ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2009年

 

述懐 平成二十一年 元旦

はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかで寝(ぬ)る我は人かは     和泉式部

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り   斎藤史

相語る声うやうやし道に逢ふ角(つの)ある人と角ある人と    森?外

日あたりの草生(くさふ)の庭にすずめ来て老いをよぶらし目をとぢて聴く  秦恒平

山口薫・画
2009 1・1 88

* 賀正 存吾春

あなたのお幸せを祈ります。
牛のように歩んで行きます。     秦 恒平 騒壇余人

ひむがしに月のこりゐて天霧らし丘の上に我は思惟すてかねつ  十七歳 一九五二年

また一つ階段を昇るのか降りるのか知ったことかの吾が吾亦紅
いのちあって吾亦紅けふも千両のあけとはなやぎ二十顆落ちず 七三歳 二◯◯九年

* ちかくの鎮守で太鼓を打ち出した。数百人に賀状を電送した。

* 天光正春 平成二十一年。ようこそ。
2009 1・1 88

* 斎藤史の全歌集となると、歌の数も厖大。声を潰されませんように。

* 「朝の一服」ももう今日明日で全部を連載し終える。「mixi」には半ばは未練、半ばはもういいかという気もある。どうしようか、是までも惑ってきたけれど。また惑っている。
2009 1・8 88

* 高濱虚子の名句をたっぷり選んでみた。
2009 1・9 88

■ 朝の一服  『愛、はるかに照せ』(秦恒平・湖の本エッセイ40・原題『愛と友情の歌』講談社刊)から。 08.06.27連載開始。

さまざまな愛

☆ 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照せ山の端の月   和泉式部

未生の「暗き」から死後の「暗き」へ、人は生きる。そして死ぬ。後じさりのならない一筋の道である。その道を、成ろうならば来世までも「はるかに照らせ」と祈る。「山の端の月」を、この作者の時代でいえば、摂取不捨の来迎仏そのものと眺めていただろうか。だがそうした思い入れを超えて、この歌のなんとまあ美しいことか。「和歌」時代から一つと限り女の歌を選べと言われれば、私はこの作者の名とともにこの歌を挙げたい。

☆ 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ   柿本 人麻呂

もし「和歌」で男の歌を一つ選べとあれば、好きなのはこの歌と答えよう。「心もしぬに」以下の下句は、心も萎えしぼんで衰えてしまうぐらい…昔がなつかしまれる、の意味。日本語の「死ぬ」の意味は、命が萎えしぼむ、しなびる、から出たという。もっともこの歌でのこの句は、そう深刻に重く取り過ぎることはない。「いにしへ」への愛の思いが、誰にもある。この作者の場合には具体的に古き志賀の都への哀惜があったろう。が、我々は、もっと自在に大きくこの歌の表現や音調に助けられ、わが心の内なる「愛」の旋律を引き出して貰っていいだろう。私は、子供の頃から私専用の「和歌」のためのメロディーを持っていて、ことにこの歌など繰返し機ごとに口遊みつづけてきた。
「淡海」はわが、生みの母の国。いわば、私の詩歌への愛の原点といえるこの美しく懐かしい一首を大尾に挙げて、久しい撰歌と鑑賞の作業を、今こそ終えたい。

原本「愛と友情の歌」あとがき

『日本の抒情』の一冊を分担するよう指名を受けたのは、昭和五七年(一九八二)六月十七日のことであった。まる三年がこの間に経過している。顧みてよく三年でこれだけ読みこれだけ撰べたなと、思わぬでない。近代現代に的は絞って行ったが、近代以前の莫大な作品にも、ともかく納得が行くまで目を通しつづけて来た。今にしてこの三年間が幸せなものであったと、感謝は厚い。
思うままに撰んだ。冠絶した作品を厳撰したのでは、けっして、ない。表現や技巧に不満はあっても、テーマの「愛」に即し、心に触れて「うったえ」て来るものが有れば、つとめて拾った。それが「詩歌=うた」というものだ。むろん出会いに恵まれずじまいの作品が、数限りなく有る。その余儀ない事実に私は終始謙虚でありたかった。今もそう思っている。
また、私の解説や鑑賞が、作品を新鮮に読む喜びを読者から奪うほど過度にわたるまいとも、心がけた。簡単で済むものは済ませて、その分、一つでも作品を多く紹介した。最初に指定された作品数より、だいぶ多くなっている。「愛」にもいろいろ有り、さまざま有るということだ。
作品の読みは「私」のそれに徹した。挨拶だくさんに、なまぬるい話に流れるのを嫌った。私はこう読んだが、あなたはそう読まれて、それもまた佳しとうなずけるものが詩や歌や句には、しばしば、ある。読みを一つに限ってしまう「翻訳」も、私は、当然避けた。サボったのでは、ない。
それにしても、いま初校を遂げながらしみじみ思う、愛ならぬ詩は、ない…と。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難さよ! 努めるしか、ない。
昭和六〇(一九八五)年六月八日  娘・夕日子(仮名)が華燭の日に 秦恒平

そして二十四年が過ぎ、その間に十九歳で孫・やす香をわたしたちは死なせてしまった。娘達のために心こめて編んだ本を、こんどは亡きやす香のため、和泉式部の絶唱にかりて再び、『愛、はるかに照せ』と改題し一昨年春に「湖の本」で再刊したのである。それを此処で、また「mixi」で「朝の一服」と題して少しずつ連載してきた。それを今、終えた。 09.01.10 秦 恒平

* ほぼ半年掛けて『朝の一服(湖の本原題『愛、はるかに照せ』さらに原題『日本の抒情 愛と友情の歌』講談社刊)』連載を終えた。

* この機会に、退会はしないが、「mixi」の作業を、当分(今年中ぐらい)停止する。デスクトップのロゴも削除した。端的に、時間を惜しむため。

* ゆうべもよく眠らなかった。明日からに又そなえて、今夜はやすもう。
2009 1・10 88

☆ 福笹   湖雀
成人の日寒波で連日雪となりました。そのぶん月が美しく、夕に朝に見とれています。
おかわりございませんか。雀は元気です。
しろがねの湖に真向ふ琴始  (白柳淑子)
望(もち)の正月を高月町に遊んでまいりました。浅井久政正室井口殿の実家跡のほん東に、芳洲庵があります。それを見学し、幕府天文方の渋川春海と建部賢弘に学んだ中根元圭の生地であるびわ町八木浜に寄り、文殊寺で知恵をいただこうというおもいつ
き。
高月町は何度も訪ねていますが雨森地区は初めて。ひとめで気に入りました。観光化する前の五個荘を湖北に移した感じといえばおわかりいただけますでしょうか。澄んで、さえて、ぴりっとしまって、あかるくて、こまやかで、あたたか。またぜひ訪れたい町のひとつです。
文殊寺は屋根も目印になるなにも見つけられず、鎮守の森を目安にしたところが、まつりテントを片付けている最中にでくわしました。えべっさんだ‥ぁ、と、足を止めた雀に、ひとりのおじいさんが笑顔とともにお札に鯛に小判などを下げた福笹(名張ではケッキョといいます)を差出したのです。思いもかけないこと。残りも残り、残り福。夕日にせかされ、文殊寺はわからず仕舞でしたが、
福笹のやさしき音を持ち帰る  (山下澄江)
一刻ごとに光の色がうつりかわってゆく夕暮れの湖岸。
満月をたよりにひやひやと伊賀の暗い山中を走って帰りました。
コハクチョウが来る湖北町。ぶどう狩りのびわ町。そんなキャッチコピーがあるみたいですよ。
尾上温泉はすむかいの水鳥ステーションで望遠鏡を覗かせていただき、隣の道の駅であたたかい缶コーヒーでひといきつきながら湖面の淡い輝きを身に浴びました。
湖魚の佃煮、鯉の甘露煮、赤飯、餅、饅頭、おかき、ちらし寿司、漬物、天ぷら、えとせとら。湖北の美味しいあれこれで二番正月を過ごします。
ところで、岩下志麻出演のメナードCMに映し出された庭に、あ、智積院と思ったものの、見覚えない襖絵に首を傾げておりましたが、11日の「日曜美術館」で氷解。

* 新春のいわば「ご馳走」にあずかりました。忝ない。
湖のにほひもしたり冬の晴れ  遠
2009 1・14 88

* 詳細な「自筆年譜一」を読み直して行き、また項目「食いしん坊」まで出そろった『私語分類』など見直していると、つい往昔に呼び返されてしまい、懐かしいと言うよりもなんとなく心弱くなってしまう。

* 虚子の句を噛むほど読んで力とす   遠

紅葉せるこの大木の男振り      虚子
深秋といふことのあり人も亦
厳といふ字寒といふ字を身にひたと
秋灯や夫婦互に無き如く
わが懐ひ落ち葉の音も乱すなよ
蔓もどき情はもつれ易きかな
秋天にわれがぐんぐん ぐんぐんと
虚子一人銀河と共に西へ行く
下萌の大盤石をもたげたる
闘志尚存して春の風を見る
舌少し曲り目出度し老の春
去年今年貫く棒の如きもの
月を思ひ人を思ひて須磨にあり
傲岸と人見るままに老の春
悪なれば色悪よけれ老の春
脱落し脱落し去り明の春
風生と死の話して涼しさよ
風雅とは大きな言葉老の春
独り句の推敲をして遅き日を

* 俳人は多いが、これほどやすやすと巨大に美しい日本語づかいは稀有である。
2009 1・16 88

* 凍ったほどの強い風も流れて、戸外へ出ると厳寒の気味があった。垂れ下がりそうに曇ったが、南の遠くの空は明るかった。歯医者へのバスを待つ停留所前の大きなマンションのてっぺんに、曇天を衝く槍のように細い避雷針が高くみえ、鴉がきてとまる。
避雷針に貫かれ鴉寒に立つ     説明的にはそういう風情だが
避雷針を貫いて鴉寒に立つ     と謂うてみたかった。わからない。
西武線の江古田からまたバスに乗った。降りると小雪が散ってきた。
2009 1・24 88

☆ 厳寒   花
今日もよく晴れています。
外には出ていませんが、気温は低いのでしょうね。今朝は、静岡でも氷がはったとか。
昨日は、午後から曇天で、あれれ、という感じでした。ニュースで見た水戸の偕楽園は、雪が舞っていました。風も、歯医者さんへのおでかけで、小雪に出会ったのですよね。
>避雷針を貫いて鴉寒に立つ    と云いたい感じでした。
風の意気が感じられて、花は嬉しい。
さてさて、今日の横綱対決をドキドキしながら待ちます。
ではでは、花は元気ですよ。お元気ですか、風。

* 避雷針を貫いて鴉寒に立つ  遠
この方がいい。
2009 1・25 88

* お寺の名前に心を吸い取られる気のするときがある。知恩院や建仁寺や大徳寺や天龍寺よりも、清閑寺、清水寺、泉涌寺といった名に思いを誘われる。「せいすいじ」でもいいが通称の「きよみづでら」も懐かしい。
とりわけ清閑寺と初めて知ったときの嬉しかったのを大事に今も胸にしている。「閑院宮」家がむかし在ったが、はるかに溯って、平安京に「閑院」の在ったことはわりと早く知っていた。
「閑」という字に惹かれるものがあり、裏千家の或る家元の「閑事」二字の軸をことに今も懐かしく愛している。
茶の道具の中に、ときとして「一閑人(いっかんじん)」が登場する。童子ようの人物が器体にとりついて、モノの内や底を余念無く覗き込んでいる。その格好も境涯もわたしは好きで、その題で掌説を書いたことがある。

☆ 一閑人   秦 恒平

井戸があった。
井戸は深くて満月のように明るい一枚の鏡を浮かべていた。近在に、こんな美しい井戸は一つとてなかった。
一閑人(いっかんじん)は余念なく井の底をのぞいていた。くっきりと顔が映って、皺一本の揺らぐこともなかった。
一閑人は、自分と同じに井戸をのぞいているもう一人がそこにいるかと思うようになった。
思い屈した或る日、一閑人はつくづくあのよく似た男の傍へ行て語らいたいぞと思った。一閑人は身を乗り出し、逆さに井戸の底へ落ちた。
逢えると思った男の姿がなく、一閑人は空の明るい見知らぬ土地を歩いていた。向うから子どもが二人やって来たが、一閑人をみると慌てて逃げていった。
やがてさっきの子どもをおずおずかばいながら美しい女が一閑人を出迎えて、旦那様お帰りなさいませと丁重にお辞儀した。
一閑人は面食って一礼を返したが、女も子どもも真顔で、慴えたように一閑人を立派な屋敷に連れて戻った。家中のものが一閑人の顔色をみてぴりぴりしていた。
女は一閑人の妻で、二人の子どもは息子と娘であるらしいが、所詮合点のゆかぬ人違いに一閑人は途方にくれた。人違いとも言い出せなかった。
ところで──、一閑人は侘びしい田舎道をまごまごと歩いていた。草むらのかげから子どもが二人出て、いやというほど棒切れで一閑人の向うずねと尻を叩きつけた。子どもらは歓声をあげた。
突然の不覚にうずくまった一閑人の首っ玉をつかむと太った女ががみがみ怒鳴って引きずった。一閑人はあばら屋に放りこまれた。女と子どもはしこたま耳もとで悪態をついた。 一閑人は立ちあがると猛烈な腕力でいきなり女と子どもを表の道へ張り倒し、瓶の水を逆さにぶっかけ存分に蹴った。
女も子どももあまりの事に息絶え、泣いて代官所に訴え出た。
気の荒い一閑人は、見ず知らずの女子どもに馬鹿にされて耐ろうかと代官にかみついた。代官はお前の女房と息子たちではないかと怒った。嬶天下に我慢も尽きたのじゃろと他所の者らは噂したが、一閑人には何やら訳が分らなかった。
一閑人はむげに鞭打たれ、気を失った。坊主が前へ出て一閑人をしげしげみて、これはと言った。
息吹きかえした一閑人に、坊主はどこから来たぞとたずねた。一閑人は俺に似た男がいきなり俺の頭にとびかかって来た。わっと声をあげた途端に見も知らぬ井戸の傍に立っていた。女も知らん子どもも知らん。俺の女房子どもは美しうて温和しいわと歯を噛み鳴らして、うなった。
坊主は代官に言って、一閑人を元の井戸へ投げこませた。わっと声がして、寸分違わぬ一閑人がその場に平伏していた。女房と子どもがかけつけ、いきなり一閑人を怒鳴りつけた。一閑人は青い顔をした。涙を浮かべ、人違いでもよい、美しい女房と可愛い子どもの傍へ戻りたいがのうとこっそり呟いた。
坊主は、男も女も日頃の憤懣と欲望とを抱いて井戸へとびこまれたのでは、結局ろくでもない男女で此の世があふれるわけのものじゃと、代官に井戸を埋めさせてしまった。
くそ坊主の生悟りというものではあるまいかと、誰も誰もがそれはわるく言った。

* 「一閑人」の見立てとしては、虫のいどころでもわるかったか、少し「忙」の気味が過ぎている。ずいぶん昔の作だ。そんな昔から「閑」「閑事」「閑文字」などを問う想いがいつも在った。「忙」との対になって在った。この忙と対にして閑を想う思いかたは、しかし、よろしくない。浅い。
もし記憶違いでなければ、芭蕉の、「閑(しづ)かさや岩にしみいる蝉の声」が、ひときわ懐かしい。
2009 1・26 88

述懐 平成二十一年 二月

劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ   与謝野晶子

春さむき梅の疎林をゆく鶴のたかくあゆみて枝をくぐらず  中村健吉

避雷針を貫いて鴉寒に立つ    遠

孫のやす香が、最期に飾って行った雛人形
2009 2・1 89

* この十年余、老境を歌にしたり句にしたりしていた数がささやかにも一本に纏まるほど残っていることが、やはり『私語分類』で掴めてきた。少し以前から心がけて書き留めもしてきたが、句に傾いている時期も歌に馴染んでいる時期もある。もともとわたしは句に憧れながら難しいとおそれて近づかなかった。だが老愁にひかれて句のかたちで述懐していることが、年々に増している。
然るべき機に、小冊子になりうるかも知れぬ。厖大な「私語」から片々一首一句を拾い出すのは事実上不可能であったけれど、『分類』のおかげで、たとえ二三年分であれ拾い出せて、ああそうだったなどと、折々の思いを思い返している。

* 歌人からたくさん歌集を戴く。その感想類が纏まっているが、書いた私が怖じ気づくほど率直で厳しい感想が、批評が、時には批判が書き込まれている、たとえたいへん著名な人の集にも。そして好い物は臆せず率直に褒めている。
2009 2・4 89

* 「くらむ」という倉持正夫の個人雑誌が、この元日の日付で「追悼・倉持正夫」を出した。笠原伸夫氏と倉持夫人の編輯。正夫さんは昨年のうちに亡くなっていた。創刊以来、湖の本の読者として支えて下さった。
そもそも「湖の本」は、一九八五年に「くらむ」が創刊され贈られたのがヒントだった。いつも数十頁たらずの雑誌ながら表紙の手触りが美しく、この大きさで美しい私家版の全集が出せるだろうかと思った。そして翌年六月、「定本・清経入水」で創刊した。
倉持さんにはペンクラブにも入って戴き、「e-文藝館=湖(umi)」にも幾つか作品を戴いた。年譜によると「くらむ」は二◯◯三年秋に一一号出ていた。倉持さんの小説作品だけの個人誌だった。何度か病気や怪我をされていた。一九二九年九月二十日生まれ。わたしより半まわりほど年長だった。二◯◯八年去年の元日に七八歳で亡くなっていた。
訃報のみあいついで賑やかなあの世かな風ゴトゴトと娑婆を揺る間に
2009 2・6 89

* いま一休み、手の届くところから文庫本大の古色の上製本を引っ張ってみたら、表紙は元々題字等も志士のある風景画にもみな金が捺してあったらしいが、みな褪色してかろうじて「千家詩選」の題だけが読み取れる。
扉によれば、宋の謝畳山の輯、越山芳川伯爵題辞、清国公使胡大臣題辞「志士必誦」の『千家詩撰 注釈』で、日本の四宮憲章が訓じている。明治四十二年三月十八日の訂正四版、発行所は東京神田の光風楼書房、定価金五拾銭とある。秦の祖父鶴吉の蔵書だったに相違なく、数カ所欄外に細筆で覚えが書き込まれてある。こういう古本をわたしは小さい頃から触ったり置いたり開いたりしていた。
この本で愕くのは、選詩一つ一つの読み取りの政治的に苛烈なことで、美しい叙景詩としか読めない作が、唸ってしまうほど慷慨の意に深読みされていること。そこまで読むのかいとやや辟易してしまう。
「詩と云ふものの如何に、含蓄蘊藉の妙ありて、忠愛敦厚の旨を帯び、風流高尚の興深くして、憂世慨時の情に富めるかを知るべく、而して六義の深遠なる又以て人心を振動して、士気を鼓舞するものあるを見む、嗟乎古人の詩を賦す、徒らに花に吟じ月に詠ずるのみにあらざるなり」と鳴洲四宮先生は宣っているが、ご本人も自覚されているように、「但し総釈中、あまり穿鑿にすぎ、往々理を以てこれを格するの傾き」は否めないのではないか。
わたしでも耳に覚えある、蘇軾の

春宵一刻値千金 花有清香月有陰 歌管樓臺聲細細 鞦韆院落夜沈々

は、人君執政たるもの閑暇怠敖を自戒せよとの諷諫にほかならぬと釈してある。良辰美景なればこそ、宜しく政を修め事を立て、空しく遊び惚けてはならぬと。フムフム。麻生総理にならそう言うてやりたい。あれはツケル薬がない。
なおこの七絶の最後の二字「チンチン」は意味は同じだが字が機械で出ない。「沈沈」としておく。不都合は何もないと思う。
この本、実に謝畳山の選詩はどれも美しい。
2009 2・10 89

* 王安石の「春夜」を何とのう書き写したくなった。
明治の人は難しく解しているが、わたしはこのままに読む。

金爐香燼漏聲残     金爐の香燼きて漏聲残り
剪剪軽風陣陣寒     剪剪の軽風は陣陣と寒し
春色悩人眠不得     春色人を悩まして眠れず
月移花影上欄干     月花影を移し欄干を上る
2009 2・16 89

* 冷えている 晴れている じっと 聴いている 飛行機がゆく 春 待っている  湖
2009 2・17 89

* 春日偶成   程明道
雲淡風軽近午天 雲淡く風軽やかなり近午の天
傍花随柳過前川  花にそひ柳につき前川を行く
時人不識予心楽  世人は知らず我の心楽しきを
将謂偸閑學少年  謂うならく閑を偸み幼に似ると
2009 2・19 89

