述懐 平成二十八年(2016)一月
劫初より作りいとなむ殿堂に
われも黄金の釘一つ打つ 与謝野晶子
幾山河越えさり行かば寂しさの
はてなむ國ぞ今日も旅ゆく 若山牧水
冬日柔らか冬日柔らか何れぞや 高浜虚子
いく度かかなしき事に逢ひしかど
わが心なほ濁らず悲し 大友道子
あらしやま嵐なふきそしら雪の
こころ清(すず)しく舞ふやうに降れ 湖
来る春をすこし信じてあきらめて
ことなく「おめでたう」と我は言ふべし
言ひたくもなし 湖
富士・筑波を望む美ヶ原の曙
あけぼのの恵方を染めてしづかかな
持幡童子 出岡実・畫
2015 1/1 170
* 北朝鮮が「水爆」実験に完全に成功したとブチあげている。危ない「刃物」ほど危ないヤツの手に握られる。この手のニュースが乱舞のたびにこの頃ではきまって余命の少ないことを勿怪の幸いなみに感じているのが情けない。
英文学者で文藝批評家の佐伯彰一さんが、英文学者で詩人の加島祥造さんが亡くなった。お二人とも九十代。わたしたちにしても、八十という数字は、希望的にすら持ってなかったが。だが寂しくなる。点鬼簿の数が増えて行くばかり。減ることは決して無い。
佐伯さんにはたくさん読んで頂いた。息子さんが医学書院に就職受験したいがと相談を受けたこともあった。
加島さんに貰った、懐紙を上下二つ折りに毛筆で大きく書かれたお手紙が、すぐ手の届くところにあった。『愛、はるかに照せ』へであったか。
☆ 湖の本
つねに敬意と興味を持ちつゝ読んでいます。また お努力にも感嘆しております。
とくに詩歌集の評釈語には教示されるのを覚えます。
わが國では稀な仕事ですね。
とくに、学者のなぶりものになったあとなので、こういう少数のよい感性ですこしづゝ回復してゆくほかない。しかしそれを受け容れる人々は絶えない、どこかにいる――これはあなたが私以上に実感されている事でしょう、 匆々
九月十一日 加島祥造
秦 恒平様
* 点鬼簿 という言葉を少年の昔に芥川龍之介の本の題で覚えた。
記憶の利いたかぎり、御恩やお力を得た方々、また親しい知友として敬愛を分かち持てた大勢の名前をわたしも書き留めているが、あまりの早い増加に胸が冷える。「死なれて 死なせて 生きねばならぬ」と思ってきた。
2016 1/6 170
☆ 建日子 明日の誕生日を
心より祝います。おめでとう。おまえの生まれた日も嬉しかった気持ちもよく覚えています。
建日子を待ちて
母ひとりで産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生
建日子誕生
赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ
建日子退院
これやこの建日子の瞳(め)に梅の花
平和な誕生日を、怪我なく、めでたく迎えて祝って下さい。
いわば、新年の本番。
大切に、心ゆく一年を建設し創作して下さい、落ち着いて。
健康を祈ります。母さんを、頼みます。
明日、十一時に入院します。明後日には帰りたいと思っています。 父
2016 1/7 170
* 九時前のバスで保谷駅へ。十時過ぎ、妻に処方されていた薬を築地の薬局へ予約しておいて、十時半、聖路加病院へ。入院手続きは妻に一任。十一時前、十階の病室に入る。聖路加へは四回目の入院。東に、ビルのあわいを隅田川がゆったり流れていた。
午後、何時頃だったか五階の手術室へはこばれた。終始わたしはめを閉じたまま身を任せていたが、何の苦痛もなく、検査結果は申し分なしと診断された。動 脈から心臓の近くへ施術があったので左手首から失血のオソレがあり拘束もされ、心電図もモニターされ、点滴もされていたが、順調に体調ととのっていった。 妻が疲れぬように、帰ってもらった。
選集⑬の再校ゲラをたっぷり持ち込んでいたのを全部読み終え、さらには退屈しのぎにと持ち込んでいた「小倉ざれ歌百首」もつくっていった。聖路加の個室にはもう四度目で慣れており、医師も看護師も職員もみな親切なので、不安感はなにもない。 2016 1/8 170
* あらけない世の行く果てに身をちぢめ
嘆いてゐても詮無いぞ 起てよ 有即斎
* 信じがたいが受け容れるしかない少年の、老境の、女性の、凶悪で無慈悲な犯罪が報道され、テレビ画面の黴のようにへばりついた顔と声とうそくさいコメ ントに襲われ、さらには、政治の権利は国民の批判の権利と同等だと国民を相手に裁判沙汰へ政府が持ち込むなど、なにもかも、ウソクサイ瓦礫のような世情、 政情。
とかと、嘆くのは簡単、それでは何も良い方へは変わらない。賢げに白けて嘯いていないで、田って踏み出すこと。
2016 1/10 170
* ひさびさ、後撰和歌集をなつかしく書き写していた。
ものいひ侍りける人の久しうおとづれざりける、
からうじてまうで来たりけるに、
などか久しうといへりければ
年をへて生けるかひなきわが身をばなにかは人にありとしられん よみ人しらず
女の詰問に、男が齢のせいにしているのが、なにやら笑えた。ま、「年をへて生けるかひなきわが身」とは、やせ我慢に自身はどう否定しようとも、世間はゆるすまい。それだけにまた無責任な怠けも利くのかも知れない。「八十です、しんどくて」でも「八十です、老醜をはじて」でも通せてしまう。で、ますます老けゆくのであろうよ。
2016 1/13 170
* 「選集」は第十一巻が二月上旬に出来、第十二巻もとうに責了してあり、第十三巻568頁の大冊も、もういつでも責了できるほどに成っている。第十四巻は初校中。第十五巻を編輯して原稿読みにかかるが、ま、刊は秋成りで宜しく、落ち着いて、創作の方へとりくむ。
* と、言いながらこれでけっこう美味い道草も食っている。
まえから試みていた「小倉ざれ歌百首」は、もう残るところ八首になっている。「戯れ=ざれ」てばかりでなく、けっこう苦吟している。あと、八首、固有名 詞で出られるとなかなか難儀。とにかくも第一句はさのまま活かして、第二句の第一音をふんで歌っている。わたしの好みであろう、自然に和歌になって、近代 短歌にはなりにくい。
夜をこめてしのびあふみの波まくら月光(つきかげ)さむく雁なきわたる
といったふうに。
もう一つの道草は、名付けて「秦教授の自問自答」で。気儘な今今の自問ではない。湖の本の「東工大『作家』教授の幸福」に一覧が出ているが、わたしは講 義の毎時間毎に、講義とは無縁に学生諸君に「挨拶」と称して難問を毎度ふっかけ続けて、それは存外に学生諸君に頑張って受け容れられていた。その出題とい うか難問は、都合二百の余もあったろう、回答されてきた総計は文字数にして三万字を、つまりは単行本の百册分にも剰ったのである。
退任してから、ふと、わたしは、学生諸君に押しつけた質問に「秦教授」も答えて当然であろうと思い至った、が、ま、意地の悪い質問が多くて自分で答えるとなっては難渋、何年もかかって、まだ七割八割しか答案が書けていない。
2016 1/29 170
述懐 平成二十八年(2016)二月
物皆は改まる良しただしくも
人は古りゆく宜しかるべし 万葉古歌
しんしんと寒さがたのし歩みゆく 星野立子
世の中にまじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ我はまされる 良寛
生きているだから逃げては卑怯とぞ
幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
雪の夜の紅茶の色を愛しけり 日野草城
あらざらむこの行く終(はて)の旅の果ては
おもへばさびし独り逝く道 遠
あらざらむこの身のほどの果てもなみ
立ちつ崩れつ流されてゆく 遠
世の中よ道ならで道を尋(と)めゆかば
たれ松嶋のあはれ月影 遠
2016 2/1 171
* 冬ざれの狭庭に降りて雉鳩の時うしなひつ啄みありく バス停で
2016 2/1 171
* 話したき夜はめをつむり呼びたまへ
羽音ゆるく肩によらなむ 恒平に 母辞世
* 遺言として遺されたこの一首が、ようやく、胸の内にやすらかな所を得ている。姉を抱いた若き日の母の写真を、そばに見ることもできるようになった。なんと、永く永くかかったことか。
2016 2/2 171
☆ ゆくすえにやどをそことも定めねば
ふみまよふべきみちもなきかな 一休
* 未来にも死後にも迷惑してはならない。「目的地」は要らないのだ。「目的地という観念そのものが天国と地獄をでっち上げると、バグワンは正確に教えている。
2016 2/7 171
* 確認はできてないが、たぶん、「小倉ざれ和歌百首」が数をそろえたようだ。ま、でまかせに瓦を積んでみたすぎないが、ちらちらとは「私」が露われているかも知れない。なおよく呻吟し推敲してみよう。
2016 2/8 171
☆ バグワンの『一休』に聴く
仏陀は、神という言葉はけっして使わない。神から、間違ったものごと 僧侶、寺院、経典、儀式が連想されるようになったからだ。神に代わる彼の言葉は、 無 nothingnessだ。無に祈ることは出来ない。儀式を創り出すことはできない。それが無という言葉の美しさだ、それが真実の宗教性を創造する。 その美しさをみるがいい。シュンニャータ、より的確に no-thingness。無は、「何もないこと」ではないのだ。
雨あられゆきや氷とへだつれど
おつればおなじ谷川の水 一休禅師
一休は言う。おまえは自分が生まれる前の天国や地獄のことを思い出すかね! 何も思い出さないなら、そこへ戻ってなど行くことはない。天国とか地獄とかはそもそも一度もなかったのだから、終わり(死後)にも無い。
* きのう、歯科へのバスで、
「よっこらしょ」と ひと傾きにバスの席に
老夫婦は笑い腰を落とせり
ま、こういう一瞥が自然と言葉に成るのを、まだしも元気のしるしかと感触している。
そんなところへ、丸川という女大臣が原発の放射能危害のレベル理解で、国会で謝罪を要する軽率発言をしたり、北方担当の女大臣が「歯舞」が読めなくて、マイクを手に「なんだっけ」と絶句のていたらくなど見せられると、自民党内閣の瓦解を祈りたくなってしまう。
2016 2/9 171
* 世界の機械化経済の尖端的エリートを数人集め、NHKの女性解説委員の国谷さんが司会しての英語での討論会を聴いた。むろん日本語に翻訳されていた。
いずれほとんどの業種は機械の為すないし成すところとなり、人間は遊んで暮らす喜びにあずかるのだと謂った発言を聞きとがめて討論を最後まで聴いた。機 械でできない分野の仕事は残る、医療や介護だ、サービスだ、芸術・文学などもと謂われていたが、だからそこで雇用が適切に確保されるのかには、問題があ る。医療や介護の世界でより高度の広汎な労働が開かれるとはいうが、いずれも単なる労力でなく、高度の知的理解力や能力であり教育抜きには関われない。給 与や労働時間の改善を図れば、不足の人手は補われて行くとしても、誰も彼もが容易く就ける労力でなく、人命の安全や健康回復をはかってゆく高度のスキルが 求められる。感嘆に職場がひろがる、就職出来ると思いこむのは危うい。
もう一つ、医療・介護世界がより企業性をひろげ深めると、プラトンがいみじくも喝破していたように、むしろやたらと病気や病人が増産されてしまうという 怖い不安も起きてくる。病院や医者に通うつど病名やら要検査やら過剰処方の「おみやげ」をもらってくる傾向、すでに感じている人、少なくはない。医療や介 護を有望企業とにんしきせねばならない社会は、妙に物騒な気もする。
また、飲み食いの店に入って機械のサービスを受けるなんてイヤ、やはりサービスの職場は人間のものとして残ると聞いても、あまり希望には耀かない。芸能 芸術は機械の侵略には遭うまいと期待するが、才能のものを謂う世界であれば、マスコミのハナクソのような安タレントはともかく、誰でも職能を大きくは発揮 できない。
藝や能というだけでなく、討論会の超尖端エリート識者の言論には、やたらと「だから教育」という強調が多かった。世の中の所要の大半は機械がやってくれ るんだと一方では人間の安楽を喜び期待するふうに話を向けながら、他方では機械の性能に対応する、また新たに得られる職場の職能へ向かうべき「被教育」能 力もはっきり要請されていた。わたしはそんな話を聞きながら、この論者この識者の要望に応えてさまざまな全く新たなスキルや志向性をちゃんと教育されうる どれだけの人たちが誕生できるだろうと心配だった。「え?」 「え?」と耳を疑った。
かつての小学校、中学高校の教室を想い出し、また当今の若い人たちの言動をテレビ等で眺めているとき、この「先生」方の求めているらしき「教育のされ 方」に応えられるのは、あの教室で多くて十人足らず、せいぜい二、三人、あれば好い方ではないかと想われた。勉強と学校とが好きで好きでと言う生徒より、 はおく勉強というしんきくさい苦行から卒業したい生徒の方が、じつのところ多かったと感じてきた。「教育」を当然のように語る先生方の背後には、企業の上 層支配と利益の独占率を高めたい人たちのご都合も見えてくる。結局は、仕事は機械にまかせて効率高く儲け、人には機械のお守りをさせ、それの出来ない者は 働かせないというような袋小路世界を、誰か少数人だけがほくそ笑みながら待ち望んでいる気がする。そんな気がしてならない。
二言目には賢しく自然環境だれを叫んでいたインテリたちに、わたしは不足を覚えていた。これからの人間の環境は「機械」で出来る。「機械環境」に着目していないと、とほうもない人間崩壊が起きてくると。
「これからは機械がみなやってくれる、人はみな遊んで暮らせます、遊んで暮らしたいのは、人間の念願で理想じゃないですか」と討論会の一人が意気揚々 だったので、オイ待てよとわたしはテレビの方へ強く向き直ったのだ。なるほど。みんな機械にお任せで、人間はせっせとスマホのゲームですか。それが生きる 幸せなんですか。
生きているだから逃げては卑怯とぞ 幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
追うに足る幸福とは 機械にみな任せて 遊んで暮らすことですかね。わたしは、イヤ。
2016 2/15 171
* 詩を書くひとは、なんとなく畏怖する。短歌なら、めったに感服できる歌人には会えないのに、詩人は、詩なる表現がわたしには手に負えないだけに頭をさげてしまう。そしていつも新しい詩集が読みたくなる。
* 大学の頃の亡き恩師の奥さんから一冊の自著を頂戴した。とても、興深かった。御 生家はあの御堂関白藤原道長いらいの公卿家の飛鳥井伯爵家、蹴鞠と和歌の家で、わたしの手元にも雅章の掛け物、七夕を詠じた懐紙がある。百人一首の参議雅 経、新古今集選者の一人はまさしくご先祖。その子孫も子孫も、お姫様の現代の歳月を淡々と高雅に書かれていて、題して『栄枯盛衰』の幾変遷が、まことに面 白い。学生の頃お宅へ先生と碁を打ちに出向いていたし、作家になって以降、東京でお目に掛かってもいる。今は大津雄琴におひとりで過ごされていて、湖の本 など、絶やさずお送りしてきた。
長生きしていると、いろんな面白いことにも行き会える。
2016 2/16 171
* 機械が温まって始動するのに、毎朝、七八分もかかる。へたに急いで触るとむちゃくちゃに混乱してやり直すのも大変。で、ひたすら辛抱してまつ。わたし の「待ちごと」の一は、歴代125天皇を一気呵成に呼び立てる。早いときは150秒もかけない。ま、だいたい三、四分で「神武」から「平成」へ到着。
(これ、歯医者でがりがり遣られるときなどにも目をつむって指折り数えている。この天皇の時にはあんなこんなことがあったなあなどとも思い浮かべる。退屈ということを知らないでいる。)
べつのときは、機械のすぐ向こうにかためて立てた、主に和歌や漢詩の文庫本に手を出す。ときには事典や辞典に近い、たとえば江戸小百科『砂払』のような 粋な手引き本を、漫然と、つかのま楽しむ。物識りになりたいなどつゆ思わないけれど、楽しみたいとはいつも思って、そのための用意はしある。
