述懐 平成二十四年(2012)正月
夢とのみこの世の事の見ゆるかな
覚むべきほどはいつとなけれど 権僧正永縁
ねむりの中にひとすぢあをきかなしみの
水脈ありそこに降る夜のゆき 斎藤 史
底ごもる何の惟ひに野の霜の
かがやきにゐてもの恋ふるらむ 少年
来る年を迎へに立てば底やみに
まぼろしの橋を踏みてあしおと 光塵
癌を抱くと。かかる日が来て受け容れて
それも忘れて冬の花咲く 湖
寒ければ寒いと言つて 立ち向かう 遠
いま、野田佳彦総理と民主党に質す。
何のための増税一辺倒であるのか。
国土と国民のため確実な「脱原発」を誠実に
政治目標に含めているのか。 作家 秦恒平
* 下記は、「朝日新聞」夕刊1989年(平成元年)6月19日文化欄に、
秦恒平の名と「悪政と藝術」の題で初出の一部分。 23年も以前である。
世間虚仮(こけ)というすぐれた理解を体験しつつ、しかも有名無実の憲法をお添えものに、位階や位色(いしき)の差別をたて、政治社会に「偽」の体系を据えてしまった例えば聖徳太子を、文句なしに善政の人などと言おうなら舌がしびれてしまう。
安全神話は原子炉爆発を防げるか
しかし悪なりに、「ひどい悪」と「そこそこの悪」とが、ある。そこそこの悪政に馴らされながら、人は歴史を生きて来た。しかしひどい悪のひどさの度が過ぎれば、民族の生きて行けない危険が迫る。それほどの危険に、たしかに日本中が見舞われた体験が、先の大戦争を筆頭に、歴史的に両三度はあった。
そしてそんな両三度を掛け算したほどのもっと物騒な危険は、いまが今も、日本列島を脅かしている。チェルノブイリ級の原子炉(=発電所の) 爆発が連鎖して起きれば、風吹き雨も多くて逃げ場のない日本列島の生き物は、決定的に被害を蒙りその回復は保証されないだろう。この悪しき危険には、「そこそこ」という歯留めは、無い。
分かっているのにやめられない。そういう段階へ昨今の政治がトボケ顔で踏み込んで来た以上は、もう戦後政治と並べて均しなみに物は言えない。ひとつ間違えば文化も経済も社会も、自然も、根こそぎ腐れ果てて無に帰するだろう、それで構わぬという立場も選択も、無いはずである。
出岡実画伯・持幡童子
2012 1/1 124
* 賀正 あなうれしと言ふてひろげて抱きうけめ
これぞことしの朝日の光 秦恒平
* 春立つ 長春道
春 香火に生つて暁爐燃ゆ。
2012 1・1 124
☆ 春風献上 京洛北 辰男
明けましておめでとうございます。
国の内外の大きな出来事に憂え悲しんだ分も含めて 2012年は是非ともよい年にしたいものです。
マルティン・ルターの「酒と女と歌なかりせば人生まったく値打ちなし」とまではいかないまでも せめて一酔解千愁 凡人なりに今年も名曲を肴に心境だけは李白や牧水に少しでも近づきたいものだと 喜寿を迎え希求しております。
今年も変わらずご交誼のほどよろしくお願いいたします。
* 干支のままの辰男の友のあらたまの年祝ぎくるるメールの春よ 湖
* 高校の同窓。音楽の楽しみをよく盤にしてお裾分けしてくれる。はや喜壽か。おめでとう。
* 年賀状、おもいのほか多く頂戴した。わたしからは、悉く失礼していて、御免なれ。
2012 1・1 124
* この正月ほど、なにごとも気にも掛けず、ありのままのんびり過ごしていること、過去に有ったろうか、特別気分がだらけているのでも、ない。
賀状の中に、同期に高校へ入った小橋君の境涯が、いちばんいまのわたしの想いになつかしい。
☆ 壽 明けましてお目出度うございます 2012元旦
しかしこう歳をとってくると何が目出度いのか十年一日の如く日が過ぎていくだけで、一向に世間のお役にも立たず、生きていること事態が悪いことをしているように感じられてなりません。
又一つ一里塚を踏み越え、行方定めぬ終焉に近づいていくのでしょう。
人から歳の割には元気だと煽てられてここ数年ゴルフ三昧で過ごして来ましたが、果たしてこれで良いのかと反省すること仕切りです。それでもまだ付き合ってくれる友達がある間は、体が動かなくなるまでクラブを振り回して、暑さ寒さも厭わずに走り回ることでしょう。ここまでくればもうスコアのことは忘れてプレー出来る事だけを主眼に、芝生の上を歩き白球を追いかけて楽しみたいと思います。昨年はお蔭で前年並みの回数を消化出来ました。
これも寛大な家内のお陰と感謝しております。
相変わらずの人間ですが宜しくご厚誼を
賜ります様お願い申し上げます。 左京の小橋
* 寧らいでさもあらばあれ「いま・ここ」を楽しむと言う友よ常盤にあれや 湖
* いうまでもない、同年。同年の友らには、重く病んで闘い続ける者も何人か。だからこそ、小橋君や辰男君のような遙かな旧友の弥栄を祝いたい。
2012 1・2 124
* 克明に千載和歌集を読み進んでいる、「読む」という行為が自身の創意や感性からする創作意義を持ってくる。万葉集このかた多くの時代に多くの撰集が編まれた、詞華集が編まれた、今の世にでもそれはある。わたし自身、歌謡の「梁塵秘抄」「閑吟集」から精選し観照してきたし「愛、はるかに照せ」も「青春短歌大学」も撰集になっている。
私なりにというとおこがましいが、平安八代集を私の思いにかなう秀歌だけで選び取り選び直したいという思いを持ってきた、その第一番に、好きな「千載和歌集」を選んだのである。「選ぶ」という批評行為に徹し、不要なその上のお節介は省きたい。さりとて平安和歌の面白さを読んであっさり受け取れる人はすくない。多少の親切は必要だろう。
暮れから、元日、昨日、今日三が日も休まなかった。打ち込んでいる。
2012 1・3 124
* 和歌撰の仕事に熱中しながらも、明日の人間ドックのための心用意なども。主治医が一日で充分と言ったので、一日だけ。どんな検査が出来るのか。朝早くに聖路加へ着かねば。明け方五時半にすこしの水で服薬を済ましておかねば。
「撰」は恋歌五巻を終え、雑部に移る。万葉集でもそうだが勅撰和歌集の「雑」部には読みがいある歌がならぶ。
2012 1・4 124
* 六時四十分のバスで出掛け、電車は保谷から新富町まで立ちん坊。寒かった。家に帰ったのは、晩の七時過ぎ。帰りに西武の「たん熊北店 熊はん」で食事してきた。酒はいけないと言われていたが、堪えていたが、酒のない和食というのは味気な過ぎる。
* 諸検査の結果は、総じて悪かった。いいとはとても言えぬと、染五郎によく肖た医師にきめつけられた。胃の内視鏡検査では、たくさんな写真で説明されたが、癌の十分疑える病変が胃上部に見られ、医師は三個所から生検細胞をとっていた。一月十三日金曜日の午後、外科で、今後を打ち合わせるが、手術になるらしい。
しかし、一月二十七日には更に今日の人間ドックの一環で、大腸の内視鏡検査が予定されている。こちらもよくなかろうとわたしは予感している。胃も腸も悪いとなるとぞっとしないが、さ、どうなることか。
ドック入りなどしなければ、なにも分からないまま何と無く知らん顔して生きてられるが、わざわざ病院まででかけて、病気を授けてもらうようなものさと笑っていた。その通りになったようだ。手術とか入院とか、つまらない日々が来てしまう。どんなに苦痛があっても、仕事をしている時間の長続きするのがありがたい、が。
* とにかくも、知れていた、分かっていた、ことへ行き当たったに過ぎぬ。
この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ
と去年の十月二十三日に歌い、この一首で『光塵』一巻の大尾とした。たわやすい述懐ではなかったのである。
2012 1・5 124
* 七時に起き、ひとり一服の茶を喫す。菓子は無し。二階の機械の前へ。今日も千載秀歌撰をつづける。
* ロスの池宮さんから電話で、新年の挨拶とお見舞いと。
* 千載秀歌撰の一首一首に綿密に最小限度の解を添えている。「雑歌」中の半ばまで。可能なら今夜中に「雑」歌の上中下を終えたい。そうすれば、残るは「釈教」「神祇」巻だけ。いわば古代・古代末の和歌の精粋美味を堪能している。一条朝から十五代高倉天皇の時代までと後白河・藤原俊成は狙いを定めている。いわば、清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門ら、また藤原公任、具平親王らの王朝盛期と、源俊頼らの金葉集時代に始まり、崇徳院をはじめ西行円位や待賢門院堀川や定家や道因法師や頼政や、 とにかくも撰者俊成の時代の俊英を網羅して、清艶を競わせている。
わたしは古今集以後の和歌のエッセンスは千載和歌集にほぼ極まっていると思い愛してきた。
現在只今のわが心境にも切に触れて感慨に迫られる述懐歌も満載されている。わが「晩年」の初仕事として、創作はさておき、これほど身に沁みるものはない。
2012 1・7 124
* よく集中した、思ったところまで仕事は到達、明日にはひとしお思案も加えながら。身につまされる歌をそれはたくさん読んだ。読み込んだ。難しくて立ち往生しかけた秀歌もあった。バグワンに聴いていたのに多く多く思い当たったのも有り難く。バグワンに聴いてこなかったなら、思い乱れるところ有ったに違いない。
2012 1・7 124
* 千載和歌集の全一二八八首から、およそ四百首前後を撰歌し、その大方に適切に寸註を書き加えた。繰り返し繰り返し読んで味解に努めた。予期よりもずっと深入りし、この仕事は自分にとって運命的な物というほど実感を得た。わが七十六年を決算するある種の卒論を試みたほどの実感も得た。それほど千載和歌集は佳い勅撰和歌集であり、古代の花と中世の風とを要約し得た俊成畢生の撰だとも実感した。師走も押し詰まった二十九日に「思い立って」秀歌撰に手を出したと日記に書いているが、撰は、以前に半ば成していた。しかし今回、抜本的に読み直し読み深め、大晦日も元日もなく草稿を決定していった。
はからずも五日の人間ドックの、暫定的ではあれ医師に告げられた「癌病変あり」との診断も、撰の後半の読みに、解に、註に、つよく影響したと思う。
おそらく、いつかこの『千載秀歌・撰註』を読んで下さる方は、これが秦恒平生涯をものがたる必至のいわば創作で、見解( けんげ) で、境涯であったかと、繰り返し味わって下さるだろう。先立った『バグワンと私』上下巻も、それなりに必然であったのだとも。 2012 1・8 124
* 大河ドラマ「 平清盛」の一回目を観た。話はかなりツクッテあるが、あらましは通説に沿っている。白河法皇など、なるほどこういう権柄な人と人に思われているのかと面白かった。もうすこし当たりの柔らかい好色の狸おやじだったようにわたしは想ってきた。いかに院政の御一人であれ、あんまり厳つく権柄なわけ知らずでは肝腎の待賢門院璋子に嫌われ怖がられよう。
白河法皇と孫の鳥羽天皇と皇后璋子との三角関係はだいたいあのようなものであったとされている。皇后の生んだ後の崇徳天皇の父は白河院であると。わたしは小説『絵巻』では、璋子と有仁親王との恋を想像して書いたのであるが。なににせよこの紊乱にややこしい人渦が絡みつき、これから保元の乱へ向かう。
清盛の父も白河院かと、ほぼ肯定されているが、母は明確でない、祇園の女御といわれた女の縁者であろうかと。ドラマでは白拍子風情につくってあった。これもその子が平忠盛に育てられ平太清盛と成って行くのは概ねその通りと。
* 忠盛も清盛も、白河院も鳥羽院も待賢門院も、みな千載和歌集世界の同時代人である。千載和歌集は藤原俊成の撰であり、勅撰の院宣は後白河院から出ている。後白河は、例の問題になる崇徳天皇の同母の弟で、父はいわば戸籍通りの鳥羽天皇。そして千載和歌集に先行していた俊成私撰の「十五代集」といわれる隠れた歌集には、崇徳院が深く関わっていた。崇徳院に勅撰の意志があったとも観て少しも可笑しくない。百人一首にも名高い「瀬をはやみの」一枚札はこの院の秀歌であり、よほど和歌に堪能であった。後白河の方はむしろ歌謡歌手として名人であり『梁塵秘抄』を自ら編んでいる。
千載集には崇徳院の歌はたくさん採られてあり、後白河の御製は、在るが、少ない。清盛のも頼朝のも義経のも、見当たらない。しかし源氏の義家や頼政の歌が採られてあり、平忠度の秀歌も、よみびと知らずとしてだが、一首採られてある。今度の大河ドラマ「平清盛」は、父忠盛ももとも「千載和歌集の時代」にすっぽり含みこまれる。
* わたしは少年の昔から、源平の時代に馴染み、しかも当時大方の贔屓と異なりわたしは赤旗の平家贔屓だった。後白河贔屓でもあった。さてこそ『清経入水』を書き『風の奏で』を書き『梁塵秘抄』や『女文化の終焉』を書いてきた。行き着いたところが、目下の『千載秀歌』撰註であり、小説でもまた平家物語に取材してひそひそと今しも書き継いでいる。
大河ドラマは、観て行くだろう。むかし「源義経」をドラマにした時の義経は尾上菊五郎で、痺れるような美男子だった。義経はすすどい小男であったとものの本にはあるけれど。今度の平清盛は誰が演るのだろう。
2012 1・8 124
* いま「 詩歌断想(二)」を編もうとすると、2009年末までで「 湖(うみ)の本」 にしてかなり精選しても優に400頁上下二冊ぶんほども有る。昨年末の2011分まで予測すると上中下三巻になる。しかもますます増えて行く。三十何項目もに分類された中の「詩歌」の項目だけでこうなる。わたしの寿命が、秦の母の享年と同じ九十六歳も、しかも元気で与えられれば知らず、体内に爆弾を抱えてしまった以上、所詮はわたしの手に負えない。日を負ってわが影を踏もうと走るに等しいのだから、どうしようもない。こんなとき、身のそばに朝日子がいて手伝ってくれたならと、切に夢をみてしまう。
* さきの『光塵』洩れ落ちた作を、日乗を追っていて次から次へ二十あまり、たちどころに見付けた。落としたくなかったなと思う作も。調べていないこのところ二年にもまだまだあるかも知れぬ。
掌において身のおとろへの忘らるるマスカットの碧(あを)の房の豊かさ 湖 2006 5・16
しらたまのつきになごりの酒くみておもひのたけのかぐやひめこそ 翁 2006 10・29
まあだだよ。もういいよとは言はれまじ。もういいよとは、もうおしまひぞ。 湖 2007 6・30
満月も待ちかねている花火かな
満月を上客にして花火かな 宗遠 2007 7・28
肩書のついた名刺を破( や) りすつる 遠 2007 12・31
寒ければ寒いと言って 立ち向ふ 湖 2008 2・1
これやこの強情我慢 花吹雪 湖 2008 4・1
慈雨の季( とき) うれしさまさる生きてこそ 湖 2009 6・5
など。「寒ければ寒いと言って 立ち向ふ」のが、好き。
