観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
久しく山澤の遊を去り 浪莽たり林野の娯しみ
徘徊なす今し丘壠の閒 依依とし見ず昔人の居
一世 朝市を異にすと 此語 眞に虚しからず
人生 幻の化すににて 終に 當に空無に帰す
明旦 今日に非ざるに 歳暮 余れ何を言はん 陶淵明に借りて
或年の歳暮に
☆
窮居 人用寡く 時に 四運の周るをだも 忘る
空庭 落葉多く 慨然として 已に初冬を 知る
今我れ 楽しみを為さずんば
来歳の 有や否やを知らんや 陶淵明に借りて
一昨年の歳暮に
* 東工大 構内の櫻 *
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* 元旦 卯の春を憂無げにいはふ初日の出こころ静かに夫婦(ふたり)して生きめ
* 二人で、雑煮を祝った。建日子はどう祝ったろう.朝日子は。
2023 1/1
* 名酒「奥丹波」に酔うて 食卓に突っ伏していた。昔にやはり頂戴して謡っていた。
雨降り冷え冷え ひなあられ 白酒いやいや 奥丹波 辛口ひたひた 富士夫作 刻銘「花」とよ ぐいと呑め 土色くろぐろ うまざけの さかなはなになに 菜種あえ 雛にもそれそれ 召し上がれ 蛤汁(はまつゆ)あつあつ 弥生を待つ待つ 06 02 26
雛の春を待ちながら 第四歌集『亂聲』の巻頭「光塵拾遺」に。 歳月の速やかに愕く。
2023 1/5
* 白馬の節会 七草粥はひとしお好きな雑煮です、十五日の小豆粥も例年祝います、
キイの打ち損じがつづきます。 今日の体調は悪しきかぎりで、しんどさに「潰れ」つづけ、立ち歩みもママなりません。「生・活」途絶えそうですが、仕遺しどころか 仕掛かりの要も欲もたくさんあり、ます。
歩ける「脚ぢから」を喪っては、コロナが退散しても街へ出られない。つまり二度と会えない。もっとも、これが、と見喪うほどやせ細っています。きっかり30キロはへり、「貧相」を極めていますから。
不幸にして、好都合とも謂えますが、いま、わたしは気軽に撮って機械に移せるカメラもその技術/手順も無い。写真は私のいささかの趣味嗜好でしたのに、表現できない。 結局「楽しみ」は「読書」っきりです。好きな「食」の全部も失せて去りました。幸い鑑賞に足る繪や書や骨董類が身近に少しは残っています、書物にはこと欠きません、ことに和漢の古典には。それと、どう当たろうとも私から逃げて行かない「連れ合い」があり、それは「歴史」です。いつも頑強に、恰好に、老い衰えて行く私を待ち伏せて隠れない。
こう書いているうちも、体調は険悪の角を立て刺しこんで来ます。親しい話し相手は、「ツアラトゥストラ」です。毎朝晩に彼の「言う」のを聴き、為すのを見つめています。こんな友に出会うとは想ってこなかった。
お元気で。幸い、メールは、私独りで、読めるし送れます。怪我なさるなよ。
〇 みづうみのうれひもなみのゆくはてをたれまつとなく光るおほうみ 恒平
2023 1/7
〇 白楽天詩選 春風を歎ず
樹根雪盡きて花の發(ひら)くを催し
池岸氷消えて草をして生ぜ放(し)む
唯 鬢霜の舊によりて白きあり
春風我に於て獨り無情
* 日本人の好みと謂うことか。漢詩というと、まず白楽天詩集へ手を出す。
「やそしち郎」私の髪は、まだ、さほど白くないが。
2023 1/11
〇 白楽天詩選 府西の池
柳は氣力無くして枝先づ動き
池に波紋ありて氷盡(ことごと)く開く
今日(こんにち)知らず誰か計會するを
春風春水 一時に來る
* 七言絶句 「開」「來」が、韻字。「計會」は春風と春水が「もくろんで」の意。
* 実に春情美しい「詩」である。
2023 1/12
〇 白楽天詩選 紫薇花尾
絲綸閣下文書静かに
鐘鼓樓中刻漏長し
獨坐黄昏誰か是れ伴ふ
紫薇の花は紫薇郎に對す
* 宮廷の静謐典雅の景を叙している。 絲綸閣では勅書を扱う。
刻漏は 謂わば水時計、紫薇花は 百日紅、紫薇郎は 紫薇省の郎官
2023 1/13
〇 白楽天詩選 江柳を憶ふ
曾て楊柳を栽(う)ふ江南の岸
一たび江南に別れて兩度春なり
遙かに憶ふ青々(せいせい)たる江岸の上(ほとり)
知らず攀折(はんせつ)するは是れ何人(なんぴと)ぞ
* 江南の岸に楊柳を栽えおいて 職を辞し二度の春を経た。青々と枝葉を生うてい ようぞ だが 誰が手折らぬであるまいか、気がかりな、と。情致あり。
2023 1/14
〇 白楽天詩選 春を尋ぬ
貌は年に随ひて老ゆ如何せんと欲す
興は春に遇ふて牽かれ尚ほ餘りあり
遙かに人家を見て花あれば便ち入り
貴賤と親疎とを論ぜず
* 年々容貌は老いて仕方なし それでも 春至れば心浮き立ち 花と見れば
何処彼処構わず入って 庭主の貴賤も親疎も構はぬ と。これぞ 白楽天
2023 1/15
* 昨日は多くの時間をつかい、往年、原稿用紙に手書きで「書きさしてやめた」が、「捨てはしないで保存」の、「小説」以外の何ものでもない文章の、有題・無題合わせて七、八種もを機械に容れていた。よほど長いのも、400字用紙に2枚から8、9枚ほどのも。書き殴った一篇も無く、長い短いこそあれ、今の私からも改め推敲や添削を要する何も無く、それぞれ「小説」を「書き出し」の文章として仕上がっていた。だが、そのまま見捨てられ、しかし廃棄処分されなかったのは、長い短いこそ措けば銘々に自立・独自の場面と趣味を擁していたから、と、想えた。それぞれに、このさき、どんな小説へ仕上がっていたか、と、微笑めた。用いている「原稿用紙」から見て、遠くは「作家」以前の就職なかから、「作家」として自前の用箋を作って以後早い時期と、総じて半世紀は以前の「仕事」だった。こんなふうに、さまざまに、いろいろに着想しては書き起こして多くは保留されるのが「創作者」の常だと思う。そんな多くの中から書き継がれ仕上がりの作として脱稿され、編集者の手へ渡る。
わたしは自身「寡作」と思い込んでいてそんな述懐を書きとめたことが有り、即座に当時著名な女性の装幀者に「寡作どころか」と多作を呆れられてビックリしたことが有る。事実、今日とも鳴って振り返れば公表し書物化した作だけで大きな選集が「三三巻」「湖の本」が既に160数巻にも成っていて、活字化されてない書き置きでもまだぞろぞろ見つかる。昨日触っていたのも、それらの一部で、しかも書き殴ったものはない。短い長いなりに誰に読まれてもいい「私の文章」を成している。捨ててはしまえないなと思った時に、たまたま「花筺 はなかたみ」という雅な伝統の容れ物のあるのに気づいた。
〇 つみためしかたみの花のいろに出でてなつかしければ棄てぬばかりぞ
「秦」は「恒平」はこんな風に着想し発送し書き始めるのか、とは思われてそう恥ずかしくない「かきさし」が見つかった、本人もビックリ」というだけの事であるが、文章での創作者の「これが本来」なのではと確信する。幸いに「湖の本」に収録できて読者も手を受けていて下さる。眞実、ありがたい。
2023 1/15
〇 白楽天詩選 嶺上の雲
嶺上の白雲 朝(あした)に未だ散(ざん)せず
田中の青麥 旱(ひでり)して將(まさ)に枯れんとす 自(おの)づから生じ自づから滅し 何事をか成す 貌 能く東風を逐ふて雨を作(な)すや無(いな)や
* 旱魃を嘆いて気象を憾(うら)む如くして、く裏に、吏の民を濟(すく)う能わ ぬを諷している。白楽天には懸かる批評の詩志がまま見られる。
2023 1/16
〇 白楽天詩選 曲江 感あり
曲江西岸 又 春風
萬樹花前の 一老翁
酒に遇ひ花に逢ふて 還(また)且つ 酔ふ
若(も)し惆悵(ちうちやう)の事を論ずれば 何ぞ窮まらん
* 老耄 もし泣き言になれば限りが無い 止めておけよ、と。身に沁む。
明快に清朗 だから白楽天の楽天に親しむ。
2023 1/17
〇 白楽天詩選 桐廬館に宿して崔存度と同じく醉後の作
江海漂々と 共に旅游し
一樽相勧め 窮愁を散ず
夜深けて醒後に愁ひ還た在り
雨は梧桐に滴るよ 山館の秋
* 旅游談笑醉後の寂漠 夢裡に訪のふ山館梧桐の雨 身に沁む
2023 1/18
〇 白楽天詩選 白蓮池 舟を浮かぶ
白藕の新花 水を照して開き
紅窓の小舫 風に信せて回る
誰か 一片 江南の興をして
我を逐ひ慇懃萬里に來ら教む
* 曾遊江南の今も瞼に懐かしい景色が、わが跡を慕うように万里遠方の今此処の舟 遊びでも覧られるとは。
* 白楽天は、明瞭 適確 雅致、共感。
2023 1/19
〇 白楽天詩選 潮
早潮纔かに落ちて 晩潮來たり
一月(いちげつ)周流 六十廻
獨り光陰の毎朝があつてのみ復た暮るるならず
かく杭州に老ひ去(いそ)ぐは潮の催ほすなれ
* 江湖麗しく楽天が愛惜やまぬ杭州は 相寄せては退く大河の潮鳴りももの凄い。 私も、中日文化交流協会に招かれて、親しく目に耳にしたことがある。
2023 1/20
〇 白楽天詩選 香山 暑を避く
六月 灘聲猛雨の如し
香山樓の北 暢師の房
夜深く起き闌干に倚つて立てば
満耳 潺湲 満面涼し
* 香山樓は楽天の樓 暢師とは、近隣の禅僧の名であり烈しい水聲をも謂う。
2023 1/21
* 毎早朝に白詩を読む清適、有難し。
2023 1/21
〇 白楽天詩選 晩秋閑居
地は僻に門は深く送迎少なし
衣を披いて閑坐し幽情を養ふ
秋庭は掃はず藤杖をたづさへ
閑かに梧桐の黄葉を蹋み行く
* 閑適をただ羨む。
2023 1/22
〇 白楽天詩選 菊花
一夜新窓 河原に著きて輕し
芭蕉新たに折れて 敗荷傾く
寒に耐ゆるは 唯 東籬(とうり)の菊のみあり
金粟(きんぞく)の花は開きて 暁は 更に清し
* 籬は垣根、敗荷は、蓮の花。金粟は、美しい黄色をほめている。
清爽 夢類
2023 1/23
〇 白楽天詩選 蟲を聞く
暗蟲は喞々 夜は綿綿
況んや是 秋陰雨降らんと欲する天
猶ほ恐る 愁人の暫く睡を得んこと
聲々移り 臥床の前に近づく
* 喞々(そくそく)の虫の聲に晩秋の雨音も加わらんと。安眠、得るや否やと。
京都に育って私の幼時にもかかる晩秋の夜更けに睡り侘びた覚え、あった。
* 上記の間、終夜の夢見の全部を忘れている。「アハハン」「アハハン」と唄っていた。「いい湯」に浸かっている快感は無くて。
2023 1/24
〇 白楽天詩選 白鷺(はくろ)
人生四十 未だ全く衰へざるに
我 愁ひ多きが爲に 白髪垂る
何の故ぞ 水邊の雙白鷺よ
無愁頭上 亦 絲を垂るは
* 愁い無げな白鷺夫婦が、なんで髪は白いかと、諧謔。
この私めは、はや人生九十に垂(なんな)んとし、梳りようも無く雑草然と白髪は乱 れ放題。白楽天先生、そんなにも未だお若いか…。
2023 1/25
〇 白楽天詩選 新雪
思はず朱雀街頭の鼓(こ)
憶はず青龍寺後の鐘(しょう)
惟(ただ)憶ふ 夜深けて新雪の夜
新昌臺上 七株の松
* 朱雀も青龍も都・長安街区の名。そこでの鼓聲や鐘聲の美妙よりも、はるか な、詩人往時の任地杭州で楽しんだ名高い新昌臺上で眺めた七株の高松を白く染め た新雪が懐かしいと。うむを謂わせない。
2023 1/26
〇 白楽天詩選 清明の夜
好風朧月 清明の夜
碧砌紅軒 刺史の家
独り廻廊を繞り行きて 復た歇ひ
遙かに弦管を聴きて暗に花を看る
* 冬至の後、百五日を「清明」と謂う。「碧砌」は碧い砌石での階段。「刺史の家」 とは、いわば県知事の官邸。ながい廻廊を漫歩しまたやすみ、はるか市中絲竹の 聲を聴き暗に花の色香に酔うとか。
2023 1/27
〇 白楽天詩選 亂後流溝寺を過ぐ
九月徐州 新戰の後ち
悲風殺氣 山河に満つ
唯 流溝山下の寺あり
門前舊に依て白雲多し
* 「徐州 徐州」と「軍馬」の進む軍歌をあれで太平洋戦争より前、私はまだ幼稚 園前頃によく聴いたと思う。惨状の戦地になりやすい地勢なのか。
中国の「九月」はたださえ物寂しいと聞く。そんな中、流溝山下の一寺ばかりは舊觀 のままに白雲門前を擁して、行き過ぎながらもさも清拙の別世界を静かに保っている と。情景、目にも身にも沁みる。
2023 1/28
〇 白楽天詩選 府池の西亭に宿す
池上の平橋 橋下の亭
夜深けて睡覺め橋に上りて行く
白頭の老尹重ねて來り宿すれば
十五年前の舊月明
*「老尹」は年取った官人、白居易自身、十五年経た再訪、再宿。橋上の月明は往時 に変わりなく明るく、自身はいまや白髪と。情・景 ともに深深。
2023 1/29
〇 白楽天詩選 李十一と同じく酔ひ元九を憶ふ
花の時 同じく酔ふて春愁を破る
酔ふて 花の枝を折り酒籌に當つ
忽ち憶ふ 故人の天際にに去るを
程を計れば 今日 梁州に到らん
* 友人李十一と花に酔ううち、俄かに天涯客遊の友元九を憶い、旅程を指折り数 えれば、もうはや梁州にも到って居ろうよと。
酒籌とは、友との醉飲に当たって酒盞の数を定めおく籤と。
2023 1/30
〇 白楽天詩選 舊詩巻に感ず
夜深けて吟罷み 一長吁す
老涙燈前に 白鬚を濕ほす
二十年前 舊詩巻に
十人酬和 九人無し
* 「二十年前の舊詩巻」に談笑酬和したあの「十人の九人」が今は亡い、と。
私の「舊歌巻」は「五十年前」にすでに独り編まれていて、仲間は無かった。今はも う失せたは、何か。思い歎くまい。己が「新詩巻」を寧ろ成せよと。
「長吁(ちょうう)」は,深々の吐息、ため息。嘆息。
2023 1/31
〇 白楽天詩選 酒に對ふ
巧拙 賢愚 相ひ是非す
如何ぞ一醉盡く機を忘る
君知るや天地中の寛窄を
鵰鶚 鸞皇 各自に飛ぶ
* 酒の上ぞ、五月蠅い批評は止せ 天地は宏大 善鳥も猛鳥も各自自在に飛ぶ、 それと同じ、と。「忘機」詰まりは憂き世のことは忘れて酔ふべしと。
* そうは、行きませんなあ、なかなか。
2023 2/1
〇 白楽天詩選 酒に對ふ 二
蝸牛角上 何事をか爭ふ
石火光中 此の身を寄す
富は貧に隨ひ 且つ歡樂
口を開きて笑はざるは 是れ 癡人
* 区々たる冥利の争ひは止そう 石を打ち合わせて光るそれほどの短かな人生 ぞ。富であれ貧であれ成る樂しみを樂しめ、よく樂しんで、笑ひもならぬ痴人には なるなと。
2023 2/2
〇 白楽天詩選 秘省の後廳
槐花 雨に濕ほふ 新秋の地
桐葉 風に翻へる 夜ならんと欲する天
盡日 後廳 一事無し
白頭の老監 書を枕に眠る
* 樂天が文宗の朝に秘書監の頃、初秋廳中閑寂の景を謂ひ 白頭仮眠の自身を眺 めている。
2023 2/3
〇 白楽天詩選 禁中夜 書を作(な)し元九に與へんと
心緒 萬端 兩紙に書し
封ぜんと欲し重ねて讀む 意遅遅
五聲の宮漏初めて鳴る夜
一點の窓燈 滅せんと欲するの時
* 親友元九への手紙が意に満ちて書けない、時すでに宮中漏刻は深夜を告げて、 残りの燈火も消えなんと。
2023 2/4
〇 白楽天詩選 村夜
霜草は蒼蒼 蟲は切切
村南村北に 行人絶ゆ
獨り前門を出でて野田を望めば
月明らかに蕎麦の花 雪の如し
* 蒼蒼は青白くてもの凄く 青青といえば春草の形容。野田は「やでん」蕎麦は 「けうばく」 秋寂 村落の夜景を吟じている。白詩の形容は日本人には明瞭、
判り良くて親しまれた
2023 2/5
* ただただ寝入りたく、起きている心地しない。
* ただただ寝入っている。話にならない。疲労困憊が服を着ている。
◎ だだら寝に夢もみぬまの底しれぬ闇のふかみへ身をしづめ行く
2023 2/5
〇 白楽天詩選 舟中 元九の詩を讀む
君が詩巻を把り 燈前に讀み
詩盡き燈殘して 天は 未明
眼痛み燈滅して 猶ほ 暗坐
逆風浪を吹きて 船を打つ聲
* 天未明までも友の詩巻をむさぼり読み、眼痛み 燈を吹き消してもなお詩 中の事どもを思うて暗中に坐しおれば、風浪の烈しく船端に逼るよと。
2023 2/6
* 一時は深夜にも起きて機械前へ来ていた。いまは寝坊するほど寝入っていたい。体も冷え切っているか。朝食を済ませ、よたよたと立ってそのまま寝室へ.目覚めたら、正午。言葉通り「だだら寝に夢もみぬまの底しれぬ闇の深みへ身をしづめ行く」日々。
2023 2/6
〇 白楽天詩選 初めて官を貶(へん)せられ
草々家を辭して後事を憂ひ
遅々國を去りて前途を問ふ
望秦嶺上頭を回して立てば
無限の秋風は 白鬚を吹く
* 望秦嶺は、長安より東南への出路。初めて体験の左遷、極く凄切。
2023 2/7
〇 白楽天詩選 草堂にに別る
三間の茅舎 山に向て開き
一帯の山泉 舎を繞り廻る
山色 泉聲 凋悵する莫れ
三年官満たば却て歸來せん
* 山色泉聲よ 別れをいたみ歎くな、すぐ歸って来ると。
2023 2/8
〇 白楽天詩選 秋房の夜
雲は青天を露はし 月光を漏らす
中庭に立つ久しう 却て房に歸る
水窓席冷やかに 未だ臥す能はず
殘燈挑げ盡して 秋の夜は 長し
* 私なりに 努めて美しい韻律の日本語にと願いながら。
2023 2/9
〇 白楽天詩選 梨園の弟子
白頭 涙を垂れて梨園を語る
五十年前 雨露の恩
問ふ莫れ華淸今日の事を
満山の紅葉 宮門を鎖す
* 「梨園」とは、日本風に言えば役者・藝人らの、詩中に謂う「白髪」の伶人ら の冷「所属」を謂う。「華淸」は今日の西安に玄宗帝が楊貴妃を寵愛した宮廷。 詩中の伶人の「問ふ莫れ」には、貶托されていた詩人にして官吏の樂天白居易 自身の感慨が託されているのだろう。
2023 2/10
〇 白楽天詩選 青門の柳
青々たる一樹 心傷ましむる色
曾て幾人 離恨の中に入りしぞ
都門に近う多く別れを送るが爲に 長條は折り盡され 春の風を減ず
* 「青門」は長安京に。立つ人も送る人も、都門に向き合うて互いに柳枝を折 って記念とするのが、往昔の風習 柳の春はやや風情を損ずるが常であったと。
2023 2/11
〇 白楽天詩選 長洲苑
春 長洲に入り 草 又 生ず
鷓鴣飛び起ち 人の行く少なし
年深うして辨ぜず 娃宮の處
夜 夜 蘇臺 空しく月明し
* 「長洲苑」は蘇州太湖の北、呉王遊猟の園庭、「娃宮 アキュウ」も同じ く。「蘇臺」は呉王が都した遺跡、すでに其の興亡また荒廃を嘆じている。
2023 2/12
〇 白楽天詩選 早(つと)に皇城に入り王留守の僕射(ぼくや)に贈る
津頭の殘月 曉 沈沈
風露は凄凄 禁署深し
城柳宮槐 謾りに揺落すも
悲愁は 貴人の心に到らず
* 柳や槐の落葉頻りに世情の不快を諷喩しつつ、貴顕の者らの、民の悲しみ を知らざるを遺憾と憎む、か。「津頭」は渡し場。「禁署」は宮中の役所。「王 留守(オウリュウシュ)」は職の名乗り。詩人の表情が窺える。
2023 2/13
〇 白楽天詩選 澗中の魚
海水桑田 變ぜんと欲する時
風濤は翻覆し 天も地も沸く
鯨呑し咬闘し 波血と成るも
深澗に遊ぶ魚は樂みて知らず
* 名利に狂い舞う世俗・権勢をよそに、民も詩人もさも深澗に游ぎ樂しむと。
2023 2/13
〇 白楽天詩選 家園
籬下の先生 時に醉ふを得
甕間の吏部 暫く眠りを偸む
如何ぞ 家醞の雙魚榼
雪夜も花時も長く前に在るに
* 籬下先生かの詩聖陶淵明はたまにしか呑めなかったし、吏部畢卓は隣家の酒 を盗み呑むしか無かった。比するなら我れ楽天には家醞の酒在り、恰かも好 し雙魚の榼(酒器)も在り、雪の夜にも花の時にも好きに呑めますわいと、 或いはいささか詩人の口惜しい法螺かもしれぬ、が。おもしろい。
2023 2/15
〇 白楽天詩選 霊巖寺
館娃宮畔 千年の寺
水澗く雲多くして客到る稀なり
聞説 春來りて更に惆悵たりと
百花深き處一僧帰る きく * 亡国の恨み多き呉王の旧蹟、水澗(ひろ)くひっそり閑。聞説(きくならく) 花の春には少しはと、ところが、と。「一僧帰る」が美しいまで「詩」を成した。
2023 2/16
〇 白楽天詩選 暮江の吟
一道の殘陽 水中に舗く
半江は瑟瑟 半江は紅し
憐れむべし 九月初三の夜
露眞珠に似 月弓に似たり
* 「瑟瑟」淸碧の名珠。ここに「可憐」とは「可愛」の意。 美しい。
2023 2/17
〇 白楽天詩選 白雲泉
天平山上の白雲泉
雲自づと無心 水自づと閒なり
何ぞ必ずしも山下に奔衝し去り
更に波浪を添へ人間に向はんや
* 山中の静閒を去って、まして波風たてて人間(じんかん)に奔衝の、何要のあろう やと、戒めている。詩人心中の本意を寓したのであろう。
2023 2/18
〇 白楽天詩選 點額魚
龍門點額 意何如
紅尾青鬐 却て初めに返る
見説 天に在りて雨を行るの苦しみを
龍と爲る未だ必ずしも魚と爲るに勝らず
* 龍門は、俗に謂う黄河上流にあり、鯉魚の老いて遡れば、龍となると。成り損 ねたなら如何。いやいや、なまじいに龍と成れば成ったで、苦労して天下に雨 を降らせねば。龍必ずしも不遇の魚のママより好いとは言えぬよと。「點額」 は、しくじるの、ままならぬ の意趣。
2023 2/19
〇 白楽天詩選 王昭君
漢使脚回 憑て語を寄す
黄金何れの日か蛾眉を贖はんと
君王 もし妾が顔色を問はば
道ふ莫れ宮裏の時に如かずと
* 君王の誤選で匈奴に与えられた美貌天下一の「王昭君」の、はるばる異邦に 使いした漢使の帰国をとらえての悲痛の訴え。
財宝を賭しての私のお迎えはいつ来るのか、もし王様が私の容色を問われば、 後宮に寵愛されていた昔に及ばず、衰え窶れているなど、どうか道(い)う て下さるな、それでは、ますます買い戻してはくださるまいよ、と。
「宮女外交」政略の悲惨な犠牲者であった。漢皇は謀られてと悟らず、もっ とも醜い宮女と思って匈奴へ遣わしたのであった。
2023 2/20
〇 白楽天詩選 江客に贈る
江柳 影は寒し新雨の地
塞鴻 聲は急に欲霜の天
愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
水は蘆花を澆りて月は船に満つ
* 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を美しく慰めている。
* いま見入っている日付等から「白詩 江客に贈る」画面、真っ白い地も鮮鋭に黒い漢字もひらかなも、美しくて見とれている。早朝の冷気につつまれ、戴き物の綺麗な「肩背覆い」も、部厚い温かな「膝掛け」も有難い。かすかに空腹感もある。朝食は「マ・ア」ズと一緒の、八時。
2023 2/21
* 東大名誉教授久保田淳さん、新著『藤原俊成』吉川弘文館の人物叢書を頂戴した。帯にあるとおり「定家ら新古今歌人を育てた中世和歌の先導者!」そのもの、私も、子息定家や西行以上に親しみも関心ももってきた。感謝。
2023 2/21
〇 白楽天詩選 江客に贈る
江柳 影は寒し新雨の地
塞鴻 聲は急に欲霜の天
愁ふ君獨り沙頭に向て宿するを
水は蘆花を澆りて月は船に満つ
* 「塞鴻」は、邊塞より飛来の鴻雁を謂う。「欲霜の天」は、霜ふらんと欲す るの天気。江上の秋景を叙して、舟行の客を慰めている。
2023 2/22 昨日と重複
〇 白楽天詩選 燕子樓
滿窓の名月 滿簾の霜
被 冷やかに 燈 殘つて 臥床を拂ふ
燕子樓中 霜月の夜
秋來 只一人の爲に長からん
* 「燕子樓」は、徐州知事建封が愛妓關盼々の寡居としていた。詩人は關女に 三詩を呈し、關は主の爲ならじと謗られたかに察し、同じく三詩を白楽天 に返してのちに自死した。「被」は被蒲団。
2023 2/23
〇 白楽天詩選 同上 燕子樓
鈿は暈り 羅衫 色煙に似たり
幾回着けんと欲して 即ち潜然
霓裳の曲を舞はざりしより
畳みて 空箱に在る十一年
* 主公在世の折は盛飾の鈿(でん=かんざし)も羅衫(らさん=うすぎぬ)も は虚しく藏はれてあると。
2023 2/24
* 安眠とはとても謂えなかった、もう明け方になっていたかも。またしても都市なかで、腫物のような、限局され細微に腐熟した地区へ、女友だちの好奇心に引き摺られて紛れ込み、一度はあやうく遁れ出たのに、女の意地で再び紛れ込み、とどのつまり侮蔑の言葉を嗤って吐き散らす女性は殺されてしまい、わたしは救い出しも成らずからがら遭場から脱出できた。そんな夢に怯えていた。安眠などと、とても謂えない。
いつもは独り引き込まれ紛れ込むのに、昨夜は、誰とも知れない年若い女性の連れがあって、女は悪くいちびって殺された。凄い街𨸟だった。
一度として同じ街𨸟でないが 事態の凄惨はいつも同じで、火傷を負うように敵意や悪意や乱暴で迎えられ、からがら、かつがつ遁れ出るを得てきた。
怖い夢だ。そしてやはり想い出すのは蕪村の句 月天心貧しき町を通りけり
2023 2/24
* 六時。白楽天の七言絶句 鑑賞を、一段落した。
2023 2/24
〇 白楽天詩選 閨怨
寒月沈沈として洞房静かに
真珠簾外 梧桐の影
秋霜下るを欲し手先づ知る
燈底裁縫 剪刀冷ゆ
* 「真珠簾」は所謂「玉すだれ」 寒月沈沈 空閨の婦人が裁縫の実感を詠写。
2023 2/25
〇 白楽天詩選 後宮の詞
涙は羅巾を濕ほして夢成らず
夜深けて 前殿歌を按ずる聲
紅顔未だ老ひずして 恩先づ斷え
斜めに熏籠に倚り坐して明に到る
