* 「茶杓」の研究と蒐集。自削でも有名であった亡くなられた西山松之助先生から、「今年竹」と銘を添えて戴いていた止節の清楚な一杓を、西山先生茶杓を 語られた論著一冊を添えて、多年「湖の本」の読者でもありお茶の先生をされているらしき山田宗由さんに送付謹呈した。遠慮無く受け取って愛用して下るよう に。
2019 2/23
* 吉田宗由様 2019年2月22日(金) 13:03 hatak
ご存知かどうか分かりませんが
西山松之助さんという、 まことに勝れた有名な近世学の学者がおられました。この方はまた「茶杓の研究」でも知られた方でした。
その西山先生からわたしが頂いた、御自削の佳い茶杓を、あなたへ差し上げます。
西山先生の茶杓にかかわる御著書一冊を添えまして、いま、家内が郵送の用意をしています。週明けにも間違いなくお送りしますので、ご遠慮無く もらって下さい。
「筒」があるといいのですが、西山先生の自筆で、「今年竹(ことしだけ)」という「銘」の包み紙がついていますのを 大事にご保存ください。
「留め節」という特殊な一杓ですが、すがたの佳い、先生自信作と思います。御一緒に西山先生と同様にえらい先生と新春の「鼎談」をしたこともあり、ご生前からずいぶん若い私を引き立てて戴きました。勝れた「家元」論などある方です。
私の手もとで死蔵してはあまりに惜しく、 お茶人のあなたに謹呈します。何の遠慮もなく受け取って下さい うまく活かしてご愛用ください。返礼などは、全く全くご無用ですよ。
お元気で。 体調を損じたままですので お茶をいただきに上がれないのが残念。 秦 恒平 宗遠
☆ 嬉しいメッセージをありがとうございます。
パソコンを今使えないので返事遅くなりました。
広島に来ていまして スマホで拝見しました。
立派な方の作品をいただいていいのでしょうか? 私からしますと秦先生から頂くことも光栄です。楽しみにしています。
3月には浦和に帰ります。
お体も大変な中ですのにお心遣い本当に恐縮でございます。
嬉しいご縁をいただいて これからの茶道の励みにして参ります。
お茶会を持たせていただく時は 勉強をして楽しませていただきます。
お体をお大事になさってくださいませ。
奥様もありがとうございます。 木鶏庵 吉田宗由
2019 2/24 207
☆ 田舎から
浦和に帰りますと 先生から頂きました茶杓が届いていました。
留め節のお茶杓でしたので 唐物のお稽古に 早速使わせていただきました。
お使いになる前に 先生からのメールをご覧いただいたので (お稽古の=)皆様驚かれて 感謝してお使いになられたと思います。
磨き込まれたお茶杓 拝見しても素晴らしいですね。
お包みにも みなさまと感激しました。
大事に使わせていただきます。 ありがとうございました。
落ち着かなくて ご挨拶遅くなり失礼いたしました。
先生も奥様もお身体を大切に お元気でいらしてください。 木鶏庵 吉田宗由
* 茶杓博士で削者でもあられた西山松之助先生にいただいた留節茶杓「銘・今年竹(ことしだけ)」が、無事おさまるところへ蔵まった。茶道具は秘蔵すべきもの でない、愛用され生かされた方がいい。お弟子を持たれた方にと思案していた。筒もつくって上げればもっとよかったろうが、その楽しみは木鶏庵さんに委ねよ う。
2019 3/4 208
☆ ごぶさた致しております。
過日は、またまた貴重な限定本 ありがとうございました。
ちょうど 例のアベ蒲鉾の「春の想い」の季節となりましたので、御本への御礼がわりにお送り申し上げました。
この冬は仙台も暖冬で雪もほとんどなく、櫻の開花も間近なようです。
秦様 も 奥様共々おすこやかにお過し下さい。
先ずは御礼まで。 遠藤恵子 前・米沢短大学長 東北学院大名誉教授 医学書院同僚
* 美しい御馳走が増えた。 建日子がこの世に生まれ出る直前まで、医学書院社宅でこの遠藤さんともう一人に 茶の湯の手前の手引きをしていたのだった。
2019 3/9 208
* 埼玉の茶人吉田宗由さん、抹茶の新茶三缶に添えて新しい茶筅と和三盆を送って下さる。有り難し。
2019 4/19 209
* 人に贈るのに、自分の気に入ってないモノを選ぶなどは、心ない限り。気に入り愛を覚えてきたものをこそ贈る。わたしはそうしてきた。もっとも、わたしが愛していたといって、贈ったさきの人にも愛されるか喜ばれるかは別問題で、そこが微妙に難しいドラマが生じ、思わずアタマを掻いたことも何度もある。
鑑賞する品と 愛用する品との違いもある。茶人として愛用してきたからといって、贈った先も茶人とは限らないが、幸いに、茶湯の用を離れても各種茶道具には、平生の鑑賞や愛玩に堪えて美しいものが少なくない。
2019 5/3 210
* さがしていた文庫本の『創世記』がみつかり巻頭の「創造記」を読み、深く頷けた。神の創造があったと頷くと言うより、世界を創造するなら「や はり」こうだナとおもしろく納得した。納得できるこの私の資質が、あの壮麗なミルトンの叙事詩『失樂園』の「詩」や、法蔵菩薩の世自在王佛への帰依と誓い などに納得し魅されるのだなと思う。
