ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2024年

 

◎ 世のなかや目覚めぬままに初春の歩みは早も聲なしてゐき
◎ われは吾れと歩まじ先の道をくらみ倶に頼むよと妻に身を寄す

* 妻と二人での元朝・元日。寂しいと謂えば淋しくはあるが、「生きて越し」これがわれら夫妻の「本来」であったよ。
2024 1/1

* もの忘れ、記憶喪失が、徐々にと謂いたいが、足早に来つつある。それが自然と躱しながら歩むしか無い、どうこうは出来ない事。キイで、まだ自在に文章の打ち出せてるのが、有難い。* 幼少の頃、「心に太陽をもて」と、なにやら絵本の類に逼られていた。わたしは、どうじに「唇に唄を」とも教わって、これは好いこと、大事なこととと感じた。お蔭で、私は今にしてまだまだ、声に出さずもくちもとに唄を欠かさない、ときに、ウルサイヨと愚痴るほど、実にさかんに童謡や唱歌を無音で唱い続けている、
このとみろは、なぜか、「京都ヲ 大原三千院」とばかり聲無く口ずさみ続けている。とくべつ三千院に曰わくがあるのでない、流行歌の出だしだけが口に残って居るのだ、むろん大原も三千院も懐かしい。
懐かしいわけでは無いが、同志社美学藝術学専攻で、妻と同じ一つ下の学年に「三千院の御姫サマ」とやらが、いた。オソレ多くてくちを利いたこともないが、よく覚えている。「御姫サマ」と謂うのがどんな事実にあたつているのかなどは、皆目知らず聞かずじまいだったが。それで、このごろとかく「京都ヲ 大原三千院」という歌謡曲の出だしが口に甦っているワケでも無い。
「唇に唄を」は、私の場合はほとんどが童謡ばかり、それは五月蠅くも無く受け容れている、「サッチャンはね」とか「垣根の垣根の」とか、「柱のキズはおととしの」背比べ、とか。

* 時には口うるさいのだが、「心に太陽を」よりは「唇に唄を」のほうが親しめる。小さいから秦の叔母ツルの手ほどきで和歌、俳句の存在やカルタの百人一首和歌に興味を持ち、小学校四年生の秋には戦時疎開先の丹波の山なかで京都恋しい帰りたい短歌を創っていた。有済校に帰った五年生三学期の教室で、作文の課題に鴨川などをうたった短歌を二首詠みいれていた。文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。
2024 1/5

◎ 『天地陰陽交歡大樂賦』 白行簡撰

白行簡は、著名な詩人白楽天と兄弟。この著が 事実   然りかは確言出来ないが、わが平安時代の貴紳また姫新   にもひそかに愛読されていたのは、事実。
飯田吉郎氏編を学習参看、明瞭な読下文の魅力に順う。

◎ 夫れ性命は人の本(もと)なり、嗜欲は人の利(この   み)なり。本存し利資(と)るは、衣食既に足るより甚   だしきは莫(な)く、歡娯至精より遠きは莫し。夫婦の   道を極め、男女の情を合(やは)らぐるに、情の知(あ   らは)るる所交接より甚だしきは莫し。(原注 交接と   は、夫婦陰陽の道を行ふなり)其の餘の官爵、功名は、   寔(まこと)に人情の衰なり。

○ 編著者島田氏解説の冒頭に、中国古来「食と色は性    なり(孟子のことば)」という伝統的な考え方、セッ    クスが長壽につながるという宇宙観の、今日なお生き    続けているという指摘が有る。

* 「性 セックス 性行為」へのなにらか感慨や行動がなくして、少なくも「人」は「ひと」に成り難い。白行簡ほどに徹しては願いも思いもせぬまでも、助勢の気持は知らない、だんしであるかぎり、ごくの幼少から、性器への感触や関心から、独りでも、またイサ名仲間内でもそれが話題成らないことの方が異色であったろう。暗号めく字や模様や繪をちいさな仲間内が、また独りででも持ち合わさない、亦は見知らないことは、無い、あり得なかった。それらを幼少の耳や目に押しこむように伝えるのが、年齢のやや上長らのいわば生けるシルシかツトメかのようであった、おそらく、何万年にもわたって。
2024 1/9

* ひどい夢見であった。なにもかも、寄ってタカッテ、クチャクチャにいたぶられ、軽蔑され,乱暴され、しかしそんな世間からの逃げ道は無かった。堪えるに耐えがたい被害妄想とは、コレ。
わたしは、生まれて、「気がついたら」縁も故も無い大人達の家庭の「もらひ子」だった。それが、そもそもの「独り立ち」という意味でもあった、「自分を護れる」世界をハナから空想し妄想し想像し推察し認否して「創り上げ」て、身辺から、近在から、世間から,社会からの蔑視と否認に耐え忍ばねばならなかった。それが「夢」と化すると,、九十歳近い私の現在にして、見知ったような見知らぬような或る外壁を固く閉ざされた「街衢」を懸命に走って逃げ回り続けねばならない。
こうい子は,、「夢」にも、然様の想像、存在自体を徹底的に否定否認侮蔑され続けるのに,懸命に抵抗し反抗して生き続けねばならない。わたしには、「文藝・文学・そして創作」が,幸いに、ソレであった。

* ま、お正月さんは帰って行かれよう。何が大事か。健康、のようである。
2024 1/9

◎ 『天地陰陽交歡大樂賦』 白行簡撰

白行簡は、著名な詩人白楽天と兄弟。この著が 事実   然りかは確言出来ないが、わが平安時代の貴紳また姫新   にもひそかに愛読されていたのは、事実。
飯田吉郎氏編を学習参看、明瞭な読下文の魅力に順う。

◎ 夫れ造構、已(すで)に群倫の肇め、造化の端(もと)   を爲(つく)れり。天地、交接して覆塞(ふさい)均し   く、男女、交接して陰陽順(したが)ふ。故に仲尼(孔   子)は婚家の大を称(とな)へ、詩人は『螽斯(シュウ   シ)=螽(いなご)に寄せて子孫繁殖をうたった詩経の   一篇)』の篇をを著はせり。本を考え、根を尋ぬるに、   此を離れざるなり。遂に男女の志、形㒵(けいぼう)、   妍嗤の類を想ひ、情に縁りて儀を立て、像に因りて意を   取り、偽に隠れて機を變じ、悉く(此の書『天地陰陽交   歡大樂賦=白行簡著)有らざる無し。 童稚の歳より始   めて, 人事の終りに卒(や)む。猥談なりと雖即(い   へど)も、理(ただ)しく佳境を標(しる)す。具ての   所以に大樂賦と名づく。俚俗の音號に至るも、隠諱する   こと無し。唯 咲(わらひ)を一時に迎へ
(一)終える。  ○ 詩と散文の間の韻文の一体、「賦」を成していると。
『大樂賦』紹介はもう足りてよう。あとは独り読むよ。
2024 1/10

* 玄関に掛けていた岸連山「富士」の好い墨軸をはずして、明日『湖の本』最終166巻の納品に備えた。軸のアトへは、これも好きな弍羽の小鳥の色彩畫額を掛けた。
四十年近く年に数回ずつ手懸けてきた「湖の本」発送を終える、心残りは無い、165回ももう送り出し続けてきたのだ妻とふたりで。よくやってきたと思います。妻には、ただただ感謝。166巻は巻頭にやや長い小説『蛇行 或る左道變』を置いて、湖の本としての最終の「私語の刻」を編成した。

* 仕事は已むのでない、何か姿や顔つきを変えて新しいモノになって登場してくるかも、暫く休憩するにしても。
2024 1/10

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現に、日本人の最も親しみ慣れた『新學府』   に多く目を向けながら親しみたい。

◎ 海 漫漫 仙を求むるを戒むるなり (抄)
海は漫漫たり
直下 底無く 旁 辺無し
雲濤煙浪 最も深き処
人は伝ふ 中に三つの神山有り
山上 多く不死の薬を生じ
之を服すれば羽化して天仙と為ると
秦皇と漢武は此の語を信じ
方士 年年 薬を采りに去る
蓬莱 今古 但だ名を聞くのみ
煙水茫茫 覓むる處無し
海は漫漫たり
風は浩浩たり
眼穿たるるも蓬莱島を見ず
蓬莱を見ずんば敢えて帰らず
童男丱女 舟中に老ゆ
徐福 文成 誑誕多く
上元太一 虚しく祈祷す

○ 白楽天にはかなりに堅固な活眼あり反骨があった      と、わたくしは感じて来た。つづく「君看よ、驪      山の頂上 茂陵の頭 畢竟 悲風 蔓草を吹く       何ぞ況んや玄元聖祖の五千言 薬を言はず 仙を      言はず 白日に青天に昇るを言はさるをや」は手      厳しい。
2024 1/11

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現に、日本人の最も親しみ慣れた『新樂府』   に多く目を向け音読しながら新たに味わい親しみたい。

◎ 法 曲  列聖の華聲を正すを美(ほ)むるなり
法曲法曲 大定を歌ふ
積徳重凞(ちょうき) 余慶有り
永徽の人 舞ひて詠ず
法曲法曲 霓裳(げいしょう)を舞ふ
政(まつりごと)和し 世理(おさま)りて音洋々
開元の人 楽しく且つ康し
法曲法曲 堂堂を歌ふ
堂堂の慶 無彊に垂る
中宗粛宗 鴻業を復し
唐祚中興 万万葉
法曲法曲 夷歌を雑(まじ)ふ
夷歌は邪亂にして華聲は和なり
亂を以(も)て和を干(おか)す天宝の末
明年(めいねん) 胡塵 宮闕を犯す
乃わち知る 法曲は本(も)と華風
洵(まこと)に能く音を審(つまびら)かにせば
政(まつりごと)と通づるを
一たび胡曲の相參錯(あひさんさく)せしより
興衰と哀樂とを弁ぜず
願はくは嚝を求めて華音を正し
夷夏を相ひ交侵せしめざらんことを

