ぜんぶ秦恒平文学の話

自作を云う 2022年

 

* 新年の不通のスタートと謂いたいが、オミクロン株を含め新型コロナ感染者の第五波が日々に急拡大へ向かっている。何らの安心感も保証されていない。我々としては極力前年の用心を踏襲しつつ、少なくも手洗い、マスク、籠居に徹したい。が、最低の必要に応じて外来の客も迎え入れねばならない。機械の修復は、私の「生きる」ことと意義として直結しているのだから。回復の成功を切望している。
2022 1/5

* 明日の午后に、ニフティからの木村さん、来てもらえると。妻にてつだってもらい、機械周辺の乱脈のコードなどを少しずつ途中で括って、狭苦しい機械裏手での作業の邪魔を整理したり。なんとか、インターネットが復旧して欲しい。技術者にはなんとも謂いようのない簡単明瞭の事故で有るなら、どう笑われようがそれが望ましい。何とか何とか一度のご厄介で済みますように。
心配なのは、前にみてもらった機械が壊れた(と思っていて)別の大と小の機械に変更していることも、心配の種の一つ。しかしまあ、懸命に片付けてはみたが、がこの部屋の、書斎とも機械部屋とも謂いづらいほどのややこしいことは。

* 祟りに遭うたように書き継いだ半分の余も消え失せた新作、それに並べて書き継いでいた「信じられない噺だが」別の新作を、前へと押し出している。書き出してある新作の芽は田にもいくつか顔だけ出している。育て育て背丈をつけてやりたい。

* さ、明日だ。無事に機械に健康な息吹の吹き込まれますように。
2022 1/5

* 午后、久しぶりに 岸惠子 佐久間良子 吉永小百合 古手川祐子競演の、谷崎松子夫人ことば指導の 映画『細雪』の もののあはれ を堪能・感嘆した。ただ豪華な画面作りなのでは亡い。昭和十三、四年、もう日本の国は間近に迫る太平洋戦争へ、敗戦へと大きな地滑りを予感していた、その時世の崩れゆく家と人と美しさとの避けがたかった「あはれ」に打たれて泣けてしまうのだ。
私は此の映画の制作中から撮影の現場にも立ち会い、俳優、女優そして撮影家たちとも話し合う機会を幾度も持てたし、新潮社からの華麗な写真集に、エッセイ、解説等の原稿も頼まれて書きのこしている。松子夫人もお元気な頃であった。
そして今なお新ためて谷崎先生、ご生涯一の御作は『細雪』と申したい。
『細雪』は私の、敗戦後新制の中学高校のおりに爆発的に名作の誉れを浴びた。かつがつの小遣いでやっと一冊本を手にし、当時 誰よりも大事に、いまでも遠く離れたまま大事に無事健康を祈っている梶川道子と、分け合うようにして読みふけったのだった。後年に、私が谷崎潤一郎論で小説よりもさきに認められ、松子奥さんにお声もかけられ、お亡くなりになるまで家族みなを可愛がっていただけた、その深くて大きな「根」 それが新聞連載で真っ先に驚愕した『少将滋幹の母』であり、さらに胸打たれた『細雪』との出会いであり、岩波文庫の『蘆刈』『春琴抄』であり、後年上京後の『夢の浮橋』であり、それらの自信に満ちた論攷であった。浩瀚な『秦恒平選集』全三三巻のうち、私は谷崎論攷のために第二十巻 第二十一巻を宛てている。その基盤を得たのが懐かしい『細雪』だったと言い切れる。
はしなくも映画をまた観かえって私は思わず「もののあはれ」という古典的な一句に心寄せたのを、それだ、と、懐かしくいま肯っている。
2022 1/9

* 見落とし 取りこぼしも多かろう、たくさんなメールを、九ヶ月の機械欠損の閒に戴いていたのを、やっと、取捨調整できたかなと。ハアーッと息を継いでいる。この「私語の刻」へ取り入れたのもそうでなく承け納れたのも、思案のうえでなく、機械操作での成り行きで有った、とても疲れた。この現代での機械通信の欠損、それも九ヶ月にも及べばどんなことになるかと、つくづく降参した。

* さらにまだ、親切を尽くして多年し遂げては送って下さるお一人の読者から、最新一年の「全部の私語」を三十余の部類項目に分け整備し収拾して下さった大量のメールが、届いている。感謝に堪えない。それあってこそ、私は「湖の本」を興趣の題目に分けて編成し出版し続けられる、まだ何十巻でも。
こんな幸せな「現役作家」が日本に、世界に、おいでだろうか。浩瀚美麗の『秦恒平選集』三十三巻、継続刊行中の『秦恒平・湖(うみ)の本』現に進行の「第156巻」その一環はすべて優に単行本一冊の分量を凌いでいる。しかも私はこれらを「売らない」で刊行している。私は「売らない」現役作家として「やそろく翁」の今を生き続けている・世界に例が無いと思っている。マルクス・アウレーリウスのような私は聖帝でも皇帝でもない。敢えて刺激的に謂うておくのである。続く人が有るなら、続けともおもう。そのためには「作」の量も「作品」としての質も、不可欠だと。
2022 1/10

* オミクロンの急激な猖獗におそれをなす。木村氏の来訪願いにも、ためらいがあ。基礎疾患の有る高齢者に感染が増え、重症死亡者も出かけている。
いま、わたくしに必要なのは、永く生きて「読み・書き・読書」の上に作を、文を遺すことでは無いのか。

* 「湖の本 56」要再校の用意ができる。かなり苦心したが、ぜひにも納れたいモノを差し添え得て満足しいる。しかし、疲労は甚だしい。オミクロンの感染拡大は、鼻先で笑っていられない。能力で停頓するなら致し方ないが病気で潰されたくない。
目下、諦めるなら「ホームページ」ということに成る。九ヶ月我慢したのだ、もう三ヶ月様子を見ようと思いかけている。必要な人とは、メールで意思疎通出来る。
もっとも、まだ、メール利用ぐらいナンデモナイという理解では無いが。
2022 1/13

□ 湖の本 156
私語の刻

一巻をくくって「老蠶、繭を作(な)す」と題したのは、旧套、冬至をもって「八十六(やそろく)翁」と化け、なお、文藝・文筆にいそしむ気概とも気恥かしさともいう気分に照れたまでである。隠そうとも胸を張ろうとも思わない、背に、浩瀚の『秦恒平選集』全三十三巻、はや百五十六巻を超えてゆく『秦恒平・湖(うみ)の本』等の所産を負うて、あの菱田春草が描いた、満天の夕焼けをあび小さな小さな樵夫婦のしみじみと山を下りて行く名画『帰樵』を想うばかり。かの樵夫婦、明日もまた山に入って仕事をするにちがいない。いつ、どう躓いても、それはそれでなかろうか。

今巻は、前半を「湖山夢に入(い)る」と題してみた。ともに生涯ついに同じ一つ夢もみぬまま、生まれて死なれた「生みの母」ふくが渾身闘いの生涯を、数奇な出自とともに、いっそ簡素な筆でスケッチしてみた。多くを補い得て、私には感動の母が生涯旅愁の短歌集『我が旅 大和路の歌』を、「つらい時は母の肩によれよ」と「遺書」もを遺された「恒平」が心して「選抄」しておいた。筆名「阿部鏡」の母も私・秦恒平も、生来の「歌人」だったのである。
後半は「故山已(すで)遠し」と題して、昨年、コロナ禍に惑い続けた前半の日々を「私語」で顧み、加えて、懐郷眷恋の「京都」へ、もう十余年も帰って行けないでいる悲しさを預けた。

それにしても、危ない国に日本はなってきた、いやいや、もう、なつている。
アメリカ頼み。これは徒夢である。アメリカは戦勝国当然の驕りで、日本国土と日本の資金をほぼ好き勝手に要求し食い齧っているが、幸い武力支配はしないで呉れた。が、一朝大きな事があれば、波の引くように更に好餌をかかえこんで撤退するだろう、米軍と本気でともに闘う武力も政治力も「外交」という「悪意の算術」もまるで日本は持ち合わせていないから。あくまで日本と協力して極東日本を保全する、もはや利得も無いのは明瞭なのである。
中国、ロシア、北朝鮮、韓国、どの一国とても日本に親身の同盟感覚を持っているワケが、ない。日本は戦勝国気分で好き放題を過去のアジアに演じていて、彼らが今度はわれわれの番よと、勝者顔でなにを日本に徹底仕掛けてきても不思議は無い。空からも、海からも、海底からも、瀬戸内海の至る所からも、原発などの狙い撃ちすれば、日本列島と日本国民とは放射能だけでも腐りはてるのは間違いない。
平和はなにより大事である。平和憲法も誇りである。日本文化と文物は世界史に誇れる高い品質・資質に輝いてきた、が、外国人の目にはミソやクソと異ならないだろう。
「あぶない」なあと思っている。「やそろく老」は、そんな無残を見ずにあの世へ疎開できるだろうが、子や、孫や、曾孫や、さらに孫達はただ「マゴマゴ」して済まない文明奴隷に身を屈して屈辱を嘗めかねない。
日本政府は、まさかと、多寡をくくっているのだろう。多くの若者達も、まさか、と浮かれているのだろう。しかし、世界史は、何度も、繰り替えして支配と屈服の無残な実例を遺してきている。 何としても、当面、先見の明に「悪意の戦術」と謂う「外交力」をしかと蓄え発揮しうる政治家達の政治を、国民こそが育てねばなるまい。」
2022 1/13

* もうとうに書き始め書き進み、しかも追尾の分のかなりを消失していた創作、かりに『なまなり 岩片・綾子・光子』と題していた作を気を入れて読み継いでいる、目下はとても順調に気の入った叙事になっている、が、はてはては相当に難しい創作になる。中途で諦めるようなことはしたくない。しない。
もう一つ、『信じられない話だが』と題して、東工大に出講のむかしから念頭に置いた作も、ほどほどに進んで展開を作自体が待望気味にある。
この二作、捨ててしまわない。
2022 1/19

* 今は昔、思いがけない太宰治賞が向こうから飛び込んできて、すぐ、新潮社から新鋭書き下ろしシリーズへの依頼が来た。苦心して、さらなる出世作『みごもりの湖』へ連絡連携、集英社から書き下ろし『墨牡丹』も一気に雑誌掲載されて、私は、十五年半の医学書院勤めから身を退いた。
その間の一つの記念品が、今も手もとで愛用されている、新潮社の編集者池田さんの呉れた、久松潜一監修『新潮国語辞典 現代語・古語』で。もうガムテープで、背も表紙も裏表紙も痛々しいまで「包帯」されてあり、奥付など崩れている。一字一語もゆるがせにしない新潮社の新人指導だった、厳しかったが絶対に正しいことだった。この半世紀を超えて愛用の「辞典」は、私の師でも友でもあった。
監修の「久松潜一」という名も、忘れがたい。医学書院に入社してほどなく、社の重役「編集長」で国文学者でもあった長谷川泉先生が、「久松潜一賞」を受けられた、新聞で知った。これは、私には、もの凄いまでの刺激だった。医学書院には月刊誌だけで数十誌、その上に日本の医学研究最前線の書籍を企画し出版していて、長谷川泉先生はその「全部を統べ」ておられた。たいへんな仕事の量であったが、実は、それが長谷川先生には副業で、本業は、国文学研究であり、森鴎外や川端康成研究では学界をリードされていた、そんなことは新入社員は知らなかったが、「久松潜一賞」を受けられたことで多くを知り得た、そして、
あんなに忙しい人に出来ることなら、自分もアトを追いたい、研究者には成れないが「作家」に成ろうと、早くからの希望を決意に換えた。その「決意」のほどを、さきの『新潮国語辞典』は、導き、見定め、応援し続けて呉れていた。感慨無量。 やそろく 記
2022 1/22

* 小説の一作、消え失せた分がどう蘇るかは今は考えず、しっかり意図と文章と整えながら先へと弛まず進めている。気が抜けないように。
しかし今日の大相撲千秋楽は、あるいは三つ巴の決定戦になるやも知れない。
2022 1/23

* 親友のテルさんから,「外交」は「悪意の算術」という私見に、ドイツのメルケル首相などを挙げながら、「首肯しにくい」とメールをもらった。

○ 湖の本152巻、153巻と長文のメール拝受。ありがとうございました。
恒平さんの最近のお考え、また諸兄姉からのお便りを読んでどういう気持ちであと短い命を生きるか、またあの世に渡るかを考えさせられました。
・秦さんの(外交は)「悪意の算術」論には納得のいかない気持ちがあります。
トランプやプーチン、習近平など自国の利害のみを言い立て他国の人々に配慮することをしない国際社会はまさに悪意に満ちているといえます。しかしこの世界に善意はないのでしょうか。メルケルさんの評伝(「メルケル」カティ・マートン著 文春刊)を読みました。ドイツの首相として16年間ドイツの復興とEUの危機に対峙した外交実績は自国の利害のみを優先したものではありませんでした。なかでも2015年中東からの難民100万人をドイツに受け入れた決断は「世界の良心」を世の中に示したと思います。
次元はちがいますが、私も仕事の関係で外国(アメリカ・中国・ヨーロッパなど)たびたび交渉を行いました。もちろん主張すべきは自企業の利害ですが相手会社の事情をよく聞き共存・共栄をめざすことが重要課題でした。悪意の算術だけでは外交は成り立ちません。
憲法の前文で「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して。我らの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。井上ひさしはこの解説で「二度と武器では戦わない。これは途方もない生き方ではないか。勇気のいるいきかたではないか。日本刀をかざして敵陣に斬りこむより、もっとずっと雄々しい生き方ではないか。度胸もいるし、智恵もいるし、とてもむずかしい生き方ではないか。」と語っています。(「子どもにつたえる日本国憲法」講談社刊)そのとうりと思いますが、日本には中村哲医師のようなひともいる。憲法九条をみんなでもっと大事にしていきたいです。。
・山県有朋の評伝は立派なお仕事だとは思いますが、私には違和感があります。
山県のの遺産とメンタリティーがその後の日本陸軍にどれだけ影響力を残したかは定かではありません。しかし暴力非人道の内部体制・中国への侵略戦・南京大虐殺・日独伊軍事同盟・日米開戦時の策動・玉砕の強要・沖縄戦の展開・敗戦時期の延伸(国体維持のためどれだけの貴重な人命が失われたか)どれをとっても旧陸軍が日本と人類に残した罪科は永久にきえることはありません。「椿山集」に残されたやさしい詩歌と旧陸軍の傲慢な所業の折り合いをつけるのは難しいことです。
山県の覚悟「戦争は安易にシテはならない。だがシカケられたらもっとよくない。負けたらお仕舞い」も当たり前のことで、軍の責任者の誰もが考えていることと思います。
西村明男

* 分かる。私も、妻も、メルケル首相への賛嘆と敬意とは,実に山のように送りづめだった。
井上医師の活躍なども感謝に堪えず心より賞讃する。が、外交は「政治」の概念であって、私的な善行や英雄的努力や奉仕とは混同できない。私は、そういう善意や活躍の話を外れて、国家が政治的に苦心惨憺する「外交」は、よくもあしくも「悪意の算術」になり、ソレへ徹していないと、いたずらな国家的危険や損害がでるということを云っている。そこの混同はこの際の議論の外にあること、まず指摘し断っておく。
問題を、世界の歴史、人間の歴史、の大きな様態にみて、つまり端的に世界史的に眺めて、「概して謂うを要する」とき、「外交」は、やはり「悪意の算術」として、遺憾にも殊に大国において歴々といつも強硬に用意され、訓練され、行使されつづけてきたと云うしかない。
メルケル女史の外交は、遺憾にも「稀な」ほどの少数例、希少例と謂わざるを得ないのではなかったか。ノーベル平和賞にも優に値いしただろう、だが、遺憾にもソレは「それだけ」で、すぐ、人間の歴史は「悪意の算術」へと駈け去って行く。
「悪意の算術」 それが善いと、良いと、是非にも然かあれよと、私は言わない。云いたくないのが本意である。けれど、エジプトであれ、ギリシャ、ローマであれ、中国であれ、印度であれ、近代の帝国主義に奔走した欧米各国であれ、遺憾にも「善意の算術」で礼を尽くし善意に花咲かせつづけた「外交例」は探しようもなく、有っても希少に過ぎるということ。そんな「人類史的事実」に基づいて各国・各国民は、余儀なく政治的に政治として思案し用意し、要心していないと、大変な国家国民の不利や危険を蒙ってしまう。屈辱の苦難が覆い被さって来る。事実わが日本国へも津波のように、蒙古まで遡らずともペリー以後繰りかえしそれは来ていた、あげく不平等条約に四苦八苦してき国よと、私は、言いも想いもせざるを得ないのです。
残念至極、メルケル風の外交配慮は、歴史上の結果として一過性に過ぎ、後継者がそれを嗣いで育てるかどうかは、どんな国のどんな国民の政権も、ほぼ百パーセント近く保証し確約などしてくれない、出来ない、のが遺憾にも「史的現実」に成っている。しかも「悪意の算術」が成功する保証も実は無い。
だから「善意」でか。
だからこそ「悪意の算術」に徹して長けて聡明であるべきなのか。
これは思案のしどころでしょう。
わたしは、「日本」という国と国民と国土とを、他国の支配や陵略には任せたくない、「世界平和」という言葉での幻惑に「日本の未来」を唯々として、易々として、委ねたくないと思っているのです。

* 山縣有朋等、近代日本の「軍」の、近隣諸国等へ為し続けた暴虐無道は、全く弁明の余地無く、「湖の本」に 一冊は山縣の歌集『椿山集』を紹介し、もう一冊では新聞人として山縣内相の悪辣に抵抗した文人成島柳北を採り上げたのでした。
繰りかえし云うていますように、「山縣有朋」を私は少年の昔から忌避し嫌悪していましたし、それでも、また軍人政治家としての「人」とも見、お互い「一人の人」としても見る視点が大切だとは、山縣にと限らず、いつも考えています。
日本の、明治以降昭和の敗戦に至るまでに、一山縣有朋の占めていた栄爵よりも、一日本人としての覚悟と資質と風雅とを、私は今も興味深く眺めます。また昭和天皇が「名将」と評価されていた意味も、やはり日本の「国と国土と国民」との上に重いなと感じています。彼の「主権線、利益線」といった支配と利益の思想はとてもやすやすとは肯定できませんが、しかも重い「示唆」ではあり、日本の明治から昭和を、西欧の帝国主義なみに懸命に山縣は学習していたのだなと感じます、肯定とか否認とかではなくて。
大切な、思考を再確認の刺激を呉れて、ありがとう。とても嬉しかった。
お元気に、感染の猖獗をくぐり抜け抜けお過ごしあれ。 お互いに やそろく翁
2022 1/24

* 仕掛かりの創作を先へ先へとしかと顧みながら今日も進めていた。歯は痛く、肩も背も痛く、酒も切れて、食欲が無い。重りのように疲労を頸に巻いている。
2022 1/24

* 「湖の本 156 老蠶作繭」の再校分が届き、即座に校正し始めている。生母を語り継いで、生涯に思いの籠もった一冊となる。
2022 1/25

* 「湖の本 156」の再校分含んで組上げのゲラが届き、かなりの時間を「読み」かけ、傍らと謂うよりも気を入れて仕掛かりの小説も読み返しながら書き継いだ。のりかかった舟ではないかと気張る気にもなった。難しい前途とも覚悟した。妻にも、「湖の本」の前半を読んでもらった。幸い疑問符は付かなかった。
2022 1/26

* 猛然ガンバッて「湖の本156」全冊をとんで校正し、午まえに揃えて、もう一校出してほしと印刷所へ戻した。折角の一冊、怱卒粗相に責了したくなかった。

* それはそれながら、朝一番に、きのう新たに小説を気を入れて書き継いだ分、今朝になって全部消え失せて行方知れず、懸命で探しているが現れない。泣きたくなる。まだまだ、まだまだ、この「大機」クン乃相性が定まらない。悲鳴は余儀ないが、ヤケを起こすより気を新たに書き直すしか無い。しかし簡単なことでは無いのだ。
どこかには在る、機械の中に在るとは信じたい。機械の呑み込んだ原稿だ、機械がどこかに隠し持っていると思う、そういうことは何度も在ったのだ、探し出せた。だが、それに手間取ってては気が腐る。やりなおしてかかるしかない。

* 懸命に探した。ついに「ゴミ箱」を点検すると同じ命題で20度ほども捨てていて、その一一の作動してた時間と量を点検している中で確かに昨晩書いたに相違ない文の尻に添うたのを発見。ああ、それだけで大仕事した心地で。左奥歯は痛む、左肩にはビンボン玉大の痛い凝り。姿勢の・市選のせいか、今は右肩は軽い。
2022 1/27

* 体調は整わず、疲労感は心身をびしょ濡れに。それでも、想いはせて、おそろしい怪談へくぐり込むもうと昼間は藻掻いていた。晩の食事、二口三口とも入らぬまま、思い立って、心底好きな映画の『ロシュフォールの恋人たち』の歌とダンスと恋の、ロマンチック・ミュージカルに没頭、楽しんだ。みじんの邪気も無い懐かしい歌とダンスと街景色の映画で、疲れ果てていた心身の心地よく優しくもほぐれる嬉しさだった。いま書いている小説世界は、さながらの地獄なのだ、すくなくも私の構想において。
2022 1/28

* 体、はなはだ低調。致しようもなし。それでも、書き継いでいる長い作のはじめ二章分を気を入れて読み返し、九時すぎ。大きな画面の大きめの字が霞んでいる。それでも、床に就けば何冊もの本を読み継ぐに決まっている。胸の内に白い煙が揺れているよう。
2022 1/29

* 機械君と馴染めず、終日まったく無意味に難儀な画面混乱に振り回されて、何も出来ず。情けない。情けない。泣きたいほど。
せめて書けている分が消滅しないで済むようにと、機械クンにただただ服従してると、要するに何一つも仕事に成らない。情けない。
2022 1/31

* 昨夜、機械での現の仕事が崩壊状態に陥ったまま、疲れて寝た。五時半にこの部屋を暖房し機械に電源を入れた。七時に起きたが、朝食も摂れぬまま二階へ。今日の仕事がどうなるか分からない。悪戦しようと苦闘しようと、喪った原稿を発見回復したい。
2022 2/2

* 昨日の消失・紛失分の探索に一日かけて見つからない。心身 草臥れ果てて、全く酬われていない。我慢を抑える訓練でもしているよう。
北京での冬季オリンピックにも関心無く、いま、概して私はスポーツに冷淡。
3sと謂う。が、セックスには縁無く、逼塞の籠居でショウには行けず、スポーツは「するひと」の楽しみ、「見て」たのしむには、大きな割引がある。ことに長時間かけて決着を楽しむヒマが無い。短時間で決着するスポーツは、駆けっこと、水泳、つまり早さで決着するモノ、そして、絶好の、お相撲。
2022 2/2

* まる一日探索して、分かったことが二つ。 一つは、二月一日に書いている現在作の痕跡が無い、しかし書き継いでいたのは確実、ならどこへ消えて隠れているのか。本当に消滅したのか。
しかし、書き継いだのは確かで、その表現も記憶しており、今朝、二日朝にも書き継いだ特徴の語句を少なくも二度は画面で読んだのである。機械の中に埋もれていることは間違いない、しかし、よう探せない。昨日一日に書き継いだ場面と量も断片の継ぎ接ぎで記憶にある。仕方が無い、成らぬ探索よりももう一度書き起こすことだ。明日の仕事だ。
2022 2/2

* 『源氏物語』そして『アベラールとエロイーズ』とを卒讀した。『マリー・アントアネット』は今晩にも読み終える。
日本の古典は、源氏から平家物語という筋はあるが、思い切って、巻之四十八まである和本『参考源平盛衰記』をいっそ通読しようときめている。参考書として諸方読み散らしてきたが通して読みたくなった。古色の機の本箱に入って、これは京都古門前で踊りの「おッ師匠はん」、むかしどおりに謂えば林貞子の骨董商のお父さんから、大学の頃、ある日、唐突に叔母を介して「コヘちゃんに」と貰ったもの。小説『花方』に、互いに高校生だったヒロイン颫由子のワケありげな佳い「おかあさん」から突然にもらい受けている。いつも身の傍に、第一巻だけを置いている。総目次伊賀にも編纂の参考事項に満たされていて日本紀、續日本紀にはじまり薩州禰寝氏家譜、紀州色川氏家譜まで「通計一百四部」もの「引用書」が列挙してあったり、とにかくも「もの凄い」のである、いわゆる平家物語異本、異聞の満載本で、小説のタネもまた満載、ならば、読み通すのが遅すぎたかと「やそろく爺」には悔いもある。漢文と和語との混淆は独特で、いろんなあらたな日本語の勉強も出来るだろう。
『アベラールとエロイーズ』では、中世の基督教ことに修道士、修道女らの修道院生活のくさぐさを徹底的にのぞき見させて貰った。そして別にミルトンの『失楽園』を愛読紙耽読して三度目を読み継いでいるので、旧約聖書の難所とかんじてきた『ヨブ記』にまたしても挑戦しようと書架から枕辺へ運んだ。
これで、毎夜々、手にして欠かさず少しずつ読み進む本は、漢文の『史記外伝』和語の『参考源平盛衰記』聖書から『ヨブ記』関連してミルトンの名著『失楽園』ジャン・ジャック・ルソーの長編自叙傳『告白』ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』マリー・アントアネットを死刑判決した異様異色のフランス革命家『ジョセフ・フーシェ』を伝記作家として卓越のツワイクにより、そして『法華経』 結びの楽しみに、マキリップの『イルスの竪琴』を読み継いで行く。私の「読み・書き・読書」のひびである。生来の好きなことを楽しんでいるだけ、と謂える。これは、気むずかしい機械クンにも大きくは制約されない。
2022 2/2