* 前殿では深夜まで恩寵を被る者らの歌舞の賑わい。時分は未だ老いも朽ちも していないのに主公の「恩先づ斷え」て落ちこぼれ、独り後宮に幽居し、眠 るに眠れず熏籠に倚ったまま夜を明かしている。「羅巾」はうすものの手巾。 「前殿」は宮中晴れの場。「按ずる」は種々に演奏演舞するのである。「熏 籠」で、衣裳を覆いかけ香を焚きこ込める。
2023 2/26
〇 白楽天詩選 邯鄲冬至の夜家を思ふ
邯鄲の客裏 冬至に逢ひ
膝を抱て燈前影身に伴ふ
想ひ得たり 家中夜更けて坐し
還た應に遠行の人を説着すべし
* 邯鄲の客舎に一人悄然燈下に坐し故郷を思へば 故郷では家人らも夜更けて 還(また)應(まさ)に遠く旅中の我が上を語り合うていようよ、と。
2023 2/27
〇 白楽天詩選 竹枝の詞
瞿唐峡口 水煙 低れ
白帝城頭 月西に向ふ
唱へて竹枝 聲咽(むせ)ぶ處に到れば
寒猿 暗鳥 一時に啼く
* 「竹枝」は、風土を詠ずる「歌曲」の名、けだし巴人の俚歌、俗曲と。「瞿 唐(くとう)峡口」は揚子江の蜀より出る辺り。「白帝城」は蜀の古城。
巴頭の船舫 巴西に上る
波面風生じて 雨脚齊し
水蓼の冷花 紅 蔟蔟
江籬の濕葉 碧 凄凄
* 巴頭 巴西は、揚子江の四川省即ち蜀より湖北省に入る最も危険な川域。
* 白楽天の七言絶句鑑賞を 此処で結ぶ。
2023 2/28
○ 秦 兄 一病息災ぐらいなら何よりです。自転車に乗って走れたら結構なことで羨ましい。
兄に比べて私の足腰はコロナ禍が始まった頃=兄のHPが途絶えた頃からですが、すっかり弱ってしまいました。正に急激に、です。運動不足です。自業自得です。強いスピリッツを飲む根性だけは健在です。
兄と違って 私は 新潮国語辞典(現代語・古語)昭和57年新装改訂版1刷と三省堂の新明解国語辞典第3版・昭和56年を40年間併用していましたが、昨年末から ネットのJapan Knowledge Personalを主に利用しています。ベッドには不向きですが、各方面の専門語も引けて重宝しています。
こんな近況です。お互いに山の神に感謝をして日々を愉しく過ごしましょう。
書き忘れるところでしたが、NHK-BS 3CH午後1時からの映画はやたら再放送ものが多すぎる。 達
* 健康体へ少しずつでもしっかり立ち直って下さい。私も,同じくと。
○ 花やはる 春やはなめく やまかはの 色はにほへど わが身よに古る 23 3 5
2023 3/5
○ 花やはる 春やはなめく やまかはの 色はにほへど わが身よに古る
2023 3/6
* ほぼ夜通し「ひなまつり」の唄を一番二番とおして唱い続けていた、歌詞を正確に良く覚えているのに驚きながら。この唄でわたしが一等心しほれるのは、「お嫁にいらしたねえ様によく似た官女のしろい顔」、歌集『少年』の昔が生き返る。
2023 3/10
◎ 令和五年(二○二三)三月十四日 火 結婚六十四年記念日
○ むそよとせ みぢかに生きて永き世を 観・聴き・語らひ 彌(い)や和やかに
○ ひさかたの光りの朝を祝ふよと吾(あ)らが さ庭に來鳴くひよどり
2023 3/14
* 「文学館報」で、篠弘氏と樋口覺君の訃報に触れた。樋口君はもと医学書院に居て、三島由起夫のアトを追うように自刃死された村上一郎さんに私淑していたか、と、憶えている。私より一世代近く若かったが。纏まった仕事は何も識らない。ま、文壇ひとになっていたか。
篠さんは小学館に居て、人物日本史等の仕事や「短歌」座談会で付き合い、烈しく短歌論争したこともあった。編集者で、歌人でもあった。
訃報などめったに見ないのに、たまたま、今朝、郵便物の中で知った。時節が、又、ひとしきり昔へと後じさりした。
2023 3/21
○ お元気ですか、みづうみ。
昨日湖の本を無事に頂戴しました。みづうみに申し上げるのを忘れていたかもしれませんが、ご本はビニール包みなしでも毎回とてもきれいに届いています。謹呈箋も お手間を考えるといつも申し訳なく思っていましたので、以後も不要とお考えいただきたく存じます。
今朝、<作家人生の「まえがき」>まで読了しました。デビュー前の若書きですのに、すでに大家にしか成りようのない凄みの文章を読ませていただきました。著作四作「まえがき・あとがき」がそれぞれ立派な独立した作品で、出発時点においてすらの、この文学的到達には 肌に粟立つものがあります。
これから「とめども波の」「洞然有聲」に入ります。この二作品は みづうみのレイタースタイルの名作のように直観します。
情けないと怒らないでいただきたいのですが、「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」と読んで間違いございませんか。奥深く静かでありながら聲を出すという意味に受け取ってよいものか? お教えくださいますか。
「とめども波の」の 最初の和歌三首 素晴らしいです。みづうみの名歌ベストいくつかに挙げたい。お母上からの歌人遺伝子が大輪の花を咲かせています。
もし誰かに似るのなら、容姿ではなく才能のほうが嬉しいと思うのは欲張りでしょうか。
昨日から 花冷えの雨です。どうかご体調くずされませんように。発送作業のお疲れでませんように。
毎回湖の本を心待ちにして、その期待の裏切られたことがない、そんな文学者は稀有です。 益々の高みにお上りください。 春は、あけぼの
* 作者へ出で立ち前の四冊「私家版本」への「まえがき・あとがき」を揃えてみた編成をご支持下さり、「ああ、よかった」と、嬉しく手を拍ちました。
「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」 志して惟うことある方々には、つねに胸深くにちからづよく響いている「聲」かと想われます。
歌三首に目をとめて戴け、幸せです。縁淡く死に別れていた生母の文藝を引き継げてますこと、母は喜んでいてくれましょうか。
◎ あかぬまの花冷えの雨もうつくしくわれの狭庭(さには)に木々とうたへる
2023 3/26
述懐 恒平・令和三年(2021)四月
* ここに「恒平」三年としてあるのは、
私・秦恒平の死期をかぞえる三年目
という気持ちを示している。他意はない。
たのしみは難しい字を宛て訓んでその通りだと字書で識ること
たのしみは難しい字を訓みちがへ字書に教わり頭さげること
☆ 此のごろの最中仕事での楽しみです 恒平
☆
たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時
たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時
☆ 此のごろの仕事疲れの癒しです 恒平
たのしみは誰が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山
たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと
「マ・ア(仔ネコ兄弟)」と見るとき
☆ 結婚して62年 ともに八五歳の境涯です
たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき
たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき
☆ 逝きし人らとの このごろの対話です◎
『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
◎ 緒言 本書は、宋の名賢謝疊山先生の選に係り、唐宋諸家の名詩を輯(あつ)めしものにて、我邦(わがくに)にても支那にても、頗る名高かき詩藉なり。故に苟(かりに)も人の口にのりて、朗吟せらるるものは、多くは本書中の詩にて、今尚口碑(くひ)に傳はりて、人口に膾炙(かいしゃ)するもの多し。(以下・略)
○ 春日偶成
雲淡風輕近午天 雲淡く風輕し近午の天
傍花随柳過前川 花に傍(そ)ひ柳に随ひ前川を過ぐ
時人不識予心樂 時人は識らず予が心の樂みを
將謂倫閑學少年 將(まさ)に謂はんとす閑を倫(ぬす)んて少年を學ぶと
* 志士必誦と「明治」の本らしいが、私は気楽に臨んでいる。「千家」を尽すことは出来まいが、心行くままに選奨してみたい。明治四一年師走二十五日に初版、翌年三月十八には「訂正四版」が「定價金五午拾錢」で、東京神田の「光風樓書房」から出ているのを秦の祖父鶴吉が購っている。今日の文庫本大の上製本である。表紙には、題字等のほかに下半に雅な繪が刻されて金彩されていたのが、もう背文字もともに、すべて、擦れ果てている。愛翫に足る美しい本であったろう。
2023 4/1
* 今朝は、五時きっちりに床を起ち、二階へ来た。待っている仕事は、とめどもなく、私を呼ぶ。私が呼んでいるのだ、實は。
○ みのうちをなみだちはしりとめどなき名をしらぬひの火の秀(ほのほ)あやうし
2023 4/1
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春日 朱文公 宋に仕へ 官 翰林学士に至る
勝日尋芳泗水濱 勝日 芳を尋ぬ泗水の濱
無邊光景一時新 無邊の光景 一時新たなり
等閑識得東風面 等閑に識得す 東風の面
萬紫千紅總是春 萬紫千紅 總て是れ春
2023 4/2
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春宵 蘇子瞻 號東坡 宋に仕へ 官 翰林学士に至る
春宵一刻値千金 春宵の一刻は 千金に値す
花有淸香来有陰 花に淸香有り 月に陰有り
歌管樓臺聲細細 歌管の樓臺は 聲 細細
鞦韆院落夜?? 鞦韆の院落は 夜 ??
* 歌管・鞦韆(謂わばブランコ)を謂うて 以て聲色戯玩の耽樂を戒むる願意・含意 あるかと。作者は蘇東坡(そ・とうば)の名で我が国に親しまれた。
2023 4/3
* 半ば、寝入ってしまいそうにアタマを垂れて機械のキイを探している。もう一度、つぶやく…
○ みのうちをなみだちはしりとめどなき名をしらぬひの火の秀(ほのほ)あやうし
* もう、「長編」と謂わねば済むまい創作が、あやしいまで危なく底揺れして不気味にすすんでいる。しきりに、寒け。風邪か。
2023 4/3
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 城東早春 楊巨源 字 景山 浦中の人
詩家淸景在新春 詩家の淸景は新春に在り
緑柳纔黄半未? 緑柳纔かに黄に半ば未だ?しからず
若待上林花似錦 もし上林の花の錦に似るを待つなら
出門倶是看花人 門を出づるもの倶に是れ花を看る人
* 古來、君徳や陪臣の禮にかけて仰々しく解されたが、素直に、城東の早春、錦花に 惹かれ 倶に心弾んで門を出る風流と読み、かつ悦びかつ楽しみたい。
2023 4/4
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 春 夜 王介甫 名 安石 宋 ?寧に相を拝し荊公に封せらる
金爐香燼漏聲殘 金爐に香燼きて漏聲は殘る
剪剪輕風陣陣寒 剪剪たる輕風 陣陣と寒し
春色腦人眠不得 春色 人を腦ませ眠り得ず
月移花影上闌干 月は花影を移し闌干に上る
* 王安石は、希世総理のの政治家 撫州臨川の人。詩は 齷齪の詮議や介意により推 して読まず、漢詩自体の妙味を字句の斡旋そのものに悦び、かつ楽しみ読みたい。
2023 4/5
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 海 棠 蘇東坡
東風嫋嫋汎崇光 東風嫋嫋 崇光を汎べ
香霧空濛月轉廊 香霧空濛 月廊に轉ず
只恐夜深花睡去 只だ恐るは夜深うして花睡り去るを
故焼高燭照紅粧 ことさら高く燭を焼いて紅粧を照せ
* 崇光は宮居の名。唐王と楊貴妃の逸事に取材。推して宋の時事時節を諷諫の要は 無い。
2023 4/6
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 淸 明 杜牧之
清明時節雨紛紛 清明の時節 雨紛紛たり
路上行人欲斷魂 路上の行人 魂を斷てり
借問酒家何處有 お尋ねする 酒家は何處
牧童遙指杏花村 牧童遙か指さし杏花村と
* 名は牧 京兆の人 唐の太宗の初 信士に登る。時勢を諷して複雑に読む必要なし。 題のまま、しとどの雨に降られながらも、行人、牧童、清明余裕の光景を微笑して 味わうが良い。漢字一一の美しさ慥かさに心惹かれ、横溢の詩趣を喜びたい。
2023 4/7
* 歯科から帰って、ただただ寝入っていた。
建日子が、帰ってきた。……、もう建日子「との」時間、残り少ない、無いに近いのだなと、諦めるように思う。
朝日子との、みゆ希との時間は、もう希望の無い「ゼロ」同然のままに吾が世は果てる…らしい。次の歌に、いま、私は同感していない。
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
幸いに、「身内」の思いを、「肉親」よりも遙かに遙かに豊かにわたしは識っている、感触している。過去にも。現在でも。それが、「生きてきたわたし」が、「わたし自身にだけ」与えうる「遺産」だ。
2-23 4/7
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 淸 明 王元之
無花無酒過清明 花無く酒無く 清明を過ぐ
興味蕭然似野僧 興味蕭然たる 野僧に似る
昨日隣家乞新火 昨日 隣家の薪火を乞ふも
曉窓分與讀書燈 曉窓 分與ふ書を讀むの燈
* 名は禹 歳七歳にして 能く文に屬すと。爲に、眞宗のとき其の才を忌まれ貶せ られている。薪火を乞われても 讀書の燈しかない貧に在り、しかも清明。
2023 4/8
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 社 日 張 演
鵞湖山下稲梁肥 鵞湖山下の秋 稲も梁も肥え
豚柵?棲對掩扉 豚柵 ?棲は みな扉を掩ふ
桑柘影斜春社散 桑柘影斜の春 祭儀は今し散じ
家家扶得醉人帰 家家みな 醉えるを扶けて帰る
* 豊作を祈り喜ぶ春秋の祭日。
2023 4/9
◎ 『千家詩選 注釋』 宋 謝疊山・輯 日本 四宮憲章・訓 秦 恒平・釋
○ 晩 春 韓文公
草木知春不久帰 草木春を知て久しく帰らず
百般紅紫闘芳菲 百般の紅紫は芳菲を闘はす
楊花楡莢無才思 楊花楡莢にはその才思無く
唯觧満天作雪飛 唯觧けて満天に雪飛を作す
* 強いて時事に託けて知解しようとするのは煩い。自然のママに眺めて佳い。
2023 4/10
◎ 私たち ケア・マネージを頼もうと思いましたが、現状では頼まれてくれそうにないと分かりました。
ただただ寝入りに寝入って、疲れを躱しています 二人ともに。呵々。笑い事では無いのですが。
ウンベルト・エーコという人の、ギチギチに中身の濃く詰まった大長編、映画にも成った『薔薇の名前』を、律儀に一字一行ずつ読み進んで、半分過ぎました。弱い視力をさらに痛めています、が。そして源氏物語を五、六行ずつしみじみと。じゅうにぶんにそれでたのしるのが此の名品のかがやきです。
○「やそしちよ」と 神も仏も呼びなさる 生返事して拗ねていますよ 歯無くはかなく
○ われは湖の子 さざなみも さわがぬ濱の まつ並木 煙も雲もはればれと なげの苫屋に光りさす われ待つ子らは無けれども
2023 4/11
◎ 秦 恒平短歌集 去来 12-01 — 15.12
『光塵拾遺』 2012 01 10
* 荻江 細 雪 松之段 秦 恒平・詞 荻江 壽友・曲
あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸櫻 あはれ 糸櫻かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅(くれなゐ)に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ
さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ
きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 歎きなり
あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿(だいごくでん)の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤 (ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも 人の まつぞうれしき
昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 国立小劇場初演
◎ 小劇場での初演を谷崎松子さんと並んで観た。舞手もも松子夫人のご指名であった。亡き谷崎先生を偲ばれ、先生にも奥さんにも影のように添われて、やはり亡くなっていた妹の重子さんをも哀悼の思いに涙されていたのを、今も、私は想い出す。
* ここ、しばらく、往時をしのび、われと我が心根を慰め励ましたい。
* 気が沈んで、弱みになっている。それと分かっていて、躰の芯にちからなく、励みがない。すてきなメールでも来ればありがたいが。
2023 4/18
◎ 秦 恒平短歌集 去来
『光塵拾遺』 2012 01 10 本巻の序に替えて
以下に編んだのは、いわゆる歌集でも句集でも詩集でもない。あえて謂えば「述懐」であり、谷崎潤一郎にならって謂うなら、小説家が流した「汗」のようなもの、あるいはわたくしの「口遊(くちずさ)み」に過ぎない。お笑いぐさながらそれをしも編んでおこうかと願ったのは、これも「文藝」のうちと考えたからである。
題だけ、すこしいばって、『光塵』と名付けた。
組み立ても無い。まこと気恥ずかしいほんのわずか「少年拾遺」を巻頭に添え置いた他は、長男・秦建日子誕生の数首以降よほど間をあけ、もっぱら東工大教授六十歳定年退官以後の老境、さらに七十五叟の後期高齢に向かうまま、短歌、和歌・俳句・詩のようなものをことさら区別せず、ほぼ編年、甚だ気儘に並べたに過ぎない。それはそれで老濫無頼な不良老年に相応と思っている。
わたくしには、昭和三十九年(一九六四)秋に初編の歌集『少年』がある。十五、六歳より結婚後の二十七歳頃の短歌をおさめ、そして「歌」に別れ「小説」や「批評」を書き始めた。歌集『少年』はその後いくたびも版を替えて出版され、上田三四二氏、竹西寛子さん、前田透氏らの推讃をいただき、岡井隆氏は二度にわたり氏の『昭和百人一首』に『少年』の各一首を選んで下さったし、短歌新聞社刊の文庫版に田井安曇氏は懇切な解説を書いて下さった。嬉しかった。明らかに少年のわたくしは「歌集」を編んだのであった。
但しその以前も以後も、わたくしは「歌人」であろうとは願わなかった。もう一度云うが、歌集『少年』の後は、働けば「汗」をかくほどの自然さと当然さとで和歌・短歌のようなもの、俳句のようなもの等を、ただ谷崎流に分泌し排泄してきたに過ぎない。云うまでもない、そういう姿・形での「述懐」をわたくしが好んでいたのである。
述懐するだけではなかった。古典物語はもとより、少年以来わたくしは大の和歌好き、ことに「恋」の和歌好きであった。歌謡も謡曲も好きであった。俳句は難しいと敬遠していたが、芭蕉にも蕪村にも虚子らにも傾倒した。現代の短歌俳句も講談社刊の浩瀚な「昭和萬葉集」はじめ、歌誌も句誌もよく読んできたし、『千載秀歌』『梁塵秘抄』『閑吟集』『愛、はるかに照せ(愛と友情の歌)』『青春短歌大学』等々鑑賞の著も出しつづけてきた。自分は排泄物なみの述懐で済ませていながら、プロを自称の作者達には概して辛辣、有名に遠慮せず無名にはなるべく叮嚀に立ち向かって、外野席から批評もしてきた。
そんな中の、主に短歌に限って、ホームページ中の『宗遠日乗』から、ごく僅か抄して巻末に添えてみたが、失礼なだけの蛇足であったろうか。よろしければ、十五年に及ぶ『宗遠日乗』をご自由に拾い読んでいただきたい。URLを掲げておく。 http://hanaha-hannari.jp/
(此のホームページが、令和5現在故障し閉口している。八七老の手に負えず、ただ頓首。)
2023 4/19
◎ 秦 恒平短歌集 去来
山みざる日は 昭和三十六年ころ
山みざる日は
心のそこの底に
それはあの
木蓮の
そらさす枝の花をもたず
冬かたむき果つるゆふべ
人恋ふる
悔いの痛さを
おもふなり
前世 昭和三十六年ころ
柿の木
柿の実
柿の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
栗の木
栗の実
栗の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
2023 4/20
◎ 秦 恒平短歌集 去来
山みざる日は 昭和三十六年ころ
山みざる日は
心のそこの底に
それはあの
木蓮の
そらさす枝の花をもたず
冬かたむき果つるゆふべ
人恋ふる
悔いの痛さを
おもふなり
前世 昭和三十六年ころ
柿の木
柿の実
柿の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
栗の木
栗の実
栗の木坂を
ころころ落ちた
どこまで落ちた
秋の夜
秋の夜
たあれも知らぬ
2023 4/20
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
大学生の頃に
死にいそぐ道には多き春の花
菜の花に埋められたる地蔵哉
迪子に
鋏おいて長嘆息の黄菊かな
私家版『畜生塚 此の世』扉に 昭和三十九年十一月
小説「みごもりの湖」に
月皓く死ぬべき虫のいのちかな
小説「糸瓜と木魚」に
雨の日の雨うつくしき秋桜
2023 4/21
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 山吹
水の清瀧から高尾へ遅い春の山川をさかのぼ
って小半時、何年前になるか、「───」とま
だ大学生だった妻が指さした。川なかをうず
高く占めた岩のてっぺんに、黄金色の日を浴
び、ちいさな蜥蜴が虚空に美しく首を反って
光っていた、黄金色の蝶を高々と銜えて。蜥
蜴は動かなかった。蝶も動かず妻は私の手を
握って息をのんでいた。山吹が向うに群れて
咲きたわんでいた。蝶、と思いこんで来たが
風に舞ったあれも明るい花の色であったか。
2023 4/22
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 菖蒲
たれの腰巾着でもあったはずのないなつかし
いキンチャク先生の、あれは頬から頤の輪郭
と、やがて三十年のクラス会に出て気がつい
た。お達者で。いや年をとったよ。そんなこ
とありませんともう三人もの母親が先生のネ
クタイをほめた。藍をふくんでしっとり色濃
い杜若の紫。──今時分でしたね先生を先頭
に教室を出て、平安神宮の奥のお庭へ花菖蒲
を見に行った。杜若とはここが違う、と習っ
たが──今だに先生、孰れがあやめ、杜若。
2023 4/23
* 「片付ける」「しまう」が、どんなに難儀か、混雑を極めた自室を見れば、瞭然。あーあ。 できることは、出来るかぎり正確にしておく。少なくも分類しての保存と不要分の消却。今はそれが大切。
* 走り書きのまま記載保存していなかった短歌などかなりの数を、「歌集 老蠶」にに記録した。
2023 4/23
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 躑躅
二人めの女の児が生まれたという、「おめで
とう。名前は」と訊くと「ひとし」ちゃん。
「いい名だ。どう書くの」「相生──」なる
ほど、と納得してみれば亭々と比翼連理の枝
葉を茂らせた高砂の松も目に見えてくる。そ
れに相生結びは女結びの豊かに育ったもの、
「いよいよめでたいね」と祝うとひょいと指
をさす。指先に、春蘭けて私自慢の盆栽は、
相生の松ならぬ花も盛りに燃えたつやまつつ
じ。「うまく育てろよ」「任して、下さい」
* 穏和な、はずみのいい一日ですように。
2023 4/22
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 戀紫
与謝野晶子は戯れに「紫」と名のって寛と出
逢い、与謝野寛は歌詩集『紫』に燃ゆる恋を
うたひあげて、秋かぜにふさはしき名をまゐ
らせん「そぞろ心の乱れ髪の君」の一首をお
くつた。炎と化した晶子は、四ヶ月後『乱れ
髪』を世に問ひ、巻頭九十八首にひときわ赤
く「臙脂紫」の題を副へ二人は結婚、近代の
光源氏と紫の上を「血のゆらぎ」「さかりの
命」で熱演した。何のことはない晶子は色を
好む寛の頸を恋の玉の緒で緊めあげたのだ。
2023 4/25