百人一首の幾つを一ッ時に思い出せるかも、いい遊び楽しみで。よく一枚札というが、あんなのは子供の時から知っている。初句五十音のどの音で歌が詠まれ て「いない」かを知っていると、歌を思い出しやすい。女性が何人、坊主が何人、天皇が何人と知っているだけでも、すぐ三十余人分も思い出せる。「あ」音 (16首)」と分かっているだけで歌は自然と口をついてくる。ぞょういんの外来で校正に疲れれば、眼を閉じてこれをやる。目の休息になり退屈も失せる。
以前は、般若心経、赤穂四十七士など唱えたり数えたり出来たが、いまは、自信がない。海外の女優男優の名も、一時は百二十人ずつくらいおもいだせたが、 今は三十人がやっとでは、楽しめない。そのかわり歌舞伎の大名題役者の殆どを屋号もともに数え上げられる。目の前「かぶき手帖」も立っている。
2016 2/27 171
☆ みづうみ、お元気ですか。
わたくしに勉強しなさいと言ってくださる方はみづうみだけです。本当にお心にかけていただいていること嬉しく、ありがとうございます。悲しいのは、何についても一度もみづうみの許容範囲レベルに到達できないことです。
古典の勉強は何をどうしたらよいのか、途方にくれるものがあります。わたくし世代の国語教育では『平家物語』くらいがいいところで、現代語訳なしでは情 けないほど読みこなせません。いよいよ本気でやり直さなければならないと思います。何か良い勉強方法がございましたらお教えくださいませ。
湖の本にとって今年は本当に記念すべき年です。作者と読者の幸福な三十年の歩み。
その後の腹痛は如何でしょう。お元気で楽しんでいらしてください。
雪 雪だるま星のおしゃべりへちやくちやと 松本たかし
* 成心を以てなにかうまいことを狙い願う「だけ」の勉強はモノにならない。面白くて楽しくてその世界へずんずん踏み込めるのでないと勉強の質は上がらない。本は調べるために読まない、嬉しく面白く成れない読書はいかな名著であれ、投げ出される。
与謝野晶子の源氏物語の訳に惹かれなかったら古典へ歩み寄ったろうか。その前に百人一首の和歌との佳い出逢いがあって、だから源氏物語に喜んで入って いったと思う。少なくも平安物語の世界は和歌をたっぷりの栄養に得た世界。平安時代の日記も広くは歌物語に属していて、伊勢も蜻蛉も枕も和泉式部も右京大 夫もみな然り。しかし和歌の全容へ国歌大観なみに近づく必要はない。百人一首と、和泉式部和歌の精選、西行和歌の精選、だけでも和歌の魅力はしたたかに楽 しめる。好きな歌を選んで愛することだ。そして歌謡。わたしの梁塵秘抄と閑吟集でも、ほぼ足りている。
大事なことは、和歌とすぐれた近代短歌との命脈と差異をも直感できること。近代現代短歌は、かずばかり多く派閥感覚も濃くて、むりに近付かない方が良い。わたしの「愛、はるかに照せ」などで表現の妙はつかめる。
和歌短歌については、幸い、よく出来た詞華集もあり、よく選ばれた啓蒙書もある。一冊持っていれば足る。
平安物語では、竹取のあと、意外に面白いのが、源氏以前では落窪物語、以後では夜の寝覚めがすばらしく、和泉式部には物語作家としても私小説作家としても久しく誘惑されている。
ムリして出来もしない原文読みに拘泥せず、面白くなってくると向こうからすり寄ってきてくれる。
どんな読書にも、しかし背景に歴史がある。歴史への好奇心や関心を育てて近付く意欲は手とても大事。
2016 2/27 171
* 流れよりし椰子の実のはなしを柳田国男から貰い承け、島崎藤村は「名も知らぬ、遠き島より」と歌いあげた。若菜集以下の藤村詩をわたしは中学 生のときから敬愛していまも日本の詩人の仕事では三番四番バッターを凌ぐ大きな一番打者であったと思っているが、その「椰子の実」の歌は作品に富んだ一の 代表作のようにくちずさんでいる。朝のテレビで流れよる椰子の実の話や歌を聴き、よこで妻が「いい詩ねえ」と嘆賞の声をはなつのも聴いた。藤村が「破戒」 から「夜明け前」の作家であってもわたしは敬愛して已まないが、そのまえに藤村詩の在ったことをもとても大事な大きな懐かしい近代文学史の曙光として慕っ ている。
「夜明け前」を一心に再読三読していた日々から少しくまた歳月を閲した。また藤村へも帰りたいなとふと思ったことである。
* 太宰賞受賞の日の記者会見で、どんな現代作家を敬愛してきたかと尋ねられ、質問を予期していたわけでなく、しかも即刻に当然のように挙げた名は、「藤村、漱石、潤一郎」と。微塵の迷いもなかった。いまでも同じ。こう挙げてためらわない自分を受け容れている。
2016 2/29 171
述懐 平成二十八年(2016)三月
石ばしる垂水の上のさ蕨の
萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子
みづうみの氷は解けてなほ寒し
三日月の影波にうつろふ 島木赤彦
ものの芽をうるほしゐしが本降りに 林 翔
年々歳々花あひ似たり
歳々年々人同じからず 宋之問
花鳥もおもへば夢の一字かな 夏目成美
物のしゆんなは 春の雨
猶もしゆんなは 旅のひとりね 隆達小歌
わたの原八重にぞ霞む日のはての
やそしまかけて世をのがれたし 遠
人も押しわれも押すなる空(むな)ぐるま
何しに我らかくもやまざる 遠
2016 3/1 172
* 今月の述懐歌、いずれも身に沁む。成美の「夢」の一字、隆達の「旅のひとりね」 そしてわたしの「空(むな)ぐるま」。
わたしの先月今月の述懐歌はいずれも小倉百人一首、一首の初句および二句の初一音を受け取った「ざれ遊び」という趣向ではあるのだが…。こういうふうに、もう和歌百首の余が、成っている。
2016 3/1 172
* 凸版印刷からの予想通り怒濤のゲラ出しに、混乱しないようにしないと。選集第十三巻の念校責了分、湖の本129の念校責了分を、明日、送り返す。
選集第十四巻の再校、第十五巻のゼロ校ももう出てくるだろう。「湖の本130」の初校もあらかた終えて、要再校で送り返す前に、慎重に内容を点検してお きたい。著者であり編集者である仕事を独りで斡旋しなくてはならないが、医学書院では十五年、湖の本では倍の三十年、選集のように平均五百頁、気の張る特 装限定出版すら、もう満二年体験してきている。二年で十二巻もまずまず無事に刊行してきた。人が驚き呆れているのも当然だろう。だがムリに疾走していると いう気は少しも無い。大いに楽しんでいる。ぜいたくをしているという気持ちも、むろん、全然無い。これがわたしの仕事なのだから。
新しい小説「清水坂(仮題)」「ユニオ・ミスティカ(仮題)」「父の子と子の父(仮題)」が先陣を競って(譲り合って?)犇めいており、ほかに、電子化さえ出来れば伸び上がってくるだろう棚上げ小説が手を掛けて呉れよと言うている。うち、五作は処置できている。
人も押しわれも押すなる空(むな)ぐるま
何しに我らかくもやまざる 遠
やれやれ。
2016 3/1 172
孫姉妹で飾った雛人形
姉やす香はこの年十九歳で亡くなった。
花さそふ風のほのかににほふまで
春はきにけり桃のはやしに 爺
* 七時、雛祭りを祝った妻が久し振りのちらし寿司、蛤の汁、苺がうまく、戴いた絶妙の純米吟醸「最上川」ももう二本目に喉を鳴らしている。
2016 3/3 172
☆ みづうみ、お元気ですか。
お風邪の具合とても心配しています。発送作業のお疲れのせいかと思いますと、ご本を頂戴するだけのわたくしは本当に申し訳ない気持でいっぱいです。梱包 や運搬などの発送作業、どなたかお手伝い、学生さんのアルバイトなどお頼みすることは無理なのでしょうか。学生さんにとっては良いアルバイトのはずです。 失礼な言い方かもしれませんが、傘寿の方のなさる肉体労働ではありません。「選集」と「湖の本」をお続けになるためにも、お二人の作業の軽減が不可欠と思 うのです。どうかご検討くださいますよう伏してお願い申し上げます。
選集第十二巻『生きたかりしに』 いつものことですけれど、素晴らしい一冊です。亡きお母様はどんなにお喜びでしょう。三浦くに(=阿部ふく)のよう に、才能豊かで烈しく生きる方でなければ、みづうみのような文学者は生まれていません。『生きたかりしに』を読んでそのあとに『わが旅 大和路のうた』を 読みますと、さらに切々と胸に迫ってまいります。歌人安部鏡の歌大好きです。みづうみの作品と一緒に、死なないお仕事になりましょう。
お早いご快復お祈りしております。
末筆ながらご結婚記念日おめでとうございました。 囀 囀をこぼさじと抱く大樹かな 立子
* 母ふく(阿部鏡)の短歌抄を喜んでくださり、嬉しい。とにもかくにも文学少女が文学老女のまま辞世の歌まで、わたしへの遺言歌までのこして行った、や はり「短歌」の表現が生涯を引き締めていると思う。むりやりも幾らかはまじるが、抄録してただ歌だけをならべてみて、「佳い」ように、贔屓目かも知れぬが 思っている。母の歌はまさしく歌の原義に密接し、まさに「うった」える言葉と律動とで創られている。うったえるのが「うた」の本来だというわたしの定義に さながら模範の証歌を母はたくさん書きのこしてくれた。母の伝説がすべて消え失せるときにも、「歌」は遺るだろう。
2016 3/15 172
* 「水滸伝」では、運命に導かれたように梁山泊に集結した大勢の豪傑たちの豪傑ぶりをさまざまに語る講釈本。
とにかく彼らは、よく大酒を呑み、よく肉を食い飯を食う。槍棒など武闘の至芸そして怪力、強靱、知略。酒量の程は言語を絶し、牛を馬を羊を鶏をたちどこ ろに、かつ何日もつづけて喰いつづけ、それのみか、憎い敵の体躯を割って五臓六腑を平気で喰い飽きない。人を、老若男女をとわず、平然と殺し、首を切る。 殺伐かつまことにからっと乾燥した感性で、銘々の卓越した技倆をつくして結束した梁山泊体制を守り抜く。豪傑達にははっきりした席次があり、しかも共同生 活の団結はゆるがず、ひとりひとりが堅い役目とともに家族と大勢の手下を抱えて広大な梁山泊世界を堅固に確保している。殆どが当然のように男の豪傑だが、 稀に飛び抜けて強くて美しくも現代日本語への
憎しみほどの気持ちを中和したい気はある、リクツにならないもの言いだが。
ときに手厳しく教えられる詩句にも出逢う。
朝(あした)に楞伽経(れうがけう)を看(よ)み
暮(ゆふべ)に華厳の呪を念(とな)ふ
瓜を種(う)ふれば還(ま)た瓜を得(え)
豆を種うれば還た豆を得(う)
経と呪とは本(も)と慈悲なるも
冤(うら)みの結ぼれしは如何にして救はん
本来の心を照見すれば
方便多く竟究(けうきう)す
心地(しんち)若(も)し私無ければ
何ぞ天佑を求むるを得ん
地獄と天堂とは
作(な)せる者の還(ま)た自(み)づから受くるなり
末四句、ずばッと言い得ている。
けたたましいほどの講釈のなかに、時にかかる鞭撻に出逢うのがありがたくて、長編に飽きない。あの南総里見八犬伝にはかかる清冽の詩気に触れることが無かった。
古(いにしへ)の賢しきひとの遺せる訓へは太(はなは)だ叮嚀(ねんごろ)なり
気(はらだち)と酒と財(かね)と花(いろ)とに情(こころ)を縦(ほしいまま)にすること少(な)かれと
李白の江(こう)に沈みし真ことに鑑識(かがみ)なり
緑珠の主を累(わづ)らはせしは更に分明(あきらか)なり
銅山と蜀道とは人何(いづ)くにか在る
帝を争ひ王を図りしも客(ひと)已(すで)に傾けり
寄語す 縉紳よ 須(すべ)からく領(し)り悟るべし
四大(ひとの身)を教(し)て日び営営(あくせく)せしむるを休(や)めよ
2016 3/21 172
* 腹がしくしく、痛む。神経か。
このごろ、寝ていてもはっきり夢と分かる夢より、眠れぬ儘に仕事の行方を具体的にあれへこれへと思案している「夢」をよく見ている。目覚めてはいないの だ、眠っていながら実感がなく、思案に耽っているらしいのである。かなり生き急いでいると思うが、ブレーキをかける気になれない。寿命をなど過信していら れない。
一つには、どうしても登って越さねばすまぬ、通り過ぎねばならぬ暗い「関」らさしかかっている。愉快にばかりは歩いていられない道程がある。仕方がない。
* 今は、書いて、本にすることを大事の眼目としているが、それでこと終わらせたくはないのだ、最期に、いや並行してもむろん構わないのだが、まだ「読み たい」「読んで楽しみたい」という本好きの性根がガマンしていない。いまこの機械の背後の本棚に、浩瀚な福田恆存さんの全集が八巻、飜訳全集が八巻並んで いて、ことに福田さんの戯曲そしてソポクレスやシェイクスピアらの戯曲、ロレンスの小説など、ぜひ読みたい。春陽堂版の泉鏡花全集十五巻は、それでも彼の 人生半ばの業績だが、読み返したい作がいっぱいある。森銑三さんの著作集も十三巻、これはもう近世文化をのぞきこむ宝庫のようなもの、時を忘れて読みたい 最右翼にある。
書庫へ行けば、潤一郎、藤村、柳田国男、折口信夫らの全集のほかに二十世紀世界文学全集がジョイスに始まり夥しく読んでくれと出番を待っている。数え切れないほどたくさんな頂き物の小説や詩集、歌集、句集があり、何よりも厖大な古典全集が数種類もある。
読んで、逝きたいではないか。
おほけなく憂き身のほどもはげまして
やえの葎のみちを辿らめ 遠
2016 3/30 172
述懐 平成二十八年(2016)四月
しら露も夢もこのよもまぼろしも
たとへていへば久しかりけり 和泉式部
こころよく 我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ 石川啄木
僕ですか これはまことに自惚れるようですが
びんぼうなのであります 山之口 貘
こんな崖にも春は来てゐて垂れる蛇 中村苑子
少年貧時のかなしみは烙印のごときかなや
夢さめてなほもなみだ溢れ出づ 坪野哲久
これやこの強情我慢 花吹雪 湖
これやこの強情我慢 福壽草 湖
赤い椿音符のやうに咲き溢れ
我にまどかに声合はせ来る 遠
東工大の大櫻
四月五日 夫婦揃っての傘寿を高麗屋夫妻祝って下さる。
還暦の昔 東工大退任の春
* 七年前に亡くなっていた石本隆一さんの『全歌集』が奥さんの手で立派な一巻に仕立てられた。私にまで頂戴した。生前。かすかにも交流があった、励まされた。「ジュラルミンの光に似た天稟」「地に在る天狼」と評されていた。
しみじみと歌を聴いている。
2016 4/2 173
* 平成二十八年(2016)四月五日 今日 妻も八十の傘寿
* はるばると二人で歩んできた。
相あひの八十路に匂ふ桜よと
傘かたむけてあふぐ此の日ぞ
黒いマゴと迪子とわれに咲く花の
天晴(あは)れ八十路を生きて行かまし
2016 4/5 173
* なにとも知れず、ボヤンとしたままあれへこれへ手を出している。疲れ果てているのかも知れないが、ボヤンともしていられない。歩みを止めたら倒れるだろう。 * 気散じに後撰和歌集の恋の歌を書き写していたが、あのりに面白くてかえってつらくなった。
目の玉が深い霧の底をおよいでいるあんばいで、何を仕掛けても永くはできない。きしきしと目の玉が痛んでくる。
2016 4/12 173
* 大岡信さんから「自選」決定版、岩波文庫『大岡信詩集』を戴いた。
布川鴇さんからも詩誌「午前」第九号を送ってもらった。
* 日本の現代詩は、むずかしい。
2016 4/16 173
☆ 秦恒平様
おはようございます。
故松下圭介の長女猪原皆子です。
このたびは、「堅忍で善良」だったとのお言葉に、弟も私も涙してしまいました。
父もきっと喜んでいることと思います。
私たち以上に長い間、父のことをよく知って下さってたからこそのお気遣い、ありがとうございます。
2年ほど前のことですが、父が私に、秦様と中学時代のことでしょうか、カール・ブッセの「山のあなたへ」という詩を劇にして上演したことをまざまざと思い出したから、この詩のことを調べてくれと頼まれました。