2012 1・10 124
* 千載和歌集のいわば「背後」「背景」を展開させている。 一条朝から高倉天皇のころまで。とても追いつかないが。
* とにかくも気の励みと楽しみと。キッパリと心身を持するためにも。
2012 1・11 124
* 仕事、捗ってはいるが、輪郭の鮮明な編輯案には至らない。「千載秀歌 千載和歌集の基盤と背景」といった構想だと上下巻が必要かも知れぬ。半端に妥協したくないと願っている。
2012 1・12 124
* 人は 、「死なれて・死なせてー生きる」と識り、人生の大半をそう生きてきた。わたしの「生」であった。
そして「老」が近づいてきたとき、わたしはむしろ親しげに老いを受け容れ自覚して拒まなかった。「 湖(うみ)の本」 を念頭に浮かべながら、和歌山の三宅貞雄さんに『四度の瀧』付・年譜の豪華本(昭和六十年 一九八五 元日刊)を作っていただいたとき、わたしは満五十歳にほぼ一年みたなかったが、老境を待ち迎える姿勢がなかったと云えぬ。それかあらぬか福田恆存先生に、遠慮などせず若く生きなさいと窘められた。大江健三郎さんにはまた少しニュアンスの異なる共感の手紙をもらった。
あれから二十五年、今度は「病」が訪れた。癌とは、なみたいていでなく、おそれていなかったわけではない。だが来てしまったのは取り消せない。「生・老・病」を、今後どれほどの間か知らぬが生きて行くことになり、先には、背後にかも知れないが、もう、「死」だけが待っている。
死んで行く「いま・ここ」の我が生きて行く老いも病いも華やいであれ 湖
死を弄ぶ気など毛頭無い。死に弄ばれたくもない。とくべつ華やぐ必要もない、今までのままになるべく永く過ごせるよう、からだは医者にまかせ、気持ちは静かにしかも、少年のようでありたい。 2012 1・14 124
* 癌を抱くと。かかる日が来て受け容れてそれも忘れて冬の花咲く 湖
☆ 湖様
仕事、老親の世話 に追われて、なかなかゆっくりとPCに向かい合う時間が無くなってきました。申し訳ありません。
本日「私語」で、聖路加病院で診断を受けられたということを知り、驚きました。
でも、私の周りにcanserの早期診断を受け、手術をして元気に仕事をしている人が多数います。
私の小学校の恩師も十年以上前に胃の全摘をされながら、80代後半の今もクラス会では適宜に飲み美味しそうにお食事もとられています。
手術を受けることはとても気の重いものですが、予後はきっとよいものになられると確信しています。
手術に臨まれる前に、体力をつけておかれますように。
一日も早いご回復を心からお祈りしております。 波 川崎市
* わたしより妻が心を傷めるのが可哀想で、こういう励ましに力を獲て乗り越えて行きたい。胸の内には、陶詩が立っている。
家為逆旅舎 家ハ逆旅ノ舎タリ
我如當去客 我ハ去ルベキノ客
去去欲何之 去リ去テ何処ヘゾ
南山有旧宅 南山コレ旧宅ナリ
2011 1・17 124
* 六時起床。午前中に、聖路加消化器外科外来で、初めて、「胃癌」と診断されている病変への処置につき、受診する。妻も建日子も、医師の曰くを聴きに行くという。聴く耳は慎重に多い方が好いと思う。
いちどで前へ進むのか、そんなに都合良く行かないのか、それはもうお任せしている、医師と病院に。少なくも十数年お世話になってきた聖路加病院だ。
☆ 清夜吟 邵雍
月到天心処 月はまんまる
風來水面時 そよ風水べに
一般清意味 この心地よさ
料得少人知 分るまいなあ
宋理学の大家の吟とはいえ、理に絡んで理窟読みしたくない。このままで好い。
2012 1・19 124
* 早朝に「 湖(うみ)の本」 110巻の初校ゲラが届いた。即座に仕事を開始、晩の七時半まで機械の前へも行かず、 階下の大机で真っ先に「千載秀歌」362首を丹念に校正した。一首に添えた「解」「味解」「読み」などの短文が、どの程度に説得力をもつかに神経を集中、これで佳いと納得できたのは、私のためには祝着であった。この分だけは、すぐにも再校を求めて戻せる。
しかし、つづけて「 千載和歌集の背景」として多数のエッセイ、随筆、感想、小論などを編纂したところの分量が多過ぎ、おおむね40頁ほど減らさねばならない。うまく下巻に回せるように按配する作業が残ったが、幸い下巻分は用意出来ているので、按配は、どこへ上巻からの原稿を挿入するかに尽きている。上巻は、話題として興味のある平易な短めの文章を組み立て、下巻はわたしの「女文化論」の基底をかためておける感想をあつめたつもり。
* 平安古代中期から江戸近世前葉までが、わたしのいわば「仕事場」であったことが、何冊もの本で証明できてきた。
* 明日には、思い切った編輯技術で上下巻を按配してしまい、下巻原稿も印刷所に委ねたい。
今日は終日、初校ゲラの重いのととっくみ合って過ごした。家にいる限りインフルエンザもあまり心配せずに済む。とはいえ、せめてこの体躯を維持したままのいでたちで、心おきなく街歩きもしてきたいのだ、本当は。人のいない、静かな場所。湿気の適度にある場所。空いた美術館か博物館か、それともやっぱり大きな河のあるところか。寒くて風邪をひくのはイヤだし。
それよりも、まずは仕事。刀や鑿が使えなくても、絵筆や絵の具が使えなくても、いろいろに「書く」言葉で、わたしは「わたし自身」を彫刻できる。そのとき、わたしは生きている。
2012 1・27 124
☆ 帰園田居 其四 陶淵明
久去山澤潜 久しく山澤の游びをすて、
浪莽林野娯 浪莽たり 林野の娯み。
試携子姪輩 試みに子姪の輩を携へ、
披榛歩荒墟 榛を披きて荒墟に歩む。
徘徊丘壟 徘徊す 丘壟の 、
依依昔人居 依々たり昔人の居。
井竈有遺処 井竈 遺処有りて、
桑竹残朽株 桑竹 朽株残る。
借間採薪者 借間す 薪を採る者に、
此人皆焉如 此の人ら皆いづちにぞ。
薪者向我言 薪者 我に向つて言ふ、
死没無復餘 死没し復た餘るもの無く。
一世異朝市 一世 朝市を異にすと、
此語眞不虚 此の語眞に虚しからず。
人生似幻化 人生は 幻化に似たり、
終當帰空無 終にまさに空無に帰す。
* さもあらんと。
2012 1・27 124
* むかしは週に何度どころか、毎日のように編集者や記者や、ときに読者たちもわが家に迎え入れることが出来た。妻は接待に追い回された。呑んで喰った。しかし、妻の健康を思い、成る可く外へ出て会い用を済ませるように切り替え、切り替えなくても増えるモノ、モノのために人間の座れる畳が見えなくなってしまった。客とわかっていればありとあるものを一旦寝室に移動させておくよりない。松林のある庭だけで三百坪もの邸ぐらしで少女の時代を過ごしていた妻には、ついに結婚後一度も八畳間のある家に住まわせてやれなかった。済まない。
* その後、食後、わたしの校正の仕事は順調に平穏に進んでいる。明日には、上巻の前半「千載秀歌・撰註」と「時代」を説いた二編 だけ、初校を印刷所へ送る。
2012 1・28 124
* 漢詩を好む習いは短くないが、いまほど親炙し読んで情味を美食することは、まだまだ乏しかった。今はしみじみと読む。文はまだ読みづらいが、詩は長篇でも古詩でも楽しめる。けさも古文真寶の頁をくっていて、思いがけず時を喪っていた。喪っていた時を微塵惜しいと思わない。
☆ 友人会宿 李白
滌蕩千古愁 たまつた疲れは洗い流し
留連百壺飲 いすわり並べる徳利の林
良宵宜且談 談じて笑つて楽しい今宵
皓月未能寝 眠気どころか月明るくて
酔來臥空山 酔えば気儘にころりと寝
天地即衾枕 天地を寝床に夢みごろ
優れた詩人ほど難儀を極める字句を濫用しない。それで陶潛も李白・杜甫も白居易も愛されるのだろう。
奇怪とも当然とも思うのは、現代中国政権の行業には、悪意の算術に長けた政治のみ露わで、文化・詞藻の美しさのまるで感じ取れぬこと。
それにしても今日は、明日の自己血採血にそなえて、禁酒を命じられています。
2012 1・29 124
* 千載集全一二八八首から三六二首を撰し、必要を感じた作には一行多くても二行たらずの註を付してある。原作の和歌は読んでよみづらいようなものは無い、が、なにといっても千年昔の古語の巧みがある、またそれが詩のおもしろさだが、理解・味解の役に立つように、ちょっとわたしの言葉を、それもいろんな手を用いて添えた。
一昨日校正していたら、原作和歌にさらにわたくしの和歌の添えてあるのが二個所にあった。宗遠註としてあるのだから添えた和歌はわたしの作だった、そんなこと、忘れていた。
2012 1・29 124
* しばらく陶淵明を読んでいた。この岩波文庫が手放せない。背の高い、昭和十三年十二月十日の第十一刷。訳註の漆山又四郎の検印がある。本文は200頁余。どこで手に入れたか古本屋の値段は50_。文庫定価は四拾銭。いまのわたしなら、古書店で5000円でも欲しいと思う。 日本の国もわたしも、ずいぶん歩いてきた。
2012 1・30 124
述懐 平成二十四年(2012)二月
残りなく我世ふけぬと思ふにも
かたぶく月にすむ心かな 待賢門院堀河
定めなき身は浮雲によそへつゝ
はてはそれにぞ成り果てぬべき 前大納言公任
見るほどは夢も夢とも知られねば
うつゝも今はうつゝと思はじ 藤原資隆朝臣
雨戸越しあかい日射しのうれしさを
やす香に告げつ亡き孫なれど 湖
マチス・ 画
アイズビリ・画
2012 2・1 125
☆ 時運 陶潛
洋々平津、 乃漱乃濯。 波立たぬ渡し場で 口すすぎ手をあらいました
遐景、 載欣載矚。 遙かな遙かな景色 なんとうれしい快い眺めか
人亦有言、 稱心易足。 世間さまでも言うておる 心に適えば足り易いと
揮 一觴、 陶然自樂。 されば壺の酒をのみほし 陶然 独り楽しもうか
* 嬉しい詩句。
* 黒いマゴもわたしを案じているようだ。大丈夫だよ。
2012 2・1 125
* 今日特筆すべきは、久しい友であり読者である高木富子さんの処女詩集『優しい濾過』( 砂子屋書房) が美しく仕上がって刊行されたことである。
この人の詩の美しさ優しさ深さは、多年におよんでよく識っている。すでに相当量の詩作をもち、しかもいつでも創作できる内的な欲求と詞藻にも溢れている人であり、どうかせめても一冊に仕上がって欲しいと願いまた奨めてきた。
しかし、作の内部に踏み込んでの口出しも、また支援もなに一つして上げずじまいに、作の選択や配列であれ、本の形であれ、出版社であれ、詩人独りの決断で自身の世界として構築するようにと、距離を置いてきた。帯の文もと望まれたが、そんなものは先へ行って邪魔になるものですと承けなかった。ただ待っていた。
その日が来たのだ。
よかった。心の底から、おめでとうと言います。よくやったね。
親しくしてきた詩人が何人もいる。その人達にも、ぜひ寄贈するといい、宛先リストを上げたいと思うが、さ、入院までに私に残された残り少ない日で、 咄嗟に間に合うかなあ。
「あとがき」の後半だけを紹介しておく。
☆ 高木冨子詩集『優しい濾過』 あとがき後半
優しい濾過とはわたしの生きる実感でしょうか。
「ろか」とはスペイン語で愚か者という意味と友人が言いました。
優しい愚か者とはわたしのことと納得もしました。
リッキー・マーチンがロカ、ロカとクレイジーな人生を歌っていたのを思い出しました。
辞書には、loca気が狂った、途方もない、素晴らしい、とあります。
ろか繋がりで roca は岩、確固不動のものと。
loca roca そのように詩の世界に、言葉に、表しがたいものに、一歩でも近づけたらと願いつつ。
詩集を編むこと 思いもよらず、多くの人の心遣いをいただきました。
ありがとう、感謝に堪えません。ありがとう。
* 最晩年の荻原井泉水さんにお目にかかったとき、「起一」という言葉を語られて、その場で「生二」と揮毫して下さった。
「一」を起こせば、「二」の生まれることも期待できる。一の儘でもよく、二を生んでもよい。一期一会、一作一会。渾身の一会であるならば。
2012 2・6 125
* 寒ければ 寒いと言つて立ち向かふ。
だいじなことは、「寒いと言つて」の「言つて」にある。黙っていて、同じ事を思っているのだといくら思っていても、伝わらない。機微である。
2012 2・8 125
述懐 平成二十四年(2012)三月
石ばしる垂水の上のさ蕨の
萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子
いきいきと三月生る雲の奥 飯田龍太
胃全摘とや。われに「い」の字の喪はれ
色も匂はで散りぬるお莫迦 遠
寒ければ 寒いと言つて立ち向かう 湖
画所預従五位上土佐守藤原光貞・画
2012 3 126
* 今回の湖の本110 111 上下巻は、まかりまちがえば「遺著」ともなる二冊と覚悟して、ともに入院の直前に原稿を仕上げて入稿して置いた。上巻は病室から責了して、いま皆さんの手に届こうとしている。届いてもいる。
下巻の「序に代えて」も跋の「私語の刻」も自分の手で書いて置いた。入院日のほんの前のことで、わたしは、成り行きを慮って「あとがき」末尾にわざと十数行の余白を残して置いた。万一の場合は、妻と息子とに後始末をつけてもらって「遺著」として刊行してくれるようにと。送り先の用意もすべてすでにし終えていた。
* 幸いにして手術は終え、わたしは病室で下巻校正をいっそ楽しんだ。苦痛に呻くときに、この仕事は患者に少なからず我を忘れさせてくれた。そして全巻念校に近い三校の取れる時点で、わざと余しておいた跋文の結びの十数行を、機械からでなく、(病院へは機械は持ち込まなかった。)「秦用箋」の四百字用を何十年ぶりか家から取り寄せ、脱水や吃逆に悩みながら、手書きで書いた。
それを記録しておく。
* (承前) さ、この辺で、昔風に謂えば、筆を置いておく。少し余した頁の余白に、あらためて自分で自分の言葉を、きっと、書き添えたい。
*
胃全摘とや。我に「い」の字の喪はれ色も匂はで散りぬるお莫迦 24.2.21
「贈り物」と純白(ピュア)な褥に三々五々真黒き胆石}(いし)を莊(かざ)りて呉るる (代田先生) 24.2.24
さて、今日は平成二十四年(二〇一二)二月二十八日。聖路加病院外科病室から、此の下巻「私語の刻」を私自身の手で結ぶ。
今日、主治医先生から聴いた。私の胃癌は、病理検査を経てⅡ期と確認でき、リンパ一ヶ所への転移が認められたと。このさき抗癌剤を用いるかどうかなど私自身で決断しなくてはならない。かくてもはや不確かな残年残日を、一人の文学者としてどう生きるかが第一義の課題となる。ともあれ此の下巻を送り出す頃には、落着いた気持で日常の「書く」生活へ戻っていたい。
抱き柱は抱かない。元気でいたい。
