬉しくはある。
もう、十時半になっている。寝みたいが、寝床でまだ校正もしたい、『復活』も読み継ぎたい。
2019 4/19 209
* 「選集31」の長編本文を「要再校」で、 あとがき、変更箇所の短文、アトヅケ、函表紙、総扉等を入稿、宅急便に託した。ナントモいえず、なんだかホッと息をついている。
* さて「選集30の再校了と責了とを急ぎ進めながら、『清水坂(仮題)』をも書き進めるのだが、こり長編も大きな問題・難儀に逢着している。ここでヘタバるわけに行かない。
2019 4/20 209
* 後追いもう一つの長編の合い寄るふたつの流れに、主題を創り上げて行く明瞭な結び目が一つ、ハッキリと立った。
九時。 もう機械の字が見えない。やすみたい。
2019 4/22 209
* 漸く「選集30」を責了できるところへ来た、十連休明けには送り届ける。「選集31」は、辛抱よく重ねた推敲と読みとの御蔭であまり直しが無く、これ も追いかけて一気に責了へ運べるだろうが、その前に「湖の本144」を送るか、「選集31」の後にするか、思案している。
* 展開にすこし苦慮していた『清水坂(仮題)』に突貫の筋がすこし明るんできた、かも。これが出来たら、また新しい長い小説に取り組みたい腹で、想像を廻らし始めている。
2019 4/24 209
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』一部の半ば過ぎまで読み返し、みなさんのお気持ちは察しにくいが自分としては、書くべく、書きたかったものを書き たいように書いていると、ま、納得できた。まだ「寓話」へまでは来ていないが、おそらくは此の第一部だけでも一編と謂えるに近いまで纏まっているだろうと 思いかけている。それなら、その第一部だけで一冊の「湖の本」144に仕立ててもサマには成るのではないか、と。 2019 4/26 209
* 稲荷か清水かというほど京都への人気の大半を占めるらしい清水寺は日本中でも屈指の名刹だが、「寺」ではなく「坂」「清水坂」として意識しながらお寺へ通う人はどれほどあるのだろう、いかにも繪に描いたようなお土産屋を記憶して帰る人が多かろう気がする。
しかし清水坂は、なかなか、ただの坂道ではない、久しい日本史から眺めれば途方もない難しい坂である。少なくもいま「清水坂(仮題)」という小説を書いている私には、担ぎきれないほど重い複雑ななかみの大袋ではあるのです。
* 世界的な都市である京都に、明治以降、「京生まれ」「京育ち」の小説家があまりに少ない、「京住まい」の異人さんは何人も居られたし、今も居られるけ れど。ややこしい限り難儀な「京」の人や暮らしや町・巷を書いてくれた作家が少ない。貴賎都鄙の集約された「京都」とわたしは繰り返し謂ってきたがその 「賎」と「鄙」の顔を描こうとした人が、なかなか見当たらなかった。「異人さん」の目には見えないのであろうが。
2019 4/26 209
* 書き進んでいる作に展開を予期はしているのだが、手を掛けて前進するには、力(りき)の蓄えがどうしても必要。充電をじっと待っている。
* 健康でさえあり得れば、今のままでいい。
* おそらくは、私、「文学」を信じ愛し、幸いにも最後の最期まで「自身楽しんで・親しんで・創りだして・遺して」死んで行ける、ほぼ最後の独りになりそうだ。
新元号時代を見越した新文学賞も乱立しかねないが、それらの全部が軽薄な「機械アソビ」の一種とも化してゆき、関連企業の増益にのみ貢献することになるのだろう。
年を追い日を追い かつて「文学賞」の名を背負って輝いた芥川龍之介も谷崎潤一郎も川端康成も三島由紀夫や太宰治さえも、すでに漸漸として「旧時代の遺 物」かのように忘れられて行くと見えている。真実、徹した文学批評が払底の現況では賞の選者じたいが「文学の疲弊」に寄与しかねない。近年の東京新聞「大 波小波」に、厳しく光る批評でなく、生ぬるい「本の宣伝」ばかりが目立つ時代だ。編集者も記者も、何を見抜けるのか、自身に問えと云いたい。
永井荷風の境涯が慕わしい。
2019 4/27 209
* 明日からは、思い新たに「恒平」の日々、歳月を、生きうるかぎり生きる。
* 皇室のことも 改元のことも 関わりなく。ただもう 古代末中世初の「清水坂」を見歩いている。疲れる。疲れるけれども 京都は 言語に絶してヤヤコシ クも、おもしろい、関心を向ければ向けるほどこっちの視線より京都の方が深くなる。「清水坂」は、なかでも頭を掻きむしってしまうほど、ヤヤコシい。観光 客は、気楽でいいなあと呻いてしまう。
わたしの京都は、「風の奏で」「冬祭り」「雲居寺跡・初恋」「黒谷」等々、そして「オイノセクスアリス 或る寓話」についで、この「清水坂(仮題)」に集約されるだろう。
2019 4/30 209
* 十時 よほど疲れている。休息も休息にならない。躯をよこたえて、寝入れれば寝てしまうにしくはない。
「清水坂」がきつく、道に迷っているよう。隘路では焦らない、すぽっと抜け穴が見つかることもある。「オイノ・セクスアリス 或る寓話」はその御蔭を何度も受けた。
目が霞むと頭も霞む。小説世界には霞むという妙味も無くはない。
* 恒平元年の第一日は、小説『黒谷』を、面白く読み返せた。「選集31」に新作長編に添えて収録できるのが嬉しい。
2019 5/1 210
* わけもなく ただただ疲れて 心身はたらかず、情けない。「清水坂」の上り下りに苦しんでいる。
このからだでも京都へ帰れて、歩けて、空気を吸い色を見、もの音が聴ければ、カタはつくだろうに。やれやれ。
2019 5/3 210
* 清水坂へ、想いを飛ばしつづけていた、が。容易でない。それはそれは、興趣豊かなおもしろい物語になるだろうのに。翔が欲しい。想い想い想い続けるしかない。
『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を仕上げてからでも、書きさしの『清水坂(仮題)』をアタマから何度読み直してきたか。今日もまた読み直し読み進み手をかけながら、ジリジリと前へ出て来たが、書き掛けてある先はまだかなりの文量がある。慌てない。慌てない。
こんなときの作者わたしの楽しみは、おそらく「だれ一人」として、この作の「本題」を察しも成らぬだろうというヘンな自負心、それも根気の養分なのだか ら許されよ。視力は、今日の分はもう底をついていて、この「私語」の画面も霞んでいる。勘と慣れに頼っているだけ、ときどき目薬を浴びるように垂らし、 「目まわり清浄綿」を使う。その瞬間だけは視野が清々するが一分ともたない。このごろは、ディスプレーの広いテレビでも間際へ倚子を寄せないと、誰である やら、どんな美人の顔もよく見えない。
* こんな「私語」に視力を浪費しなくてもと想う方もあろうけれど、わたしは、これで、この「私語」を書くことで、少しでも佳い、生き生きした文章の勉強 をしているつもり、句読点の打ち場所や、テニヲハなどの置き方や、漢字とかなとのバランスなどを、詩歌のさいにわたしのよく謂う「語の詩化」を意識して推 敲している気でいる、なかなか行き届かなくても。
ま、煙草で一服ということの無いわたしの、それが幾らかは「あそび」に類しているのです。
* 上野千鶴子さんの前に送ってくれた『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』に、いろいろに教わっている。愛読し、慎重に熟読している。ことに、「市民権」なる権利の歴史的な検討と批判に頷いている。
惜しいことにこの本は『オイノ・セクスアリス』のためにはタイミングとして間に合わなかった。
* もう、やすむ。また、明日に。まだ十時だが、読みも書きもできない。
2019 5/4 210
* 八時半。終日、京都縄手の「梅の井」で、昔の同級生と話し込んでいた、いや長いハナシを聴いていた。聴きながら書き取る難しさ。歯を噛みしめている痛さ。
* 何が隘路で 何が懸案かと 書き出してみたのが三年も前か。まだ、大半の道が見えていない。「湖の本」の優に一冊ないし一冊半は書けているのに。どこ かで一瀉千里と働いて呉れよと願っている。知る限りこういうややこしい迷路を不思議に美しく書けたのは泉鏡花だけかなあと思う。しかも今しきりに読み返し たいのは潤一郎でさえなくて、漱石とは可笑しいが、分かるなあという気もしている。
2019 5/5 210
* 「清水坂(仮題)」の胸のまん中へほとんど乱暴に吶喊した。くだくだとモノのまわりを嗅ぎ回っててもどうにもならんと。吶喊すれば何処かに痛い傷も出来る。血も流れる。踏み越えて行くしかない。筆先に勇気がなかったのだ。
* 十一時。疲れた。
2019 5/7 210
* まだ七時まえだが、許されるならすぐにも寝入りたい。がくっと頸が前へ落ちそう、まるで土壇場。何としても 面妖にして奇怪な清水坂を跳び越えたい。そんな清水坂が だが 好きなのだ。
2019 5/8 210
* ジリリっと、少し、考えようではよほど筆が前へ向いた。がまんして書き進める。
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』全編が再校で届いた。たぶん、もう誤植程度の他は直しも出まいと思う。これぞ徹底して想像力による創作で、読まれ る方は事実の下地を頑強に穿鑿されるだろうが、そこが作者には苦心かつ会心の取材、想像と創作、至極のおもしろさ。ま、自己満足の極というもの。
再校はずんずん進み数日に少なくも読み通せる。「選集30」刊行が先行するので、こころゆくまで、まずは私が十年の苦労を反芻し楽しむことに。
2019 5/9 210
* 羽生さんの『紋様記』 女三宮を語られている座標のよさを納得した。女三宮は朱雀帝の愛娘として物語の真半ばに叔父光源氏の正妻となる女性、源氏物語 の発端へ胎内からすでに手を届かせていただけでなく、源氏へは罪の子の薫大将存生の母親として物語り最期の夢の浮橋をも視野に収めている。まことに広角度 に源氏物語の全容を視野に収めている唯一人なのである。個性としても才知の面でも必ずしも魅力に富んだ女人ではないが、理想的な女人藤壺中宮に光源氏との 罪の子冷泉天皇があったように、女三宮には夫光源氏を苦渋に泣かせた柏木藤原氏との罪の子薫がある。羽生さんの視点は正当に慥かな位置と女人を捉えてい た。
* 相次いで、建礼門院徳子では、なんということ、私のいましも昇降に苦闘の物語「清水坂(仮題)」と危うく接触し、硬質の小さな火花がパチパチッと散っているのにも感嘆した。
* わたしの物語も、じりじりと或る表情を浮かべ始めている。ここでは軽率に慌てまい。やすみやすみやすまない気合いが、大事か。
2019 5/10 210
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』 第二部再校ゲラを読み終えた。第三部へ展開して行く。あぁあ、こういう小説へ到達してしまったのかァと。そして、まだ、先があると八十三歳のわたしは確信している、健康さえ保てれば。
2019 5/10 210
☆ GWに帰省したのは何十年か振り、
躑躅と藤の倉敷を起点に、山陰は牡丹祭の大根島から隠岐の島を遠望する美保灯台へ、蒜山の温泉に温まり、父の里・備中高梁では蕗や蕨も摘み、蓮華畑の吉 備路を過ぎ、瀬戸大橋を渡って、幼い頃に駕籠で登った金比羅さんや丸亀城天守閣から讃岐富士も眺め、新緑の季節を満喫してきました。
名の通り山陰は曇天でしたが、伯耆富士(大山)を越えて山陽に戻ってくると晴天、「晴れの国岡山」と誇らしくはありますが、四国や中国地方の山々に守られた陽光の地は、「裏日本」を一段低く見てきたようにも思います。
吉備路は出雲と大和を結ぶ神々と文化の通り道、吉備王国は越の国と同様に前つ国・中つ国・後つ国に 三分割され、総鎮守の吉備津神社も、備中の吉備津神社(元々の吉備津神社。娘のお宮参りもここでした)、備前の吉備津彦神社、備後・福山市の吉備津神社に 分けられ、出雲の神も降り立ったとされる吉備の中山が備前・備中の境になっています。地元には両備バスを始めとする両備グループという企業もあり、備前 焼・備前長船・備中神楽・備中松山城など懐かしく思われますが、備後(後つ国。ここにも上下意識が潜んでいるのでしょうか)にはなじみが薄く、すぐに思い 当たるものがありません。
海から離れた吉備地方が交通を海に求めたときに目を付けたのが倉敷、酒津(今は桜の名所。昨春は自転車で花 見に行きました)は吉備の美酒が高梁川を下って荷揚げした河口の港、昔はここから南は浅海が広がっていたそうです。実家のある福島や近隣の中島・黒崎の地 名にも海が感じられます。
添付した写真は児島の王子が岳。地元の人にもあまり知られていない私のお気に入りの場所です。瀬戸大橋が春霞に少し霞んでいました。このふもとに塩田王の野崎家旧宅があります。ここの庭園の躑躅はまだ咲き始めでした。 吉備女
* 予期した多くがそれとなく語られていて興を覚えるメールだった。山陽ことに吉備人には存外に瀬戸内海への共生感はうすく、山陰への対抗感や優越感があ ろうかと遠くから察していた少なくもなかばは確かめられた。九州や四国の人たち、南海道の人には瀬戸内海は必須の要路だったろう、が、ことに吉備路の人か らは都へ確実に地続きという下意識が優勢に働いて、海賊の巣のような瀬戸内海に多くを賭けて生きる必要はなかったろう。そう想ってきたので、上のメールは はからずも多年のわたしの推察をむしろ微妙に支持するての表現がいくらも読み取れ、有り難かった。さしあたって現下のわたし自身の関心事からは逸れてい て、つまり、手放しに忘れていてすむ範囲が確認できた。有り難かった。
2019 5/11 210
☆ 陶淵明の短詩句に聴く。
結廬在人境 廬(いほり)を結んで人境に在り、
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し。
問君何能爾 君に問ふ 何ぞ能く爾(しか)ると、
心遠地自偏 心遠ければ 地自(おのづ)から偏たり。
採菊東籬下 菊を東籬の下に採り、
悠然見南山 悠然として南山を見る。
山気日夕佳 山気 日に夕に佳し、
飛鳥相與還 飛鳥 相ひ与(とも)に還る。
此中有眞意 此の中(うち)に真意有り、
欲辯已忘言 辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。
陶淵明の全詩中 もっとも心惹かれ傾倒の思いを深く深くするのは、「飲酒」と題された連詩句のこの「其の五」である。ここに悠然と眺める「南山」とは かの虎渓三笑の「廬山」を謂い、しかも胸懐の「青山=帰るべき奥津城」をも謂うている。
若き日に心決し心籠めて
採菊東籬下
悠然見南山
と剛毅に刻された心友井口哲郎さん二行の板作を頂戴してわたしは私室に日々に眺め、先頃には、重ねて「南山」朱白の二印を乞うて美しく刻して戴いた。小説 『廬山』は私の心籠めた代表作であり、瀧井孝作、永井龍男先生の知遇を得、また小学館の「昭和文学全集」にも採られている。
2019 5/13 210
* 亡き安田武さんに貰っていた岩波新書『昭和青春読書私史』は、身につまされるほど面白く体験を共有していた。なにしろ大デュマの『モンテクリスト伯」 にはじまりレマルクの『西部戦線異状なし』で結ばれていて、取り上げられた夏目漱石、中勘助、モーパッサン、田山花袋、島木健作、ツルゲーネフ、水上瀧太 郎、ジイド、永井荷風、川端康成とならぶと、喚声をあげたくなるほど「すべて来た道」であり、唯一わたしの無縁であったのはジョルジュ・サンドの独りだ け、彼女の作にはまったく触れた記憶がない。
安田さんは同じ保谷の駅近くに住まわれていて、会合でも西武電車でもよく顔が合いよく話した、わたしより丁度一回りも年輩だったがそんなに感じないほど若々しい元気な人に思えて安心していたのに、亡くなって仕舞われた。
安田さんに言われたことで、二つ、忘れがたい言葉があった。
先の一つは、「秦さんの仕事にはとっつきにくかった、が、いちどとっつかれるとアヘンのように放せないよ」と。とても励まされた。
もう一つは、「ちくま少年図書館」に『日本史との出会い』を書いて「後白河天皇と乙前」「法然と親鸞」「足利義満と世阿弥」「豊臣秀吉と千利休」という 四つの出逢いをとおして古代から中世へを中学高校生のために「語って」書いたとき、安田さんは「ぼくも、こういう本でこそ日本史が学びたかった」と、書き も話しかけもしてもらったこと。
新書本を読み返しながら、しんみりと安田さんも懐かしくわが「青春読書私史」も懐かしかった。こういう本をわたしも書いておきたかったと思い、ここの「私語」では十分に書いているとも思ったが、やっぱり、書いてみたいなあと思う。選び出すのが大ごとだけれど。
2019 5/13 210
* それはそれ。『清水坂(仮題)』の険しさに、卒倒してしまいそう。呻く。唸る。喚きそう。それでも、一箇所を凌いだ。
2019 5/13 210
* 「清水坂(仮題)」ただただ読み返し読み返し読み返しながら隘路を抜けて行くしかない。今日もまた。ガマン。ガマン。
* 『オイノ・セクスアリス』の口絵写真が出来てきた。本が出来て、それを先ず観た読者も、どんな物語と、察し得られる人は、ま、無いだろうナ。
* 六月歌舞伎座は部外の劇作家の初歌舞伎書き下ろしと聞いている。作家生活五十年、湖の本創刊三十三年、144巻刊行を祝える。
雨季を経てどんな暑い夏になるのだろう、耐え抜かねばならぬ。
2019 5/14 210
* 「清水坂(仮題)」のなかへ小さくはない、面白い決定打を一つ打ち込んだ。
2019 5/15 210
* 新長編の二部、三部そして「黒谷」の三校請求の用意をした。印刷所へ必要なメールも送った。『清水坂(仮題)』を先へ運ぶための心用意をした。かなりフクザツではあるが不可能では有るまい。
* もう十一時。とにかくも、やすみながらも、止まってはいなかった。
2019 5/18 210
* じいーっと、モノの到来を待つ心地で辛抱して手強い物語世界への次の入り口を探っている。手も足も出ないままガマンして堪えている。堪えている。
2019 5/19 210
* 「選集」第三十巻 二十七日に納品と。すぐ追いかけて 「湖の本」144巻も出来る。「選集」第三十一巻も追いかけている。長編『清水坂(仮題)』もどうかして満足に仕上げたい。
この酷暑予想の真夏 きびしいぞ、よほど深長に躯を労らねば。
2019 5/20 210
* ひたすら読み直し読み直し、その間にひらめきやきらめきに出くわす幸運に恵まれて物語に味が添ったりする。じっとガマンは、必要で有効。しかし頸が痛んだり腹が重たかったり、イヤな思いとも縁が切れない。脱兎のように時間が奔りかけている。転ばぬように。
2019 5/20 210
* 「選集」第三十巻 二十八日に納品と。すぐ追いかけて 「湖の本」144巻も六月十一日に出来てくる。「選集」第三十一巻も追いかけてくる。
この酷暑予想の真夏 きびしいぞ、よほど深長に躯を労らねば。
* 長編『清水坂(仮題)』も、どうかして満足に仕上げたい。目を閉じて闇の奥を凝視している。
2019 5/21 210
* とにもかくにも、小説の話だが、懸案のように気に掛けていた一つの仕掛けをコソッと作の中へ埋めた。訳だって生きて欲しいが。
一時、もう眼は霞みきっている。階下で、洗ってこよう。洗ってはいかんという説もあるのだが。目拭き綿は使いにくい。目薬は、のむルテイン錠のほかに七種類もいつもポケットが身のそばにあるのだが。
* わたしは小説でいつも大事な探しものをする。見つかってくれると書き上がるが、見つけられないと泣く思いをする、今回も「清水坂」で、探しあぐねている。むろん、諦めていない。
* 明日には「選集」第三十一巻『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の三校が出揃い、これを読み終えれば、いよいよ選集もあと二巻になる。第三十二巻の編 輯を慎重にはじめて、むろん多くが溢れて遺ることになるが、悔いない編輯で美味く結びたい。一巻は小説集になるが、最期の一巻をどうするか。いい智慧が欲 しい。
この二十八日からの『選集』第三十巻送り出し用意はきっちり出来ている。
六月十一日からの『湖の本』第144巻、創刊三十三年記念、作家生活満五十年記念の発送用意も、当日までに、まず余裕をもって仕上がるはず。
十年を掛け、脱稿へしかともち込めた非売本150部特別限定美装本『選集』第三十一巻『オイノ・セクスアリス 或る寓話』(全)は、おそらく、六月末には送り出せるだろうと思う。森鷗外先生の『ヰタ・セクスアリス』と向き合えますかどうか。
* 力を蓄えたく、今夜も、火花のような着想を探り探り睡ければ早めに寝てしまいたい。
2019 5/22 210
* 選集31巻になる『オイノ・セクスアリス 或る寓話 ・ 黒谷』の三校が出揃い、現状、直しの無いきれいな校正刷り三通が、夕方四時半ごろ、手もとに 出来た。念のためもう一度通読してから、オロシ(責了・昔風には下版)たい。出来不出来は作者としては口を緘じておくが、ま、本当の意味でマル十年かけ仕 上がったわけで。「忽ち(=かつ悠然)一樽の酒と與(とも)に」と、戴いた「獺祭」を独り賞味し、そのまま八時半までぐっすり寝入っていた。
* ほぼ十年がかりの、もう一作『清水坂(仮題)』もを、堪え堪えこの夏には仕上げたい。これは、いかにもいかにも秦 恒平の「仕事」と謂えるだろう。べつの新作へも、じつはもう気が動いている。
2019 5/23 210
* 苦心 惨憺。ただガマンして。
2019 5/24 210
☆ 夏のような
(=前夜の)九時過ぎ、目が疲れて既に階下に行かれた頃でしょうか? 熟睡したいと昨日書かれていましたが、眠れましたでしょうか?
まだ五月と言うのに夏のような暑さに驚いています。関東も同じですね。
昨日はバラ園に出かけたのですが、花を存分に楽しむより木陰ばかり求めていました。
家の薔薇は早々にピークを過ぎてしまいましたが、ブラシの木の赤い花が重たげに咲いて、時計草も咲き始めました。
「思い立てばすいと京都へ飛べて=羨ましい)」と書かれていましたが、スイと動きがとれる鳶では
ないのですよ。日曜日に絵の教室があるからこその関西行きで、それも目下娘が京都に住んでいるからこそ可能に。
今日は珍しく手元にある上野千鶴子氏の随筆? を読んでいました。
ほぼ同じ年齢、世代で状況は読みとれます。人それぞれの性格や資質の相違からでしょうか、かなり違う道を辿ってきたと痛感します。わたしはもっと異なった道を歩きたかったのにと愚かなことを痛感しています。後悔、とまでは言えないかもしれませんが。
絵を脇に置いて 暫くは本の世界に埋没したい、そんな時期です。
くれぐれもお身体大切に。
暑さに負けないよう、穏やかに、力を溜めてお過ごしください。 尾張の鳶
* メール嬉しく。声が聞こえそうに、ありがたく。読者としての鳶といったいいつ頃出会ったやらあまりに歳月を経て容易に思い出せないが、京都の博物館の辺で偶然声を掛けて貰ったのだったかも。
京都博物館。もうどれほど久しく訪れ得ていないか。
瓢鯰図のまえで、早来迎の前で、高台寺蒔絵の前で、崇福寺址出土の秘色などに驚いて、こわい倶生神像に怯えて、『みごもりの湖』を引っ張り出してくれた奈良時代の古写経に、等々、京都は、博物館はわたしの想像力や創造力を刺激する静寂の宝庫であった。
* ああいけない。思い出はどう懐かしくても、今の鋭気を弱めかねないのだ。
2019 5/25 210
* 三册束の荷をキッチンのテーブルへわたしが運び、妻が開封してわたしが10巻ずつに積み上げ、一巻ずついろいろの印形で捺印し、10巻積みで茶の間へ 運び込む。妻が予定の送り先名簿にしたがい地方別に「ざっと荷」に仕上げてくれたのをわたしが点検の上で荷造りし、地方別に玄関へ運び出しておく。あとは 郵便局の集荷を待つ。簡単なようですべて力仕事、手早くラクにはとても進まない。ほっこりと疲れる。ことに今回の造本では、函と本身との釣り合いが窮屈 で、捺印のためにいちいち本を函から取り出すのがかなりの力仕事になるのがシンドい。函入りの特装本はここが微妙に難しいのである。
* 八時過ぎ。今日は、二人ともやすみやすみ先を急がぬ程度にそれぞれの作業を積んだ。
雨季は、妻の体調のあまり元気でない時季、事を急ぐより、ゆっくり休み休み、途中で一度睡って貰って、ま、予定の三分の一弱ほどをやっと荷にしたが、今日は郵便局の集荷は求めなかった。明日に廻した。
* なにより困惑したのは、函と本との仲が悪く、つまりキチキチの寸法で融通無く、印影を本に入れるべく。函から本をだすのに力一杯振り出す始末に、閉口した。疲れ果てた。ツカ出しの妙味こそ函入り本の味わいなのに。ちょっと恥ずかしい。
* この疲労からして、どう考えても、予定の「あと三巻」で「限界」と見切り「選集」は打ち上げにするのが穏当と思う。むしろ、よくもよくも佳い装幀で三 十巻までも大冊の束を、若い誰の手一つも借りず何もかも老夫婦で送り出せてきたものよと、我ながら少しビックリ気味ですらある。悔いなく全うしたい。たく さんな編み残しの出来るのは仕方ない、それもいわば豊年満作の文学生涯と賀していいだろう。
2019 5/28 210
* 意味無く、いらいらしつい声が嶮しくなる。なんとも、なさけない。
* なにかウロが来ていて、何をしてイイのやらが分からない。歯を食いしばるので歯が痛む。これもみな「清水坂」症状なのではないか。落ち着いて落ち着いて立ち向かいたい。
先に、とに書くも「選集」30を送りえてしまいたいのが、うまく捗らない。ガマンしてガマンして。
2019 5/29 210
* 十年余も以前にもらった、ある日のメールに反応し刺激されながら書き始め、今も孜々として書き継いでいるのが、小説『清水坂(仮題)』なので。未提出の宿題に取り組んでいる気分であります。
2019 5/31 210
☆ 御選集30巻 本日頂戴しました いつもながらの御厚意に感謝します 今年はいろいろな意味での記念の年なのですね
御体調の加減で 外食が叶ふなら 一献差し上げたいと思つてをります 御近況お知らせください 寺田生 前・文藝春秋専務
* ご厚意に感謝有るのみ。
このところの疲労感はただごとでなく、食欲もなく、病院以外に外出する元気がわかない。なんとか「十九日桜桃忌=作家生活満五十年」には、歌舞伎座夜の 部を楽しみたいと心用意しているが、この十一日には「湖の本」144巻・ 創刊満三十三年記念の一冊を送り出す手はずを今も妻が頑張ってくれている。
今日も午過ぎて、機械の前でうたた寝しているうち、刃物で刺すほどの、胸、いや喉もとの「焼け」に堪えかねて階下へ駆け下り、水と茶とを一気に沢山(ペットボトルの二本分ちかく)呑んで、やっと落ち着けたというあんばい。
なにしろ、扱うモノが本で、本は時に石のように重い。フタリいる猫の手も借りたいが、そうも行かない。
☆ ご丁寧な返信を賜りまして有難うございます。
御昨「清水坂」がいつ出来上がるのかーーーー楽しみに いえ もっと強い関心で待っています。
八十を優に超えて、その意欲にただただ感嘆です。
体力が最後まで持続することをお祈りして、お待ちしています。2019年5月31日 藤
* まことに体力と気力の日々であるしかない。
しかし昨日、私より丁度十歳うえ九十三歳の色川大吉さんには、宮澤賢治にお触れの一冊を頂き、まだまだお仕事なさろうというお気持ちが熱いほどであった。
藤さんは、小学校は六原校か新道校の卒業生であったろう、「清水坂」は知恩院下で育った私よりもまさしく身近。どんな予想と関心で脱稿を待って下さるか、それがまた私の楽しみにもなる。
2019 5/31 210
* 疲れに負け、「清水坂」途中で坐り込んでいる。
鏝でもあてたような喉もとの灼け、ソーダ水でからくも逸らしている、が。
2019 6/2 211
* 懸命に「清水坂」を這いのぼっている。繪は見えているが、繪にックっていては自然な繪に成らない。何としても物語との話し合いをしっかりつけて収まり を得なくては。さこが急所で難所で息が詰まる。藝術はただ成るものでなく創り上げるものであるが、ただのツクリものでは話しにならない。創り手の血がにじ み本音本性が表現されねばならない。この「表現」というのが最たる難物。
2019 6/6 211
* 迷路じみて逸れかねなかった「清水坂」を、どうにか、相応の路へ引き戻せた、引き戻せつつ、あるのかも知れぬ。
心身とも今朝から働きすぎ、すこし左胸が重い。三時半。すこし横になってもう残り少ない『オイノ・セクスアリス』三校を読み終えてきたい。
* 京の「清水坂」が、凄みを帯びて世界をひろげ、かけ、た。だが、まだ物語は紡がれねばならぬ。今夜はもう、むしろ、立ち止まろう。
2019 6/7 211
☆ 白楽天の詩句に聴く 新豊折背翁
戒邊功也 邊功を戒むる也
新豊老翁八十八 新豊の老翁 八十八
頭鬢眉鬚皆似雪 頭鬢(とうびん)眉鬚(びしゅ)皆雪に似たり
玄孫扶向店前行 玄孫扶(ささ)えて店前に行く
左臂憑肩右臂折 左臂(さひ)は肩に憑(よ)り右臂(ゆうひ)は折る
問翁臂折来幾年 翁に問ふ 臂(うで)折れて来(よ)り幾年ぞ
兼問致折何因縁 兼ねて問ふ 折るを致せしは何の因縁ぞ
翁云貫属新豊縣 翁は云ふ 貫(=本籍地)は新豊縣に属し
生逢聖代無征戦 生まれて聖代に逢ひ 征戦無し
慣聴梨園歌管聲 梨園 歌管の声を聴くに慣れ
不識旗槍與弓箭 旗槍と弓箭とを識らず
無何天寶大徴兵 何(いく)ばくも無く 天寶(年間) 大いに兵を徴し
戸有三丁點一丁 戸に三丁(三人の男子)有れば一丁を點ず(徴兵された)
點得駆將何虚去 點じ得て驅り將(も)て何處(いづく)にか去(ゆ)かしむ
五月萬里雲南行 五月 万里 雲南(=中国南西部)に行く
聞道雲南有濾水 聞道(きくならく) 雲南には濾水(=大河 古来戦役の難所)有り
椒花落時瘴煙起 椒花の落つる時 瘴煙(=瘴癘の悪気)起こる
大軍徒渉水如湯 大軍徒渉(かちわた)れば水は湯の如く
未過十人二三死 未だ過ぎずして十人に二三は死すと
村南村北哭聲哀 村南村北 哭聲哀し
児別爺嬢夫別妻 児は爺嬢(やぜう)に別れ 夫は妻に別る
皆云前後征蠻者 皆な云ふ 前後に蠻を征する者
千萬人行無一迥 千萬人行きて一の迥るもの無しと
是時翁年二十四 是の時 翁は年二十四
兵部牒中有名字 兵部の牒中(=徴兵名簿)に名字有り
夜深不敢使人知 夜深くして敢えて人をして知らしめず
偸將大石鎚折背 偸(ひそ)かに大石を将(もつ)て鎚(たた)きて臂(うで)を折る
張弓簸旗倶不堪 弓を張り旗を簸(あ)ぐるに倶に堪えず
従茲始免征雲南 茲れ従(よ)り始めて雲南に征(ゆ)くを免る
骨砕筋傷非不苦 骨砕け筋傷つき苦しからざるに非ざるも
且圖揀退歸郷土 且つ圖(はか)る 揀退(れんたい=不合格)し 郷土に帰るを
臂折來來六十年 臂(うで)折りてより 来来 六十年
一肢雖癈一身全 一肢癈すと雖も一身全(まつた)し
至今風雨陰寒夜 今に至るも風雨陰寒の夜は
直到天明痛不眠 直ちに天明に到るまで痛みて眠れず
痛不眠 痛みて眠れざるも
終不悔 終(つひ)に悔いず
且喜老身今獨在 且つ喜ぶ 老身の今 獨り在るを
不然當時濾水頭 然らざれば当時 濾水(ろすい)の頭(ほとり)
身死魂飛骨不収 身死し魂飛びて骨は収められず
應作雲南望郷鬼 應(まさ)に雲南 望郷の鬼と作(な)り
萬人塚上哭呦呦 萬人塚上(てうぜう) 哭して呦呦(ゆうゆう=戦死者の哭声)たるべし
老人言 老人の言
君聴取 君 聴取せよ
君不聞 君 聞かずや
開元宰相宋開府 開元の宰相 宋開府は
不賞邊功防黷武 邊功を賞せず 黷武(武器武力の濫用)を防ぐと
又不聞 又た聞かずや
天寶宰相楊國忠 天寶の宰相 楊國忠は
欲求恩幸立邊功 恩幸を求めんと欲し 邊功を立(くわだ)て
邊功未立生人怨 邊功未だ立たずして人怨を生ず
請問新豊折臂翁 請ふ 問へ 新豊の折臂翁に
* 気の有る人は、白楽天のこの慷慨 深く深く読み取って欲しい。
いま、安倍晋三総理の内閣は、与党自民党は、トランプ米大統領の商売と権勢に阿諛追従、なんと、攻撃性の航空機だけでも世界中に類の無いほど、またまた 百数十機も大量購入し続けているという。それをどんなときに どう使用する気か、国民は一言半句の説明も聞かされず、そもそもアメリカの古物扱いさえして いる飛行機や武器で、日本政府は、安倍総理は、いったい誰を敵と見定めて何をしでかそうというのか。
「恩幸を求めんと欲し 邊功を立(くわだ)て 邊功未だ立たずして 人怨を生ず」 天寶の宰相 楊國忠のザマを、安倍や麻生らは、いったい誰の喜悦・満足のためにしようとしているのか。
「邊功を賞せず 黷武(武器武力の濫用)を防」いだ開元の宰相 宋開府のような見識も外交力も有る総理に、交替して欲しい、ぜひ。
* 何度も触れてきたが、白楽天のこの長い詩を、明治四十三年袖珍版 神田崇文館「選註 白楽天詩集」の280-285頁で頭にも目にも焼きつけたのは、 国民学校三年生そして敗戦後に疎開先から帰京した小学校五、六年生のころで、すでに小説家に成りたかった少年は、書くならば真っ先にこの白楽天の詩に取材 してとはっきり決めていた。そして安保闘争で国会周辺が盛り上がったころに、遂にわたしは「処女作」として『或る折臂翁』と題したいま読み直してもちょっ と怕い、父と子の、夫と妻のいま読み直してもちょっと怕い小 説を書いた。しかも妻のほか誰にも見せないまま一九九四年に、まるで別の長編の埋草めいて「湖の本30」ではじめて活字にした。さらに遅れ遅れて『秦 恒平選集』第七巻に「処女作」として収録した。講談社で文学出版の指揮者もされた天野敬子さんに「震撼しました」と望外の賞讃を受けた感激は忘れられな い。
今も、この詩は、時として気を入れては読み替えしている。反対の考えの人もあろうかも知れないけれど。とにかくも国民学校の生徒時代は、男の子はいつか 徴兵されることを避けがたい運命とまで観念していた。わたしは京都でも疎開した丹波の山なかででも、「兵隊にとられる」であろう運命を忘れられない少年 だった。そういう少年として長詩「新豊折臂翁」にひしと向き合っていたのだった。
* 『選集31 オイノ・セクスアリス 或る寓話 ・ 黒谷』を、週初には「責了」できるところまで読み込めた。
2019 6/8 211
* いまも慎重に思案してみて、『清水坂(仮題)』への宿題はまだまだ山ほどあると気づいた。周章てまい、落ち着いて濃厚にも軽妙にも物語の味をわたし自身が楽しまねばいけない。
2019 6/8 211
* 『選集』31 鴎外先生の向こうを張ったような無縁なような『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を責了便に托した。とうどう手を一度離れる。恙なきを切にねがう。
* 鴎外先生に、「青邱子」という、先生としても風変わりな一長詩がある。「青邱子」とは元末明初の詩人高啓で、彼は宮中の秘話をうたったため処刑された。鴎外先生がなぜ特別にこの詩人を詩の形で詠嘆されたかは、深い背後に明暗をかかえているとも推察される。鴎外先生も生涯いろいろの秘話を抱いて堪えていた文人のように想われる。
* 朝から、明後日の『湖の本144』受け入れのために、サマザマに力仕事をつづけ、腰が潰れそう。
とにかくも片づけねばモノが収まらない。視野不良でよろめく者には廊下も階段もいたるところ不用意にちょっとしたものも置けない、つまづくので。大概は 狭い中でなにかに掴まれるけれど、慣れた階段でも危ない。二階の靖子ロードで蹴躓くのは叶わない。重いアルバムを廿册ほども書架に立てかけられては、書架 の下半分が使い物に成らず、アルバムに蹴躓いて倒れてくると脚頸や脛を痛める。これも、なんとかガンバッて片づけ、靖子ロードを無事に歩きやすくしたが、 なんとアルバムたちの重かったこと、ロキソニンを噛み砕きたくなった。
さ、せめてもう一年か一年半、身も心も保ってて欲しいが。
* 「清水坂」の難所を上り下り、もう当分は続けねば。昨夜寝がけに一思案して書き出してみた「問題点」は、箇条にして16もあり、作者、仰天。一つ一つ乗り越えて行く。
2019 6/9 211
* 気がかりなまま確認を怠っていた要用を一つ終えた。選集全巻の最終データの手控え分を、無事に三十巻分確認した。あと三巻。仕遂げたい。
2019 6/9 211
☆ 白楽天の詩句に聴く
世間富貴應無分 世間の富貴は應(まさ)に分(あず)かる無くも
身後文章合有名 身後の文章 合(まさ)に名有るべし
莫怪気麤言語大 怪しむなかれ 気の麤(=乱暴・粗雑)と言語の大を
新排十五巻詩成 新たに十五巻の詩を排して成る
* 白詩を大ならしめた「樂府(がふ)」などを含め、十五巻の詩集を成したとき、白楽天自身の愉快に友の元九に呈した壮語ではあるが、本心でもあったろう。
「選集」三十巻 わたくしにも類似の感懐はあるが、「身後」の世界などまことに危ういことをも承知し笑っている。
活動は半世紀を優に過ぎ行き、「単行図書」 百册をすでに超え、「湖の本」百五十巻をまぢかに超え、五、六百頁平均の「秦 恒平選集」三十三巻をきっちり成し遂げ、 「念念死去」の「騒壇餘人」として、当然にも遠からず私は世を去る。虚名など欲しくない。少年の意欲のまま熱い心で書き続け考え続けて行くまで。
2019 6/10 211
* 今日の作業を終えた。疲れで、歯が疼く。
下旬か月初の『選集31』送り出し用意を念頭に、なにより「清水坂」の難路迷路をかき分けねば。
2019 6/12 211
* 「清水坂(仮題)」の想を、断片を、むかしむかし小説ではない本の中へ象嵌していたのを敏感な人は見付け出すかも知れない。重いのほかの長編に成って行く。九時半。もう、保たない。
2019 6/12 211
* 食事に行こうと誘っておきながら、着替えた妻が迎えにきたときはソファでぐっすり寝込んでいた。もうその気になれず。申し訳なかった。『清水坂』へ向 き直り、手を入れ、思案し、いま、プリントしている。機械画面のママでは長い前後を見わたして手入れするのが難しい、し難い。現在すでに「湖の本」の一巻 相当の量にまで展開していて、先はまだ作者にも不明。
* 気むずかしい印刷機がともあれ無事に刷りだしてくれた。徹底して推敲が可能になる。前作も此の作も、客観体の筆致でなく、「語って」いる。語りが「味」になってくれるといいが。
2019 6/13 211
* 「湖の本」144 届き始めたか。三部ある第一部だけとはいえ、驚いて眉を顰める人も少なくなかろうと思うが。ま、ここにも瘋癲老人とおもっていただこう。
もう問題は、次の創作が盛り上がってくれること。じつは、そのほかにも、もう書き上げてあるさほど長くはない作もある。書こうとしているものもある。処 女作時期に手書きで書き詰めた原稿のままの長い作もある。清書して徹底的に手を加えている時間の余裕が無いのだ。やれやれ。昔の説話本などを拾い読んでい ると、これこれと意欲の動いて行く世界があちこちに有る。やれやれ。
2019 6/13 211
☆ 秦恒平様
昨日、『湖の本』144のご恵贈に浴しました。いつもながらのご好意に感謝します。
昨夜遅くに、眠気も催さずに拝見しました。益荒男の伝統を引く「をのこ」であれば、書いてみたい類いのものですね。
笑いながら拝見。ありがとうございました。
ご健勝をお祈りいたします。 並木浩一 ICU名誉教授
* この『オイノ・セクスアリス』第一部の主要趣旨には、カトリック基督教への烈しいほどの批評が一眼目になっていますのへ ご批評 ご批判の無いには すこし拍子抜けの思いがしました。
ただに「をのこ」の問題だけでなく、「性」「性行為」への姿勢は、基督教と教会の歴史を大きく根底から揺るがし続けて、現在では、事実上の破産に到っている大問題かと私には見えているのですが、お教え願えるのを期待しておりました。
☆ 秦恒平様
お忙しい生活の中から、思いがけないメールをいただき、恐れ入りました。
カトリックへの批判はよく分かります。アウグスティヌスの女性蔑視など、酷いものです。しかも原罪を性欲と結びつけて理解した。これが後世への影響は大きなものです。
女性蔑視と聖職者の結婚奨励はルターによって行われましたが、原罪理解の呪縛からの完全な解放は現代世界に入ってから、もっと厳密に言えば、フェミニズム神学の台頭を俟たねばなりませんでした。
私は十数年前に東京神学大学で非常勤講師をしばらく勤めましたが、私が親しかった学生のペアは神学校を卒業すると直ぐに副牧師としての赴任教会で結婚式 を行いましたが、女性の方は妊娠6ヶ月ぐらいのお腹を見せながら、気後れする様子もなく結婚式に臨んでいました。彼らは神学校でも、仲間からも、奉職教会 からは祝福されました。これだけの変化がプロテスタント教会では起こっています。
ボン大学の教授時代に、ナチスと戦って指導的な役割を果たし、キリスト論的な教義学の大作を中途まで書いた神学者のカール・バルト(1886ー 1968)は、秘書のキッシュバウムによる口述筆記、討論、校正などで献身的な協力のお陰で膨大な仕事をしました。夏は山荘で二人だけで生活し、当然、性 的な関係がありました。
バルトは妻のネリーにキッシュバウムの件を告白し、責任を認めて離婚を申し出たようですが、ネリーはその申し出を退け、二人の関係を苦々しい思いで受け入れて離婚することはありませんでした。
バルト家ではキッシュバウムは一室を与えられ、夜中にバルトに起こされて口述筆記をしたようです。キッシュバウムが60歳代に病気入院するまで、バルト家では奇妙な同居生活が続きました。
もちろん、バルト家では家庭秩序が守られたものと思います。バルトはキルシュバウムの存在について、対外的に隠すようなことをしませんでした。彼女の存 在と寄与は公然のことで、バルト家を訪ねる学者その他の人々とのディスカッションにはキルシュバウムが同席して議論に加わっていたようです。
バルトは教義学の創造論の中で、結婚と男女の役割について美しい叙述をし、「一夫一婦制がキリスト教の立場である」ことを明確な言葉で記しました。よく ヌケヌケと書いたものだという批判をする人もあったようですが、この叙述は自己への審判と懺悔を行いつつ記したものと受け止めるべきでしょう。
バルトの論述は誰のものよりもリアルで柔軟です。キリスト教教会はこの件でバルトを葬ることはありませんでした。むしろ、人々はバルトの倫理学から具体的な男と女について学んだのです。
ただし、バルトが当然と考えていた男女の役割論は古い考え方として退けられています。
カトリックにおける聖職者への禁欲の要求は、現実には神父たちによるセクハラ事件を多発させ、女子修道院はレズビアンたちを排除できないというようなことはよく知られています。今日は聖職者の減少に悩んでいます。
カトリック教会もいずれ教義を改訂し、性の抑圧を撤回するでしょう。
応答までに一筆しました。 ICU 並木浩一
* わたしの必読の愛読書の一つはミルトンの『失楽園』であることは、何度か話題にしてきた。基督教に関しては『シドッチと白石』を新聞連載するより遠く 以前から関心深く勉強もしてきた。そして世界史的にみてわたしは基督教への親愛や前向きの関心を少しずつ失って行き、否定や否認へ傾かざるをえない方へ歩 んできたと思う。解放神学やフェミニズムへの理解が加わるに連れて、その程度は大きくなっていた。
『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、老人の性行為をおもしろづく書こうとしたものでは全然無く、「益荒男の伝統を引く「をのこ」であれば、書いてみたい類いのものですね。笑いながら拝見。」というのには強く引っかかったのである。
わたしが、今度の作で意識の芯に置いていたかも知れぬのは、「一夫一婦」というある種模範的な、ある種無惨な人類史の「一制度」がもたらしているかと思われるきついヒズミを、せめて指摘だけしてみたい思いであった、かと。
2019 6/14 211
* 食は進まず、美味い酒は減って行く。いい酔いは睡眠へ誘う。
入浴し、また腰を据えて「清水坂」へ脚を運ぶ。もう十時半か。
2019 6/14 211
* 進んだ、のではないが、かなり混雑していた「清水坂道」に、見通しの整理がかなりはっきり付いた。先へさらに進まねばならない、根気よく。苦労? それはない、かなり愉しんでいる。
九時半、もう視野の何もが眩しく滲んで、よく見えない。
2019 6/15 211
☆ 秦様