しばらく『創世記』を読み続けたい。
どうも『論語』は性に合わない、私はもともと老子、荘子に惹かれながら大人になった。茶名「宗遠」の「遠」一字も『老子』にもらっている。
佛教の経典では、やはり『般若心経』徹底の「空」に惹かれる。浄土三部経に親しむのも『般若心経』を胸の奥に抱いてのうえで「南無阿弥陀仏」へ素直に身が寄せられる。バグワン・シュリ・ラジニーシのおかげでもある。
2020 4/17 221
* 終日、一字の誤植もゆるされない参考原本の校正に、草臥れた。ふい、ふいと寝入りそうになる。コロナ禍にはわるく馴れ抜けてはならないし。幸いに私の 仕事は、なにより気に入っている「読み・書き・創作」で飽きることは無いが、もとでは、視力と体力。疲れきっては危ない。なんだか、あっというまに大型連 休も、カレンダーによるともう明日一日。やはり仕掛け仕事の尻を追うということになります。なかなか無心につとめるというのも難しいが。
* 無心といえば思い出す。
京都の私の高校にはもと「美術コース」もあって生徒達は異色を放っていた、そんな彼らのための木造校舎の二階に、廣い畳敷きの作法室とならんで「茶室と 水屋」が作り付けられていて、そこを、わたくしは二、三年生時代わがもののように用い、校長に申し出て新設した「茶道部」員たちに点前作法の指導をしつづ けた。
茶室は「雲岫席(うんしゅうせき)」と名付けられていた、哲学者久松真一先生の銘名で、「雲岫」二字の佳い額を鴨居に掲げていた。
「雲岫」とは、陶淵明の詩句「雲無心にして岫(くき=山穴)を出で、鳥飛ぶに倦んで還るを知る」を汲んでおり、ともに「無心の境」を意味していると。私はこの茶室が好きで、授業を抜けだしては「雲岫席」にひとり時に寝そべり勝手な本を読んだり、炭火もなしに水屋のガスで湯を沸かし独り茶を点てていたりした。無心を気取っていたのではないが、雲になりたかった。
2020 5/5 222
☆ 御体調如何ですか
一つ教へて戴きたいことがあり メールしました
我々は若い時から茶の湯の事は 「茶道(さどう)」と教へられ また呼んできましたが 今テレビではみな「ちゃどう」と呼んでゐます これは元から茶の世界では さう呼んできたのでせうか それとも最近何か変へるべき理由が生じたのでせうか 御教示下さいますか 英生
* ちゃどう さどう のこと
およそ承知しておりますが、念のために 明日 少しくモノも見直してお返事させて下さい。
咄嗟の思いでは いずれかといえば、 「ちゃだう」は根の生えた もの謂い であったと思われます、「さだう」に先行していたと思います。ただし「茶の道」といった意味の立つまえに、「ちゃだうばうづ 茶道坊主」のよ うに茶にかかわって奉仕の態のものたち 芝居の河内山宗俊めく「茶坊主」たちへ呼びようが定まり広まるにつけ、別に 「茶道 さだう」と 畏まる希望や必 然も 意識的な「茶人」や「流儀」の内から芽生えたと。利休は、信長や秀吉の「おちゃだう」であったと思われます。
今日では、たんに 茶道が「さどう」と訓めない人がふえ、「ちゃどう」と文字のままに茶の道を謂うが分かりよくなっているかもしれません。
叔母の稽古場でも 社中は 「ちゃどう」のほうが「さどう」よりわかりいいと笑う大人がおり、むしろただ「おちゃ」「おちゃのお稽古」などと謂ってました。学校では「さどう部」でも、女の子の部員中には、「お茶部」などとも謂うていたようでした。
家元筋では「さどう茶道」にこだわってましょうが、流儀によっては、根の遠い古い「おちゃだう」へ意識と身構えを戻しているとも思わ想われます、ただし「ちゃだうばうづ」などとは思いますまい。
私は 概して 「さどう」「ちゃどう」でなく、いつも 「茶の湯」と、 または「茶の道」とも謂いも思いもしていました。
* 昨夜、メールでお尋ねがあった。咄嗟当座の思いだけお答えしておいた。書庫で関連の本や文献を確かめてみるが、おおかた大差ないように思っています、今は。
* 英様 「茶ちゃ」と「茶さ」と
概して 前便を 訂正したり認知したりの必要もないほど 茶 道史 での 「ちゃ」と「さ」は 親密かつ大概に密着していて、 漢音の「茶 サ」に拠るとも 慣用音の「茶 ちゃ」に拠るとも 互いに論難の的ともな く、禅の榮西が伝えた「喫茶養生記」も、通常慣用の「きっさ」と読んで咎められることもありません。
「ちゃ」「さ」の孰れを読むか昨今の流派流儀の自己主張もみえ、私の習ってきた裏千家の監修している『原色茶道大辞典』は便利な良い本ですが、「ちゃどう」「さどう」の歴史的混雑を認めて、「どっちでも」の融通をはっきり是認しています。
畏まって「さどう」、実感に馴染んで「ちゃどう」と受け取っても大過なく、それほど「茶の湯の歴史」が永く、長く係わってきた人もいろいろ、ということでしょう。
私は、昨夜も申しましたように 「茶(ちゃ)の湯」「茶(ちゃ)の道」で、著書を成しております。
ま、こんなところで ご容赦下さい。 宗遠 秦 恒平
☆ 「茶ちゃ」と「茶さ」と.