* なんと嬉しいメールだろう。
そして歌、たくさん。
歌はどんどん作っている内に、いつかサマになってくる。主婦や母親は個性的に生活しているから、詞藻の増殖もはやい。
原作に手を加えず、半分近く選んでみた。短歌の物言いにしようとし、かえって間違えた用語・用法もまだ見受けられるが、確実に歌が出来てきた。「聞馨集」と題し、わたしの機械にすべて保存してある。
同人誌はすすめない。あまりに雑然としているから。美術と同じで傑出した作になじんだ方がいい。可能なら、近代現代をふくんだ手頃な詞華集か、近代の優れた好きな歌人の自選集を身の傍に、ただ置いておくのも力になる。わたしの著、『愛、はるかに照せ=原題・愛と友情の歌』や東工大での例の虫食い『青春短歌大学』上下巻は、愛読に十分耐えると思います。
このホームページの中の、「e-文藝館=湖(umi)」詞華集には、安心して読める先達の歌集がたくさん入っている。いま念のため点検したが、大先達のも、今日のキャリア歌人の寄稿も、いいと思います。深入りしなくてよく、ふーん、フーン、こんなふうに言えるのかと納得するのが面白ければいい。文法まで気にし始めたなら、時制(テンス)にかかわる助動詞・助詞にだけでも気配りが利けばいい。
2009 3・3 90

* 「弦」という、短歌会の文藝誌(らしいもの)が、辺見じゅんさんを発行人に創刊されていて、第六号が贈られてきた。ま、結社誌の普通の一つに見える。短歌以外の散文やおはなしで文藝誌の匂いヅケがしてあるけれど、すぐれた歌に出会いたい。
そんなのがゾロゾロあると思うほど甘い期待は持たないものの、主宰の息がかかっている「弦集」第一席に、畠山拓郎という人の、「遷宮をするがごとくに旅に出て部屋も気持ちも片付けている」など、なにより「するがごとくに」の「が」に、表現上のご都合だけがうかがえる。音数を合わせるだけの「が」であり、しかも音が汚い。いい短歌を読む嬉しさが全然来ない。巻頭第一に招待されている竹山広氏の第一首、「古来稀といひて君らに祝はれし齢に加へたる十八年」というのも、その先へ読み進む気を喪わせる。「一期一首」の気も用意もたくみも無い。
短歌誌をよむ嬉しさがイージイな表現や思いの故に、たちまち萎える。

* 一期一首などかたいことをいわず、わたしも浮かぶとそのまま手元の端紙に書き付け、大抵そのまま忘れてしまうが、そんな紙切れが水の底から泡のように現実に浮かんできたりする。いまも、いつごろのとも知れない紙切れに、

黒きマゴの我の浴槽(ゆぶね)で湯を飲めるたゞそれだけが嬉しくて笑ふ

と書いてある。マゴが可愛い黒猫の名とわからねば半端かしれぬが、「たゞそれだけが」の「が」は、この歌ではこうでなくてならぬ「が」のつもりです。
歌は、歌である、根の素質や要請として。そして「うた」は音楽(リズム)であり、また「うつたへ」でもある。しかも音楽にもいろいろあることを忘れてはならず、自身の「うた」をもたねば表現の藝術にならない。

* さ、今日を始めよう。
2009 3・5 90

* 湖景  徐元杰
花開紅樹亂鶯啼   花さいて紅樹亂鶯啼き
草長平湖白鷺飛   草長じて平湖白鷺飛ぶ
風日晴和人意好   風日晴和して人意好く
夕陽簫鼓幾船歸   夕陽に簫鼓し幾船も歸
2009 3・6 90

☆  俵万智の歌 1999 9・27  「詩歌」
* 笠間書院の呉れた『和歌の解釈と鑑賞事典』をいちど手に取ってしまうと、暫くのあいだは虜にされてしまう。それほど「和歌」は面白い。ゆったりと浸かりごろの湯に浸かっているような、温かい、無類の安堵感が楽しめる。そのまま近代以降の短歌に移っていくと、浸かっていた適温の湯が、冷やあっと冷めてゆく侘びしさを感じてしまう。
優れた「詩」に触れる喜びが近代現代の短歌には認められるのに、人と人との「和する」暖かみ温みは、うすく冷え冷えとしている。
本の帯には「不朽の名歌を触る」とへんな言葉が書かれていて「人麿から俵万智まで」とか。人麿より前の記紀歌謡も入っている。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方に我が恋やまむ
熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

のような歌が、人麿以前に居並んでいる。人麿にはこんな歌がある。

笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
秋山の黄葉をしげみ惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ

まだまだある。
平安時代の和泉式部も挙げる。

黒髪のみだれも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月
ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

これが、全巻のトリを取る現代の俵万智になると、こうなる。

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人

こんな「歴史」の記述は、あんまりではないか。少なくもこんな愚にもつかない戯れ歌と歌人は割愛して、もう一人先に取り上げられた河野裕子の二首で、せめて、締めくくってもらいたかった。この二首とも、わたしの推賞歌である。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

言いたいことはさまざまあるが、俵万智の、短歌「のようなもの」を、もうこれ以上ワケ分からずにチヤホヤするのは、やめたがよかろう。
彼女のちょっと特異な特色を、わたしは、歌壇が騒ぎ出すよりはやくに推賞し、テレビでも紹介したものだ。キワモノであることに目をつむったのではなかった。
『サラダ記念日』をいち早く贈ってきた礼状に、わたしは書いた筈だ、たいへん面白い、が、これは雑誌創刊で謂う「創刊0号」であって、真価は本当の創刊号がどう出るかで見きわめられるだろうと。
その後の俵の歌集に進歩はない。相変わらずの安いキワモノ歌ばかりが並んできた。その俗な人気と本質的な保守感覚を「是」とした文部省や教育委員会のオジサンたちが、やたら客寄せに持ち上げ、文藝団体のへんなオジサンたちも、ロリータ趣味でちやほやした、それだけのことだ。
現代のちからある佳い歌人たちの道を、こんなモノで塞いではなるまいに。
この『事典』は、佳い本だと人にも勧めたい、が、二人の編者井上宗雄と武川忠一に俵を切って捨てる、もう少しは様子を見る英断と慧眼の働かなかったことは惜しまれる。
俵万智の歌は、少なくもここまでは、時代のバブル風俗の一つに過ぎないのに。やっぱり客寄せにしたかったのだろうが。 1999 9・27
2009 3・8 90

* 好天・快晴。手が冷えている。

* 田家春望  倣 高適
出門何所見    門を出でて何の見る所ぞ
春色満平蕪    春色は平蕪に満ち足れり
可歓有知己    歓びて吉かれ知己あるを
城西一酒徒    東京の西に一酒徒として

* 散髪。心地よく。
2009 3・12 90

* 述懐   賀知章
主人不相識    ご主人とは知り合いでないが、
偶坐為林泉    ご無礼したはお庭が宜しくて。
莫謾愁沽酒    気遣うて下さるな酒を買うを。
嚢中自有銭    ま、懐ぐあいは間に合います。

* 飛行機が頭上を行く。

* 建日子が、帰国。よかった。

* 外出する。
2009 3・13 90

* 王維詩に心境を托す
空山不見人    空山人を見ず
但聞人語響    ただ人語響く
返景入深林    夕陽林に入り
復照青苔上    清寂苔を照す

* みなさんにお祝い戴いた。なかでも年久しい和歌山の三宅さんの賀詞に、みなさんのを代表して戴き、ご健勝を祈ります。

☆ 祝 五十年  三宅貞雄
金婚式、おめでとうございます。心よりお慶び申しあげます。
「湖の本」100巻、年内に達成が確実と存じます。この大業もご夫妻ご協力の大きな成果でございましょう。
新刊には、詳細な年譜を付けられるとのこと楽しみにしています。(限定豪華本=)『四度の瀧』収録の年譜は繰り返し拝読しました。
敬愛する先生のお作を出版させていただきました。昭和59年12月19日、先生からの献本を拝受。積年の夢が叶い、胸に溢れるものを感じながら震える手でページを開いたのを覚えています。この出版の喜びが大きな励みとなり、力となって試練を乗り切ることが出来ました。
感謝に堪えません。
どうか、これからも奥様ともどもご健康にとご祈念申し上げます。
お酒を少しお送りさせていただきました。銘柄の名はちょっと、と思いましたが美味しいものですのでご賞味ください。
私も、量は減りましたが楽しんでいます。ご拝眉を得たいと存じます。
2009 3・14 90

☆ ご夫婦のご縁  脩
おめでとうこざいます。ご執筆の格闘の趣うかがい興深く拝読させていただいております。日々省みての日記がご健筆の基と敬服いたします。
以前おとどけしてお口にあった旨うかがっておりますが、須磨の旬の味 僅かばかりですが、お届けいたします。季節感薄れ行くなか、この漁の続くこと願っています。
今後ともよろしくご教導ください。
櫻開花の浮き立つ季、お揃いでお大事に。
惚けたる老いそれなりに業平忌

* 惚けたる老いそれなりに花やいで 湖
2009 3・27 90

述懐 平成二十一年四月

はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかで寝(ぬ)る我は人かは    和泉式部

肌のよき石にねむらん花のやま    斎部路通

惚けたる老いそれなりに花やいで    湖

まだしんどいので、いまはこれだけに。いま曙の見ているサイトの総目次に「書誌・日乗」という見出しがあり、そこに全日記が整頓されているので、見つけて利用して下さい。 みづうみ
2009 4・1 91

* 不答  太隠
偶来松樹下   ゆくりなく松樹の下に来て
高枕石頭眠   そのまま石を枕にし眠った
山中夢暦日   山中の夢に世俗の暦なく
寒尽不知年   寒尽き春幾ばくとも知らず

* 唐詩選の五絶をしめくくった一首。こういう境涯に憧れるのは俗物にもできる。題は「答人」であるが、胸中に抱いたまま「不答」がいい。
2009 4・1 91

☆ お元気ですか。 柑
お元気ですか、みづうみ。
大変な三月を乗り越えて、ご無事に四月をお迎えのことお慶び申し上げます。花も満開間近でこの季節は毎年気持が浮き立ちます。
>年譜もあれ以上つくる必要は無いのです。
でも、秦恒平文学の研究者のためには年譜は完成されていなくてはなりません。
四月の述懐「肌のよき石にねむらん花のやま」ですが、「肌のよき石」を墓石と読めばよいのでしょうか。教えてください。

* 芭蕉門、斎部路通の句についてのお尋ねは大切なところへ強い視線が奔っている。風狂の放浪者で人と相容れがたいものをもっていた。師の芭蕉もヘキエキした時があった。石を枕の旅寝も重ねた人であったろうから、文字通りに情を汲んでいいと思うが、いたるところ青山ありの境涯から、墓石が路通のあたまに無かった段ではない。そうも想って読めば読むほどこの句は独りの詩人の胸懐に生きた情味も読み取らせ、懐かしい。
2009 4・2 91

* 「ペン電子文藝館」をみると、「評論研究」室の高村光太郎の戦争讃美の一文『戦争と詩」が、「詩」の部屋の「招待席」に移転され、『高村光太郎作品・抄』とある中で、ご丁寧に戦争讃美「太平洋戦争中の詩」篇の、さながら「自注」かの如く掲示されている。目次をみると

『道程』(大正3年)より
冬が来た
道 程
『智恵子抄』(昭和16年)より
人 に
樹下の二人
人生遠視
千鳥と遊ぶ智恵子
太平洋戦争中の詩
十二月八日
真珠湾の日
彼等を撃つ
[評論]戦争と詩
敗戦後の詩
終 戦
報 告(智恵子に)
わが詩をよみて人死に就けり

となっていて、この比率から見ると、高村光太郎という詩人を、戦時中に戦争讃美の詩を書き、それによって若者たちを死なせたと戦後に悔いていた事実を主眼に「紹介」したとしか思われない。看板通り「高村光太郎作品」の「抄」であるならば、とてもこんな小手先の選抄ではすまない。光太郎の場合、「作品」と謂うなら「彫刻」も含まれるなどとは、この際、云わない。
しかし彼の詩集には冊数必ずしも多いといえないにせよ、「道程」「造形詩篇」「猛獣編」「道程以後」「智恵子抄」「典型」「典型以後」「ヱ゛ルハアラン詩集」などがある。詩論も随想も、「みちのく便り」も「アトリエにて」も「ロダンの言葉」「続ロダンの言葉」もある。宮沢賢治と二人で分けた大きい日本現代文学全集一冊の、半分二百数十頁を、小活字と混んだ二段組みとで作品が選ばれていて、厖大量在るが、その中に「ペン電子文藝館」のことさら取り上げた、戦中戦後作は『典型』中の「暗愚小伝」に含まれた「真珠湾の日」のほか影も無い。
委員会は少なくも「暗愚小伝」を深切に読んだのだろうか。
その序文は、稀有痛切な悔恨と反省の弁に満ちている。彼は戦時中、「特殊国(戦時日本)の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた」と、その「序」に明記している。自己批評と懺悔にあふれている。
もし、「ペン電子文藝館」が掲載するなら、この『典型』が包み込んだ「暗愚小伝」の全編を、懇切で的確な説明紹介とともに載せるならまだしも、ぽっちりのツマミ食い。いったい何を考えているのか。高村光太郎の愛読者たちは、ことごとく、この「ペン電子文藝館」の委員会による、かかるねじ曲がって貧弱な「抄」で、「高村光太郎の作品」を代表されるなど、認めないであろう。こんなものを「高村光太郎作品」の大体・大筋でござると、わざわざ「招待」して世に公開する何の意義が在ろう、明らかに間違っている。この選抄に関係した人たちの、文学を見る目の無さだけが貧寒とひびいて露呈されたに過ぎない。
これは担当役員と執行部の責任でもある。

* 岩波文庫の『高村光太郎詩集』は、「道程」「智恵子抄」だけを選び、「典型」を採っていない。光太郎自身の強い意向に拠っている。「愚劣の典型」という光太郎自筆の自覚が尊重されたのであろう。
「もう一つの自転するもの」など、光太郎には「戦争反対」の気持ちの明晰に濃厚な詩もあったのである。目配りを欠いて、大きな先達を、読者の前に誤ってはならない。

* 「ペン電子文藝館」の詩人「略紹介」はこう書かれている。

☆ たかむらこうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。ここでは戦前、戦中、戦後の詩、ならびに戦中の評論を列挙することで光太郎の精神史を振りかえりたい。底本は主に新潮文庫に拠った。

ここに云う「列挙」とは、、「多大の功績」ど挙げることなく、要するに高村が戦争讃美者として戦中、文学報国会の要職にあったが、戦後にそれを悔いて独り山間に逼塞したという「事実」のみを、極めて極めて不均衡に強調したに過ぎぬ。「戦争を讃美した詩人」という紙の冠を、高村光太郎の存在にたんに汚点としてかぶせてみせたと云うに過ぎぬ。これで光太郎の「精神史」を「振りかえ」られては堪らない。
「ペン電子文藝館」「招待席」の主旨から見ても、とんでもない無礼であり、委員会にいまもって自省のないのが訝しい。

* 繰り返していうが、こういう方面からも高村光太郎は「批評しうる」と云いたいなら、(それに否やは云わない。)しかるべき研究者の文責明らかな論考によって真っ向「批評」として為すべきである。「招待」しておきながら、いわば「旧悪」(とぐらいに光太郎自身悔いておられた)を、適切な説明もなく天下に公開するなど、そんな失礼な権限をいつ日本ペンクラブは先人文学者に対し持ったのかと、一理事、一会員として厳重に抗議する。即刻、掲載を取り下げてほしい。

* この際、ついでに言って置くが、ペンの会員には入会時、詩人は詩人として「P」会員にというぐあいに、「P」「E」「N」会員にそれぞれに「登録」されている。業績と専門性とを評価して入会を認めるのである。
当然にも、「ペン電子文藝館」に会員作品が掲載されるのも、詩人は詩で、歌人は短歌で、小説家は小説で、エッセイストはエッセイや論文でと最初に規約されていた。
ただし、文学者には小説家でありながら評論でも詩歌でも、同じく公刊著書が何冊もあり世間もその道の人として公認し是認している人がいる。「N」会員であるけれど評論家や詩人としても他が認めている。そういう例外に限り「ペン電子文藝館」に、登録を越えて作品が出せるはと、やはり最初に申し合わせてあった。
裏返せば、小説など書いたことも著書もない例えば詩人が、「ペン電子文藝館」に小説を書くという越境は、しないし、させないという約束になっている。詩人としては玄人でも、小説家としては素人。素人藝を否定するのではないが、その「藝」は、順序として文壇内での活躍や著書公刊で世間で「認められて来て欲しい」という意味である。文学の「質」を大切にする以上は、当然の話。
ところが、これが、守られていないのではないか。
また同一人の寄稿が重なりすぎぬ為に、「一年間に一作」と厳格に決めてあったのも、崩れていないか。
「ペン電子文藝館」はただの作品公開機能ではない。読者のためには、会員がそれぞれ専門の秀作を呈する場所である。安易な利用は館の自殺行為である。「招待席」を設けたのも館の「質」レベルを高く維持するためであった。
委員会の率先励行を望みたい、気がかりである。

* いい機会なので、高村光太郎の詩と散文とを読み直そうと書架の本を引っ張り出してきた。
2009 4・3 91

* 好機とみて高村光太郎の詩を、「道程」から読み返して、少年のむかしとは較べようもなく感嘆に誘われている。「失はわれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の國」「熊の毛皮」「亡命者」「食後の酒」「寂寥」「声」「新緑の毒素」等々、心惹く詩篇たちは割愛のわが手を痛く締め上げるほど、美しく厳しく自己主張してやまない。
なぜ、こういう光太郎をこそまっさきに「招待」しないのか。なぜ、よりによって本人も悔いに悔い、大勢の読み手も疎んじ避けて通ってそれで「いい」と思っているような、大詩人の恥部を、意地悪く真っ先に晒しものにしたがるのか。分からないし、恥ずかしい。
2009 4・4 91

* 積み上げたモノの中からはらっと葉書大のメモ一枚が散って落ちた。歌二首が心覚えかのように書き流してあり、何年だか、或る新年の述懐らしい。いつもこんな風に日付もなく書き留めておいて放り出されている。
「ありとしもなき抱き柱抱きゐたる永の夢見のさめて今しも」
「来る春をすこし信じてあきらめてことなく『おめでたう』と我は言ふべし」 とある、が、紙の裏をみてそっちへ目が寄った。
創業明治13年「かねまん」のふぐ料理のチラシであった。「江戸町衆の心意気と120年の歴史を伝える元祖江戸式ふぐ料理 小粋な個室で至福(ふく)の時をお過ごし下さい」とあり、 22000円のコースが、さしちり唐揚げ付き、さしちり焼ふぐ付き、さしちり白子焼付きと出ている。入った店ではない、何処にある店かも不明。この不明の方が気になる。大いに気になる。
2009 4・4 91

