* 謹賀新年 二○○六年 元旦
七十路(ななそじ)に踏ン込んでサテ何もなし
有るワケが無し夢の通ひ路 七十郎
歩みこしこの道になにの惟ひあらむ
かりそめに人を恋ひゐたりけり 十六歳
萬福脩同 心よりご多祥をお祈りします。 秦 恒平
旧臘古稀を迎え、文庫本歌集『少年』(短歌新聞社)を以て自祝、
京都で、坂田藤十郎襲名の顔見世狂言を楽しんできました。
家内も四月には古稀。夫婦してもう暫く遊び暮らしてまいりたく。
「湖の本」は、やがて八十六巻を数え、吾々の喜寿より幾足も早く
米寿・卒寿を迎えますが、共々にほどよい潮時をはかっています。
逃げ腰では、とても…のけわしい老境を創造的に在るがままにと。
2006 1・1 52
* 迎春
あらたまの年の初めのことほぎを めでたくおさめ申候
しばらくでございました 暮れには「少年」をお送りいただきましてありがとうございました お礼遅くなりましたこと お詫び申し上げます
私事 多々繁忙のため あちら様 こちら様に言い訳がましく 上目使いで頭を下げているこの頃です 三月には定年を迎え 少しは私の時間があるはずです 何事も それからゆっくりと考えることにしておりますが .... さて
ほんとうに好い年になりますよう この世情の中に 私を如何に対峙させるかこれも これから考えましょう 限りある時間の使い方もあわせて
秦様のますますの ご清祥と ご健康を祈ります 女子大教授
2006 1・2 52
* お正月に、先生の「少年」を拝読させていただいております さわやかな、清潔な、命のいきぶきに触れた思いの中におります。 俳人
2006 1・2 52
* 「少年の文庫版ありがとうございました。いまさらながら、これが歌、と思います。」と、歌人の来島靖生氏。
2006 1・3 52
* 「御歌集『少年』拝受。多謝。
「なるほどね…」と、しばし沈思いたしました。
電子メディアの時代にも日本文藝の灯を消したくないものであります。」と東京大学教授・作家の西垣通さん。
*「旧臘は『歌集少年』を御恵贈下さいましてまことに有難うございました。
小泉首相の所為で日本が壊れつつあるのを感じます。日本社会の大事なもの、例えば”生活”とか”平和””アジア””民主主義”を、ノー天気に壊しているのです。」と元岩波書店の高本邦彦さん。この人が、提案一発でわたしに『最上徳内』連載を決めてくれたのだった。
2006 1・3 52
* 七十路(ななそじ)に踏ン込んでサテ何もなし有るワケが無し夢の通ひ路 という年頭の述懐歌の、四句まではそのまま読めるが、「夢の通ひ路」と結んである意味は如何とメールで問われている。
* 「夢の通ひ路」の句は、百人一首の一枚札に「住の江の岸によるなみよるさへや夢の通ひ路ひとめよくらむ」(藤原敏行朝臣)とあり、この歌では「愛・恋」を誘う道の意味になっている。もとよりわたしの思いは色恋の「通ひ路」では、ない。
年齢を数えてただ歩んできた現象的な人生は、さながら「夢」に夢見ている「私」という、「夢」に同じい幻影・幻像の通ってきた道、でしかない。七十になろうとなるまいと、少なくも大分前からわたしはそう実感している。その通路上に起きたさまざまは、いわば私の久しい「抱き柱」であった。だが、そんな柱なんて、じつはどこにも実在しない。「私」と思ってきた自分は、現象=夢にすぎない日々に、わりと真面目に、熱心に「ペルソナ=仮面=配役=夢」を演じてきたし、まだ当分は演じ続けるけれど、続けようと続けまいと、それはそれだけのこと、実在(リアリティ)ではない。現象から離脱したリアリティ(本性)は行き先の予定された「通ひ路」など持っていない。説明されるようなものでないから「リアリティ」なのだろうと想像している。「少年」だろうが「老年」だろうが現象という幻影に過ぎないし、そんなものは、つまりそんなもので、「有るワケ」がない。無いのである。そう知ってはじめて「ペルソナ」にも成れるし楽しめる。
2006 1・3 52
* 『少年』ありがとうございました。
青い時と云うのは素的ですね。
私が、始めて御目にかかった時には、もうこんなことしてらっしたんだと思ったら、涙が出そうです。
古希だから、私は年が明けるとすぐ、子供にかへろうかなあと、髪をオカッパにしたところでした。
私の場合は、形だけかも知れません。
私達も見事にとしをとりましたね。
幕を閉める芝居は、私、結構上手いと思っていましたが、人生の幕は上手にひけますかどうか?
ま、生きている間、身体が動けば、役者と云う仕事、續けてみたいと思っています。
「ラストシーン」見て下さったお礼もまだでした。
良いお年でありますように。 原 知佐子・女優
* 大学へはいる進学適性検査の日、まぢかに、「美学」志望の原(田原)知佐子がいて、わたしの面接教授がたまたま「美学」の主任教授であって、何を勉強するかと聞かれ、「歴史」のつもりであったのに、「美学」をと呆気なく路線を切り替えた。あれでよかったのかしらん。家に帰って「美学」にしたよと報告すると、父も母も「ヘッ」と絶句した。しかしまあそれほど田原さんの美貌は光っていた。だから、あれれというまに日活のニューフェースとして銀幕のかなたに飛んでいってしまったのも、致し方は無かったのである。ハハハ
2006 1・3 52
* 謹んで初春のお慶びを申し上げます。元気に新年を迎えています。
日本語では、ウツ「空」という言葉とウツツ「現」という言葉がひとつながりの言葉であると読んだことがあります。「何もない状態をあらわすウツから何かが実在していることを示すウツツという言葉が親類のように派生して」いったというのは面白いと思いました。このウツとウツツの間を行き来して、「をかし」とも「あはれ」とも、生き生きと楽しんでください。
益々お幸せな一年でありますように。 初春
* このウツツ説はかなりあやしい。
空穂(うつぼ) 空洞(うつろ) 空蝉(うつせみ) のように、「うつ」が空虚・からっぽを含意した接頭語であるのは確かであるが、「うつつ」が、「何かが実在していることを示す」かどうか、実はそのように思われがちな「現実」もまた「うつ(の)幻」に過ぎないと認識していった経緯が、「語」の歴史的な展開に認められている。
うつが夢で、うつつが実在を意味したのでなく、そのように思いたいけれども、実は、現実もまた「うつろの夢」にひとしいと、時代を追って日本人は分かって行き、「夢うつつ幻」と、複雑な表情の「一語化」が進んでいったことは、中世に編まれた事典・字典などに指摘されている。
「うつつ」とは「実在(リアリティ)」どころか、「ゆめまぼろし」のごとくなる単なる仮象、それを認め損なって「確かな寄る辺」と誤解すると、とんでもなく「浮き漂って」しまうと、例えば閑吟集の小歌などは、端的に鋭敏に自覚している。この場合の「うつ=空」はブッダのいわく「空=くう・無」とは似て遠く非なる、ただのカラッポの意味。その意味では「うつつ」もまた「からっぽ(の)」状態を示唆している。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
くすむ人 というのが、「うつつとは実在性のこと」と軽信する、「似て非な真面目屋」のこと。むしろ「一期は夢」と言い切るときに、人は真の「覚性」に手をかけている。
「うつつ」とは、今日の冒頭にわたしの謂う、「夢の通ひ路」に過ぎない。実在(リアリティ)とは何の関わりもない。
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
とは、「うつつ」と「夢」とを無意味に分別してみせる「真面目屋さんの誤解」を鋭く批評している。閑吟集の時代には、鎌倉以降の禅風がかなり民間にまで浸透していたし、戦国戦乱の無常からも彼等は多くを受け取っていた。「うつつ顔」は明らかに此処で嗤われており、しかもそれは「夢とうつつとが分かちがたい」ことを知らない迂闊さを嗤っていたのである。事情は平成の世にも変わりはしない。「夢うつつ幻」に何かの真実を求めても、「有るワケが無」いのである。わたしはそう感じている。
2006 1・3 52
* お年玉届きました。 ~昴
明けましておめでとうございます。
『少年』届きました。ありがとうございます。出版社に直接注文すれば良かったのですが、そのことに気づいたのは住所をお知らせした後でした。お手数、おかけして申し訳ありませんでした。
まだ数首しか読んでいませんが、本当に少年が詠んだの? と思うような言葉ばかりです。
山頂はかぜすずやかに吹きにけり幼児と町の広きをかたる
の歌は、なぜ幼児と一緒にいたのだろうと思いながら、高校生のころ、図書館で知り合いの子と一緒にいたことがあるのを思い出しました。
『最上徳内』は、江戸時代も、小林多喜二の時代も、今も大して違いがないなと思いながら、ゆっくり読んでいます。終わったら、別の湖の本を注文するかもしれません。
五日からのご旅行、天気に恵まれるといいですね。お気をつけて。
2006 1・3 52
* 去年今年。早や三日となりました。
ご著書を有り難うございました。軽い文庫であります。ふと山へ行くときに、旅の声として持っていけます。
歌をよみますと、昭和三十年の時代の香りと映像と空気がありますね。
『年譜』を食い入るように読みました。
信条、主義、主張、その他異なれど、「闇」の「言い置く」は、例えば『龍の桜』でありましょう。
天に登る勢いを。 川崎 E-OLD
2006 1・3 52
* 歌集「少年」惜しむように味わっております。 同志社大学名誉教授
2006 1・3 52
* 百人一首の御解説 私にはとても有難く拝読しました。 父方従兄
* 歌壇も混迷を深めているようです。 歌人 山形市
* 電話して、この高橋光義さんの『哀草果秀歌二百首』を「ペン電子文藝館」にもらう。いま校正しているが、館でもピカ一級の選歌である。
2006 1・3 52
* 歌集「少年」 驚嘆するばかりです。 佛教学者 新潟
* 歌集読むたびに世界がひろがります。ありがとう。 同窓・京都
2006 1・3 52
* 冬至に古希を迎えられた由、お慶び申しあげます。
歌集「少年」、大晦日に拝受いたしました。年譜を眺めながら感慨ひとしおです。
医学書院以来の長い道のりを私も今日までただひたすら、一途に歩き通してきました。
いまは家内と二人暮し。私も八月に古希を迎えます。 ハードボイルド翻訳家
* 職場の後輩に、早稲田を出てきて、学生自分からのミステリーやハードボイルドの翻訳仕事を盛んにやっている人がいた。書き仕事という点ではわたしの先輩であったし、わたしがひそかに小説など書こうとしているのを知ると、雑文を書いてみないかなどと薦めてくれた。そういう真似はわたしにはムリだった。この人は、多分わたしが太宰賞をもらうより前に退社した。筆名での翻訳本の広告をときどき見かけた。
社内に机を並べていたころ、奥さんの妊娠を容易にすべく専門医を紹介してくれないかと頼まれ、築地産院の竹内繁樹院長のところへ奥さんを連れて行ったことがある。その診察の結果はよく、無事に赤ちゃんが出来たというような噂も聞いた。日本ペンクラブにも名前を連ねていた時期があったが退会したらしい。何十年一度も会わなかったが「少年」を送った。
* あふれ出る思いを一気に書きあげた歌を読ませていただき、感動しました。
朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふくつぬぎ石に光とどけり 恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにじませて都電せまり来(く) 迪子
どれもこれも素晴しく、何度も読ませていただきました。 俶・大阪市
* ほんのかぎられた知友に、この二首で、結婚を通知にした。新宿区河田町のアパート「みすず荘」に六畳一間を借り、新婚の新居にした。近くの若松町から都電に乗り、飯田橋、お茶の水も経て万世橋のちかくで乗り換え、本郷五丁目の医学書院へ通勤した。慣れると順天堂前で都電を乗り捨て、会社まで歩いた。その方が遅刻の心配が少なかった。
当時わたしは定期券以外に、長い間財布を持ってなかった。余分の一円も使えなかった。会社では、食券十五円の白い丼飯と味噌汁の昼飯。汁を飯にぶっかけ、ときどき、備えてあるソースか醤油の味を汁かけ飯にくわえて、それで一年も二年も過ごした。
