ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2004年

 

清泉泓泓  ご多祥と、世の平安を祈ります。

めをとぢてこの深きやみに沈透(しづ)くなり
ねがはざれ 我も 我の心も
今・此処をつひの栖(すみか)ぞ 松立てて 六八叟

よきひとのよき酒くれて春ながのいのち生きよと寿ぎたまふ

ふつうに一夜をすごし、ふつうに朝を迎えました。

西東京市下保谷 e-OLD 秦 恒平
2004 1・1 28

* 早々のお年賀恐縮です。 本年もよろしくお願いします。
暮のうちから気になっていたことを、この機会に書きます。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに   久保田万太郎   の読みについて。
ご説おもしろく拝見しましたが、わたくしはいままで少しちがった読みをしてきました。
竹馬で遊んだ仲間、「いろはにほへと」を学んだ手習いの仲間、これがみなばらばらになって、消息がつかめない。この句碑は今、浅草寺のとなりの浅草神社の境内にありますが、これを読んだときの思いはそんなものでした。
東京の下町の子どもは、子どものうちは貧富の差、境遇のちがいを気にせず遊ぶのですが、年をとるにつれ、上の学校へ進む子、働きに出る子と、次第に疎遠になってゆく。いまだったら行く学校の偏差値の差などというのもあるでしょうね。
東京は震災と戦災で形を変え、さらに最近ではバブル期の地上げで町の解体が進み、小学校の同級生などもうどこにもいなくなった。万太郎の句はそういう都会人の悲哀をいつも湛えています。
神田川祭の中を流れけり
のような一見華やかな句でも、そうした悲哀があって、わたくしは好きです。

* メールを有り難うございました。今年もよろしく。
万太郎句のことですが、私の本文をお読み下されば、仰っている全く同じ所を一番大切に読み取っていて、その長い前段は、其処への「入り口」であること、お分かり願えると思いますが。
十三頁の、「およそこんな読みかたで十分ではあろう、が、もう一段踏み込むなら」以下に、此の句の「奧」をみているつもりです。
「もう一段踏みこむなら、やはり「竹馬の友」に懸けての、「ちりぢりに」に、子どもの昔をひとり追憶する老いごころとでもいうところを汲みたくなる。すると「色は匂へど」という、中の句がそこはかとない人生の哀歓や無常の思いへひしと繋がれて来る。竹馬遊びに、おきゃんな少女もまじっていたかと想像するのもよい。往時ははるかに夢の如く、老境の夕茜ははや心のすみずみから蒼く色褪めはじめている。かつての友は故郷にほとんど跡を絶えて訪う由もない。想像は想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の底に立つ。」と。
たいていはそれ以前の「表」でたちどまって終わるのですが。仰る、ほぼそのママを、わたしもそもそもの初めから、読み取ろうとしてきました。玄関から座敷の奧まで、いろいろに読める句のサンプルとして挙げているつもりです。
ただ、こういうことは有ります、わたしは久保田万太郎の実像や実体験に引かれ過ぎずに、日本列島のあらゆる土地土地でも共感の可能な、(万太郎により代弁して貰っている)誰しもの思い句として読まれて佳いのだと考えています。東京の下町に限定して読む必要はなく、わがこととして、どの地方の出身者にも愛されていい句境のあるのが、此の句の、秀句名句たる所以であると。  秦 恒平
2004 1・1 28

* さ、明日からまた歯医者通いだ。堪らんなあ。疲れているのか、酒のせいか、すうっと瞼を押さてくるちから。
めをとぢてこの深きやみに沈透くなり ねがはざれ 我も 我の心も
2004 1・7 28

元旦、払暁ひとり尉殿(じようどの)神社に迪子無事を祈る。女子なら肇日子(はつひこ)と。「母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生」祝い雑煮。改めて朝日子とも参拝す。
2004 1・8 28

これやこの建日子の瞳に梅の花」
2004 1・8 28

* やはり秦テルヲのことが頭から離れず、何を観ていても読んでいてもそこへ縛られている。それでひどく疲れる。「ペン電子文藝館」の仕事がどうっと滝のように流れてきて、どんな一つも不注意に処理してしまうとあとあとへ響くのである。ほとんどかたづけたが、一つ頭が混乱して手のつかないのがある。

* まよひつつやみのひとよ(人生)をあけぐれのゆめうつつとたれにつげばや
2004 1・9 28

* しかすがにてにまくちからわきいでよまことやひとは愛しきものを   老愁
2004 12・11 28

* ハイネの詩に、シューマンが曲をつけている。「詩人の恋」48。ギーゼンのピアノでテノールのヴンダーリヒが歌っている。惜しいことにこの人は家の中で事故死したらしい。
ハイネの詩を日本に初めて紹介したのは「嶺雲揺曳」の熱血田岡嶺雲だった。わたしが、生まれて初めて翻訳ながら外国人の詩集を買ったのは、あれはアテネ文庫の「ハイネ詩集」であった、なにしろわたしでも手に出来たほど廉価本であった、アテネ文庫は。岩波よりみな厚さは薄かったけれど、いつでもいい本がやすく買えて有り難かった。そしてハイネ詩集は若い日に出逢うのに本当に懐かしい恰好のものであった。いささか、へんてこな翻訳のようにも感じながらその稚拙な韻律が可笑しくもおもしろく身につまされて愛読し、しらずしらず暗誦したのである。
この年になってハイネの詩にまた出逢って、また、こと新たしく身につまされるとは思わなかった。
2004 1・12 28

* 浮き名立ちゃそれもこまるし世間のひとに知らせないのも惜しい仲

* 三遊亭圓生が長い枕で都々逸坊扇歌のはなしをしたのが、すてきにおもしろかった。その長い枕をそのままそっくりパクったようなサイトがあって、圓生が教えてくれた都々逸の中でも耳に残っていたのを含め、沢山な都々逸が蒐集してあって、楽しんだ。ラジオ時代に寄席が入って柳家三亀松が話したりすると、なみの咄より大喜びして聴いたのだから変な少年であった。上に挙げたのは、機微をほろ苦くついているが、次のは、機微は機微でも品がない。「ほととぎすいきな声して人足とめて手を出しゃおまえは逃げるだろう」とは、すこし笑えてしまうけれども。
都々逸は、川柳よりおもしろい、かも。
2004 1・13 28

* 都々逸がおもしろくて再訪したサイトを、今少しイジッテいたら、此のサイトの本家筋の主人が、案の定圓生好きの固まりのような人らしいと分かり、敬意を表しすこし挨拶した。掲示板には咄に出て来そうなイキな江戸っ子が多くて、わたしのようなヤボはお呼びでないが、おもしろい世間があるものだなあと。都々逸やら名調子やらを読み、また圓生の噺の演目だけでもずらあっと並んでいる、それが面白い。圓生だけは百席だけでなく、よく聴いてきた。
明けの鐘 ごんと鳴るころ 三日月がたの 櫛が落ちてる四畳半
明けの鐘 ごんと鳴るころ 仲直りしたら 過ぎた時間が惜くなる
もうこんなんなっちゃったと 鬢かきあげて 忘れちゃいやです今のこと
フーン。そうなんだ。

* わたしの宗旨は、江戸の都々逸よりだいぶ溯る。
盃と 鵜の食ふ魚(いを)と 女子(をんなご)は 方(はう)なきものぞいざ二人寝ん  梁塵秘抄
身は鳴門船かや 阿波でこがるる
きづかさやよせさにしざひもお   閑吟集
よのふけのひとのことばはうつくしくふるへてゐるといふがかなしさ
2004 1・14 28

* 異様な気圧変動でここ数日天候の動揺ははげしかったが、すうっと今夜あたりから冷静にかえるらしい。今鳴いた烏のようでおかしいほどである。カンと音がしそうに夜気がこわばってきた。見えない物まで見えてくる。
冬の水一枝の影も欺かず  草田男
風をひかぬように行ってこよう。
2004 1・15 28

* 秦家に、たぶん祖父鶴吉の蔵書としてあり、むろん現在もわたしが所蔵している古典に、「湖月抄」の木活字本がある。わたしが「湖」と便宜に名乗っているのは「みごもりの湖」に拠るけれど、まだ国民学校の昔から手に取ることもあった名著、二つの帙入り八冊か十冊の源氏物語注釈の表題が、脳みそに刷り込まれていたのかも知れない。
それと並んでわたしは「春曙抄」と聞いた本の題にも、ながく見果てぬ夢を、今ももっている。佳い本が欲しいなと思っているが、手にしていない。
春は曙。日本語でこんなに美しく完結された批評を、他には知らない。「あけ・ほの」「明け・仄」という日本語自体も美しい。そしてわたしは、紫上びいきであるから当然に春派である。今は花粉に悩まされ、かつては春闘に悩まされたけれど、桜咲く春の曙は絶対のもの。
曙 あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶきひとにみごもれ 湖
そういえば与謝野晶子の歌集に「春曙抄」をよみこんだなまめいた歌があった。あれはかなり気取っていた気がするなあ。
2004 1・18 28

* 歯科医院を出ると、絵のような青空を、冬ざれた静かさで光が流れていた。歩きたいと思った。江古田駅までのバス道、歩けない遠さではない。
はじめのうち、「何が何して何とやら」と、歌舞伎セリフのいろいろを実演しながら歩いていた。「歌舞伎」に登場する、ありとあらゆる人物のセリフ廻しは、この成句一つで演じ分けられる。その道の人にそう教わっていたから、機嫌がいいと、人知れずこれを演る。弁慶でも助六でもお夏でも清十郎でも光秀でも熊谷でも清姫でも政岡でも奴さんでも腰元でも、要するに、「何が何して何とやら」を言い分けて表現できるから、面白い。そういう奇抜なことを口にして歩いていても、ほぼ誰とも出会わない静かな町なかのバス道であった。
それから次は、目に見える看板でも表札でもポスターでも新聞の見出しでも、何でもかんでも、文字と言葉ならみんな数珠繋ぎにして「謡曲」の節にして謡うのであるが、これが実に旨く行くから面白い。退屈するということがない。
このところ退屈しないために、道を歩きながら百人一首の和歌を思い出していたが、数日前は六十二三が限度であったのに、今日歯医者への往きの保谷駅まで十数分、八十五六も出て来たのは好調であった。好きな歌があるなあと、いまさらに思い当たってしんみりする。歌留多取りが旨かったとは言わないが、好きな歌ならごくの少年時代から無数にあった。恋のことは、みな、この歌留多歌で覚えたのである。
なには潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこのよをすぐしてよとや
あらざらむこのよのほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
なげけとて月やはものをおもはするかこち顔なる我がなみだかな
こんなふうに挙げていると五十も六十も書きだしてみたくなる。
2004 1・22 28

* 二時になった。少しインターネットで世界旅行してから、都々逸のサイトを拾い読みして、やすもう。
重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪   ちと理にかった句だが。

* 三時。太左衛さんの鼓が響いてきた。元気づけられて、やすもう。
2004 1・27 28

* この間からふと思い出せなくて気になっていた与謝野晶子の一首を、そうだ「ペン電子文藝館」の晶子歌集に選んであるだろうと当たってみたら、簡単に見つかった。歌集「恋ごろも」からの自選冒頭に、
春曙抄(しゆんじよせう)に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな  とある。「しゆんしよせう」と濁らずに読みたい。
2004 1・29 28

* 亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里       西行
風疾(はや)み萱野笹原さわ立てり無名の鬼の過ぎゆきにけり     斎藤 史
2004 2・8 29