「湖の本」144号のご恵投、ありがとうございました。早速「オイノ・セクスアリス ある寓話」を拝読しておりますが、感想や批評を拒む、秦様の執念の 叫びが感じられ、しばし、感慨にふけりました。『鍵』、『瘋癲老人日記』や『眠れる美女』に匹敵するような小説作品の完成を期待しております。次号も楽し みです。 持田鋼一郎拝 歌人・翻訳家 元・編集者
* ことにこの第一部は、男女人間の「性」「性愛」「性行為」にかなり多面的に、口調は雑談風だが、よほど突っ込んで踏 み込んでいるので、よほどの読書人でもなかなかまともには向き合えまいと思っている。エロ小説と読むほどの人がむしろ多いかと思い、そこを揺るがしてみた いと考えてきた。
☆ 昨夜帰宅すると、
ポストに「湖の本 144号」が届いておりました。
先日「選集第三十巻」を頂戴したばかりでございましたのに… 重ねて恐縮でございます。 嬉しく、有り難く…手にしたまま、しばらく玄関のあがり框で思案して… すぐに頁を開いて、読みたい気持ちを抑え… 読むのは日付が変わってからと決めました。 それは「選集」を読みかけていたから、というばかりではなく… 六月十五日は、たまたま誕生日にあたり、お休みの日でもあったので… 一日をかけて『先生の新しい作品』を読んでみたいと思ったのです。
誕生日を祝ったり、特別な事をする習慣は無いのですが… 新作を拝読できる機会を頂戴し… この上ない賜り物と感じられました。
今日の一日をかけて、ゆっくり読ませて頂きました。 そして、感じたのは「(白い)光」でした。
太陽の光は、色がないように見えますが、そう目に映っているだけで、実際は無数の色が重なって白に見えているのだと教わりました。
御本を読み進めながら感じた「無数の色」とは…
一つには、先生が生涯をかけて読みついできた、膨大な量の本の数々。もう一つには、先生ご自身がこれまでに書いてこられた小説・エッセイの数々。
その膨大な量の一つ一つが、それぞれに無数の色を放ち、重なり、白い光となって輝いている。 太陽の光が遍く「モノ」を照らしている。
そして、照らされた「モノ」の背後には、影ができている。
そんな風に感じられました。
その重なった量が、どんなに膨大であっても、先生おひとりがなさっていらした事なので違和感なく重なって、光となって届くのです。
また別に、時の流れを感じずにはいられませんでした。
もう、ずいぶん以前 「朱心書肆(しゅしんしょし)」の三宅様より、それは美しい装丁の『四度の滝』をわけて頂き、今も大切にしています。 『オイノ・セクスアリス』を今、読む時… 重なった年月を感じます。
まだ、だいぶん若かったあの頃、気が付けなかった事があったのだと。
「ユニオ・ミスティカ」とは、「性の交わり」をあくまで美しく嬉しく「生きて死をすらわかちもつ」即ち「相死の生」にほかならん そう、書いていただい て… 白い光にさらされた心地して… ようやく気付くことができました。
また、キリスト教(とりわけカトリック)のきつい「女性蔑視」を、鎌倉新仏教・老子・ギリシア神話・ローマ神話・シシリー地中海沿岸の大地母神信仰・ヒン ズー教・タントラなど、他の宗教や信仰心と比して語って下さった事で、すこしく理解がいきました。 とは言え… 先生がお書きになっている事の深さには、到底たどり着くことなど望めないのですが…
先生の御本を読む悦びは、読みかえす度、前には気付けなかった事を見つけられる。
そして、作品を読み終えた後には、浄い水に漱がれて、清らな心持ちになる。
お陰様で、佳い一日を過ごす事ができました。 ありがとうございました。
梅雨時、体調を崩しやすい頃。 奥様は、この時期より一層お大切にお過ごしになられます様に。 ご健康をお祈り致しております。 京・鷹峯 百 拝
* 二部、三部へむけて 「性愛」と「愛」とは重なり得るのか、延々と読んで下さる方は、かなり惘れもされるだろう。あだ疎かには書かなかったつもりだ が、叱正や叱声も受け容れねば成るまいか。ただ、こんな作は 他に誰も書かない、書けなかったろう。鷗外先生に、衷心、感謝申し上げる。
☆ 秦恒平様
湖の本オイノ・セクスアリス第一部、受け取りました。
いつもありがとうございます。
パラパラとめくり 拾い読みしています。
私は女ですから、何でも男並みにといっても、性のことだけはお互いのわからないところがあり、それは当然だと思っていますし、そういった視点でこのご本は興味深くあるのですが、そこまで読む力が、今は回復していません。
「清水坂」の方がどんな内容かは想像もつかないのですが、 (中略) 三世代、二家族がひしめいているなかでの一人っ子だったせいもあり、中高も今出川 の同志社女子だったせいもあって、いつも”家のあたり”に友達がおらず、子どもの身でありながら、観察者としての”ませた”視線で周囲を見ていた気がしま す。
寒い日があり、暑い日があり、どうかお身お大切に。 2019/06/16 杉並区 藤
* 「生い立ち」などに触れたらしい創作らしき文章『のぎく』をファイルで送ってみえた。京での地理などにも私の「清水坂(仮題)」と内容がもし触れ合っては困るので、自作が仕上がってから読もうと思う。
* 「私は女ですから、何でも男並みにといっても、性のことだけはお互いのわからないところがあり、それは当然だと思っています」と「ぱぱら拾い読み」したとあるのは、ごく尋常の「女」の人の思いだろうナとも思う、「男」もそうかも知れないが。
この作では、「老いの」という視座をおき、「セクスアリス」「ユニオ・ミスティカ」を男女文化としても考えたが、独り合点が過ぎているかも、なあ。
* 「藤」さんと同じ京大卒の「尾張の鳶」さんには、「三部通して読後に」感想が聴きたいと伝えてあり、今日は、懐かしい「高台寺」の写真をたくさん送ってきてくれた。感謝。
高台寺から清水三年坂へは、一本道。『みごもりの湖』では、朝日子も連れて夫婦で散歩の途中、名ばかり丹波の壺を古物の店で買ったり清水焼「鬼の面」に 驚いたりしたのが「書き出し」であったかも。月釜がかかると茶室時雨亭へも通った。「高台寺」は、『雲居寺跡 初恋』の舞台、そして現在でも『初稿・雲居 寺跡』の仕上げがわたしの宿題になっている。
壮絶なほどの大竹藪は 私の愛してやまない、清閑寺陵奥の景色であろうか、『冬祭り』の恋しさを思い出したが。ありがとう。
* 高台寺だけでなく、ナーンと近江の石馬寺へまで脚を伸ばして貰っていた。なんという、懐かしさ。初めて石馬寺を訪れ、庭の見えるお部屋へあげてもらい ご住持のお話を伺ったのは、何十年の前か、むろんわたしは会社員・編集者としての出張を利してあの石段をのぼったのだ、また小学生の建日子を連れてもでか けた。あそこへ行けてなかったら、「名作」までいわれたわたしの代表作「みごもりの湖」は書けてなかったろう。
「尾張の鳶」さん、京の出町菩提寺の「秦家墓」の現状も写真で送ってくれた。墓碑は綺麗だが卒塔婆はみな荒れている。少なくも、わたしの古稀いらい、十 余年は躯が許さず、掃苔すら出来ていない。建日子に寺と墓のことは依託してあるが、彼も目下働き盛りの忙しさ、かなしいことに頼むに足るお嫁さんがいな い。
2019 6/16 211
* ところで此の『オイノ・セクスアリス 或る寓話」の 第一部のどこかで、ある気鋭の社会学者の『性愛論』を読んで、巻中一度も「美」の文字を見なかったのを作中の「語り手」はボヤいていた。
白状しておいていいと思うが、わたしは、この長編で、愛と性愛との「美学」的「批判」を「プラトン(ソクラテス)への意識と無意識とのあいだぐらいで 書こうともしていたのに、気づいている。今かかずらわってモノ言うのは控えておくが、真と善とを当然に抱え込んだ美の意識や問題とともに、「老いの」また 「若い人妻」の性・セクスアリスの批評をやってみようと考えていた。いま、ドニ・ユイスマンの『美学』を再読しつつ、思い出していた。が、ま、これは、事 実問題として 現実の「読者」のみなさんには伝わるまいと、はなから諦めてはいた、が、その諦めへの、ちいさな、そして我勝手な呟きを、第一部のどこかで 一と言漏らしていたのだと思っている。
2019 6/17 211
*「選集31 オイノ・セクスアリス 或る寓話」の納品は、七月二日ときまった。
第一部は「湖の本」144として送り出した。いまのところ忌避はされていないらしく、多くの問題を孕んで展開してゆく第二部を「湖の本145」 第三部を「湖の本146」として、ご希望の方にのみお送りする。ご不要の方はどうぞ事前にご通知下さい。
私自身の気持ちは、今はもう新作苦心の『清水坂(仮題)』へ傾いている。書き始めたのは十年前だが、ウムと、強い不審を抱いた動機は、新制中学の昔までも溯る。書き上げたい、何としても。
2019 6/18 211
☆ 感想私信
リーアン・アイスラーの「聖杯と剣」を読みました。
女性原理社会から男性原理社会への移行による男性支配社会の出現・運営への不満と将来への改善策でした。
私見ではキリスト教団と言うのはイエス死後の相続権争いでできた教団のことでしょうから、男性使徒の女性信徒への嫉妬、恐怖による女性支配がテーゼになるのは当然だったのでしょう。
中世のカタリ派虐殺にしても、法王庁のやっかみと自らの不品行の隠蔽のための八つ当たりでしょうから、地球の歴史を有史以前から鳥瞰的に眺められれば 「一夫一婦制」も違う形態をとったことがあるのでしょうし、これからも、いや今でも制度の意識の中で余裕をもって性生活を満喫している男女はたくさんいる ことでしょう。
荷風さんのように結婚せずとも多くの女性に「一悦」を求めて生き切った散人もいました。
と、老耄のとりとめのない脳内整理はこれまでにして、
「オイノ・セクスアリス」では鴎外、荷風に連なる慷慨作家の系譜を垣間見ました。
全編を読んでいないので感想も上っ面の見当違いになりますが、歌舞伎の十八番を好きな一幕のみ繰り返し味わうように「性愛交歓場面の所作」に我を忘れました。読み終わって部屋の空気が変わっているのが不思議でした。スカッとしました。
「雪」さんは「濹東綺譚」の「お雪さん」や「細雪」の「雪子」を絡ませて私の脳内で動いていたのかもしれません。
元東大学長の「伯爵夫人」の味気なさに比べても、改めて秦さんの文体の美しさが醸し出す悦びを感じました。
「ほんもの」「似せもの」論も、井筒俊彦さんの「形而上体験」の無い「形而上学」は無いを思い出しました。
「ほんもの」を知ってる老人に贅言を費やしてもらって、その一端に触れてみたいのが今の私の愉しみです。「似せもの」に老いの繰り言を積み重ねられても「ほんもの」ができるわけじゃあるまいし。
秦さんのように わざと老耄ぶりを文章化するのではなく、 支離滅裂、独断偏見の本当の耄碌感想をお笑いください。
続篇を愉しみにしております。 野人
* まだまだ先でどう「落っこちる」か知れないので多くは語れないが、どうなりますやら、私自身がどきどきしています。見て見にくいものごとをきびきびし た文章と化して提供して行くのが作家の作品のお役目であると思っている。選集は月明けに出来てくるが「湖の本」ではどう早くてもあと二巻を送り終えられる のは八月中頃かなあ。男性には男性の、女性には女性の厳しい叱声がきかれるだろう。
ちなみに、『オイノ・セクスアリス」という標題を献じて下さったのはこの読者である。「伯爵夫人」とあるのは<私、なにも識らないが、わけもなく妙にドキッとしました。
2019 6/18 211
* 明日は、第五回太宰治文学賞受賞、満五十年の桜桃忌。
すこし、気も躯ものびやかに迎え、過ごしたいもの。歌舞伎は、部外の劇作家による歌舞伎座へ初登場の新作。面白くありますように。
三月の結婚満六十年を祝っての歌舞伎座では気分がわるくなり、途中で劇場を出、途中日比谷で休息と思ったのも玄関で断念して車で帰宅した。もうこの体調では何が起きるか分からない。
今夜はもう仕事も置いて、横になり、沢山な本の拾い読みを愉しみながら寝入ってしまおうか。本は枕もとにさまざま山積み。今日は書庫から岩波文庫プラトンの「饗宴」を久しぶりに持ち出してきた。
岩淵宏子教授からは編著の女流文学全集新刊が贈られてきている。「清水坂」文献も「瀬戸内」文献や地図も、大小いろいろ積んである。地図や海図は見飽き ないが、字の小さいのには音をあげる。コワーイ、コワーイ、コワーイ事を創造し幻想しながら夢を見るのも、今は役に立つ。
それにしても、五十年、処女作へ着手からならほぼ六十年、よう生きて来れたなあと少し惘れ。せめてもう少しはと本音で執着しているような己れにも、惘れている。
2019 6/18 211
* 「湖の本144」 オイノ・セクスアリスの一部へ支払い分が来始めているが、二部三部は不要の方は仰有って欲しいと言って置いた。二割あまりは忌避さ れそうな成り行き、数字は予想通りだが、受け容れて下さる人と忌避される人とには予期をずれたものがある。とても大事なテーマ、主張をふくんだ、とても誰 にもよそ事であり得ないことを扱っているのだが、そうは問屋が卸さないのは致し方ない。二部、三部を楽しんで待つという読者の多いのを、ちからづよく感じ る。おそらく結末への展開を予想し得ている人は、あるまいかと思っている。何にしても、二部も三部を「湖の本145・146」として用意しなくてはならな くなっているが、売り物にはしたくないと。
2019 6/19 211
☆ 透き通る青い空を見ると、
学生時代のある光景を思い出します。
天候不順ですが、お元気ですか。
この度は、『秦恒平選集 第30巻』および『湖の本 第144巻』をお送りいただきありがとうございます。『選集』は、宛名書きを直接書いていただいているのを見ると、いつも申し訳なくありがたく思っています。
小林秀雄の項、納得して読みました。
また川端追悼の「廃器の美」は、<死なれた>と使われた最初ではないか、と思ったりしました。一度調べてみたいと思います。
このように纏めてくださると便利になります。
また『湖の本』では直筆のコメントを添えていただき、距離がずっと近づいた気分になります。刺激になります、ありがとうございました。
先に、「蝶の皿」論を書いて例のところへ送りました。ほんとうなら『冬祭り』に行く予定だったのですが、十分の体力がなく、前回の「或る雲隠れ考」のイメージを引きずったまま「蝶の皿」へ、また妖しく惑わされてしまいました。
先生 どうかお身体大切になさってください。 奈良・五條 榮
* 小林秀雄についての一文は、わたしとしても、やや「会心」の心地でいる。読んで下さったのだろう、まだ勤め先にいたある日、会社の受付へ、「小林秀 雄」名刺に「秦 恒平様」と自署されて当時評判の大著『本居宣長』が、人手を介し届けられてきたときの嬉しさ、忘れられない。一度もお目に掛かったこともない。
同様のことが、井上靖について初めて書いたときにもあり、びっくりした。亡くなるまで永い御縁がはじまった。
『選集30』の七十数編の文章中でも、巻頭の「虚像と実像」のほかにとなると、上の二編にはっきり自信があった。巻は異なるが潤一郎の「夢の浮橋」論、漱石の「こころ」論を大事に思ってきた。
評論は、把握と表現とで興趣深くかつ内容の正しいことが必須とわたくしは思い続けてきた。
☆ 拝復
ご高著「湖の本」通巻第144巻『オイノ・セクスアリス 或る寓話』第一部を ありがとうございました。少しずつ読み進めておりますが 谷崎潤一郎の晩年の小説にも通じるように受けとめております。今後ともご指導くださいますようお願い申し上げます。
長雨の季節を迎えておりますが くれぐれもご自愛のうえお過ごしくださいますようお祈り申し上げます かしこ 山梨県立文学館
* 谷崎先生晩年作、たとえば『鍵』は、国会でさえバカげた声が舞った。最晩年には『瘋癲老人日記』があり、すこし早くには『夢の浮橋』もあった。谷崎作 の世界に尻込みし、また悪罵していたフツーの読者の声はよくよく聞いたし、それはそれで谷崎世界とは縁無き衆生であっただけ。しかも谷崎先生の世界は練達 の物語世界であり、論や攷の性格は淡い。
わたしは、昔から小説を用いても論じ究求したいものを平然と作の中へ持ち出してきた。『オイノ・セクスアリス』の吉野東作老人は、老いの精力を誇るべく 物語って出ているのではない、「生まれる」という受け身、「死なれる」という受け身、「もらひ子」という運命への悲と哀を通して愛と性愛との衝突を問うて いる。問い方はあるいは冷酷と謂うに近くもある。
谷崎先生の晩年作が私の念頭に無いはずがなく、しかも、どう、どこへ、そこから離れ得られるか、離れての世界が創れるかを、十年、考えつづけてきた。第一部だけでそれを推してもらうワケにはやはり行かないはず。
読者との久しい「縁」を大切に思ってきた。大切に思っている。
2019 6/20 211
☆ おはようございます。今年も早や梅雨入りして不安定な気候が続いておりますけれど、先生にはお元気で執筆のご様子、何よりでございます。
先日新作をいただきました。そしてページを開いて、まずその文字量に圧倒されました。「命つきるまで書いて書いて書き続けるぞ」という先生の気迫が空から襲い掛かってくるようで、思わず身をすくめそうになりました(笑)
さて いただいた今作、結論から申しますとこれはちょっと私には高度な作 品だったようです。こういった作品を読むたびに、男性と女性の性や恋愛についての考え方には大きなひらきがあるなあと思ってしまいます。もちろん恋愛やそ れに続く性というのは、とりもなおさず「生命力の発露」であり、「生きる希望」なのだと理解はしているつもりです…。でも ゆめ
* 前の三分の一だけで読み始めて貰ったのは、製作の作業としても経費としても余儀ない事ではあったが、わたしも残念。 感想や批評は全編を終えてから願いますと告げておきたかったが、こういう作は「読みたくない」という方の思いを封殺したくなかった。「湖の本」の購読者が 赤穂なみに「四十七人」になっても、それとても「私の文学生涯」と思うけれど、幸い、そうはならないだろう。感謝に堪えない。
* 作者は、老いた男の性を、男の視線でエゴイスティツクに書こうとしたのではない。むしろ出来るだけ数多くの、意識的な国内外女性たちの著述や言葉をなるべくよく参照しよく聴き取って書いてきたつもりでいる。
「男性と女性の性や恋愛についての考え方には大きなひらきがある」とは、ほんとうのことだろうか、また それが男性にも女性にも老いにも若きにも 「よい・いい」ことなのか という疑義を作者は今も持っている。同時に、愛と性愛との意味の「重なり」や「離 れ」は、男女を問わずきちんと洞見されてきただろうか、何がほんとうに自分には重いのかとも、わたしは問いかけたかった。
2019 6/20 211
* 今、私に大事なのは、次の長い新作を書き切ること。そのためには歩いて食べて健康を維持すること。分かってます、つもり。
2019 6/20 211
* 夕食進まず。雨と気温との障りか、秀作だった「刑事フォイル」に続くらしいアガサ・クリスティものが不快千万で、昼間、記録仕事などに精出していた妻 もからだを休めに寝入り、わたしも横になって、天野哲夫に読み耽り、つづいて『饗宴』『住吉物語』ユイスマンの『美学』も面白く興深く変わり映えもして読 み継いでいった。その間に大きな荷で苫小牧の林晃平教授から來贈の千頁にも及ぶような『浦島太郎の伝説』を手にした。林さんはもうかなり以前に、やはり今 回と同規模の『浦島太郎』研究書を出され、読んでいた。浦島太郎は私に体力と時間があれば書きたい主題の大きなひとつであった、ありつづけていた、だが、 容易にそこへ手が届かぬママになっていた。
立派な考察本のまた成ったのを祝し、また感謝申し上げる。
* 八時半。やすもうか、もう。「清水坂」で粘ろうか。
2019 6/22 211
* 大きな建物(大学、大ホテルや大庁舎)で迷いに迷って為すすべなく動顛する夢をよく見る。イヤなものだ。そういう夢を介して自身の生前や過去に思い沈むことも。よほど濃厚に根の哀しみを抱いているのか。
むかし 親子か夫婦かという選択に、わたしは終始一貫 夫婦 と口にもし内心にも思っていた。「肉親」という存在への徹底的な失望感 喪失感を持ち続け ていたのだと思う。他人の中から真の身内をと切望し続けてきたと思う。生みの親たちや得た娘や孫を思うとき、冷え切った血縁にひたひたと胸を浸される悲し みに身もよろめく。わたしの内なる愛は(建日子と、兄恒彦を除いて、)悉く血縁の外へ外へと奔り流れてきた。『オイノ・セクスアリス』では無謀なまでかす かにもそれを取り戻そうと喘いだらしい。つづく『清水坂(仮題)』では、久しいそんな身の藻掻きをきかいな歴史のなかで我から見なおそうとしているのか も。
わたしの八十年を貫いてきた痛い固い抜けない棒は、「もらひ子」というにあったと、実は、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を書き終え『清水坂(仮題)』を書きながら、切にあらためて思い当たり思い得た気がする。一種の鈍感か。
「真の身内 島の思想」は、わが逃れがたい運命であり発見であり願望であったようだ。
2019 6/23 211
☆ 二十二日は夏至です。
「ォィノ・セクスアリス」を読み終えました、ふと思い立って(森鷗外作)「ヰタ・セクスアリス」を、70年ぶりに読み返してみました。少年のころ、おそ るおそる読み始めたものの、読後は全く予想外の感動を覚えたことを思い出しています。「オイノ・セクスアリス」の場合は、予想も読後感もほとんど変わらぬ ものでした。H.Pに記されている秦さんの気持ちは、しっかり受け止めています。秦文学の、というとちょっといいすぎになるかもしれませんが、「愛の讃歌 の集大成」と感じました(見当違いだったらお忘れください)。H.Pでいろんな方の反応を読むのが楽しみです。
文中に、「書斎」に「有即斎」の篆額を掲げたということが書かれていました。これは事実でしょうか。私は篆刻を貰っていただきましたが、篆額の方はどなたのお作か気になりまして。 一
実は、もう何年も前のことになりますが、福井に住む若い友人の「書斎」に刻字の扁額を差し上げたことがあります。彼はずっと詩や小説(私小説系の心やさ しい小説です)を書き、同人誌に発表したり、本にまとめたりし、その都度私に送ってくれています。ある時、自分の書斎をテーマに? した作品を載せた同人 誌が送られてきました。定年を機に家をリホームし、書斎を改めるにあたり、それにまつわるいろんな思いをからめた内容でした。そこに家の間取り図や書斎の 見取り図が挿入されていました。書斎は彼の雅号をそのまま名付けてありました。私は、以前、かれの著書のお礼に雅号の落款を彫ってあげたことがありました が、今度は書斎の見取り図から想像して、ここにどうかと、雅号を、手元にあった板に刻して、送ったのです。彼からは、ぴったりだったと受け取りが届きまし た。(ごめんなさい、よけいな話でした。)
閑話休題。 H.Pの六月は、白楽天になりましたね。陶淵明は結構頭に残っている詩句があって、うんうんとうなづきながら拝見していましたが、白楽天の方はあんり広く読んでいないので、興味深く拝読しています。
「萬里 朋侶 三年隔友干」 は、ちょっと胸のいたい詩句ですね。
「人各有癖 我癖在章句」
私は、秦さんの「癖」は嫌いではありません。『選集』の完成と、「オイノ・セクスアリス」の完結を、そしてお二人のご健勝を願っています。
追記 「湖の本」の振替用紙が見当たりませんので、受け取りついでにこんな形ご送金をお許しください。
6月21日 井口哲郎 (前・石川近代文学館館長 元・石川県立小松高校校長先生)
* 嬉しいお便り、ご厚情でした。
私の家は、仔ネコのふたりが加わっただけでてんやわんやの狭い狭い家で、それで「吉野東作」氏ののためには私からは羨ましくて堪らない家を 贈呈してや りました。「有即齋」はなんともいえず意味ありげに好きな私の勝手な三字ですが、頂戴した印は、本にも捺しやすく、また「東作」氏の腹蔵ともいささか、或 いはよほど響きあった三字と、御印を心情深く愛用しています。字形も好きです。
井口さんには 陶淵明の素晴らしい詩句を早くに板に刻されたという御作を戴いていて。これはいつも目に立つ場所に掛け向かい合っています。三行目「南 山」二字が胸にしみ入り、重ねておねだりをしてしまいました。この詩人に「南山」とは、私の若き日に小説に書いた「廬山」にほかならず、また陶淵明には必 ずや奥津城とすら自覚されていた二字、大事に思って、朱印も白印も愛蔵し愛用しています。
「倶會一處」 「帰去来」 「念々死去」 等、みな井口さんの温かい息を吹き込まれた文字と、いつも心して用いています。
私は 数えきれぬほど頑なに重苦しいコンプレックスを抱えて生きてきた男です。井口さんはじめ多くの方に支えて頂いて辛うじて大きく転ばないで済んできました。悠然と南山をみて残りの生を汲みたいと願っています。
御送金忝なく。恐縮です。
2019 6/23 211
☆ 今年また災害多き年の先触れ、地震地など 死者なきこと幸いなれどこの梅雨の季、被災の方々難儀嘆きつつ過ごしています。
ご大病克服ご執筆ますますお盛んなこと敬服いたします。
新刊『オイノ・セクスアリス』ありがとうございます。性科学のテーマたりうる「相死の生」、新作でのご展開興尽きません。ただ 書き出し南座観劇に始ま り これまで湖の本にてなじんでおりました秦さんの随筆 アタマにしみこんでおり、創作といわれてもとまどうばかり過激な描写が 著者の本意と離れて評判 になることもやと案じております。 一茶の七番*との符合に若き頃興じたこと思い出しました。
お揃いでお大事にと念じております。
万緑のなか一条の出水跡 周 神大名誉教授
* 作者と作中の吉野東作氏との「あはひ」を何となく抱き合いに浮揚させたく、また「オイノ」古稀から語り始めるにも幸便と、南座の顔見世で語りはじめ、 しぜん吉野氏が京都人で京都が世界であることを明示してみました。第一部は全部の三分の一弱の進行になっています。七月二日には「秦 恒平選集 第三十一巻」 作家生活五十年の新作として全編が纏まります。
☆ 拝啓
「湖の本」一四四 拝受いたしました。先般、選集第三十巻の後書にて予告なさいました『オイノ・セクスアリス』、心秘かに楽しみにいたしておりましたが、何と今回の「湖の本」にて第一部を刊行なされ、びっくりいたしました。恐る恐る頁を開いているところです。
拝受の御礼まで一言申し上げます。 九大名誉教授 祐
* 「湖の本 144」として「第一部」を先行させましたのは、「第二・三部」 145・146巻で完結とすることで、湖の本創刊・満三十三年記念の新作 としたかったからです。「湖の本」で大冊一冊は難しく、「選集」は限定百五十部の特装非売本で、私用の例外を含めても二百冊しか作れませんので。
2019 6/24 211
☆ 拝啓 (前略)
「オイノ・セクスアリス」第一部 吉野東作氏の独特の文章に圧倒されました。白行簡の大楽賦、から亂聲を経てユニオ・ミスティカへの展開、簡潔で感覚に あふれたメール文のなどの工夫。まことに言葉の巧者。第二部への展開がどうなりますか。益々の御健筆を祈ります。敬具 祐 新聞記者
* わたしの今度のこの仕事で、ことに第一部でもっとも真率な敬意を持って参照したのは上野千鶴子さんが編著者としての戴き本だった。ところが書名は覚えないままに物の山に埋もれて此処へ書き出せないのは申し訳ない。女の人だけで書かれ編まれていた本であった。
2019 6/26 211
☆ 秦 兄
憂鬱な季節が早く終わることを念じながら、遅々として進まない作業の手を止めて、兄の日録から「オイノ・セクスアリス」にたいする反響などを興味ぶかく 拝見しています。兄は文人として宿願の一つを達せられました。いまはその最初の一部しか知り得ませんが、その続篇にもまして、最後の ? 大作を大いに期待している一人です。
仮題の「清水坂」から日録の読者諸氏はどんな内容を想像し期待しておられるのでしょう。
京都の観光スポットの上位を占める清水坂ですが、私はこの仮題を最初に兄の日禄で見たとき、反射的に類義語として「奈良坂」が閃めきました。
京都人の兄なら 文人として、平安から鎌倉・室町時代にさかのぼる「賤民」に関心がない筈がないと確信しています。「性」と同様、この大きなテーマにも是非とも取り組んで頂きたい、否、取り組むべきだと私はおもいます。京都人の作家として。
もし、私の勘が外れているなら 酷な言いようですが、この難題に対して病身老躯に鞭打って作家 秦恒平の心血の最後の一滴まで注いで頂きたいとおもいます。
「遊女」「河原者」「乞食」等を快刀乱麻、どのような切り込み方でも結構ですから何としても最後の最後の力作として後世に遺してください。
そのためにも、日々じゅうぶんご自愛のほど。 2019-6-28 京・岩倉 森下辰男 少年期同窓
* 森下君は、わたしの仕事の一部分しか目にされてないので、わたしの多くの仕事の一貫した大きな主題が京都で学んできた「人間差別」へのつよい批判だと 気が付いていないようです。わたしの京都観や京都批評はもとより、小説「風の奏で」「冬祭り」「あやつり春風馬堤曲」「最上徳内 北の時代」「シドッチと 白石」 批評でも 『日本史に学ぶ』や中世論等々、仕事の大方が、人間差別への強い批判や批評の仕事なのです。それに気が付かない人は、秦 恒平は「美と倫理」などと云うてくれるのです。それもケッコウですけれど。
『オイノ・セクスアリス』も例外でなく、仮題『清水坂』は、全然例外であるどころか、作家生涯のカナリに辛辣な批評の物語に成るでしょう。京都生まれそだちだからこその仕事をわたしは最初から意識的に積んできました。出世作となった「清経入水」も当然の出発点でした。
* わたしの小学校は有済校でした。「堪えて忍べば済す有りと」と刻んだ石が校門内の草むらに埋もれていたのを知っています。学区のかなりの範囲が歴史的 な被差別地区であった日常と現実をわたしは少年の昔から体験的によくよく知っていて、だから、批評的な作家になったのです。近隣の粟田小学校区にもそうい う地域の含まれていたのを知っています。いえいえ、京都には実に広範囲に同様の問題があり地域が広がっていました。なんの、京都には限らないのです。忘れ ていてはならないのです。
* 森下君 「最後」ということばを何度も使ってくれていますが、私はまだ「最後」というより、まだ昨日今日明日の課題と心得ています。出来る限り、努めますから元気で観ていて下さい。
2019 6/28 211
「オイノ・セクスアリス」 「湖の本」分の第二部零校ゲラがもう届いている。この二日には本に成って届く『選集』本文そのままの流用なので、たくさんは手がかからない。相次いで第三部の零校も出てくるだろう。「五十年」の、とにかく柱が樹った。
何としてももう一作の長編を追い込みたい。周章てまい、秋にもとも冬至の誕生日にとも、腰は据えて書き上げたい。何度も何度も何度も読み返しながら、じりじりと進んで行く。
* 朝十時前・ やはり早起きの徳で 気がかりの用事をとにかく終え得た。ほぼ三日間の気分のゆとり出来た。大決心して、街へ歩きに出るかな、第二部のゲラを持って
2019 6/29 211
* 第二部 念校している。
云うておきたいいろいろが、ある。が、作が読者の目に触れ読まれてしまうまで、作者はなにも云わない方が良い、言い訳にきこえかねないので。
* 仮題の小説に入れ込んでいて 十一時半になっている。やすまねば。
2019 6/29 211
☆ 白楽天の詩句に聴く
黄壌詎知我 黄壌(=黄泉の国では) 詎(なん)ぞ我を知らん
白頭徒憶君 白頭(=白髪のこの歳で) 徒(はるか)に君を憶ひ
唯將老年涙 唯(=ひたむき) 老年の涙を將(もつ)て
一灑故人文 一(=ひたすら) 故人の文に灑(そそ)ぐ
* 喪った人らを悲しみ慕うばかりの境涯になったか。わたしの『死なれて 死なせて』は わたしの生涯と文学とをひらく 重い鍵の一つ。
2019 6/30 211
* 今度の長編でもっとも「効果」をあげたのかも知れぬのは、「雪」「雪繪」と名告る若い人を、徹して「メール」という手段を活かし尽くし人物表現できた ことかナと思っている。なかなか「愉しい創作」であった。二十余年 無慮無数に受け取ってきたさまざまなメールのいろいろの断片がよくヒントを呉れ役をし て呉れた。メールというのは通知や通告であるより、お話やお喋りが本来なのだろう。
2019 6/30 211
* 昨夜の内に「湖の本145」長編の第二部を読み上げておいた。ホンの二三箇所直しあり。
案じていた表紙繪も印刷所で無事進行しそう。今日からの「選集31長編全」の送り出しを終えれば直ぐ「湖の本」二部も責了、三部の零校も出て来よう。
「選集」は、あと二巻、やり直しは利かない、この編輯には慎重に周到でありたい、いずれ悔いは残ろうとも最少にとどめたい。周章てまい。
* 八時を過ぎている、九時には本が届いてくる。懸命の仕事で、作家満五十年、湖の本満三十三年を遂げ得たこと、「騒壇余人」 思いのほか幸運な足どりであった。
2019 7/2 212
* 中・高同窓の京の横井千恵子さんから、京の漬け物をいろいろに送ってもらった。
横井さんとは近所で無二の仲良しだった、内田豊子さんは亡くなっている。西村肇君も、三好閏三君も田中勉君も、亡くなった。大学の重森ゲーテも早くに。
死なれてしまった人たちのことが、しげしげと思い出される。
今日出来てきた本の長編小説も、割り切って謂えば、「死なれて 死なせて」というわたしの本の主旨を物語化したとすらいえようか。
今度の本の口絵には 表にも裏にも色の写真をしっかり入れた。「湖の本 第一部」で、老人のエッチな噺と先を予測し尻込みされた読者が、これら口絵写真を見たら、あれれれ、どんな噺かと驚かれるだろう。
2019 7/2 212
* 雨を聴く しとど。それも。やむ。
☆ 瀧のような
雨の中、御本を抱えて通勤。
昨夜帰宅後、夕食や入浴もそこそこに読み始め、仮眠を挟んで朝食前にも読み、急ぎの仕事だけ済ませて、あれやこれや思いつつ、先程読了しました。
「今は、とりあえずこれだけです。」 とは ヒロインのメールでしたね。 市川
* 第一信が届いた。感謝。 自分でも、作の始末のところを読み替えしてみた。ま、作者なりに納得もした。そうそうは容易く書ける、書けた小説とは思わない。半世紀、五十年 を書いて創って生きてきたと思う。
* 感謝
今巻 みな送り終え、ともあれ、手を離れました。
つぎは 清水坂で立ち往生しないよう、頑張らねば。 秦 恒平
☆ 発送作業、お疲れでしたでしょう。
暫く少しゆっくりなさってください。
先程 午後の配達便で選集が届きました。
第一部は既に「湖の本」で読んでいますが、第三部の終わりは、514ページ。すぐには読み切れません、ゆっくり読んでいきます。その最後の、
「ユニオ・ミスティカ=性一致の恍惚境は、まちがいなく在る。叶う。
だが、男女の愛、大きな愛には「その先」が、まだ有る。人と人の愛に、どんなに良い「性」があっても万能の通行手形ではない。・・
分かっていた。むごいと知りつつも。」
重い言葉を、繰り返し読んでいます。
吉野東作氏=秦氏と書けばお叱りを受けるかしれませんが、二重写しの人物として読んでしまうでしょう・・。
6月28日 の森下辰男氏の文の後に、秦文学の一貫した大きな主題は「人間差別」へのつよい批判であると書かれています。
京都を舞台にしたこの小説には 『風の奏で』と重なる部分があるのではないかとも・・
佐比の河原、西院、わたし自身も実際に歩いて さまざまに感じるものがありました。同時に『風の奏で』の終わりの辺り、河原灌頂を思い起こしています。
今はとりあえず、本を手にして、これから読みます。
今日は東京は強い雨が降ったようですね。こちらも夜中に降りました。
お身体、大切に、大切に。
書かれていました、九十老三人・・「京都からこっちへ引っ張り出したのを、つくづく、今、申し訳なかったと謝っています。」と。
どうしたらよかったのでしょう。長年生きた京都の地から剥いだと感じればつらいけれど、精一杯をなさったのだと思いますよ。 尾張の鳶
* ま、いつも「罪は、わが前に」あるのだが。何かしらは 久しい読者にはしかと伝わるのだろう。かつがつ 五十年を歩み続けた記念の作になったのかもと。
澄んできれいな焔を自身も感じ読み人にも感じて貰いたかった。誰もが、徹して此処までは書けなかったように書ききりたかった。さもなくては鷗外先生に申し訳が立たない。
* 選集三十一巻が長い書架一段の大方を占め、「小説・戯曲」等の創作が十八巻、論攷・批評・エッセイ等が十三巻が並んだ。
言っておかねばならない、『秦 恒平選集』の実現を率先して望んでくれたのは、妻の迪子である。「湖の本」だけでは、作品が可哀想と思ってくれた。「非売本」で、よくこれだけの特装美本 がと、不思議と案じて下さる人もあるが、たねを明かせば、是は東工大教授として招聘されたおかげで、就任から退任までの全給与賞与に一円の手もを着けず、 年金とともに、一口座に放りっぱなしにしておいた。「選集」一巻一巻には予期した以上の高額の支払いまた送料が必要だったが、幸いに、あと二巻、預金はす べて使い果たしても、義妹をはじめ、有り難い読者方おりおりの手厚いご喜捨やご支援も得て、なんとか、かつがつ払底しても赤字は、出てもごく僅かと思って いる。
妻は、昔々貧の極の頃に、乏しい貯金をとりくずして四册もの「私家版本」を造るのも賛成して、表紙の繪まで描いてくれた。この私家版本がなかったら、応 募とか投稿とかをまるで考えていない私に突然『清経入水』への太宰治賞とか、「新潮」からの原稿依頼など、ありえなかった。
選集三十三巻は、この時節に お伽噺のような豪華版になる。今時の出版不況、全集を出してくれる出版社など皆無だろう。
作や原稿を山のように書いて置いたからではあるが、かれらに「晴れの姿を」と。いわば希望し提案してくれた妻に感謝している。
2019 7/4 212
* 次の長編は「清水坂(仮題)」としておくしかない。本題は事実上決まっているのだが、予断を持たれたくない。繰り返し繰り返し読み直しながら、じりじりと書き進めている。ほんとうにじりじりと。
2019 7/4 212
☆ 秦恒平様
本日、『秦恒平選集』第31巻をいただきました。ご好意に感謝を申し上げます。選集の着実な刊行には毎回のことながら驚きます。心身が維持されていなければどうにもならないことですね。今回も刊行が可能にされたことをお慶びします。
先日、『オイノ・セクスアリス』の第一部は『湖の本』で拝見していましたが、本日、始めから再読しました。先日は、第一部での問題提起(キリスト教批判を含む)の意図は分かりましたが、小説としての本筋の方はどうなるのだろうとの不安を懐いていました。
本日も、第二部を読んだ時には、ますます不安は高まりましたが、第三部を最後まで読んで、そうだったのか、と私なりに分かりました。
秦さんの小説が 最初から追ってきた少年にとっての「少女」の問題、「性」の目覚めの問題、「部落差別」の問題をその行き着く先までラディカルに徹底 し、そのことに、「私」(書き手が仮構する「私」)が老いゆく現実、身体的・性的能力低下の焦りとそれに基づく妄念を絡ませて、エロスとタナトスの徹底的 な相関関係を描いて見せたのだと。
それは美しく書かれた小説の「ネガ」(裏返しの現実像)を提示したのだと言えるかも知れません。見当外れの読み方かも知れませんが。
男女の性交の満足感において達成される「相死」は、相互の独占欲・嫉妬という「ネガ」によって拍車を掛けられるものであることも、よく描けていると思い ます。「ユニオ・ミスティカ」の完璧な非宗教化ですね。私は「ユニオ・ミスティカ」を最もいかがわしいものの一つと見ておりますので、秦さんによる「相 死」への置き換えはよく理解できます。総じて「神秘主義」は性的合一感情の少し上品な言い換えに過ぎないと思っております。
性のポジティヴな役割については、小説家の関心ではないと思いますが、キリスト者には気になることですので、一言書きます。
キリスト教が性の抑圧という大きな負の役割を果たしてしまったことは弁解のできない事実です。もともとはパウロが独身を貫いたように、「終末」の切迫感 に基づく性欲の抑止が起源でしょう。しかし、終末論に束縛されない時代の旧約聖書は性については、積極的な姿勢を示しています。男女が一つになることの祝 福は、それによって男女が一つの人格共同体に「変容する」ことにありました。男女が夫婦の関係になることへの憧れを率直に記した『雅歌』がそれを示唆して います。グリム童話などでもそうです。醜いカエルを王女が受け入れることによって、カエルと王女は「王」と「妃」という婚姻関係、新たな身分へと「変容」 します。人間は異質なものを受け入れて変容するのだというのが、キリスト教的ヨーロッパの基本的な人間感覚です。
それに対して、日本では(日本だけではないでしょうが)、「異類婚姻譚」での「異類」は結局、異類としての本性を暴露されて、人間の許を去るように、人 間は性的結合によって、新たな共同存在へと上昇できません。異質な他者を排除する今日の政治状況と同じですね。聖書は一つになった男女は両親の元を離れる こと(血縁としての「家族」からの離脱による「家庭」の建設)を命じています(創世記2章24節)。夫婦単位で行動する。その裏側として、新たな共同存在 にまで変容できない性的結合を評価しないということですね。修道女がキリストの花嫁になって、キリストと一体となるという神秘体験や「聖心」(the Sacred Heart)などは気の毒な変容願望です。
ありがとうございました。ご夫妻の平安をお祈りいたします。 浩 ICU名誉教授
* 心より感謝申し上げます。 ご批評を給わって 作が 幸せを喜んでいると思います。もっとも根底へ人間の 男女の 老若の 幸不幸の 信不信の問題を提起しようとした甲斐がありました。
* 更に様々な毀誉褒貶を得て 作がしかと起って呉れますようにと願います。有難う御座いました。
2019 7/5 212
* いい工合に、「湖の本145 長編二部」を読み終えたところへ、「146 三部」零校が届いている。十年掛けて何度も気を入れて読んできた、近年は殊に。
この長い小説は、結句 自分で自分のため、自身を癒し励まし しかとモノを思い直すために書いた作。死なれて、死なせて、身内を分かち合うての倶會一處。何人(なんにん)何人(なんびと)であれ、ネコたちであれ。たとえ「畜生塚」と呼ばれようとも。
* 病臥や加療や老衰を、あまつさえ訃報を伝えられること、月日を追うて多く。自然の趨か。
2019 7/6 212
* 十時になる。横になり、いろいろ読書して寝入りたい。次の外出は、十七日の聖路加内分泌。気をらくにしながら「清水坂」をはみ出す勢いで書き継いで行 きたい。この作が「選集」を締めくくる長編になるだろう。まだ何も楽観はしていない、悲観もしていない。なにに近いかというと、楽しんでいるのかも。短編 が一つ書けている。のこる二巻の選集のおそらく一巻半は小説で尽くされ、「けじめ」っぽい文献は少しになるか。周章てずに、しっかり編輯したい。
2019 7/6 212
* 少なくも自身で人間ドックを予約して出向いた2012年以降、一度も京都へ帰っていない。それ以前の記憶で確実なのは古来稀の七十歳誕生日、2005年12 月には今度の長編巻頭の南座観劇のままに妻と帰京しているが、それ以降は全く記憶がない、帰京すべき用事も幸便も無かった。まるまる十四年間は京都へ帰れ ていない。たとえ帰京の折りに恵まれても多忙のママ先ず二泊がいいところで、日帰りは始終、たいてい一泊で東京へ舞い戻っている。昭和三十四年、一九五九 年に上京、就職結婚して、氏一九六九年に受賞して作家生活に入り七四年に二足の草鞋の片方をぬいだが、とても左団扇でなど暮らせなかったし、書きに書いて 書き捲っていたので、作家業の余のヒマなど有り得べくもなかった、そして東工大教授への招聘があった。ま、京都には親たちも家ももう無かったし、二十余年 勤めた京都美術文化賞の選者も体力と時間を惜しみ、辞して退いた。
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、まさしくこの、事実、作者わたくしの古稀より以前から大病後までのほぼ十年の「京都」を場面にし、印刷会社の相談役吉野東作老の 気儘なフイクションとして成り立っている。故郷愛がひしひし作者の手をひっぱって成さしめなさしめたといえるが、「もらひ子」として生まれ育ち愛おしい人 らとも出会ってきた、身の痺れるような懐古の思いに作者は手を牽かれ続けていた。創作の機械へ向かう坐辺には、父が母を描いた繪があり、妻とこもる茶室 「寝どこ」の写真もありつづけた。襖には、京都市の南半を詳細に伺わせる大きな地図が終始貼られていて、まだ剥がしていない。「藤基次」の名を刻して「天 正十九年八月 吉祥」と明らかに刻んだ、音色も清しい砂張の「環鈴」も、いつも、手渡されたまま わが手のふれる間近に在った。