そして、先日、就職した娘に宛てた手紙にもこの詩のことを記しておりました。
秦様が覚えてらっしゃるか、父の思い違いか分かりかねますが、秦様が教えて下さった詩と申してました。
今、改めてこの詩をながめてみますと、ああ、父はきっと山の彼方で幸せを見つけに安心して昇天していることだろうと思いを馳せております。
「湖の本」も、御著書も、誇らしげに大切によく読ませてくれていました。
このような形で失礼かとは存じますが、重ね重ねお礼を申し上げます。
秦様におかれましてもご養生の上、お過ごしくださいませ。
* まぎれもない、謂われている詩は、私たちが新制の弥栄中学一年生の折に演劇大会で演じ、優勝した舞台でのシンボルの詩であった。わたしの一つの代表作 として永井龍男先生や笠原伸夫さんらに賞めて頂いた短篇「祇園の子」の芯におかれていたのがこの純真な学童劇であり、わたしは懸命に、火だるまのように熱 くなって演出し出演もした。
やまのあなたの 空遠く
さいはひすむと人のいふ
山の好きな、そして今再びの山めぐり山あそびを願って懸命にリハビリの歳月を重ねていた松下圭介が、この詩をくちずさみ覚えていてくれたとは…。
彼との思い出は、寄せる波のように往き帰りしつつ絶え間ない。しかも彼はわが青春の燦めく幾場面もにもっともまぢかにいてくれた生き証人のような友であった。彼の存在を感じることでわたしはやすやすと懐かしい昔へとんで帰れた。
2016 4/22 173
* 歌人の故石本隆一さんの夫人からも、戴いた石本さん全歌集への返礼に送った『生きたかりしに』へお手紙を戴いた。母の短歌抄から抜いてくださった分を、感謝して書いておく。
故る里の鎮守の森の椎の木のしたに佇み亡父(ちち)呼びてみる
燃ゆるものみな燃して心定まれとわがひとり居の窓を雨打つ
泣けば泣き笑めばまた笑む手鏡の影のみわれに離れじと言ふ
けさ見れば小さき花弁にべに染めて薔薇の挿芽に初花ひらく
わが挿しし挿木ゆ青き双つ葉のうら若々し命ゆたかに
これは、あれだけの歌かずからして、じつに、なかなかな一つの選歌だと、敬服した。母が喜んでいるだろう。
* 同じ郵便で届いた某有力短歌誌の、作品1から5までのそれぞれ筆頭作を五首あげてみる。
明晰な論文読めず書けずなりぬ雪の降る夜の炬燵に入りて
目の前の尾びれ追いかけ回遊する視界の狭き魚を見ており
消極を嘆くことなく日の暮れてまたささやかな二人の夕餉
このイルージョン世は全て幻想と赤きワインのグラスをかざす
白壁に映りし日影の早や消えて吾に夕寒む甚くけわしく
2016 4/26 173
述懐 平成二十八年(2016)五月
昨日こそ君は在りしか思はぬに
浜松が上に雲とたなびく 大伴三中
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行基
初心にも高慢のあり初雲雀 原子公平
犬は犬、我は我にて果つべきを
命触りつつ睦ぶかなしさ 平岩米吉
白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか 高濱虚子
こちたくな判者とがめそ日記(にき)のうた
みながらよくばわれ歌の聖 森鷗外
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしか
ひとはかほどのまことをしらず 遠
みづうみのうみのはるかのものがたり
よむひとなかれあはれあけぼの 遠
築地明石町で
2016 5/1 174
* 「少年」のむかし、短歌に心を籠めていた。東京へ出て、朝日子が生まれる前後まで歌を詠んでいたが、昭和三十七年夏から小説を書き始めると、ふっつりと短歌から遠のいた。もともと俳句は難しいと手を出さなかった。
建日子が生まれ、ついでかなりの間をおいて朝日子を嫁がせたころにも、ぽろっぽろっと作が残っていたが、比較的尋常にまた短歌づくりに手を出したのは、 二十世紀のごく最期からで、新世紀に入ってからは思いがけず折々に歌よむことが増えた。2011年晩秋には、久々に二冊目の歌集「光塵」を編むことまでし た。数えてもいないが、かなりの数の「句」も含んでいる。
「光塵」を編んで、明けて正月五日に胃癌を診断されて大きな手術を受けた。その頃もその後も、歌や句めくものを随分書き散らし書き置いてきて、潤一郎先 生の述懐にならえばそれは発汗や排泄にも似た吐露といえば吐露、遊びといえば遊び楽しみであった。第三歌集を編むにも苦労がないほどの数も書き散らし書き 溜めた作が、機械に雑然と貯蔵されていたのを、とにかく刷りだしてみた。それらには、「小倉ざれ和歌百首」のようなのも入っている。「ざれ」てはいるけれ ど、むしろ韜晦の気味を歌に「うったえ」たのでもあり、藝はみせている。
「少年」以来の全部を新選集の一巻にしてもよいと思っていたが、むしろ「湖の本」の一冊に先に第三歌集を編むのが順だろうと今は思いかけている。気に入った表題ができるかどうか。
2016 5/3 174
* 機械の起動まで、淵明の「閑情賦」を読んでいた。
古来褒貶ただならず、全否定をいう人あり、称讃して已まぬ声もあった。蘇東坡や魯迅は絶賛し、今日これに従う人が多いとか。陶潜その人の「序」が懐かし い。張衡の「定情賦」や蔡邕の「靜情賦」にならったと云い、「逸辞を検(おさ)へて澹泊を宗とし、始めは則ち蕩(うご)かすに思慮を以てし、而して終に閑 正に帰す。將に以て流宕の邪心を抑へ、諒(まこと)に諷諫に助け有らんとす」と。自由奔放な発揮から清雅端正への帰着を表している。二十余篇 逸興非凡。 なんとなく哀しくなんとなく嬉しくもなる。 2016 5/4 174
* 浴槽でも読んでいた。読み書き十露盤とむかしの人は子弟に躾けた。十露盤はできない。この前までのドラマ「あさが来た」のヒロインは、少女ともいえな い幼いころから十露盤大好きだった。わたしとはカスリもしない。しかし「読む」は早かった。国民学校二年か三年で渋々書いた作文を教室で先生に賞められ、 「書く」への自覚ができた。帯同して、和歌(と俳句)への関心が生まれた。六年生でもおなじように作文が賞められ、中学ではもう「読む」とともに「書く」 意欲に引っ張られ、鞄には教科書のほかに短歌用、俳句用、自由詩用、作文用の帳面をいつも持ち歩いていたが、俳句と詩との分はすぐ不要になり、短歌のため と日記のために、いつも二册は大事にしつづけていた。
「読む」のは嬉しかったが、家には母や叔母の婦人雑誌が二、三册のほかに小説、読み物は皆無だった。しかし祖父の蔵書の古典や漢籍は吃驚するほど多くあ り、良くは読めなくても熱心に手に取るクセが出来ていた、小学生の頃から。「百人一首一夕話」「通俗日本外史」「白楽天詩集」が気に入っていた。「生活大 寶典」という事典では多方面に雑学した。「歌舞伎概論」という本のなかから芝居の場面紹介を抜き読みして長科白を暗記したりした。中学へ進んでから、京観 世の舞台で地謡に出ていた父の謡曲稽古本から「梗概」の頁をくり返し耽読した。
「読む」楽しさは捨てがたい。「書く」よろこびも捨て得ない。幸せと云うべきか。 2016 5/8 174
* 放送大学の和歌文学講義で 西行の境涯や和歌の魅力について興深く聴き惚れた。西行が和歌を介して「心の実験」をしていたという指摘に教えられる。
2016 5/14 174
* 何といえばいいか、端的に苦境といえば分かるか、とにかくも気の重苦しくてシンドイこの頃ではある。仕事に行き詰まっているとか、健康の悪し き兆しとかいったことではない、どうあっても担いで通り越してゆかねばならない気分の悪い荷を背に負うてこのごろを過ごしている。そんな荷は払い捨ててし まえばいいという考えようも有るが、それはしないと決めている。それだけのこと。
あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなし われは父なり
と歌ったのを思い出す。
なにをしに生きてある身の無意味さを
ふとはき捨ててしごとにむかふ
とも歌っていた。
生きてあるかぎりは 堪えねばならぬか。
* 「K」も「先生」も、いはば弱い人であった。誰でもない自分自身に負けた人であった。漱石作「こころ」の主人公は、生きて行く若い「奥さん」と「私」 であった。わたしはいま、英訳された「KOKORO」を辞書など手にせず遮二無二読み進んでいる。ヘンな私ではないかと笑いながら。
2016 5/30 174
述懐 平成二十八年(2016)六月
六月を綺麗な風の吹くことよ 正岡子規
命一つ身にとどまりて天地(あめつち)の
ひろくさびしき中にし息す 窪田空穂
牡丹散るはるかより闇来つつあり 鷲谷七菜子
軍歌集かこみて歌ひ居るそばを
大学の転落かと呟きて過ぎにし一人 近藤芳美
どんぶりを抱へてだれにも見られずに
立蕎麦を食ふ時が好きなり 岩田正
遙かなる岩のはざまにひとりゐて
人目思はでもの思はばや 西行法師
朝日子の葉うれを洩れてきらきらし 遠
若い人に次々にあとを追ひ越させ
ゆつくりでいい我の花みち みづうみ
69年新潮九月号「蝶の皿」へ谷崎夫人松子さんからの書状抄
2016 5/31 174
* さてさて、「六月を綺麗な風の吹くことよ 子規」と願いたい。ぜひ願いたい。
2016 5/31 174
* 聖路加腫瘍内科の検査と診察。
幸い、長く長く待つことなく、幸い、検査データは穏当で異常はなにも認められないと。主治医の部長先生と暫時「小説」談義も。
* 診察の終わって暫時待つうちに妻が外来まで。過ぎ会計を済ませて、一時半、即築地から松屋横までくるまに乗り、とうどう念願のフレンチ「ボン・シャン」に静かな奥の席を得た。
料理の一々をおさらえする能も気もないが、おすすめの白いチリのワインで食した豊富感あふれる平目と、アスパラガスの前菜二皿が美味かったこと、妻は大 満足。そしてメインティッシュ、わたしは赤ワインもすすめられ、文字どおりとろとろの黒毛和牛の絶句しそうな佳い口当たりと美味に、笑み溢れた。そして綺 麗に贅沢に盛られたデザートと濃い珈琲。オマケに添えられた、なんとも云えず果実のうま味のあまく利いた濃いワインも少々。シェフともいろいろに歓談もし て、満ち足りた。
* やや遅い時間ながら、ぐうの音も出なかったグウな昼食のあと、有楽町のビックカメラで、ウイルスのため大破したパソコンの替わり新品を買い求めてから、地下鉄で帰ってきた。
ただし車内へ乗り込んだ瞬間に、左の脹ら脛が猛烈に痙攣して痛み、堪えかねて一度途中下車して水分をたっぷり補給休息してかろうじて回復させた。食のほ とんど進まないこの頃の過剰な小食のからだへ、どうやら分不相応なご馳走がはいり、体の方で大いに腹をたてたのであろうか。何にしても痙攣の多い脚であり ながら、かつてない痛烈な攣れであった。
* ご馳走負けかなあ。
どんぶりを抱へてだれにも見られずに
立蕎麦を食ふ時が好きなり 岩田正
わたしの心底本音は、この述懐歌の方にやや近いのではあるが。
2016 6/1 175
* 二三日まえの夜中、眠りに入る前にふと、今度は、いろはを頭つけに和歌を創ってみようかなどと思い、さしづめ「い」として、
いひもせめいはでもあらめいきの緒の
絶えだえに吾(あ)は人に恋ふると
と出来たのを暗闇で書いておいた。今日ふうの短歌ならいかようにもありうるが、和歌となると「恋」うたに、つい仕上がる。倭語のせいか、吾のせいか、分からない。
「ろはにほへと」と続けるのは、存外に難しい。「ろ」音などとても和歌の歌い出しに馴染まないのだ。ま、気が向けば続けます。催眠薬のかわりにはなりそう、いやいや逆に目が冴えるかな。
2016 6/5 175
* いろは和歌、あたまの一音だけでは、あまりに気疎い。日本国六十余集の国名を織り込むのはどうかなあ、いい遊びになるかも。
2016 6/7 175
☆ 満三十年で
第百三十巻を刊行された御快挙は、私自身の「新潮」編集体験を顧みましても、実に忍耐強い御快挙と非常に感銘深く存じました。凸版に斡旋した、文(藝)春(秋)の寺田英視君(前専務取締役)の存在をあげていらっしゃったのも よかったと思いました。
「小倉ざれ和歌百首」と「秦教授(はたサン)の自問自答」の構成もこの記念の一巻には誠にふさわしく、とても面白いと思いました。机上に置いて、ゆっくりと拝誦、拝読致したく存じますが、取急ぎの御礼まで一筆啓上致しました。 敬具 坂本忠雄 元「新潮」編集長
* 県立神奈川近代文学館、早稲田大学図書館、中京大学、城西大水田記念図書館、富士大学等々から、受領の挨拶があった。
* 昨日歯医者への西武線電車で今度の新刊を読んでいた妻が、「小倉ざれ和歌百首」の「叙景歌」がひときわ「美しい」と感想を洩らしてくれた。ちょっと嬉 しく、有り難く、アタマを下げた。「ざれ和歌」とは謂うが、作としてはけっして悪くは戯れていない、むしろ大方はほんものの「和歌」になっている筈と自負 している。石清水の零れ出るように自然と言葉も調べもわたしのなかから生まれてくるのだ、「つくった」歌だとは咎められようが、そして「つくった」には相 違ないけれど存外本音で歌ってもいるのです。
2016 6/9 175
* 石山寺、国分山の幻住庵、粟津の義仲寺を訪れて芭蕉俳諧の妙趣を美しくあじわう放送大学島内さんの講義を嬉しく聴いた。なんという句境の花と静謐。
他国の侵略を受ければ、まっさきにこういう文化遺産からまっさきに見たかとばかり破壊される。古来それが征服の何たるかであった。命を失うよりも日本の文化遺産の破滅が怖い。争わずに、闘わずに、国の安寧をはかるのが政治であろう。
安倍といい舛添といい、自民といい公明といい、真の愛国をおろかに見失っている。群小野党とて例外と見えない。寒々と「日本」が心細い。
* 「誇れる国」とは。
日本の敗戦後を体験してきて、政治家達の人間的貧困と強慾、経済人達の人間的醜悪と強慾、社会人としての理非曲直を理解して意思・意志・義務・貢献とし て完遂できず、付和雷同をもって只われ独りの利権・特権を願ってやまない、現に原発問題に対して示されている、政財・行政・私民・国民の精神的脆弱ぶりを わたしは、嫌う。
「誇れる国」とは。
平和憲法への忠誠のもと、国民の最大幸福、最小不幸に向かい政治と生産と国民が、平等に懸命に奉仕する、日本。
政治家が謙遜な公僕として、私民・国民から仮に一時的に預けられた権能行使に、誠実無比で、陰険な悪徳へけっして堕落しない、日本。
すぐれた藝術・文化・教育・家庭生活・社会生活・国際生活が、憲法の基本的人権のもとに、いささかも捩じ曲げられることのない、日本。
国家と国民の危機が、国内的にも(例えば原発)国際的(例えば侵略・侵攻・テロ)にも、国家と国民との強烈な協同・強力が支えた、断乎たる決意と方法とにより適切に力強く克服できる、日本。
2016 6/11 175
* 上京結婚して57年、夫婦して「一所懸命生きてきた」ことだけは間違いなかったと、言い合う。それで、よし。
* あれもありこれもありあれもこれもなく
歩一歩(あゆみあゆみ)行く あるがままの日を
のぼるのかくだるのかわれの老の坂
ドンマイ(do not mind 気にするな)花も嵐もある道
* 最期になるかどうかは措いて 「光塵」以後の新しい歌集の、永く惑っていた「表題」を、昨夜定めた。
亂聲 らんじやう
残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。
亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。
* 催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など華やかに賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲(らんじょう)」と謂う。
