述懐 平成二十三年( 2011) 一月
手は熱く足はなゆれど
われはこれ塔たつるもの 宮澤賢治
はかなしとまさしく見つる夢の世を
おどろかで寝( ぬ) る我は人かは 和泉式部
くさかげの なもなきはなに なをいひし
はじめのひとの こころをぞおもふ 伊東静雄
木もれ日のうすきに耐へてこの道に
鳩はしづかに羽ばたきにけり 湖
橋田二朗先生御作・2010創画展
* 賀正 平成二十三年(2011) 元旦 秦恒平
雲中白鶴
これやこのゆくもかへるも別れ路の
旅のあなたの有明の月
朝ぼらけありあけ月のゆめ覚めて
朱( あけ) にたなびけ遠やまの雲 遠 七十五叟
* かかげた新年「述懐」のうたに付いて少し補足する。
宮澤賢治の言葉は、手帳に手早に書き遺された詩句の冒頭である。
病身賢治の「われはこれ 塔たつるもの」の気概が、せつない。尊い。
和泉式部の「おどろかで」は目を覚まさずにという自戒・自嘲。それも、わたし自身の。
伊東静雄の一首は、彼の「初」詩集に、まっさきに言葉を寄せてくれた人へ、後年の思いを、しみじみのべている。そういう人や人たちがあって「今」がある。同じ感慨が在る。
わたしの述懐歌は、十八歳の昔の作、だが。胸奥の鳩のはばたきを、じっと今も聴いている。
* 新年の歌は、百人一首のなかから口に浮かんだ詩句をとっさに借りた。年賀状は、ハガキでもメールでも書かないことにした。
2011 1・1 112
* 電子メールで、新春初の賀状をいただいた。去年までは年が変わるとアドレスの分かる数百人に一斉に電子の賀状を発送していた。その返信が津波のように押し寄せたものだが、今年からは、それをやめにした。少しずつ少しずつ世間の儀礼から遠のいてゆく。ほんとうに大事と思う人づきあいなら、自然にのこる。そう思っている。
* 賀状のなかで群をぬいてみごとなは、城景都氏の兎。さすが。
もう一枚ある。松本幸四郎丈の、四把、線で描いた兎。目に紅を点じてある。高麗屋の一句が欲しいところ。
松立てて卯の春の憂はおもはざれ 遠
2011 1・2 112
* さて、 明日は万三郎正午の「翁」で清まわって来る。明後日は、むかし朝日子が学校の英語劇で演じた「十二夜」を、松たか子のコクーンで、初笑いしてくる。もう一度、 二日に吟じた戯れ句を上げておく。
松立てて卯の春の憂(う)はおもはざれ 遠
* 今度の裁判官呼び出しのためには、もう、何もアクセクしない。
2011 1・9 112
* 東工大の大櫻に包まれた写真に、一休道歌の「うろぢ 有漏路」「むろぢ 無漏路」を添えたのが難しいといわれた。一休の名をはずして、わたしの思いに置き替えた。大方は外れていない。
「うろぢ 有漏路」は煩悩や汚穢のにじみ出た世界、「むろぢ 無漏路」は煩悩に穢れていない世界。
おおけないことは云いたくない、わかりよく、願いも実感もこめ、「このよよりあのよへ帰るひと休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」としておく。たいした雨でもたいした風でもない。一瞬の好機。それで済む。
2011 1・21 112
☆ から鮭も空也の痩も寒の内 芭蕉 猿蓑
* 山本健吉さんの『芭蕉』下巻を毎夜しみじみと少しずつ味読していて、此処へ来て「芭蕉の生涯の傑作の一つ」という断言に出会えた。
空也の痩とは。空也上人のことではない、空也僧つまり鉢叩の徒で。寒暁、腰に瓢、踊躍念仏して和讃を唱え鉦を叩いて茶筅を売りながら洛中洛外を歩いた。「痩」一字の示す風貌の極限は容易に想像できる。「から鮭」に照応している。この句、何らの叙事でもない。「から鮭」「空也の痩」「寒の内」の三語をただ繋示して一切の肉感を排した徹底詩世界を表したもの。山本先生の「傑作」の評をこころより悦ぶ。
俳句の結社誌を幾つも戴いていつも見ているが、俳味の「詩」に殆ど全く出会えない。おおッと書き留めておきたい腸にこたえるような詩の発見がなく、ただ言葉を羅列して弄んでいる。主宰級の人の句に浅い自足がことに目立つ。見よ、芭蕉の一句。打てば鳴り響く。 この句など、べつだんに記憶しようとして記憶にあるのでなく、句のいのちが脳髄にとびこんできて何十年も凛々と生きている。俳句はたった十七音。記憶されないような句は詩としてほとんど生命を欠いている。 て、
* 「 e-文藝館= 湖(umi)」に「古典を味わう」部屋を新設した。心ゆくまで古典愛読の嬉しさを、集中、表して行こう。新しい楽しみ、喜びをまたわたしは見つけた。
2011 1・26 112
* いちにちかけて、「芭蕉翁 畢生の名句集」を佳い感じに「古典を味わう」室に招待した。疲れたが、いい気持ちだ。
2011 1・29 112
* 朝いちばん、「古典」の部屋に、以前たっぷり選んでおいた『千載和歌集』の心に適った秀歌たちを入れた。平安末期、十二世紀のこの勅撰和歌集は、いささか造花めく鎌倉最初期の『新古今和歌集』よりわたしは心やすらかに向き合える。小倉百人一首に選ばれた秀歌達もたくさん入っている。源平の世の花形達の名とも出会う。いつか鑑賞の一冊にもと用意しておいたが、撰歌だけでも味わってくださる方は少なくあるまい。万葉集にも古今和歌集にも、同様の用意はしてある。いいものを選ぶ・選び出すというのは、枕草子にもみられるように心おどる嬉しさをともなう遊びである。
2011 1・31 112
述懐 平成二十三年( 2011) 二月
なかなかに人とあらずは酒壺に
成りにてしかも酒に染みなむ 大伴旅人
流れ来て氷を砕く氷かな 吉川五明
春寒し水田の上の根なし雲 河東碧梧桐
あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなしわれは父なり 湖
谷崎先生の述懐歌
我といふ人の心はたゝひとり
われより外に知る人ハなし
2011 2・1 113
* 谷崎先生の上の剛情な述懐歌には、感嘆の他なく共感するときと、そうかなあと弱ってあたまを掻いているときとが有る。
① 我も人も知らない自分 ② 我のみ知り人は知らぬ自分 ③人は知り我のみ知らぬ自分 ④ 我も人も知る自分
この四種類が考えられる。もっとも奥深く量も多いのは、①か。その反対は、④だろう。 いちばん懼れねばならぬのは、③であるだろう。
谷崎先生は②を謂われている。かくてこそ藝術は成るが、俗事はべつ。
2011 2・1 113
* 直哉は「詩」が好きでない。「詩は特別なみの以外は興味なくこれまでも余り読んでいない」と言い放っている。じつは、わたしも詩はほんとは苦手でなんです。ぜったいに佳いというのが、分からない。とくに戦後詩は、わかったようなフリすらも出来ないほどよく分からない。
2011 2・3 113
* 終日、不愉快な対応をはさみながら、愉快であるワケのない谷崎不屈の『検閲官』にも向き合っていた。そして、昨日書いて置いた上申書の文案に手を入れたり。しかし、さらにさらに慎重にわたしは、わたしたちは、対応を間違えないようにしたい。
☆ あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなしわれは我なり 湖
* わたしの世界がまだ狭いのだなと思う。広い広い世間から比べ観れば、どれほどのものだと謂うのか、わたしの迷惑如きは。娘や婿がわたしに向かい名誉毀損という裁判沙汰で騒ぎ立てるぐらい、餓えや寒さも凌げず生きる希望を踏みにじられている人達や、冤罪の身を官憲に威されて罪されていた人達や、いやいや人目には小さな、しかし本気で失恋した少年や少女達と比べてさえ、道化ほどのものだ。それにしてもかれら原告二人の無意味な逆上ぶり、執拗極まる害意は、正気の沙汰と思われない。そして必死になり躍起になり、わたしの書いてきた小説やエッセイや述懐の多くを此の世から抹殺したがっている。いったい、わたしが何を書いたというのか。
何故か。
本人達は事実か事実相当のしかも人間として恥ずかしいことが書かれているのを怒っているのだろう、だが、順序がちがうだろう。恥ずかしいならわたしに怒るのでなく、自らの反省が先だ。わたしは作家だ。書くべきは書いて表現する。
* 静かな心で小説を書き継ぎたい。書けば読んで下さる人達がわたしには、 ある。「いい読者」にいつも恵まれている。書きたい。書ききれないまま、死ぬのかなあと想う。
2011 2・16 113
* 芭蕉晩年の句に、心惹かれている。山本健吉先生の深切の手引きがほんとうに有り難い。
2011 2・17 113
2006.02.25 今は亡き孫娘が最後に飾った。
* やすかれと呼びて笑まひて手をふりて
やす香は今しあゆみ来るなれ 祖父
2011 2・25 113
前便で読んだエッセイは、大勢がいろいろに言及してきた、何度も聴いてきた「ありきたり」の話題なのが残念でした。勉さんならではの、生活と意見の具体感に溢れたエッセイを読ませて下さい。エッセイは、「論」じては窮屈、概念的観念的になり強張って面白みが落ちます。エッセイはその書き手ならではの「描写」「表現」の魅力です。志賀直哉の言うように、場面や声音が目に見え耳に聞こえるように書いて読ませて下さい。論攷や論説には他の書き方があります。
勉さんならではの視野と視線とがとらえた具体的な世界や場面を読ませてほしい。
訃報のみあいついで賑かなあの世かな
風ゴトゴトと娑婆を揺る間に 恒平
二年ほどまえの作です。
2011 2・28 113
述懐 平成二十三年( 2011) 三月
憂き身にてきくも惜しきは鶯の
霞にむせぶあけぼのの声 西行
春愁に指のひとつは鳴らざりき 畑耕一
このごろのよしなきゆめのくるしさに
ひとりのさけのいろにむせぶぞ みづうみ
何方のお作やら。あまり可愛くて拝借。
2011 3・1 114
* 子規の友人だった俳句の内藤鳴雪に『鳴雪俳話』という博文館蔵版、明治四十年十一月刊の一冊が今手中に有る。定価金貳拾八銭。246頁、手にとって親しめる装本ながら、小冊子ではない。
この明治四十年、秦の父は九歳、叔母は七歳だから、必然祖父鶴吉の蔵書であった。わたしは鳴雪という雅号が気に入っていたが、何度も手に取り身の近くに持ち出していながら、とくに読んできたという覚えがない。和歌、短歌には惹かれる少年だったが俳句は難しいという先入主が、五十頃まで根強かった。蕪村に近づいて『あやつり春風馬堤曲』のようなけしからぬ小説を書いても、芭蕉に親しむにはほんとに最近までの敬遠感があった。蕪村も優れた作家だが、芭蕉の境地はよほど高い。子規は蕪村の派であるが、今思えばそこに子規俳句の限界が有るのかも知れぬ。鳴雪は子規派であると観てきた。が、その選句と鑑賞を知っているわけでない。
「鳴雪選句」とでもいう一編を成してみたい、この『俳話』から。
* 昔の本の楽しみは、奥付の後ろの広告で、既刊・近刊予告のずらりと並ぶのを古道具屋を覗くようにして物色する。この本ではさすがに俳書が満載。『俳諧美学』『明治一萬句』『新選一萬句』『俳諧文庫』『俳諧類題句集』などたくさん、この最後のには「尾崎紅葉君校訂」とある。紅葉はこういう仕事もしていたんだと実感。正岡子規の本は出てこない。鳴雪の関係した本は沢山ある。
煙草をやらないし、機械の傍では水分はとらないので、こういう穿鑿が、煙草代わり。
ちかいうちに「内藤鳴雪選句集」を「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典」におさめたい。
2011 3・4 114
* 中学の恩師、給田みどり先生の歌集『夕明かり』を機械の傍で、ちょっとした合間合間に心して読んでいる。
中学では給田先生、高校では上島史朗先生がわたしの短歌を観て下さった。お二人とも亡くなる日までわたしの文学を応援して下さった。去年に亡くなられた橋田二朗先生も、担任だった西池季昭先生も、亡くなる日まで私を購読というかたちででも支えて下さった。
いま給田先生の歌集をみると、口絵に橋田二朗先生扇面の「富貴草」が艶に描かれて在る。先生方がほんとうに仲良しであられた。そんなことが、今もしみじみと嬉しくて仕方ない。
高校一年の夏だった、ある日、まだ弥栄中学におられた給田緑先生は、わたしを誘われ、南都の薬師寺と唐招提寺へ連れて行って下さった。ああ、これがどんなにわたしにとって深く刻まれた体験になったかは想像してもらえるだろう。先生はほとんど解説めいたなにも仰らなかった、二人での静かな遠足を楽しまれているかと思い起こされるほどだった。わたしはだが薬師寺の佛達にも、唐招提寺の伽藍にも、のけぞる思いで打たれていた。いまも、こころよりこころより御礼申し上げる。
給田先生のおもかげは、太宰賞をうけた『清経入水』のなかに描かれてある。
2011 3・6 114
* 内藤鳴雪の選んだ句を味わいながら書き写している。選句に既に自信を披瀝していた翁の仕事であり、敬意を払っている。が、「選」という行為にはツキモノの賛成と不賛成はある、致し方ない。おもしろいのは、「月並の句」も項を起こして選んであること。また山崎宗鑑の句も西山宗因の句も、また虚栗調の句も、わざわざ項目を立てて選ばれているので、面白い。
山本健吉さんが芭蕉を選べば厳格無比、気の抜けた何一つも数えられないが、鳴雪翁の態度は市井の俳匠の風すらあって、かなりに自在。聞いたこともない人の句などもスパスパと採ってあり「参考」になる。
もうやがて「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典を味わう」部屋に招待できる。『俳話』の中から「正岡子規の人物」なども招待席に迎えておきたい。
2011 3・8 114
* 鳴雪翁選句を「 e-文藝館= 湖(umi)」に招待した。
「選」には「選者」の多くが露われ出る、それが尽きぬ興味につながる。小倉百人一首が喜ばれてきたのも、名歌選であるとともに当時の定家卿の境涯がうかがい知れてひとしお懐かしくなる。まさに「古典を味わう」嬉しさで。
わたし自身は中世歌謡の『梁塵秘抄』『閑吟集』から選して鑑賞の単行本を二冊出してきた。「 e-文藝館= 湖(umi)」にも「 ペン電子文藝館」 にもわたしの選した詞華集が幾つも入っている。
鳴雪翁は、羽織袴姿で選んでいない、俳味をいろいろに話して聞かせる気軽な姿勢で精選してあり、おもしろい。俳話抜きで読んでもらうので、なかには謎解きのような句もたくさんあり、思案を楽しんでもらいたい。
この翁は、もし句が出来たら、なるべく市井のふつうの人に見せて、おもしろい、分かる分かると言われたなら破り捨てよと。首をひねられたなら初めて師友のまえに出して好いと。月並みを嫌った子規派の人らしい。
子規と同郷、子規門の客分格の人であった。同じ『鳴雪俳話』のなかから「正岡子規の人物」も招待しておきたい。ちょっと他で聞けない子規評である。
2011 3・9 114
* 根を詰めて機械の前にいる。疲れると、小沢昭一さんから贈られてきた『僕のハーモニカ昭和史』なんて本を読んだり、近藤富枝さんに昨日もらった『紫式部の恋』を走り読みしたりしている。
本は、著者単独の味わいの方が嬉しい。先日来馬場あき子さんに二冊も戴いた本は、鴨長明の歌論書を、若い女歌人の七八人と一緒に読んでいて、何としてもとりとめがない。馬場さん一人の文責で追究し論攷されているなら馬場さんを念頭に興味深く追尋でき評価も出来るのに、まるで馬場小隊による座談でことが運ばれていると、たわいなくて焦点も定まらない。どうしてこんな小隊長と兵隊さんの群議のような事にしたのか、勿体ない。若手を売り出して遣っているのかも知れないが、馬場あき子が渾身の追究をこそ読みたいし、その方が文献としても生きる。
岩波がむかしに実現した「座談会」明治・大正文学史は、一級の読み手達のまさに討議であり、瞬間風速の面白さに多々教えられたけれど、程遠い人達の集いに過ぎない。何を読み取り何を汲み取っていいのか、散漫としているのが長明のためにも気の毒であった。 2011 3・16 114
☆ 秦先生へ 松
ご心配ありがとうございました。
こちらの被害はお皿1枚ですみました。元気に過ごしております。
それでも震度5の地震に対処している間は、相当な恐怖を感じました。
さらに余震も多く、生きた心地がしなかったです。
切羽詰った状況でも少しでも冷静にいるように努めていきたいです。
幸い私の周辺では大きな被害も無く、会社の後片付けが大変なぐらいですみました。
静岡でも電気が足りなく、会社の操業も大変な状態です。せっかく最近業績が回復してきたのに、後戻りになってしまいそうで残念です。
千葉でも地震があったと聞いています。秦先生も緊急の時の備えを万全にしてください。
また落ち着いたらご連絡いたします。
追伸
昨日自宅近くの田子の浦の山部赤人の碑を見てきました。
歌の情景が思い浮かぶような雪の富士山が印象的でした。
この碑に書いてある歌を読みますと下記のように書いてあります。
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける
田子の浦ゆ の『ゆ』とはどういう意味なのでしょうか?
