ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2013年

述懐 平成二十五年(2013)一月

 

冬草の青きこひつつ故郷に

心すなほに帰りたく思ふ         斎藤茂吉

 

朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし  種田山頭火

 

齢(よはひ)のみ亡き先生に近づけり

その他のことは何ともかとも       清水房雄

 

こころよき朝ぼらけかなあらたまの

生きの命を晴れて起たしむ      湖

 

 

村上華岳 太子樹下禅那図 部分

 

 

出岡実 持幡童子図

 

 

☆ 松     白楽天

但だ双松の砌の下(もと)に当たる有り   砌は石畳

更に一事の心の中(うち)に到れる無し

 

* 朝ぼらけこころよきかなあらたまの生きの命を晴れて起たしむ  湖

 

* 除夜の鐘を聴き、妻と新年を祝ってから、変哲さんの俳句をしばらく拾い読み、「指輪物語」文庫本の第六巻を読み始め、「八犬伝」を読み継いでから明かりを消して夢路に。

2013 1/1 136

 

 

☆ 無常     宋之問

年年歳歳 花相似たり

歳歳年年 人同じからず

 

はじめて谷崎潤一郎の小説の中で出会ったあまりに有名な詩句。背景に、とんだ伝説もあるが、正月ゆえに、触れない。吟誦して実感のいつも胸にせまる詩句。「人同じからず」は親友や知己を喪った哀しみを読むのが普通だが、交友の微妙な集散にまで想い及んでもいいだろう。一層の感懐が得られよう。

2013 1・2 136

 

 

* 建日子が帰ってこずにいる分、用意の正月料理が有り余り、しかもわたしが殆ど食べられない。妻が美味しいと謂う、何一つ美味しいどころでない。が、つとめてそのまま咀嚼している。栄養価は変わるまい。酒は、日本酒もウイスキーも、少量ずつだが飲む。焼 礙酎も飲む。口腔の不快を辛いほど刺激的に散じるために飲む。

便秘すると排尿の勢いが鈍り、まま、数次ないしそれ以上かけて散尿する。排便すると一度で出切る。少年の昔から排便と排尿との関連はこうだったという体験の実感があるが、老いの不如意も加算されているだろう。

黒いマゴの放尿こそはうらやまし

われの清水はしとしとと漏る    湖

2013 1・2 136

 

 

☆ 対酒     白楽天

巧拙賢愚相是非   巧拙賢愚 相ひ是非す    「相」侵し合わぬが好い

何如一酔尽忘機   何如ぞ一酔尽く機を忘る   「何如ぞ」好い 「機」うるさいこと

君知天地中寛窄   君知るや天地中の寛と窄を

鶚鸞皇各自飛    鶚も鸞皇も 各自に飛ぶ  「 鶚」いやな鳥「鸞皇」いい鳥

 

なかなかこうは達観できないが、白詩がこう好きなのは、わたしも古代日本人の血をうけているのだろう。

2013 1・3 136

 

 

☆ 述懐  白楽天

人間の禍福は愚かにして料り難し

世上の風波は老いて禁ぜず

 

事事成すこと無くして身また老いたり

酔郷知らず何くにか之かんと欲する

2013 1・10 136

 

 

☆ 無常     宋之問

年年歳歳 花相似たり

歳歳年年 人同じからず

 

はじめて谷崎潤一郎の小説の中で出会ったあまりに有名な詩句。背景に、とんだ伝説もあるが、正月ゆえに、触れない。吟誦して実感のいつも胸にせまる詩句。「人同じからず」は親友や知己を喪った哀しみを読むのが普通だが、交友の微妙な集散にまで想い及んでもいいだろう。一層の感懐が得られよう。

 

* 上の「背景」を問われた。たいしたことではないのだが。この傑出した詩句はじつは宋之問身辺の詩人の創作であったが、あまりの秀抜に惚れ込んだあげく、原作の詩人を毒殺して地震の手柄にしたというのだが、「伝説」の域は出ない。相手の詩人についても伝説は明かしているが、それも信じていいか確証はない。禍々しいので三が日の話題にはしたくなかった。

 

 

* 冒頭の「述懐」詩句は、借りてわたし地震の述懐とも言い表している。

冬草の青きこひつつ故郷に

心すなほに帰りたく思ふ         斎藤茂吉                                                「故郷に心すなほに帰りたく思ふ」憧れが増している。寒さや雪のためにもむりと承知で、そんな気になる。せめて暖かければと。茂吉にこんなナイーブな表現の有ったことまでが心嬉しい。

2013 1・14 136

 

 

*夜前というより暁暗に、半ば眠ったまま「女の身」となり、妖しく妄想していた。

 

白妙の白よりわれの肌身かな

 

湯気のなかへ誘はるる身の除夜の鐘

 

年の瀬の逢ふ瀬にうかぶ乳房かな

 

こりこりと乳首ふふまれ明けまして

 

元朝や萬行快楽(けらく)「一」致して

 

試みている或る「寓話」との気脈であろうよ。

2013 1・15 136

 

 

☆ どうぞ来む春が

先生のご恢復をもたらしてくれる力となりますようにと、心から念じ上げております。

あらたまの君が命をあたたかく包みて起たむ春霞かも  昌  名誉教授

 

* 春霞まちがてにけふも生きてあるわれの狭庭(さには)に梅咲きそめぬ  湖

2013 1・23 136

 

 

述懐 平成二十五年(2013)二月

 

はじめより憂鬱なる時代に生きたりしかば

然かも感ぜずといふ人のわれよりも若き   土岐善麿

 

手は熱く足はなゆれど

われはこれ塔建つるもの            宮澤賢治

 

くさかげの なもなきはなに なをいひし

はじめのひとの こころをぞおもふ       伊東静雄

 

なにしにぞわれは生まれしあら笑止

なにしにわれの問ふ問ひでなし        遠

 

春霞まちがてにけふも生きてある

われの狭庭(さには)に梅咲きそめぬ            湖

 

 

ビュッフェ画  薔薇

2013 2・1 137

 

 

* 昨日夕過ぎまで寝たのが祟ったか、夜通しちかく眠れず。創作のことや、昔のことや、いろいろ思うのも床の中でのこと、加えて出任せの句や歌をああかこうかと練っていたりするのが、つい不眠を誘う。

 

* 敬愛の作家作品を夢かうつつ、こんなふうに歌っていた。

 

藤村

夜明け前のまっくら闇にたたづみてしがらみの世をなげく人あり

漱石・ 外

漱石のこころに泣きし 外の阿部一族にも泣きし少年われは

鏡花

おうおうとふ拍子に打たれうつぶしに歌行燈に添ひ寄りしかな

一葉

人の世や流れも得せぬにごりえに脚沈めつつ行くかた知らず

直哉・潤一郎

ひとつ世に志賀と谷崎ならび立つ幸せに身を励ませし我れ

直哉

この道を暗夜行路と見定めて夢より夢をあゆみ来しかな

潤一郎

芦刈の母の面かげ恋ひし夜を忘れじ吾のいまはの時も

康成

山の音を聴きそめてより現し身をさびしきものと思ひこめしか

孝作

身に熱く結婚までと思ひ寝に人かげ添ひて愛しきものを

由紀夫

潮騒の鳴海の崎にひと本の松とも待たじきみはわが影

真っ暗な便所と見えて底もなき真空地帯を凝視せし我れは

身にそひて月の光のしろがねにまかがやくまで母は恋ひしき

 

* ことの序でか、自作をも夢うつつ、こう歌っていた。

 

慈子

ああおまへ慈子と愛でし玉の緒のふと手に洩れしとことはの悔ひ

清経入水

笛の音を波にうかべて月明の清経入水をうらやむ我れは

青井戸

百万と値をつけてわれに売れといふ売るものか底知れぬ青井戸の碗

みごもりの湖

あのひとの面影しづめみごもりの湖は夕陽をうかべて暮るる

罪はわが前に

かなしきは人世の別れ詮もなし罪はわが前にのがれもあへず

風の奏で

花やいで風の奏でと聴きしかな平家はほろび源氏も滅びき

初恋

初恋のきみを死なせて生き延びてちょっとおどけて逢ひたし雪子に

冬祭り

母と娘を死なせてわれの冬祭り暗きひとやに顔伏せて哭く

四度の瀧

名に負へる四度の瀧つ瀬ましぶきて逢瀬給へや世をへだつとも

親指のマリア

海山を越えて親指のマリアなる繪に向き会ひしシドチと白石

 

* こんなことしていたら、寝られやせぬわい。

 

* おまけに、どうしたかこの頃、昔の唄が口を衝いて出て、夜中にも唄の曲や歌詞をそらんじている。生きの命の気弱な感傷であるか。

旅泊  歌詞・大和田建樹

磯の火ほそりて 更くる夜半に

岩うつ波音 ひとりたかし

かかれる友舟 ひとは寝たり

たれにか かたらん 旅の心

 

月影かくれて からす啼きぬ

年なす長夜も あけにちかし

おきよや舟人 おちの山に

横雲なびきて 今日も のどか

 

原曲はイギリス曲だが、これに大和田建樹の詞が、ことに一番がひたと溶け合って、優れて日本の唄に成りきっている。この好きな唄が、唄の一番が、隙あらばわたしの舌の根に構ってくる。母音になおすと「イオォオイ オオォイエ ウウゥウ オォアイィ」の出だしが、繊細な音色をひびかせて歌いやすく、歌詞も味わいやすく、昔から、一二に好きな唄なのである。で、無心でいるとすかさず忍び寄って、声に出よと唆す。あらがうまでもなしに唄っている。ほかにも少なくも四、五六十も好きで口を衝いて出る唱歌がある。歌詞は忘れていても曲は覚えていて、すると歌詞もあらわれ出てくる。こういう今や長閑な日常から、強いて気ぜわしい「ペンと政治」へ努めて口出しして行く切り替えは、そう易しいことでない。

2013 2・4 137

 

 

* 俳人の金子兜太さんから、「『湖の本』ありがたいです。」と力強い「賀正」の賀状を戴いた。兜太さんは「二月礼者です」と。俳句の歳時記を重んじられているのだろう。葉書の句に、「蛇穴を出て詩の国の畑径」と。乱暴な読み取りだが、たしかに、「蛇穴を出て」来たという自民党政権に想われるなあ。

2013 2・5 137

 

 

* 榮木より   陶淵明

ああ われ小子

固陋を稟けたり

徂年すでに流れ

業は舊に増さず

なお志し舎てず

安んじて日に富

我 之れ 懐ふ

焉は内に疚し

 

「榮木」は、将に老いんとするを念っている。

「固陋」は性偏屈、「徂年」は逝く歳々、「舊」は昔、「富」は裕か、「 焉」は悲しむなど、「疚し」はうしろめたい、心穏やかでない。

 

* 老いて自足のさまか。懐かしい。

2013 2・7 137

 

 

* 夜中の歌

傘の壽へとぼとぼと歩みよる吾ら

日一日の景色ながめて

たてつづけ蒲団の奥へガスを撃つ

えいクソ眠れぬ深夜の戦

真夜中にふと妻の手をつかみたる

われを孤りにするなよ妻よ

薄切りに大根を焼き味噌を置いて

茶漬け食わうと妻を笑はす

寒鴉カアと鳴くわれも鳴き真似す

冴えかへる冬行け寒鴉

2013 2・12 137

 

 

* 血圧115-53(66)  血糖値91 体重63.1kg   洗眼  朝  牡丹餅一つ 小ドーナツ一つ ココア ヤクルト 朝の服薬。

聖路加病院腫瘍内科へ 血液、癌マーカー等に異常なし だいぶしんどそうなので、休薬期間を四週間ほどとってもいいがと。従来通りで少なくももう一度服薬したいと言う。それが佳いか悪いかは分からないのだが。薬、院外薬局で受け取り、例の「更科の里」で念願の軍鶏鍋を。軍鶏も野菜その他も食べられないなと思うほど多量に。しかし食べ始めて、肉も、ジョウ・モツも、味はいまいちしみじみと分からないが食べられた。それならと、つねづね少ない野菜も豆腐も残らず食べきったのには我ながら驚いた。よほど出汁が佳いのだろう。最後に饂飩が出たのも鍋で似て一筋も残さず食べきった。これだけの量を食べきったのは、この一年に一度もなかった。明日は胃全摘手術からまる一年。しかし胃袋なし、腸だけの腹によく入ったなと驚いた。酒は菊正を枡で。午の服薬。気分わるくなどならなかった。

新富町から地下鉄川越行きに。小竹向原で乗り換えるのだが、気づくと赤塚。戻らないと、と、起ち上がったところで、後ろ仰向けに堪えきれず転倒し、乗客の何人もに助けてもらって、やっと起きた。尾てい骨辺を強打し、後頭部も、幸い軽くだが、床に打ち付けていた。気分が悪かったのではない、杖で立ったとたんドサっと転倒していた。

ホームに降り、親切な男性に支えられ駅員を呼んでもらえた。次の電車まで補助椅子に座らせてくれた。尻も腰も、あちこち痛くはあったが、杖で歩けた。小竹向原で西武線乗り入れに乗り換え、幸いに保谷駅からタクシーで、四時には帰宅できた。

痛みは弱くなく、床について八時まで寝た。中途で、枕元に一錠残っていたロキソニンを呑んだ。わずかな時間で卓効あり、尾てい骨辺の痛みが和らぎ、安眠した。

晩、握り飯二つ 蜆汁二杯。 晩の

服薬。明日からまた二週間、抗癌剤連用。

このところ、とみに、よろよろとよろけ慣れていて、杖を頼み、意識的にやや前屈み気味に歩いてきた。前向きの転倒は杖で防げると思っていたし、転倒するなら後ろ向きだなと懼れていた通り、後ろへ仰向きに落ちた。車内なのでまだ床が柔らかかったろう、ホームの固い上へ後頭部を当てていたら危なかった、階段やエスカレーターでなくて、まだしも幸いだった。

 

* 朱鷺椿 莟めるままに匂ひたつ緑の七葉侍ろうまでに

 

* こんばんは、もう休む。明日の歯科は、失礼する。

2013 2・14 137

 

 

* かほかしげ朱鷺いろ匂ふ小椿のものいふよわれに おげんきですか

2013 2・19 137

 

 

* 古いなつかしい唄で気持ちのバランスをとり続けている。

大好きだった「雨、雨降れ降れ」「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」など、幼稚園で貰っていた(親が買ってh;wいた?)キンダーブックの挿絵も懐かしい。いま聴いている盤ではこれが早くに出てくる。この唄でも「みかんの花咲く丘」でも、たもっともっと沢山の唄に「母さん」が歌われていて、貰われっ子のわたしは顔も知らない(まったく覚えない)母なんてモノを一方で厳しく見捨てていながら、唄にあらわれるいろんな場面での「母さん」をとても無視できなかった。人に知られずどんなに泣いていたかと想い出す。

それとは違い例えば「お山の杉の子」などに現れる国策歌詞の現れる唄はみな嫌いだった。「蛍の光」のような佳い歌にも末の方の歌詞は不自然極まる国策歌詞になるのが歯ぎしりするほどイヤだった。そんなのに比べれば「夕焼小焼」や「たきび」や「花かげ」や「この道」や「あの町この町」や「ちいさい秋みつけた」などの方がどんなに少年の感傷に寄り添ってきたか知れない。

 

* こんなことは、いくらか書きたくはなく秘めもっていたいのだが、老境のさがなさが好きにしろよと唆すのである。いま一つにはわたしが「詩歌」の表現を覚えた早くにこういう音楽があり、いま一方には「百人一首」への少年なりの親炙・傾倒があった。

ま、今今の心境では、じつに気恥ずかしいけれど、近時の幼稚園や小学校で愛唱されているという「思い出ののアルバム」の「あんなことこんなことあったでしょ」という「思い出してごらん」という唆しに乗せられているのだ。これではバグワンに叱られ臨済にどやされても、まったくまったく致し方がない。

 

* ついでにいうと、むかしはそれなりに愛唱した「四百余州をこぞる」元寇の唄や、「箱根の山は天下の嶮」とか「青葉茂れる」楠公父子桜井訣別とか、敵将すてっせると乃木大将の「水師営」とか「我は海の子」などを懐かしくは思わなくなっている。勇ましさを強いられるのはイヤなのである。むろん感傷を強いられるのもかなわない。

 

* 少年の昔に聴き覚えた唄に、都会の都会らしい風景や光景を歌った例は無いにも等しく、せいぜい時計台のある学園とか。おおかたは、田舎住まいや暮らし、都市部にしても垣根の曲がり角などの旧住宅地など、そして、懐かしい山野や河川や風物を歌っている。都会しか知らない、都会にしか暮らしたことのない子たちには、大人にも、おおかたはエキゾチックにすら感じられるのではないか。流行歌時代になると東京や大阪や横浜などが典型的な都会として押し出てくるが。

わたしは国民学校の三年生卒業式を済ませたと思われない昭和二十年二月末から、敗戦を歴て二十一年の秋までを、丹波の山奥で疎開生活していた。農山村の暮らしをやや体験的に過ごしてきた。いちばん近い町が亀岡町、いまの亀岡市で、ときたまの用事や、また山陰線やバスで京都へ帰るときに亀岡へ出ていった。山道や、町とはいえ田中の遠い道をよく覚えているし、だからこそ沢山な唄が自分なりに追体験できるのだ、「叱られて」などでも。疎開先の暮らしはむろんラクでなかったが、今にして幸せな体験であったと思う。

2013 2・20 137

 

 

* 可愛いさにくち寄せてまで小椿のうすくれなゐに恋せる吾は

かくばかり恋ひしき花と喜寿すぎし男のわれの疎さ間抜けさ   湖

 

* 手洗いに、越前徳利に妻の挿した朱鷺いろの小椿が、美しい莟からいまは咲きひらいて、たまらなく優しい風情。七十七叟のわたしにかかる春愁のいまなお兆すかと、もののあはれを覚える。

2013 2・21 137

 

 

* 二月尽き、春の息吹を感じないではない。この季節、梅も、椿も、わたしは大好き。妻が手洗いにいける椿は、ことにわたしを思い和ませる。拙くてもつい歌いたくなる。

白は兄 妹は朱鷺のはらからの咲(ゑ)むが愛(うつく)し如月(きさらぎ)椿

 

* 文字通りの少年の昔にわたしは短歌に熱中した。歌集『少年』と成り、岡井隆選の『昭和百人一首』( 朝日新聞社) にも採られた。だが少年から成人してわたしは小説と批評とに進み、和歌も短歌もたくさん読んだけれどまれまれにしか歌わなかった。老境に入って、、愛しい孫娘を肉腫という最悪の癌で「死なせ」てしまってから、涌くように歌や句が口をつくように出来てきた。それが、久々の第二歌集『光塵』(湖の本109)と成ってくれたが、最近ますます濫作ぎみに陥ってきて、わたしは半ば辟易してこれらを「亂聲(らんじょう)}と名付けている。古代、祭儀や宴席の終える頃に競うように盛んに楽の音を鳴らしたのが「亂聲(らんじょう)}である。

2013 2・28 137

 

 

述懐 平成二十五年(2013)三月

 

はかなしや命も人の言の葉も

頼まれぬ世を頼むわかれは          兼好

 

木々おのおの名乗り出でたる木の芽かな     一茶

 

春暁の竹筒にある筆二本               飯田龍太

 

かほかしげ朱鷺いろ匂ふ小椿の

ものいふよわれに おげんきですか       湖

 

可愛いさにくち寄せてまで小椿の

うすくれなゐに恋せる吾は           湖

2013 3・1 138

 

 

* 白は兄朱鷺は妹のはらからが咲(わら)ひてわれを見るよ椿よ

 

よき花のくづるる時しいとをしし泣かまくも吾がこころ色めく 2013 3・3 138

 

 

* 唱歌集『美しき歌 こころの歌』二百選の中からわたしが「十五選」してみたのは、順位なく、いまのところ、

松田敏江の「朧月夜」 チェリッシュの「竹田の子守唄」 鮫島有美子の「椰子の実」 都はるみの「嗚呼玉杯に花うけて」 芹洋子の「赤い靴」 山野さと子の「アメフリ」 並木路子の「リンゴの唄」 藤山一郎の「長崎の鐘」 倍賞千恵子の「かあさんの歌」 同じく「遠くへ行きたい」 岸洋子の「希望」 ペギー葉山の「学生時代」 芹洋子の「この広い野原いっぱい」 小鳩くるみの「埴生の宿」 伊藤京子の「蛍の光」 以上。

別格に、美空ひばりの「川の流れのように」 五十嵐喜芳の「オー・ソレ・ミオ」

あくまで歌詞の命をりっぱに生かした歌唱そのものの魅力で選抜してみた。別格の二人は、ひばりは流行歌のクイーンであり、五十嵐の歌唱は海外歌の魅惑と声楽家の本領を讃えたかった。

「十五選」はとても難儀だった、二重丸をつけた歌唱は少なくもこの倍は有った。歌詞と歌唱と感動を重くみた。美声だからとて歌詞の命の音を削って曲にのみ追随した、つまり歌詞の聞き取れなかった、聞きにくかった、のは捨てた。

十五曲からさらにベストテンとして順位までつけるのは、さらにさらに容易でない。

男性の歌唱を藤山一郎独りしか選ばなかったのは、総じて身構えが強すぎて聴いていも素直な喜びや感動にほとんど繋がってこないから。

その点、倍賞千恵子といい小鳩くるみといい芹洋子といいけれんみなく豊かに素直にしかも歌詞を深く読み取って言葉の命を深々と歌いあげていた。都はるみの一高校歌の歌いざまもみごとで、これでは高揚した学生達の歌声が追いかけてくるなあと信じられた。

 

* つぎは、ひまを見つけ見つけ全「唱歌」歌詞からの「詩」の魅力五十選を遂げてみたいなあと思う。秦さんノンキ過ぎませんかと言うひとも有ろうが、やっとそういうことをしてでも「生きている」喜びを表現していい境涯にたどり着いたのだと、これもまた若き頃の日々の創作に傾けた真剣とすこしも質的に違わないとわたしは確信しているのです。作家・批評家として、自由自在に「表現」したいのです。

2013 3・5 138

 

 

* 馬場あき子さんから「男の恋の歌」「女の恋の歌」二册を頂戴し、黒田杏子さんからも俳句の本を頂戴した。

 

* もう暫く前から思案もし決心もしていた新しい「仕事」、気を入れた「自問自答」に取り組み始めた。余人は知らず、わたし自身にはキツイ仕事、だが、わたしとしては或る責任上どうかして果たしておきたい、かなり遺言の気味のある難行になりそう、「湖の本」に入れるときはこれまた二巻を要するのかも知れない。自身につきつけた問は二百問もあろうか、まじめに本気で答え始めればしばしばわたし自身が絶句するかも知れない。「問い」の用意はじつは完全に出来ている。面白づくに書けないことでないが、わたしは、生真面目に立ち向かうのではないか。

今日の日付を覚えておきたい。

 

* 孫娘

ま盛りのま白い椿手に落ちぬま盛りに死なせしやす香がくやし  遠

2013 3・15 138

 

 

☆ 小宅  白居易

小宅里閭接  拙宅は町はずれでして

疎籬鷄犬通  粗い垣を鶏も犬も失敬

渠分南巷水  水は南の町内でもらい

窓借北家風  窓は北からの風を頂戴

信園殊小   信の庭とてこぢんまり

陶潛屋不豊  陶潛の家もとてもとても

何勞問寛窄  何で広い狭いが問題か

寛窄在心中  広い狭いは心まかせさ

 

* 埴生の宿もわが宿

玉の粧いうらやまじ

のどかなり 春の夜

花はあるじ  鳥は友

ああわが宿よ

楽しともたのもしや

 

* 小鳩くるみの豊か美しい歌声がする。

結婚して五十四年、いまもわが家は「小宅」で「埴生の宿」のままである。八畳の間のある家に一度も暮らしたことがない。けれど、気持ちはこんなに自由で豊かである。

2013 3・16 138

 