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 朝顔
「ひさこ」と読んで瓢でも柄杓でもあるのは
分るね。細い瓢箪を真っ二つに縦に割った形
は、さも柄杓だよね。それも湯水でなくて、
酒甕から酒が汲みたいね。酒は一献参ると言
うけど汲むとも言うぜ。汲みかわすって言う
ぜ。柄杓酒こそ、枡酒や茶碗酒やコップ酒を
はるか溯った酒本来の呑み方さ、まして夏場
の朝酒はね。朝顔の鉢なんか眼の前に並べて
さ。赤や紫はいやだねえ。朝顔はやっぱり、
昔ながらの露草色でなくちゃ、酒が苦いよ。
2023 4/26
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紫草
紫衛門──ご存じか。紫。夏、白い小花をつ
ける多年草。その根で染めた、赤と青との中
間色。朱ヲ奪フとか、似而非あつかいもされ
ながら、紫冠や紫衣は最上等。紫の袖が高位
の人の袍なら、紫の庭は畏きあたりを意味し
た。古代紫と敬って江戸の助六もそんな色の
鉢巻、に揚巻太夫が惚れたそうな。その揚巻
とは、つまり総角。東西、千秋楽、土俵上は
四つ房の水引幕。真中できりり引き絞った飾
りむすび、あれが、あげまき。あれも、紫。
2023 4/27
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紅葉
萬葉集では黄葉と書き、古今集では紅葉と書
いた。それだけ気温が上がったか下がったか
知らない、それより、奈良時代にはモミチと
清んで訓み、動詞は四段に活用した。これを
モミヂと濁って上二段に活用したのは平安時
代からで、晩秋の霜に燃えて草や木の葉が色
変わる美しさを謂った。源氏物語に紅葉の賀
も佳かったが、晩秋初冬、鰭は紅に肉厚くて
美味い琵琶湖の鮒を、紅葉鮒と呼んで賞味し
たなつかしさ。色気がぬけて食い気の四十?
2023 4/28
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 雪の下
鎌倉雪の下にN先生をお訪ねした日は雨だっ
た。ぜひお寄りと教えていただき、瑞泉寺ま
でゆっくり歩いた。久米正雄のお墓参りもし
た。雪の下が純白の花をつけていた。表は白
い斑が入って、裏は濃紫がおお赤らんだ、ま
るい葉だ。初夏だった。何というのか細う朱
い触手のようなものを吐き、地這えに殖えな
がらしたたる青葉楓の雨を受けていたのが、
耳にある。佳い帯〆めを結んだ老婦人と、墓
の前でそっとすれ違ったのも、憶えている。
2023 4/29
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 茶袋
山寺の和尚さんが猫をおっ籠めた袋は紙袋か
茶袋か、いや駄荷袋だろうと喧しく、甲論乙
駁で話にならない。そういえば畏れ多いがダ
マシいいお袋はさておき知恵袋、頭陀袋、信
玄袋から守袋あり匂袋あり状袋も浮袋もいっ
さい合切袋というのもあった。金袋や米袋な
ど欠かせぬ大事、どれも常磐堅磐にしっかと
紐を懸けた。それが今ではまっこと袋らしき
物ゴミ捨て用のビニール袋しかない、とは、
結ぶに結べないシマラヌ国になったものだ。
* 四月が往き、櫻の春が往く。
2023 4/30
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 紅梅
ちいさな聖像画を懸け、真前に愛らしい燈明
の台を吊した一画を指さして、「紅い隅」とロ
シヤ人の通訳は教えてくれた。あれはモスク
ワの、文豪トルストイの旧居で誰だか子ども
部屋を覗きこんだ時のこと。「紅い──とは」
と訊くとロシヤでは昔から「美しい」意味に
使ってきたと。さしずめ神棚か、お仏壇か、
ナルホドと呟いたまま遠い日本の紅い色を眼
の奥で追うた。「濃きも淡きも紅梅」と言いき
った枕草子、女作者の口ぶりが懐かしかった。
2023 5/1
◎ 秦 恒平詩歌編 去来
花むすび 華燭
晴れて華燭のお招ばれに、「一句謹呈」、即ち
「雛の日や」と発したが、あとが無い。やけ
っぱち「われら右大臣左大臣」とやってのけ
た。色佳う桃の盛りの弥生三月、櫻だよりへ
もほど無い時分のおめでただった。陣笠の旗
持ち奴が「右大臣、左大臣」もお笑い草だが
世はおしなべて「中流」自任の時代とて、皆
の衆盛大に喝采はまた一段と、おめでたかっ
た。照れもせず正面切ったあの春のお内裏と
姫君も、もう三人の人の親。頑張ってますか。
2023 5/2
◎ 日本唱歌詩 名品抄 1 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。)
○ 蛍の光 明治14 11
一 ほたるのひかり、まどのゆき。 二 とまるもゆくも、かぎりとて、
書(ふみ)よむつき日、かさねつつ。 すたみにおもふ、ちよろづの、
いつしか年も、すぎの戸を、 こころのはしを、ひとことに、
あけてぞ けさは、わかれゆく。 さきくとばかり。うたふなり。
* 一番の四行の(すぎ)の戸には、(過ぎ 杉)の意が読み取れる。 同様二番 四行の(さきく)には、(幸く 先久)の意を汲みたい。詩は「四番」まであるが、 悪しい。好まない。一、二番は、極めての、秀逸。
實を吐露すれば、私、唱歌「蛍の光」一、二番は、一番は本人洲苑の述懐、二番は見送る人等の合唱と「新解釈」を敢えてし、私「臨終」の場を透視しているのであります。 2023 5/3
◎ 日本唱歌詩 名品抄 2 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」す。)
○ あほげば尊し 明治17 3
一 あほげば 尊とし わが師の恩。
教えの庭にも、はや いくとせ、
おもへば いと疾(と)し、このとし月。
今こそ わかれめ、いざさらば。
三 朝ゆう なれにし、まなびの窓。
ほたるのともし火、つむ白雪。
わするる まぞなき、ゆくとし月。
今こそ わかれめ いざさらば。
* 二番途中の「身を立て なをあげ、やよ はげめよ」は、いかにも「明治」の いと、国民学校のころから、顔をそむけていた。
2023 5/4
◎ 日本唱歌詩 名品抄 3 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 四季の月 明治 17 5
一 さきにほふ、やまのさくらの、花のうへに、霞みていでし、はるのよの月
二 雨すぎし、庭の草葉の、つゆのうへに、しばしは やどる、夏の夜の月
三 みるひとの、こころごころに、まかせおきて、高嶺にすめる、あきのよの月
四 水鳥の、聲も身にしむ、いけの面(おも)に、さながら こほる、冬のよの月
* 誰の詠作と知れないのが惜しい。四首とも瑕瑾もない秀逸。ことに短歌としての 「字余り」効果を優秀に遂げていて、感嘆。
2023 5/5
◎ 日本唱歌詩 名品抄 4 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 庭の千草 里見 義 明治 17 3
一 庭の千草も、むしのねも、
かれて さびしく、なりにけり。
ああ しらぎく、嗚呼 白菊
ひとり おくれて さきにけり。
* 一番は 峨々廣大の国土でない我が国のいとも親身に心親しい「我が家の庭」 で、心親しい。しみじみと、こういう「にっぽん 日本」が、日本人の胸に 染み入っていた。たいせつにしたい。 歌詞のの二番には「明治」の臭みの 教訓調が露わで、好んでこなかった。節は、アイルランド民謡と聞いたが、 私は、日本語のすぐれた「詩」として愛してきた。
2023 5/6
◎ 日本唱歌詩 名品抄 6 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 数へ歌 里見 義 明治 20 12
一 一つとや、人々一日(ひとひ)も、忘るなよ、忘るなよ。
はぐくみ そだてし、
おやのおん、おやのおん。
三 三つとや、みどりは一つの、幼稚園、幼稚園。
ちぐさに はなさけ、
あきの野辺、秋の野辺。
* 幼稚園唱歌としての「数へうた」で、十番まで、だが当然のように「くに」「き み」へ最敬礼の教訓目的が濃い。
2023 5/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 7 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 紀元節 高崎正風 明治 21 2
一 雲に聳ゆる高千穂の、高嶺おろしに、草も木も、
なびきふしけん大御世を、あふぐ(仰ぐ)けふ(今日)こそ、たのしけれ。
二 海原(うなばら)なせる埴安(はにやす)の、池のおもより猶(なほ)ひろき、
めぐみの波に浴(あ)みし世を、あふぐけふこそ、たのしけれ。
* 四番まであるが、例の君皇尊崇が過ぎて、臭い。しかし、私は幼時この歌をほぼ 溺愛し、好んで「文語・仮名遣い」の魅力や「和漢の語彙」の多彩を幼稚園頃から 身に承けてきた。まして国民学校一年生の末に口語訳『古事記』を担任の女先生に 戴いて以降、天孫降臨などの日本神話に心酔・暗記暗誦して、『百人一首一夕話』 とならび、国民学校二、三年生当時、最高最良の愛読書になっていた。此の唱歌「紀 元節」など、なんて美しい日本語だろうと感嘆し続けていた。「神話」じたいは民 族の「遙かな想い出」と心嬉しく親愛してきた。
2023 5/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 8 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 故郷の空 大和田建樹 明治 21 5
夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもへば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおはす
すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもへば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
* 実感を催すことに於いて、もはや少年が青年期をすら越えての望郷歌として つい唇をもれて出たのを想い出す。
2023 5/9
◎ 日本唱歌詩 名品抄 9 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 泊 大和田建樹 明治 22 6
磯の火ほそりて 更くる夜半(よは)に
岩うつ波音 ひとりたかし
かかれる友舟 ひとは寝たり
たれにか かたらん 旅の心
月影かくれて からす啼きぬ
年なす長夜(ながよ)も あけにちかし
おきよや舟人(ふなびと) おち(遠)の山に
横雲なびきて 今日も のどか
* 明治の「文語」唱歌で、詩も曲も、幼少の私は、最も是の『旅泊』を、ことに一番 を愛した。 私の抱いていた内深い寂しみに、妙な物言いをすれば「正確にせまっ てくる」美しい言 葉、美しい歌声であった。
2023 5/10
◎ 日本唱歌詩 名品抄 10 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ う さ ぎ 明治25・6
うさぎ うさぎ
なにを見てはねる
十五夜 お月さま
見てはねる
* 独りでいるとき、声を洩らすように そっと唄っていた。「埴生の宿」などこ とに一番の曲はかったが、詩は、仰々しかった。『うさぎ』には胸の深くに懐かし 夢がのこっていた。
2023 5/11
◎ 日本唱歌詩 名品抄 11 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 一月一日 千家 尊福 明治26?・8
年の初めの 例(ためし)とて
終なき世の めでたさを、
松竹たてて、門(かど)ごとに
祝ふ今日こそ 楽しけれ。
* 文字通り この通り 幼少 少年 お正月を歓呼していた。容易にお年玉の出 る家でなかったけれど、三箇日の白味噌お雑煮、四日は焼き餅のすまし雑煮、七日 は七草の雑煮、十五日は小豆雑煮。門松も立ち。鏡餅も飾られ、そして祇園さん(八 坂神社)への真夜中の初詣でなど、なにもかも私は嬉しいのだった。心機一転の宜し さを全身に漲らせていた。
2023 5/12
◎ 日本唱歌詩 名品抄 12 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 勇敢なる水兵 佐佐木 信綱 明治28・2
一 煙も見えず 雲もなく
風も起らず 浪立たず
鏡の如き 黄海は
曇りそめたり 時の間に
* 数えてほしい。この短い詩に、「カ行音」が如何に多く含まれるか、それがこ の詩を「うた」に替えて清明簡潔なのである。「カ行音」の遣い勝手はなかなかに 至妙、美事に成功したり堅苦しく失敗もする。すぐれた和歌は「カ行音」を巧みに配 している例が多い。
「詩・うた」してのみ、わたしは少年來此の「一番だけ」を愛唱した。二番以下に後 続する「勇敢なる水兵」の情景は唯無残としか想わなかった。
○ 婦人従軍歌 加藤 義淸 明治27・10
一 火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も聲たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれなゐ染めし草の色
* これはもう「うた・詩」以上に「曲」の深沈に惹かれてよく口ずさんだ、が、二 番以下の戦地の惨状を唄う気には、とても、ならなかった。
2023 5/13
◎ 日本唱歌詩 名品抄 13 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 港 旗野十一郎(たりひこ) 明治29・5
一 空も港も夜(よ)ははれて、
月に数ます船のかげ。
端艇(はしけ)のかよひなぎやかに、
よせくる波も黄金(こがね)なり。
* 詩句も曲もさっぱりして、港の景色が目に浮かぶ。二番には詩人の「我」 が出て混雑している。「詩」境の一貫は難しいのだ。
2023 5/14
◎ 日本唱歌詩 名品抄 14 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 夏は來ぬ 佐佐木 信綱 明治29・5
一 うの花のにほふ垣根に、時鳥(ほととぎす)
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は來ぬ。
二 さみだれのそそぐ山田に、早乙女(さをとめ)が
裳裾ぬらして、玉苗うふる 夏は來ぬ
三 橘のかをるのきばの 窓近く
蛍とびかひ、おこたり諫むる 夏は來ぬ
四 楝(あうち)ちる川べの宿の門近く
水鶏(くゐな)聲して、夕月すずしき 夏は來ぬ
五 さつきやみ、蛍とびかひ、水鶏(くゐな)なき、
卯の花さきて、早苗うへわたす 夏は來ぬ。
* なにのいやみなく全詩を読んで「夏は來ぬ」の気の弾みを満喫させる。希 有の唱歌詩。この季節感、たしかに身にも心にも覚えがある。
2023 5/15
◎ 日本唱歌詩 名品抄 15 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 靑葉茂れる櫻井の 落合 直文 明治32・6
靑葉茂れる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて 夜の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
* 楠木正成・正行(まさつら)父子「櫻井の別れ」六番の第一番、二番以降は殆ど 唄いも憶えもしなかったが、この一番だけは、他に、また他歌のすべてに超えて、幼 稚園の頃から、よく大声で歌った。近所の友だちとも唄い競った。さしたる詩句とも 思わないのだが、何故か愛唱した、ただしこの一番だけ。
兵庫の決戦へ馳せ行く父正成、後日また後年に期し備え、あえてあとに残った子の正 行。南北朝前後の歴史は、源平の時代と並び、幼い頭にも既にかっちり納まっていた。
2023 5/16
◎ 日本唱歌詩 名品抄 16 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鐵道唱歌(東海道編) 大和田建樹 明治33・5
一 汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として
* 六六番もあるが、強い印象は、「汽笛一声新橋を」に尽きる。東海道線は、最初、 新橋駅発であった。終点は。京都とおもいがちだが、「神戸」で山陽道へ繋がった。
2023 5/17
◎ 日本唱歌詩 名品抄 17 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ キンタロウ 石原和三郎 明治33・6
一 マサカリカツイデ、キンタロウ、
クマニマタガリ、オウマノケイコ、
ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ、
ハイ、シィ、ドゥドゥ、ハイ、ドゥドゥ。
* 私は、幼少時も、今も、腹掛け一枚で熊に跨がった「きんたろう」が好きで、 きらきらに着飾って家来も連れて「オニガシマヲバ ウタントテ、イサンデ」出 かける「モモタロウ」の、「ハゲシイイクサニ、ダイショウリ、オニガシマヲバ、 セメフセテ、トッタタカラハ、ナニナニゾ、キンギンサンゴ、アヤニシキ」なん てには喝采も共感もしなかった。今もしない。
二 アシガラヤマノ、ヤマオクデ、
ケダモノアツメテ、スモウノケイコ
ハッケヨイヨイ、ノコッタ、
ハッケヨイヨイ、ノコッタ。
の「キンタロウ」が、愛らしい。「モーモタロさん モモタロさん、お腰に付けたきびだんご、一つわたしにくださいな」「ヤーリマショウ、ヤリマショウ、これから鬼の征伐についてくるなら、ヤリマショー」など、虫ずが走った。
2023 5/18
◎ 日本唱歌詩 名品抄 18 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 花 武島 羽衣 明治33・11
春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る、
ながめを何にたとふべき。
見ずやあけぼの露浴びて、
われにもの言ふ櫻木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。
錦おりなす長堤にに
くるればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき。
* 詩をかいた武島羽衣の名は、国民学校時期の幼少で、まだ存命だった秦の祖父鶴 吉蔵書の何冊かに見ていた。つねな「美文」の二字を冠される人だった、私は幼い名 からに警戒して、そんな、明治前中期に流行ったらしい「美文」とやらに馴染まず、 意識して目もそむけた。夏目漱石は「美文」を軽蔑していた。「美文」を旗にかかげ 文壇を制覇していた連中を花で嗤っていた。私はその後も永く漱石にくみした。羽衣 のものを読み知ったのは此の唱歌でだった、私は「東京」とまるまる縁の無い年齢で、 この唱歌で「東京」「隅田川」を想像し、なにかしら懐かしんだ。
なによりこの詩を私に印象づけたのは、弥栄中學二年生当時に、構内の催しの中で、 講堂の壇中央に独りで出てこの唱歌「はな」を読唱した三年生女子を、全人類女 子を超えて 魂の底から愛し慕っていたのだ、それは「やそしち歳」の今にしても も変わらない、其の人とは早くに死に別れていたけれど、あの講堂の壇上でこの 「花」を歌い上げた人の声も姿も忘れない。この人も私を眞に「弟」と愛してくれた。
一年早く卒業の日には、私に漱石作の文庫本『心』に自署して記念に呉れた。そし て、どんな事情でか天涯の遠くへひとり去って行った。
「心」は、私の聖書となった。
気恥ずかしいが、この「姉さん」が「花」の隅田川を唄った同じ講堂の檀上で、一 年遅れて同じ催しの日、私は先生に命じられ、『ローレライ』を独唱したのだった、 あれは気恥ずかしかった。「なじかは知らねどこころ侘びて」、天涯に去って行っ た人が私はただ恋しかった。「小説家」に成って行く運命だった。私に、「われさ しまねく」東京とは、唱歌「花」の隅田川かのようであった。
今、八十七歳の私が書いたのである、この感傷の文を。
2023 5/19
◎ 日本唱歌詩 名品抄 19 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 箱根八景 第一章 昔の箱根 鳥居 沈 明治34・3
箱根の山は 天下の険 函谷關も物ならず
万丈の山 千仞の谷 前に聳え後(しりえ)に支ふう
雲は山をめぐり
桐葉谷をとざす
昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか
一夫關に当るや万夫も開くなし
天下に旅する剛毅の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴す
斯くこそありしか往時の武士(もののふ)
* まさしく大言壮語「オーバー」な見本だが、こう謂うのを大声で唄うこ とで「ことば」や「漢字」や「表現」を憶えた。「箱根」に憧れたのでは無い。
2023 5/20
◎ 日本唱歌詩 名品抄 20 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 荒城の月 土井 晩翠 明治34・3
一 春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
むかしの光いまいづこ
二 秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の數見せて
植ふるつるぎに照りそひし
むかしの光いまいづこ
三 いま荒城のよはの月
替らぬ光たがためぞ
垣に残る葉ただかつら
松に歌ふはただあらし
四 天上影は替らねど
榮枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ
嗚呼荒城のよはの月
* 少年の思いに、これが「詩か、詩なのか、そうか」と繰り返し肯かせた感銘を 忘れない、歌としても詩としても愛唱また愛誦した。すでに日本史に首まで浸かっ ていた少年・私に、「荒城」の月の冴えはしみじみと目にも胸にも光った。その後 に白秋や朔太郎に出逢った。
2023 5/21
◎ 日本唱歌詩 名品抄 21 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ お正月 東 くめ 明治34・7
もういくつねると お正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びませう
はやく来い来い お正月
* まったくこの通りに「お正月」を幼少の、いやこう遊びこそせずとも青年に なっても大人になっても私は「お正月」を待ち、心新たな感謝や嬉しさを覚えて きた。
二番は、女の子の。それでも「追い羽根ついて」わたしも、凧揚げなんぞよりも 好きで、独り表の道へ出て遊んだ。羽根突きは得意で、独りで百もつけた。
お正月の朝は通りに人影もなく静かな静かな「新門前通り」下駄を踏む音が綺麗 に鳴って、われ独りの天下だった、懸命に羽根をついて楽しんだ。
2023 5/22
◎ 日本唱歌詩 名品抄 22 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 戦友 真下 飛泉 明治38・9
一 ここは御國を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
三 ああ戰ひの最中に
隣りに居った此の友の
俄かにはたと倒れしを
我はやもはず駈け寄って
四 軍律きびしい中なれど
これが見捨てて置かれうか
「しつかりせよ」と抱き起こし
假繃帯も弾丸(たま)の中
五 折から起る突貫に
友はやうやう顔あげて
「お國の爲だかまはずに
後れてくれな」と目に涙
* 一四番まであるこの実情の軍歌詩を私は愛して唄ったと言うではない、が、 こう書き写していた今も泪に目は濡れていた。もろもろの想い思いが重く少年私 の心にのしかかり、いつか小説の処女作となった『或る折臂翁』へと連繋したの は、相違なかったこと。
2023 5/23
◎ 日本唱歌詩 名品抄 23 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 大こくさま 石原和三郎 明治38・12