古い言葉ではこういう言葉遣いをするのでしょうか。
また『ま白にぞ』は百人一首では『白妙の』になっていたと思います。
碑に書いてあるのが原文で、百人一首の方は分かりやすく変えているのでしょうか。
教えて頂けるとうれしいです。 松
* 松君
田子の浦ゆ の「ゆ」は、今云う、「より」「から」と動作起点や経由の意を示す奈良時代によく用いられた助詞です。
「白妙の」は後世、平安末ごろの改作で、「ま白にぞ」が万葉の昔の原作の表現です。
怪我が少なくてほんとうによかった。未曾有の大変ですね、いまなお経過中といわざるを得ない。激甚の天変地異に加えて原発災害が容易に収まらないのも不安です。震源域が実に広範囲にひろがっているのも怖いですね。
十分気をつけて大切に機敏的確に対処されますよう。また、音楽や美術の話がおだやかに楽しみ合えますように。 秦恒平
2011 3・17 114
* 北澤郁子さんはわたしより一回り年輩、文字通り老境の歌人。『冬のなでしこ』を戴いた。緻密にことばを斡旋して冒しがたい感じに歌い続けてきた人の、老境の自在のほのみえる、やや寛いだ境涯歌集になっている。この人にも久しく「 湖(うみ)の本」 を支えて頂いた。
2011 3・21 114
* 山本健吉先生の『芭蕉』を、もう数日で読み終えるところへ来て、すこし胸迫る思いを堪えて耽読している。
この秋は何でとしよる雲に鳥 芭蕉
終焉を予覚したような寂寥をはらんで、芭蕉が無人の軽みの境を歩み去ろうとしている。芭蕉との、いわば真実初対面の初体験であった。感動に、このところ毎夜震えている。
2011 3・23 114
* 夜前、とうどう山本健吉著『芭蕉』全三部を読了した。小説等の創作を別にし、論攷ないしは評釈等のなかで、わたしの読書史の十指のうちに数えたい、感動の名著であった。第三部の、終焉に到る芭蕉の一句一句、残り少なくなるのを心より惜しむ思いで耽読し長嘆息し全身で共鳴した。山本先生との、わずかとはいえ印象深い私的な思い出も湧くようにわたしをとらえ、ああよかった、嬉しかったとしみじみした。先生の選ばれた芭蕉句は、感謝をこめて「 e-文藝館= 湖 (umi)」 に紹介した。さらに拡充を考えているが、先生の深切な鑑賞を読みたい人は、ぜひ新潮文庫の上下巻を座右に備えられるようお奨めする。
2011 3・15 114
* 恩師給田みどり先生、平成元年十一月刊の歌集『夕明かり』より、最初の撰歌を終えた。この年の夏のあとがきに、岡本大無さんに入門されて、四十年とある。数えれば昭和二十四年ごろから本式に歌を始められたことになり、それは私の新制中学二年生の年に当たる。先生はこの年、わたしの学級の担任だった。一年生の時英語をならい、二年生から国語を習った。その当時、わたしは鞄に詩と作文と俳句と短歌のための四冊のノートをしのばせていて、短歌のノートだけが、ずうっと長続きしたのである。
先生には、これより前にもう一冊歌集があった。『むらさき草』と謂わなかったろうか。その一冊も書庫に在るだろう。
2011 3・27 114
述懐 平成二十三年( 2011) 四月
いづれのおほんときにや日永かな 久保田万太郎
朝地震のしづまりはてて草芳ふ
くつぬぎ石に光とどけり 恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき
灯をにじませて都電せまり来 迪子
遅き日のつもりて遠きむかしかな 与謝蕪村
京都 醍醐寺三法院の櫻
2011 4・1 115
* こういう五七五ができているのだが。
大輪の赤い椿が八重に咲き
で、これだけでは月並みに落ちただけのようで。下七七、これではあんまり不味いか。
われは便座で小便をする
あんまりか。きたないか。小便をわたしは、家では便座に安座してする。
大輪の赤い椿が八重に咲き
われは便座で小便をする 遠
ひどいですか。「のみしらみ馬がしとする枕もと 芭蕉」というのもあるが。妻は小窓の外に椿が見えていると想う、と。ふしぎに便所はなにかの想いうかぶ場所であります。
2011 4・1 115
* 給田みどり先生の歌集『夕明かり』は、往年の先生の顔や声が聞こえまた見えてきて、気を入れて選んだ心優しい歌のいろいろを「 e-文藝館= 湖 (umi)」 のために書き上げてゆく仕事に、励まされも、癒やされもする。惜しんで愛しんでゆっくり味わい書き抜いている。もう数日も手をかけたい。
* さ、今晩は、すこし休息しよう、今朝は早くから仕事にかかり切っていたから。
2011 4・4 115
☆ 播磨の鳶
昨晩メールをいただいていました。ありがとう存じます。
花粉症に苦しまれているご様子、いくらか改善されているでしょうか。
静かに雨が降り始めましたが、桜は今しばらくは散らないだろうと、これは希望的観測です。
東京の日々はいかがでしょうか。まだまだ余震が続き落ち着かないと思います。震災と原発のこと・・さまざまなあまりに膨大な困難に直面しています。その現実に四月初めからの日常の変化など私的な事柄を改めて述べても、それさえ何か白々しいようにも思えます。
詩集のことに関して。何処でもいい、小さなところでも、自費出版のかたちで・・と既に鴉は書かれていますが・・。
一つの具体例を書きますと知人から貰った*社のパンフレットが手元にあり、割引の特典付きで150ページの本300部、あるいは500部でほぼ100万円の費用とあります。神戸の知人の出版では70万円くらい、ただし雑誌などでの広告がなされることはありません。
その某社に一度電話したのですが、電話口の人の応対に何となく距離を感じて臆しています。
知人や詩を通じてのつてを辿って読んでくださいと配るあたりが現実なのですが、何回も出版することなど考えられませんから納得して出版社に委ねられたらと思うのです。
どの出版社に依頼したらよいか、助言いただけたら嬉しいです。
4,19
前のメールを書きさしのまま数日、長い時間だった気がします。久方ぶりの歯痛に見舞われ、たいしたことないなと思っていたら耳の奥まで変調をきたして・・週末にかかってしまい医者にも行けず苦しい時間を過ごしました。痛み止めの薬を飲んでからはかなり?眠りました。今はほぼ落ち着いています。
あえて地震に関係ない話を書くことにします。
菊五郎の番組はわたしも見ました。自分の立場、役者としての強い覚悟を感じられ、創意工夫も興味深く楽しく頼もしく感じました。同時に歌舞伎を支える多くの人の気概も緊張も受け取りました。
土曜日、毎朝ラジオのバロック音楽を聴くのが習慣なのですが、皆川達夫さんの解説紹介された曲に驚きました。グレゴリオ聖歌が日本のキリシタンに伝わっており、それが琴の曲、六段の調べにそのままなっているというのです。
六段はあまりに有名、ポピュラーで琴を嗜む人は誰でも知っているもの。二つの演奏が同時に流され、それがほぼ完璧に合っているのがとても不思議に感じられました。
今インターネットで六段の調べについて調べたら、早速そのことに関する記事がありました。二つを送ります。
六段発祥の地
「六段の調」(六段調、六段)は近世箏曲の祖といわれる江戸時代初期の演奏家で作曲家の八橋(やつはし)検校(けんぎょう)(1614~85)が作った。諫早市の慶巌(けいがん)寺を訪れて第4代住職の玄恕(げんにょ)上人から琴を学び、諫早での修行時代に親しんだ本明川のせせらぎの音を思い起こしながら京都で作曲したとされている。寺には「六段発祥地」と書いた大きな石碑が立つ。現代でもBGMや学校教育の教材として広く使われている。
もう一つの記事
「グレゴリオ聖歌と箏曲“六段との出会い”」音楽の泉でのことです。
なんと、日本の筝曲だと思っていた六段の調べは、400年前のグレゴリオ聖歌と一致するというもので、九州のお琴の先生が発見したとのことです。
・六段(初段) (2分40秒)
(箏)野坂操壽
・クレド第一番 (1分30秒)
(演奏)中世音楽合唱団
(指揮)皆川達夫
・六段とクレド第一番 (12分19秒)
(箏)野坂操壽
(演奏)中世音楽合唱団
(指揮)皆川達夫
・六段(全段) (7分18秒)
(箏)野坂操壽
<ビクター VZCG-743>
なんということでしょう。これは覚えていたいので記しました。
400年ぶりに発見したお琴の先生は自分でもびっくりしたのではないでしょうか。
別々に聴くとこれが一致するとは思えないのですが、一緒に演奏されるとぴったりなのはほんとに驚きました。」
もし僅かでも歌詞が残っていたらキリシタンの音楽だと即座に排斥弾圧されたでしょう。どのように耐えて伝えたいものを残していくか、それを後世の人間が見出し受け止めていくか、これもまた大切なことと鳶は思いました。
今週末は再び岡崎( 姑の家) 、です。
どうぞ元気にお過ごしください。
* まず詩集のことだが、詩歌の本はまず九割がた以上も自費出版ふつうと聞いている。わたしの歌集『少年』は何種類も本になったが幸いに印税を貰っている。短歌新聞社の文庫本の場合は印税分にちかい買い上げを望まれたけれど、持ち出しはしていない。そういうわけには、だが、行かぬ例が一般に多いらしい。
この場合、二つの意思選択がある。まず、いわゆる出版社からの「単行本」らしい体裁を望むかどうか。それとも、とにかく本の形で人様に手にとって読んでもらいやすい形なら、版元の如何を問わないか。
わたしは文学史的には「私家版作家」と総括されるかも知れないほど、作家としての出発点で、四巻の私家版を造っていた。これは一冊も売れるものではなかった。500円をお一人だけから祝って頂いた。
次いでは現役作家のママ後年に、「 秦恒平・湖(うみ)の本」 というシリーズの私家版を、すでに四半世紀106巻まで出しつづけ、いましも第107、108巻刊行の用意も出来ている。これは数多くはないけれど製作費を回収できる程度に読者の皆さんに助けられている。それに、幸い作家として各社から出版した本も、100巻をとうに越している。非常に恵まれた幸運な文士の一人であった。
* で、駆け出しというより、それよりまだずいぶん以前の、四巻の私家版には、「星野書店」という版元の名が奥付に入れてあったが、これは正規の出版社ではない、暮らしていた社宅のお隣の貸本屋さんの名前を、ただ体裁として借りたに過ぎない。装幀などみな、わたしと妻との手作りであった。100せいぜい多くて300冊しか造らなかった。それでも送り先が無くて、かなり手元に余ったものだ、今も幾らか残っている。
だが、今としてはそういう私家版だったのが良かったか、珍しかったか、一時古書市場で四冊合わせて50万円もしていたと人に聞いたことがある。素人の手作りが珍しかったのだと思う。
しかし、そういう造り方で自費出版する人をわたしはほとんど知らない。業者に高額を支払っても「単行本」らしい見映えと製作の実務とを委せたいらしい。「鳶」さんもそうらしい。そして詩には詩の、短歌には短歌の、俳句には俳句の自費出版扱が専門の会
社は、いろいろありそうである、よくは知らないが。歌集『少年』を出版してくれたのは不識書院だった。ここは歌集や歌論の出版が専門だろうと思う。
実は、わたしも、そろそろもう一度歌集を作ってもいいなと思いかけている。少年そして結婚より以降、くちずさみのように書き散らしていた短歌や俳句が、「 湖(うみ)の本」 の一冊になりそうなほど書き溜まって在ると気が付いている。それはもう谷崎先生流にいうと日々の汗とも排泄物ともいえるものたちで、いささかも歌史の玉でなく、私史の雑記に過ぎないが、それでも「 湖(うみ)の本」 の読者にはそれも秦恒平のモノと愛して下さる人があるかも知れぬ。すでに『少年』は復刊してあり、たとえば『老境』とか戯れて『不老』または「不良老年」とか、在りうるだろう。それは幸いにわたし自身の営みなのである。が、……
* 数年前から、別巻「 湖(うみ)の本」 をもつというのはどうかと、ときどき考えることがある。わたしの「 湖(うみ)の本」 別巻として、同じ装幀だけれどまた別の趣味のいい装画で、誰もが手に取りやすい150頁限度の本を、実費でつくってあげたら、何等か文学への寄与とならないだろうかと。
各ジャンルにプロではないがプロに遜色ない在野の創作者たちのおいでなことを、幸いわたしは知っている。しかしそういう人達も、生涯に只一冊の創作本も遺されない例の多いことも知っている。
むろん問題も多くて実現はじつはなかなか難しい。たちどころに難儀な問題点の七つや八つはすぐ思い浮かぶ。それより、秦恒平の作を一つでも書き残せと、「鳶」さんでも拳固を振り上げるだろう。当然であり、ま、わるくない夢に過ぎない。ただそのようにしてでも手伝って上げたいという気は有るのだ、「鳶」さんの詩作はそれだけの質のよさを十分備えている。
* さてまあ、箏曲の「六段」がグレゴリオ聖歌の曲そのものだという発見に、ビックリ。
このまえ、高校の友人から、瀧廉太郎曲の『荒城の月』が、西洋の著名作曲家の作曲から一部を導入していると教えられて驚いたが、この六段の例では完璧に曲譜が一致すると云うから驚きはもっと大きい。
2011 4・19 115
* 昨日遅くにも、機械のディスプレイに手を添えてあやうく顛倒を防ぐほどの地震が来た。首都圏直下型の強震到来を、もはや遠からずと地震学者がテレビで警告していた。冗談じゃない。
* 何が有れ、日々の「いま・ここ」を全うするのみ。仕事も用事も、また楽しみも。
春愁に似て非なるもの老愁は 登四郎
バグワンとともに在る日々を喜ぶ。
2011 4・20 115
* 歌誌「綱手」四月号巻頭に、「短歌研究」昭和二十一年三月号短歌欄所収二十九人中の五人の、まさに選ばれた「戦後短歌」を読んだ。なかでも冒頭、土岐善麿「食後」十首に感嘆。実感の熱は熱く、表現は沈痛なまで抑制されて胸を打つ。比較と云うもおかしいがつづく四人の歌人の最初の一首ずつを挙げておく。土岐の歌の第一首の衝撃にわたしはのけぞった。
☆ 食後 土岐善麿
あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか
遥かなる南の島にありとのみ伝へ来し子の母とともにありぬ
かくなれば勝つよりほかはなかりしを戦ひつつ知りぬ勝ちがたきことを
このいくさをいかなるものと思ひ知らず勝ち喜びき半年があひだ
いくたびか和平のときをこばみつつ敗れてつひに悪を遂げたり
いざ今こそ道義のちからまさやかに戦はしめしものを撃つべし
軍閥の最後のいくさ敗れしときはじめて正しく世界の民となりぬ
ただ一途にたたかはざるべからざりし若きいのちよ皆よみがへれ
ふとしては食後の卓におしだまり澄みゆく朝の空を仰ぐも
☆ 杉浦 翠子
庭も雪遠野も雪の山家ずみいつくるならむ食満つる世は
☆ 吉野鉦二
旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき
☆ 復員して 石川信雄
国やぶれ山河ありけり背戸川のたぎちを染むる秋の日の色
☆ 筏井嘉一
人民は見ざる聞かざる言はざるを賢しとして国敗れたり
* チェルノブイリ25年、「石棺」と呼ばれる爆発原点内部の立ち入り取材をテレビ朝日は見せた。すさまじい。しかもなお今日三千人とかいう人数が、24時間体制で惨状の飛散を警戒し勤務しているという。汚染は甚だしい暴威をまだ静めていない。福島がどこまでこのような惨状への陥落を防ぎきり放射能の脅威から国土と住民との危難をすくい取れるか、甘いことを言っていては蟻地獄のようにチェルノブイリへ陥るおそれがある。軽率な安全論者の妄言に惑わず、少しでも早く少しでも確実な危害の軽減と禁圧に成功しなければならない。
2011 4・23 115
* このところ騒ぎがちな気持ちを静めたいとき、黙々と給田みどり先生の歌集『夕明かり』を書き写している。先生の気息のひそけさ、視線の静かさ、想いの懐かしさをわたしもまた追体験させて頂いている。ああこんなふうに、またこんなふうに眺め詠めていらしたんだと歌の一首一首に入り込んで、わたし自身の思いをそこに置いている。歌史の玉でないにしても、ここに生涯を学校の先生として努められまた老いて静かに余生を翫味された女先生のお人が「私史の玉」として光っている。慕わしう。
2011 4・24 115
* 給田みどり歌集『夕明かり』 の過半を選んで、「 e-文藝館= 湖(umi)」から発信した。なにかしら、ほっとしている。弥栄中学で同僚の先生でいらした橋田二朗先生の、この歌集に寄せられた「富貴草」扇面画も、いずれ添えたい。
2011 4・24 115
* 書いてきたものの整頓や保存は自分でもいい方だと思っているが、ひょいと、モノの中や下から、見忘れていたのが現れる。いつどこへ書いたのか書き入れてないプリントであると頭を掻くしかない。今朝は、こんなのが出てきた。
☆ 私の好きな歌 秦 恒平
たふとむもあはれむも皆人として
片思ひすることにあらずやも 窪田 空穂
同じ歌人の今一首とともに、いつもいつも胸に突き刺さっている。
今にして知りて悲しむ父母が
われにしまししその片おもひ
繰り返し思ってきたままを繰り返したい。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍む」も人間関係に生じてくる感情や言葉を代表して言うかのように読んでよい。むろん親と子と
のそれかと、今一首に重ねて察するもよし、もっと広げた間柄にも言えることと読んで、少しも構わないだろう。どのような心情や表
現も、どこかで足り過ぎたり足り無さすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも、「皆人として」避け難い人情の難所なのである。残念なことに、自分のする「片思ひ」にばかり気が行って、自分が他人にさせてきた「片思ひ」には、けろりとしているのも「人、皆」の通常であり、自分も例外ではなかったと、近代に傑出した歌人空穂は、そう嘆いている。
例外でなかった中でも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる自分に対してなさっていた「しましし片思い」を空穂は挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示し、歌人は我が身を切に恨むのである。父も母ももうこの世に亡い。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、両親に「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向かって)しましし」物思いや嘆息や不安の深さには、目もくれなかったのだ、かく言う筆者も。
亡き父をこの夜はおもふ
話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
安んじて父われを責める子を見詰む
何故にに生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
「片思ひ」も、このように読めば、人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気
がつく。ここへ気がついた時、初めて自分が他者にさせてきた苦痛の「片思ひ」に気がつく。尊大と傲慢は、これに気づかない。
吾がもてる貧しきものの卑しさを
是の人に見て堪へがたかりき 土屋文明
我・人ともに「貧」は幾重にも読める。百冊の「エミール」を只の知識として講じるよりも、何倍も大事な真実を歌人たちは告げている。「うた」として「うった」えている。
莫大な「片思ひ」のまま親や子を死なせ呻かせた恥ずかしさに、泣いてこれを書いた。
2011 4・26 115
* 「 e-文藝館= 湖 (umi)」 の詞華集に給田みどり歌集『夕明かり』を掲載し、弥栄中学時代同僚教諭であられた創画会会員橋田二朗画伯の美しい扇面画「富貴草」を添えた。原歌集の巻頭を飾っていた繪である。
なにとも言えず、よろこばしい。お二人とも亡くなりはしたが、忘れることはない、決して。
2011 4・27 115
述懐 平成二十三年( 2011) 五月
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 大僧正行基
蝶々のもの食ふ音の静かさよ 高濱虚子
あすありとたがたのむなるゆめのよや
まなこに沈透(しず)くやみのみづうみ 遠
富貴草 橋田二朗・画
2011 5・1 116
* NHKの短歌の時間に、講師というのか先生か、が、ゲストの好きな歌として上げていた、万葉集志貴皇子の歌、
いわばしる垂水のうへのさ蕨の
もえいづる春になりにけるかも
を、一読「凄いですね」と言われたのには、のけぞった。
やまと言葉の洗練において師表を持って任じる立場の人が、この古今に絶した名歌を「凄い」とはどういう精神であるか。そこに惨逆の屍体でも転がっているというのか。お岩さんのような幽霊が立っている暗闇だとでもいうのか。
なぜ「すばらしいですね」とか「佳いですね」とか、「美しいですね」「うれしくなりますね」とか言えないのだろう。
人にはまちがえて言うという弱点もあり、間違えたなら気の毒だが、これは間違ったのでは有るまい。安易で安直に言葉を用いて気が付いていないだけだ。その講師、多年にわたりわたしも親しい人だけに情けなかった。ま、わたしも迂闊に似たことをしていないわけで有るまいけれど。
2011 5・6 116
述懐 平成二十三年( 2011) 六月
草づたふ朝の蛍よみじかかる
われのいのちを死なしむなゆめ 斎藤茂吉
死の側より照明せばことにかがやきて
ひたくれないの生ならずやも 斎藤史
梅の実の熟れのにほひの目に青く
日の照る午後の遠きおもひで 湖
てのひらにあまらぬほどの乳房よと
恋ひしく人を想うてみたし 遠
堤 子・画 紫陽花
2011 6・1 117
* それからわたしは、戴いた倉田茂さんの詩集をまた何度目か開く。一読して佳い詩集だと直観し、妻もすぐ読み耽っていた。
「百五十年の海 「『生後百日を』迎えたわが家の犬に」をよんだとき、わたしは感動で泣いた。詩を読んで、 泣く……。そんな経験は覚えがない。
百五十年の海 『生後百日を』迎えたわが家の犬に
おまえの足の爪を切っていて
水かきを発見したときの驚き
感動がぼくをつつんだ それから
ゆっくりとかなしみが
おまえ あたたかいクリーム色の
縁あってわが家にやってきたもの
ニューファンドランド島の烈風すさぶ海で
漁夫たちと魚をすなどっていた犬たちの子孫
イギリスに運ばれて たぶん百五十年
民謡の美しい国は犬の体躯をも
用途に添って美しく変えたが 犬たちは
どちらの島にいるほうが幸せだったか
息はずませて駈けるおまえの一日が ぼくには
一日ごとに鹿島立ちのように見える いずこへ?