 

* 久しい友の島尾伸三さんが、優れた詩人でも作家でもあった父上島尾敏雄特集の雑誌「脈」を贈ってきてくれた。

もう一冊詩人の詩集を戴いたが、いま、その人の名前がどうしても思い出せない。この頃は日に何度もこういう失念をばらまいている。昨日は京都の西を流れる「桂川」がどうしても出て来なかった。もう何日も前から亡魂平知盛が義経や弁慶の船を襲う歌舞伎の外題がまだ何としても想い出せない、。大好きな演目なのに。ま、しょがないなあと半ばは諦めかけている。

2013 3・16 138

 

 

述懐

 

悪なれば色悪よけれ老の春             虚子

 

をみな子の 才(ザエ)も鋭(スルド)にもの言ふは

悪しからねども さびしかりけり        迢空

 

一芽一芽ひかりの集積と思ふまで

われの快癒をうながす木々は         春日井建

 

ひそめたるまばゆきものを人は識らず

わが歩みゆく街に灯ともる           有即斎

 

木もれ日のうすきに耐へてこの道に

鳩はしづかに羽ばたきにけり         宗遠

 

名樹散椿  御舟画

 

十六

新歌舞伎座で「熊谷陣屋」を観て

2013 4・1 139

 

 

☆ 臨都駅答夢得(=劉夢得)二首   白楽天

 

揚子津頭月下     揚子津頭の月下

臨都駅裏燈前     臨都駅裏の燈前

昨日老於前日     昨日は前日より老い

去年春似今年     去春は今春に似たり

 

謝守帰為秘監     守を謝し帰りて秘監となり

憑公老作郎官     公を憑み老ひて郎官となる

前事不須問着     前事は須く問着すべからず

新詩且更吟看     新詩は且つ更に吟看せん

 

* 先韻は、客舎に宿って夜中劉夢得を憶う心を述べている、春景色は去年も今年も同じですが、昨今は旅に疲れましての、去年より老いましたわい、と、月下、揚子江の船泊て、都駅の片隅に灯しをかかげての、まさに旅愁。「磯の灯ほそりて更くる夜半に 誰にか語らん旅のこころ」とでも読むか。

寒韻は、白楽天が、蘇州刺市(知事)の官をしりぞき、文宗の都で秘書監となったが、更に君を頼んで刑部侍郎として官途に日を送ってきた。が、そんな既往にもはや何も問いますまい、新作の詩を吟じては清閑をたのしみましょうぞ、と。

珍しい、六言絶句でもある。

2013 4・1 139

 

 

☆ 有感   白楽天                                                                     往時は追思するなかれ、追思すれば悲愴多し。

来時は相迎ふるなかれ、相迎ふれば已に惆悵。

兀然として坐するにしかず  然として臥すにしかず。

食来れば即ち口を開き 睡来れば即ち眼を合す。

二事最も身に関す。

安寝餐飯を加へ。

忘懐行止に任せ。

命を委して脩短に随ひ。     脩短 寿命の長短

更にもし興来るあれば、

狂歌して 酒一盞せん。

 

* ああ、まこと、かく在りたい、が。

 

* 加賀鶴来の万歳楽醸、原酒「剣」一升が届いた。「狂歌して酒一盞」と行くか。あーあ、それどころか、歯が二本も短時日の内に折れて落ちてしまった。爺むさいなあ。「安寝」には恵まれているが「餐飯を加へ」ることもママならなくなってきた。明日、飛び入りでまた歯医者へ、独りで。

2013 4・9 139

 

 

述懐    平成二十五年(2013)五月

 

くれなゐの初花染めの色深く

おもひし心われ忘れめや      よみ人しらず

 

てふてふの相逢ひにけりよそよそし    村上鬼城

 

仕事しつつ今日もいろいろ考へたり

されど日記に書くこともなし     松倉米吉

 

まよひつつやみの人生(ひとよ)をあけぐれの

ゆめのうつつとたれにつげばや  湖

 

もの忘れそれも安気や梅実生       遠

 

古径画・菓子図

 

龍子画・牡丹獅子

2013 5・1 140

 

 

* もう何がなにやら世の中が情けなくて、自分自身も情けなくて、新聞もニュースもイヤになった。ほんとうに荷風晩年のあとを慕おうかと思ってしまう。

☆ 時運 の内   陶淵明

斯の晨(あし)た 斯の夕べ  言(ここ)に其の廬(いほり)に息(いこ)ふ

花薬 分列し  林竹 翳如(えいじょ)たり

清琴 牀に横はり  濁酒 壺に半ばあり

黄唐は逮(およ)ぶ莫(な)し  慨き獨り余(われ)に在り

* 黄唐は古の聖帝  黄帝と唐堯

 

* 陶潜ほど上等には出来ないが、思うまま歌も句も績み紡ぎたい。飛呂志の悠然雄渾の「鯉図」に励まされている。

楽しみはは、惜しみなく作り出す。

歯の治療をはさんで、やがて明治座の花形歌舞伎は、染五郎、勘九郎、七之助、愛之助。「実盛物語」「与話情浮名横櫛」「将軍江戸を去る」「藤娘」「鯉つかみ」と十分楽しめる。すぐ続いて新歌舞伎座の五月興行も、第一、二、三部とも終日盛りだくさんの名狂言をたっぷり楽しむ。そのあとへは、大相撲夏場所の席がとれてある。白鵬、朝青龍の優勝回数25回にぜひ並んで欲しい。そして月末か六月初めには秦建日子作・演出の「タクラマカン」に期待しています。

あ、そうとばかりは行きません。今日責了紙を送った「湖の本」116『ペンと政治( 二下 満二年、原発危害終熄せず) 』が十七日には出来てくる予定。力仕事の発送がある。ややや。

 

* さ、入浴。 その後、また小説を書き継ぐ。

20135・4 140

 

 

* 和歌、短歌、俳句はどうやら読み取れると思っているが、日本語で書かれたいわゆる「詩」は手に負えない。贈ってもらう月々の詩誌の作は、ほとんど理解も鑑賞もしにくい。こっちの能が足りないのだから下さる人には失礼で申し訳ないのだが、どうにもならない。むろん優れた作になればうちこんで読んでいる。いま手元に預かって文藝館に掲載させて貰う岡本勝人さんの長詩もその一例。近代詩では藤村、白秋、朔太郎をはじめ数えれば二三十人の詩人が思い浮かぶけれど、優れた叙事詩は、史詩は、多くない。

たまたま正面衝突、古代ローマの辛辣でかなりけしからん漢字の風刺小説を読んでいて、作中詩人エウモルポスのこんな慷慨の弁を聴いた。いくらか頷けて、だがエウモルポスがどんな程度の詩人かは、すくなくもわたしには判定が難しい。それでも、何か参考のたしにと、世の日本語詩人のまえに遠慮せず書き抜いてみる。

 

☆ 作中詩人エウモルポスの言葉

ペトロニウス作『サチュリコン』より。国原吉之助さんの訳に拠って、

 

おお、若者たちよ。詩はこれまで多くの人を欺いてきた。それというのも、人は誰でも韻律にあわせて行を組み立て、感慨を繊細な楽節の中に織りこむと、もうそれだれけでを自分は詩神の住むヘリコン山に登ったと考えたものさ。

こうして人は法廷の面倒な仕事に悩まされると、たびたび静寂な詩作の中に、そこがあたかも幸福への入口であるかのように、逃げこんだものだ。きらめく箴言をちりばめた法廷弁論よりも詩の方がいっそう簡単に作れると信じてな。

ともかく高貴な詩魂は空疎な言葉を好まない。詩想はいつも文学の大河の滔々たる流れに浸っていないかぎり、子を孕むことも生むこともできない。詩人はみな、言わば安価な言葉をさけるべきだ。大衆が遠ざける言葉をむしろ択ぶべきだ。『余は俗衆を嫌いかつ遠ざける』というホラティウスの標語を実践するためにもな。

その上に、機智に富む句が叙述全体の枠組から外へしぼり出されて目立つということなく、詩の着地の中に織りこまれた色合いを通じて輝くように注意すべきだ。

この証人はホメロスであり、ギリシアの抒情詩人であり、ローマのウェルギリウスであり、ホラティウスの彫心鏤骨の絶妙な表現である。じっさいその他の詩人は、詩に通じる道を心得ていないか、あるいは知っていても踏み出すことを恐れているのだ。

その証拠に見よ。内乱史を主題に壮大な叙事詩を手がけた人は誰でも、文学の教養を満々とたたえていないかぎり、主題の重荷でへなへなとくずおれているではないか。じっさい叙事詩では史実を理解させることが問題ではないのだ。その仕事は歴史家の方がはるかに見事になしとげる。むしろ奔放不羇な詩精神は、暗示的な比喩と、神秘的な霊感の加護と、箴言風な語りの奔流の中へ、劈頭から飛びこむべきた。その結果、史詩は証人を前に誓約して述べられる信頼性の高い雄弁というよりも、むしろ狂気の精神から発した予言の書と思われるだろう。

 

* こわいほど大事なことをこの詩人は口にしている。抜粋しようとしても全文を繰り返してしまうことになる。気づかねばならぬ詩の課題だけが書かれている。空疎な言葉、安価な言葉で簡単に作れるなどと、安直に詩( 文学) をなめてはいけない。

ただこれは心得ていたい、「夕方」は安直で「黄昏」は高尚だと誤解してはならず、空疎・安価は「言葉」の「生かし」という秘跡・秘儀に支えられる。『俗衆を嫌いかつ遠ざける』というホラティウスの標語と同じことを志賀直哉は云いかつ書き実践していたが直哉の文学はきらきらした特段の言葉で書かれたのではない、夏目漱石が見抜いていたように直哉は安価・俗衆を厭う気持ちをごく自然に抱いたまま「思ったことを思ったように」書けたのだ。しかもそこにこそ文豪・詩人たちの価値ある「狂気」が宿っていたとわたしは感じている。

2013 5・5 140

 

 

* 昨夜、触れただけで言い及ばなかったこと。まずは、藤田敏雄の作詞『希望』を紹介したい。歌は岸洋子。十五選した歌唱のなかでも倍賞千恵子の『遠くへ行きたい』と対のようにしみじみきいていたのである、が、しみじみの見当をわたしは放恣ないし勝手につけていた。歌詞は三番に分けてある。断っておくがわたしを立ち止まらせたのは歌詞でもあるが、より大きく、岸洋子の歌唱のちからであった。それはここに再現できない。

 

☆  希望   藤田敏雄作詞 歌・岸洋子

 

希望という名の  あなたをたずねて

遠い国へと  また汽車にのる

あなたは昔の  私の思い出

ふるさとの夢  はじめての恋

 

けれど私(あたし)が  大人になった日に

黙ってどこかへ 立ち去ったあなた

いつかあなたにまた逢うまでは

私の旅は  終りのない旅

 

 

、希望という名の  あなたをたずねて

今日もあてなく  また汽車にのる

あれから私は  ただ一人きり

明日はどんな 町につくやら

 

あなたのうわさも  時折聞くけど

見知らぬ誰かに すれちがうだけ

いつもあなたの名を呼びながら

私の旅は  返事のない旅

 

 

、希望という名の  あなたをたずねて

寒い夜更けに  また汽車にのる

悲しみだけが  私の道連れ

隣りの席に  あなたがいれば

 

涙ぬぐうとき  そのとき聞こえる

希望という名の あなたのあの唄

そうよあなたにまた逢うために

私の旅は  今またはじまる

 

* 演歌ではない、おそらくは、シャンソン。それにしても、私(あたし)が向き合っているのは「希望」であり、擬人化して「希望という名の あなた」と唱っているのはまったく妻の云うとおり。当然の読みである。

ところがわたしは、「希望」を、人生の観点からして大事にも重くも観ていない。「希望」に敢えなく「かかずらう」より、「今・此処」に努めることに努め勤めてきた。わたしはこの歌に、生身の女一人の実在を思い、見果てぬ夢を旅に旅して追い続け再会したい悲しみの深さに吐息したのだった。

そういう人が、女であれ男であれ、この広い世には実在するだろう。倍賞千恵子がせつせつと唱った「遠くへ行きたい」には間違いなくそういう生身の人の深い嘆息と悲哀が渦巻いていた。その同類のようにわたしは「希望」という歌を聴いて胸しおれたのである。共感ではない、どんな「遠く」へあてなく寂しく「旅」しつづけても、「希望」とも、「信じ合い愛し合う」人とも、出会えないだろう。そう思っているから、わたしは歌声の寂しさに耳を傾けていたのである。

おまえは、そういう「希望」を持っていないのかと詰問されるまでもなく、わたしにも似た「希望」はある、あった…と云うべきだろう、「遠く」をも想っていただろう、事実わたしは高校を卒業するときに、自身で希望して「宗遠」という裏千家の茶名をもらっていたではないか。だが、わたしは「希望」も「遠くへ」も、力強い「今・此処」に立ち向かい続けることとの「同義語」と把握している、少なくも、今現在は。しかし倍賞千恵子の「遠くへ」も岸洋子の「希望」も、そこに纏綿しているかなしみやあこがれを否認してしまう気はない。

2013 5・6 140

 

 

述懐   平成二十五年(2013)六月

 

遙かなる岩のはざまにひとりゐて

人目思はでもの思はばや      西行法師

 

天に花捧げて静か泰山木        小沢変哲

 

橋本喜典はこのわれなるにこのわれが

われを証明できぬ窓口

郵便局の局長はわれと懇意なれど

「われ」を証するもの見せ給へと  橋本喜典

 

つゆ寒むやしくしく啼くな腹の虫     遠

 

梅の実の熟れのにほひの目に青く

日の照る午後の遠きおもひで   湖

 

スペイン ブルゴス東南 サン・ドミンゴ・シロス修道院

2013 6・1 141

 

 

*  中国の文学史は日本のそれに何十倍する。清初の批評家金聖歎はそんな中国歴代の文学から六種の傑作を選んで「才子書」と賞した。

一に『荘子』 二に『離騒』 三に『史記』 四に杜甫の律詩 五に『水滸伝』 六に『西廂紀』

わづかに一と四とに触れており 五は読み終えている。手元の本で、一、三、四は読める。水滸伝は訳本が揃っている。せめてこれら「六才子書」をみな読んでみたい。陶潜詩、李白詩、白楽天詩をはじめ詩は手元本で永年少しずつ愛読してきた。最近では沈復『浮生六記』を愛読した。袁枚の伝も愛読した。文学とはやや逸れても、史書や論述の大著や大辞典は幸いに秦の祖父鶴吉の蔵書がかなり残してある。秦の父は京観世の謡曲をならって舞台の地謡にもかり出されていた人だが書物に目を向けることのない人だった。祖父の方は相当な蔵書家で、多くの漢籍古典のほかにも、日本の史書や歌書や俳書や、源氏物語湖月抄、古今集講義本、百人一首一夕話などを孫の目には豊富に遺していってくれた。恩沢計り知れない。そして父の妹、叔母の玉月・宗陽はわたしに生け花と裏千家茶の湯そして茶道具のおもしろさを伝え置いてくれた。

思えば思えばわたしは恵まれた京なりの文化環境に育ててもらっていたのだ、なかなかそれとは久しく自覚できなかったのだが。

2013 6・2 141

 

 

* 今日の外出では、『臨済録』を丁寧に読んでいた。

帰宅後の休息では、サドの『ジュスチーヌ または美徳の不幸』を読み耽り、ついでツルゲーネフの『猟人日記』 ゲーテの『イタリア紀行』ナポリの項、 トルーキンの『指輪物語』 レマルクの『愛する時と死する時』 そして『拾遺和歌集』春・秋を撰歌、また馬琴の『南総里見八犬伝』 いずれも階下で、仰向けに寝ながら文庫本を。

昨夜は、二階の機械の前で、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』 そして鎌倉時代の『十訓抄』 高田衛さんの『完本・上田秋成年譜考説』にたっぷり教わり、また小谷野敦の『川端康成伝』もたくさん読んだ。

読書していると、いろんな世界が混乱なく魅力をたたえて輝き出す。一冊ずつ読み切ろうとしていてはそういう幸せはつかめない。 2013 6・3 141

 

 

☆ 青門の柳   白楽天

青々たる一樹心を傷ましむる色。

曾て幾人 離恨の中に入りしぞ。

都門に近く多く別を送るが為に。

長條折尽していとど春風を減ず。

 

送別のとき柳枝を折って記念としたのは唐代の俗。

ために都門の柳條ははだかに近くなっているとは

人の離散の常とも無常とも曰く言いがたい悲しさと。

 

☆ 把得して便(すなは)ち用ひて名字に著(ぢやく)すること莫(な)きを、号して玄旨と為す。  臨済

 

☆ 絶句   杜甫

江は碧にして鳥いよいよ白く

山は青くして花然えんと欲す

今春 看てまた過ぐ

何れの日か是帰年

2013 6・4 141

 

 

* 千載集を遡って、後撰か拾遺かと思ったが、後拾遺和歌集におちついて撰歌している。案の定というか、千載集には現代を生きる心身にこたえて響く諧調と思想があったが、詞藻の天才を多く擁していた後拾遺時代にして、身に迫り心を襲う切実の和歌表現は乏しい。ゆるい。

2013 6・10 141

 

 

* 機械の起動をやり直している間に、『浮生六記』の四章「浪游記快」の十一を読み進んで、閑情の清々しさ、趣味の深さ静かさに慰められた。

交友の興、清談の粋、巻を擱くあたわず。すくなくも中国三千年に、こういう世間はまま記録されてきた。今は、どうなのか。なににしても陶淵明、李白、杜甫、白居易から明代にまで流れ流れる詩精神には憧れもし慕いもする。幸い家には受け継いだ漢籍が大方死蔵されあちこちに分散している。一所にまとめ、馥郁の閑情にまみれたい。

 

☆ 清明   杜牧

清明時節雨紛々  路上行人欲断魂

借問酒家何処有  牧童遙指杏花村

 

* 『頭註・和譯 古今詩選 完』と題した文庫本より幅のせまい本も秦の祖父は遺していた。明治四十二年十二月二十五日に大阪の山本完蔵が「発行」し東京の至誠堂、大阪の寶文館が「発売元」になっている。「大阪文友堂書店蔵版」本であり、和漢の詩を田森素齋、下石梅処が「共選」している。巻頭には大友皇子の「述懐」詩が掲げられている。ちょっと便利すぎてかえってあまり手に取らずに来たが、ポケットにもおさまりやすいし機械のそばに置くにも場所ふさぎにならない。

いましも機械のすぐそばに積んである文庫本大の本は、この「古今詩選」のほかに、「陶淵明集」「白楽天詩集」「臨済録」「浮生六記」そしてペトラルカ「わが秘密」 フローベール「紋切型辞典」 サド「ジュスチーヌ または美徳の不幸」 マルクス・エンゲルス「共産党宣言」そして岩波文庫「日本唱歌集」と案内書「丹後の宮津」。ほかに手帳型の歳時記も二、三種。どれもほんの数分のひまを利して楽しめる。

重い大きな本も手の届くかたわらに置いて、読み進めている。「古今著聞集」「十訓抄」「上田秋成年譜考説」「川端康成伝」そして小説のための参考書たち。

書架と書棚と本と、まだ増えて行く全部の湖の本と、三台の機械と、参考資料で、そのうえに壁や障子に貼り付けた繪や写真やカレンダーで、この六畳の書斎は、爆発しそう、足の踏み場も通路も無い。もうこの雑然から生涯わたしは遁れることがないのだろう、所詮これがわたしの「身のほど」というものか。あらゆるモノ、モノの山にわたしの呼吸も体温も体臭も伝わっている。ジェジェジェ! 2013 6・16 141

 

 

* 昨日挙げ忘れていた機械部屋でいつも手を出す一冊に、小沢昭一が死出の置きみやげに呉れた『俳句で綴る 変哲半生記』があった。昭和四十四年一月から平成二十四年七月までの句作りであった。刊行は2012年、去年師走の二十日。

変哲俳優の境涯句がおもしろく、近代近時のプロ俳人の苦虫噛んで何を言いたいのかといった句とは、洒脱にも奔放にも稚拙にもかけはなれていて、佳い。昭和四十四年というと、その六月にわたしは思いがけぬ太宰賞をもらっている。変哲さんの俳優家業も文筆ももっとはやく始まっていた。

一度も会ったことがない。いつごろからどんなふうに接したのやら、わたしからは湖の本をさしあげ、小沢さんからは何冊も何冊もの単行書や文庫本やCDを貰い続けてきた。著書にたくさん教えられてきた。境涯は飄逸とみえ恬淡とみえ、しかし小沢昭一も一種の榮爵藝人のひとりには相違なかった。すこし塩っからくても、めでたい生涯であった。それが初学びの句にもう表れている。

スナックに煮凝のあるママの過去       一月

麦踏みや背負籠の中の粉ミルク        二月

ぎょうざ屋に盆栽の梅枯れてあり

老蠅のちょっと飛んだる暖かさ         三月

惜春やどっと笑いし香具師(てきや)の輪   四月

 

* 南天の白い花くづれくづれつつ六月のかぜ梅雨になりにき

十薬の白い小花とまみどりの大葉も挿しぬ唐銅(からかね)の瓶(へい)に

十薬の白きに添へて淡紅の姫檜扇(ひめひおうぎ)も唐銅の瓶に

十薬のまみどりの葉のやはらかに姿美(は)しくと妻をほめける

もので溢れた狭苦しい家中、庭咲きの花や葉を清らにあしらった手洗いに入るのが嬉しい。

2013 6・17 141

 

 

* あさがほの花まだ咲かぬ蔓の葉の濃みどりゆらし梅雨あがりゆく   湖

 

* アポロドーロスの「ギリシア神話」の徹底して揺るがぬ公正な神話採集に強い感銘を受けている。マハーバーラタからの「マナ王物語」も興味深く読み始めた。またトルストイの民話選「イワンのばか」の味わい、ツルケーネフ「猟人日記」に備わる文品の深さ。バルザックの短篇「恐怖時代の一挿話」の息づまる怖ろしさ。レマルクの「愛する時と死する時」もちからづよく切ない佳境へわたしを誘っている。

「拾遺和歌集」にはかすかに失望感を覚えたが「後拾遺和歌集」の歌は身をよせて読み取れる。

映画では「指輪物語」の第一部を映像美に痺れながら観つづけている、長編を読み続けるように。トールキンの原作に半歩も譲らぬみごとな作品、奇跡を観る心地。

2013 6・23 141

 

 

* 朝刊をみてもテレビ報道を見聞きしても、ナサケないばかり。安倍「違憲」政治や東電に代表される大企業に、良識や良心の目覚めを期待するほど虚しいこと無いなら、せめて、国民のわれわれの、働く人達の目を覚まして起つときは、「今、でしょ」と、血を吐く思いで言いたい。

 

* 民主党が立ち直るには、海江田・細野という弱虫体制ではゼッタイ無理。馬淵澄夫らの起つべきときが、来ている。起て。都議選は衆院選についで、惨敗。海江田・細野・越石体制はいさぎよく退き、新鮮な新体制で出直さねば「解党」にいたるだろう。

こんなときに、元代表鳩山アホウドリのぶざまを極めた鳴き方は。

 

* 我慢ならない。わたし自身にこれ以上の気迫も行動力も無いなら、せめて自分の脳裏世界に沈潜したい。みごもり(水隠り)たい。

 

* 沈復「浮生六記」の現存する巻四「浪游記快」つまり旅の楽しみも、まさに楽しく読ませる名文。たまたまここまで来たその「十六」を松枝茂夫さんの訳に拠って、此の場で読んでみたい。

 