* 色は匂へど散りぬるを わが世たれぞ常ならむ 有為の奥山けふ越えて 浅き夢みし酔ひもせず ん

* 弘法さんの作とは思わないが、弘法さんの「語」を今昔物語で読んでいたりすると、バックグラウンドミュージックのようにこの今様を耳の底に聴いている。
一つ、不審があり、結句の「浅き夢」は「みじ」つまり見まいという否定なのか「みし」つまり見てしまったという意味なのか。見たという完了なら「みき」だろうとも思われるが「みし」でも通じている。微妙に大事な読み別れだと思うけれど、どっちでも所詮は同じ。
2004 2・10 29

* パッと目をひらくと好きな人がいる  森中恵美子作『番傘』  ひょいと思い浮かべた佳句である。
2004 2・11 29

* チョコレートではなく、こんな贈り歌が天涯からとどいた。たわいなく可愛らしい。

あなたのゆめがたべたさに
きんのスプンをみづうみに
そっとしづめたほしあかり
わたしのゆめのはかなさよ
2004 2・12 29

* 歌人とは長年に亘って相当数の知人がいる。俳人にもいつしれず知人が増えている。しかし詩人では、井上靖、伊藤桂一、木島始、大岡信、松永伍一、岩佐なを、仁科理、山中以都子、紫圭子、中川肇、望月苑巳、村山精二氏らせいぜい十数人であった。これらの人は、云うまでもなくみな風格と実績とを持たれている。
電子文藝館を運営し始めてから、かなりの人数の詩人会員の作品を扱った。また頼まれて会員に推薦の労をとった詩人も、この二三年、少なくない。みな、いろんな「感じ」の人達で、見た目はなかなか賑わっている。なかには寡黙を看板にかけたような、取り澄ました変わった人もいる。夢見る夢子さんのように、いい年でたわいない言葉遊びの詩人もいるかと思うと、演戯でもしているのかなこの人と思うほど、くるくると立ち回り、ことことと一人言を言い続け、子供のように、はいポーズをしてみせるような女詩人もいる。どうも歌人俳人とはタチのちがうものであるなあと、面白い。
だいたい文壇人との付き合いのごく少ない、得手でもないわたしだったが、文藝館のおかげで、余儀なく実に大勢とメールをかわしたり、例会のおりに声も掛けたり掛けられたりする。妙なことになったモノだ。
どうせなら、この人は、すばらしいなあと心底感嘆する程の未知の知己と出逢いたいモノだ。
2004 2・25 29

* 春の気配を感じ始めたところに「湖の本」31が届きました。推理小説にも似た秦流古典学につい魅かれて頁をめくってしまいます。「『ちろり』管見」などの小品も楽しい。目からウロコが何枚も落ちます。「私語の刻」厳しいですね。

* 敬愛する文藝編集者からのはがきである。「『ちろり』管見」とは、下記の、こういう一文である。誰にでも批議の可能な、門外漢からの平易な異見の提出である。「竹芝寺跡不審」も、「後撰集の大輔」も、やはり一門外漢の異見提示であるが、最新の権威ある古典文学全集も、これを脚注や頭注にすでに採り入れている。

*「ちろり」管見   秦  恒平
最近、室町時代の歌謡をあつめた『閑吟集』を、市販の注釈書も坐右に、ていねいに読みかえす機会があった。『閑吟集』は、十二世紀に成った古代の『梁塵秘抄』とならぶ、中世歌謡集として群を抜いて面白いもの。成立の時期が十六世紀はじめ(一五一八年)と近いだけに、近代のセンスでよく読める歌詞がたいへん多く、大半がいわゆる小歌で、含蓄に富み、しかも親しみぶかい。短いものでは、

何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ (第五五番)
人の心は知られずや 真実 心は知られずや (第二五五番)
籠がな 籠がな 浮名漏らさぬ 籠がななう (第三一一番)

などと、十五・六世紀から二十世紀への時代差はあれ、それなりに、現代の我々が現代を生きる日々の感情なり思索なりにからめとって、そのまま読める面白さや味わいがある。
そんな中でもよく知られた小歌の一つに、こういうのが含まれている。

世間はちろりに過ぐる ちろりちろり  (第四九番)

「世間」の二字を、研究者はほほ例外なく「よのなか」と訓んでおり、これは『閑吟集』に他に内証も見られ、十分うなずける。文字どおり歌謡は、黙読に先立って口調第一に唱歌されたもの。おそらく編者も、これが「よのなか」と訓まれることに疑念はもたなかっただろう。しかも「せけん」の意味も、この二字が体していたこと言うまでもない。そしてここからこの一編の二重構造、趣向の面白さが真実湧き出すのだが、ところが私の見たかぎり、「よのなか」と訓んだ研究者たちが、口をそろえて「せけん」の意味でしか、この「世間」の面白さを汲んでいないのには、おどろいた。
以下私の素人読みを、或る条件つきで、披露させてもらって読者の批正を乞いたい。
或る本で、この小歌に現代語訳をつけている。「世の中は、またたくまに過ぎてゆく(別例。時の間に過ぎゆく)、ちろりちろりと」と。この理解が、大方の本に定着している。あたかも光陰矢の如く世は無常迅速との感懐であって、その限りで異存はないのだが、私にすれば、それはいわばこの小歌の遠景・背景として最後に到り着くところの、理解。先ずは、現前の情景をどう読みとくかが大事だろう。そもそも「ちろり」とは、時間経過の速かさを唯一の意味に指さした表現だろうか。本当に「ちらッと」「時の間」「またたくま」で済ませていいのだろうか。
私のような酒呑みは、そして長崎や薩摩のあの美しいガラスや切子の「ちろり」を嘆賞してきた者は、松村英一氏や藤田徳太郎氏が示唆していたように、先ず酒器の「銚釐」即ち「ちろり」を想う。錫など、筒型で把手のある金属性のものが、多く、また古い。それとダブるようにして秋野にすだく虫の音、虫の仇名としての「ちんちろり」などを想い出す。どっちが先か後か、酒器の「ちろり」と虫の「ちんちろり」は、共にその鳴り出し鳴き出す音色や声音に御縁があろう。むろん、ちろりと早く燗がつく気味も汲みとれよう。
一方、「世のなか」とは、世界、世間、社会の意味以前に、何より、男と女との仲を指す物謂いだった。日本語、和語として世の「なか」とは、古代このかた、「仲」と書きたい男女の関係を正しく指さして来た。用例もたくさん挙げられる。『閑吟集』のこの小歌で、「世間」をことさら「よのなか」と訓む以上は、必ずやこの場合、おアトの愉しみに間近で酒に燗をつけながらしっぽりと床を倶にし、夢うつつの性愛に物狂うた男と女との「世の仲」を想い描くのでなければ、お話になるまい。かくしてその相愛の営みが、わずか「ちろり」の鳴りはじめるまでの、酒に燗がつくまでの寸時に過ぎてしまう、果ててしまう、そのはかなさを惜しみ、呆れ、なげき、そして男女ともどもに酒の方へ這い寄って行く、そんな、やや醒めてうつろな睦まじさとして読むのが、面白い。松村、藤田氏らもここまでは読まれていない。
言うまでもなく、世間万事無常迅速と嘆じる態度か、すぐあとへ、いや中景としていかにおアツイ男女の仲も、そうながくはないものという諦念をはさんだあとへ、遠景として重なって来るのは順当なはなしだ。かかる感慨が、かかる男女の愛のまっただ中から、ふつふつと二重底、三重底をつきあげ湧き上がってくる真実感には、説得力がある。『閑吟集』が愛欲と孤心との交錯する、或る意味ですぐれてポルノグラフィックな歌謡歌詞の集成でもあることを考えれば、この小歌など、必ずこう読まれねば、説法くさくて水っぽいものに終わる。
四方赤良(太田南畝)の狂歌に、

よのなかはさてもせはしき酒の燗ちろりのはかま着たり脱いだり

とある。「はかま」が徳利やちろりやビール瓶にさえ用いるあれのこととさえ知っていれば、狂歌の意味するエロスは、誰にでも読みとれよう。この作者が、『閑吟集』の「ちろりちろり」を踏まえていたと断定してもいいくらいに、先の私の読みは、この狂歌に的確に声援されている。「ちろりに過ぐる」とは、ちろりを用いた酒に燗がつく、たったそれほどの時の間に、アツアツの「世の仲」が事果ててしまう、済んでしまうと嘆息し苦笑しているのだ。私はそう読んでこの小歌に、臨場感ゆたかなイメージを添えてみたい。第一、「ちろりに」と「ちらっと」では語感が逸れる。
問題は、酒器としての「ちろり」の用例が「物」として「語」としてどの辺まで時代を溯って見出せるか、だ。この点、私には確かなことが言えない。江戸時代の早くには、もうガラスや切子の技術で「ちろり」の珍品が新たに造られていたこと、「ちろり」という物謂いが、ふたしかな形容動詞よりいかにも『閑吟集』世界になじんだ、仇名めく名辞として思えること、といった我田引水を言い立てるしかない。
それにしても、ここの「ちろり」を、酒器のちろりや赤良狂歌のごく早い先蹤とも使用例とも見ることが可能なら、この小歌の面白さは、現行の、定着というより固着した浅い読みより奥行きを何膚倍にもひろげて、あえて「世間」を「よのなか」と訓んだ効果も俄然あがるはずだと思うが、どんなものか。
守武独吟千句の、「桜花など光陰を知らざらん春こそちろりちろりなりけれ 暁の明星露われ出でて」なども、「ちろり」ちらッと説を支持する材料というより、これまた今一度よく読み直されていい一例ではないのかと、向こう見ずに、一人の文士が提言しておきたい。但し分かりやすい解ゆえ、すべてすでに先人に説があったやも知れない。管見と断っておく所以である。      「毎日新聞」夕刊 一九八二年九月二十五日
2004 2・26 29

* 夜前おそく、ふと古事記をひきぬいてきて、拾い読みをしていた。二三の記事に目を留めた中に、美夜受比売(みやずひめ)の一節があり、倭建尊との相聞の唱和に心を惹かれた。記紀歌謡には佳いのが多いなかでも、とても懐かしく好きな一例である。
倭建(ヤマトタケル)の天叢雲剣や火打ち袋をたずさえての東征はよく知られている。尾張に入り国造(くにのみやつこ)家に宿り、ミヤズヒメと愛をかわそうとねがいつつも、思い直し東征を終えての凱旋時にと約束して旅立つ。
それからは、いろいろと長かった。火に襲われたのを剣ではらい、剣の名を草薙の剣と改めたのがのちのち三種の神器の一種(ひとくさ)になる。
連戦また連戦を経て漸く尾張まで戻ったタケルは、愛に溢れたミヤズに迎えられる、が、ときしもあれミヤズヒメは月のものを迎えていたのである、タケル (倭建尊)はすぐに気が付いて歌う。

ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くひ) 弱細(ひはほそ) 撓(たわ)や腕(かひな)を 枕(ま)かむとは 吾(あれ)はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝(な)が着(け)せる 襲衣(おすひ)の襴(すそ)に 月立ちにけり

すぐさま和してミヤズヒメ(美夜受比売)も美しく歌う。まことに まことに まことに あなたを待ちかねて 私の着る襲衣の裾に月の立たぬことがありましょうか  と歌う。美しい歌である。

高光る 日の御子(みこ) やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経(きへ)行く うべな うべな うべな 君待ち難(がた)に 我が着(け)せる 襲衣(おすひ)の襴(すそ)に 月立たなむよ
「爾(しか)くして、御合(みあひ)して」 とるから、二人は幸せに、月立つのもかまわずそのまま熱い愛を交わしたのであろう。再会を期し、タケルは剣をミヤズヒメに託して再びは帰らぬ道へまた出で立つ。剣を祀ったのが今の尾張一宮の熱田神宮。