おまえは思い切り泳ぎたいのだろう
三月にはせめて九十九里につれてゆこう
「きょうはもうおやすみ」
そっとケージを覗くと おまえの目に
百五十年の波を呑みこんだ海がひろがる
ぼくは遠い存在になる
あした それからおまえはまたパスカルになるだろう
遊び疲れて坐ってじっと考える──おおいとしいもの
抱きしめてやろう
おまえが受け継いできたいのちの仕草を
* たくさんな歌誌や句誌や歌集や句集を戴くが、最近胸のふるえる短歌や俳句に出逢わない。ああ、倉田さんの戴いた詩集にわたしはしんから潤っていると感じる。
2011 6・4 117
* 三好達治に時を告げる「一点鐘」という有名な詩がある。
一時が鳴つた
二時が鳴つた
一世紀の半ばを生きた顔の黄ばんだ老人の
あの古い柱時計
柱時計の夜半の歌
山の根の冬の旅籠の
噫あの一点鐘
二点鐘
妻の兄の保富康午が翻訳した「おじいさんの古時計」の原詩と達治の詩とどちらが古いか知らないが、達治は古時計そのものを黄ばんだ顔の老人と眺めている。少年時代に詩を書いていたという義兄も知っていただろう。「一点鐘」とは中国語で午前一時を告げる鐘のこと。
義兄が勉強家だったと分かるもう一例がある。代表作と目される義兄の童謡詩に「お花がわらつた お花がわらつた」という幼児の愛唱詩がある。愛された詩人八木重吉の大正十四年『秋の瞳』に載っている「赤ん坊が わらふ」にまなんだと想われる。
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
赤んぼが わらふ
2011 6・9 117
* 愛誦している倉田茂さんの詩を書いてみずおれない。詩集『平野と言ってごらんなさい』より。
☆ 犬は口を利けない
犬は口を利けない
しみじみとその事実を受け入れるのに
三年かかった
うちのラプラドールは家族だというのに
私がさわっているあいだ
話しかけているあいだ
見つめる目がさまざまに表情を変えるのは
しかし まさに会話であった
もし犬が口を利けたら
この会話はとぎれるだろう
得たりと彼女は言うのだ
「あなたは自分が一番かわいいのです」
文章も口を利けない
犬と同じくらい素直な聞き手だ
不器用に 私がさわっているあいだ
話しかけているあいだ
だまって
応えてくれる
姿勢さえ変えてくれる
もし文章が口を利けたら
この蜜月は終るだろう
ため息まじりに彼女は言うのだ
「あなたの人生は徒労です」
口を利けない親しい者たちが
いまは私の神様たち
目下不満はない
ながれる時間の速さにも耐えている
* 黒いマゴとないしょ話をしているときも、拙く心はやった文章を書きなぐっているときも、ナイフを身に立てる痛さと悲しさと恥ずかしさでわたしもこう感じている。倉田さんは、むごいほどの代弁者だ。
2011 6・22 117
* 名作として愛読し「 e-文藝館= 湖(umi)」にも頂戴した阿川弘之さんの『年年歳歳』という、その表題にもわたしは昔魅了された。謂うまでもなく「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」という句意のゆえにまさしく人口に膾炙してきた。そしてまたわたしは、「花相似」と「人不同」に人生常無きはかなさを度々語りつぎ、そういうものと詠めてきた。
ところで、このいわば名句にはおそろしいお話がくつついていて、その方はほとんどもう誰もが思い出しもせず忘れ果てている。書き留めて置くに値すると想うので、書いておく。
☆ 昔、今から千二三百年も前、唐の代に二人の詩人があつた。一人を宋之問と云うひ、一人を劉廷芝と云つた。宋は劉の舅であり先輩であつたが、詩は劉の方が優れて居た。劉は或る時あの有名な「白頭翁」の詩を作つて「年々歳々花相似。歳々年々人不同。」の句を得たので、それを舅の宋に示した。宋は其の句が除りよかつたものだから、「此れを私にくれろ。」と云つた。けれども劉は舅の求めを聴かずに其の詩を世間に発表した。宋は非常に其れを恨んで、卑怯にも或るむごたらしいカ法で劉を殺した。──此の話は多くの人に知られて居る、さうして其の為めに宋之問は残忍悖徳の詩人として醜名を今に伝へて居る。成る程、之問は人間としては陋劣な、詩人としては凡庸な男であつた。が、凡庸でも何でも、彼は兎に角女の為めや金銭の為めでなく詩の為めに人を殺した、「年々歳々花柚相似。歳々年々人不同。」の十川箇の漢字が彼には十四顆の寶石に見えた、彼は詩の価値を解していた、その点で詩人としての彼の名は、──たとへ其れが醜い名であらうとも、──千年の後にまで記憶せられていゝ訳である。今の世の人々は宋之問の醜い名を聴き醜い話を聴いて、少くとも詩の──藝術の貴さを思ふ。われわれは機根が鈍く才能が乏しい為めに其の貴い境地へは行き着くことが出来ないまでも、せめて其の貴い境地のあることを信じ、其処に行き着くことの名誉と幸福とを想像し、その為めに罪を犯した宋之問ほどの熱情を持ちたく思ふ。なぜなら、其れを信じ其れを想像する事は、時とすると其れへ行き着いたと同じ栄光を人に与へるものであるから。之問は醜い詩人であつたには違ひない、が、──若し伝説がほんたうなら、同時に彼は其の情熱で
高い所へ翔け上つたアンデルセンの「醜い家鴨」であつた事を誰が知らうぞ!
此の宋之問の話は、もとより此の物語の筋には何の関係も似寄りもない。たゞ藝術家は、どんなに醜悪な性情を持ち、どんなに覚束ない才能をしか持って居ないでも、彼が藝術に対する熱情を失はぬ間はまだ幾分か望みがあると云ふ事を、こゝで云ひたかつたのである。 谷崎潤一郎作『鮫人』より第三章冒頭 大正九年
* 谷崎のいわゆる悪魔時代へ吶喊していた頃、中断した長篇小説のなかで書いている。前後の物語はまったく推測も出来ないだろう、完全な挿入文ながら、いわば彼の大昭和期に入ってからの藝術論をはるかに早く先取りしていた観想として、忘れていてはならない。ま、谷崎論としては、今は措くが、この伝説の谷崎の持って行き方には、映画や舞台での『アマデウス』 あの「モーツアルト」と「サリエリ」のことに似通うている。しかし、それにも今は触れて行く気がない。ことさらモノをいわなくても、この伝説は独り歩きでたいへんなことを語っているというしかない。
* それよりももう一度「人不同」の常無きサマについて云おうとしたが、それもまこと愚かしい。バグワンは、大方の人が「ご挨拶」で、つまり潤滑油というだけの言葉をもっぱら用いて世を渡っていると話していた。必ずしも非難ばかりではなかった。しかしご挨拶がただ潤滑油ならむしろ必要で上等として、そうではなく、身内の顔のまま出任せのご挨拶を誰もが言い出したらどんなものだろう、かなりシラケルだろう。
2011 6・27 117
* 雑誌「NHK短歌」編集室から鄭重な以来のメールがきた。歌集『少年』所収のわたしの短歌一首を、誌上で講師の来嶋靖生さんが使いたいといわれるので許可して欲しいと。来嶋さんとは多年のお馴染みであるが、そのわたしの歌というのが、こうある。
☆ 掲載歌
朝地震(ルビ・なゐ)のしづまりはてて草芳(ルビ・にほ)ふくつぬぎ石に穂怒りとどけり
* すぐメールの編集者に返事した。
****さん
この、挙げられてある短歌は 私の作ではありません。 秦恒平
* また返辞が来た。
☆ 秦 恒平先生
大変失礼いたしました。
いま、歌人の来嶋さんに問い合わせております。
本当に、申しわけありませんでした。
NHK 出版・**** (NHK短歌)
* ちょっと唖然としてもう一度返事した。
**さん
問い合わせるより何より 原典である私の歌集『少年』をご自身で見て読んでメールを下さっているのですか。
そもそも挙げてある
掲載歌
朝地震(ルビ・なゐ)のしづまりはてて草芳(ルビ・にほ)ふくつぬぎ石に穂怒りとどけり
秦 恒平『少年』
の 下末句は何と読むのですか。
返事は、まだ無い。わたしの自作短歌であるなら、下末句は、「光とどけり」であり、うかとしてこのまま承引していたなら途方もないモノを自分の名で公開してしまうことになる。掲載許可書を求める手続きは実に鄭重だが、「編集者」たる「仕事の確かさ」は何に依存しているのだろう。
作は三十一音の短歌であり、長篇の文中一個所の誤記・誤読とはハナシが違いすぎる。メールか電話で訂正して上げるのはいと容易いが、それでは「編集者」は用をなさない。
2011 6・27 117
* さて、前夜うろうろしたわたしの「華燭」の昔の挨拶歌一首の件は、やっと編輯室で原本を手に入れて校合し、事なきを得た。やれやれ。
2011 6・28 117
* 平成十八年( 2006) 八月早々からもちあがった、実の娘夫妻がわたしを「被告」席に据えた裁判沙汰に、明日、何かしらのコンマが打たれる。文字通り言語に絶した酷くて醜いだけの五年であったが、被告のわたしからは回避の道が全くなかった。
おそらく、明日で結着するなどと甘い考えでは済まない、そうであるかどうであるかわたしには分からない。これも仮想現実であるからは、原告にも被告にも無意味な悪夢に類しているとだけが言える。
奈良時代の一人の坊さんがうたっている。
白珠は人に知らえず 知らえずともよし
知らずとも吾し知れらば 知らずともよし 奈良元興寺僧
わたしも、今少し露骨に歌う。
憐れともいふべき程は誰がうへと
よしなしごとをわらひ棄てつる 遠
2011 6・29 117
* 2:15 Jacques Loussier Torioのジャズを聴きながら。ちょうど十年もむかしに、「 e-文藝館= 湖(umi)」に詩集を送ってきてくれた人の転居通知を眺めていた。いい詩を書く人だった。「 ペン電子文藝館」 にかかわってから、ずいぶん大勢の詩人会員たちの詩をよませてもらった。わたしも志賀直哉の口でなかなか詩が読めない、読んでもよさか分からない男だったが、たくさん読んでいる内に何人もの佳い詩人だなと思う人達と、数少ないけれど、出会ってきた。
俳句の方で、心服する作のある人になかなか出会えないのが、最近の苦の種である。近代詩はせいぜい溯っても蕪村どまりだが、近代になって子規や虚子がいて安心なのだが、最近でも能村登四郎らがいて安心なのだが、現在がじつに心細い。句誌も何冊も戴くがどうも納得しにくい。困っている。短歌でも困っているが、短歌ならすこしわたしにも分かる。ああいいなと思う作にときどき出会うのだが、俳句はあまりにも難しくて。芭蕉、蕪村、虚子にせまる俳句に容易に出会えないのが情けない。
そんなことを思っている内、いま、シューマンの歌曲をわたしは聴いています。
2011 6・30 117
述懐 平成二十三年( 2011) 七月
人をしも信ぜむとするこのこころ
持つに悲しく捨てむにさびし 窪田空穂
少数にて常に少数にてありしかば
ひとつ心を保ち来にけり 土屋文明
白珠は人に知らえず 知らえずともよし
知らずとも吾し知れらば 知らずともよし 奈良元興寺僧
雨漏りの壁にしみある懐かしさ 湖
憐れともいふべき程は誰がうへと
よしなしごとをわらひ棄てつる 遠
2011 7・1 118
* 勝って金負けても銀となでしこを人らは言いつわれは酒を呑む 遠
そんな昨日であったが、一夜明けてのまさしく「金」メダルの興奮に、わたしの酒、かなりすすんだ。いやあ、すばらしかった。金澤の戸水さんから純米の名酒「千枚田」一升、大津の恩師の奥様から美味いハムやソーセージなど。幸福であった。
2011 7・18 118
* 身の回りを大片づけしている内、びっくりするノート一冊を見つけた。
母校の徽章のついたうすい大学ノートで、表紙には「芸術学概論」「Pf、金田」とあり、むろん旧姓の妻の使用ノートだったらしいが、未使用のままか、わたしが貰って、中は、題などつけない一冊の歌集に編まれていた。昭和三十六年四月二日日曜日に序を書き、五月三十日早暁に跋を書いて署名している。前年七月二十七日に朝日子が生まれている。明日は、朝日子の誕生日であり、悲しいことに孫やす香の命日である。
無題歌集の最初の一首は、昭和三十三年六月三十日の日付をもち、わたしの作でなく「迪子」とある。「わかみどりぬれそぼつまましづかなれ思ひせつなきわれに似てあれ」と。「記憶に誤りないなら、この歌は私の大学院入学后 初の語学検査時、迪子がその済むのを待っていた時に詠んだものであろう。迪子は大学四年在学中。」と註してある。
最後の歌は二首、昭和三十五年十二月二十一日、即ち私が二十五歳の誕生日の歌である。
そのそこに光添ふるや朝日子の愛( は) しくも白き菊咲けるかも
あはとみる雪消の朝のしらぎくの葉は立ち枯れて咲きしづまれり
高校の昔から最初のわが子にはと名をきめていた「朝日子」は、両親の愛をいっぱいに受けて真夏に生まれていた。
私の歌のちょうど一ヶ月前には、
しやくりあげ胸にかほを寄す吾子( アコ) の背をまばゆきほどの秋日がつつむ 迪子
とある。此の小歌集は、まさしく「朝日子」と題され名付けらるべき初子誕生祝いの両親の心籠めた記念であったのだ。
そして、五十一年が経った。
2011 7・26 118
☆ 昭和三十五年(1960)七月二十七日 水 東邦大産院に入院中の迪子から陣痛發來の電話が会社へあった。朝、まだ勤務時間になるかならぬかの頃であった。前日、非常にノルマルな状態で、「退院してもいいほど」ということだったため、冗談に、しかし、半分くらい本気で新宿の「家に帰ってやすむか」などと言い合っていたのだが、迪子にはさすが予感あってか、近くの梅屋敷で買い物をするだけにした。
電話にサッと緊張し、しかし、もう大丈夫という気がしたのもその時だった。必要な机上の事務だけ済ませ、すぐ車で河田町の家に帰り、 京都から来てくれていた母と、新宿へ。必要な買い物のあと、母はいったんみすゞ莊へ戻って貰った。私は蒲田へ急いだ。そこで、前祝いに紅白のワインでひとり軽食。
陣痛は六時十五分朝發來、以後、平均十五、二十五分間隔にかなり永い痛みがあって、迪子は時計とにらめっこで記録をとっていた。産院についた時は平静元気で変わったこともなく、むしろ、うきうきしてみえた。私たち、出産はたぶん明暁かとみていた。
迪子妹のルッちゃんと私の母とが同時に到着した時は、しかし、もう相当陣痛強く、 すこし常を超えていると私は思った。陣痛時間が五十から百五十秒もある。三人もそばにいては迪子も気疲れするし、食餌、睡眠はともにムリなようだった。
まずルッちゃんを、八時半頃にまた来てくれるようにといったん渋谷の兄の家へ帰し、迪子と私とをのこして母は、近くの銭湯へ行った。その間に、いよいよ猛烈な痛みが来て、 おり物があり、助産婦にはそれが信じられず、ムンテラをはじめた。丁字帯をつけたのもその時である。夕刻四時頃だったが食事は出来ず、迪子は必死に痛みに堪えていた。内科から江幡先生がみえた。迪子は健気にいきみを堪え、私も一緒に一所懸命陣痛をのりきろうと試みた。ムンテラ、江幡先生のお見舞いにつづいて母が戻り、そこへコーポラスの迪子の兄が見舞いに来てくれた。久しぶりの対面であったが、陣痛最高潮でもあった。
兄が帰り、ついで母も新宿へ帰って行った。明日、あるいはもっと遅れるぐらいとみられたから。然し私の見たところ陣痛があまりに強く、それが、私と迪子との共同の恐怖感からするオーバーな反応といったものには思えなかっ。この分では早いのではないかと感じつつ協力して痛みを堪えながらタイムをとると、一分半から二分おきに五十から百二十秒のせわしい波が来ていた。
産科医師は分娩室に移す決心をした。迪子はもう、痛みよりも腰のぬけおつるようなダルサを訴え、二人の助産婦に介けられて分娩室に下りて行くのが、実に実に苦痛らしかった。すでに破水していたという。
迪子を分娩室に送ることになってからは、私の心にはもう動揺も興奮もなかった。一年半余の日々夜々の絶えざる不安動揺に堪えてきた私を、その場に今まさに入って、却って安心と自信とがつよく捉えた。ハナウタが出るくらい悠々と私は歩き、ルッちゃんを電話で呼んでから部屋へ戻って、新生児ベッドをつくり、また階下に降りて迪子の武治叔父さん宅にも状況を告げた。
輸血の必要はあって、早いめに呼ぶよう指示されていた。しかし私は江幡、加々美先生に昼間にお目にかかっていて、すっかり安心していた。大丈夫だと信じられる迪子の状態だった。会社の関口君、小高君から電話があり、組合でも輸血準備に待機してくれていると聞いた嬉しさを胸いっぱいに、 私は、だが、大丈夫と考えていた。
分娩室へ入ってから二十分もたってなかったと思う。わりと明るい、しっかりした話し声が伝わり洩れてきて やがて 実に小気味よい児の啼き声がきこえた。それが「朝日子」とはしばらくわが耳を疑ったが、それ以外に無かったのだ。
「お嬢ちゃんですよ。りっぱな赤ちゃんですよ、おめでとう」と医師に告げられ 私は深く深くあたまを下げて、ひとり二階へあがった。
迪子は無事でげんきそうにしていた。疲れたようすもなく。
朝日子誕生! 昭和二十五年(1960)七月二十七日 午后七時三十三分!