☆ 武昌の黄鶴楼は黄鵠磯(こうこくき)の上にあり、裏手は黄鵠山、俗に蛇山(じゃざん)と呼ばれている山に連なっている。楼は三層で画棟飛檐(がとうひえん)、城に倚って屹立し、前は漢江に臨み、漢陽の晴川閣と相対している。私は琢堂と共に雪を冒してここに登った。大空を仰ぎ視れは、瓊花( ゆき) は風に舞い、遙かに銀山玉樹を指し、さながら身は瑶台にあるがごとくであった。大江を往来する小艇が、縦横に揺りあおられるさまは、浪に捲かれる枯葉のごとく、名利の心もここに来れば忽ち冷めてしまう。壁間に題詠がいくつも見られ、いちいち記憶できなかったが、柱に掛けられた対聯に次のようなのがあったのを覚えているだけである。曰く、

何時黄鶴重来且共倒金樽澆洲渚千年芳艸

但見白雲飛去更誰吹玉笛落江城五月梅花

何れの時か黄鶴重ねて来たらん。且(しばら)く共に金樽

を倒して、洲渚(しゅうしょ)千年の芳艸に澆(そそ)がん。

但( ただ) 見る白雲の飛び去るを。更に誰か玉笛を吹きて、

江城五月の梅花を落とさん。

黄州の赤壁は府城の漢川門外にあり、江浜に吃立して、壁のように削ぎ立ち、岩がみな絳(あか)いためにこの名ができたのである。『水経(すいけい)』 にはこれを赤鼻山と称している。蘇東坡はここに遊んで前後『赤壁賦』を作り、ここを呉と魏の交戦の地と見ているが、あれは間違いである。赤壁の下はすでに陸地となり、上に二賦亭がある。

 

* わたしは少年の頃李白の「黄鶴楼に孟浩然の広陵にゆくを送る」という詩を早くに覚えた。秦の祖父の蔵書に『唐詩選』があった。

故人西辞黄鶴楼   故人西のかた黄鶴楼を辞して

烟花三月下揚州   烟花三月揚州に下る

孤帆遠影碧空尽   孤帆遠影碧空に尽き

惟見長江天際流   ただ見る長江の天際に流るるを

むろんわたしはかかる絶景を識らないが、詩や文のちからに遙かに誘われ行く嬉しさは実感できる。

沈復は、も少し前の方で杭州に遊んでいて「崇文書院」などを訪れている。井上靖夫妻らに連れて中国に招かれたとき、自由時間にわたし独りでここへ立ち寄った思い出が迫ってきた。わたしは此処で、染付の卵胎壺を買った。卵の殻ほど薄い軽いみごとな磁器であった、大事に大事に日本へ持ち帰った。この書院のさらに上には「朝陽台」があり、沈氏はそこからの眺望を「わが一生中の第一の大観であった」と書いているのに、残年、そこまでは上らなかった、独りであったので不案内であったから。

 

* 沈氏は重慶に遊んだ記事の中で、場所が限られていて,位置のとり方がすこぶるむずかしい」ときの「設計」に触れ、「巧みに台を重ね館を畳む法」 「重台」「畳館」を語っている。

「台を重ねる」とは、「屋上に露台を作って庭院となし、その上に石を畳み花を栽えて、遊人に脚下に屋のあることを知らしめないこと」である。花木は地気を得て生長する。

「館を畳む」とは、楼の上に軒を作り、軒の上にさらに露台を作り、上下四層を巧みに錯雑して畳み重ね、且つ小さな池を設けてその水を漏らさぬようにし、あくまでそのどこが虚でどこが実であるかを窺わしめないやり方」である。その基礎はすべて煉瓦と石を用いて作り、重みを支える柱はみな西洋の建築法に倣っている」とも。

まさに「人工の奇絶」というべし。浮世離れともいえ、相当な俗味ともいえる。そこが中国か。

2013 6・27 141

 

 

* 平成八年 変哲さん、七月の句の最初に、

花茣蓙や夫婦仲よく漫才師   と。

六月が逝く。

四年前の六月二十九日 わたしの歌に、

憐れともいふべき程は誰がうへと

よしなしごとをわらひ棄てつる   とあり、

七月一日の わたしの句に、

雨漏りの壁にしみある懐かしさ   とある。

暑い夏が来る。

2013 6・30 141

 

 

述懐   平成二十五年(2013)七月

 

あはれにも水棹(みさを)にもゆるほたる哉

こゑたてつべきこの世と思ふに       源俊頼朝臣

 

早瀬川水脈(みを)さかのぼる鵜飼舟

まづこの世にもいかゞくるしき        崇徳院御製

 

いちご熟す去年(こぞ)の此頃病みたりし     正岡子規

 

さくらんぼ義歯にころばしゐてをかし        海老原ふみ江

 

あさがほの花まだ咲かぬ蔓の葉の

濃みどりゆらし梅雨あがりゆく         湖

 

やすかれといまはのまごのてのぬくみ

ほほにあてつついきどほろしも

 

このいのちやるまいぞもどせもどせとぞ

よべばやす香はゆびをうごかす

 

やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじと

われは泣き伏す生きのいのちを

 

つまもわれもおのもおのもに魂の緒の

やす香抱きしめ生きねばならぬ

 

さにはべの草葉なみうつ慈雨の季に

ひとりを堪へてやす香恋ひしも

 

おぢいやんと呼びて見上げて腕組みて

はげましくれし幼なやす香ぞ          爺

 

在りし日の愛しき孫やす香 十九歳にして平成十八年七月二十七日遠逝。

2013 7・1 142

 

 

* 変哲(亡き小沢昭一さん)句集「半生記」を、鉛筆で爪しるし付けながら、平成十一年十月まで読んできた。

なんだろう夜店の果てのむなしさは

よしきりや葭の間の朽ちし舟

手の皺を見つめ八月十五日

お手玉をちょっとしてみた梨二つ

2013 7・5 142

 

 

☆   この頃は逢ひたい友の多けれどわけて逢ひたい新島(襄)先生  徳富蘇峰

 

生涯に「先生」とお呼びした先生方で、「わけて逢ひたい」先生。とはいえ、お一人に限るのは、正直、難しい。そんな難しいことをわたしはむかし東工大の学生諸君に問うたことがある。

2013 7・7 142

 

 

* 「後拾遺和歌集」は平安時代第四番目の勅撰和歌集。村上天皇以降白河院のころまで、先行した「拾遺和歌集」の遺した歌から藤原通俊が選んでいる。二十巻そして序がある。十巻を読みとおし、いま巻十一「恋一」に入った。四季、賀、別、旅にはさして見るべきは乏しいが、哀傷そして恋の歌には心惹かれる。拾遺・後拾遺は、分かりよく言えば清少納言や紫式部や和泉式部の時代を主にしており、大納言公任や能因法師など「百人一首」で馴染んだ歌人達が大勢登場する。平安女文化のエッセンス。

特別の意図はないが、後拾遺を選しておいて拾遺和歌集に戻るつもり。和歌のおもしろさに満たされている。

2013 7・12 142

 

 

☆ 倉田茂詩集 「禾」26所収

 

冨山房( ふざんぼう) のかたわらを

 

冨山房書店近くの路上で江藤淳とすれちがったことが

ある。院生か講師かとみえる男性と楽しげに語らい歩く

小柄な背広姿に、えも言われぬあたたかさを覚えた。

それはそうだろう、私は読んだばかりだった、ヘレ一

ン・ハンフ編著『チャリング・クロス街84番地』を。この

往復書簡集は本を愛するへレーンの思いの丈で一杯だ。

訳出は江藤淳。私はこの本をとおして彼を見ていた。

ニューヨークのへレーン・ハンフ嬢とロンドンの古書店

のフランク・ドエル氏とのあいだで、単に商売に止まらぬ

心打つ手紙たちは交わされた。介在した本もいい。

チョーサー『カンタベリー物語』、ウォルトン『釣魚大全』、

ラム『エリア随筆』等の多彩な英国古典たち。

フランクの突然の死で往復書簡は終る。一九四九年か

ら二十年も続いた文通の意味は何か。テレビ台本を書く

ヘレーンは、次々と消え去る現代文学や新刊書への嫌悪

感から英国古典を求めたのだろうと江藤淳は「解説」に言

う。孤独なへレーンには顔こそ知らないが海の彼方のフラ

ンクとの心の通いあいが貴重なのだ、とも。

本というとき、まずは惚れた中身。それから書く人・編む

人の思いの合流。印刷・製本された美しい形。求める人・

応える人の絆もあっていい。みな心の通いあいだ。ヘレー

ンもフランクも本が好きな私たちすべてに似ている。私たち

は惑星グーテンベルクの住人なのだ。

ストラスブールの広場のグーテンベルクの銅像は、今も

生き生きと紙の束を抱えて走っていた。二十一世紀に着い

たのに疲れも見せない。一冊の『チャリング.クロス街84番

地』は、この地で醸成される白い葡萄酒に似て私たちを夢

中にさせ、暖めてやがて豊穣をもたらす。

月に一度は行く神保町の、今はない冨山房書店のかた

わらを歩くたび私は思う。葡萄酒がなおキリストの血である

ならば本も、ヘレーン・ハンフの手紙もまた血であるだろうと。

脈々と流れ来たり江藤淳をよみがえらす。

 

一九八〇年、講談社(一九八四年、中公文庫)。

チャリング・クロス街はロンドンの古書店街。

フランク・ドエルのいた店が84番地>

 

 

 

エミリーの道

 

大型犬を連れて十二年歩いている

いや連れられて辿るのだ 朝夕の一時間ずつ

数十通りはある彼女の(なじみの道)を

 

生物学者ユクスキュルによれば 犬たちは

ひたすら(なじみの道)を行き来する

行動半径が狭いのではない 生物たちはみな

それぞれから見た(環世界)を生きている

自分が意味を感じるものだけで構成される世界を

 

エミリー・ディキンソンの引きこもりは

二十歳を過ぎて始まる 隠遁と言うには早過ぎ

変人と言えば変人 彼女の(なじみの道)は

家の中と庭にしかないように見えた

 

いや彼女の(環世界)は感じ、考えることだったのだ

大地に虫に空に樹に大海原に 死や愛や永遠へ

あふれこぼれる思いと言葉の葉脈が

伸びて広がるところ全部に 一七八九という

生涯の詩の数だけの(なじみの道)が通じていた

 

発表した詩は少々 目利きはいなかった

(環世界)は埋もれたまま 彼女は死んで

やがて詩集が編まれて名を挙げた

 

「名声は、蜂だ」と一蹴してきたのに

「蜂は歌う 蜂は刺す そう、それに、蜂は飛び去る」のだと

名声を得なかったがゆえに名声を知った、というのが

エミリー流の、表現の(節制)だったのに

 

ニューイングランドの田舎町で五十五年を送った

さびしい生涯と言うなかれ

町の人は誇りと戸惑いの目で、家族は寛容の目で気にかけた

それらの目と彼女とを隔てる微妙に幸運な距離を思わずに

エミリー・ディキンソンの道を辿ることはできない

 

参考とした本。ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳)

『対訳ディキンソン詩集』(亀井俊介訳)、以上岩波文庫。

エリザベス・スパイアーズ『エミリ・ディキンスン家のネズミ』(長田弘訳)みすず書房。

 

 

 

 

穏やかな死

 

ラブラドール・レトリーバーの 「はな」が死んだ

愛された犬 十五歳と二か月

人のいのちの百歳を生きた

 

オッター・テール(かわうその尾)と言うように

尾は楽しく動き、太かった 前足も太かった

最後の半年はその前足で ゆっくりだが

萎えかけた後足を支えて歩きつづけた

 

倒れてから死ぬまでの一週間を忘れない

日に一度 立てないはずがふっと立ち上がり

視力衰えた眼で家の中を見回しながら一巡し

居場所(ハウス)に戻ってきてくずおれる

わが家や隣近所への

「はな」なりの挨拶だったのだろうか

六日目だけは戻る前に大きな音を立てて横倒れした

七日目はもう立ち上がることはなく

二時間ほど荒い息をして昼前 がくんと首を傾けた

 

食べ物は四日目から取らなかった

好きなミルクにもヨーグルトにも振り向かず

ただミヅだけを飲んだ その水を

注射器のピストン容器で口に入れてやるとき

必ず鼻を寄せ 確認してから飲んだ

作法のように

 

愛された犬の

自然に死ぬ姿はこんなにも優しいものなのか

こんなにも尊厳のあるものなのか

ありがとう、と何度も言った

ともすれば行きちがう夫婦の眼差しを

一身に集める仕事まで担ってくれた「はな」

 

夜 もう固くなった体の横で

一緒に朝まで眠った

眠る前の日課の 精神安定剤を飲むことも

シューベルトの歌のいくつかを聴くことも忘れて

 

 

* わたしは言う、敬愛する倉田さんのこのような「詩」こそ、詩作こそを「作品」と呼ぶのだと。

2013 7・12 142

 

 

☆ 後拾遺和歌集 源順

秦先生、名古屋はおしめりがあり、少し楽になりました。

先生の体調、視力がどうぞ安定なさいますように。

『後拾遺集』をお読みになっていらっしゃるとのこと。

私は歌集を読むことなどなかなかできず、一首、二首拾い読みするだけですが。

源順は「拾遺集」に縁が深いですね。

以前、源氏物語成立前を書いた小説に、「天徳内裏歌合」を取り上げました。その時はうかつにも気がつかなかったのですが、源順が左方、つまり藤原氏方の歌人として詠進し、「二番 鶯」「八番 款冬」のお題で、どちらも右方の平兼盛に勝っている。あれはいわば、雅を賭けた「藤原氏」対「源氏」の闘いだったと認識していましたが、順は、なぜ左方の歌詠みになったのか。順は縁戚になる源高明のサロンに出入りし、高明の引き立てがあったというのに。だから安和の変以降、長く散位に甘んじたというと、やはり何故、順は藤原氏方についたのか。今頃になって気付き、疑問がわいています。

「天徳内裏歌合」は、世に云うほどに「藤原」対「源」ではなく、順は単に、和歌所寄人として長官の藤原伊尹の命を受けて左方に付いたのか、もっと考えて書くべきだったと思っています。

何かの資料で、紫式部の父藤原為時は当時「殿上童」としてあの歌合に参加し、員指童(かずさしのわらべ=左右の歌の勝敗の串を挿す役目)の役目をしたというのを読み、その父の見聞したことを聞いて紫式部は「絵合の巻」を書いたとしましたが、殿上童は上流貴族の師弟のすることなので、道隆や朝光だったかも。

先生の後拾遺和歌集のお話から、あれこれと連想を広げました。

いつも刺激的で貴重なお話をありがとうございます。   夜琴

 

* 立ち入った感想は、心ゆくまで「拾遺」「後拾遺」の撰歌を終えてからにしたい。父為時も娘紫式部も歌を採られている。ほう、こんな人もと思う歌人の名前に出逢えるのも楽しみの一つである。先月の歌舞伎座で観てきた「土蜘蛛」の、あの頼光の名も一人武者保昌の名も見えている。栄花物語をしっかり読んできたし、むろん大鏡も読んでいて、この時代の大勢の歌詠み達の名前が頭にある。まるで知友のあつまった会合に踏み入った心地でもある。ま、和歌の楽しみ方とも謂える。

2013 7・13 142

 

 

* 二三日まえに京都の田村由美子さんから突然、佐相勉編著『溝口健二著作集』と題した大部の一冊を受けとった。手紙もなにも付いて無く、またその本は或る意味でレイアウトに「わる凝り」してあり字も小さく、眼のわるいわたしには甚だ読みにくいものだった。左相氏は妙な言葉をつかって申し訳なく間違っていたら謝るが、「溝口健二」の人と仕事を徹底的に「追っかけ」尽くした人のようだ、わたしより一回りほど若い「映画研究者」。

で、読み始めてみると、この希有の映画監督の温かい血肉が「ことば」と化して各編に溢れていると見えた。詳細な年譜とエッセイや作品紹介その他との協奏曲のように佳い音楽が次第に聴こえてくる本であった。

溝口健二はわたしが言うまでもない、黒澤明と兄たりがたく弟たりがたい、或いは優るとも劣らない、そしてあの小津安二郎とともに大きな日本映画の黄金時代を高く高く構築した映画監督で、わたしは大好きであり尊敬してきた。ま、その一方でわたしは映画を観るこそ大好きだが、映画を語ることも映画人を語ることも出来ない一門外漢にすぎない。

視力と時間とがゆるすかぎり読んでみたい。しかし、またわたしよりも息子の秦建日子が謙虚に読んだほうが、きっと莫大に教えられるのではないかと思っている。

ありがたい頂戴物であったと、ずしっと重い左相勉氏労著たる一冊を手にもって、わたしは喜んでいる。田村さん、ありがとう。

左相氏へも感謝しつつこの労著を大勢の映画そして溝口監督のフアンに紹介させてもらいたい。

 

☆ 佐相勉編著『溝口健二著作集』巻頭より

 

ある夜のこと   『日活画報』一九二四年二月号初出

あんまり音楽には智識がないのだが……

京都へきてから廿日にもなろうが、ある晩のこと、祇園の石段下に近いあたりだったと考えているが、カフェーレーベンと云う店へ、京都名物である時雨空の宵、伊藤君とはいった。

二人とも莨をくゆらしながらほろ苦い、紅茶の香に軽い気持になってしまったので、酒を味うと云うような心にはしょせんなりきらなかった。

広いところではないが部屋の周囲には何放かのきわめて新らしい傾向の油画がかゝつている。

「これが普門氏の画だよ、君」

伊藤君の言に一枚一枚私は眺めていった。--臆病な心は--光りと影--だけしかしらない私等なんだから、色盲にでもなってしまって居やしないかと、常に危うんでびくびくしていたんだ。ところが、凝視めたとき、

「ほんとうに久しぶりだ」

と台詞口調でつぶやくほと、感歎してしまった。--

「踊りくるう若い女」「靴下をはいているらしい肉体」「うごめきながら飛ぶ虫」

ぴったり、うちこめられたような気持になってかなり長い間、黄色い壁のなかにぽっかりはめこまれたように浮んで見える、画を凝視めていた。

それは批評すると云うような冷やかな、静かな時間のある、心もちではない。

カンヴァスの、糸のなかへ、「心」が織りこまれでしまった瞬間なのだ。

--と--突然--

どこからか音楽が流れてきた。--

蓄音器がかけられたのだ。音のなかった部屋に、--それもきわめて乏しい智識で解らないが、度々聞いたものであることを思うとかなり有名な曲であるらしい。

画から瞳をはなして音のする方を眺めると、若い給仕女が蓄音機のふちに手をかけてぐるぐる回っている音譜をみている、むっくりと肥った手首には腕時計が光っていた。--

このとき

私の心はだんだん画からはなれて音律のなかへ吸いこまれていった。

曲がおわりに近づいた頃、はじめてそれがカルメンであることを知った。

「ビューゼとか云う人の有名な曲だな」と思っているうちにおわっで次の曲がかけられた。

解らない。静かな淋しいものだ。--

羊飼が吹く角笛など聞える。

「地震以来、はじめてですねこんな気分に浸ったのは」

「好いな、おいウイスキーだ」

卓の上に置かれたジョニウォーカーのコップはすぐからになっでしまった。

「もう一杯くんないか、君」

給仕女がまた一杯ついだ。

「君すまないが、もう一度カルメンをかけておくれよ」

二杯目のコップをあけながら、ほてってきた顔を動かして頼んだ。酒をつぎおわった女は蓄音器のそばへ近づいて板を選っていたが捜しあてゝかけはじめた。

「これだな、とこかの舞台ではじめて上演された時、イプセンだかだれだかが感激して作者に抱きついたと云うのは」

瞳はまた、画を眺めていた。

「--色調と--音律か--幸福なやつだ--観たり聞いたりすることができて」

コップをあけながらそんなことをつぶやいたときは、かなり酔ってたんです。--

 

註 当時『日活画報』の編集長をしていた伊藤和夫のことであろう。彼は日活向島時代からの溝口の知己であり、溝口の『813 』には懇切な批評を書いているし、一九二四年には「溝口健二私論」という溝口の人と作品についでの興味深い文も書いている。

註 普門暁(一八九六-一九七二)のこと。一九二〇年に未来派美術協会を設立するが、一九二二年に除名される。一九二三年春には京都で個展を開いており、溝口が普門の絵を見た一九二三年の末頃は祇園辺りに住んでいた。  (以下割愛 秦)

註 溝口は戦後の一九四七年の作品『女優須磨子の恋』において劇中劇としでカルメンを流している。

 

☆ 紅燈 『日活画報』一九二四年八月号 註は割愛

旅に来てまづよろしきは祇園町花見小路の灯ともしの頃

白足袋の似合ふは河内屋与兵衛ならで祇園町ゆく仁和寺の僧

鴨川の流れは耳になれたれど歓楽の酒われになれざる

恋知りし舞妓の笑は淋しかり若き役者の扇持つてふ

木屋町の茶屋の女房の鉄漿つけて眉あほくそる夏姿かな

 

* ちなみにこの文や歌の成されたより十一年余も遅れ、一九三五年師走にわたしは京都で生まれた。四、五歳ごろから養家の秦に入ったが、育ったその家は祇園の郭にぴたっと背中合わせの(知恩院下)新門前通りにあった。「カフェレーベン(人生)」なんて、いかにも時代を懐かしく感じさせる。

そして、溝口の短歌よ。まさしくこういう空気のなかに染まってわたしは少年時代、大学時代を過ごしたのである。

2013 7・15 142

 

 

☆ 白楽天詩集より

対酒

巧拙賢愚相是非    上手の下手のとおっしゃるな

何如一酔尽忘機    いっぱいやってお忘れなされ

君知天地中寛窄    だれも知るまい天地の寸法

鶚鸞皇各自飛    牛は牛づれ馬は馬づれぢゃ

 

蝸牛角上争何事    窮屈そうに無意味なけんか

石火光中寄此身    口にあわふき肩ひじはって

随富随貧且歓楽    ひとは人さまわれは我よと

不開口笑是癡人    たか笑いして仲よくなされ

 

* こんな読みでは白居易さんにどやされますかも。

2013 7・16 142

 

 

☆ 七月も半ばとなりました。

毎日毎日 お暑い日がつづいておりますが、先生には いかがお過ごしでしょうか。

癌による胃全摘やその後の体調不良、眼の病気というたいへんな中で、「ペン」こそ「我が闘病」と 書き続けていらっしゃる精神の高さにこころから励まされ感動いたしております。

私も憲法九条は絶対に守っていきたいと思います。 また、原発を再稼働させようとする今の政治に怒りを感じております。結句 選挙でみんなが、その意志を表明しなければ、この国の政治はどうなっていくのでしょう。

「湖の本」の『ペンと政治』で勉強させて頂き、ありがとうございました。

先生、どうぞ御体を大切になさって下さいませ。御自愛なさり、酷暑をのりきられて下さいませ。

心ばかりの御礼を同封させて頂きます。御笑納下さいませ。 かしこ

私の長兄 (故)芦部信喜は、憲法学者(東大名誉教授・元日本憲法学会会長)でしたが、憲法九条を守るために努力いたしました。   歌人 玲  西東京

 

* みな、手を繋いで 根気よく諦めず 立ち向かって行きたい。五年半前にこう書き留めている。

* 寒ければ寒いと言つて 立ち向ふ  湖   2008 2・1

同じ年の師走最終句として俳優小沢昭一さん、こんな句を句集に置いていた。

☆ 凩へ一徹の老い立ち向かふ   変哲

「今でしょ!」 何より大事なのは、ふかく白詩夜前の真意も酌んで、「立ち向かう」ことでしょう。

 

☆ 白楽天「友を招く」

久雨初晴天気新    久雨初めて晴れて天気新たなり

風煙草樹尽欣欣    風煙草樹ことごとく欣欣たり

雖當冷落衰残日    冷落衰残の日に當るといへども

還有陽和暖活身    なほ陽和み暖活くる身あり

池水溶溶藍染水    池水は溶溶として藍は水を染め

花光焔焔火焼春    花光焔焔たり火は春を焼く

商山老伴相収拾    商山の老伴たちよ相ひつどへよ

不用随他年少人    あへて年少の人をわずらはせじ      2013 7・17 142

 