☆  晶子のああ弟よ  2001 5・7  「人と文学」
* 「あゝをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ」と始まる与謝野晶子の詩が、何を歌ったかと考えるのは読者の自由であり、自然、人により読みの力点の置き方が散らばってくるのも、道理であろう。反戦歌だと読む人も、上一人の御稜威と軍の自儘を諷し嫌悪したと読む人も、即ち肉親への情愛と読む人もあろう。どれかに限定はできず、深く絡み合っていて、どれも否定できはしない。だが鑑賞にはおのずと作の動機に触れねばならない。
発表当時に激しい非難をあびたのは事実で、晶子の陳弁につとめたのも事実と謂える。非難の声があがり、非難の当否はべつとして、当時の世情としてだれもそれを異とせずに観てきたのは、即ちこの作品が、御稜威の名における兵役を厭悪した反戦歌と広く読まれたか、読まれやすかったかを明らかに示している。内心で作者の気持ちに賛同していたか、声高に非難を浴びせたか、いずれにしても当初の印象も読みも、そこを大きく逸れていたわけがない。
だが、作者のやむにやまれずそう歌ったのが肉親の情に発していたのも自然当然で、否定できることではない。むしろ作の動機は、弟の(無道な)兵役と出征とにあったのは明らかである。晶子の陳弁が自然肉親愛に添うように行われたのも、根拠になる動機がもともとあったればこそで、これまた頭から否認できる話ではなかった。
だが、それもより深く先行して厭戦の情とお上への怨嗟があった、表現したかったのはそれだったろうと言われれば、作者も胸の内では頷いていたに違いなく、しかし口に出して国体の意思に真っ向から非難を浴びせはしなかった。当然である。図式的に動機や思想を分離し対立させて考える方がおかしいのである。ものの表裏である。その上でわたしは、明らかに弟よ戦場にむなしく死ぬなと歌った、痛切な皇軍批判の厭戦歌であると読む。しかも晶子の、人として藝術家として国を愛した気持ちを疑ったこともない。戦争して負けないだけが愛国心であるわけもない。
それにしても、教科書本文の、「この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとってそうした非難は心外であった。/ というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。」という行文は、論旨の寸があまりに短く、短絡ということの代表的作文のように思われる。観念的に戦争そのものに反対したのではなかったが、無辜の若き男子を戦地へ追いやるいわば「仕組み」への強い怨嗟の声になっている。直接には弟を歌っているが、その歌声は、同じような無数の悲嘆を優に代弁し得ていたから、あれだけの訴求力を持った。「弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだ」と文章を繋ぐのは、むしろ後段の主張を導きたいタメにする論法で、この叫ぶように丈高い詩は、一実家内のプライベートにとどまる表現ではなかった。作者の背には目には見えなくても耳には届いてくる民の声の、あるいは女の声と謂うもいいが、そういう後押しが働いていた。だからあれだけの表現になった。
だが教科書は、この優れた詩を、一鳳家の家内感情に矮小化させつつ、「家の(保守的な)存続」をこそ与謝野晶子は大事に考えた人であったと、見当はずれなある魂胆に賛同協力させようとしてくる。与謝野晶子は奔放な愛欲に目覚めた詩人であったといわれてきたが、事実は、子として姉として、また妻として母として、まことに家庭と家族と家の存続とをなにより大切に考えて生きた人であった、と、先ずは「評価の重点」を移動しようというのである。だが、そこで終点ではない。それほどに「家の存続」は人間の生き方を左右する基本的に重い大事だと、つまりは晶子をダシに、そこへ、教育の方向と結論とが設定されているのである。
与謝野晶子がみごとな藝術家であったこと、奔放な愛に身を賭して生き得た人であったこと、じつに優れた業績を残していること、は、否定できない。が、同時に子として姉として、また妻として母として、まことに愛情豊かにみごとに生きた人であったのも、まぎれもない事実である。晶子には、これは、相対立する矛盾ではなかった。両立させた自然であった。
だが、この自然から、「家の存続を重く心に留めた」と論旨を導くのは、批評が足りていない。日本語では、家庭・家族と、家とは、そう軽々と同じ範疇かのように認めることはできない。家が家屋を意味する場合は、家庭・家族ともナミに扱えるが、家門・家名の意味になってくると問題は急に難しく複雑になり、情愛の範囲内に落ち着いていない。教科書は、都合よく「家」と「家族」を一掴みにして「晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった」と断定したが、家族への愛は溢れていても家には拘泥しない「人生観や思想」の人は、幾らもいる。与謝野晶子の場合がどうであったか、少なくも検証の必要が有ろうが、最後に上げられている夫鉄幹の死を嘆く名歌には、「家の存続」という人生観や思想は微塵も受け取れずに、まさに妻の夫への「愛・恋の情」に溢れている。そして、それは与謝野晶子の生涯をみごと証ししているものでこそあれ、その人と藝術との指さすところが「家の存続」に重きを成していたなどと、教科書に特筆できる証跡は感じ取れなかった。思うに、この教科書編纂の後ろ向きな思想と意向が「家の存続」に在るのを、与謝野晶子に間違って代弁させようとしたに過ぎないのではないか。魂胆とわたしが指摘したのはそこである。
かの「きみ死にたまふことなかれ」に立ち返って謂えば、あの詩の批判に満ちた視線は、そもそもどこへ向いていたか。「家の存続」思想の根拠のような、或るやんごとなき一家一族にではなかったのか。
2001 5・7
2009 4・5 91

* 高村光太郎の詩と文章とを、機械の傍で、休息のつど貪り読んでいる。この厖大な詩業から「選」するとなると、それはもうたいへんな傾倒を、たいへんな鑑賞を要する。しかもその中には戦争讃美の何ものも入っていない。厳しい「美の使徒の、苦行者の、耽溺者の」熱い尊い呼吸がせまってくるだけだ。だれが彼を「冒涜」して良いものか。
2009 4・7 91

* 如月や母の墓前の暖かし  平尾玉枝 (安良多麻四月号)  あたたかい。

* ふるはたの岨の立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮   西行 山家集

こういうのを「すごい」と謂うのであり、今日有りとある人たちの「すごい」「すっごい」は、殆ど全部誤用。凄惨、凄絶、よほどよくて凄艶などが「すごい」ので。顔の崩れたも知らないお岩さんや、暮れなずむ深い山路や、人影の絶えた夕闇の墓地や、ドスをきかして人を威し加減の人声などが、本来「凄い」のである。
西行の歌が捉えたこのはぐれ鳩の声のすごみが聞こえるなら、安易に「すごい」などと言うまい、聞きたくもない。
2009 4・10 91

* 『千載和歌集』を二度読んだ。二度目は、分かる、読み取れるものにざっとシルシをつけた。つけた分だけをさらに精選してみたい気がする。この頃の和歌世間のはやりは「題詠」で、つまり題に応じて「その気」になって境涯を、場面を、真情を「つくり」出す。だから坊さんも熱烈な恋の歌をつくるし、まばゆい貴族が質素簡素な情景に身を置いて「つくり」だす。たくみな「つくり」ものが採られている。それなりに技巧の美も感情移入の真率も観てとれる。それら「つくり」ものの歌にまじって、呻き出るような声や言葉の歌もまじっている。読み分けねばならない。
双方を通じて、やはりこの時代の歌風がある。選者俊成の好みの歌風もある。頑固に宿敵六条家の歌や歌風に俊成は抵抗している。さらにその背景に、保元の乱で争った兄崇徳天皇と弟後白河天皇の曰く言い難い思い交わした「意図」のようなものがあり、俊成はそれをかなり真率に「承け」て選している。千載和歌集そのものが幾重もの「層」を成していて、簡単なモノではない。
オッと思って立ち止まると、それは俊成の子定家の百人一首に選んだ歌であるから、さすがである。数えていないが、この和歌集から定家はかなりの数の秀歌を百人一首に抜き採っている。父俊成が選んでおいた中からさらに定家が百人一首に選び出している。選ばれた歌には時代の、俊成の、定家の息が多層に籠もっているわけだ。
なるほどと思わせるほど、それらの歌には独特の重量感がみてとれる。

* もう一層精選してみようかなと思っている。三度目を読むことになる。
2009 4・12 91

* 亡くなった「鷹」主宰藤田湘子さんの『全句集』とその「季語索引・初句索引」を、「鷹俳句会」と遺族関係者から贈っていただいた。有難う存じます。
淡い交わりであったが、ご縁はまだわたしが医学書院の編輯者勤めであったころ、しょっちゅう取材に出かけていた日大小児科で、医局のある先生に声を掛けられ、「鷹」にエッセイを一つ書きませんかと頼まれた。わたしはまだ世に出た作家でも何でもなかったのである、あるいは一、二私家版でも出していたかどうか。その若い小児科の先生が俳句をなさることすら知らなかった、驚いた。
だが、わたしは書いた。昭和四十一年「鷹」二月号の「石と利休の茶」で、題と本文に誤植各一ありと年譜にある。題が「利久」になっていた。ま、頼まれて書いた原稿のこれが第一作で、主宰藤田さんとの直接の縁ではなかったけれども、忘れがたい。
爾来、亡くなるまで、ときどき顔があった。雑誌はずうっと戴いていたし、著書や「湖の本」も贈っていた。
俳人では、のちに湘子さんとご縁が濃いらしい能村登四郎さんと知り合ったが、お目にかからぬうちに亡くなった。岸田稚魚さんも亡くなった。亡くなった人を数えているともう際限がない。

* 俳句に魅せられることは深いが、それだけに手を出しかねてきた。それでも、ときどき書き留めるようになっている。サマにもモノにもなっていないが、短歌とはちがった感触がある。
藤田さんのこの大きな遺著、ことに別巻の季語索引はこれからお世話になりそうだ。十一集ある最期の句集の『てんてん』という題が好きだ。最期の五句を噛みしめる。

月細し隣近所の春のこゑ
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ
億万年声は出さねど春の土
われのゐぬ所ところへ地虫出づ
草川の水の音頭も春祭
2009 4・21 91

述懐 平成二十一年五月

ししむらゆ滲みいずるごときかなしみを脱ぎてねむらむ一と日は果てつ   田井安曇

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな       金子兜太

つもりつもるよからぬ想ひ宵よりの雨にまぎるることなくて更けぬ       湖
2009 5・1 92

* 高麗屋の齋クンが四代目松本金太郎を襲名し、六月歌舞伎座で金太郎として親子三代「連獅子」の初舞台を踏む。高麗屋の懐かしい大事の名跡。
お披露目のご祝儀が祖父幸四郎丈、父市川染五郎丈のご挨拶を添え、三品贈られてきた。めでたく心華やぐ。
衷心大成を祝って、期待を遙かにかける。
おめでとう存じます。

まさやかに翠に映えてこれやこの獅子の歩みを踏む金太郎   宗遠
2009 5・2 92

* 千載和歌集を最初通読し、次ぎに、佳いな好きだなと思うのをえらび、三度目は選んだ佳いな好きだなから、更に佳いもっと好きとおぼしきを選び、今四度目、好きな秀歌を選び残している。
蜻蛉日記も、最初に晶子の訳で読み、次いで原作を読み終え、いま三度目をゆっくりまた読み進んでいる。気がつくと、いま、毎夜十四冊も読んでいる。これは多すぎる。せめて寝しなの寝床では半分に減らしたいが、やがて千載和歌集が外れるだろう。
漱石の『彼岸過ぎ迄』と『道草』は読み始めるといくらでも読める。これと対極のように三島の『禁色』と天野哲夫=沼正三の『禁じられた青春』とがはからずも男色もので、なかなか気が乗らない。まだしも沼のものは自伝であり、同時代への過激な批評を孕んでいて読ませるが。
『ジャン・クリストフ』は、ひたすら佳境に入って速度感の増すのを待っている、辻さんの『背教者ユリアヌス』がそうであったように。
法華経と旧約とバグワンとは、ただひたむきに。
漱石の『文明論集』も頁を赤く染めながら楽しんでいる。その「開化」論の端的に鋭いこと。「愚見数則」に打たれる。
2009 5・3 92

* 千載和歌集 春歌上  わたしの心に適う歌
春の夜は軒端の梅をもる月のひかりもかをる心ちこそすれ     皇太后宮大夫俊成
梅が枝の花にこづたふうぐひすの声さへにほふ春のあけぼの   仁和寺法親王 守覚
春雨のふりそめしより片岡のすそのの原ぞあさみどりなる      藤原基俊
みごもりにあしの若葉やもえぬらん玉江の沼をあさる春駒      藤原清輔朝臣
さざ浪や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな  よみ人しらず 平忠度

* 上の五首だけをわが思いに適う歌として選んだ。温和。清輔は百首歌の「春駒」という題詠だが、叙景の清々しさをとった。忠度の歌は、故郷の花という「心」をうたって、ある種の型にしたがっているけれど「調べ」はおおらかに生き、優しい。
2009 5・6 92

* 今日、日本ペンクラブの総会資料等が来た。
驚いたことに、現会長阿刀田高氏が「ペン電子文藝館館長」だとある。これは知らなかった。いつの間に。それでは、先日の臨時理事会でのわたしの質問への答弁とは、大いに趣旨が違う。
あのとき阿刀田氏は、「高村光太郎の扱いは、好ましいことではないと感じたけれど、会長は、委員会に干渉しない方がいいと考えた」と、とても答弁になってない答弁だった。会長の見識がこれでいいのかと。
それが「館長」でもあると明記してある。それなら担当役員どころか、阿刀田会長こそ高村「招待」問題の最高責任者であり、また読者等世間への公の直接責任者である。少なくもわたしが「館長」を務めていたときは、その覚悟で勤めていた。

* 阿刀田氏は、わたしからの問題提起を受けた後、念のため高村光太郎遺族の意向を確かめられたか。
また大岡信氏、辻井喬氏ら有力な会長・役員経験詩人方の意見を参考にでも聴取されたか。
ペン会員の「全員で考えてしかるべき大きな問題」だと、言論表現委員の中からも声があった。メールが手元に届いている。文藝館委員会の委員からも「賛成できない」という声が上がっていた。メールが手元に届いている。
阿刀田館長・大原雄委員長の今一度、誠意もあり説得力のある現行「招待・掲載」理由を、ぜひ、きっぱりと聞かせて欲しいと、一理事としても、作品を「ペン電子文藝館」に寄せている会員としても、お願いする。総会で、会員の討議にかけて欲しいとすら思う。

* このままでは、日本ペンペンクラブは「招待」と称して先達詩人の意向に全く反し、明らかに戦争讃美作品を主軸に強行掲載することで、故人の意向に明らかに背きかつ名誉を傷つけているし、ペン自体が「戦争讃美を容認」しているものと観られてしまう。
わたしの観るところ、「高村光太郎作品・抄」として現行の掲載内容はあまりに比例を欠いた貧寒たるもので、お粗末すぎる。読書子をミスリードすること甚だしい。
理事そして会員としての抗告の権利からも、念のため、その「招待席」内容をここに転記して、世の批判を得たい。わたしがとんちんかんなら、詫びて取り下げる。

* 招待席 日本ペンクラブ 電子文藝館 (掲載のまま)

高村光太郎

たかむらこうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。ここでは戦前、戦中、戦後の詩、ならびに戦中の評論を列挙することで光太郎の精神史を振りかえりたい。底本は主に新潮文庫に拠った。

高村光太郎作品 抄

目次

『道程』(大正3年)より
冬が来た
道 程

『智恵子抄』(昭和16年)より
人 に
樹下の二人
人生遠視
千鳥と遊ぶ智恵子

太平洋戦争中の詩
十二月八日
真珠湾の日
彼等を撃つ

[評論]戦争と詩

敗戦後の詩
終 戦
報 告(智恵子に)
わが詩をよみて人死に就けり

 

『道程』(大正3年)より

冬が来た

きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒(ほうき)になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た

道 程

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

『智恵子抄』(昭和16年)より

人 に

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて

樹下の二人

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉(とら)へがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

人生遠視

足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

千鳥と遊ぶ智恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

太平洋戦争中の詩

十二月八日

記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジャパン、
眇たる東海の国にして、
また神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津(あきつ)御神(みかみ)なり

世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国において否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
十二月八日を記憶せよ。

真珠湾の日

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あへぐ意識に眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。

彼等を撃つ

大詔(おほみことのり)ひとたび出でて天つ日のごとし。
見よ、一億の民おもて輝きこころ躍る。
雲破れて路ひらけ、
万里のきはみ眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在つひに発(あば)かれ、
わが向ふところ今や決然として定まる。
間髪を容れず、
一撃すでに敵の心肝を寒くせり。
八十梟帥(やそたける)のとも遠大の野望に燃え、
その鉄の牙と爪とを東亜に立てて
われを囲むこと二世紀に及ぶ。
力は彼等の自らたのむところにして、
利は彼等の搾取して飽くところなきもの。
理不尽の言ひがかりに
東亜の国々ほとんど皆滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御陵威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の練磨を経たり。
わが力いま彼等の力を撃つ。
必勝の軍(ぐん)なり。
必死必殺の剣なり。
大義明かにして惑ふなく、
近隣の朋(とも)救ふべし。
彼等の鉄の牙と爪とを撃破して
大東亜本然の生命を示現すること、
これわれらの誓なり。
霜を含んで夜(よる)しづかに更けたり。
わが同胞は身を捧げて遠く戦ふ。
この時卓(つくえ)に倚りて文字をつづり、
こころ感謝に満ちて無限の思切々たり。

[評論] 戦争と詩

すでに戦争そのものが巨大な詩である。しかも利害の小ぜり合ひのやうな、従来世界諸国間で戦はれたいはゆる力の平衡化のためのやうな底の浅い戦争と事変り、今度の支那事変以来の大東亜戦争の如きは、長きに亙る妖雲の重圧をその極限において撥ねのけるための己むに己まれぬ民族擁護の蹶起であり、皇国の存亡にかかはる真実の一大決戦であり、肇国の公大なる理念に基づいて、時にとつての条約や規約ばかりを重んじて更に根帯の道義を重んじない世界の旧秩序を根本的に清浄にしようといふ皇国二千六有余年の意義を堂々と天下に実現するための聖戦であつて、この内に充ち満ちた精神の厚さと、深さと、強さとの一あつて二なき途への絶体絶命の迸発そのものこそ即ち詩精神の精粋に外ならぬ。詩における「気」とは斯の如きものである。
その上、戦争における現実のあらゆる断面は悉く人間究極の実相を示顕して、平和安穏な散漫時代には夢にも見られなかつたせつぱつまつた事態と決心と敢行実践とが日毎に、刻々に体験の事実として継起する。物語の中でしか以前には遭遇しなかつた人間の運命も、生死も、喜怒哀楽も、興亡盛衰も、今では一億が身みづから切実にその事実の中で起居し、実感する。一億の生活そのものが生きた詩である。一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。
このやうな神聖な戦争時代には美の高度が高まり、美の密度が加はり、しかも到る処にその鋒芒があらはれ、美が人間を清浄化してゆく過程を実にしばしば目睹する。激動と静謐とは同時同刻に所在し、放胆不羈と細心精緻とは決して互に抵触せず、潜むもの行ふもの、皆その正しい部署を知り、実に大にして美である事を感知すること稀でない。わけて前線において、戦ふ将兵の消息に至つては殆ど言語に絶するものを痛感せずにゐられない。
皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最期にのぞんで心安らかに 大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。
戦争が生きた詩である時、文字を以て綴る詩が机上の閑文字、口頭の雑乱語であるやうな事があつては一大事である。戦ふ一億は真実の詩を渇望してゐる。みづから身心に痛感しながら此を口にするすべを知らない一億自身の詩に言葉を与へるためには、詩人みづからが真に戦ひ、真に行ひ、真にまことを以て刻々に厳毅精詣を期せねばならない。兵器の精鋭に分秒を争ふ時、詩人が言葉の鍛錬に寸刻も忽であつてはならない。
詩精神とは気であるが、気は言葉に宿る。言葉は神の遣はしものである。踏み分け難い微妙な言葉の密林にわれわれもまた敢然として突入せねばならないのである。

(「日本読書新聞」昭和19年1月29日)

敗戦後の詩

終 戦

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。

報 告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で、
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲の中にゐて
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に遂ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

わが詩をよみて人死に就けり

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

Takamura Kotaro
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室

* 道程や智恵子抄作品は教科書にも名高い、此処へ招待しなくても周知に近い作である。
問題は、「評論研究」室に置かれていた高村光太郎明白な戦争讃美・戦争荷担の一文『戦争と詩』が、「詩」の部屋の「招待席」にご丁寧に移転され、『高村光太郎作品・抄』とある中で、戦争讃美詩篇の、さながら高村「自注」かの如く掲示されていること。これは試作品掲載で他に例のないインチキであり、光太郎はこれを観て嫌悪と憤慨とでいっそう怒りの眼をむくだろう。
公平に見て、これは「高村光太郎の或る一面」とはいえても、『高村光太郎作品・抄』として「招待」するにはあまりに手薄、この詩人自身が苦悩して悔いた「一面」があたかも高村光太郎の「全面」に近いかと誤解されてもどうしようもない。晒し者にされている。高村の業績は、彼自身がそちらが主と言い切っていた「彫刻・造形」の仕事をはずしても、詩人としては上に百倍も百五十倍もするまこと優れた多くの詩作品を有し、さらに興味深い藝術家光太郎のエッセイも、みな莫大に彼の「作品」内容を成している。その目配りが全く無く、ただもう「戦時の逸脱にのみ」目をとめて「鬼の首を取ったかのように」上のような貧寒たる「編」をもって偉大な先達を侮辱してしまっている。

* 光太郎はあの戦争で狂ったと自認し、「人を多く死なせた」と悔い、自罰の苦しい隠遁生活もした。詩人自身が「愚劣の典型」であったと否認した。その「悔いた」ところを主眼に編んで「招待」とは悪意が過ぎている。「ペン電子文藝館」は、吉岡忍理事の先日理事会での言に敢えて抗して言うが、先達文人にかかる非礼を「すべき」ではない。
そんな詩人にそれでも批判があるなら、自分の「文責」で立派な「高村光太郎論」を書いてみなさいとわたしは言うのである。