* 機械での履歴書検索の一覧に、一月末あり二月二日があるのに、二月一日ぶんがタダの一つも記録されてない、この「異様」に当惑する。その一日分の中にいま探索したい小説の新たな書き継ぎ原稿が入っているのは全く間違いないのだ、しかもそのへんりんの「表現」を私は昨二日の「朝」に機械の上で見覚えてさえいる。在るのに、無い。そんなことが起きる世界なのだこのwww機械世界は。ウーン。  午后五時前
2022 2/3

* 我独りでこう書いているから何の不服は無いが、見る人が見れば笑うのである、これら膨大な文書を書き込むのに、私は「右手の指一本ずつ」で全部の文字を打ち出している。左の手指はまったく使われず膝で何かしら他用を待機しているだけ。
機械とホームページとを使い始めたと謂えるのは、前世紀末、一九九八年の三月末から。東工大の田中君がすべて設定の上でメールなどで指導してくれた。それだけから見ると、文筆の世界でも、私の機械利用・活用はキワだって早期であった。驚く人も取材されることも多かった。
にも関わらず私の左手は常に本や資料を「持つ」ためにこそあれ、機械の鍵盤とは触れあってこなかった。使われるのは右手の中指がもっぱら、ときに、中指の左右が一本ずつで加勢し、小指もごくたまにキイに触れても、親指はまったくの傍観に終始してきた。
人が見れば異様に不器用極まるのだが、私はなにも「速やかに文を作る」必要なく、小説であれ随筆であれ私語であれ、すべては「創作される文章」なので、書く早さなど不要で、時には粗雑を招く。私はあくまで私流に機械をわが「文藝のため」にのみ活用している。それに満足している。しぜん機械クンに不調があれば困惑甚だしい。
老耄の先々を思って、原稿用紙に「手書き」という昔の習いも思い返しまた覚え慣れていたいとも心している。病床へは機械が持ち込みにくいのをもう知っているから。

* 致命的に近いかという故障または不調を機械は予告して来る。ウンザリするが、もう気にかけず、放っておいて、成るが儘を使い続ける。
2022 2/6

* 何を書いていても、いつ消え失せるか知れないと覚悟の上で機械クンと付き合うべし。早起きして、まっすぐ二階へ、機械前へ来て、やがて三時間になるが、機械の昏迷と苦闘していただけ。辛抱の佳いことだ。「私語」は失せてもいい。書き継いでいる小説は懸命に保存しているが。
2022 2/8

* 亡くなっている縄手「今昔」の龍ちゃん、愛おしかった茶の湯の妹弟子で有済小学校後輩の龍ちゃんが変わらぬ笑顔で夢に現れた。ほんの數瞬であったのだろうが喜ばしい気持ちのまま夜中の夢から覚めた。このところの苦渋に満ちた日々を励ましに来て呉れた、そう思えて嬉しかった。無垢の和と喜と楽にいつも満たされて仲良く親しんだ子。妹。

* 思うまでない今、わたくしは正真正銘の「やそろく爺」で、それとはなく末路の景色も目に観ている、のに、あの敗戦後の新制中学生の年頃に得た「真の身内」と許し合えた梶川三姉妹を今も一日として忘却したことなく「むかし」」のままに思慕もし親愛もして変わりなく「少年」のままに胸に抱いている。「今昔」の龍ちゃんも、また右の三姉妹に同じい愛おしさで日々忘れたことがない。この人達と「結婚したい」などということは、まったく思いも寄らない、次元外のこと、それ故に慕情や愛情の深い真実が光るようにいつも潜在した。
私は、そのような『少年爺』として、奇跡のようにそんな「今」をいつも抱いている。今も「人生の原始期」で燃えた焦点のように彼女たちは私の人生に炎えつづけている。
四人の三人は、もう亡くなった。
今日も存生と想っている妹の一人は、京都での所在こそ知れているが文通一つ無く、六、七十年も顔を見ていない、けれど、『選集』も『湖の本』もみな届いている。電話一つ掛けたことが無い、そんな「必要が無い」のである。姉の亡くなったときは、何必館夫人の義妹を通じて知らせてくれている。臨終の折り、姉は、恒平には必ず「間をおいて」から知らせてと言い置いていった。龍ちゃんも、子息の手紙で知らせてもらえた。「今昔」の弟は、いつも「龍ちゃんの日頃」など、便りしてくれていた。
私は、生まれつきリアリストでは無かったし、そう生きて来れた、来れている、此の人生を、感謝している。双親を識らず「もらひ子」として幸せに成人した私の、それは寂しさを克服する命がけの「フィロソフィー」であった。
2022 2/11

* 「湖の本 156」発送用意出来た。「湖の本 157」の編集、現在創作中の継続に集中する。
2022 2/11

* なんで、こんな私語を書き置くか。
じつは、文章表現を稽古しているのです。「私語」といえども「表現」なのです。とはいえ、目の衰えに罪を着せておくが、限りなく書き損じたまま、が多くて、恥じ入る。

* いつからであったか、ずうっと停頓していた書き継ぎの小説の、「怕い難所」を、ともあれ、今、通り抜けた。
2022 2/11

* 素晴らしい詩句の名作ミルトンの『失楽園』は、やがて読み終える。エデンの園を逐われるアダムのために、神は、天使ミカエルを遣わされ、アダムとイヴの以後の人間どもの「成り行く様」を前もって聞かせ、また目に見させられる。ノアの方舟ももう終え、バベルの塔の大混乱がアダムの眼前に今しもくりひろげられ、もう少しでこの壮大にして深遠に美しい長編を私は、四度目、読み終える。
『源氏物語』も読み終えた。
『カラマーゾフの兄弟』と、ルソーの『告白』とは、まだまだ先がある。気が急き始めていて、「読んでおきたい」と思うものの多すぎるのに嘆息する。
何度も言うが、自作のせめて小説だけでも読み返したいもの、だが。
2022 2/12

* 今日は「おやじどの」と機械のうちで対話していた。「はは」と母という了解の儘対話した一度も体験していない。「ちち」とは、すくなくも一度だけ、私から声を掛け川崎まで会うべく出向いている。しかし対話した中身の記憶は絶無で、寿司を食い、腕時計と金属製のネクレスを貰ったが、手もとには残っていない。縁のうすい父子だった。

* 「私語」ないし「私語の刻」という発見ないし創意は,善かったと思う。絶して多くの古今東西の言語的表白や創作はことごとく「私語」に徹していればこそ眞実に逼っているのだ。秦に「私語」でないものは「空語」なのだ。
2022 2/13

* 「おやじどの」と向き合っている。この歳になってなおいろいろと視界が動いて行く。
2022 2/14

* 「おやじどの」との向き合いに、発見と刺激が加わって来そう、この歳になって、なおいろいろと視界が動いて行く。
2022 2/15

* この二、三日。とうに亡い、生涯ただ三面に終えた実の「おやじ殿」との対話に気を入れてきた。生涯を懸命に戦い抜いて果てた生母「ふく」にくらべ、実父「恒(ひさし)」へ私の思い入れは終始浅く薄かったのを、大きく反転させえようかと、莫大な父自筆の書き置きに読みふけって、熱を増している。
2022 2/16

* 五時まで、しっかり作の進行に打ち込んだ。
2022 2/17

* 今日はもう一つ深い感銘を味わった、川崎に暮らしている異母妹二人の妹の方が、おそらくまだ少女の昔、「最愛の」父(私の父でもある)に宛て懸命に書いた、「どうか心して聖書を読んで欲しい」と「お願い」の手紙だ。すぐさま此の妹が何歳ころと断言できないが、いかにも少女の筆でこころ籠めて書き、かつ願っていた。すがすがしい筆致だった。今も一家をあげて熱心な基督者と聞いている。
2022 2/17

* 実の父の像をたくさんな筆録等を介して探訪しているが、えも言われぬ感想に、いま、びっくりしている。このまま押して探索して行く。こんな思いをするとは予期できなかった。
2022 2/18

* 今日も、父の資料と向き合う。二十二日に納品される「湖の本 156」発送用意は出来ている。次巻入稿を念頭に仕事している。
2022 2/19

* 機械との悪戦苦闘は毎日。折角書いた原稿が機械の中で行方不明になったり、保存できなかったり。
根気よく、何としても、やりなおす。それしか手は無い。倍々、疲れる。

* 父・吉岡恒の長文を読んでいて、心底、おどろいている。派手に言えば一部の隙もまた私に異論も無い。よく斯くも書いたものよと敬服する。久しく久しい實父「おやじ殿」への批判が誤解として蹴散らされそう。敬服している。嬉しいほどの出逢いになろうとしている。
2022 2/19

* 亡実父吉岡恒が昭和三十年の『建国記念日』に書き下ろして時の内閣総理大臣鳩山一郎に為していた「提言」には、仰天した。「あばれ親父のたぶんたわ言」と予期していた、それとても亡き「おやじ殿」の実像理解に遺児の一人として向き合わざるを得まい、ままよと或いは泥濘に踏み込む心地だった。
まったく違った。戦中戦後そして昭和三十年と限られた時点を顧慮し回顧しつつ見た、読んだ筆者の長文には揺らぎがなく相当に広く永い視野とともに言句の無様など一抹もなく、清心誠意の論旨としても、驚くほど揺らぎも晦渋もないのに、感心という前に仰天した。まことに嬉しいことであった。
2022 2/20

* 六時半には起きた。今日も「湖の本 156」発送に取り組む。建日子が一夜泊まりに行きたいがと、私等も衷心願っている申し出でを、やはり慎重に制してしまった。悔しい事だ。

* 午后三時 1200冊の発送を終えた。以前は,一冊3000円と頒価を定めて「支払い読者」のみなさんから送金を得ていた。しかしその為の簿記出納操作がもう煩わしくなり、全冊「呈上本」と切り替え、おかげで「封筒」に『謹呈』ないし『贈呈』と押印さえしておけば他に一切挨拶抜きで本をどんどん封筒に入れるだけで発送できることになった。作業の簡素化が徹底し「発送」にかかる労力や心労が激減、ほぼ二日で送り出せるようになった。制作費製本費等はまるまる私の「出費」となったが、幸いにそれが出来る、有り難いことと思う。浩瀚な『選集』三十三巻も、九割余は「贈呈」で済ませた。「売る」作家であるのが煩わしく、それが可能なほど、多年殺到の依頼原稿を書きに書いて暮らしてきた。
私達夫婦は、結婚以来、いわゆる遊興費や飲食費や生活費を過剰に費やす愚を一切為さず、ともに八十六歳にまでなんとか恙が少なく生きて来れたのである。
ただ、今回の発送で、「ダンボール箱に55冊ずつ」詰めて、キッチンから玄関への廊下を抱き抱えて持ち運ぶ「重さ」が、かつて感じたことの無いキツさで「重かった」「腰が砕けそう」だったのは、初体験。次回からは別の工夫が必要になる。

* 世間のいわゆる「作家」を生業とし看板を掛けている人の暮らしは、一つには「依頼原稿」への「稿料」、一つには「著書」の売れ行きへの「印税支払い分」そして「講演」料やテレビ・ラジオ等への「出演」料などで暮らしている、その余は、「副業」として教授や講師や教員としての給料が加わる。団体への「名義貸し」もタマにある。ま、そんなところが精一杯の財源として普通であり、実情から謂うなら、依頼原稿が「降る雨」のように来る作家など滅多にはなく、著作として、低俗な売り物は知らず、まともに文学文芸の著作者として「本」の幾らも出版できて売れる人は稀も稀で、生涯に一冊「本」が出せたよなどと喜ぶ人のほうが多い。まして講演や出演など、名義貸しなど、給料の出る副業など、ふつうは有るワケが無い。
大方の、殆どの文士・作家の「貧乏」は、「出版」という営みが世に現れて以来の当然の常識に類していた。「作家」で飯を食い家族や子女を養ってきた人数は「作家志望者」の万分の一だと識っていた方がいい。

* 幸いに、私は、太宰賞作家として文学の世間に送り込まれて以来、時節時代にも恵まれたのだろうが、上の条件の全部をほぼ思うままに手にしながら生活して来れた。
年譜にすべて詳しいが、出版した著作は共著も含め
百冊にあまり、原稿依頼は矢玉のように飛んできて、書きに書き、書きに書いて原稿料を稼ぎ、それらから又さらに沢山な本の出版が出来た。各地各所での講演だけでも数十度イヤそれ以上も話して来たし、放送での古典や歴史や美術の講座体験も繰返した。働きに働いての「挙句」然として定年までの東工大教授や、20数年ものあいだ京都美術文化賞選者もつとめ「功労賞」までもらった。
私は根から金銭的な吝嗇のない、同時にバカな散在などしない男で、自動車も運転せず、世界旅行もしない。余分な者を勝って狭い家をさらに狭苦しくする愚もなさず、しかも幸いに妻も家庭的で無用に出歩くこともせず、つまるところ、豪勢に著作『選集』を編もうが、35年に余って155巻を越す『湖の本』を売り続けてきたのを、ピタッと無料「呈上本」に切り替えて制作費はきちんと支払いつづけても、大病しなければ、まだ「寄る年波」に脅かされずに済むのである。
いわゆる「ベストセラー作家」さんのことは、縁もなく何も言わないが、私は、多産で豊作の作家として希有にまた素直に生きて来れた、ああよかった生き甲斐だったと文運に感謝している。
威張って言うのではない。「秦家」に育てられ、「京都」に養われ、こころして日本の文化と歴史その他に熱いほど学んできた「御陰」と思っている。深く深く感謝している。

* 夕食に、暫くぶり部厚な中とろ刺身と真っ白い大きな貝柱を、生協配給の酒で楽しんだ。そのまま焚くに俯して寝入り、気がついて寝室へ行き、八時まで熟睡していた。過ぎねば済まぬ関所のような『湖の本』の出版を無事に済ませたのだ、今の私にはた何時歩の前進なのだ、そして懸案のあれこれへ安心してまた打ち込める。なによりとは、これだ。 2022 2/23

* 父の『宗教界の指導者へ』と題した長文は、批評や要請や提言であるより、「信仰と宗教」を自然科学として理解し直そうとする「長編」の論攷で、意図は理解できる。背後ないし下敷きにある前世紀おそらく中葉来の、世界における在来の宗教学ならぬ「宗教科学」乃至「信仰という自然科学」が、ためらいも致命的な揺れや混乱もなしに円繪と語られている。父吉岡恒の信仰を、ないし基督教への親和や接近をかたるものとは違っている、と思われる。誰にもできる思いつきの議論や主張では亡い、その意味では慎重を欠いてもいない。
何にしても書き写すも苦労な長文で在り、でたらめの言いたい放題とは見えていない。
2022 2/24

* 信仰は科学的に説明が付くか。父吉岡恒による是非は如何。
2022 2/24

* 父 吉岡恒が、次女ひろ子(恒平の年若い異母妹)に最愛を込めてて贈られた堅固に厚い帳面に、父は、長短四篇の述懐ないし論攷を書き入れている。
その最後の最長篇『宗教界の指導者へ』は、まこと驚嘆ないし仰天の、希有かつ強硬独自の論述であり、のけぞってる。筆致は緊迫し形成で、言辞に激越も乱暴もない、ひたすらに指導的立場の宗教権威者がの「信仰指導」の根拠の無さを「科学」的に衝いている。
予感はできていた。父は無数に断片的に 「主」や「神」に訴え頼み伏し従う言句を書き置いているが、私はそれらの浮薄または空語の気味を覚え続けていた。これは「ことば」であっても「こころ」とは受け取りにくいなあと。
上記の長広舌には、父の捨てがたい実感が爆発している、しかもかなり冷静に。

* 父恒の (私からすれば)祖父誠一郎の「基督者ぶり」を軽侮し非難し続けてきた性向が、かかる論の基盤に死灰のように溜まっていたのではと察しられて傷ましい気がする。
2022 2/25

* 私には父方祖父になる吉岡誠一郎が、兄恒彦や私の単立戸籍造作に関わって父恒に与えた自筆の呈書を、長時間、苦心して読み且つ書いた。疲れた。ぞつとしないモノだった。九時半。
2022 3/1

* 沢山な有り難い感想に触れ、お礼の返事も差し上げたいが、いまぶん、「実の父」と組み合い続けていて、とても時間が足りない。
2022 3/2

* もう、父を書き続けるのが辛くなった。現状で取り纏めたい。
2022 3/2

* 「虚幻焚身」とでも謂うか、実の父が敗戦の生涯におよそ泪しつつ,一まづは取り纏めた。生みの母を書いたよりも苦渋を呑むしんどい仕事では、あったけれど。
是ともあれともなく、川崎に暮らす異母妹ふたりの妹「ひろ子」に初めて電話で話した、七十にもなっていよう、近年に夫を見送っていると聞いていたが、元気で、正真正銘「神」に護られた深甚の基督者だった。少女以来、一貫して毫末の崩れもない、ほんものの信仰に生きていると聞こえた。そういう生き方を私、自分は出来ないが、感嘆して受け入れるに吝かでない。我々の父親は終生「神」を頼みにしていたようであるが、空疎に逸れていた。妹に聞いてみた。「成りきれてなかった」と即答され、頷いた。
亡兄恒彦をうみ私を産んだ「母・ふく」に関しては、「父を誘惑した、うらんでいる」とハッキリ。正、その頃の父も母も、後年父の妻に、妹達の母親となる人の、毛筋一本の知識も絶無の時期であったし、母ひとりが必ずしも誘惑したとは謂えないとわかっている。私が芥川賞候補に挙げられた作品「廬山」の掲載発表とちょうど同時に雑誌「展望」に、なだいなだ氏が、当時フランスで沸騰したの「ガブリエル・リュシェ(の恋愛)事件」を批評し周到に論攷していた「小さい大人と大きい子供と」を読むのが、私や兄恒彦を生みの両親のためには至当であり、「實父・吉岡恒」は、当時親族らに精神病院へ監禁されながら、「時の人」息子の小説より以上に、同じ「展望」の、なだいなだ氏論旨に深く大きく救いまた癒やされたと、その「感動」を興奮気味に書き置いている。ガブリエルははるか年長の女教師で、リュシェ少年はハイティーンの生徒だった。世論と検察とに追い詰められガブリエルはひとり自決したが、我々の生母は生涯を闘い抜いて、なお「生きたかりしに」と呻木中きながら病死した。父の方にはそんな闘志はなく、崩れ去るほど孤独に、膨大な「落書き」めく述懐を大和積んで「敗戦」死した。
いま、実の弟である私は、人も讃えた市民活動家でありつつ実兄の北澤恒彦が何で自死したのかと、胸痛めつつ想い思っているのだが、その兄のまだ若い快活だったラガーの次男もまた、はるか年上の外国女性の死を追い追うように、異国のウイーンで傷ましく自殺したと伝わったのも、ごく近年で。生きる難しさに頭をたれながら、かつがつ「実父・吉岡恒 焚身虚幻」の「敗戦」としか謂えない生涯をスケッチし終えたのである、今日に。
* よほど機械クン殿相性が悪いか、単に私の理解の足り無さかヘマか。書いたはずの原稿を書き継ごうとすると見つからない。とめどなく、時間をも脳力・体力も消費消耗する。゛つきあった機械では、此の手の混乱には滅多に遭わなかった。ボヤイても始まらない、ガマンと根気で捜索するのであるが、疲労困憊の極にある。やめるというワケに行かない折角、書いたぞと思えたのだから、その原稿を取り戻さねば。だが、疲れた…。
2022 3/4

* さ、私にも今日の苦行がはじまる、機械クンとの苦闘または苦行とともに。

* 断行然と書き継いで、書き上げたことにし、読み返して、強引にも入稿にまで押し出したい。明日更に追いかける。
2022 3/5

* 「虚幻焚身」 脱稿、終日がんばった、今、九時半。何年越しかの宿題だった。安堵している、ヘトヘトに疲れたままに。

* ここに今私語するのももう余力無い。だが満足している。}
2022 3/8

* 昨夜に、新作「父の敗戦 虚幻焚身」をともあれ一稿脱稿できた。「はは」を追うよりはるかに難儀な道のりであったが、私 従来の八十余年、の出ようの無かった実父像のともあれ素描であり、実感、一先ずはほっとしている。
2022 3/9

* 郵便やメール等々への謝辞はこの際失礼させて貰い、一気に、もう仕掛かりの次の創作へ踏み入りたい。  と、謂いながら、ローソンで手に入れたスコッチに凭れこんで、五時過ぎまで寝入っていた。体が固まって、頸や背が痛む。
2022 3/10

* 「湖の本」全巻で「生みの母」を私の内に決定づけ、従来むしろ打ち捨てたような「実の父」を今回、有り余る父自筆の材料等を選別しながら、批評的にも情意としてもかなり突き詰めて書き置いた。「父・吉岡恒」ととうとう不孝の息子は出逢い、そして最期を「お父さん さようなら」と結んだ。善し悪しの評価は自分で出来ない、通り抜けるしかない道を通り抜けた、ほっとしたと謂うこと。

* 暑さから一転、背などうすら寒い。冷えてきたか。
2022 3/12

* 山なす亡父資料をようやくまた大きな風呂敷包み二つに片付けたと思った。と、机に掌に握って収まる小さな、しかし部厚い前頁に様々に書き入れの手帳が残っている、手荒なほど書きッぱなしの筆跡は様々に乱筆ながら独りのもの。それが実父のそれとは全く異なる。実父吉岡宏の筆跡は、こっちが恥じ入るほどのよく整った達筆で、厖大な書き置きの、時に乱文であろうと乱筆は無かった。
なら、誰の手帳か。「松岡洋右全権の帰朝の際發したるステートメントの一節」など書き出した頁もあれば、「ヱホバ言ひ給ふ 人我に見られざる様に密なる處に身を匿し得るか、ヱホバ言ひ給ふ 我は天地に充るにあらずや  ヱレミヤ記23-24」などとも。優に戦前へ遡れる大人ないし老人のおおかた走り書きで、しかも基督者めく引用や言辞が混じっている。
「説くよりも見せよ」とか
「變といふ逃げ道 醫者は明けて置く」とか、 皮肉めく見解も無数に混じっているようだ。
ふと開いた頁に、明らかに「當尾村社」なる四文字が見えた。「當尾村」は実父が生まれ育ったの岡本家が大庄屋を務めた南山城の一画で浄瑠璃寺などを抱えている。父の父、私には祖父の吉岡誠一郎の筆記帳を長男恒が手に入れておいたのか、確認は出来ないが、やはりこれも父恒所縁の遺品一冊と謂うて良いように思われる。当分机辺に置いて個人の口吻に馴染んでみよう。古人述懐の和歌なども随所に書き置いてある。なかに自作もあるか知れない。面白いものを亡き「おやじ殿」は私に遺して逝った。目から鱗の落ちるような新発見があるやも知れない。
2022 3/13

* 戦後六三制中学に、粟田小学校からの女生徒に「三節」と評判の「節子」が三人いた。中村、渡辺、安藤。その渡辺節子から「湖の本」へ礼状と極上の煎茶が届いた。おすましで、講堂のグランドピアノが弾けて、そういうのは当時人気悪く、男子も女子も遠巻きに意地悪だった。小学校の異ったわたしには縁もゆかりもない子だった、三年間に、高校も同じだったから六年間に口を利いたような覚えがないが中学では学級委員和していたから委員会議に顔を出していた。一年の頃、渡辺節子と同じ一組で、やはり学級委員だった中村時子という優等生がいて、短編ながら永井龍男先生にいたく賞められわたしの出世作になった『祇園の子』のヒロインを演じてくれた。評判の子だったが、当時祇園の此のならわしめいて、学業途中から先斗町へ舞子で退学していった。渡辺節子はいいトコのお嬢めいて済ましていたので皆が敬遠気味にいじめていたようだ、私は、よその組でもあ、結局中高六年無援の儘だった。当時の名簿住所録がみつかったので「湖の本」を二度三度ほど最近贈ってみたら、礼状が届いて恐縮したが、苗字が變ってないのにも何となく頷いていた。私のことは憶えているだろうと思った、なにしろわんまん生徒会長などつとめてヤカマシイ男だったのだから。中学で大きなピアノの弾ける女子は、渡辺と石塚公子のふたりだけ。石塚は、私の家の斜め向かいの子で、幼稚園へも園のバスで一緒に通ったが、強烈個性の子で、やはり短編に書き入れている。
わたしは物覚えが良く、この調子で目星を付ければハナシの種に成ってくれる友達は、男女とも何人も何人も覚えがある。おまけに、地理の上でも、祇園に甲部と乙部という嶮しい差別が在り、私の有済校も近隣の粟田校もかなりの範囲に被差別地区を抱えていた。けわしい人間劇はちいさいころから見知りも聞き知りもしていた。私を育てた「ハタラジオ店」は祇園町と被差別地区にはさまれた「総本山知恩院の門前通り古新二筋のうち、祇園町と細い抜け路地一本で背中を合わせの新門前通り中之町に在った。この新門前通りには、東大路に接した東寄り梅本町に京都美術クラブが在り、西の縄手(大和大路)に接した西之町には能の「京観世本家と京舞井上流家元」の屋敷が在り、真ん中の中之町は温和な住宅町だった。総じて外国人相手の美術骨董商の店が数多く、それぞれのウスンドウは幼かった少年以来青年までの私の「美術館」になっていた。ガラス窓に鼻の脂をつけると叱られるほど飽かず狩野派の繪や焼き物や仏像に魅入られ歩いた。
この調子で思い出を書けば幾夜も夜通し出来るだろう。
さきの「三節」の渡辺節子は蹴上の都ホテルから山科向きに日ノ岡へんから祇園石段下の弥栄中学まで、さらには九条東福寺や泉涌寺山寄りの日吉ヶ丘高校まで通っていた。中村節子の家は粟田山麓で三条大通りに面していた。安藤節子は知恩院下白川沿い様々に小売りの店々が並んだ古川町に間近く暮らしていた。三人とも「出来る」女生徒だった。

* 「湖の本」呈上本を送るのも、必ずしも読む人と見極めているのではない,昔の住所録が見つかれば、やれ懐かしと知った名前を選別したりしている。びっくりされるのも面白く,幸いに私が作家稼業を半世紀以上も続けてるのは、ま、少なくも小・中の同窓なら大概知られている、学年が幾らか逸れていても知られている。ワンマンを振り回してた「生徒会長」役は、なかなか今日にも有用に生きてて呉れる。
2022 3/15