 

* ちよろづの葉のいろいろに象(かたち)成し幸はひ祝ふ大和島根を

ちよろづの木の葉くさ葉の愛くしくしづまり揺るる真夏の原に    遠

2013 7・19 142

 

 

* 白鵬の舞ふや 富士山くっきりと

白鵬のなにより似合ふ富士の山   湖

 

* 俳優の亡き小沢昭一全句集『俳句で綴る 変哲半生記』を悉く選句しつつ読み終えた。

ご本人も認めておられたように、川柳度の濃い俳句集であり、それは、変哲句の値を決して大きく値引きするものではない。俳句の、俳諧の、「俳」の原義には人の「常」を超えて出た或る「おかし味」や「おどけ味」が籠もっていた。最初期俳諧はその味わいをはっきり意識して為され、成されていた。西鶴はもとより、あの芭蕉の俳諧も初期は「俳味横溢」に過ぎるほどだった。

蕉風が正風となり時世を風靡するにしたがい、濾過するように俳諧から洩れゆく「俳」味を、まさしく取り留めようとでもしたように川柳なる系譜が、恰も別家して行った。川柳の、かならずしも狂歌なみの狂句でない主調を、または主張を、彼らはもっていた。「変哲俳句」は、そんな川柳子たちの思いをかなり自然に歴史的にも酌んでいた。「変哲」という親譲りと聞く名乗りもしかり、また小沢さん自身が「俳優」として他に倍々して「俳」味発散のつよい個性であったことも、自然、ここへ関係していたと思う。

また一つ、その俳優家業が必然俳句愛へと向かったその上に、時代を重ね場所を替え心身に蓄え続けた「俳優」ならではの意味幾重もの「旅・境涯」からは、かなりやすやすと創り出せる「想像句」も変哲さんは蓄えていた。必ずしもそれらに秀句は多くない、が、彼ほどの個性俳優でなければたぶん見つけられない、かぎ分け得ない「人の暮らし」の真相をも、また数多い句として変哲さんは打ち出している。言いしれぬ「批評」がそこにほろっと生きていて私を何度も深く頷かせた。

句会の句催促に追われてか、類句も、ほとんど同句も、かなり見受けられる。こう全句集として纏まってみると、そんな瑕瑾にも俳優俳人小沢昭一の、気忙しくも暢気でも平気でもあったおかし味が滲み出る。

何の接点も縁もなかった小沢さんと私なのに、いつしれず、本のやりとりが頻繁になり、唄盤も幾つも貰ってきた。しかし一度も出会っていない。手紙も交わしていない。しかも頂く本の数々、ことに大道藝や境涯藝、また国民のエロスに深く錘鉛を垂れた取材と考察のたぐいには莫大に教わった。接点といえば、なにより其処に我々二人の触れあっていたエキスがあった。

功成り名遂げて、小沢昭一は文字通り榮爵藝人として美しい全句集を最期にのこして此の世を去った。私は、病気に立ち向かいながら、もう暫く変哲句の選を楽しんですすめ、「変哲百句」にみごとに絞ってみたい。

2013 7・20 142

 

 

* 水引の白斑(しろふ)の大葉あをあをと雨に饒(にぎ)はひ揺るる眩しさ  湖

2013 7・25 142

 

 

* 下記の「激励」を受けとめる元気が必要だ。こういう日本人が、日本の女性が、現に斯く「在る」ことに励まされる。百人の九十九人が、しかし、こうではない現実の軽くて薄い重苦しさ。

 

☆ お元気ですか、みづうみ。

 

最近のご体調不良をとても心配していますが、どうか上手にやり過ごしてお元気にしていらしてくださいますように。

今のみづうみと私たちに必要なのは、残念会ではなく、激励会ではないかと思っております。

 

私の母はみづうみと殆ど同じ年齢ですから、第二次大戦の被害は少なかった世代です。そんな母から聞いた戦争中の話で、印象に残っている話がいくつかあります。

 

日本中が真珠湾攻撃大勝利の祝賀に沸き立っていたその日に、母の通っていた小学校の美術の若い男の先生が、授業中に生徒に向かって「この戦争は、日本が負けますよ」ときっぱり言ったそうです。当時の戦勝気分一色の中で、日本が負けると公言した大人がいたことは、母に刻まれた最初の異様な戦争の記憶でした。

当時としては珍しく自由な校風の私立小学校であったため、その先生が非国民と連行されることはなかったそうですが、その後の先生のたどった道はおそらく戦死であったと思うと、母は言います。

母の育った家庭でも、日本が負けるということは自明のことであったそうですが(周囲もみんな負けると言っていたそうで)外向きの物言いには非常に神経を使って気をつけていたといいます。当時何より恐ろしかったのは敵襲ではなく「特高」だったからです。

東京大空襲の三月十日、空襲警報で母は自分の家族とともに防空壕に逃げました。幸い山の手に住んでいたため爆弾は落ちてきませんでしたが、防空壕から首を伸ばして見た下町方面の空が今まで見たこともないほど強烈に真っ赤に燃えていました。凄まじい何かが起きているとわかりました。あたりは静かな夜でしたが、母はその時生まれて初めて「声なき叫び」が聞こえてくるという経験をしました。

母はこの東京大空襲後の疎開先で、機銃掃射の爆撃を受けて人が死ぬのも見ています。明日の朝まで生きているだろうかと毎晩思いながら寝ていました。

母より十歳年上の父が語る戦争経験はいつも「軍隊」経験でした。戦地に行く船が全部撃沈されていたために内地での軍隊経験です。こちらは要するに最初から最後までひもじかったという話ばかりで、飢えを知らない私には想像しにくい切実な経験で、どこか滑稽さもありました。(自分は差し入れの豆を分けてやったのに、〇〇は=父の友人で後の衆議院議員=は自分の差し入れを分けてくれなかった等のいじましいレベルです)悲惨な話は山のようにあったでしょうが、父はそれを語らなかった。語れなかったのかもしれません。詩人とはほど遠い感性の父が「戦争中は海を見てもどうしても青く見えなかった」と言っていたその言葉が、父にとっての戦争を象徴している気がします。

叔父は戦争中はほんの子どもでした。実家は大きな料亭旅館で、出撃前の特攻隊員の宿になっていました。特攻隊員のお兄さんたちが、なぜか、みんなみんなトイレで隠れて泣いているのがふしぎでしかたなかった、今でも忘れられないと話してくれたことがあります。

 

2013年、人間はどうあがいても、時代の流れ、巨大な歴史の要請に逆らうことは出来ないものと、再び思い定めるべき時がきたようです。

あの当時、少数派であっても、日本の開戦をなんとしても阻止したいと必死に闘った日本人はたくさんいたでしょう。負ける戦争だとわかっていた日本人はもっとたくさんいたでしょう。でも、どうしても戦争を止められなかった。そして三百万人以上の国民が名もなき犠牲者として死んでいった。

 

今回の選挙結果について、インターネットの中では歓迎から落胆まで、ほんとうにさまざまなことが書かれていました。太平洋戦争前にインターネットがあれば、今回の選挙に絶望した感想、たとえば「なんともおそろしい結果だ、日本の破滅のはじまりだ」とよく似た言説があちこちに流れていたかもしれません。今ほど、あの悲惨な暴力の荒れ狂う時代を生きた日本人の状況が胸に迫ることはありません。個人の力ではどうしようもない歴史のうねりです。

私の気持に一番近いものは「自分の目で、母国が崩壊していくところを見るようになるとは、思わなかった」という見知らぬ人のツィートでした。他にもネット上で胸に響いた言葉をいくつか拾っておきます。

 

「地震の後には戦争がやってくる」忌野清志郎

 

【戦争よりも酷いことが、進行してるのに、まだ殆んどの人が、気付いていない】小出裕章

 

『今、求められているのは、戦死者達の血であがなった憲法を変えることではなく、人間らしい暮らしが出来る憲法を適用させることだ。』元沖縄県知事大田昌秀さん慰霊の日の言葉

 

原発事故がおきたら、ファシズムになる。ベラルーシをみたらわかります。

憲法変えて、独裁ができるようにするだけでいい。

基本的人権の削除、表現の自由の削除。プラカードのとりあげ。

日本の場合は、首相の任期がないから、永遠にできる。

みんな嘘つきで、寄らば大樹の陰、長いものにまかれろ、ことを荒立てるなと、日本人の欠点が一挙に丸見えになってしまった。民主主義というのは、本当に国民一人ひとりが、賢くなければ、なしえない。      野呂美加

 

怖がって黙っている場合じゃないよ!頼む!貴方達の活動は早晩できなくなる。作家も音楽家も漫画家も評論家も学者も記者もジャーナリストも映画人も演劇人もテレビ関係者も俳優も芸人も、ぜひ「自民党改憲草案」を読んでほしい。その上であなたの意見を発信していただきたい。

 

日本が終わっても、日本人のオイラは変わらず生きていくよ。絶対仕返ししてやるさ!誇りは棄てない。

みづうみがレマルクのことを書いていらしたので、久しぶりに本棚から『凱旋門』をひっぱりだしてきました。初めてこの本を読んだ時のため息をつくような感動を今もありありと思い出します。

みづうみのほうがよくご存じですが、レマルクは自身も戦争とファシズムの恐怖の時代に翻弄されて生きた作家です。彼の世界的名声など、吹き荒れるナチズムの前では蟷螂の斧でした。ユダヤ人ではありませんでしたが、反戦主義者としてナチスから弾圧を受けてスイスに逃れたものの、ドイツ国籍を剥奪され、著書は焚書にあい、妹は強制収容所で拷問死です。

 

『凱旋門』をずっと以前に読んだ時には、レマルクの描くナチスから逃亡した無国籍難民たちの追い詰められた絶望と不幸を、悲劇的な歴史の一頁、要するに他人事として読んでいました。あんな狂気の時代は過去の悪夢だと信じていました。まさかファシズムや難民が将来わが身にふりかかる事態かもしれないとは、想像もしませんでした。わが身の不明を恥じています。

今度の臨時国会に提出される秘密保全法が与党多数で成立し、国民の知る権利が損なわれ、益々インターネットの検閲が進み、憲法改正が自民党の草案のように進んでいけば、日本社会は自由にものの言えない恐怖の坩堝となるでしょう。

国民の基本的人権を奪い、拷問、戒厳令さえ可能にし、言論の自由を封殺したい理由の一つは、被曝の惨劇を隠蔽し巨額の賠償を握り潰して、どうしても原発を続けたいからです。未来ではなく今のカネのため、核兵器のためです。老朽化した原発五十基についても、今後何も起きないという根拠なき安全神話で何がなんでも再稼働したいのです。

チェルノブイリたった一基の事故に徴用された軍隊が八十万人とも言われ、自衛隊は二十五万人。足りません。原発徴兵は目前です。そして、ファシズム国家のもとで藝術としての文学はもう存在できない。

 

もちろん、この最悪の国民の不幸も、ナチスのようにいずれは終わるでしょう。しかし、そこまで待てない状況が私を絶望させてしまいます。独裁に向かう政権が滅びる前に、今も天文学的に拡散され続ける放射能汚染で日本という国家が崩壊してしまう可能性が高いからです。

汚染水が23億ベクレル流出しているニュースは、なんと一リットルあたりの数値です。これがどういうことか、つまり将来の海の壊滅です。三号機の格納容器の蓋がないニュースは、日本以外の世界中で驚きとともに大きく報道されています。これは本当に恐怖の現実で、処置なしの恐るべきダダ洩れです。自分はあとどのくらいまともに生きていられるでしょうか。

 

大半の人には私の考えは極端で悲観的すぎるとして冷笑されるでしょうが、そのくらいの切羽詰まった危機感を持つ人間は、山本太郎さんとその支持者のように、この日本に一定数は存在しています。インターネットの中にも日本が崩壊してしまうという警告や歎きは無数にあります。それが日本の唯一の希望といってもいいくらいです。

はっきりしているのは、一人一人の国民が無関心だったり、諦めた瞬間からすべてが終わるということです。正直、強大な政権にも原子力利権にも勝つことは難しいです。しかし、精一杯の抵抗をして、絶対に負けないという気概を持ち続けなくては、人間の尊厳まで失ってしまいます。何ができるわけでもありませんが、それでも日本人は立ちあがれるはずなのです。たとえテレビや新聞や政治家への抗議の匿名電話一本でも、数が集まれば効果はあります。

誰かがやってくれるでは間に合わない。自分が今すぐはじめなければ日本はほんとうに終わってしまいます。私がこんなことを言うのは、私が人一倍臆病で弱い人間だからです。私は拷問にも耐えられませんし、弾圧国家と真正面から闘う力などありません。ただふつうの生活がしたい庶民なんです。いざとなったら国家の命令に従って沈黙する卑怯者となるでしょう。だから、そんな事態になる前に、今、国家の非道を押し返したいのです。

このまま手をこまねいていては、阿鼻叫喚の中、防空壕の中で蒸し焼きになって死んでいった人たち、熱湯となった隅田川の中で死んだ人たち、トイレで泣くしかなかった二十歳そこそこの青年たちに申し訳が立ちません。福島はじめ汚染地域の子どもたちを避難させ、第二次大戦の犠牲者の血と涙で勝ち得た日本国憲法を、一日でも、一時間でも長く守りたいと願っています。

おそらく日本人にとってはこれが最後の闘いです。キリングフィールドである福島に県民を押しとどめ、汚染瓦礫を各地で燃やし、汚染食糧を全国に流通させ、海に膨大な汚染水を流し続け、国民に最大限の被曝を強いるという亡国の政策がとられている現実をみれば、私たちの行く先はわかろうというものです。逃げられる人はもう逃げています。大半の国民は棄民された満蒙開拓団の立場にいるのです。

 

レマルクが『凱旋門』の中でこう書いていました。(山西英一訳)

 

……運命は、泰然自若としてこれに直面する勇気よりも強力であることはけっしてない。ひとはもはや運命に耐えられなくなれば自殺することができる。このことを知っておくことは、よいことだ。だが、人間は生きているかぎり、完全に失われることはけっしてないということをしっておくことも、またよいことである。

ラヴィックは危険をしっていた。彼は自分がどこへ向かっていっているかをしっていた。明日はまたふたたび抵抗するだろうということもしっていた──

 

まだ若かった頃、泣きながら読んだ主人公ラヴィックの、この世に生きた甲斐ある恋の終わりの場面を書き写させてください。七年目のご命日を迎えたやす香さんにも読んでいただきたいような気がします。

 

「きみはぼくを生かしてくれたんだよ、ジョアン」彼は目のすわった顔にむかっていった。「きみはぼくを生かしてくれたんだよ。ぼくはただの石塊だったんだ。そのぼくを、きみは生かしてくれたのだよ──」

「Mi ami」

それは眠りにつこうとする子供の問いだった。それはあらゆる疲労をこえた最後の疲労であった。

「ジョアン」と、ラヴィックはいった。「愛という言葉ではいいあらわすことはできないよ。それでは足りないのだ。愛は、ほんの小さな一部分だけだ。川の中の一滴の水、木の中の一枚の葉っぱだ。それは、もっともっと、はるかに大きいものだよ──」

「Sono stata sempre con  te ──」

ラヴィックは女の両手をつかんでいた。だが、その手はもはや彼の手を感じはしなかった。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ」と、彼はいった。だが、とつぜん自分がドイツ語をしゃべっていることには気づかなかった。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ──ぼくがきみを愛しているときでも、憎んでいるときでも、無関心なようにみえるときでもだ──そんなことはなんでもない、きみはいつだってぼくといっしょにいたんだよ──いつでもぼくの中にいたんだよ──」

いままでは、ふたりとも、借りものの言葉で話しあっていた。いまはじめて、それとしらずに、どちらも自分自身の言葉を話した。言葉の障壁はくずれ落ちて、ふたりはたがいに、いままでよりももっとよくわかりあった。

「Baciami ──」

彼は女のかわいた熱いくちびるに接吻した。「きみはいつでもぼくといっしょだったんだよ、ジョアン、いつでもだよ」

「Sono──stata ──perduta ──senza  di  te ──」

「きみがいなかったら、ぼくはもっと孤独な人間だったんだよ。きみはいっさいの光明であり、快い歓びであり、つらい思いだったんだよ──きみはぼくをゆり動かし、きみ自身とぼく自身をぼくにあたえたのだ。きみはぼくを生かしてくれたのだ──」

ジョアンはしばらくの間、じっと静かに寝ていた。ラヴィックは女をみ守った。女の手足は死んでいた。何もかも死んでいた。ただ目だけがまだ生きていた。それから、口と、呼吸が。いまは呼吸作用の補助筋肉もしだいに麻痺していくことが、彼にはわかっていた。女はもはや口をきくことがほとんどできなかった。すでにはあはあ喘いでいた。歯はかみあわされ、顔は痙攣していた。女はまだ話そうともがいていた。咽喉はひきつり、くちびるはふるえた。咽喉がごろごろいう音。ついに叫び声がほとばしり出る。「ラヴィック」女は舌もつれしながらいった。「助けて!──助けて!──いますぐ──」

彼は注射針を用意していた。すばやくそれをとりあげると、女の肌の下へ突き刺した。つぎの痙攣がこないうちに、早く。何ども何ども、間をおいては、しだいしだいに空気が吸えなくなって、徐々に、苦しみながら窒息させてはならない。意味もなく苦しめてはならない。彼女のまえには、ただ苦痛があるだけだ。それもおそらくは何時間かの。

眼瞼がぴくぴくした。それからじっと動かなくなった。くちびるがゆがんだ。呼吸がとまった。

 

このあとに、ついにドイツの宣戦布告があり、『凱旋門』の結末は、ラヴィックがフランス警察の手でどこかに連行される場面で終わります。レマルクのあえて書かなかったラヴィックの運命が、当時のドイツから逃れた多くの難民のように、フランス警察の手でゲシュタポに引き渡されドイツの強制収容所で虐殺されるようなものだとしても、私はラヴィックの、狂気の時代に敢然と抵抗した孤独な闘いの勝利、人生の輝きを確信し、「ブラボー」と拍手するでしょう。

 

みづうみは名のある文学者として、わたくしは名もない私民として、ご一緒に精一杯抵抗しながら滅びてまいりましょうか。歴史という大河の流れが劇的に変わる幸運が、奇跡のように訪れるかもしれませんし、そうならなくても、とにかく死ぬまで生きていくしかありません。

平凡な一日一日を大切に、共に生きることのできる今生の幸福を感謝して。

蟻   蟻をみてものほろぶことおもひをる 下村槐太

 

 

 

* かくもちからづよく励まされている。ほろびの火は、いたるところに燃えている。見えない、また見ようとしないだけのこと。しきりに映画「マトリックス」が眼に蘇る。どう闘うか。どう闘うか。三十歳いま若ければなどとむなしく思う。むなしく思う。

 

☆ 失題   朱文公

少年易老学難成  一寸光陰不可軽

未覚池塘春草夢  階前梧葉已秋声

2013 7・29 142

 

 

* 建日子たちの愛猫「ぐう」が逝った。「ぐう」よ。

 

 

* ぐうと、おまえたちに

 

ゆくなとももどせともよぶかなしさに草の葉ゆれてしづこころなし

 

いきしにのあはれあまりのしづかさよせんすべもなきわかれくやしく

 

身に抱きし重みもこひしよきねこのひとみ澄みしが忘らえなくに   恒平

2013 7・30 142

 

 

* 大島史洋氏は歌人、わたしや東工大で接した多くの学生諸君にとっては忘れがたい一首、「生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ」といういわば「教室の主題歌」の作者である。私的にはまったくご縁のなかった人だったが、わたしは上の歌をシンボルのように、旗のように樹てて教授生活していたのだった。むろんわたしの「湖の本」はお送りしてきた。九歳ちかく若い人で、近年になり著書も貰っている。今日も、現代短歌社から新刊の『近藤芳美論』を頂戴したし、機械から後ろを向いて手の届くところには『アララギの人々』が、清水房雄さんや橋本喜典さんらの歌集と並んでいる。感謝。

亡き近藤芳美さんは、土屋文明などのあとを受けて著名な短歌会の大物歌人だった。一度パーティの席で握手を求められ、「どうぞ短歌のためにお力を貸して下さい」と挨拶されてビックリしたことがある。素直なわたしは、そのままその近藤さんの言葉を聴いて記憶している。わたしの『青春短歌大学』では、近藤さんからは、「手を垂れてキスを待ち居し( )情の幼きを恋ひ別れ来たりぬ」の一首をかりて学生諸君に一字を埋めさせた。

近藤さんが亡くなる少し前の歌を一首あげておきたい。

君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映  近藤芳美

2013 7・31 142

 

 

述懐   平成二十五年(2013)八月

 

父母が頭(かしら)かきなで幸(さ)く在れて

いひし言葉(けとば)ぞ忘れかねつる      丈部稲麿

 

炎天や昆虫としてただあゆむ             木下夕爾

 

神は無しと吾は言はねど若し有ると

言へばもうそれでおしまひになる        安立スハル

 

論理するどく行動きびしき学生の

父の多くは戦ひに死す              岡野弘彦

 

水引の白斑(しろふ)の大葉あをあをと

雨に饒(にぎ)はひ揺るる眩しさ         湖

 

ちよろづの葉のいろいろに象(かたち)成し

幸(さき)はひ祝ふ大和島根を          遠

 

あほらしやのかねがなるわとわらはれし

むかしのことのあほらしきかな          有即斎

 

アイズビリ画

 

2013 8・1 143

 

 

* わらってしまった。

 

☆ 十訓抄 上三の六に

ある人の家に入りて、物乞ひける法師に、女の琴ひきてゐたるが、「これを今日の布施にて、かへりね」といひければ、

ことといはばあるじながらも得てしがな

ねはしらねどもひきこころみむ

この乞者は「三形沙弥なり」と、人いひけり。

 

* 絶妙の即答、述懐ではありませんか。かかる和歌、和する歌、の至妙の醍醐味を、まちがっても猥褻などと言うなかれよ。「三形沙弥」は万葉歌人で女好きの三方沙弥のことかと推量されている。

もう一つ。

 

☆ 十訓抄 上三の二

匡房卿、若かりける時、蔵人にて、内裏によろばひありきけるを、さる博士なれば、女房たち侮りて、御簾のきはに呼び寄せて、「これ、ひき給へ」とて、和琴を押し出したりければ、匡房とりもあへず、

逢坂の関のあなたもまだ見ねば

あづまのことも知られざりけり

女房たち、返しえせで、やみにけり。

和琴をば、あづまのことといふなり。

 

* これは先のほど笑わせてはくれない、なまいきな女相手に男の色気がない。第一博士匡房ならこれくらいへっちゃらの即妙。

けど、「即妙」 縦横に読みとれますか。

こんな二つの若の読みなど、大学の入試に出してみたいなあ。

わたし、しかかりの小説に花をそえたいと、セクシイなないしは助平な和歌・短歌をあっというまに百五十以上も詠みました。身は病にやせ細ったけれど、七十七翁の色気溢れています。一つ二つでも此処にと思うたが、沙弥や匡房卿の絶妙に比べられてはあんまり露骨なので、やめておく。

2013 8・6 143

 

 

* 十訓抄からおもしろい和歌を書き出して、その読みは控えておいた。とても読み取れないと言うてくる人もいた。ま、ゆっくり翫味して下さればよい。

毎晩、いまは「後拾遺和歌集」をあけて、ちょうど「雑五」の巻を読んでいる。まえに「千載和歌集」を読んで撰歌したのを「湖の本・千載和歌集と平安の女文化」上下巻として出版したが、千載集の歌に前詞・詞書のあるのはむしろ少数。後拾遺集では殆ど全歌にちかく前詞がついていて、作歌の事情とともにその当時の生活様式や感情や人間関係や交情・交際の機微が汲み取れる。わたしは撰歌のさいは概してこれら前詞は見捨てて和歌一首の美と真実とを汲むのだけれど、後拾遺集でそれを強行すると歌の妙や情が薄まってしまう。前詞のなかに強いて謂えば掛けが得ない時代の相と文化の質が見えてくるから。