* 理事会での「多数決」で判断して良いことと思わない。端的に、高村光太郎はかかる自作の扱いを「生前に望んでいなかった拒んでいた」という、それに尽きる。
高村が序文を書いて「定本に近いと満足」していた岩波文庫の『高村光太郎詩集』は戦後の詩集『典型』等を決然省いている。

* これは純然、文学と文学者の問題なのである。貫く棒のような定見も見識もないのかと、わたしは阿刀田館長以下責任者を批判するのである。
2009 5・6 92

* 昨日書いた光太郎のことに関して、身近から、反響の声がもう届いている。
要点は、こうだ。

* 「日本ペンクラブ」とはどういう団体であるか。戦争にはクミせず、平和を願う団体であるという、その自覚が真っ先に欲しかった、と。
光太郎の戦中詩にわざわざ「付記」するかたちで、選りに選って光太郎自身の明らかな戦争讃美・戦争荷担の一文『戦争と詩』を添えて出すなど、二重の過ち、二十の無礼を「ペンクラブ」は犯している、と。
そんなことでは、光太郎の心より悔いたところを「光太郎自身の手で」さらにさらけ出してしまい、秦さんの言うとおり「招待席」の名を借り詩人の傷口に泥をすりこんで「晒す」処置に出たとしか言いようがない、と。
ペンは、「電子文藝館」は、こうあって欲しかった、と。
つまり、かの光太郎ほどの人ですら「戦争は斯く狂わせた」と。憲章に基づき「平和」を重んじる「われわれ日本ペンクラブ」は、読者諸氏にそういう点を憂慮し考慮していただきたいと。光太郎の戦争讃美に我々は「とうていクミすることは出来ない」のであると。そういう「趣旨の論評」をこそ、少なくもペンは此処に、アジ演説にも似た「戦争と詩」との代わりに掲載しなくてはならなかった。
そのためには、 一、真に『高村光太郎作品・抄』と題するにふさわしい、みごとな文学的抄出を先ず改めて実行し、その上でどうしても戦中詩に触れたいのであれば、 二、別にしかるべき「文責」記事により、「高村光太郎の一面」とでも題した「批判の評論」をきちんと掲載する。
それが「ペン」のペンたる、憲章に則った姿勢であるだろう、と。

* 全く、その通りなのである。繰り返しそれをわたしは言ってきた。
2009 5・7 92

* 千載和歌集 春歌下  より懐かしく心に適った歌は。
吹く風をなこその關と思へども道もせにちる山ざくらかな    源義家朝臣
花は根に鳥は古巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき     崇徳院御製
をしめどもかひもなぎさに春暮れて波とともにぞたちわかれぬる 前大僧正覚忠

* 八幡太郎の歌は子供の頃に覚えていた。類想歌でありながら、勿来(なこそ)の意を風に利かせて読み込み、大らかな叙景の実を得た優しさ。「吹く風を」の「を」の用い方には子供心に教わった。あとの二首。春を惜しむ気持ちはいまの私にもある。崇徳院は歴代天皇の中でもひときわ秀でた歌人であったと、この和歌集はまちがいなく伝えている。
2009 5・8 92

* 千載和歌集 夏歌より  心に適った歌
一声はさやかになきてほとゝぎす雲路はるかにとほざかるなり   前右京権大夫頼政
郭公なきつるかたをながむればたゞ有明の月ぞのこれる   右のおほいまうち君
浮雲のいさよふ宵のむら雨におひ風しるくにほふたち花    藤原家基
さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人  皇太后宮大夫俊成
さみだれの雲のたえまに月さえて山ほとゝぎす空になくなり    賀茂成保
早瀬川みをさかのぼる鵜飼舟まづこの世にもいかゞくるしき    崇徳院御製
さらぬだにひかり涼しき夏の夜の月を清水にやどしてぞ見る    顕昭法師

頼政はあの源三位頼政で。一直線のように潔い叙景に惹かれた。実定卿の一首は百人一首のなかでもすぐれてここちよい格の大きい名歌。賀茂成保のほととぎすも、影もみえるほど冴え冴えと。後世をおそれる鵜飼の殺生もくるしいが、まのあたりに早瀬川の水脈をさかのぼるのもくるしいであろうよと。崇徳院なればこそ、「くるしき」という述懐が胸に届く。顕昭のは少し見得を切った感じだが、彼の六条家に厳しい俊成が採っている歌だと思うと。「さらぬだに」は顕昭らしいリクツぽさ。

* 『千載和歌集』と『作家の態度』を読み上げたので、川本三郎さんに貰っていた文庫本の『荷風語録』と、ハイデッガーの『存在と時間』とを枕元に置いた。
二階の機械のそばにも、今西さんの『蜻蛉日記覚書』、『高村光太郎詩集』、『福田恆存全集』第一巻をひまさえあれば目に入れている。
2009 5・9 92

* 千載和歌集 秋歌上  わたしの心に適う歌
夕されば野辺の秋風身にしみてうづらなくなり深草のさと   皇太后宮大夫俊成
こがらしの雲ふきはらふたかねよりさえても月のすみのぼるかな   源俊頼朝臣
塩竈の浦ふく風に霧はれて八十島かけてすめる月かげ    藤原清輔朝臣

季節の歌には類型が跋扈していて、たいがい聞いたような歌ばかりが如才なく現れる。俊頼、清輔の歌はあきらかに目に映るように世界が見えて胸懐が広く明るくなったので採った。俊成の歌はすでに心詞ともに胸の内にあった。
2009 5・13 92

* 千載和歌集 秋歌下  わたしの心に適った歌
さらぬだに夕べさびしき山ざとの霧のまがきにを鹿なくなり    待賢門院堀川
よそにだに身にしむくれの鹿のねをいかなる妻かつれなかるらん   俊恵法師
さりともと思ふ心も虫のねもよわりはてぬる秋のくれ哉    皇太后宮大夫俊成
さえわたるひかりを霜にまがへてや月にうつろふ白菊の花    藤原家隆
もみぢ葉を關もる神にたむけおきて逢坂山をすぐるこがらし    権中納言実守

鹿が目に見え、鹿のなく声が耳にとどき、白菊がひかり、こがらしの声が聞こえる。少し感傷的な俊成歌を軸に。
2009 5・14 92

* 千載和歌集 冬歌  わたしの心に適った歌
冬きては一夜ふた夜をたまざゝの葉わけの霜のところせきかな   藤原定家
ねざめしてたれか聞くらんこのごろの木の葉にかゝるよはの時雨を   馬内侍
うたゝねは夢やうつゝにかよふらんさめてもおなじ時雨をぞ聞く   藤原隆信朝臣
あさぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬ゞの網代木   中納言定頼
ふる雪に行方も見えずはし鷹の尾ぶさの鈴の音ばかりして   隆源法師
夕まぐれ山かたつきてたつ鳥の羽おとに鷹をあはせつるかな   源俊頼朝臣
霜さえてさ夜もなが井の浦さむみあけやらずとや千鳥なくらん   法印静賢
霜がれの難波のあしのほのぼのとあくるみなとに千鳥なくなり   賀茂成保
水鳥を水のうへとやよそに見むわれもうきたる世をすぐしつゝ   紫式部
難波潟いり江をめぐるあしがものたまもの舟に浮き寝すらしも   左京大夫顕輔
朝戸あけて見るぞさびしき片岡の楢のひろ葉にふれるしらゆき   大納言経信
雪ふれば谷のかけはしうづもれてこずゑぞ冬の山路なりける   源俊頼朝臣
雪つもる峰にふゞきやわたるらん越(こし)のみそらにまよふしら雲   二条院御製
ひとゝせははかなきゆめの心ちして暮れぬるけふぞおどろかれぬる   前律師俊宗

わたし自身の目に映じ耳に聞こえ肌に触れてくるもののたしかな歌を採った。類型の多くなる春や秋の歌よりも、わたしの好きな「冬」の歌に親しめる実感が豊かであった。
これで四季を選び終えた。筑波の「香」さんらは、どんな批評であろうかなあ。
2009 5・15 92

* 千載和歌集 離別歌 わたしの心に適った歌
鳴きよわるまがきの虫もとめがたき秋の別れやかなしかるらん    紫式部
行く末を待つべき身こそおいにけれ別れは道の遠きのみかは    前中納言匡房
忘るなよ帰る山路に跡たえて日数は雪の降りつもるとも    源俊頼朝臣
限りあらむ道こそあらめこの世にて別るべしとは思はざりしを    上西門院兵衛
ながらへてあるべき身とし思はねば忘るなとだにえこそ契らね    天台座主源心

「離別」は「死別」ではない。いわゆる漢詩の別れとは国土広遠の程があまりにちがう。それでも、別れは別れ。ことに老いのからんだ別れは覚束ない再会を念頭に、切ないものがある。
2009 5・16 92

* 昨日、岐阜県の山中以都子さんの詩集『水奏』を戴いた。「湖の本」よりもながいお付き合いで、最も早く詩人として目をとめた一人、ペンクラブにも早くに推薦した。「e-文藝館=湖(umi)」にもはやくに作品をもらった。
この詩集は過去の三冊の詩集から自編のアンソロジーで、よく選ばれている。この選集とかぎらず山中さんの詩世界は、死なれ・死なせた人への呼びかけでおおかた成っているとすら謂える。いつも手をのべている。その優しさが弱さでも強さでもある。冒しがたい秘蔵の玉を掌に握っているような詩を、美しく書ける人である。

桐の花    山中以都子

山すその火葬場に
ひっそりと いま
霊柩車が入ってゆく

柩によりそうのは
とおい日の
わたしか

はす池のほとり
しんと空をさす
桐の花

父よ
そちらからも
みえますか

いまほしいのは    山中以都子

なぐさめとか
いたわりとか
しったとか
げきれいとか
──じゃなく

そんな
とりすましたものなんかじゃなく

たったひとつ
いまわたしがほしいのは
てばなしのらいさん
みもよもないほめことば
かおあからめずにはきいておれない
とてもしらふじゃいたたまれない
むきだしのまっかなこころ
ちぶさからほとばしる
ひのことば

かあさん
あんなにわらったのに
かあさん
あんなににげまわったのに

あんなにわたし
めしいたあなたを
べたべたのあなたのあいを
あのころわたし
あんなに あなたを
あなたを
かあさん……
2009 5・17 92

* 千載和歌集 羇旅歌 わたしの心に適った歌
おぼつかないかになる身のはてならむ行くへも知らぬ旅のかなしさ  前中納言師仲
旅の世に又旅寝して草枕夢のうちにも夢を見るかな   法印慈円
薩摩潟おきの小島に我ありと親には告げよ八重の潮風   平康頼

「いかになるみのはてならむ」は、わたしの好きな閑吟集の室町小歌にとられ、「しほによりそろ 片し貝」とうたわれている。尾張国鳴海がよみこまれている。何度も書いているので繰り返さないが、ある人と応酬のさいのこれが秀逸の返歌であった。
康頼の歌は羇旅歌であろうか、清盛に憎まれ俊寛と伴に鬼界島に流されていた歌であろう。慈円の一首は観念的だが、坊さんの歌らしい。そしてふと胸の詰まる境涯歌ではある。
2009 5 17 92

* 千載和歌集 哀傷歌 わたしの心に適った歌
春くれば散りにし花もさきにけりあはれ別れのかゝらましかば    中務具平親王
行き帰り春やあはれと思ふらむ契りし人の又も逢はねば    大納言公任
思ひかねきのふの空をながむればそれかと見ゆる雲だにもなし    藤原頼孝
うつゝとも夢ともえこそ分きはてねいづれの時をいづれとかせむ    花山院御製
をくれじと思へど死なぬわが身哉ひとりや知らぬ道をゆくらん    道命法師
ひと声も君につげなんほとゝぎすこのさみだれは闇にまどふと    上東門院
いづかたの雲路と知らばたづねまし列(つら)はなれけん雁がゆくへを    紫式部
もろともに有明の月を見しものをいかなる闇に君まどふらん    藤原有信朝臣
みとせまでなれしは夢の心地してけふぞうつゝの別れなりけり    右京大夫季能
入りぬるかあかぬ別れのかなしさを思ひ知れとや山の端の月    僧都印性
先立たむ事を憂しとぞ思ひしにおくれても又かなしかりけり    静縁法師
もろともにながめながめて秋の月ひとりにならむ事ぞかなしき    円位法師

人に死なれた悲しさの真率に現れた歌は、さすがに少なくない。
十二首のうち四首も坊さんの歌である。円位とは西行法師。
天皇さんも門院さんも親王さんも高位の人も、死なれてはみな同じようにかなしい。季能の一首、優しく悲しい。数をいとわず選べばもっと哀傷の秀歌は有る。

* 気丈に感じてきた人でも、この季節、ほぐしがたい気鬱に悩んでいる例がある。
心の晴れるいったい何がいまの世間にあるだろう、庭にさんさんと輝き落ちて新緑をまぶしくひからせている朝日、太陽の有り難さが身に染みる。それにしても、ものに恥じらう節度と優しさを、鬼のようにかなぐり捨ててしまう人、どういう気持ちなのだろうと新聞を見、テレビを見ていて、愕然とする。
山中さんの詩を読み、千載集の悲哀の歌を読み、世の中にはこういう思いをもう持てないほどすさんだ魂が時空にごろごろしているように想われる。地獄か。
2009 5・18 92

* 哀傷・悲傷に人の胸は疼いて、呻き出ることばは真率を得やすいが、祝着・祝儀の歌にはどうしても上滑りがある。まして人を、上位を褒めてめでたいと歌う歌には、感銘がうすい。ましてわたしは此処に拾い採っている秀歌の多くのもっている前詞を「無視」して一首をそれ一つで立つ一首と認めようとしているから、賀歌の訴求力はまたいちだん淡まる。
今や千年近い前の宮廷や貴族社会の前詞事情を念頭においてしか和歌が読めないのではシンドい。たしかに前詞とともに読むと興趣有る和歌は数多いけれども、わたしはその必要のない心に適う歌を、記憶するともなく覚えていようと思う。
つぎの賀歌たちは、他の巻の和歌レベルに達しないと感じながら、強いて拾い採ってみた。

* 千載和歌集 賀歌
千歳すむ池の汀の八重ざくらかげさへ底にかさねてぞ見る    権中納言俊忠
ちはやぶるいつき(斎)の宮の有栖川松とともにぞかげはすむべき  京極太政大臣
君が代を長月にしもきくの花咲くや千歳のしるしなるらん  法性寺入道前太政大臣
白雲に羽うちつけてとぶ鶴(たづ)のはるかに千代の思ほゆるかな    二条院御製

祝う人と祝われる人とのいる世間で。自身の感懐を詠じて自身の上を祝えるのは、二条院のような御一人ということになる。賀の視線は、階級社会で、上へ上へ向く。
2009 5・19 92

* 金沢市の詩人三井喬子さん自選の詩八編が「e-文藝館=湖(umi)」に送られてきた。何冊もの詩集を持った、経歴有る人である。感謝して掲載。岐阜県の山中以都子さんにも『水奏』から自由に採ってくださいと許可を得ている。
「e-文藝館=湖(umi)」へ、小説でも詩歌でも評論でも、もっと、一般からの勇気ある投稿が欲しい。
力作や先に希望の持てる作品なら編輯者・私とよく話し合ってもらいながら「招待席」の文豪や大詩人達とも、対等に平等に掲載される。大勢の読者がすでにこの「e-文藝館=湖(umi)」にはついている。
「招待席」の漱石や一葉や鏡花や荷風や太宰治らと、また子規や晶子や朔太郎や白秋らと、また優れた大勢の批評家らと、忘れられ書けている優れた書き手たちの優れた作品と、まったく平等に並んで、あなたの作品が、広く国内外に展開されます。すでに五百人もの書き手の選ばれた作品が満載されています。作品は、ぜひ、メールテキストで、送ってきて下さい。このホームページの表紙から転じて、「e-文藝館=湖(umi)」の各室を散策してみてください。
2009 5・20 92

* 千載和歌集 恋歌一  わたしの心に適った和歌たち
藻屑火の磯間を分くるいさり舟ほのかなりしに思ひそめてき    藤原長能
いかにせむ思ひをひとにそめながら色にいでじとしのぶ心を   延久三親王 輔仁
思へどもいはでの山に年をへて朽ちやはてなむ谷のむもれ木    左京大夫顕輔
岩間ゆく山のした水堰きわびてもらす心のほどを知らなむ    上西門院の兵衛
水隠(みごも)りにいはで古屋の忍草しのぶとだにもしらせてし哉    藤原基俊
歎きあまりしらせそめつることの葉も思ふばかりはいはれざりけり   源明賢朝臣
思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな    前右京権大夫頼政
難波女のすくもたく火の下焦がれ上はつれなき我身なりけり    藤原清輔朝臣
恋ひ死なば世のはかなきにいひおきてなき跡までも人に知らせじ    刑部卿頼輔
我恋は尾花ふきこす秋風の音にはたてじ身にはしむとも    源通能朝臣
またもなくたゞひと筋に君を思ふ恋ぢにまどふ我やなになる    大宮前太政大臣
はかなしや枕さだめぬうたゝねにほのかにまよふ夢の通ひ道(ぢ)    式子内親王
頼めとやいなとやいかに稲舟のしばしと待ちしほどもへにけり    藤原惟規
つれなさにいはで絶えなんと思ふこそ逢ひ見ぬ先の別れなりけれ   右京大夫季能

とにもかくにも、いいなあと嘆息する。真情の優しさ。
2009 5・20 92

* 千載和歌集 恋歌二   わたしの心に適った和歌たち
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを    源俊頼朝臣
むすびおく伏見の里の草枕とけでやみぬる旅にもある哉    藤原顕仲朝臣
恋ひ恋ひてかひもなぎさに沖つ浪寄せてはやがてたちかへれとや   権中納言俊忠
いかで我つれなき人に身を替へて恋しきほどを思ひ知らせむ    徳大寺左大臣
恋ひわたる涙の川に身を投げむこの世ならでも逢ふ瀬ありやと    藤原宗兼朝臣
朝まだき露をさながらさゝめ刈る賤が袖だにかくは濡れじを  右のおほいまうち君
恋ひ死なむ命をたれに譲りおきてつれなき人のはてを見せまし    俊恵法師
堰きかぬる涙の川の早き瀬は逢ふよりほかのしがらみぞなき   前右京権大夫頼政
恋ひ死なむ身はをしからず逢ふ事に替へむほどまでと思ふばかりぞ    道因法師
思ふこと忍ぶにいとゞ添ふものは数ならぬ身の歎きなりけり    殷富門院大輔
などやかくさも暮れ難き大空ぞ我がまつことはありと知らずや    二条院御製
磯がくれかきはやれども藻塩草立ちくる波にあらはれやせん    藤原家実
契りおくその言の葉に身を替へてのちの世にだに逢ひ見てしがな   よみ人しらず
越えやらで恋路にまよふ逢坂や世を出ではてぬ關となるらん    藤原家基
手枕のうへに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな    西住法師
潮たるゝ袖の干るまはありやともあはでの浦の海人に問はゞや    法印静賢
思ひきや夢をこの世の契りにて覚むる別れを歎くべしとは    俊恵法師
我袖は潮干に見えぬおきの石の人こそ知らねかわく間ぞなき    二条院讃岐
思ひ寝の夢だに見えで明けぬれば逢はでも鳥の音こそつらけれ    寂蓮法師
夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり    俊恵法師
をのづからつらき心も変るやと待ち見むほどの命ともがな    静縁法師
よとゝもにつれなき人を恋草の露こぼれます秋の夕風    藤原顕家朝臣
恋ひ死なば我ゆゑとだに思ひ出でよさこそはつらき心なりとも    権大納言実国
ひたすらに恨みしもせじ前の世に逢ふまでこそは契らざりけめ   左衛門督家通

少し大盤振舞いかもしれないが、恋に浮き身をやつす男女の、まんざら口先だけでなさそうな「歎きぶし」がいろいろに身につまされて面白く、棄てていた歌の少しも、また拾ってみた。
得た恋の激情や歓喜や恍惚はまったく伝わらない。この巻の編み様ともそれは説明つくものの、彼や彼女たちに「恋」とは、ひたすら泣くもの、満たされぬものと、はなから覚悟しているかのように受け取れる。日本の恋は万葉集以来、嬉しいよりも、悲しく辛く身をよじて歎くためにするかのようで。一首ぐらいポルノグラフィックなまでに熱烈な無心の境を見せてくれないかと願うが。
まあ、八首採った坊さん達の恋のワケ知りなのにも、例の如く驚く。この時代の仏教行法説法とはどんなものであったか、坊さんの社会性とは、信仰とは、どんなものであったか和歌の不思議と共にだれか分かりよく解いて聴かせてほしい。
2009 5・21 92