朝日子のいまさし出でて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風の清しさ
産室で朝日子と二人きりになった。大きな児だ。すばらしい。オットリした表情。目をパチパチさせてあたりみまわしながら しきりに手を動かし顔をつくる。朝日子の顔はさながら鏡をみる如く、私に肖ていた。わが児。わが愛し児、朝日子。健全この上ない赤ちゃんである。
パチパチカメラをむけても朝日子は悠然としていた。生下時3340ク゜ラム。身長は52.5センチメートル。
分娩室では後産もすんでだ迪子が分娩ベッドの上で全く元気な疲れもない表情でやすんでいた。吸口で水をすわせてやる。
迪子迪子 ただうれしさに迪子と呼びて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
* 高校生の頃からわが子の名前にときめていた「朝日子」は、斯く、此の世に生まれてきた。
* そして、五年前の、月も日も同じ今日、平成十八年(2006)七月二十七日、朝日子の生んでくれた初孫のやす香を、二十歳の誕生日をまたず、肉腫という怖い癌で私たちは死なせてしまった、相模原の北里大学病院で。
その日の挽歌。
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣きふす生きのいのちを 祖父
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ
* 弁護士事務所から、相手方と打ち合わせた、「慰謝料」「弁護訴費用」を年五分の利息付で八月一日に送金するようにと連絡してきた。少し不明点があり問い合わせている。
2011 7・27 118
* 馬場あき子さんのグループの田中穂波さんの歌集『さびしい本棚』には面白い歌が幾つも、というより巻を通してだいたい面白い批評の歌であった。「ひとりの米研ぎつつ不意にをかしかりこれほどのもので生きてゐること」「あの人はわたしを好きだと思つてた 回転寿司の乾いたまぐろ」「ふかふかの布団ぺちやんこに圧縮し蔵へばなにか罪のやうなり」などと。短歌体を模したみな面白い批評で一寸感心した。課題は、短歌は批評( マインド) で終わって済むか、だ。美しい魂(ハート)の表現を追求して欲しい。
2011 7・27 118
* 創作へいろいろ移行して行くため、手ならしに、書きかけてある中から一つ二つと書き継いで行けるようになってきた。
今後もどんな執拗な妨害が来るか知れないのだが、せいぜい忘れていよう。
機械から目をやすめる一服がわりには、それでも結局本をよんでしまうのだが、今日は近藤さんの文庫本を読み上げてしまい、実はチェーホフの長篇『曠野』も数日前に読み上げて、今は、手当たり次第に書架から下ろした五冊の和本『唐詩選』の第四冊と第五冊とを気の向いた方へ手を出して休息している。五絶と七絶、これなら久保天髄の釈義で用が足りる。
九月九日望郷臺
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那従北地來 王勃
北地望郷の念に堪えないまま 南方の他郷他席でしかも旅だって行く客を送って酒盃を重ねているが、ほとほとこの南中に厭きている。それなのにまあ渡り鳥は、なんでわざわざ北から南へなぞ飛んでくるだろう。
ちょっと同情する。
2011 7・30 118
* 生活をさわがしく乱してくる力が、波が、寄せてきても、躱せるかぎり躱して、関わらない。産み出し創り出せる何もない。
靜夜思
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷 李白
故郷は京都にあるのではない。わたくしの身内ある。
2011 7・31 118
述懐 平成二十三年( 2011) 八月
かかる日にたしなみを言ふは愚に似れど
ひと無頼にて憤ろしも 前川佐美雄
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
なにが不沈空母なものか原発を三基も
ねらい撃ちされれば日本列島は地獄ぞ 湖
東福寺
2011 8・1 119
* 放送大学で、南北朝頃の京極・二条の歌風を伏見院や永福門院や後醍醐天皇、宗良親王らの歌を紹介しながら講義されていた。昨日だったか、実朝の歌が話されていた。講師方の例に挙げてくれる歌のいずれも概念的でつまらないのにガッカリした。さすがに艱難に耐えた後醍醐天皇、宗良親王らの歌には胸にひびいてくるハートの詩が聞こえた。実朝や京極派のつくりたてた和歌の乾燥して大げさな概念ぶりには閉口。
2011 8・3 119
* サッカー松田選手の心筋梗塞死、傷ましい。まさかに一瞬の好機を願ったではあるまいに。
☆ しづかさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉
衆鳥高飛盡 孤雲獨去
相看両不厭 只有敬亭山 李白
2011 8・4 119
* 口語自由律短歌の光本恵子歌集「蝶になった母」を送ってもらった。
形が変わっても韻律は大切 リズムがなければ踊れない 光本恵子
これがこの歌人の覚悟であり、この覚悟のない口語自由律短歌は起つことが出来ない。韻律が説明抜きに伝わってくれば、口語自由律短歌は和歌とも短歌ともちがった詩の自律をもつ。光本さんの一冊は多くの歌がよく自立し独自の音楽を奏している。なかなか、しかし、光本さんのようには行かないのが普通である。亡き宮崎信義の信頼にこたえて衣鉢を懸命に嗣いでいる。
2011 8・5 119
* 暑い暑い庭で草むしりしていた一休さんは、寺の縁側で一息涼を入れていたが、つと、奥へ入り、木の仏像を縁側に持ち出して、「さあ、あなたも涼みなさい!」と。
バカげたはなし、か。
彼は酷いほど寒い晩、人と話していて、つと起って木仏をもちだし囲炉裏で焚いた。相手は仰天して咎めると一休は火箸で灰をつついて言った、「骨は無いね」と。相手は怒って「木の仏像に骨があってたまるか」と。一休は笑った。
バカげたはなし、か。一休は分け隔てしない。区別は失われ、分・別という分別は消え失せている。境界線はなにもなく、彼は「一」なるものに至っている。バグワンはそう言う。一休は、こう歌う。
有漏ぢより無漏ぢへかへる一やすみ
あめふらばふれ風ふかばふけ
有漏道(うろぢ)とは欲望渦巻く現世。われわれは欲望を通して自身のエネルギーを漏らしている、浪費している。
この道歌、かんたんでは無い。人はこの世界を歩みつづけ、どれほど「一やすみ」を知っているだろうか。「一やすみ」とはあらゆるモノ、コト、ヒトと境界無く区別無く「一つ」になる・なれるということかとわたしは感じているが、容易でない。
* 片づけにかなり打ち込んだが、捜し物は見付からない。片づけるというのは、なかなか面白い作業ではある、が、ものの減らないことにも苦笑。苦笑。
* 前世紀末の大勢で分担した『仏教への思い』という京都の法蔵館本を見つけた、わたしも「供養」という一編を書いていた。
数編を読んだが踏み込んだ体験に根ざして書いてある原稿は面白いが、当時の京大岡本総長の終始概念的な原稿など、砂を噛んでいるようだった。
これと無関係にテレビで、立花某氏の現代「科学」に蘊蓄を傾け尽くしてインタビューに応えているのを聴いていたが、徹底したマインドの人で、根底にひたすら「知」「知識」尊重があり、ほとんどそれしか聴き取れないのに興ざめがした。もののあはれなど、まったくの無縁の「知識」人士。徹底して有漏道(うろぢ)が面白くて叶わないらしい。
2011 6・7 119
* 下関の俳人出口孤城さんが春夏雑詠五十句を送ってきて下さった。上村占魚門の高足。久しいお付き合いになる。私はいつも嬉しく有り難く「獺祭」先生と呼んでいる。「 e-文藝館= 湖(umi)」の詞華集に。
門口に揚舟からび春立てり
松落葉古りて艶ある二月かな 孤城
2011 8・17 119
* 出口孤城自選五十句『春夏』も詞華集に掲示した。灘に臨んだ海近い風物や香や音が御田植の唄声も共に聞こえてくる。
大阪道修町の詩人三島佑一氏の短歌『反宇宙の私』も、よろこんで頂戴し「詞華集」に掲示した。
2011 8・19 119
* 「湖(うみ)の本」 読者でマイミクさんである高校の先生だった人が、生徒チームを率いての「短歌甲子園」戦歴を「報告」していた。高校生なのにこんなに幼いのかとも思ったが、日吉ヶ丘高時代を思い出せば、変わりない。個人戦決勝まで進んだという一首にわたしも一応一票を入れてみるが、感想を添えてみよう。
君の胸わたしの内で鳴りしかと振り向けば若きぶなの幹あり(内藤)→個人戦決勝へ
わたしもこの歌を採りますが、「鳴りしかと振り向けば」は説明になり、「うた」のしらべとひびかず、窮屈。
総じて文語、のなかの「わたし」が効果であるか違和であるか。君を「きみ」としていたら「わたし」と呼応したのでは。
「君の胸」という持ち出し方が、寸づまり。「きみの胸のわたしの」と「の」の連ねで諧調を生む道もある。
きみの胸のわたしの内で鳴りしかと振り向けば若きぶなの幹あり
こう連ねると、「鳴りしかと振り向けば」が佶屈とした説明調から抜け出せ、上三句に音楽が生まれるのでは。とても佳い歌になる。字余りを懼れすぎてはいけない気がする。
しかしこの「ぶなの幹」はチャーミング。嬉しくなります。 秦恒平・湖
* この生徒にわたしの『少年』を贈りたいものだ。
どんな専門歌人が審判をしているのか知らないが、「短歌甲子園」とは。やるものだ。この傾向は、いよいよ短歌を「作り出すモノ」にし、「生まれ湧き出る詩」とはべつモノにしてしまう懼れももつ。
* 上の次報で、内藤さんの歌が優勝したと読んだ。おめでとう。選評も聴きたいものだ。
2011 8・21 119
* 再度のお誘いがあり、気分も変えたく、隅田川の花火に出掛けた。鶯谷駅前からタクシーで浅草寺の裏まで。しばらく界隈を散歩した。夕刻以降はいろんな飲み食いの店があり、遊郭の見番もあり、風情ありげ。
花火は、独り毎年の定席に倚子をもらって、七時から八時半まで心静かに堪能した。ひとつも見落とさず向き逢い続けていた。夕景には目の前一時方向にスカイツリーの全貌がそびえ立ち、暮れてゆくに随い、その左天空で、花火は寂しくも美しくにぎわった。なぜか今年はひとしお身に沁み美しく眺めた。楽しみもした。
消えゆくをさだめと花火きほひ咲く 遠
八時半に盛大に花火は果ててまた心寂しく、ちかくの「登喜」という割烹で、七十前後の気さくな女将と柔和な大将と談笑しながら肴と酒と、ダツタン蕎麦というのを食ってきた。もう十時半、言問通りはまだ人波だったが、幸いにタクシーが拾えて。腰は軽かったのに、西武池袋のホームに上がる前に、異様に両ふくらはぎが張って痛み、あやふく攣るのを避けて、遅くなるのは覚悟で始発にすわってきた。『黄金特急』を読んできた。
20118・27 119
* 生きているアベリアの香に噎せたまま
夏往かずアベリアの香に噎せたまま 遠
* 夕食後、寝つぶれていた、二時間。朝まで寝たかったが。妻は夏バテというが。
すこしややこしい「問い合わせ」など、この三、 四日続けている。頭の中がWWWになっているが、落ち着いて混乱なく調べて行きたい。
2011 8・28 119
述懐 平成二十三年( 2011) 九月
生涯の影ある秋の天地かな 長谷川かな女
死ねば野分生きてゐしかば争へり 加藤楸邨
消えゆくをさだめと花火きほひ咲く 湖
今此処の生きの命よ秋さりぬ 遠
裏千家認得齋「閑事」 永楽和全「赤絵玉取獅子鉢」
2011 89・1 120
* 今愛読している一冊に、大西巨人さんに戴いた光文社版『春秋の花』がある。すこし風変わりな、剛直の感のただよう、佳い詞華集であり、個性味あふれる選と短文とで舌を巻かせる。
扁舟を湖心に泛べ
手 艪を放ち
箕坐して しばしもの思ふ──
願くは かくてあれかし わが詩(うた)の境
三好達治
箕坐とは足を投げ出して坐る意である。こういう「文学」の境地がどう失せて来ているかと思うと涙ぐましい。
2011 9・4 120
☆ 登高 杜甫
無辺の落木は蕭々(しょうしょう)として下( お) ち
不尽の長江は滾々(こんこん)として来たる。
万里悲秋 常に客と作(な)り、
百年 多病( たへい) 独り台に登る。
*九月九日と謂うと「重陽( ちょうよう) 」と呼んで祝ったが、ま、日本では平安女文化の昔までか。ただの語彙として記録され記憶されていて、ま、宮中やよほど古風を遺した古社には風がのこっているかも知れない。
九月九日は、だが「登高」の日でもあったが、それこそ日本ではそんな言葉すら覚えている人は少ないだろう。家族友人と小高い丘や山に登り、菊酒を酌んで互いに長寿を祈った。重陽の日のそれが風儀であった。漢文学者の興膳宏さんも、我が国でも奈良時代以降広く行われた書いて居られる。だがいましも毎夜読み継いでいる源氏物語にも栄花物語にも「重陽」にふれていても「登高」の場面に出会った覚えがない。
杜甫の名作は寂しい。彼はあの唐王朝にあって故郷を見失い久しくも久しく「百年」漂泊の詩人であった。「百年」は「人生」の意でありこの「登高」も「独り」なのである。李白とも同じ酒の好きな人であったが「菊酒」の香漂わず、それよりも隠しきれぬ望郷の思愁に彼の気持ちは萎れている。
* 萎れていてはならぬ。もはや人生学校は卒業したが、人生百年、ひとは学校と縁が切れておしまいではない。楽しみはこれからだ。
2011 9・9 120
* 左頭痛執拗、肩・頸周りの痛みも抜けず、眠り浅く。余儀なく朝五時過ぎに起きて、 無橋田二朗先生夫人逝去のお悔やみ状を書いた。
なにか、まだ朦朧としていてゆらゆらするが、機械の前へ来ると左肩にまできつい痛みが来る。痛みは執拗でおやみない。気にしないで、唐詩選の七絶をだいぶよんだ。給田みどり先生の最初の歌集『むらさき草』にも感嘆を惜しまない。なつかしい。
いま、俳句と称するものが、呑み込めない。
2011 9・14 120
* 馬場あき子さんの新歌集『鶴かへらず』を頂戴した。
うらぶれた汚れた孔雀冬ざれの日本にゐて日本に似る
大根を抜かれし跡地しみらかに陽は射せり慰められてゐる安堵感
さきの歌、ちょっと思い付きの感あるが。あとの一首にとくに共感するが、「しみらかに」は所得ているだろうか。楽しみに読ませて貰います。感謝。
2011 9・28 120
* 幸いに猛烈な颱風はひとまず去って呉れ、烈しい夜雨を戦くように聴くことは、とまれ免れている。ただし夜雨はいつも激しいわけでなく、秋ふけゆく夜の雨は人によりひとしお寂しかろう。
晩唐の詩人に四川での「夜雨 北に寄す」がある。北にある妻か恋人かが、いつお帰りかとはるばる問うてきた。
君 帰期を問ふも未だ期あらず、巴山の夜雨秋池に漲る。
いつか共に西窓の燭を剪り、却つて話さん巴山夜雨の時。
李商隠の好きな唐詩です。
2011 9・28 120
述懐 平成二十三年( 2011) 十月
哀しみは生きの命が生めるなれば
子としおもひて疎かにせじ 窪田空穂
月の夜や石に出て鳴くきりぎりす 千代女
月皓く 死ぬべき虫のいのち哉 湖
友よきみもまた君も逝ったのか
われは月明になにを空嘯かん 遠
十六
2011 10・1 121
* 毎日とは手を出さないが、いつでも出せば手の届く枕元に、昔々の、やや背丈たかい版の岩波文庫「陶淵明詩集」を愛蔵している。「 湖(うみ)の本」 の裏表紙に心友井口哲郎さんに頂戴した「帰去来」印を用いているように、高校の漢文教室で習って以来わたしは李白や杜甫を遠く通り越してもっと以前の詩人陶潛が好きなのである。部厚い文庫本ではない。幸田露伴が校閲し、漆山又四郎が訳註している。易しくはないが的確な読みが下されてある。今朝も目を覚ましてからしばらく、行儀の悪いことだが寝たまま、ただただ読んでいた。ただもう読んでいた。清水に顔をひたしている心地だった。
2011 10・4 121
* だれもが知っている人ではないが、知っている読者たちにはたいそう愛されてきたヒロイン三人、「源氏物語宇治十帖」の大君、ジイド「狭き門」のアリサ、バルザック「谷間の百合」のモルソーフ夫人( アンリエット) の三人を、少年の昔から、いたく愛しながら、しかも心からはとても受け入れかねる人達だった。フェミニズムからいえばなにかしら間違っていると、大いに、叱られるかもしれないが。
なぜか。
今日読んでいた『谷間の百合』で、呻くようにフェリックスはその理由を、うったえていた、虚しくも。アンリエツトを心底から熱愛し熱愛し熱愛したまま悲痛にうったえていた。悲痛の声は届いているのかも知れなかった、しかしモルソフ夫人はゆるさなかった。そして三人ともこのヒロインたちはほぼ自ら死んで行く。男の手に「身を任せる」ということをついにしないまま。
新秋や 女静かに身をまかす 湖
2011 10・4 121
* 疲労が濃い。夕食後に二時間、からだを横にし読書していた。読書は次々に皆興深いのに、身を起こし機械の前へ来ると、気が付くとうたた寝している。もう休む。
林丈雄君から機械のことでいろいろ助言されているのに、どういうことをどうすればいいのか理解が届きかね、情けない。わるいアタマが一段とわるくなっている。
遠い遠い昔の亡き給田みどり先生の歌集に、身を沈透くように読み耽る
2011 10・7 121
☆ 独り敬亭山に坐す 李白
衆鳥高く飛び尽くし 孤雲独り去って なり
相看て両つながら厭はざるは 只 敬亭山のみ有り
* 「静夜思」とならんで、ことに好きな李白詩。ティロパやバグワンの歌いまた説いている「マハムドラー」とは、この李白と敬亭山との「一致」のようではあるまいか。
このところ、しかし、唐詩以上に、昔の岩波文庫版で『陶淵明集』を懐かしんでいる
酒有り酒有り (ひま)をえて東の窗(まど)に飲む とか、
人も亦た言へる有り 心に称(かな)へば足り易しと。
この一觴を揮(つ)くして 陶然として自ら樂しむ。 とか。
吉備びとの有元毅さんに頂戴した名酒「八海山」一升も、かく陶然と揮(つ)くし、かく陋屋で自ら楽しんだ。有り難し。
2011 10・12 121
☆ 雑詩の一 陶潛
人生 根帯無く、
飄として陌上の塵の如し。 (陌は街路)
分散して風を逐うて転ず、
此れ已}(すで)に常身に非ず。
地に落ちて兄弟と為る、
何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならん。
歓を得ば当(まさ)に樂しみを作(な)すべし、
斗酒 比鄰を聚む。
盛年 重ねて來らず、
一日 再び晨(あした)なり難し。
時に及びて当に勉励すべし、
歳月 人を待たず。
* 老境の独白ではない、むしろ若い人に寛大に友(=わたくしの謂う身内) を得て楽しみ且つ勉励せよと語っている。「人生 根帯無く、」 「何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならん。」といさめ、「盛年 重ねて來らず、一日 再び晨(あした)なり難し。時に及びて当に勉励すべし、歳月 人を待たず。」と。
此処へ来て我が老境のとりかえしのつかぬ実感に呼応し、切実。 2011 10・18 121
* とにもかくにも疲れを一掃したい。また本の発送に取り組まねば。
「一日 再び晨(あした)なり難し。時に及びて当に勉励すべし、歳月 人を待たず。」
2011 10・18 121
* 六時ごろから寝付けなくなり、そういうときは、手を延ばせば届く書架から本を抜き出す。
「源氏物語 若菜下」では優麗かぎりない六条院での「女樂」や、その後に続く光と夕霧との、また紫上との、音楽演奏等についての美しい対話を楽しんだ。そして「栄花物語」は御堂関白道長造営のいわゆる「御堂」の豪奢と不思議を経て、巻第十九へ移った。
「ジャン・クリストフ」では、知り合い親しくなった女優とクリストフとの一風ある「人間的」な交際・恋愛が生き生きと面白く進む一方、「谷間の百合」では、モルソフ夫人アンリエットの、フェリックス子爵に対する深い深い絶望と失恋・嫉妬の間近な死へ、のっぴきならない悲歎のさまが物語られて行く。
