ぜんぶ秦恒平文学の話

舞台・演劇 1998~2001年

* お世辞にも息子のアングラ芝居を賛美する気はない、が、今度の前後しての新旧二公演は及第点が出せた。二重人格に苦しむ美貌の女性と、新規採用試用期間中のカウンセラーとの「善意っぽい嘘」をめぐる悲劇的な葛藤と格闘は、双方の役に自己否定のきつい条件がからんでいて、劇的になった。ただ主題の重さにくらべ演技のこなれのわるさ、演出の力不足で、後味に、ある晴れたものを残せなかった。後半の旧作は初演時のまずさをほぼ克服して、集団自殺にちかい大量死を経てなお人を生かそう、一人でも生きて下界に生還しようとする、自殺願望登山遭難者たちの再生劇が成熟した。贔屓目なしによくなった、よかったと思った。

 アングラの芝居になじむと、もうとても大劇場の説明的な芝居はかったるくて、菊人形芝居のように感じてしまう。それなら歌舞伎の方がよろしい。歌舞伎には舞踊の楽しみがある。今わたしを誘惑しているのは、来春正月の大阪松竹座。鴈治郎と玉三郎の「吉田屋」それに鴈治郎、秀太郎、翫雀の「三人連獅子」である。台詞が音楽を成し、肉体がおどって音楽を成している演劇でなくては、つまらない。これは舞踊劇を謂うのではない。

楽劇を謂うのでもない。

  1998 10・1 2

 

 

 会が果てて、息子のアングラ芝居『朝焼けにきみを連れて』を見に行った。ひろい能楽堂の閑散とちがい、狭い小屋が超満員の興奮だった。終わって明るくなると、客という客が目を真っ赤に涙をため、しかも「元気」そうだった。「能と、似ているんですね」と能の好きな知人の歯医者さんが云った。その通りだ。書き割りも何もない。そこでダンスのまじった現代の、そう「能」手法が、元気いっぱいの演技をみせる。作者は、能なんか殆ど一度以上は観たこともなく、何も知らないのに。そこが、おもしろい。

  1998 10・3 2

 

 

* 十六日に俳優座の芝居を見た。何の興奮も、何の劇的なものもない、俳優座もこうなるものかという手軽い駄作だった。登場人物の誰一人に対しても共感もならず、記号的な配役以上の肉付けもない。最安値のテレビドラマなみで、俳優座は今年はこういうのを二本も並べた。劇場を出て十歩歩けば十歩分忘れ去って行く芝居だ。前の山田太一の芝居よりも今度の佐藤愛子原作ものは、軽薄の見本のようであった。原作のことは知らない、役者のせいだとも言えない。芝居づくりの姿勢が、はなから妥協的なのがいやだった。役者よりも本が悪く、演出も俗であった。

 以前の栗原小巻主演の『冬のライオン』は、充実していて身震いがした。『チェーホフの家族たち』ですら、ふと泣かされた。人間が真剣に生きれば生きるほど自己否定のはめに迫られて行くような「劇的」真実、それが有った。

 なにを考えて公演しているのだろう、ヒマツブシの手伝いを俳優座にしてもらうことはない。ヒマツブシなら、どこにでも有る。

 

* 月末には昴の「三人姉妹」を見るが、百年前のロシア、ソビエト以前のロシアの現実と人物を、どう新世紀前の金融恐慌日本に持ち込むのか。原作の古びは被いようがないが、三百人劇場がどう見せてくれるか、不安も一抹感じている。本の勝負になるだろう。

  1998 10・18 2

 

 

* 三百人劇場の劇団昴の「三人姉妹」は、まことに息をのむ佳い芝居をみせた。百年前のロシアの芝居に泣かされるとは思われず、ほとんど退屈を覚悟して出かけたのに、みごとに舞台の魅力に説得されてしまった。美しいまでに舞台の人物たちが生きていた。ちっとも古くさくなく、胸に迫って生きる意義を問いかけられた。舞台の人物たちの未来に掛ける期待は、百年、みごとに答が出てしまっているのを私たちは知っている、現に。必ずしも良い答えが出ているとは言い難い、いや、大きな声で否認したくさえ成りかねない現代である。それにも係わらず未来に希望を持って生きて行こうと誓う百年前の三人姉妹たちの気品の清質に打たれた。近来に傑出した舞台であり、見事な翻訳であり、福田透演出の成功作であった。チェーホフの芝居で、かつてないと思うほど成功作の一つであった。

* これにくらべると先日の俳優座の、佐藤愛子原作のぬるくふざけた週間誌風軽薄芝居には、あらためて呆れるしかない。

  1998 10・31 2

 

 

* 十日、新宿サザンシアターの俳優座公演『千鳥』を観た。田中千禾夫の名作と謳われてきて、たしかに初演はすごいほどの人気であったというのは察しがつく。今回は三演めで、俳優陣がよくなかったということは、ない。大塚道子など文句の付けようがなく、児玉泰次も抜擢にこたえたしっかりした芝居だった。立花一男や檜よしえらも大過なく、千鳥の新人も一生懸命やっていた。致命的なのは戯曲そのもので、今日の我々に訴えるものをすでに完全に内容的に欠いていた。昨年の三百人劇場がチェーホフの「三人姉妹」で、どうなることかと何の期待も持てずにみて、その、現代をなお揺るがす劇的な人間把握に震えるほど感動したのと、ちょうど逆だった。名作の名高く、しかも、平成十一年の劈頭をそよがせるほどの意義を舞台は表現できいなかった。役者のせいでも演出のせいでもない。時代の推移の中で「名作」は解体され、混雑した一つの「筋」に変質していた。裏山のウランといい、キリスト教ふうの匂いづけといい、同じ作者の「マリアの首」よりももう乾ききって死んでいた。千鳥は鳴きも飛びもしなかった。

 冷酷なのは時間だ。

 創作物のこわさ、演劇の怖さ。歌舞伎の「吉田屋」のようなラチもない遊興芝居のほうに遙かに力がある。怖いと思う。

  1999 1・12 3

 

 

* 不思議なことが起きるものである。今朝メールをあけてみると、文字コード委員会の委員長と幹事のメールが来ていた。海浜幕張で昨日から開幕のMacworld Expo へ東工大の学生君と出かける間際であったため、とにかくこの二通を早読みしてみた。

 委員長のメールは尋常なもので、よく分かり、感謝して手短に返信した。

 もう一通は、読めば読むほど奇妙な内容だった。自分の書いた文章をぜひ「読め、」「まだ読んでないとは」と、先の会議の席でつよく勧められ、もし読んでいたなら、それをめぐって質疑なり対論のありそうなムードだった。さもなければ、半年以上も昔の旧稿を、だれがそんなに熱心すぎるほど勧めるであろうかと、私には思えたのである。現に追っかけて送ってこられたのである、その文章を、二本も、コピーして。これはもう会議の延長と思うより仕方がなかった。

 じつは、あの時、会議室の暑さに耐えかね、口舌の渇きをなんとか癒したくて室外に飲み物を求めに出ていた。部屋に戻っていきなり、名指しで、自分の今言っていたことを「理解したか」「理解したか」と壇上から一幹事に聞かれ、中座していたのだから、聞いていないものは理解もなにもなかろうにと苦笑して答えなかった。その時だった、この幹事は、中央公論に書いた自分の原稿は「読んだか」とまた問いかけ、私は読まないと正直に答えたのである。なんだ読んでないのか、ぜひに「読め」と迫られた。

 このときの幹事の出方に、いささか気にくわない失礼なものは感じたが、承知したと答えた。会議のために必要ならば必要なのだろうから。

 そして封書で文章のコピーが家に送られてきた。私は読み、感想をメーリングリストで発信した。明らかに「会議の席での発言や勧奨」に応じたのであり、私がそれを「読め」と勧められているさまは、他の出席者全員が聞いて知っていたのだから、これは単に筆者だけに私的に答えるものでなく、会議での「議論」の一環として「どう読んだか」を委員諸子にも伝えるのは当然だと私は考えていた。メーリングリストを用いて、委員やオブザーバーの意見交換は公然となされ、往来は活発だった。メーリングリストの効用はそこにあり、また利用について何の説明も規制も受けていなかったから、当然「意見開陳の場」として機能していると思っている。意見には、きわめて具体的な手続き上のものから、解説風のものも感想もあり、むろん有り得て当然自然なメーリングリストの役目だと私は考えている。

 ところがそんな場で答えるのは「失礼」だと言ってきた、その幹事は。あげく、「幹事」も「委員」も、二月十四日で「辞任」したと言う。二月十四日とは、私が、「所感 松岡榮志さんに」という感想をメールに入れた翌日に当たる。そして今日、五日間を経て、辞任したという松岡幹事の上のようなメールが届いたのだから、不思議なことがおこるものだとしか言いようがない。

 どんなに変なメールか、挙げてもいいならここに挙げるけれど、かえって気の毒である。とにかく私は、走り書きのようにして、こう返信して置いた。

 

* 松岡榮志様     秦です。 二月十九日

 失礼があれば云々ときちんと断りながら、遅れてきた者の不審や疑念や意見を、丁寧に落ち着いて、話したつもり。あなたの人格に触れた話など一行もしていない。ことを分けて話しているのはお分かりの筈。失礼なのは、どちらですか。

 メールで答えたのは、会議の際に強調して「読んでいないのか」「読め」と何度も発言されていたからです。この件に関しては「私信」でなく、明らかに会議関連の、しかも一委員たる私に対しての意見陳述を求めての勧奨と解釈しましたから、それほどのものならと、一委員としてメールに入れました。同席された他の委員の方へも、秦が「読んで」の私見を伝えてしかるべき、会議上の経緯であったはずです。私人たる松岡さんについては何ひとつも言っていない。議論を避けて、こんな抗議を受けるとは心外です。

 もっと「普通の」の大人の話し合いが必要なのでは。失礼なのはあなたです。公私も、議論の仕方も心得ています。話にならない。せっかくのお招きゆえ、努めて話題に参加し、協力したいと思っていましたのに。

 

* 私が「松岡榮志さんの文章を読んで」どう考えどう書いていたか、念のためにもう一度挙げておく。これに対して一言半句の議論もない。それでいて「辞任」とはどういうことか解せない。つぶさにかみ砕いて、私のような或る一面の事情には甚だ暗い人間の不審にこたえながら、長短を補い合うべく委員会に「参加をお願い」されたのだと理解していたが。その幹事役が悲鳴のような「辞任」を口にされるのは解せない。議論のための委員会では無かったようだ。何しに私は忙しい中でこんな時間を割いてきたのかバカらしい。

* 所感 松岡榮志さんに。  秦恒平 二月十三日

 

 二月四日の文字コード委員会でとても熱心にお話のあった、中央公論「漢字の危機は杞憂にすぎない」文藝春秋「電脳時代でも漢字は滅びない」のコピーをわざわざお送り下さり恐れ入ります。読みましての少々の感想を述べます。

 

 もっとも、これら「表明」の強い「抗議」気味の行文は、少なくも私にはあまり触れ合って来ません。特記されている四箇条の「悪意に満ちた批判」につき懸命に抗議されているわけですが、先日の会議に初参加以前に、私にはかつて「ユニコード」で此の手の発言をする知識も不十分なら、機会も、気も、なかったのですから。挙げられたこの四箇条など、実にラチもない興味もないことで、それに関する松岡さんの発言にも一定の関心以上は持てません。去年一月の文芸家協会のシンポジウムも、「文字コード」の何かも分かっていない人の立場で出よという人選に応じたわけで、それ以降ペンクラブに電子メディアの会を作ったのも、これから勉強、それも著作権関連の勉強を急がねばと私などは思っていたぐらいです。

 

 コピーを読み、知識をいくつも持てたのは幸いでした。感謝します。その余の松岡さんの「反省」や「提案」の中には、とてもいいことも書かれているなと教わりました。そういう点はもっと発言して欲しいものです。

 

 その上で松岡さんの論調から、これは見逃してはならないなと思ったことがあり、それを言います。

 あなたは「普通の日本人には一万字以上は必要でないことは自明」と書き、もう一つの文章にも、大きな字で、「ふつうの日本人には漢字が一万字あれば十分」と強調しています。

 伺いますが、松岡さんは「普通」「ふつう」の「日本人」なのですか、それとも「特別の日本人」なのですか。揚げ足を取るのではありません、根底の態度を問うのです。

 前者なら、あなたは漢字一万字で「中国古典文学と中国語学」の研究を全う出来る研究者だというわけだし、しかもそういう専門家であるあなた以外に、漢字一万字以上を必要とする「特別な日本人」を想定していることになる。それはどういう人のことで、どこがあなたとは違うのでしょうか。

 後者であるなら、あなたの「普通の日本人」とはどんな人で、どれほどの人数になるのですか。委員会に出ている人はみな「特別の日本人」なのか「普通の日本人」も混じっているのですか。「普通の日本人」とは何なのですか。かくいう私はあなたには「普通の日本人」なのか「特別の日本人」なのか、それを正確に言えますか。あなたは莫大な人数の日本人を「自明」なほど代弁できる足場を持っているのですか。

 私から言えば、この私は、普通も特別もない「ふつうの日本人」です。松岡さん、あなたも「ふつうの日本人」です。しかも、あなたも私も「一万字では足りない」方の日本人でありましょう。だが「一万字で足りる」人を即ち「普通の日本人」だという言い抜けは利かない。それは、この際、論理の循環、理屈のすり替えでしかない。

 松岡さん、日本人を分けて「普通」だの「普通でない」だのという足場に立つのは、それは少なくも不正確です。不正確の上に立って主張を妥当そうに見せかけようとするのは困ります。「一万字で十分足る日本人」も「一万字では不自由な日本人」もいて、両方とも、普通の、普通でないの、と他人に言われる必要のない、同じ日本人同士です。屁理屈でないことを、今少し付け加えます。

 

 私はいつも言っている。私は、今使っている器械の第二水準までで、自分の文章を書こう、表現しようとすれば、その自由をかなり持っています。不可能ではない。私が現に生きて用字の判断も取捨も出来るからです。その意味では「一万字」もあればけっこうな「日本人」であり得る。

 しかし分かりやすく喩えましょう、あなたの専門の方の中国古典の筆者、孔子や鳩摩羅什や司馬遷らや、また敦煌変文等の貴重な文献類の、名も知れぬ筆者たちは、今更自分の書いたものを変え得る魔法を持っていません。そういう中に「一万字」を漏れた漢字や符号文字がいっぱい出てきたら、一字一字はたとえ希少例とはいえ、まさか無かったことにしてあなたの研究が満足にできるわけではないでしょう。彼らはもう書き直せないし、書き直せないまま伝わってきたことが大切な学藝研究の対象になる、享受鑑賞の対象になる。学者だけではない、私のようなただの日本人読者もそれらから学びたければ学べるべきです、そしてその際の私は、「一万字で足りているのは、自明」などと決して言えません。

 言うまでもなく、この際は、器械がいわゆるインフラとしての基盤性を確立して行くであろうと仮想の上でものを言っています。そしてユニコード感覚で言っています。どこの地球上で、誰もが、いつでも、問題なく、と。

 井上靖の「鬼の話」を私はたまたま話題にしました。つい近年の現代作家の全集にも選ばれる佳作が、もののみごとに再現不能と分かりました。現状、作品解説のために私は作品の芯になっている鬼の名や星の名も、目下のプランでは器械に書き表せない、再現できないのです、ユニコードでも、その他でも。一万字以上でも「足りていないのが自明」を、現に露呈しています。井上さんの小説は、まさに「普通に」廣く日本人に読まれてきたのですが。こんな例は他にも続出するでしょう。

 

 文字コードに私の知識も理解もまだ不十分ですが、漢字や仮名や記号符号を「情報交換用」にでなく、「日本工業規格情報交換用」にでなく、それも十分必要ですが、また聖徳太子の経疏このかた「日本語」として用いている人はいっぱいいて、しかも「書く」だけでなく「読む」「引く」「調べる」「味わう」も含めていっぱいいて、そんな大勢の日本人を、松岡さんのように単純に「普通の日本人には」などと分別してもらっては迷惑なのです。どの程度の常識として言われているのか察しはつくけれど、「ふつうの日本人」の感覚で、「大きなお世話」なのです。私は、他人を目して「普通の人には」この程度だといった立論には、生来我慢がならないタチです。

 さて、そうなれば、議論の場は、われわれの元の場へ自然に戻ります。あなたのおっしゃる「文字が足りないとマスコミを煽ってきた一部の作家のみなさん」に私が含まれていないことを信じますが、現実に「足りない」のは確かなようですね。松岡さんの文章を読んでいると、煽っているのは実は松岡さんのように読めましたが。

 

「アジア各国で使われている漢字を、コンピュータの上で共通に利用するための統一コード化を行って」きたと言われるのはその通りでしょう、が、正確には「使われている漢字の極く限られた少数を」というところから「文字コード化」が始まったわけですね。そして無理と不都合で、だんだん「足し算」せざるを得ないのが現状だと見られます。そこまで辿り着いたご苦労を多として感謝することにやぶさかではありません。本当にご苦労でした。

 

 最後に申し添えますが、「一部の好事家による趣味的な日本語ではなく、簡潔でしっかりした日本語を書き表わすための漢字がどうあるべきか、今こそ私たちはまじめに考えるべきです。コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」といった、浅々しい発言は、どんなものでしょうか。

「一部の好事家による趣味的な日本語」というのが「表現者」の根底を愚弄する発言でないことを希望します。察しが付かぬではないものの、誤解も招きかねないこういう物言いは、さっきの「普通の日本人には」と通底した嫌みもつい感じられ、愉快になれません。

 また「表現者」がみな「簡潔でしっかりした」日本語だけで創作したり思索したりしているわけでなく、饒舌も、冗漫をすらも文体にしている人もいるのですから、私個人は「簡潔でしっかりした日本語」大好きですが、この辺も「大きなお世話」に部類されるでしょう。いろんな「表現」もあることを、李白も杜甫もあることを、尊重して下さるように。

 さらに、「書き表わす」だけが漢字の問題でなく、大切な文字遺産の大切なところが「正しく再現できる」ことも、思案に是非入れられるよう希望します。

 大事の点ゆえ敢えて繰り返します。今日只今のわれわれだけが「書き表わ」して事が済むなら、話は、簡単かもしれない。しかし未来の人も書きたい筈です、自由に。そして過去の人は、書いてしまって書き換えが利かない。その人たちのいわば本意や著作の尊厳を、現代のわれわれが気ままに扼殺はできないでしょう、古典の研究家ならよくよくお分かりの筈です。

 現在から過去が、なるべく原典に近く再現して「読める、書ける、理解できる」という重大さを、「ふつうの日本人」として、ぜひ忘れないでいただきたい。「一万字で足りているのは自明、では、ない」ことが、この辺で言い切れないものでしょうか。未来から来たような若い作家最新の芥川賞作品の漢字も、よく調べてみたいものです。

「コンピュータは、私たちの社会生活を豊かにするための道具にすぎません」というのも何が言いたいのか。 私や私の仲間たちは、コンピュータが近未来に、かなり圧倒的なインフラとなり、活字や紙での「表現」の場は、激減ないし解消してしまう場合をも一応仮想の上で、「日本語表現の未来」を憂慮しているのですよ。「社会生活を豊かにするための道具にすぎません」とは軽く言うものですが、むろん道具に違いないのですが、私など、自分の文学生活を表現するのに、おおかた不可欠に近い大切なものとして現に既に日夜器械に親しんでいます。社会生活だけでなく、精神生活においても大事だから、真剣に「文字」「漢字」のことも考えたいのですよ。

 

 こういう議論があまり出来なかったまま、文筆家が、やっとおそまきにここへ登場し初めてきているのです、どうぞ、よろしく。但し、ここ当分、この手のこのメールでの議論は、休ませてもらいます、日々の仕事に相当響いてきましたので。

 失礼な言い過ぎがあろうかと、お許し願います。以上

 

* なお委員会参加に先立ち「所感」をまとめたものは、「一月二十三日」のところに記載してある。

 1999 2・23 3

 

 

* 昨日突然のこと、建日子、息子、から帝劇の『マイフェアレディー』を観ないかとお誘いがかかった。建日子がお世話になっている劇場の人があり、その人は昔から私の読者でもあった。会ったことはなかった。お礼も申したく、妻が譲ってくれたので息子と二人で、今日、みせて貰ってきた。その人とも挨拶が出来、久しいお礼も言えて、よかった。

 イライザは大地真央。歌に幅も余裕もあり、容姿にも申し分はない。あらっぽさからお上品への推移にもさして無理はなく、なによりもオードリー・ヘプバーンを偲ばせる姿勢でとくをしていた。拍手するのにさほど躊躇はなかった。個人的につき合いのある浜畑賢吉が軽みの好演でよくつき合っていた。拍手できた。

 問題は草刈正雄のヒギンズ教授で、その「日本語」のでたらめで曖昧できざな聞き取れない科白には参った。この人は言語音声学の大家なのではないか。それが出演者中でいちばん科白が聞き取りにくい、しかも捻ったバタくさい日本語でしか話さないのには失望落胆し呆れた。

 彼が美しく正確に話せばこそ、イライザへの感化も教育も納得できる。そしてそこがミソのドラマなのではないか。

 歌は全体に可もなく不可もなしとしよう、もう一つの問題は、ダンスのヌルサだ。美しさも興奮も殆ど無い。あれは慣れてしまったダンスで、一期一会の鮮烈な興奮喚起力は乾いてしまっている。群集劇の緊迫や興奮としては、与野で観てきた『リチャード三世』に相当な水をあけられていた。くらべにくい劇だけれども、あの殺伐とした英国皇室劇の方に演劇としてのウブなワクワク度があり、心温まる愉快な今日の劇にむしろ退屈感が働いたのは、観衆を安く値踏みしむその安い拍手にただ満足して、下目にみた芝居をしてしまうからではないか。草刈の芝居にそれが顕著であったのは残念だった。本場のブロードウェイに逆輸出したいなどという批評家の批評を読まされると、何が演劇を腐らせるかが察しられて恐ろしい。再演三演のものほど、一期一会の初心でやってほしい。

 招いて貰ったお礼にも、正直に感じたままを言っておく。

  1999 3・24 3

 

 

* もう昨日になる、三軒茶屋の佳い劇場で、いちばん佳い席を用意してもらえて、『龍を撫でた男』を見てきた。講談社の昔の全集で、演劇の一冊が出たのはかなりお終いに近い配本だったと思う。田中千禾夫らといっしょに、四人巻のひとりに福田恆存のこの戯曲をみつけ、凄いほど面白いと思った。