雨雲の幾重に色を変へながら明け白みゆく吾が容態のごと 遠
* そして四日後、三月三日に、とにもかくにも退院してきた。一週間が過ぎた。
☆ 待酒不至 李白
玉壺繋青絲。 酒のつかいの
沽酒來何遅。 あんまり遅い
山花向我笑。 花は咲き初め
正好啣盃時。 今ぞ飲むべし
晩酌東 下。 晩酌の窓べに
流鶯復在 。 嬉し鶯の客來
春風與酔客。 春風ほろ酔い
今日乃相宜。 客も我も萬歳
2012 3・10 126
* 六時半起床 血圧、体温、血糖値、正常。
飲み水がうましと飲める目覚めかな脱水の日々はみるも厭なりき
* 今年元旦以来二度目の退院までの写真を、およそ整頓保管した。朝食に、階下へ。
2012 3・29 126
* 六時半起床 血圧、体温、血糖値、正常。
緋の色の椿の花よたをやいでかく美しく崩れ落ちぬる
上腹部に張りがあり、朝食をかすかに上へもどす気味あり。大量各種の服薬が負担なれど、腹の鳴りとすこしく溜飲をさげる感じに救われている。まだ便秘という間隔ではないが、用心は必要。
2012 3・30 126
述懐 平成二十四年(2012)四月
こゝに消えかしこに結ぶ水のあわの
憂き世にめぐる身にこそありけれ 前大納言公任
したゝかに水をうちたる夕ざくら 久保田万太郎
ものの芽をうるほしゐしが本降りに 林翔
緋の色の椿の花よ たをやいで
かく美しく崩れ落ちぬる 湖
赤い椿音符のやうに咲き溢れ
われにまどかに声あはせ来る 遠
速水御舟 名樹散椿図 部分
2012 4・1 127
* 吉備の有元さんから、妻の元気回復にととびきり上質な蜂蜜をたっぷり贈っていただいた。妻もわたしも、いまは、なんとかよたよたと庇い合いながらいっしょに歩いています。お礼を申します。
☆ 鴉に
こうしてメールを書くのが四月とは、信じられないほどの日々が過ぎているのですね。
昨日、湖の本が届きました。宅急便なので一端お宅の方に返送されてしまったのでしょう。改めて送っていただきお手数かけました。
千載和歌集なので以前読んだ時、自分がしるしを付けていた歌と照らしながら、ゆっくり楽しみながら読もうと思っています。
二月十五日は鴉が手術の日、そして奇しくも、前もって予測も予定もできるはずないその日が、わたしの初めての詩集の発行日であったとは・・。
あれから長い時間が過ぎた気がします。
引越しの後、電話が引けてインターネットが使えるまでの三週間の空白、三月半ばの鴉の再入院。さまざまなことを推量するばかりの毎日でした。コンピューターを新しく買い替えて、その立ち上げにもあまりに時間がかかってしまいました。情けない!です。
二月末に、もとの播磨から飛来し、尾張の鳶になりましたが、引っ越しの大変なこと、大変なこと。今回は腱鞘炎らしきものに苦しみました。現在はかなり治ってきて右手の中指薬指に痺れと痛みが残るだけになりました。
今日は春の嵐、東京はまだ雨風強い時間ではないでしょうか。
幸い、桜はこれからです。お体くれぐれも大切に、そしてこの季節を、桜を、どうぞ楽しまれますように。
取り急ぎ 鳶
* 尾張とな いなとよこれをはじめとし 年のさかりをいやしけ吉事(よごと) 鴉
2012 4・3 127
* こまめに書いていた手帳の日記に、前後二度の入院期間31日のうち、歌など三十ほど書き置いていた。ナニの手柄も無いけれど。
月光をアシュケナージに聴き入りつ今しも手術室(オペ)へ入る朝明(あさけ)に
久方の光あかるき雨明かりこころ穏(おだ)しく胃全摘待つ
妻が踏む往き来のかよひ遠ければみじろぎ難(が)てに恋ひ待つわれぞ
人の見舞ひ欲しくはなくも黒いマゴの受話器の闇に啼くがかなしさ
古径描く罌粟額(ぬか)の上に咲く病室( へや) ぞ そが嬉し命漲る葉叢よ
術半ばかと胸に手を置き妻のため祈るなり倶に倶に永遠(とは)に生きたし
(妻、緊急の心血管拡張手術)
深々とビルの谷間に天晴れて嬉しさよ今朝は帰宅の日なり
十文字蜘蛛の巣なりに切られしと感じてこのかたわが腹を見ず 2012 4・11 127
* まだ心幼かった頃の娘も息子も、父親が「死」について思惟し述懐するのを嫌い、キザに「死」を弄んでいるとまで非難したのを忘れていない。「死ぬときは死ぬんだよ、何を考える」などと中学生の息子は嘯いた。
その息子が、今は、人の死を真面目な話題に、たくさん読み物や芝居を書いている。「死」は明らかに息子にも重い課題であるらしいし、わが子に死なれた姉娘もしたたかに死についてものを思ったことだろう。
わたしは、ほんとうに小さかった「もらひ子」の昔から、「死ぬ」ことに関して恐怖と厳粛さとで、ものを思いつづけていた。さもなくて『死なれて・死なせて』を書くまでに、たくさんなあんな小説は書かなかった。若い頃は死は歩んで行く道の向こうの方にいると思っていたが、年を取るにつれ若い頃兼好に教えられていたように、いまや死は背後からひたひたと迫ってくると理会している。予感し実感している。
この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ 11.10.23
昨年十一月末に出した「 湖(うみ)の本」 109の歌集『光塵』はこの歌を結びに置き、わたしは聖路加病院の糖尿病の主治医に人間ドックを紹介してもらった。明けて正月五日のドックの検査は、精査をまつまでもなく明らかなわたしの胃癌を指摘し、掌をさすように予断は確定診断となった。「逆ら」うどころでなかった。いまわたしは明らかに片手に生と片手に死と手をつないで歩んでいる。生と死とが左と右ほどは違わないのだということも感じている。 2012 4・14 127
* 九十五歳歌人清水房雄さんに戴いた『汲々不及吟』をすこぶる愛読。好きで、爪じるしをつけた歌が多数。そういうことはめったに有ることでない、好きな数が多く思うさま書き写すことが出来ないとは。
救ひなきこころ歌ひて何になるか寂しさや独り尽きぬ寂しさ 清水房雄
齢のみ亡き先生に近づけり其の他のことは何ともかとも
歌を通して知り得る程度のなま易しきものにはあらず人生の真
聞き知りし木の名草の名片端から忘れて吾のとどこほり無し
出不精の吾を率直にいましめし君在りし日の声のさやかに
2012 4・27 127
* 病院ではいやでも早起きだった。いま、すこしずつ朝寝がながくなる。
今朝の食事、おさまりわるく、不穏。やがて、歯科医へ向かう。一年近くも行かなかったか。
何時何処でどんなかたちで終るのかそれのみ日々のわが関心事 清水房雄
というほどでは、ないが。
2012 4・28 127
述懐 平成二十四年(2012)五月
もの思ふ心や身にも先立ちて
憂き世を出でむしるべなるべき 前左衛門督公光
外(と)にも出よ触るゝばかりに春の月 中村汀女
生得の不器用ははやく気づきつつ
其のまま過ぎて齢長けたり 清水房雄
一つでも心にのこる作があれば。
無くば無くてもいつか必ず 湖
明石町の春
下保谷に躑躅咲く
2012 5・1 128
* 歌集『四万十の赤き蝦』を頂戴したのは、日比野幸子さん。初の歌集であるが壮絶な癌転移とのこごしき闘いを基底に、ふりしぼる力で「歌われ」ているのが、これぞ感動的に「すごい」。初めて知る「かりん」系の歌人と受け取っていたが、あとがきで驚いた、旧知の詩人で「 湖(うみ)の本」 の久しい読者である日原正彦さんの夫人であったとは。ひとしお、胸に惻々せまりくる歌の数々にたった今もかすかに身の震えを覚えている。ご平安といっそうの創作を願います。
2012 5・2 128
* 夜来の雨おやみなく時に激しく。出掛けねばならぬ用事無く、何の約束ごともない。雨を聴きながら家で好きにしていられるありがたさは、贅沢である。
* 夥しい保存資料が整理用抽出しの百棚ほどに溢れているのを、折ごとに整理し不要ななかみは捨てようとしている、が、捨ててしまえるものは少ない。そうかといっていつか役に立つかというと、アテにならない。愛着や執着の成せる堆積と言わねばならぬ。
今日もみていたら、「1953ー4~」とあるB5の古いノートを見付けた。
「茶道」「京都市立 日吉ヶ丘高等学校」「会計」と表紙に有る。
もっと小型帳面で、毛筆で表紙に「昭和廿七年発足 茶道部 日吉ヶ丘高校 金銭出納簿」としたのも挟み込んであり、茶道部の会計帳に、他の備忘や記録や部員名簿などが書き込まれてある。茶道部の出来たのが一九五二年と分かる。その年、わたしは高二であった。
わたし自身の筆蹟は殆ど見当たらないが、懐かしい部員の名前はほぼ残りなく随時に繰り返し記録されていて、稽古日ごとの菓子や茶などの領収書もたくさん挟み込んである。また茶籠など携え嵯峨野に野点にでかけたりした顔ぶれも分かる。
なかに、ノートの一枚を切り取ったのに、わたしのペン字で、茶道部稽古用の刷毛目茶碗と菓子鉢とを五条の京都陶磁会館販売部で買った「日吉ヶ丘高茶道部殿」への領
収書が写し書いてある。「29年9月10日」の日付は、わたしがもう大学一年生であったことを示している。つまりその頃までも高校茶道部の稽古を指導しに母校へ出向いていたのである。
そんなことより、同じノート紙片に「菅原万佐」の名で、まぎれないわたしの高三時短歌が四首書き込んである。後の歌集『少年』にはみな洩れている。文化祭といわず、何かしら学校に来客などあると、茶道部は接待を頼まれた。校長室に立礼の設えもありそこでも茶を点てたりした。学内に指導できる先生がなく、創部のときからわたしが点前作法などを部員に教えていた。裏千家の茶名宗遠は、叔母宗陽のもとでちょうど高校卒業と同時にゆるされていた。家ではしばしば叔母の代稽古もしていた。
昭和廿八年文化祭協賛茶席を設けし日に
射し添へる日かげをうすみほのぼのとあかき帛紗の沁みてなつかし
のこり火の火の消えぬがに夕づけばのこせる香を薫きゐたりけり
すさびとは吾が思はぬに目にしみる夕陽のいろを茶室にみをり
山なみは目にあかくしてけふひと日かく生きたりと丘の上に佇つ
日吉ヶ丘の高みに建つ母校の、美術コース専用校舎二階には、当時著名な茶室建築家が設計し、やはり著名な哲学者久松真一氏が「雲岫」席と名付けられた、八畳間の佳い茶室が出来ていた。わたしたちの茶道部は、其処を我が物のようにいつも使っていた。襖ひとえの奥には、日本画などの画室にも使われたのだろう畳敷きの大広間が接していた。西向きの小窓からは、京の西山なみが夕方には落日にあかく染まり、東寺五重塔の水煙が目の高さに遠くほのかに見えていた。
男子部員は、わたしが指導していた頃には一人もいなかった。多いとき女子部員は廿人以上もいたか。中にはもう、亡くなった人も何人かあり、いまもメールを呉れ、湖の本を愛読してくれる人が何人もいる。「あかき帛紗の沁みてなつかし」い人もいたに違いないが、覚えていない。
* こういうことでは、とてもモノが片づかない、捨てきれない。 2012 5・3 128
* 写真を、季節の花にとりかえてみた。
☆ ( )の字の中いっぽんが猫となり子は遠き地に中年となる 山田佳永子
* こんな歌をもう昔のこと、雑誌「ミマン」に連載していた『センスdeポエム 詩歌の体験』に出題した。いま、あまりにその通りなのに笑ってしまった。五月一日にメーデーを思い出しもしなかった。今日「こどもの日」もあやうく思い出した。原発ゼロの日という思いが強いのだ。だが、子供達よ、元気であれよ。
2012 5・5 128
* 「小説を書く人のなかで詩に興味ある方」はと問われた。「詩に興味」は微妙すぎるが、詩も書く小説家と限ったとき、佐藤春夫や伊藤整や高見順や井上靖や清岡卓行のような優れた詩集を持った一級の作家を、現在健在のとなると、辻井喬さんのほか、容易に思い浮かべられない。読み物の作者ではあるが、伊藤桂一さん。
2012 5・11 128
* 五時に目覚めてしまった。そのまま本を読み始めて、七時。『フアウスト』を三度め、読了。大久保房男さんの『戦前の文士と戦後の文士』も読了。亡き三原誠さんの『愛は光うすく』も読了。九十五歳歌集、 清水房雄さんの『汲々不及吟』も読了。
もうほどなく、チェーホフ六大戯曲も、源氏物語五十四帖も読み終える。次々にまた別の作品をえらんで楽しむ。柳暗花明という気持ちである。
南宋、陸游の詩「山西の村に遊ぶ」に、こう、ある、「山重水復 路無きかと疑ひ 柳暗花明 又た一村」と。
2012 5・15 128
* 歌集句集詩集、あいかわらずよく贈られてくる。できるだけ読んでいる。
2012 5・25 128
* 五月が逝く。もう初夏の気配。『和漢朗詠集』巻上の目次で「春」をみると、立春、早春、春興、春夜、子日付若菜、三月三日、暮春、三月尽、閏三月、鶯、霞、雨、梅付紅梅、柳、花付落花、躑躅、藤、款冬とある。款冬は山吹のこと、せいぜい今は藤や山吹の頃か。そして「夏」は、更衣、首夏、夏夜、端午、納涼などと目次にある。端午は昔の暦の五月五日、いまの暦と比べほぼ一ヶ月後とかれば、まさしく今は更衣して首夏つまり初夏を感じ始めている時季に合っている。
壁に背ける灯は宿(よべ)を経たる焔を残し
箱を開ける衣は年を隔てたる香を帯びたり 更衣 白楽天
甕頭 竹葉は春を経て熟す
階底の薔薇(しやうび)は夏に入つて開く 首夏 白楽天
こぞって白楽天の詩を愛した時代の季感であり、かすかにとはいえ、まだ今日にこれを解する人も多いと思いたい。愛読に堪える『和漢朗詠集』である。座右にある。
2012 5・29 128
述懐 平成二十四年(2012)六月
わが宿のかきねや春をへだつらん
夏きにけりと見ゆる卯の花 源 順
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
人間は心を洗う手はもたないが
心を洗う心はおたがいにもっている筈だ 小熊秀雄
梅の実の熟れのにほひの目に青く
日の照る午後の遠きおもひで 湖
掌において身のおとろへの忘らるる
マスカットの碧(あを)の房の豊かさ 湖
歯医者さんの帰り道で
2012 6・1 129
* 黄壌 誰か我を知らん 白頭 猶ほ君を憶ふ
唯だ老年の涙を將(も)つて 一たび故人の文に灑(そそ)ぐ 白居易
おもえば少年の夢や言葉を分かち合った何人もが黄壌黄泉の人となった。きみたちを日ごとに憶う白頭翁のわたしの現状をなにも知るまい。白居易はそう思っている。そう思いながら故人の遺文などに目をあてては涙堪えがたいと。
若くして海外に居を移したまま、ついに帰ろうとしなかった中学・高校をともにした田中勉を、わたしはしばしば憶い出す。背を押してわたしを創作へ動かした大学の友、重森 (ゲーテ)をわたしはしばしば懐かしむ。彼らが彼方にいてわたしが「いま・ここ」に在る不思議を思う。彼らは、わたしに涙灑がせる一つの文も遺しては逝かなかった。だが、その声音は、言葉は、ありありと耳に懐かしい。