小遣いができるようになると、少し背の高い岩波文庫古典の古本を見つけては買った。その中に『梁塵秘抄』があり白石の『西洋事情』があり『耳袋』の上巻だけがあった。
そんなビンボー暮らしの中から、三年して小説を書き始め、五年目には私家版をつくりはじめた。
結局わたしは四冊もの私家版で、百五十、二百部と、小説やシナリオ本を作ったが、妻はひと言も苦情を言わなかった。表紙の繪をいくつも描いてくれた。かかった制作費用は、四冊とも足すと、信じられないほど莫大であった。
後に、古書の市場で「四冊」五十万円以上していたときは、思わず唸った。すでにわたしの懐とは無縁な、よその売り物でしかなかった。しかし、一度も手持ちの私家版をその手の古本屋になど持ち込まなかった。
2006 1・4 52
* 御歌集「少年」のご恵授に与りありがとうございました。早熟な歌才に驚きつつ拝読しております。森秀樹君(=同僚委員)から時折、お噂を伺っております。機会あればお目にかかりたく存じております。 歌人
* 御高著「少年」 韻文のちからについて改めて考えさせられております。 多謝 近代文学研究者
2006 1・4 52
* 結城哀草果秀歌二百首を二度校正して、「ペン電子文藝館」へ、今年初の入稿。いい歌であった。
2006 1・4 52
* 新宿発、スーパーあずさに乗る。われわれの荷物は半ば建日子があらかじめ仕事場へはこんで帰り、今朝、提げてきてくれた。助かった。グリーン車を用意してくれていて、空いており、四人で、らくらくと広い席が使えた。
快適に走って、塩尻経由松本へ、すとんと着いた。美ヶ原の「王が頭ホテル」まで迎えのバスが来ていた。
あの山のテッペンまで行くのだと運転手指さして示され、言われ、ビックリ。二千メートル余、日本で最も高いところにあるホテルだそうだ。
松本市街を抜け出て山へ掛かると車はチェーンをつけた。もう雪道で。二千メートルというとあの比叡山の二倍半ぐらい高いんだと想う。運転手には慣れた運転なのだろうと、身を預けてしまった気分で、落葉松ばっかりの山の上へ上へ、うねりうねり登っていった。
直(ただ)に立ち山はら蔽ふ落葉松の根にしづまりて雪の真白さ
これしきの歌なら幾つでも口をついて出来るが、面倒くさくて頭から追いやる。
宿に着くまでに一時間半あまりもかかったろうか、おっそろしく乗り物が上下左右に揺れた。こんな高い山に登ったことは一度もない。
2006 1・5 52
* 年末には記念のご本をありがとうございました。何種類かの『少年』の中でも今回のものはひときわ小ぶりに愛らしく初々しく、ただただなつかしい、そんな思いでありがたく拝受いたしました。 上北沢
*「看護学雑誌」編集の頃の看護婦さん筆者の一人。わたしより少し年輩。数十年の懐かしい仲良かった友でもある。この人ものちのちエライ看護学研究者として大学の教壇に立っていた。朝日子が、わたしの注意を尻目に弓を引いたりバドミントンをやりすぎ、右の肱を傷めたとき、日赤へ入院の世話をしてもらったのが、この人。滑り台から落ちて腕を折り東大に入院したり。盲腸炎の術後をこじらせたり、朝日子もあれでけっこう吾々を心配させた。たくさん喜ばせて呉れもした。
*「少年」ありがとうございました。京都に住んでいてこそわかる趣きに少しだけ触れさせていただけたように感じたのですが、歌と京都が持つ奧の深さをおもうと私などにはとてもとてもという気もいたしました。 美術研究家 京都
* 保谷まで、京都からわざわざインタビューに来て下さったことがある。美大の先生。大学の恩師の追悼会だったか、すてきに感じの佳い人がいるなあと心惹かれたまま何も知らず東京に帰り、その当の人が保谷の田舎町へ突如現れたときはビックリした。いい記事に纏めて頂き、それも湖の本に入れてある。ずうっと湖の本も講読し感想も下さる。恐縮。
* 先生の早熟ぶりの伺える、瑞々しいお歌ばかり、若さとは素晴らしいことだということを如実に明かしてくれる好歌集と存じます。 紅書房主人 俳人
* 歌集「少年」 透明で凛として、さわるとはじけそうなナイーヴな少年の心がなつかしく、読み返しています。母上のことも感動しました。 北沢
2006 1・7 52
* 拝啓 先般は歌集『少年』をご恵送頂きまして、こころから感謝いたします。自分もこのタイプで句集を出してみたくなるような瀟洒なつくりを、先ずワイフ共々目を細めて拝見しました。寺山修二の歌集が好きですが、初々しくも透明な心で詠まれた、「故旧を食べながら生産しつづける」(竹西氏)秦さんの本書の歌には魅了され、自分の少年の頃をつい思い浮かべてしまいました-戦争で殺伐とした時代でしたが。
秦さんの四冊のノートには含まれていない 「川柳」を勉強している自分も、ご同様に師はなく、同人もー社に限定しています。
『昭和万葉集』の歌については忘れていましたので、今度読んでみます。因みに、『昭和万葉集』の編者の一人・高崎隆治さんも群れるのを好まず、戟時中のマスメディアの犯罪を書き続ける反骨の士で (奥さんが朝日カルチャーの私の受講生でした)、よくご著書を頂戴しました。
本書の解説はそれぞれ参考になりましたが、私と似た道を歩いたらしい田井氏のものが率直で、一番面白く読めました。
何度も朗読しながら鑑賞し、少しでも少年の心に接近してみたいと思います。貴重な機会を与えて頂きまして有り難うございました。
実は十二月後半に背中の真ん中に瘤(粉瘤)が出来、手術して連日ガーゼ交換と点滴で随分痛い目をみました。今年は生活の上でも庶民(特に老人)は痛い目をみると予想します。
ご健筆のほどをお祈りいたします。 敬具 川柳作家
2006 1・8 52
* やっと電話問い合わせに出てくれた。「今日」 十二時開場、一時開演 と。そしてよく観ると研能会インタネットトップ記事の「一月初会予定」は、なんと昨年 2005年の分が据え置き。更新していない。怠慢。
* 七十の賀をお迎えになりました由、心よりお祝いを申し上げます。記念の貴重な御歌集を頂き、ありがとう存じます。
栴檀は双葉より馨し、十六、七歳のみづみづしい感性におどろきつつ、読ませていただきました。あの閑吟集の名解説は、すでに十六歳の秦さんに内在していたのですね。
尚 一層の御健勝をお祈り申し上げます。 小旅行をしていまして拝受の御礼がおくれました。お許し下さい。
一月五日 讀賣文学賞の女性エッセイスト 父方親戚
2006 1・9 52
* バイオリンの千住真理子さんから「すばらしいご本を。いつも感動しています!」と、中国へも持参の愛器ストラディバリウスを手に、にこやかな写真の年賀状。
作家の李恢成氏から「短歌『少年』。早熟な人だったんですね。」と年賀状。
東大教授上野千鶴子さんからも、「歌集『少年』 これが秦さんの原点でいらっしゃいますね。瑞々しい感性です。」そして「笑って読んでいただける近刊一冊お届けします」と、『べてるに学ぶ – <おりていく>生き方』を戴いた。
* 御歌集「少年」 正月三日じっくりと読ませていただきました。十代でこのように完成された御歌を詠まれていたことを改めて詠ませていただき、敬服申し上げています。十七歳の時の歌「拝跪聖陵」の一連、そして好きな歌でも
生き死にのおもひせつなく山かげの蝶を追ひつつ日なかに出でぬ
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ
など、こころにしみて読ませていただきました。
お礼申し上げます。 歌人・結社主宰
2006 1・15 52
* 昨日今日と、筑波颪を聞きながら家で仕事をしてゐました。
歌集にして欲しいと、二十五年間に詠んだうた千数百首を託され、とても、お引き受けできることではないのですが、お断りし兼ねて、今、四苦八苦してゐます。
息をつきたくなつて、今、文庫版の『少年』を拝見してゐます。ああ、何とうつくしいことば、きよらかなたましひ――。何度、拝見しても、溜息が出、折々あるいた京の道、み寺が浮かび、そこをゆく『少年』の作者の少年が、また、のちにその少年の手になつた小説の場面場面、ヒロインたちが浮かんでまゐります。
鳥辺野の笹原の霰聴きゐれば鳴り初むわれの喉笛のいふ笛
「喉笛」がナマで何とかしたいとおもひつつ、どうにもならないでゐます。
抽斗をあくれば霧の真葛原逢ひたくはなき死者が振り向く
どうして、こんなゴチゴチしたうたしか詠めないのか。
湖のお部屋の表紙に、
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ
を、置かれたお心をおもうてをります。
去年の秋、「鳥辺野」でなく「鳥戸野」の定子の宮の御陵にお詣りしましたとき、このおうたが浮かびました。うつつの鳥のこゑに重なつて、「耳の底の鳥」のこゑを感じてゐました。 香
* この七十郎のうちにいまも生きている少年が、顔をあげて嬉しくあかい顔をしている。なかなか、きよらかなたましひどころでない、頑迷な少年であったが。
生きながらえてきた歳月が少年をどこへ導くのか、さきの道は混沌としている。
2006 1・20 52
* しかしまた夜前滋賀県大津からの突然のメールは嬉しかった。そして、また次の親しい詩人のメールもある。
* 御歌集『少年』をいただき、ありがとうございました。お礼が大変遅くなって申し訳ありません。
短歌はまったくの門外漢ですが、それでも15歳の少年が書いた作品とは思えない歌であることぐらいは判りました。
鑑賞にもなりませんが、私でも読み取れると思った歌について、拙HPで紹介させていただきました。その概略を書いてお礼とさせてください。
うす雪を肩にはらはずくれがたの師走の街にすてばちに立つ
雪も払わず「すてばちに立つ」ところに若さを感じます。ああ、オレもそうだったな、という思いは一回り以上も年下の私にもあります。
瞬間のわがうつし身と覚えたり青空へちさき虫しみてゆく
小さな虫が青空に滲みて行くのが自分の映し身のようだと捉える感性は、その後の秦さんの小説を読むと良く判ります。
秦文学の核心のような歌と思いました。
閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく
今ではあまり見られませんが、雨戸の節穴から差し込む「針のごと日はするどくて」に想像力を掻き立てられました。ここでは美的なセンスを感じました。ことによったら秦文学の美意識の解明に必要な歌かもしれないと思います。
偽りて死にゐる虫のつきつめた虚偽が蛍光灯にしらじらしい
生きんとてかくて死にゐる虫をみつつ殺さないから早くうごけと念じ
二首とも死んだフリをする虫をうたったものですが、小さなものに対する基本的な姿勢が読み取れます。
いずれも17歳時の短歌ばかりを拙HPで紹介してしまいましたが、その早熟ぶりに驚きました。中学生の頃からこんな文学的なセンスを持っていたのでは、とても私などが太刀打ちできるものではないということがよく判りました。これからも勉強させていただきます。 神奈川 詩人
2006 1・23 52
* 我よりも長く生きなむこの樹よと幹に触れつつたのしみで居り 斎藤 史
* 仮に「幹」とでも作者を呼んでおくが、「幹」から送られてきた三編の小説の最初に書かれたという八十枚ほどの小説を最後に読んだ。連載中のブログに、一回分を二つ行き方を変えて書いたりなど、いかにも習作であるが、厳しい勝負世界の内容を、不思議にシュールに、しかも生活そのもののなかで表現している。作中単身赴任の寂しい「男」を「父」として面倒をみにくる「娘」の活気には、不思議に目に見えない「はたらき」がある。たわいなげなオハナシのようで居て、凄みのきいた背後の闇をかかえ、そこから人生を厳しいとも温かいとも読み取らせる「複眼の照り」も有る。四百枚の長編とも百数十枚の中編とも異なった、しかも双方の基盤になっていそうな体験が描かれているようで、「幹」がやがてまた新たに書くと予告しているブログ小説を、わたしは楽しみにしている。
* 冬の水一枝の影も欺かず 草田男
一筋の道などあらず寒の星 湖
己が闇どうやら二人の我棲めり 遠
2006 1・28 52
* 歯や肩の疼きは治ったでしょうか?
