読書録 3
* 河村君のスペイン日記から十一月分の最初の一週間を読んだ。とにかく具体的。日々の生活が目に見えるように分かる面白さ。ことに、こんなにも食うかと思うほど、克明に食事その他の飲食が、食べ物飲み物のひとつひとつまで記録してあり、関心のほどがうかがえる。語学学校の授業の内容も、同窓の各国人たちも名前まで正確に書いてあり、これに観察が追々加わってくれば面白さはさらに増すだろう。小さな店の名前まで、通りや広場の名前まで、きちんと書いてある、えらいものだ。「明日」には「トレド」へ小旅行するらしい。またパソコン利用についてもいろいろと興味深い折衝が書けていて、この分だと、河村君の「スペイン暮らし」にどっぷり付き合うことになるだろう。わたしのように海外に出ない者には、これぞ「電子の杖」である。それにしても、よく書いたモノだ、一年あまりを書けばわたしの「湖の本」の八冊ほどにも成りそうだ。適宜に目次と見出しを付けた方が便利だろう。
2003 1・4 16
* 源氏物語は古典全集版の第一冊を読み終え、二冊目の「葵」の巻に入り、今夜にも車争いになる。昨夜、巻頭の、文献学にふれたエッセイを面白く読んだ。
笠間書院から、井上宗雄さんの百人一首の本と雑誌「笠間」が贈られてきた。九州の今井源衛さんの著作集予告広告も、故藤平春男氏の著作集簡潔広告も届いた。錚々たる国文学者である、お二人とも。
新古今歌風の研究で名高い藤平さんにはご生前よくしていただいたし、今も存命なら、娘や孫達と隔てられてある我が家の久しい不幸を、仲人でこそなかったが、うち捨てては置かれなかったろう。
今井さんの学問には今も親しんでいる。亡くなった目崎徳衛さん、そして京都の角田文衛さんととともに、「三衛」先生、何れも心親しい。今井さんは清泉大で鴎外記念館理事長の長谷川泉さんと同輩であったそうな、おもしろいお話を今井さんに聴いたことがある。
木島始さんにも、また、新しいエッセイ集その他を頂戴した。「ペン電子文藝館」の「反戦・反核」室を充実させねばならない。
2003 1・10 16
* 福田(景山)英子の「妾(せふ)の半生涯(はんせいがい)」は長い自伝だが、その中から、英子が二十一歳のとき、大阪未決監獄に収監されていた際の「獄中述懐」を抜き出した。破廉恥罪の容疑ではない、すこし物騒な政治犯、だが、彼女の根には、万人の平等と自由、それに女権拡張の闘いがあった。それも含めての官権による投獄であった。
この一文を、英子自ら「女志士(ぢょしし)」の叫びと言っている。烈々の文面であり、是非にかかわらず、昔の人は(選ばれた少数であるが)若くして立っているなあと感じ入る。この英子を立たせたのが、若き岸田俊子であった。岸田が、禁中のうら若き才媛から牢獄の闘士と転じ、この国土に女権拡張の初の声を放ったとき、二十歳になるやならずであった。
こういう存在を、文壇の人ですら殆どが忘れている。わがペンの女性委員会の委員ですら、あやしい。「女性と戦争」を主題に語りながら、女性作家による反戦・戦争文学の一つも挙げられない人が、理事会へ来て臆面なく発言している。岸田にも福田にも思想家としての時代による限界はあったが、先駆者としての烈気も勉強も図抜けていた。今とちがい、何かというと女でも牢屋に叩き込まれ、寒夜を凌がねばならない悪時節であった。せいぜい平塚雷鳥どまりの、それも浅い知識でものを言っておしゃべりが済んでしまうほど、いまは平和なのだ。あやういことだ。
2003 1・11 16
* 東工大の後任の井口時男氏に以前にもらい、その時にも読んだ、「川嶋至が忘れられている」という感想を、たまたま、今日また読み直した。いい内容で、良く書いてくれたと、改めて感謝した。同じ小冊子で富岡某氏が「文学部的常識」の崩壊現象に触れているのも面白かった。これは初読。
2003 1・12 16
* 東工大の後任の井口時男氏に以前にもらい、その時にも読んだ、「川嶋至が忘れられている」という感想を、たまたま、今日また読み直した。いい内容で、良く書いてくれたと、改めて感謝した。同じ小冊子で富岡某氏が「文学部的常識」の崩壊現象に触れているのも面白かった。これは初読。
2003 1・12 16
* おとといだが、「葵」の巻をよんだあと、床に脚はいれたまま、しばらくものにもたれてぼうっとしていたが、もう少しと思い、目に付いたある編集モノの全集一巻をもってきた。わたしの「秘色(ひそく)」が入っている。
で、巻頭に出ていたある小説を読み始めたが、三十行と読めない。文章がぐさぐさで、ゆるゆるで、お話にならない。わたしの百倍千倍売れる人ではないかと思うが、文学の香りの一と垂らしもない。気分わるくイヤになって、気を変え、自分の旧作をのぞいてみた。「秘色」を書き始めたのは、「清経入水」が太宰賞の最終候補に挙げられています、応募したことにして欲しい、と筑摩書房から通知が来たころ、一九六九年五月ころだ。結果的にこの作品が、雑誌「展望」への事実上の受賞後第一作になった。
読み始めて、先の作者にわるいけれど、雲泥の差とはこれだなと思った。我褒めで気恥ずかしいが、ほんとうに文学の分かる人なら、すぐ分かる。心底、こういう小説が読みたくてたまらないという作品を、他に無いので、自分で書いたという作になっている。先の作との一のちがいは、「文体」だ。そして、構成。絵空事を書いているのに細部のリアルは作品に静かな空気を満たしている。冒頭の一章を読んだだけでわかる。
自作を褒めたいのではない。世にはびこる、有名だの売れっ子だのという作品の、あまりにふやけたものである例の多いのを、ひたすら呆れるのだ。久しい友の馬場あき子が、この作品を発表してしばらく後に、「秦サン、『秘色』は名作だよ」と、あの独特の表情で、一瞬こわいほどの目で言ってくれたのを思い出した。あれは嬉しかった。新潮社の池田雅延氏が、或る大家の「『額田姫王』も顔色なしですね」と真顔だったのにも励まされた。『みごもりの湖』へ強い跳躍板になった。
おとといの夜、琵琶湖の、みごもりの湖の、ながいながい夢をみていた。
2003 1・13 16
* 福田英子の獄中述懐は、本人は十九歳としているが、正しくは明治十八年、二十一歳烈々の発露である。岸田俊子の女権演説に発奮したのが、十八。翌年からは自らも人間平等を説いて演説の場に活躍し始め、板垣退助らの自由党志士たちにちかづき、やがて朝鮮改革運動を計画、自ら爆薬運搬や資金募集等に協力して、渡鮮の直前に逮捕投獄されている。その時の「獄中述懐」を、明治三十七年に出版の、自伝『妾の半生涯』から、前後を稍含めて抄出した。
英子の生涯は、この自伝の後になお多岐を加えてゆくが、ともあれかくもあれ、女性の権利と参政の意向を推進した大きな先達であった。投獄に堪えるどころでなく、政治活動に「一死」を覚悟していた青春であった。
いま、送稿した。
2003 1・13 16
* 出久根達郎氏の直木賞作品で長編の『佃島ふたり書房』から一部を抜粋、スキャンした。どの辺をと思案した。やはり古本屋さんのお商売に興味深くかかわるところがいいだろうと。
* 昨夜は水上勉、井伏鱒二、邦光史郎三氏の小説を少しずつ読んだ。入って行く文章は水上さんのが落ち着いていて惹かれたものの、いつまでたっても浮揚して行かず、地上すれすれを滑走しているようで、捨てた。井伏さんのはラフな書き方なのだが独特の文体は顕著すぎるほど顕著で、ぐいぐいと引きずって行かれる、流石だと思った。邦光さんのは所詮おもしろづくに読み物になってゆく。
「小説はおもしろければいいんですよ、おもしろくないと」とこの間、和歌山の神坂次郎氏が話していたが、何故それが書きたかったかハッキリ分かり、よく書けていて、おもしろいならいいが、ただおもしろづくに読み物に仕立てだけのものなんか、全くつまらない。テレビの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」や「必殺仕置き人」なみの小説なら、そんなもので時間つぶししたくない。テレビドラマで十分だ。映画でいうなら、「羅生門」や「七人の侍」なみの時代小説ならむろんガマンするが。「モンテクリスト伯」ほど図抜けて面白ければまだしも、動機のほとんど感じられない、稼ぐためにだけ書かれた読み物など、「失せろ」と言いたい、全然不用である、わたしは。デュマがエドモン・ダンテスにこめたモティーフは深刻であった。
2003 1・14 16
* あらためて見回してみると、この狭い機械部屋に、八人ものにこやかな沢口靖子がわたしを見ている。真ん中で、六代目扮する河内山宗俊のような谷崎潤一郎がわたしを睨んでいる。八回に一回しか顔を見ない勘定に、ご機嫌斜めなのだろう。いや、チガウか。
もう、そろそろバグワンに耳を傾けに、階下へ。今夜あたり、源氏と若紫の結婚の場面へ達するだろう。源氏物語を声に出して正確に読んでゆくというのが、こんなに美的に優れた体験だとは、予想していたが初の実感。「夢の浮橋」をわたるまでは……。
このところ死について考えない日々はない。
そうそう、札幌の友人が、山折さんとの対談を読んでいて、はじめのうち、噛み合わないのにハラハラした、対談は続くのだろうか心配したと言っていたのが、面白かった。わたしは、対談も座談会もヘタなのである。調子を合わすのは構わないが、そう思っていないことに、妥協して相槌が打てないのだから仕方がない。
2003 1・15 16
* バグワンと「葵」の巻のあと、瀬戸内晴美作「虚鈴」を読んだ。瀬戸内さんの小説で、おしまいまで読み通した最初の作品であるが、ぐいぐいと読み切らせた。かすかに重いし、かすかに俗味もあるが、興趣溢れて軽薄なところが無い。「ペン電子文藝館」に欲しいなあと思った。
2003 1・17 16
* 病院で待たされるのが必定のとき、何を読んで時間を待つかは大事な選択。今日は、中央公論社版の「日本の歴史」第一巻をもっていた。神話から歴史へ。こういうのを読み出すと、どんな小説よりもとは言わないが、大概な読み物よりはるかにひきこまれ、時間などすぐ忘れてしまう。よくよく歴史を読むのが少年時代から好きで、神話から歴史へといった「歴史の方法」の根幹に触れる学問的な追尋には、へんな話だが惚れ惚れしてしまう。
2003 1・17 16
* 昨日は、日本の歴史、映画「シックス センス」そして「葵」の巻。
ことに「葵」では、車争いで六条御息所と葵上との烈しい出会いがあり、生き霊、出産、死、そして、しめじめとした寂しい喪のありさまなど、劇的に展開した後、光は若紫をおどろかして結婚する。惟光がかいがいしく三日夜の餅に心を配る。
「葵」は、緊迫と展開に屈指の妙をもった明暗こもごもの素晴らしい一帖。
祭り見に出掛ける前に、光が手づから「千尋」と言祝いで若紫のながい黒髪を清めてあげる場面など、ことにわたしは好んできた。
床の上に座って小声で読む。たいてい深夜一時半か二時ちかい。桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、そして葵。美しい展開だ。現代の言葉で音読すればこうは行かない、とても原文が音読に適している。いい音楽に載せてゆかれる心地で、一日の終わりにもろもろを忘れて静かな別の世界へ紛れ入る。一つの作品で、こんなに回数を多く繰り返して読んできたものは、ほかに漱石の「こころ」しかない。
2003 1・18 16
* 歌人北沢郁子さんに頂戴した『忘れな草の記』(不識書院)は、数十年書きためられた所属歌誌等のエッセイをまとめられた本で、しっとりした佳い境涯が、落ち着いた声音で書き留められてある。自作他作の短歌が金無垢にちりばめてあり、美しい。生涯に打ちつづけられた黄金の釘ひとつひとつの感がある。
2003 1・18 16
* 平林彪吾の「鶏飼いのコムミュニスト」は、プロレタリア文学の中では型破りな、いや八方破れに破れかぶれの、不羈奔放作品で、ときどき、吹き出してしまう。どきどきもする。こういうのも、あるから面白い。
2003 1・22 16
* 「賢木」の巻。野宮の優艶かつ哀情。そして桐壺院薨去。源氏物語はこの先急ぎ足で光君の失意へ向かう。寝床に腰をおろし、ものに垂直に凭れ、読む。乏しい電灯のかげで、読み終えてじいっと座っている。
ゆうべは、そのあと、「石器時代の日本」を読みふけった。そのあとも、じいっと座っていた。
「日本の神話」をつぶさに科学的に検証してもらったあと、旧石器、新石器、縄文・弥生土器へと、この時代のことを、今度ほど興味深く身を入れて読んだことはない。例の考古学発掘の捏造事件がどれほどこの井上光貞氏の歴史記述に影響しているのか、ときどき気になった。
「日本の神話」の読みには、わたしも幾らか意見のある箇所がある。それにしても、神代記にも微妙なねじれがあり、コノハナサクヤビメやヤマサチヒコの話と、天孫降臨から神武東征の大筋とに乖離のあること興味深く、出雲神話の置かれようにも複雑な感慨がある。
邪馬台国の話まで進むと、その神武東征へ話題が戻る、その時に自分の頭にどれほどの新しい整理が効いてくるか、興味尽きない。
この『日本の歴史』は分厚い文庫本で二十六巻もあり、大方読んでいるが頭から通読したのではない。今度は時間を掛けて通読を楽しみたい。自分のために時間を使っていい時が、もう来ている。
2003 1・23 16
* 夜前は四時半頃まで邪馬台国や神武天皇、崇神天皇の頃を読みふけっていた。
邪馬台国の九州説、大和説の角逐にはこれまで身を遠のけてきた。わたしの気持ちとしては、歴史的に北九州が先行して大陸半島の文化を受け容れたには相違ないし、現実に大和に統一政権ができたことも事実。そして勢力東遷もまずまちがいないところと想っていたので、卑弥呼の身を、大和におくか九州かという議論自体にはさほど関心がなかった。むしろ「ひみ」が朝鮮語でひとつには光明のような、ひとつには蛇のような意義をもっていることに興味があった。そして大和説には九州説よりなにとなく無理のありそうな感想は否めなかった。今も、これはどっちだってよいと関心の外へわざと置いている。
天孫が日向の高千穂峰に降臨した神話など、事実としては、むろん信じていない。稲魂に等しかった天孫は、特定の高千穂に降りたのでなく、「高千穂」の文字が示唆しているような農耕の場なら、何処にでもいつにでも降りたって良い神霊であったろうから。
だが九州には、榊に、玉と鏡と剣をかける祭事なり示威なりが、今に至る皇室の三種神器とまぎれない類縁をもってきたことは、不動の事実。そういうことは頭にある。
* 井上光貞氏の本で、神武天皇が、人皇の初めであるより神話の最後の存在と見定めているのは、学界の定説に近い。つづく綏靖から開化までの八帝が架空の非在天皇であることも、もう常識。
つづく十代崇神、十一代垂仁、十二代景行天皇には実在したと想われる傍証がいろいろに検討されている。半ば以上の常識である。が、つづく十三代成務、十四代仲哀天皇も実在感がかなり合理的に否定されているということを、今回、教わった。
さ、そうなると、次は倭建命と神功皇后のことになる。
さきに、わたしのかねての認識をいうと、倭建命神話は創作された傑作、神功皇后は実在したのではないか、と。井上氏の(学説を公正に援用した主観的な歴史記述であり、記述の姿勢は信頼できる。)本では、倭建命も神功皇后も、どうやら実在しない架空の神話的実存であるらしい。まだ、其処へは読み進んでいない。外へ書いて原稿料をもらった最も早い時期の評論ふうエッセイ、「消えたかタケル」の著者として、興味津々。
* なんとなく、子供の頃の昔に返っているような錯覚を覚える。祖父と叔母とが居た京都新門前の家の二階は、おさない私の上がって行くのはコワイが、不思議な魅惑の他界のようであった。そこには、階下の両親の現世には存在しない「書物」が宝蔵されていた。いや、宝のように感じていたのはわたしだけで、わたしが秦の家に入っていらい、本というモノを読んでいる大人の姿など、タダ一度も見た記憶がない。
いちばんわたしが早くとびついたのは、本ともいえない仮とじに形ばかりの白い表紙の、一冊ずつはかなり分厚い、今想うと通信教育の「教科書」であった。わたしの愛読したのはその中の「日本国史」一冊で、表紙もコグチも、わたしの泥手で色変わりしすり切れるまで耽読した。むろん、国史は神代から語られていた。
読書の下地に、国民学校一年生の三学期、担任の女先生にお年玉かのように戴いた「日本の神話」一冊があった。古事記を読み下したような本で、後年に古本屋で手に入れた次田潤氏の編になる「古事記」か、それと類似の一本であった。
何が何といっても、わたしのお家藝は、先ずは国史の丸覚えであった。いま、井上氏の一巻で始まる「日本の歴史」シリーズを目の前にして、あれあれ、あの頃へ戻るのかとすこしばかり呆れている。去年の元旦に歌った、
ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し
もとの平らに帰る楽しみ 六六郎
を、いままさに味わっている。フーンという気分だ。
2003 1・25 16
* 倭建命と神功皇后が、非在の仮構、神話的創作の人物であるか、つぶさに背景資料とともに解き明かされ、ゆっくり、よく、胸に落ちた。昔に書いた「消えたかタケル」の所感を改める必要の、多分、ないことも教わった。
わたしのなかで、ま、豊かではないが中国の歴史もそれなりに蓄えがある。だが、朝鮮半島の正しい歴史認識のないことを、実は嘆いてきた。少年の昔に、天智のむかし白村江での大敗や、百済新羅とのややこしい折衝や角逐を書いた読み物を胸轟かせて読み、その程度のことは識っていても、他には持ち合わせは乏しい。井上靖の「波濤」や立原正秋の小説以外は、むしろ李朝や井戸など朝鮮の焼物にしか関心がなかった。しかし利休や楽茶碗を理解するためにも、朝鮮のことはもう少しは深く知りたかった。
で、もう二十年も前に朝鮮史の定評ある概論二巻も買い置いてあるのに、ついぞ手を出さずにきた。日本史と併行して、それも読み始めようかなと今思っている。
2003 1・26 16
* 明け方までに、「日本の歴史」第一巻を読了。応神王朝から継体王朝へ切り替わり、三世紀間に渡る日本の朝鮮経営は潰えた。そのかわりに日本に統一王権がほぼ安定した。三世紀もの間、日本は朝鮮半島の出店の経営にてこずりながら、軍事行動を繰り返していた。一時期は任那を拠点に百済国を属国扱いさえしていた。新羅にも高飛車だった。それも潰えた。後発の新羅がつよくなり百済は衰えている。
高句麗までも日本は攻めているが、高句麗はつよかった。高句麗の版図は今の北朝鮮国に相当している。この当時の日本と朝鮮半島との交渉は、軍事関係は、秀吉の頃よりも長くまた執拗で、密接であり、多くを得て多くを喪った。だが、その間に日本は地固まったと謂える。
継体王朝の登場は、劇的で、応神王朝とのあいだに断絶があるのか血縁は繋がったのかは、あまりに微妙。万世一系はかなりあやしいと見られる。しかも継体天皇の三子、安閑、宣化、欽明三天皇の即位事情も複雑を極める。
わたしは、秦の父に、中学の頃いきなり「花筐」という謡曲を教えられたので、登場する後の継体天皇には自然関心があった。越前に、なんでそんな応神五世の孫王がいたのか、どうしてそんな縁遠い皇子が、大和なる天子の位に近づいて即位が出来たのか。日本の経営した任那日本府が最期を迎えたのと、この継体天皇の最期とが、ほぼ同時期であったというのも印象にのこる。
* 十五代応神天皇は「確実に」実在したといえる天皇の最初の人。しかしその前の、崇神、垂仁、景行三代の天皇にも、実在の形跡は、ま、濃いと言える。だが、そのあとの成務、仲哀二代は影が極めて薄く、非在と言える。景行の子とされた倭建命も、仲哀の皇后で応神の母とされる神功皇后も、創作された架空非在の人。この辺で、王朝の大きな交替があった。応神が騎馬民族であったかどうかはともかく、西国から攻め上って崇神王朝にとってかわった事実は、否認できない。応神王朝は、以降、応神、仁徳、履中三大古墳陵をシンボルに、雄略天皇らの「五帝」時代に推移し、中国との密接な関係の中で大和政権を維持しようとした。しかし豪族・姻族間の内紛で王朝は弱体化してゆき、ついに継体王朝に取って代わられている。雄略の頃に取材して、わたしは小説「三輪山」を書いている。
* 継体王朝のときに朝鮮半島の拠点をまったく喪うが、一方では我が国に仏教が伝わってくる。仏教との関連で、葛城、平群、大伴、物部、蘇我氏の諸勢力が、朝廷の周囲で烈しく移動し交替していった。継体王朝の六世紀に、日本の神話や歴史の基盤資料となった帝紀や旧辞などが国家的な意志と意図とで集約され整備されていった。
* 面白くて、読みやめられなかった。一冊が数百頁の文庫本、図版も多く、井上光貞氏の記述は周到で、説得力に富んでいた。第二巻は直木孝次郎氏にバトンタッチし、聖徳太子から大化改新へ、そして近江朝から壬申の乱へ移動する。記事は緻密の度を増してゆくだろう。この時期に取材してわたしは小説「秘色」を書いている。
2003 1・28 16
*「葵」につぐ「賢木」の巻は、劇的な展開をまたおしすすめている。
「葵」では、車争いをめぐる光・葵夫妻と六条御息所との生き霊事件と葵の出産死、その後の寂しい展開にからんで、朧月夜との危うい出逢い。藤壷との暗い秘密、また若紫との結婚物語。みどころ豊かに力感あふれた結構は、大いに読者をひきつけた。
「賢木」はこれに劣らない。伊勢の斎王として下向する若き姫宮と、母御息所との、光をまじえた野宮の別れがあり、桐壺院の崩御と政局の暗転。そして朧月夜尚侍と光の密会露見。光源氏の政治生命は危殆に瀕する。
堂々とした展開で、舌を巻く。
* 森田草平の「煤煙」をどんな昔に読んだことか。長編であった。作者もこれぐらい書くのに苦労した作品は珍しいようだが、新聞だから、何とか休載をはさみながら苦汁を絞られるようにして書きあがった。そうでなければ書けてなかったろう。前半には作者の根の哀しみや苦しみが色濃く投影して、それはそれで小説として成功しているが、後半は師の漱石にも厳しく批評されている。なにしろ、前年に作者はあの「青鞜社」の太陽になる平塚らいてうと塩原に情死行、未遂に終わったその経緯を赤裸々に書いているのだ、新聞の読者もスキャンダルを憶えていたから、森田草平は一躍「有名な小説家」の仲間入りをした。だが、書くのは難渋した。らいてうを書いたという作中の真鍋朋子という女が、容易ならぬ「新しい女」で、漱石は「人工的なパッションをかきたてて」生きかつ書かれた女と喝破しているし、喝破の勢いで「三四郎」の美禰子、アンコンシャス・ヒポクリシーを書いたと言われている。「虞美人草」の藤尾も。
この長い作品を「ペン電子文藝館」にいれることは出来ないが、「金色夜叉」の熱海を抄出したように、思い切って終幕の塩原情死行を引き出してみた。いま、その校正にかかっている。
これがまあ、男も女も、「変わっている」のだ。
* わたしの幼い、また若い頃の京都では、人物評のかなりの例が「変わっとる」「変わったはる」「変わった人」であつた。「あんたて、変わってるなあ」と、どれほどわたしは人に吐きかけられたろう。あまり自覚はなかったのに、判ででついたように「変わってる」そうであった。そのわたしが呆れるぐらい「煤煙」の要吉(草平)と朋子(平塚明子)は変わった一対として、情死しに塩原へ発つ。二人とも舞台を踏んで演技しているかのように奇妙である。自意識の塊のようである。ともあれ、そういう女の一人を成功か失敗かは別にして造形して見せた点で、草平の此の作は、まちがいなく代表作である。
* 森田草平は優れた翻訳者であり、海外の名作をおびただしく紹介してくれた。わたしもドストエフスキー原作の「悪霊」一冊本を大事にもっている。
2003 1・29 16
* 堺利彦といって覚えている人は少なくなったろう。堺枯川といっても同じだろう。日本の社会主義者の本当の草分けの一人であるとともに、その全体を落ち着いたものにする佳い錘の役を果たした人だと評価されてきた。ほんとうなら、というのも変だが社会主義へ行かなくても済んでいた人であったかも知れない、のに、真っ直ぐに、堂々とその世界に歩み入って、重きを成した。ほんものの社会主義者として生涯を全うした。この人がいたので、幸徳秋水らが大逆事件で粛正されてから後も、大杉栄が虐殺されて後にも、日本の社会主義が次の世代へ生き延びたと言われている。温厚で開豁の人であったことは、自ら書いた「堺利彦伝」のおおらかな筆致が多くを語り明かしている。
自伝は、彼が社会主義者になる前で筆をおかれてある。抄出したあたり、堺は、九州の豊津から旧藩主の奨学金を得て上京した一学徒であった。あきらかに或る時代の若き秀才インテリの生活環境が、挫折や哀歓とともに飾り気なく記録されていて、そういうものとして読んでも、面白い。鹿鳴館が流行り、二葉亭の「浮雲」が近代文学の幕をあけた年に堺利彦は東京の高等中学校に入学していた。百十数年の昔である。
2003 1・30 16
* 内田百閒の「漱石先生終焉記」と「花袋追慕」を読んだ。この作者の作では、「掻痒記」で腹をよじって痛くなったことが二度もあり、また読んでみたが、やはり笑い始めると危険なほどなので、途中で気を逸らせた。この人の名の「間」は明らかに誤字なのだが、「閒」の字は、まだ図版貼り付けでなくては安定して送信できないのではないか。困ったことだ。
2003 1・20 16
* 田島征彦・征三兄弟の『往復書簡』(高知新聞社)を戴いた。ジャレあっていて、時にケンカ腰にもなり、おもしろい。ともに画家・版画家で絵本作家。弟はエッセイストでもある。土佐弁をおいしいご馳走につかっている。むろん二人の繪やイラストが入る。何に感動するというのでもないが、仲の良い才能豊かな兄弟が羨ましいという気にはなる。たいした文才である。
* 川本三郎氏の『林芙美子の昭和』が佳い。この人はこの数年優れた仕事を連発されていて、敬服している。この芙美子に関する論考の、とっても読みいい佳い散文なのに、わたしは賛嘆を惜しまない。当今の批評家のなかで、最もこなれた美しい散文で大切なことの書ける書き手。荷風に関して書かれた何冊かも、大正を書いて潤一郎にも及んでいた本も、東京を縦横に語った何冊かも、そして懐かしい映画や映画監督を語った幾つもの仕事も、みな、戴いて私は愛読してきた。
会ったことはない、本の贈答だけでながくおつき合いしてきたが、いちばんよく読んで楽しめる書き手として、ひとまわり近く若いが敬愛するお一人である。
* 三好徹氏の『三国志外伝』は本巻五巻の、ま、面白い付録のようなもの。『ゲバラ』のような力作もあり、三国志もあり、「ペン電子文藝館」に公開された『遠い声』のような出世作もある。ペンの副会長。
* 都立大の安田孝氏から贈られてきた共著の『妊娠するロボット』は注目に値する文学研究の論考集で、「1920年代の科学と幻想」という興味深い副題がついている。名前のない会を結んで、かなり畑の違いそうな気鋭七人の研究者達が熱心な討議を経ながらまとめ上げた一冊は、目次に上がっている芥川、有島、賢治、川端、幹彦、谷崎と拾うだけでも、価値ある意図が見えてくる。普通の版型で普通のフォントだともっと読みよく読者を惹きつけたろう、それでもこういうグループの熱意と企画には感じ入る。応援したくなる。
名前や大義名分ではなく、一人一人の実力が発揮される自在なグループが佳い仕事を積んでくれるのが何よりである。一昔も前に近世学の若き学徒が、年輩の先達をとりまくようにして充実した研究成果を雑誌で出していた。いま地位をえている田中優子といった人がそんな場所で早くに目に付いた。出てくる人が当然のように出てこれる下地づくり、必要なことだと思う。
* 春日井建氏が序を書いている黒瀬珂瀾第一歌集『黒耀宮』が送られてきた。美少年っぽい。少年と言うには少し青年以上の年齢かも知れない。外国語の人名や名詞や形容詞がふんだんに踊っている。
男権中心主義(ファロンセントリズム)ならねど身にひとつ聳ゆるものをわれは愛しむ
空をゆく銀の女性型精神構造保持(メンタルフィメール)は永遠をまた見つけなほすも
新しい歌を作ろうとすると、こういう自己主張になる。これはもう少しも珍しい傾向ではなく、特別尖鋭なわけでもない。年寄りは共感しないだろうが、大なり小なり歌壇で指導的な地位を謳歌している大勢は、なんとか新味を追うことに一度は成功してきたのだ。そういうものの中からホンモノを見つけたい気持ち、わたしは持っている。
言っておくが、まだ爆発する前の『サラダ記念日』の歌を、NHKの、噺家鶴瓶が司会していた「YOU」とかいった番組で「若者言葉」として早くまだ爆じけていない時に取り上げ、紹介したのは、わたしであった。
歌集になって贈られてきたとき、これはいわゆる発売ゼロ号雑誌のようなもの、創刊号、第二号にこそ期待すると返辞を書いたのを覚えている。
2003 1・31 16
* 堺枯川の自伝を校正していると、彼は「嬉しい」「嬉しかった」をそれはもう連発に連発する人なので、はじめビックリしていたが、しまいに楽しくなってきた。彼は学校へ入って数学や理科もみな英語で教わっていた。それが「嬉しくて堪らなかった」と来る。洋食を食べても牛肉を食べても「嬉しい」のである。嬉しいという気持ちがいつまでももてるのはいいなと、感化されてしまった。
2003 2・1 17
* 鈴木三重吉作「千鳥」を電子文藝館の招待席に送り込んだ。ちょっと稀有な味わいの作品で、夏目漱石は一読して「傑作」といい「三重吉君万歳」と激励したばかりか、高浜虚子の「ホトトギス」に推挙し、さらに触発されて自分も名作「草枕」を書いた。三重吉は終始一貫して徹頭徹尾のつくりばなしだと強調しているが、微妙であり、彼の夫人は作中のヒロインと同じ「ふじ」さんであった。ただ夫人は京都の人と聞いている。作品の舞台は瀬戸内海の能美島。
そういうことよりも、此処に書かれている家や家族と語り手との偶然の関係が、不動の「身内」と化して玉成している、そこがわたしには懐かしい。丹波に疎開していた頃に世話になったわたしの長沢家のことなども思い出してしまう。三重吉は病気療養のために能美島に渡っていたことがある。
ともあれ純な物語の書きぶりで、こういう風には他のどんな作家も書けないと漱石が褒めたのは、若者への激励だけとは思われない。空想癖に富んでロマンチックな作者の資質の美しく発露した作品。矢崎嵯峨の舎の「初恋」や伊藤左千夫の「野菊の墓」に劣らない。
* 堺枯川の「堺利彦伝」の抄出分も、うまく纏まったと思う。百年前のいわゆる秀才の変貌と成熟とが、おおらかな筆で率直に書かれている。抄出した限りでは、此処から日本の社会主義者の一人の典型像へ転じてゆく「ゆくたて」が興味深く想像されるが、自伝は惜しくもいよいよその方面へ動いてゆく直前で、中断した。共産党事件で、堺がながく投獄されたからである。
短い抄出分に実に大勢の友人や先輩や時の人の氏名が出てくる。この人が周囲の人間に向けていた眼が常に具体的に働いていたことを示していて、それも個性である。
2003 2・2 17
* 「須磨」まで来た。須磨まで来ると、さしもの源氏読みも前途遼遠で棒折れするというが、その体験はない。「賢木」のあとの「花散る里」の巻がごく短いけれど、品のいい物静かな風情の巻で、一息に読んでしまえると、もう「須磨」になる。
須磨の地へいきなり着くのではない、しばらく、もの寂しく、都での光うつろうさまが描かれる。別れである、いろいろの。藤壺は、さきの巻ですでに髪をおろして仏門にあり、紫上はひとり都にとどまる。六条御息所は遠く伊勢にある。末摘花は忘れられている。
御息所が霊となり心乱れることは、このさきしばらくは無く、御代が変わって帰京後に、後に秋好中宮となる娘をのこし、やがてはかなくなる。生きて霊に、死んで霊に。現を超えてしまうことでかえって物語の中にリアリティーを主張している女性であり、これまでも、源氏物語で女というとよく取り上げられることでは、わたしの語ってきた桐壺や宇治中君などより人気が高かった。わたしは、本筋からこぼれ落ちている人とみて、少年の頃から、とくべつには親しまなかった。わたしは「紫のゆかり」をもとよりとして、明石とか玉鬘とか、しっかりした女性、ないし本筋に意味をもった女達に、多く印象を得てきた。更級日記の著者が憧れたほど、頼りない浮舟にも惹かれたりはしなかった。
2003 2・3 17
* スペースシャトルの空中分解は不慮の事故とは思われない。咄嗟に中止の勇断が出来なかった。
* こんなのに比べると、田島征彦・征三兄弟の「往復書簡」はピュアーで熱い。繪の持ち味も見れば見るほど力あるもので、類例がない。けっして多数派には成らないだろうが境涯の尊いものを感じ、読んでいて気持ちよく心を焙られる。この「往復書簡」なれ合いの生やさしいものではない。二人の血潮が煮えているから佳い。
* 法隆寺の再建非再建論争は長い間のものだが、これが若草伽藍跡の発掘で決着が付いた経緯を、「日本の歴史」で復習した。聖徳太子についても。さ、こうなると、あまり学者筋から重視されないままの梅原さんの聖徳太子論に、もういちど迫ってみるかなという気がしてくる。こう気が多くては道千里だが、なにも急ぐ道ではないのだし。
2003 2・3 17
*「須磨」の巻は、須磨へ発つまでが、うら寂しい。まだ幼い息子の夕霧のいる致仕の大臣のところへ源氏の行くときは、いつも寂しい極み。葵上はもういない。が、舅は心から婿を迎えているし、婿の義理の父母をうやまい愛している姿は、まことに美しい。娘であり妻であった葵上を欠いてしまってから、ひとしお彼らの相想う心映えが美しい。
さ、今夜はそういう別れの最高潮で、源氏は亡き父帝の山陵に詣でる。そして、いよいよ須磨へ。声に出して読みながら、ときどき声のつまることがある。
2003 2・6 17
* 志村坂上の凸版印刷で、昼食し、現場と打ち合わせをし、初稿ゲラを手渡して。
あれこれのあと、地下鉄三田線ですうっと日比谷まで乗った。大化改新のあと白雉年の改革進行から孝徳天皇・中大兄皇子の確執と、天皇の死。その辺を読んでいたから、あっという間に日比谷まで。「きく川」で、菊正と鰻。有馬皇子の陽狂と窮死のあたりを読みながら満腹。お酒もまわって、有楽町線できもちよく帰宅。
ときどきぐっと冷え込んだものの天気は晴れてここちよく、ほんとはもうすこし別様に街を楽しみたかったが、菊正の一合に、めずらしく酔いがまわった。
2003 2・6 17
* 高史明さんにメールをいただき、清沢満之の全集月報に書いた文章を送ってもらった筈なのに、機械中を探索しても見あたらない、どこにも。錯覚なのか。まさか。うっかり削除したのか。時折あることだが。いま、高さんが何を考えておられるかは知りたい。
2003 2・7 17
* 昨夜もバグワンと源氏のあと、日本史を読んでいた。大化改新のあと、功労あった左大臣の阿部が病没する。するとすぐ、中大兄皇子は蘇我日向の讒言を簡単に受け容れて、同じく右大臣蘇我山田石川麻呂を殺してしまう。石川麻呂に謀叛の形跡は何もなかったことがわかり、日向は流される罪に当たる。彼は石川麻呂の弟であった。この男の名はその後現れない。
さて孝徳天皇が難波京で孤独に憤死したあと、その子の有間皇子は甚だ危うい立場にいたが、蘇我赤兄に唆され、中大兄皇太子が執柄する斉明天皇の政権に謀叛を起こそうとする。赤兄は即座に牟呂の温泉にいた天皇・皇太子に訴え、有間を逮捕し、殺してしまう。この蘇我赤兄も石川麻呂(そして日向)の弟であるが、さきの日向とこの赤兄の名は、思料
文献に同時には現れない。日向の時に赤兄の存在は知れず、赤兄のときに日向は現れていない。直木さんの歴史記述では、石川麻呂、日向、赤兄は「三」兄弟としてある。わたしは、日向と赤兄とは名を変えた同一人で中大兄皇子の腹心であり、蘇我赤兄は皇太子が称制しのちに即位した天智天皇の近江王朝でも、大臣として重きを成している。しかも天智の薨去後には継嗣弘文天皇をほぼ裏切って天武天皇の攻勢のもとに死に至らせている。
そればかりか、この赤兄という「蘇我殿」は、じつは千葉県の久留里にまで逃げ延びて此処に朝廷を開いていた弘文天皇を、天武政権の命をうけて追いつめ討ち取ったという伝承が、久留里に遺っている。御陵と称するほかにも弘文天皇や蘇我殿遺跡は数多く、近代に入っても、滋賀と千葉とで御陵の本家争いが有ったほどである。
この顛末と推理から入って現代にも及んだ連載エッセイが、わたしの『蘇我殿幻想』(筑摩書房刊・そして湖の本エッセイ創刊第一冊)であった。雑誌「ミセス」に連載し、各地に取材した。ついてくれたカメラマンが島尾敏雄の子息、作家で写真家の島尾伸三氏であった。
日向と赤兄とは同一人であるという、かつて云われたことのない(筈の)推定を、わたしは、ほぼ確信している。生き方や人を陥れる手口が酷似している。
この推定を追いながら、わたしは、さらに平将門の乱や、更級日記に書かれた竹芝寺縁起にも推理・推測を繋いでいった。エッセイの体で、淡々と、少し寂しやかに昭和まで書いていった。
2003 2・7 17
* さ、階下におりて本を読んで、やすもう。昨夜は、歴史のあとへまだ田島双子兄弟の「往復書簡」を楽しんでいた。こんなに佳い兄弟、知らない。口喧嘩も真剣勝負だが、なにより、藝術に真剣、そして徹底した野党精神。征三氏の日ノ出廃棄物処理場での奮戦は立派だった。
2003 2・7 17
* 前夜読み上げた田島双子兄弟の「往復書簡」は愉快であった。ハッスルということばの一番いい爆発ぶりで、言葉もいいが、ユニークな、お行儀のいい人にはユニークすぎるかも知れない、二人のイラストや繪が、造形が、ふんだんに挿入されていて面白い。二人とも作品が紙枠から大きくはみ出てしまう作風で。それと高知弁。こんなに高知弁に惹かれるとは思わなかった。
もう一度云うがお行儀のいい読者は逃げ出すかも知れない。が、この人達のパッションは純で、世界的で、すこしも狂っていない。斯く生きるのが幸せで大切だと思わせる力に溢れた、書簡と作品の往来に、心から拍手。
2003 2・8 17
* 銘記したいと取り置いた冊子がある、友人奥田杏牛主宰の俳誌「安良多麻」新年号に、彼の師石田波郷のことばを、「賀状にこめ」た一文に書き写している。
「美の想化を止めろ、感覚を捨てろ、説明を捨てろ、素材を追ふな、や、かな、けりを用ひよ、句が非常に長い、こんな間伸びした力のない表現でどうする」と。「お前に余力などあるはずがない、一句に徹せよ、自分を磨け、自分をもっと見詰めよ」とも。
俳句の事だけではない。ことに自身の余力を無自覚にたのんで一期一句(一期一詩、一期一作)に徹しないで二の矢をかかえこむ姿勢を波郷は叱っている。多く垂れ流せばいいというものではない。
2003 2・9 17
* 率直に言うと、長谷川伸の後進を導く「小説・戯曲の作法心得」は低調で、たとえば石川淳の短編小説の覚悟を書いたモノや、その他の優れて藝術的な仕事をしてきた人達の作法や心得にくらべると、むろん頷けることの多いなりに、うわついていた。取材の仕方など、手練れの書き手の用意がみえて敬服もするが、文学の根底をなす文章表現の厳しさにでなく、また作家の動機の深さについてでなく、要するに、蓄えた話材の処理の仕方ばかりが大事そうに語られる。要するに、その作品は、作品の材料は、誰が書いてもかまわないのである。自分はこういう風に料理するという話である。
作家の甲乙丙丁が、甲は甲の、乙は乙のやむにやまれぬ内面をどう作品に迸らせているかの話題では少しもない。手練手管のたぐいになっている。せいぜい手法である。
* むかし、「群像」の鬼といわれた大久保房男編集長が、歴史小説は所詮だめだと喝破した。歴史小説はいい、時代小説はくだらないと、わたしもやはり思う。もっと昔に、近松秋江が谷崎潤一郎の書いた歴史物語を、こういう書き方なら誰にでも幾つでも書けると切り捨てて、谷崎を鼻白ませた。その時、谷崎の盲目物語にせよ武州公秘話にせよ聞書抄にせよ、まして少将滋幹の母にしても、その辺の安手な時代読物と一緒にしては困るよと、寧ろ秋江の言をわたしはそのままは受け容れなかったし、大久保さんのいわくにも、わたしなりの限定をもうけ、苦情すら言ったことがある。鴎外あり藤村あり鏡花もあり谷崎もいる。すべて作品の根底に卓越した動機と文体・文章表現の妙味がある。通俗読物には手あかにまみれた類型表現や字句がうじゃうじゃとぼうふらのように作品の水を濁している。気稟の清質がどだいチガウのである。
* 同じ長谷川伸の「大衆小説の誕生記」というエッセイを読むと、講談社の沿革が語られていて、大衆小説の淵源が、「講談や浪花節の筆記」であったこと、まさしく「ペン電子文藝館」がその近代文藝の流れの最も古いところに三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」を据えたのが正確であった事情を証言している。
時代読物は、最近評判のいい藤沢周平にいたるまで、要するに講釈や人情話の筆記の延長上にあり、それは現代読物の場合でも、素質として全く一緒なのである。大久保さんがダメといい、例えば前の「新潮」編集長の坂本忠雄氏が、繰り返し、優れた文章・文体による動機のつよい作品でなければと説きつづけているのも、それなのだ。
読み物は読み捨てのおもしろづくだから、程度低く読まれて、売れる。それだけのことである。「講談」社の名乗りのもとになった雑誌「講談倶楽部」は、「初め講談落語の速記を載せそれによつて売る雑誌なり」と、実地に関わっていた股旅物の手練れ長谷川伸がハッキリ書いている。いま中里介山の「愛染明王」を校正しているが、この人も関わっていたようだ。
介山の小説は、だが、ただの読物の域を抜けるか、抜けよう、としている。谷崎が「三人法師」や「二人の稚児」などを書いていた感じにちかいとも言えるし、この「愛染明王」に限って謂えば高山樗牛の評判作「袈裟と盛遠」の線上にあるとも見える。校正は中途だが、親密に読み進めている。
直木三十五「南国太平記」五味康祐「喪神」中山義秀「碑」円地文子「なまみこ物語」室生犀星「かげろうの日記遺文」田宮虎彦「落城」芥川龍之介「地獄変」泉鏡花「天守物語」真継伸彦「鮫」辻邦生「安土往還記」など、鳴り響くような時代物秀作はいくらもあり、すべて文学の命を輝かせている。近松秋江も大久保房男も言い過ぎている。が、やはりかなりのところを峻烈に言い得ていたのも確かである。
* これも「言い置い」ていい。意図して、かなり数多い、プロレタリアや社会主義者の抵抗文学や文章を「ペン電子文藝館」に取り上げてきた。彼らの作品や取材、或る意味であらけずりで粗雑・雑駁かもしれないが、股旅物や人情話などのノーテンキな講釈まがいと比べると、生きるか死ぬかの、のるかそるかの、瀬戸際の「生活と人間」を真剣に追及した作品が多く、他をして閑文字と読ませかねないほど、辛い訴求力をもっている、むろん、優れた作の場合は、と即座に断らねばいけないが、である。文学へ向かう姿勢は、純。
2003 2・9 17
* 中里介山の「愛染明王」は、この作者の持ち味であろう、一種の観念小説である。袈裟御前をはさんで、文覚こと・元の遠藤武者盛遠と、渡辺渡と、の有名なドラマに味なクセをつけている。どこか、中世の説話に見える三人法師などの感じでもあるが、谷崎の「無明と愛染」も思い出させるし、文体はまさに介山のもの。ま、話の筋はもともと知れていて、一種の議論を持ち込んでいる。一人で同時に二人を愛せるのは、一人で一人しか愛せないよりも愛が旺盛なのである、などと女の口での議論も飛び出す。おもしろかった。 2003 2・9 17
* 天智天皇という人を、国史に親しんでいちはやく意識した記憶がある。神武、推古、天武、聖武、桓武、後白河、後醍醐。今なら、崇神、応神、継体、また持統、嵯峨、醍醐、一条、白河、後鳥羽なども加わるが、ことに天智天皇には関心があった。母の国の近江に都したことも加わっているだろうが、好きと言うより、無視しがたい重みを感じていた。
小説「秘色」で近江京の崇福寺址に的をさだめ、斉明朝から壬辰の乱を、現代の視点から幻想的に書いたときも、作品世界に、黒い牛のように重きを成して隠れ住んだのは天智天皇であり、その掌の上で、天武も弘文も、また額田姫王も十市皇女も働いた。ことに十市皇女の表現に工夫した。
夜前は、天智の称制と即位、近江遷都、そして壬辰の乱の果てるまでを、またつぶさに「日本の歴史」でおさらえした。このあとへ、「蘇我殿幻想」がつながり、そして暫く間をおいて、恵美押勝の乱をやはり現代の愛の物語から絡めて書きひろげた、ま、代表作の「みごもりの湖」がつづく。
京都に都の成るまえの時代に、「三輪山」「秘色」「蘇我殿幻想」「みごもりの湖」と、けっこう上代を書いてきた自分に改めて気付く。推進力は、「天智」へのいわば懼れまた畏れであったのかも知れない。
いま一つ溯って常陸国風土記の世界を書いて、これも現代の恋から遙かに溯った幻想の神話的物語が、袋田の滝つまり「四度の瀧」である。また現代ロシアから京都へ、千年二千年をはせめぐる恋物語の「冬祭り」の取材は、もっと民族的に根が遠く深い。
さて歴史は、飛鳥浄御原京、そして藤原京、平城京へと転じ、律令時代、奈良七代に入ってゆく。光源氏の時代へ到達するのには、まだ分厚い文庫本を二三冊以上読まねばならぬ。
天智・天武・持統。凄いというに足る時代であった。天皇が自ら「政治」したといえる最も重量感有る三継投が、この、天智・天武・持統。しかし、その陰で、蘇我蝦夷・人鹿、石川麻呂、古人大江皇子、孝徳天皇、有間皇子、弘文天皇、大津皇子と、続々不慮に死んでいった。凄惨。
天武朝のはじめに、竹取物語に出てくる大納言大伴御行の名が見える。蘇我も物部も藤原も、大豪族の凋落の時機に、辛うじて大伴氏だけが細く生き延びている。太政大臣も左右大臣もいない天皇の絶対権力時代の、臣民最高位に大伴氏が生き延びていた。かぐやひめに命じられ、あの南海の龍の頚から珠を取り損ねて戻った、空威張り大納言のモデル、が御行である。
* 三好徹さんにもらった「三国志外伝」も読んでいるが、此処に書かないのは、無数に出てくる魅力的な人物の名を、機械の漢字でとうてい再現できないと分かっているからで。情けない。
2003 2・10 17
* はや「須磨」の浦を通り過ぎた。「明石」に入る。弥生上巳の海の異変は臨場感豊かに書かれている。
春の海終日のたりのたりかな
蕪村の此の句は、本により、「須磨」の句と詞書き明らかである。三月上巳は、いわゆるひねもす先祖波ののたりのたりと打つ日とされている。古典にくわしい蕪村の念頭に「須磨」巻の海辺の異変が頭になかったはずなく、いわば光源氏の運命のまた大きく動こうとする前兆であった。
ここでいう「上巳」とは三月の最初に来る「巳」の日の意味で、この日には先祖波に打たれて祓をする。禊をする。源氏はそれをしていて、竜王に見こまれた。「みそぎ(身削ぎ)」とはあの脱皮由来に他ならず、「巳」の日の意義が活かされている。「上」の召すのになぜ来ないかと、それとも見えぬモノの影に、光君は夢中威嚇されている、この「上」とは、都の主上ではない、海の底なる竜宮の龍王を謂うのである。この意味は深刻で、のちのちに盛大な「住吉詣」のあるのと繋がってくる。
光は、海神に愛され、その手に自ら身を投じなかったものの、その導きと加護とにより明石へ移り、また都へも戻って行けるのである。明石上がのちの明石中宮を出産できるのにも竜王への願いは関わりあり、根に、明石入道の海王にかけた深い不思議の大願があった、謂わず語らず、そのお礼参りが、住吉詣ということにもなる。
蕪村もそういう意味合いを感じたまま、先祖波の「のたりのたり」の底にひそむ神意を、一句にみせていたものと、わたしは読んで、楽しんできたのである。「のたりのたり」が効いている。
2003 2・11 17
* 架空の近江令、未然の飛鳥浄御原令、大宝令、養老律令。法令の解説は面白くもあり、退屈もする。人間くささがとたんに遠のくからだ。「日本の歴史」は第三巻の奈良時代に入った。記述する担当の学者により、読書の感じはずいぶん異なる。第一巻の神話から歴史へは、科学的な、手堅い見渡しと推論であった。第二巻になると、どこか人間味の歴史記述で、むかしの国史の感触に近い気がした。第三巻に来ると、史料と文献の綿密な検討や紹介になってくる。時代もあろうし担当する学者の学風もあるりだろう。
2003 2・12 17
* 光源氏の「明石」の巻は、明るい方へもう動いている。明石との対比で須磨をかえりみると、光がよく須磨で辛抱できたなと感じ入るほど。
なにといっても、明石の暮らしは、親類の家に疎開したようなもの。身分は段違いとはいえ根は一つの、明石一家と源氏である。源氏の母桐壺の亡父はもと大納言であったし、その兄弟に、大臣がいた。明石入道はその大臣の子であるから、光の母桐壺更衣とは紛れない従兄妹同士。つまり源氏がやがて妻の一人にする明石上とは、又従兄妹同士になる。かけはなれた二人ではなくて、そこに運命も働いていたが、さらには、藤原氏ならぬ非藤原氏ないし皇胤・宮筋の「天子」の位へかけた、深い深い意欲の連合があるのだった、此処に。
源氏物語は、源氏と藤原氏の争闘をも書いている。現実の平安時代は藤原氏が圧倒するが、源氏物語では光源氏の血筋が藤原氏を圧倒してゆく。そういうこともこの長編を面白くフクザツにしている。王朝のめめしい恋物語のように想うのは誤解である。これは政治的な物語でもある。根底にあるのは皇位と王権なのである。
* 「ゆったりと、自由に」「ゆったりと、自然に」とバグワンは言う。この「ゆったりと」が大きい。自由ガルのも自然ガルのも、まがいもので、それでは、とても、ゆったりとなんかしない。
* 三好徹さんの「三国志外伝」は、長大な三国志の、一人ないし数人の人物による要約で、むろん本編を通読していた方が分かりよい。本編がおよそ頭にあると、この要約のための短編シリーズが、文字通り要領を得て、人物の個性を浮き立たせているのが分かる。好きな男もいる。苦手な男もいる。曹操、孫権、劉備。魏・呉・蜀。何れとも言えない魅力の持ち主だが、三好さんが曹操贔屓なのは分かる。氏の『興亡三国志』五巻は曹操を芯に展開されていた。魏・呉・蜀の三人とも、人の使い方に「ちから」があった。「差」もあった。能力が有れば盗人でも使いこなす曹操に対して、皇叔劉備はそうはしなかった。関羽・張飛とは義兄弟であったし諸葛孔明とは水魚の仲であった。曹操の知の操作に対して、劉備は情の誠の人であった。
三国志の世界はおもしろく興味深いが、いかに血沸き肉躍ろうとも、好きではない。須磨や明石に流れている文化と情念の美しさの方にわたしは心を惹かれる。
2003 2・15 17
* 直木三十五が三十一の時に初めて創作の筆をとった『仇討十種』から一編「討入」を採って「ペン電子文藝館」のためにスキャンし、校正した。赤穂浪士のほんとうに「討入」だけを書いている。映画や講釈で馴染んでいるのとちょっと違う書き方で、ルポライターのような筆つきをあえてしている。読みながら、なんて忠臣蔵が好きなんだろうと思ってしまう。直木は、云うまでもない直木賞に名を冠している大衆小説の雄である。「ペン電子文藝館」には吉川英治の「べんがら炬燵」も入っている。こちらは討入後の細川藩お預けの浪士達が書かれている。読み比べてみるのも面白いだろう。
2003 2・18 17
* 「日本の歴史」は奈良時代に入って俄然律令の細目がいろいろ説明され、やや、難渋している。同時に元明元正の女帝の頃は、律令の理想が行政によく反映して、国司たちの意欲や熱気も気持ちよく伝わってくる、稀有の時代であったと分かる。われわれが風土記の名で知っているものも、いわば意欲に裏付けされた一種各国からの報告書だと知ってみると、よく頷ける。しかも出雲といい常陸といい豊後や肥前といい、丹波といい、地方を異にすると、書き方も変わっている。
驚かされるのは官吏官人のいわば実入りの格差の、上に行くほどべらぼうに大きいことだ。三位以上大臣級と、四位五位、またそれより下位、富士山と東山と盆景の山ほど、ちがう。それと官吏の法的に受ける処罰の軽いこと、余程でない限り大概、官職をうばわれるだけで、ほとんど実刑がない。こうしてみると、光源氏級のホンモノの貴族の得ていた特権と収入は、やはりあれほどの栄華と華奢を保証してウソではないのだなと驚かされる。
* その光源氏、明石で新しい妻のひとりと出逢い、妊娠させて、そして都に、朝廷にいよいよ復帰する。明石一家とのしばしの別れを経て、今夜にも光源氏が権大納言の位へ返り咲くところへ読み進む。「須磨」の哀れや凄みとうってかわり、明石は印象的にはあかるくロマンチックな気分のいい巻である。もうこれからは、まさしく旭日・昇竜の光輝く源氏絵巻が展開されてゆく。
2003 2・19 17
* 三好副会長から、氏への献辞のついた故山口瞳の著書が送られてきた。「卑怯者の弁」で、「反戦」作品としてどうかと、一昨日話があった。週刊誌にながくながく連載されていたエッセイ『男性自身』シリーズの一冊である。この筆者のものは一度も読んだ覚えがない、いい機会をもらった。
2003 2・19 17
* 中学で、しばらく英語を習った信ヶ原(当時は木平姓)綾先生の歌集『浮雲』を今朝頂戴した。以前の『鬱金』は隠れた名歌集であった、今度も拝読が楽しみ。前歌集ですでに夫君がいわゆる「惚け」進行中であったが、今回歌集の題字は、その夫君がなにかのおりに夫人の要望にこたえ書かれたという二文字。素養のうかがわれる書体で、家人の嘆きも諦念もがうかがわれ、胸うつ。前登志夫氏に師事されてもう久しい。
そして橋田二朗先生と、今は信ケ原先生と、お二人だけになって、とだえなくわたしの「湖の本」をたすけて下さっている。西池季昭先生は昨年亡くなられた。もう、わたしの学年を担任された五人の先生方のお一人も、ない。
2003 2・20 17
* 亡き山口瞳の『卑怯者の弁』から、同題の六、七編を昨深夜に読んだ。清水幾太郎の過ち多き平和論に強く反撥したエッセイである。「男性自身」の題でながくながく連載されていた。その単行本になった一冊の中の数編分である。
エッセイとしては珠玉の文藝とはいいがたい、かなり行文は雑駁だけれど、書かれていることと気持ちとはたいへんよく分かり、共感した。当然だと感じた。三好徹さんもそう思ったのだろう、彼にそうと語った人もいたのだろう。
清水幾太郎という名前は、それこそ中学の頃から喧伝されていた。戦後「平和論」の旗手のようであった。わたしは袖の一触れもしてこなかったが。
2003 2・20 17
* 三好徹作「三国志外伝」を読了。これで氏の「興亡三国志」五巻とあわせて六部の大作をぜんぶ読んだことになる。吉川英治の「三国志」は蜀の劉備を軸にしていた。三好さんは、さもあろう魏の曹操贔屓に思われる。終始曹操に光を当てていた。卑弥呼のころを伝えてくれた「魏志倭人伝」という史料が、まさにその曹操にひらかれ漢室を次いだ魏国正史の一部であることはいうまでもない。曹操、劉備、孫権らの鼎立は日本のまだ蒙昧としていた卑弥呼の頃よりもまだずっと遠い昔の角逐であった。この時節の魅力は、中国の歴史記述の魅力ともなっている、本紀に次いでの多彩な「列伝」のおもしろさにある。三好さんが本編五巻に重ねてさらに「外伝」を書いた、書きたかった、それが理由であろうと思う。
残念ながら、魅力あふれる勇将知将謀将たちのことを此処で書きたくても、多くの名前が、カクにしてもジュンイクにしてもホウトクにしても、その他大勢が機械上の難漢字で、再現できない。くやしいことである。
* ついでに山口瞳の「卑怯者の弁」もざっと読み通した。遺憾にも何より文の「藝」としては質が低い。わたしのこの「私語」もいったんは書きっ放し、ひどい変換ミスも残したままだが、暫くしてすべて最小限の推敲を経て別ファィルに「日付順」に保存している。まして公衆としての読者の眼に触れる単行本なら、今少し読みよい文章や組み立てを考えていいだろうにと、雑駁な印象と書かれてあることの宜しさとの齟齬を惜しむ気持ちがあった。
2003 2・21 17
* 昨夜はわざわざ枕元へ運んでおいた、瀧井孝作先生の自選短編集『山茶花』巻頭の「父」に魅了され、あとが寝にくいほどであった。大正九年か十年頃の作で、目の覚める純文学=私小説の力作で。まあ云わば悪文の見本かのようにコブコブしゴツゴツしているのだが、妥協のない切れ味の刀で鋭く深く彫り込んだ表現には、感嘆の余り時に鳥肌がたった。隅から隅まで「文学」の文体であり表現であり、どこからみても志賀直哉派の筆頭株であり、また俳句で鍛え抜いた芸術家である。花袋や泡鳴や独歩ら自然主義作家よりも作品の味わいは硬質で、素朴であり、むしろプロレタリア文学や私小説で苦労した作家達と通有の容赦ない魂を光らせている。瀧井先生の父上は飛弾の木匠であったが、先生の文の彫琢には、第一にその根の感化が感じられる。
この本をわたしは瀧井先生のお宅で、その場で太い万年筆で彫り込むように署名されたのを頂戴した。「秦恒平様」と書いてくださった。云うまでもない、先生は永井龍男先生と二人して、わたしの「廬山」を芥川賞にそれぞれ単独推薦して下さった方である。お二人と作風に隔たりのあるのを人は幾らか不思議に感じたようだが、何を評価して下さったか、わたしには、ハッキリ感じとるところが有る。
瀧井先生の作では、初期の長編「無限抱擁」が、近代十作のうちにかぞえられてよい名作であるとわたしは信じてきた。短編では中期の「結婚まで」が名作だと思ってきた。昨日読んだ「父」には、腹を撃ち抜かれたほど愕いた。
今夜も股一つ読みたい。生涯の十編を自選されているのである。ほんものは全くすばらしい、やはり、おもしろづくのヤワイ読み物と文学作品とは天と地ほど香気も品位もちがう。
そうはいえ、西洋の文学のものさしからすれば、エッセイと読まれることだろう。志賀直哉の短編の多くも、そういうことになるだろう。エッセイもまた文学の最たる一つであることを、志賀直哉や瀧井孝作や永井龍男は痛烈に示している。小説や物語だけが文学ではない。森鴎外の多くもまた同じであるだろう。
2003 2・22 17
* バグワン、「澪標」の巻、日本史、そしてまた瀧井先生の短編集から「弾力(はずみ)のある気持」「結婚まで」の二編を読んだ。『山茶花』は、それ以前の文学生涯を連鎖するように選ばれてある。「父」が若い彷徨期の記録とすると、「弾力のある気持」には、『無限抱擁』で書かれた最初の夫人の死と葬儀の前後が簡潔に書かれている。屡々妻の死に自身涙しながら、それから立ち直ってゆこうと決意した男っぽい気概が、「弾力」という意想外な一語をバネに書き起こされる。「結婚まで」では『無限抱擁』が現に雑誌に書き次がれていて、もう短編集も二冊あり作者は「作家」生活にある。
瀧井先生は、ある時期、ほとんど志賀直哉家と行を倶にし、奈良にも京都にも住まわれた。近くに止住しほとんど家族のように志賀家に出入りされていた。直哉の全集を読むとよく分かるが志賀家はお子達が多く、その子達の発病やまた夫人のお産や病臥もかなり多い。そのつどの波風や余波がたくさんな短編に書かれているが、練達の助産婦で看護・介護の出来る若い人が、いつもそんな志賀家に同居していた時期もあったのである。最初の夫人に死なれた瀧井先生は、時を経て、そういう派遣ナースの「笹島さん」に恋を感じ、向こうもそれを感じ取って…、という経緯が「結婚まで」に結晶する。わたしは直哉の『暗夜行路』で謙作と直子の結婚までを書いたところが好きで、小林秀雄がこの辺にも触れてこの作が立派な「恋愛小説」だと言い切った大胆な享受に喜んで賛同した読者であるが、瀧井先生の「結婚まで」は、直哉作にも優る率直な発露と表現力で、もし近代短編十作というならこれまた外せないと思うぐらいの名品に仕上がっている。
ああ欲しいなあと思わずに居れない、むろん「ペン電子文藝館」にである。素朴にして的確、豊潤にして清明。何度読んでも頭が下がる。
2003 2・23 17
* 瀧井孝作「暑い日」「欲呆け」二編を読んで寝たのが四時。前者は女に狂った叔父の家庭にかかわり、後者は八十になり金鉱山の権利に呆けた老父とのかかわりを、トツトツと書いてある。行者の行のようである。瀧井先生は、筑摩書房で出したわたしの書下ろし長編『罪はわが前に』を谷崎潤一郎賞に推されていたということを、谷崎松子夫人に聞いた記憶がある。そのとき、嬉しいよりも、何故かなとふと思い、その何故は持ち続けていたが、「父」「暑い日」「欲呆け」と読んでくると、うーん、そうだったのかと目先の晴れる気がした。わたしの作品もまた家族・家庭の混乱にふれて書いている。『罪はわが前に』には、瀧井先生のような評価もあれば、「清経入水」や「慈子」の作者がこういう傾向の作品は書くなと窘める編集者もいた。読者の間でも是非と好悪の別れたにちがいない転機の作であった。
2003 2・24 17
* 菊村到の芥川賞受賞作「硫黄島」は、意想外の角度から玉砕の島硫黄等で生き延び故国に帰った一兵士の、謎めく死を追及して感銘深い。「これが反戦の文学か」と反問されれば、わたしは、その優れた一つであると頷く。校正が苦にならないほど惹き入れられた。階下にメインの仕事をもちながら、なにかというとつい二階の機械の前に来て、校正の続きが読みたくなった。コレまでに芥川賞作品は第一回石川達三「蒼氓」をはじめ、遠藤周作「白い人」や木崎さと子さんの「青桐」を頂戴しているが、菊村さんの力作をまた加え得たことを喜ぶ。
2003 2・27 17
* 日本史は、長屋王が藤原氏の陰謀の前に潰えた辺を読んでいる。律令初政時の税制、兵制なども細部まで読んできた。
和同開珎が出来たとき、流通を策して何事からはじまったか。貨幣も初めて鋳造して、いきなり民間にまで流通するわけがない。通貨という感覚が元々無いのだから、物々交換より便利などと簡単に受け容れられる道理がない。政府の肝いりのなにかしら「お宝」かも知れないにしても、得体は知れない、有り難みもいっこう分からない。
政府は、貴族豪族物持ちたちに、物で、稲や布やあれこれで「貨幣を買わせた」のである。逆さまである。そうしておいて大量の貨幣をもって官位官職をいわば売りに出したのだ。貨幣の高で一位一階を加えてやった。官位を上げたい連中から先ず貨幣をとにかく有り難がらせたのである。「なるほど」という高等な、巧妙な、狡猾な手をつかった。
歴史は、いろいろ面白いことをしでかしてきた。知識として記憶したい気持はもう無いけれど、自然と膝を打ったり微笑んだりすることが、たくさん有る。
奈良時代は、もとからそう感じていたが、なかなか天平の「盛期」とばかりは簡明に把握しきれない、どすぐろい渦を幾重にも幾つも巻いていた、ややこしい時代であった。よくもあしくも藤原氏が時代を盛んにこね回した。不比等の四人の子息が南・北・式・京四家にわかれ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂らが王族との間で綱引きしていたが、まだしも彼らが存命の間は、長屋王が殺されるぐらいのことで済んだが、そのさきは国家的に紛糾を重ねてゆく。面白いと云うよりも、重苦しい時代に流れ込む。
仲麻呂・道鏡と、孝謙=称徳女帝との爛熟時代。それはそのまま、わたしの現代=歴史小説「みごもりの湖」のドラマへと変じてゆく。
2003 2・27 17
* 上野千鶴子さんの『学校化社会、さよなら』とかいった題の本は、シャープな批評と論点背後の探索の広さとで感心した。印象いまも新たである。
「学校化社会」というこの五字だけで、著者の云いたい大方がわかるほど、この一語の爆破力は大きかった。いま就職試験でどこの大学を出たかなどは問題にもしない、東大を出てきたなど云うのもむしろマイナス要件ですよ、などと関係の識者が明言していても、そう簡単に信じも、愕きもしない。
それよりも、至る所に「学校化社会」型の判断や評価基準が残存しまだまだ跋扈していることに、感心し慨嘆してしまう始末。学校時代の成績をあらゆる場面にもちこんで平気な社会。むろん、それをやるのはいわゆる優等生に多いのだが、裏返しにすると、学校生活の苦手だった者からも、反動で「学校化社会」の陰画が氾濫してくる。みーんな、そこでの価値観を無反省に世の中へ持ち込んでいる。つまり真の意味で「卒業」出来ないでいるのだ、人間たちの世間は。
わたしは大いばりできるほどの優等生ではなかったが、そこそこ大学を出るまでカッコウは付けていた。だが東大でも東工大でもなかった。同志社だった。事情こそあったものの、選んだ勤め先も、ちいさな出版社だった。文化人として知られていた一人の重役は、入社早々の新人や先輩達を前に、「どうせ一流のヤツは入ってこない会社だ」と口にした。そこがオカシイが、新入りのわたしは即座に抗議したのである、人間の「資質」に関わることを軽々しく云って欲しくない、編集長の発言には根拠がない、と。そして、一日も早くこの会社を「出て行ける」ようになりたいと、秘かに腹を決め、切望した。いい意味の人生予定表が胸の内に置かれたわけだ、当然予定を満たすには順序というものがある。順序を踏んでゆこうという気が出来た。努力し粘った。それは、幸せなことであった。
東大出のその上役の曰くが、「学校化社会」にどっぷりつかっての発言であったか、その辺の見極めは、わたしにはどうでもよかった。わたしは自分を信じていたけれど、「学校化社会」のものさしなんかで計られたなら、ひとたまりもない程度と分かっていた。だから東工大教授に指名されたときも、お国の方で「間違えよった」とわらいながら引き受けた。学生達の理数の能力を想うと、自分はその真っ逆さま人間であることに、素直に戦いたものだ。わたしは、算数や理科が大のきらいであったし、「学校化社会」で絶対の秀才として進むには、どうにもぐあいのわるい不足な能力であった。早くに断念し、断念のママに東工大を引き受けたのだから、ま、はじめからわたしは「お国に対し甚だ横着」であると同時に、学生には謙遜であった。
俺の知らんことばっかり知ってて「出来る」ヤツらとは、太刀打ちしてもはじまらん。
その気持が、結果としてあの大学でわたしが「幸福」に過ごせた下地であった。そのうえで、そんなわたしから何が手渡せるだろうと、思い、思い、工夫して楽しんだのである、学生達との日々を。
お国はやっぱり人選を「間違えた」のであろうが、わたしの方は、間違えなかった。学生達はたしかに勉強家だし優れていたが、それとはまた異なる優れたモノも持っているだろうと、辛抱よく付き合う気持を、わたしは持っていた。間違えなかったのは、其処であったと思う。
2003 2・28 17
* 瀧井先生の『山茶花』は、「積雪」「父祖の形見」「伐禿げ山」と読んできた。父上の葬儀、父と祖父と曾祖父の形見の品々を通しての家系の展望、一転して秋川の上流での精悍な山女魚釣り。小刀で鉛筆を削るとプーンと木の香がした思い出。まるで、そんなふうな、瀧井孝作の文学。
2003 2・28 17
* 痛いほど冷える。西の棟に建日子が朝早やに来て、今まだ寝入っている。正午をとうに過ぎている。
わたしも夜前は若い衆の「朝まで生テレビ」を、三時頃まで仕事しながら聴いていた。だが早くに凸版からの宅配に起こされ、責了の用意。そのあと二階で、直木賞の結城昌治作『軍旗はためく下に』のなかの一編「司令官逃避」を校正している。フィリピンの日本敗兵の話で、克明に書かれている。書き方に趣向がある。凄惨・悲惨な中に読ませる力があり、読み始めるとやめられない。つまり仕事が捗ってしまう感じ。残りはこれだけかなどと、続きの量を惜しげに確かめながら校正している。
* 昨日の会議の折、事務局に届いていた会員岡本勝人氏の長大な「詩」作品を預かってきた。十一章ある。ディスクなので、校正出来ているならすぐ入稿してもいいのだが、そんなに長い長い、プリント原稿で数十枚もの「一編」の詩というのが、読んでみたく。「召兵」かと思うところが「招兵」とあったり少し気になるが、とにかく読んでみたい。
2003 3・1 18
* 源氏物語の音読は、「蓬生」も「関屋」も通り過ぎた。明石から都に戻り、いわば未精算の過去に光源氏は結びをつけてゆく。冷泉天皇を即位させ藤壷は安堵した。御代があらたまり伊勢から娘斎宮とともに都還りした六条御息所を光は見舞い遺言を受けて、前斎宮の後見をする。朧月夜尚侍ともそれなりの結論が出ている。花散る里、末摘花、そして尼になった空蝉も光の庇護で此の後を生きて行くだろう。そして明石では後の后がねの大事な宝物のような娘が生まれている。明石母子を都に迎え取る日も近づこうとしている。
これからはいよいよ光の好敵手は、亡き妻葵上の兄であるかつての藤中将になってゆく。冷泉帝の後宮から、争いは始まる。皇家と藤家の葛藤、そのシンボルは「絵合」だ。
* 歴史は、大仏開眼と遣唐使を、事細かに教えられている。これが済むと、いよいよ「みごもりの湖」に書いた孝謙女帝と恵美押勝の、いや、史上に謎めいて活動した「東子」といわれた不思議な美少女の時節が来る。
2003 3・6 18
* 山口瞳の「卑怯者の弁」を校正し入稿した。おそろしく時宜にかなった掲載になる。ピタリだというのでなく、エッセイの書かれた時機が昭和五十五年、イラ・イラ戦争の頃であり、いましも平成十五年、二十余年を経て、世界情勢は、西に米英のイラク撃滅攻撃が一触即発、「反戦」の日増しに声高く、東では、北朝鮮の「核」脅威に揺れて「有事」の思いに日本は困惑もし怯えてもいる。まさかでは済まなくなり、対岸の火事では全くなくなっている。
もう若い人は知るまい、清水幾太郎という、はではでしい「平和論」者の声高に日本中をアジッテいた時機が永かった。
平和論ならけっこうではないか、と。ところが彼の国家平和論は、明瞭な再軍備・軍事依存の均衡平和論なのであった。一言で言えば、平和とは戦争していない状態、その状態は各国軍事力の均衡・緊張で辛うじて保たれている状態の意味であり、国家を愛するなら、平和のために力で備えねば成らず、国民はそれに意欲的に挺身すべきだというのである。
この清水の論に反対する声は、敗戦から年数を経ないうちは、なおさら、いとも燃えやすく沸き立った。山口瞳の「反戦」の、論も、情も、じつによく分かる。情味に優って訴えてくる。心ある者は、みな、こういう山口の論調で反戦を訴え続けてきて、実はいましも少しも変わらないのである。
では清水は完敗かというと、悩ましいことに、彼は平和を「有事」の緊張・均衡状態ととらえて、「反戦」であるよりも「有事の平和」を論策していたと言える。少なくも清水が現在も存命であったなら、見たことかと大声で政府与党を煽っていたかも知れない。
そんな必要もなく、先日の朝まで生テレビに登場していた、まさに清水が山口たち戦前・戦中派を切って棄てて大いに期待した、戦後派のうるさ型論者たちは、こぞって清水の期待にまさに応えて喋っていた。
「反戦」の真情なら、断然山口瞳に票が寄るだろう。「有事」の議論となると、むしろあの頃よりも現状にあって清水は公然と胸を張るのではないか。
