* ゆるされた残年を、創作を含む書き仕事に、ただ、向き合いたい。
2024 1/4
* 「秦恒平 湖の本」は、「創刊以来38年」 「第166巻」出来本が此の「令和六年一月十一日」に入品され、数日掛けすべて夫婦して送本し、「終結」とする.老夫婦の健康や体力・腕力からして、適切な判断と思っている。
その後は「その後」で良い.
私のことだから、また何か仕肇めるかも。両手をひろげ空むいて寝転がるかも。それもいい。それがいい。永らく『湖の本』を育てて下さった皆様に心よりお礼申します。
* 少しずつ少しずつ新作の尻を押している。心急いては居ない、ゆっくり馴染んで、と思いながら。
2024 1/7
* 昨日はじつに十八時間寝入っていた勘定になる。体調の如何、全く判らぬまま、たしかに草臥れている。十一日からの最期の『湖の本』送達の実務には怺えて乗り越えたい。その先の視野が、々晴れるか、曇るのか。歩み続けるまで。
2024 1/8
* 玄関に掛けていた岸連山「富士」の好い墨軸をはずして、明日『湖の本』最終166巻の納品に備えた。軸のアトへは、これも好きな弍羽の小鳥の色彩畫額を掛けた。
四十年近く年に数回ずつ手懸けてきた「湖の本」発送を終える、心残りは無い、165回ももう送り出し続けてきたのだ妻とふたりで。よくやってきたと思います。妻には、ただただ感謝。166巻は巻頭にやや長い小説『蛇行 或る左道變』を置いて、湖の本としての最終の「私語の刻」を編成した。
* 仕事は已むのでない、何か姿や顔つきを変えて新しいモノになって登場してくるかも、暫く休憩するにしても。
2024 1/10
* さ、もうほどもなく、『湖の本 166』が出来てくる。
* 九時十五分、予期通り『秦恒平 湖の本』第166最終巻『蛇行 或る左道變 老蚕作繭』が出来て 玄関に山と積まれた。
太宰賞作家・秦恒平・私史の一つの大事なけじめである。
これから、ゆっくり手を掛けて妻と最終の発送に日にちを掛けるつもり。何を急ぐことも無い。
◎ 『秦恒平・湖(うみ)の本』全166巻
「結び」の あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが、記憶に新しい。
さて、向後の「湖の本」をどう別途継続展開するかは一思案だが、勉めて読者の皆さんとのお付合いを、善い工夫で持続したい。
ともあれ三十八年ものご支援に感謝申上げます。 秦 恒平
* 諸般の用意遅れで、在来予定の「謹呈者(事実は、しばらく以前から、全送付先に「呈上」してきたが。)」へは送り出せたが、「読者」「高校」「大學」への送付がアトへ続かねばならない。ともあれ、一月下旬は一切に片付くよう、残さぬようにと願っている。
とにもかくも、「最終送付本」は予定通り全巻出来て届いていて、慌てずに送り出せば、それで「38年」続けて来た『秦恒平 湖の本』事業の、一切が、済む。
* 読者と寄贈先とへ「湖の本」最終第166巻を送り終えた、なお「高校・大學等」への寄贈草本が済めば、それらを以て、38年の『秦恒平・湖の本時代』が「収束」される。『作家・秦恒平』の時代はまだ途絶えない。
* 明日は、寝室等の設えをすこしく模様替えする。
2024 1/11
* 『秦恒平 湖の本』終刊・終結の『第166巻 蛇行(だこう)或る左道變 老蠶作繭』を、無事、全国の寄贈者、読者に宛て発送し終え、余すは「全国高校・大學等の施設」へ送り届けて、まさしく「大団円」となる。
「創刊から38,年」の感慨は、いずれいろいろに胸に湧くだろう。
こういう「,独り」の作家、その個人の「創作と本と」が、きちっと纏まった編成編てき輯により、多年文壇や学校や識者・読者に「寄贈・送達」されてた事例は、明治以降の日本の文界に無く、世界にも知らない。
* 相応の資財が有ったのだろうと想う人も居る。どっこい、わたくに歯丁度100冊ほどの単行著書が有るが世に謂う私は居たって「ベストセラー作家」ではない。資産家に育ったのだろうとも。とんでもない、私を人手から「もらひ子」した秦の父は小さな「ラジオ屋」,祖父は小さな「餅屋」、嫁がなかった叔母は終生「お茶・お花」の先生をしていた。私は大学で奨学金を貰い、すべて返却し、就職した初任給、最初三ヶ月の支給は12000円の8割、新婚の妻は無職で家をまもっていた。私の財布には、会社の援助で昼食の白飯一碗と味噌汁とが買える「15円」しか入ってなかった。
しかし、年に二回のボーナスに私たちは一銭の手も付けず無条件に「貯蓄」した。これが、徐々に利いてきた。とにかく茂繪に描いたようなスカンピンの新婚夫婦として何年もを平然とすごしていた。貯金以外に先途は無い、が、必ずそれが利いてくると確信していた。事実、そうなっていった。
作家になっても、出版社に泣きつくような真似はしなかった。それよりも、かのになれば自分の手と資金とで堂堂と「出版」すればいい。幸いに私出版社の編集製作で15年半鍛えられた管理職の一員にも成り、『編輯・製作』本づくりの巨細まで学習していた。いま一例が,誰もの感嘆してほめてくれる大冊『秦恒平選集』33巻は、まさしく私の謂わば「手づくり」全集、むろん166巻もの『秦恒平・湖の本』も皆、然り。
* もう早や一年の「卆寿」へ、人生の、ゆるやかな収束へと、私は、妻と共にゆっくり歩いて行く。
2024 1/12
* 必要があり職人が室内で工作する。なにしろ狭いのだから、場を広げ置くのに深夜に起き,独り こつこつと力しごとで場を用意しながら、機械の前へ来ていた。六時をやや過ぎた。暖房を忘れていたので寒かった。
もう今日にも「湖の本 166」の一便は、寄贈者・読者へ届き始めるだろう。私にすれば大きな私史の一郭がまた相貌を替えて行く。
2024 1/13
* 『参考源平盛衰記』「経正竹生島詣」での美しい表現と描写に泣けるほど魅された。言葉を今に新たに訳してみたいと胸打たれた、が、私に,どんな余力が残って居るかしらん。
2024 1/13
◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰
◎ 新豊折臂翁 乱辺功を戒むるなり
新豊の老翁 八十八
頭鬢眉鬚 皆な雪に似たり
玄孫に扶けられて店前に向かって行く
左臂は肩に憑り右臂は折る
翁に問ふ 臂折れて来(よ)り幾年ぞ
兼ねて問ふ 折る事を致せしは何の因縁ぞと
翁云ふ 貫は新豊県に属し
生まれて聖代に逢ひ征戰無し
梨園歌管の聲を聴くに慣れ
旗槍と弓箭とを識らざりき
何(いくば)くも無く 天宝 大に兵を徴(め)し
戸(こ)に三丁(さんてい)有れば一丁を点ず
点じ得て 駆り将(も)て何處(いづく)にか去る
五月 万里 雲南に行く
聞く道(な)らく 雲南に濾(ろすい)有り
椒花(しょうか)落つる時 硝煙起こり
大軍徒渉するに 水は湯の如く
未だ過ぎざるに 十人に二三は死すと
村南村北 哭聲哀しく
兒は翁嬢(やじょう)に別れ 夫は妻に別る
皆な云ふ 前後 蛮を征する者
千万人行きて一の廻る無しと
是の時 翁の年は二十四
兵部の牒中に名字有り
夜深けて敢えて人をして知らしめず
偸(ひそ)かに大石を将(も)て鎚いて臂を折る
弓を張り 旗を簸(あ)ぐ 倶に堪えず
茲より従(よ)り始めて雲南に征くを免がる
骨砕け荕破るることは苦しからざるに非ざれど
且つ図るは楝(えら)び退けられて郷土に帰ること
臂折りてより 来来(このかた) 六十年
一肢廃すと雖も一身全し
今に至るまで風雨陰寒の夜
直ちに天明に至るまで痛みて眠れず
痛みて眠れざるも
終いに悔いず
且つ喜ぶ 老身 今独りあるを
然らずんば 当時 瀘水の頭(ほとり)
身死し 魂(こん)孤にして 骨収められず
應(まさ)に雲南望郷の鬼と作(な)り
万人塚上に哭くこと呦呦(ゆうゆう)たるべし
老人の言
君 聴取せよ
君聞かずや 開元の宰相宋開府
辺功を賞せず 武を黷(けが)すを防ぐ
又た聞かずや 天宝の宰相楊國忠
恩幸を求めんと欲して辺功を立つ
辺功未だ立たざるに人怨みを生ず
請ふ 問へ 新豊の折臂翁に
○ いま、老折臂翁翁穴地、私、八十八歳。
私の文學歴で云うと、まず幼稚園か戦時国民学校へ進んだ頃からの、日本の『小倉百人一首』和歌に馴染み、敗戦の前後、戦時疎開していた丹波でのくらしで、持参していた祖父鶴吉蔵書の中から掌に掴めるほどの小さな本、東京神田の崇文館発行、井土靈山選『選註白楽天詩集』の漢詩で,中でも此の『新豊折臂翁』に幼い心のまま深く深く共感したのだった。秦家には、祖父蔵書にも父母叔母の領分にもいわゆる「小説本」は絶無にちかく「婦人倶楽部」なとのなかに「愛染かつら」などの通俗作は混じっていたが軽蔑し見捨てていた.誰だかのユーモア作だけを時に読んでいた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私は「兵隊さんにはなりとない」と幼稚園の頃から口にする当時の大人らの目に「変な子」「妙な子」だつた。国民学校へ入って一二年頃には、がっっこうの職員室そとの廊下に張られた世界地図を友だちと見ながら、真っ赤な米国土の広さを指さし「勝てるワケない、きつと負ける」と口にしたとたん、通りがかった若い男先生に壁に叩き付けるほど殴られていた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私の六十余年前に幕の開いた「小説を書く暮らし」の記念の第一作・しょじょさこそは『或る説臂翁』であったことは、『湖の本 163』に久々に採録、どうかしらとあんじたが幸いに得に注目し好い感想を下さる読者の少なくなかったのに感動しました。嬉しかった。いわば白楽天に私・秦恒平は「作家・小説家」として育てられていたのだった。