わたつみのみやづひめこそこひしけれ月経てかかるあはれ深くも   みづうみ

* 趙非が歌うこころの歌といい、こんな神話といい、(ヤマトタケルは、歴史的には存在の全く確認されていない、ただ神話伝承の、悲劇的な架空の英雄である。)素晴らしモノにも溢れている人の世であるが、鶏のインフルエンザの無道な蔓延拡大や、海外の多発同時テロや、鬼のような虐待親たちや、凄まじいことも多すぎる。
詩人の仁科理氏から、例年の、四国ボンタンを大きなダンボール箱に一杯頂戴した。これはもう上品そのもののうまさで、ほおがゆるんで、にこにこしてしまう。暫時、凄まじい厭なことも忘れる。ご馳走様。
2004 3・4 30

* 自分が、息をしていないのではないかと思う瞬時がある。眼をとじると茜の空がみえる。血圧が高いのか。

* 和歌が、いま、懐かしい。古人のいい歌を読んでいると、こころ沈透(しず)く。
むかし、新制中学生は親にも秘して学校鞄の中に、四冊の帳面を隠していた。一冊に自由詩(その頃はそう謂ったものだ。)を、一冊には俳句を、一冊には短歌を、もう一冊には散文を書いていた。そのうちに短歌以外の帳面は、白い頁をのこしたまま、書きこんだ頁はみな捨てられた。短歌の一冊だけが残り、そのうち高校に進むと帳面はやめて、父の店にあまっているウラの白い電器の広告(B5判程度の)チラシを貰い、四つに折り、小さい字で一首を二行書きに、無数に書いた。きちんと書いた。
それらから選んで詞書きしてまた帳面に書き写したのが二三冊に整理された。のちにそこからまた厳選した。それが、大学の頃に最初に編集された、歌集『少年』の原型だ。それは、今も「湖の本」31(1600円)として在る。「e-文庫・湖(umi)」をあければ、無料で公開されている。この歌集『少年』は豪華本二種を含めて六種類の冊子ないし単行本になっている。
そのようにわたしは短歌を愛してきた。歌を愛してきた。百人一首はもとより、記紀歌謡も万葉も八代集も梁塵秘抄も閑吟集も、わたしは骨まで愛している。最も好んでいるかもしれないのは、平安物語に鏤められた無数の和歌であろうか。源氏物語を音読しつづけていて、相聞の、応酬の、和歌があらわれるとひとしお胸ときめいてしまう。引歌でさえ頭注や脚注を頼みつつ愛読する。その呼吸を呼吸するのである。

* だが、自分の暮らしを、世捨て人のように美しい趣味判断の場へとうち投じているだけではない。わたしは山林抖櫢(さんりんとそう)の境涯や乞食捨世 (こつじきしゃせい)を理想にするような理想の抱き方はしない。市井に生きて「今・此処」の現実を受け容れ、たとえストラッグルがあろうとも、世の尖端の沸騰にも向き合って生きようとしている。十牛図が、八図から最後の二図を描き加えていたことを、わたしはとても尊いことに思っている。平安の男女の和歌もいとおしい、同じようにたとえばテレビ映画の「ホワイトハウス」にも手に汗して見入る。佳い絵もやきものも身近に日々愛しているし、しかし不浄観にまかせ、ろくでもないインターネットの醜悪な写真を、動じないで見ているときもある。泥中の蓮の花のようにそれはそれは美しい清純な写真に出逢うこともある。それもまた楽しい。
2004 3・6 30

* ひともわれもやすかれとおもふ朝戸出のあをぞらに目をとぢてたたずむ
2004 3・13 30

* 春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり  土岐善麿 のこんな歌をいま、ふと思い出した。この虫食いの「名」は難問であった。若い人達に、このような機のありますように。
2004 3・20 30

* なにとなく生母の歌など書きうつしてみたくなった。
玩具店のかど足早やに行き過ぎぬ愛(いつく)しむもの我に無ければ
(母は六人の子をなしたのであるが、亡き夫との間のすでに成人していた四人は見捨てて、若い恋人との間に兄と私をうみながら、奪い去られていた。)
終列車の汽笛五臓を掻き廻わし断れぎれに消ゆ西の山のは
(この歌の現情は分からないが、凄絶な劇があったと想われる。)
佐保川の葦間の蟲のしのび啼けばあはれ生駒の灯も瞬きぬ
(たしかに大和に母は暮らした。)
われ寝(い)ぬる窓のま下の毛すじほどの草に来て啼く蟲の稚なさ
(当歳の私のことを想っていたか。)
一人来て住む大和路や窓の戸を叩きてゆくは夜半の木枯し
(母には、「一人来て住む大和路や」という上三句の歌が幾つか共存する。)
うつつなにほほ笑み洩らし寝ねし児の夢路守らせ斑鳩の鐘
(どこかの乳児院に働いていたときの歌か。)
吉野茶屋仲居がしらが説きくれし良弁杉にわれ瞬かず
(わが子良弁を鷲に攫われて狂った母。良弁と母とに再会はあったが、わたしの母にはなかった。わたしは母を拒んだ。)
君乞食と称(よ)ばれ給ひそわれ狂女と囃されて来し道灯一すじに
(幼子を奪われた母の生涯はこの通りであったらしい。)
大き手にい抱かれまほし之れや此の裁くの旅路行き暮れし身を
(母には観音でもイエスでも我が父親でも何でもよかった、これは悲鳴である。)

* もう書けない。母が、どんなに優しい人であったかどうかも、わたしは知らないのである。日付も変わった。寝てしまおう、か。いや、も、少し。
2004 3・22 30

* うきくさや 思案の外の誘ひ水 恋が浮き世か 浮き世が恋か ちよつと聞きたい松の風 とへどこたへず 山ほととぎす 月夜は物のやるせなき 癪に嬉しき男の力 ぢつと手に手をなんにも言はず 二人して吊る蚊屋のの紐

* 情緒のある佳い句だが。わたしなら 結ぶところを、こうする。
ぢつと手に手をなんにも言はず ひとりひとりの夢の夢 いつを逢ふ瀬の闇の底
2004 3・28 30

* 一日に茅場町へ行く。三時から会議。朝から時間早く家を出て、大岡山へでも行ってこようか。三日にも所用で出掛ける、花は残っているだろうか。開花、満開、残花。どれも佳い。あんなにはかないはかないと眺めながら、磐石の重きをみるように年々歳々の花には変わり無く、歳々年々に人はうつろう。花も愛おしいが、人はもっと愛おしいものである。人がみな花のようであれば、どんなに此の世は優しいことであろう。殺し合い欺き合い奪い合い、人のしたたかさとはそういうことと観じている人も少なくないが、それもはかないうつろいの思想でしかない。はかなさのシンボルのような桜の方が、よほど真実たしかに美しく、無残な変貌をみせない。散ってはまた、変わりなく季節を得て咲いてくる。
あけぼのを染めて盛りの櫻子に添ひてぞみばやみばやみせばや
2004 3・29 30

* 茶の湯にしたしみ、関連の著述にもしたしみ、多くを享受してわたしはほんとうに幸せであった。その幸せにより、わたしの日々が構造化されてもきたのは明らかである。一期一会という言葉にもわたしはわたしの血潮をそそいだ。茶の湯びととしていえば「一期一碗」と先ず喝破していた武野紹鴎の教えが大きく、それとの共鳴で、井伊直弼の「一期一会」も鳴り響いた。
もし今一つを、とならば、偽書かもしれない「南方録」のなかで利休の説いている、「かなふはよし、かなひたがるはあしし」が、ある。
底知れぬものをもってこの短い指摘は、津浪のようにわたしにいつも襲いかかる。これほど多く豊かに深くものを想わせ、イメージもクリアに厳しい教えは、他にそうは無い。
人間関係のこれは真諦。さらに放埒なものいいを敢えてするなら、人間関係にあって動物的でも霊的でもある「性的関係」にも、みごとに妥当するであろう。性こそは「かなふ」性でありたいではないか。
人と人とが、精神的にであれ性的にであれ社会的にであれ、自然であるか、不自然か。その岐れを利休はピシャリと言い切る、「かなふはよし、かなひたがるはあしし」と。人と人の「かなふ」自然あって茶の湯は成り立ち、茶の湯に限らないのである。至言である。「かなふ」とは、思考や分別の無用に介在しない親和である。柔らかい無心の親和である。花と風との恋に「かなひたがる」ものは、ない。一瞬が永遠になり、永遠が一瞬になる。「かなふ」のである。

* 弥生尽。穆々和春。前田夕暮はこう高らかに歌った。この歌声のすばらしさは、微塵の「かなひたがる」もないところに有る。
木に花咲き君わが( )とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな  前田夕暮
こんなおおらかな名歌を、当今、絶えて眼にも耳にもしない。世をあげて「かなふ」ことを忘れているのである。春四月はどこから来るだろう。若者達よ、胸を鳴らせ。
2004 3・31 30

* いきてなほものおもふゆゑのうれしさぞ 花のあけぼの風のみづうみ
2004 4・3 31

* 「今・此処」の気持がうまく言い表せない。「ナンジャイ」、遠山に日の当たった枯れ野に身を捨てて、昼寝でもしてこよう。
思ひ回せば小車の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉
2004 4・6 31

* 又花の雨の虚子忌になりしかな
縄手の権兵衛でのっぺを食べて出たところで、雨粒が顔を打ちました。霊鑑寺の特別公開と聞いて京へ出てきましたの。安養寺、法然院(谷崎さんの桜が色美しく咲き誇っていましたわ)、真如堂、金戒光明寺、尊勝院、京都御苑の枝垂れ桜、白川沿い、そして、木屋町通りと、京の桜に酔い、大西清右衛門美術館と、京都駅ISETANの「高畠華宵展」も楽しみました。

* 佳い句だが。だれの句か知らない。囀雀さんの自作なら、おみごと。これはまた贅沢な、瓢亭か菱岩の懐石膳か花弁当を覗いたような風情だ。京の固有名詞のもつ命のようなものが、ぱあっと匂ってくる。
2004 4・7 31

* お仕事の輻輳ぶり、そして、
>> 「ナンジャイ」、遠山に日の当たった枯れ野に身を捨てて、昼寝でもしてこよう。
>> 思ひ回せば小車の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉
という御心境。
「伯母捨」、さぞかしと、お思い申しております。

* 閑吟集の小歌はなかなか面白い。深読みも効くし、浅い走り瀬の清水のように酌んでもいいのである。浮き世だから疲れるのか憂き世だから疲れるのか、世の中がうまくないから疲れるのか。いろいろなのである、だから「生きている」というわけか。
2004 4・7 31

* 桃の花、大好きです。芯から励まされる艶やかな濃い花色が好きです。大伴家持の桃苑の歌を覚えていますか。
春の苑 くれなゐにほふ桃の花 下照る道に出で立つ娘子(をとめ)
好きな歌です。あなた、和歌を読みますか。和歌や歌謡のよさが胸に入ると感性はほんとうにこまやかになります。
桃の花をみたいな、土手にのぼって景色を眺めたいな。なぜか群馬県にはむかしから縁があり、いちばんよく行って(図書館などで)話している県です。桐生、大間々、富岡、渋川、高崎、伊勢崎、赤城。
なにかと物騒、大事に気をつけて過ごされるように。
2004 4・9 31