○ 国粋の唱歌が,夷狄の侵入により調子や拍子や歌詞     を犯され変形し変害されることは、日本の敗戦後に     も見聞きしたし、まして中国のように転変ただなら     ぬ国情では、まま起きて人を啼かせ歎かせたはず。
2024 1/12

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

白行簡を読んだので、しはらく、兄弟でありより著名   に平安時代の子女をも魅了した詩人「白楽天=白居易」   の多彩な表現、日本人の最も親しみ慣れた『新樂府』に 多く目を向け音読しながら新たに味わい親しみたい。

◎ 二 王 後  祖宗の意を明らかにするなり
二王の後
彼れ 何人(なんぴと)ぞ
介公 邢公 国賓と爲る
周武・隋文の子孫なり
古人言へるあり 天下なる者は
是れ一人(いちにん)の天下に非ずと
周亡びて天下は隋に伝はり
隋人(ずいひと)之を失ひて唐之を得たり
唐興こって十葉 歳は二百
介公 邢公 世よ客と爲る
明堂太廟 朝享(てふけう)の時
引(みち)びかれて賓の位に居り威儀に備ふ
威儀に備へ
郊祭を助く
髙祖・太宗の遺制なり
独り滅びし國を興こすのみならず
独り絶えし世を継ぐのみならず
位を嗣ぎ文を守る君をして
亡国の子孫をば取つて戒めと爲さしめんと欲するな     り

○ 唐に先立つ北周、隋.前代二王朝の後裔を優遇す     るのは古典時代の理想であった。しかしながら天下     は一人の天下で無い,天下の天下。滅國を興し、絶     世代を嗣ぎ、逸民を挙げてこそ天下は心を帰する。」     平和の文徳をこそと、詩人は謳ふ。
2024 1/13

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 七 徳 舞 乱を撥(おさ)め、王業を陳(つら)ぬるほ美(ほ)むるなり

七徳の舞
七徳の歌
武徳自(よ)り伝えて元和に至る
元和(げんな)の小臣 白居易(はくきょい)
舞を觀 歌を聴きて 樂(がく)の意を知る
樂終わり 稽首して其の事を陳(の)ぶ
太宗 十八にして義兵を挙げ
白旄黄鉞 兩京を定む
充を擒にし竇を戮して四海清し
二十有四にして功業成り
二十有九にして帝位に即き
三十有伍にして大平を致す
功成り理定まること何ぞ神速なる
速きは 心を推して人の腹に置くに在り

○ 唐に先立つ北周、隋.前代二王朝の後裔を優遇す     るのは古典時代の理想であった。しかしながら天下     は一人の天下で無い,天下の天下。滅國を興し、絶     世代を嗣ぎ、逸民を挙げてこそ天下は心を帰する。」     平和の文徳をこそと、詩人は謳ふ。
2024 1/14

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 新豊折臂翁  乱辺功を戒むるなり

新豊の老翁 八十八
頭鬢眉鬚 皆な雪に似たり
玄孫に扶けられて店前に向かって行く
左臂は肩に憑り右臂は折る
翁に問ふ 臂折れて来(よ)り幾年ぞ
兼ねて問ふ 折る事を致せしは何の因縁ぞと
翁云ふ 貫は新豊県に属し
生まれて聖代に逢ひ征戰無し
梨園歌管の聲を聴くに慣れ
旗槍と弓箭とを識らざりき
何(いくば)くも無く 天宝 大に兵を徴(め)し
戸(こ)に三丁(さんてい)有れば一丁を点ず
点じ得て 駆り将(も)て何處(いづく)にか去る
五月 万里 雲南に行く
聞く道(な)らく 雲南に濾(ろすい)有り
椒花(しょうか)落つる時 硝煙起こり
大軍徒渉するに 水は湯の如く
未だ過ぎざるに 十人に二三は死すと
村南村北 哭聲哀しく
兒は翁嬢(やじょう)に別れ 夫は妻に別る
皆な云ふ 前後 蛮を征する者
千万人行きて一の廻る無しと
是の時 翁の年は二十四
兵部の牒中に名字有り
夜深けて敢えて人をして知らしめず
偸(ひそ)かに大石を将(も)て鎚いて臂を折る
弓を張り 旗を簸(あ)ぐ 倶に堪えず
茲より従(よ)り始めて雲南に征くを免がる
骨砕け荕破るることは苦しからざるに非ざれど
且つ図るは楝(えら)び退けられて郷土に帰ること
臂折りてより 来来(このかた) 六十年
一肢廃すと雖も一身全し
今に至るまで風雨陰寒の夜
直ちに天明に至るまで痛みて眠れず
痛みて眠れざるも
終いに悔いず
且つ喜ぶ 老身 今独りあるを
然らずんば 当時 瀘水の頭(ほとり)
身死し 魂(こん)孤にして 骨収められず
應(まさ)に雲南望郷の鬼と作(な)り
万人塚上に哭くこと呦呦(ゆうゆう)たるべし
老人の言
君 聴取せよ
君聞かずや 開元の宰相宋開府
辺功を賞せず 武を黷(けが)すを防ぐ
又た聞かずや 天宝の宰相楊國忠
恩幸を求めんと欲して辺功を立つ
辺功未だ立たざるに人怨みを生ず
請ふ 問へ 新豊の折臂翁に

○ いま、老折臂翁翁穴地、私、八十八歳。
私の文學歴で云うと、まず幼稚園か戦時国民学校へ進んだ頃からの、日本の『小倉百人一首』和歌に馴染み、敗戦の前後、戦時疎開していた丹波でのくらしで、持参していた祖父鶴吉蔵書の中から掌に掴めるほどの小さな本、東京神田の崇文館発行、井土靈山選『選註白楽天詩集』の漢詩で,中でも此の『新豊折臂翁』に幼い心のまま深く深く共感したのだった。秦家には、祖父蔵書にも父母叔母の領分にもいわゆる「小説本」は絶無にちかく「婦人倶楽部」なとのなかに「愛染かつら」などの通俗作は混じっていたが軽蔑し見捨てていた.誰だかのユーモア作だけを時に読んでいた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私は「兵隊さんにはなりとない」と幼稚園の頃から口にする当時の大人らの目に「変な子」「妙な子」だつた。国民学校へ入って一二年頃には、がっっこうの職員室そとの廊下に張られた世界地図を友だちと見ながら、真っ赤な米国土の広さを指さし「勝てるワケない、きつと負ける」と口にしたとたん、通りがかった若い男先生に壁に叩き付けるほど殴られていた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私の六十余年前に幕の開いた「小説を書く暮らし」の記念の第一作・しょじょさこそは『或る説臂翁』であったことは、『湖の本 163』に久々に採録、どうかしらとあんじたが幸いに得に注目し好い感想を下さる読者の少なくなかったのに感動しました。嬉しかった。いわば白楽天に私・秦恒平は「作家・小説家」として育てられていたのだった。
2024 1/15

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑適  常樂里閑居翁

帝都は名利り場
鶏 鳴けば安居すること無し
独り爛漫の者有り
日高くして頭(かしら)未だ梳(くしけず)らず
工拙 性 同じからず
進退 迹 遂に殊なる
幸いに大平の代に逢ひ
天子 文儒を好む
小才 大いに用ひらるるに難(かた)く
典校して秘書に在り
三旬に両(はつ)か省に入(い)り
因つて頑疎を養ふを得たり

茅屋 四五間
一馬と二僕夫
俸錢は万六千
月づき足りて亦た余り有り
既に衣食の牽無く
亦た人事の拘(こう)少なし
遂に少年の心して
日日(にちにち) 常に晏如たらしむ

言ふこと勿かれ知己無しと
躁と静と 各おの徒有り
蘭台 七八人
出處 之れと倶にす
旬時 談笑を距つれば
旦夕(たんせき) 軒車(けんしゃ)を望む
誰か 能く讐校(しゅうこう)の間(かん)
帯を解きて吾が廬(ろ)に臥せん
窓前に竹の翫(もてあそ)ぶべき有り
門外に酒の沽(う)る有り
何を以てか君子を待たん
数竿 一壺(いっこ)に對せん

○ 知り合いが無いなんてことは無い。出世を思わな     い者にもそれなりの友も仲間もある、と。「窓前有     竹翫」が わか身にもたぐえて懐かしい。障紙にゆ     れる笹竹の風情、わたくしも、好き。
2024 1/16

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑適  官舎小亭の閑望

風竹 清韻を散(さん)じ
煙槐(えんかい) 緑姿を凝らす
日高くして人吏(じんり)去り
閑坐して茅茨(ぼうし)に在り
葛衣(かつい)もて時の暑さを禦き
蔬飯もて朝(あした)の飢えを療(いや)す
此れを持(ぢ)すれば聊(いささ)か自ずから足り
心力 営為すること少なし
亭上 独吟罷(や)み
眼前 無事の時
数峯 太白の雪
一巻 陶潜の詩
人心 各おの自(み)づから是(ぜ)とす
我が是とするは良(まこと)に茲(ここ)に在り
廻(かえ)りて謝す 名を争ふ客
甘んじて君が嗤ふ所に従(まか)せん