精細にお教へ下さいまして有難うございます さういへば私も小さい時から お茶を習ふとか お茶の先生とか聞いたりしてゐました 「ちや」といはうと 「さ」といはうと いづれでも好きにせよ といふことですね その時と場合によつて また気分によつて使ひたいと思ひます 多謝多謝 英生
2020 10/31 227
☆ 前略ごめん下さい
先日は御本が届きました。いつも何かと気に留めて頂き有難うございます。
私もやっと七十六才、姉龍子は八十才で、ますます母ミツ子はんに似てきました。弟正治郎は七十三才で 皆それなりに元気にしております。
本日は少し荒れていますが無(舞)楽装束の断片を送りました。江戸初期のものです。
どこかにでもぶら提げて下さればうれしいです。
コロナ禍の折 お体に気をつけられまして おきばり下さいます様に……
十一月二日 凱 京・縄手 珍裂「今昔」西村主人
* これは、もう 嬉しい…。
私の「京都」といえば いまも現在感覚と馴染みとで生きてあるほぼ唯一の懐かしいつき合いは戸の「今昔」西村家しかない。母親の「ミツ子はん」をはじめ として一家とも、叔母秦宗陽の茶の湯の社中 秦玉月の生け花の社中、龍ちゃんは、かけがいもなく愛していた私には一の妹弟子であった。稽古場に通って来始 めたのは、まだ同志社女子中時代であったか。お父さんともお母さんとも同じ小学校区内で十分に親しかった。そして凱(ときお)ちゃんは、いまもなお「湖の本」の久しい購読者でいてくれる。頂戴した裂も美しく素晴らしい珍品の額装だが、この一家との思い出は何にも優る懐かしいものなので。とても嬉しい。
2020 11/4 228
☆ 物、本末有り。事、終始有り。先後するところを知れば則ち道に近し。 『大學』
* ゾッ…とする「道」の遠さよ。
わたしは、高卒の年に裏千家の茶名を、望んで「遠」字で受けた、「宗遠」と。「研究者」という誘惑は明瞭に拒んでいた、いつか「小説家」にと。どの一校 も「受験」せず大学へは「無試験推薦」で同志社に入り、四年の間「京都」を遊び尽くし、推薦された大学院も一年で東京へ遁走。そして十年、受賞して小説家になった。 わたくしの拙いままの『大學』だった。わたくしの「道」は、まだ遠い。
* 八時半まわって。 目が見えない。ブルーライトのせいか。床わきのライトは昔のまま電球を使っていて、この二階のと比べると、顕著に本の字が読みやすくなる。視力は在るのかも。
2021 1/17 230
* 終夜、尿意と便意とになやまされ、床を立つこと四度。便座の傍へ、もちこんで備前焼の勉強をしている。茶の湯を叔母の稽古場で習いかけた少学校頃から、一井戸、二楽はもとよりとして、三の唐津にならび備前焼に心惹かれていた。
あれは、医学書員での岡山大へ出張の折りか、それとも出雲への旅の往きか帰りか乗り換え「駅売り場」ではじめて備前の堅い徳利を買った。のちに人から火襷きの大きな徳利と盃とを貰って、人にあげた。また備前の佳い花器や碗を戴いたこともあり、叔母のもちものにも佳い茶器が三、四も在って、やはり焼き物としては楽とともに一等備前に馴染んでいるのかも。友にの縁は永久荼毘のから戸朝
唐津となるとちょっと地理的に遠いが、幸い九州中の焼き物を探訪して本にする平凡社企画で編集の出田興生さんと二人旅の折り、繪唐津の可憐な壺なりの花生けなど買って帰った。あの旅では、「おんた」でも薩摩でも、諸方の窯で、大皿や酒器や、日用陶器など佳い買い物がたくさん楽しめた。本は沢山は売れないが、体と筆とは猛烈なほどに売れて稼いでいた。
2022 2/7
○ パソコンのメール 受信できるのかな と思いつつ✉をしました。
コロナ騒ぎで、ほぼ自宅周り(花小金井)を彷徨くこの頃です
ほんまに 東京に住んでいるのかいな 、なんて …
マア コロナ騒ぎが落ち着いたらと 楽しみにしています。 御元気で… 千
* 中学での同窓、一年下。小学校はちがったが、高校も同じ。
私たちと同じほど東京郊外で暮らして若い家族に囲まれた「おばあちゃん」をしている、らしい。中学では、ソフトボールのスラッガーだったが、花のような美少女だった。高校では、わたしから茶の湯を習っていた。
* わたしは、京も祇園町のまぢかで育ち、祇園町のまんなかの中学生で「先生」無用の茶道部を立ち上げて作法を指導し、高校は泉涌寺の下、東福寺の上の日吉ヶ丘に在り、学校にあった「雲岫」と名付けられた佳い茶室に「根」を生やし、茶道部員に茶の作法を熱心に教えていた。
秦の叔母は生涯、裏千家の茶道(宗陽)、御幸遠州流生け花(玉月)の師匠だった。私は小学校五年三学期からこの叔母に茶の湯をならい、高校を出る出ない内に茶名「宗遠」を受けて、のちのち上京就職結婚まで、叔母の代稽古もつとめ続けた。つまりわたくしはまさしく「女文化」に育っていた。親しい男友達は、指折り数えて大学までにせいぜい十人か。友達とは言わない叔母の社中も含め、わたしが教え、また互いに親しんだ女性、女友達は、今日までに優に百人どころでないだろう。
「女文化」という言葉を発明しながら、京や日本の歴史や自然や慣行をゆるゆると身に帯びてきたのは、必然の、ま、運命の賜物のようなものだった、「好色」「女好き」というのとは、まるで違う。それが、私の「生活」なのであった。