したいけれど出来ない、 出来ないけれどしたかった、 してきてよかった、とても出来なかった、よかった、いやだった。
そういう赤裸々な性の描写・表現が かくも徹底して成された近代日本文学作品は、荷風散人にも無かった。(タダのエロ読み物はどんな古本屋にもワンサとあったものだが。)
性の極致は、人の「生まれて・死なれて・死なせて」に直に交叉してくる。男女の悲喜劇はまっこう此処に生まれる、多くの目がただ逸らされているだけなのだが。
* 性行為というだけで、のこる三分の二も読まないまま立ち去った読者が、ほぼ予想通りにあった。それは推察できた、アキラメを付けていた。
わたしは、自身 書くべきを、思い切り書いただけ、書かなかったら悔いたであろう。
☆ ありがとうございます。
選集31巻、はじめから、読みました。眼がだんだんと焦点があわなくなり、よく使うらしい、左目のまぶたが、痙攣しました。
いろいろに刺激されたり、気になったりしたところには、付箋をつけました。こうしないと、あとで見つけるのがたいへん。ページにも、本文にもなので、なにごとか、という様子になりました。
ひとつずつ、整理して、文章にできるか、こころもとないのですが、今、気にしているところは、キリスト教の「原罪」という概念、と「差別」。もっともっと なんでもあり、とおもえる、性行動のことです。
東作氏がたくさんにのべているので、さらに、どこに読者への仕掛けや、伏線があるのかみていました。
樹をみて 林をみられていないかも。 沙 大学同窓
* ありがとう。
基督教では、わたしは、横道かも知れないがミルトクの『失楽園』を繰り返し読みながら、解放神学やジェンダーに目を配ってきた。性の容儀などは、所詮は 当事者間のいわば勝手で、ハタが喧しく批評できることでもすべきことでもない、ただそこに犯罪意志や行為がまじってはならないだけ。性的な交わりに、罪、 原罪などと持ち込んだ宗教感覚は、普遍で不変のものとは思いにくい。アウグスチヌスのようにいえば、人間は絶えて仕舞ってこそ神意にかなうのかと問わざる を獲ない。
* さらにさらに勉強を追加した御蔭で、「清水坂」脱走の路の、一筋二筋が見え、こりゃ、どう疲れても奮起せなあかんなあと自身を励ましている。ま、やってやりましょ。創作とは、発明でも発見でもあります。だから書ける、だから入り込める。
2019 7/7 212
* 『オイノ・セクスアリス』には吉野東作という語り手の爺さんが仕掛けたややこしい仕掛けが野放図に隠されていて、この爺さん自身も生まれつき背負うたややこしい仕掛けに難儀に、悲しげに絡まれている。
まだ、今分は内容に触れてこの「私語の刻」に露わにモノの云いにくい物語なので、お手紙や長いメールで戴く褒貶の如何にかかわらず、この場での微妙な、種割りに繋がりそうな対論は避けておきます。
なによりも今の私は、次の「清水坂(仮題)」長編を怪我なく仕上げること。
2019 7/8 212
* 『オイノ・セクスアリス』に作者は、「雪」ないし「雪繪」と呼ばれる、まだまだ若い女性を、もっとも多くの言葉を費やして創作した。
思い有って、人として女としての印象を、内容は複雑なまま説明は避けて簡明にすべく、他者と関わって双方・双面から直かに描くのを避け、ひたすら独りの 女をただ「一方向き」に描いた。ごく最初の出会い場面以外では文字どおりの客観「対話」場面は無く、ひたすら女の「独り語り」ないしその記録に徹した。こ ういう書き方を、わたしは意図して初めてした。結果、女の印象は一面的にだが徹底した。そのため、あたかも語り手に対して「雪」「雪繪」がこの長編の女主 人公・ヒロインであるとつい読まれるであろう、それも意図に容れつつ、しかしこの長編小説で彼女「雪」「雪繪」は、或る意味、疎外された「独りの他者」の ままに終えて行く。小説の主人公は、決定的に語り手の「吉野東作氏」であり、小説世界は一貫して、彼自身の「生まれ、死なれ、死なせ」て「生きている老 い」が、幸なのか不幸なのかも云わず終始無残なまでに語られる。「オイノ」は、読みようでは「老いの」よりも「俺の」でもありますねと、すでに一読者から 指摘もされている。
早い時期の小説『初恋 雲居寺跡』の「雪子」を「また書いたか」とも指摘されている。この吟味や検討は、「愛」と「性愛」に触れて微妙なより多様の推量を読者に要請するだろう。
* 「湖の本 145 長編二部」を責了便で送ってきた。この発送用意に追われるが。
とり急ぎ 送り出しの挨拶文を印刷し終えた。封筒に住所印など捺し、妻に頼んだ宛名印刷を終えたら貼り込む。そこまで出来たら、いつ本が届いても用が足るが、そこまでが、カナリの手仕事、体力仕事になる。が。
一部を受取り、二部三部不要という人が30人ほどになった。もう少しは増えるだろう、が。
2019 7/10 212
* さ、「清水坂」を書き次ぐ。
2019 7/10 212
☆ 秦先生
『秦恒平選集 第31巻』をご恵贈賜りありがとうございました。
青春の多感な時代に、鷗外の『ヰタ・セクスアリス』を期待しながら読んで肩すかしを喰らったことを思い起こしました。
10年を閲しての傑作『オイノ・セクスアリス 或る寓話』、簡単に “笑って受納”とはいかず 感想は追って…。
目下、クセノポンの『ソクラテスの弁明』を、プラトンの『弁明』と比較しつつ辞書と首っ引きでカタツムリのごとく読み進んでおります。
気候不順の折、お体おいとい下さいますようお祈り申しあげます。 篠崎仁
* わたしは今 さながら愛に捧げる演説集の『饗宴』を、何度目か、読み返している。むろん岩波文庫の飜訳でであるが。愛と性愛との難題に取りついて、ここ十年「オイノ・セクスアリス」を歩んできた。
いっしょに大学院へ進んだ大森正一君はプラトン学が専門だった。わたしが院を見捨てて上京就職結婚して間もない頃、早稲田での美学會に誘ってくれて会い に行った、園頼三先生、金田先生方ともお目にかかれた。その大森君、早くに亡くなった。美学で一の仲良しだった(と、わたしは想っていたのだが)重森ゲー テにも若くして死なれてしまった。ごく最近には同じ美学で一年下、妻の一の親友だった澤田文子さんが亡くなった。もはや避けがたく思い出はみな誰かの死へ 繋がれて行く。白楽天ででもそんな詩ばかり拾い読んでしまっている気がする。
今度の小説にも書いたが。
ただ「倶會一處」の四文字を刻むほか何一つ加えない小さなまるっこい石の下に、誰彼となく真実懐かしい人らやネコたちと、いつか、笑顔で輪を囲みたいものだ。それまでは、妻と、出来ればいっしょに百歳まで生きてみようと笑っている。
* じりっと先へ出たが。
すこし怖くなってきた。
2019 7/10 212
* 今度の長編ではまず「性愛」を問い、「愛」との差異を問うて行く経過となった。
しばしば作中に、性愛を「相死の生」と謂い、つよく肯定しつつ、それが「所有」の思いに帰着し固着するのを惟い、しかし「愛」とは「共有の生」を謂うの であると思い寄っていた。「性愛」に執すれぱむしろ「愛」に背くか遠ざかるのでは。『饗宴』のソクラテスが「愛」をどう語っていたか忘れている、今、読み 返し始めている。
2019 7/11 212
* 「なんでも貯蔵庫」のような機械のなかを散策していたら、「2011年9月24ー30日」の「私語」がポコンと独り立ちしていた。何故か分からない が、この日付は、その歳末、聖路加診察で自発的に先生に「人間ドック」を紹介してもらった年の秋に当たっている。明けて正月五日の検査で二期胃癌間違い無 しと診断された。九月にはもう毎度のように腹痛に悩まされていた。今度の長編主人公吉野東作氏も同様に胃癌で入院している。ちょっと面白いので、吉野氏で はない、秦 恒平氏の当時の「私語」をそのまま此処へ再掲してみたい。
八年余の「昔ばなし」であるが、八年後の昨日今日にもえげつなくブリ返しているモンダイに触れていもする。忘れてはいけない。
ーー☆ーー
* 二○一一年(平成 年)九月二十四日 土
* 頭痛が無いわけでないが、鎮痛剤を口にせず晩まで過ごしてきた。仕事もし、気に掛かっていた用事も幾つも片づけた。妻と、かなり大事な相談もした。
師走に、七代目幸四郎の「曾孫」に当たる染五郎、松緑、海老蔵、三人での日生劇場公演が決まっているのが、今から楽しみで昂奮させてくれる。師走はわが家の祭り月でもある。元気を取り戻して、ぜひ楽しみたい。
いい劇場でいい芝居をみて、好きなものを食べて帰るという。概してものぐさなわたしの、これはささやかな贅沢で、他にはこれという何もしないで満足している。ほかに何が欲しいだろう。孫だなあ。
* 明日、思い切って「湖(うみ)の本」新刊分通算第109巻を、ぶっつけに入稿する。
* 九月二十五日 日
* 大江(健三郎)さんや山本太郎くんらの「反原発デモ」が成り立ったのは頼もしかったが、まだまだこの程度で満足していられない。漠然とした反対の声の結集から、より具体的な、子供にも理解できるほど明確なポイントを幾つも掲げながら前進したい。
こと原発に関しては、譬えば「便所のない豪邸」に同じだとわたしは謂った。かりにその場凌ぎの便所はあっても、集約された屎尿処理場のおよそ一つも国内に存在しない建設ラッシュだったと指摘した。
しかも原発の爆発により広範囲の要避難地域が必要となり国民の生活基盤を奪うだけでなく、自然や大地を汚染している。汚染を機械的に大地から剥ぎ取って も、剥ぎ取られたその汚染物の処理には全く手が着かない、つまり重大な危険物をただ場所移動しているだけで、何一つの解決策も見当たらないまま無策に政府 は、原発は、棒立ちのママ、なおあつかましく原発の擁護や稼働や新設をすら機会あらば口にしようとしている。その意味で新・野田内閣は、前の菅直人総理よ りも悪質な底意を優先させながら動こうとしている。
* どこかに、国の買い上げた県規模ほど広大な囲い地をもち、原発由来の譬喩であるが有毒屎尿を少なくも数百年規模で埋設しうる大施設を用意すべきだろ う、日本列島国土の中でどこにそれが可能か、為政の人はおそれず考慮して欲しい。当然に原発の無反省な新設はもとより全廃し、休止施設の再稼働よりもより 確実な廃炉計画を鮮明にすべきだ。
* 原発のために関わった推進・反対の大勢の学者達の国民的な大討議とともに、政府機関へ喰い入ってきた良心無き御用学者達の一掃も、視野に入れて実行した方が佳い。
* 東電の傲慢なウソ体質も徹底糾明しつつ、不幸な爆発の経緯を正確に白日に曝すとともに、発電と送電との分離経営を絶対に実現すべきが国会・内閣・財務・経産の国民への義務である。
分かりよい目途を立てて広い理解を糾合しながら、ただ花火のように打ち上げて終わらない継続した反対と監視の運動が続きますように。原水爆反対や禁止へ の多年の活動エネルギーが、原発反対の動きへ効果的に流れこむことを期待したい。
* 経済界奉仕第一の新野田内閣をわたしは警戒している。原発で謂えば菅内閣よりもよほどアトもどりしてしまうのではないか。少し舌のまわらないもどかし さは有るが、「アメリカ語」政治とのバイリンガル追随のグローバリゼーションが、世界的に行き詰まりのママ、それでも相変わらず無反省に、超近視のまま引 きずり回されるだろう「日本」の内閣と「日本経済人」たちとの、政治にも生活にも思想にもひよわい理想無きファッション感覚が、ますますこの列島の基盤を 沈下させて行くだろうと、もう、いくらか投げ出したいような心地でわたしは、いる。
* 昼過ぎ、鎮痛剤一錠のんだ。痛みがなければ、もう普通に近い。全身に活気が帰ってきてはいないという程度。「湖(うみ)の本」の通算109巻を入稿した。ゲラの段階で、組み付けに少し、いやかなり、工夫を要するか。
* 白鵬、十三勝二敗で二十度目の幕内最高優勝を遂げた。横綱に勝った琴奨菊は三敗ながら、来場所の大関を手に入れたろう。もう一人白鵬に勝った稀勢の里も来場所次第で大関も不可能でない。ようやく日本人力士擡頭の気配か。
わたしも体調に負けていられぬ。気の持ちようを晴れ晴れと動かす方へ身を向けたい。停頓していた心気を一新したい、だが、ともすれば睡魔に見舞われている。
* 相撲の世間だけでも、大きくモノゴトが変わって行く。なにもかも変わって行く。当然だ。
幸いわたしの人生は、ものごころついて以来、「読む」「書く」「本」そして「文学・文藝」であり、そういう分母に乗って、数々の「人」世間が、分子のよ うに去来した。幸なのか不幸なのか知れないが、分母は一貫し、どうやら終焉まで変わるまい。が、分子のほうはありとあらゆる意味で「しおどき」がちかづい て来ている。すくなくも囚われのない物静かな、少し心寂しいほどの日常に落ち着いて行くだろうし、それがいい。
* 九月二十六日 月
* 朝、いきなり「訃報」と題名、発信者には弥栄中学時代「友人の姓」だけあって本文を欠いたメールを受けていた。家族からの報せか、本人が誰かわれわれ共通の知人の訃報を告げようとしたのか、分からない。カナダにいる田中勉君に問い合わせている。
もう、こういう報せは日常事になろうとしている。気を病みすぎないよう落ち着いて報せに聴かねば。
* 秦の母は九十六歳まで生きた。その伝にしたがえば、妻も私にも、なおまだ二十年二十一年もの余命がある。さすがに信じようがない。何をして、または何 はしなくて、残る日々をどう暮らして行くか。それが窮屈な枠組みを自身に強いるのではなく、たぶんにふっくら柔らかい時空のなかで、なるべく心ゆく楽し い、おもしろい日々を味わって行きたい。なにより不要モノ、不要コトを惜しまず捨てて行くこと。もう広い世間は要らない。
* 二葉亭四迷の『平凡』を(=「ペン電子文藝館」のために)校正していたが、正字に忠実に、難儀な宛字に読み仮名をとなると、容易に捗らない。読み仮名は必要だが、正字は新字にという原則で紹介しないと、あたら若い読者を困らせそうだ。
* 疲れが溜まっていてか、午后いっぱいを寝入ってしまった。まだからだに活気がない。
* 愕いたことに、もしかして福盛くんの訃報でもあるかと案じて、カナダの田中君まで問い合わせてみたのが、じつは当の田中勉君の訃報であったと、夫人光子さんから報せが届いた。なんという悲報か。言葉を喪っている。
田中君のことはもう繰り返しここにも書いてきた。新設新制の京都市立弥栄中学に文字通り新一年生として入学した年、同級生だった。以来六十年もの親交 だった。高卒からのちにカナダへ渡って久しく。近年、重い辛い病気をしたという便りを貰っていたが、それも回復への道のりと想っていた。寂しい。五体、固 まっている。
* 九月二十七日 火
* 左後頭一部に苦痛でない程度の、やや執拗な軽い鈍頭痛が残っている。鎮痛剤を入れなくて一晩の睡眠が可能な程度だから、だいぶ落ち着いているけれど、違和感ははっきりまだ有る。
勉さんのことなど、どうしようもなく想いを扱いかね、悲痛払うに払いかねる。家に閉じこもっていてはいけない。ゆっくりゆっくりでもいい、乗りもので遠い空の空気を吸ってくるといい。
日記に向かっていても、ほんとうに今日が九月二十七日かどうかすら自信がもてない。
* 訃報は混線していたのだが、いまさき、あらためてカナダの田中光子さん(勉さんの夫人)から私宛に夫君逝去を報せるメールが届いた。言葉もなく参っている。付されて届いたトロントの日系新聞の弔意の記事等、残念ながら文字化けで読み取れない。
* re 言葉もなく
うちのめされ、固まっています。想いはただただ弥栄中学の昔の思い出に張り付いてしまい、勉さんの笑顔を食い入るように見つめています。いけません、今 は、恥ずかしながら物書きが言葉をぜんぶ喪ってしまい、身震いばかりです。 奥さん。お悲しみ、お察しするばかりです、たくさんたくさん泣いて上げて下さい。ごめんなさい、よくない慰め方だと思いながら、わたしも泣いています。堪 忍して下さい。今は堪忍して下さい。 秦 恒平
2002.03.20 田中勉と。京・祇園・千花で(の写真入る)
* 九月二十八日 水
* 底知れずなにかに惘れはてている。これは、どういうことか。気力の萎えか。
* 強くはないがしつこい左頭痛は常在している。深部でない、表在痛。我慢を強いられるほどではないのだが集中力を妨げる。
* 人気の市川亀治郎が伯父の「猿之助」を襲名するのは期待していたことで、めでたい。父・段四郎が元気な間にいい猿之助になってくれますように。初めて 猿之助と共演の若い亀治郎の舞台(=風呂場のなめくじ役)を観た日から、踊れるいい役者だと間違いなく期待してきた。期待は少しも裏切られていない。こと しは「油地獄」のお吉でしっかり見せた。
病める猿之助は二代猿翁になるとか。それでよい。初代猿翁の舞台も懐かしく忘れていない。新猿翁は事実上もう舞台は勤められまいが、病んでからも存在感 豊かに一門を束ねていた。坂東玉三郎の応援も大きかった。笑也、笑三郎、春猿などイキのいい女形が育っていて、男役には右近、段治郎、それに壽猿などがい る。新猿之助にはガンバリ甲斐のある一座だ。
それに加えて仰天のニュースだ、佳いニュースだ。
久しくも久しく四十五年も父子絶縁であった猿之助長男に当たる映画俳優香川照之が歌舞伎界に新加入し、市川中車の名跡を継いで来年六月から歌舞伎舞台を 践むというのだ、容易なことではない、容易なことではない、が、なにかしら心嬉しい。新中車の息子も團子という懐かしい子役名で同時にデビューすると。
新中車母の浜木綿子も案じるように本当に文字通り「容易なことではない」のだが、映画界で実力を認められてきた蓄えの上に資質の新発見を願い、期待した い。妻など、今からもう観たい観たいと、新猿之助、新中車、新團子、二代猿翁も含めて堂々の襲名興行の成りますようにと祝っている。佳いニュースだ。記者 会見のようすも嬉しいほど、よかった。
* むかし若かった猿之助と幸四郎とが一つ舞台で共演した日、「早慶戦」などと声の上がるのも楽しく聴いた。幸いいま若い染五郎と中車になる亀治郎とは気があっている。高麗屋もあげて澤潟屋を応援してくれるだろう。
☆ 願いをこめて。 吉備の人
長らくご無沙汰しました。おかけする言葉がみつからなくて今日まで過ぎました。体調のすぐれない方にふさわしくないと承知しながら敢えて清酒をお届けす ることにしました。秋の気配も色濃くなりつつあるときなので、秦さんがお酒を口にできる日の早く来ることを願っています。
* 有難う御座います。嬉しく頂戴します。
* 馬場あき子さんの新歌集『鶴かへらず』を頂戴した。
うらぶれた汚れた孔雀冬ざれの日本にゐて日本に似る
大根を抜かれし跡地しみらかに陽は射せり慰められてゐる安堵感
さきの歌、ちょっと思い付きの感あるが。あとの一首にとくに共感するが、「しみらかに」は所得ているだろうか。楽しみに読ませて貰います。感謝。
* ジェンダーの視点から見た沖縄と副題して、「上野千鶴子に挑」んでいる島袋まりあさんの『日本のポストコロニアル批判』が興味深く、また手厳しい。教えられている。
* 書庫にはいると、国文学そして歴史それも中世を論じたいまや古典的な本が数あるが、そして私自身も熱心に中世を考え語り書いてきたのだったが、蔵書と してみる多くの昔の中世論は、いまでは影が薄くなっている。わたしはもともと日本史をいつも裏側から、支配者より支配されている側から観てきたので、過去 のでなく近来の活溌な中世論にこそ大いに啓発され励まされる。
何と言っても網野善彦氏や横井清氏や川嶋将生氏らの中世研究に教えられ鼓舞されてきた。京都で感触してきた中世が生き生きと起ち上がってくる。多くの論 攷や論文がじつに生き生きと面白い。さてさて、その功徳がどうかして今も取り組んでいる小説(=仮題清水坂)に美しく反映して欲しいモノだが。
* 幸いに猛烈な颱風はひとまず去って呉れ、烈しい夜雨を戦くように聴くことは、とまれ免れている。ただし夜雨はいつも激しいわけでなく、秋ふけゆく夜の雨は人によりひとしお寂しかろう。
晩唐の詩人に四川での「夜雨 北に寄す」がある。北にある妻か恋人かが、いつお帰りかとはるばる問うてきた。
君 帰期を問ふも未だ期あらず、巴山の夜雨秋池に漲る。
いつか共に西窓の燭を剪り、却つて話さん巴山夜雨の時。
李商隠の好きな唐詩です。
* さてバグワンといえば、なによりわたしには「心」を語ってくれる人だ。彼は司祭でも僧でもない。彼はひとりの覚者ブッダとして、一言一言わたしの眼をのぞきわたしの手をとって話しかけてくれる。当分の間、バクワンに「心」の事を聴こう。
☆ バグワンに「こころ」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
あらゆる問題の根本となる問題は「心」だ。
心の本性がわからない限り
おまえは人生のどんな問題を解決することもできまい。
心こそが問題なのだ。
ひとつひとつの独立した問題を解決しようなどとしないこと。
そんなものはありはしない。
心そのものが問題なのだ。
しかし、心は地下に隠されている。
私がそれを「根」と呼ぶのはそのためだ。
根はつねに不可視でありつづける。隠されている。
決して目に見えるものと戦わないこと
さもなければ、おまえは影法師と戦っていることになるだろう。
それでは、おまえが自分自身をすりへらすことはあっても
おまえの人生にはこれっぽっちの変化も起こり得ない
同じ問題が何度も何度も何度も持ち上がることだろう
心は決して平和には成らない
「無心」は平和そのものだ
が、心自体は決して平和でも静かでもありえない
心はまさにその本性からして緊張と混乱なのだ
心は決してクリフーではありえない。
なぜなら、心は本性がすなわち混乱であり曇りであるからだ。
決して「静かな心」など達成しようとしないこと
さもなければ一番の最初から
おまえは不可能な次元に向かっていることになる
「こと」のはじめは、まず心の本性を理解すること
それからはじめてなにかが為されうる。
* わたしは、いの一番にこの『存在の詩』を手にしていながら、こういう根の注意を聞き飛ばして「静かな心」が欲しいと願っていたのだった、あの漱石の『こころ』の「先生」のように。一度や二度ひらひらとものを読んだだけでは、聞いただけでは、ほんとにダメだと思う。
* 九月二十九日 木
* 捜しものは相変わらず見付からないまま、また、もっと今が今に大事に取り纏めた創作資料が見付からない。よくよく衰えが進んでいるのか、身辺にモノが 多すぎるのか。広い場所で整頓できているとは言えない、狭い上に、モノの上に下にモノが、つい、置かれて記憶から落ちてしまう。やれやれ。
ま、また手間・ヒマを掛ければ再度の取り纏めが不可能ではないのだと半ば諦めている。たいていのものが機械の中へ電子化されてあるのでそれが出来る。
* 体調が本復に近いとすら言えないのだが、気分からも普通へ近づいて行きたいので、久しぶりに、ゆるゆる出歩いて来ようかと思っている。乗り物の中で読 み返してみたいモノを取りそろえてあったのが見付からないのだ、ま、ぼおッとして来いということか。
* ひどい腰痛もなく、なにより朝にはあった頭痛もなくて、帰って来れた。たしかに疲労はあり、西武線の中でよろけたり、保谷駅の構内ですうっと目の前が 白くなったり仕掛けたけれど、元気は元気、外出してよかった。本の一冊も持たなかった、何も読まなかった。ぼおッとしているのがよかろうと思っていた。
* 吉備の人から、名酒「八海山」一升頂戴していた、なんと有り難いこと。嬉しいこと。
* 岩橋邦枝さんから『評伝 野上彌生子』を戴いていた。
* 秦建日子の、朝日新聞だかに出たという河出書房のどでかい広告を、妻がご近所から貰っていた。例の女刑事行平夏見もの四連作を並べていて、通算してだ ろうか百何十万部のベストセラーだと。親父には逆立ちしても出来ない芸当である。すくなくも養ってやらなくて済む大親孝行者だ。そんなに売れなくてもいい から、ますます佳い作、作の品の賞味できる作をこころがけてくれますように。
* かなり汗を掻いて捜して、一つ、今や大事な方の失せモノを見つけ出せた。ほっとしている。幸い頭痛も出ていない。安眠して、明日九月三十日を迎えたい。
* バグワンに聴く。 『黄金の華の秘密』より
スワミ・アナンド・モンジュさんの翻訳に拠りながら。
人間は機械だ。機械に生まれついたわけではないが、機械のように生きて、機械のように死んで行く。社会によって、国によって、組織化された教会や寺院に よって、既得権益を有する者達によって、比喩的に謂うのだが、催眠術にかけられているからだ。社会は奴隷を必要とする。社会の一員となり文明を身につける プロセスというのは、すべて深い催眠術に他ならない。
おまえは自分の内にある肉体以上の何かを知っているだろうか。生まれるよりもまだ先に自分の中にあった何かを観たことがあるだろうか。
人間は不死の存在たりうるが、肉体と同一化しながら生きているために、死に囲まれて生きている。社会はおまえが肉体以上のものを知ることを好まない、い や許さない。社会が興味をもつのは知能も含めておまえの肉体だけだ──肉体は利用できるが、魂は社会のためには危険なのだ。魂の人はつねに危険なのだ、な ぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ、社会は彼を奴隷に貶めることが出来ない。魂の自由人は単に機械である人間達がつくりあげた社会、文明、文化の構造 に拘束されない、拘泥しない、それらに仕えねばならぬとは考えない。考えないで済ませうる自由を生きている。それらのものが謂わば監獄であることを本質的 に見抜いている。彼は群衆の一部ではありえない、彼は個として存在し、それらの監獄様のものをべつの生命として個のために活かそうとするしそれが出来る。
肉体は機械化した群衆の一部だ。だがおまえの魂はそうではないし、そうであってはならない。その魂は自由の香りを帯びている。
社会からすればおまえが魂であろう、魂を得よう観ようとし始めたら、たいへんな危険だ。社会はおまえの生のエネルギーがただ外へ外へ流れ続けて欲しい。金 や権力や名声や、そういったものに興味を持ちそれらに奉仕し跪いていつづけて欲しい。社会はおまえが生の内側に入って行くことをどうかして妨げたい、そし てその最良の方法は、自分は内側へ向かいつつある、入りつつ有るという偽りの仕掛けをおまえに提供することなのだ、ここに、じつに難儀なトリックが無数に 考案される。はっきり言う、巧妙で偽善そのものの落とし穴、罠だ。観てごらん、どんなにそれが多いか。
* わたしは映画「マトリックス」をありあり想い浮かべる。
* 九月三十日 金
* 昨日岩橋邦枝さんに頂いた『評伝 野上彌生子』の冒頭で、大いに感銘をうけたのを、ぜひ記録したい。
彌生子は漱石の弟子であった。漱石の絶筆に『明暗』のあることは誰でも知っているが、彌生子の処女作がまた「明暗」という百二十枚ばかりの作で、彌生子 は漱石の懇切丁寧な五メートルにもなる巻紙での手紙をもらい、宝物のように終生これを語っているが、自作のほうは彌生子自身見失っていて、死後に発見され 全集の補遺により活字にされた。
わたし・秦は漱石先生の批評と激励の手紙の中で、ことに心肝に響く「ことば」と「声」とを聴いたと思っている。すこし此処こ書き写させて頂く。本当に本気で小説を書こう、創作しようと決意した人ならば、こころして聴いて欲しい。
☆ 岩橋邦枝著『評伝 野上彌生子』の冒頭に聴く。
第一章 師・夏目漱石──作家になるまで
野上彌生子は、長篇小説『森』を執筆中の(齢=)九十代の日記にしるしている。(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
彼女は、夏目漱石に師事した明治期以来、昭和六十年(一九八五)に九十九歳十一ケ月で急逝するまでたゆまず書きつづけて生涯現役作家を全うした。
彌生子は、昭和四十一年の〝漱石生誕百年記念講演〃「夏目先生の思い出」のなかで、夏目漱石から貰った長い手紙をところどころ読みあげて披露した。六十 年前、二十一歳の彼女が初めて書いた「明暗」という題の小説を漱石に見てもらったとき、漱石が懇切に批評した手紙である。(人物の年齢は、誕生日前もその 年の満年齢を記す)
漱石全集の書簡集に、明治四十年(一九〇七)一月十七日付野上彌生子【当時は八重子】宛の「明暗」評の手紙が収録されていてその全文を読むことができる。次のような書きだしである。
《 明暗
一 非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従つて苦心の割に全体が引き立つことなし
一 局部に苦心をし過ぎる結果散文中に無暗に詩的な形容を使ふ。然も入らぬ処へ無理矢理に使ふ。スキ間なく象嵌を施したる文机の如し。全体の地は隠れて仕舞ふ。 》
このように箇条書きで、漱石は作品の批評とあわせて、文学者になるということの根本義を噛んで含めるように諭している。懇切叮嚀な批評と教えは、七箇条にわたる。
《明暗は若き人の作物也。(略)才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年 と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。文学者として十年 の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん》
この作者の若さでは《人情ものをかく丈の手腕はなきなり》、だが《非人情のものをかく力量は充分あるなり。絵の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を発揮すると同時に弱点を露はすの不便を免がるゝを得べし》と激励をこめて教えている。
中略
彌生子は、所在不明になった「明暗」の原稿について四十歳の頃すでに、その古原稿を覗いてみたこともないので何を書いたかよく覚えていないと小文「二十 年前の私」にしるしているが、漱石からもらった「明暗」評の長い手紙のことは、生涯にわたって何度も感慨をこめて書いたり語ったりした。次に引くのは八十 七歳のときの述懐である。
《もし先生が、お前にはとても望みはないから、ものを書くなんてことは断念した方がよからう、と仰しやつたら、私はきつとその言葉に従つたらうと思ひま す。さうすれば、作家生活には無縁のものになつてゐたはずです。ところが、さうではなく、いろいろ御親切な教へを受けたこと、わけても、文学者として年を とれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》(『昔がたり』解説)
彼女は九十二歳の談話でも、もし漱石から文学など考えずにずっと細君業をすべきだという手紙をもらっていたら、自分はなんにも書かないですごしたのではないかと思う、と語っている。
彌生子はもともと作家志望ではなかった。《知識慾には駆りたてられてゐたが、自分でも作家にならうなんてことは夢想してもゐなかつた》(「その頃の思ひ出」)という彼女が小説を書きだしたのは、夫の野上豊一郎から聞く漱石山房の木曜会の話に触発されてのことであった。
* もっと読み続けたいが、措く。
《才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。》 漱石
《わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》 彌生子
これだ。文学に志すというなら、これだ。趣味で何が出来るだろう。
* もう一つ、岩橋さんの叱咤も聴くべし、(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
* いろんなことに雑然と手も出し口も出しているわたしだが、確実にこう思っていて疑わない、「よけいなことをしでかすより、三行でもいい、佳い文章を書きたい、いつまでも書いていたい」と。
* 「小説が書きたい」「書いたから読んでほしい」と、少なくも永い間に数十人ないしもっと多くに頼まれた。だが「文学者として年を」とった、とりぬいてきたいったい何人がいただろうか。世に出る出ないはべつごとである。
* 「湖(うみ)の本」通算109巻の棒組初校が出てきた。ちょっと手を掛けて「組み付け」ねば成らないが、手はもう付けている。根気よく、少し大胆にするしかない。
* いましも妻は懸命に「秦恒平参考文献・輯」に連日連夜取り組んでくれている。「論攷」「書評」「批評」「世評・アナウンス」に分類して、保存してきた 限りを電子化してくれているところだが、その総量の多いこと多いこと、出てくるわくるわの何というか「頼もしさ」に、妻はスキャンし、校正して読み、或る 意味で楽しんでさえいてくれるようだ。まだ、百の一つにも当たらないほどで、「湖(うみ)の本」創刊以前の、以後も含めて、どんなふうに秦恒平の創作・著 作・人間が批評され観察されていたかがこわいほど覿面に読み取れてくる。有り難いことだ。
今日はたまたま見つけた「古典遺産」№33という1982.10月の雑誌巻頭で、「座談会・秦恒平著『風の奏で』を読む」という長篇を手渡しておいた ら、興がわいたか直ぐさまスキャンし、一通りの校正までしてくれた。平家物語研究者として知られた今はない梶原正昭教授をはじめ加美宏、小林保治教授三人 で、わたしの小説を専門の研究者・学者の立場から大量に読み合わせてもらっている。
おそらくわたしの熱心な読者でもこんな文献には目も触れたことないだろう。表題などのデータだけでなく、出来る限り本文内容も読んで貰えるように用意しているが、なにより総量の多さにわたし自身が仰天している。嬉しい悲鳴である。
* なにをどう疲れたのか、夕食後の六時半過ぎから真夜中の日付の変わる間際まで熟睡していた。枕で抑えるためもあるが、少し左に頭痛が出ているが、堪え られぬ程ではない。起きあがって、ふっと手を触れた資料棚の一皿に、ちょうど手をかけはじめた「湖(うみ)の本」新刊分の支えになる、昔の歌帖数冊がもの のしたから出てきたのも心強い。
☆ 九月尽 播磨の鳶
九月が過ぎ去ろうとしています。八月末の「発病・不調」から一か月、やや安心かと胸なでおろしつつも、一昨日の記述、カナダの友人の訃報に接しての鴉の悲嘆を思います。どうぞ彼の分までも、まだまだ「執念」く書いてください、生きてくださいと願うばかりです。
先に送った文章(=ヨーロッパ紀行『レオンの宿』「e-文藝館=湖(umi)」に収録済み)に、「佳いよ。」といただいた一言は、本当に初めてのことで した。嬉しいと素直に受け止めます。鳶は救いがたく単純人間でもありますから。同時にいっそう心して暮らし、ものごとを見つめたいと自ら戒めます。
先日浄瑠璃寺に出かけた時のこともただただ備忘録として書いたのですが、そこからどう展開したものか、まだ時間がかかりそうです。
明日は神戸で詩の朗読がありますが、これは以前書いたものの中から選んでいこうと思っています。
何故か、メールの通信に問題があり、コンピューター不調。本当に機械音痴で途方にくれます。それにワードの使い方もこのコンピューターでは不慣れで困っています。
十月、元気に過ごせますように。鳶は元気ですよ。
* 昨日、漱石が初めて野上彌生子に与えた書簡、その冒頭で、読んだ、
「才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。」
「文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物」
というのが、痛切な妙薬のように頭で鳴っている。二十歳のモノに、まだ若い、三十、四十になってから書けなどという助言でも叱咤でもない。あくまで「書く人間としての覚悟で」日々を生きよ、「年をとれ」と漱石は忠告している。
* 八月二十九日に苦しみはじめ九月二十九日に久しぶりに独りで街へ出た。しんどかった九月が逝く。
ーー☆ーー
* 書き初めて二十余年、欠かさぬ秦 恒平の「日録 私語」の 一見本。 原発 歌舞伎 バグワン そして漱石などに心惹かれて書いている。ふくつうでなく異様な頭痛を訴えている。癌の手術以降、そんな頭痛は無い。
2019 7/11 212
* 「湖の本」にして150頁あまり、ほぼ一巻分ほども書き進み、読み返し、推敲を重ねてきた。まだ書き手には跳ぶに難儀で冒険に類するサキがあり楽観出来ないが、「清水坂」を飛び出る楽しみも有る
2019 7/11 212
* 「湖の本」145 146 新作長編の二部、三部(完) 月末から来月半 ばに刊行できる。第一部に次ぎ「続けて読む」とご希望の方にのみ お送りする。それぞれの「私語の刻」に、「選集本」には加え得なかったいささか作者の意 図や思いにも触れて置く。過去の創作・小説の展開を意図的に加上しながら嶮しい相対化をも「寓話」として心がけた批評的長編であり、厳しい品隲をお願いし たい。
* 何というても、この、もう五年余になる「秦 恒平選集」の停滞無い刊行は、励み喜びでもあったが心身に重く堪えた。あと二巻を心おきなくどう編むか、どう編みえて予定を完結できるか、怪我無かれと思いを励ましている。
2019 7/12 212
* 自分の小説世界で迷子になりそう。うまく突貫できれば書き脚は速まるだろうが。周章ててし損じ根より「湖の本145 146」を順調に送り出し、両手をラクに軽くするのも賢明か。
2019 7/12 212
* まるで出歩かないので、いつのまにか財布がカラ同然。明日から土、日。ちょっと出歩く気になったが、電動自転車で久々に走ってみるか。何か食べたい か。食べたい何も無い。南座わき松葉屋の鰊蕎麦がふっと恋しい。食べる気も食べたい物もないので、今度の長編ではたくさん「爺さん」に食べ歩かせた。京で の昔はわたしは余分なお金はまるで持てなくて、妻とのデートもひたすら「歩き」とせいぜいラーメンだった。小説では、わたしの行ったこともない佳い店で、 「爺さん」よく食べに食べていた。懐郷の思いが能く利いた。
東京では、むかしは寿司の「きよ田」がわたしたち最高の佳い贅沢だった。辻邦生がはじめ連れて行ってくれた。大きなパーティ会場から、小学館の会長に誘 われ二人で出向いたことも、御茶ノ水大入学祝いに朝日子に御馳走してやったことあった。井上靖、山本健吉等々で静かに賑わう超特級の寿司店であったが、店 主が病気で亡くなってしまった。わたしが沢口靖子が贔屓と知るやたちまちに会社に掛け合って畳半畳大の写真や献辞入り署名の額写真などを幾つももせしめて くれたのが、今この部屋にも、「靖子ロード」と称している二階廊下にも、デーンと懸かっている。
この「きよ田」代替わりの店が同じ場所で開いているとちらと耳にしている。「きよ田」初代は伝説的にしられた名人で、わたしたちが仲良しだったのは、二代目。
美味いいい寿司が食べたくなった。
「きよ田」のほかではやはり小学館会長に連れて貰った銀座の「すし幸」、気楽にとまり木でというなら たまたまとびこんだ東京駅構内で、沼津から店を出していた店でよく喰いよく飲んだ。懐かしい。まだその店、あるかなあ。懐かしい、が、さて食欲が湧かないのが情けない。
2019 7/12 212
* ついで吾が『オイノ・セクスアリス 或る寓話』三部のなかの、東作氏が入院中にプラトン『国家』に刺激されて書いた健康と死とにかかわる長い吐露の文 を慎重に読み替えして、やはり「老い」の述懐として「病と死」とにかかわる思いはこの作に不可欠と感じた。この吉野東作氏の述懐は、はからずも作中の若い 「雪・雪繪」と書かれている女性に微妙に突っかかられていて、作の行方と転回を促している。若い人の気持ちは別として「老い」をかかえ「病い」をかかえた 読者には面倒でも読み切って貰えるといいのだが。
* さらに次いで、いよいよ『饗宴』が、巫女ディオテマとソクラテスとの「エロス」についての対話に入ったのを歓迎して、興味津々読み始めた。
2019 7/13 212
* 『オイノ・セクスアリカ 或る寓話』を、もう何度目か、全編また読みかえした。書いて良かった、納得した、作家生涯五十年にこれは必然の作と 自身納得できた。そのためにかなり多くの、久しい、ことに女性読者を喪うかもしれなくても、わたしとしては。よく読んで欲しいと押し戻すしかあるまい。
* 性愛は「相死の愛」と。愛は「共生の愛」と。その思いを覆す理解に今のわたしは思い当たらない。
☆ お元気ですか、みづうみ。
わた くし程度の蔵書量でも次から次に湧いてくる本にあきれるばかりです。とうとう梱包業者の手を借りましたが、何しろ桐箪笥にまで本を入れていたわけで……。 今回のリフォームの理由の一つが本の収納対策でもありました。みづうみのような桁外れの蔵書のおありの方は決してお引越しなさいませんようにお勧めしま す。
今回の『オイノ・セクスアリス 或る寓話』については、まだ考えがまとまらず、次回配本予定の「湖の本」でもっと読みこんでからと思っています。「選集」には書きこみや線引きや付箋貼ったりしたくありませんので。
でも、みづうみのご質問には即断即決でお答えできます。
同じ女として、「雪繪」には共感せず、したがって雪繪を愛することもなく、雪繪になって愛されたいとも思いません。
吉野東作=秦恒平とは、勿論思いませんが、みづうみの好みの女人はたとえば豪奢な(経済的な意味ではない)谷崎松子さんと思ってきましたので、登場した雪繪の造形には最初戸惑いました。今までのヒロインとは違います。
『初恋』の木地雪子はわたくしの愛してやま ない、ひたむきな美しいヒロインですが、雪繪は雪子とは被差別側にいたという点以外はずいぶん性格を異にしています。わたくしには共鳴しにくいヒロインで した。性的な魅力が描かれれば描かれるほど、彼女の本音というか正体が見えなくなります。あえてそのように作者が描いたのでしょうが、俗世間では「セフ レ」という関係以外のなにものでもない。慈子が当尾宏の絵空事への愛の象徴であると読めば、雪繪は吉野東作の性の、性欲、性的妄想の産物のようにも読めま す。
男の ひとが雪繪のような女を好むのはよくわかります。渡辺淳一の書くような通俗小説から純文学藝術作品にいたるまで男の作家はみな同じような女を好んで書いて います。自分より能力的にも経済的にも社会的にも少し下にいること、結婚してくれと言わず、妊娠させる心配もなく、したがって責任をとる必要がなく、自分 の生活は守れる上に、性的な相手はとことんしてくれて官能的で最高に魅力がある、まさに理想的です。そんな都合のいい女は世界のどこにもいませんが、男の かたの見果てぬ夢というものでしょう。女が自分を性的に裏切らない男はいると信じているのと似ています。
わたくしは天性の娼婦を愛しますが、雪繪 はそうではありません。マノン・レスコーになれない中途半端なインテリ女です。雪繪にはわたくしが生理的に受けつけない何かがありました。美空ひばりの天 才を称賛しますが「血の昏さ」がやりきれないというのに近い感情でしょう。しかも雪繪には美空ひばりを輝かせていた歌はなく、彼女の交際相手と同じ色合い の前向きでない「辛気臭さ」を感じました。
わたくしは男でも女でも闘士に共感しま す。晴れやかに明るく立ち向かう人間が基本的に好きなんです。人間の不幸の在り方は底なしですから、被差別部落出身であるという理不尽な受け身の不幸でさ え不幸のランクではましな部類かもしれません。ハンセン病患者やナチス政権下のユダヤ人でも立ち上がった人間はたくさんいました。差別されたことが、愛さ れなかったことが自殺の一因になるなら、人間誰でも何度も死ななければなりません。雪繪は幸福になれたし、自分ひとりの力で幸福になるべきだったと、そう 思えてなりません。
第一印象ですから、この感想も今後変わる可能性がありますが、大きくは変わらないと思っています。
雪繪に抱く「好きになれない」という手厳しい感情は、しかしながらこの作品の評価とは無関係なことです、作品としてはとても面白かったのです。
でも、雪繪についてのこの感想を、みづうみがもしご不快に思われたらほんとうにごめんなさい。
愛とは「共有の生」を謂う╶─けだし名言でありましょう。
しかし、わたくしはみづうみにこう問いたいのです。
性愛に執することが愛から遠ざかることだとしても、みづうみは「共有の性」「相死の生」の前提がなければそもそも「共有の生」に至らないとお考えではないかと。
ユニオ・ミスティカなき男女の愛はありますか?