* 寒けして、夕食もそこそこに床につき、『水滸伝』』『参考源平盛衰記』『フアウスト』『神曲』『ヨブ記』など読み進んで、また二階へ。創作の「一作」を前へ前へ押し出せるだけ押して行く、今日も。
体調の違和は痛みに似ている。しかし作に前進力が出てくると、つい打ち込む。精神衛生には悪くないが、体疲労は腐ったように重苦しい。ワクチン接種の後引きは何もない、局部は腫れているのかも知れないが見もしない、平気でいる。

* 八時。もう少し書き込む。明日は、という特定の用向きは無い、やはり午前に務めて、午后からは手綱緩めて、可能な体力を振り向け振り向けてみる。ざわざわと慌てることは無い。
2022 3/15

*  小説が嶮しい難所にさしかかり、渋い顔して立ち止まっている。渋々でもねばるしか無いのです、こういうときは。ふっと気の変わるときが来る。
2022 3/18

* やわらかな春の雨のような、しかも美しく引き締まった日本語作家を論攷した単著の題「位相」と括ろうという人に感想を求められた。やそろく翁としてどれほど人の本題や論題で出逢ってきたか知れないが、そういう哲人や文学者に「位相」とはと、平易な日本語で分からせてくれた人は、少ないよりも、いなかったとすら云いきりたい。臆面無く私と手、用いなかったわけはあるまいが、こういう物言いで私見を適切に話せる機会も人もすくないというより、無いほどだった。簡単に口や字で持ち出されると、繭につばを付けた。

* 機械とうまく折り合えない。それでいよいよ疲れる。
2022 3/21

◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄   (神谷美恵子の訳による。)

◎ あらゆることにおいて養父にして先帝アントーヘニーヌス・ピウスを手本にする。理性にかなう行動に対するはりつめた努力、あらゆる場合におけるむらのない心情、敬虔、穏やかな顔、優しさ、むなしい名誉に対する軽蔑、物事を正しく把握しようとする熱意、そして、なにごとをなすにもまずよく検討し、はっきり理解せずにはてをつけず、また自分を不当に非難する相手を非難し返すこと無く忍耐し、何ごとにも慌てず、讒謗に耳を貸さず、人の性質や行動にしかと目を留め、やかましやでもなく、卑怯者でも無く、猜疑家でも無く、詭弁家(ソピステース)でもなかったこと、住居、寝床、衣服食物、等には簡素かつ、同じ指呼とでも必要な限り長く続けられ、友人等には忠実で常に変わらず、公然と反対意見を言われても聴いて堪え、もっとよいことを教えてくれる者や言葉があれば喜んで受け入れ、神を畏れつつも迷信には陥らなかった。よくよく見習い教わり、いつ最期の時が来ようと良心の安らかであるようにしておけ。 (第六章 三○)

* アウレーリウスのこの『自省録』に類した本は古今東西に数あるであろう、が、私はこのアウレーリウスの本を岩波文庫の昭和三十一年十月二十五日一刷本を買い求めて以来、最も敬愛してきた。遠く遙かに及ばないが、疲れ汚れた心を洗い流したいときはこの一冊に帰って眞実休息する。その程度であるのを恥じ痛みながら。
『親指のマリア』でシドッチ神父を書いたとき、彼の「日本」へと目指した、当時として最も危険きわまりない旅立ちに、あえてこの『自省録』を親からの愛の手向けとして持たせている。
2022 3/22

* 「父」を語った「湖の本 157」を初校した。案じていたより、簡潔ながら触れるべきにはしかと触れていて、ほっとした。前巻の「母」と。併せて 生涯背負ってきた実の両親との「お別れ」を遂げた。あとは、カーサンと、歩いて行けるだけを歩いて行く。 2022 3/23

* 要再校を戻し、追加の入稿分を送って、この数日の悪戦苦闘を抜け出た。妻は定期の受診に近くの病院へ、わたしは 帰りにセイムスへ寄り、廉い洋酒を買って帰り、妻の帰宅後にしたたかに独り寝入って、午后三時。よほど気重いのが安まったか。さて手を休めていた、それも余儀ないことだった創作の方へ立ち帰る。
2022 3/28

* 昨夜に、新作「父の敗戦 虚幻焚身」をともあれ一稿脱稿できた。「はは」を追うよりはるかに難儀な道のりであったが、私 従来の八十余年、の出ようの無かった「ちち」像のともあれ素描であり、実感、一先ずはほっとしている。疲労しきっている。
2022 3/30

* もう、いつ時分の試筆とすら判然しない、しかし相当量の創作草稿をみつけ、つかれ安めにもと、今日、読み返していた。筆が若くずさんに奔っているのを気を入れて書き直していると、文章という「おもしろい生きものの生い立ち」に立ち会う心地がする。
自身の日々を「読み・書き・読書」と人様にも吹聴している。
「読み」とは広範囲に散らかる「読み・調べ」仕事を謂うており、「書き」は、もとより創作第一ながら、日々の厖大な「私語こそ捨て置けない。私は、多彩多方面に「私語する」ことで「文を、書く・創る」稽古を重ねる気でいる。推敲も添削も「私語だからお手軽に」とは毫も考えない。そしてそれが、私の文体をいつとなく日々に確かに養ってくれる。
豊富に健常に私語できる日々が、宝である。
2022 4/5

* この一両日、いや数日の仕事上の悪戦苦闘からホッと抜け出た心地の晴れやかな日曜日の朝。のんびりという緩みにはなれないが、少しく息をついている朝です。
それでも昨夜も、読んで置きたい再校ゲラを半冊分も通読して、その余に『水滸伝』『参考源平盛衰記』を楽しみ、灯を消したのが深夜二時だをまわってた。
睡眠時間が短くても、昔のように朝寝しない。かわりに、昼間であれ疲れればすぐ一時間、二時間、三時間ですら横にもならず、キチンででも機械前でも椅子のまま突っ伏して寝入っている。
「爺くさい」「爺むさい」と「京のわる口」は遣いも聴きもしてきたが、いまは私が暮らしざまがそう成ってしまってる。それも健康法という気に成ってしまっている。
2022 4/10

*「湖の本 157」前半はこのままで責了に出来る。後半は大きく手を加え新原稿も追加入稿したので、ツキモノも含め建頁が未だ決まらない、明日後半の部要再校分を送り返すことになる。あとがきのためにどれだけの頁余裕があるか、今暫く判然しない。ま、じわっと進展している。
2022 4/10

* 連絡の途絶えている人が数多い。この時節では、心配の種になる。メールは即時性もあり便利だが、手紙やハガキに比して軽めに出し入れの風に傾いてきているのかも。見ない人も無意識のうちに増えているか知れない。
私の願いは ホームページの復旧とそのネット電送が可能になること、創作の進捗とならんで、それが希望の一。
2022 4/13

* 今世紀も極くの初めから、私は警告し続けてきた、日本はロシア、北朝鮮、中国からの包囲的な軍事圧に必ず遭遇し、最悪の防衛ないし応戦を強いられて敗北、被占領、国土の分け取りに遭うおそれは明白至極ぞと警告しつづけてきた。「湖の本」で山縣有朋や成島柳北を相次いで取り上げたのも、彼等が実体験を通して確信に達していた「闘わざる限り、決して負けては成らない、それは国土と国民の壊滅的不幸を意味するという懸念をしかと思い起こして置きたかったからだ。
もとより平和は願われる最上のものであるが、「悪意の算術」で仕掛けられる軍事侵攻を甘んじて受けるとは国家民族の自滅をまねくにすぎず、日米安保の保証といえど脆弱、絶対に過信ならないと心得てなければならない。
ウクライナへ攻撃したロシアは、北方の占拠諸島にすでに軍を増派し軍事訓練とともに日本の漁業を圧迫している。さらには日本海で砲撃用の爆弾実験を為し、北朝鮮は再々に日本海へのミサイル実験とみせつつ空爆等の脅威を突きつけ続けている。
ロシアや北朝鮮の意図ないし意志は那辺にか、問うまでも無く、明らかなのは日本の政治外交防衛のあんかんにちかい無防備にある。非戦を誓う平和憲法を尊重してくれるロシアの侵略意欲かどうか、ウクライナの悲劇は猛火と婿の国民の惨死の山と共に明白に過ぎている。観念のきれい事では國土と国民は決して守れない、何よりも「悪意の算術」にほかならぬ必至の外交努力が日々に満たされていなければならないのに、政府・与党も、野党の叡智もそれへ向けてはまるで働いていないも同然の暢気さ。ウクライナ国土などと異なり日本列島はただ細長く湖に囲まれ、海辺防備、成島少年がつとに著し説いて求めた「海警」の実は、あまりに今日頼りない。敵性の潜水艦は、大阪、東京のすぐ足下へも自在に入ってこれるのではないか、海外の諸島嶼など、あっというまに選挙されてしまうだろ繪う、其処に本土攻撃のミサイル拠点がなれば、殆ど一週間と日本国土は打ち砕かれかねない。然し日本の政治外交防衛対策は安閑とも見えて脆弱に過ぎている。

* 過剰に不安を言い過ぎなのかどうか、その点検よりも、より手早い防衛のチカラと備えとの備えへ國も国民も安閑の痴呆をしかし顧慮し革新せねば危ないぞ。危ないぞ。
2022 4/16

* メールが読めなくて、案じていました。愛知のコロナ事情善いとは言えないのでは。用心して下さい。繪は、届いているのか、どう見るのかわからず浄瑠璃寺、確かめ得ていません。法界寺の如来さま いい写真が撮れたら送って下さい。山科から醍醐寺へ宇治川・平等院への道をもう一度通いたいと願っています。洛北円通寺、鞍馬、貴船へも。琵琶湖も観たいなあ。三十三間堂、京博、清閑寺、清水坂、六波羅蜜寺、建仁寺、花見小路、祇園さん、円山公園、知恩院、白川 キリが無くて泣けるなあ。もう一度で好いから帰りたいなあ。
鳶は、もしかして、
あの知恩院下の白川に架かった細い太い何本かの石橋のなかでも、やや幅のある「土居ノ内橋」を西へ渡り、小商店の居並ぶ「古川町」を挟んだ東山線までの粟田地区内「白川西界隈」の、そこを細く区切った「路筋や民家」に具体具象の印象や記憶が何か無いでしょうか。
さらに言えば、東山線を西側へ渡って西へ西へ、有済地区内の縄手(大和大路)まで広がり続いたいわゆる「三条寺裏、古名で謂う天部村」に具体具象の印象や記憶が何か無いでしょうか。あれば、ちいさなことでも聞かせて下さい。今謂う界隈の比較的詳細な古い地図などお持ちで現在ご不要なら、拝借できませんか。 わたしは、有済地区では最も南、祇園と背を接した(知恩院)新門前通り仲ノ町で育ちました。一筋北に同じく古門前通りが在り、この通りに背を接して三条大通りにまで、上に謂う寺浦・旧天部村がありました、わたしは、この三条寺裏地区を、学校時代を通じ状況まで殆ど足を踏み入れたことが無かったのです。
鳶は社会学的にこういう通称被差別地区に踏み込んで学術調査などしていたかと聞いた記憶がちらと残っていまして、助けて貰えるかなと希望を抱いているのです。

* 上に関わって尾張の鳶、重ねて来信あり。

* 晩年も煮詰まってきて、畢生と云うほどの仕事に取り組むなら、是れという主題を自覚的に少し吐露して、尾張の鳶さんと「京の闇」にかかわりメール往来。
脳裏にまずはスケッチを重ねたい。
2022 4/17

* 寝ていても「新創作」へあれこれの想いが輻輳して目が覚めてしまい、思い切って真夜中三時半に起きて二階へ来た。さて、どうなることか、…

* 朝七時。「有済」を思惟していた。

* 晩八時。入浴をはさみ、終日「異様」に寝入っていた。「生・活」が毀れかけている。「尋常」を回復すべし。異様な早起きは心身の負担になった、当たり前だ。と
明日には「湖の本 157」三校が出てくる。「責了」への作業になり、「発送」用意にも掛かる。
2022 4/20

* 昨日届いた「湖の本 157」再・初校分は昨日のうちに点検を終えて、跋文もメールで入稿しておいた。ツキモノや表紙等の始末をきちんと付ければ「責了」への道はしかと見える。
いろいろに手を付けている、創作や創作準備の要へも手が出やすくなって行くだろう。

* 15:38 夏の暑さ、閉口。草臥れる。じりじりと仕事は押し続けているが。冷房しないともたない感じ。
2022 4/23

○ 先日、キリスト教の復活祭のお祝いがありました。信者の少ない日本では影響のある行事ではありませんが、キリスト教圏の大切な祝日です。ロシアのプーチン大統領が、このイエスの復活を讃え喜ぶミサに参列している映像には、強烈な違和感を感じました。
みづうみが『死なれて・死なせて』のあとがきで、こう書いていました。
「 よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。」
誰かの「真の身内」として生きたい、あるいはイエスの、釈迦の「身内」になりたいと願う、そんな願いすら抱かない権力者や無関心な人間たちが跋扈する世界とは、なんと恐ろしい場所でありましょうか。
相変わらずの在宅習慣のまま生活している私は、先日クリント・イーストウッド監督『ミリオンダラー・ベビー』を初めて観ました。アカデミー賞の有名な映画ですから、みづうみは既にご覧になっていらしたでしょう。期待していなかったのですが、まさに、みづうみの人生の一語ともいえる「身内」の達成を描いた映画でした。父を亡くした娘と、娘と絶縁している父の、血縁を超えた「真の身内」としか言いようのない深い結びつき。家族に愛されなかった娘が 遂に父の愛を得た結末に思わず落涙しました。伏線の効いた脚本も見事でした。

* 煩瑣な手順や作業をあえてして、「身内愛」の可不可にもがく『女坂 二』を書いておいた。
2022 4/26

* 藤原不比等を語りあう、お馴染みの歴史談義が興味ふかく、も前の知識や理会をさらに整備できて宜しかった。いまわたしは、不比等からは「孫世代」の宮廷を想い描きつつある。さ、じりじりと前へ押して行かねば。
2022 4/27

今、朝の八時半。『湖の本 157』最終のツキモノ校正が届くだろう、「責了」できるだろう、すると、「発送」という力仕事が待ち受ける。「作家」と世に出て53年、それ以前四冊の私家版刊行から数えれば「単行書」100冊を超え、「選集」33巻、「湖の本」157巻を出版し、送り出し、健康でさえ在ればまだ創作も執筆も途絶えることは無い。それが「私」だ。何が可能にしたか。「勉強」に他ならない。

* 「湖の本 157」校了紙を全部印刷所へ送った。
2022 4/29

* 医学書院の頃は「一部抜き」と謂った、「刷りだし」とも。製本前の「刷了」分を抜き取って頁通り折って畳んで、表紙はつけずに一冊分の印刷分に誤りが無いか点検できる。その段階では「刷り直し」が効く。凸版印刷は、この「一部抜き・刷りだし」を手折状態で三部呉れる。点検は「パス」して既に「表紙製本済み」の本がが注文部数、届いている。「刷り直し」が必要だったことは「無い」というておく。
私は此の『刷りだし』『一部抜き』を便宜にクリップで掴んでおき、読みたければ「是れ」で「読む」。気に入ったなら、随時に「愛読」して感慨を得る。
この数日は、たまたま 『湖の本』の第149巻『流雲吐月(三)歴史に問い・今日を傷む』「2020 令和2年3月14日(結婚記念日)」の一部抜きに手が出て、これが縷々、歴史や時節に向かい辛口で適切、なかなかに筆者としても新ため「共感」でき、面白く「拾い読め」ている。この手の「編修・編成」巻はきままに「拾い読める」「日録の私語」に成っていて読み煩うこと無く、敢えての「通読」は要しない。
このシリーズは、第118巻『流雲吐月(一)歴史・人・日常』第119巻『流雲吐月(二)堪え・起ち・生きる』として「2013 平成25年12月5日」「2014 平成26年3月14日(結婚記念日)」に送り出されている。
謂うまでもない私の「私語の刻」はいわゆる「日記・日録」でない気ままな四通発達の批評的な随感随想。それも延々とは論じない、まさに「只今」の認識・感想・批評批判を簡潔に書き置いている。順序は求めず、日々の流れにたまたま棹さしているだけ。求めてるのは理解と謂うより読者の共感か批評。これが幸いに「独自な文藝」として受け入れられている、らしい。嬉しい。

* 「湖の本 158」本紙全文の入稿用意を、繰り替え繰り替えし為遂げた。われながらよう辛抱して頑張った。十一時を過ぎてい
2022 5/7

* 「湖の本 158」小説と私語 usb入稿。
2022 5/8

* 「入稿」仕事から「創作」仕事へ動く。四つ手がけているどれを選ぶのか、選ばずに随時に気の向く方へ手を出すか、決めるのは私でなく「作」の方かと。

* 「湖の本 157」納品は 23日と通知在り。予定よりよほど遅れた。10連休とかが響いていよう。すこしこっちの心身も休ませてやりたい。
2022 5/9

◎ 前略 今日 突然 「湖の本 御中」「代表者 秦 恒平様」宛名で
『ぜひ全国同人雑誌協会にご参加下さい』とのお誘いがありました。なにか「お間違え」でないかと 喫驚しました。「代表理事」の五十嵐さん名義の来翰でもあり余計ビックリしたのですが、本は毎々お送りしていてご承知のように 私が、36年前の「一九八六年桜桃忌に創刊」以来、旬日の内に「第158巻」を刊行の『秦 恒平・湖(うみ)の本』は、「編集者」があり、複数のいろんな筆者が参加されての所謂「雑誌」では全然なく、私「秦恒平」が独立、事実上の「単行著作本」として刊行し続けてきました。そのことは、五十数年来お付き合いのある加賀さん、三田さんも また勝又さん、川村さん、富岡さんらも、そして五十嵐さんも、「三田文学」編集室でも、実の『湖の本』を手にも目にもして下さりご承知と思います。私はこの「刊行」の「代表者」でなく「実の本人」で、奥付の「発行者 秦 宏一」は、私自身幼少時の実名なのです。小説も戯曲も論攷もエッセイも詩歌集も、序も、後記も、すべて私の「創作」と「執筆」で例外はありません。つまり謂われますところの『雑誌』では全然なく、一切「私版」の実質『単行・単著』なのです。
べつに、そんなことにコダワリもガンバリも持ちませんが、思い違いをされてのお誘いなのであろうと思われましたので、申し上げたまでのことです、ご諒恕下さい。

ほんとうは、一現役作家としての念願は、この『湖の本』と軌を一にして多勢の力在る作者達が、自身の著作を自身の意志と美意識とで出版し続けられたなら、日本の文学界もよほど容貌を一新するだろうと思うのですが、亡くなった鶴見俊輔さんとの対談で、氏も、それを熱望し期待するけれども、それには編集術、出版知識、何よりも一定以上の愛読者が確保でき、何より「質的に値い」する自身の創作・著作を「うんと持ち、かつ書けなければ、更には家族の熱い協力がなければ」とても「為しも成しも得ないでしょう」と笑い合うた事でした。本の発送がどんな力仕事かは本屋さんとしても、よくご存じでしょう。
私は、妻も、いま八十六歳ですが、もう旬日には二人して「第158巻」めを「発送」するのです。創刊以来、夫婦二人で刊行し続けてきたのです。亡き鶴見さん半ば泣き笑いの慨嘆を懐かしく思い出します。
私は「雑誌」を編集して出版するという気は、微塵も持ちませんでした。上京結婚以来十五年半の「出版社勤め」で卒業していたのです。太宰賞作家として歩き出す以前でにも、貧しい中で、私は自身の「小説」私家版本を四冊作り、その四冊めの表題作『清経入水』が、回り廻って小林秀雄や円地文子らの推薦、怖い六選者(石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫)の満票で、太宰治文学賞賞に当選していたのでした、私は自作が選考に持ち込まれていた経緯一切を知らなかったのです、仰天しました。

ま、そんな経歴から、いつか『秦恒平・湖の本』が誕生したのでして、「雑誌」でなく分量的にも内容的にも現在158巻の全冊が、まったくの「単行本」作品集なのです。
お誘い戴いたのが何故か知れませんが、もし「雑誌」として誤認なさっていては却ってご迷惑になるので、率直にお返事のみ申上げました。 時節柄 日々どうぞお大事に。
五月九日 夕

* 妙なことも、あるものである。
妙なことに惑わず、次の巻の出来てくるまで、せいぜい「創作仕事」を先へ押したい。 2022 5/9

* いま此の私の機械からは、メールの機能以外に 広い世間へ電送公開の何も無い。在来お付き合いの親しい読者や同業系の諸兄姉には「湖の本」の創作と私語とで次期こそ遅れるが大凡はお届けできている。広い世間と用意無く電送公開でかかわりくる妨害行為に出遭わないで済む方が安心と思っている。「ホームページ」の強いての復旧は望むまいと。
2022 5/11

▼ 先生 いつもお世話になっております。**です。
USBが届きました。データを確認してから作業を進行いたします。
何卒よろしくお願いいたします。 20:33

▼ 秦先生 関根さま
いつもお世話になっております。**です。
大変申し訳ございません。
セキュリティーの管理上、USBでのデータの入稿が禁止となっておりまして、こちらでテキストデータの取り出しができません。
一度、USBを関根さまのほうに返却をいたしますので、秦先生か関根様の方で、新たな媒体(DVD CDR スムースファイルなど)、送り直していただくように、何卒よろしくお願いいたします。
ご対応が不可能な場合、今後のこともございますので、
一度、秦先生のご自宅に自分が伺って、先生のパソコンから送信をしたいのですが、
今週末(土曜日 日曜日のどちらか)など伺っても大丈夫でしょうか?
ご確認のほど、よろしくお願いいたします。 23:19

* 村上様  仰天しています。 これまで出来ていた事なのにと。次回からはともあれ、今回はこのまま原稿を広げてもらえませんか。あるいはゅょ(凸版印刷株式会社の)関根さん、伊藤さんのお手元で、どうにか願えませんか。
「セキュリティーの管理上、USBでのデータの入稿が禁止となっておりまして、こちらでテキストデータの取り出しができません。」というようなことが、在来、無かったのに突如のことで、何がなにやら。

また、コロナ禍のこの三年来、感染を恐れて、昼夜となくマスクを外さない老夫婦の宅へは、息子でさえ、遠慮して貰っています、来客は迎え入れないで感染予防しています。関根さんと、何らか対策対処して下さい。三十数年、「選集」33巻も「湖の本」157巻も無事に続け、支払いでご迷惑かけたこともなく、凸版社長室へも、全冊寄贈し続けてきた希有の仕事です。
少なくも、今回は、伊藤さん関根さんと調整され、原稿をひらいて貰って下さい。「セキュリティの管理」に問題を生じるなかみは、「USBでのデータ」になっていません。原稿だけが入っているのです。 秦 0:15

▼ 秦先生
夜分のご連絡にて大変申し訳ございません。
USBの件、承知いたしました。
先走りした発言をいたしまして、申し訳ございませんでした。
明日、営業の関根とご確認をいたしましてご対応いたします。
ご不便ご面倒をお掛けしまして大変申し訳ございません。
何卒よろしくお願いいたします。 村上 0  27

* 関根さん 仰天しています。伊藤さんともお話し下さい。  秦恒平
* 「村上さん 仰天しています。 これまで出来ていた事なのにと。次回からはともあれ、今回はこのまま原稿を広げてもらえませんか。あるいは関根さん、伊藤さんのお手元で、どうにか願えませんか。
「セキュリティーの管理上、USBでのデータの入稿が禁止となっておりまして、こちらでテキストデータの取り出しができません。」というようなことが、在来、無かったのに、突如のことで、何がなにやら。久しく「営業」担当の何方からも聴いたことも無い故障申し出でで、納得行きません。

また、コロナ禍のこの三年来、感染を恐れて、昼夜となくマスクを外さない老夫婦の宅へは、息子でさえ、遠慮して貰っています、来客は迎え入れないで感染予防しています。
「営業」担当の関根さんと、何らか対策対処して下さい。
ここれほどのことは、「製作の方」からでなく、「営業」担当の方が、「社是」かのように「とうの昔に」私に伝えてられているはずです。突然に過ぎる。
三十数年、「選集」33巻も「湖の本」157巻も無事に続け、支払いでも一度もご迷惑かけたこともなく、凸版社長室へも、全冊寄贈し続けてきた希有の仕事です。
少なくも、今回は、伊藤さん関根さんと調整され、原稿をひらいて貰って下さい。「セキュリティの管理」に問題を生じるなかみは、今回此の「USBでのデータ」になっていません。入稿原稿だけが入っているのです。 秦」 0:35

▼ 秦先生
おはようございます。村上です。
USBの件につきまして、ダウンロードできるように手配をしております。
大変申し訳ございませんでした。
取り急ぎご連絡となります。
何卒よろしくお願いいたします。 今朝十二日の 九時

▼ 秦先生
お世話になります。
普段社員が使っているパソコンは社内ネットワークウイルス感染予防の為、USBは使用禁止になっております。
しかしながら製版工場ではネットワークに繋げていないパソコンがありそこでUSBからのデータの取り込みを行っています。その為、USBからデータを取り出す事が出来ます。
村上が勘違いをしたようです。
今後、このような事が無いようにいたします。
お騒がせし申し訳ございませんでした。
お詫びいたします。  (営業) 関根憲一

* 昨深来の「突発メール」に惘れた。幸い私は未だ機械前に居たので即座に対応できたが、今朝になってだと、全体に、仕事が遅れ遅れに停滞してしまったろう。
久しく久しい此の仕事で、こういうコトはかつて無かった。
異様なことが突として起きる、そんなとき、ガッと堪えて対応するもせぬも腹をくくって向き合うしか無い。