2012 6・1 129
* フアウスト博士の嘆き
かつては空想が、大胆な飛翔で、
希望ゆたかに永遠をめざして拡がったのに、
幸運が一つ一つ「時」の渦巻の中で挫折すると、
狭い空間にせぐくまるようになる。
その時すぐと胸の奥に「憂い」が巣くい、
そこにひそやかな痛みの種を蒔きながら、
不安げに身をもがいて、悦楽と安静とを妨げる。
「憂い」は絶えず仮面を改めて現われる、
お前は到来もせぬものを恐れておののき、
失いもせぬものを惜しんで泣かねばならぬ。
* 佐藤通次氏の訳は読みよい。が、ゲーテは全てを「詩」として書いている。その詩たるすばらしい表現にこそ『フアウスト』の文学として思想としての魅力が慕われてきた。それを忘れてはならぬ。
2012 6・2 129
* 晩飯食べられぬまま、鳩尾で息がつまり、衝き上げる痛みと倶に水気を吐き続けた。初めてのこと。
なかなか息災とはいかぬ。さっさと寝るか。
☆ 死といふこと考へ考へはてしなし直ぐ目の前にせまる己が死 清水房雄
2012 6・5 129
* 来週火曜日に聖路加眼科の緊急の診察を受ける。
右眼黄斑変性症と診断され、とうとう眼へ来たかと少し参っている。その上、からだが水分も食餌も受け付けず、執拗に吃逆がつづいて、ものが下へ降りず上に戻ってくる。なんとかこれだけは通り過ぎないと、体力が落ちる一方になる。明日から、また新刊を送り始める。力仕事のうちに躰の方も復旧してほしいが。
せいぜい楽しかったことなど想い出し、力にしたい。
☆ 陶潜の「飲酒」より 其の三
道喪びて千載に向々(なんなん)とす
人々其の情を惜む。
酒有るも肯へて飲まず、
但だ世間の名を顧みる。
我が身を貴うする所以は、
豈(あ)に一生に在らずや。
一生復た能く幾(いくば)くぞ、
倏(しゅく)として流電の驚くが如し。
訂々たりな百年の内、
此をば持して何をか成さんと欲する。
* 酒も飲めないとは。昨日中華料理「萬里」での紹興酒は美味かった、のに、食事中急の不調でムダに残し置いた。
2012 6・6 129
☆ 仕方なしと言へば何もかも仕方なし人に告ぐべき事ならねども 清水房雄
* ともあれ水分も入り、食べ物も少しずつ入っている。この体調を維持したい。
神奈川にお住まいの、大学先輩がお見舞いの氷菓を下さった。一度もお目に掛からないが、もう四半世紀のご厚誼で。有難う存じます。
2012 6・7 129
* 心親しい詩人の布川鴇さんが、詩誌「午前」を創刊したと知らせてみえた。創刊の辞になみなみならぬ決意も覚悟もうかがわれる。布川さんの「編集後記」を紹介しておく。
☆ 編集後記
いよいよ 「午前」 は出発する。
創刊にあたり、昭和十三年当時、立原道造から直接同人として誘われたお二人、杉山平一氏と山崎剛太郎氏からお言葉と詩作品が寄せられたことは、大変有り難く、なおご健在で文学に向っていらっしゃることを知ってうれしい。
「午前」 という名称の由来により、また、編集人である私の個人的な関わりにより、創刊の辞を、立原道造の名から始めることになったが、「午前」 は立原に始まって、立原を語ることで終ろうとする意志はない。立原は未見の夢を残してこの世から去った。その夢には未来への架橋となる期待があったはずである。死後七十三手経ち、大きな戦争をくぐり披け、彼にとっての未来だったその時代を私たちは生きている。過去に出合ったことを重ねながら、遙か前方をみつめなけれはならない。
昨年の東日本大震災以降、言葉の意味が激しく問われているが、どんな時代にもそうであったように、私たちは私たちの意思を言語として、詩を書き続けなけれはならない。意識の深部でどのように回想と絶望と希望とが巡ろうとも、広くこの世界の現実を背景としての自己の存在をみつめてゆかなければならないことは必然である。
私たちは出発するのみである。 (布川 鴇)
「午前」 創刊号
発行日 2012年6 月5 日
発行人 布川 鴇
発行所 午前社
〒330 -0844
埼玉県さいたま市大宮区下町3 -7 -1 S601 譚詩舎方
Tel ・Fax O50 -5814-8703
e -mail:gozensha@gmail.com
* 志を大いによしとする。だが、問題は「詩」の如何にある。
2012 6・15 129
* 大島史洋氏の歌集『遠く離れて』を通読。こういう歌もあるかとおもいながら。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人間梯子の第四段目は、ユングらの説く、精神霊性。
彼らは、パヴロフ、フロイトまたアドラーよりは大きな可能性を開く
彼らは非合理の世界、無意識の世界を受け容れる
自分たちを理性に閉じこめはしない
その点、彼らは少しは理性的な人たちだ
現代心理学の終点だ
梯子の全体から見ればちょうど中間だ
現代心理学はまだ完全な科学とは言い難い
何ひとつ確かではない
経験的というよりは仮説的だ
実現の途中であがいている
第五段めは、霊性
イスラム教、ヒンドゥ教、キリスト教
大組織宗教はこの五段めで引っかかったままだ
あらゆる組織宗教は、教会は、そこで立ち往生してしまう
第六段めは、霊性超越
世界中で、時代から時代へと
教会組織とは毛色の違った、教義的ではない
より経験的なメソッドが開発されてきた
おまえは自分自身の中に一定のハーモニーをつくり出し
そのハーモニーに乗って
おまえのあたり前の現実(リアリティ)からはるか遠くまで行けるようにしなくてはいけない
ヨーガはそのすべてを判官し得る
それが第六段めだ
そして第七段めは、超越
タントラ、道(TAO )、禅
仏陀の姿勢は第七段にある
プラジューニャーバーラミター(般若波羅蜜多)
超越的な智慧
さまざまな身体がすべて超えられ
おまえたちがただの純粋な覚醒
ただの観照者
純粋な主観性になったときにはじめて来る智慧を意味する
この超越に到達しない限り
人間は、おまえは、いろいろな玩具やあめん棒を与えられずには済まない
虚構の意味を与えられずには済まない
* バグワンはこの七段の人間梯子を大事な入り口と考えていて、『般若心経』を語りながらもう一度この七段梯子について繰り返している。蒙昧で幻想にすぎない無明長夜の夢から覚めなさいと。さめたとき、お前は梯子の七段目へ来ていると。
夢覚めむそのあか月を待つほどの闇をも照らせ法のともし火 藤原敦家朝臣
人ごとに変るは夢の迷ひにて覚むればおなじ心なりけれ 摂政前右大臣
見るほどは夢も夢とも知られねばうつゝも今はうつゝと思はじ 藤原資隆朝臣
おどろかぬ我心こそ憂かりけれはかなき世をば夢と見ながら 登蓮法師
2012 6・19 129
☆ 老子大道廃章第十八
大道廃れて仁義あり
智慧出でて大偽あり
六親和せずして孝慈あり
国家昏亂して忠臣あり
* 政略出でて大偽あり 国家昏亂して忠臣無し
2012 6・19 129
* ゴットフリート・ケラーが『緑のハインリヒ』のなかに書いた「ゲーテとの出会い」は尊い。「 e-文藝館= 湖(umi)」に欲しい。
* 直正な詩作ならば、つまりは詩人体験の表白ならぬはない。ゲーテは「詩作内容は自己の生の内容である」と『若き詩人たちに一言す』に書いている。
ゲーテ以前のドイツの詩風は、ともすると詩を一種の知能的技術とみなし、自己の内心にとって「よそもの・よそごと」である感激を、借り物の詩形式に盛ることに流れていた。似て非なる詩が多く行われていた。ゲーテはこれを一新した。だからゲーテは今日までも圧倒的真実の詩人とされている。
ところで日本の現代詩は、 如何。ゲーテ以前のドイツ詩にほぼ同じいのではないか。
「自己の内心にとって「よそもの・よそごと」である感激を、借り物の形式に盛ることに流れてい」るからこそ、何を読んでも「似て非なる詩」としか読めないほど、読んでいて感銘を覚えない。そういう詩があまりに多すぎる。時にそれしか無いのかと思える。そうでないであろう詩人たちと語り合いたい。
2012 6・19 129
* 手近な萬葉集の一冊本、澤潟久孝・佐伯梅友共著の『新校萬葉集』を好むままに拾い読んでいると、当然かもしれない、偶然であろうけれど、呼び交わすような歌が近い歌番号でみつかる。
2533 面忘れいかなる人のするものぞわれはしかねつ継ぎてし想へば
2553 夢のみに見てすらここだ恋ふる吾(わ)は寤(うつ)つに見てば益していかに有らむ
原本はいわゆる萬葉仮名で書かれてあるが、読み下せばよく解る、歌は相聞でなく巻第十一「正述心緒」。二首めの「ここだ」はかぞえきれぬほど、たくさん、の意。「33」は男の、「53」は女の歌に想われてくる。
こういう自在な読み楽しみを萬葉集は呉れる。
この本は、大学時代に教科書として買った。本の背こそ傷んで補修してあるが、座右愛読・愛蔵の一冊。
* 和漢のすぐれた詩歌本に、意図してこの「機械」の前では取り囲まれている。歌集・句集・漢詩集。手をのばせば、たちまちに「機械」の毒気から美しい佳き世界へ思いを解き放つことができる。
こんなとき、ふと、身体の不快な重苦しさもうすれ忘れている。 2012 6・20 129
* 笠間書院の重光さんから、故佐伯梅友、故村上治、そして小松登美さん共著『和泉式部集全釈・正集篇』1000頁19000円が贈られてきた。嬉しい。有り難い。かねてわたしは好きな歌人として、男なら西行、女なら和泉式部と言い切ってきた。「千載和歌集秀歌撰」に次いで、山家集か和泉式部集の秀歌撰を試みようかとも想っていた目の前に、この大著を頂戴した。
☆ 『湖の本112 対談・元気に老い、 自然に死ぬ・他』
ありがとうございます。
同封の書籍『和泉式部集全釈』は数十年かけて刊行なった、小生としても思い入れの深いものです。千頁近くあり、ご闘病中の先生にご高覧をお願いするのもかえってご迷惑かと存じましたが、劇薬副作用緩和の一助になればと、あえて献呈申し上げる次第です。
笠間書院 重光徹
* 身体を横にして、気に入って選び抜いた十数冊を少しずつ読む、それは確かに抗癌剤副作用の重苦しい不快感を和らげ、ともすると忘れさせてくれる。重光さんのご厚意、有り難い。
重い本であるが、和泉式部の和歌を、この際、早速に毎日読んでゆこうと決めた。日本の古典は、これで枕べに、栄花物語、和泉式部集、古今著聞集、南総里見八犬伝そして折口信夫の日本藝能篇、神坂次郎さんの『藤原定家の熊野御幸』高田衛さんの『八犬伝の世界』と七冊。副作用に負けないための良薬である。
ちなみに、他にゲーテ『イタリア紀行』チエーホフ『妻への書簡集』そしてトールキン『指輪物語』マキリップの『イルスの竪琴』ほかに辻邦生さんの『夏の砦』そしてバグワン『般若心経』を読んでいる。数頁ずつ全冊一気に読む、少しもこんがらかる懼れはない。
2012 6・20 129
* なんともいえず気分がわるい、これが今やありのままの我が容態で、ほとんど逃げ道がない。気をまぎらわせ、まぎらわせ、やり過ごしている、映画見たり、本を読んだり。
岩波文庫の清水文雄校訂『和泉式部歌集』は正集、続集、宸瀚本、松井本が網羅してあるが、やたらに詰め込んであり一首ずつしみじみ鑑賞出来る本ではない。記録本とでも謂うよりない。学者はしらず、市井の愛読者には優しくない。
その点、正集だけに千頁を費やした笠間書院版は有り難い。
2012 6・20 129
* 東大名誉教授、日本中世文学、和歌文学専攻の久保田淳さんからは、岩波現代文庫の最新刊『四季の歌 花のもの言う』を頂戴した。
いきなり、「せり 芹」の話である。これは、なかなか厳しい。能で言えば「恋重荷」「綾鼓」などをそのまま聯想させる説話に「芹」は彩られている。上の能のように高貴の女が下々の男を虐めることのないのは助かるが、要するに似ている。
簾の風に巻き上げられたとき庭掃きの男は、芹を美味そうに食べている后をみてしまい、恋いこがれて、望み叶うはずもなく死んでしまう。嵯峨の后であった。後年にこのことを男の娘から聴き得た后は、こう詠ったと。
芹摘みし昔の人もわがごとや心にものはかなはざりけむ
実話と言うよりも、歌の味わいからは説話の風味をわたしは覚えている。
ともあれ「花、鳥、魚、霞、霰……四季折々の風物を詠った古歌から自然のささやきを味わう」一冊、この機械の座右に置いて、日々に楽しませて頂く。わたしにピタリの愛読書となるだろう
2012 6・22 129
* 「人間が生を悦ぶことは浅はかな迷いであるかもしれず、死を憎むことは若いころ故郷を離れて他国に住みついた者が帰ることを忘れているようなものであるかもしれぬ」と荘子は語っていた。
「夢を見ているあいだは、それが夢であるとは気がつかず、夢の中でまたその夢の吉凶を卜って楽しんだり悲しんだりしている」が、「ほんとうにしかと悟りに徹してこそ、この人生もひとつの大きな夢にすぎないことがわかるであろう。おろかな人たちは浅はかな迷いのうちにありながらけっこう目が覚めているつもりで、こざかしげに利口顔して、貴賤尊卑のわけへだてをつけたりするが、くだらないことだ」と荘子は言い切る。
現実とは、いい夢かわるい夢か。甲乙をつけてみてもそれが要は夢見心地であるに過ぎぬ。そう分かっていながら、日本の昨日今日の政治をわたしは情けなく思う。
* からだは、しんどい。帰って行く「本来の家」を、こういうとき、無性に懐かしむ。
* 南天の白い花が咲く手洗いの
胡銅の筒にみなぎる青葉 湖
鋭(と)き小さき南天の葉のいさぎよい
真みどりに染みて命あらばや 湖
2012 6・26 129
* 南天の赤い実も欲し白い花の
くづるるやうに散るをし見つつ 湖
南天のいさぎよき葉の翠かな 湖
2012 6・27 129
* 甘みの感触がすばらしい赤い桜桃を頂戴した。医学書院の編集者から、 転進して大学の学長にまで研究生活を推し進めていった後輩で、会社時代は同じ社宅にいて、私達の部屋で、茶の湯の手ほどきなどした。わたしが先に退社し、以来顔の合う機会に恵まれぬママ遠く離れているが、「 湖の本」には篤い応援を戴きつづけてきた。わたしにも妻にも、懐かしい人である。
有難う存じます。
* 花の匂ふ狭庭におりて
どの花が匂ふのかとしゃがむ われが楽しも 湖
2012 6・28 129
☆ 武蔵の鴉に 尾張の鳶
鴉の日々の記述を複雑な思いで読んでいます。
ぼけたと書かれていますが、決してそのようには感じられません。読書や映画、書くこと、何かに集中することは日常の暮らしの中で大切なことですが、現在の身体の不快をも克服していくためにも大いに重要、と気づかされます。書くこと、読むことは鴉にとって生きることの根幹にあるといつも納得させられます。