秦の父は,素人ながら京観世の能舞台で地謡にも出る人であったし、日頃、謡曲の美しさ面白さを家の内ででも当たり前に「聴かせ」てくれていた。
祖父鶴吉は、一介市民「お餅屋」さんの家としては、異数に多彩な、老荘韓非子・史記列伝等々の漢籍や「唐詩選」ほか大小の漢詩集、大事典辞書や、また『源氏物語湖月抄』や真淵講の『古今和歌集』『神皇正統記』また『通俗日本外史』『成島柳北全集』『歌舞伎概説』等々の書物を、幼い私の目にも手にも自由気ままに遺していってくれた。
言うては悪いが実父母と生活していても、とてもこんな恵まれた素養教養の環境はあり得なかったろう、じつに秦家へ「もらひ子」された幸福の多大なことに、心の底から驚きそして感謝するのである。
その意味では、私は、作家秦建日子や娘の押村朝日子に、何ほどのかかる教養・素養を環境として与えてやれたかと、忸怩とする。もっとも、当人に「気」が無ければどんなものも宝の持ち腐れなのは謂うまでもない。宝は、だが、その気で求めれば広い世間の実は至る所に在る。しかし、それもまた、ウクライナのようなひどい目に遭ってはお話にならぬ、とすれば、今我が国の「為すべき備え」は 知れてあろうに。
2022 4/2
○ 湖の本ありがとうございました。丁度その頃「秘色」を再読し始めた時でした。そしてその頃TVで太宰治の娘さんが出て居て話をしてゐました。何か御縁があるのですね。何か手紙の話もして居て川端康成の事など話をしてゐました。そしてTVで「corekiyoTo」番組で京都の庭の話もあり 美しい苔寺の庭を写してゐました。こんな風にこちらに居てもTVのおかげで美しいものをよく見られ そんなときは胸がドキドキする位いです。
桜の咲く頃京都を歩いてみたいと思ってプランをたてたのですが、お友達がコロナの事があるからまだ無理だと言われて中止しました。京都の河原町通り四条通りを歩きたくて夢にも見ますよ。何もかもがコロナをつけて来てちょっと不便です。
でも私の生活は割と楽しい毎日なんですよ。
今矢張りお茶の稽古は中止ですが その時の生徒さんが家にお手伝いに来て呉れてゐます。とてもよく気の付く人で助かってゐます。この人も京都生まれの韓国人「朴さん」と言ひます。うちでお茶のおけい古に来てゐた人でその上美人です。もう一人来て下さってゐます。週に一回づつです。͡此の人は、埼玉県の人で話好きで明るい人です。二人とも60歳台です。こうして私は一人暮らしですが毎日を退屈しないで楽しく暮らしてゐます。
梅雨のジメジメがあまり好きでないので、こちらは年中暑からず寒からずのよい天気なので気に入ってます。家もベッドルームが四つあったのですが二つをお茶室八畳に、そして水屋もあります。時々小人数でお茶を楽しんでゐます。
そうそう野球の「大谷君」も近くに住んでゐるらしく、一回マーケットで見かけましたが、かわいい人ですね。近くの日本のレストランにも来たらしく写真が一杯かざってあります。此の頃はおいしいおすし屋さんも出来たし 私は此方の気候が気に入ってます。
便箋が足りなくなりました。これみんな日本京都で買って来たものです。
今家の中の整理をしてゐます。よくまあこんなに物を買ったものだとアキレてゐます。友達が「これみんなお金よ」と言って二人で大笑いしました。そりゃ本当ですね。お蔭様で今もなを何とか生活してますので エデイにカンシャカンシャです。
ほんと お伊勢さんへ行きましたね。あの人は車の運転が好きだったのですが、こちらでもニューヨークやらずっと廻りました。アメリカ横断も二回しました。インデアナに居た頃です。
インデアナ500も見て来ましたよ。事故があって車が火を吹いて飛び上がるのですよ。モノスゴカッタです。次の年も行ったのですが無事故だったので皆今年はツマラナカッタと言ってました。びっくりしました、人間ってね、、、、
ま、こんな風の毎日です。体が丈夫なのかあまりお医者さんのお世話にもならず、お友達が皆アキレてゐます。
まあ多分秋頃にはお会い出来る事と思ってゐます。
どうぞよろしく
コーヘイちゃん
みち子さんへ
6月13日 ハッピーバースデーです。 チョコちゃんより
91歳の池宮千代子さん。河原町三条、朝日會舘脇 高瀬川沿いに住まいがあり、私がまだ大学生の頃、同居していたお姉さんの大谷良子さんが叔母のもとへお茶、お花を習いに通っていて、私と仲良しだった。それで池宮さん夫妻とも親しみ、池宮氏の運転で、私も誘われ四人で、伊勢志摩までもドライヴの旅をしたこともあった。自動車などまったく縁の無い私の日常だったので、まして仲良くドライブなど、とても珍しく、愉しかった。年齢で言えば私は、ま、半世代若い弟分、一方ではすでに宗遠と裏千家での茶名ももった厳格な茶の湯の師範でもあった。妻との出逢いや、上京就職して結婚というきもちなども早くこの姉妹には告げていた。
2022 6/24
* すこしは食も増えたか体重が戻って、にわかに58kg台にもと思っていたが、昨日、つくづく両脚の「浮腫んで太い」のに不審し、妻が投薬されているという薬を気休めほどの気で一錠貰って服した。とにかくもこのところ尿意しきりで感覚が短すぎると閉口してもいた。