先日『冬祭り』が届きました。ありがとうございます。
本を手に取った瞬間、赤いっ!? と思いました。まだ数ページしか読んでいませんが、「わたし」と書かれていることにどう読めばいいのか不安になったり、京都の様子を想像できなくて淋しくなったりしています。おもしろくなるかどうかはまだ分かりませんが、どんどん読んでいきたいと思っています。自由な時間がもう少しあればなぁ。
今日、『少年』の方も読み終わりました。電子辞書を引き引き、ゆっくり読みました。古典の勉強もっとしっかり受けていればな、と後悔しています。
歌の中で気になったのは、蝶の歌数首です。古典の時間に「胡蝶の夢」の話を聞いて、今ここにいる自分は何なのだろうと、ひどくこわくなったのを思い出しました。
それ以外の歌は、京都のことがわかればなあ~と悔しい思いをしながら、でも、どこかさみしくてきれいだな
と思って読みました。
『冬祭り』『少年』のお礼のメールが遅れてしまって申し訳ありません。
着々と準備が進んでいる新しい「湖の本」楽しみにしています。
それではお体、お大事に。無理をし過ぎないようにしてください。 昴
* 赤い!? とはどんな感じなんだろう、と。いつか聞かせてください。
* ある短歌結社誌の巻頭に「ヨシかアシか」と題して主宰の女性が書いていた。ヨシもアシも同じ植物であり、どちらも漢字では「葦」と書くとこの人は言うている。それでは葦原とかけば「あしはら」でも「よしはら」と読んでもでもよいことになる。しかしヨシというときは少なくも「葭」という漢字があり、ふつう「葭原」と書いている。アシのよみを「悪し」と忌むのはそのとおりだが、漢字は「葦」で共用というのは可笑しいだろう。「葭原」よりも好字をと、「吉原」「芳原」にもなった。短歌結社の主宰ともある人がこれでは不味い。
もっと不味いのは「斎宮での忌み言葉」にこんなのがあると挙げているところ。徒然草に出ているとおりのことを挙げているのだが、「野宮での」とありたいところを「斎宮での」という云い方は、まだしも辛抱すとして、「佛教」のことを「中子」というとは困る。これは「佛像」のことをというのが適切で、この人もすぐ「堂の中央に安置するからだ」と説明し、「安置」と言っているのだから、「佛教」では可笑しかろう。中尊を謂うとも厨子の中の尊像ともとれるが、かりにも巻頭言、誤植で言い逃れられる書き方ではない。読んでいる方が、恥じ入る。
免許制ではないし主宰になるのに制度も規則もないから勝手なものであるが、そんな雑駁な知識や語感に率いられている結社作品が、どの程度のものか、ついつい察しられる。行儀ととのわず、というところだ。
2006 1・28 52
* 只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚 堪え難く不快な此の世ではあるが。この閑吟集の一聯は、風流かのようで、かなり怖いところを衝いている。成仏も生天もどうせみんなウソ。ただ鼻歌を歌い寝そべって梅花の月を眺めてろ、と。凄い。しかしわたしの実感も又この辺である。
2006 2・3 53
* 歌集『少年』 「みずみずしい」の一言につきます。漢字ではありません、平かなです。お若い頃から難しい語彙を使いこなしておられるのに驚いております。すばらしい才能ですね。とても及びません。多才なことはエッセイから想像しておりましたが、今回は別な驚きでした。ますますの御活躍をおいのりいたします。
節分の日 春を待ちつつ 名古屋大学名誉教授
* 春を待ちつつ か。もうすぐ梅の、桃の、櫻の、花が咲く。花を待とう。
春愁に似て非なるもの老愁は 登四郎
2006 2・7 53
* 二ヶ月ぶりのペン理事会。興味深い議題なく、睡魔にしばしば襲われる。
理事会の果てたところで、阿刀田高さんに歌集『少年』を激賞されて、それだけが嬉しかった。
食欲もないところへ食べて呑んで、ひとしお疲労して、家に帰った。異様なほどの暖かさにも当てられたか。
2006 2・15 53
* 久しい読者のお一人の田中荘介さんとの出逢いは、ふとしたことであったが、詩とエッセイとを書く人と知ったからで、それに惹かれたからであった。最近、日本ペンクラブにも入ってもらった。
この二月に古稀。二・二六事件の三日前というから、明日、誕生日。田中荘介詩集『少年の日々』を出版し自祝されている。「ありがとう」「しあわせ」にはじまり「そふ」「そぼ」「ちち」「し」「ふうけい」で結ばれる二十二編の詩がならぶ。佳い。
* ゆれる 田中荘介
少女は
廊下の窓の敷居の
上にのっかって
ひざをくんで
スカートがすこし
めくれあがって
白い下着が
わずかに見えて
こっちを見ていた
教室の中から
見える
少女の表情は
逆光のため
さだかでなかった
背景の
櫻の木の枝が
かすかに
ゆれていた
* わたしの古稀自祝の歌集『少年』巻頭歌が、
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
高校に入学したばかりだった。「うるみがちなる」はわたしの過剰な視覚だったろうが、けぶるような視線だった。松園の「娘深雪」を観たとき思いだした。田中さんの少女もスカートをはいているから戦時の国民学校時代ではあるまい。敗戦し、時を置いて京都の母校へ復帰したとき、もんぺでないスカートの少女 (まだ数少なかった)がどんなに眩しかったことか。
* そぼ 田中荘介
早く目がさめると
離れのへやの
祖母の
寝ている布団に
もぐりこんだ
祖母がしてくれた
むかし話は
起伏にとみ
ひきこまれた
くり返し聞く
石童丸の話は
父に会いにいくところで
いつも泣いた
ときには
やわらかくぬくい
おちちに
さわった
* 田中さんは人も知る「播磨国風土記」研究の人でもあり、著書もある。おばあさんに聞いたむかし話にもまじっていたのだろうか。最後の四行が、肌に粟するほどはずかしい。嫌悪ではない、深い憧れで。わたしは今でもそうだが、「おちち」という言葉がはずかしくて、口に出来なかった。「おちちにさわ」りたかった。残念なことに生母の「おちち」は全く知らない。さらに残念なことに養母にはほとんど「おちち」が無かった。祖母はいなかった。
2006 2・22 53
* MIXIに、八日にわたって連日「心」論を書き続けている。漱石の『心』論ではない。まさしく「心」を、まっしぐらに論じようとしている、少なくも語ろうとしている。場所も場所、場違いすぎて、反応は全く期待していない。立ち往生する怖れも大いにあり、とは言え、いまぶん順調に書き進んでいる。少しずつでも、三十枚をもう越したかも知れない。短く毎日区切れることで、いい働きができるかも知れない。
MIXIの中に、作品は読めないが小説を書いている人、かなり熱くなって書いている人もいるようだ。読んでみないと分からないが、いい若い書き手に出会いたい。すぐれた読み手にも出会いたい。そう思うようになった。
いまのところわたしより年寄りには出会わないが、年輩の人もいる。二三日前のわたしの「静かな心」のためににコメントして、伊勢物語第一段の「春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず」という和歌を書き込んだ人など、いい年のようであるが、どういうことか。
「返歌さほどならず」とわざわざ書き添えてあったのは、例の「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに」に当たるが、「さほどならず」というのは、べつの返歌を要求されたのか。即座に一首。
みちのくのしのぶもぢづり誰ならで色染む花としるや知らずや
2006 2・22 53
* 雨降り冷え冷え ひなあられ 白酒いやいや 奧丹波 辛口ひたひた 富士夫作 刻銘「花」とよ ぐいと呑め つち色くろぐろ うまざけの さかなはなになに 菜種あえ 雛にもそれそれ 召し上がれ 蛤汁(はまつゆ)あつあつ 弥生を待つ待つ
2006 2・26 53
* 現代短歌への忠言を某誌に求められているが、いらぬ波風をまたたてるのかと気乗りしないでいる。むしろわたしは和歌が好き。
2006 3・3 54
* さて病院の首尾いかに。全然気にしていないワケではない。今朝の血糖値は正常だが。
* 気にすべき値のなにもかもが悪くなっていると、病院で。体重だけは少し落としていたが、もう三キロ落とせと。やれやれ。飲み薬が加わった。やれやれ。酒はいけない、と。ウーン、やれやれ。
帰りのおそめの昼食に、銀座「レカン」のフランス料理、ランチの上等を、シェリーと赤ワインのハーフボトルで独り、残念会。呑み納めかなあと。やれやれ。酒ぬきの外での食事など、クリープのない珈琲どころじゃない。参る。食い気しか残っていないのに。やれやれ。
なんとか新井奧邃にならわねば。五時起床、火の用心、静黙。ごく質素に小食の彼は、しかし、睡眠のために名酒「太平山」をやることがあった。我が家にも有るかも。ま、家では呑まないことにしようか。 家では一升瓶を四日で、そして一日休むというペースであったが。
* 白酒の紐の如くにつがれけり (虚子)
2006 3・3 54
* おかえりなさい
春風や帆はうたかたの淡路殿
春風のさす手ひく手や浮人形
すっかり春の風となってお楽しみのこの頃でしょう。一昨日の湯島のお握りつき梅見に続いて、今日のお出かけいかがでしたか。会議のあとに一杯また一杯……の可能性のほうが高いようですね。
昨日からの頭痛がすっきりしません。
曙のむらさきの幕や春の風
春風のつまかへしたり春曙抄
こういう春風が吹いてくると、気分も晴れやかに。明日のお稽古はむらさきの濃淡の着物にしようかしら。ほんものの春風ではないけれど、つまかへしてくれる春風を期待して。 春
* この人、なにで引いたやら、惹句の 帆はうたかたの淡路殿 分かっておいでなのかしらん。
2006 3・8 54
* > 最初の句何から引きましたか、分かってて引きましたか。
こう書かれるからには、とんでもない誤読をしているようです。ゴメンナサイ。
あわてて蕪村の解説を読むと、「春風に帆をはためかせて舟が走っていたが、いつの間にか泡のごとく消え見えなくなっていた。あれは淡路殿の家紋入りの帆だった」とあります。
春風の気紛れのように気楽に読みたかったのですが、分かっていませんでした。深刻に読むものでしたか? それとも……教えてください。大失敗。ああ、また恥かいた。
薬を飲んで頭痛は治りましたが、眠れなくなる副作用があります。今夜はたっぷり泉鏡花を読むことになりそう。「草迷宮」を読了したので「沼夫人」の予定です。おやすみなさい。 春
2006 3・8 54
* 蕪村句 春風や帆はうたかたの淡路殿
お堅い学者センセイが鑑賞すると、「春風に帆をはためかせて舟が走っていたが、いつの間にか泡のごとく消え見えなくなっていた。あれは淡路殿の家紋入りの帆だった」なんてぇことになる。おもしろくも何ともない。
逢う約束も何のその、女め、逢いませんよ(逢はじ)の捨て台詞で尻に帆掛けて春風にうかれ、泡のように消え失せおった…というのが隠れた句意。わたしが「淡路殿」ではない。
但しこの際、かなづかいは、淡路は、あはぢ。あはじ、でないこと、承知の上でなければならないが。
2006 3・9 54
* 春景 明日香村で発掘現地説明会が行なわれたとニュースで見ました。昨日の天候なら、さぞ気分よく明日香を逍遥できたろうと羨ましく思いました。
以前に芋ヶ峠まで行ってみました折、稲渕の男綱を見ましたが、伊賀でも立派な勧請縄を見つけました。いつもは通らない旧い道を行ってみてわかりましたの。地名は古山界外。停車できるところもなく、トラックなど通りますので車窓から見ただけでしたが、縄から下がっている個々のアイテムがどれも大きく、それはもうパワフルに結界をつくっていますの。
出がけにそんな縄に出会ったからか、石を第一のテーマにした今回の旅は、縄の旅にもなりました。
びわ湖びらきの昨日、晴れて気温も上がるというので、津田の細江、琵琶湖八景の「春色・安土八幡の水郷」に行ってまいりました。なンちゃって、社寺をめぐったり旧い町並みを訪ねたり道草をしておりまして、湖水に達する前に時間切れになってしまいましたの。
柳は芽吹き、葭のまにカイツブリが浮かび、時折水面から鳥の群れが飛び立ったかと見る間に、カーウ゛を描いて彼方に消えてゆきます。春風が石仏の頭上を過ぎ、鐘の音を連れて去ってゆきました。
板塀と紅殻格子の家がのこる町。屋根を鳩が歩み、猫が小道を横切る画家のふるさと。宿場町。商人の町。門前町。城下町。出会った人はみなさっぱりとしてあたたかく、陽の気を漂わせてらして、雀は風にそよぐ麦若葉のような心持ちになりました。
めぐった先は、石塔寺、太郎坊宮、瓦屋寺、市辺忍歯皇子墓ときいた八日市市辺町の若宮神社、置目の森といわれた綿向神社など。おいおいまたメールいたします。
ご近所の丹精の白梅が、一週間のあいだに、夜目にも婉に咲き揃いました。
わたしゃ真室川の梅のォ花ァ♪ どうか日々ご自愛のほど。
明日は春日祭だそうですわ。
春日野の雪間をわけて生ひ出でくる 草のはつかに見えし君はも (忠岑) 囀雀
* 興趣に満ちた小旅行のようで、うらやましい。市辺忍歯皇子や置目刀自のことは、つい最近に日本書紀で読んだばかり。「古山界外(かいと)」の大勧請縄のものすごさ。目に浮かんでくる。「真室川の梅の花」にはまいりました。「鶯」参上と行きたいけれども。忠岑としてあるこの和歌も、なかなかどうしてセクシイなので。もののすきからちらと覗いたというどころではない。
2006 3・12 54
* 東京の今朝は好天。ペン理事米原万里さんから歌集「少年」へ手紙をもらった。東大教授上野千鶴子さんから新しい著書を戴いた。
2006 3・18 54
* 「短歌現代」への寄稿、指定の字数通りに脱稿し送稿した。またこれで、かなり憎まれる。
2006 3・19 54
* 手近な本をふとながめていて、見つけた。
思ふこと誰に残して眺めおかむ心にあまる春のあけぼの 藤原定家
定家の歌は、清少納言このかたの「春曙」のよろしさ・美しさを褒めそやしているが、じつは「身に添え」て、或る理想の女人の面影や感触を、まぢかに想い描いてもいる。「あまる」とは溢れる意味でもあり、また「手にあまる」のと同じ、或るじれったい身もだえも伴っている。
定家は、いま春の曙を、もろともにここで眺め合い褒め合いたいと願うその人を、どうしようもなく、欠いている。「心にあまる」にはその不足感が読める。
2006 3・20 54
* 京都からもどりまして、作品のとどいているのを知りました。まだ読んでいません。しばらくお預かりします。
序詞ふうの六行ですが、
人は連なっている
時の狭間で
くりかえす世代交代にも
喜びは受け継がれず
わけあえぬ
苦しみのみが伝播する
うしろの四行で足りているか、とも。
第二行は、字面でも意味でも観念的に浮いているか、と。
第一行の提言と下四行とは、整合するとも、じつは整合しないとも読めるように思います。提言を「だから」と下四行が肯定しているというより、ある種の悲哀を思い観れば、第一行は、下の四行によりむしろ深い歎きで否認されているとも謂えるのでは。つまり第一行が観念的に揺らいでいるとも。
こういう序詞は 揺れていない方がいい。四行だけで足りていると感じた理由です。