 後に文庫本の古本でやはり人のと混じって『堅塁奪取』などを読んでも面白かったが、もうその時は、恆存戯曲は面白いという先入観すら出来ていた。それほど『龍を撫でた男』のわけのわからない人間の把握が、興味津々、わたしを犯してくるほどに緊張させた。その頃は舞台を観にに出かける余力も縁も無かった。

 恆存の芝居はもういくつか舞台で見知っているが、存命中はハムレットを見に行って挨拶をしたていどであった。文芸春秋から出た全集の立派な戯曲の巻は、特別に頂戴したもので、それも懐かしい。

 

* 人間が正気の奥にはらんだ狂の種が、どのように発芽し、はびこったり枯れたり消長しつつ滑稽なほどの猛威をふるうものかを、舞台はよく表現してほぼ間然するところ無かった。緊迫もあり弛緩もあり、揺さぶられながら怯えもし笑いもした。伊東孝雄も佐藤オリエも他の役者たちも劇的なものをよくお互いに創り上げていた。わけのわからないものを、わけがよくわかったように演じては、この芝居はうそになる。まったく訳が分からないままでも困惑する。人間存在といわなくてもいい、自分で自分とはそんなものだと思えばいい。そこから目を背ければ、ただに偽善に陥る。欺瞞に陥る。目を逸らしていてもそうならない保証はなく、逆に狂いやすくなるとすら言える。その隙間に「龍」が見えてしまう。見ても見なくても狂うのである。狂い方のちがいだけが残るのだ。

  1999 4・14 3

 

 

* 俳優座の「ロボット」を観てきた。チャペックの百年も昔の作品ではなかったか、初演の千田是也がまだ二十代、八十年ほど昔に、日本でも公演されたそうだ。その頃で有れば、この作品は「ロボット」に託した万国労働者の決起や組織化に、より濃く結びつけられ、共産党宣言やロシア革命などとも直接間接に触れあう思想性と革命感覚をもっていただろう。そういう昔の事情はよく知らないが、ゲーテのフアウストや、ナチ的な人間観なども想起させるものがある。時代の先後を無視して言えば。そして「ロボット」の今日現実化しているセンスとは、むしろやや遠かったのかも知れない。

 しかし、今日の舞台では、労働力としてのロボットといった観点よりも、ストレートにマシンとしてのロボットと人間との敵性関係が迫ってくると読んでふさわしい時節時勢であろう。コンピューターというロボットと人間的なものとの対立が際だってきているとも言えるし、人間の「不毛」が器械により促進されつつあることも十分に怖れねばならないと、私個人はこんなにパソコンを愛用しながらも、それはしっかり意識している。

 そうなればこそ、ロボットにより、唯一人をのぞいて全人類が絶滅させられた怖さをクライマックスにしながら、そのあとへ、ロボットが人間化し互いに愛をもち涙を流すところへまで蛇足を付け加えたのは、実に、シラケルはなしであった。俳優座は勇気を持ってそんな下らない感傷を排し、断固として一人だけ生存せしめられロボット新生産の研究にあたるフアウスト博士のような人間に、全ロボットたちへ、二十年後には確実に耐用年限が切れてことごとくお前たちも死ぬのだ、ガハハとでも大笑いさせ、凍り付かせて幕にして貰いたかった。俳優座が、原作戯曲のキリスト教的な議論に拘泥しない真のブラックユーモアに徹して、観客の横面をなぜ張り飛ばさないのかと、惜しまれる。

 それはそれとして、稀にみる演技の充実・演出の適切で、とてもとても楽しめた。主要な「人間」たちの舞いのような動きが適切で、村上博など、最高に美しいと感じる芝居であった。村上を俳優座はもっともっと重用してほしい。他のロボットたちに至る全員が、まことにアンサンブルよく舞台を活かしていた。

 終幕前の大蛇足がおおかたをオジャンにしたけれど、それでも、実に見応えがした。原作がよほど佳いのだと思うが、時代を超えてきた現代の読みがもっと必要であった。おしまいが大甘になったのは、かえずがえす惜しい。

  1999 5・15 3

 

 

* 新橋の清葉が、新橋演舞場の「東をどり」に招んでくれた。清元で出演していた。藤間由子の娘がいつのまに新橋の粋な芸妓になっていたやら、久しぶりの、おつな対面におどろいたが、意外ではなかった。清葉こと抄子ちゃんは、舞踊家の由子の娘のまま、いつも溌剌と楽しそうにいろんなことを体験していた。宝石のデザインもしていたし、洒落たシャツの店も開いていた。芸はむろん出来る。歌舞伎の世界ともまぢかくて、由子には何度も何度も歌舞伎を見せて貰った。勘三郎と玉三郎の夕霧伊左右衛門を、一番前の真ん中で手も触れそうに観たこともある。そんな頃、抄子ちゃんはちゃきちゃきの東京娘だった。着物姿さえみたことがなかった。

 由子と荻江の家元寿友氏に頼まれて『細雪 花の段』を作詞し、この寿友の曲で、由子が国立小劇場で初演の後、今井栄子が一人で舞い、また京都の鴨川おどりでも誰かが舞っている。そんなころも由子の娘は元気で小粋な現代ッ娘であったのが、ちょっとご無沙汰の間に芸妓に変身していたのである。不思議ではなかった、抄子ちゃんらしいなと思った。そんなことも、つい一月ほど前に久しぶりに藤間由子に電話してみて知った。私より幾つも年輩の由子の娘なら、もう四十にはなるのかなと思った、そうのようであった。しかし今日の舞台でみると、またはね出しの際にロビーであいさつされた時も、せいぜい三十過ぎの、昔ながらの冴えた美女であった。由子も元気で、演舞場のなかでお茶をご馳走してくれ、お土産まで貰ってしまった。

 もともと藤間由子がわたしの読者であった。久しいご縁である。演舞場ははればれと艶やかな客席であった。わたしのような汗くさい男がオープンシャツで顔を出すのは場違いであるが、ま、そんなことは気にしないで、劇場の風情も楽しんだ。佳い絵のある劇場で、歌舞伎座とはひと味ちがう。そういえば由子はこの劇場で、先代の鴈治郎と「藤十郎の恋」を舞ったことがあり、その日は二階真正面真ん前で、カップ酒を次々としたみながら、情緒纏綿の数時間を堪能した。懐かしい昔話である。

 

* さて「東をどり」は初めて観る。口上で、中央にいて大きな挨拶をした人の舞いは素晴らしいものだった。小千代という名であったか。みごとだった。

 昔、広田多津の「舞子」のモデルをしていた、当時の豆禄が、名をかえて美しく主役を演じていた。多津とは大阪の放送局で美術特集「舞子」のために対談したことがあった。豆禄はそのころの欠かせぬ佳いモデルだった。たしかそうであった。これもなつかしいことであった。あの放映では、多津を皮切りに三週連続、福井良之助、下村良之介とも対談したが、三人とも亡くなられた。

 「東をどり」そのものは、劇構成はゆるく作詞もかなりお粗末であった。舞踊や音曲地方はしっかりしていたのに、惜しいことであった。清水冠者義高と大姫の心中仕立てなど、もう少ししっかり書いて欲しい。都をどりや鴨川おどりよりも、全体に景気が主になり、劇性は希薄なままであった。繰り返して言うが、だが、小千代の舞い踊りは鑑賞に堪えて心いっぱい楽しめた。

  1999 5・29 3

 

 

* 小雨。帝劇で、『レ・ミゼラブル』を観てきた。劇場勤めの読者好意の招待で、いい席だった。

 小学校五年の秋に急激な腎臓病で危うく命をおとすところだったが、母の機転で丹波の疎開先から一散に京都へ走り、家にも帰らず昵懇の医院に転げ込んで助かった。秘蔵のペニシリンが効いた。しかし目玉も動かせない絶対安静の日々がつづいた。やっと落ち着いてみると、寝かされていた医院の二階の畳部屋には、「大人の本」がたくさん枕元の戸棚に並んでいて、はじめて漱石全集のあの装幀にも出逢ったし、新潮社の世界文学全集も何冊も揃っていた。『レ・ミゼラブル』はそこにあった。可哀相で、よう読み切らなかった。子供向けの『ああ無情』などと簡約された本も読めなかった。早川雪洲の翻案映画を学生時分に観ているが、あれも、辛かった。

 そんなわけで、いくらか気が重かったけれど、出掛けた。ところが今日の芝居は、台本と演出と舞台装置がなかなかよく出来ていた。オペラ仕立ての割りに帝劇の音響はむちゃくちゃだったが、一編の舞台劇としては優に及第点。前に観た『マイフェアレディー』のひどかったのとは大違いに、群衆処理を初めとして人と舞台の動きがダイナミックに要領を得ていた。音声はおおかた潰れていて義理にも上手ではなかったが、それなのに音楽の効果をしっかり保っていた。台本もみごとに出来ていて、しっかり泣かされた。

 何としてもカタルシスの乏しいのは、原作そのものの暗い悲惨さのせいで致し方なく、しかし原作者の意図は立派で、よく伝わってきた。この作品がフランス革命の国で重く尊敬されてきたのは当然であった。わたしが音楽劇が好きなこともあるけれど、それでなくてもドラマとして確立された力を感じられたのは良かった。満足した。

 

* それにもかかわらず、三時間の舞台を見終わった興奮には、先日、上野と池袋とでカルロ・ドルチの『悲しみのマリア』図二点を観て得た、あの深い幸せは無かった。明日は、明日は、と人は希望を先送りしつつ、つねに「明日」に裏切られつづけてきたような、弱気な気分に悩みながら帰ってきた。

  1999 6・25 3

 

 

* 親友の原知佐子が芝居をやるというので、三軒茶屋まで妻と出掛けた。この日活ニューフェースに出逢わなかったら、私は大学で、美学でなく歴史を専攻するはずだった。ショートケーキのように可愛らしい人がいて、美学志望らしいと耳にはいったので、その場で面接の先生に美学にしますと言ってしまった。後悔はしなかったが、その人は二年生になるとすぐニューフェースとして日活女優になり、小林桂樹らと「黒い画集」などのいい映画に主演したり、木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」などで佳い助演をしたりした。太宰治賞の授賞式に花束贈呈役で駆けつけてくれたりして、もう久しい間柄だ、ウルトラマン創始者の実相寺昭雄監督と結婚した。やはり芝居をしている娘さんもいる。

 原知佐子は映画はどうか知らないが、テレビや時々の芝居で顔が見られる。私の本もずっと見てくれている。脇役でも何でも、いとも楽しげに悠々と演じている。さっぱりとした気性で、女優という難しい仕事をわたしの小説よりずっと長くこなしているのだから、エライものだ。先日逢った重森とも仲良しだった。俺の所へは芝居の案内が来ないと重森がむくれていたのがおかしかった。

 永井愛の作・演出「兄帰る」は、けっこう笑わせてくれたが、軽い浅い、カタルシスのない、繪でいえば手練れの売り繪でしかなかった。小説で謂えば書けても書きたくない、書かない、小説だった。わたし上手でしょ、見て見てと言っている、それだけの現在芝居であり、前に俳優座の芝居でがっかりした山田太一のもそうだった、佐藤愛子の原作を脚色したのもそうだった。どれも下手ではないのである。困ったものである。そんなのと較べると三谷幸喜の「ラジオの場合」など、遙かに笑いがよくはじけていて面白く、そして厳粛に訴えてきた。

  1999 7・3 3

 

 

 

* 期待して出かけたが、浜木綿子主演の帝劇「八木節の女」は、低調な芝居だった。芝居づくりの低調はある程度覚悟していたが、浜木綿子の爆発するような活気芝居を期待していた、そのアテがはずれた。以前、「無法松の一生」を西島大の演出で楽しんだとき、芝居はもうご案内お約束どおりの、ご存じ芝居だったけれど、博多太鼓の乱れ打ちの凄いほどの爆発には、心身の鬱屈をすべて洗い流してもらえた。あれと似たスカッとした浜木綿子のまさに「活躍」を期待していたのに、浜の芝居は、終始一貫、軽みに軽みに逸れた・外したもので、軽妙は、たしかに彼女の意図してよく出す特色の一つであるのは承知だが、広い帝劇の舞台で淡彩の一筆書きの投げ科白ばかり聴かされ見せられると、どう浜木綿子贔屓でも、食い足りなくて、失望し、落胆した。物足りなかった。

 主演の浜がそれでは、他の役者はもう、どうにもサマにならない。演出のミスとも台本の低調とも言えるが、八木節の魅力が生かし切れてなかった。招待して貰って有り難いが、率直なところ、芝居づくりにもう少し、いや、もっともっと真剣味が欲しい。

* 有楽町駅前の「レバンテ」でビールをのみ、軽食して、有楽町線で帰った。車内で再校のため読んできた『能の平家物語』の自分の原稿の方が、舞台よりよっぽど面白かった。今日も辻さんの『回廊にて』を出かける前に音読していが、さすがその世界には魂を深く誘いこむ魅力がある。

 「大衆」のためにという「名」の下に、「娯楽」の質が劣化してゆくのは残念な気がする。客を見下したものづくりが、いちばん、よくない。商業演劇なんだからこれでいいんだというような、安い理屈は通るまい。市村正親主演の「リチャード三世」には肌に粟立つ面白みと凄みがあった。

  1999 9・25 4

 

 

* 今日は、昼間に俳優座の「かもめ」を観る。去年の、三百人劇場の「三人姉妹」はすばらしかった。俳優座の新しい「かもめ」がどうなるか。岩崎加根子が、例の訛って臭いもの言いを連発し、へんな流し目を垂れ流さないで呉れるといいが。

 巧い役者ほど得てしてクセがついているというのは矛盾も甚だしい。しかし事実である。まったく舞台も作も違うのに演技の体臭やクセが、刻印したように出てくるというのは、仕方ないとは言って欲しくない、役者の心得違いであろう。

 もっとも私を含めて観客は、その俳優のクセや臭みをも楽しまないわけではないのだから、話がちと複雑になる。とどのつまりは贔屓目で観るか、やや毛嫌いするかのちがいか。いやいや新劇の場合は、歌舞伎とは違うぞと言っておく。

 

* 引き続き、下北沢に廻って秦建日子作・演出「タクラマカン」の初日を観る。疲れの吹き飛ぶような舞台でありますように。息子の作・演出の芝居の、いつのまにか十何回めかを観るわけだ。仕事が軌道に乗ったのかまだか分からないが、比較的いい文章を書いた娘の方でなく、「おれはサラリーマン」と息巻いていた息子の方が、「創作者」になって、世間に顔をさらしているという成り行きは、感慨深い。姉は、弟の舞台を観るのだろうか。

 なにはともあれ、今日は、妻の体力が二つの舞台のために保つだろうか、それも一つの関心事である。慎重に移動しないと。

 1999 9・30 4

 

 

* 俳優座のチェーホフ「かもめ」は、落ち着いてそつのない、佳い舞台だった。演技陣のアンサンブルが気持ちよく調っていて、だれが大きく算を乱すということもなく、百年前のチェーホフ世界からの、新鮮でうら悲しいメッセージが耳にも胸にもしみじみと深く届いた。俳優座の舞台としては、二年ほど前の「冬のライオン」以来の上出来の感銘作となった。岩崎加根子にくさみが薄く実力がしっかり出て、チェーホフ戯曲にはきまりの役どころを、美しく、決めていた。若い女優も若い男優も起用に良く応えていたと思う。演出も舞台も清潔で寂しく、霧の降るようにたれこめた時代の嘆きの中で、もっとも活躍して行かねばならない新世代青年作家の必然死の悲劇が起きていた。チェーホフという作家の、遠方を凝視し洞察する資性が、戯曲には顕著に現れてくる。悲しくて寂しいのに、感動させられるのは、人間の一人一人が、典型的に把握し表現されて、何というか、作がパッチリしているからだ。

 

* 秦建日子の作・演出「タクラマカン」も、歴史的な「差別」問題と真っ向から対決する、なかなかの意欲作だった。涙している人が多かった。ちくま少年図書館の『日本史との出会い』を最近復刊して、この作が娘や息子にどう読まれてきたかは「知らない」とあとがきに書いていた、が、建日子は真正面からの「答え」を、舞台の上に提出してくれていた。その意味でも、感動した。涙が溢れた。二三年前の作「サハラ」の、より意識的で意欲的な佳い再構築であったといえる、そういう粘り腰の仕事が、それはそれで良いことと思う。下北沢のほんとに小さな劇場だったが、初日、超満員だった。

  1999 9・30 4

 

 

* 帝劇公演佐久間良子主演「花朧」は、リアリティの乏しい、なまぬるいメロドラマであった。高橋治の原作もそうなのかは分からないが、脚色されての科白が薄っぺらくて、女学生の演説のようであった。佐久間は、昔から美人であったが、芝居はうまくない。科白の硬く痩せていて一本調子に力んでいるのが、聴いていてひどく身に堪えた。個性の妙味がまったく無い。何というか女優としての「指紋」が感じられない。向き合う他の俳優の誰に対しても、均等の芝居を、ただ単調に続けている。力んでいるから本人は単調と感じていないだろうが。山田五十鈴、北村和夫、丹阿彌谷津子のような「超」の字のつくベテランたちのうまみと比較するのは、もともと無理なんだけれど、あれでは座長役がかえって可哀相に思われる。

 宝塚出の涼風真世は好きな方の女優だが、

力半減。西岡徳馬も、広い舞台で演技の出来る俳優ではなかった、テレビでならなかなか味のある男優だけれど。

 ま、「旅館もの」の芝居は、大女将と若女将との葛藤劇もふくめて、テレビでも大安売り、二番三番煎じがつづいているが、嵯峨嵐山辺の嵐峡館とか大河内山荘とか、わたしには馴染んで懐かしい辺りをホーフツさせる舞台に、うそくさい話がダボダボと展開されるのだ、これは芝居なんだから、芝居なんだからと納得しいしい、せいぜい楽しんで拝見してきた。

* べつに退屈するのでもないし、全然面白くないのでもない。たぶんこう展開するだろうと、先へ先へ筋が読めていて、その通りに展開していって、それでも、いいところで涙粒が目尻に湧くことは湧くのである。芝居はそれで佳いのだとも、謂えば、それだけのことだが、「つまりましたか」と聞かれれば「つまらないモノだった」と言うしかない。どんなに練達な通俗読み物が、いくら筋で面白がらせようとも、感動とはよほど無縁の暇つぶし時間つぶしであることとよく似ている。

 所詮は観客を、お暇つぶしにいらして下さるのだから、そのようにお座持ちをすればいいのですという安い「哲学」があるのだろう。

 

* しかしいつも思うが、本当に「感動作」を見せれば、どんなお客も喜んで帰ると言いかねるのも、じつは確かなのだ。

 あれで、けっこう永年スターといわれていた或る映画女優が、テレビの料理番組に出演して、なんとまあ「守口漬」のあの長あい大根を見せられ、この長い長いのも地中に根を張っているのですよと料理人に聞かされての科白に、なんとまあ、「大根って土の下にいるんですか。土の上に生っていると思っていたわ」と宣うたのには、さすがに、仰天した。だがこういう赤恥青恥人は、大勢も大勢もいることは不思議なほど間違いなく、それでも芝居を観て楽しむ権利は誰でも持っているのだから、作者も、俳優も、相応に舞台を分かりやすく、まさに通俗に作らねばならない。

 どんなに志賀直哉が小説の神様で『赤西蠣太』は佳い作品であろうが、同題材を話していた講釈師圓玉の寄席人気のようには面白く行かないことを、直哉自身が知っていた。ただ、だからといって圓玉のようには創らない、決して、とも断言していたのである。

 あれもあり、これもある、ということだが、どっちも藝術だとは、やはり言えないし、言ってもならないだろう。帝劇に藝術を期待して行く方が間違っているのだ、と、結論しても、だが、それで本当にいいのだろうか。 1999 10・26 4

 

 

* 三百人劇場で劇団昴の「ワーニャ伯父さん」を観てきた。チェーホフの四大戯曲のなかで、一番好きというか印象の濃かった作品で、期待して行った。期待に十二分に応えたみごとな舞台になった。

 なによりもこの劇は分かりやすい。「かもめ」「三人姉妹」「桜の園」とくらべれば筋の上では地味な方だが、身につまされて、舞台の上の人物たちに思いを寄せうる点では「ワーニャ伯父さん」は一番だろう。底知れない怠惰と退屈との中で深い絶望と怒りと哀しみとが渦巻き、激発し、静まり、ワーニャ伯父の呻きと、姪のソーニャとの希望のない生の不条理に堪えようとする表情と声音との中で、そっと幕が下りる。北村総一朗のワーニャが、柔軟に演じられて感動を盛り上げた。エレーナ役も教授役もよくはまっていた。

 なによりも原作者チェーホフの智慧と洞察のちからに打たれる芝居だった。以前の「三人姉妹」に優るとも劣らぬ舞台だった。俳優座の「かもめ」もよかったが、原作に感情移入しやすい分「ワーニャ伯父さん」がより優れていた。

 いいものは、いい。演劇とはこういう舞台として稔るものであって欲しい。福田逸の訳もよかったのだと思う。じーんと感動が今ものこっている、身内深くに。

 

* 劇中のワーニャ伯父や教授やソーニャたちに、もし、インターネットの世界を機械的に投じ得たなら、彼や彼女らの、あの死にそうな退屈は、どう変わるだろうと想った。

  1999 10・30 4

 

 

* 新国立劇場での、朝日新聞が記念協賛、俳優座オールスターキャストといいたいほどの、加藤剛主演『伊能忠敬物語』を観てきた。が、残念なことに生ぬるかった。

 通俗で、センチメンタル、伊能忠敬の「前」説に終始し、彼の偉さと強烈さが表現できなかったし、あの時代が、世界史的に持たねばならなかった「地図製作」の、「測量」「星学」の、重苦しいような意義や狙いがすこしも描かれず、伝わっても来なかった。ホームドラマなみの手軽さであった。

「子午線」といい一緯度の長さといい、舞台で交わされた会話や説明の、あんなことでは、一伊能の小さな個人的功名心だけの話に終わってしまう。なぜ、あれが世界的な関心事であったのか、それが問題なのだ。そして、同じことは先達の日本人も何人もが苦心し実践し私見を公開していた。一伊能ひとりの事業でなく、時代の要請を、技術的にも結果的にもかなり精密な正解に近づけた人物であった。彼の前に先輩たちの知見と苦心の跡が多く積まれていたのである。