山口瞳は大岡昇平の『俘虜記』にならって、自分はまたもし戦争ともなるなら、「撃つ側でなく断然撃たれる側に立つ」と明言している。さて、撃たれるとは鉄砲に撃たれるだけではない、占領され支配され、もっと危うい目もみるということである。
具体的にいま北朝鮮の核攻撃と侵攻と占領支配を前提にし、日本人の何人が「撃たれる側に立つ」「敵を撃たない」という「平和・反戦」に手を挙げるか。四半世紀前と違い、そういう事態が、あながち仮定・架空の空想ではなく、眼前に迫っている。
山口と清水の論は、あの時と少しも変わりなく「反戦」と「有事」との衝突を分母にして、分子に「平和」の二字を据えている。少し乱暴に要約したけれど、まず、間違いはあるまい。「有事に堪えて反戦」可能な「平和」論が、新たに強力にどう起きうるか。
校正していて、何度も何度も立ち止まり、唸った。「闇」の向こうへ問いかけたい。あなたは、自分の心中をどう読みますかと。
2003 3・7 18
* 国史で、正倉院の珍宝や建築について学んだ。大仏開眼、遣唐使、正倉院。天平の華ではある。正倉院から逸失したもののなかで、王羲之・王献之父子の真跡が惜しまれる。それにしても厖大な量の史料であり珍宝であり文物である。聖武天皇の崩御を悼んで光明皇后や孝謙天皇が数次にわたり施入された聖武天皇居合いの遺品というから驚く。渡来の珍しいモノに混じり、てっきり渡来と見えて精巧に日本で真似て出来た逸品の多いことにも驚く。
日唐往来でいえば鑑真和上の渡来は、特筆の文化的な大事件であったが、その実現に、硬骨の気概をみせて秘かに自船に和上達をかくまいのせた大伴古麻呂は、また唐朝廷での外国使節席次をめぐって、新羅の下位にたつを嫌って面をおかして抗議し入れ替わったという。新羅は日本への朝貢国であったが、日本か新羅の下位にあったことは事実無かったからである。
渤海という満州辺に位置した国があり、日本は渤海との国交にかなり意を用いて使節の往来もやや頻繁であった。これは、新羅をはさんで中国流の遠交近攻の外交をしていたとも読めるらしい。同じ意味から日本は、新羅を跳び越えて高句麗つまり今の北朝鮮との間に親交をはかった時期もあったのである。新羅はとかく唐とよくくっついたし、唐の力をかりて新羅は百済と日本に勝ち、半島に覇を唱え得た。
じりじりと読み進んでいる、欠かさずに。
* だがわたしを本当につかんではなさない真の魅力は、バグワン・シュリ・ラジニーシである。
2003 3・8 18
* 睡眠障害で新幹線の運転手が寝入ったのにはビックリしたが、わたしも一頃睡眠中に息を止めてしまうと、妻を困らせたことがあった。今はそういうことは無いらしいが。家にいて、仕事なかばや食事のあとに睡魔に襲われることが増えている。十分睡眠していない反動に違いなく、昨夜も小林保治氏より贈られてきた平安期の説話ぬきがきのような、それもエッチな話題ばかりえらんだ「仰天」ものの本を、かるく呆れながら読んでいて、夜が更けた。
著者に、随分昔に、説話からの「本」ならお書きになれるでしょうと勧めたことがある。その実現にしても、温厚な著者が売らんかなの編集者にうまく乗せられた気味があり、著者のために心から惜しみたい。
碩学の研究余滴のような本は、ほんの一例だが、原田憲雄にも本間久雄にも春名好重にも目崎徳衛にも今井源衛にも角田文衛にも高田衛にも中西進にも、ある。小松茂美にも萩谷朴にも、ある。もっともっと、ある。わたしはそれらの心からの愛読者である。
* 同じ昨日に、信州の加島祥造氏から漢詩とその翻訳詩と著者の文人画との、渾然一体の一冊を頂戴した。著者は英文学者であるが、老子の未読者としても知られ、さきの小林保治氏とおなじ早稲田の先生であったが、今は信州伊那谷に独居しながら時折山を下りてきていろんな世俗にも関わっておられる。この本は、なかみこそまるで異なるが、さきの田島征三・征彦兄弟の絵入り往復書簡と対峙しうる、風興美しい一冊になっている。たのしみに読もうとこれも枕元にある。
* 川本三郎『郊外の文学誌』は、いま本当に脂ののった著者のしごとで、先にも贈られた『林芙美子の昭和』につぐ気持ちの佳い本である。この人は評論家というより文章の佳い文学者である。
栗田勇氏からは『生きる知恵を学ぶ』と題した、一遍、最澄、世阿弥、白隠、良寛、利休、芭蕉といった人達を論じた本が贈られてきている。ちょっと題がおもく、この老境にいて少しシンドイが、世阿弥、利休、芭蕉という中世観にかかわる三人のことは読んでおこうと思う。
いま宗教者には気が向かない。ブッシュとフセインの対立がいわば邪教戦争のようなものとはハッキリしている。悪しき「抱き柱」に抱きついた見苦しい姿を日々に見せつけられているこの頃、宗派にも宗団にも宗祖にも興味はトンと湧かない。
ま、禅か。
*「鱧と水仙」という、夏と冬にでる歌人達の同人誌を久しく貰っているが、今回の号は歌人と俳人とが一組ずつ対向して、一首の著名歌をめぐり議論している。「歌合」の変形で、ディベートである。行司役を坪内稔典氏が引き受けている。これは面白そう。
2003 3・9 18
* 「日本の歴史」で読んだ正倉院は、なにもかも興味深かった。計り知れぬ文化史の宝庫、よくぞ大過なく今日に生き延びてくれた。天皇や皇后の持ち物だけではない、下層の官僚や民衆レベルのモノまでが莫大に揃っている。注目されるのは、たとえば消耗品であり現に使用されていた履き物のような品物にも、他の時代に比べ、途方もなく細かに美しい手がかかっていて、手を抜いていない、ことだ。誰が造ったかとなれば、内蔵寮などに隷属していた人たちであろうが、現場を拘束していた政治手腕の「凄み」も想像しないと割り切れないほど不思議である。
そして藤原仲麻呂=恵美押勝の恣な台頭・専制そして無残な破滅。ことに彼が勝野の濱から幾程もない湖水のなかで石村石楯(イワレノイワタテ)に斬られて死ぬ哀れは、ここをのがれる一人の美少女とともに、長編「みごもりの湖」の一つのハイライトであった。みぶるいがするほど、なつかしい。京都の博物館でこの男の供養した経と出逢ったのが強烈な創作の動機になった。天与とはアレであった。
* そして、源氏物語はやがて、明石の祖母尼、母、姫の三世代が、祖父入道との生き別れを覚悟して、ようやく、都近く、松風清き嵐山のあたりに移ってくる。
2003 3・11 18
* 日本の歴史が第四巻「平安京」に入った。筆者は北山茂夫。一冊平均が小さい活字での四五○頁ほどある。二十数巻、先は長いが、きっと読み通すだろう。読むのは苦にならない、視力さえ助けてくれるならば。啓蒙書ではあるが、記述は、研究成果をはばひろく汲み取りながら準専門書に近いほど本腰を入れて書かれている。一巻ずつを、名の通った良い学者が自分で書き下ろしてくれているのが宜敷く、各巻競演の体で興深く、力が入る。学風が人柄に溶け合い、記述は個性的である。啓蒙の一般書であるのを利して、部分的に筆者も興にのるべきは乗ってくれている。楽しく、読みやすくなる。
平安京への第一歩から不安な怨念の渦が巻き始める。わたしは、長い間、井上内親王つまり光仁天皇の妻であった皇后の、また皇太子の、異様な最期に関心を抱いてきた。それが作品として実現しないで、別の「みごもりの湖」に成った。根の遠い深いことを、わたしの読者は分かってくださるだろう。
不思議なモノというか、書きたいメインのものを「攻め」ているうち、それを逸れて副産物がモノになる。そういう創作の不思議を、何度か体験した。「清経入水」も「風の奏で」も「初恋」も、じつは承久の変を書こうとしていたすべて本命・本願を逸れての「副産物」ばかりであった。文字のママの副産物とは言うまいが、太い根から新しい根を別に張っていった。創作の面白さ、である。
だからこそ、わたしは、注文されて「これ」を書けと言われても、単純には従わなかった。まるで別の、しかし必然の緊張から新作が形をなして行くこともあるのを、ビビビと感じるからだ。書きたいモノを書きたいように書きたい、路線を決められるのはイヤだというのが、私の本音で、これでは出版主導の作家にはなれないし、ならない、ということである。損な性格であるが、トクもしている。むりに書かされた作品がわたしには無いのである。
2003 3・13 18
* わたしの国史は、いま最澄と空海に到っている。この偉大な二人が、仏教者として開発した創造性や新展開ではむしろ貧弱であったこと、しかし、その理解と展開、その事業的な大発展力という点では卓抜であったこと。北山茂夫氏のこの指摘は、かねてのわたしの感想と、しっかり重なる。仏教文化を背負った平安初期の「政客」ですらあったように感じる。桓武天皇の政治には、坂上田村麻呂と、この最澄空海の登場がどんなに大きかったかを思う。
* そして明石で生まれた姫君が、紫上のてもとにひきとられたところを、夜前というより今暁に、こころよく音読した。巻は「薄雲」のはじめ。そして、やがて藤壺尼中宮の死が光を悲嘆に誘う。源氏物語の悲喜こもごもを運んで行く立体的な叙述の妙は素晴らしいというのほか無い。
2003 3・20 18
* 光仁・桓武・平城の三代、嵯峨・淳和・仁明の三代。一続きでありながら、前者は政治的に天皇親政=平安王政を引き締めて力があったし、後者はその基盤に文化の花をもたらし、やがての平安王朝へと道筋をのべた。しかもこの六代の特徴はまだ和風ではない、明白な唐風。和歌でなく漢詩。連綿のひらがなへはまだ遠く、三筆の真名=漢字文化であった。万葉集以降、古今以下の八代集和歌には親しんでも、この時代嵯峨天皇の好尚に応じて花咲いた文華秀麗集などの勅撰漢詩集のことは忘れがちである。著しい唐風の模倣とはいえ、もう血肉と化し、美しい落ち着いた表現も多々見られて、今読み直してもとても懐かしい。嵯峨天皇はもとより、小野岑守、菅原清公、また有智子内親王など。その周辺に大きな蔭をなして存在感のあった、空海。すべて古今和歌集以前の盛事であった。経国の大業であった。
「日本の歴史」を面白く、身を入れて読み進んでいる。思えば秦の祖父か父のか、蔵書の中にあった質素なつくりの「日本国史」を、綴じ糸がバラバラになるまでわたしは愛読し耽読した。国民学校のまだ丹波への疎開以前だ、懐かしい。いままた、日本史に惹き込まれている。
2003 3・21 18
* 朝早く起きて、今日の分のバグワンと源氏物語を、読んだ。光源氏と冷泉天皇とが実の父子であることが、藤壺女院の死にあいついで、ひそかに帝に明かされる。告げるのは夜居の僧都。このことを知っているのは他には王命婦だけ。「薄雲」の巻は、小説としての結構を巧みに備え、物語世界の大切な一つの結節を成している。そして面白い。この物語がいかに卓抜なわざと思いに支えられているか、いつまでたっても新鮮な輝きをむしろ増し続けるのは、叙述にゆるみといやしさが無いからである。
手垢の付いたきまり文句は、からだ言葉やこころ言葉のようで、頼りすぎると文章が其処から腐蝕し始める。それはお相撲で謂う「引く」「引いてしまう」「引いて勝とうとする」悪習に似ている。通俗読み物はこの悪習に無反省であることで、程度の低さに媚びてしまう。引いて勝っても相撲は賞賛されないではないか。
* 今朝のバグワンも、目の覚めるほど胸にしみることを語っていた。真実はメタファー(隠喩)でしか語れない。「のような」「かのように」と。其処で誤解しては成らない。バラのようなと語られていても薔薇そのものではない。隠喩とは「月をさす指」なのだと。指は月ではない。月は指ではない。宗教は詩にちかく、詩は宗教のように歌い出される、メタファーとして。世上のたいていの詩はそうでなく、ただ説明しているかただ誤魔化している。それは「引いて」勝ち逃げしたがる相撲のようだ。
2003 3・25 18
もう東京へ帰る伊吹さんと別れ、三四十分、喫茶室でたっぷりコーヒーを飲みながら「平安京」のなかの一章を読んだ。律令制が崩れをはやめ、さながら過酷な徴税吏と化した国司たち、それに対向して郡司や土豪達は、都の権門勢家に土地を寄進し臣従し隷属すらして税をのがれようとし、院宮家をはじめ権門勢家はここぞと挙って不輸(無税)の荘園を増やして行く。そういう難儀な崩壊現象のなかで、わずかな良二千石と讃えられた良吏も皆無ではない。典型的な一人の藤原保則、また菅原道真を、参議に抜擢して宇多天皇は関白基経死後の天皇親政に立つ。この天皇は藤原氏を外戚には持たずに一旦は臣下の列にいて登臨した天皇であった。だが、政局の前途は険しい。この天皇、根は好色の遊び人であった。
2003 3・26 18
* 電子メディア委員会、今日で最後とした。五時の会議に三時半に家を出て、七時まで。少し疲労する。昨日帰宅したら、アーシュラ・ル・グゥインの『ゲド戦記』新たな第五巻が届いていたのを鞄に入れていた。
最愛の本の一つで、わたしに西欧のこの手の本の扉をひらいてくれた。この本の第一巻を手にした頃、建日子がまだ小学生ではなかったか。彼は生まれて初めてか二番目ぐらいに、原稿と原稿料体験で「ゲド戦記」の感想を書いている。掲載されたのは「思想の科学」であった。
ゲドに久しぶりに早く逢いたくて、大判の本を持って出た。会議の後、ひとり、和食の店に入り、ゆっくり読み始めて、堂々とした押し出しの発端に、わくわくしている。「アースシー」の世界がなにやら不気味に、底というか、芯というか、内奥から脅かされている。もう魔力を持たない大賢人ゲドが、どのように働くのだろう。
今夜の店には美しい人もおらず、料理も少し量が味に勝っていて、胃にもたれたものの、店が静かで、本を読むのに明るく、むだに構われないのが有り難かった。
あすは、わたしが聖路加の番で、昼過ぎの診察。もし大過がなければ、花とも思うものの、兜町界隈の今日は、僅か一分咲き程度。風ばかりしたたかに吹いた。暖かかった。
2003 3・27 18
* 聖路加は、体重をつとめて減らして下さい、血圧の高まり気味は様子をみましょう、他は問題なしと、簡単に解放して貰った。
明石町の桜並木は、木により一分ともいえず、三分ぐらい咲いたのもあり。昨日ほど風もなく、けれど花粉は徐々に攻勢を加えてきた。
有楽町の「きく川」で遅いというより、満を持した昼食、ゆっくり。例の如く鰻とキャベツと菊正。そして昨夜から『ゲド戦記』第五巻に夢中。これがあれば外来で待たされようが電車が長かろうが問題とせず。不思議のフィロソフィカル(メタフィジックではなく)世界に、すぐさま没頭出来る。嬉しい嬉しい読書の可能な作品。本の残り量の減り行くのをいつでも惜しそうに見る。
2003 3・28 18
* で、お寺の境内を退散。タクシーで東大赤門まで戻り、もとの会社の前を歩いて本郷三丁目で地下鉄に乗ると、すぐ「ゲド」の物語に入り込み、後楽園を通過したあたりではもう「此の世」のことは忘却していた。なんという強力な文学世界であることか、ル・グゥインの作品は。とりわけて『ゲド戦記』はわたしはノーベル賞に値すると思っている。それほど魅力が深く、分厚い。そして清明で静謐である。
2003 3・28 18
* 『ゲド戦記』第五巻をまた読み始めたが、やはり再読は必要なことだし、清水をのどに引き込むようにすてきに心地よくよく分かって読み取れる。
むかしむかし、本を買ってなどもらえず人に借りてしか読書出来なかったおかげで、一度読み終えると、直ちにくるりと最初に戻ってもう一度読み返した習慣、これで本の内容が身内に刻まれたのである。「読書」と謂うに値するのは、少なくも「再読」以降というわたしの持論は動かない。二度目を読むのが嬉しくて堪らないような本にこそ出逢いたいし、そう読まれるものを書きたいのだ。
2003 3・31 18
* 国史は、いましも平新皇将門の、あっというまの壊滅を読み終えた。東の将門、西の純友。
京の都を震撼した政治的な危機現象であったけれど、ひとり将門純友の「個性」に由来した反乱では決して無かった。実に久しく積み上がった律令制度の危殆のなかで、暴虐暴戻を事とし、公と私の財を奪って豪富を成していた「国司」層の権勢に対する、在地の郡司・土豪・殷富百姓たちの烈しい抵抗。その顕著な衝突と爆発から、後者の側に立って将門は動き、純友にも同様の動機が働いていた。彼等は、現在の国司ではないが国司の土着した後裔であるというところに、複雑な綱引きが働いている。
反乱自体は抑え込まれたが、それは都からの征討将軍によってでなく、同類の藤原秀郷や平貞盛らによってであった。また小野好古らによってであった。これが結局は伴類や郎党を結集した「武門」の棟梁の生まれ出る契機とはなった。
幸か不幸か将門には、新皇を名乗る「権威」の思いはありながら、政治の力量は皆無に等しかった。都の公家達にも政治の意欲はなかったけれど、天皇制の権威は生きていて、たとえば官位を「懸賞」に同じ武門同士に相闘わせることで、危機を乗り切る狡さもや抜け目なさは強かに持っていた。時の摂政は藤原忠平、これは兄時平とはちがい何もしないのを政治と心得た「寛厚」の人、あの「小倉山峰の紅葉葉こころあらば今ひとたびの行幸待たなむ」と歌った貞信公である。天皇をあやつり公家をあやつり、怨霊まであやつって兄時平一族を死なせ続け、政権をわが一族一統に集中した。祖父で初の人臣摂政、藤原良房にじつに似ている。悪辣を秘めた寛厚の大臣。
平将門はこの忠平を奉侍していた根は一田舎武士に過ぎなかったのだ、結果として。
だが北関東には将門を祀る祠が数多い。彼が反乱の底意と、支持した民衆の深い願望とには、通底する「公家政治への叛意」が生き続けていた。反体制のその人気が「明神」将門に凝っており、「天神」道真の幽霊も、じつは将門の乱に一指を添えて蠢いたのであった。
2003 3・31 18
* 夜前、梅原猛氏に贈られた「京都発見」を読み始めた。豪奢の感にたえない前書きでのプランで、その一つ一つの目論見にわたしはわたしなりのイメージが有る。梅原さんもすばらしいが、それほどの探索心を惹き起こしてなお余りある「京都」の底知れぬ文化的埋蔵量に、いまさらに感嘆する。
法然の「一枚起請文」にかかわる問題点を、「謎」として整理した一文を真っ先に読んだ。へんな過信から離れてその成り立った日付などを読み取れば、当然の疑点が当然取り上げられている。もう朦朧としていた遷化直前の法然により書かれたか、もっともっと早い時期に書かれたか、問題にされ始めた時期から推して後生の偽作か。
そういう事も事として、しかし「一枚起請文」は法然の念仏の精髄を絞った金無垢の一滴であることは間違いないと、わたしは信じている。それを法然が書いたり言ったりしていなくても構わない、まぎれもない法然の到達であり、日本の浄土教の簡潔な頂点である。わたしはこれ在るが故に法然を慕い感謝する。これ在れば長大な「選択念仏集」の難解をも要しない、いやそれが更に宜敷要約されてあると信じている。この「一枚起請文」の前には、知恩院をはじめとする大法城はなにやら空しくも思われる。お寺さんのしきりに薦めてくれる旧態依然の宗団的儀式や事業には少しも心動かない。ほとんどムダごとのように思うこともある。
2003 4・1 19
* 生死をもって人と人とがあの世とこの世とに別れる、それを「自然(じねん)のこと」と日本人は考えてきた。日本人は、とも限るまい。その永久の別れの「別れ方」を知らない人達が存在するのではないか、と、「ゲド戦記」のなかで、ある魔法使いの長(おさ)がつぶやき、大賢人のゲドもそれを認めている、そういう人達がいるかも知れぬ、生死の境よりも、愛し惹き合う力の方の強い同士が事実いるのだ、と。
ハンノキという妻に死なれた夫と、ユリというあの世に去った妻とが、生死の境を遮る石垣を隔てて、夢で、ありうべくもない、信じがたい、許されたタメシのない「唇でのキス」を交わしたところから、ある重大な「問題」が、この世界に起きているらしいと聡き者達の胸には悟られる。『ゲド戦記』第五巻の大きな、途方もなく大きな主題が露出してくる。
この作品は児童書と分類されているが、七十の坂をのぼっているわたしのような大人でも、渾身の思いで踏み込まねばならない叡智の書、ほとんど宗教的な述作である。
2003 4・1 19
* 梅原猛氏の『京都発見』は、ほかでもない京都であり、この巻はほかでもない法然や知恩院のことであれば、わたしにとり親しめて興深くこそあれ、読み煩うような何ものも無い。残念なことに、だが、記述は概念的でひたすら解説的、佳いモノを読んでいる嬉しさ、ファシネーションの喜びは得られない。深い叡智の探索がなく、かき集められた知識と手早な推理が畳み込まれて行くばかり。雑駁でザラついた、事務的な文章だが、書き慣れた達意の説明文としては要領宜敷く、つぎからつぎへと事実や見聞が教科書のように並んで行く。梅原さんの肩書きである「哲学」ではついぞなく、やはり「評論風の随感随想」に過ぎないから、一種高等な「旅」の案内本にすら近い。胸の芯に届いて不思議の感興を弾き鳴らしてくれる文藝の魔力は無い。この哲学者の特色であり限界であろうか。
* ル・グゥインの創作には、絹を打って輝かせたような静かな叡智と哲学が感じられ、清水真砂子の翻訳で言うことだから割り引いてくれてよいが、表現の美しさと清さとには、えもいわれぬ「読む」嬉しさが湛えられている。哲学にもし価値があるならば、いや哲学にはわたしは左様の価値を認めていないから、「詩」にはと言おう、真の詩=文学には、まことこの作品のように「メタファー=隠喩」による真理への誘いが在って、だから魅力的なのだ。だから文藝なのだ。百千万の知識も、一編の真の詩の誘引には克てないのである、感動において。
* バグワンを、わたしは、繰り返し繰り返し何冊も読んできた。多くを求めず、同じ数冊の本を繰り返し音読し続けてきた。死ぬまでやめないであろう。もし中でも一冊をと言われれば、どれを座右から放さないだろう。いつも「今」読んでいる一冊が、最も真新しくて懐かしく思われる。
いまは、バグワンの原点かなあと感じる『存在の詩』を、半ばまで読んでいる。五度か六度めになるだろう。屡々、胸の鼓動のおさえがたい感銘を受ける。だが、概念的な摂取にしないために、言葉としてはなるべく忘れ去り、胸の鼓動だけを嬉しく覚えている。「ブッダフッド」と「禅」とに最も「詩」的に深くふれながら、バグワンは語りかけてくれる。
* いま、『ゲド戦記』の五巻で、ゲドは故郷のゴント島に帰り住んでいる。「大賢人」として、国の王レバンネンからもローク島の偉大な魔法使い達からも絶大の敬愛を得ているが、真の名を「ゲド」といい通称はただのこのハイタカは、今では龍に乗って空を馳せたり天智根源の言葉の語れるような偉大な魔法使いでも何でもない。そんな偉大な魔法の力はことごとく喪失し、一人のただの老人になっている。今なおその気になればアースシーの世界で最高の栄誉の得られる身でありながら、世界のはずれのゴント島の山の上でその日暮らしをし、「栄誉なんか」と真実顧みない。老妻テナーを愛し、満ち足りて、平和に貧しく過ごしている。世界を脅かす根の兆候に対し、さりげない示唆を王らに与え道を示し得ても、ハブナーの宮廷からどう丁重に迎えがあろうとも、ゴントの島山から出て行く気は全くない。
ゲドの到りついている理想的な在りようと、バグワンの詩的な言葉の指し示してやまないブッダフッドとは、みごと一つに重なって感じられる。
人間の「理想」が、権勢豊富なブッシュやフセインや、また現世の寵辱・貧富に翻弄され日々にアクセクと「活躍」している者達とは、全く別に「在る」ということを、そっと、彼等は真の叡智で指し示している。
2003 4・2 19
* 源氏物語は「朝顔」まで音読を終えた。全六冊の二冊を読み終えたのである。光源氏の物語の半分がもう過ぎた。雲隠れのあとと宇治十帖とで二冊ある。先を急ぐわけでなく、一夜で多くて数頁。
だが、こんなにも読みやすいかと驚くほど、声に出して読んでいることの嬉しさ面白さ、満喫。ファシネーションということをわたしはことに大切に思うが、それが源氏物語には溢れていて、音読はそれを何倍にも増して感じさせてくれる。和歌のよろしさ。声に出して読めばこそそれが分かる。時として歌を詠むと声が潤んだり詰まったりする。感情移入しやすくなる。
そして日本の歴史は村上天皇の天暦の治。源氏物語は、先帝が宇多天皇に、桐壺帝が醍醐天皇の延喜に、そして朱雀帝は朱雀天皇に、実は光源氏の子の冷泉帝がこの村上天皇の治世に相当するかのように書かれている。そういう準拠になっている。
いまわたしの読み進んできた「薄雲」「朝顔」の辺は、此の冷泉帝の治世に当たっている。源氏物語世界にしみじみと遊びつつも、わたしの頭の中には、将門や純友のことも、上辺は寛厚蔭では陰険な辣腕の貞信公忠平や、その子の小野宮実頼や九条師輔らの政治=非政治が蠢いている。
2003 4・5 19
* 群馬大学の先生から、学生による漱石「こころ」論一編が送られてきた。この人は水村美苗の『続明暗』にならい、自身「こころ・その後」を書いてみたい気があるのだろうか。
先生は妻にだけは自分の遺書を見せてくれるなと言って死んだ、だから遺書は奥さんの目に触れていないと此の筆者は書いている。「妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたい」からだと先生は遺書の中身を妻にだけ秘密にしておくように頼んでいる。
「記憶の純白」が、漠然と「過去」でなく、先生とKとお嬢さん=奥さんたちの「過去」に限定されるのは、小説の力学や美学からして当然で、恣に過去一般に拡げはできない。が、そうなると、そもそも、先生の妻の頭は「純白な過去」だといえるかどうかを問うべきだろう。お嬢さんの母親、母子家庭・軍人遺族の母親である「奥さん」は、早くから「先生」の人柄と財産と係累を捨てた天涯孤独と帝大生の身分に着目し、先生を優遇し身内扱いしている。娘一人の母親がそういう姿勢の時に、思春期に進んでいるお嬢さんと母親とが、一つ屋根の下にいる婿がねの青年の噂一つしないなどという禁欲的な母娘が、世間にいるものではない。ことこの件に関して女達は最初から「純白」ではありえない心理に自身を追いやり容認している。
だからこそ、先生が、Kを自分の賄いで同じ家に連れ込んだときに、奥さんは(お嬢さんも後に「奥さん」と呼ばれる意味で、一心同体が作意されていると読んでよい。)躍起になって制止し「よくないことが起きる」と予言している。すでに事件の核心は女達により予期されていて、先生よりもよほど賢いのである。
そしてKは、案の定自殺という変死問題を起こし、この時も奥さんはテキパキと処理した。なぜ事件は起きたか。奥さんにとって、つまりお嬢さんにとっても、問題はかなり明白で、その限りにおいて如何に先生が事情を知られたく無かろうとも、世知に長けまた聡明な奥さん達母娘は、すべて察したまま、だから、かえって先生との結婚をさっさと急いだのである。
そこまでは、どうしてどうして女達の過去を悟っていること、察知していること、「純白」だなどと信じたがっていたのは、先生の独りよがりに過ぎない。彼もまたそんなことのあり得ないことは知っていただろう。遺書を渡した「私」に対する先の勿体らしい制止は、およそ「私」への型どおりのアイサツに過ぎない。
だから、先生の奥さんが、遺書を実際に読む読まぬに関わらず、私が遺書の存在を告げれば、奥さんは「なかみは、みなわかっているわよ」と十分に言いうるのである。
つまり奥さんに隠しておく意味が何も無くなり、いっそう奥さんと私との「一体感」を強める物証にすら此の「遺書」はなるのである。
奥さんに遠慮して奥さんには隠したまま公開するような不自然な必要は、「私」には無かった。奥さんの頭が「純白」であると決めつける方が、不自然なのである。わたしは生き残った若い二人には「遺書公開の自然な合意」があり、先生の制止は意義を失っていると読んでいる。其処にこの二人の強い新しい立場が出来ていると。
* この学生の論考を送ってくれた大学の先生は、作中の先生自殺後、奥さんの生存は容認しつつ、「死に準ずるような境遇の変化(例えば、尼になる、あるいは狂気に陥るといった)があったのではないか」と解釈されているそうだが、これは作品の力学や美学に対して、恣な逸脱が過ぎる。そういうことがあれば、私は礼儀としてもそれを巧みにほのめかすであろうが、そのような内証は具体的に小説本文中に一カ所として指摘できない。
作品論は、行間や紙背を読むにせよ、あくまでも本文に即してその力学や美学を放恣に逸脱することはゆるされない。「お嬢さん=奥さん」の作中の造形は、どう見ても尼になるの発狂するのという兆候とはほど遠い、現実的な力ある生活者に書かれている。あの母親である「奥さん」の世馴れて沈着な性質が受け継がれている。Kの自殺に際していかにこの奥さんが冷静であったかを読むべきだろう。
第一、そんな出家の発狂のと心配のある限り、先生は愛する奥さんをおいて自殺はしない。性格的にも、私のいる状況からも、先生は安心して死ねるからやっと死んだのである。自殺出来たのである。
* ほんのトバ口のところで、送られてきた「論」はすでに立論の基盤が崩れている。しかし、もう少し続きも読んで行きたい。
わたしの「こころ」論は、先生の死後、奥さんと私の愛は結婚や妊娠(出産)にも及び、先生はそのことをむしろ自殺に際し二人に期待していた、という思い切ったものであるが、それは本文の表現に即して正確に論証でき、事実論証したのである。
いま、「こころ」はおおかたこの私の読みにちかづけて読まれていると、自信をもっている。容認論は有っても、論破された論には一つもわたしはまだ出逢っていない。
2003 4・6 19
* 延喜の聖代とか天暦の治とかを、かたはら痛く、仰ぎ思うことなどわたしには無かった。延喜の醍醐も宇多上皇も菅原道真を見殺しにし、時平の政治力はなかなかであったけれど、長くは続かなかった。律令は朽ち崩れ、諸国の剣呑と崩壊は目立っていた。それが村上天皇天暦の治世となると、中央の政治は無いに等しく、天皇も后妃も権門も文事と宴遊に興じ、しかも内裏深くにも盗賊の襲うことしばしばで、その内裏も焼亡した。強盗群盗偸盗は都を跋扈し、放火とみられる権門社寺の火災は日常化し、西京の低湿地には水が引かずに疫病は頻発、人はひたすら異神を祭り御霊会に群集し、地方では国司が苛斂誅求をきわめれば、土着した前司たちも武士集団化しつつ、抗争にあけくれ、警察力はこれらと結託して、民衆はひたすら踏んだり蹴ったりの目に遭っていた。それが「聖代」と謳われてきた村上天皇の時代、つまりは源氏物語ではその御代に擬せられている「冷泉帝の治世」なのである。
光源氏はいまや大殿であり、帝はその光と藤壺の罪の子である。盛大な繪合があり、やがて此の世の極楽のような六条院の建造と、光妻妾たちの集合がはじまるであろう。世は挙げて帝と光大臣の善政に、優雅に豊かに華やいで光り溢れている。
源氏物語には、村上の治世の大きな特色であった放火も火災も一切書かれていない。暴力による殺人も書かれていない。都や河原に散乱した死骸も一切書かれない。野分は吹いても、疫病に斃死する者は書かれていない。リアリズムをもって成果のめざましい源氏物語ではあるが、表現されているのはかくも目出度く理想的な公家世界のフィクションなのである。わたしは、これを忘れていない。
* 『平安京』を一種の熱気ある批評とともに語り終え論じ終えた北山茂夫氏の一冊は、氏の力点や褒貶の率直において、たいそう刺激的に感銘を受けた。光仁と桓武の改革、嵯峨経国の文事、行基最澄空海への批評、良房を批判し基経・時平を評価し、宇多・醍醐・村上の治世に濃い疑問符を書き込み、忠平・実頼・師輔を批判し、将門や純友の乱の必然に見事に道を付けて解き明かし、そして空也の登場に注目した、そういう一連の記述を通底する歴史批評にわたしはほぼ悉く賛同できた。
さて、次は曲がりなりにも天皇親政の「王政」から、摂関政治定着の平安「王朝」というけったいな家門の時代、第五巻『王朝の貴族』へ日本の歴史はすすむ。記述担当は土田直鎮氏。井上光貞・直木孝次郎・青木和夫・北山茂夫氏の「歴史」観に学んできたが、次巻は或る意味では京育ち・源氏物語好きなわたしには「よく分かる」時代かも知れぬ。紫式部や清少納言の活躍した藤原道長の時代ともいえる。どんな政治がなされ、どのように古代が果てていくのか。
2003 4・7 19
* 加島祥造さんに戴いた『漢詩』の後半は、案の定、あの「袁枚」訳詩のダイジェストだったが、昨夜も読んでいるうち、いわゆる学校の教授や博士達のお人のつまらなさをうたっている、面白い詩があった。
教授や博士にも、まこと碩学といえ人格高いすばらしい人のいるのは何人も識っている。敬愛している。
が、じつにツマラナイ人の多いのもその通りで、当然ながら、学問のとんと出来ない人、大学内の政治や力関係に卑屈で如才ない人に、甚だしい。二言目に忙しがる人も、つまらない。「忙しい」が名誉のような人をみていると、途方もない考え違いの軽薄さにびっくりしてしまう。たいしたことは、何もしていないのだ。
それと、「大学教授」なる地位を、天狗の鼻のように心得ているのが、男にもちろん、女の先生にも、いる。何のエラクも忝なくもない人が、けっこう平然と教授になると途端に傲岸なお山の大将に成り上がったりする。顔を見て声を聴いて、へろっとした足許をみて、クツクツ笑えてしまうことがある。
肩書きなんてものは、風に吹かれて寄ってきた時たまの紙くずに等しいのに。わたしには太宰賞も東工大教授もペン理事も、みんなそんなものであった。望んで手に入れたものは一つもない、ただ舞い込んできた。だから、その摂理のようなモノの手前も、きちんと心して辱めないよう付き合ってきたのである、自然と思うままに。
2003 4・7 19
* 世界文学史に冠たる源氏物語であるのは、身贔屓なしに万人の認めうる事実だが、その「源氏物語」なる、文字も言葉も証言も、同時代の男達が書いた数多い漢文日記に、只の一度として記載また証言されたことが無いという事実も、凄いではないか。
公家の日記は宮廷を中心にした男社会表通りを、いろんな意味で支える証言集であり有職故実の基盤であったが、そこに源氏物語の置かれる余地はなかった。今の子供たちの物言いを借りれば、知っていてもシカトされていた。
新しい『王朝の貴族』の巻でいきなり著述者の土田直鎮氏に教わった。多年史料編纂所におられて、物証や史料にもとづく厳密な記述で知られた人の指摘である、こういうことはアテ推量ですらわたし達には言えないことだ。
2003 4・8 19
* 『ゲド戦記』第五巻はおそろしい問題を突きつけている。
ハンノキというまじない師が、ゴント島に住む往年の大賢人ハイタカ=ゲドをはるばる大魔法使い達の島ロークから訪ねてくる。彼は最愛の妻ユリと幸せに暮らしていたが、出産の失敗で死なれてしまった。それからのちにハンノキは夢に魘され始める。暗い斜面に石垣がのびている。ハンノキは夢にその石垣のまぢかに立っている。石垣の向こうはくらい不毛の地のようであるが、ハンノキはその石垣のそばまで寄ってきた亡きユリをみつけ、言葉を交わし、手と手をふれ、さらに唇と唇とを触れ合う。だがお互いに石垣を越えられない。くらい陰のようなユリは、ハンノキに「おねがい助けて、わたしを自由にして」と懇願して見えなくなる。
それからというもの、ハンノキは夢にいつも石垣のこちらに立ち、すると彼をめがけて無数の陰のような死者たちが犇めき寄ってきて「自由にしてくれ」と泣く声を聴かねばならなくなった。彼等の魂は「真実の名」の力でもつなぎ止められない。夢の恐ろしさに彼はロークの魔法使い達の助力を求め、ロークの人はハンノキを、ゴントのハイタカ=大賢人のもとへ送ってきたのだった。
生死を分かつ「石垣」をはさんで、生者と死者とが互いに手をふれるなど、まして唇と唇でふれあうことなど、絶対にあり得ぬこととされてきた。それが起きた。
一人の聡明な魔法使いも、またハイタカも、ハンノキとユリとは生死を隔てた「別れ方がわからない」のだと指摘している。「おまえさん方ご夫婦の絆はきっと生死を分かつ境界よりも強いんだよ」と。
それにしても石垣に犇めき来て死者たちが「自由にしてくれ」と嘆くのはなぜか。途方もないアンバランスが起きてきている。ハイタカは、そう憂慮してハンノキをハブナーの宮廷に送り出すのである。
物語の中段に、「ヴェダーナン」という言葉があらわれる。結果的には選択というほどのことか、「もしもぜったいに死にもしなければ、生まれ変わりもしなくていいというなら、魔術の使い方を教えてやる」といわれてそれを選択した者達は、「みんな生きて、呪われた魔術を使うことはできるけど、死ぬことはできない」人達になった、「肉体だけは死ぬけど、ほかは暗いところにずっといて、生まれ変わるということがない」と。
石垣の向こうにいるのは、肉体の滅んだ魂が、幻影の肉体や衣服をまとっている人達で、しかも共同生活は全く出来ない、生前に如何に愛し合っていた者達も、互いにそれと意識して付き合うことも忘却しきって、けっして触れ合うことがない、そういう浮游的な、縁というものの失せ果てた世界だと。なのにハンノキとユリは手を触れ接吻もした。
ギリシァやローマ神話の「冥府=ハーデス」を思わせる死後世界だが、なにかしら「根元的な変化」が其処に起きてきているとゲドは憂慮し、ハンノキをハブナーの宮廷に送り出した。そこにはハイタカの妻テナー、彼等の娘でありじつは龍の娘であるテハヌーが、王レバンネンのたっての懇請でゴントから既に行っていた。
ハブナーはすでにして頻々と龍の加害に脅かされていた。この不気味な危機に対処するのに、王は彼女たちの叡智と威力を借りずには済まなかったのであり、ハイタカはハンノキの持ち込んできたことも、これと不可分のものと察知したのである。
生死を分かつ境界よりも強い愛という主題と、死後の世界で死ぬ自由を本来奪われた者達の悲嘆と苦痛という主題が、かなり烈しく交叉する。自由そして火と風に生きた龍の世界、冨と欲望そして水と大地に生きた人間世界。その双方がいまや互いを羨んで軋轢を起こしてもいる。
二度目を読み進めて、やがてクライマックスにさしかかる。レバンネン王の船には、龍の娘であるテハヌーとアイリアンが人の姿で同船し、テハヌーの母であるテナーが、またレバンノンの王妃になるであろうカルガド国の皇女セセラクも乗っている。ハンノキも魔法使いや船長達も乗っている。船は大魔法使い達の学院のある島ロークへ向かっている。幽顕処を分けた石垣をはさんで、底知れぬ恐怖と愛との決断が果たされるであろう。
死んでも死にきれない。よく用いられる物言いであるが、「死ぬ」ことよりも「死ねぬ」ことの方がおそろしい。
2003 4・12 19
* 無数の死者たちが、「自由」を求めてついに破られた境界の「石垣」をこえて此方の世界に入る、と、その瞬間に彼等はきらきら光るチリや灰のように明るい空へ舞いたって行く。生まれ変わったのでなく、やっとまことに死ぬる自由を得たのである。肉体は死んでも魂は死にもならず生きるよろこびとも無縁に冷たい暗いかげのように永遠の孤立に閉ざされてさまよい続ける、それが「魂の不死」ということなら、それは死の自由をえない永遠のとらわれではないか。魂たちは「自由にして」とハンノキに夢で訴え続けた。ハンノキと死んだ妻ユリの稀有の強い夫婦愛が、石垣というある「賢しら」に罅を入れたのだ。「ヴェダーナン=ヴェル・ダナン=分割」という不自然が、全きものとして回復されねばならなかった。そのために人と王と皇女と魔法使いと龍たちが力を尽くしたのである。ゲドはそのコンダクターであった。
『ゲド戦記』第五巻「アースシーの風」は二度読んで一度目に数倍するちからでわたしを幸福にした。いよいよ、また第一巻から読み直してみようと思う。
* 源氏物語は「少女」の巻。夕霧と雲井の雁との幼な恋、大貴族の子女教育めくおはなしになっている。一途に上り詰めてきた光源氏の世界が藤原氏の世界と関わり合い、葛藤を深めて行く。源氏物語「昼」時代に入っている。此処までは源氏物語「朝」時代であった。朝露のキラキラ光る巻巻であったが、これからはうっとりともの憂くもある春昼のような巻巻が「若菜上下」までつづく。
2003 4・13 19
* 清少納言や紫式部ら「女文化」の旗手たちを「受領層」という出自で括ろうとするのは間違いであろうと、土田直鎮氏はいう。受領(国司)や前司(前受領)たちの民衆に対する暴戻と苛斂誅求そして蓄富。それに対する郡司・土豪・百姓の抵抗。北山茂夫氏の歴史記述では、平将門・藤原純友の大乱を象徴的な事件として、もっぱら受領層の問題が語られていた。それは説得力のある歴史であった。
だが、その一方で、清少納言や紫式部の親たちは、受領でありそれにもあぶれるような、むしろ文人であり学者であったのは明らか。北山氏の力を入れて取り上げていた受領たちとはかなり様子が違う。式部の父藤原為時など、平安朝を通じての超級の詩人であり文士であった。越前守という受領に就任したのも、彼の詩に一条天皇が感動し藤原道長も同情したから実現したようなことであった。清少納言は百人一首の歌人であり、父は梨壺の五人といわれた後撰和歌集の選者の一人であり、その父か祖父かの清原深養父も歌人。百人一首に、小さい一家系で三人もならんでいる例は他にない。こういう文化系の女性達を「受領層」の女達と括るのは、たしかに土田氏の言われるように、へんである。
受領層が一つの代表的な政治的集団と目されるようになるのは、もっと後々の院政期以降だと土田氏は言う。その辺の吟味は要するだろうが、道長時代の受領層は、必ずしも摂関家などと桁違いな落差に在ったわけではない。道長の正妻二人、倫子も明子も受領の女であった。後一条天皇の外祖母となった倫子は、従一位にも叙せられている。摂関家と受領層とに格差が手の届かぬほど開き、それによって「層」的な個性を感じさせるに到るのは、確かにせめてもう少し後代だといえるだろう。それは何も北山氏の指摘される「受領」の問題性を無みすることとはならず、おのずと別の問題なのである。
2003 4・15 19
* 前半、三百三十枚ほどを読み直した。ほっこりと、それで息をついている。十一時。もう、やすもう。
『ゲド戦記』第一巻を読み始めている。ある人の自伝も大方読んだが、文藝としては物足りない。源氏は「少女」の巻にいる。日本史は、枕・源氏から、更級・夜の寝覚の時期に滑り出て行く。だが、眼をとざして寝よう。メールももう今夜は開かない。
2003 4・15 19
* 真の力は「闇」にしかないのではないか。「ゲド戦記」第一巻『影との闘い』の末尾に近く、そう書かれてある。
ゴント島に育った少年ハイタカは、生来の強い力を大魔法使いオジオンに育てられ、真の名「ゲド」を得て、さらに大きく成るように魔法の長たちの学院があるローク島に送られる。研鑽著しいゲドは、しかし学友からの烈しい挑発に負けて、太古の死者を呼び出す術に力を振り絞ったあまり、閉ざされてあるべき隙間から己が「死の影」を解きはなってしまう。この「影」との険しく危険な執拗な闘いが繰り広げられて、ゲドの己を全うする道はついにただ一つという瀬戸際へ追い込まれて行く。多島海(アーキベラゴ)の海から海へ孤独で危うい孤舟の旅を重ねる戦士ゲドの決闘は感銘深い。
* 少年時代、怖いものの筆頭は「闇」であった。くらいところに一人いるのが怖かった。光が在ればどんなもののけの影像も、怖さは霧消しそうに思われた。闇の意味をわたしはこども心に思いつづけ、闇に親しむ気持がもてないと、怯えて生きねばならぬ時間が長いと覚悟した。闇の中でこそ安全だという逆説をわたしは自身に育てていった。育ての親の一つは、笑い話のようであるが戦時の厳しい灯火管制であった。
空襲警報が鳴り響くと街の中に一点の光も消え失せた。空襲からの安全を守る闇。まこと、星明かりもない闇の中では我が鼻先においた自分の指先も見えなかった。
七つ八つまで闇に怯えて泣いたわたしが、十になれば空襲警報下に体験する真如の闇に「自由自在」な不思議な解放感を覚えるようになっていた。電灯の明かりの下では尋常な国民学校の生徒が、闇に溶けいると、「可能性」そのものかのような大きな意識を感じた。丹波の山奥に疎開すると、警報など発令されなくても「闇」は夜にさえなればじつに容易に得られた。闇色の美しく深いことに魅されたのは、丹波体験のなかでも大きかった。
* 割符というものがある。たとえば三関を固める朝廷の使節は、「木契」という割符を持って不破や鈴鹿の関へ走った。割符は割られぬ前の或る「全きもの」の実存を示唆する仮幻の物証である。電灯の下の一生徒は割符の一片であった。闇に溶け込んだ意識のなかに全体(トータル)を感じた。
わたしは、闇の奥に溶けている自身のもう半分の割符を此の世に引きずり出す魔法は持てなかったが、またそういうことが人間にゆるされているのかどうか分からないが、ゲドは少なくも、過って、ないし少年らしい傲慢の故に、それを犯してしまい、我と我が死の影に、生ける己を、喰い殺されようとする。そういう「闘い」の記として『ゲド戦記』は幕を開けている。またゲドがどう打ち克ったかが大事である。われわれは、所詮割符の半片として生きているのだ。その通りだと私は思う。バグワンが、全体(トータル)というときにもこれが無関係ではない。
アーシュラ・ル・グインのこの作品に出逢ったのは、娘朝日子が高校から大学への頃のこと、そう遠い昔ではない。しかしこの連作の世界は、もうグインの作品なんかではなく、わたし自身の原故郷として、実在している。アースシーの広大な多島海地図が頭に入っていて、わたしはゲドの行く先々に同行できる。
そういう感覚で、わたしはまたわたしの「闇」との間柄を育ててきた。コンピュータのウエブとして目に見える「闇」もまたその派生であった。
これは、だが、一度で語りきれることでない。
2003 4・16 19
* ゲド戦記第二巻『こわれた腕輪』を一気に読んでしまった。読み出せばやめられないと、分かっていた。読んでいる間は咳・痰から気持の上でのがれられるとも。原題「アチュアンのリング」は、たしか原文の一冊もどこかにある。対訳で読もうかと思っていたが、そっちが見つかりそうになく、読み出せば抵抗できずに、しまいまで。他巻とちがいこれはほぼ全編が漆黒の地下の「闇」の物語で、「影との戦い」が海の果ての果てまで追いつめて行く決闘の物語だったのと大いに異なる。それはゲドの己自身の達成の物語だったとすると、第二巻は世界中の平和の祈願を底意に秘めた、ゲドとテナーとの信頼の発見の物語である。
テナーは、巨大な「闇」に幼く健康な心身を「喰らわれた」巫女であるが、尽き果てていなかった一点の生の光を輝かせて、アチュアンの地下迷宮から、忍び込んでいた大魔法使いゲドとともに、信頼の世界へ脱出し、再生する。生と死がトータルに成ることとあわせて、此処では男と女とがまたべつの真のトータルを遂げて行く物語とも成っている。二つに割れて行方を失っていたエレスアクベの腕輪に刻まれた神聖文字のなかで、文字字体が半分に割れていた一字は、「和」であった。これがもとの一つに成らねば世界は静かにならない。ゲドとテナーとは、闇の底からそれを回復する。これは、全編が「闇」なる根源の哲学をなし、しかも叙述は生き生きとして細部のリアリティーも構成のリアリティーも保って、五巻のなかでも傑出した文学を成している。
* 土田直鎮氏の歴史記述は、また他の人達のそれとちがい、とても個性的で一徹で興味深い。この人は東大史料編纂所の(大勢そういう人の棲息するところだが、)巨大なヌシの一人。徹底して史料を読解するところから歴史を確認して行く。わたしたちのような素人は、いかに歴史好きであろうと、よくいって直観と読書でしか歴史は組み立てられない。しかし専門の歴史研究者は、基盤にある史料の原文の読解と解釈とからはじめる。はじめるべきだと土田氏は言う。
ところが、史料を正しく深く厳格に読むというのがどれほど難しいかは、公家の日記の一行を読み込むだけにでも、途方もない力を要する。そうあるべきだとは承知でも、そんなことのキチンと出来る学者がいたらそれはウソだと、土田氏は断言する。みな、自分で読める程度の都合のいいところを拾い読みして、それで論を立て辻褄を合わせている。いわばそのようなゲームの巧拙で歴史学が成り立っているようなもので、厳格な歴史学にはまだほど遠い、と、いうわけである。
* 日本国史は、三代実録で終わり、つまり光孝天皇で終わり、その後は無い。その後の歴史を支えたのは平安時代の多くの「公家日記」であるが、これは今日の我々の私的な日記とは大いに性質を異にする、公的な儀式次第、有職故実の参考書的なもので、具注暦の体を基本にしている。
官製暦=具注暦が、半年に一巻、巻物に作られる。配布される。一行めにその日の暦記事が書かれてあり、次の二行分は空白。この「三行で一日分」の暦の、その空白二行がつまり日記用であり、人それぞれの書き方で全て漢字書き、とはいえ、まともに漢文ともいえない。これ有るがゆえに辛うじて日本の歴史の「一部」が確保できるという。一部とは、京都の、貴族社会の宮廷行事に周辺にほぼ限られるのである。
同時代の夥しい公家日記に、「源氏物語」のことは只一度として現れず、たとえば浩瀚な「小右記」中にたった一カ所、「為時女」と注してある女房の記事により、奇跡のように紫式部らしき女の存在が確認されるといった、男社会に偏りに偏った史料が積み上げられるのである。
* 史料編纂所とは、ただのそれらしい名称の施設ではない。文字通り史料編纂の作業を明治以来延々と続けて、完成にまだ百年はかかろうかという、克明な歴史記述の営為に明け暮れている。八百年間の一日一日を次いで、何が起きていたかの具体的なコトを、すべて史料文書から抜粋し、その原典を確認し記録して行くのである。怖ろしい量の本がすでに数百巻出来ていて、まだ各時代とも百年もかかるだろうと土田氏は言う。
一行の日記の正しい読解も容易でないのに、それを刊行して日本の八百年分を網羅するのである。「歴史」記述とは、想像を絶した基礎作業の上に組み立てられるもの。わたしは、そういうことを本のすこしでも知っているので、ことに歴史学に関しては研究者の仕事を尊重し、学恩の多大さに感謝するのである。
2003 4・17 19
* わたしの症状は、避けがたく、妻に移行している。わたしの方はやや右肩上がりに少しずつ快方へ向かうのかも知れないが、胸に喉に含んだ咳源は、依然ちいさな刺激でも激発しそうな按配。しかし、髪の毛にふれても痛くはない。熱ないし風邪気味は薄れているようだ。
こういう体調で電話口に呼び出されるのが、つらい。もともと電話は、掛けるのも掛かってくるのも好きでない。メールだと、読んでよく考え、こちらのいい時間に相当な返辞が出来る。緊急即決を要する用件はこの限りでないが、メールでいいものは、そう願いたい。
2003 4・17 19
* 昨日、会長を退任の梅原猛氏より『王様と恐竜』という題の「スーパー狂言」なる三編その他収録の一冊を頂戴した。猿之助の「スーパー歌舞伎」に茂山一家の狂言というところか。評判の「噂」のかげ程度は耳にしていたが原作ははじめて見た。舞台はむろん知らない。
もう何十年になるか、「冷えた情念」と題して、現代の狂言への失望落胆を書いたことがある。「コント55号」のなかにむしろ今日の狂言を瞥見しうるのではないか、などとも。狂言ほど、「型」に嵌ってしまえば根底を失う藝はなかろう。歌舞伎は批評を喪失しても、ノンセンスの野放図な拡大によってでもかえってセンス生命は保てる。狂言は風刺という批評行為である以上、現代や今日を忘れれば、ただの型の踏襲という以外には、冷えた笑いを窺うのみ。そこにうまいとへただけが鑑賞されるのでは、ま、考古学資料のようなものだ。
梅原さんの新作狂言はその意味で破天荒に「今日」のグロテスクを衝いている。その是非や成否は舞台をみて判断する以外にない、活字で読む限りは、特別の感興もなく、当然ながら「蕪雑」な印象は否めない。つまり「読んで嬉しい」花いちもんめでは全くない。茂山一家がどんな舞台を創っているかであり、これはその舞台台本である。本来が「本」にして読ませて評価されようとは思うべきでない、台本レベルである。
武者小路でもそうだし、ことに正宗白鳥の戯曲がそうだが、舞台に再現されると水際立つ効果をあげるのに、活字で読んでいると砂を噛む感じがする。面白くも何ともない。戯曲とは文字で読めば本来がそういう物だ。舞台を想像できる力のある人にはかろうじて面白さが読み取れる。
ところが「読む戯曲」の書き手の台本は、読んでいれば小説のように面白いが、そのまま舞台に置くと冗漫も甚だしい。谷崎は戯曲を一時期多作していたが、このギャップに悩みつつ、逆手に取り、「レーゼドラマ」と「台本」とを書き分けてゆくようになった。だが概して「読む戯曲」「戯曲の体裁の小説読み物」を谷崎は書いていた。
梅原さんのこれらの台本は、「読む戯曲」としてははなはだザッパクで感興というものの殆ど一滴もないが、仰々しく舞台化すると笑わせることだろう。その段階で成功すれば佳いのである。こういう仕事を遮二無二世の中へぶち込んで行ける「地位」を梅原さんは獲得してきた。地位の力を生かして時代の前線を切り開かれるのは立派なことであり、地位が出来ると権力へ転じたがる有力者たちの方が多いのである。敬服する。
2003 4・18 19
* 八時まで疲れ寝した。少し食事を摂った。気分が悪いわけではない。ちょうど十日ほど経つが、わたしに限り今回の病状で、頭が朦朧としたことはあまり無かった。咳も洟も痰もラクではなかったが、その一方で本は幾らでも読めた。幾種でも読めた。頭の中では本の内容がいつもイニシァティヴをもち、わたしの中では、いつでもゲドや、夕霧や、歴史記述やバグワンが働いていた。テレビは、新聞は、あまりわたしを誘惑しない。それよりも書き上げたばかりの作品が新鮮だった。病気のことは、少し外側から、なるべくよそ事のように「ながめ」ていようとしたし、今回はそれが可能で、有効だった。わたしのなかに、病気で気分の冴えないわたしもう一人いる、といった感じ方であった。なにもかも、病院以外の約束をキャンセルした気軽さも、負担を取り除いた。
2003 4・18 19
* 『ゲド戦記』第三巻を読んでしまった。主題は「均衡」か。生と死にも、光と闇にも、もろもろに世界は均衡を得ながら安定をはかる。だが人間は、「もっと」「もっと」と思いつつ均衡に穴を開け隙間をつくり、こじあけて、己の欲望を都合よく拡大させようとする。そのために世界は病んでゆく。
此の巻はあだかもブッシュやフセインや金正日をかためて何倍もの力に傲った魔法使いによる「均衡」やぶりへの、過酷な、ゲドと青年アレンと龍との協働の「闘い」を描いている。それだけではあまりにお話めくようだが、フィロソフィーは透徹し、むしろ聖書のような相貌で作品は光っている。
最終の五巻めを二度読んで、一巻から三巻まで来て、確信は深まってきたが、アーシュラ・ル・グゥインは、どこかでバグワン・シュリ・ラジニーシないし近縁の聖者との間に思想的な接点接線を持っているに違いない。作品論として追ってゆくと証跡はきっと掴めるだろう。
わたしは、バグワンについてもグゥインについても、実像の探索はしてきていない。書かれ語られたものにピュアーに参入するだけで足りるし、その方が良いという判断であった。その姿勢に変更はないので、現実レベルでの調べを始めたいとは思わない。わたし一人の思いで、好き勝手に確信にちかいものをさらに吟味してみたい気持が強くなっているのは事実。
ともあれ、第四巻を読んでみる。じつは、この巻が問題なのである。ゲドは渾身のちからで世界の病原となっていた均衡の隙間を回復し、そして一切の力を失い昏倒した。アレンはゲドを死の世界からはこびだし、太古の龍カレシンは彼等を無事の故国・故郷に運び返してやる。
ゲドは魔法を使い果たして、もはや魔法使いではなくなっている。第四巻のゲドはもう大魔法使いではないゴントの山に住む羊飼いの中年男にすぎない。だが大賢人として生きた無量の智慧はある。
第四巻はゲドの魔法が出ないだけ、何となく物足りないと読者は感じてしまう。おそらく、そこに、この間の作意の生きるところがあり、フィロソフィーは静かに絹のように波打つであろう。題して「帰還」である。
* 土田直鎮氏は、幾重にもわれわれの「あしき常識」を引っぺがしてゆく。たとえば摂関体制における天皇の存在が、無残に棚上げされていたなどと思うのが誤解であること。摂関や大臣家の私邸内でもっぱら政所政治がなされていたとするなど、とほうもない誤解であること。またたとえば公家政治は遊興を事とし政治は放ったらかしであったなどというのもとんでもない誤解であること。彼等は今日の内閣のように施政方針を公表してそれに従うような政治でこそなかったが、そしてたしかに超スローモーに行われていたが、「上卿」といい「外記政」といい「陣定」といい、日々の「定」の専門的に細やかであったことは事実が証ししている。有能でなければとうてい成しがたい議事と処理とは成され続けていたのである、と。
おもしろい。また当然そうであったろうと思う。物語の場面からだけ時代を読んでいてはお話にならない。あたりまえだ。むろん、だからとて政治力の過大評価は無理だし、土田氏もその辺は点が辛い。あたりまえだ。
2003 4・19 19
* 『ゲド戦記』第四巻「帰還」を読み終えた。王となる若いレバンネンと二人、死の世界の奥の果てで、世界の「違和」の原因となっていた或る悪意と魔法による裂け目を、ゲドは渾身の力で閉ざしてきた。世界は病源からかろうじて救われたが、大賢人で大魔法使いのゲドは、自身の力の悉くをつぎこんでしまい、もうどんな力も持たない人に戻っていた。レバンネンは死んだようなゲドをかろうじて死の世界から運び出し、龍のカレシンがあらわれて二人をのせ、レバンネンをローク島に、ゲドははるばる故郷のゴント島に運び去る。それが前巻「さいはての島」の収束であった。
第四巻は、そのようにしてゲドの戻ってくるゴント島での、あのアチュアンのテナーと、彼女の育てている、テルーという顔の半面を火傷でうしなった少女の物語になっている。
帰ってきたゲドは、一切の不思議の行力を喪失した男に戻っている。不思議の力など持たない普通人の普通に生きて行く危険や喜びや愛や怒りや恐怖が坦々と綴られて行く物語には、静かな静かな魅力がある。そして、まぎれなく、次巻の到来を予告もしていたのだ、それに気が付かなかった。もうこれで終わりかとすこし落胆していた。だが、この坦々として見える「普通の生活」物語が、じつはとてつもない展開へ跳躍するための、強固な踏切板であったことに、今は合点が行く。テナーという魅力溢れるヒロインの造形は確かで、第二巻のあとの名残惜しさを吹き飛ばしてくれる。『ゲド戦記』五巻のうち、テナーは第二、四、五巻を覆い、ゲドは各巻にむろん登場するけれど、第一、二、三巻で魔法使いとしての活躍は終えている。これは「ゲドとテナーとの物語」なのだ。
もう一度、収束の第五巻を読みたい。そして、時間がゆるせば、この名作とバグワンの教えとの臍帯を探ってみたい。さらに進んで念願の「静」の研究を。
2003 4・21 19
* 岩波から「座談会」で『明治文学史』『大正文学史』が出ていた、今も手にはいるかどうか。名著とか名企画とかいうのは数有るにしても、この「座談会」企画はそんな中でも抜群であった。こんなに深度深く、こんなに水準の高い研究成果と洞察(瞬間風速)に満ちた業績はザラにはない。その量も厖大なら、間延びしないみごとな論議と追究の緻密さや執拗さにも驚く。何十年か前に買ってひたすら愛読し、どんなに自分を豊かにされたか知れない。
ふつう座談会は、どうしても読み物に堕しやすく、かなりの漫談もまじって、その場限りでおわるものだが、これは、学術と批評の粋であり精華であり、宝物のような名著に仕上がっている。近代文学を語るほどの人で、此処を通過していないようではモグリだと謂われても仕方有るまい。
その魅力の核をなしていたのが、勝本清一郎の該博な探求と精微な引用と大胆な洞察で、目くるめくほど。この人は、座談会ごとに座右に莫大に参考書や資料を積み上げ、遅滞なく必要なところを指し示しつつ議論を深め引き締めていささかも緩むところ無かったと言われる。
いったいに、小林秀雄を識っている人は多いが、勝本清一郎という名前を認識している人は、今日なら、ことに少ない、無いほどだろう。が、批評を学術として深め得た近代最高の存在の一人と謂える。フラットな評論は知らず、真に研究と探索の名に恥じない批評は、勝本を以て第一人者と目したいほどである。明治大正、数十回を重ねた「座談会」は、この勝本の探索や追究を引き出す体に、柳田泉、猪野謙二という二人があり、これまた明治・大正文学の碩学であり老巧の批評家であった。この三人をレギュラーに、毎回ゲストを一人ないし二人迎えての座談会であった。
* 藤村講演を用意するにあたり、もう一度根本から土壌づくりをしたいと思い、昨夜来、これを書庫から引っ張り出して、まず「北村透谷」から読み始めた。全体を再読するには、厖大なので。そして、のっけから勝本の精緻な土俵ツクリを聴き、ひさびさに興奮した。どうも藤村がお留守に成りはしないかと心配されてしまうほど。
いずれにしても藤村の基盤に、透谷の偉大で新鮮な近代的自我の洞察を、あらましでも確認しておかないと。
* ゲドの最終巻を、三度び、読み進んでいる。自分自身の内側から透明になってゆくような作品・読書に出逢うのは、そう有ることでない。漫然と読んでいるのでなく、一行、一頁とすすむことで自分が「生きている、今・此処に」と実感させてくれる。出逢いとは、こういうこと。
* 積んでみたら十数冊もいろんな方から新刊を戴いている。即日礼状を書いた習いも、この頃は、怠りがち。機械の近くに手紙などの手書きできるスペースがとれず、別の場所へ移動しなくてはならない、これが簡単でない。
2003 4・22 19
* 透谷、一葉、藤村。明治の女子教育の土壌からいくつかの雑誌が芽生えて「文学界」に辿り着いた。この雑誌自体はめざましい成果をあげながら、経済難で廃誌となったものの、上の三人がこの順番で大活躍し、不滅の名をのこした。和田芳恵氏をゲストに「文学界」の成立から藤村まで、さらには「明星」の与謝野晶子まで、克明な討議がつづいて、明け方四時半まで読んでいて、終えなかった。おっそろしく、おもしろいのだから、やめられないのである。
藤村が、陸羯南を介してらしい正岡子規の「日本」に記者として使ってくれと面接に行き、子規に断られている話など、興味深い。一葉の実像点検の微細に渡って緻密なことにも驚かされる。汲めど尽きぬ津々たる興味の泉は、ほんとに至る所に湧き出ている。
* 土田直鎮氏は、世に謂う「十二単」という称呼ほどでたらめで実態のないものはない、ダメだと。これは、さもあろうと思う。源氏や枕の時代にそんな言葉はただの一度も見つけたことがない。
* もう九時だ。一度ぐらい九時十時に寝てみたらどうだろう。それとも「成政」を飲みに階下へ降りようかなあ。
2003 4・23 19
* 昨夜は国木田独歩と島崎藤村の討議を読んだ。そのあと、高校の頃に奮発して買った筑摩大系の第一回配本「島崎藤村集」をあけ、思い立って巻頭の詩集「若菜集」を全編通読した。
拾い読みはしても気を入れて通読したのは初めて。「まだあげ初めし前髪の」とうたい出される有名な「初恋」は、やはり此の一巻の白眉であった。大方が「文学界」に発表されている。いまの文藝春秋の「文学界」ではない、明治の昔に「女学雑誌」からわかれて文藝誌として編集された。しかし発行元自体が明治女学院であった。書き手も読み手も女性や女学生が多く、しかし、文壇につよくアピールした雑誌であった。
おんなの名を題にした詩がかなりある。おんなになりかわっての詠嘆詩もおおい。姉と妹との対話風の詩編も幾つかある。そして「春」の詩。うら若い青春の詩。
藤村という人は、「人物画」と見立てた「詩」から、「風景画」と見立てた「散文」へ転じていった。この見立てが、独特である。藤村は洗礼をうけている。ミッションスクールに身を置いていた。明治の知識人には例はいくらもある。しかし藤村をキリスト教の感化だけで語るなど、出来るはなしではない。魂魄に譬えていえば、天上する清明な魂であるよりも、はるかに地に肉につなぎとめられた重い魄霊の人であり、それを認識しつつ浄化を考え続けた人だ。あまりにも葛藤を身に抱いて離れ得なかった。
藤村を筆誅した文学者は少なくない。志賀直哉も芥川龍之介もそうだ。谷崎さんも、具体的でないが、よくは言わなかったと、松子夫人にうかがったことがある。直哉や龍之介の非難は、わたしの思いでは藤村に少し気の毒である。平野謙の峻烈な「新生論」にも勝本清一郎は片手落ちの嫌いがあると座談会で抗議していた。この辺にも問題はある。
2003 4・24 19
* 新刊の第五巻を一度読み二度読み、第一巻から順に第四巻まで読み返して、また『ゲド戦記』第五巻「アースシーの風」の三度目を、夜中に読み終えた。ずっと鉛筆を片手に、読みおとしなく、より正確に読み味わえるよう、おさおさ怠らず集中して読んだ。この五巻の、世界構造の問題と、問題の超克を、読み当てたように思う。しばらく頭の中で蒸らしておきたい。
死んでも死にきれない魂の不死という凄惨。肉体だけを死なせておいて、魂は永遠に生き延びたい願望が、悪しき「分割」の結果として実現していたための、死者の孤絶な苦しみと不自由。
見回せば、人間だけが孤立した幻のように互いにまったく触れ合うこともなく右往左往している世界に、草木も生えず動物たちもいない。不死の永生をあしく願った人間だけがいて、そこには風もふかず水も流れない。瞬きもしない運行もしない小さい星だけが天に凍り付いて、死者たちの、死ぬに死ねない魂たちの、灰色の塵で満たされた袋小路世界。
それに対し、そうでない死、肉体も魂も死ねば土に帰し、風にのり、花に獣に石に草木に自然に生物に入って行く死を選択した人間達もいた。
浅くは今は謂うまい。死とは、生とは、全き命とは。ひたひたと近寄ってくる絶対の機会のまえで、それらは一つの作品内の問題ではない。自分の根本のいわば「願い」である。
それにしても終幕の美しい盛り上がりのまえに、わたしは、三度読み三度感動を新たにし、涙を堪えられなかった。また必要に迫られて読み返すであろう、繰り返し。宗教の教典や経典は、もう二度とこういう感動では読まないだろう。
* 土田直鎮氏の「王朝の貴族」は浄土教の章で閉じられた。空也(市聖)、寂心(慶滋氏)、源信(恵心)、そして往生伝。夢中で「往生要集」を読んで、浄土教の感化は小説を書き始めてからもわたしから離れなかった。法然に、親鸞に、また一遍に、のちのちの妙好人たちにまで思いはひろがり行き、浄土三部経を繰り返し繰り返し翻読し読誦し、そういう中で法然の「一枚起請文」に尽きてゆき、親鸞の「還相廻向」に気が付き、そして、私自身の看破である「抱き柱は要らない」というところへ到達してきた。バグワンに、そして不立文字の禅に、いまのわたしは深く傾斜し、自分の課題を眺めている。
座談会文学史で夏目漱石も島崎藤村も最終的に「禅」へ歩み始めて、その到達には差があった。谷崎潤一郎は宗教的な回心の何ものも語らなかった人だが、生前に作った夫妻の墓石には「空」と彫り「寂」と彫らせている。文字の趣味に過ぎないのかも知れず、深い思いがさせたことかも知れない。
漱石は偽善とエゴイズムをにくみ、藤村は偽善者、エゴイストと罵られたこともある。漱石は露悪を指弾しながらそこに「現代」を見出し、藤村は露悪の浄化にかなしみを湛えて家の根を思い、国土の根を思って歴史に眼を返していた。漱石は肉を書かずにかわし、藤村は肉におちて肉を隠そうとした。潤一郎は、『瘋癲老人日記』の最後まで肉を以て肉に立たせ、一種の歓喜経を書きながら亡くなった。
2003 4・26 19
* 昨日読んでいたある文章に、「ギョーカイ」の彼彼女たちという表現があった。休日の夜道の閑散、開いた店も少ないが、近くにテレビの局もあるらしい辺り。わたしは、賑やかな勤め先を退けてきたキャピキャピした若い人達の群れを想いながら読んでいた。
そのあと或る文庫本の解説を、親しい某社の女性編集者が書いているのをおやおやと思いよんでいると、そこにも「ギョーカイ」という言葉が出て、これは昨今の隠語の一つで「レズビアン」たちを謂うのだとしてあり、そんなことは、およそ思いつきもしないことであった。で、もう一度さきの文章を読んでみて、そうかなあ、そうかも知れないし、というぐらいでわたしには分からない。言葉というものの、恣に生きて変貌し変容し跳梁するものだという当然な認識を、また新たにしただけ。
2003 4・27 19
* 藤村の大作『新生』をまた読み始めた。買ってきたばかりの藤村集のクンクンとインキの匂いのするまっさらの新刊を抱くようにして、生憎とひどい胃の痛みが起きていたのに、ガマンしガマンし、徹夜してこの作品を読んだのが、高校生の時であった、感銘と衝撃を、昨夜のことのように思い出す。二度目はもう大人になっていた。今回は三度目。
藤村作品は長編が記念碑的にずらりと並んで行く。晩年の『夜明け前』は超大作、『新生』は堂々の大作、完成度としても自然主義作品と観ても最高傑作の『家』も長編であり、近代文学史の初期の金字塔である『破戒』もみごとな長編である。ほかにも『春』「桜の実の熟するとき』なども長編である。『破戒』のほかは広い意味で自伝的と謂って、大きな間違いはない。藤村は生涯作の殆どを自伝的に書いた。それらの中で『新生』は衝撃の事件を書き込んだ、動機と意図の複雑さにおいて類のない創作、名作である。どんな新たな感想がもてるか、楽しみに読んで行く。
* 日本史は竹内理三氏の担当で、鎌倉幕府成立に到るまでの「武士の台頭」である。
「侍」とは貴人貴族の前に地に跪き頭をさげて命に従う者達の「坐」法そのもの。それが侍と謂われた武士のもともとの地位と作法であった。台頭とは、その垂れた頭をあげ、跪いた足を伸ばして立ち上がる謂いである。まさしくその様にして武士達は公家の前に立ちふさがって、ついに屈服せしめた。平清盛による平政権はその最初の達成だが、彼等はまだまだ公家風であった。自らが公家に成り上がることで都の政権を取った。半端物であった。だが、とりあえずは平家が勝ち上がったのである。
この巻は其処までが語られるであろう。「王朝の貴族」たちとは打って変わって土臭い世界が目に見えてくる。
2003 4・27 19
* まだ本調子でない。卒業生のお誘いを連休過ぎにと、大事をとった。本を読みに階下へ降りる。昨夜も四時就寝。しかしこの読書三昧のときがわたしの休息なのだ。
2003 4・27 19
* いま武士のことが、とても面白い。「兵=つはもの」は、もともとは武器を謂った。それが武藝に長けた者の意味になり、兵制の変転に連れて専業の兵が出来てくる。かなりこまかに兵には自弁の武具や携帯具の規定があり、その用にたえるには殷富の百性、つまり土豪級のものしかなれなかった。この武具等の指定のこまかいこと、それだけでも古代の戦の模様が髣髴する。