それにしても、もうかなり概念化している四季の歌にくらべ、恋そして雑の歌は面白い。まさに、王政ならぬ王朝藤原時代の肉声がとびかって聞こえる。

何度もいうが、こうした勅撰和歌集の歌人達は、九割九分九厘が貴族の男女であり、政治家や行政官と地位において匹敵する女性達なのである。

いまの時代、真似事ほどの俳句らしきを弄くる宰相の噂は聞いたこともあるが、明治大正昭和平成の政界人たちで詞華集を一冊となれば見窄らしい限りでとても成るまい。成らなくても恥じる必要は、ま、無いとする。しかし、かわりにどれほどの政治や行政で民を幸せにしてくれたか。あまりにあまりに貧しい。政治の舵はいましも地獄の駅へ向いて切られている。

2013 8・8 143

 

 

* 瀧のごと蔓蔦の青葉はなやいで

勢(きほ)ひて光る雨に揺れつつ  湖

 

* 歌のすぐさま口をついて成るもあれば、数日按ずることもある。それもこれも、いいものだ。わたしの場合は潤一郎先生の伝で、ま、汗のようなものである。

 

* 後拾遺和歌集の初選を終えた。最初はどんどん採っている。次選はかなり慎重に選んで行く。おもしろい歌集で、ついつい前詞から読んでしまうが、わたしの基本姿勢はあくまで和歌一首一首としての立ちざまを見る。

2013 8・12 143

 

 

* なにか息苦しい。何かが胸に閊えている。何だろうと想っていた。仕事か。仕事はいつもいつも順調というワケには行かない。発送作業か。これまたトントン拍子に進む用でないのは四半世紀以上も体験してきた。

どうやら、かつて東工大の学生諸君に突きつけ続け回答を強い続けた夥しい数の「問い」に、まるで罪滅ぼしのようにいま自ら答え続けているのが苦痛なのだ。よくもまあこんなことを若い若い諸君に強い続けたものだ、それをまあ仕方なくでもあるが彼や彼女らはよく答え続けた。

「問い」の、途中ほんの一つかみの例を挙げても、 * 何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 * 生かされた後悔、生かせていない後悔。 * ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 * 話せるヤツ、または、因縁のライバル。 * 今「思う」ことを書け。 * いま「気になる」ことを書け。 * 疑心暗鬼との闘い方。 * あなたは信頼されているか。 * あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 * 自分の「顔」が見えているか。  * 兵役の義務化と私。 * 何が楽しみか。 * 心残りでいる、もの・こと・人。 * Reality の訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 * 「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 * 自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 * 何があなたには「美しい」か。 * 何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 * あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 * 「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。

こんなのに、いま、毎日仕事の合間にわたしはわたし自身の問題であるとして、「答え」続けている、根かぎりに。生皮を剥ぐほどの苦痛がつづく。しかしやめるわけに行かない。

 

* たった只今の問いは、こうだ。

* 井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。(先ず、詩を読む。)

 

別離  井上靖

 

中学時代からヨット・ハーバーという言葉を耳にすると、すぐ眼に浮か

んで来る風景があった。ひっそりした小さい入江、真夏の陽が落ちてい

る静かな海面、マッチの軸で作ったような桟橋、その向うのヨット溜り、

入江の口の向うは荒い外海で、鏃形の岩礁に波が白く砕けているのが見

える。

 

三、四年前、ギリシャの地中海に沿った漁村で、私ははからずも私のヨ

ット・ハーバーを見付けた。ホテルの庭の裏口から磯へ降りて行くと、

崖っぷちを埋めている雑木の間からその入江の碧りの潮が見えた。桟橋、

ヨット溜り、外海の鏃形の巌、--ああ、こんなところに匿されていた

のかと、私は思った。

 

そのヨット・ハーバーの磯に降り立った時、丁度一艘のヨットが帆を張

って、外海へ出て行くところだった。ヨットには黒人の娘がひとり乗っ

ていて、私のほうにやたらに手を振っていた。私も夢中になって彼女に

応えて手を振った。私は( )に( )ってよかったと思った。ヨット

がすっかり視野から消えてしまっても、私はそこから立ち去りかねてい

た。相手の顔かたちすらはっきりしていなかったが、紛ろうべくもない

別離の悲しみだけが私の心にはあった。

 

* 詩にわたしが設けた「二つの虫くい」を漢字で埋め、それだけでなく、その埋めた文字による詩の「読み」を書いて示すよう学生諸君に求めたのだった。何故その文字を入れたか、その結果として「別離」という詩の題意を明らかにせよと。

試験ではない。当日の私の講義を聴き聴き、書いてもらうのであるから書くほうはたいへんである。ちょっと混乱する。それさえもわたしの教室では意図のうちにあった。頭も目も耳も言葉も思いも同時に使えというわけである。やれないわけでなく、けっこう、やってくれる。

四一六人の教室で、一四六人。圧倒的に「間に合ってよかった」と正解した者が多かった。「港に寄って」「磯に立って」「浜に残って」よかった、式のいろんなのが、合計して一〇九人。「娘に会って」「君に会って」「人に会って」式のいろんなのが、合計して二四人、いずれも詩をごく平凡にしてしまう。

ちょっと気をひくものもあった。「昔に帰って」「昔に戻って」「夢に巡って」「幻に会って」、また反則の二字になるが「少年に帰って」「童心に返って」と。

その他にも何十と変わった解答が出てきて、整理するのに汗だくになった。

 

* 虫食いには原作は、「間」に「合」ってよかったと思った と表現してある。「間に合ってよかった」とはどういうことか。それを自分自身の上に置き換え、自分の言葉で「出会いと別れの運命」を書き示せという出題だった、途方もないことだ。「学生」達に問うた以上は「教授」も答えねば成らん。いつの頃からか頻りにそう自身に強いはじめた。なかなか手が出なかった。思い立てなかった。はっきりとは言えないが死線を践む病気をしたのが関係しているのかも知れない。これに答えられなくて「ペンと政治」も「作・作品・批評」も無意味ではないか。そう追いつめたらしい。今年の三月十六日に全部の質問を書き揃えて、たぶんその日から、すべてその順に一つ一つ書き始めたようだ。まだ、半分にもよほど足りない。ボディブローのようにジワジワとこれが神経に堪えかけているらしいと、やっと気が付いた。だが、已める気は無い。

2013 8・17 143

 

 

* 「荘子」の物言いは、簡約を極め、自力で読み解くのは容易でない。意おのづから通じるまで、千遍で足るかな。

ジンメルの「カントとゲーテ」には組み付いている。ジンメルの論調も容易でないが、翻訳者の日本語もはなはだ難儀。カントとゲーテだから魅されて読み続けているが。

「アイヴァンホー」は、小学校でひとに借りて読んだ少年向きの要約本のほうがはるかに血わき肉おどった。原作のすすめかたは張り扇の音がしそうなほど大げさで通俗。だがまだまだ話は序の口、せっかちになる必要はない。アイヴァンホーが、アイヴァンホーとしてまだ登場していない。

大長編の「指輪物語」は読めば読むほど、美しく清い。希有の名品。語られているのに語り手は影も見せない。これにくらべ「南総里見八犬伝」には語り手独特の過剰な饒舌がくさみを催している。

アポロドーロスの「ギリシア神話」、ミルトンの「失楽園」 ただただ感じ入る。暑さに負けそうなのを奥の奥から鼓舞されている、不思議でならぬほど。

不遇に生きた俳人「杜国」と師の芭蕉らとの詩情世界を、露伴はこまやかに思いふかく克明に考証している。清水に身をひたすように愛読している。

そして「後拾遺和歌集」の二度の選を「恋」の部に進めている。想ったとおり、いや想ったより以上に興をふかめている。和歌はよほどわたしの性にあうらしい。

そしてゲーテ「イタリア紀行」 この仕事が近代藝術の理解のためにもいかに基礎を成してくれていたか、しみ通るように分かってきた。

2013 8・20 143

 

 

* 帰り、江古田から池袋に向かい、西武八階の「熊はん」で京料理一通りに鱧の落としを添えてもらい、例の冷酒「熊彦」を。店を独り占めで、後拾遺和歌集を選してゆきながら、ゆーぅっくり食べてきた。肝腎の鱧のおとしが妙に痩せていていけなかった。

帰宅すると、妻のなんだか数値がよろしくなく、来月にステントの再検査があるという。老老少しずつ衰えの加わるのは自然の趨か。なにかしら、大事なことも考えねばならなくなっているか。

2013 8・20 143

 

 

☆ シンガポールより

22日急遽日本を出発。2500グラムの小さな可愛い男の子が授かりました。

日本の暑さはいかがでしょうか。

元気に過ごされますよう。  鳶

 

* 祝句  鳶の子が鷹を生んだと朝ぼらけ   鴉

2013 8・24 143

 

 

* 芭蕉にとって杜国という弟子は、よくよくの存在であった。その杜国を念頭の芭蕉の

贈杜国子

しらけしにはねもぐ蝶の形見かな

の句を「題目」に、幸田露伴は長編の考証を試みていた。杜国は芭蕉に関心有る読書子にも研究者にも無視しがたい「とくべつの弟子」なのである。気概のこもった露伴烈々のかつ周到な論攷である。『露伴随筆集』考証篇を、ここずうっと楽しんで毎日読んでいる。

 

☆ 白芥子句考 (部分)    幸田露伴

 

(前略)  いざさらばの句は名古屋熱田あたりにての句なること猜(さい)せらる。しかる時は杜国(とこく)ひそかに保美(ほび)を出でたるか。はた文通などにての聯句か。今ただ疑(うたがひ)を存するのみ。『俳家奇人談』 には、山田の凉菟のすすめによりて支考蕉門に入るといひ、『俳詣年表』 には、元禄三年支考始めて芭蕉に謁すといふ。越人が言、信ずべし、後出の書は考(こう)に資すべきのみ。

師走十日あまり、芭蕉名古屋を立ちて故郷に帰る。臍の緒に泣きしはその年の暮にして、寐忘れたる元日の貞享五年は来りぬ。去冬の約あれば、越人がいはゆる松を抜くの芭蕉が力に催されて、杜国はひそかに保美をぬけ出でぬ。三河と伊勢とは、陸には尾張を隔てたれども、渥美の海は連なる伊勢の海、もしそれ東風(とうふう)吹くも北風(ほくふう)吹くも、一帆(いっぱん)まぎりて駛(はし)らば、いと易く宮川尻大港(おほみなと)に着くべく、大港より山田は幾干(いくばく)もあらず。山田より伊賀へは、松阪を経て上野へ、

難かるべき路にもあらず。杜国は芭蕉をその居(きょ)に訪へるなるべし。『笈の小文』 には、「伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ」と見えたれども、そは、「弥生半(やよひなかば)過ぐる程そぞろに浮立つ心の花の我を道びく枝折(しおり)となりて」と筆をあらためて書起したるままの文の都合にて、まことは師は居て待ち弟子は往きて就きしなり。行路通信もすべて心に任せず、まして風を便りとする舟路をかけたる者と、山路を下り来る者との湊巧邂逅することは、いと難(かた)からん。すでに巴蕉もみづから『嵯峨日記』に、「我に志深く、伊陽旧里まで慕ひ来りて」と書けるにも実情は見えたり。また前に挙げたる惣七への文にも、「三月十九日伊賀上野を出て」と書出せるも考ふべし。ただ杜国が上野に到れるは、何時なりしか考ふべからす。しかれども『嵯峨日記』に、「百日が程、影の如く伴なひ、片時(かたとき)も離れず」とあるを思へば、四月五月の頃二人相別れたりと見ゆるをもつて、一月二月の頃、伊賀には入りしなるべし。この傍証には、芭蕉が

何の木の花とも知らず匂ひ哉

の句、『泊船集』には、二月十七日神路山(かむろやま)を出るとてとあり、『笈の小文』にはこの句の次に、

裸にはまだきさらぎの嵐かな

の什(じゅう)あれば、何の木が二月の句なるは明らかにして、しかしてこの句を首(はぢめ)として益光、又玄、平庵、勝延、清里らの歌仙一巻あるその中に、裏の第七句に至つて、野人の名をもつて杜国の

いねがてに酒さへなくす物思ひ

の句あり、

短冊のこす神垣の春

といふ同じ人の挙句(あげく)まで、

数句見えたればなり。江戸を出づる時より芭蕉には心構へ有りたれば、露沾公の

時は冬芳野をこめん旅のつと

のくだり、すなはちあらかじ芳野行(よしのこう)の企(くはだて)ありて杜国これに落合ひたるには疑無けれど、杜国と伊賀伊勢の間(かん)に吟行せる後、弥生半に至りて、花に浮かるる心の芳野行を思ひ立ちたるなり。されば乙考亭興行の歌仙にも杜国は参加せり。

紙衣(かみきぬ)のぬるとも折らん雨の花    芭蕉

澄みてまづ汲む水のなまぬる         乙考

酒売が船さす棹に蝶飛びて                     一有

板屋々々のまじる山もと                     杜国

夕暮の月まで傘を干しておく                      応宇

馬に西瓜をつけて行くなり                    葛森    (以下略)

 

* 論攷も至れり尽くせり、しかしわたしが楽しむ一のそれは露伴の文が奏でる音楽の花にほかならない。

2013 8・27 143

 

 

* こんなのが出てきてよと妻が紙切れ一枚を手渡してくれた。もう何年前になるか数えもならない昔に、わが家で誰もが愛した「ネコ」を死なせた。思い出せば今も妻もわたしも泣くほど、可哀想な死なせかたをしてしまった。まだ朝日子も学生だった。まともに名前もつけてやらず終始「ネコ」と呼んで愛したのである。窓べの南天と隠れ蓑の根もとを深く掘って葬った。

紙切れには拙い筆の走り書きで、推敲もしないままのわたしの歌が三首。堪りかねて走り書いたらしい。

猫逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕べになほ匂ひ居る

この匂ひ酸しとも甘しとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも

線香も残りすくなく窓の下に梅雨まち迎へネコはねむれり

いまではネコの産んだノコも母とともに同じ窓の下に眠っている。そしてわたしたちは昔のまま窓をへだてた部屋で寝ている。ときどきネコとノコとの声を聴いている。隠れ蓑は今では大木になり大屋根まで伸び上がっている。

歌を墨書の紙切れの裏は、著書『閑吟集』の下書きの一部らしいわたしの手書き原稿で。

 

今憂きに 思ひくらべて古への せめては

秋の暮れもがな 恋しの昔や 立ちも返ら

ぬ老の波 いただく雪の真白髪の 長き命

ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる

 

こう口遊むだけで、謡曲がおよそ小歌と調子のちがう詞章であるとよく分かります。それにもかかわらず、閑吟集の全体に巧くなじむように気を遣って選ばれている。これも、よく分かりますね。

 

* こういう形だけで謂えば「切れっ端」までが、無慮無数に家のあちこちに積み上がっている。ま、わたし一人にはそのような堆積も温床ほどのぬくみではあるのだが、いやいや、いやはや、やれやれ。

2013 8・31 143

 

 

述懐   平成二十五年(2013)九月

 

置くとみし露もありけり儚くて

消えにし人をなににたとへん      和泉式部

 

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり         飯田蛇笏

 

強風に逆行し逆行しこの先に

憩ひあらんとふと妄想す        富小路禎子

 

桔梗(きちこう)や男も汚れてはならず     石田波郷

 

生きんとてかくて死にゐる虫をみつつ

殺さないから早くうごけと念じ    遠

 

9.12  孫やす香あらば二十七歳ぞ

いとほしや狭庭(さには)にもるる朝日子の

光(かげ)にあそべる九月の揚羽  湖

 

日のくれの山ふところの二つ三つ

塚をめぐりてゐしいのちはも     恒平

 

 

 

 

マチス画

2013 9・1 144

 

 

* 暫くぶりの聖路加通院で、さすがに疲れてきた。昨日、一昨日よりは気温は凌ぎやすかったけれど、けっこう気疲れはあったようだ。上野の院展へできれば廻ってみたかったが、今日は諦めた。明後日なら大丈夫という自信もない。ぼちぼちでよろしい。

聖路加の外来で、『後拾遺和歌集』の第二撰を終え、三撰に入った。一首一首読み込んで、われなりの可不可を決して行く、そういう読み方が和歌では、ことに王朝和歌では美味になる。後拾遺ではことに前詞がおもしろい。よくもよくもぬけぬけとと苦笑も強いられ毒気も抜かれる。

万葉集とはちがい地域的にも階層的にも極めて局限された公家社会の遊藝であり文藝であるが、また「平安女文化」の最たる時期でもあって、晴れがましい勅撰和歌集でありながら人気の藝達者はというと、大御所的な大納言公任をさえ抑え気味に、断然はなやいで、女たちなのである。採られた歌数でも飛び抜けている和泉式部を先頭に、道綱母、赤染衛門、伊勢大輔、相模らが綺羅星めいて、尊貴をさしおき、選者達をさえひきはなし、さんざめくほど花の賑わい。そして能因法師ら坊主達が、この和歌の世間でなんだか幇間めいてちょこまか回遊している。天皇も上皇も後宮も、摂政も太政大臣も、歌詠みに、贈答に精を出して大いに楽しんでいる。おもしろいことに絶頂の文名をほこった源氏物語の紫式部も枕草子の清少納言も、この和歌集では、ひかえめに脇役をつとめている。

栄花物語、大鏡などに親しんできたから、男女の歌人達のなまえが知友親戚のように心親しいのも、私、大いに楽しめる理由になる。

もう当分、繰り返し繰り返し読み込んで行く。その上で一つ前の『拾遺和歌集』へも手をのばしてみたい。

2013 9・2 144

 

 

* 「偽善」は、少年時代に漱石を読み始めていらいの課題であり、ことに『三四郎』の広田先生のくちにする「アンコンシアス・ヒポクリシー(無意識の偽善)」は、その後の六十年をつうじていつも胸奥に問いかけるなにより厳しい課題・リトマス試験紙であった。「罪はわが前に」と意識し問いつづけて来た。

ミルトンの『失楽園』に、こんな詩句を読んだ。

 

☆ ミルトン『失楽園』 第三巻より 平井正穂訳に拠る

人間にも天使にも

偽善を見破ることはできない

偽善こそ神のみを除く誰の眼にも見えず、神の黙認によって

天と地を横行闊歩する唯一の悪であるからだ。しばしば起る

ことだが、「知恵」が目覚めていても、「疑念」が

「知恵」の入り口で眠りこみ、自分の任務を「素朴」に任せて

しまうことがあり、そういう時には、「善意」は悪が歴然と

現われない限り、悪意をもって見ることをしないものなのだ。

 

* シェイクスピアは読みもし舞台や映画・映像を見てもきたが、『ソネット集』を読むのは初めて。おおよそどのような作かという予備知識は持っている。楽しみに読み始める。

2013 9・3 144

 

 

* そうそう。昨日の機械仕事を終えたあと読んでいた『十訓抄』第五「朋友を撰ぶべき事」の「九」で、おや、この現代語訳はちがってやしないかと思う箇所に出会った。ついでながら「五の八」では良妻三例と悪妻七例をあげて誡め、そのあとへ、しかし「女もよく男をえらぶべき」とし、白居易の「慎みて身をもて、軽々しくゆるすことなかれ」や、長谷雄卿の「男をえらばむには、心をみよ。人を見ることなかれ」を挙げて女性に警告している。「人を見るな」とは、「男の姿・かたちのよさ」に囚われるなという意味。それを「五の九」に繋いで、『大和物語』によく知られた「安積山(あさかやま)の女」の説話を引いている。挙てあるた和歌一首も広く耳慣れたものである。

 

☆ 「安積山(あさかやま)の女」  十訓抄より

大和物語には、昔、大納言なりける人の、帝に奉らむとて、かしづきける女(むすめ)を、内舎人(うどねり)なるものの取りて、陸奥の国にいにけり。安積の郡、安積山に庵結びて住みけるほどに、男の外(ほか)へ行きたりけるままに、立ち出でて、山の井に形を映して見るに、ありしにもあらずなりにける影を恥ぢて、

安積山影さへ見ゆる山の井の

浅くは人をおもふものかは

と、木に書きつけて、みづからはかなくなりにけり、としるせり。

 

* 「男の外(ほか)へ行きたりけるままに」

を、この古典全集の担当現代語訳では「男が他所(よそ)へ出かけていた時に」と解してあり、これは、同感。この男女に不和あって、男がよそへ逃げた、出奔したというのではない。日々の暮らしの中でただ外出・他出した留守中の話なのである。参考までに、訳されている全文を挙げてみる。

「『大和物語』には、こんな話が載っている。昔、大納言であった人が、帝に差し上げようと思って、大切に育てていた娘を、内舎人なる(下級の=)男がさらって、陸奥の国まで逃げていってしまった。そして、安積の郡、安積山の中に粗末な小屋を作って住んでいた。男が他所に出かけていた時、女はふと立ち出でて、山の泉に姿を映して見たところ、我がかたちは以前とはくらべものにならないくらい、変り果ててしまっていた。それを見て女はひどく恥ずかしいと思って、

安積山の姿を映している、水浅い山の井のように、私はあなたのことを、

心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに

と、木に書き付けて、そのまま自ら、むなしくなってしまった、と物語には記されている。」

 

* 問題は<和歌一首の読みようである。さらにいえば歌の「人」、訳して「あなた」の受けとりようである。この際本文にやや繁簡のある「大和物語」の原文と、上の「十訓抄」の文とには一線を画したい。いま読んでいる「十訓抄」教訓に添うて読まねば意味がない。『十訓抄』はこの和歌をどう挙げどう読み取っていたか。『大和物語』ではこの女、妊娠していたとまで書いているが、この教訓説話本は触れてまもいない。あくまで前節「五の八」の「女の男えらび」で肝要とした、「なかにも、(女として)あるまじからむ振舞(男えらび)は、よくよく慎むべし」を承けての「九」の例話なのである。

この和歌一首は、万葉集の異伝歌でも古今集序への引用でも著名であり、女童たちの「手習い手本歌」でもあった。源氏物語「若紫」にもそんなふうに引いてある。つまり手習い手本歌が即ち女児への誡めになっている。「(女として=)あるまじからむ振舞(=男えらび)は、よくよく慎むべし」と誡めていること、万々疑いないのである。

では、上に引いた現代語訳での和歌の「読み」は、どうなのか。「安積山の姿を映している、水浅い山の井のように、私はあなたのことを、心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに」とは、誰のことを指しているのか明瞭でなく、このままでは所用で他出している「男・もとの内舎人」を謂うとしか読み取りにくい。浅くなど思ってなくて「心底からあなたが好きでした」なら、ましてや妊娠してさえ居るかしれないなら、いくら容貌容姿が衰えようと自殺してしまうのは頷けない。

訳者は、和歌の文法を読み損じていないだろうか。

わたしなら、和歌の下句をこう読み解く。

「安積山影さへ見ゆる山の井の」の上の句は、まちがいなく「(心)浅くも」を導いている。「浅くも人をおもふものかは」の「ものかは」は、文法的にも強意の否定句である。「浅々しくも浅はかに人(=男の人)を思っていいわけがなかった、思ってはならなかったのです」という女の強い反省と後悔を表白している。「とりわけてしてはならない行いは、よくよく慎みはばからなくてはならな」かったのに、軽薄に軽率に間違えた、恥ずかしいことをしでかしたという後悔に女はうちひしがれたのである。「水浅い山の井のように、私はあなたのことを、心浅く思っていたりしたでしょうか。心底から好きでしたのに」などという歌で有るわけがない。なにより、「心底から今の男が好き」であるなら、死んでは意味を成さない。本意が通らない。「浅くも人をおもふものかは」とは自己への禁止であり、それが出来なかった「心の至らなさ」に恥じて女は死んだ。「十訓抄」本文の「五の八」から「九」へ「意」とした流れからみれば、大納言ほどの者の娘が、あからさまに宮廷の風儀を損ない、うかうかと内舎人の誘うまま陸奥まで駆け落ちした「あるまじからむ振舞」「慎むべき」逸脱の男えらびが自ら責められ、恥じられているのである。