 日本史上、天明の初の蝦夷検分は、老中田沼の必死の政策だった。田沼を逐ってそれを踏みつぶした松平定信にしても、蝦夷と北方探検は引き継がざるをえなかった。田沼と定信との北方政策を通じて、大きな先駆者として実質働き続け成果を上げたのは、最上の一百姓から、算学や測量の実力と経世・探検の意気によって着々出世した幕吏最上徳内であり、名高い近藤重蔵なども、すべて徳内の手引きで動くしかなかった只の一上司に過ぎなかった。徳内の探検家としての素質には、主としてロシアを通して西洋事情に吶喊しようという経世家の気概があったし、またアイヌへの深い理解と共感とがあった。有名な間宮林蔵にしても徳内よりはるかな後輩であり下僚であった。間宮海峡の探索も、当初徳内の任務であったのを、幕府がその危険を顧慮して徳内を留め置き林蔵に命じたことであったし、樺太が島であり半島ではないことを、徳内はすでに推察していた。林蔵はそれを確認してきたのだった。

 最上徳内らの北方地図製作の成果はシーボルトらを驚かせその大著のなかで感謝させているように、かなりの精度で樺太や蝦夷地をすでに描きあげていたのは、よく知られた史実である。日本地図をすらかなりのリアリティで書き上げていた先達は他にも存在していたのであり、こういう先達の大きな働きのあとへ、伊能忠敬は、日本列島地図製作の「仕上げ人」の如く登場した、高度の技術者であった。だが、その技術を日本が何故に必要とし、いかに忠敬が必要を満たして成功したか、そういう凄さは、今夜の芝居には全く欠け落ちていた。熱烈な探検と測量と作地図に対する世界の関心・世界の視野に呼応した最上徳内らの努力、そういう努力の成果の上に続いた伊能忠敬の緻密で克明なこだわりや優秀さが、あれでは観客に的確には伝わってこない。

 なにもかも不十分な脚本であり演技であった。加藤剛はこんなにヘタな役者だったかと初めて思ったほど、甘っちょろい伊能忠敬であった。

 伊能を引き立てた幕府の天文学者高橋など、じつは途方もない学力を持ったエラ者であったが、またそれ故に悲惨な運命に死んだが、そういう片鱗も舞台は感じさせる用意がなかったし、今度ばかりは加藤の「唄う」芝居、センチメンタルな甘さと臭さに辟易した。真面目だが安い薄い演技。それは彼の個性で美徳あるとともに多大の欠点でもある、そのところが、この舞台に限って鼻持ちならず悪く出た。演出家は、この大スターの為すがままにさせて、加藤の悪癖を矯める気迫と見識を持たなかった。持てなかった。

 加藤剛は美声で明晰に語れる俳優としてかけがえない才能をもっているが、一方、科白をへんに浮かれて、自ら酔って、唄ってしまう。その唄い方が、過去の数々の芝居でと同じなのだから、見なれている者ほど堪らない。やりきれない。またかと思ってしまう。女優では岩崎加根子にそれがある。香野百合子にもそれがある。とにかく俳優座を背負って立つ加藤剛はほんものの大スターだし、わたしは好きである、が、テレビの「大岡越前」をながながとやり続けたための悪癖が、彼の芝居を軽薄で安易なものに毒し切ったかと、実に惜しまれる。あの調子では、とても深い強い質実な把握で、「偉人」を表現し演技することは出来ない。

 このところ加藤は「漱石」や「鴎外」や「伊能忠敬」など、偉人の名によりかかつた通俗仕立ての芝居が多いが、俳優加藤剛のプラスにあまりなっていない、むしろ安易にさせている。利休の言葉を借りていえば「かなひたがるは悪しし」を地でいった「真面目がった」薄さと安さで舞台を浮かせている。客が呼べればいいだろうとだけ考えているのなら、先輩仲代達也にはとても追いつけず、引き離される一方である。

 俳優座の「かもめ」はわるくなかった。感銘を受けた。劇団昴の「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」は傑作だった。じんじんする感動を胸に抱いて劇場をあとにしたが、今日の「伊能忠敬物語」には、拍手するのも面倒な気がした。志を高く見せようとして志のじつは低いことを暴露したものと酷評するより無いのが残念至極である。

 舞台の袖へ、ナレーターが出て説明するのも、回数が多すぎる。幽霊の扱いも、ただ軽演劇風な効果狙いで、真率を欠く。おなじく幽霊を使うのなら、わたしが、長編小説『最上徳内』のなかで終始時代を超えて徳内とともに蝦夷地を旅したような、あえて言うが必然の妙を得てやってもらいたい。歴史の人物を演じる気なら、主人公の生涯の少なくも三倍ほどの歴史を掘り下げた上で、きちっと構築した方がいい。その勉強を欠くから薄く安くなるのであり、把握が弱ければ表現も弱くなると、いつもわたしが自分を戒めるのはそれゆえである。

 

* 新国立劇場は不便だった、われわれには。新宿へはやくに出て、サザンタワーで「ほり川」の寿司を食べてから、京王新線に乗った。池袋メトロポリタンホテル地下の「ほり川」と同じ店だが、新宿のは最上階で、窓際のカウンターからは高島屋が目の下に見えるのを、あまり外へ出ない妻は嬉しがっていた。芝居のはねたあと、風が強く冷えていたので、タクシーで、青梅街道を走って帰った。芝居に不足など言いながら、それでも芝居見物は楽しい。

 

* 商業演劇では、あの蜷川演出で市村正親主演の『リチャード三世』がわれわれには一等刺激的で面白かった。芸術的にみごとだったのは、やはり昴のチェーホフによる二作で、俳優座では栗原小巻主演の『冬のライオン』に感動した。帝劇では『レミゼラブル』が一等マシだった。身びいきするのではなく秦建日子の『タクラマカン』も、今日の舞台などに較べれば、数倍の熱があったと思う。

 1999 12・11 3

 

 

* こんなメールが届いていた。返事を送った。

 

* 夕刊で「伊能忠敬を破格の接待」の記事が。

 伊能測量隊は徳島藩からの随行員を含めて十数人と、測量活動を手伝う作業員百二十人(地元農民)。これに要した費用(昼食・休憩)は一日で、現在のお金に換算して約三百五十万円。費用と人材の協力は海岸線に在する地元民たち。この協力ぶりが古文書で判明。

 台風や津波が押し寄せる太平洋に面した海岸線沿いの住民にとって、正確な測量地図がいかに貴重であったかと、その協力ぶりに窺い知れます。 

 

* いい話ですね。測量と作図とは、当時以降今度の大戦まで、いや今日ですら、第一に国防の一大事でした。幕末の洋画家で幕府、明治政府の地図方であった川上冬崖は、地図の紛失を咎められて獄死し、また伊能を引き立てた幕府天文方の高橋も、間宮林蔵の密告により、地図の国外流出を咎められて無残に獄死しています。四国沿岸は外国船のとりつきやすさなどを配慮し、ことに大事に作図されたのでしょう。伊能は、異能の持ち主で凄いほどの技術者でした。

  1999 12・13 3

 

 

* 帝劇の「細雪」公演、文句無く楽しめた。

 原作の力は言うまでもなく、脚色・演出にもソツなく、澤口靖子の完璧に美しい「雪子」の演技に、目も心も奪われた。こんなに美しい女性を見たのは生まれて初めてで、その美しさが「細雪の雪子」になりきっていて、女優澤口靖子とも思わせない自然さと気品にも、感動した。涙が溢れて困った。映画では山根寿子や吉永小百合の「雪子」を見てきた。山根が小百合が演じている「雪子」で、それなりに納得し好きだったが、今日の「雪子」は雪子その人が、生身のまま舞台の上で光り輝いて自然であった。「澤口靖子」が美しいとも素晴らしいとも思わせず、「なんと美しい雪子だろう」と、ただ心を奪われていた。

 双眼鏡で「雪子」だけを見ていた。「細雪」の世界は知悉している。古手川祐子の「幸子」はよかった。この人の映画の「妙子」もとてもよかつた。佐久間良子の「鶴子」は、映画の時の「幸子」役と同様、感心しなかった。「こいさん」役は美しいが未熟だった。役が掴めてなかった、自然な説得力では。

 そんなわけで、他に気を取られることなく、わたしは終始「雪子」を見ていた。芝居そのものの良さにも素直に感心した。脚色が佳いということの大切さがしみじみと納得できた。菊田一夫という元の脚色がいいのか、潤色した今の書き手がいいのか、台本を見ないから分からない、が、普通に「細雪」を舞台化するのなら、これで良いと思わせる程度に的確な脚色で潤色だったと思う。帝劇で、これで五つも六つも芝居を見せてもらったが、抜群の舞台であった。わたしは松子夫人が懐かしくてたまらなかった。はじめて「細雪」を通読した子どもの頃を思い出した。死んだ母にも読ませた。小説の感想など言う人でなかったが「ええもんやな」と母は一言で評した。とても嬉しかったのを覚えている。

 華麗で、幸せの絶頂にあるような美しい四姉妹が、それぞれに深い悲しみを抱いて、時代の運命にも翻弄されて行くもののあわれが、無理なく美しく描けていて、付け刃ではない感動へ誘い込んでくれた。こういう舞台が創れて、帝劇の超満員の客を感動させうるのである。それならば月々の興行も、もう少し客の能力を高くみて、質のいい舞台を謙虚に創って欲しいものだと思う。

 

* 『細雪』は円熟の名作であり、時代と人間を読み得た批評の名作でもある。単なる絵巻物ではないのである。

 そして、今夜の舞台とはまた全く違った「細雪」のドラマを、私なら、別に思い描くことが出来る。思いのままに私にも「細雪」が脚色し得たならば、それは谷崎自身がこの長編をそもそも構想した、最初の動機や展開に大胆にちかづくだろう。「貞之助をめぐる三人の姉妹」の美しくて烈しい葛藤となるだろう。映画の市川崑監督は、ややそれへ近づいていたが、「こいさん」の、より深い内面には近づけないでいた。

 2000 1・9 5

 

 

* 新国立劇場中ホールで、音楽座、浜畑賢吉主演のミュージカル「アイ・ラブ 坊ちゃん」を観てきた。浜畑さんの招待だろう、他には知った只一人もいない顔ぶれであり、浜畑さんの年賀状(を欠礼す旨の葉書)には、この芝居の稽古に励んでいると書かれていた。一度二度会っており著書の交換もあった。舞台は以前に帝劇で「マイフェアレディー」を観ている。これは、主役草刈正雄がよくなくて、ワキをしっかり固めていた浜畑さんには気の毒な舞台だったが、今日は彼が「坊ちゃん」を書く夏目漱石を演じて、すてきな主役だった。漱石を演じた俳優では加藤剛がいるが、これは感じがよくなかった、漱石が気の毒に思われる失敗作だった。今日の浜畑漱石は、やりすぎず、べたつかず、しかも漱石の病的な苦悩も人間的な苦悩もしっかり描けていて感銘を与えた。

 軽演劇といえば軽演劇かも知れない。音楽劇として出色の音楽があったのでもない。舞台装置は、巧みにまわしていたが、野暮といえば野暮なものだった。だが、そういう冴えなさを押し切って行く、率直で巧緻な脚本が、緻密にじつに間のいいうま味で演出され、どの俳優の一人一人もそれに全力でこたえて、いやみのない、すかつとした楽しい舞台に盛り上げていた。最後にはしたたか熱い涙をさえ溢れさせてくれた。

 こんなに夏目漱石に愛情を注いで優しい芝居が見られるとは思わなかった。勝手な解釈で漱石をなぶりものにしたような漱石劇をかつて見せられたが、今日は、理屈など一つもこねずに漱石の微妙な嘆きや苦しみに芝居全体が良く反応し、理解を示していた。思わずおお有り難うと漱石に代わって感謝したいほどだった。ひとことでいえば、楽しませてもらった。嫌みな何一つもない、それはきつと上手であったのだと納得させる舞台だった。

 こういう風に脚色しこういう風に演出しこういう風に演じてもらいたいと思うとおりの舞台になっていたのが、えらい。浜畑さんに感謝する。すてきに良い席を妻と並びで用意してもらっていた。

 2000 1・20 5

 

 

* なんとまあ、女優澤口靖子が、細雪「雪子」のメーキャップでわたしに逢いたいと言っているので、「開演前の楽屋にいらっしゃいませんか」と、帝劇から俄かの電話、こりゃ驚いた。

 芝居がはねていま化粧を落とそうという楽屋でより、「雪子」に成ったまっさらな気持ちの「顔」を見て欲しいということらしい。京都からは、大急ぎで帰ってこよう。

  2000 1・23 5

 

 

* 女優澤口靖子との帝劇楽屋での初対面は、開演二十分前のきわどいものであったが、「完璧」であった。その美しさは、闇にも、言い置くことではない。

 

* 支配人の用意してくれたいちばん見やすい席で、今一度「細雪」を堪能して、まっすぐ帰宅。

  2000 1・26 5

 

 

* 帝劇「人生はガタゴト列車に乗って」二幕、浜木綿子主演の芝居を観てきた。X席で、オペラグラスを必要とせず、役者の化粧ののりまでよく見えた。一幕中途で、本気で帰りたくなった。幕間に妻と地下で食事して、そのあと終演まで、わたし一人銀座辺で時間をつぶそうかと本気で考えた、が、行ってみたい店ではすべて酒を飲まねば間が持たない。節酒したいばかりに、もう一度、座席へ戻った。

 二幕めは、同じ低調は低調なりに、平とん平と浜の掛け合い漫才で笑わせられた。あれはテレビで、川越辺を舞台に監察医を演じる浜と刑事役の平との掛け合いを、アテ込みで舞台へ移しただけの話で、テレビと舞台の野合のようなもの、演劇的な効果でも何でもない。それでも思わず笑ってしまう。笑わせる浜も平もへたではない。だがまあ、なんという臭い芝居だろう。軽妙感が自然に出るのではない、見たかとばかり計算ずくでの経妙の押しつけで、極めて芝居そのものがやすい。

 もっとも客は大喜びしているのだから、狙い目を当てているのだと胸を張られれば、ああそえうですかと引き下がるしかない。

 見終わって、収支決算、妻は楽しんだと言う。わたしも楽しまなかったとは言わない。やれやれ。

 井上ひさし氏の母なる人の原作を脚色し、再演ものである。大衆演劇とはこういうものなのだろう、狭苦しい小劇場で熱気を噴き上げている演劇青年たちが最も軽蔑している芝居の起こし方であるが、この世界で成功するとは、結局小劇場からこういう大劇場に登場して広い客席を連日満員にしてみせることを謂うのだろうか。なんだか、切なくなってくる、よそながら。

 今度は十朱幸代「雪国」の芸術座で、もう少し深く楽しみたいものだ。

  2000 2・14 5

 

 

* 日比谷芸術座、川端康成原作「雪国」を十朱幸代の駒子、田中健の島村、小林綾子の葉子で見てきた。文章の美しさ、表現の深さでは屈指の文豪の、第一と推しても過言でない名作だが、それは文学としてであり、舞台に載せると妙味の大半は溶けて流れてしまう。堅固な劇的世界というよりは情趣の世界であるから、よほど人物関係に惚れ込んで共感しない限り、これは何という(けしからん、あやしげな)お話なのでしょうか、ということになる。そこは谷崎の『細雪』と大分ちがう。谷崎のドラマには肉体も骨格もあり、『細雪』にしても単なる絵巻物ではないから、澤口靖子の「雪子」に魅入られた帝劇のあの舞台とまるでちがう別の『細雪』劇化も十分可能だけれど、川端の『雪国』だと、どうしても今日の芝居を、筋書きとしては大きくは出られない。情緒的に共鳴できなければ、なにですかこれは、となる。

 三幕が幾場面にもなっていて、スクリーンをおろして「雪国」湯沢の四季が、みごとな映像として映し出され、十朱のナレーションが入る。原作『雪国』の文章を読むのであるから、映像との相乗効果で、みごとな「文学」になる。すばらしい文藝だと今さらに感心し感嘆しているうちに、舞台になる。

 十朱幸代はいい女優だが独特のエロキューションで、早い話がべたついた甘えた声を出す。それがいいときもあり、まずいときもある。駒子ではいい効果にはなっていなかった気がする。原作『雪国』は駒子の稟とした哀情と魅力で保っている。わたしの読んで描いていた脳裡の駒子と、十朱の駒子とでは、径庭甚だしいものがあった。だが、だから十朱のは全然良くないとも言えない。可愛らしい悲しい寂しい駒子になっていたが、きりっとした凛とした駒子ではなかった。江戸前の芸者ではない、客とも寝るいわば田舎芸者なのだものといえば、それに違いない。駒子の運命は、きくよという場所替えして落ちぶれて行く姉芸者、不治の病で死んで行く師匠芸者がいわば未来図を描いてくれていて、駒子も葉子もそれを見知っているが、どうにもならない。島村には何も期待できない。

 途中で出て行きたいような芝居ではなかったが、とくにほろりともしなかった。強いインパクトはなく、それは男島村のもはや時代おくれな男の勝手が、どうしてもピンとこないためで、妻など、大いに頭に来たようであった。

 

* わたしはまた『雪国』が読みたいと思ったし、妻は読みたいとは思わないと言う。『細雪』の方がずっとよかったと言う。しかし浜木綿子の「ガタゴト列車に乗って」の、ただ漫才なみの掛け合いで笑わせただけよりは、舞台「雪国」に対し不満は無いとも言う。同感だ。十朱が期待したほど美しい芸者に見えなかったのも残念。

 幕間に持参の弁当をとり、帰りに日比谷でシナ蕎麦を食べ、有楽町から帰った。

 三月には帝劇、大地真央のミュージカル「ローマの休日」を招待して貰っている。日生劇場の「海神別荘」とどんな勝負になるか。大地真央の歌は「マイ・フェアレディー」で聴いている。まずまずの歌唱であった。「ローマの休日」は初演で好評の作、楽しみだ。

  2000 2・19 5

 

 

* 電メ研の友人で久しい読者でもあるNHKの倉持光雄さんから、今朝急に電話で誘われ、国立劇場で、新派「瀧の白糸」を二階の佳い席から見せてもらった。むろん水谷八重子の瀧の白糸に、村越欣弥役は歌舞伎から板東八十助。花粉症の上に、風邪のなごりがぶり返しか咳き込んでいたが、二重の眼鏡とマスクとで、幸い発熱などせず気分良く楽しませてもらった。

 

* 歌舞伎の世話物の情調を、世話の演技と情緒纏綿の間のよさに置き換えて、女形も使うが女優も活躍させて、分かりいい舞台に練り上げてきた、新派。さすがに若い頃は辟易し敬遠していたが、昔の花柳章太郎が「日々の幸福」とかいった芝居を見せた頃から、何となく認める気になった。

 もっとも先代水谷八重子のよさは、わたしには分かりにくかった。ぼってり重い芸風に感じられた。

 今の八重子が、良重の名で親の七光りを売り物に東郷たまみや朝丘雪路らと歌など歌っていた頃は、どうしようもない感じだったが、守田勘弥の娘らしい侠なよさに、波野久里子のような好敵手を迎えて、新派の芯に位置し始めてからは、わたしは、この声のわるい美人でもない、賢そうにも思われない女優を贔屓し始めていた。

 この八重子の鏡花劇を、これまでに「日本橋」「天守物語」と観ている。久里子の「歌行燈」も観ている。

 これらの中で「瀧の白糸」は、台本も鏡花自身がていねいに作り上げていて再々の上演であるから、そつはない。しかし、時代がかぶせてきた古びという点では、いちばんそれをかぶっている。「天守物語」などは古びようがない。九日に観る予定の「海神別荘」でもそうだ、これらはいわば神話であるが、「瀧の白糸」は明治の裁判劇で締めくくられるほど近代の舞台であり、その辺が、水芸の限界と同様に、主人公達の「愛」の在りようにも、相当なハンデを押しつける。

 筋が「理」にまだ絡まない、月光の冴えのまま男と女とが触れあって行く第一幕が、だから、一等初々しくて気分がいいのは無理もない。殺しの場面などは、観ていてもしんどいし、かったるい。

 裁判所のつくりなどよく考証してあるのだろうが、検事代理が検事側証人に犯罪を自白させて行くのだから、異例も過ぎたものになっている。そういうことを乗り越え押し越えての「愛」の確認であり、時間差の心中劇にさえ仕立てられているのだから、とこうの理屈を持ち込むのは野暮という話にして置いた方がいい。

 その限りで八重子はしっとりと、しんみりと、愛らしく情の深い女を演じていた。それに較べれば男の役は分かりにくい。瀧の白糸の献身の仕送りで学問し、任官し、初の裁判で彼の為に人をあやめて金を作っていた瀧の白糸を追及し、自白に追い込む。死刑になる。刑の執行前に男はピストルで先に死んで行く。坂東八十助の達者を以てしても、この役は深くリアルに演じられなかった。それなのに泣かせるのは、これは鏡花の「徳」という以外にない。

 鏡花は、いわば瀧の白糸のような女からの庇護を、得たいタチの人だったから、「照葉狂言」をはじめこの手の男はたくさん書いている。この手の女もたくさん書いている。

 舞台装置も新派は情趣を大切にしっとり創ってくるのが、見栄えがする。今日の舞台の演出が誰であったか知らないが、みな、小気味よくそつなく身を働かせていて気持ちよかった。思わぬ贈り物をいただいた倉持さんに、感謝。

 

* 二人で並んで観て、二人で幕間の弁当を食べた。お土産に森八の最中を戴いた。これには目がない。劇場の食堂では倉持さんにお銚子を一本つけながら、わたしは節酒していたのに、家に帰ってこの最中は放っておけず、即座に三つも食べてしまった。先が思いやられる。

  2000 3・4 5

 

 

*日生劇場での板東玉三郎、市川新之介の「海神別荘」は、二時間、稀有の幸福感で堪能し満足し、痛いほど拍手してきた。もう一月も前から期待をかけ楽しみにしていたが、百パーセント酬われて、金無垢の延べ棒のような緊迫とカタルシスの二時間だった。オーバーなようだけれど、こういうことは、そう有るものでない。鏡花の天才と批評の力とが生き生きと形象化され、新之介の海の公子は颯爽と美しく、威厳・気迫に溢れ、気稟の清質、まことに尊いものがあった。玉三郎の演出に賭けた読み込みの確かさを、「蛇と鏡花」を論じてきたわたしは、自信を持って保証できる。えj「天守物語」と「海神別荘」は、わたしにも妻にも、間然するところ無き「演劇」の代名詞となった。左團次、秀太郎、上村吉弥、板東弥十郎らのワキもおみごと、海中・海底の景気を演戯的に効果あるものに盛り上げてくれた大勢の熱演も、じつに立派で、胸が熱くなった。