侍者という言葉も古くからあり、貴人に仕え地下にさぶらふ者ではあるが、だれもが侍に成れたわけでなく、かなりの兵の首領級が、貴人に近侍していた。後々で謂えば忠平に平将門、道長に源義家のような存在が「侍」であり、武士であった。その武士・侍が伴類・郎党・家来を率いていた。後世の侍や兵とはえらくちがうのである。
そんなことも昔なら「知識」として喜んで溜め込んだろうが、いまはそんな欲はまったくなく、ただただ面白がっている。なにを知ってもなにを覚えても、おもしろいばかりで、それをどうにか利用しようという気はまるで無い。此処に書いて楽しんでいるだけ、これは、ラクである。「知識のマルだし」ではつまらないのである。歴史年譜をひらたく文章に書き起こしただけで本にたような本をもらうこともある。そういう本が、存外に売れたり、しきりに本になったりする。ツマラン。
2003 4・29 19
* 年度の締めくくりの仕事に、井上ひさし氏の昭和四十八年の小説「あしたの朝の蝉」を校了し、入稿した。
秀作である。淡々としていて、クオリティーは光っている。話材は素朴かつ哀情にあふれたものだが、砧を打った静かさと美しさをもち、感動がある。校正してみて改めてこの作品をえらんだことに自信をもった。井上さんも即座に頷いてくれた。
また梅原猛氏のつよい希望で、新作の狂言台本「王様と恐龍」を、本からコピーし、スキャンしはじめた。半分は明日に残した。
この二人の二作が掲載されると、梅原前会長と井上現会長の作品が、一つは若き日の優れた論考と少年時代を書いた秀作小説の一対に、もう一つは狂言台本と義太夫節台本の一対になり、ともに喜劇。なんだか「作品合せ」のようなことになった。読者が楽しんで自ら深切に「判」読されるかもしれないと思うと、楽しい。
2003 4・30 19
* 梅原さんの狂言台本、堀辰雄の懐かしい「ルウベンスの偽画」を、スキャン原稿から妻が起稿・初校してきてくれた。読みます。 2003 5・2 20
* 新しい仕事の書き継ぎも、着々前進している。また、島崎藤村の作品や関連の論考の「読み」も連夜二時間ずつぐらい進めてきて、ようやく、だいぶ藤村世界を取り戻してきた。講演のことなど忘れて、楽しんでいる。
源氏物語の音読もしかり、今は、「玉鬘」の巻で、筑紫の監太夫求婚から逃れて、夕顔の遺児が都に逃げ帰るきわどさといい、光源氏に使えるかつての侍女右近に見出されるであろう予感といい、劇的な展開を美しい古語で毎深夜に音読し続ける嬉しさは、なみのものではない。玉鬘「並びの巻」がいよいよ展開して行く。わくわくする。
そして武士社会の形成に教えられる「民衆の地力」の蓄えられ行く頼もしさ。
すべて、拘泥はしないで、鏡の前の往来にまかせて楽しんでいる。バグワンがすべての分母になっていることも変わりがない。
2003 5・2 20
* 木島始さんから、アーシュラ・ル・グゥインが、例のサム・ハミルの「戦争に反対する詩人たち」のサイトに、「詩を寄せていましたよ」と、知らせて下さった。読みたいな。
2003 5・2 20
* 梅原猛作狂言「王様と恐竜」を起稿校正して入稿した。快作である。表現はザッパクだけれど、それの似合うおおらかな象徴味があり、柄の大きい作品。ふっ切ってハチャメチャにやっつけているのが、いわばカブキの味わいで、わたしはハッキリ成功作だと、あらためて敬意を覚え、推賞する。
作者はぜひアメリカで上演したい、必ず機会があろうと漏らしておられたが、一日も早く実現しますようにと願う。日本でよりも、はるかにアメリカでこそ爆ける作品になっている。戦争反対をこれほど明快に本筋をとおして徹底表現した志は、高い。ペンクラブ会長で文化勲章だから書けた、出版も出来たのは事実だろうが、それを生かしてこういうふうに「反戦・反核」の大声をあげてもらうことは、大事だ。少なからずお高く取り澄ました大江健三郎よりも、泥臭いほど縄文人の梅原の方が「社会性」に生き得ている。
2003 5・2 20
* 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」を校正する。堀の書いたほぼ最初の小説作品ともいえるだろう、定稿で発表した時ですら二十七歳であった。だからこの短編作家の撰集が『風立ちぬ』と表題されようが『菜穂子』や『美しい村』や『聖家族』であろうが、籤とらずにこの「ルウベンスの偽画」は巻頭に出され、堀辰雄との出逢いを記念してしまう。わたしの場合もそうであった。
高校一年生のまだ一学期のうちに、わたしはこの作家の撰集を人に借りて読んだ。智積院の奥に京都美大(今は藝大)があり、わたしたちの高校はその一部に借家住まいしていた。次の年に日吉ヶ丘新校舎に移った。
堀辰雄を貸してくれたのは、この小説の、また「風立ちぬ」の、ヒロインのような同級生の少女であった。この少女は、どこかで、わたしの書いてきたヒロインたちの、少なくも一部で印象が重なっている。
窓によりて書(ふみ)よむきみがまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
この人、高校を卒業するまでは学校にいなかった、気がする。わたしが東京に出てきてから、いくら探索しても見つけようがなく、とうに亡くなったようだと知らせてくれた友人もいた。
それはそれとして、堀辰雄には、だからかなりハマっていた時期があり、そして離れてしまってもう久しい。漱石や藤村や潤一郎を敬愛するわたしが、そうはながく堀辰雄にハマっていられなかったのは無理がない。だが、懐かしいという言葉がピタリと当たる。わたしもまた小説を書き始めた同年齢の、堀辰雄のこの短編から、なにが蘇ってくるか、それはもう小説のようである。
2003 5・3 20
* 四時まで、日本史を読んでいた。もともと和歌や物語や説話など通じて、また京育ちもかかわって、都の公家社会の方へ大きく偏って知識を蓄えていたため、武士の台頭を丁寧に跡づけて行く竹内理三氏の実証的な歴史記述には、たいへん刺激を受ける。
荘園の蔓延、その背景になる権勢や大寺院の強欲、国司たちの強欲、それへ対抗の辺境の抵抗・在地勢力の対抗意志が、卍巴とひっからまって、それが、ひょんな成り行きで藤原氏外戚としての掣肘から逃れ出た後三条天皇の即位、そして院政期への移行という大舞台へ変じてくる。
わたしは、高校で歴史を習うよりもっと早くから、この後三条天皇に多大の関心をもっていた。政治らしい政治をした天皇さんは数少ないが、この後三条天皇は、天智・天武・持統また桓武などと並んで明らかに強力に、なかなかの「良い政治」をした稀有な天皇のお一人なのである。荘園記録所設立で藤原摂関家に対しても厳格に立ち向かった、それだけでも、たいした力量であった。そして院政期の幕をあけた。価値評価は別としても、院政とは摂関政治への対抗であり、その力の誇示に武士を活用したことが、源氏の増強、次なる平家の政略的な台頭から、また衰えていた源氏による鎌倉幕府の成立へ、必然直結する。そういう道筋をおさらえするように丁寧に読んで行くと、眠ってなどいられぬほど面白い。
ポップコーンのような野球の興奮などはむろん一過性のもので、繰り返しはないのだし、そう思うからひとしおあの場を大いに楽しんできたのだが、こういう読書(だけではない)の質的な面白さは、最良の鯛料理のように、まったく別の「内面」を永く養ってくれる。親しく身に添ってくる。
* 六時半に目が覚め、もう少しと思いつつ七時半には床を離れ、少し、私の本のための捜し物などしてから、機械の前へ来た。
2003 5・5 20
* いっぱい用事がある。胸の辺でむくむくとそういうのがストラッグルして、出番を待っているのに、わたしは、あまり慌てていない。
今日は、堀辰雄の「ルウベンスの偽画」を入稿し、ついで、藤村の四つの詩集「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」から、愛誦したい佳い詩を十編あまり選んで機械に打ち込み、校正し、略紹介を付して、これも入稿した。
詩だけではない。『藤村詩集』の有名な序を冒頭におさめた。すばらしい。十一月の「ペンの日」など、開会に先だって、だれか朗唱の出来る会員に適宜抄して「読んで」もらい、それから会長挨拶などしてくれると、どんなに気持がキリリっとするだろうにと思う。十年一日「ペンの日」とは即ち「福引の日」とは、それっきりのそれだけとは、なんとも情けなく知恵がない。
* 『藤村詩集』序 ──早春記念──
遂に新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰頽とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實(ぼくじつ)なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき。されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣(くちびる)にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙(つたな)き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。
詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされて、われも身と心とを救ひしなり。
藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然と見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻(若菜集、一葉舟、夏草、落梅集)とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
──明治三十七年(1904)九月──
2003 5・5 20
* 源氏物語は一昨夜から「初音」に進んでいる。「少女」で、玉鬘が劇的に登場し、「初音」は六条院の華やかな初春である。心晴れ晴れとする懐かしい巻。咳き込んで悩み、熱で弱っていたときも、源氏の音読、バグワンの音読という楽しい嬉しいことはとても中断できなかった。
2003 5・11 20
* 源氏物語しか日本が世界に誇れるものは何もないと、瀬戸内寂聴さんが喋っていた。わたしの源氏物語は、もう「胡蝶」の巻に達した。音読していても、きらきらしている。どうしてこう嬉しいのだろうと思う。
日本史の「武士」の巻も、刺激的に面白い。わたしの頭の中でいちばん手薄であった武士の台頭と荘園制の完成から、するりと院政と武家との関連へ移行して行く中で、たくさんなことを教わった。源氏に変わって平氏が台頭してくるカラクリも興味深く、やがて保元の乱に達するだろう。
2003 5・14 20
* 胡蝶の巻。夕顔の遺児玉鬘を六条院にひきとり、親がりながらこの姫をいとおしむ光源氏。「並び」の巻が展開する。
2003 5・18 20
* 西武線などで、今日伊吹和子さんから届いた「谷崎源氏」にかかわる長めのエッセイを読み始めて、あわや保谷で乗り過ごすところだった。まだ全部は読み切れない。
2003 5・19 20
* 夜前も明け方までものを読んでいた中に、伊吹和子さんの「谷崎源氏」観を読んでいた。読後感はあまり気持ちよくなかった。
知る人ぞ知る、伊吹さんは、谷崎の右筆なみに口述筆記にあたり、また刊行も多く担当した中央公論社の編集者であった。裏も表も「われひとり」知るという立場にいた。
そして、この人には、なにがなし、谷崎さん亡く、谷崎松子さんも亡くなられてからの、谷崎ないし谷崎家回顧に、かすかにだがシンラツな針の含まれてある気がしてならない。
一度ならず、伊吹さんの口から「退治る」といいう気負った言葉を聞いたことがある。谷崎ないし谷崎家の伝説を一つひとつ「退治して行く」というふうに聞こえたので、少なからず衝撃を覚えたことがある。
むろん、議論や著述はいろいろになされて良い。ただ、極めて「特殊な立場」にいた事実から出てくる裏付けを欠いたままの言説は、他者からの批議がまったく利かないぶん、論証という形が綿密に取られていない限り、まるでウソかも知れない私的「証言」の域を出ないことになる。万一、故意にいくらか悪意すら含んで過度にモノがいわれていても、いいえ、わたし一人はそれを本当に見ていた聞いていたと言われてしまうと、離れていた者にその是非は絶対に近く不可能になる。こういう特殊な証言だけで終始されては、フェアでないという印象も、ついつい受けてしまう。
世に言う著名作家の「付き添い編集者」たちが、作家の死後に、特殊な位置を利した見聞を書きまくってきた一時期来の風潮に対し、わたしは、いつも、いくらか眉を顰めてきた。それは、フェアなことだろうかという、その作家や家族たちの身になっての違和感が拭えなかったからである。慎みがないというか、一種の、暴露とはいわぬまでも、広義のキワモノに属していはしないかと思うのである。
伊吹さんの川端康成を書いたものでも、やはり、こんなにまで情緒的なほどの賛美でなされる証言だけでは、大きなものごとが脱落しているであろうなと、真っ当なクリアな作家論のために足場をゆめて怪我をさせてしまわないかと、かなり身を引いてしか読めなかったのを思い出す。
わたしは、谷崎と三人の妻を通して「神と玩具との間」で谷崎文学を検証したとき、関係者にはあえて会わなかった。話も聴かなかった。聞いたり会ったりのプラスよりも遠慮から出てくる筆の歪みや縮みの方を怖れたからである。
伊吹さんの「谷崎源氏」観は、暢達に書かれている。論旨も、わたしは、十二分に分かっているつもりだ。だが、やはり谷崎自身の機微に触れたトコロでの証言には、そうでもあろうし、そうであろうか、とも思うトゲトゲがチラホラ感じられ、それ以上に、語り口のうちに含まれた妙な針のチクチクに、ぜひない不快を催すモノの無かったとは、とても言えないのである。源氏物語でいえば、その辺の「わる御達」が少し唇を歪め、上つ方のわるくちともない悪口を、「そやろ、おわかりやっしやろ」と目つきで伝えてくるような、さすが京おんなのしたたかないやらしさを巧みに示し得ていて、これはよく謂えば「藝」であった。田中角栄の秘書が、角栄が死んだとなるといきなり世にはびこって角栄論を吹きまくっていた、あの高慢な能弁に少しくちかい「凄み」を、やや感じたと言っておく。
2003 5・21 20
* 田島征彦さんと吉田敬子さん共著の絵本「ななしのごんべえ」(童心社)を、一度読みすぐ二度読み、田島さんの繪をつくづく眺め返しているうち、何度も目頭が熱く煮えてきた。子供にも機銃掃射してくるような戦闘機や焼夷弾に怯えながら、純真に生きていた全身麻痺の幼い女の子と、友達の双子少年とが、猛烈な爆撃火災に煽られ、母親や祖父を見失ってしまう。男の子二人の押してくれる乳母車のまま、三人は炎と燃える川の流れに呑まれて行く、母を呼びながら。
ことばも堺の方言がいかされて簡潔に鋭く、繪はもう田島征彦流に怒号をあげて熱烈に爆発している。甲斐扶佐義の写真は少しもこんなふうに激越でも悲壮でもないが、視線の向け方は似ている。この作者たちは良い意味で同類である。
* 竹内理三氏の「武士の登場」文庫で五百頁を読み上げて、今度は石井進氏担当第七巻の「鎌倉幕府」へ進んだ。もう三千頁ほどを読んだことになる。いきなり石橋山においつめられる頼朝の登場。
2003 5・21 20
* 貝田の店で十一時近くまでおり、橋田先生の車でホテルまで送ってもらった。すぐ寝た。気が付いたら四時半、次が五時半。六時には床を離れて、七時の朝食まで「日本の歴史」の鎌倉幕府を読んでいた。石井進氏の記述がこれまたとっても面白く興味を惹きつけ、関東武士団のまるで日常生活へタイムスリップしてゆくようなのだ、ほかには読み物をもってなど来なかった。歴史がおもしろい。
2003 5・22 20
* おめでたかった席を離れて、もうそうは食べたくなかったが、すこしくつろいでから帰ろうと思い、「美しい人」のいる店をたずねてみると、やがての団体予約客を待ちながら、店内はまだ静かであった。きまりの肴を三種、お銚子一本、焼酎をストレートでコップにもらい、おめでたの黒服はぬぎ、インシュリンの注射もし、そして日本史を読んだ。「鎌倉殿頼朝」がぐいぐいと力をのばし全国の武士団を傘下に支配して行く歴史を、ボールペン片手に面白く、五十ページほども読んだ。親類や知人に、田所、館、門田、下司、郡司、庄司、別当、税所などの苗字の人がいる。どれもこれも武士たちに関わりの深い名前であった。日本の苗字はつくづく面白い。地名も。
「美しい人」は鉢物を出してくれたりお酒の酌に来てくれたり、めずらしく数回もわたしのところへ来て、にこやかであった。客のたてこんできたところで、帰ってきた。
2003 5・24 20
* その人の「母港」ともまた航海の良き「底荷」とも読める、追憶と述懐の長文を読み終えた。ながいものであったが、すらすら、ずんずん、引き込まれて読んで、こころよく終えた。まさに「自分史のスケッチ」であり、細部の具体をしっとりと描写して場面を豊かに再現していたら、文藝感は増したであろうが、そういうことをして立ち止まるより、ともあれ一気に吐きだしておきたい動機が強かったのだろう。この先で、いろいろに筆を加えてより豊かにしたいと思うだろうが、それはまたべつのモチヴェーションということになる。
出来不出来とかかわりなく、こういうスケッチは、記録ないし記憶の保存は、いったん筆をおいてみると、不思議な安堵に満たされるものだ、ああよかった、「間に合って」よかったと。
藤江もと子さんの「新宮川町五条」もそのような良いモノだった。すこし別物だが妻の、秦迪子の「姑」もそういうものであった。この人のこの「根」と題されたものも、本当は人目に触れてその良さと思いとをつたえ、そしてもう一度も二度も自分で読み直すべきもののように、わたしは受けとめている。
こういうふうに、書ける過去と書きたい思いを持った人は少なくない。これは、自分で自分につきつける「挨拶」なのだ。問いかけなのだ。それなら、この人達の場合、それへの自答がまだ先に残されてある。人生の弁証法のまず一揺れを起こしたようなものだ、人としての誇り高く。
* 関西は暑い日だとか。ま、そろりと参ろう。
2003 5・27 20
* 就寝前の楽しみに一つ加わったのが、揃物の浮世絵をじっくり眺めて、解説もゆっくり読んで、数葉から、一揃いほどずつ見惚れること。いまは第一巻の鈴木「春信集」にはまっている。かつては春信描く女の肢体の風に靡く柳の葉のようにほっそりしたのが薄弱に感じられ好まなかったのに、今では、その豊かに確かな線と、色と、趣向の自然とに魅了されている。どぎつい色を一つもつかわないのが静かな音楽のような効果をあげていて、それを生かしているのが、優美で清潔な刻線のみごとさ。
歌麿たちのような大首ものはなく、王朝以来の和歌的な好尚をたくみに換骨奪胎して、情景の把握には的確な知性すら感じられる。こんなに見事な物であったのかと、揃物の世界にまんまと捕らえられてしまった。この歳になっての嬉しい初体験である。
こういうところへ少しずつ進んできた契機は、やはり歌麿の線や色の美しさからであったと、今にして自覚する。
大安売りの八万円。しかし全十二巻あり、春信の巻を卒業するのに、まだ当分はかかるだろう。嬉しい買い物をした。佳い底荷を仕入れた。
2003 6・1 21
* さて、「鎌倉幕府」では、頼朝が死に頼家が殺され時政も死に実朝が殺されて公暁も殺された。源氏は絶えて、北条政子と義時がのこった。北条義時は源頼朝をしのぐほどの優れた政治家であったとわたしは昔から思っている。彼の前には後鳥羽院も鎌倉の有力なご家人たちも甘いものであった。義時、泰時という親子政治家は、天智・持統、光仁・桓武、また基経・時平、家康・秀忠・家光らの例に優に匹敵する底力と徹した遺志を持っていた。京都は、この二人に完膚無きまでやられた。
それにしても歴史とは、人の死んでゆく歴史なのだとつくづく思う。外戚を狙うときぐらいを例外に、どんな人が生まれても歴史はすぐには動かないが、人が死ぬと、忽ち人の世は揺れ動き、時に大いに乱れて、歴史家たちの筆が意気込む。清盛が死んで頼朝が大いに動き、後白河が死んで頼朝は征夷大将軍になる。頼朝が死ぬと機略縦横の源通親は暗躍し始め、実朝と公暁の二重暗殺により北条義時の強い基盤が出来、いずれ北条得宗の独り勝ち天下が出来てゆく。人が死んで行くと歴史が書かれるという真実は、見ようにより辛辣無比と謂える。
* 源氏物語読みは「常夏」近江君の笑いにくい笑いの場面へ今、夜はさしかかる。古典の「音読」がこんなに楽しく惹き込まれてゆくものだとは、迂闊にも久しく体験してこなかった。「須磨帰り」などわたしには覚えがないけれど、全編を音読できるかどうかは、はじめ、少し見通しの立たぬ気がしていた。だが初めて見ると、黙読よりもずっとおもしろくて楽しい。
2003 6・2 21
* 六時前に起きた。夜前は、承久の乱。京方が鎌倉の怒濤の寄り身に完敗するまでを、その歴史的な意義や評価を、つぶさに読み終えてから寝た。
そもそも、わたしが本気で小説を書こうとし始めたときの題材は、承久の変後の平家物語が世に懐胎され育って行こうかという波瀾の物語だった。それを「昭和の青年」自身の物語として書き出すことであった。保元の乱から承久の乱までが、いわばわが創作のホームグラウンドであった気がする。数多くは書かなかったが、小説では「清経入水」「風の奏で」「初恋」「絵巻」「月の定家」など、その結果・結実であった。
さて此処から先になると、南北朝頃まではややわたしは暗いし疎々しかった一時期に入る。なぜかなら、この時期では農村の構造、つまり荘園経済の現地・現場に密着しないとモノが正しく掴めないと感じているからだ。そこはわたしは手薄だった。だからこそ、今回、そこへ深く読み進んで行くのが、楽しみ。
* コクーン歌舞伎の大判の冊子も深夜に見直していた。いずれにしても法界坊は江戸の、夏祭浪花鑑は上方の、制外を生きた男だ、その世界だ。途拍子もない、侠客でもない、今の時代で云えばパトカーに追い立てられる暴走族のようなあぶれた暴れ者たちであった。もっとも団七も徳兵衛も、あの法界坊ほどの悪ではない、清々しい性根をもったあはれを生きていた。此の舞台では、そうだ。
中村勘九郎が、次ぎにコクーンであばれ芝居をみせるときは、もう「中村勘三郎」を立派に襲名していることだろう。この数年のうちに、扇雀丈の父君も「坂田藤十郎」という歌舞伎劇創生期の大名跡を嗣ぐ予定であり、大きな襲名が次々に期待できる。わくわくする。
* で、あまり長くは眠らなかった。
2003 6・4 21
* テハヌー(ゲドの妻)の、「アースシーの風」322ページのことば、「死んだら、あたし、あたしを生かしてきてくれた息を吐いて戻すことができるんじゃないかなあ。しなかったことも、みんなこの世にお返しできるんじゃないかって気がする。なりえたかもしれないのに、実際にはなれなかったもの、選べるのに選ばなかったものもね。それから、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものも、みんなこの世界にもどせるんじゃないかなあ。まだ生きている途中の生命に。それが、生きてきた生命を、愛してきた愛を、してきた息を与えてくれたこの世界へのせめてものお礼だって気がする。」
そのように心底から思えたら、わたしも完結できる。深く感じ考えさせられます。 兵庫県
* このテハヌーの述懐はよく記憶している。けれど、少しことばのアヤかのように、やや、わたしはゆるく感じ取った。死ぬという推移だか転帰だか新生だかわからないが、いずれにしても「お礼」といった表現にも少し甘やかな情感の先行を感じた気がする。「……たら」「完結できる」というのもマインドの分別心に感じられる。「完結」とは何事を云われているのだろう。つまり「死んでもいい」という意味か。死ぬのは死ぬのであり、「死んで」いいもわるいも無いように思われるが。
2003 6・4 21
*「青鞜」創刊号で、鴎外夫人森しげの「死の家」と国木田治子の「猫の蚤」そして荒木郁子の戯曲「陽神の戯れ」を読んでみた。どれもさしたるものではない。しかししげ女のも国木田のも、こんな人ではないかなあとかねがね予想していた、そのままの文品で、可笑しいほどだった。森しげの文章は、お話や、お話の仕様はともかく、推敲の利いたまことに「鴎外」風なのに思わず頬笑んだ。この「美術品」のような愛妻のために鴎外は添削や推敲の筆を惜しまなかったと聞いている。国木田の作は強いてというほど執心しないが、森しげの作品はこれも一風として電子文藝館「招待席」に持ち込んでいいだろうと思う。
荒木郁子の戯曲は、或る程度の時代の好みを表しているとも言える。あまり巧みではないが幻想劇ふう。他で秀作がえられるならともかく、女性の戯曲作品がそう多く採れるとは思えないので、得ておきたいと思う。
田村俊子の「生血」は、青鞜の創刊号作品ということも加味して、やはり断然優れていると思う。これは無条件で「招き」たい。
2003 6・4 21
* 中島敦「幸福」を入稿。この作品はわたしは初めて読んだが、同工異曲の掌説を、わたしも偶然だがはっきり一度か二度か書いている。
2003 6・5 21
* 昨夜で「鎌倉幕府」一冊をとうどう読み終えた。小さい字の文庫本の五百頁はなかなかの分量である。この一巻には重量感のある人物が何人も登場した。頼朝、政子、義時、泰時、時頼。法然、親鸞、道元、慈円。後白河院、後鳥羽院、兼実、通親。西行、定家、長明。運慶、快慶。すべてが死んでいって、時代は次なる「蒙古襲来の時代」にかかる。これは単に外敵が日本を襲ったという事件ではない。一つには日本の内政が思想的にも世界地理的にも実務的にも根底から動揺して、ついには鎌倉幕府を滅ぼした事件であった。執権北条時宗は国難を防ぎ得たものの、戦によって寸土をも得なかった。ご家人に恩賞をほどこす術を容易に持てなかった。貨幣経済でなく、土地という所領本位の封建制を求めた武家は、痛い目をみて、そこにまたも公家や非御家人による建武親政がつけいる隙を与えた。鎌倉幕府による「封建制確立の意図」は蒙古の二度の襲来により大頓挫したと謂えるだろう、それを鎌倉幕府の崩壊にまで持って行ったのは、決して後醍醐天皇や公家たちだけの力量なんかではなかった。
ま、その辺は、これから第八巻「蒙古襲来」をじっくり読んで納得して行く。おっそろしく面白くて、これに対抗できる小説なんて、「源氏物語」くらいのものだと、つくづく思ってしまう。源氏物語は「篝火」も過ぎて「野分」へ。
2003 6・6 21
* 鴎外夫妻の小説と、田村俊子の小説を一気にスキャンし、森しげ女の「死の家」を校正した。その前には梶井基次郎の小説を校正し入稿した。梶井の「のんきな患者」は、二三ヶ月後には亡くなる前の、現世に足を置いたいわば臨死体験のような作品。そう思えば「のんきな」という表題が冴え冴えとした意義を放つ。
この作品を吉田健一は高く評価していたが、この梶井作品の最期にあらわれた独特の饒舌体あるいは綿々体は、明らかに吉田の文体に乗りうつっているとわかり、興味津々。
森しげの作品は「青鞜」第一巻第一号に掲載された。鴎外夫人は与謝野晶子等とともに青鞜の賛助員であった。作品はたいしたものではないが、筆致に鴎外の香りが載っていると言える。こういう人であろうなあと想像していたのを、あまり裏切らない作品であった。招待するに足りている。
2003 6・7 21
* 森鴎外の「安井夫人」を校正し始めたが、時間の経つのも忘れ、吸い込まれるように一字一句を追っていて、嬉しい。うまく説明しきれないが、こういう嬉しさは何から来るだろう。筋書きではない、やはりこの題材を薬籠中のものにした作者の「行文の呼吸」に吸い取られてしまう嬉しさと安堵・安心・信頼なのだろう。鴎外の史伝のなかでもこの作品はいかにも平淡温厚で、露伴晩年の自在な語り口ともさすがに共通する魅力に溢れる。漢学にも親しんだ漱石は、ついにこういう散文は書くことなく、漢詩だけをのこした。鴎外は漢詩を嗜んだということはなく、むしろ時に和歌を詠んだ。滋味掬すべき文学の静かな魅惑。こういう作品がまた世にあらわれることは有るのだろうか。二本とも入稿。
* 芹沢光治良作「ブルジヨア」の、妻が初校してくれたのを、わたしがまた読み始めた。芹沢が三十四歳の小説処女作であり、正宗白鳥と三木清が激賞した。初めて読んだとき、手応えの厚いしっかりした作品だと感じた。その後に幾つかを読んだが、この作品はよほど手堅くまた美しさに底光りするものがあるという思いを、更に強くしたのを覚えている。「死者との対話」を躊躇なく最初に採ったものの、次は此の処女作をと願っていた。
2003 6・8 21
* 元寇といわれた二度の蒙古襲来の始終を、夜前は三時半まで起きて夢中で読んでいた。さまざまなことが頭を去来した。
日蓮の法華とは何だろう。二度も元の使者を斬った時宗の禅とは何だろう。軍備による防備をアトにしても、神社仏閣への祈祷を第一とした朝廷や幕府を、包み込んでいたあの呪術的な「中世」心理とは何だろう。
昨今の「有事」問題とも絡み合わせて思うと、やたらややこしくなる。
小泉首相が北朝鮮との間での平和的交渉を英国首相に説いた際、英国首相ブレアは、けっこうですね、ですが平和的に「何を・どう」交渉するのですかと皮肉に反問され、ただ絶句してきたと聞いている。「口で言うのは簡単だが」というフレーズを乱発して、事は先延ばしにする観念タイプの小泉の弱点が露出した。それが、実は、今の日本外交の欺瞞であり弱点なのだが。
2003 6・9 21
* 朝一番の宅急便で、在外秘宝の「肉筆浮世絵」が巨きな一巻本で帙に入って贈られてきた。送り主は同僚委員の森秀樹さん、深く感謝。
ゆうべも揃い物の春信集にずいぶん遅くまで見入っていた。これは十二巻有るその第一巻であるが、到来以後まだ春信に堪能している。浮世絵はむろん江戸の錦絵にはじまるものでなく、京都や上方にも優れた作者は先行していた。刷り物で江戸錦絵として売り出した最初の天才的な画家が鈴木春信であったということ、それ以前の肉筆浮世絵をも得て、おおかたの首尾も尽くせるのである。豪勢なプレゼントに感激し恐縮しているが、嬉しいと、一言に、やはり落ち着く。
* わたしは大体が身近派で、なんでも手に届くところに置いておこうとするから、およそ畳半畳ほどの座席をあまして手の届く限りのところへものが積んである。穴熊のようである。本なども、きちんと飾るように置いておくというそんな余地もすくなく、読みかけの本が寝る枕元にも今で二十冊は大小積んである。本は読むためにあり、読まない本は無用だとすら思っているから、どうしてもこうなる。書庫には棚はおろか通路にも山積みで奥へ通るのが運動になるほど。こんなにしておいても、わたしがいなくなれば倅には寶のもちぐされで処分されてしまうのかと覚悟しているが、晩年の要件の一つは蔵書をさらにさらに精選しておくことかなあと。
戦時中に育っているのでモノが捨てられない。捨てて良いようなモノはあまり残していないつもりであり、それでも、捨てるか処分するかの作業を頑張って実行すれば、もう少し家のうちにスキマができるだろうか。
2003 6・11 21
*「この一編を御遺族の皆様に捧ぐ」と言寄せて、京都市防衛部軍事課が、「京都市」が刊行した『遺族讀本』なる一冊を森秀樹さんに戴いた。本扉には「昭和十六年出版」『轉迷開悟』「友松圓諦」「京都市版」としてある。文末に「昭和十六年九月二十一日」脱稿のことが見えるので、真珠湾攻撃の二月半ほど前の著述である。印刷は「昭和十六年十二月二十日」で刊行は「廿五日」、真珠湾奇襲と米英への宣戦布告に遅れること四日ないし旬日である。わたしはこの時、馬町にある京都幼稚園の園児であった。翌年には国民学校に進んだ。
京都市独自の出版か、各市町村で同じこれを刊行したのか、知らない。そして実はまだほんの一章をさっと読んだに過ぎない。必然戦死して行くであろう兵士たちの遺族や関係者のために、「死なれて死なせて」の静かな覚悟の有り様を著者は諄々と言葉柔らかに語り継いでいるモノのように察しられる。
こんなものをこの時期に、すばやくも製作していたのかと感慨深い。或いは時局のことは超え、仏教学者として「轉迷開悟」を静かに説かれていた文章を、時局に相応したものとして当局が転用した「遺族讀本」であったのか、識らない。読んでみたい。
2003 6・11 21
* 田村俊子の「生血」は秀作の多いこの女流の雄には代表作の一つとは言えないかも知れないが、粘りづよくしかも停滞しないで弾んだ肉のように書き進めて行く肉声が、よく響いたある種凄みのある短編である。青鞜創刊号を飾って評判を呼んだ点では一つの問題作と言える。「女」の肉身の声が、浅草ちかい町を男にくっついてへめぐり歩く。女は男に「蹂躙」されてきたのである。暑苦しく切なくて息をのむ筆致とも。田村俊子を最も学ばれた一人が瀬戸内寂聴さんかと。ともあれ起稿し校正し、いましがた入稿した。
2003 6・11 21
* 昨日戴いた「在外秘宝」の『肉筆浮世絵』は一度に目を通すのが惜しくて、昔風の物言いをすれば「たまひたまひ」観ている。素晴らしい。図版の縮尺の度合いは肉筆画では大きくならざるを得ないのが残念だが、工藝要素の濃い版刷の画質とはちがう。
嬉しいのは、室町中末期以来の職人尽繪ふうの画態から、花下遊楽図や洛中洛外図や風俗画図等々の歴史的な流行作・標準作の逸品が、かなり揃って収録されていて、安土桃山期を経て江戸初期に流れ込む風俗画の流れが、克明に推知できることだ。
まだ冒頭の五分の一も眺めていないけれど、この編集と収録の態度なら、間違いなくわたしの手に入れた「春信」や「清長」らの揃物へも「浮世絵美術史」として連携するであろうと期待が持てる。その辺が確認できたら、いつか読もうと買ってある岩波文庫の「浮世絵類考」もやっと読めるだろう。ずいぶん以前、古本で手に入れておいた。浮世絵を閑却してはなるまいと考え始めていたからだ。
なににしても持ち上げて五キロできくまい豪勢な本を頂戴し、嬉しいも嬉しいが恐縮はそれ以上である。が、やっぱり嬉しい。
2003 6・12 21
* 出掛けるどころか蒸し暑さにも負けて、夕過ぎるまでの二時間半ばかりを寝て過ごした。不可解な夢を見ていたらしいが覚えない。夕食後、いよいよ中世の藝能にふれた歴史へ読み進んで、いまさらに「時衆の徒」の存在意義を納得した。
2003 6・13 21
* このところ揃物浮世絵は「鳥居清長」を楽しんでいる。「鈴木春信」が柳の葉のそよぐような美人画なら、清長は超八頭身の「群像」に大きな魅力がある。海外へ優秀作の殆ど、全部に近く、流出したと言われる理由は、そのすらすらっと高く延びた人物の丈高さに有るかも知れない。
それだけではない、何と云おうか、刷絵のことであるおおかた原寸大の小画面に、数人、時にそれ以上の美女や美男を豊かに描き込んで、いささかの混雑もないみごとな構図の妙才に、感嘆を禁じ得ない。色彩はどぎつくなく目にしみる柔らかな美しい配色で、情景に、生活感と背馳しないしかも俗に流れない雅な趣向があって、浮世絵にはむしろ通有の不自然さがあまり無い。安永天明以降の江戸錦絵のなかで、他に譲らない確乎とした地歩を保ち、見飽かせない魅力、ファシネートな力感に満ちている。
寝床で、重い大判の本を、両腕高くさしあげまるで腕力を鍛えるようにして、三十分ほどに、数枚から十枚足らずの浮世絵を、図解の文と合わせて楽しむのである。これまでのわたしのなかにやや希薄であった世界が、ここちよく流れ込むように移動してくる。浮世絵に関してなにの欲もないので、ただ楽しめる。
* 鎌倉末期から南北朝にかけて農民の力が、村の、「惣」の力が増してくることは、歴史の通念として心得ていたけれど、水田での稲作主体で来た農村、その大方というより全部が、錯綜する力関係・支配関係で「荘園」化され収奪・支配されてきたのだから、有力農民だけでなく貧しい一般の農民までが歴史的に或る自立の力をもてるには、よほど水田耕作以外の要因が必要だろうにとは朧に感じながら、そこでただ立ち止まっていた。
水田でなく、従来軽視され支配のやや埒外に置かれていた「畑」「畑作物」それが下層農民にも少しずつ現金(銅銭)収入を得させていたこと、それが市の展開や、商人、工人の展開と協働関係にあり得たことなどを、具体的にいま「日本の歴史」第八巻に教えられている。
こういう農村の構造的な歴史は、はでな政治の表面史にくらべ、ついつい興味や関心から漏れ落ちるところだが、村や惣に入り込んでその構造を理解しない限り、たとえば藝能の展開にしてもつかみ取れるものではない。
おもしろく読み進めていて、やがて後醍醐による「天皇御謀叛」が迫り来る。
* 光源氏は愛恋の思いを押し殺して、いつわりの娘、じつは養いの娘である玉鬘(夕顔の遺児)を、実父藤原氏(往年の頭中将)にそろそろ引き合わせようと心づもりしている。六条院物語が、けだるいほど満たされた栄華のかがやきのなかでゆっくり進んでゆく。音読は続いている。
2003 6・16 21
* 今日、ドオンと大きい宅急便が来た。なんとなんと完結した猪瀬直樹著作集全十二巻が、まるまる贈られてきた。理事会のあとの例会に珍しく暫く残っていた彼と、ちょっと愉快に話し合った序でに、「ペン電子文藝館」の二作目を頼むよと言うと、「いいの、また出しても」と。そして此の大部の著作集が。
読みたいと思っていた「ミカドの肖像」も、感心した「天皇の影法師」もみんな揃っている。「日本の歴史」が終えたら全部読んでみようかなあ。梅原猛著作集もむかしに全巻貰っていて、ぼちぼちと読んできたが。猪瀬氏のは、なにはともあれ一つ選び出さねばならん。本人はいま日本中でいちばん忙しい男の一人であるから、仕方あるまい。
* 鏡花をはじめ近代文学を研究している同僚委員の真有澄香さんからは、明治の閨秀清水紫琴の「したゆく水」「こわれ指環」が送られてきた。紫琴は才能のある女流であったから、ぜひ招待席にと願っていた。ただ女学雑誌に初出の作品など、むかしはそうであったが総ルビで、スキャンするのがとても難しい。だが、なんとかしたい。
真有さん自身の「毒婦」といわれた島津お政にかかわる「教育」論考も、うまく改稿して貰い掲載したい。仕上がりが楽しみだ。
2003 6・18 21
*「湖の本」の久しい読者でもある東洋学園大教授の北田敬子さんから、同僚教授神田由美子さんの著書を贈られた。英京倫敦膝栗毛『二十一世紀ロンドン幻視行』とある。神田さんは漱石学者である。と書くと作品「倫敦塔」などと結びつけてあらましを推察してしまう人もあろうが、この本のユニークなのは、全部が、彼の地から北田さんらへ送られつづけた「メール」で編まれてあること。横組みの、メールそのままに仕上がっていて、そしてそこに著者の才気や知性のもたらすまこと「趣向と自然」が結実している。読んで楽しく、大いに啓発もされる。倫敦のことでも漱石のことでも、著者自身のことでも。
こういう「メール文藝書」が必ず成るであろうと予測してきた。一つ一つ書き下ろされたエッセイ・随筆と、メールとは、言うまでもなく性質がちがう。そのメールならではの性質が文藝書としての新しいジャンルを(紙の書簡文藝とはまた別に)成りたち得ることを予感しつつ、わたしは、この「私語」にも、意図していろんな方たちのメールを厚かましくも再録させてもらいつづけた。名張在住の「囀雀」さんの短いメールを莫大にわたしは保存しているが、また一つの文藝をなすであろうがなと見てきたのである。
神田さんの本は、一つのとても優れて佳い先魁である。こういうものが、また次々に生まれくるとき、わたしは、また新しい別の角度から推薦される「ペンクラブ会員」たちの可能を想うのである。神田さんにも北田さんにもわたしは日本ペンクラブに入って欲しいと願っている。北田さん等はかねてパソコンによる言説表現の問題を学問的に追究してきた学問的な実績もある。大きな刺激を与えて欲しいし、示唆もほしい。アップ・トゥー・デートな学者である。
2003 6・18 21
* 『蒙古襲来』第八巻は、両統迭立、元弘の変、建武親政、楠木合戦、六波羅探題崩壊、鎌倉幕府滅亡で、巻を終えた。これらはもう子供の頃からお気に入りの歴史劇であり、ことに人の名は多く諳んじて、血を沸かせた。
楠木正成が、いかに正体不明の日本一著名な忠臣であったかも、この巻担当の黒田俊雄氏は克明に教えてくれる。
だが、この巻の眼目は、なにゆえに北条得宗独裁の鎌倉幕府が、脆くも全滅に到ったか、だ。担当の記述者はそれを根底の社会基盤からつぶさに解説してあまさなかった。御家人制度を幕府存立の柱と立てていながら、それを徹底的に脆弱化することで独走し得た得宗専権政治の撞着、根のあやまり。それをまた地蟻のように執拗に食いつぶしていった「悪党」跋扈の全国的情況。黒田氏は十分な説得力をもって、個性的な肉声も多々交えながら解き明かして行く。とても面白く興味深い一巻であった。あの大部な『太平記』をまた通読してみたくなった。おお、おお。読みたいものがイッパイだ。永い寿命を願わねばなるまいか。
さ、次はその『南北朝の動乱』まさに「太平記」の時代に入る。持明院統の京都、大覚寺統の吉野の対立。そして足利尊氏・直義・高師直らに対する護良親王、新田義貞、楠木正成、高畠親房・顕家らの死闘の世紀。源平盛衰記の昔と太平記の時代とは、わたしを夢中の歴史好きにした二つの原点であった。そして、古事記の世界。
2003 6・21 21
* 立教大学名誉教授の平山城児さんから、川端康成にカンする本を頂戴した。こまかにいろいろ触れて、読みやすくも興味深くもある研文書院刊の、佳い本だ。谷崎の「細雪」が「山の音」執筆への動機になっていたかというような興味深い指摘があったり、総会屋として知られた人物と川端家との縁は、菊池寛を介していること、それがまた川端晩年の選挙応援等へ乗り出した機微にも推測が利くことなど、とりあえず読み出したところが、みな面白かった。すいすいと読めて嬉しい。
数日前には、小林保治氏の「唐物語」が文庫本になったのを頂戴した。単行書でも以前に戴いてある。おもしろい説話集になっている。研究書というよりも注釈・評釈で、むろんそれが本当の「研究」成果ではある。グループの協働の成果ではなかったか。
2003 6・22 21
* 源氏物語は「藤袴」巻に入り、夕霧の禁じられた幼な恋がそろそろ動いて行くだろう。実父内大臣に引き合わされた新尚侍玉鬘の運命も大きく変化して行くだろう。六条院物語は底ぐらい深みに流れ込んで行く。
そして「日本の歴史」は建武新政の後醍醐失政の根底が、暴かれつづけている。子供の頃に南北朝の激動を耽読したときは、むろん南朝贔屓(というよりあの頃は吉野朝廷であったけれど、)でいながら心の芯のところでは、絶対専政志向の後醍醐にも、新田義貞にも、北畠顕家にも、護良親王にも、楠木正成の最期にすらも、「あかんやっちゃなあ」という嘆息を禁じがたかったのを覚えている。足利尊氏や直義に好意をもつことはこれまたむろん無かったのだけれど、尊氏側の取り回しの確かさや素早さには、後醍醐等のそれと比べて、やはり頷くしかないものは感じていた。尊氏否認というほどの思いにはむしろ成れなかったし、尊氏を「容認」したというだけで爵位も大臣の地位も棒に振ったあれは中島久万吉であったろうか、の話などにもイヤな気分であった。
例の日野資朝らの「無礼講」にはじまる正中の変のころから、後醍醐は宋学や宋の政治に真似ようという姿勢が露骨であったが、いかにも宋國事情と日本國の現状とを無思慮に混同した真似事であり、失敗は火をみるより明らかであった。南朝贔屓でありながらわたしの同情は終始楠木正成の遺児たちの、菊池武時の遺児たちの、吉野の遺臣たちの北への執拗な抵抗戦の方に傾けられていたと思う。判官贔屓のようなものであった。尊氏の、また孫義満の存在は大きく感じていた。今度の読書でわたしは足利直義の実力にも認識をあらためることだろう。
昭和にも及んだしつこい南北正閏論のいわば天裁にも、一抹の不審をわたしは感じないではなかった。北朝筋の天皇のもとで、南朝の歴代を認めた。美しい話というよりも、やはり反動的な国体政治に利されただけという印象が濃いからだ。わたしたちにすれば、歴代の通し方など関わりのないことだ。歴史は歴史である。
建武親政がいかに無残に潰えるしかなかったか、この理解は、のちのちの推移のためにもたいへんに大事なカンどころだと分かっていつつ、妙に苦々しい。平家物語は繰り返し読んで涙するのに、太平記は(浩瀚なせいもあるが)読み返そうという根気が生じない。
*「鳥居清長」の巻を堪能した。春信も清長も、十分楽しませた。いよいよ次は喜多川歌麿の二冊の初巻に入る。
* 疲れて衰えがちな気根を潤してくれるのは、これらの読書のさらに根の所で、毎日毎日胸に響いてくる「和尚」バグワンの声と言葉である。これほど透徹したものを伝えてくれた人はいない。もうわたしにはあらゆる聖典が事実問題として無用である。なぜなら聖典を読みとる力など、今のわたしに有るべくもないから。enlightened=悟りを得た人にだけ聖典は微笑とともにうなずき読まれ得るもの、そうでない者には却って読めば読むほど自身のエゴを助長し、いわば抱き柱に固執させるだけだとバグワンは云い、ティロパも云う。その通りだとわたしも今は思っている。聖典に読みよりかかる人達の切実さを否認しないから「およしなさい」とは決して云わないが、聖典を読めば救われるなどということは誰が保証しうることだろう。
わたし自身、例えばバグワンの言葉に耳を傾けていたら「悟れる」などと、つゆ思っていない。わたしはわたし自身に目覚めて行き着く以外に、どうにもならないだろう。バグワンはわたしを静かにはしてくれる、が、それで至り着くのでもなく、そもそも至り着くべき目的地などが遠くに存在しているわけがない。目的地が在るとすれば、それは既に「わたし」のうちに在る。だが、それが──まだまだ。
2003 6・25 21
* 中島俊子の「女學雑誌」明治廿四年一月一日号の「社説」と所感を、総ルビ原稿からスキャンし校正し、入稿した。疲れた。俊子が、ある時期まで婦人の褒められていた時代があったのは、男が内心婦人を小児扱いして軽侮心を持っていたからで、婦人にも自覚と地位が生まれ初め、女学生も励んでいる今、むしろ逆にたえず非難されて行くような時代に入るだろう。それだけに「女学生」は心して努めたいもの、未来に必ず光輝ある婦人の前進時代は来ると期待している、と明言しているのが、いかにも明治初年の湘烟女史らしく興味深く読んだ。入稿して委員校正中の樋口一葉「十三夜」は明治二十八年の作、俊子の所感の頃一葉はまだ小説家に成ろうかどうかも漠とした、そんな早い時代のことである。「女學雑誌」を抜きにして日本の近代文学曙光期を語ることは出来ない。北村透谷も島崎藤村も此処で活躍し始めて「文學界」創刊へ到達していった。中島俊子はこの雑誌刊行社員の、女性筆頭の大株であった。
2003 6・26 21
* 夜前から二巻有る「歌麿」の初巻をひろげているが、俄然大首の世界であり、それはまた緻密に美しい衣裳表現の魅力世界でもあり、春信や清長よりも大胆な女体表現の世界でもあり、ドキッとする楽しさに溢れている。ゆっくりゆっくり楽しみたい、毎晩寝入る前のお楽しみである。
「日本の歴史」第八巻は、後醍醐天皇崩御。稀有の博学天子でもあった。自信に溢れた失敗家であった。吉野での崩御は、いまなおずしりと胸に重い悲痛をのこすから、凄いというべきか。
2003 6・26 21
* 由起しげ子の「本の話」は嬉しくなるほど秀作で、読み進んで行くのがとても嬉しい。かなりの長編であるが、ぜひこの秀作、文藝館に欲しい。波瀾に富むのでもない地味に運ばれていく一人称の語り物であるけれど、小説の滋味に十分富んでいて、ほうっほうっと息をつくように頁から頁へのうねりように嘆賞の息が漏れる。わたしはこの芥川賞作家の作品を読むのは初めてで、その力に触れるのも初めて。とても嬉しい賞与でももらったような気持がする。
校正は、紹介者である牧南委員とうちの妻とがそれぞれにしてくれていたので、わたしは通読し常識校正しているわけだが、読まされてしまいそっちの方はかえって不安なくらい。
まだ、中途であるが、この作品は文学好きには、期待して貰っていい。
2003 6・28 21
* 由起シゲ子「本の話」を読了し、すでに内諾は得てある著作権者に、正式に依頼の手紙を用意しておいて、入稿した。
だいたい物書きは殊にそうだが、根に反社会的な強い我執をもっている。日本の近代文学を動かした力は、社会によって酬われない知識人の、貧苦や不満や焦燥や無頼や怠惰の中から多くの傑作が書かれた事例が多い。鴎外にすらそれがあり、漱石も鏡花も啄木も、大なる不平家であった。「不平」というものの無くなることを懼れた短歌を啄木の友であった歌人はのこしている。少なくも戦前までの作家は、体制や社会には背をむけることをエネルギーにしていたとみていいだろう。戦後でも、大きくは改まらなかった。
ところが、戦後すぐに神近市子らの後押しから小説家に成っていった由起しげ子は、まことに普通の健康な「私民感覚」のまま創作した。稀有のことであった。昭和二十四年に芥川賞を受けた「本の話」も、そうである。佳い小説である。
ところで最近は、まるきりサラリーマン重役のような文壇の「大家」ぶった人が増えてきている。それでも大方の物書きは「野党」である、と思いたい、が、じつは、なかなかそうでもなくなっているから、ややこしい。与党感覚の物書きの方がはるかに多いような気がするから、ときどき怖くなる。
それは普通の「私民感覚」なんかではなくて、要するに政治の意識の麻痺した一種の「」文士貴族主義」のようなものなのだ。この頃では政治家になり行政の首長になっている物書きも出来ている。組織に馴染んでいる。そして二言目には「金」を稼ぎたいと来る。質より量の時代だ、貧乏の話はみな嫌いなようだ。
由起しげ子はあくまで普通の私民作家であった。しかも、どことなくおっとりとしていた。そして真っ当に普通であった。
2003 6・29 21
* 夜は夜で、ハンサムなケビン・コスナー投手の「完全試合」を、手に汗して観たが、これもヒロインの品のいい美貌に心惹かれるから、ひとしお映画も緊迫したのである。こんなぐらいで、ストレスなんか飛んでゆくのだからラクなもんだ、有り難いことだ。おまけに妻が差し入れの日本酒のそばには、頂戴したすこぶる上等の笹蒲鉾がある。
それでも、きちんきちんと機械の前に戻っては仕事、仕事。もう深夜である。
これから、バグワンと源氏物語のそばへ行き、寝床へ入ってからは「南北朝」と「歌麿」とを楽しむ。
2003 6・29 21
* 正宗白鳥の戯曲「人生の幸福」をわたしは初めて読んでいる。科白の一句一句を起稿して行きながら。どんなことが書かれているのだろう、兄と弟と腹違いの妹がいる。妹はまだ姿を見せないが、兄と暮らしている。その兄が弟を早朝の戸外に迎えて、あの妹は生きていない方が幸せではないのかと弟に話しかけている。妹は十九、美しくて病気でもない。
どうなるのだろう。著作権者から、またお許しが出るかどうかは分からないが、起稿したいし、読みたいのだ。
2003 7・1 22
* 玉鬘は、髭黒大将にもって行かれた。実父内大臣は政略的には、娘玉鬘の宮仕えよりも、またみやびおの蛍宮のものになるよりも、まして光源氏の曖昧な愛人にされてしまうよりもこの方が良いと考えている。光源氏はなんとかガマンして清い間柄でいたものの、こともあろうに髭の大将に攫われるとはと、未練にたえない。
玉鬘本人は、いちばんひどい籤を強いられた気がしている。いまさらに、匿まい養ってくれた親、亡き母の恋人であった光源氏のすばらしさに、目も眩むような悔いを噛みしめている。尚侍として宮仕えしていれば、源氏と瓜二つ、彼の秘め子である帝の愛を受け容れることも可能だった。風流心にとんだ蛍の宮にもじつは心を惹かれていたのに。まして髭の大将には心の乱れた正妻があり、紫の上の異母姉ではなかったか。
ドラマティックな佳境に入っていて、やがて本題は夕霧と雲井雁の恋遂げるところへ流れゆくだろう。
音読のよろこばしさを深夜にひとり、楽しんでいる。せいぜい多くても数頁、ふつう二三頁ずつ読んできて、今は「真木柱」の巻。母は心乱れ、髭の父にも見捨てられる可憐な少女がもうすぐ姿をみせる。
* 連夜、歌麿の繪を数点ずつじっくり眺めている。解説もしっかり読みながら。同じような顔ばかりに見えていて、なかなかそうではない、見過ごしがたい描き分けの妙味が伝わる。歌麿の魅力は、女の「顔」をひきたてる衣裳と髪との表現、その精緻・精微・適切に的確なことを楽しむだけで、小一時間に数点。それ以上は満腹する。ただの美人画でなく、歌麿は女達の生活の場を、時空間をいろいろに広く懐かしく、よく見ている。それと子供をみごとに良く描いて女達をたしかに引き立てている。一枚一枚に大いさと謂いたいほどの深みの迫力があり、流石にと感嘆久しゅうしている。
2003 7・3 22
* 六時前に日比谷にもどり、一人で「福助」に入って白鷹二合徳利、石垣貝、鳥貝に、白身のコチを。そしてお任せで握って貰いながら、カウンターであったけれど、おもしろく自作の「猿の遠景」を読み進んだ。「蘇我殿幻想」をミセスに連載したときも、やすやすと書いたが、あの場合はそれでも毎月のようにアチコチへ取材の旅をした。「猿の遠景」は一度東博へ繪を見せて貰いに行った以外は、まるまる、いながらにして書いた。なにを新たに調べたのでもなかった。ああいう著述の快味には独特の柔らかみがある。
さ、帰ろうかと思いつつ、目の前なので、やはりホテルのクラブにあがり、今晩は「山崎」ばかりを結局たっぷり三杯。エスカルゴとパンを少し。送られてきた或る読み物大家の短編を二つ三つと読んでみた。これは泣きたい気分であった。
今から思えば、濃いコーヒーも飲みたかった、が、思いつかなかった。
帰りの地下鉄では、室町初期の農村の変貌、武士団の一揆、農民の一味神水、守護領国制の浸透拡大などを、南朝の余燼などを、どんどん読んだ。この方が遙かにリアルに興味深い。
2003 7・3 22
* 露伴の文中に惹き込まれている。豪雨の中、山深い仙郷ふうな古寺に少し年かさな書生が一人たどり着いて、雨の中で瀧の音に気付いている。鏡花の「高野聖」や「龍潭譚」や「沼夫人」や「夜叉が池」などを思い出すが、そこは露伴世界のこと、趣は変わってくるだろう。「幻談」よりは口調がはずんで、若い感じ。何が現れるのか、題が「観畫談」とわたしの好みゆえ、やはりちょっと他のことは措いても先へ進みたくなる。このスキャンはよく取れていて大いに校正がラク。
2003 7・7 22
* 第九巻「南北朝」読了、いやいや、この巻はほんとうに麻の如く乱れた世の有様に終始し、主上御謀叛あり、悪党あり、倭寇の跳梁あり、南朝の衰運と後南朝の抵抗あり、そして尊氏死に、三代義満による南北合体と北朝の誓約違反があり、義満の皇位簒奪・対明屈従があり、てんやわんやの降参、帰参、裏切り、反逆の連続の中で、確実に農民が商・職人の要素もとりこみつつ、力をつけて行く。絵の具のかき乱れたパレットを眺めているようであったが、いろいろに頭の中で整理されたところもあった。継いで「下剋上の時代」の巻は、ますますやたら厄介になり、守護の力が困惑のなかで突き崩されて行くだろう。
2003 7・8 22
* うって変わって暑い。冷房しないでいたら、機械部屋は湯のようになった。
そんな中で門玲子さんの「江戸女流文学に魅せられて」を読み返し、入稿した。
この人が大垣の江馬細香のことを知ったのは、偶然であった。細香は頼山陽との無上の恋で知られる稀有の才媛であり、江戸女流文学の華であるが、門さんは一人の読書好きな主婦として細香のことに心惹かれ、つい近隣の人であったと知ると、故居を尋ねていった。そこには子孫にあたる人の住まいがあり、来意を告げて墓所も教わり、また沢山な遺品も見せてもらえたが、この漢詩人の漢文も消息も少しも読めなくて当惑したというから面白い。四十の、何の経歴もない普通の一主婦であった。だがそこから門さんは奮発した。金沢市の泉鏡花市民文学賞、また毎日出版文化賞にいたる、この未開拓な分野での先駆者的在野の研究生活が始まったのである。
わたしは、ごく早い時期から門さんの仕事の声援者であった。日本ペンクラブにもいち早く推薦した。湖の本は最初から応援して貰ってきた。ご縁は久しいのである。
門さんのような、在野の、またアカデミーの中の、研究者、学者、また著名な作家、詩歌人、エッセイスト、他分野の藝術家たちの、驚くほど大勢に、わたしの「湖の本」は永く支えられている。大きな大きなそれらは支えであり、また誇りでもある。あの人もこの人もと数え上げれば、功なり遂げた人の他にも例えばペンの会員に推薦して当然な人達が数え切れない。そういう人達にわたしの「文学環境」はかなり色濃く染められていて、それに拘泥はしないがそれにひるまない仕事はしなければならない。有り難いことだと思う。
門さんのエッセイに、清々しく目を瞠る興趣を覚えた。また一本の良い樹を植え得たと嬉しい。
2003 7・11 22
* 『猪瀬直樹著作集』全十二巻(小学館)は、力作が揃っていて、著者の勉強の真摯であることをよく証している。一々の出来映えにむろん批判や厳しい批評の在ることも承知しているけれど、凡百の着眼でなく凡百の勉強でないことは認めねばならない。猪瀬は著作に当たって概ね極めて真面目で、包丁さばきも凡でない。
これで文章にもっと詩的なセンスがありよく練れていたら、文藝として映えただろうに、その辺は、どうしても概して「説明的」に論じていて、ノンフィクションの悪しき通例に無意識に準じているのが惜しい。
そのかわり、分かり佳い。かつてペンの前会長梅原猛氏に献じた、優れた「非文学」の評、「猛然文学」の評に、かなり似かよった長と短とであるが、長の値の方がずっと大きいと、わたしは、猪瀬の著作は大方支持している。昨今の政界に潜り込んでのねばり強い主張にも、猪瀬直樹らしさが良く発揮されていて、わたしは喜んで声援している。あれで滑舌が明晰に美しいと、もっと人を説得出来るのに、と、惜しい。
但し政治的なものの考え方では、時として、かなり強く衝突することも無いではない。意見の対立するときは、委員会でも、遠慮なく両方で大声を挙げ合うことにしてきた。それでいいと思っている。
で、(まだ全巻読んではいないので断定しないが、)猪瀬の著作のうち、わたしの殊に愛読し支持してきたのは、第十巻『天皇の影法師』であり、この一冊、わたしにはたいへん好もしい。面白い。再読三読に優に堪えるのである。印象も雑然を免れ、贅肉をためていない。今度その中から「元号に賭ける」の章を、つよく著者に乞うて「ペン電子文藝館」に掲載しようとしたのは、他の章もみなそれ以上の力作揃いであるけれど、量的にも、内容の面白さも申し分ないと見たからである。
今、妻の初校のあと、更にわたしも原稿に照らして校正し通読しているが、著者の息づかいは乱れることなく、たんに「昭和」の問題に止まらない歴史への深い示唆に富んで、興味深い。
ちなみに此の単行本『天皇の影法師』の構成は、プロローグに続いて「天皇崩御の朝に スクープの顛末」「柩をかつぐ 八瀬童子の六百年」「元号に賭ける 鴎外の執着と増蔵の死」「恩赦のいたずら 最後のクーデター」そしてエピローグが付してある。全編一連、しかも各章独立して楽しむことが出来る。通俗な、講釈を書き換えたような読み物よりも、ずっと本格に面白い。
2003 7・13 22
* 猪瀬論考は一気に読み抜いて、入稿した。論考に厚みがありあらためて感銘を受けた。
中に一点。こういう問題がある。猪瀬の文を少し長く引く。
* 吉田増蔵の語るエピソードのなかにこういう話がある。
「先生は平生(へいぜい)身を持(じ)すること極めて質素で、役所に於ける弁当は十銭の焼芋にて、半分は之を給仕に与え残余を自ら食せらるるのであるが、食堂とて至って狭き室にて焼芋を囓じりながら事務官、編修官を相手に色々の話しに花を咲かせるのである。或る時天とかいう問題に触れたので、私は儒学の天という字には自然界の天と宗教的の天と哲学的の天との三種の意義あることを説明した。此の問題に就いて哲学的の天、即ち道徳的の天を主張して、宗教的の天即ち神霊的の天に反対する人があったので、先生は徐(おもむ)ろに僕は矢張り神は有るものにして置きたいと言われた」(前出『文学』)
図書寮の食堂で編修官らといっとき、軽い冗談を挟みながら雑談しているうちに、話題は一挙にシリアスなものに転じた。
「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」
鴎外が思わず呟いたこのひとことは、たぶん本音なのだろう。
『元号考』のため漢籍の山に埋もれながら考証に取り組んでいたときにそういっている。考証の作業は「万世一系」という虚構をつぶさにみつめることになるにもかかわらず、である。
*「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」とは、わたしも鴎外の本音であったと猪瀬の推測に強く同意する。この時鴎外はもはや死期に最接近していた。
これと関連して猪瀬もすぐに取り上げており、わたしも当然それと関わり合わせて考えねばならぬと感じたのが、鴎外まさに五十歳の作品『かのやうに』であった。
作中の若き五条秀麿は海外に学んできた「歴史」学者であり、鴎外の分身である。猪瀬の文により要点に近づきたい。
* 洋行帰りの息子(秀麿)は思う。
「まさかお父う様だつて、草昧(さうまい)の世に一国民の造つた神話を、その儘(まま)歴史だと信じてはゐられまいが、うかと神話が歴史でないと云ふことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入(はい)るやうに物質的思想が這入つて来て、船を沈没させずには置かないと思つてゐられるのではあるまいか」
提出されているのは、神話と歴史、信仰と認識を峻別(しゅんべつ)した上で、なおかつそれらを統合する倫理基盤を築くことは可能か、という問いである。
答は仮に置かれたにすぎない。
「祖先の霊があるかのやうに背後(うしろ)を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。……どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない」
いかなる価値をも絶対化しないにしても、社会が秩序を必要としている以上、伝統的な価値が絶対の真理であるかのように振舞う他はない。
* 鴎外の優れた洞察はいくつかの短い言葉として発せられている。日本は今もいつもいつまでも「普請中」だと謂い、また「歴史そのまま」と謂い、そして殊にこの「かのやうに」とは、おそろしいまでの立言であるが、わたしが、問題視したのは、猪瀬が五十歳の鴎外の「かのやうに」と、瀕死の病躯に鞭打って熱中した『帝諡考』『元号考』の頃の「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」とを、猪瀬直樹は「異なる」ものだと言い切っていて、わたしは、「同じ」思想の線上に置かれた二つの言表だと考えている点である。
今は、ただ指摘して置くにとどめる。「元号に賭ける鴎外の執着と吉田増蔵の死」をつぶさに追究した猪瀬直樹の論考は、ほどなく「ペン電子文藝館」に登場し、屈指の良樹として植えられる。対面して欲しいと思う。
2003 7・13 22
* ちょいちょいとビデオで継ぎ観を楽しんでいるのは、マレーネ・ディートリッヒの「情婦」で、映画史上にのこる名品の一つ。チャールズ・ロートンの弁護士とともに、ほんの十数分ずつに細切れで観継いでいても、こういう作風安定の名画は十二分に楽しめる。おいしいおやつを、惜しみ惜しみ食べた子供の頃を思い出すほど、ながながと観ている。
東工大の頃、秦さんは映画なんか観ないでしょう、面白いモノですよと、いまいま流行の映画を書きだして教えてくれた学生もいたが、なんの、秦さんの映画好きは谷崎潤一郎譲りと言っておこう。
ことのついでにいえば、ポアロものやメイスンものは全て言うに及ばず、フォーサイスその他の海外の「読み物」は、何百冊と目に入っていて、いつ処分してもいいようにダンボールに幾函か詰め込んで積んである。「オイディプス」等からシェイクスピア・ゲーテを経て、「高慢と偏見」から少なくもカフカまで、泰西文学のそれはそれは多くの他に、である。
大学の頃は好んで西欧の哲学史をいろんな記念碑的な仕事を践み渡るようにたくさん読んだ。その感化は浅くはない。そして最後に(と思う)バグワン・シュリ・ラジニーシに出逢った。幸せである。他の聖典の殆どを落として捨てることが出来た。
源氏物語や徒然草だけで生きては来なかった。
2003 7・14 22
* 昨日で「歌麿」の巻を終え、「写楽」に移った。役者絵ばかりといっていい。おもしろい。現代の似顔絵画家はすこし知っているが、写楽のは明らかに似顔絵として愛好者に受けたにちがいない上に、すぐれて造形的で批評的で、揺るぎない勢いある表現になっている。おもしろい。魅力に溢れて見飽きない。女形の顔はあるが、女は描かれていない。描かれたモデルの当人がどう苦笑したか悦んだか怒ったかはしらないが、客のわれわれは、よう描いてくれたと拍手し感謝するばかりだ。
前後して栄里にも芸人や町人の大首でまことに上出来の肖像画もあるが、数は多くない。その他大将格の栄之(大家の武士出身)をはじめとする栄派の浮世絵は、ときに美しい上品なのも交じるにせよ、力はよわい。綺麗事に流れる。
だが、歌麿も写楽もそんな綺麗事とは性根がちがう。格でいえば栄之は、琳派なら抱逸だろうが、歌麿と写楽は、光琳すら超えて宗達なみのスケールである。おそらく北斎となると光悦級になる。
浮世絵それも揃物がこんなに面白い世界だとは、やはり観てみなくてはわからない。本でもこれだ、やはり実物が観たい。そもそも歌麿に眼の鱗を落としたのは、リッカーだったかの浮世絵美術館に気まぐれで迷い込んでからだと思う。衣裳の彫りと刷りと色彩の美しさにぞっとする色気があった。尻の線にあった。ガラス越しに観ていたけれど、瞬時自分が痴漢かのように刺激を受けているのでビックリしたのを覚えている。
歌麿の絵柄は雄大と言いたいほど大きくて、肉体が自然に描けている。胸をはだけて生活している江戸の女達、なにも遊女ばかりでなく市井の品のいい女達も、なにかまうことなくゆつたりと胸乳をあらわしていて、美しい。いまどきのやすいヌード写真なんかよりもはるかに佳い。健康でいい。
浮世絵の背後にいわば春画の陰翳が裏打ちされているのは間違いないにしても、表へ出てきている浮世絵は、総じてたいそう健康であることを理解したい。淫猥感はまるで無い。春信、清長、歌麿、写楽と来て、彼等の表芸についていうなら、健康そのものだ。そして彼等はみなたいした批評家である。
2003 7・17 22
* 正宗白鳥の、大正十三年四月「改造」に発表し、その年の十一月には新劇協会が初演した「人生の幸福」を、やっとのことで校正した。とても好評だったという。白鳥の戯曲は、舞台にかかると活字で読む何倍も面白くなるという、いわば定評がある。
この福福しい題の戯曲は、じつに殺人と狂気の人間批評である。むろん第二代ペン会長のこの作品をわたしは「ペン電子文藝館」に植えたくて、もう何日も何日もかけて校正してきたが、これから著作権継承者の承諾を戴く段取り。承知されなかったら、掛けた労力こそフイにはなるが、一字一句、句読点やト書きにまで注意して校正する仕事は楽しかった、何の損もないのである。
2003 7・20 22
* 今日一番の感激は、詩人木島始さんに送ってきて戴いた、アーシュラ・ル・グゥインの詩稿である。読みたかった。原語につよいわけでないから危ういことは言わないけれど、心にしみた。
だれか訳して下さらないだろうか、もっとも著作権のことがあるので安易にはこういう所へも公表しにくい。しかし個人的には訳を付けてみたい。あの「ゲド戦記」の著者の詩である。胸の鳴るのを禁じ得ない。
そして闘病の日々久しい木島さんのご平安、こころより願っています。
2003 7・23 22
* ああ、もう二時。あれこれに時間をさいていてはいけない。が、階下に降りて、源氏はいまや「梅枝」が、ずうんと進行して、明石の姫が裳着をめでたく済ませ、東宮妃として入内する。好きな巻のひとつで、味わうようにして音読を続けている。
バグワンも、むろん。
それから写楽。
歴史は今は「自検断」にまで発展した室町時代の農村社会に入りつつ、わたしはこの時代を暗黒などと思わず、室町ごころの明るさとともに希望にも火のついていた時代と読み続けている。
2003 7・23 22
* Poets Against the Warとして送られたというル・グゥインの詩「American Wars」が、耳の底に鳴っている。木島さんがお元気なら訳して戴くのだが。それとも、どなたかに大意だけ訳出してもらい、原詩を「反戦室」に戴こうか。
2003 7・24 22
* 昨夜までに「豊春・国貞」「国芳・英泉」らの浮世絵揃物を、たっぷり見終えて、昨夜、ついに「北斎」巻を開いたが、いきなり揃いの「富岳三十六景」には、ごしごしと眼を洗われた。声もない、というより、ウーンウーンと賛嘆と感動のうなり声を上げっぱなしであった。
歌麿と写楽。これは颯爽の巨峰でありそびえ立っている。つづく上記の四人その他も、さすがに面白いけれど、いかにも浮世絵浮世絵して泥味も濃い。ところが北斎の屹立して斬新しかも巨大なことは、歌麿と写楽とをひっくるめて受けて立とうという巨大さ、しかも趣向の自然ただならぬ冴えである。おおっ…と、やがて声をうしない、惜しむように巻をひとたび閉じた。すばらしかった。
* そして源氏物語は、待ちかねたと思うほどの「藤裏葉」の巻へ入って、とうどう、雲居の雁の父内大臣を屈服させて、源氏の長男夕霧は晴れて幼な恋を成就し、今夜にも寝所へ迎え入れられる。わたしは、昔から夕霧という貴公子が贔屓で、久しく仲を隔てられていた雲居の雁との恋に同情してきた。
こういう線をひとすじしっかり物語に混ぜているのも紫式部の妙腕であるが、ここにもまた私の云う皇家と藤家との確執・葛藤の一例がみられるのである。そしてこの巻が晩春のいくらかものうい重みをひきずるように帳をおろす、と、大きな大きな山場がやってくる。上下の二巻にまたがるほとんど独立した長編小説がはじまる。
2003 7・30 22