* 暫くぶりにガルッピのピアノを聴いている。心静かに呼吸して。逆上は何のタメにもならない。
2022 5/12

* 小説の「続行」へ手が戻り、つくづく読み返して、ほぼ納得の展開を認め得たのは、結構だった。この「書き」仕事へ集中して行く。
2022 5/13

* 夕方 撮って置きの映画、鏡花原作第一等の名作『歌行燈』を、美しくも懐かしい花柳章太郎と山田五十鈴とで、感動した。鏡花世界の確かさに泪がこぼれた。久し振り底知れぬ鏡花世界に身を浸し心奪われた。嬉しく、うれし泣きした。謡曲の、仕舞の、美しさに身震い。作の舞台の桑名の宿も懐かしかった、まさしくあの宿で招待を受けたことがあるのだ。
学研の選集『明治の古典』で、「泉鏡花」の巻は私が編選し、「歌行燈」と「高野聖」を選び、「龍潭譚}の口語訳も加えた。『古典選集』の方では「枕草子」口語訳を担当した。働き盛りであった。

* つづいて川端康成原作の映画『山の音』は、原節子と山村聰でありながら物足りなく、世界も展開も総じて、鏡花の堅固な絶景に比し、浅く薄く、私も妻も途中で投げた。
川端康成には、ことに晩年、昭和も果てるまでに、堅固な文学の部厚さ独特な世界観が浅く流れ、文藝の深い怖さがうすく、概して尋常な身の回りの「おはなし」に甘んじている。処女評論集『花と風』のなかで「川端康成」を「廃器の美」と極めているのを今も然りと信じる。
2022 5/13

* 昨夜はやや早めに機械を離れ、階下で、これも「撮って置き」愛板で映画『紙屋悦子の青春』を、妻と、深々と静かな感動を新たに、しみじみ、あの「戦時日本」が堪えた悲しみを、「戦時生活者」の静かさ優しさや気の励みを、追体験したことであった。
幾度も観てきた、そして感銘新たに、いささかも古びない。「劇的に烈しい」場面など一度も無く、しかも胸を衝く優しさ静かさを、悲しみと愛とが浸す。繰り返し時季を隔てては「出逢い」を重ねてきた。繰り返して云う、いささかの古びも馴れも無い。
午に、鏡花『歌行燈』の美しさ見事さに惹き込まれ、夕に『紙屋悦子の青春』に胸打たれ、これぞ「幸せ」というモノ。
その余の時間を大事に用い、書き継いでいる新しい創作を慎重に読み返し、前途を意図していた。
2022 5/14

* 詰め込みの抽斗の一つから、大学ノートに「 1984 昭和五十九年元旦 より 1988 昭和六十三年元旦 まで」の日記が現れた。四十年近い過去で、記憶からは遙かに遠のいていたが、日記を見ると、目の前のように記憶が蘇る。なにもかもが善かった出なく悪かったでもないだろうが、浦島太郎の玉手箱のように想われる。1988 昭和六十三年元旦の記事をそのまま書き抜いてみたが。

(いま、参照までに)
◎ 1984年  昭和五十九年 元旦 日曜日
今、新年を迎えた。天神社の太鼓が急に威勢よく、お囃子も聞こえてきた。建日子が 寒い中を とび出して行った。 朝日子はまだ湯にいる。迪子は、去年の初出本記録のカードを作ってくれている。

無事に新年を迎えられて嬉しい。ネコが暮に容態わるく だいぶ泣いて心配したが、幸いもち直して よく鳴いて甘えてくれる。よかった。

昨冬は、総選挙で久々野党の旗色よく よかったが、その後の与党の収拾のうまさにも 呆れながらかんしんしてしまった。

カレンダーを新しくし、時計の針を正し、さて酒でも呑んで、ゆっくり寝よう。だが、めざめてからは、元日も暮もない 私の戦場だ。仕事は山積みだ。けっこうなことだが、それは 仕事が済ませて行ってこその けっこう。

新年早々というのは 緊張がきつい。ダレて居れない。いつになっても私は若い学生のような気分だ。私は今年、少年に帰るだろう。さあ起とう。平静心で起とう。いろんな事があるだろう。

ほっと目醒めたのが 九時半だった。雑煮を祝ってから、建日子にベートーベンのシンフォニイをレコード3枚で、迪子にはハイドンのバイオリンコンチェルトなど1枚、朝日子には トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」(岩波文庫)と ブーツとを。建日子には他に岩波文庫で短いのを5冊。
谷崎松子夫人からのプレゼントが 朝日子にハンドバッグ、私にネクタイ。なんと!
十一時に天神社へ初詣でに。すばらしい快晴、うらうらと。静かで。佳いお正月だった。

年賀状は元日だけで、私の分だけで300枚を超えたろう。一日がかりで返礼の宛名書きをした。昨冬の父(実父・吉岡恒)の死があったので、賀詞は今年は省いて、ただ、賀状の来た人にだけ 返礼の出来るように用意しておいたのだ。それでも200枚余りしか書けなかった。晩おそくに、歩いてポストへ入れて来た。

除夜の鐘を聴いてから、一本、「ジャッカルの日」という映画を独りでみて(tv)、そのあと、「最上徳内」の手入れを開始してから、床に就いた。一時半に、電話が必鳴った。すぐ切れた。
徳内の 第一回分を読んだ。「四度の瀧」を1枚分ほど追加した。エッセイも1枚分ほど打ち初め(ワープロ)た。

朝日子が腰を痛め、豊福君のデートの誘いを 結局 断るハメになったのが 元日の残念となった。

さて、あれもこれも着手してみたかったが、やはり賀状に時間をとられてしまった。まァ かっかしてはいけない。確実に。今年は時間の配分と併行作業とが大事な配慮になろう。

お年玉を渡してから、 キリストに倣いての4巻57章を読み、お祷りをした。

* 幾つか、思い出せる。
キリスト教と「お祷り」にびっくり。 シドッチを書く心用意だったかか、あるいは実父教会葬の縁か。
松子夫人のお年玉。 懐かしい。
朝日子と豊福君。 結ばれてたら、親は、どんなに嬉しかったか。
年賀状の300通。 「新年」の発進に障ると、年賀状一切「おやめ」と決心した。。

* 此の、上の日録ノート、一年分取り纏め書き起こして置くと、いわば私の「中年・働き盛り」の色合いが、分かりよく見えるのかも。ま、この先々の仕事優先が当然です。
2022 5/14

(いま、参照までに)
◎ 1984年  昭和五十九年 正月十二日 木曜日 晴 寒
もう十三日に入っている、三十分。そして一週間ぶりに今日(十四日)は白い日(=外出・来客等の所用の無い、カレンダーに予定書き入れの無い日)だった。十一日には 『春は、あけぼの』出来(評論集 創知社刊 第60冊目の自著単行本)、中堀信行(創知社)社長、陣内君、田辺兵昭氏(文化出版局 ミセス)、島尾伸三氏(写真家)も来訪、酒は六時間に及び、私も、迪子もバテた。こういう客は出田興生氏(平凡社 太陽)と元の家族とが都合五人みえた日も同じ。この一家のことは、いずれ書く時もあろうか。(NHKブックス)の本山氏も来てくれた。

六日には 国立小劇場で、(藤間)由子の會が、 私の詞 荻江壽友の曲で『細雪 松の段」を舞ってくれた。小林保治(=早稲田大学教育学部教授)夫妻や武田典子さんを招んだ。むろん谷崎松子夫人に捧げたもの、夫人も(娘の=)観世夫人もみえて下さった。そして 私は 成功したと思う。もう、京都先斗町が温習會に使いたいと言っているので許可をと、壽友氏より当日にも 今日にも 挨拶があった。 小林夫妻を寿司幸へ誘った。 十日には 俳優座の「テンペスト」を家中で観た。小沢栄太郎らがよくて、これは私は十分楽しんだ。この日 (朝日新聞)夕刊「新人国記で ハデな写真入りで(私=)登場した。
七日には(上野の博物館=)東洋舘で静かに佛頭など観て来た。
『四度の瀧』を130枚まで書き進んでいる。『徳内』も一応、前沢さん(筑摩書房)へ戻してある。

武蔵野女子大(=教授として聘したいの陽性が既に在り)のことを決め兼ねている。

あれあれというまに、もう十三日、 午後には(中公新書)の青田吉正氏が来訪の予定になっている。

京都論の案、 出来ていない。(朝日ジャーナル)の連載、 シドッチ・白石の進稿 四度の瀧 の仕上げ、 (新潮)の書き起こし、 私家版の四編 講談社詞華集の進行
すくなくもこれだけの大仕事(一つ一つが大変な仕事)がある。そこへ 月に十日をさいていて(限度)、大学への出講(三コマ、二科目)が可能だろうか。参った。

(サントリー美術館)に書いておいた 正月と晴着 の一文が(東京新聞)ちょうかんの筆洗で 正月早々にとりあげられていた。林伸太郎氏、目配りのいいのに驚き、感謝。

ゆうべ谷崎(潤一郎)の「アヱ・マリア」 面白く再読。

* 目の舞う忙しさだっただけは、よく思い出せる。フーンという感じ。
2022 5/15

* 「頼朝の13人」の行く末は、ほぼあまさず承知している。三谷幸喜、よく描いている。西田敏行の後白河法皇が佳い。平家がほろび 義経がほろび 奥州がほろび、頼朝がほろび、源氏がほろび、新田と足利を漏らして関東武者達の多くがほろび、後鳥羽院がほろんで、北条氏の鎌倉時代になり、元寇を迎える。南北朝で北条がほろび、難聴もほろんで、足利路街時代が来る。痛いほどの必然が軸をなしている。

* わたしは、いま、それよりも遙かな昔を眺めている。書いて、描いている。
2022 5/15

* 昭和五十九年元旦から春の日記をほぼ終日書写しつづけ、感慨悲嬉の動き無き表現に胸衝かれ続けて、先は長い。妻とこそ分かち合える。往時の愛ネコを回顧し涙していた、今、私背後のソフアでひしと抱き合うて「マ・ア」兄弟が嬉々と寝息を交わしている。わたしより永く元気に生きよや。
2022 5/17

* 今回はいろいろに遅れてやっと「湖の本 157」の刷りだし、一部抜き、表紙口絵など届いた。口絵の実父の顔や姿が呆れるほど私に肖ている。とうとうコンナものを書いたかと感慨に迫られる。すこしドキドキして読み返す。

* 彬彬として楽しむと謂う。そういう想いで回顧の日々へ誘われている、らしい。そんな自身を赦そうという心地にもなっている。嗚呼とも感じない。すでに夢か。十時過ぎ。
2022 5/20

* 只今、尾張の鳶さんからの 京の、希望した界隈の精度の在る写真が、沢山送って貰えてあるのを
発見、感無量、深く深く感謝。感謝。さらにさらにあすから想像や記憶も効かせて、よくよく見入ってみる。鳶、ありがとう。鴉は、ボーゼンとしています。夢を見ます。
2022 5/20

* 尾張の鳶が、京都で、洛東の一部、地域を限って依頼した「写真」を、昨夜、たくさん電送して呉れた。私の「記憶をもとに地区を限定」したが、何というても六七十年も以前の、しかも孰れもほぼ一度として立ち入りも実見もしたことの無い見聞と想定による依頼で、珍しい驚きで、今日、写真に見入った。感謝、感謝。少年の昔に知り得ていた限りではいっそ草莽と貧寒が、開明の高層建築等に埋められたようなのに、感慨しきり。いわばそれが当然とも謂えよう。戦時下には、かつて鼻をつままれても見えないほど漆黒に包まれていた祇園町花見小路が、文字通り幅5メートルと無かった小路が、俄然強硬な人家取り毀しで四条大通りから三条大通りにまでブチ抜かれ、何らかの思慮配慮も加えられびっくりする高層建築が通り脇に建っていたのも記憶にあるのだ、まして爾後数十年である。
全く見知らなかった光景や建物や界隈に、やや息を呑む心地もした。
鳶さん、有難うと繰り返し言わずにおれない。
もとより、「書こう」というのである「仮構」の物語を。芯になるだけの人と物語とには「用意」がある。問題は、此の今の私の時間的な現況。ゆっくりはしてられない、体力能力の窶れに負けてられない。
2022 5/21

* 『頼朝の13人』は、奥州での九郎義経覚悟の敗死に「もののあはれ」を極めた。いかに理由づけようと頼朝の源氏の命運もきわまったのであり、すでに北条義時の聡明と武断とが姉政子と意思通じ合い「鎌倉時代」を手に入れて行く。大河ドラマの主人公は小四朗義時なのだ。小説「雲居寺跡」はその流れに沿うて承久の変を迎える。
2022 5/22

* 本の姿になった本は手にして傷めるに及ばず、各巻に一部抜きをキレイに断裁し整えて閉じてくれたのが毎度三部届いている。読み返しは気ままに、それでする。特に手洗いの便座で、用を足すよりも「湖の本」一部抜きを気ままに捲る。今朝は『オイノ・セクスアリス』上巻を持ち込んでしばらく、気ままに、読み返していた。
この三冊に成る長編が、私ひそかにも気に入っている。語り口、展開、深く迫ってくる新字の懐かしさが仮構されていて。すこうし読者の皆さんに「遠慮」もした遠慮の無い表現や描写や歌が満載もされている。部分的に「露骨」と読む人の有って防ぎようもないので、ま、自分勝手に気に入ってきた、が、あるときに旧友の「テルさん、西村明男君」が、「ハタくんの代表作は、『オイノ・セクスアリス』と冷やかしでもなくキッパリ告げてきて呉れた。中学以来敬愛してきたもと日立の重役君で、わるい冗談を言う人でない、じつに我が意をえて嬉しかった。体験の記憶があってでは全然無いフィクションに徹して書き通しただけに「世界」が身にしみ懐かしいのである。
今朝早くも、気ままに開いたほんの数頁を静かに独り読み返していた。妙な作者と笑われるか。

* 今朝には湖の本157『虚幻焚身 父の敗戦』が出来て玄関へ積まれる。三日ほどは発送に追われるが、済めば「次」へ元気に進んで行ける。午前に妻は定期的な診察を受けに近くの病院へ。どうぞ無事でと願っている。

* このところ、まんざらにサボッテいるのではなく、1984年(昭和五十九年)から翌年への克明な「(私語でない)手書きの日記」を「読み」返している。目的あって、ではなかったが、前年の内容は凄まじ迄の私の文筆・作家活動なのだ、次の年へ移ると、我が家のある意味容易ならざりし、愉快とは言いかねる疾風怒濤に襲われている。その破壊的に不快な余波余風は、世紀をまたいで四十年近く今も「秦家」を曇らせている。部厚い大学ノートにペンの細字で半ばを埋めている。決して愉快でも懐かしくもない。

* 父の吉岡恒は、もの凄い嵩のさまざまな書置きを遺して逝った。その「父の敗戦 虚幻焚身」の生涯を、私も結句は続演し焚身してきたのか。
2022 5/23

* 新刊の『父の敗戦』を読み返していた、もう何の遠慮も為しに書き抜いている。生涯の縁薄き両親、生母を先に書き、実父を今度書き、「最後ッ屁」ではないが、書き置いたぞと言うている筆触・筆致ではあるなあ。もう先は短い、のだろう。
2022 5/26

○ 「湖の本 157」いただきました。 浩 ciu
秦恒平様  加齢と付き合いつつのご苦労をなさりながら、読書も、書き物もしっかりなさる。同年の私は秦さんの気力に圧倒されます。どうやらパソコンが調子を戻したようで、何よりです。『湖の本』を62包をも、一冊一冊ラベル張りして宅配に渡す。大変なご努力ですね。頭が下がります。本日、1235部のうちの一冊の『湖の本』157 「父の敗戦 水流不競」 をいただきました。いつもながらのご厚意に御礼を申し上げます。ご苦労に謝しつつ、直ちに拝見しました。私にはそれしか能がありません。
ご実父に墓標をお建てになった。人生の大事なお仕事をすませましたね。お疲れ様でした。真面目に世界と政治を受け止めた。そして真面目な考察のレベルに閉じ込められた。そんな気がいたしました。同情に堪えません。人生はそれぞれに重い。
秦さんはご両親のよい面の素質を引き継がれたものです。今号を拝見しても、つくづくそう思います。賜物は最後まで生かすのみですね。体を労りつつ、最後まで作家魂を貫徹なさって下さい。
私は 私には荷が重すぎる仕事を幾つも背負わされてしまい、日々机に向かい苦労しています。しかしウクライナ情勢が気になり、勉強を止めてパソコンの前に座り、速報性の高い、主として英語でのニュース動画を幾つも見て時間を使い、くたびれてしまいます。愚かなり。
奥さまと共によい日々をお過ごし下さい。

* 心より感謝。 書き置いて、よかった。ゆるされたか、と。
2022 5/26

「湖の本 158」初校もよほど進んでいる。体調を建て直して「体力時間」を拡充、新作の続稿へてを掛けたい、なにとしても心身の健康が先と。
2022 5/28

* 「湖の本 158」 あとがき ツキモノ 副えて 本文「要再校」で送る。
2022 5/30

* なぜか手近へこぼれ出ていたようなも大昔の雑誌「思想の科学」を手にし、亡兄北澤恒彦のかなりな力編と謂えようか「革命」を語った長い論攷と、この兄が、私恒平の昔の作『畜生塚』のヒロイン「町子」の名を、生まれてきた娘に貰ったよと手紙で告げてきていた北澤「街子」が連載途中のエッセイを、朝飯前にさらっと眺めていた。この「思想の科学」は今は亡い鶴見俊輔さんを中芯に結集した人等の大きな拠点であったようで、兄恒彦はその中核の一人、老いの黒川創もその「編集」等に参与していた、、ま、一種の京都論派の要であるらしかった。京都で盛んにウーマン・リヴを率いて後に東大教授としても活躍した上野千鶴子さんも仲間のようであった。姪の街子はオーストラリアの学校へ遊学していたのを下地のような、長い連載エッセイを書いていた、らしい、健筆のちからを見せている。創や街子の従兄弟にあたる私の息子秦建日子も、いささか八面六臂に杉目ほどの小説作家・演劇映像作家として多忙に過ごしている。
近年にウイーンで「悼ましい死」をとげてしまったと聞く下の甥北澤「猛」が文藝・文章を書き遺していたかどうかは知らない。聞いていない。彼かあとを慕って追った人はよほどの年長であったと聞くから、我々の実父母、彼には実祖父母に当たる間柄に似ていたということか。
私たちの娘で建日子の娘である押村朝日子も、謙虚に謙遜に続ければ、また夫の理解があれば、けっこう達者な物書きへの道へ入ってたろうに、早くに潰えた。心柄と謂うしかないのだが。
とはいえ、こうしてみると「私たち兄と弟」を奇しくも此の世に産み落としていった亡き実の両親は、文藝の子らを、少なくも二た世代は遺して行ったことになる。
「北澤」という家を皆目というほど私は知らないで来た。今も知らない。
私方では、妻の父は句を、母は歌を嗜み、息子は「保富康午」の名で詩集を遺し、テレビの草創期から関わって放送界で創作的に働いていたし、妻の妹は『薔薇の旅人』という自身の詩集を持ち、画境独自の繪も描く。妻迪子も、実はしたたかに巧い絵が描ける。

* たまたま、とも謂うまい、意図して私は「湖の本」新刊の二巻に、恒彦・恒平兄弟実父母の、いわば「根」と「人としての表情」を、ならび紹介し得た。出逢って忽ちに天涯に別れて生きた男女、恒彦と恒平とを世に送りだすためにだけ出逢って忽ち別れた母と父とのため、私の思いのまま、それぞれの墓標を建てたのである。
2022 5/31

* ことに漢字・漢語を覚えそのおもしろみに馴染むのが、和語・やまとことばの其れより覚えやすく分かりよくことに幼少時には「得意」であった。いま「湖の本」のなかみにまま漢語を用いているのは、なにもその由来に知識が行き渡ってのことでなく、字面に於いてオモシロイなと自ままに流用している程度である。
そういうところから、老荘の孔孟のは恐れ多くも、ことに漢詩の五絶、七絶また律詩にははやくに惹かれ、祖父鶴吉の蔵書のなかでも唐詩選、ことに白楽天詩集は、むろん解説や語釈つきであるが、まことに早くから親しんだ。ことに「新豊折臂翁」など感動し、感化され、将来小説を書くならこれに就いて書きたいと殆ど決意して、その通りに「或る折説臂翁」を処女作に持った。一九六○年の頃であった。自然(返り点がついてだが)漢文には親しみやすく、高校国語でも「漢文」を選択し、教科書などみなすらすら読めて岩城先生に驚いてもらったりした。同じ教室で返り点の漢文でも苦もなく読める一人もいなかったのを思い出す。但し現中共中国のあんな新体字はだめ。読めない。

* なにより漢字漢語には「熟語」があり、これが親しんで教えられ面白い魅惑の手がかりとなった。祖父は、いわゆる小説の類は蔵してなかったけれど、老子莊子韓非子また四書五経の類、歴史書、詩集に加えて漢字漢語の大冊の事典・辞典を何種も遺してくれていた。今も史記列伝を愛読最中で、四書講義や十八史略もありがたく、書架に場所を塞ぐけれどもな大事にまもって時に教えて貰う。辞典・事典の好きな祖父であったのは実に実に有難かった。
それでいて、いま「湖の本」の書題に借用している四字熟語などもべつに原意や由来にそくしてなどいないで、字面を好き勝手に愛用している程度。
老蚕朔繭 水流不競 哀樂處順、優游卒歳 流雲吐月 濯鱗清流 一筆呈上 虚幻焚身 等々、なにも難しくは考えていず文字面に感興を覚えている程度。和語ではこうは締まらない。

* 早朝に目覚めてはこんな「私語」に時を遣っていてはもったいと思いつつ、しかし私の此の『私語の刻』という「文藝」の自覚と集積ははとても大切な大きい発明で実践と思っていますと、文壇作家達には恐かった「大編集者」が云うて下さっている。読者の中にも秦恒平最大の文学かと受け容れて下さる方もある。嬉しいことである、かまけてはおれないけれど。
2022 6/4

◎ ある人に応えて。
下に引いたあなたの文言に沿って、少し、書きます。

▼ 作者と同時代に、近くに生きている人間には本人から直接訊ける特典があり、それを活用しない手はないとしても、何かを訊くことは、それも目上の方に訊くことは大変失礼なことです。お怒り、失笑をかうものです。もし記者ならそれでも突き進むべきでしょうが、そこまで厚かましくはなれそうにありません。私は取材は出来ない人間でありましょう。ただ一つわかっているのは、「秦恒平」が生きる甲斐ある「問い」を私個人に与えてくれることだけです。
とにかく今取りかかっている評論は、現代性のある着眼点であるという自負は少しだけあります。目の前の一行一行大事にして良いものを仕上げたいと願うばかりです。

◎ 文学評論には 作品論と作家論とが綜合して溶け合っている。異なる二つではあり得ない。評論と謂おうが評伝と謂おうが、それが「評者」の内に溶け合って精緻に発酵していなければ、偏見と独断と独善の高慢に陥ってしまう。あらゆる「取材(人・場所・時期)」への「詮索に同じい探索・精査・検討」の無い作品論・作家論は、評者の自己満足という「雑文」に過ぎないことを露表するのみです。その意味で、貴方が誠心誠意、自慢高慢を棄てて本当に立ち向かう覚悟なら、その仕事に「都合・勝手の土俵を設けて、独り相撲を興がるに過ぎなくなる過ち」を、真っ先の「覚悟」として確かと持たねば「お遊び」に終わるだけです。

一例、あのツワイクは、いわゆる「伝記作家」として卓越していましたが、いわゆる文学上の「作家論」者では「有りません」という遁げ道、抜け道の用意が出来ていたお見事な仕事師でした。
あなたは、こと文学作品と文学者とに区別など付けようもなしに自身の誠意と力を持ち合わさねばならない「仕事」をするのだと表明している。「これはします」「これはしません」などと自己都合の前提や言い訳の立ち得ない「しごと」に人生を賭すると言い出しているのです。立派です、為遂げて欲しい。

しかし秦恒平の「仕事」は少なくも、「作品・私語・日記・書翰の授受、戸籍と血縁、交際・交友の人間関係、信条や趣味」の量、嵩において 本人でさえ戦くほどです。あなたは、その万分の一も手に入れていない。
一例が、『罪はわが前に』を関連の作や論と倶に「評論」するとして、下支えた「材料、環境、人たち」をどう調査するかの手立ても足場ももってない。ここには「三姉妹」という秦恒平の人生で親や妻子ともならぶ存在がであり、その生き残った私と一歳差の一人がかろうじて京の一画に今も潜むように生きているのにも、何の接点も持っていない。私でさえ、辛うじて住所を聞き及んでいるだけ、しかし、上記作の「評論」で、その取材無しに何が語れるかと思う。「作の表現だけで論じる」のだとは、ただの遊戯的な自己満足に過ぎない。原善や永榮啓伸その他の論者の論もほとんど知らないでしょう、雑誌や研究會等でどんな特集が組まれ議論があったかも知らない。「取材はしない」と昂然と云う。それでは、誰がどうしてその「評論」を読んでくれるのか。

私は、少なくも上京・結婚以来の一切の受信書翰を保存していますが、もの凄い山です。そんなのは「評論」の何の役にも立たないと精査の手間をケチるのでは、あのツワイクの徹底した書翰収拾と精査からも、あまりにほど遠い。同じことが私自筆の日記帳や愛蔵の所持品にも云えるでしょう、そんなのは「作の評論とは無縁」という見解では、怠けた学生の卒論並みにも届かなくなる。完璧を期さない安価な「自称の文学評論家・研究者」をどれほど多く嗤ってきたことか、おそらくあなたも嗤ってきたはず。評論なので評伝でない、或いはその逆 などの言挙げは、ことが定まって、読まれてこそ決まるのですよ。