* 卒然と思い出したが、秦の祖父の蔵書に「百人一首一夕話」が上下二冊あった。これが小学校上級頃の愛読書で、歌人達の逸話を多くこれで覚えた。いま思い出せる限りの逸話はほとんどこの本からの受け売りになる。
中で藤原朝忠の話には笑ったし、だがなにしろ敗戦直後のひもじい日々であったから笑いは直ぐひがみっぽく凍り付いたかもしれない。わたしは、そのころ、体重にもめぐまれない細いもやしの一筋のような風付きであった。
ところが中納言朝忠は肥満漢であった。大食漢であった。本人は苦しいほどの肥満と食欲にいつも閉口しながら、なかなか愉快な男でもあって、よく諧謔で人を笑わせた。
医者になんとかしてくれと頼み込み、しかればと医者は、食を水漬け湯漬けあっさりと漬け物だけにせよと言い付けた。
それでもダメだというので、食べているところを覗いてみると、飯は何杯も何杯も、漬け物も山盛りの鉢で何杯も。呆れて口もきけなかったという。わたしは、これを、ひもじかった子供の頃も、肥満が気になりかけた中年過ぎてからも、忘れなかった。今もこうして覚えている。
朝忠は、三条右大臣藤原定方の子である。子沢山な定方の裔の一人に、紫式部がいたはずだ。定方の歌も百人一首に入っている。
名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな
人に知られず好きなあなたと寝たいというのである。「女のもとにつかはしける」と後撰集には端的な詞が付いていたはず、首尾良く寝たかどうかは、知らない。
で、朝忠の歌はとなると、少なからず重くなる。しんどくなる。
逢ふことのたえてしなくば中々に人をも身をもうらみざらまし
これが「逢ふて逢はざる恋」の歌か、いまだ「逢はざる恋」の歌かには説があろう。「逢ふ」とは、逢って躰の関係ができたという意味であるから、父定方が、逢坂山の「さ寝かづら」にひっかけた「寝る」に、ほぼ同じい。では「逢ふて逢はざる恋」とはどんな恋か、昔からこれはずいぶん微妙にとられてきた。なにしろ朝忠は知らぬ者のない大食漢の醜いふとっちょである、せっかく逢えても「逢えなかった・出来なかったよ」と自嘲の歌に相違ないという説と、どうせ朝忠じゃあ、はなから女に逢えるわけがないもの、「だれを怨んで泣くこともないよ」と拗ねた歌だという説とが、有る。いや、有るのだとしておこう、どっちとも読める和歌ではあり、なんと可哀想な、朝忠。
そして紫式部の和歌は、もともとは百人一首と少し違い、こうである。
めぐり逢ひてみしやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かげ
女友達を歌ったらしいと家集では読めるけれど、「月かげ」は男をさすとも読める一首である。事情はともかく男は女の前から姿を隠したのであろう、束の間のはかない逢えぬ恋であったのか。

* イラクでの不安な混乱が、日本での恥ずかしい無能ぶりが、渦を巻いている。そんなときには、こんなのんきそうな古典漫談がきつい頭痛をおさえてくれる。
2004 4・9 31

* 桃の並木は、会社に出かけるわたしを迎えるように、玄関前から続いています。桃は土手の右側に、左側は、葉桜が花びらを散らしています。細い裏道なのに、わざわざ人が見に来るようになりました。
大伴家持の歌、佳いですね。
和歌になじんで来なかったけれど、最近しみじみとします。恋の歌は、特に。

* 若い人はいいなあと、どこにいても、素直に思うようになった。「恋の歌は、特に」などと、わたしなど胸に思っていてもなかなか字には出来ない。井上宗雄・武川忠一編の「和歌の解釈と鑑賞事典」や山本健吉編「日本詩歌集」それに万葉集や百人一首の本など、この機械のある座右にも手放したことがない。心の底からくつろぐのである和歌を読んでいると。千二百年もそれ以上も前の和歌にありありと自分の思いを代弁されていておどろくこと、しばしばある。くやしいなと思った年頃もあったけれど、いまは、嬉しくなる。
毎晩源氏物語を音読し続けてきたが、和歌のところへくると胸が波立つほど共鳴する。源氏物語の魅力の何割かは、和歌の優れていること、面白いことにある。
きのう、中納言朝忠のかなり気の毒な、
逢ふことの絶えてしなくは中々にひとをも身をもうらみざらまし
をあげつらったが、一つ前の、権中納言敦忠の歌は、つらいと嘆いてはいるものの「逢ふて逢はざる」朝忠からすれば、対照的に幸せそうである。
逢ひ見ての後の心にくらぶれば むかしはものを思はざりけり
「逢って契りを結んだあとの、このせつない心にくらべると、逢わない前の物思いなどは、しなかったも同然の、何でもないものでしたよ(武川忠一)」といわれても、後塵を拝した朝忠には凱歌のようにひびくだろう。百人一首の配列では、四十三番目に敦忠、四十四番目に朝忠とならび、これが対に据えてある。歌合わせふうにいえば、断然わたしは……と、あとは云うのを控えておこう。これは情の世界である。
ただ人は情けあれ あさがほの 花のうへなる露の世に   閑吟集
小泉純一郎には 情が感じられない。あの人には、オペラも音楽も歌舞伎も 要するにお飾りの楽しみでしかなく、薄情冷淡が本然の根性らしい。なにはあれ、イラクで人質になっている三人の親族達と会って、ともに一掬の泪をそそいでやればよかろうに。理にも情にも敗北していることを知った無情の醜態だと、家族会見をすげなく「拒絶」した彼が、わたしは厭わしい。
2004 4・10 31

* 列島の南西方面へ二泊のツアーでしたが、充分リフレッシュ出来ました。あさって頃には古稀せまり、ナンドキ、あれもこれも叶わなくなるかと想い、焦りも出るこの頃です。でも、元気。
今日、三歳下のわが妹は、京の稲荷山から東へ山越えに泉涌寺、清水に出て、将軍塚は敬遠(野犬が多く危険)して一旦国道へ出て、又山科へと山伝いに歩くそうです。京都ではこんな楽しみが簡単に出きるのですね。「布団」の上からの眺望は素晴らしいでしょう。チョット羨ましい。  淡路島

* 六月中頃に高校の同期会をするから帰ってこいと案内が来ていた。同期の桜たちもみなもう散り際かと想うといささか恐れ入る。
むかし見し桜の色ぞ恋しけれ いまも桜は花と咲けども  遠
2004 4・24 31

* 椿だけは、「散り椿」が珍しがられるほど、散るよりは「落ちる」花だ。耳に落ちる音ものこっていそうに想われる。
落ちざまに虻を伏せたる椿哉  という誰だかの句はつくりすぎていると思うが、落ちる椿の音に印象を得たのは漱石の「草枕」であった。「草枕」は題がよく、小説としてもオリジナルの香りがする。高浜虚子が小説家として認められたのにも「草枕」の感化はおおきかった。
2004 4・30 31

* 石田波郷の二百句を入手した。撰は嗣子の石田修大氏に依頼した。現代俳句のビッグネームである。二百句読み通し、必要なヨミガナを付け、かたちを整えた。「略紹介」を付け終え入稿する。
2004 5・4 32

* 『ネットの中の詩人たち』 3 が送られてきた。大阪在住のペン会員が紙の本に編んでいる。収録されている一人のコメントに「詩のようなもの」だとあった。「詩」を書いて欲しい。「それぞれの愛 それぞれの心」と副題してある。どうして日本人の現代詩はこういう発想になる。表現よりも日記にちかづく。「隠喩=メタファー」の神秘のちからにより、論理=哲学でも実験=科学でも、とうてい近づけないところへ近づいて行ける、そういう「詩」の把握へは、ほど遠い満足に終始しててしまう。すると「詩のようなもの」で済んでしまう。「詩」は深い。厳しい。美しい。
やはりペン会員の主宰している口語短歌の撰集も贈られてきた。出来上がっている表現は安易なほど容易そうであるが、これまた途方もなく難しい。内在律を美しく確かに響かせないと「詩=うた」にならないが、大方はそんなことは考えに入っていなくて、詞で示した意味内容にもたれかかり、あたかも思想が詩であるかの顔付き。ここに無残な落とし穴がある。散文に近い詞で内在律を把握するのは、律によわい日本語では容易でない。この容易でないとの自覚が底荷になっていないと、口語短歌はただの自己満足におわりかねない。ここでも「詩」性の金無垢が厳しく問われ求められるのである。
2004 5・7 32

* 李香蘭が美声で唄う「夜霧の馬車」の作詞、西条八十。作曲、古賀政男。書き取ってみた。
二、六 – 七、七。  五、六 – 四、四。 七、五 – 四、五。 破調と聞こえて纏綿の節奏韻律が歌謡曲なりにおもしろい。

行け 嘆きの馬車 赤い花散る 港の夕べ
旅を行く われを送る 鐘の音(ね) さらばよ
いとし此の町 君ゆゑに いくたび ふり返る

泣け 鴎の鳥 哀れせつなく 夕日は燃ゆる
波の上 浮かぶジャンク さびしや はろばろ
たれが唄ふぞ 愛のうた 夜霧に 流れくる

行け 嘆きの馬車 月に胡弓の 流れる町を
いつか見む 母の待てる ふるさと なつかし
窓のほかげを 夢みつつ はてなく 旅をゆく

* いま、わたしは「ペン電子文藝館」に、著作権の切れている唱歌、童謡、歌謡曲の歌詞を精選しておきたい希望をもっている。文藝作品と呼んでしかるべきだから。西欧の象徴詩の内なる節奏に学んだ日本の詩人達は、低俗は俗なりにそれを歌謡の作詞にも試みようとしていた。
2004 5・7 32

* 相次ぐ校正往来の処置に、やすみなく。石田波郷の二百句では、再現出来ない漢字が二字出て、その処置に困る。俳句一句の中で出ない漢字の説明をカッコに入れてなど読みにくく、いっそ割愛したい。代わりを入れて欲しいと修大氏に頼んだ。
門脇照男の校正も出て来た。この渋い秀作は、おそらくわがE-OLDの友たちには受けそうな気がする。こういう辛口の飄逸は、歴戦の雄の境地。
「腎臓げなな」とあるのが「な」が一つ衍字=余分という指摘があったが、それはちがう。腎臓病げな で 腎臓病らしい 意味になり、もう一つの「な」は、前の「な」と意義が異なり、合わせて、東京語ふうに言うと「腎臓らしいぜ」となる。自転車が「荷重」になる は「過重」の間違いであろうというのも、「におも」と読んでみれば原作のママが正しい。こういう微妙なところを読み分け読み分け校正を決定して行かないと原作をそこなう。誤記・誤植は訂正しやすいが、こういう読みの微妙なところは難しい。わたしの此の役を、誰もが直ぐには交替できないのである。
「ペン電子文藝館」に掲載されれば、雑誌からその作品を買いに来て転載されるかも知れない、嬉しい、と、気の良い会員も。頬笑む。
2004 5・11 32

* 恒例、ご近所さんが1年分のお手製梅ジュースの大量の残滓、ミキサーにかけたものを届けてくれました。
あれ、もうこんな季節なのね、と悦んで頂戴して、今、大きな無水鍋で焦がさない様に弱火でじっくり時間をかけて梅ジャムを製作中、甘酸っぱいいい匂い。大半を冷凍保存して、これから半年はバンのお供です。
捨てていたと聴き、もったいないよと頂いて、もうかれこれ十五年、私の風物詩です。
「コールド マウンテン」
お向かいさんがどうしても観たいというので、付き合いました、が・・・南北戦争の話はまあ気を惹かれないけれど、あの眼に魅せられた「レニーグラード」のジュード ロウ、「ブリジット ジョーンズの日記」ではポチャッと可愛い女の
子、レニ ゼルウイガーが自ら売り込だと聴く、体当たりの田舎娘の演技で確か助演女優賞を貰っていたと思うし、きれいなニコール キッドマンも観てもいいかと。
長い映画でしたが、つい寝込むような気を抜く場面がなく、一言で云えば佳かった。戦争の悲惨さを骨子に、終盤の恋人同士の三年ぶりの再会の情況は不自然なオハナシだ、と思われ、ハッピー、そしてアンハッピーエンドだけれど、やはりアメリカ映画、救われない話で終わってもいない。
バージニア州、コールドマウンテン、実際にあるのか、その場所で撮っているのかは分らないけれど、人と人との争いに相反して、自然の景観が素晴らしく美しく。先日観た「真珠の首飾りの女」と同様に、最後に一粒の涙が出ました。
梅ジャムが出来ました。