* ゆうべ、夕霧クンは、酔ったふりをして舅になる人の藤花の宴さなかに休息の部屋を求めていた。内大臣(昔の頭中将)の子息達が背を押すようにして雲居の雁のもとへ送り込む。やるものだ。
2003 7・31 22
* さて、わたしは、何としても持ち出してきた江戸川乱歩が読みたかった。明るい店。やはり「美しい人」のいる店へ、足が向く。そこは一人になれる店である。ことに今晩は、読み物に絶好の席へ店長がみずから誘い入れてくれた。「美しい人」が料理や酒を静かに運んでくれた。邪魔はしない、黙って通りかかるつど、京都の冷酒「松竹梅」の酌をしていってくれる。この酒はうまいね、と云うと、にっこり頷いた。飲めるらしい。
乱歩の「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」「心理試験」をつぎつぎと読み終えた。山尾悠子という作家のSF「遠近法」というのも読んだ。四作合わすと相当な量だ、気が付くと、長時間席を占領していたが。デザートにアイスクリームの出る前に、もう食べ物はみな済んでいたが、佳い焼酎のあるのを知っているので、頼んだ。「よろしいんですの」と少し眉をひそめさせてしまったが、うまかった。わたしのために、少し献立も替えて料理が出ていたらしい、なにしろ喰わず嫌いなモノが多いので。
で、たいへん気分良く電車に乗り、タクシーにも乗らず手をふって大股に歩いて家に帰った。
* 乱歩の小説は、さて、決定的な印象でなく、大正時代のマイルドな味わいに風格は感じられるし、独特の謎解き推理も面白いが、絵解きの図が必要になったりする。「D坂の殺人」には谷崎の「途上」への讃辞が組み込まれていたりして、手も凝んでいる。「心理試験」も面白いが。もう一つ残してある作品に期待をかけている。
筒井康隆氏の小説も楽しみにしている。
山尾さんの作品は、少し特殊すぎる気がした。一つの宇宙の構造的な説明に終始して、そこでの生き物(人間といえるかどうか)のドラマとは読めないので、非常に知的遊戯的凝り性の所産という気がした。会員でない今日の作家なので、これは、このままにしておく。もし入会でもされたときに、また考えれば済む。
* ル・グウィンの詩の決定訳が届いていた。高橋茅香子委員の翻訳作品として、原詩を添えたかたちで入稿した。その原詩に原題を書き忘れてシマッタのは失敗。
木島始さんのおかげである。詩はグウィンのホームページにも出ていて、むしろ多くの人に読まれたい伝えたいものなので、高橋さんの示唆と同意もあり、急いで入稿したのである。
2003 7・31 22
*「藤裏葉」で、めでたく、夕霧ははれて雲居の雁と結ばれた。父源氏の教育方針で蔭位をうけず万人が驚く六位から官途に出発した夕霧は、幼な恋を遂げていた従妹との仲を、その父、今の内大臣の手ですげなく裂かれていた。そのことが源氏(太政大臣)と頭中将(内大臣)の潜行する不和の一因になっていっ。だが夕霧は、ながくよく堪えて、脱線しなかった。律儀なほど一途に(少しだけ脇目もつかったけれど)逢わぬ恋に堪えぬいた夕霧は、ついに内大臣に膝を折らせて、恋人を妻として手に入れた。官位は同輩にぬきんでて宰相中将、やがて中納言に昇るであろう。
この仲良し夫婦は、雲居の雁がいい意味での愛らしい古女房になってゆき、その頃になってお堅い夕霧が、亡き友柏木未亡人の落葉宮に狂い歩く時が来る、が、それも相応に治まっては行く。
夕霧の胸にいちばん深く差し込まれた懊悩は、「野分」の日にのぞきみた紫上、父源氏の理想の妻、生母なき夕霧には母にもあたる人の、朝日をあびた女神かのような瞬時の影向(ようごう)であったろう、と、わたしは読んでいる。
* 源氏物語とバグワンとを静かに音読して床についたのが三時半、しばらく北斎をみて、眠りに落ちた。その前に、出口孤城さんから贈られてきた清冽の名酒「獺祭」二本に思いがのこるので、一本あけ、コップに半分足らずを、世も寝静まった深夜にひとり、ぐうっと飲み干した。云いようもなくうまかった。
2003 8・1 23
* 数日かけて大判の重い「北斎」をひろげては「富岳三十六景」に堪能してきた。三役といわれる「波裏富士」「凱風快晴」「山下白雨」の素晴らしい出来はもとより、気に入った贔屓の作がたくさんあり、この富岳の揃物そのものが、日本美術史上の大きな存在であることを疑わない。清爽の気に満ち、甘くない。気概に満ち、冴え渡っている。意欲が前へ前へ溢れ出ている。先がある。
そういえば、ずいぶん以前、長野県に北斎館をたずねて日曜美術館で放映した。わたしは信州新町美術館で大下藤治郎らの水彩畫についてカメラの前でかたり、翌日は、小布施町の「北斎館」で北斎を語っていた。あの美術館めぐりのシリーズは本にもなった。すっかり忘れかけていた。
* 源氏物語は「藤裏葉」を今夜で読み上げ、全集の第三冊が終わる。半分読んだことになる。夕霧はめでたく三条院に新婚の暮らしをはじめた。雲居の雁との幼な恋を堪え忍び会った家であり、夕霧には亡き母葵上の実家でもある。この二人とも、今は亡き祖母大宮の手で愛育されたのだ、従兄妹同士になる。
夕霧も中納言になり、源氏は院に準ずる待遇を受け、来年は四十の賀を受ける歳である。若いと思うものの、四十からは「老」と、自他ともに認め合った時代。江戸時代の芭蕉でも、小鳥の四十雀によせて「四十から」の老いを句にしていた。
2003 8・6 23
* 吉川英治記念館事務長であった同僚委員の城塚朋和氏を煩わして選んで貰った杉本苑子作「今昔物語ふぁんたじあ」から、五編を戴き、今、三編を校正した。「怪力」「猫をこわがる男」「蘆刈りの唄」である。もう二篇「釜の湯地蔵譚」「かぶら太郎」をまとめて一編にする。
おなじ城塚さんに選んで貰った江戸川乱歩の数編からは、「押絵と旅する男」が抜群にいいと私も妻も思い、これで著作権者に許可願いを出したい。
同じく同僚委員の和泉鮎子さんからは、郡虎彦の戯曲数編を送って頂いた。みななかなかの力作で、頭の所をそれぞれ少しずつ読んでみても演劇言語に成っている。大きに期待している。
2003 8・7 23
* 源氏物語はついに「若菜」上の巻に入った。この上と下とが、光源氏の物語の、いや源氏物語全体のけわしく重々しいいわば頂上になる。この二巻だけで岩波文庫の昔ふうにいえば「星」一つか一つ半ほどの量がある。そしてそのあと、ひたすら物語は寂しく悲しくなる。「御法」「幻」など、まともに音読できるだろうか、声がつまって湿って、めためたになってしまうだろう。
「若菜」というと思い出す。
一九六九年、アレは五月に入っていたろう、突如として、何も知らない間にわたしの「清経入水」は第五回太宰治文学賞の「最終候補」に差し込まれていた。筑摩書房から、応募したことにして欲しいと内々に電話が来たのである、晴天の霹靂であった。事情はまったく知れなかった。しかし、お断りする何の理由もなかった。
だが最終候補に入っているといえど、受賞と同義語でないのも明白ななので、これは悩ましい。で、わたしは決然と、源氏物語を毎日「一帖以上」読んでゆくことを自身に命じた。つまり五十四帖読み終えるまでは太宰賞のことなど忘れていようと。それまでには決着がついているはずと。
楽な課題ではない。そのころ私の持っていた岩波文庫「源氏物語」は、現在の読みやすい玉井幸助注でなく、それとくらべると原始的な印象すらある島津久基注の本だった。とても読み煩う本だった。
長い巻に当たると、一日の相当量をこれに掛けなくてはならなかったし、やはりゲンをかついでいたからサボル勇気はなかった。行者のように烈しく読み進んで行き、むろん休まなかった。時には一日に二帖以上も読んでいった。
五月六月の医学書院は、当時、本郷台をゆるがすほど恒例の激越な春闘に引き続いて、夏のボーナス闘争の真っ盛り。管理職会議は連日で、社内に半ば身柄を拘束されていた。それでも仕事の合間に合間に、わたしは源氏物語をちからずく引き寄せるように読み進んでいた。
あの日も、夜遅くまで管理職は全員居残り。何とはなく会議室で何かを待機していた。源氏物語はなんと「若菜」にさしかかって、この一帖を一日で、上下を二日で乗り越えるのは、さながら富士山にスリッパで登山するほどきつかったのである。わたしは余のなにものも犠牲にするぐらい、夢中で長い長い「若菜」に没頭していた、夜の会社で。そして読み終えたのは、深夜に近づく帰りの西武線ではなかったろうか。
社宅のわたしたち三階の部屋に階段を上がって行き、すると玄関の鉄のドアをあけて、出迎えた妻がひとこと云った「おめでとう」と。
翌日からは、別世界に移り住んだようなアンバイであった。小説家になろう。わたしは、七年間の孤独な望みを幸運に恵まれ、遂げていたのだった、二度目の誕生であった。「若菜」とは、光源氏の「賀の祝い」の巻であった。
むろん、その後も、「夢の浮橋」まできちんと一日一帖以上を読んでいった。読み始めたからは、当たり前だった。
*「日本の歴史」は、戦国時代直前の、まさに中世社会のことこまかな腑分けの巻を読み進んでいて、ここらは、もう「人」の事跡でなく、「社会」構造そのものの激流激変であるから、興味本位にどんどん読み進むという景観ではない。土中に顔を埋めながら土の味をこまかに嘗めて行くような読書である。渋滞する。
2003 8・8 23
*『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』を、小沢さんから戴いている。この人が肉声をのせて話している番組など、さぞ面白かろうと想像がつく。だが、活字の文章としてそういう「語り」「話し」「しゃべくり」を、手もなく書き写したようなことでは、狙いははずれ、シラケてしまうのを、著者も編集者もなぜ気付かないのだろう。笑いを取ろうとして自分が舞台の上で笑って見せているような、まずい演戯にこれは似ていて、とてもノッて読んで行けない。シラケて前へ進めない。話藝を文章で伝えるには、微妙な抑制と推敲とが必要、そういう本を何冊も「書いた」体験からも分かっている。この本だけは、せっかくながら、イタダケナイ。
2003 8・9 23
* このような感応を、はてもなく豊かに与えてくれる土壌としての、源氏物語。漫画で筋書きだけ知ってみても、とても源氏物語はよんだことにならない。たとえば「きよら」と「きよげ」という二つの語彙が、いかに精微に精妙につかいわけられているか、それは漫画では絶対に感得できない。文学はことばの秘儀である。
2003 8・10 23
*「北斎」の二巻をしまい、安藤「広重」の三巻揃物へ入ってゆく。全十二巻、楽しませてもらえる、たっぷりと。これが済んだら頂戴した肉筆浮世絵の集成本が待っている。これを一層の楽しみにしている。
2003 8・12 23
* 同僚委員牧南恭子さんの大作『喪われた故国(くに)』上巻を読み進んでいる。牧南さんの他の短編作品も幾つか読んだが、この書名に察しられるように、動機の強さは根が生えていて確かなように、(まだ何ほどの量を読んだわけでないが)想われる。おそらく千数百枚もの満州物語だと謂ってよろしかろうか、わたしの最も手薄な遠い世界を書いてあるだけに興味も惹かれる。
郡虎彦の戯曲も読み進めたい、これは「道成寺」ひとつをみてもかなりオソロシイのである。
* だが、今夜はもうやすもう。バグワンも読んできた。とても深く動かされた。「若菜」上の巻では、いとけない女三宮をおもんぱかって父朱雀院が心乱して行く末を案じておられる。それも声に出して静かに読んできた。
2003 8・12 23
* 俳優の浜畑賢吉さんからちょっと面白い本が贈られてきた。この人は才人で、いつもすこし角度の面白い本を出版する。舞台も、帝劇その他で見ているが、書いたものの方での、もう、ながい付き合いである。「マイフェアレディ」の教授や、「坊ちゃん」での作者漱石役や、印象に残る役が幾つもある。
2003 8・13 23
* 浜畑賢吉氏に戴いた「戦場の天使」は、題はべつに工夫もあったろうが、よく書けていて、終盤胸に迫るものあり、達者な筆致で感心した。中国の戦線でたまたま兵士達が養いまた慰められることになった一頭の「豹の一生」を書いてある。こんなことってあるのかと愕く、懐かしくまた哀傷に彩られた物語であった。村上豊の絵がうまく本に似合って惹きこまれる。この筆者の他の著書からも、佳い趣味と関心や好奇心を受けとっていて、舞台とともに人柄を感じる。
同志社大田中励儀教授に戴いた論考「泉鏡花『神鑿』の周辺 小島烏水との関係を中心に」も、いつもの此の研究者らしい力ある推論が手堅く纏められていて、この面白い原作に新たな角度で光彩を加えられた。この人にはたくさんなことを教わり続けてきた。
2003 8・18 23
* いろんな夏休みがあったのだ。わたしも、だいたいツルんで何かを一声にやるのは大の苦手で、嫌いで、ラジオ体操など結局覚えきれなくて、余儀ないときもマゴマゴして先生によく怒鳴られた。そんなザマでは級長をやれと先生に指名されても、いいえ副級長でケッコウですと辞退して帰るありさまだった。前へ出てクラスメートに号令をかける、その「右向け」「左向け」の右とひだりの覚束ない少年だった。ラジオ体操などやれば、かならず港サカサマに動いたりして目立った。目立ちたかったのではない。
日銭を稼ぐ店売りの我が家も、あたりまえのように夏休みだからどこへ遊びに休みに行くなどいうことは、決して無かった。自分一人でアレコレしていた。此の小闇の胸の痛みとは、時代は隔ててもチクリと寂しく呼応するモノをわたしは忘れていない。それとても、いろんな夏休みが誰の上にも有ったのだといえば、済むことか。どうだか。
* わたしを育ててくれた秦家は、いま思えば、すこし風変わりな家であった。裕福。とんでもない。貧寒。と云うほどではなかった、が、極めて節約の家庭だった。父も尋常高等まで進んだかどうか、母も同居の叔母も小学校どまりだつた。だが、祖父の蔵書は信じられないほど高級で、高価な充実した漢籍が、老子、荘子、韓非子から唐詩選、古文真宝、また史書の注釈から大辞典等まで三十冊は下らなかったし、和書も、秋成の古今和歌集注や神皇正統記、俳諧全集、謡曲本など、信じられないほど佳い物のすべてに秦鶴吉蔵書の書き入れがあった。「おじいさんは学者や」と父は云っていた。その父も通信教育の教科書を何冊もわたしの愛読書に残してくれていた。しかしこの父はわたしの読書好きを「極道」だときめつける人でもあったから、本を買って貰った覚えは三度となく、その本は何とも魅力に乏しい教訓的なものばかりであった。
我が家にあった雑誌は、母か叔母かの「婦人之友」「婦人倶楽部」のあわせて三冊か四冊がくらい階段の隅に捨てるともなく積んであっただけ。新聞すら、夕刊は不要としていたような家庭であった。だが嫁いできた母は、近代作家の名前とゴシップのようなものだけは何故かよく口にした。近代現代の小説単行本として読めるものは、ほとんど一冊も記憶になく、菊池寛の「真珠夫人」をどうして読めたろうかと不思議な気がする。まして雑誌なんて、医師の待合にしか無いものと思い切っていた。
そんな按配であったから、わたしは、本とは人に借りて読むもの、また人の家に出掛けて行って読ませて貰うもの、としか考えたことがない。少年向きに、ましてや少女向きにどんな雑誌があるかなど、夢にも思ったことはなかった。縁なき衆生であった。
古本屋での立ち読みは、わたしにとっては戦後生活の多大の恩恵であった。わたしは、小学校六年生頃から、東山線菊屋橋畔の古本屋で、店番のおばさんやおじさんを悩ませながら立ち読みの毎日だった。そんな時にも雑誌などめったに手を出さなかった。藤江さんのように定期雑誌を楽しめる育ちではなかった。
だが、バスで送り迎えの幼稚園時代があり、京都幼稚園では毎月「キンダーブック」が一人一人に与えられて、あれほど楽しみに楽しみにした読書体験は少ない。あの胸のときめく嬉しさは忘れようがない。そういう幼稚園にやってくれていた秦家であることは忘れてはならないのである。
* そんな次第であるから、藤江さんの「イチャモン」には、さもあろうと納得する以上の反論など、ない。わたしに耳打ちしてくれた研究者も、他の用事のついでに軽い気持でて書き添えてくれたに過ぎまい、何かの結論とは無関係な、話柄の一つであった。ただ、ホホウそうなのかと面白くその指摘に反応してはいたのである。
2003 8・20 23
* 寝入ったのは午前四時半か五時近かった。作業を今日に残したくなかったので、みな片づけてから寝た。
寝る前になお、同僚委員の牧南恭子さんの大作「故国」を読み進んでいた。小活字で二段組み二冊の千枚は遙かに超す大作であり、本が重い。加速度がついてきて、やがて上巻を終える。幾つか読んだ短編よりも、この大作に、作者の人と力量とを感じる。満州はわたしには無縁に近い異国であったが、そこを「故国」として育った人達には懐かしくも心しおれるであろう風土と歴史。文学・文藝の感銘というのでは必ずしもないのであるが、随所に作者の思索や感性や素養がにじみ出ていて、新鮮なおどろきとともに面白く読んでいる。この場合は作者を存じ上げていることが、親しめる理由になっている、幸いに。
2003 8・23 23
* 世界陸上という伏兵に襲われ、深夜というより明け方近い女子一万メートル決勝まで見てしまい、あげく、「喪われた故国」上巻を読み切ってしまうなどしたため、目覚めたときは正午によほど近かった。あれこれ一仕事して、なにげなく階下に降りると黒いマゴが悠然とからだをのばして昼寝している、そのよこへごろり。そのまま五時まで寝入ってしまう。
この調子で一週間あまりもつづくと、わたしの仕事は潰れてしまう。
2003 8・24 23
* 中原中也の詩はたっぷり選んでいる。江戸川乱歩の「押絵と旅する男」は、大正期の谷崎潤一郎をつい連想してしまうほど作柄が似ている。
2003 8・24 23
* その「谷崎潤一郎」をMEで検索すると、意想外に記事が少ないのにショックを覚えた。信じられない。その中に『秘本谷崎潤一郎』という谷崎夫人をはじめとする聞書を五巻に纏めた稲沢秀男氏の著書があるのを知った。松子夫人が亡くなり、谷崎学者たちに大きな存在もあらわれず、素晴らしい全集も出来て行かない現状がなさけなくて、谷崎について論じたり語ったりするのがついもの憂くなっているのに気が付く。一人の谷崎愛読者として、もう一度全集を通読してみたいと思うばかり。
2003 8・24 23
* 江戸川乱歩は我が国に探偵小説という新ジャンルを確立した人で、推理作品が六十五巻にも及ぶ大家であるが、今日校閲し終えて入稿した「押絵と旅する男」は、探偵物でも推理作でもない文学作品としての乱歩の一名作たるに恥じない代表作である。独特の憂愁味を帯びた昭和初年の雰囲気も、漂う匂いのように妙に懐かしい、面白い小説である。谷崎潤一郎の大正期小説につよく刺激されて作家生活を満たしていった乱歩の風情が、たいへん懐かしやかに表現されている。「ペン電子文藝館」は魅力的な作品にまた一つ恵まれた。
2003 8・25 23
* 夜前は、世界陸上を見るつもりで降りたテレビの前で、ふと映画「A ファイル」に出会ってしまい、緊迫感のある運びについつられ、競技はほどほどに映画の方を観てしまった。それだけのことはあって、面白かった。
それから「若菜」上をひらいたが、光六条院が兄朱雀院の出家後に、ふるき因縁の朧月夜に忍び逢うというきわどい場面。一区切りがはなはだ長く、十頁近くも音読。そしてバグワンも。
この読書は習慣的な日課ではなく、日の最後に取って置きのおいしい楽しみなので、深夜であろうと明け方であろうと。
2003 8・26 23
* 郡虎彦の「タマルの死」は、短い戯曲ではあるが、その官能の匂い、陰惨の空気、それを藝術的に造形する力、総ての点で虎彦戯曲の原点的な凄みを帯びている。虎彦は「白樺」最年少の同人であり、「タマルの死」も同誌に発表した、それは東京帝大に入学した二十二歳の作であった。その後「世界の文人たるべく」日本をすてて渡欧し、日本人の多くには忘れられても西欧の文壇に盛名をはせて、多くの作品を遺し、ついに帰国せずスイスのサナトリウムで病没した。世界の舞台で活躍した日本の文学者の先駆者であった。絵画の藤田嗣治に似ている。
「タマルの死」を起稿・校閲し解説を書き添えて、つい今し方入稿した。この三日間で五人の五本を入稿、「植林」は進んでいる。なんとか多彩な「美林」にしたいもの。
2003 8・26 23
* 朝「嵐」を読みました。正確にいえば、三分の二ほどに目を通したというところでしょうか。父ひとりとなって四人の子どもの一人一人の個性と付き合っていく姿、手狭になってきたけれども住み慣れた「家」を住み替えることをめぐっての想い、などが時を越えて伝わってきました。家の外も中も嵐。
ああ、私もいくつかの嵐の中をくぐりぬけてきたつもりですが、現実の姿は間抜けで頼りない風情。くるくると周りの人間関係に振り回されて、今も風の中の木の葉のよう。 神奈川県
* この人も藤村のことはほとんど何も知らなくて、木曽講演の演題から「ペン電子文藝館」の『嵐』をダウンロードしたらしい。たしかに「嵐」では家の外も内も嵐だという藤村その人の述懐が芯に生きているけれど、そういう述懐から書き起こされていったこの作品は、彼の久しい「おぞき苦闘」からの、辛うじての脱却・新生・再生・甦生の兆しに落ち着いている。文体は平談するに似て卑俗でなく、静かなのである。わたしはこの作品を「破戒」から「家」から「新生」からの「到達点」として読み、そこに真の新生・再生・甦生と同時に、後期の静かな文体の出発点をも見ているのである。
正直のところ少なくも「家」「新生」の二作を通らずに読む「嵐」では、上のメールの人のような、アバウトな把握で終わらざるを得ない。藤村の場合は、一つの作品に入る前に、また前駆した作品が切実にものを云っている。
「家」を読んでから「嵐」に、「新生」を読んでから「嵐」に、さらには「破戒」がどのようにして未曾有の「緑陰叢書」なる自費自家出版として成ったかも知った上で、「嵐」「分配」等の名作に至ると、おどろくべき世界がそこから自分の魂に吹き流れてくるのを悟るだろう。
作家の作家自身の手になる出版の先駆は、島崎藤村の「緑陰叢書」に在り、その後続がわたしの「秦恒平・湖(うみ)の本」なのである、出版史・文学史的にみて。「ご縁」をもとにわたしが木曽で話した大きなポイントは、そこに在った。
2003 8・26 23
* 宅急便に起こされる。発送用のケースを、前もって届けてくれた。一ケースに七十冊ほど入る。
昨夜は二時半ごろ、男子二百の準決勝もあきらめて、寝た。もっとも、わたしはそれから牧南委員の雄編『帰らざる故国』を読み進めたが。
舞台は今は敗戦後の奉天。恥ずかしい話だが旧満州のことはあまり知らない。が、奉天入城とかなんとか、奉天とかチチハルとか新京といった地名は覚えている。とにかくも満州という国はウサンくさいと子供心に感じていて、その話題には少年の昔以来あまり身を寄せてゆかなかったのはたしかだ。
今氾濫している北朝鮮話題の気の重ーい印象も、此処ヘかぶってくる。
今、長編を読んでいて、著者からこれを書いたいきさつや取材の裏話などを聞いてみたいという、一読者としての好奇心に駆られている。幸い月に一度は委員会で顔が合うし、メールも使える。
2003 8・29 23
* 目覚めが午後三時とは、記録的な寝坊。世界陸上のアトも『帰らざる故国』を読んでいたために。少し発送作業に目算違いが生じた、が、今晩、女子マラソンを見ながら、概ね遂げることになろう。
2003 8・31 23
* 神坂次郎氏の『元禄御畳奉行の日記』から、初章と三章との抄録を、著者に許可して貰い、校正している。軽い書きぶりだけに読みやすく、原資料のおもしろさがよく生きている。
2003 8・31 23
* 男子リレーは、四百も千六百もあっさり負けて、世界陸上は終わった。いやもう終わってくれて良かった、眠いのも通り越した。牧南恭子作『帰らざる故国』の続きを読み進んで、さ、寝ようと思い、いやいや「源氏物語」とバグワンはやはり読みたいと思い、台所で読んだ。明石の尼君、明石の上、出産の明石女御、それに遙かな明石入道もふくめての深い遠い因果譚が始まるところで、一段落が長い。物語的に面白く、しかも重視せざるをえないところ。ことにわたしのように、源氏物語にも「水」神の深い先導や誘導があると読んでいるものには、住吉を祭っている明石の一族が絡んだ物語の展開には、注目してしまう。
バグワンは、『存在の詩』がやがて終えてゆく。この一冊は、ことにバグワンの基本の基本を語ろうとする姿勢がうかがわれ、それは受けとるこっちの勝手読みとはいえ、有り難い。
2003 9・1 24
* 夜前、牧南恭子作『帰らざる故国』上下二巻の大作を読み終えた。電子文藝館の同僚委員である。その分量に胸をおされ、また出だしにもやや脚の重さを感じていたので、はじめのうち読みなずみ時間がかかった、が、いつしかに引きこまれた。下巻も半ば過ぎて残り頁の少ないのを心惜しむ気にすらなった。
* 昨明け方にとうどう読み終えました。この際は、作者を存じ上げていることが、終始プラスに働きました。あなたを思い浮かべ思い浮かべ、いろんな表現や語法や認識や判断に対して、具体的に、フーン、こうなんだ、ふーんこう考えるんだ、ふーんこう調べてこうなんだなどと興趣を覚えました。のめりこんで細部にまで想像力が働いていて、それが均衡を得ていることに感心しました。
危機的な状況が繰り返しあらわれ、そこで筆が浮つかずに事柄と場面に密着してよくものを見て(想像して)書かれてあることに力量を覚えました。
題は、 『満州 帰らざる故国』と端的に出された方が文献として記憶されやすいのではありませんか。
徹底的に推敲しておかれると、あとあとへ遺せる最良の代表作になるでしょう。
ありがとうございました。敬意を表します。 秦生
2003 9・2 24
* フラナガンという人の「モダン・アート」(原書)は学生の頃からの愛読書だった、図版多く記述は具体的であった。中にマチスのデッサンがあり、大好きだった。袖無しのブラウス姿で安楽椅子に身を傾けてこっちを見ている女性であった、二の腕、スカートのお尻のまるみ、そして瞳。魅惑の線の味わい。豊麗の印象は、また清潔でもあった。
全くの白地に黒い線で描かれているので複写は簡単だった。だが、やはり本の中でいちばん綺麗な線が出ていた。昔の「写真」版だから、大きくコピーすると写真版独特の線があらわれ印象を濁す。
スキャナーで再現した写真で、時に再現が出来なくなってしまうものがあり、今まで諦めていたが、「自在眼フライト」というソフトで扱うと写真が現れてくれる。気が付かなかった。一つずつ覚えて行くものだなあと思う。わたしなど、パソコン教室風のところへ行ってみても、一日と辛抱できないだろう。
むかしむかし父に強制されて夏休みいっぱい大阪門真のナショナル(松下)工場へ出掛けテレビジョンの講習を受けたが、徹底して何も頭に入らなかった。ひたすら苦行であった。
2003 9・2 24
* 藤村作『夜明け前』を読み始めた。たとえ一日二日でも木曽へ行った思いののこっているうちに、この大作に、敬愛を添え、慌てず騒がず読み親しみたいと思い立った。その前に馬籠の記念館でもらって帰った冊子にすべて眼を通した。
2003 9・3 24
* ペンクラブの会員でもある宮田智恵子さんの小説本を贈られて、その巻頭作「橋のむこうに」を読んだ。隣家の兄弟と姉妹。少年から中年過ぎるまでのほのかな慕情の交錯がたくみに書けていた。さ、もう一押し、それが何であるだろうと思いつつ読み終えた。好感をもった。ここまでは書ける。小説になっている。しかし、その上をさらに吹き募っていく魅力の瞬間風速も欲しい。
2003 9・3 24
* 藤村の「夜明け前」着々前進、いまがわたしにして「読み頃」だと思う。ゆっくりと来年の春までかけて読もうと思う。「日本の歴史」もゆっくりだが進んでいる。源氏物語は明石の一家に光源氏も身をよせて、不思議の縁が確認されている。とても気分の深まるところだ。
バグワンは「存在の詩」がもうすぐ終わる。音読と黙読とを別の本で同時に続けたい気持に抗しかねている。
2003 9・5 24
* 阿川弘之さんの「年年歳歳」を校正し入稿した。昭和二十一年九月「世界」に初出の文壇処女作として知られる。海軍の副官から敗戦復員、原爆に壊滅した故郷広島に、帰る家も大切な親や親族もすべて世にあるまいと覚悟して下車する作者その人の、美しいまでに初々しい、胸にしみる佳作で、はじめて読んだ昔に感嘆した。好題でもあり、忘れかね、ながく胸に置いていた。阿川さんに戴くならこの作品と思っていた。あらわな反戦でも反核でもない、しかし今の読者もこの作品に触れたときには、おのづと戦争の痛みや核爆弾の無残さを思わずにはおれない。声高に言うだけが反戦でも反核でもない、土に水のしみいるように静かに自然に温かく書かれたこの作品のような訴求力もあるのである。何度も目頭を熱くぬらしながら再読、幸せな読書であった。
* 水野仙子の「神楽阪の半襟」はまことに可憐な秀作、感じ入った。小栗風葉に見出された地方の文学少女で、田山花袋に師事し、しかし師に結婚に反対されて離れ、貧窮の巷に愛ある夫婦生活を送る。その一端をしみじみと書き起こして惹きつける短編には、自然主義的な作風から、人間心理を読みこむほうへ作風も動いて、いつしれず有島武郎の文学に深く嵌っていこうとした作者の志向がよくうかがえる。この作者、三十二歳にして、貧と病と妻の座の重きに屈するように惜しくも死んだ。「神楽阪」と書いてある神楽坂風景には、わたしたち夫婦も、甘い新婚のむかしの貧しい記憶を懐かしく重ねることができる。「青鞜」社員でもあった水野のすがやかな秀作である。これも入稿。
2003 9・6 24
* 六時半に起きてしまった。又寝すると、昼になりかねない。
夢にしきりに「夜明け前」馬籠宿の風景がみえたり人の物言いが聞こえてきたりした。少しずつしか読まないが、作品の文体が夢に入ってくる。そういう体験はこれまで、露伴や鴎外の作品でも味わった。
* 起きてすぐ、伊東英子作「凍った唇」を校正しはじめ、校正し終えた。この人は、作家ともいえないのかも。島崎藤村の個人誌「処女地」にのみ僅かの小説と随筆類をのこした、いわば寄稿家にとどまり、没年も知られていない。だが、あえて取り上げた此の小説は、ながく記念に値するすぐれた筆力と表現とで、身内のぞくぞくする感銘をもたらす。肉身の自在を喪い廃人状態のまま高座にあがったという、実在の噺家柳屋小せんをモデルに、その衰亡の末期を、みごと文学的に捉えて行く。小せん死後の心もち蛇足めくのは惜しいが、死に至るまでの描写や表現のみごとな彫り込みに、しばしば嘆声をもらした。もはやわずかな篤学に記憶されるほかは湮滅作家としか謂いよう無いこういう書き手の、今に見る新鮮でたしかな文学的資質。
これに比べて、今日いわゆる通俗読物大家たちの筆致の、浮薄なほどのあらけなさ、安易さはどうだろう。伊東英子のようなこういう隠れた書き手たちの実力を、はかなく忘れ去ってしまいたくない。
* 早起きのついでに、泉鏡花の戯曲「海神別荘」をスキャンした。総ルビのため、スキャンはかなり混乱しているが、念のためあたまのところを校正し始めると、もうはや海底世界に引き込まれて行く。文学の言葉の魔力的な誘いが風のように奔ってくる。
* 思いがけずこの歳になって「文学」漬けの毎日だわと妻はわらう。わたしひとりの校正では目が行き届かないと思うとき、妻に手伝って貰っている。何の稼ぎもなく、日々、「ペン電子文藝館」のボランティアで送り迎えている。こういう生活になるとは予想しないで来たが、妻にはともあれ、わたしにはこんな贅沢な思うままの暮らしは無かったのかもしれない。
2003 9・7 24
* 立原正秋作『冬のかたみに』の第一章「幼年時代」を朝飯前にスキャンした。四時間ほど寝て六時前にパチリと眼があき、そのまま起床。アシュケナージの「月光」ホロヴィッツの「熱情」「悲愴」を聴きながら、この三曲の間に、きっちり一章分のスキャンを終えた。
校正にも少し手を付けてみたが、初めて読んだ日々の感銘が、胸に清水の盛り上がってくるように甦り湧いてくる。立原さんはいろんな作品を数多く書いた流行作家、読み物作家の最たる一人であったけれど、根に、純文学の清冽を抱いていた。ことに『冬のかたみに』は、底知れぬ湖水の深さを思わせて哀情を湛えた作品であり、この名品を、「ペン電子文藝館」に「どうぞ」とご遺族より戴けたのが喜ばしい。嬉しい。少しく作業は苦労だけれど、全三章とも掲載させていただこうと思う。
* 立原の『冬のかたみに』が私を揺り動かすのは、立原正秋が渾身のフィクションを「私小説の極北」かのように精神と美の問題として書こうとしている、その「本気」の、清明かつ深刻なところ。だから、わたしはこの作品を、立原正秋のあえて「私小説」として読むことで、彼と同じ「島」に立ちたい。この作品こそ彼の優れた文学精神の光彩美しい結晶だと思っている。彼の虚構したかも知れない年譜などとは無関係に、立派なこれは「文学作品」なのである、表現も把握も。
2003 9・13 24
* 立原幹さんの書き下ろし長編『空花乱墜(くうげらんつい)』を読み終えた。題は禅偈の一句である。懐かしいほどに立原正秋を思い起こさせる。しかも正秋にまさる静かな落ち着きと哀情にあふれている。かつてこのような文学にはあまり触れてきた記憶がない。この人にだけ描けたかと思われるオリジナルが感じられ、読後の印象は寂び寂ととした佳いものであった。他の作があるなら読んでみたいと感じた。
一つには父上の『冬のかたみに』を一字一句追って校正している真っ最中、併行して読んだという稀有の情況も読書を律したかしれないが、とても気持いいものに触れたという淡泊ながら深い思いはいまも胸にあり、有り難い。
2003 9・17 24
*『冬のかたみに』第一章の、ほぼ三分の二を校正した。一字一句一行と文章を追っていて、こんなに幸せな思いに浸れるというのは、何であろうか。哀切、清明。美しい作品である。この世界は韓国、大邱に近い、無量寺。つい最近北朝鮮の美女軍団とやらがもてはやされたユニバーシヤード開催地の近くである。いま北朝鮮がらみに朝鮮半島に対しては必ずしも親和的とばかり言えないムードが日本にはあるが、朝鮮文化の高尚かつ幽邃なことはまた格別のものがあり、その方面への視野も塞がれてしまうのは惜しいことである。立原さんのこの小説は、おそらく韓国文化の深部に体験的な視線をよく刺し込んだモノと思われる。高貴な印象が惜しみなく書かれてある。
2003 9・17 24
*『日本の歴史』が、蓮如から山城の国一気へ来て俄然興奮度が高まってくる。この辺こそ「中世」そのものと思いたい。
2003 9・19 24
* 少しみなに遅れてペンを出た。久しぶり、夏の間はつい遠のいていたが「美しい人」の顔を見に行った。冷酒、京都の「松竹梅」で小懐石。朱ペンを手に、ずうっと『日本の歴史』を読み進み、読む合間に食事していた。店が明るくて眼の負担にならず、客も少なくて静かだったから、だれに遠慮もなく文字通り耽読した。
* 親鸞から数代あとの蓮如は、いろんな大きな点で異なった宗教人であり、その大きな差異を乗り越えた太い共通点が又蓮如の、また本願寺派の魅力になる。同じ浄土真宗とはいいながら、親鸞以降の異端化ははげしく、高田派や仏光寺派の真宗は、寺も教団ももたず、弟子ではなく総てを同朋として受け容れて上下の隔てなくひたすら民衆の救済に当たった親鸞の信仰からすれば、すさまじいまで異端の度がすすみ、むしろそれにより旧仏教勢力との妥協もなり信徒の受けもよくて、親鸞直系の本願寺派=無碍光派は零細と衰弱を極めていた。蓮如は、決然異端と闘い、また旧仏教からの弾圧にも抵抗し、みごとな中世的組織者の天性を発揮する。近江の堅田に、越前の吉崎に、大阪に、京都の山科にと根拠地を移動させつつ、親鸞等には考えられなかった、本山・末寺・道場=講、寄合を組織することで、教線を広大に伸張していった。異端とも闘ったが守護勢力や國人達とも武力的に闘った。その一方で親鸞以来の庶民救済に徹した信仰の本質を、蓮如ならではといわれるユニークな現実認識のもとで、守りきった。
むろんこんなことでは、とても言い足りていない。彼は途方もない巨人でありカリスマでありながら、謙遜な善意に溢れた指導者であり組織者であり信仰者であった。王道為本といった、スローガンをも戦略的にすらりとかかげながら、中世乱妨の世界を堅剛にいきぬいて、譲らなかった。
だが、門徒たちは、そんな蓮如をなお超えて、時代の気運と共に強硬に成育した。一向一揆化した。真宗の教えは念仏であり、傷ましいまで圧迫されてきた庶民農民に死後の安寧を確保し確信させたからは、その安心の信仰を現実に圧迫し脅迫するあらゆる勢力の前に、死もおそれず抵抗したのは当然の帰結であった。蓮如もそれを抑えられなかったのである。
* 本願寺王国の樹立も一向一揆も奥深く甚だ中世的であるが、それ以上にまた興味津々、眼をむいて立ち向かわねば済まないのは、多くの土一揆・徳政一揆の域をはるかに質的にも超えた「山城国一揆」であった。ただの抵抗や経済闘争ではない。守護勢力はおろか幕府勢力からも断然独立し、徴税権も警察・裁判権もをいわば国民会議により運営し、他からの侵入も容喙も断然許さない「独立国」形成の意欲が、実現していったことには、しんそこ驚かずにおれない。
2003 9・19 24
* 明石入道の数々の願を知り感銘をうけた光六条院は、妻子とともに住吉詣でしている。「若菜」下の巻。物語の音読は、少しもやすむことなく、漸々のうちに大きな大きな山場へさしかかっている。「読む」よろこびは深い。
バグワンは、また「般若心経」を読み進んでいる。何度繰り返しても、日々に新鮮。それはわたし自身が日々に動いているから、だろう。
藤村の『夜明け前』は、過去の読書を一新したように、情景・光景・風景のすみずみにまであの馬籠宿や近在の記憶が働いてくれ、一行一行の藤村の表現が、生彩と実感に満たされ、おもしろい。ずいぶん渋々出掛けたのに、大きなお土産を貰っていたと気が付き、今更に感謝している。
そして「日本の歴史」は、いよいよ「戦国大名」たちの時代に流れ込む。
この四つの読書を軸にして、わたしの読書は「ペン電子文藝館」のおかげでますます多彩になっている。さしあたり昨日の委員会で預かってきた桐生悠々、夢野久作の候補作品に目を通さねばならぬ。
一樹また一樹の植林。わたしを今いちばん喜ばせるのは、それだ。
2003 9・20 24
* 立原正秋畢生の代表作といえる『冬のかたみに』から、先ず第一章「幼年時代」を入稿した。創作であり精神の自伝(に準じたもの)ともいえる、生まれずに置かなかった立原渾身の秀作である。ことに第一章がそうであろうと感じている。ご遺族のご厚意で「ペン電子文藝館」に収録できるのは、感謝かぎりない。
わたしは、立原さんの厖大な作品群にこの一作が入っていなければ、『日本の庭』のような精神の美学的な述作以外にそう心を奪われる作品をもっていないかも知れぬ。ごく初期の「海」「海へ」などが好きであったが、芥川賞候補であった「薪能」「剣ケ崎」などですら、どこかに濁りが感じられ、愛読はしなかった。『日本の庭』はよろこんで書評したし立原さんも喜んで下さったようだが、書きたくないと、書評を断った短編集もある。そういう失礼も立原さんはよく許してくださった。そして「小説を書きなさい」と叱咤激励して下さった。谷崎論『神と玩具との間』がよかったと、大和路の旅先からわざわざ言ってきて下さったこともある。
なにしろ立原正秋さんが「畜生塚」を褒めてましたよと聞いたのが、最初の遠い触れあいで、直接は、「墨牡丹」だった、氏は村上華岳の絵が好きだった。華岳を書いたことで、わたしは立原さんと、福田恆存先生という二人の大きな知己を得たのだった。
立原さんの著書は以来ずうっと頂戴していたが、そんな中には先に謂う書評を断ったりしたのも有ったけれど、『冬のかたみに』に、その前の『幼年時代』に出逢えたのは幸せであった。なによりそれは文学魂の硬質な結晶であった。とくに「幼年時代」は、凛々として、しかも立原さんらしい身振りの大きさが美しく似合っていたと思う。四季自然や環境の表現の具象的に明晰な把握。感心して読んだが、一字一句をまた校正して読んで歎美の念を惜しまなかった。
2003 9・22 24
* 井上靖八代会長の第二作に、小説「猟銃」とも思ったが、何処ででも手に入る。第一詩集「北国」とそのあとがき、に、好きな拾遺詩編から二つほどを選んでみようと思っている。
桐生悠々の言説は、正直のところどれほど現代を刺激するか、歴史的な遺品的発言に終わっているようで、評価が難しい。思ったより文章に魅力うすく、硬い。どう選ぼうか、迷っている。
夢野久作の小説二編とも、凝っているが才気の産物を出ていない。江戸川乱歩のほんわかとした品のいい文体と構想にくらべ、才気そのものがすこしトゲトゲしい。これはもう選んである。
2003 9・22 24
* 妻の手元から鏡花の戯曲が校正途中で戻ってきた。いや、スキャンの成績が悪すぎて、全面新たに書き起こしているに等しい。書き直すなら書き直す気でスキャンの結果を諦めて棄ててしまった方が早そうな按配だが。
それでも、原作の面白さには引き込まれてしまう。
わだつみのいろこの宮に颯爽たる公子がいて、陸の美女を見初めている。女の父親は海の宝を身の代に寄越すなら娘を海に沈めようと欲望し、海底の公子は難なく応ずる。夥しい漁獲や宝玉、珊瑚の類が、津浪のように陸に打ち上げられるが、海の世界からは「しずく」ほどのもの。彼等からすれば、糸一筋の針さきに「釣」ということをしたり、海月の傘ほどな「網打ち」している人間達のけちくささは、問題外なのだ。
* この前、中西進氏の「海の彼方」を語る論説を読んでいて、海の國の時間が陸のそれの三百分の一のちいささと説かれていたのに対し、わたしは、妻もそうであったが、海の時間は陸の三百倍と読みたいものと、そんなことを「私語」したのもこの辺にかかわった感想であった。これは、また考えることがあるだろう。
* で、娘の父は、美しい娘を財宝の身の代・人身御供に、海に沈めたのである。今日はその人間の娘である美しい花嫁が、いよいよ海宮に到着する日だ、公子も侍女達も海の僧都も待ちかねている。花嫁の行列は厳めしくもはなやかに、いましも波をわけ海つ道(じ)をわけて近づいてくる。
鏡花は「海」の、「水」の作家である。そのことが鏡花論者たちにまだまだ徹底していない。その意味では鏡花の戯曲、「天守物語」でも「夜叉が池」でもその他でもじつに多くを示唆しているが、ことにこの「海神別荘」に盛り込まれた鏡花の思想は注目に値し、また面白い傑作なのである。
2003 9。24 24
* 或る時代小説を読んだ、が、中に、平気で「ライバル」だの「サロン」だの何だのと英語をつかって叙事されているのに、驚き呆れた。あまりに無雑作過ぎないかと思う。
「群像」の名編集長であった大久保房男氏がかつて歴史小説を全否定されていが、それが「時代小説=よみもの」の意味でなら、わたしも全面的に賛成である。全部とは言わない、歴史文学としては鴎外や露伴の例もある。わたしにも「加賀少納言」や「親指のマリア」があり、大いに書き手に依るけれども、おおかた、時代小説となると九割九分があまり安直でひどすぎる。テレビドラマの「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「必殺仕置き人」といったものと変わらない、やっつけ仕事があまりに多すぎる。
2003 9・24 24
* 夢野久作の「悪魔祈祷書」を入稿。面白く引っ張って行くのだが、結び方は今ひとつ締まりなく、切れ味に乏しい。物足りない。が、これまた江戸川乱歩が惹かれたという谷崎作の推理探偵もの「途上」の手法にちかく、なにとなく珍しいタチの小説ではあり、植林したい一つの樹相をしている。濃厚な味わいからすると乱歩の「押絵と旅する男」の方がずっと佳い。ま、久作もわるくない。
しかし、同じ珍しい世界へ踏み込むとなれば、鏡花の世界はケタちがいに奥深く想像力は天才の名にいかにもふさわしい。戯曲「海神別荘」のスキャンからの起稿、だが、容易なことでない。
2003 9・27 24
* 大河ドラマ「武蔵」の一の山場である巌流島での決闘を、ビデオで見た。ま、あんなところであろう。日生劇場の「海神別荘」で海の公子を玉三郎の美女とともに颯爽と演じた市川新之助が、いつ知れずそこそこ佳い武蔵に成人していた。勝負が呆気ないのは仕方がない、その前後は一応の緊迫を演出し得ていたのではないか。
この決闘はやや時代がおくれて江戸時代に入っていたが、わたしの「日本の歴史」は、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、そして戦国大名へのし上がっていった先代伊達政宗より以前の五代などを読み進んできて、予備知識あり、俄然読んで面白いところへ雪崩を打っている。やがて織田、松平(徳川)の登場になる。
第百代天皇が南朝の後小松天皇なのは知られていて、足利義満の頃にあたる。後小松帝は一休の父かともいわれている。後小松のあと、後土御門、後花園、後奈良、後柏原、正親町、後陽成、後水尾ときて、室町時代の中世はいつか近世に入る。
室町の前半は守護大名の時代で、応仁文明の乱のあと、太田道灌を皮切りに北条早雲の登場から世は戦国大名の時代に移動する。天下布武の織田、天下統一の豊臣秀吉も潰え死に、関ヶ原合戦の頃にやっと野心を鎮めた宮本武蔵の画業が世にのこり、稀有の著述の『五輪書』が書かれる。
2003 9・27 24
* 思いがけずこの十日ほど、「古典」なるものの、おさらえ勉強をしている。「古典」というと辟易する人は多いが、古事記から蕪村や秋成まで、優に明治以降の近代現代文学に匹敵していて、古典を見失うということは、日本文学史の半ばないしそれ以上を、はなから欠していることになる。
なるほど、言葉も文法もかなづかいも異なっていて、容易でないといえば言える、が、じつは、そんなではないのである。そして一度馴染んでくると魅力横溢、読書のよろこびが何倍にも増してくる。
外国語ではない、同じ日本語であり、その時代時代の息吹は、いまも自分の口にし書いていることばや、また生活習慣や嘱目のうちに生きていて、そう縁遠いことばかりではない。
和歌や俳句の現代語訳なんてまがいものに頼ってはいけないが、散文は、もし優れた現代語訳があると分かれば、そこから入って良いのである。わたしのことをいえば、百人一首の現代語訳などという愚なものとは付き合わなかったが、源氏物語は、与謝野晶子の優れた意訳から入って、谷崎源氏も愛して、本当によかったと思う。
いま崇徳院の話題があった。院の、あの、落語にもなっている「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はんとぞおもふ」など、どんなに現代語を駆使して訳しても、和歌に隠され畳み込まれた妙味はついにとらえきれはない。その歌の「うた」たる調べに惹き込まれ、好きになるかどうかから、コトは、すべて始まるのである。そして舌頭に千転万遍、意義をこえた妙味に惚れ込めば、知識は、必ずアトから来て、尻を背を優しく押してくれる。
2003 9・28 24
* 同僚委員の京都仏教大の三谷憲正教授から『オンドルと畳の國』という良い著作を頂戴した。いうまでもない韓国と日本。比較文化学的にも「試論」が何章も展開されながら、その基調に、三谷さんの生活実感豊かな体験が生きている。それが強みになり、しかも偏していない。面白い。中の一章が「ペン電子文藝館」に戴けるといいなと、お願いしているが、志賀直哉論を用意して頂いてもいるらしく、どっちでもいい楽しみである。
* 猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』がまた視野の展開に、意表をつく仕掛けがしてあり、一つ一つに驚かされる。
たとえば、皇室専用駅としての原宿駅のことは、ま、知っているけれど、お召し列車がどういう微妙精妙なダイヤ処理により、厳しい制約にもしたがって走るのか、その裏作業などを辛辣に問いつめて行くことで、「みかど」の問題に迫るなど、すこぶる興味深い。敬服に値いする勉強家。独特の説得力に、性格的なある種圧力を加えて、ド機関車のように勢い猛に論述して行くところが、いい。面白い。
2003 9・29 24
* 米原万里さんが「青春短歌大学」下巻に、手紙を。長編小説を何十冊も読んだほど快いエネルギーをつかったと。働き盛りに忙しい人の時間を奪ったかと、お気の毒、かつ感謝。
もう久しい昔、モスクワの、トルストイ伯旧邸でもあるソ連作家同盟の食堂で初対面の頃と、この人、変わりなく健康で元気な美女である。はちきれている。最近大宅壮一賞をもらったという、その本と、もう一冊を贈ってもらった。
* 同じ大宅賞を昔々にとった猪瀬直樹の「ミカドの肖像」が、面白い。その著者が主宰の委員会に久しぶりに出て、今日の会議は賑やかであった。
2003 9・30 24
* それでもうまく六時で会が果てた。日比谷のクラブへ久しぶりに直行した。どうしても、藝術至上主義文藝学会での講演録ゲラを読み通し、早く返送したかった。とはいえ、百分近く話した講演録は、原稿用紙にすれば少なくも六十枚あまりある。纏まった時間に一気に通読するには、テーブルのある静かな場所が欲しく、食べ物より酒のうまいのと、「美しい人」もその辺にちらちらしている方が、気が落ち着く。
が、帝国ホテルのクラブは、残念ながらやや部屋の照明が暗い。小さい字のゲラには厳しい。だが何とも云えず今夜はうまい洋酒がほしかった。エスカルゴと角切りのステーキ。インペリアルと山崎。静かだった。猫を十一匹も飼っているというあどけないほど可愛らしい人が、終始親切に世話をしてくれた。週日の此処でのアルバイトが、今夜で最期とか。
ウイスキーがストレートにうまかった。わたしは洋酒はオンザロックにもしない、必ず生のママのダヴルで飲む。バアで注文するダブルはけちくさくてイヤだ。それで自分のボトルからゆったり注いでもらう。ずいぶん丁寧に「校正」できたと思う。が、読んでいるとこの講演、思い切った本音で喋っている。読む人によっては怒りそうだなと笑いをかみ殺しながら、むろん、そのまま改めない。本音を見失ったらおしまいだ。
「なだ万」の稲庭うどんをとりよせ、腹をこしらえた。そして、コーヒー。立ち寄った甲斐があった。支配人が話しに来て、今日は上半期の最期の晩ですなどと云う。九月三十日。では協力するかと笑って、ウイスキーの二瓶ともだいぶ減っているので、レミー・マルタンを追加し、次に来るときの楽しみに、口を開けずにきた。今度、わたしと此処へ付き合う人は、コニャックが有ります。
帰りの電車の、丸の内線では三谷さんの「オンドルと畳の國」を読み、立ちっぱなしの西武線では「戦国時代」の領国支配の詳細を、おもしろく読み継いできた。冷えてきた、寒い、というほどの声を、ちらほら車内や駅で耳にしたが、それが奇妙に聞こえるほどわたしはうまい酒の元気で、家に着くまでジャケットも着ず、下は半袖シャツだった。ほかほかしていた。なにか鳥のようなものが、遠くから舞い戻ってきた感じ。
2003 9・20 24
* 「街の使い捨て」というメール批評がおもしろかった。厳しい批評である。
人間は莫大な無駄を重ねながら文明らしきものを古びさせつづけてきた。街の使い捨ては、ハコものの立ち枯れ以上に物騒な要素も持っている、が、またその御陰でその街が静かに定着するのだという視野もあろうか。
さて原宿がいま落ち着いているか、エビガデこと恵比寿のビヤガーデン辺りも落ち着いているか、実地検分に行きたいほどではないが。おおがかりな「使い捨て」で以て経済というモノ、景気というモノを起こしたり支えたりしなければならない人為のしまりのなさ、恥ずかしさ、ということをわたしはふと身に痛いほど感じる。
* いま三谷憲正さんの『オンドルと畳の國』が面白い。韓国朝鮮のことを考えていて、根の問題としていつも違和感を覚える第一は、向こうの知識人達の発言だ。強硬に硬直している例にむやみと遭遇する。三谷さんも触れているが、金芝河という日本でも一時むちゃくちゃに持ち上げられた詩人の日本國の理解など、発言など、ただただ首を傾げさせるトンチキなところが、あるいは視野狭窄と思考の固着が著しい。何十年たっても一つ覚えのような「日帝」極悪だけでは、日本の私民は顰蹙する。かすった程度の批評としては当たってもいようが、かすりもしないで見えていない広大なところへは、およそ何の理解も及んでいない。不勉強なものだ。
一時、日本文化の何もかもを、すべて「朝鮮」由来ときめつけたアチラからの議論が大流行し、珍妙で強引な解釈が、とんでもなくトクトクと開陳された。興味深い指摘も中にはあって教わったが、『冬祭り』の作者としては頷けない議論が多過ぎた。
シベリアやオホーツクからの、またダッタンからの北要素が、雨に降られたように日本列島に広く認められる。また稲や蛇の文化を抱いてきた南島づたいの民俗がいかに豊かに日本列島を北上してきたかは計り知れない。渤海や南海経由の中国の文物や言葉も、直に日本を感化し、痕跡も展開もを今に残している。
いったい朝鮮半島の知識人達は何が本当は言いたいのかと戸惑い、やはりそこに「政治」が顔を出す。過去の政治的関係が顔を出す。当然であるが、そこで急激に知識が感情的に揺れ動いて、スローガン化してくる。金芝河氏の言葉はたんに糾弾のための糾弾と化してくる。三谷さんも書いているが、認識自体が固着して、機械的にある一点に縛られた言葉の連発になり、アホの一つ覚えをゼンマイ仕立てのように繰り返してくる。自国の人を煽る効果はあれども、たとえば普通に生きている日本の私民知性にうったえる中身は干からびきっている。
* 藤村の「夜明け前」は文学的に静かに精錬された言葉で、落ち着いて、身の回りと日本とをたいせつに語りつづけている。大人の文学である。韓国や北朝鮮にも、そういう文体の魅力とともに、スローガンに走らない静かなリアリズムの文学があるのだろうと思う、そういうものが佳い感じにもっともっとこっちへ伝わってきて欲しい。
2003 10・3 25
* とうとう柏木衛門督藤原氏が、源氏の正妻女三宮を犯してしまった。六条院中の憂慮が、すべて、二条院に移って重い病を堪えている紫上にかけられ、夫の光源氏=六条院も理想の妻紫上にひたすら寄り添っている、その留守の間のあやうい密通であった。「若菜」下の帖の、それは源氏物語全体の、暗い深い悲劇の絶頂を成している。
去年の初秋であったろうか、源氏物語をすべて毎日音読して読み遂げようと読み始めたのは。翌年の春の花頃には夢の浮橋を渡れるかなどと甘い予想であった。まだ三分の二には間がある。
* 同じ音読もう十年余のバグワンは、今また「般若心経」を読み進んでいる。ゆうべは「知識」への本源的な批評を読んでいた。なにの花ともしらず眺めた花の美しさ、その瞬間には花と人との深い融和と一体感とがある、が、一度びその花がバラである、ナニであると知ったとき、人と花とに「距離」が生じる。この「距離」という精妙に微妙で正確な指摘をわたしは直感的に全面的に受け容れる。そのようにして我々は余儀なく大事な幸せを手放さざるを得ず生きてきたと思う。知識は、まず何より知っているモノゴトと知らずにいるモノゴトとに、分離や分割を強いる。つまり「分別」という一つの距離がいやおうなく現れる。心は、マインドとは、「分別心」そのものであり、これを高く旗印に掲げるが、人の不幸はこの旗印のもつ詐術に気付かず、大事なモノゴトを実は捨て去ったことに気付かずに、もっと大事なモノゴトを手に入れた、獲得したかのように錯覚し評価する。だが、それは底知れぬ「もっと、もっと」という蟻地獄に身を投じて、しかも本質的な関心にはほとんど何の役にも立たない・立たなかったことに、死の間際になるまで気付かないのである。
分別をのみコトとする知識=論理では、人は決して静かな無心には至れない。知識を棄てる非論理や無分別の底のトータルな静謐が大切なのだと思う、わたしも、バグワンとともに。譬えての分母はそれであり、それゆえに分子は自在に多彩に活躍してゆける。分子とは、政治への関心であれ、湖の本や電子文藝館であれ、無数の人間関係であれ、それは夢であり絵空事であり虚仮である。分かっている。分かっているから活躍すればいい。分かっているから楽しめばいい。しかし大切なのは分別や知識ではない、それらが引き裂いてきた夥しい亀裂や分裂のみせている深淵の凄さを、一気に棄て去れることである。人は嘗てに「真っ黒いピン」を我から無数に身に刺し、その痛みに耐えかねて奔走している。ピンはもともと刺されては居なかった。刺したのは自分である、それも分別や知識や打算で。
ピンは抜き去ることが出来る。だが難しい。わたしのこういう言辞もまだ分別くさいと我ながら思う。
2003 10・5 25
* 同僚委員三谷憲正氏の直哉「城の崎にて」試論を深夜に読んだ。
志賀直哉は、或る年、いいわば交通事故に遭い生死も危ぶまれた。その恢復と静養とのために城の崎温泉にでかけた。作品によれば静寂孤独の湯の宿住まいである。事実は友人達もともにほとんど連夜遊びほうけて、どこが療養の人かといぶかしむほどであった。
名作とうたわれ事実素晴らしい作品であり表現である「城の崎にて」は、作者が創作余談にいうがままの「事実そのまま」どころか、巧緻に、神妙至極に組み立てた創作そのものであった。三谷さんは入れた力こぶも見えるほどそのことを書き込みながら、深層を模索している。
この筆者、書く論文のことごとくを(と云いたいほど)一編一編「試論」と題する、慎重で神経の張った人である。あまりどれもこれも「試論」なので、読む側はもう殆どこの二字を「三谷好み」と受け容れて気にしない程になっている。無くて七癖の一つかと。
* 日本史はいま、毛利元就の戦国大名として伸び上がり伸び切ってゆくサマを、仙台伊達などとも共通する貫高制などもともに、読み進んでいる。
思えば律令制の昔から、貴族の荘園支配を経て武家の守護・地頭乱入があり、さらに守護大名の下剋上また上剋下の死闘があり、応仁の乱を経過後の戦国大名による領国ないし家臣支配が続いている。死力と秘策は、つまりは、めんめんと上下・主従の格闘であり葛藤であった。根底は「土地」の支配であった。狭い国土。国土が遙かに遙かに広大であったらまた別様の歴史が営まれたか、それは分からない。いま我が家のこの狭くて窮屈を思うと、やはり同じ因果律は働いているなあと歎息される。
*「若菜」下の巻の紫上には、あの六条御息所の死霊がしゅうねく憑いて、瀕死の境にまで追いつめていた。源氏は青くなって紫上の間近を離れない、その隙に、藤原氏の柏木は源氏正妻の女三宮に迫って強引に情交し、妊娠させてしまう。そのうえに節度をわすれたあらわな文をやり、若気の至りの女三宮は不注意に夫たる光源氏にそれを読まれてしまう。その決定的な場面を、夜前、わたしは音読した。栄華の六条院は暗雲につつまれはじめる。紫式部の構想力と麗筆とにほとほと感嘆する、それも、初めて読んだかのような新鮮な魅力と衝撃の強さとに。
それにしても源氏物語の虚構というか、徹した一つの姿勢……にも、やはり時々は改めて驚いたり注視したりする必要があろう。この物語に書かれている時期、平安京の日々は、放火人災と疫病死骸と偸盗放埒とにそれはどぎつく彩られていた、それが事実の現実社会であった。しかも源氏物語は、一度の火災も一つの街上や河原の死骸も、一度の強盗の働きも書こうとはしない。病死は書いている。物の怪も書いている。不思議も書かなかったわけではない、が、あらわな暴力的な人災のすべてを拭い去るように書いていない。これは、知っていてわるくない作者の巧緻、または狡知ですらある。
2003 10・10 25
* 泉鏡花の「海神別荘」を点検し校正しているか、これはもう文句なく、読んでゆく作業それ自体が楽しい。この途方もない作品に鏡花が込めている意気地と批評とは凄いものである。陸地に「人間」と称して棲む存在への痛切な厭悪が感じられる。
中西進氏のいわれるように、海は陸の三百分の一の短い時間を持っているのではない。海の世界は陸の時間の三百倍どころでない広大無辺の時空間を湛えているというのが、鏡花の「海」の理解である。此処に登場する「公子」こそが鏡花の幻想する理想の己であるのだ。そういう鏡花が、わたしは好きなのである。
2003 10・17 25
* 源氏物語の音読は、いよいよ「若菜」上下の大峰を越えて「柏木」の巻へ入った。このあたり、ひとうねりが波長長くて、全集本で一度に数頁読まねば次へ橋が架からない。読むのは楽しいが、物語は苦痛な悲痛な坂を転げ落ちてゆくと見えているので、つらい。読み堪えるだろうかと心配する。その辺は小刻みに少しずつ読んで、つれなく乗り切ってゆこうと思う。
妻が、もぎとるように持っていって、米原万里の大宅賞作品に読みふけっている。なんだか、いたく感じ入っているのは、その世界が珍しいらしい。ずぶりとかつての共産党ソ連時代にはまりこんだノンフィクション系の作品らしい。持ち歩きに適した本の重さなので、まわってくるのを待っている。
藤村の「夜明け前」は静かに前進している。少しも急がず、二三頁ずつ欠かさず寝る前に読んでいる。そのペースがいい。作中の空気に包まれてしまって、その場面場面に自身も加わっているような心地で読める。これは少なくも馬籠の現地を踏んできた大なる功徳。そろそろ青山半蔵(藤村の父当たる人物)の平田国学が、周囲との摩擦を見せ始めてきた。わたしは此の作品を初めて読んで、これは神と仏との死闘が一つの主題だと感じたものだ。その感じを一応は忘れて読んでいるつもりだが。藤村という大作家必然の道を、たんたんと誘われ行く思いがする。
* 日本史は、ついに織田や松平が表へ出てきた。「近世」がもう顔を見せようとしている。「中世」はむずかしい時代であった。
* ひと頃のわが現代日本は、さかんに「中世」を語って倦まず、その頃は、まだしも民衆のエネルギーが炎をあげていた。国会議事堂を揺るがすことも出来た。いま、中世のエネルギーを口にするような知識人は、一人も見られなくなった、そのことに誰が気付いているだろう。中世精神に殉じ得たような知識人は、払底した。
今、象徴的に世の中で、名と顔との現れているのは、間違いなく対立する猪瀬直樹と藤井治芳であるが、藤井が保守で猪瀬が革新などとは、とても言えない。藤井のことは言語道断でお話にもならないが、道路民営化にしても郵政民営化にしても、本質はただの「手直し」であり、その根底が、いずれにしても甚だ保守的な、いわば「近世支配」的なものであることは、火を見るより明白である。民営などという美しい言葉が瞞着の意図を秘めていて、個人情報を保護するといって侵害管理し、人権擁護といって守られるのは悪い政治家や官僚であったりするのと同じく、つまり発想の根が、幸福と平安を願う民衆のエネルギーにまっすぐ結ばれてはいないのである。最後は政・官の気儘な肥大尊大へ行こうとしている。
あの猪瀬直樹といえども、なんら革新派ではない。優れて能力に富んだ批評家ではあるが。田原総一朗にしても筑紫哲也にしても猪瀬と同じであり、彼等もまた問題点という「餅タネ」を、マスコミの杵であっちへ搗きこっちへ搗き返ししているだけの「手直し=日和見」論者を一歩も出ない。それで飯を食っているのだから、当然だ。飯のタネが搗き=尽き果ててしまえば、喰いはぐれるだろう。
それどころか、彼等こそ、現代日本の「中世」感覚や意欲を「目の敵」にして押し殺した、いわば官・公寄り下手人達である。
中世は今の日本では死んでいる。そのシンボルが、学生の無気力に見られる。今の日本の学生は、國の運命に身を挺して闘う民主主義のエネルギーをもたない、今は、だれも。大きなものに巻かれ飼われようと、そのための勉強をしている。そういう國は、ふつう、潰れてゆくのである。
なんのことはない、今の日本は、明治初年の富国強兵をしっかり引きずって、とち狂っていると見える。見えないのは、政治家も知識人も、われわれ民衆も、強度の欺瞞的白内障患者であるか、そのフリを演じているからだ。
2003 10・19 25
* 日本史は、第十二巻「天下一統」のところへ入った。まだ全巻の半ばに達していない。それでもぎっしり既に六千頁ほども読んできた。この巻は、織豊政権そして徳川幕府成立までであろうか、世に安土桃山時代といわれた、私の理解によれば「黄金の暗転期」である。中世は近世の前に屈服を強いられる。
2003 10・21 25
* その前に、林屋辰三郎さん担当執筆「天下一統」の巻頭を読んでいた。
日本人の過去の歴史観が、著しく下降先途感を基底にしていたこと、島国での鎖国的情況、仏教の末法観、天皇制という三つに緊縛されて、日本人は、上昇して行く明日の歴史を期待しにくかった、と。
それを突き破り得そうであったのが、戦国時代の末からはっきり意識されてきた「天下」という認識だった、と。
天下という広さで島国の枠は突破されそうであった。天下という深さで仏教的なまた神や儒教も覆い取れそうになった。天下は天皇よりも強力な「天下人」の可能を導いた。織・豊そして徳川家康は「天下」にしたがい時代を動かし革新した。だが、それも寛永の鎖国でまったく頓挫した、というのが林屋教授の論調であり、概説としてたいへん興味深く説得された。
そして種子島銃の渡来とキリシタンの世界観の渡来。
まずは鉄砲に新旧の二種類が日本に、早く、また後れて入ってきたという。たんに「鉄砲」ということばなら元寇の頃に既に、そして不十分な鉄砲というより火砲なら、中国から早めに日本に入って堺で製作されてもいたし、武田や後北条は手に入れ用いもしていた。だが種子島銃ははるかに強力で正確に機能した。武田や北条は、なまじ旧式砲に油断して、織田や松平の新式銃に敗北したとも言えると。これも興味深い解説であった。
2003 10・22 25
* 鏡花の戯曲は総ルビ。これを分厚い単行本から強引にスキャンしたため、惨憺たるものであった。妻が殆ど頭から書き直してくれ、ルビは必要と思うもののみ漢字の後ろにカッコに入れた。それが電子文藝館の約束なので。
しかし科白の読みは絶対で、私が「わたし」か「わたくし」でも無視するわけにいかないから、やはり全面にちかくよみがなが入った。それを、わたしは原本片手に通読して、さらに加えていったが、さすがは鏡花ということか、再現不能の漢字がずいぶん出た上に、校正室へだしてみると適宜にふっていったよみがなの仮名遣いがずいぶん間違っていた。和泉委員に厳密に詳細に訂正してもらい、大助かりした。感謝、感謝。
和泉さんも日生劇場の上演を観たという。読みながら、玉三郎や新之助の声が耳にしばしば蘇り、わたしは楽しかった。三好屋の上村吉弥が佳い役で出ていたなと思い出す。あの舞台には興奮した。今まで観た芝居の中で一番と思った。もっとも、これは、佳いモノに出会うといつもそう思うのだけれど。
* わたしは鏡花の根底には、海=水(の民)への親和が、また神話的な信仰ほどのものが働いていると、昔から考えてきた。そのシンボルとして鏡花は、処女作「蛇くひ」の昔から龍・蛇シンボルを無数に使っているし、生身のモノをも実に烈しく効果的に使った作品が多い。
鏡花には藝道ものがほかに有るという考えもあろうけれど、日本の伝統藝能の根底にもまったくおなじ淵源のひそんでいることは、したがってそれへの懼れの反転として、例えば観世・金春・宝生・金剛・喜多などの祝言藝にも、ふさわしい目出度い名乗りが出てくる。役人=役者は、背後に死ないし死者・死屍をいつも控えていたのである、その鎮魂慰霊こそが、藝能=遊びであった。祝言=寿ぎはその半面の必要であり、彼等のいわば義務であった。死の世界ないし準じた暗闇の世界に蟠るモノとして、人は、海底や水底からくる蛇を、龍を、おそれた。
「海神別荘」で、多大に恵まれた海の財宝の身の代として、強欲な父親により海に沈められた花嫁の娘は、おそろしい海の底にまばゆい理想の宮殿や颯爽として秀麗な公子が夫として待っていたのに驚き、この身の栄耀を一目陸の縁者達に見せてやりたい、自分は死んでいない、こんなに晴れやかに生きて幸せだと報せてやりたい誇りたいと、公子に懇願する。公子は制止するが、聞かない娘は、既に得ている海の國の神通力により故郷へもどる。だが、親も親族も近隣の者達も、津浪をともなうおそろしい蛇体の出現に身の毛をよだててただ逃げまどうのである。
鏡花藝道ものの名作として知られる「歌行燈」は、まさしく能・謡曲・仕舞につよく触れているが、じつはそこで大事に大事に取り上げられている謡曲は、「海士」であるという事実を忘れるわけにいかない。これは海女が地上の愛ゆえに龍宮の龍の珠を奪いに行く必死の能。しかもそれを作中で凛然と舞う娘は、海女女郎の境涯に貶められていた女であり、主人公の落ちぶれ能楽師との「海士」の舞いを介しての出会いにより、清まはり、救い取られて行く。「歌行燈」また海と藝との両面から根源の海の倫理に渾然と帰して行くような物語として構成されている、実に緻密に。
* 在来の鏡花論は観念的な美学にひきずられた高踏な解説が多くて、ほとんどがそうであったが、「鏡花の蛇」というなまなましい観点を初めてわたしがもちこんだ時は、まじめに聞いてくれる人も少なかった。だが、金澤へのりこんで、文学館主催の講演で克明に語り、また「日本の美学」に論考を提示して、また鏡花学者にも応じて展開してくれる人達も現れるようになって、海=水=蛇の世界の鏡花文学という骨子は、藝道ものでも職人ものでも花柳界ものでも怪談でも民俗ものでも、もう動かぬ指標となっているのではないか。この基底を無視して、論じ得られるような作品はめったに無いであろう、それこそ「外科室」とか「夜行巡査」とか、日清戦争前後の風俗に根ざした深刻小説などを除いては。
* 戯曲は、鏡花藝術のかがやく華であるが、「天守物語」「夜叉が池」をはじめ多くが、殆どがいわば「水」ものである。「日本橋」「婦系図」「恋女房」などでも、やはり水商売といわれる花柳界をへてはるかな海底への縁をもの凄く引いている。「海神別荘」はいわばそれらのアレゴリックな「根」を示しているので選んだのである。
2003 10・23 25
* 織田信長のめざましい台頭、徳川家康の辛抱強い奔走、木下藤吉郎知略の活躍とくると、やはり「日本の歴史」は活気づくからコワい。小猿の日吉丸。秀吉の出自と伝説にはだいたいぴたりと比叡山の山王信仰がくっついているのはよく知られていて、林屋教授も触れて居られる。
そのわりに、彼が侍分の娘を妻にして侍分になり藤吉郎秀吉と名乗った際の、「木下」という姓の由来に触れた説明を、わたしはこれまで知らない。これは、山王神主の家が、代々「樹下(じゅげ)」と名乗った家であったことが意識されているのではないか。この前の『猿の遠景』で言及しておいたが、私の説でいいのか、既に言われていることかちょっと気に掛けている。