2024 1/15
*些かの残務はあろうと、本日『秦 恒平 湖(うみ)の本』全166巻、1986年に「創刊」。38年間の「送付」作業を終えた。完結とは謂わない「集結」。私には大きな「一時代」を越えたと、感慨は、それまで。要は、作家として私の当然の「仕事」であった。この仕事が済んでも、当たり前に「次ぎ」がある。用意もある。
2024 1/17
* 何度も夜中に目覚めて、あれやこれと思案していた。終えた『湖の本』に次いで、好い感じの「新書版」で「小説」のための本を作りつづけるのはどうだろう、など、と。「励み」にも為るのでは、と。
2024 1/19
* まだ暗い六時すぎ。雨の音か。床を起つまえ、最新のやや長い自作し『蛇行(だこう) 或る左道變』を拾い読みした。「湖の本」最終166の巻頭にこれが置けたのを少しく自負している。読み返させてくれる一種の「気負ひ」で米壽の人生を結び終えたのを喜んで、さらに此の先へと気負い無く思わせてくれるのが有難い。
* 実は『秦恒平 湖の本』を嗣いで 岩波新書等の「新書版」で新作や私語を追おうかと思っていた、が、「本つくり」に精力を費やすよりも、「創る」「書く」にソレを用い、読者の皆様へは、とうせつのことではあり、パソコン内の「ホームページ」設営により電送する方が老境を労れるのではと。但し私には、以にかなり華やいで設営し得ていたような「ホームページ」を自作はできない。以前のは、東工大当時院の一年生であった学生君が、我が家まで来て呉れ,目の前でチャカチャカとすぐさま設計して呉れたのだった、前世紀の末であった。あの彼は、いまや大会社で重い地位にあるだろう。
誰か、今の東工大院生でパソコンの天才君を紹介してくれないかと夢見ている、が。 2024 1/21
* 謂うまでも無く、私、いわゆる『引退・隠退』作家になるのではない、ただ『秦恒平 湖の本』と謂う「発表の式」を終えただけ、また何を考えるか何も考えずに無鉄砲を撃ちまくるかは、これから先のこと、と。思えば何もかもこの勝手調子一つでやってきた。出版社や編集者に多くを頼まないままで「驚異的」といわれる多作を、毀誉褒貶の外で、好き勝手に送り出して来た。来れた。悔いるよりも、感謝して喜んでいる。
2024 1/24
* 「湖の本」を終えたと「伝えた」以降の在りように予定も計画も無いことに やや うろたえてないとは謂えぬ。シャッキリ考えて迷いなく処して行きたい、が。
○ 「湖の本」最終巻有難うございます。
そして、このような形での、まさに前人未到のご編集・ご発刊・ご発送を、長きに亘り 本当にお疲れ様でした。
「最終巻の発刊ご準備は順調でしょうか。」とメールをお送りした翌日、まるで木魂するかのように手元に届きました。
二〇日締め切りの書評も、月末締め切りの論文もありましたが、「私語の刻」(私のメールも載せていただいておりましたね)を読み、来月に取っておこうと思っていた『蛇行』までも、熱海へ移動する日の未明に、とうとう読み通してしまいました。
随分前にお伺いしていた「花筐」の、そして蛇の物語。
恵美押勝など多少馴染みの人物もいましたが、系図を整理しながら(歴史的人物は全てが実在人物でしたでしょうか?)、近江の地図等も確かめながら再読したいと思いますが、今は、こうして「作家として書き始めた」のだと改めて聞かせて頂いた心持ちです。
最終巻のための新たな創作としてぴったりと思うと同時に、「湖の本」が本当に終りなのかなあと淋しくも感じています。
一六六巻の編集も終えられていた今年のお正月は、熱海のお酒もゆったりとお召し上がりになられたでしょうか。
今、熱海糸川は熱海桜の花盛りですが、今日の午後は山の方から雪雲がかかり、浜辺にも海にもさあっと雪が舞いました。
この冬一番の寒気が降りてきているようです。
大仕事を成し遂げられた後ですから、しっかり体を休めて下さい。
そしてまた、新たな創作や歌などが生まれましたら、是非読ませていただけたらとも願っています。
どうぞお元気で。 深澤晴美 国文学者 大学教授
* 今の 私の感懐に寄り添うようなメールを貰った心地。感謝。大勢の方々の親愛に励まされてきた「秦恒平 湖(うみ)の本」であったよとしみじみと首肯く。三十八年前に第一巻「清經入水」を刊行したとき、十巻もとうていムリと笑った人も居た編集者のなかには。いつしかに百六十六巻へ来ていた。その気なら二百巻も難儀で無かったが。心神とも相談しての.潮時と決意した。どんな形でも仕事は続けられる。
* 自身の現状を認識把握して仕事しなければ。それが、ラクでない。
* なにもかもよく判って把握しているというワケに行かない。それが当たり前と心得ながら勉めるべし。
2024 1/25
* 平家物語は「異本」の多いことでも厄介なほど名高いが。巻末は大概『大原御幸』で結んでいる、らしい。巻頭は、よくよく知られた「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き」と覚えてきたが、なおその前に長大な『剣巻』を据えた完本もある
私の坐右に常置して愛読の四十八巻本『参考源平盛衰記』では「巻之一」より以前に行き届いた「凡例」更に通計一百四部の「引用書」が壮観を呈し、次いで本文「巻之一」から「巻之四十八」までの克明な内容「目次」が居並んで、そして直ぐ引き続きいわゆる「總目」には含まれていない長大な『剣巻』が四十八巻本の巻一余す全部を占め、据え置かれてある。何故に、そうであるのか。どんな「剣」がどんな重みで大長編の巻頭を占めるのか。通読だけでもたいへんな「貫禄」なのである。じつは、私もまだ読み切り読み採れていない、しかしこの『剣」こそが『源平』を必死に闘わせた、まさに「代物」だ。此の『剣』はいわゆる「三種の神器」の一に挙げられ、日本武尊の手で「草薙剣」とも改め謂われるようになった「神剣」、平家は壇ノ浦でこの神剣を海底に沈めた、源氏が後に苦辛して拾い上げたとされている。この「神剣の事変」こそが、まこと武家として『源平の戦い』であったと重く示唆して巻頭におかれてあるのが長編の『剣巻』。流布本の『平家物語』では割愛されがちで、目に触れる機会も私所持の『参考源平盛衰記』によらねば、まず誰も全文は読めていない。早急ぎせず、やはり、第一等の第一番に読みたい、これぞ「源平角逐・盛衰」をものがたるシンボル。読み落としたくない、可能なら「現代語訳して紹介」したいと願うほど。えらい仕事を背負い込みそう。
2024 1/31
* 私仕事の一部である「湖の本」を 38年、166巻も世に送り出したのを終結・収束したまでで、昨夏としての「読み・書き・創作」は死ぬまで続く、かな。ま、いろいろにお便りやお気持ちを日々頂戴している。忝いことです。
2024 2/2
* 目覚めの床のなかで 『参考源平盛衰記』で、倶利伽羅の木曾義仲と官軍平家との肉弾相撃つ激闘の叙事に吸い込まれていた。読めば読むほど今日語に置き換えてみたくなる、が、いま、私の心身にさほどの余裕はあるまいか、もっともっと早く手懸けるべきであった。
2024 2/3
* それと、大きな残生の「楽しみ方」をわたしは見つけた、『秦恒平 湖(うみ)の本』全166巻を第一巻『清経入水』から、「一読者」のように「読み通そう」と。著作者以外の誰にも出会えない「境遇」に、もぐり込めそう。私の「湖の本」一冊量は、孰れも、世に通行の「単行単著の一冊分」にほぼ相当している。166冊の自著単行本をみな読み返そうと。いま、真似の出来る誰一人も無いだろう。
* などと呟きながら、要するに、ナアンにもしないで知日を休んだ気分。八日の「私語の刻」 すつぽかされている。やれやれ。
2024 2/9
* 「實盛被討」を『参考源平盛衰記』から書き写している。何のタメにと我ながらおもわぬではないが、書き写したくて。
* つまりは、何かしらから解放されて好き勝手をし始めていると云う事かも。 *
2024 2/12
○ 秦恒平 様