* 千載和歌集 恋歌三  わたしの心に適った恋の和歌
我恋は海人の刈藻に乱れつゝかわく時なき波の下草    権中納言俊忠
かねてより思ひし事ぞふし柴のこるばかりなる歎きせむとは    待賢門院加賀
恋しさは逢ふをかぎりと聞きしかどさてしもいとゞ思ひ添ひける    前参議教長
長からん心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ    待賢門院堀川
磯馴れ木のそなれそなれてふす苔のまほならずとも逢ひ見てしがな  待賢門院安藝
人はいさあかぬ夜床にとゞめつる我心こそ我を待つらめ    前右京大夫頼政
難波江の蘆のかりねの一夜ゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき    皇嘉門院別当
恋ひ恋ひて逢ふうれしさを包むべき袖は涙に朽ちはてにけり    藤原公衡朝臣
東屋の浅木の柱我ながらいつふしなれて恋しかるらん    前斎院新肥前
思ひわびさても生命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり    道因法師
数ならぬ身にも心のありがほにひとりも月をながめつる哉    遊女戸ミ
枯れはつる小笹がふしを数ふればすくなかりけるよゝの数かな    藤原成親
忍びかねいまは我とや名のらまし思ひ捨つべきけしきならねば    内大臣 良通
いづくより吹きくる風の散らしけむたれもしのぶの森の言の葉    左兵衛督隆房
いとはるゝ身を憂しとてや心さへ我を離れて君に添ふらん    藤原隆親
見し夢の覚めぬやがてのうつゝにてけふと頼めし暮を待たばや  太皇太后宮小侍従
知るらめやおつる涙の露ともに別れの床に消えて恋ふとは    二条院御製
忘るなよ世ゝのちぎりを菅原や伏見の里の有明の空    皇太后宮大夫俊成

さすが百人一首に採られたどの和歌も、すばらしい。末尾の俊成和歌などは「世ゝ(夜ゝ)」「すがはら(するの、す)」「伏見(臥し見る)」などと「音」だけを意味に繋いで体言止めに。よほど新古今荷風に接している。
待賢門院のサロンには、他に兵衛なども含め、閨秀の名手が集まっていたとよく分かる。
頼政といい成親とい、平家物語の人物が巧みに歌っている。後者の「よゝ」は「夜々」であり小笹という竹の「節々(よよ)」の意味でもある。恋ぢからの弱りを歎いている。前者のは逢い得てさらにの歌であり、教長の歌と響きあう。
秀歌の密集している巻。こういうのを嬉しく拾い読んでいると、ううつの歎きをふと忘れられる。自民党はすることなすこと、どうしてああも汚いのか。民主党はすることなすこと相争い、どうしてああも今が読めず先が読めないのか。
2009 5・24 92

* 千載和歌集 恋歌四  私の心に適った和歌たち
いかにして夜の心をなぐさめん昼はながめにさても暮らしつ   和泉式部
これもみなさぞなむかしの契ぞと思ふものからあさましきかな
思ひ出でてたれをか人の尋ねまし憂きに堪へたる命ならずは   小式部
待つとてもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ秋の夕暮   和泉式部
ほどふれば人は忘れてやみぬらん契りし事を猶頼むかな
恋をのみ姿の池に水草すまでやみなむ名こそをしけれ   待賢門院安藝
逢ふことは引佐(いなさ)細江のみをつくし深きしるしもなき世なりけり 藤原清輔朝臣
思ひきや年の積るは忘られて恋に命の絶えむものとは   後白河院御製
知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは   円位法師
逢ふと見しその夜の夢の覚めであれな長きねぶりは憂かるべけれど
心さへ我にもあらずなりにけり恋は姿の変るのみかは   源仲綱
待ちかねてさ夜も吹飯(ふけい)の浦風に頼めぬ波のおとのみぞする  二条院内侍参河
忘れぬやしのぶやいかに逢はぬまの形見と聞きしありあけの空   右近中将忠良
見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず   殷富門院大輔
人知れずむすびそめてし若草の花の盛りも過ぎやしぬらん   藤原隆信朝臣
いかなれば流れは絶えぬ中川に逢ふ瀬の数のすくなかるらん   藤原顕家朝臣
思ひ寝の夢になぐさむ恋なれば逢はねど暮れの空ぞ待たるゝ   摂政家丹後

はからずも和泉式部の歌が四首、西行二首。頼政の子息仲綱の歌も拾えた。後白河院の和歌は珍品。
2009 5・27 92

* 岐阜の山中以都子さんの詩集『水奏』を、一度に十六編全部でなく、対話でもするように少しずつスキャンし校正して「e-文藝館=湖(umi)」の詞華集に送り込んでいる。もう半分ほど入ったろうか。詩は、静かに一編、一編読みたい。どかっと数多く通読するものではない。
2009 5・29 92

☆ 高村光太郎と、ペンクラブの認識  東京都品川区
信じがたいの一言です。文学史に輝かしい名を刻んだ詩人への「お前だって大したことないんだぞ」というまるでヤキモチのようにすら感じられます。

* 意表に出た読者の批判だが、なぜこう見られるのか。それをよく考えてみると、いい。
「ペン電子文藝館」「招待席」とは、「招待」という字義が表しているように、作品を論って批評批判する場でなく、その詩人や作家の優れた作をひろく読書子のために伝達する場なのである。そんな分かりいい根本義・第一義が委員会に読めていないから、上のように、まるでペンクラブまでが嗤われてしまう。会員は迷惑だ。阿刀田館長の認識が問われている。
2009 5・29 92

* 勅撰和歌集の眼目は、四季や恋を超えて「雑歌」にある。古今集でも「雑」の歌に学べとことに俊成・西行・定家の頃の師匠格はひとにすすめている。書き写すのも数多く、骨である。

* 千載和歌集 雑歌上  わたしの心に適った和歌たち
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立ゝむ名こそをしけれ   周防内侍
契りありて春の夜ふかき手枕をいかゞかひなき夢になすべき   大納言忠家
かをる香によそふるよりはほとゝぎす聞かばや同じ声やしたると   和泉式部
人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな   前右京権大夫頼政
さゞなみや国つ御神のうらさえて古き都に月ひとりすむ   法性寺入道前太政大臣
ながめつゝ昔も月は見しものをかくやは袖のひまなかるべき   相模
かくばかり憂き世中の思ひ出に見よとも澄める夜半の月かな   久我内大臣
はかなくもわが世のふけを知らずしていさよふ月を待ちわたるかな   源仲正
先立ちし人は闇にやまよふらんいつまで我も月をながめむ   源仲綱
浮雲のかゝるほどだにあるものを隠れなはてそ有明の月   近衛院御製
さびしさも月見るほどはなぐさみぬ入りなむのちを訪ふ人もがな   藤原隆親
霜さゆる庭の木の葉を踏み分けて月は見るやと訪ふ人もがな   円位法師
さもこそは影とゞむべき世ならねど跡なき水に宿る月かな   藤原家基
真柴ふく宿のあられに夢さめて有明がたの月を見る哉   大江公景
月かげの入りぬる跡に思ふかなまよはむ闇の行末の空   法印慈円
契りおきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり   藤原基俊
瀧の音は絶えて久しく成ぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ   前大納言公任
難波がた潮路はるかに見わたせば霞に浮かぶおきの釣舟   円玄法師

久我内大臣や仲綱や円位や慈円の和歌など、いまのわたしの思いにひびきあうものを伝えている。
2009 5・30 92

* 千載和歌集 雑歌中  わたしの心に適った和歌たち
あまたゝび行き逢坂の関水にいまは限りの影ぞかなしき   東三条院
今はとて入りなむのちぞ思ほゆる山路を深み訪ふ人もなし   前大納言公任
憂き世をば峰のかすみや隔つらんなほ山里は住みよかりけり
花に染む心のいかで残りけん捨てはてゝきと思ふ我身に   円位法師
佛にはさくらの花をたてまつれ我のちの世を人とぶらはば
もの思ふ心や身にも先立ちて憂き世を出でむしるべなるべき   前左衛門督公光
いつとても身の憂き事は変らねどむかしは老いを歎きやはせし   道因法師
いかで我ひまゆく駒を惹きとめてむかしに帰る道をたづねむ   二条院参川内侍
この世には住むべきほどやつきぬらん世の常ならずものゝかなしき   藤原道信朝臣
命あらばいかさまにせむ世を知らぬ虫だに秋は鳴きにこそ鳴け   和泉式部
数ならで心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり   紫式部
あはれともたれかは我を思ひ出でんある世にだにも問ふ人もなし   藤原兼房朝臣
山里の筧の水の氷れるはおと聞くよりもさびしかりけり   輔仁親王
山里のさぴ゛しき宿のすみかにも筧の水の解くるをぞ待つ   聡子内親王
杣川におろす筏の浮きながら過ぎゆくものは我身なりけり   二条太皇太后宮別当
おのづからあればある世にながらへて惜しむと人に見えぬべきかな   藤原定家
憂しとてもいとひもはてぬ世中を中なか何に思ひ知りけむ   摂政家丹後
思ひきや志賀の浦浪立ちかへりまたあふみともならむ物とは   平康頼
夢とのみこの世の事の見ゆるかな覚むべきほどはいつとなけれど   権僧正永縁
憂き事のまどろむほどは忘られて覚むれば夢の心地こそすれ   よみ人しらず
いづくとも身をやる方の知られねば憂しと見つゝもながらふるかな   紫式部
憂き夢はなごりまでこそかなしけれこの世ののちも猶や歎かむ   皇太后宮大夫俊成
うつゝをもうつゝといかゞ定むべき夢にも夢を見ずはこそあらめ   藤原季通朝臣
いとひても猶しのばるゝ我身哉ふたゝび来べきこの世ならねば
これや夢いづれかうつゝはかなさを思ひ分かでも過ぎぬべきかな   上西門院兵衛
あす知らぬみむろの岸の根無し草なにあだし世におひはじめけん   花園左大臣家小大進
岩そゝく水よりほかにおとせねば心ひとつを澄ましてぞ聞く   仁和寺法親王 守覚
おほけなく憂き世の民におほふ哉わが立つ杣の墨染の袖   法印慈円
つくづくと思へばかなしあか月の寝覚めも夢を見るにぞありける   殷富門院大輔
まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける   西住法師
先立つを見るは猶こそかなしけれおくれはつべきこの世ならねば   六条院宣司
世中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる   皇太后宮大夫俊成

さすがに「雑中」、秀歌の多いこと。此処で個々に感想を書き始めれば、止められない。
いずれ、『わが千載和歌集秀歌撰』として一首ずつ読み味わってみようと、それを楽しみに。
老後を庭に降りて植木をいじっている人もある。
わたしにも機械に馴染みながら、こういう楽しみ、あっていいだろう。これもわが「文学作法」の範囲内である。
2009 5・31 92

述懐 平成二十一年六月

ふれば濡る濡るればかはく袖のうへを雨とていとふ人ぞはかなき  一遍上人

くすむ人は見られぬ 夢の 夢の 夢の世を うつつ顔して  閑吟集

めをとぢてこの深きやみに沈透(しづ)くなり ねがはざれ 我も 我の心も  湖
2009 6・1 93

* 千載和歌集 雑歌下   わたしの心に適った歌
何となくものぞかなしき秋風の身にしむ夜半の旅の寝覚めは   仁上法師
秋は霧きり過ぎぬれば雪降りて晴るゝまもなき深山べの里   待賢門院堀川
極楽ははるけきほどゝ聞きしかど勤めていたる所なりけり   空也上人
2009 6・1 93

* 祝『仙翁花』上梓
松本幸四郎様  御句集頂戴

好きな句をくちずさみゐる慈雨の季
五月雨といふ句もありて幸四郎 秦 恒平

キホーテと五十路の旅の青しぐれ

まどろみて五月雨の曲聴いてをり

木枯らしの中に楽日の役者かな

冬ざれに筋隈の紅燃ゆるかな

おぼろ夜の鬼女の棲み家を訪ねけり

五月雨に露けき袖や幸四郎

神祀るやしろ涼しきところかな

老人のまどろむでゐる夏列車

機関車の大暑の谷に入りにけり

日盛りの裸足で帰る農夫かな

夕闇のなかに横たふ刈田かな

冬凪ぎの静けきなかの土佐にをり

幾千の木漏日いだき山眠る

冬の山大神のごとおはすなり

ぼたん雪降るをながめてゐたりけり

神々が双肌をぬぐ夏野球

今年またせみ鳴き初めて思ふこと

豊の秋うつして清し御膳水

寒椿散るが如くに又播磨

籐椅子に妻まどろむでゐたりけり

冬日和母の佳き日は暖かき

四代目の金太郎なり風薫る
2009 6・3 93

* 千載和歌集 釈教歌・神祇歌   私の思いに叶った和歌たち
こゝに消えかしこに結ぶ水のあわの憂き世に廻る身にこそありけれ   前大納言公任
定めなき身は浮雲によそへつゝはてはそれにぞ成り果てぬべき
世の中は皆佛なりおしなべていづれの物と分くぞはかなき   華山院御製
月影の常にすむなる山の端をへだつる雲のなからましかば   藤原国房
夢覚めむそのあか月を待つほどの闇をも照らせ法のともし火   藤原敦家朝臣
ふるさとをひとり別るゝ夕べにもおくるは月のかげとこそ聞け   式子内親王
人ごとに変るは夢の迷ひにて覚むればおなじ心なりけり   摂政前右大臣
澄めば見ゆ濁れば隠るさだめなきこの身や水に宿る月かげ   宮内卿永範
見るほどは夢も夢とも知られねばうつゝも今はうつゝと思はじ   藤原資隆朝臣
おどろかぬ我心こそ憂かりけれはかなき世をば夢と見ながら   登蓮法師
水草のみ茂き濁りと見しかどもさても月澄む江にこそありけれ   右京大夫季能
恨みけるけしきや空に見えつらん姨捨山を照す月かげ   藤原敦仲

道の辺の塵に光をやはらげて紙も佛の名告るなりけり   崇徳院御製
めづらしく御幸を三輪の神ならばしるし有馬の出湯なるべし   按察使資賢
さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣   式子内親王

千載和歌集を三度読んで、随時に選んだ全部を書き出してみた。全巻で何首ほどになったか、全容を見直し読み直して、さらに次の仕事を考えよう。
2009 6・4 93

* 朝一番に、嬉しいメールが来ていた。わたしのメールはたんなる用向きのことは甚だすくない。こういう読者たちとの「対話」のために在る。

☆ いのちあらば  松 大阪
千載集を読むことは、とてもとてもですが、お心に適った歌を通して楽しませていただいています。
大好きな和泉式部の歌に出会いました。
いのちあらばいかさまにせん世をしらぬ蟲だに秋はなきにこそなけ
体から突き上げてくるものをそのまま投げ出したような歌だと思います。いのちあるものの哀しさ。
最近、よく心に浮かぶ歌は、
寝る人をおこすともなきうづみ火を見つつはかなくあかすよなよな
かぞふれば年ののこりもなかりけり老いぬるばかりかなしきはなし
優美な言葉を連ねただけの歌より、和泉式部の体を感じさせる歌が好きです。
でも、さすが、俊成卿の歌はいいですね。
春の夜は軒端の梅をもる月のひかりもかをる心ちこそすれ
夜の空気の冷たさまで感じられるようです。

* いまどき千載和歌集だの和泉式部・俊成卿だの、世離れ過ぎていると目もくれない「今日」であるにはあるが、そう思いこむのも迂闊なことで。
東大の安田講堂に学生達がたてこもった大紛争があった。群衆の浪にまじり催涙ガスは本郷通りにも流れ出て、勤め先から一歩路上に出ると、歩道と車道との区別も付かぬほどの人波。わたしは、赤門や正門に背いて地下鉄でお茶の水へ脱出し、その足で水道橋寄り高台のハズレにある、ビルの上の小さな美術館へ入った。一枚の宋の赤繪と向き合った。わたしの世界はもう色を変えていた。

いのちあらばいかさまにせん世をしらぬ蟲だに秋はなきにこそなけ
いのちあるものの哀しさ。
寝る人をおこすともなきうづみ火を見つつはかなくあかすよなよな
かぞふれば年ののこりもなかりけり老いぬるばかりかなしきはなし
和泉式部の体を感じさせる歌が好き。
さすが、俊成卿。
春の夜は軒端の梅をもる月のひかりもかをる心ちこそすれ
夜の空気の冷たさまで感じられるようです。

このメールの人は世離れて暮らしているただの古典趣味の人ではない。
世の底辺ちかく日々に苦しみ生きている人たちへのボランティアに身を挺しながら、西洋や日本の詩や古典とともに著述している紛れない「現代人」である。ただ趣味的な「現在人」ではない。
そういう人の感じている和泉式部の「いのちあるものの哀し」みであり、俊成歌の「夜の空気の冷たさ」である。現代を呼吸しているから古典が身内に光る。
ありがとう。励まされました。
2009 6・5 93

☆ 秦先生  創
ご無沙汰しており申し訳ありません。
出張は実は3月一杯まで大阪十三におり、
4月からは藤沢の作業所**室に毎日通っております。
また去る5/31に第2子の女の子が生まれました。
6/6を予定しておりましたが、約1週間早い出産でした。
体重は2430gと小さ目でしたが、
母子共に健康で昨日(6/4)無事退院しました。
(本日より私も勤めに戻りました。)
顔は兄に良く似ていますが、
お兄ちゃんと違ってよく寝る子です。
名前はまだ決めきれておりません。

* 祝 お嬢ちゃん誕生
おめでとう ご夫妻 お兄ちゃん

慈雨の季(とき)うれしさまさる生きてこそ  湖

* この朗報を待っていた。お父さんは嬉しくて堪らないだろう。おめでとう。
2009 6・5 93

* 千載和歌集二十巻からわたしの心・思いに適った和歌たちを選び取った全部を、一つのフアイルに取り纏めた。
ざっと数えて、二百十四首になっている。この原料を、わたしなりにご馳走に料理できないものか、「未定稿フォルダ」の中に取り込んでおいた。
2009 6・5 93

* 岩波版の新日本古典文学大系『千載和歌集』を読んできたが、この巻の月報のアタマに、作家・東京工業大学教授という名義で「俊成の時代」というちょっと長めの一文を寄せていた。忘れていた。
2009 6・7 93

☆ お元気ですか。  花
『蜻蛉日記』と森さんの『情事』を読み終えました。
『蜻蛉日記』の作者は、男性に対して拗ねてばかりいて、ちょっとかわいくないかも、というのが第一印象です。当時の女性は待つことしかできなかったのだから仕方ないけれど。
『情事』は、確かに読ませますね。
今は、福田恒存の嘉村磯多論を読んでいます。
ではでは、頑張る風を感じて、花も。

* 花の蜻蛉日記読みは、実は大きくまちがっているようです。教室でぼんやり教わり、耳学問で思いこんできた先入主が働きすぎています。
摂関時代に、貴族社会でおよそ知らぬ人もないほど読まれ書き写されていた日記です。受領の女の、妻として泣きの涙で拗ねた愚痴本が、どうしてそんな評判を得られるでしょう。夫は藤原兼家、摂政太政大臣になり権勢並びない大物、あの道長らの父親です。その夫への恨みの暴露本?  そんなことはあり得ない。やれば縁戚が潰されてしまうでしょう。

まさしく私小説そのものの日記体ですが、こういう日記が流布も読者も可能になったのには、別の成立意図・目的が在ったはず。なかには、ことに上巻には、中下巻にも、兼家側からの資料提供や支援や諒解や要請がなければ、或いは合意がなければ、とても書けない性質の記事も混じっています。
上巻には和歌がとくに多い。その中で、道綱母の作の多いのは当然として、第二位に他を断然引き離して兼家の和歌が多いことに気が付けば、上巻成立に兼家が協力していたという以上に、兼家側の或る大事な意図や願望に添って、優れた歌人として当時世評を確立していた道綱母の方が協力していたのではとすら読める、「夫妻合作の事情」が読み取れてきます。