一 おおきな ふくろを、かた に かけ
だいこくさま が、きかかる と、
ここに いなばの、しろうさぎ、
かわを むかれて、あか はだか。
二 だいこくさま は、あはれ がり、
「きれいな みづに、み を あらひ、
がま の ほわた に、くるまれ」と、
よく よく おしえて、やりました。
三 だいこくさま の、いふ とほり、
きれいな みづに、み を あらひ、
がま の ほわた に、くるまれば、
うさぎ は もと の、しろうさぎ。
* 私の、生涯初の出会いの古典は、国民学校一年生を終えた直後の春休み中、 一年生で担任だった吉村女先生に頂戴した文学博士次田潤校訂解説、口語訳のつ いた『古事記』だった暗記するほど熟読してことに日本神話は『吾が所有」にま で帰していた。「しろうさぎ」が何故に「あかはだか」であったかなど、判りき っていた。概してスサノオ、大国主系の神話伝説に心親しく惹かれていた。
「鬼」よりつよい「一寸法師」などの不自然はむしろ嫌っていた。美文で鳴らし た武島羽衣のご大層な『美しき天然』など、むしろ軽蔑した。
2023 5/24
○ 紅萌ゆる岡の花 舊国立第三高等学校 逍遥の歌 澤村胡夷 明治30・7
一 紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花
早緑(さみどり)匂ふ岸の色
都の花に嘯(うそぶ)けば
月こそかかれ吉田山
二 緑の夏の芝露に
残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつつ
我等が胸に湧返る
五 嗚呼故里よ野よ花よ
ここにも萌ゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯(うそぶ)き見ずや古都の月
六 それ京洛(けいらく)の岸に散る
三年(みとせ)の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐
* 私自身の校歌としてどんなに歌いたかったろう、しかし敗戦で学生はすべて 「六三三新制」されアコ枯れていた京都一中も二中も三高も消え失せ、私は新制 出来立ての「市立」弥栄中学一年生としてごく当たり前に進学した。「京洛」の 風光を描いて美しい『紅萌ゆる』は私には故郷京都が恋しい唱歌と変容した。「三 年」と繰り返されているのは舊第三高等学校での「三学年」の意味。詩的な歌詞 は十一番まである。
私は、敗戦後の京都大学には何の魅力も憶えず、受験勉強に精力と時間をむだづ かいせず、市立日吉ヶ丘高校の三年を、ただただ京洛の風光に歩いてしたしみ、 歌詠みと、茶の湯や能楽などへの親愛に心身をゆだね、受験などせず「成績優秀」 の「推薦無試験」でためらいなく「同志社大学」へ。間違わなかったと今も思う。
2023 5/25
* 荒井千佐代という道の人の俳句集『黒鍵』送られてきた。俳句は古都に難しくて私は門外漢ながら、この一冊は出色のチカラに溢れていると読めた。句集では珍しい出会い。
2023 5/25
◎ 日本唱歌詩 名品抄 25 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 靑葉の笛 大和田建樹 明治39・7
一 一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あはれ
曉寒き 須磨の嵐に
早緑(さみどり)匂ふ岸の色
聞えしはこれか 靑葉の笛
二 更くる夜半(よは)に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あはれ
今はの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や 今宵」の歌
* 国民学校の幼いより愛唱してやまない身に沁みて好きな歌であった、私は、 源氏より平家、よりともよりはむしろ清盛に、そして平家の公達に心惹かれた。 小説のいわば出世作、太宰治賞をうけた『淸經入水』も、長編『風の奏で』もそ イワナも文庫の『平家物語』上下巻は『徒然草』とほぼ同時、中学生で乏しい貯 金で買って、愛読に愛読したが、赤旗 白旗の源平に興奮した時期は、もう絵本 などで幼稚園時代には始まっていた。論攷作の最初となった「十二世紀美術論」 もわが「源平」へ親近体験無しには思い付きもしなかったろう。
2023 5/26
◎ 日本唱歌詩 名品抄 26 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 愁 犬童 球渓 明治40・8
一 更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
夢ぢにたどるは、故郷(さと)の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
二 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遙けき彼方に、こころ迷ふ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
思ひに浮ぶは、杜のこずゑ。
遙けきかなたに、こころまよふ。
* 国民学校の昔によく口ずさんだ、すこし小声で、複雑な思いで。私には恋し い「ふるさと」は無く、「なつかし」い実父母を識らなかった。日々の暮らしは 「もらひ子」された京都市東山区東大路西入ル(知恩院)新門前通り仲之町だった 家の脇の、細い、途中ひとくねりした「抜けロージ」を南へ駆け抜けると、そこ は謂うところの「祇園花街」北端の新橋通りだった。こっちは有済小学区、あっ ちは弥栄小学区だった。故郷では無かった、「現住所」であり生みの母の顔も實 の父の顔も覚えがなかった。近所の子やおとなからは「もらひ子」とささやかれ また言われていた。この唱歌はまさしく私が幼少來、青年・結婚までの「人生旅 愁」の歌であった。大声では歌えなかった。
一つ付け加えておく、京都市は幸いに戦災にほぼ完全に遭わずに済み、敗戦直 後の、戦時「国民学校」から京都市立「有済小学校」に戻った校庭には、全国各 地から、また海外から帰還家庭のまさに種々雑多の識らない生徒が加わっていた。 女生徒立ちの服装はもんぺからハイカラまで、目を奪った。好きな女の子も見つ けた。そういう此の大方は、時期が来るとみな銘々の故郷や移転先へ散り戻って ゆき、おのづと「別れ」体験が生じた。わたしは、横浜へ帰ると聞いた「新田重 子」という成績優秀でスポーツもよくした女生徒と人生初の「別れ」体験を時勢 により強いられた。寂しいものだった。女の子たちはそんな私を囃して何人も出 声を揃え「コーイシや新ィッ田さん、なつかし重子さん」と囃した、それが少年 小学生、私の『旅愁』であった。忘れない。
* 自身に断っておく、いま、此処にこういうふうに書いてきたことは生まれ育ちの「愚痴」なんかでは、ない。その後の人生を豊富に活きるために蓄えていた、謂わば「堆肥」であった。これらがあって、自身の歩みの紆余曲折に「味」がついた。その「味」こそが創意や創作や發明をうながす契機活動へと多様に押し上げてくれた。
「堆肥」という言葉は、戦時疎開ののうそんで目の当たりに実感した。「堆肥」無くては実りは瘠せる。人の個性は、活くべき「堆肥」の量や質に養われると識らぬままでは、かぼそい草のようなものしか生まない。
2023 5/27
◎ 日本唱歌詩 名品抄 27 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 故郷の廃家 犬童 球渓 明治40・8
一 彧年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
門辺の小川の、ささやきも、
なれにし昔に、変らねど、
あれたる我家に、
住む人絶えてなく。
* こういう「故家」「故郷」を私は持たない。戦時疎開していた、元京都府南桑田郡樫田村字杉生に、僅かに近い思いは持っている、が。今では、何と云おうと「京都」が、「京の川東、東山区の歴史と女文化」とが私精神の故郷と極まっている。東京は、西東京は人生最長のせいちではあったが、実感としては「出先き」で合ったし、今も然り
2023 5/28
◎ 日本唱歌詩 名品抄 28 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ローレライ 近藤 朔風・譯 明治42・11
一 なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説(つたへ)はそぞろ身にしむ。
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山同かく映ゆる。
* 弥栄中学三年生で習った。へたな歌詞(詩)だと馴染まず、唄としても歌い づらいきょくであった。のに、こともあろうに私は音楽の先生に命じられ、全校 生が「講堂」に集まる催しの折り、講壇の真ん中へ出てこの「ローレライ」を歌 えと命じられた、仰天もし辟易極まったものの女先生の「厳命」は揺るがなかっ た。仕方ない、歌ったのである、が實に歌って楽しくない奇態な歌と思えた苦々 しさを、今も忘れない。こういう、翻訳の外国歌が教科書にも幾つかとられてい て、私は悉く馴染まなかった。
2023 5/29
◎ 日本唱歌詩 名品抄 29 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 星の界(よ) 杉谷 代水 明治43・4
一 月なきみ空に、きらめく光、
嗚呼その星影、希望のすがた。
人智は果なし、無窮の遠(をち)に、
いざ其の星影、きはめも行かん。
* ご大層な「つまらない詩、つまらない歌」と見捨てていた。わずかに 第一行に、キ キ、キ、ク、カ と 堅い「カ行音」の疊み込まれている のを意識して歌っていた。
2023 5/30
◎ 日本唱歌詩 名品抄 30 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ツ キ 文部省唱歌 明治43・7
一 デタデタツキガ、
マールイ マールイ マンマルイ
ボンノヤウナ ツキガ。
* たわいない唱歌ながら、締まりの付いた「盆のやうな」の一句に子供な り「実感」の覚えがあり、不思議と忘れがたい歌と、いま、この老耄の記憶 にも、なつかしく蘇ってくる。独りで、大声に月と向き合い歌いたくなる。
2023 5/31
◎ 日本唱歌詩 名品抄 31 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 春が來た 文部省唱歌 明治43・7
一 春が來た 春が來た どこに來た。
山に來た 里に來た、
野にも來た。
* むしろ嫌って、軽く見すてていた。意気も生意気も伸びようとする幼少 には たわいなく、なにより、人の世を、「山、里、野」と田舎に限って、 「町や街」が欠け、海国日本でも在るのに「海」も外れてる。農村型の世界 観に傾き過ぎていると物足りなく、さらには歌の三番までを「春」「花」「鳥」 で日本の四季自然を象徴と観るのか、謂い得ているのかと「幼少なり」に疑 問を持った。アホらしくて歌わなかったなあ。
2023 6/1
◎ 日本唱歌詩 名品抄 32 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ われは海の子 文部省唱歌 明治43・7
一 我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二 生れてしほに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる潮の気を
吸ひてわらべとなりにけり。
* 七番まで在る、が、二番で尽くされていて、十二分に気に入り、大声で 愛唱した。わたし自身は「海」など、見知りもしない観念の世界だった、そ れが想像に精気味気活気も与えた。さらには、此処この歌詞に親きょうだい も友だちの姿も無い、それが私を、ひろびろと自由自在にした。嬉しかった のである。
2023 6/2
〇 お元気ですか、みづうみ。
台風も北朝鮮のミサイルもすりぬけて、三日前に「帰国」しましたが、疲れがなかなかとれずメールが遅くなりました。
帰国してみづうみの「私語の刻」が五月分も更新されていて大変嬉しく思います。東工大卒業生の柳さま、鷲津さまのご尽力に感謝感激です。
みづうみの人生の節目、節目に、ふしぎと必要な手助けがあるのは、みづうみの「武運」のようなものではないかと思います。武道の修行を極めていくと、しぜんに「武運」がついてくると読んだことがあります。
秦先生が困っているなら何とかしようと、かつての学生さんたちがごくしぜんに連携して行動なさったことに敬服します。「今此処」で自分にしかできないことがあることに気づかれ、義務感でも慈善でもなく、無理せず、気負うことなく動いてくださった。みづうみの生徒さんであったお二人も、卒業して社会で修行を重ねるうちに「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」武道の極意を会得なさったのでありましょう。こんなことはめったにないのですが、わたくしは日本の将来に希望を感じました。
>なにを言われてたか、頼まれてたか、なにもかも混乱と不調のままに過ごしています。
わたくしがお願いしていたことは、いつからいつまで「文字コード委員会」に関わっていらしたかです。以前のメールです。
みづうみが「情報処理学会の文字コード委員会(通産省系)」に「ペンクラブ代表委員」として正式に参加なさったのは2001年ですが、それ以前 1998年から「文字コード委員会についての記述」がございます。「2001年からは第二ステージ」と表現していらしたのですが、実質的な みづうみの「文字コードに対する意見陳述等」は第二ステージ前に言い尽くされているようです。
2001年より前の委員会には、どのようなお立場で参加されていたのか、そして「2001年以後は」むしろ文字コード委員会への関わりがなくなっているようにお見受けします。
おそらく「ペンクラブ電子文藝館」のほうに傾注なさっていらしたため、「委員」を加藤弘一氏と交代したのかと推測していますが、「そのあたりの文字コード委員会との関わり」について、第一ステージと第二ステージがどう違うのか、最初から最後までの関わりかたをお教えいただけますでしょうか。
「私語の刻」の記載を読んでも このあたりが曖昧で(論文ではないので当然ですけれど)正確を欠いたことを「書きたくない」ので、お伺いした次第です。
もし思い出されましたら、お教えいただければ助かります。
蒸し暑いような、クーラーには少し早いような本降りの一日でした。みづうみのご体調心配しています。どうかご自愛専一に、頑張りすぎないでお仕事なさってください。
わたくしは一度も「頑張りすぎないで」と言われたことがない甘ちゃんですが……。
夏は、よる
〇 おほあめの 夜も日もこめて謂へるらし 世もひとも怺へかたみに生くと
* 真夜中かと寝呆けて起きて、晩の九時。大雨の音やまず、妻は、浴室に。夏は、よるのメールに、目もしろくろ。それでも生きてるンやなあ。
2023 6/2
◎ 日本唱歌詩 名品抄 33 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鎌 倉 文部省唱歌 明治43・7
一 七里ヶ浜のいそ伝ひ、
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし古戦場
* 八番まであるが、一番で私は満ち足りた。佳い地名が利き、なにより「名将」 の一語に 圧倒的に 同感と謂うより共感した。名将と謂うにはややあまいもののある「新田義貞」ではあったが、圧倒的に、いろんな意味合いから敬愛した。贔屓した。その裏返しに「足利尊氏」を嫌った。神威をたのんで稲村ヶ崎の岩頭に「剣」を高く捧げもって海に頼む義貞の姿は色んな絵図で身に沁み馴染んでいた。蹶起して北条の「鎌倉」を撃ち抜き、南北朝に別れてもあくまで吉野の「南朝」に味方して諸国に転戦、壮烈の最期を日本海の間近で迎えた実意の名将に「剣」という美しい一語が光った。この一番だけをただただ歌いやまなかった。
2023 6/3
◎ 日本唱歌詩 名品抄 34 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 菊 の 花 文部省唱歌 明治44・5
一 見事に咲いた
垣根の小菊・
一つ取りたい
黄色な花を、
兵隊遊びの
勲章に。
* 兵隊ゴッコという遊びはあった。無縁であり得なかったけどまるでアホ らしかった。勲章と謂うのをぶらさげた軍人は、馬でも徒歩でも平時にも見 られた、白衣の傷病兵も。わたし、大きくなったら兵隊さんに「ならねばな らん」のを運命として、かつ厭い嫌っていた。シカモ此処に掲げた「唱歌」 の、節も言葉も優しくやわらかなのは愛したのである。いわゆる軍歌ははっ きり、みな嫌った。「勝ってくるぞと勇ましく」とか「父よあなたは強かっ た」など、憎むほどに嫌ってた。学校での儀式に歌わされた「海ゆかば水づ く屍ね」など、「白地に赤く、日の丸染めて」の歌とともに、歌の意味はよ く承知しつつ毛嫌いしていた。
「かきねの小菊」の可愛さは、格別だった。
2023 6/4
◎ 日本唱歌詩 名品抄 35 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 紅 葉 文部省唱歌 明治44・6
一 秋の夕日に照る山紅葉、
濃いも薄いも數ある中に、
松をいろどる楓や蔦は、
山のふもとの裾模様。
二 渓の流に散り浮く紅葉。
波にゆられて離れて寄つて、
赤や黄色や色様々に、
水の上にも織る錦。
* 抜群の唱歌と愛してきたが、詩は、書き写してわかるけれど、速度感の 快さのほか、措辞は陳腐な概念仮構に近い。
しかし、唄ってみる佳さ宜しさ懐かしさは全唱歌「五指のうち」にも席を占 めようか。しかし、私、こんな景色に接した記憶が無い。
2023 6/5
◎ 日本唱歌詩 名品抄 35 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 雪 文部省唱歌 明治44・6
一 雪やこんこ霰やこんこ。
降つては降つてはずんずん積る。
山も野原も綿帽子かぶり、
枯木残らず花が咲く。
二 雪やこんこ霰やこんこ。
降つても降つてもまだ降りやまぬ。
犬は喜び庭駈けまはり、
猫は火燵(こたつ)で丸くなる。
* 今も懐かしい、佳い歌。盆地の京都市内でこういう雪降りは何年に一度 としか。雪が珍しく嬉しい幼児の想いには稀々で。抜群の唱歌と愛し、詩も書 き写してわかるけれど、速度感の快さも犬や猫登場のリアルな、むしろ「心温 かさ」もうれしい、措辞はほぼ陳腐な仮構に近いけれど。
こういう雪景色を、しかし昭和二十年三月下旬、、戦時疎開先を淡い縁故に頼 って丹波の山奥へ、それも木暗く小高い山の高みの農廃家を借り、秦の母と祖 父とで心細く籠もってからは、まだ春は来ず、したたかな深い烈しい雪降りに 仰天、したたかに難渋した。犬も猫も、あの当時は影ひとつも見たこと無く、 それだけに幼時に記憶の「雪やこんこ」がウソのように懐かしく恋しかった。
2023 6/6
◎ 日本唱歌詩 名品抄 36 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 茶 摘 文部省唱歌 明治45・3
一 夏も近づく八十八夜、
野にも山にも若葉が茂る。
あれに見えるは茶摘みじゃないか。
あかね襷(だすき)に菅(すげ)の笠」
* これも佳い歌、今も懐かしい。京都には「宇治」という特上の茶の廣い 名産地があり、目に見えて心親しい唱歌であった。ことに子供の頃、「夏」は 一等みどりも映えて、自由の予感に胸の鳴る季節、その「夏もちかづく」のだ もの、はずむこころの「茂り」来る期待が有った。二番の歌詞は、よくない。
2023 6/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 汽 車 文部省唱歌 明治44・3
一 今は山中、今は濱、
今は鐵橋渡るぞと
思ふ間も無く、トンネルの
闇を通つて廣野原。
* たいした詩句ではないが、何と云おうと「汽車」は珍しくて。記憶にあ る私が汽車に乗った最初は、敗戦前昭和二十年の冬か春か。ご近所の口添えを 微かな頼みに戦時疎開先に、当時、京都府南桑田郡樫田村字杉生の、それも山 の上の一軒空き農家に、秦の母と祖父とで転がり込んだ三月まだ深い雪の中か ら明けて四月の樫田国民学校四年生へ転入進級の頃であった。バスで亀岡町へ 降り、山陰線の汽車で保津峡に添い、嵯峨、二条など経て清うと易まで乗った ことが、そう、以降二年近くの内に七、八回もあったろうか、最期には私が腎 臓炎で満月のような顔に成り、咄嗟の決断で母が引っ担ぐように京都へ連れ帰 り、いきなり松原通の樋口医院へ運んでくれたのだった、危うい命であった。
宇治の汽車の満員は言語に絶して、ホームから窓へしがみつついて割り込んだ 覚えもあり、窓にガラスなど何処にも無く、山陰線保津峡駅から京都花園駅ま でにトンネルが、七、八つ、凄まじい煤煙に泣かされた。顔が黒ずんだ。
そんな「汽車」初体験だったもの、この唱歌の「阿呆らしさ」は嗤えた。
弥栄中学の修学旅行で初めて席に坐れて汽車旅をした。結婚してからも東京京 都の往復に、終始立ちっ放したことも度々あった。「汽車」の想い出はすこぶ る悪しいのである。上の唱歌など゛わらってしかうたえなかったが、一沫の懐 かしさへも惹かれた。
2023 6/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 村 祭 文部省唱歌 明治45・3
一 村の鎮守の神様の、
今日はめでたい御祭日(おまつりび)
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
朝から聞える笛太鼓。
二 年も豊年満作で、
村は総出の大祭り。
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
夜まで賑わふ宮の森。う朝から聞える笛太鼓。
* 街なかで育ったが、昭和二十年三月下旬からの戦時疎開とその延長とで、 秦の母と国民学校=小学校三年末から、四年、五年秋まで「丹波の山奥」に農 家を借りて暮らしていた。一村と謂わずともその一部落の、みな農家の子や家 族とは自然に、「都会もん」と嗤われながらも馴染んでいた。ささやかながら 鎮守の宮もり祭りもあつた。この唱歌はけして他所のことでなかった。
そして京都へ帰り、戦後新生の弥栄中学一年生になった年の「全校演劇大会」 で、私の一年二組は、ね私の熱心を極め演出した「山すそ」と謂う農村の児童 劇で「全校優勝」した。その舞台で私は此の「どんどんひゃらら、どんひゃら ら」の歌をうまく遣った。二位には隣の一年一組が成って、その日のことを私 は後年に『祇園の子』という短編小説にし、これを良しと観た何人もの評者が いて、ちいさいながら一種の出世作のように遇された。懐かしい想い出です。
2023 6/9
◎ 日本唱歌詩 名品抄 38 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 冬の夜 文部省唱歌 明治45・3
一 燈火(ともしびちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊びの樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪。
* 「過ぎしいくさの手柄を語る」父親の二番には、きのりしなかったが、一番 「衣縫ふ母」の歌には心惹かれて、ひとりで、こっそり唄った。「居並ぶ子ども」 には、びっくりした。「ひとりッ子」の「もらひ子」だった私には、その賑わい、 羨ましい前に異様でもあった。とは言え、私にもこういう囲炉裏端の体験はあっ た、戦時疎開した先の丹波の山奥のちいさな部落で、二軒めの宿りに画につくら れた築山の奥の「隠居」で寝起きし、始終母屋の農家族から呼び迎え可愛がられ ていた。農学校へ通学のお兄さん、女学校を卒業していたお姉さんが二人。お父 さんは戦死されていたが、働き手の優しいお母さん、上品に物言いも静かなやは り働き手のお祖父さんお祖母さんの六人家族だった。みなが心優しく、まして囲 炉裏を囲んで談笑の真冬は、寒い寒い雪の積む夜は、わすれがたいのだ。懐かし いのだ。