今から95年前、秦テルヲ(=画家)が瓶原(みかのはら)の好本家から借りていた住まいから京都市内に戻る年(私の母恵子が生まれる年の初夏の頃でしょうか )に、 秦テルヲから直接か好本家からかはわかりませんが、好本家とは付き合いのあった祖父へ、次女の誕生祝いであったのでしょうか(好本家は父方祖母(岩田八重 旧姓好本)戴いた作品が(絹本のまま表装されず昭和四年の新聞に包まれて)あったのですが。
コロナ禍の前に(京都三條通り上ル神宮道の=)星野画廊さんに表装してもらうように預けていました。
先日、できあがったと連絡があり引取に行ってきました。
星野桂三さん(=画廊主)表装によってとっても良くなった言われ、驚かれるできばえだそうです。
人も風景も描かれていない、秦テルヲが瓶原で生んだ作品の中では、これだけではと思える特異な作品です
じっと作品の前に立つものを「見つめてくる雀の眼」に魅かれます。 孝一 拝
(恒平実父吉岡恒の甥 叔母岩田恵子長男 恒平と従兄弟)
* 優れた画家の業績を遺した「秦テルヲ」と私の養家「秦」とに縁があったとは思いにくいが、何も知らない、ただ此の優れた画家が、私の長編『墨牡丹』などで親しんだ華岳や麥遷ら「國畫創作協会」の近辺にかなり自在に活躍した画家とは承知している。京都の加茂大橋邊の「テルオ」と署名の素晴らしい『雪景』小品を,星野画廊で買い入れたこともある。なんだか、またタマラズ京都へ帰りたくなった。
* 孝一君もおげんきで、何時も名からの親切も感謝に堪えない。一度、いっとう末の叔母恵子と母子で下保谷の吾が屋までも訪れてくれている。何かと気を配っては私の父方、叔母にも父方の南山城吉岡本家の様子などを知らせてくれ、南山城の風土を伝える資料類も送ってきて呉れる。有難う。
* 引き換え、生母「阿部ふく」方は、縁戚との触れ合いがほぼ完全に絶えている。滋賀県能登川辺で「阿部」といえば豪商「近江商人」の蟠踞し発展したという土地柄。
建日子などが、文藝・文學への本腰で探索・展開し調べて行けば、想像を超えた重量級の史実と縁戚と物語が広がっていて、巨きな規模の「歴史と創作」との世界が手に入るのだが。立ち向かうに足る勉強も意欲も育てていない。甥の黒川創に期待してきたが、はや、もう老いてきている。姪の北澤街子の質実ににじつは私は素質的にも期待をかけていたのだが。どこで、どう暮らしているかも判らない。
私は。百裁までできるしても、何より「身動き」「歩く」ことが出来なくては九州から江戸ヘまで参勤交代を引き摺るような宏大そうな「母系阿部」の歴史、戸口ヘマでも近づけない。探訪がならない。
2024 2/14
*『参考源平盛衰記』の「實盛被討」の文章と表現とを、試みに書き写している。
2024 2/14
* 昨日戴いた作家、歴史家の相原精次さんのお手紙が胸に熱く響いて感謝している。長文なので措くが、私の近作『蛇行』ほかへも深切の批評・感慨を寄せて戴いていた。
* 夜の不通の常識として作家・作者は出版社・編集者の「判断」にまかせて仕事を買い上げてもらって「本」にも成り、雑誌等にも載せてもらえる。わたくしの場合も初期はそうであったが、「作家」と世に認められた些少は「私家版本」巻頭に載せてお他『清経入水』が、全く与り知らぬうちに与り知らない選者先生達により『第五回太宰治文學賞』に選出されていたのだった。以降も、多くの読者はご承知のように、私は、自作のほぼ全てを自身の手で書籍にし世に送り出してきた。(とは云え、出版と編集者」の手で作られた単行書籍も、数えてみると大小百冊を二三越すほど在り、しかし自身の手で作り送り出した浩瀚な『秦恒平選集』は三十三巻、『秦恒平・湖(うみ)の本』は百六十六巻に及んでいて、「湖の本」一巻分の原稿容量は世間に小売りの単行本一冊にほぼ全て「相当」している。総量は、我ながら愕くばかりの数え切れない原稿枚数に成っている。世界にも禮は尠い、そういう生涯出版を、私はほぼ『自分自身』の手で進め、進め得てきた。懸けた全費用は、全て私と妻との協力で、スカンピンの新婚以来に蓄えた貯金を宛てている。「頒価」を附けていた時期も長かった、が、近年はすべて「呈上」に切り替えて、千を少し超す冊数を餘ニ送り出していた。書いた創作で儲かる・儲けようという気は希薄だった。
* 私・秦恒平とは、そういう「作家」なのであって、そういう後続の「作家」が跡を継いで出て来ないらしいのが、当然なのか、歯痒いのか、判断がついてない。
私はこれを、いわば「日本近代文学史」の史実と自覚して書き置いている。ご批評・ご批判も得たいと願う。
2024 2/16
* 「サツチャンはね」と愛らしく歌い始めるあたらしい「仕事」を足がかりに「京都」「東山」「有済」を彫り起こし初めても居る。
しかし、かなり睡いいま払暁五時五十五分ナリ。やや空腹か。妻も猫たちもまだ寝入っている。
2024 2/21
*「湖の本」の終結は、私が読み書き添え作を終結したのでなく、単に,従來版の「本」をもう従來の条件で業者が「宅配」してくれなくなったこと、千にかなり數越す部数を妻と二人で「発送」するのは作業として無理と自明なので「終結」ときめたというに過ぎない。「潮時」が来たと謂う事で、別儀は何も無い。
* 私は一種の「思い出」人間で、八十八歳の今モ、遠い記憶は、南山城の吉岡本家から京都の「秦ラジオ肆」へ引き取られた数歳の幼少へも帰って行ける。その時から自分が「もらひ子」なのを間違いなく確認し得ていたし、抗う術の無い自身の運命と心得ていた。事実にむかい反抗したり否認したりして暴れたリしなかった。
2024 2/23
* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27
* 機械の「メール」機能を損傷したか、受発信ともに不能になっている。それと伝えるスベもない。まさしくの「機械ばか」で、機械クンには甚だ申し訳ない。
2024 3/15
* 無慙に、横綱「照ノ富士」が負けを重ねる。どう見てもあの両脚は働かない。気の毒、だが潔い引退をと願う贔屓は多かろう、私も其の一人に数えられて仕方ない。奈落まで一度落ちて其処の底からみごと這い上がって強い「横綱」に成った美しい眞実を忘れていない。生なかの覚悟で出来たことでない。栄誉ある引退が「大相撲」のためにも「横綱照ノ富士」のためにも望まれるのではないか。
* 「瓦解」を重ねて行くだろう私にも「思い切り」の覚悟が必要と心得る。幸いに「読み・書き・創る」ことはお相撲のように「勝ち負け」でない、精魂の限り一人でも独りでもできると信じていて、可能に遵う気は捨てない、が、体力気力が効くなら、実は、静かな海や山野へ、もう一度の「旅」がしたいのだ、「四度の瀧」や「伊勢・大和」や「橋立」や「奥日光」や「瀬戸内」や「丹波の窯」や「仙台」起きの松島」などへ。 ああ。京都へ、それも知恩院下の白川や狸橋や新門前通りへ。東福寺境内や泉涌寺の来迎院へも。
* このような「感傷」を、わたしは大事に胸に仕舞っています。ひさしぶり。小説家もいいが歌集『少年前』『少年』以来の「歌詠み」に戻ろうか、など。
* 要は、一度。何もかも諦めて忘れてしまう事か。
2024 3/15
* ワケ判らずに多くが機械から失せたり.捜せど見つからなかったり、無駄な時間をたくさん費やして,容易にサキも開けない.情けない。メール機能を全部見失って、書きも送りもならず、弱った事に過去の保存分がみな見当たらない、いわば「わが日々の歴史」が消え失せたよう。やれやれ。
* もう午後と感じていたのに、午前九時十五分にもなっていない。進級の機械と格闘しつつ何の結果も展開も掴めてい判っているのはメールが送れず、受け取れない、という機械世間での「孤立」状況、だけ。
みんな投げだし、讀書の森林へ身を置きに入って行くか、幸い、これは即座に可能。
* 午後三時過ぎ、「マコ」が家出したりし、連れ戻すのに疲れる。ドンヨリと心身鈍く重く、処置無しの態。弱くなったものだ。幸いに,逐われる用の無い身になっている。疲れれば寝る、の一手を遣えば宜しい。しかし、疲れる、草臥れている、グッタリというのは有難くない。
メール機能が使えないのも奇妙に「孤独」。やれやれ。自業自得の「機械バカ」な私です。床に就いて、本を読みます。「本」は家に溢れているし。自分で書いて市販の「単行本」になっているのが百数冊、『秦恒平・湖の本』が全百六十六巻。百まで生きても読み切れまい。ところが、他人(ひと)の書かれた論地や選集や全集は単行本が十数メートルに延びた書庫三面の書架に溢れている。建日子はどうするだろう…呵呵。
* どうすればメール機能が恢復出来るのか。見当もつかないとは,情けない。
* 寝てばかりいる。夢見ながらも、なにやら唱っている、らしい。
2024 3/16
* ワケ判らずに多くが機械から失せたり.捜せど見つからなかったり、無駄な時間をたくさん費やして,容易にサキも開けない.情けない。メール機能を全部見失って、書きも送りもならず、弱った事に過去の保存分がみな見当たらない、いわば「わが日々の歴史」が消え失せたよう。やれやれ。