* 源氏物語の音読は、「柏木」の巻。柏木ははかなく死にゆき、女三宮は突如落飾、それも六条御息所のじつは死霊のなせるワザであった。二人の心の闇に生まれ落ちた薫が、可愛いあまりに光源氏六条院の涙も誘う。夕霧は親友の寂しい死に疑問を抱いている。そんなあたりを読み進んでいる。
* 藤村の「夜明け前」は、こんなに落ち着いた素晴らしい作品であったかと、ただただ舌をまきながら、ゆっくりゆっくり味わうように楽しんでいる。これは異数の大文学である。
2003 10・26 25
*「夜明け前」の、というより主人公青山半蔵の精神的背景が「平田篤胤の国学」であることはよく知られているが、平田の師本居宣長の評価が高いのにくらべると、篤胤の評判は在来、概してむしろ悪い。大山師のように云う人もいたほどだ。しかし、実際は誰も平田の書いた何一つ読んだことも観たこともなく、ただもう風聞風説に従ってきたに過ぎないので、そのような「風説」の根拠には、やはり幕末から維新への廃仏毀釈という運動などが、尊皇攘夷への直情径行的な運動の背後に位置していたことも挙げられるだろう。
わたしは正直なところそういう風聞は耳にしてきたが、事実は何も知らない。知っているとすれば、やはり島崎藤村の父に当たる作中の「青山半蔵」があれほど心酔し尊敬していたということ、その結果というのではないが半蔵はついに発狂し屋敷牢に終生軟禁されたといったことを知っているに過ぎない。
いま「夜明け前」を約四分の一読み進んできて、ついに、書架から平田篤胤の代表作『古史徴開題記』を探し出してきた。いつか読まねばならないだろうと、古い古い岩波文庫のかなり傷んだ古本を買って置いたのである。山田孝雄校訂本である。
山田博士の本でわたしは岩波文庫等の『平家物語』に親炙した。新しい出逢いになるかどうか。明治以来戦前の影響が山田博士にもいくらかあるにはあるが、平田篤胤にはそれが濃くて、例えば日本の神と皇統への深い信仰がある。それが平田学の科学的な骨格を疑わせてしまっていた。学問でなく信仰であり、極端に右傾していると、殊にこの敗戦後は、敗戦後でなくて明治大正昭和の学界ですらも、殆ど毛嫌いされた。無視するにしかずと。
だが山田博士は、時世の進展による余儀ない「訂正」を受けねばならないのは至当としても、篤胤の学問の周到にして堅固なことを、多くの他の学者達の研究と比較して、高く再評価し、不当な無視や軽視がいかに科学者の姿勢に背いているかを、深切に解説されている。わたしは、その解説に基本的に歪みは無いと読んでいる。
* どんな人にも叩けばホコリは舞い立つ。純粋無垢にいい人もわるい人もいるわけがない。両極に対立する物を置いてしかものの考えられないのは、「心=マインド=分別」に拘泥し膠着している人の誤りである。あるがままを対立項によりかからずに受け容れて眺めるなら、しだいによく見えてくるものがあり、片寄り無くそのものだけが見えてくる。
2003 11・3 26
* これが文字どおりの「生・活」というものなら、ずいぶんそれから「遠く離れて」わたしは生きている。そんな気持になる。わたしを捉えているのは、現にいま目の前に「ない」ことが多い。
例えば――織田信長天下布武の生涯が、夜前、本能寺で果てた。読み継いできた「日本の歴史」が、そこまで来た。克明に叙された彼の天下一統の戦歴、秀吉や光秀や勝家らをまさに駆使したその多くの戦歴は、なにかしらみな頭に残っていて往時遊歴の地を再訪するようであった。わずか二百足らずの本能寺を一万数千の兵と鉄砲とで取り巻かれた最期は、信長の言葉通りに「是非なき」ことであった。最期に彼信長は身を清め、身を拭うているところを兵に襲われ、傷つきながら奧に入って割腹したと伝えられている。
「ペン電子文藝館」では、明治期の時代小説で白眉といわれた石橋忍月「惟任日向守」や会員武田清の「武田終焉」をわたしは読んでいる。信長最期への必然を描いた作であったが、安国寺恵瓊の予言もしたたかに確かに在った。信長は、大彗星の光芒のように疾走して果てたが、武将というよりも政治家としての魅力は、秀吉や家康も、掴み込まれて到底離れ得なかったほど、大きかった。その感慨をまた深く持ってから、昨夜も三時半をまわって、やすんだ。
その前には、「夜明け前」を読んだ。二度目の江戸の地を踏んだ半蔵らの眼に映じた、江戸のさびれ、が印象的であった。一橋慶喜のつよい主唱により廃止した大名の参勤交替制は、滅びの前に鼠たちの逃げ出すように、長く人質同然に留め置かれた大名家の妻子や女達の帰国帰郷のラッシュとなり、各街道の宿村に一時の激動をあたえるとともに、また貧窮と出費の種もまいた。「江戸」から「京都」へと時代の軸芯が大きく移り動いていた。それもまた、印象深い史実であり、藤村のような筆の大家がそれをみごとに叙するさまは、歴史学者の歴史記述とは幾味もことなる感銘である。
そして亡き「柏木」衛門督の友たりし大将夕霧は、夫柏木に死なれた妻「落葉宮」を見舞いつつ、徐々に心惹かれて、とめどなくなっている。父六条院はさりげなく諭すが、息子は人のことだと賢しくおっしゃると頬笑んでいる。
* 昔は、夢中になって読書から「知識」を得ようとしたが、「知識」を、いまわたしは少しも欲していない。浅い知識をいくら広く得てみても、それは多く深くのものを見忘れさせ見落とさせ、人間を薄く偏ったものにするしか役に立たない「毒素」のようなものと実感してきた。知識は鏡を曇らせる、霞に、雲に、黒雲に、邪魔者に過ぎない。それあるがゆえに、かえって大切なものを見落としてしまう。たいせつなもの。それは、見えていない真実、静かさ、無心であろうか。さかしらは言わない、ただもう知識のためには読書していない。感じ、眺めているだけだ。それが楽しい内は読みやめないでいるだろうが、そんな必要も失せればわたしは書物を顧みないだろう。早くそうなりたいとまでも今は思っていないけれど。
2003 11・4 26
* 鏡花学者の田中励儀さんから、新版、岩波書店刊の美しい函装泉鏡花集の「京・大阪編」を頂戴した。わたしの好きな「天守物語」や「南地心中」その他が含まれていて、早速今夜寝る前から読み出して全編読んでしまおうと心弾んでいる。有り難いことです。
メールですぐにお礼を言った。
若い同志社大学教授である。はじめて金澤の文学館を介しておつきあいを始めた頃は、ほんとうに若かった。篤実の学究で論文もめざましく多いだけでなく緻密で、いろいろと教わることがおおい。
2003 11・7 26
* 信長の生涯は、殺伐ともしつつ清爽の風気にも満ちていた。横死し早逝した人のトクでもあろうか。秀吉の事蹟は読み進むにしたがい不快を溜めて行く。いま彼は強硬に検地し刀狩りをしている。
2003 11・8 26
* 会員宮田智恵子さんの小説「風の韻き」を校正して入稿した。温和に書かれていた。疑点の確認に二度電話で確かめた。
2003 11・9 26
* 痛みをこらえて、和漢朗詠集と女文化について語ったエッセイを読んでいた。
そういえば、米原万里さんにな貰った本を読み始めて、これが面白い。小説かと思っていたが、米原さん実体験のノンフィクション。才筆である。大宅賞をこの本でとっている。
彼女とはソ連時代のモスクワ、作家同盟の本部食堂でたまたま出逢った昔なじみだが、今はペンの常務理事。井上ひさし会長の何でも、義理の姉上になるらしい。そういうことは何も知らなかった。女傑で、物言いはややガサツだが、気のいい、きちっとした人である。一度に二冊、本を呉れた。今読んでいる一冊の、一部を「ペン電子文藝館」に抄録できないだろうか。
2003 11・11 26
* バファリンを結局倍量服用して寝た。かろうじて痛みの緩和された感覚のママ、ひととおり読書して、寝た。
源氏は「夕霧」巻に入り、バグワンは「下稽古」した生き方を「心=マインド」というエゴの最害として、批判していた。米原万里さんの、旧友リッツアとの再会をはかって探し回り、想像のほかの医者になっている彼女と家庭とに、ついに行き当たる物語がおもしろく、著者の人柄をみせて感動できた。
鏡花を読み、藤村を読んで、もう寝ないと歯痛がヤバイと思った。
明け方まで幸い眠れた。手洗いに立ってもう一度床に入ったが痛みが強くぶり返していて、堪らず起床、八時過ぎ。すぐまたバファリンのお世話になって、今、やや軽快しているが、上と下との歯をわざと浮かしているからで、噛み合わせるとひだりの奧で痛苦が破裂音のようにからだに響く。わるいことに、行きつけの神戸歯科が水曜日は休み。ウーン。
2003 11・12 26
* 歯が痛くて何も食べられず、能が済むと、玄関でお礼を述べてから、まっすぐ帰宅。混んだ電車で立ちながら、いよいよ「日本の歴史」は、第十三巻「江戸開府」を読み始めた。家康秀忠家光三代の幕府政治。この巻が全巻の真ん中にあたる。この先が現代に至るまで、じつに長い。
2003 11・12 26
* 陸羯南の「日本」創刊の辞を「ペン電子文藝館」に送り込んだ。句読点の殆どない原稿だが、明快で、読みわずらうことはない。同僚委員から、句読点がないがと問い合わせが来たが、明治憲法発布より少し以前の文章であり、あの頃は句読点のない原稿は幾らでも公にされていた。そのわりには読みいいと感じながら校正した。
そんなことよりも、明治の思想家の息吹が吹き付けてきて心地よかった。大新聞というのは、今では功より罪の法が目立っているが、つよい志を抱いて新聞が創刊され、論陣を張って同時代を刺激し鼓吹し、そして転身したり消失したりする。それもいいのではないか。明治の知識人の気概がこういう「新聞」に表れた。大学を中退してきた正岡子規を正社員に招いて、以降十年、あの旺盛な文学活動を庇護し続けた人としても、陸羯南は忘れがたい。
2003 11・17 26
* 中村敬宇「人民ノ性質ヲ改造スル説」を入稿した。いま中村敬宇を読む人はおろか思い出せる人は寥々たるものであろう。しかし明治の第一期の知識人として、福沢諭吉や西周らとともに、それも政府や政界の内側から啓蒙的に優れた論説を書き続けたきわめて著名な大きな存在であった。時事新報が各界から選りすぐった「明治の十傑」つまり明治時代の人傑ベストテンの第四位に挙げられたと云えば、察しも利く。この論説は即ち、明治八年二月の演説草稿であったが、言葉こそ明治だが、その趣旨は明快で堅実で、ま、今から見れば常識のようでありながら今にしてなお中村の警告や指摘に我々日本人はまだ至らない遺憾なところを多々のこしている。自由民権の行方を、明治憲法発布より十五年もまえに示唆して揺るがない気合いには敬服する。
2003 11・18 26
* 雨。夜前も四時近くまで読んでいた。藤村「夜明け前」、角田文衛博士の業平と高子との恋、日本史の家康、秦テルオの図録。なぜか執拗に大学時代の教室の夢。
2003 11・20 26
*「出版ニュース」の清田義昭氏から贈られてきた新刊十一月号に、「三田誠広著『図書館への私の提言』への提言」を岡山の田井郁久雄氏が書いている。これを読んでくれということだろう、読む前から書かれていることはおよそ分かっていて、それはわたしの感想とほとんど同じだろうと予想したが、その通りであった。同僚委員であり同じ作家同士で親しくしている三田氏ではあるが、彼の本はあまりに戴けない所説が多すぎる。書くなら腰をすえて、一期一会の覚悟で書かれるべきであった、恥ずかしいほど概してお粗末なのである。彼の立場からすると、日本の作家達がみなこのように考えている、彼は文藝家境界と日本ペンクラブを代表してこの本を書いたように誤解されるかもしれないが、ちがう。わたし個人は「ちがう」と云っておく。先日のシンポジウムで彼自身が弁明していたように「故意にも喧嘩をふっかけよう」としたような動機で書かれている。まともな物書きはそんなことはしないし、してはならないだろう。
2003 11・23 26
* ややくつろいで発送用意の作業から離れ、いま、志賀重昂による「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」を起稿し、校正し、入稿した。名著の誉れ高い『日本風景論』で知られるが、まず今日、重昂の論著を読む人はめったにあるまい。そういう意味ではカビ臭いと譏る人もあろうが、この論文など、一時期文明開化に狂奔しつつその蔭で上流と官学との支配が執拗に計られていた「明治」にあり、やはり誰かが明晰に声をあげて当然な論旨を通しており、説いている「国粋保存」の四字に、落ち着いた視野と意欲とが漲っていて、敬服を誘う。
志賀重昂は日本国内に狭く跼蹐して発言していた人ではない。地理学者として西欧にもよく知られ、足跡は世界に及んでいた。むしろすぐれた西欧文明に学んで説をなしている。「日本人」刊行の第二号初出の「告白」である。出版編集人としてのまた一つの立場と覚悟とが披瀝されていて、おもしろかった。「日本」の陸羯南といい「日本人」の志賀といい、また「萬朝報」の黒岩涙香といい、こういう創始者の名前と意気とが、「時代」の若い活気を体現している。今日のジャーナリズムではあまり聞こえても届いてもこない声と言葉を彼等は用いている。
黒岩の前に、いま、田口鼎軒の「情交論」を起稿校正しはじめている。云うまでもない男女の性的な関わりが、くらい視野のなかへ追いやられ忌避されていていいわけがなかった。だが、黒田清輝の展覧会に出した初のヌード画に、布の被いがかけられた逸話でも察しられるように、封建時代の以前から男女情交はむしろ以ての外の悪事に類して取り扱われた。明治でもそれが当然のようであった中で、田口の、意を決しての議論である。これまた起こらずして済まなかった新時代、明治十九年の勇気の声であった。二葉亭四迷の「浮雲」をはじめとするわが近代文学はこの翌年よりして大いに開花し始めたのである。
「ペン電子文藝館」は、このように時代の進行に歩調を与え得たような、記念の文章、をも長く保存し展示したいと、それが館長としての私のつよい意思である。思えばあの敗戦後の性と性の表現の解放は、めざましいものであったし、良くもまた悪しくも時代を一変した。その遠き淵源が、この田口鼎軒の「情交論」にもあると改めて知るのは感慨深い。
2003 11・24 26
* 午前中に西垣脩の詩編「霧ぬれの歌」を読んで、形を整え入稿し、さらに黒岩涙香の「萬朝報」発刊の辞など論説を校正した。西垣の詩はたいしたものであった、母堂の臨終を見守る詩など、胸に迫った。また黒岩涙香の見識もまた精悍な魅力に富んでいた。また佳い見映えの「植樹」が出来た。
2003 11・26 26
* 夜前深更、島崎藤村「夜明け前」第一部を読了、これから後半に入って行く。第一部では、木曽馬籠本陣を受け継いだ半蔵の気持ちに乗せて、幕末の鈍雲たちこめた動揺・動乱の日本が、よく巨視的に捉えられている。小説としての展開も大きいが、歴史的な興味も湛え、わたしのような歴史好きの読者には有り難い。しかし繰り返し云うがあのそうは大きくない馬籠宿の、あの島崎家本陣跡の記念館や、菩提寺や墓地を、小径を、実地に見て歩いてふれてきた体験がどんなに役に立っているか計り知れない。
こんなに清明に静かに呼吸した佳い文体の大作は珍しい。いかに文壇や出版から精神的に離れて自律していた作者かと、頭が自然にさがる。独座大雄峰。あの宿から仰ぎ見る恵那の山容が眼にうかぶ。
一気に読むなどということはしないで、今日まできた。多くても十頁、少ないときで二頁ずつ咀嚼し賞味する気持で、しかしほぼ一夜と欠かさず読んできたので、没入できている。この名作はそのように読んでこそ楽しくさえあり、むろん興味津々と動いて尽きないのである。
* このところバグワン、源氏物語、江戸開府とあわせて、欠かさず楽しんでいるのは角田文衛博士に頂戴した王朝の女性達を多く論及した大冊。昨夜は高二位成忠の娘高階光子の研究を読み上げた。なまじな小説などの何倍もこういう人物研究は興味深く面白い。業平と齋宮恬子内親王との夢かうつつの密通は余りに有名だし、また良房の女高子と業平の生涯の恋にも惹かれる。こういう人事が、小説としてでなく詳細な文献検討と推測との結論として巨細に叙されると、安心してその成果に乗って行ける。小説家的な想像をさらに自由に放って行ける。書こうとは思わないが、われ一人の楽しみは、これに過ぎるものはそう無いのである。
* さて秀吉の人間的な武将的な魅力は山崎合戦で終えて、あとは不愉快がかなり襲ってくるが、それに輪をかけ、家康への敬意は秀吉に臣従し隠忍するあたりまでで、開府以降の大坂圧迫、京都圧迫になると不快感が泓々と湧くばかり。それは即ち彼等の政治力の勝利して行く時期に合致している。政治支配という欲とは無縁に暮らすわれわれには、そんなものが愉快であるわけがない。
本居宣長は、よく「治者」の理想を人は論じるけれど、治められる自分達にすれば、「被治者」からの理想というものがある、それを人はもっともっと語り考え治者に対して求めるべきであると語っていたのが思い出される。治められる側にはそれなりの理想がある。それが治める者達の強欲や都合の前に見向きもされない、そんな政治の不愉快を、強権者の足下でみなが堪え忍んできたが、今はそうではない、などと思う人がいれば鈍感を羞じたがいい。今もわたしは、不愉快な政治の力の下で怒りを禁じがたい。
* 大江健三郎氏に贈られた小説も読み始めた。この三日四日の多忙でお礼も申し遅れている。
2003 11・29 26
* 高史明さんからNHKライブラリー『現代によみがえる歎異抄』を頂戴した。「e-文庫・湖(umi)」に途中まで掲載し続けていたその文庫本であるようだ。紙の本が読みよいと思われる方はお購めになるといい。
2003 11・29 26
* 栗本鋤雲の「岩瀬肥後守の事歴」は、力強い名文であった。
『夜明け前』を木曽馬籠の朝夕より窺うだに、日本の幕末は、諸外国列強の虎視眈々に囲まれて、想像を絶する国難にあったこと、或いは第二次世界戦争前の日本にも過ぎていたかしれない。この前の戦争では北方千島や樺太南半を奪われ、琉球諸島を奪われ、また台湾や朝鮮を解放するに至ったけれど、あの維新前の動乱では、日本列島はほとんど何物をも喪うことなく明治維新に至っている。しかし、それは、当たり前のことではなかった。よほどの幸運であった。麻のように乱れていた国情をかいくぐるようにして、列国との通商和親を断行した、幕廷の、ほとんど蛮行に類するほどの果断が有ったからである。
その衝にまず敢然として当たろうとしたのが、「監察」に抜擢された岩瀬肥後守であり、不運にして退けられてのち、その意を深くひめて引き継いだのが、井伊大老であった。井伊直弼の専断可決は、当時の「公武」の関係からは、到底考えられない朝廷を無視した暴挙であり、国挙って彼を憎んだし、ついには桜田門外に井伊は無残に果てている。
栗本鋤雲は、岩瀬肥後といわば登試の同期生であった。幕府の近辺にあって総てをよく見聞していた。その鋤雲にして、岩瀬を称賛し井伊を批判する一文の中で、こう書いている。
「大老既に水戸老公始め総て己の見に異なる者を排斥掊撃(ほうげき)し為めに大獄を起し、遺類を芟除(せんじよ)し、諸司百官尽(ことごと)く更新して、門客に斉(ひと)しき者のみを任じたれば、爾時(このとき)赫々の威は殆んと飜山倒海の勢を為し、挙朝屏息足を累(かさ)ねて立つの思を為す程にして、随分恣意跋扈(ばつこ)とも名付く可き人なりしか、
唯余人の成し能はざる一の賞す可きは、外国交際の事に渉(わた)りては、尤も意を鋭(と)くし、敢て天威に懾服(しようふく)せず、各藩の意見の為めに動かず、断然として和親通商を許し、然る後に上奏するに在り、此一事たるや当時に在りては天地も容れざる大罪を犯したる如く評せし者多しと雖(いへど)も、若(も)し此時に当り一歩を謬(あやま)り此(この)断決微(なか)りせば、日本国の形勢は今日抑(そもそ)も如何なる有様に至りしならん、軽く積りても北海道は固(もと)より無論対州まれ壱岐まれ魯亜英佛の為め勝手に断割され、内陸も諸所の埠頭は随意に占断され、其上に全国が脊負ふて立たれぬ重き償金を債(せめ)られ、支那道光の末の如き姿に至り、調摂二十余年を経(ふ)るも、創痍或は本復に至らざる可く、独立の体面は迚(とて)も保たれまじく思へば危き至極にて有りしか、所謂神国の難有さは、祖宗在天の霊其衷(そのうち)に誘(みちび)きしと見へ、人心危疑恟々(きょうきょう)の日に当り、大老断然独任し胆力を以て至険至難を凌ぎたるは、我国にありて無上の大功と云ふ可し、」と。また、
「大老曾(かつ)て云ふ、岩瀬輩軽賎の身を以て柱石たる我々を閣(お)き、恣(ほしいまま)に将軍儲副の議を図る、其罪の悪(にく)む可き大逆無道を以て論ずるに足れり、然るを身首(しんしゆ)所を殊(こと)にするに至らざるを得るは、彼其(かれ、それ)「日本国」の平安を謀る、籌(はかりごと)画図(ぐわと)に中(あた)り鞠躬尽瘁の労没す可らざる有るを以て、非常の寛典を与へられたるなりと、大老の他の政績に就て見れば、此一言は真に別人別腸より出(いで)たるが如し、」とも書いているのである。
* 鋤雲の書いていることは誇張でもなにでもない。日本列島が分け取りにされる危険は大変なもので、例は、近隣の東洋において枚挙にいとまがなかった。このような形勢を凌いできた明治維新であり、明治以降の日本の文明文化であり、文学藝術も例外ではない。こういう第一期日本の知識人・思想家の文章を多く選んで「ペン電子文藝館」の冒頭を意義あらしめたいと強く願う所以である。
* 鋤雲の一文はすべて正字で、濁点は振られていないし、ヨミガナの振られた例は一つもない。句読点も、「。」は一カ所もない。これを、あえて新字有るは総ていちいち新字にかえ、仮名遣いこそ改めないが、必要な濁点とよみがなを、総ていちいちにわたしがつけている。読点をくわえることをしていないのは、語勢を殺さないためである。正しい読みをつけるには、漢和字典をひきづめに引かねばならず、しかし当然の手続きである。ただよみがなの仮名遣いだけは「校正」段階で、くわしい同僚委員の和泉鮎子さんや城塚朋和氏を煩わせる気で、どんどん進めてしまっている。このところの、陸羯南、志賀重昂、黒岩涙香、中村敬宇、田口鼎軒、大西操山らも、みな全く同じ手続きを経て、一つ一つの「植林」を果たしてきた。参考にする底本の活字がちいさく、正字は複雑で読みにくく、長時間の起稿作業を続けていると、目の前が次第に白濁してくる。しかもそれを成さしむる意気と魅力がそれらの文章には漲っており、少なくもわたしは毫もそれを「かびくさい」などと思わない。今日人気だけの読み物の方がよほど「かびくさい」と感じることが多いのは、その文章が早くももう死んでいるからである。
* 同僚委員向山肇夫氏が、池島信平の遺文を選択してくれた。はやく読んでみたい。
2003 12・3 27
* 歯医者はまだかかりそうである。今日も麻酔をかけられ、ほぼ四十分治療。突き抜いた冬晴れの空の下を、上野へ、有楽町へ、そして珍しくビヤホールのニュートーキョーで、牡蠣と帆立と鎌倉ハムとで大きなジョッキを傾けながら。「日本の歴史」は政治家家康の支配意思強硬なことに、うんざりして読んでいる。金地院崇伝だの天海だの、本多正純だの。文治の時期にはいると、いつもこういう狡猾なほど陰険な政治屋が黒子になってうろうろする。愉快でない。
池袋西武で老酒を買って帰った。
2003 12・4 27
* 新しいカレンダーが送られてくる季節になった。新刊もゾクゾクと戴く。角田文衛、大江健三郎、川本三郎、猪瀬直樹、米原万里、三島佑一、朔立木ら各氏の本が、枕元で、枕よりうずたかく積まれ、積んであるだけではない、次々に読まれている。一つ済んだら次へという読み方ではない。ほとんど毎晩併行して頁を追っていく。バグワンや源氏や「夜明け前」はさらに優先する。親鸞研究の雑誌もあれば、文春新書の大胆な、しかしわたしには用のない面白い「房中術」の本ももらっている。
籤とらずの三冊はべつにして、いま最もハカの行っている読書は、角田博士の王朝の女達を論考した一冊で、博士の人選もよろしきを得ているし、検討は文献に則って実証的に遺憾がない。なによりそういう人物論評がわたしは昔から好きであった。廃后高子、齋宮恬子、建春門院、建礼門院などみなわたしは曾読の論文ながら、また読み返して飽きなくて、これから池禅尼に入る。最後には別格の体で、紫式部、清少納言に相当な頁がとってある。
川本さんの東京モノはいろいろ戴いていて、ひそかな愛読書に数えている。とても読み佳い一種の名文で、わたしはこの人の著述に信愛している。
大阪船場出の三島氏のは谷崎と大阪をめぐるエッセイで、このところ氏は大阪の文化的スポークスマンの観がある。よく務められている。
さてさて、だが、何と云ってもいまいま湯気のぽっぽと立っているのは、猪瀬氏の、道路公団問題での大奮闘記。達筆の署名入り本を、詳細な目次を案内に立てて、かなり大冊だが、だあっとほぼ一冊読み通してしまった。いま、「働き盛り」の語はこの人のためにこそ有る、真実敬服する。
2003 12・6 27
* 源氏物語はとうどう、ながい「夕霧」の巻を終えた。源氏物語のなかでわたしの好きな人物はというと、つまりは「紫上」を愛しまた慕った人達ということになる。光源氏そして夕霧、匂宮、また明石中宮と。宇治中君も、いろんな意味で加えたい。
夕霧は、表へ出て主役をはることの少ない人で、唯一この「夕霧」巻までの数帖、亡き友柏木の未亡人落葉の宮に恋着して行く珍しい風情のあたりだけで、表立つ。独立した物語と読んでも、夕霧の物語は、横笛から鈴虫を経てたいへんよく書けている。しかしまた、わたしは、義母紫上をはつかに透き見して魂を奪われたちつくす「野分」の夕霧と、その紫上に死なれて、人も怪しみかねないほど泣き嘆く夕霧が、とても好きだ。いや、幼な恋の雲居の雁をしんぼうよく待って、ついに障碍を克服して結婚する夕霧も好きだ。すこしヤボに真面目な勉強家のまめびと夕霧が、ひょっとして父光源氏より好きかも知れない。
* さて、「御法」「幻」の二帖は、このたび音読を遠慮し、黙って「通過」することにした。源氏物語は、わたしに、『死なれて・死なせて』という深刻な感想を書かせるに至った、最も刺激的な古典文学であったことを、今も、しみじみと想う。この二帖、声に出して読むこと、とても堪え得まい。それがわたしの源氏物語なのだから仕方がない。
2003 12・7 27
*「夜明け前」は、第二部にはいると、維新政府と英米仏等との微妙な交渉史がつづく。藤村の史料の把握と表現が、単簡要を得てしかも描写を心得ていることに感心する、が、いまぶん青山半蔵の影もさしてこない。
明治維新に関心のないわけはないが、偉大な混迷期という気が昔から有り、あまり触れ合ってこなかった。維新前というと新撰組などが表へ出てくるのは、小さい扱いようではないかと、毛嫌いしていた。藤村の歴史推移の把握は落ち着いていて、いちばん肝腎なところ、つまり世界の中での日本の変貌や変容に適切に的を絞っているのがいい。藤村は個人であれ家であれ国であれ、それぞれの歴史性の把握に大きな長があり、漱石は文明にゆすられて生きる人間の内面=心の動揺をとらえてあやまたず、潤一郎は性と美を世界観の基底にすえて人間の運命を構造的に構築した。彼等に無いか足りない視野を、混濁した人間社会の政治的不幸としてとらえたのは松本清張であったろう。川端康成といえ大江健三郎といえ、他は、すべてと謂えるほど、このどれかの亜流であり、出来不出来はあれサンプルの四人を超えて別乾坤を成したと思われる日本の作者はいない。真にそれらを総て綜合し得ていたのは、はるか溯った源氏物語が唯一あるに過ぎない。
* 源氏物語には薫る中将、匂ふ兵部卿がならび登場して、光源氏や紫上の世界は過ぎし懐かしき世界の語りぐさと化している。骨のきしむような寂しみに若い世代の世界がいろどられ、それに堪えつつ貴公子たちが活動し始める。宇治十帖まで、もう暫く、作者は配慮し用意を尽くすだろう。
* その作者紫式部についての角田文衛氏の長い論考を、昨夜読み終えた。これも再読もの。さすがに紫式部となると、そうは簡単に細説できない。角田さんといえども要点や骨子といった調子で、最低限度の記述であった。ただそこが之ほどの学者のものだと、骨子として安心して自分のなかへ取り込んでおける。あとは自分の理会したところで肉付けする根気が必要か。
* 日本史は、家康秀忠二代の強圧に蹂躙され煮え湯を飲まされ続けた、後陽成・後水尾天皇や公家・僧侶たちの、あわれをとどめた情況を、にがにがしい不快感を覚えつつ読み進んでいる。京都の朝廷や大寺社に同情して言うのではない、要するに、政治的に強硬な傲慢というものが憎いだけである。いまのアメリカ、いまの小泉内閣。最悪のハリケーン、最悪のタイフーン。ジャーナリストたちの、誇りを見失った沈滞が、輪をかけて悪政の彼等をのさばらせる。ブッシュの顔は、いまや下卑た悪相にゆがんで、世界の不幸をそのまま体現しているし、小泉の顔はいかに平然と人間はウソをつく見本かのように、醜悪の汚臭をにおわせ始めている。日本の不幸、日々に深まる。
2003 12・12 27
* 師走に入って兎にも角にも郵便物が山のように溜まり、階下の仕事机がまったくものの役に立たないのを、少し片づけた。戴いている著書だけで二十冊ほど積み上がっていた。梅原猛「京都発見」楽吉左衛門「茶碗」松田章一「和菓子屋包匠・他」などのほかに川本三郎、飯島耕一、上野千鶴子、猪瀬直樹、佐高信各氏らの著書。そして歌集や詩集や句集。例の勝田貞夫さんからの「湖の本」ディスクも届いていて、いやもう、失礼の重ね重ねである。ここでご免なさいと謝ってみても仕方ないが。年齢をとるとは、こういう謝り事が増えると云うことか。
2003 12・16 27
* こぬか雨のなかを、聖路加から銀座松屋まで歩き、「宮川」で鰻でも食って帰るかと上へ上がったが、寿司の「福助」が店出ししているのに気付き、おまかせで朝昼兼帯。お酒、むろん。焼き帆立、そして海胆とトロを余分に注文。飯はごく少なくして貰った。食事しながら、読者から送られていた、一つはご主人を亡くされた奥さんの、も一つは奥さんを亡くされたご主人の、まさしく「悲哀の仕事」の手記本を読んだ。こういう場所では不謹慎なようだが、こういう場所ででないと読み切れるものでなかった。
二つは対照的。奥さんの手記は新婚旅行以来の楽しかったことだけに限定した手記。ご主人のは、ほぼ泣きの涙の手記。唸った。ご冥福を祈ります。
2003 12・17 27
* 東山道征討の官軍が馬籠宿へも迫りつつあり、平田国学に心酔し王政復古に理想の実現をねがう本陣青山半蔵の心は、なかば宙を歩んでいる。『夜明け前』は独特の内部震動をすすめている。
* 戴いている本のなかに、楽吉左衛門氏の「父と子展」への思いを綴った美しい図録と文集がある。当代の楽さんは歴代の逸材とみてわたしは早くに京都美術文化賞に率先選考し授賞を決めてきた。茶碗であり、また美の存在としても秀れた造形の出来る人である。
* 岩佐美代子さんに筑波大石埜敬子教授のインタビューした、源氏物語「行幸」「藤袴」あたりに話題を絞った対談コピーを岩佐さんに貰っていた。それを夜前、寝入る前に読んだ。玉鬘十帖のおさまって行き、また夕霧と雲井雁の幼いからの恋にも前途の見えてくるあたりである。おもしろく読んだ。わたしの「音読」はいま紅梅大納言が匂兵部卿にわが娘への接近を唆しているあたり。源氏の終焉から宇治十帖の開幕までに挟まれたこの辺は、作者・筆者にも疑問符のつけられている、微妙なまさに挟雑的な巻々ではあるが、それもこれも光うせたあとの寂しみを堪えているような深い惑いとも読める。落ち着いて読み進んでいる。薫と匂とを主人公として提示しつつ、玉鬘の家庭のその後などもふくめて、やはり物語に整理と新展望を企てている点では、それなりに見捨てることの出来ない巻巻と思う。
* 心の底でわたしが、だが、いちばん疼くように書きたがっているのは。バグワンへの思い。そして谷崎潤一郎や中村光夫先生の思いを承けるほどおおそれたことではないが、「老人の性」をあつかった思い切ったフィクションである。
2003 12・18 27
* どこへと一瞬迷ったが、まっすぐ日比谷のクラブに入った。21年ものの「響」を妻と先日行ったとき、入れておいた、それを飲みたくなった。「インペリアル」とどんな風に味わいが違うか。いや、うまかった、どちらも。何とかの一つ覚えのように角切りのステーキとエスカルゴ。誕生日が日曜なので、クラブはあいていない。それで支配人が気を利かしてシャンパンのグラスで前祝いしてくれた。花森安治の「見よぼくら一銭五厘の旗」を読みながら、うまい酒を飲んでいた。この一銭五厘は、むかしのハガキ一枚の値段。そのハガキ一枚で人を戦地に送りこんでいた時代。馬や牛の方が貴重なんだ、お前等は一銭五厘で幾らでも代わりがあると毒づかれた庶民の嘆きを忘れさせぬ歌である。世が世ならわたしも一銭五厘のくちであった。それをひしひしと実感するから、わたしは私の稼いだお金でささやかに贅沢をするのである。許される贅沢を自分の責任でするのである。撞着だと嗤わないでいただきたい。
* 地下鉄終点の池袋で、人に起こされるまで気持ちよく寝ていた。西武線でも寝てゆこうと思い、乗り越したくないので保谷行きをえらんで乗ってきた。
2003 12・19 27
読書録4
* 源氏物語は宇治の「橋姫」を渡り始めた。馬籠の青山家は、本陣、庄屋、問屋の三役から、維新後の戸長にさまがわりし、広すぎる家屋敷のかなりの部分もとりこわすなど、時代の変化が歴然としてのしかかっている。幕末ではない、東京遷都ももう過ぎている。どきどきしてくる、胸が。
2004 1/1 28
* 会員のすこし長いエッセイ二編が届いた。いま少し文藝として推敲が利いていたら、とても材料としてはいいのだから、と、ただ回想的な随筆にしてしまうのが惜しまれた。
その人の曰く因縁にまつわられた故地には、平家の落人町かという伝説があるという。地名にもまた土地の名家の氏姓にもその雰囲気はすぐ感じられたが、筆者はその辺についてあまり知識がないのかも知れぬと想われた。
2004 1・2 28
* 薫中将はとうどう都から木幡の山も越えて宇治八宮のもとへ通い始めた。そこには大君、中君がひっそりと父八宮に愛育されている。それだけではない、薫出生の秘密に深く触れていた人物もここに身を寄せている。宇治の川瀬ははやい。風も鳴る。今の宇治平等院の対岸辺りと眺めて読んで間違いない。妻と、京都ホテルからチャーターの車で、山科随心院、三法院、法華寺を経て平等院まで行ったのは何年前になるだろう。この前は稲荷から羽束師を経て桂川にそい、嵐山へむかった。
あまり懐かしくて、京都の風光を、東西南北、ひろやかに、こまやかに思い浮かべると、くるしく、胸がきしるようだ。
2004 1・7 28
* 中村星湖の「女のなか」が、なんとも味がある。おおむかしの秦の父と母と叔母とのような感じ。むかしはこういう小説を書いていたんだ。
2004 1・7 28
*「日本の歴史」は第十五巻「大名と百姓」の巻に入る。
前の「鎖国」は、もっとも濃厚且つ広範囲に世界と触れた重要な巻であったが、鎖国の政策評価はいまなお定まっていない。鎖国は成功した面も喪失した面も大きな、歴史的政策であった。粟散の辺土という島国であり地勢的にはいつもゆるやかな鎖国状態にある国家であったし、それが国民のいわば歴史観にも影響していた。いつも袋の中へ頭をつっこんだようであったのは確かだ。それを瞬時的ではあれ積極政策で打ち破り掛けたのは、信長や秀吉や家康の広い広い世界、球体世界への好奇心の強さであった、欲と二人連れにしても。この辺、さすがに傑出したセンスであった。
日本を意図的な強固な鎖国国家へ完成させた三代徳川家光が、地球儀や世界地図を前にして、「だから」鎖国必然と意志を固めているのは、気宇という点では先の三人に格段に劣り、了見が狭かった。とはいえ、以降二百年余の鎖国が守った国の安全は、たしかに有った。結束度の高い島国ながら、進んだ文化意志を持っていた日本には、それが出来たから、それを敢えてしたという一面は有る、と思う。十七八世紀の西欧列強の覇権意志は苛酷なほどの暴力で裏打ちされていて、十九世紀に、アメリカが十分に成り立ち得ていた時機の世界史とは次元がちがっていた。家光と井伊直弼とがサカサマの位置にいて指揮していたら、日本の運命は悲惨であったかも知れない。
さて次は、いわゆる幕藩体制の、民政ならぬ藩政、また知らしむべからず寄らしむべしの幕政が焦点になろう。ここではいやおうなく「治者の横暴」が突出して、いかに「被治者」の自覚が削り取られて行くかの、私民としてはつらい江戸時代を読み進めることになろう。
2004 1・9 28
*「本文」要再校の用意は出来た。跋文だけは京都から帰って入稿する。京都女子駅伝は好きな見物の一つ。京の風光がきらきら伝わってくる。見ながら聞きながら少し面倒な作業を仕上げた。
二階では、綱島梁川の「病間録」を起稿し、校正し、更に音読してから入稿した。明治という時代は、こういう一種パセチックではあるが優れて高揚した基督者の感化が、地の塩のように文化界を刺激した。わずか三十五歳で亡くなった思想家であるが、この一文は一の文藝としても凛乎とした独特の名文であり、いまやこういう思想から社会を動かそうという批評家や宗教家の地を払ってむなしいとき、或る哀情とともに、ひしと懐かしまれる。これまた「明治」の一魅力であった。
2004 1・11 28
*「夜明け前」の青山半蔵は苦渋の道を歩んでいる。明治維新。青山家累代の本陣、庄屋、問屋の三職も廃止され、新たな戸長の役柄も、免職されてしまう。木曽の山で生きてきた多くの地元民のことが新政府の地方官に理解されず、あまりに無謀な短絡な虐政が平気で強行される。半蔵は必死に奔命奔走してその不可である所以を訴えんとし、それが忌避され免職されたのである。
半蔵は、思いの外の維新の成り行きに心を乱されて行く。単身東京に出て教部省にいっとき籍をおくものの、観ること聴くこと、すべて復古の清純を願う彼の思いとは逆へ逆へ行く。思いあまってか、半蔵は慕い奉る陛下行幸の列へ駈け出て、歌一首をしたためた扇子を投じてしまうのである。先導の車とみたそれは帝の御輦であった。収監され保釈され裁判をうけ、辛うじて五十日の懲役は免れて三円なにがしかの罰金を支払って済んだ。彼は、神社につかえて宮司でありたい希望をかすかに叶えられようとしているが、そこは、馬籠からまだ二十五里もの雪深い山奥の社のようである。
* 藤村の筆は悠々と緩急自在に大波打つように流れて行く。明らかに漱石にも潤一郎にも書けなかった古今未曾有の境地が、きびしく畏ろしく進行して行く。
* 「日本の歴史」は難関である。徹して江戸初期の農村史である。ここを越えてはじめて元禄時代へ辿り着く。いちばん時間がかかる山坂である。
* 薫中将は、父八宮の不在に宇治をおとない、二人の姫にはじめて近づく。そこには薫出生の秘密に触れていた老女も同居している。薫との応対に、たぐいまれな資質を感じさせる姉大君との歌の贈答は、まだ相聞ではないけれど、しっとりと、とても心懐かしい。
2004 1・12 28
* 昭和の敗戦ではたしかに他律的に世の中が変わった。わたしは子供であったから責任のある感想とはいえないが、あの大変化を待ち迎えたことに深刻で意外で足場を喪うような凄い失望はあまりなかった。むしろ希望と期待がもてた。敗戦が国民学校の四年生、疎開先の丹波から京都に帰り少し落ち着いてきた頃に、思春期そして中学生。素直に民主主義と新憲法とを歓迎できた。アメリカから押しつけられたという現時のいろんな声は、むろん当時は、京都市井の新制中学生には聞こえても来ない。そして、由来はいかにあれ、それが憲法という国是として国民的に了承し受容していた重みを、やはり何より大切に感じていた、大人になっても。
が、そんなことが、今言おうとしていることではない。この昭和敗戦の変動よりもはるかに質的に大きな変革であったのが明治のご一新ないし明治維新であったらしいのを、藤村の筆は木曽馬籠宿と青山半蔵(藤村の父にあたる)の運命を通してひしひし伝えてくることに、深々と胸うたれているということが云いたかった。
こういう筆あとに揺すぶられたあとで、翻訳物のミステリーは、その文章の索漠一つのゆえにも、とても読みつげたものでない。おはなしにならない。
* かなり多く続けて、このところ明治の文語文と付き合った。凛々たるものだ、膝をうつ名文にも幾つも出逢えた。それらはみな、時代と対峙して必然の感慨をこめ、迸る正心誠意で書かれていた。むろん、時代が変わり日本語が変転して、誰にも読めるとはゆくまいが、同じ日本語であり、漢字が使われルビも豊富で、その気になれば平安の古文よりはるかにやさしい。それらは、論説もまた、評論もまた、随筆も当然ながら「文藝・文学」であるという魅力をおしえてくれる文章だった。
対比して今日の、現今の、総てをナミして云おうなどとは決して思わない。同じように、文藝・文学の魅惑に、ファシネーションに溢れていると喜べる作にも出逢えるであろう、それを、大切にしたい。時代を乗り越えて行く新しい真に優れた文体の創造は、若い書き手の天才に期待するしかない。前衛の沸騰は、「現代」がいつの時も常に直面した運命であり、運命に淘汰されて金無垢の作品があとへのこることを「歴史」はいつも期待してきた。僥倖は一時のもの、結局は何が大事かは、書き手の、また読み手のちから次第となる。鋭い鞭撻が聴かせるあのヒュッと撓い鳴る生気。あれが無くては「かびくさく」腐り出す。腐っていない、ただ不幸にして忘れられかけている作品を、一つでも、一人でも多く「ペン電子文藝館」に蘇らせておきたい。それがわたしの、又一つ現代への「批評」だ。
* 長谷健の昭和十四年上半期芥川賞受賞作が、遺族の快諾とともに出稿され、スキャンを終え、校正に入る。「はせ けん 小説家 1904.10.17 – 1957.12.21福岡県山門郡東宮永村に生まれる。「あさくさの子供=星子の章」に対し昭和十四年(1939)上半期芥川賞受賞。教師体験を活かして真摯に書かれたけれん味ない受賞作は高い評価と広い支持を得て、続編「桂太の章・律子と欽弥の章」とともに読み継がれた。 掲載作は授賞対象作で、昭和十四年(1939)同人誌「虚実」第二号初出、長谷は三十五歳であった。」やや長いので、校正に時間ががかかる。
新潮社創業の佐藤義亮「出版おもいで話」も、読書家にはちょっとこたえられない話材に富んだ、長編、なかなかの好文章である。このスキャンも出来た。H 氏賞詩人二人目の水野るり子さんの詩編も本館に掲載になった。
2004 1・14 28
* 秦家に、たぶん祖父鶴吉の蔵書としてあり、むろん現在もわたしが所蔵している古典に、「湖月抄」の木活字本がある。わたしが「湖」と便宜に名乗っているのは「みごもりの湖」に拠るけれど、まだ国民学校の昔から手に取ることもあった名著、二つの帙入り八冊か十冊の源氏物語注釈の表題が、脳みそに刷り込まれていたのかも知れない。
それと並んでわたしは「春曙抄」と聞いた本の題にも、ながく見果てぬ夢を、今ももっている。佳い本が欲しいなと思っているが、手にしていない。
春は曙。日本語でこんなに美しく完結された批評を、他には知らない。「あけ・ほの」「明け・仄」という日本語自体も美しい。そしてわたしは、紫上びいきであるから当然に春派である。今は花粉に悩まされ、かつては春闘に悩まされたけれど、桜咲く春の曙は絶対のもの。
曙 あけぐれのほのかにひかり生(あ)るるときいのちましぶきひとにみごもれ 湖
そういえば与謝野晶子の歌集に「春曙抄」をよみこんだなまめいた歌があった。あれはかなり気取っていた気がするなあ。
2004 1・18 28
* 会議の後は、成り行きで自然に独りになり、成り行きで気に入った店に入って、小懐石で小一合、それから佳い焼酎をすこしストレートでやりながら、二時間近く原稿を読んでから帰った。電車では「捜査官ケイト」が佳境に入り、電車を乗り違えて豊島園へ行ってしまった。練馬へ戻って、保谷へ。つまりそれだけの時間、ミステリを楽しんでいた。
2004 1・19 28
* 今朝、客間兼寝室兼書庫兼物置の本棚にならんだ新版の岩波志賀直哉全集を見ながら、半数以上が「日記」と「書簡」なのに改めて気付いた。わたしは、それも全部読んだ。それだけのことはある、と思った。
わたしの仕事がもしも何かの形で残りうるとして、この電子版「闇に言い置く私語」は、秦恒平といういささかならず狂を発していたような作者が、それでも日々に断然生きて在ったことは示してくれるだろう。とても誇りになる日々ではないが、非力な一人の言葉は此処に生きていて、ひょっとして最大の作品となるのかも知れない。その意味で、ここに慎重に選んで採り上げられる多くの他者の声々は、じつは、わたし自身の生の照り返し(失礼)なのである。有り難いと思っている。
2004 1・21 28
* 長谷健の芥川賞作「あさくさの子供」も、佐藤義亮の「出版おもいで話」も、松田章一氏の戯曲「花石榴」も、長篇で、なかなか校正が捗らないが、それぞれに興味深い。交替交替に、じりじりと併行して読み進めている。戯曲が佳境へ来ている。嬉しいメールを心待ちに、また戯曲から読んで行く。
2004 1・22 28
* 青山半蔵は跡継ぎ宗太に迫られ、涙を流して黙って手を縛られ、俄に造った座敷牢に閉ざされてしまった。祖先が開山した菩提寺松雲寺を無用であると障子に火を放ったのだ、半蔵の無垢の魂はぼろぼろにされていた。そして明らかにあれは酒毒にもあたっている。妄想と幻覚と絶望とモノの影に対する恐怖と反撥。可哀想な小説の主人公とは無数に出逢ってきたけれど、青山半蔵のようにわたしに迫ってきた人はいない。つらいわたしの頭痛をともなって、「夜明け前」を喘いでいる青山半蔵の、ゆらゆる傷つき果てた魂が、身のまぢかに来る。
「終章」へ来て、もう今夜にもすべて読み終えてしまうだろうが、いま、わたしの眼には、秦テルヲが遺した「絶望」と題された絵が迫ってくる。あの絶望につっぷした女は、半蔵とは遠く無縁な、近代の苦界にうちひしがれた女。だが絶望という苦痛においては半蔵もあの女も同じだ。わたしは。いやいやいやいや。ただこの闇の底までかくもこまやかに充たしている寒さは何なのか。
* 半蔵は、抱き柱を捨てることが出来ない。平田国学、復古の理想。神の御心であらうずでござる、と。「夜明け前」をはじめて読んだ昔、一言にしてこれは「神と仏との戦」だと思った。それがこの大作への印象だった。こんど、こんなに丁寧に嘗め味わうようにゆっくり読み進んできて、もっと他のいろいろな感想を持っていたが、ここまで終盤に来て寂しい極みへ荒廃して行く半蔵をながめ、そしてついに松雲寺放火の挙にまでくると、まぎれもなく「夜明け前」の歴史的・精神的側面を一語で尽くすならやはり「神と仏との戦」としか云いようのない堪らなさの厳存しているのを認めざるをえない。藤村の、父半蔵の狂を発して行く経緯を書く筆つきは、おそろしいまでに精確で印象的で粗忽が無い。こういう神業は、鴎外にも漱石にも、ましてその後の作家達には有りうべくもないと、驚嘆、たたそれのみである。半蔵は柱に抱きついて放せなかった。そんな「柱」は時代遅れだと嗤われ嘲けられて狂うしかなかった。深酒の毒が手伝った。彼はしんから酒が好きで、酔ったようには顔へ出なかった。弟子達は深い愛情から師の半蔵に酒をえらんで土産にした。半蔵の喜びようにわたしは泣かされた。朦朧の夢中、ひとり酒を買いに深夜家を忍び出て行く半蔵のあしどりの危うさ。夢から覚めて自ら妻にそれを告げる半蔵の弱り…。
* テルヲの「絶望」の女は、抱き柱を、はなから持たない、何とかして抱きつきたい神も仏も金も人も、一切をもとうにももたない絶望を描かれている。わたしは、その女の前から動けなかった。
* わたしが、たぶん半蔵にも、絶望の女にもならずに済むだろうと思うのは、「抱き柱」を離れて捨てる以外に、人間としての自由は得られないことを、少なくも分かりかけているからだ。わたしは、抱き柱をむしろ何種類も持ってとぼとぼと来た人間だ。だが「抱き柱はいらない」と思うようになり、大方は捨ててしまった。いま何をまだ抱き残しているとも直ぐには謂えないほどだ。
サルトルは謂った、自由とは刑罰だと。言い直して、自由とは凍えそうに寒いものだと謂えるかも知れない。しかしサルトルの自由が、自由な自分を見つけようという意味であるかぎり、つまり自分以外の何か桎梏から自由になりたい意味であるかぎり、自分という「抱き柱」からはやはり不自由にのがれ得ていない。
自分=自我=自己自身からの自由でなければ、何の自由であろうかと、わたしは震えそうに寒々と予期している。その寒さを経て行かないと自由自在はないだろう。何のアテもないが、願う自由は、サルトルのそれではない。自分自身からの自由である。
2004 1・26 28
* 瀧田樗陰という凄腕の編集者がいたのは文壇人なら多くが知っている。この人は自身ではあまり書いた文章がなく、それでも「ペン電子文藝館」の「出版編集」特別室にはぜひ欲しい名前だ、その瀧田哲太郎の文章が少しずつ委員会の尽力で探索されつつある。なんとトルストイやツルゲネフの翻訳まで確認されてきた。
私も含めて「電子文藝館」には、委員が二十三人。この中から、試みに「出版・編集」小委員会ふうに城塚朋和副委員長と中川五郎委員、向山肇夫委員を指名して、私のすることとは別途に、その方面の掘り起こしを頼んであり、少しずつ成果が見えてきた。また「女性」作家と作品とを、「反戦・反核」作品と作家とを専ら年頭に置いてもらう小委員会風をも設けることし、委員長指示を出した。
とくに大事な作業として、本館にすでに掲載されながら、なお、本文に瑕疵を抱えているに違いない実情をフォローしてゆくことにも、具体的な大作と構想をもとうと提起がしてある。
読者への「窓」をどう開くか、ぜひ開きたいとわたしは願っているが、名案は委員会から未だ出てこない。文学愛に溢れ機械にもさわれて編集感覚のある者達を、モニターとして協力して貰う「友の会」型の実現はどうだろうか。
* 長谷健の「あさくさの子供」をやっと入稿した。あさくさの小学校の先生が、六十人もの担任教室の、一人の問題多き少女を愛して、心を悩ませている。ああ、昔の学校の先生はこういう風に感じ、こういう風に語り、こういう風に悩んでいたのか、今では信じられないなあと思ってしまう。この先生の名前が読めない。「江礼」先生だとあるが、「えらい」先生か「えれい」先生か。いちおう「えらい」先生と読んでおいた。この先生の手記にはさまれて問題の少女や少年の章があり、そこでの彼女や彼等は、えらい先生の思惑などはるかに越えて出た、澄んだ時空間で、生き生きと呼吸している。それらの章が秀逸で、先生の手記に当たる章は、奇妙に私には違和感があった。先生よりも子供達の方へわたしは身を寄せて読んでしまっていた。
長い作品だった。読み終えてほっこりと疲れた。心寒かった。
2004 1・26 28
* 渋っていた、しかし、どうしてもそれは済ませないと困る用事を、日付が変わったところでやれた。これからは、当分、また発送の態勢で細々とした、併し必要な用事がいろいろ出来る。
今夜は早めに床に入っても、「夜明け前」を読み上げるという、沈痛な関所を通り抜けることになる。藤村は数寄屋橋の泰明小学校に通い、数寄屋橋とはあの北村「透谷」の雅名の由来でもある。晩年の半蔵は、はるばるやむにやまれぬ心配から、東京に勉学に出させた我が子藤村少年の顔を見に木曽から出て来たが、少年はこのいかにも「山の者」のような父親の言うことなすことを、身を引いて迎え、父親はいたく落胆し失望して木曽へ帰り、にわかにいろいろに動揺して、正体なく松雲寺放火の挙にでてしまう。
そのような父親を、じつに後年の藤村はしっかり把握し表現しているのに驚く。
2004 1・26 28
* 昨夜『夜明け前』を読み終えた。青山半蔵の最後は悲惨な窮死であったが、馬籠宿や近在の人々からは、「清い」人柄に深い敬意と親愛を持たれ続けていたことが、悲しいけれど有り難いことであった。半蔵乱心の真意を読み取っていた松雲寺住職の言葉には肯かされる。読者には、それが見えている。青山家先祖が建立し歴代の墓も位牌もある松雲寺である、それをなぜ焼亡させようと半蔵は狂ったか。謎でもあるまい、それは廃仏毀釈の根深い希望、復古理想の不動の(硬直した)姿勢に出ていた。「神と仏との久しい戦」というわたしの初読このかたの感想は間違っていなかった。無残であった。わたしは、壮大な作品の巻を閉じるに当たって暫くのあいだ、深夜、独りの床の中で泣いていた。半蔵のためにも、日本という国の歴史のためにも、今の日本のありようにも。
重い重い腰をあげて木曽の馬籠まで講演に出向いたのは暑い真夏であった。だが、馬籠の藤村記念館(島崎家旧居)、また禅宗の法要のあった菩提寺や島崎家墓地から眺めたはるかな恵那山容の晴れやかな大いさ。わたしは予期した以上に深く眼にも胸にも焼きつけてきていた。帰宅して、わたしは寸時もおかずに『夜明け前』を読み始め、少しも急ぐことなく、そのかわり作品の立てる波間に身を沈透(しず)くように読み進んで、ほぼ五ヶ月を閲(けみ)した。近代日本文学の最高峰によじ登った実感に打たれている。
2004 1・27 28
* 淡交社がくれたカレンダーの一月の写真は、正月の床飾り。軸は懐紙「初春 内大臣実萬」。高くから「結び柳」がしだり尾のながながしく床畳に垂れて、これが正月らしい。曲げ物に寶槌が載っているが、今一つ、冴えていない。何より軸の下で畳み目一つほど左にずれている。こういうのは気になる。真の板に唐物らしい瑞獣ものの尊式の瓶に、追羽根と堅い椿の蕾はわるくない。好きな瓶ではない。
機械部屋のもう一つのカレンダーは山種美術館が毎年呉れる、今年の一月は、土牛の金地に紅白梅。柱には細身の、先日縄手「今昔」で咄嗟の土産に凱クンの呉れた木版の簡素なもの。
深夜にぼおうっと見入っている。東大倫理学の竹内整一教授から「『おのずから』と『みずから』」という著書が贈られてきた。日本思想文化論と帯にある。意図するところは朧に察しられる。目次を観ると、第四章で古学にふれているらしい。仁斎などが語られていそうだが、国学には触れていない。近代の国木田独歩、柳田国男、夏目漱石、森鴎外、正宗白鳥という名前が見えているし清沢満之の名もある。しかし、目次をみるかぎり宣長・篤胤の思想は検討の外らしい、島崎藤村にも触れていないらしい。「神の御心であらうづでござる」という国学の「おのづから」にもぜひ触れて欲しかったなあと「夜明け前」読了の今は説に感じる。竹内さんにはお礼を言い、その辺を伝えておきたい。
2004 1・28 28
* バグワンと、宇治十帖を階下で読んでくる。
2004 1・29 28
* 大日本雄弁会講談社の創業者野間清治の「わが半生」より「キング」創刊前後を抄録して「ペン電子文藝館」に送った。「キング」というのは、多くて雑誌の部数が二三十万の時代、それは関東大震災の翌年であったが、じつに百五十万部に達する創刊雑誌として、まことにマスコミ時代をぐいと引き寄せた大成功創刊であった。そのサクセスを大いに自負しているが、それだけの苦心をはらっており、震災で創刊が一年遅れになったことを「損害」でなく、「幸運」であったと評価しているのを興味深く読んだ。
さらに今、新潮社創業の佐藤義亮の回想も読んでいる。
いろんな出版・編集人がいたし、「ペン電子文藝館」は、開館二年の記念にと私一存で理事会に諮って通して間もないが、明治初期から昭和の花森安治まで、もうあれこれ十数人の顔ぶれにまでしてきた。岩波茂雄や長谷川巳之吉のような理想主義を成功させた人もあり、明治の人達は警世の意志巌のような時もあった。売れる・売れたという部数に重きをおいて大をなした創業者もいる。いろいろだなあとつくづく感じる。
京都の淡交社を支えて名編集長であった臼井史朗氏の出稿も獲た。いろんな候補作が来ているが、「紙を汚して五十年 一編集者の懺悔」を戴こうと思っている。筑摩書房の創業者も素晴らしい人であった。少し砕けた感じでは「ミセス」などで一世を風靡した編集長も、また群像の大久保房男氏、新潮の坂本忠雄氏なども念頭にある。
* 米田利昭の「子規の従軍」は佳い評論であった。正岡子規と、また俳句とを、大きな「明治」という時代の政策や思潮とのかねあいで、微妙に踏み込み踏み込ん考察を展開してくれて簡潔、犀利の魅力を覚えた。「土屋文明の『日本の母』」と並べると、かえって求心力が分散するので「子規の従軍」だけにする。八十枚はあり、評論としては十分な長編である。
2004 1・30 28
* 米田利昭の「子規の従軍」を正式に文藝館に招待した。これは文藝館の評論中でも屈指の秀作に属するだろう。少なくも子規があれほど熱心に「俳句」に取り組んだかを、明治の体制とからめて斯く的確に示唆したのは、ありそうで無かった視野の適切であろう、それを「子規の従軍」という、だれもが思わず心いためて顰蹙したほどの「決行」と、しっかり絡めて説いてくれたのは有り難い。いい樹をまた一つ得たという実感である。
2004 1・31 28
* 臼井史朗氏の送ってこられた沢山な出稿資料を読んで、これで行こうと決めたのが、講演録であるが、内容がいかにも編集者臼井の全容に触れている。「紙を汚して五十年編集者の懺悔」の用意が出来た。編集者には運根力が大事。「運根力」はわたしの勝手な造語であり、「うんこんりき」と読んでもらう。わが往年の編集者体験に徴しても、これは大事な三字で、謂えている。
わたしが「ハイネ詩集」にふれた最初は「アテネ文庫」だと先日書いていたが、この廉価な人気の高かった弘文堂書房の文庫本の企画実現者が、臼井史朗さんであったとは驚いた。淡交社の前にそんな時代があったとも初めて知って、びっくりしている。明日、校正する。
2004 1・31 28
* 午後を費やして臼井史朗氏の講演「紙を汚して五十年」を校正した。まだ少し註の部分が済まない。
氏の仕事は、おおかた一読者として、一著者としても、ずうっと見てきた。筆者の一人としてだいぶ臼井編集局長を手こずらせてもきた。
わたしの結婚したちょうどその頃、わたしが受賞の年であった、国宝手鑑「藻塩草」の複製ができ、引き続いて「大手鑑」も出来た。叔母は(まだ京都にいて)、下保谷にわたしたちの家が建ったとき、お祝いのつもりでか、たぶん裏千家への義理買いでもあったろうが、その二つを、どさりと送ってきてくれた。どさりどころか、なんと小さい方の「藻塩草」で、包みのママ三十キロ、大きい「大手鑑」の荷は畳一畳に迫りそうな途方もない複製であった。内容はあまりにもすばらしく、しかし開いて観るのはあまりにも苦労なシロモノで。臼井さんの、蛮勇に似た英断がなさしめた大出版であった。
なにしろ所蔵主の近衛家当主など、今日は手鑑のあれを観るぞと云うと、執事等が倉庫から指定の頁を開いてそこへ羽二重の大布をかけ、台車で主人公の前へ運び出したという。そんな大物を、技術的にあたう限りみごとに複製したのだ、だが執事のいない、台車で運ぶほど家の広くない読者は、ただもう恭しく、どこかに蔵い込むよりない。大佛次郎氏でも倉庫にしまって不出、大和文華館の当時矢代幸雄館長は、家を壊すような「腕力出版はやめとけ」と怒鳴られたそうである。しかし研究者には垂涎の本になった。当然だろう。
しかし、わたしは、惜しみつつ、いつか手放した。まかりまちがえば辛うじて「五K」の小家に、老人が三人、夫婦子供四人がともに暮らさねばならなかった事態を、いつもいつも念頭においていたからである。隣家は、まだ手に入るなど夢にも思えなかった。
手放したのが惜しくはある、が、今も、買い戻そうとは思わない。しかし出版にいたる臼井さんの壮図には感じ入る。臼井さんは2000年当時の講演をこう締めくくっている。
* この時代、もとを考えると敗戦の貧乏状態から、高度成長でもって急に金持ちになった、そのひずみが今いろんなところで吹き出しているように思えます。茶道にしましても、もとは清貧の思想であったものが、今、しつらえでも何でも虚構の美学になりかねなくなっている。出版界も同様でして、「自殺の仕方」だとか「イミダス」とか「ムイミダス」とか、介護だの保険だのというそんな企画ばかりでその結果本が売れない。売れないからまた多種類出す。そんな追いかけっこの状態です。文字通り「軽薄短小」です。売れているのは低俗な週刊誌だけというのは情けないことです。
そんな中で、出版の未来を考えますと、IT革命などで紙の消費は事実上低下しなかったように、情報の基盤としての紙に印刷された書籍はけっして消えることはない、むしろスイッチを切れば消えてしまう電子情報が増えるほど、書籍の本質灼な価値は見直されるのではないかと考えています。そのためにもですね、出版界は心の深いところに根ざした価値ある企画を打ち出して行かねばならない、今そういう時代に来ているのでは、と考えるのです。
* わずか一冊30グラムのアテネ文庫創刊から、3Oキロの手鑑複製本までの、一編集者の懺悔、おもしろく読んだ。これはこれで、池島信平や花森安治とはまた味わいのちがう、骨の太い「喰えないおやじ」ぶりだ。入稿した。併せて、会員北村隆志氏の出稿評論も入稿した。そろそろ文藝館の仕事を手控えて、自分の仕事をしなくちや。
2004 2・1 29
* 新潮社創業佐藤義亮の『出版のおもいで』は読むに従い興が増してくる。こういう文章を「ペン電子文藝館」が或る程度取りまとめて保存する「意義」を感じる。得難い証言をさすがにその道に命賭けた人達は豊富にもっている。出版や編集は人間と人間の関わりに於いてすることであり、昔は、今よりもその「人間」「才能」にかける重みが大きかった。今はどうしても売れての金高本位が度を過ぎているから、「人間」はあとまわしになる。
* 新声社を売却し、わずかな元手から新潮社をまた興して雑誌「新潮」が創刊されたとき、広告のことて行き詰まり難渋して町を歩いている途中に、「大日本国民中学会」という看板につきあたって縁が出来た、それをキッカケに新潮社と新潮は滑り出していった、という。その中学会というのは講義録出版を主なる仕事にしていたようで、その「講義録」の何冊かこそが、わたしを読書家にも、国史好きにも育てた原動力であったことを、あらためて佐藤義亮の「おもいで」で知った。今日まで、それは秦の父が勉強したのだと思いこんでいた。しかし新潮が創刊され、佐藤が中学会に出会ったのは明治三十七年で、その頃の父は数えで七つ八つ、とても「講義録」のお世話になったわけがない。わが秦家で好学の人は、明治二年生まれ、わたしに多くの和漢の典籍をのこしてくれたやはり祖父の秦鶴吉であったと明確に判定できる。わたしはこの仮綴じに近いような大日本中学会の講義録を、ことにその「日本国史」を戦争で丹波へ疎開以前から、国民学校の低学年から無二の愛読書にしていたのだった。
フーン、と、わたしは今感慨に唸っている。
2004 2・2 29
* 窓があいて、いい風がやすらかに吹き込んできた。じっと眼をとじて顔をさしむけている。
* 斎藤野の人という批評家がいた。かなり長編の代表論文「泉鏡花とロマンチク」を書いている。ロマンチク論よりも泉鏡花論に相当する箇所を抄出し校正中だが、手放しのきもちのよいオマージュで始まっている。採り上げている作品が、「誓の巻」と「照葉狂言」とくるから、微笑ましいし嬉しい。これらを読んだとき、魂もとろけそうに感銘した。すこし照れるけれど、これらこそは、おそらく当時古今東西に未曾有の作であった。如何に紹介する、こんな按配こんなふうに鏡花を語っていた人が、早くに有った。同感だ。
* 鏡花の人物では女が不思議な程優ぐれて居るから、先づこの女を一通り研究せねばならぬ。世に鏡花の小説の女ほど、美しく優しく燃ゆる様な情があつて、而かも涼しい程透き徹る様な少しも濁りけのない智慧をもつて、さばけて、意気で、粋で、而かも照り輝くばかり品が可い女は無からう。そして銀杏(いてう)返しや島田が尤も能(よ)く似合つて居る、つまりこれ程日本趣味に出来て居る女は無い。予の知れる範囲では西洋などには勿論居ない、今迄の日本文学にも見当らぬ。遠い昔は知らぬ事、西鶴にも京伝にも馬琴にも紅葉にもこんな女は見当らぬ、まして現代の非日本式の写実主義や翻訳主義や基督教主義の小説家などには思ひも寄らぬ。予には白百合の花にも譬へられたつゝましげに清らかな日本の女が、初めて今日生れた様に思はれる。
予の第一に好きな女は、「誓の巻」のお秀である。「振仰ぎ見返れば、襲着(かさねぎ)したる妙(たへ)なる姿、すらりとしたるが立ちたりき。其(その)美しさ気高さに、まおもてより見るを得ず、唯真白なる耳朶より襟脚にかけ、頬にかけ、二筋三筋はらはらと後毛(おくれげ)の乱れかゝりたる横顔を密(そつ)と見たるのみ」にて、読者も新次と共に恍然たらざるを得ない。お秀は母の無い十四歳の新次に非常に同情を寄せて可愛がる。さうして是からこの新次がお秀を懐かしがる愛情は、誠にたとしへなく美しい。「誓の巻」は実はこの美しい愛情を描いて居るのである。一体鏡花の人物は他の小説家のと異つて居る様に、男と女との関係が世の常の恋と云ふものと甚だ違ふ。それで鏡花はまだ幼い男の児が若い娘に対する愛情を能く描く。「誓の巻」はこの好適例である。併しこの男の児が若い女に対する愛情も、決して世の常の異性の間に成立つ恋とは全く別物である。世の常の恋とは茲(こゝ)に詳しく説く迄もなく、純済問題実用問題と、更に異性間の愛情とが縺(もつ)れ合つて成立するものである。故に家庭とか新生涯とかが其理想となる。併し鏡花にある男と女との関係はさうでない。先づ第一に注目すべきは、男の児は大抵お母さんが無い事である。それで母なる女性に対する憧がれと懐かしさの情は非常に強い。さうして自分を可愛がつてくれる純潔な処女に対して、初めてこの亡き母に対する憧がれと懐かしさが具体的に起るのである。鏡花の愛情と云ふのは、此(かく)の如くにして成立する。即ち哲学めいた詞で云へば、萬有を愛護する所謂マリヤの様な慈母の女性に対する憧憬が、鏡花の愛情の根柢を為すのである。故に鏡花の愛情の目的は、夫婦になることではない、家庭を作る事でもない。つまり母と子になるのである、姉と弟となるのである。あゝこの小児の無邪気と其母を慕ふ心と、更に処女の純潔と、其愛憐の情とが相結ぶ時は、どんなに美しい仲となるのであらう。世の家庭を理想とする愛情は、兎角(とかく)我執の念と利己心に充ちて居る。だから恋の裏面は嫉妬である。又家庭の道徳なる貞操も、多くは悋気(りんき)や嫉妬の上に建てられる。だから暑苦しい、飽き果てられる、時には醜悪である。よしこんな世俗のものでないとしても、あのロマンチク文学の描いた恋、例へばクライストのトゥースネルダのアシレスに対する恋や、グリルパルツェルのメヂヤのヤソンに対する恋や、それからダンテのパオロとフランチェスカとの恋、ワグネルの詩作に於ける大方の恋などは、如何にも先天的な超世界的の磁石力の様な魔力から成立して居て、真に人を魅する、痛切に感ぜしむる、感激せしむる、果ては恐ろしく成る、宛(さな)がら夢見ながら魘(うな)さるる感じがする、苦しさ例ふるに物ない。吾等の弱い心は最早こんな激烈なデモニックな感情に堪へられない。鏡花のは少しもこんな恐ろしさがないと同時に、我執の念もない。経済的乃至(ないし)世俗的の観想をも件はぬ。全く清い美しい姉と弟との関係に外ならぬ。我執の念と利己心と、更にあらゆる悪徳の上に将(は)た暑苦しい熱情の上に超然たるは云ふ迄もない。併し姉と弟との関係と云つても、決して世にある家庭内の姉弟の関係ではない。そは精神的である。而して一切の悩みや罪や煩ひから自由にしてくれる所謂(いはゆる)「久遠(くをん)の女性」としての姉との関係である。そしてこの姉は血もある涙もある活きて居る女であることは勿論である。故に鏡花の女は単に姉や又は母たるのみならず、あらゆる秘密を罩(こ)めてゐる女らしい女である。だから鏡花の愛情とは、母の慕はしさと、姉の懐かしさと、更に女の恋しさとに依りて成立する。あゝ之を愛と呼ぶも未だしである、恋と呼ぶも猶及ばずである。この愛憐の心持ちを何と呼ぶべきか、予は固(もと)より適切の文字を知らぬ、恐らくは日本にはまだ無いのであらう。西洋の辞書にも無論なからう。
新次がお秀に対する感情も、正しくこのまだ無名の心持ちである。新次がお秀と別れて帰る時分に、
……と背後より裳を軽く捌きつゝ、するすると送り出でしが、「宜しく」とばかり云ひ棄てて、彼方向きたまひし後ろ姿、丈は予よりも高かりき。
と云ふあたり。それから鳩の時計で鳩が鳴くのを、新次はどうしても鳩が鳴くのとは思へない、お秀が鳴く真似をするのだと云ひ争うた時に、お秀は「そんなら私の口を圧へなすつて居らつしやいな」と云つて、
熾ゆるが如きわが耳に、冷たき秀の鬢鯛れて、後毛のぬれたるが左の頬を掠むる時、わが胸は彼が肩にておされぬ。襟あしの白きことよ。掌は其温き脣を早や蔽ふたり。雪は戸越しに降りしきる。
と云ふ一段の如きは、至情言外に溢れて慥(たし)かに読者の魂をとろかして了ふ。こんな美しくも可憐な哀感は又とあるまい。かくて新次のお秀に対する愛は、命と共に痛切になる。お秀は最早お嫁に行つた。併し新次の愛は決して失はれたる恋を悲むのではない。つまりはお秀と兄弟の様にして暮せば、新次の望みは足るのであらう。併しこんな事は、とてもこの世の中に出来るものでは無い。殊に母とも思つた新次の師なるミリヤードは、基督教の立場から固く新次にお秀の事を思ひ切る様に命じた。彼は臨終の刹那にも新次にこの事を云つた、果ては母の心を以て叱つた。
秋に沈める横顔のあはれに尊く、うつくしく気だかく清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆるばかり、亡き母上のおもかげをばまのあたり見る心地しつ。いまはや何をか云はむ。
「母上」とミリヤードの枕の元に僵(たふ)れふして、胸に縋がりてワッと泣きぬ。誓へとならば誓ふべし。
あはれお秀を忘るる様に誓はねばならぬのか。こんな悲しくはかない心細い哀れさは又世にあるべきか。この一段は真に人をして泣かしむる。思へば基督教の文化は、新次の心持ちを解するに適しない、否、今の世の道徳は大方こんな感情の独立と存在を許さぬのであらう。つまりはまだ何ものたるかを知らぬからである。(以下・つづく)
*「夜明け前」を読んで、次はどんな大作を読もうかと。昨夜から「今昔物語」本朝編を全集本四巻で読もうと決め、開巻の「聖徳太子」を手始めに読んだ。拾い読みでは沢山読んでいるが、全部通読というのは経験していない。重い全集本は持ち歩けないから、就寝前の読書に向いている。しかし鏡花も読みたくなってきた。