2023 6/10
◎ 日本唱歌詩 名品抄 38 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 早春賦 吉丸 一昌 大正2・2
一 春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯 歌は思へど
時にあらずと 聲も立てず。
時にあらずと 聲も立てず。
二 氷解け去り葦は角(つの)ぐむ。
さては時ぞと 思ふあやにく
今日もきのふも 雪の空。
今日もきのふも 雪の空。
三 春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急(せ)かるる 胸の思ひを
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。
* これぞ、これこそ、私の人生歌、「生歌」そのものであった。ただ季節とし ての「早春」ではなかった、若者の、青年の、奮い立つ蹶起、決志を励ましてく れる「みごと」としか謂えない美しい「声援・応援」歌と「青年の私」は聴き、 かつ、心して胸中に歌っていた。
学生時代からついに故郷「京都」を離れ「東京」で就職したの「早春」、社内新 聞から入社の思いを短く言えと求められたとき、なに躊躇うことなく、ただこの 「早春賦」一番の詩句を書き抜き、余の一言も加えなかった。まこと本意・本志・ 決意であった、会社も仕事も、組合も、上司も、同輩も心頭に波立てず、ただ私 は「此の先へ」のびてゆく吾が「春夏秋」をどう生きて行くか、今まだ「ときに あらず」の視野へ目を見開いて自身を正すほか何もなかった、ああ、いや、明確 に私はもう「希望」していた、「創作」「小説「文學・文藝」へ。だが「時にあ らず」と「聲」ひとつ立てなかった、新婚の「妻ひとり」の他の誰へも。そして 「翌60年初夏」から、時の「安保とうそう」を背に感じたまま、処女作『少女』 『或る説臂翁』へ踏み出したのだった。ありがたい、すばらしい、美しい唱歌の 『早春賦』であったと、感謝はいま「やそしち老」の胸にも篤い。
掛け替えの無い私さようの「早春賦」に、むろん黙したまま、永く心そえて下さ ったのは、当時いくつもの大學での講壇に立たれながらも、株式会社『醫學書院』 の「編集長(のちに、副社長・社長・相談役」)であった、もうすでに鷗外研究、 康成研究に「新生地」を開かれていた長谷川泉であったのは、間違いない。そし て私の入社受験、最期の「面接」をされた社主の、鬼よまむしよと恐れられた金 原一郎社長も、私在職の15年半、いやその後も亡くなるまで實に永きにわたっ てり、一社員に過ぎなかった私の「早春賦」に聞く耳を向けていて下さった。
* 「葬式」は反対だ、これは『告別写真だよ』と、「秦恒平君 社長」と日付も手書され、「写真一枚 お織りします お受け取り下さい」と書き添えられた、實に佳い、懐かしい上半身写真を、金原社長、或る日、突として私の当時一課長として勤めていた五階自席へまでお持ちになり、笑顔で手渡して下さった。そのお写真、いまも此の私書斎の一等間近に頂戴したまま大切に荘ってある。「拙い谷の鶯の声」をいまも聞いていてくださるだろう、長谷川先生も、もとより。
2023 6/11
◎ 日本唱歌詩 名品抄 39 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 鯉のぼり 文部省唱歌 大正2・5
一 甍の波と雲の波、
重なる波の中空を、
橘かをる朝風に、
高く泳ぐや、鯉のぼり。
* 京の町なか、家並みをそろえたような、ま、閑静な門前通りに育って、まず屋 根より高い「鯉のほり」にも「凧揚げ」にも縁がなかった、せいぜい「羽根突き」 や「陣取り」「ドッヂボール」が関の山で、夏休みの地蔵盆には、路上真ん中に幕 をはり、町内会が「青い山脈」とか映画を写して呉れた。「原節子」に恋したりし た。繪や写真で見る「鯉のぼり」にはテンと気が無かったが、歌は唄っていた。
2023 6/12
◎ 日本唱歌詩 名品抄 40 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 海 文部省唱歌 大正2・5
一 松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮ぶ。
干網濱に高くして、
鷗は低く波に飛ぶ。
見よ昼の海。
見よ昼の海。
二 島山闇に著(しる)きあたり、
漁火(いさりび)、光淡し。
寄る波岸に緩(ゆる)くして、
浦風軽(かろ)く沙(いさご)吹く。
見よ夜の海。
見よ夜の海。
* いささか仰々しくも、音調のしらべ和やかに技巧は優しい。このような「海」 など、京都市内、円山のふもとか丹波の山奥しか知らなかった少年にはあまりに縁 遠かったが、そのゆえに心ゆるして惹かれていたと謂えよう、か。
2023 6/13
◎ 日本唱歌詩 名品抄 41 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 冬景色 文部省唱歌 大正2・5
一 さ霧消ゆる湊江の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の聲はして
いまだ覚めず、岸の家。
二 烏啼きて木に高く、
人は畑に義を踏む。
げに小春日ののどけしや。
かへり咲の花も見ゆ。
* 三番まであるが、ことに一番の、音韻の協鳴がうつくしい効果を得てい て、思わず知らず景色に融けて入つて歌っていたのを懐かしく想い出す。
一番の、湊江の風情に縁はなかった。二番の風景に身を置いた敗戦直後の 小学生体験は忘れない。佳い詩と、受け容れていた。よく歌ってもいた。
* 論策に執する夢を見続けていた、か。
2023 6/14
◎ 日本唱歌詩 名品抄 42 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 朧月夜 文部省唱歌 大正3・6
一 菜の花畠に 入日薄れ、
見わたす山の端 霞ふかし。
春風そよふく 空を見れば、
夕月かかりて にほひ淡し。
二 里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路を たどる人も、
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める 朧月夜。
* 最優秀唱歌詩かというほど、詩句の斡旋に共感を惜しまずよく唱った。 あの戰争に佳いことは一つもなかったが、山に掩われた静かな小村に疎開生 活していればこそ、かかる「朧月夜」もまさに「体験」できた。忘れない。
2023 6/15
○ 故 郷 文部省唱歌 大正3・6
一 兎追ひしかの山、
小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。
二 如何にゐます父母、
恙(つつが)無しや友がき、
雨に風につけても、
思ひいづる故郷。
三 こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん
山はあをき故郷(ふるさと)。
水は清き故郷。
* これほどに実感に打たれ目に涙をためて唱いつづけた唱歌はない、むろん 故郷京都から東京へ出て家庭を持ち職場を持ち、そして朝日子、建日子が生ま れて、私は「こころざしをはたし」小説家に成った。
「山はあをき故郷(ふるさと)。水は清き故郷」とは、文字通りに私の生まれ育 った「京都。 東山 白川 鴨川」の景色そのままで。妻にも子らにも聴かせ ず、ひとりの思いを抱いたまま、どれほど、この「三番」歌をひしひしと独り 唱っていたことか。 京都。然り京都よ。
2023 6/16
◎ 日本唱歌詩 名品抄 44 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ と ん び 文部省唱歌 大正8・1
一 とべ とべ とんび、空高く、
なけ なけ とんび、青空に。
ピンヨロー、ピンヨロー、
ピンヨロー、ピンヨロー、
たのしげに、輪わをかいて。
* 斯ういう唄を、人には聴かせず 独りでよく唱っていた。じめじめはしてい なかったのだ、なにかしら「先途」を期してわたしは、ことに東京へ出てきて、い つも自身を励ましていた、らしい、と、今にして気づく。
2023 6/17
◎ 日本唱歌詩 名品抄 45 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ウ ミ 文部省唱歌 昭和16・3
一 ウミハ ヒロイナ、
大キイナ、
ツキガ ノボルシ、
日ガ シヅム
* 「明治/大正」を経て「昭和」になると、唱歌の教科書にはこういうア ホラシイ唱歌詩が蔓延した。唱わせられ、ウンザリした。そして昭和二十年 八月十五日、国民学校四年生の私は、秦の母と戦時疎開していた丹波の山村 で「敗戦」の日を迎えた。京都へ帰れる、と、雀躍りしたのを忘れない。
明治大正の唱歌詩との、懐かしんだツキアイを、これで終えたい。「屋根より高い 鯉登り」という端的な歌声がいまも耳に懐かしいが。
2023 6/18
■ ああ 〇ちゃん お元気そうで
何よりです。何よりだ。 近々に顔が観られると。何よりです。 奥さんも お嬢ちゃんたちも、熱暑をまぢかに、健勝でと願いますよ。
わたしは、あいかわらず 機械クンとの 能の無い葛藤にも苦闘しながら
あるはあり あるはあれども あるほどは無いサイノーに 途惑ふ日々ぞよ 秦
* やれやれ。へと・へと。
2023 7/1
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『百人一首歌留多』 秦家所蔵
〇『百人一首一夕話』 祖父秦鶴吉蔵書
私(戸籍名吉岡恒平・昭和十年冬至に生まれ)が、京都市東山区新門前通仲之町の秦家(ハタラジオ店)へ貰われ、ないしは預けられた三、四歳の当時から、上に謂う「歌留多」は、購読家庭へ新聞社が配った「景品」であったらしい、家の、中三畳間押入れに「筺」入りで置いてあった。秦の祖父、両親、父の妹ら大人は誰一人見向きもしてなかった。「(和歌一首と歌人名の)読み札、(和歌下句の)取り札」とも、漢字かな入り交って流麗の行書で書かれ、「読み札」の「歌人たち百人」は、男女僧俗ともまこと気ままな衣服・姿勢・情景で、「人柄」までも特色豊かな肖像として「彩画」されていた。国民学校一。二年生の頃から気ままに一枚一枚手にして見飽かず、年がら年中私は好き勝手に愛玩し、疊に撒いては独りで読み上げ独りで「はい」と採って、「うた」も「ひとの名」も、行書の漢字・変態のかな文字も、自然とまるのみに「覚え」て行った。昭和の大戦も始まっていた、そんな国民学校一、二年生ごろから、毎晩「強いられる早寝」に添い寝してくれた叔母「つる(茶名裏千家宗陽・華名遠州流玉月)」から、「日本の國」には古來「和歌・五七五七七」「俳句・五七五」という述懐の道があって、「誰にかて創れるのえ」と教えられた。私には途方もなく大きな示唆と教育とであった、いま「やそしち」の爺になるまで生涯の、私への實に立派な「知の宝」となったのである。ちなみに読み札に描かれた歌人らの「絵像」では、大火鉢を胡座に独り抱きこんで歌を思案らしい「皇太后宮大夫俊成」や、素晴らしい黒髪を疊に這わせて長け高う起った待賢門院堀河の美貌を贔屓した。色美しい軽妙な雅致の故に「百人」の「歌」も「名乗り」もしっかり覚えた。
〇 謂うまでもない、祖父秦鶴吉がしまい込んでいた『百人一首一夕話』が、歌や人の逸話などをたくさん識って覚えるにつれ、私には「平安の歴史」も「百人」とりどりの逸話や奇癖などまで「記憶」されていった。日本の「歴史」「文化」への親愛がそのまま、「学ぶ」と謂うより「息を吸う」かのように私の「文学愛」を美しくしてくれた。
祖父鶴吉のタンスや長持に詰め込まれ、もはや放置されていた各種の「蔵書」には源氏物語を説いた『湖月抄』全三巻も賀茂真淵講義の『古今和歌集』も、老荘韓非子も『唐詩選』も漢・和・英の大事典や通俗生活宝典も、『神皇正統記』や『日本外史』や浩瀚な坪谷善四郎著『明治歴史』上下や、さらには「通信教育の各種教本」もあり、汽車を利用の『日本全国旅行案内』なども、なにもかも目まぐるしいまで多く遺されていた、だが、いわゆる「小説」本は、只の一冊も無かったし、それらの本を手にしている大人は、当の祖父もふくめ、父も母も叔母も、少なくも幼い私の目には、手も触れていなかった。わたくしがそれらの「本」にしがみつくように夢中でも大人は誰も、関心すら持たなかった、父が「目をわるくする」とだけ注意してくれた。たしかに、私の眼鏡の最初は国民學校二年生に上がるとき。あんまり可哀想と大人の方ではずして呉れたが、五六年生からまた眼鏡に成り、今日に到っている。
2023 7/18
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『選註・白楽天詩集』 國分青厓閲 井土霊山選 秦の祖父鶴吉旧蔵
崇文館 明治四十三年八月廿五日 四版 定価六五錢
よく校閲された「漢詩集」は漢字に惹かれる少年なら、難なく惹き込まれ繰り返し親しめる。この詩集は戦時戦後暫く、一緒に疎開していた丹波の山中へも秦の祖父鶴吉が手放してなかったのを、昭和二十一年二月末祖父の死去以降私が愛翫の一冊となった、版型は袖珍と謂うのか、いわゆる文庫本より一回り以上も小ぶり、三三八頁もある。私も古典的な日本人の血をけているということか、平安時代にはいわば第一等の教養として、紫式部や清少納言のような女流にも日々に愛読されていた「白楽天」の名声に惹かれていた、それにつれ、やはり祖父蔵書の『唐詩選』酢冊などもしばしば手にしていた,味わえずとも空は少年にも「読めた」本であった。
ことに此の青厓閲、靈山選の一冊中いち早く深く感化され繰り替えし読んだ作は「七言古詩」と分類されていた反戦詩「新豊折臂翁」で、この詩こそが後年の「作家・秦恒平」処女作『或る説臂翁』を惹き出してくれた。いろいろに繰り返しこの反戦詩や白楽天に触れてはかたってきたので、繰り返さない。「漢文」は容易に読めなくても「漢詩」には小学校の少年でもよほど難なく親しめ、むろん良き「選」と「閲」あればこそだが。
2023 7/22
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『若山牧水歌集』 岩波文庫 梶川芳江より借覧
〇 和歌への親愛から幼少の私は「文學・文藝」へ心神を預け傾けていった。戦時の国民学校四年生の秋には、丹波の山奥の疎開先で、京都へ帰って行ける日を願待ち焦がれながら山合いの狭い高空を渡る雁の群れを、生まれて初めて短歌一首に創った。いらい、中学高校の頃を高潮時に、八十七歳の今日までに私は『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』そして『と門』と、五冊もの私歌集を本にして持っている。
そんな私が少年の昔に、中学二年生の私に、ほんものの「近代短歌」なる魅惑の「創作と述懐の妙」を教えてくれた最初が、心底「姉さん」と慕った三年生梶川芳江の、「読んでみよし」と手渡してくれた岩波文庫『若山牧水歌集』であった、歌人の名は、教科書でか、もう識ってはいた。
「姉さん」が自身歌を詠んだ作ったという事実は、無い。この歌集も、むしろ姉さんが「誰か」から強いて借りて、そして私に「意図して回してくれた」ものと、何と無く、当時既に察してすらいた、「姉さん」はそうもして下級生「恒ちゃん」に配慮してくれていた、らしい。有難かった、嬉しかった。さもなくて、秦の家の大人たち、文學の「本」など全然目も手も触れる人たちではなかった。私は、俄然、幼稚は幼稚ながらに短歌の自作に目を見ひらいていった。中学の先生も読んで下さった。高校へ進むと『ポトナム』同人の先生が大いにわが短歌制作を推して下さり、京都府による高校生対象の「文藝コンクール」では最優秀賞を取った。その頃の作は、岡井隆選『現代百人一首』にも採られていて、そんな「歌人」としての人生へのいっぽを刺戟して背を押してくれたのが、「姉さん 梶川芳江」が「読んでみたら」とわざわざ手渡し貸して奨めてくれた『若山牧水短歌集』だったのだ、のちのち深く敬愛した斎藤茂吉短歌よりも「これ」が先であった、ありがたい道しるべとなって呉れた。「幾山川」の歌も、「白鳥はかなしからずや」の歌も、茂吉歌より先に覚えていたのだ。
2023 7/31
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『北原白秋詩歌』 岩波文庫 梶川芳江より借覧
日本の詩人による「詩 ないし 詩集」からの文学的感銘・吸収は、 私、恥ずかしいほど貧相で、告白にも耐えない。藤村の『若菜集』 そして白秋、朔太郎、後れて井上靖、その余はもう「つまみ食い」の程度と白状する。「歌集」は和歌また子規また茂吉らに始まり近代の歌史をほぼ通し読みながら、詩集はなんでとも謂いようが無い。それでも北原白秋の名と詩作とにはこころ寄せていた。名も作も、すっきり清く受け容れていた。
白秋詩集を「読んでみよし」と私に奨めた「姉さん」梶川芳江自身も、「読む」人ではアレ、「蔵書家」とは思われなかった。この「姉さん」に「本を貸す人」が有り、「それを私へ」回してくれている、と、そう想われる事情等を私は「察し」ていた。「姉さん」の貸してくれた本を私が持っているのを見つけて、怪訝な顔をした別の上級生を、私、一度か二度は感触していた。「姉さん」のなにか「はからい」が働いていると感じていた。
私が「梶川芳江」という美しい存在を一つ上の学年に見つけたのは、運動場での全校集会、朝会などのおりだった、遠目にも身の周りが耀いて見えた。私の新制中学二年生、夏休みへ向かう一学期の六月ころであったろう、其の人はどうも他校からの転校生であるらしく、よけいに新鮮な風情だった。
どんなきっかけから「二人」の時空間に親しみはじめたか、学年のちがいを越え「ふたり」の「ひとくみ」が出来るのは、「学年差」の厳然としがちな学校社会」では滅多に例の無いこと。しかし、永い夏休みを隔てながらも二学期には、それはもう親しみ敬愛深く「ふたり」の空気がもう完成していた。よほども私から寄り添うて、「本の貸し借り」が双方から縁をふかめ、ひたすら私は借り「ねえさん」は貸してくれた。「北原白秋」とその「詩集」とは早い時期での「結ぶ」の神のようであった。「詩」も暗誦にすら足りた。貸して貰えてこそこの詩人と出会えた。
2023 8/1
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『天の夕顔』 中川与一 借読か。買ったか。「妹」梶川道子と耽読
懐かしい。この作が、「恋愛小説」という意識と受容で「耽読」した最初であった、「姉さん」と慕った上級生「梶川芳江」ははや卒業後何処と知れぬ天涯に去っていて、その妹、私しより一年歳下、弥栄中学二年生の「梶川道子」を私は「妹」という意識で「戀」した。指導できる部の先生のいない、というより不必要な、弥栄中学「茶道部」を主宰しはじめた私は、校内・校庭内に備わった本格に佳い「茶室・茶庭」を{校長先生・職員室の容認放任の儘まこと気ままに使って、部員に「茶の湯初級の作法」を難なく教えていた。私は「叔母宗陽」のもとで小学五年生から茶の湯を「猛烈な勢い」で稽古し学習し「裏千家の許状」も得ていて、中学生三年にもなればもう疾うに「叔母の代稽古」もちゃんと勤めていた。
まして佳い茶室の本格に遣える弥栄中學で、三年生生徒会長として新しい「茶道部」を起こし、参加の部員に点前作法を教えるなど誰の不審も受けず、先生方もまるまる信頼して私に「部の運営・指導」を任されていた。
あの慕いに慕った「姉さん・芳江」の妹たち、二年生「梶川道子」一年生「梶川貞子」は、真っ先の「新入」茶道部員でもあったのだ、もとより二人を、古都に「梶川道子」を「妹である恋人」のように私は熱愛した、精確に「距離」も保ちつつ、私は高校生になってからも「弥栄中学茶道部」の指導に通い続けた。歌集『少年』昭和二八年私十七歳での短歌集「夕雲」二十首は顕著な記念作になり得ている。
朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人戀ひにけり
窓によればもの戀ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を点てにけり
柿の葉の秀の上にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
『天の夕顔』は、そんな二人して憧れ読み合うていたが、手と手を触れあうことも、ついに、無かった。「道っちゃん」は、いま、どこか療養施設のベッドにいて、気丈にしていると「梶川」三姉妹の弟夫人からかすかに伝わっている。
2023 8/2
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『朝の蛍』 斎藤茂吉自選歌集 古本 京・東山線白川脇の古書店で購読
中学いや小学校のうちから、わが「立ち読み」の宝庫のような「古本屋」であった。平場には敗戦後「いまいま」のけばけばしい表紙の男雑誌も女雑誌も並んでいた、「ロマンス」とか「スタイル」とか。男の「はだか」も女の「はだか」も、手に、目に、「盗み見・盗み読み」ながらふんだんに見知っていた。
もとよりいわゆる各種の古書に手を出して「読む」場所であった、實に大勢の作者・著者、また題材にされた人の名を覚えた。わたくしの「ものしり」と財源と謂うべき「恩誼」有難い古書店だった。盗み見に手を出し繰り返し愛読した読み物は、著作者は。沢山有ってもう思い出せないが、なんとこの本屋で小遣いを出し「買った二冊」の一冊が 『朝の蛍』 斎藤茂吉自選歌集 あった。私は国民学校四年生の頃から短歌を自作し始めていた、そして「与謝野晶子」のこてこての歌風は好かず、あきらかに正岡子規系の歌人を崇敬した、斎藤茂吉はその一の人で、『朝の蛍』を「買う」ことに躊躇無かった。
もう一冊部厚い本を買ったのが、『明治大帝』で。明治天皇に親愛など覚えてなかったが、この大冊の「売り」は、いわゆる明治の元勲や各界著名士らの大きな顔写真付きの「紹介」であった、少年私はそれら大勢の明治の元勲や偉人や名士らの人と生涯に興味を覚え、その本を抱きかかえて買い、繰り返し熟読してアタマに容れた。つまりは「明治」を「人」から納得しよう努めたので、この「物識り」れは大きな財産になった。「時代の理解」を「人の事蹟と官位官職」から覚えたのだ。
斎藤茂吉自選歌集 と 明治大帝
とにかくも、ひたすら私は「買わない・立ち読み少年」に徹し、またそれしか手は無く、帳場の「おばはん」は私の日参を大概黙認してくれたが、一度は、「ボン、もうお帰り」と追い出された。懐かしいなあ。
2023 8/5
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『出家とその弟子』 倉田百三 借讀
高校一年生の国語の教室にみの図化に美しい女生徒が居て、いつも静かに読書していた。歌集『少年』の巻頭に、
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
とある其の人で、名前はしかと覚えないが、このひとから、私は『出家とその弟子』ばかりか、堀辰雄の『風たちぬ』等々静穏な私小説系の何冊もを借りて読んだ。近代も後期の純文学へ道を拓いてくれた人だが、一年生の内に転居・転校してゆき、そして「亡くなっている」という噂も後年に聞いた。はかない出逢いで在ったが、貴重な想い出を『出家とその弟子』を介して私に刻印していった。明らかに『般若心経講義』を自前で買った時機と前後していた。
『出家とその弟子』は、小説でなく戯曲だった、例のごとく私は家の中で、一心に声につくって「出家」と「弟子」とを語りわけ、』家の大人等を辟易させた。倉田百三の『三太郎の日記』なども此の頃、社会科の先生が教壇で熱心に話され、手を出したモノの歯が立たず失礼したのも覚えている。
2023 8/10