読むべきもの書くべきものが山のようにありますのに、日常生活の雑事の多いことにはうんざりです。なかなか体力がついてきてくれません。
みづうみの優れたところは名作を書くことだけでなく、作品を本にし配本までこなしてしまわれる超人的実務能力にもあると、ただただ感嘆するばかりです。
でもご無理しないでごゆっくり進んでくださいますようにと、毎回無駄と知りつつ書かずにはいられません。
萍 萍に大粒の雨到りけり 星野立子
* 作が いい読者に出逢えているのを、喜ぶ。
* 今度の長編ではまず「性愛」を問い、「愛」との差異を問うて行くような経過となった。
* しばしば作中に、性愛を「相死の生」と謂い、肯定しつつ、それが「所有」の思いに帰着し固着するのを惟い、しかし「愛」とは「共和の生」「生産の生」を謂うのであると思い寄っていた。「性愛」に執すれぱむしろ「愛」に背くか遠ざかるのでは。
『饗宴』のソクラテスが、ディオテマから「愛」をどう教わっていたか忘れているが、今、読み返し始めている。
* 最後まで、新長編を何度目か読み返した。少なくも、必然、書かねば済まなかった作と思えて、さらに先があるとしても、作者としてそれは一つの納得である。納得はまだまだ幾重もの先を擁しているはず、「書く」ことで彫り起こす以外にない。
* ソクラテスの『饗宴』を読み返していて、あの「寓話」を書きながら、「性愛」を論じた或る学究の本に只一度も「美」に触れて語られていないのに、語り手の「吉野東作氏」が不満を漏らしていたのを思い出した。
ソクラテスに「愛」を教える聖なる智者の巫女ディオテマは、「要するに、愛とは善きものの永久の所有へ向けられる」ものと云い、ソクラテスが「愛の名に 値するほどの熱心と熾烈な努力とを示す人は何ういう途を進み又どういう行動を採るのか」と問うたのへ、それは「肉体の上でも心霊のうえでも美しいものの中 に生産することです」と言い切っている。「生産は ただ 美しい者の中でだけ出来る」とも。従って「産出に際して運命の女神や産の神の役を勤める者は<美 の女神(カロネー)>なのです」と。
「ソクラテスよ。本当のところ愛の目指すものは、貴方の考えるように、必ずしも美しい者とは限りません、」「美しい者の中に生殖し生産することなので す。」「では、なぜ生殖を目指すのでしょうか。」「愛の目指すところ善きものの永久の所有であるとすれば、 必然に出てくる結論は、愛の目的が不死という ことに在るということになります」と。
* あのアダムとイヴの生殖の愛を決定的に女の躯の死すべきホドの「悪」と否定した 正統基督教の教父や教皇らの姿勢や理解とは、まったくかけ離れている。
ギリシャの性愛にも日本の性愛にも「神」的に美しいちからの臨在が云われ、基督教では神が見放した女ゆえの悪かのように断罪され、その行き過ぎの是正が性的放埒へ濁流となって流れた。
秦 恒平作「或る寓話」ではどうであったか。
* 十時を過ぎた、機械から離れる。
2019 7/15 212
* 明日は京都で鉾が動く。
わたしは今、「清水坂」を脱出すべく三十メートルほどの高跳込台の端へ歩み寄り満々の水をこわごわ見下ろしている。えらいこっちゃ。
2019 7/16 212
* 友禅の模様を、鴨川でも白川でも水洗いしていた光景をよく覚えている。なにとなく繰り返し繰り返し洗いながら好き進めているようないまの長編ではあるが、先に『オイノ・セクスアリス 或る寓話」三部完結分に適切なあとがき「私語の刻」を付けねば。それが済むと、十年掛けた長編と、まずまず一時的にも手が切れる。
☆ お元気ですか
みづうみのお疲れのごようすを心配しております。みづうみは、いつも全力疾走で、ペダルを漕いでいないと倒れてしまうという紳士かつ猛者ですが、少しだけでよいので どうかごゆっくり進んでいただければと願っています。
『オイノ・セクスアリス』を読みながら、吉野東作に必要だったのは妻との関係で充分満たされている「共有の生」の愛ではなく、性への渇望に苛まれる男を癒す「雪繪」との「相死の生」の性愛のほうであったのだろうな、と。独断と偏見ですが。
お元気で、お健やかに、毎日お仕事楽しんでくださいますように。
飯 麦飯もよし稗飯も辞退せず 虚子
* 「吉野東作氏」を本質動かしていたの は、生まれたという根の哀しみと、死者への思慕とで、「オイノ・セクスアリス(老境の性)」は有ってよし、無くて仕方なく、「相死の生」はどう重ねても所 詮不毛と見ていたのではないでしょうか。「雪繪」もそれが分かってきたのでは。
2019 7/18 212
* 「湖の本146」 思いをのせた「私語」を添えて『オイノ・セクスアリス 或る寓話』第三部完結巻を責了で印刷所へ送った。八月中に送り届けられる。十年がかりの長編はされで完了となる、機を得てさらに推敲はするけれども。
さ、ますます『清水坂(仮題)』へ殺到しなくては。
2019 7/20 212
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』第二部(「湖の本145」)は、この二十九日から発送できる。第三部完結の第146巻も「責了」になっている。おそくも八月中にお届けできる。
* この長編は作者が八十年身に抱いてきた葛藤のいろいろを、苦心惨憺のなかで自身検討し自身賢明に慰撫している作のように想われる。そんなものを客観的 な叙述の小説になど出来はしない。「吉野東作氏」という「わたくし」の発明で、この、一人で二人に、二人で一人に、いささか無責任に喋って貰うことで、根 の深いコンプレックスや身のふるえるほどの思慕や自愛の欲求を、対象視も諧謔視も誤魔化視もしてもらえたのだ、と想っている。ただりスケベー読み物かのよ うに身を避けられた五十人ほどの読者とのお別れは残り惜しいが仕方ない。
2019 7/22 212
* 新しい物語の大事な一面に必然の結着を付けえたかという時に、建日子がふらっと立ち寄ってくれた。それはもう嬉しいことであった。だべっていても佳い のだけれど、三人と「マ・ア」ふたりも入り、気楽に「剣客商売」の新しいところを二つ観た。建日子は機嫌良く付き合ってくれる。商売柄、でてくる俳優達の こともさすがによく識っていて、親二人はホウホウと感心して聞いてもいる。こんな団欒がもういつまで出来るのかと案じつつ、建日子の方に怪我なかれ病むな かれよと心よりわたしは祈っている。
きげんよく、車で帰っていった。ながく引き留めたのかも知れない。
* さて、もう一度小説へ戻ってみる。
放っては置けない小説世界必然の一の成り行きを掴み取れた、これはわたしには有り難い。もう今夜はやすめる。
2019 7/26 212
* かなり片づいた二階「靖子ロード」の一書架の上に、まるで読んで欲しげに、岩波文庫、ショーペンハウエルの『自殺について』一冊が載っていた、現れ出たというふ うに。『死に至る病」と一緒に大昔も昔に買ったという記憶はあるが手にしたことがない。で、ソファにもってきて、数点の短論文のなかの「自殺について」を 読み始めて、なんとも胸がスッキリした。しんきくさい哲学的論議で人の「自殺」をとやこう謂う手ているかと思いの外、じつに明快。わたしの久しく何として も理解も是認も出来なかった基督教の司教や教会や教徒らの「自殺」ないし「自殺者」批判へのきちっとした批判・非難の言論が展開されていて、嬉しくなっ た。著者の曰くには、旧約・新約の聖書なかに人の自殺を禁じ否認し非難した何一つの教条も全く見当たらないという確言一つを知っただけでも、わたしは基督 教では全然無いのだけれど、胸がすうっと晴れた。嬉しかった。
わたしが先々に自殺するかどうかは目下の問題でないが、少年の昔このかた、私の身辺に知人に「自殺者」は、数えれば老壮若十人近くはあり、その人たち男 女ともに「自殺した」が故に人格的批判を投げつけるなど、とてもとても出来たはなしでは無かった、深い哀悼をこそ心底覚えはしたが。
今日、わたしはショーペンハウエルに、感謝する。
問題は、しかしながら、「死なれた」悲しみは深く余儀ないものの、「死なせても」いいという議論はよくよくの、よくよくの「例外と思しき」理由を以てしてさえ、安易に肯定してはならない、成り立たない。
小説家として、作の世界の中でわたしは何人もを過去に「死なせて」きた。「殺した」と謂える事例すらある。「死なせ」たくないなあと思いつつ書いた幾篇もの自作を、わたしはいつも悲しむのである。
2019 7/27 212
* いまや「清水坂」を離れて怕い旅をしている。無事に帰れるかどうか。不案内の旅先を懸命にものまなびしているが、視野のいたみが凄い。怕さもこらえ道中もこらえ、生還できればいいが。
2019 7/27 212
* 明日送り出すのは『オイノ・セクスアリス 或る寓話」の第二部で、それなりの「あとがき」を添えたし、責了にしたばかりの第三部完には、全面を作者な りに締めくくるような長めの「あとがき」を添えた。三部通して読んで下さる方々へ作者呈上の謝意でもある。第三部完は、ほぼ間違いなく八月中にお届けでき るので、全部を通じさらにご叱正いただきたい。
* さてさて『清水坂(仮題)』の一気収束への勇気が欲しいと堪えている。明日からの送本作業中に踏み越える気持ち高まって欲しい。
2019 7/28 212
* 夕方 作業終える。高校宛て寄贈を遠慮し、「セクスアリス」を遠慮された読者も数十人あり、送る数が少なくなり、その分がラクであった。宅急便、郵便の仕事とも終えて、ホッとしている。あいにく近くの鮨屋が休日、クッキーと美味いワインとで妻と乾杯。
暑さもあるが、さすがにジリジリと力仕事が心身に響いてきている。せめてもう少し、もう少し、頑張りたい。『オイノ・セクスアリス 或る寓話』「湖の本」版「完」の第三部は、八月中に感謝を込め呈上本を送り出せると思う。
さ、それまでに新作長編をなんとしても粘って脱稿したい。「これは、まぎれない秦 恒平だ」といってもらえる長編を、ぜひ二作続けて御覧に入れたい。
2019 7/30 212
* 頑張ろうかと思ったが ムリ書きして混乱しても仕方ない。じいっと、想う ということが大事、びっくりするような展開が想いに舞い込んでくる、そういうことは、まま有る。からだは仕方ないが想い・心が草臥れていてはどんな妙も真実も取り逃がしてしまう。
2019 7/30 212
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』への感想は、題名ないし第一部だけで閉口・退散された方もあり、なかなかご迷惑もかけていそうな気がする。第二部 にすこし「あとがき」を添えたが、第三部完にも倍ほどの「あとがき」を添えた。いまここへ持ちだしてもいいのだが、それでは「湖の本」を愛読して下さる方 には味気ないだろう。
* それよりも次の作へと、喰って掛かりたい。
*「myb」最終号にぜひ書いてと電話が来たが、断った。時代へもの申すことの甲斐なさ。書くなら、創作、そしてこのHPの「私語」で十分。わたしのこの 厖大な「私語の刻」は、騒壇餘人・秦 恒平の「最大作」として遺るだろう。 機嫌のいい総題を新しく付けておいて遣りたい。
2019 7/31 212
* この数日、一九九五年刊の谷川健一『古代海人の世界』を読んでいる。刊行 されてすぐ貰っていたが、新聞連載『冬祭り』にしてもその十年十五年前にもう書いてしまっていて、貰った当時の自分の仕事とは縁遠くなっていた。以来すで に四半世紀、書庫でみつけて読んでみようと。ま、早く早くに柳田国男、折口信夫の全集をはやくに読みあさり読み耽っていたので、おおよその見当は自分自身 の推量や体験も含め付いていた。蛇を点景のように書いた作家は何人も居るが、『冬祭り』のように書いただれ一人もわたしは知らない。しかし日本を考えるの にその視点や視野をもたずに何が言えるだろう。
2019 8/1 213
* 一押しで開くはずの戸が、押せない。臆病。立ち往生している。
気を替えて、まるで別世界へ旅した方がいいのかも。いま読んでいる『アンナ・カレーニナ』は、つらくなってゆく世界ではあるが、文藝作品としては世界の最高峰にあり、いまのところ「読みすすむ」だけで楽しい。没頭できる。
またもマキリップのはるかな旅世界へ翔びこむのもよく、いっそ「フアウスト」や「オデュッセイ」も変わりばえがする。ながいながいホビットの旅にまた同行する手もある。
日本の文学なら、露伴か鴎外の史伝ものまたは藤村の小説「夜明け前」。
まるで念仏してるみたいだ。
2019 8/1 213
* 京都の森下兄、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』へ読了長文のメールを呉れた。
ただ、「湖の本」読者のほぼ全員が、完結作として本にした『選集31』は目にされていない、つまり完に到る作の第三部をお届けできるのは八月下旬になる。この第三部「完」の行方に直か触れの評判をここに紹介するのは、多くの「湖の本」読者 に申し訳ない。森下兄の感想は、ここへは「控えます」と一旦書いたものの、批評感想の大方は上の禁忌には触れ「ない」森下兄の直の議論なので、大半に当たるその箇所は、兄からの熱い好意として紹介させてもらう。女性の皆さんからは矢来の直撃も有るか知れないが。
森下兄、ありがたく、感謝します。
わたしは、「湖の本版 第一部」に短い序を副えたが、これは作の発送や成り行く経緯に触れただけ、作そのものへの作者の思いまでは出さなかった。だが 「湖の本版 第二部」後記の「私語の刻」には、やや踏み込んで作者の手法や主人公(吉野東作)の語り口などに意図をもたせておいた。それはそれなりに私・ 秦 恒平の思いに副うているので、森下兄の批評のあとへ添えておく。しかし、やはり「湖の本版 第三部完」にも添えた、やや長文の作者・秦 恒平の「私語」は、八月下旬の版本まで、当然のこと伏せておく。
☆ 冗文ですが
秦 兄 労作「オイノ・セクスアリス・ある寓話」を読み終えて、作者が読者に望み、期待するような読後感かどうかをためらいつつ感想をできるだけ省エネ文体でメール分送しよう。
(中略失礼 秦)
年来の読者の幾人もが本作品に拒否反応を示されたようだが、恐らく一種のカルチャー・ショツクを受けられたのだろう。ひとは願望本能によって常にY路に立たされ二者択一の選択を重ねつつ一つの文化からより高度の文化に向けて脱皮をくり返しながら成長をとげていく。
未知の文化に触れたときの戸惑いや受容の可否は、願望本能の強さと自身の属する文化圏によって異なる。
作者は、作品を一つの寓話に仕立てた。寓話でナポリの美術館にある16世紀中庸のフランドルの早逝画家ピーター・ブリューゲルの「盲人を導く盲人」を思 いだした。寓意は異なるが兄の寓話は生きとし生けるものが持つ二大本能の一つである性本能の赴くところは世間や社会が、誰が何と言おうとおおらかで心地よ く、その極致が「ユニオ・ミスティカ」であるとよむ。
そうであれば、二大本能の食本能を堪能するものはグルメと称し美食家と自慢するのに、なぜ性本能を全うする好色家は助平や漁色家・猟色家と蔑称され、性 を公然と語り、書くことは憚り、忌避し非難されるのか。見方や表現によっては、レストランで女性がソーセージをかじり、ソフトクリームを舐めているポーズ がよほど卑猥に見えたりする。そうならまるで「目くそ、鼻くそを嗤う」ではないか。
食本能を満たす時はさしたる規制や非難はないのに、性本能を満足させようとすれば、なぜに無粋な法や倫理や宗教が直ぐにシャシャリ出てくるのか。
人の理系か文系かの見分け方は「氷が解けたら何になる」の答えが「水」なら理系、「春」なら文系だというが社会科学系、わけても法律をすこし齧ったもの は理屈っぽくて嫌われる。だから私は法律が嫌いだ。法律は必要悪と思っているから少ないほうがよい。無粋な法を振りかざすより、ニワトリの哲学者やネコの 物しり博士に寓話やお伽噺を語らせて処世上の教訓を垂れさせるほうが居心地がよい潤いのある世界ができあがる。そんな世界の構築は物書きの領分であり特権 である。
日本の性の風習・風俗が窮屈になったのは儒学者による「礼記」の「男女七歳にして席を同じうせず」の堅苦しい思想が入ってきたころからではないのか。
混浴や夜這いなど日本の性の風習・風俗は長いあいだ大変おおらかで開放的であった。現に昭和40年代でも社員旅行の温泉旅館が混浴で修学旅行の女子高生 の一団と大浴場で鉢合わせをして若い男性社員たちがのぼせたことを思いだす。裸の娘たちも大勢なら羞恥心より好奇心や挑発心が勝つことを実感した。
願望本能は止まるところを知らず、次から次へと湧き上がってくる。道徳や宗教や法律で抑圧抑制すればするほど大きく膨らんでくる。隠すほど見たくなるのが人情なのだ。
そんな願望本能と性本能の合体から迸りでた「オイノ・セクスアリス」を兄はある寓話という。どんなに恰好をつけても所詮、性は性(さが)である。性行為 は種の保存のための営みであることに間違いはない。生あるものがこの営みを嫌い怠れば種は断絶する。ゆえに、この営みをこの世でいちばん快感のともなう行 為に造物主は指定されたのである。答えてくれるなら、お前たちも絶叫するほど気持ちがいいのかと蝶やアリにきいてみたい。ある寓話は読者に問題を提起し挑 んでいる。
性行為を「繁殖作業」と捉えてしまうと閉経後の性交は無用で無意味な行為に堕してしまうことになる。そこから某元都知事の「閉経後の女が長生きしても無 駄」発言が飛び出してくることになる。この発言に世の女性たちは目尻を大きく吊り上げる。しかし、ある寓話の「いいわ、もっと奥まで」にはニコリともせず 目尻を下げない女性がいるという。これは摩訶不思議である。自家撞着ではないのか。
男尊女卑なる語はここで出てくるべきではない。かつては若衆買いを愉しんだ上臈女房も居たし、いまもホストクラブのイケメンに入れ揚げるマダムやカミさ んも大勢いる。性の快感に男女の違いはないし、五感による行為も男が主で女が従であるはずがない。大方の男性読者は「爺さん、何を食って長時間も精力絶倫 なんや」「五感だけでなく、第六感や想像力で制御しているのか」「男はかくこそあらまほし」と鼻の下をのばし、よだれを垂れているが、兄の女性読者にもこ んなイケメン・ペットを飼いたい願望を持っているひとは大勢居るはずと放言したら集中砲火を浴びるだろうか。桑原くわばら、雷が落ちないうちにひとまず区 切ろう。 2019-8-2 森下辰男 中・高 同窓
* 『オイノ・セクスアリス』 第二部 作者後記 (湖の本145 版)
私語の刻
『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、老人の性交為をおもしろづく書こうとしたものでは全然無い。今度の作で意識の芯に置いていたか知れぬのは、「一夫 一婦」というある種模範的な、ある種無惨な人類史の「一制度」がもたらしているかと思われるきついヒズミを、せめて指摘だけはしてみたい思いであった。夫 には「妻」、妻には「夫」が生涯に占めている、重さ。
すべてが「吉野東作という私人」の走り書き、書きっ放しの体裁ゆえ、表記の混雑など気にしていない。超雑食型の素人の筆者が、思うサマに何をどこまで書 いて喋って、言い得られるか。終始一貫して、文筆を職とはしていない一老人の「雑記」「雑談」のまま。それが、言い淀みも矛盾や記憶違いも自在の狙いで、 また作者の意図でもある。そういう「書き方、話し方」の可能を探ってみたかった。単純な一人称記述ではなく創ってみかった。
二部、三部へむけて 「性愛」と「愛」とは重なり得るのか、それはあだ疎かには書かなかったつもりだが、叱正や叱声も受け容れねば成るまい。ただ、こんな作は 他に誰も書かない、書けなかったろう。鷗外先生もあの「セクスアリス」で、「若い女」は書かれなかった。
まだこの先でどう「落っこちる」か知れないので多くは語れないが、見て見にくい「もの・こと」をきびきびした文章で提供して行くのが「文学作者の作品の役目」とわたくしは思っている。男性には男性の、女性には女性の厳しい叱声がきかれるだろうけれど。
ちなみに、『オイノ・セクスアリス』という表題を「老いの」と謂うた気でいたが、九州人なら「オイノ」は「おれの」とも読みますと馬渡憲三郎先生に教わった。外国語でならもっと奇抜な意味に読まれるのかも。
谷崎(潤一郎)先生晩年作、たとえば『鍵』には、国会でさえバカげた非難の声が舞った。最晩年には『瘋癲老人日記』があり、すこし早くには『夢の浮橋』 もあった。谷崎作の世界に尻込みし、また悪罵していた「フツーの読者」の声はたくさん聞いたし、それはそれで谷崎世界とは縁無き衆生であったというだけ。 一言付け加えれば、谷崎先生の世界は練達の物語世界であり、論や攷の性格は淡い。
わたくしは、昔から、小説を「用いて」も論じたい究求したいものごとを平然作中へ持ち込んできた。『オイノ・セクスアリス』の「吉野東作老人」は、老い の精(性)力を誇るべく物語っているのではない、おそらくは「生まれる」という受け身、「死なれる」という受け身、「もらひ子」という「根の悲しみ」を老 いてなお見つめつつ、且つ「愛と性愛との衝突」を問うている。問い方はあるいは冷酷と謂うに近くもある。谷崎先生の晩年作が私の念頭に無いはずがなく、し かも、どう、どこへ、どこまで、そこから離れ得られるか、離れての世界が創れるかを、十年、考えつづけてきた。「第一部だけ」でそれを即、推側してもらう ワケにはやはり行かないはず。第二部へ入って、第一部からの印象、男の視線や思いでばかり女が語られているという先入主は、意外な方角へ新ためられると 思っている。
何はあれ、読者との久しい「ご縁」を本当に有り難く大切に思ってきた。今もこれからも切にそれを思い願いながら、永くはあるまい残年をしっかり書き続けたい、何の躊躇いもなく。
* それにしても「湖の本145 第二部」の表紙繪、それはそれは美しい女性裸像ですよ。
2019 8/2 213
* 自作の長編、ジリッと動いた。夜前、眠りながらもずうっとこの作のさきを思い続けていた、おかげでジリッと動いた。何をし、なにを読み書きし、なにを観ていても、アタマにあるのは、この、ジリッと、の先へであるが。
今日もやはり暑さ負けしていた。せいぜい食しもしていたけれど、疲れた。
2019 8/2 213
☆ お礼
秦様 酷暑が続いておりますが、お変わりなくお過ごしのことと拝察しております。
さて、「湖の本」145のご恵投に与り、まことにありがとうございます。
恋の道具に書簡ならぬメールが登場、やはり新しい感覚と存じました。
また秦様が、食物のみならず、文学・藝術、街、風景、それに女性に関しても大変な「グルメ」でいらっしゃることを改めて感じた次第です。
毎日スーパーの総菜と即席みそ汁の食事をしている私としては、食に関するところが一番面白く、感興深く拝読いたしました。また、「玉門深くから女の蜜はとろうっと白く濃く溢れて甘かった。」というところでは思わず目を見張りました。
とにかく秦様の奔放な想像力に驚きと羨望を感じております。
ますますのご健筆お祈りいたします。
わたくしはこの夏は『イスラエルを救ったエジプト人スパイ・天使』なる本の翻訳で終わってしまいます。
日本古典が読みたくてたまりません。荻生徂徠、林羅山、中江藤樹あたりをどこか涼しいところでじっくり読むのが夢です。 茨城 鋼
* 一休和尚の詩を読んでいれば、「目を見張る」ようなことは無いのですが。
わたしが何に向かっても「グルメ」なのは、京育ち、しかも胸を開いてものごとへ向かう体質からしてむしろ当然なのです。「奔放」でも何でもなく、真向かって観ているというだけのことです。部分的に意識し勉強し調べて書いていても、それはホンの肉付けなのです。
* まだ第三部完を観て戴いてない方は、第三部を読まれれば第一二部に伏線がいくつも敷かれていたことを気づかれるだろう。荷風訳のボオドレエルの詩など も、ただ無意味な面白づくで置かれているのではないのだが、わたしの置きようが下手なのかも知れぬが、「雪繪」の莫大なメールもごみをかき集めるように置 いてあるのではない。劇はそこでも意図され進行している。
* 二枚目の唱歌が済んだ。「荒城の月」藤山一郎の「夏は来ぬ」中沢桂の「浜辺の歌」中村浩子の紘子「野菊」小鳩くるみの「五木の子守唄」などに耳を傾けた。
* それでもまだ私は「清水坂」で、立ち往生している。戸をあけて一歩家の中に踏み込みながら怕くて立ち竦んでいる。逃げだしたら、なにもかも崩れてしまう。
2019 8/4 213
* 気分を換えたい。が、日々の炎暑に閉口。ガマンの日々、ガマンの日々。こういうときこそ佳い読書に(変な物言いだが)手広く没頭したい。夕過ぎにも、 入浴前に、長島弘明さん、高田衛さんの詳細な秋成研究を較べ読みしていた、じつは昔から「秋成八景」と心がけながらまた「序の景」しか書けていないが、し かと手がかりが把握できればぜひ書きたいと願っている一景がある。長島さんに教えて貰いたいが、そのためには、今の仕事を仕舞い終えておかねば。
ともあれ「秋成」は私にはインネンの主題なのである。秋成の実名は「東作」であり、秋成の名乗りもそこに発している。東作西成、春作秋成という語感が古 来出来てある。わたしが今度の『オイノ・セクスアリス』の語り手を吉野東作と名乗らせたのも、意図は、糸は、引けている。もしこの作に論者が出るとして、 一つはそこまでも視野を持っていないと抜け落ちる世界がある。
ついでに、もう一つ、触れてきた人がないので云うておくが、三部に分けたのは「湖の本」一冊の規模に応じているのだが、他に、この長編は、「八重垣つく る」という見だし以外はすべて小倉百人一首からの随意のかつ意図的な引用を重ねていて、アテずっぽうはしていない。分かる人には、その一つ一つの歌句見だ しだけで、ついて行ける道が辿れる。「読む」のが「難しい」と大昔からさんざぼやかれてきた、こういうのも元兇のひとつなのだろうだが、「把握と表現」と はさぼっていない積もり。爺さんの性行為だけしか見えない読めないのでは、なあ…。
2019 8/4 213
☆ 『日本への遺言 福田恆存語録』(抄)に聴く
芸 術Ⅰ ユートーピアならざる素の人生はなんぴとにも芝居を許さない。演戯の自由を与へない。ひとびとはしかたなく芸術といふものにすがりつくのであります。いくら芝居気の多い芸術家にしても、実生活では、芝居をしとほすわけにはいかぬ。が、他人の芝居にすがりつくだけではがまんできないのです。そこで、自分の芝居気をもつともよく満足させてくれるやうな架空の世界をつくつて、わづかに自分を慰める。それが芸術といふものです。
* 辛辣なようで、まことに「本当」の断言である。どれほど読書しても観劇しても鑑賞しても、それで満たされない「溢れもの」をかかえていたから、いるから、私は小説を書き、論攷し随想し、歌も詠んできた。秦 恒平が吉野東作に語らせるという手法は思いの外に楽しかった。
「芝居気」というキーワードでわたしは「谷崎潤一郎の本丸」に逼れたと今も思っている。松子夫人はとてもよく分かっていて下さった。水上勉さんのように真顔で、「秦さんは、谷崎夫妻の隠し子では」と編集者に囁かれたというのも、ふしぎな機微に不れておられたのである。
2019 8/7 213
* 朝から、もう十何度目になるのか「清水坂(仮題)」をまた読み返していて、その感覚に推されて前へ出ようと。読む。読む、読む。そして把握をつよめ表現を呼び寄せる。 2019 8/7 213
☆ お元気ですか、みづうみ。
ご連絡遅くなりましたが、湖の本第145巻 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』第二部、無事に受け取っております。ありがとうございました。
振込用紙を入れていただきたかったのに、ちょっと困っています。第三部の配本の際には是非わたくしには振込用紙を同封なさってくださいますように。
みづうみが今回の本をわざわざ「呈上寄贈」としてご遠慮なさる必要はどこにもないと個人的には思っています。性愛が大きなテーマになっている作品に性描写があるのは当たり前ですし、性愛を通して人間の真実に迫る試みであればなおさら避けられないこと。
今時は 新聞小説でさえ過激な性描写が堂々と描かれて社会的に許容されています。思い 出しても、渡辺淳一、林真理子、高樹のぶ子の連載等々、昭和のはじめであったら発禁ものでありましたが、時代はどんどん変わっています。ジェイムス・ジョ イスやD・H ロレンスが破廉恥と集中砲火をあびたのが嘘のよう。
そもそも、わたくしはまだ中学生くらいの時に家にある本の山から 『ファニー・ヒル』も取り出して読んでいた記憶があります。当時は内容がよくわからなかったし、面白いと思いませんでしたが…。けしからん文学少女でした。
こんなふうに書くと 生来スケベ心のある読者なだけと笑われるかもしれませんが、性的妄想さえ恥じる品行方正を信条とする人間なら、そもそもあらゆる「小説」の「読者」にはならないでしょう。「品行」と「品性」は別ものです。
現在ダンボールに埋もれて、色々なものが行方不明になっているので落ち着いて感想を書 かせていただく環境にないのですが、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は 「男」の真実を知るための一冊、そして「男」について「女」について考え続け てきたわたくしには山ほどの問題提起をしてくれる本当に面白い作品だと、まずお伝えしておきます。
手厳しい意見があるとすれば 性描写についてではなく (これは見事なもの) むしろフェミニズムの観点からありそうで 大いに論客の皆様で議論を戦わせてほしいと思います。ただしこの作品はかなりの難物で 私に読みこなせる力量があるかどうか、まったく自信がありません。
「吉野東作」という主人公の名前で すぐに「上田秋成」のことを思い出したのは、わた くしがみづうみの長年の読者であるからにすぎなくて、作者の真の意図にはまだ思い至れません。もう少し作者からのヒントをいただけたら、などと虫がいいお 願いをするわけにはいかないでしょうねえ。
今回はあとがきについて簡単な感想を書いておきます。
>『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、老人の性交為をおもしろづく書こうとしたものでは全然無い。今度の作で意識の芯に置いていたか知れぬのは、「一夫 一婦」というある種模範的な、ある種無惨な人類史の「一制度」がもたらしているかと思われるきついヒズミを、せめて指摘だけはしてみたい思いであった。夫には「妻」、妻には「夫」が生涯に占めている、重さ。
「一夫一婦制」を批判するのは女より圧倒 的に男が多いと思いますが、この制度は男が自分の財産や地位を自分の血を分けた子にだけ継がせたいというところから始まったという説を読んだことがありま す。男の女への強権支配の一つでありました。それ以前は日本にも「夜這い」の時代があり、母親の産んだ子の父親は正確には誰かわからなくて、集落全体で育 てたような時代があったとか。
一夫一婦制が確立してから現代にいたるまで、まじめな「男」ほど、皮肉にもこの制度に手枷足枷のように縛られる不自然に苦しんで? きたのかもしれませ ん。「一夫一婦制」がもたらしているかと思われる「きついヒズミ」は男の側により大きい。男の性はどこまでいっても一夫多妻志向だからです。「一夫一婦 制」は男側のモラルがより多く問われるものです。
わたくしの素朴な疑問は「一夫一婦制」を批判する「男」は、はたして自分の妻が他の男と性交渉をもつことを許容するのかということです。妻が他の男と寝 ることに平気でいられるのか、育てているのが自分の子かどうかわからない状態に耐えられるのか。そんな男が一般的になる日がくるとはとても信じられませ ん。吉野東作さんは、自分と同じように妻が若く性的に旺盛な男と不貞行為をすることを歓迎できるでしょうか。妻を愛していればそんな地獄に耐えられるはず がないと思うのです。『暗夜行路』の時任謙作はただ一度の妻のあやまちでさえ苦悩深かったのですから。
「一夫一婦制」のヒズミをいう場合、多くの男は自分が裏切られることは想定外で「一夫一婦制」を批判しているのではないでしょうか。もちろん、現実には 妻側の婚外交渉も少なくないのは承知ですが、夫側の裏切りほど公然とはされてこなかった。むしろ妻の人生の一部には必ずといっても過言ではないほど、夫に 裏切られる悲哀と苦悩が存在してきたのではないかと思います。どんな誠実な夫であっても、この点に関しては浮気性で遊び人の男と似たり寄ったりと思ってい ます。これは女が怒ってもどうにもならないことで、しかたないとしか言いようがないのでしょう。
>「愛と性愛との衝突」を問うている
これは男と女ではまったく違う様相をして いる指摘だと思います。極論をいえば加害者と被害者のようなコインの裏表の問題です。男の場合は愛と性愛が必ずしも重ならないのに比べ、女には愛と性愛は 分けられない。分けられたとしても少なくともこの二つが衝突まではしない。吉野東作との性愛を極めて「愛」に届かない雪繪の絶望はそこにあったのではない かと悲しみます。結末のむごさはショッキングです。結局吉野東作は自身の日常生活を変えることなく生き続ける「男」という加害者であり、雪繪は「女」とい う被害者として終わってしまった。
しかしながら、吉野東作はひどい男ではまったくないわけですから、益々始末がおえません。男が誠実に男であろうとした結果、あるいは男の自然に従った結 果、かくなる惨状が露呈した。吉野東作の罪深さは、男というものの定めであり業であるのかと、女である私は慄いていました。男というのは結局そういう性的 存在であり、それにつきあわなければならない女もその程度のものであるということになるのかもしれません。
演説メールになっていないことを願いま す。この『オイノ・セクスアリス 或る寓話』本文についてわたくしが思うことは、じつはもっと強烈なのですが、それはまたじっくり考えて書いてみます。 「湖の本」のお蔭で、わたくしは一生考えることには困りません。あと何十回生まれなおしても足りないくらい。
今日も猛暑日だそうです。外出などなさらずクーラーの効いた部屋でゆっくりお休みいただきたいと思います。
右眼も大切になさってください。受診も早めになさいますように。
わたくしは午後から外出しなければならないので戦々恐々。
闇 金亀子(こがねむし)擲つ闇の深さかな 虚子
* まことに幸せな作者だと感謝する。
その一方、まだまだスレ違っている要所があるなあとも感じている。
「一夫一婦」制は 歴史的に観て男からの要請、女への強請であったろうか。女性こそが歴史的に久しく切に願望し要請し形成してきた制度かとわたくしには見えている。
明治から(ごく控えめに)敗戦までの(と遠慮しておくが)日本の支配的男社会は上層部や富裕層ほど 「一夫一婦」制など奉じている気も必要も認めていなかったろう。わたしは子供の頃から妾宅へ出入りの男大人の例を幾らも見知っていた。わたしはイヤだと思っていた。
わたしが「一夫一婦」を今度の作で問い直したのは、本来は女性側の願望として起ち上がりながら、西欧的なフリー・セックスやウーマン・リブ、フェミニズ ム等々の思想的洗礼を受け容れ、むしろ性的に解放されてくればくるほど、「一夫一婦」制は、むしろそれゆえの嶮しい制約かのようにも見始めていないか、 と、問うたのである。信頼に足るという広範囲な社会学調査の数字もそれを裏書きしている。解放された今日の女性の好色(コケット)からすると妙に制度的に 「超えがたい制約」に変わってきているのではと。そこでわたしは「性愛」と「愛」の差異を、少なくも認知しかけたか、とは謂えるのかも。
もっともこの作に籠もった主題は、しかし、性では、制度では、無いと自覚している。「吉野東作」の根が、あの平秩東作よりも「上田東作」に生えているか という自覚もそこにあるが、残念ながら長島教授にもわたしの「ひっかかり」を解く文献も研究も「ありませんねえ」とのことであった。
* わたくしの内なる「闇」へまた迷い込む手がかりにも、「第三部」の「あとがき」を読者へお届け前ながら打ち明けておこう、か
私語の刻 湖の本146 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』三部完の後記
むかし まだ子供の頃にも、「親子か夫婦か」という選択にわたしは終始一貫 夫婦 と口にし、内心にも思っていた。「肉親」という存在への徹底的な失望 感 喪失感を持ち続けていたのだと思う。「世間」で出会った「他人」の中から「真の身内」、独りしか立てない小さい島に何人ででも立ち合える、そういう 「身内」をと切望し続けた。生みの親たちや、得た娘や孫を思うとき、冷え切った血縁にひたひたと胸を浸される悲しみに身もよろめく。わたしの内なる愛は (息子建日子と孫やす香と実兄北澤恒彦の他)悉く血縁の外へ外へ漏れ零れていった。新作の長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』では無謀なまでかすかに それを取り戻そうと喘いだらしい。「真の身内 島の思想」は逃れがたいわたしの運命であり発見と願望であった。
今度の長編ではまず「性愛」を問い、「愛」との差異を問うて行く経過となった。しばしば作中に、性愛を「相死の生」と謂い、肯定しつつもそれがとかく 「所有」の思いに帰着し固着するのを惟(おも)い、しかし「愛」とは「共生の生」を謂うのであると思い寄っていた。「性愛」に執(しう)すればむしろ「真 の愛」に背くか遠ざかるのではと。
『オイノ・セクスアリス』に、作者は、「雪」ないし「雪繪」と呼ばれる、まだまだ若い女性を、もっとも多く言葉を費やして創作した。が、思い有って、人と して女としての印象を、内容は複雑なまま説明は一切抜きにすべく、語り手から「相手・他者」として関わり描くのを敢えて避けた。ひたすら「独り」の女をた だ「一方向き」に描いた。ごく最初の出会い場面以外では文字どおりの「対話」場面は無く、ひたすら女の「独り語り」ないしその記録に徹した。こういう書き 方を、わたしは意図して、初めて試みた。しぜん長編の「創作」として、かなり効果をあげたか知れないのは、「雪」「雪繪」と名告る若い女性を、徹して 「メール」という手段でのみ人物表現できたことかと思っている。ちょっと愉しい「ラヴレター」の創作であった。作家として、過去無慮無数に受け取ってきた メールの断片が女性の造形に「ヒント」を呉れいい「役」をして呉れた。「メール」は、通知や交渉や陳述であるより、自然と「恋文」になりやすい表現手段で あろうと、機械(パソコン)を使い始めた二十数年前から予感していた。
結果、女の印象は一面的にだが、徹底した。そのため、あたかも「雪」「雪繪」がこの長編の「女主人公・ヒロイン」であるかとつい読まれるであろう、それ も作者は意図に容れつつ、しかしこの長編小説で彼女「雪」「雪繪」は或る意味、疎外された「独りの他者」のままに終えて行く。この小説の主人公は、決定的 に語り手の「吉野東作氏」その人であり、小説世界は一貫して、彼自身の「生まれ、死なれ、死なせ」て「生きている老い」が、幸とも不幸とも云わず終始無残 なまでに語られる。「オイノ・セクスアリス」の「オイノ」は、読みようでは「老いの」よりも「俺の」でもありますねと、すでに一読者から指摘されている。 早い時期の小説『初恋 雲居寺跡(うんごぢあと)』の「雪子」を「また書いたか」とも指摘されている。この吟味や検討は、「愛」と「性愛」に触れて微妙な より多様の推量を読者に要請するだろう。性愛は「相死の愛」と。愛は「共生の愛」と。その思いを覆す理解に今の作者わたしは思い当たらない。
それにしても、昨今、死なれてしまった人たちのことが、しげしげと思い出される。此の十年掛かりの長編小説も、割り切って謂えば、『死なれて 死なせて』というわたしの主著の一冊をあだかも物語化したとすらいえようか 倶會一處(くえいっしょ)。ま、所詮「罪は、わが前に」いつもあってそんな五 十年を歩み続けた「記念」の作になったのかと。自身 書くべきを、思い切り書いただけ、書かなかったら悔いたであろう。
余儀ない次第で、第一部から、歴史ある正統基督教への「不承の言」を多く吐いている。横道へ逸れたとは思わない。かねてミルトン『失楽園』を繰り返し愛読しながら、今日の解放神学やジェンダーの著の何冊にも目を配ってきた。
性行為の容儀などは、所詮は当事者間のいわば勝手で、ハタが喧しく批評できることでもすべきことでもない、ただそこに犯罪意志や行為がまじってはならな いだけ。しかし性の交わりに、罪、原罪などと持ち込んだ古代・中世基督教の宗教感覚は、普遍かつ不変とは到底思いにくかった。アウグスチヌスの言うように いえば、人類は絶えて仕舞ってこそ神意にかなうのかと反問せざるを得なかった、かえって今日現代世界の性的紊乱と暴走の頑固で滑稽なほどの根は、カトリッ クにこそあると思わざるを得なかった。
作者が踏み込んで書いた分、読まれる方は何かとシンドイことでしょうと思う。それでも作家生活満五十年、少なくも、必然、これは書かねば済まなかった作 と思え、さらに先があるとして、それゆえにかなり多くの、久しい、ことに女性の読者を喪うかもしれなくても、作者としてそれは一つの納得である。納得はま だまだ幾重もの先を擁しているはず、さらに先を先を「書く」ことで彫り起こす以外にない。
「吉野東作氏」を本質動かしていたのは、「生まれた」という根の哀しみと、死者への思慕とで、「オイノ・セクスアリス(老境の性)」は、有ってよし、無くても仕方なく、「相死の生」はどう数を重ねても所詮不毛と見ていたのではないでしょうか、と自分に問うている。。
ソクラテスの『饗宴』を読み返し、此の「寓話」を書きながら、「性愛」を論じていた気鋭の或る学究の本に只一度も「美」に触れて語られていないのに、語り手の「吉野東作氏」が不満を漏らしていた箇所を思い出した。
ソクラテスに「愛」を教える聖なる智者の巫女ディオテマは、「要するに、愛とは善きものの永久の所有へ向けられる」と云いきり、それは、「肉体の上でも 心霊のうえでも美しいものの中に<生産>することです」と言い切っている。「生産は ただ 美しい者の中でだけ出来る」とも。従って「産出に際して運命の 女神や産の神の役を勤める者は<美の女神(カロネー)>なのです」と。
「ソクラテスよ。本当のところ愛の目指すものは、貴方の考えるように、必ずしも美しい者とは限りません、」「美しい者の中に生殖し生産することなので す。」「では、なぜ生殖を目指すのでしょうか。」「愛の目指すところ善きものの永久の所有であるとすれば、必然に出てくる結論は、愛の目的が不死というこ とに在るということになります」とディオテマはソクラテスに教える。あの、アダムとイヴの生殖の愛を決定的に女の躯の死すべきほどの「悪」と否定した 正 統基督教の教父や教皇らの姿勢や理解とは、まったくかけ離れている。ギリシャの性愛にも日本の性愛にも「神」的に美しいちからの臨在が云われ、基督教では 神が見放した女ゆえの悪かのように断罪され、その行き過ぎの是正が性的放埒へ濁流となって流れている、嗚呼。
2019 8/7 213
* 快調な出だしからやや停滞し冗漫に流れかけるところを、思い切りさらに整理したい。今は周章てず急かず、キビキビした運びの中へ面白みを注ぎ入れたい。今なら幾ら手を掛けてもいいのだから。急くまい。
九時半。もうやすもう。
2019 8/7 213
* 小泉進次郎と「おもてなし」女史との「出来ちゃった婚」のアッケラカンと当たり前な会見は、日本の男女の性的関係も「ここまできたか」と思い入る。こ れで、「婚前性交渉の当然感覚」は一気に奔流し、あたかも正当化されるだろう。幸いにこのために両親が夫妻として安定してくれるならいいが、無軌道の「落とし子」としてこの「私」自身のように無責任に 投げ出されずに済むことを願う。わたしはいい養家を得、強い意識で自身を育てたが、誰もが出来ることでない。
「幸せな愛ある夫婦としての結婚と性行為ならば許そう」とカトリックは、男女の性交をまるでイヴ(女性)の堕落行為として、ながい歴史のさきのさきで渋々認知し祝福を約束した。離婚は許されないと。
しかし、 夫婦の愛の不確かさはいたるところで認められ、それ故にも、婚前に永遠の愛を確認し合わねば、しかしそれは「性愛」抜きでは難しいと、若者達は好都合にまずは「からだで付き合い」始める。そして愛よりも性慾が先行し、養育の 責任を父からも母からももたれない子が生まれて、この世で孤立しかねない、あちこちで。現にそうなっているだろう。親たちの子殺しも増えている。
期待の政治家、小泉進次郎ら夫妻には、大きな責任が生じるのを、しっかり理解し担って欲しい。
* このところの私の驚嘆は、嬉しいほど、こわいほど、「アンナ・カレーニナ」にある。これも、要すれば「性愛」「性慾」ゆえの悲惨に陥る。
* 尾張の鳶から届いていた長編へのかなり長いと想われる感想が、ほたしのインターネット・エクスプローラが昨日していないため読み出せないままになって いる。この超古物機械は至る処でひっかかって働いてくれない。単純なメールがいちばん有り難い。幸いにメールは昔と違いよほどの長文も届けてくれる。
2019 8/8 213
* 『清水坂(仮題)』を噛むほどにまたも読み替えして、少なくも前三分の二ほどはもうしっかり煮えていると思える。自信ももって前へ先へ踏み出して行った方がいいのでは。
* 美味そうに食べますねと、小説のなかでのハナシだが、「秘色」「みごもりの湖」などの昔からよく羨ましがられた。こんどの『オイノ・セクスアリス 或 る寓話』でも、贅沢にとは思わないけれど、実に多彩に美味い店で美味い食事を楽しみ続けた。京都だから出来たし書けたし楽しめた。京恋しさ懐かしさをそれ でよほど慰めていた。わたしは、ひもじく育ったので、食べたい人のまま大人になり老人にもなったが、掌をひっくり返したように癌で胃全摘の以降は、もう七 年半になるのに、地を払ったように食べられなくなった。食べてはいけないなど云われていないが、食欲が文字どおりに払底してしまった。ただ思い出は生きて いる。うれしいほどフンダンに生きている。京都時代に美食など出来なかったが、勤めをもち、また作家生活に入っての帰京の機会はまさに食べる機会であった なあと思い出す。
2019 8/9 213
☆ 仙人
お元気ですか。みづうみの白いお髭の写真、文学仙人みたいです。なかなか気に入りました。Tシャツが黒っぽいと、あるいはお着物ですと もっと仙人になりそうです。
「一夫一婦制」が女性側の要請であったと いうのは一度も読んだことも考えたこともありませんでした。わたくしの見解が間違っていたのだと思いますが、女の願望で男に「一夫一婦制」を承認させるほ ど、それほど女が強かったとはなかなか信じられません。男は昔も今も圧倒的な強者です。フェミニズムなんて所詮ごまめの歯ぎしりに過ぎない、特に日本で は。
さらに、もし女側に願望があったとしたら、それは一夫一婦制のかたちをとるのではなく「多夫多妻制」ではないかと思うのですが。
「一夫一婦制」であろうとなかろうと、実 質的に男は自分たちに都合のよい一夫多妻をずっと生きていると思います。建前としての「一夫一婦制」を利用することに男側のメリットもあるから、この制度 が現在も続いている。男側が有利でなければ「一夫一婦制」がこんなに長く続いているはずがないと思います。男は建前を堅持しつつ、自分の好き好きに一夫多 妻を、「吉野東作さんのようにでも」生きている例が多いのではないでしょうか。厳密な意味で「一夫一婦制」を実行しているのは、現在の天皇陛下くらいだろ うと どこかで読みました。
キリスト教の女性蔑視、女性差別はもちろんそうでありましょう。ですが、イスラム教や儒教や仏教に比べたら、まだキリスト教がましではないかと思っていますが、このあたりは如何でしょうか。
イブは諸悪の根源とみなされていたとしても、男を惑わすほどの魅力を認めている点で、女子と小人とは……の世界より女に少し重きがあります。みづうみのお考えを、もし機会がありましたらお教えいただければ幸いです。
昨日 チェーホフの「カシタンカ」を読んだのですが、ため息しかなく相当めげてしまいました。生涯左派に投票し続けた男チェーホフは、ましな飼い主からひどい元 飼い主のもとに嬉々として戻って行くカシタンカという愛らしい犬の姿にロシア国民をみていたのではないかと思い、それがそのまま日本国民のことと重なって しまいました。むごくてせつない話です。傷がひりひりして涙さえ出ない。みづうみがチェーホフについて書いた文章が胸深く響くのです。それにしてもこんな 短編一つにでも、チェーホフの見事なそして救い難い才能が!