* だ凝っと時の遷るのを観るような俟つような心地で、何を堪えているとも分別していない。
2024 1/17

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   松 聲

月は好くして獨坐に好し
双松 前軒に在り
西南より微風来たり
潜かに枝葉の間に入(い)る
蕭寥 発して声を爲す
半夜 明月の前
寒山 颯颯の雨
秋琴 冷冷の絃
一たび聞けば炎暑を滌(あら)い
再たび聴けば昏煩を破る
竟夕 遂いに寐(い)ねず
心体 倶に翛然たり
南陌には車馬動き
西隣には歌吹繁し
誰か知らん茲の簷(のきば)の下(もと)
滿耳 喧を爲さざるを

○ ま、こんなものか。
2024 1/17  1/17日付重複

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   適 意

十年 旅客となり
常に飢寒の愁ひ有り
三年 諫官と作(な)り
復たシ素の羞らひ多し
酒有れども飲むに暇(いとま)あらず
山有れども遊ぶことを得ず
豈(あ)に平生の志無からんや
拘牽せられて自由ならざりき
一朝 渭上に帰り
泛たること繫がざる舟の如し
心を世事の外に置き
喜びも無く 亦た憂ひも無し
終日 一蔬食
終年 一布裘
寒来たれば弥(いよ)いよ懶放
数日に一たび頭(しら)を梳(くしけず)る
朝睡 足りて始めて起き
夜酌 酔へば即わち休む
人心は適なるに過ぎず
適外に復た何をか求めん

○ 母の喪にあい官職をやめ、渭水のほとりに退去      のおりの作。白居易、四十歳。
2024 1/18

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑 適   九日 西原に登りて宴望す

病みては枕席の涼しきを愛し
日高(た)くるまで眠り未だ輟(や)めず
弟兄 我を呼び手起こす
今日は重陽の節なりと
起って西原(せいげん)に登って望めば
懐抱も同じく一たび豁(ひら)く
座を移して菊叢に就き
餻酒(こうしゅ) 前に羅列す
糸(こと)と管(ふえ)とは無しと雖も
歌笑 情に随ひて發(お)こる
白日は未だ傾くに及ばざるに
顔酡(あか)くして 耳 已に熱し
酒 酣(たけなわ)にして四もに向かって望めば
六合(りくごう) 何ぞ空濶なる
天地は自づから久長なるも
斯の人 幾時か活きん
請ふ看よ 原下(げんか)の村
村人 死して歇(や)まざるを
一村 四十家
哭葬 虚月無し
此れを指さして 各おの相(たが)ひに勉め
良辰 且(しば)らく歓悦せよ

○ 人間世間の苛烈な生害死苦を容赦なく認識しつつ、     かかる「佳日」にこそ。まずまずは酒食談笑眺望に     心身を委ねて寛ぎ楽しまん。怕(おそろし)くもある。
2024 1/19

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 序

余 渭上に退去し 門を杜じて出でず。時、属(たま    雨多く,以て自ずから娯しむ無し。会(たま)たま家    醞(かうん)新たに熟す。雨中に独り飲み、往々,     酣酔して 終日醒めず。懶放(らんぼう)の心、弥(い    よ)いよ自得するを覚ゆ。故(まこと)に此れに得て    而(しか)も以て彼れに忘るる者有り。因って陶淵明    の詩を詠ずるに、適(たま)たま意(こころ)に会(か    な)ふ。遂ひに其の体に倣う效(なら)ひて十六篇を    成す。醉中の狂言、醒むれば即ち自づから唖(わら)    然れども我を知る者には、亦た隠すこと無し。
2024 1/20

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 其一

○ 動かざる者は厚地
息(や)まざる者は高天
窮まり無き者は日月
長(とこ)しえに在る者は山川
松柏と亀鶴と
其の壽(よわひ)は皆な千年なり
嗟嗟(ああ) 群物の中(うち)
而(しか)も人のみは独り然(しか)らず
早(つと)に出でて朝市(ちょうし)に向かへるに
暮れには已(すで)に下泉に帰(き)す
形質及び壽命は
危脆(きぜい)なること浮煙の若(ごと)し
堯舜と周孔と
古來 聖賢と称す
借問(しゃもん)す 今 何(いづ)くにか在る
一たび去って亦た還らず
我に不死の薬無し
万万 化に随(したが)ひて遷(うつ)る
未だ定(たし)かに知らざる所の者は
修短遅速の間(かん)なり
幸ひに身の健やかなる日に及びて
当(まさ)に一樽(いっそん)の前に歌ふべし
何ぞ必ずしも人の勧めを待たん
此れを持(ぢ)して自(みづ)から歡しみを爲さん

○ 人生は無常、健康なうちは酒でも呑んで好きに      愉しむが良い、と。
2024 1/21

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶潜の体に效ふ詩 其二

○ 家醞 飲(いん)已(すで)に尽き
村中 酒の沽(う)る無し
坐して愁ふ 今夜醒むること
其れ秋の懷(おも)ひを奈何(いかん)せん
客 有り 忽ち門を叩く
言語 一に何ぞ佳なる
云ふ 是れれ南村の叟(そう)と
榼(こう)を挈(ひっさ)げ 来たりて相ひ過(よ)ぎ     らる
且つ喜ぶ 樽の燥(かわ)かざることを
安(な)んぞ問はん 少きと多きを
重陽(ちょうよう)は已に過ぎたりと雖(いへど)も
籬(まがき)の菊は残花有り
歓び来(おこ)つて晝の短きを苦しめば
覚えず夕陽(せきよう)斜めなり
老人 遽(にわ)かに起つことなかれ
且(しばら)く新月の華(か)を待て
客去つて余趣有り
竟夕(きょうせき) 独り酣歌(かんか)す

○ 南村来の叟客と一日の歓を酒に尽くした余趣を、     客去って後も新月華とともに酣歌し、ご機嫌。

○ 私はめったに来客を得ない。好きな酒は仕事と      仕事の間(あい)に常に独り酌んでいる。家の外      へ出て「酒の沽(う)る」店を求めもしない。
2024 1/22

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ 幷びに序(まえがき)
○ 余 夙(つと)に陶淵明の人と爲(な)りを慕ふ。
今 廬山に遊び、柴桑(さいそう)を経(へ)、栗里    に過(よ)ぎる。其の人を思うて,其の宅を訪ね、黙黙    能(あた)はず、又た此の詩を題(か)きつくと云ふ。

○ 垢塵(こうぢん)は玉を汚さず
靈鳳は鱣(なまぐさ)きを啄(ついばま)ず
嗚呼 陶靖節(とうせいせつ)
彼(か)の晋宋の間(かん)に生まれ
心 実に守る所有るも
口 終いに言うこと能はず
永く惟(おも)ふ 孤竹の子の
衣を首陽山に払ひしを
夷(い)と斉(せい)とは各おの一身なれば
窮餓するも未だ難(かた)しと爲さず
先生 五男有りて
之れと飢寒を同じうす
腸中には食充(み)たず
身上には衣充(まった)からず
連(しき)りに徴(め)さるれども
竟(つ)ひに起たず
斯(こ)れ眞賢と謂ひつべし

○ まさしく、かの、私の自作にも借りた「斯(こ)      れ眞賢と謂ひつべ」く白楽天が反戦、厭戰、兵役      拒絶を説いた律詩『新豊の折臂翁』に早く先立つ      思想信条の系列に「先駆」している。
2024 1/23

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ
○ 我は君の後に生まれ
相去ること五百年
五柳の傳を読む度に
目に想ひ 心は拳拳たり
昔 嘗(かっ)て遺風を詠じ
著はして十六篇と爲しぬ
今来たりて故宅を訪ふに
森(おごそ)かにも君は前に在(いま)すが若(ごと)     し
樽に酒有るを慕はず
琴に絃(いと)無きを慕はず
慕ふは 君が榮利をを遺(わす)れて
此の丘園(きうえん)に老死せしこと

○ 詩人白樂天が五百歳を超えても 詩人陶淵明を      いかに思慕したか。
2024 1/24

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 陶公の旧宅を訪ふ
○ 柴桑(さいそう)の古村落
栗里(りつり)の舊山川
籬の下の菊は見えずして
但(た)だ余(のこ)すは墟(さと)の中の煙のみ
子孫 聞こゆる無しと雖(いへど)も
族氏は猶ほ未だ遷(うつ)らず
姓は陶なる人に逢ふ毎(ごと)に
我が心をして依然たらしむ

○ 江西省九江市に近く、陶淵明の郷里によせる懷慕の     実情を告げている。五百歳を超えての思慕・敬愛。
2024 1/25

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 潯陽樓に題す
○ 常に愛す陶彭澤(とうほうたく)
文思 何ぞ高玄なる
又た怪しむ韋江州(いごうしう)
詩情 亦た清閑なり
今朝(こんてう) 此の楼に登り
以て其の然るを知る有り
大江(たいこう)は寒くして底を見(あら)はし
匡山(けうざん)は青くして天に峙(そばだ)つ
深夜 湓浦(ぼんほ)の月
平旦 鑪峰(ろほう)の煙
清輝と靈気と
日夕(にっせき) 文篇に供(けう)す
我に二人(ににん)の才無きに
孰爲(なんすれ)ぞ其の間(かん)に来たるや
高きに因(よ)りて偶(たま)たま句を成し
俯仰(ふぎょう)して江山に愧(は)ず
○ 「二人」とは陶淵明 韋應物 白樂天が敬愛し思     慕した詩人。江西省九江の名高い高楼にいて詩句は     生まれている。陶彭澤(彭澤県の知事だった)とは     陶淵明、韋江州(江州の地方長官だった)とは韋應     物。ともに盛唐の孟浩然や王維とならび賞された山     水派の詩人。我々のいわゆる「漢詩」の粋。
2024 1/26