チェーホフの短篇「ライオンと太陽」も、おみごとという切れ味。そして今、もう一編、瀟洒に巧まれたフランス文学、パトリック・モデイアノの『ある青春』に乗っている。作品の風味も色彩も初体験のような気がする。
このところ妙薬の美味を味わうように、大西巨人さんに戴いていた詞華集『春秋の花』を、数頁ずつ翫味し嘆賞している。本の表の見開きには、巨人さん自筆の住所と献辞とが貼り込んである。
しみじみ佳い本である。
そして、バグワン。
* それだけで終えても、一冊ずつの読み時間が長くなり、時計を見ると八時を過ぎていたので起きた。
2011 10・20 121
* なぜか漢字が読みたくて。
背を押されるように、宋の黄堅が選し明治の久保天随が釈義して前後二集ある和綴じ『古文真寶新釋』の前集を、わきの書架のてっぺんから引き出してきた。『唐詩選』五冊や、 他にも漢籍の何冊かが書庫から持ち出してある。
『古文真寶新釋』は中学の頃から、二階への隠れ梯子段の一番上、古い箪笥にもたれ込んで、ただもうやたらにめくっていた。前集だけでも「勧學文」に始まり「五言古風短篇」「五言長篇」「七言古風短篇」「七言古風長篇」「長短句」「歌類」「行類」「吟類」「引類」「曲類」と内容豊富。解題も作家小傳」も備わっていて、こういうところは子供でも読む気で読めるから、司馬温公も白楽天も陶潛も李白も杜甫も、名前だけはお馴染みになっていた。
長文は難渋するが、いわゆる絶句、律詩ならすこし難しくても返り点がしてあれば読めた。漢字表現の詩趣や世界に慣れてきた。なにしろべらぼうに広大な中国ゆえ、地理・地名や国名には追いつけないが、風趣は察しられる。
近来・現今の中共中国は甚だ苦手だが、歴史国家の中国には畏敬の想いもあいまいではあるが親愛の情ももっている。ときおり痛切に「漢字での表現」が懐かしくなる。現実がよほどイヤなときの逃避であるかも知れない。
いまパラッとめくるとこんな詩が現れた。子供心に興味をもった懐かしいような、三国志後語とでも謂うか。
☆ 七歩詩 曹植
煮豆燃豆 。 豆を煮るに豆莢を燃す。
豆在釜中泣。 豆釜中に在つて泣けり。
本是同根生。 もと是れ同根の生なるを。
相煎何太急。 相煎ること何ぞ甚だ急なる。
題義 曹植は、曹操の少子で、極めて文才があつた故に、父に愛せられ、一時は嗣にもならうとしたことがある。やがて、操の死後、兄なる曹丕が飼いで魏王となると、いたく、植を憎み、之をいぢめ、ある時、植に命じ、汝は詩を作ることが早いといふ評判だが、今、七歩の間に一首を作れ、もし出來ぬときは、大法に行つて、殺して仕舞ふぞといつた。すると、曹植は、七歩どころか、声に應じて、この詩を作り、曹丕も感心し、再び友愛を篤くしたといふことである。
字解 「 」 豆がら。即ち豆の莢。
* 三国志はまだ読んでいなかったけれど、詩のおもしろさには、この解題で事足りた。
2011 10・20 121
☆ 酒を飲む 二十首 陶淵明
余閑居して歓び寡く、兼ねて秋の夜
巳に長し、偶々名酒有り、夕べごと
に飲まざるは無し。影を顧みて獨り
尽し、忽焉として復た酔ふ。既に酔
ふの後、輒ち数句を題して自ら娯し
む。紙墨遂に多くして辞に詮次無し。
聊か故人に命じて之を書せしめて以
て歓笑と為すのみ。
其五 其の五
結廬在人境 廬を結んで人境に在り、
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し。
問君何能爾 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)る、
心遠地自偏 心遠ければ地自(おのづか)ら偏たり。
採菊東離下 菊を東籬の下に採り、
悠然見南山 悠然として南山を見る。
山気日夕佳 山気 日夕佳なり、
飛鳥相與還 飛鳥 相與(あひとも)に還る。
此中有眞意 此の中に眞意有り、
欲辯已忘言 辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。
詩意 わが廬(いほり)は、深山の奥でもなく、矢張、人間の境に在るが、しかし喧しき車馬の声も聞こえない。そは、何故かといふに、我が心、世を厭離したから、たとび、喧境に居ても、偏僻の地も同様に思ふからで、何事も心の持ち様次第である。かくて秋の日東の籬の下に咲き匂ふ菊を折り、ふと首を挙ぐれば、ゆくりなくも、南山が目の前に見えた。その南山の山気は、朝夕翠にして、景色えもいはず、鳥は暮になれば自ら飛び還るので、あらゆる物は、その天性を得て、毫も係累なく、身、亦た其中に在れば、さながら、宇宙枢機の一端に接触したるが如く、かくて我、試み個中の眞意を述べむと欲するも、吾自ら眞意に入り、その言を忘却して、復た言ふことが出來ぬ。
余論 採菊の二句は、この詩の生命で、東坡は、之を解して「採菊の次、偶然山を見る、はじめより意を用ひずして、景、意と會す」といつた。即ち期せずして、天我契合の聖境に到達したので、田園詩人たる陶淵明の本領は、まさしく、此辺に在る。
* 詩は岩波文庫『陶淵明集』で幸田露伴・漆山又四郎に随い、詩意以下は『古文真寶新釈』前集で久保天髄に聴いた。
この詩を高校に入って漢文の教科書で読みまた習ったときの新鮮な感銘を、昨日のように忘れない。云うまでもない、「菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。」「此の中に眞意有り、辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。」に、肺腑を、こよない憧れと共に衝かれた。
以降数十年、思い屈する時にも日にもこの詩句に還ろうともがいてきた。
ティロパの歌う、バグワンのかたる「マハムドラー」を、陶詩はうたっていた。「期せずして、天我契合の聖境に到達し」ていたのだ。読者はわたしの「 湖(うみ)の本」 の裏表紙に、井口哲郎さんに刻して戴いて、「帰去来」三字の印してあるのをみられるであろう。
2011 10・21 121
* 今度戴いた馬場あき子歌集『鶴かへらず』は、佳い。
一首一首に腰のねばりがあり、表現や措辞や「うた」の魅力に溢れている。馬場さんにはたくさんの歌集をもらっているが、『鶴かへらず』は読みごたえ最良の一冊の気がする。佳い歌集に出逢うのは、まこと、嬉しいものです。
2011 10・22 121
☆ 元気ですよ。 泉
先日晴天を見越して、我が家から一時間の近場にある立川の昭和記念公園で四万本の満開のコスモスを友人達と愛でてきました。二万歩の歩行数にも満足。七十五歳、足と口は何とか達者に過ごしています。 お元気で。
失礼 秋桜は四万本ではなく四百万本でした。コスモスは昔から色も風情も大好きな花です。
* わたしも殊に好きな花である。 雨の日の雨うつくしき秋ざくら という自句を小説『糸瓜と木魚』に書き込んだこともある。 2011 10・22 121
* 西宮の歌人井上美地さん著になる「竹むきが記」私論と補遺の一冊を頂戴した。女流日記検討また紹介の歴史に『とはずがたり』に次ぐ中世日記を加えて貰ったわけで、これは、ありがたいことである。「私論」の名のとおり、今後の訂正や充実がなおなお期待されるけれど、それでも、とてもありがたいことである。書きおかれたのは相当以前だが、井上さんはわたしよりも七つばかり年長。歌誌「綱手」の編輯にも論攷とうにも元気に働かれている。南北朝乱世の「告発者」である日野名子の名を印象にとどめる好機となろう。
2011 10・22 121
* これも『古文真寶』前集。 昨日お城に行くことがあり、いま帰ってきて泣き濡れている。城内には全身お蚕づくめに綺羅を飾った人ばかり。だがあの人達はわたしのような養蚕の苦に日々まみれている人ではないと、「無名氏」の詩が遺っている。
夏の真昼時、田の草取りをすれば流れる汗は稲の根土に滴り溜まる。暢気に日々の飯を食っている人たちは、その一粒ずつが辛苦の産であると知らない。
春には一粒の粟をうえ秋には萬顆を収穫している。 四海に閑田はない。しかも農夫はなお多く餓えて死んでいる。
「農」を憫むそんな李紳の二首もあるのを、今、読んだ。
むろんそんな詩を子供の目で『古文真寶』から読み得ていたわけはない。が、その年頃に「簑きて笠きて鍬もって お百姓さんご苦労さん」と幼稚園の教室でこう歌っていたのは当然であった。しかも「今年も豊年満作で お米がたくさんとれるよう」という唄のしめくくりが、「朝から晩までお働き」とあったその「お働き」に、わたしはどうしても納得できなかった。「働いていらっしゃる」の意味であるのだろう、だが「せっせと働け」と受け取れ、むしろそうとしか受け取れなくて、なんともいえず不快であったのを忘れない。
歌詞という文藝の拙なるに過ぎまいが、わたしが推敲を自然に憶えたのは、文を「読んで」よりも、こういう歌詞を「聴いて」の感覚的な快・ 不快からであったと思い当たる。
2011 10・23 121
* 久しぶりに電動をつかって一時間半、自転車走してきた。隣県新座市の堀之内病院のわきから志木街道へ出、長命寺前で左折し、清瀬駅の「南」側へ出るよう気配りしながら、黒目川清流にそって降り、落合の川沿いへ転じて、ひばりヶ丘から帰ってきた。尻の肉が落ちてしまい、尻痛値がはなはだ高かった。左脚の付け根にも痛みがきた。疲労度はさほどでなかった。
この道はいつか来た道。もう一年余も走ってなかったうちに、此処は広い芝生と憶えていた一面に小住宅が建ち並んでいるなど、世の様々は変化の波に洗われていた。ああそうか、やはりそうかと思いながら、暑くも冷えもしない好天の武蔵野の空気を吸ってきた。
* この道はどこへ行く道 ああそうだよ知ってゐるゐる 逆らひはせぬ 湖
2011 10・23 121
* 昼食のあと、だらしなくまた寝入ってしまった。自壊作用が起きているかのよう。
半日一日も早く卸しておきたい肩の荷の、まだ、どの一つも卸せぬままべんべんと日が経ってゆく。放っておけばいいという内心の声が大きくなるにつれ、日一日、心身は芯から腐蝕してゆく。ものの順序が根から間違っている。
* この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる逆らひはせぬ 湖
* 陶潛の「五柳先生傳」を愛読し、しばらく心身を労る。
2011 10・25 121
* 「 湖(うみ)の本」 新刊の、初校、再校、三校分が入り交じりに出そろってきた。思わず一息ついて、三校し再校しやがて初校分に目が届く。変則な組み付けだが、建て頁も思い通り行っていて、あとがきはこれからの仕事だが、うまくすると十一月末には送りだせるかも知れない。
わたしの根気と体力がいつまでもつか分からないが、一創作者として「くらき」に帰っていい心用意は、或る意味、今度のこの巻で小さな形を得るだろう。あとは、心残りなく成ろうかぎり小説へ立ち返りたいと願うが、どうしようもない心の邪魔が道の前に固まっている。所詮わがことでもわがためでもない。蹴飛ばしてしまいたい。
☆ 影答形 陶潛
存生不可言 生を存すること言ふ可からず、
衛生毎苦痛 生を衛(やしな)うて毎(つね)に拙きに苦しむ。
誠願游崑華 誠に崑華に游ばんことを願ふも、
然茲道絶 然として茲の道絶えん。
與子相遇來 子(し)と相ひ遇うてより來(このかた)、
未嘗異悲悦 未だ嘗て悲悦を異にせず。
憩蔭若暫乖 蔭に憩うては暫く乖(そむ)くが若(ごと)くなれども、
止日終不別 日に止まりては終(つひ)に別れず。
此同既難常 此の同(とも)にすること既に常にし雛し、
黯爾倶時滅 黯爾(あんじ)として倶時(くじ)に滅せば。
身没名亦尽 身没して名も亦た尽きなん、
念之五情熱 之を念(おも)うて五情熱す。 喜怒哀楽愛
立善有遺愛 善を立つれば遺愛有り、
胡為不自竭 胡為」(なんすれ)ぞ自ら竭(つく)さざるや。
酒云能消憂 酒は能く憂を消すと云へども、
方此 不劣 此に方(くら)ぶれば (なん)ぞ劣らざらん。
* くらくらする。
2011 10・26 121
* ときどきヘンなことを思い出す。むかし、まだ若かった伊藤ゆかりとかいった歌手がいて、三人娘の中では好感をもっていたが、彼女のヒットソングで、「あなたが噛んだ小指が痛い」というのは、なんとやら合点が行かなかった。「あなた」とは男だろうと想われる。男が女の小指なんか噛んで、また女も噛まれて、そは、何事であるのかわたしには分からなかった。川端康成の『雪国』のように女が久しぶりに逢った男の指を、真実愛憎こめて噛むなら、分かる。それとて「小指」なんぞ噛むものか。歌謡曲の歌詞はときどき、こういうデタラメが混じるようだ。
しかしまた、美空ひばりのごく晩年の絶唱歌のひとつに、たしか「春は二重に巻いた帯」が「三重に巻いても」今秋は余るといったのが有った。作詞者の巧さか気障かと思った人は多かろうが、あれは、作詞した人が積んだ底荷からうまく利用したのである。あの歌詞は、まさしく万葉集の歌の中にほぼそのまま表現されてある。
* 「あめあめ降れ降れ」という歌が好きであった。「ピッチピッチ チャプチャプ ランランラン」というリフレインもこの歌では清々しいまで利いていた。幼稚園で月に一冊ずつ配本されるキンダーブックで初めて見たように覚えている。キンダーブック、大好きだった。家の何処かに、わたしは今も秘蔵している気がするが。
あの「雨、雨、ふれふれ」では、傘がなく柳の木蔭で雨に濡れている子に、自分の傘を貸してやる。
「ボクならいいんだ 母さんの 大きな蛇の目に入ってく ピッチピッチ チャプチャプ ランランラン」という、此処へ来ると、わたしは羨ましくて嬉しくて、こっそりと泪を手でふいた。 今も、泪がとまらない。
2011 10・26 1221
* 高麗屋より『幸四郎的奇跡のはなし』と題した一冊を貰い、興に惹かれるまま読み進んでいる。写真もふんだんに入って、断想の構成されたものながら、それぞれに俳一句でしめくくるなど、筆者の愛着と意図とがうまく発光している。大方の話材はこっちももうよほど承知していながら、同じ話材への読みや理解にあらたな思索が加えられており、思わずおどろかされる深みがある。「伝えられた歌舞伎の魂を受け継ぎ、演劇として進化させたい」とは幸四郎丈の変わりない信念だが、進化に励んできて深化に静まりゆく役者魂を、それら断想の少ない言葉数に豊かに言い表している。それこそがこの本の立っている、またひと味新たな境地に想えて、わたしは、嬉しくなる。この新しさは、とってつけた彼の「抱き柱」とはちがう。体験に鍛えられたのはまちがいないとして、しかも松本幸四郎のこれが「個性」「才能」そして「素顔」なのだと想う。いや、素顔にまで「成って」来たのだと思う。
まだ頁は半ばだが、この感想と称讃は裏切られないであろう。
俳句づくり一層の深化、いや進化、にも心より期待したい。この十年、俳句は苦手としてきたわたしが、ときどき自分でも俳句らしきを書き散らしまた書き留めてきたのには、幸四郎俳句の刺戟が有るのでないかと自覚し、これも感謝している。
2011 10・27 121
述懐 平成二十三年( 2011) 十一月
世の中にまじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ我はまされる 良寛
秋の月仰ぎてのみもありがてに
筆の林をわけぞわづらふ 秋成
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
この道はどこへゆく道 ああさうだよ
知つてゐるゐる 逆らひはせぬ 湖
うそくさいわれが可笑しく空を見る
晴れた日もある雨の日もある 有即齋
保谷野秋色
* 美しい保谷野の秋色を写真で入れたが、何故だか転送できなくて。どうしてよいのか分からない。わたし独りで楽しんでいる。
* ご夫妻 「脩士(しゅうじ)」君 誕生 おめでとう。
写真可愛いねえ、可愛いねえ。おめでとう!
奥さん ようがんばりましたね、おめでとう。
十月や 子生まれ親も生まれける 湖
良夜かな赤子の寝息( )の如く 富安風生
いつかいつかと、一日一日夫婦して気をもんでいました。よかった。
みなさんのお慶び、わたくしどもも。益々の ご平安祈ります。
いま、妻がささやかなお祝いの荷造りを用意しています。 秦恒平
2011 11・1 122
☆ 尋隠者不遇 賈島
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知処
* 何ともいえずこの五絶が好もしい。師は非在でなく不在なのだ。だが、薬草をとりに雲深い山中に在るとしか分からない。それが懐かしい。有り難い。目をとじ美酒の盃を引くような嬉しさだ。
2011 11・1 122
☆ hatak さん 酒少々
先週より出張に出ており、つくばでワークショップ3日間、東京で打合せ1日、青森で学会2日間を終え、今日東京に戻りました。青森からお送りしたお酒が、お知らせする前にもう届いてしまい、順序が逆になってしまいました。ご体調をみながら少しずつお召し上がり下さい。
明日は母校で講義、明後日東大で学会、明明後日日大で講義をして、札幌に戻る日にようやく父の墓参りをします。
東京は暖かいですね。でも、くれぐれもご自愛下さい。 maokat
* 以前に呈した秋石描く侘びに侘びた「虫」の長軸が、北の国でも生きる頃おい…などと想っていた。そこへずしりと美酒が届いて嬉しかった。この贈り主は、しかし、お酒を上がらない。「酒のまぬ紅葉の客や さむさうに」という仕儀になる。忙しく動いているお人ゆえ寒くはあるまいが、出逢うに出逢えないのが残念です。学会や大学での講義なら、お仲間もいろいろ有るのかも。怪我なく東都の秋を楽しまれるように。
☆ 秦先生 ありがとうございます。
昨日、ご返信いただいていたにも関わらず、お返事ができず、大変失礼いたしました。
出産予定日まで、全く生まれる気配はなく、少し遅れるかなと思っていたところ、予定日の夜に産気づき、翌日の未明には生まれる、という安産でした。
とは言え、妻は本当によく頑張ってくれたなあと心から感謝致しました。
「”親がいて子が生まれるのではなく、子が生まれて親も生まれる”と秦先生が詠んでくださった」と妻にも伝えさせていただきました。
私も妻も、この句に気づかされるところが大きかったです。
良夜かな赤子の寝息( )の如く 富安風生
この一文字は悩みに悩みました。新米の親にとっては、微かに聞こえる赤子の寝息が「生きている証」のようにも聞こえます。「風に揺られる葉っぱの音」のようなイメージかなあ…などと思い「葉」かなあとも思ったのですが、どうも前後のイメージがマッチしません。
ギブアップ気味に調べてみると、「麩」とのこと。 (「 湖(うみ)の本エッセイ」29 を参照)
「麩」ならば、生活の様子まで垣間見えてくるように感じました。「深いなあ、私には思いつかないなあ」と思いました。
「良夜かな赤子の寝息麩の如く」
昨晩、妻の実家で聞いた、脩士の寝息を思い出しながらいま改めてこの句を見ると、「なるほどなあ」という気持ちにもなります。
秦先生、奥様に心から感謝申し上げます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
また、お逢いしたいです。 慎
☆ 霜月二日 播磨の鳶
老弱法師のように杖をつく姿・・( あまり目に浮かびません。勝手にそう思いたくないのかな。) 杖をついて東京の街を歩くのは、乗換えなど場所によってはかなり長い距離を歩かなければなりませんが、それなりに気分転換にも大いにプラスです。人がどう思おうが気になさらず、気概に満ちて歩いてくださいと、遠くから鳶は祈ります。
何より鴉は安閑とは生きていないからです、闘っているからです。弱法師ではありません。勿論、安閑自在に生きることも弱法師もわたしは否定できません。人の姿のありのままを人と、互いに見つめたいと思います。
摩訶不思議そうな本、折りにふれて唯楽しんで読めますように。トールキンの指輪物語は映画化され、そのほとんどを観ました。戦争の場面がけっこう多くて、戦いの場面ではハリーポッターの画面の方が好きでした。年齢らしからぬ映画鑑賞かもしれませんが、この類の映画をけっこう見に行くのですよ。『ハリーポッター』のご所望はなかったので送りませんでしたが、いかがですか?