明日(=今日)もたぶん猛暑。クーラーの中でお静かにお過ごしくださいますように。
炎 骨の音させて溽暑の立居かな 大野林火
さきほどホームページから仙人さんの写真が消えて さっぱりしたみづうみに変わっていました。少しがっかりしています。
* メールにも人それぞれのクセがあるというか、この読者のメールは少しくむ「挑戦的」であっても快い刺激と問題提起にいつも満ちていて、時にはいささか気押され、閉口もする、が、快くもある。
最近もらったメールに、「この一年は、公以上に私的な人生の転機となりそうです。(今はまだ、そうとし か言えません。)」というのがあり、何、これ、と。メールでは「思わせぶり」に「吾が田に水を引きたげ」な語りかけは、意味をなさな い。インテリジェンスのズッコケのようにしか受け取れない。
* で、さきの率直に端的なメールだが、チェーホフへの思い入れには深く共感。
女性差別は、「イスラム教や儒教や仏教に比べたら、まだキリスト教がま しではないか」とのこと、適確な知識も無くそういう比較は、私には出来ない。わずかに「佛教にくらべたら」という点、他国は知りませんが日本の顕著な祖 師・大師佛教で女性をアウグスチヌスや古代中世の教皇たちが女性に示したような無意味な暴言は誰も吐いていないようです。
源氏物語で、ただ一人、ガンとして光源氏の求愛に従わなかったのは、「槿 アサガホ」という貴女でした。男の来訪と愛をただ待つ寝殿造り對屋や壺の一人になど、なろうとしなかった。
女の誰もが男 制度の一夫多妻を心に厭いつつ随順した歴史は、何よりも「皇室」を第一義の「例」として実在した。日本の皇室は「男系の皇胤皇統」を絶対に必要としたから。
現在、ないし一二代前からの敗戦後天皇さんらが、あたかも率先したかのように一夫一婦制を「象徴」的に実行してこられた、必然のツケが今ないし明日、明後日の喫緊の問題になっています。平成 夫妻の一夫一婦のみごとな実例はまことに麗しかった、しかし、久しく久しい男系皇胤天皇制厳守の日本史が袋小路に入りかけている、とも謂える。
「一夫一婦」を内心に願い続け た久しい日本女性の意向と願望とは、敗戦後の新憲法で制度化ないし同然となり、それゆえの皇室をめぐるてんやわんやはこの先でこそ続くでしょう。
一般国民の性を伴う男女関係は、完全に放免まては手放しの状況へ無軌道化し、男女を問わず、「性的お付き合い自由・出来ちゃった婚当然」の時代へ、実は、もう、とうから歩んでいて、今回「小泉・ク リステル」カップルにより「模範的な社会常識」化したものと見える。久しく久しい男系日本史の果てへ来て、「女の勝ち」機運がいましも見えてきたのか、どうか。
* 「も し女側に願望があったとしたら、それは一夫一婦制のかたちをとるのではなく <多夫多妻制>ではないかと思うのですが」という発言もサキのメールにあっ た。もう少し聴いてみたいが、教会による「祝福」制結婚の事実上の質的無意味化が働いてくると、性的に自由と日常の行為で自認した社会、先行社会では、事 実上の多夫多妻そして子供は社会が養育という思想が揺らめく水の影のように先行しているのは、先進国ほどありえているのではとわたしは観じている。今日の 西欧思想とはよほど異なるけれど、ソクラテス・プラトンらの思索的な討論の中にもすでにそういう兆しは皆無だったのではない。
* ま、深入りできる用意はない。わたしには「清水坂」を駆け上るか駆け下りるか、が、目下の難儀。
2019 8/10 213
* 一日 「清水坂」に立ち竦んで動けない。体験したことのない怕さ。ものは見えて聞こえているのに入れない。「清経入水」の序詞でも似た感じはあったが、あれは怕かったのでなく、不思議なのだった。こんな思いは初めて。
☆ メール、うれしく、
厚く御礼申し上げます。恐縮です。
じつは、本棚の秦さんの本を並べかえたりしていまして、「六義園」に逢えました。
それで、 『廬山』 を読みました。 長い年月を待って、間に合った祖父母に、恵遠になった劉が、
「此の世のことはみな、夢まぼろしと思せよ」の一言 を、また聞けました。
恵遠が、秦さんの日本語で言ってくれてよかったです。
ありがとうございます。 励みます。 励みます。 千葉市 e-OLD 勝田
* 『廬山』かァ。懐かしい。
目の上の書架に、550頁平均のわたしの「小説」選集が18巻分並んでいて、芥川賞候補作となり、瀧井孝作先生、永井龍男先生に推された『廬山』は、そ の第四巻目に、「蝶の皿」「青井戸」「「閨秀」「墨牡丹」「華厳」とともに並んでいる。不十分で恥じ入る作は一つもない。今も読んでいて下さる方の有る有 り難さ。冥利である。
* もう書き進むしかないまで読み替えした。書く、しかない。
「湖の本146 第三部完」の納品へ、きっちり十日。発送の用意はもう出来ていて、半日の歌舞伎を楽しむほか仕事は書きかけの長編を書き進めるだけ。ただ書けばいいわけでない、覚悟して十分にしかと書かないと、惨事に落ちる。勝田さんのメールが、今夜はことに嬉しかった。
2019 8/11 213
* 心待ちにしてきた「尾張の鳶」さんの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』への 批評・感想が届いた。有難う。こうも読まれれただけで、「書い」てムダでなかった。有難う。
しかし「選集」に一巻という纏まった形で作が本になったのは、六月末のこと。「湖の本」版で第一部 が送れたのは桜桃忌だった。
第一部だけで、五十人ほどの以降受取拒絶に遭ったが、予期の範囲。その後にも断片的に感想は届き、そつどわたしは常ならしな い、作の意図や姿勢や願いをこの日記に漏らした、いささか誘導に類するかと気が咎めもしたが。
* 全文の紹介には却って誤解を導きかねぬモノもあり、それは避ける、が、感謝を込めて、なるべく送られてきた感想ないし批評・批判・非難の大方を(整然 とした書きようではなく、日記風であるのだが、)ここに示しておきたい。断っておくが、この人は文学研究者でも批評家でもない。一家庭婦人で、祖母 でもあり、詩を書き繪を描き、相当に広範囲の世界を旅し、京大出という縁からも京都に、京都の貴賎都鄙や差別問題に、とくべつ詳しい人である。私より十ほどは若い。
☆ 感想 (『オイノ・セクスアリス 或る寓話』への)
「今度の長編で、「創作」としてもっとも「効果」をあげたかも知れぬのは、「雪」「雪繪」と名告る若い 人を、徹して「メール」という手段を活かし人物表現できた ことかと思っている。なかなか「愉しい創作」であった。」
作者はそう述べています。
メールという形式は、時間の経過を窺える利点があると同時に、お話し、お しゃべりであるならば、深い掘り下げができないという欠点もあり得るとも。(若い人より年配の人が多いと考えられる)読み手は、彼女を魅力あるヒロインと して捉えきれないのではないかと危惧します。
* 秦 「魅力あるヒロイン」と読まれる必要はなく。若い大学出の普通の女性のいかにも「メール」依存の日々がこうなのであれば、人と しての評価などともあれ、生活も人がらも感覚もきっちりそれらしく伝わると作者は勘定をつけていた。このメールは、モデルなど有って出来る表現ではない。
作者の十年にわたる長い道のりに多くの思索、探求、工夫、戸惑いがあったかを、遠くから察します。
ジェンダーやカトリックなどさまざまなことを思索しての、そのうえでの現時点での総決算に近い思い、問題提起でありましょう。カトリック、プラトンの思想など容易にわたしの理解の及ばない点も多々あるので、脇に置きます。
現実の作者と作中の吉野東作氏が、奇妙に微妙に重複し、同一人物とも。ごく自然な手法ですが、この作品においては重複の度合いが増していると感じます。現時点 で「選集」を読める幾分間近な位置にいる読み手には、東作氏と作者を分ち難く、互いの翳が濃く重なって感じられます。小説家と、出版印刷業に携わってきた人、ダブルの映像、ほぼ重なり、 同一人物として読みます。
* 秦 離れるも近寄るも 作者がわざとの意図で、どう読まれようとも読者しだい。
何故、小説家は他の人に「投企」するのでしょうか。投企・project・・自己の存在を他者に託し、その存在を肯定・了解し、小説の中で他者として描 写することで創造の可能性を見出しています・・が、それ以上に突き放して他者・吉野氏を自在に動かしているようにも感じます。
* 秦 「突き放す」のでなく 吉野東作さんの好き勝手に作者はしてもらっている。
東京ではなく京都という舞台。京都に帰りたいと作者は切望し、帰らず切望するからこそ、京都は理想の土地、故郷。そして時間感覚の曖昧さを自由に遊泳され ています・・ 例えば巨椋池は現在どれ程その名残の水域があるのか、また場面として登場する建物や店舗は変遷烈しいので、現在を識っている者には意外な感も あります。架空の名前だったら構わないのですが・・。
桂川近くの寺の名前など、これは些末の問題というより 小説そのもののもつ自由、秦文学の持つ幻想 性、現と幻の交錯混在融合でしょう。同時に極めて意識的に緻密に書き進めているのだと思います。読み手としてはクイズを解くような興味が加わります。
* 秦 「昨今現在の京都如何」は、小説としては問題外。巨椋池など、むかし、ひどいときは東寺の足もとへも逼ったほどの大遊水池だった し。このへん はみなフィクションの特権行使。東作自身の年齢も、結婚から古稀をさえ超えて行くくらい。「時間」経過は作の中で「たぷたぷ」していて問題なしと。特定の 店の名など、実名にしておいた方が、つくり話にならずに実感で書ける。体験的には知る限り、「作時間」のあいだでは大概みな「実在」していたことだし。
浩氏(ICU名誉教授)が指摘された 少年にとっての「少女」の問題、「性」の目覚めの問題。
性的な部分に関して男の子を育てていないからでしょうか、漸く今になって納得がいく話もありました。男の孫二人を垣間見ていると、既に赤ん坊の時から性器を意識し、それが全く陰湿な要素なくあっけらかんとしており、性は生きる喜びなのだと考えさせられます。
少女、女は異なります。女にとっての性、性交とは「何か」と問われて、一歩も二歩も曖昧な地点で語る女とは明らかに異なる男性の在り方です。
第二部にある女性医師・研究者の性に関する質問に対しての返答は、確かに吉野氏の求めからは遠いものだったでしょうが、女性としてはやはりあの程度にとどまるものかもしれません。
私自身がこれを問われていても基本的にはあまり違う内容を付け加えられません。つまり、一歩も二歩も隔てた所から半ば逃げの姿勢で構えている・・確かに不十分ですね。
性行為そのものについて書くとして単なる個人的な性史を描けば少しは問題提起ないし新局面の発掘になっていたのでしょうか。
例えば田中優子氏の江戸時代の文化研究から生まれた著書『春画の研究』『江戸の恋』や上野千鶴子氏や佐伯順子氏の一連の研究と著書。彼女たちは臆することなく性についても論じています。
若い世代の女性には もはや言葉に臆することなく闊達に自己の経験を話すことなど今更の感があるのかもしれませんが・・。
弁解めきますが結婚している場合の「縛り」もあるでしょう、少なくとも特に女にとって。婚姻制度は、一夫一婦制度、そしてそれに伴う「世間」の判断は容 赦ないのが実情です。特に「家庭」自分の経済基盤を確保すべく主婦は願います。田中氏、上野氏、(佐伯氏?)ともに独身であり、本音・ホンネを言える場を確保 していると思います。わたしにはそのような勇気や価値観は十分にはありません。ジェンダー、フェミニズムなど真正面に据えて生きてきた道筋ではなかったけれど、意識も、現実に対処することにも、決して逃げてはこなかった…とだけしか言えません。
そして日本社会は依然として男女平等からは遠い処にあります。
上記の「浩」氏は述べています、作者は「老いゆく現実、身体的・性的能力低下の焦りとそれに基づく妄念を絡ませて、エロスとタナトスの徹底的 な相関関係を描いて見せたのだと。」
エロスとタナトス、窮極の生きる問いです。
作者は語ります 「もっとも根底へ人間の 男女の 老若の 幸不幸の 信不信の問題を提起しようとした」と。 熱い苦しい思い、覚悟が伝わってきます。
「ふだん記したいけれど出来ない、 出来ないけれどしたかった、 してきてよかった、とても出来なかった、よかった、いやだった。・・そういう赤裸々な 性の描写・表現が かくも徹底して成された」・・性の極致は、人の「生まれて・死なれて・死なせて」に直に交叉してくる。男女の悲喜劇はまっこう此処に生 まれる、多くの目がただ逸らされているだけなのだが。」と書かれている。(7月7日のHP記述より)
それはやはり 男であることにも依っています。夫人は苦笑いされながら、しかし夫であり、作家を見守っているのでしょうか。秦文学にまさに殉じて。妻 として、揺れるものはあるはずです・・。また健康問題から仕方なかったとしても性行為を他の女に任せて安住できるものとも到底思われません。そしてさらに 思うのは、このように書いてしまうわたし自身が解放されていないことを如実に露呈しているのです。
性描写、それ自体に限定すると、無数の人の無数の限りない描写が、そして切実な叫びや涙が溢れてくるでしょう。
吉野東作氏の記述は優しい、性の場面での記述は優しい。裏返せば性を媒介した時、その前後の幾らかの語らいの優しさも。「部屋」と表現されるその場は「家」ではありません。その外では彼東作氏の冷たさを感じます。
小説の主人公、決定的に語り手であり主人公である吉野氏。彼は「生まれ、死なれ、死なせ」て「生きている老 い」が、幸なのか不幸なのかは云わずに終始語っていく。幸不幸、彼に迷いはなく、幸福に生きたい(誰しも幸福に生きたいですが。)人とのつながりある幸福、殊に妻との固く結ばれた絆に一瞬の迷いもなく、運命を感じ続けてきたのです。
女はそのような妻になりたいでしょうか、答えは些か否定的です。
源氏物語の紫の上、源氏最愛の妻である紫の上になりたいでしょうか? なりたくないので す。愛ゆえに一層閉じ込められてしまう女の生き方は残酷です・・勿論閉じ込められていなくても、それでも人は孤独ですが・・。
源氏物語の中で特異な存 在・・最後まで男を拒否した槿という女性・・ただし彼女は身分高く、経済的基盤にも恵まれた存在だったと思います。今日においても経済的な自立は勿論重要 です。(雪・世津子にあっても無視できない問題でした。) 槿が穏やかな暮らしの中で幸せだったと言い切れるか、それは分かりません。
つきつめれば 誰しも孤独な一人であり、疎外された他者として終えていくのではないでしょうか。それは存分に分かっており、早くから感じ取っていたように思います。むごくも寂しくも間違いなく事実・真実なのだと。
* 秦 源氏物語の女性達と、いわば「一夫一婦」のことでは、すこし見解を前に書いて置いた。
この長編物語ですくなくも物語に顕れる限り、「一夫一婦」ゆえに世にも稀な「さひはひ人」と羨ましがられたのは、「明石尼君」ただ一人であり、「一夫多妻」 を忌み厭ったのは他の全ての女人、撥ねのけぬいたのは「槿」が一人、厭って死んだのは「宇治大君」が一人。
女性の「一夫一婦」願望を暗に社会化した源氏物 語は明らかに一つ大きな力になったし、すぐ引き続いて、「更級日記」の著者も名作「夜の寝覚」の魅力的なヒロインに、いわば男支配社会への闘いをすら試みさせ ていた。「そのような女になりたかった」女性は、やはり想像以上に多数であったろうと、わたしは当然のように思う、容易には実現しなかったけれど。
7月11日のHPに
「今度の長編ではまず「性愛」を問い、「愛」との差異を問うて行く経過となった。・・しばしば作中に、性愛を「相死の生」と謂い、つよく肯定しつつ、それが「所有」の思いに帰着し固着するのを惟い、しかし「愛」とは「共有の生」を謂うの であると思い寄っていた。「性愛」に執すればむしろ「愛」に背くか遠ざかるのでは。」と書かれています。
「共有の生」性を含んで、なお共有の性ならぬ生であると強く思います。それ故に性愛を強調したくないとも思います。「これ」がこの作品を読んでの終着点ではないでしょうか。生きる哀しみを思います。
* 秦 以下、まだ「湖の本版 第三部完」を読まれていない方のために、完結への推移に触れた部分は此処には省く。
作者の根の哀しみ、死者への思慕、本当はこのことこそが作者の思いの根底・中核だと。痛切に受け止めながら、同時に厳しい問いかけも始まります。 尾張の鳶
☆ 今「感想」を送信しました。
読み返し最初にファイルとして送ったものを少し直しましたが、感想の域にとどまり 不十分に終わっていますが お許しください。まだまだ読みが浅いのです、痛感しています。
連日の暑さ、そして今週は 台風の行方が心配、ちょうどその頃に関西に行く予定なのです。
『清水坂』の上り下り、いかがでしょうか。
とにかくお身体大事に、大事に。 取り急ぎ 尾張の鳶
* この場で割愛の内容にも、重い指摘や批判がつよく出ていて、それらを引き出せたことに作者として喜び感謝し、おそらく吉野東作氏も頭を下げていると思う。ま、概しては、「尾張の鳶」さんでも、作世界の奥へまで手をつっこんでは読めてない感じでしたなあ。
機敏に察しがきけば、第一部冒頭にわざわざ置かれた短い「雪繪」メールに、「ひとこそみえね(あきはきにけり)」の一句がかぶせてあるだけで、「雪繪」の 自意識そして全作の成り行きに察しがとどく、わたしが作者でなくても、とどく。作の組み立てに、部分の表現と対抗するほど気を遣っていた、ただの趣味で百人 一首の句・句をただ綺麗事には見出しに使ったりはしなかった。
2019 8/12 213
* 心待ちにしてきた「尾張の鳶」さんの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』への 批評・感想が届いた。有難う。こうも読まれれただけで、「書い」てムダでなかった。有難う。
しかし「選集」に一巻という纏まった形で作が本になったのは、六月末のこと。「湖の本」版で第一部 が送れたのは桜桃忌だった。
第一部だけで、五十人ほどの以降受取拒絶に遭ったが、予期の範囲。その後にも断片的に感想は届き、そつどわたしは常ならしな い、作の意図や姿勢や願いをこの日記に漏らした、いささか誘導に類するかと気が咎めもしたが。
* 全文の紹介には却って誤解を導きかねぬモノもあり、それは避ける、が、感謝を込めて、なるべく送られてきた感想ないし批評・批判・非難の大方を(整然 とした書きようではなく、日記風であるのだが、)ここに示しておきたい。断っておくが、この人は文学研究者でも批評家でもない。一家庭婦人で、祖母 でもあり、詩を書き繪を描き、相当に広範囲の世界を旅し、京大出という縁からも京都に、京都の貴賎都鄙や差別問題に、とくべつ詳しい人である。私より十ほどは若い。
☆ 感想 (『オイノ・セクスアリス 或る寓話』への)
「今度の長編で、「創作」としてもっとも「効果」をあげたかも知れぬのは、「雪」「雪繪」と名告る若い 人を、徹して「メール」という手段を活かし人物表現できた ことかと思っている。なかなか「愉しい創作」であった。」
作者はそう述べています。
メールという形式は、時間の経過を窺える利点があると同時に、お話し、お しゃべりであるならば、深い掘り下げができないという欠点もあり得るとも。(若い人より年配の人が多いと考えられる)読み手は、彼女を魅力あるヒロインと して捉えきれないのではないかと危惧します。
* 秦 「魅力あるヒロイン」と読まれる必要はなく。若い大学出の普通の女性のいかにも「メール」依存の日々がこうなのであれば、人と しての評価などともあれ、生活も人がらも感覚もきっちりそれらしく伝わると作者は勘定をつけていた。このメールは、モデルなど有って出来る表現ではない。
作者の十年にわたる長い道のりに多くの思索、探求、工夫、戸惑いがあったかを、遠くから察します。
ジェンダーやカトリックなどさまざまなことを思索しての、そのうえでの現時点での総決算に近い思い、問題提起でありましょう。カトリック、プラトンの思想など容易にわたしの理解の及ばない点も多々あるので、脇に置きます。
現実の作者と作中の吉野東作氏が、奇妙に微妙に重複し、同一人物とも。ごく自然な手法ですが、この作品においては重複の度合いが増していると感じます。現時点 で「選集」を読める幾分間近な位置にいる読み手には、東作氏と作者を分ち難く、互いの翳が濃く重なって感じられます。小説家と、出版印刷業に携わってきた人、ダブルの映像、ほぼ重なり、 同一人物として読みます。
* 秦 離れるも近寄るも 作者がわざとの意図で、どう読まれようとも読者しだい。
何故、小説家は他の人に「投企」するのでしょうか。投企・project・・自己の存在を他者に託し、その存在を肯定・了解し、小説の中で他者として描 写することで創造の可能性を見出しています・・が、それ以上に突き放して他者・吉野氏を自在に動かしているようにも感じます。
* 秦 「突き放す」のでなく 吉野東作さんの好き勝手に作者はしてもらっている。
東京ではなく京都という舞台。京都に帰りたいと作者は切望し、帰らず切望するからこそ、京都は理想の土地、故郷。そして時間感覚の曖昧さを自由に遊泳され ています・・ 例えば巨椋池は現在どれ程その名残の水域があるのか、また場面として登場する建物や店舗は変遷烈しいので、現在を識っている者には意外な感も あります。架空の名前だったら構わないのですが・・。
桂川近くの寺の名前など、これは些末の問題というより 小説そのもののもつ自由、秦文学の持つ幻想 性、現と幻の交錯混在融合でしょう。同時に極めて意識的に緻密に書き進めているのだと思います。読み手としてはクイズを解くような興味が加わります。
* 秦 「昨今現在の京都如何」は、小説としては問題外。巨椋池など、むかし、ひどいときは東寺の足もとへも逼ったほどの大遊水池だった し。このへん はみなフィクションの特権行使。東作自身の年齢も、結婚から古稀をさえ超えて行くくらい。「時間」経過は作の中で「たぷたぷ」していて問題なしと。特定の 店の名など、実名にしておいた方が、つくり話にならずに実感で書ける。体験的には知る限り、「作時間」のあいだでは大概みな「実在」していたことだし。
浩氏(ICU名誉教授)が指摘された 少年にとっての「少女」の問題、「性」の目覚めの問題。
性的な部分に関して男の子を育てていないからでしょうか、漸く今になって納得がいく話もありました。男の孫二人を垣間見ていると、既に赤ん坊の時から性器を意識し、それが全く陰湿な要素なくあっけらかんとしており、性は生きる喜びなのだと考えさせられます。
少女、女は異なります。女にとっての性、性交とは「何か」と問われて、一歩も二歩も曖昧な地点で語る女とは明らかに異なる男性の在り方です。
第二部にある女性医師・研究者の性に関する質問に対しての返答は、確かに吉野氏の求めからは遠いものだったでしょうが、女性としてはやはりあの程度にとどまるものかもしれません。
私自身がこれを問われていても基本的にはあまり違う内容を付け加えられません。つまり、一歩も二歩も隔てた所から半ば逃げの姿勢で構えている・・確かに不十分ですね。
性行為そのものについて書くとして単なる個人的な性史を描けば少しは問題提起ないし新局面の発掘になっていたのでしょうか。
例えば田中優子氏の江戸時代の文化研究から生まれた著書『春画の研究』『江戸の恋』や上野千鶴子氏や佐伯順子氏の一連の研究と著書。彼女たちは臆することなく性についても論じています。
若い世代の女性には もはや言葉に臆することなく闊達に自己の経験を話すことなど今更の感があるのかもしれませんが・・。
弁解めきますが結婚している場合の「縛り」もあるでしょう、少なくとも特に女にとって。婚姻制度は、一夫一婦制度、そしてそれに伴う「世間」の判断は容 赦ないのが実情です。特に「家庭」自分の経済基盤を確保すべく主婦は願います。田中氏、上野氏、(佐伯氏?)ともに独身であり、本音・ホンネを言える場を確保 していると思います。わたしにはそのような勇気や価値観は十分にはありません。ジェンダー、フェミニズムなど真正面に据えて生きてきた道筋ではなかったけれど、意識も、現実に対処することにも、決して逃げてはこなかった…とだけしか言えません。
そして日本社会は依然として男女平等からは遠い処にあります。
上記の「浩」氏は述べています、作者は「老いゆく現実、身体的・性的能力低下の焦りとそれに基づく妄念を絡ませて、エロスとタナトスの徹底的 な相関関係を描いて見せたのだと。」
エロスとタナトス、窮極の生きる問いです。
作者は語ります 「もっとも根底へ人間の 男女の 老若の 幸不幸の 信不信の問題を提起しようとした」と。 熱い苦しい思い、覚悟が伝わってきます。
「ふだん記したいけれど出来ない、 出来ないけれどしたかった、 してきてよかった、とても出来なかった、よかった、いやだった。・・そういう赤裸々な 性の描写・表現が かくも徹底して成された」・・性の極致は、人の「生まれて・死なれて・死なせて」に直に交叉してくる。男女の悲喜劇はまっこう此処に生 まれる、多くの目がただ逸らされているだけなのだが。」と書かれている。(7月7日のHP記述より)
それはやはり 男であることにも依っています。夫人は苦笑いされながら、しかし夫であり、作家を見守っているのでしょうか。秦文学にまさに殉じて。妻 として、揺れるものはあるはずです・・。また健康問題から仕方なかったとしても性行為を他の女に任せて安住できるものとも到底思われません。そしてさらに 思うのは、このように書いてしまうわたし自身が解放されていないことを如実に露呈しているのです。
性描写、それ自体に限定すると、無数の人の無数の限りない描写が、そして切実な叫びや涙が溢れてくるでしょう。
吉野東作氏の記述は優しい、性の場面での記述は優しい。裏返せば性を媒介した時、その前後の幾らかの語らいの優しさも。「部屋」と表現されるその場は「家」ではありません。その外では彼東作氏の冷たさを感じます。
小説の主人公、決定的に語り手であり主人公である吉野氏。彼は「生まれ、死なれ、死なせ」て「生きている老 い」が、幸なのか不幸なのかは云わずに終始語っていく。幸不幸、彼に迷いはなく、幸福に生きたい(誰しも幸福に生きたいですが。)人とのつながりある幸福、殊に妻との固く結ばれた絆に一瞬の迷いもなく、運命を感じ続けてきたのです。
女はそのような妻になりたいでしょうか、答えは些か否定的です。
源氏物語の紫の上、源氏最愛の妻である紫の上になりたいでしょうか? なりたくないので す。愛ゆえに一層閉じ込められてしまう女の生き方は残酷です・・勿論閉じ込められていなくても、それでも人は孤独ですが・・。
源氏物語の中で特異な存 在・・最後まで男を拒否した槿という女性・・ただし彼女は身分高く、経済的基盤にも恵まれた存在だったと思います。今日においても経済的な自立は勿論重要 です。(雪・世津子にあっても無視できない問題でした。) 槿が穏やかな暮らしの中で幸せだったと言い切れるか、それは分かりません。
つきつめれば 誰しも孤独な一人であり、疎外された他者として終えていくのではないでしょうか。それは存分に分かっており、早くから感じ取っていたように思います。むごくも寂しくも間違いなく事実・真実なのだと。
* 秦 源氏物語の女性達と、いわば「一夫一婦」のことでは、すこし見解を前に書いて置いた。
この長編物語ですくなくも物語に顕れる限り、「一夫一婦」ゆえに世にも稀な「さひはひ人」と羨ましがられたのは、「明石尼君」ただ一人であり、「一夫多妻」 を忌み厭ったのは他の全ての女人、撥ねのけぬいたのは「槿」が一人、厭って死んだのは「宇治大君」が一人。
女性の「一夫一婦」願望を暗に社会化した源氏物 語は明らかに一つ大きな力になったし、すぐ引き続いて、「更級日記」の著者も名作「夜の寝覚」の魅力的なヒロインに、いわば男支配社会への闘いをすら試みさせ ていた。「そのような女になりたかった」女性は、やはり想像以上に多数であったろうと、わたしは当然のように思う、容易には実現しなかったけれど。
7月11日のHPに
「今度の長編ではまず「性愛」を問い、「愛」との差異を問うて行く経過となった。・・しばしば作中に、性愛を「相死の生」と謂い、つよく肯定しつつ、それが「所有」の思いに帰着し固着するのを惟い、しかし「愛」とは「共有の生」を謂うの であると思い寄っていた。「性愛」に執すればむしろ「愛」に背くか遠ざかるのでは。」と書かれています。
「共有の生」性を含んで、なお共有の性ならぬ生であると強く思います。それ故に性愛を強調したくないとも思います。「これ」がこの作品を読んでの終着点ではないでしょうか。生きる哀しみを思います。
* 秦 以下、まだ「湖の本版 第三部完」を読まれていない方のために、完結への推移に触れた部分は此処には省く。
作者の根の哀しみ、死者への思慕、本当はこのことこそが作者の思いの根底・中核だと。痛切に受け止めながら、同時に厳しい問いかけも始まります。 尾張の鳶
☆ 今「感想」を送信しました。
読み返し最初にファイルとして送ったものを少し直しましたが、感想の域にとどまり 不十分に終わっていますが お許しください。まだまだ読みが浅いのです、痛感しています。
連日の暑さ、そして今週は 台風の行方が心配、ちょうどその頃に関西に行く予定なのです。
『清水坂』の上り下り、いかがでしょうか。
とにかくお身体大事に、大事に。 取り急ぎ 尾張の鳶
* この場で割愛の内容にも、重い指摘や批判がつよく出ていて、それらを引き出せたことに作者として喜び感謝し、おそらく吉野東作氏も頭を下げていると思う。ま、概しては、「尾張の鳶」さんでも、作世界の奥へまで手をつっこんでは読めてない感じでしたなあ。
機敏に察しがきけば、第一部冒頭にわざわざ置かれた短い「雪繪」メールに、「ひとこそみえね(あきはきにけり)」の一句がかぶせてあるだけで、「雪繪」の 自意識そして全作の成り行きに察しがとどく、わたしが作者でなくても、とどく。作の組み立てに、部分の表現と対抗するほど気を遣っていた、ただの趣味で百人 一首の句・句をただ綺麗事には見出しに使ったりはしなかった。
* 今日もまだ「清水坂」で立ちん坊していた。しかしもう前の長編は一度卒業しておいて済みそう。明日は、さきへ乗り出したい。
2019 8/12 213
* 少し、少し、前へ出た。これからが ややこしい。上手くすると爆発するが、不発に終わるとみなやり直しになる。
* 今日はきまりの妻の検査と診察。パスしてくれたらしい、明後日は朝涼しい内に出て、歌舞伎座真夏の第一部だけを楽しむ。二十一日には、「湖の本146}『オイノ・セクスアリス 或る寓話』三部の完結編を呈上する。これで本当に十四年の仕事を手放せる。
「第一部」だけで以下不要と断られた人数は、妻の調べで、ほぼ三十人ほどと。思いの外数寡なかった。どっちみち、決して書かずには済まなかった「作」であった。体力も気力も我慢も要った。
次作も「いい脱稿」に成功すれば、奇妙意欲の長編を送り出せる。すくなくも、私だから書ける、書いた物語になる、「湖の本」の二巻分ほどのちょっと怕い長編に纏まるだろう。
* 連作を心がけていた『女坂』の二は、もう書けていて、次いで三を三として書くか、別に自立の一編にするか思案している。
「信じられな話だが」久しい宿題で抱き込んでいる上越を舞台の作もあるが、現地の海と川と山を見なければ。もうそれはムリか。
上田東作(秋成)若い日々の思慕の物語が書けるかもしれない、ただ残念にもわたしは秋成の昔と限らず大坂を識らないので困っている。九割九部参考文献の「無い」ところへ首を突っ込むので無謀とも、便利ともいえるが。
そしてもう一つ、わたしの書ける材料が(具体的には何も知らないので、思い切った架空の組み立てになるが、)兄恒彦が亡くなって以降念頭を去らない舞台が見えている。
この調子では、まだ潰れて死ぬわけに行かんなあ。さっささっさとやらないととても時間が足りない。
とにかくも『選集』33巻を仕遂げること。
出せば出すほど赤字を山と積む現行の「湖の本」は、続けてという読者の有り難い声が強い。妻にかける体力的負担をどうかして庇いたいのだが、アルバイトを頼むしかないか。本に出来る材料は跡絶えはしないので。ヘタな戦争に國が引き摺り込まれないよう願う。
2019 8/13 213
* 「唐物語」も「沙石集」も、その他どんな本もみな相応におもしろく幾らでも読んでしまう、ただ、ぐったりからだを横にしてでないと、疲労感に負けてし まう。そして寝入ってしまう。ただ暑いから、だけではない気がする。体力がないと創作に妥協や尻込みがでかねない、それを恐れる。
* 梃子入れにまた夜分を費やし調べ読みに集中した。腹具合、よろしくない。
明日ははやめに出かけねばならず、からだも休めておかねば。
2019 8/14 213
☆ ごぶさたしています。
秦さんは、もう「清水坂」ですのに、まだ、「寓話」に、とらわれていましたが、作品は一人歩きしていいのだ、と気がつき、やっと私なりに読めました。ほっとしています。
めずらしく、作品について何度も書かれていましたね。それに、生活と意見のはっきりした言葉も新鮮です。
毎日の、暑さがこたえているのか、なにもかも変調です。
あした(=今日)は、余力をはかりながら、(=歌舞伎)楽しんでいらしてください。
猛々しい天候にも、お気をつけて。 柚
* ちょっと「寓話」の話をしすぎたかと反省しているが、ま、それだけ吐露した容量も多かったかと。方法的にも常にない試みも無遠慮にしている。話題も方 面もけっして淡泊でなく、また幾隅かで作者ひとりひそと楽しんでいたりもする。えげつなくいえば此のさくを論じられるなら秦の少なくも全小説を論じ直すぐ らい奈コトになるのかも知れない。
* 留守の内にやさり『寓話』へ踏み込まれた編集者、研究者のありがたいお手紙も届いていた。ただ、なんとも知れず気が萎えて疲れてしまい眼も弱っている ので、明日へ送っておく。じつは「清水坂」から目覚ましく遁走しかけていもいて、そいつをシカと追いかけるのにはよほど気力と体力と筆力が要る、むろん想 像力も。ビビッテはならない。
2019 8/15 213
☆ 残暑お見舞い申し上げます。
台10号が上陸と、連日落ち着かぬ気候、お躰案じています。
先日来、御選集三十一巻と『湖の本145』を頂戴し、お礼が遅くなり失礼いたしました。
平山周吉さんの『江藤淳は甦える』800頁の力作を読み終り、二男の車で久々に帰省(銚子)、墓参も済ませ(済みません 以上、言訳です)、連日深夜、 十年がかりの大作『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を拝読いたしておりました。『湖の本144』で第一部拝読、御選集で第二部から第三部に入ったところ で『湖の本145 第二部』を頂戴いたしました。経緯はともあれ「オイノ・セクスアリス」のヒロイン、雪繪(湖の本の表紙繪は雪繪の裸身そのもので、絶頂 期の表情まで描出、と感嘆しました。)
我等がヒーロー吉野東作はほぼ小生の年齢と同じ、それ故に、余計「ユニオ・ミスティカ」の意味がこたえ(三字傍点)てきます。
何はともあれ、主要部の二人の逢引を説明抜きでこれだけ描写するのは、相当にエネルギーを要したことと拝察。姉芳江や妻道子と東作の関わりの深さはこれから先々考えたいと思い、加納世津子の投身自殺の効果思案を巡らしたく。末尾の五行は納得します。
ともかくご自愛を。御礼迄。 講談社役員 徳
* 「雪」「雪繪」をヒロインと読むか読まないか、そう書いているか書いていないか。そこが作世界の大きな読みまた批評の割れ目になる。
☆ 拝啓
ご無沙汰致しておりますが先生にはお変りなくお過しと存じます。
御作「オイノ・セクスアリス 或る寓話」を拝読して、数日が過ぎました。どういう言葉で申し上げて良いのか、なかなか気持ちに添う言葉がみつからずにおります。
実に難解な御作と存じました。いわゆる小説というものとは違う力がありました 表現の形式も、手紙というより メールのようでもあり、「某年 春 某 日」式のところはにっきのようでもありました くりひろげられていく話、人物、書物等々、時代や空間をこえて洪水のようでした 死生観から文学論まで、ど こを拝読しても、それはそれとし一つの世界があるように思いました ふと思いましたのは、生きている、生きてきた過去をふり返ってみると、万華鏡を覗く ようなものかもしれないと、
遅くなりましたが、「湖の本」145 ありがとうございました 御礼申し上げます 「私語の刻」を参考にしても、「オイノ・セクスアリス」は難解でした。
「私語の刻」でお書き下さった「オイ」が「自分」という一人称については、『ふるさとの歴史散歩 武雄』という本の巻末にある「知っておきたい武雄の方 言」に書かれています。高校までは武雄市内で育ちましたので、いまでも郷里の人と電話する時は、方言です 御国訛は関所の手形そのものです つまらないこ とを書きました ご海容下さい
まだまだ暑い日が続きそうです どうかくれぐれもご自愛をと願っております。
御礼まで 敬具 相模原市 馬渡憲三郎 前・藝術至上主義文藝学會 會長
* 徳島さんに「最後の五行」に「納得」したと言われたのが、作者として感慨深い。この五行に「怒った」読者も有った。
2019 8/16 213
* ジリジリと「清水坂」で苦行しつつ、気慰みに、「選集 第三十二巻」に収録小説集を検討、目次を立てていた。いわゆる版元からの単行本出版にはしな かった、みな「湖の本」版。さきざきでまだ新作が出来ると思っているが、この巻では最新作長編「清水坂(仮題)」で締めくくれるようでありたい。最終巻に は、「私」ものの思索・感想・記録・年譜等々を取り纏めたいが、未公表・未収録分を含む詳細な作品年譜までは手が届かない。私自身まだ生きているのだか ら。
* そこへ京都から、写真。 嗚呼!