* 濃い敗色に掩われていったあの藻掻くような南湖の島々での日本兵惨敗の地獄苦なども、敢えて承知の務めかのようにテレビで見入った、昨日。例年の此の時期には意識し務めて往年のサンクを顧み自身その中へ混じる様にしている。忘れたいが、わすれてはならぬという自覚は失せない。国民学校一年坊主の私に既にソレしか無いと判りきっていた敗戦必至の戰争だった。先生や上級生に亡くくられようが蹴られようが、「買ったらフシギや」という、あの祖父旧蔵の白詩『新豊拙臂翁』に頷き聴き入っていた少年は、どう先生に殴りトバされ上級生に胸倉取られようが蹴倒されようが、「負けるしかない戦争」という至当の確信は脱けなかった。戰争は所詮「おかねのいくさ」鉄砲や弾や舟や飛行機の「數」で決まってくると私は感じ、それで、入学し立ての国民学校教員角牢から貼られた大きな世界地図の真っ赤い「日本列島」と宏大な真緑りのアメリカ国土を見比べ、「勝てるワケがないやん」と友だちに語った途端通りがかりの男先生に廊下の壁にたたきつけるほど顔を貼られた、ゼッタイに忘れないし、誤ったとも決して想わなかった。
「負けるに決まった戰争」を、どう、藻掻きながら相手の「上」へ出るかは、一にも二にも『悪意の算術』と私の名づけてきた「巧みな外交の技と力」なしには凌げない、どんな大昔からも、弱小国はそれでかつがつ切り抜けてきた。「歴史」が好きで学ぼうとしていた小学生私の、本能的なそれが確信だった、そしてそのまま「処女作小説」の『在る拙臂翁』へ表現されたのだった、最近「湖の本 164」に再掲し、相当な反応のあったことに首肯いている。
2023 8/14
* かみくずかのように、かきすての歌や句がかみきれごとに書いてあるのを見つけた。すうじゅうに達している。ともあれ、然るべく書き置いている。
* 九時過ぎ。湯冷めもし嚔もし、心地悪しい。 寝た方がいい。『鳴雪俳話』がすこぶる佳い。俳句は作れないが、佳い句、好きな句は、しかと受け取れる。やはり芭蕉と蕪村に嬉しく圧倒される。ソレを読む鳴雪翁の感傷が声挙げて拍手したいほど、佳いのだ。翁明治維新元年には京都に遊学、二十年には文部書記官を征服にサーベル提げて奉職していた。正岡子規より少し年上ながら子規門下の筆頭として子規俳壇牽引に盡力した。
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 芭蕉
春風のつま返したり春曙抄 蕪村
2023 8/14
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『梁塵秘抄』 岩波文庫 古本 古本屋の棚から購読
高校一年生の教科書で出逢った『梁塵秘抄』が好きで気に入って、以来しみじみと久しくも久しい付き合いになった。「信仰と愛欲の歌謡」と副題して「nhkブックス」に、もう一冊「孤心恋愛の歌謡」と副題して『閑吟集』もならび、各一冊の「書き下ろし出版」している、ラジオ、テレビでも「講話」出演している。「歌謡」とはよほど性が合っていた。和歌は和歌。しかし厳然として和歌よりも年久しい通うの歴史があった。しかもじつに「おもしろく」「おしえられる」のだ。
私は、和歌・短歌・歌謡には傾倒できるのに、不器用にも、現代語で書かれた近現代「詩」の、藤村、白秋、朔太郎らのほか、ほとんどが理解できず、味わえない。要は気取った「散文」のただ行替え「分かち書き」のようにしか感じない。味わえない。「詩歌」に期待しているのは「ことば・日本語」の旋律・リズムの美なのに、たいていの近現代詩は奇妙な哲学の「演説」「講話」「露表」のよう、詠んで、舌を咬みそう。かりにも私の魂とは無縁に遠い気疎いおしゃべり。
だが「梁塵秘抄」「閑吟集」また「謡曲」などは、ことばの「音と働き」とが胸へ、しかと「うた」に成り、徹ってくる、人間の生き生きとした「うた聲」として。人間は「うた」が好き、それなしに太古来生きて来れなかった。「うたを忘れた」詩人たちのまるで「演説」詩は、胸に美しくも有難くも響いてこない。
そんなことを、私は、和歌や物語や『梁塵秘抄・閑吟集』に教わってきた。感謝している。散文作家たちの魅力や精力の読み分けにも、評価にもこれが生きて関わる。
2023 8/20
* 心身不快、ことに「心」の内に濃厚な不快と不信と不和が、ドス黒い団子のよう。体力が許すなら、独りで、旅に出たい、旅先に、孤心を憩わせる小さな家寓が欲しい。
迂闊な私は気付けてなかった。自分の島に、やっぱり自分「独り」しか立ててないと、不本意ながら気がついたとは情けない。ありていに言えば、私には「身内」と謂うに同じい良い・大事な「読者」が有難い、が……、いやはや。
*各地での「競馬」実況を幾つか続けてテレビで見た。爽快感に、不快に沈む気分、すこし明るんだ、が。
誰かさんからの絵葉書、啄木の歌集『悲しき玩具』に
呼吸すれば
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音
と。私の不快に、とてもとても然様の風情は影も無い。
2023 8/20
* むかし昔の人のへたな句だが、
涼しさや塀にまたがる竹の枝 卯七 と。
我が家でも ただいま ちょうど粗相の「塀を」涼しげに群れて笹竹の翠りが跨いでいる。が、同じなら
涼しさは筍鮓の匂ひかな 傖促 へ 躙り寄るなあ。
2023 8/20
* 午前十時半。寝入っていた。心身に「元気」失せ、ハツラツとした何も無い。
書き散らした 歌の紙切れがひと塊り。記録済みか判らないが、書き写しておく。
* ネコ(我が家の初世)逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂 ひ居る
この匂ひ酸いとも甘いとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
線香も残りすくなく窓の下に梅雨待ち迎へネコはねむれり 一九八四 六月下旬
大むらさき紅い小椿房やかに岩南天も先垂れてをり
あはれともいはであはれや久方の光をともに櫻かがやく
あはれともいはでやみにし人ゆゑに花ちらす風のにくまるゝなれ
あらし吹くみうちの闇にふみまよひせぜの地獄へみちびかれゆく
黒いマゴの首筋をつまみ輸液する健やかなれやもうせめて五年を
十月六日
逢ふことのたびを重ねて身をせめてあはじの關を越えぞかねつる
日脚ややに伸びて元旦の空明るし いもとせを寧樂(なら)と祝ふぞちとせまで
小椿の緋の色にふたつ咲きそめてゆたに靑葉のはれて明るし
朱鷺椿(ときつばき)莟める儘に匂ひたつ翠の七葉侍(さむら)ふまでに
可愛といふ言葉しきりに口をつく黒いマゴも朱けの椿も仔獅子三戦士も カレンダーなど
ひとつ落ちひとつのこりて姉妹(おとどい)の緋椿は今朝も咲き静まれり
一月二十七日
黒いマゴ(愛猫)の三角の耳のひとつだけ妻と寝てゐてまだ六時前
十月五日
傘の壽へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて
たてつづけ蒲団の内へガスを撃つ病みて睡れぬ深夜のいくさ
真夜中にふと妻の手をつかみたるわれを如何ととふ吾もゐて
大根を薄切りに焼いて味噌置いて茶漬け喰わうと妻を笑はす
寒鴉カアと鳴くわれも鳴き真似す冬冴えてゐる行け寒鴉
八つ赤く一つが白き椿かな
惜しげなく花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
あらざらむあすは數へでこの今日をま面(おも)に起ちて堪へて生くべし
四月二日 生きめやもいざ
有馬山意のあら沼にふみまよひ返す情けの無きがくやしさ
ほととぎすななきそ今は亡き人の帰らぬそらに月も朧ろに
* これだけ書き出しても半ばに足りない。腰を据えて詠んだのでなく、ラクガキに近いが、結構にその時々を謡い、感じ、歎いている。「歌」であるよ。
残る半分余りは、折を見て書き取っておく。よく散らばってしまわなかった。
2023 8/26
* 昨日の「続き」を書き留めておこうか。何かしらとダヴって居るのだろうが、ま、ちっちゃな紙の切れ端にすべてが走り書き。ちっちやな挟みで括ってなければ細かな紙くずに終えて捨てられていたろう。短歌と謂うより「和歌」へ気を寄せ、「ものがたり」もをアタマに描いていると読めるものが混じる。。
〇 あしびきの山の瀬わたすかり橋の心細くも人を恋ひたし
あけぬれば来るといふなり
朝ぼらけうきもからきも川波にあらはれて行く宇治(憂事)のふるさと
夏の夜はまつに淡路(逢はじ)の風絶えてあてども波を来る舟もなし
心あてに小野の萱はら踏みわけて人とふまでのあはれ秋風
春すぎて浪速の夢もいろさめし夏の日ながに酒くむわれは
朝ぼらけ荒磯の海にましぶきて波騒(なみさい)光る吾れを喚ぶかと
さびしきにやがて孤りの胸を抱く何を此の世の旅づとにせん
瀬をはやみ言はでも洩るゝきみゆゑのなげの泪の流れやまずも
吹くからに朝原わたる小牡鹿の角かたむけて露はらふ見ゆ
村雨の月にはれゆく秋の夜の露けくも吾(あ)は人を恋ふらし
すみの江の霧の絶え間に浪よせて松におとなふ風のかしこさ
まだまだ有る、びっくり。
2023 8/27
〇 めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
逢ふことの絶えてなげきのふみもみず幾山河の夢のかなしさ
人もおし吾れも押すなる空(むな)ぐるまなにしに吾らかくもやまざる
天つ風苦も憂(う)もはらへきみがためやすき陽ざしに花を咲かせて
かささぎの渡る夜空のかけ橋にわれまつ人の生けるまぼろし
あらざらむこの行く終(はて)の旅の果てと想へばさびし独り逝く道
百敷の達の山根に年ふりて人の絶えたる宮一柱
* 三日かけて書き写したこれら辛うじて散失前の「紙切れ歌」の数々は、私の「歌詠み」のさまを露わに謂い尽くしていて私自身、へえッとビックリ。根っから「和歌」にまねびて私は「短歌」を享楽していた。幼少(戦時の国民学校四年生)以来「結社」の「仲間」のという体験がまったくない、黙って読んで下さったのは、みな担任か国語の先生だけ、小学校の中西先生、中学の釜井春男先生、給田みどり先生、高校の上島史朗先生、どなたも作の全てに技術的な口出しはなさらず、お着に召したらしい作の肩に「爪シルシ」だけが着いた。結社入りを誘われたことも一度も無く、むしろ独りが佳いですと。
大學のおり、一度ある結社の短歌会に誘われ、請われて三首を提出。名無しで参加者の作全部がコピーされ互選の当票があった。結果は私の三首が一、二、三位を独占していた、なにとなくワルクて、以降、誘われても参加しなかった。
とはいえ、子規、節、茂吉らに傾倒しながらも、私の短歌はやはり「和歌育ち」を避けも、避けられもしないまま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲(らんぜう)』と四冊の歌集を成し、いま人生最期と覚悟の『閉門(ともん)』を成しつつある。「短歌」は私の人生で「小説」以上に身近であったということ。
2023 8/28
* 夫婦でない両親に生まれて、一つ家に暮らした覚え全く無く、一つ遭うの兄とも全く無く、気がつけば、四歳ごろか、京都の「ハタラジオ店」の「もらひ子」になっていた。
そんな身の上からも、わたしは昔から夢見ていた、いつか、いい妻に出逢い、息子に優しい「お嫁さん」が出来て、可愛い孫を抱かせて欲しいと。
幸い佳い妻は得た、が、「お嫁さん」も「孫」も現にいない。せっかく私を貰い育ててくれた「秦家」は、心から秦の両親や叔母に申し訳ないが、建日子独りで「絶えて」しまう。八十八の齢を目前に、「運命」という二字がきつい針のように身を刺す。愚痴か。愚痴と思う、が。悟った顔はしない、が、何となく悲しくなり、悟らない爺は、小学生時期にじしん発明した「身内」「眞の身内」という「想い到り」が恋しくなる。すべて「罪は、わが前に」しかし「眞に身内の思い」で慕い愛した思い出が、ある。忘れない。「世間」があり、「他人」がいて、そこから「眞の身内」が得たい。「得られた」という実感がもてていた。おさなかった「もらひ子」は懸命にわが「眞の身内」を尋ね尋ねて「少年」になり、「うた」を詠み初めていたのだった。
2023 9/5
〇 re ぶっ潰れて仕方なく遊んでます。
秦先生 以都
たくさんの「お歌」をありがとうございました。
本歌取というのでしょうか。本歌を凌ぐ出来栄えと感嘆しきりです。
お酒と恋の歌が多いような・・・。
まるで、話すように「歌」が流れ出るのですね。ほんと驚くばかり。
9月に入っても、暑さはかわらず、コロナもまた増えているようです。
お身体どうかご自愛くださいませ、先生も奥様も。
HPを拝見できるようになる日が早くくるといいのですが(5月30日までは拝見できます)
* 歌詠みに「酒と戀」ほど無責任に気楽な歌材はない。好き放題な法螺に、ちょっぴり真情を溶かし容れたり。うまく作ろうなどと思わぬこと。
2023 9/11
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を「明治」からはじめ気儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。これは品川彌二郎の作詞か 真っ先に「トンヤレ節」を。節は、兵士たちからの自然発生か。
◎ 宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じゃいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗(にしきのみはた)じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
〇 大将軍有栖川宮さんを先頭に「薩(摩)長(州)土(佐)」が意気揚々最期の江戸城を屈服せしむべく東征のおりの、たぶん軍中の知恵者が率先全軍に囃させ、軍歌めく口ずさみが民衆にも大流行したモノか。六番ほど有ったようだが、私ら幼少には一番で足り、「宮さん宮さん」という京風・御所風な呼びかけに親しみを持っていた。
囃子詞がどこから出たか分からないが。江戸攻めを「とことん、やれ」というけしかけであったか…どうか。
2023 9/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「ノーエ節」を陽気に想い出す。「農兵節」か。
◎ 富士の白雪ゃ、ノーエ
富士の白雪ゃ、ノーエ、富士の サイサイ
白雪ゃ 朝日でとける
解けて流れて ノーエ
解けて流れて ノーエ 解けて サイサイ
流れて 三島にそそぐ
三島女郎衆は ノーエ
三島女郎衆は ノーエ 三島サイサイ
女郎衆は お化粧がながい
お化粧ながけりゃ ノーエ
お化粧ながけりゃ ノーエ 三島サイサイ
ながけりゃ 大客が困る
自然発生ふうにもっと長いらしいが、子供時分は一、二番だけ。農事に携わる傭兵等の労働歌か、酒の席にはさぞ向いていたろう。中の洒落者のふとした口ずさみが大受けしたかと想う。
2023 9/13
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「オッペケペー節」は川上音二郎が「作詞」して、爆発的に唱われたとも、小声でだろう、とも。如何にもいかにも「明治」の唄声である。「主題付き」なのが佳い。
〇 「権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい」
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
かたい裃(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の真理が判らない
心に自由の種をまけ
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
2023 9/14
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 「第三高等学校校歌」 澤村胡夷 作詞・作曲
紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花 緑の夏の芝露に
早緑(さみどり)にほふ岸の色 残れる星を仰ぐ時
都の花にうそぶけば 希望は高くあふれつつ
月こそかかれ吉田山 われらが胸に湧き返る 以下 十一番迄
* 此の欄の趣意としては早や「脱線」を承知で。
私が生涯で最も早く「憧れた」のは、国民学校(小学校)を出たら京都一中か二中を経て、あの吉田山の「三高」に合格し、美しい校歌「紅萌ゆる」を「わがもの」にうたうことであった。「校歌」に惚れていた。
だが、敗戦。学制も「六・三・三(小・中・高)制」に変わって夢は「泡」と消えた。
私は、試験を受ければ必ず受かる京都大學には、「気」がまるで無かった、当時火炎瓶だのデモだのの騒がしさも好まなかった、受験はせず、ためらいなく高校三年までの成績優秀の推薦で、三年生二学期の内に「同志社」への無試験入学を決めた。京都御所の静謐にひたと接した、あの「新島襄」が創立の「私学」、赤煉瓦の建物も美しいキャンパスも気に入り身も心も同志社に預けて、以降を、自由自在に私は「京都」の久しい歴史と山水自然のこまやかな美しさへ「没頭」した。「小説家」「歌人」へと「七十年の道」がもう見えかけていた。
2023 9/15
* 馴染みの「唄」番組があり、歌唱プロらしい正装の男女が合唱してくれる。
今日、「青い月夜の浜辺には」という唄を妻と聴いていて、私は嗚咽を忍べなかった。泣き出した。
子供の頃、養親たちや人に隠れ、孤りこっそりと口に唱う唄だった、泪を流しながら。街育ち、「青い月夜」も「浜辺」も「濱千鳥」も識らない、が、「親をたづねて(さがして)啼く」小鳥とは、数歳から幼稚園、国民学校一、二年までの「私自身」に相違なかった。生母があり実父があり「夫婦でない」大人たち。家出傍に居る秦の祖父も両親も、叔母も「もらひ子」してくれた人たちとだけは「知らされずに」も、幼少、感知し察知していた。唄の{ハマチドリ}には成りたくなくても;以外の何でもない、あり得ない幼少だった。此の手の唄には、過剰にも弱かった。
今にして思う、私には幼・小・中・高・大學の何時時期にも「親と慕い」「愛された」先生方がおいでだった。「あおげば尊し」「わが師の恩」を私は、もったいないほど戴いて来れた。決して忘れない。
2023 9/15
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『デカンショ節』 東都の一高生らが民間へも流行らせたとか。
デカンショ デカンショで 酒は呑め呑め 茶釜で沸かせ
半年暮らす ヨイヨイ ヨイヨイ お神酒あがらぬ神はない
あとの半年ゃ寝て暮らす ヨーイヨーイデッカンショ
ヨーイヨーイデッカンショ 以下 延々
* 「デッカンショ」の囃子は、丹波篠山の盆踊りからと謂われ、しかもいろんな解釈も連れ加わって酒の肴にされたと。「デ」カルト、「カン」ト、「ショ」ーペンハウエルの頭(かしら)を借りたなど、伝わり聴いても面白かった。
2023 9/16
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『人を恋ふる歌』 与謝野寛(晶子の夫) 作詞デ
妻をめとらば才たけて ああわれコレッジの奇才なく
眉目うるわしくなさけある バイロンハイネの熱なきも
友をえらばば書を読みて 石をいだきて野にうたふ
六分の侠気四分の熱 芭蕉のさびをよろこばず (他に幾番も)
* 才もなく眉目うるわしくもないが、「なさけ」はふかい方の「妻」と信頼してきた。
「書を読んで」書ける「友」には嬉しいことに、コト欠かない。
昨日も留守中、寺田英視さん(文藝春秋「文学界」等の編集者を経て「専務さん」まで)の新著『泣く男』が贈られて来ていた、倭建命にはじまり、大伴家持、有原業平、源三位頼政、木曾義仲、大楠公、豊太閤ら、さらに吉田松陰にまでも「男泣き」の系譜を「古典」からも論攷されている。いかにも「寺田さん」であるなあと、読み始めへの興味、はや溢れている。
この寺田英視という久しい「友」こそが、すでに「165巻を刊行」して、なおなお続く、世界にも稀な『秦恒平・湖の本』刊行を「可能」にと率先「凸版印刷株式会社」を紹介して下さった、それなしに「湖の本」がもう40年近くも途切れなく刊行しつづけられたワケが無い。「わが作家生涯」のかけがえない恩人であり久しい読者のお一人なのである。心して明記しておく。
2023 9/17
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『戦友』 真下飛泉・作詞 三善和気・作曲む
一、 ここは御国を何百里 二、 思えばかな昨日まで
離れて遠き満州の 真っ先かけて突進d
赤い夕日に照らされて 敵を散々懲らしたる
友は野末の石の下 勇士ははここに眠れるか
(十二番まで)
* この歌が 少年私の気に入っていたか。好きで唱ってたか。
いいえ。ノーである。「戦死兵」を痛み悲しむばかりであった。「御国を何百里」の「遠き満州の」「野末に」独り葬られた兵隊さんの、誰より家族遺族の身になった。「敵を散々懲らし」て日本「国の手」が収めて行く「満州」とは何であったか。私自身すこしずつ成長し、そしていろいろに読んで聞いて蓄えた「大日本帝国ないし皇軍」の意図や所業は、子供心にも剣呑な自利自欲・征伐征服欲のあまりな露呈、とても「勇ましい」とは思われず、其の爲に「満州の土」と化し孤絶に戦死する兵隊さん、また強い日本の兵隊さんに殺される側の人たちのことも、ごく当たり前に「無慚にも意味なきこと」と思われた。
「兵隊さんには成りとない」というのが、こういう歌から受け取った幼少負荷のメッセージだった。しかと「書いて」おく。
2023 9/18
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『スカラー・ソング』 神長瞭月・作詞 (「箱根の山は」曲で唱った)
なんだ神田の神田橋
あの九時ごろ見渡せば
破れた洋服に弁当箱さげて
テクテク歩きの月給九円
自動車飛ばせる紳士をながめ
ホロリホロリと泣き出だし
神よ仏よく聞き給え
天保時代の武士(もののふ)も
今じゃ哀れなこの姿
麻糸つなぎの手内職
十四の娘は煙草の工場へ
においはすれども刻葉(きざみ)も吸えぬ
いつもお金は内務省
かこそあねなれ 生存競走の
活舞台
* 当時三銭の電車賃が四銭に値上げで「焼き討ち事件」が起きていた。貨幣価値はむちゃに混乱、明治二十三年に建った「浅草の十二階」施工費は「月給九円(食えん)」の時節に「五万五千円」。わずか前「天保」の二本指しお侍達は廃刀令のもと、金主だった主君とも縁が切れて飯も「くえん」窮乏をかこち歎いていた。士農工商は逆転、「士」は落ちぶれ「商」が力を付けてきた。
2023 9/19
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ハイカラ節』 神長瞭月・作詞
ゴールド眼鏡のハイカラは
都の西の目白台
ガール・ユニバシチ(女子大学)のスクールガール(女学生)
片手にバイロン、ゲーテの詩
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風戀風そよそよと
歩みゆかしく行き交うは
やさしき君を戀し川 (小石川か)
背(せな)垂れたる黒髪に
挿したリボンがヒーラヒラ
紫袴がサーラサラ
春の胡蝶のたわむれか
〇 二番は、おそらく「御茶ノ水」か。『魔風戀風』という通俗な新聞小説が爆発的な人気を得ていた頃。
2023 9/20
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『おえどこ節』
おいとこそうだよ墨田堤を三人連れ立つ女学生
モスト・ビュテイ(一番美人)で目に付くレディ(令嬢)は 人も知るな り駿河台 紅葉學校のセコンド・クラス(二年級) 姓は月岡名花子 滴 るばかりのその愛嬌を 双の笑窪にに噛みしめて 歩む姿はエンゼル・ス タイル(天女型) おいとこそうだよ
* 「のんき節」などとともに、世上に字義のまま、まさに「演歌」が唱われ流れた、大正時代。ラジオやレコードの未だ無い時代には「演歌」が唯一、唄、唄の伝え手であった。だが、「演歌」は、もとは明治半ばのの『政治運動』に胚胎されていた。しだいに「評判」という意図から「唱って」「伝え」「広げる」社会性。忘れがたい意欲の根も葉も感じ取れる。
2023 9/21
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『ノンキ節』 添田唖蝉坊 作詞という
学校の先生は豪(えら)いもんじゃそうな
えらいからなんでも教えるそうな
教えりゃ生徒は無邪気なもんで
それもそうかと思うげな ノンキだね
成金という火事ドロの幻燈など見せて
貧民學校の先生が
正直に働きゃみなこのとおり
成功するんだと教えてる ノンキだね
* バイオリンの哀愁の旋律などを伴奏に第一次大戦後の光景が生んだ「成金と成金と貧民」との懸隔は大正初年に際立った。「ノンキ」という皮肉と苦渋の「批評」が誰の身にも滲みたのだ。