まだ暖かな日がいくらか続きそうです。外歩き楽しんで元気に元気にお過ごしください。
* ありがとう。ま、この鴉、あまりもう闘ってなどいませんが。「柿の木に柿の実が生りそれでよし」という少し以前の自句に身を添わせたいと願っています。
2011 11・2 122
* 野田という新総理には、このひとが早く早くに党代表選に名乗りを上げた頃から、へんにウサンくさい不信感がぬぐえなかった。なにごとであれ、無表情に時に鉄面皮にゴリ押しして行きそうに想えたからだが、「脱原発」から逆行の舵とりが早くもみえてきたし、米国への追随も平気で進行させそうで、菅総理にはむしろありえなかったような、保守的で財務主導の政権維持と官僚支配のためなら、黙々のうちに何でも既成事実化して行く懼れが、すでに露わになっている。自民政権へ逆流して行くにひとしいのをわたしは危惧する。
ほとほと、イヤになる。
劉程之の信に酬いた陶潛の、こんな詩を、想ってしまう。フクザツである。ハイキングでもしたい。
窮居して人用 寡く、
時に四運の周るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已に秋を知る。
新葵 北 に鬱として、
嘉 南疇に養はる。
今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不やを知らんや。
室に命じて童弱を携へしめ、
良日 遠游に登らん。
2011 11・4 122
* 目覚めて、頸のうしろが、やや、かたまっている。頭髪の下もモヤモヤしている。真夜中から夜明けへ、よく降っていた。
くすくすと誰かがわらう 俺がかな
くすくすとわらう 誰かな俺がかな
明け方の夢で、えらく熱心にどっちがいいかと検討し続けていた。バカげてますね。
2011 11・6 122
* 読み書き算盤と、よく子供の昔聞いた。算盤はダメだが、結局「読み」と「書き」の一生になった、願ったまま。それも終盤。「柿の木に柿の実が生りそれでよし」。それ、「神釈」か。
老少同一死 老少同じく一死、
賢愚無復数 賢愚また数ふる無けん。
日酔或能忘 日に酔うて或は能く忘るれども、
将非促齢具 はた齢を促(つづ)むるの具に非ずや。
甚念傷吾生 いたく念ふ吾が生を傷ましむることを、
正宜委運去 まさに宜しく運に委ね去るべし。
縦浪大化中 大化の中に縦浪として、
不喜亦不懼 喜ばず亦た懼れず。
應盡便須盡 盡くべくんば便(すなは)ち須(すべから)く盡くべし、
無復獨多慮 また獨り多慮すること無かれ。
2011 11・9 122
* 千葉のお人へ
去年の今頃 百花園にご一緒したのではなかったでしょうか、思い出しています。ご機嫌いかがですか、お変わり有りませんか。
私は今年の四冊目をさきほど印刷所へ責了、二十五日の発送開始へ向け、発送用意に取り組みます。九月をまるまる寝て過ごした感じで、いまも、格好の上では寝て本を読んだり起きて機械の前へ来たりという按配で居ます。とくにどこが工合わるいというのでもなく、ま、相応に懶けて過ごしているのでしょう。好きな能会も、どうしても起きあがれず、二つ、欠席して寝て過ごしたりしました。
お顔を見たいと想いますが、秋冷えの街へ引っ張り出すのは、遠慮です。勝田さんは勝田さんならではの器用なお楽しみでお家で楽に過ごしておられることと想像しています。いっそ、私の方から、お近くまで出向いて会うのがいいかなあと想うときも有ります。
お大事にお大事にお過ごし下さい。 湖
☆ 感旧詩巻 旧詩巻に感ず 白楽天
夜深吟罷一長吁 夜深けて吟罷み 一長吁、
老涙燈前湿白鬚 老涙燈前に白鬚を湿ほす。
二十年前旧詩巻 二十年前の旧詩巻、
十人酬和九人無 十人の酬和九人は無し。
☆ うれしい、懐かしいメール、ありがとうございます。
秋冷えだろうが冬寒だろうが、ご遠慮ご無用です。
やはり東京がいいです。百花園程度は動けます(たぶん)。
よろしくお願いします。
「今年の四冊目」楽しみにしております。「廬山」「猿の遠景」…を拝見してから随分時が経ちました。
相変らずのそのそやっております。(以下省略)
陽気の変わり目です。くれぐれもお大切にしてください。
落ち葉降り止まず急ぐな急ぐなよ ?(楸邨?) e -OLD千葉 拝
* うてば韻くなあ。お元気がなにより。
2011 11・10 122
* 永く身のそばを放さない一冊に手が伸びた。大学で、非常勤の講師先生に習ったとき、教科書として買った創元社刊、澤瀉久孝・佐伯梅友共著『新校萬葉集』一冊で、奥書も付いて、四三一六首ぜんぶ収録されている。読みがきちんとふりがなしてあり、正確に番号もふられてあり、ありがたい実に便利なハンディな一冊。表紙がちぎれそうなほど愛用してきたのも、ガムテープで抑えてある。専攻の原書はべつとして、大学の教室で用いた本で手元にのこった只一冊。
いくつも爪ジルシのついた歌があちこちにある。たまたま開いた頁には、「正述心緒」のこんなのが、 有る。
面忘 何有人之 為物焉 言者為金津 継手志念者 (二五三三)
おもわすれ いかなるひとの するものぞ
われはしかねつ つぎてしおもへば
「言」の字が「われ」と読んである。漢詩でも、古詩には何度もそう用いられている。
萬葉集は、底知れぬ、日本語と真情との「宝庫」だと思ってきた。
☆ 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可禰都 鳥爾之安良禰婆 (八九三)
よのなかを うしとやさしと おもへども
とびたちかねつ とりにしあらねば
* まことや。
2011 11・11 122
* 無事に『指輪物語』文庫本九冊 今日頂戴。感謝。 鴉
昨日の夕過ぎに届いていたのですが、雨の中、留守にしていました。
おかげで、引き続いて読めます。訳もよく、楽しめます。ファンタジイに没頭していると、ますます世離れて行きそうですが、わるくは思いません。
ぜんたいに、いま、心身活気が無く、本にも誘惑され、ともすると横になって読んでいます。睡魔も容赦なく襲います。
萬里路長在 六年今始帰 所経多旧館 大半主人非 白居易
当時歌舞地 不説艸離離 今日歌舞盡 満園秋露垂 無名氏
ついこういう詩に目が留まります。秋心ですかね。
バグワンは言ってくれます。じっと聴いています。
おまえは内なるものへと足を踏み入れなくてはいけない
現実リアリティはそこにある
おまえはもっともっと深く
おまえの実存の深みへ降りて行かなくてはならない
それが何であれ自分がいまいる場所を
いまの自分を
そして自分に起こっていることのすべてを受け容れてごらん
それではじめて
おまえは「ゆったりと自然に」なれる
さもなければそれは空念仏にしかすぎない
無理をしたり
自分の実存の中に緊張をつくろうとしたりしないこと
リラックスだ
ゆったりと自然にしていれば
間もなくおまえは
存在とのオーガズミックな絶頂( マハムドラー) に至るだろう
それはおまえに起こるのだ
達成できるものじゃない
それに手を伸ばすことはできない
それのほうがおまえのところへやって来るのだ
おまえはただ受け身で
ゆったりと自然にして
そして、しかるべきときを待つことができるだけだ
何ごとにもその時機というものがある
それはその時機に起こる
なんで急ぐ?
それはおまえに用意のできたとき不意にやってくる
足音さえ聞こえない
突然来る
おまえにはそれが来ていることさえもわからない
それが花開くと
突然、おまえはその開花を見
芳香に満たされる
2011 11・12 122
* 人は、何度でも生まれ変わっています。 hatak
☆ 菊花 白楽天
一夜の新霜は瓦に著きて軽く、
芭蕉は新たに折れ敗荷は傾く。
寒に耐るは唯東籬の菊のみありて、
金粟の花は開き、暁に更に清し。
2011 11・13 122
* あけがたの夢で、しきりに何かを論じていた。短歌表現のことか。一例として啄木の「働けど働けどわが暮らしらくにならざりじつと手をみる」をあげて、「これでいい」「これがいい」「これでいいのか」という三つの「認識」を検討していたように思う。言いたいこととして「これでいい」、言うべきこととして「これがいい」、短歌表現として、歌として、「これでいいのか」。そんなことを、観念的なイデオローグを内包した概念のかったふうな短歌群について、熱心に、独りで論議していた夢として、朧に思い出せる。 2011 11・14 122
* 自民党山本一太の予算委員会での野田総理追究は、的確だった。総理の回答も、なんでもかでも喋りすぎた鳩山や菅よりは叮嚀に狡猾であった。在来の自民党総理の答弁術に著しく接近していて、政権党が民主党であるのをつい自民党のように錯覚させる。その辺に近来の国会の、政治の、曖昧な危険さを感じ取る。
* 機嫌を持ち直したくなると、古詩に対う。
☆ 客中行 李白
蘭陵美酒鬱金香 玉碗盛來琥珀光
但使主人能酔客 不知何処是他郷
* この詩好きで、思い出もある。作家として立って間もなく雑誌「藝術生活」の連載依頼をうけたとき、趣向を立て、古今東西の美術の写真に合わせ、枚数を厳格に決めて写真説明でない掌説を書こうと。撮る写真も自分で選んだ。第一回に、東博で唐三彩の武将像を選んで写真にし、「盃」という、あれは正三枚だったか四枚だったか、「掌説」を書いた。「てのひらの小説」という康成にならった一般の抄がまだるっこしく、わたしは端的に「掌説」と書き示している。
☆ 盃 秦恒平
李白は振りかえった。たしかに誰かが呼んだのに、人の姿がなかった。李白は眼を惹く店先のひとつのさかづきを買った。わずかに掌(て)にあまる、青みを帯びて美しい荊州の白瓷(はくじ)であった。
家に帰ると李白はすぐ酒がめを引き寄せた。眼を細め、李白はさかづきに酒を注いだ。とくとく、とく、くとく、とく。酒はさかづきに満ち、満ちたかと見る間に美しい琥珀色は汐の乾くようにさかづきの底に沈んでしまった。
とくとく、とく、とくとく、とく。李白は眼を疑いながら徳利を傾け、燦く酒の艶を急いで唇(くち)に受けた。またもや酒は漏れるようにみるみる消え失せ、芳醇の香気がむなしく李白の鼻を打った。
これはひどい。思わず李白は呟いた。すると、答えるようにさかづきの底から酒が湧き溢れた。李白は大慌てで飲み干した。
三度めの酒は穏かにさかづきに波打って光った。李白は幸福そうに、盛りあがった酒の色香に顔を寄せた。白玉(はくぎょく)のさかづきの底に、李白を見て笑っている一人の男の顔があった。人の良げな男は、揺ら揺る酒の中で笑みくずれ、物言いたげな眼をしていた。
李白が問うと、さかづきの男はこんな事を言った。
自分は昔淅県の参軍まで務めた者だが、酒で官をあやまり市隠のまま一生を終った。好きな酒はやめられなかった。死に際に自分は人を呼んで、かならず我を陶家の側に埋めて呉れよと頼んだ。願わくは百千歳の後に化して一塊の土となり、幸い採られて酒壺とも成らば、実に実に我が心を獲ん、と。
さて自分はかようなさかづきの底に栖む事を得たけれど、不運にも久しく店頭にさらされて美酒に遇わず、今日貴公の眼にとまったのは千秋の僥倖、はなはだ有難い。毒味までに一杯お先に頂戴したーー。
李白は手を拍ち大笑してこれぞ酒中の仙、莫逆の友と、それからは、先ず李白が一杯、つづいて男が一杯、仲良く代わる代わる飲みかわして夜の更けるのも厭わなかった。
李白が戯れて歌を所望すると、男はかがやき揺れる酒の下から、美声を張って朗々と唄った。
蘭陵の美酒は鬱金の香 玉椀盛り来たる琥珀の光
ただ主人をして能く客を酔はしめば 知らず何れの処か是れ仙郷
夢にも恋しい故郷の酒を いざなみなみと酌みたまへ
この家の主の客あしらひに 酔うてうたへば花が散る
酒は百川をも吸う勢いでさかづきの底へ引かれて行った。李白は喝采して、そんな窮屈ところに居ないで出て来ないかと誘った。おうと叫んで、忽ち筋骨うるわしい精悍な武人が李白の前にどっかと坐った。
二人は庭上の春色をめでながら、今度は先ず客が一杯、次に主人が一杯、物も言わず泣きみ笑いみ応酬やむ所を知らなかった。
とうとう李白は盛んに酔を発し、ぐるぐると両手を振りまわして唄い出した。
両人対酌山花開く 一盃一盃また一盃
我酔へり眠らんと欲す君しばらく去れ 明朝意有らば琴を抱きて来たれ
花を浮かべて酌むさかづきに 夢も匂へや星あかり
酒がめ枕に寝たまへ倶に 明日も聴きたい君のうた
声の下で李白はそのまま酔い伏してしまった。男はひとり神色端然、しばらく美味そうに酒を口に含んでいたが、やがて皮ごろもを脱いで李白の肩に被せ懸け、かき消す如く春の夜のやみに去った。 2011 11・15 122
☆ 招東鄰 白楽天
小 二升酒 新簟六尺牀 能來夜話否 池畔欲秋凉
* 上の詩、「拝啓」とでも前書すればよい。「お隣りさん、話しにいらっしゃいませんか」と。
☆ 池窓 白楽天
池晩蓮芳謝 窓秋竹意深 更無人作伴 唯対一張琴
* 謝は、散るの意。「だれも訪れ来ない」のである。わたしには…。読める書物あり、こうして「日乗」もできる。
2011 11・16 122
* 六条院の晴れやかな源氏栄華は、長大な「若菜」上下巻を経て、「柏木」の死、遺族の悲歎、夕霧の不審と友情、源氏や女三宮らそれぞれの哀感に浸されている。薄ら寒いかなしみの風に巻かれている。みごとな長篇の運び。幾たび読み返しても引きこまれて行く。
匹敵する長篇でも、『指輪物語』の運びは、源氏物語の写実やリアリズムとはよほど異なっている。事件はむろん在る、が、無いにもひとしいほどに主人公達の危うい逃避行は、広大無辺の世界の広さ深さに、その精緻な描写と叙述とに、ほとんど呑み込まれている。世界が主人公。ホビットやエルフやドワーフや魔法使いや野伏たち一行は、地を這う蟻のよう。しかも惻々として底知れぬ危険や悪意にかれらは追い捲られている。傷つけられている。かれらの旅がどこまで続くのか、長大な三部物語のまだわたしは第一部後半を読んでいる。
そんなわたしを今も現実として脅かし歎かせ暗い憂慮にとり包んでくるのは、日本列島に浸潤し続ける「原発爆発による放射能被害の果てしなさ」が、第一。比較すれば国会も政治も外交も、うそのように煙と化してただようだけだ、古人が「わがことにあらず」と政治や武力の無力をつっぱねた感懐は、こういう頼りなさへのいらだちでもあったのか。
☆ 夜雨 白楽天
早蛩啼いてまた歇み
残燈滅えんとして明し。
窓を隔て夜雨を知れば
芭蕉の まづ聲をあぐ。
☆ 晩秋閑居 白楽天
地は僻なり門深く送迎少し
衣を披き閑坐し幽情を養う。
秋庭掃はず藤杖を携えて
閑 梧桐黄葉を みて行く。
* ついつい、かようの感懐にこころを寄せる。それでいて目の前の仕事の山を確実に低めて行く。楽しみは就寝まえの読書。
2011 11・19 122
* 『上野千鶴子(=教授)に(=門下生たちが理論に於いて)挑む』大冊をわたしはたゆみなく、少しずつ、朱いペン片手に読み継いでいる。社会学のなかでも謂わば「上野社会学」に議論は限定されているのは当然として、上野さんから刊行のつど頂いて単行本や新書本を耽読で読んでも、門外漢のかなしさ理解の届きかねる場合が幾らも在ったけれど、この本では総合的に主題を一つ一つまたは複合的に連絡のとれた仕方で、学問としての問題点や主張や議論の長短が汲み取れる。それが大いに有り難くまた面白くて、ねばり強く本気で読み継いでいる。むろん議題は学問的なものだが、自然と「上野千鶴子」という学者ないし人の像が立ってくる、それが有り難い。
それにしても本が真っ朱になっていて、部分的にもスキャンして見なおすことが出来ない。
わたしの読書の悪癖に類するのかも知れないが、佳い本、面白い本ほど、いっぱい朱い線が引かれ、さらに黒い線がまた重ねられて、三読四読にかなり差し支える。なるべくそれをやらぬようにしようとしながら、今も『ゲーテ 人と思想』を夢中で読み進みながら朱ペンを手にしたくて堪らない。人生の師表という意味になると、わたしは「ゲーテ」そして「バグワン」を躊躇わず挙げたくなる。
☆ 陶潛詩
嗟(ああ) われ小子
(こ)の固陋を稟(う)けつ
徂年 すでに流れ
業は舊に増さらず
彼を志して舎(す)てず
此に安んじ 日に富む
我 之れ 懐(おも)ふ
怛焉(たつえん)として内に疚(やま)し
2011 11・21 122
* さてさて。
* 古稀を迎えたとき、喜寿までも元気に過ごしたいと妻と話し合ったのを覚えている。ずいぶん向こうだと想っていた。ところが此処へ来て、来月の今日には「七十六歳」を迎え、喜寿までに一年と気がついて軽い衝撃さえ感じた。まっさきに、幸い元気でおれたなら何事を成し得て記念できるかと思った。
古稀の歳には「 湖(うみ)の本」 通算八十五巻を十一月に、文庫本歌集『少年』を誕生日までに大勢の方に自祝の品として送りだせた。今年は、もう数日で「 湖(うみ)の本」 通算百九巻が送りだせる。が、さて来年の今頃は。
すこし胸の鳴ることだが、ま、鬼にわらわれまい。
* 「佞武多」一升、飲み干した、美味いお酒であった。送り主のいうことを聴いて、一気飲みはせず少しずつ深く味わった。美味かった。「今我れ樂みを為さずんば、來歳の有りや否やを知らんや。」
* もう第百九巻『光塵』の刷り出しが届いた。まったくの新刊である。毀誉あらんや、褒貶あるべし。わらって受け取ろう。
2011 11・23 122
* 新刊の『光塵』は収容された数字こそ多くないが、単なる気儘な雑纂の一冊ではなく、わたしの文学と作家数十年の一つの分母になっている。思い切って良く纏めたと、吹っ切れている。
☆ 「光塵」感謝 晴
湖の本109届きました。
『光塵』発刊おめでとうございます。ご健康が勝れない日が続いておられましたのに、ご立派な著作になり、読ませていただけ嬉しいです。
和歌に詩にと読み進んでまいりますと、不思議に気持ちが落ち着いて静かな気分になってきます。URLに掲載されている「保谷野秋色」の写真のようです。
凛とした中にも華やいだ紅葉の彩り。重ねて味わいながら読み進んでいます。
時代を共に過ごせていることへの喜びを感じながら、哀しみも思います。
小学館に掲載されていた「秀忠の時代」をURLで紹介してくださいましたので、縦書きに変換してプリントアウトして読ませていただきました。ありがとうございました。
「江」の家康、秀忠の描き方にも納得いくものがありました。
もう師走になります。どうぞお身体を休め休みしながらお過ごしくださいますように。
そして良いお誕生日をお迎えくださいますように。
* 哀しみを新たにさせたのは孫やす香を悼む歌の幾つかであったろうと思う。
2011 11・28 122
* 人事は雲の往来に同じ、太虚は清明無窮の天。 湖
2011 11・30 122
述懐 平成二十三年( 2011) 十二月
心とて人に見すべき色ぞなき
ただ露霜の結ぶのみ見て 道元
児孫の為に美田を買はず 西郷隆盛
土堤を外れ枯野の犬となりゆけり 山口誓子
七十六歳に
これやこの生きのいのちの年の瀬ぞ
にげかくれする炭小屋はもたぬ 遠
しづかさやたがなさけにも雪ふりて
ひとよのみちをあゆみわびつる 湖
東山魁夷・画 雪降る
上村松園・画 庭の雪
2011 12・1 123
☆ 陶淵明 雑詩其七
日月不肯遅 日月あへて遅れず、
四時相催迫 四時 相ひ催迫す。
寒風払枯條 寒風 枯條を払ひ、 枯れ枝
落葉掩長陌 落葉 長陌を掩ふ。 長き市街
弱質與運頽 弱質 運とともに頽れ、
玄鬢早己白 玄鬢 早やすでに白し。 黒髪は
素標挿人頭 素標 人頭にさしはさみ、 老の標の白髪
前途漸就窄 前途漸く窄(せま)きになんなんとす。
家為逆旅舎 家は逆旅(げきりょ)の舎たり、 旅中の泊舎
我如當去客 我はまさに去るべきの客たり。
去去欲何之 去り去りていづくにゆくをおもふぞ、
南山有旧宅 われには 南山に旧宅のあるなり。
* 淵明に「南山」は、事実の故郷であったが、現実を飛躍した理想の他界でもあった。わたしから観れば、帰去来(帰りなんいざ)たる、「本来本然の家」にほかならぬ。この「家」のことは小説「 畜生塚」に夙くに書いた。
2011 12・1 123
☆ 性 福田恆存 『語録 日本人への遺言』より
よく身上相談などで、「彼は一個の精神的人格として、私を求めてゐたのではなく、ただ私を通じて女を求めてゐるだけだ」などといふ憤懣が語られます。が、ロレンスにいはせると、「それなら、まことに結構」といふことになる。
男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、花子のなかから女を引きだせ、さう、ロレンスはいひます。もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとつて最も女をひきだしやすい女であるといふ理由をおいてはない。さういふ恋愛と結婚とのみが、眞の永続性をかちえる。精神だの人格だのいってゐるからいけない。といふより、誰も彼も自分の性欲を、精神的人格といふ言葉のかげに、押しやつてしまふ。人々は性に触れたがらない。いや、直接に触れたがらない。精神的愛といふ靴の革を通して、霜焼けを掻くやうに性欲をくすぐつてゐるだけだ。さうロレンスはいつてをります。 (愛の混乱・Ⅲ・三一六)
* ややこしいが全くそのとおりである。但しこの場合、男と女との逆もいえることを忘れていていいわけがない。その場合、男といい女というのも、イコール性の魅力に尽きるのではない。やはり男は男、女は女という人間であるに相違ない。