で、一時間も経ったか、ふと観ると両脚がしゃきっと堅く細くなっているのに驚いた。浮腫んでいたのだ。「このところ以前」の、しかと細い脚に変わっていた、有難し。
今朝の体重は、56.3kg ほぼ2kも減っていた。腕も、手指も、自分で云うのも変だがほっそりと気もがいい。想い出すが、就職した年か翌年か、会社をあげて熱海か伊豆かへ一泊しに行った晩、どうも宴会が苦手で、独り抜け出して近くの飲み屋の暖簾を潜った。小さな例の L字を囲んだ止まり木に三人も客がいたか。わたし極韓ソに普通の酒・肴を頼み、黙然と独りで飲み食いしている内、急に女将がこえを掛けてきた、「きれいな手をしてるわねえ」と。赤面モノの世辞だが意表に出てわたしは、思わず日本の手指や袖を抜けた腕を見た。間違いない自身のソレであった。そだけのことだか、忘れない。女将の世辞をかすかにも受け容れている意識があった、理由もあった。
私は、敗戦からまぢかな小学校五年生正月ころ、同居していた秦の叔母、宗陽社中の初釜に加わって以來、猛烈に熱を入れ日々に稽古し、勉強してモノもたくさん覚え、いつしかに土曜の稽古日に通ってくる自分よりも年嵩なひとや小母さんたちに叔母の代稽古を勤めて、叔母ならただ点前作法の手順をおしえているのに、少年の私は茶道具の手での持ち扱い、運び・歩き、その姿勢を、見られて美しく、自身はごく自然に作法出来るようにと、ウソ゛なく、思いを籠めた。むろん社中におしえただけでなく自身も好き好んで機会ごとに稽古した。腕と指と、それは、重くはない華奢な茶道具を持ち扱って遣う絶対のまさに「手段」、それを繊麗に磨いて身につける、それが茶の作法を稽古する大なる意味となる。
新制中学でも、高校へ進んでも、佳い茶室の在ったのをさいわい、すぐ、率先茶道部をつくり、指導できそうな部長先生よりも生徒の私に任せた方が早いとみられて、稽古の指導は一切私が差配して過ごしたのだった。
「きれいな手…指」と熱海の飲み屋の女将が世辞とも本音ともつかぬ声を掛けてくれたとき、のちのち思えばあの女将からなにか免許を授かったように思い出せて、他他田大事に忘れなかったのである。
いま、機械のキイを終え蘭で押している私の手・指は、いわゆる熟練の「機械上手」のあの手早さとはまるで違う。私は文章を「速く」打ち出す必要を持たない。思案しながら作文して行く。細い、比較的長めな十本の細い指は 左右 相い逢い相い別れるようにキイを求めて黒い鍵盤上をむしろ躊躇いがちに静かに舞う。茶杓や棗や袱紗を扱うほどの気でわたしたしかに自分の手・腕・指をだいじに感じている、いまも。浮腫んではいけない。
2022 7/5
○ 今日、湖の本 (158)受け取りました、有り難う、御座いました、ご無沙汰して居ります、長い間、機械を使わずに居りましたので、使い方を忘れてました。やっとです。時候柄、お大事に! 渋谷 華
○ メール有り難う、御座いました。変わらずお忙しそうで!
私は体力減退で ふらっとしてます。
湖の本、有り難う、御座いました。楽しんで読ませて頂いてます。
そろそろお祭り(=祇園会)で賑います。
私は一向に体力減退です。 渋谷 華
* 夫君を喪い寂しいですと嘆いてきていた。「やっとです」に泪が滲んで見える。同じ嘆きを何人に聞いてきたか。
この「華」は、高校生の顔しか 想い浮かばない。茶を点てて、柄杓の構えや扱いのきれいな一年生だった。わたしは三年生。茶道部を指揮して点前作法も諸道具のこともみな教えていた。校舎の一画に「雲岫」と呼ばれた佳い茶席を、校長室から「鍵」も預かって、気ままに、いつも、授業をサボってでも遣っていた。部員は増え、私の青春に男子の影はほとんど無かった。「女文化」ととなえ「身内」と説く「もらひ子」の心根は、京都東山に育って、遙かに遙かに、深い。国民学校で『百人一首』に親しんで短歌を創りはじめ、敗戦後に秦の祖父が旧蔵の小型な『選註 白楽天詩集 全』から七言古詩「新豊折臂翁」を識って愛読し、新制中学一年で与謝野晶子に教わって『源氏物語』を識りはじめ、三年生で、始めてお年玉で岩波文庫の先ず『徒然草』を、すぐ次いで『平家物語』を手に入れ、耽読した。『祇園の子』が短編の処女作となり、白楽天からは妻の励ましで『或る折臂翁』が、徒然草からは「菅原万佐」の名で長編『慈子 (齋王譜)』が、平家物語からは本名で受賞作『清経入水』が成った。ためらいの無い「一本道」だった、どの蔭にも「女子」の影が添っていた。男の影は、祖父(の蔵書)独り。メールを呉れた華さんも懐かしい「影」の一つ、云うまでない。
2022 7/6
* 赤飯と、近藤聰さんに戴いた「杉並木」という大吟醸純米酒を、妻は朱盃で、私は井口哲郎さんに戴いて好きな、干支のイノシシを綺麗に描いた加賀の名盃で、一献ずつ祝い合う。
六十五年前、夕ちかく、真如洞の宏大な山坂墓地を一緒あちこちしていて、付けた見事な黄葉のまだ生き生き美しい一枝を戴いて新門前の家に帰り、裏の茶室に湯を立て、大きな水盤に清水を張り、持ち帰った冴え冴えと黄葉みごとな一枝を横たえた。炉端に盤を置いて、わたしが茶を点て、妻は一亭一客の席にいた。
茶のあと、求婚し、即、容れられた。美味い茶、佳い釜の鳴りであった。半間の床には十四世裏千家家元揮毫の軸『語是心苗』四文字が架けてあった。
2022 12/10