* もう午後と感じていたのに、午前九時十五分にもなっていない。進級の機械と格闘しつつ何の結果も展開も掴めてい判っているのはメールが送れず、受け取れない、という機械世間での「孤立」状況、だけ。
みんな投げだし、讀書の森林へ身を置きに入って行くか、幸い、これは即座に可能。
* 午後三時過ぎ、「マコ」が家出したりし、連れ戻すのに疲れる。ドンヨリと心身鈍く重く、処置無しの態。弱くなったものだ。幸いに,逐われる用の無い身になっている。疲れれば寝る、の一手を遣えば宜しい。しかし、疲れる、草臥れている、グッタリというのは有難くない。
メール機能が使えないのも奇妙に「孤独」。やれやれ。自業自得の「機械バカ」な私です。床に就いて、本を読みます。「本」は家に溢れているし。自分で書いて市販の「単行本」になっているのが百数冊、『秦恒平・湖の本』が全百六十六巻。百まで生きても読み切れまい。ところが、他人(ひと)の書かれた論地や選集や全集は単行本が十数メートルに延びた書庫三面の書架に溢れている。建日子はどうするだろう…呵呵。
* どうすればメール機能が恢復出来るのか。見当もつかないとは,情けない。
* 寝てばかりいる。夢見ながらも、なにやら唱っている、らしい。
2024 3/16
* 機械が 手に負えず 困惑 なにもかも故障かと。そして私の体調も アタマの働きも グチャグチャです。此のメールが送れるのかドーカも判らないで居ます。元気でいて下さい。 今は、それだけを願います。 ボヤーッとしています、なにもかも。けれど、生きていますから、それは安心して下さい。 読めるかどうか、読めたら 読めたとだけでも返信しておいて下さい。
* なにもかも おハナシにならず「衰弱の気味」。それでいて「着手」したいあれこれの「仕事」に心惹かれている。
『参考源平盛衰記』巻初の『剣巻』は「読むに値い」の力編、清明に訓み下してみたい、とか。「平家」の、副都「福原」を西国へ陥ち行く前夜の、一問を挙げての管絃舞踏の宴もまことに美しく、この、全四十八冊もの「盛衰記」は広く読まれたいとしみじみ思うているが。もっと早く元気なうちに敢然「全訳」に手を染めたかった。まさに残念。
* メール機能を機械から見失い、なんとも、淋しい。
2024 3/20
* 冒頭箇所に お手持ち「欠巻」分「無料呈上」の広告を置いた。 ご遠慮なく お申し付け下さい。
2024 3/21
* この日ゴロのテレビドラマで、淡谷のり子の役九が大事に登場しているのが懐かしい。敗戦後にも「ブルース」という謂いようで聴いていた。美空ひばりや笠置シズ子とくらべなんとも「大人っぽい」と 聴きながら不思議に耳を澄ませていた。はるか後年に、ペンクラブか文藝家協会の会長だった、可愛がって戴いた山本健吉先生と淡谷さんと「鼎談」したことがあり、「存在感」のあるひとだった。淡谷さんは「美空ひばり」に厳しいと聞いていて、山本先生も私も「ひばり好き」だったので、鼎談中にも話題が賑わったりしたのを憶えている。あとで山本先生の曰わく「ひばりをけしかけて、面白かったな」と。
和揺る流行歌首都ちがい、淡谷のり子のブルースなど、流石に逸品と聴いてきた。鼎談にも、こころよく乗ってきてもらえた。あれから、もう何十年になるかなあ。
20243/21
* 昨日から、『信じられないことだけど』 新しい、少し長いめの小説を、いくらか奔放に、成って行くにまかせ書き継いでいる。
書きたい材料や想像が底をついて、埃だらけな地ベタがあらわに、という気味は感じていない。書き飛ばさないまでも、抱いたままに、「オイ睡るなよ」と突ついてやる「想い」「アイデア」はいつも胸にある。我独りで済むなら「それ」だけでも宜しいのだけれど。
2024 3/23
* なにと。事実、一日二十四時間の二十時間を床に就いていた。幾らでも睡れて、疲れはひしと身を咬む。
* 認知症が、アタマに来るほど、正確に肉薄してきている。忘れるはずのないコトが思い着かず、思い出せない。だからこそ、根気よく「私語原版」での『秦恒平・湖(うみ)の本』を継続このパソコン上に「発表」「送付」し続けたい。
2024 3/26
○ 前略・御高著『湖の本』(166)お贈りいただきありがとうございました。拝読してからお返辞をと思ったため御礼が遅くなり、いたく失礼いたしました。
「これにて「最後の一巻とされるとのこと、とても残念な気がしますが、お手ずから発送の労を執っていただいたものをうれしく頂戴していた身としましては、「続けて下さい」とおこがましくお願いする資格はないとも思います。これまでのご芳情にに、心より御礼申し上げます。
それとともに、ぶしつけなお願いですが、創作の方は少しずつでも続けていただければこれほどうれしいことはありません。薄ぺらくなってしまった現代文学の世界に、王朝古典の文学遺産を受け継ぐ秦さんのような重みのある作家が存在することが是非とも必要だと感じております。
どうか御身ご大切にお過ごし下さいますよう。
都 世田谷区上祖師谷 土方 洋一
* 厚く熱く 感謝。「湖の本」の終結通知に寄せられた沢山な読者の皆さんからのお便りをおおかた取り纏めたようにお書き下さっている。
* で、今、此処で取り纏め「作家の私・秦恒平の今後」を希望とともに展望しておきたい。
私は、相変わりなく「読み・書き・読書と、創作」の日々を続ける。その餘に、私の生きようは、無い。
「本」の形で「百六十六冊」刊行し続けた『湖(うみ)の本』は、以降「第二百巻」までを目途に、この『秦恒平 私語の刻』欄を基本取材の「場」とし、途絶えず、「すがた・かたち」も工夫し、日々書き継がれて在る「原作・原文を編輯・編成」して、いまも「此の此処」に、「掲載し続け」ます。「本のカタチ」で印刷・製本し発送するのは、やがて「卆歳」の夫婦の手には流石に余るからです。ご理解ご承知下さい。
メール便での送付は手安く、「それがいい」とお考えの方は「原稿送付先となるメール・アドレス」を「秦宛て」予めお教え置き下さいますよう、別途に私用、まして悪用する事はありませんので。
みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく 光るおほうみ 恒平
2024 3/27
* 指先が痛いほど寒く、冷たい。
* メールでの交信や對話が不可能になっていては、湖底に沈んだ一粒の砂利のようだ。やれやれ。われ独りの時空を紡ぐ「静かさ」よ。いま、早朝の七時二十分。両脚が、痛むほどの冷え。上ハむやみと着重ねられるけれど。
ま、メゲていないで、新規造成、第二百巻をめざす『私語の刻』態りに新たな『秦恒平・湖(うみ)の本』第百六十七巻を創って行く。太宰治賞がまさに舞い込んできたころ、大きな俳人であられた荻原井泉水さんは大きな字で『花 風』の額を下さった。山本健吉先生は、師であられた「秋艸道人」がさらに師から承けられた『学規』を自書されての扁額を下さった。優れた鷗外學に稠密の新生面を築かれた國文学者長谷川泉先生は部下でもあった私の「作家」への旅立ちに即座に『文質彬彬』の四大字を書して行く手を示して下さった。信じがたいほど大勢の先達・先師から私は、「創り 成し 学び 続けよ」と「励まし」て戴いた、戴き続けたのだ、それは今なおなんら変わらない、私は「卒業」してなどいない。
寒くても、痛くても、シンドクても「道に、先」はある。
* 午前十一時過ぎ。「先」 容易には見えない。沁みるように両眼痛く、空腹感。
人の、聲や言葉が聞きたいが。メール機能が働かない、というより働かせ方を忘却しているのか、も。
2024 3/28
* どうしょうかと思いつつ、やはり早起きした。猫チャンのアコもマコも喜ぶ。 寒い。
やはり第一義の仕事は途中の新創作を巻頭の要に追いつつ、いわば「私語の刻版」、『新・湖の本 第167巻』めを、もう郵送でなく、「メールで引続き<電送>の利く読者」宛て送り出せるよう着々「用意」「進行」する事。印刷所とも製本所とも縁が切れて、ますますの、本格の「パソコン作家に腰を据えてかかるのである。人生、弾むように推移する、永かった過去も、卆寿をまつ夫婦での最晩年の「仕事」も。
* と言い続けながら、私、いま大肝腎の「メール機能」を見失ったまま、唸っている。認知欠損気味に「卆 九十歳」へ滑り落ちて行く「生涯一作家」を、誰方か援けてと、やっと弱音になる。。
2024 3/29
○ 三月下旬の天候ですっかり遅れた桜の開花、そして一斉に桜開花宣言です。が、昨日はまだ開花の気配を感じられませんでした。そちらはいかがでしょうか。桜を精一杯楽しんで欲しいと心より願っています。
シンガポールに暮らす娘は桜の時期に出会うことなかったので、今年こそはと思っていたのですが、3月29日に帰って行きました。腕白クレイジーな孫たちも・・。急に静かになりました。山ほども家事、用事があり、わたしは「お疲れ」です。