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 香鑪峰下、新たに草堂を置き、
事に即して懷を詠じ、石上に題す

○ 香鑪峰の北面
遺愛寺の西偏
白石 何ぞ鑿鑿(さくさく)たる
清流 亦た潺潺(せんせん)たり
松有り 数千株
竹有り 千余竿
松は翠の傘蓋を張り
竹は青き埌玕を倚つ
其の下 人の居(す)まふ無きこと
惜しい哉 歳年多し
時有りては猿鳥聚まるも
終日 風煙空し

○ 江州司馬のおり廬山の香鑪峰下に草堂を新築、       多く感懐を石に書き付けていた。時に詩人は四 十五歳余。秦には『廬山』の作が有り、髣髴と       懐かしい。

○ 時に沈冥の子有り
姓は白 字(あざ)は樂天
平生 好む所 無し
此れを見て心依然たり
終老の地を獲たるが如く
忽乎(たちまち)還るを知らず
巌(いわ)に架して茅宇(ぼうう)を結び
壑(たに)を削りて茶園を開く
何を以て我が耳を洗ふや
屋頭に落泉飛ぶ
何を以て我が眼を浄むるや
砌下(せいか)に白蓮生ふ
左の手に一壺を携(たづさ)へ
右の手に五絃を挈(ひっさ)ぐ
傲然として 意(こころ)自づと足り
其の間(かん)に箕踞(ききょ)す

○ 白樂天の述懐、憧憬 心惹かれて已まない。

○ 興酣(たけなは)にして天を仰いで歌ひ
歌中に聊(いささ)言を寄す
言ふ 我は本(も)と野夫
誤つて世網に牽かる
時来(ときあ)つて 昔は日を捧げしも
老ひ去つて 今は山に帰る
倦鳥は茂樹を得
涸魚は清源に反(かえ)る
此れを捨てて焉(いづ)くに往かんと欲する
人間 険難多し

○ 久しい「湖の本」を捨て去っていま孤り佇立の      思いを代弁されている。しんしん 胸に鳴る。
「人間(じんかん)険難多し」とは如何にも奈何にも真相であるなあ」
2024 1/27

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 食 後

○ 食罷(おわ)りて一覺の眠り
起き来たりて両甌(りょうおう)の茶
頭を挙げて日影を看るに
已(すで)復た西南に斜めなり
楽しき人は日の促(あわただ)しきを惜しみ
憂ふる人は年の餘(なが)きを厭ふ
憂ひも無く楽しみも無き者は
長きも短きも生涯に任す

○ 生涯に任す難しさ、それに呻くのであるよ。

* 拘泥のない余生でありたい、それが一等難しいであろうよ。
2024 1/28

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 閑居に自(み)ずから題す

○ 門前には流水有り
艢上には高樹多し
竹の径(こみち)は荷(はす)の池を繞(めぐ)り
縈(お)れ廻(めぐ)ること百余歩
波閑(しづ)かにるに魚鼈(ぎょべつ)戯れ
風静かなるに鸚鷺(おうろ)下る
寂として城市の喧(かまびすし)さ無く
渺(びょう)として江湖(こうこ)の趣有り
吾が廬(しおり)は其の上に在り
偃臥(えんが)す 朝復た暮(くれ)
洛下に一の居を安(を)けば
山中も亦た去るに慵(ものう)し
時に過客(かかく)の愛づるに逢ふ
問ふ 是れ誰家(たれ)の住まいぞと
此れは是れ白家(はくか)の翁の
門を閉じて老いを終わる処なり

○ 晩年六十五、六歳。当時の詩人白居易は太子賓   客という非職の大臣として東都洛陽に隠栖して いた。
2024 1/29

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 送  春

○ 三月三十日
春帰り 日復(ま)た暮れぬ
惆悵(ちうちょう)して春風に問ふ
明朝は應(まさ)に住(とど)まらざるべしと
春を送る 曲江の上(ほとり)
拳拳と東西に顧みる
但だ見る水を撲(う)つ花
紛紛々として数を知らず
人生は行客(こうかく)に似たり
両足 歩を停むること無し
日々 前程を進む
前程 幾多の路ぞ
兵刃 與(と)水火は
尽(ことごと)く之れを避けて去るべし
唯だ 老いの到来する有る
人間 避くる處(ところ)無し
時に感じて良(まこと)に已(や)めりと爲し
獨り池南の樹(じゅ)に倚(よ)る
今日 春を送る心
心は親故(しん と こ)に別るるが如し

○ 前程 幾多の路ぞ
兵刃 與(と)水火は
尽(ことごと)く之れを避けて去るべし
唯だ 老いの到来する有る
人間 避くる處(ところ)無し
時に感じて良(まこと)に已(や)めりと爲せ
よと吟じている、かの「新豊の折臂翁」の述懐に ヒタと接してあるのを痛切に思う。白樂天の眞 意が此処に読める。

* 白樂天(白居易)に親しんだ日々、彼を介し陶淵明へも遠く親しめたのを大いに喜ぶ。
2024 1/30

◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰

◎ 晏 坐 閑 吟

○ 昔は京洛聲華の客爲(た)りしも
今は江湖潦倒(ろうとう)の翁と作(な)る
意気銷磨す 群動の裏(うち)
形骸變化す 百年の中(うち)
霜は残鬢(ざんびん)を侵して多くの黒無く
酒は衰顔に伴ひて只だ暫く紅(くれなゐ)なり
賴(さいは)ひ禅門の非想定(ひそうぜう)を学び千愁 万念 一時に空し

○ 白樂天は、江州司馬の四十四、五歳。わたくし倍に     近くも、斯うはいかん、晏坐どころか。

○ 幸便とも謂えて 幼来名を知り覚えてきた「白       樂天=白居易」の詩に少しく親しめた。良かっ       たと思う。いまテレビで「紫式部」を劇化して       いる、藤原道長を「光るの君へ」引っ張りたい       のだろうがそれは、ご勝手に。女ながら白樂天       はあの紫式部等にも世ほど親しい詩人であった       ろうと感じているが。
2024 1/31

◎ 『青春有情  東工大余話』

やはらかに人わけゆくや ー序にかえてー

突如、見も知らない国立大学から「文学」教授就任の依頼があったとき、ただの作家に何を期待されているのか、分かりにくかった。二足のわらじを五年間はいていた。その以前はサラリーマン。えらいお医者さんが相手の編集者だった。免疫学や小児医学などの研究書をいっぱい本にした。そっちのわらじを脱いでからは、ずうっと小説を書き、批評を書き、医学とはほど遠い世界を浮遊していた。著書の数は多いが、ベストセラーは無い。教育者でも研究者でもなかった。
東工大は味なコトやりますね、一種の名人事ですよ、やって下さい…などと、各大学にいる友人や大勢の読者に嬉しがられ、けしかけられた。
辞令から授業までに、幸い半年間があった。大学の先生は、高校・中学とちがって「無免許運転なんですよ。お好きになさればいいんです」と、若い同僚教授に目からウロコを落としてもらって、好きにするかと肚を決めた。平成七年春から教壇という高いところに立った。学生と顔を合わせた。
だが心掛けとしては、ただ学生と向き合って、こっち教授、そっち学生には、なるまいとした。学生の横に一緒にならんで、同じ視線でものに向かいながら、学生の見方と私の見方とを自然に突き合わせよう。そして双方で、教えあい学びあおうと思った。譬えれば、すばらしい美術作品を寄り添い見ながら、おのずと対話や意見交換が成るように、願った。だから、知識を授けようとは考えなかった。得ている知識をどう生かすか、そこに働く、感性や知性のことを専ら考えた。考える力が、あるかどうか。あっても、それを表現する力が、あるかどうか。
表現の道はいろいろある。私の場合は工学部「文学」教授なのであるから、基本は言葉であり、文章である。背後の体験である。借り物でない自分の考えを、借り物でない自分の言葉で、どれだけ実感をもって表現できるか。それを引き出すことに、関心と興味と意義を私は覚えていた。問題はどう仕向け、どう参加させるか、だ。こっちの必要ではなく、学生の必要でなければ意味がない。逆にいえば、どんなに難儀な持って行き方であっても、興味がもて挑発されてみたいと学生が思ってくれるなら、何かが出来る。
工学部も理学部も人間理工学部もひっくるめて私の教室へやって来た。一、二、三年生各主体の、三つの教室を私はあてがわれていた。メインの授業内容はみなちがうけれど、そこへ持って行く導入を私は工夫した。しかも、いちばん彼等が苦手で、これまではたぶん避けて来たことを、やりたい。それは、何だろう。一つは詩歌で、一つは文章を書いて自分を表現することだろう。術もなくて泥を吐かないのだ、若者は。
優秀な理系の頭は、いつも文系のセンスをナメてかかっている。その頭を「文学的」に挑発し刺激してやるのが効果的だった。「古池や蛙とびこむ水の( )」とでも黒板に書き、漢字一字の虫食いを補わせれば、芭蕉の名句、学生は何も考えずに知識や記憶で「音」と答え、心には何ひとつも残すまい。しかし、「やはらかに人わけゆくや( )角力」と出題すれば、そして試みに「( )角力」にフリガナを打って答えよと言えば、いっぺんにヘコたれる。仰天する文字と訓みとが続出し、しかも一人一人、句意を案じてその一時は自身俳人たらざるを得ないのである。そして、そこから先は、こっちの力量もものを言うが、おそろしく莫大なものを学生の胸に送りこめるのである。詩の、句の、表現の、言葉の、想像力の、世界や人間の、底知れない魔力や魅力について。能力について。
東工大の学生ですら、いま、「角力」が「すもう」と訓めない。「角界」「力士」というじゃないの。あッそうか。で、「勝角力」と出たのは百人に二人見当。他は、では、どうなるか。何人かが大角力、押角力と出て、腕、尻、独、紙など、合わせて二割に満たない。「四角力(こうさてん)」「風角力(かざぐるま)」「馬角力(ばかぢから)」「牛角力(かたつむり)」「人角力(じんりきしゃ)」「車角力(くるまひき)」「錯角力(テクニック)」「多角力(にんげんせい)」「鬼角力(かぶとむし)」「無角力(はるのかぜ)」「頭角力(リーダーシップ)」等々七十幾種が収集できた。それでも、そこそこ詩の世界に足を踏み入れかけているのもある。「やはらかに人わけゆくや」につけて、「かざぐるま」も「はるのかぜ」も「かたつむり」も、いやいや「くるまひき」でも面白くて、原作の高井几董も苦笑するだろう。まさに、そこに、文学に生きた、創作の、批評の、鑑賞の、不思議というものが露出してくるのである、面白くも、厳しく。
授業はじめの十分間で、十分。先週の結果を披露し、爆笑し感嘆し、今週の問題を出しておく。若い彼等の心根にびりりと響く主に現代の短歌や俳句を精いっぱい選び、いつしかに自分の現在や過去・将来に重ね、物を思い考えてもらう。考えずに済まない「難題」を更に与えておき、時間内に、授業を聴き聴き、必ず書いて提出させる。書かれた挨拶、四年で、三万五千枚。
2024 2/25