尾張の鳶・寫 今宵 京の大文字 2019 8/16 213
* 作家として迎えられたころ、何かというと「異端の正統」「美と倫理」の作家と謂われ、 また、書かれた。「王朝文化の」とも「中世論の」とも「辛口批評の」とも「谷崎研究家」とまで謂われた。異存など無かったが、看板は無用と思い、いつかは 「性」「性愛」を真正面から書いて論じたいと思ってきた。広い読書世間へは出ていないけれど、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』はわたくしの文学生涯晩 年に一つの結び目として、ま、働いてくれたようだ、書くべ気きを書いた、なんとか書いて置けたとやっと思うことができる程度に、有り難い、読後の感想や反 応も得られた。
* 夜中に何度か目ざめてはいるのだが、半醒半睡のまま小説のさきを夢中にまさぐっていて、朝の目覚めが遅くなる。何にしてもこの悪気候、睡れるなら十分に睡っていたい。 2019 8/17 213
* 失神しそうなほど蒸し暑い。ジジジ、ジっと書き進んでは戻ってまた書き、ひだるく潰れそう。休まないとキイの字も見にくい。一気に行くのか。躊躇い待ちつつ機を獲て出るか。
* 昨晩もらった京の「大文字」の写真は美しく胸にも目にもしみて、泣けそうだった。
* 懸命に用意してくれる食事がほとんどとれなくて妻に気の毒、だが食べられない。食べたくない。私も、困る。息切れの「清水坂」に祟られているのか。ほ んの一の思いつきというか不審というかに取りつかれて、今度の小説は、いうならば中学高校の頃にはもう頭にあった疑念の持ち越しなのである、何というしつ こさか。最初の疑念は、ものの一、二行の言葉で示せる、のに、いま問題の「清水坂」はとうに厚めな「湖の本」の一巻分を超えていて、まだしばらく脱稿とは 行くまい。難しい理屈を述べ立てて論攷しているのではなく、面白い物語に展開していると胸を張って佳いのかも知れないが、なんだか尋常ではなくて、書いて いる当人がぐるぐる巻に締められている。
でも、立ち往生してられぬ。一気呵成と謂う。一気呵成こそ必緊肝要の難所を、いま、突っ切らねばとてもモノがのどを通らない。
* 一、二歩をとにかくも跳び出した、かも。
もう目が見えない。
2019 8/17 213
* 心身両面で、ヘバッている。湯に漬かっても疲れただけ、何の知恵も涌かない、突き出てくる衝動が何もない。ショパンにだけ慰められている。コンソメの スープ一杯と柔らかな目玉焼き一つ。それ以上の食欲がない。二十一日からの第三部完の「湖の本146」を送り出せば、十日でも二週間でも旅のできるほど気 は楽になるのだが、この暑さとこの体力では危険なだけ。
小説はほぼ申し分なく進んで、最期を迎えようとしているのだが。アタマのなかで平凡な常識が働いては困るのであって、そいつを蹴飛ばす勢いで真っ暗闇へ跳び込みたいのだが。今月は27日に聖路加へ出かけるが、雨が降って少しでも涼しいといいが。
2019 8/18 213
* 頑強な 「海」の壁に真っ向衝突、手も脚も出ない。ショパンの、或る一曲だけがいろいろの演者の演奏で次々に美しくこの部屋を満たしてくれているが。 此の世にとり残されたものの悲しみが筆を重くしている。もう此処で此の作の筆は折ってもほぼ成っているのだと諦めをつけたくなるのが危うい。
聴いているこのショパンの、この同じ一曲は、なにという題なのだろう、なんと美しい。
ノクターンの20を、ピアノ、バイオリン、チェロ、ファゴット等で競演しているらしい。
* 「生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺」という原稿で、ショウペンハウエルは、性欲や性衝動や交合や懐胎に関連して男女の性の問題 に手厚くかつ率直に触れている。わたしの今回の仕事は直接密接に彼の論説に近縁し、男の交合意志や、女の懐妊にかかわる感情などに接した微妙な道を歩いて いたのが分かる。
* もう今夜は時間切れ、明日の労力作業のためにも、まだ八時半でしかないが、さっぱりともうアキラメて、休息しておこう。今度の小説は、この直前の「セ クスアリス」とは大違い、ひたすらの物語であり、だからラクとはとても行かない「クソ」とつきそうな「hatac」に旋回したお話なのですが、書き手が目 をまわしててはならず、「セクスアリス」の方は疲れという不安なく書き終えられたが、今度のは。じつに辛抱を要している。やれやれ。
2019 8/20 213
* マ、マ。そんなことより「清水坂(仮題)」へ確乎として立ち帰らねば。もし他の人がこれを書いていたならわたしはきつい技癢を覚えるだろう、それほど、とっておきの世界・話材なのである。
この「技癢」ということば、むかしむかしに鴎外先生の『ヰタ・セクスアリ ス』の初めの方で、漱石先生が『三四郎』を書かれた、作の鴎外作の語り手「金井湛」氏がいたく感じたとあって、覚えた。新潮の辞典では「自分の才をみせた いこと」「他人のすることがもどかしいこと」とあり、わたしはむしろ「自分の腕がむずむずしてしまう」ことかと読んできた。なるほどなるほどと思ったのを 忘れない。そんな述懐が許されるほどうまくいってるかどうか分からないので気が気でないのが、本音。
2019 8/21 213
* 「書く」ことをのぞいて、いま所用は次の火曜に聖路加へ通うだけ、とは、うそのよう。ま、そう極端でもないのだが。とにかくも『オイノ・セクスアリス 或 る寓話 湖の本144-6』の仕事は終えた。『選集題三十一巻』としても収まりがついている。この解放には、心底、ほっとている。とっておきのワイン二 本の二本とも栓を抜いてしまった。
さ、次が待っている。次の次も待っている。
残暑はまだ過酷だろうが、今日は小雨。機械の不調など成るようになると気を取り直して、前へ踏み出そう。
どうもわたしは、気持ちよく見た目もよく「枯れてみせる」ことなど出来ない男。なまなましいほどまだ「こども・新制中学生」少年のシツコサが遺ってい る。それも、よしとしよう。欲しいのは、少しは動ける「体力」なのだが。せめて、少し遠くまで電車に乗りたい。よく晴れた富士山を新幹線からでよい、近く で観あげたい。
* 「最上のものの悪用は最悪となる」としョーペンハウエルは書いている。「純粋な僧侶は最高の栄誉に価いする存在である。けれども殆ど大抵の場合僧衣は 単なる仮装なのであり、この仮装の影に本当の僧侶がひそんでいることは恰も仮装舞踏会の場合におけると同じように稀なのである。」と。ま、そんなことなの だろう、わたしは今それへ深入りの気もない。
子供の時、松原の珍皇寺に六道参りにつれて行かれ、そこでも怖く、家に帰っても床についても怖く泣き叫んだのを覚えている。小説家になって『此の世』 『廬山』を書き『マウドガリヤーヤナの旅』を書いた。けれど今は、わたしは死後の世界を信じていない。かすかにも畏怖の思いが湧くなら、それはもう法然の 「一枚起請文」に全面依託してなにも恐れない。ただもう現世の愛と親しみとから永遠に離れるのを惜しむ気持ちだけ。 2019 8/23 213
☆ 秦恒平様
『オイノ・セクスアリス』第三部をいただきました。ご厚意に感謝します。
「私語の刻」で記しておられることですが、女性の側からの一方的なメールを動力にして、二人の関係を始め、そして終わりに至る手法を、私も面白い試みと 感じていました。その手法が真の対話なき人間関係の不毛を象徴していると受け止めました。三回に亘る「私語の刻」は重要なので、選集に収録されることを期 待します。
前々便で記しましたが、現代のプロテスタント教会はキリスト教が長く陥ってきた性の抑圧からかなり解放されていますが、現代に出現したプライヴァシーの 時間・空間における個人の自由な行動と、神の前で誓約した夫婦の関係をどのように調整するかは、キリスト者に課せられた課題です。キリスト教は血縁的な家 族ではなく、人格的な信頼関係に基づく「ホーム」を重視していますから、ホームの信頼関係を壊さない範囲での個々人の自由は、神学者バルトの例に見られる ように、ある制約を課して認められる余地があるでしょう。しかしキリスト教は「対話性」を重視しており、同性愛を含めてセックスは対話の特別なかたち(第 三者を排除した関係)として考えているので、このような関係を夫婦以外に築くのは、通常のキリスト者にはちょっと負いきれない重荷です。
酷暑の峠をようやく越えたと実感できるようになりました。
ご夫妻のご健康をお祈りします。 ICU名誉教授 浩
* 得難いご示唆を頂戴したと感じ、内心に深く感謝申し上げている。
* {女性の側からの一方的なメールを動力にして、二人の関係を始め、そして終わりに至る手法」とは間違 いでないが、この「吉野爺さん」からもメールはそのつどに出ていたはずだが、それを敢えて交換メールにせず、女性からのメール一筋で状況をさせたことで、 重かれ軽かれ女の存在感と言葉の味が出せたのだと思っている。若い女と爺さんのメールがえんえん交換剃れて表へ出ていたなら、堪らない通俗に陥る。雪絵の メール一本槍にすることで紛れもないこれぞ今日の恋文としか謂えぬ効果をあげ「人」も表せた。ばかげた対話をえんえん読まされてはだれでも往生する。爺さ んのよくもあしくも「根性」は、自然と「某年・某月・某日」に尽くせたと思う。
2019 8/25 213
* 明日午後の診察(いつもご簡単)に築地へ出るが、幸いに校正のゲラが無い。めったにない期間なので、書きかけの「清水坂(仮題)」原稿をプリントし、 読めるかぎり外の空気なり場所なりで読んできたと用意した。かなり煮詰まっているので、「長編」と謂うほどには成らないのかも知れぬが、しっかり書き込み たい、なにしろわたしの作である、とろとろと坂道を水の垂れ流れるような簡単ななロモノではない。わたしの作を読み慣れ愛好してきてくださった方々には 「清経入水」や「秘色」の昔と読みあわせてくださるだろう、そういう最新作にしたいと願っている、難渋してはいるのですが。
2019 8/25 213
* 途中までの最新作をまたまたアタマから読み直している。二十度ではきくまい、読み返すのが一等の推敲になり添削になり先へ展開への推力になってくれる。これをイヤがらない。前作でも繰り返し繰り返し読み返して行く間に作に血が流れ肉がついた。
* 依頼を受けW書き始めたという作は、わたしにはむしろ少なく、自身書き下ろして親しい編集者に読んでもらうことが、後々ほど多かった。
正式に依頼されて書き始めたのは、新潮新鋭書き下ろしシリーズへの『みごもりの湖』そして新聞連載小説の『冬祭り『親指のマリア』 また岩波の雑誌「世 界」に連載の『最上徳内 北の時代』や「太陽」などへの書き下ろしがあったが、だんだん、自分の書きたい作をだけ主に書くという生活へ引き搾っていった。 「湖の本」創刊という事業が決定的にわたしを「騒壇余人」へと自覚させていった。
創作者としての五十年、わたしはお休みしていた時期を一度も持っていない。
2019 8/25 213
* なんとも心身怠く、ともすれば寝入ってしまうが。処暑のバテで、わたとしては多年夏バテは九月も中頃にヒドかったのが、一月早い。凄いほどな暑さの中 で、わたしとすれば二篇多年の創作で四苦八苦したのが堪えていて、のこる一編行き詰まりの苦境に喘いでいる。先の一編への読者からの反応反響もさすがによ 今回は重い重い、今日も例になく多くのお手紙をいただいたが、よくも重くもハラに堪えた。「湖の本146」は『オイノ・セクスアリス 或る寓話』三部の完 結編で、結末は、読者の百に九十九人はひろいんと目されていただろう若い人妻の投身自殺というむごい悲劇で終えていて、結語の一行は(作者自身ではない、 が)「物語」終始一貫の語り手のことばで、「分かっていた。むごいと知りつつも。」と 全編の「完」を告げ終えている。いますこしこの一言に先立てての、 彼「吉野東作」老人の見解は恁うである、
ユニオ・ミスティカ=性一致の恍惚境は、まちがいなく在る。叶う。
だが、男女の愛、大きな愛には「その先」が、まだ有る。人と人の愛に、どんなに良い「性」があっても万能の通行手形ではない。
吉野に、此のわたくし吉野東作に謂えたのは、それだけだ。
分っていた。むごいと知りつつも。 ──完──
* 小説の「結び」はじつに難しくて気を遣うが、こんなに過酷な結びを書いたのは初めてだろう。
これへいたる、ほぼ千枚余の長編小説は、時を経るに従い多くを、ことに若い未婚・既婚の男女にも、家庭の、また老境の夫婦にも問いかけ続けるだろう、性と愛とを。
* それにしても、多くコレまでに戴いた反響に、動かぬヒロインと目されているらしい若い人妻へのに批評がマッタクと言っていいほど無いにも作者は驚いている。
* たくさん頂いたお手紙お便りの紹介は体調を憚り、せいぜい気概も体力も新作のほうへまわしておきたい。
2019 8/27 213
* 新味に富んで静かな義士外伝といえた 「薄櫻記」 よき死に場所を求めて生きる武士が、剣士が、哀れであった。丹下典膳(山本耕史)、千春(栗本幸) 愛ある佳い夫妻であった。
性愛は、こうはならない。性愛は所詮は「欲」 性欲、愛欲、所有欲を出ない。典膳と千春のような夫婦愛やよき友愛は、究極「思ひ・想ひ」という「火」の愛に溶けて結ばれる。結ばれないのはニセ夫婦 エセ友人に過ぎない。
* まえにちょっと触れておいたが、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を読まれた殆どの方が「ヒロイン」と疑われなかった「雪繪」へ、同じ女性の読み手から、「結末を哀れ」がる以外にほとんど的確な批評の出て無いことに、じつは作者は驚いている。
*やがて十一時半とは驚いた。疲れていて当然。
2019 8/28 213
* それでも十二日には、秀山祭。久しぶりに、しかも、新幸四郎の弁慶と寺子屋の源蔵が楽しめる。三月には、体調を損じ、舞台途中に、タクシーで帰宅した。そういうことの無いように願う。
十月には、二世新白鸚の帝劇「ラ・マンチャの男」のいい席が用意されてきた。楽しみ。
もう一つ期待しているのは松たか子の新しい舞台だが、座席、余り希望が持てそうにない、人気だからナア。果報は寝て待とう。
* こうして気を他へ逸らしながら、なんとかなんとかと小説の先を想うのだが。読む、読む、読んで活路を得たい。すこし、休息。ショパンが美しい。それに しても印象的にとびきり美しいメロディも字音ではに描き取れない。或る箇所、ピンポポ ピンポポ ピポピポボン ときこえるのだが。
* 読み返す。読み返す。どんな効果が期待できるか分からないが辛抱して読み返しながらいろいろと想っている。
この『清水坂(仮題)』は、07.02.12の始筆と記録されている。今日は19.08.29である。なんという永もちの執着か。つまりそれほど面白いと受け容れて書いてきた、ただ、同時期にあの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』が横へ並んで走り出した。
* しゃーないや、ないか。一つは仕上がったのだそれを肯定しておいても一つに粘るだけ。欲しいのは、根性より体力。
2019 8/29 213
* 午前十時すぎ。読みに読み、贅肉を殺ぎにそいで「湖の本」の一巻で収まるほどにと願っているが、多彩のあやは締め殺さずはんなり生かしたい。ときど き、作者の方で目が回りそう。物語のそれも特徴かと想っている。「かたり」ということに、強い興味共感も恐怖もある。「いづれのおほんときにか」とか「我 輩は猫である。」という「カタリ」には自在な可能性が働いていて生き生きした興趣が光り出す。すぐれた小説ほど、「かたり」の自在と工夫とが産み出す「不 思議」を生かす生きた「声」が聞こえる。
2019 8/31 213
☆ 或る寓話 拝受しました (波)
湖様 「湖の本」を長い間ご恵送いただいているにも関わらず 何のご挨拶も申し上げない失礼を心からお詫び申し上げます。
この度は「或る寓話」を拝受いたしました。 まだ一読しかしておりませんので浅い感想しかお伝え出来ませんが 女性の性愛と愛の身勝手さ、を感じております。
持病はいくつかあるものの 何とか元気にしております。
一昨年伯母と母を相次いで看取りました。
蒸し暑い日々、どうぞお体に十分気を付けて 執筆活動を続けられますよう、遠くから応援させていただきます。 波
* 懐かしい。「恵送」どころか多分に永く叮嚀にご支援頂いてきた。経営者であり大学の講師もしながら、高齢のお年寄りを身近に日々介護されていると分かっ ていて、つい伺うことも遠慮していたが。やはり寂しいことであったと。私の此の歳では、赤ちゃんが生まれた喜びよりも、身寄りまた自身の年の弱りを聞くこ とがもっぱら。
「何とか元気に」の一言にふと安堵する。
心嬉しい久々のお便りであった。感謝。
短い当座の感想のようでありながら、男性の、ではなくて「女性の性愛と愛の身勝手さ」という指摘・批判は、これまで接した大勢さんの感想に、無かった。なぜかなあと思っていたのである。ただし斯く謂われている「女性」が「誰」を指さしているのかは明瞭でない。
☆ 「オイノセクスアリス・ある寓話」の感想文のつづき (辰)
秦 兄 8月2日に「オイノ・セクスアリス・ある寓話」の読後感をつぎの出だしで送信した続きを少々。
「『合 は離の始め、楽は憂の伏すところ』で、これ以外の結末はないだろうと予想していたので最終章は一応納得できた。一応と書いたのは読み終えた読者諸氏がウー ンと唸るとすれば、それは最後の雪の消え方と原因に戸惑い、様々な反応があろうという意味。この大作を完結させようとすれば、松と雪の関係をこれ以上つづ けるには無理があり、秦恒平と吉野東作がジキル博士とハイド氏であれば松は死ぬところだが、秦=松ではそれはならず、となれば雪が溶けて消える以外の結末はない。
遺書でもないかぎり、自死の原因について第三者の無責任な詮索は死者を冒涜することになるのだが、それでも多くの読者の感想や批評を兄以上に日録によむのを楽しみにしている私は野次馬である。」
と書いて兄の労作に対する読者諸氏の感想や批評を楽しみにしている一人だが、秦文学の愛読者は性を主題にしたこの作品にはいささか戸惑っておられるようだ。
そんななか、或る女史の7月15日の掲載文には大いに頭を掻くところが多々あった。
作者はこの作品で多くの問題提起をしているが、その一つ「一夫一妻制度」について語り手の吉野東作氏は明言していない。病身の妻を慮って性生活から遠ざかっているときに雪繪が現れた。
しかし、一触即発の欲情も最初の性行為にいたるまで数年を要しているところが心憎い。雪繪と性関係を持つことで妻に対する後ろめたさを他の気配りで補填しているところなど、秦恒平と吉野東作は私の好きな「ジキル博士とハイド氏」さながらで興味ぶかい。
読 者もまた二重人格的性質を多分に持っていよう。しかし、日録に送信することは実名・ハンドルネームを問わず、その人の思いが反映される。話題が当たり障り のないものなら気楽だが「性」に関わると送信者の実像に直結するから簡単ではない。読者諸氏が口を閉ざす所以であろう。
東作は妻の性生活の途絶えに対する思いの記述を避けている。一夫一妻制に触れる以上、この辺の描写も多少要求される。妻は東作の情事を知ってか知らずかも含めて。
作者「私語の刻」のことばを借りれば、「すべてが『吉野東作という私人』の走り書き、書きっ放しの体裁で・・・」と、するりと躱されるのだが、私はここに秦文学の一大特徴をみる。他の作家は延々たる「私語の刻」を持たない。いまでこそHP活用の作家はいるが、「私語の刻」を嚆矢とする。作者からの一方通行でなく読者との双方向性はマスコミ(アナログ)とSNS(デジタル)の相違とおなじである。
作品はいったん作者の手を離れた瞬間から全ては読者の読みに委ねられるのだが秦文学はちがう。30年以上にわたり「日録」をつづけている偉大な業績はこの作品に至って一段と光彩を放っている。
秦夫妻が並々ならぬ老躯の労苦を厭わず私家版に拘る所以は実にここにあるのだとおもう。私は秦文学を一言で表すならこの点を挙げる。「私語の刻」を持つことの意義は計り知れない。
案ずることはただひとつ。視力にはじまる身体の衰えである。私もキーボード上で隣接のキーを叩くこと屡々である。あるのは意欲と気力のみ。あらゆるサプリメントを用いてつぎの大作の完成をねがう。独断と偏見による私の音楽サプリが兄に役立つことを念じて。
一夫一妻制度や宗教との関わりについてはまた別の機会に。 2019-9-1 京・岩倉 辰
* モノ語り とは 鬼・陰(もの)の語 りで、近代日本で謂う「私小説」の筆致や意向とは次元がまったくちがう。「吉野東作」は「もの」としてほぼ自在に好き勝手に「カタッ」ているがそれが「騙 り」でないとは誰にも謂いきれず、むろん秦 恒平とは濃厚に「有縁」そうに構え利用しているが、所詮「無縁」の架空人である。「鬼・陰」は自在に闇の奥から語りかつ語れる能と場をもっている。作者秦 恒平はそういう鬼・陰としての「吉野東作」を呼び出してきて語らせかつ読者を騙らせている。不思議な「遊戯」として人間社会に登場した「物語」というもの の、それが本性である。
「辰」兄は、「ものがたり」の責任を作家にとらせたそうだが、多くの読者も「鬼・陰」世界でなく「現実(リアル)の娑婆」の事や思いや行いのように読み たがられるようだが、そこで蹴躓いていれば、新聞記事を読んで憤慨したり同情したりするのと変わらず、それでは「物語という文学」が楽しめないのでは、な どと云うと、それも秦の高踏な韜晦であると攻め責める道もある。「文学の作品評」は、なかなかラクなものでなく、古めかしいが眼光紙背に徹して尖鋭な記憶力・推理力・芸術のセンスを持たねば逼り切れない。
* 妙なことか当たり前か知らないが、「性交為」表現の数知れず繰り返されることにみなさん驚かれている、らしい。これほど多年に亘り多数回の描写はさす がに驚かれただろうが、その表現自体も一つの語り・騙りの芯に意図して物語られている。「性交為」の表現などわたしの五十年の作家生活で書かれていない作 の方が多いほど当たり前の課題で、あの可憐な「慈子」このかた、太宰賞の「清経入水」を経て、魅力に富んだ女性登場でそれを欠いている例は、極く初期の 「畜生塚」ぐらいか、それさえ洛北円通寺前庭花の蔭でのキスシーンには描写の力をこめた。今回作で、性の表現に及第点を下さった読者が一人だけあったのを 忘れていない。じつは、その手の場面をもった他人の仕事のその箇所の汚さやいい加減さにわたしは何十年吐き気しそうに惘れ続けてきたのです。
* 上出の「波」さんからの、「女性」のと出た一言は、この「鬼・陰語り」のフクザツな騙りを突きぬく厳しい道になるかも知れない。語り手吉野東作氏ない し作者の「性愛」と「愛」を、なんだか「辰」兄はじめ問いたげに見えるのですが、「語り手は騙り手」のただの化け物という視点があり得ます。
* 新作の方、機械仕事に楽なように大きな字で書き進み、あらましだが、いま96頁まで下書きできている。手入れ分も含めもう20頁書くと「章」を変える のだが、変えなくて「書き上がる」なら書き上げたい、今の機械原稿でいうと700行更に書き下ろすのだが、可か不可かの見通しは立たない。この仕事に魘さ れて奇怪な悪夢に夜々疲労してしまうのだろう、だが仕方ない。
願わくは、わたしも妻も健康を維持し、躓いて入院騒ぎになどならずにいたい。そうなったら、ほぼもうお手上げになる。祈る思い。
2019 9/1 214
* 亡き近藤富枝さんの文学碑が軽井沢に出来たとご遺族より通知。
私の紙碑は、作品。「秦 恒平選集」33巻と「秦 恒平・湖の本」おそらく150巻以上と、HPの厖大量の「闇に言い置く 私語」と心得ている。何も、加えてくれなくてよい。
2019 9/5 214
* 先行きは見えてきた、が、まだ繪にする難しさが残っていて悩ましい。促成栽培はしたくない。
冷房しない部屋で寝入ると汗をかく。
2019 9/7 214
* 仙台の遠藤恵子さん、名品の色蒲鉾を二重ね、送って下さる。学長職は退かれても大学の先生としても活動されていよう。今少し近くで親しく出会えれば、昔々の医学書院同僚のよしみで、いまいまの女性学のことなど具体的におそわり啓発して貰えるだろうに。
さきの長編でわたしは若い女性を書き損ねたろうか。あるいは老い男の性と生の表現を間違えてたろうか。
* 夏バテをなんとか凌いで、早く立ち直りたい。
2019 9/7 214
* 我ながら仰天びっくりの 嵩・量の 今回新作のためのメモ 想い 調査等々を書きのこしていて、それ自体の もはや無用 または なお要検討 の判定や処置が必要になる。こういう経験は何度もしてきたが、かなり悩ましい作業で、アタマを締め付けられる。
まだまだ解放されそうにない、ゴールはもう見えているのだが。いいかげんに投げ出すという気になれぬ。
2019 9/7 214
* 新作終幕への足固め、できたかと思う。あとは、エドモン・ダンテスではないが断崖を海底へとびこむ決意で励むこと。あとじさりすまい。
2019 9/9 214
* この私めの心身は、しかし一向に弾まない。始動しない。ガマンの時。走り書きのメモで、まだ必要かと思われる時や場や事件の検討を続けている。機械の不機嫌が直って欲しい。
* 三時間ほどもじっと堪える心地で、さまざま、いろいろに思案の文章を別枠で工夫していた。やがて日付が変わる。
2019 9/11 214
* とにかくも「清水坂(仮題)」を仕上げること。根気をあつめ搾ること。
2019 9/12 214
* 何としても残る九月の間に新長編を脱稿したい、気を入れて向き合い続けたい。が、疲れで頸筋に痛み、軽い頭痛も、帯同して歯も。歯ぐきの痛みはイヤだが、疲れが引くと直ってくれる。夏ばては、しつこい。
月末までの他用のアテのない時日を、生かしたい。
そう思いつつ、夕方前から四時間も夢も見ず寝入っていた。背から肩・頸へのかすかな痛みから、歯も痛んでいたが、今は軽快。作の結びへ、要点要所への補足メモを数十項、文章として書き出しておく。
* 十一時。また疼いてきた。明日へ繋ぐ。
2019 9/13 214
* 「清水坂(仮題)」最終段階のメモを やや補修しつつ 箇条に整理した。これへ情理と表現を加味しつつ、仕上げ脱稿へ躙り寄りたい。
* 一寝入りのあとの大相撲も贔屓の遠藤が負けたところで機械の前へ。そして、そう、ぐぐっと躙り寄った。慌てまい。七時半になる。少し息を入れる。
* 八時半。一時間ほどやすんできたが、歯は浮いて痛み、目は霞んで。でも、もう少しでも。
* 九時半。もう少し進んでもいいが、限界。
2019 9/14 214
* 機械に向きあうても、心身に、ことに腹部に全然チカラが無い。八時間近くは睡っていたが、夢の中でも「仕事」をアレコレ吟味しつづけて疲労していた。行けば行くほど貼り穴へ擂り粉木を突っ込んでいるような気がするのだ夢の中でも。
なにか楽しみが欲しいが、いま、音楽も聴けない、機械が正しく使えなくて。読書は、正直なところ目がまっさきに疲れるし。
* 手先が病的に震える。体験したことがないほど。糖分を攝っている、効果に信頼があるではなく。さっきまで、横になり、「千夜一夜物語」「アンナ・カ レーニナ」「プラトン・国家」「ヌ゜ラトン・饗宴(読了)」「法然・一枚起請文」をそれぞれ面白く、興味深く読んでいた。烈しいくしゃみを繰り返し、洟が 出ていた。寒くはない。が、今も両腕・手先がかるくではあるがビリビリ痺れている。乗り切らなくては。
また機械、一時停止して階下へ。小説「清水坂(仮題)」に祟られているかも。頸が凝ってきている。
午まえ、十一時過ぎ。
2019 9/15 214
☆ 言わずもがな
吉野東作は上田秋成の「蛇性の婬」からのネーミングかな。
こだわり過ぎかもしれませんが、父親にとって一番の「お気に入り」は愛娘でしょうし、娘にとっての「とくべつ」は父親ではありませんか。
雪絵の「嫌いです」は「だ~い好き」と聞こえますし、その他のメールにも父親に甘える娘の調子が
数多く見受けられます。
巻末の「むごいと知りつつも」は 親が娘を導きそこねた述懐のようにも響きます。
更にはいとし子が自死による水の浄化を受けたあと、荼毘に付されようとしている雪絵に 「生きたかりしに」と共に 火の供養が待っているのは、再生の願いも込められているのではありませんか。
「ユニオ・ミスティカ」が到達点ではなく、そこから始まる父と娘の新たなる「生きたかりしに」物語としても成り立つと思いました。。
勿論寓話ですから典型を描かれたものと承知いたします。
相変わらずの自分勝手な感想で失礼しました。
秦恒平様 東京・狛江 方外野人
* 虚を衝かれた。そして、胸を衝かれた。
* 虚を衝かれたのは、「蛇性の婬」の飛び出したこと。私の創作世界では東作秋成の「蛇性の婬」という作はよかれあしかれ大事に絡みついている。こうはっ きり指摘された人、私の評者におられたろうか。重い、そして必然の指摘である、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』で然りとまでは言わぬけれども。
* 胸を衝かれたのは。
「事実」という何かに即して言われているのでないと分かっていても、私にとって、「娘・朝日子」との久しい絶縁状態は、やがて死んで行く身にも思いにも 大きく「重い」。しかし私自身は微塵も何らかの打開にと動いていない。愛おしんだ昔の思い出を抛っていないだけ。此の「私語の刻」末尾にほんの少々並べら れた写真が雄弁に証言している。
妻(母)や息子(弟)が何を考えているかは私にもよく分からない。唯一関わりのあった事実だけをいえば、 妻が、つまり娘の母が命も「あはや」と危険だったとき、弟にそれを告げられても、「見舞わない」と一言で峻拒したと聞いている。
私は、なにらの利害や傷害や障碍も無いまま、父親を指さし「名誉棄損」と称し裁判所の「被告席」に立たせて賠償金を取り立てた「娘(婿・大学教授 も)」の「人」として、知性としての誠実が全く理解出来ないまま、ほぼ二十年を暮らしてきた。理解できないまま私は指一本もどう動かし働きかけることも出 来ないできた。娘との楽しかった、愛おしかった思い出だけが今も時として澎湃と甦るだけである。
切に願っている、出来れば娘・朝日子にだけは、こんな、子として人として恥ずかしい行儀のままに終わらせたくないとだけ願っている。亡き孫娘のやす香も心 からそう願って祖父母との親愛を切に繋ごうと努め続けてくれていた。そのやす香が、二十歳成人の直前に重い病で逝ってしまって、はや十三年。今月が誕生月 であった。
「おじいやん」と「やす香」
* プラトン、ソクラテスは嗤っている、真に徳と誠を得ているつもりの知性なら、およそ裁判官や弁護士の判断になどすがる真似はしないと。
* それにしても「オイノ・セクスアリス 或る寓話」が斯かる方面から読まれるなどとは、作者は夢にも思わなかった。恐縮し、かつ何だか虚を衝か れた心地である。感謝しています。言い遺しておいて遣りたいと思っていた多年の思いをすこし書きおく機会を下さったとも。そして次作でも、ちょっとのけぞっ て下さるかも知れぬと。
2019 9/16 214
☆ 『唐(から)物語』 の (一)
昔 王子猷、山陰といふ所に住みけり。世の中の渡らひにほだされずして、唯だ春の花、秋の月にのみ心をすまLつゝ、多くの年月を送りけり。事に触れて情 深き人なりければ、掻き曇り降る雪はじめて晴れ、月の光きよくすさまじき夜、一人起き居て慰め難くや覚えけん、高瀬船に棹さしつつ、心に任せて戴安道を尋 ね行くに、道の程遙にて、夜も明け月も傾きぬるを、本意ならずや思ひけん、かくとも云はで、門のもとより立ち帰りけるを、いかにと問ふ人ありければ、
諸共に月見んとこそ思ひつれかならず人に逢はんものかは
とばかり云ひて、遂に帰りぬ。心のすきたる程は、是れにて思ひ知るべし。戴安道は剡縣といふ所に住みけり。此の人の年頃の友なり。同じさまに心をすましたる人にてなん侍りける。
* この「子猷訪戴」の故事に、何知らず初めて出会い、胸に響き打たれ、感動のママに書いたのが極く初期の小説『畜生塚』であった。事実上の太 宰賞受賞第一か二作目として「新潮」に発表したが事実はずっと前、第一冊目私家版本に歌集『少年』とならべて、しかも医学誌大の大判本に8ポ二段組みで掲 載していた。ワケもわからず志賀直哉、谷崎潤一郎、中勘助、窪田空穂ほか数人の作家批評家に送りつけていた。受取の返信の無かったのは谷崎先生だけであっ た。この「畜生塚」は「新潮」の編集者小島喜久江さんが気に入ってくれ、ぜひしっかり手を入れてみて下さいと云われ、懸命に推敲した。そのまえに「新潮」 初の掲載作となった『蝶の皿』は一字一句のダメだしもなく、新人賞作家特集に、事実受賞後最初作として世に出た。昭和四十四(1969)年夏だった。
「子猷訪戴」の記事は京都の叔母から送ってくれていた茶道誌「淡交」誌上で出会ったのだ、とうじはまだ古典の『唐物語』を識らずにいた。この近年にたまたま古い文庫本を手に入れてその巻頭に上の記事のあったとのを知った時は、びっくりした。
佳い逸話と胸に落ちる、が、私自身ははるかに雑に日々なお騒がしく生きている。
* 「湖の本」や「選集」を実際に組み版したり校正したりして呉れている担当の人の残暑見舞いにも前回の『オイノ・セクスアリス 或る寓話』には「私ども 制作スタッフも内容を読みまして、少々驚いておりました」と感想が添えられていた。小説の「内容(物語・寓話)」への驚きであったか、「性交為」の相次い で数多な連続と描写・表現とに驚かれたのかは即断出来ないが、大方の読者は後者のようであったと想われる、それは何故かに文学上の問題があろう、か。私 も、他人様の書かれた同類の描写や表現に顰蹙し厭悪した経験は少なくなくて、こんな風にしか欠けないのか描けないのかと物書きとしての筆ぢからにこそ眉を 顰めた。人間といえども清浄の人であればあるほど避けて通れる行為でなく避けた方が良い行為でもなく、貴賎都鄙の日常自然な通過行為である。文学表現の部 分的な題目・課題になり得て自然な行為である。のに、しかしまあ何と汚らしく拙劣な、書き手その人にすでに汚穢行為という先入主があると思えて、それにこ そ顰蹙してきた。
性の行為場面を私は初期作以来、なんら避けず、一つの高揚ないし純愛の場面として何度も何度も触れて書いていた、ぜんたいにそう露わでにではなかったが。
しかし今回の東作老と若い雪絵との度重ねた出会いは「性交為」をこそ大事に繰り返されていた以上、隠微にもので蔽い隠したような表現では書き手の手控えまたは力不足ということになる。私は、汚穢感に傷つかない筆遣いにことに注意して真っ向に書きかつ描いたつもり。
読者の誰か一人の方が、それも女の方が、その用意を認めて「是」のメールを下さっていたのは有り難かった。
「驚かせた」ではあろうが、要は性行為の一部無いし一種ないし一場面で、それが作の行方のためにも必然であるなら、作者は自然当然必然をきちっと為したまでと思っている。
いい機会とみて、明言しておく。
2019 9/17 214
* もはや前世紀であるが、東工大で機械を初めて買い、学生君らに遣えるようにしてもらい、そしてメールが遣え始めた頃、わたしは著名な或る婦人雑誌に、 「電子メール」は「恋文のように」書いた方がいいと寄稿した。機械での語りかけは慣れない打ちはよけいに堅苦しくて、悪気なしに咎めてるように読まれたり 読めたり「ケンカ」している例をもちょくちょく耳にした。
わたしは、文学用・創作利用の用にもいろんな「電子メール」文体の蒐集をはかったほど是に興味をもった。もらって楽しめるメール、まじめなメール、真面 目すぎるメール、親切なメール、深雪の過ぎたメール、いたずらメール、ぴんぼけメール、ど説教メール、小うるさいメール、詰問メール等々、むろんほんもの の恋文メールは遺憾にももらえなかったが、私はというと、主張通りに気分は恋文ほどの温かな心持ちで書くのを分としてきた。
時々はほんものの恋文っぽくも戯れた。()鯛のでんしめーるザッして
例えば、まさしく譬えばであるが、ある人、むろん読者、には譬えば「伊勢うつくし」とだけ送ってみる。さ。これは謎である。
しかし「伊勢」が、平安時代の著名な女性歌人だとまではなにか事典か案内で調べられる。美しい女人であった。恋多い女人でもあったと、そこで止まってしまう。「うつくし」が「愛し」の意味ももつことが伝わらない、私の「恋こころ」を察知するには当然これでは半端である。
伊勢が歌仙とたたえられる女歌人であるとともに、百人一首の一人と、これが思いつかないらしい。
難波潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこの世を過ごしてよとや
と出ている。私自身にも、
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしかひとはかほどのまことを知らず 恒平
と歌集に載せている。これは、「逢いたいな」と誘うラブレターに相違なく、だが、冗談ほどにも伝わらないから、おもしろい。おもしろくもない。だから、こんな歌も作られる。
逢ひたいと云へぬ歎きをひと言にお元気でとただ受話器を置ける 恒平
斯く、私の歌集や歌作は、いわゆる世の歌人さんたちの歌作と少し筋違いに、背後に「小説世界」を予告ないし用意ないし企図している。体験歌でも経験歌で も願望歌でも殆どまったくなくて<
みな私の想像力での創作用意・覚えでもある、但しあの、歌集『少年』は純然の創作歌集です。「光塵」と「亂聲」とは、実と虚とが 混成の歌集、勝手気ままな『老蠶』の繭づくりなのです。
* 深くもぐった、幸いに恐れなく。
じっとガマンの時間がつづく。「清水坂」は遠い背後に。それでも考え、想い、ねちこく粘りたい。
* 身のそばへ運び上げたプレーヤー。ラジオとテープは聴けるのに肝心のCDに成功しない。これでは運び上げた値打ちは四割とない。手持ちはCDが多いの だ。この機械、天板をあげると昔のレコード盤も載せられる。これも一度試みよう。レコード盤も何枚もどこかに蔵われているはず。何でどう気を励ましてでも 「清水坂」をのぼり切りたい。
2019 9/17 214
* 九時十五分。ホンの少し、ホンの少しずつ、しかし大事なところへ踏み入りながら文を編み込んでいる。どこかで吶喊が利き突貫できれば一気に持って行け るだろう、いっそシカと楽しむように凄いところを書き抜きたい。今晩は、もう、やすもう。編集や入稿や校正の仕事を印刷所に頼んで暫く待機して貰ってい る。「集中」無くては無事通り抜けられまい。前作のラストでも気を張った。
2019 9/17 214
* 斯く見入ると、この「私語の刻」は、他のみなさんにはばかばかしかろうと、私にはかけがえ無い私自身の「所有」なんだと思う。1998・3月末から、じつに21年、原稿用紙で十万枚を超えたろう「私語」をほぼ一日も絶たないで来た。ここから、何冊も本に成った。
2019 9/18 214
* 強いていえば結語まで用意はあるのだが文章にかたちづくるのが日に五行十行しか成らない。それも創る楽しみと思って堪えている。いいフルート曲が鳴っ ている。耳は聞こえるが眼は霞んでいる。十時半。やすむ。床に就けばまた『アンナ・カレーニナ』に息苦しく、しかし魅されて引っ張られそう。
2019 9/19 214
* 三時半、徹しての推敲は「当然の今後」として、それでも、「越えて」きたと思えるまで海・山の難渋はやっとやっと通り過ぎたか。
心身へとへと、鼾をかいてホンの暫く寝たらしい。胸もとが焦げたように灼けてめざめた。
息を入れ、収束を図る。慌てず。
2019 9/20 214
* 思えばこれで私はいずれも短期だが医学書院を退社し筆一本になりながら、縁有って三度大学の教壇に立っている。退社と聞かれて、きみ食えないだろうと お医者の先生に等々力の東横短大や大阪芸大への講師に推され、大阪は辞退したが等々力の方は断りにくくて、一年、漫談に通った。もっとと請われたが強引に やめた。けっこう楽しくはあり、一、二小説も書けた。今も親しい卒業生読者がいる。
建日子が早稲田の法科にはいった歳に、誰であったか先任の先生が留学するので「文藝科」を非常勤の講師で助けてくれと断り切れない依頼で、ここは二年 通った。徹底して短い小説を書かせつづけ編集者の役で批評し続け、その中からいま活躍している角田光代をみつけて、「作家におなり」と背を押した。それだ けで、講師役から退散、これはこれで稔りがあったと謂えよう。
その後にも、同支社女子大や武蔵野女子大からの依頼が来ていたが、創作優先で、お断りした。
さらに、また間をおいて東京工業大学教授にと突如委嘱され、文部省辞令で、当時満六十歳定年までを勤務した。小説は書けなかったが、学生達との日々に満 たされていた。もう一つは、給与や賞与や退職金の手つかず全部が、いま「秦 恒平選集」三十三巻の全製作費を満たしてくれている。これは感謝していい。ときどき、どうしてるのかと訊く人があり、答えておく。
* こんな、何度も何度も繰り返してきた思い出で間をとり、「新作長編」仕上げへの気合いをじっと怺えて図っているのてす。「私語の刻」そのもの。読まれることは実は念頭に無い。
2019 9/21 214
* 二時間余睡る。眠りを誘うのに、ホメロス「イリアス」を第三編の前まで、「アンナ・カレーニナ」のレーヴィン、キチイのめでたい嬉しい結婚式までを、読んで。
大相撲、乱戦を楽しむ気はなく。
疲れと歯の痛みとで食べられる物もなく、やはり出汁を利かして溶いたた卵汁に味付けした麩を浮かして。歯医者へ行きたいが、その前に長編、可能なかぎり結びかその直前まで運びたいの、だが集中できない。
いまは、誰の作と知れない、むかしむかし人に貰ったのだろう、テープのピアノ曲を聴いている。昨晩の圓生「三十石」は楽しかった。「妾馬」を聴こうかな、たまたま他に芝居話の「淀五郎」「猫忠」などが手近にあるが、笑いたい。
* 六時半、少し少し滑り出るように「前へ」いや「終わりへ」と動いている。
* 八時十分。 長編の新作『清水坂(仮題)』「初稿」 脱稿。 すぐ、徹底的に全文の推敲 第二稿作成に取り組む。本題は決まっている。
2007・02・12 の着手作であった、よくガマンして書けたと、ヒロインに感謝する。乾杯したいが、日本酒も洋酒もワインも麦酒も飲み尽くしていた。いい日本茶を、妻と。
2019 9/21 214
* 歯は痛むが、久しい重荷をなんとか運べて、さすがに今日は気持ちが明るい。まだ推敲という次への道のりはあるが、やっと歯医者へも行けそう。顔も洗い鬚も剃れそう。 2019 9/22 214
* もう何十度目か知れないが、初稿脱稿後を、また一から読み直し始めた。じつは、もう次の新作かねての想もうずき始めている。
2019 9/22 214
☆ 秦恒平様
ホームページをときどき拝見して 「清水坂(仮題;」の脱稿が近いことを知り楽しみにしておりました。おめでとうおざいます、というのはまだ少し早いのかもしれませんが、やはり、おめでとうございます。
これからの推敲が大変なのでしょうが、完成の日を楽しんでいます。
それまでお疲れが出ずにいることをお祈りしています。
私も去年の病気以来お医者に言われて体重を落としましたら、やはり学校を出た頃の体重にもどりました。そうしたら、若いときのままで、80才をすぎたお ばあさんになったようで、何かなつかしい姿顔になりましたの。でも、それがわかるのは自分だけ、傍目にはやつれただけでしょう。
やっと涼しくなって来ました。
奥様ともども、お大事に。 2019/09/22 藤
* 「藤」さんに戴いたもう遠い昔のメールが、今度仕上げた小説のまことに恰好の刺戟的ヒントとなり、フクザツ怪奇な物語世界が浮かび上がったとも謂える。感謝しています。
2019 9/22 214
* 気を入れ、ロキソニンで歯痛はおさえ、脱稿の初稿を読み続けていた。正午。上尾君にもらったフルート曲で雑念をはらっていた。
* 午後二時。 全四章の前半二章を 推敲しつつ気を入れて読み返した。この辺までは、是までもイヤほど読んでは直し直ししてきたので、幸い大きな齟齬は無かったと思う。
台風の余波らしきがしきりに窓を打っている。フルート曲を聴き、今は能管が静かに恋の音取りを聴かせてくれている。仕事中は疲れを忘れているが、やすむと、ぐったり心身折れてくる。今日は、かなり暑い。すこし階下で休くでくる。いま、横になると読みだす本は、
まず、ホメロス「イリアッド」。大変な長編だが、予備知識が出来ているので、苦にするよりむしろ楽しめる。いま、トロイの王の質問に応えて、両国わざわいのタネとなっている美女ヘレネがアカイア側の英雄・勇士たちの紹介をしている。
次に「千夜一夜物語」 アラビアンナイトなんてと軽くみて読んでない人は大損をしている、世界中だこれほど面白くよく語られていて飽きない本はめったに無い。厖大に大量の咄が満載で、美女シャーラザッドの語り口は心憎く軽妙。
次にはトルストイ「アンナ・カレーニナ」 これは楽しいばかりの名作ではない、息苦しいまで凄惨なの女の悲劇と、またこころよき愛し合う夫妻の幸福物語でもあり、トルストイの筆の精妙な活躍と把握の凄みは、世界一の近代小説とすら云いたくなる。
そしてル・グゥインの「懐かしく なぞめいて」 これはもう快く降参してしまうほど知的に深く徹底した創造力と世界把握の現代奇跡的な名作。
そしてそして久保田教授に頂戴したばかりの岩波文庫新版「後拾遺和歌集」 和泉式部を初めとする絢爛の平安女流達の和歌の美がいい解説付きで満喫できる。
2019 9/23 214
* 階下で、ひとり、贔屓だった米倉涼子の「ドクターX」再放送を一回分観てから、何の本も読まぬまま五時半まで熟睡。すぐ二階へあがり、また新しい原稿を読み返していた。
2019 9/23 214
* 今日も昨日の続き。
もし歯医者が来ても良いとなれば、江古田二丁目、沼袋まで出向くが。
彼岸休みか、連絡付かず。痛み止めで凌ぎ、能管の音色に惹かれながら、順調に(と思う)初稿を読み進み推敲し、正午になった。昼食はろくに出来そうにないが、階下へ。 2019 9/24 214
* また自作を検討しに二階へ。歯は痛く、食事が出来ていないので全身に力がないが、打ち込んで読んで行く。
2019 9/24 214
* 「三」へ入っての新作の「読み」に難渋。此処は、よく読まねば。機械の面では内容の前後や重複を検索しにくい、「三」だけをプリントして読み直した方がいいか。
歯が痛む。じりじり暑くなってきた。
2019 9/25 214
* 長編を長期に亘り書いていてコワイのは、重複。必要な重複もあるが不用意な重複も冒して、その場所を見付け出すのに苦労する。かなりこれは疲れる作業。一時過ぎだが、眼の霞みはひどい。歯医者行きを優先で、いちど機械から離れる。
2019 9/25 214
* 十一時。疲れたか、「三」を半分、しっかり読んできた。視野が暗い。疲れた。しかし、京都へ「帰って」いる心地でも、あり。
2019 9/25 214
* 機械のブルーライトに負けてしまう視力が、寝室の昔ながらの電球の明かりだとモノが読みつげる。有り難いがおかげで寝そびれ、三時に一度めざめ、また 「大和物語の人々」論を読み進んだ。浅い眠りのまま六時には、もう寝諦めて、こっそり床を立ち、二階の機械へ来た。が、機械だと、たちまちに眼が霞み出 す。
* 朝食は、大粒の葡萄を六つ七つ、それだけ。煎茶を二煎。また二階へ。九時前。今朝は袖無しでは肌寒い。両の掌は、もう久しく、胃全摘以降、抗癌剤以 降、びりびり音がしそうに痺れつづけている。メール、来ない。メール、書かない。フルート曲を鳴らしたまま推敲しつづけている。
この新しい長編、名作でも秀作でもないが、何がこれを私に書かせるのだろう。何かしら喪ったもののあるのを取り返そうとしているのか、死ぬより先に。
* 少し、眠りたい。
* 眠らぬまま、好調にと云わずともなんとか順調に最終章「四」のほぼ半ばまで,読み込んできた。このさきは全編の最難所にになるが、むなしく海没しないよう舵をとりたい。四時半になろうとしている。慌てず、急ぐまい。
明日夕方にはまた歯医者へ行かねばならない、「その前に」などとアワを食わずじっくり読み続けねば。
2019 9/26 214
* 新作は、もう煮詰まってきている。
2019 9/26 214
* 佳境と謂うには凄いところへ奔ろうとしている。一気に行くだけ。だが、夕方には歯医者。ここまで来て、慌てまい。ただただ機械クンのご機嫌よかれと願っている。いまはショパンのノクターンに魅されている。が、十二時半、昼食になにか腹へ入れないと、体重、沈下の一途。
* 案じていたよりは難所を描き徹していた。気を抜かず仕上げたい。三時前。
2019 9/27 214
* 十時、最新作・長編『清水坂(仮題)』の第二稿を成した。起筆から、十二年七ヶ月抱え持ってきた。辛抱がいいのか、ドンなのか。しかし、ナントモ云えず、嬉しい。まだ気が若いのか、アホなのか。
ともかくも、もう一度、明日から全編を推敲する。
2019 9/27 214
* 視力をたすけて15級の字で『清水坂(仮題)』は書き進めてきた。書き上げた今、本にする際の10級にあらためてみると、推敲・添削のせいもあり思っ たより本分量は縮まり、ま、いつもの「湖の本」一巻分で纏まっていると知れた。それはそれで問題はない。三稿めを作りながら読み進んでいる。
お午になっている。
* 私の小説に、ごく初期以来、身の回り・身近な知友からの評判ないし苦情はとにもかくにも「ムズカシイ」の一語に尽きていた。なにより字が読めないと云われた。
以来、五十年。はじめて今回作に徹底して「よみがな・ルビ」をふることにした。見た目の清潔を大きく損なうだろうが、私はもともと日本語の佳い文学・文 章は、絵画であるよりまず根底で音楽であると思ってきた者。思い描いたままの「音」のつづきで作を読んで欲しくなった。いささか強いがましいけれど、しか もそれを実行してみるとたいへんな苦労でもあるのです。
うるさいと云われもするだろう、読めてたすかると云う人も多いはずである。昨日仕上げたままで入稿することも不可能でなかったのに、ま新しい作業を思い 立ったので、仕上げには数日を加えてしまうこととなった。ウーンと唸ってもいる…が。ま、仕遂げてみよう。作が生きるのか壊れかねないか、分からない。
* 十時になる。目はもう霞みに霞み、処置無し。「よみがな振り」作業は、叮嚀に「読む・校閲」にはいいが、先へすすむのがたいへん。全四章と見ている が、まだ二章の半ばにしか届いてない。早くても明後日まではこの作業に没頭することになる。いまのところ、作自体に渋滞や怪我は見つかっていない。
2019 9/28 214
* いま、もう午後二時。新作のちょうど半ばまで、読み仮名をふりながら読み返してきた。かなを打っていると安直にとばし読みが利かないのが、今回推敲の狙い。
2019 9.29 214
* 夕食もはさんでブツ続けに原稿を読み手を掛けて、八時、視野さえ明るければもう十五分もかけて第三章がまとまるだろうに、キイの字も画面の字も暗い。すこし休んでくる。前作でも今作でも、私自身はちっとも白けていない、はまった感じが不快でなく、取り込まれている。
* 第四章へも筆が及んで、此処がふんばりどころ、明日一日を大事にここへ振り向けたい。今、もう九時半。
* もう九月も逝くか。明日には、新作「清水坂(仮題)」仕上げたい。
2019 9/29 214
* 一ヶ月、プラトン最大最重要な著書『国家』の文庫二冊本の「上巻」から聴いてきた。
この大著の全編を、わたしは二度読み終えたところ。胃癌全摘の手術を受けに聖路加へ入院した日から読み始めたのだ、もう七年半の歳月が過ぎた。正直なところソクラテスの曰くに、全面賛成していない自身も自覚している、女性観などは。
この七年の間に、顧みて「湖の本」を36巻分、平均600頁に逼る『秦 恒平選集』を第31巻まですでに刊行してきた、書き下ろしの長、短篇も刊行し、また現に脱稿しつつもある。
目は暗く歯は大方無く体重は術後より現に7キロ近く減っている。往時からすれば 27キロも減っている。歩行に杖は欠かせず、荷物は、戴いた背負い袋で負うている。食は進まない、昔と変わらないのは、「酒飲み」だけ。幸い血糖値も血圧も尋常で助かる。
生きてきた と、しみじみ想う。感謝している。創作にも読書にもなお意欲あり、好奇心も知識欲すらまだまだある。
こうして「自身の既往」を敢えて反芻しいしい、自身を励ましている。妻にも建日子にも助けられ、ふたりの「マコとアコ」猫とも、それは仲良しである。みなみな、怪我すまいよと願う。
* もう九時になる。懸命に、読んで読んで、添削、推敲、満足したわけでなく、明日にも視線をさらに深くして。へとへと。だが、間違いなく一両日で入稿で きると思う。やはり待って頂いている「湖の本」の読者へ先にお届けしたい。『選集』は、第32巻の巻頭へ、余の長短幾つもの作と一緒に収録したいと思って いる。これきもう、あの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』とはまったく相異なる物語になっている。.