でも何より気に懸かるのは、鴉 あなたのこと。気力確かに、うららかな日々であって欲しい。 尾張の鳶
* ぐったり 尾張の鳶へ
凸版印刷の担当者宛て たった今 送ったメールです。鴉の近情です。
在来の『秦恒平 湖の本』を百六十六巻で一先ず「休止」しましたのは、「卆寿ちかい夫婦」での「発送」作業がもう無理と感じられ、体制を替えねばと思ったからです。
結果として、尠くも第二百巻までは、私の「ホームページ」ないし日々の「私語の刻」の上ニ、毎回その「最新巻」に「『秦恒平・湖(うみ)の本』 (長短編小説) (秦恒平・私語の刻)」』という <従來通り>の大構成で{継続公開}し続けまjすとともに、すでに年久しい「メールアドレス読者の皆さん」には、全一巻ごと、全員「電送」でお届けをと「計画・予定』しています。
これですと、家内に負担掛けず、私の手慣れた日常「創作」過程の儘、私独りでの発信・送信作業で、みな「要」が足ります。
「第二百巻まで」「もう三十四巻」仕上げられれば、ま、わたくしの「作家人生」も もう いつ「綴じ終えても」宜しいか、と。「命」続くかの方が よほど案じられますが。 この一年・半年の,私 疲弊・疲労困憊は甚だしく、今日も、近くの病院通いでしたが。「栄養失調」に「相当」していると。酒よりも 蛋白質・脂肪を「食べよ」と 𠮟られてきました。
じつは いわゆる「新書版」で やはり「本」の形に創り続けたい気がありました、が、やはり「発送作業」の疲れは夫婦に及びますので、断念。「出来本」は、ホームページで観て戴き、メール可能な方々へは全て「電送」でさし上げると 覚悟しました。
以上、只今の存念です。ご懸念恐れ入ります。感謝申しあげます。今後とも、お見守り下さい。
秦恒平 「湖(うみ)の本」版元
2024 4/1
* 久しい勉強や文筆・私語の刻から「義務的」という麵からはすっかり解放されている気か、ホワーンとしてかなりに馬鹿げ、孤独である。メールも、在来保存のらいかんに「返信」のテイでしか送れず,新規には出来ない、らしい。従來とも新規にとも届くは届くのか。それもボンヤリしている。やれやれ。
* 大事なのは,信仰している長いめ小説の新作をハカどらせること、それを巻頭に、「私語」とも組み合わせの「秦恒平・湖の本」167巻めを仕上げて読者の方々へ電送すべく努めること、です。
2024 4/3
* 疲弊、鎮まらない。老病の一種と、黙然、怺えている。
* 機械の上での戸惑いや誤操作らしきは避けがたい通過儀礼めくと忘れてしまう事に。
* 書くのは「小説」「私語の刻」
他はひたすら「読書」を愉しむ,枕許に、ほぼ何時も、十二、三冊の大小本を選んで置いている。 小説は大作を。『悪霊』『主演女優』『モンテ・クリスト伯』『源氏物語』 歴史書は『参考源平盛衰記』『中国上古史』『平安朝 上下』『大鏡』など。当 當今の書物は、概して「戴き本」のみを。
2024 4/6
* 「信じられない噺だが」書き進めている噺のある尻を押してやらねば。
2024 4/17
* 私の仕事ヘヤはヘヤは二階に六畳、私の大きな選集三十三巻はじめ、特大の事典・辞典・選集等々が百五十巻近くは収蔵の西壁に作り付け書架は別としても六枚の疊のに充満して本やモノが犇めき群れている。書も繪も写真も大小惘れるほど多彩に、かすかにも置ける限り荘れる限り餌も「場」を塞いでいて「鳴り」わたっている、つまりである、古來閑雅を、良し嘉し佳とした『書斎』の観念像をコナゴナに爆発させたように窓前と一瞥雑を極めている。当然に妻と建日子とは余儀ない例外に入ってこない、が、「機械の不機嫌など」あると万万仕方なく鬚髯の技の利く人には、何度か、東工大の卒業生学生くん何人かに入って貰わねば済まなかった、さぞ惘れたろう。趣味でそうなっているのではない。仕事暮らしに余儀ないモノの氾濫が収まりつかないということ。仕事とは、機械やモノを「片付ける」用事では無い、私の場合、どう散らかろうが毎日の「読み・書き・読書そして創作」が仕事。乱雑を整頓するのは年に一度二度で済ますしか無い。此の六ぢょうの書斎は、誠に温かい、暖かくも在る。くつろいで時には仕事の倚子や片隅のちいさなソファで寝入る事もある。全くの「私室」である。
2024 4/20
* 建日子が来て 階下 二階 機械の「メール受発信」を可能に手入れしていって呉れた。ありがとう。感謝。子を持てている幸せと、安心。
この安心、建日子にも持たせてやりたい、が。わたくしは、四歳頃に秦家に「貰い子」されたのだ。
2024 4/20
* 他記事など 行方不明
2024 4/21
* 此の日録が 「見えて・読めて」いるのだろうか、全然感じ取れていない。メールも届いてない。
2024 4/23
* 現に、この機械画面で昨日も今日も私が何を書いて、如何書き遺し、また伝え得ているのかが、まるで判らなく理解出来なくなった。
メールと謂う作業も 果たして出来て伝え得ていたのか さっばり判らなく理解出来なく、なった。老耄が繪に描くように私を捉えだしたらしい。
2024 4/23
* 現に、この機械画面で昨日も今日も私が何を書いて、如何書き遺し、また伝え得ているのかが、まるで判らなく理解出来なくなった。
メールと謂う作業も 果たして出来て伝え得ていたのか さっばり判らなく理解出来なく、なった。老耄が繪に描くように私を捉えだしたらしい。
2024 4/23
* 例の如く 早朝から機械クンのご機嫌斜め。やれやれ。いくつかの記事を見失った(らしい)。ショが無い。拘泥せず。
2024 4/25
* 機械クンのご機嫌よろしくなく、朝早くから うろうろている。それがアタリマエになってきた。消え失せている記事が幾つか。思い出せもしないが。
2024 4/26
* 『信じられない事だけど』小説を書き継ぎたい、が、グタと寝入っても仕舞いたい。やれやれ。なにか新鮮に目先を変えてみたいが。ときどき「俳句」という馴染んでこなかった世界が想われる、
内藤鳴雪の『鳴雪俳話』、ことに芭蕉と蕪村句の「引例」に惹かれている。小説で、熱心に蕪村を採り入れてた事があった、何を書いてたかなあ。
また、りまとめて芭蕉と蕪村とを「読んで」みよう、本は、いろいろ揃っていることだ。
2024 4/26
* 左眼が視野を喪いかけている。(上田)秋成先生の「あと」を追うてはならない。謂い知れぬピンチに立っている。要心しか無いか。「讀書」できなくなっては生きてられまい、それなら、讀書の量と中身と場所とに「要心」のほか無い。
わたく識り『私語の刻』とは「機械に書く時」を謂うている。視覚無くてはあり得ない。目を労るしか無い。と、謂い云い要らぬ事ヲ「書いて」いるよ。
2024 5/1
* 遣い慣れてはきたが、この私用中パソコンの機能・起動能力はもはや終局か、否な、私の理解と技術が「破産」状態なのか。もう、何かにつけ終盤へ坂道は下る一方に感じられる。嘆く事か。受け容れて、そして、転んで怪我せぬ事よ。
* 「信じられない話だが」と断りながら、長いめの新しい小説を「創り」続けている。
* 大辞典にはさまれて、こんな紙切れの「歌」が出てきた。
さいつ瀬をいづくへ流れゆくはてぞ
はてもなぎさのさいのかはらぞ
かなりに 実感。いま創っている小説、何処へ流れつくか。
2024 5/3
* 深澤晴美さん メールありがとう。
「文学史を新ためる」ほどの「論文・論攷」が書けました時、ぜひ読ませて下さい。わたしが存命の内に。老耄・老衰、もう私も残り少なく。
事情は有れ、暫くメール等の途絶えていると、おおかた向こうサンも私と同世代、ふと、悲しい予感に震える。お元気でとせつに願い祈る。
最期かと想う長めの小説を、信じられないはなしだが、書き進んでいます。「終わる」前に、「終わり」と、間に合って欲しい。頑張りますと、自分で自分を励ますばかり。
熱海どころか、街なか近所の銭湯へでも一度行ってみたいなと思ってますが、危ない、と。
危なくないことなど、もう何も無いです、呵呵。 南山宗遠
2024 5/6
* 京都へ帰りたい。帰りたい。いま目の前に、貰われ、そだててもらった新門前通り仲之町「ハタラジオ点」の和家屋が表から奥の離れ、藏まで、ちいさいがまことに清明な佳い写真になって置いてある。『選集』何巻めかの口絵写真には「容れた」だろう。
2024 5/7
* いま早朝の、六時半に成ろうとしている。馬琴に脅されてないで「信じられない咄だが」私の創作も先へ先へ進めたい。
2024 5/8
* いま私には 心安いことに、対外、外向き、に何の約束も気兼ねも無い。「老い」の一徳で、また一得一失と謂うことか。「好きにして、よろし」と謂うことか。
*「好きにして、よろし」で思い出す、
有済小学校から新制弥栄中学の少年時代、京都でも名高な「疏水」の水量を大きく長々牽き回してきて、鴨川の二條東あたりか、かなりに広い「ダムっぽい水域」が成されていた。