 

* 何と言っても偉いのは鏡花の想像力の確かさと豊かさと厳しさ、この劇のキイワードは、まさに「蛇」なのである。そこに海と人間世間とのせめぎ合う接点があり、逆転する誇りと優越との、蔑みと差別との、きわどい機構が隠されてある。鏡花理解の芯の鍵がここに在る。しかし悲しく情けないことに、多くの鏡花学者たちは、鏡花論者たちは、盲目同然にそこが端的に見えていない。

 

* A列中央という絶好の席を吉弥の付人はとって置いてくれた。その吉弥も美しく張り切って演じていたし、悪声の秀太郎も落ち着いた口跡で、丁寧に演じていた。カーテンコールのときに「松嶋屋」「吉弥」と短く低く声をかけたら、はつと気付いた顔を向けてきた。楽しい佳い舞台だった。妻は感嘆の余り涙をこぼしていた。わたしも、終幕、目尻に涙が浮いていた。

 

* これは飲まずにおれず、人気のない夕刻前の好きな「銀座ピルゼン」で、わたしはビールをしっかり飲み、妻はクワスを飲んだ。燻製の鰊、鴨、そしてこの店ならではのソーセージなど。話題は尽きなかった。

 妻といっしょにどれほど芝居を観てきただろう、大学時代に、専攻のみんなで南座の歌右衛門「道成寺」などを観て以来、東京へ出て、俳優座を芯に、百や百五十ではきかない数の観劇を楽しんできたが、中でも今日の「海神別荘」は出色の舞台だと感想一致。さらに「銀座きむらや」の二階で、小海老カツレツのサンドイッチでコーヒーを味わって、有楽町線で帰った。わたしは車中、保谷ちかくまで熟睡した。二重の眼鏡と、マスクと、往きに池袋で買った目薬が効いて、花粉にもひどく悩まずに済んだ。

  2000 3・9 5

 

 

* 「ローマの休日」は、まっとうに楽しめた。そつのない、よく仕上がった舞台で、原作映画の精神の宜しさを、巧みにまた誠実に受け継いで、けれん味も嫌みも少しもない、気持ちの佳いドラマを、オードリー・ヘプバーンの面影を懐かしませる大地真央と、グゴリー・ペックには似ていないが嫌みのない山口祐一郎とが、のびやかな演技で実現・再現してくれた。ダンスの重いのは残念だし、ミュージカルなのに音声効果のわるいのは帝劇の責任で、役者の責任ではない。そういった傷のあるのは残念だが、妙に観客に媚びた低俗なつくりは少しも感じられず、オートバイで舞い上がるのも、主役達の気持ちの表現としてむしろサービスに富んだ効果をあげていた。

 大地は、尋常な、ゆとりのある歌い手で、盛り上げるところはしっかり盛り上げ、演技的に深い好感を客席から引き出していた。気品と姿勢の美しさはこの女優の財産で、「マイフェアレデイー」のイライザよりも、今夜のアン王女のピュアーな演技の方がはるかに打ってつけであった。山口は大きく、声量も豊富で適役だった。気持ちよかった。

 2000 3・14 5

 

 

* 四月の日生劇場ミュージカル、松本幸四郎の「ラマンチャの男」に、また招いてもらった。三十年記念の舞台だと幸四郎の話していたのをテレビで聴いていた幸四郎には身贔屓のような感情があり、一月には大阪まで「勧進帳」を見に行った。弁慶と一緒に客席で盃を挙げてきた。それでいて歌舞伎以外の幸四郎の舞台はじつは初めて。楽しみでならない。先代幸四郎が染五郎の頃から南座で高麗屋の芝居に馴染んできた。初代吉右衛門のお供の体で「もしほ」後の中村勘三郎や市川染五郎がつき、今の大歌右衛門がまだ芝翫だった。ああいう芝居を、あれはナショナルとか東芝とかの電器店へのサービスだったのだろうが、父はわたしに見せてくれたのだ。能も観た。文楽も観た。中学三年から高校時代にそういうチャンスが何度となくあり、わたしは恵まれていたのである。また大喜びで観にいったものだ、顔見世頃は期末試験時であったけれど。

  2000 3・21 5

 

 

* 紀伊国屋ホールで、青年座公演、西島大作「マンチュリア 川島芳子伝」を観てきた。西島さんのお招きで、私たちのために佳い席をご用意いただいた、感謝。

 

* 川島芳子を、もう知らない人の方が多かろう。東洋のマタハリともいわれた男装の麗人で、清朝皇族に生まれ日本人の家庭で育ち、満州建国と関東軍の暗躍に呼応しながら、盛んに活動し声名と艶名を馳せた。敗戦後、中国により中国人である国賊として処刑された。

「満州」建国の時代から敗戦に至る、関東軍と周辺右翼や商人たちの満州中国に対する覇権的侵略的行動には底暗い烈しいものが漲っていて、しかもその渦中で川島芳子は女とも男ともつかぬややこしい生き方をしていたのだから、この劇化は、容易ならぬ難しさをはらんでくる。五族協和、王道楽土の旗印も、理想なのかごまかしなのか、双方が混在していて、川島芳子は徹底的に利用されて終わったとも言える。

 こういうドラマを演じるには、今回公演の主役に抜擢された女優の力不足は覆い難く、演劇言語で「男装の男子語」を独特の魅力で生み出す工夫どころか、男でも女でも、平板で余裕のないなみの科白、メリハリの利かない科白に終始してしまった。その余裕のなさ故に、演技も無骨で冴えない動きとなり、颯爽とした女の魅力と男装の魅力とをめざましくスウィッチして行く面白さなど、全く出せなかった。これでは少しも「美しい」「魔」の魅力は生まれない。ごく平凡な、ただボイシュな口を利いているだけの普通の女になってしまった。王族貴族の品も、ヨーロッパ仕込みのウイットもなく、多くの高位高官を手玉に取った人間的なアクも出せなかった。

 これでは、脚本がどう確かでも、舞台は盛り上がらない。演出も鈍かった。清國最期の皇帝の皇后が、芳子のレズビアン的技巧に翻弄されて登場するのも、まるで場末をうろつく酒場の女のようで、かりにも皇后であった位取りがまったく出来ていない、演技的に。

 演技的に観るべきもののあったのは、怪物「甘粕元大尉」を無気味に不敵に演じた俳優だけといってもいい。

 どんなにいい台本をもらっても俳優の力量が追いつかなければ、やはり佳い舞台にはなりえない見本のような結果で、誰のためにも「気の毒」であった。

 2000 4・13 5

 

 

* 日生劇場で松本幸四郎の人気ミュージカル「ラ・マンチャの男」を観てきた。オペラ座の怪人用指定席のようなところで観た。時間の経つにつれ惹き入れられ、終幕で十分納得して拍手を惜しみなく送ってきた。

 

* そもそも身近にドン・キホーテのような人が現れて何かをはじめたら、失笑したり嘲笑したり迷惑がったりするのが普通だろう、この劇もそういう感情から見始めることになりやすい。それが、観ているうちにそうではないぞと気がついてくる。ドン・キホーテの常識的には常軌を逸した振舞いや物言いの底に、猛烈な「現実」批評の高貴に純粋な太い強い針の隠されているのが見抜けてくる。セルバンテスからすれば、当時の教会や司祭たちへの批評が強かったろう、が、昨今今日の私たちからみれば、よくしたり顔に謂う「現実的な現実路線」に対する、侮蔑に満ちた否認がものを言ってくる。現実第一人間のしたり顔に生きて幅を利かしている「現実」ほど、真実を逸れた醜いものはないと言い切るラ・マンチャの男の態度に、底深くから共感出来るのである。

 

* しかしいわゆるドン・キホーテは、現代でも全くの少数派であり、戸惑う人の方が多いだろう。バグワンに深く接し、『老子・道・タオ』を毎日読んでいるわたしからすれば、ドン・キホーテは老子型の、マインドに毒されていないビューティフルなタイプであり、マインドの塊のようなハムレットとは正反対である。どちらに魂の色の似通いを感じるかと謂えば、問題なくわたしはドン・キホーテである。そのようであろうと「闘って」きた。老子のようでありたいと願っている、マインドの塊のような孔子のようであるよりは。

 

* 幸四郎の演技に大満足したとか、鳳蘭や浜畑賢吉や上条恒彦の演技がどうだとかいう感想は、今日の舞台ではもたなかった。ただもうセルバンテスとドン・キホーテという「ラ・マンチャの男」の「意味するもの」にずうっと心を惹かれていた。並んで舞台を観ていて、妻は、つねづねはむしろこだわりの少ない非マインド型個性と見られているのだが、実はハムレット型のかなりマインド型であることが分かった。逆にわたしは相当にドン・キホーテ型、ないし彼に共感のきくタイプだということに、改めて気がついた。お互いにいたく思い当たるハメになった。それがおもしろかった。そして、なんだか、訳分からずに二人ともしんみりした。

 

* 芝居がはねて直ぐ、日生劇場内で注射し、銀座の三笠会館にとびこんで、春らしい懐石を食べた。特別にビールの小瓶のお許しが出たのが幸せだった。雨の冷え込む一日だったが、日生劇場という気分のいい劇場で、佳い舞台が楽しめ、よかった。

 2000 4・15 5

 

 

* 帝劇の五月公演、森光子の「ビリーバンバン」に、また招待して貰った。

 森光子は、藤田まこととの「てなもんや三度笠」の頃から識っている。何十年前のことか。その後だろう、「スチャラカ社員」というテレビの生番組もあった。チョイ役で松坂慶子が出ていた。もっと前だろう「バス通り裏」という人気の連続ドラマもあり、途中から、主役十朱幸代の親友のていで岩下志麻が出てきた。低調な番組だったけれど森、松坂、岩下の三人を初めてみて、必ず大売れに売れて出るぞと断言していた。三人とも、予言どおり大女優になった。藤純子もくだらないテレビ番組から出てきたが、もったいないほど綺麗だった。

 高齢の森光子とはパーティーで二度ほど出会っているが、実は舞台も映画も観たことがない。帝劇を楽しみにしている。

  2000 5・3 6

 

 

* 三十年、百度に優に及ぶ俳優座観劇のなかで、ナンバーワンに挙げたいほどの、みごとな舞台を、今日、観せてくれた。『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は、実話に基づく邊見じゅんの原作、藤田傳の脚色、西木一夫の演出で、演技陣は岩崎加根子、可知靖之、河原崎次郎、美苗ら大勢。一人残らず、この舞台に参加していることが嬉しくて堪らないような、生き生きした舞台を成就していた。全てが分厚く噛み合い、間然するところ無い演劇時空、稀有の成果といわざるをえない。

 脚本がしっかりと手厚い構築度を示し、劇的な感銘を波のように揺り起こし揺り起こしてダイナミックだった。演出も行き届いて、舞台装置も陰鬱に巧妙だった。

 岩崎の、今日はと限定するが、舞台から切り抜いてお手本にして配りたいほど、科白術がみごとに発揮され、聴いているだけでも嬉しい妙味=ファシネーションの底光りがしていた。

 だが、勝るとも劣らない可知靖之入神の演技に驚嘆した。なんという巧さだろうなどと思わせる隙間もなく、役そのものでわたしを魅了した。その役を演じていたのが可知だと、終演後に連れに言われるまで、可知の可の字もわたしは気づいていなかった。しかも俳優座では、村上博ら期待の指折り三人にいつも数えて、あの彼らのために存分の出番が欲しいなあと、連れと何度話し合ってきたか知れないのだ、その舞台が現に眼の前で実現していたのに、可知靖之と認知しないまま舞台を見終えたというのは、いかに彼がみごとに演じ、いかにわたしが気を入れて「舞台」だけを観ていたかの証拠となろう。すばらしいことだ、嬉しい体験をさせてくれた。

 シベリアに抑留されていた兵隊の一人が死ぬ直前に長い遺書を書いた。七人の仲間たちは必ず故国の遺族に遺書を届けてやるぞと約束したものの、文書を書き、また所持することすらソ連軍は厳禁していて、極めて危険であった。七人は分担して長い遺書を暗記してしまう事に決め、そして帰国後に、銘々の運命に翻弄されながらも、断続して、死んだ兵の妻の手元に届けて行く。その最後の一部が届けられた時には、妻はすでに病重く余命

は望み難かった。

 ことは単純ではない、シベリア帰りのもと兵士たちには信じられないつらい重い故国での苦労が重なった。軽薄な舞台も時に平気でみせる俳優座が、渾身の誠意で彫みあげたどっしりと確かな名舞台を成就したことを喜びたい。

 そうそう、この舞台では、美苗のたしかな充実についても賞讃を惜しんではいけない。この女優は、最初に抜擢されて「野鴨」の少女役で痛切に眼をひき、成長して「とりあえずの死」の従軍慰安婦の名演で感心させ、そして今日も、達意の表現力を悠々と披露していた。女優で五本の指には数えたい、俳優座期待のいい財産になってきた。

 佳い舞台というのは、ほんとに佳いものだ、幸福感を覚える。

 

* 今日はその幸福がもう一つ重なった。俳優座を観おえるとすぐ地下鉄で日比谷へ移動し、帝劇で森光子の『ビギン・ザ・ビギン』を観たのだが、ま、俳優座のおまけぐらいに思っていた。俳優座があんなによかったんだもの、少々帝劇がチャランポランでも楽しめればいいや、と。

 ところが、このショウは、なかなかどうして、力作のエンターテイメントで、十分に楽しませ、したたかに涙を誘う佳い舞台であった。

 森光子というのは、さすが森繁久弥にならぶ当代のエンターテナーであり、それも、力演を力づく持ち込むのでなく、悠々とした懐の深さと優しさとで、心憎く感動へ客をひきずりこんでしまう。きちっと歌い、きちっと話し、きちっと動く。科白の美しい陰翳と明快なこと一つをとっても、いい役者はちがうなあと心底納得させてくれる。佐久間良子でも浜木綿子でも十朱幸代でもちょっと太刀打ちならない、図抜けた把握と表現で魅せてくれる。たたき上げ練り上げて、十二分に洗練した絹の肌合いを見せている。小柄な大女優であった。「てなもんや三度笠」の昔々を頭の隅に懐かしみながら、目前の森光子の舞台に、登場のつどどきどきし、わくわくしていた。フィナーレの森が、若々しい他の大勢の女優やダンサーの誰よりも若く、若々しく、とびきり美しいのにも驚嘆した。

 わたしなども建物にだけは記憶のある、有楽町日劇の沿革を太い線にして、ショウを愛し抜いたひとりの死者と多くの生者たちとの熱い交感・交響の愛の物語であったが、劇の進行を盛り上げて、存分に見せてくれたショウと歌との場面も活気に溢れ、風間杜夫も熊谷真美も井上順も山本学も、手厚く舞台に加わっていた。

 前列の、下手花道にも近くにわたしたちはいて、ラインダンスの脚も表情も、健康に、輝いているのを大いに楽しんだ。

 おそらく、この森光子と風間杜夫とで演じてくれたいわば「歴史」物の現代ストーリーは、ながく懐かしく記憶に残って、どこかで、わたし自身の生きてきた時代の匂いや物音に溶け合うに違いない。森光子も愛していた美空ひばりの面影も、そこへ加わってくる、「川の流れのように。」この題で森光子は新しい映画を創ったらしい。健闘されよ。

  2000 5・13 6

 

 

* 目白に新しくできた小劇場で原知佐子が主演の「聖女グレース」を観てきた。知的・批評的によく書けた英国の脚本で、日本人にはさほどでなくても、キリスト教國では、相当の爆発力をもった芝居だろうと思う。事業と営利とに精力的な「信仰者」集団を、一人のもはや老婦人が撃退する話とでも言おうか。原知佐子は演技力をみせて、この婦人の役を優雅にさらりと演じて、強いものを示した。友人として私の知る限り、この役はかつて原知佐子の演じたどの舞台の役よりも向いていた。うまかった。

 俳優座から児玉泰次が出ていた。「心ーわが愛」で「先生」の叔父を演じてくれた。美声でろうろうと語るが、やや一本調子なのをいつも惜しいと思う。

 若い女性役の一人が、日光浴の場面で上半身を真裸で演じたのには、むろん必然性もあったけれど、びっくりした。私は妻と並んで最前列の真ん中にいた。小劇場ではそういう座席に妙味があるが、今日は若い健康な女の乳房をまぢかに見られて、醍醐味も味わえたと言っておこうが。面白い、ふしぎにスカッとした芝居だった。原知佐子の自然に老いて年齢なりに美しかったのも嬉しく、いい役づくりだった。

  2000 5・25 6

 

 

* 三百人劇場の「罪と罰」を観てきた。この長大で深い作品をどう脚色したのか福田恆存脚本に期待していた。期待は裏切られず、巧みな演出と舞台装置にも助けられ、じつに面白い展開を佶屈感なく見せた。人物の出し入れ、選び抜いた台詞。文芸ものの舞台のうまみを模範的に満喫させた。どう転んでも晴れ晴れとした「話」では、ない。しかし背後の、現代危機感に繋がる哲学もしっかり掘り起こされていて、ずしんと響く感銘があった。

  2000 6・17 6

 

 

* 烈しい雨が館内にいる間に通り過ぎていた。上野の山をおり、アメヨコを抜け、妻が執心のまた鈴本演芸場に入って、夜席を、前座から大トリまで、噺家と目と目があうような前の席で笑ってきた。円菊、権太楼、トリは大抜擢の林家たい平。この「幾代餅」が、まるで秦建日子の舞台さながら「芝居」っぽい人情語り口で、おかしいやら、ほろりとするやら、新真打ちの気持ちいい熱演だった。あれでもいいのだと思った。また一つの「幾代餅」であった。曲独楽もマリオネットも紙切りも、寄席ならではのお楽しみを、気軽に楽しんだ。

 アメヨコで買って来た焼栗と、寄席の中で買った稲荷鮨と、持参のウーロン茶で、すっかり、のんびりした。座席で注射しようと思ったら、薬や針は持っていたのに、注射筒を家に忘れてきていた。注射なしで食べてばかりいたのは、恐縮であった。

  2000 7・3 6

 

 

* 志ん生の「幾代餅」を聴いた。軽妙なものだ。きのうの、たい平は、とてもこうは行かない。だから彼はよほど工夫をしたのだろう、あたかも秦建日子作・演出の現代演劇で売っている現代青年の純朴さで、若き手代が熱誠の恋を、独り芝居のように「演じて」みせた。「落語」で勝負にならないところを面を冒して「演技」してみせた。それが共感を呼び、拍手を惜しませなかった。あれはまるで建日子の芝居だなと鈴本演芸場を出てすぐわたしは妻に言い、「あなたも、そう思って。あたしも」と、二人してまた笑った。あらためて志ん生を聴きながら、なるほど、こうはたい平には出来ないわけだと納得し同情した。一つの証拠に、昭和の大名人は短い出番のなかで、松の位の幾代太夫の側から手代清三の本気にほだされる場面を、しんみりと「聴け場」にしていたが、たい平は、自分は調子の醤油問屋の若旦那なんかではない、搗米屋のただの若い者ですと太夫に詫びて告白する所に、莫大な力点を置いていた。そうすることで若い青年のたい平は噺に乗り切れた。彼の地を活かしたのだ、それは賢く無難であった。

 

* 権太楼の藝は、一見ふてぶてしく反感を持たれかねないが、天性の落語顔をしている。あれを藝に活かし、だしものがはまれば、けっこうモノになる、間のいい噺家だ。古典落語をたっぷりやらせたい。

  2000 7・4 6

 

 

* 昼前に出て、六本木俳優座劇場へ。いちばん見やすい席を用意していてくれ、ゆったりした気分で舞台に臨めた。イギリスで大きな評判をとったティンバーレイク・ワーテンベイカー作の「Our Country’s Good=我らが祖国のために」を勝田安彦が訳し、演出した。

 アメリカが独立し、罪人の流刑地をうしなったイギリスは、オーストラリアに代替地をつくりだし、罪囚と、将校たちを送り込む。囚人には地獄、しかし将校たちにとっても、流刑と同じ思いの苦痛な地獄なのであった。彼らは過酷な上にも過酷に囚人をさいなみ、あのレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンまでもゆかぬ極く軽罪の者をも、平気で絞首刑にしてしまう荒みかた、囚人には悲惨を極めた。加えて将校も囚人も、故国を慕う望郷の念余りにつよく、しかし通信にすら一年を要する遙か隔絶の地。だれもが、ひたすらに荒廃の極にあった。

 幸いにも新任の総督は、そういう地獄を容易に容認しえなかった。囚人たちの人間性をすこしでも回復させたいと、その方法にこのフィリップ総督は、なんと「演劇」を選んだのである。観劇ではない、戯曲を、囚人に現に演じさせようとしたのだ、一人の演劇好きの将校が共鳴し演出に当たった。

 これは、実話に基づいて書かれた戯曲で、海外では高い評価を得た。

 だが、にわかには事実と信じられないほど、この総督の企画じたいが、高度に観念の領分に踏み込んでいる。そんな観念までも現実の舞台の中で具体的に成就させて行くのだから、更に更に難儀な演技と演出の高い「壁」が、目に見えてくる。

 正直のところ、舞台は「渾然一体感」にはほど遠い出来で、演技・演出とも、不熟のまま初日を迎えてしまったような按配であった。前回の「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」は、日本人の苦痛に厳しく触れた内容であり、ひしひしと迫り来るものを、俳優たちは十分な理解の上で「渾然一体感」をさも謳歌するかのように、生き生き表現していた、が、今度の芝居では、どんなに戯曲が巧く書けていても、演技者たちがまともに受けとめるには、時代は古く、場所は遠く、現代的な意味のリアリティをどうにも確保しきれずにいるのが、観ていて分かる。

 日本の観客にとって、また演技者にとっても、やはり「我らが祖国」は日本なのである。イギリスではないのである。その差異を乗り越えて深い劇的感動を紡ぎ出すには、もっと大胆な工夫が舞台にも台詞にも演技にも加味されねば、とても、保たないのだ。事実に基づいた戯曲の強みが、却ってこの場合は弱みに変じ、「ワーニャ伯父さん」や「オセロ」や「野鴨」のような、純然たる「創作」からは吹き付ける「普遍の圧力」が、どうしても此処では汲み取れないのだ。実録ものを日本でやるなら、日本人の感性に引きつけた舞台にしないと、ピンとはじける強みが生まれてこない。