バルセロナの京さんのメールに、サフォンの『風の影』についての記述がありました。鴉つながりで京さんに何かが届いたような不思議な思いがします。
ついでに、かなり蛇足かもしれませんが、スペインの現代の少説ということで、読んで面白かったのは、『フランドルの呪い画』『ナインスゲート』でした。二冊は歴史や絵画を絡めたミステリー、文学としてということではなく楽しめます。もう一冊、ミステリーでないものがあるのですが、今手元になく・・。いずれも手軽な文庫本になっています。
友人から歌人河野裕子の歌についての感想を求められ、歌集『家、』 死後に夫、永田氏がまとめた相聞歌集『たとえば君』を読みました。
彼女の世界が夫、子供、周囲のいくらかの自然に限定されていることに対して、やはりこれでいいのかと問えば、わたしの答えはノーになってしまいました。早くに世に出て多くの機会に恵まれ、その中でさらに彼女の世界を広げ止揚していくことは可能だったはず・・。
もっとも、これがわたしの世界、これがわたしの歌と言い切られれば仕方がないのですが。
シリア情勢、政局、原発、深く揺さぶられます。
昼時を過ぎて、昼食は済まされたでしょうか? 午後の不快が今日はいくらかでも少ないようにと願います。どうぞくれぐれもお体大切に、大切に。
* ありがとう、メール。
どうしているかと想っていました。家庭生活、よほど落ち着いたでしょうか。
フォンの『風の声』 舞台が全面バルセロナなので、「京」ならこのような街の地理が判るのだろうなと思い、読んだことがあるかと伝えました。教えて貰った二冊のことも伝えましょう。
河野裕子の若い日々の短歌、彼女から『みごもりの湖』などへの親愛とともに送られてきたときは、嬉しくなるほど作歌に心惹かれたものです。だいた、年を取るに連れて世間の地位や周辺からの雑音が藝術家の純粋を冒し始めます。
すこし古くさいと譏られるかも知れませんが、『ジャン・クリストフ』で藝術ないし藝術家について語られた厳しい言葉にわたしは今でも真面目に打たれます。ゲーテの『フアウスト』や『イタリア紀行』からもまことにとうなづいてしまう手厳しい洞察や警告が聴かれて、わたしは学びます。
いまは中国の古い時代の寓話や説話を、同時並行何冊から楽しんでいます。
政治も原発も「知ったことか」と後ろ足に蹴飛ばしてしまいたいと痛切・痛恨の思いで思いますが、荷風のようには出来ないのが「辱(はじ)多き」気がして哀しいぐらいです。もっとも「壽(いのちなが)ければ辱多し」と言った堯に向かい、関守役人は軽蔑の言葉をかえしていたでしょう。「病・老・死の三患にわずらわされることなく、身は常に殃(わざわ)いなしとすれば、壽(いのちなが)くともなんで辱の多いことがあろうものか」と。いつまでも元気にあるとは、美醜や善悪にかかわらず等しく観て見抜けるということかも知れない。
昼食時には家内の用意してくれている四種類の錠剤を飲んで、いい方の左眼能力を長持ちさせようとしています。ビタミンCや亜鉛やなにかです。長時間にバラバラと口にしています。今日は辣韮ですこし日本酒をのみ、また思いがけずボイルした卵を二つも食べられました。また、自転車に乗ってみます。
闘病をいっそ楽しもうと企んでいます、成功するかどうか。
鳶も、日々を大事に。詩も繪も散文も、乗り気で、かいてください。 武蔵鴉
2012 6・28 129
述懐 平成二十四年(2012)七月
庭の夏草茂らば茂れ
道あればとて訪ふ人もなし 隆達小歌
触れしバラの針柔らかし、たまゆらを
胸に萌(きざ)しし刺(とげ)を悔い居り 游 細幼
箸涼しなまぐさぬきのきうりもみ 久保田万太郎
鋭(と)き小さき南天の葉のいさぎよい
真みどりに染みて命あらばや 湖
花の匂ふ狭庭に降りてどの花が
匂ふのかとしゃがむわれが楽しも 遠
村上華岳 太子樹下禅那図 部分
2012 67・1 130
* 手術前に四日間、特別の目薬をさす。その目薬を処方薬局へ取りに行ったついでに、夕方の保谷から南大泉、北大泉へ大回りして帰ってきた。電動自転車の運転自体には何の不自由もない、四、五十分も走っていたと思う。しかし、ずっしりと疲労はしていた。夕食は、ま、そこそこ摂れたとも。
摂食障害では、低血圧、低血糖、低体温そして骨粗鬆症が出てくると。体温は六度台を普通に維持しているが、低血圧と低血糖は、常時の徴候になっている。いっそ日に二食というのはどうだろう。いやいや、体力を落とせばまたまた点滴のために病院にかけこまねばならなくなる。
部屋を26度に冷房してみたら寒くて気分が悪くなった。
☆ 夏夜
空夜(こうや)窓閑かなり蛍度(わた)つて後
深更軒白し月の明らかなる初め 白楽天
* 急に胸の奥の遠くに吐きたいような違和感が蠢いてきた。機械から離れる。
2012 7・4 130
☆ 慵を詠ず 白楽天
官あれども慵(ものう)くして選ばれず
田あれども慵(ものう)くして農せず
屋穿(うが)てるも慵(ものう)くして葺かず
衣裂くるも慵(ものう)くして縫はず
酒あれども慵(ものう)くして酌まざれば
樽は常に空しきに異なる無し
琴あれども慵(ものう)くして弾(たん)ぜざれば
亦絃無きと同じ
家人飯(はん)の尽るを告げ
炊(かしが)んと欲すれども慵(ものう)くして舂(うすつ)かず
親朋書を寄せて至り
読まんと欲すれども封を開くに慵し
嘗て聞く 叔夜(=けいしゅくや という人は)
一生慵中(ようちゅう)に在れども
琴を弾き復鐵を鍛ふ
我に比すれば未だ慵しと為さず
* こんな境涯へのあこがれが、いつも永い人生にありわたしを或る意味で脅かしていた。
2012 7・6 130
☆ 山寺 和漢朗詠集
更に俗物(しょくぶつ)の人の眼(まなこ)に当れる無し
但だ泉声(せんせい)の我が心を洗ふ有るのみ 白楽天
* いい気持ちで熟睡したいもの。それでも今日もう全部読み終えた本の中から、「八犬伝」「指輪物語」「イルスの竪琴」のどれかをさらに読み継いで寝たい。どれへ手が出るか。
2012 7・8 130
☆ 陶淵明集より
栖栖失羣鳥 栖栖たり羣を失へるの鳥、
日暮猶独飛 日暮れて猶ほ独り飛ぶ。
徘徊無定止 徘徊して定止する無く、
夜夜聲轉悲 夜夜 聲 うたた悲し。
響思清晨 響 清晨を思ひ、 響は高い鳴き声
遠去求何依 遠く去りて何に依るかを求む。
自値孤生松 自づから孤生の松にあうて、
斂 遙來歸 (つばさ)を斂(をさ)めて遙に來歸す。
勁風無榮木 風勁く榮木無けれども、
此蔭獨不衰 此の蔭獨り衰へず。
託身已得所 身を託するに已に所を得たり、
千載不相違 千載 相ひ違(さ)らざらん。
* 「飲酒」一連の第四首だが、詩人陶潜の経歴と帰去来の安心とが諷喩されているとわたしは読んでいる。「自づから孤生の松にあうて、 (つばさ)を斂(をさ)めて遙に來歸す。風勁く榮木無けれども、此の蔭獨り衰へず。身を託するに已に所を得たり、千載 相ひ違(さ)らざらん。」とは、至らずとも、吾が思いも其処にある。
2012 7・13 130
* 黒い手を見つつし呪詛(とご)ふ言葉なし抗癌剤めよく効いてをる 湖
* あたりまえの話、抗癌剤はわたしの敵ではない、味方である。副作用がどう出てこようが、「お辛そうですヤメましょう」とたとえ医師に言われようが、わたしは「続けましょう」と言う。
* ものごとには終わりが来る、そして作家には初めが来る、「書く」と謂う「初め・始め」が。
2012 7・16 130
☆ 汲々不及吟十首 清水房男歌集より
齢だからと言ひつつ遣り処なき思ひ吾より若き友の逝きたり
祖母も叔父も長き生(よ)終へし九十四か其の九十四に吾もなりたり
如何にすれば救はるるかといふ嘆き神も仏も有り無しのまま
今にして吾が力には片付かぬ事のくさぐさ更にまた一つ
老年性被害妄想の故かとも纏はりやまぬ此の不快感
何がどうといふ事もなき思ひにて寒き昼すぎ家出でて来ぬ
あの男のいやな笑顔の記憶ありたぶん昭和期末年のころ
何なりしか九十余年の吾の生ねがひて叶ひし事とても無く
虚し虚しと独り呟きゐたりけり何虚しきか取りとめも無く
もう長く生きゆく事もあるまいと思ふ時すら希々にして
* この老歌人のまだ壮年の頃の歌であったろう一首に、衝撃を受けたのを忘れない。
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
この一首の「長き」という尋常な一語に籠もる「父」の思いにわたしは泣いた。どのように其の子からでさえ「思ふさま生きしと思」はれようと、そんなものではない。「父」は生涯「長き(さまざまな)苦しみ」を背負っている。
2012 7・19 130
☆ 汲々不及吟十首 清水房男歌集より
寒き雨降りつぐ一日家ごもる老に避け難き事の何くれ
さびしがり居りても今は仕方なし遙かになりぬ人も記憶も
肌シャツを脱ぎ換ふる時うら淋し告ぐべくもなき心の疲れ
九十六歳とあれば当然の如くして森繁久弥死去の報道
老のうた詠みつぐ吾を批判する君し老いなば何詠むらむか
暮れやらぬ空にしろじろ寒の月黐の木末を去らむともせず
さまざまに花のあはれを歌ふ人遠く及ばぬ人とさびしむ
思ふこと思ふがままに詠まむなど面倒なこと人の告げ来ぬ
唯しぶとく生きてゐる事よと言ふ声もひそかに聞きてほくそ笑みゐつ
救ひ無きこころ歌ひて何になるか寂しさや独り尽きぬ寂しさ
* 何を食べてもそのもの固有の味わいが全然賞味できず、なにもかもが苦い。舌の味蕾がすべてザラザラに荒廃しているらしい。美味いと思いたいはやまやまなれども、体力を落とさないためにはとにかく食べるよりないと自覚している。
今日浴後の体重66.1kg。朝にはかったときはものを着ていたが、66.5kgあった。あやうくもう66キロ台を踏み割りそう。
明日からの入院がなにか気分の転換を生んでくれるといいが。
☆ 效陶潜體 白楽天
嘗(かつ)て彭澤の令と為り。官に在る纔かに八旬。
愀然として忽ち楽しまず。印を挂(か)けて公門に著け。
口に帰去来を吟じ。頭(かしら)に漉酒の巾(きん)を戴き。
人吏留むれども得ず。直(ただち)に故山の雲に入り。
五柳の下に歸来し。還(また)酒を以て眞を養ふ。
人間の榮と利と。擺落(はいらく)して泥塵の如し。
先生去りて已に久し。紙墨遺文あり。
篇々我に飲むことを勸め。此外云ふ所無し。
我老大より來(このかた)。竊(ひそか)に其人となりを慕ふ。
其他及ぶべからず。且(しばら)く效(なら)ふ醉ふて昏々たるに。
* 只今の吾が述懐として、遠く及ばざれども。
2012 7・21 130
* 七時に起き、進まぬ朝食、服薬等を済ませた。九時少し前のバスで駅へ向かう。
聖路加眼科へ入院。明日三時過ぎに、右眼、黄斑前膜と白内障の手術を受けてくる。入院は長くて十日ぐらいと。手術の成功が心より望まれる。
* では。
ーーー眼科入院手術による八日間の空白ーーーー
ーーー眼科入院手術による九日間の空白ーーー入院中備忘
秦恒平(オンコロジイ患者)の容態日録3 眼科入院九日間
2012 朝の血圧 朝の血糖値 日々容態
7/22 122-58(76) 87 朝食メロン1/4 パン1/4 ソーセージ1本 体調普通 聖路加眼科入院 診察 昼食食べる 湖の本113初校開始 妻を遊楽町まで見送りシャツ衝動買い建日子に遣る 白鵬全勝優勝逸す 平清盛・薄櫻記・ 建日子作のサマーレスキュウ、イ・サン観る 新しい目薬加わる 体調は良い
7/23 体調良 食餌も摂れている やや難尿 8;30診察検査各種 点眼各種 右腕に点滴の用意 昼血糖値12;45 サイプレジン、ネオシネジン、ミドリン点眼 校正進捗 主治医大越貴志子先生担当医稲垣圭司先生 15: 30 黄斑前膜除去のための硝子体手術と白内障手術 執刀医は主治医でも担当医でもない年配と想われる男性先生であった。一時間ほどで手術成功 苦痛なし 妻医師説明聞く 建日子見舞い来室 夕食 妻と建日子帰して 寝る
7/24 122 88 体温6 度5 分 片目で校正続行 朝診察 除膜等キレイに成功 体調良 三種点眼七時十時十三時十六時十 九時二十一時 食餌摂れている 妻来て帰る 校正・読書少しずつ イチローヤンキースに移籍驚く 原発政府事故調の不十分怒る 手先痺れ顕著
7/25 82 朝食後多量排便 腫瘍内科名取先生来室 泌尿器科診察8/16延期 下駄と甚平で外出 名取先生抗癌剤再 開は退院後からと 歓談 手先痺れにヒルドイドソフト軟膏処方 「 湖(うみ)の本」 113初校了 独りでシャワー なでしこジャバン試合少し観て 寝る
7/26 88 朝診察順調と 食堂パンケーキとオレンジジュース苦い 食物の大方苦い 妻冷えたメロン持参 下痢二度下痢止め服用 腫瘍内科山内先生名取先生以下来室 妻を新富町駅へ見送る 荷物半ば持ち帰る ショートケーキら買うも味無し 点眼ごとのガーゼ眼帯取り外し苦手
7/27 91 男子サッカースペインに勝つ ロンドン五輪開会式か 食餌まあまあ 味蕾ザラツき食餌大半が苦い 夕食鰻感謝 仕掛かり創作原稿点検思索心に動くモノあり 退院7/30かと。 持参のフアンタジー愛読 腫瘍内科名取先生抗癌剤服用は八月一日から再開しましょうと。 食餌口に苦いのが苦 浅草の花火今年は観られず゜やや頻乏尿か
7/28 五輪開幕 空腹感あり驚く 食べている 名取先生来室 午后診察術後右眼とてもキレイと 建日子と万有美と見舞い 栗饅頭など 妻も来る 送る
7/29 116 92 9:40 朝診察了 脚力快感 御飯食べられる 五輪のメダル連呼が不調を呼ぶ一戦一戦を真摯に闘え 退院を待望 眼科主治医も担当医も病棟病室に足を運んでこない 夕刻前親切な看護師に洗髪してもらう 建日子署名本にわたしの署名も添えて呈上 夕刻病院近隣治作辺を散策 平清盛・薄櫻記を楽しみ泪す インシュリンは朝昼晩に各4単位就寝前に6単位注射してきた トールキン『指輪物語』第二巻、マキリップ『イルスの竪琴』第二巻読了『中国古代寓話集』も荘子、 列子、 戦国策、観非子、呂子春秋を読み通してきた 明日は退院か
7/30 108-58 82 入念な朝診察と諸検査を経て本日午前の退院がきまる 9:20家で待機の妻に退院決定を伝え、手早く持ち帰りの荷も用意 数日滞っていた便が快調大量に 空腹感 次回眼科診察日決定 抗癌剤休薬が名取先生の配慮でやや延長されていて、お蔭で確かに楽。 病棟に預けた薬や診察券も戻され 新処方薬も抗癌剤はじめ幾つも 妻到着 病院請求書も調い、一気に退院手続き終わる 食堂で朝食にカレーライスがとびきり辛かった 食堂に隣接の画廊で北京出身の王亜君が描いていた『木立』を記念に買った 熱暑を避けタクシーで保谷に帰る 点眼その他の日常生活に戻る