なぜか其処は「武徳會」と呼ばれ、京の少年・青年のおおぜいが真夏になると「入会」し、「組」「級」の階級別に、「組」のうちは水泳を指導者「教わ」り、「級」へ擧がると、「好きにして、よろし」と、広々とした水域を「自由に」游がせて呉れた。私も「好きにして、よろし」と許可され、夏休み、鍋底のような「京の暑い極み」を、「ふんどし」のまま新門前の家から武徳会へテクテクと通ったものだ。
* つまりは、今や義理立ての「たのまれ仕事」はしないし、無いと謂うこと。「好きにしやれ」の「老の坂」をわずかに上へ下へしてるのです。
* このところ 日録 重複等の混乱がある。ショがないとなかば放ってある。
* 書庫に入ると、時の経つを忘れ、出て行くのを忘れる。書庫に、ひとの本を積み起てて、自分自身の百冊に剰る各出版社からの単行本も刊本も、「湖の本」166卷もすらも容れてない、収容してない、というトンチカンに気づいた。数多く、しかも「本は重たい」ので、隣り棟から「運んで」くるのは重労働に過ぎる。参るよ。
2024 5/9
* 機械(此のパソコン)の惨憺たる混迷 もはや私の手に負えない。
ここで「放棄」すれば、一切が「途」を喪う。
古い旧い機械にしがみついている。そばに、新しい機械が在るのだから、思い切って乗り換えてしまう「べき」なのだろう。今私用の古・舊機は「このまま」保存しておき、私自身の「向き」を新しい機械に慣れる方へと向き帰るべきと、思う。
いま、この遣い古してきた舊機で、「メール受発信」も甚だ難儀になっている。
* 「新機」を本格に私用し始める必要な「手順」を践めるかどうか、それさえ、心許ない。
京都の羽生淸(はぶ・きよ)さん、直木和子さんから、お心入れの名菓を頂戴し深切なお手紙を下さった。とくと、心静かに、感謝し、拝讀した。
* わが感触では、ほぼ「私の作家人生」は、そして「人生」は、ようやく「挽歌」を以て幕を引く時節へ来ている。 まさかに自身で書いて歌うものでないと思っていた。
2024 5/20
* ところで、都。病院で長い廊下の「待ち時間」にと、これも秦の祖父譲り、このところ愛読のの『鳴雪俳話』を持参、芭蕉や蕪村のしみじみと懐かしく美しく面白い秀句を愉しませて貰った。和歌短歌はもう他人様の作を頼みにしないが俳句とのご縁は、まだ淡い。そして面白く読めてきつつある。面白く作ってもみたいナと、待合のベンチせきで妻を横に座らせたまま、思いかけていた。
2024 5/27
* 作家・秦恒平の「今後の活動と展開とに関して、有難い大きな「提案」をうけ、有難く「承諾」しておいた大事の記事も、みな、記事消失。なんとも、ハヤ。
2024 5/29
* 五月分の「私語の刻」を、送ろうか、どうしようか。
2024 6/4
* 小説をどんどん書き「進め」たい、が、ややこしくもあって。
2024 6/4
* 信じられない事だけど,小説に「手」を掛けつつ書き継いでいる。急ぐより、愉しみにしている。成るか.成って行くか。アタマの中の幾つもの鈎を外し外し書き継いでいる。ああ、こういう、これだけの事をして終える人生であったんだと思い当たる。
さ、もう少し、もう少し。所詮は「読み・書き・讀書し創作」の他は出来ないのだから。
2024 6/6
* 六月には,桜桃忌、1969年、太宰治文學賞を受けたという節目がある。以来55年が流れたと。まさしく「我が道」を歩いてきた。走らなかっと思う。
2024 6/8
* 「書いているモノを 「ホームページで広く」送り出せずにいる」のだから、秦も此の世を「失せたか」と想う人も増えてこよう。それは、ま、それ。自滅を吾から促すことは無用と。
メールを、ほとんど送り出していない,此の数日。
もういいかい。まあだだよ。
* もう二十年前になるか。
当時、まだ院にも進んでなかった一東工大生がわが家に来て呉れて、眼もあざやかに美しく目の前で開いてみせて呉れた『秦恒平 私語の刻・ホームページ』が、それは嬉しく有難かった。感謝に堪えなかった。
だが、多く歳を経て「機能が故障」したときには、また新たな東工大生らの手を頼んでも、借りても、元へは戻せなかった。最初期のあのような「ホームベージの門構え」は再建できず仕舞いに、書き物の広い世の中への送り出しは出来ぬまま、今日に至っている。 残念、至極。ウーン。
2024 6/8
* 短歌とも謂わない、ただ「うた」が、ごくあたりまえな感じのまま、口をついて、ヒョコヒョコと出てくる。面倒なので「書き留め」もしない、イヤイヤ紙切れに走り書きしたのが、何枚も紙くず然とほうってある。いつの詠作と日付ももうまるでわからないが。
* 八つ赤くひとつが白き椿かな
(これは手洗いで、フト口をついたと覚えている。)
* 惜しげ無く花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
書いてみると オボエがある。
* 傘の寿へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて 私らは、現今ではもう八十八の米壽。これは、八 十歳以前の呟き。
* キリがない。もう十一時近い。階下へ。
2024 6/13
* あらざらむ あすは数へで この今日を
ま面(おも)に起ちて堪へて生くべし 生きめやもいざ
(この詠、いつの歳かの 春四月二日 と記録している。)
2024 6/14
* 此の『作家・秦恒平の私語の刻』が、166巻で一息入れた『秦恒平・湖(うみ)の本』のあとを追う。巻頭にも居きったように私の『私語の刻』は「文藝の表現」をつよく意図しており、加えて、創作した「小説の新作」も効果的に工夫し「組み入れて」行く。大凡は「一ヶ月を三分する」どの分量で「秦恒平の私語の刻」にお付き合い戴く。メールを利用する、印刷して郵便では重労働に陥る。当分はなにかと「試みつつ」お届けしたい。むろん従來の儘に「無料呈上」のメールなので、お好きに処置して下さい。本然は、『私語』される「表現と内容と」に在ると、ご不要の方はお知らせ下さい。新たに「読み初め」たい方は「メール・アドレス」を御指定・ご通知下さい。決して濫用はいたしません。
* 「当分は不慣れで躓く」か知れませんが、半世紀を遙か超す「作家・編集者」新たな努力で、老耄と闘いながら、勤めてみましょう。笑って下さい。ご期待下さい。ナニ、「私語」を「お聞かせ」するだけのことです。 秦 恒平
2024 6/21
* 『日本文化』を、すこし遠慮して『京都文化』とちぢめても、その本質は「女文化』と見極めてきた。著作・著書もそれにそって『女文化の終焉』等々沢山書き遺してきた。
八十八歳 もう遠慮無く日本『文化』に化けている多彩な 日本『女』を「私語」して見極めてみてもいいのでは、と思いかけている。如何。
2024 6/23
○ 今日(23日)は雨の日曜日、仙台も遅い梅雨入
秦恒平 先生 ご体調いかがでしょうか? 体重56.39gとか、随分軽いですが、それくらいの方がよろしいのでしょうね。
仙台も梅雨入りで肌寒いほどです。暑さもちょっと一休み、雨もまた いいものです。こんな日は、やはり読書と手紙書きですね。
「読書」といえば、子どもの頃から翻訳モノばかりでした。小学校低学年の頃は、キップリングの「ジャングルブック」、ジェーン・エアの「嵐が丘」、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」等々。高学年になるとスウェン・ヘディンの「ゴビ砂漠探検記」やスコットの「南極探検記」に魅了され、将来は探検家になろうと夢想したものです。
中学生ともなると、福田恆存訳のシェイクスピアや原卓夫訳の「カラマーゾフの兄弟」には、圧倒されました。
なんとか原文で読みたいと、早朝のラジオで「ロシア語講座」を聴きましたが、早起きが苦手な私は長続きせず、挫折してしまいました。
そんなこんなで日本の作家の作品に触れる機会は教科書以外にはほとんどありませんでした。そのせいか、オトナになるまで、「翻訳調でない」日本語には違和感がありました。
私が、初めて「日本語・日本の言葉って実に美しい奥深い言葉なんだ!」ということに気づかされたのは、菅原万佐の『斎王譜』を読んだときです。あの時の感激は今も忘れられません。
それから、少しずつ「翻訳でない日本の詩人の詩歌」を読み始め、齊藤茂吉や正岡子規のファンになりました。ついでに母校の大先輩(学部は違いますが)齊藤宗吉の「ドクトルマンボウ」もおもしろく楽しみました。
秦恒平先生、(じつは 創作者としてのごく初期「菅原万佐」でもあった=)秦先生は私の「日本語の先生」です。
新ためて感謝申し上げます。 遠藤 恵子
遠藤さんは
秦の元医学書院での同僚 同じ社宅で家族ぐるみ 仲良しだった。
後年、東北で研究生活から大學学長まで務められ、
社会人として諸種の活動へも。