* 今度の『光塵』に、
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしかひとはかほどのまことをしらず
と歌っているが、「付き合う」以外に「恋」をしない・できない現代の若者が念頭にあった。だが和歌読みに馴染んでいないひとは、意味がとれない。「逢はでこの世」に百人一首の歌が思い出せれば、伊勢一首の歌意が共感して汲める人なら、わかってくれるだろう。「うつくし」は、美しくもあるにせよ、より深く愛おしく共感する意味である。「ひとは」とはこの場合、情けないいいかげんな人はと責めている。
難波潟みぢかき蘆のふしのまも
逢はでこの世をすごしてよとや 伊勢
もとより逢ふばかりが能ではないという姿勢もある。たしかに有る。しかしこんな歌もある。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いまとたびの逢ふこともがな 和泉式部
老境には胸に沁みる感懐と言わねばなるまい。
2011 12・2 123
* お手紙嬉しく頂戴しました。 秦恒平
☆☆さん ありがとうございます。また、おかわりない御様子で、なにより安堵致しました。
奥様のご平安、すこしでも着実なご回復を心底願い居ります、ご夫君のお心遣いはなによりの妙薬でありましょう。お疲れのないようにとねがいながら、どうぞご健闘をとも祈ります。
新刊はなかなか読者の深奥には届きかねる気儘なものと遠慮がちに本にしましたが、☆☆さんに俳味を汲んで頂けたのは本望でした。和歌短歌に身を隠すようにして俳句のようなものをそろりと提出したのでしたが、お目をとめて下さり嬉しゅう御座いました。前日にK社練達の読み手の方から、これでこそ「湖の本」と汲み取って貰えたのも有り難く、本にしてよかったと。病中病後にふと思い立ってあっというまの出版になりました。『少年』以来の小さな結び目と、仕事の間に思いも固まり、一冊が出来てしまいました。ほかの誰でもない☆☆さんには届いてくれるだろうと心頼みにしていました。
お手紙にたとえなくても☆☆さんが陶潛をお好きであろうとは察しがついていました。岩波の古い文庫本を手にし、好きに頁をくって読みつぐにつれ、☆☆さんを思い出していることが少なくありません。
採菊東籬下 悠然見南山 刻板、賜れるなら嬉しく頂戴したく。
つい数日前の日乗にも、
☆ 陶淵明 雑詩其七
日月不肯遅 日月あへて遅れず、
四時相催迫 四時 相ひ催迫す。
寒風払枯條 寒風 枯條を払ひ、 枯れ枝
落葉掩長陌 落葉 長陌を掩ふ。 長き市街
弱質與運頽 弱質 運とともに頽れ、
玄鬢早己白 玄鬢 早やすでに白し。 黒髪は
素標挿人頭 素標 人頭にさしはさみ、 老の標の白髪
前途漸就窄 前途漸く窄(せま)きになんなんとす。
家為逆旅舎 家は逆旅(げきりょ)の舎たり、 旅中の泊舎
我如當去客 我はまさに去るべきの客たり。
去去欲何之 去り去りていづくにゆくをおもふぞ、
南山有旧宅 われには 南山に旧宅のあるなり。
* 淵明に「南山」は、事実の故郷であったが、現実を飛躍した理想の他界でもあった。わたしから観れば、帰去来(帰りなんいざ)たる、「本来本然の家」にほかならぬ。この「家」のことは小説「 畜生塚」に夙くに書いた。
などと書いていたばかりでした。
いろいろに声のかかるお仕事、めんどうがらず踏み込んでお受けなさいますように。活気の素となりましょう。三つの学期に学ぶ現役の生徒と、卒業式もすませてきた卒業生とには、おのづと異なる、譬えればもっと俳味にも富んだ「把握と表現」が有るのではないでしょうか。わたくしも来年の今頃には喜寿を迎えようとしています、その辺がわたくしには三学期末の卒業式かと想えています。それからがまだ有ると言うてみたいところです、呵々。
奥様が、自身の言葉を彫るように刻むようにと仰るのは、金言ですよ。わたしは、毎年の☆☆さんの年賀状を、作品としてもたいへん珍重し敬愛していますよ。そういう作品で展覧会をなさるほどにと正直期待しています。
例年師走にはもうすぐわたくし事の祝い日が二度やってきます。今年はその二度の昼と晩とに、贔屓の染五郎、海老蔵、松緑の歌舞伎を、真実花形歌舞伎を楽しもうと待っています。昼に、「碁盤忠信」と「茨木」 晩に、「錣引」「口上」そして「勧進帳」。
この人達の時代が来ています。寂しいとは思いません、よろこんで励ましたい。
遠く離れていますが、いつも私達には身近な☆☆さんたちです。そちらの読者たちも変わらず応援して下さる方々多く嬉しい励みです。
お大切にお過ごし下さい、くれぐれも。
相変わらず機械書きの不調法はお許し下さいますよう。 師走四日晩に 秦生
* 十二月になったね。 鴉
鳶 お元気ですか。佳いメールをありがとう。
お嬢さんが、ひばりに開眼(耳?)してくれたというのが、殊に、嬉しい。
ダヌンツィオと日本の近代文学のことなど、なにも知らなかったなあ。上田敏 鴎外 花袋 郡虎彦 森田草平、白秋・萬造寺斉・木下杢太郎 有島生馬 島田謹二 三島由紀夫 筒井康隆 の名が目次に出ています。なるほどとも思い当たらぬほど この西欧作家とは無縁に過ごしてきました。腎臓病で死んでたかも知れないと脅された小学生の病牀では、「死の勝利」とか「ああ無情」という本の題は歓迎しかねたのだと思いますね。遅ればせに近づいてみたいとも、鳶の感想を信用するわたしは、思いませんが、平山城児さんの新刊には、論文集に倍する「年表編」が付されていて、この労作は優に表彰に値していると感じます。こんな歳末の出版とは気の毒です。本屋から本を出すときは一年の若い時期に出し、「去年の本」になるのの早いのを防ぎますように。それにしても、こういう労作は本そのものを外見で見ていても気持ちいいです。
ドビュッシーの「月の光」 街へ出たらさがしてみます。いいことを教わりました。
「秀忠」のこと、「大いに納得」してくれて、嬉しく。書いて置いた甲斐がありました。
『少年』のはるか後塵をあびる老境の『光塵』は、とても誰にも彼にもとは行かない性質の述懐ながら、よく見てくれる人には、おこがましいが、雨月のあとの春雨のように受け容れてもらえるものと思っていました。K社のベテラン出版部長さんや金澤の元文学館長さんの手紙をもらい、ああこれでいい、嬉しいと喜んでいます。思い切ってなんでもやってみるものです。志を、堪えてもちつづけること、それに尽きます。生活と歳月のなかで志を風化させ劣化させている例のなんと多いことか。おやおや、わたしだってそのように見られているかも知れんナアと首をすくめますが。
若いときはついセッカチです。老境ほどゆっくり歩めと思います。
伊勢うつくし 自分の和歌でひとつをと問われればこれでこたえる、カナ。
むろん、『光塵』でそろりと瀬踏みしたのは、俳句です。
現代俳句にはつよい批判をもってきましたが、では自分はとも心していました。心友である石川県の文学館長さんが、「俳」味をみとめて文人俳句の列に加えてくれたのは望外の喜びでした。
もうすぐ、七世幸四郎の曾孫たち染五郎・海老蔵・松緑の歌舞伎を、昼夜に分けて二日楽しみます。楽しみ、楽しみ。
鳶にも、たくさんな楽しみがありますように。 鴉
* 手紙など書いているあいだにも、思うことがある、思いつくこともある。あ、そういうの有りうるな、そうかその道行ってみようなどと。瞬時ふうっと身内が熱くなる。なにかが憑ってくるというか。
2011 12・4 123
* 深夜読み終えて、三時。そして四時六時と目が覚め、つどまた読んで、結局ほとんど眠れないまま八時前に起きた。どの本も面白いという幸せが不眠をさそう。
* とりわけ『ゲーテ』の評伝に胸を掴まれた。彼の、偉大な普通さの天才。当たり前のようにひろがる世界文学への実践に裏付けられた展望。亡くなる間際までの深い健康な知性と感性。奇矯でない豊かさ、偏狭でない自由。非凡で多彩な生活者、現実から足を滑らさない藝術家に徹した壮大な想像・創作力。人を惹きつけてやまない人間の大いさ。「マリエンバートの悲歌」そして「フアウスト」完成に至って、終生衰えなかった愛のある情熱と人間への洞察。
いつしれずわたしは涙をぬぐいながら読んでいた。
ゲーテの家庭生活は、不幸だった。自身は病牀にありながら重篤の病で妻に死なれ、その翌年に息子は結婚し孫三人に恵まれたがみな健康には育たぬまま、四十歳を越えたばかりの息子にも死なれていた。
☆ 「人と思想 ゲーテ」星野慎一著に拠りて
最後の恋愛 息子(アウグスト)の結婚の結婿の翌年(一鉢一七)からゲーテは三年つづけて毎夏カールスバートへ湯治に出かけたが、目だったききめがなかったので、一八二一年には初めてマリエンバートへ行って一か月ばかり滞在した。場所をかえてみたのである。マリエンバートはカールスバートの南西約三〇キロの地点にある、ボヘミアの新しくひらけた温泉村であった。ここで、はからずも、ゲーテはウルリーケ=フォン=レヴェツォーという一少女を知るようになった。たまたま彼がウルリーケの祖父母の館に止宿したのが、この奇縁を生むきっかけとなった。
シュトラースブルクのフラソス学校の女子寄宿舎に何年かすごしてようやく一七歳になったばかりのウルリーケは、ゲーテがどんな有名な人なのか、またどんな偉い詩人なのか、さっぱり知らなかった。だから、彼女はゲーテにたいしては全く無邪気な一少女にすぎなかった。それなのにゲーテは戯れにみずからに言わねばならなかった。
老人よ まだやまないのか
またしても 女の子
若いころは
ケートヒェソだった
いま 毎日を甘くしているのは
誰なのか はっきり言うがよい
翌二二年夏ふたたびマリエンバートのレヴェツォ一家の客となったゲーテにとって、ウルリーケはもはや恋の対象となっていた。ゲーテは手元に送られてきた新刊『従軍記』を彼女に贈って、その扉に次のような小詩をしるした。
一人の友の辿った道がいかばかり不幸であったか
この書は それを物語っている
されば この友の慰めとなるねがいは
折ごとに彼を忘るな ということなのだ
マリエンバート 一八二二年七月二四日
「折ごとに彼を忘るな」というゲーテの願いは、はたしてウルリーケに通じたであろうか。この日、七月二四日は、ゲーテが一か月余にわたるマリエンバートの滞在を終えた日である。彼女と別れた直後、彼は『アイオロスの竪琴』という一つの長い詩をつくった。ウルリーケにささげる詩であった。
日もわれにはものうく
夜の灯も無聊のかぎりである
やさしききみの姿を新たに描くことこそ
残されたただ一つの楽しみなのだ
風にふれればおのずから鳴りいずるというアイオロスの竪琴のひびきに、彼は恋の苦悩を託している。
翌二三年の夏、ゲーテは三たびマリエンバートを訪れた。この滞在によってウルリーケにたいする恋心がおさえられなくなる。数十年来の友カール=アウグスト大公を通して彼女に求婚する。ゲーテは七四歳、ウルリーケは一九歳である。五〇歳以上も年令の差のある結婚が世人の目にグロテスクに映るのは、全くやむを得ない。ゲーテの悲劇は、彼の愛情が彼女に通じなかったところにあ
る。彼にとっては情熱的な恋愛であっても、ウルリーケには、所詮ゲーテは畏敬と尊敬とをもって眺める親しいおじいさんにすぎなかった。
深い懊悩を老人の平静のかげにつつんでさりげなく彼がマリエンバートをあとにしたのは、一八二三年九月五日であった。ヴァイマルに辿りついたのは九月一七日である。そのあいだじゅう馬車の中でも、宿舎の中でも、彼はたえず詩作をつづけた。苦悩を表現することによって苦悩を忘れうるのは、詩人の特権である。ウルリーケにたいする失恋の苦悩も、これ以外に逃れるすべがなかったのだ。彼はわれわれに『マリエンバートの悲歌』という、きよらかにして深い、高くしてゆたかな愛の詩を残してくれたのである。
きよらかなわれらの心の底には
より高きもの よりきよらかなもの 未知なものに
永遠に名づけられぬものを みずからにときあかしつつ
感謝して すすんで身を委ねようとする努力が 高く波打っている
われらはそれを敬虔と名づける! 彼女の前に立つとき
わたしはこのような聖なる高さを 身にしみて感ずるのだ
愛人の美しさは私利私欲を焼きつくす光である。愛することは聖なる園に入ることである。ウルリーケは彼の手のとどかぬ天の門であった。老詩人の理性は、このように彼に教えている。だが、彼の情熱はなお青年のようにたぎっている。
されば涙よ 湧きいでよ そしてとめどなく流れるがよい
しかし この心の焔をしずめるすべは いずこにもありはしない
生と死がおそろしく闘っている
わたしの胸のうちは すでにはげしく狂い はりさけるばかりだ
古来詩人の数は多いし、比較的高齢にいたるまで詩作活動のつづいた詩人もけっして少ないわけではない。だが、七四歳になっても(島崎藤村の)『若菜集』のような若々しい詩情を持ちつづけた詩人は全く見あたらない。杜甫や李白には、恋の詩はない。深い人生観のにじみ出ている芭蕉の詩句にも、この恋の詩はない。四一歳にして奥の細道を旅した彼は、すでに芭蕉翁と言われていた。天成の詩人と言われたヴェルレーヌでさえ、晩年は全く頽廃してしまった。若いころ活躍した薄田泣董、蒲原有明、土井晩翠などのわが国の詩人たちを考えても、その後年の詩は著しくみずみずしさを失っている。
ゲーテが偉大なのは、何よりもこの人間の、あたたかいゆたかさにある。
* ゲーテは高齢であったが老耄してはいなかった。他の批評はどのようにも出来るだろうが、それだけは真実であったし、希有であった。愛欲でない、付き合いでもない、恋愛できる若い精神を喪っていなかった。
* いま一つ、わたしを感動させたのは、或る日本人、本家本元のヴァイマールやドイツ本国にも劣らない、まして他国のそれらに追随を許さないという、鉄筋地下一階、 七階建の瀟洒な「東京ゲーテ記念館」の存在と、創立者粉川忠さんの少年以来一貫したゲーテ愛の深さとすばらしさだ。なぜこんなすばらしい日本人の存在とその生涯のみごとさをわたしは知らずに今日まで過ごして来れたのだろう。いつか改めて触れようと思うが、渋谷道玄坂の上に戦後に建設され開館された、まさしく民間篤志の一組の夫婦のちからで起こされた「東京ゲーテ記念館」を、ぜひ先に、まずは訪れたいと思う。読みたいゲーテもたくさんたくさんある。かなり整った書店を探さねばならぬだろうが。
2011 12・5 123
* 長門から、大和から、よく選ばれた純米吟醸酒を頂戴。感謝。
☆ 『光塵・詩歌断想(一)』拝受、感謝しております。病魔とのはげしい闘いの中、何してこのような創作活動が続けられるのか、おそれいります。魔の方でほとほと先生の勢いに逃げ腰を見せているようです。ご回復を祈ります。 作家
☆ 『少年』は不識書院版で読ませて頂きました。その拾遺とその後のお作品、拝読いたしました。「詩歌断想」を厳しい気持ちで読ませていただこうと思っております。ご清栄をお祈り申し上げます。 歌人
☆ 湖の本109 一首、一句、大切に拝読しております。 俳人
☆ くれぐれもご自愛下さい。歌のほとんどわからない私ですが、じっくりじっくり読んでいます。やす香さんへの愛情に涙がにじみました。 京都市山科区
☆ 「現代百人一首」( 岡井隆撰 朝日新聞社) でお名前を拝見し、うれしく思った事がございます。 学生時代つまらない授業の時に百人一首を書きつけたりしたことなども思い出しました。
先生も奥様も、体調はいまひとつのごようす、くれぐれもお大事になさいますよう。 時代小説家
* なんでそうなるのか、読み違いをしてくる人も無いではない、「<私家版『少年』に始り文庫版『少年』で一結びになるかもしれない>という思い、良く解ります。その人にとっての最もなつかしい時代と言うのでしょうか。人間誰にもある振り返るときの想いの普遍性がこれなのではないでしょうか。……と考えつつ読ませて頂きました。」という水戸市の歌人の感想、何を以てこういう読みになるのか解りかねる。今回老境の述懐『光塵』で引き結びたかった、わたしは。
* 山形県の斎藤茂吉短歌文学賞に受賞者推薦の依頼が県の生活環境部から届いている。いろんな賞から推薦以来が来る季節になった。
2011 12・5 123
☆ 昔の詩歌を愛情を以て拾い、編まれ、その情熱に感服致します。また「詩歌断想」も面白うございます。まことに、花鳥風月を以て、得も言われぬ情趣を湛えた古今集時代の歌はなつかしいです。有る時代の月と、今の月とでは、何と、開きがあることでしょう。当然のこ事ながら。御礼のみにて。 文藝S誌編集者
☆ 「詩歌断想」おもしろく、話題満載、日本語の用い方の指摘、社会批評、興味は尽きなく、読み耽ってしまいました。ありがとうございます。ご健勝を祈ります。 阪大名誉教授 国文学
☆ とくに、ここ十年間ほどに詠まれました短歌に感銘をいただきました。調べの高さはもとより、歳月の光を内包した、澄明な境地に惹かれます。同時に、それとは反対の、うつつと夢幻を自在に行き来する美しい境も味わわせていただきました。やす香様への思いの深さ、悲傷の深さにも胸を打たれます。
向寒の折柄、おたいせつになさって下さいませ。敬具 平林たい子賞作家
☆ 雨が止み 花
茜色の空が雲のあいだに覗いています。富士山麓は雪にはなりませんが、関東では雪になっているのではないかと空を見上げました。
風、お元気ですか。
今度の湖の本に、井上靖の詩がありましたね。花は「愛する人に」を、こよなく愛しています。この詩のように、人目につかぬ滴りのように、清らかに、自ら耀き、梅のように、香ぐわしく、きびしく、まなこ見張り、寒夜、なおひらき、壮大な天の曲、神の声はよし聞けなくとも、野をわたり、村を二つに割るものの音に、耳を傾け、白きおもてのように醒めてありたい、と、いつも思っています。
家庭も時事も大事ですが、花にとって文藝創作は自らの内面世界そのものであると、改めて確認する日々です。どうしたらいいのかわからなくなることがありますが、「愛する人に」のように、やるべきことに向き合っていたいです。 ではでは。
* 上に挙げられた靖のあの詩は、いまでは、少し甘くて観念・概念的な気がしている。詩は難しく、読み取りには、どうしても観念的でいいからとっつき易い概念詩にひかれるものだが。
西欧詩には言語から来る韻律が生き、日本語に翻訳してしまうとそれが味わえない、少なくも味わいにくい。翻訳詩で西欧詩をまねた、まなんだ日本の近代詩人の詩、現代語の詩には、概して韻律という詩の本来がほとんどはたらかず、観念や概念を弄んでしまうか、はちゃめちゃに語彙を玩弄して「うた」である境地をごまかしている。
わたしが和歌や短歌や蕉風俳諧に惹かれるのは、それらがいわゆる現代詩の雑駁を、たぶん「うた」として免れているからだと思う。
2011 12・6 123
* 大西さんに頂戴した本の見返しには「謹呈 著者」の札とともに「大西巨人」自筆の氏の現住所を書かれた封筒の切り抜きが貼り付けてある。大きな字だ。春の部には牧水の、「しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや」などが挙げてあるなと思うと、犬筑波集から、
夫婦(めうと)ながらや夜を待つらん
まことにはまだうちとけぬ中直り
のような前句付け句が出ていて、「私一己は、そういう成り行きを是認しない」としながら、「邪気のないほのぼのとしたエロティシズムが人性の機微をうがっている」ともある。この『春秋の花』はたさいであるなかにところどころバレ句めく作もひろってある。
詩人の咏物、画家の写生ハ、同一ノ機軸ナリ。
形似稍易ク、伝神甚ダ難シ。 田野村竹田
まことや、と、思わず呻く。面白い詞華撰であるが、頷けないのも、ある。それが面白い。
2011 12・7 123
* 一日を半日で過ごしているほど、よく眠る。もったいない。それで良いとも思うけれど。
☆ 「老濫無頼の不良老年」なるお言葉は、奔放かつ深長な教養に裏打ちされて生み出された歌句かと拝察。年を経るごとにユーモアが滲みでている気がします。たとえば、「生きてゐるが死んでゐるのかもしれぬので………」 「夜のやみにしづみて妻の……」。若くして逝ったお孫さんのやす香さんへのつきせぬ思いや、「なにが不沈空母なものか原発を……」の激しい憤りに共感する「七十たび七つを加へて冬至かな」の老生です。
紅書房主・菊池洋子さんの師上村占魚秀句二百撰の話も気持良かったです。 K社元出版部長
☆ 「 湖(うみ)の本」 109を読ませていただきました。中でもP43の「良夜かな子生まれ親も生まれける」 季語「良夜」をこのように詠まれた先生の一句に出会えたことは喜びでした。 P63の「柿の木に柿の実が生りそれでよし」も大好きです。 東京都練馬区
* 短歌にふれまた俳句にふれてそれぞれに挙げて下さる作の、一つ一つに思いが凝っている。忘れていない。読みとって下さり、感謝します。
『少年』の歌はみな「歌をつくっている」気持ちで創っていた。『光塵』はちがう。あきらかに「述懐」している、一つ一つ。わたしのなかみがほとんどナマに吐露されている。心境的には、それが生きた体温になっている。
2011 12・9 123
* 歌人九十五六歳の清水房雄さん、第十五歌集『汲々不及吟』を下さる。帯に、
いつかそうした
日々が訪れる。
どんな秤も
生の重み、
苦悩の重みを
測りえぬ日々が。
時は流れ
日は過ぎゆく。
噫、死は
生のなかにある!