「我らが祖国のために」という題に訳した神経に、不足があったのかも知れない。

 いっそ八丈島や佐渡島へ転じて、例えば世阿弥の佐渡流罪に重ねて能の上演などへでも、大胆に翻案してしまうほどの大意欲が必要だったのではないか。

 演技者には若手を多く配して力演が目立ったものの、所詮舞台は、渾然とした仕上がりの中に、味よいうま味を見せなければならない。それが出るには未来の再演をまつよりあるまいか。

  2000 7・20 6

 

 

* お招きで、芸術座の、曾野綾子原作「戒老録」を観てきた。淡島千景、山田五十鈴、三橋達也、丹阿弥谷津子、それに池上季実子といういい顔ぶれなので、楽しめるのではないか、笑わせてくれないかなと思っていた。期待は酬われ、くだらない通俗芝居ながら、淡島千景は美しく悠然と芸達者ぶりを発揮して、往年一世を風靡していた演技力を想い出させてくれた。山田五十鈴は例の凄みのある把握で役をこなして、したたかに笑わせたし、丹阿弥は、たぷたぷとした芝居で場面をかっさらう妙味を見せた。そして我々が贔屓の池上季実子は、テレビドラマの芝居とは打って変わった、舞台のカンドコロを掴んだ演技で、大いにからだの動く芝居をしなやかに溌剌と見せた。わたしも妻もこの女優のいかにも天性の女優根性を高く評価してきたが、期待は裏切られなかった。いいワキを適切に好演した。だれよりも意外に良かったのが、三橋達也。そう旨い俳優ではないが、というのも台詞に難があるが、今夜の役はかえってそれもプラスし、老年のやつれと当惑と色気とをうまく表現し、演技賞ものであった。

 昔、「花・咲」とうたわれた大仲よしの芸妓の、その一人咲(淡島)の男(三橋)を、もう一人花(五十鈴)がさらって、駆け落ちしてしまうということがあった。その花の息子(太川陽介)と、咲の娘(池上)とが、愛し合い結婚し、結婚の条件に若い二人は両方の母親とわけへだてなく仲良く、四人同居して生活しようと約束が出来ていた。若夫婦は、夫の母親が、妻の母親の久しく仇と怨み憎む花子とは、まるで知らなかった。母親同士もそれを知らなかった。咲は、男と友とに裏切られて後に、他の男と結婚し娘を得ていた。花も男に捨てられ他の男との間に息子を得ていた。二人ともとうに連れ合いを喪っていたのである。そして、あれやこれや、事件が起き場面が動いて行く。さほど見苦しくなく、しなやかに自然だったのがけっこうであった。

 まあ、何とも致しようのない通俗ドラマではあった。原作が通俗なのか脚色がそうなのか、知らない。両方かも知れない。

 そのわりに、こんなシロモノも、演技陣が充実するとこうなるかと思うほど、批評的ないい笑いに自然に巻き込まれ、大いに楽しめたのだから、一夕、儲け物のご招待であった。芸術座は便利がよくて有り難い。感動はしなかったが、からっと乾いた笑いで気分を軽くした。「戒老録」などという気色の悪い題名のことなど、すこっと忘れて観ていた。そうだと、脚色が成功していたことになる。

  2000 7・29 6

 

 

* 帝劇、浜木綿子主演「売らいでか」を観てきた。頼りにならない亭主を独り者の女富豪に五十万円で、鬼姑もおまけに売り払った女が、いろいろあってタダで買い戻すという、たわいない、へんなお話である。左とん平とのコンビは、以前の舞台と同じで、笑いの取り方も低俗そのもの、ほとんど取り柄のない、しかし笑うだけは大笑いした舞台だったが、姑役の菅井きんが、さすがぴたりとはまって不自然のない余裕の「鬼」ぶりなのに、感心した。左も、手慣れたもの。昔から何となく贔屓の光本幸子がやはり美しく、意外に宮崎美子が軽快にからだを使っているのにも、目がとまった。

 浜木綿子は例の浜節で終始し、それなりの藝風は発揮していた。だが芝居全体の印象はまさしく軽薄。軽薄なりにそれでも楽しんできたのは、帝劇の通俗芝居に馴染んで慣れてきたからである。客は大いに楽しんで大笑いし、拍手を惜しんでいない。そういう芝居なのだから、堅いことをいう気はなく、その中にまじって笑っていていいのだ、これは娯楽劇である。

  2000 9・9 7

 

 

* 青山こどもの城にある円形劇場で、俳優座公演の「ロッテ」を観てきた。通俗の理解を絶した、いわば「ごった煮」の小刻みなオムニバス台詞劇で、分からないと言えばなにも訳の分からない不条理な「非劇」が進行する。どうしようもない、人と人との「無関連な関係の哀しいやるせなさとじれったさ」で、ただ、「時間」と「身もだえに似た身動き」との連動を見続ける。

 それでも、一人一人の言葉より「身動き」が、なにかしら言葉を超えた「堪らなさ」を伝えてくる。それを面白いと受け取ることは、けっして不可能でなかった。こういう芝居が、もっと「あっていい」ようにすら感じた。通俗でなかった。大成功しているとも謂えなかったが、印象は鮮明、記憶には確かに残る舞台となった。

 ロッテ役の早野ゆかりは、力演。しかし、台詞劇の台詞は、声の大小と強弱とだけでなく、いわく言い難い声音の「肥痩の妙味」でも、詩に、音楽に、して行かねばならない。それを欠くと、例えば絵画でいえば、鉄線描、琴弦描、つまり終始同じ太さの線で描くことで静かな超越性を表現する仏画のようになり、人間のドラマとしては単調になり、いっそ「催眠効果」を逆効果として舞台にもたらしてしまう。盛んに役者は喋り続けているのに聴いているうちに眠くなり、うとうとしてしまうのである。まことに、そうなのである。

 早野ゆかりだけではない、大体にさようであったから、わたしも、隣の妻も、再々ではないが、ときどき、うとっとして目をとじているときがあった。

 

* 結論的には、短くない上演時間を楽しんでいた。めずらしいタチの思想劇とも言えたが、「思想などなにも無いという思想」の劇であったのかも知れない。しかし、どの俳優達にも、若い人たちにも、好感が持てた。一人一人の「演じ方」に身を寄せながら楽しめ、演技者達の表情に終始生彩があった。どんな芝居でしたと聞かれては返事に困るが、面白かったかと聞かれたら、なかなかのものだったと答えるのに躊躇しない。妻も同意見であった。

  2000 9・19 7

 

 

* 帝劇の「鏡花幻想」の招待が来た。前回の浅岡るり子主演作は、会議でみそこねた。意欲的な女優と聞いており、前回の舞台も評判が良かった。惜しいことをしたと思っていた。今度は、かりにも「鏡花」である、楽しみなことだ。

  2000 9・28 7

 

 

 今日は帰りを表参道まで歩き、半蔵門線を利用して国立小劇場の光響会へ。望月太左衛さんの鳴り物・打ち物・お囃子の大きな会で、朝から晩までひっきりなしに番組が続く。全四部で、番組は五十ほどもある。そのうちの九つ半を楽しんできた。楽しいのである日本の打楽器・弦楽器と笛との合奏は。飽きない。ほんとは、もっともっとゆっくりして行きたいのが本音で、うしろ髪を引かれる思いで二時半過ぎに失礼したのは、はげしい空腹もあったが、オリンピック最終の男子マラソンと、閉会式が頭にあった。

 何のことはない、家に帰り着くと、もうあと二キロ地点をエチオピアが走り、ケニアが追い、さらにエチオピアが走っているではないか、日本の三人は影も形もなくはるかに後塵を拝していた。これなら、せめて「勧進帳」、できれば太左衛と長左久の姉弟で競演する「黒塚」まで聴いて行きたかった。

 それでも、聴いた九つの全部がすこぶる楽しめたのだから、よかった。素人と玄人との混成で、玄人が素人のワキを固めている。そういうお稽古の発表会的な側面もあり、じつは、それが楽しいのでもある。鳴って欲しい小鼓がなかなか鳴らなかったりする。それをワキの先生や先輩がささえる。稽古事と稽古場の面白さは、わたしも多少は叔母の茶室や生け花の稽古場で観ているし、温習会にも何度も出かけている。へたでも真剣だし、着る物にも気が入っているから見栄えがする。少女が一心に鼓を打ったり、自信満々のオバサンの、見事なかけ声は出るけれど鳴り物の音はくすんだり、べつに皮肉ではなく楽しいものである。太左衛がはらはらしたりしているのも面白い。西洋音楽をシーンとして聴いているより、はるかに退屈しないし窮屈でないし、ひとりひとりの出で立ちに官能的な魅力すら感じられる。

 おまけに、とてつもない名人が藝を披露してくれる。太左衛、長左久はもとより、助っ人で出演している中には、笛の尾股真次、望月太八がいたし、太鼓に伊和家小米がいた。 大鼓の望月太左尚も頑張っていたし、初々しい横川真衣が一心に小鼓を鳴らしていた。堅田喜代や鈴木庸子はベテラン、素人さんの不足をしっかり補っていたし、長尾彰子もいつものように奮闘。男では大塩徹がいろんな分担で健闘し、「春興鏡獅子」の太鼓を、栗原洋介がとても頑張っていた。若手の玄人では遠藤昌宏がいい気合いで気持ちよかった。 一年のうちでも「光響会」公演は最もくつろげる佳い音楽会である。望月宗家のお姉ちゃんとはいえ、太左衛さん、家元太左衛門と長左久を率いるかたちで、すばらしい活躍だ。岩田喜代子さんの会で、初めて、舞台に小柄な太左衛のはちきれんばかりの太鼓を聴き、いっぺんに惚れ込んだのが、もう大昔だ。 2000 10・1 7

 

 

* 帝劇で、浅丘ルリ子主演「鏡花幻想」を観てきた。しんみりした。佳い舞台であった。どこにもケチをつける隙間のない舞台であり、進行であり、浅丘は実のある健気に美しい桃太郎こと鏡花愛妻の「すず」を、気持ちよく演じてくれた。たいへん好感をもった。近藤正臣の鏡花はちと人が良すぎる気もするが、そのかわり終始嫌みというものがなかった。すずと鏡花とは、同棲相愛の仲を強引に師尾崎紅葉の手で分かたれるが、その死により復縁し、生涯の伴侶となる。鏡花の師に対する尊崇と感謝との誠実に深かったことは誰一人疑わないが、しかも、すずとの問題では、鏡花に複雑に屈折した恨みがましさが無かったわけではない。その辺へ突きいるとまるで別のドラマが噴き上がるのだろうが、その辺はかわしていた。鏡花の母すずと鏡花の妻すずとの一体感を、鏡花夫妻の幻想で盛り上げて終わった。賢い収まり方とも言える。鏡花にとってはなくてはならない愛妻であった。もらい泣きがされた。

「自然派」の圧迫をつらく重く感じながら、妻の存在に助けられ励まされて、鏡花は藝術的に妥協しなかった。紅葉もこの弟子の天才を高く評価していたに相違なく、彼はよく応えた。

 むろん鏡花は変幻自在に多彩な方面をきらきらさせた結晶体であり、とても一つや二つの芝居ではくくれないのであり、今日の芝居などは、いちばん安易に把握可能な題材であったし、それでも鏡花の「幻想」のマカ不思議な奥深さなどは、ほんのおシルシ程度の捕まえ方に過ぎなかったけれど、すずという奥さんだけはよく見せて、成功していたと思う。それだけでよい芝居であった。音楽はやや感傷的に思わせぶりであったけれど、舞台装置もいやでなかった。江守徹の紅葉役を演じながらの演出に破綻がなく、江波杏子が不思議な女を鋭く演じていたのも印象にのこった。

 

* 妻が明日は朝から聖路加での診察日なので、はねたあと、少しの寄り道もせず、帝劇の下からまっすぐ有楽町線で保谷まで。往復の地下鉄車中で、湖の本のうち、ちょうど連載原稿一つ分の初校ができた。明日はわたしは家で仕事をする。

 

 2000 10・4 7

 

 

* 少し早めに出て、池袋で、来月の京都への往復切符を用意した。餡たっぷりの最中を一つだけ仙太郎で買い、行儀わるく歩きながら食べた。とても旨かったが妻は辟易していた。

 まだ時間があったので、巣鴨で、はじめて「とげぬき地蔵」を尋ねてみた。すぐ間近ににぎわいの参道があり、なるほど老人がすこぶる大勢、わが街のようにかなり楽しんで店という店にたむろしている。寄ってたかっていると謂うてもいい。そんなことを云うわれわれが、れきとした老人夫婦に、もうなっていなくもない。老人であること、老人になること、を、わたしも妻も少しも気にしていないから、ごく気軽にやすやすとした気分で見性院のまえを通り抜けて、高岩寺までの繁華をぶらついて行った。もの珍しい気分もあった。参拝したが、べつに何を商店街で買いもしなかった。便利に地下鉄三田線に乗って一つ先の千石で下車。

 

* 三百人劇場での劇団昴の「怒りの葡萄」に、俳優座と同じに、今回はわたしが招待されていた。妻の席もいっしょに予約してあった。スタインベックの一九三五年頃の、つまりわたしの生まれた頃の作品で、地響きのしそうに重い小説だ。どう脚色しどんな舞台にするのだろうと、心配なほどだった。三十年代のアメリカだ、東部の農民が開発の手に故郷を追いたてられて、うまい話を頼みに誰もが西へ西へカリフォルニアへ、山を越え砂漠をわたって、苦心惨憺の長い長い旅を続けるが、めざす目的地は楽園でも何でもない血まで吸い尽くすほど搾取の地でしかなかった。

 

* 期待するのが無理なのではと案じていた。だが、劇団昴はやってくれる。滑り出しからみごとなアンサンブルで、脚色も演技も演出も音楽も舞台も、申し分のない興趣豊かなドラマを好調に展開し、ほぼ間然するところ無い演劇を構築してくれた。陰惨なほどつらい推移であるのに、視線をあてられている三代の一大家族のアメリカ横断大移動の旅路は、温かに、人間的で、納得のゆく心理や行為や表現をぎすぎすしないで見せてくれた。どの誰の役がうまいのうまくないのというのでなく、ちいさな身動きのすみずみにまで演出の、演技の、いい神経が働いていて、だれも抜け駆けの芝居をしなかった。その調和=ハーモニィが、ファシネーティヴで、舞台の空気を味わいを深くリアルにした。一家の運命の厳しさや重苦しさがありながら、演劇はわたしたちを楽しませた。嬉しかった。

 

* 昴では、チェーホフの「三人姉妹」が見事だったし「ワーニャ伯父さん」もよかった。「ハムレット」も「リア王」もわれわれをかなり満足させた。今回の「怒りの葡萄」はヒケを取らず「三人姉妹」の感動にせまっていた。時代差からの制約や制限を感じさせなかった。農民に対する新資本の徹底した搾取といった、巧妙に現在では手口をかえて消え失せてすら見える問題点でも、舞台「怒りの葡萄」は余計なすきま風をすこしも吹かせず、視線をとらえて放さなかった。感動がそこにあった。ラストシーンの、若い子供を死産したばかりの母親が、飢えて死にそうな男に乳を吸わせてやる名高い場面に、もうすこし大胆さと余韻とが欲しかった。淡泊にあっけなく幕になったのが惜しかった。

 2000 10・26 7

 

 

* 青山劇場での大地真央主演ミュージカルは、せっかくのお招きではあったが、あまりのたわいなさ、どうにもこうにもならず、はじまるとすぐ寝てしまい、中幕でサジをなげ、それは妻もご同様で、初めて途中で劇場から退散した。やんぬるかな。

 2000 11・15 7

 

 

* 新宿紀伊国屋ホールで、山田太一脚本・安井武演出の俳優座公演「離れて遠く二万キロ」を観てきた。楽しめた。袋正と高山真樹ら以外は、みな若手。その連中が水を得た魚のように、いいアンサンブルで、いささかテレビドラマの味ともいえたが、ピチピチと芝居をしてくれた。あんまり地にちかい芝居なので、ピチピチの空気が舞台の上でだけ旋回して、突風が客席に吹き付けないという、或る意味では空回りの気味も無いではなかったけれど、三度くらいはくっと突き上げてくる感銘も覚えたし、科白の旨いこの作者の脚本を、演出家が、今度はとてもあっさりと洒落て生かしていた。洒落すぎて臭みが来る場面も有ったけれど、概して上出来の舞台で、以前の紀伊国屋サザンシアターでの山田太一作品とは、較べようもなく今回が優れていた。若い俳優たちが、さりげなく、うまく、育っているのが頼もしい。老優袋正がとても楽しそうなのも可笑しいほどだった。ま、テレビの上出来の「二時間ドラマ」という所であった。テレビでもやれる作品であった。

 ただ、海外青年協力隊を扱い、出先の国でクーデターも起きたさなかのドラマ、というほどは胸を掴まれる凄みなど、怖さなど、何も無いのである。そんなのは、およそ、味付けほどの背景でしかなく、つまりは、とてもよく「体」の動いている上手な体操を観た快感に近いのであった。むろん、肉体を躍動さしてくれる「魅力のみもの」で芝居はあるのだから、それはそれで佳いとも言える。つまり思想的にどうこうと謂える演劇ではなかった。三百人劇場で観てきた「怒りの葡萄」とは、同日に語ることはできない。この長い「離れて遠く二万キロ」などという無意味なほどの題が、作の動機の底浅さを示している。うまいが、深くはない山田太一の限界なのかも知れない。妻は、だが、大満足であった。わたしも惜しみなく拍手してきた。

 

* 幕間に、「心ーわが愛」で「静=先生の奥さん」を演じてくれた香野百合子さんと、久しぶりに、懐かしく立ち話が出来た。相変わりなく美人だ。亡き中村真一郎さんが贔屓にしておられたのも懐かしく思い出され、しんみりした。持っていた新刊の『日本語にっぽん事情』を謹呈してきた。

 制作は、いつものように山崎菊雄氏で、その彼が、はねての別れ際に田宮虎彦の『足摺岬』の話などをし始めて、これも懐かしい限りであったが、「足摺岬」というすばらしい映画のあったことを山崎君が知らないでいたことにも、往事茫々、驚いた。田宮虎彦といえば国民文学論の旗手的な作家で、人気沸騰の大きな作家であったが、もう完全に忘れ去られているかと思うと、寂しい。

 2000 11・30 7

 

 

* 三百人劇場での劇団昴公演「クリスマスキャロル」は、歳末の定番上演であるが、しかも公演ごとに工夫も凝らされて、新鮮さを失わない。清らかに思いの澄む古典劇であり、明快に場面が展開し、大人も子どももぐいぐいと引き込まれる。もう分かり切っている筋書きなのに、いつか固唾をのんでいて、そして涙したり笑ったり。子役達もよくやり、何と言っても主役が良かった。どの配役の身動きにも、演出効果か、不自然さが無く、単にリアルなのでもなく、行き届いた演劇センスであった。終幕の拍手の盛んで長かったこと、いかに観客が感銘を受けていたかがよく分かった。わたしも、惜しまず拍手した。正月に能の翁で新年の清まはりを慶んでくるように、文字どおりのクリスマス劇で心身の洗われる嬉しさを覚えてきた。

 2000 12・16 7

 

 

* 紀尾井小ホールで望月太左衛の鳴り物の会があった。岩田喜美子さんも出演、神戸一三氏も見えていた。太左衛さんの打楽器いろいろと、大きな和太鼓と笛との、三つめのだしものが実にすかっとした熱演で、感激した。世紀の締め括りという実感が持てた。

 2000 12・19 7

 

 

* 『女の一生』がモーパッサンの名作で傑作であることは疑いないが、歳末に芝居で観るには、ふさわしくない。落語の「芝濱」のような芝居で締めくくりたいところ、藝術座はその点でたいへんなミステークをしている。そこそこの舞台にしていたとしても、最後の拍手がぱらぱらであったのは致し方ない。翻案モノなのはいいとして、主演が佐久間良子では物足りない。奇妙に綺麗事になってしまうのは彼女の藝質からして当然であり、しかもこの女優は、こういったハンディキャップをきちんと意識し、演技力で盛り上げて行くような、行けるような器用に巧い女優ではない上に、「女の一生」の前半を演じるには、あまりに年齢が行っていて、美しくも華奢でもない。総じてもっさりしてしまう。

 それでも妻が頻りにハンカチで涙を拭うほどに見せるのは、一に原作の凄みが生きている。つぶさに原作は記憶しているが、これぐらい悲惨な小説を他に知らないほどであり、また、これぐらいぐいぐい読ませる小説もそう有るものでない。不快極まる小説でありながら、リアリズムの極地かのように、モーパッサンは容赦なく女主人公の不幸の極みを造形し、鮮烈を極めて文藝の威力を魅力的に発揮する。

 いやもうイヤな婿殿であり、ありありとわたしは不快な記憶を呼び覚まされた。

 だが、芝居というのは不思議なモノで、それほどの不快ドラマであるのに、なんとなしに芝居を観ている嬉しさは別途に味わっている。建日子のブレゼントのオペラグラスもちゃんと役に立ったし、劇場には劇場ならではの空気が流れている。低調な芝居であったのに、世紀の此処まで押し詰まったところで、なお芸術座の座席を占め、落ち着いていられるのは有り難いことであつた。平和であった。妻も同じ思いだつたろう。

 

* 目のまえのホテルの「クラブ」で、もう一本新調のシーバスリーガルと、先日のワイルドターキーとを呑みくらべながら、すこし寿司をつまんでしばらく休息してから、帰ってきた。

 2000 12・26 7

 

 

* 二月歌舞伎座昼夜の券が我當の番頭さんから速達で届いた。嬉しくて、そわそわする。初春昼興行はもうすぐ。新三津五郎の「喜撰」、そして玉三郎を楽しみにしたい。

 十四日には梅若万紀夫の「翁」に行く。三番叟はだれが演じてくれるか、元気を貰い受け、清まはって来たい。

 十六日は、俳優座の「十二夜」がひさしぶり。ミュージカル仕立てらしく、楽しみ。そのうちに京都へも。美術展の開幕に顔を出すだけだから気軽なものだが、去年はひどい風邪を持ち帰ってしまった。あの風邪のさなか帝劇の楽屋で「いちばん綺麗な」澤口靖子と話し、ならんで写真に撮られてきたのだった、もう一年になるのだ。

 2001 1・7 8

 

 

* 俳優座の「十二夜」は、水準の出来で、音楽劇に脚色演出されていたのが、相応に成功していた。なみの演出では、あまりにハナシは知りすぎている。妻はそれで今回遠慮したが、わたしはミュージカル仕立てという「演出」に期待を掛けた。今ひとつは俳優達の代替わりが、新鮮な仕上がりを見せるかも知れないと予想した。二つの予想は概ね裏切られなかった。

 俳優座はこのところ新人を主に演目を決めてきた感があり、それには余儀ない賭けの要素もあろう。観客の年齢層が、今日もそうであったが、わたしも含めて、余りに高い。高過ぎる。若い客がほとんどいない。若い観劇客が世間に存在しないどころではない、小劇場へ行けば若さでむんむんして、かなりの公演が満員だという。ところが、そういう客たちは、俳優座ときくと顔をしかめるのである。さもあろう。必ずしも俳優座のせいではない、若い観客の好みにもまた未熟や偏狭はあるのだから。

 だが、このままでいいわけがない。それかあらぬか、若い俳優達にのびのび芝居をさせ、若い客をとりこみたいのであろう、俳優座としては。大事な姿勢で大事な意気込みだとわたしは思う。思うけれど、まだ効果はあまり出ていない。「十二夜」の若い恋愛劇を、甘い科白と歌とでけっこう盛り上げてはいて、だが、観客が、いまだに仲代や加藤剛の、あるいはもっと以前のオールド俳優座スターたちへの思い出を熱く抱いたような客ばかりなのである、奇妙な、アンバランス !!