* 台所仕事のかたわら、こういう交信が無数に飛び交っているかと想像すると、WWW(ワールドワイドの蜘蛛の巣)が目に見えてくる。遠方の友人や知人と、こんな風に気軽に話せる、手紙を書き交わすということが昔は不可能であった。電話代もかかったし、ポストへ通うだけでも面倒で、つい手紙を書くのも三度に二度はやめていた。手軽と云うことなら若い人達の携帯メールは、半分は記号と決まり文句の簡易通信らしいが、パソコンのE-OLDたちはいつ知れず文章・文体を身につけて行く。表現の喜びを無意識にも感じている。それが大きな事だと思う。

* 梅の実の熟れのにほひの目に青く日の照る午後の遠きおもひで   宗遠                          2004 5・29 32

* こんばんは。河村です。少々遅くなってしまいましたが、本日4000円入金いたしました。
現在上巻を読み進めております。確かに私の胸に響くところあり、毎日少しずつ楽しみに読んでいます。
さて、来週末(6月25日)に引っ越すことになりました。実は、先生のお住まいの保谷のご近所です。
また、先生には大変ご心配をおかけしておりましたが、結婚することとなりました。改めて正式にご報告させていただきます。
最近、真夏のような陽気など、気温の変化が激しく、お身体にはお気をつけください。

* 青葉うつ音もかぐはし慈雨の季(とき)   遠  おめでとう。
2004 6・15 33

* この暑さに体調を損ねている人、平安無事を祈る。

* うたたねに松園ゑがく楊貴妃の ちの恋ひしさにこゑをあげしか
2004 7・22 34

* あまえ子の蚊に泣きたつる大暑かな    江戸のむかしのような、こんな句が口をつく。駄句というのは、尻取りほどいくらでもつぎつぎに出で来るものである。憚り慎む。
2004 7・24 34

* あはれともいふべき人は思ほえでみのいたづらになりぬべきかな  謙徳公

* 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける  紀貫之

* なにとなく口をついたままに書き記す。
2004 7・27 34

* 俳人手塚美佐さんの句集を戴いた。美しい本である。岸田稚魚さんの句誌を受け継がれてもう久しいが。湖の本のかわらぬ読者である。亡くなられた永井龍男先生のお口添えからであった。手塚さんは永井先生に師事されていたのである。永井先生も、亡き福田恆存先生もお元気な奥様も、わたしの「湖の本」を支えてやって欲しいと、何人もの新しい読者をご紹介下さっている。そういう方が今も何人も継続して講読していて下さる。おろそかなことはしていられない。
2004 7・28 34

* 最近度肝を抜かれて、それを読み合って妻とも驚いたことがある。ある短歌雑誌の中で、主宰が、会員に、電話で呶鳴っている言葉がそのまま録されていた。短歌に向かう姿勢を叱咤し激励し、面罵とは電話のことであたらないにしても、それに近い。「君は何のために歌を作っているのだ。誰のために作っているのだ。自分のためではないのか。短歌を通じて己を高めようとしているのではないか。」結社のために歌を作るのでは結社がつぶれたら君も潰れてしまうではないか、見下げはてた野郎だ、だから君は駄目だ、けち臭い。「文句があるなら顔を洗って出直してこい」とある。
この大方にわたしも異存はない、ただ一つ所、「短歌を通じて己を高めようとしているのではない(の)か」に驚いた。
この言句中の「短歌」を「小説」と置き直してみて、世にいろいろの小説を書く人達が、「己を高めようと」書いているかどうか、反射的に比定して、いやまずわたし自身を省みて、びっくりしたのだった。
わたしは小説の前に熱心な短歌制作者であったし、歌集もあり、幸いに愛読者たちにも恵まれてきた。短歌に関して、「自分のために」作っていたのはその通り、当然だと思う。誰かのために作ってなどいなかった。しかしまた「己を高め」ようと「短歌」を作っていた記憶はさらにない。「小説」を書いて「己を高めよう」など、まして考えたことはない。「見下げはてた野郎」だとわたしも呶鳴られるのだろうか。
2004 8・1 35

* 詩集三冊に優に相当する、三種の詩編が送られてきた。量だけなら、驚きはしない。資質あふれ、熱い炎のように、真摯。
洗練? 美? それが「詩」ではない。噴出するメタファ。闇に対峙する炎。憎しみに等しい愛。後悔に等しい希望。悟りにひとしい情念。
わたしなどでなく、優れた現役の先輩詩人に読んで貰えないだろうかと願うほど。内一部の詩集は、量は多いが総題を添えてもう「e-文庫・湖(umi)」に収めた。アト二部の詩集も追々に。
2004 8・10 35

* 小松英雄氏の『みそひと文字の抒情歌』にウロコの眼を激しく洗い流される。万葉集は漢字で表記されている。古今集はすべてひらがなで表記されている。言語表現においてまるで性質の違うのを理解することは出来るが、しかも訓釈しまた漢字交じりに書き直すことで、その差異が均されているのが現状である。
わたしは古今集等の和歌の「現代語訳」に反対で、一時期トクトクとその手の仕事がされまた持て囃されていたときも、わたしは冷たく眺め、必要ならば批判していた。幾重にも読めるように意図して創られた独特の和文表現を強いて一つの読みに無理読みして訳者の解釈を原作にも読者にも押し付けてしまうからだ。小松氏のポレミークな議論はつまりこのわたしの不信や不満や憤慨に論拠を与えているのである。当然にわたしも気付いていた幾つもの点に、しっかり論及している。
なぜひらかなだけで書かれてあるかという一つからみても、よく言うように まつ は松でも待つでもある。はな は 花だけでなく、端も鼻も洟も洟も意味している。ものうかる と書いて もの憂かる とも もの憂がる とも読み取れる。古今集に濁点はまったく無いのである。古今集だけではない、上代和文には濁点はほぼ全面に無いのであり、そこに表現の複線化がむしろ意図的に巧妙神妙に意図されるのだから、それを視覚的に読者は複線化して読み取る、読みを構築する楽しみや権利をもっている。後世の研究者学者は或る意味で勝手気ままに、それに漢字を当てたり濁点を振ったり、また勝手に改行したりして、もとの表現を「解釈」の名の下に破壊している。
たとえば散文としての地の文に巧妙に表現性豊かに和歌が書き入れられてあり、散文と韻文との微妙な相乗効果を露わには言わずに実現しているにもかかわらず、後世は、暴力的に和歌部分を改行して別立てにするような本文を現出させて顧みない。親切でしているつもりで、原作本文の表現意図をお構いなしに破壊している例は、むしろ通例になっている。
小松氏の憤慨は、いわばコロンブスの卵なのであるが、学界はなかなか体質の古い因習世間であり、小松氏のようないわば専門外の専門家から当然の指摘がされても、なお、益々従おうとしないから困る。専門家というのは時に老害に似た大障碍物になりかねず、固陋の妄念を抱いて放さない。
まだまだ読み始めであるが、読み進める楽しみは夜ごとに深まる。
2004 8・23 35

* 百人一首やましてひらがな表記の「みそひともじ」を現代語訳するなんてトンでもない愚行だと思い云いつづけてきた。わたしにはおこがましくも「秦恒平の百人一首」という著書(平凡社)もあったが、そこでも私の好き嫌いを「うた=音楽」の観点から私判はしても、翻訳は避けた。複線で表現されてある一首の中のいくつもの読みの可能性を、幅を、魅力を殺してしまうからだ。
ところが、大概の本は研究の終着点は現代語訳であるとばかりに、無理読みに一つの翻訳へ原作を圧殺して恬としている。詩人として高名なひとが、とくとくと自身の現代語訳を以て古今集鑑賞を成し遂げたなどと思い、それがまた学界ですら追従されていたものだ。わたしは白眼に冷笑し、賛成したことがない。
このわたしの一素人の立場での頑固な姿勢に、ものの見事に学問的科学的な基盤と保証を与えてくれているのが、小松英雄著の『みそひともじの抒情歌』であることが、夜毎の読書で、じつに明快に分かって行く。痛快なほど分かって行く。この言語学の専門家からする国文学や文法学への批判書が、学界でどう受け取られてきたかわたしは全く知らない。ぜひ反論があるなら読んでみたいものだ。
2004 8・25 35

* 雨瀟々。雨の日の あめうつくしき秋桜 には少し早いが。
雨しとど萩はかすかに風はらむ

* 家にいるとつい機械の前にくる。ここでは大きなゲラを拡げての校正は出来ない。階下へ降りるとテレビがある。外へ出たくても、雨。用もたず、雨に無用の炎を打たせに歩けばいいのだが。今日辺りから、秋の個展や何かが開き始める。見て欲しい逢いたいも有るのだが、花とおなじ、花粉のつらさこそ無いけれどからだは睡眠を欲している。機械の画面がくらく感じられる。
まっくろに鴉め雨にうたれゐる
ヤイ鴉 なぜそこにいる雨の屋根
きらはれて鴉はひそと死んでいた

稲妻と書いてあはれや雨の午後  湖
2004 9・5 36

* 伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」を林富士馬さんにはやくに頂戴した文庫の編詩集から抄している。関西の文学者たちにことに伝説的に愛されてきた詩人で、日本浪漫派の広い輪の中におさまる詩人なのでもあろう。かなり歌い上げている人のようにわたしは感じてきた。わたしは、保田与重郎に代表されてきた日本浪漫派の文学にはあまり感受性をもたない。パセチックなのがつらいのである。日本と言い浪漫と言い、わたしの好みのように思う人もいたけれど、むしろ対極的なところで書かれていたもっと地を這って苦しんだ人たちの文学文藝や、もっと落ち着いた物言いと心境で成される文学文藝のほうに親しんだ。日本ということにこだわるにしても、せいぜい川端康成どまりでよろしく、わけもなく偏して抱き柱にすがりついた人たちは敬遠し続けたのである。むろんそういう人のも、勝れた文章や詩は、偏見なく「ペン電子文藝館」に取り入れたい。
2004 9・22 36

* 伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」の詩篇を、一つまた一つと電子化している。
2004 9・23 36

* 早起きして、伊東静雄の詩を二三書き起こした。「わがひとに与ふる哀歌」を抄する積もりで居たが、この分では全編書き起こしたくなるようだ。詩の鑑賞としては最適の方法で私は読んでいるのかも知れない。一字一字の措辞そのものにわたしは手をうける。詩人の気持ちが流れてくる。
2004 9・24 36

* 雨。冷える。

* 伊東静雄の処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」全編を丁寧に電子化した。いま、念入りにさらに校正している。萩原朔太郎をして即座に「日本にいま尚独りの詩人がある」と喜悦させた一冊、詩人二十九歳の記念碑である。独特の措辞に満ちあふれたメタファ(隠喩)の魅惑横溢。「ペン電子文藝館」にまた一つの重みを加えるだけでなく、この愛惜いまに久しい詩人の面目を世界へひらくのは嬉しい限り。
2004 9・27 36