今日、編輯始める。
2016 6/19 175
* 六はらや鳥部野わけて苦集滅道(くづめじ)を
花山へとぞかよふしあはせ 遠
2016 6/22 175
* 機械の起動に延々と時間がかかる。その間、あせらず側近の書へ手を出し、その開いたところを楽しみ読む。そのため。その書物は、事典、辞書、詩歌、短章で なければならない、拾い読むのであり通読はしていられない。遅いながらも機械は気むずかしく、逆らわないように、しかし出すべき手は遅滞なく出さねば機嫌 を損ずる。つまり画面からの要求には注意して応じないと、元も子もなくして初めからやり直しになる。
* 今朝は自然と陶淵明全集の下へ手が出た。
「感士不遇賦」の序に目慣れた「抱朴守靜」の四字がある。君子の篤素だとある。美しい四文字だ。
「ああ意気を導達するは、それ惟(ただ)文か」という一行にも出会う。まことに、と、思う。
詩人はつづけて言う、「巻を撫して躊躇し、遂に感じて之れ(感士不遇)を賦す」と。
嗟乎(ああ)、雷同して異を毀(そし)る、
物、其の上(かみ)を悪(にく)み、
妙算者を迷へりと謂ひ、
直(ただ)に道(い)ふ者を妄なりと云う。
坦として至公にして猜(そね)むこと無きは、
卒(つひ)に恥を蒙り以て謗りを受けん。
瓊(たま)を懐(いだ)きて蘭を握ると雖(いへど)も、
徒(いたづ)らに芳潔にして誰か亮(あき)らめん。
哀しい哉、士の不遇なる、
2016 6/28 175
* 今朝も陶淵明に挨拶した。
靄靄たる停雲
濛濛たる時雨
八表 同じく昏く
平路 伊(こ)れ阻まる
静かに東軒に寄り
春醪(しゅんろう)独り撫す
良き朋は悠邈(ゆうばく)たり
首(こうべ)を掻きて延佇す
停雲 靄靄たり
時雨 濛濛たり
八表 同じく昏く
平陸 江と成る
酒有り 酒有り
閑(のど)かに東窓に飲む
願(つね)に言(ここ)に人を懐(おも)へども
舟車 従ふ無し
友をおもう「停雲」四聯の前二節。思いは同じく、あいにく酒は払底。代わりに、本を読んでいる。
陶淵明の境涯、しみじみ懐かしい。
2016 6/29 175
☆ 切れ切れに
読んだ「湖の本130」に続いて「12」9を一気に読了、エッセイ1「蘇我殿幻想」へ戻り…と、久しぶりの「読書」を楽しんでいます。
「亂聲」と新しい歌集の名をうかがって最初に浮かんだのは、「夢幻の如くなり」でした。「敦盛」中の言葉でしょうか。
三十年の節目の桜桃忌を迎えて紡がれる「歌」が華やかで、艶やかでありますよう、「歌集」が成りますよう願っています。 岡山 九
* 偶然の一致かたまたまわたしは今夜「敦盛」と向き合っていた。ただし、心がけている「亂聲」が華やかで艶やかにまとまるかどうか、かなり「みだりがわしく」チンドンヤの鳴り物めいて乱雑かもしれませんよ。
2016 6/29 175
* 今朝も陶淵明に挨拶した。
昔、長者の言を聞けば
耳を掩うて毎(つね)に喜ばず
奈何(いかん)ぞ 五十年
忽ち已(すで)に此の事を親(みづか)らせんとは
我が盛年の歓を求むること (=若い日の歓楽を今一度などと)
一毫も復(ま)た意無し
去り去りて転(うた)た遠くならんと欲す
此の生 豈(あ)に再び値(あ)はんや
家を傾けて持て楽しみを作(な)し (=さればよ、今や)
此の歳月の駛(は)するを竟(お)へん (=終焉を成さん)
子有るも金を留めず
何ぞ用ひん 身後の置(はから)ひを (=死後を煩うなんぞ)
2016 6/30 175
述懐 平成二十八年(2016)七月
衰榮は定在すること無く
彼れと此れと更々(こもごも)之れを共にす
寒暑に代謝有り
人道も毎(つね)に玆(かく)の如し
忽ち一樽(いっそん)の酒と与(とも)に
日夕(にっせき) 歓びて相持(あひぢ)せん 陶淵明
少数にて常に少数にてありしかば
ひとつ心を保ち来にけり 土屋文明
人おのおのこころ異なりわが歌や
われに詠まれてわれ愉します 窪田空穂
涼風の曲りくねって来たりけり 小林一茶
ろくはらや苦集滅道(くづめぢ)わけて鳥辺野を
花山へとは向かふこのみち みづうみ
なにをしに生きてある身の無意味さを
ふとはき捨ててしごとにむかふ 秦 恒平
夏の花
マチス 画
2016 7/1 176
* 今朝も、陶淵明に聴く。
萬化は相ひ尋繹(=推移交替)す
人生 豈(あに)労せざらんや
古より皆没する(=死ぬる定め)有り
之れを念へば中心焦がる
何を以てか我が情に称(かな)へん
濁酒 且(しばら)く自ら陶(たのし)まん
千載は知る所に非ず
聊(いささ)か以て今朝(こんてう)を永くせん(=ゆっくりしよう)
2016 7/2 176
* 陶淵明に聴く
総髪より孤介を抱き 少年いらいかたくなに自分を守ったまま
奄(たちま)ち四十年を出(い)づ
形迹は化に憑りて往くも からだは自然の推移につれ衰えたが
霊府(=心)は長く獨り(=いつも)閑(しづ)かなり
貞剛 自づから質あり この妥協の無い性格は、これ天性か
玉石も乃(な)ほ堅きに非ず
* 「玉石も乃(な)ほ堅きに非ず」とは言い切っている。思慕しつつ忸怩たるものがある。
2016 7/4 176
* 「短歌往来」という歌誌の新刊を手にすることが出来、「巻頭作品」のその第一首に目をとめた。
花季ながき鎌倉山の朝ざくら窓より見えて吸ふ息ふかし
カ行音が八音も含まれている。歌一首が硬く竦んで、うつくしい「うた」になっていない。作者はあるいは、「花季ながき鎌倉山の朝ざくら」なる上句の「カ」行音連弾を得意とされているのかも知れないが、とすれば、下句はほとんど遅鈍なムダに終わっている。
そもそも和歌といえ短歌といえ、本質が「うた」である。「うた」の至妙をすくなくも結果として賞嘆したい、真相が「ことば」の藝である。「文字」の藝では、ないのである。
「花季ながき」は、とてもこころよい「ことばのうたごえ」と聞こえない。作者はアタマから「花季」などと、漢字という文字で「語意」を探らねば通じない 無理を敢えてしている。そこで短歌の「ことば」より文字の「意味」が早や飛び出している。本末転倒である。まして「かきながき」は、こわばって硬い。美し くない。一首の歌が、ギツギツと捩れている。
現代短歌の雑誌が、巻頭作品の巻頭にこんな「うた」のひびかない歌を掲げて躊躇わないという現実に、「あかんなあ」と、わたしは歎いてしまう。
松坂弘さんの「四月憂鬱」と題された一連出詠歌の筆頭歌はこうである。
菜の花の黄色が硝子戸に触れて咲く誰も何かの苦しみを持つ
的確に一首は「うた」っている。「誰も(人も、作者も、硝子戸に触れて咲いている菜の花も)」の、生き「苦し」さという負荷を、松坂さんは、尖鋭にしかも「ことば」美しく捕捉して、のがしていない。
* 妻の従姉の息子が、このごろ現代短歌に心を入れ、ネットへも発言したり某誌に投稿もしているという。わたしの機械はその手のネットが読み出せないし、届く歌誌も少なくない。
上のわたしの短歌評など、しかし、初学の彼なら、はどう読むだろうか、ちょっとし話し合いたい気がしている。
2016 7/6 176
* 文化出版局の中野完二さん、朝一番に、大吟醸「大和櫻」を下さる。
先日来、朝日新聞社の伊藤壮さんに頂戴した無垢純米の「越乃寒梅」を心底楽しんでいた。やはり安い生協のワインや缶ビールとちがって名酒の無垢はおいし い。とにもかくにも家の中ででも熱中症は怖い、われわのように手足の痙攣痛に悩まされやすい者には、飲食にも冷房にも用心が大切と思っている。偏頭痛も、 いわば屋内熱中症の気味であったろうか、昨夜中から明け方へ頭痛が嵩じそうであったので水分とともに、常はぐっと控えているロキソニン一錠を服したのが、 よく利いてくれている。
* いま、我が家で失笑しているのは、自民都議を党から束ねているらしい石原ノブテルが、知事選に出馬声明した同じ党の小池百合子を名指して、「小池先生 は自由人なんですねえ」と。けっこう皮肉っている積もりらしいが、かなり白痴っぽい見当違いで、「自由」の何であるかを日頃我が身にあてて考えたことのな い凡夫の失言と聞こえた。小池候補者はこんな愚なせりふを逆手に投げ返し、おおいに「自由人」政治家である立場を盛り上げればよい。安倍政権の悪巧みで不 自由の窮屈をますます強いられつつある国民、都民のひとりひとりが、この際、「自由」と「平和」と「基本的人権」の真価奪還にたつべき機が来ている。
石原のぶてる、おおものの積もりかも知れないが、ほんものの「顔」が全く出来ていない。議場で口汚い野次をとばしていた小物代議士のムカシから少しも 「顔」が進歩していない。無法者のシンタローには、時に凄みのいい言葉も出たが、ノブテルは日本語がまともにつかえない。自由民主党にふさわしからぬ「不 自由人」であることをまたまた自ら暴露した。「参議院選挙後に」などと小手先のいやがらせも逆効果、テレビ等への露出度最高、小池百合子候補のいまや独り 舞台選挙戦が始まってしまっている。
* 民進ないし野党連合にもいっこうオーラがみえない。自民の押す候補に相乗りをさえ口にした松原のバカさかげんもひどいが、岡田代表の火の消えたような 立ち枯れにもガックリする。いっそイラカン菅直人などを二度の勤めに統一都知事候補へ持ち出す勇断がほしい。小池百合子の自由人ぶりに比較して蓮舫の不自 由ぶりが露呈したのも残念だった。「女は度胸」という点で小池はとにかくも颯爽としている。まだまったく次の都知事候補の話題の無かった折りからわたし は、出てくるとしたら「小池百合子」と口にしていたのが、バッチリ当たっている。自民党議員としての政治性にもとより疑問符も懸念も小さくないが、「やる 気」の強さには、チビったノブテルなどとの比較でも、ま、「やってごらん」と程度には、認められる。
* 「フヽウ こいつ日本、とんだゑゝ句を言(いひ)なすつた。そふやらかされてはすすはきの米櫃といふ所で、すみにや置(おか)れねへ。」
「こいつ日本」という詞、江戸の一と頃、「エラヒ」と賞美の詞として通じた。山中共古、著書の『砂払』に紹介し、「すすはきの米櫃」という洒落詞も「面白し」としている。
政治家サンや。「こいつ日本」と喝采できるような日本語で話して下され。
2016 7/7 176
* 古家の、いろいろなところが、かびてくる・・・ そんな結びのメールをもらって、お、佳い一句に成っているじゃないと受け取った。こう世の中湿気に満ちてくると、そのまま、あるままの事態がふしぎに風情に変じてくる。
2016 7/12 176
* 文学作品のなかに数えきれず、親しい、敬愛できる知己がある。作者も作中の人も変わりはなく、願いさえすれば私の「部屋」へ襖一枚あけていつでも向き合ってくれる、洋の東西なく。
そして現実のこの世にも、無茶ものと嫌われてかもしれないのに、有り難いこと大勢の親しい知己や友を私はもっている。顔を合わすことはむしろ皆無にちかいのに、心親しいこと、有り難いこと、極まりない。
余生は、余命はけっして永くはあるまいが、「部屋」は静謐に堅固であり、よき人は、みな「身内」にふれあい心あたたかい。
ぬしとわたしはねからはなれぬ、
ぴつたりべたべた、しつくいにかはに、
はいとりもちやら石うるし、
ねつてかためた中じやもの
こんな、『払砂録』に謂う、「三下リいたこぶし」とは、全く、ちがう。ありがたい。
2016 7/13 176
☆ 選挙を終わり、とはいえ東京は又々知事選で大変ですね。
いつも選集や湖の本を 有り難うございます。
お酒 能登誉二升 お送り致します どうぞご賞味下さいませ。
やっとゆっくりご著書を楽しむ時間ができました。くれぐれもご自愛の程 祈念しております。
闇夜とて 花火に優るたいまつを煌々かざす我が師と共に 小夜
先生の不屈魂に尊敬を込めて。
* うそくさい闇の世ながらさりながら心な折りそ眼をみひらいて 遠 2016 7/19 176
* いまも短歌の同人誌は、俳句よりも多数送られてくる、むろんざっと目を通すが、胸に届く表現に出会うことは、めったに無い。投稿義務を果たすべく無理 じいに五七五七七をツクッテいる。しかも詞がいかにも貧相に乾涸らびている。日本語の素養がなくて、短歌ゴッコに集団で精を出しているらしいが、指導者の 歌からして、なかなか出来ていないから読むのがしんどい。
わたしはここ久しく、歌を、ツクラない。デキルのを書き留めて、いささか推敲している。時に「ざれ歌」を楽しむ。
* こんな一首をはるか昔の日記にみつけた、
香ぐはしき空の色して若葉咲く萌え野の原の日の光かな
清瀬の平林寺へ、まだ小さな娘の朝日子を連れ、夫婦して日曜に遠足に行った。そのとき、朝日子が景色の中で片言のようでいながら本気でいろんな感想を言 うのだった、そんな片言をほぼそのまま一首にしておいた。歌は、ま、こんなふうに実感とことばとが触れ合って生まれてくるのが本来だろうと思う。むりやり の義務義理でこねあげた歌がまるで「うたっていない」のは、当たり前だ。
青竹のもつれてふるき石塚のたまゆらに顕(た)つ櫻子のかげ
こんな歌を、自分の書いた昔の小説の中で、見つけた。嵯峨あらし山のなつかしい墓地の春か。
在るとみえて否や此の世こそ空蝉の夢に似たりとラ・マンチャの男
幸四郎と松たか子の舞台に惹き込まれながら、歌っていた。壇のうえにいたがる人ほど文藝から遠くなっていないか。
2016 7/20 176
* 今日作家の詠さんの手紙にもあったが、例の「秦教授(はたサン)の自問自答」は歓迎され関心を呼んだようであり、しかもなかなか自答できないでいますという声をたくさん聞いている。そうかもしれない。
すこし。この「私語の刻」で、自問自答の実例を紹介しながら、また思案し直すことも試みてみようか、
☆ ☆ 故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。
生まれ育った京都市は「山紫水明」といわれてきた。その中の祇園八坂神社や浄土宗総本山の知恩院、栄西開創の禅刹建仁寺、そして間近に祇園の花街を背負 うた「東山区」の四条と三条とのあわい祇園寄りでわたしは育った。小学校は知恩院の門前通りに、戦後に入学の新制中学は祇園石段下に、高校は、上に泉涌 寺、下に東福寺のある日吉ヶ丘に在った。
改まって「川」はとなれば、北西から「加茂川」、北東から「高野川」が来て、市の東寄り出町で合流し「鴨川」となるが、この鴨川も、琵琶湖からの「宇治 川」、南山城を経てきた「木津川」と大きく合流して大阪湾にいたる大「淀川」に流れ入っている。市西の「嵐峡・桂川」も、いずれは淀川へ注いで行く。
「山」は、平安京いらい奥深く「北山」を負うて、東へ「比叡山」、西へ「愛宕山」に峯峯を連ねているが、京都市・平安京の南へは、伏見、長岡、向日町などが開けて大阪府に接している。
「比叡山」からは、寝たる姿とうたわれる東山連峯が「大文字山」、知恩院などの「華頂山」、清水寺・清閑寺などの「音羽山」、多くの山陵を抱擁した「泉(涌寺)山」などを経て、穏やかな峯峯が{稲荷山}まで、さらにも長く長く南へ居流れている。
東山からは、南禅寺下から平安神宮に接し、祇園町を経て鴨川へ注ぐ「白川」が、白川砂の清潔さとともに知られている。知恩院下を、いろいろに細い石の行 者橋を渡し、すぐ西に接して古川町の市場が賑わうのも「白川」。歴史的に院政の権を恣にした「白河院」「後白河院」の諡号もこの白川に由来しているのだろ う、そんな「白川」はわたしの実家・養家のすぐ北向きの横町に架かった「狸橋」の下を、「新門前橋」を経て観光客で賑わう祇園「巽橋」「辰巳稲荷」からや がて今は暗渠の「疏水」へ流れ入っている。これもまた末は淀川に至る。
そんなわけで、わたしが、懐かしい故郷の「山」の名を挙げるなら大きくは「東山」、限れば「祇園円山」「音羽・清閑寺山」「泉山・観音寺山」の辺に極ま るし、懐かしい「川」となると、「鴨川」も西の「嵐峡・大堰川」も恋しいが、つきつめれば日常生活を共にしたような「白川」こそ忘れがたい。小さな愛も恋 も「白川」と「東山」とに芽生えたり消えたりしたのである。