〇 感謝 只今 湖の本、届きました、変わらず長い間続いていますね、楽しんで読ませ頂きます、近日は頭の方がふらついて一寸おかしくなったのかと? と思ったりしています。
21日土曜日には日吉ヶ丘(高校)へ、久し振り、雲岫会の初釜に行って来ました、懐かしい限りです、良い思い出です。花びら餅もおいしかったですよ。
まだしばらくは寒い日が続きます。お体を大切にお過ごし下さいませ。 華
* 「雲岫會」とは、私が日吉ヶ丘高校生だった二年生の昔、学校へ申し入れて創設し、一切の稽古も指導していた「茶道部」の名で、茶室に「雲岫」席と命名されていた。佳い茶室だった。「華」は、私の三年生時に一年生で入部、作法最初の割り稽古から点前左方その他私の師導を受けて、なかなか美しい行儀作法の部員だった。久しくも久しい今もお茶人。懐かしい。七十年の餘もむかしに出会い、卒業後も大人になっても、途絶えなく続いた親愛の後輩。私の通った京都幼稚園のごく近所住まいだった。茶名は、宗華。私は、宗遠。懐かしい。近年に夫君を亡くされ寂しい日々と。お元気で、達者に、どうか。
花びら餅は、我が家での叔母宗陽の絵画お正月初發釜にはきっと用いた佳い凶和菓子なのである、日吉ヶ丘茶道部の初釜も同じ老舗の花びら餅で祝っていた。
2023 1/23
* 先日『慈子』を所望され贈った京都の直木和子さん、高校の縁だろうとは想ったが記憶に無かった。今朝、礼状が届いて、懐かしく納得した。叔母の秦宗陽が、裏千家業躰金澤家での茶の湯稽古同輩だった東福寺内大機院主、わたしもよく識っていた直木宗幾さんの、二女と。あるいはフィクションながら『慈子』冒頭の大臺機院茶席や座敷を拝借しての叔母が社中らでの初釜場面などに、大事に登場して貰ってたか知れない、間違いないと想う。それだと、十分懇意であったはず、記憶はまだよく戻らないが、東福寺内の立派な塔頭あの大機院の「直木さん」となると、秦の叔母とはごく濃やかなお仲間うち、新門前へもよく話し込みに見えていたし、なんとも懐かしい。『慈子』を新ため読まなくては。
* 「慈子」の出を読んでみた。作者にして、さほどはぶ゜ぷんまで鮮明には覚えてないものだと、自覚した。が、あきらかに大機院で初釜の茶事など書いていた。徐は手東福寺から泉涌寺来迎院へ場面点じてひろいん、父に死なれたヒロイン「慈子」を訪れている。
「美しい限りの小説を」と覚悟して書き始めた原題は『齋王譜』だった。私家版の三冊目、これが、円地文子さんから「新潮」社へ廻って、「新潮」誌との縁とはならなかったものの四冊目私家版へ弾みが付いて、その表題作『清經入水』の太宰治賞へ連絡が付いたのだった。小説『慈子』は、或いは一、二に永く愛読された私の作であったかも知れない。
2023 2/10
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『天の夕顔』 中川与一 借読か。買ったか。「妹」梶川道子と耽読
懐かしい。この作が、「恋愛小説」という意識と受容で「耽読」した最初であった、「姉さん」と慕った上級生「梶川芳江」ははや卒業後何処と知れぬ天涯に去っていて、その妹、私しより一年歳下、弥栄中学二年生の「梶川道子」を私は「妹」という意識で「戀」した。指導できる部の先生のいない、というより不必要な、弥栄中学「茶道部」を主宰しはじめた私は、校内・校庭内に備わった本格に佳い「茶室・茶庭」を{校長先生・職員室の容認放任の儘まこと気ままに使って、部員に「茶の湯初級の作法」を難なく教えていた。私は「叔母宗陽」のもとで小学五年生から茶の湯を「猛烈な勢い」で稽古し学習し「裏千家の許状」も得ていて、中学生三年にもなればもう疾うに「叔母の代稽古」もちゃんと勤めていた。
まして佳い茶室の本格に遣える弥栄中學で、三年生生徒会長として新しい「茶道部」を起こし、参加の部員に点前作法を教えるなど誰の不審も受けず、先生方もまるまる信頼して私に「部の運営・指導」を任されていた。
あの慕いに慕った「姉さん・芳江」の妹たち、二年生「梶川道子」一年生「梶川貞子」は、真っ先の「新入」茶道部員でもあったのだ、もとより二人を、古都に「梶川道子」を「妹である恋人」のように私は熱愛した、精確に「距離」も保ちつつ、私は高校生になってからも「弥栄中学茶道部」の指導に通い続けた。歌集『少年』昭和二八年私十七歳での短歌集「夕雲」二十首は顕著な記念作になり得ている。
朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人戀ひにけり
窓によればもの戀ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を点てにけり
柿の葉の秀の上にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
『天の夕顔』は、そんな二人して憧れ読み合うていたが、手と手を触れあうことも、ついに、無かった。「道っちゃん」は、いま、どこか療養施設のベッドにいて、気丈にしていると「梶川」三姉妹の弟夫人からかすかに伝わっている。
2023 8/2