* 加藤克巳氏八十九歳の『自選一八○○首』から、沖ななもさんに依頼して百八十首選んでもらった。すべて読み終えて不審三個所を問い合わせ、返辞を得たので、入稿する。京都府綾部に生まれ、昭和四年埼玉の浦和中学二年ごろから歌を作り始めて、翌年牧水系の歌誌に入り、國學院で折口信夫らに学び、やがて自ら「短歌精神」を創刊、昭和十二年に第一歌集を出している。厖大な作歌と評論を書いてきた人である。あえて「ひとりのわれは」と総題を選んでみた。
いち膳のあしたあしたをかみしめてひとりのわれは生きねばならぬ   加藤克巳

* 最近送られてきた会員須藤徹氏の俳句集「朝の伽藍」には心惹く確かな表現が多く、印象に残っていた。須藤氏から重ねてわたしに限定版の句集「宙の家」や同じく「幻奏録」また俳句論集「俳句という劇場」が贈られてきた。句集はやはりわたしの心を動かす物があり、懐かしいと感じている。あらためてメールも戴いた。忝ない。ドイツ哲学を専攻され「ハイデッガーとヘルダーリン」が卒論であったという。
2004 10・3 37

* 朝一番に、昨日届いていた高田欣一さんのエッセイ通信「西行以前」を読んだ。
書かれていることは頭にあり、水の流れるように流れに乗り読み進めて、読み終えた。まさしく「随筆」、たぶんに小林秀雄型の行文で、こういう筆致には抵抗してはならず、その場その場の趣意に応じてうなづきうなづき興を覚えて読んで行くのがいい。感興のママに書かれたものは感興のママに決して論議に及ばないように、うまい水をこくこくと飲むように読まねばいけない。
小林秀雄の批評の妙に応ずるには、彼がいかに論議しているつもりでも、読み手は佳い音楽を聴くようにただもう「読み」進むのが佳い。小林は何を書こうというような書き手でなく、書き出すと、なにかがつぎへつぎへと現れてくるから書き留めてゆく書き手である。書き終えられたところで、嗚呼こう言いたいわけだと分かる文章もあれば、分からないままに、佳い音楽の余韻だけがしばらく残っているというのも有る。
高田さんのもそういう書き方で、論旨が、論議が、出来れば出来たでよく、論旨が露わに残らなくてもそれはそれで行文の快さに変わりはない、というエッセイ、つまり随筆である。たいへん面白く適切なことが書かれているのだけれど、こう言いたいのだといちいち立ち止まり強調されてはいない。わたしのように場に馴染んだ者にはその方が有り難い。けれど、馴染みの薄い人には、ややとりとめなく感じられるかも知れない。
それにしても西行、良経、源氏物語、躬恒、業平などなど、なんと和歌の美しく優しいことか。年を取れば取るほどにわたしは和歌の魅力に吸い込まれ、結局は其処へ帰って行くような気がする。百人一首で育って和歌の世界へ。和歌がなければ源氏物語は絶対に生まれていないのである。
2004 10・22 37

* 霧の朝です。夢を見ていました。弟とふたり、山かいの宿に居ました。
葉擦れの音、窓の下にちろちろ流れる川水の音、時折、鳥が啼き、――静かでした。
障子に木洩れ日がゆらぎ、そそけかけた畳に少し翳が感じられた頃、むっくりとした髭がちの宿の主人が、「あんた去年も来たねぇ。おッ、もう四時だ。今、出ないと帰れないよ」と言い、雀は「このまままた泊ります。かまいませんか」と答えました。
ひんやりとしています。明日は雨のよう。よい日々をお過ごしください。 雀

* 弟に、死なれている人であったと。

* 京は、汗ばむ陽気が続いています。
紅葉も後十日程で、あちこちが見頃となるようです。それに連れて市内のどこもかも、人人人、車車車。
歩いて行ける範囲での紅葉狩り。
金閣寺も金ぴかにお化粧直しされてから、もう十年以上になりますが、シーズンを問わず、観光客で賑わっています。
愛は、寺院の「柱」のようであるべきとのこと。
そういえば寺院が崩れて、下敷きになって死にそうになったことがあったなぁ、なんて、遠い、遠い昔のことを思い出したりしています。
しょうもないことは、よく覚えているものですね。
明日からは雨の予報、秋もいっそう深まることでしょう。お身体くれぐれもお大切に。   みち

* 従妹の、おもしろいメールだ。金閣寺みち紅葉の写真が、ファイルで付いていた。何の関係もないが、
すずかけのもみづるまでに秋くれて衣笠ちかき金閣寺みち  とわたしが詠んだのは、昭和二十九年、十八の秋だった。この日の金閣寺をわたしは覚えている。
2004 11・10 38

* 憂 悶   シャアル・ボオドレエル 荷風訳

大空重く垂下(たれさが)りて物蔽ふ蓋の如く、
久しくもいはれなき憂悶(もだえ)に歎くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方(よも)閉(とざ)す空より落つれば、

この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か。
蟲喰(むしば)みの床板(ゆかいた)に頭(かしら)打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠(かはほり)の如く「希望(のぞみ)」は飛去る。

限りなく引つゞく雨の絲
ひろき獄屋(ひとや)の格子(かうし)に異らず、
沈黙のいまはしき蜘蛛の一群(ひとむれ)
来りてわが脳髄に網をかく。

かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家(すみか)なく彷徨(さまよ)ひ歩く亡魂(なきたま)の、
片意地に嘆き叫ぶごと、
大空に向ひて傷(いたま)しき声を上ぐれば、

送る太鼓も楽(がく)もなき柩(ひつぎ)の車
吾が心の中(うち)をねり行きて、
欺(あざむ)かれし「希望(のぞみ)」は泣き暴悪の「苦悩(くるしみ)」
黒き旗を立つ、垂頭(うなだ)れしわが首(かうべ)の上に。
2004 11・12 38

* 暗 黒  シャアル・ボオドレエル  荷風訳

森よ、汝、古寺(ふるでら)の如くに吾を恐れしむ。
汝、寺の楽(がく)の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の喘咽(あへぎ)聞ゆる永久(とこしへ)の喪(も)の室(へや)に
DE PROFUNDIS(デ プロフンデス)歌ふ声、山彦となりて響くかな。

大海(おほうみ)よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海(おほうみ)の声に聞く。
辱(はづかし)めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。

されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と、
赤裸々(せきらゝ)求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて
われに語らふ、其の光だになき夜(よる)ぞうれしき。

暗黒の其の面(おもて)こそは絵絹(ゑぎぬ)なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼(まなこ)より数知れず躍りて出(い)づれば。

* 荷風訳詩をこう引いてみるだけで、なんとこの私語の「闇」の光り出すことよ。
2004 11・13 38

* 暗 黒  シャアル・ボオドレエル 荷風訳

森よ、汝、古寺(ふるでら)の如くに吾を恐れしむ。
汝、寺の楽(がく)の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の喘咽(あへぎ)聞ゆる永久(とこしへ)の喪(も)の室(へや)に
DE PROFUNDIS(デ プロフンデス)歌ふ声、山彦となりて響くかな。

大海(おほうみ)よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海(おほうみ)の声に聞く。
辱(はづかし)めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。

されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と、
赤裸々(せきらゝ)求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて
われに語らふ、其の光だになき夜(よる)ぞうれしき。

暗黒の其の面(おもて)こそは絵絹(ゑぎぬ)なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼(まなこ)より数知れず躍りて出(い)づれば。

仇 敵  シャアル・ボオドレェル 荷風訳

若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし
暴風雨(あらし)の闇に過ぎざりき。
鳴る雷(いかづち)のすさまじさ降る雨のはげしさに、
わが庭に落残る紅(くれなゐ)の果実(くだもの)とても稀(まれ)なりき。

されば今思想(おもひ)の秋にちかづきて
われ鋤(すき)と鍬(くは)とにあたらしく、
洪水(でみづ)の土地を耕せば、洪水(でみづ)は土地に
墓と見る深き穴のみ穿(うが)ちたり。

われ夢む新(あらた)なる花今さらに、
洗はれて河原となりしかゝる地に
生茂(おひしげ)るべき養ひをいかで求め得べきよ。

あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命(いのち)を食ひ、
黯澹(あんたん)たる「仇敵(きうてき)」独り心にはびこりて、
わが失へる血を吸ひ誇り栄ゆ。
2004 11・14 38

* 風雨。けれど、空気は乾燥し眼は痛む。

* 秋の歌  シャアル・ボオドレェル  荷風訳

吾等忽(たちま)ちに寒さの闇に陥(おちい)らん。
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
薪(たきゞ)を投込むかなしき響(ひゞき)。

冬の凡ては――憤怒(いかり)と憎悪(にくしみ)、戦慄(をのゝき)と恐怖(をそれ)や、
又強ひられし苦役(くえき)はわが身の中(うち)に.返り来る。
北極の地獄の日にもたとふべし。
わが心は凍りて赤き鉄の破片(かけら)よ。

われ戦慄(をのゝ)きて薪(たきゞ)を投ぐる響をきけば、
断頭台(くびきりだい)を人築く音なき音にも増りたり。
重くして疲れざる戦士の槌の一撃に、
わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟(ものみか)。

かゝる懶(ものう)き響に揺られ、揺られて、何処(いづこ)にか、
いとも忙(せは)しく柩(ひつぎ)の釘を打つ如き……そは、
昨日(きのふ)と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声は、
さながらに死者を葬る鐘にも似たり。

きれ長き君が眼(まなこ)の緑の光ぞなつかしき。
いと甘かりし君が姿もなど今日の我には苦(にが)きや。
君が情(なさけ)も暖かき火の辺(ほとり)や化粧の室(へや)も、
今のわれには海に輝く日に如(し)かず。

さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如(ごと)かれ、忘恩の輩(ともがら)、ねぢけしものに。
恋人か将(は)た妹(いもと)か。うるはしき秋の栄(さかえ)や、
又沈む日の如く束(つか)の間の優しさ忘れたまふな。

定業(さだめ)は早し。貪(むさぼ)る墳墓はかしこに待つ。
あゝ君が膝にわが額(ひたひ)を押当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟(やはらか)くして黄(きいろ)き晩秋の光を味(あぢは)はしめよ。

* 譬えて謂えば永観堂の紅葉に匹敵するのは、このボオドレエルの秋の詩。政治でも宗教でもない。そんなものと共に生きてはいられない。「さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。母の如(ごと)かれ、忘恩の輩(ともがら)、ねぢけしものに。恋人か将(は)た妹(いもと)か。うるはしき秋の栄(さかえ)や、又沈む日の如く束(つか)の間の優しさ忘れたまふな。 / 定業(さだめ)は早し。貪(むさぼ)る墳墓はかしこに待つ。あゝ君が膝にわが額(ひたひ)を押当てて、暑くして白き夏の昔を嘆き、軟(やはらか)くして黄(きいろ)き晩秋の光を味(あぢは)はしめよ。」
2004 11・15 38