今一つさあっと見て気づいたのですが、「すいません」という音便での物言いは、口語では普通なのでしょうか、東京でもよく耳にします。会話ではともあれ、そう文面に書いてくる手紙もおおいのです(文筆の人ですら。)が。わたしは、むかしから「すみません」でした。東京だけかと思いかけていました。
では、また。 湖
2006 3・25 54
* 京都美大での間借りから日吉ヶ丘の新校舎へ高校が移転したのは、わたしが二年生の春。通うのに遠くはなったが、あれは嬉しかった。校歌が出来た。
ああひんがしの丘たかく 松のみどりのわが姿 という一番の歌い出しは、歌詞にウルサイわたしを満たしてくれた。
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし
丘の上にわれは思惟すてかねつ
十七歳、「拝跪聖陵」という泉山の大きな石碑に題した連作の歌の冒頭にこううたったとき、校歌の歌詞が無意識に感化していなかったか、否定できない。あの東山線から即成院、戒光寺へとつづく泉涌寺参道ほど懐かしい道は、そうそう無い。無いことは、もちろん無いのだけれど。わたしという人は、バカなのかもしれないが、今目の前に気に入って手で触れ目で触れてうちこんでいる、「それ」が、いつもいちばん「いい」のだから、幸せともノーテンキとも見境のないとも謂える人なのである。アハハ。これをもし気が多いとか浮気と言う人は、思惟も情も浅く薄く、間違っている。慈(こころあつし)の意義を識らない。
2006 4・20 55
* どっちみち生意気だとか(古稀過ぎた爺に生意気はもう無いかも知れない。このごろどんな場所へ出ても、年よりの内であるから。昔はハツラツとしていた人と久しぶりに逢うと、ウワァと思うほどお年寄りであり、わたしもそのクチであるに違いない。)エラソウにとか(これは有るにきまっている。)言われるのだから、さっさと此処へ公開してしまう。「短歌現代」五月号に頼まれて書いた。
読み返してみて、ウン、マトモなことを言うていると自認した。叩かれたらアキラメようではないか。
* 現代短歌界へ率直な感想 秦 恒平 (小説家)
「現代短歌への忠言や提言を」という編集室の註文は、気が重い。いたずらに波風をまたたてて嫌われるのは、この年になって、あまり有難くない。自分の役に立たず人にも嬉しがられない文章を書くのは、文字通りムダごとであるし、意を迎えて心にもないことなど、書きたくない。
送っていただく歌集は、おおかた目を通さないことはない。歌誌も、かなり届いていて、それなりに目をむけている。それなりにとは、この雑誌にはどんな人がいる、あるいはこの雑誌はおよそこういう向きである、ぐらいは承知して、気の向く限り頁をくったりやめたりしているという意味である。
こんな註文がきたのは、旧臘、古稀を自祝のていに、たまたま我が一冊きりの歌集『少年』が、今回は文庫本で出た、それが呼び水・誘い水になったのだろう。
老境に初めて編んだ『少年』ではない。少年期に編んで、爾来およそ六度ほど本の顔かたちを変えてきたもの。十五、六歳から大体が高校生時代の歌を、少し照れるが高潮期とし、小説へ思い移していった頃までの、せいぜい二百首余りの歌集であった。不識書院版にいただいた、上田三四二さん、竹西寛子さんの有難い文章もあつかましくそのままに、生母の歌にふれた自分の短文も残し、田井安曇さんの解説を頂戴した。略年譜は自分で書いた。
千五百部つくるから千部買い取るかと言われ、ヘキエキしたが、結局近い部数を引き取って、狭い家に積んでおく意味もなくほとんどを先生・先輩・知友・読者に謹呈した。いいぐあいに七十の誕生日まえで、「自祝」の挨拶がうまく嵌ってくれた。幸いであった。おどろくほど沢山なご挨拶が戴けたのも幸いであった。版元の短歌新聞社に、この場で重ねてお礼を申し上げる。
印税とさしひき(支払いの方が遙かに多いけれど)のようなこういう出版形式が、詩歌の世間では普通なのか、私の場合これで特別であるのかもよく知らないけれど、おそらく短歌や俳句や詩の世間では、著者負担が無く、またはごく少なく「出版」すること自体が、きわめて難しい折衝なのであろうと推察できる。この辺が真っ先の大きな問題、問題にしようもないほど大きい問題なのであろうか、私もそれを先ず体験したことである。
以下、日頃ぼんやり感じていたことなどを、とりとめなく書き留めてみようか。
「詩は志」であるという東洋の古典的確信が、幸か不幸か日本の現代詩歌にほとんど無反省に受け継がれていて、詩表現の「すがた・かたち」「表現」より、歌われている思弁的な中身・内容・思想が大事と、たぶん大勢の、半ばは意識し半ばは意識もなく創作されている気がしている。
そのしわ寄せで、日本語がヤケに汚く扱われ、印象として詩であるより、歌であるより、蕪雑な排泄物じみた日本語が、雑誌にも(この際は)歌集にも居並び過ぎていると感じることが、あまりに、多い。
日本語が「きたない」という感想には、二面ある。
詩歌として「措辞・表現」のきたなさ=未熟と、「表記」の無神経なきたなさ・無造作さ、である。がさつで、とても「うた=詩・歌」と聞こえず、また見えない。
実例を挙げたいが、そうでない実例のほうが稀薄に過少である以上、そんな真似はするにも及ばない。
日本の伝統的な詩歌は有形の韻・律に拘泥したくてもしにくい運命をもっている。せいぜい音数を規定するぐらいしか、ない。そのために音楽的センス、「うた=詩・歌」としての生動を、謂うに言いがたい内在律の爽快や優美や躍動に表さねばならなかった。現代短歌(詩も俳句もそうだけれど)はこの「内在律」に対する研究不足はもとより、自覚や追究にきわめて不足で、その方面で目だった言説や成果を(茂吉らのあと)出せていない。しかし、本当に優れた歌人や歌集のその「優れた」といえる点は、つきつめれば「内在律」の律動美が即ち「志」の「表現」たりえているからで、その余はたぶん作家論的な時代論的な(大事な)付加価値なのである。
日本語を「きたなく」しているという先のわたしの非難は、一つにはことばの「詩化」があまりに足りないこと、漢字や
かな文字へのセンスが蕪雑すぎることにもよるが、それらが輻輳して日本語による詩歌の「内在律」という命を、生動を扼殺してしまい、それに気付いていないという、詩人としての致命的な不足に因している。
歌集を文庫本にしてもらった返礼に阿諛をもちいるのでは、決して、ない。わたしはかつて某紙の匿名欄で、石黒清介翁の作歌を、ただの「ただこと・日記歌」と見えて、それにも相違ないけれど、「今慈円」と呼んでいい魅力を、不思議な内在律に有していると褒めたことがある。天成の歌詠みは、それを持っていて、むりむり歌を「作って」いる者にはそれが得られないのは、絵画の魅力とも似ている。五七五七七というかたちの上へあだかも言葉数を数えて置きに行っただけのような短歌に、美しい、また確かな律動の生まれるワケがない。
歌誌が送られてくると、わたしは、その歌誌の主宰作品を先ず読む。ところが、主宰作品を捜し捜し回らないと見つからない結社誌があるのに、びっくりすることもある。相当な理由があってそんな風にしているのだろうが、隠れん坊のようで変な気もする。主宰者は創作の実力と見識とにおいて傑出しているから主宰していると、単純にわたしは思っているから、敬意を感じる意味からも好奇心風の強い関心からも、むろん真っ先に作品を読むのである。堂々、巻頭に作品をならべ、このような力量によって本紙を率いているという実績を披瀝するのは、当然の義務だろうと思う、いろんな言い訳は有ろうけれども。
それから、次ぎに主宰者が一般の選を超えてさらに特選した欄を読むことにしている。自作に示す力量と同等か、場合によりそれ以上の力量の見えるのは、そういう欄であること、言うまでもない。過去の大作者は、俊成・定家や芭蕉・蕪村はもとより、子規も茂吉もその他も、自作とともにそういう選歌の妙、批評・眼識の妙でわれわれ門外の愛読者を魅了した。同じことを今も数ある結社誌の主宰に望むのは当たり前のことだし、それに十分応えてくれるのも当たり前の義務というものである。
その義務に、いったい、どれだけ魅力的に、応えられているか。
それを常々厳しく見つめている、より大きな「批評眼」があまり現代短歌の世界に機能していると見えにくい。そんな必要がこの世間にないのだろう。それこそが、事なかれに流れがちなムラ(結社)群立世間のどうやら「仁義」というか「言わぬが花」の礼儀作法のようであるのは、泡嵐もたたないコップのようで、みなさん大人ですと敬意を表しておこうか。
その裏返しであろう、わたしなどがこういうことを言うと、「外」から無責任なことを言わないでくれと、きっと遠回し
にお叱りが飛んでくる。
わたしは、結社がどう生まれ、どう主宰者が出来て行くかを論評できる立場にいない。知らなくてもいいことだと思っているが、一度成り立った結社の主宰者達の創作や批評には強い関心をもっている。この人は、本当にソレダケの歌人だろうか。なるほど作品がいい、批評も着眼もいい、指導力もすばらしい、と言えるかどうか。
それで、くり返して言うが、その短歌作品、その特選作品、その散文による作品を比較的注意して読んで、敬意を深めたり顔をしかめたり、遠慮無くしている。
こういうことも、試みている。主宰の当月作品と、会員達のなかのなるべく中間位置にいそうな人の当月作品とを、わざわざ比べ読みする。この感想も、なかなか刺激的なことになるが、「言わぬが花」としておこう。誰にでも、簡単に試みられることでもあるし。
歌集が贈られてきて、歌数が五百の上もあると、ちょっとたじろぐ。あえて厳選をとはいわないけれど、作品を絞る自己批評を経ない積み上げ歌集は、結局は読みダレがする。
小説でも短歌でもちがいはしない、推敲の大切さはもとより、作品の自己批評力は作家生命そのものではなかろうか。
たとえば「反戦・反核」はないがしろに出来ない現代の一姿勢・一主張である。しかしたとえばそれを歌えば即ち短歌は短歌として自己証明できるわけではない。短歌の表現として「詩歌」たりえているか。詩歌たり得ない表現が、たとえ音数で定型は満たし得ていようと、詩歌の価値では似て非なる「おとといおいて」なのは言うまでもない。散文で主張すれば済むハナシである。繰り返しを承知で、もう一度言っておく。
短歌は俳句ではないが、片歌のかたちが「和」する意味の和歌性で許容された時代はあったし、それは大事な道程の一つであった。
とはいえ、片歌または俳句で成り立ちそうな三句に、だらしない下二句をむりにくっつけた短歌が、やはり跡を絶っていない。そのヘキは実は子規や鉄幹らの近代短歌時代に入ってのちも、往々実例がみられたことは、かつて多く実例をあげて、「美句抄=微苦笑」に編んで警告したことがある。
「馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひみるべし」(長塚節)などと論じる必要はすこしもなく、「馬追虫の髭のそよろに来る秋よ」で足りている。写実の節にしてこうなる。「不必要としか言いようのない下二句をむりにくっつけた短歌」に、短歌として全うされる優れた内在律の生きるどんな道理がありえよう。
かつて、主に篠弘氏と「短歌」誌上で激論し、「歌ッて、何?」と問うた頃の思いは、だいたい今も解消されていない。助言も忠言もない、聴くに聴きようのない、いや効くに効きようのない現代短歌の宿痾は、制度的にも、ムラ的にも、あまり性癖を変えようとしていないのだから仕方がない。
「文学」もヘンだし「小説」だってヘンなのだが、それよりはマシかもしれないのだけれど、「短歌」という看板をそろそろ本気で再検討されてはどんなものか。わたしは、「和歌」とは謂ってこなかった積極的な「近代」意義を認めないのではない、が、またあまりに「和歌」を学ばずに見捨てすぎたツケも高価についているという、主として日本語の表現力の伝統からする批判も、よそながら持ち続けている。かりにも「和する」歌としての和歌の側面は近代和歌に払底しすぎ、大きな詩的能力のつまり無反省な放棄になってきたるとも考えている。歌人の詩人のと名乗りながら、蕪雑なまでに日本語の価値的なフォローが出来ていない、じつにバカバカしく日本語の素養のない歌人・詩人に出くわすことが多すぎる。
日本ペンクラブに「電子文藝館」を創設し、多くの現代・現存の、詩人・歌人・俳人の作品を読み、また思いを交換し合いながらも、わたしは、これでいいのかなあと内心に呟いてきた。そのつぶやきを吐き出せと言われたわけで、正直を言うと、吐き出したくはなかった。
* こういう原稿を書いてしまうのが、わたしの「病気」だと思っている人が何人もいるのを知っている。その診断には承服していいが、ここに書いたなかみに異存のあるムキとは、筆での論戦をわたしは避けない。わたしが間違っていたなら潔く思い直します。
2006 4・22 55
* 羅臼の昴から佳い便りがきた。
* 穀雨が降り、雪がだいぶ解けました。
職場から出ると、ザーッと低く、風の音のように波が途切れることなく鳴っています。なんだか、心に響いてきます。
海のことを書きたいのですが、海のことを表す言葉がうまく出てこないので困っています。
先日、国語便覧を見ていて、俵万智さんの短歌に「風の手のひら」という言葉があるのを見つけました。キラキラ輝く海の様子を表すための言葉だそうです。海のキラキラした様子をうまく表現できないな、と思っていたときに見つけたので嬉しかったです。俵万智さんはあまり好きではありませんが、この言葉は嬉しいです。今の私にぴったりはまりました。
未来の私にあてはまるか、わかりませんけど。
今日も風が強いです。それでも海の前にひとりで立つのはいいものです。しがらみがないのは気楽です。
白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ
若山牧水の短歌をふと思い出しました。 昴
* こういう文章が自然に吐露されるときの嬉しさは、当人にしかわからないが、生けるしるしありというものだろう。読み手にも伝わってくる。ファシネーションがある。昴が、肩肘張らず、こういうメールをつぎつぎと送って来てくれたら楽しい。昴がどんな「職場」にいる人か知らないが、小学校の先生だろうかなどと想像していて、それも楽しい。
* 「ペン電子文藝館」の短歌室に、若山牧水の歌集をわたしは入れておいた。すばらしい歌集である、昴に、このついでに読んでおいて欲しい。「白鳥はかなしからずや」とよく歌ったものだ、この歌や「幾山河」の歌に作曲されていた。これらの歌をおさめたその歌集をわたしは中学三年生のとき、岩波文庫をひとに借りて読んだのである。歌人の纏まった歌集を、わたしは牧水と、茂吉の『朝の蛍』とで読んだ。茂吉の歌集は古本屋で、乏しい小遣いをはたいて買った、今も書庫に秘蔵してある。
俵万智の歌集『風のてのひら』も作者に贈られ、『サラダ記念日』と並べて架蔵してある。
2006 4・22 55
* 「短歌現代」に書いた「現代短歌界へ率直な感想」が案の定反響を呼んでいる。わたしの方へも直に手紙が来つつある。
* 「歌壇へのどのお言葉も、よくぞおっしゃってくださった――と思うことがらばかり、ついうれしく一筆」と奈良の、敬愛する女性歌人から、春日大社の美しい藤の写真に「藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を 思ほすや君」と恰好の古歌も添えて。