源氏物語は「椎本」を終えて、八宮没後の宇治で、薫中納言と大君との仲が深まってゆくが、大君は宇治を出て薫の京の邸へ引き取られることなど、思いも寄らない。むしろ結婚をかたくなに拒もうとして、妹の中君を妻にと薫にすすめる。薫の焦燥はつよまる。
「歴史」の方は根気よく読み進んでいるが、今は、大名家のお家騒動の根底にある、支配と被支配とのはげしい歪み痛みが追究されていて興味深い。
* ああ、かなり両方の肩が詰まってきて重苦しい。あさっては歯医者の仕上げと電子メディア委員会。少しずつ予定が混んでくる。手を抜いていられない。
2004 2・4 29
* 野の人の校正をしていると、嵯峨の屋の小説「初恋」を思い出す。鏡花の少年、嵯峨の屋の少年、左千夫の「野菊の墓」の少年、独歩の「春の鳥」の少年、また、歌集「少年」や「罪はわが前に」の少年。
2004 2・4 29
* 岩波書店、講談社、新潮社その他の創業者やそれに準じた人の文章を読み続けてきて、今度は平凡社の創業下中弥三郎の回顧録を読んでいる。
どれもみな、なまじな文学的作品より、ずっと生き生きして面白い。とはいえ斎藤野の人の「泉鏡花とロマンチク」も、校正は難儀だが、とても面白い。
2004 2・7 29
* 夜前も三時半。今昔物語を必ず一、二「語」ずつ読んでいる。
今昔は、一篇の題を、きまって「語」で結び、溯って平安初期の日本霊異記は「縁」で、しかし降って鎌倉時代の古今著聞集などになると「事」と結ぶ。この変化を、わたしは興味を持って考えてきた。
* 源氏物語は「総角(あげまき)」の巻。薫中納言は得忍ばで、老女達の手引きにまかせて宇治の大君(おおいきみ)の寝所へ近づくが、大君は覚ってその場をさけてしまう。咄嗟のことで妹中君を伴い去ることは出来なかった。薫は、姉と思いきや、ちかまさり美しい妹宮としり、茫然とする。
むかし、薫の義父光源氏は、同じくかような段取りから人妻空蝉の寝所に入りこみ、しかし空しい着物だけを臥所にのこされて、思いをよう遂げなかった。だが、同じくそこに残され寝入っていた、空蝉身よりの娘軒端の荻を、言葉巧みに成り行きで抱いた。そしてその後は顧みていない。
だが大君を恋した薫は、より若く美しい中君に対し、男女としてはふれあうこと無く、一夜をあかすのである。薫を気の毒にと思えるここは悩ましく美しい、一つの剣が峰。姉の本意は、薫に妹宮をさずけたい。しかし薫は恋しい人の妹を、わが友の匂宮に配偶して、その余儀ない成り行きを勢いに、姉大君の、心も体も得たいと願っている。中君(なかのきみ)贔屓のわたしなら、…ああそんなことは此処に言うまい。
それにしても、なぜ、これに絡めて、誰一人も谷崎潤一郎「蘆刈」を読まないのだろう。慎之助は人妻のお遊さまに出逢い、恋いこがれ、しかしお遊さまにすすめられ妹のお静を妻にする。そして息子が生まれる。わたしの「蘆刈」論は、この息子がお遊さまの生んだ子であることを精密に実証して、学界に波紋を呼んだ。
谷崎は、妹たちの姉である人妻の松子夫人と恋に落ち、その恋をたすけたのは、夫人の妹重子さんであった。「細雪」雪子のモデルであり、貞之助の妻幸子が、いわばお遊さまでもある谷崎松子夫人であった。重子さんは「細雪」にもあるように、よその人と結婚するが、いつしか夫とはなれ、すでに谷崎夫人であった姉のもとで、と言うよりも谷崎の身近で、ほぼ終生暮らしていた。そして、亡くなった。谷崎も亡くなった。ひとり残された寂しい気持と、いつか二人と相逢いの再会を「まつ」松子さんの胸の内とを詞にしたのが、わたしの作詞、荻江節「細雪 松の段」であった。
* 野の人の「ロマンチク」論を耽読している内、ホフマンの「黄金宝壺」に触れてあり、懐かしかった。この岩波文庫で星一つだった中編の作品は、想像を絶してわたしを感化した。わたしは、時あり事あるごとに内心に此の美しい幻惑の物語を呼び戻しては、ま、その世界へ隠れたものである。
この物語がいきいきと蘇ってわたしを魅了したのは、モスクワのジェルジンスキー公園の朝早やの散歩のときであった。ホテルで早く目覚めたわたしは、独り外へ抜けだして、ちかくの公園に入っていった。中国でのように、あとについて見守るような人影はなかった。わたしは、ジェルジンスキーというのがかの恐怖の存在ソ連の秘密警察創始者の記念公園であるなんて、滴ほども知らなかった。美しい森と、森の奧の池と。わたしはホフマンの小説のアンゼルムス青年と同じ気持ちで歩いていた。いたるところにきらきら光る者達の声が聞こえていた。
帰国して初の新聞小説を依頼され、「冬祭り」を書いたが、そのなかでこの時の微妙な体験も書いた。こうもいえば、なぜ「冬祭り」がああいう作品なのか、わたしがいかにカレンに美しい蛇たちを優しく書いたかがわかるだろう。あんなに恐れ嫌いながらわたしが「蛇=セルペンチナ」を神話的にも文化史的にも民俗学的にも文学的にも美術的にも大事に考えてきたかの、一つの太い根は、ホフマン「黄金宝壺」に在った。いまもわたしは読みたい。とても読みたい。野の人には心根を洗われているような気がする。
* 狂いそうに、なにかしら忘れていたいと願うことがあるものだ。そんなとき、わたしはアンゼルムスになる。セルペンチナにちかづく。忘れかけていたとは思わないが、斎藤野の人は、わたしのどうしようもない「闇」から生えて出たロマンチクを洗い出してみせたようだ。やれやれ。しかし、それは今のわたしに恰好のアジールでもある。
2004 2・8 29
* デブラ・ウィンガーの丈高い、一分の曇りもなく若々しく活躍する自由な知性、美しい魂。すばらしい表現である。アンソニーはさらに有名な名優、「羊たちの沈黙」に驚かされた。映画ってすばらしいと、誰かさんと同じに、そう思う。どうも、今時の文学は映画の前でも分がわるい。
今月の「新潮」巻頭作の題がなんとか「殺人事件」で、開巻第一行目に、はや、どう考えてみても明白なケアレスミスの誤植。「新潮」がなあ…と、ビックリする。
2004 2・8 29
* 背の高い脚の長いケリー・マクギリスの「危険な女」を聴きながら、やっとナ行の読者まで、発送のアイサツ書きを終えた。堪えて、ジリジリと前進するしかない。
真夜中、バグワンを読み、「総角」巻を読み進み、それからまた機械の前に来て、米田利昭の「子規の従軍」を校正し、業者に送った。今日は眼がかすんで、今は芯まで痛い。二時半。寝に行こう。
2004 2・8 29
* 平凡社創業の下中弥三郎氏とは、二三度お目にかかり言葉も交わしている。一度などは丹波篠山の窯場で出会っている。亡くなった下中さんは此処で焼き物の家業に従事し、小学校教員になり、上京し、信じられないほどの独学勉強から読書の成果を著述し、ついに「や、此は便利だ」という自著本を、事情有って余儀なく自身平凡社を興して出版し、これが売れて売れて、成功の端緒をつかまれたのである。この人の知識欲はもうもう際限というものがなかった。それが行き着くところは知れている、平凡社を世界的にした「大百科事典」へ到達する以外になく、下中さんは最高等の理想と最高等の決意と最高等の用意とで、平凡社の代名詞となった事典を、日本中の一流の学者達を駆使して完成完結大成功させたのである。
平凡社の全集は高等であった、どの分野でも。また良書の多いことは有数であった。良い出版社としては、人は岩波を最右翼に置くが、わたしはひと頃の平凡社はその上を行っていたと思う。或る年の平凡社は、入社に六百倍の志望者を集めている。
岩波、筑摩、平凡社というくらい、質に於いて敬意を払った三社であったが、筑摩書房は、マンガに取り組んで転落し、破産した。しかも理想と志とが出版の邪魔であったのだと結論したかのように、当のマンガ社長をかついで凡百のレベルへダウンしていった。
下中さんが成功したのか失敗したのかは分からないと、今の出版の潮流は冷ややかであろうが、わたしは、下中さんのような出版人がまた現れないかぎり、紙屑出版時代はカサカサに乾いて砕けると思う。砕けてしまえと思うこともある。とにかくも下中さんの回想録、おもしろい。この人は、読みたいものに、生きるに必要なものに飢えに飢えていたその思いのまま、自分が飢えたものには人も飢えているだろうという発想で事を興している。「読者」のために。成功した創業者の頭にはいつも「読者」があり、しかし二代目三代目雇われとなると、読者より金嵩に意識が固着する。ひどくなる一方だ。
2004 2・9 29
* 新潮社創業の佐藤義亮の「出版おもいで話」にも、沢山教えられた。哄笑したことも感嘆したことも、わがことのように肝を冷やしたことも唸ったことも、あった。なまじ之作品より何倍も面白かった。長編の全部を掲載の運びとした。パブリックドメインそのものである。
おもしろいことに、この創業者の感謝は「お国」の方へ向かう。平凡社創業の下中さんの関心はいつも「読者」へ向かう。
2004 2・10 29
* とうどう長編の斎藤野の人「泉鏡花とロマンチク」を、いま、入稿した。明治四十年九月「太陽」に出た論文で、野の人は三十余歳、この二年後には死んでしまう。高山樗牛の実弟であった。情意を尽くした美しい論文であり、ひとり野の人の代表作であるばかりか、近代日本の批評の中で傑出した特異な地位を占めると私は評価している。この時点で早くも泉鏡花の特質と天才と未来をほぼ正確にまた深切にみきわめているだけでなく、「ロマンチク」という世界思潮を適切に説明して、野の人の並々でない読書力と文明の咀嚼力とを示している。わずか三十歳のいわば青年の仕事であったが、悠々とした筆致で大人の風がある。この論文により、かなり自分まで裸にされた気もするし、自分の文学に関連して、いまさらに多く教えられもした。ホフマン、ヘルダーリン、ノヴァーリス、ゲーテ、ハイネ。平均して各国の文学に親しんでは来たが、これら独逸の「ロマンチク」には魂をきゅっと握られた思いで接した点では、露英仏や米国の文学とはべつの出逢い方をしていたといわねばならない。
2004 2・12 29
* 三月理事会までに入稿しようと用意していた全部を入稿し、ほとんど全部をもう本館に掲載している。スキャンは済んでいて、湖の本発送と併走しながらとわたしの選んでおいた作品は、あとに、魚住折蘆(招待席)評論「眞を求めたる結果」、小宮豊隆(招待席)評論「中村吉右衛門論」、赤木桁平(招待席)評論「『遊蕩文学』の撲滅」、本間久雄(招待席)評論「人生派の批評と藝術派の批評」の四つ。それぞれの時代にユニークな論陣を張っていた人達である。小宮豊隆は漱石の愛弟子で漱石解説の学者であったが、少し方角の違うおもしろいものをえらんでおいた。現代の読み物や推理作品やホラーをわたしは拒んでなど居ない。現代の人の作品はご本人の意向に従うのであり、出稿も推薦も大歓迎である。
ただ、今上げたような仕事は、わたしが選んで招待しておかなければ、わたしが引退したあと、おそらく誰からも拾い上げては貰えないだろうから、つとめてわたしの志とも義務とも責任とも感じて目を向けている。「読む」「読める」「読んで評価出来る」ということが無いと、誠実に人は「招待」できない。わたしは出鱈目に選んでいるのではない、読んで、そこそこ見極めて「招待席」に招き入れている。それだけは言い置きたい。自慢しているのではない、広く発信する限り当然の手順なのである。
2004 2・12 29
* 久保田淳(東大名誉教授)さんの対談集「いま、古典を読む」小松英雄(筑波大名誉教授)さんの研究書「みそひともじの抒情詩」が贈られてきた。
対談の方は、巻頭に久保田さんの先輩に当たる秋山虔さんとの対談が入っている。あとは学者でなく、わたしもよく知っている文壇人ばかり。ほんとは、研究者同士の対談ばかりを読みたいけれど、それでは読者には重いと云うことだろう。
対談相手に独創の卓見がないと、対談に瞬間風速が吹かない。さ、ドナルド・キーン氏以下の知名人たちに何が言えているか、手の内を楽しみに読み始めたい。
これに対し小松さんの本は、かなり深度の深い和歌の検討で、興味が持てる。萩谷朴さんの古典講義が、字句の細部を掘り下げて厳しい物であったのを記憶しているが、小松さんの論考には初めて触れる。これまた当分の楽しみである。
もとNHKで番組部長などを歴任、今は大正大学教授の中田整一さんからも、われわれの年輩にはひときわ懐かしい歌手渡辺はま子の生涯に捧げた、「モンテンルパの夜はふけて」を頂戴した。ペンの日に、推薦して新会員になったばかりの浜畑賢吉さんに会場で紹介された。
渡辺はま子はただの歌い手でなく、あの戦争に、またあの戦後にも、戦場で闘ってきた兵士達と関わりが深かった。BC級戦犯の釈放運動にも率先力を致した歌手だとの記憶が、私にも残っている。その「気骨の女・渡辺はま子」を、ふとしたことから追究された本である。これまた、楽しみだ。
更に一冊、三島賞作家の久間十義さんから、風俗ビル火事事件に取材した、久間氏に独特の読み物一冊を贈られて、読み始めている。現実にあった大事件の内懐を剔るようにストーリイに創って行くこの若い作家のいいところは、文章がだだらに汚れていないこと、簡明に的確にものを云う点であろうか。「ペン電子文藝館」にもらった小説でその長所を堪能した記憶が今も新しい。言論表現委員会の同僚委員である。
今少し前には、同僚理事の倉橋羊村氏による道元をめぐるエッセイを戴いているし、わたしの最も敬愛した故能村登四郎の「沖」後継者である能村研三さんの句集「滑翔」も戴いている。
2004 2・19 29
* 一時を過ぎた。
「ペン電子文藝館」の作業は、もう二三日休みを貰い、枕元に積んだ本を、堅いの柔らかいの、楽しんでから寝よう。柔らかい最右翼に、隣の家から、ボブ・ラングレーの「北壁の死闘」をはじめ、「針の眼」「女王陛下のユリシーズ号」「鷲は舞い降りた」「ブラック・マンデー」などを運んできてある。どれか一二冊を読みたくなった。この手の本でいちばん読み応えのある物たちである。明日は日曜日。
2004 2・21 29
* めずらしく熟睡した。
夜前の読み物では、小松英雄(筑波大名誉教授)さんの研究書「みそひともじの抒情詩」が、予期したとおり刺激的で、読み進める十分な楽しさを予感させた。ことばに膚接した古今和歌集の追究になるだろう。
「今昔物語」はまだ高僧説話がつづいているが、耳慣れているはずの「久米仙人」のはなしが新鮮に面白かった。むかしのわたしなら勇み立って小説にしようとしただろう、趣向を凝らして。
日本史「大名と百姓」は、ひたすらに食いついて、日に二頁ずつぐらいじりじりと読み進んでいる。なぜあのように大名達が藩政にいそしみつつしかも大枚の借財を重ねに重ねて窮乏していったか、商人がいかにそれへ介入し、農民がいかに無理に収奪されつづけて、それがかえって大名の貧弱化をさらに助長したかなど、かなりよく理解できて嬉しかった。
2004 2・22 29
* 父方の遠い親戚筋に望月洋子さんがいる。新潮選書『ヘボンの生涯と日本語』で讀賣文学賞を獲ている。わたしより四つ五つ上、今までに二三度顔を合わせている。ペンの会員でもあるが、例会や総会では出会っていない。出会っていてもたぶん判らないだろう、お互いに。しかし、この人の、上に謂う著書は、優れている。その本の一章にあたる「聖書を日本語に」を「ペン電子文藝館」に貰えないかなあと前から目星をつけている。メールが出来れば直ぐ頼むのだが、ダメ。電話では一別らいのそもそも話が、しんどい。手紙、は億劫で書きたくない。やれ、せんないこと。こういう物色はたくさんしているのだが、思うになかなか任せない。
2004 2・22 29
* 小宮豊隆の「(初世)中村吉右衛門論」を読み上げて、入稿した。美学的な言辞に溢れていて、もと美学の徒としてはいささか照れくさくも懐かしくもあった。徹頭徹尾のオマージュ(頌辞)で、今少し批評の厳密と均衡を得たいところだが、強調された形で吉右衛門のすばらしさは伝わってくる。明治四十四年の論旨であり、豊隆は二十七歳ぐらい。わたしが小説を書き始めた年頃である。
そのわたしが此の吉右衛門の芝居を観たのは、昭和二十六七年の南座顔見世の舞台で、戦後間がなかった。吉右衛門は最晩年、わたしは新制中学から高校へという年頃。「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのゑひざめ)」で、老播磨屋は、まだ若かったもしほ(後の中村勘三郎)染五郎(後の松本幸四郎・白鸚)を従え、さらに、美しかった芝翫(後の中村歌右衛門)の花魁八つ橋に恍惚となるの至芸を眼に焼きつけた。名人の藝に生まれて初めて触れたのである。
2004 2・26 29
* なにのアテもなく更けて行く夜を半ば憎みながら、機械にふれ続けていた。二時になる。わたしの背後のソファには黒いまごが熟睡している。この部屋が暖かいから。わたしが、ここで起きているから。安心しているのだろう。しかし、もう眼球が乾いて腫れてきた。階下に降り、バグワンを聴こう。いま、またバグワンはティロパの「存在の詩(うた)」を話している、わたしはじっと聴いている、音読しながら。
宇治十帖は、いまにも大君が他界するだろう。中君の人生がはじまるのだ。
江戸時代の歴史に、いちばん必要な究明と理解とは、「大名と百姓」なのだとつくづく分かってきた。両者の間に商業が介入してくる。どれほど豪農にいためられながら貧農は立ち上がって行くか。どれほど幕府や藩や代官達が苛酷に農民をいためながら、しかも大名も武士も貧窮の坂を転落して行くか。なぜか。こういうことを理解していないと、勤王も佐幕も分かるわけがない。
2004 2・28 29
* 田島泰彦さんから、岩波ブックレット「イラク派兵を問う」(480円)が贈られてきた。田島さんは言論表現の同僚委員であり、かねてその言説の確かさに心惹かれてきた学者である。田島さんのほかに、元駐レバノン大使の天木直人氏、元自民党幹事長の野中務氏、「世界がもし一○○人の村だったら」を再話した池田香代子さんらが加わって出来ている。広く読まれて欲しい、時宜にかなって緊急を告げる「人の声」である。シンポジウムの結論部分「いま何をすべきか」というところで、「まずは内閣支持率を急落させよ」とあるのは大賛成である。重ねて云う、大賛成である。
ペン会員阿部政雄氏からも、イラク派兵で同様の発言が、メールで届いている。
2004 3・1 30
* 「それでも、われわれは戦争に反対します」という、あまり佳い題でない分厚い本が、日本ペンクラブ編で、にわかに平凡社から出た。そんな題の本とも知らず、編集担当の吉岡忍氏の頼んできたままに原稿を出した。今日見本が届いた、ま、寄せ集めに編集した「俄かモノ」で、なんだかお祭り騒ぎのデモ行進のような本である。賑やかだが、「横顔厳し」という風情かどうか。
わたしの原稿は、読み手によっては苦い味がするだろう。いま、平和論の悩ましい難しさが露呈している。それを端的に指摘しておいた。清水幾太郎と山口瞳。ひところ対照的な平和論者であった。むろん心ある人は山口の平和論にくみし、清水の、力の均衡以外に平和は保てないなどという議論は、唾棄されるぐらい嫌われていた。わたしも清水の煽り方は嫌いだった。ところが、今の日本の、ときめく若い論客達は、ほぼ例外なく往年の清水と同じことを語っている、大方。あちこちで。その「悩ましさ」に直面した、踏み込んで新しい、傾聴するに足る「平和論」が出ていない。みな、なにかしら誤魔化している。悩みたくない議論ですり抜けている。こういう「時代」は、下心のある陰険な「為政者」には、やり易い。
2004 3・3 30
* 夜前おそく、ふと古事記をひきぬいてきて、拾い読みをしていた。二三の記事に目を留めた中に、美夜受比売(みやずひめ)の一節があり、倭建尊との相聞の唱和に心を惹かれた。記紀歌謡には佳いのが多いなかでも、とても懐かしく好きな一例である。
倭建(ヤマトタケル)の天叢雲剣や火打ち袋をたずさえての東征はよく知られている。尾張に入り国造(くにのみやつこ)家に宿り、ミヤズヒメと愛をかわそうとねがいつつも、思い直し東征を終えての凱旋時にと約束して旅立つ。
それからは、いろいろと長かった。火に襲われたのを剣ではらい、剣の名を草薙の剣と改めたのがのちのち三種の神器の一種(ひとくさ)になる。
連戦また連戦を経て漸く尾張まで戻ったタケルは、愛に溢れたミヤズに迎えられる、が、ときしもあれミヤズヒメは月のものを迎えていたのである、タケル (倭建尊)はすぐに気が付いて歌う。
ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くひ) 弱細(ひはほそ) 撓(たわ)や腕(かひな)を 枕(ま)かむとは 吾(あれ)はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝(な)が着(け)せる 襲衣(おすひ)の襴(すそ)に 月立ちにけり
すぐさま和してミヤズヒメ(美夜受比売)も美しく歌う。まことに まことに まことに あなたを待ちかねて 私の着る襲衣の裾に月の立たぬことがありましょうか と歌う。美しい歌である。
高光る 日の御子(みこ) やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経(きへ)行く うべな うべな うべな 君待ち難(がた)に 我が着(け)せる 襲衣(おすひ)の襴(すそ)に 月立たなむよ
「爾(しか)くして、御合(みあひ)して」 とるから、二人は幸せに、月立つのもかまわずそのまま熱い愛を交わしたのであろう。再会を期し、タケルは剣をミヤズヒメに託して再びは帰らぬ道へまた出で立つ。剣を祀ったのが今の尾張一宮の熱田神宮。
わたつみのみやづひめこそこひしけれ月経てかかるあはれ深くも みづうみ
2004 3・4 30
* ケン・フォレットの「針の眼」は、夜前、おそろしくセクシイな山場を通過した。作品自体はじつに厳しいスパイものであるが、山場にそういうところが出てくる。そしてそれが凄絶にひっくり返されて行く。
階下へ降りて、「総角(あげまき)」のいちばん悲しい大君死の場面を読み、バグワンと今昔物語を読み、日本の歴史を読み、少しだけケンのサスペンスに触れてから、眠るつもり。暖房が効いてこの機械部屋は温かいが、二階の廊下に出て、窓越しに外もの夜気にのぞめばさぞ冷えていることだろう。
2004 3・4 30
* 東京毎日新聞と改造社を創立した山本実彦の「改造十五年」を読み終えた。あの「円本」を創出した出版人だ、また日本にアインシュタインを招待し、筆舌に尽くしがたい感化と感激で日本中をゆるがしたのも、この山本であった。いま講談社や小学館や文藝春秋のように改造社を覚えている読書人は半減しているだろうが、大きな存在であった、戦前は。もう少し文章に落ち着いて丈高いものがあるとよかった。
2004 3・5 30
* 和辻哲郎「偶像崇拝の心理」中澤臨川「生命の伝統」加藤一夫「民衆藝術の主張」厨川白村「小泉(八雲)先生」を一気に読んで、みなスキャンした。
2004 3・7 30
* 「本とコンピュータ」から、ムックも、季刊本誌も贈られてきた。此処に限らない、最近大判の雑誌や雑誌ふうを貰うと、デザイナーやレイアウターやイラストレーターを動員して、字の大きさも作字のはでなことも、たいへんな力の入れようなのだが、製作者の思っているほど読者は満足していないと思える。「本とコ」の河上進氏はいい知り合いなので、お礼をかねて、そんな一般的な感想をうったえてみた。
2004 3・7 30
* 昨日、大きな荷が届いた。なにごとかと思った。庄司肇さんの作品社から出た立派な函装の「作品集」を頂戴したのだった。詩人の中川肇さんからは、まどみちお氏と共著の写真詩集をもらった。二日と明けず、いろんな著書を戴く。
ケン・フォレットの「針の眼」は読みあげ、次はボブ・ラングレーの文庫本「北壁の死闘」を読みはじめている。この手の小説で、おッいいものと実感した最初の頃の出逢い本である。山岳ものとしても魅了され、繰り返し何度も読んできたが、読み始めてなお新鮮な興趣をもつ。
2004 3・8 30
* 夢も見ていたようだが、やすやすと熟睡した。すこし寝坊した。
夜前、源氏物語は「早蕨」の巻に入った。宇治大君(うじのおおいきみ)は早や亡くなり、妹中君(なかのきみ)は途絶えがちな夫匂宮(におうのみや)を心細く待ち、慕っている。薫中納言は、熱愛する大君に死なれてしまった。その忘れがたき恋人からつよく奨めまた願われていた「妹中君を妻に」という申し出をことわって、策略のように匂宮に譲ってしまったことを、彼は今更に悲しく寂しく悔いている。
匂宮は妻中君を京都へ迎えたいと本気で心配りを始めている。匂宮は中君がいとしく、しかし高貴の身分から、はるばる宇治までしげしげと通うことはとてもゆるされない。やがて宇治から恋妻の中君が根移しされて行く先、それが、源氏物語世界の根源である、二条院。「二条院物語」は、いよいよ大きな盛り上がりを待っているのである。
* 光源氏の母桐壺の実家、二条院。その母に生き写しの義母藤壺女御をそこへ迎えて、ともに住みたい暮らしたいと青年光源氏の切望した、二条院。だが藤壺は父帝の后、叶おうことではありえない。源氏は藤壺の姪で生き写しの若紫を迎え取り、理想の妻として此処に深く愛し合った、それが、二条院。そして紫上が、この世の極楽とうたわれた夫光六条院の壮麗な邸から、わざわざ転じて最期を迎えたのが、くさぐさの愛の思い出を蔵した、二条院であった。臨終に間近い紫上は、最愛するまだ稚い匂宮に遺言して、此処こそがあなたの住むべき邸と言いふくめて遺贈した、二条院。
そのように特別な時空の新たな女主人として、宇治中君は、此の因縁久しき二条院に入り、次の東宮=皇太子と目されている匂宮本妻となって、あの紫上の身には遂に叶わなかった子を、男子を、将来天子たるべき男子を出産するにいたる。
大きな大きな展開である。こういう「二条院物語」に着目して「宇治中君」の存在を源氏物語を真に締めくくる、最も注目すべき女人と読む「読み」が誰からも熱心に語られてこなかったのは、わたしには、不思議に、且つ心外な事実であった。これほどの太い主筋が、あれほどの莫大な研究のなかからもくっきりと立ち上がらないまま来たなんて。
わたしの源氏物語の「読み」は、研究者風のそれでは、もともと無い。わたし自身の動機に、モチーフに根を太く下ろした、まさに「愛読者の読み」であった。だが、今や、この私の主筋読みは、否認すべくもない自明の説と成っている。あたりまえのことである。
2004 3・10 30
* 島尾伸三氏より「東京~奄美損なわれた時を求めて」の旅と写真の一冊を贈られた。言うまでもない、島尾敏雄・ミホさんの子息、作家で写真家で旅人である。わたしが「ミセス」に「蘇我殿幻想」を連載した一年、編集担当の田辺兵昭氏(今は探検家)といっしょに写真の旅をした。家へもよく見えた。酒好きで、飲むとこんなに話題のおもしろい人と、他に出会ったことがない。とってもスケベイでもあったが、それがまた天真爛漫で下品でなかった。飲まないときはほんとうに静かな青年であった。懐かしいという言葉の似合う友人である。あれ以来、いい仕事を活溌につづけて、奥さんも娘さんも活躍。四半世紀にいちどしか再会していないのに、著書のやりとりはつづき、気持は通っている。「湖の本」を時に思いがけず吹聴していて貰ったりする。
2004 3・10 30
* 今暁の夢見はいたく不快なものであったが、めざめてしまうと何事ものこらなかった。和辻哲郎の「偶像崇拝の心理」をもう少し読んで、はやめに階下へ降りよう。もう半頁で読み終えるが、やすもう。そう思いながら。
明日は言論表現委員会。猪瀬直樹委員長は出てこれるのだろうか。いまの政府・永田町のやり口を見ていると、猪瀬氏のあの大健闘が、あげく孤軍奮闘の討たれ死にになりそうで、気の毒でまた腹立たしくて。
2004 3・11 30
* 少し睡眠が足りぬ気味であったので、夜更かししても別にメールの楽しみもないと悟り、昨夜は、早めに床に就き、たっぷり本を読んで寝て、けさ、ゆっくり朝寝した。
宇治十帖では、中君が、夜もふけの御蔵山をこえて、宇治から京へ、二条院へと向かう。運命を運命として受け容れてゆこうという中君の、毅いほどのかしこさがみえ、ことに、こんなけわしい夜道遠道を賭して夫匂宮は宮廷の厳しい制限をすりぬ宇治まで通ってきてくれていたのか、間遠になるのもムリはなかったのですねと思い当たるあたりの優しさは、無類、わたしの好きな女性の美点が、随所に見える。
今昔物語は、高僧伝が過ぎ、法会の縁起が過ぎ、諸仏の霊験譚が展開しているところで、日に日に話題に面白みが加わり、じっと辛抱して読み継いできた甲斐が見えつつある。先へ行くほど読むのにも加速度のつくのは明らか。
日本史は、加賀百万石の画期的な農政の成功のかげで、お家騒動もあり、農村の構造的な意図的な地滑り政策が進行してゆくドラマなど、地味に地味ではあるけれど、歴史社会の変動が、ほんとうに深いところで意味をもつのは、こういう「生産の原点=農村」なのだと思い当たり、じいっと辛抱して、じりじり読み進んでいる。急ぐ必要も意味もなく、投げ出さずにつづけている。投げ出したらしまいだ。
よみものは、今は、ボブ・ラングレーの名作「北壁の死闘」を、半ばまで。緊迫感でびりびりしながら楽しんでいる。
* 昨夜まで、ほぼ一週間、読み継いでいたのは、生母阿部鏡(筆名。本名はふく)の遺著『わが旅大和路のうた』で。これは旅行記ではない、紀行文ではない。もし「旅」というなら、つまり「人生羈旅」をさしている。
母の一生はまことに数奇な旅であった。兄恒彦にいわせれば、お姫様と人外の暮らしとを生き変わったような人であったと。
父阿部周吉(私の母方祖父)は、母によれば、「大、東洋紡績」の経営に任じていた人であったが、内紛に席を追われて、数次の辛苦と失望を経て、滋賀県能登川に隠居した文人肌の人であった。その書跡の一つをわたしは仮所持している。幼時に水口宿本陣の子として、水口在の文人志士巌谷小六に愛され、墨磨りなど手伝って育ったと云うことが、或いはそうなのかも知れぬ、と察しられる筆跡である。
祖父周吉は水口宿より能登川の阿部家に養子に入り、母ふくは、その父親を慕う三人娘の末子であった。いわゆる乳母日傘の御姫さんのように育ったらしいが、周吉の死後、そしてなんと隣家に嫁いで以後、不運と不幸が重なり、四人の子を抱えて寡婦となり、彦根に住んで、彦根高商の学生を下宿人に入れた。それが、恒彦やわたしの父吉岡恒であった。おどろくべき恋と出産を身に負うたまま、故旧のすべてをうち捨てた、まさに革命的な流浪の旅が始まった。
恒彦は彦根で、恒平は平安京の太秦で生まれている。
だが寡婦で子持ちの母と、旧制高校の学生である父との平安などは、あるべくもなかった。父の実家は南山城相楽郡等尾村(加茂町)の大庄屋で、私の父方祖父は京都府視学という教育畑の大物であった。祖父の次弟は瓦斯会社の役員、末弟は同志社大学英文科教授であった。父恒は小枝をへし折られたように母の前から連れ去られ、ついでに、兄もわたしも父方の手で、母の手の届かぬ先へ隠された。恒彦のことは知らないが、わたしなどは「父母の籍に入るを得ず」に独立の戸籍をつくられている。そしてとどのつまり秦家に預けられた。
母の険しい「旅」は二人の子を奪われた、そこから、始まっている。母は、南山城の吉岡家に、わが子を渡せときっと強談に及んだに違いなく、しかし相手にされなかった。若い青年学徒をたぶらかした魔女かのようにあしらわれたであろう。
母は、そのまま奈良へ、そして大阪へ出て、貧窮に堪え艱難苦労、日本で初の「保健婦養成機関」を、四十半ばの年齢で苦学卒業すると、敢然と、奈良県下での孤独な保健活動に挺身したようだ。ありありとそのことが書かれている。故郷も子供達もみな置き去りにうち捨てて、のことである。母は、鷲に攫われた良弁をさがす狂女のように、恒彦とわたしとをひたすら探し求めつつ、「母の家」と称して保健活動にうちこんだらしい。徳とする人達も奈良には少なくなく、戦後初の国政選挙には、あわや共産党推薦で市会議員候補に担がれるところでもあった、が、辞退している。人の行こうとしない地区の保健活動などにもためらいなく入ってゆき、そこで暮らし、通いの医師をたすけつつ医療行為に近い役柄に任じていた。
ま、まことに奇妙に情熱的な活動家であったのだろうと察しられる。
母は歌を作った。句も作った。かなりクセの強い散文も書いた。『わが旅大和路のうた』は、読み解くのもやや難渋な、ただもう、必死に生きた一人の女の、せわしい呼吸で覆い取られた「詩歌文集」である。この一冊をかろうじてやっと上梓してから、不運な闘病の床の上で、孤独に死に絶えた。自殺かとも伝えられるが、噂なのか事実なのかは人により言うことがちがい、分からない。
あまり、わたしも今は此処でうまく纏めきれない、捉えきれない、が、一週間、毎夜、じっくりと母の言葉を噛みしめ噛みしめていた。初読ではない。が、初めてのつもりで読んだ。この人を実感として「母」と感じたことも呼んだことも無かった、ながいこと。
「おかあさん、まあ、あなたも、たいへんな一生でしたねえ」と、今度しみじみそう胸の内で呼びかけていた。先月鴈治郎と仁左衛門で泣かされてきた『良弁杉由来』の舞台が、ここへ、わたしを誘い入れたのは間違いない。
2004 3・15 30
* クラブに寄って酒をのむより、時分どきの空腹をみたそうと、帝劇下のまたしても「きく川」に途中下車し、菊正一合と、鰻重。この店で、おちついて藤江もと子さんの自分史のスケッチをプリントで読み継いだ。
これが今日一番のうれしい出来ごとで、読んでまことに面白いかった。過不足なく書けている。落ち着いている。ほほうほほうと頬も緩んで感心した。
この人が、こんなに絵ごころと才能のある人だとは、もとより知らなかった。タダの画家の話なんかではない。中学二年で早や大きな公募展に悠々入選していたような才能有る少女の、ふっとした行きずりの見聞からふうっと絵を逸れて、理系専攻の学徒となり、主婦となり、母となって行った人の、また数十年して絵へ戻ってきた、そんな人生の起伏が、面白く書けているのである。肩の力が抜けている。自信のある話題がゆったりと、うねりに勢いがあって確かに把握されている。把握が強く正確だと、表現に揺れは少なくなる。自分を無用に飾ったり歪めたりする必要がない。
この作、早く「e-文庫・湖(umi)」に掲載できるようにしたい。読んで欲しいなと思う人もいる。こういう気持のいい仕事に出逢うと、思わずウキウキする。気がよくなる。
2004 3・15 30
* 風が鳴っている。夜前、ボブ・ラングレーの『北壁の死闘』を読みきった。今夜はやめられないなと覚悟しながら、後ろの三分の一ほどを一気に。もう五度も六度も読んだ作なのに、だから、物語はもとより細部の表現やドラマもよく覚えているのに、全くそれがさわりにならないで新鮮に夢中に引きずられて行く快感。これは作品が文学的に十分な達成を得ている証拠であり、通俗安易な読み物では絶対に有り得ない。まともな文学作品でもこれほどの訴求力を繰り返し読んで喪わない例は多くはない。満足した。ドイツの選り抜きの山岳兵が、猛烈な吹雪の中を極めて重大な任務を帯びてアイガー北壁に挑む。その中には糖尿病の専門女医で、ナチス党員でありながら連合軍のスパイという美貌のヘレーネ・レスターというスイス人も混じっている。
物語を要約することはしない。ただ北壁登攀の言語を絶する臨場感を、適切な言語を駆使してわたしのような山知らずをも動転させ嘆息させ感嘆させる臨場感で書ききって行くみごとさ、それはたぶんに翻訳者の才能も参加している。佳い日本語、こなれて自然な日本文になっていて、違和感を覚えない。ナチスもアメリカもない。ただただ「山」の凄さ、底知れぬ凄さの魅惑。真実魅力ある男子兵が主役であるのに、それを何層倍も超えて暴風と酷寒に吼えるアイガー北壁そのものが本当のホンモノの主人公と思えてくる。物語の流れも良い。カタルシスもある。これに較べれば秀作のケン・フォレット「針の眼」でも、なかばにも達しない気がする。
2004 3・17 30
* 夜前も枕元の灯を消したのが四時前だった。アリステア・マクリーンの名作『女王陛下のユリシーズ号』をまた読書の最後にとりあげて、最初から緊迫した。この息詰まる海戦文学は、最後の最期まで北海の暴風雪と超酷寒と大波浪に殴りかかられ踏みつけられ凍り付いてへとへとになる。限界をはるかに突き抜いた壊滅状態の激闘と疲労困憊の極限のなかで、ねばりづよく人間性が、人間性の喪失が、描き出されて、壮烈そのものが感動の源泉になる。稀有のというより無類の極限状態を文学の場にしている。こちらに気力がないととても読み通せない。だが実に優れた作品ではあるのだ、当分はユリシーズ号の乗員となる。
* 家父長制のいわば大「名主」型の豪農本位であった農村が、藩の存続という強力な要請のもと、むしろ豪農の解体、小百姓の自立、その結果としての年貢貢進の強化と農政の確立へ(成功は容易でなく、ほとんど失敗して行くが。)むかう歴史的な地滑りの跡を、根気よく読み取っている。地味な地味な興味。武士社会での地方知行制が容赦なく潰され、全国的に俸給武士化してゆく苛烈な藩政の変容も、これに帯同する。フウンと唸る。
2004 3・18 30
* 林雄介氏の出稿「半熟官僚大辞典」というのを整理しているが、正直、音をあげている。辞典であるからは見出し語が読み取りやすくないと、受信者の機械により、はなはだ訴求力が弱まる。で、見出し語が見やすいように太字に、その他工夫して整理し始めたところ、几帳面に ア から ワ まで見出しが満載。まだやっと キ から ギ までしか行かない。そればかりでない、各行にインデント指定があり、それを解除しておかないと寸の詰まった行の長さで延々と続いてしまう。自分の機械ではうまくいっているつもりでも、受信者にはそれなりの機械環境と読み癖があるから、インデント固定されると画面に自在な変容が得られない。ところが一度かけられたインデントを外すのは厄介な作業で、全文一度に出来れば助かるのだが、なんと見出しの一語単位に縛りがついていて、見出しの数だけいちいち解体作業が必要になる。叫びたくなる。少々実例を。いずれ本館で読んで欲しいから。
·議事妨害: 野党がどうしても、政府の政策を認めがたい時にとる最後の抵抗手段。採決時間を延期させるために、半歩ずつ進んで投票を遅らせる牛歩や議長の辞任案の提出で法案の採決を阻止する等のさまざまな技がある。しかし、多数決が正義の国会では野党の議事妨害に実効性はなく、国民に自分たちの存在をアピールする手段にしか過ぎない。
·議事録: 国会や大臣会見の要旨の事をいう。参議院と衆議院には、速記者養成所があり、国会での発言を書き取っている。よく国会では乱闘が起こるが、議事録では書き取れずと記入されることが多い。国会のホームページで過去の議事録を検索することができる。国会の発言録は、前例や資料として大変、重視されている。
·キャリア官僚: 国家公務員Ⅰ種採用試験で採用された人のことをいう。「特権さん」等様々な呼び名がある。ノン・キャリア公務員の数倍のスピードで昇進する。同期の同時昇進が原則のため、同期の結束は堅い。多くの省庁が本省の課長までは昇進させている。官僚のトップである事務次官になれるのはキャリアだけであるが、同期から事務次官が出た場合は他の官僚は勇退する習わしがある。
·牛乳: 60円の紙パックの安い牛乳が、霞ヶ関の自動販売機では売られている。
·殉職: 過労死や自殺のこと。今時、流行らないが、相変わらず多い。
·行政不服の申し立て: 市民が行政機関に正式に文句をつけること。市民の権利を守る大切な制度だが、クレーマーに悪用されることが多く、霞ヶ関の業務妨害になっている。
興味が湧かないではない。フムフムとも頷ける。だが「ペン電子文藝館」最年少の掉尾に座る「作品」かと見ると別の感想もある。それにしても手がかかる。しかし自分でイヤだと思う手作業を、他の委員にまわす気にはとてもなれない。政治家にも官僚にもなれない道理だ。
2004 3・18 30
* 大町桂月「十和田湖」は彼の紀行文の代表作と目されてきたものだが、昔は中央に羽をひろげた文士が、このように地方に出ては歓待され、報謝としてこういう文章を書き、文中に克明に地元人士の姓名を書き込むと云った行儀があったのだ。
井上靖の紀行文学をわたしは愛しているが、井上さんは、どんなに賑やかな旅であろうとも、ひそとして孤心を抱き、只一人で旅をしていたかのように旅を書かれた。だからその紀行を読んでいると自分が只一人井上先生のお連れになって旅しているように感じられてきて、嬉しいのである。どの読者もそうであったろう。
桂月の旅は俗である。自分を「慕ひ」て人が迎えたり集まったりするなどと平気で書いている。
2004 3・22 30
*「文藝館」に送った庄司肇さんの「純文学と文芸誌」は、新潮編集長だった坂本忠雄氏のインタビュー記事に反応された批評的な随感随想である。このインタビューはわたしも坂本さんから贈られ、感銘も覚えて「私語」にいろいろと書き連ねた記憶がある。
おもしろいことに庄司さんは概して「文芸誌」に関心をあつめ、わたしは「純文学」を介した感想へ傾いた。氏は同人誌体験がながく、わたしにはそれがない、ただ文学に直面してきた。あれ、坂本さんはそんなことを云ってたかしらという不審箇所が少なくも一つあったけれど、それは云わない。面白く感じたのは、坂本さんが「純文学の場合一番まずいのは自作を模倣することだと思います」と云うのに対し、庄司さんが「最高のショック」でこんな批評は初耳だったとしていること。わたしには、こんなことは日常の覚悟のようなものであって、強く肯いたのもつまり同じ考えをほとんど捨てたことがなかったから。自作を模倣するぐらいなら「書かない」というほど、わたしは自身を縛ってきたように思うし、それでいいのである。
「原稿は耳で読む」というのにも庄司さんは「どんな批評家からも聞いたことがない」と感嘆しているけれど、文学とはひとつの「音楽」であると多年言い続けて、初期には文章をテープに吹き込んで、聞いて、推敲していたたわたしには、あたりまえのことであった。原稿だけではない、もともと「ことば」とは文字を目で読む以前に耳で好く聞いて語感を身につけるべきもの、これもわたしの信念に近い。庄司さんの反応にむしろわたしはビックリした。
坂本さんは、純文学を定義的にこう謂っている。「執筆の動機、主題、表現などの課題を、自分のヴィジョンに照らして最も正確に表す」「正確をめざすもの」と。これはかなり玄人感覚の至言で、そのように志してきた書き手の以外には、意味も取りにくいかもしれないが、「把握が正確に強ければ、表現も正確に強くなる」という常々のわたしの物言いに、ほぼ等しいのである。庄司さんは純文学とは「再読に耐える作品」と云われている。再読三読何度でも親しみ読めるような作品でなければ、読むたびに慕わしくなるような作品でなければ、藝術である文学作品とはけっして云えないのである。だから自己模倣してはならず、だから不正確ではいけないのである。
2004 3・22 30
* 阪大大学院教授伊井春樹さんから、『国際化の中の日本文学研究』(風間書房刊 3800円)が贈られてきた。国際日本文学研究所の報告集1である。一つ注目したのは多くの研究発表のほとんど全部が「古典文学」に傾いていること。すこしビッツクリした。この中から伊井さんにお願いして「ペン電子文藝館」に転載「招待」できる英語論文や日本語論文がないだろうかと、物色している。
2004 3・22 30
* 小泉八雲を敬愛の思い溢れて語りつぐ、厨川白村のことばが佳い。温かみがあり嬉しくなる。「ことば」はこれ「心の苗」であると裏千家淡々齋の書かれた四文字の軸を、持ち主の叔母よりもわたしが愛していた。
2004 3・22 30
* 関係なげに話題が飛ぶけれど、「今昔物語」が日一日と佳境にすべり入っていて毎夜一語ずつが二語三語も読み進むようになった。話のなかみとは必ずしも一致しないで気付いたことの一つに、なになにのこと「限リ無シ」という表現が一語ごとに必ず必ずのように頻出する。めでたくても、おそろしくても、つらくても、うれしくても、ありがたくても、とにかく表現は「限リ無シ」と強調される。どういう心理が働くのか考えてみたい。
そんななかに、悲シキコト「限り無シ」があり、さらに嬉シク悲シキコト「限り無シ」もある。このあとの「悲」は漢字がこうであり、註を読んでいると「悲哀」ととってあるのが普通。嬉しく悲しいことも限りがなかったなどと現代語訳してあるのにも出逢う。だが、あれは、ほんまやろか。ちがうのとちがうやろか。大慈大悲と謂うではないか。悲の文字は、必ずしも普通に謂う悲しく辛いことばかりは意味すまい。「かなし」は「愛し」とも書き示せる。今昔物語の特色ある物言いとして「悲シ」を浅く読み流さないで欲しい気がする。これまた「心の苗」を愛おしむように育てていい語感と触れ合っている。
* 今一つついでに書いておくが、源氏物語「総角」巻で、薫が、匂宮を二条院に訪ねてゆくと、宮は梅の咲いた庭面を愛でていた。そのときに、ことにこの梅を愛されている宮でありといった本文に対して、注釈者は、匂う宮といわれるほどで、この宮は梅香がお好きなのであるという説明をつけていた。それに相違はないとして、本文が「殊に」というほどの限定的強調を帯びていっているのは、ただに「梅」が好きというのではない、この二条院とあわせて、亡き紫上が、ことさらに紅梅と樺桜とを「わたくし(紫上)」と思い季節ごとに愛おしんでくださいよと遺言していた、この二人だけに生きている背景を読み取らねばならないはずである。そしてそういう紫上の魂の宿った二条院へ、此の宮は、宇治中君を連れてきたいと、いましも思っているのである。「おもふやうならむ人をすゑて住まばや」と呻いた光源氏の根源の願望を、紫のゆかりの末に、いましも光世界を嗣ぐ匂宮がその祖父の願望を擬似的に果たそうとしている。そういう劇なのである。
2004 3・22 30
*「女王陛下のユリシーズ号」を最後に少し読んで、ゆうべは比較的早く一時半過ぎぐらいには電気を消した。源氏もバグワンも今昔もみな、それぞれに胸にしみた。そして今朝六時前には起きてしまい、寝静まったなかで、「宿木」の巻すこし、バグワンを少し読んでから機械の前に来て、夜の間に届いていたメールを読んだり、「ペン電子文藝館」の校正を終えて送ったりした。
例の文春問題で、わたしの発言趣旨に端的に「賛成です」という委員の声も届いていた。近県の温泉の案内をいろいろ送ってみました、休養を、と、旅行会社に最近勤め始めた読者からのメールも来ていた。ずいぶん苦労をした人だが、ようやく正社員勤務へこぎつけたようだ、ただしたいそう忙しいらしい。旅行会社は、たいてい忙しいものらしい。
2004 3・25 30
* 平塚らいてうが訳したメレジコウスキーの「ヘッダ、ガブラー論」を校正し始めた。イプセンの戯曲である。イプセンには比較的早く新潮社版世界文学全集の一冊でまとめてわたしは出逢った。どこかで古本を易く手に入れたのである、その本が家のどこかにあるはずだが書庫では見当たらない。「ヘッダ・ガブラー」は好きな一編であった、「幽霊」もよかった。あまりに昔で、「印象」だけが色あせたセピア色のように脳裏で匂っている。
シュニッツラーの「令嬢ジュリー」という作から映画化したのを劇場でみたことがある。頭の中でイプセンとシュニッツラーとは対の劇作家に思えていた。「令嬢ジュリー」はこわい感じの映画であった。まだ大学生であったか東京へもう出て来ていたか。イプセンにはそれよりやや以前に出逢っている。俳優座でもイプセン劇は幾つか見ている。加藤剛の秀作になった「野鴨」のことを今急に思い出した。どれもこれも幾年月の昔ばなし。
* 或る会員の、ま、小説ふうに書かれたエッセイ、その逆かも知れないが、ポーランドに取材した作品を通読した。散文としては雑駁に無頓着にずらずら書いてある。ポーランド詩の翻訳紹介に多年拘わってきた人で、向こうでの詩祭に参加し、たまたま同室した旧知の一女性詩人を書いている。かなり風変わりに読めるその詩人を書き続けているうち、いつしれず、ソ連軍がポーランド軍人数千人を何層にも積み上げて殺してうずめた「カチンの虐殺」へ話題が動いて行く。それが、胸に来る。文藝の手腕としては気になるといえば気になる全体の筆致であるけれど、読ませるところまでモノを持ってきている。うそいつわりのないある種の真実がつきつけられる。それがその、日本風にいえば頓狂ともお節介とも深情けともお人好しともいえそうな一人の女詩人の「詩」作品を通じて突きつけられてくる。はっ、としてしまう。
* 夕飯に呼ばれたので階下に下りてみると、人気時代劇「御宿かはせみ」の新シリーズをテレビが広告し、主演の橋之助、高島礼子が話し、原作の女作家も話していた。わたしはこのシリーズで「ビタミン愛」の沢口靖子がるいの役をしたとき、彼女のたけ高くて柔らかい情愛の演技を、たいへん好もしく感じたものだから、或いは靖子が演るのかなとふと耳にも目にもとめていた。
そうもしながら、わたしは、このところNHK中心に盛んに放映している「人情時代劇」なるものの「人情」の安さと押し売りにあまり感心していない自分を感じていた。時代劇というとどこかで人情話ふうになる。暴れん坊将軍でも大岡越前でも水戸黄門でも、ベースは人情に甘えて類型化している。出来映えは、佳いモノでも雑なモノでも、質的には同じにつくったウソの都合良さによりかかっている。
「カチンの虐殺」に触れて行く詩人の旅日記は、うまい時代劇の足元に及ばない無造作なつくりと文章であるけれど、どきっと突き立ってくる感銘はホンモノなのである。
ま、このへんでやめておく。
2004 3・29 30
* イプセンの「ヘッダ・ガブラー」に平塚らいてうが関心を持ち、メレジコウスキーが書いた感想を「青鞜」第一号に翻訳して載せていたことに、やはり注目する。らいてうは、漱石「三四郎」の美禰子の、また「虞美人草」の藤尾のモデルだとも言われ、無意識の偽善(アンコンシアス・ヒポクリシー=即ち偽悪)と決めつけられてもいた。とにかくも塩原に、漱石の弟子森田草平を拉して心中の寸前まで行きはしたけれど、二人とも死ぬ気は無かった。時代の沸点にあって、もがくように現れた意識そのものの過剰に肥大した、だが不真面目ではない活躍した精神をもてあましていた現代女性であった。若気の至りも収まった晩年のらいてう活躍にこそ真実感が湛えられていただろう。
ヘッダガブラーは、らいてう女史より、遙かに強烈、高慢、邪悪でもありながら、鳴り響くように自由を求めて破滅して行く魅力の女である。らいてうは、おそらく「人形の家」のノラなどよりもヘッダに親近感と敬愛をおぼえていたのではないか。青鞜の女達からは結局ヘッダ・ガブラーは出てこなかったといえるか、それは分からない、わたしには言えないが、メレジコウスキーの必ずしも少しも上出来でない評論に組み付いて翻訳しているらいてうの心事は興味深い。長文を一気に校正してしまった。昨日から、ヘッダにかなり揺すぶられていた。
2004 3・29 30
* 今昔物語の一つの記事がぐんと長めになり、全集本で一語数頁になってきた。記事が豊富になり物語的になって、つまり話が面白くなってきたのである。識った話も初めて知る話もある。源氏物語も「ユリシーズ号」もどきどきするほど面白い。
しかし、こういうことも、わたしは聴いている。
アメリカを代表する大学で実験されたそうだが、被験者に或る眼鏡をかけさせる。そのレンズは強烈に歪んだ像を送りこんでくる。あらゆるものがマトモには見られない。ねじれ歪んでいる。当然に被験者は立っても居ても堪らない。頭痛になやみ狂いそうになる。当然だろう。だが、四日五日めになると、なんとその眼鏡のママ、なにもかも元の通りに普通にものが見えてナニ不自由が無くなってしまうと謂う。
なにを意味しているのか。人が見ている物は、見ているとおりの物ではないし、他人の視覚・感覚など絶対に共有できないということか。
ある指導者は、人に対して常にウルサイほどこう注文をつけていて、あまりの執拗なそのうるささに去って行く人も多かったという。ナニを注文するか。たとえば、ものを言う最初に、必ず、こう言えと。「私の見た(聴いた・感じた)ところでは」と。「(私の見た所では)この林檎は赤い色をしています」「(私の聴いた所では)小泉首相はブッシュ米大統領は絶対の存在であると言いました」「(私の感じたところでは)このトンカツは美味しいです」と言うようにである。あらゆるものごとが虚妄で有るかもしれず、すべては「私(その人)」の見たり聴いたり感じたりした以上のことでは無いからだ、と。そしてその「私」なるものが根底から虚妄の幻影に過ぎないとしたら。
2004 3・30 30
* 二百五十枚を越す物故会員の小説が届いた。キリシタンものである。これは、本当はその十倍もの大長編のうちのただの二章分である。力作であると察しられる。
読者から別に届いているやはり三百枚ほどの時代小説は、北条政子がヒロインらしい。達者な語りではあるが、いかにも時代物で、歴史小説という手応えではない。それと、歴史好きの或る程度の通には、今まで読んだところでは通俗の歴史本の知識や見聞をそうは超えていない。コッチもかなり知っているから、それで興に曳かれて読んで行くけれど、どう展開するのだろうか、歴史年表の上を滑空するだけで終わらないようにと願いながら読んでいる。読ませる力はある。
2004 3・30 30
* 物集和子の「七夕の夜」は「青鞜」創刊号に出ていた短篇。何と云うことはない、が、お嫁に行くよりも「女優」になりたいとかなり本気で考え始めている、半上流の適齢期の娘とその姉妹たちの、淡い心理的スケッチである。遠い昔の心情にやわらかに触れ合う心地でスキャン起稿し、校正した。和子は国語学者物集高見の娘で、のちに推理作家になる姉芳子とともに漱石に師事していた。「青鞜」発起人五人の一人で、青鞜社は物集家の和子の自室そのものに置かれ、即ち編集室でもあった。「青鞜」が発禁に遇い官憲に踏み込まれて父の怒りを買うと、すぐ退社している。
2004 4・4 31
*「女王陛下のユリシーズ号」は、実質この二三十倍ものものを読んでいるほど、一行一行の密度がべらぼうに高い。作中の巡洋艦も館長ヴァレリーも以下の乗員たちも、これを旗艦とする輸送船団も、北極海の想像を絶する気候とドイツ潜水艦Uボートの群れと戦闘爆撃機の群れとに襲われ、襲われ、また襲いかかられて、完膚無きまで地獄に落とされ切り刻まれながら破滅して行く。息を呑む。息苦しくなる。けれども読んでいる。いかなる苦闘と感覚麻痺との中でも喪われない、「人間」のいろいろが、痛切無比に描き出されているからだ。電車の往復のなかで読んでいても、たちまち作中世界に引きずり込まれて息が喘いでくる。凄いとはこういう表現であろう、底がない。
2004 4・4 31
* 校正往来が溜まり、気持の大きな負担になっている、吐きけがするほど。しかし此処で放置すると掲載の作業は頓挫する。
* いま漱石の「明暗」を読んだときの、あの、ざらざらした気分。谷崎潤一郎が、若い日に「明暗」を切して非難した。神経に障ると。その批評を初めて読んだとき、溜飲をさげた。あれは漱石論のなかでも優れた一つだと、今も思う。
2004 4・6 31
* あの「女王陛下のユリシーズ号」にへとへとになり感動してから、次いで「ブラック・サンデー」を読み始めた。あの超高層ビルへ飛行機がつっこんだ不幸で無道な惨事の、いわばフィクションとはいえ先蹤をなしていた、もの凄い惨害テロのリアルな進行と阻止の血闘を書いている。初めて読んだのはあの飛行機事件より大分前であったけれど、手に汗を握ったし、こんなことってないよな、小説だもんなと思っていたが、いまや、どこからどう推しても「事実そこのけ」の現実感に作品は支持されているから、本当に怖い。かなりよく書けた小説で、だから何百冊かの中から引き抜いて本棚に別にしておいた。
* もう三十年も昔であろうか、来世紀の頭にはアメリカと中東との世界戦争が起きていると予言していたのを読み、その頃わたしは、中東がアメリカに対抗出来るのだろうかと、むしろ意外なことを聞くと思った。それが、まさに現実だ。アメリカは暴発しないで欲しい、アメリカはだんだん屈して行くだろう。どちらが病んでいるかといえばアメリカが、ブッシュが病んでいる。感染して小泉日本が病んでいる。
2004 4・15 31
* 言論表現委員会の議論はけっこう盛り上がり、興味深いものがあった。だが、わたしはもう疲れている。瀧田樗陰の「月旦」「夏目先生」をスキャンしたが、この校正はすさまじいことになる。ろくに機械が読み取っていない。細田民樹の「多忙な初年兵」新井紀一の「怒れる高村軍曹」を反戦作品として発掘、スキャンをはじめた。
また大原雄委員推薦の黒島傳治「渦巻ける烏の群」を反戦室作品として読んだ。以前に別の黒島作品を招待したときにも、代表作の一つとして読んでいたが、題が内容を予告しすぎていて最初の作としては逡巡した。ま、二作目ならいいか。
* 会議室で顔をみるなりにこにこと猪瀬直樹氏、私のために署名墨書した新著を呉れた。菊池寛を書いた連載物である。読みやすい、面白い物のようで。家に帰ったら三田誠広氏からなんと「小説の書き方」という新刊が贈られていた。早稲田文芸科での講義物だろうか。
会議の後、この三日はお酒に縁がなかったしと、日比谷のクラブに入り、京風のプチ懐石に筍ご飯を加え、ブランデーをたっぷり飲みながら、小説を読んでいた。くつろいだ。帰宅してすぐ人質解放の朗報、よかったと起ったまま少しばかり躰がよろけた。
2004 4・15 31
* 三田誠広氏の贈呈本「小説の書き方」のなかに、「ペン電子文藝館」が紹介されているわと、はや耽読していた
妻の報告。有り難いと、メールでお礼を言う。吹聴して頂くのがなによりなのだ。
猪瀬直樹氏にもらった「心の王国」はわたしが読み始め、ときどきぐつくつ笑う。
それにしても「心」「こころ」と流行ることはどうだろう。三田三の本も、よく意味が分からないのだが「こころに効く 小説の書き方」が本の題である。「心って、何」という本を本気で書こうか。
2004 4・17 31
* 日付が変わって二時になろうとしている。
* 日本の歴史第十五巻「大名と百姓」をついに読み上げた。欠かさずに読みながら、この四百七十五頁に何ヶ月かかったろう。蟻の這うほど身をかがめて、頁をじりじり追っていった。著者佐々木潤之介氏は徹底現場史料に即して緻密に歴史の記述しつづけ、通俗の記事には全くしなかった。おっそろしく地味な細緻な読書になった。ここで退屈しては頓挫してしまうと、急ぐよりも「読む」ことに徹した。佐倉宗五郎、多田嘉助という二人の農民巨人の処刑される十八世紀二つの越訴事件を両眼に見据え、デテイルを理解したとはとても言えない乍ら、農村の変容と形成をあらまし察知した気がする。農民だけの歴史など有り得ない、彼等を苛斂誅求絞り上げながら殺してもしまえない大名に代表される年貢取り立て側の政策や強暴。タイヘンであった。だが読み遂げて嬉しい。あと十一巻あるのだ、次は「元禄時代」である。
* なにもなにも平安であれと深夜、黙然と祈っている。
2004 4・17 31
* 今昔物語は、法華経読誦の功徳と霊験の事例をえんえんと語り繋いでいる。法花経(ほうくぇきょう)と書いて読んである。いま読み継いでいるこの「本朝」四冊分の首巻は、こうした佛教的な縁起や霊験譚に終始する。興趣は淡泊だけれど、量の多さを積み上げて行く迫力により、我が国に佛教が、或いは法華経が浸透していったいわば胎土の質と状態を偲ばせる。おそらく今昔がたんに「読書」本であったわけはなく、時と所と人に応じて「説法」なみに読み語られた、とすると、これほど大量の「語(こと)」例を事実持っていた古代日本の、ま、庶民層での佛教事情の濃密さ、驚きに値する。
最深夜の読み本なので、一、二話ずつしか進まない。四冊を読み上げる頃、わたしは古稀に達しているだろう。「日本の歴史」も、あと六千頁近くある、が、これは小さい字ながら文庫本で、興がのると持ち歩いても読めるので、そうはかかるまい。その次には「世界の歴史」が読みたい、楽しみにしている。
源氏物語は「宿木」の巻がもうほどなく済み、すると全六冊全集の最終冊に入る。「夢の浮橋」が前途にほうと幻のように見えてきた。宇治中君は二条院で、今日明日にも男子を出産するだろう。源氏物語の大構想に、大きな大きな一点が打たれるのである。匂と薫との二人に心から愛されて、紫のゆかりの二条院に先々の天子たるべき男子をもたらす中君の、「幸い人」としての美しさ聡明さ懐かしさは極まってきた。物語はやがて「浮舟」物語へと流れて行く。音読が、とても嬉しい。美しい。
深夜に大きな作品を読み継いで、他は昼間にという読書スタイルが出来上がっている。読書に知識をなーんにも求めていないから、純然、楽しい。思わぬことを教わったり思い出したり感慨を新たにしたりしている。それだけのこと。これをタネにして何か書こう、本にしようなどということは、もう、つゆ考えない。肩の荷がみな落ちている。そろそろそんな感想すらも落ちて行くだろう。
2004 4・18 31
* 夜前も三時半ぐらいまで本を読んでいた。「日本の歴史」は児玉幸多氏担当の「元禄時代」で、前巻「大名と百姓とちがいずんずん読めて行く。振り袖火事といわれた明暦江戸の大火の詳細をよんだが、細字の文庫本の十頁分もの記載が必要なほど何日にもわたり延々また延々と江戸を焼いた。焼き尽くしたと言いたいほどで、死者も十万人を遥かに越えた。関東大震災や原爆の惨禍を想わせるほど。町人も旗本も大名も将軍の江戸城にも大被害が出ていた。これほどとはわたしも想っていなかった、驚愕した。
これに先立つ慶安の由井正雪の謀叛が、経緯としてはじつにあっけない無計画なものであったこと、しかしながら其の影響は深刻に幕府の浪人対策に及んだことなど、面白く読んで、やめられなかった。
わたしの長い作品の校正も、少しずつでも進めないと停頓してしまう。トマス・ハリスの「ブラック・サンデー」も進行して行く。今昔物語は相変わらず法華経読誦の卓越した功徳説話を続けている。
これだけは寝床で読む。その前に一人キッチンの深夜に源氏とバグワンとを最低見開き分ほどは音読する。どれも身にしみて、やめられない。
* 日本列島晴天と聞いていたか、どうだろう。遠くを飛行機がとんでいる。
2004 4・21 31
* 薫大納言は宇治の元八宮邸で「浮舟」と偶然に行き会う。浮舟は八宮の末娘であるが大君、中君の母が北方であったのとちがい、いわゆる劣り腹の娘で、その母親が後に縁づいた義父等と共に常陸国にまで流れていたが、前司となって一家は京へ戻っていた。匂宮の妻中君はそれと知り、愛してひたひたと近づいてくる薫のために、この異母妹の存在をほのめかし、薫のいまなお愛し惜しんでいる亡き姉の大君によく似ていると教えていたのである。
薫と浮舟とはまだハッキリとは逢っていない。薫は、男どもの例によって、いましも浮舟のようすを覗きに覗き見している。
2004 4・23 31
* 瀧田樗陰の「月旦・夏目先生」二本を入稿した。此処まではと、わたしなりにメドを付けていた予定分は悉く入稿できた。だんだんと、こうは行かなくなるだろうが、日一日、歩一歩でいいこと、出来ることをやって行く。出来ないことまでムリにはしない。
樗陰の端的な批評、なかなか面白かった。新人の処女作を丁寧にほめ、大家タチも容赦なく切って捨て、その細心と大胆との使い分けにたじろぎがない。
* あの邪馬台国論争も、どうやら決定的に「大和」邪馬台国説へ落ち着いてきたという。もともと「魏志倭人伝」の記載のままでは、邪馬台国は太平洋の遥か南海になってしまうのだから、適切な読替えが必要だったし、どう読み替えても、それが九州内で有る無理は見えていた。それでも一時は「九州」邪馬台国説が強く、定説化の感もあったが、べつに大和贔屓というでもなくわたしは「大和」邪馬台国が強いと考え、変わりなくそこに留まってきた。今は、科学的な史料の年代推定が高度に精密になり、関連資料の豊富さといい歴史的環境の濃密さといい、ほぼ動かしようもなく多くの事例が「大和」邪馬台国を指示し示唆し支援している。そう言われている。夢の論争に決着が付いてきたのは少し寂しくもあるが、自然当然の帰結のように思われる。
だが、そうなればなったで、新たに記述して貰いたい歴史の新課題も表に出てくる、いろいろと。落ち着いた解説が、いずれ出よう、楽しみだ。
2004 4・25 31
* 更級日記をともだちと三人で輪読し始めたのは高校二年だった。「高校二年の少年」が、孝標女の少女心に理解を示して「浮舟」というかなり頼り無い女性に愛顧の一票を投じる気がしなかったのは、自然だろうと思う。今のわたしの評価ではないと一応ことわっておくが、今も少年の心はそうは失っていないと思う。いまから恋もし、いつか家庭をもとうという高校少年である、出逢う女が浮舟のようにゆらゆらでは叶わないと思っていた。だから反対に桐壺、紫上、中君ないしは明石上や玉鬘のような、聡明で愛も豊かでシッカリした女人を年少の読者として愛し、葵も六条御息所も、その余の女達も、二の次とわたしは思っていた。孝標女が少女らしいのなら、女らしいのなら、わたしはかなり音なの聡さに対して求めるところ多き少年らしかったのではないか。
では、と、なる。次の項にも出てくるのだが、では光源氏は理想的な男なのと反撃が来る。いつもそうだ。
谷崎潤一郎は「光源氏嫌い」だと晩年に書いている。どの辺まで本音だったろう。谷崎ほどは云わないが、わたしも源氏を批判し非難できる。
では嫌いか。嫌いではない。理想か。理想でないことは、ない。伊勢物語に仮託された在原業平ないし昔男は好色の男の代表のようであるが、よく読んでいると、業平は女に対して無道であったことは殆どゼロである。紫式部がこの伊勢の昔男を光源氏造型一の理想的な下敷きにしていたことは、充分考えられ容認できる。但しリアルな小説世界に生きた光源氏は、歌物語の伊勢の昔男ほどには無難には行っていない、達していない、至らぬ隈々も数々見受けられる難儀な男性ではあるが、多くの場合、男と女との一対一の絶景において想像すると、出逢いにこそ無残な力が使われたことも想像せざるを得ないけれど、男女の双方に酌量されていい愛と配慮とは、思ったよりよく行われている。源氏は棄ててはならぬ女をまず棄てていない。わたしは、谷崎ほど光源氏が嫌いではないのである。
まして、わたしのように現代語訳での少年時の初読みこのかた、「物語の主筋」を、「母に死なれた子が母に似た人を愛して生涯を遂げた物語」と思っている者には、共感は、たいへん深い。共感させるそれは人格である。「半神的な人格の魅力」が、多くの女を惹きつけたと結果的には読める物語として、紫式部は充分書ききっていて、朝顔の宮のような源氏拒絶に、必ずしも強い快哉などは示していない。作者は聡明で安定した女を他の誰それよりも美しく書いている。少年のわたしはそれに賛成だった。「浮舟」はことに危なっかしい女と映じた、少し酷な物言いだとは今は思っているけれど。
* さて「藤壺中宮=薄雲女院」を「幸と不幸」というはかりではかるのは、少し見当が違うと思う。同じ球技だからと、ピンポンと野球との技術を比較検討するような次元の違うことになる。それに人は概して不幸でも幸福でもあり、その面では縄を綯うような存在である。
なにより藤壷の物語に於ける絶対使命は、「王権」の天子に、光源氏(と)の子を即位させることにあった。「王朝」の女の私的な恋の幸福よりも、「王権の地位を確保し実現するのが幸福たる最大の証」であり、それを「恋人光源氏と力を協せて成し遂げたことが最高の幸福」であった。輝く日の宮、若く魅力的な女人藤壺が、桐壺帝よりも遥かに若々しく美しく才能にも神秘にも恵まれたたんなる源氏の継子を「男としても」深く高く評価していたのはむろんであり、しかし、それとても王権の神秘を一致の意志により「二人して確保」した幸福とは、この時代として、他とは比較にもならぬ重大事だった。現代ではない。それぐらいの覚悟と認識は生きていた。それほどにも藤原系王権に対する皇(宮)系王家の王権奪回と確保には、時代の底意が働いていた。紫式部は終始其処を批評していたと思われる、それが「源氏物語作意の最大のもの」だったとすら読める。
だから光源氏や紫上の二条院も六条院も、「王権の拠点」としてものすごく深く意識され機能していたのである。その要の位置にじつは藤壺の「愛と意志」が働きかけていた。わたしはそうこの物語を読むわけで、彼女を女としてすら不幸であったなどとは考えない。藤壷は「比類なき幸福をこそ隠した」のである。余りに重大に幸福であったからである。世間は藤壺を「幸い人」とは云わなかった、逆にその一事からも、いかに「隠し通された幸福が大きかった」かが、分かる。ちがいますかね。
「幸い人」と物語の中で名指しで呼ばれた二人のチャンピオンは、「紫上」と「宇治中君」とであり、もう一人は「明石尼君」である。この三人の幸せとても、やはり非藤原氏からの王権の奪回や確保を根深い下敷きにした「幸い」なのであった。宇治十帖での、藤原系夕霧と薫との、光系匂宮に比して何ともいえずくすんでいる在りようも、むべなるかなと思わせる。
* はい、これが「少々の異議」への補足説明であります。呵々。ありがたい嬉しいメールであった。どなたか、さらに闇の彼方から、新たな「異議」のもたらされることを楽しみに望みたい。
* 風吹く夕方に。 「補足説明」を読んで、思ったままに書きました。見当違いばかりでしょうが読み過ごしてください。
絶対の使命、と言われてはもう反論の余地などないのですけれど、藤原系王権からの皇系王家の王権奪回・・それこそが物語全体を貫くテーマ、これは以前から理解していました。
二人の絶対使命、作者が、源氏、藤壺二人に課した絶対使命ですね。
ただし、殊に藤壺個人の意識の中では、絶対の使命と居直るわけにはいかなかったでしょう。あくまで二人の愛の形見の子を育てること、しかし「罪の意識」の方が強かったと思います。「比類なき幸福をこそ隠したのだ」と書かれていますが、わたしにはまだ理解できません。
藤壺は女として、「罪」によって身ごもった子を、その胎に孕んだ時間をどう紡ぎ、どう思い続けたか、男性には理解できない部分があると思います。生まれた子が源氏に生き写しと言われ、どれほど胸苦しく薄氷を踏みしめる思いを感じ続けたか・・やはり単純に幸せだとは思えません。苦しみの方が大きかったでしょう。・・単純な幸福ではないのですよ、比類なき幸福なのですよ、と繰り返しおっしゃる声がします。
少なくとも「公明正大」な人たちの幸せから吹き飛ばされたところで、本心は誰にも明かせず、悩みを秘し続けなければならなかっでしょう。源氏もそうでした。「比類なき幸福」という覚悟した苦悩と絶対の使命ゆえに、決定的に結ばれた二人だったのでしょうか。
その意味でも比類なき幸福・・なのですね?