* 腐 肉  シャアル・ボオドレェル  荷風訳

わが魂などか忘れん、涼しき夏の
晴れし朝(あした)に見たりしものを。
小径(こみち)の角、砂利を褥(しとね)に
みにくき屍。

毒に蒸されて血は燃ゆる
淫婦の如く脚(あし)空ざまに投出(なげいだ)し
此れ見よがしと心憎くも
汗かく腹をひろげたり。

照付(てりつ)くる日の光自然を肥(こや)す
百倍のやしなひに
凡てを自然に返すべく
この屍(しかばね)を焼かんとす。

青空は麗しき脊髄を
咲く花かとも眺むれば、
烈しき悪臭野草(のぐさ)の上に
人の呼吸(いき)をも止むべし。

青蠅の群(むれ)翼を鳴らす腐りし腹より
蛆蟲(うじむし)の黒きかたまり湧出でて、
濃き膿(うみ)の如くどろどろと
生ける襤褸(らんる)をつたひて流る。

此等(これら)のもの凡(すべ)て寄せては返す波にして、
鳴るや、響くや、揺(ゆら)めくや。
吹く風に五体はふくらみ
生き肥(こゆ)るかと疑(あやし)まる。

流るゝ水また風に似て
天地(てんち)怪しき楽(がく)をかなで、
節(ふし)づく動揺(うごき)に篩(ふるひ)の中なる
穀物の粒の如くに舞狂へば、

忘られし絵絹(ゑぎぬ)の面(おも)に
ためらひ描く輪郭の、
絵師は唯(た)だ記憶をたどり筆をとる、
形は消えし夢なれや。

巌(いは)の彼方(かなた)に恐るゝ牝犬(めいぬ)。
いらだつ眼(まなこ)に人をうかゞひ、
残せし肉を屍(しかばね)より
再び噛まんと待構(まちかま)ふ。

この不浄この腐敗にも似たらずや、
されど時として君も亦(また)、
わが眼(め)の星よ、わが性(せい)の日の光。
君等、わが天使、わが情熱よ。

さなり形體(けいたい)の美よ、そもまた此(かく)の如(ごと)けん。
終焉の斎戒果てて、
肥えし野草(のぐさ)のかげに君は逝(ゆ)き
白骨の中(うち)に苔むさば、其の時に、

あゝ美しき形體よ。接吻(くちづけ)に、
君をば噛まん地蟲(ぢむし)に語れ。
分解されしわが愛の清き本質(まこと)と形とを
われは長くも保(たも)ちたりしと。

* ボオドレエルがすでに欧州の近代の、かかる爛熟と終焉を歌っていたとき、日本は性急な近代へと烈しい葛藤の速歩を強いられていた。三百年を三十年で駆け抜けようとしていた。ああ、無惨な試煉であったこと。
2004 11・16 38

* 月の悲しみ  シャアル・ボオドレエル 荷風訳

月今宵(こよひ)いよゝ懶(ものう)く夢みたり。
おびたゞしき小布団(クッサン)に翳(かざ)す片手も力なく、
まどろみつゝもそが胸の
ふくらみ撫づる美女の如(ごと)。

軟かき雪のなだれの繻子(しゆす)の背や、
仰向(あふむ)きて横(よこた)はる月は吐息(といき)も長々と、
青空に真白(まつしろ)く昇る幻影(まぼろし)の、
花の如きを眺めてやりて、

懶(ものう)き疲れの折々は下界の面(おも)に、
消え易き涙の玉を落す時、
眠りの仇敵(きうてき)、沈思(ちんし)の詩人は、
そが掌(てのひら)に猫眼石(ねこめいし)の破片(かけら)ときらめく
蒼白き月の涙を摘取りて、
「太陽」の眼(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。

そゞろあるき  アルチュウル・ランボオ 荷風訳

蒼き夏の夜(よ)や、
麦の香に酔(ゑ)ひ野草(のぐさ)をふみて
小みちを行かば、
心はゆめみ、我足(わがあし)さわやかに
わがあらはなる額(ひたひ)、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。
われ語らず、われ思はず、
われたゞ限りなき愛、
魂の底に湧出(わきいづ)るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。

ぴあの  ポォル・ヴェルレエン 荷風訳

しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色(うすばらいろ)の夕(ゆふべ)に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして快(こゝろよ)き
すたれし歌の一節(ひとふし)は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の移香(うつりが)こめし化粧の間(ま)にさまよふ。

あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節(ふし)、何をか我に思へとや。
一節毎(ひとふしごと)に繰返す聞えぬ程のREFRAIN(ルフラン)は
何をかわれに求むるよ。
聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。

* 人間の営みを何と名付けてよいか。気まぐれか。ものぐるいか。欲か得か。絶望か。希望か。
2004 11・17 38

* 道 行  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

寒くさびしい古庭に
二人の恋人通りけり。

眼(まなこ)おとろへ脣(くちびる)ゆるみ、
さゝやく話もとぎれとぎれ

恋人去りし古庭に怪しや
昔をかたるもののかげ。

――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。
――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。

――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、
お前の心はいつも私(わたし)を夢に見るか。――いゝえ。

――あゝ私等(わたしら)二人脣(くち)と脣(くち)とを合した昔
危(あやふ)い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。

――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。

烏麦繁つた間(なか)の立ちばなし、
夜より外(ほか)に聞くものはなし。

夜の小鳥  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

鴬は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲(かしわ)の木の
頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジュラック)

霧たち籠(こ)むる河水(かはみづ)に樹木の影は
煙の如くに消ゆ。
その時影ならぬ枝の間(あひだ)より何処(いづこ)とも知らず
夜(よ)の小鳥は泣く。
あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、
青ざめし君が面(おもて)を眺むらん。
いかに悲しく、溺れたる君が望みは
高き梢に嘆くらん。

* 『珊瑚集』の解説を、佐藤春夫は、「荷風先生は毅然たる現実主義精神を抱いた散文作家であると同時に、一面には嫋々たる抒情詩人である。この両面を解して後はじめて先生が真面目に接し得られるといふべきである」と書き始めている。昭和十三年夏に書いている。春夫はまだ太平洋戦争の荷風、戦後の荷風を見ていない。
「珊瑚集」を起稿していると、ぜひ上田敏の「海潮音」も「ペン電子文藝館」に残したいと思えてくる。そういうことを思い立っているときが、幸せである。まぎれもない藝術の別世界が厳として時代を超え世界を越えて此の小さな胸に蘇るありがたさ、これをしもはかないとは思わぬ。これをしもまことなしとは云わぬ。政治や宗教に対する嫌悪・厭悪はもういかんともすること叶わないが。
2004 11・18 38

* 暖き火のほとり  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

暖き火のほとり、燈火(ともしび)のせまきかげ、
片肱(かたひぢ)つきて頭(かしら)支(さゝ)ふる夢心地、
愛する人と瞳子(ひとみ)を合すその眼とその眼、
語らふ茶の時、閉(とざ)せる書物、
日の暮れ感ずるやさしき思ひ。
くらきかげ、静けき夜をまつ時の
いふにいはれぬ心のつかれ、
あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。
幾週日(いくしうじつ)の遣瀬無(やるせな)さ、
猶(なほ)ひたすらに其等(それら)を追ふ。

返らぬむかし  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

あゝ遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや、
衰へ疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、
風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光(ひかり)漏れ落(おつ)る時なりき。

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃(ひらめ)く目容(まなざし)は突(つ)とわが方(かた)にそゝがれて、
輝く黄金(こがね)の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

打顫(うちふる)ふ鈴の音(ね)のごと爽(さわやか)に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほゝゑみ)にて、
われ真心の限り白き君が手に吻(くち)づけぬ

あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然(しか)り」と頷付(うなづ)く初めての声。あゝ其の響はいかに。

* 荷風自身の「永井」と朱の検印ある昭和十三年九月一日初版の文庫本からスキャンすると、もののみごとに騒然雑然の文字が識写されて出る。原本が総ルビのうえに活字はとうに劣化して、半分がた薄れている。それを眼を凝らして読み取り読み取り上のように正確に起稿し、無用のルビは割愛している。煩わしいそんな作業がむしろ楽しめるほど荷風の言葉はなつかしい。こういう情調にわたしが心酔するのではない、こういう言葉を駆使して仏蘭西の抒情詩を日本に移植しようとした荷風の思いが懐かしまれる。いずれ近いうちに「ペン電子文藝館」に掲載するのだが、この「私語」に耳をかして下さる人へのホンのお裾分けの気持ちも、いささかメッセージを送り出すほどの洒落気もある。だれがどのようにメッセージを聴かれるかは知らないが。
2004 11・19 38

* インフルエンザの予防接種を受けに行く、これから。
ポストへ上島史朗先生への手紙を入れるためにも。
高校の一年生で、わたしをもっとも新鮮な喜びで迎え入れたのは上島先生の現代国語の時間であった。先生は「ポトナム」同人の歌人であられた。わたしは同人誌に入る気はさらに無かったし先生も一度もそんな誘いはされなかったが、わたしは三年間、先生に短歌稿を提出し続け、先生はそれに丁寧な、だが寡黙な爪印をして返された。そのようにしてわたしの唯一の歌集『少年』は出来ていった。先生方数人で学内でされていた短歌会に、わたしも生徒でありながら呼び入れて下さったのも上島先生であった。
時間外に、恭仁京などへ有志の生徒達を連れて行って下さった。古代史へむかう強い刺戟になり、確実にその体験がわたしの『みごもりの湖』創作へと、のちのち結びついた。
まだ作家でもなかったわたしに先生は先生の第一歌集を下さり、その拙い感想文を「ポトナム」に転載して下さった。わたしの文章でもっとも早く活字になった一つである。
先生は、師範学校と、大学の漢文科、国文科を卒業され、終始一貫公立学校の教師をつづけられた。もう九十にもなられていて、歌人として現役の同人であり歌集は編を重ねて、最新の『比叡愛宕嶺』は、わたしの思いでは絶頂の達成、私なりにつけている爪印は、滅多になく数多いのである。深い感謝と敬意の表現に、はやくから上島短歌を「ペン電子文藝館」の招待席に招くのは十分に正当必要と願ってきた。そのことを先生にご報告しようというのである。
2004 11・19 38

* 心なんて、なにの頼りにもならない。 あら何ともなの さても心や と昔の人も身にしみて知って嘆息していた。「さても(ひと=他人)のこころや」とは呻いていない、そこ(底)が、深い。マインドでこだわるから嘆くことになる。欲も深いのだ。なんてかなしい生き物だろう、人間は。

* ありやなしや  シャアル・ゲラン 荷風訳

よしや反響のきかれずとも、物には凡て随ふ影あり。
夜来(よるきた)れば泉は星の鏡となり、
貧しきものも人の恵に逢ひぬべし。
澄みて悲しき笛の音(ね)に土墻(ついぢ)は立ちて反響を伝へ、
歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、
蘆の葉は蘆の葉にゆすられて打顫(うちふる)ふ。
憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心(ひとごころ)、
あゝ、そはありやなしや。

* 告白  アンリイ・ド・レニェエ 荷風訳

まことの賢人は永遠(とこしへ)の時の間(あひだ)には
一切の事凡(すべ)て空しく愛と雖(いへど)も猶(なほ)
空の色風の戦(そよ)ぎの如く消ゆべきを知りて
砂上に家を建つる人なり。

されば賢人は焔の燃え輝き消ゆるが如くに
開きては又散る薔薇(さうび)の花を眺め、
殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて
浮世の人と物とに対す。

疎懶(そらん)の手は曉の焔と
夕炎(ゆふばえ)の火をあふらざれば
夕暮は賢者に取りて傷(いたま)しき灰ならず、
明け行く其の日は待つ日なり。

移行くもの消行くものの中にありて
我若(も)し過ぎ行く季節に咲く花の枯死(かれし)すは、
これそが定命(ぢやうみやう)とのみ観じ得なば
亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。

然(しか)るに纏綿(てんめん)たる哀傷の心切(せつ)にして
われは悔いと望みと悲しみに
又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて
わが身を挫(ひし)ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。

いかにとや。砂上の薔薇(さうび)の香気(かんばせ)も
吹く風の爽(さわやか)さ、美しき空の眺めさへ
永遠(とこしへ)の時の間(あひだ)にも一切の事凡て空しからずと、
我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。