このような略奪婚の類話は、日本書紀にも、また更級日記にも出ていて、そこでは特段女の行為として責められてはいなかった。『十訓抄』はある種「責める」のが好きな「お説教」古典なのである。「五の十二」にも、「かかれば(=このような次第なればこそ)女はよく進み、退き、身のほどを案ずべし。すべて父母のはからひにしたがふべきなり。われとしいだしつることは、いかにもくやしきかた、多かり」と念を押している。

それにしても「浅くも人をおもふものかは」という教訓が少女らの「手習い手本歌」であった意味は、史実としても軽くはない。

2013 9・9 144

 

 

* 作業とワインとで疲れた。しばらく寝入った。他の何をする気にならず。湯に漬かり、「後拾遺和歌集」の三撰めをすすめ、モーパッサン「生の誘惑=イヴェット」スコット「湖の麗人」を少しずつ読んだ。疲れは簡単にはとれない、このまま今夜は本を読みながら寐てしまおう。

2013 9・14 144

 

 

* 神話ないし叙事詩・ファンタジイ・稗史の類へ読書が傾いている中で、ミルトン『失楽園』第四巻、楽園のアダムとイヴ、悪魔サタン、天使ウリエル、ガブリエルらによる駘蕩、悪念、緊迫の叙事詩進行の壮大・華麗・神秘のおもむきに魅了されている。正直のところこの作品がこんなに感激と倶に読み進め得るとは予想できなかった。シェイクスピアの『ソネット集』やスコットの『湖の麗人』を『失楽園』は涯もなく凌駕して魂に迫り来る。悪魔の悪が人間をいかにそこない行くか、いま、わたしは息を殺している。

2013 9・19 144

 

 

* 松野陽一さんの『千載集前後』をすこぶる興深く読み始めた。完璧に国文学者の方法に拠った精緻な研究論考書であり、ま、一般の読者には歯の立つ余地がない。ありがたいことに、わたしは書誌学的なまた準拠学的なそういう論考・論究の文章を、なまじい新書版のような解説文を読むより好きなのである。知識を得るだけなら解説本のほうがかみ砕いてあり便利だろうが、わたしは学者・研究者の方法論と精微な追究そのものに魅惑される。そういうことを自分もしたかったか。それは全然無い。しかし仕上げられた研究成果の美味はすすれる唇をもっている。「ようやらはるなあ」と舌を巻き感嘆しながら、自身で行文や推論や博捜の中へ潜り込んで行く。そういう徹底した仕事が学問の成果として積まれているのだから、わたしには同程度の苦労は免除されている。行儀わるくいえば「ひとの褌で相撲」を味わうのである。

ではわたしは自分では何をするか。小説に書くという本分がある。平家物語の『風の奏で』や紫式部集の『加賀少納言』や蕪村にせまった『あやつり春風馬堤曲』や閨秀大輔を追い求めた『秋萩帖』など、わたしの小説にはそれなりの下地や背後がある。とはいえ、、なにもかも小説にする・成るというわけでない。気が向けば小説家のままエッセイを書いてきた。学問から蓄えたうまみを好き勝手に反芻するわけで。

また『千載和歌集』への愛情深いとしても、松野陽一さんのような学問的追究はわたしの仕事ではない。あくまでも和歌が、和歌を読むのが好きで好きだから、佳いと思う和歌を選んで選んで楽しむのである。研究者にもそういう心の動きはある、が、それを表立ててそれに立ち止まっていては研究にならない。つまりわたしは、学問にもたっぷり助けられ教えられながら、作品としての和歌の喜びを満喫するだけである。それしか出来ないしすべきでないのではないか。

で、わたしの書庫には錚々たる研究者から頂戴した高度な研鑽の成果本がたくさん並んでいる。戴く小説本よりもより多くより執拗にわたしはその方の研究成果を楽しむ。そういう人である。よく見えない目で手近な書架をふりあおげば、『共同研究・秋成とその時代』『浦島伝説の研究』 萩谷朴『本文解釈学』『森銑三著作集・全』そして角田文衛さんの研究書がずらり、山下宏明さんの『琵琶法師の「平家物語」と能』高田衛さんの『定本・上田秋成年譜考説』等々が見えている。本棚の飾りではない、愛読の書であり、書庫へ入り込むとそれらにとっ掴まれ、なかなか出てこれない。

で、いま、「千載和歌集」についで最も縁の深い『後拾遺和歌集』秀歌を、いましも四度目を読み読み撰歌を楽しんでいる。わたしには古典を学究する熱烈がうすく、学究の学恩を満喫しつつ好き放題に「楽しむ」だけである。小説家や評論家になりたかったそれが本当の理由だろうなと思う。

2013 9・21 144

 

 

* 映画「マトリックス」の第一部を見始めた。どんな映画がとアンケートされると必ず答えに加えてきた。年を追い月日を追うに連れ現世と「夢」みている世界が「マトリックス」であることに気づいてきた。ほとんど疑っていない。そのおぞましき「夢」からどう覚めるか。覚めることが可能か。バグワンに聴き、千載集などの古代釈教和歌からもひしひしと「夢」の歎きを聴いてきた。人間の世界は失せて、機械的な脳の支配する世界に、それと気も付かずに生きている人間達。

映画「マトリックス」を通してさまざまに思索を重ねてきたと思う。またも己が「マトリックス」を凝視するのである。

2013 9・23 144

 

 

* 小説らしきものを書いてみた初めは中学の二年生頃であった。題も覚えている。「襲撃」。

何事が有ってとは一生徒のわたしには知れなかったが、職員室と、学区域内の青壮とのあいだに悶着が起き、運動場への塀を乗り越え乗り越えて職員室へ襲いかかるのをわたしは二階教室の窓から見た。その様子を見たままに書いた。あとで国語の先生にみせたら、目の前で破られてしまった。

そのころのわたしの表現欲は、短歌・俳句と詩と散文に分かれていて、それぞれの帳面をいつも鞄に入れていた。俳句は国民学校の二年生ほどのころに拙い作が記録されてあり、短歌は小学校四年生から六年生まだに二、三首が記録されてある。小説よりはやく短歌・俳句への興味の動いていたきっかけは、一には叔母が、添い寝の語りぐさに和歌は五七五七七、俳句は五七五とそれだけを教えてくれたこと、また家の蔵書に『百人一首一夕話』が、また百人一首のかるたも手近に在ったことが決定的だった。

もう七十年ちかくがあれから経っていて、わたしは今も和歌、短歌、俳句に心を惹かれ、ときどきは汗をかくのと同じように成るがままに拙い作をものに書き付けている。自身で書いた小説や評論を読み返すことは少ないが、大学の頃に編んだ処女歌集『少年』や近年、胃全摘以前の短歌や俳句らしき口遊みを編んでみた『光塵』は、なにかというと沈静剤かのように手にとっている。いつか棺の中へも持って行きたいと願うのは、『少年』であり『光塵』である。

生みの母は短歌をつくる人だった。亡くなる前に遺書かのように歌集を編んで行った。実の兄の北沢恒彦は、弟のわたしが歌などつくる者であったことを「よかった」と思うと早くに言い寄越していた。母と兄と弟とは、ほとんど一緒に暮らしたことが無かったのである。母の歌は、わるくない。

源氏物語がもし和歌の一首も入らない純然の散文小説であったらわたしはかくも愛読し続けなかったろう。

いい歌や句や詩を選んで味わうということを、わたしは何度も繰り返してきた。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』や『好き嫌い百人一首』や『千載秀歌』などの本になっている。今もわたしは勅撰和歌集の一冊を三度も四度も読み返しながら好きな和歌を選抜しようとしている。好きなのである、詩歌が。

2013 9・24 144

 

 

☆ 秦先生

先日は湖の本をありがとうございました。

「椿説弓張月」に「ちんぜい」とルビが振ってありましたが、あれは「ちんせつ」です。 小谷野敦

 

* 小谷野さんに質問

椿説弓張月の椿説が「ちんせつ」と読まれてきたことはよくよく承知していますが、馬琴自身が「ちんせつ」と「読まねばいけない」とした「本説」があるかどうかをわたしは知らないので、教えてください。

あの話の主人公は、「強弓」の、通称「鎮西= ちんぜい」八郎為朝です。馬琴がそれを無視してあえて「椿説ちんせつ」としたかどうか、馬琴自身のたしかな言及があれば、ぜひ教えてください。

「椿説 ちんせつ」の読みも語義も十分承知の上、でわたしはあえて鎮西八郎為朝に即して「ちんぜい」の読みを推測しています。椿説を「ちんぜい」と読めることは、遊説を「ゆうぜい」と今日でも普通に読んでいることで明らかです。

だれもが「ちんせつ」と読んできたらしいのを否認する気はありませんが、「馬琴本人の思い・意図」が知りたいとわたしは思う。馬琴に何の明言もない以上は、わたしはわたしの持説として「鎮西ちんぜい」なみに「椿説ちんぜい」の読みを唱えるだけのはなしなんです。

重ねて願います、馬琴自身が「ちんせつ」と読まねばいけないとした本説があるかどうか、明確に教えて頂ければ潔く承伏します。教えてください。  秦恒平

2013 9・24 144

 

 

☆ ミルトン『失楽園』第四巻より  平井正穂訳に拠って

二人(アダムとイーヴ)はこれら(神を)讃美の言葉を共々に唱和したが、このように、神の最も嘉(よみ)し給う心からなる讃美を献げる他はなんらの儀礼を行うこともなく、互に手を取り合ったまま四阿( あづまや) の奥へ入っていった。われわれが纏っている衣服という厄介な粉飾を脱ぐ煩雑さも彼らにはなく、したがって直ちに肉体(からだ)を列べて横になった。そして、おそらく、アダムが美しい妻に冷たく背を向けるということも、またイーヴが夫婦愛の秘儀を拒むということも、ありえなかったと私(=詩人ミルトン)は思う。

世間の偽善者どもは、純潔や場所の適否や無垢などについて、いかにも諤々の議論を述べたてるが、ゼれは彼らの自由だ。要するに、彼らは、神が純なるものとして祝し、或る者には命じ、すべての者にはその選択の自由を認め給うているところのものを、不純だと称して貶しているいるにすぎないのだ。

創造者(つくりぬし)は、生めよ繁殖(ふえ)よと命じておられる。だとすれば、禁欲を命ずる者は、まさに人類の破壊者であり、神と人との敵でなくて何であるか?

されば結婚愛よ、奇しき法則(のり)よ、汝の上に栄あらんことを!  (略)

汝の寝床は、現在においても過去においても、聖者や教父たちの場合がそうであつたのと同じく、清浄無垢なものと古来言われてきた。「愛」がその黄金の矢を放つのも、その変らざる誠の灯を点し、その深紅の翼を羽搏かせるのも、また、すべてを支配し、自ら喜悦(よろこび)に酔うのも、ここにおいてなのだ。この「愛」は、愛情も歓喜も親しみもない、金で買われた娼婦の微笑や、一時の浮気や、宮廷恋愛や、男女入りまじっての舞踏や、淫らな仮面劇(マスク)や、深夜の舞踏会や、或はまた本来なら唾棄して然るべき傲慢な美女に対し恋に窶れた男が捧げるあの小夜曲(セレナーデ)などに見出されるものでは全くないのだ。今、アダムとイーヴは、夜鳴禽(ナイティンゲイル)の歌う子守唄にあやされながら、互に抱き合ったまま眠っていた。裸の肉体(からだ)の上に、花の咲き乱れた屋根から薔薇の花弁が散っていた(朝には再び新鮮な花が咲き揃うのだ。)

 

* シュタイナーと妻も、またあの『愛する時と死する時』のたった数日を永遠と頼んで結婚しそして別れて行かねばならなかった二人も、人間同士の非道の横行しない時代であったならば、この、幸福の園のアダムとイヴのように、ひたすら抱きあって幾夜をもすごすことが出来た。ミルトンはひたむきに結婚愛と歌っているがアダムとイヴとは「結婚」していたのではないだろう。男と女としてひたむきに愛し合える園に暮らしていたのだ。

2013 9・26 144

 

 

* 寝入れぬまま、「交響する読書」の当座の文庫本の背を、性質べつに並べて眺めていた。

いわゆる小説は、「八犬伝」「指輪物語」「テレーズ・ラカン」「生の誘惑」「汝の隣人を愛せ」の五冊。

神話・物語詩を含む詩歌は、「後拾遺和歌集」「和泉式部集」「ギリシア・ローマ神話」「(沙翁)ソネット集」「失楽園」「湖の麗人」の六册

論攷は、「八犬伝の世界」「カントとゲエテ」「断想」「アイルランド」の四册

形而上学は、「易」「荘子内篇」「荘子外篇」「ブッダのことば」の四册

エッセイは、ゲーテ「イタリア紀行」 露伴「随筆集」上巻の二册

そうか、まあ、取りそろえてあるなと納得した。

2013 9・27 144

 

 

* 国文学で阪大名誉教授の島津忠夫さんより、和泉書院新刊『若山牧水ところどころ 近代短歌史の視点から』を贈られてきた。島津忠夫集の別巻2に当たっている。御礼申し上げます。

近代歌人で敬愛する人と歌集は少なくない。なかでも、これが「歌人の歌集」と意識し少年わがものと手にした、最初が岩波文庫の『若山牧水歌集』であり、次いで斎藤茂吉自選歌集『朝の蛍』であった。牧水についても茂吉についても愛読者の「感想」を請われ公にしたことがある。わたしは小説家。いかなるジャンルにあっても研究者ではない。小説以外に信じられぬほど多くを書いてきたが、論攷であれ批評であれエッセイであれ、すべては「感想」と謂うに尽きている。「随筆」と謂うてもよい。だからこそわたしは専門学の研究者の書かれた「研究」成果を読むのが好きなのである。住む世界がちがっているとちゃんと心得ているつもり。

2013 9・28 144

 

 

* 札幌のmaokatさん、高梁(たかはし)の箱入りの大吟醸「白菊」を下さる。不可思議なことに、食欲はあれどまだ食味のよろしさは品により十分味わえない、のに、かなり早くから酒類は、ストレートのウイスキーを少しずつ、そして日本酒が追いかけて美味くなり、ワインもOKだった。お酒で食事をしていたことが日記の記事でもよく分かる。ありがとう、MAOKATさん。高梁のお酒とは何となし、懐かしい。出雲へ、はじめて一人旅したときは山陰線からだったが、旅行雑誌からの取材の旅では、岡山県からまっすぐ北上するすてきに良い線を利用した。高梁の名にも感慨を抱いて窓外の景色をしみじみ見て行ったと覚えている、とんでもない記憶違いでなければ。津山の方へもテレビの仕事や講演で出かけた。あのときも同じ線に乗らなかったろうか。久しく旅をしていないなあと思う。

是真描く白菊の葉書に、

惚(ほう)けたる老いそれなりに花やいで   と、MAOKATさんに、お礼を言う。

2013 9・29 144

 

 

* 「後拾遺和歌集」 さらに「もう一選」してみようと思う。よく選べば、こちゃこちゃと和歌を解説したり鑑賞したりしなくても、ほんの少しの示唆で今日の多くの読書子にも愛されまた感想を喚び起こすだろうと思う。

2013 9・29 144

 

 

* 古希を過ぎた人の歌集に、よくもあしくも老境の切とした喜怒哀楽の憂いや思いが読めず、言葉のあっせんや遊びでただ場や景が綴ってある。こんなのでいいのと読んでいるこっちが不安を覚える。老いの坂を歩みながらの感想は、日々に重いし苦いと感じている。その重さや苦さが貰った歌集の表現にほとんど見て取れず、齢と表現との間にあまりに暢気な隙間を感じてしまうと、。

2013 9・30 144

 

 

述懐   平成二十五年(2013)十月

 

いかならむ明日に心を慰めて

昨日も今日もすぐす頃かな        順徳院

 

世の中にまじらぬとにはあらねども

ひとり遊びぞ我はまされる       良寛

 

やはらかに人分けゆくや勝角力      高井几董

 

やはらかき身を月光の中に容れ       桂信子

 

手足ステ 抱キ柱ステ 月見哉       有即斎

 

橋といふふしぎの界(もの)を風が渡り

人影ににて立つか電柱        秦恒平

 

 

 

 

青裳観音像

2013 10・1 145

 

 

* 黒いマゴの三角の耳の一つだけ妻と寝ていてまだ六時半  遠 2013 10・5 145

 

 

* 黒いマゴの頸筋をつまみ輸液する

健やかなれやもうせめて五年を   湖

2013 10・7 145

 

 

* 奈良の、東淳子さんの美しい歌集が贈られてきた。

2013 10・8 145

 

 

* 埼玉県の譚詩舎内「午前社」から詩誌「午前」の四号が送られてきた。創刊号をもらってから月日を経、どうしたかと案じていた。立原道造にゆかりありげに編まれて、清潔。

「たちはらみちぞう  詩人   1914.7.30 – 1939.3.29  東京日本橋に生まれる。 室生犀星、堀辰雄に師事し十八歳頃から本格的に詩作を始め、東京帝大建築科に進んで三年連続辰野金吾賞を受けた。ソネット形式の作を多く試み、昭和十二年(1937)卒業後の五月と十二月に掲載の二つの詩集を刊行、美しい遺作となる。 中原中也賞。 享年二十四歳。 ( 秦恒平) 」と紹介し、わたしの「e-文藝館・湖(umi )」にもペンの「電子文藝館」にも作品「萱草に寄す」をもらっている。ことに夭折の惜しまれる詩人であった。

「午前」の詩と文とをゆっくり読もう。

 

* 詩といえば、岡本勝人さんからお預かりしながら、何としても「e-文藝館・湖(umi )」に掲示できなかった大長編詩を、繰り返し試行錯誤をかさねたあげく、とうとう、今夜、転送に成功した。お預かりしたのは四月上旬だった。半年もの間、わたしは放置していたのではない、が、何としても何としても忘れてしまった掲示の手順が取り戻せなかったのだ。ほおっと、一息ついた。

2013 10・9 145

 

 

☆ 奈良の東淳子さんの歌集『晩夏』に引き込まれる。「夏の死者たち」の「Ⅰ」より引く。

 

とんとんと過去を忘れてゆく人の日日に触れつつ死にふれてゐる

老病死ひとにあづけて真裸の君にこの世のなにが怖いか

死の恐怖もたざる君の死をわれは君にかはりてひそかに恐る

みづからの過去を忘るるかたはらの人にわたしは何者ならむ

手を引きて時間(とき)のまひごになる人を連れもどすなりよるの寝床へ

女男(めを)ふたりつがひに生くる春秋のおもしろうてぞやがてかなしき

老耄を明日のわが身とおもへどもわれは生きをり今日といふ日を

たべねむることがひと日の仕事なる君にまるごとわれはつきあふ

めざめてはあしたの食(じき)をよろこべる今のあなたは今しか居ない

生きてゐる意味など問ふなその口が一心不乱となりてもの食(は)む

忘れたるはずの言葉が伏兵のごとくあなたの寝言にいでく

ものいはぬ人と暮らせばものをいふ人間の口あやにうとまし

2013 10・11 145

 

 

☆ 東淳子歌集『晩夏』の抄「夏の死者たち Ⅱ」より

 

これの世の時間の底が抜けてゆく死にゆく人のみひらくまなこ

すでにしてわれと異界の人なるを眼が告げてをり眼より死にゆく

死に水をとるわれの手に石よりもふつとおもたき一滴の水

あつけなく人は死ぬともしぶとくも人は生きむとするともおもふ

眼にみえぬ煙となりて天然にかへりてゆきしあなたのすべて

骨壺に納まる骨はこれの世のたつたひとつのわが所有物

朝な夕な同じきものを食(たう)べたるこの骨片はわたくしならむ

十年を単位に積めば一生はかかる短さ十指にて足る

亡き人の郵便受けの残る名にこの世止りのメールがとどく

わが死者を送りしのちに重りくる底荷のごとき悔いのもろもろ

今にして思へばといふことばかりひとつづつ死に意味が加はる

死者たちは悲しまざらむかなしみは常に死なるる側のみがもつ

熟しゆく季節よ君に与へたき秋の木の実はうつし世のもの

唾つけて床に光れるひとすぢの白髪を拾ふ汝(な)がおとしもの

彼岸なるいづくにたちてわれを見る人の視線か夕影まぶし

これの世に君の最期をみとどけしたつたひとりの私が居る

かたはらに主(ぬし)の座らぬ倚子を置くいつにても並びゐたりしかたち

君の気配するはずもなきくらやみにわが空耳や空目の冴ゆる

亡き人と分かつ時間の重たさにわが身の軸のかすかかたぶく

死者の書を身めぐりたかく積みあげてゆく日くる日の砦となせり

亡き人を呼び起こすこと生きてゐるかぎりのわれの仕事とならむ

遠山の桜にそそぐ白き雨わが死者たちの面輪を洗ふ

天上の眼となりて咲くさくら 死者のねむりは地下とかぎらず

生者らの数はるかにもこゆる死をわが足裏にふまへゐるなり

黄泉(よみ)といふ国を視界に入れたりしとほき祖(おや)らの眼力凄し

 

* 短歌とは、和歌の哀傷とは、かかるうたごえにほかならない。「うた」とは「うったえ」るもの。喜怒も哀楽をも「かなしみ・なげき・いとおしむ」もの。 「みごもりのうみ」は、だれをへだてなく、しんしんと深い。

2013 10・14  145

 

 

* 「彼岸」が、もし単に経過的な「死の後」とでも謂うならそれでいいが、さもなくて、「彼岸」という特別の「他界」が実在するという思いは持っていない。極楽も地獄も天国も、ファンタジイに過ぎず、極楽・天国へ逝きたく、地獄には逝きたくなく、といった懸念はほぼ払拭している。ただ、いかにも軽々と平静に残年・残生を過ごしたいとは願っていて、それにはあまりに自身の内にも外にも邪悪や害念が多すぎて弱虫の心がともすると縮んでしまう。

どうしても、わたしにはヒルテイのような、キェルケゴールのような、ミルトンのようなキリスト教への膚接感がもてない。尊いと思いつつ、実感としては肌身を隔てた少し遠くにそれが有る。ブッダや荘子の「ことば」、中国の詩や日本の和歌らの催しのほうに心惹かれやすい。それでいいと思っている。

『ブッダのことば』は、「蛇の章」十二節、「小なる章」十四節、「大いなる章」十二節を、読みかつ聴いてきた。中村元先生の懇切な註にも教えて頂いた。そして残る「八つの詩句の章」十六節、「彼岸に至るる道の章」十八節に入って行く。何かに願うのでも縋るのでも抱きつきたいのでもない、高慢で言うのでなく、所詮身の程の至らなさを覚えたままただ読みかつ聴く。それがいいちもいけないとも、わたしには分からない。「第四 八つの詩句の章」はひとしお重いのであろうが、心してまた怯えずに、聴く。

 

☆ 中村元訳『ブッダのことば』第四 八つの詩句の章より

一、欲 望

七六六 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

七六七 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

七六八 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。

七六九 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴脾・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

七七○ 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

七七一 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

二、洞窟についての八つの詩句

七七二 窟(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、--このような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)から遠く隔っている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

七七三 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

七七四 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、--「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

七七五 だから人はここ(今・此処)において学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、それのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