さて今「故郷」とはと問いつめられれば、斎藤茂吉のこんな短歌を読み上げたい。
冬草の青きこひつつ故郷に心すなほに帰りたく思ふ 斎藤茂吉
ま、今、闘病中のわたしにはややムリな願いだけれど。
* 市中の山である吉田山、船岡山に触れていなかった。吉田山には妻と親しんだ妻の下宿阪根家や真如堂などあり、船岡山には秦の母が長兄福田瀧之助の家があった。ときどき伯父さんと碁を打ちに行った。従妹が二三人いていまも一つ下の従妹とメール交換がある。
2016 7/23 176
* 息子ではない、もう六十すぎた男性が、近年の発起で短歌に心を寄せ、或る大きな歌誌に加わったのはいいが、いきなり「賞」を狙って応募したりしてい る。それも励みになるのだろうが、「賞」のために創作される短歌とはどんなものかなあと、シラジラとしてしまう。創作には必然とまた得も言われぬ自然とが 力になる。賞狙いなど、そのどちらでもなく、よそごとだが、気色が悪い。
2016 7/30 176
述懐 平成二十八年(2016)八月
岩の清水は底から湧くが
様の心も底からか 山家鳥虫歌
犬も 馬も 夢をみるらしい
動物たちの 恐しい夢のなかに
人間がいませんように 川崎洋
向日葵は金の油を身にあびて
ゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮
人おのおのこころ異なりわが歌や
われに詠まれてわれ愉します 窪田空穂
かかる日にたしなみを言ふは愚に似れど
ひと無頼にて憤ろしも 前川佐美雄
ひかり降る梢のみどり濃くゆれて
つかのまわれは生きをうしなふ 遠
花火かないづれは死ぬる身なれども みづうみ
かう生きてあゝ生きてなどおもふなよ
お月様幾ツ 十三七ツ 恒平
夏の花
マチス 画
いま、なによりも慕わしき二字を掲ぐ。
2016 8/1 177
* 「亂聲」編纂に手を染めた。
2016 8/6 177
☆ 陶淵明に聴く。
静かに念(おも)ふ 園林の好きを、
人間(じんかん) 良(まこと)に辞すべし。
當年 詎(なん)ぞ幾ばくも有らんや、
心を縦(ほしいまま)にして復た何をか疑はん。
「當年」とは働き盛りの年代、わたし(秦)はすでに倍の老境に佇んでいる。
「心を縦に」するとは、自身の気持ちの儘に、ということ。陶淵明が斯くうたった時、彼は三十六歳。わたしが此の心境に好意し「騒壇餘人」の自覚のまま親近したのは、五十歳。「湖の本」を肇めた。
以来、
閑居すること三十載、
遂に塵事と冥(くら)し。
詩書 宿好を敦くし、
林園 世情無し。
如何なれば此れを舎(す)て去りて、
遙遙として西荊に至るや。
「湖の本」すでに「三十載」、「塵事」を厭い避けて詩書との「宿好」を敦くしつづけてきた。「西荊」は陶淵明の場合遙かに遠い荊州(塵事の世間)を謂うているが、「荊」の字には「いばら」の意味がある。
* 今度の本を送り出し始めながら、しみじみ思う。苦境は毎に足下にあるが、堪えて忍べば済(な)す有れと。
「有済」国民学校に学んだ。いまなお学んでいる。
2016 8/24 177
* どっぷりと老境に漬かっていらい、日の長さ短さのまこと停滞ない消長に、愕としている。そんな自分にも愕いている。
わたしは、日のもっとも短い冬至に生まれた。昼夜中分の春分を経て夏至までは、日一日と日は長かった。秋分まではまだ日の方が長いが、その後は冬至へかけてぐんぐん短くなる。ちょっと象徴的にわたしの生涯が示唆されているよう。
15.12 21 冬至傘壽
ひと日ひと日 日長になり行く日に生(あ)れていとも夜長の夜に逝くらむよ
冬至から冬至への生涯、いま、何月何日ほどをわたしは歩んでいるのだろう。
2016 8/25 177
* 京大名誉教授、前京都博物館館長の興膳宏さんから、『杜甫詩注』「成都の歌 下巻」 を、「前巻」に引き続いて頂戴した。第一期10册の今回完結編で吉川幸次郎先生著を興膳さんがさらにオリジナルに編成されている、京洛の地に結実した『杜 甫詩注』の決定版である。わたしは今日の中国政治は大いに嫌厭しているが、古代以来の詩史と実績にはこころからの親愛と敬意を寄せている。陶淵明、そして 李白と杜甫、また白楽天から中世近世の詩人達にいたるまで、折り有れば愛読し続けてきた。ことに杜甫にとって成都は生涯のおおきな一到達点であり、あらた な詩境をひらいた大切な住地。陶淵明全集、唐詩選、古文真寶等々とともに、愛読し続けたい。
2016 8/26 177
☆ 陶淵明に聴く
采采たる栄木、
色はなやかな木槿の木が
玆(ここ)に根を托す。
この地に根を張っている
繁き華 朝(あした)に起るも、
この花は朝には満開に咲きほこるが
暮には存せざるを慨(なげ)く。
あわれや 暮れがたにははや散ってしまう
貞と脆(ぜい)とは人に由り、
正しく身を保つか、もろく折れてしまうかは、その人の生き方にかかっているし
禍と福とは門無し。
人の世の禍と福に定まった原因はない
噫(ああ) 予(わ)れ小子、
ああ、このつまらぬ男であるわたし
玆(こ)の固陋を稟(う)く。
うまれつき頑固者であるうえ
徂(ゆ)ける年 既に流れ、
歳月は容赦もなく流れ去って
業は旧に増さず。
学業はいっこうに進歩しないありさま
彼の「舎(や)めざる」ことに志し、
かの荀子の「功は舎めざるに在り」を
自戒としてはげむつもりであったのに
此の「日(ひび)に富む」ものに安んず。
いつのまにかこの「日々に富む」ヤツ
(=酒 詩経による)に慣れ親しむようになってしまった
* この「怛焉(だつえん=傷つき痛んで)」かつ忸怩たる思いに沈みこみたくない。
* 自民党政権は「テロ準備罪」を用意するとともに「通告」を慫慂するとしている。まさしくかの明治の昔ら政見が大々的にでっちあげ(フレーム・アップ)た大逆事件の蒸し返しを画策している、あれは全面にちかく国が犯した「国の犯罪」であり、愕然として国民の政治意識は萎縮しきった。
近代の国と国民とのあいだに起きた悪しき支配屈服の歴史を学び返そう、今ならばまだ「歴史」の記述にほぼ正確に学び得ようから。わ
* わたしの「e-文庫・湖(umi)」「詞華集」席に掲載の、鉄幹詩を読み返して欲しい。鉄幹の友人大石「誠之助」は悪しき密告から絞首刑にされた。心ある人々に、啄木、修、蘆花の文や言も今や必読と奨めたい。
☆ 招待席
よさの てっかん 詩人 1873.2.26 – 1935.3.26 京都府に生まれる。 詩歌集「烏と雨」大正四年(1915)刊に収録の掲載作は、明治四十四年(1911)の大逆事件に絞首刑された 大石誠之助を素材の痛切な諷刺詩で作、妻与謝野晶子に「君死にたまふことなかれ」の有ったのを想起させる。大逆事件は、ゆるされてならない大きな国の犯罪 を暗部に、日本の近代・現代を大きく自壊と崩落へ導いた。「e-文藝館=湖(umi)」に掲載している石川啄木の『時代閉塞の現状』平出修の小説『逆徒』 徳富蘆花の講演『謀叛論」などは、同時期における優れて勇気ある聡明な言説・証言となった。
鉄幹のこの屈折を装った批評の詩も「日本」を嘆く不気味な発語 であった。 (秦 恒平)
誠之助の死 与謝野 鐵幹
大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、
わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない、
なんの、構ふもんか、
機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。
日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。
ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。
誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう。
* 「チクリ」「密告」「誣告」は権力がともすると迎え入れた人性破壊のあしき「罪」である。
「テロ準備」は謂うまでもない極悪に類して絶対に容認しない、が、それを偽りの密告、誣告、悪意の告げ口を利して政治への厳しい批評者たちを検挙し投獄す る口実に政権が用いる極悪こそは「大犯罪」「国の、国民を犯す犯罪」に他ならぬという認識を、強く広く誰もが堅持したい。
まして今はネット時代、悪質な仮名偽名での悪意にみちてただ伝聞効果のみを狙った犯罪行為は増えに増えるだろう。
* 秦恒平が責任編輯する「e-文庫・湖(umi)」へは、このホームページの「繪のある總表紙」から「目次頁」へ入り、英字「ライブラリー」表示をクリックすれば簡単にジャンル別・著者別の目次検索へ入れます。
2016 8/27 177
* 陶淵明が懐かしい。敬愛する古人は数え切れないなかでも、断然として身近に身内に信愛し敬服できる。彼の伝の実を問わない、ひたすら詩句にむかう。
衰栄は定在すること無く、
彼れと此れと更々(こもごも)之れを共にす。
寒暑に代謝有り、
人道も毎に玆(か)くの如し。
達人は其の会(=道理)を解し、
逝々(ゆくゆく)まさに復た疑はざらんとす。
忽ち一樽の酒と与(とも)に、
日夕 歓びて相(あひ)持(ぢ)せん。
* 陶淵明全集のまぢかに無い日は考えられないほど。それすらいつか忘れて了うだろう。
2016 8/29 177
☆ 残暑 お見舞い申し上げます。
今年の夏は天候不順なようですけれども、お変わりなくお過ごしでしょうか。
明後日にかけて大型台風が近づいているとか、どうかご用心ください。
我が家の南面はちょっとした林になっているので、夏はセミの大合唱です。けれどもう夏の盛りも過ぎて、朝ベランダへ出ると蝉の亡骸が2つ3つと落ちてい る毎日です。長い間土の中で眠り、やっと表の世界に出て来たと思ったら短い夏をなき通して一生を終わる、そんな生き物もあるのですね。
そして先週は「秦選集 第十五巻」ありがとうございました。立派な厚い本で内容も濃く深く、なかなかするすると読み進むことができません…。少しずつゆっくり読ませて戴きます。
そして「逆らひてこそ、父」 完結おめでとうございます。そして大変お疲れ様でした!
深くはき出されたのだから、きっと今度はその分深く新しい息を吸うことができるはず。ずっと続けている朗読でも「腹式呼吸」は基本中の基本です。深くはき出すからこそ、その分深く息を吸うことができるわけですね。
私も二親とは早く別れ、父とは中学生のときにわかれて以来、最後まで会うことはありませんでした。(正確に言うと小田急線の中で一度見かけたことはあります。)
また私自身も三十代の半ばで小学生だった一人息子を連れて離婚していますので、たくさんの辛苦はありました。
けれどすべて分かれ道において自分自身の決断で決めたことですからまったく後悔していません。
先生の「愛憎」をのぞきみるたびに、本当に情が深いかたなんだなと感じます。お嬢さんへの複雑な想いについても、私などからすれば少しうらやましいほどです。
当たり前の事を申しますが、親子、夫婦といえどもまったく「別人格」ですから、それぞれがそれぞれの自己責任において選び取ってきた結果なのだと思いま す。お嬢さんも悩んだ末、実家を捨てて婚家をとる決断をなさったわけですね。後顧の憂いなく、それぞれの道をきっぱりといくしかないと感じます。
研究者であれ、芸術家であれ、スポーツ選手であれ、名が出るまでに実家の相当の経済支援が必要との話はよく聞きますし、実際そうなのでしょうけれど、やはり人として自分の力一つで世界に対峙すべきだと私も思います。
スヌーピー(漫画の哲学者風の犬)の言葉の中に「配られたカード(トランプの)で勝負するしかない」というセリフがありまして、笑ってしまいました。なかなか意味深で面白いことをいう「犬」なんですよ。
朗読は11月「朗読フェス」では「もっと本も読もう」(長田弘)、10月図書館朗読では「冬の足音」(藤沢周平)を読むことになっています。
「もっと本を読もう」は、詩のなかの言葉を自分の言葉とするために暗唱しました。
どうぞおげんきで!! 田無 ゆめ
* 蝉よ汝 前世を啼くな後世(ごせ)を啼くな
いのちの今を根かぎり鳴け と、聴きも思いもしてきた。
「配られたカードで勝負するしかない」のが当然で、たとえ親でも子でも、ひとの手の内を覗いたり無心したりせず歩んできた、自分(たち)の脚で。しかしまた世の大勢の方々の励ましは、いつもいつも有り難く享けてきた。
耳目をひらいてそれなり気に掛けてきたが、子が父を、舅を、被告席に立たせて「名誉毀損の賠償金」を請求したという実例に、わが実の娘や婿のほか、ただ一例も出遭わない。
では実際に、いったいどんな「名誉」が損なわれたというのか、彼らの訴因は、わたしの的確な反駁をうけるつどくるくる変わり続けて、裁判を経てなお、まるで何の裁判であったのかと、まるで解せない、判らない。良識ではかられる裁判員裁判がぜひ受けたかった。
2016 8/29 177
述懐 平成二十八年(2016)九月
星すでに秋の眼をひらきけり 尾崎紅葉
末の世のへろへろびとは見むもうし
旅にい往きて海をこそ見め 吉井勇
残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ 永井荷風
かろうじてわがものとなりし古き書の
表紙つくろふ秋の夜の冷え 佐佐木信綱
門とぢて良夜の石と我は居り 水原秋櫻子
思へど思はぬ振りをして
しやつとしておりやるこそ底は深けれ 閑吟集
桔梗(きちこう)や男も汚れてはならず 石田波郷
蝉なかず なぜなかないか なかないか 宗遠
9 ・ 12 孫やす香あらば三十歳ぞ
いとほしや狭庭(さには)にもるる朝日子の
光(かげ)にあそべる九月の揚羽 爺
なにをしに生きてある身の無意味さを
ふとはき捨ててしごとにむかふ 湖
2016 9/1 178
黒い猫のマゴは逝きしか生きの緒を
静かにゆらし吾ら観てをり
九月七日八時二十分に黒いマゴは
ややに顫へて生きおさめたり
その時し無言電話ひとつ鳴り来しか
マゴを抱きくれし亡き孫の声ぞや
ネコとノコもこころ優しく迎へくれて
父・母のことなど聴かされをらむ
2016 9/7 178
* 堀上謙さんの訃報に動顛し、想い乱れたまま、宜しくない夢見から身を揉むように目ざめたら、六時前、妻はもうキッチンにいた。そのまま起きてしまった。
* 脱水ひどく腎臓、肝臓最悪と警告され輸液を指示されたのが三年前の真夏八月だった、以来、輸液と投薬をほぼ一日も欠かさず、想えば三年ものあいだ、黒 いマゴはわたしたちへの愛情のままに耐え抜いて生き長らえてくれた。何といっても黒いマゴ自身のガンバリは言語に絶していたのだった、しかもついこの夏八 月まで、黒いマゴが苦痛をうったえて啼いたり騒いだりしたことは一度として妻もわたしも、記憶がない。最期の最後まで静かだった、ただいつもいつも視線を 求め視線をひしと合わせて飽くことなくわたしたちの眼をみつめて、庭へ出たい、水をのみたい、砂でおしっこをしたよ、うんこをしたよとそのつど教えに来 た。後ろ脚はまったく脱臼してか使えないのにゆっくり家も庭も歩いて、夜中の便意尿意にも自分で砂場へ行って排泄していた、しようと努めてくれていた。
久しく久しいわたしの希望であった、自転車の前籠へいれていっしょに走り回ることも、八月、九月に入って亡くなる二三日前までじつに静かに、しかも顔を上げてご近所をたしかめ楽しむように一緒の時間をわたしのために創作してくれた。嬉しかった。
☆ 九月
悲しみの日々、死なれた者の思い、どうぞ堪えてください。
御身大切に。迪子様大切に。 尾張の鳶
* 書きかけの長い小説のなかへ黒い子猫の「存在」を、これまでも触れてきた以上に、もっとしっかり大きく造形してみようかと思い立っている。それあるゆえに「脱稿」しかねていたのかと。