創作も評論・評伝も・根底は「取材力」でこそ、ごまかしようのない差が生まれる。はなから「取材」を自ら封じている論者の達成を だれが、どう信じられるのか 再考を願っておきます。「作者本人の口」に確かめてあるなどは、寝言に過ぎない、「作者」とは「うそ」を云い且つ書くことで勝負しているのですよ。外濠、内濠を埋めに埋めて本丸攻略に精がそそがれること、「評論」であり「評伝」であれそれが鉄の前提と覚悟して掛かられるのを奨めます。

* すこし云いすぎているかも知れないが、真面目に取り組もうという方なので、言を切しておく。
2022 6/5

■ 先日、市川では激しく雹が降りました。講義の最中に雷鳴も轟き、帰宅する時には上がりました。
今日は、、録画しておいた「あの胸が岬のように遠かった」を観ました。永田和弘の著を原作にしたドキュメンタリードラマですが、ご覧になりましたか。永田と河野裕子の歌を、詠み直したくなりました。
(やそろくさんは、最近は作歌なさっていますか。「私語の刻」は、「湖の本」でしか読めないでしょうか。)
不安定な気候が続きますが、どうぞ体調を崩されませんように。 晴

* 亡き河野裕子は、斎藤史に継いで、最も優れた歌人と東工大の教室で推奨した私最も贔屓の歌人。永田は夫君。ドラマは観ないが、裕子歌集は書庫に愛蔵している。
わたしは、昔からそうだが「作歌」という施政からでなく歌は成るがママ、谷崎先生がいみじくも喝破されたように汗や涙や、まあ排泄物なみに流れ出染み出てくるのを書きとめるだけ。作り立てた歌にはどうも浸透力が無い気がする。「作」ではない「うた」であるからは「うたう」から「うた」と思っている、はや議論する気は無いが。
2022 6/8

* 思い切ってさっさと責了にし、発送用意に転じてしまおうか、と。
2022 6/10

* 次巻「湖の本 159」後半にあたる原稿作りを開始。前半へは、新しい小説を起きたいと願っている、が。
2022 6/16

○ 秦先生
“私のこの頃です” 、じっくりと拝読いたしました。
マルクス・アウレリウス『自省録』は私も愛読書です。ただし、日本語で読みました。東洋思想に共通するところが多々ありますね。
私の「ギリシア哲学原典講読」の指導教授、荻野弘之先生が、
『マルクス・アウレリウス 「自省録』-精神の城塞』(岩波書店、2009)
を上梓しています。『自省録』をさらに深く読み込むための名ガイトブックと言えます。
p.s.映画「グラディエーター」にマルクス・アウレリウスが登場します。
リチャード・ハリスが好演です。 篠崎 仁

○ 篠崎さん ご無事の快癒をと願い、祈ります。気強くまた一と山をお越え下さい。
マルクス・アウレリウス『自省録』は それはあるまいかと思いつつも 日本へ渡った最期の伝道師シドッチのはるかな旅立ちに,師として友としてと親が授け持たせたと新聞小説『親指のマリア シドッチ神父と新井白石』に書き入れました。そういう「本」と思って来ましたよ。
また いろいろ お話を 聴きたく 致したく。心より。  秦恒平

* 吉岡の父 実の父を「湖の本157」に書き下ろして、漸く、いいことをしたなと胸を撫でている。私の小説『廬山』掲載を新聞広告で知りその雑誌「展望」を、親族に監禁されていた「精神病院」で小遣いを割いて買い、しかも『廬山』ではなく、たまたま同時掲載されていた「なだ いなだ」氏の『小さい大人と大きな子供と』を読み、「この内容は私が六十才の今日まで心の奥深くしまいつづけて来た所信の半分ほど代弁してくれているので意を強くしました。私がいえばまたしても病院に押し込められる危険が多分にありますが、この人(なだいなだ氏)は精神科の医師らしいので共感を表明しても強制拘束の心配が無いので安心です」とノートに書き付けていたのを読みかえし、思わず、初めて私恒平は、此の父のため声を放って泣いてしまった、生みの母のためにも泣いた。大勢の読者が両親のためにいい墓標を建てられたと云って下さることばに、ようやく、独り頷けるように成った。群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌って自立してきた「湖の本」なればこそ出来たこと、私自身のためにも墓標であるな、と、しみじみ頷く。今回の口絵の父「吉岡恒」像は、どう見ても誰が見られても「恒平」そのままと。

* 明後日には新刊発送。用意は出来ている気でいる。暑さに負けないように、急かずに進めたい。
2022 6/26

◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄  坪谷善四郎著
◎ 文久三年(一八六三)五月十日以後長州藩は攘夷を實行するが爲に下の關通行の英佛米蘭四ヶ國の船艦に砲撃しければ四國は之を詰りて談判を開きたるも  空しく一年を過ぎ今元治元年の夏に至るも其効を見ず當時の形勢幕府は既に天下縦まヽにすること能はざるの狀を呈したれバ四國は意を決し自ら軍艦を下ノ關に進めて長州の罪を問はんとす幕府は陽に之を止めたるも陰には却て悦び長州征伐の爲に一大應援を得たるを祝し四國が横濱を出征根據地と爲し英艦九艘佛艦三艘蘭艦三艘米艦一艘を以て艦隊を組織し七月下旬舳艪相喞み長州に向ふたるも幕府は手を拱して之を傍觀せり故に四國艦隊八月五日進んで下ノ關に迫り激しく砲撃したり此時長藩には去月十九日精兵既に京師に敗れて瘡未だ癒えず幕府は遠からず大軍を發して來り征せんとするに當り今亦外國軍艦の精を盡して來り襲ふに逢ひ百難一時に集り之を防ぐに堪へず故に下ノ關砲撃の軍に對しては能く敵愾の氣を鼓舞して防戦するも勞を以て逸に對し器械の鈍を以て鋭に當る勢ほひ抗すること能はず戰闘四日にして勢ほひ屈し九日和を請ひ遂に下ノ關海峡の通航を諾し償金三百万弗を渡すことを諾したり
此の一戰長藩は甚だしき敗を受けたりと雖ども之により外国兵鋒の強を知り攘夷の容易に行ふ可らず舊來り兵制は迂拙にして彼に抗する能はざるを知り急に兵制を銃隊に改め盛んに武を練りたれば後來其兵の強き幕府が天下の兵を集めて征するも勝つ克はざるの勢力を養ふに至りたり故に當時長藩は戰ひに負けたるも實際は勝ちたり之に反し幕府は外國軍して長藩を征せしめ自ら戰はずして征長の實を行ふたるの觀ありしと雖ども此一事を以て其の實権は全國を制すること能はず長防二州は自己の政權統治の外に在ることを示し以て外に對して其威權の微なるを表白し遂に後來外國をして幕府は眞の日本政府に非ることを思はしむるに至れり加之當時長藩は三百万弗の償金を約したるも終に之を幕府の手より支出するに至りたれば幕府は最も不利の地位に立ちたり故に外國軍の下ノ關砲撃は其敗長州にあらずして實は幕府之敗と爲れるものなり

* 外国艦の砲撃に傷ついて山縣有朋がめざめ、また終末期の幕閣に参じた成島柳北が愛想を尽かして江戸の市井に一身を捨てて隠れた経緯を見事に上の一文は説得してくれる。
云うまでもな、いましも日本列島は、幕末、四國列強の軍艦猛烈の砲撃にあえなく屈した下関、長州藩の為すなき惨状を他所のほかとは云い切れない世界事情下に置かれてある。そのじじつを無視したままの「平和」の要望ではあまりにたわいない。
この『明治歴史』抄記は、しかし、あすからは「湖の本」発送等に時間と体力を要するので、「四國連合軍艦の砲撃」と程もよく読み終えたので、少なくも一旦休止する。
『山縣有朋の「椿山集」』『山縣有朋と成島柳北』を「湖の本」にしかと加え得たのを喜びとする。
生母の生涯を抄して『湖山夢に入る』を、實父のそれを『父の敗戦 虚幻焚身』に竟に書き置けたことも、また、老境の大きな一歩であったよ。
2022 6/27

* 「文士」としての自分の日々を「読み・書き・読書」と要約しているのは、私の場合、ほぼ言い尽くせている。
最初の「読み」とは、現在・未来を分かたず「書くため」の資料文献の調査や検討・研覈・吟味・鑑賞、つまりは、必要な勉強。たがって私の関心や意欲が多彩多般に亘っているときは、余儀なく、多く時間を割いている。勉強と禁欲との釣り合いを見失うと、膨張破裂を招いてしまう。
「書き」とは、事実上の執筆・創作行為。
そして無差別に広範囲の「読書」。
ほんとうは、善き人との「対話」「検討」の加わるのが望ましいが、今の私には人も機会も、望んでも得にくい。
2022 7/3

* 二本の手へ十本の手が握手を求めてくる感じ、気の動いて仕掛けもついてある「書き仕事」が幾つも「お手を拝借」と誘ってくる。どれも払いのけるワケに行かなくて目が舞う。映画など観ているなと𠮟られても、これまた観るべきは観て栄養を摂るのだし。 2022 7/4

* 八時の朝、往年の作を必要あって点検し添削していた。息をやすめたく、『遊仙窟』詩情の交歓を暫くにこにこ、いや、にやにや、愉しんだ。
女が誘う 平生好須弩
得挽即低頭
聞君把提快
更乞五三籌

男が出る 縮幹全不到
擡頭則太過
若令臍下入
百放故籌多

何をか謂わん。
2022 7/7

* ふと気の動いたまま 大事なと謂える記事を「書き継いで」いたのが、例の、ハタと消え失せた。惘れるのみ、で済まない、おなじことをまた勉める。「無駄」は、私の人生ないし余命にとって「何」であるのか。
それにしても、この爺の前へ、ようも次から次へ俺の面倒を見ろと「仕事」クンたち、厚かましいほど手を出してきよる。賑やかです、がね。
2022 7/20

* 「湖の本 159」の編成、渋滞していたので無く、工夫を重ねていた。もう一両日ではんなり纏まるやろ。
感染者数、驚くほど急速、かつて無い多数を日々更新している。風邪やインフルエンザと同じと、英国は之を無視している。日本人の私は、まだ十分に慎重でありたい。
おう。もう十一時を過ぎている。
今日、希代のエロスに匂い立つ唐代の張文成作『遊仙窟』を、感嘆、読み終えた。『フアウスト』と『参考源平盛衰記』とが、抜群に、目下、おもしろい。
2022 7/21

* 食事もせず 大相撲も観ず 六時半、今日一日は 意地にでもと、機械に組み付き組み付き、疲れも忘れて辛抱の極のような長時間を奮励した。うまいへたなんて考えなかった。
朝から湯をつかう気で用意して貰いながら、見向きも成らぬまま、難儀と組合い続け、大相撲も済んだあと、やっと夕食しに階下へ。

* その夕食も摂る摂らずでまた機械との辛抱のいい悪戦苦闘、やっと明日へ段取りを繋げたか。九時半を廻っている、すべきことと思うから奮闘したまで。
2022 7/22

* さて。昨日奮励努力のそれを、うまく今日へ繋いで送り込まねば。暑そう、今日も。
2022 7/23

* 体重が増傾向、血圧が高傾向。機械クンの温厚を切に願う。

* 懸命に整備してもう上がりと思った、そのままが消散、私のミステークなのだろうが。この数日の苦労がフイになった。しかし、とりもどすしか道は無い。この二,三日、如何とも遺憾とも。どこかから、逸失分が復旧して欲しいがなあ。「まあだだよ」「まあだだよ」
2022 7/29

* 尾張の鳶、私の「兄恒彦」を書いておきたいという思い爲しに、甥の恒が編成した「父」を主題の本二冊を手に入れて送って下さった。感謝。
とにかく、識らない「兄」なのである。今から見ればほぼ同年の兄弟なのだが、鮮明に異なった人生をあゆんで、兄は、自死した。どう死んだのか知るよし無かったが息子の「恒」は躊躇いなく「首を吊って」と語っている。言葉を喪った。識らなかった故のショックがあるにしても、それに拘る気はない。理由があってか無くてか、兄は、江藤淳の自死の半年後に自ら首を吊っていたと。
生母を書き、実父を書いた。兄も書こうと決めている。母にも父にも幸いに私のもとに厖大と謂えるほど生な資料が在ったが、兄のことは、實はほとんど知れていない。それでも駆けるだろう、明らかに、短期間では在ったが兄晩年に、淡いが懐かしい兄と弟としての接点や折衝はあったし、それは、子供達も識らないままの一面に相違ない。どこまでその一面が表現できるか、遣ってみようと思う。
2022 7/30

* 「湖の本 159」を 凸版印刷株式会社に『入稿』について、心神耗弱どの疲労と失望を襲続け、まだ解決を見ない。従來可能だったことが俄に不可能になると、機械にそもそも何の予備知識ももてていない私は途方に暮れるばかり。
2022 8/1

* そんな中でかんかんの日照りの夏を妻と定期の内科受診に厚生病院へ。往き帰り、タクシーをつかった。幸いに診察に大きな故障は無く、私などは、先生に気の毒なほどまあまあの健康体とのこと。それは有難いことで有り、ひびの仕事に紀元の善し悪しはついて回ってもとにかくそれをしつづけてられるという事実は感謝しなくては成らない。
しかし、私の仕事には、自身で処置可能のものも、人手を借りて前へ進めねばならぬ事もあり、後者は決して容易ではない。いちどひっかかると、解決がつくのに先方の理解や納得を得なくては成らない、それがお凡て機械的なメール往来でされるので、けっして綺麗に割り切れない。ま、いまのわたしは酷暑にも負けてふらふらの事態なのです。

* 私は前世紀末に東工大教授の研究費で、ともかくも先ずパソコンを買った。使い方など1ミリも識ら無かった。大教室で、盛京のパソコンと、「一太郎」を買ったよと謂うと、笑いが風のように教室に舞った。笑いの意味は識りようもなかったが、どうも機械本体で無く「一太郎」にありけに聞こえたのを記憶している。しかし以來依頼二十数年、私は今も「一太郎 承」とかいう板をインストールしている。何の信不審もない、成り行きに任せてきただけ。
「一太郎」になにか大きな故障の原因があるのだろうか。判らない。

* 「もういいかい」という呼び声が頻りに高い所から聞こえる。
「まあだだよ」と小声で答えているが。
2022 8/1

* 夜中 手洗いに起った以外何も覚えず 六時半頃「アコ」に顔を刷りよせて起こされた。
昨日の連絡ではやっと「湖の本 159」の原稿を確認してくれたよう。出校を俟ちながら「湖の本 160」も一気に入稿し、手前を寛げひろげたい。第一目標は仕掛かり進行している創作の到達。

* 父母を倶にした実兄「北澤恒彦」でありながら、一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も私には欠けている。同様に一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も欠けている「母」を書き「父」を書いたので、「兄」のこともと思うが、なまじいに同じ世代を似た世間へ名も顔も文章も出して「生き」てきただけに、しかも兄の生涯にたった二度三度しか逢って言葉を交わしたことが無い。兄の著書は尾張の鳶さんの好意と配慮とで、甥の「恒」の編著二冊をふくめて、やっと四種四冊手に入っているが、内容で、「兄弟の触れ合う記載」のありそうな箇所は希有というしかない。ただ、初めて顔を合わす以前にも数通手紙を貰った記憶があり、出逢って以降「兄の自死」までの短期間には、書簡そしてメール往来の記録が、やはり数多く歯無いが幸い残っている。「書く」程のほどの何があり得ようか、識っているのはいわば接点の無い「風聞」なのである。兄の自死後の「想い出を語り合う」らしき会への呼びかけにも私は応じなかった。「なあんにも識らないで」離ればなれに生きてきた兄の、大勢の「他者」の口から聴かされる「想い出」にはとても私は耐え得ると思わなかった。「識らなかった」ことを人の口からでも識りたいか、「ノー」であった。そんなわたくしを「水くさい人」と謗る「甥・姪」を含めて大勢のあったらしいが、「私」の悲痛には無縁のものの心ない軽率の罵声にすぎない。
で、どうするか。私が手持ちの、抑も戸籍謄本にはじまる「内容ある」資料を手もとへ揃えること。すでに妻は兄の晩年の書簡を「清書」朱修してくれているが、兄恒彦の自認の「悪筆」は、これはもう、もの凄いのであるよ。兄が、パソコンに触りはじめ、初牛久メールを暮れ始めたのは、あれは自死以前の半年餘もあったろうか。あの年の六月に江藤淳が衝撃の自死を遂げ、半年後にきた澤恒彦もまた自死して逝った。「湖の本 20 死から死へ」はその慟哭の時機を記録している。「一九九九 平成十一年 七月二十二日」闇に言い置く・私語の刻は、「江藤淳氏自殺の報で夜が明けた」と書き起こしている。そして十一月二十三日 早朝 兄のこと として「兄北澤恒彦が死んだという」と書き起こしている。二十四年の昔ばなしと成っている。
さ。書けるかなあ、そんな「兄」を。毀誉にも褒貶にもモノがない、私の手に。
2022 8/3

*「恒彦」の関連本など、 尾張の鳶の親切で手に出来た、感謝。
この「兄」のこと、しかし、私には「理解が届くまい」かと思う。似た、感じがしない。懐かしがるほどの「つきあい」がなかったし、「理解の手づる」がみつけにくい。やってきたことが「互いに違いすぎる」のか。
書いたものを読んでも、文体もそうだけど、呼吸づかいがちがう。私に気をつかい気を配ってくれていたとよくわかっているけれど、呼吸している「世界」がちがう。「感覚」もちがう。知的に理解するのは不可能で無いが、いわば「女文化」の花がまったくこの兄には咲いていない。だから「懐かしさ」が湧いてこない。生母にも実父にも感じ得た「一体感」が湧いてこない。寂しい情緒でなく、淋しい無縁を覚えているのでは、と我が身を抓っている。
2022 8/6

〇 昨日メールを戴いていました。
煩雑な原稿処理など、その幾らかはわたしにも分かりますが、「今しがた、通過できました。」とあり、直後にメールを書いてくださっている・・。感謝。
もういいかいとしきりに呼ばれている気が・・そして「まあだだよ」とこれまでにも何度かメールに書かれているのを、わたしは間違った解釈こそしないものの、やはり言及してきませんでした。まあだだよと言い返せるうちはまだ大丈夫。鴉にはまだまだ残されているお仕事があるのです。わたしも言います「まあだだよ」

北沢氏に関して、鴉は全く理解が届くまいと感じ当惑されている。世界が違う、感覚も違う、女文化の欠如、懐かしさがわかない・・
北沢氏の本、わたしは全く読んでいないので、彼に関して述べようがないのですが・・。
(京都)大学で部落研に入り「挫折」した自分の経験から言えることは、筋金入りの活動家の人とどんなに話しても理解し合えなかったということです。
一番大事なことは階級の打破、経済的な問題の解決。宗教はアヘン。社会主義国の現状にある問題や矛盾は資本主義社会の悪影響によるもの、理想社会に至るプロセスに過ぎないと、中国の農業政策の失敗による飢饉餓死、ソ連のスターリンの粛清恐怖政治などには目を瞑り、際限なく彼らは「力説」しました。更に組織とか政党の中での個人の在り方など。いずれにも絶望的な「隔たり」を感じました。
北沢氏は高校生の時、既に確信に満ちた活動家で裁判にかけられた、彼にはその時点で他者の眼からも自分自身としても「立ち位置」が定まってしまったのだと思います。どんなに矛盾や困難を抱えても彼は責任感や義務感、そして身近にある人々との連帯感(活動から離れた場合には諸刃の剣になって強かに打撃を与えるものですが)の枠内で呼吸していたのかもしれません。連帯感や同志愛は孤独と背中合わせです。
生涯の長きに亘って一すじの道を歩んできたと自負できると同時に、プライベートでは孤独だったのでしょうか。彼にとっての家族・・。
自殺した知人、その人たちにとって家族は どんな意味をもっていたのか、理解できない場合も多いです。自殺という行為のその瞬間に何を感じ思っていたのか、死ぬ勇気? エネルギー? わたしにはあるでしょうか?

途中でごめんなさい、今はここでストップ 勝手なことをとりとめなく書いたかもしれません、
保谷の鴉  くれぐれも くれぐれも お身体大切に大切に 元気で   尾張の鳶

* 正直に言い切るが、私「やそろく」人生に、「鳶」さんの用いたような「批評」「言句」はゼロであった。こういうふうに批評できる心地・心事・言語を知らなかった。謂われている「活動者」ふうの誰一人とも事実出逢わず、識りもしなかった、例えば鶴見俊輔さんのような文筆の大先輩や、かつての労組での執行委員のような人達の他には。まっささきに想うべきは私自身が 甚だしい「現代のハンパもの」「我れ勝手な孤立者」であったのだ。

* どうだろう、生母や実父を「書いた」と同じ感触で、兄の生きて生活・活動していた「埒の外」からの視線と感想とで「私の兄」を書き綴っては。いま、そう思いついている。
2022 8/7

* 「女文化」と無縁かのように兄「恒彦」を謂うていたが、概して謂えば間違いなく和歌にも物語にも絵巻にも歌舞伎にも寺社や風物や茶や花に遠い人であったけれど、明らかに一つ例外がある、京舞の井上流、それも今の三世井上「八千代さん」への、執着に近い熱情が履歴に記録されている。これには、実はびっくりした。来歴は知らない。八千代さんはいわぎ私には同じ新門前通りの「仲」と「西」の御近所同士で在り、同窓の後輩であり、親しい専攻先輩の妹であり、現に私「読者」の一人で在り、実は今日明日にもお宅へ届くであろう小堀遠州子孫の筆になる閑雅な「雪」「月」「花」歌軸三幅を進呈したばかり。とくべつの意味も無い、戴いた厚志へのお礼というよりも、床の間というものの無いわが家には掛けたくても掛けられない長軸なので、井上さんん家なら床の間は在る在ると、まあ持ち場所を替えさせて貰ったという気軽さ。お宅へ出向いて舞の稽古を眺めたり、公演があると遠路を出向いたり等はしたことはない。それを、だが兄恒彦は「していた」のである、コレには驚いた。舞の美妙や微妙のわかる生地のないあにに相違なく、おんなぶんかであるよりも女性で在る「井上八千代」にともあれ執心した時期があった、という事可。恒彦は、高校生で恋を知っていこう、履歴にも、風聞にも何人かの「女」に意を示していたのが読み取れる。八千代さんか、あの北澤と近所やった「秦ハン」とが実の兄弟と今は知っているかどうか、あるいは知ってビックリするのかも知れない。「ものがたり」になりそう。
2022 8/8

* 気を入れて読み返していった新創作の半ばまで,展開も表現にも、ほぼ納得できた。
2022 8/10

* 能面にぜひ観たいものがある。せめて写真が欲しい。国立能楽堂へ行けば或いはと思うが、外出の習慣が枯渇していて、体力にも不安があり躊躇って仕舞う。しかし近いうちにせめてどなたか仕手方の方ににお願いしてでも写真が見たいが。

* 書き進んでいる、というより停頓中の作に、夜中の思案で「題」を得た。佳いと思う。
2022 8/12

* 祇園花街と三条裏とに南北を挟まれた、浄土宗總本山知恩院前に「新」「古」二筋の「門前通」、その新門前通りは、北を白川の清流に画され川向こうの古門前通りと隔てられていた。新門前通りはおおよそ東大路から西へは外国からの旅行客相手の和漢の美術骨董商のショウ・ウインドウがならび、西の縄手筋から東向きには静かな和風の家が並んで、京観世・井上流京舞の家元や、超級の仕出し料理で聞こえた「菱岩」などがある。懐かしい佳い「花屋」もある。わが「ハタラジオ店」は、そんな新門前通りの中程に店を開けていた。すぐ東お隣に京都植物園長の、また清水焼六兵衛家の奥まって静かな門屋敷や露地や土蔵が並び、北の古門前通りへ抜けた脇道には、白川を渡して今では名の聞こえた「狸橋」が、幼時私らの遊び場・集い場であった。橋した白川の流れから、時に長い蛇があがってきて仰天もした。白い飾り石の橋桁に凭れ込み、川波の流れにじいっと見入るのが私の夢見時であった。有難かった。生みの母一人にか、実の父一人にか、所定まらずうす暗く貧しく育てられるより遙かに遙かに、結果私は新門前でとても幸せであった。

* 京都大学に間近い吉田辺の「お米屋」北澤家へ貰われた実兄恒彦は、どうだったのだろう。気の毒に、結果、不運であった。養母は亡くなり、実母にはまとわりつかれ、戦後の学生闘争にいちはな立って爆走した京大生たちに「高校生」の内に身近に感化され、火炎瓶を投げ、追われ、牢に入り、前科として判決され、それはそれとして兄恒彦の「身にも力にもなった部分」もあろうが、闊達なごく当たり前に普通の大人には、あたかも成り損じ、自身に「市民」「社会」「家」といった丈高い表札を建てて、才能ある三子を得ながら、妻とは離別し、自らは「市民活動家」という自負からいろんな世間を右往し左往した心の瘠せや疲労の蓄積か、何かしら不満足や重い負担や所労があってか、死病の養父の枕元で首を吊り壮年にして自死したとは、長男が克明に記録した「履歴」に明記されてある。妻子は誰も最期のその場近くに居なかった。
視野の確かな、思想や思索を重んじて、一見豪快に「身働き」の効く活躍の知識人には相違なかった、が、思いの外に健全健常な「生きる喜び」に支えられないまま、結果「斃死」に等しい自死へと墜ちた。
アトを追うようにして、次男「猛」また、異国ウイーンで「いたましい」と人の伝える自死を遂げた。ほがらかに、無邪気な、ラグビー好き、大学までにもうドイツ語自在で外務省がやとったという、心優しい可愛い甥っ子だったのに。