* 拝啓 みちのくもようやく櫻が四分咲きほどになりましたが、先生にはご清祥のことと存じます。
さて、短歌現代五月号の「現代短歌界へ率直な感想」、自分が歌人のはしくれであることを忘れて、楽しく読ませていただきました。今、歌壇は第二藝術どころか第三藝術というのも憚られるほど低迷を続けていると私は考えています。反写実系の前衛短歌人も写実系の歌人もおしなべて低調です。言葉あそびのひとりよがりに走った歌、ただ拙劣な比喩やオノマトペに終止している歌。それに対して生活の断片をただ報告し説明するだけのの歌等、みじめなものです。ゆるみきった声調、弾力性を喪った言葉の連続等、斎藤茂吉や、立場は異なりますが北原白秋などが読んだら呆れてしまうような歌ばかりです。批評も仲間ぼめばかり。それは歌壇が腐敗しかかっているからなのでしょう。困ったものです。
***のような田舎でも威張っているのは基礎的な文法も知らない通俗満点の歌人たちです。歌のほろびのときが近づいているのかもしれません。
* どうしてどうしてこのお二人とも、多年鍛錬の優れて佳い歌人であり、この人達にこういう言葉をなさしめるようでは、よほど問題は大きいのである。短歌ジャーナリズムがこの後もどうわたしの発言に対応し続けるか、いずれにしても、またしても物議をかもすことではある。「短歌」新年号で、主に篠弘氏と激論をかわし、一年中あちこちで話題になったあれから何年になるだろう。あの激論はわたしの湖の本エッセイ第十一巻に再録してある。
2006 4・26 55
* 宝珠のようなマスカットをふさふさと二房も賜りました、驚喜し頂戴しております。心より御礼もうしあげます。
掌において身のおとろへの忘らるる
マスカットの碧(あを)の房の豊かさ 湖
お変わりなくご健勝でありますように。 有り難うございました。
2006 5・16 56
* 蛍籠とうから夢とけじめなく というある女性の句を『慈子』という小説の中でだいじに使ったことがある。わたしは、この色紙の原句を、初め どこから夢とけじめなく と読みとり、どうやら とうから夢と が正しいらしいと気付いたが、色紙に添えられた淡彩の絵とともに、読み違えの句もなかなか佳いように、今も未練がある。町田へ版画を見にいった人から、今し方この句を書いて「夢の蛍」をまた語ってきた。『慈子』を思い出し、句も記憶していたのかと、ありがたい気がする。
2006 6・7 57
* やす香の生まれたときの「やす香母」の詩を呼び起こす。
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい生命(いのち)よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
* 泣け 泣け ちからをふりしぼって。あきらめるな あきらめるな。
2006 6・28 57
* やす香が呻いている。
* 生涯に たつた一つの よき事を わがせしと思ふ 子を生みしこと
沼波美代子(「山彦」昭和二二年)
やす香母の夕日子はそう思っているよ、きっと。ママの手を夢にもにぎり、ママの声を耳の奧にいつも聞き、そのママといっしょに闘いなさい、姿なき「影」と。戦士ゲドのように。
やす香、お前には大勢の味方がいる。心の眼をみひらき、なるべく平静に自分を客観視してごらん。闘うべきこわい「影」の正体がみえてくる。
それで、勝てる。 おじいやん
2006 6・30 57
* 建日子も忙しそうだ。自身を鼓舞し鼓舞して、たぶん懸命に日々を過ごしているだろう。そんな中でも、ときどき、いや毎日かも知れないのだが、わたしの「私語」にも耳を寄せているらしい。此処で、親たちの日々がいくらか察しられて、安心も不安もあることだろう、電話で話し合うのは二人ともあまり上手でもなく、好きでもない方だ。
いま「MIXI」にわたしは二種類の連載をしている。わたしにすれば「旧作」を読み直して校正するのが目的の大きな一つなのだが、『青春短歌大学』の方は、三十八にも成る息子へそう言っては気の毒だけれど、父親からのそれとない「授業」の気持も無いではない。同時にほんの一服の時でもあってくれればと願っている。わたしの肉声はこういう仕事に、より良く通っているつもりでいる。ときには、一服の気持で観てくれるといい。
* 今日は短歌でも俳句でもなく、一編の詩を出題した。転載しておく。漢字一字分あけておいた「虫食い」に字を補ってみて、ふと「生きる」思いを味わって欲しい。やす香は必死で「生きたい」と今日も叫んでいた。
* 「病む父」 伊藤 整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる。
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなつた私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奥の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んで見たりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む( )のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。 2006 7・10 58
* 窪田空穂の歌に
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
* この「片思ひ」の歌に寄せて思うことがある。いま、「MIXI」に、東工大の教室で試みていた『青春短歌大学』(平凡社刊 秦恒平「湖の本」版上下巻)を、「校正」かたがた連載しているが、じつは、あれより前に、講談社から、数人の責任編者制で、数巻の詩歌鑑賞の本を出したことがあり、わたしは『愛と友情の歌』の一冊を担当した。それが、大学での授業に大いに役立ってくれたのである。
いま「MIXI」での「連載」に、新たに毎回出題している作品の多くも、その本から採っている。
『愛と友情の歌』は昭和六十年九月十日に刊行され、「あとがき」は同年六月八日に書いている。「娘(夕日子)が華燭の日に」と日付に添えてある。その「あとがき」の末行は、こう書きおさめている。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。
娘への父のはなむけであった。この本はひとりの女として生きて行く娘への、またひとりの男として生きて行く息子への、贈り物として編んでいた。幸か不幸か、二人とも読んではいない。
いま、その娘はわが子の、想像をはるかに超えた急な重篤な病のかたわらに、母として、在る。
* 教室で出題した日の「後始末」を『青春短歌大学』上巻から此処に再記して、わたしの気持を静めておく。
* ☆ 痛み
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がない。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんでもっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義がある。そんな気がいつもする。
試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにくい。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子とのそれかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なのであり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばならない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。
残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外ではなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。
* 妻と連れ立ち、相模大野の大学病院にやす香の顔を一目見て声一つかけてやろうと、いましも出掛けるところである。
われわれは「やす香の祖父母」である。「片思ひ」は無い。
2006 7・14 58
*「MIXI」での出題に、東工大の卒業生から答が来ていた。
* 「前回の出題」
どっと笑いしがわれには病める(母)ありけり 栗林一石路
父でも母でも子でも友でも師でもいいであろうが、苦しい人生の一断面として厳しい吐露である。けっして、病を諦めようとはしていない祈りの深さ。
「今回の出題」
切子ガラスのごとき青年が( )反射たのしむ会話目をつむり聞く 富小路 禎子
コメント 2006年07月16日 08:19 典
今回のは「乱」でしょうか。
昨日の方のは、「娘」と入れていましたが「母」だったのですね。「妹」も思い浮かべていました。なぜか年下の女性のような気がしていたのですが、「母」なのですね。姉や姪に死なれて以来、これ以上、父母より先に死んではいけない、と、これだけを自分に課しています。(もちろん運命なのでわかりませんが。)
なので、「母」と埋めると、この作の持つひやりとするものが生きないなと思っていたのですが。順送りって、ある意味めでたいことだと思ってしまうので。
2006年07月16日 09:26 湖
人間関係はいろいろに多彩ですね、「ことば」のように。
教室でみんなに聞いたことがありました。大学以前の「先生」に聴いた、身に彫まれた一言を、と。たくさんたくさんありました中に、「がんばれ」が多かった。この一語は、近来口にするのも、されるのも、嫌い嫌われる気味がありますし、またいかにも平凡なようですが、人間関係、個と個との、ぬきさしならないその「事態」で輝きを持つ言葉なら、単語としての尋常は論外のことでした。
この栗林一石路の句は、大切な間柄の人、ときにはペットの名前すら入れられると想います。わたしなら、さしづめ「孫」としか想いようがない。「はっと一瞬涙を誘われた。それ以上を言う必要などあるまい」と、四半世紀まえの本で、わたしは、言葉多い鑑賞を避けていました。
病む人も元気な人も、寂しいものです。
今回のは、「乱」反射ですね。孫やす香の「MIXI」日記と友人達との対話会話を読み返し読み返し、富小路の歌に向き合っていました。
* たまたま昨日の連載本文にとりあげていた『青春短歌大学』では珍しい方の、道歌を、紹介しておく。
* ☆ 境涯
ある( )らず無きまた( )らずなまなかにすこしあるのがことことと( )る 道歌
西山松之助さんの絵入りの美しい本で見つけた。「瓢箪の繪」に「狂歌」とあり、だれの作ともよく知れず、西山先生自作と拝見しておくことにした。作者はこの際そう問題ではない。やさしい出題ではなかった。三箇所ぜんぶ同じ一字で埋めるように強調してあったのに、別の漢字を押し込んできたのが数人いる。「問題をよく読め」と受験技術としていやほど強いられた反動か、のんきに気ままにしたいのだろう。
瓢箪から駒といっても、もう通用しない。まして瓢箪に酒など入ったさまを想像できる学生は少ない。いないかも知れない。だから、振れば「ことこと」でも「ちゃぷちゃぷ」でも「鳴る」さまに想い至るのは難儀である。
まして一種の道歌とも読める諷喩の歌、意味を取って読まねばならない。狂歌を面白く正しく読むのは、そうやさしい作業ではないのである。
瓢箪のなかに酒が、実でもいいが、いっぱい詰まっていたなら、振っても鳴らない。まるで詰まっていなかったら鳴りようがない。「なまなかに少し有る」のが鳴るのだ。「ことことと」を、気ぜわしく小うるさい感じに読めば、そこに人柄も見えてくる。中途半端にしたり顔のやつほど、なにかにつけ小うるさい、と、まことに耳に痛い狂歌である。
自嘲と自戒の意味で学生諸君にあたまをさげておく気分もある。
東工大にも合格、とかく自信満々の高校生あがりに、ちょっと先手に出て冷や水をかけてやり、わが田に引き入れようとの作戦でもあった。
「ある有らず無きまた有らずなまなかにすこしあるのがことことと有る」と入れてきた学生がいちばん多かった。禅問答めいて面白いが、「ことこと」で落ち着かないのが惜しい。
ひきよせてむすべば柴の庵にてとくればもとの( )はら成けり 慈圓
これは大勢の学生が「野」を正解した。「草」としたものが五四九人中の四〇人、出てきた漢字は約四〇種類もあったとはいえ、四一七人がやや説経じみる歌の意味も境涯もほぼ理解していた。つまり、どこか歌一首に理屈の気味があり、そういうところは数式を読むように東工大の諸君には「解」けてしまうのであるらしい。
2006 7・16 58
* やすかれ やす香 生きよ けふも
やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも
このいのちやるまいぞもどせもどせとぞよべばやす香はゆびをうごかす
2006 7・19 58
*
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを 祖父
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ
* もう、泣くまい。
凝視す永訣の空
静思す自然の数
心無きにあらねど
怨まず生死の趨 宗遠
2006 7・27 58
* この花火 やす香は天でみているか 遠
* 浅草へ、例年のように花火に招かれ、出向いた。
ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を間近に眺めた。送り火をたく気持ちであったが、あはれ美しさ・はかなさに、何度も胸つまり、宵闇と花火の響 (とよ)みに隠れて、嗚咽をこらえた。
2006 7・29 58
* いま、本当に胸痛め困惑すら覚えるのは、例のイスラエルと、ヒズボラとの、根の混雑した血戦の惨劇で、とても論評のちからも無い。
「靖国」問題など、この中東の死と恐怖の泥沼からみれば、理性と感性とだけで聡明にカタをつけてしまえる、つまりは政争と外交の具=愚にされているにすぎない。前者には念々のうちに命がかかり、後者では単に欲と思惑とだけが動いている。政治屋どもの場合、英霊はただダシにつかわれ、拝礼という信心信仰は空洞そのもの。
鳥居をくぐって拝殿の前に手を拍たねば遂げられない崇敬や感謝などというものは、無い。それは、こと死者に関わる場合、ただの「まつりごと=政・祭」であり、真実の思いでいうなら、心籠めた遙拝ないし祈念で十二分に足りる。死者や(在るとして)霊魂が特定の場所に集中して蠢いて在るなどと想う方が可笑しい。より的確には、人の一人一人の記憶と敬愛の中に在る。遙拝と祈念。そして思い出して倶に在ること。それで足る。
* 「遠逝」とわたしは孫やす香の死を書いているが、しかもやす香は、ふだんに、わたしの肩にきて耳に語りかける。わたしは自在に聴き、わたしも自由に語りかける。対話できる。