* 「泣き崩れる」とは謂うが「寝崩れる」とは謂うまい、知らない、が、そういう体調で。床に就いてもそうそう寝入ってもしまえず、『参考源平盛衰記』では平家総崩れの都落ち、『大和物語の人々』でも宮廷男女達の原稿や和歌を勉強している、が、ぐたッとしんどい。ジクジクしてないで本当に寝入った方が良い。それにしても流石に古今集直後頃の宮廷人の和歌の巧みな事よ。
明日は妻の歯科通い、気を替えるためにも,雨でも雪でも同行しようかと思っているけれど家で寝ているベきか。
2024 2/25

* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27

◎ 令和六年(二○二四)三月十四日 木  結婚六五年     起床 4:35 体重 56.7kg 早暁起き・測

むそいつせ みぢかに生きて 永き世を
観 聴き 語らひ いや和やかに  恒平・迪子
2024 3/14

* 無慙に、横綱「照ノ富士」が負けを重ねる。どう見てもあの両脚は働かない。気の毒、だが潔い引退をと願う贔屓は多かろう、私も其の一人に数えられて仕方ない。奈落まで一度落ちて其処の底からみごと這い上がって強い「横綱」に成った美しい眞実を忘れていない。生なかの覚悟で出来たことでない。栄誉ある引退が「大相撲」のためにも「横綱照ノ富士」のためにも望まれるのではないか。

* 「瓦解」を重ねて行くだろう私にも「思い切り」の覚悟が必要と心得る。幸いに「読み・書き・創る」ことはお相撲のように「勝ち負け」でない、精魂の限り一人でも独りでもできると信じていて、可能に遵う気は捨てない、が、体力気力が効くなら、実は、静かな海や山野へ、もう一度の「旅」がしたいのだ、「四度の瀧」や「伊勢・大和」や「橋立」や「奥日光」や「瀬戸内」や「丹波の窯」や「仙台」起きの松島」などへ。 ああ。京都へ、それも知恩院下の白川や狸橋や新門前通りへ。東福寺境内や泉涌寺の来迎院へも。

* このような「感傷」を、わたしは大事に胸に仕舞っています。ひさしぶり。小説家もいいが歌集『少年前』『少年』以来の「歌詠み」に戻ろうか、など。

* 要は、一度。何もかも諦めて忘れてしまう事か。
2024 3/15

○ 前略・御高著『湖の本』(166)お贈りいただきありがとうございました。拝読してからお返辞をと思ったため御礼が遅くなり、いたく失礼いたしました。
「これにて「最後の一巻とされるとのこと、とても残念な気がしますが、お手ずから発送の労を執っていただいたものをうれしく頂戴していた身としましては、「続けて下さい」とおこがましくお願いする資格はないとも思います。これまでのご芳情にに、心より御礼申し上げます。
それとともに、ぶしつけなお願いですが、創作の方は少しずつでも続けていただければこれほどうれしいことはありません。薄ぺらくなってしまった現代文学の世界に、王朝古典の文学遺産を受け継ぐ秦さんのような重みのある作家が存在することが是非とも必要だと感じております。
どうか御身ご大切にお過ごし下さいますよう。
都 世田谷区上祖師谷   土方 洋一

* 厚く熱く 感謝。「湖の本」の終結通知に寄せられた沢山な読者の皆さんからのお便りをおおかた取り纏めたようにお書き下さっている。

* で、今、此処で取り纏め「作家の私・秦恒平の今後」を希望とともに展望しておきたい。
私は、相変わりなく「読み・書き・読書と、創作」の日々を続ける。その餘に、私の生きようは、無い。
「本」の形で「百六十六冊」刊行し続けた『湖(うみ)の本』は、以降「第二百巻」までを目途に、この『秦恒平 私語の刻』欄を基本取材の「場」とし、途絶えず、「すがた・かたち」も工夫し、日々書き継がれて在る「原作・原文を編輯・編成」して、いまも「此の此処」に、「掲載し続け」ます。「本のカタチ」で印刷・製本し発送するのは、やがて「卆歳」の夫婦の手には流石に余るからです。ご理解ご承知下さい。
メール便での送付は手安く、「それがいい」とお考えの方は「原稿送付先となるメール・アドレス」を「秦宛て」予めお教え置き下さいますよう、別途に私用、まして悪用する事はありませんので。

みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく 光るおほうみ   恒平
2024 3/27

○ 櫻に雨   4月3日
嬉しいメールをいただきました。
壮大な企画、「第二百巻まで」「もう三十四巻」・・ただし「電送」の形でと。仮令 どなたから「お手伝い」の申し出があるとしても、やはり鴉はお二人でなさるでしょう。恙なく「完成」へ歩まれますようにと 遠くから願うばかりです。
雨の一日。桜はまだ散らないようなので、ひっそり一日を過ごします。と言うより殆ど遠出の外出もしないでいると、やはり年齢を意識してしまいます。いつの間にか老いを重ねている自分を。
フラフラと フランスやスペインを巡っていた頃から 長い時間が過ぎた気がします。旅のスタイルも ずいぶん変わりました。パスポート、飛行機のチケット予約、ホテルや様々な旅の情報の取得、カードなどの取り扱いetc,etc. そして円安!! そして老女わたしの 客観的な旅姿も!! 気力はまだ健在だと思っているのです・・が。
今少し落ち着いて暮らしたい昨今ですが、さまざまな事、特に多すぎる「物を整理」しなければなりません。
昨日ホームセンターに行ったら、園芸の売り場では売れ残ったチューリップやらが 可哀そうな値段で売られていました。咲いた後は球根を休ませて来年も楽しめますから 思わず買ってしまいました。ささやかな楽しみです。
今朝は台湾の地震で、沖縄に津波警報が出されました。石垣島に知人がいるので注意していましたが 落ち着いたようです。
ウクライナも、パレスチナも、・・いずれもいずれも哀しみに満ちています。
鴉の頭は ごちゃごちゃなどしておりません。栄養摂取し、特に蛋白質。脳の40%は脂肪です、脂肪も油っぽいなど思わずに摂ってください。
とにかく何はともあれ、執濃く 熱く生きてくださいと、心底よりのお願い。  尾張の鳶

* ありがとう。中国と日本の西欧の古典、物語。和歌・俳句・エッセイ・論著。まだまだ楽しめます。アタマも目も、坂を転げ落ちていくようですが。
むかあしに、大學をでたころに、こんな出任せの唄を口ずさみましたよ。

柿の木 柿の実 柿の木坂を
コロコロ落ちた 何処まで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

栗の木 栗の実 栗の木坂を
コロコロ落ちた 何処まで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

「実感」に成ってきたなあと 呟いてます。
2024 2/3

* やそはちと倶に歩みて花の春や
ながめも晴れの「みち」久しかれ  祝迪子米壽
2024 4/5

* 結句 花見に朔歩もしなかった。櫻はいつも肌身に添うて咲いている。
櫻さくら 弥生の空は 見渡す限り
かすみか くもか にほひぞ出づる
いざや いざや 観に行かむ
京都の山野が 震えるほど恋しい。雑踏でたのしむ櫻、花では、ない。京の東山をあるいていて、ふとした山はらに、木々に隠れて誰にも観られず満開の櫻の咲き匂うていた嬉しさ、忘れられない。
2024 4/6