「眼を病んで 手術(オペ)受けて暑い日家に 退院(かへり)来ぬ あるがまま あるがまま 仕事に向かふ」 湖
2012 7・30 130
* 入院中の記事も調えた。あとまわしになった平凡社の仕事や湖の本113の進行などへ目を向けて行かねば。
食べられなかった麺類「ほうとう」が食べられ、炒り卵も。
明日からまた抗癌剤を飲み始める。
右の眼にこまかに網状に穴の空いた金属の眼帯をしている、寝ているときも。いまは下にガーゼ無く、曲がりなりに両眼が使えている。
* 七月尽。ひとつの危機至り、幸いに免れるを得た。
身を観ずれば岸の額に根を離(か)れたる草
命を論ずれば江の頭(ほとり)に繋がざる舟 羅維
2012 7・31 130
述懐 平成二十四年(2012)八月
虚し虚しと独り呟きゐたりけり
何虚しきか取りとめもなく 清水房雄
箸涼しなまぐさぬきのきうりもみ 久保田万太郎
かかる日にたしなみ言ふは愚に似れど
ひと無頼にて憤ろしも 前川佐美雄
j 眼を病んで手術(オペ)受けて暑い日家に退院(かへり)来ぬ
あるがまま あるがまま 仕事に向かふ 湖
王亜君画・木立
ビュッフェ画・薔薇
2012 8・1 131
* 就寝前の十七冊の読書は、何度か横になるつど次々に読み進んでいる。機械の前でも何冊か読み継いでいる。
今月は、月半ばに松本幸四郎と松本紀保、松たか子父子が演じる「ラ・マンチャの男」を観る。日生劇場や帝劇で繰り返し観てきた。どんな演出の舞台になるか、楽しみ。
月末には二日続きで舞踊の「松鸚会」へわたし独りで楽しみにゆく。
* 病み痩せて腕(かいな)に寄する小皺波幾重と果てで肩に漂ふ 湖
2012 8・2 131
* 『古今著聞集』は巻第四「文学」になって俄然面白い。「序」の文学の起源と効用の事」は、書経などに拠り、こう在る。
伏羲氏(神話的三皇帝の一人)の天下に王としてはじめて書契( 文字) をつくりて、縄をむすびし政(まつりごと)にかへ給ひしより、文籍(書物)なれり。孔丘(孔子)の仁義礼智信をひろめしより、この道(文学)さかりなり。書に曰く、「玉琢(みが)かざれば、器に成らず。人学ばざれば、道を知らず」と。また云はく、「風(ふう)を弘め俗を導くに、文より尚(たふと)きは莫(な)く、教へを敷き民を訓ふるに、学より善きは莫し」と。文学の用たる、蓋(けだ)しかくのごとし。
縄の結び方を公示することによって指示・通告などし、天下の政治を行っていた時代があったのだ。
古めかしいようでも、現代がはるかに忘れ去っている貴重な願いがよく言い表されている。遙かに恥じ入らねばならぬのは、今日の政治であり文学である。
この文学篇は、「百済からの漢籍の伝来に始まり、平安末鎌倉始めの治承文治の頃にいたるまでの、王朝貴族文化の精粋と言うべき漢詩漢文にかかわる説話三十五話を収め」ているのが魅力で、和漢朗詠集ともさながら気息を合しているかに楽しめる。
例えば、高徳の 念上人は入唐のおり、本来橘直幹の秀句であった
蒼波路遠雲千里
白霧山深鳥一声
を「霞千里」「虫一声」と変改して自作として披露した。唐の人は聴いて読んで称賛のうえで、「佳句」なれど「おそらくは雲千里、鳥一声と侍らば、よかりなまし」と批評した。「さしもの上人の、いかにそらごとをばせられけるにか」と訝しんでいる。説話ははからずも多くを伝えてくれて面白い。好きである。いい漢詩や秀句を貪るように此処でも読める。
2012 8・12 131
* 幸せを感じた一日。幸せに成ってきた一日。
前四列、中央角席という絶好の席をもらい、帝劇で観てきた松本幸四郎、松たか子、松本紀保らの「ラ・マンチャの男」の素晴らしかったこと、二時間余の上演時間のあいだ何度拍手したか数えきれない、何度も観てきたミュージカルなのに、今回の演出といい幸四郎、松たか子の好演は感動に感動を重ねて圧倒的であった。
幸四郎の身動きはしなやかに美しい所作・舞踊を現じ、美声の歌唱の聴きごたえはこれまででも最高のよろこびを与えてくれた。
松たか子の熱演も熱唱もかつての舞台をはるかに凌駕してみごとであり、哀れにいとおしいドルシネア姫へあばずれアルドンサを高めて、満場を感動させた。
カーテンコールは何度に及んだことか、拍手はながく永くやまなかった。
芝居は、演劇は斯くありたいシンボルと称賛したい。ほんとうに盛り上がった。高麗屋父娘たちの、ことに父幸四郎の健在をわたしは心から喜び祝福した。いやいや舞台の絶妙により、わたしも妻もかえって舞台のみんなから祝福され激励されたのである。
わたしは、以前にも書いたが「ラ・マンチャの男ドン・キホーテ」が好きである、共感する。わたしは人生に夢はみない、が、現実を超えた価値観に人間の真実を求めてきた、獲てきた。
同じこの芝居を、思えば何度も観に出かけ、わたしは真実励まされてくる。
* 幸四郎夫人はめずらしく洋服だった。わたしのものすごいほどの痩せと眼帯は、あらためて夫人も番頭さんも驚かせたようだが、高麗屋の女房さん、いつもの笑顔と気さくな歓談とで、演後ロビーの雑踏のなか気持ちよく励まされた。
築地の通院時にわたしは蝉の鳴き声に心とられていたが、藤間一家の熱演や好意に励まされ、こんなふうに述懐の歌一首をつかんだ。
蝉よ汝 前世を泣くな後世(ごせ)を泣くな
命のいまを根(こん)かぎり鳴け 遠
いま、わたしは、病とたたかいながら、こういう気持ちでいる。 2012 8・17 131
* 体重66.2kg 血圧102-56(63)血糖値 89 午前中に腫瘍内科へ。いやはや、まこと、この快晴の炎暑、日陰もない道を歩いて行くのは、たいへん、たいへん。
杖ついて眼帯の老(おい)が道ばたの白い花むらを写真に撮れる
2012 8・23 131
* 四時から五時まで、松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」千二百回上演を記念した密着番組を妻と観た。舞台の感激を下敷きに、さらに沢山の感動の涙を流しつづけた。いい番組であるとともに、ほんとうに見事な舞台であったこと、幸四郎の豊かな強さをしみじみ実感し、心から敬服した。
松たか子も松本紀保も、娘として俳優としてとても佳い証言や思いを語ってくれた。
幸四郎は優れた歌舞伎俳優であり、世界を把握した名優である。彼の演劇としての歌舞伎にも、勧進帳や熊谷や松王丸や由良之助等々にも、わたしは全身を寄せた贔屓であるとともに、「ラ・マンチャの男」はじめ数々の歌舞伎でない芝居も、わたしは、いつも妻とともに、心底楽しんで拍手してきた。幸四郎も高麗屋の女房さんも松たか子も、贔屓のあまりに日本ペンクラブに推薦し入会してもらった。そうすることがわたしにはとても嬉しかったのである。
いい企画番組に出逢えて、嬉しかった。再放映があれば録画したい。
そうそう、夜前夜中に起きて夢うつつの歌を書き留めていた。
在るとみえて否や此の世は空蝉の夢に似たりとラ・マンチャの男
在るとみえて今ここの世ぞ空蝉のあてどなけれとラ・マンチャの男
* ちりんと鈴 鳴らして在り処(ど)おしえつつ黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に
* なんとなく歌の「やうなもの」がのどもとへ顔だして苦笑ひしてをるじややら
2012 8・26 131
☆ 池上 白楽天
山僧対 坐 山僧 に対して坐し 碁
局上竹陰清 局上竹陰清し
映竹無人見 竹に映じて人の見ることなし
時聞下子声 時に子を下す声を聞く 子(し) 碁石
* 清風来る思いで愛唱。
2012 8・30 131
* 古今著聞集は「和歌」に移っている。和歌や漢詩のなんと面白いことだろう。
そして折口藝能論は本が傍線で真っ赤になってしまうほど興味津々で、なかなか読みを休めない。
2012 8・31 131
* 年のことでいま思い出した、今年は暮れの誕生日がくると喜寿七十七歳になるのだった。病気つづきでそんな祝い事は念頭を落ちこぼれていた。古希の時は歌集文庫「少年」が折りよい記念になったが、今度は何のアテもない。平凡社文庫がいつ頃の刊行か、知らない。
2012 8・31 131
述懐 平成二十四年(2012)九月
秋風やしらきの弓に弦はらん 向井去来
たのしみは衾かつぎて物がたり
いひをるうちに寐入りたるとき 橘曙覧
蝉よ汝 前世を啼くな後世を啼くな
いのちの今を根かぎり鳴け 湖
人に似し人に行きあひ見交はしつ
あはれ此の世の情けなきかな 遠
在るとみえて否や此の世こそ空蝉の
夢に似たりとラ・マンチャの男 湖
ちりんと鈴 鳴らして在り処(ど)おしえつつ
黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に 湖
古径画・菓子図
市川染五郎 健やかな復帰を
2012 9・1 132
☆ 花に別る 白楽天
花林好住莫 花林好住して (せうすゐ)すること莫(なか)れ
春至但知依舊春 春至らば但(ただ)知る舊に依りて春なるを
楼上明年新太守 楼上明年新太守 (=新しい佳い人が登場する筈)
不妨還是愛花人 妨げず還(また)是れ花を愛する人
2012 9・1 132
* 大島史洋氏から新刊の「アララギの人々」を戴いた。「幸福を追わぬも一つの卑怯」とうたってわたしの東工大生活を学生と共に豊かにしてくれた歌人。表紙にとりあげたアララギ歌人の名が列挙してある。これだけで一つの「歴史」が読み取れて有難い。
正岡子規、伊藤左千夫、長塚節、古泉千樫、中村憲吉、島木赤彦、斎藤茂吉、平福百穂、土屋文明、土田耕平、松倉米吉、高田浪吉、築地藤子、佐藤佐太郎、小暮政次、宮地伸一。一人二人よく知らない名前も混じっているが。
大上段の論考でなく、エッセイの集成のようにも思われ、楽しんで読みたい。 感謝。
* わたしの人生に和歌、短歌がもし無かったら、どんなに味気なかったろう。母子がとおく離れて生きそして死に別れたが、生母は歌集一冊を遺して逝った。亡き兄恒彦が、「きみが歌をやっていてくれて、ほんとうによかった」と言ってくれたのを忘れない。茶の湯だけでなく和歌というものの歴史的に在ることを寝物語におさないわたしに初めて教えてくれた、秦の叔母つるにも感謝は深い。
そして今、わたしは俳句にも、漢詩にも、ほんとうに嬉しく日々に心惹かれている。幸せなことだ。
☆ 白楽天「水村に客を送る」詩句 和漢朗詠集より
帆開いて青草湖中に去る 「青草湖」は洞庭湖南端
衣湿(うるほ)うて黄梅雨裏に行く 「黄梅」は梅雨を謂う
水駅の路は児店の月を穿つ 「児店」は蘇州の景勝地 友の旅立ちを送っている
花船の棹は女湖の春に入る 「女湖」も蘇州の景勝
☆
櫨の実のしづかに枯れてをりにけり 日野草城
万巻の書のひそかなり震災忌 中村草田男
* 大判の二冊、完備した「歳時記」が隣棟にあるのを、場所をとられるが身近へ運びたくなっている。
* 九十半ばの老歌人清水房雄さんの歌集「汲々不及吟」をおもしろく通読して爪印をつけ、さらに読み直して丸印をつけ、また更に読み直して二重丸をつけた。書き出して作者に送り、「e-文藝館・湖」に招待したいのだが、書き出す時間がないのに閉口している。同じような閉口が多すぎてなさけない。
和泉式部集にもそのような撰歌をはじめて、まだ半ば。爪印にしたがって、やがて「和泉式部集全釈」の解を読み合わせられる日を楽しみに待望している。これらもみなわたしの「仕事」である。したい「仕事」がいっぱい。わたしの最も早い時代の「仕事」に『花と風』が在った。中頃には『蘇我殿幻想』が在った。いま満を持してあれらに類する「随筆」を悠々書き継ぎたい思いに襲われている。
2012 9・2 132
☆ 微雨夜行 白楽天
漠漠秋雲起 漠漠として秋雲起り
稍稍夜寒生 稍稍(せうせう) 夜寒生ず
自覚衣裳湿 自から覚ふ衣裳の湿ほふを
無点又無声 点無く 又 声無し
2012 9・3 132
* 和歌をわたしはもう昔から、倭歌という以上に「和する歌」と受けとって理会してきた。そういう意見はあまり聞かない、今日では。しかし『古今著聞集』の「和歌」巻第五は多くの「和する歌」で編まれていて、その神妙・玄妙に拍手なされている。古今集に継いで編まれた「後撰和歌集」 を今日も二階廊下の窓に凭りかかり拾い読みしていたが、特徴的に和する歌を主に編まれてあると従来の感想を改めて新たにした。さきごろ千載和歌集を撰歌して読者に届けたが、前々から気に懸けてきた今度は後撰和歌集を撰歌し鑑賞してみたくなってきた。
後撰集世界は小説『秋萩帖』(湖の本25 26 )に書いている。生やさしい作でないが、平安博物館の館長であられた生前の角田文衛先生が、京都からわざわざ電話をくださり「よく調べられましたね」と褒めてくださった。後撰和歌集に、伊勢についで多く歌を採られていた或る女人、大輔の誤り伝えられてきた出自を、小野道風との恋とともに追いかけた「現代」恋愛小説だった。そのときから後撰集はおもしろいなと思っていた。「著聞集」を毎日読み継いでいてむかしの興味をふと蘇らせた。
2012 9・4 132
☆ 和漢朗詠集 より 「水」
辺城の牧馬は連(しき)りに嘶(いなな)いて 平沙眇眇たり
江路の征帆は尽(ことごと)く去つて 遠岸蒼蒼たり 暁賦
洲(す)芳(かんば)しうして杜若(とじやく)心(しん)を抽(ぬ)くこと長し
沙(すな)暖かにして鴛鴦(ゑんあう)翅(つばさ)を敷いて眠る 白楽天
* 少しく思いの静まるを覚える。
* 嗚呼
2012 9・6 132
* 倒れてきては物騒千万だが寝床に接するほど近くに、全部で五十ほども抽斗のある棹棚が四列並んでいて、どの抽斗も何がなにやら満杯で、早く整理してくれと呼んでいる。体を起こして気まぐれに抽斗を引いてみると記憶に遠く漏れていた妙なものが出てきて、それなりにおやおやと面白い。今朝はこんなのを見つけた。前句付けの雑俳。なんとなくヒマをみて試みたか、前世紀末らしい。
(オット ドッコイ オット ドッコイ)
野茂ヤハライチローもゐるぞ世紀末
(それは危ない それは危ない)
スクイズをしたが二度までファウルなり
(やめて下され やめて下され)
帰り度い部下をネチネチ誘ふヤツ
(言ってやりたい 言ってやりたい)
いぢめてる児がしらじらといい子ぶる
ほんの息抜きのらくがきだったろう。それでも戸棚に投げ込まれていた。新世紀になって十二年。敬愛していた野茂投手も柔道の田村亮子も現役を退いて久しいが、イチロー君はヤンキース・ベンチの「いじめ」にも似た打順や起用にめげたふうもなく、健闘している。来シーズンはもっとまともに起用してくれるチームへ移籍して欲しいぐらい。
こんなのは前狗付けを適当に作り立てておいて、気ままに付け句を添えるといい、自然と出来てくる。
(なんぢゃこれ なんぢゃこれ)