2023 9/22
〇 『湖の本164少女 』をご恵送いただき、誠に有難うございました ”始筆書き下ろしの「創作」”或る折臂翁を拝読、戦中・戦後にまたがる話の院櫂に惹かれました。初樹の父・弥繪・康岡それぞれの人格が゛心に迫り、崖が重要な役割を持つ構成と結末の急展開に驚かされました。白楽天詩からの発想にも独創性を感じました。秦さんの幼稚園生にして真珠湾攻撃を無謀と案じ、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかったとの感覚は凄いと思いました。「不敬」「非国民」といった言葉が散見し、何の留保も無く自衛隊への好意的な論調が流通している昨今に危機感を持ちます。 励 名誉教授
* 此の、祖父鶴吉旧蔵、國分青厓閲 井土靈山選『選註 白楽天詩集』(明治四十三年八月四版)を手にした国民学校時期に巻中の七言古詩『新豊折臂翁』加えてに感動的に出会ったのが、加えて敢えて云えば「敗戦前に戦時疎開」していた丹波の山奥の借り住まいで、裏山深く独り登って見つけたある「崖」の誘いが、この、作家生活へ向かう第一筆処女作の「原点」となった。作家になってからも直ぐには世に出さなかった。期するあり、温存していた気がする。
いま此の様な「的確な読後感」を頂戴できたことを、生涯の喜びに数えたい。佳い「詩集」を遺して行ってくれた畏怖に値した秦鶴吉祖父に深く深く感謝している。秦家へ「もらひ子」された幼少はまことに幸福であった。
2023 9/22
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『船頭小唄』 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲ノ
一、おれは河原の 枯れすすき 二、死ぬも生きるも ねえおまえ
おなじお前も 枯れすすき 水のながれに なにかわる
どうせ二人は この世では 俺もお前も 利根川の
花の咲かない 枯れすすき 舟の船頭で暮らそうよ
* 陰気な唄の代表のように、幼少の胸にも、冷ややかにもの哀しく蟠るメロディだった。メロドラマという言葉を覚えたとき、まっさき、まっすぐ喉元へ戻ってきた唄であつた。船頭さん夫婦が気の毒とさえ思った。好きになれないメロディで、歌詞であった。
2023 9/23
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『鯉のぼり』 文部省唱歌
一、甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
〇 二番以降の歌詞はくどくて戴けないが、一番は胸の奥まで颯爽と澄むようで、「唄」「歌詞」の代表作の一つに数えていた。それは音韻の晴朗な連鎖・連繋に由来していると、子供心に「カ行音」の配置、「ア行音」の設置に、それがもたらす歌詞世界の明瞭を汲み取っていたから。和歌でも短歌でも俳句でも詩でも文章でも「カ行音」「ア行音」を一に心しているといないでは「唄」としての印象に大差が出る、と、私はこんな『鯉のぼり』をうたっていたころから感じ、感じ入り、教えられていた。「カ行音」「ア行音」そして「ハ行音」の配置の効果に無知・無神経な詩人歌人文人は、「ことば」という「こころ」の濁りに無神経なのである。
2023 9/24
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『朧月夜』 文部省唱歌
一、菜の花畠に 入日薄れ 二、里わの火影も 森の色も
見わたす山の端 霞ふかし 田中の小路を たどる人も
春風そよ吹く 空を見れば 蛙のなくねも かねの音も
夕月かかりて におい淡し そながら霞める 朧ろ月夜
〇 この唄で歳幼かった私は「日本の国土と言葉」とを深く美しく教えられ学び取った。これが「日本と日本人」の最も普段に平和な「生活」であり「景色」であった、今もある、のを悟るほどに信頼した。今日謂う街なかから小さな山村へ戦時疎開して、私のそう謂う感覚や理解が誤っていないと直観した。佳い教科書と美しい詩情とにふれる嬉しさを、私はもうこの老耄にも忘れていない。
2023 9/25
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『カチューシャの唄』 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲
一、カチューシャ可愛や 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか
〇 「カチューシャ」が人の、女の、名らしいとは察しても 他の何ひとつ 一切を識らないで、ただ聞き覚えに「カチューシャ可愛や」と唱っていた。大正の名女優松井須磨子が舞台でうたったとも識りようのない、昭和十年代の、国民学校下級生時期の私だった。トルストイ、『復活』といった背後の文学史には遅そ遅そに追いついていった、トルストイの「戦争と平和」「アンナレーニナ」「復活」こそが世界三大名作なとも追い追いにおぼえては「讀書」の大目標にしていった。実感として『アンナカレーニナ』が一、『戦争と平和』が継ぐと評価し、『復活』はやや気重もであった。そんな知識とは未だ全然触れ合うたことのない、ただの耳に入った流行り唄をうたっていた。カチューシャの「カ」という音のきれいな反覆を好感していた。
2023 9/26
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『新金色夜叉』 後藤紫雲 宮島郁芳 作詞」
一 熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人づれ 四 いかに宮さん貫一は
共に歩むも今日限り これでも一個の男子なり
共に語るも今日限り 理想の妻を金に替え
洋行するような僕じゃない
二 僕が学校卒(おわ)るまで
なぜに宮さん待たなんだ 五 宮さん必ず来年の
夫に不足かできたのか 今月今夜のこの月は
さもなきゃ お金が欲しいのか 僕の涙で曇らして
見せるよ男子の意気地から
三 夫に不足はないけれど
貴郎(あなた)に洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山一家に嫁(かし)づかん
〇 尾崎紅葉の『金色夜叉』は新聞小説空前の大ヒット作、この唄も、私のような学校前の幼童でも口にした、つまらない唄とバカに仕切って。そしてもう成人し、紅葉の他の秀作など識るにつれ「読んでやるか」と読み出すと、コレがたいした文章の秀作力作だった、私は「尾崎紅葉」が「幸田露伴」と並んで「文豪」とされるのに承服する
2023 9/27
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『赤い靴』 野口雨情作詞 本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
いっちゃった
〇 自身の口には滅多に載せなかったが、かなり強く意識して忘れがたい唄であった。私は昭和十年(一九三五)歳末に生まれ、大東亜戦争は昭和十六年(一九三六)十二が八日、日本軍の真珠湾奇襲て始まった‥私は送り迎えのバスで京都幼稚に通っていた、翌る年四月に有済国民学校一年生に成った。戰争前の私はちいさかったが、家の間を往来する異人さんは見知っていた。我が家「ハタラジオ店」の有った知恩院下の新門前通りには「異人さん」を客に向かえる美術骨董や日本衣裳の店が転々と建ち並んでいて、蹴上の都ホテルなどに宿泊の異人さんらの決まって立ち寄る通り道だった、異人さん店をのぞかれることも、声かけられる子供達もいた。「赤い靴履いた女の子」を見た記憶は無い、が、大人に手を牽かれ通ってってもちっともふしぎでなかった。二番に出てくる「横浜のはとばからふねに乗って 異人さんに連れられて等吏手いっちゃ」う光景とは無縁だった。だが、なんとなく「いっちゃ」うのは、つまらなくイヤであった。あの気分に今でも帰れる。
2023 9/28
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ローレライ』 近藤朔風 譯詞 ジルヘル作曲
三、 なじかは知らねど心わびて
昔の伝説(つたえ)はそぞろそろ身にしむ
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ
入り日に山々 あかく映ゆる
二、 美(うのわ)し乙女の巌頭(いわ)に立ちて
黄金(こがね)の櫛とり身の乱れを
梳きつつ口吟ぶ歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂もまよふ
〇 敗戦後新制中學の一年、いや二年生の音楽教科書に載って居て、音楽の時間に音楽室で習った。まことにつまらん歌だと、譯詩の平凡にもイヤ気がした。なんで戦後日本の自主性・社会性・民主主義をと日々叱咤激励されるわりにはあまりアホらしいたわいない歌だとクサシていた。
ところが、である、その翌年の全学年より揃うて講堂での集会に、音楽の小堀八重子先生、嚴として、その全学集会で「ローレライ」を「独唱せよ」と。誰が。私が、である、マイッタ。音楽教室で、うちの組だけの音楽の時間なら、期末試験がわりに、みな、一人一人唱わされることはある、だが、ちがうのだ、それとは。京都市内でも人に知られた立派な大講堂の檀上で、先生のピアノ伴奏で「独りで唱え」と。「ローレライ」をと。講堂には、むろん全校生が倚子席にぎっしり。青くなり赤くなり、へどもどしたが、こういうときに断乎とニゲル気概と意気地がない。
じつを謂うと、同様の全校集会が前年のおなじ時期にもあり、そこで、やはり広い講堂の壇上真ん中でうたった上級生女子がいた。歌は、「春のうららの隅田川 上り下りの舟人は」という春の歌、唱った三年生女子は、一年下の私の、心から「姉さん」と思慕し敬愛していた「梶川芳江」だった、食い入るように舞台の「姉さん」を見つめ、美しい歌声を全身に体していた。その思い出があり、一年後に私に唱う役が与えられのにも、こりゃ困ったと閉口もしつつ、けれどあの卒業していった「姉さん」の「跡を継ぐ」のだからと、じわっと昨年を懐かしんだのである。あの聰明に優しかった「姉さん」も亡くなった。こんな妙チキリンな述懐を天井で微笑していることか。
それにしても『ローレライ』には歌詞も曲も馴染まなかった。以降も此の歌を口ずさむコとは絶えてなかった。だが、アレ、わが弥栄中学三年間の一のハイライトではあったなあ。とちりもせず、調子も外さずとにかく唱い終えたのだもの。
◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
2023 9/29
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『虫のこえ』 文部省唱歌
二、 あれ松虫が鳴いている
ちんちろ ちんちろ
ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴き出した
りんりん りんりん
りいんりん
秋の夜長をなき通す
ああおもしろい虫の声
〇 京の養家の猫の額ほどな奥庭でも、疊一枚ほどの泉水に金魚らが游いで、寝間の窓ごしに幼い私は松虫鈴虫の音も聴いて育った。ときに枕元の障子際を蛇の趨ったような怖い古い家であったが、わが埴生の宿ではあったし、此の唱歌も好きだった。
同じ文部省唱歌でも、「あたまを雲の上に出し 四方の山をみおろして かみなり様を下にきく ふじは日本一の山」なとと「上」にふんぞり返りたがる「ふじの山」など、同類歌は少なからず、みな、好かなかった。明治大正昭和の「唱歌」にはとかく「日本一」の「上」賛美や自慢があった、好かなかった。「天皇制」政体であるよりも「日本文化」とひとり理会していった少年は、「高嶺おろしに草も木もなびきふしけん大御代を仰ぐ今日こそ」などと唱いたくなかった。唱わなかった。
2023 9/30
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『人形』 文部省唱歌
一 わたしの人形は よい人形 二、 わたしの人形は よい人形
目はぱっちりと いろじろで うたをうたえばねんねして
小さい口もと 愛らしい ひとりでおいても泣きません
わたしの人形は よい人形 わたしの人形は よい人形
〇 子供こころに不愉快な唄でった。わが子を「人形」に見立てて、都合良く愛想良く大人? 多分に母親? が、わが子を「ひとりでおいても泣きません」などと思うまま「人形」扱いに私有し支配している図と見え、イヤらしかった。「文部省」がこんな唱歌で少年少女・児童を、大人や親の「人形」扱いに委せるのか、バカにせんといてと思った。
2023 10/1
* まだ八時半。それでも両の上瞼痛く重く、へとへと。尾張の鳶が、鴉の短歌を喜んで褒めてくれていた。おうおう。
すこし乱し書きにメモだけの書き留め歌を、とり留めとりまとめておこう、か。
2023 10/1
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『村祭』 文部省唱歌
一、村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞える笛太鼓
〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
2023 10/2
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『籠の鳥』 秋月四郎 作詞 鳥取春陽 作曲
一、逢ひたさ見たさにこわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
二、逢ひに來たのになぜ出て逢はぬ
僕の呼ぶ聲忘れたか
三、あなたの呼ぶ聲忘れはせぬが
出に出られぬ籠の鳥
四、籠の鳥でも知恵ある鳥は
人目しのんで逢ひにくる
〇 たわいない唄ではあるが、幼稚園、国民学校の幼少には、何ともなくこれを「世の中」へ入門して行く道先案内か、先達の指導かのようにも聴けていたのを、まんざらバカラシクもなく思い出せる。斯う謂う「世の中」へ誘い入れる道とも声ともいつしか唄い憶えるのが、斯う謂う「唄」の無視はならない訓育めいていた。だからこそ親や大人は「唱うな」と角を立てて幼少が「物知り」になるのを拒んだ。
2023 10/3
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ストトン節』 添田さつき 亦は父・唖蝉坊作詞か
一 ストトンストトンと通はせて 五 ストトンストトンと通はせる
今更いやとはどうよくな 一月かせいだ金もつて
いやならいやだと最初から ちょいと一晩通つたら
いへばストトンで通やせぬ キッスひとつで消えちやつた
ストトンストトン ストトンストトン
〇 演歌大流行のほぼ末尾ちかく、大正も末のほうで流行ったらしい、こんなアホウら しい唄で憂さが晴れていたか。
令和の昨今サラリーマンのそれも同様なのか。月給取りの暮らしから脱けて少なくも、私、半世紀ほど。作家生活の「読み・書き・読書と創作」そして家で一人飲む酒で「ストトンストトン」と遣ってきた。ストトンストトン…て、何かな。
2023 10/4
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ヨサホイ節』 秋月四郎 作詞
一 一つ出たハナヨサホイホイ 七 七つと出たハナヨサホイホイ
一人寂しく残るのはホイ ながめしゃんすな迷うてもホイ
わたしゃ死ぬよりまだつらい 加茂川育ちの京をんな
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
二 二つと出たハナヨサホイホイ 八 八つと出たハナヨサホイホイ
二人は遠く隔つともホイ やはり変わらぬその心ホイ
深く契りし仲じゃもの 勉強しゃんせよ末のため
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
三 三つと出たハナヨサホイホイ 十 十と出たハナヨサホイホイ
みんな前世の約束かホイ 遠い京都の空の雲ホイ
ほんに浮世はいやですよ 一人さびしくながめませう
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
〇 私自身は、大正も末、昭和をそこに臨んでの「京も祇園」絡みのこんな唄、唱った覚えも聴いたことも無い、が、妙に、もの哀しくも、うらさびしくもあります、ホイ。
「ラジオ」誕生、東京大阪の放送局がュースを伝えはじめ、また、イヤな「治安維持法」などの起った頃である。
2023 10/5
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『木曽節』
一 木曽のナア 中乗りさん 木曽の御嶽(おんたけ)さんはナンジャラホイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷(あわしょ)ナー中乗りさん 袷(あわしょ)やりたやナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ
二 木曽のナア 中乗りさん 袷(あわせ)ばかりはナンジャラホイ
やられもせまいヨイヨイヨイ
襦袢(じゅばん)ナー中乗りさん 襦袢仕立ててナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイ
〇 十番までも有る。は、幼少來耳にしていた。京都から木曽御嶽山は比較的近い霊場とみられていたろう、平安時代の女人でも参籠に出向いていたほど、観光にも木曽は山河の美しさを合わせていた、今も。子供でも、聲いっぱい張り上げられる快感があったと、忘れない。
2023 10/6
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『草津節』
一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)
〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
2023 10/7
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『酋長の娘』 石田一松 作詞・作曲 草
一、 私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
二、 赤道直下 マーシャル群島
椰子の木蔭で テクテク踊る
〇 日本の軍事勢力が太平洋をしだいに南下展開領有していった、無邪気なほど景気づいていた時機時節を反映しており、幼少の私でも、「ラバさん」が当時の少年少女言辞を用いて謂うなら「好きやん」に当たるだろう程度は察して平気で唱っていた。まだ戰争へ突入以降の陰惨を、国民はまるで胸にも萌していなかった、と想われる。「マーシャル群島」の名など、どんなにのどかに景気よく、どんなに危うく、どんなに不安に満ちて大人も子供も「つきあってた」ことか。
2023 10/8
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『洒落男』 坂井 透 作詞
一、 俺は村中で一番
モボだといはれた男
自惚れのぼせて得意顔
東京は銀座へと来た
そもそもその時のスタイル
青シャツに真赤なネクタイ
山高シャッポにロイド眼鏡
ダブダブなセーラーズボン
二、 吾輩の見そめた 彼女
黒い瞳で ボッブヘアー
背が低くて 肉体美
おまけに足までが 太い
馴れ初めの始めは カフェー
ここは妾(あたし)の店よ
カクテルにウイスキー
どちらにしましょう
遠慮するなんて 水臭いわ
五、 夢かうつつかその時
飛びこんだ女の亭主
者も言はずに拳固の嵐
なぐられてわが輩は気絶
財布も時計もとられ
だいじな女はいない
こわい所は東京の銀座
泣くに泣かれぬモボ
〇 こんな唄を少年私は エノケン(榎本健一か)というお笑いトーク藝人の「藝」として聴いた、むろん「ラジオ」か、ホヤホヤの「テレビジョン」かで。当時「お笑い藝人」の大御所格に、この「エノケン」と「アチャコ」が風靡。私は、そのどっちもたいして感心せず、この以降へつづいた数々の巧い笑わせる「漫才」ブームに惹かれた。
それにしても、明らかに「モボ(モダンボーイ)」ならぬ、西京京都の知恩院下、祇園街育ちの「女文化」少年の私に、「東京」「銀座」とは先ずはこういう「顔つき」で登場していた。東京に「憧れる」気持ち、全然と謂うに近く無かった。行くならよほど「要心」「覚悟」してと思っていた。私史としても記録に値する気だった。
2023 10/9
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『會津磐梯山』
エイヤー会津磐梯山は宝の山よ
ハヨイト ヨイト
笹に黄金がエーマタなり下がる
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
(囃子)小原庄助さん なんで身上(シンショウ)つぶした
朝寝朝酒朝湯が大好きで
それで身上つぶした
アもっともだ もっともだ
エイヤー音に聞えし飯盛山(いいもりやま)で
ハヨイト ヨイト
花と散りにし白虎隊
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
エイヤー会津磐梯山に振袖着せて
ハヨイト ヨイト
奈良の大仏婿に取る
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
〇 京の町育ち、會津も磐梯山も知らない、見たことが無いのに、幕末維新の昔に「會津」が色んな意味で京都で健闘したらしいとは、ボンヤリと子供心にも耳にも触れ合うていた。それに、大人も若い衆も上の「囃子」の「小原庄助さん」に共鳴してたらしく、早い時間の空いた銭湯で機嫌良く唄う大人はケッコウいたものだ。早い時間の空いた銭湯の好きだった私はこの唄、よほど早くから耳にし、口に倣うていた。「囃子」の「小原庄助さん」は一人のケッコーな先達ないしエラソーな人に想え、親しみ、敬意をすら覚えていた、子供のクセに。デ、私、この歳にして「朝寝朝酒」はいつも願わしい境涯と心得ているのです。
2023 10/10
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『うちの女房にゃ髭がある』 星野貞志 作詞 古賀政男 作曲
一、 何か言おうと 思っても
女房にゃ何だか 言へません
それでついつい 嘘をいふ
(女)なんですあなた
(男)いや、別に
僕は、その、あの
パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ 髭がある
〇 何と無う「おとな」の世間はこんなかと、子供心地に察しながら、自分では唄わないが、ラジオなどで聞こえると、聴いていた。「ベンキョウ」になりました。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか」なと虚勢の唄は、いっそバカげていた。
2023 10/11
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『露営の歌』 藪内喜一 作詞 吉岡裕而 作曲
一、 勝ってくるぞといさましく 三、 弾丸(たま)もタンクも銃剣も
誓って國を出たからは しばし露営の草まくら
手柄立てずに死なれよか 夢に出てきた父上に
進軍ラッパきくたびに 死んで帰れとはげまされ
まぶたに浮かぶ旗のなみ さめてにせらむは敵の空
〇 『曉に祈る』 野村俊雄 作詞 古関裕而 作曲
三、ああ堂々の 輸送船 四、ああ大君の 御爲に
さらば祖国よ 栄えあれ 死ぬは兵士の本分と
遙かに拝む 宮城の 笑った戦友(とも)の 戰帽に
空に誓った この決意 残る恨みの 弾丸(たま)の跡
〇 少年私は、概して「戰歌」と類されるどれ一つも好まなかった、嫌った。なかでも此の、「夢に出てきた父上に 死んで帰れとはげまされ」など、憎悪に近く嫌った、そんな「父親がいるものか」と。