* 抽出しの紙切れに 走り書きの歌一首を見つけた 記憶にある自身自詠の歌だ、

みづうみのうれひもなみの行くはてを
たれまつとなく光るおほうみ

辞世歌としても 遺しおく。恒平
2024 4/23

* 『信じられない事だけど』小説を書き継ぎたい、が、グタと寝入っても仕舞いたい。やれやれ。なにか新鮮に目先を変えてみたいが。ときどき「俳句」という馴染んでこなかった世界が想われる、
内藤鳴雪の『鳴雪俳話』、ことに芭蕉と蕪村句の「引例」に惹かれている。小説で、熱心に蕪村を採り入れてた事があった、何を書いてたかなあ。
また、りまとめて芭蕉と蕪村とを「読んで」みよう、本は、いろいろ揃っていることだ。
2024 4/26

* 電灯がフッと消えたように、「ことば」から「詩」の光が擦れて行くのは、寂しいこと。「旅」体験を「ことば」に光らせるのも、尋常で無い。多くは浪費されている。
2024 4/30

○  お元気ですか、みづうみ。
たくさんのutagoeをお届けいただきありがとうございました。鑑賞者としての自信はありませんけれど、好きな御歌を書きだしてみます。

逢ひたいと云へぬ嘆きを一言に
「お元気で」とたゞ受話器を置ける

白露 そこ紅のけはひしづかにあさがほの
笑まふ狭庭ゆ秋立つらしも

葉の二枚に頬をはさまれ小椿の
白い椿がふふみ咲(わら)へる

黒いマゴと寝る妻があはれ夜半の夢の
まぶたの闇にかの人を抱く

帰樵  老いまさる心の萎へはふたりして
励ましつ夕焼けの山を降りゆく

だれとしもいつとしもなくつみためし
ひとのなまへのものかなしけれ    住所録に

たのしみは誰にともなく呼びかけて
元気でゐるよと黙語するとき

みづうみのうれひも波の行くはてを
たれまつとなく光るおほうみ

一月八日  おりあれとまつのこのえに月てりて
あが胸いたくひとをおもへる

けふの日をけう(希有)のふしぎと慶びて
數重ねきし春をことほぐ

あらざらむあすは數へでこの今日を
ま面に起ちて堪へて生くべし 生きめやもいざ

最後の二首、のように、どうぞお元気に一日一日重ねて生き抜いてくださいますように。

あけぼのからのささやかなお届け物は、
遅まきながら最近知って驚いた数字です。

※ 地球上の哺乳類の60パーセントは家畜、36パーセントは人間、野生動物は4パーセント

※ 日本には111の活火山があり、世界の活火山の一割近くを占める。

人間がここまで地球を恣に独占して大丈夫? 活火山列島のこの国に原発」を存続させて大丈夫? という慨嘆に尽きます。
みづうみが 時々映画『渚にて』について書いていらしたことを思い出して……。

けふの日をけうのふしぎと慶びて數重ねきし春をことほぐ

あらざらむあすは數へでこの今日を
ま面(おも)に起ちて堪へて生くべし 生きめやもいざ

あけぼのも このように生きていきたいと願いました。
春は、あけぼの

*まだ アケボノにほど遠い午前二時十分です。
ひいて下さった歌を読み返すと 的確に選んで貰えているのに感動しました。 斯く選べるなら、アケボノ自身で「歌が詠める」はずです、ぜひ立ち向かわれよ。
「左眼が失明」に近くなりました。 生きづらくなってきました。何年ぶりか 街へも出たいと願いながら、なかなか、果たせずにいます。
健康をもう無視しても進むか、健康を優先するか。難題です。 お元気で。  みづうみ
2024 4/30

* 遣い慣れてはきたが、この私用中パソコンの機能・起動能力はもはや終局か、否な、私の理解と技術が「破産」状態なのか。もう、何かにつけ終盤へ坂道は下る一方に感じられる。嘆く事か。受け容れて、そして、転んで怪我せぬ事よ。

* 「信じられない話だが」と断りながら、長いめの新しい小説を「創り」続けている。

* 大辞典にはさまれて、こんな紙切れの「歌」が出てきた。
さいつ瀬をいづくへ流れゆくはてぞ
はてもなぎさのさいのかはらぞ
かなりに 実感。いま創っている小説、何処へ流れつくか。
2024 5/3

○ 御文有難うございます
僕も「光る君へ」は見てをりますが 面白い中で時々現代語の会話が出てきて 苦笑します
最近愛唱する和歌俳句や近代詩を抜き出して アンソロジーのやうなものを作つてゐますが これが面白くて すぐに時間が経つてしまひます
結果として この詩人の詩がこんなに多くなるかと 意外な発見があつたりします  ゆつくりお話ができればよいのですが……    寺田生

* 私、文字通りに「少年前」「少年」このかた「光塵」「亂聲」「閉門」と、つぎつぎ歌集を成してきた。古典の、いわゆる「和歌」を敬愛すること人後におちず、最近もある古典全集の和歌集一巻をひもといて、上古いらい「和歌」一首一首の美しさ、慥かさ、面白さに「思い新たに」舌を巻いていた。
私は、近頃では、その和歌の「作」歌人の名や作の事情にもとらわれず、即、歌一首一首が「自立の慥かさ・うつくしさ・見事さ」を嘆賞している。
コロナ禍蟄居ももう解かれてこよう。
久々、寺田さんと、和歌・短歌で歓談・懇談したいなあ。
双方から愛読愛吟の一首ずつを無制限に「呈し合うて」の「歌合」など、どうかなあ。
2024 5/14

* 葉盛りの翠りしづかに隠れ蓑のさつき狭庭を満たす曙 * 晴やかといふが愛くし隠れ蓑の萬の葉萌えて揺るる浅翠 * 葉盛りにひそとし揺れで隠れ蓑の明けの翠に萌ゆる晴天 * 葉の揺れや翳と光をうたふかと隠れ蓑樹つあはれ豊かに

* 狭いテラスの狭い片隅に、膝ほどに小さかった隠れ蓑の若木が、いま、書庫を越し母屋の大屋根も抜いて「萬の靑葉に」高く大きく揺れて揺れ静まっている。廊下からも寝室のまどからも二階でも見えて、愛している。
2024 5/21

* 背に、硬い痛みが瘤のように。なにも得應ええずとも、半歩一歩ずつ、日々老の坂を、登るのか降るのか、せめて始めて出逢う景色に好奇の目を向けて、と。

* ところで、都。病院で長い廊下の「待ち時間」にと、これも秦の祖父譲り、このところ愛読のの『鳴雪俳話』を持参、芭蕉や蕪村のしみじみと懐かしく美しく面白い秀句を愉しませて貰った。和歌短歌はもう他人様の作を頼みにしないが俳句とのご縁は、まだ淡い。そして面白く読めてきつつある。面白く作ってもみたいナと、待合のベンチせきで妻を横に座らせたまま、思いかけていた。
2024 5/27

* 歌人で,ペンクラブのメンバー、山陽小野田市の高崎さん、墨書で達筆、「淳子」と落款も付しての七言詩(らしき)を送ってみえた。落ち着いて、読む。
以前にも、同筆かも知れない
五湖霜気清   の五字を戴いたことがある。
毛筆の書、こころよい。私は、書けない。らくに読めるとも謂いにくいが。
2024 5/30

* 雨、膚寒くも。

* 雨の音の繁に聴えて当処なしなべて流れて去りゆく物ぞ
* われが棲む狭庭があるじ隠れ蓑の萬の靑葉を揺る陽射哉

* 五月が逝く。
水無月と謂ふな六月雲のまに光り洩らして文待つ月ぞ
手紙などくださるひのめっきり減っている事。今日、戴いた新茶にそえ、近況を細々ハガキして下さったのは静岡市の久しい女性読者、家へも訪ねてみえたことがあった、何十年の昔になるか。
2024 5/31

* 床を出たとも未だともいう胡座でドストエフスキーの『悪霊』を読み継いでいた。此の作をアタマからくりかえしよみだしたの二,三度めと思うのに、これほど自在に作世界へ入って行きにくい、「これは小説」とすら想いにくい本、あたかも幼少の耳で大人達が呟くように議論ともなくシャベリ合うて居るのを聞きかじっているような本、には、そうそう出逢った事はない。
同じドストエフスキーでも、もっとおはなしの聞こえて判る本は何冊もある。『悪霊』に抽象も観念も耄碌も無い、ごく不通の会話対話がきこえてくるのに、それらの連繋にシカとした繋ぎの慥かさが感じにくく、それで佇んでしまう。たまたま行きがかりのとおりがかりに、ひとの話し合う手居るのをわけ判らず聴き流して通り過ぎて行くような「世界」が呈されている。つまりは私にしかと聴いて理会する耳が、片方か,虜恵方ともないかのように甚だ心外なほど頼りない、つかみ所に窮したまま引きずられている。
これも耄碌なんかなあ。
▲ 鴉啼くあつかましさや グチグチと
2024 6/8

* しきりに 死へ歩み寄る前の「諸始末」を想うている。   このところ 念頭一の荷のように。 走り書きのメモに、
● めぐり逢ふて いつも離れて 酔ひもせで さだめと      人の醒めしかなしみ
メモに 2023 9/29 錄 と在る。何の記憶も甦らないが。

* 人間が とかく「愛憎」に苦しむとは、地獄の責め苦にも同じい。
2024 6/9

* 短歌とも謂わない、ただ「うた」が、ごくあたりまえな感じのまま、口をついて、ヒョコヒョコと出てくる。面倒なので「書き留め」もしない、イヤイヤ紙切れに走り書きしたのが、何枚も紙くず然とほうってある。いつの詠作と日付ももうまるでわからないが。

* 八つ赤くひとつが白き椿かな
(これは手洗いで、フト口をついたと覚えている。)