いままで思いもしなかったが、そうそう、いずれやす香の墓が★★家では用意されよう。しかし祖父母はついにその場所すら知るまいが、知っても知らなくてもわたしは、たぶん妻も、行く気がない。その必要がない。
お寺さんにはわるいが、わたしは「墓」なる装置に、慣習としてはよく付き合っているけれども、そもそも死者の記憶を、重い重い石の下敷きにおしこめて、もう出てこないでという陰険な意図には、共感しかねる。言葉はイヤだが、いつでも化けて出ていらっしゃいという気で待つし、こっちからも逢いに行く。『最上徳内』に書いて働かせているあの「部屋」が、まさしくそれ。
生者は自在に死者とともに生きて在る。在り、得るのである。京都まで、恩ある秦の親の墓まいりにわたしはよく行く方だが、そこの墓石の下に親たちが縮こまって身動きならないなどと、そんな失礼なことは想わない。
たった今も、じつの親、育ての親たちも、姉も兄たちも、孫のやす香も、それどころか多くの先達友人たちも、みんないつでもわたしの此の身のそばに、在る。そういう人達と倶にと、わたしは毎夜静かに本を音読して欠かさないのである。
* わたしが、いわゆる葬儀のたぐいの祭式に気が乗らないのは、大事な人の死ほど、他人(ひと)と共用して済ませたくないからで。やす香との一応の「わかれ・おくり」も、わたしは、ただ賑やかなパフォーマンスにしたくなかった。大勢寄れば、どうしても思いは雑駁に混雑する。だからわたしは浅草の花火という「送り火」を、ごく静かな場処をいただいて、やす香と二人だけで眺めてきた。やす香はすでに自由自在に花火の空を飛翔し、笑っていた。わたしはビルの屋上の一隅で、やはり泣いていたのだが。
* ただ人は情あれ 花の上なる露の世に 閑吟集
2006 8・9 59
* あるサイトを開いていたら、作詞「タケ」さんという人の、たぶん若い人の、こんな詩がいきなり目にしみた。
私を捨てるのですか 飲み干された空き缶の様に 未練も無く捨てるのですか
私を殺すのですか もう生きても仕方ないのだと言う様に
それを 安楽死だと貴方は言うのですか
私を 独りぼっちにして
行く当ても無くふらりと街へ出る 私は この世を彷徨う浮幽霊の様
貴方を探してふらりと立ち止まる 私は 何がしたいのだろう
気付いていますか 私に 「わすれないで」
☆ゆらり ゆらり 心が揺れます 風に乗って貴方へ届け
恨んでいます 愛しています 心から 貴方のこと
私を独りぼっちにした 貴方のこと
用事も無くぽつりと押したボタン 電話の 鳴り響くバイブはポルターガイスト
寒空からぽつりと雨粒に 私は 何を願うだろう
気付いてください 私に 「わすれないで」
☆さらり さらり 身体流され 心裏腹 離れたくないのに
恨んでいます 愛しています 心から 貴方のこと
私を独りぼっちにした 貴方のこと
私を捨てるのですか 私を殺すのですか 安楽死だというのですか
私を 独りぼっちにして…
* どんな人だろう、「たけ」サンは。どういう気持でいるのだろう。
2006 8・10 59
* NHKで七八人の指導層俳人が自句を出し合い点を入れ合い批評し合っていた。途中から見はじめたとき、それらの句が会場の人達の投句と思いこんでいたわたしは、一つ二つしか秀句のないことにも納得していたが、彼等が点を入れた最高点句が、
一片の月
速かりき
一遍忌
であったのにガッカリした。あざとい「イッペン」「イッペン」また脚韻のような「キ」音に更に「カ」音まで入って、硬い「カ」行音の拙な斡旋など、えらい先生方の多数点を献じて説明している説明までが拙劣であった。うるさい句だった。
むしろ、初句に難はあるがいちばん若い人の作であった
淋しさや
サルノコシカケ
二つある
の詩的秀逸、
胸白く
秋の燕と
なりにけり
の自然な季節の発見に、もっと点が入っていい筈だった。最後にそれらがそこに座って話していた先生方の自句と分かって、いっそ可笑しかった。
* 高麗屋の奥さんから、今月も松たか子との父娘往復書簡の載った「オール読物」が贈られてきた。今月は父松本幸四郎の手紙の番。すぐ読んだ。
幸四郎の文章はかなりの量を読んでいるが、今月の感懐は、舞台と、舞台外ないし劇場外との、微妙な「合間」の時間の不思議や奥行きについて語り、先月の娘松たか子の書簡になかなか見事に呼応した、佳いものだった。初めて語られる話題にもいくつも恵まれ、読みでのある文章で感心した。
通用門出でて岡井隆氏がおもむろにわれにもどる身ぶるい 岡井 隆
この歌にもどこか気の通う、仕事こそ違え、歌舞伎役者・演劇俳優の秘めもつ「合間」のおもしろさ、確かさ。
八月は、こういう大物役者が、京都で集中して映画やドラマの撮影にも組み合う暑い時季だが、その間の、ご夫婦でのこころよい銷夏や、不思議の出逢いや、黙想や、うまそうな味覚にも、じつに手配り美しく触れられていた。手だれのペンである。
その高麗屋から、昨日は、十月歌舞伎の通し座席券がわれわれ夫婦分、届いていた。幸四郎は熊谷、そして初役という髪結新三。団十郎も仁左衛門も。芝翫も。楽しみ。
2006 9・23 60
* 手塚美佐さんの句集『猫釣町』を戴く。帯ウラの自選十二句の大半に傾倒した、拝見が楽しみ。永井龍男先生にも師事されていて、永井先生のご縁で「湖の本」を最初から、ご兄妹で応援して頂いている。岸田稚魚さんの主宰されていた俳誌を嗣いで主宰されている境涯たしかな方である。
この表題の「猫釣町」が分かる人は少ないのか、意外に多いのかどうだろう。「むかし巴里のセーヌ川ほとりにあったという難民(政治亡命者)の吹き溜まりに由来しています。巴里の人々はそこに住む難民のことを、「釣をする猫」と蔑みました。釣をする猫たちが棲む町、すなわち猫釣町です。私の住む町も人で不足の農家や工場をあてにして異国の人がたくさん移り住むようになり、いつしか猫釣町になりました。漂流する者として私もまた猫釣町の十人の一人にほかなりません」と、作者。
萩供養残る燠とてなかりけり
冬蝶となりて遊びをもう少し 美佐
2006 9・26 60
* イヤな日だなと思いながら起きたが、思い起こせば、十月十六日は、妻とわたしには懐かしい記念の一日だった。四十九年まえ、ふたりで大文字山にのぼり、大きな比叡山が目の前に見える温かさを思い切り吸い込んできた。あれから二た月とかからず婚約した。一年半足らず後に、昭和三十四年二月に大学を出る妻と上京して、新婚生活を始めた。初冬には妻のおなかに夕日子がいた。
父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
2006 10・16 61
* 夕日子による「秦家」指弾の第三弾はこうである。
* 1985年
結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫。 ★★朝日子
* 妄言とはこれかと、思わず嗤ってしまう。先ず、後段のいやらしい言いがかりから始末を付ける。
父・秦恒平には「昭和六○年六月八日 娘が華燭の日に」「あとがき」を書いて祝った、講談社刊の叢書「詩歌日本の抒情」第四巻『愛と友情の歌』編著の一冊がある。子弟への祝儀などに好んで贈られた好評の一冊であり、わたしはこれを執筆の間、嫁ぎ行く娘や育ち行く息子を念頭に、古来・現代の厖大な詩歌から、心籠めて佳い作品を選びまた心籠めて鑑賞文を書いた。「結婚式直前」というより、夕日子が幾つもの恋愛迷走で一家を混乱させていた頃の書下ろしであった。
多くの掲出作品中、「親への愛」の章に伊藤靖子さん作のこの一首が在る。わたしの読みとともに掲げる。
抱かれて少しずつかわりゆくわたくしを
見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
思い切った五・十・五音の上句に、手粗いが素朴に新しいリズムも生まれている。「わたくし」を「われ」として強いて五・七・五に音を揃えなかった感覚に、誠実な若さが感じとれる。「わたくし」と「父」との対応に、おそらく一首の真実は隠されているのだから、作者の意図をあるいは超えて読めば、恋する男の愛の手に「抱かれて」「少しずつかわりゆく」うら若い女の状況は、まさにさまざまに「風」のなかにある。その喜怒哀楽のそれぞれの場面で、「わたくし」は、男でもある「父」の目と存在とを体温のように、体重のように同時に感じ取っている。おそれ、愛、怒り、不安、希望。父と娘とだけの余人のはかり知られぬ交感を率直に歌いえている。「未来」昭和四十六年十一月号から採った。
* 歌を選ぶ作業をしていたのは、依頼されてから執筆に入るまでの、およそ刊行より二年以上も以前からになるだろう。むろん夕日子がとびつくように結婚した★★★の存在は、、一ミリの影もまだ我が家にさしていない。そして選歌の段階から、たぶん校正中にも、我が家ほどの「談笑」家庭では、ひっきりなしにいろんな話題が具体的に出て、この歌など、新鮮な衝撃度で食事時の話題にあがっていたかも知れない、そういうとき夕日子はけっこう雄弁な存在であった。その記憶をねじ曲げるのでなければ、「風になって」という具体的な表現の一致は、とうてい考えられない。こういうのを都合のいい、品のない、ただ為にする「言いがかり」と謂うのである。
ことのついでに、「子への愛」から夕日子・建日子を念頭に選んでいた作品をアトランダムに挙げておこう。どの一つ一つも、父・恒平の深い共感から選抜している。言うまでもない、夕日子の結婚より二三年前から半年余も前の仕事。夕日子は百パーセント秦家の「アコ」であった。
お望みなら「親への愛」の作品もすぐさま書き抜いてお目に掛ける。
十五年待つにもあらず恋ひをりき今吾にきてみごもる命よ 長崎津矢子
万の朝万の目覚めのふしぎよりわれの赤子の今朝在る不思議 池田季実子
産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人 篠塚純子
乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは 斎藤史
ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる 神田朴勝
花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫 出浦やす子
混み合へる人なかにして木耳(きくらげ)の如く湿れる子の手を引けり 長谷川竹夫
吾と臥す肉薄き孫の背を撫でつ此の子を召さむいくさあらすな 吉岡季美
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 中村汀女
わが顔を描きゐし子が唐突に頬ずりをせりかなしきかなや 岡野弘彦
我が家の姉と弟 写真
おどおどと世に処す父に頬を寄す子は三年を生きしばかりに 島田修二
神は自分に一人の女を与へた。
女は娘といふ形で
おれとともに生活をし出した。
おれは権知事さげ
この城の番人となり
神をもまだ軽蔑しないでゐる。 室生犀星
此秋は膝に子のない月見かな 上島鬼貫
幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。 佐藤惣之助
こんにちはさよならを美しくいう少女 岸本吟一
汗くさくおでこでクラス一番で 篠塚しげる
強くなれ強くなれと子をわれは右より大きく上手投げうつ 福田栄一
光の中を駈けぬけて吾子母の日に花弁のごとき整理もちくる 嵯峨美津江
生々となりしわが声か将棋さして少年のお前に追ひつめられながら 森岡貞香
人間は死ぬべきものと知りし子の「わざと死ぬむな」とこのごろ言へる 篠塚純子
子の未来語りあふ夜を風立ちて父我が胸に鳴る虎落笛(もがりぶえ) 来島靖生
安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
花菜漬しくしくと娘に泣かれたる 清水素人
外国に留学したき娘(こ)の願ひ抑へおさへてわがふがひなし 松阪弘
人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて娘が去りゆけばひとり涙す 村上一郎
花嫁の初々しさ打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下清
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ 八木重吉
* わたしが今嫁ぎ行く娘に「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫」するようないやらしい父なら、いつか華燭をも念頭に祝って、こういう作を選ぶことも、こんな本を書くことも、それで人の胸を打つことも、決して無い。文は人であり、言葉は「心の苗」だと信じているわたしが。「気稟の清質もっとも尊ぶべし」と娘や息子にも身を以て教えて来た父が。
上掲の室生犀星の詩を、村上一郎の短歌をよく読むがいい、夕日子。
2006 10・20 61
* 『愛と友情の歌』から「子への愛」の章の選歌を摘録した一両日前の記事に、複数の読者の感銘を得られた声あり、「親への愛」の章の、せめて選ばれた作品だけでも読ませて欲しいと。
「子」たる者の「親へ」の思いを、また「親」たる存在の「子へ」もつ意味を、秦さんがどのように感じながら作品を選んでいたか、このような際であり、知りたいと云われる。
育ててくれた、生んでくれた「親への愛に気づく」という、その大事を、わたしは娘・夕日子、息子・建日子の日頃も十分念頭に、一つ一つ鑑賞していったあの日々を今思い出す。
作品のみ、全部とはいわない、適宜に並べて行く。
「町田市主任児童委員」を自負しながら、破廉恥にでたらめに現在の両親を公然辱めて「虐待」を訴えている、娘・★★夕日子よ。
ここにいう「母」とは、まず我がことなどと自身を甘やかさず、お前をこの世に送り出し慈しみ育てた母・迪子その人を思うがいい。またあれほどの苦しみと寂しさとに悶えていたお前の娘・やす香から「目を離していた母」なる己れを省みながら、「親」なるものをせめて謙虚に思惟するがいい。
* 「親への愛」の章より 秦恒平著『愛と友情の歌』より
父母よこのうつし身をたまひたるそれのみにして死にたまひしか 岡本かの子
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井隆
まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂 東淳子
闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ父へのあこがれといふほどのもの 東淳子
かくれんぼいつの日も鬼にされてゐる母はせつなきとことはの鬼 稲葉京子
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山明
雲青嶺母あるかぎりわが故郷 福永耕二
あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ) 吉田一穂
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男
母の胸には 無数の血さへにぢむ爪の跡!