* 兄の、わが子等への命名に、私ならしない或る風があった。長男にはあのフクザツに人生を追った実父の名とまったく同じ「恒」一字を与えている。次男の名にあのの「梅原猛」氏の「猛」をもらったと、兄の口から一度ならず聞いた。娘「街子」にはどちらが先であったか、「きみの小説『畜生塚』の町子と通い合うたよ」と父親は私に微笑していた。
何れも、私ならしないことだ、私は久しく実父「恒」をいとわしく見棄てていたし、梅原「猛」さんにそんな敬愛は感じてなかった。梅原猛と北澤恒彦と。私にはよく見えない景色であった。自分たちの子供の名は、親が愛しく新しく名づけてやりたかった、姉は朝日子と、弟は建日子と。ちょっとかわってるねえ私は兄の「子に名付け」のセンスが妙に訝しかった。

* 私は、いま、しかと心する。,此の自死に墜ちた兄や甥の足跡を決して追わない、踏みたくない、と。
私は、はっきりと、京・東山新門前通りの「秦」家が、「ハタラジオ店」が堅固に持して愉しんでいたと思われる「文化と生活」をこそ受け容れ、健常に生きたい。
大量・厖大な和漢の書籍・事典・辞典を秦の祖父鶴吉は孫の私に譲り伝えた。やわい読み物など一冊もなかった。
父長治郎は、女向きのの「錺職」から、一転、日本で初、「第一回ラジオ技術検定試験」に合格し、当時としては最先頭にハイカラな「ラジオ店」を持ち、電気工事技術も身につけ、戦前戦中をむしろ世の先頭で技術者として生き、戦後は、真っ先にテレビジョンで店先を人の山にし、電気掃除機も電気洗濯機も真っ先に商った。しかも観世流の「謡」を美しく私に聴かせ、時に教え、囲碁や麻雀も教えてくれた。一時の浮気や金貸しで母とも揉めたりしたが、私に此の今も暮らす家屋に費用の援助もしてくれた。九十過ぎて、その東京の家で、吾々の看取る前で静かに亡くなった。二軒ならびの西ノ家には今も「秦長治郎」の陶磁の表札が遺してある。
同居の叔母ツルは、若くから九十過ぎて東京で亡くなるまで、裏千家茶の湯、遠州流生け花の師匠として多勢の女社中を育て、少年以來の私のために花やいだ環境や親和親交を恵んでくれた。文字どおりのまさに「女文化」を目に観、耳に聴かせてくれた。.
母のタカは、私を連れて独り丹波の奥に戦時疎開生活をしてくれ、私の怪我や病気にも機転の対応で二度、三度大事から救ってくれた。今思えば家事万端に私の妻よりずっと種々に長けていた。弱げでいながら、夫や小姑よりもなお健康に、百に届きそうなほど永生きし、吾々の看取る前で亡くなった。
秦家には「死の誘い」を感じていたような大人は一人も居ず、居たと想われず、それぞれ亡くなる日まで「当たり前」のように頑強に死ぜんんに自身を生きていた。父も母も叔母も、少年の私の目の前で「組討つ」ように躰ごとの大喧嘩をしたこともある、が、誰も、一言も「死ぬ」などと口走ったことは無かった。

* 北澤の兄の書いた、また北澤の兄に触れた都合四冊の本を、私は堅くものの下へ封じた。私は秦の「恒平」であると。敢えて感傷のママに「読む必要は無い」と思い切るのである、少なくも「令和四年真夏」の現在、只今。
2022 8/12

* 相変わらず、いま書き置いた筈の記述がつぎに開くと機械から消え失せている、とは。何かを、この私が間違えているか操作を知らずに居るか、ですかねえ。

* 晩の八時半。
ねむるべくいきてゐるらしねつづけてさめてあえなしゆめもみざりき

* 『なまなり 左道變』 終盤へ強いジャンプをと願う。
2022 8/13

* 韓国の時代劇『花郎』は『い・さん』『とん・い』『馬醫』にくらべると散漫としている。その点、珍しいまで『鎌倉殿の13人』の運びは、予備知識があるだけに、なかなかに魅せて呉れている。小栗旬演じる小四郎北条義時の成長傳とトも見られる事の運び。迫力が出てきている。すでに、往年の義経はじめ梶原や比企がもう討たれている。これからますます彼は鎌倉「北条」時代の確保のために同じ御家人、仲間であった板東武者らを死なせて行くだろう。
この時代には、『中世と中世人』このかた関わり続けてきた。「歴史」の湧く時代へ進んで行く。
もう一方では私自身が書き進めている妖しく怪しい「歴史」ともしかと付き合わねば。
2022 8/17

* 「湖の本 159」初校が、やっと出た。取り組んで、気を励ましている。いきおい、続く「160」へも鞭を入れて行く。

* もう、幸か不幸か国内外の政治動向に、関心はあっても、それへ「もの申す」前に残年をはかりながら、して置きたい、し残している、ことに「思い」を向けたい。所詮人とももう会いも出逢いもしまい。私自身へ帰って行く道のりを推し測りなが、出来ることをしておきたい。話しかけてくれる人とは機嫌良く話し、しかし、もう私から話しかけることは無くなって行くと思う。
今度の「湖の本」巻頭には「花筺」を置いた。気散じに摘み置いたあえかな花、草花たちを筺に入れたまで、そんなは無数にりそう。もうおしゃべりの元気は遺っていない、ひとりごとのように「花筺」に、たとえ花びらに過ぎずとも拾い摘って上げようと思う。

* 日々十数種の本を読んでいて、しかもそれをさの灯しめくくれるのが、結局『源氏物語』だというには、驚く。「末摘花」まきのようにワキの巻を読んでいてさえ、そうなのである。
2022 8/19

〇  つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ

* 走り書きや思い付きのママ書き捨てたまま、散った花びらのようなものが、機械のあちこちで埋もれて在る。無数にある。なにとはなく「花筺 はなかたみ」に投げ入れておいてやろうと。
私の場合、「書く」とは「描いておいて化ける」のであろう。「花」とは、なにかの化けた証しなのではないか。「私語」とすこしちがう。いや、全然ちがう気がする。秦恒平を騙った魑魅魍魎のつぶやきに近いか。
2022 8/20

* 一巻分の「初校」という用事が加わったので、今日は寝入りもせず、仕事を右に左に、少しでもカタをつけていた。右顧も左眄もならない、すべきをし続けるだけ。テレビも見ていない。

* 記憶を徐々に喪失して行くらしい気配を覚える、今日は。用意在るべし。
2022 8/20

* 夢は見なかったが、気づいた不審を、調べる手立て無いまま考えていた。私の生まれは1935年師走も余す十日しか無い歳末。兄北澤恒彦の出生は、長男恒作成の恒彦履歴で確認できるように前年1934年4月下旬、当然に懐妊はさらに前年初秋へも遡る。父と母とは,私が生まれて歳越えの早い時期に生木を裂くように父方の手で引き離されている。数えれば、それより以前じつに二年数ヶ月も以前から、父と母とは若い学生と一女三男をもう産んでいた寡婦とに「性の関わり」が出来ていたことになり、それは近江能登川の旧家である母方親族からも、南山城の旧家である父方親族からも好ましいことでなかった。父方がそれと知って、嗣子でもある長男の奪還と幼兄弟を戸籍から「峻拒」の対策を強硬に嵩じたのは、昭和十一年1936年早々であった。それにしても、様子に気づくのにそんなにも永く気疎かったのか、高みの見物めくが驚いている。恒彦誕生から恒平のそれへほぼ20ヶ月も「無事!!」に我らが両親は京都の西院辺に隠れ住めていたとは、経済も生活者としても、いささかならず想像し難いナ、と、夢うつつに想いまわしていた。
何の役にももう立たないが。ま、私なりに両親の墓標は立てたよと、もう、この辺で、私ももう今年冬至には「やそしち」歳の爺になる、永く握った掌を開いてやろうと思う。
2022 8/22

* 夕食後 十九歳高橋貞樹の力編『被差別部落一千年史』岩波文庫を読み、『参考源平盛衰記』で嫡子重盛が父清盛をコンコン諫めることばに聴き入り、暑気の加わるのを感じて冷房を増しておいて寝入った。これが日々の疲労を凌ぐのに一等愉しくもラクな方途と思う。
創作の頁を充たせば「湖の本 160」入稿出来る。
2022 8/27

* この機械クンの収容負担を軽くしてあげたいと思うのだが、なんだか逆に逆になっているのかも。自分でも何をしているのやらと戸惑う。

* 「私語の刻」覧のホームペー化を意図したのを、やめようと思う。現状なら私的なール等の往来も操作の試みや着想なども書き込んでおける。公開の必要は無いのだ、斷辰は『湖の本』で、時点こそ後日にズレルが、必要の場合は個別にメールで送るので足りよう。今のままなら、なに憚り無くその時々に思ったまま考えたままをみな書きとめておくのに遠慮が無い。

〇 **様  昨夜はご足労かけました。ホームページつくりは、断念し、現状の範囲で「執筆」「通信」等をつづけるだけで、もう晩年、「可し」と心決しました。
ぜんぶ ご放念 お忘れ下さい。  秦生
2022 9/1

* ごく基本一般と思しき操作や手順和を忘れている。気に掛けないで出来ることをしてそれを喜び楽しめば宜しい。仕事のハカなどを求めず、ゆくりと間違いを警戒し防いでること。
2022 9/1

* 午前中に届くと連絡のあった「湖 159」再校出分が午後二時過ぎても届かない。前例の無いことで案じている。
2022 9/2

* 「湖 159」 再校ゲラ届く。責了、刊行そして発送。入稿のもう済んでいる「湖 160」の初校出も追ってくる。忙しい秋になる。体力、気力。暮れの冬至には、「やそろく」爺が「やそしち」翁に成る。やれやれ、油断成るまいぞ。
2022 9/2

* 日々「私語の刻」の外への電送を断念、というより自身に対しても中止した、ということは、もう私からは強いて外界への折衝や伝達・電送はやめたということ。『湖の本』刊行が続くあいだは、時期がすこし遅れてずれるけれども、きちんと手の入った「私語」「日録」は読者には従來のままお届けできる。メールというのも、戴いた方には有難く喜んでお返事するが、私から不断に送り届けることも、ま、控え控え過ごすように成って行くだろう。「やそろく」「やそしち」「やそはち」 まあそんなにも行くまいよ思っている。からださえ動くなら、お金を使ってでもこれまで慎しんできた娯しみ楽しみが味わえるといいのだか、こうよろよろとしててはお笑い草も生えまいよ。
2022 9/2

〇 出版社から、「修正箇所が全体的、かつ多くあり、六校を出して確認する必要があると考えます。」と連絡がありました。
九月下旬からの後期が始まる前に帰省が出来ればとも思っておりましたが、もう一頑張りいたします。
今日は、少し涼しかったですね。
やそろく様、例年になく厳しかった夏の疲れが出ませんように。 澤

* 有難う。
この短文に「が」という濁音が六ヶ所も。
文章の印象を「雑に汚く」するのは、こういう「濁音」の「無神経な多用」 すこし心すれば避けうること。
川端先生の研究家なら、たとえメールにしても、自身の文も清明に美しくと常に心していて欲しいナ。
一流の批評・研究者は一流の文章を読ませましたよ。 やそろく翁

* 私自身及ばぬことながら、この「私語の刻」では「推敲」を考慮していると、いつか書いている。推敲もまこと勉強のうち、此処に書き放した雑文も「湖の本」へ移すときは気を入れて手直しているつもり。
2022 9/3

* 疲れました、ほとほと。しか前進したので、いよいよ次の発送という力仕事の用意にも取り組まねば、そして創作の二、三も、じりじりと。今日は早起きだった、午前を永く使って、とても早じまいとは行かぬが、午睡時間が取れるようにと気遣っている。「読書」は楽しみでり、且つアタマの体操の意味合いも。せいぜい映画も観るように。佳いこと好いこと、楽しむことは「クスリ」と。
2022 9/4

* 辛うじて、「湖 159」再校分 前半の末尾に25行の短文を組み入れてと、メールした。メールが届くのかも、なにやら危なしく手、不安です。が、ともあれ、昨日来の苦心の結果。届いて欲しい。

* 疲れました、ほとほと。しか前進したので、いよいよ次の発送という力仕事の用意にも取り組まねば、そして創作の二、三も、じりじりと。今日は早起きだった、午前を永く使って、とても早じまいとは行かぬが、午睡時間が取れるようにと気遣っている。「読書」は楽しみでり、且つアタマの体操の意味合いも。せいぜい映画も観るように。佳いこと好いこと、楽しむことは「クスリ」と。
2022 9/4

* 一日中 雨音の間断する天気だが。仕事は、あれこれと捗っていて、明日にも一゜いじぶんの追加初校分が届けば、「湖の本 159」の責了は目前、へ、そして刊行・発送へ進む見通し。「160」の入稿へも、今分大きな支障は見当たってない、巻頭への創作原稿を「ハキと用意」出来れば、即、進む。その先へは急ぐこと無く、創作へしかと落ち着いて振り向きたい。

* あす、一頁分追加の校正刷りが届いて、問題なければ、「湖の本 159」責了に出来る。
疲れ果てているが、たゆみ無く今日も仕事を進め続けてきた。七時半をまわったところ。もう今晩は本を読んで寝てしまおうか。なにか、テレビにいい映画があるか。ねめに越したことは無いか.読むならば『悪霊』が呼んでいる。なに躊躇いなく惹かれて行く。「源氏物語」はことに惹かれる若紫がめでたい『紅葉賀』の巻に色好みの老典侍が登場する。小説「ある雲隠れ考」を書いた昔が懐かしい。『参考源平盛衰記』は哀れ鹿ヶ谷の謀議で清盛に憎まれた大納言成親が死出の旅路とも気づかず配所へ追いやられて行く。
2022 9/7

* 「湖の本 159 花筺 魚潜在淵」 午前に、責了。
2022 9/8

* 逼ってくる「湖の本」新刊発送の、封筒に贈呈印と住所印とを捺し続けている、これが存外の力仕事。次は、謹呈・贈呈さきの宛名を貼り付けねば。其処まで為遂げておかねば発送作業がモタモタする。が、ハテ。もう何回この先繰り返せるだろう。少なくも、ホームページを堅固に作り立てて、そこから「作」「私語」が発進出来る手立てをしておかないと、ただの「私用・私語」に留まってしまう。以前の、消え失せているホームページの回復が成らないモノか、とても私の手に負えないが。
2022 9/10

* 仲秋の名月の今日(=昨日)一年ぶりに帰省いたしました。
曇り空で満月の見えないのは残念ですけれど。
秋の虫が鳴きしきってます。
再来週から、後期の授業。
(博士単著の=)念々校は来週初め こちらに届く予定、来月の刊行を目指します。
もうしばらく、お待ちくださいませ。夏のお疲れも早く取れますように。  澤

* 仲秋の名月の今日(=昨日)一年ぶりに帰省いたしました。
曇り空で満月の見えないのは残念ですけれど。
秋の虫が鳴きしきってます。
再来週から、後期の授業。
(博士単著の=)念々校は来週初め こちらに届く予定、来月の刊行を目指します。
もうしばらく、お待ちくださいませ。夏のお疲れも早く取れますように。  澤

* 初の著書。「念々校」という気の入れ方、わかる。よく、わかる。
私は、堅い出版社で、十五年半も永く編集製作者として 医学研究書を、人も驚くほど数多く仕上げてきた。本を創る手順も技術も十分持っていたから、出版社と付き合うより以前から、自身の著作を私家版本に創るのに、何の躊躇いもなかった、お金はかかったけれど。新進の一作家として筑摩書房からの初の小説集、初の評論集を相次いで出すまでに、私、私家版本を少なくも四冊創っていた、その一冊『齋王譜』が円地文子らにより新潮社へもたらされ、次の『清経入水』表題作が小林秀雄や中村光夫の推薦で筑摩書房の第五回太宰治文学賞に推されていて、受賞の知らせが突として一九六九桜桃忌の晩にわが家へ電報でもたらされた。留守居の妻は驚いた。私は会社の労使紛争で、一管理職として社に居残っていた。賞に応募していたたわけで無く、そんな賞の存在すら私は知らなかった。
そして、やがて筑摩書房から初の小説集『秘色』、初の評論集『花と風』が出版された、一気に大勢の先輩諸氏とのお付き合いが出来た。瀧井孝作、永井龍男は小説『廬山』をいち早く芥川賞候補に推して下さった。
太宰賞から半世紀の余も過ぎてきた。私は浩瀚の『撰集三十三巻』を創り、「秦恒平・湖の本」刊行は百六十巻を目前にしている。

* 瀧井孝作先生も、荻原井泉水先生も、「起一生二」と私のために書いて下さった。  一、起こせば、二、生まれる、と。
「澤」さん、入念の「起一」を祝し「生二」を期待する。
2022 9/11

* やや高めに画面の大きめの機械、一段下に、機械と繋げてない横長のキイボード。これの向こうにやや上段に凭れて二枚の絵はがきが立っている、左に、2020日展に杉本吉二郎が出した彩色「ろーじの風」が京の川ひがし、祇園町も北側街に覗き見かける「ろーじ」の風情で風の動くさまもさながら克明の筆遣い。半開きの扉そとに藍染めに白い〇が風にそよぐ暖簾の様も、部分的に赤のきいたちいさな子供乗り自転車も、さりけなく奥のみぎへ逸れて行く「ろーじ」の息づかいも、左右の塀も奥の屋根瓦も敷石の路も、すこしもうるさくなく克明に描かれてあって、つい今し方自分も通ってきた抜けロージのように実感される。
もう一枚はわが友の洋画家池田良則クンの手になって独特濃淡の墨が美しい、これもやや奥深い「ろーじ」の覗けるいりくち、の繪、京都では珍しくない造り独特の入り口が描いてある。わたくしなどひとしお見慣れ遊び慣れていた瓦屋根天井の「ろーじ」入り口が懐かしくも描いてある。
こういう「ろーじ」入り口は、雨降りの日も子どもらのかたまって、めんこでも、おはじきでも出来て遊べる安全に嬉しい世界であった。屋根天井のその上は左右へ渡った民家の二階になっている。屋
入り口屋根の下、「ろーじ」の軒には奥何軒かの住人の表札が並び架けてあって、ズーンと「のぞきこめる」ろじ奥は青天井、左右に奥にまた奥にまで小家が建ち並んで、もし「抜けろーじ」でもあるならもっと家は多く存外に陰気ではない。

* こんな京の「ろーじ」二枚の絵葉書の間は、むかしもむかし、まだ建日子記せいぜい中学生、姉の朝日子は院へも進んでいた頃か、そしてわれわれ両親も横並びに、にこやかに、なんとバー「ベレ」のカウターで、ままに写真に撮られているのが立ててある。わが家の親子四人の一等和やかに幸せであった頃の写真一枚。私はいつもいつも京の「ろーじの風」をなつかしみながら、家族の幸せを想い想い、手したのキイを叩いては文章を書き私語の刻を重ねている。誰にも干渉されない、私の「場所」である。
2022 9/14

〇 秦 兄
兄からの8月27日付メールを受信後に メール専用パソコンが不具合になり失礼してしまいました。
しばらくのご無沙汰で、ご心配を掛けていますが、私も齢相応に生きていますのでご休心ください。齢相応とは言っても 比較する友は急激に少なくなり、年に一度の賀状も今年限りで失礼します、や メールの返信も途絶え勝ちになってきています。
道楽の音楽の会もマスク着用は呼吸困難のために 外出は控えて自室でBGMを聴きながら読書三昧の日々です。ジャンルは法哲学や分子生物学など、若い頃から親しんだものが中心で、今はラートブルフ著作集全11巻の法哲学を尾高・碧海の訳で読んでいます。
並行してコロナ禍に対する政府の対応に業を煮やしてメールに添付したような本を書き始めました。分子生物学の両巨星によるメガビタミン論を展開紹介したものですが、弥栄中の佐々木葉子先生や日吉ヶ丘高の福島武兵(=三尺=あだ名)先生が知ったら、どんな顔をするでしょう。三尺先生はまだ存命だろうか・・・・
福盛君は腎臓を病んで透析を受けはじめて、だいぶ経ちます。
9月19日はエリザベス女王陛下の国葬日ですが、同居の長女と私の誕生日でもあり、女房に何か祝膳料理をつくってもらって祝杯を挙げることにします。あと何度誕生日が迎えられるか。呼吸器官がアキレス腱の私の場合は、誤嚥性肺炎にさえ留意すれば百歳までは自信があるのですが、その意味からも人体の神秘について勉強のし直しです。十代の後半から二十代の後半までの10年間、人体のメカニズムほど精巧で神秘的なものはないということを痛感しました。
メールの交換で 互いの安否を確認しながら、残された日々を愉しく有益に生きましょう。  京 洛北  森下辰男

* 心嬉しく、大いに励まされる。お元気でと祈る。  私からは、どう送っていたか。

◎ 森下兄
私は、かつての86キロを55キロに減らし、食欲無く、蟄居を強いられたまま、ただただ「読み・書き・読書と創作」の日々で居ります。一種の逃避に他なりませんが、人間の「歴史」は、東西に宏大で、惜しみなく迎え入れてくれます。退屈と謂うことがなく、ただ、現代現実に背いている自覚に時に苦痛を感じます。
幸い、読者というかけがえ無い友人たちが、生涯のどの世代にも、学校時代にも、東京で作家生活を始めてからも、大勢有って、メールでの交流繁くとまで謂えませんが、有難く励まされます。とはいえ、同世代となると、殆どが老境に隠棲されています。オドロキ嘆くほどもはや故人多く。寂しいことです。
籠居逼塞の日々で私はひとり「私語の刻」を大事に培い続け、「生ける言葉」を見失わないように努めています。「私語の刻」こそ老境には妙薬です。
森下兄 お元気で。 昔話、また昔の友達の消息や現住所など教えて下さい。横井ちえこさんの引っ越し先を見失っています。福盛勉君は健常でしょうか。寮や園へ入られている方も増えているでしょうね。及ばずながら励ましたいと願います。
秋の足ははやく、やがて、冷え冷えとしてきましょう。この冬至にはわたしも「やそしち」爺になります。思えば永く生きてきました。
お元気にお大事に。 音楽はいつも楽しんでいます。    秦 恒平

* 読み返してみると数カ所の余も、熟語の同音異記、誤変換が混じっていた。これをしばしば遣っていることと思う。耄碌の内である。

◎ 何を していると思いますか  何もしていません  これは かなりキツイことです  何をしていますか

〇 ワクチンの副反応が続いています。普通にくらしております。

〇 夏ものを片付け始めています しはらくテレビをみていて、英国と日本の「国葬」の差を 孫と「評論」しあっていました。今、こちら、強い雨です。

* タイプの違いが見て取れる。抽象へ結ぶ 返辞。 現状を数える 返辞。「人」を書き分ける参考に。
2022 9/15

* 脚痛 ゆるんで欲しい。痛みを堪えて素直な言葉を生むのは容易でない。終始、眠気が兆している。寝れるなら今のうちに眠りたいが。もうやがて、「湖の本 160」初校が来るか、「湖の本 159」がで基本で納品されよう、すると送本という力仕事になる。乗り切るのは相当苦痛になろう。わが働き盛りは今も私の背を押しているが。
2022 9/20

* さらに「老耄」の証し、昨日出てきた「湖の本 160」初校ゲラの主要部と全く同じ内容を現に次の「湖の本 161」入稿する気で、原稿読みと整理とを続けていたことが判明、曾て無い信じがたい「錯誤」。途中ながら、発見できて好かった。ヒヤッとする。「年貢のおさめ時」なのかなあ。
2022 9/22

* 不快な痛みが広がらないようにと願っている。なんとか、近所を歩いてみたい。寝たきりになるのは困る。

* 当面の用意は。
① 「湖の本 160」の  あとがき 表紙 後付け の 入稿と全紙「要再校」の戻し  ② 「湖の本 161」 入稿手順の認識と用意と  ③ 継続那珂の「創作」各種の前進
2022 9/27

* 十月四日に次の「湖の本 160」納品と知らせがあった。それまでに済ませておく手順と用意とを 明日にも確認し片付けておきたい。
2022 9/29

* 体違和、異様に負担。器具に問題が測ってみた血糖値が「286」「260」とかつてない数値、おそらくは器具の電池きれであつたろ、が、右脚、右腕の発疹痛みは増していて、しかも空腹感。
仕方なく昼前には、巻物の寿司飯を注文し少し食してみた。頭痛とか動悸とか腹痛等の違和はなく、ただ疲労感のまま、卓越の戰争映画、グレゴリー・ペック、アンソニイ・クイン、レスリー・シャロンらの『ナバロンの要塞』、一分一厘のたるみ・ゆるみもない映像の緊迫を楽しんで、あと寝入っていたかが、四肢ことに右半身の不快にめざめたが、血糖値は「107」と危険区域は脱していた。推量までのことだが、わたしは、右脚、右腕を中原の帯状疱疹も疑っている、が、通例見聞のそれに比べては「痛い」感はすくなく「痒い」感が局部的に強い。医師の診断をもとめに病院へ通う体力も気力もなくて堪えて居。堪えながらこんな記録も出来ている。これよりの悪化の進まないのをねがうばかり。きょうで、長月尽、十月四日からは「発送」になる、そのまえに『湖 159』の「要再校」戻し 「表紙・あとづけ、あとがき」入稿を 終えておきたいが。すると気はすこし軽くなるが。体違和が異様に悪化しないことを願うのみ。集中の気力が衰えてしまいませんように。

* 湖の本 160「表紙」「あとづけ」入稿分用意した。今回は「あとがき」一頁分だけ。今夜うちにも書いてしまう気。
思い切って晩の食事前後に入浴してみるか。いま、六時。

* 風邪こそ引かなかったが、入浴でまた疲れた。十一時も過ぎた。寝入ろう。
「あとがき」は 明朝の仕事。
2022 9/30

あとがき

きつい残暑だった。疲労と病いに沈み、心励ますなにも得られずまた月が革まった。

神無しといはでめざめて為すすべも忘るるままに腹すかしをり
誰がうへと想ひもなくにけふの日のやすくといはふ神無月かや

撮ったという色んな写真を、若い友らが盛んに送ってくれる。遊楽、団欒、佳景。
わたくしは、若い彼れらが、この「今」に迸る「明日」への「ことば・言葉・発言」を聴きたい。老いの野暮か。そう思い、ふと口噤めよと自身を𠮟ってしまう。「人にも理を見ようと思わなくなる時は、もう自身にも理はない」とラ・ロシュフコーは嗤うが。