 若尾哲平と堀越大史とが、馴染みの、まぁ、ベテラン。わたしは彼らが新人の頃からの俳優座の客であるから、代替わりの実感がひしひし来る。そしてさすがに彼らは巧くなっている。ことに堀越の悠々と懐深いマルヴォーリオ役には感じ入った。たいした役者ぶりであった。道化フェステの須田真魚が、多才で、いいダンス(身動き)をする。器用貧乏にならなければ味のいい役者になるだろう。

 ひとつ気になった。ハッピーエンドの場面で、縄付きに拘束されているアントーニオが、縄付きのまま奥へ引っ立てられて行き、それに見向きもしないで、双子の妹ヴァイオラも兄セバスチャンもお互いの愛する相手と、ただ浮き浮き結婚式に臨む演出は、これは後味が悪すぎる。縄付きアントーニオは、その前の場面で、男装の「女ヴァイオラ」とは知らず、面倒をみてきた「男セバスチャン」だと思い込み、その薄情な背信・忘恩をなじっていただけに、せめて舞台の上でその嫌みを解消して置かねば成らないはずである。簡単に出来ることではないか。気がわるくて、わたしは拍手を惜しんだ。ただ堀越君の名演には感謝の拍手をして帰ってきた。

 

* 大江戸線が、俳優座劇場の真ん前に出口を開いていたのにはびっくりした。われわれが、街へ出るきまりの場所の一つが、俳優座。ほとんど例外なく三十年近く妻と二人で芝居を観に行くのが常だから、今日は「奥さんは」と制作の山崎菊雄君が本気で心配してくれた。それほどの場所へ、大江戸線のおかげでだいぶ時間短く、乗り換え少なく出掛けられるのは有り難い。早く着いて、裏の「枡よし」でちょいと摘んで、飲んで、から開演を待った。補助席が出る好況、これは珍しい。景気がいい。

 2001 1・16 8

 

 

* 新宿での秦建日子作・演出の「PAIN」は、彼のこれまでの仕事では、最良の出来で、今回はじめて、才能を感じさせた。これまでのは、どこかで、まだ、良くてもアマチュアの力作めいていたが、一皮むけたように思われる。苦情を述べたいところが、とくには無かった。そんなことは、過去の仕事では無かった。テレビ仕事で、苦い泥水をしたたかに飲んできたらしい体験が、はっきり役立っている。それだけに。素人のある種の品のよさが、玄人っぽく擦れて汚されて行く危険にも近づいたのだとも言えるから、そこは自覚し自戒して、そうならないように気をしっかり張っていて欲しい。

 山崎銀之丞の演技力は、きちっと格をまもって懐に余裕があり、妙な受けを狙ってごまかす必要のない確かさがあった。さすがであった。脚本が彼の力に支えられて盛り上がった箇所、脚本が演技者の先を切り開いて導いていた箇所、良い意味で両者がよく鎬をけずって競演しえていたのが良かった。

 「PAIN」という題が、今回はたいへん利いていた。成功していた。こういう舞台に見なれている観客なら、把握しにくいということはなかったであろう。ノンセンスに近い、とりとめない「場面」がスナップショットのように繰り返されるが、それが一つの批評にも筋の上でも活かされていることに気が付けば、なかなか凝った組立であることに納得できるだろうと思う。

 山崎と、もう一人「編集者」の役で友情出演してくれていた俳優大森ヒロシが、うまかった。この二人の噛み合わせだけで舞台は成功していた。出し入れの演出がきびきびと無駄が無く、ああ巧くなったなあと思った。安心して観ていられた。

 女優達は何人も出ていたが、主と副の男性二人に比しては、みな尋常で目立たなかった。それが、よかったのである。

 築山万有美は難しい役所であって、大過なくともいえ、しかし、科白の深みの無さにこの女優の限界の見えるのが残念だった。科白も、体の動きに詩的に美しい切れのよさの出てこないことも、大きな課題であろう。

 舞台は、要するに脚本と主演と友情出演という三人の男のがっぷり三つ巴で十分構造が出来ていた。フーン、よくやったなあと、この点の辛い人が、すこし嬉しい気分で雪の中を帰ってきて、赤いワインで妻とよろこんで乾杯した。

 初日だからか、いくらか「動員」をかけたのか、すさまじい超満員であった。開幕が十五分以上も遅れたほど客が入り、通路にも二列に小座布団敷きで客がならんだ。当日券の人たちはなかなか入れなくて往生していたようだ。

 

* 東工大出の、ひさしぶりに逢う米津麻紀さんが友人と一緒に来てくれていて、とても嬉しかった。林丈雄君らと同じ総合Bの教室にいたすてきな美女で、東芝に勤め、なんだか掘り下げた難しそうな研究に従事している才媛である。大學の頃教授室にきてくれて、どんな研究を今しているかを、とても分かりよく熱心に話してくれ、印象に深く残っていた。

 弓道をやっていた。その仲間が三人でわたしの授業を二年続けて聴きに来ていた。池波正太郎の小説が好きで、その縁でだろう、中村吉右衛門が好きだと言っていた。あの大學で歌舞伎役者の名前を口にする学生はさすがに珍しかった。もう七八年逢っていなかったが、メールは通じていて、気持ちも親しく、遠くなったと思ったことはなかった。

 それでも実際に顔を見ると、とてもとても嬉しかった。幸せそうであるのも、嬉しかった。

 

* 電メ研委員で、「朝日ウイークリイ」の編集長をされていた高橋茅香子さんも、友人と二人で来て下さっていた。これも予期せぬことで、嬉しいことであった。妻の友人で湖の本をながく応援してくれている母娘も、仲良く来てくれていた。有り難いことである。

 

* とにかくもホッとした。おおぜいの方に観ていただきたい芝居に仕上がっていて、ホッとした。十二日まで。劇場は、新宿SPACE107。今までは人数のわりと入る地下劇場である。

 2001 2・7 8

 

 

* 新宿の公演を、今夜は妻と出かけて、もう一度観てきた。爆発的な「動」性では、前作の、差別問題に挑んだ「タクラマカン」や生の讃歌に仕上げた「地図」の方が烈しかった。今度の芝居は一種の「芸術家小説」の範疇に属し、また「母もの小説」にも近いし、アンマリドマザーとその子の悲劇だったとも言える。こういうふうに要約してしまうと、このわたし、脚本家からは父であるこの私自身のモチーフや自然に、かなり深く根ざして発想されているように感じる知人や読者は多いかも知れない。すでに「建日子さんの中に、秦先生の血が流れているのだなあ、と感じました。うまく言えないのですけど」という反応が出ている。

 必ずしもいま要約したようにだけではわたしは観ていないが、たくさんなフラグメントを組み合わせながら、見る人の姿勢によって受け取り方の違うであろう、かなり多彩なメッセージを送りだしていることは分かる。それだけの蓄積が作者に出来てきていたのだと認めよう。

 

* 夜の新宿を散策、めずらしいラーメンを食べてからJR経由で帰った。

 2001 2・9 8

 

 

* 新宿で、博士課程をもう一年で了える男性と、古河電工で研究者生活をしている女性の、昔からの仲良しに会い、昼食をともにし歓談のときを楽しんだ。彼は「物性論」を、彼女は「冷却」をと、ふたりともわたしの想像を絶した難しいことを研究している。どんないかめしい男女かと思いそうだが、彼はシャイで、彼女はかぎりなく楚々として優しい。学部にいた頃から結婚を考えていたような二人で、もうあれから七年を通り過ぎて、彼のドクター卒業も間近になってきた。彼女の初給料で、神楽坂で三人で会い、甘いものをご馳走になってから、四年近くなる勘定か。

 食事のあと、いっしょにSPACE107で息子の芝居を観た。招待したのではない、初日のペアと同じく、自費で券を買っていてくれていたのである。相変わらず、通路に座布団敷きのお客もいっぱいの、大盛況。券を持っている人も、できるだけ早めに行って、整理券を取って置いた方がいいようである。

 

* 三度めを観たが、安定していた。山崎銀之丞、大森ヒロシのシテとワキで芝居をがつちり締めている。その他は、二人の邪魔をしない程度、演出のままにソツなく有効に動いている。母親役の田中恵理はあれ以外にない、その意味で役目を果たした静かな好演とみていい。

 やはり問題は、築山万有美。邪魔まではしていないが、舞台の効果を一層挙げ得ているか、その貢献をしているかといえば、ゆるい。ぬるい。科白が、終始上滑っている。あれでは工夫とは言えない。名優の第一条件は科白が豊かに深く彫琢されて、明晰なこと。ふしぎなほど、科白の明晰な役者は、どう動いてもからだの切れが佳いのである。演劇は、本質的にはダンスである。動作ではない、所作である。科白もまた然り、地のままのしゃべりでは、演劇言語にはならない。ほんとうに笑ってはいけない、笑い声すら科白なのである。

 その辺の謙虚な勉強が深まらないと、築山は、タテの女優としても、うまいワキの女優としても今以上には成長できない。女優を続けたいのなら、あまい一人合点・思い込みは捨てて、初心に立ち返り、体操と発声から新人なみにやり直した方がいい。

 これまでの秦建日子の舞台は主役のない雑居混成部隊の芝居ばかりだった。それはそれで、いい。今回は、はっきりと主役が立ち、この主役は力量あり、男の色気があり、安定して落ち着いた科白術があった。ワキ役の友情出演大森ヒロシは、主役に優に拮抗して緩急のおもしろみを、したたかに表現できる達者であった。わたしは、自分でも十数年編集者だったし、また編集者に面倒を見て貰ってきた作者・著者としても三十年を越えている。この芝居ではカメラマンと編集者の付き合いが書かれているが、この編集者の、わたしの所謂「弁慶」ぶりは、体験的に評価しても、なかなかのもの。弁慶は牛若丸を追いかけ回して、そして負けてやる。編集者は、強いようでいてうまく負けてやる、著者・作者に勝たせてやる、その勘どころを、どれほど掴んでいるかで勝負を決める。しかも編集者たるもの、負けて遣ってばかりはいられず、牛若義経といえども斬り殺さねば済まないときに出合うのである。建日子が、いつしれず、そういう現場から学び取り得ていたやはり下地に、我が家での四十年ちかい生活基盤が無意識にも置かれていたのかなと感じている。

 かなり大勢の出演者達が、欣然と舞台を構成してくれているのに感じ入る。端役に至るまでがピーンとしていないと、いくら主役が良くても舞台は崩れる。その意味で、成功をおさめていると、ま、今は見ている。

 

* だが、今度の劇は、もうおおかた底の岩盤にがちんと当たってしまっていて、この先へは多くは、深くは展開しまい。その辺、前作の、「浜辺育ち」たちが「あっちの国」への脱出をめざして玉砕する「タクラマカン=サハラ」の方が、まだまだの可能性・可塑性を残していると言えるかも知れない。

 

* プレジデント社の青田吉正さんが義妹さんと見に来てくれていた。

 2001 2・10 8

 

 

* だれもが「PAIN=痛み」を身に抱き呻いている。それを癒してくれる舞台とも、辛辣に気づかせる批評の舞台とも、幾分、まだあまくニゲを打ち、問いつめを逸らしていなくはなかったが、一時間半の脚本に、アンマリドの母子、老親介護、不毛の愛と欲、身内の思い、孤独と卑屈、虚妄のマスコミ、ロリコン雑誌とジャリタレ売買、無意味で空疎な日常、泣くことすら出来ず乾上がって意義なき日々の渇き、そういったものをひっくるめ、中軸を、創作者と編集者の葛藤、いわゆる「芸術家小説」のタッチで破綻なく纏めていた。いま一段このタッチで締めたかったが、母子ものの方へ大きく逸れかけ、かろうじて持ち直してエンディングした。「渋い」という感想もあったが、あれでいいと思った。編集者の最後の出が利いていた。

 山崎銀之丞のキレのいい男カメラマンの魅力ある色気に、友情出演大森ヒロシの端倪すべからざる編集者ぶりが、きちっと噛み合った。しかし、「駆け込む」ことを「走り込む」と喋ったりしている。「走り込む」は、運動選手の練習や鍛錬にはつかうが、駆け込む意味への転用は耳障りなものが残る。

 田中恵理の母からセーターを受け取るシンボリックな場面での山崎の動きには、能の舞の、時間を練り上げて崩れないあの「藝」と、同質のものを感じた。舞である。ああいう「時間」に堪えきって動く舞は、天性とともに錬磨・稽古がものを言う。酷なようだが、山崎が美しく所作する意味では、女優の築山はひょいひょいと動作しか出来ていない。その露骨な表れは、例えば舞台を三歩移動するときも、ドシンドシンと足音を三つ数えるようにして歩いてしまう。足音が客の耳に数を数えるように付いてしまう。四回観て四回とも同じである。身軽に舞えていないのだ、比喩的に謂えば。

 

* 母親は、最後にほとんど正気に返って息子との愛を修復確立して、またボケの他界へ戻ってゆく。子は母を、母は子を、決定的に取り戻したのである、と、わたしは理解している。

 

* 遠く栃木から阿見拓男さんが見に来られていた。望月太左衛さんのお弟子さんもみえていた。林イチロー君もペアで来てくれていた。明日で千秋楽、明日行きますとも、今日の昼に行きました、「涙が溢れました」とも、メールが届いている。夜も満員だった。

 2001 2・11 8

 

 

* 「父上の友人猪瀬直樹です、今夜行きます」と建日子の方へメールがあったと知らせてきた。電メ研で甲府放送局の倉持光雄氏も、今から観に行くと早朝にメールがあったという。こういうふうに励まされて、創作者は「謙虚」になって行き、そして「奮発」もして行くのである。そう、あらねばならぬ。

 

* 若者らしい演出によるオープニングに先ず引き込まれました。テンポの速いいくつかのショットが一つずつしっかりと決まっていました。

 売れっ子カメラマンと編集者のやりとり、これが実はとても微妙なニュアンスを含んでいたのですね。

 「PAINを感じなければ、生きるのは楽だ」と言うせりふがありましたが、いつの間にか、私の心の奥底のPAINをすっかりむき出しにされていました。

 編集者の鈴木が自らの痛みを、山田一郎の稚拙そうな一枚の写真に見当てた感動から始まる二人の格闘。その痛みが強く強くうずきました。人の心の痛みが優れた作品を通して初めて実感できるということ・・・・。

 作品のモデルとなった「家族=妻願望」の女性は、話し方や動作など押しつけがましいと感じさせたのが、役どころとして、あれで、うまかったのだろうか…と思います。

 実母の哀しみは余り伝わってきませんでした。

 むしろ 待って 待って 待っていれば 必ず叶うことを楽しんでいるような、幸せなような・・・。狂ってしまって あちらの世界にいる感じはよく出ていたと思います。

 地雷を越えて母に近づけなかった山田はセーターを持ったときに、本当にぼろぼろ泣いていました。まるで秦さんの分身のように・・・。

 待って 待って 待っていれば 必ず叶う……か。どうなのでしょうか。

 編集者とカメラマンの絶妙なやり取りに本当に引きこまれ、PAINをむき出しにされて、ぼろぼろ泣いてしまい、外に出ると喧騒の新宿はまだ真っ昼間でした。休日の思いがけない時間を本当に有り難うございました。

 建日子さんの優れた感性や磨かれた才能がこれからもさらに良い作品を見せてくださるのを楽しみにしています。

 

* ありがとう。作中の「待つ」は、作品によって「偽り」のものと否定されているのですが、十一日の「私語」の最後に二行ほど書き添えたように、母と子との間には、「待ち得て」回復し確立された「愛」が残ったのかなと読みとりたい気がしています。わたし自身はといえば、あのような生母への感傷はありません。もっと薄情で冷淡な乾いたもののままで永訣しました。

 

* まずまず、このようにして息子の活動ににぎやかな刺激を受けて親は楽しんでいる。それは君、暢気すぎないかと言われもするだろうが、それでいいのだ。わたしからすれば、それらの全てもわたしの「生きて在る」ことに生まれた創作なのである。大事なのは、まさに、日々生き生きとわたしが「生きて在る」という真実なのである。

 2001 2・12 8

 

 

* 牧野大誓『天の安河の子』も読み終えた。こんな有り難いメールも今、届いていた。

 

* お芝居 昨日は、以前早めに出て整理券を、と知らせて戴いていましたので、はやく出掛けました。お陰で、二十三番の若い番号をとり最高に佳い場所に座りました。

 「PAIN」を一言で感想を表わすとしたら、センスのとてもよいお芝居でした。

 同じテーマの寸劇が写真のフラッシュをたくように、幾つか組み込まれた形式を観たのは、初めての経験でした。多分この試みはそうなのではと想いますが。流れに何の違和感も無かったのは、大したものです。

 時々笑い声が上がりながらも、しっかりした台詞を一言も聞き漏らすまいとする二百人の観客が、一人しかいないのではないかと錯覚する程に、静かに舞台に集中していた気がしました。

 二枚目の銀之丞さんは初めて観ましたが、迫力十分で、これは感激ものでした。終幕では、この俳優が溢れる涙で、歌舞伎さながらの大見得をきるところでは、ホロリとさせられましたし、目を拭っていた観客もいたようです。

 見ごたえがありました。

 2001 2・12 8

 

 

* 新宿Space107 へ行って、「Pain」を観てきました。二重丸です。四十年ぶりで、若い人達のいい演劇集団を目の当たりにして、元演劇部員のおじさんはとてもうれしい気分になれました。親切に気を使ってくれた入口のお兄さんも、会場整理のお姉さん達も、体に気を付けて頑張って欲しいと思いながら帰ってきました。

 余計なことですが、機会があったら、母親役を、岸田今日子あたりにオールド・ジャパニーズ風にざっくり着物を着せてやって貰うといいかなぁと思いました。惚けてる人と付き合っていて、それなりに風格を感じていますので。(今回のお母さんは、あれでいいと思いますが。)

 ラーメンのおねえさんよかったですね。引っ込みが良かったです。(そばで見ていました。)・・みんな、元気をくれてありがとう!です。

 秋葉原のラオックスへ行って、「超漢字3」も見てきました。OCR 不能、現在使えている漢字以外は送信も無理(方法はあるようですが)のようなので、残念ですが、しかしOSとしては軽くて、ハイパーリンクで、日本製で、魅力は十分、いじってみようかと思っています。去年の今頃は、縦書きもまだ出来なくて見合わせていました。さて、DOS/Vマシンを何にしようかと迷っています。

 梅は咲いていますが、まだまだ寒いです。くれぐれもお大事にしてください。

 

* 千葉の勝田貞夫さんも、来ていただいていたのにお目にかかれなかった、すれ違ったりしていたのかなあ。とにかくまさにアングラ、雑踏してどうにももみくちゃになるばかり。それが活気とも元気ともなるのだろうが。あれからすると、大劇場はひやあっとして寒いところがある、歌舞伎座でも、俳優座でも。

 

* つくり手の心、エネルギイが、こちらにじかにひびいて来、登場人物のひとりびとりが抱えているPainが、忘れていた、いえ、忘れたがっているわたくしのPainを、揺りうごかす。ちょっとつらい時間でした。けれど、こうした刺戟に身をさらすことは、必要なことでございましょう。

 最初、大音響とはげしく動く光線に、終りまでこちらが持ちこたえられるかと不安になりましたが、それは導入部だけでした。その導入部に、数人の登場人物が、天井からの光の条をふりあおぐ感じで静止する瞬間がありました。うつくしく、かなしい絵、とおもいました。あれは、あのドラマをシンボライズしたもの。あとになって、そうおもいました。

 どんどん、もってゆかれました。

 主人公の最後の長いモノローグ、役者の力量の問われるところでしょうか。もう少し、と、生意気なことを感じましたが、照明が落とされたとたん、涙があふれました。

 早く整理券を、とお教えいただきましたので、前日、電話でチケットの予約はしてあったのですが、早起きして、何と11時20分に会場に着きました。16番。高いところをとおっしゃってでしたので、関係者席のすぐ前、それも中央からちょっと上手より、よい席が取れました。

 佳い時間、佳い刺戟をありがとうございました。

 

   階段まであふれて飾られゐる花のやつれてにほふ千秋楽けふは

 

 あまり、おめでたいうたでなくて。

 2001 2・13 8

 

 

* 駆けつけた帝劇の浜木綿子の芝居は、最低の愚作愚演でうんざりした。劇場内に花粉充満して目は痒く鼻はむずむずして話にならない。幕間にあわただしく香味屋で注射し夕食しただけ、フィナーレにも背をむけて、さっさと有楽町線で帰った。ひどく寒く、駅からタクシーをつかった。

 2001 3・8 8

 

 

* 三百人劇場での日韓協同の「火計り」は価値ある公演であった。

 秀吉の朝鮮出兵にさいして西国の諸大名が、かの地の陶工たちを多数拉致して領内に定住させ、一定の優遇と保護監禁のもとに焼き物をつくらせ藩の財政を潤していたことは、史実として周知されている。九州には各地に有力な伝統の窯場があり、大方がこの朝鮮出兵を機縁にしている。

 薩摩の苗代川も最たるひとつであり、司馬遼太郎の短編「故旧忘じ難し」にも書かれている。わたしも平凡社の企画で九州の全部の窯場を探訪して回った際、苗代川にも立ち寄って沈壽官とも語りあったし、佐市郎の見事な黒茶碗も買ってきたし、芝居の舞台にされていた竹やぶ美しい玉山神社にも詣ってきた。ここで、島津の強制により、焼成の「火」以外は、すべて朝鮮の土、水、釉薬、蹴り轆轤等を用いて焼いた茶碗を、「火計り」と通称してきた。これは深読みの利くまことに微妙な呼び名である。