輝く日の宮・藤壺は世の人の目からみた輝かしさの中だけでなく、二人の領域で闇を抱いたからこそ、いっそう源氏にとって輝く日の宮なのでしょうか。
「幸い人」たちの幸いは世の中に明らかにされ、場所を、位置、地位を得たものです。
隠された愛や意思には、付きまとう「寒さ」があります。これは現代とて同じ。現代の方がいっそう一夫一婦制のもとに形式上では厳しいものです。いとも簡単に不倫と言われますから。婚姻制度そのものへの問いかけになってしまいます。ただしそれは源氏物語について書き始めたことからはまた違った方向の問題意識ですし、それに物語で作者が書きたかったこととは恐らく全く次元が異なる問題なのでしょう。
* 先の「補足」の際に、わたしは意識して、「半神的な人格の魅力」と書き、「神秘」という言葉もあえて二度三度つかった。これがメールでいわれている「罪」の意識に関わってくる。
「光る君」と頌えられた源氏と、「輝く日の宮」と頌えられている藤壺とは、物語の構想上も、神話の元始の神々が、たとえば、いざなき・いざなみがそうであったように、「対」構図の男女になっている。源氏物語の原構想に「輝く日の宮」巻が予定されていたと云われる所以であり、この二人は、そして藤壺中宮は、紫上や明石上や宇治中君のような普通の人間の女を超えた存在として、物語の「動機」自体の中で要請されている。一つには、藤壷という人は、桐壺更衣が自身の死に代えて後宮へ呼び寄せた、しかも桐壺に生き写しの高貴の女人であり、源氏には生母ではない継母・義母であった。これは意味深い。藤壺は子への母の愛とともに、母に本来内在する息子への女としての愛をも桐壺から引き受けていた。花の色から「紫のゆかり」といわれる所以であり、二人は太い強い線で直結している。そういう二人の女のバトンタッチを必然の可能にしたのが、夫であり父である桐壺帝の、やむにやまれぬ桐壺更衣への強烈な愛欲であったことは、桐壺の巻にしっかり書き込まれてある。よく読み取れる。
* したがって、源氏と藤壺の「罪」の意識は、半分の人間としては「心理的に」悩ましくも苦しいものであったけれど、神秘の世界に半身を根ざしている半分の「神的意識」においては、常識を遥かに超えた罪障への対処がありえたし、それが直に「王権」の神秘とも膚接し得た、と、わたしは考えている。
一つの顕著なあらわれとして、普通の心理的人間としては二人の男女とも再三冷や汗をかいて「罪」をおそれているけれど、不思議なほどそれが最も口うるさい宮廷社会でほぼ全く表面化しない。隠してもバレる世間である、宮廷も都も。ところが、けろりとして誰も咎めていない、噂にもなっていない。これは面白い事実である。
須磨明石への流謫すらも、この「罪」によるものではなかった。それどころか、問題のさなかに在った桐壺帝自身が、妻藤壺をも子の源氏をも、生前と死後にあって一度も二人を罪人として咎めていない。この事実は、じつに雄弁なのである。
物語の動機としては、父帝にこそ子の源氏に対し生母更衣を「横死」せしめた負担があり、それを「補償」するために、藤壺入内の後にも光君と后との接近を、公然と許していた。須磨や明石で、亡き帝が不思議を示して窘めたのは、むしろ罪もなげな宮廷の天子朱雀帝に対してであった。
こういう基底のレベルでの「物語意志」を読み取らないと、大きな前提や構想を見落としてしまう。つまり光君と藤壺とのことを、「人間の世間」レベルでのただの男女の「不倫」「罪」「苦悩」「不幸」などでだけ解釈してしまうのは、二人の関わりを、単に心理的な日常的な恋愛や情交のレベルへ押し落として受け取ることになってしまう。あまりに常識、それも今日的な常識や良識で割り切ってしまうことになる。むしろ、そんな方面は、深い宿世の道理や衝動や運命の前では、少なくも此の二人に関して云うと、「薄すぎる」のである。「王権の行方」をめぐって父帝と母后=理想の恋人と源氏とに「神秘の契約」が交わされたかのように、物語はあたかも進んだのである。
もとより後の女三宮事件は、この「罪」へ下された「罰」と読む説が在ったには相違ない。わたしは、だが、あまりそんなことは考えてこなかった。むしろ藤原系の朱雀帝とその愛娘三の宮に、藤原嫡系の柏木と不倫させることで、「皇系源氏と藤原系との対立」構図を、その以後にも鮮明に新たに提示したのだと読んでいる。それが宇治十帖での「薫大将と匂兵部卿との象徴的な対立構図」になって、物語はさらにドラマチックに盛り上がる。
紫式部は、おそらく彼女が愛しつつ描いた「紫のゆかり」の女たちや、明石上らに、いわゆる「不倫」をさせていない。光源氏の多情好色の恋を作者はやんわりと非難はしつつも、それが不倫だという方面からは指弾していない。これは、何を意味しているのだろう。いわば源氏永遠の「理想の女人藤壺」にだけ、今日でいう不倫を行わせた。それは男源氏が暴力的に藤壺をレイプしたのだといった言い訳を、そもそもの最初から「まるで無用」にしている物語の構想や要請があったのであろう、と、わたしは考えている。
それについて、上のように、わたしはさらに「補足説明」を重ねてみたのである。現代との直の類推は大方の人物には利くけれど、光源氏と藤壺と、もう一人光直系の物語世界の相続人である匂宮とには、あまり短絡使用しない方が穏当であろうと思う。
2004 4・28 31
* 今昔物語がじわりじわりと面白さを増してくる。パタンは相変わらず法華経読誦の絶大功徳であるが、一つ一つのなかに「味」が、また「一と味の差」が現れている。
昨夜読んだのは「龍」の報謝であった。ある僧が年々歳々、日ごとに法華経を一部ずつ講じては読誦する。その有り難さに龍が人に身を変えて聴きに来ている。僧と龍との間に信頼と敬愛の交わりが生まれ、それは人の賛嘆を得ていた。或る年に、執拗な旱(ひでり)が国土を襲い国民は悲嘆し困窮して、時の帝に訴えた。こういう高徳の僧がいて龍と親しい。かの僧に命じて龍により雨を請うていただけないかと。帝は僧を呼んで命じ、聴かねば国外に放逐すると威した。(イヤなヤツ。)
僧は仕方なく龍に頼むと、龍は法華経甚深の功徳を賜り自分はもう龍蛇に落ちていた罪障を落としてしまっている、この有り難さに報謝のためにもきっと期待に報いたいが、それは天の護りの水槽を破壊して成す以外になく、それをすれば必ず自分は天の怒りにあい殺されるのが定め。それはいいが、どうか屍は拾って埋め、その上に一寺を建立していただきたいと。
そして龍は天上し、予告した日から三日三夜というもの莫大に雨を国土にもたらした。龍はずたずたに刻まれ山上の池を血にして天から落ちていたのを僧は見出し、遺言にしたがい寺を建てて、そこで法華経を読誦し講じつづけて変わることなく、彼も又龍と同じく解脱の妙所に生き変わっていった、と「語リツタヘタルトヤ」。
* 今昔物語とかぎらず、説話というものをおもしろづくに読んで、チョチョイとお話にし原稿料や印税を掠めている手合いがいるが、説話は其の志向しているところをハートで読まないと生きてこない。ある時代物の大家で、国家の顕彰を得ている作者の、今昔物語をエサにした読み物を読んだことがあるが、その軽薄な只のおもしろづくには呆れた。ドブへ棄てても惜しくないシロモノであった。さすが芥川や谷崎の仕事は、文章にせよ趣向にせよ、次元のちがう文学作品に成り変わっている。
*「一宿聖人」のことも、心に尊く響いて、忘れられない。この聖人は一所に一夜しかとどまらない、まさに一所不住の僧なのである。それがどんな修行なのか、価値判断など、わたしの任ではない。興味がない。その徹した在りようの、これぞ一期一会かと思われる果て無き彷徨の姿と意志とに、清いものを感じておののくのである。あんな国会、あんな政府、あんな、あんな。絶句したまま吐き棄てたい
2004 4・29 31
* ヴンダーリッヒのテノールに陶然と耳をあずけながら、武林無想庵の「ピルロニストのやうに」を校正している。ドーデーの「サフォ」やアルツィバーシェフの「サーニン」の翻訳者としてよく知られ、わたしなど学生の頃はよほど大きい存在のように思いこんでいたほど、昔は有名な書き手であった。その人の仕事の中でも、この「ピルロニストのやうに」は甚だ特異な顔付きをした作品である。
ピルロニストとは、ピュロンの思想に追随する者というような意味で、ピュロンは世紀前四から三世紀頃のギリシアの懐疑主義哲学者。いろんな孫引きに従って謂えば、ピュロンは、なにごとに対しても、絶対の判断中止(=エポケー)により、心乱されない静寂(=アタラクシア)を産み出さねばならぬし、それは可能と説いて、「神の如く静かな」境地に至っていたと、愛弟子ティモンにより詩に歌われている。わたしのよく謂う、「静かな心」だ。そしてそれは有り得ないのではないか、「心」の先生も作者の夏目漱石も求めて遂に求め得られなかったのが「静かな心」でるとわたしは言い続けてきた。だがピュロンは即ち「静かな心」が、可能である、それを得た、と言い切る哲学者であった。その限りでは懐疑的ではなかったのかと笑ってしまうが。
「判断中止」は、なかなかの態度であり選択であるが、取りあえず、文字通りの意味に受け取って大過はない。こう書くと、わたしが、この武林作品に興味を持っているのも自然の成り行きなのだが、武林はこの作品によって「ピルロニスト」というより「ダダイスト」と呼ばれたのが事実である。
* 日付はとうに代わり、虚しく、一時過ぎた。椅子の下で素足の足先が冷えてきた。階下で、「東屋」の巻とバグワンを先ず読んでこよう、そのまま床へ入り夢を観よう。
2004 4・29 31
* 武林無想庵「ピルロニストのやうに」を校正し終えた。武林はある種の知識に凭れてピュロンを担いでみたにせよ、ごく浅い諧謔の程度に「懐疑主義」を飾り付けにしただけで、むろん「静かな心」どころでなかった。ヒッピーという思想の拠点をわたしは知らないでいるが、其処までも行っていないようだ。しかし奇妙に、変な、読ませる作品ではあった。むしろ隠され仄めかされたエロチシズムの臭気に、作者表現のねらいがあったのかも知れぬ。行アキの行間を読ませようとしている。この作でダダイスト作家の名をあげたという、やはりその辺の評価が穏当のようである。
* 黒島傳治「渦巻ける烏の群」も校正が出来た。ま、連休のこと。ゆっくりやる。昨年、ホトホト手こずった出稿会員の新出稿が届いている。昨年の苦い体験が活かされていますようにと願っている。
* さ、今夜ももう一時だ。階下へおりてお茶でも飲もう。酒は呑まなかったぞ。
2004 4・30 31
* 黒島傳治と武林無想庵の小説を新年度初入稿。黒島の「渦巻ける烏の群」はどこかに端倪すべからざる軽みの余裕を秘めながら、前線・戦場の凄惨をうまく書いている。坦々と書いている凄み。険しい告発である。黒島のも細田民樹のも新井紀一のも永く読み継がれたいもので、反戦特別室が、ぐっと新しく重くなった。
*「e-文庫・湖(umi)」の「小説」に、松尾恵美子作書下し長編小説「東女鏡」(あづまおんなかがみ)を一括掲載した。暢達の物語りで頼朝と政子の結婚の頃から承久の変までを巧みに語り継いで倦ませない。作者はつとに平家物語「延慶本」に関する研究と批評の著書『異形の平家物語』をもち、単行本の草稿段階から構成その他に助言し激励し、刊行の際は「帯」の文を贈った。この時代に造詣も関心も深い作者の新たな小説への進出であり、紙の本出版にも希望がもてる。時代物のお好きな方は物語を、ぜひお楽しみ下さい。
この著者の経歴など、実は何も知らない。面識もなく、原稿は電子メールで送られてきたのに、今はそれも不通になっている。本当は、もっとシャキッとした好題にならないものかと奨めたいのであるが。もしこのサイトを見ているなら、思うところもあり「延慶本」を書いた本を二冊送ってきて欲しいのであるが。
* 瀧田樗陰「月旦・夏目先生」も校正を終え本館掲載を指示した。この「月旦」は興味深い。今では大家の連中と、当時の大編集者の対決である。片々とした記事の如くあって、なかなか教えられる。小説家志望の人は読まれると佳い。
2004 5・1 32
* 吉田絃二郎作「島の秋」を起稿・校正して、入稿した。現会員の翻訳文も手入れし形を整えてから入稿した。
「島の秋」は絃二郎文学極めつけの代表作として愛読者の記憶に永く残った佳作である。しっとりと書いてあり、哀愁に充ち満ちて胸を濡らす。加能作次郎に「乳の匂ひ」という秀作があり早くに「ペン電子文藝館」に収録したが、一抹似ている。抑えに抑えた筆致で、微塵の逸脱もないなかで、隠し繪のように、あることが漏らされている。そう読める。それをどの一文からはっきり読みきるか、なかなかの課題。掲載されたら、ぜひ試みてみて欲しい。
さすが大好評を博して作者の文壇での地位を一気に固め得た創作で、読後にも優れて佳い余韻がある。むろん、時代の容赦ない浸食もないとは云わない、しかし、印象は古めかしくない。かびくさいなどと思わない。
* 只一度だけでずいぶん昔になるが、わたしの小説を読んでくれた人が吉田絃二郎の「島の秋」をおもいだしましたよと云ったことがある。その頃わたしは此の作品を知らなかった。読んでみて、ああ「姉さん」かと思った。「乳の匂ひ」でもそう思った。わたしの「姉さん」は元気だろうか。今は何処でどのように暮らしているのだろう。離婚されたという噂は、本当のことなのだろうか。気の毒なことをしたような気持ちが、いまも胸に残っている。
* 連休。まだ二日間もある。もういい。日付変わり、もう一時が過ぎて行く。少し静かにピアノ曲でも聴いて本を読み、やすむとする。
2004 5・3 32
* 石田波郷の二百句を入手した。撰は嗣子の石田修大氏に依頼した。現代俳句のビッグネームである。二百句読み通し、必要なヨミガナを付け、かたちを整えた。「略紹介」を付け終え入稿する。
2004 5・4 32
* 中央公論社主であった嶋中雄作の「回顧五十年」が送られてきた。校正されたはずなのだが、わずか数頁のうちに校正ミスが続出し、段落換えの行頭一字サゲもなく、原作に付いているルビの処理も全部出来ていない。これでは、もう一度わたしが全文読みなおさねばならない。二度手間、作業が遅れただけの結果である。
そうはいえ、校正は容易でないのも確かで、わたしとてとてもエラソーなことは言えない。それだけでなく、昔の文語文献や漢語ふうの文献がなにの読みもなく出てくれば、それには最低限度のヨミガナをつけねばならないが、そういうことになると、古い時代の表記に多少読み慣れたものでないと出来ない。下に一例、送られてきたママの原文をあげてみる。「中央公論」の前身の「反省会雑誌」創刊号の刊行趣意の一文である。スキャナーの読み取りミスによる、そして校正杜撰による誤字もある。いきなり「嗚呼」から間違っている。表記違いもある。片仮名のニが漢数字の二になっている個所が二三有る。句読点はもともと無い。むかしは句読点のないのが、むしろ改まった晴の文では普通なのであった。漢文でいう白文にほぼ等しい。これに、なるべく正しいヨミガナを添えない限りインターネットで読めない読者が出てしまう。しかしベタベタに読みを付けるとどれが本文やら混濁してしまう。且つ現代語に意訳はしないので、読み下せても意味の読み取れない人は出てくる。余儀ないことであるが、読めれ読んでなかなか興味深い一文には相違ない。あの「中央公論」のそもそもは、こんな、佛教に基づく教訓と反省の雑誌であった。
*「鳴呼久旱雨ナク万川水涸レ法田将ニ蕪セントス農手多忙ノ時至レリ法運絶滅ノ期迫レリ何ノ遑アツテカ酒杯興ヲ尽スヲ得ン自ラ有為ノ気象ヲ抱キ将来多事ノ世界ニ立チ旱後ノ法田ヲ耕サントスルモノ瑣々タル肉体ノ小欲ヲ制スル能ハズ禁酒進徳ノ実ヲ表スル能ハズンバ前途叉思フベキ而己今ヤ我宗命令ノ信仰去ツテ自発ノ信仰起リ尊大ノ主義自ラ倒レテ社会主義勢ヲ得ルノ時ナリ世人我ニ嘱スルニ智識ノ均配ヲ以テシ我二托スルニ信仰ノ開発ヲ以テス実ニ我々ハ法輪運転ノ中心ニ位シ世間眼光ノ注射点タリ大任殆ド負荷二耐へザルヲ恐ル幸ニシテ仏祖ノ冥助ニヨリ容易ニ酒杯ヲ絶チ進徳ノ門戸ヲ開クヲ得タリ感謝何ゾ堪へン抑我々ハ古人ノ飲酒不至乱ト云フ如キ曖昧手段ヲ取ルモノニ非ラズ又ジョンソンノ所謂能ク酒ヲ禁ズルモ飲ヲ禁ズル能ハザルガ如ク卑怯ノ言ヲナスモノニ非ラズ去リトテ又政府ニ請願シ禁酒ヲ実行セシメントスルモノニモ非ラズ唯我々ハ身ヲ生死ノ間ニ処キ心ヲ迷悟ノ衢ニ馳セ仰ヒデ社会ノ現象ヲ察シ俯シテ身辺ノ行事ヲ省ミ過チヲ改メテ憚ラズ正ヲ履ンデ懼レズ苟モ智恩報徳ノ一事タラバ勇進独歩為スベキ事ヲ為シ肯テ退カザルモノナリ今茲ニ一小雑誌ヲ刊行シ会員座右ノ友ニ代へ一心固定ノ方針トナサントス其論ズル所ハ会員執ル所ノ主義ニシテ其報ズル所ハ会員運動ノ写影タリ之ニ費ヤス時間ト資財トハ一モ禁酒ヨリ生出シ来リタル余裕ニ非ルハナシ然ラバ則之ヲ称シテ禁酒進徳ノ花ナリト云フモ肯テ不可ナキニ似タリ亦是報恩ノ一助タルニ庶幾カラン歟」
* 嶋中の文章はやや気負って位取りが高いけれど、一つの業界史として五十年の長きを語っているので、興味深い。中央公論社とは、谷崎本や全集をとおして自分の作家以前から心理的に振り仰ぐものがあり、竜馬さんや稲垣みゆきさんのお世話で単行本『閨秀』の出たときは嬉しかった。筑摩書房を胴体に、はやく両翼を拡げたい、その一つは中央公論でと望んでいた。単行本も新書も出て、またこの社の本はよく買った。
この五十年回想の書かれているのが昭和十三年、なんとわたしはマンで三歳にもなっていない。いかに古い会社かが分かる。
2004 5・4 32
* 児玉幸多氏の担当に変わった「元禄時代」の記述は、うって変わって解説的で、面白く辞典を読んでいるような、総じて事典風の叙述で、歴史語彙をたくさんたくさん提供されている。江戸時代都市生活の物知りになるには、打って付け。
トマス・ハリスの「ブラック・サンデー」はあまり無理にのらずにゆっくり少しずつ読んでいる。
2004 5・6 32
* やがて日付が変わる。今日はもう何もあるまい。けだるいもの憂さを宇治十帖でいやして寝よう。浮舟がやがて母親にともなわれ、匂の妻中君を頼ってくる。異母姉妹である。事件が起こるであろう。
そして、バグワンに耳を預けたい。全身に染み込んでくる真実は、バグワンのことばよりも声なき声から降り注ぐ。わたしを解き放つのは、バグワン。
2004 5・6 32
* 『ネットの中の詩人たち』 3 が送られてきた。大阪在住のペン会員が紙の本に編んでいる。収録されている一人のコメントに「詩のようなもの」だとあった。「詩」を書いて欲しい。「それぞれの愛 それぞれの心」と副題してある。どうして日本人の現代詩はこういう発想になる。表現よりも日記にちかづく。「隠喩=メタファー」の神秘のちからにより、論理=哲学でも実験=科学でも、とうてい近づけないところへ近づいて行ける、そういう「詩」の把握へは、ほど遠い満足に終始しててしまう。すると「詩のようなもの」で済んでしまう。「詩」は深い。厳しい。美しい。
やはりペン会員の主宰している口語短歌の撰集も贈られてきた。出来上がっている表現は安易なほど容易そうであるが、これまた途方もなく難しい。内在律を美しく確かに響かせないと「詩=うた」にならないが、大方はそんなことは考えに入っていなくて、詞で示した意味内容にもたれかかり、あたかも思想が詩であるかの顔付き。ここに無残な落とし穴がある。散文に近い詞で内在律を把握するのは、律によわい日本語では容易でない。この容易でないとの自覚が底荷になっていないと、口語短歌はただの自己満足におわりかねない。ここでも「詩」性の金無垢が厳しく問われ求められるのである。
2004 5・7 32
* 李香蘭が美声で唄う「夜霧の馬車」の作詞、西条八十。作曲、古賀政男。書き取ってみた。
二、六 – 七、七。 五、六 – 四、四。 七、五 – 四、五。 破調と聞こえて纏綿の節奏韻律が歌謡曲なりにおもしろい。
行け 嘆きの馬車 赤い花散る 港の夕べ
旅を行く われを送る 鐘の音(ね) さらばよ
いとし此の町 君ゆゑに いくたび ふり返る
泣け 鴎の鳥 哀れせつなく 夕日は燃ゆる
波の上 浮かぶジャンク さびしや はろばろ
たれが唄ふぞ 愛のうた 夜霧に 流れくる
行け 嘆きの馬車 月に胡弓の 流れる町を
いつか見む 母の待てる ふるさと なつかし
窓のほかげを 夢みつつ はてなく 旅をゆく
* いま、わたしは「ペン電子文藝館」に、著作権の切れている唱歌、童謡、歌謡曲の歌詞を精選しておきたい希望をもっている。文藝作品と呼んでしかるべきだから。西欧の象徴詩の内なる節奏に学んだ日本の詩人達は、低俗は俗なりにそれを歌謡の作詞にも試みようとしていた。
2004 5・7 32
* 三原誠作「ぎしねらみ」を招待席に入れた。佳い作品で、品も良く、懐かしい一編の風土風物詩でありつつ、把握と表現に優れて面白い作になっている。生涯を在野の同人誌で発表していた作家だが、驕りも自己満足もなく、わたしは、素晴らしい人であったと思う。生前に一度の面識もなくて済んでしまった私よりも当然に年輩の人。「ぎしねらみ」を知っている人は、九州の一部の地方の人だけであろう。一読再読に値する秀作である。前に「たたかい」という芥川賞候補作も招待し、これも好評であった。
三原さんの此の作品は、二三日前に「招待席」に送った四国の門脇照男さんの秀作「風呂場の話」と好一対。甲乙をつけがたい在野作家の双璧である。こういう作品をどうかして広い文学の野原からたくさん発見したい。そしてぜひ大勢に読まれたい。なにはともあれ、五月一日から今日九日までに、早くも十作品を入稿している。
* 宮地嘉六「煤煙の臭ひ」龍膽寺雄「放浪時代」中村正常「アミコ・テミコ・チミコ」をスキャナーにかけた。一番の希望は長編ながら大正時代の労働文学で藝術的にも最高の達成とみられる宮島資夫の「坑夫」だが、これは先にプリントしておかないとスキャン出来そうにない。何と云っても、小説部門で漏れてはならぬ記念作を「招待席」に押し上げ続けたい。
しかし、首の付け根が頸輪をしめたように痛んでいる。明日の会議に、何の心づもりも出来ずじまい。明日は早く出掛けたかったが、それもやめ、一時頃まで家で心用意してから茅場町へ。日曜日で、メールもないだろう、早めにやすもう。
2004 5・9 32
* 児玉幸多氏の「元禄時代」が平易な記述と具体的な話で、とても、いや時にめちゃくちゃに面白い。グスグス笑っているときも有るくらい。四代将軍家綱という人は影のような印象だったが、その時代は、ことに前半は安定していたことなどよく分かる。彼の時代にかなり強く殉死ということを制したこと、彼の時代に大名家等からのいわば人質を不用として元へ返したこと、二善政とされている。大したこととは思われないが、それらがかなり有害無益になっていたことは確からしい。御恩と奉公との主従関係から、幕僚による官僚組織としての幕府になってゆかざるを得ず、三河以来の恩顧の武家・名家だけでなく、各将軍の子飼い有能の近臣官僚も台頭し根付いてきたことがよく分かる。問題の焦点に、旗本層の経済的困窮と意識の沈滞が見えてくるのも時代だ。遊郭と遊女達のことなども、アタマの一方に西鶴の好色一代男や一代女の感銘や見聞がのこっているので、ひとしおそれが落ち着きよく整理される。そういう面白さに、ついつい明け方まで読みふけってしまう。
今昔物語集も水かさが増す勢いで段々に話が面白い。さすがに想像も創作意思も刺激される。
2004 5・9 32
* ものすごく、疲れた。クラブへひとり直行し、ブランデーとクラブサンドイッチ。そして、お奨めの赤ワインをグラスで。さらに響を。アイスクリームとコーヒーで疲れをとる。ぼうとしていたのでなく、湖の下巻初校ゲラに細かな手を入れて細部を整え、また尚江の「火の柱」を読みすすんだ。二時間ほども落ち着いてから、ゆららと帰宅した。銀座からの丸の内線は安心して寝ていた。あわや、そのまままた銀座の方へ発車しそうな按配であった。西武線では準急に座れたので、尚江をまた読み、「元禄時代」も読み進み、保谷からはタクシーで帰った。
* 長田幹彦の「零落」は佳い味わいで北海道へ流れ落ちてゆく。少し文章意識が強いかも知れなくて、書きすぎの細部も感じられるものの、総じて的確に捉えていて、さすがだと思う。正にひと頃は谷崎潤一郎と双璧かのように喝采されていたこともある作家で、赤木桁平からは撲滅さるべき遊蕩文学の最右翼と攻撃されたりした。この「零落」など、そんな攻撃をはじきかえす作品自体の力をもっている。魅力もある。
宮地嘉六の「煤煙の臭ひ」は対蹠の位置から労働の現場の苦渋と誠実を照射してやまない。この人もある時期を一面で代表し得た作家であったが、時代の推移の中で、ことに平成のバブルなど経験してきた時代からは置き忘れられかけている。そんなであってはならない、長田も宮地も軽くは観られない文学の魅力を作品に湛えているのである。
龍膽寺雄のごときは、やはり時代に先駈けて元気な仕事をしていた人であったのに、あまり理由はよく分からないが、いわば文壇から締め出された人という印象がある。文壇には、そういう「め」にあってきた人がときどきいる。今東光でも菊池寛にきらわれて僧籍へのがれていた時機が長かった。「天の夕顔」の中河与一も文壇から締め出されていた感じがある。文壇なんぞを無視して離れてしまっている作家もいる。永井荷風でもそうだったし、現代なら真継伸彦さんなどもまるで文壇にそっぽを向いたままの作家生活のように見受けている。いろんなあり方があって佳い。私なども変わり種の一つに相違ない。
2004 5・10 32
* 国木田独歩は、やはり、稀代の名品と謳われた「春の鳥」を採っておきたい。仮名垣魯文の「安愚楽鍋」もせめて一二篇採っておきたい。成島柳北の「柳橋新誌」は漢文で書かれているが読めば粋なものである。あまりなつかしいものではあり、訓み下しに書き直して、数頁を「招待」して置こうと思う。
わたしがいなくなれば、わたしに代わってこういうところへ目配りしてくれる人も、それの出来る人も、ペンにはいない。
毒婦ものも流行った。岡本勘造の「夜嵐阿衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」なんてのもある。義民の蹶起ものもある。採霞園柳香の「蓆籏群馬嘶(むしろばたぐんまのいななき)」なんてのもある。全編はムリでも記録するには値している。
明治七年から九年にかけて書かれた服部撫松の「東京新繁昌記」も漢文だが、訓み下しに読めばスコブル興趣をそそる。饗庭篁村の名も忘れ果てられたが、響いた書き手の一人であった。「当世商人気質」は凝った趣向の、しかし富国強兵の意識を下敷きにした具体的な「あきんど」探求で、面白い読み物になっている。
委員会で、女性委員の一人から「招待席」のほうがどんどん増えて、これでは現会員がと、決まり文句の嘆息が出たが、現会員には百パーセントに近い自由な出稿が無審査で認められているのだから、その気さえ有れば誰にも拒まれはしない。「招待席」が邪魔をしているわけでは全くない。
もし招待席を設けずにいたなら、「ペン電子文藝館」の現状はどうであったろう、理事達も出さず会員も出さずに立ち枯れていたのは明らかである、出す魅力がなかったろう。歴代会長がならび、既往の文豪がならび、綺羅星のように著名な人の名と作品が並んだればこそ、何よりも「読者」が歓迎した。「ペン電子文藝館」のアクセスは私の想像したよりも遥かに遥かに多い。現会員の作品だけでは、そうはとても行かなかった。残念だがそれは事実であり、残念でも当然だ。
2004 5・12 32
* 石川武美といっても今は分かる人は少ない、主婦の友の創刊者で、創刊三年で発行部数の日本一を記録した終生の「記者」であった。後に東販などの社長も務めている。この人の「記者石川武美の言葉」は、今の若い編集者・記者がどう読むかは分からないが、わたしのような古手のもと編集者には頷けるところが多く、しかし、こういう烈火のような理想派の記者や編集者には久しくお目に掛からないなあと云う気持ち。「展望」原田奈翁雄さんなどそんな感じであったが。今も彼はいい編輯記者として頑張ってられる。石川の文章はもう構成も終えて、形を整え、入稿した。
* 長い作品の校正に引っかかっていて、なかなか進行しない。長田幹彦の「零落」は面白いけれど、改行の少ない長編で、まだ半分も構成できない。しかし綿密に書けていて練達の妙味、聊かも通俗でない。宮地嘉六の作品も長い。こつこつとやっている。まだある。「放浪時代」の龍膽寺雄のも長い。問題の木下尚江も冒頭の何処までスキャンするか思案投げ首。
*「国民之友」の徳富蘇峰、「日本人」の三宅雪嶺も、出版編集者として絶対に忘れられない二巨人であり、すでに作品は座右に据えてある。またそろそろ荒畑寒村の代表的な短篇「艦底」にも手を付けたい。
さらに生田長江の作をぜひ拾い上げたい。この辛辣にして皮肉な批評家の作家論も白樺派批判も赤木桁平を嘲弄した論文も皆なかなかのものなのである。
そして阿部次郎。この人の「藝術のための藝術と人生のための藝術」は国語の時間にならったし、「三太郎の日記」は高校時代の自慢の蔵書だった。
もう一つは「愛と認識との出発」だ、倉田百三の。戯曲としての「出家とその弟子」も愛読し耽読しついには朗読したものだ。懐かしい。ぞくぞくと、ゾクゾクと、優れた人と作品とがわたしの手の届くのを待ってくれている。いや、わたし自身が心待ちに待っている。みな、美味い酒のようにわたしを誘い出す。
2004 5・13 32
* さ、日付もとうに変わっている。このところ床に入ってからの読み物が増えている。シェイクスピアの「コリオレイナス」を読んでいる。福田さんの訳。大作であるが三百人劇場はどう舞台に乗せるのだろう、と。前半には烈しい戦闘場面や群衆場面がある。妻も読んでいる。
六月の海老蔵襲名はたいへんな人気で、さすが松嶋屋でもいつものような席は難しかった。注文を出したのがすでに遅かった、ほぼ断念していた。だが、なんとか別席ながら昼夜とおして用意できたと電話が来た。昼の部は二階席。夜は前から三列目だけれど少し上手。それでもよかった。玉三郎の助六は近くに見られる。あの芝居はそうそう面白いわけでなく、輝くような豪華絢爛の舞台に官能的に酔えば済む。海老蔵、玉三郎、意休は左団次。昼の部の口上に団十郎の欠けるのは惜しみて余りあるが、そのぶん海老蔵に頑張って貰おう。
2004 5・14 32
* 長田幹彦の「零落」は、ドサまわりの歌舞伎役者達の小劇団を書いている。大歌舞伎の栄光は、はなやかに、ものものしい。それだけのものを持っているからたいしたもの。
2004 5・18 32
* 眠くなってきた。マドレデウスを聴きながらもう少し校正して、今夜は早く寝床に入り、シェイクスピア劇を読み上げてから寝たい。
2004 5・18 32
* 夜前は、シェイクスピアを、今少しのこして、寝た。
「コリオレイネス」はまことに珍しいモチーフで書かれている。ローマの、勲功山の如き将軍と、民衆との対立。前者が暴虐で民衆が正当であるなら、ふつうのパタンになるが、逆と云わないまでも、逆に近い仕方で謀略的に将軍は、市民民衆により国外に放逐され、将軍は敵国に身を委ねてローマに激しく復讐的に進攻してくる。
ローマは元老院と市民とで成り、市民には護民官といういわば代議士がいる。元老の中から執政官が起つ時も、形の上で市民の推薦と承認を得て就任できる。コリオレイネスは、市民の愚民性を見抜いていて辛辣にそれを口にして憚らなかった貴族であり、救国の大功が元老達に絶賛されて執政官に推されたところで、市民によって逆に死刑を宣告されるハメとなり、ローマを逐われたのである。
まだもう十頁ほどを残しているけれど、この長大で微妙な原作を劇団昴はどのように舞台にのせてくれるのだろうか。
* 浮舟は、母のちがう高貴の姉中君に逢っている。実はいましも姉の、即ち匂宮の二条院に身を寄せていた僅かな隙に、匂宮に見つけられてあわやというきわどいはげしい執拗な腕に抱きすくめられようとした。乳母が礼も顧みず捨て身に辛うじて守ったが、噂は院の内にあらわれている。中君は、妹をよびよせて慰めながら、その浮舟の魅力にもしこのまま夫匂宮がかかわり出すと、厄介なことになると思う。そしていよいよこの亡き姉大君ににた妹を、薫大将に委ねたいと思うようになっている。
平安物語では、あわやレイプないし事実レイプにいたる場面は多いが、もっともあらわで最もめざましくのがれ得た場面は、この浮舟最初の難儀と、「夜の寝覚」でヒロインが宮中で帝に一夜を通じて迫られつづけるのを退けとおした場面であろう。物語でなく、事実としてそのようなレイプが無残に敢行された例としては、「とはずがたり」で、幼かりし日の著者自身が、後深草院の手で犯されたことを露わな筆致で自叙しているのが凄まじい。
* 二日の疲れをとるべく、すこし朝寝坊をした。
2004 5・19 32
* もう少し、もう半頁も全集を点検校正すればやっと長田幹彦の秀作を入稿できる。さすがに佳い作品であった。だがまだ半頁のこっている。根気がほとほと尽きた。酒の代わりに、いいメールでも来ていると嬉しいが。
2004 5・19 32
* 長田 幹彦 ながた みきひこ 小説家 1887.3.1 – 1964.5.6 当時東京市麹町区に生まれる。兄に詩人で劇作家の長田秀雄。早稲田大学在学中の明治四十二年(1909)学業を抛って東北から北海道を流浪、鉄道工夫、炭坑夫、旅役者の群れに入りまじって暮らし、四十四年(1911)復学、この年に旅役者体験を書いた「澪」を「スバル」に連載、翌卒業の年(1912)四月には、掲載作である姉妹編「零落」を「中央公論」に発表、一躍文壇に花形の名をはせ谷崎潤一郎とも並び称されたが、次第に退潮、のちに東京中央放送局の文藝顧問となって「ラジオ・ドラマ」を創始したことが際だった足跡の一つをなしている。
「零落」しっかりと読まされた。長くて作業は捗らなかった代わり、一字一句を読み込んで堪能した。少し感傷の濃いめの作ではあるが、それが不自然に落ちていないところ、また練達の大人の作かと思わせる点も、驚かせる。早稲田を卒業した年に、二十五歳でこれを書いている、それも文壇の登竜門、瀧田樗陰の「中央公論」に。それだけの仕事になっている。ずぶりと世界にはまりこんで書いている視線の低さが、強さになっている。これまた「ペン電子文藝館」屈指の佳い植樹になった。
2004 5・19 32
* 「コリオレイネス」を読み上げた。シェイクスピアの悲劇は「ジュリアス・シーザー」にはじまり四大悲劇等を数々経て、この「コリオレイネス」で終わる。一見貴族主義と民主主義との対立が描かれているようで、そこへ足を取られていると主人公の魅力を見落としてしまう。主眼はコリオレイネスの悲劇であり、その背景に民主主義の衆愚性も揶揄され貴族主義の危うさも指摘されている。政治体制そのものが主なるトーンのようでいて、事態を打開したかに見えるのは母や妻子との愛のようにも見えるのだが、それ自体がコリオレイネスを惨死させてしまう。彼の気迫の底に溜まっていたある小児性(マザーコンプレックス) が破滅へ導いたともいえる。
劇そのものの表現はかなり乾いている。情緒的でなく、むしろ論理的で政治的で、作者は結論は述べていない。最後の、敵将の変貌・変容がやや唐突と見えて、これが劇的にどう表現、どう演出されるか、気になる。
これで、シェイクスピアの歴史的な悲劇はほぼ全作読んだことになるか。福田恆存翻訳全集で読んだ。この全集は文藝春秋の寺田英視さんが手がけた完璧のもので、わたしは全集も翻訳全集も全巻買った。いや創作戯曲の一巻は福田さんから特に指定されて頂戴している。すぐ側の書架に泉鏡花や井上靖や森銑三の全集とならんでいる。
2004 5・20 32
* 朝一番に大原委員からの校正、長田幹彦作「零落」の校正が届いていて、点検した。「斎藤真一の繪を」みるようだと感想があって、なるほどと微笑。旅渡りのごぜなどを素樸派ふうの沈潜した画風でとらえる人で、むかし湯島のなんとかいう道具屋で会ったことがある。
なんといっても、この作品が早稲田を卒業と同時に二十五の青年の手と体験で書かれていることに驚く。作中、旅役者たちの一団にのめり込んで行く旦那は、相当な年輩に感じられ、またそれはそれで少しも構わない作中の設定であるが、作中の自身らしき人物を、若く書くのは書けても、年寄りには容易に書く気もしないのが普通である。いかにも実地をふんた書き方で、こういう情況を好く好かないは別として、把握の強さが表現の確かさになっている。年齢の若いということで、作品の評価をなめては危険な一例である。出来ない人は六十でも七十でもとてもこうは書けていないのであるから。
2004 5・26 32
* 今昔物語に引き込まれ行くにつれ、いま、法華経をまた読み通してみたい、できれば声に出して全巻読誦してみたい気持ちに傾いてきた。浄土三部経は繰り返しその様にして読んできた。法華経は一度黙読で通しただけだ。前世に犬や牛や虫や毒蛇であったものが、たまたま僧や人の法華経を読むのを聴いたばかりに現世で人身を得て、さらに法華経を捧持し信受してやすらかに昇天する説話が、えんえんと続いている。
* 薫大将は、匂宮の手込めの手から危うくのがれて小家に隠れていた浮舟のもとへ導かれ、二人はとうとう結ばれる。薫は浮舟を宇治の亡き八宮の遺宅へはこび入れる。「東屋」の巻が、もう今日明日には尽きて、「浮舟」の巻に入る。
「浮舟」「蜻蛉」「手習」そして「夢の浮橋」の四帖を余すのみとなった。とはいえ、橋を渡り終えるのは秋に、或いは歳末にまでも成ろうか。
*「日本の歴史」全二十六巻の第十六巻『元禄時代』は、いま「大坂」という都市の検討が済んで、五代犬公方綱吉という歴代将軍でも頭抜けた変わり者将軍の治世を読み込んでいる。「生類憐れみの令」とい稀代の悪政がもし無かったなら、綱吉という将軍はかなり個性に溢れて佳い方面からも記憶されていただろう。何と云ってもあれは狂気の悪令であった。むちゃくちゃ。
* バグワンは籤取らずの「糧」である。
今の読書で、意外に読み煩っているのはトマス・ハリス「ブラック・サンデー」だ。以前に二度三度読んだときは熱中できたのに、今はもうイスラエルとアラブとアメリカとの三つ巴のテロ語りなど、うんざりしているのだ。
それよりも、イラクに果てた日本の善意と勇気と知性とに暗い涙を呑む。
日本に帰ってきた拉致家族の若い五人の幸せを先ずは心から祈りたい。どうか、急かず慌てずに、聡明な愛を注いで上げて欲しい、身近な人も、遠くの人も。わたしも。
2004 5・28 32
* 龍膽寺雄の「放浪時代」がやっと残り三頁まで校正できてきた。三十前ぐらいの時に、「改造」の懸賞小説で一等当選した作品で、いわるモガモボ時代の当時としては、とてもフレッシュな風俗若者小説で、ヒッピー風、フリーター風の男二人に、一人の妹女学生が加わった共同生活を描いている。ああ、こういう作品ももてはやされた時代があったんだなあという、遠い日の近代日本の、昭和初期トウキョーの描写である。
同じく放浪かもしれないが、明治末の長田幹彦の「零落」の果ては、今なお手応えしたたかに、濃い夜景の寂しみをあましているが、この「放浪時代」は、モノのしたから見つけ出してきた、少し懐かしい大昔の雑誌の、かすれた匂いのような魅力である。
「零落」は、もう少し改行してよと校正しながら悲鳴をあげそうであった。「放浪時代」は会話が多くて、改行だらけ。校正はラクであるが、手に汗して読まされる迫力は失せている。「時代」でもあろうが、風俗を新しげに書いたものの古びの凄さを感じさせる。今の渋谷の若者達を、リアルに甘えてそのまま直写しただけでは、いつかこういう無残な褪色に陥ること、間違いない。時代を超えた文学の表現が必要になる。
* 夜前、読みたい本を順繰りに読んだ最後に「日本の歴史=元禄時代」を手にしたら、数頁のあとへ章がかわって「忠臣蔵」と来た。まるまる一章分を夢中で読んで夜更かしがひどくなった。歴史学者が、此処までは言えるという資料的な輪郭を、はみ出さずに解説してくれていて、それなりに手応え有る読み物になっていた。
大石内蔵助の配慮といい、討ち入り、引き揚げの整然としたみごとさといい、たんたんと書かれてある分、感動させるものがあった。殿中で内匠頭を組み敷いた梶川與惣兵衛から瑶泉院にいたる人物の寸描もおもしろく、原惣右衛門と妻丹の消息や丹自決に到る結末なども、大方はみな知っていることであっても、学者が抑制しつつ記述してくれると、独特の面白さに引き込まれる。
赤尾浪士の討ち入りの直前に起きていた仇討ちとしては、江戸時代を通じて最も「典型的」とうたわれた「亀山の仇討」事件も、面白い記事だった。
その前章末に、碁や将棋のことが取り上げられていたのも、碁の好きなわたしには恰好の読み物であった。碁の歴史の古さは感動ものだが、往昔、貴人や上位者が黒石をもったというのには驚いた。歴史は面白い。家綱にもおどろき、綱吉にもおどろいた。この時代になると新井白石がちょくちょく顔を出すのも親しみを覚える。彼と河村瑞賢との関わりも面白く読んだ。
2004 5・31 32
* 扇谷正造の講演録であるらしいが「雑誌編集のコツ」というのが、小委員会から回付されてきた。読んでみると、いかにもテクニックにツキ過ぎた、今では古びた内容なので、どうしてこれを選んだのかと確かめている。石川武美の原稿には、一種頑固な信念が露出していたが、扇谷の話は座談の域を出ず、いかにもその当時の「週刊朝日」にツキ過ぎている。遺す限りはもっとしたたかに深いものを遺したい。
* 夜ふけて、宮地嘉六の「煤煙の臭ひ」(大正七年)を校正し始めた。これは本格の労働者文学であり、文学作品の格調をしっかりもっている。小学校を中退し、早大で聴講している。洋裁店の小僧から佐世保の海軍工廠に努め日露戦争に補充兵として従軍もした。呉工廠でのストライキに加わり四ヶ月も広島監獄に拘禁もされた。旋盤工になる気で上京したものの官憲の妨害ではたせず、堺枯川の世話で編集雑務をしながら書いたこの小説は、プロレタリア文学前史に属する先駆的秀作として文学史に名を刻んだのである。労働者作家が作家として社会的に認知されだした、宮島資夫とともに、ほぼ一番二番バッターであった。校正にはかなり難儀しそうであるが、秀作に出逢い直すのは嬉しい仕事。
2004 6・5 33
* 芭蕉、西鶴、門左衛門の三人を語って日本の歴史『元禄時代』は、巻を終えた。家綱と綱吉の時代を児玉幸多氏の理解に即して率直に語り通され、それはそれでなかなか明快で有益だった。
元禄時代とはどんな時代であったか、端的には言い難いにしても、これにだけは愕く。農民は粒々辛苦の生産の半分近く、時に半ばを越して年貢=税として藩ないし幕府に強奪されていた。収奪は苛酷であった。ところが一攫千金の町人は、「町人」であるが故に商売の儲けに「税」の負担を全くしていなかったのである。越後屋は今の三越の祖先筋であるが、日に百五十両の収益を上げていた、が、町人商売の収益に「税」は、なんと、かからなかった。一年ではその三百六十五倍の莫大な純益にも、一文の税金も幕府はかけていない。他の名義で「負担金」はとったものの、国是として、町人風情の稼ぎから税金をとるなど賤しむべき事とされていた、農民の収穫には苛斂誅求を極めても、である。農本主義の日本。貴穀賤金の日本。農民こそ堪ったものでなく、そして町人の専らしたことは「お上」への賄い行為であった。いやいや、平成の今でも、その気味は濃厚に残っている。企業による政治献金だ。
次巻は、家宣時代から吉宗時代への移行が語られる、第十七巻になる。この巻は『親指のマリア』を京都新聞朝刊に連載のさい、参考に熟読した。新井白石とシドッチとの小説であった。
* とうどう匂宮は、薫大将により暢気に匿われていた浮舟のいどころをかぎつけ、ひそかに忍び込み、薫のフリをして浮舟を犯す。その場面へ今夜、源氏音読はついに到達する。匂の行為にはみじん弁護の余地もない。また薫のしていることにも、わたしは共感できない。あまりに亡き大君(浮舟の異母姉)の人形扱いが無情であり、愛がない。このあたりからの宇治十帖は、正直の処あまり読んでいて愉快ではない。聡明に聳立しているのは中君のかしこさとおちつきと、である。
* 今昔物語は速度を増して面白さが加わり、一夜に一話でいいと思い読んでいるのに、つい深夜にも、三話四話と続けて読んでしまう。
そしてバグワンは、圧倒的にわたしを頷かせて、やまない。バグワンだけを感じ思い考えていたい本意は切に深いのである、が。
2004 6・6 33
* きのう、大判の、ある雑誌が届いた。東京で出ている「週刊 京都を歩く」と。もう48冊も出ていて、此のわたしのところへ声も掛けないなんて「モグリじゃなあ」と思って中を見ると、したしい「東京」専門の川本三郎氏が、「秦恒平が『慈子』で描いた幻の里、京都」というエッセイを書いていた。川本さんの指示で届けてくれたらしい、感謝。
毎日ドサドサといろんな雑誌類が舞い込むので、たいてい観ていられずに処分するが、あわや棄ててしまうところだった、「京都」という誌名を見なかったら危なかった。
2004 6・10 33
* 日付変わり、草臥れが出て来た。はやめに本を読んでやすもう。
源氏物語は、ついに匂宮が宇治に匿うている浮舟に忍び寄り犯してしまった。しかし、浮舟は体温の熱い宮を意識下に愛してしまっている。薫大将は女の気持ちにかなり気うとく接している。彼女を宇治に「置いておく」だけで庇護している積もりだが、体温に燃えた愛をさながら浪費するほどの情熱をもたない。匂宮はまっしぐらに行く。出逢いの初めからレイプ寸前まで行き、鬼のような乳母に制され渋々離れて、宮中に呼ばれて出掛けた。それも妻中君のいる二条院でのことであった。そして二度目の宇治行きでは強引に犯してしまい、三度目には浮舟を抱いて対岸の家へ舟で連れて行く。親友の想い者を、妻の異母妹を、じつにけしからぬことではあるけれど、それでも女は、匂に惹かれてゆく。薫をオソレながらも惹かれてゆく。その気持ちが分かるから、この「浮舟」巻はこわい。
わたしは、もともと源氏物語世界を宇治十帖で正しく引き継いでいるのは「匂宮」であると想っている。それでいて、わたしは「浮舟」という女を、むかしからそう好きにならない。「中君」の方がはるかに好きなのである。この「中君」の後継者こそ、「夜の寝覚」の寝覚の君であろう。少女時代にあれほど浮舟に恋いこがれた更級日記の著者も、長じての創作では、むしろ聡明でしっかりした宇治中君を意識し、稀有の魅力的女性を創りあげたのであった。
2004 6・14 33
* 久々に小説一編を一気に通読し校正した。村山暁生作「池のほとり」で、今し方、暫くぶりに入稿の手続きを践んだ。
山で猟をする父と少年が大きな池を越えて舟で送られて行く先の船着き場は、脱走兵の心中死のいましも現場であった。親子は、見張りの巡査二人と言葉を交わし、死骸を見てから山へはいるが、父は結局一度もこの日鉄砲を撃たなかった。
なにかしら張りつめた空気が父と子にも、父と舟を漕いでくれる男との間にも凝結する。作品は多くは語らない。語らないことで多くを語ろうともしている。途中にやや唐突な少年の述懐が混じり、また少年が年齢以上の物を見たり考えたりしているけれど、抑制された筆致は確かな佳篇であった。
見返すのもイヤでそのまま送ると言ってきてわたしを不機嫌にさせた会員だが、おかげで大幅に作業が遅れたが、アレは謙辞であったと取っておこう。
もう一本の石光真清作「アムール河の流血」は紹介者の牧南委員にスキャン原稿を電送し初校をお願いした。
* 昨日送られてきた角川源義の講演録「戦後の出版界」は、読み始めて直ぐさま記事に異様な間違いが出てくるので、先を読むのをやめた。
或る史的な文物に触れてそれを藤原通憲の時の物と語っているのだが、年紀は「一○○九」としてある。送られてきている原稿を読んでもそうなっている。つまり講演録の「後読み」がされていない。藤原通憲とは保元平治の乱のあの少納言信西入道の俗名。一○○九年といえば、源氏物語が書かれて読まれ出している頃で、少なくも百数十年の時間差がある。どちらかといえば講演趣旨は「通憲」に確かで、年紀が逸れているかと読めるが、もはやわれわれの手で訂正が利かない。角川書店創業の角川源義はとうになくなっている。
問題はもう一つある。角川は屈指の出版人に相違ない。「出版編集特別室」にぜひ欲しい名前であり大きい名前である。その一方で彼は折口門下の特異な学究の一人であり、人によればその方面からの「招待」がふさわしいと言うだろう。つまりは両方欲しい人なのである。
その上で言うなら、勢い出版人のモノは、講演録といったところへ落ち着きやすい。書く人でなく書かせる側の人だから当然だ。だがまた安直な講演は、長いわりに雑駁で空疎感も引きずってくる。丁寧に後読みして作品に仕立て直してない限り、講演録にはトモすると今言うような間違いがそのまま居座っている。小委員会では、その辺も入念に、なるべく「原稿もの」を収拾して欲しい。
さらに言えば、「戦後の出版界」といった大まかな評論よりも、自社の理想や特質に照らした「考え方」の方が感銘を受けるのではないかと感じている。
2004 6・20 33
* 颱風は四国に上がり近畿に抜けて日本海へ出ると予想されている。瀬戸内海辺で、グイと東へ折れないでもらいたいが。
* 雨と風は覚悟しての他出、つつがなく、そして心はのどかに、しっかり食べて呑んで帰ってきた。そして明日は歌舞伎座。よしよし。
外出中に気になったのは、わたしがスキャンし、いま牧南委員に校正してもらっている、石光真清作「アムールの流血」のこと。スキャンの前に読んでおけばよかったが、推薦されて安心していた。委員の校正中に目を通しておこうと持って出て、読んだのである。
問題は、果たしてこれを「反戦小説」といってよいか、だ。
此処に書かれている戦争状態は、魯満国境でのロシアと清国とのもので、数千人に及ぶ清国人に対するロシア軍の凄惨な虐殺行為が書かれている。
小説ではない。誰の目で書いているか、著者は大陸浪人で、日本軍の柴五郎少佐(後に大将)の「後輩」である。陸軍大尉にもなった人である。この見聞当時の著者は、いわばロシア情勢を探る立場では無かったろうか。
幸いに日本軍は、この此処に書かれている限りの戦闘状態には参加していない、が、当時日本軍を主力とする連合軍は義和団の鎮圧にあたり、清国内に武力介入し、北京の列国公使館の義和団による包囲を解いている。
ロシアと清国との戦闘、圧倒的なロシアの強力と暴虐。書かれている事実は事実に近いであろうが、この著者の意図の中には、ロシアの暴虐を大きく日本に伝えて、日本の対ロシア世論を強硬に煽る気組み、全く無かったと言えるだろうかということを、わたしは気に掛けたい。
一例が、この「報告」というべき石光言説にもとづいて、「アムール河の流血や」という旧制一高寮歌なるものが流布している。この歌詞は、或る「解説」が明瞭に指摘しているように、「この事件をテーマにしたものですが、ロシア軍の暴虐に憤激するというよりも、3番にあるように、『中国はすでに衰退した。これからは日本がアジアの盟主だ』と、日本の帝国主義政策を称揚するような内容になっています」のである。「満清すでに力尽き 末は魯縞も穿ち得で 仰ぐはひとり日東の 名もかんばしき秋津島」とか「世紀新たに来れども 北京の空は山嵐 さらば兜の緒をしめて 自治の本領あらわさん」とか、この歌詞と石光の本とは、無関係とは言い難く、これは日清から日露戦争へ国論を誘導する、むしろ「好戦侵略への布石の意図」も汲み取れそうなレポートなのである。「自治」という眼目の語彙も歴史的に問題の多い政策的なものではなかったか。
「ペン電子文藝館」の「反戦特別室」に、わざわざこれを取り上げるのが適当・妥当とは、容易に思いにくかった。少なくも、大原副委員長以下の小委員会に一旦差し戻し、検討して欲しい。
なにしろのちの満州領内で種々キナ臭い画策をしていた日本軍や軍属の撒いた、剣呑な火種は、陰に陽に幾らもあったと疑われる「時代の暗部」である。日本軍による虐殺行為等への反省や批判や状況を証言したモノなら意義は大きいが、他国同士の戦闘状態を「観察」していた「報告」が、「特殊な立場にいたらしい著者」により書かれているのでは、なにとなく、此処にペンクラブが「招待」までして取り上げるのは、つよく躊躇われる。
2004 6・21 33
* 京博の館長興膳宏さんからは『古典中国からの眺め』というエッセイ集も戴いた。京大名誉教授であり、それでいて、私より一つお若い。ああはや、わたしはそういう年齢なのであるなと感慨深い。
たしかにひと頃は、こうたくさん揃った名前のなかで自分が一番若いといつも感じていたときがあった。それが何やらついつい推移して、わたしもそう若くないのだと知らされる。この頃では、いちばん年上と云うことも無いけれど、たいていの場合年齢だけはかなりの上の方へ名前が置かれている。気恥ずかしい。
この間、『野あるき花ものがたり』というとても佳い内容の新刊を贈って頂いた東大名誉教授久保田淳さんなど、相当私よりも高齢の先生と想っていたが、ほんのわずかお年上であった。驚いた。
自分で自分が少しも見えていない。わたしは、まだつい昨日には新制中学生であったように実感できるぐらい、「こどもこども」した気持ちで日々を暮らしている。だからああいう旧友「山名」くんが創り出せたのである。
2004 6・28 33
* 現会員の詩や物故会員扇谷正造の講演など入稿し、さらに今、宮地嘉六の「煤煙の臭ひ」も入稿した。佳い小説であった。大正七年(1918)という時点で漸く労働者の書く本格の小説が雑誌「中外」のような表舞台で文学的に認められて行く気運。それに比例して日本の労働者達の苛酷な時代が地へめり込むように厳しく抑圧されて行く。宮地のこの小説はいくらかフラットであるかも知れないが、働いて生きねばならぬ環境のけわしさと、そこで芽生えていく自覚と抵抗の芽が的確に捉えられていて、あの明治の白柳秀湖「駅夫日記」との呼応、また後の小林多喜二「蟹工船」などの達成の高さとも呼応していて、貴重な記念碑になっている。しかし今用意している宮島資夫作「坑夫」は宮地作品と並んでさらに烈しくかつ藝術的にすぐれた表現を果たしている。ただ、とても長い小説である。だが、こういう仕事をこそ「ペン電子文藝館」はしっかり残して行かねばならない。プリントはとった。スキャンがたいへん、校正もたいへん。しかし遂げねばならぬ。楽しみである。
2004 6・28 33
* 瓦鍾馗の対談録が少しも読めない。明日の「NHKブックス」創刊四十年を祝うパーティが終わってからだ、気持ち夏休みは。なにしろわたしは、自分でも信じられないほど八月のオリンピックを楽しみにしている。
2004 6・28 33
* 木島始さん、美しい絵本や詩曲の譜本を下さる。ラマチャンドラン作・絵、木島さんの訳の『ヒマラヤのふえ』は美しい作である。入退院を繰り返されながら詩人木島氏は、冴え冴えと生きておられる。ご平安とますますの日々を願わずにおれません。
加藤克己さんからも自選1800首や、新刊エッセイを頂戴。大長老であるが噴火力は衰えるどころか、今回は古代歌謡の本である。中世のわが梁塵秘抄や閑吟集の優れた先駆の時代。楽しみだ。
今、毎晩読んでいる興膳宏さんの中国古典に関するエッセイ集も面白くてやめられない。
阿川弘之さんの「母や」も、大方読み進んでいる。
枕元に、十冊余も積んだ本のどれもを少しずつ併読している。戴く本はどんどん増える。優れている本は読む。これはあかんと思うのは仕方なく処分する。しかし本の体裁で考えはしない。簡素な優れた本もあり、豪勢につくった駄本も少なくない。
2004 6・30 33
* 同僚理事の新井満氏が今度は「月子」という絵本を贈ってきてくれた。なんだかこの二三日絵本が多い。その中ではやはりラマチャンドラン作・絵、木島始訳の『ヒマラヤのふえ』が、絵本としての絵の美しさ物語の幻想性において傑出している。絵本では絵本作家である田島征彦氏の絵に圧倒的なチカラをいつも感じる。この作家には溢れるような志と熱と画才がある。
新井氏の本はこれから観る。オールラウンドプレイヤーで、根は、デイレクターである人の器用な勘のよさには、いつも感じ入る。それにしても夫婦・親子ともにいかにも現実の新井家にツキすぎているのは、繪本という一種の他界的よろしさ・夢っぽい魅力のものには、俗っぽくないか。
* 竹西寛子さんに上等の「昆布」を頂戴する。
吟醸古酒「萬歳楽」を酒蔵から贈られ、やっぱり辛抱無く、美味しく戴いた。
蕎麦、素麺、うどんなども。何でもかんでも美味しく戴いてしまうので、落とした体重を維持するのに四苦八苦、しかし美味いものは美味いうちに喰っておきたいものね。
同じように佳い戴き「本」は、かかさずすかさず読んでおきたい。
2004 7・1 34
* 新井満作・絵の絵本「月子」は、率直に云って、つまらなかった。物語も平板で工夫と魅力が無く、作者自身と家庭にツキ過ぎて、あまりに自己都合に出来ている。三人の子供が犬を買ってきて「月子」と名付けるまでは、とにかくもお話になっているのに、犬の面倒を子供は全く見ていないし、後半は子供達三人は姿を隠して、夫婦と犬とのはなしに、いと満足げに流れ落ちている。物語で扱っている年限があまりに多年にわたりすぎ、結果として、いとも平凡で安易な私的回想のまま終わっている。メッセージとしては、どんなに見栄えのしなかったつまらないものも、ウンの一つから大きな転換を遂げうると謂った励ましがあるかのようであるが、それにしては此の家族は単なるエリートに甘んじて何の苦労もない。子供達が必死の努力の末に駄犬を買い込んできたという物語でもない。三人の子供達も何の苦労も無げなエリートの仲間入りして、彼等の「月子」への思いなど片端も書かれていない。
新井さんの言う、これで、これを「読む・見る」幼い子供達の魂が、真実感動にふるえるだろうか。時代の寵児のただの自己満足では無かろうか。闇に言い置く「私語」である。
2004 7・2 34
* 宮脇修さんの『愛国少年漂遊記』を貰ったので、読み出した。わたしに『みごもりの湖』を書かせてくれた、もと新潮社の編集者で、同じ京都出のはるか年輩者である。梅原猛さんを世に出した編集者といえば分かりが早い。この人には『清経入水』と『廬山』をたいそう褒めて貰った。そして新鋭作家書き下ろしシリーズへ入れて貰ったのだ。とうに新潮社を定年で退いている。
新刊の帯には梅原猛と井上ひさしとが並んで推薦文を書いている。版元は新潮社である。書き手の顔というか編集者の余禄か。こういうことは、ナミの書き手にはない。書き手の中にはそういう自社余禄を意識して嫌って手にしないという人もいる。
読みはじめたが、まだホンの戸口である。それでも分かることはある。文学の文章ではなく、平板な読み物ふうの文章であり、文学藝術では用いない、きっと避けるいわゆる手垢のついた言い回しも、たくさん平気で使ってある。読みやすくストーリィ本位の書き方なのであろう、文章を読む「ファシネーション=魅惑」とは縁遠そうである。「滑稽で悲惨な戦争を体験する実に面白き小説」と梅原氏は帯に書き、「信じられない冒険を強いられた少年の物語である」と井上氏は書いている。「大戦末期の南方アジアを流転する少年達の青春譚」「新しい戦争文学」だと版元は書いている。大編集者の文学作品に出逢うかと思ったが、やや児童向けの読み物めいていて落胆した。だが新しい戦争文学というのに心惹かれて読んで行きたい。
* 森鴎外の「身上話」は、鴎外にははなはだ珍しげな静かな色気の匂う、さて、なにでもない小品であったが、女言葉が美しい。鏡花ならよろこんで賛嘆したかもしれない軽妙でしっとり、しかも淡泊な筆致で、これはもう「読ませる」のが魅力の文章文学。
鴎外作品には言外に何かしら観念や批評や意向が託されているが、これはそんな深読みをすら誘わない。しかも「ヰタセクスアリス」の欄外の一編めく嬉しさも微かに感じられる。入稿した。
文学は書かれていることもむろん大事も大事、大切であるが、それがどう、どんな文章で書かれてあるか、それが魅力に溢れているかどうかで価値が決まる。文学は筋書きではない。筋書きだけなら読み物でしかない。
* 徳田秋聲の「和解」は興味深い。秋声は金澤の出、泉鏡花も金澤の出、二人とも入門の時期と師への親疎はべつとして、尾崎紅葉の門下であった。そしてまた秋声と鏡花との藝術は両極端である。いずれもそれぞれの極端において天才的であった、鏡花の徒であるわたしは秋声の優れた文学性にも傾倒して憚らない。そしてこの二人は師の生前からも、師の没後はことに、仲が悪かった。
鏡花の弟も作家志望であった、いくらかの作品も残っているが、兄鏡花に比すべきものは持たない。その鏡花の弟が、わけあってむしろ秋声に親近していた。秋声はアパートを経営していたが、鏡花の弟は此処へ転げ込んできて、しかも重篤の脳膜炎を発してしまう。秋声は困惑する、鏡花に知らせないわけには行かぬ。
「和解」はそういう小説である。二文豪の気質的なぶつかりようは、やはり文学の愛読者には無関心に通り過ぎがたい。そういう作品があるのなら、読んでみたい。一文学史上の点景であることに相違ないのである。
いま、校正している。
2004 7・3 34
* 一日、校正などしていた。校正して少し休み、また校正して少し休み、休む都度いやしんぼすると、血糖値にも体重にもよろしくない。
徳田秋聲「和解」は、校正し終えて、なんでもない小品でありながら、独特のファシネーションに感じ入る。この作家ならではの散文の魅惑、さらさらと乾いた綺麗なこまかい砂に手を触れているよろこばしさ、ここちよさ。直哉の名文ともちがう。潤一郎のともちがう。あたりまえである。文体・文章は作家の指紋。優れた書き手の文章なら、ほんとうに生きている。まぎれもない顔をして生きている生き物である。むかし、杉森久英さんにある女性の書き手がまとわりつくようにして助言を求めていた。杉森さんは、ひと言「文体をもつこと」、と。容易ではないが、優れた文学にはあり、そうでないものには無い、備わっていないのが、文体の妙。絶対に必要な妙味・個性。これは真似ても仕方がない。亡くなった手練れの批評家亡き安田武が言ってくれた、秦さんの作品は苦手だった、それが今はアヘンのようにボクにとりついちゃったと。それは、物語のことではない。文体・文章のことだ。
* 鏡花と秋聲。これぐらい両極端な文学の魅力に溢れた、一対の文豪はいない。二人とも金澤で生まれ育ち、二人とも尾崎紅葉の門に入り、しかも秋聲は自然主義散文文学の最高峰をきわめ、泉鏡花は幻想と伝奇と日本語表現の魔術的極致を示して師を超え、潤一郎や康成や三島由紀夫らのよく成しえない文学の他界を燦然と書き表した。この秋声と鏡花とが文学的主張の点でも、師紅葉の文学と存在をめぐる傾倒や讃美の度においても、衝突が生じるのは必然であったろう。その久しい確執を緩めたのは、鏡花の弟が、ひょんなことから秋聲のもっていたアパアトで、脳膜炎ならぬ敗血病で急死した事件であった。
こんなことを知ろうと知るまいと秋聲作「和解」をしみじみ読むよろしさに、ほとんど影響しない。そこには作者ならではの散文がさらさら、さらさらと流れていつのまにか虜にされている。ふしぎなほどだ。
2004 7・4 34
* 夜前、阿川弘之作『母や』を読了。いわば、ルーツもの。これは容易な仕事ではない。どうしても、混雑し混乱し、自身ないし家族・親類の間だけの関心や興味にしかうったえ難い。一般の読者は、ややこしく混乱した特定のルーツものに惹きこまれることは、滅多にない。阿川さんは悪戦苦闘されていた。そしてまた刺戟を受けた。
わたしは、自分の人生なかばに、実は九百枚にもおよぶ我がルーツの追求をしている。書きっぱなしで置いてある。この作品が、わたしの作家人生の道を、幸か不幸か知らないが、分けてしまった。そう感じている。何にしてもアレは、あのままにはしておけないなあと思わせられた、それが阿川さんへの感謝である。書庫の奧から、埃をかぶった九百枚を、全く新たに料理すべく、持ち出してこなければならない。材料は、寝るだけは十二分に、優に四半世紀は寝かされてきた。
2004 7・4 34
* 藤村の「伸び支度」しみじみと心嬉しく校正し終え、入稿した。男手一つで三人の男の子と末の女の子とを育てた島崎藤村は、優しい佳い「父さん」だったと思う。「嵐・分配・伸び支度」など、藤村の散文が妙な癖を脱して豊かにうねる自然な呼吸のように大成して行く頃の、記念碑的な名作・秀作である。読んでいて、静かに魂を揺すられて、おもわず笑みが浮かんでくる。
今はもう正宗白鳥の「口入宿」を読みかけている。
* 風が鳴っている。
* 朝から藤村の「伸び支度」という佳い短篇を校正し、しみじみしていました。島崎藤村は男手一つで四人の子を育て上げましたが、なかに女の子が末に一人。その娘の初潮を書いているのです。隔世の感慨と美しい散文とにおどろかされます。昨日は徳田秋声の「和解」に感心し、一昨日は森鴎外の「身上話」におどろいていました。佳い作品に出逢うのはいつでも心嬉しいものです。今は正宗白鳥の「口入宿」にかかっています。
風が鳴っています。 新しい颱風に襲われませんように。強烈な雨風の時は、念頭に水のことを置き、伊勢湾や近くの川口が満潮かどうかを注意するように。なにといっても三大河の河口近く、伊勢湾へ直進してくる風は速い高波をお連れに運んできます。伊勢湾颱風の凄かったことは、その近在ではまだ忘れられていないと思います。
2004 7・5 34
* 正宗白鳥の「口入宿」を校正した。うちは口入宿に人手を頼むような家でも頼まれる家でもなかったし、わたしの小さい頃にどれほどこの桂庵という商売屋が在ったとも知らない。今ではどうかも何も知らないが、労力だけでなく曖昧な女をまで周旋する手合いは、いまでも巷に隠れて蠢いているに違いない。女中を置くような家がそもそも今は少ないし、女中などとは呼べない、お手伝いさんである。お手伝いを置いた家は、わたしの少年・青年の頃は京都の近隣に幾らもあったが、今はどうか。またお妾さんの噂も東京暮らしでは全く、京都でもよほど払底しているのではないか。妾持ちの実業家はともかく、政治家の噂も少なくなり、指三本握ったという宰相の魂胆も制度的にはよく見えなかった。
昔はこの口入れの桂庵の手で適宜に妾の斡旋も引き受けていたらしい。この白鳥作品は明治四十四年の作、白鳥が「何処へ」でデビューして三年目、三十二、三の若い作であるが、ずしりと響く筆付きで、口入れ商売宿の主婦(かみさん)の、重い、寂しい生活苦と吐息の日々を彫り込んで読ませる。
* 久しぶりに麻雀をセットして暫く遊んだが、勝てない。
* シューマンの「詩人の恋」をフリッツ・ヴンダーリヒのテノールで聴いている。荷風の「ADIEU」を校正しながら。「すみだ川」や「冷笑」や「つゆのあとさき」や「墨東綺譚」や「踊子」の荷風は知っている。この作品の荷風は、知識としては知っていても作品を通しては初めて出逢う。「あめりか物語」は少し読んでいたが「ふらんす物語」の一節に出逢うのは初めて。ふーんと唸って読んでいる。
2004 7・7 34
* 同僚委員の高橋茅香子さんから、新刊「バグダッド・バーニング」(アートン刊)を頂戴した。まさしく電子メディアから生まれた壮烈な知性と炯眼と意志と女性リバーベンドによる所産である。いまはやりの言葉かも知れない「ブログ」として生成され積み上げられた生きた言葉で、バグダッドからの燃え上がる言葉が生き生きと紡がれている。リバーベンド・プロジェクトによる実に時宜に適した、タイムリーな翻訳と出版にも讃辞を惜しまない。早速高橋さんに、この本について「ペン電子文藝館」の「広場」でさらにアピールして欲しい、出来れば原文と訳文の幾らかでも「反戦特別室」に紹介してもらえないかと頼んだ。
* 昨夜おそくに永井荷風「ADIEU(わかれ)」を「ペン電子文藝館」に送りこんだ。荷風といえば、あの玉ノ井に遊んだ初老の男と若い女とのほろ苦くもかなしい交感を描いた名作や、「すみだ川」「腕くらべ」「つゆのあとさき」のような情緒世界に耽溺した、また浅草の踊り子たちとの交歓に没入したような、反時代的な作風を思い出す人が多かろうが、もともとは、こんなハイカラな文学者はいなかったといえるほど、欧米に親しんできたまさしく「新帰朝者」であった。血縁のあるいまの野村萬齋クンを、ずっと好男子にした颯爽たるハイカラさんであったから、慶應大学教授で「三田文学」の創刊主宰者であったのもよく似合った、ハイライトな時の人で、権威者だった。だが、そういう時期はそう長くなく、荷風は自身の意思で、はっきりと似非近代化に狂奔する日本に背を向けて生き始める。狭斜の巷に沈み込み、噺家の弟子になり高座にあがったことも、歌舞伎の座付き作者になっていたこともある。文化勲章佩帯の文豪が、戦後の陋屋で迎えていたその孤絶・孤高の最期の姿は、異様な衝撃とともに世に報じられたが、それは荷風のいわば最も荷風らしい見事な末期とも見る人は見て、いま、荷風への敬愛は深まりこそすれ、忘れられては居ない。
その荷風のこの電子文藝館の「ADIEU」は、或る意味で凄絶、或る意味で驚嘆の、異色と見えてこれぞ荷風と唸らされる、根深い本性そのものである。こういう記念作、こういう異色の作、問題作をのがさず拾って伝えて行くことに、「ペン電子文藝館」は意義を負うている。
2004 7・9 33
* 志賀直哉の「好人物の夫婦」を校正している。前に「邦子」を選んだ。今度のもその近在の作品である。題は優しいが作はかなり厳しいともいえる。かなりに直哉という人の素顔に近く、この作の「良人」が書かれてあると思われる。夫婦での印象的な対話の作の多い作家であるが、この「好人物の夫婦」など一典型かも知れぬ。幾度か幾つかのスケッチさえこの為には試みられなかったろうか。直哉は会話を対話を上手に書いた。時代の風もあるにせよ戯曲にも気の深い方だった。「好人物の夫婦」は人にもよるだろうが、直哉論のためにはひときわ興味深い短篇の一つである。