この時代は「摂関家集の時代」といわれるほど摂関家一の人たちの家集が編まれていました。それは彼等の文化的な箔と実力の誇示ですらありました。
蜻蛉日記の上巻には、そうした摂関家の他の者の家集に含まれたどの主人公の歌数よりも、一段と数多い「兼家の和歌」が収録されている。他にそんな文献は無いのです。
道綱母のこの面での管理能力や評価力が、夫兼家の強い大きな信頼を得ていたから可能であった日記の編纂でした。
日記は一見、傷心と失意との泣きの涙日記のようであり、事実その面のあったことは否めない。しかし、それは一人の妻の、制度的に我が家で夫来訪を待ちわびた日々の正直な反映でした。道綱母はけっしてあの末摘花のようではなかった。年をとり床離れはしていっても、兼家の胤の幼い余所の娘を養女にもし、一粒胤の息子道綱は将来の上達部を優に保証されています。
一方兼家が、道綱母への情味を失い尽くした無道な夫とはとても読めない事実と状況を、日記はけっこう的確に書き起こしています。道綱母にはそれが誇らしい嬉しいことですらあったとも、十分読み取れます。そこに「私小説作家の機微と創意としたたかな知性」も見受けられる。

「作者は、男性に対して拗ねてばかりいて、ちょっとかわいくないかも、というのが第一印象です。当時の女性は待つことしかできなかったのだから仕方ないけれど。」は、全面否定しないけれど、当たっていない。
なかなかどうして、したたかな現代味をもった道綱母です、「かわいくない」かもしれないが、豊かな感情と、自身を主張できる知性をもち、なにより好い意味で、誇り高い。いまの学界にも、これは傷心日記ではない、満足の吹聴日記だという評価も現れてきています。後者だからこそ、摂関家のそれとない庇護と容認とのもとに、流布が可能だった、そして古典の地位を得たと言えるでしょう。わたしはそう読んでいます。

わたしが、繰り返し四度目を飽きずに読んでいるのは、まさしくこの作品から、源氏物語・寝覚や、枕草子や、更級日記や和泉式部日記やとはずかたりが出来、さらにさらに一葉や直哉や善蔵が、堀辰雄や円地文子も、生まれ出たと思うからです。芥川はここから外れています。
森瑶子は、器量の分厚いホンモノでしたね、少なくも『情事』等では。

* 千載和歌集の秀歌を全体の一割弱選んで書き出していたのを読まれて楽しむ人もあったのは、望外の余録で。
本に添えられた月報の原稿をいわば「総括」のようにも読みたいという希望もあったので、スキャンしてみた。東工大時代、いまから十六年も昔の一文だが、ごく率直に「時代」を読んでいる。原文のまま、掲げておく。

* 俊成の時代   秦 恒平

根が後鳥羽院ぎらいで、『新古今和歌集』もさほどに好まない。巧緻ではあるけれど造りたててあり、清新でない。八代集で清新といえば、『金葉』『詞花』のややこしい歌風からぬけ出た『千載和歌集』にかぎるのである。ここには俊成と西行というとびきりの名前がある。二人の境涯はちがう。けれど、似ている。なにが似ているか。魂の色が似ている。
いきなり余談をまじえるが、魂の色が似ているで驚かされたのは、嫁ぐ以前の娘との話し合いであった。好きな人ができて、その人とは魂の色が似ていると言われて父親は閉口した。参った。
ところが、最近、東京工業大学の学生諸君といっしょに谷崎潤一郎の作品を読んでいて、日ごろ「谷崎愛」を口にしている私としたことが、あの名高い『刺青』という短編小説のなかで、すでに「魂の色」と書かれてあるのを見落としていた。刺青師清吉はわが「魂の色」を女の肌に刺して行き、はては女の背いっぱいの刺青そのものと化してしまう。無意識に記憶していて、だから娘の台詞に驚いたというのでは、言い訳が過ぎよう、要は読み落としていたのである。魂にも色がある。なるほど、よく分かる。
話をもとへ戻そう、藤原俊成に『千載和歌集』の撰を命じたのは、後白河院であった。わたしは、これがまた少年以来の根からの後白河びいきで、今日まで来た。ついでに言えば、白より赤旗の熱い平家びいきであった。
後鳥羽はほとんど軽率に鎌倉に屈したが、後白河は、なんのかのと言われながら、死ぬまでよく粘った。『梁塵秘抄』を手ずから遺してくれた。その歌謡も口伝も卓越した面白さと価値とをもっている。『年中行事絵巻』を遺してくれた。なみなみの資料ではない。確証こそないが、平家語りによる大時代の戦後証言のために、大袈裟にいえば国民文藝ないし国民藝能といえる規模の土台を、それとなく用意して逝ったのも後白河院であった気が、わたしには、している。唱歌・謳歌という技の道にあって、源藤二氏の郢曲を統べ、いわば中世的な家元としての自覚をもった帝王。渾身の頑張りで古代の王政を維持しようと努めたあげく、さながらに中世を手招き、古代の幕引きをしたような帝王。
そのような後白河勅撰のゆえに、『千載和歌集』は、いかにもいかにも懐かしく思われるというのが、一作家としての、贔屓の引き倒しなのである。
歌謡の『梁塵秘抄』は手ずから編んだが、『千載和歌集』は藤原俊成に撰を命じたというのが、おもしろい。後白河という御一人は、じつに歌人という藝術家であるよりも、身ははるかに強烈に、ひとりの歌手でありたいと覚悟をきわめた、藝能の人であった。そういう帝王の意を、ただ遠巻きに迎えるだけでなく、まさに藝能人の公家たちが、太政大臣師長といい、接察使大納言資賢といい、少納言入道信西といい、さらには資賢の子の天才児資時といい、信じられないほど大勢、宮廷社会に実在した。それがこの時代のつまり「今様」であった。西行法師の血族にも、さぐって行くと意外にそんな「今様」世界との接点が見えて興味深いのであるが、じつは千載撰者の俊成の血潮にも、そういう今様に色濃く馴染んだ素質が、混じっていたようだ。母方の血筋には、今様に身を捨てたような風狂・瘋癲の公家がいたし、父俊忠にしても優にひとりの今様人であった。そういえば俊成の身辺には、あの建礼門院右京大夫の母で、宮廷社会に遊藝の師匠として名高かった夕霧という女がいて、彼との仲にも或いは男子を成していたかに推察されている。夕霧は、わたしなど文士の興味をしきりにそそる藝能・音楽のよほど達者な美女であった。
俊成は、もともと政治的に旗幟鮮明であることを嫌った人であった。嫌ったにはわけが有ったはずだが、どんなに慎重に避けてみても、一つまちがえば足元をすくわれてしまう人がらみからは、容易にのがれられなかった。親族の女から平家の公達も生まれていたし、その平家へ謀反を企てる公家筋へも嫁がせていた。建春門院に仕えた女もいたし、平家追討に決起した王家とも縁があった。溯れば保元の乱のもつれた人渦のなかでも、俊成の一家は微妙に足をとられかけていた。父鳥羽天皇から叔父子と忌まれたのちの讃岐院・崇徳天皇の受胎や誕生を、母璋子藤原氏の名とともに、ものに憑られ月明を浴びて後宮のどまんなかで声高に予言した女人は、鳥羽天皇の最側近であり天皇の父堀河天皇とは乳母子の間柄にあったような讃岐典侍、長子藤原氏であった。父顕綱には甥、敦家の子の敦兼の義妹として長子は鳥羽側近の人となっていた。この『讃岐典侍日記』の著者である女人こそ、あるいは俊成卿の生母かと説く人もある。反対する人もある。ともあれ俊成母が「敦家女」であるとされる以上、長子はごく近親であった。長子の血筋を溯れば、『かげろふ日記』の著者、大納言道綱の母にいたる。俊成の子の定家卿に、「紅旗征戎ハ吾事ニ非ズ」と日記に書き込ませた因縁は、遠く深く錯綜していたのだと遥かに想像される。
定家という人物は嫌いではないが、不思議にと言うより、たわいなく、わたしは俊成という老人がはなから好きであった。人格者だと思ってきたのでは、ない。色好みであったろう、なかなかの子沢山であり、しかもいい妻に恵まれ、家の主として巧みに舵をとった。けっこう世智がらく、時代を前へ前へ読んでいた。跡取りにも才ある娘や孫娘にも恵まれ、官職にこそそう恵まれなかったものの、世の尊敬は深く受け、長命し、危うい時世に危うい家門をただ守るだけでなく、栄えあるものへ土台も張った。辛辣な論客であり、温厚という以上に情勢判断にたけた批評家であった。編集の才があり、秀歌撰に模範的な冴えと集中力とをみせ、子の定家の和歌開眼にじつに有効な道をつけた。一筋縄でゆかない風貌は、梅枝に似て癖のつよい、しかし何とも魅力ある、息子の定家流よりも魅力ある無類の書跡に重ねて、彷彿とする。歌学において対立する相手には、容易に譲らなかったが、西行のような親しい人とは、適宜に、しかし決して過度に陥ることなく腹を割った付き合いが出来た。和歌の実力を巧みに世渡りの舟とし舵ともし、時に身を守る盾とも用い得てほぼ誤まらなかった。印象で言うことであるけれども、これほど、多くの子女を世間にうまく放ち、親の、糸ならぬ意図と判断とで大過なく操った家長は少ないのではないか。そういう辺りにも、この人物の「今様」をつかむ嘆覚が利いていた気がしてならない。
ちいさい頃、昨今のとはだいぶ趣のちがう絵札で百人一首のかるたを楽しんだが、俊成のそれでは、彼は、かぶさるように火桶を両手両足で抱きかかえていた。こういう格好で俊成という歌人は人を遠ざけ、歌をよむのにいつも苦心惨澹したのだと、ものの本などで知ったのも比較的幼かった昔であるが、わたしにはそんな格好がすこし剽げてみえて、歌人というよりも連歌師か俳諧師かのように思えた。都落ちのまぎわに、師のもとへ馬の首をめぐらせて、勅撰の栄誉をえたいと自作の和歌を届けたという薩摩守忠度も、まさかにこう行儀のわるい俊成卿の格好は想像出来なかったろうなと、余計なことも思っておかしがっていた。定家卿とちがい、五条の三位俊成には、こういう知られた逸話的場面とともに、何としても源平盛衰の時代背景が生きてまつわり思い出になっている。そこが魅力であり、やはり、そこが彼の撰した『千載和歌集』の隠し味ともなって来る。そのいわゆる清新の魅力と、源平のあの大騒ぎとは、ハテ、どう重なるのか、と。
「女文化」と謂われていい文化が少なくとも『古今和歌集』いらい二百何十年か続いていた。ちょうどその女文化が最初の終末期にさしかかっていたのが、十二世紀前半であった。いろいろな徴候が見えていた。行成流の優美な女手が、まさしく俊成・定家父子にみるような、個性溢れるしかも実務的な書、美よりも正しく意義を伝える学藝的な書、新しい男手へと動いていた。彩色を主とした源氏物語絵巻ふうの女絵は、急速に線的敏感に支えられた男絵へと動いていた。十二単の男版のような大鎧・大兜や武具・馬具の華麗さも、平家の没落とともにいわば女文化の死装束と化そうとしていた。都の外に地方都市的な芽生えも見え、なによりも公家と都との政権に武家の揺さぶりは致命的に働いていた。家学・家藝の実質はもはや古代型の「女文化」では維持しきれなくなっていた。法然以下の新祖師たちの活動にしても、命がけの革新であった。もし力ある女ならば、政子北条氏のように男まさりになって働いた。優美な古代の「花」は、方法と方角とを求めて力づよく時代を奏でる「風」に、ともあれいっとき散り果てようとしていた。『千載和歌集』は、そのいわば散りぎわの潔さと、新風への期待とを、じつに平静に歌っていたように思われ、それなりの今様を響かせたものと思われる。
(はた こうへい・作家、東京工業大学教授)
(一九九三年四月 新 日本古典文学大系 第10巻月報)
2009 6・8 93

☆ 命名しました。 創
秦先生
2人目の名前をようやく決める事が出来ました。
珠乃(たまの)
としました。
結婚式にて、先生にいただいた言葉をつけることとしました。
今後とも、ともどもよろしくお願いします。

* 佳き命名なり。  秦 恒平
壽  天地(あめつち)のいのち耀(かがよ)ふ珠乃とぞふたりの親は掌(て)に受けつらむ   湖
2009 6・10 93

* どういう番組であったか知らない、途中から、寺山修司についてのやや纏まった感じのテレビ映像を見ていた。親切に寺山を語っていて気持ちよかった。
そのとき、妻が、ふと口を挟んだ。
寺山修司といえば、生前に或る事件を起こしてマスコミがワイワイ取り上げてたでしょう、と。
確かにそういうことがあった。
けれど、いまこの番組では、そんなことには全然触れないでしょう、と。
それが、この今は亡き優れた創作者・藝術家への、自然で当然な敬意の表現、親愛の表現というものなのよね、と。
その通り。
寺山修司にもじつはこんな事件があったと、あれもあったこれもあったと取り上げるのが「正当な批評的紹介」だろうか、違うのである。
高村光太郎に対し礼を欠いた「ペン電子文藝館」のセンスなど、人間味を著しく欠いた非文学的な行為とやはり咎めずにおれない。
2009 6・10 93

* 今日は、わたしの「e-文藝館=湖(umi)」から、とびきりの「詩集」をお薦めする。

■ わがひとに与ふる哀歌 伊東静雄  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集室

いとう しずお 詩人 1906.12.10 – 1953.3.12 長崎県諫早市に生まれる。ヘルダーリンの決定的な感化をうけて詩作をはじめ、生涯を篤実な学校教師として送りながら、優れた詩才を「わがひとに与ふる哀歌」「夏花」「春のいそぎ」「反響」の四詩集と以後拾遺詩稿に遺し、ながく深く愛惜された。 掲載作は、保田与重郎の尽力で出た自選自編の処女詩集の全編で、詩人二十九歳。昭和十年(1935)十月五日「コギト発行所」刊、A5版72頁。萩原朔太郎は逸早く「日本に尚独りの詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望をおぼえた」と称讃。 (秦 恒平)
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* 詩とは、と、考えこむことがある。
わたし、昔は、和歌や短歌や、俳句でも、好んで読んだけれど、日本の現代詩だけは定評豊かな人と作のほか、めったに読まなかった。
大人になって、進んで近づくようになった。
いま、わたしは詩人と目されまた自認している知人を何人も持っている。
それでも、本当に好きな詩、優れた詩人に出逢うことは多くはない。詩人といいながら、短歌や俳句を読んだことがないという人とも出会った。もっとも小説家でも歌人でも評論家でも、みな事情は同じであるが。
伊東静雄のこれらの詩に接したとき、ほんとうに佳い味わいの空気を深々と呼吸した気がしたのを覚えている。

* 久々に「mixi」に復帰し、「e-文藝館=湖(umi)」からの推奨作を少しずつ具体的に紹介して行くことにした。
2009 6・13 93

* わたしの撰と作業で「e-文藝館=湖(umi)」に、「ペン電子文藝館」に掲載し発信したいわゆる「詩・選」「詩・抄」は数多い。
「短歌」「俳句」を含めれば、数え切れないほど優れた人と作とを撰抄し撰集してきた。島崎藤村、与謝野晶子、伊藤左千夫、長塚節、北原白秋、萩原朔太郎、宮沢賢治、若山牧水、前田夕暮、中原中也、伊東静雄等々、この何倍もある。
現在の「ペン電子文藝館」の関係者は、それらと、かの「戦争讃美・戦争荷担」をぶちまき、詩人自身が後に悔い恥じた「詩や文」を主にした「高村光太郎作品・抄」の貧寒かつ鑑賞力を欠いた選びようとを、比較されるがいい。わたしの力を誇るのではない、現在の「ペン電子文藝館」運営の見識の低さと荒れとをただ歎くのである。シッカリしてくれと呵るのである。

* 言うまでもない「ペン電子文藝館」とわたしとは無関係ではない。
わたしはペンの一会員であり、自分も作品を何編も提出している。
また一理事としての責任もある。
さらに創設者、前館長としての責任も決して小さくないから、そしてこれが「公的な仕事」だから言うのである、これはまったく私事ではない。
誰よりも読者に対し「責任」がある。
2009 6・16 93

☆ 湖へ  珠
お元気ですか。ご無沙汰しました。
心身共にきつい春を過ごし、ようやく一息ついています。
澱のように積もった疲れもゆっくりですが日々に流し、我が身の感覚を取り戻しています。文字を読むゆとりの戻り始めた頃に、記念なる「湖の本」第九九巻をお送り頂き、大変嬉しくページをめくり始めました。
七月最初、施餓鬼供養で帰郷して、あとは、三年前と同じように、泉鏡花の二作品を愉しみに、鏡花を読んで過ごす月になる予定です。
この縁の糸、爪弾いてみたい。
雨に風、めまぐるしく変わる天候にはくれぐれも気をつけて。お大事に。
ご本の御礼まで。

* 雨中郭公といへる心をよみ侍りける  按察使資賢 (千載集)
をちかへり濡るとも来なけほとゝぎすいまいくかかはさみだれの空
2009 6・23 93

☆ お元気ですか  鳶
届いた『濯鱗清流』上巻の記述は1998年から2000年にかけて二年間のもの。あれからほぼ十年、歳月を感慨深く振り返りました。二千年から現在に至るまでの文学作法を編めば、それもまたさらに膨大なものになります。改めて凝縮した形に纏めるとしても、それも大変な作業になる・・。
覚悟して、健康に留意されて、頑張ってと、切に思います。
先日の俊成女の話から『無名草子』を取り出して,やっと読み終えました。久しぶりの古典でした。
少し梅雨らしい空模様になり、一昨日など夕方強い雨が降ったとき折悪しく自転車で走っていて、ずぶ濡れになりました。濡れ鴉ならぬ濡れ鳶。目を開けていられない降りでしたが雨宿りするような軒先もなく、周囲は田畑で、ずぶ濡れになるのが気持ちよかったとはやせ我慢も半分ですが、潔かったです。
夏になるといっそう行動は鈍りそうで、今から暑さを嘆きます。
イラン、アフガニスタン、パキスタン、いずれもいずれも現在不穏な情勢にあります。イラクも再び自爆テロが起きています。思い入れ深く、日々重大な関心をもって過ごしています。
以前少し書いたことがありますが、紹介されて神戸の詩の集まりに数回出かけました。
真正面から詩作に向き合ってこなかった、と痛感させられることもありました。現在の詩人たちの作品も動向もほとんど知らなかったことも、思い知らされました。長い時間、文学にまともに関わってきた人たちの博学も自信も尊敬します。同時に不遜に近いかもしれませんが、わたしはわたし以上にはなれないのだとも打ちのめされました。真率向かい合う気持ちはあります。が、詩に命を賭ける覚悟如何、と問われれば、弱いわたしには答えようがありません。また、わたしが書くものが果たして詩の形なのかどうかも疑問だとも指摘されました。
改めて書いたものを読み直して、この二日ほど、全否定したいほどの気持ちに襲われています。
どうしたらよいものやら。わたし以外にはなれない思いと全否定したいほどの痛さとの相反したものを抱えて無力感に陥っている鳶です。

* 鳶は、どこかで甘えていますね。決めるべきは自分で決めるのです。
詩のために仲間で集まっている人たちの共同幻想に怯えることも気にすることもありません。一人で沈潜すればいいものを、仲間で浮かれて詩境を平均化させてしまうか、わるく興奮して脱線してしまうか、いわゆる「詩誌」で読む詩にたいしたたモノの無いのが相場です。わたしはたくさん詩誌を貰いますし目を通していますが。
むしろ孤独に詩と向きあって、うまずたゆまず沈潜し鍛錬している人の詩語の美しさに打たれることが、ママあります。短歌も俳句も同じですね。
鳶は、自分を全否定どころか、自信を持って一度自分の詩を「全肯定」したところから敢然と立ち、そこで厳しく孤独に自己批評の刃を磨くべきなのです。全詩集のようなコトを考えるならなおさらです。
しかし、美意識に磨き抜かれた美しく凝縮された「主題のある詩集」を何冊かつくるのが、出来れば同時につくるのが、いい気がしますけれど。
しかしそれは自分で血を流すほど考えて決めて下さい。誰にも口を出させないという覚悟で、悔いなく爆発を。噴火を。 鴉
2009 6・25 93

* そんな風にして、都合十四冊もの本に読み耽ってから、やっと電灯を消した。夢をいろいろ見たと思うが、影も形も思い出せぬ。
起きて一番に、「安良多麻」主宰奥田杏牛さんの、亡くなった道子夫人遺句集『さくら』を、「e-文藝館=湖(umi)」のために書き興した。むろん夫君のお許しが得てある。すばらしい句、句に感動し、ぜひにとお願いした。杏牛さんは句誌編輯の「穴埋め」に強いて創らせていたと夫君は云われるが、とても、そんなモノではない。純然かつ清麗、胸を打つ。
2009 6・28 93