嘘に嘘 積んで儲けの原発屋
メモ書き最後の「いい子ぶる」一句は、永遠相かも知れぬ。古川柳にこんなのがある。辛辣にやや過ぎているか。
美しひ顔より( ) が見事也 古川柳
虫食いの漢字一字、入れてみて下さい。
2012 9・9 132
* 憲法改正を旗印の自民総裁候補、安倍、町村、林らはそれだけでダメ。民主党は反野田の三人は一本化をはかるべし。最初の投票で野田に過半数を与えてはいけない。
こんな政局に終始するなら解散こそを急ぐべきだが。
うんざり。
☆ 暮江の吟 白楽天
一道残陽鋪水中 一道の残陽 水中に鋪(し)く
半江瑟瑟半江紅 半江は瑟瑟 半江は紅なり
可憐九月初三夜 憐れむべし 九月初三の夜
露似真珠月似弓 露は真珠に月は弓に似たり
* 手近に白楽天詩集が在り、つい手が出、嘆声が出る。
2012 9・13 132
* 和歌はおもしろい。古今著聞集の「和歌」巻も愛読に堪えるが、和泉式部集はさらに一段も二段も上を行く面白さ。
和歌のない彼女の生活はありえない。そしてほぼ赤裸々に彼女の恋多き日常を縷々かつ平然と告白しつづけている。生身の女の切実な実感が赫いて個性的であり、なまぐさくもある。岩波文庫と、「和泉式部集全釈」とを、併行して読み進めながら、その実伝への関心にとらわれようとしている、喜寿にちかいわたしが。
2012 9・20 132
* 尚歯會というのが昔あった。高齢者だけの詩会で、例外的に和歌の会もあった。承安二年(一一七二)に藤原清輔が宝荘厳院で主催したのが珍しくも和歌の尚歯会だった。七人の高齢者でわたしより年寄ったのは散位敦頼の八十四歳だけ。しかし十二世紀の昔の八十四は現在日本人の優に百歳を超えた風貌であったろう。
七人の中の六十九歳に、右京の権の大夫頼政朝臣が加わっている。治承四年(一一八〇)平家追討の魁をなしたあの源三位頼政に他ならない。
尚歯会で頼政はこう詠じていた。
むそぢあまり過ぎぬる春の花ゆゑになほ惜しまるる我が命かな
掛け値無く、秀歌である。和歌はもう公家の占有文化では無かった。武家にも勅撰集に採られる歌人が続出し始めていた。頼政はこの点でも優れた魁であった。かの尚歯会の主催、頼政と同年だった公家の清輔朝臣は、
散る花は後の春ともまたれけりまたも来まじきわがさかりはも
と。花にはまた来年の映えがあるが、自分にはもう一花も咲かせ得ることはないのだと。これから見れば源頼政は、あはれ美しい末期の花を咲かせたのである。
* こんな面白い話もある、院の庁に勤務した身分の低い官吏が、「われより高き女房を思ひかけて」懸想文を使いも立てず自身で持っていって、こんな歌をその身分高い女に詠み掛けた。
人づてはちりもやすると思ふまにわれが使にわれは來つるぞ
懸想の艶書が途中で散逸するようなことがあったのだろう、時代はくだるが閑吟集に、
久我のどことやらで 落といたとなう あら何ともなの 文の使ひや
平安末期の梁塵秘抄にも、
吹く風に 消息をだに托(つ)けばやと思へども よしなき野べに落ちもこそすれ
それにしても男の、弁解ともつかぬ歌はおもしろく、「女、愛でてしたがひけり」 求愛を受け入れたと、古今著聞集にある。この男河内より住の江にゆきて夜ごと夜をあかしたと。「いみじきすき者にてぞありける」と。
こういう話、わたしは好きである。
2012 9・26 132
* 留守中、かつて建日子が在学当時、早稲田中・高校で教頭をされていた橋本喜典さんから、九冊目の歌集『な、忘れそ』を戴いていた。感謝。
2012 9・26 132
* 橋本喜典さんの新歌集『な、忘れそ』は、一読、とても佳い歌を揃えられてあり、これからの再読が楽しみ。そしてまた清水房雄さんからも重ねて新歌集を頂戴したばかり。
すぐれた短歌に出会うのは、むかしからのわたしの貴重な喜びなのである。わたしを「外野」扱いしないで下さる歌人がたくさんいて下さるのが心強い。
音信の絶えて無きひと想像をこゆる悩みにすごしてゐるか 橋本喜典
この歌が佳いとは思わないが、そういう音信の絶えている人がわたしにも在る。数えれば何人もある。「想像をこゆる悩み」など無かれと願っている。
* じつはわたしは、本音をいえば講談社刊の浩瀚な、浩瀚に過ぎた『昭和萬葉集』の、いま一段の秀歌撰がしてみたい。一冊では無理。しかし三巻でおさめられれば大勢の愛読がえられるだろう。現在のあの何十さつもの『昭和萬葉集』では、せっかくだが「貴重な記録」でこそあれ、手にとって読む人は少なかろうと思う。
2012 9・28 132
* 九十七歳清水房雄さん、八十四歳橋本喜典さんの歌集、わたしより九つ若い大島史洋さんの『アララギの人々』が、この日頃機械のそばでの愛読書になっている。
親子とて他人のうちといふ記述さうかさうよと頷き合ひぬ
労らるるやうになつてはお仕舞と聞けばこれ位が程々なるか 清水房雄
来し方に起死回生のごときありしかと思ひありしとおもふ
橋本喜典はこのわれなるにこのわれがわれを証明できぬ窓口
珍しき草花もがと茶博士の左千夫がくれしチンノレヤの花 正岡子規
冬こもり病のひまに伏しながら繪にかきませりふゆふかみくさ 伊藤左千夫
2012 9・30 132
述懐 平成二十四年(2012)十月
くまもおちず家(や)ぬちは水にひたればか
板戸によりてこほろぎの鳴く 伊藤左千夫
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我がいのちなりけり 斎藤茂吉
少数にて少数にてありしかば
ひとつ心を保ち来にけり 土屋文明
「まれにみる猛烈な颱風」と報じをり
それがどうしたと悪政をこそにくむ 遠
われが着肌を好んでマゴの敷寝する
汝(な)が夢にかけて悪政などあらじ 遠
(黒いマゴ 愛猫)
古径画・菓子図
2012 10・1 133
* 和泉式部の歌集には、互いに少しずつは重複しているが「和泉式部集」「和泉式部續集」「宸翰本和泉式部集「松井本和泉式部集」があり、岩波文庫には全部入っている。いま、「續集」の半ばを、とにかくも気を惹かれた歌に鉛筆で爪印をつけながら読み進んでいる。
和泉式部の生活では、歌の詞書からみてまことに交際の頻繁な恋多き人であること、和歌の応答の莫大に多いこと、ほとんど、呼吸同然に和歌が式部ののどからあふれ出していること、自然無造作な歌も多いけれど、それらの実に多くが私の気を惹いてやまないことを特筆しなければならぬ。
わすれにける人のふみのあるをみて
かはらねばふみこそみるにあはれなれ
人の心はあとはかもなし
まこと人の心は、情けなく「あとはかもな」い。古人は多くつくづくとこれを歌っている。歌謡になるともっと露わにひとはひとの「心」の頼みがたいのを唄っている。上の場合、式部だけが忘れられたのではないだろう、双方で「忘れにける」なのであろう。式部の恋多い日々が歌集の全容をはではでしく華やがせているとは謂えない、いかにも寂しいのである。
2012 10・3 133
* 昨日の夜に、心地よい便りを一つ受けとった。久しい人でわたしの二歳程度若い女性だが、そうそう便りを交わせていたのではない、「湖の本」ぐらいが繋ぎの糸であった、が。生粋の浅草っ子で、粋なこと、気の若いこと、事実、六十の時でも四十代にみえた。すてきに化粧の上手な人のようであった。当時から、谷中の大きな墓地ちかくに和やかな娘夫婦や孫達と暮らしていた。気楽によく諸方へ、海外へも遊覧にでかける人のようであった。
その人が、なんとこの十年俳句を学んで、いまでは金子兜太さんの「海程」同人になっていた。知らなかった。地元支部で出しているという近刊の「海程多摩」四冊が送られてきて、句と軽妙な日常余話が掲載されている。どちらも、読み甲斐があり、正直、知らなかったとはいえ「お見それしました」と敬服した。十年倦まずたゆまなければ何かに成るとは実感である、この人はいつかそれを遂げていたのだ、嬉しく成った。浅草の望月太左衛さんとのご縁を、それとなく仲立ちしてくれたのがこの人だった。
☆ 一筆申し上げます。
この頃、やっと涼しくなってまいりましたが、今年の夏はことのほかきびしく、お体にはどんなにきつかったことでしょう。
大変なお病気のことを伺いまして、ずっと案じておりました。ご連絡もままならず、ご無沙汰いたしまして大変申し訳なく思っております。
痛みもおありでしょうし、ご不自由なことが多いことと存じますが、治療に専念なさってどうぞお元気に成ってください。
いつも「湖の本」をご恵送いただきまして、ありがとうございます。第百十三巻、偉業でございますね、感歎いたしております。長く続けてくださることを願っております。
私、十年前から俳句を詠んでおります。
金子兜太先生の「海程」の同人です。
お恥かしいですが、海程の多摩地域で出しておりますアンソロジー「海程多摩」を送らせていただきます。
気散じにお読みいただければ幸いです。
秋も深まります折、くれぐれもお大切にお過ごしくださいますよう心からお願い申し上げます。 かしこ
平成二十四年十月十二日 昭
☆ うたた寝の母は天然青菜飯
抱擁のあと書きとして沈丁花
夏痩せて植物図鑑偏愛す
へこへこのバケツ八月十五日
鹿笛の紛れて水の昏さかな
雑種家族
猫一匹、犬一匹、人間五人で七人家族のように暮らしている。
猫は初代で、名は「モーニング」、以前から野良猫の出入りは多かったが、認知したのは初めてで、もう十五年我が家に居候している。因に彼女も野良猫出身の雑種である。
犬は四代目で、名は「ゴウ太」、一歳半の黒柴で、目の上に白い円(まろ)があり、神様の目と家では言っている。
先代のサン太の三回忌を先達て済ませた。
食事の順番はサン太の仏壇?に先ずご飯を上げ、次に姉さん格のモーニング、そしてゴウ太となる。ゴウ太は心得て待っている。
モーニングは毎日悠悠自適の生活、ゴウ太は原則庭にある犬小屋暮らしで、男の子っ気が多くて走ったり吠えたりとせわしない。
ベランダで洗濯物を干していると、モーニングが側に来てごろんとお腹を出して喜ぶ。ゴミ出しに出ると、ゴウ太が飛び付いて「散歩に連れてって」とペロペロ私を舐める。
二匹ともやきもち焼きで牽制したりする。
で、我が家は長幼の序を尊ぶので、先ずモーニングを抱っこしてからゴウ太をいい子いい子と撫でるのである。
猫呼べば犬も応える柿若葉 竹田昭江
* 人が志を立ててそれへ近づき近づき生き生きと成績を残してゆくほど喜ばしいことはない。そういう実例に出逢うとわたしはいつも嬉しくなる。励ましていた相手だと殊に喜ばしい。
甥の黒川創がそうだった。
息子の秦建日子もそうだった。
詩集出版へ漕ぎ着けた高木冨子さんもそうだった。文学だけではない、繪でしっかり伸びていった友もいた。
2012 10・14 133
* 疲れた。
☆ 鶴 白楽天
人各有所好 人 各々好むところ有り
物固無常宜 物もとより常に宜しきは無し
誰謂爾能舞 誰か謂ふなんぢ能く舞ふと
不如閑立時 閑立の時に如(し)かず
* ただ鶴の立ち姿を褒めたのだろうか。人の鞠躬如として齷齪と立ち回るのをにくみ、端然自立して在るのを好むと述べたのではなかろうか。
2012 10・15 133
☆ 和漢朗詠集より、述懐にかえて
老いの眠りは早く覚めて常に夜を残す 老眠早覚 常残夜
病の力は先づ衰えて年を待たず 病力先衰 不待年 白楽天
紅栄黄落す 一樹の春の色秋の声 紅栄黄落 一樹之春色秋声
綬を結び簪を抽づ 一身の壮なる心老の思 結綬抽簪 一身之壮心老思 菅原文時
2012 10・19 133
* 水戸市の高橋禮子という歌人から歌集が送って来られている。題して『シェイクスピアのロマン』と。「おひま(?)なおりにごらんいただけましたら 光栄です。」と謹呈の付箋に書かれてある。毛筆で名宛ての署名もある、歌は目がぱっちりしてから読む。じつは今ももう目は霞んであてずっぽうで書いています。もう限度。やすみます。
2012 10・22 133
* 一昨夜半ばに、夢うつつに歌を按じていたのを、忘れてしまうのでと灯をつけ、書き留めた。こういうことが最近何度も在り、大概は寝てしまって忘れ果てている。
松羽目の松秀(まつほ)に臨(お)りよ白鷹(はくたか)よと
願(ね)ぎつつ目守(まも)る万三郎鉢木
珠取りの海女(あま)が恋しと躬(み)の母の
生きて死ににき戦(いくさ)を想ふ
われは誰れ清経のやうであらば在れ
死にての後も妻にむき逢ふ
死ぬるが定(ぢやう)と少しづつ少しづつ思ひ寝の
夢に来て顕(た)つあのひとは誰れ
人の子のわれも人なりさりながら
まこと人かや人でなしかや
古い、投げ措いたような手帳にもこのように書き捨てていた歌がいくつも出てくる。
2012 10・26 133
* 「少年拾遺」「光塵拾遺」「晩年予稿」満たされつつある。
2012 10・28 133
* ある歌誌の巻頭に主宰がエッセイを書いていて、「私たちは言葉を覚えたり使ったりするとき、状況から判断して理解していく、辞書に頼るのではなく。」とあるのは略々承認できるとして、結論のように「生きた言葉は口伝しかないのかもしれない」とあるのが、分かりにくい。「口伝」は、いまでは古語に類して主として文献資料となっている。この人は「口伝え」の意味で用いているのか。それでも「生きた言葉」との関連は曖昧である。「生きた言葉は、慎重な『耳』を通じて覚えるがいい、書かれた文字言葉に過剰に頼むべきでは無い」と、わたしなら言う。
同じ歌誌の巻頭第一首が、
あなたが何かわからないのにこちらでは人間になれて受話器を置きます 佐藤信弘
というのは、あまりに粗放、「うた」たる内在律の美感が微塵も響いてこず、歌いたい、ないし言いたい何かも曖昧に過ぎる。「うた」って何かをまともに思案してもらいたい。
もう一誌届いていた歌誌の最初のうたは次のとおり。
夏が終わった半透明な浅葱色の花は亡母が見せてくれたのか 井口文子
これも、やはり内在律の美感をもたない、粗忽な作としか読めないが。わたしの間違いか。
2012 10・30 133
述懐 平成二十四年(2012)十一月
末の世のへろへろびとは見むもうし
旅にい往きて海をこそ見め 吉井勇
あの夏の数かぎりなきそしてまた
たつた一つの表情をせよ 小野茂樹
子にわれは何なりや知らず子のわれは
親の愛知りあやふきに生く 窪田章一郎
松羽目の松秀(まつほ)に臨(お)りよ白鷹(はくたか)よと
願(ね)ぎつつ目守(まも)る万三郎鉢木
珠取りの海女(あま)が恋しと躬(み)の母の
生きて死ににき戦(いくさ)を想ふ
われは誰れ清経のやうであらば在れ
死にての後も妻にむき逢ふ
死ぬるが定(ぢやう)と少しづつ少しづつ思ひ寝の
夢に来て顕(た)つあのひとは誰れ
老いは老い どう おい懸けても老いは老い