七七六 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくし(=ブッダ)は見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

七七七 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。--諸々の生存に対して執著することなしに。

七七八 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

七七九 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

* 偏見を差し挟むようだが、胸に衝きたって来る箇所を顧み歎き心がけながら、太字にしてみた。至らなさを露呈している。繰り返し聴くうちに太字の箇所が動くことだろう。

ヒルテイは「眠られぬ夜」にヨハネの福音書を念頭に独語している、「実際この世には、どんな恵まれた運命にあっても、不安と心労しか存しないのだ。 人生はたえざる克服か、もしくは屈服である。地上においては、いかなる人間にもそれ以外の道はありえない」と。

 

☆ 物いふ女の侍るところにまかれりけるに、よべなくなりにきといひければよめる  源兼長

ありしこそ限なりけれあふ事をなどのちのよと契らざりけん

 

男に忘られて侍りける頃、貴布禰にまゐりてみたらし河に蛍のとび侍りけるをみてよめる  和泉式部

物思へば澤の蛍もわが身よりあくがれ出づる玉かとぞみる

神の御返し

奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬の玉ちるばかりものな思ひそ

 

* ともすればこういう情けの歌が身内によみがえるのだ、愚かなのか哀れなのか。

2013 10・24 145

 

 

* 九八歳の歌人、清水房雄さんの『汲々不及吟』『残余小吟』につづく第十七歌集『残吟抄』を頂戴した。前の二巻も丁寧に繰り返し読んで秀歌と思う作にシルシをつけてきたが、今回の集、内在律の自在なこと、境涯の吐露の自然なこと。厳粛にして飄逸、そのまま「うた」のうったえを清い吟声と聴いて耳を澄ますことができる。

 

神戸市北区ひよどり台といふ所また書く無けむ君宛書信   悼歌

いのちの事思ふとき心落ちつかず九十七歳にもなりて今更

一つ思ひ詠みつづけ来し生涯を顧みるなり今頃になりて

かるがると歌集出し得る世となりぬ出費かるがる歌もかるがる

人生の熟成期に入らむ時しもあれ忽ちにして君は亡きかも

人のこの世のつひに儚しといふ事の唯しみじみと君の亡き今

慎太郎著『老いてこそ人生』を読了す所詮これとてぼやきの一つ

あるままに只生かされて居るのみに神も仏も関はりの無く

虚無観といふには儚きこの思ひ人生晩期の実態これも

 

たった一日ちがいに本が贈られてきて、或る大きな文学賞への推薦に遅れてしまったのが惜しまれる。東淳子さんの『晩夏』とならべて詩歌の項でぜひ推したかった。返信郵送の直後に届いた。

だがまあ、そんなことには超越された「ほんもの」のご老人なのである。賞のごときが何であろう、他と競って上に立つ、そんなことが「最上」ということでは決して無い。

2013 10・27 145

 

 

* 久しく敬愛する歌人北沢郁子さんから新しい歌集『道』を頂戴した。わたしより一回り年輩の凛然たる歌人で、第一歌集を出されたのは昭和三十一年、わたしが大学三年生の頃で、四年後には短歌同人誌「藍」を創刊、已に五十三年を閲しておられる。「湖の本」のほぼ倍の多年を決然として主宰されてきた。これはたいへんなこと。巻頭の数首を読み、しんとして深い境涯に賛同した。を

 

中州なる葦群の陰に浮かびつつ潜(かづ)くも遊びのごとき鳰たち

道を行く人には見えぬ階の上の庭に咲きゐるひとりしづかは

多摩川の堤防に来て見はるかす過去世も現世も消ゆる明るさ

昨日の雪消えて露けき夕つかた濃き色香にて八重桜咲く

2013 10・28 145

 

 

☆ 秦先生  お返事ありがとうございます!

子によって親にしてもらえる、ということ、心からそう思います。

私も、子供の成長を見守りながら、自分の言動を顧みるようになりました。

子供に恥ずかしくない親になろうという気持ちになることで、人としてそれまでよりも成長できた気がします。

二人目の子を授かり、家族みんなが幸せな気持ちになっています。特に長男は、嬉しくて嬉しくてたまらないようで、弟を見るたびに身もだえしています。そんな長男の姿を見るのも、私たち親にとっては本当に幸せな瞬間です。

これからしばらく大変な日が続きますが、そんな大変さも、忘れずに記憶にとどめたいな、と思いながら過ごしています。

秦先生もお身体、お大事になさってくださいね。

いつもいつも先生のご健康をお祈りしております。   麻紀

* こんなお祝いの返事をあげていた。

 

 

良夜かな 子生まれ親も生まれける  秦恒平

 

赤んぼが わらふ

あかんぼが わらふ

わたしだつて わらふ

あかんぼが わらふ    八木重吉

 

お兄ちゃんも お父さんも 喜んでるでしょう!

わたしも嬉しく。

おめでとう。

三日つづけて東工大の若い友だちが佳いメールを呉れました。

励まされています。ありがとう。

 

からだ大事に お母さんも ますますお幸せに。

2013 10・28 145

 

 

* こんど文化勲章だか文化功労者になられたのだか、久保田淳さんに頂いていた鴨長明『無名抄』の41に興味深く頷ける一文を読んだ。ああいいなと思った。

 

☆ 鴨長明『無名抄』 41 歌の半臂の句

俊恵、物語りのついでに問ひていはく、「遍昭僧正の歌に、

 

たらちねはかかれとてしもむばたまのわが黒髪をなでずやありけむ

 

わが母は、わたしがこのように出家するであろうと思って、

わたしの黒髪を撫ではしなかったであろうに。 久保田さんの訳

この歌の中に、いづれの言葉かことに勝れたる、覚えむままにのたまへ」 といふ。

予いはく、「『かかれとてしも』といひて、『むばたまの』と休めたるほどこそは、ことにめでたく侍れ」といふ。

「かくなり、かくなり。はやく歌は境に入られにけり。歌よみはかやうのことにあるぞ。それにとりて、『月』といはむとて『ひさかた』と置き、『山』といはむとて『あしびき』といふは常のことなり。されど、初めの五文字にてはさせる興なし。腰の句によく続けて言葉の休めに(むばたまのと=)置きたるは、いみじう歌の品も出でき、ふるまへるけすらひともなるなり。古き人、これをば半臂の句とぞいひ侍りける。

半臂はさせる用なき物なれど、装束の中に飾りとなるものなり。歌の三十一字、いくほどもなきうちに思ふことをいひ極めむには、空しき言葉をば一文字なりとも増すべくもあらねど、この半臂の句はかならず品となりて、姿を飾る物なり。姿に華麗極まりぬれば、またおのづから余情となる。これを心得るを、境に入るといふべし。

よくよくこの歌を案じて見給へ。半臂の句も詮は次のことぞ。眼はただ『とてしも』といふ四文字なり。かくいはずは、半臂詮なからましとこそ見えたれ」となむ侍りし。

 

* 「半臂」とは、「束帯を着る時、袍と下襲の間につける胴衣。着ると臂の半ばまで達するのでいう」と註がある。ここでは、要するに「むばたまの」という普通枕言葉と謂うている一語の在り位置の適切を言いながら、じつは、その前にうたわれた「とてしも」に機微のあることを観ているのであり、まったく同感である。

 

* 各務原の山中以都子さんより、栗菓子を頂戴し、近況もうかがった。思えばペンの会合で一度、以来久しくお目に掛からないが懐かしい。新しい佳い詩をまた読ませて欲しい。

2013 10・29 145

 

 

* やはり久しいお付き合いの歌人恩田英明さんから文庫本歌集『白銀乞食』を戴いた。第1歌集文庫とある。歌人の第1歌集を寄せ集める企画本なのだろう。恩田さん三三歳の初版だという。宮柊二さん、玉城徹さんに師事されてきた。宮さんも玉城さんも亡くなった。わたしにもお付き合い懐かしい名前である。

思えば、わたしは文壇をさらっと我から降りて「騒壇余人」を名乗って三十年近くを好き勝手に「文学」してきた、これた幸い人であるが、それの曲がりなりにも出来た大きな支えの一つは、数えきれぬほど各界広範囲な達人・大人方との「お付き合い」が有ればこそで。しかもその殆どの方と一度もお目に掛かっていない。つまり、お互いの「仕事」が繋いでくれている久しいご縁ばかりであった。わたしから差し出せるものは、ただもう刊行本の作や文章、発表紙誌の仕事、湖の本、講演・対談等々を介し通してだけの交流・交歓・昵懇であった。徹底して「淡交」であり、淡交ゆえに敬愛の実味が持続していると思っている。

2013 10・30 145

 

 

* わたしより年輩の青柳幸秀さん歌集『安曇野に生きて』を恵投くださる。「啄木や賢治のをらぬ東北を津浪襲ひき詠まねばならぬ」という巻頭の気概が、よくもあしくもこの一冊を佳い意味で「ぶちあげ」ている。「ねばならぬ」なら実現するまでのこと、表現の是非はすこしうしろへ沈む。それでもよいではないか。

2013 10・31 145

 

 

述懐   平成二十五年(2013)十一月

 

人それぞれ書を読んでゐる良夜かな       山口青邨

 

鰯雲はなやぐ月のあたりかな          高野素十

 

人のこの世のつひに儚しといふ事の

唯しみじみと君の亡き今        清水房雄

 

道を行く人には見えぬ階の上の

庭に咲きゐるひとりしづかは     北沢郁子

 

老耄を明日のわが身とおもへども

われは生きをり今日といふ日を    東淳子

 

伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしか

ひとはかほどのまことをしらず     遠

 

己が闇どうやら二人の我棲めり         湖

 

天麩羅勢揃顔見世(てんのたねきほひのかほみせ) 高麗屋助六  播磨屋意休  萬屋揚巻

2013 11・1 145

 

 

☆ 青柳幸秀さんに頂いた歌集三章の日常詠「安曇野に老ゆ」の歌には、生命力の、おとろえぬ滾りに共感できる。有り難い。

今日届いた有名歌誌の有名主宰の歌のあまりのつまらなさを嘆いていた。いい歌は、だが、真摯な精神とともに失せてしまいはしない。有名ゆえに許してはならぬ、無名にも光る宝石がある。

 

やはらかな日射しの中に立つ麦はおのづからなる花粉をこぼす

安曇野は麦の秋なる空の下ひと穂ひと穂の熟るる静かさ

昔より瑞穂の里の安曇野は稲穂垂れをりこの暑さにも

さきがけて秋咲く花のコスモスのすでにし盛りこの暑さにも

黒潮の波濤の中の国一つすでに老けたり日の本の国

洋(わた)なかの遠くに捨てむかかの昭和これなる吾を副葬として

昭和とふ波濤まだ見ゆふりむけば貧しさもまたなつかしきもの

一人静かに生きる現(うつつ)を諾(うべな)ひて春くれば咲く老木もある

老い呆けて空行く雲をみてをりぬ 風葬にも似たり吾の想ひは

玉音の記憶はいまも鮮しく重たし吾のこの一ページ

焼野原の日本の国を興したる人歩むなり杖をたよりに

安曇野に金輪際の生を得て緞帳下ろす前の夕映え

砂時計は最後の砂をこぼしをりこれなるさまに身を置く吾か

ありつたけの掌をば広げて花降らすこの遊星にわれは生れし

日の終り背に負ふ鍬の重たしよ悪童われもいつしか老いぬ

目の前の写真の母よ老いてわれは素直にあなたのいとし子となる

かぐや姫もきみさへもゐるこの空の暗証番号秘めて吾が持つ

汝(な)がために小さな星をかくし持つさみしきときは手をひらき見き

わづかなる年金の紙幣受け取りぬ終はらぬ戦後の農民われは

来る年は八十路とはなる吾が歩み遮断機の間(あひ)をすり抜けて来て

滅び逝く これの地球の前ぶれか全山松の立ち枯るるさま

山の秀(ほ)を拳のごとく押し立てて拒むものありひそと生きねば

稚ながほの埴輪の像を引き寄せて臨界近き地球を憂ふ

はるかなる夢路そのまま立ちてゐる埴輪はいまも恋の匂ひす

 

* 信じられぬ精気に打たれ、立ちつくすことがある。

2013 11・1 145

 

 

* いまもわたしは『拾遺和歌集』からの撰歌を楽しんでおり、『後拾遺和歌集』からの撰歌はすでに数次繰り返して済ませてある。

「拾遺・後拾遺」と並べるといかにも「一連」と見え、そう観たとて差し支えはないけれど、切り離して見立てる足場もある。『後拾遺和歌集』をつづく『金葉・詞花和歌集』とも一連に観れば、更に続いた『千載和歌集』との親縁がひときわ濃いという経緯がわかる。千載集は、じつに後拾遺和歌集以降金葉・詞花集などから洩れた同時代秀歌をとりあげつつ、千載自体の「現代」に及んで編まれた勅撰和歌集であった。

わたしは千載和歌集が好きで、さきにその秀歌集を湖の本110 111『千載和歌集と平安女文化』上下巻に纏めている。

それはそれとして、改めて明かして置くのだが、このわたしが、千載集や後拾遺集ないし拾遺和歌集から「秀歌」をわたしなりに自選の際に、何らか基準があるのかということ、むろん、在る。それを今一度ハッキリさせておく。

わたしは、当時盛況を極めた歌合の場などでの、当代きっての批評家・判者・また歌合方人たちによる優劣の判詞や評判や批評にまったく拘泥していない、それが「私撰の不動の基準」である。

わたしは文学史的に当時当時の歌風や世評や毀誉褒貶になど拘泥する義理がない。まったく無い。あくまで昭和平成の一歌人として、一藝術家として、その足場と鑑賞・批評、ないしは単純に好悪に即して、徹して「好きな」「佳いと思う」和歌を撰していて、それ以外の意図も目当ても無い。その当時当時にに、公任が、経信が、俊頼が、基俊が、ないしは俊恵が、俊成が、定家らが秀歌を選んでいた批評には一切拘泥していない。歌風変遷の研究などしているのではない、わたしは。それは学者・研究者の仕事であり本来であろうが、わたしはそんな本文に拘束されていない、一人の創作者・文藝批評家でありこよない愛読者である。昔昔の勅撰和歌集から、現代を生きる詩人・作家の一人として、「これらがわたしの好きな佳い歌だ」と思う作を存分に自在に遠慮無く抜き出している。文学史家の領分を素人のわたしが踏み荒らしに出ているのでは、決して、ない。百人一首のどの歌が好きで「おはこ」にするかは愛読者の全くの自由である、そういう自由を謳歌しながら、わたしなりの「読み」と「美感」と「感銘」とを「自己表現」として「創りだして」いるのだ、古典を愛する現代藝術家として当然至極のそれもまた時代に応える「創作行為」なのである。

2013 11・5 145

 

 

* 田能村竹田『山中人饒舌』が、読みやすく、かつ深甚興趣に富む。鴨長明『無名抄』もおもしろく種々に頷けて有り難いが、これには一つ、話題が和歌とその批評であるという親しみが与っている。『山中人饒舌』は平安末以降の絵画美術の変遷を大観しつつ事が「南画」の成立と盛況に触れて、なかなか微妙に美術史の常識ではエアポケットをまさぐる観があり、それが有り難くも興味深いのである。しかも筆致は簡潔、要点を抉って的確。ただ論旨だけでなく文体の妙にも酔うを得る。大冊であるが巻をおく能わざる精気に富んでいる。二かでの愛読書の最右翼。

加えて松原陽一さんの研究書『千載集前後』が、さきの『無名抄』とも呼応し、すこぶる面白い。手にしてしまえと容易にこれまた巻をおくあたわず、読み耽ってしまう。

2013 11・6 145

 

 

* 松原陽一さんの論考『千載集前後』の一章「千載集本文の源流」二章金葉期を中心に「入集<歌合歌>から見えること」を頗る興深く読み終えた。経過してきた時代の図抜けた歌合判者らの選や批評を介して、歌風の芯位や好尚が浮かび上がる。とくに目立って新たな結論が導かれているわけでないが、考察の先への進展・深化が期待できる。時として小説本よりもおもしろく耽読している。次いで、三章「承暦二年内裏歌合<鹿>歌の撰入」が論じられる。

2013 11・7 145

 

 

* 昨夜、とうどうゲーテの『イタリア紀行』全三巻を読み終えた。昨年二月十五日、癌に冒された胃全摘手術を受けた病室へ持ち込み、読みたかった他の何作もと併行して読み始めたのだから、一年九ヶ月も掛けたことになるが、読書の間延びをなんら意味しない、このゲーテの精神の偉大な活力や天才を汲み取るのに、必然必要とした歳月であり、泡を食ってただもう字面を追うだけならもっともっと早く最後の頁に駆け込んだろうが、そんな読み方ではまったく意味をなさない。優れた作品に立ち向かうにはどうしても欠かせない行儀というものが有る。二年近くも驚いたり感嘆したり唖然としたり唸ったり手を拍ったりしつづけた『イタリア紀行』を、いま初めて感謝とともに曲がりなりに読み得たのだとわたしは喜んでいる。私のいわゆる「交響する読書」とはそういう読書である。

ギリシアの神話、ブッダのことば、荘子の内外雑三篇、ミルトン、スコット、ヒルテイ、ツルゲーネフ、ドブロリューホフ、ジムメル、レマルク、拾遺和歌集、後拾遺和歌集、無名抄、古今著聞集、十訓抄、平家物語、馬琴、田能村竹田、幸田露伴、高田衛、上野千鶴子、小谷野敦、そして何人もの知友の歌集。

「読む」という営為はただ受容的な慰楽でなく、自身の「創る」嬉しさに繋がる。そうでなければわたしは「読まない」だろう。

 

* やはりアメフリなどの外出に疲れている。

 

☆ 清水房雄『残吟抄』より

明日に恃む思ひもすでに無くなりて意味なき起ち居くり返すなり

己ひとりを守らむのみに肉親とも関はる無くて過ぎし年月

今がその残余の生と思ひつつ救急車過ぐる音聞きてゐつ

つひにして及ばぬ人と憧れて君が遺歌集を読みつぐ今日も

雲はやく流るる夕べの空の下遠きビル一つ日のあたりゐる

如何すればなどといふ事も考へず如何すればとて詮なきものを

思はぬ時思はぬかたちに来るといふ死といふ事を思ひをりまた

此のままに終りとなるか吾が一生苦しみのみの記憶のこりて

あれもこれも人の世常の煩ひと思ひきらむに猶ほ思ひつぐ

死といふ事思ひ続けて過ぎて来ぬ戦ひの日より今も変らず

2013 11・11 145

 

 

* シェイクスピアの『ソネット集』といいミルトンの『失楽園』といい原書が手にはいるなら、翻訳本もその詳細な註も片手に、ぜひ原文で読んでみたい叙情詩であり叙事詩であるが、今は叶わない。

それにしてもシェイクスピアの『ソネット集』はミルトン以上に容易ならぬ難体詩であり、だからこそ怖ろしいまで惹かれる。ソネットとは、ともあれ「十二行詩」のことであり、この「集」には154の詩が、前の大半で謎の若い男性に捧げられ、後方では謎の「黒い」女性に捧げられている。「謎」は深く混沌として冒険と物語に富んだ研究の山が積まれてきた。なにしろ劇聖沙翁渾身のソネット集なのである。

いまわたしは110まで、註とともに愛読してきて、たとえば105ではこんな詩句に出逢っている。「きみ」と呼んでいるのは、ここではまだ、若き愛しき男性の謂である。

 

☆ シェイクスピアの『ソネット集』より  高松雄一さんの訳に拠って

104

美しい友よ、私には、きみは年老いることがない。

はじめてきみの眼を見つめたときのあの姿と、今の美しさは、

ちっとも変っていないと思う。三度の寒い冬が、

森の木々から、三度の夏のはなやかな装いを振り落した。

三度の美しい春が黄いろの秋に変るのを、

季節の移ろいのなかで私は見てきた。三度の四月の香りが、

三度の暑い六月のなかで燃えた。きみはいまも緑鮮やかだけれど、

あの若やぐ姿を始めて見てからそれだけの時がたっている。

ああ、だが、美は時計の針のようなものだ。

いつしか文字盤を移るけれど、足どりは見えない。

きみの美しい姿も、私にはとどまるように見えても

実は動いていて、この眼が欺かれているのかもしれない。

私はそれを怖れるゆえ、まだ生まれぬ時代に告げておく、

おまえが生まれるまえに美の夏はおわったのだ、と。

 

105

私の歌も讃美の言葉も、どれもこれも、一人にむかって、

一人について、いつも同じ調子でうたい続けるが、

だからといって、この愛を偶像崇拝とは呼んでくれるな。

また、わが愛するものを偶像などに見たててくれるな。

わが愛するものは、今日も優しく、明日も優しく、

人にまさる見事な資質はつねに変ることがない。

それゆえ、私の詩も変るわけにはいかないから、

一つことを述べつづけて、多様な変化には見むきもしない。

「美しく、優しく、真実の」がわが主題のすべてであり、

「美しく、優しく、真実の」をべつの言葉に変えて用いる。

私の着想はこの変化を考えるのに使いはたされるのだ、

三つの主題が一体となれば実に多様な世界がひらかれるから。

美しさ、優しさ、真実は、別々にならずいぶん生きていた。

だが、この三つが一人にやどったことはかつてない。

 

* シェイクスピアア 自身の体験にはやや距離を置いてだが、同じ『ソネット集』の64 65番のソネットにわたしは美しく、優しく、真実を覚え感銘を受けたのを告白し、書き留めておきたい。

 

64

いまは埋もれ朽ちはてたいにしえの時代の

華美で、きらやかで、贅をつくした建築が、時の神の

凶悪な手に汚され、かつては高くそびえた塔が

跡かたもなくなり、不朽の真鍮の碑が、

死の怒りのまえに、すべもなく屈従するのを見れば、

また、飢えた大洋が陸の王国を侵略し、堅固な太地が

大海原を打ち放り、むこうが失ってこちらが増やし、

むこうが増やしてこちらが失う、そのさまを見れば、

つまり、こうして、ものみな移り変り、

栄華もまた崩れおちて、残骸となるのを見るとき、

廃墟を前にして私は思いをいたすのだ、やがては、

時の神が訪れてわが愛するものを奪っていこうと。

この考えが、いわば、死のようなものだ、手中のものを

いずれは失うと怖れつつ、泣くほかはないのだから。

 

65

真鍮板も、石碑も、大地も、ほてしない海も、どの力も、

結局はおぞましい死に屈服するほかはないのだから、

一輪の花のいのちほどのカしかもたぬ美が、

どうして、この猛威を相手に申し開きができよう。

ああ、破城槌をもって攻めたてる歳月の恐ろしい包囲に、

あまくかおる夏の微風がどうしてもちこたえられよう、

頑丈な岩でも、鉄づくりの城門でも、

時の破壊に耐えるほどには強くはないのだから。

思えば怖ろしい。時の所有する最上の宝石を

どこにかくしておけば、時の櫃に返さずにすむのだろう。

どんな強い手が時のすみやかな足を引きとめられよう。

時が美をほろぽすのをだれに禁じることができよう。

できはしない、わが愛するものが、黒いインクのなかで、

永遠に輝き続けるという奇跡が生じぬかぎりは。

 

* 「櫃」は「柩」を意味している。

2013 11・12 145

 

 

* 久保田淳さんに頂いた久保田さん訳注の鴨長明『無名抄』をとても面白く興趣を覚えながら丹念に読み終えた。系統立てた議論でも批評でもなさそうで、思い出すママに和歌詠みや読み批評のカンどころや伝聞を簡潔に要点をつまんで書かれていて、たいそう読みやすい。ただことが和歌であり、昔の和歌をくっきりと意味を通して読み取り味わうことは、千年を隔ててもいて言葉の上でも表現のうえでも嘗めてかかれない。和歌は嘗める程度で美味を味わうにはてごわいのである。その点、引用されてある和歌のかずかずを久保田さんはきちっと現代語で意味を通してくださっているのが有り難い。