* 朝八時四十五分、早起きした私か茶を湧かす。京の秦の家では当然のように夜来残りの番茶は捨てて新しく湧かしていた。当然と思い、少なくも私自身はそうしている、新しい水と新しい番茶。茶は、私惜しみなく多めに淹れ、熱湯で十二分に煮出す。ぬるい番茶は旨くない、徹底して煮出すと「番茶」が、煎茶や玉露に負けないうま味に成る。わたしは敢えて番茶を、熱滔、淹しに淹す。京都でもそこまではしなかったと想うが。
2023 9/4
◎ 『月皓く』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも動けなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうん一一と肚(はら)に響く知恩院(ちおいん)の鐘だった。暗やみに夢見るように幾つも火縄が舞っている。降る寒気をついて公園を抜けまだ東へ池を越えて、山の上の釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますか一一」
「いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。一一あの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いの一一胸の底まで響くわ」
「一一」
「宏さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。凝っとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水(きよみず)さんまで行(い)こか」
「一一」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の滝に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれい一一」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの山の端(は)がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
仁科さんは先に立つくらい元気に歩いた。
真葛ヶ原から二年坂、三年坂まで、流石にめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よく
* 叔母(秦つる 裏千家茶名 宗陽・御幸遠州流花名 玉月)の「御茶の先生」「お花の先生」歴は永く 二十代から亡くなる九十近くまで。当然に稽古場へ通ってきた社中の人数も数え切れないが、私は小学校の五年生頃から稽古場に居座って、高校生の頃には代稽古し、自身も中学・高校に茶道部を起こしててまえさほうを永く教え続けた。
当然に、叔母の稽古場へ通ってくる女性の大方は私より年長、記憶の限り私より若かったのは早く亡くなって私を泣かせた「龍ちゃん」ら数人ともいなかった、か。
* 小説 『月皓く』の、上記「仁科さん(仮名)も叔母のもとへ通っていた社中の一人、六、七歳も年長だが、懐かしい人であった、後に渡米し、結婚し、亡くなった。大晦日、元旦にかけおけら日の燃え盛る八坂神社に初詣でし、淸水寺へまで行ったのも小説のママである。
* 私の思想的基盤である日本文化論が「女文化」であるのは謂うを俟たない。私は幼来京都の「女文化」と長幼の「女友だち」とで多く培われた。「懐かしく心親しい」いのはおおかた、ソレであった。
2023 10/25
あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが記憶に新しい。
2023 11/28
○ メール頂き、有り難う御座いました。
今日は久しぶりに日吉ヶ丘(高校の茶室「雲岫」席)へ行って来ました。懐かしい限りです。
天候も良くて、美味しくお茶を頂いて来ました。少しは若返った様に思って・・? 帰ってきました。京都に居ればこそです。
いつまでもお元気で過ごされます様に! 華
* 雲岫席(京都市立日吉ヶ丘高校・母校に備わった「茶席」私が二年生で提議創部した茶道部の本拠)で 一碗の濃茶を分けて、頂ければどんなに嬉しいだろう、一気に「あの頃」へ駆け戻れそう。
日吉ヶ丘は青天だったでしょう,いつも晴々と懐かしい極みのわれらが母校。
華 元気出して しっかりと、残年余生をともども生き抜きましょう。
わたしは、よほどもう草臥れてますけれど、ガンバルよ。ガンバリや。 恒
手指痺れて、紙に字は書けない、が、メールは大丈夫。遠慮無しにいつなりと話しかけてくれると嬉しい。せいぜい返信します。 遠 (高校卒業の頃受けた,私の裏千家茶名は・宗遠)
* 高二のころ、私が学校と掛け合って創設かつ指導した「茶道部」の、「あと」を委ねた二年後輩の、華。、わたしは大学生の半ばまで日吉ヶ丘へ出向いて部の、また作法の指導をしていたが、十分信頼できる後輩鳥羽華子に茶道部「雲岫會」の一切を託して、やがて東京へ居も暮らしも移した。
いらい優に六十四年が過ぎて、いも鳥羽は茶道部と茶席との後見役をガシッと勤めてくれている。懐かしくも感謝に堪えない。元気でいて呉れるのも心強いが。ご主人を近年亡くされていて,胸痛む。
2023 12/16