* 仏蘭西の詩人達も日本の詩人も、心に嘆き傷ついていた。なんといういとおしい生き物だろうか、人間とは。
2004 11・19 38

* 返らぬむかし  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

あゝ遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや、
衰へ疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、
風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光(ひかり)漏れ落(おつ)る時なりき。

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃(ひらめ)く目容(まなざし)は突(つ)とわが方(かた)にそゝがれて、
輝く黄金(こがね)の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

打顫(うちふる)ふ鈴の音(ね)のごと爽(さわやか)に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほゝゑみ)にて、
われ真心の限り白き君が手に吻(くち)づけぬ

あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然(しか)り」と頷付(うなづ)く初めての声。あゝ其の響はいかに。

偶 成  ポオル・ヴェルレエン 荷風訳

空は屋根のかなたに
かくも静(しづか)にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。

打仰(うちあふ)ぐ空高く御寺(みてら)の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。

あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来(きた)る。

君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く、
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
2004 11・20 38

* ボジョレーヌーボーの余韻がある。さわやかな果実の薫りがした。脣にふれて秋が歌うようであった。

* ロマンチックの夕  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ 荷風訳

夏よ久しかりけり、われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵は遂に打ち負けて、身中(みうち)つかるゝまでの快(こゝろよ)さ。

われ小暗(をぐら)きリラの花近く、やさしき橡(とち)の木蔭に行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如し。

よろづの物われを惑(まどは)しわれを疲らす。行く雲軽く打顫(うちふる)ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来る。

列車は過ぎたり。燃(もゆ)るよろこびよ。その響(ひゞき)空気をつんざく。神経は破(やぶ)れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。

あゝわれ此宵(こよひ)、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチックなる事柳のかげにも優りたる吾心(わがこゝろ)の懶(ものう)き疲れを、かの人は吸ふべきに。

われ彼(か)の人に、「誘(いざな)ひしは君ならず、そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如くにふくれしむ。

されど君はあまりに若ければ、黄金(こがね)の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん夜(よる)にのみ。

あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜り泣きの声、煙りし空に上り行けり。

うるはしき夜(よる)のみ眺めて語りたまふな。傷(いたま)しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん脣に、消えも失(う)せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯泣きたまへ。」と語るべし。

* 久しぶりに加藤紘一が高村元外相と、いまの外務副大臣と三人で、田原総一朗の番組に出ていた。加藤の物静かに譲らないイラク派兵否認の言葉のみが耳に残った。
それにしても、笠間でみてきた楽茶碗たちの美と確かさ。ボジョレーヌーボーの秋を刺し抜く爽快。そして十九世紀の伯爵夫人の深い吐息。それを写す荷風の詩性。そしてそして小泉政治の腐臭や北朝鮮といいアメリカといい吐きけをもよおす覇欲の傲慢。片方だけを選べない現代の悲歎。
2004 11・21 38

* 「ペンの日」に紹介されたある女俳人に、「ペン電子文藝館」出稿を勧めておいたら、師匠の「許可」を得てからぜひお願いしたい、と、句集を送ってきた。
自身の文学の処置に他者の許可が必要、と。何なんだ、それは。わたしの最も厭悪し唾棄するところ。この話はなかったことにと出稿の慫慂を取り下げた。
かつて医学部医局内の医者が論文を出すのに、教授と連名か許可無しでは出来なかったのと同じ、というより、それより遥かにひどい。医学の成果はいくらか共同のシマの成果であることが多いから、教授に専権のあり得ることもある。
俳句といい詩といい短歌といい、小説と云い、文学者は、出来不出来は兎も角自分の力で創作し自己責任を尽くしている。たとえ師弟の中とはいえ「許可」を得る「許可」を与えるようなものであっては成らない。どういう気と判断とで「日本ペンクラブ」や「日本文藝家協会」の会員になったというのか、馬鹿馬鹿しい。
2004 12・1 39

* 上島志朗逝去のお知らせ
秦恒平様  突然のメールで失礼致します。
父は12月3日午前1時52分、入院先の室町病院にて91歳の生涯を終えました。
なお、先日、秦様から父にいただいたお便り(PENクラブHP登載の件)につきましては、病床の父の耳に入れさせていただいておりますので、ご安心ください。
場違いのところにメールを差し上げていることと思いますが、急なことでもあり、失礼の段、お許しください。まずはお知らせまで。 上島喜佐夫

* ご子息のお名は初めて存じ上げる。下記の手紙を今は亡き先生に差し上げたのが十一月十八日であった。なお、「史朗」は筆名とされていた。いつぞやの折に、わたしがご本名を間違えて「史朗」と書いたのを、お手紙にどっちでもいいんですと謂われて、いつかその後その間違いが筆名に代わっていたような、そんな申し訳ないような、妙に嬉しいような記憶がある。

* 刻露清秀 秋深まり、冬の到来さえ今年ははやばや感じられます。どうかお変わりなく日々ご平安にお過ごし下さいますよう。
まことに私一存の勝手なことをいたしましたお詫びを、そして、あらためてお願いを申し上げます。
以前に頂戴しました御歌集『比叡愛宕嶺』の一冊を、私が、責任者を務めおります日本ペンクラブの「電子文藝館」招待席へ、ぜひお招き入れ申したく、我が手で、全冊全作品を電子化し、すでに本館に掲載展示の上、世界中へ発信させて頂いて居ります。
これは私のかねて秘かな強い念願で御座いました。どうかご寛恕給わりますようお願い申し上げます。お聴し下さいませ。
別紙に「ペン電子文藝館」掲載分と、現在の、おおよその展示内容をお届け致します。すこし資料の字の小さいのが申し訳ありませんが、あらましをご推察下さいませ。
また申し訳なく御作品に誤記が生じたりしておりましたなら、むろん訂正致しますので、ご面倒ながら、どの歌の何処をどう直すようにと仰せ下さいますよう。詞書は、一体に電子文藝館では略しております。過去のご歌集の全部から選歌して頂くことも考えましたが、それではご負担もかかり、また私は『比叡愛宕嶺』のお作がことに好きで御座いましたので、躊躇いなく全作戴こうと独断致しました。ご無礼、お許し下さいませ。
内容は、もしお近くにお若い人でインターネットの扱える人に見せて貰って下さいまし。
パソコンは電子の杖。老境には有り難い利器です。先生も、お目さえ宜しければ、電子メールで、二人歌仙など巻けると楽しいななど想い願い居ります。
お大切にお過ごし下さい。一度お目に掛かれると佳いのにとも願い居ります。

* 創作も「湖の本」すべても、むろん「ペン電子文藝館」の仕事も、「国語」そして短歌制作等を教わった恩師へ、教え子からするひたぶるの「答案」提出であった。本心そうであった。今…言葉もない。

* 上島喜佐夫様
御訃報ただいま拝見し呻きおります。何ともかとも言葉を喪い、悲歎この上ないありさまです。
残念無念、百歳までものご健闘を願っておりましたが……。
この上は先生の冥途ご平安とご安楽を心よりお祈りし、ご遺族のお心をお察しして共に深く悲しみます。
教え子の一人として御恩に報じますどころか、終始一貫ただお助けいただいてばかり居りました。
心より頭をたれて御礼申し上げます。
電子文藝館「招待席」にお招き申したいと願い居りましたのが、かつがつご生前に間に合いましたのも、今となれば悲しみを増します。お目に掛かる折あらば、あれもこれも、ああもこうもお話し合いしたいと、我が家でも何度も何度も申し居りながら、余儀なく気を逸しましたのも、後進の怠惰怠慢であったと切に悔いられます。おゆるし下さいませ。
只今より、私の喪に服し、先生とさしむかい心からの対話に過ごしたいと存じます。

師のきみの俤もお声もわれに在りて五十年は夢ならず嬉しきものを
比叡愛宕嶺 師のひとのわれにあれ観よと平生心をおしへたまひき

平成十六年師走五日   秦 恒平 合掌

* 悲しいことは、ただ悲しい。
2004 12・5 39

* 佳い句集をいただいた初めの方に、「お白酒まづは女人にほがひする」という一句、少し立ち止まる。
古代の辞書や文献にも「ほがふ」「ほがひ」と濁った用例はない。濁点を打たない風はあるものの、万葉仮名にも「加」と書いてある。それよりも意義であるが、祝ふ・祭るの意味は公式の行事等に触れた用例では、辞典にも、そう有る。だが、どういう祝い方で祭り方であったかは、むしろ民俗学の究明が詳しくて、必ずしもおめでたい慶祝とばかりは謂いがたい半面がある。
「ほかひびと」は、祝言して歩く「ものもらい、こじきふうの行路の藝人」の意味であり、なにを貰うかというと、「ほかひ」の食べ物を貰って行く。その御魂に備えた食べ物にも、家の者が大事に喰う祭食もあれば、犬猫乞食のために戸外へなげ棄てるのもある。
と謂うのも、まつるべき精霊にも、家中に親しい親しい新御魂もご先祖精霊もあれば、無縁で迷い来る精霊もあり、その外精霊(ほかじょうろ)らに、大事な供物を持ってゆかれないため、別に粗末なのを用意して、みたまの棚の端の方や外や下に置く、それも先にそれを「ほかひ」しておいて、そのあとで鄭重にすべきものに祭り備える。
そんないわば精霊への差別的な扱いが、いつ知れず久しく行われてきたから、粗末な方の「ほかひ」ものを貰い歩くような世外・人外のものたちが「ほかひびと」と呼ばれ、また近世には、ならずものの「法界坊」ともなってきた。
上の句はうやうやしく親しく祭る風情の、雛の日の句であると読めるが、「ほかい」はまた行器、皿(さらか・さらき・ほとき・ほとけ)の別名であり、「ほかひ」の食べ物は、この「ほかい」に盛る、のである。それとても土器木器と限らずに、時には「柿の葉」などを代用する。「柿の葉め」と罵る言葉もあるのは、「ほかひびと」やそれに準じた世外無用の者らへの侮蔑の言であった。家にあれば笥(ケ)に盛る飯を、旅中はものの葉に盛って食べると、悲痛な有馬皇子最期のうたがある。「ほとけ・ほとき・さらき」等の「き・け」に通うのであり、必ずしも木や竹の「笥」というより、たんに「器」に等しい。
作家大佛次郎の「仏」は「さらき」の孤独な用例であるらしいが、これも謂うまでもなく、南都東大寺の大仏さんではなく、「ほかひ」のための大きめな行器の名を謂うている。死人死霊を「ほとけ」と言い習わしてきた日本の民俗は、なにも佛教由来であるよりも、「さらき」などで「ほかひ」される者タチの意味であった。大佛(おさらぎ)は貴重なその表明になっている。
上の句は、「ほがひする」の原意や遠意を、思い切りおめでたく美しく理解し転用した例であろうか。
2004 12・22 39

* 冬の朝には詩がある。静かに、ある。
2004 12・24 39

* 出遅れているうち雪がさかんに降りだした。幸い巡回のバスが来て駅まで乗れた。
今年は東武デパートまでまわらず、何もかも池袋西武で調えた。京都の白味噌、1.5キロ。蛤、36個。干支の箸紙。年越し蕎麦のための海老天麩羅。来年の「湖の本」用の大判ダイアリー。妻のため春のお祝いに花をたくさん。そして、衝動買いの大きな「たらば蟹」を二パック。
何処へも寄らず、重い大きな荷をさげて、雪の西武線で保谷駅へ戻る。幸いにうまくタクシーが来てくれた。
雪といふ不思議なもののふる我ぞ    遠
2004 12・31 39

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