 舞台は、四百年にわたって故郷喪失と差別的な苦悶と苦渋をなめつつ、優れた黒薩摩、白薩摩の焼き物を守り伝えてきた「苗代川」の歴史と現代と、この地に拉致される以前の韓国故地の現代人との交流・交感・幻想・懐旧などを、要領を得て大胆に適切に描き出してくれていた。なによりも、誠実に舞台が盛り上がっていった。じわっと涙が湧き出て、流れつづけて尽きなかった。

 一つには脚本を書いた日本人品川能正のうまさであり、一つには、小さな理解の一つ一つにも激しく対立して激論を繰り返し、接点を白熱させてきたという日韓の演出・俳優たちの実意の成果であった。正直のところああ巧いなあなどと嘆声をもらす俳優は一人もいなかった。だがアンサンブルは濃密に、温かく体を成していた。

 ああいいなあ、こういう協同はいいなあと、わたしの気持ちは美しいほど和んだ。日韓というと、とかく、そそけだつ違和感に襲われやすい。ワールド・サッカーの日韓共催なんてできるのだろうか無事にと想っている両国人の多かろうことも察しているし、わたしも危ぶむものを持っていた。だからこそ、この「火計り」の舞台が、舞台裏では火花を散らして激論しながら、質実で切迫したものに巧みに仕上がったのを見せてもらえると、嬉しく安堵するのである。

 島津への感情などに、いささか甘い妥協もみえなくはなかったが、拉致された人たちが玄界灘に揉まれて苦しむさなかにも赤ちゃんの生まれ出るシーンにしても、玉山廟のコレガンサーをまつる祭礼の表現も、登り窯での窯焚きも、幻想場面も、難しいと予測していたいくつもの場面場面を、ほう、うまくやるなと頷かせる工夫で見せ続けてくれた。このところ数年の劇団「昴」三百人劇場の高潮と充実とは、しっかり維持されていた。「怒りの葡萄」も難しい舞台をみごとに見せた。「三人姉妹」や「ワーニャ伯父さん」のすばらしさも印象にやきついている。妻が遠慮したように、この「火計り」は表現し難いであろうと実はわたしも危ぶんでいたが、きもちよく不安をかき消されたのは幸せであった。  2001 3・17 8

 

 

* まるで祝い日かのように。朝、澤口靖子のご機嫌のトークを聴き終えたかと思ううちに、東宝の後藤和己さんを介して、帝劇支配人から五月公演「細雪」に、妻と二人ぜひご招待したいので都合のいい日を教えて欲しいと、電話。開演前に支配人が楽屋へ案内してくれるという。美しい人に逢うのはすこぶる嬉しいが、ろくに面白そうな何もわたしには話術も話題もなく、去年もかなり窮屈であった。ま、妻も一緒なら気は楽かと思うが、妻の方も輪をかけて世慣れないから、どうなるかと、もう汗をかいている。だが気の晴れるお招きで、感謝する。

 2001 4・19 9

 

 

* 昼前から、雨。ひどくはない。一年ぶり、あすは帝劇の「細雪」に招ばれている。主演「雪子」の楽屋にも。いま階下でベルの鳴ったのは、あした、どうぞ、と劇場から確認の電話であった。

 2001 5・8 9

 

 

* 開幕十五分前に、国井支配人の案内で、「雪子」役沢口靖子を楽屋に訪ねた。一年前とまったく変わりない、これから亡父の法事に出向く「雪子」の舞台衣装で、あでやかに、親切に迎えられた。もとより、そんなきわどい時間に多くを語りあうのは考えになく、気持ちのいい笑顔と声を見て聴いて、「雪子」にも誘われていっしょの写真を三枚も支配人に撮って貰った。「いちばん気も張っていて、一日中でいちばん美しく仕上がっているときにお目にかかりたい」と、去年のときも伝えられていた。さしだされた手をかるく握ってきた。笑顔に見送られた。去年よりも、いちだんと内から照るほどに美しかった。満たされた。美しい人の最高に美しくある、それ以上によいことはない。

 

* 「とちり」の「ち」、八列目中央、通路脇の最良の席が二つ用意されていた。手に取るように舞台はよく見えた。去年は「幸子」が古手川祐子だったのを、今年は山本陽子。「妙子」は去年がたしか純名理沙だったのが、今年は南野陽子。「貞之助」は去年は誰であったか、今年は篠田三郎。「鶴子」の佐久間良子、「雪子」の沢口靖子、「辰雄」の磯部勉、「御牧」の橋爪淳は変わらず。舞台も変わらず、脚本・演出もほぼ変わらず。

 結果的に、去年と変わっていた三人が、弱かった。篠田の「貞之助」は、テレビのホームドラマなみの軽い芝居で、空気が抜けかねなかった。「貞之助の重み」が、この人はよく分かっていない。あれは、背後に作者谷崎がいて、しかもあの世界のほんとうは「家長に準じた」抑え役であり、原作では、更に微妙に、雪子をそばへ引き付けていたいある種あやうい義兄なのである、が、そういう陰翳がまったく「役」として役者に読めていないので、ひたすら無難に気のいい夫役になってしまった。彼の押さえが軽くてはドラマの浮き上がる恐れがあり、危ないぎりぎりであった。石井寛をはじめ過去に佳い「貞之助」を見てきた。篠田は勉強不足である。

 山本陽子の「幸子」役には、原型であった松子夫人を身近に感じてながいお付き合いがあっただけに、厳しいことを言わねばならない。去年の古手川にはまずまずの品位とともに、柔らかな魅力が感じられたが、それでも十分ではなかった。山本陽子は、あれよりもいけない。東京のキャリアウーンのようなキビキビが、言葉にも所作にも露わに出過ぎ、とても『細雪』のあの「なかんちゃん」になれていない。ミスキャストであろう。関西弁もうまくない。ま、言葉だけは仕方ないが。だが「幸子」はひたすらに柔らかに、しかも、あの世界を事実上率いて確かな「芯」の存在であり、他の者がみな立てて見守る、桜のような鯛のような象徴的存在なのである。大阪の人である。山本陽子が下手だというのではないが全然上手でなく、役をあたまから山本陽子でやる気でいる。彼女の個性が露骨に強く出て、大阪や芦屋の奥さんではなく、手もなく葉山か鎌倉の奥さんになってしまうのが、見ていてはらはらと落ち着かないのだ。この女優は、もっと自我を殺して生かすすべを覚えねば。

 南野陽子はむしろ好きなキャラクターだが、「妙子」の役は荷が重かったか。演技も存在感もひたすら薄い。かべてに希薄で、深い哀れと強さと魅力とが残念なことに兼ね備わらない。地唄の「雪」を一人舞の場を貰っているのだが、この舞が、まあ当然としても、舞好きの眼には当座まねごとの域を出ていない。ひどい。去年の純名理沙の方が、さすが宝塚で鍛えていて芝居が出来た。南野の誤算のひとつは、たとえば泣くときに、ほんとの泣き顔に顔を歪めてしまい、自然醜い顔になってしまう。ふつうならそれでいい、が、この舞台ではあんなふうにナマで泣いてくれては困る。美しく、あるいは美しさを失わずに泣いてみせることで、客の胸を絞らねばいけないのである。そういう所作事が南野陽子にはまだ無理なのか、テレビドラマのようにうわつらで演じていた。「妙子」の劇的な魅力が盛り上がらずじまいで、その辺を「雪子」の沢口靖子におんぶで救われていた。

 この菊田一夫脚色の芝居では、原作とちがい、長女の「鶴子」が重く具体的に扱われていて感心するのだが、去年よりももっと佐久間良子が落ち着いて、すこし崩れた感じで、無難に演じていた。あれでいい。もともと「幸子」役だった人が「鶴子」役に老けて、それがちゃんと似合ってきたのだ。去年はひどく気張って演じていたが、ことしは終始のびのびと丈高く柔らかく演じて、最後に夫「辰雄」のまえに頭を下げ、一転、東京への移転や本家売却に同意するあたり、自然必然に涙を誘う効果をみせた。けっこうだった。夫役の磯部勉は男役のなかで傑出安定していた。俳優座の「ハムレット」役者が思わぬところで確かな存在を見せている。余談だが、加藤剛のあとの俳優座ハムレットたちは、どうしてみな退団してしまうのだろう。山本圭、磯部、また寺杣クン。

 さて、結果として今日の舞台を、上のような問題ははらみながら、しみじみと感動作に仕立て得たのは、贔屓目は何一つなく沢口靖子の演技力の明らかな充実ゆえであった。去年よりももっと印象的に、「雪子」のはらんだ不幸の自覚と、そこからの脱出=結婚への意志を、ごく自然に、しかも所作の美しさ・宜しさで懐かしく表現できた。それが舞台の始終に、首尾に、妙薬のように効いていた。

 谷崎潤一郎は「雪子」の根に、しぶとさをはっきり意識していた。松子夫人も意識されていた。だが原作の「雪子」はもとより、菊田一夫の舞台の「雪子」は特に、しぶとさは降る白雪に秘めもちながら、あくまで、生きて行く「あはれ」を感じさせるのだが、沢口の「雪子」はそれを託されたままに、全身でよく表していた。場面を追って、雪の積んで行くように「雪子」の魅力がだんだんだんだんと観客の胸に届く。それが舞台の盛り上がりに成って行く。演出だとすれば、演出家は高い点数を「雪子」の沢口靖子で稼いでいたと思う。妻も、わたしも、心地よく泣かされた。原作の厚み、脚色・演出の巧み、それを「雪子」は精のように静かに体現して、おみごとであった。「泣きの靖子」かと以前にテレビの役で褒めたことがあるが、今日の、泣きそうで泣くまいとこらえた沢口靖子はほんとうに美しかった。よかった。この感想に贔屓目は加わっていない。

 帝劇の芝居には、いつも決まって感心するというわけには行かないが、それぞれの舞台が主演の役者をもりあげて特徴と特色をもっている。美点も欠点ももっている。「細雪」はそのなかでも競演・競艶という特色と共に、脚色のうまさで原作をよく批評し得ていて、完成度をしっかり持っている。芸術座のもふくめて日本の近代の名作ものを幾つも見せて貰ってきたが、これは図抜けて安定した佳作に練り上げられていると思う。谷崎ものには注文も多くつけたいところだが、この舞台には、それがあまり無い。

 

* しかし、見通しの付く冒険もして欲しい。往きの電車で妻と話していたが、沢口靖子のあの美しさと品のよさとは、たとえばわたしの「読み」での漱石原作『こころ』の静=奥さんで、「雪子」なみに微妙で聡明な役をつくりあげること、十分可能であろう。先生とKとに愛され、その二人ともに「死なれて・死なせて」、若い「私」に愛され、その子をみごもる「静」さん役ほど、この女優に似合う役は少ないだろう、と。もはや今では、「先生」の死後に愛し合う「奥さんと私」とが、結婚し子をもつというわたしの証明した読みは、学界でも否認しがたいものに落ち着こうとしている。俳優座の香野百合子の演じた上をゆく沢口靖子の「静」さんを、舞台の上に観たいものだ。

 

* 国井支配人が手づから撮影したという、満開の桜のもと蒔岡家四姉妹のならんだA3版ほどの大きなカラー写真をお土産に貰った。わたしの宛名と沢口靖子の自署ももう見慣れた書体で、開幕前にちゃんと用意されていた。平安神宮ではない、たぶん千鳥が淵爛漫の桜の下であろう。言うまでもない、飛び抜けて沢口靖子は輝くように美しい。

 

* 三時過ぎにはねて、すぐ車で山種美術館に行ったが、休館。それならと、千鳥が淵静寂の緑歩道を妻とゆっくり散策、戦没者霊苑に参拝し、おがたまの花などみて、となりのフェアモントホテルで、軽食とビール・ワインとで休息した。桜の頃とうってかわり、ひっそりとくつろげた。久しぶりのビールとカレーライスがわたしにはご馳走であった。市ヶ谷駅から有楽町線でまっすぐ帰った。黒いマゴがよろこんだ。

 佳い一日を、沢口靖子さん、また東宝の後藤さん、国井さん、紙谷さんに感謝する。晩には、もらってきた大きな写真を幾つにもスキャンして楽しんだ。

 2001 5・9 9

 

 

* 両国のシアターXまで、親友原知佐子出演の芝居を観に行った。息子がまだ会社員のままこの劇場で処女公演して、自作を演出した。もう、ずいぶん昔の気がする。

 今日のは、フランス人の劇作を、いろんなグループが何本か集中的に公演している中の、「王様と私たち」という、よく出来た科白劇。原さん演じる老いた母と、二人の娘。その姉の方の夫が家内の「王様」なのだが、だいぶん草臥れている。会社へ行けば末端管理職であることに無上の誇りとまた苦痛とを味わっていて、帰宅すると養っている三人の女の前で「王様」にされている。ずいぶん神経質に衰弱したこの王様は、三人の女達の侮蔑と愛情と依頼心とにがんじがらみになっている。妻が幸運に外で職をみつけ、元気に働き始めると「王様」の狂的な衰弱と荒廃は度を増し、しかも会社の「節約」方針の犠牲第一号としてクビになる。

 

* 舞台の芯になる妻で長女の役は、「ナチュラルな」(と原さんは言っていたが、)演技で終始破綻をみせず、いやみもくさみも感じさせなかったのは、人の良さもきちんと感じさせて好感情を誘い出していたのは、なかなかのものであった。

 半分は死体のような王様も好演で、ワキの母も妹も達者なものであった。演技的にはなにひとつ文句のつけようもなく巧みに演じられた。

 だが芝居自体が、少なからず時節外れであった。このリストラの徹底した失業時代に見せられても、問題提起にも成らずましてカタルシスの得られる話題では全然ないではないか。うまい劇作だと思うが、芸術演劇の限界が、時代時節そのものにハレーションを起こし、劇場はガラガラであった。熱気の生じようもない主題であった。原さん、気の毒みたいであった。しかしロビーには協賛の企業からかワインなど出ていて、お土産まで貰った。

 

* うまい舞台をみながら、楽しめなくて、なんとも割り切れない気分を癒そうと、妻と、建日子デビューの日に二人で盃をあげたちゃんこの「巴潟」に時間前にとびこみ、横綱太刀山ゆかりの「ちゃんこ」を食べることにした。これが量・質ともにバランス大いに宜しくて冷酒もうまく、なによりの大おまけに、店員の親切に導かれわたしにも唆されて、向かいの別館に入ってゆく大関魁皇を妻は追いかけ、巨大な「綿のような」手と愛嬌よく握手してきたらしいのである。魁皇は横綱をねらう夏場所だ、妻の応援が効くといいのだがな。

 大江戸線まで両国の街をそぞろ歩いて、地下鉄で練馬まで一気に、西武線で保谷に、満足して帰宅した。

 2001 5・11 9

 

 

* 俳優座で、南方熊楠「阿修羅の妻」を演じた大塚道子の芝居を、今日も妻と観てきた。天気ももどり、空気もさらっとして快適だった。六本木へは練馬から大江戸線で。劇場の真ん前に出られるが少し早く着いたので、近くを散歩し、スタンド式の、六本木らしい洒落たパンカフェに入り、出がけに届いていた新しい湖の本のツキモノの校正などした。満十五年らしいあとがきや一頁記事を入れて置いた。本文はほぼ読み上げてあるので、もういつでも校了出来る。発送の用意の方が大幅に遅れている。

 

* 「阿修羅の妻」の仕上がりは、さよう、上々と謂ってよかった。主演大塚道子の「妻松枝」の演技は完璧であった。身動きも話術も情意の乗せようも余裕も、寸分の狂い無い、風格も情けもある名演で、確実に演技賞ものだった。「熊楠」役の松野健一もその他の配役にも特段のソツはなかったし、すすり泣く声もいちじるしい珍しい舞台であった。

 だから満点かというと、物足りない点もあった。

 なにより新劇という新味がなく、昔ながらのいわゆるお芝居で、その意味では旧劇であった。裏返せば、分かりいいという意味だけでも、説明的で通俗味の濃い芝居だった。斬新な意欲の作ではなかった。よく出来たテレビの二時間ドラマなみであった。この脚本のまま、この演出のまま、歌舞伎役者が歌舞伎座で上演することも不可能でないどころか、やすやすと演れる。富十郎か左団次の熊楠、藤十郎か松江あたりの松枝など、と配役までつい想像していた。それほど芝居の作りが世話に手慣れていて、「松枝」役だけがじつにしっかりしているのに比べると、「熊楠」ですら、部分部分では底荷の不足したテレビドラマふうの科白と身動きになり、神官も女中も芸妓も漁師や樵も新聞記者も、みなテレビドラマふうの軽みへ軽みへ流れかねない危うさが終始つきまとっていた。リアルに演るしかないように作られた台本なのに、ほんとうは、リアルには演れていなかった。袋正ほどのベテランが演じる神官役にも、由緒と格式を背負った重みも実質も足りなかったし、その妻女つまり松枝の老母役も、白髪のまま舞台でひょこひょこ駆け出しかねない軽率な神職の妻で、文字通り軽薄に演じていた。由緒有る神職の家の深沈とした重みが見いだせなかった。女中の演技にしても、役の理解じたいにテレビドラマっぽい薄さが出て、戯画化されていた。もっときまじめにきまじめに演じれば、かえって質実感の中に、えもいわれぬおかしみや面白さが出るだろうにと、惜しかった。

 なにより世界的な大学者「南方熊楠」の、半身は地の闇に沈めたような底知れぬ巨大さが、これでは出ない。前半は期待させたのに、舞台が進むに連れ、だんだんだんだん、ただ優しい人情夫婦劇の男役に過ぎない軽さへ、浮かんでしまいそうな危うさ。

 たしかに泣かせる場面も科白もちりばめてある、それすらも、この芝居の根底の大目的から重点を逸らせる逆の役割をしてしまいかねなかった。こんな人情劇でいいのと、ふと疑問を感じながら、熱い拍手は惜しまない幕切れとなった。わるくはない、が、疑問が残る、そういう舞台であったから、観ていた間の興趣も感銘も、劇場を離れると急速に薄れた。よくあることだが、今日も事実がその通りであった。かつての「冬のライオン」はそうではなかった。「収容所からの遺書」もそうではなかった。今でも胸に鳴り続ける感銘がある。「阿修羅の妻」には、なんとなく通俗な中間小説を面白く読んですぐ忘れるのと似た表現の弱さがあった。主人公熊楠の把握のよわさでもある。ただ一つ、大塚道子の卓越した力量への嬉しさや敬意だけは忘れられないものになる。確実に忘れまいと思う。もう一度言うが、わるくない楽しめる舞台ではあった。高望みをすれば不足はあったというまでである。

 

* 小田島雄志氏、杉本苑子さん、また女優の香野百合子さんらと挨拶したり立ち話をかわしたりしてきた。

 

* 日比谷へ出て、東宝芸能の入っているビルの三階、「東天紅」で久しぶりに中華料理をゆっくり食べた。わたしはマオタイ酒を小さいグラスで二杯やり、妻は料理がおいしいと満足していた。むろん観てきた芝居の感想を詳細にかわしあったのも毎度のこと。静かな静かな広い店内を、時間も早くて、われわれだけで占めていた。

 銀座一丁目まで歩くうちに宵は深まり、必要な買い物のほかにとうとうDVDの映画を二作、また好物のブルーチーズを三種買って、有楽町線で帰ってきた。帰ってからつい観てしまったスチーブン・セガールの映画が三流娯楽作で時間の無駄をした。

 2001 5・17 9

 

 

* 熊楠の妻が阿修羅の夫に、私の家は私であり、あなたも私の家に住んでいると語っていた。わたしの「島」の思想と同じことを言っていると感じた。この夫婦は「身内」を成していたという舞台であったのだ。それはいい。かりにも南方熊楠の芝居がそこで目的を達してしまうのでは、だが、足りないだろう。「だれそれの妻」ものの弱さである。いちばんの不足を、わたしは今回は演出家の把握に対して言いたい。脚本はあのままでも気品高い硬質の芸術作にできるものはもっていた。中間小説風のテレビドラマ臭を添えてしまったのは今回は演出家の不出来だと、わたしはあえて言う。  

 2001 5・17 9

 

 

* 国会の党首討論なども聴きながら、終日荷造りをして、夕方過ぎには第一便を送り出した。

 夜は、久しぶりにわたしの脚色した俳優座公演の「心=わが愛」のNHK藝術劇場版のビデオも観ながら聴きながら作業をつづけた。妻も一緒に観ていた。初めのうち加藤剛の芝居がすこし気恥ずかしかったりしたが、うまい編集がしてあり後半へ進むにつれて引きつけられ、もらい泣きした。加藤の先生、香野百合子の静、阿部百合子の母親、寺杣の私、そしてK役がじつに適役で俳優の名さえ忘れさせた。わたしの長い長い脚本を演出家島田安行が適切に台本に纏め、演出がよく行き届いていた。夏目漱石の「こころ」に間違いない筋書きでありながら、その理解は全くわたし自身の固有のもので、わたしの思いを漱石原作をかりて表現したような舞台になっていた。しかし原作のよさと、加藤剛のニンに合った熱意とが舞台にあふれて、緊迫感を高めていた。久々に心地よい時間がもてた、テレビドラマのようにならず、終始演劇の時空間を成していた。ああ書いてよかった、書かせてもらえてよかったと、発起人の加藤剛の好意に今更ながら感謝を深くした。

 2001 6・6 9

 

 

* 今日はやや涼しい日陰の昼下がりに、妻と、「アルジャーノンに花束を」を三百人劇場に観に出かける。

 2001 7・18 10

 

 

* 三百人劇場は今日も好調な公演をつづけて、「アルジャーノンに花束を」は、予期をうんと超えた佳い舞台だった。終盤へ、震えるほどの盛り上がりをみせた。満員の観客の拍手の熱かったこと、肌身にじんじんと堪えた。チャーリー役の、起用に応えて好演であったことも大きいが、いわば今回はこれまでの定評あるベテランたちから新人へバトンタッチの舞台であった、それがいい方へ爆発して熱気となり纏まりとなり、そつのない演出と相まち、生き生きと「演劇」が刺激をもちえた。泣くことはなかろうと予想していたのに、しっかり泣かされた。ウーンうまい、と、思った。終始理知的な組み立ての巧みな脚本でありまた原作のねらいだが、他方では、わたしの「ディアコノス」とも微妙に接触濃い主題と進行とであり、たくさん考えさせられた。今すぐは消化仕切れないから何も話さないが、舞台と自分の作品とが、頭の中で絡み合い絡み合い、かなりキツイ観劇であった。だが、優秀な舞台からはいつも確実に受け取れる芸術的な嬉しさが、身内の輝いてくる喜びが、たっぷりと残った。