* 惜しげ無く花びら崩し大輪の赤い椿は地に花やげり
書いてみると オボエがある。

* 傘の寿へとぼとぼと歩み寄る吾ら日一日の景色ながめて      私らは、現今ではもう八十八の米壽。これは、八      十歳以前の呟き。

* キリがない。もう十一時近い。階下へ。
2024 6/13

* あらざらむ あすは数へで この今日を
ま面(おも)に起ちて堪へて生くべし 生きめやもいざ
(この詠、いつの歳かの 春四月二日 と記録している。)

* さ、今日を肇める。 早暁六時五三分

* 腫れたように眼が重たい。
2024 6/14

○  持統天皇
春過て夏來にけらし白妙の衣ほすてふあまのかく山
香具山頭戸々開   曝衣晴日雪成堆
春光不駐如流水 換此春風夏候來
明治三十八年十月六月廿八日 歌學研究会

* 猫に鰹節 の早朝である。
2024 6/18

○ 今日(23日)は雨の日曜日、仙台も遅い梅雨入
秦恒平 先生 ご体調いかがでしょうか? 体重56.39gとか、随分軽いですが、それくらいの方がよろしいのでしょうね。
仙台も梅雨入りで肌寒いほどです。暑さもちょっと一休み、雨もまた いいものです。こんな日は、やはり読書と手紙書きですね。
「読書」といえば、子どもの頃から翻訳モノばかりでした。小学校低学年の頃は、キップリングの「ジャングルブック」、ジェーン・エアの「嵐が丘」、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」等々。高学年になるとスウェン・ヘディンの「ゴビ砂漠探検記」やスコットの「南極探検記」に魅了され、将来は探検家になろうと夢想したものです。
中学生ともなると、福田恆存訳のシェイクスピアや原卓夫訳の「カラマーゾフの兄弟」には、圧倒されました。
なんとか原文で読みたいと、早朝のラジオで「ロシア語講座」を聴きましたが、早起きが苦手な私は長続きせず、挫折してしまいました。
そんなこんなで日本の作家の作品に触れる機会は教科書以外にはほとんどありませんでした。そのせいか、オトナになるまで、「翻訳調でない」日本語には違和感がありました。
私が、初めて「日本語・日本の言葉って実に美しい奥深い言葉なんだ!」ということに気づかされたのは、菅原万佐の『斎王譜』を読んだときです。あの時の感激は今も忘れられません。
それから、少しずつ「翻訳でない日本の詩人の詩歌」を読み始め、齊藤茂吉や正岡子規のファンになりました。ついでに母校の大先輩(学部は違いますが)齊藤宗吉の「ドクトルマンボウ」もおもしろく楽しみました。
秦恒平先生、(じつは 創作者としてのごく初期「菅原万佐」でもあった=)秦先生は私の「日本語の先生」です。
新ためて感謝申し上げます。  遠藤 恵子
遠藤さんは
秦の元医学書院での同僚 同じ社宅で家族ぐるみ      仲良しだった。
後年、東北で研究生活から大學学長まで務められ、
社会人として諸種の活動へも。
「斎藤茂吉」や「正岡子規」で、急接近になる。      秦は、人生最初の著作集として歌集『少年前』『少      年』があり、続けて『光塵』『亂聲』があって、      やがては『老蠶閉門』も予定しているように、根      は「歌人」。優れた歌人だった岡井隆が撰した『現      代百人一首』でも、居並ぶ近代・現代錚々の歌人      たちの中へ、「小説家」秦恒平の名と、京都の市      立日吉ヶ丘高校生の頃に、名だたる東福寺の名勝      通天橋での感傷の一首と、を選んで呉れている。
2024 6/24

* 俳句のことは謂えない、実作の経験にとぼしく、我が儘に読んで被疑し取捨しているが、和歌・短歌には八十年近く,打ち込んでの実作と鑑賞・批評の経験があり、容易くは譲らない。未熟な凡作をあげて和歌短歌の美質を汲み間違えている例の多さに、しばしば嘆いている。
「和歌・短歌」と謂われる「詩」は、ただ目で読んで是悲するには、琴線につたわる「音楽の微妙」がよくよく吟味され取捨され創作されていないと、まるで「散文そのままの受容」と變らない安易な鑑賞に陥って「気がつかぬ」事に成る。
駄歌の「字意」だけを汲んで、「表現の妙と不敏」とが汲めず、味わい分けられなくては、「詩歌」としての美妙は胸に落ちない。「鑑賞」の二字、は、実に容易く「読み手」の「精と雑と」に左右される。歌は、和歌・短歌の表現は、まさに「歌う」「音楽」のそれをハミ出て成る美質・藝術では無い。
まるで判ってない「歌詠み」「歌作り」たちの多さには目を覆い,耳を覆いたくなる。しかも弟子衆・子分衆を率い顔の「先生」「先導者」にまま露骨にその至らなさが見えて慨嘆してしまう。

○ 秋の田の苅穂(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ    わが衣手(ころもて)は露にぬれつつ  天智天皇

上句に結晶して「あ」「の」「か」「ほ」の音妙「た」行音のの調べはみごとで、一首の歌意がそのまま「歌」「音楽」の詩と成り、自然の巧みに「成って」いる。古歌だから、きんげんだいたんかだからという区別に言い逃れる道は無く。歌詠み創るものの真摯に聴く耳こそが大事。「詩歌」は,散文では無い。
2024 6/28

* 半睲半睡のような一夜だった。これは疲れのもとになる。

○ 老いほれた保谷の鴉は 羽根うたず   匍匐停頓

疲れても疲れてもいかに疲れても疲れの淵を生くいのちなる

右の頚と肩とが 暴れるように 疲れで痛む
『信じられないことだけど』と、ながなが 書き進めながら 疲れると 可愛らしい サッちゃん や 白山羊サン の ウロ憶えの「童謡」を 幾つも唱っているす。繪は描けない けど、歌は唄える  カアカアカア
京都へ帰りたいが。汽車二もレ無い、宿も無い。円通寺や 鞍馬や 嵐山へ  渡月橋を越えて、せめて夢路を辿りたい。
2024 7/2

* 録画しておいた「懐かしい唱歌」番組で、『おじいさんの古時計』を、いつも唱歌をきれいに優しく唱ってくれる男性歌手で、しんみりと聴いた。原歌はアメリカのと聞き覚えているが、まことにしみじみと「佳い日本語に飜訳」して呉れているのが、詩人「保富康午」 私の妻迪子の「今は亡い実兄」で、末々まで永く遺るにちがいない「美しい懐かしい唱歌に」して呉れている。妹の保富琉美子も詩集をもち、繪も描く。われわれの息子建日子も軽快に小説本の出版をかさね、劇作や映画監督も手懸けている。
ついでめくが、私の亡き実兄「北澤恒彦」は批評家としての仕事を数冊にしかと遺し、遺兒の「黒川創」「北澤街子」も、小説で、現在「しかと活躍」している。恒彦、恒平の生母「阿部ふく」は生来の歌人であった。歌集ももち、故郷滋賀里に歌碑を建てられている。私も、いま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』につぐ第五短歌集『老蠶・閉門』を編み終えようとしている。
2024 7/7

* ゆっくりしたくて、湯に永なが浸かって、ヒギンズのサスペン『鷲は舞い降りた』を読んで居たり、居眠りしてたり。熱暑の真夏はやり過ごすしか手が無い。軈て、また、ハダカのお相撲さんで「七月場所」。わたしは、『信じられない話だが』小説を仕上げて行く。歌集『老蠶作繭』はもう仕上がっているが「本」にき造らない。
2024 7/10

* いま、「ゼッタイの贔屓」という関取がいなくて、大相撲が、やや「中・小」気味に感じられ、寂しい。
観戦に永い時間を取られるスポーツからは、つい身を引く。お相撲は,その点でケッコウ、しかも自分でも中学高校の頃、友人と、ジャレ合うように、よう組み合うていた。わたくし、けっこう強かった。短歌詠みに深入りし、茶室で茶の湯の作法を人に教えてもいたのに、個人ブレーで、運動場で走るのもジャンプも、ソフトボールを遠くへブッ飛ばすのも得手であったが、野球の「仲間入り」には気が乗らなかった。
2024 7/15

* もっと短歌を詠んでおきたいが、と思う。「文藝」の芯は、たとえ散文であれ、詩・歌と思っている。
2024 8/4

* 「読み・書き・讀書と創作」の日々を一歩二歩でも「外へ跨ぎ出て」何の手助けも出来てない、私。ひっこんでいるのが「爺い」の立つ瀬であるか。
久しく忘れているような「短歌」世界へ思い入れるか、捨てがたい慨嘆と希望とを。いやいや。何が いやいや、か。
2024 8/13

* 浅い夢見の夜明けだった。

吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(いくととせ)
佇むことも 無くして あはれ
ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶと聞く
夢にも馳せめ 醒めざらましを
人の世は あまた「座席」に影も無い
空ッぽのままの 雑踏 の夢ぞ
命といふ いと細い一筋しかもたぬ
この「賜り」を 賢(かし)こしといはでや

* 字を大きくし、眼を労るしか、ない。

* わたしは「一年」という目算と覚悟でおり、妻とも、「あと」のとで、段々に「深切」に話し合い初めている。
わりと長く書き継いでいる新作の小説も 先ハ未だ だけど熟してきている。
五輪が静まり、ま、テレヒの前へは『光る君へ』ぐらいしか坐らない。読み継ぐ本は、当分のうち、大変な「長編」作を三作だけに絞らざるを得ない。三作が三作とも かけ替えなく、優秀。満足。
2024 8/14