* 往年 愛したネコを悼んで
1984.04.15 愛してやまぬ「ネコ」逝けり
ネコ逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂ひゐる
この匂ひ酸しとも甘しとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
線香も残りすくなく窓の下に梅雨まち迎へネコはねむれり
* 母ネコはそれ以前、一九七六年春の頃、我が家の近くで娘のノコを生んで、我が家に引き取られてノコを賢く育てて、六年の間、暮らしていた。わたしを、千年の恋人かのようにいつもみつめて、ノコにもだれにも愛情あふれて静かな聡い優しいネコであった。
母ネコが亡くなったとき、テラスの遺骸のそばへ、いったいどこから持ってきたのか太ノコは、太い竹輪を一本銜えてきて、母のすぐ傍へ置いたのには天を仰 いで泣かされた。驚愕した。埋葬の時は、二階の屋根のヘリからじいっと母ネコの葬られるのを見下ろし見送って動かなかった。
1995.8.6
鳩啼くや愛娘(ノコ=母ネコの子)十九年を生きぬけり
この心優しいネコの子、つまり「ノコ」ちゃんは、十九年我が家に生きて、愛おしい限りのわたしたちの秘蔵っ子だった。不幸にして病魔に遭い壮絶の最期だった。泣きに泣いた。いまでも泣く。
黒いマゴは、十七年生きてわたしたちの無二の「身内」になった。
99.10.4
このマゴを斯うも愛しては良くないと
深くおそれて頬寄せてゆく
09.12.21
黒いマゴの我の湯槽で湯を呑める
ただそれだけが嬉しくて笑ふ
この十七年の間に、わたしはいとしい孫娘やす香に死なれ、死なせ、あげく、実の「娘、婿」の連名で、やす香を「死なせた」とは親が「殺した」と謂うの だ、名誉毀損だ損害賠償金を支払えと訴えられ、数年もの被告席裁判苦に、腸も凍えて千切れそうな苦痛と堪忍に堪えねばならなかった。かりにも哲学を学び説 くインテリ夫婦の、かかる実親への仕打ち例が、世の中に有ったりするのか、わたしは曾て知らない。しかも父・秦 恒平に、それよりずっと以前、ベストセラーにもなった志の文化叢書の一巻『死なれて 死なせて』の著のあったこと、それを読めば著者の説く「死なせて」の 意味は誰にもはっきり明確に知れるというのに…。
黒いマゴは、裁判沙汰の間、終始、私を慰め励まして最たる温かい命であった。彼に日々励まされてわたしたち祖父母は仕事にうちこみ、五百頁平均の「秦 恒平選集」を出し始めはや第十五巻、「湖の本」は創刊三十年を迎えて第百三十巻を達成、それらを皆きっちり見届けてから、黒いマゴは静かに静かに、かすか に身を顫わせて、わたしたち二人の眼前で息絶えていった。泣かずにおれない。
十七年のあいだに、わたしは胃癌で胃全摘し、一年間の苦しい抗癌剤にも堪えた。三度入院した。四年半が経った。
12.02.24
人の見舞ひ欲しくはなくも黒いマゴの
受話器の闇に鳴くがかなしき されど嬉しき
どんな遊具にも見向きもせず、黒いマゴはひたすら私や妻と「遊び」たがった。家中の隠れん坊が大好きだった。
12.09月
ちりんと鈴鳴らして在り処(ど)おしえつつ
黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に
12.10月 黒いマゴ 最愛の猫
われが着肌を好んでマゴの敷寝する
汝(な)が夢に かけて悪政などあらじ
13.01.19
隠れ蓑の根かたに埋めしネコ・ノコよ
しばし待てよわれもそこが奥津城
ネコとノコと黒いマゴもゐてさもこそは
和(おだ)しき後世(ごせ)のわれらの家ぞ
13.02.21
三角の帆がけのやうに黒いマゴは
耳だけ上げて熟睡(うまゐ)すらしも
三角の帆だけのやうに耳だけで
熟睡の黒いマゴが愛らし
13.10.05
黒いマゴの三角の耳の一つだけ
妻と寝ていてまだ六時半
16.04.05 妻傘壽
相あひの八十路に匂ふ櫻よと
傘かたむけてあふぐ此の日ぞ
黒いマゴと迪子とわれに咲く花の
天晴(あは)れ八十路を生きて行かまし
2016 9/11 178
* 本巻(湖の本131)跋「私語の刻」には下記の一文を敢えて記念のために入れた。
私語の刻
作家「以前」というと習作時代のようであり、私の場合事実そうに違いなかったが、その頃の仕事が、のちのち姿・形・中味を変え、新作同然の小説に仕上 がっていった。「或る折臂翁」を最初に、「懸想猿(シナリオ)」「祇園の子」「畜生塚」「斎王譜=慈子」五十作もの「掌説」たち、また「或る雲隠れ考」 「蝶の皿」そして「清経入水」「秘色」など、どれもみな、「作家(受賞)以前」に概ね仕上がっていた。そんな「原作」に更に手を入れ、「作家」ほやほやの 仕事として、諸誌・各社で活字にも本にもしていった。
作家以前に、師事した人も同人といった仲間も私には無かった。貧の極の新婚時代に、がんばって購読した講談社百余巻の日本文学全集、月々に配本の一冊一 冊が有り難い教科書になった。漱石、藤村、潤一郎そして直哉や川端、諸先達選り抜きの作と年譜とから、限りなく多く学んだ。通俗の読み物や時代小説は書か ないと姿勢を定め、なに迷うこともなかった。文学賞に応募しようの、文藝雑誌へ投稿しようの、そんなことはほとんど考えてなかった。本にしたいなら、自分 ですればいい。読んでくれる人は、自分で捜せばよいと。
昭和三十四年三月に結婚し、翌年七月に娘朝日子が生まれ、三年目の真夏から突如小説を書き始めた。
書けばこそ好機も来よう、書きもせずあだな夢を見ていて何になるか。そう友人に一喝され、すぐ応じた。
どう貧しくとも、ボーナスというものに一切手を付けない家政と家計であったが、私家版本のためにだけ、妻の同意を得て貯金を崩した。総じて五十数万円も かけた、昭和三十末年代ではかなりの経費であった。『懸想猿(正・続)』『畜生塚 此の世』『斎王譜』『清経入水』四册の私家版は、ごくごく少部数、編集 も装幀もまさしく夫婦の手造り本であった。送り出す先もほとんど持ってなかった。知友はすくなく、えらい人としては志賀直哉、谷崎潤一郎、中勘助、窪田空 穂、小林秀雄といった名前しか思い浮かばなかった。
ところがある日、突如として雑誌「新潮」の編集長から、「来なさい」と手紙をもらった。世界が波打つように足もとで揺れ、まともに歩けなかった。すでに 「三冊」出来ていた私家版中の何作かが、しかし、すぐに役だってくれたのではない、それどころか「新潮」という大舞台が目の前にありながら、わたしは果敢 に四冊目の私家版『清経入水』を、また自前で造った。表題作にした小説「清経入水」が、どうしても編集部をパスしなかったからだ、エイクソと本にし、美し い平家納経をあしらった色刷りの表紙に函まで造って、小林秀雄や円地文子といった、僅かな、縁りもない先生がたに送った。
と、これまた突如、昭和四十四年春すぎた或る日、今度は筑摩書房から家へ電話で、秦さんの「清経入水」という小説を、雑誌「展望」の第五回太宰治賞銓衡 「最終候補作」へ入れたいが、「応募」してくれませんかと言ってきた。「展望」も「太宰賞」も存在すら知らなかった、「どうぞご自由に」と承諾したら、 「新潮」ではあんなに通らなかった「清経入水」が、そのままで石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という鳴り響くような六選者先 生の「満票」で「当選作」に大化けし、「展望」八月号に発表された。いわば賞まで添えて「文壇」の上へ私は引っぱり上げてもらったわけで、家に積んであっ た私家版の「原作」たちがつぎつぎ役立ってくれた。
とりわけ、今回復刻した原作『畜生塚』は、丹念な改作推敲を経て「新潮」翌年の二月号に掲載され、幸いに批評家桶谷秀昭さんが雑誌「文藝」の「一頁批 評」欄で、じつに丁寧に読んで下さり、或る意味、事実上のこれが「処女作」とさえなった。三部作のように長編『慈子』が筑摩書房から書き下ろしの本に、中 編『或る雲隠れ考』が「新潮」にと続いて、いわば秦の作風を「貫く棒」のような役をしたのである。今回本文のみ復刻した「私家版原作」『畜生塚』は、よほ ど多くみても刊行当時数十人の目にしか触れてこなかった。おなじ事は『此の世』にも謂えた。しかも見る人は驚かれるであろう、この私家版は私が勤務先医学 書院で編集製作刊行を担当していた医学雑誌とおなじ、大判での8ポ二段組み、奥付ともで64頁という珍種であった。
ま、編輯余話としてはこの辺で措くが、筆名「菅原万佐」のわらい話だけ記録しておこう。京都市立日吉ヶ丘高校のころ、校内新聞に、その年たしか生徒会長 をしていた男子が「男女交際」の行儀について四角四面に寄稿していたのがあまりバカげて読めたので、ひやかしてやろう、それなら女子からの方がおもしろい と、当時仲良しだった三人の女友達の姓や名からとって「菅原万佐」の署名で反駁の投書を入れた。それも載った。
以来、なんとなく女とも男ともつかぬ筆名が気に入って、なんと後年四册中三册の私家版までも「菅原万佐」で通していたのだが、「新潮」に呼ばれておそる おそる出頭そして初対面の編集長第一声が「男かあ」であった。即座に本名にしなさいと。で、紆余曲折あっての私家版第四冊め『清経入水』から作者名「秦 恒平」と、ま、本来へ立ち帰ったことであった。
その後の私家版といえば、創刊いらい三十年、一三一巻にまで達している全集「秦 恒平・湖(うみ)の本」が敢然として私家版、続いて、はや第十七巻まで進行中の特装美本『秦 恒平選集』もまた躊躇いない私家版少数限定の「非売本」として、稔りつづけている。とはいえ、終始「私家版作家」として歩んできたのではない。太宰賞授賞 このかた、筑摩書房、新潮社、講談社、中央公論社、文藝春秋、平凡社、集英社、NHK出版、淡交社、弘文堂等々からとうに百册余の本を出し、新聞連載小説 も、岩波「世界」や「アサヒジャーナル」「学鐙」等々での長編の連載も繰り返し担当してきた。なによりも、お名前はとても挙げきれないが、想えばどれほど 多くの文壇の先達や学界の碩学、藝界の実力者らの薫陶・庇護・鞭撻を戴いてきたか、これを多幸といわずに何を謂うかと、感謝の思いは、まこと、限りない。 決して決して我一人で生きて来れたのではなかった。
最期になるかどうか、『光塵』以後の新歌集の、永く惑っていた「表題」を昨夜定めた。
亂聲 らんじやう
残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。
亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。
催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲」と謂う。
2016 9/14 178
* 気温が落ちてくると、わたしのこの古い古い機械の始動には途方もない時間が掛かって、しかも不安定になる。じっとガマンして付き合うのである、辛抱強 くなる。なにも慌てることはないのであり、待ち時間に今朝も後拾遺和歌集の秋、冬の歌をつぶさに品評していた。そのあいだに機械もやおら働き始めてくれ る。
2016 9/18 178
☆ 今宵(=昨夜)は満月
薄く広がった雲間から時折漏れる月影を、仰ぎ仰ぎ帰宅しました。
創刊満三十年の記念号、「原作・畜生塚」を巻頭に、新歌集の表題を『亂聲』と定めた桜桃忌の「私語の刻」で結ばれているのを、嬉しく拝見しています。
まずは活字の上での「京の散策」を楽しみ、私家版で読ませていただいた「原作・畜生塚」を「湖の本」でも再読・三読したいと思っています。
温め続けられた歌集、艶やかに晴れやかに、花と開きますよう願っています。
どうぞ、御身大切になさってください。 九
* 『亂聲』 とは、ま、洗濯機へ汗くさいものをなにもかも投げ込みかき混ぜるような意嚮に過ぎず、優雅でも艶麗でもない、がちゃがちゃとやたら喧しいような一巻になればとの、横着な表題。過剰に期待しないで下さい。
2016 9/18 178
* バイアットの『抱擁』、文学・言葉・創作・構想・表現等々に関して、ともにものを思うに足る刺激的なフィクション。残念ながらわたしはバイアットらの もつ神話・伝説とともに彼女らの「詩」と「韻律」とを倶にはもてていない。散文は飜訳でもなんとか理解出来るが、「詩と韻律」は言葉を理解して発音。発声 出来なくては話にならない。
* 日本人は和歌・俳句・今様等の詩は持っていたが、西欧詩とおなじ詩はもてていない。日本人が詩と称して創っているのは、九割九分、小洒落た散文の気 取った分かち書きというに過ぎない。むろんそういうのを指して「詩」と呼んでもそれなりに構いはしない、が、定型詩とも韻律詩とも呼べはしない。定型や韻 律には構わぬ美しい短散文の洒落た表記を今日日本では「詩」と謂うのですと、それだけのことである。それだけのまま見事に美しく心打つ表現が成るなら、 成っているなら、それで良し。定型や韻律の効果を期待できないぶん難しい創作だと自負するのも、べつに構わない。おおよそは、そんな自負で日本人の現代詩 集は編成されてある。それ以上でも以下でも、ない。
2016 9/22 178
☆ 朝夕凌ぎやすい季節になってまいりました。その後 恙なくお暮しでいらっしゃれば嬉しく存じます。
さてこのたび 「e-文庫・湖(umi)」に 私の寄稿をお許しくださるとのこと、ありがたくお受け申します。 とりあえず 未発表の歌稿 まとめて五十首 同封いたしますので どうか よろしくお願い申します。
このたびの「湖の本」私語の刻にて、新歌集ご上梓のこと尻ました。 すばらしい表題も定まり ご上梓が待たれます。まことにおめでとう存じます。
余談になりますが、「湖の本」のお作品『生きたかりしに』拝読した折り お母様の昔おすまいになられたとイウ住所が「東城戸町」とあり、そこは今 私のおります「杉ケ町」のすぐ隣町なので驚きました。
小野医院、酒屋の都鶴の看板などみつからないものかと、なんどか足をはこびましたが わかりませんでした。 内科の「奥医院」というのは昔からあり、そのあたりの町の人にたずねても「小野医院」は知らないということでした。
奈良のこのあたりは、昔のままの民家も少々残っておりますが、 この数年 どんどん取り壊され、新しいマンション等が 建ちはじめました。 私には 少々残念な気がいたしおります。
それでは くれぐれもお大切にお励み下さいませ。 東淳子 歌人
* 早くから歌人としてもっとも信頼をおいてきた方であり、「e-文庫・湖(umi)」に是非新作をとお願いした。ほかにやはり詩人にもおねがいしてあるのだが。
「e-文庫・湖(umi)」 しっかり充実させたい。
なお「小野医院」は実を憚ったので、本当は内科の「奥医院」です。
2016 9/23 178
* 湯の中で、好きな「明石」巻をおおかた読んだ。源氏物語を置いて、ついで梁塵秘抄の四句神歌を面白く読み返していた。
2016 9/25 178
アメリカが重ねる戦争
ウルスラ・K・ル・グウィン (ゲド戦記の作者)
─高橋 茅香子 訳─
語るも恐ろしい歴史の流れの中で、安心感は
ひきがえるの頭の中のトパーズのように
いつもすぐ手の届く所に求めることができた
すべては、昔むかし、あるところに、というお話だった
身の毛もよだつニュースさえ
耳に入れては、すぐに安心感をみつけていた
距離からうまれる時間差に、わたしたちには理解できない言葉に
隔てる海は広く大きく、なんでもすぐに忘れさせた
いま、安心感はどこにもなく、あるのは飾りの勇気だけ
戦争はわたしたち自身のもの、いま、ここで、わたしたちの国自らが
直面する、多くの人々を裏切ったという怖れ
お話はわたしたち自身の言葉で紡がなくてはならない
それからずっと、こうなりましたとさ、と。