と、あり、共感はあるが、これ、版元不識書院の「付け足し」であるのかも知れぬ。清水さん自身の「後記」は、単に「第十五歌集五五◯首。努め努めて遂に叶はず、か。」と。徹して老境を「述懐」の五五◯首と読める。わたしはこの歌人の、
思ふさま生きしとおもふ父の遺書に( )き苦しみとといふ語ありにき 清水房雄
が忘れがたい。この一字虫食いに「長」を入れた二十歳頃の学生は、予想以上に少数だった。そこに或る真実が露出していたと思う。若い子には、この父の「長き」という平凡そうな二字のつらさが分からない。そして知りかつ分かって、子は胸をつかれる。自分もそういう父のあとを追って生きていると思い当たるのだ。その清水さんはわたしより二十も年長の1915年生まれと奥付に出ている。
☆ 過日は湖の本「光塵」を賜りましてありがとうございました。詩、短歌、 俳句と、その自在さ。青年期から現在に至るまでの長い道のり。書くことへの熱い思いが、ひしひしと伝わって参ります。
虚子の句を噛むほど読んで力とす
「力とす」 何かを探し続けていきたいと思います。御礼まで申し上げます。呉々も御身お大切に。 かしこ 歌人
* 天文学では「衝突」という事象も概念も本質も実に大切とされている。
人もまた良き激しき美しき「衝突」を遂げたい生き物だと思う。「濯鱗清流」などはまだゆるやかな衝突に過ぎない、
2011 12・10 123
* 九十五翁清水房雄さんに戴いた新歌集に感嘆している。なるほどここまで来るのだな、来れるのだなと、境涯に嘆称を惜しまず。どの頁を開いても、把握と表現に痺れる。新短歌と称し口語短歌を作る人たちの歌詞ももらって読むが、そのような主義主張とはまったく似て非であり、自然に成った境地と謂うべし。
九十五年も生くれば様々の事ありき苦しみのみを実感として
何としても此だけはと言ひし人のこと覚えて居りて事は忘れぬ
明日もまた生きてあらむと目薬をさして眠るも昨日のごとく
庭草を詠み花を詠む心ゆとり羨(とも)しみやまず君が遺歌集
何でもない事を何でもなく歌ふのみ斯かる境地は思ひ知らざりき 清水房雄
2011 12・12 123
* 九五翁清水房雄さんの歌集『汲々不及吟』に魅されている。
齢だからと言ひつつ遣り処なき思ひ吾より若き友の逝きたり
如何にすれば救はるるかといふ嘆き神も仏も有り無しのまま
今にして吾が力には片付かぬ事のくさぐさ更にまた一つ
いとま有るごとく無きごとき一日にて雨ふりやみし庭の唐梅
老年性被害妄想の故かとも纏はりやまぬ此の不快感
* 下に掲げる詩は、『古文真寶』は一応陶潛の詩としているが、古来異論あって後人の擬作であるかも知れない。しかも佳作であることは一致して認められている。わたしも好きである。
官途にありしとき、官使来訪、山中故郷のことを問い、退隠の志を叙している。三度び呻くほどに「山中」と繰り返しており、有名な「帰去来辞」に呼応している。彼陶潛がかかる退隠・退蔵の思いは、往年しばしばわたしを誘惑してやまなかった。
問來使 陶潛
爾従山中來 なんぢ山中より來たると
早晩発天目 天目を発ししはいつぞや
我屋南山下 我が故居は南山下に在り
今生幾叢菊 今は菊畑も生いや茂れる
薔薇葉已抽 薔薇はすでに芽ぶけるか
秋蘭氣當馥 秋蘭今しも馥郁たるべし
帰去来山中 ああ帰りなんいざ山中へ
山中酒応熟 山中まさに美酒熟しおり
☆ 奥さま
今年の梅干しと初しぼり( 近江の美酒) をお送りします。行事のようで楽しんでいます。
今年初孫が生まれ忙しさの中で生姜を漬けられず 梅酢が多少残りましたので ほんの少しですが入れました。5cc位を2~3f倍の水に薄めて飲むと 疲れた時とか気分の悪い時によく効きます、おためし下さい。
良いお年をお迎え下さいませ。 敬美 湖東
2011 12・17 123
* 就寝前の読書は、すべて枕もとに本がある。
この機械のそばにも、合間合間に読む本がたくさん置いてある。古文真寶、陶淵明詩集、唐詩選、白楽天詩集、古今詩選それに老子など漢字ものが在る。福田恆存さんの『日本への遺言』や、清水房雄さんの最近の歌集にも手を出している。原色茶道大辞典もたくさんな写真を拠点にして、「愛読」しやすい。
そして、さしあたり「小説」という「仕事」のための文献がかなりの数積んである。多すぎるとも謂える。また「湖の本」の、ことにエッセイ編は全巻漏れなく身のそばに置いて、いつ何時でも直ちに関連の個所が引き出せる。ぜんぶ記憶にある。
こういう全てを放棄し心身から脱落させてしまいたい気もあるが、なかなか出来ない。
昨日は、実兄、今は亡い北澤恒彦との「往復書簡=京都私情」をエッセイ10で読み返していて、感無量だった。1979年、兄は四十五歳、わたしは四十三歳だった、いまは息子の秦建日子が四十三歳。
湖の本の出せるうちに、建日子との「往復書簡」一冊が出来ればどんなだろう。兄とはいわば「京、あす、あさって」を書きかわした。建日子とは、「創るということ」など、「書き合い」「考え合う」話題にならないだろうか。
2011 12・18 123
* 午後にも宵にも、くずれるように二時間余ずつ寝入っていた。申し分のない体調と謂うには腹具合などいつもグズついている。そういうときは、せいぜい心地よい古詩を温ねて口ずさんだり、書き写したりしている。
詩は、どうあっても陶潛や李杜らのそれであらねば。漢詩にかぎっては日本人の作は、大友皇子らの蒼古まで溯ればともかく、たとえ道真ですら山陽ですらも、いわゆる「和臭」堪えがたい。白詩の境地が平安貴族の好みに投じたのはよく分かる。「和臭」という非難の意味するところは存外重いし大きい。
閑坐 白楽天
暖 紅炉の火を擁し
閑 白髪の頭を掻く。
百年慵裏に過ぎ
萬事酔中に休す。
室あり 摩詰に同じく
児無きは 攸に比す。
論ずる莫れ身あるの日を
身後といふも亦憂ひ無し。
これまで、身に沁みて和漢朗詠集を愛読はしてこなかったが、一冊を抽いて坐辺に置いてみたくなった。
2011 12・18 123
* いちばんに、鯛の浜焼き二尾で、明日七六歳を祝って戴く。昭和十年( 1935) 冬至、夜の一等永い夜にわたしは生まれた。
めでたいと祝い鯛とぞ年の瀬のいや永き夜を壽きたまふ みづうみ
* 感謝します。
2011 12・20 123
* さて、今日は夜の部で、午後ゆっくり出掛けられる。朝の時間もこうしてゆっくり使えた。
* と言いながら、わたしの風味で、感あり。
☆ 有感 白楽天
往時勿追思 往時を追ひ思ふな
追思多悲愴 思へば悲しみ多し
來事勿相迎 來事を期待するな
相迎已惆悵 すれば失望する丈
不如兀然坐 無心に坐しておれ
不如 然臥 安楽に臥しておれ
食來即開口 食が来れば食って
睡來即合眼 睡くば睡ればいい
二事最關身 寝食こそ健康の基
安寝加餐飯 よく寝て美味く食し
忘懐任行止 忘も懐もおもむく儘
委命随脩短 万事は天運に任せ
更若有興來 更にもし興催せば
狂歌酒一盞 歌うも佳し美酒も亦
2011 12・21 123
☆ 終末を潔くなどいふ事も夢のごとくに今は老いたり 清水房雄
2011 12・22 123
☆ 拝啓 大学教授
やわらかな冬の陽に包まれてみかんが一段と色あざやかです。
此度は「湖の本一◯九 光塵・詩歌断想(一)」御恵送賜りまして まことにありがとう存じます 早速拝読させていただきました 目がくらくらいたしました。
あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶききみにみごもれ
たまゆらのゆめなりしかなこのうでにだきてきみ在るはるのあけぼの
などがまず心にしみてまいりました。
またゆっくりゆっくり拝読させていただきます まずは御礼迄にて失礼いたします。
* 今度の『光塵』一冊は、総じていえば期待以上に受け容れてもらえたように思われる。妻の感想でも、そのようであるらしい。
ただ一つ二つ特徴的な点が認められる。
ひとつは、歌人俳人としてその世間で作を発表されているような方からの口が重かった。そしてこれは予期していた。このうるさい男にうかとしたことを言うのは止しておこうという反響であるのだろう。まして当人が、苦心の作物というよりも、ときどきの述懐、謂わば日頃物書きとしての発汗や排泄のようなものと称しているのだから、そのとおりに見送っておけばいい、と。それもわたしの願いに近かった。
ところで、もう一つ。
さ、これらがどういう工合に受け取られるだろうと暗に思い期待さえして編み入れた一群の作、上の大学の先生が取り上げてくださっている「恋和歌」ふうの作に関しては、ひたと何方からも言及がこれまで、 無かった。それが作者として失望というよりも実に面白かった。
言及するに足らざる駄作のゆえに通過されたのか、うかとした感想が洩らされぬと無難に通過されたのか、おいおいおい秦さん、大丈夫なのと剣呑がられたのか。
わたしは、わたしとしては当たり前だが、近代短歌と同等か以上に和歌に敬愛してきた。和歌的な自在にたいする興味と表現にいつも身をまかせていた。少年いらいのことで、まして後々に谷崎先生の「国風」としての短歌観にも賛同していたのだから、あたまのなかにいつも和歌から得た詩藻が小声を発していた。しかも和歌好みの芯には源氏物語や百人一首から呼吸し続けてきた「恋」「相聞」への愛着がつよい。
たとえば、わたしは、「これやこの」「あはれとも」「朝ぼらけ」など古人の歌の第一句に騎乗して和歌風の吟詠を遊んでみたい趣味のあることは、「光塵」に幾例も露骨なほど見えている。
上の先生が挙げてくださったような詩藻としての念頭の「恋」の発露はわたしにはいっそスポーツのような昂揚なのである。うまく乗ると、口を衝いていくらでも出来てくる。昔の名だたる歌人達が歌合わせに出るために用意した歌あるいは席に在って咄嗟に詠み上げた題詠の作など、と、似た気分になるとべつだんのことなくふわりふわりと出来る。だからといって真情とかけ離れた軽率でも巫山戯でも決してない。
『光塵』はこういう歌や句をいい塩梅に含んでいる点が、一つの遊びでも主張でも特色でもあるのだが、不良老年秦恒平のあたかも脛の傷や生傷に触れてやりたくないと思われた読者もあっただろう。そのご心配やご配慮はご無用である。みな、「口から出任せ」であり、しかも秦の本性にも深い位置できっちり結ばれて在る。
もうお一人奈良県在住の女歌人が、漱石山房の用箋に 秦恒平『光塵』と題するように三首を書きだして送ってて下さったのを書き写してみる。
よのふけのひとのことばはうつくしくふるへてゐるといふがかなしさ
とこしへのおもひのそこのみづうみよやへここのへにこのこひまもれ
さびしさのはてはひろののかぜにまひとほきやまべのつゆもわすれじ
こういう歌は、現代歌人は歌わない。歌えない。ふるくさい、時代後れだから、ではない。魂もことばも、現代の毒気で乾燥しきっているからかも知れない。わたしにもこんな和歌たちは楽しい余戯である。今日只今の本音を表現すれば、
なにが不沈空母なものか原発を三基もねらい撃てば日本列島は地獄ぞ
死神に答へて
この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ
2011 12・24 123
* 建日子の評判を、いろいろ聴かされる。テレビドラマ、そして小説の大きな広告など。彼が、今は亡きつかこうへいの命令ではじめて芝居の脚本を書き演出したのは、わたしがまだ東工大に教授室を持っていた頃だから少なくも十数年余も前だが、その後単発のテレビドラマや連続ドラマを書き始め、小説もどんどん書き始めて、ベストセラーにも名を連ねたりしている。一つ言い切れることは、確実にどの畑でも腕を上げており、うまくなっている。それは、ある意味年数を経て書きつづけ作り続けていれば当然のこと。それよりももっと大切なのは、うまくはなったが十年一日その世界が変わらないのではダメ、やはりオウというほどの自然で説得力のある変容がなければ大きくならない。秦建日子はジャンルをめまぐるしく変えて行きながら旋回し、旋回しながら世界を塗り替えてきている。冒険している。「われはわれ」と孤立に落ちこまないで来ている。
その気持ちで、続けて欲しい。
* 虚子の句を噛むほど読んで力とす
われはわれといふがかなしさ 枯櫻 湖
建日子が何を「力」にしてきたかは知らないが、彼なりの謙遜を育んできたと見ている。真に作品に富んだ制作をと願っている。
2011 12・27 123
* 片付かない仕事や用事にぐるぐる巻にされていながら、なぜか知れず睡魔に言い寄られがち。白居易の詩に在る、
悄悄壁下牀 紗籠耿残燭 夜半獨眠覚 疑在僧房宿 と。
僧房とは程遠い書架に張り付いたような寝ざまだが、あまり目覚めたくはない。興深く読みに読んで、寝入って。目が覚めてほっとするのか、覚めぬ儘なら好いと願っているのか。云うまい。
2011 12・27 123
* ほぼ終日、思い立って『千載和歌集』に関わっていた。千載和歌集の時代というまとまった原稿も書き下ろした。「書いて」いると時間がはやく過ぎる。早めの朝に書き始めると早起きの徳も納得できる。
なぜ千載集が好きなのだろうと問うのは、自分自身を問うのとほぼ同じい思いがする。
片方で東北の人たちの辛苦艱苦に泣く思いすらもち、東電のエゴイズムや原発の成り立ちひいては御用学者への怒り、野田政権へのもう引き返しようのない不信感などを抱きかかえていると、額の真上まで黒雲が被さってくる。立ち向かう姿勢は捨ててはならないが、愉快でない。愉快でなくてもやはり立ち向かわねばと思うに連れて、わたしなりの「理世撫民」をわたし自身に対し計らねば済まない。千載和歌集がかっと目の前に立ってくる、そういうところが、わたしである。
「理世撫民」は、千載集勅撰を意図した後白河院の表向きの建前であった。院が、あの建礼門院右京大夫の恋人であった平資盛を院使に、藤原俊成に勅撰和歌集を命じて院宣をくだした寿永二年二月。その二ヶ月後には早や挙兵した木曽義仲軍により、越中礪波山で平家方は大敗し、七月には都落ちしているのである。歌人忠度が馬を返して俊成の門を敲いて自歌巻を托して去ったのがその時だ。
* 歳末。すこしずつだが、迎春のためにも手足を動かしている。卯は、辰に場所を譲る。玄関には、むかし大河内さんに原稿料の代わりに戴いた「龍」の印池を置いてみた。
わたしたちのように正月を現住の家で過ごす人ばかりではない、わたしたちも昔は苦心して東海道線に乗り京都の親の家で正月を迎えた。楽しみであった。しかしいつしか京都の年寄り達をわが家にみな迎えとって、以来、どこへも動くに動けず、動く気にもならなくなった。
いまごろ自家用車を駆って、自動車道を東西南北へと走っている若い人たちが、新幹線に乗った人たちが、列島に溢れていることだろう。
わたしは、もう同報で数百人に年賀を申すこともしないし、賀状も出さないで許してもらっている。明日は蛤を買いに池袋まで出るが、その余は特別なにをする気もない、「書きたい」書き物に向き合い、読みたい本を読むだけ。明後日は大晦日、明けて元日、寝て二日。ありのそのままに時は過ぎて行く。
そうそう。ありそうなものと二階廊下の書棚から、國漢文叢書第四、五編の『和漢朗詠集註』上下之巻、詩文の註は永済、和歌の註は北村季吟という二冊が見付かった。袖珍版で、背はきつく傷んでいるが、手に馴染んで読みやすい。明治四十三年六月七月の刊で、版元は寶文館。手にとって読もうとしたのは最初のことで、古典全集版の重量がなく、それが嬉しい。歳末から年始への気の弾みになりそう。漢詩は、原作漢語表記のまま、和語にうつすように読み下しており、諷詠の趣に惹かれる。たとえば、紀淑望の作とも唐土の公乗億の作とも言われる「内宴進花賦」は
かぜを逐ひて潜かに開く芳菲の候を待たず。春を迎へて乍ち変ずまさに雨露の恩を希はんとす。
と読みかつ朗詠されたらしい。平安物語の引歌ならぬ引詩は大方かかる読みで貴公子たちの口にのぼっている。
2011 12・29 123
* 千載和歌集を反復読み、更に読み、そして、に就いてこつこつ書いていた。
* 目が疲れてきた。
2011 12・30 123
* 千載集をさらに精読している。
2011 12・31 123