悲しくば泣け 来世を待つな 遠 2012 11・1 133
☆ 再びの独り言
くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかにてらす月とこそ見め 松
* 返し
この月は先月でも来月でもなき月ぞ今・此処をひしとおのがじし照らせ 遠
2012 11・1 134
☆ 閑坐 白楽天
暖擁紅爐火 暖は紅爐の火を擁し
閑掻白髪頭 閑、白髪の頭を掻く
百年慵裏過 百年、慵裏に過ぎ
萬事酔中休 萬事、酔中に休す
有室同摩詰 伴侶有るは摩詰に同じく
無児比 攸 愛児無きは 攸に比せり
莫論身在日 論ずるなかれ身に在りし栄枯特質を
身後亦無憂 来世を恃まず亦些かの憂いもあらず
わたしはこのように読んで、慕う。
2012 11・2 134
☆ 前略
重ね重ねの野暮、何卒 田舎者に免じてご海容下さい。
御奥様からのおはがきによれば、手製干柿、再び おめしあ上り下さった由、何よりの幸いでございました。うれしいです。
以前にも(失礼ながら『湖の本』の振替用紙通信欄で)申し上げた記憶がございますが、「秦恒平の前に秦恒平無し(とは、あえて言わずとも)秦恒平のあとに秦恒平無し」です。昨今、その感、実に一層深く、そのことは、ご当人の先生ご自身が最も深く、強く感じておられることでしょう。
何卒ご快癒の祝をと、心から念じております。
取り急ぎ一筆のみ、失礼申し上げました。 不尽
末筆乍ら、ご令室様によろしくご鳳声下さいますよう。
十一月三日 神戸 大學名誉教授 歌人 昌 読者
たはぶれまでに
よろこびが松としきかば めぐりこむ喜壽の齢ぞめでたかりける 東彦
* かへし
松ヶ枝に喜となく鳥のことぶきに齢なかばと知るが嬉しも 遠
2012 11・7 134
* 八月、九月、十月は、それぞれ月に十三回も通院や外出に費やした、三度の入院生活のあとに、である。堪えられたのは結構であった、ある程度まで肉身を働かせるのはわるいことではなかったろう。「暑い」「汗」の実感の無い炎暑であった、ただひたすら「まばゆさ」が苦であった。抗癌剤は涙、洟水になって襲ってきた。砂や灰を含んだような口の苦さで、ほとんどの飲食がままならなかった。食べられなかった。むりやり飲み込むと誤嚥で吐いた。からだの芯が抜けてしまったような疲労にもしばしば襲われた。はあっはあっと小さな吐息が漏れるとからだは疲労感にたちどまってしまう。昨日も銀座を最寄り駅へと杖でよたよた歩きながら何度か道の真ん中で立ち止まって呆然としていた。
それでもわたしは負けても屈してもいない。身心にめだつほどの苦も痛もなく、執筆も出来、読書も出来、外出も観劇なども出来、少しずつ酒ものめる。寝てしまうことも出来、入浴読書も愉しんでいる。大勢の方の励ましやお見舞いを有難く頂戴している。病勢よりも、こうした生活力がまだ優勢を保っているのが頼もしい。「もう半年ありますよ」と昨日は医師先生に笑顔で捻子を巻かれてきた。
はっきりいって胃全摘のあとも体内に残っていたという癌細胞が、まだ存在し増殖し転移しているか、薬効で逼塞しているか、もう絶滅してるかは、まったく分からない、まだ調べようがない。
そんな心配はしないことにしている。いまここでわたしのしたいこと、しなくてはならぬことは、あらまし承知して対応に努めている。努めといっても義務感からではない、養生というよりも「天養愉快」に身心をまかせている。
このごろときどき夜中に目覚めていることがある、不安からでは無い、なんだか歌が出来て出来て、歌の言葉や表現が満潮のように半ばは夢寐に押し寄せてくる、せっせせっせと歌を作っている。おっそろしくエロティークな歌も自動機械のように出来てくる。また創作の文章をそらんじている。むろん記録などできなくて、朝になると片鱗ほどの記憶しか残っていない。しかし、いやなのではない。からだが望んでそうさせるのだろう、応じてやっていいと放り出したままそんな真夜中を無意味に受け入れている。
2012 11・9 134
* 老い人われの 病む身はあらき息ながら胸に毅然と「No Nuke」のバッヂ
更科の蕎麦に菊正この上の美味は望まぬけふの我が身ぞ
蕎麦湯呑みけふの昼餉はつつがなし夕餉はなにが喉とおるらむ
癌を懼れ久しく生ききいまはしも癌もなく死無く 愛を命ぞ
愛執といはれじただに愛は愛 愛をかなしと読みし人も在り
炎暑とふことしの夏も汗かかずはやくも秋を寒がるわれは 遠
2012 11・12 134
述懐 平成二十四年(2012)十二月
となん一つ手紙のはしに雪のこと 西山宗因
生きているだから逃げては卑怯とぞ
幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
今はには何をか言はん世の常に
いひし言葉ぞ我心なる 伴信友
十二月二十一日七十七歳
喜壽 七七は始終苦なりとそれもよし
苦あれば楽のよろこびが松 遠
北朝鮮またもミサイル実験と
なにが不沈空母なものか原発を
三基もねらい撃てば日本列島は地獄ぞ 湖
東京工業大学・工学部 教授室で 秦恒平 59歳 1995.4.8
2012 12・1 135
* 「述懐」の最初、宗因の句は、あまり気づかれていないが、わたしの見るところ下敷きは徒然草であろう。雪の日に兼好は親しい女に手紙でものを頼んだが、折しも降ったまたは積んだ雪に一言も触れなかったので、相手の女から一言も雪に触れてものを言わない野暮天の頼みなどきけるものですかとヤラレてしまった。頼みは聞いてくれたと想う。わたしの好きな一段で、兼好も懐かしそうに書いている。女はもう亡くなったかのようにも兼好は書いているが、これは分からない。宗因句の手紙は女からの返事、そして脱帽した兼好の述懐に擬した句作り。「となん一つ」とは女の手紙のはしに「こう、一つ書き添えてあったなあ」という兼好の嘆賞。よほど女に惚れていたように感じる。
2012 12・1 135
* 五十五年め、婚約の日
五十(いそ)五つ冬をかぞへて愛(は)しけやし妻よ永遠(とことは)に晴れやかにあれ 遠
2012 12・10 135
* 西銀座で見つけて、妻に、ちょっと様変わりの洒落た街着を買った。試着したまま帝国ホテルで昼食し、新橋演舞場へ。
菊之助の花魁八つ橋は、道中の花道がよく、愛想づかしは甲の声ですこし理詰めになったが、なんと美しいことか。「籠釣瓶はよく斬れる」と無念の次郎左衛門に斬り殺される直前の詫びを入れる八つ橋も、よかった。座敷に上がってからの御大尾上菊五郎の佐野熱演もなかなか丁寧な出来で、わたしは拍手した。三津五郎の栄之丞も、松緑の治六も、さすがさまになって花があった。若い役者を大勢使っていて、それだけ芝居のワキは甘くなっていたが、はんなりと、舞台は終始楽しめた。
三津五郎の「奴道成寺」は面替えの所作軽やかに、気持ちよく踊ってくれた。「娘道成寺」の優艶で濃厚な所作の美しさとは趣は大いに違うけれど、亡き勘三郎とは同年、踊れる男役者のそろそろ最右翼に三津五郎は立たねばならない、その気概が今夜の舞台にしんみりと感じ取れた。よかった。
* 一路帰ってきた。銀座から席を譲って貰い、ただもう瞑目していた。瞑目がいちばんラクなのだ。
* 晴れやかに、いい五十五年めであった。ともどもに、健やかでありたいもの、と
願へども晴れぬ病ひの身を起こし来新年も「いま・ここ」に生く
「念々死去・念々新生」のわがいのち安々と生き安々と行かめ
2012 12・10 135
* 衆議院選挙 都知事選挙 最高裁判事適否投票 行わる。 午前、建日子もともに投票を済ませた。投票所、かつてなく多数の有権者の二列行列が長く続いていたのに、一驚。
投票のあと建日子は「何でもお宝鑑定団」を半ばまで観て、愛車ボルボに乗って仕事の方へ戻っていった。「投票してくれて、ありがとう」と見送った。
玄関正面に松篁さんのリトグラフ「雪ー鷺」を、掛けかえた。気稟の清質に満ちた名品。正月の建日子誕生日の祝いにやると告げてある。美しい佳いものに身近に触れられるのは、創作者には有難い大事なことである。
* 選挙結果。「こういう国民」と、もう暫くは付き合わねばならないのだ。
わたしは沈黙する。恋は成らなかった。
あはれともいふべきひとは思ほえで身のいたづらになりぬべきかな 謙徳公
2012 12・16 135
* 大島史洋氏の処女歌集の復刻された文庫本『藍を走るべし』を貰った。ほぼ一世代若い人、この歌集は氏の十六歳から二十五歳までの作を載せていて、わたしの『少年』がやはり十五、六歳から二十三四歳までの作を収めたのと、重なり合うよう。この歌人は、わたしがアマチュアなら、そして歌誌の世界へ加わるのをさけていたのと逆に、十六歳で「未来」に入会、この処女歌集を刊行した昭和四十五年には二十六歳ではやくも「未来」奇数号の編輯を担当していた早熟のプロであった。
なによりこの歌人とわたしとの、わたしからの勝手に結んだ縁は、著書『東工大「作家」教授の幸福』の表題を成した氏の一首「生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ」に有る。氏のこの歌が、東工大での教室や教授室での学生諸君との交友の基底に鳴っていたいわば主題歌であった。
で、『少年』と『藍を走るべし』との巻頭二首、巻末二首を記念に並べておきたい。
窓によりて書(ふみ)読む君がまんざしのふとわれに来てうるみがちなる
國ふたつへだててゆきし人をおもひ西へながるる雲に眼をやる 「少年」巻頭 昭和二十六年
山塞のみどりはつなつ越え来たる隊商の売る太き角笛
うたるるは吾かもしれず木の骨の刀をかざす群のなかにて 「藍を走るべし」巻頭 昭和四十二年
枝がちに天(そら)さす木(こ)ぬれ風冴えて光ながらに散らふわくらば
葉さやぎはきくさへかなし散りながらむなしく待ちし人恋ひしさに 「少年」巻末 昭和三十五年
まなこのみ死なざりしかば花笠に喜々たる群を見あげていたる
はてしなき野はくれそめてたましいのひとつひとつの顔の顕つころ 「藍を走るべし」巻末 昭和四十四年
氏の巻末この年に、わたしは小説『清経入水』に第五回太宰治賞を受けていた。歌読みとはとうに離れていたのだが。
じつは近年になり、うまくはないが、ぼこぼこと泡のように妖しくも短歌らしきが湧きだし、夜なかなど、寝そびれて困ってしまう。それでいて書き留めないからすぐ忘れる。書き留めていれば百や二百はあまりにも簡単にできて行く。このまえ出した第二私家集老境の『光塵』はさもその前兆であったようだ
2012 12・23 135
* 亡くなった湘子さんの昔からいつも寄贈をうけてきた俳誌「鷹」の早や正月号巻頭に日野草城が「現代俳人列伝」を飾る人として取り上げられていたのは嬉しかった。選句されているのも意に満ちて有難く。書き写さずにおれない。
春暁や人こそ知らね樹々の雨
けふよりの妻と来て泊つる宵の春
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
失ひしものを憶へり花ぐもり
春の夜の自動拳銃(コルト)を愛す夫人の手
物種を握れば生命ひしめける
ところてん煙の如く沈みをり
水晶の念珠つめたき大暑かな
こひびとを待ちあぐむらし闘魚の辺
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
高熱の鶴青空に漂へり
新婚の「ミヤコホテル」一連には賛否が湧いたが、甘いエロスをただよわせている、が、この俳人の「ホトトギス」との関わりも、破門や復帰などありフクザツであった。わたしの好きなひとりではある。わたしの詞華集『愛、はるかに照せ』にも、此の草城の冒頭句、第三句を採っている。
秦の母と同年明治三十四年に生まれ、昭和二十六年には右眼の明を失し、昭和三十一年一月に逝去。
2012 12・27 135
* 昨日、亡くなった小沢昭一さんの事実上の遺著となった、生前に岩波書店で進行していたとみられる『俳句で綴る 変哲半生記』を頂戴した。ご遺族のおはからいであったろう。小沢さんとは著書の交換が驚くほど永く多く続いてきた。民俗藝能の歴史的で実地見聞・解説的な主著など愛読し珍重してきた。俳句の本も何冊ももらってきたが、今回の本は装幀も汲み体裁も立派な函入り本で、有終の美を盛んにしている。変哲俳句は、プロ俳人のしかつめらしさが当然のようになく、それゆえにまた俳味に冨み微妙の深層や真相を巧みに汲み上げている。優れた一代の変哲俳句を悉く冴え冴えとかつ温かく網羅してあり、たいへん貴重な一冊をわたしのためにも遺し置いて戴いたと、敬礼している。変哲は、小沢さんの父君が往年名乗っておられた。いい話である。
湯の中のわが手わが足春を待つ には、癌による胃全摘のわたしの思いもよく代弁してもらっている。
遙かなる次の巳年や初み空 には、泣かされる。「次の巳年」目前に小沢さんその人がわれわれから「遙かな」人となってしまった。歌舞伎の勘三郎とは、ことなる世間を生きてきたようで根深くに、彼もまたすぐれたカブキ藝の役者であった。
寒月やさて行く末の丁と半 いずれであれ、さても変哲さん、あの世で大笑いであろうよ。
2012 12・28 135
* これもふと心惹かれて、「和漢朗詠集」を開く。
☆ 山寺
千株の松の下に双峯の寺
一葉の舟の中には万里の身 白楽天
更に俗物の人の眼に当れる無し
但だ泉声の我が心を洗ふあるのみ 白楽天
* 和漢朗詠集には独特の「読み」があるが、拘泥しないで読み下している。
2012 12・29 135
☆ 歳暮
寒流月を帯びて澄めること鏡のごとし
夕吹霜に和して利(と)きこと刀に似たり 白楽天 「吹」は、風。
風雲は人の前に暮れ易し
歳月は老の底より還り難し 維良春道 2012 12・31 135
* 大晦日
明日ありとおもはぬわれの大晦日
いま此処を生きのいのちの大晦日
昼寝して起きてまた寝て大晦日
かたづけぬままが気楽な大晦日
こぞ今年失礼申す年賀状
同病の友おもふなり大晦日
ことなしびただ健やかに大晦日
下仁田の葱をくださる大晦日
妻の手でお節もそろふ大晦日
巳迎への大晦日とや畏しき
「壽(ことぶき)と玉」の掛字の大晦日
末廣となづけし茶器に袱紗敷く
日暦は表紙のままの大晦日
蛤の汁がうれしき大晦日
老いふたり年越し蕎麦は神妙に
芝濱を談志が咄す大晦日
明日までと待つまでもなし福笑ひ
息子めはインフルエンザ大晦日
新玉に早くよくなれ健やかに
黒いマゴの甘えて来るも大晦日
湯浴みしてただぼうやりと年を越す
さてもさてではでは来ませ年の神
来年もよろしくと妻に頼み入る
晴れやかに来る年の妻の幸をねぐ
年明けは百十四巻め湖の本
* なんぼでも口衝いて出る駄句の列
2012 12・31 135