「斎藤茂吉」や「正岡子規」で、急接近になる。 秦は、人生最初の著作集として歌集『少年前』『少 年』があり、続けて『光塵』『亂聲』があって、 やがては『老蠶閉門』も予定しているように、根 は「歌人」。優れた歌人だった岡井隆が撰した『現 代百人一首』でも、居並ぶ近代・現代錚々の歌人 たちの中へ、「小説家」秦恒平の名と、京都の市 立日吉ヶ丘高校生の頃に、名だたる東福寺の名勝 通天橋での感傷の一首と、を選んで呉れている。
2024 6/24
* 体重が際だって、下げている。
今日は、妻の、江古田奥、歯医者通いに付き合う気で用意して居たが、私は家で自重しながら、停頓中の新作長編の起て起こしなどに取り組むべく,留守居、と打ち合わせた。
躰への負担を慎重に考慮しながら、私の仕事は仕事、進むべきは進めながら、休むときはしっかり休まねば。
2024 6/25
* 熱中症は叶わないが、脚力にともなう戸外の空気への好奇心は喪いたくない、要心しながらも歩きたい。
とはいえ,かじり付いても書きつがねばならない仕懸かりの創作も離れられない。
2024 6/25
* 俳句のことは謂えない、実作の経験にとぼしく、我が儘に読んで被疑し取捨しているが、和歌・短歌には八十年近く,打ち込んでの実作と鑑賞・批評の経験があり、容易くは譲らない。未熟な凡作をあげて和歌短歌の美質を汲み間違えている例の多さに、しばしば嘆いている。
「和歌・短歌」と謂われる「詩」は、ただ目で読んで是悲するには、琴線につたわる「音楽の微妙」がよくよく吟味され取捨され創作されていないと、まるで「散文そのままの受容」と變らない安易な鑑賞に陥って「気がつかぬ」事に成る。
駄歌の「字意」だけを汲んで、「表現の妙と不敏」とが汲めず、味わい分けられなくては、「詩歌」としての美妙は胸に落ちない。「鑑賞」の二字、は、実に容易く「読み手」の「精と雑と」に左右される。歌は、和歌・短歌の表現は、まさに「歌う」「音楽」のそれをハミ出て成る美質・藝術では無い。
まるで判ってない「歌詠み」「歌作り」たちの多さには目を覆い,耳を覆いたくなる。しかも弟子衆・子分衆を率い顔の「先生」「先導者」にまま露骨にその至らなさが見えて慨嘆してしまう。
○ 秋の田の苅穂(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもて)は露にぬれつつ 天智天皇
上句に結晶して「あ」「の」「か」「ほ」の音妙「た」行音のの調べはみごとで、一首の歌意がそのまま「歌」「音楽」の詩と成り、自然の巧みに「成って」いる。古歌だから、きんげんだいたんかだからという区別に言い逃れる道は無く。歌詠み創るものの真摯に聴く耳こそが大事。「詩歌」は,散文では無い。
2024 6/28
* 半睲半睡のような一夜だった。これは疲れのもとになる。
○ 老いほれた保谷の鴉は 羽根うたず 匍匐停頓
疲れても疲れてもいかに疲れても疲れの淵を生くいのちなる
右の頚と肩とが 暴れるように 疲れで痛む
『信じられないことだけど』と、ながなが 書き進めながら 疲れると 可愛らしい サッちゃん や 白山羊サン の ウロ憶えの「童謡」を 幾つも唱っているす。繪は描けない けど、歌は唄える カアカアカア
京都へ帰りたいが。汽車二もレ無い、宿も無い。円通寺や 鞍馬や 嵐山へ 渡月橋を越えて、せめて夢路を辿りたい。
2024 7/2
* 三十三巻の『秦恒平選集』も百六十六冊の『秦恒平・湖(うみ)の本』も終結した。
向後は、私も八拾八歳 コンピュータ画面を利して『秦恒平の「私語の刻」』を、うまい「かたち」を創りながら 終焉の日まで悠々愉しみたい。何方かに聞いた、「むかしは『私語するな』と𠮟られました」と。慥かに。 しかし「私語」には含まれた發明や発見や含蓄が火花のように散りもします。自信をもって「私語の刻」を誰もが蓄えてよろしいのでは。
「沈黙は金」と押しつけられた時代は、とうに破綻破滅腐蝕しているのです。
自負と責任で「私語の刻」をわが身に豊かに蓄えましょう。
* 視力の混濁、これが命取りか。
孤独に耐えること、これが向後をしかと生き抜く力。
2024 7/2
* ゆっくりしたくて、湯に永なが浸かって、ヒギンズのサスペン『鷲は舞い降りた』を読んで居たり、居眠りしてたり。熱暑の真夏はやり過ごすしか手が無い。軈て、また、ハダカのお相撲さんで「七月場所」。わたしは、『信じられない話だが』小説を仕上げて行く。歌集『老蠶作繭』はもう仕上がっているが「本」にき造らない。
2024 7/10
* 此の「舊機」は、辛うじて「間に」だけ合わせている。「新機」はいまぶんマルで遣いこなせない。わが「パソコン」時代は「通り過ぎて」行くようだ。日録も、私語も読んで戴けるようには「送り出せ」ていない、らしい。
かつがつ、メールが出来るかどうか、創作の下書きだけは辛うじて可能か。「作家」秦恒平は「手書きの昔へ」逆戻りして行く気配、か。「東工大」に招聘された機会に「パソコン」を識り、もうやがて、その,東工大が新設の「国立科学大學」に吸収されると謂うを最期に、私の「パソコン」人生は、このまま「終熄」「消耗」するらしい。「生来の機械バカ」にしては、四半世紀もを、まあ、よく「利用できていたよ」と思う。
2024 7/19
* 寝室での身辺もろもろの書籍などの整頓もし終えて、良し。謂うところの夏バテか、心身の弱りか、ま,逆らわずに、休み休み凄そうと。あれも、これも、それも、しなければという共用を自身に仕向けないようにしている。寝入りたいときは自然と寝入って宜しいと自身に許可。しかし,創作の筆は運びたい休まずに。生きるとは,私の場合一に、それです。余は,付け足し。
* 23時29分 頚周りが堅い石のよう。休もう。
2024 7/29
* ヘトヘト。頚廻りの硬い痛みに呻く。それでも,小説は書き継ぎたい。『信じられない咄だが』執拗に手を牽かれる。なのに『悪霊』に惹かれ、『女王陛下のユリシーズ號』なんて凄いサスペンスも読み継いでいる。映画『インディ・ジョーンズ』の続きも観たい。なんたる浮気よ。
2024 8/1
* 「信じられない咄だが」、くちゃくちゃと掌に丸めるようなアンバイに書き続けていた。疲れれば寝ていた。ウソにも健康とは謂いにくいが。それでもテレビで長岡の花火の美しさに感嘆したり。五輪の柔道を観たり。
朝日子、どうしてるやろ、建日子には文運をと、願ったり。
2024 8/2
* もっと短歌を詠んでおきたいが、と思う。「文藝」の芯は、たとえ散文であれ、詩・歌と思っている。
2024 8/4
^* コロナ禍はつづき、熱中症の懼れも日々に増し、食欲も薄れて体調は低迷。こんな愚痴何の意味も無い。寝入る、酒を呑む、讀書に心身を委ねる。
メールもしない。手紙も書かない。務めて自身の「読み・書き・讀書と創作」を励ますのみ。幸いその意思は乾いていない。
2024 8/5
* かなり手を尽くしての 長いめ小説の仕上げを願っている。八十八爺 日々孤独なれども。訃に遭わでと願うのみ。
2024 8/6
* 書き継いでいる小説に集中するのが、わたくしの第一義、よく承知している。が。
2024 8/8
○ 保谷の鴉に
如何お過ごしでしょうか。
関東は毎日のように雷雨もあるようで大変でしょう。
こちらも連日38度が続いて、立秋とも思えません。
創作が進んでいますように。
今は 鴉の{千載和歌集と平安女文化}に関するものを読んでいます。
尾張の鳶は、元気です。元気にしています。
* オウ嬉しい。「元気です。元気にしています。」
最高 「元気です。元気にしています」と。
{千載和歌集と平安女文化}は私の日本史理会の核芯と謂うに近く。熱中して考え書いていたむかしが胸に蘇ってくる。俊成・千載集 そして紫・清の源氏物語、枕草子 とが在ってこその私の唱える「平安(日本)女文化」よ。
2024 8/8
* 昭和十七年(一九四二)四月に開戦早々の京都市立「国民学校」に入学し、二十年四月四年生から当時京都府南桑田郡樫田村へ戦時疎開し、敗戦後の二十一年秋に重くも患って、もとの京都市立有済小学校五年生二学期末へ復帰し、早々、戦後を機の、初の「生徒会」「生徒大会」を提唱、立ち上げて六年生になり全校生選挙で初の「生徒会長」を勤め、翌年には戦後「六三三新制」第一回の中学へすすんで、生徒会を事実上芯で支え、三年生卒業まで「生徒会長」をつとめながら、校内に「茶道部」を起て、指導の先生が無いまま、幼来秦の叔母宗陽に習ってきたけんで部員生徒達に作法の手ほどきも指導も一人で引き受けた。