* 太平洋戦争 開戦 大空襲被害 敗戦 敗戦後責任等処理 労使問題 戦後政治経済 経済発展 等々の流れを、近年の自民党政権うおうさうまで,概略テレビで復習していた。

* 戰争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたと思ふ侘びしさ

たしか こんな風に 私は歌っていた。今も、心変り無い。
2024 8/15

* 「空気が燃える」と熱夏を実感した最初は 敗戦まえの夏休み。私は国民学校四年生、丹波の山奥の戦時縁故疎開先から、山また一つ越え、隣部落の学校へ夏期登校していた頃。
もう一度は熱暑厳寒で聞こえた生まれ故郷の京都市内、敗戦後の六三新制中学の生、夏休みには武徳會に入れて貰い水泳に通ったが、その往来の道は、三条京阪駅から北向きに鴨川と疏水との東に副い、アスフォルト道の燃え立つなかを、二条まで通った。喘ぐ口が炎を吐きそうな酷暑だった。クーラーなんてものはまだまだ世に無い時代、扇風機の風が、まるで「湯」のようだった。久しくあんな体験はしていない。

* あの「敗戦」という現実を迎え、体験した「日本のあの日・あの時」を編集し評論した適切な座談と邂逅番組を、頷き頷き、半ばは懐かしいとまで想い出に彩られ、観た。

○ 戰争に負けて善かつたとは想はねど 勝たなくて良かつたと思ふ侘びしさ

○ 沢山な たくさんな ことを ひしひしと 思ひ返して 「歴史」は重し

* あの敗戦後の少年私に一等身に痛いまで重かった現実の大きな一つが、「戦争犯罪人 戦犯裁判」であった。新聞に、噛みつくほどに見入って、沢山な 著名な 被告の名を憶えた、が、幸いと、多くは忘れている。憶えていたく無かった。
2024 8/20

* さ、秦の、その「おじいさん」「鶴吉さん」となると、これはもう、途方も無く山ほど蔵された「和漢の書籍」で、まさしくわたくし「秦恒平」を文學・文藝の生涯へ推して出すべく「手渡して呉」れたわば「師父」であった。国民学校四年生で丹波の山なかへ母と祖父とで戰時疎開したとき、私は祖父が明治の昔に「通信教育の教科書」に用いた「日本歴史」その他を、むちゅうで読んで「勉強」しはじめていた。父・長治郎も叔母つるも「本」を読まない人だった、だから「おじいちゃん」は、家で揉め事があると口癖に「恒平を連れて出て行く」と脅していた。わたくしが「感じ」を小さい頃から苦にしなかったのは「おじいさん」からの「たまもの」なのであった

* 秦の叔母「つる・裏千家で宗陽 遠州流で玉月」が、九十過ぎまで茶の湯・生け花の先生で多勢の社中を聴いていたのが、どんなに「私の趣味」をそだてたか、謂うまでもない。この叔母は、ちいさかったわたくしに、寝物語に、日本の和歌と俳句の最初歩の手ほどきもしてくれた恩を,決して忘れない。私の「女文化」とい「日本」の認識は、この叔母の膝下でこそ掴み得た。
そうそう、秦の父 長治郎は、観世流謡曲を身につけ「京観世」の能舞台で「地謡」に遣われるような趣味人で、おかげで、謡曲の稽古本は家に悠々二百冊を超し、それが少年私の「日本古典への親炙」に道を拓いてくれたのだ。
父は、また、私に「井目四風鈴」から囲碁も手ほどきしてくれ、後には私、その父に四目置かせるほどになった。
秦の母は、趣味にあてる時間や躰の自由の効かない主婦という嫁であつたが、讀書の出来る人で、私に、漱石や藤村や潤一郎や芥川の名前を聴かせてくれた。後年、敗戦直後に、谷崎の『細雪』や与謝野晶子訳の『源氏物語』などみせると、それは喜んで読み耽り、ことに『細雪』はよくよく良かったようだ。
つまりは私、讀書好きのお蔭で、祖父にも母にも孝行できた。まちがいない「作家」へ歩んで行く最初歩であったよ。

* まだ、早朝六時四十五分。八十年もの「読む想い出」は,豊かに豊かな山のように私の胸に生きている。
2024 8/31

* 至福の絶境、懐かしい熱い想い出に浸って、まこと生き生き「夢」見ていた。
人生八十八、なお「夢」に見るか、ああ、と励まされて嬉しく 耀く心地した。

老熟など望まない、老いの春を たとえ夢にも楽しく歩み眺めたい。下記の想いとも倶に。

随感 随詠

吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(い くととせ)佇むことも 無くして あはれ

ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶ  と聞く 夢にも馳せめ 醒めざらましを

人の世は あまた「座席」に影も無い 空ッ ぽのままの 雑踏 の夢ぞ

命といふ いと細い一筋しかもたぬ この「賜 り」を 賢(かし)こしと謂はでや

あなといひ ひしと抱かせつ 草山の 夕告 げ鳥の こゑのさびしさ

茂りあふ 萬の靑葉の かくれ蓑 な揺りそ 揺りそ 連れの ひよどり

世の仲を かしこみ祭れ 連れ添ひの さだめ承け 會(え)て 六(む)そ五つ十とせ

* 夢の余韻の 生ける心地に被さってくる。「生」とは「幾程」のことであるのか。
2024 9/7

* わたしは、人前では唱いたくないが、ひとりではショッチュウ何かしら 聲は無くも、くちずさむも、唱ってることが多い。新門前の秦家に「もらはれ」たころ、近所に友だちが出来なくて、それで口ずさみの独り歌に親しんだ。
以下、かなりキザに想われかねないが、本郷の医学書院に就職して直ぐ、労組の簡素な新聞様のモノに、「新入社員は「入社の感想」を書くのだと、高飛車に強いられた。出版社の社員誌に「作文」などしたくない。
で、これだけを書いて「係りサン」に手渡した。「はるは名のみの かぜの寒さや」と。
先輩社員の「係りサン」はふざけるなと怒り、わたしは黙っていた。「たった、そのまま」が私の署名で活字に組まれた。
笑われた、嗤われた、が、当時の「編集長」は、著名な国文学者で詩人の「長谷川泉さん」で、若い管理職社員を怒らせていたわたしの「投稿」を、即座に、「春は名のみの風の寒さや」に続いた「渓の鶯うたはおもへど 時にあらずと声もたてず」まで、識られた「唱歌」の儘に読み摂って下さり、金原一郎社長も「心よい」と喜んで下さった。なつかしく、今も、うれしい。
「歌」が好きである。
親しく願っているエッセイスト宗内敦さんの文庫本『歌は心の帰り船』を手近に置いている。
2024 9/12

* 今も、ほぼ日常にひとり口をついて出る幼来の唄に、憶え違いなければだが、コレが、在る。

象さん 象さん お鼻が長いのね

ソーよ 母さんも長いのよ

ちょっと「母と子」の理路必然の對話とはきこえにくく、「象さん母子」のやりとりではあるまい、人の子の「母さん」の思いやりに、なにかしらわが子への諧謔、ユーモア、いとおしみが表れたのか。
ナニにしても、此の、まだ、幼かった「私」には、即座に「ソーよ 母さんも」と応じてくれる実の生みの「母さん」像が、身の周りに「実在して無い」のだった。それで此の唄は、要は「孤り」の「もらはれ子」の私には「苦が手」であった。
しかも、イヤ、だからか、今でも、オー、老耄の私は、しばしば「象さん」「象さん」と口ずさみ唄っている。
いわゆる流行歌は、わたくし、おぼえないし、唱わない、ごく稀にしか。

* いま階下でこの唄を妻がすぱっと当然に訓みとるのを「ホー」と納得して二階へ来たのに、その妻の訓みをもう忘れている。困るなあ。
2024 9/13

* グッスリとは寝ていない,半ば夜中も床のママ私はいろんなふうにモノを思うて居る、ラチもないことも想いながら。幼かった日々におぼえた奇妙な唄を想ってたりする、この歳で。。

イチリットラ ラットリットセ
スガホケキョーの 高千穂の  忠霊塔

何事とも まったく判らない、が、十歳ごろから唱っていた。ほかにも幾つも在り、唄は憶えているが ワケは判らない。

一匁の イ助さん イの字が嫌ーらいで
一万一千一百石 一斗一升 お藏に納めて
二ィ匁に 渡ーたした

と この調子で 「十匁の十助さん」ま真で、近所友だち何人もで声を揃え、唱った。ことに眞夏の暑い晩の戸外の遊びで、よく憶えていて、いまも「夢うつつ」に唱ってたりする、バカらしいとも思わずに。もうもう取り返せない、大昔のことだ。
2024 9/14

* またまた『光る君へ』道長女の中宮彰子と一条天皇の、ようやく男女の仲へ向き合うた辺を観,確かめてから、いま、目覚めて午後三時十七分 よく寝入っていた。寝入っていれば、まさしく平和。私にはいま、そういう「平和」が 無償与えられている。有難いとばかり謂えないが、なにかの衝動があるまで、心静かに受け取っておく。

○ だーれかサンが だーれかサンが
だーれかサンが 見いつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 見いつけた

* 此の唄の 此の 「ちいさい秋 見いつけた」
という唱い出しが 好き。「秋」は 胸に沁みる。
私自身こんなふうに 口ずさんだ 覚えがある。

柿の木 柿の実 柿の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

栗の木 栗の実 栗の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ

はてを知らず 落ちて行く命 と私は感じている。それならば「秋の夜」であって欲しいと 願うのでもある。
2024 9/16

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