* いま、「ゼッタイの贔屓」という関取がいなくて、大相撲が、やや「中・小」気味に感じられ、寂しい。
観戦に永い時間を取られるスポーツからは、つい身を引く。お相撲は,その点でケッコウ、しかも自分でも中学高校の頃、友人と、ジャレ合うように、よう組み合うていた。わたくし、けっこう強かった。短歌詠みに深入りし、茶室で茶の湯の作法を人に教えてもいたのに、個人ブレーで、運動場で走るのもジャンプも、ソフトボールを遠くへブッ飛ばすのも得手であったが、野球の「仲間入り」には気が乗らなかった。
2024 7/15
* 昭和十七年(一九四二)四月に開戦早々の京都市立「国民学校」に入学し、二十年四月四年生から当時京都府南桑田郡樫田村へ戦時疎開し、敗戦後の二十一年秋に重くも患って、もとの京都市立有済小学校五年生二学期末へ復帰し、早々、戦後を機の、初の「生徒会」「生徒大会」を提唱、立ち上げて六年生になり全校生選挙で初の「生徒会長」を勤め、翌年には戦後「六三三新制」第一回の中学へすすんで、生徒会を事実上芯で支え、三年生卒業まで「生徒会長」をつとめながら、校内に「茶道部」を起て、指導の先生が無いまま、幼来秦の叔母宗陽に習ってきたけんで部員生徒達に作法の手ほどきも指導も一人で引き受けた。
市立日吉ヶ丘高校では生徒会にはふれあわず、「雲岫」という佳い茶席のあるのを「占領」して「茶道部 雲岫會」を三年間、卒業後も暫く率い指導していた。嵯峨 嵐山 鷹峯などへ部員を連れて「野懸け」の茶も愉しんだ。教室の授業は兵器でサボっては「京都」の自然や歴史に親しみ始めた。大学出は講義を抜け出ては京都市内・郊外を「本」を読むように尋ねまわっていた。そして、妻と出会い、その学部卒を待ち、大学院を中退して「東京」へ出、本郷東大赤門前の出版社「医学書院」(金原一郎社長 長谷川泉編集長・国文学者・詩人」)に就職、小説を書き始めて第五回「太宰治文學賞」を選者満票で得、社長・編集長のアクティブな支持・支援も戴いて退社、作家・批評家として「自立」し、今日に到っている。一時期、四年間、新聞等に「名人事」と書かれ国立東京工業大学に「文學」教授として招聘され、さらに「大学院」教授として残って欲しいと望まれたが、辞退した。市販の著書は小説と批評など「百冊」に及んで、以降は私版『秦恒平・湖の本』に切り替えて「一六六巻」にまで到り、以降は、純然、私事としての「読み・書き・読書と創作」へ落ち着くこととした。
以上、「作家 秦恒平」の、「少年以降」ほぼ「著作生涯」をのみ「略述」しておいた。ウソは書いていない。
2024 8/10
* 秦の叔母「つる・裏千家で宗陽 遠州流で玉月」が、九十過ぎまで茶の湯・生け花の先生で多勢の社中を聴いていたのが、どんなに「私の趣味」をそだてたか、謂うまでもない。この叔母は、ちいさかったわたくしに、寝物語に、日本の和歌と俳句の最初歩の手ほどきもしてくれた恩を,決して忘れない。私の「女文化」とい「日本」の認識は、この叔母の膝下でこそ掴み得た。
そうそう、秦の父 長治郎は、観世流謡曲を身につけ「京観世」の能舞台で「地謡」に遣われるような趣味人で、おかげで、謡曲の稽古本は家に悠々二百冊を超し、それが少年私の「日本古典への親炙」に道を拓いてくれたのだ。
父は、また、私に「井目四風鈴」から囲碁も手ほどきしてくれ、後には私、その父に四目置かせるほどになった。
秦の母は、趣味にあてる時間や躰の自由の効かない主婦という嫁であつたが、讀書の出来る人で、私に、漱石や藤村や潤一郎や芥川の名前を聴かせてくれた。後年、敗戦直後に、谷崎の『細雪』や与謝野晶子訳の『源氏物語』などみせると、それは喜んで読み耽り、ことに『細雪』はよくよく良かったようだ。
つまりは私、讀書好きのお蔭で、祖父にも母にも孝行できた。まちがいない「作家」へ歩んで行く最初歩であったよ。
* まだ、早朝六時四十五分。八十年もの「読む想い出」は,豊かに豊かな山のように私の胸に生きている。
2024 8/31
* 睡り浅く、夢も見ず、目覚めやすい。体調不安 頚まわり硬い。視力不安、讀書も負担。
こんな寝床では、大概、「幼来近所の遊び仲間から,学校時代の友だちを年度を追い、教室や運動場へ帰り、さらには就職して、作家と成って、と、当時当時、知友関心の名前を、なかば夢寐にさまよいながら拾って拾っている。心地、心持ちの安定に効果あり、またやの睡眠へと滑り落ちて行ける。
男女比は、女子・女性の方が圧倒的に數多いのは、育ちが京都、それも川東祇園花街に「至近」とも「その中」とも謂え、加えて、一つ家の中で茶の湯・いけ花を教えた「叔母つる(生け花・御幸遠州流・玉月)(茶の湯・裏千家・宗陽)の稽古場の華やぎからも、自然当然ではなかったか。私も新制中学三年の内に裏千家で茶名「宗遠」を許されていた。
あえて無茶ぶりで謂うなら、少年の昔むかしから段々に積み上げた感懐と理會は「男は嫌い・女ばか」と成る。この「嫌い・ばか」が占め持った「含蓄」は、ほとんど哲学を為し成しているだろうよ。記憶に在る男女友数々の苗字と名前を書き出してみるか、と、想っていたりする。自然当然に女名前が男のそれの十倍をらくに超して余るだろう。
寝そびれて、未だ真夜中四時の、色よい雑念・私語の刻、で、ござるよ。
2024 10/4