* たまたま人にもらった雑誌「短歌往来」の巻頭に米川千嘉子さんの「はばたくと」と総題した作が出ていた。

はばたくと思(も)ふまで牡丹花は白く若田光一さん宙(そら)にゐる夜

ほんとうははばたいたりはしないものだが、はばたいているかと見えるほどめざましくも牡丹の花は白く。そういうことか。「はばたくと思(も)ふまで」とは拙ではあるまいか。「思ふ」を「もふ」と読むのはよほどの一時凌ぎであり、それほどの必然がこの歌にあるのか。字余りに読んでけしからんという理由も見当たらない、「観ゆるまで」としてもおかしくはない。「はばたくとおもふまで牡丹の花は白く」と字余りにしても、この作者ならくわしいはずの「和歌」の調べから逸れるモノではない。「はばたくともふまでぼたんかはしろく」よりも、「はばたくとおもふまでぼたんのはなはしろく」のほうが、よほど日本語の調べは美しい。短歌も和歌も「うた」という「詩」である。
さらに下の句は、歌人のひとりよがりで、ほとんどなにごとの「表現」にもなりえていない。「若田光一さん」はいわば知識の強要であり「詩化」できていない。ただ「わかたこういちさんそらにゐるよる」は、「うた」声らしきをひびかせてはいる。だが、前三句の鈍をなんら補いも支えもできていない。

時とひかり澄めるきれいな名前もち若田光一さんは宇宙に

判じ物のようだが「若」いという「時」の言い換えと、「光」の字とに托した上半分をこの歌人は「表現」と心得ているのか。
「若」いという字は「苦」しい意味に似ていると歎いた歌謡の言葉を昔聴いたが、それに比べ、じつに軽薄な観念の呈示で、失笑する。
もしこんなレベルの「小説」を文藝誌にもちこんだら、むかしの、良くできた畏怖に値する編集者なら、もう一度読み直していらっしゃいとあっさり突き返しただろう。あるいはボツにしたろう。ダメなものは書き直しを命じられる。あるいは受け取ってもらえない。それが作者(牛若)と編集者(弁慶)とが「合作」の文藝の難所であった。
ところが、短歌誌などでは、こんなものが出てきても作者をゆるし顔を立てて、「巻頭作品」として黙って受け取るのか。読者に読ませるのか。
わたしには解せない。「編集不在」でいいのか。済ますのか。

* だいたい、歌人は(と限っておくが)乱作しすぎ、数を惜しんで、自己批評し淘汰する潔癖も能力ももたないかのように思われる。
その証拠に、一冊の歌集にミソもクソも押し込んだ例が多すぎないか。
のちのちに自選の本の出ることがある。それなら、歌集を出す段階で、もっと潔癖に自選しておいたらと、読む方はいつも思っている。
それでもわたしは親切にだれからの本もよく読んでいる。
2009 6・29 93

 

述懐 平成二十一年七月

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ  前田夕暮

夜の向日葵踊り果てたるごとく立つ   宮津昭彦

天の川を越ゑてやす香のケイタイに文月の文を書きおくらばや   遠

花火かな いづれは死ぬる身なれども      湖
2009 7・1 94

* 与謝野晶子の人気は、いまも現代の女流の大勢を圧倒している。その人気を支える基盤は、現代の、老若を超えた女性自身であるように見受ける。
わたしが晶子の歌にふれたのは高校の教科書より以前に、書店で立ち読みの『乱れ髪』であった。そのころもうわたしは歌をつくるのに熱心だった。晶子の短歌には惹かれなかった。つよく惹かれたのは若山牧水であり、斎藤茂吉であり、北原白秋であった。茂吉自選歌集『朝の蛍』はわたしが古本屋の立ち読みから、あえてお金を支払って買った「宝物」であった。
それでもわたしは与謝野晶子の大いさを閑却したのではない。なによりも晶子訳の源氏物語はわたしの文学生涯の扉をひらいた巨きな動機を成した。
成人してからも晶子をわたしは閑却しなかった。後期の晶子短歌をわたしは愛唱した。
だが、ここではあえて晶子自選の三千首から、とくに明治期の自選歌にしぼり、さらにわたしの好みで抄した歌集を、自信を持って推奨したい。

■ 自選・与謝野晶子明治期短歌集  招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 詞華集
よさの あきこ。 歌人。1878?1942。大阪府堺市に生まれる。生涯の作歌は、『乱れ髪』(明治34年刊行)以降五万首をこえている。ここに取り上げる『与謝野晶子歌集』は、昭和九年までの「全歌集」から晶子の自撰した約三千首で成っていて、昭和十三年(1938)年に刊行された。あえて其処から「明治期自撰短歌」をとりあげ、編輯者がさらに選抄した。  (秦 恒平)
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2009 7・4 94

* もしわたしが短歌や和歌を日頃も読まない、まして善さが分からないなら、わたしが短歌選や和歌選をしたりすれば僭越になる。失礼になる。幸い、わたしは現代短歌も古代和歌も好んで読む。たくさん読む。幼時から小倉百人一首を、かるた遊びのツールとしてでなく、読んで意味をさぐり面白がって読んだ。国民学校の四年生から短歌を作った。高校時代は生真面目に熱中し、その頃の歌が歌集『少年』に結実し、岡井隆さんはその歌集から選んで、二度も、『昭和百人一首』に選して下さっている。
朝日新聞の短歌欄に、外部から「時評」を依頼されたわたしは、トップバッターであった。短歌に関する講演も座談会も何度もしている。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』など鑑賞の詞華集はヒットした。わたしの短歌選は、それなりに信用してもらえると思っている。今日推奨する、伊藤左千夫の短歌選抄も、一心こめてした。
もとより「選」や「抄」の問題を超えて、伊藤左千夫は優れた歌人であった。子規門で長塚節と並び称することが多いが、わたしは「人間」としても左千夫が好き、彼の小説も大好きである。自分より年若い子規子の前に敬虔に心服し、生涯姿勢を変えなかった。無骨な人となりの内心は熱く燃え、ときにめめしいまで情愛にもろくもあった。

■ 伊藤左千夫短歌抄  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集
いとうさちお  歌人・小説家  1864.8.18 – 1913.7.30 千葉県成東町殿台に生まれる。 年少の師正岡子規に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師の命脈をしかと手渡した。「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。  掲載作は、生涯の歌作から前半をまばらに、晩年を密に、秦恒平 (前・ペン電子文藝館長)が撰抄した。 (秦 恒平)
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2009 7・7 94

* 昨日、大阪の眉村卓さんから、句集『霧を行く』を戴いた。氏はSF作家でペンの副会長。
そこは句集や歌集の特色といえようか、まずざっと拾い読んでいっても、よく分かる。佳い句境が、年を追って多彩に的確に表現されていてわたしは感じ入った。
専門の俳人ではない小説家の、といっても句歴は久しい。俳人と名乗られていないぶん、自在の境涯が、語や句の斡旋にときに目映く、時に異色に生きてくる。それが有り難い。感謝。
2009 7・26 94

☆ 昨日は、やす香に  光琳
会いに行ってきました。
やっぱり二十五日にはお喋りしたくなります。
周りには小さな笹が一杯でした。
ドクダミが沢山顔を出していて、なんだかあまり好きではないので勝手に草むしりしてしまいました。
夏なのでお花は向日葵です。
そしてもちろんヴォルビックも!
実はしつこく今日も行くのです。仲良しグループみんなでやす香に会いに行きます。
おじい様のお膝、いかがでしょうか。
おじい様の事ですもの、きっと紳士の痩せ我慢で乗り切られるのでしょうが。。。
おばあ様に優しく優しく介護していただき、早く回復なさって下さいませ。
では、今日も行ってまいります。

* ありがとう。やす香、さぞさぞ喜ぶことでしょう。ありがとう。
明日命日。祖父母は、娘も行幸もいっしょに心静かに、なごやかな墓参が出来ればなあと願っています。やす香もきっとそう願っていると想います。

* 笑ふのが大好きであつたやす香
ま光のまなか
草むす夏に蒼天を揺すつて笑つてくれ
2009 7・26 94

* 六時起き。血糖値、110。

* わたしの怪我は漸く癒えて来ています、歩行に不都合なくなっています。心配かけました。
わたしの日々は、いやもおうもなく今日明日から近未来への不快を気力で凌ぎながら、懸命に仕事(稼ぎ仕事ではありません。)と読書と楽しみを創造することです。「いま・ここ」を生きて行くだけで、振り返る過去は、自筆年譜や、鱗をあらう清流へ流し去ってしまいました。良くてもあしくても、生活は「いま・ここ」の建立以外にありません。楽しもう、としています、どんなに不愉快な日々でも。

* 孫やす香の姿が見えなくなって、満三年。母親は、今日で四十九歳。いつも赤飯で祝っていたが。

やす香四歳           やす香 カリタス高校三年生

* おじいやんと呼びて見上げて腕組みてはげましくれし幼なやす香ぞ

* おじいやんはケイタイ嫌ひですかと問ひながら目をほそくほそく笑まひしやす香

* やすかれ やす香 生きよ 永遠(とは)に
2009 7・27 94

* 黒きマゴの我の湯槽で湯を飲めるただそれだけが嬉しくて笑ふ  遠

* その辺をひっくり返していたらこんな歌メモが出てきた。バカみたいだが、実感。いつの歌だろう、日付がない。
2009 7・31 94

述懐 平成二十一年八月

向日葵の大声で立つ枯れて尚   秋元不死男

まんまるな思ひの中にゐたいので机上のメロンいつまでも置く   高野佐苗

生きているが 死んでいるのかもしれぬので
うまいもの食わせよと妻に命じる   奥野秀樹

死ぬるときを夢と忘れてきんいろの蝶舞ひゐたりみ墓めぐりに   遠

2000.5月 スペイン ブルゴス東南 サン・ドミンゴ・シロス修道院
2009 8・1 95

* 昨秋来、ずうっと愛してきた讃岐の岡部さんに贈られた吾亦紅の花、まだ十数顆のこって、造花の黄の小菊と絶妙のバランスで目を楽しませて呉れていたが、七月末で、残り惜しいが御用納めとした。
代わって妻が庭の秋海棠の花を翠の葉もろとも民藝ふうの小壺に挿したのが、佳い。

* 海棠の雨露をふくめるごとき人  と想いつき、さて、そういう「美人」は誰か知らんとさっきも妻と云いあったが、出てこない。
「御宿かはせみ」の女将・類を演じていた澤口靖子か、いまお茶「伊右衛門」のコマーシャルをしている宮澤りえか、などと、わたしは。
七十余年を顧みて、そんな風情の美しい人をそうは覚えていない。ひとりは小学校五、六年の教室にいた引き揚げの少女、そして高校一年のとき、「窓によりてふみ読むきみがまなざしのふとわれに来うるみがちなる」と幻想した同級生、しか思いうかばない。
2009 8・2 95

* 広末保氏の「芭蕉」をジリジリと半ばまで毎晩読んできた。ずいぶん芭蕉を教えられた。これまで、ごく常識的にだけしか芭蕉に触れて行かなかったが。今は取り組むように読んでいる。
2009 8・23 95

述懐 平成二十一年九月

死ねば野分生きてゐしかば争へり   加藤楸邨

とことはにあはれあはれはつくすとも
心にかなふものかいのちは    和泉式部

なにごとも「馬耳東風」と言う人に、
秋かぜや不称念仏馬の耳        遠
2009 9・1 96

* 広末保氏の『芭蕉』は、議論がかなり重い。俳諧を「詩」ととらえて詩論が展開されている。詩は詩だけでもむずかしい、詩論はもっとややこしく、時に議論のための議論のようであることが多い。しかも論じてわかる詩は少なく、或いは無く、感じて感じて溶け合ってゆかねばならない。違いますか。
2009 9・8 96

* 死の三年ばかり前、芥川は『芭蕉雑記』を書いていて、これに共鳴する。
悠々としかも端的に芭蕉の真髄に目も胸も開いている。引いている芭蕉の句もすばらしい。
「六 俗語」には、「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」を、「悉俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しみに溢れてゐる」と読んでいる。
「命なりわづかの笠の下涼み」「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」を引いている。
「七、八 耳」には、「夏の月御油より出でて赤坂や」「年の市線香買ひに出でばやな」「秋ふかき隣は何をする人ぞ」と。
さらに「春雨や蓬をのばす草の道」「無性さやかき起されし春の雨」とも。
芭蕉、耳のよさよ。
2009 9・29 96

* いつ始めたことか、生母阿部鏡(深田ふく)の遺した歌文集『わが旅大和路のうた』から、短歌を、すべて書き出し終えた。二百二十首ちかく有る。誤記もあり、仮名遣いにも文法にも語法にもやや不確かさの見えるのを、修訂のきく限り修訂した。
文章分は、すべてスキヤンし校正するしかない。きちんとしておけば、いつか、朝日子にも建日子にも、また北澤家の三人きょうだいにも役立つことが有ろう。
かなりつらい「追求」でもあった。
「階級を生き直したような生涯」と亡き兄はこの母を語っていた。生き方はちがうけれども「櫻姫東文章」のように、お姫様育ちの母が、子という子をみな振り捨てまた奪われ、四十代半ばから日本初の保健婦資格を大阪でえて、奈良県、京都府で地に這うように心身を削って働き、しかも奇禍に遭って死の床につき、死んでいった。
言語に尽くせない生涯だったとはこの一冊におおよそ書き継がれている、死ぬる日まで。
2009 9・29 96

述懐 平成二十一年十月

遺品あり岩波文庫『阿部一族』    鈴木六林男

わが撃ちし鳥は拾わで帰るなり
もはや飛ばざるものは妬まぬ      寺山修司

あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるとき
いのちましぶきわれにみごもれ     湖

小野竹喬・画  みごもりの湖
2009 10・1 97

* あれこれしていたが、此処へ書くほどでない。終日、雨。街へ出たのが昨日でよかった。

* 生母「阿部鏡」(筆名)の、母が自身「日記」と呼んでいた歌文集『わが旅 大和路のうた』のうち、散文部分をのぞく「短歌抄」を、「e-文藝館=湖 (umi)」に入れた。なぜか「著者別」索引「あ」行でしか出ない。作業手順を間違えているらしい。著者別「あ」行でなら、問題なく読める。この祖母になみなみでない関心を寄せていたわれわれの娘のためにも、「散文」部分もはやく整備し、「短歌集」と併せて復元しておきたいと思うが、これまた並大抵の作業で済まないだろう。歌はそれなりにそこで表現が完結しているが、散文の場合、思い込みも性格も反映し、まして重い死病の床での作業らしく、背景も状況も理解できないところがたくさん有る。調べて歩こうにも、もうわたしにはその元気がない。
2009 10・2 97

* 今月述懐の歌の、「ましぶき」は、もしや「まぶしき」かと聞かれた。「真・飛沫き」です。性的なエレクトと同義にとられてもかまわない。この歌で真向かうのは、天か、地か。
2009 10・3 97

* どんなことをして心をやっているか。いろいろある中に、こんな唱歌の歌詞を書き写して楽しんでもいる。こういう歌詞を通して沢山言葉を覚え、言葉の向こうの世界に溶け込んでいた。懐かしい人、多かろう。国策の加味された唱歌や、他国へ攻め込んでいる歌は覚えていたくない。書き写してある分を、披露します。

☆ わたしのなつかしい唱歌

あおげば尊し

一 あおげば とうとし わが師の恩。
教の庭にも、はや いくとせ。
おもえば いと疾(と)し、このとし月。
今こそ わかれめ、いざさらば。

二 互にむつみし、日ごろの恩。
わかるる後にも、やよ わするな。
身を立て 名をあげ、やよ はげめよ。
いまこそ わかれめ、いざさらば。

三 朝ゆう なれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするる まぞなき、ゆく年月。
今こそ わかれめ、いざさらば。   小学唱歌集三 明治17 ・3
四季の月

一 さきにおう、やまのさくらの、
花のうえに、霞みていでし、
はるのよの月。

二 雨すぎし、庭の草葉の、
つゆのうえに、しばしは やどる、
夏の夜の月。

三 みるひとの、こころごころに、
まかせおきて、高嶺にすめる、
あきのよの月。

四 水鳥の、声も身にしむ、
いけの面(おも)に、さながら こおる、
冬のよの月。 小学唱歌集三 明治17 ・3

庭の千草   里見 義

一 庭の千草も、むしのねも、
かれて さびしく、なりにけり。
ああ しらぎく、嗚呼 白菊。
ひとり おくれて、さきにけり。

二 露にたわむや、菊の花。
しもに、おごるや、きくの花。
ああ あわれあわれ、ああ 白菊。
人のみさおも、かくてこそ。 小学唱歌集三 明治17 ・3

紀元節    高崎 正風

一 雲に聳ゆる高千穂の、高根おろしに、草も木も、
なびきふしけむ大御代を、あおぐきょうこそ、たのしけれ。

二 海原なせる埴安の、池のおもより猶ひろき、
めぐみの波に浴みし世を、あおぐきょうこそ、たのしけれ。

三 天つひつぎの高みくら、千代よろずよに動きなき、
もとい定めしそのかみを、仰ぐきょうこそ、楽しけれ。

四 空にかがやく日のもとの、よろずの国にたぐいなき、
国のみはしらたてし世を、仰ぐきょうこそ、楽しけれ。 『紀元節の歌』明治21・2

故郷の空   大和田 建樹

夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(はらから たれと遊ぶ   『明治唱歌(一)』明21・5

旅泊   大和田 建樹

磯の火ほそりて 更くる夜半に
岩うつ波音 ひとりたかし
かかれる友舟 ひとは寝たり
たれにか かたらん 旅の心

月影かくれて からす啼きぬ
年なす長夜も あけにちかし
おきよや舟人 おちの山に
横雲なびきて 今日も のどか   明治唱歌三 明治22・6

埴生の宿   里見 義

一 埴生の宿も、わが宿、
玉のよそい、うらやまじ。
のどかなりや、春のそら、
花はあるじ、鳥は友。
オーわがやどよ、たのしとも、たのもしや。

二 ふみよむ窓も、わがまど、
瑠璃の床も、うらやまじ。
きよらなりや、秋の夜半、
月はあるじ、むしは友。
オーわが窓よ、たのしとも、たのもしや。  中等唱歌集 明治22・12

元寇   永井 建子

一 四百余洲を挙る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す

二 多多良浜辺の戎夷(えみし) そは何蒙古勢
倣慢無礼もの 倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
ここぞ国のため 日本刀を試し見ん

三 こころ筑紫の海に 浪おし分て往く
ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし

四 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人(みたり)
いつしか雲はれて 玄海灘月清し 「音楽雑誌」19号 明治25・4

うさぎ

うさぎ うさぎ
なにを見てはねる
十五夜 お月さま
見てはねる   小学唱歌二 明治25・6

一月一日   千家 尊幅

一 年の始めの 例(ためし)とて、
終なき世の めでたさを、
松竹たてて、門(かど)ごとに、
祝う今日こそ 楽しけれ。

二 初日のひかり さしいでて、
四方(よも)に輝く 今朝の空、
君がみかげに 比(たぐ)へつつ
仰ぎ見るこそ 尊とけれ。    官報第三○三七号附録 明治26・8
港   旗野 十一郎(たりひこ)

一 空も港も夜ははれて、
月に数ます船のかげ。
端艇(はしけ)のかよいにぎやかに、
よせくる波も黄金(こがね)なり。

二 林なしたる檣(ほばしら)に
花と見まごう船旗章(ふなじるし)。
積荷の歌のにぎわいて、
港はいつも春なれや。   新編教育唱歌集三 明治29・5

夏は来ぬ   佐佐木 信綱

一 うの花のにおう垣根に、時鳥
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ。

二 さみだれのそそぐ山田に、賎の女(しづのめ)が
裳裾ぬらして、玉苗ううる 夏は来ぬ。

三 橘のかおるのきばの窓近く
蛍とびかい、おこたり諫むる 夏は来ぬ。

四 楝(あうち)ちる川べの宿の門(かど)遠く、
水鶏(くいな)声して、夕月すずしき 夏は来ぬ。

五 さつきやみ、蛍とびかい、水鶏なき、
卯の花咲きて、早苗うえわたす 夏は来ぬ。 新編教育唱歌集五 明治29・5
2009 10・5 97

* 愛知県高浜市の詩人に、『鈴木孝 詩 作品集』を頂戴した。ペンの会員で、同世代。出来たばかりの美しい大冊で、箱入り、四つの詩集『まつわり』1957 『nadaの乳房』1960 『あるのうた』1971 『泥の光』2000 が合冊してある。
詩人畢生の思い入れが、なお新たな「これから」を促し、堂々と起ち上がっている。
2009 10・13 97