じつに詳細な補註があり、これが短篇と謂うも可な本書での美味なるご馳走である。こまめに箸を動かしている。

久保田さん、さきの文化の日にはおめでたい受勲の報があった、この場をかりてお祝い申し上げます。

2013 11・16 145

 

 

☆ 天地創造の第六日目で、最後の日(ミルトン『失楽園』)

そして、原動力の主である大いなる神がその御手をもって

初めて定められた軌道に従い、すべての天体が、その運動を

始めた。地は華麗で完璧な装いに包まれ、にこやかに

微笑していた。空に、水中に、地上に、それぞれ鳥が、魚が、

獣が、群れをなして飛び、泳ぎ、闊歩していた。だが、まだ

第六日目がこれで終ったわけではなかった。既に造られた

すベてのものの目標である、最も重要なものが未だ造られては

いなかった、

--つまり、他の生きもののように常に下を見、

道理を弁えないのと違い、聖なる理性を与えられ、背を

のばして直立し、穏やかな額を真っ直ぐに保って他のものを

支配し、自らを知り、そして自らを知るがゆえに神と交わるに

ふさわしい高邁な心を持ち、しかも同時に自分のもつ一切の

善きものがどこから下賜(くだ)されているのかを知り、感謝し、

しかして、虔( つつし) んでその心と声と眼を天に向けてそそぎ、

自分を万物の長(おさ)として造り給うたいと高き神を崇め、拝む

ところの者、--

これがまだ造られてはいなかったのだ。

そこで、全能にして永遠者でいまし給う父なる神はl

(なぜなら、神が存在されない所はどこにもないからだ)、

次のように声高らかに、御子に向かって言われた--

『次に、われらに象(かたど)り人間(ひと)を、われらの像(かたち)の如くに

人間(ひと)を、造り、

 

* 上の、「--つまり」以下に、ミルトンなりに、また聖書に即して「人間」が謂わば定義されてある。ヒルテイにおける神と彼との直結もこの定義に忠実なのであろう。

 

☆ ソネット

きみの贈物、あれら一つ一つの記憶は、私の体に充満している、

消えやらぬわれら絶境の数々が一つ一つ発光する繪のように。

このほうが、どんなむなしいメモやノートより長もちするし、

かぎりある時をこえて、永遠に生きてくれよう。

ともかく、体と心が自然から授かった力を働かせて

生命をたもち続けるかぎりあの一つ一つの嬉しさは永遠に生きる。

いずれは、きみの若さ美しささえ老い行く忘却に委ねられようけれど、

それでもきみとの一つ一つに燃えた歓喜の消失することはない。

およそ貧弱な筆墨の器に多くを容れることなどできないし、

きみが絶頂の愛を刻みつける画板も私にはいらない。

よのつねの凡庸な手だてなど悉く手放していいのだ

もっと多くの一つ一つに輝いたきみの記憶は永久に私の名画。

きみを思いだすのに、備忘録を手もとに頼るなんて。

私が忘れっぽい男だということになりはしませんか。

 

* シェイクスピアのソネット、えも言われず佳い。

2013 11・17 145

 

 

☆ 秦先生

私の本 お読み下さったとのこと大変うれしく存じます。

いま 歌集「少年」読ませていただいています。

私に大変むづかしい本ですが この冬にかけて湖の本を読みたいと思っています。

私には他に送るものがありませんので 私の作っているセロリーを近々送ります。 十三日 安曇野市 秀

 

* 妻が声をあげて驚嘆し讃嘆したほどの瑞々しいそして巨きな大きな美味しそうなセロリ二株を今日戴いた。わたしと歳も変わらない方が手づから栽培し養育されている特級のセロリー。恐れ入りました。有り難く戴きます。

2013 11・18 145

 

 

☆ 沙翁「ソネット集」より

137

盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。

この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。

美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、

最低のものをこよなく優れていると思いこむ。

恋のひが目に馴れて、堕落した眼が、

どの男たちでも乗り入れる港に錨をおろしたからとて、

なぜ、おまえは眼の過ちで釣針をつくり、

わが心の判断力をひっかけるのか。

広い世間の共有地だと、心は納得しているのに、

その心が、これは個人の私有地だなどとなぜ考えるのか。

また、私の眼はこれを見ながらこれではないと言い

こんな醜い顔に美しい真実を、なぜ、装わせるのか。

私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、

いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。

 

138

わが恋人が、あたしは真実そのものと誓えば、

嘘をついているのが解っていても信じてやる。

それもみな、私が初心(うぶ)な男で、嘘で固めた

世間の手管など何も知らぬ、と思わせたいがため。

女は私の若いさかりが過ぎたのを知っているのに、

こちらは、女に若く見られていると空しく自惚れ、

愚かなふりして、彼女の嘘八百を信じてやる。

両方がこんなふうにむきつけの真実を押し隠す。

だが、何ゆえに、彼女はおのれの不実を白状しないのか。

また、何ゆえに、私はおのれの老いを認めないのか。

ああ、愛がつくる最良の習慣は信じあうふりをすることだ。

恋する老人は年齢をあばかれるのを好まない。

だから、私は彼女と寝て嘘をつき、彼女も私に嘘をつく。

二人は欠点を嘘でごまかしあい、慰めあう。

 

* シェイクスピアの恋愛ソネット、面白いではないか。原文が欲しくなっている。

2013 11・22 145

 

 

* 馬場あき子さんから今日贈られてきた二十四冊目の歌集『あかゑあをゑ』は、馬場さんの新たな境涯をこころよく想わせる佳い歌で始まっている。

晩年のわれをみてゐるわれのゐてしづかに桃の枝しづくする

年改まりわれ改まらず川に来て海に引きゆくかもめみてゐる

夕ぐれの鵜の森に鵜は帰りきて川闇重くふくらみはじむ

鷺の木に鷺居り鵜の木に鵜の居りて春の川の辺なにかはじまる

負けて悔しいといふ唄久しくうたはねど三月は来ぬ雛を飾らん

いもうとが欲しかつたわれ年たけて雛あがなへり相向かひをり

桃咲けどわが雛の髪みだれなし葵上のやうなかなしみ

梅咲いてひひな斎ける七日ほどくらしひそけく隠れ家のごとし

 

* この三月に、フクシマの翳り汲み取りたい。

2013 11・23 145

 

 

* もうわたしの眼は霞みきっている。すぐにも二十四時。「木守」さんのメールや馬場さんの歌集を戴いて、少なからず気が晴れていた。

2013 11・23 145

 

 

* シェイクスピアの『ソネット集』 はじめのうちは取り付き難かったのに、興を覚え始めるにしたがい面白く読み進んで、読み終えた。わたしの読書史では、初見参の「ソネット集」だった。可能なら善い原本を得てシェイクスピアの言葉と表現とで読んでみたい。おなじ事はミルトンの『失楽園』にも思っている。

2013 11・26 145

 

 

述懐   平成二十五年(2013)十二月

 

白きうさぎ雪の山より出でて来て

殺されたれば眼を開き居り          斎藤 史

 

生きているだから逃げては卑怯とぞ

幸福を追わぬも卑怯のひとつ        大島史洋

 

寒鴉カアと鳴くわれも鳴き真似す

冬冴え返る行け寒鴉              遠

 

歳といふ奇妙の友の手をひきて        湖

渡るこの橋に彼岸はあるか

 

虚子の句を噛むほど読んで力とす              秦恒平

 

 

 

保谷 師走の紅葉

2013 12・1 146

 

 

* 松野陽一さんの『千載集前後』にもしきりに教えられている。あ、これだ、などと気づくことが多いと、創作の仕事へいちだんと身が添うて行く。それが嬉しい。

それにしてもこの眼の霞みようはどうだ。どうするのだ。

2013 12・2 146

 

 

* 以前から小倉百人一首にからめた戯れ歌をつくってみようかと思っていた。

秋の田のかりの此の世とおもはざれ

いねもやらじの庵のひと夜を

あはれともいはでやみなむ見ぬ恋の

夢もはつかに白むしののめ

淡路島かすむ波路のゆめ覚めて

こよひも人にみぬめ生ふらむ

やすらはで寝られぬ恋の浅間なる

ひとを怨みて吹けやしの笛

などと二十六首も戯作した。その気になれば百ぐらい数日で出来るだろうが、遊び心まで。和歌じたてのこういう歌作りは、ま、谷崎潤一郎の弁を借りれば「汗をかく」のと同じ。隠し藝のようなもの。とりあえず二十六首、他に保存した。

2013 12・3 146

 

 

* 昨日も、病院の外来で「小倉ざれ歌百首」を想うまま書き留めていた。もう四十首ほどになっている。本気でがりがりやる仕事でなく、「待つ」ののにがてなわたしの気晴らしにすぎない。ほんのすこし戯れにまた書き出しておく。

春すぎてなにはの夢も色さめし

夏の日ながに酒くむわれは

あしびきの山つ瀬わたすかけ橋の

こころ細くもひと恋ふるかな

田子の浦にうちもさわがぬ白浪や

たがひそめにし恋のふかみぞ

かささぎの渡る夜空のかけ橋に

われ待つ人の亡きがまぼろし

これやこの往きて帰らぬ人のよの

つきぬ怨みの夢見なるらむ

2013 12・5 146

 

 

* いもとせを寧楽(なら)と祝ふぞ千歳まで  遠

「妹と背」に「五百年」を重ねて、奈良県の理史君たちにお祝いの品を贈った。

2013 12・8 146

 

 

* ペンクラブで同僚理事であった俳人倉橋羊村さんの、本阿弥書店刊『選集』三巻が贈られてきた。第一巻が「俳句」次いで第二・第三巻が「評伝」。立派な仕上がりだ。心よりお慶びお祝い申します。

わたしの手がけようとしている『選集』は、もし望むまま成るなら、小説だけでも500頁平均で現在17巻を必要としている。、論攷や随筆を含めれば500頁平均しても50巻で足りない。たとえ売れっ子の秦建日子が支援して呉れたにしても、私ひとりの残年ではまるで完結は覚束ない。一巻のままでも、五巻も出せただけでも、わたしはちっとも構わない。一つには既成の出版社の担当編集者をもともと頼んでなどいないから。営利事業では全く無い、あくまで「湖の本版元」の刊行と決めているのだから。つまり、わたくしの資金と健康と気力とが及ぶかぎり刊行し続けるという、真っ向「私家版作家」の姿勢を生涯貫きたいのである。したがって原則、「非売品」をわたしは造ろうとしている。欲しい、買いたいと言ってくださる方は既に想像したより多くいて下さるが、ごく少部数を製本するにとどまるので、原価を部数で単純割りするだけでも、つまり利潤など到底加算出来なくても、高価格が予想される。ま、そんなことにわたしは頭を悩ましたくない。

幸い「湖の本」版の在庫分で全てとすらいえる「作家・秦恒平の仕事」は網羅・入手できる。一冊一冊は、さほど高価ではない。先行していた小説・創作など、ウソのように廉い。

今回の『選集』は、研究施設として保存の期待できる先、そして秦恒平のため文学上の御恩を下さった方たちへの感謝の寄贈を考えている。施設はともあれ、そういう恩人知己がすでに多く他界されているので、心寂しい極みではあるが。願うのは、健康の維持、気力の維持。生きて仕事が出来さえすれば、わたしは死ぬ前日までもそれを遣るだろう。妄執と嗤われるかも知れない、そうかなと自身想わぬではないけれど、いや、これがわたし秦恒平の「坐忘」であるやも知れないと気楽にも考えている。

2013 12・15 146

 

 

* 松野陽一さんの『千載集前後』を私として能う限りを興味深く沢山教わりながら読み終えた。

2013 12・18 146

 

 

* これやこの冬至の朝にまた一つ齢を積んでそれがなにごと

七十八 階段を上ったとも降りたとも坐ながらにみな忘れたがよし

また一つ歯の欠け落ちしをかしさに昨日は捨てつ明日は思はず

 

* 起床9:30 血圧141-68(62) 血糖値84  体重67.0kg   排痰・排洟多量 發熱なし。肩の痛みやや楽。

 

* 赤飯で誕生日を祝う。

2013 12・21 146

 

 

* ミルトンの『失楽園』を求めて手にしたには理由があった。アダムとイヴとが蛇の誘いに負け、神の禁忌を犯して「知識」の実を食した罪でエデンの楽園から逐われたとは、子供の頃にもう知っていた。それ以来永い歳月を経てきながら、何度も何度も想ってきた、なぜ「知識」の実がそうも重い禁忌であったのか、また蛇はどう彼らを重い禁忌の冒しへと誘い込んだかと。旧約聖書で直ちにその説明をきくことは出来なかった。それに、概念的な「説明」だけが聴きたいのでなく、禁忌の冒しの全容を目に観て耳に聴くようにわたしは知りたかった。『失楽園』を読み始め、その宏遠無比の叙事詩に魅されるにつれ、いよいよその時の迫るのをわたしはわくわくもどきどきもしながら待っていた。その時・機が、来たのだ。

本来ならその日もこの楽園での仕事をアダムとイーヴとはいっしょに二人でするはずだったが、イーヴは、べつべつに場所を離れて過ごしましょう、仕事も捗るでしょうと提案し、渋る夫を退け気味にイーブは独りで楽園のなかへ歩を運んでいたのだった。

そして、そのとき、「蛇のからだにもぐり込んだサタンは美しいイーヴに近寄った。」

 

☆ ミルトン『失楽園』第九巻より 平井正穂さんの訳に拠って

 

サタンはますます大胆になり、声もかけられないのに彼女の

前に立ち、さも驚嘆に堪えないといった眼差しで、彼女を

見つめた。かと思うと、高く擡げた頭と多彩な色に艶やかに

輝く首を、幾度となく折り曲げ、媚びるようにお辞儀をし、

彼女の足もとの地面を舐めた。黙々として一言も言わないが、

何か曰くありげなその動作にやがて眼をとめたイーヴは、相手の

戯れている姿をじっと見た。彼女の注意を惹いたことを喜んだ

彼は、蛇の舌を言葉を発する機関とし(或は空気を圧して声に

したのかもしれない)、次のように、陰険な誘惑の言葉を述べ始めた。

「驚かないで下さい、高貴な女王よ、この世の唯一無二の驚異よ、

もしかして貴女(あなた)は驚かれたかもしれませんが! 況(いわん)や、わたしが

こんな風に貴女に近づき、そうだ、こんな風に独りで近づき、

飽くことなく貴女を見つめているのを、- いや、こんな風に

人目を離れた場所におられればおられるほど厳かに見える貴女の

顔を畏れないでいるのを、怒り、柔和そのもののような神々しい

顔を嫌悪の情で曇らせないで下さい。貴女は美しい創造主(つくりぬし)の像(すがた)

さながらに美しいお方です。生きとし生けるものが神から与え

られて貴女のものとなっているすべてのものが、貴女を見つめ、

貴女の天来の美しさを恍惚として見とれ、崇めています、-

こうやって森羅万象に賞讃されてこそ、貴女の美しさはその真価を

発揮するのです。しかし、この荒れた囲いの中で、貴女の美しさを

見ても、粗野で知能が低いためにその半分の値打ちも識別できぬ

動物の群れの間にあって、一人の人間を除いて(それが誰かは

貴方も知っておられよう)、いったい誰が貴女を見ている、本当に見て

いるのでしょうか、-神々に伍す女神として、日々つき従う無数の

天使達に仰がれ、崇められ仕えられてこそしかるべき貴女を?」

これが誘惑者サタンの追従の言葉であり、その奏でた

甘い序曲であった。蛇が声を出したのにひどく驚いたが、

イーヴの心にはその言葉は深く食い込んだ。やがて、

彼女は、内心の不審を抑えきれずに、次のように言った。

「どういうことなのだろうか、動物が、蛇が、人間の言葉を

話し、いかにも人間らしい考えを喋るというのは? 少なくとも、

ものを言うという初めの方のことは、天地創造の日に神がはっきり

音声を発しえないようにと造られたのだから、動物には

当然出来ないことだと私は信じでいた。しかし彼の方のことに

ついては、道理を解する心がその表情にも、しばしばその動作にも

現われるので、心の中で躊躇していた。ああ、蛇よ、お前が、

野に住んでいるすべての動物の中で一番賢いものであることは

知っていたが、人間の声を出すカがあるとは知らなかった。だから、

奇蹟としかいいようのない、さっきの行為を繰り返して、どうして、

ものを言わぬ身がものを言うようになり、毎日私の前に姿を

現わす動物たちのうちでお前だけが特にこんな風に私に

親しみを示すようになったのか、どうか話しておくれ。どうして

こんな不思議なことが起ったのか、私はぜひ知りたい」

そう言う彼女に向かって、狡猾な誘惑者は答えて言った。

「おお、この美しい世界に君臨する女王よ、輝けるイーヴよ!

貴女に命じられたことを全部話すことは、わたしには全く易しい

ことです。それに、その命令に従うこと自体も当然なことです。

わたしは、もともと地面の草を食む他の動物と同じで、自分の

食物がそうであったように、考えも卑しく下等な動物でした。

見分けがつくものといえば、せいぜい食物と雌雄の違いくらいな

もので、高尚なことは何一つ理解できませんでした。ところが、

或る日野原を彷徨っていた時、ふと、遠方にある一本の見事な樹が、

赤くまた金色に輝く多彩な美しい果実を枝もたわわにつけて

いるのを見つけ、もっとよく見ようと、近づいてみました。

すると忽ち、その枝のあたりからなんともいえぬ甘い香いが

漂ってきて、わたしの食欲を唆りました。それは、あの馥郁たる

茴香(ういきょう)の薫りよりも、また仔羊や仔山羊が夕方になっても遊びに

夢中になっていて吸ってくれないので、乳が滴り落ちている牝羊や

牝山羊の乳房よりも、さらに強くわたしの食欲を唆りました。

その美しい林檎の実を味わいたいという烈しい欲望にかられ、

なんとかそれを充たそうと心に決め、それ以上躊躇う気持を

綺麗に捨てました。飢えと渇きが、その魅惑的な果実の薫りに

ともに刺激され、強烈にわたしの心を動かし、もはや

どうにも抗し難いものに感じられました。わたしは早速苔のついた

その樹の幹に体を絡ませ、這い上がってゆきました。枝がそれほど

地面から高い所にあったからですが、貴女にしろアダムにしろ、

懸命に手をのばして辛うじて届くくらいの高さでした。

樹の周辺には他のすべての動物が集まって見上げていました。

わたしと同じように食欲を唆られ、なんとかして手に入れたいと

切望し、しきりに羨望の眼差しを投げかけていましたが、所詮手の届く

はずもありませんでした。いよいよ彼の間に入ってみますと、

すぐ眼の前に夥しい果物が、さあ食べてくれといわんばかりに垂れ

下がっていました。わたしはもう手当り次第に も取って、腹一杯

食べました。その時味わった悦楽は、従来例えば食物を食べるとか、

泉のほとりで憩うとか、そういった際感じた悦楽とは比べものに

なりませんでした。そのうちに食欲も充分充たされました。

ふと気づくと、自分のうちに異様な変化が起っていました。つまり、

かなりな理性の力が心の中に生じていました。しかも、姿こそ元の

ままでしたが、言葉を語る能力もやがて生じてきました。これに力を

えて、わたしは高遠な或は深刻な思索に思いをひそめ、急に広くなった

理解力を駆って天や地や中空にあるすべての眼に見えるものに、

すべての美かつ善なるものに、思いを馳せました。しかし、

それらのすべての美と善とが、神の像さながらの貴女の

姿のうちに、神々しい輝きを放つ貴女の美しさのうちに、

見事に融け合っているのを見てびっくりしました。貴女の美しさに

匹敵しうる、或は多少とも近づきうる、美は他にはありません。

厚かましいかもしれませんが、こうやって、万物の首(かしら)といみじくも

称されている貴女に近づき、眺め、崇めざるをえなかった

というのも、まさにそのためなのです、おお、全宇宙の女王よ!」

悪霊に憑かれた狡猾な蛇がこう言うと、イーヴは

ますます驚き、つい警戒の念をゆるめ、次のように答えた。

 

* この辺で中断しよう、ミルトンはこの壮大にして宏遠、細密にして精微な超大作を盲目のママに書いたのである。わたしは満たされている、満たされた感動のママ耽読している。

2013 12・24 146

 

 

* サタンである蛇の狡猾な誘いのことばにイーヴは惹きよせられた。蛇の誘惑、イーヴの躊躇。叙事詩は精緻に紡み績がれて「破局」が来るだろう、わたしはまだそこまでを躊躇っている。イーヴは禁断を冒し、ではアダムはどうするのか。人間と創られたたった二人の男女・夫妻の歴史がどう始まるか。なぜ「知識」の実は人間に許されなかったか。永い間わたしはそれが知りたくその場に居合わせたかった。関心の深い人は『失楽園』をどうぞ。この荘重にして至大な叙事詩は、希有の宇宙像を描ききっています。ためらいなく、言葉から言葉をひたすら無心に追って辿って読まれますように。引き込まれて行くでしょう。至れりつくせりの註も貴重な宝庫です。

2013 12・25 146

 

 

* 「みごもりの湖」校正に細心の集中力を。読むのが嬉しい。この世界で生きていたいと思ってしまう。安倍「違憲・暴走」総理の無意味で有害な靖国参拝などに憤慨しているよりは。この作にはわたしの「学生時代」の実感に満ちた一面が精確に描かれている。いま、機械の煮えを待機しながら久保田淳さんに頂戴した『西行全歌集』の第一頁に、

 

春立つと思ひもあへぬ朝出(あさいで)にいつしか霞む音羽山哉

 

を見つけて最初の爪印を付けた。なつかしいわたしの実感を呼び起こしてくれる。音羽山は清水寺の背後の山。山影はいつも眼にある。いま、あるいはわたしの最期の小説になるかも知れぬ歴史・現代小説が、こんな背後の景色をすくなくもその一枚として所有している。その景色ははるかに瀬戸内海の遠くへもひろがっている。

断っておく、少なくもその今いう小説よりさきに、「ものすごい」作が先行しそうで、期待している。「ものすごい」のでむしろ後ろへ置くかもしれないが、このところ、じっくり関わっている。

話が飛んだが、要するところ、わたしは終生終わりのない「たづねびと」をして、あえていえば楽しんで、命終えるのだろう。藝術のほうが悪政より、云うまでもなく大きい。

2013 12・27 146

 

 

* ふんばって、なんとか元日に息子等が雑煮を祝いに来て畳に座れるようにと、姑息きわまる片づけをした。草臥れた。このごろ、腹部不穏に無力・脱力感を覚えることが多い、水分を飲んだり、食ったり、服薬したりしているうち、腹が鳴り出したり力なくなったりする。気にしないことにしたいが、気にならぬとは言えない。

2013 12・28 146

 

 

* じつを云うと、「湖の本119」にして良い原稿づくりが、今し方、たっぷりの量と質とで出来上がった。いつでも入稿していいほど内容も吟味してある。なにも急ぐことはなく、また別のプランも創ってゆこうと思う。昔は、誕生日以降は仕事はおやすみにしようと。昔は「仕事」といえば原稿料や印税の「稼ぎ仕事」だった。今は一切原稿料も印税も「一切稼がない」のを「自分の仕事」にしている。そういうナミの作家・文筆家たちにすれば魔法のようなことが、今のわたしには出来る。大いに楽しんで出来ている。若い日々の懸命の稼ぎ仕事がそれを今わたしに許可してくれている。奇跡のようだが奇跡でも何でもない。ただわたしは勤勉だったに過ぎない。むろん蔵など建ちはしなかった。蔵などかかえて死ぬわけに行かない。蓄えはきれいに使い果たして逝く気だ。                      傘の壽へとぼとぼと歩みよるわれら 日一日の景色ながめて  遠

2013 12・28 146

 

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