だが、アメリカだけでは、ない。アベノリスクを決して見損じてはならぬ。 秦 恒平
ピカソの 平和
2016 9/26 178
* 目ざめると先ずテラスの戸をあけ、ネコ、ノコ、マゴに「おはよう、今日も元気で楽しくすごしなさい、トーサンもカーサンもいつも一緒に此処にいるからね」 と声を掛ける。それから体重などをはかる。妻はまだ寝ている。独り湯をわかし茶を点てる、二服。食パン半枚。たくさんな服薬。郵便物の用意を二つし終え、 二階へ来て、延々と時間掛け機械を起動。待つ間に、「後拾遺和歌集」の六撰めをゆっくり楽しむ。今朝は雑の一、二巻の辺を。
秋をまてといひたる女につかはしける 源 道済
いつしかとまちしかひなく秋風にそよとばかりもをぎの音せぬ
軽いことばあそび、女の口約束のフイになりそうな怨み歌で。「秋(飽き)風」「をぎ(荻・招ぎ)」を利かせて、こんなの後拾遺歌人らには、お茶の子サイサイ。「そよ」にも、「そう願っていたとおりには」という苦情がこもる。
和歌集はやまと言葉づかいの宝庫。
2016 9/27 178
☆ 前略
「亂聲」 刻してみました。 新歌集へのご期待です。ただし全く他意はありません。ただのお便りとお見捨てくださってもかまいません。
印字のしまりのなさは 刻者の性の表れでしょうか。隠しようもなく、正直に出てし
印材の同封は ちょっと躊躇しましたが、思い切ってお送りします。(お贈りではありませんのでお取り扱いはご自由に願います。)
奥様ともどものご健勝をお祈りしています。 井口哲郎 前・石川近代文学館館長
* 嬉しい贈り物です、有り難く頂戴致します。「新歌集」としての「亂聲」編纂には少し時間を掛ける気でいます、あるいは最期の集に成るとも思われますので。
しかし「亂 聲」は、まさしく私の毎日毎日の仕事が、そのまま体を表していますので、頂戴の印章もその方面からも愛用させて頂きます。なんだか源氏物語っぽい優艶な歌 集を想われている人もあるらしいのですが、元来の語意が文字どおりなので、ジャンジャカ、ゴチャゴチャと、なんでもござれの日々を表現した意嚮と寛容いた だきたいものです。しかし妙に惹かれて好きな言葉です。
2016 9/30 178
或る詩人の長めの散文詩の書き出しであった。のこる散文の二もこのままの散文分かち書きで終始していた。
感銘の有無や可不可は云わないが、日本の詩人から戴く日本語での詩集の、オーバーにいえば大半、いや、ほとんてどがこれに類している。日本人の現代語詩 はおおかたこういう表現と共通理解されているらしく、それはそれで日本語の口語詩の約束された納得ごとなのであろう。で、もし「詩」とは何なんですかと問 われて、詩人はどんな回答をしてきたか、解答例は詩の雑誌や過去の文献に山のようにあるけれど、かなり、みな、ムズカシい。小説や随筆の文章と詩の表現と のチガイは何ですかとつい口の中で呟いてしまう。このさいの「つぶやく」という日本語にはやや非難めいた口吻がひそんでいる。ぶちまけたはなし、これらが 「詩」に相違ないのなら、わたしの小説や随筆から、ま、たくさんな「詩」が収穫され、わたしは小説家で詩人でもありえそうな気がしてくる。
眼から鱗のおちるような日本語の「詩」論が書かれていたら、どうぞ教えて戴きたい。
* わたしにも、「詩」の思いがある。小説をもじつは「詩」として書いている気が無いのではない。「詩情」をよほど大切に重んじてきたし、それは、なにも 言葉の表現に限られてなどいない。絵画にも演劇にも、また自然の景色や人間関係にも、「詩」は在る。「詩情」は横溢する。疑っていない。だから日本の詩人 の詩集もああで佳いんです、と云われると、分かりきれない不可解なうすぐらい余白が拡がるのだ。困惑しています。 2016 10/2 179
* 後拾遺和歌集の六撰を終えた。おもしろい歌が多すぎます。
2016 10/3 179
* もう一度 後撰和歌集を読み進んでいる。拾遺、後拾遺とのあいだに明らかな差異が見受けられる。たんに歌風の差異でなく、時代・王朝の「熟」の進みと読むと、歌人の表情や姿勢の差まで見えてくる。
2016 10/4 179
* 黒いマゴの逝去から一月がたった。それでも、いっしょに暮らしている、いつも、いっしょに。
* 孫逝きて黒いマゴもゆきて命とふ重きを双の掌に堪えてもつ 遠
2016 10/7 179
☆ 柿姫参上 (色美しい柿の大葉を心葉に)
狭庭の西条柿 ほんの少しだけ
柿四十剥きて軒端に吊しけり
わが秘儀ひとつ成し了ふるごと 呆仙
陽に干せば甘柿よりも甘くなる
渋柿なれど君は好むや 玉八
返し
うつくしき心葉も添ひいろも香も
うまきがあはれ庭の柿の実
柿くひて餓えしのぎつつ山奥の
丹波にいくさのがれし日々は 湖
2016 10/20 179
* 病室へ、黒いマゴが、その上で、それに抱かれるようにして「生き」をひき終えた「膝掛け」をもってきてもらい、黒いマゴのありし日の愛らしい感触とともに会話も絶やさずに倶に過ごしていた。おかげで、妻に遠路を何度も通って貰わなくても寂しくなかった。
黒いマゴをこれへ眠らせ見送りし
膝かけを胸に 病室の真夜
黒いマゴのいまはを抱いて濃みどりに
やはらかな毛布 撫でて泣かるる
静かにも息ひとつ遺し逝きにしか
あはれ黒いマゴよ いま一目逢ひたし
2016 10/30 179
ピカソの 平和
棟方志功・画
述懐 平成二十八年(2016)十一月
やまかげの岩間をつたふ苔水の
かすかにわれはすみわたるかも 良寛
門とぢて良夜の石と我は居り 水原秋桜子
揺れやまぬ樹樹の梢や揺るること
その健康に叶えるならん 川浪磐根
生涯の影ある秋の天地かな 長谷川かな女
老醜はありて老美は辞書になし
あはれなるかなや老といふもの 大悟法利雄
秋の雲 立志伝みな家を捨つ 上田五千石
(11/27)
このままに死ぬるかそれもラクそうに
低血糖「41」の眩暈を追ひき 遠
手足ステ 抱キ柱ステ 月見カナ 有即斎
この道はどこへ行く道 ああさうだよ
知つてゐるゐる 逆らひはせぬ みづうみ
2016 11/1 180
* 篠崎仁さんに、「臨済録」を愛読していると書いた。書きはしたが、要するに「臨済」師に手ひどく叱られ叱られ叱られ続けるのを感謝しているという話。 臨済の獅子吼にただただ反して背いてはなはだ事多くのみわたしは生きて生きて汚れにまみれているだけのこと。恥じ入るすべも知らない。
寒暑に代謝有り
人道も毎(つね)に玆(か)くの如し
達人は其の会(え)を解し
逝くゆく将(まさ)に復た疑はざらんす
忽ち一樽の酒と与(とも)に
日夕 歓びて相持せん
陶淵明にも、臨済禅にかよってかつ心優しき清閑の美がある。
2016 11/3 180
* 夜中に手洗いに立ったあと、また寝入るまでにすこし間があり、そんな時に不快なものおもいをしたくなくて、なにかしら自身に問題を問いかける。話材はたいてい小倉百人一首だが、昨夜は、誰のどの歌がいちばん好きだろうと。
しばらく思案し穿鑿して、やはり「伊勢」かと思った。
難波潟みぢかき蘆のふしのまも
逢はでこのよを過ごしてよとや 伊勢
そういえば、こんな反歌をわたしは添えたことがあった。
伊勢うつくし逢はでこの世と歎きしか
ひとはかほどのまことをしらず と。
2016 11/5 180
* やす香一の心優しい親友が、無事に女の子を出産、名前をつけましたと報せてきてくれた。
まさに、秋、良夜。
良夜かな 子うまれ親もうまれける
柿の木に柿の実が生りそれでよし 恒平爺
2016 11/5 180
☆ 古代の知恵の最も美しい表現は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの有名な日記の一節に含まれている(この日記は、皇帝が急死したさいに、その長袍の襞のなかから発見されたとつたえられている)、
「たえず何かしら人びとの役に立つ者になれ。そしてこのような不断の鷹揚さをおまえの唯一の楽しみとせよ。しかも、時おり神性へ一瞥をささげる義務があることを忘れるな。」 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* わたしも実にこのアウレリウス皇帝の遺著に心酔し敬服を惜しまずに来た。シドッチ神父の来日行に際してあえてこの日記を所持させたのも、わたし自身の 願いであった。ヒルティの引いている一節も美しい。まだまだ、まだまだ心を打つ美しくて深くて静かな思惟の輝きがアウレリウスの「内省録」には籠もってい る。懐中書としてもっともっと広く親しまれ敬愛されていい一冊だと思う。岩波文庫にして、軽量の一冊、文字どおり懐中に値いしている。
☆ 陶淵明に聴く
閒居すること三十載
遂に塵事に冥(くら)し
詩書 宿好を敦くし
林園 世情無し
如何なれば此れを舎(す)て去らんや
* 此の三十年、「湖の本」とともに「騒壇餘人」を自覚し、「塵事」の世をただ「ウソクサイ」と恥ずかしく眺めつづけてきた。わが「林園」は「いま・ここ」に在り、それすらも無い。
2016 11/6 180
☆ 信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。(少信根の人、終に了日無けん。) (臨済 唐末期・九世紀の禅師)
* 真っ向、打たれている。『臨済録』は宗派の聖典とはまったく違う。見識が師以上でなければ無意味とされた厳しい師資相承の唐代禅の大雄峰。「埒のあかない」一人であるが、ただただ向きあって聴いている。バグワンにも同じい。
☆ 人との交わりにおいて、最も有害なものは、虚栄心である。虚栄心はつねに見すかされる。虚栄心は決してその目的を達し得ないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* このヒルティには素直に聴くべきである、その通りである。
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
人も亦た言へる有り
「心に称(かな)へば足り易し」と
玆(こ)の一觴(=盃)を揮ひ(=飲み干し)
陶然として自ら楽しむ
* ま、せいぜい、このへんですか、ね。
2016 11/7 180
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
采采たる栄木 玆(ここ)に根を托す
繁き草 朝に起るも 暮には存せざるを慨く
貞(=正しく身を持する)と脆(=もろく折れる)とは人に由り
禍と福とは門無し(=定まった原因は無い)
* この後ろへ、「道」に依り「善」に敦かれと二句あるが、そこまでは引かない。引けないのかも。
2016 11/8 180
☆ 全体として善い生活をすごしてきた場合でも、それが陥る最も危険な時期は、ときとして、生活がいくぶん退屈になりはじめる頃である。 むしろ苦悩を、新たな種まきの時期として利用するのが良い。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 同感する、そして努めてそのように生きてきた。魂の凍えるほど日の下が苦しく寒かった日にもわたしは「新たな種まき」に励んだ。人によれば作家・秦 恒平後半生の汚点かのように見られかねぬ「逆らひてこそ、父」も「父の陳述 かくの如き、死」も、わたしは決然と書いた。作家なら当然と心決めて書いた。 浅い私憤や逃避のためになどわたしは書かなかった。
* もっとも、ヒルティにこう聴いて頷いたわたしは、同時に詩人陶淵明や臨済和尚にも聴いている。彼らはまた別の境地を聴かせてくれてわたしは憧れる。これは矛盾や撞着なのか。たんにわたしがバカであるに過ぎないのか。
☆ 陶淵明に聴く
去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)ふべけん
「さっさと隠遁するだけのこと、何をためらうことがあろう。」
世俗は久しく相欺(あひあざむ)けり
悠悠の談を擺(はら)ひ落とし
「世間のよいかげんな取沙汰など払い捨てて」
請ふ 余(わ)が之(ゆ)く所に従はん
「わが道を行けばよいのだ」
* 「わが道」も人それぞれであろう。
☆ 臨済に聴く
少信根の人、終(つひ)に了日無けん
「信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。
2016 11/16 180
* 田井安曇の歿後歌集が贈られてきた。わたしの歌集『少年』の解説をして貰ったのは、もうよほど前、朝日子が中学生で師事していたのはもっとはるか前になる。
田井さんの歌集、先日は馬場あき子歌集も貰っている。わたしの書庫には、斎藤史全歌集をはじめ、上田三四二も岡井隆も田井安曇ほか著名歌人からの戴き歌集が沢山入っている。むろん斎藤茂吉のも入っている。欲しい人もあるのでは。
同様に、詩集も句集もかなり揃っているし、よく読んできた。堀口大学や島尾敏雄や井上靖や大岡信らのめずらかな詩集がある。
誌も短歌も俳句も、気が動けばよく手を出して読んでいる。
2016 11/17 180
* ものの下にもぐっていた2006年の文化手帖が、ほとんど使われていないまま現れた。記事としては一月十六日十時半に「聖ルカ 糖尿」 同十九日二時 に「迪 聖ルカ」 三月二十三日十二時に「迪子 聖ルカ」と有るだけ。手帖が何冊かダブルとこういう運命にアブレるのが、まま出来る。
ところがこの手帖の、左欄十一月六日から十二日までの頁の右の白い頁に赤のボールペン字の走り書きで、こんな今様らしきが縦書きされていた。
たがいひおきし いましめと
しるもしらぬも かなしけれ
かなはぬこひに みをまかせ
しぬるおもひに みをやけと
明らかに今様の曲調であり、走り書きの字の勢いからみて、よそのを書き写してはいない、わたし自身の「うた声」になっている。あたらしい物語りをでも想い描いていたのだろうか。
こんなのが、ひょいひょいと現れるから、ごみのやまのようなモノが捨てきれなくて。困るのです。
思いついて『光塵』をあけてみると、
06.10.26の日付で、
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり
と、ある。やがて「七十一老述懐」として
あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲
あすありとたがたのむなるゆめのよや まなこに沈透(しづ)くやみの湖
「歳末述懐」として
これやこの一途の道に咲く花のつゆも匂へとまぼろしにみる
あらざらんこのよをよそにとめゆかめあかきは椿しろきも椿
はんなりと老いの一途を歩みたし来る幾としの数をわすれて
大晦日には、「今年 やす香を喪った。死なせてしまった。つらい一年だった。
秦建日子の活躍したのが せめても喜びだった。
私は、迪子も、日一日を精魂こめて迎え、送った。」と前書きして、
逝く年の背を見送れば肩越しにやす香は我らに笑みて手を振る
* 小説に書きかえる必要なく、いわば、半身を「ものがたりの影」のように生きているらしい、わたしは。へんな人ある。
2016 11/19 180
* 起床8:30 血圧124-61(55) 血糖値90 体重64.5kg
* 木守りの柿ひとり照りて日新たに
われは八一の冬を迎へむ やいち
* バス通りの文房具屋「野口」へ、注文の宛名印刷用紙など受け取りに自転車を走らせた帰り、畑なか路で木守りの柿が枝の高みにあかるく照っていた。日ざしが清らかだった。
小菊の草むらも見た。黒いマゴたちに手折って帰りたかったが、遠慮した。
2016 11/20 180
☆ 秦先生
ご無沙汰しております。
娘が七五三を迎えました。息子は10歳4年生です。
ふたりとも元気です。
時間を作って、顔を見せに行きます。 ※Yahooメールが以前、不達だったことを思い出し、 会社メールから再送いたします。 東工大院卒 柳 建築家
* 珠乃ちゃん七歳!!