* ほぼ九割九分がたカタを付けてきたと思う。明日、さらにきちんと目を通したい。疲れた。十一時過ぎた。
2019 9/30 214
* さ、「清水坂(仮題)」をのぼるのかくだるのか、結着をつけよう。
* 午後二時 「脱稿」と、ともあれ承知した。八月九月はことにシンドかったが。尻餅つかずに杵が置けた。
2019 10/1 215
* 少し、感じの出たみじかい一節を適所に追加で挿めた。納得がいった。
視力のために大きな字で書き続けてきたので、さて入稿の10級にもどすと、少なくも25頁分ほどは減っていた。「湖の本」の、平均ほぼ一巻分にはなっている。1000枚の長編『オイノ・セクスアリス 或る寓話』に次いで、また長編といえる<最新作>を続けざま送りだせるのは小説作家としての身の幸と思う。感謝する。
2019 10/1 215
* 小説「清水坂(仮題)」をついに、入稿。
2019 10/1 215
* 新作は、組み版の作業に入ったと。一歩前へ出た。
2019 10/2 215
* 新刊の「湖の本」147 うしろへ、長めの「私語」になるが補充したいと、九月ひと月の「私語」を読みかえし、根気よく用意した。量的にいま少し検討して 入稿するが、これは急がない。それにしても、わたしの「私語」表記にすさまじい乱れや誤記の多いことに気づいて、ガクッ。一つには、視力の無さ、視野の暗 さで、文字盤が見えていない。アテズッポウでキイを押している。ま、仕方もないと。
ともあれ、ほおっと呼吸(いき)をしている、今は。階下へおり、いいお茶で好きな松露を口に含もうよ。
2019 10/2 215
* 「最新作」のあとがき等も入稿した。
* 「選集32巻」の編成にかかる。「選集33巻」(最終巻予定)との兼ね合いで編成に気を遣う。敢えて前後させるかも知れない。
2019 10/3 215
* たくさんの題材が、こんどは此方へ手を掛けてくれよと、調べてみると、十や十五できかない。頼もしいような、いささかヘキエキの気味もあって、やすみ なく次へ、次へ手を掛けて行きたい。「選集32」は年内に入稿し新年早々に刊行、春には33巻を無事完結したい。小説の最新作は、私の八十四歳誕生日頃に はみなさんにお届けしたい。
2019 10/3 215
* グレン・グールドのピアノの颯爽快速感に魅される朝の嬉しさ。
* とはいえ、体調の違和拭いがたく、散漫にやすみやすみし、横になったまま手に触れる本を読みあさる。
アンナ・カレーニナ流浪・孤独を深める痛ましいまでの女の悲惨、打ってかわってキチイとレーヴィンの真実味溢れる結婚生活幸福な日々、の、対照に胸を穿たれる。読み進むのも怖い小説、しかもみごとな把握と表現の構造美。
鴎外先生のやっと二十歳台の『ヰタ・セクスアリス』を読了。堅牢にして流暢な叙事叙述。「名作」と受け取る人もあるようだが、セクシイな何物も特段には 書かれていない。これが鴎外唯一の発禁小説であったとは、時代やなあ。わたしの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の方が文藝作品として冒険と発明とがあ るのでは。
芥川龍之介が編集した「近代日本文藝読本」の最初の二巻から、鴎外の飜訳「老曹長」、加藤武雄の「薬草の種」が佳い感じに胸に沁みた。この六巻本は買ってしばらく乗らなかったが、今では恰好の読み本としてかすかに敬意も払いながら愛読を重ねている。
ホーマーの長巻も長巻『イーリアス』 神々も神の子も兵も激戦激闘、死屍燦爛。それにしても女神さんたちの贔屓側に別れての敵対戦闘意欲の凄みに辟易の気味。あまりに大長編。
プラトンの大作『国家』分厚い二巻を後ろの詳細な解説までふくめ、再読を終えた。たくさん教えられた。仏陀、基督、ソクラテスと子供の頃から頭にあり、 その時機時期に応じて心して触れて読み継いできた。八十余年、心に残って、より近付きたいのは、バグワンへの親炙もあり、禅。
2019 10/5 215
* 書庫に「墨」という大きな雑誌が何冊もあり、なかに「千字文」特集がみつかり喜んで機械の側へ運んだ。見ると、なかに私の連載小説「秋萩帖」 二の帖がきれいな挿絵も添えられ載っていて、おやおやと驚いた。一九八六年の九・十月号だ。三十五年も昔だ。働き盛りへ向かっていた。
千字文は秦の祖父鶴吉の蔵書、「真行草 三軆千字文」を邨田海石という人の書いた「天地」二册を愛して座右を離さないのだが、「千字文」なる中国の文化 遺産にかなり詳細な解説や多くの名筆例が大きな画面で多数掲載されているので、遅幕ながら嬉しくてならぬ。正字も読みもきちんと表覧されており、四字一句 二百五十句 千字に、一字の重複もなく しかも銘々の句が意義深いとも分かり、ほくほくしている。祖父からの学恩、はかり知れない。
しかし、これを諳記はもう無理です。今、確実に諳記できているのは神武から平成・令和まで天皇126代だけ。般若心経がほぼ正確に近くまで。千字文は、いまや実利には遠い、趣味の対象。
2019 10/6 215
* 誰の何のなど考えない、しみじみ美しいフルートの曲を繰り返し今朝から聴き続けている。東工大の頃の上尾敬彦君のプレゼント、彼ならではの選曲の優しさも嬉しく。
で、私はいま何をしているか。濯鱗清流。もっぱら入稿原稿づくり。
「選集第三十二巻」の小説原稿がもう順序に配列されている。入稿の前に、処女作から最新作まで。とはいえ、手書き原稿から器械へ写せるなら、もう何作か が埋もれているのだが。間にも合うまいし、本にそれらを含む収容力もない。やはりそれは何れ「湖の本」で初出刊行を考えた方がよい。 「選集第三十三完結 巻」の編輯は難しい。書誌、年譜、随筆等々、自身に関わり深い資料的原稿をつくりながら新作の短篇等を拾い採るか。
慌てまいと思う、ただそりためには体調と健康とは維持していないとし損じる。「選集」を早くアガッてラクになりたいという気分もある、にはあるが。
2019 10/7 215
* 「清水坂」の初校が届いた。
2019 10/10 215
* 「清水坂」初校に打ち込みたい。
2019 10/10 215
* さ、『清水坂(仮題)』の初校、気を入れて読む。
* 「清水坂」 ま、順調に読めている。この器械でも、つきの「湖の本」のための原稿づくりをもう初めて、進んでいる。「清水坂」の最高が出たら「秦 恒平選集」第三十二巻入稿も可能になる。体調を乗り越え仕事は先へ先へ進む。新しい創作のことも、いま「選択」中。
2019 10/11 215
* まずまず大きな懸念無く最新作を初校している。まるで八艘飛びのように展開しているが、海へ
ボチャリと落ちたようでなく、ほぼ六、七艘は飛べた感じ。私なりに昂揚感も感じ得ている…かナ。
* 手応えを得て、作の初校は終えた。ほっと生きを吐いている。長い「私語の刻」を初校し終えたら要再校で戻せる。
2019 10/12 215
* 二代松本白鸚丈の「句と絵で綴る」句文集『余白の時間(とき)』が贈られてきた。句も絵も高麗屋の文字通りに大好きな得手で、楽しさに溢れて、墨書も みごとに流暢。いままでも何冊も本をもらっている。その文筆の滞りなく胸に届くのをよろこんで躊躇いなく日本ペンクラブの会員にも推薦したのが、さあ、も う昔のこと。文筆の妙は白鸚さんだけでなく、奥さんも、松たか子も、十代目を襲名の新・松本幸四郎も佳いエッセイを折に触れてしなやかに、生き生きと、多 彩に書かれている。
この前の、あれは幸四郎として最後の本であったか、自分は「いま、ここ」が大事で好きだと表紙にもでていたと思う。
私も、歌集『光塵』の結びに近く 2011・8月「病む」と題しながら、「いま・ここ」に生く と二首を成し、9月1日にも、
「いまここの生きの命よ秋さりぬ」 と書いている。年明けて、二期胃癌が見つかった。
私にも「いま・ここ」の強い思いが常にあり、それなくて「生きる」ことは無い。
* 烈しく降っている。稀に見る颱風は 静岡へあがるとか。海に近い冨士あたりへ、高波が心配。
* 新作本編の初校と、あとがきの初校を終えた。
2019 10/12 215
☆ お元気ですか、みづうみ。
昨夜の台風をご無事にお過ごしでしょうか。雨風に洗われた青空がひろがっていますが、暑い一日になりそうです。
先日のみづうみから頂戴したメールを複雑な思いで何度も読み返しています。
>わたしは、後世 後生 というのを心底は信じていないので、
『畜生塚』や『死なれて・死なせて』ではかくありたい願望を書かれたのでしょうか。「身内」観は真理に王手をかけた秦恒平の思想でありましょう。
わたくしはキリスト教で育った人間で、キリスト教の教える愛が骨の髄までしみこんでいます。しかし、みづうみの「身内」観は、これまで信じてきたその愛のかたちを変え、ある意味わたくしを再構築してしまうほどのものでした。
「身内」とは、つまり倶會一処のことと理解していましたが「後世 後生 というのを心底は信じていない」ということは、「身内」の愛は所詮みづうみの創作、今生の夢にすぎないと理解すべきなのか。
歌は、日本語美の極致でしょうが、わたくしは心底和歌の真実を分かったと言いきれたことはないのです。歌は赤裸々に説明せずに、暗示やほのめかしで互いに察しあう心情の伝え方に妙味があるのでしょうが、何が真意か、解釈はいかようにも成ります。
「伊勢うつくし 逢はで此の世と歎きしか ひとはかほどのまことを知らず」は愛なのか、性愛なのか、どちらにも受け取れます。言い尽くさないことは詩美 をより深めるとしても、言い切らないことで逃げ道が出来るという日本語の欠点をこれほど抱えた文藝もないのではと思うことがあります。素人感剥き出しの感 想で申しわけないのですが。
バートランド・ラッセルの『幸福論』の中に、幸福であるために「望んでいるもののいくつかを、本質的に獲得不可能なものとして上手に捨ててしまう」という言葉がありましたが、みづうみと出逢ってからのわたくしの道のりはもしかしたらこの道のりであったのかもしれないと思うことがあります。
幸いみづうみは多くの作品を与えてくださっています。作品と出逢い続けている限りみづうみはいつもわたくしと共に生きてくださることになりましょう。フランクルの云うように、レモンからなんとか美味しいレモネネードを作らなければなりません。
みづうみの新作が待ち遠しい日々です。でも、過剰にお身体をお使いになりませんように。どうかどうかお元気でいらしてください。
梨 剥きたての梨の光れる夜の雨 戸塚久子
* このメールには、直に答えるという以前に、私自身で自身に問い返しておかねばならない難問がある。
このホームページの頭には以前から、今も、こんな自句をかかげている。
あのよよりあのよへ帰るひと休み と。
これは、はたして言い得ているのか、と。
* 初校を終えた。表紙とあとづけを添えて 明日送り返したい。難しい批評家の妻も致命的なケチはつけなかった。今度の作は、量として長くはならなかったが、筋の異なる三つの物語がかなり親密・緻密 に噛み合って成っている。「清水坂」はなみたいていでなく諸国とも結ばれたややこしい坂で、すこし読者を悩ませる辺りもあろうけれど。
* 世界は異なり触れ合わないようでもあるが、前作の長編『オイノ・セクスアリス ある寓話』も、必然の作であった。これの有ると無いでは私の文学生涯が筋違いになる。そう思っている。
2019 10/13 215
* 「私語の刻」とはうまく名付けた。時を選ばず言葉選ばず量を選ばなくて、好き勝手にその時々の思いを吐きだしていい場所、他の読者をなにら求めも望み もしていないが、隠し立ての気もない。ひとりごとが他人様の耳に入ったとて、どうしようもない。行アキには、不定の間隔で「時間」が挟まっている。
* 美術にふれるほどに久しく目を楽しませてきた、「蘇東坡大楷字帖」「顔真卿麻姑仙壇記大字帖」「柳體楷書間架結構習字帖」「宋黄山谷書墨竹賦等五種」質 素な四册、字を「読む」のは幼來大好きでも、書字・習字にはこれまた幼來全く手の出ない私には、大層に謂うてもちぐされにしてしまう。「字を読む」には、真行草の「三軆千字文」で事足りている。
これまでもう数え切れないほど「本」の仕事をしてはきたが、中に、光文社知恵の森文庫の古美術読本(二)で『書蹟』一冊の「編」者を名乗っているのは、今も身の細る気恥ずかしさ。ま、「読本」なんだからと、意味のない言い訳を呟いている。
だが、思いの外にわたしは書畫が専門の二玄社によく原稿依頼を受けていたし、豪勢な雑誌「墨」に『秋萩帖』という長い小説を連載もしている。上野の国立 博物館の創立記念に「講演」を頼まれ厚かましく大きな講堂で話したこともある。「若い」というのは物騒なもの、それに気が付かないのです。
2019 10/14 215
* 歯医者を、今日、失敬して行かずじまいにした。何とも今日は歯をがりがり遣られたくなかったので。 代わりに、「オイノ・セクスアリス 或る寓話」最初の 「ひとこそみえね」「ながくもがなと」「八重垣つくる」の三章を楽しんで読み返した。こういう「語り口」での長編を一度ぜひ書きたいと願っていた。「語 る・騙る」おもしろさを堪能してみたかった。
書いて良かった。書いておきたかった、もう一つの大きな願いは、云うまでもない若い女性との赤裸々な性行為の描写ではなく、「倶會一処」の願いであった。
2019 10/17 215
* 現下の日本という国家のありようを私なりに把握したいために、実に七年半掛けて大部上下巻の岩波文庫プラトンの『国家』を二度、一克に読んできた。最 悪の把握ないし理解に辿り着いたことは、二十日の「私語」にも書き置いた。まだまだ思い至らぬ有様ながら、一方では、わたしはわたし本来の仕事を通して表 現するしかない。残年はもう目に見えている。街頭に立って獅子吼もならない、私の現実の世間は余儀なく狭まっており、敷かし幸いに書いた物を、思った事 を、「私語」も「本」にも出来る。その道をもう暫く懸命に歩いて行くまでの日々であり、その日々を貧しくしないための楽しみや喜びも創り出し続けねばなら ないのです。
2019 10/21 215
* 二時までたっぷり外来で待った。
「オイノ・セクスアリス」の湖の本一を、90頁まで読んだ。ここまでだけで、一編の私の論攷になっていて、読めない人にはともかくも、私としては、腑に落ちて、変化も主張もある演説ふう読み物になっていると満足した。
ここがしかと読めない人に、此の長編小説は、猫に小判だろうと思う。五十年の作家生活の一つの「達成」のようにすら書き切れていると思えた。五十年前では決して書けなかった。
これよりアトの、「湖の本」でいう、二へ、三への展開、ことに若い「雪絵」という女性との性の没頭などは真実味に満ちたお愛想のようなもの、長編創作の核心は、別にある。大方の読者は、赤裸々な性の表現で喜んだり惘れたりされたらしい、それも作者の仕掛けであった。
2019 10/23 215
* 『秦 恒平選集 第三十二巻』の編輯にかかった。本の成るまえに短篇小説を一、二書き添えたいが。最終の 第三十三巻 をどのように編むか、まだ決心どころか確かなメドは立っていない。
2019 10/24 215
* 新作の叮嚀な責了のために慎重に読み進んでいる。
* 手持ちに沢山なすでに材料の在るのへ目を向け、次へ、次の次へ、心はせて。そして疲労は濃い。濃くても仕方ない。快いことを、思うなり読むなり書くな り聴くなりして疲れは払う。他にどんな道があるか。繪は好きなのに画集はあまり手にしない。重いのも苦手、何としても印刷された繪は割り引かれる。美しく 鳴るピアノや弦や笛は、そしていい歌声も、ありがたい。
2019 10/27 215
* 「母」については、「湖の本 母の敗戦」にも「選集 生きたかりしに」にも書いたが、「父」については断片的にしか書いたことがない、触れまいとして きた感さえある。が、もうそろそろそうも成るまいと、かねがね少しずつ書き置いたものなどを構造化してみたいと思うようになったが、実に気の重い仕事で、 身内からグウーっと、草臥れる。ま、やりかけたなら、やり次ぐべきか。
2019 10/28 215
* 「清水坂」再校に気を入れすぎてか、午後を四時過ぎまで、困憊寝。
2019 10/29 215
* 十月、はや余す、二日しかない。
八月、九月、最新作小説の仕上げにシンから疲労困憊したのは、ま、当然の仕儀。そして仕上がり入稿し校正の、十月。思いの外の疲れの執拗に驚くが、思っ た以上に天野哲夫氏の『傷ついた青春』の反芻が心身に堪えた。忘れていたい、しかし忘れがたく忘れてもならぬ「敗戦」への回顧というよりキツイ追体験の日 々だった。当然にも愉快ななに一つも甦ってこない思い出なのである。
もう二日の十月、相応のとじ目を見付けねばならぬ。
* 「書く」という営みで生母と向き合えたのに較べ、実父との対面は、とても息苦しい。どこかに父を赦していない思いが滓のように残っているらしい。残さ れた父が手書きの嵩だけで堆い。仰天してしまうほど美しい達筆だが、テンデン・バラバラの書きッ放しで、貫く棒の如きものが見つからない。あるとすれば、 生まれ育った「家」ないし「親」への怨み節、そして人生不遇への愚痴というに尽きるかも知れない。もし事実がそうならなにもわざわざほじくって日の目に晒 して遣らなくていいこととも思われる。私も、へんにオタオタしてしまいそうである。
2019 10/29 215
* 念に念を入れたく、発行の遅れよりも佳い本文をと、湖の本147の新作小説の三校を頼んだ。
きもちよく新作を送り出したい。
2019 10/30 215
* この日録「私語の刻」、今年の九月分を「保存」し終えて「215」ファイルに達し、さらにそれ以前にも相当数月々の「私語」が保存できてある。 1998年の三月下旬から欠かさず日々に、月々に、年々に書き溜めてきた。ただの日記ではない、私、最大厖大の文業になっている。
2019 10/31 215
* この、厖大に貯蔵された「HP」から、うかと未整理の、しかも緊急に必要な文章や覚え書きを見付け出すのは、じつに難しい。きちんと保存したハズのものが、目当ての其処 に無いとなると、大群集の中から一人の知人を捜す塩梅で、へこたれそうになる。時間がかかる。そして見つかる、いや、何としても見付ける、たいていは。見つからずじまいという覚 えは幸い無いが、時間は何時間も、半日も、それ以上もかかることがある。 2019 10/31 215
* 生母には短歌や詩をふくんだ文集があり、幾らかのノートと書簡が或る時期に纏まって遺っていた。私にもいくぶんの接触はあった。人となりや言動、暮らしにも証言してくれる何人もがあった。
父には山のように大学ノートや帳面への書き入れがあり、勤務の立場(鍛鐵工場の次長や工場長としての覚え書きや記録の類はわたしにはとても理解が届かな い。しかし父の勤務生活ははなはだ不本意に中断を強いられたらしい、そこには戦後の空気としての左翼がかった思弁がまじっていて、堅固な思想や詩作とは想 いよれないのだが、一種のレッドパージじみた職場からの脱落があったようにも想われる、が、分量の多さと、系統だたないその場その場のもの言いが多く、読 み取って行くのがんなり、いや、よほど難しい。これに脚を取られると泥水にはまって足が抜けないというおそれもある。だからこそ特異な父親像の組み立てら れる可能性もあるのだけれど。私にそれだけの時間が在るかどうか。
2019 11/1 216
* 信じられない話だが、また、小説一つ出来る気配濃く、どう転ぶとも、わたしが一に楽しみにしている。むろん真面目に書くが、肩肘はらないで、面白くと願っている。
2019 11/2 216
* それにしても「井筒」は懐かしい曲。筒井筒、少年少女からの恋の物語であり、わたしの最新作「清水坂(仮題)」もしかり、追いかけて書けそうな、「信じられない話だが」もそうなるか。ごく短い「井筒」を書いた覚えがあるが、また書きたい。
2019 11/3 216
* 出歩きながら、「オイノ・セクスアリス 或る寓話」の第三部一部抜きを読んでいたが、「松さま」こと吉野東作氏のもらっている実に頻繁な「雪」「雪 繪」からのメールの、みごとに簡潔で雄弁でムダもタカブリも無い自然さに、作者、われながら嬉しくなる。最良のラヴレターが書けていると思うが、如何。
2019 11/3 216
* 亡父吉岡恒にかかわる父自身の筆記・所感・述懐・信仰・書信等々が、手に負えぬほど手もとにあるのは知っていたが、かつて一瞥してその多岐に亘り或る 意味で一途、或る意味で散乱の記録を今朝から再確認して、長嘆息している。これはまさしく「一人」のきわめて意識的で多彩な吐露
というしかない。もはや残年に恵まれていないわたしの手では、どうしようもない。兄・恒彦が存命なら多大の関心を寄せて分析し批評し「父・恒」像を建立したであろうが。
父に、孫は「大勢」いるが、妹二人の家庭の大勢の孫は、こういう作業に向いていないだろうし、妹二人の明白な意志でこれら資料は私に全面依託の体で父死 後の直ぐに送ってこられた。放っておいたのは私である、任されたのだから全処分してもいいだろうが、それに忍びない一人の特異な「人間」像がここに集結し て書き表されているのだ。
祖父「恒」と、あえて同名を父・恒彦に与えられた甥・北澤恒(黒川創)がすべて了解して受け継いでくれれば有り難いのだが、彼にもこごに忙しい事情というものが在ろう。
当然のことに私の父の遺した一切は「手書き」で、それを機械へ写すだけでも、一年はかかるだろうし、さまざまな断章・断片に書かれた「紀年」を決するのもとてもとても容易でない、父の亡くなった以前と言えるだけ。これでは甥の恒も音をあげるだろう、やんぬるかな。
* 今は私は、また別の「信じられない話」に手を付けてしまっている。「信じられない話」は、その気で眺めれば広い世間にいくらも隠れている、ことに「むかし・むかし」という時空では。
2019 11/4 216
* 「湖の本」147の最新作小説をできれば遅くも師走の頭には送り出したいと願っている。そしてその新作を巻頭に置いた小説集の「選集」第三十二巻を用意している。巻頭作が「湖の本」で仕上がれば一気に纏まる。用意は出来ている。
* 新しい物語を、跡絶えずに書き継いで行く気でいる。病院、医院のほかで人と口を利くことが久しく無い。昨日、川口君の電話で暫時話したのが稀有。一つ には、入れ歯が落ち着かず、喋りにくくて。仙人のような通力はまったく無くて、妻と「マ・ア」とだけの「お仙」めく日々に身を浸している。もう、このまま 黙然と気軽に残年を楽しむだけ。
それでよい それでよいとよ 寒鴉
* 夜前、驚嘆したこと。枕もとにたくさん積んだ本の中に筑摩現代文学大系本の必要もあって森鴎外本出ていた。「ヰタ・セクスアリス」を読み替えしたから で。また前々からの順番に読もうと「小田実・柴田翔」の巻も置いていた。小田、柴田両氏の長編作は、それぞれに読みわずらい投げ出してあった。前者の剥き 出しの大阪弁はやかましく、後者の文章表現には何としても退屈した。ゆうべもまたアタックシしたが投げ出した。で、鴎外集を手にし、ひらいたところの「安 井夫人」を読みだすと、べつに何という物語でもないのにその文体文章は爽快なほど面白く、一気に読み終えて「文学」的に満足した。
これは何だろうと思った。正直なところ鴎外の小説は、「阿部一族」をほぼ例外にけっして波瀾に富んで烈しく感動するという作でない。ただ、つかんだら放 さないという文体の剛力に引き込まれる。「安井夫人」もそうだった。おもしろいお話を読んだのではない、詩歌と読ませる文体のちからに魅されて一気に読ん だのである。
* わたしは此の「私語」もそう私語したいといつも願っている。雑文を書く気ではない。
2019 11/5 216
* 小説の創作には、仕上がっての妙 と 仕上げてゆく妙とがある。 昔、谷崎先生の仕事をみていて「未完作」も多いこと、その作に奇妙も微妙もときに美 妙も有るのに気づいてしきりに肯いたことがある。なぜ「未完」か「未完」の先に何が待っているのか、自身の仕事でもそれを想うことがある。
2019 11/5 216
* 政治や時世への口調も激越な主張と批判をふくむ論文がこの「私語の刻」へ時に送られてくる、私自身も似たことは書いているので貰ったそれを読むのは苦 にしないが、あくまで此処は、「作家・秦 恒平の生活と意見」「私語と交際」の欄として、読んで下さる方々は「秦が、また云うておるナ」と、笑って読まれもすれば辟易して読みトバされもする。あく まで「秦 恒平の私語の刻」であって、誰しもの開かれた「論壇」としては運営していない。分かって頂きたい。ご自身の「ホームページ」を設営され、そこで論陣を張ら れるようお奨めする。または、文量に制限がなく想えていた(私はそこからは完全撤退しているのだが、)「フェイスブック」を活用されてはどうか。
わたしの「生活と意見」には、 万般、私自身生来の「好み」が下地になっている。古典も和歌も美術も京都も歴史も信仰も文学も観劇も趣味も、飲食も旅も。
「湖の本」購読者と限らず、広い範囲で何十年来の、また最近の読者が読まれているらしく、その雰囲気は維持して行きたい。ご理解下さい。
2019 11/7 216
* 「湖の本」147最新作小説三校が届いた。読み直して行きつつ、やはり三校をとってよかったと思い思い、懸命に読んで早めに師走上旬中にも責了にした い。歳末を「発送」で追われるのは厳しい。しんどい。「湖の本」148の初校も届いていてる。これは、落ち着いて進める。
「湖の本」 ついに通算して150巻が、もう遠からぬ先に見えてきた。はるばると歩んできた。落ち着いて、佳い一結びを工夫したい。「秦 恒平選集」第33巻完結と重なってくるだろう。
* 「清水坂(仮題)」半分読めた。今夜にもう一章読んで、結びの一章を明日備前に読み終えたい。ごく少しとはいえ誤植があり、ルビ補充も少し有った。半分までは、好調に運べていたと思う、私なりに、であるが。
2019 11/7 216
* 新作の小説三校を終えた。三校を出して貰ってよかった。土日がはさまるが早めに責了紙を返送しておいた。なんとなく気ぜわしい師走を迎えそう。
2019 11/8 216
☆ 『バグワンと私 途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ
9 * マインド=分別で書かれた人生論=生き方論が多かったと思います。それではどこまで行ってもなにも解決しない、するわけがない。「心」を「無」に仕切った人の生きそのものに触れてみたいとわたしは願います。なかなか出逢えない。
それならいっそ、古人が「自然(じねん)のことあらば」と謂っていた自然の方へ歩み寄りたい、「問う」ことすら忘れて。
いま瞬時、日なたの、草野の匂いや色にさゆらいでいた懐かしい嵯峨野の風情が、胸にとびこんできました。
その一瞬が、百万のことばよりも美しくて深かった。 1999 12・23
* いまの私が私自身に言えるのは、バグワンに何度も何度も{叱られ}てきた、ということです。
ほんとうに透徹した存在は、人の目には逆に「乱心」したものと見えるであろうと。
また、人は映画や物語には惜しみなく涙を流して感動するにかかわらず、同じ事実現実に当面したときには、感動も涙もなく、ただ忌避し嗤い嘲り、理屈をつけながら、真に透徹した者を指さして、「乱心・狂気・非常識」の者よとただ指弾する。
幻影にはたやすく感動し、現実に背を向け真実から遠のくことを「常識」とすると。
そのようでありたくないと思いつつ、ときにわたしは動揺し、自身の醜悪に目を剥いてしまうのです。 1999 12・26
* ああと、声にもならず恥じいる。廿年前から、半歩一歩もわたしは清冽にも静粛にもなれていない。なろうとして成ることでないと分かればこそ、ひとしお。
* 私には「梁塵秘抄」「閑吟集」の両著があるが、先立つ「神楽歌」「催馬楽」には手を触れてこなかった。魅惑を覚えていながら敬遠していたのだが、古典全集 で双方へ目を向け、惹きこまれている。懐かしいのである。ここに「うた」の「歌唱・合唱」の原点が、「歌う楽しさ嬉しさ」の原点がある。「記紀歌謡」とも ども、今後もしみじみ味わい楽しみたい。平安時代をもさらに溯りうる風情がある。
2019 11/9 216
* 寝ても覚めても唇さきに短歌らしきがあぶくのように噴いてくるが、面倒で、書き留めていない。
* 「秦 恒平・湖の本」を送り出す封筒に、大学・研究所、高校、作家・批評家他へ、宛名を貼らねばならない。そして購読者の皆さんへも。そういう作業を、創刊以来 150回ちかく、34年ちかくも重ねてきた。私はいいが、手伝ってきた妻はよほと゜草臥れたろう。ともあれ「秦 恒平選集」(とても「全集」というにはほど遠いが)予定の33巻を敢行し終えたい。お終いの2巻分は編輯が難しい。新年の前半は掛かることだろう。 2019 11/10 216
* 自前で本を買う。そんなことは敗戦後、新制中学に進んでからのこと、それ以前は小遣い銭を持たなかった。ひたすら東山線、菊屋橋畔の古本屋で立ち読み していた。中学生になると夕方から夜分へかけ下駄履きで河原町を四条から三条を往復しては本屋で立ち読みした。買えるとすれば☆一つ15円の岩波文庫の いっとう薄いのを願うしかなく、いっとう最初に思いきって買ったのが、シュトルム作「みづうみ」だった。むろん☆一つ。物語はすっかり忘れ去っているの に、「みづうみ」はいまも、私のひそやかな通称にも「湖の本」の名にもなっている。
岩波文庫で次に買えたのは☆一つの「徒然草」、そして思い切ってお年玉をはたいての「平家物語」上下二巻だった。前者からは、『斎王譜(=慈子)』がう まれ、後者からは『清経入水』が生まれた。その両者より早くに、秦の祖父鶴吉の蔵書中の白楽天詩集愛読の結果として『或る説臂翁』が処女作になっていた。
中学二年を終えた時、卒業して行く人から春陽堂文庫、漱石の『こころ』を形見のように大事に贈られた。何十度も読み耽った。後年の俳優座公演加藤剛主演の『心 わが愛』脚本の成る原点であった。
いわゆる単行本へも「買う」という手を出していった一等先は、与謝野晶子の現代語訳『源氏物語』であった。その次が岩波文庫☆一つの谷崎潤一郎『蘆刈 春琴抄』そして一冊本の『細雪』をまさに清水の舞台から飛びおりる気持ちで手に入れ、愛読した。
* 少年時代の読書が作家にとってどんなに大きな重いものであるかを、ありがたしとしみじみ思う。小説家は心して「読む」ことを、美術家は心して「観る」ことを原点に成長する。
* 歴史の面白さは、信じられない話だが、追求していくと、ほとほと奇妙の視野を実感ゆたかにひろげてくれるところにもある。いくつかそういう小説を書か せてもらえ、いままた追いかけようかと。獲物へ手がとどくか、ファイトである。かなりの賭けでもある。邪道と本道のあいを須走りに駆け抜ける感じである。 私小説だけをリアリズムと思っている人には、出来ない。
2019 11/11 216
* どうしても必要な、たしか井上鋭さんの著書(表題が思い出せない)一冊が見当たらない。いつか必ず役に立つ本と意識明確だったので、手近にこそ有れまさか外へ流失処分などされていまいと思うのだが。
「捜す」のは、とてものこと、好きでなく得手でない。もう書店には見つかるまい、少し堅い図書館へ行かないと。
2019 11/12 216
* 書きかけていた北越や山陰を舞台の小説、手近に在るはずの文献を見失い、立ち往生している。いったん見捨てざるを得ないか。
* こころ重いが、これが老いの日常というものか。せめてやすやすと寝入りたい。本の発送をひかえると、出来て届くまで胸を圧されるよう。生涯、用意万端に気配りしては疲れてきた。トクな性分でない。バグワンに叱られッぱなしなワケ。
2019 11/15 216
* 今日は、終日繰り返して或るひとつことを心がけ試みながら、どうしても書き取れなかった。気が乗らないとはこれかと思いながら、とうとう九時前、あす の体調と気分のためにも、しつこく追うのをやめた。かわりに、網野善彦の手つかずでいた単行本の遺著を、新しい勉強にと読み始めた。
2019 11/17 216
* 何にとなく、じっと堪えて待っている。たいしたことではない、短い原稿を書いてしまいたくて、すこし手こずっているということ。ナニ。追われているのではなく。
2019 11/18 216
* 今朝のうちに「湖の本」148を要再校で送っておいた。
ちかぢかに、『秦 恒平選集』題三十二巻が入稿できる。そうなったら、のこる一巻分をどう編輯しておさめるか、知恵を絞らねばならぬ。
時は、着々流れて行く。私は岸に立ち 流れを眺めているのではない。私もまた流れている。
* 平凡社に 平凡社選書 が一冊も残っていない 見当たらないと 依頼したのへ ガッカリの返事が来た。おどろき かつ 落胆。家で探すしかない。
2019 11/18 216
☆ 『バグワンと私 途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ
20 * 昨日就寝前の読書は二時三時に及び、中でも一休和尚の道歌を説きながらのバグワンのことばに驚きました。わたしが、ものを書き出してこのかた、創作動機の 芯に置いてきた一つ、「島」の思想と同じことが語られていました。おッ、同じことを言っていると思わず口に出たほどです。
わたしは、言い続けてきました、人の「生まれる」とは、広漠とした「世間の海」に無数に点在する「小島」へ、孤独に 立たされることだと。この小島は、人 一人の足を載せるだけの広さしか、ない。二人は立てない。そして人は島から島へ孤独に堪えかねて呼び合っていますが、絶対に島から島に橋は架からない、 と。「自分=己れ」とは、そういう孤立の存在であり、親もきょうだいも本質は「他人」なのだと。
だが、そんな淋しさの恐怖に耐え難い人間は、愛を求め、他の島へ呼びかけつづけていると。
そして、或る瞬間から、自分一人でしか立てないそんな小島に、二人で、三人で、五人十人で一緒に立てていると「実感」できることが有ります。受け入れ合えた、愛。小島を分かち合って一緒に立てる相手は、己と同じい、それが、「身内」というものだと。
親子だから身内、きょうだいだから身内、夫婦だから身内なのではないんです、「愛」があって一人しか立てない「島を、ともに分かち合えた同士」、それが、それこそが眞に「身内」なのだと。
ですが、それって錯覚でもありえます。いや貴重な錯覚というべきものでしょう、愛とは錯覚でもあると、わたしは感じていて、だからこそ大事なのだと考え、感じてきました。
* 昨夜、バグワンは、語っていました。(スワミ・アナンダ・モンジュさんの訳『一休道歌』に拠っています。以降、同じです。)
☆ ひとり来てひとりかへるも迷なり きたらず去らぬ道ををしへむ 一休禅師
一休はどんな哲学も提起していない。これは彼のゆさぶりだ。それは、あらゆる人にショックを与える測り知れない美しさ、測り知れない可能性を持っている。
ひとり来て一人かへるも──
これは各時代を通じて、何度も何度も言われてきたことだ。宗教的な人々は口をそろえてこう言ってきた。「われわれはこの世に独り来て、独り去ってゆ く。」倶に在ることはすべて幻想だ。私たちが独りであり、その孤独がつらいがゆえに、まさにその倶に在るという観念が、願望が生まれてくる。私たちは自ら の孤独を「関係(=親子、夫婦、同胞、親類、師弟、友、同僚、同郷等)」のうちに紛らわしたい……。
私たちが愛にひどく巻き込まれるのはそのためだ。ふつう、人が、女性あるいは男性と恋に落ちたのは、彼女が美しかったり、彼がすてきだったりするからだと 思う。けれど真実ではない。実状はまったくちがう。いわばおまえが恋に落ちたのは、おまえが独りでいられない、堪えられないからだ。美しい女性が手に入ら なければ、おまえは醜い女性にだって恋をしただろう。だから、美しさが問題なのでもない。もし、女性がまったく手に入らなければ、おまえは男性にだって恋 しただろう。したがって、女性が問題なのでもない。
女性や男性と恋に落ちない者たちもいる。彼らは金に恋をする。彼らは金や権力幻想=パワートリップのなかへ入って行きはじめる。彼らは政治家になる。それ もやはり自分の孤独を避けたいからだ。もしおまえが人をよく観察したら、もしおまえが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう──おまえの行動はすべてみな 「一つの原因」に帰着できる。おまえは「孤独を恐れている」ということだ。その他はみな口実にすぎない。ほんとうの理由はおまえが、自分が非常に孤独だと 気づいている、それなんだよ。
で、詩が役に立つ。音楽も役に立つ。スポーツが役に立つ。セックスもアルコールも役に立つ……。とにかく自分の孤独を紛らわす何かがぜひ必要になる。孤が を忘れられる。これは魂のなかで疼きつづける棘だ。そしておまえはその口実をあれへこれへと取り替え続ける。ちょっと自分の=マインドを見守るがいい。千 とひとつの方法で、それはたった一つのことを試み続けている。「自分は独りだという事実をどうやって忘れよう?」と。
T.Sエリオットの詩は謂うている。
私たちはみな、実は愛情深くもなく、愛される資格もないのだろうか?
だとすれば、人は独りだ。
もし愛が可能でなかったら、人は独りだ。愛はぜひとも実現可能なものに仕立てあげられねばならない。もしそれが不可能に近いなら、そのときには「幻想」を生み出さねばならない──自分の孤独を避ける必要があるからだ。
独りのとき、あなたは恐れている。いいかね、恐怖は幽霊のせいで起こるのではない。あなたの孤独からやって来る。──幽霊はたんなるマインドの投影だ。お まえはほんとうは自分の孤独が怖いのだ──。それが幽霊だ。突然おまえは自分自身に直面しなければならない。不意におまえは自分のまったき空虚さ、孤独を 見なければならない。誰とも何とも関わるすべがない。おまえは大声で叫びに叫びつづけてきたが、誰ひとり耳を貸す者はいない。おまえはこの寒々とした孤独 の中にいる。誰もおまえを抱きしめてはくれない。
これが人間の恐怖、苦悶だ。もし愛が可能でないとしたら、そのときには人は独りだ。だからこそ愛はどうしても実現可能なものに仕立てあげられねばならな い。それは創りだされねばならない──たとえそれが偽りであろうとも、人は愛しつづけずにはいられない。さもなければ生きることが不可能になるからだ。
そして、愛が偽りであるという事実に社会が行き当たると、いつも二つの状況が可能になる。
* そしてバグワンは、深くて怖いことを示唆するのです。
* それにしても、わたしは、バグワンと同じことを考え続けて書いてきたのだと思い当たります。所々のキイワードすらそっくり同じです。そうです、わた しの文学が、主要な作品のいくつかに「幻想」を大胆に用いた根底の理由を、バグワンは正確に指摘しているのでした。いま上武大学で先生をしている原善は、 わたしを論じた著書をもち、しかもわたしの「幻想」性に早くから強い関心を示して論点の芯に据えていましたが、じつのところバグワンの指摘した「幻想」に 至る必然には目が届いていないと、作者として思ってきました。だが彼のために弁護するなら、作者のわたしとても、かくも明快に意識していたかどうかと、告 白するしかありません。
もう少し、バグワンの重大なと思われる講話の続きを聴きます。
☆ ブッダたちは情報知識=インフォメーションには関心を示さない。彼らの関心は変容=トランスフォーメーションにある。おまえの世界は、すべて、自分自身か ら逃避するための巨大な仕掛けだ。ブッダたちはおまえの仕掛けを破壊する。彼らはおまえをおまえ自身に連れ戻す。
ごく稀な、勇気ある人々だけが仏陀のような人に接触するのはそのためだ。並みのマインドには我慢できない。仏陀のような人の<臨在>は耐え難い。なぜ?