止まるを知って定まるあり 定まって而るのち能く静まり、静まってのち能く安けく、安けくしてこそ能く慮り、能く慮ってこそ、能く「得る」ぞ。  大学(孔子)

斯く「現代」もありうるか。、ただ「古代」の異習に過ぎぬのか。

* 「湖の本」160 「あとがき」原稿電送入稿し、「要再校・本紙」「表紙・あとづけ」入稿原稿を宅急便で全部送り終えた。「159」刷りだし分届き、本体納品は十月四日と。ほぼ三日分をやや休憩気味に、発送心用意が出来る。これは助かる。しんどかったが、九月、めイッパイ頑張った。疲れた。

* アタマのボケ進行し、ことに数字での順番を間違える。「再校出」をまつのは「湖の本 160」 入稿の用意すべきは「161」。
よく覚えていないと原稿の行方が混乱する。
2022 10/1

* さ.今日も出来るだけの力仕事で新刊の『花筺 はなかたみ 魚潜在淵』を送り出し続けよう。総題の美しいせいか、なにとなく愛着の一冊。
2022 10/5

〇 「湖の本」159をいただきました。ありがとうございます。
秦さんの「体が衰えても意気軒昂」の姿が目に浮かびました。読み終わって中扉を眺めて紅葉狩りの気分のまま、果ては裏茶屋の落ち葉敷く飛石の上を歩く自分がいました。「花筐」のそれぞれの命が色のタペストリーのように甦って息づいていました。外出困難の折から眼福を堪能させていだきました。
「逢ふみのうみ」では、越前から擁されてきた男大迹王(おおど)の音が神世七代の中第五代の「意富斗能地神」(おほとのぢ)を思い出させ、越前出身の野路(のぢ)と結びつく幻想に誘われました。
全編は「まるでフーガの技法で配列」されたかのような高揚と余韻の連続で 今までにない不思議な読後感でした。
秦さんのご勉強、ご努力が私の励みにもなっています。どうぞ更なるご健筆を楽しみにいたしております。  野路

* 今回「湖の本 159 花筺 魚潜在淵」の前半は、よほど凝って創っていて、ダイジョブかな、通るかなと気に懸けていた。並木さんや野路さんほどの読み手に、ま、認めて貰えたらしく、ほっと息をついた。女の気持ちで女の言葉を、話し言葉や書き言葉を「創る」のは、むくつけき老耄の悪趣味かとも思うけれど、易しくはないのです。
2022 10/8

* 四時過ぎに三度目の手洗いに起ち、そのあと、床の内で夢うつつ無く「一つの発想」を揉み揉みし続けていた。創作ではない、いわば方面と時期を限った史料の記録蒐集、出来はするが、大変な労力精力と時間を要するのは知れている。しかし、私なりにもし成れば大事なモノにも成るだろうと。しかし今の私にそんな体力や精力や尽きぬ根気が残っているか、心細い。暫く苦吟、首を捻るか。

* 「湖 160再校」出。 体調宜しからず、苦痛に耐え、凌ぐしかない。目が重い。校正にも、原稿作りにも、手は止めない。十一時。
2022 10/13

* も少しと思っていたが、疲れきって根気が枯れている。今晩は階下へ降り、おりをみて早く寝てしまいたい。
とりあえず当面の課題は、①「湖の本161」の前半「メイン」に何を樹てるか。『160』が「責了」となる前に発送の前のココロヅモリや注文、そして容易に着手。むろん一に、「創作」の続行。
2022 10/13

* 書き継いでいる創作を皿へ押し出して行くべく読み返し、読み進んで、道ありと視線を先へ送った。楽しむほどに書き進みたい。
2022 10/16

* それでも、仕事は仕事、読書は読書。ただ、容易に「食べ」られない。赤間の雲丹と、尾張の鳶が京都から送ってくれた「鰊蕎麦」だけを、長い日かずかけ、ありがたく細々と食べ継いできた。俄然、次の「湖の本」の発送と入稿とが近寄ってきている。「湖の本」創刊以来じつに160巻を越えて行く。「湖の本」一巻の「質・量」ともども優に一冊一冊の「単行本」に同じい。つまり、もう目前の「八十七・やそしち」歳に手を掛けながら、昨日も、今日も、明日も秦恒平、「本」を書き続け出版し続けている、ということ。出版社からは、単著・共著あわせ、筑摩書房、新潮社、講談社、文藝春秋、平凡社、中央公論社、放送出版協会、春秋社、淡交社等々から、とうに100冊に余っている。書き殴った一冊も無い。昨今、そんな作家が、いたか。いるか。東京へ駆け出てきて就職した医学書院での編集者体験が、多彩に実を結んでくれた。
2022 10/20

* 冷え込む。暖房していて、機械の前が寒い。

* 朝早くから、今は晩の八時半、午前に二時間ほど寝入ったけれど、他はぶッつづけ「書いて」いた。書いておきたい事がむやみと利売りに湧いて出て、おいおい疲れるよとボヤキたい気分にもなるが、書ける限りは書き続けたい。「まあだだよ」
2022 10/23

* 今日も、奮励、よく書いた。
2022 10/24

* 夕方四時半をすぎている。四時に起き、午前に二時間ほど寝たが、他は機械に向かい、書き、かつ、読みっぱなしで目は霞んでいる。湧くように、「して」おきたい、「したい」「読み・書き」仕事に逼られる。疲れ切っているが、元気は、疲れををワキへよけて通ろうと。
「まあだだよ」
やれるかぎり、やる気。
2022 10/25

〇 秦さん (メール)何とかつながりそうです 井口哲郎 (前・石川近代文学館長)

* と、メール着。ヨッシャ。

◎ 朗、朗、朗報
私の此の返信が無事届きますように(迷ように と誤記)
手筆 書字が出来にくく まことに困惑し ただただ「書く」日々は機械に頼っていますが、その機械クンにも𠮟られてばかりの老耄で往生しております。
この残暑と九月は、疲弊の極、日々に 天上より「もういいかい」と呼ばれ続け 生き(息)もかすかに「まあだだよ」と猶予を願いながら、瘠せに瘠せて  最低52キロにまでなりました。まったく絶食に同じく「食べられない」のでした。十月も末になって、やっと少しずつ食せるように。
「読み・書き・読書・創作」の日々はガンコに護っています。「モウイイカイ」が催しますのか、「まあだだよ」のうちに 湧くように「書いておきたい文章」たちに襲いかかられています。纏まりも無いままにも 仕方なく 「花筺」とゴマカシ気味に長短、ハンパでも「摘み溜め」ておきます。まさしく「私語」の日々に化しているのかと。
「花かたみ」という「籠」には、さまざまな「花の切れも、草の切れも、枝葉の折れ」も入り、少年の昔、大原女たちがアタマに笊をのせ、「花や番茶ぁ 野菜」を呼び売りに訪れ来た日々を懐かしむ事が出来ます。「花かたみ」 好きな日本語の一つです。
ごめんなさい、嬉しさに舞って 我が事ばかり。
お元気でおいでか、奥様のご容態は良くなられてかと、想う日々でした、メールが 書いて戴けなくても せめて受け取って戴ければ話せるのにと嘆いていました。 これ(私の返信)が 無事に届くか、届くと判るだけで宜しく、お知らせ下さい。
疲労困憊の疲弊の などという「言葉」を、痛いほどの実感で日々に感じ書いている現実に惘れますが しぶとく「まあだだよ」と呟き続けています。
井口さん 井口さん  日々お大切にお元気でいて下さいませ。    秦 恒平

* ラブレターのようにナッテしもたか。ま、待ちかねてましたので。返信がきちんと届きますか。書き・打ち損じ イッパイ。察してご判読下さい。
2022 10/28

* 何度目かの映画『ベン・ハー』の出だしに、胸倉を掴まれている。今夜にも、觀おえようかな。曲がりなりに「161」入稿すると、「湖の本 160」三校が届くまで、ポカっと余暇が出来た、嬉しい嬉しい。映画『パリは燃えているか』も善い大作だった。
2022 10/28

〇 絶不調の九月十月でした 生きた心地しなかった 辛うじて食と体重が微かに戻ってきたかと。判りませんが 「読み・書き・読書・創作」は続けています。

前便で 鳶は なにやら「花筺 はなかたみ」のことを やもや謂うてましたが「花かたみ」とは、 鴉が少年のむかし 枚朝夕に 大原女がアタマに笊話を載せ、「花やあ 番茶ぁ」と売り歩きにきた あの笊と同意。気に入り目に付いた花や草や小枝や木の実などざっくり容れる「笊」を雅に謂うた女のモチモノです。「はこ」と打てば「筺」と出る。容れものです。雑然と気ままに気に入りを 摘んだり取ったり拾ったり容れて、中身に大小や種別の統一感は無用。その気楽さを愛した「花筺 花かたみ」です、そのように雑多に書いた文や作を投げ容れていたでしょう。 書き放したままの切れ端も拾って置いてやろうという「老境の遊び」と笑って下され。
2022 10/30

* 弥栄中學三年生のむかしの、西池先生がたもおいでで、盛大に群集しての楽しい夢をみた。学校生活として最良最高に楽しいいい時代だったなあ。三年担任の西池先生はむろん、一年の音楽小堀八重子先生、二年の英語給田みどり先生、国語の釜井春夫先生 図画・体操橋田二朗先生、理科の佐々木葉子先生、社会科の高城先生、数学の牛田先生、教頭の喜尾井先生、秦一郎先生、寺元慶二先生、
小学校でも高校でもこうは覚えていない、が、小学校の中西秀夫先生は私の作文力をしかと後押しし、卒業式では五年生送辞、六年生答辞を寄せて下さった。高校では国語科の歌人上島史朗先生により短歌人へと強力に背を押され、太平記への詳細な注釈を遂げられた碩学岡見一雄先生には源氏・枕なと古典の朗読と愛読に火を点けていただき、創作者への背をぐいと推して戴いた。三年担任の先生には、受験勉強は嫌いですというと、そかそかと即座に三年間の成績表を調べられ、これは無試験推薦に有り余るよ、推薦しようかと、ボボンと同志社へほとんど先生が即座に決めて仕舞われた。この先生は、我が家打ちの大人らの超絶不穏を聞かれたか、ふっと家に見え私話祇園円山へ誘い出して励まして下さった。今にしてしみじみ有難く思い起こされる。

「先生を慕う」とは「先生に励まされる」のと表裏の同義、そういう方との出会いがあったから永く満たされて歩いて来れたとは、決して忘れては成らない。
2022 10/31

* 「湖の本 160」 三校を、責了 本紙・表紙 全部 午後 宅急便で送った。
納品までに余裕は十分。その間に「読み・書き・読書」の外の「創作」に手が尽くせるだろう、すこし長めの作に集中している。
責了紙を自転車で運べなかった、脚が上がらず向こうのペダルへ脚が届かず ムリすれば転倒したろう。自転車、諦めるか。歩くしかなくなったか。
「湖の本 161」初校出を待つことになる。
それにしても、一九八六年の創刊から、160巻を超えたとは。創刊を支援して戴き凸版印刷株式会社の古城さんを紹介して下さった、のちに文藝春秋専務に成られた寺田英視さんに感謝しきれない。他社の編集者らからは、半ダースと出せまい、作家の敵前逃亡などと面罵も同然に冷笑されたものだ。それからもう36年が経ち、嗤った編集者らはみな消え失せたが、「秦恒平・湖の本」は160巻にも達し、私が健康でさえ在れば、どう老境に達しようと作品や原稿や資金の果てることは無い。常にその「用意」はしてある。
2022 11/2

〇 お元気ですか。紅葉が進み 秋が深まっています。風邪ひかぬよう。お大事に。
花筐のこと、最初に上村松園の絵と能の花筐を思いました。寒くなります。 尾張の鳶

◎ 花筺 すこし長めの創作が進行中なのですよ。
疲労困憊という感覚と体調は抜け去ってくれません、無視して、すべき・したいをしています。すっかりお婆ちゃんと化しているかと想像しています。
コロナの感染者数が減るどころか増え続けてます。出歩けない間に脚が萎えてしまいそう。

宿を取らねばならない京都というのは、「ウソ」のようで。新幹線に乗れば済むというワケでなく、遠くなったなあと。
円通寺の縁側に腰掛け 比叡山がみたいなと想う。仏様の御顔と あちこちで再会したいなあと思う。保津川に雪の季節が来るなあとも。戦時疎開した旧南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)(いまは大阪府高槻市内とか。)の蛍と蛙の声に溢れた夏の夜、懐かしいかぎり。

坪谷善四郎という著者の千頁を越す『明治歴史』とドストエフスキー『悪霊』熱愛中。四書のうちの『中庸』そして『史記列伝』『水滸伝』も。「金瓶梅」読みたいと心がけています。

処方されている利尿剤のせいか、よろよろします。自転車には乗れなくなり、家の中で数回転倒転落、幸い異常は無いです。

「撮って置き」の映画を頻頻と観ています。昨日の『ドクトル・ジバゴ』が凄かった。ドラマでは『ドック』そしてやはり『鎌倉殿の13人』に注目しています。

文化勲章の松本白鸚に、幕末の秋石畫、見事に丈高い松の秀にちいさく鶴が降りて、空高く高くに小さな旭日という長軸を謹呈しました。京都の「ハタラジオ店」の昔に出逢っているのです。お父さん(初代白鸚)と一緒に「電池」などを買ってくれました。彼は少年でした。

ロダンの地獄の門を遠目に、上野の美術館前庭に ゆっくり腰掛けたいなとねがうのですが。  お元気で。  鴉 勘三郎
2022 11/4

* 明治維新最初の難関が版籍奉還であった意義をながいあいだ私は理会していなかった。そのこと、書き置きたいが、疲れていて。後に、と。 なんとはや、午過ぎて二時半と。やすみたい。
2022 11/4

〇 拝復「湖の本」159 花筺 魚潜財淵」拝受いたしました、厚く御礼申上げます。
このたびも、お送り頂きましてから 机の脇に置き、いつでも時間のあります時に読み進めるようにしております。居間は、先生が「清經入水」ご執筆のきっかけになりました清經の平家物語の中での記述部分を知ることが出来ました。秘められたものへのご興味,そして淋しく命を落とした貴人へのお優しさがくみとれます。
これから(紅書房主として引き受けた)自費出版の寄贈発送の作業をいたしますが、先生の毎回(呈上発送=)毎回の量を知りびっくりです。
ご自愛下さい。ありがとうございました。  紅書房 菊池洋子

* 前半の感想、今にして、かとビッくリした。『清經入水』私家版の「初版」から謂うと半世紀以上になれり、繰り返し版も替えている。
版元に注文依頼しての自費出版希望者の製本は、よほど多くても二、三百。わたくしの「湖の本」呈上本は、少なくも現在1100。一冊と謂えど「売っていない」。
もう「本を売る」など飽きてしまい、ごく初期の「私家版本」時代へ戻っているが、あの頃でも「見かけ」の「定価・頒価」を付けていたが、今は一切なし、間然「無料」の「呈上」である。出納の手間暇掛からなくて済む。そういうことが出来るほど「よく書いて売ってきた」のだ、「よく働いた」と謂うこと。
新婚の日々、何の蓄えも用意も無く、月給、最初三ヶ月11000円の八掛けから生活しはじめた。生活していた。もともと資産があったのでは、全然、無い。ただ働いた、働いた、働いた、のである、ようかるに「読み・書き・読書」を基本に「執筆と創作」とで達してきた。アルバイトも肉体労働も経験が無い。
2022 11/6

* なにかしら一気に、ものの湧くように、俺も書け、わたしも書いてと向こうから攻め寄ってくる感じに、すこし戦き慌てている。「まあだだよ」と手を横に振ってたじろいでしまいそう。
2022 11/7

* 私家版を創った初め 頒価はいれなかつた。医学書院の長谷川泉編集長は {次}には 必ず頒価を入れなさいと、最初の助言だった。
「本」として永い「寿命」を読書界に保てるのは、高価・廉価に拘わらず、「頒価」が付いていること。それが無いと、「古書」としても 「新本」としても、読者になろうとする人は、掴む手づる、寄りつく島が無い。
時を経て、若かった私にもそれが判った。次からは私家版とはいえ、躊躇わず「頒価」をいれた。「売ろう」「売れる」るという意味では無いのだ。
読者がぜひ手に入れたければ、お金を払えば手に入る。頒価がないと、著者に頭を下げて「貰いに行くハメ」になる。碩学長谷川泉の、一等最初の助言だった。
2022 11/8

〇 拝啓
季の推移早きことなかなか追いつくこと出来ません。コロナ禍収まらず、いかがお過ごしですか。湖の本、早くにいただきながらお礼言上出来ませず失礼いたしております。
下半身ct検査の筈が、肺に影りとの診断、観念しつつ再検査(コロナ感染者濃厚接触の報まで受けさんざんな日々でした)。肺ガン入院とうかがった先輩に、私も縣ガンセンターに通っていますと見舞状出したところ、私はガン病院有明病院との返書あり、こんな際にも位取りあるのかなど、やっと達観の境に居ります。
父上のご生涯まことに厳しく、ただ、戦時中 銀行をもたない理研コンツェルンは整理に追われたとの記事読んだことあり、父上の失職、必ずしも病気理由だけではなかったのかなど考えました。
「聖ヨハネ病院にて」など、なかでも「死の棘」は読み返すこと難渋しましたが、悲惨ななかにも 実家、親戚の手厚い援助あったことを知り、父上の場合いかがなりやなど思案しました。近時評判の「オートフィクション」が秦文學の骨格かなど、改めて味讀の楽しみ得たく、遅ればせながらお礼申し上げます。
十二年前の作ですが、
母葬るふるさとは早や秋しぐれ
いとこ達(連れ合いも含めて)も大方逝き郷里も遠くなりました。 「お届けは秋田の物」が口ぐせだった、ふるさと大使を務めた亡きいとこの言に従い 稲庭うどん少々お届けしました。奥様どうか、着到ご返書ご放念下さい。
思わず長く生き、ソ連の満州侵攻第一陣は、刑務所出所者で、正規軍到着まで乱暴の限り尽くしたとの記事、一身二世とか、近時、ロシアの軍事会社の刑務所での入隊勧誘のテレビ観て、このようなことかと合点がゆきました。
お揃いでお大事に    草々
11月1日       信太  (神戸大学名誉教授 国文学)
秦様 ご侍史

* わたくしの作風はおおむね「オートフィクション」に部類されるのかと、納得。
「蝶の皿」「廬山」「絵巻」などは異なるが。
2022 11/9

〇 喜怒哀楽の未だ発せざる、これを「中」と謂ひ、発してみな節に中(あた)る、これを「和」と謂ふ。「中」は、天下の「大本」なり。「和」は、天下の「達道」なり。
「中和」を致(きわ)めて天地位するなり、萬物、育するなり。  中庸
* 以前にも「感じ」て、引いてたかも知れない、四書のうち『中庸』の一至言と読む。
この『四書講義』上巻は大阪偉業館蔵版、明治廿六年二月十日の刊、三十壱年四月廿八日再版本で、秦の祖父鶴吉は三十歳、父長治郎誕生直前の本。それを令和四年の私が手にし眼にしている。本の綴じは、手にするつど端から崩れて行く、百数十年むかしの一冊、読み崩すまいか、読みたいか。読みたい。
「四書五經」と謂う。『中庸』は「四書」のうち。
今、もう一冊手に持っている『詩經講義』は「五經講義第二」本に当たっていて、私の久しく苦手として、どうも判らないで来た「詩」なる一字の大義が、学び識れるかと期待している。
すでに巻頭「凡例」の一に、
「詩」ニ六羲アリ 曰ク「風」 曰ク「賦」 曰ク「比」
曰ク「興」 曰ク「雅」 曰ク「頌」 是レ也
これ、 門外漢なりに、「短歌」を詠作し「俳句」を鑑賞する一人として、体験的・具象的に理会も納得も出来そうに思われる。「詩」とはと訊ねて、どの昨今の「詩人」らもこうは答えてくれなかった。
わたしは日本文化を早くから「花と風」に託して、説きかつ主張してきた。上の「六羲」と噛み合うている。そう思う。
東京山手の懐かしい庭園に「六義園」がある、忠臣蔵に絡んだかの将軍家御用人柳沢吉保の旧邸だ、名園の少ない東京では筆頭格の好環境、かつてはe-0ld勝田貞夫さんと夕暮れる迄しみじみ逍遥散策を楽しんだことがある。
また久々に行ってみたいなあ。勝田さんとも会いたいなあ。せめてもう一度。
2022 11/10

* 「三日」程のうちに「湖の本 161」初校出がとどき、「十八日」には「湖の本 160」出来本が納品されて発送仕事になる。忙しくなる。此の後は、一巻ごとに「やめるか」「続けるか」という問答のせめぎ合いになるのだろう、か。
2022 11/10

* ゆうべは、九時半か十時にはもう床に就き、校正したり本を読んだりもしたが寝付きは早かった、か、就寝前に、利尿薬、そのうえ「むくみ」除りも服したので、一時間ごとに尿意に起こされた。昨晩はよほど両脚が浮腫んでいたのも今朝は退き、体重も最低水準。一度、右膝下へ久しぶりきつい攣縮がた来たが、抑えながら用意の水分をたっぷり含んで、すぐ失せた。体に、水分多寡調節の大事さが、判る。
また、目に見え手脚が細くなった。視力の落ちが日増しにすすみ、明治版の「四書五経」や「史記」等の講義本は、本章と講義箇所との文字の大小が極端で、どうしても裸眼をさらに凝らして読まねばならない。文庫本もいつも今古の十数種は手近に備えて読んでいるが、文字は小さく、行間の狭いのにもまま悩む。それでも優れた古典籍や小説の名品からは遠のいて居れない。
しかし、強かに私自身の歳久しい誤解や了見違いで「漢字・漢語」誤用ないし他用してきたことの少なからぬにも「閉口」する。漢倭、遠く海を隔て遙かに時を歴史を異にしていて安易に思い直すのも覚え直すのも学び直すのも難しいが、謙遜して差異の程をあらため識るのを拒んでは成らない。私の久しく重んじ続けてきた「風」一字、これを『詩経』発端から読み直してみたいと思っている、先日も拾い挙げておいた「詩に六義有り」と。「一ニ曰ク風」とある。続いて「賦・比・興・雅・頌」と。此処には「比興」と、日本でも慣用されて熟語化した二字も目に付く。「コトをモノに託して面白がること」と国語辞典には出ている。『詩經』では、どうか。
「風雅頌ノ三ツハ實ノ詩ノ作リヤウナリ 賦比興ノ三ツハ風雅頌ノ内ニコモルト云フ コレハ文句ノ異同ヲ分ケタルナリ 風ハ國風ナリ 風ハ詩ノツクリ様體裁ヲ以テ云フ 文句ドコトナクアサハカニテ 婦人ノ作或ハ賤しキ者ノ作ナドニテ 眼前ノササイナルコトヲ作ルヲ風ト云フ タトヒ王公貴人ノ作ナリトモ其詩ノ體裁然レバ皆風ト云フ」と。斯くみると「詩」六羲の筆頭「風」はむしろ軽率な女人風に即して落ち着き無く観られている。私の『花』と対偶の『風』とはほど異なってみえるけれど、それとて深く押して入れば、重なる寓意が生きてくるかも知れない.漢語も和語も軽率に読んでは、言葉から生命観も消耗させてしまう。わたしは用心している。

* ただ「私語」と謂うには、和歌に、漢籍に、創作に、と。少し気張り過ぎかなあ。目も、身も、思いも重いナ。十時前か。時計の文字も針もシカと見えないが。
2022 11/16

* 明日からは新刊「湖の本 160」発送になる。作業を急ぐまいと心する.急げば、二人とも疲れる。「161」初校が順調で、校正自体は興にも終ええなくもない。ただ建頁数を読んで、必要な後書きなど「後付け」原稿は作らねばならない、表紙も入稿せねば。これらは何も急ぐことは無い。新年の刊行で構わないのだから。

* それにしても自身おどろく。この歳になり、どう此の「仕事」が産まれ、育って行くのか。こう「実務付き」で、創作や執筆に日々忙しい八十七歳作家、おられないだろうナ、と。浅ましいのかナ。
2022 1/17

* 昨晩九時過ぎには床に就いて寝入っていた、但しまたしても失敗「利尿薬」と「浮腫どめ」とを寝際に併用してしまい、30分ごとに七八海も手洗いに起きていた。寸断の眠りの間々それでもそも収まって、しかし、五時半には独り起きてしまい、キチンで茶を沸かし、「湖の本 161」の初校をすすめたり、あれをしたり、是をしたりしながら、独り朝食した。

*「私語」を読み返していると、ぽつりぽつりと「うた」が書き込まれていて、それなりの境涯歌、述懐歌になっているのをおもろく自覚した。散逸させないでお香と思った。

* 「海の本 161」初校を終えた、「後書き」「あとづけ」「表紙」を用意し入稿すれば、再校出を「待つ」だけに。
2022 11/20

* 『わが徒然草』を赴くままに、それでもそれなりに一月後には八十七歳を迎える心境で、書き置いておきたいモノを書き流している。それも良しと。
2022 11/24

* 私には「作家」として立つ以前十年近くに四冊の「私家版本」があった。それらの作は相応に、後年、単行本にも「選集」「湖の本」にも新ためて収録されているが、昨日、それら私家版本の「まえがき」「あとがき」を読むと、まことに若い気概と文体に、テレもし、らため襟を正す心地にもなった。゛、妻に頼んで機械へ書き込んで貰っている。「作家」で荒うとの「志気」は、私史資料として遺すに足ると自覚できたから。
そういえば太宰賞受賞式の選者代表で話して下さった中村光夫先生のお話の中でも、私の何も知らない場で受賞への対象とされていた「私家版・清經入水」本の「あとがき」に触れても話して下さっていたのが懐かしく嬉しく思い出せる。