柳君
九年の六月十日に、
佳き命名なり
壽 天地(あめつち)のいのち耀(かがよ)ふ珠乃とぞ
ふたりの親は掌に受けつらむ
と祝ったのを思い出しました。兄妹ともに健やかにいよいよ大きく成られるよう願います。
おめでとう。
小さいふたりは、それぞれどんな少年少女かな。
*
打って変わって わたしは、元気ではありません。先日は 腸閉塞で入院し、入院中低血糖で死にかけ、退院の日には わたしが激しい頸と肩の硬結で、付き添ってた家内は転倒して頭を打って、二人して病院の「救急」へ逆戻りした有様でした。
それでも、「湖の本」のますますの続刊、特装の限定本「選集」の33巻(現在20巻へ進行中)をめざしての刊行で、狭い家の中は我々も自由に座れないほ ど乱雑にモノがあふれ、みんなをお迎えすることは出来ません。路上での対面ではお互いに気が乗りませんので、この写真で、成長した二人と、ご両親の元気そ うな様子を眺めています。
私たちの日々の様子は、日記で察していて下さい。
メールは、どなたでも、いつでも、どうぞ。及ぶ限り返事します。
書いて、読んで、本にして わたしの生涯はそれに尽きるのでしょう。すこしでもわたしが懐かしくなったら、わたしの「本」と「日記」を読み返して下さい。さきごろの「秦教授(ハタさん)の自問自答」に文句を付けてくるかなあと想っていましたよ。
ではでは。 秦
2016 11/22 180
* 明日には、「選集」⑲の再校が届くという。投げ返しておいたボールは必ず投げ返されてくる。校正往来の本来である。十二月は、落ち着いて、校正をむしろ楽しむとしよう。
十時半。もうからだを横にしよう。少なくも床に就いて、気分を換えて『閑吟集』の室町小歌を楽しもう。玉鬘の筑紫からの脱出を見守ろう。西欧の戯曲や小説を読もう。
いい夢を見たいが。
明日は「冬祭り」の日、天気はどうか。
2016 11/22 180
述懐 平成二十八年(2016)十二月
納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、
汝(な)が意志をまぐるなといふが如くに 若山牧水
生きているだから逃げては卑怯とぞ
幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
冬の水一枝の影も欺かず 草田男
遠山に日の当りたる枯野かな 虚子
水鳥を水の上とやよそに見む
我れも浮きたる世を過ぐしつつ 紫式部
憂き事のまどろむほどはわすられて
覚むれば夢のここちこそすれ 崇徳院
はろばろと昭和は遠くうす澄みて
なにも見えねば目をとぢてゐる 宗遠
あなたとは彼方のこととおもひ知る
さびしきかなや 生きてあること みづうみ
生きの緒の根ざせる身内 慕ひつつ 八一
人とし生きて生きてあらめやも
毛艶美しい黒いマゴ 七つ頃の思案顔
一陽来復
2016 12/1 181
* 百人一首のなかで一人、一首をとならば、「伊勢」の「難波潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこのよを過ぐしてよとや」を挙げ、思い入れの反歌まで詠んだ と、ここでも書いた覚えがある。しかし伊勢のことはそれ以上多くを識らなかった、ただ勅撰和歌集のいずれにおいても多く名と歌とに触れていたし、その前詞 により華麗な人渦に巻かれていたことは優に察していた。宇多天皇の皇子を生み御息所と呼ばれ、さらにはその宇多上皇の子の敦慶親王との仲で、やはり有数の 歌人中務も生んでいたのは識っていた。小説に書けるヒロインだと目星をつけたまま、ま、有名すぎるかなとそのままになって、『秋萩帖』で、後撰和歌集や大 鏡の「大輔」を穿鑿し推理して書いたのだった。
書庫に二册、伊勢を書いた参考書、エッセイ本を永く蓄えていたが、国文学者の参考書はまことに索漠たる義理か厄介の頼まれ本のようで、見捨てた。未知の女性著者の「伊勢」は身を乗り出すようにはきはきと親切な筆で、いま、寝床わきへもっ来てある。
要するに、「人」への興味で歴史も古典も見てきたと思う。まだ何人か小説家として気にしている「人」を、胸に蔵っているが。
2016 12/4 181
* 大阪に大きな博奕場をの魂胆で狂奔のやからを責む
難波潟乱れてあしき世をいとふ
たみの歎きをうそぶくは誰ぞ 遠
2016 12/10 181
☆ ボブ・デイランさんノーベル受賞スピーチ全文 東京新聞12/12/夕刊
皆さん、こんばんは。スウエーデン・アカデミーのメンバーと、今晩ご臨席の素晴らしいゲストの皆さまに心からのごあいさつを申し上げます。
出席できずに申し訳ありません。しかし私の心は皆さんと共にあり、名誉ある賞を光栄に感じていることをご理
解ください。ノーベル文学賞の受賞を、想像したり予想したりすることはできませんでした。私は幼い頃から、このような栄誉に値すると見なされた 人たちの作品に親しみ、愛読し、吸収してきました。キプリングや(バーナード・)ショウ、トーマスーマン、パールーバック、アルベールーカミユ、ヘミング ウェーなどです。作品が教材となり、世界中の図書館に置かれ、恭しいロ調で語られる文学界の巨人たちには、常に深い感銘を受けてきました。このリストに私 の名前が連ねられることに、本当に言葉を失ってしまいます。
これらの人々が、ノーベル賞にふさわしいと自ら思っていたかは分かりません。しかし本や詩、戯曲を書く人なら世界中の誰もが、ひそかな夢を心の奥深くに抱いていると思います。恐らくあまりに深く秘められているため、本人でも気付かないほどでしよう。
私にノーベル賞受賞の可能性がわずかながらあると言われたとしても、月面に立つのと同じくらいの確率と考え
なければならなかったでしょう。事実、私が生まれた年とその後の数年間は、世界でこの賞にふさわしいと見なされた人はいませんでした(注・一九 四〇~四三年は文学賞受賞者がいなかった)。だから控えめに言っても、私は自分が非常にまれな集団の中にいることを認識しています。
この驚くべき知らせを受けた時、私はツアー中で、正確に理解するのに数分以上かかりました。私は文豪ウィリ
アムーシェークスピアのことが頭に浮かびました。彼は自分を劇作家だと考えていたと思います。文学作品を書い
ているという考えはなかったでしょう。彼の文章は舞台のために書かれました。読まれることではなく、話されることを意図していました。「ハム レット」を書いている時、彼はいろいろんなことを考えていたと思います。「ふさわしい役者は誰だろう」 「どのように演出すべきか」「本当にデンマークと いう設定でいいのだろうか」。創造的な構想や大志が彼の思考の中心にあったことに疑いはありません。
しかしもっと日常的なことも考え、対処しなければなりませんでした。「資金繰りは大丈夫か」 「後援者が座る良い席はあるか」「(小道具の)頭蓋骨をどこで手に入れようか」。
シェークスピアの意識から最もかけ離れていたのは「これは『文学』だろうか」という問いだったと確信します。 歌を作り始めた十代の頃、そして私の能力が認められるようになってからも、私の願望は大したものではありま
せんでした。カフェやバーで、もしかしたら将来、カーネギーホールやロンドン・パラディウム劇場のような場所で聴いてもらえるようになるかもし れないと考えていました。少し大きな夢を描けば、レコードを発表し、ラジオで自分の歌が聴けるようになるのではと想像したかもしれません。それは私の中で 本当に大きな目標でした。レコードを作り、ラジオで歌が流れるというのは、多くの人に聴いてもらえることであり、自分がやりたかったことを今後も続けられ るかもしれないということでした。
私は自分かやりたかったことを長い間続けてきました。多くのレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを開きました。しかし私のしてきたほとんど全てのことの中核にあるのは「歌」です。私の歌はさまざまな文化の、大
勢の人たちの中に居場所を見つけたようで、感謝しています。
一つだけ言わせてください。これまで演奏家として五万人を前に演奏したこともあれば、五十人のために演奏し
たこともあります。しかし五十人に演奏する方がより難しい。五万人は「一つの人格」に見えますが、五十人はそ
うではありません。一人一人が個別のアイデンティティー、いわば自分だけの世界を持っています。物事をより明
瞭に理解することができるのです。
(演奏家は)誠実さや、それが才能の深さにいかに関係しているかが試されます。ノーベル賞委員会がとても少人数だという事実は、私にとって大切なことです。
しかしシェークスピアのように私も、創造的な努力とともにあらゆる日常的な物事に追われることばかりです。「これらの歌にうってつけのミュー ジシャンは」 「このスタジオはレコーディングに適しているか」 「この歌のキーはこれで正しいか」。四百年もの間、何も変わらないことがあるわけです。
これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問した時は一度もありませんでした。
そのような問い掛けを考えることに時間をかけ、最終的に素晴らしい答えを出していただいたスウェーデンーア
カデミーに感謝します。
皆さまのご多幸をお祈りします。 ボブ・デイラン (共同通信・提供)
* よく分かる。
そして、むろん、歌も「文学」だと思うことにためららわない。我が国では、和する歌や相聞の和歌も、朗詠される漢詩も、催馬楽、風流、今様、平曲、謡曲、浄瑠璃等々の歌謡も、歌われる「文学・文藝」に他ならなかった。
ボブ・ディランの良い表明に接し得て、よかった。
2016 12/12 181
* 福島の山寄り、例の福島爆発原発から70キロほど離れた山頂の、小さな稲荷社の神像や装飾や石の狐像などを破壊したカドで、極東異国籍人男性が逮捕さ れ犯行を認めているという。同時に「入国の目的は、原発を見たかったのだが、警護厳しく入れなかった」とも自供している、と。
朝のニュース番組で喋っているご連中は、ただただ奇怪と驚いているだけだったが、即座に懼れ想ってよい点が少なくも、二つ、有る。
* 一つは、紛争や戦争や敵対感情をもった異国人が、戦争や紛争に勝ち、敵への憎しみや勝ち奢りのまま占拠・占領へ雪崩れ込むとき、歴史的にも、敗国民こ とに女性への悪しき支配や暴行がよく見られたが、更にその一方で、敗国の文化文物への「見たか」とばかり露骨で意図的な破壊や凌掠がしばしば伴ったこと は、多くの多くの例で、あまりに明らかであるということ。
そうした悪意や支配慾のあらわな國や国民と紛争を起こし、戦争に及び、そして敗北し占領されたときに起こる人的被害はもとより憂慮に堪えないが、それに もまさって怖ろしいのは、「二千年」の日本の誇る文化文物への徹底的な破壊または没収であること、この事にもっともっと今日の政治も民意も気付いていなけ ればならない。事実問題として、日本と日本人もかつて同様な事を他国の人や文物に、多少なりとしてこなかったとは云えないからだ。
日本文化・文物への異国籍旅客の汚損や破壊行為の報道が、すこしずつ異様に目立ちかけている昨今、粗雑な政治判断の迷走と暴挙とで異国との「戦争」状態 へ入ってしまうことは、誠に誠に懼れねばならない。懼れの「実感」として、深く敬愛してきた文化文物の被破壊を常に念頭にし、無謀な愚行は、ぜひぜひ避け ねばと、私個人は切に願っている。
伊勢神宮、法隆寺、清水寺、比叡山、日光、姫路城等々の建造物も、また数々の国宝的文化財や慣習も、われわれは真実守り抜かねばならない。その愛国目的に、「戦争」は、あまりに危うい選択になるのを、ひしひしと覚悟していたい。
日本列島は、どうかして手に入れたいと異国から渇望されている「國」であるとの認識を、今少し報道関係の識者たちに自覚しつつ発言して欲しい。安倍晋三はじめ政治家を自任している連中は、もとよりである。
* もう一つ、付け加えずにおれないのは、先のお稲荷破壊異国籍人の言い分に含まれていた、日本の「原発」への強い関心である。
日本列島のような細長く狭小な国土の、しかも至るところ海沿いに原発をもった國ほど、今日、戦意と悪意ある他国から簡単に攻撃できる國は在るまい。潜水艦は、瀬戸内海をさえ含めて、東西南北の海から容易に日本の国土に逼り得る。
むかし、愚かな一宰相が、トクトクと、日本列島は「不沈空母」だとうそぶき胸を張っていたが。
なにが不沈空母なものか 原発を
三基もねらい撃てば日本列島は地獄ぞ と、五年前にわたしは憂えていた。
「原発が見たかった。警護が厳しくて入れなかった」という異国籍人の関心がいかがなものであるのか、肌寒い思いをわたしは持っている。同朋の諸子は、如何。
2016 12/13 181
* 正古誠子さんの久し振りの第二歌集『のこるおもひを』を戴いた。落ち着いて深みのある言葉と表現で、最近出色の歌集であると観た。
例によって乱立もいいところの小説教室から同人誌が送られてくるが、感心できない。「小説ごっこ」に堕していないか。行文から熱い血が垂れていない。
もっとも、知名の画家も交え何十回と続いている画会の「選抜展」の繪など(写真で)見せて貰ってもなんと貧相な売り繪ばかりよと泣けてくる。時代に、旺盛で創意豊かな藝術精神が憔悴してしまっている。
2016 12/17 181
* 三冊目の新歌集「亂聲(らんぜう)』の用意もだいぶ出来てきた。あちこちへ書き散らした歌や句もなるべく拾いとって、まず「湖の本」で出版し、以降拾 遺を取り纏めつつ、「選集」最後の方で既刊の『少年』『光塵』といっしょに纏めたいと願っている。名歌名句など願っていない、好きこそものの上手でなくて も私の心やりとしてカタを付けてやりたい。
2016 12/18 181
* 朝いちばんに、明日二十一日の誕生日を祝って下さり、神戸の岡田昌也さんからご馳走の、いしるぼし、あまえびをたっぷり、 吉備の有元毅さんから名酒を二升、藤村研究家の宮下襄さんからも、例年の甘いころ柿をたくさん、戴いた。有難う存じます。
木まもりの柿ひとつ照りて日新たに
八一(やいち)の冬をただに迎へむ 秦 恒平
2016 12/20 181
* 十二月二十一日 水 冬至 八十一歳誕生日
* 起床9:30 血圧117-66(70) 血糖値94 体重64.2kg
木まもりの柿ひとつ照りて日新たに
八一(やいち)の冬をただに迎へし 秦 恒平
2016 12/21 181
☆ 『秦 恒平選集』第17巻を頂戴し
誠に有難うございました。夏目漱石『こころ』をめぐっての諸作品で構成された一巻を興味深く読み進めています。もちろん戯曲は既読でしたが、公演台本は初めて読みました。舞台化への過程の一端が分かって、おもしろかった。
『明治の古典』での「龍潭譚」現代語訳を含めて、将来泉鏡花を中心とした一巻が刊行されれば嬉しいのですが……。
新作映画『古都』を見ました。
同志社大学もワンシーン出ますが、娘の世代の奇妙な映画でした。 田中励儀 同志社大教授
* 漱石描く「菊」の墨絵葉書に。「あるほどの菊なげ入れよ棺の中」の漱石句が胸へ来る。
2016 12/21 181
愛してやまない、我が家の三獣士 次郎 太郎 小次郎
いつも便座の目前60cmにいて、トーサンと談笑します。
便座とふ安座うれしく語りかけて飽かなくわれの声の明るさ
2016 12/22 181
☆ かお吏です。
おじい様、おばあ様
素敵なお祝いが届きました!
ありがとうございます!
なんて可愛いリスさんと木のベルでしょう!
ゆい佳は周りのものに興味を持ち始めていて、木のベルの優しい音を聞かせたら、何?何?とキョロキョロしていました。
忙しい毎日ですが、娘の可愛さで何とか乗り切っています。
娘と大切に使わせていただきます。
本当にありがとうございました! かお吏とゆい佳より
* 嬉しい便り。
やす香も、さぞや、こういう日々が欲しかったろう。かお吏さんたちに、心からお願いしたい、どうかやす香らのぶんも、元気な幸せな日々を、と。
もう一人の孫娘みゆ希は、どこで、どう暮らしているのだろう。もう結婚したのだろうか。望みのままの職について頑張っているのだろうか。
やす香の生まれたその頃、わたしの「心 わが愛」が上演されていた。三十年の余もむかし話になった。みゆ希ももう二十五歳頃か、生き生きと心ゆく日々を聡くつよく生きていて欲しいと祖父も祖母も願わぬ日はない。病気するなよ。
* やす香を一時期両親のくらすパリへ送り出したまさにその頃にチェルノブイリ原発の大爆発が起きた。妻は、やす香の祖母は、愛おしい初孫のあの不幸な肉 腫という最悪の癌を、チゥルノブイリの悪しき放射線被害であろうと疑い歎きやむことがない。祖父のわたしにもそのような歎きがある。だから、原発や核弄り の横行、核兵器の悪しき使用にたいして徹底的に否認の姿勢を持しているのだ。
老い人われの病む身はあらき息ながら胸に
断乎と「No ! Nuke(核) !」のバッヂ
2016 12/24 181
* 名酒の櫻室町で年越しの鴨蕎麦鍋を戴いた。酔いつかれて横になり、源氏物語「行幸」の巻を読み終えた。源氏物語と沙翁劇とでは他は太刀打ちが成らない。で、わたし自身の「日本を読む」を読み耽っていた。
これから湯に入る。なにか。のんびりと読みたいが。いい詞華集をとも。山本健吉さんの選ばれたのを、懐かしく思い出しながら読もうか。
2016 12/31 181