なぜ人々は仏陀やキリストやツァラツストラや老子に激しく反撥したのだろう? 彼らは虚偽の悦楽、うその心地よさ、幻想のなかに生きる心安さを許さない人 々だからだ。これらの人はおまえを容赦しない。彼らはおまえに真実に向かうことを強いつづける人々だ。そして真実は凡俗にとっていつでも危険なものだから だ。
体験すべき最初の真実は、「人は独り」だということ。体験する最初の真実は、「愛は幻想(=錯覚、貴重な錯覚)」だということだ。 愛は幻想だという、その忌まわしさをおまえ、ちょっと思い浮かべてみるがいい。おまえはその幻想を通してのみ生きてきた……。
おまえは自分の両親を愛していた。おまえは自分の兄弟姉妹を愛していた。やがておまえは、女性、あるいは男性と恋に落ちるようになる。おまえは、自分の 国、自分の教会、自分の宗教を愛している。そしおまえたは、自分の車やアイスクリームを愛している──そうしたことがいくつもある。おまえたちはこれらす べての幻想(=夢・錯覚)のなかで生きている。
ところが、ふと気づくと、おまえは裸であり、独りぼっちであり、いっさいの幻想は消えている。それは、痛い。
* この通りであるなあと、少なくも「畜生塚」や「慈(あつ)子」や「蝶の皿」を、「清経入水」や「みごもりの湖」を、そして「初恋」や「冬祭り」や「四度の瀧」を書いた頃を通じて、わたしは痛感してきましたし、今も。
ですが、バグワンとすこし違う認識が無いとも謂えないし、それは大事なことかも知れないのです。「慈子」や「畜生塚」のなかで用いていたと思うし、請われ れば答えていたと思うのですが、わたしは「絵空事の真実」と謂い、「絵空事にこそ不壊(ふえ)の真実」を打ち立てることが出来ると書いたり話したりしてい たのでした。
一切が夢だから、早く醒めよ、そして真実の己れと、己れの内深くで「再会せよ」というのが、バグワンの忠告であり、じつは、ブッダたちの、また老子たち の教えです。そういう教えのもっている怖さを回避するために、教団仏教や寺院や経典ができ、また基督教や教会が出来、道教への奇態な変質が起きた。バグワ ンはそれらに目もくれるなと言いたげでして、わたしは彼に賛成なのです。それらはその人達の本来からは、ひどくかけ放たれたいわば俗世の機構にすぎません から。
いま触れた点でのバグワンとわたしとの折り合いは、そう難儀な事とも思っていません。わたしは「幻想」を創作の方法として必然掘り起こしたときに、「夢の また夢」という醒め方から、絵空事の不壊の値に手を触れうると思っていましたし、今もほぼそういう見当でいます。
* わたしが、ふとしたことからバグワンに出逢ったことは、繰り返し「私語」してきました。もう何年、読誦しつづけていることか、しかし読んでも読んでも、聴 いても聴いても、飽きて疎むという気持ちは湧きません。ますます理解がすすみ、嬉しい安堵や恐ろしい叱責を受け続けています。その核心にあたる機縁に、昨 夜、はじめて手強く触れ得たのは幸福でした。 2001 09・07
2019 11/20 216
* わたしは、今日・現代の中国や朝鮮半島に特別の親和感を持っていないけれど、韓国製の歴史連続時代劇には、「イ・サン」「トンイ」「馬医」など長編を 一度ならず観覚えており、今は、月曜から金曜までの午前の、「オクニョ」「心医 ホ・ジュン」を異様に熱心に見続けている。時に録画分を再見してもいる。 日本の歴史連続時代劇で、これらほど緊迫感も豊かに面白い紙芝居をみせてもらったことがほとんど無い。
その理由のひとつは、京都に縁のある朝廷がらみの劇作になにらか遠慮があるのかと想う。「新平家物語」「平清盛」では後白河院、また「太平記」がらみに 後醍醐天皇の南北朝劇もあったが、この辺は作家達も取りつき慣れているが、源氏物語などはみな綺麗事で終え、どうも天皇さんを引き合いの劇作はタプーなの であるらしい。
その点、韓国の朝廷劇はもの凄い。剣も毒も陰謀も氾濫も色事も豊富にあらわれて紙芝居作りの手腕は必ずしも凡ではないのだ、惹きつける策と腕を磨いている。いまの「オクニョ」も「ホ・ジュン」も競い合うように人間劇でもある。
歴史ものと云わ、ず今、私を惹きつけてかならず見せるのはほぼ一つ大門未知子なる「ドクターX」のほかに見当たらない。ことに昨今、あまりにみなチャチ く、観客を下目にみて説明と間延び過剰に演出も芝居もヘタクソなのである。なにしろ売れているらしき俳優・女優がナマで顔を見せても、ほぼ必ず「スゴー イ」と宣う。「日本語をより美しく正しく愛していない俳優・女優」なんて者に、存在意義は無い。本当に疎ましくも「すごい」のは、國の政治現況だけ。「凄 い」とは「凄惨」「無残」「ムチャクチャ」の意味である、昔から。
* わたしは、あるときある社の編集者にそっと注意されながらも、日本の天皇さんにふれた小説を「三輪山」の雄略天皇、「秘色」や「蘇我殿幻想」で孝極、 斉明、天智、弘文、天武、持統天皇、「みごもりの湖」では聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇、「秋萩帖」では宇多、醍醐、朱雀天皇ら、「絵巻」「風の奏 で」最新の「花方」では、白河、堀河、鳥羽、後白河、高倉、安徳天皇らを描いてきた。中国のポルノ小説を楽しんで学習された村上天皇にも触れている。天皇 さんがらみでの歴史時代劇はいくらでも話題があって「日本」の理解に有益なのに、遠慮が過ぎるのか、書き手に勉強がまるで出来てないのか、惜しいことだ。 わたしは、日々に、事ごとに、ボケ防止のためらも歴代天皇126人の諡を諳誦している。歌うようにすらすらと云える。時代時勢の変と事と流れが自然と絵巻 のようにあたまに甦るというトクがある。
2019 11/20 216
☆ 『バグワンと私 途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ
21 * バグワンが、寺院の入り口におかれた「ミトゥナ像」について話していました。
国会の論議がダラダラと嘘くさい、そう、メールで朝から嘆いてきた人もいます。わたしも聴いていました、見てましいた。
男女抱擁のミトゥナ像に即して謂えば、真実に真に近づきうる瞬間を ミトゥナが体現し示唆していると、バグワンは、適切に教えています。ドンマイ= don’t mind なんです、基本の姿勢は。二が二でなくなり、一ですらなく溶け合っているそうそう長くは保てない瞬間の、無我。
覚者でない我々凡俗には、その余は、ぜーんぶ虚仮=コケであります、すべて。虚仮には虚仮と承知で楽しくさえ付き合っていますが、覚めれば何にも無い、夢。
夢ではないよと深い暗示が得られるのは、ミトゥナのような、二が二でなく一ですら無くなったような極限でだけでしょうか。ちがいますか。
国会なんて、コケのコケ。文藝館もドルフィン・キックも、みーんな虚仮です。ミトゥナ像が寺院の「入り口」に置かれる意味深さは、「入り口」を奥へ入っ て虚仮でない世界にまでは容易に進み得ない者には、理解が遠い。自我の心を落としきるのは容易でないが、それなしに、虚仮に振り回される幻影地獄からは出 て行けない。 2001 10・12
* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の 私のうちに胚胎した、これが意識下の強い契機であったと思い当たる。十八年も昔になり、さらに数年経て、試筆ないし始筆したのだったとも思い当たる。軽々しい思いではあり得なかった。
2019 11/21 216
* もう半世紀も大昔になる、美術出版社のために『女文化の終焉 十二世紀美術論』を書き下ろした時、「終焉」などという言葉が自分にもいつか意味をもつ のだろうかと遙かな思いをもったのを覚えているが、「終焉」が日に日に意味をもってきた。ほほう…という心地。モーツアルトの静かなフルートを聴いてい る。
2019 11/23 216
* さ、何がどうあろうと明日朝の一番に最新作の小説本が出来てくるが、玄関に積み上げるだけ、何ほどのことも出来ぬまま発送は見合わせて聖路加病院へ受 診に行く。何時に帰るなどと強いては考えず、遅い昼食を何処かでして、一日休むほどの気で出向く。まだ何が何とも分からん携帯電話の必要がないのを願う。
さきの『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は読者の皆さんの受け方はともかく、私自身は終末期を記念する代表作の一つという気でいる。なによりも、私でなければ誰にも書けないまでに性に逼って表現した、書いたと思っている。
つづく今度の作は、作も、書いてよかった、書けて善かったと思っていて、お届けするのに気は弾んでいる。扉裏に掲げた 河上徹太郎先生、野呂芳男博士の言に背いていないと思っている。作者の私自身が最初の読者となり、出来本を真っ先に手に、聖路加病院へ出かけたい。
まだ八時半だが、もう休養してしまう。
2019 11/24 216
* 「湖の本137 花方」 届いた。 では、築地(聖路加病院)へ向かう用意を。
* 早めに解放されたので、三笠会館に入って食事した。ステーキ肉を150グラム、しっかり食べたが、以前に二度来た時のように、美味いという実感にはならなかった。
「花方」は気持ちよく「一」を読みきった、が、この程度でも、「難しい」と謂われるのだろうか。
「語る」「もの語る」という「方法」にわたしは「好奇心」というほどの好みを、いまも持っていて、前作でも、今度の作でも「語る」楽しみでハナシを運んでいる。そういう「作」がこれまでにも多かったろうか、そうでもないと思うが。
2019 11/25 216
☆ 『湖の本』147『花方』をいただきました。
直ちにページをくくり、ただ今読了しました。いつもながらのご厚情に感謝いたします。
確かに、「現代の怪奇小説」の新たなヴァージョンですね。愛の開花までの美しいポエジーを切れ切れに散りばめつつ、平家の時代から現代までの人間の執念 を、ときになまめかしく絡ませています。日常を突如浸食する異空間・異時間の怪しい情念と美しさを言語の力によって、一瞬読者の脳裏に像を結ばせる。その 筆力にはいつもながら感嘆しております。
ガンの心配から解放されているご様子で何よりです。
ありがとうございました。お二人の平安をお祈りします。 IDU名誉教授 浩
* 怪奇は人の心を「白」くする。「怕」いの本義であろうか。
今回作『花方 異本平家』は、怪奇に重きを置くよりも「愛」の奇妙を楽しんで「語り」たかった、結果として何かしら美妙に「騙り」えていればいいと、文 章や語りにも思うまま遊びを拒まなかった。それぞれに色徴の異なっている「宗盛」 「花方」 「颫由子」 三枚の色よい花びらを一つの「花」へと組み合わ せ、その花が風車のように文学として舞い舞ってくれるといいが、と、楽しんだ。太宰治賞の「清経入水」へ河上徹太郎先生の下さった批評、野呂芳男さんの期 待と予言をもう年久しく胸に置いていた。
2019 11/28 216
* 「湖の本 148」の、早や再校が出そろった。師走半ばには責了にできなくないが、一月早々の発送はつらい。、きまりの数字になる「秦 恒平・湖(うみ)の本」第150巻の心用意をしたいもの。いまから最新作の長編小説は、ちと難しいだろうナ。
それよりも、残る二巻の『秦 恒平選集』をしっかり仕上げて、久しきに亘る重い肩の荷を、しずかに心ゆくかたちでおろしたいもの。作家生活の五十年が過ぎて行く。疲れましたなどと音を上げてはならない。私は私自身の「いま・ここ」を心豊かに養わねば。
2019 11/30 216
* 『花方 異本平家』四章の三まで読み返した。余計だったかも知れない長めの「私語の刻」も読んでおいた。入れない方が良かったかも知れない。
2019 11/30 216
☆ 「湖の本」147(「花方 異本平家)拝受
読ませて頂きます。本当にありがとうございます。
過日の「オイノ・セクスアリス」は先生の「選集」31巻でも読み了えました。
只今 かつて読んだことのある鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を取り出して読み始めています。一寸面白い比較ができるかもと思います。
先生の「オイノ」の荘大なケウな血の流れなどみごとに創造想像そして実在実存をみごとに描き処理されていると思いました。
ただ、(これが先生の個性、固有でしょうが)セクスアリスが具体的過ぎ、文芸(アートとかクンストですが)を越え出ている風にも思え、私としては 放言お許し下さい 一寸惜しい気がしています。草々 東京・府中 杉本利男 作家
* 感謝。 後半のご指摘 放言どころか たぶん大方の読者 辛抱して下さった方も 投げ出された方も つまりはここへ感想が寄っていたことと思われ、常識ないしは良識からも ま、それが普通かと思います。
ただ、こうも思っています、この千枚もの長編で、稀有なまでの老人と若い人との関わりが多年に亘り続いた「性の出逢い」も 女性からのごく自然で実情実 感の籠もった多年連続厖大な数の「ラヴコール」 この二つは、「作の構造」そのものの構築上の要請で、これを おシルシ程度に省いては、建造物としてのこ の一作はかえつて薄味に、作の主要な主題や意図や語りをただのおはなしに貶めてしまいかねない、その勘定にこそ作者は意を用いました、そのためにも第一部 をことさらに「東作」氏の述懐や見解や論述や短歌等でバランスしたのでした。この作での「老い」と「若き」との「性」は幸せにも三回でも三十五十回でも等 質の燃焼を得ています、だから三回分書けばいいではないかというのでは、潤一郎先生の云われていた文学の構築的美感、構造的真実に背きかねないと懸念しま して、読者数を喪う危険もあえて「このままの作物」として本にしたのでした。
さらに、ご批判下さい。
2019 11/30 216
* 「選集 32」の編輯に大きな決心をした。手間はかかるだろうが。とにかくも試みてみる。今回の「選集」で私の「仕事が終わる」のではない、少し思い切っ た「中仕切り」を立てたに過ぎない。あとへ続くモノ・コトに、ここで脚をとられる必要はない。アトはアトと、躊躇いなく書きついで逝けばゆけばよい
2019 11/30 216
* 久しぶりに倍賞千恵子の絶唱「「かあさんの歌」に涙ぐんでいる。
見たことも感じたこともなかった「かあさん」は、少年「もらひ子」の私の胸の、どう強がろうとどす黒いまで、うずめようを知らぬ大きな「欠損」であった。『オイノ・セクスアリス』にせよ今度の『花方』にせよ、他のことはどうでもいい、ほとんど懸命にその欠損を埋めようとしていたのである。八十四歳を目前に なお わたしは未熟な少年のまま底知れぬ感傷を捨てえないでいる。バカみたい。
2019 12/1 217
* 『花方 異本平家』へ どんな感想が届くか、まだ分からない。感想には、読んでの感想と、読まないでの感想がある。「平家物語に親炙」の人の感想が期待されるのだが、怒られるかも知れない。嗤われるのかも知れない。
ひょっとして(円地文子さんのほかにも)「花方 波方」に着目の論文なり創作があったか、それも知りたいし読んでみたいが。
* 九時。まったくの霞み目で、機械の字がもう拾えない。休まないと。
2019 12/1 217
* 創作された小説にも、いろいろな動機や刺戟や勧誘が働いている。すこしずつでも作へ立ち入った感想や批評が欲しいなと期待している。「読んでから」と思ってられる方が多かろうと、心待ちにしているが。
* 「作家以前」「太宰賞まで」の自筆年譜を、思うとこ ろ有り読み返している。人さまに読んで欲しいというより、私自身が、いつ目をむけてもそこに生涯で一等懐かしい時期が思い出せるように書き綴ってある。こ とごとく ありありと往時を思い起こすことが出来る。往時をただ渺茫にしてしまうまいと克明に用意しておいた「私記録」である。
* 読み返しながら、思わず笑えるのは、私の、以下、こういう「男女観」の浮き上がってくること。
私の観察と批評とでは、「男は(金と機械と技術という)文明」に追従し奉仕し奮励し、「女は(女)文化」に慣れ馴染み育てられる、ということ。
私はと謂うと、根から「文明」は疎ましく、「文化」の方を熱く愛するということ。
私は「京都」という「女文化」の都市で、実にさまざまに多彩な「女文化」にまみれるように育った。端的に例を謂えば、秦の父長治郎の、日本中でも先駆け たほどのラジオ・電器の技術には全く馴染まず、しかし父が趣味の謡曲の美しさには傾倒し感化された。秦の祖父鶴吉は、どんな気分でか時に「恒平を連れて商 売に行く」と愚痴ったそうだが、私は「商売」は御免、しかし祖父が山と積んでいた書物からは本当に多く多くを学んだ。秦の叔母つる(宗陽・玉月)は茶の湯 と生け花、付随して和服・道具・書画や茶会へ、なにより女たちの輪の中へ少年の私を誘い入れた。大勢の老若の女たちがいつも「京ことば」で談笑していて、 わたしはそれらを見聞きしながら育った。
私の自筆年譜には、無数の女性との出会いが記録されているが、男友達の名前は極めて少ないのである。「女好き」とか「女遊び」とはまるで性質を異にした「文化」的な出会いが自然と私にに生まれやすかったと謂うことである。思わず、笑えてしまう。
2019 12/2 217
* 10:25 軽微ながら地震。
☆ 「湖の本」147を受け取りました。ありがとうございます。
秦さんの作品は難しいという噂とか。
本は難しいくらいでないと読むに値しないのではありませんかね。
司馬遼太郎さんの紀行文に、贈呈された本を読みきるのに一年かかっていた在日韓国人の話がありました。途中引用されている原典に全部当たって、その都度読み終えてから先を読み進められたのだそうです。
私も見習いたいものだと思いました。
と言う訳で 今作品を読み切るにはしばらくかかりそうです。怪しい仕掛けがたっぷりありそうですので。
秦恒平さま 秀
☆ ご高著をご恵与下さり
ありがとうございました。
拝読するとしばしば感じるのは、過去と現在が一つの土地・空間で交錯する不思議な感覚です。その土地が、自分が過去に訪れた場所であると、後継が思い出されて、一層強い思いに囚われます。
ご厚情に深く感謝申し上げます。 敬具 秋田大学教授 正
* 瀬戸内のしまなみを実見に行きたかったが、とても体調が許さず、苦心惨憺、出向かず実見せずに『花方』終幕を思い切って書いた。わたしの実感では、行 けなくて、実景などみられなくて、そのまま猛烈な飛行(ひぎょう)が書けたのは、幸いにその方が良かったのだと思えている。浅々しい実景を見分して書いて いたらとても思い切った創作はできなかったろう。今日、おちついて終章終幕を読み替えして納得した。あれで善い。
2019 12/3 217
☆ 秦さん
十一月二十三日、浄瑠璃寺を訪問した際、紅葉が綺麗でしたのでカメラに納めたものをお送りします。 また 薬壺型のご朱印も珍しかったので ご長寿を願い 合わせて同封します。
以前に問い合わせ頂いた太秦在住の作家について調べましたが、書名が判読できず分かりませんでした。もう少し情報を頂ければ調べきれますが どうされますか? 気になっておりました。
それでは 良いお年を 京・太秦 シグナレス 山中太郎
* 感謝。薬壺の浄瑠璃寺御朱印 美しく。
シグナレスの人には『オイノ・セクスアリス 或る寓話』の仕上げの頃にご助力頂いた。ここでの書物は、例の身辺から埋没で見つからずアイマイなことになりご迷惑掛けた。『京都「魔界」巡礼』という本の丘眞奈美さんという著者に、いくらか念のため教わりたいことがあったので。ま、駆け抜けたもので、そのままになっていた。御免。
2019 12/4 217
* どうも 読者より、作者が楽しんだ作で「花方 異本平家」はあったのかも知れぬ。私なら喜ぶという話材で私なら楽しむという書き方が過ぎたのかも。副題も、尻込みさせる障りになったかも。ウーン。
2019 12/4 217
* なにとなく、つい懐古的にもの思いがちに気とからだを安めている。
* 昨日一昨日に、思い返し顧みた 私・秦 恒平少年青年期の知情意に切実に感化を与えた書物たち、それ故にまた後年の創作や文藝に多大の示唆や刺戟を与え続けた書目を、ざっと記録しておく。大方は偶々(たまたま)の出会いともいえ、また心して買い求めもした。選んだと云うより、 やはり「出会った」のであるが、愛読という以上に繰り返し繰り返し「耽読」した。。
古事記 次田潤 現代語訳 有済国民学校一年担任吉村初乃先生に戴く
百人一首歌留多 秦家所蔵
百人一首一夕話 祖父秦鶴吉蔵書
阿若丸 講談社絵本 借用
選註・白楽天詩集 井土霊山選 崇文館 秦鶴吉蔵書
国史 通信教育教科書 秦家架蔵
日用大百科寶典 秦家架蔵
歌舞伎概説 秦家架蔵
源氏物語 与謝野晶子現代語訳 林佐穂家蔵豪華二册本
谷間の百合 バルザック 梶川芳江より借読
平家物語 岩波文庫上下巻 購読
モンテクリスト伯 新潮世界文学全集上下巻 古本 購読
若きウェルテルの悩み ゲーテ 岩波文庫 借読
少将滋幹の母 谷崎潤一郎 朝刊連載
心 夏目漱石 春陽堂文庫 梶川芳江に贈らる
天の夕顔 中川与一 岩波文庫 借読
蘆刈・春琴抄 谷崎潤一郎 岩波文庫 購読
徒然草 岩波文庫 購読
朝の蛍 斎藤茂吉自選歌集 古本 購読
若山牧水歌集 岩波文庫 借読
北原白秋詩集 岩波文庫 借読
細雪 谷崎潤一郎 一冊本 購読
谷崎潤一郎選集 六巻 創元社 購読
島崎藤村集(新生 嵐など) 筑摩書房文学全集の一巻 購読
般若心経講義 高神覚昇 角川文庫 購読
出家とその弟子 倉田百三 借読
源氏物語 島津久基釈註 岩波文庫 購読
更級日記 岩波文庫 購読 高校で輪読
旅愁 横光利一 角川昭和文学全集 購読
戦争と平和 トルストイ 購読
国民文学論 古本 購読
日本美術の特質 本編・図録 矢代幸雄 購読
夢の浮橋 谷崎潤一郎 中央公論 購読
平家物語 昭和八年刊 山田孝雄監修 寶文館 古本 購読
徒然草諸註集成 昭和三十七年刊 右文書院 購読
梁塵秘抄 岩波文庫 古本 購読
西洋紀聞 新井白石 岩波文庫 古本 購読
* これらが いわば多数濫読のほぼ不動の軸芯を成していたと謂うこと。今も感謝している。
2019 12/5 217
* 最新作小説『花方』へは、今治市で図書館長されていた木村年孝さんにまさしく豊富な地誌・地図・史料等々のご支援を戴いていた。すこし落ち着いたら、 あらためてお礼を申し上げたい。例の私の「怪奇小説」ゆえ、ご迷惑の向きもいろいろに書き込まれてあるやも知れないが、お許し下さい。
それにしても一度、「しまなみ海道」を山陽から四国「波方」まで通ってみたかったなあ。元気なら行けるのだが。
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☆ 師走
12月6日 金曜日 冬の青空です。東京の空は如何、寒くなり、雪かとも天気予報は伝えています。
湖の本が届いたのは 11月30日の土曜日でした。その日の午後、早速読み始め50ページ程 読み進めました。が、いかにも作者の世界そのものを、『風 の奏で』や『冬祭り』の世界と深くつながる世界を感じつつ、同時にやはり難解でもありました。古典を単に読むだけでなく、そこに疑問を呈することができる ほどの蓄積が自分にはないのを痛感、これも例の如くです。その日の日記を書き出してみます。
11月30日 土曜日 本、届く。50ページあたりまで読む。『清水坂』と仮の題をつけていた作品はテーマそのものから 『花方』と命名されている。まだ終わりまでは到底見えるはずもない。
テーマそのもの、平家物語の時代と世界だ。それは作者少年の日から直感と、長年蓄えられた膨大な知識と心底からの熱い思いに支えられている。結果としてわたしも含めて多くの読み手は、漢字の難しさどころではない、史書文書の類から何を読み取るのか、
人間模様の複雑、歴史的事実の煩雑に・・圧倒され困惑し 絶句さえしてしまう。
が、作者の語り口は昔の作品とはやや趣を異にする。先の『オイノ・セクスアリス』にも見られる軽妙洒脱に近く、優しさをも含んで 明るいとさえ言い得る、こなれた語り口なのだ。
清水界隈の通りからやや奥まった家に住む母子の図も 以前の作の中にあった。
ふゆこ、の「ふ(颫)」の字は ワードの画面の単漢字を調べても出てこない・・「嵐」の意味と。
が、ふゆこは冬子、『冬祭り』のヒロインであり、その墓所は作中に清水寺南に位置する清閑寺とされている。此処は高倉天皇、六条天皇の陵があり平家との因縁は言うまでもない。阿弥陀ヶ峰も視界の内にある。
そして用事もあり、なかなか読み進められなかったのです。
花方についての作者の疑問、探求が書かれて、ずっと以前から瀬戸内海方面に旅したいと言ってらした、その理由を納得しました。その土地に実際に行ったから書けるとも限らず、作者の想像力・創造力の豊かさに支えられれば、それで十分と納得もしました。
そして、敗者の系譜、或い?は穢れを浄める人々、流浪遍歴の人々・・先の『オイノ・セクスアリス』ではあまり書かれなかった・・中世以来の事柄も胸に沁みました。
再度読みましたが、まだ理解できたとは言えません。
わたしなりに(京都人にはなり得ない・・)改めて清水界隈、建仁寺界隈の空気を思い切り吸ってみたいと思っています。馬町や今熊野も懐かしく、但しここは若い日の一番つらかった時期に暮らしたところですが・・。
アフガニスタンで中村哲氏が殺されたこと、ウイグル民族のこと、香港のこと、さまざま思いが渦巻いています。
嘆きつつ、せめて友人から貰った矢車草の種が発芽生長しているのを、遅まきながら今日は植え替えしようと思っています。
くれぐれも寒さ対策なさって風邪ひかぬよう、御身体大切に、大切に。 尾張の鳶
* 尾張の鳶にして難渋の様子、『花方 異本平家』は、すくなくも「読みづらく」「難しい」小説に「なってもた」らしいナ。
☆ 「オハナシ、オハナシ」と
おとなを、追いかけていたころを、おもいだしました。
自分で、少し読めるようになっても、覚えてしまった本でも、読んでほしくて、終わるのが惜しくて、「・・・とさ。」となるところを 「・・・と。」で 止めていました。変な子です。
「花方」もそう。何度も読み返された息使いをかんじます。とてもやさしい。
錯綜する内容は、これからかんがえます。 柚
* こういう風に読んでもらえて、それで感じて考えて楽しんで頂けるなら、じつに嬉しい。
* じつは、かなり立ち入った作者の発想・構想を細かに書いて、ブチ撒けようかとも思っていたが、ま、まだその時期であるまいし、愛媛県今治市からは、本を、かなりまとめてご希望らしい電話もわたしの留守中(散髪)に頂いていたらしい。
ま、まだ作者のわたしが突っ込んでモノ云うのは早いと思う。それよりも、
* 今日も払い込みを戴き続けている中に、さきの『オイノ・セクスアリス ある寓話』へのきついお叱りで「購読をやめる」という一通があった。「湖の本」最初期から三十数年の、それよりももっと古くからの愛読者のお一人であった。恐縮した。
☆ 今回で
「湖の本」の配本をやめさせていただきます。
「オイノ・セクスアリス」 文章も内容も全くついていけませんでした 秦先生が一体何故このような方向にいかれたか全くわかりません。それ故 今回を最後とさせていただきます。
長い間 どうもありがとうございました。 東京・世田谷 定
* よくお気持ちは分かるし、こういう思いから立ち去られる方の出るのを、明瞭に念頭に置きつつ、あえてあの長編は「書かれて自然当然」と作者は考えてい た。作者も、成長し変貌を遂げつつ処女作以来の思想や感性や文藝を弱いマナリズムから守り勝ち抜き徹さねばならない。たんに作者の年齢・体力の問題だけで ない、人間理解の久しい宿題に新しい「解」を表現し続けるということである。
奇驕を狙うのではない、少なくも男女をとわず「人間の在る」意味を、生活感とともに問い続けねばならない、作家は。なかでも「性」は、そんな男にも女にも老いにも若きにも、無視し見捨てて済む課題ではない。
あの「オイノ・セクスアリス」では、しかも「性」「性行為」の行き着く限界を見つめながら、「真の身内」の思いや悲しみにもたとえまだ微かにでも、真相 をまさぐり掴みたかった。作者が老いればこその視野もあろうと思い、真剣にまさぐっていた。今だからやっと思い切って書ける課題を選んだ八十の老境。愚劣 でへたくそなエロ小説を書いたのではない。
若い女性と老人との性的な情事は、ごく顕著に頻発してくる「人間喜劇の主題」であると、フランスのラ・ロシュフコー公爵はその「箴言集」で二百年も昔に 喝破していた。わたしは、それにも頷く。誰かの真似をしたのでなく、私だから書けた人間劇を語る騙りで「物語って」見せただけりこと。
2019 12/6 217
* 谷崎先生は、ほんとうに瘋癲「老人」と自覚されてたのだろうか。
わたしがこのところ当惑し困惑気味なのは、丸くも枯れてもいっこう「老人」に成れないで、いわば「瘋癲少年」のようという気恥ずかしさである。
老齢の生理身体の衰弱は日々についてまわるが、老齢の気分がなかなかリアリティを得ず、わたしは相変わらず「むかし、むかし」を、せいぜい学生時代まで をまるで反芻しているではないか。成熟も老熟もない、わたしの小説で云えば「町子」や「慈子」や「紀子」や「芳江・道子・貞子」や「迪子」や「冬子、法 子」や「彬子」との対話でうとましい現実世界へ半ばもそれ以上も背を向け、日々暮らしている。令和の政治的・文明的な現実を厭悪して、いっそと深海に棲も うかなどと想っている。
想えばわたしはこれまで真実すばらしい老人を知らなかったのだ、わたし自身がもう八十四では、九十も百すらもホンの先輩というに過ぎない。若い頃に、あ ああの方は「理想の老人」やなあと感嘆した覚えが不運にして無い。文学賞を下さった諸先生も皆さん現役の働き盛りと見まもっていた。親しんだ山本健吉、井 上靖、宮川寅雄酢さんらも老人などとみてなかった、堅剛な老人像では瀧井孝作先生しか存じ上げてなかったか。
老境はどう生きるのか。考えたことも無いも同然で今日がある。やれ、やれ。『オイノ・セクスアリス』の吉野東作君は一つの生々しい答えであった。『花方』の越智圭介君は深々と回想の世界に沈んでいた。若き日々をこそ懐かしみ悲しみ反芻していた。
2019 12/7 217
☆ オフレコかな?
早速のメール、嬉しく。
清水坂が本舞台でないことは、小説の半ば以後の展開から容易に理解できました。最後にかかるあたりでは再び微妙に感じるものがありました。
昨晩の 読者の方の「湖の本断り」のメール。『オイノ・・』に関連して予測でき、また実際に断る人々があったのは承知していても、やはり複雑な思いでした・・。
性を語るのは既にタブーでなく、世の中にはもっと露骨で暴力的な記事や小説が氾濫しているのに、そして現実のいとも日常的な行為としてあるのに。拒絶のメールとは、つらい。・・鴉は、勁いなあと思います。
あの作品に関して余分な感想ですが、吉野氏が世津子(雪・ 雪繪)との行為を重ねながら、不可侵の領域に妻を置いています、一瞬の迷いもなく。世津子との事はあくまでも世間で言う「浮気」「不倫」であり、糾弾され る行為です。吉野氏に世津子を痛切に恋し求めるものがあれば、それもまた人の心の様相として読者はまだ許せたのかもしれません。
とても常識的なことを書いてしまいました、ごめんなさい。 尾張の鳶
* あやまらないで。云いたくて「黙って」たことを 云った、云ってくれたということでしょう、ありがとう。 さて、清水坂でないなら、何処と見ましたか。
ところで、予想の範囲内ですから、向き直って作者から云えること、チャンとあるつもりですが、暫く措いて、他の方々の感想も誘えればと想います。
と云いつつ、やはり一つは云うておきます、「不可侵の領域」に措かれているのは、少なくも「真に身内を分かちもつる」妻をふくめ姉と妹の三人があり、東作氏を含むかれらはその世界を現実とも夢とも緊密に「身内」として分かち持ち、他界へすら飛翔できること。
それとは異質に、若い「雪」からの「誘い」を平然受け容れた現世の「東作」老には、浮気とか不倫とかとは擦れ違う「何か」冷酷なほどの確信があり、「雪 繪」を受け容れたのではない。「雪繪」にも、他の男との同棲、入籍、結婚式、出産願望といった、吉野東作老とは切り離れた別方角に「実生活」期待が膨れて います、不幸にして容易に酬われないけれど。結局そういう「老いと若いと」の出会いが実質実経験したのは、只一つ、どう悦ばしく嬉しく満たされようともか らだで営む「性・性行為」どまりで、「その先」は、どう「むごく」とも当然「無い」ということ。
それが、あの作の見分けた作者の「思想」というものでしょうか。長大作の敢えて大半を尽くすことで意識して言わしめたのは、「性行為の満足」で人生・生涯の構築は、成らない、ということ。
* ご批判も得たく、作の上の議論としての。。
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* 『秦 恒平選集』第三十二巻の編輯成り、入稿。
のこる一巻、どう編んで大団円に終えようか。
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* 大きな入稿をひとまず了えられ、ほっこりしている。さしあたって何仕事に次の手を出すかと。
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☆ 前略
待望の新作『花方 異本平家』の御上梓をお喜び申しあげます。「湖の本147」を拝受して 圧倒され堪能して拝読いたしました。
秦さんのこれまでのお作品のさまざまな流れが合流した大河(海)を、無碍自在な語り(カタリ)の櫂に導かれるままに、上流へ、下流へ、また上流へ、海へ と運ばれる快感ーーこれぞ小説の醍醐味でしょうか。老練にして若々しい艶のある文章に感嘆します。「もらひ子」の越智圭介と「花方颫由子」を、そして平家 物語と清水坂下の「花方」を結んでいるものを求める旅を終えていま、圭介にとって「花方颫由子」とは小説(文学)の化身そのもののようにも感じられます。
錆びついた頭では味わいきれなかった無念はさて措いて 豊饒な世界へのご招待を感謝申し上げます。
本格的寒さとなりました。郷里では「干し柿」づくり本番、疲労回復の一助にもと、出来上りを待って少々お届けいたします。どうぞ御身お大切に いい年をお迎え下さい。 草々
二○一九年十二月六日 敬 講談社 元「群像」編集長 出版局長
* 嬉しくて。書いてよかったと、しみじみ思う。若い若い頃の、「みごもりの湖」や「慈子」とは全く違う話法や文体をすこし放胆気味に探ってきた、老いの 遊び心も読み取っていただけ、嬉しい。昔とくらべて昔と違うと責められることが作者には有りがちだが、同じでは、只に似ていては、生涯勉強の意味が無い。
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* 暖房していても 倚子の下半身が冷たく寒い。想えば長年かけてきた小説・物語の仕事が二つ終えたのだから、関連の参考資料を適宜片づけ処分も出来る。 次の小説に手がかりの作が三つほど閉口して動き始めていて、度の一つないし二つにてをかけてゆくかを決め、関連の資料を手近へ集めねばならない。「信じら れない話だが」と書き始めている今度は山と川の物語へ気を入れようかナと思っている。ま、この師走はすこし英気元気を養って過ごしたい、とはいえ、新年早 々にはもう「湖の本」148の発送用意と、「秦 恒平選集」第三二巻めの校正作業が始まる。輻輳しての製作と出版刊行とは、鐵のように重い。
2019 12/9 217
* おおむかし、京都で電器屋をしていた秦の父が、何を思ってか、前ぶれ無くある日、まだテープ式というのかリール式というのか、「録音機」という新商品を送ってきてくれた。
嬉しくて、これに思いつきの「短い小説」を声で吹き込みたい、しかし家人の前では恥ずかしいと、みなが寝静まった真夜中に、寝床に寝腹這った恰好でマイ クを口にあて、小声で、口を放れた第一声が、なんと、「蛇を飼う夫婦があった。」であった。そのまま一編の掌説(私は自分のこの手の掌編をこう称してい る。)となり、これは面白いと「掌説」づくりに連日(連日一編という自分への約束をほぼ三週ほど守った。いつか『春蚓秋蛇』という一冊になった。もう吹き 込んだのではなく、「書いて」いたのだが。原稿用紙四枚をかなり厳格に守った。
わたしは、自身のこの総じて七十編は越しているだろう、「掌説」数々の世界を大事に「独特」と感じ、抱え持っている。そして、べつの長い作の要所にはめ 込んで利用もしてきた。今回最新作『花方』巻頭の序詞も、もとは「電話」と題した掌説を適宜に利用したのだった。こういう傾向の最初の表れは『清経入水』 の序詞であった、あれで味をしめていた。
2019 12/12 217
* 長い「私語の刻」を入れたので、作「花方」よりそっちへの挨拶が来る。私の編輯ミスであった。せめてもう二、三人の方の「花方」批評ないし批判が聞き たく、その上で私の構想、作を構築の狙いなど纏めておきたいが。天野さんのような感想があったのだから、読み手の方には失敗作とは思わないが、分かり佳い 読み佳い小説を書いた、前作よりもと思っていたが、前作の方が流のママに大筋が掴みやすかったかも。いくらかガッカリしている。せめて四章をただ一、二、 と数えず、「序詞」「一 宗盛」「二 花方」「三 波方」「四、颫由子」とでもしておけばよかったか。物語そのものがなにのことやらと掴めないままの方も 多そうに思われて、申し訳ない。
2019 12/12 217
* 次にと思案している仕事の心用意に重くて大きな日本地図帳を観ている、いや重い重いうえに字の小ささには負ける。今度も、私自身未見の地を、それも遠 く隔て合って何箇所かを繋ぐように物語を構想・構築できるか、甚だしい難行を強いられるだろうが、ま、ナントカに怖じず、よく見えてないまま践み出そうと している。「信じられない話だが」もう筆はするする動いている。
2019 12/14 217
* どんな樹木も「根」がなくては育たない、伸びない。
私ひとりの「根」を、年譜的に観るなら、親から生まれての「三十三年半」、どんなに幼稚でたわいなくて頼りなくても、太宰治賞をもらい受けて文壇的に 「作家」として歩き出した以前に限られ、「その後」今日までの五十年余は、いわば「付け足し」の幹で枝で花で実であった。こんど「選集32」に{自筆年 譜}を入れるが、受賞以後の「作家」人生は取り上げない、『選集』と「湖の本」とで(未収録も多いけれども)「作家・秦 恒平の仕事」は提示出来ている。「書誌」等は「湖の本52」に大凡挙げてあり(湖の本があり、それで判然するが)、「年譜」は不要と考えている。ホームページ20数年の「私語の刻」がほぼ隈無く語り尽くしている。
2019 12/17 217
* 源氏物語「藤の裏葉」を楽しんでいる。幼な恋の夕霧と雲居の雁とは、女の父(かつての藤中将、現に内大臣)の不興で久しく成らぬ恋のままに、しかし夕 霧は冷静に思いを持していた、女の方も。夕霧の素晴らしい成長ぶりにつけ内大臣も気負けのていで、藤花の宴にことさらに夕霧を招いて、恋の成就をむしろ請 い求めるていに、子息達にもにぎにぎしく歓迎させるのがこの巻。その宴のなかで催馬樂の「葦垣」が唄われるが、これは「夜這い」囃す歌である、夕霧の、妹 雲居の雁へ忍び入るかに囃すのである、それが「葦垣」。夕霧はこれに応酬気味に催馬樂の「河口(川口)」を口にする。親の目を盗んで女が男を誘い入れる歌 であり、夕霧は諧謔のうちに夜這いの「葦垣」に応酬したのである。
かようにも「催馬樂」という歌謡には、あけひろげに堂上公家たちですら唄い囃して常平生興がれるタチの「性の開放感」が身上・趣味・魅力なのである。男 だけでなく、老女源典侍も催馬樂の歌詞をくちずさみに若い美しい光源氏を誘っていた。平安貴族らの性の開放は、今日のわれわれの想像を超えるまで浸透して いた。
「催馬樂」なりのエロスを魅力・魅惑の歌謡は、江戸時代にまでむしろ旺盛に生きのびていたのに、明治以後の近代現代には、かかる趣味能力は「トンコ節」程 度にまで貧弱に拙劣に落ち込んでいる。「催馬樂」学者まで、まるで取り澄ました叙景歌かのように読んでくれるのだから、「セクスアリス」は当節悪玉めいて 取られてしまうのも当然か。つまらない。そういえば、昨日だったか、何かのドラマで老境へあしのかかったような男が、昂然と「男の性力は六十五からがホン モノじゃ」と豪語していてビックリした。知りませんでした。
2019 12/17 217
* では、いよいよ最新作の物語『花方』への私の立ち位置と展望を、ほどほどにも開かしてみよう。
* 『花方』では、序詞の「電話」が示唆しているように、語り手「越智圭介」の「幼なじみ颫由子(颫うちゃん)」との「喪った愛」を、双方から追っている、そこに一つの軸線または主幹が立っている。謂わば「怪奇系の恋物語」が意図されたのを「序詞」は前置きしている。
そんな「颫由子」が、初めて、幼少「圭介」の寝ている枕がみに現れると読める怖い箇所に気づけていれば察しられ読み取れるように、「颫由子」は、舟玉の ツツ神であり、海の女神と読み取られて行くのを作者は期しているが、にそれをハナからあらわに示唆はせぬよう用意した。しかし、繰り返されている 「持っ てるか」「持ってる」という確かめの対話での「何」か「紐」様のモノを察しうれば、この物語世界の基調はすでに試薬に明かされてある。蛇の別名は、より広 く「くちなわ」「くくり」「ツツ」などであり、『花方』の世界は、瀬戸内・海=海底・海神達の世界、海没した「平家」とも必然脈絡を持ってくる。「颫由 子」のそのような世界と交響して、「異本平家の世界」を、一方では八島大臣「平宗盛」の異様が語り、もう一面では八島へ赴き平家に面体を焼かれて帰った院 宣の正使「花方 波方」の異様が語る。
小説『花方』は、平家学者達がこそっとも見捨てて障らなかったママの「花方・波方」の「出」の不審を語り手なりに解決して行く段取りとともに、平家を代 表した「宗盛」という存在の異様さを数多い「異本平家」の証言を利しつつ見開いて行く。いわば色彩のちがう「颫由子」「宗盛」「花方・波方」という三枚三 色の花びらを持った物語に創ってみたのである。その色違いな三枚が、ぐるぐるとメリーゴウランドのように回りながら、越智圭介の深い「悔い」とも「物哀 れ」ともいえる「述懐の物語」を為しかつ成して行く。
「清水坂」を便宜に「仮題」にして書いていたが、「作世界の真の本拠」は「(瀬戸内)海」なのであり、それも「海の底」であり、「海神達(ウワツツオ・ ナカツツオ。ソコツツオの蛇神たち)」なのである。「花方・颫由子」は瀬戸内の海底を「おのが世界」として抱いた女神ようの存在であり、それへ悪しく立ち 向かった平家(宗盛・時忠)の無残がけわしく「対置」されている。
小説『花方』は、喪った愛の残響を抱いた老人作家越智圭介の「悔い文」という結構を書き置いたもの。「颫」は「あらし」と示唆しておいた。海を支配しているのは「異本平家の世界」でも「龍蛇」なのであり、さればこそ「颫由子」は『冬祭り』の冬子の再来なのである。
断っておくが、この物語『花方』は、およそタダの一箇所も事実そのままを利した場面も展開も無い・完全な作者の創り語りである。さてこそ、これまた「異本 平家」一つの「追加」というほどの笑いを孕んでいる。山ほどの異本平家にさらに付け加えた「異本」と読まれてよく、事実・史実を穿鑿されるのはきっと微妙に面 白いはずだが、なによりもこの物語を私に書かせたのは、どんな『平家物語』本にも登場の、しかも人別不明なままの院使「花方」を放り出したままの学者先生らへの「注文」でも「抗議」でもあった。その一言は付け加えておく。
ま、こんな作者の解説が必要では失敗作だが、私としては書き置きたかった「怪奇小説」「冬子復帰」を意図し、かつ深く「楽しんだ」作、「自愛」作ということになろう。
ほんとは、まだ此処で云いたくなかったのだが、鏡花学者なら理解して下さろうが、この『花方』は秦 恒平なりの、一の『海神別荘』でもあるのです。
2019 12/17 217
* 『選集』32 の 口絵 入稿した。「花方」に搾った。
2019 12/19 217
* 書庫へ入っていたら、恩師園頼三先生の昭和二年(私は昭和十年生まれ)の旧著『怪奇美の誕生』を見付けた。
私の太宰賞受賞作「清経入水」を「現代の怪奇小説」と支持していただいたのは選者のお一人河上徹太郎先生だったのを懐かしく思い起こし起こし、こんどの 『オイノ・セクスアリス』や「花方 異本平家』を書いていた。大学の「美学・藝術学」の恩師園先生にこの著の在って、買い入れていたことが思い出せた。大 学院へ推薦して頂いていながら、一年で、東京へ奔った、私。優しい恩師であった。
2019 12/20 217
* 「群れ 権威 束縛」を嫌い、「フリーランス」の医師として、「失敗しないオペ」の山を築いて行くドラマの「大門未知子」を私が愛するのは「当たり 前」すぎるほどで、私自身も、へたな「失敗」を重ねながらだが、「湖の本(やがて150巻に)」「秦 恒平選集(600頁平均で、やがて33巻完結に)」と、厖大な「ホームページ(私語の刻)」の継続を励みに、「いわゆる出版世間や文壇世間」の 「群れ 権威 束縛」から全く身を避け、完全に「フリーランスの作家」としてここ三十数年、弛まず仕事を積んできた。いわゆる「文学」世間での寵辱・褒貶からは完全に無縁に生きてきたのである、ただもう、心親しい「いい読者」の皆さんの励ましに感謝しつづけながら。
こういう私後半生の生涯と執筆生活を、「実績」もなく自己満足の我れ褒めでやって来たかと嗤う人もあろう。それに対しては、「フリーランス」の日々へ向 かうより以前に既に、私は大小の各出版社の「評価」「依頼」のもと、小説・評論・研究・随筆等の「単行本」を、優に「100册」も積んでいた経歴を言い添 えておこう。私は、「不遇」の作家どころか、驚くほど篤く遇されていたわけで、心より感謝もしている。
2019 12/21 217
* 医学書院の原稿用紙に200枚ほども書いて、猛烈に改作し推敲した大昔も昔の小説習作が現れ出てきた。ほかに、大判のレポート用紙か便箋様のまる一冊 以上にびっしり書き込んだ小説らしきモノも現れ出てきた。前者を妻に機械の一太郎に入れてもらっているが、半年はかかりそう。
よっぽど本気で小説家になりたかったのだ。
「黒谷」のように、いまいまの読者からも「好き」といってもらえた旧作も生き返っている。まったく新しい作も、いま、仕掛かりが三作あり、書き進めている。
この歳になって、『オイノ・セクスアリス 或る寓話』『花方 異本平家』とつづけて長編を読者の手もとへ送り出せた今年は、まず、有り難い一年だった。 有元さん、羽生さんら、わくわくして読み 堪能して読みして下さる方が『花方』にも有ったのが、嬉しい。来年も、思いの、乗り載った新作を期したい。
2019 12/21 217
* 妻、昨日の疲れ寝のあいだに、「年譜」を校正しながら、懐かしい落語「芝濱」を聴しんみりと聴く。昭和三十二、三、四年の昔の克明な年譜を顧みながら、六十年という久しい上京・結婚生活を思う。「がんばろうぜ」と妻はその昔に私を励ました。よくがんばったと思う。
2019 12/22 217
* 「花方」は、結果的にみれば、鏡花の「海神別荘」のようなと自身記録したのが十七日の「私語」だった。「同感」しての払い込み票記事と今日二十三日にはじめて出会った。もっと早くこの感想がまっさらで届いてたら、手を打って歓んだろう。
2019 12/23 217
* 今宵はもう二時間余も 二階で、六畳一間になにもかも積んで重ね並べたゴチャゴチャのまん中で、建日子の呉れたジャズ・バラードに心身をあずけ、ナー ンにもせずただやすんでいる。こんな時間は絶えて無かったこと。このわたし自身の体温で温めたような狭い部屋が好きなんだと、しんみり、納得。
階下へ降りると、キッチンには『選集32』一冊分600頁もの初校ゲラが手つかずで積まれ、「湖の本148」一冊の再校ゲラが、早く早くと待っている。いいんだ、この暮れはゆっくりしたい、と。
しかし、新しい創作の方が、チクチクと針で尻を突くように催促してくる。これは放っておけんのです。
やすむ。今晩は何が何でもやすみます。
2019 12/23 217
* 「湖の本」148『濯鱗清流 読み・書き・読書』本紙の再校了。末尾に、私が提案し、担当理事・委員長として創設開館し、日夜獅子奮迅のガンバリで充 実させた「ペン電子文藝館」「満二年」の「成果」および館長として樹てた経営方針を、「創立時記録」として副えた。わたしが「仕事をする」と謂えば「この ようにする」一例として詳細に記録してある。
2019 12/24 217
* 「催馬樂」なる古典歌謡について、とりまとめ書物で講義された。なんで若かったうちに「催馬樂」「神楽」へも踏み込み著作しておかなかったかと、悔い る。もうはや講釈や鑑賞のしごとは出遅れ、だが……と、鬱勃と別途の世界が、遠霞みながらも生気をもちわが脳髄に動めき見える気がする。欲深く突っ込んで 鞭を当ててはどうか。胸のトキトキ鳴る心地がする。まだ老い耄れてないようだ、いやこれこそ老い耄れの兆しかも知れんが、呵々、握り掛けた緒のさきを手放 さないでおこうと思う。いま構造化のさなかへ寄っている進行中の創作からは、この想は、質も材も世界・時代も違うが、やきり「怪奇」めくのかも知れぬ。あ る「女王」さんとある「大夫」とが千年ちかくを超えて合唱してくれるかも。
* ところで、こっちは、また別。信じられない話だがこんどは瀬戸内から日本海がわへと、脚はとても運べないが貪欲に手を出している。序盤は奇妙にも微妙にも運べていて、私自身の働き場もすこし有りげに思われる。
* 物語るおもしろさは源氏物語からも谷崎先生らからもしたたか習ってきたけれど、私の物語の他にあまり例をみない点は、鏡花にもない点は、「時と所」と を千年ぐらいは平気で大きく違え跨ぎながら、衝突し結合し宥和し合体する作法である。例近代にもさがせば在ろうけれど、私のように数多くそれを実現してき た例は無いだろう。「清経入水」から「秘色」も「みごもりの湖」も「慈子」も「風の奏で」も「秋萩帖」も「近作の多くもそういう構造をもってきた。「現代 の怪奇小説である」といわれた河上徹太郎先生の太宰賞選評は、いちはやく作風の芯を射抜いて居られたことになる。
わたしは、私の作や作世界を論じて下さった多くを実は観ないようにしてきた、だからそんなことは誰も分かり切って論じられているのかも知れない、が、どんなものだろう。
2019 12/25 217
* 海をくぐってきたので、今度は山や川を探訪したいと願っているが、出向く体力はない。魔法使うしかないか。
2019 12/26 217
* 「自筆年譜」克明に読み返し進む。誕生より三十四年で受賞し、以後五十年 作家として歩んできた。その「作家以前」のわがためにいかに必要で滋養に満 ち妻子の愛に満ちて意味深い歳月、いや毎日毎日であったかを納得する。これは読者のためであるより、遙かに多く重く重苦しいほどの私自身の読み物。どんな 誰の「秦 恒平論」よりも性根露わに証言に満ちている。作家の半世紀を盛った堆朱堆黒の盆のように見えてくる。
2019 12/27 217
* 目の前にウワッと山なして仕事・作業が溜まっているのを眺めながら、腹を括って元旦・新年をむかえることになる。直ぐにも、「湖の本 148」発送の 用意に、郵袋の注文から始めねばならぬ。「選集 32」の初校はその量と内容からして容易でない。「湖の本 150」の企画も心して工夫しないと。
今年は余すもう二日、ヒマを弄ぶ余裕はないが、なるべく安息していたい。幸か不幸かいまの私には人がらみの気シンドというものが無い。ただもう、多く読者や知友の無事と安命を祈るのみ。
2019 12/29 217
* 作家以前、作家までの「自筆年譜」は、まことに多 く、男ではなく女に、女たちに私が知情意を刺戟され養われてきたかを露わしている。まさしく京都の「女文化」で育てられ、それが栄養になり、さまざまに吸 収してしんしんに残るモノを掴み続けていた。それが、作家になっての創作へ根深くつながり、花になり実になったとは疑えない。もとより大方は時間の流れに 流されてそれぞれに遠ざかるだけではあれ、そんな多彩な女性の中でも、ひとしおの「真に身内」の実感を永く持ち堪え得た何人もが在った、在り得たことを私 は今も大切に生涯の幸と歓んでいる。
2019 12/30 217
☆ 拝復
この度は 湖の本147をお届け頂き、まことにありがとうございました。
益々のご健筆ぶりに敬服致すばかりです。言葉への透視力の豊かさが見事に活かされている『花方』に、これが作者の力量というものかと舌を巻きました。
「颫由子慕情」とでも呼びたい一編、当方も幼い初恋を呼び覚され胸が熱くなりました。秘恋のはかなさに涙を誘われました。 早稲田大学名誉教授 保
* 事の事実と創作との差異をいわぬかぎり、頂戴したこのお言葉は身に沁み我が意を得て、適確に作の意図や願いを核心を指さすように仰有って戴いた。嬉しい、とても。この機械の間近にいる絵葉書の「颫うちゃん」の絵葉書も嬉しそうに首肯いている。感謝。 2019 12/30 217