「大君の御爲に 死ぬは兵士の本分」など、「遙かに拝む宮城」など、なんたる倒錯と思い、私は概して「天皇」の存在は「日本文化の一表現」と容認し認知はしていたが、「神」ともそのために「死ぬべきが兵士の本分」とも、容認も認識も出来なかった、少年の昔から天皇を一つの「象徴」とは認めていても、「戰帽を打ち抜かれて戰死した兵士」の「残る恨み」が何に向いていたかは、推測し得てあまりあるのではと,私は別の筝を思い「祖国」と「天皇制」とは元来が別ゴトと感じていた。私の祖国は「日本国」だか「宮城」でも「天皇」でもない。
海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むすかばね
大君(=天皇)の辺(へ)にこそ死なめ
かなんとかえりみはせじ
は、学校内の「式」と称する機械には、「君が代」と前後して必ず「全校斉唱」を強いられた。幼少らい,私、断乎胸中に拒否し、憤然としていた、「死んで堪るか」と。
炎熱や酷寒の激戦地に苦渋する「父よ」「夫よ」に感謝し励ます「父よ、夫よ、強かった」と励まし頌える子や妻の歌は眞実同情できたが、これが戰争・戰闘・戦死の肯定・容認・感激になるなど、「子供ごころ」に恐怖とともに不条理だと断然容認できなかった。「兵隊さんにはなりとない」と何十度つぶやいたろう、私は「臆病」の罪を問わるべきだったのだろうか。
この歌のシリーズを敢えてした理由の一つは、かかる「幼少の批評」を忘れ去りたくなかったから。
2023 10/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『隣組』 岡本一平 作詞 飯田信夫 作曲
一、 とんとん とんからりんと隣組 二、とんとん とんからりんと隣組
格子をあければ 顔なじみ あれこれ面倒 味噌醤油
回して頂戴 回覧板 ご飯の炊き方 垣根越し
知らせられたり 知らせたり 教えられたり 教えたり
〇 これが戦時下 都市生活の「不安」に裏打ちされてのご近所暮らしであった、我が家だけの買ってと謂うことの物騒に 警戒警報や空襲警報に戦くじせつでもあったし、またこの「隣組」というしめつけで市民生活にワガママ化っての逸脱を懼れ禁じる当局の指導も指令もあったのだ。陽気な歌声と耳には聞き口にはうたいながら、「隣組」や「町内」の「常会」による締め付けは、大人世間や、男大人の出征や徴用による留守家庭の検束に当時不可欠であった。敗戦となればたちまちに「隣組」や「常会」の風は雲散したのをまだ子供心に憶えている。隣組班長」や「町内会長」はいつも「カーキ色」した国防服に身を固めていた。防空演習という,子供の目にも嗤いたいチャチなバケツリレー等もちょくちょく見た。あれど敵機飴あられの焼夷弾攻撃を消そうとしていたのだ、誰一人として勝てる戦争などと思ってなかった。
◎ 永く連載してきた この 『唄』ものがたり、を此処で終える。
2023 10/13
* 起きてても寝ててもわたしは「唄っている」ひとで、一の「お気に入り」は、
サッちゃんはね
さち子っていうんだ ホントはね
だけど ちっちゃいから 自分のこと
「サッちゃん」テ云うんだね
可愛いね サッちゃん
日に、三十ぺんほどは唄っている、小声で、だけど。もひとつ云うと、
垣根の垣根の曲がりかど というのが、口をこぼれて出る。
わたたしは「歌」を詠むが「唄う」も好きで、岩波文庫の「日本唱歌集」は一冊をボロにし、二冊目を愛翫してるのです。
2023 10/23
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 山中答俗人 李白
問余何事栖碧山 笑而不答心自閒
桃花流水杳然去 別有天地非人間
* 早暁には 心に湧く歓喜が在る。
2023 11/12
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 訪道不遇 買島
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知處
* 山中の幽邃なる趣致、得も謂いがたい淸妙處の納得と喝采ではないか。
2023 11/13
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 春 夢 岑參
洞房昨夜春風起 遙憶美人湘江水
枕上片時春夢中 行盡江南数千里
〇 「春夢」には「相思」の意を託していると。
2023 11/14
* 私の口をついて出る『この頃うた』は、常にふたつ。「サッチャンはね サチコっていうんだヘホントはね だけど ちっちゃいから 自分のことサッチャンて謂うんだね 可愛いね さっちゃん」の、出だし「サッチャンはね」が、ひとつ。
もひとつ、やはり歌い出しのいっくばかり口をついて出るのが「垣根垣根の曲がり角」の初句だけ。五月蠅いとは思ってない。
* 幼少の昔、『心に太陽を持て』と訓える本があり、「タイソウな」と嗤っていたが「くちびるにウタを持て」には同感していた。私は「くちびるに始終生きている「短句のうた聲」を歓迎している。きちじゅうはちになろうとしているが、いつも、「サッチャンね」とだけ唄い 「垣根の垣根の」とだけ唄っている、ツキモノかのように。
2023 11/14
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 蠶 婦 無名氏
昨日到城郭 帰來涙滿巾
遍身綺羅者 不是養蠶人
〇 市民の住まいは城郭内にあり、養蚕の行は城郭外に 在り蠶婦は稀に城郭内に帰れるばかり。養蚕の成果で ある「綺羅」を着飾っている夫人や令嬢らは、みなみ な涙滿巾の「養鱒婦」では決して無いのだと。
2023 11/15
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 少 年 行 王 維
新豊美酒斗十千 咸陽遊侠多少年
相逢意気爲君飲 繫馬高樓垂柳邊
〇 少年行は貴遊少年の豪侠を写した題目。新豊は長安 の近くに漢の髙祖が親孝行で開いた陪都。咸陽は秦の 都で長安に近い。あくまで豪飲豪遊の気概をうたって いるが、所詮成人の仕業では無い。
2023 11/16
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 憫 農 李 紳
鋤禾日當午 汗滴禾下土
誰知盤中食 粒粒皆辛苦
春種一粒粟 秋成萬顆子
四海無閑田 農夫猶餓死
〇 農夫の日々、生活。暦年久しく、今如何。
2023 11/17
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 尋隠者不遇 魏 野
尋眞悞入蓬莱島 香風不動松花老
採芝何處未帰來 白雲滿地無人掃
〇 「眞」は仙人。「蓬莱」は東海中の「仙山」。「芝」は「靈芝」 まことに此の世ならぬ趣。>
2023 11/18
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 讀李斯傳 李 鄴
欺暗常不然 欺明當自戮
難將一人手 掩得天下目
〇 史記列伝の一人、李斯を諷して謂う。「暗」は人の知らず己れの知ると。明は、人みな知ると。天下の目を以てすれば見えざる無し。李斯は欺くに長けた驍将相だったが、天下の目は掩えず自身明暗の不行き届きに潰えている。
2023 11/19
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 歩虚詞 高 駢
青渓道士人不識 上天下天鶴一隻
洞門深鎖碧窓寒 滴露研朱點周易
〇 淸遠寥亮 深く隠れた道士の境涯。
2023 11/20
* 新作にと「想い」寄せている仕事へ、あまり手がかりが多く書き出しそびれていた。へんなことと思われようが、しきりに「うろおぼえ」の童謡が口をついて出て、
サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず、間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は「ほんと」。ただ私の知っているその「サッちゃん サチコ」は、可愛かったけれどもう「チッチャ」くはなかった、初めて顔をみた、見合うたころは、着たきり寸づまりな着物の母親が、ガラゴロ手押しで、たぶん煮焼きなどした小魚の類いを小さな「かけ声」で売りに来る荷車のわきを温和しくついて歩いて来た。我が家の前あたりに立ち止まると、待ち受けてたように近所の小母さん等が寄って気楽に喋ったり笑ったりし、わたしも母や叔母のちかくで、ボヤッと芸もなく立っていたりした。荷車の脇の(?_?)名のことくちをききうなど、あるべくももなく、しかし年格好は、わたタクシが敗戦後小学校の五年生なら向こうは三、四年かと見受けた。
2023 11/20
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 商山路有感 白居易
萬里路長在 六年今始帰
所經多舊館 大半主人非
〇 いま、京都の浄土宗總本山知恩院下、私の育った新門前通りへ数十年経て帰っても、まさしく斯様でろうなと想う。それでも帰りたい。東京での暮らしに、いま、何の魅力もおぼえない。
2023 11/21
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 遊三遊洞 蘇 軾
凍雨霏霏半成雪 遊人履冷蒼崖滑
不辭携被巌底眠 洞口雲深夜無月
〇 白居易が弟行簡や元稹槙と遊んで名づけた「三遊洞」 であり、この詩は、蘇東坡が、弟の轍や黄魯直と「三 遊洞」に遊んだ際の作。
2023 11/22
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 金 谷 園 無名氏
當時歌舞地 不説艸離離
今日歌舞盡 滿園秋露垂
〇 豪奢豪遊の末路を端的単簡に描破している。
2023 11/23
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 漁 翁 柳宗元
漁翁夜傍西巌宿 曉汲淸湘燃楚竹 煙消日出不見人
欵乃一聲山水緑 回看天際下中流 巌上無心雲相逐
〇 欵乃(あいたい)は、いわゆる舟歌。湘川(せうせん) 清く照らす五六丈、下に底石を見る樗蒲の如し、白沙は 霜雪の如く、赤崖は朝霞の如し、と。
2023 11/24
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 遊 子 吟 孟 郊
慈母手中線 遊子身上衣 臨行密密縫
意恐遅遅帰 難将寸艸心 報得三春輝
〇 旅中、旅装束など慈愛豊かにしつらえくれた故郷の母 の、早い無事な帰還を胸中に願っていただろうことも 想うての「客中(旅中)」の感慨。
2023 11/25
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 思 邉 李 白
去歳何時君別妾 南園緑艸飛胡蝶 今歳何時妾憶君
西山白雪暗秦雲 玉關此去三千里 欲寄音書那得聞
〇 邉塞に戊役する夫を想う女ごころ。青山は、雪山雪嶺 西都のにしにあり吐蕃の境。秦雲は長安を謂うている。
2023 11/26
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 子 夜 呉 歌 李 白
長安一片月 萬戸擣衣聲 秋風吹譜盡
總是玉關情 何日平胡虜 良人罷遠征
〇 胡夜呉歌は声調頗る哀感に溢れた女歌。「玉關」は古都 長安を去る西三千六百里の邉塞、征く者の願わくは生き 玉門關に入らむ」と嘆じた。
李白にはことに此の同情同感の作が見える。
2023 11/27
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟を浮かべて蓮華を採る。李白の此の詩は採蓮をかりて 若耶溪の勝景を描いている。紫騮は「赤馬」。
2023 11/28
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟ヶ
2023 11/29
〇 採 蓮 曲 李 白
〇 若耶溪傍採蓮女 笑隔荷花共人語
日照新粧水底明 風飄香袂空中擧
岸上誰家遊冶郎 三三五五映垂楊
紫騮嘶人落花去 見此躊躇空断腸
〇 舟を浮かべて蓮華を採る。李白の此の詩は採蓮をかりて 若耶溪の勝景を描いている。紫騮は「赤馬」
2023 11/30
◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選 日本 久保天随・釋義
〇 王 右 軍 李 白
〇 右軍本淸眞 瀟洒在風塵 山陰遇羽客 要此好鵝賓
掃素寫道經 筆精妙入神 書罷籠鵝去 何曾別主人
〇 王右軍は書聖王羲之 右軍將軍でもあった。「鵝」を殊 に愛し,愛のいかほど篤かったかを詩は詠嘆している。
2023 12/1
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 清 明 王元之
〇 無花無酒過清明 興味粛然似野僧
作日隣家乞新火 曉窓分與讀書燈
〇 元之七歳文を能くす。其の才を忌み長じて貶せらる。
2023 12/2
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 寒 夜 杜小山
○ 寒夜客來茶當酒 竹爐湯沸火初紅
尋常一様窓前月 纔有梅花便不同
2023 12/3
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 寒 食 韓弘啓
○ 春城無處不飛花 寒食東風御柳斜
日暮漢宮傳蝋燭 輕煙散人五侯家
○ 唐の徳宗の宰相ながら外戚に追われ、漢の成帝太后の 五兄弟に身を寄せ侯に封じられている
2023 12/4
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 霜 月 李 商 隠
○ 初聞征雁已無蝉 百尺樓高水接天
青女素娥租耐冷 月中霜裡闘嬋妍
○ 唐文宗の時 君危うく 寇盛んに國亂れ民賓し、と。
2023 12/5
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 海 棠 蘇 東 坡
○ 東風嫋嫋汎崇光 香霧空濛月轉廊
只恐夜深花睡去 故焼高燭照紅粧
○ 楊貴妃 酒に酔い臥し 帝の曰わく海棠睡り未だ 足らず耶と。
2023 12/6
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 登 山 李 渉
○ 終日昏昏醉夢間 忍聞春盡強登山
因過竹院逢僧話 又得浮生半日閑
○ 一隠にならい 時勢の談論を厭い 又 止んで一 世の閑人たらんと。
2023 12/7
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 觀 書 有 感 朱 文 公
○ 昨夜江邊春水生 艨艟巨艦一毛輕
向來枉費推移力 此日中流自在行
○ 行舟を以て學を爲すに喩えている。春水生は、資 深逢源の意。次句は衆物の表裏精粗到らざる無しと。 力を用うるの久しくして一旦豁然と貫通するを謂う
2023 12/8
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 觀 書 有 感 一 朱 文 公
○ 半畝方塘一鑑開 天光雲影共徘徊
問渠那得清如許 爲有源頭活水來
○ 理は静を欲し、而して天光の寂然たる、不動の性。 雲影感じて之が情を通ずるや,方寸の中虚靈昧から 深造自得して資深其の源に逢うの妙を謂うか。
2023 12/9
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 楓 橋 夜 泊 張 繼
○ 月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船
○ 幼少、漢詩として敬愛し吟誦した最初作。今も懐 かしい。いかにも「支那」の風土風光を感じた。
中国政府の招きで作家として二度訪中の機會にも、 この想い趣きをしばしば感じ、懐かしかった。
2023 12/10
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 漫 興 杜 工 部
○ 腸斷春江欲盡頭 杖藜徐歩立芳洲
顚狂柳絮随風舞 軽薄桃花逐水流
○ 愁いの大なる斯くの如く、国民の嘆きを想わずに 居れぬ、と,軽薄流落の極まるを嗤い歎く、と。
2023 12/11
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 茅 簷 王 介 甫
○ 茅簷長掃浄無苔 花木成蹊手自栽
一水護田将緑繞 兩山排闥送青來
○ 茅簷は「朝廷」に比して、一詩、詠者の権威意を 得て自在なまで気味の優渥と諸臣の己を奉じて隆厚 なるをい亙書信資材に謂うており、愁いの大なる斯 と広言している。かかる述懐も「詩」と生るか。
2023 12/12
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 烏 衣 巷 劉 禹 錫
○ 朱雀橋邊野草花 烏衣巷口夕陽斜
舊時王謝堂前燕 飛入尋常百姓家
○ 晋朝金陵での王導,謝恩ら大臣等が居地を借りな がら、「野草花」には政令のよからずを、「夕陽斜」 には君徳の正しからざる等を「借りて」諷諫、譏り 詠じている。
2023 12/13
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 田 家 笵 成 大
○ 晝出耕田夜績麻 村庄兒女各當家
童孫未鮮供耕織 也傍桑陰學種瓜
○ 昼夜安き無く 老若も男女もみな息する得ず、朝 廷賦役の繁を諷すると。
2023 12/14
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 絶 句 杜 工 部
○ 兩箇黄鸝鳴翠柳 一行白鷺上青天
窓含西嶺千秋雪 門泊東呉萬里船
○ 字は子美。工部は官。詩名を以て当時に冠たり。
2023 12/15
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 秋 程 明 道
○ 清渓流過碧山頭 空水澄鮮一色秋
隔斷紅塵三十里 白雲紅葉兩悠悠
○ 孤立して賢臣の輔なき君主の無惨をも示唆し、主 は白雲の如く、臣は紅葉の如く、兩つながら悠々飛 揚、容易には相い遇い難きをも諷する、か。
2023 12/16
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 竹 樓 李 嘉 祐
○ 傲吏身閑笑五侯 西江取竹起高樓
南風不用蒲葵扇 紗帽閑眠對水鷗
○ 「傲吏」はけだし隠士か、「諸侯の富貴」を嗤うな らん。「取竹」の貧賤に身を寄せて「蒲葵扇」を用 いず賄賂讃剰を求めず「紗帽閑眠」して在らんと。
「紗帽」は隠居のシンボルか、私も常々にチョン と筒ようの帽を、巻くように頭に被せている。呵々。
2023 12/17
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 直 中 書 省 白 樂 天
○ 絲綸閣下文章靜 鐘皷樓中刻漏長
獨坐黄昏誰是伴 紫薇花對紫薇郎
○ 白楽天 字は居易、號は香山居士、唐の貞元年中 に進士に擢げられ、「文輿」と謚(おくりな)されて、 日本でもあまりに著名な詩聖、
ここに謂う紫薇郎は白楽天その人。刻漏長く、獨坐 して伴侶なく、静の極を「絲綸閣」すなわち中書省に 「文章(もんじょう)」静かに「直」すなわち夜勤の 席に在る。
2023 12/18
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 屏 劉 季 孫
○ 昵喃燕子語梁間 底事來驚夢裡閑
説與傍人渾不觧 杖藜携酒看芝山
○ 昵喃は燕の聲、燕のうるさいように、讒邪の 小人、また喧しい、それを傍人渾不觧、愚な主君は 解しない。唐の時人、廉吏季孫、讒に遭い遠地での 酒税の「管」に逐われている。
2023 12/19
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 淮 南 寺 程 明 道
○ 南去北來休便休 白蘋吹盡楚江秋
道人不是悲秋客 一任晩山相對愁
○ 蓋し朝廷の腐心を悲しむも、己に官守なく、言責 なしと、慨嘆の深きを表するか。
2023 12/20
◎ 令和五年(二○二三)十二月二十一日 木 師走
恒平 誕辰以来 今朝 滿八十八歳
起床 6:45 体重 56.5kg 早暁起き・測
○ やそ八の名を「壽」いで温かに「米」の飯をぞ妻と祝へる
2023 12/21
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 雪 梅 廬 梅 坡
○ 梅雪爭春未肯降 騒人閣筆費評詩
梅須遜雪三分白 雪却輸梅一段香
○ 君臣の葛藤かにもはや読むので無く、ただ『雪』 と『梅』との互譲相愛の風情に破顔し共感する。
◎ 又 雪 梅 前 人
○ 有梅無雪不精神 有雪無詩俗了人
日暮詩成天又雪 與梅併作十分春
○ 君臣際會などと愚なことは見ず、ただ雪あり梅 あるの静謐和合を微笑したい。残る歳あり、残る志も。
2023 12/21
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 有 約 司馬温公
○ 黄梅時節家家雨 青草池塘處處蛙
有約不來過夜半 閑敲棊子落燈花
○ 神宗、司馬公を用いて御史大夫としながら、命は くだらなかった。喜信をを待って虚しいいちやでは あるが、私はそういう「事情」よりも句句の興をあ えて楽しんで読む。
2023 12/23
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 登 車 葢 亭 蔡 確
○ 紙屏石枕竹方床 手倦抛書午夢長
睡起莞然成獨笑 數聲漁笛在滄浪
○ 亭中器物の反省のない享用愛翫を心に羞じるなき を非難していると読める。若かず紙屏石枕に甘んじ るが可ならずやと。
2023 12/24
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 入 直 周 公 益
○ 綠槐夾道集昏鴉 勅使傳宣坐賜茶
歸到玉堂清不寐 月鈎初上紫薇花
○ 唐の尚書省、別名に紫薇省に聞こえた槐樹あり 翳を垂れ、美しい紫薇花あり、夜直の帰路に嘆 賞を惜しみなく。
2023 12/25
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 滁 州 西 澗 韋 蘇 州
○ 獨憐幽草澗邊生 上有黄鴒深樹鳴
春潮帯雨晩來急 野渡無人舟自横
○ 韋應物、蘇州刺史。或いは「潮急多難」の時に 当らんの気概か。
2023 12/26
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 題 邸 間 壁 鄭 亦 山
○ 荼麼香夢怯春寒 翠掩重門燕子閑
敲斷玉釵紅色冷 計程應説到常山
○ 旅邸にあって嬪人の為に別を思うの意あるか。 夜色清翠さらに寂寞.渾厚温雅、詩情玩ぶに足 るか。
2023 12/27
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 上 元 侍 宴 蘇 東 坡qy
○ 淡月疏星繞建章 仙風吹下御爐香
侍臣鵠立通明殿 一朶紅雲捧玉皇
○ 一人の獻可賛否して賛襄の力を致すなき不出来な侍臣たちを諷諫の 眞意あるべし。
2023 12/28
◎ 千家詩選 宋 謝疊山 輯 日本 四宮憲章 訓
◎ 北 山 王 介 甫
○ 北山輸綠漲横陂 直塹回塘灔灔時
細數落花因坐久 緩尋芳草得帰遅
○ 政事繁多 責任重ければこそ 精しく詳らかに、芳草を尋ぬるご とく、徐々とし、拙速あってはならぬ、と。
2023 12/29
◎ 寅日子忌 珈琲の苦味かぐはし寅彦忌 牧野寥々 ○ 寺田寅彦 十二月三十日 理学者 随筆家 俳人
* いくほどの歩みとも無く見返ればこやこの世とは地獄の隣り 恒平
* もう大人として世に出ていたか,大学生であったか、寺田寅彦の「随筆」に浸っていた。いずれ寅彦には師の、夏目漱石世界を経てきてのことであったはず。私には所詮縁遠な「科学」「理学」の匂いにかすかに触れ得たのが、いつも新鮮にもの珍しかった。
2023 12/30
◎ 鐵 齋 忌 爐の灰を縄目に掃けり鐵齋忌 黒田櫻の園
○ 富岡鐵齋 十二月三十一日 近代美術史に卓越の墨画家
○ この歳や為し成るままに見送りて振る手もちさく見えていとほし 恒平
* まあ、零時以降、何度手洗いに起った,起たねば済まなかったろう。正直なところ眠たいが、床を起ってきた。
* 大晦日とや。そんな気がしない。キイを捺す指先が痛いほど冷たい。
2023 12/31