* おもえば無数にといえるほど私は「あとがき」を単行本にも選集にも湖の本にも書いてきた。ふつう人サマの本でも「あとがき」はきっと読むが、後は切り落としたように意識の外へ置いてきた。しかし、私の場合、そういう「まえがき・あとがき」衆がほんにでもなれば、それなりの「よみ
もの」にはきっとなっている気がする。だれよりも私自身がそんな本を「読んでみたい」気がする、そんなヒマはもうないのだけれど。

* 最初期四冊の私家版本『懸想猿 續懸想猿』『畜生塚 此の世』『斎王譜』『清經入水』のまえがき、あとがき、妻の機械書き作業が済めば、ここへともあれ保存記録しておく。
2022 11/26

* 「懐かしい先生方」十五人の思い出を書き上げた。こういう手土産を持参して「もういいかい」と天上から誘ってくる人らのもとへ帰って行く気だ。「まあだだよ」
2022 11/26

* 毎朝の古典和歌を対に批評し鑑賞しているのは、私にも初のこころみだが、一歌人と少年らい自認してきた「實」を自身に問うて確かめているのです。読者には歌人も多い。ご批判を受けたい。
「歌」が美しく正しくうたえるなら、「散文」もそれなりに、きちんと書けるはず。「意味」より先の「音」への感性・美意識が大切とかんじている、「文・藝」家として。
2022 11/27

* 住所録への転写記載も大仕事。亡くなった方も●を付して削除しないので、これはどなただっけという氏名もガンコに保存してあり補充して行き、凄まじい人数。幻のように「人生」が浮かび立つ、人様々の氏名と倶に。

* 私家版本四冊の各まえがき・あとがき を取りそろえ点検。私が、今書いてもおかしくない思惟と表明とがほぼ六十年前に則ち多剤省を受けて「作家」として世に出たより五年前にかなり正格かつ精確に既に書けている。 四冊の私家版本は實にこの五年の内に成っていた。いわば疾走の助走期だったと正確にに判る。とりまとめ老いて意味在りと信じる。

〇 謹啓
冬将軍の足音が近づいて参りました。
『海の本』160号を拝受致しました。毎号壱に有難うございます
表面的で浅い言説の流布する中で、身体感覚の或る深き一語一語に感銘しつつ拝読しております。
私の師導教授だった大岡信先生が 秦様の適確な御批評の言葉をさんびされていたことを思い出しています。
明日の日本海側は吹雪くとか。向寒のみぎり、御健やかな日々でありますよう切にお祈り申し上げます。
日頃の御礼の気持ちを同封致します。送料にも足りないかと思いますが御笑納頂けば幸いです。
また送付先の「新館153号」を削除頂きたくお願い申し上げます。謹白
十一月三十日   明治大学 西山春文    八千代市

* 懐かしい極みの大岡信さんの名まで添うて、有難い極みのお便りを頂戴。感謝。
2022 12/2

* 私家版本」時代四つの「あとがき」を「わが作家人生のまえがき」と字句原文のまま整えた。二十八歳から三十三歳内の四冊ぶんだが、文章文体そして文学への覚悟、きっちり書き置いていてもじどおりに「わが作家人生のまえがき」そのものに書けている。「作家に成っていった人生」でなかった、「作家という自覚ではじめた人生」だった。ちょっと、我ながら喫驚した。編集しはじめた新しい「湖の本 162」巻頭に置いて、「わが作家人生のあとがき」とし用意したい。
2022 12/5

* 古門前の大益に、かるいきもちで、ごく近所のもと有済小学校の見分に校門を入って観てきてくれないかと電話で頼んでおいた。とても期待できない、そもそも有済校はとうに「閉校」されているのだしと期待薄だった、のへ、どさっと、大きな袋にいっぱい記録や資料や沿革や写真などが送られてきた。しかと一見、百点満点にもう百点だせるほど、もう、こと「有済校」に関して知れる『全部』を手に入れた気さえする。
「オッ師匠はん」有難う。感謝、感謝、さらに感謝。
2022 12/7

* 西欧、東欧の抗争・戰闘常態は事に危険なまま、世界化しないで欲しいものだ。「日本」は今ぞ眞に聡くあらねばならい。国土国民の防衛と、戰闘のための再軍備とを「同じ」と錯覚してはならない。

*真珠湾奇襲を私は「京都幼稚園」生として識った。生きながら水雷に掴まり乗り船艦へ体当たりの「九軍神」の報道など、いつまで続くでもない無謀やないのかと子供心に案じたのを覚えている。世界地図があちこちで見られたが、真っ赤な日本列島と、緑のアメリカとみくらべて、内心に勝てるワケがない、勝ち続けるだけの「お金」が足りるのかと思った。翌年春、戦時国民学校に入学の頃は日本は戦果を伝える放送に酔っていたが、わたしは職員室外の廊下に張られた世界地図の前で、友達に向かい日米の国土の広さ一つから「勝てるわけない」と言うて仕舞ったのを通りがかりの男先生に、廊下の壁にブチ当たるほど顔を打たれた。「しもた」と思いつつも、「そやけど」と胸の内で同じことを自覚していたのも忘れない。成らずに済むなら将来兵隊さんには「成りと無い」ずうっと思ってた。思いの蔭に、祖父鶴吉蔵書の一部、小型の『選註 白楽天詩集』の中に強烈な反戦の七言古詩『新豊折臂翁』にいたく感銘を受けたことがある。この感化から、のちのち小説家としての処女作『或る折臂翁』が生まれている。
戰争にいたらぬように、國も国民も眞実そうめいに「悪意の算術」であるすぐれた外交と外交官をしかと維持したいもの、切望している。

* 真珠湾開戦や八月敗戦塔の日には、私、つとめて関連の映画を観て思いを新たにする。今日は、アメリカで製作しアカデミー賞の映画『トラ・トラ・トラ』を心して観た。
敗戦の日には『日本のいちばん長い日』で敗戦終戦を反芻・自覚する。ヒロシマ原爆の日には「黒い雨」を観る。沖縄と日本海軍の壊滅にも用意の映像がある。私は「歴史」を忘れたくない。
2022 12/8

〇 秦 先生。
いつもご本をお送りくださり、有難うございます。少しずつですが、読ませていただいております。
また、159号の「魚潜在淵」に弥栄中学美術部の西村先生のことをお書きになっておられたので、その当時のパンのことを想い出して、懐かしい思いで一杯になりました。
私は新門前通りにあった先生のお宅は知りませんが、何故か青いペンキを塗った窓の中に、「マツダランプ」と書かれたものがある光景が記憶に残っております。
それが先生のお宅だったかどうかは不明ですが、その横に細い「ぬけろーじ」があり、新橋通に出ると私の弥栄中学美術部の一年先輩だった堀 泰明氏の家がありました。
先日、堀氏と電話でお話した時に、先生のことを申し上げると、なんでも、先生の小説の挿絵を描いたことがある、とのことで驚きました。
来年は八十路に踏み入ることになるので、コロナの事もありなるべく外出を控えておりますが、中学生の昔にタイムトリップさせていただきました。
なんやかんやとおっしゃりながら、文章を書き、読書もたくさんなさっておられるので、このまま何時までもお元気で、と願っております。 京都 桂    服部正実

* いま、その「抜けろーじ」のことなど書いています。ご近所に「服部さん」という紙函・紙箱など商ってられる服部さん、お餅屋の服部さんがあったように記憶しているのだが。
2022 12/8

* 「湖の本 162」編成で、ここ数日、たいそうに「時間」組み合っている。
幸いワクチン出の故障は無かった、微かに左肩が凝るか。
2022 12/12

* ホームページの成り行きがとても気になる、のだが、私自身はなににどう手をつけるべきか、まだ何も頭に入って無くて自身に当惑する。横文字ばっかりと見える鷲津君からの最初の来信におちついて向き合うべき。いま、したい、している仕事の進行とも調整しなくては。
今朝は険しいまで指先が冷たい。妻は注射の左腕痛いと謂う。わたは、デモハリ方も首もこったかんじはある、が、これは昨日来、根をつめての機械仕事のせいもある。副作用風の違和は自覚していない、が肩こりは痛い。
2022 12/13

* 凸版印刷株式会社が得手で自信の例年大カレンダーが、「湖の本 161」の再校出と一緒に届いた。年内に責了、新年初の「湖の本」新巻館となろう、そして「湖の本 162の新編成と入稿用意も着々進行してる。仕事と私語の刻とが老境を強いられた私の恰好のクスリになって呉れる。
2022 12/13

* 師走十四日 早暁二時半に、此処、二階書斎の機械前へ来た。
数日前より東工大卒で関西在住の一人から、深切そのもの、私・秦恒平の作家・文藝家・出版人としての日々の活動に関わって、新しい「ホームヘージ」を建設し、数人の東工大卒賛同者とその「ホームページ」を「共有協同・編集」してはと、提案があった。
機械化の詳細は私には理解しきれていない、が、上記提案への「お断り」を伝えるしかないと決意した。
私・秦恒平は、過去八十年の文藝愛かつ創作・編集行為を、實に、一貫多くの愛読者・支持者に支えられ見守られつつ終始「独立独歩」し、いささかもソレを逸れなかった。
一つには、前世紀末から二十年ほども大事に愛用していた「ホームページ」での表現行為は、多岐に亘りながら、要は機械的に大勢の人と「共有時空を持つ面白さ・気の励み」と謂うに尽きていた。
その「ホームページ」が破損し使用不可能と成り終えたときは落胆した。しかし、それにより「私の創作や出版」が傷ついたのでも不能化したのでもなかったことに、直ぐ気がついた。「ホームページ」という「世間へ開かれた窓」は閉ざされたが、そんな窓の内の書斎活動は、いささかも損なわれはしなかった。それどころか。
ここ数年の、160巻を越す「秦恒平・湖の本」出版や、33巻もの浩瀚「秦恒平選集」の出版も、久しく篤く熱い親しい「読者の支持と御厚意」とで全て順調に為しまた成し続け来れていた。
それら「作家活動」を通じ、私は「私語の刻」という創意と發明とが、「われ一人」で続けている日々の作家活動につねに「活力源」となっていること、著名な、業績を積んでこられた大編集者からも、深厚深甚の「読み手」と敬愛する怕いほどな読者からも、「秦さんの『私語の刻』は、特異でとても大事」な「秦恒平最大の『文藝・結実』に他ならない」と支持や激励を得てきました。私の創作であり作品である『私語の刻』は、「ホームページ」とは無関係に独立独行し、それどころか、書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ-ムページ」へ拡散するのはむしろ「危険」でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を「文藝の徒」として、怱卒に無責任にただまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。
近来の「湖の本」は、いつも後半に「私語の刻」を編成し、かなり好感されていますが、それらは凡てとにかくも「作家の推敲を経た文章・作品」として「著書の内容」を成しています。「ホームペーシ」で日々バラ播いていたものは、下手物だったのです、それは膚寒い実感になりました。
私は、ほんとうに生涯、独立独歩して成績を遺してきました。いわゆる「同人雑誌」経験は只一度も無く、「グループ」で文学・文藝は成るまい、自分はしないと考えて生きてきました。そしてその生涯ももう残年乏しく、それでも、天上からの「もういいかい」の呼び声にいつも「まあだだよ」と小声で返事してきました、が、「もういいよう」と答えて天上する時は、もはや間近い気がしています。大切な実感です。
今回の東工大卒数君の深切な「ご好意」嬉しい「お誘い」は、はっきりと「辞退、お断りする」と決心しました。どうか、汲み取って「共用・協同編集」の「ホームページ」への私、「作家としての秦恒平の参加」は「無い」と、ご理解・ご了承をねがい、呼び掛けて下さったご好意に心より新ためて感謝申します。2022 12 14 秦 恒平

* 晩の九時。早暁より以後、一睡もしなかった。おもに「湖の本 162」の「再校」に精出していた。
* 「協同ホーページ」発議の鷲津くん、柳くん 私の思いを諒解してくれた。
他に、考えを問うた中に、猛烈に、すくなくも「秦個人で運営のホームページ」は絶対に再開し堅持して、更に更に「展開すべし」と。

〇 みづうみ、お元気ですか。
みづうみのご意思は変わらないでしょうが、一度でよいのでわたくしの懇願を受け入れてくださらないでしょうか。
東工大卒業関係者からのお申し出を、どうしても何があってもお受けいただかなくてはならない理由をご説明します。すべては「秦恒平の過去と現在と未来の読者のため」です。整理している時間がないので思いつくまま取り急ぎわたくしの考えをお伝えします。

理由その一 現在ホームページで公開されている「私語の刻」「e-文庫」は少なくともネット上に保存してください。そのために「ホームページの再建は不可欠」です。
「私語の刻」は貴重な「時代の証言」です。たとえば「私語の刻」に書かれている」文字コード委員会、ペンクラブ電子文藝館創設」については、みづうみの書かれたもの以外の資料が世間に存在しません。秦恒平の目指したものを知らない人間が、世間の大半でありましょう。この経緯は、将来の日本文学の、日本文化のためになくてはならないものです。
この国はいずれ亡びるかもしれませんが、ネット上に公開されつづけるものは、海外からでも読まれます。
また「e文庫」についても、わたくしの作など真っ先に消えてかまわないものですが、みづうみが「選び」「招待」した作品は是非今のままネット上の公開を続けていただきたいのです。「現在のペンクラブ電子文藝館の惨状」をご存知でしょうか。みづうみが心血を注いだ「招待席」を消滅させています。もちろん作者名、作品名を検索すれば出てきますが、過去の埋もれた名作、問題作を読みたい読者にとっては、選ばれていない有象無象の中から名前も知らないものをどうやって見つけたらよいのでしょう。現在の会員と、みづうみの厳しい文学者の目で選んで招待した作品が、「仲良しクラブよろしくごちゃまぜ」なので、心ある読者は読むべき作品がわかりません。
私が憤るのは、「招待席を廃止したペンクラブの人間たちの、文学愛の欠如です。傲慢です。自分は招待席の作者たちと同列だと思い上がり、先人たちの仕事への敬意がない。彼らは、読者を甘く見ている。読者を自分たちより下のアホだと思っている。自分が読者には下の物書きだとは思わない。」 「e文庫」だけが、現在でもみづうみの選んだ良質な作品をネット上で読める「電子図書館」なのです!

理由その二 みづうみは「私語の刻」の真価を理解していません。過小評価しています。ひとは自分のことが案外わからないもの、とはいえ、あまりに残念です。

>書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ-ムページ」へ拡散するのは、むしろ「危険」行為でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を「文藝の徒」として、怱卒に無責任にまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。

みづうみのお言葉は間違ってはいません。みづうみが十分推敲された完全な作品を世に出したいという文学者としての願いは当然です。
しかし、「私語の刻」はこれまでのような文学作品ではありません。「私語の刻」は不完全なプロセスとしての、世界の誰も真似のできない「機械環境文藝」なのです。完成品として推敲された名文章が重要なのではなく、発信されたと同時に読む読者がいて、一文学者の完成に向けてのプロセスに共振していく過程に意味のある、これまでとはまったく違う新しいかたちの「文学」です。
映画監督であり、名演出家でもあったアンジェイ・ワイダの自伝の中にドストエフスキー「白痴」の舞台を演出した際の記述があります。部分的ですが引用させてください。

観客はできあがった芝居を観て私たちを評価するが、私たちはリハーサルのほうに価値があると思っている。結果ではなく道のりだ。観客の皆さま、私たちが事を究めていくその過程を見てくれませんか。退屈で不毛なことになるかもしれませんし、繰り返しばかりで見るのが苦痛になるかもしれません。これはリハーサルという名の未完成の見世物です。観客の皆さんの目の前だから、一つ格好いいところを見せてやろう、などと力む俳優が出てこないことを願っています。もしかしたら、あなた方観客がそこにおられることが原因で、何もかも台無しになってしまうかもしれません。でも私は、まさに今回このような方法がふさわしい、と考えています。私たちの羞恥心、照れ、自己防衛本能といったものを打ち破らなくてはならない、と思います。

リハーサルは見られるのが恥ずかしいかのように観客の目から隠れたところで行われるが、私たち演劇人にとっては忘れがたい強烈な経験となる。とすれば、リハーサルは観客にも興味深いものではないだろうか。舞台をつくりあげる過程そのものが、最終的な結果より重要ではないだろうか。

創造の現場で起こることを観客の目から何一つ隠さなかった。…中略…

朝夕、リハーサル室が満杯になるほど大勢詰めかけてくれたクラクフの観客は、私の問題意識を理解し、私たちの仕事に関心を持ってくれた。たくさんの手紙を受け取ったが、観客が私たちの生みの苦しみをいかに注意深く観察していたかを知ったのはそれらの手紙からだ。多くの手紙に共通して書かれていたのは、一つひとつの言葉、細部を実に辛抱強く真剣に検討しているのに驚いた、ということだった。公開リハーサルによって教えられることがいろいろあったのは疑いない。

観客の前でリハーサルを行なう目的は、芸術的な冒険を試したり、観客の反応をうかがったりすることではなかった。演出家たる者がその孤独な背中の後ろに巨大な観客があるのを感じないのであれば、この職業に就く資格はない。そもそも、観客に提示することができるのは完成した作品、すなわち仕事の結果であり、芸術家が歩む孤独な道筋ではない。

公開リハーサルによって私たちが得たものは何か。孤独になって初めて会得できるような、その人だけの内密の知識や経験といったものであるが、公開リハーサルは間違いなくその一つだ。かねてよりそう推測していたが、今では確信になった。この違いは大きい。それを経験するために、二七夜を費やす価値はあったのだ。
アンジェイ・ワイダ 『映画と祖国と人生と』 久山宏一、西野常夫、渡辺克義訳
「私語の刻」と舞台は違うものであることは重々承知していますが、みづうみの「私語の刻」は読者の読む、さながら舞台のリハーサルであり、秦恒平という芸術家の歩む孤独な道筋で、読者にとっては遠回りによってこそ得られる洞察であろうと思います。
みづうみの「私語の刻」なくして、読者、未来の読者は「湖の本」の一体何がわかるでしょう。
時代は大きな転換点にいます。すべての芸術は従来のものとかたちを変えていくだろうと思います。現代の芸術家は、おそらくこれまでのようなかたちで作品を発表するわけにはいかない場所にきている。現代音楽の旗手高橋悠二氏も「プロセス」としての音楽の時代の到来を語っていました。
作者には不完全な道筋と思えるものがじつは成長しつつある完全ではないかと、そう思うのです。

みづうみはわたくしが今年になって「私語」の一部のミスについて書き送ったことを気に病んでいらっしゃるのかもしれません。ここ数年の私語に、みづうみの視力の衰えから誤記等が増えてきているのは事実ですが、その細かいミスのなかにも、人間が老いていくことの真実を読みとり、読者はそれをも愛おしみながら共に生きるのです。衰えはみづうみだけのものではなく、わたくし 少なくとも現在公開されているみづうみのサイトは、リニューアルしたホームページでネット上に永く保存公開していただきたいのです。機械上のメンテナンスを続けながら、永のいのちを生きるべき偉大な仕事だからです。今のホームページのままでは技術的にも維持は不可能でしょう。そしてみづうみの機械が完全に破損する直前までの記録も絶対に公開していただきたいと願っています。
一読者の勝手な願望と思われるでしょうが、文学と縁の遠いがちな東工大の元学生たちが、業者に頼めば大変なお金も手間もかかる作業をしようとしてくださる、そのことの大きな意味をどうかご理解ください。損得ぬきのアマチュア=愛する人間だから出来ることです。みづうみへの敬愛なくして出来ることではございません。(みづうみは愛されることがお嫌いで、これまでもこのような申し出を数々お断りになっていらしたような印象があります。)

ものすごく急いで書いています。みづうみが正式にお断りにならないうちにと思うので、読み返さず送ります。
みづうみは世界に一つしかない素晴らしいご自身の文藝を自らの手で破壊しようとしています。間違っています。みづうみのご懸念を考慮したかたちで、新しいホームページ創設について、ご再考を切に切にお願い申し上げます。
いずれ此のみづうみの「私語の刻」については、きちんとした論攷を書きます。
冬は、つとめて

〇 メールが届いたことに、何より感激。この二週間、一日に何回もメールを確認してました。嬉しかった。
「共同編集のHP」とはどんなものか、計りかねますが、鴉のこれまでの一貫した姿勢から導かれる解答は分かります。
多くの人の目に触れる機会、鴉の声を伝える機会があると思えば、それわ手放すのも残念ですが。
HPと「私語の刻」の相違を思えば、作家として自然当然の姿勢。“終始独立独歩し、いささかもソレを逸れなかった。”のですから。

私の創作であり作品である『私語の刻』は、「ホームページ」とは無関係に独立独行し、それどころか、書きっぱなしの「言い分」を「私語」として「ホ-ムページ」へ拡散するのは、むしろ「危険」行為でした。明瞭に危険でした、十分推敲されていない文章を文藝の徒として、怱卒に無責任にまき散らすことになるという実感を、はっきりと、強く得てきたのです。いま、ソレを噛みしめています。”
“ 私は、ほんとうに生涯、独立独歩して成績を遺してきました。いわゆる「同人雑誌」経験は只一度も無く、「グループ」で文学・文藝は成るまい、自分はしないと考え、生きてきました。”
鳶は、その志、決意を尊びます。
それでも、それでも
“「もういいよう」と應えて天上する時はもう間近い気がしています。大切な実感です。”と読めば、泣きます。
携帯でメールを書いています。ヘンな文章があったらごめんなさい。
寒くなりました。お身体大切に大切に。  尾張の鳶

* ウーン。 もう今夜は睡ろう。
2022 12/14

* 朝七時半 「湖の本 162」を「責了紙」に仕上げた。
八十七歳誕生日の業績となった。
ピレシュのピアノでモーツアルトを静かに聴いている。
2022 12/21

* 「162」入稿用意を懸命に進め、夕刻、一定の到達を得たが、もう20頁分追加が必要と分かっている。、要検索、検討と承知。
2022 12/24

* 夢で、唱歌を評論為続けていた。「雨、雨 降れ降れ 母さんの蛇の目でお迎え 嬉しいな」「あれあれあの子は ずぶ濡れだ 柳の根方で泣いている」「母さんぼくのを 貸しましょか きみきみ この傘 さしたまえ」」
わたしがこの唄を、幼少の昔、どんなに憎むほど嫌ったか、人は知るまい。
わたしには、こんな「母さん」を「生まれながら見喪って」いた。雨に降られ、濡れて泣いている方の「あの子が自分」という自覚に屈していた。「ボクならいいんだ 母さんの 大きな蛇の目に入ってく ビッチビッチチャップチャヤップ ランラン」がうらやましさにこの唄を憎んで啼いた。こう書いている今、「やそしち」の「爺」が、愚かしくも涙をいっぱいに目に溜めている。
むごいと思う童謡が、幾つもわたしには、在ったのだ。「青い月夜の浜辺には 親を尋ねて啼く鳥が」とか。

* かと思うと、歌詞の佳い歌を夢中、探していた。「磯の火ほそりて更くる夜半に 岩打つ波おとひとり高し」「とまれる友船ひとは寝たり たれにか語らん旅のこころ」のことに歌詞前半を、少年のわたしは「音」楽の「詩」「うた」として絶賛していた。
「音」「韻」の濁って強張った日本語を「うた」に持ち込んだ例をつよく嫌った。
私の和歌・短歌「批評」の根底が、幼少の感性で生まれ育っていたのだ。
2022 12/25

* 予約の診察を受けに行く。「湖の本 162」入稿便、投函。
2022 12/26

* 「湖の本 162」すこし気がかりに不出来の「一部分」原稿を書き換え、入稿分を訂正すべく、送稿した。歳末の肩の荷を、ほぼ、卸せた気もち。よう気張った、と、息をついている。
2022 12/27

* 書きついでいて、かなり進んでいたのに他にあれこれ追われ中途になっていた小説を,慎重に読み返してきて、なかば。思いのほかマゴついてないのに、やや気をよく、いや安堵している。このまま書き次いで行く。も一つ、やはり幾分見当も付けて進んでいる作も有るが、それにはも少し待って貰うか。新しくテを架けておきたい想いもあるので。 2022 12/28

* けさも五時起き。
夢には、戦時の唄、ことに「父・夫」や「兵隊さん」への唄に怒りまくっていた。これはもう何度も同様に書き置いたこと。「父よ、あなたは強かった」「勝ってくるぞと勇ましく」等々。
「兵隊さんよアリガトー」の「よ」の語感に不快を覚えた少年時代があった。
明日の命も知れぬ野戦の兵士が、「夢に出てきた父上に死んで帰れと励まされ」るなど、そんな「父」がいるものかと絶対に少年・私は拒絶し、怒った。
「勝ってくるぞと勇ましく誓って國を出たからは、手柄たてずに死なりょうか」が本音なものか、「進軍喇叭聴くたびに、瞼に浮かぶ母の顔」こそと、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかった私は、卑怯に臆病な非国民であったのだろうか。それは、永い青年期まで私の抱えもった公案のようであったよ、そして「小説を書き」始めたのだった。
2022 12/29

* 身辺を少しでも片付けたいと積み重なった箱、箱を点検すると、未発表のまま積み余した生原稿などが、ドヒャどひゃ遺っていたのに顔を渋くした。どうすりゃいいのさという唄があったなあ。受け取った書翰の山にも愕く。捨てては成らない物も多く、選別に弱る。結局そのまま残してしまうのか、来年の今日には、ハテ、どんな山が積んでいるか。
2022 12/29

* 書き継ぐべく読み返している小説の新作は、期待と自負とを動員して謂うなら、或いは晩年を光らせる力作になるかもと気が入っている。とはいえ、胸の内の勘定ではやっと半途かとも、とすると、アト道はよほどに険しい。よろけずに踏み分けて行かねば。幸いに正月になる。「湖の本」の作業も今分は印刷所に預けてある、その間を活かさねば。ここへ集中し、シカと想い、シカと書き継ぎたい。
2022 12/30

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