あるひは赤き打撲の傷の跡!
投石された傷の跡! 歯に噛まれたる傷の跡!
あゝそれら痛々しい赤き傷は
みな愛児達の生存のための傷である! 萩原恭次郎
十六夜の長湯の母を覗きけり 津崎宗親
進学をあきらめさせた父無口
幼子のわれのケープを落し来て母が忘れぬ瀋陽の駅 佐波洋子
抱(いだ)かれて少しずつかわりゆくわたくしを見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明を 北原白秋
草枕旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り 土田耕平
いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを 相坂一郎
父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる 若山牧水
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。 石川啄木
よく怒る人にありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ 石川啄木
寝よ寝よと宣らす母ゆゑ目はとぢて雨聴きてをり昼の産屋に 田中民子
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも 松村あさ子
先ず吾に洗礼をさづけ給ひたり中年にて牧師になりしわが父 杉田えい子
背負ひ籠が歩めるごとき後姿(うしろで)を母とみとめて声をかけ得ず 平塚すが
眠られぬ母のため吾が誦む童話母の寝入りしのち王子死す 岡井隆
どっと笑いしがわれには病める母ありけり 栗林一石路
卯月浪父の老いざま見ておくぞ 藤田湘子
挫折とは多く苦しきおとこ道 父見えて小さき魚釣りている 馬場あき子
夜半を揺る烈しき地震(なゐ)に母を抱くやせし胸乳(むなち)に触るるさびしさ 野地千鶴
病む母の生きの証(あかし)ときさらぎの夜半をかそかに尿(ゆまり)し給ふ 綴敏子
<病む父> 伊藤整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなった私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奧の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んでみたりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む葦のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。 伊藤整
<無題> 高見順
膝にごはんをこぼすと言つて叱つた母が
今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす
母のしつけで決してごはんをこぼさない私も
やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう
そのときは母はゐないだらう
そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない
老いた母は母のしつけを私が伝へねばならぬ子供のゐないため
私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす 高見順
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 斎藤茂吉
今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり 谷崎潤一郎
今死にし母をゆすりて春の地震(なゐ) 岸田稚魚
父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ 岡井隆
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
柩挽(ひつぎ・ひ)く小者な急(せ)きそ秋きよき烏川原を母の見ますに 吉野秀雄
亡き母の登りゆく背の寂しさや杖突峠霧にかかりて 阿部正路
山茶花の白をいざなふ風さむし母は彼岸に着き給ひしか 佐佐木由幾
命惜しみ四十路の坂に踏みなづむ今日より吾は親なしにして 安江茂
凍(し)み蒼き田の面(も)に降りてみじろがぬ雪客鳥(さぎ)の一つは父の霊かも 大滝禎一
病む祖母が寝ぐさき息にささやきし草葉のかげといふは何処(いづく)ぞ 岡野弘彦
玉棚の奥なつかしや親の顔 向井去来
いくそたび母をかなしみ雪の夜雛の座敷に灯をつけにゆく 飯田明子
庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ父の家にして父の肉われ 河野愛子
お父様 ほんとは一番愛されたと姉妹はそれぞれ思っています 利根川洋子
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり 甲山幸雄
これひとつ生母のかたみと赤き珊瑚わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて 給田みどり
この鍬に一生(ひとよ)を生きし亡き父の掌の跡かなし握りしめつつ 佐竹忠雄
明珍(みやうちん)よ良き音を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす 藤村省三
墓石の裏も洗って気がねなく今夜の酒をいただいておる 山崎方代
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも 窪田空穂
今にして知りて悲しむ父母(ちちはは)がわれにしまししその片おもひ 窪田空穂
百石(モモサカ)ニ八十石(ヤソサカ)ソヘテ給ヒテシ、
乳房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、
今日ゾワガスルヤ、
今日セデハ、何(イツ)カハスベキ、
年モ経ヌベシ、サ代モ経ヌベシ。 和讃
父に虐待され精神的に蹂躙され性的虐待すら受けた日々と告発しているその時期に、社宅の庭で、父のカメラに向かう娘・夕日子の元気な自然な笑顔のこういう写真が、何枚も何枚も有る。以前にも以後にも、結婚するまで、結婚してからも、とぎれなくアルバムに「まとも」な夕日子の日々が残されている。 写真
* すべて親から子へ強いている詩歌ではなく、すべて子から親へ献じている詩歌の真情である。やはり親も子もこういう風でありたい真実の希望をわたしはもちながら、無慮何百万もある詩歌の中からこれらを選んで、日々に心を洗われ励まされ泪していた。
伊藤整の「病む父」をはじめて読んだのは大昔だ。わたしには現実に兄弟がなかったけれど、何かの折りにはこの「兄」のように夕日子が弟建日子とともに心美しく元気に生きていってほしいと心底願望していた。今も書き写しながらわたしは、悲しい声を忍ぶことが出来なかった。
わたしは、自身のためにも、さらに大事には「妻や息子の名誉」のためにも、理不尽に心ない娘と闘わざるをえない。
2006 10・22 61
* 地裁審尋の「判決書」が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて「数日」ということだったから「仮処分申請」に同意しお願いしたが、「一ヶ月余」もかかり、結局復旧したという画面も見ること出来ず、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか、全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話し合わねばならず、ほとほと驚愕したのは、法律家の言葉はじつに私たちの耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者の言葉はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官は「そういう訴えには一顧もあたえません」と、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと「人間」を務めているのが情けなくなる。
* 情けないときは、さような「世間」をわたる人間の「役」をしばらくやめて、じっと自分の内側を覗いて過ごすのがいい。
「禅」という文字のことなど、思ってみる。
「禅=ゼン」という日本語には何の根拠もない。中国の「禅=チャン」が訛って伝わっただけであり、その「チャン」にしても中国語ではない。パーリ語の「ジャーナ」という言葉で達磨が、つまり「禅」に相当する教えを伝えた。禅はただの宛字である。
ブッダは佛教を、民衆の言葉パーリ語で語った。インドの学者達に専有されていたサンスクリットでいえば、「ジャーナ」は「ディヤーナ」だった。そこまでは、要するに「知識」の範囲であり、あまり意味がない。そんなことを知っていても屁のつっぱりにもならない。
(このごろオヤジの日記のことば、ナマになっているぜ、おやじらしい抑制の利いた文章で読ませてよと息子の方から声が聞こえている。言葉は「心の苗」であり、いつも一本調子は偽善的なウソにちかくなる。言葉の生彩は、喜・怒・哀・楽の情感に適切な出口をつくってやって生まれる。それが自然であれば、言葉は生き生きはずみ、不自然であればことばは過度に飾られるか表情を喪う。此処は、屁のつっぱりにもならないと言わせてもらいたい。)
* 「ディヤーナ」とは、心を超えること、分別し思考するプロセスを超えること、またはそういう心、分別、思考を落とすこと、静寂のなかにはいることだと分かりやすい言葉で言い換えられている。何一つ動くもののない、なにひとつかき乱すもののない、完全な静寂、純粋な虚空、そのスペース=時空が、「禅」といわれる。
「禅」は中国では宋の時代に相当な感化をのこしたが、ほんとうに禅が落ち着いたのはむしろインドでも中国でもなく、日本だったといわれていて、そうとも言える、が、かなり逸脱して「禅趣味」が日本人に根付いたと正確に謂えるというのが、わたしの批評で持説である。禅と禅趣味とをいっしょくたに混同していると、禅も遊藝化してくるから危ない。
あらゆる宗教や信仰の中で、「禅」だけが、ほぼ「抱き柱」を抱かずに、人間の内奥に生死の動静を把握する。禅宗とは云わないが、わたしが「禅」に心親しむ思いがそれであり、なにが人に大事か、自身の内奥にenlightenment=無明長夜の眠りからの眼覚め=気付き、を得ることより有り難い「生」はあるまいなあと、わたしは只今も感じている。金無垢にピュアで確かな生が、さてこそ、予感される。外の世間には、余りにもくだらないものがゴミためのように淀んで流れもしていないと、ま、そんな風に毒づくのは簡単だけれど、気付いてしまえば、綺麗も汚いも大事も不大事も何にもないであろう、だって、「ディヤーナ」であれ「禅」であれ、その静寂は虚空で、分別する「識」を無に帰している。きれいのきたないの、くだるのくだらないのというのは、夢の中の悪夢に悩まされているという以上のなにものでもなく、夢は醒めてしまえばおしまい。
* こう思っていると、おもしろいことにその夢が、ま、シェイクスピアではないが「夏の夜の夢」めくお芝居のようで、長い狂言にはいい幕もいやな幕も、明るい幕もくらい幕もあって当然と思えてくる。どうせ醒めてしまう夢に違いないと信じているから、ならまあ、あいつとも、こいつとも、どいつとも夢の中で適当に付き合ってやるかとアキラメがついてくる。なに、高見の見物などと気取ることはない、自分も自分の「一役」をぎしぎしと演じてみるがいいのである。夢と知りせば覚めざらましをと嘆いたのは、無明の夢と知りつつしたたかに悦楽出来た、まちがいなくあれぞ「女の強み」だったろうなあと、ふと思う。誰だったかな、小町にきまっている。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを 小野小町
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり みづうみ
2006 10・26 61
* hatakさん 今日の札幌は晴天。羊ケ丘は晩秋の木々が美しく、丘の起伏に沿って白樺やポプラの色模様が見えています。
食糧を仕事にしていながら最近「食べること」に情熱を失っていたと、夕方思い立ち買い出しに行きました。食材の豊富な豊平の大型店舗は大変な賑わい。駐車場にテントを張って、大根、鷹の爪など漬物の材料が山積みにされ、目の前で飛ぶように売れていきました。
夕方から風が冷たく、日が落ちるとまるで冬のような気配。自然、鍋の材料を買い求めます。白菜は四分の一で五九円、十勝正直村の焼豆腐一丁百八十九円、知床地鶏百四十七円、北見産玉葱四個で百二十八円、具は全て道内産で揃いました。
土鍋に日高昆布で出汁を引き、鶏肉でスープが乳白色になったところで、スダチのポン酢で野菜をたくさんいただきました。外は7℃。二重窓のガラスが湯気に曇って部屋全体が温まります。仕上げに用意してあった道産米「おぼろづき」とイクラの醤油漬けは、腹ごなしにこのメールを書いてからいただきます。
来週は札幌も初雪とのこと。そちらの「季のもの」は、今何でしょうか? maokat
* しらたまのつきになごりの酒くみておもひのたけのかぐやひめこそ 翁
2006 10・29 61
* いつか、涼しくなったらお酒をと申しましたが、お体に障ってはと気懸かりで、とりあえず小ぶりですが塩蒸しの桜鯛をお届けします。2日に到着予定です。
お酒も召し上がられるようでしたら清酒・焼酎(麦,芋,黒糖,米などのどれか)その他指定していただいたものをお誕生日前後にお届けしたいと存じます。
夕日子さんはきっと病んでおられるのだと思います。どこかの時点で自分が過ちをおかしたことで自分を赦せなくなっておいでなのではないでしょうか。その怒りの矛先が、最も安全な父親へ向かったのではと推測しています。
時の解決を待つほかに、よいてだてがみつかることを願っています。外側の人間の無責任な言葉をお許しください。お二人の御無事をお祈りしています。 元