市立日吉ヶ丘高校では生徒会にはふれあわず、「雲岫」という佳い茶席のあるのを「占領」して「茶道部 雲岫會」を三年間、卒業後も暫く率い指導していた。嵯峨 嵐山 鷹峯などへ部員を連れて「野懸け」の茶も愉しんだ。教室の授業は兵器でサボっては「京都」の自然や歴史に親しみ始めた。大学出は講義を抜け出ては京都市内・郊外を「本」を読むように尋ねまわっていた。そして、妻と出会い、その学部卒を待ち、大学院を中退して「東京」へ出、本郷東大赤門前の出版社「医学書院」(金原一郎社長 長谷川泉編集長・国文学者・詩人」)に就職、小説を書き始めて第五回「太宰治文學賞」を選者満票で得、社長・編集長のアクティブな支持・支援も戴いて退社、作家・批評家として「自立」し、今日に到っている。一時期、四年間、新聞等に「名人事」と書かれ国立東京工業大学に「文學」教授として招聘され、さらに「大学院」教授として残って欲しいと望まれたが、辞退した。市販の著書は小説と批評など「百冊」に及んで、以降は私版『秦恒平・湖の本』に切り替えて「一六六巻」にまで到り、以降は、純然、私事としての「読み・書き・読書と創作」へ落ち着くこととした。
以上、「作家 秦恒平」の、「少年以降」ほぼ「著作生涯」をのみ「略述」しておいた。ウソは書いていない。
2024 8/10
* 安眠・熟睡したとは謂えない、が、違和の自覚も、ま、無い。いろんな夢を見ていたようだが覚えない。
積んだいろんな仕事を済して行くだけ。とは思え、意味不明 行方不明 処置不明の「書きかけ」が多すぎる。愚ゥの音(ね)ばかりよ。
2024 8/13
* 夕方。機械内を点検、仰天するほど膨大 莫大 超大量の記載・写真を内臓していて、気が遠くなりそう。
だれが、どう、是らを処置また取捨するのだろう。見もせず捨てられるか。
2024 8/13
* 「読み・書き・讀書と創作」の日々を一歩二歩でも「外へ跨ぎ出て」何の手助けも出来てない、私。ひっこんでいるのが「爺い」の立つ瀬であるか。
久しく忘れているような「短歌」世界へ思い入れるか、捨てがたい慨嘆と希望とを。いやいや。何が いやいや、か。
2024 8/13
* 浅い夢見の夜明けだった。
吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(いくととせ)
佇むことも 無くして あはれ
ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶと聞く
夢にも馳せめ 醒めざらましを
人の世は あまた「座席」に影も無い
空ッぽのままの 雑踏 の夢ぞ
命といふ いと細い一筋しかもたぬ
この「賜り」を 賢(かし)こしといはでや
* 字を大きくし、眼を労るしか、ない。
* わたしは「一年」という目算と覚悟でおり、妻とも、「あと」のとで、段々に「深切」に話し合い初めている。
わりと長く書き継いでいる新作の小説も 先ハ未だ だけど熟してきている。
五輪が静まり、ま、テレヒの前へは『光る君へ』ぐらいしか坐らない。読み継ぐ本は、当分のうち、大変な「長編」作を三作だけに絞らざるを得ない。三作が三作とも かけ替えなく、優秀。満足。
2024 8/14
* 私の『私語の刻』がパソコン画面で自在に「読めなく」なっている、何とかせよと読者のお便りが来る。あれほど整然とホームページで配信できていたのが、いったん機械の故障から不通・不可となり、もう久しい。わたくしの「機械バカ」では処置なく、手をかけ仕立てて指導してくれていた東工大生も、みな院をとうにとうに卒業して、世の中で羽ばたき出世してしまっている、気安く「援けて」は謂いにくい。
高校で、にわかに難しい数学や理科になり、時折先生に指名され、前の黒板で、課されている「問題」が解けずに立ちん坊していた昔が想い出される。父の「ハタラジオ店」が嗣げなくて、小説家になど成ったんだもん。「機械」は、そそり立つ難関です。
2024 8/14
* 機械、此のパソコンが、何やら 決定的に「潰れ」ようとしている。ひとつしくじれば、収蔵の然記事・記載が滅失しかねない。々困っても,今や私はワケ判らずとも,何もかも自身野手さぐりで、かき混ぜながら脱出の歩道をテテ背探り脚にまかせるしか無い。遣ってみる、しか無い。
* 大暴風雨の東北冲から上陸かといわれて、都北・下保谷でも烈しく風雨のるつぼに在る。
仕方が無い,わたしは「信じられない咄だが」「創作」と謂いながら妄想を吾と吾が指先に命じキイを叩き続けている。創作とは「酔狂」なのである。
2024 8/15
* いま晩の八時。『信じられない咄だが』に極くごく少し書き添えて「方向」を探っていた。
2024 8/18
■ 鳶へ 病むな 怪我すな カアカア
なにもかも 機械で 巧く出来なくて 困惑。 疲れボケでなく ホン呆けらしく。 機械に店開きのもう 限界か-と。
幸い 眼・視力 さえ労れば 読み・書き・讀書と創作 できます。 メールの操作が頼りなくなってます。
テレビでは 「光る君へ」 愉しんでます。 創作は 『信じられない咄だが』 列島を跳び回ってます。
読む方は ドストエフスキー『悪霊』 中国人陳彦のごく昨今の現代小説『美人女優』 濃霧豪雪と強暴風との「北極海」で闘う 英戦艦と独Uボートの死闘 水戸が編んだ長大の 『参考源平盛衰記』 そして枕草子と紫式部日記。 豊かでしょう 眼は悲鳴揚げてますが。
● お早う あけぼの 元気していますか
呆然 と すごしていたいが そーも なりません。 世界にも、日本にも、わたくしにも どーにか したいことばかりです。
逃げ込める先は 乱れた白髪白髯 わたくしの場合 結句 創作するか 読むか なによりも 寝るか です。
京都の 東山三十六峰の真下で育ちました。 「ふとん着て 寝たるすがたや東山」 と謳われていました ハハハ じつに「実感」でした。
アクロバットの 『信じられない咄だが』 まだ書き継げます。
難題は この機械クンの 暴れますことで、手に負えません。 呆然 と 過ごしてたいが そーも なりません。 愚痴の日々 いけません。
お元気に お大事に お過ごし下さい。 裏千家茶坊主の 宗遠 秦 恒平
* わたくしの「先」を塞ぎがちなのは、要するに、わたくし自身の「機械バカ」と謂うにつきる。しかし痺れた指で,原稿用紙にペンの手書きでとは、無慙にムリでもあり。膝を折って友誼を「機械クン」に懇願するばかり。呵呵 呵呵
2024 8/20
* 機械が思うままに使えない。何が 何処に 如何。 困惑 徒らに立ち往生。
2024 8/20
* パソコンを自分・秦恒平の記録・記事にするのを已めてはどうか、うんと手間が省けると気づいているのだが。「作家」根性で、どうしても「書いて、人さまに呈する」という、あまり理も利も無い意向にひっくくられている、よけいなご苦労ではないか。
* 新聞は、もう三十年来、むしろつとめて「手にも執らない、読まない」でいる。一つには、視力の衰弱。一つには,邪魔くさい。テレビの「国際ニュース」にだけ,出逢えば、向き合うている。国内のことは、世間ばなしや、噂で聞こえるだけで、足るとしている。減って行くばかりの精力はただ「読み・書き・讀書と創作」のために。
コロナでもう四年も街へ「食いにも」「観にも」出てない。「美食への欲」は有るのだが。
* 寝入ってて、ふと目覚めて午前十時四十五分。朦朧の老人とは気楽なモノよ。強いてのツトメの何も無い。「これ」は多年の努力で蓄えた「命の資産」か。しかも,誰に強いられるで無く、したい、つづけたい「コト」も心得、すぐにも手が付く。
難敵は「機械クン」で。時に、どころか、しばしば手に終えぬ。愚痴は、目下、コレ。
2024 8/21
* 「読み・夏期・讀書と創作」を活かし働かしているのは「機械」では無い。「私」。見失ってはならない。
2024 8/21
* 朝です、お早うサンです。外も内も静かです。『信じられない咄だが』を書き継ぐだけ。新しいナニかも書き起こしたいが。
2024 9/17
* 私には、これまでに大判函入り33巻、美装の『秦恒平選集』があり、さらに『秦 恒平・湖(うみ)の本』全166巻が在り、各社で出版販売の「単行書・新書・文庫本等々」が、100冊余在る。これほどの著作本を数多く遺してきた近代日本の純文学・文藝・批評・評論・エッセイの「作者・作家」は、たぶん皆無かと想われる。そして、いまなお新しい創作や執筆 さらに莫大量の『秦恒平・私語の刻』を、あくまでも「文学」「文藝」を自覚して、コンピュータに、日々、眞実・眞剣に生真面目に遺し続けている。私の「生きる」である。
あれは高校生より少し前ででも在ったか、黒澤明監督初期の名作映画『生きる』に胸のわれるほど感動したおもいでがあり、「生きる」一語は以来特別な意味で私に宿り続けてきた。
* 質実、かつ慧敏の文学者・批評家の永栄啓伸さんから、今日も、『秦恒平の往生論 「廬山」「華厳」を中心に』(皇學館論叢57巻3号)を郵便で頂戴した。ありがたこと永栄さんの手で、『秦 恒平 愛と怨念の幻想』(和泉書院)ほか、早くから数多い「秦文学論」が書かれてきた。原善さんによっても、早くに『秦恒平の文学 夢のまた夢』(右文書院)」が出版されてるし、最近には、山瀬ひとみさんが大きな著述『讀者の仕事 私を創る』(幻戯書房)のなかで「秦恒平」の文学文藝に深切に触れて下さっている。 感謝。
2024 9/30