* 高木さんのそれぞれに豊富な詩集『やさしい濾過』『シチリア』二冊分を、ひとまず「e-文藝館=湖(umi)」に入れた。何冊分もの詩集を預かっているはるか昔からの、優れた寄稿者。
掲載の仕方など統一してかからねばならない。「e-文藝館=湖(umi)」にも、初期と本期とで載せ方や紹介の仕方が異なるのを少しずつ統一している。まだまだ手がかかる。
2009 10・20 97

☆ 秋晴れ  播磨の鳶
『凶器』の校正、いかがですか?
「さて何の用があって街をさすらうのでもない。漫然と空いた乗り物に乗り、窓外に移りゆく下町のわびしい景色を見るともなく観ながら、荷風を読み、そして池袋の書店で手に入れてきた、なんと、フローベールの「ボヴァリー夫人を読むのである・・京葉の一直線は往きも帰るもごく散文的に静かであった。」情景、周囲の風景だけでなく、鴉の姿までも浮かんでくるように思われました。沼津からの出店という東京駅構内のお寿司屋さんも、静岡出身のわたしには瞬時に納得できましたよ。
『ボヴァリー夫人』は読むごとに、自分の年齢によって変化してきました。文学の力は凄いなと・・この形容詞がお嫌いなのはよく分かっていますが敢えて書きます。
今、ドビュッシーのピアノ曲を聞きながらメールを書いています。プレリュードなども網羅された5枚組のCDなので、何の曲か確認しないで唯々聞き流しています。時代の雰囲気、パリが醸し出す雰囲気が偲ばれ、華やかに微妙に情感に溢れ、心地よいです。
同時に、例えばアフガンの大統領の決戦投票が決まったこと、アフリカの旱魃など長く厳しいさまざまなことに思いいたります。
今日、明日は友達との約束もあり外出、あとは少し落ち着いて暮らします。
くれぐれもお体大切に、ご自愛ください。新型インフルエンザ、いつも心配です。

魔法

ヴェネチアで 人は魔法をかけられて
立ち尽くす影になる
街を徘徊する影になる
波に痙攣する影になる

張り巡らされた水路が 潮の干満を告げる
毛細血管に 沸騰した血液が流れる
水が流れるように 血が流れるように
人の暮らしや愛憎が流れる

逸楽を愛するのは 人という生きもの
ヴェネチアは ひっそり高らかに 唱和し礼賛する
マスケラ・仮面の下で 戯れに
曝された欲望は 人の本性を露わにする
析出され結晶化された その本性
しかし より明晰であること 冷酷でさえあることを
ヴェネチアは 知らしめる

心して生きよ 金星が空にある
心して生きよ 心して
ゴルドーニ劇場のポスターがちぎれている暗い小路
魔法を背に貼り付けて ひたすら歩く

* 詩は、わたしには、むかしから「むずかし」かった。
ゲーテは、「大体、詩人として何か抽象的なものを具象化しようとするのは私の流儀ではなかったよ」と云い、「ほかの人が私の作品を読んだり聞いたりするときに、私と同じ印象をうけられるように表現する以外に方法がなかったのさ」と云うている。
「しかしながら、私が詩人としてある理念を表現したいと思ったときには、はっきりした統一があって、しかもそれが一目で見渡せるような短い詩でそれを試みた」とも云う。
詩を書かないわたしには機微のところが難しい。
「知性には理解しやすくなる、それによって作品として良くなったとは、だが、いいたくないな」とも、ゲーテ。むずかしい。そして「つまり」と彼は云う、「文学作品は測り難ければ測り難いほど、知性で理解できなければ理解できないほど、それだけ優れた作品になるということだね」と。ウーン。
2009 10・21 97

* たまたま手にした青磁社通信20号表紙がかかげた、伊藤一彦氏の「秋」七首に目をとめ、よろこんだ。最近、すぐれた現代短歌に触れた覚えが無かった。読まない、見ないからではない。わたしの手もとには驚くほど歌集も歌誌も送られてきて、じつにこまめに目を通していてそう云うのであるが、伊藤さんのこの七首、ここに挙げないけれど、身に染み「秋」を覚えた。稀有のことと特筆しておく。

* 今朝は、元京大教授、元京都博物館長の興膳宏さんから、新刊の『杜甫』(岩波書店)を戴いた。中国の古典関連、また漢字関連の御本をこれまでも何冊も戴き、みな読んできた。「戦禍にあえぐ庶民を見つめ、僻遠の地の李白を憶う」と帯の文にある。やはり巻中に多くの詩の読めるのが嬉しい。
2009 10・30 97

述懐 平成二十一年十一月

花籠に月を入れて 漏らさじこれを
曇らさじと もつが大事な     室町小歌

露寒や凛々しきことは美しき   富安風生

あの月を捉へようとした馬鹿者を
むねの痛みに抱きしめてやる   湖

* 霜月。

* 今月のわたしの「述懐」歌は、どういう意味かと妻に聞かれた。「自分」のことだよと答えると、「分かった」と。

* よくは知らないが「捉月」は、太古来、人間の衝動として古今東西に在ったのではないか。猿でも、と、そのような画題の秀作を幾つか思い出せる。
「指月」もそうのようだが、わたしの子供の頃、そばにだれもいないとき、繰り返し懸命に背伸びまでして、じいっと月へ短い手を、指をさしのべたのをよく覚えている。満月にも弦月にも。時には、ひょいと縄をなげれば引っかけられそうに想った。
こんな掌説を書いたこともある。

若者は縄を投げるのが巧かった。縄を巧く投げたとて誰が褒めるわけでもなかった。若者はしょんぼり樹の下にうずくまった。腹も減っていた。夕闇が葉洩れに若者の上へ静かに落ちた。
春であった。
月影が淡く物憂くひろがって、遠い空はまだ薄紅の夕あかりであった。鳥が啼いて帰って行った。きれいな三日月であった。
腰の縄をまさぐりながら若者は夜空を見上げていた。人影が去り、杜かげが沈み、家々には灯がともった。裏山に風が鳴って木を揺すった。侘びしかった。帰るとても独りずまいの火のない藁屋だった。
若者は裏山へ上った。山は真暗だった。えいえいと声を出して上った。
峯の秀へよじのぼると、三日月がぐっと大きかった。樹々の梢が獣のように谷底に首をもたげていた。
若者は縄をつかみ、腰をひねって夜空へ飛ばした。
一筋の縄はひゅるるとうなりを生じ、高く高く星影を縫って発止と月を捉えた。三日月の輝く先端に食い入った縄を手繰りつつ、若者は力強く峯を蹴った。みごとな弧を描いて若者のからだは広大な空間に、一点の黒い影と化した。
三日月の真下に吊るされ、若者は縄一筋を頼みに宙を踏んでいた。
広い空。
しかし大地も広かった。若者は、見たことのない土地のすがたを月光を浴びながらはじめて知った。
壮烈に死のうと若者は思っていた。だが、暖かい春の夜空にぴたりと静止した今、何かしら香ぐわしくさえある宇宙のやすらぎに抗って、遥かの大地に我が身を叩き落とすのがふさわしからぬ事に思えた。
ままよと、若者は縄を揺すって上りはじめた。
烈しい渇きのような孤独が来ると、眼を閉じ、掌の感じだけを頼んで上りつづけた。聞こえるのは自分の息づかいばかりであった。高く高く、高く、もっと高くと若者は無二無三に上った。月は遠かった。
若者は幽かに縄の鳴るのを聞いた。
耳を澄ました。まぶしい月かげの中から確かに一つの影が縄づたいに近づいていた。滑るように影は奔ってきた。女だった。ひらひらと裾をひらいた女の姿は若者には一層まぶしかった。眉を寄せ、心もちはにかんで若者は縄の中途で女を待った。
月の世界とて退屈なものよと美しい女は物珍しげに若者の顔をのぞき見て言った、女は下界をゆかしく思うようであった。下まで行けはせぬと若者は眼をそむけて呟いた。
月の女とわかものは天と地の真中で縄によじれて顔を合わせた。何となくおかしく、また気の遠くなる世界の広さであった。
女は若者に戯れた。
若者は身をよじった。
ふくよかな肌が若者の顔や唇に触れた。二人は夢中で絡み合った。
月はいよいよ優しく照っていた。天涯にあまねく星の光が瞬き、地平遙かに春風はかすみとなってただよった。静かに、まどかに、縄一筋が銀色に光ってかすかに揺れた。天もなく、また地もなかった。
女と若者は抱き合ったままどちらからとなく心を協せてゆっくり、ゆっくり縄を揺すった。
ゆら、ゆらと、やがて次第に二人のからだは大きく、力強く、烈しく天地の間を火玉の如く奔りはじめた。二人だけの永遠が、風を切って確実に月光の中で時を刻みはじめた。

また、こんな掌説も書いたこともある。

遠い遠いあなた

逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。
あれから、もう千年経っているんですね。
昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。
わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。
いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵わたしは高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、遥かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ.:。

また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋がれてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。
牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされても、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかった。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のためにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。
だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごとにわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。

だが、上の述懐歌は、そんなロマンチックな渇望を謂うている気ではない。「月」にたぐえて何かしらを捉えたい掴みたい、あるいはたどり着きたいと願っていたのだろう、「いま・ここ」を離れて。遠く離れて。
顧みてそんな自分を「馬鹿者よ」とわらい、しかもかすかに痛んでいる胸に抱いてやるのである。未練と謂うほどのものは残っていないが、そういう「馬鹿者」でありえたことは認めて、そう、愛おしむ気持ちが全く無くはない。そういうことか。
2009 11・1 98

* じつは、一昨日、昨日あたり気に掛けて思い出していた鎌倉の人から、卒業生から、短歌稿とメールとが、今朝送られてきた。作り続けているといいがと願っていたところへ。嬉しかった。「聞馨集」と題してあるこの人の歌集に、新作が加わった。よしよし。静かに拝見します。

☆ 秦先生  馨
すっかりご無沙汰しております。
HPはよく拝見しておりますので、なんとなくお会いしているような気がしておりますが、でもやはりミクシィにいらしていた頃より距
離があるような気がして、さみしくも。
私の方は7月末に仕事に戻りました。子どもが増えて、仕事にも家庭にも馬力が必要になっています。
年齢だけでなく、下の子たちを短い間隔で生んだというのも大きいのかもしれません。妊娠・育休、と二年間ずつ「走れない」状態が二回あると、ずいぶんと長いブランクです。
幸い、仕事の方はこんな私でも待っていてくれており、恵まれている、と思いながらも、「でも遠回りしたなぁ」とも思ってしまっている自分もいます。以前とは比べられないほどお財布から出ていきます。啄木になって手を見ちゃうわ、と主人につぶやいたりも。子どもはいつでも宝で、仕事やお金とは比較にならないものなのですが。でも、ありとあらゆる現実というものの重みが非常に密度を増してずっしりのしかかってきている年齢です。おそらく40代もこの重さは軽くなる気配もなく、ひたすらに増していくばかりとの予想が容易に立つのですが…。
そんな中で、一瞬の幸せを感じた時に「歌」という形にとどめておく方法をお示しいただいた先生に本当に感謝しています。
瞬時の幸福を記憶にとどめておくことすら忘れて、せっかくの幸せを浪費してしまうような余裕のなさの中、こういう形でなら日々の
中のやわらかな気持ちをいくばくかとどめておけるようになる気がしております。
ときどきに作っているだけですので一向にうまくならないのを感じつつも、また甘えてお送りしたいと思います。
お送りしようと思って読み返すと、どうやら私は子ども達の寝顔が好きなようです。寝ている子をよんだものが多いのに気づきました。
先生の日記の中で法律事務所からのメールをすぐには開ける気にはならず、と拝読したとき、あまりにもそのお気持ちが身につまされました。
一人の「島」を強く感じつつも、ともに立ってくれる人の貴重さをもまた強く強く感じるのが、私くらいの年齢なのかもしれません。
先生もお心を強くお持ちになって、奥様と人生の色彩を鮮やかにお過ごしくださいますよう。
冬に向かい体調を整えにくくなってきますが、どうぞどうぞご自愛くださいませ。

* 良夜かな赤子の寝息( )のごとく   富安風生  (漢字一字、入れたまへ。)
2009 11・1 98

☆ 黒いピン なんじゃい 静かな心  湖
* むずかしい、夢を見ていた。
神さまから、としておこう。人生の早い時期に、意味もなく、一つの小さなピンを貰った。八ミリ四方ほどの黒いつまみの画鋲のようだったが、それを服のどこかに刺してくれた。わたしは、ほとんど意識もしなかったし、身につけているとも忘れ果ててながく生きてきた。
わたしの夢中の人生は、多彩で、波乱にも内容にも運不運にも恵まれていた。その意味ではけっこう結構な歳月ではなかったか。しかも、その結構さに、わたしは好都合より不都合感を、清明よりは混濁を、宥和よりは窮屈を、静かさよりは騒がしさをどうやら感じ始めていた。
何なんだ、これは。
そしてわたしは、初めて自分が身に帯びている黒いピンに目をとめ、それを抜いてみた。すると、日々の暮らしが、多彩も波乱も運不運も落とし喪い、なんだが、ゆたゆたと有るとも無いともはっきりしないが、冴えないなりに晴れやかな、ものに追われないゆるやかに静かな時間空間にのんびりしていることに気がついた。いくらか物足りなかった。
で、黒いピンを刺し戻してみると、また、ものごとが忙しく回転し始めた。ワッサワッサと生きている自分へ戻っていた。が、どうも、そんな騒がしさの底を流れている気分は、イイものではないのだった。いやな毒が感じられた。ピンをはずすと、みーんな忘れたように、ゆったり暮らしていた。

* 「黒いピン」の夢だ。わたしは、まだ、黒いピンを捨ててしまえていない。ときどき抜いたりまた刺したりしている。恥ずかしいことに思われる。黒いピンを抜き捨て去ってわたしは死ねるのだろうか。刺したまま死ぬまで生きるのだろうか。

* 中学の頃に、一学年下の女友達が、こう述懐した。複雑な家庭環境にいた子であり、それだけに、その言葉は忘れがたく、今にしてますます鮮明に甦る。
「あれもそれも、これもどれも、もう、むちゃくちゃにいろいろあるやろ。わかってくれるやろ。そゃけど、ある瞬間に、『それがなんじゃい』と思うときが有んのぇ。すとんと一段沈んでしまうの、ごちゃごちゃから。いっぺん『なんじゃい』と思てしもたら、もう、なんでもないのん。あほらしぃほど、なにもかも、なんでものうなるのぇ」と。
わたしは後年、この「なんじゃい」を「風景」にしたのが、高花虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」ではあるまいかと思い当たった。以来、わたしの中にも、「なんじゃい」という名の「他界」が、広やかに明るく静かに定着したのである。遠山に日のあたりたる枯野へ、いちど「すとん」と身を沈めれば、ハイジャックもテロも、ましてやウイルスもくそも余計な幻影に過ぎない。要するにそれらは悪意の攻撃なのであり、されるままに「それが、なんじゃい」という「本質的な反撃」がありうるのである。ペンクラブの、電子文藝館の、文字コードの、また湖の本だの、創作だの読書だの酒だの飯だの、ああだのこうだのとわたしが頗る打ち込んでいられるのは、根底に、「なんじゃい」という「気づき」を身に抱いているからである。

* その「湖の本」新刊の発送用意も、よく頑張って、九割がた出来ている。本が届いても、メインの作業は出来る。
カミュの「シジフォスの神話=不条理の哲学」を高校三年生の頃手にして、不条理の喩えに、シジフォスが巨石を坂の上にはこぶと、すぐさま神により転がし落とされてしまい、また押し上げてはまたまた転がし落とされ、その果てない繰り返しのさまの挙げてあるのを、読んだ。
また、向こうへ飛ぼうとしている蠅だか虫だかが、透明なガラスに阻まれ、ガラスに突き当たったまま飛び続けようとしている、飛びやめれば落ちてしまう、のにも譬えられていたと思う。
わたしたちのしていることは、大概これだが、「湖の本」など、可笑しいほどの好例である。へとへとになって飛び続けている、と謂うしかないが、それが「なんじゃい」と思っている。この「なんじゃい」は意地でも負け惜しみでもまったく無い。

* 遠山に日のあたりたる枯野かな という高浜虚子の句のことを書いた。黒いピンを抜いて、ときおりわたしは現世の塵労からこの「枯野」に降りていって、ひとり、佇んだり寝そべったり遠山に視線を送ったりして過ごす、と、書いた。
塵労の一つ一つは、それなりに日々の暮らしに意義の重いものばかりで、くだらないとは言いにくいけれど、奔命奔走であることには違いなく、刺された黒いピンのあまりな痛さに、ただ走りに走ってのがれようと、あれをやりこれをやり、もっともっとと果てしないのだと謂うことは、じつに明瞭なこと。
そういう自分が、その塵労を「なんじゃい」と、すとんと落としてしまい、胸奥の「枯野」に憩うというのは、ある人からそれと指摘され、「秦さんに似合わない」「暗い」「もっと明るい気持ちを持たなくては」「枯野などと口にしない方がいい」と忠告されたような、本当にそれは此のわたしの「鬱」のシンボルなのであろうか。にわかに、直に応える気はない。
ただ、この野の景色は、暗くない。ひろびろとした野の枯れ色は、草蒸してまばゆく照った真夏の青草原とはちがった、懐かしいほどの温かみと柔らかさとを持っている。けむった遙かな遠山なみには柔らかに日があたっている。風あってよし、鳥がとんでもよし、野なかに一条の川波が光っていてもよい。どこにも暗いものはなく、騒がしいものもない、清い静寂。胸の芯にゆるぎない一点の「静」は、優れた宗教家なら一人の例外もなくそこに人間存在の真実と本質を見定めてきた。仏陀も老子もイエスも、また荀子や荘子や、道元や一休も。暗いものも重苦しいものも騒がしいものも無い真実の風景。虚子がなにを見てなにを思って書いた句であるかは知らない、が、此の句に出会ったときわたしは真実嬉しかった。あの瞬間には、たしかにわたしは、身に刺された黒いピンの果て知らぬ唆しからまぬがれていたと思う。
わたしを「鬱」かと心配するその人は、「楽しみを自分で見つける努力をしています。生活にメリハリを付けたいのです。よく出かけるのもその一つです。なるべくストレスを溜めない生活を求めて」とメールに書いている。甚だ、良い。が、それもまた「黒いピン」に追い立てられた塵労のたぐいであるかも知れぬ。いわば虚子の、またわたしの謂う「枯野」ではない、現世の「荒野」「荒原」の営みと一つものであるかも知れぬ。クリエーションとリクリエーションと、対照して質的にもべつもののようにどう認めたがっても、所詮は同じ次元の場面の違い、痛みに脅かされ外向きに外向きにはねまわっている、「もっと」「もっと」の欲望というものに過ぎない。「いいえ楽しみはちがう」と言われるだろうが、それも見ていると慣性化し、いつか義務のように繰り返して、やめるのが不安でやめられないだけの例は、少なくない。そういう営為のいかに苦痛であるか、虚しいかは、体験的にわたしも知っている。例えば「祈る」という、長い長いあいだ一日も欠かさなかった行為を、わたしがピタッやめたのは、繰り返し続けること自体に自由を奪われかけていると感じたからだ、そんな祈りに何の意味があろう。
「静かな心」でいたい。それは、外向きにどんなに走り回っても得られはしない。自分の内側の深い芯のところにひろがっている「遠山に日のあたりたる枯野」のようなところでしか出逢えないのではないか、「静かな心」には。
そういうことを思うのが、つまり「鬱」なのだと言われるなら、否みようないが。

* 黒いピンが身に疼くように痛む。今は、だが、抜けない。

* 平成二十一年のいま十一月、わたしの「湖の本」の通算101巻を発送すべく九割がた用意は出来、明後日から送り出す。「*」より上の記事と事情符合していて、わたしの今の心境ともかけ離れていない。だが、上の記事はみな、二十世紀が二十一世紀に大きく動いた年の日記「私語」である。つい昨日一昨日に、九・一一のニューヨーク・テロがあったし、小泉総理は全面的にブッシュ米大統領の報復戦争に賛同し協力すると言挙げしていた。二○○一年のはなしだ。
情け無いと言うべきか当然のことか、世の中はグローバルに変化し続けてきたのに、わたしは、いまも同じように感じ、思い、「いま・ここ」にいる。
2009 11・8 98

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