* 夕日子は病んでいると言ってくださる人の気持ちは、言うまでもなく庇っていてくださるのであり、有り難いと思う。病んでいるのかどうか、わたしには確言できない。
* しかし、今年の二月二十五日から今日に至る、「★★夕日子」発信になる、『がくえん・こらぼ』という個人ブログの日録が、幾つかの意味で甚だ独特。自称「特技」が「机上の空論」で、「長所」は「おもしろがる」とある、この夕日子自身の自覚と、相当よく符合しているらしいのは、事実と思われる。
* いったい夕日子は、やす香と行幸とが我が家へ嬉々として遊びにきた、正にその二月二十五日以来、そのブログを用いて、何を、実現したかったのか。
(ちなみに、その日の姉妹の保谷へ行きたいのという申し入れは、行幸からまみいに先にあり、「一人で行く」というオファーだった。だがそれと知ったやす香も「一緒に行くわよ」と、二人で尋ねてきたのだった。行幸は少し早めの誕生祝いを貰って帰った。やす香にはまた適切な機会にねと、ご馳走しかしてやらなかったのが今となっては心残りで、今もそばのやす香の写真に詫びている。)
* で、「ぬぼこ」こと★★夕日子は、在住する町田市内らしい「がくえん、という小学校区に散在するグループや個人をコーディネート(=取り纏め、仕切りを=)したいとひそかに願っている、一主婦のブログです。具体の活動報告より、『思い』を書くことのほうが多いかも。きのうを整理し、あしたに臨む、きょうの私の心の内・・・かな(笑)」と、真正直に看板が掲げている。ブログに筆録された総量は、「一太郎」に置き換えて、七十頁分に及んでいる。
「ぬぼこ」が分からない人もありそうだ。
浮き橋の上から天つ神さまが、地表の混沌をこおろこおろと攪拌したあの鉾だ、夕日子は「かき混ぜる」のが好きなのだ。
その肝腎の「コーディネート」という目的の方は、「笛吹けど人踊らず」まだ寥々と、協力者にも去られて、事実上空回りしているようだが、こういう仕事はそう簡単に短時日で成るわけがなく、折角踏ん張って、初志をのべたら良い。まだ文字どおり「机上の空論」を「おもしろが」っている程度らしいが、その軽薄さが、願いの筋を人の和や輪とともに成しえられない「理由」なんだろうと思うし、昔から父親によく呆れられたように、いまだに、「おまえは、セリフしか知らないんだ」ということだ。
夕日子自身もブログの中で何度か自認している、「口さき」「口八丁」だけで「お祭り」気分でやれると勘違いしているあたりが、贔屓目にも歯がゆい。つまり自分が「おもしろが」りたいのでは、舞台の役者が率先笑ってしまっているのと同じ、ハートのない上滑りだけを招くのは目に見えている。
だが、何とかの上にも何年と謂う。、コケの一念とも謂う。なにより人に信頼され愛されて歩むべきだろうに、とんと、それが見えないのは、つまり「自己満足」を追いながら、こうすれば人も満足するに違いないのにと、暗に「お祭り」を他に強いているからだ。方法論なしに手探りで奔走しても、大きな仕事は成らない。協力を断念して去っていった人の意識の高さにくらべると、「机上の空論」とは、よく自分が分かっていると褒めてやるべきか。
* ま、それだって、いいのだ。好きにする「自由」は本人にある、他人にトバッチリをひっ掛けないなら、だ。夕日子のとにかく飯より好きそうな「コーティネート」は、いずれ、モノの「上手」になり、市会議員くらいに推されるのかも知れない、ハハハ、頑張るがいい。
* しかしながら、夕日子は、トバッチリをひっ掛けなかったろうか。
夕日子が此のブログ始めの「二月二十五日」という日付に注目する。先も言うように、、やす香とヶヶヶの姉妹が我が家に遊びに来て、雛祭りに打ち興じ、池袋で「寿司田」の寿司を大騒ぎで食べて帰った、当日のことである。即座にわたしがやす香と、入会したばかりの「MIXI」で、「マイミク」を約束し合った当日である。
夕日子は、もうブログの立ち上げに夢中のようだし、やす香は、これに先立つ一月十一日に、「痛」一字を「MIXI」に掲げて、はや劇症の進展を言葉で自覚していた。
* わたしたちは、どうか。
妻は二月二十五日のやす香が、ともすると畳や廊下に寝そべるのがとも気になったと言っていた。だが、あのような「病気」を、その時点ではとても想像も出来ず、その後は、もう、病院に「肉腫」を見舞う日まで、やす香とは一度も逢えなかった。しかし「MIXI」は毎日観ていたし、メールも祖父母ともにやす香と交換していた。
気が狂いそうなほど、やす香の「MIXI」に連発する「容態」が心配で、わたしは妻にも当たるほどだったが、メールしたりメッセージする以外の「手」はついに出せずじまいだった。われわれがやす香を「死なせてしまった」と嘆くのは、そこだ。
* では夕日子のブログでは、どうか。日々の「思い」も書くと夕日子は言い、事実たくさん書かれている中で、「やす香入院必要」と電話で知らされるその瞬間まで、夕日子のブログ日録は、ただの一個所ででも、やす香について触れていない。我が子の異様な容態を懸念した記事も、言辞も、じつに「絶無」なのである。ひたすら「コーディネート」へ熱中、また高邁そうな言説も展開していて、ただ「読む」だけなら、父親をもつい嬉しくさせるほどツンツンと身を反って得意満面書いているけれど、あれほどやす香が病苦に呻いて、泣いて、愁訴し激怒しているどんな日にも、ただの一個所でも、二人の書いている「記事内容」は、ほんの一ミリも接触した例が無い。全然みつからない。
どうか、只の一個所でも、「やす香が心配で母親はこうした」「ママが気遣ってこうしてくれた」という一致点が見つからないかと、詳細なやす香の「病悩全日記」と夕日子の「全日記」をくわしく照合してみたが、わずかな接点のただ一つも指摘できなかった。
* これで何となく合点が行く。「著作権相続」を楯にわたしのホームページをぶっ潰した★★夫妻が、何を恐れて人目から「やす香日記」を隠したかったか。
言うまでもない、やす香の「MIXI」日記が明白に刻々と告げている「病症」の烈しさだけではなくて、それから完全に「目を離していた」「手も出さなかった」「言葉もかけなかった」らしき事実であったのだ。いやいや「目を離して」いたどころか、「目もくれていない」のであり、その責任を指弾されるのを ★★夫妻は「恐怖」していたのだ。
* 悲しいことにしかし<事実は否定できそうにない。昨日引用しておいた「七月一日の夕日子日記」は、それより「二週間」前に、突如として「入院」の必要を告げてくる、病院からか、やす香からか、の一本の電話に仰天する夕日子を浮き彫りにしている。
それでいて、わたしの「死なせた」という、語彙そのものに根拠も意味づけもきちんとされている言葉に対し、祖父母は、われわれ両親を「やす香殺し」「殺人者」と言っている「キャンペーンしている」などと、中学生以下の理解の薄さで、告訴の訴訟のとわめきだした。
頭を少し冷やせば「死なせた は 殺したでない」ぐらい、やす香のお友達でも分かってくれている。「わたしは大学で哲学を学んだ」とブログにも立派に自負している夕日子のこのお粗末には、お茶の水女子大学も嘆くだろう。
* わたしは、例の「二十年ないし四十年」もの「虐待」「性的虐待」という夕日子の「言いがかり」が、いかに慌ただしく捏造された虚妄であるかを、もう縷々この場で反駁した。この場でしたのは、この場でこそ知友にも読者にも一般にも分かって貰えるからであり、その他に、この様な破廉恥な言いがかりを逆に攻撃するどんな場所も無いからだ。わたしは、わたしの名誉も妻や息子の名誉も守りたい。そのために紙の本を出版しているヒマもない。
誰かの予言の如く夕日子と★★★とは、「真っ赤なウソ」を恥ずかしげもなく言い立てて、その立場を喪っている。此処に書いたものをわたしはむろん活字媒体で世に訴えることも辞さない。
* 繰り返し指摘する。夕日子は、やす香生前のあのように激越な症状の展開に対し、おそらく六月十六日前後の「入院勧告」を受けるまで、事実上有効な何一つもしていなかった、もしローティーンの子に対してなら、それぞ「虐待」といわれて仕方ない、情けない冷淡さを、自身暴露していた。
夕日子のブログとやす香のブログのいわば「日付合わせ鏡」を見れば、露骨なほど二人に愛と信頼の連繋が無かったのは明瞭であって、それが、ブログにただ一言(かなりアイマイに綺麗につくろって、だが)出ている「自責」の一語に繋がっている。
この母親も父親も、親・舅を告発できる何一つの権利も足場も持ってはいなかった。祖父母は一切のやす香の医療事情を知らされていなかった。しかもわわれは、一度と
して★★の両親がやす香を「殺した」などと口にも書きもしていない。殺人者なんかであってはそれこそ大変だった。よくわたしの日記を読めばいい。
* こうも批判した上で、これはおかしいけれど、足かけ九ヶ月の夕日子のブログを逐一日付順にならべ、字句は触らないが無用な分かち書きなどを整理していって、つくづく夕日子の文章に接しながら、けっこうわたしは純粋にものを「読む」楽しさも楽しんでいた。
なるほど「机上の空論」の多さに苦笑してしまうが、その一編、一編だけで読んで「なかなかよく書けているエッセイ」が幾つかあり、「おう、うまいうまい」などと内心褒めていた。こう書ける人はそうはいない、しばらく音沙汰ない東京の「小闇」の短いエッセイとは、またちがったいい味をみせることもある。多くはない、たいていはいやみに空疎に文を舞わしているだけだが、でも書けるじゃないか、それならこんな駄文にいま力を磨り潰していないで、本格の小説を書かないか、書かないでいるともう「小説の文章」が出てこなくなるよと、すっかり忘れ果ててしまうだろうよと、心配した。
何の「高慢に」自称文筆家が自称女流作家に批評するなと、また喚かれるかも知れないが、わたしは「書ける夕日子」の長生きを、まだ心底願っているというのが本音だ。
* 代理人から「和解案」というのが送られてきた。よく、検討するが、わたしはこんな段階で妥協する気などない。
* 日付はもう変わっている。十月は尽き、十一月だ。さ、機械を消して、この椅子のまま「瞑目」しよう。三十分。小一時間。
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 湖
2006 10・31 61
* 岡山からお志の、すばらしい桜鯛を戴いていた。落ち着いて、明日、ご馳走になる。家にいま生憎酒が無いんだから。最良の酒を買ってきて、何よりも好きな魚の鯛を、心行くまでご馳走になりたい。
馬場あき子さんからも新しい歌集を戴いていた。
2006 11・2 62
* 心(マインド)に従えばが、理解と無理解のどちらも偽りになる。達磨はそう言う。この深遠で端的な示唆に、わたしは推服する。
これを理解すれば、現実は人に従う。理解しなければ、人が現実に従う。現実が人に従うとき、現実でないものが現実になる。人が現実に従うとき、現実であるものが現実ではなくなる。人が現実に従うとき、あらゆるものが偽りになる。現実が人に従うとき、あらゆるものが真実になる。
達磨のこの言を味わいつくさなければとわたしは思う。
* 霧黄なる市(まち)に動くや影法師 漱石
2006 11・12 62
* 久しい、親しい歌人の青井史さんは歌誌「かりうど」をながく主宰していたが、健康をいたわり、思い切って終刊にするという挨拶入りの終刊号を送ってきた。健康はどうぞ大切に大切に労って欲しい。終刊の報せは、惜しいがちかごろ潔いあいさつであった。青井さんは、馬場あき子さんの「かりん」から立派に自立して、「かりうど」で与謝野鉄幹の大著を仕上げられた。これは立派な大仕事で敬服した。たとえ終刊しても青井史の名は「かりうど」とそこで大輪の華のように咲いた鉄幹研究の詳細なこととともに忘れられないものになる。ご苦労さんでした。またペンの例会へ佳い笑顔を何度も見せてください。
2006 12・19 63
☆ 「壁」脱稿 甲子
MIXI へのお誘い、ありがとうございました。ご招待いただいた当初は、閲覧を、と考えておりましたが、先生の日記欄を拝見しているうち、この日記欄を下書きの替わりに書いたらどうなるやろ、とふと考え、「通訳たち」という連作形式をとってみました。
始めてみると、推敲の行き届かない初稿の連載、その苦しさ・恥ずかしさ・に打ち震えます。
やっと「壁」というサブタイトルのものを書き終えましたが、うちに秘めた「壁」のひと文字が読む人に伝わりますのやら、下半身の冷え込み以上に骨ががたがたします。
目の前の欅、もうすっかり葉が落ちて裸樹となりました。先日撮ったCT 写真のように、自身の骨格を見る思いです。
つまらぬことを書きました。冬至間近、寒さいっそうふかまるでしょう。
奥様ともどもお風邪など召さぬよう、お気をつけください。
* 推薦し招待した甲斐があった。「下書き」に勇を鼓してあたる真似を、わたしは、いちばん最初の「静かな心のために」で試みたが、ぶっつけ本番という気分で緊張した。
いま北海道の昴さんが「お話し」を勇敢に書き継いでいて、わたしは感心している。いずれ推敲の時機が来るとして、いま書きたいものは、いま書いたがいい。
詩を、それも詩のまねごとのようなものでない詩を、この「MIXI」を利用して書き継ぐ人がいてもいい。たいていの人には詩はおそろしくて薦めないが、この人ならと嗾したい人もいる。
2006 12・19 63
* 述懐 あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲 七十一郎
* 日のいちばん短い日に生まれた。
2006 12・21 63
* 「空」と抹茶と最中、それに藤十郎、梅玉、我當、翫・扇雀兄弟らの芝居に酔い、当る亥歳、昨日は、生まれてきた日を静かに過ごした。
あすありとたがたのむなるゆめのよや まなこに沈透(しづ)くやみの湖
20056 12・22 63
* 歳末述懐
これやこの一途の道に咲く花のつゆも匂へとまぼろしにみる
あらざらんこのよをよそにとめゆかめあかきは椿しろきも椿
はんなりと老いの一途を歩みたし来る幾としの数をわすれて 遠
2006 12・26 63
* 述懐 みづうみ
逝く年の背を見おくれば肩ごしにやす香はわれに笑みて手をふる
来る年を迎へに立てば底やみにまぼろしの橋を踏みてあしおと 遠
2006 12・31 63