 劇場が涼しくて、満員なのに心地よくいられたのも有り難かった。妻の拍手も超級であった。わたしも手を高く挙げて拍手を惜しまなかった。

 

* その足で有楽町に出て、以前に入ってとても気に入った日比谷の東天紅で夕食。この店のコースは、それぞれに凡でなく味が佳いのである。食欲をおさえる辛抱がなく、マオタイと紹興酒も楽しんだ。「クラブ」でのもう一杯はガンと禁じられたので、ゆっくり銀座を歩いて、通りがかりの店の奥にちらとわたしの見つけた洒落た妻のブラウスを一着買い、また和光の前で、医学書院の頃の友人一家とぱたっと出会ったりしてから、有楽町線にうまく坐れて、保谷まで悠々うたたねしながら一気に帰った。夢で雨かなと思ったのも保谷では晴れていた。黒い猫が待ちわびていた。

 

* 劇場への途中、まるで、浦島太郎の物語で亀をいじめる子供らとそっくりの、ゆかた少女たちをみた。ちんちくりんに裾を高く上げた浴衣から、白いレースの下着がほんのすこしちらちらと見える。髪はちいさくリボンで絞って。おかしかったが、へんに似合ってもいて、よけい笑えたし感じ入りもした。

 2001 7・18 10

 

 

* 九月帝劇「鶴屋南北」の招待券が贈られてきた。いつもの後藤和己氏のご厚意である。この浅丘ルリ子の芝居は観たかった。秦建日子の「PAIN」に出てくれた山崎銀之丞君も出ている。藤間紫、長門裕之たち。去年の鏡花に負けない舞台が期待される。

 2001 8・25 10

 

 

* 帝劇の「鶴屋南北悪の華」を観てきた。入り口で劇場支配人と顔があった。われわれの入場券を観て、もっと佳い席に替えましょうと、前から二列めであったのを、いわゆる「とちり」の「ち」の真ん中にすぐ取り替えてくれた。恐縮しているうちに、パンフレットまで手渡されていた。

 ゆったりと、広い舞台がすばらしくよく見えた。感謝。

 

* 浅丘ルリ子は、帝劇で主演する定番女優陣でもダントツの役者で、客をけっして下目に見ない。真向から熱演して見せてくれる。まえの「鏡花幻想」もそうであったが、今夜の南北の女の造形には共感できた。深く吹っ切れた一種の「達人」とすら謂えて、善も悪もない、ありのままに生き生きと現在を生き、危うくない、つよい女を魅力的に立派に演じていた。高貴の姫、恋に狂う尼僧、やくざものの女、品川の女郎、どこまで落ちていっても、むしろ逆に人間が安定し強くなり、何事にもたじろがない。関わった者の全員が非業に死んでいったあとも、なるべくして生きのびて行くのだと、さらっとまた行方も知れず世の中へ歩み出す。お家の宝の巻物一巻を失ったことから、大勢の運命ががらがらとまわりはじめるのだが、浅丘の演じる花子の前ひとりは、回転する車輪の芯のように動じない。最後には、その大事な巻物を手中にしながら、お家の再興も忘れ果てて破り捨て、顧みない。

 一にも二にもそういう魅力有る女一人を描ききってよく見せてくれたのが、この芝居の大手柄なのであろう。マインドという分別をきれいに落としきって、現在を、はしゃがず沈まず生きて行く、実存的な女。世相や世情は、南北の頃と現代とで似通っているのであり、それだけに、こういうとびぬけた女の存在を、今の身の回りにさがしたくなるが、心を病み、とらわれてもの悲しい人たちばかりが目に付いている。

 浅丘ルリ子は、優れた主演女優であり、なにより意欲と姿勢とがいい。演じる限りは深く人に訴えうるものをと、いつも注文をつける女優です、感心しますと、洩れ聞いている。さもあろう。客をナメていない。みて下さいという姿勢で、全力で舞台を創ろうとしている。そう出来る人ばかりでないことは、同じ帝劇ものを何度も見せてもらってよく知っている。客に媚びることで客をナメているような、客を下目に見ているような演者が、たしかにいる。そんな主演者は、そんな舞台は、不快だ。

 

* 今夜の舞台を、及第点へ力強く引っぱり上げていたのは、共演の藤間紫であった。この名うての藝達者が、渾身の芝居をみせ、空疎になりかねない歌舞伎仕立ての劇空間を、引き締めに引き締めた。紫なくして、もし浅丘だけでは、あの廣い舞台は残念ながらスカスカになる。事実、この二人のいない舞台の幅が、三分の二なら、もっと鶴屋南北の味が濃縮され、凄みもにじみ出るのにと、何度か思ったものだ。そう思わせる理由の大半は、科白であった。

 科白の生きる役者が、浅丘と藤間紫のほかに、殆どいなかった。ただの地声でみな喋っている。

 どこがちがうか。浅丘と藤間紫の科白だけは、或る確かな旋律と波動とをもって、舞台の空気を、音楽のように刺激し、うねらせ、響かせ、引き締める。だが、たとえば、準主役の多岐川裕美にしても永島敏行にしても、そういうふうに劇空間を科白で支配できない。願人坊主のような長門裕之は巧みに役をこなしていたが、新橋耐子は食い足りなかった。期待の山崎銀之丞は、大きな役をもらっていたが、大舞台ではひれが無かった。からだの動きは切れがよく、素質十分の色気を感じたものの、鬘もあわず、剣術の出来る武士の歩き方ではなかった。

 

* とは謂え、舞台は成功して、持続する劇性を太く一貫させて退屈させずに、次へ次へと世の中を転変させて不自然が余り無かった。脚本も演出も成功していたし、音楽も今回はわるくなかった。幕切れへかけての盛り上がりは手応え確かで、浅丘ルリ子は、最期のひとり舞台もうわずることなく、力を見せて余裕綽々結びきった。盛大に拍手が送れた。うん、よかった、よかった、帝劇さん、いつもこの水準の舞台を見せてよと言いたかった。

 

* 帝国ホテルのクラブに寄り、妻はもらってきたパンフレットを読み、わたしはブランデーを主に、箸を使ってサイコロに切ったうまいステーキを口にしながら、上島先生の歌集をていねいに読み終えた。妻はシーバス・リーガルのうすい水割りと、フルーツの盛り合わせ。一時間ほど腰をおろし、息を調えてから今夜は丸の内線で池袋経由、帰宅した。家では映画「タイタニック」の録画が、ちょうど済んでいた。

 2001 9・1 10

 

 

* 浅丘ルリ子での公演がひょっとして有ったかも知れない、が、泉鏡花の「貧民倶楽部」を、彼女で舞台化したら凄いだろうなと、いま、ふっと渇望した。浅丘なら、「恋女房」でも、水谷八重子とはまた別の凄いものになるだろう。

 2001 9・4 10

 

 

* 午後、俳優座の招き、今月は「坊っちゃん」を観に行く。以前に、浜畑賢吉らのミュージカルを楽しんだことがある。俳優座がどう演じるか。

 2001 9・26 10

 

 

* 福田善之脚本・演出の俳優座公演「坊ちゃん」は、緊密な仕上がりに欠けた、駄作であった。あれやこれやと工夫しているのに、一つ一つがこうるさく、こまぎれのちゃちな印象で、ドラマが豊かにうねって流れない。盛り上がらない。俳優たちが元気に生き生きと演技すればするほど、その元気が、ストレートに客席に浸透せず、客席には退屈感や、なんだこれはという、ばからしさや、あくびや、居眠りまで。

 今回に限って、俳優たちには、概ね文句のつけようがない。坊ちゃん役が、もうすこしセリフを隅々まで大切に発声してくれればと思うが、感じのいい青年で。ああこの青年を「私」に、加藤剛が自らあの「心-わが愛」を演出してくれるといいのにと思っていた。加藤には演出の機会が有っていいのではないか、もう。

 村上博の「うらなり」がよかった。この俳優には、ぴたりの名作が与えられないものか、あまりに惜しい大きな素材。児玉泰次の「のだいこ」が乗って盛んに囃していたし、武正の「赤シャツ」も、そこそこ。マドンナ役には、さほど光るものを感じなかったが、この舞台のために創られたという藝者「春奴」の早野かほりが、例の如く可愛らしくはしゃいで見せた。松坂慶子のような魅力的な女優になって欲しい。

 とにかく俳優たちに文句はないが、福田の作と演出は、今回に限ってと言って置くけれど、おそまつであった。

 その理由は何であろうと考え、あとで、半藤一利との対談を読んでいて、これだと思った。福田は、なんとかこの芝居で、「坊ちゃん」文学に対する新解釈を表現したいと腐心しすぎ、それに足をとられ、それの自画自賛で己れを見失い、舞台への貢献がストップしてしまった。文学の批評家・鑑賞家になってしまい、戯曲が、こまぎれ場面の生硬なつぎはぎなら、演出には流露感も力動感もなく、お粗末な舞台転換の連続で、客を、少なくもわたしを(わたしの隣の男性客は天井を仰いで寝入っていたが。)しらけさせ、退屈させた。

 盛んに、漱石の俳句を字幕で流して見せた、が、それらの俳句がまた佳いのだ。だが好ければ好いほど、舞台の方がまるでその俳句一つ一つの説明というか、喩えが逆さまだがまるで「まんが」の吹き出しになってしまい、本末転倒。

 わるいところは沢山、好いところは少なく、坊ちゃんの荷物の中から嫂の衣裳を持ち出して、夏目漱石が松山中学に流れていった理由付けにしたあたりが、確かに一つのアクセントになっていたが、それは、「漱石論」をやって演劇の「坊ちゃん」に利しただけの、漱石読者にはしらじらしい思いつきを出なかった。福田の頭が、舞台や俳優よりも、漱石論や漱石文献の方を向いていては、ちぐはぐものの出来るのは無理がない。

 以前、浜畑賢吉らのミュージカルで「坊ちゃん」を観たときは、オペラセンターの中舞台が沸騰していた。今日のミュージカルでは、俳優たちが元気すぎるほど歌って踊っていたのに、それが「音楽」のよろこばしさを感じさせてくれず、ひどい騒がしさになってしまっていた。「音の楽」しさが客席へ美しく流れ込まずに、やたら騒がしく降りかかってきた。これも俳優たちの咎でなく、どこかに演出の不行届きがあったのであろうと、今日のわたしは不機嫌そのものであった。八回ほどあくびをかみ殺した。音のしない拍手しか出来なかった。

 

* 大江戸線で六本木へ入り、始まるまで劇場の裏の角店の喫茶店で、卵サンドイッチの昼飯。舞台がはねてからは、日比谷線で日比谷に下車し、毎度の「日比谷東天紅」で、早めの夕食。マオタイと花彫の紹興酒をゆっくり飲んだ。この店の中華料理は安心して食べられる。月餅を二つ買ったら、胡麻をふったクッキーを一袋おまけに呉れた。日比谷街に気をそそる映画もなく、帝国ホテルのクラブでそれ以上飲む気なく、丸の内線と西武線とで、さっさと保谷に帰った。地下鉄や西武線では、三原誠夫人に返却する本で、「愛は光うすく」という長篇を読み続け、ぜんぶ、読み上げてしまった。ついでに、写真入りの読みやすい「方丈記」を、すこぶる新鮮な気分で読み始めていた。そして、保谷では「ぺると」のコーヒーを一杯。

 2001 9・26 10

 

 

* ぎりぎりまで仕事して、昼過ぎに妻と千石の三百人劇場へ。日差しのつよい秋日和のなかへ家を一歩出ただけで、途方もなく疲労していることが分かる。眠くて、からだは重くだるくて、しかもフラついていしまう。こんな体調は初めてだ。

 劇団昴の招待に応じて席をもらってあるので、演目も、ハインリヒ・マン原作の「嘆きの天使」とあっては、どう疲れていても見たいという欲がある。巣鴨でコーヒーを飲み時間調整してから劇場に入った。

 

* 芝居は、いつもの昴とちがい、生煮えで、ドラマが爆発しなかった。舞台装置の使い方は面白く、巧みですらあったものの、脚色の力点の置き方が観念的で、的が定まらないまま何を観客の胸に叩きつけたいのかが、はっきり煮え立ってこなかった。もっとナチスの重圧を具体的な背景にし、また前面にももちだしながら、そういう中での教授とヒロインとの「愛」にせよ「真実」にせよ、もっとはらはらどきどきしたものに設え、盛り上げてゆくべきだった。道化の失踪と、道化を動かしていた気持ちと死とに、ナチスとユダヤ人の問題を集中しながら、そういう重苦しく嶮しく危険な時代の中での主題の煮込み方があるだろう、思い切って脚色をそこへ突き進めて欲しかった。あれでは、なにかしら舞台の進行が、台本の筋を説明するために有るような、分かるけれども胸は少しも震えてこない芝居になっている。このところ絶好調といえる昴の公演が、今度のはやや半端に冷え込んだまま済んだ感じ。教授の内田稔はとても気の入った良い演技をしていたが、ヒロインの芝居が貧弱で、とくに前半の、結婚に至る表現力が貧弱で、舞台の魅力をアツアツにふくらませるオーラが全く立っていない。あれでは、教授が全てを抛ったことが訝しいとすら思えてしまう。あの舞台を成功させたいなら、マレーネ・ディートリッヒに相当する魅力の持ち主を劇団の外から物色してくるよりないのである。だが、さて、どんな女優ならそれが可能だろう。澤口靖子があれを出来るぐらいなら、教授の気持ちが、わたしにも無理なく分かるのだが。背もありスタイルもいいし。ウーン、まだ無理かな。捨て身になってやれば、やれそう。

 

* とても街なかへ出てゆく元気なく、池袋に戻ってパルコ「船橋屋」で天麩羅を食べて帰った。笹一を二杯飲んだ。食欲は無くはない。うまかった。だが、いつもだと食べると元気になるのに、持ち直さなかった。保谷駅から、先を歩き出した妻を呼び戻してタクシーに乗って帰った。家まで歩く気がしなかった。

 2001 10・23 11

 

 

* 吉祥寺までバス、井の頭線で下北沢まで。

  以前に、秦建日子が「タクラマカン」を上演し、師匠のつかこうへい氏がわさわざ見に来てくださった「小劇場」で、今日の、原知佐子さんらの芝居はあった。ジェシカ・タウンゼントの戯曲『エンジェル&セイント』で、登場人物は四人。知佐子演じる老母と、演出も兼ねた中村まり子演じる四十六歳になるミスの娘と、その娘を墓地で犯す男と、娘の告白を聴く神父と。モチーフも分かりよく、まずまずよく書けている「退屈な純文学」、そういう芝居であった。四人とも、巧みに演じて、それぞれベテランの域にある。俳優としての表現力にさほどの文句はなかった、が。便器とバスタブをそのまま据え付けた舞台装置は融通が利かず、「物そのもの」の視覚がとかく邪魔になった。一時間四十五分の十場面ほどが、どうソツなく連続しても、舞台の温度は冷え冷えといつまでも盛り上がらない。希望というものを殺された状況から舞台が動き始め、それからの漸くの脱出も、生き生きとした希望に繋がると思えない一時的な安息休息にしかなるまい、と、そう悲観的に思わせるような舞台の進行だった。オールドミスを美女にかえ、エロチックに刺激的な舞台にする手も有りえたか知れない。

 それにしても、開幕していきなりオールドミスのだらけきった(疲れ切った)のが、便器にまたがり下着をおろして、リアルな音で排尿の場面から始まったりする。途中で、男が下半身をすっ裸にして女の目の前に見せつけたりする。そういう下ネタに流れなくても成り立っている脚本意図なのだが、舞台装置の生々しさと共に、その手の芝居が、かえって観劇気分を濁らせたり騒がせたりしてしまう。

 要するに微塵もカタルシスのない、何の楽しみもない、どうしようもなく袋に頭を突っ込んでしまい息苦しくて動けないような芝居であった。

 大学時代のわがマドンナであった原知佐子も、老耄して死んでゆく、老母 !! を演じて、むろん何のソツもない好演なのだが、いかんせん、魅するように萌えたち燃え上がる脚本ではないのだから、あれは、仕方がない。

 身びいきでなく、同じ此処の舞台で息子が作・演出した『タクラマカン』は、熱気と興奮と問題意識とで満員の客をしびれさせていた。「劇」とは、「はげしい」意味ではないか。今日の脚本じたいには、老人介護にアプアプさせられる世代女性の深刻な今日性がある。そして、性ないしセックス。古くさい主題では全くないのだ、が、なぜにあのように退屈に沈み込む芝居に成り終わるのか。主演・演出の中村まり子は力のある人に思われただけに、じかに聞いてみたいほどだ。

 

* 妻はまたも少しギックリ腰気味であり、すぐ吉祥寺に戻ってタクシーで家まで。芝居を見る前に劇場の近くの「橙橙」という和食の店で、自家製の酒をコップでもらい、「うな玉丼」を喰ったのがうまかった、それが下北沢迄行っての収穫であった。

 

* 簡単な夕食の後は、ひたすらに仕事。十二時半になる、まだやれるけれど、ま、休もうか。

 2001 10・27 11

 

 

* 俳優座劇場稽古場公演で、亡くなった秋元松代さんの「日々の敵」を観てきた。これは、今年一のみものであったかも知れない、児玉泰次と中寛三の兄弟役噛み合わせが絶妙で、弟中の妻役、昔には東山千栄子の演じた役を岩瀬晃が軽々と演じ、巧みなトライアングルを成していた。その三角の土台の上で、劇の中核になる、児玉の娘役、かつてレイプされ、裁判には勝ったものの徹底したダメージをうけている森尾舞と、この親友を、意図して仲間の不良を唆しレイプの被害へ追い込んでいたさとうさゆりとが、久しぶりの再会場面でがっぷり組み合い対決し、「劇」的に舞台が進行する。十一人の登場人物がすべて有機的に組み合い、活躍し、隙間なくはげしく変動してゆく流れに無理がなく、起伏と緩急とさまざまな衝突があり、上演時間の二時間五分が、ものの燃えて爆けたように熱かった。面白かった。演劇というのはこうでなくちゃと大満足した。

 このところ、俳優座の「坊ちゃん」昴の「嘆きの天使」原知佐子らの「エンジェル &セイント」と、三本続けざまに体温の低い生煮えの芝居を観てきた不満が、一気にふっとぶ嬉しさ。一つには、稽古場という空間の凝縮度もあるにせよ、やはり、いいものはよくて、至らぬものはつまらないという、正直な結果がよく出たと言うよりない。

 じつにじつに不愉快な話で不快な連中なのだが、そんなことで演劇の面白さが殺されるわけではない。厭な芝居という意味では極めつけ不愉快な、レイプとそのあとあとの不快な成行話なのに、舞台に観入っていて、気分うれしく、えも言われない魅力に酔っているというのは、これはもう舞台が、純に演劇として熟していたという以外のなにものでもない。太陽族時代の良家のチンピラどもが起こす性風俗の悲話を描きながら、問題を、人間性の根にまで、生活の根にまで掘り下げ問い直している秋元戯曲の、みごとな勝算であり結果であった。出掛けて行ってよかった。最良の招待席が用意されていて、見やすく、妻も出来映えを大いに喜んでいた。

 

* 大江戸線で六本木に行き、帰りは日比谷線で有楽町帝劇モールへ迂回し、また「きく川」で鰻。「菊正宗」の燗がよろしく、鰻も鰻だが、酒も酒であった。気も晴れ晴れした。芹澤さんの「死者との対話」の話などをした。開店のまだ五時前に店に飛び込んだのでゆっくり静かな店内だった。足下の有楽町線で一眠りしながら保谷についてまだ五時台、「ペルト」でモカを飲んでから、ゆるゆる家まで歩いた。黒いマゴがさっと玄関へ迎えに出てきた。

 2001 10・30 11

 

 

* 午後、六本木俳優座の稽古場公演永井愛作「僕の東京日記」を観に行った。満員、しかも老人が多かったのは、劇団後援会の鑑賞日であったかららしい。一番観やすい招待席が用意されていて恐縮した。めったに見ない舞台装置で、ふつうの正面舞台下手から鉤の手に客席の左へグーンと延びた、ちょうど「L」字を向こうむきに逆さまにしたような大舞台で、1970年代はじめの安下宿という造り。1970年というと、わたしが受賞して作家生活に入った翌年であり、まだ会社勤めをしていた。安保闘争や破防法闘争の話題が出ているのだから、舞台の上をはげしく右往左往する若者や学生達は、ちょうどわたしや観客の大勢と同世代ということになる。それだから妻は遠慮したが、わたしは観に行った。どんなことをやるのだろう、と。

 楽しみはしたが、芝居そのものは平板な、求心力を持たない普通の「スケッチ」で、とびかう「闘争的な」セリフの数々も、ただ何となく懐かしやかな古物か骨董品のようであった。突き刺さる棘が抜けるか摩滅していた。だから、気軽に笑うこともできた。笑っていていい話ではない現実が、この2001年にも現に渦巻いていて、1970年の頃の惑い多きエネルギーをすらいかに今喪失しきっているかの実証を、客席の笑いが逆に「演じ」ていたようなものだ。

 舞台は求心力をもたぬゆえに訴求力も何ももてなかった。懐古的な微温の雰囲気を与えて、懐かしのメロディを聴く按配に、老人達が照れくさげに笑って、何かをめいめいに思い出していたのである。だがそれで目的を遂げるという芝居の意図ではあるまい。では、何が意図なのか、そこが出ていない、表現できない、即ちそれが「平板」とわたしの云う意味なのである。

 久しぶりに  たつの演技を観た。達者であった。片山万由美の母親役がいつもより若づくりなのも珍しく、そして美苗にも久しぶりに舞台で出逢った。劇団員はその三人で、他は総員準劇団員と研究生で、初舞台も多いようだった。演技をとやこう言うほどのものではなく、人物の出し入れに工夫があって、飽かせたり間が抜けたりしなかったのが演出安井武の手柄であったろう。それより何より、開幕から暗転を繋いでゆく音楽の選曲がじつによかった。とくに開幕前の「残したものは」「他には何も残さなかった」の歌声のしみじみと切なく美しいのには惹きつけられた。あの功徳で、舞台が生きて観ていられた。 

2001 11・21 11

 

 

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