2004 7・9 34
* 昨夜には、日本の歴史の題十七巻「町人の実力」を読み終えた。この巻は、奈良本辰也さんの執筆担当巻で、日本史上或る意味でもっとも平穏な、波瀾の少なかった、戦乱などの無かった時代にあたる。歴史というのは源平盛衰とか南北朝とか戦国時代の方が面白そうであるが、そういうことは別にすれば、この巻には実に「才能」と「思想」とが古今に類無く豊かな渦を巻いていたと言えるのである。わたしはかつて、日本史で最も人間の能力において輝かしい人材を産み出したのは、十八世紀後半の五十年と云い切り、なんども原稿を書いた。これを此の巻の十八世紀、徳川将軍でいえば、家宣、家継、吉宗、家重、家治あたりまででみるなら、人材はさらに豊かになる。その中でも、新井白石、安藤昌益、平賀源内、杉田玄白、本田利明、三浦梅園、鈴木春信、円山応挙、池大雅ら、また徳川家宣、徳川吉宗、田沼意次ら、それぞれの人がそれぞれの力で新時代を拓いて云ったと言える。こういう人材が他にももっと綺羅星のように拾い出せるから、この時期はものすごく重い重いものであったのだ。戦争無き時期のみごとな「充実」というものだった。しかもこれらの人材は総て過去を大成する以上に、新時代を可能にし、それぞれの扉を力強く開けていった大材たちである。この人達に一人一人付き合って行くのは、ひと言で言って実に「嬉しい」のである。
わたしが「親指のマリア」で白石とシドッチを書きたくて書き、「北の時代」で最上徳内とともに田沼意次や本田利明を書きたくて書きこんだのも、その「嬉しい」気持ちが推進力と成った。この巻の読書では、奈良本さんの人物評価に、奈良本さん自身の或る嬉しさがにじみ出ていて、それがまたわたしは嬉しくてならなかった。
奈良本さんとは、京都祇園町北側の抜け路地の中、割烹「梅鉢」のカウンターで何度も何度も横に並んで声を掛け合った思い出がある。大先輩であるが、とても気さくに話して下さった。その声音や風貌も蘇る中で、価値観を深く重ね合いながら読み通せた一巻、実に読み応えがした。
次は「苦悩する幕藩体制」である。
2004 7・10 34
* 志賀直哉の「好人物の夫婦」これはむしろ問題作であろう、この作を読む新しい若い今今の読者達に、志賀直哉という作家、どう受け取られるであろうか。よくもあしくも此の作品には、此の作者の、そう、本性が露わに出ていると思う。直哉の作風も直哉の生理と心理も丸出しである。そして、読ませる。ムウと考え込ませる。「好人物」という「好人物の夫婦」という作者の自意識にムカツク人も多いかも知れない。
追いかけて谷崎潤一郎の「京羽二重」と葛西善蔵の「青い顔」という対照的な作家の作品を取り合わせて校正しはじめた。
2004 7・11 34
* 谷崎潤一郎の、豪奢な歓と風情を楽しみ尽くす体の「京羽二重」に、久々に谷崎世界を満喫した。岡崎法勝寺町の「奥山」で新聞社の接待を受ける谷崎夫妻。この料亭は祇園の極めつきの名妓奥山はつ子が妓籍をひいてからおこした家で、その京舞「黒髪」は空前絶後の妙とうたわれた舞い手。谷崎も口を極めて絶賛しているように京の美女のまさに典型的美貌で知られていた。
わたしの家は、祇園に抜け路地ひとつで接していたから、そういう名前も評判もむろんいつとしなく洩れ聞いていた。
その谷崎夫妻接待の「奥山」へは、むろん祇園の選りすぐりの藝妓がつめかけて舞い遊ぶ。なかに先々代市村羽左衛門の面差しに似たと谷崎も書いている子花は、中学の一つ先輩で、学級委員会などでにぎやかにやり合った仲であった。惜しいことにこの人は早くに亡くなった。
「京羽二重」は強いて云えば随筆であり、強いて云えば小説であり、首尾ととのうて艶麗の風趣は、やはり小説と読みたいところだが、随筆欄に豪華な花を添えさせて欲しいとも思った。
* いま、葛西善蔵の「青い顔」を読み終えた。さ、これを採るか、もう少し別の秀作を採るかと、悩ましい。
2004 7・12 34
* 嘉村礒多の「七月二十二日の夜」を校正している。葛西善蔵の晩年に近侍し筆記などを手伝っていたこともある人、或る意味では私小説の極致といわれた葛西の筆よりも、なお徹して場面の把握や描写や心理に、口のゆがみそうな苦みがこもる。文学の幅の広さ、懐の深さというべきか、葛西や嘉村のせかいがあれば、また谷崎潤一郎の「細雪」や「京羽二重」の世界もある。優劣の問題ではない、人間の根の問題である。
2004 7・15 34
* 嘉村礒多は、1897 – 1933 山口県に生まれる。葛西善蔵の流れを汲む私小説の極北といわれる諸作品を遺した、得も云われぬ或る優れた小説家と云わねばならないだろう。幼少から成年まで多彩なコンプレックスそのものを内的力としてほとんど自虐的に私小説を純文学として昇華した。 電子文藝館に送りこんだ「七月二十二日の夜」は、昭和七年(1932)「新潮」一月号に初出の、一読まことに特異な小説で言葉を加える余地もない。作者の死がこの翌年であることをことさら言い添えておく。
次は、牧野信一を読む。
2004 7・16 34
*『ゲド戦記外伝』の最初の「カワウソ」を昨夜読み上げた。懐かしい読書であった。
源氏物語は、浮舟が死んでしまい、死なれ・死なせた薫大将も匂兵部卿宮も、そして作の流れもしばし虚脱感に蔽われている。そして今昔物語は夜毎に面白さを加えつつある。日本史は寛政の改革が漸く人に厭(あ)きられ、もとの濁りの田沼恋しきと松平定信がやられている。バグワンは「習慣」に溺れるなと言っている。
2004 7・17 34
* 東大教授の上野千鶴子さんから、もう一人とともに鶴見俊輔氏に戦争その他について三十時間インタビューした本を貰った。秦さんの「清(すが)やかな」本にくらべると「俗っぽい」ものですがとごアイサツがあるが、どうしてどうして、これは力作である。評判も良いのではないかと思う。ぜひ読んでおきたい、早めに。
* 国立京都博物館長興膳宏さんの本も耽読読了したので、あらためて礼状を書いた。おもえば、中国の古典との結縁には秦の祖父鶴吉の存在があった。本をたくさん遺しておいてくれた。あれほど読書の苦手で嫌いだった父の家に、あれほどハイレベルの蔵書が在ったというのは、因縁めくのである。鶴吉蔵書目録として一度整理しておきたいほどだ。
2004 7・17 34
* 源氏物語音読が、「手習」の巻に入った。もう次巻が大尾「夢の浮橋」だ。
* 鶴見俊輔さんに、上野千鶴子さんと小熊英二氏とが「戦後世代」として聞き役をつとめている『戦争が遺したもの』(新曜社 2800円)は、読みいい充実した本で、睡魔を追い払いどんどん読んでいる。
2004 7・18 34
* あえて少し寝過ごした朝、もう正午に時計は針を重ねている。午後は、少し窮屈な原稿の少しでもきちんとした仕上げだ。今日で、やれやれ三連休も終わる。
昨日か一昨日に笠間書院から贈られた中世物語の、ある意味で極めつけの一冊が、読み始めるととまらないのだった。源氏物語以降の物語が、有象も無象も源氏の濃厚で強大な影響下にあるのは気の毒なくらいのものだけれど、中にはそれを逆手にとり、なかなかの新世界を創作してくれるものがある。今度の作などそう言える大作の一つかも知れない。
鶴見俊輔を、戦時の慰安婦問題で追究急な上野千鶴子の肉薄ぶりが面白く読めて、これにも相当夜更かしを重ねた。佳い本だ。それに『ゲド戦記外伝』の底知れぬ誘惑がある。なんだか、眠り込むなと鞭打たれているように、面白い本があちこちからわたしを訪問してくれる。
2004 7・19 34
* 深夜、牧野信一の「西瓜喰ふ人」を校正し入稿した。
* まきの しんいち 小説家 1896 – 1936 神奈川県小田原市に生まれる。「時事新報」記者をしながら起こした同人雑誌「十三人」第二号(大正八年=1919)に発表した『爪』が島崎藤村に認められた。藤村と信一との共感は興味深い。やや自虐気味の『父を売る子』など徹した身辺小説から、やがて『村のストア派』など特異な思弁と幻惑の世界へさながら雪崩れ入り、類のない作風を極めた。ことに掲載作『西瓜食ふ人』(昭和二年<1927>「新潮」二月号初出)など、虚実のあわいを幻想とも象徴ともいえる手法で切り開く異色の私小説として、一の極致を成していたが、また痛ましくも自殺による作家の最期を暗示していなくもない。
* 校正しながら何度もわたしは島崎藤村を思い出していた。藤村が先ず認めた作家であった事実よりも、あの森厳として蒼古な『夜明け前』や心優しく落ち着いた『嵐』『伸び支度』『分配』などの筆致と、この牧野のそれとの、驚くほどの距離を想っていたのだ。藤村は自殺しなかったけれど、その恐怖を抱いた生涯であった。信一は自ら死んだ人であった。
「西瓜喰ふ人」は趣はちがえども一種の能「二人静」の舞いのようなのである。或る意味でわたしの今度書き下ろした「お父さん、繪を描いてください」も、あれは「二人静」の舞いのような作と謂えなくもない。作家は、画家に死なれた、いや死なせた。いや自分の代わりに画家を殺したのだ。
2004 7・19 34
* 七時過ぎ、戸外はすでにナミでなく暑い。故紙をたくさん外へ出し、回収ゴミも出す。
夜前も就寝まえにたくさん読んでいたので、睡眠は四時間余。「浮舟」は横川の僧都一行に見出された。「手習」の巻に入っている。音読していると同じキッチンのテーブルの上で黒いマゴが真剣に聴き耳をたてていておかしい。「恋路の大将」も読み進むのが楽しみ。
バグワンは、「心」が、いかに散漫かを語り、そんな散漫に拘泥してはますます混乱することを話していた。人は、一分も三十秒も無心になんかなれない、すぐ割り込んでくる思考に乱される。そのはかないことは笑い出すほどだが、バグワンは、そう、頼れぬ心、乱れ雲のような思考・分別は、ただ笑ってやりすごせ、通り過ぎてゆかせよとと言っている。これは高級な示唆である。
鶴見俊輔への小熊英二の的確な、水も漏らさぬ質問に感嘆、鶴見さんもよく答えている。ひと言で言うと、鶴見さんもいたずらに「分別」しない姿勢できたように見える。トータルにものを眺めて、見るべきものをより強く見ていると謂うか。しかしあまりに自分は「やくざ」である、「悪人」であると措定していうのも、実は名家の親に愛された御曹司である、じつは気の善い人でナミではないと謂っているのと、表裏同じに聞こえる。二元対立していないようで、じつは二元対立の思考・分別を脱していない。この優れた哲学者にして。哲学の限界は無惨である。バグワンは、はるかに透徹している。
寛政の改革、松平定信の施政は、不真面目ではないが、あくまで治者の都合、一つに絞れば年貢の増収をいかに計るかへ行き着く。行き着かざるを得ない失政と不運とに幕府が落ちこんでいて、農村にしわ寄せすることを恥じても居ない、余儀ないこととして追い込んで行く。その悪循環のジレンマに、実績は上がりようがない。
わたしは昔から定信の保守に否認的で、むしろ田沼意次の時代に可能性を感じていた。その対比を「北」政策にしぼって追究したのが「最上徳内さん」と蝦夷地を「同行」して書いた『北の時代』になった。
夜前の今昔物語は、一語がやや長く、面白かった。今昔物語には人間以外の生き物の代表かと想ってしまうほど「蛇」がよくあらわれる。昨日の一語は、蛇の少女を救ってやった観音信仰の若者が、竜宮に迎えられて、また家に帰って来る説話で、一種の美しい物語であった。とても心惹かれた。
今昔物語については、少し纏めて感想を書いておきたいほど、いろんな思いがもう溜まっている。
そして『ゲド戦記外伝』の、或る恋物語。ゲーテの叙事詩を思い出しそうな。
2004 7・20 34
* 芥川龍之介「一塊の土」と横光利一「マルクスの審判」を、並べて読み進んでいる。あいかわらずスキャンの精度はわるく、校正に気は抜けない。だいたい校正は三度しないとダメなものだ。それなのに初校一度で入稿して、あとは委員三人の「読み」の力を信頼して、「常識」校正して貰っている。これでいいとは思われぬやり方だが、余儀ない現状。
さすがに芥川も横光も、何度も読んだ作品なのに新鮮に読みふけらせる。読みふけってしまうと校正に落ちが出やすく、痛し痒し。
2004 7・22 34
* 午前に現会員久保田匡子さんの小説「フェンスの中」を読んで入稿した。女性の語り手は戦後の米軍キャンプ下士官の家庭にメイドとして就職している。フェンスの中へはわれわれは足を踏み込むことはないが、いささかの好奇心はある。それほど予期に反した何かがあったのではない、メイドはともあれボーイも傭っていて、やや意表をつかれた。そこそこ興味を持って読んだが、起伏の乏しい内容のまま、やや長い。心理も含めてわりと巧みに描写が連続するので、そこそこ読めるけれども。数カ所明らかな誤記があったが、この程度なら助かる。
そして今は横光利一の「マルクスの審判」を読み上げ、入稿した。大正十二年菊池寛の『文藝春秋』に同人として参加し「日輪」と「蠅」で認められると、すぐ「新潮」に初登場の作である。横光らしい感覚と観念とがまさに花開くときの異色記念作であり、一ヶ月後に関東大震災、一年後には川端康成等と『文藝時代』を創刊している。
2004 7・22 34
* 深い息をしている……。
* また叱る人がありそうだが、ぬるい浅い湯につかって、米沢藩上杉鷹山、と抜擢された良宰蔀戸(くぐり)太華の改革ぶりを、つぶさに読んだ。あの未曾有の天明再度の奥州大饑饉にも、領内で一人の餓死者も出さなかった藩である。優れた藩主と優れた股肱があれば、むろん問題は孕んでいるものの、ここまでやれるという実績の大きさに驚く。借りたものは返すという誠意の上に立った決死の借財は、多額多年に及んだけれど、明治維新までに悉く完済されて、借金無しの稀有の藩として版籍を奉還したのである。
そういうことだけではない、鷹山にも太華にも或る政治姿勢が確立されて終生ゆるがなかった。「愛民」の優先である。彼等が疲弊しきった藩を受け継いだとき、鷹山は十七歳であった。その先代は、実にこれでは藩の維持は出来ないと、米沢十五万石を幕府に返納したいと申し出ていた。幕府も慌てたが、それほどどん底の状態で鷹山は幼くて藩を受け継ぎ、徹底的な改革、これぞ寛政の改革という改革をやった。保守派の老臣からはからだに手をかけられるほどの抵抗があったが、これを或いは切腹させ或いは改易したり隠居させたりして、優れた人材との協力で藩政を大車輪に動かしていった。
鷹山は藩を次の治広に譲ったとき、三箇条の教訓を与えている。時代の限界はあるにしても、その真意、今の総理小泉純一郎を念頭に置いて、読み味わいたい。
一 国家(日本)は先祖より子孫へ伝へ候国家(日本)にして、(時の為政者が)我私すべき物にはこれ無く候
一 人民(日本人)は国家(日本国)に属したる人民(日本人)にして(時の為政者が)我私すべき物にはこれ無く候
一 国家人民(日本国日本人)の為に(良かれと)立てたる君(一総理)にて、君(一総理)の為に(好かれと)立てたる国家人民(日本国日本人)にはこれ無く候
* 今一つ米沢藩改革で、先ず真っ先に手をつけた一つは、徹底した人口激減からの回復策であった。天明の飢饉に悲惨を極めたのも、いわば人口激減による農村や生産の疲弊からであった。疲弊の上に饑饉となり、餓死の死骸は大地を覆い隠したと云われる。それを免れた米沢政府の人口増・労力増への施策は凄いほどで、江戸の軽罪人を貰い受けたし、潰れた遊郭の遊女たちもみな貰い受けて農家に嫁がせ子を産ませたし、産まれた子タチへの庇護や補助も徹底したし、他藩の間引きに遭いそうな幼子も、金を払って買い受け、保育所で一括し保育してさらに農家へ展開させていった。
人口が減ると云うことの怖さを、江戸時代の藩政も幕府政治もじつはいやほど体験しながら、こういうところへ目も手もなかなか届かなかった。
今の日本の近未来の悲劇的素因は、明らかに人口減のスパイラルが始まっていること。社会福祉は潰滅し、産業人口は薄弱となり、自給率は極度に下降して、他国からの悪干渉や侵略の餌食になって行く。
すでに、今日もアーミテージはぬけぬけと憲法九条は日米の阻害要因と指摘して、アメリカに好都合な改定を露骨に迫っている。それに対し、小泉を初めとして政府筋も政治家も誰一人与党から内政干渉の抗議の声が出ない。小泉の如きは韓国の美人女優とご機嫌のていたらく、いかに日本国と日本人とが、不幸な為政者をかついでしまっているかを、眼をみひらいて確認すべきだ。小泉政権は国を「我私」し、人民の利益と運命とを軽視・無視してその力を「我私」しているし、国と人民とに傭われて立つ総理であるという自覚を持たない。
* 吉田茂という総理は、最後の最後まで「日本国憲法」をがんとして口実に立て、日本の再軍備規模を半年一年でも遅く小さくするために、アメリカに云うべきを云い立てていた。吉田茂の拠点は「憲法」であった。その前文と九条の尊重であった。小泉の自儘政治の拠点は「憲法無視」である。ことに前文の精神と九条の趣旨を意図して蹂躙することにある。なんという落差よ。
2004 7・22 34
* 堀辰雄の「ふるさとびと」は病みがちだった彼の事実上最後の小説である。三村夫人、菜穂子、画家のような青年などもちらと登場して、作者の脳裏にながれる映像にはまた愛読者の記憶も懐かしく重なりながら、静かすぎるほど静かに語られて行く一人の女おえふの物語。芥川龍之介の「一塊の土」もまた姑お住と娵お民の物語。堀は芥川に愛され、芥川の自死に衝撃を受けて芥川とはまた異なる文学世界を切り開こうとした作家である。
文学の批評家を楽しもうという人は、こういう人と作品をさながらに「小説合せ」に組み合わせて、自身の鑑賞力と批評力を鍛え確かめ、判者役を演じてみるといい、そういうことの出来るように「ペン電子文藝館」は出来ている。
* 上野千鶴子さんに貰った鶴見俊輔を囲む鼎談本を、異数の興味深さをもって読みふけり、三分の二を、対談三日と予定されたうちの、二日分を読み終えた。鶴見さんを本人解説で概要を知るのに、そして彼の生涯に沿って戦中と戦後の日本の思想事情を大まかに承知するのに、恰好の好著になっている。鶴見さんは哲学者ということになっているが、異色の大編集者でもあり、「転向」三巻の共同研究と「思想の科学」創刊は、ことに彼自身自負自愛の大仕事として歴史に残るだろう。彼の愛顧と鞭撻をうけて兄北沢恒彦も甥黒川創も世に出て来たと見られている。わたしは、その世間とは遠く離れて生きてきたのでくわしいことは何も知らないが、鶴見さん自身のインタビューを長時間受けたことが一度ある。著書もたくさん頂いてきた。ごくゆるく括られた中身のいい荷物のような人である、と、思う。
*「手習」の巻、横川の僧都に救われた浮舟から、ようやくモノノケが調ぜられて、離れた。宇治大君もこのモノノケにとられて死んだことになっている。世を憂じやまと人は謂うように、宇治という土地の悲しさがこの十帖に巧みに重ねられている。父八宮も世を憂しとおもいしみて宇治に逃れ住んでいた世捨て人であった。娘の大君は薫の愛を振り切って死んでいったが、モノノケは自分が死なせたと告白している。中君は聡く幸せに匂宮の妻になり男子を儲けているが、腹違いの妹浮舟は薫と匂との愛の板挟みに心惑うてモノノケに襲われた。
誰かがメールで、浮舟に対する薫大将の仕向けを悪罵していたが、たしかに薫は彼女の一人の人格を軽く見て、籠の鳥に閉じこめておいて安心していた。それを激情の匂宮にぬすまれ、浮舟もあきらかに匂宮を思慕し愛着していた。しかし保護者は薫大将であり、彼は匂宮の行動を力づく阻止する対策までした。浮舟にも脅しに近い圧力をかけた。だから浮舟は死にたいと嘆き、モノノケはすかさず襲いかかったのである。
わたしが、昔から光源氏世界の相続人は匂宮であり、薫君ではないと心持ち彼に冷たいのも、女への彼の根の冷淡さをにくむからである。
2004 7・23 34
*『戦争が遺したもの ―鶴見俊輔に戦後世代が聞く―』(新曜社 2800円)を夜前読みきった。この手の本は興味があっても最後まではなかなか読み切れないものだが、相当な大冊を短時日に読み通したのは、よほど興味深かったということ。小熊英二・上野千鶴子という「聞き役」の用意がよかった。鶴見さんも肩肘をはらない自然体の発言で、むりに発言の整合性などを気にかけず、ざっくり、ゆったり、正直にすべて通していたのも心地よかったのである。
それと、鶴見さんが語り思い出しする歴史的な経過に、少なくも二人の聴き手よりもわたしは年齢的に近くいる。精神的に心理的に鶴見さんの間近くいたとは云わない、云えないが。
もう一度読みかえすと、はるかに多くが、はるかに確かに掴めるだろうと思う。掴んでどうするわけでもないのだが。
2004 7・24 34
* 芥川龍之介「一塊の土」は昔から愛読の一編であった。正宗白鳥が「感嘆措くあたはざる傑作」としたのは白鳥の作風にやや引きつけているが、苦い作品である。わたしは丹波への疎開中にお世話になった寄留先の農家長沢家の主婦の働きなどを、しみしみじみと思い出す。
2004 7・24 34
* 鶴見さんを囲んだ鼎談のなかで、主に過去の追体験がされていたのだから無理もないのだが、三日間の話し合いのアトには、食事の歓談ももたれていた。そんな中にも、思想の科学者、プラグマティストの鶴見さん達の話題に、毛筋ほどの「電子メディア」への言及も無かったのは、大きな「限界」であるなと思ったことを書き置く。未来への展望については、裁ち落としたように話題が伸びていなかった。申し合わせであったのか。
* わたしは、電子メディアが、ないし電子的環境がすでにもたらしている思想と生活への深甚な影響を見入れない、哲学や思想は、適応力と指導力を急速に落として行くと見ている。紙の本でしか本を考えないのと同じである。
同時に、わたしの関心は、深いところで、それらの上には無いのである。「タントラ」のような、あらゆる夢から醒めての生死のことに有る。平たく云えば、政治や経済や創造よりも、より親しく深く、愛と死とに関心がある。そして無心に向かいたい。自分のしていることの悉く夢であることは分かってきている。もっと徹して分かって行くだろう、分かろうとしないでも。
2004 7・25 34
* 今は、林芙美子「夜の蝙蝠傘」を読んで校正している。芙美子の時代小説なんてつまらないが、現代私小説にはえもいわれぬやるせなさと明るさとが瑞々しく混合していて、いつも面白く読ませられる。彼女の生前、芙美子の作品にあまり見向きもしないで来たのが恥ずかしい。「ペン電子文藝館」のおかげでつぎつぎに佳い作品を読者に送り届けられる。パブリックドメインの有り難さ。
2004 7・25 34
* 深夜に林芙美子「夜の蝙蝠傘」を入稿した。夫婦の、良人側から(とも限っていない自由さで、)「生きる」意志と意欲とをさぐりよせて行く、敗戦後の異色の秀作で、ある凄みも、ある和みも、それぞれに作世界によくこなれて溶け込み、微香と微光を放って暗くない。この暗くはないのが芙美子の佳い持ち前。妻の町子も、派出所の巡査も、良人英助も懐かしくよく書けている。井上ひさしの「あくる朝の蝉」は佳い作品だった、芙美子作の懐かしさに通うものであった。役員では伊藤桂一、加賀乙彦、黒井千次、三好徹の作に、それぞれの美しさ・こわさ・ちからがあった。さ、ほかはどうか。世にときめいてはいても、正直の所、小説としてものたりない。期待している読者のためにも真実力作を出して欲しい。
2004 7・26 34
* さて今日は岡本かの子の「家霊」を読む。七月は、少なくもここまでを入稿しておく。十六作。まだ増えるかも知れないが。六月は本の作業が輻輳し、電子文藝館へは六作しか入れられなかった。月に十作品程度を目標にしている。スキャナーで起稿し、句読点やルビにいたるまで校正しての作業である、楽しめるから、読者に楽しんでもらえるから、出来ること。
2004 7・26 34
* 岡本かの子の「家霊」は、秀作である。表現そのものである。とても力づよい。芙美子にしてもかの子にしても、さすがに手垢にまみれたいいかげんな作物にはしていない。読んでいて、校正していて、嬉しくなる。前に載せた「食魔」と並べても、この「家霊」はさらに優れている。
これで予定していた入稿分をみな済ませた。今晩は湯につかり、三好徹氏にいただいた「新撰組」を読むか。手堅く短篇の幾つかに資料を生かして纏めた、読み物である。昨日は福地源一郎(桜痴)の一節を読んだ。彼は、新撰組の組員ではない、あわや上司に強いられ近藤勇の剣術道場に弟子入りするところだった人物。彼自身はオランダ語から英語へと学んでいった、元は有能の通辞であった。波瀾の人生の晩年には、福地桜痴の名で成田屋のために歌舞伎脚本なども書いた人である。
で、今夜はこの本で、誰と会うことになるか。
2004 7・26 34
* 眼精疲労の気味、むりもない。深夜にならぬように、まずは小野の里の浮舟を見舞ってこよう。
2004 7・26 34
* 太宰治と有島武郎を読んでいる。何の思案もなしに選んだ太宰の小説、有島のエッセイだが、二人とも情死した文学者であったと、今気付いている。ジャンルは異なるが、無心に合せて 批評してみてはどうか。
2004 7・28 34
* 俳人手塚美佐さんの句集を戴いた。美しい本である。岸田稚魚さんの句誌を受け継がれてもう久しいが。湖の本のかわらぬ読者である。亡くなられた永井龍男先生のお口添えからであった。手塚さんは永井先生に師事されていたのである。永井先生も、亡き福田恆存先生もお元気な奥様も、わたしの「湖の本」を支えてやって欲しいと、何人もの新しい読者をご紹介下さっている。そういう方が今も何人も継続して講読していて下さる。おろそかなことはしていられない。
2004 7・28 34
* 雨颱風らしく、断続して夜も朝も昼前も、ものうつ雨脚の音がやまない。
* 朝一番に、田山花袋の好随筆「私の歩んで来た道」を起稿し校正し入稿した。大正期に書かれていて、花袋の見渡しには情と実がそなわり、頷きやすい。そして最後の一文などには、鏡花の文学が意図されていそうで、破顔一笑、花袋からすればさもあらんと思う。
それにつけて、校正しながらも思い出すことがあった。わたしはあれで高校一年生ではなかったか、ある日何故とはまるで思い出せないが、中学時代の給田みどり先生と、かなり満員のバスに乗っていた。バスはよく揺れた。それでも一所懸命にわたしは先生と話していた。
この女先生、「清経入水」その他わたしの小説に何度もいろんな場所で登場されている。はじめ英語の、本来は国語の先生であった。実の子のように可愛がっていただいた。バスの中で、わたしはこれから読んで行きたい日本の作家のことを喋っていたのだと思う。「花袋とか…鏡花とか…」と口にしたのを覚えていて、一呼吸もなく先生は、「花袋はおよし。鏡花はいい」と云われ、イヤにはっきりしているのに吃驚して、その前後はかき消すように記憶がない。
あの頃のわたしは、谷崎潤一郎との出逢いに夢中だった。創元社の撰集を宝物のように乏しい小遣いから一冊ずつ買っていた。
先生にああは言われたが、わたしは田山花袋という作家を、相当好きである。なによりも「田舎教師」を賛嘆した。「時は過ぎゆく」にも、晩年の「百夜」にもしみじみと心を打たれた。文学史の分水嶺ともなった「蒲団」は、本人も云うようにさほどではないにしても、今読んであのおかしみには花袋らしい本領があらわれていると思い、好感はすてていない。荒削りなようで、気の優しさと、いい意味の常識がよく生きた、抒情味のある散文を独特の「平面描写」で巧みに書き続けた人だ。わたしは、泉鏡花を天才だと思うけれど、だから田山花袋や徳田秋声の魅力には気付かないような、そんな鈍な読者ではなかったのを、心から喜んでいる。
2004 7・29 34
* 芥川龍之介「一塊の土」通読しました。牧南委員の訂正分は直っていました。ほかには、気づきませんでした。最初は(東海地方?の)方言に少しなじまなかったのですが、読み終えたらすっきりしました。都会の作家がこれだけ土くれの生き様を見事に描ききれる、いまと時代は違いますが、やはり「身土」に深く根ざすものを持てばこそでしょうか。堪能しました。さすが。
続いて一作づつ読んでみます。 委員
* こういう反応があると、わたしの作品選にも励みが出る。ここしばらくの間に選んできた短篇類は、さながらお手本である。
2004 7・29 34
* 夜になって、太宰治の新釈諸国噺の第一回「裸川」を校正し始めた。太宰はおもしろ可笑しく噺している気だろうが、附け刃のようなムリ語りで、感心しない。太宰の仕事では、「津軽」「富岳百景」「走れメロス」などが好きだけれど、おおかたはわたしの深い好みには触れ合わない。中村光夫先生が授賞式の選評で、太宰とは対照的な受賞者に太宰賞が贈られるのもおもしろいことですと云われていた。
太宰が死んだちょうどその前後に、わたしはお向かいの二階から、まるで「一本刀土俵入」のお蔦のようにいつも外の道路をみていた、物憂げなお妾さんから、「人間失格」「グッドバイ」といううすい本を借りて読んだことがあるのだ、中学の二年か三年かの暑い季節だった。それが、わたしの太宰の印象を損なったのだ、なにしろその時分にわたしは、谷崎の「少将滋幹の母」の新聞連載に文学開眼しつつあったのだから、あの太宰はいやだった。スキャンダラスな死も影響した。
それでも彼の「晩年」には驚いた。「斜陽」は気色がわるかった。電子文藝館に招待した「桜桃」や「満願」は好きな方だ。しかし「新釈諸国噺」は太宰にすれば自負自愛の作なんであろう。
その前書きで、西鶴の好色物を良くないといっている。「一代男」「一代女」を太宰治は読み切れなかった、ムリもない。西鶴のパロディが書けると思ったのにもムリがある。西鶴はつけいる隙のない天才だもの。
2004 7・29 34
* 前夜、三好徹氏の「史伝新撰組」を読了。幕末、維新前後の人間関係などが具体的に読み取れるのが、興味の芯であった。
わたしは新撰組にとくべつの興味ももたずにきた。それでもあらかた沿革など覚えてしまっている。冷たくも熱くもない。はたして何であった、ありえたというのであろう、その頼りない手触りに、いつも途方に暮れる気味で新撰組のことは投げ出す。近藤勇、土方歳三、沖田総司。この本ではこの三人などへの私的興味が癒されるわけではない。維新とはどう推移したのか、それが「群像」の右往左往とともに幾らか浮き上がる。そういう証言の一冊であった。
* 大冊、田辺元と唐木順三の往復書簡集は、これはもう立派なもの。
読み通すのはかなり骨なほどの大冊で、当然のことに質的な重量がある。われわれの手紙とはモノが違っていて、さらさら読み流せるものではない。唐木美枝子さんのお名前で頂戴した。有り難いことである。
唐木先生の御本は、受賞後のものは殆ど全部頂戴していた。実に周到な中世論が多く、また「日本人の心の歴史」のような素晴らしい啓蒙の名著もある。書評も何度かさせて頂いた。
唐木先生で驚かされたのは、受賞作「清経入水」のなかで、ヒロインが学校の引率教師として東京へ修学旅行に来、語り手に宿から誘い出され池袋のレストランで食事している場面がある。しばらく会話がつづいて大きく破綻する。先生は、ほかのところは言わないが、きみ、あそこだけは事実を書いただろう、書いただろうと、念を押されたのである。その念の押し方に作者は驚かされた。
また『女文化の終焉』を喜んで下さり、内容も内容として、筆致の「優麗」ということを言われ、しかも、ところどころでちらっと辛口に「毛脛をあらわすんだ、アハハ」とご機嫌であった。
ご葬儀の日、式場の私のすぐ前に中野重治氏が椅子にかけておられ、やがて弔辞を述べられた。肝胆相照らすとはあのお二人であったろう。
古田晁会長、唐木順三、中村光夫、臼井吉見。こう名前の揃っていた頃の筑摩書房は豪華で豪勢であった。超一流という言葉はこういうところへこそ用いられる。田辺元はその唐木先生の先生である。
本のお礼を申し上げるのが遅れている。せめて半ばは読んでからと思ううちに。
2004 7・31 34
* 電子文藝館委員長として、委員各位の意見・感想を徴している。掲載した林芙美子作「夜の蝙蝠傘」を「反戦」特別室にも加えるかどうかを。校正された一委員から、主人公英助が、戦争で片足を奪われてきた一事はいかにも取り外しがたい重い一事と読めて、作者の反戦にかよう気持ちを汲んだと、感想が入っていた。作品を「校正」室に送りこんだわたしにも近い思いはあったので、主に反戦作品を検討してもらっているグループをはじめ各位に意見を問うてみたのである。此の委員会なればこそ、ただ作品の校正を事とするだけでなく、作品自体の受け取り方にまで忌憚なく自由な感想や意見の交流があっていいとわたしは考えてきたし、少しずつ校正のうしろに感想も添い始めている。
で、すぐ、べつの一委員の感想が届いた。現代の一創作者の創作意識や態度や思索にわたっており、多く考え込ませる要素を含んでいる。此のわが「私語」に聴き耳を立てていて下さるのは何と云っても文学の感性をもった人達であろうと勝手に想像しているので、文藝館の館外活動といった意味でも、読者にも加わっていただこう。
* 林芙美子『夜の蝙蝠傘』通読いたしました。校正については、気づいたところはありませんでした。
「反戦室」に掲載するかについてですが、
今年の春、井上ひさし作『太鼓たたいて笛吹いて』という舞台を観ました。
従軍作家として出かけた林芙美子が、日中戦争の初めごろは軍国主義に太鼓叩いて笛を吹いていたが、太平洋戦争のあたりから、戦争の悲惨さに気づきはじめ、黙して語らず、戦後になってから、反戦小説を書きはじめた、というものでした。
戦後の芙美子の小説に、なにかないかとは思っていましたが、これがそれなのですね。
私の抱いている芙美子のイメージからすると、説教くさく理屈っぽくて、ちょっと期待はずれでした。「反戦室」に入れるについては、芙美子にはもっといいのがあるような気がするのですが、その作品をなにも知りませんので、消極的賛成といったところです。
また、別の感想ですが、
太鼓たたいて笛吹いた人間が反戦意識に目覚めるのと、信綱、茂吉、晶子といった立派な歌人たちが戦争賛美の歌を詠みつづけ、知らんぷり? していることと、どちらが罪深く、人間として誠実なのだろうか、と考えたりしました。
と考えるのは、後世の人間の傲慢さ。
だれであっても、その時代の流れのなかにしか生きられないあさはかさ、かなしさを、つくづく思うしだいです。 (「ペン電子文藝館」一委員)
* 消極的賛成とある迄は、わたしも同感。反戦を「鼓吹」したような意図的な作品にはどこかムリな頑張りが出て、わたしは歓迎しないから、この「夜の蝙蝠傘」などはかえって心に戦争を厭う自然なものが触れてくるとは感じていた。そのつもりで選んだのではなく、一人の委員の校正に附された感想に、自分もそう感じながら起稿していたなあと改めて思い当たったのである。
わたしに感想のあるのは、「また、別の感想ですが、」以降のところで。創作者の「罪」「人間としての誠実」生きた「時代の流れ」とのぬきさしならないと観られる深み、等で。この感想へは、また別の感想を自分としてもっていると、第一感、感じた。
2004 8・1 35
* バグワンについても、ときどき聞かれる。バグワンについてなら、検索すれば山のように出てくる。雑念をもちたくないので、検索サイトで出て来るバグワンに関する総ての情報に無関心でいる。ひたすら、「個と個」とで向き合っている。「存在の詩」「般若心経」「究極の旅=十牛図」の順にバグワンに近づいた。「老子 道(タオ)」その他も。もう十数年、同じモノに反復向き合ってきた。いずれも、池袋の「めるくまーる社」から出ているけれど、在庫があるかどうか知らない。
ただし内心から切実に求める気持ちのない間は、バグワンに接しても何もえられず、逆に高慢のはたらくおそれがある。無心に切実に望む気持ちが有れば、こよなき叡智に触れることになる。少年の昔から多くの多くの聖典や啓蒙書を経てきて、バグワンに辿り着いたわたしは、そう、確信している。この人は祖師でも教祖でもない。少なくもわたしはそのようには触れ合っていない。透関した人。達磨のようにコワイが、深い深い海のよう。高い高い青空のよう。知的興味で接しても無意味だ。降参してかからないと。口先だけの興味では何のタシにもならず、多くをむしろ失うだろう。
2004 8・1 35
* 「夜の蝙蝠傘」が文藝館ではまだ読めないようです。岡本かの子「家霊」芥川龍之介「一塊の土」堀辰雄「ふるさとびと」読了。
岡本かの子、芥川龍之介、さすがです。短編とはこうあるべきなのですね。お見事と深い深いため息をついているところ。「ふるさとびと」は一読してやや散漫な印象でした。病状が悪かったのでしょうか。
作品選びの切れ味に脱帽です。作家の力比べをしています。これでは現役の作家の方々はビビリますでしょう。 電子文藝館の読者 1
* 私はあまり迷わずに、岡本かの子の「家霊」のほうに軍配をあげます。この二作の比較に限ってのことですが、岡本かの子は豊かで濃厚、林芙美子はどこか貧しく薄いと感じました。この二人の育ちのちがいというものだけではなく、人間性や文学観のちがいで、私は豊饒なもののほうを好むということだと思います。
林芙美子の「夜の蝙蝠傘」は面白く読みました。改行のない文章には驚きましたが、書き出しなどじつにうまいなあと感心しました。この作品ももちろん私にはお手本の短編です。
冷めた夫婦のやりきれない雰囲気がよく出ています。腐った人生、煮え切らない男の一風景がねちねち描かれていました。でも、オリジナリティーに欠ける、どこかで似たような話を読んだという印象を受けてしまいます。記憶がまちがっていなければ、私は昔読んだ、戦後の生活を描いた椎名麟三作品などの薄まった感じを思い出しました。
岡本かの子の作品には潤沢に溢れるもの、より強い個性の輝きを感じます。女流の持つ花もあり、よさも出ています。文体も艶があり好きです。泥鰌の食べ方など秀逸だと思いました。
岡本かの子にはその文章や食べ物の扱い方に谷崎潤一郎の影響などを色濃く感じますが、心酔していたのでしょうか。よく影響を取り入れたと思います。
林芙美子のように、同じ生活の桎梏をテーマとしていても、かの子には救いや明るさやユーモアがあります。作品のイキのよさもこちらのほうが数段上かと思いました。
瀬戸内晴美の「かの子繚乱」は大変面白くて、夫の他に愛人二人と同居生活をしたというかの子という人物には興味がありましたが、作品は食わず嫌いでした。林芙美子のほうも放浪記の印象が強すぎて読んでいませんでした。しかし、まあどちらの女流文学者も、大したものです。あらためて、不勉強を恥じています。佳い読書の機会をお与えくださいました。 電子文藝館の読者 2
* 読者としての好みからも、かの子勝 としたのはイイと思うけれど、芙美子の読みに不確かなものも残っている。朝からも関わっているように、いま「ペン電子文藝館」委員会では、この作品が「反戦」作品として読まれていいのでないかと議論が起きている。この短篇の芯が、戦争で奪われた「脚」一本に置かれているという読みである。ただの冷えた夫婦ものではないオリジナルが、奪われ失せた「脚」の、本来そこに在るべきであった空虚空間自体のむずむずした痒さ。その辺に戦争の痛みもひっかかっている。モノを言っている。
芙美子が、妻の「町子」側から書かず、わざわざ良人の英助から書いているのは、「巡査」との場面が書きたかったからかも知れない、ここの会話は重要だ。作品の真実感を成している。ありそでなさそなリアリティーを把握して好い表現をつかんでいる。
芙美子もかの子も手垢の付いた表現をしていない、全く。文学の香気。放浪記の女と大個性の女とのちがいはあるけれど、芙美子も勝れている。此の読者の判定で「かの子勝」に異存はないが、「持」に近いか。「数段上」とまでは思わなかったが、こういう鑑賞の仕方も読者には自在に許されている。
2004 8・1 35
* 次の湖の本のスキャン始動。深夜に太宰治「裸川」の校正往来二つ終えた。ムローヴァのバイオリンがずうっと静かに鳴っている。チャイコフスキーとシベリウス。階下から、音楽が響きすぎると注意報。いつもより少し早いが階下ですこしくつろいで、早めに床に入る。
「ゲド戦記外伝」の収録作品はみな読み終えた。アースシー世界の解説が読み落とせない。田辺元・唐木順三の大冊往復書簡集は読み応え十二分。「浮舟」は、横川の僧都にねだって落飾した。この辺はすこしスリリング。近代小説の感じがする。「今昔物語」では、昨夜、あの、藁しべ長者の原話を読んだ。オウオウと声が出た。
では、おやすみ。
2004 8・2 35
* それから床に就き、『ゲド戦記外伝』四百五十頁を読み上げた。作者ル・グゥインによる「アースシー解説」に魅了された。今ではアーキベラゴ(多島海) 地図の島の名が出ると、およそ、すぐどの辺の此の島と見つけることが出来るほど、わたしはアースシー世界の住人のようになっている。この作品がノーベル賞をまだ得ないのが不思議でならないほど、心酔し没入愛読してきたのである。この本を手に入れ始めた頃、建日子は小学生であった。
2004 8・4 35
* 田辺元と唐木順三の師弟往復書簡は、唐木さんのまだ若き学徒の頃から晩年にまで及んでいて、最初から、ただの消息の往来などではなく、絶えず「哲学」的な質疑であり応酬であり交際であるから、読み応えはたいへんなもの。たとえ一年でも大学院の「哲学研究科」で美学を学んできた経験があるから、お二人の交わされる哲学や倫理学や形而上学の語彙にはかなり慣れているし、この方面の学者や学徒の用いていた晦渋な日本語にも覚えがある。ウヘェという困惑や苦笑も忍び寄るが、こういう師弟の精神世界が実在していた意義を見失うことはない。これを読み通すのは、この間の鶴見俊輔に上野千鶴子と小熊英二とがインタビューしていた鼎談を読みきるのと匹敵する精力を要する。そして年代が進むに連れて、少なくも唐木先生の思想はわたしも存じ上げていたあたりへ近づいてくるだろう、辛抱よくこの往復書簡の森を歩み続けてみようと思っている。この貴重な大冊を贈って下された唐木美枝子さんには、読み上げてからお礼を申し上げたい、少なくも「読んでこそ」ご厚意にこたえられると思っている。
2004 8・8 35
* 実況放映を観たアトに、相変わらず源氏物語とバグワンを音読し、今昔物語を読み、日本史を読み、「恋路たどる大将」を読み、田辺・唐木往復書簡を読み、さらに今は古今集和歌を素材にした言語学者小松英雄の、目をみはるような新研究書『みそひと文字の抒情歌』に没頭している。
例の子規や和辻哲郎がボロカスにくさした古今集巻頭の一首を、あざやかに読み直してみせた手際の美しさと厳しさとに、わたしは、いま、喝采する。あんなにムチャクチャにいわれるような「愚劣」で「ヘタ」な歌をなんで古今集ほどの勅撰集が巻頭にすえるものかという気持ちが、わたしには抜けきれなかった。わたしの好みでは、新古今集よりも古今和歌集の方がやはり優しくも確かなオリジナルであるという評価だった。
この研究者は若くない。たいへんな碩学であるがしかも、気鋭・俊敏。生彩と異色に富んだいい本を笠間書院は贈ってくれた。中世の物語とあわせて目下愛読、愛読。
それもそれ、いよいよ、もう目前に、渡り終えようという「夢の浮橋」が見えてきた。もう数日とはかかるまい。いったい、音読を始めた日は何年の何時であったのだろう。一昨年か。なにかしら二年ほどかけてきた気がする。
全巻ではない、わたしの思いから、「御法」「幻」の二帖は、あえて読まなかった。声に出してはよう読むまいと思ったから。だから橋を渡り終えたからと言って、全巻音読したのではない。それでもわたしは満足。
* 今夜は大文字。瞼のうらの夜空に炎の大字が燃えてくる。
2004 8・16 35
* (2002.11.5の「私語」) 昨夜から、『源氏物語』をすべて音読してみようと、始めた。いつもは一日一帖をかならずと決めて読了してきたが、それは黙読。今回は音読してみようと思う。だから日数は莫大にかかるだろうが、櫻の散る頃には「夢の浮橋」を渡り終えるかも知れない。もっと、かかるかな、それは構わない。
* 一昨年、平成十四年十一月四日の就寝前から『源氏物語』音読を初めて、同じ月の二十八日には「夕顔」の巻まで進んでいる。翌春の桜散る頃どころか、さらに一年を経た今年の桜散る頃にもまだ読み上げられなかったが、とうとう、今夜「夢の浮橋」を確実に渡り終える。但し「御法」と「幻」両巻はあえて音読せず通過したから、決して全巻ではない。それも読んでいたら十月にまで到ったかも知れない。
感想は山ほどあるが、今は感慨を噛みしめていたい。
「今昔物語」全四巻は黙読して二巻目のちょうど半分に来ている。源氏にかわって今度は何にしようか。平家か枕か太平記か。日本書紀を読み切るというのもあるが、徒然草もいい。苦手の西鶴もいい。西鶴は古典全集本で四巻ある。源氏は六巻だった。
日記をずうっと読み直していたら、小学館版「日本古典文学全集」全八十八巻を贈られて最期の配本の済んだのが、平成十四年(2002)十月十九日であったとある。これが契機で源氏物語を「全巻音読」と思い立ったらしい。この全集はツンドクどころか、ほんとうに沢山読んできた。
2004 8・18 35
* なかなかの大仕事になった「読み」仕事を、なんとか一段落。もう少し作業がある。すこし休もう、おもしろい映画でもないだろうかと思ったが、また女子柔道阿武教子の金メダル、あざやかな投げ技の決勝を見、アーチェリー中年先生の佳い銀メダルも確認したところで機械に戻って、すべき作業をし終えてしまい、電送もし終えた。あと郵便で少しツキモノを送らなければならないが、それは明日でよい。根のつまる仕事にけっこう日数がかかったが、あとがラクになる。もう日付が変わって一時半。
さてバグワン音読と一緒の新しい古典に何を選ぼうか、実は『源氏物語』をあらためて今度は全集の頭注や補注も含めてもう一度ゆっくり黙読してみないかという誘惑に負け掛けている。音読だと、その辺はすべて割愛し、ひたすら声に出して本文だけを味わっていた。その余勢で注も丁寧に参照しながら読み直すという魅力はとても大きい。音読に『平家物語』の流布覚一本でなく、八坂本を読んでみようかとも。これにも誘惑される。ああ何でもいいのだ。
もう今夜はメールもこないだろう、機械をとじてともあれテレビの前へ移動する。
2004 8・19 35
* 筑波大名誉教授小松英雄氏の『みそひと文字の抒情詩』(笠間書院)を、耽読している。最近になく、ポレミーク(論争性)に徹した刺激的な研究書で、その言うところ肯綮を得て、厳しい。古今和歌集について語られた従来の多くは、はじめて高校教科書で習った時以来、どことなくヘンに感じられ、正岡子規ほど好きな文学者のそれにしても変だよと思わずにおれなかったものだが、小松氏は、専門外の言語学から果敢に核心をついて、従来国文学者の垣の内でお互いに狎れあってきた緩い研究に対して、じつに容赦がない。ほとんど全否定であり、説得力をもっていて痛切。久々に「ものすごい」モノに触れている実感あり、反撥していない。この本に一票を投じて躊躇わない。
* 『田辺元・唐木順三往復書簡』(筑摩書房)は、師弟の、また著者と出版編集人との、また同じ哲学者同士の、まさしく「古き良き時代」の物心両面の深い関わりを読み取らせて、ときに複雑な思いをさえ持つ。わたしは、事実上田辺元の書いた何一つを読んでいない。間接に高弟下村寅太郎先生の著書の中から風貌に接してきたに過ぎない。この往復書簡の唐木先生出の書簡束も、田辺元遺品を整頓し保全されていた下村先生の遺品から発見され提供されたモノと「あとがき」に記されてある。
著述や著書を介しての田辺と唐木であり、唐木先生もまた卓越した哲学者・思想家として多くの著作を遺されている。そんなお二人であるから手紙の中に専門的な意見の交換の多いのが自然の魅力を成している。ただ、その交わされる「言葉」が個と個との「諒解」の上に成り立つ事情もあり、委曲をつくすわけでなく独特の語彙にまぶされていて、とても難解なのである。いや難解なことも多いのである。
そしてそこから浮かび立つ感想は二つある。こういう物言いの世界からは足を洗いたいと思って大学院の「美学」「哲学」をふり棄てて東京へ出た自分の感想が一つ。そしてあの芹沢光治良作「死者との対話」で、哲学の言葉に絶望したまま戦渦に自爆して逝った優秀な学徒たちの、また戦後学徒達の不信と嘆きとを思い出したことが、二つ。
* 夜前は、オリンピック水泳競技やアーチェリー競技を見終えて床に就いたのが三時。それから七種類の本を読み回して、電灯を消した。結局、簡単に取り出せる中の『徒然草』を久しぶりに、それも初めて音読してみようと、全集本をそばに置いた。初めて「星一つ」がまだ十円の岩波文庫を、河原町のオーム社で買って帰った中学三年生秋の昔へ戻ろうというワケである。
* 『恋路ゆかしき大将』という物語は、源氏の影響の色濃いものだが、半ばまで読んでさほどの感銘作にはなるまいと感じている。人間関係のデッサンがややこしい。フクザツであるというのでなく、妙に立派であるというより、思わせぶりなのである。これよりは「夢の浮橋」をそのまま後日へ書き継いだ「山路の露」が、懐かしい一場面であった。小説家としてのわたしを、かなり唆すていの懐かしさであった。
2004 8・20 35
* 宮嶋資夫の「坑夫」は堂々とした筆致の本格小説で、類のない剛気で孤独な主人公の心理と言動とが生き生きと書き継いである。今月中には校正を正確に終えたい。
2004 8・21 35
* バグワン、徒然草、今昔物語、日本の歴史、みそひと文字の抒情歌、恋路ゆかしき大将、田辺・唐木往復書簡。いまこの七冊をかならず少しずつ読み進めて一日一日を送っているが、稀有の充実。この上に「ペン電子文藝館」の作品が加わる。なにのために読むのでもない、純然楽しんでいる。
それでも派生して、あ、これを追いかけて調べてみようかな楽しみにと思うテーマにもぶつかる。露伴は、これはと思う材料は十二分に寝かせて寝かせて寝かせておくことが大事だとエッセイに書いていた。どれだけ寝かせておいても鮮度の落ちない材料ならば生きると言っている。もうそんな余命には恵まれそうにないが、寝かせてあるモノと、ときおりこっそり対面して思い交わすのはとても楽しい。おお、まだそんなにも元気でいるかとお互いに久闊を叙するのである。後白河院、清経、資時、建礼門院、徳内、白石とシドッチ、紫式部、東子、赤猪子など、また浅井忠や子規も、松園も華岳も、みんな、いつもいつもわたしには「逢いたい人」であった。わたしの部屋で寝て待って貰っていた。そして小説に。あの「山名」君も、「久慈」三姉妹も、そうであった。
2004 8・22 35
* 小松英雄氏の『みそひと文字の抒情歌』にウロコの眼を激しく洗い流される。万葉集は漢字で表記されている。古今集はすべてひらがなで表記されている。言語表現においてまるで性質の違うのを理解することは出来るが、しかも訓釈しまた漢字交じりに書き直すことで、その差異が均されているのが現状である。
わたしは古今集等の和歌の「現代語訳」に反対で、一時期トクトクとその手の仕事がされまた持て囃されていたときも、わたしは冷たく眺め、必要ならば批判していた。幾重にも読めるように意図して創られた独特の和文表現を強いて一つの読みに無理読みして訳者の解釈を原作にも読者にも押し付けてしまうからだ。小松氏のポレミークな議論はつまりこのわたしの不信や不満や憤慨に論拠を与えているのである。当然にわたしも気付いていた幾つもの点に、しっかり論及している。
なぜひらかなだけで書かれてあるかという一つからみても、よく言うように まつ は松でも待つでもある。はな は 花だけでなく、端も鼻も洟も洟も意味している。ものうかる と書いて もの憂かる とも もの憂がる とも読み取れる。古今集に濁点はまったく無いのである。古今集だけではない、上代和文には濁点はほぼ全面に無いのであり、そこに表現の複線化がむしろ意図的に巧妙神妙に意図されるのだから、それを視覚的に読者は複線化して読み取る、読みを構築する楽しみや権利をもっている。後世の研究者学者は或る意味で勝手気ままに、それに漢字を当てたり濁点を振ったり、また勝手に改行したりして、もとの表現を「解釈」の名の下に破壊している。
たとえば散文としての地の文に巧妙に表現性豊かに和歌が書き入れられてあり、散文と韻文との微妙な相乗効果を露わには言わずに実現しているにもかかわらず、後世は、暴力的に和歌部分を改行して別立てにするような本文を現出させて顧みない。親切でしているつもりで、原作本文の表現意図をお構いなしに破壊している例は、むしろ通例になっている。
小松氏の憤慨は、いわばコロンブスの卵なのであるが、学界はなかなか体質の古い因習世間であり、小松氏のようないわば専門外の専門家から当然の指摘がされても、なお、益々従おうとしないから困る。専門家というのは時に老害に似た大障碍物になりかねず、固陋の妄念を抱いて放さない。
まだまだ読み始めであるが、読み進める楽しみは夜ごとに深まる。
2004 8・23 35
* さすがに眠い。
* 夕食後、雨中郵便局への坂道を自転車で走ったが、からだの疲労しているのが不気味なほどわかった。いつもなら全速力ですいと駆け上がれる坂があがれない。やれやれ。今夜こそは早く寝てしまおう。
* と言いつつ長編、宮嶋資夫「坑夫」に惹かれて読み上げた。気が入っている、すさまじい荒くれの世界であるが文学の香気と清冽もまたまぎれもない。労働文学に違いないが、ヒューマニズムの文学でもある。こういう自費出版作品が直ちに発禁にあった時代だったかと思うと憮然とする。
* みやじま すけお 小説家・批評家 1886.8.1 – 1951.2.19 東京市四谷伝馬町に生まれる。七歳で家を喪い十三歳から砂糖問屋の小僧、歯科医の書生、牧夫、職工、土方、火夫、新聞記者等々を転々放浪のすえ大杉栄等の感化でアナーキストとして目覚め、古本屋のかたわら書いた処女作「坑夫」を大正五年(1916)一月近代思想社より自費出版したが、直ちに発禁に遭った。共産党系のプロレタリア文学には常に反撥し、個人的心情の過激な爆発や妄執を描き続け、昭和五年(1930)には京都天龍寺に入って求法の境涯に身を置いた。 掲載作は、まさに労働文学の成立を証言する画期的秀作であり、生彩豊かに主人公を彫琢する筆つきは、きびきびと情深く呼吸して的確。
2004 8・23 35
* 多くの仏菩薩のなかで、指を三つ折るなら、阿弥陀如来と観音菩薩と地蔵菩薩に極まるだろう、日本では。もともと佛教説話集である「今昔物語」は、こうした仏菩薩たちの霊験や功徳や慈悲の大いさを、庶人に説き聞かせるように書かれ集められている。今一つは仏説をあらわした諸種の経典の、また法会の威徳をも同様に説き聞かせている。さらに加えれば祖師や上人聖人らの人徳を賛嘆している。世俗的な説話は、それらに附随し付加されて、そこが雑然とした興味津々の読み物になっている。
わたしは今、地蔵菩薩にかかわる巻を読み進めているが、説話の大方は、ある男でも女でも、生前にホンの僅かなりと地蔵に帰依し賛嘆していた者が、死んで地獄に連れ行かれ、あわやのときに「端厳(たんごん)」の「小僧」即ち地蔵菩薩の慈悲により救われ、現世に蘇り、その後ひとしおの地蔵賛嘆の生涯を終えて、無事に成仏するというパタンの話がえんえんと続く。基本形は上のようである。ほぼ例外なくお地蔵さんは「端厳なる小僧」の姿で顕れる。
興味深いのは、蘇った男女の話を聴く家族や諸人がみな「悲しみ泣くことかぎりなし」とあることで、「悲しむ」ということばが殆ど「歓喜すること」と同義に使われている。今昔物語の今まで逐一読んできた全段にほぼ例外がない。この「悲」しみには、心身を絞った真情実情の無垢と切実とが謂われているのだと読まねばならない。
* 日本の歴史は、今夜にも文化文政から天保の改革を語って水野忠邦の失脚に到る一巻を読み終える。
教室で日本史をならうより以前から、家にあった「日本国史」という通信教育の教科書がわたしのバイブルなみの愛読書であったが、その頃の日本史は事に人から人へ繋いで行く歴史記述であったので、子供心には浸染しやすかった。
江戸の執政にも、将軍により何人もの側近が力を発揮したから、歴代将軍の名を覚えるよりも、その有力な執政・側近の交替を見て行く方が面白かったのである。本多正信・正純らを皮切りに松平伊豆守や、榊原・堀田らや、柳沢や、間部詮房・新井白石や、と続いて行く。そして田沼意次のあと、松平定信の寛政、水野忠邦の天保の改革になる。悪戦苦闘して成果を見なかったのは彼等の無能によると言うより、幕藩維持を内部崩壊させる、近世から近代へ向かう時代の必然が、あまりに大きかった強かったということだろう。民心というのもまたあまりに頼りない衆愚性と貪欲とに満たされてもいた。そうさせる政治を徳川幕府がし続けてきたのだから仕方がない。あれで鎖国していればこそなんとか累卵の危うきを辛うじて明治まで保ち得たが、早くから開国していれば西欧のどれかの国によりアヘン戦争なみに支配されたのではないか。
政治家としては、新井白石、田沼意次、松平定信、水野忠邦を挙げて、それぞれに他の及ばぬ力量をもっていた。
白石は理想家であり学者・詩人であり、海外・世界への視野と関心をかなり正確に持って近代への幕を開けかけた。あとをついだ将軍吉宗は米相場に苦心賛嘆し、かろうじて洋学への道をふさがずに次代へ繋いだ。
田沼意次はおそらく江戸時代を通じて、余儀なくもあったけれど、最も開明的に時勢を鼓舞し一つの大時代を創り上げた優れた政治家とわたしは評価する。白石の遺訓を無にせず北の時代も彼の手で開かれた。本多利明や最上徳内は田沼と臍の緒を繋いでいた。鎖国と開国との身を揉むような実験の繰り返されたのが田沼時代であった。
寛政・天保の改革は派手な田沼政治、豪奢な化政大御所時代への反動として極端な緊縮と強圧管理の政治に走った。走らずにおれない国家的な窮迫があった。白河藩主定信の清んだ白河より「もとの田沼の濁り」が恋しいと庶民に謳わせた。天保の水野はさらに苛烈に締め付け、その悲鳴は無数の落首やチョボクレになって巷にあふれた。水野政治の終焉までを書いた此の巻が「幕藩政治の苦悶」であったことは、さもあろう。そして「尊皇攘夷」の時機がもうそこへ来ている。
水野忠邦は一度失脚したが、すぐにまた老中首座に帰り咲いた。しかしそれも永く続かず、次の老中首座に座るのは阿部伊勢守政弘、この人が日本の歴史にかつてない欧米列強を前に苦労することになる。歴史は躍動する。
2004 8・24 35
* バグワンと同時に最近読み始めた「徒然草」を、三段ほど本文を音読し、ついで訳文を読んで意義を確認し、さらに頭注を一つ一つ読んで理解を確かめている。国語の先生のつよい薦めで中学三年の秋に岩波文庫を買ったとき、正直の処、歯ごたえがキツ過ぎた。しかし高校の時には絶対的な愛読書であった。「慈子」が近づいてきていた。読んでいて、身もだえしそうに懐かしい。佳い。これだけ歳とってきた聊かの功徳に、また若い昔とはことなったところから兼好の声が伝わってくる。あたりまえである。この本の前でわたしは可愛らしいほどいま謙遜で謙虚である。 2004 8・24 35
* 百人一首やましてひらがな表記の「みそひともじ」を現代語訳するなんてトンでもない愚行だと思い云いつづけてきた。わたしにはおこがましくも「秦恒平の百人一首」という著書(平凡社)もあったが、そこでも私の好き嫌いを「うた=音楽」の観点から私判はしても、翻訳は避けた。複線で表現されてある一首の中のいくつもの読みの可能性を、幅を、魅力を殺してしまうからだ。
ところが、大概の本は研究の終着点は現代語訳であるとばかりに、無理読みに一つの翻訳へ原作を圧殺して恬としている。詩人として高名なひとが、とくとくと自身の現代語訳を以て古今集鑑賞を成し遂げたなどと思い、それがまた学界ですら追従されていたものだ。わたしは白眼に冷笑し、賛成したことがない。
このわたしの一素人の立場での頑固な姿勢に、ものの見事に学問的科学的な基盤と保証を与えてくれているのが、小松英雄著の『みそひともじの抒情歌』であることが、夜毎の読書で、じつに明快に分かって行く。痛快なほど分かって行く。この言語学の専門家からする国文学や文法学への批判書が、学界でどう受け取られてきたかわたしは全く知らない。ぜひ反論があるなら読んでみたいものだ。
* 水野忠邦の天保改革は、内政としてみれば過分に苛烈で、成功したとは云いにくい。しかし、忘れてならないことは、対外認識の深さとほぼ正しかったこととである。アヘン戦争での中国のイギリス等に対する壊滅的屈辱条約や香港の半永久的な割譲などという危険千万をまぢかに実感しつつ、渾身の対応をはかりつづけて、失脚後にも以降幕政の基本軸をほぼ調えておいた歴史的貢献は評価しなければならない。彼の末路はその貢献に酬いるには苛酷に過ぎていた。改革者は、喝采で迎えられ罵詈雑言と投石とで葬られる。しかし夫れにも歴史的な評価はいつかくだり、ダメはダメ、良かった点は良かったと分かってくる。
さて小泉純一郎はどうか。百年経ったときに百年前の日本経済の立て直し自体は通り過ぎてきた過去のことになっていようとも、国を戦争へないし潰滅へ、国民を自国ないし他国の檻へ送りこんで行く咎は、墓をも暴かれまじき国民的な憎しみを受けかねないのを今のうちに識るべきだろう。このままでは、かりに一将の功成っても日本国と国民とは枯れるおそれ濃厚だ。心ある自民与党の名士登場に期待せねばならぬ。名士はいないか、志士はいないか。
2004 8・25 35
* 少し涼しい。一息つくとは、これか。
* 仮名垣魯文の牛屋雑談「安愚楽鍋」は、起稿はむちゃくちゃ大変だけれど、笑ってしまう。まさに戯作だが、明治開化のご時世を風俗的に趣向おもしろくよく捉えて、文藝のとはいわないが歴史的な証言としては、十分保存にも鑑賞にも堪える。黙阿弥のざんぎりものの台本や大円朝の噺を別にすれば、散文作品のこれこそは近代嚆矢の遺文である。よかれあしかれ此処から近代日本文藝は展開していった。そして今にも魯文型の戯作をしている書き手はいるのである。「安愚楽」は「あぐら」であるが、「アングラ」とも読めるふくらみが微笑ましい。ことにこの作品は、どれほど正確かはわたしの言える段ではないにしても、各種階層の人たちの「日本語」をほぼ直截話法のまま書き置いてくれている貴重さが、今となれば計り知れない。特記しておく。
2004 8・25 35
* 江戸時代は永かった。だからとても一筋の縄でくくってしまえない。文化も政治も経済も外交も技術も産業も社会生活ももそれ以前の各時代とは比較にならないほど事繁く拡大し交錯し事件が起きた。それでいて天下太平の三百年とか安逸を貪ったとか云われるのはなぜか。
江戸時代に起きた一揆や打ち壊しの件数は莫大で、しかも列島の各地に頻出している。それにもかかわらず、全体を通じて確実に云えることは、真に「反体制」の動きは滅多に起きなかった。慶安の変だけが幕府転覆を考えていたが、その策略はあっけないほど未熟でばからしいほど簡単に征服された。このほかには、目前の敵、たとえば吉良上野や、悪代官や不正な豪商・業者や土地と人身支配の富農などへは詰めかけても、「その上」の体制を破壊したいと考えた武士も庶民も農民もいなかつた。これはおそろしいほどの事実であり、いかに封建幕藩体制や天皇制が雲の上の存在であったかが分かる。
結局、農民にややゆとりが出来、町人にやや蓄えができ、それで藩や幕府はなにとなく安泰(ではなかったのだが、)そうに出来ていたなかで、一番きついワリを喰ったのが直参・陪臣をとわず全国の下級・下層の武士達であったから、彼等がやむにやまれぬ不満をエネルギーにして倒幕という維新活動へ熱中していったのは、まさに三百年めの「正直」というものだった。
明治維新はいわゆるフランス革命のような民衆の力による革命ではなく、軽輩武士が悲鳴とともに藩を動かしたり同志に固まったりして、ゆさゆさと時代を動かしていった結集の結果であった。従って出来てきた明治政府は当然のようにそういう武士・士族の手にあやつられて、自由民権もまことに手ぬるいところで挫折した。なにしろ明治最初の知識人達はほとんど軽輩武士の出であった。政府高官、元勲といわれる人たちも、木戸・西郷・大久保・伊藤・山県など大方がそうであった。公家の三条実美、岩倉具視などもいわば余分な混じり物のようで、明治大正歴代の総理で公家から出たのは西園寺公望がただ一人ではないか。
大逆事件は時代を震撼したけれど、国家によるフレームアップ(でっちあげ)に近い、公による意図的な弾圧手段になったもので、2/26事件等にしても、国家の体制を覆すことは勘定に入っていなかつた。
* 日本とは、所詮はそういう国として二千年を生きてきた。ありがたいというか、なさけないというか。
2004 8・27 35
* 三時半まで本を読んでいた。今昔物語は全編中でもひときわ長編説話だった。
嵯峨の虚空蔵、法輪寺へまいる比叡の僧、性聡敏なのに勉強しない。とかく女にこころが行く。我ながら情けなくて比叡山からはるばる虚空蔵までまいるのだが、ある日、山へ帰りに道に迷い日が暮れ、とある家に一夜の宿を求めて、お安いことと招き入れられた。かなりの邸で召使いもみなきよげな女たち。
夜中、庭に出てみると、もののやぶれから女主人の寝入っている姿を見、心まよい、忍びより、同衾するが、驚いた女はかたく拒みつつ、あなたは僧、どんなお方か知らないが、法華経はそらで唱えられるかと聞く。僧はできないと答えると、せめてそれぐらいは出来る人になって下されば従いましょうと言うのだった。僧は勇躍山に帰り奮発して法華経をそらで読めるようになって、また虚空蔵の帰りに女の元へ行くと、同じ次第で、女はせめて学生(がくしょう)になってくれたらと拒みかつ激励するのだった。
まだこの先がながいけれども、女が虚空蔵菩薩の化身でこの勉励疎い性聡敏の僧を導いていたとは、むろん、もともとの題名で読者としては予知している。それにしても初めて物語めく説話に出会った。
* また古典全集の「徒然草」解説で、研究のかなりな進展・展開に触れ、初めて東大文学部の書庫に入れて貰い、毎日のように通って徒然草の研究論文を次々に耽読し記録して、紀要の論文を書き、また「慈子」を書く用意をしていた頃からの「数十年」をまざまざと実感できたのは、少し肌に粟立つ感銘であった。これは改めてもう一度も二度も読みたい。
* 小松英雄氏の本では「迷心」をどう読むかという言説に具体的に興味深く接した。
「まよふ」は平安初期の語彙としては、漢字の「紕」があてられ、織り布の縦糸や横糸がゆるく片寄ってしまうさまを謂うのであった。「迷」はまよふでなく、まどふであり、どうにもならない混迷を意味していた。「惑」も同じであった。
「迷心」と表記された平安和歌を「まよふこころ」と読んでは、意味が変わってしまう。しかし、「紕」の意味が技術の進歩で解消されて行くと、まよふ意味は今日謂うまよいへと抽象化されてゆき、漢字も「迷」を以てし、まどふ意味は「惑」を以てするようになる。しかしその様な交通整理が定まるのは実に近世なのである、と。今日の注釈書では、にもかかわらず、何の顧慮なく、「迷心」とわざわざ書かれた字句を、「まよふこころ」と読んだもの、ないし今謂うようなことを顧慮していない解析・解釈がほとんどであると謂う。なるほどなあ。
2004 8・28 35
* 機械を通して数百枚の小説が送られてきた。あたまの三、四章を読んでみた。推敲という点では甚だ雑な書きっぱなしであるが、或る、底知れないマグマが感じられ、かなりどす黒いけれども可能性の大きい音響が(これが音楽に変わればすばらしい)胸板を叩いてくる。ところどころに目をむくような異色の表現や観察や字句が燦めく。しかし何ともまだ雑草の原っぱのように荒れている。荒れというのは、必ずしもマイナスであるわけはなく、「荒れ」の魅惑も有るものだ、それを美味く温存しながら徹底的に推敲し文藝としてすっきりと仕上げれば、ある種、こわい創作になり咆吼するかも知れない。まだ少ししか読まないのだから多くは謂えない。
書かれてあることの実と非とにかかわらず、思い切った仮構を介して、作者は思い切り「自画像」を露表してはばかりなく、そのすさまじい意気込みが、この後に成功するのか惨敗するのかはまだ分からない。しかし、こういう意気込みからモノは立ってくるものだ。きれいごとの生ぬるさは無い。ひょっとして醜悪を極めるかも知れないほどだが、醜悪も惨虐もまた美の範疇にあることを作者がよく自覚し統御しているかどうか、だ。題されてある「悲惨愛」とは、あまりにあまりで、別の好題を工夫したい、が、根気よく没頭して推敲するに値している。期待する。
* 四分の一ほど読んで、物語の先行きに或る程度の見当がついてきた。展開に勢いがあり、言葉が言葉をたぐり寄せて行くので、表現のいいわるいを言うより先に事が運んで行く。「読ませる」とは一つにはそういう意味であり、長編らしい構造を持っていて展開は三重奏のかたちをとっている。自分の大胆さにたじろがず、なにか目に見えない者をねじ伏せるように挑みかかっているのは作者の性格や生地が出ているのだろう。
あらっぽい印象で言うと、谷崎潤一郎の、大正期の、書き殴ったようないくつもの長編の執拗な展開ぶりに近いかも。谷崎は、たとえ駄作でもずしんずしんと地を轟かすように書いた天才だと三島由紀夫は追悼していたが、大正期の谷崎は、秀作でなくても実に勢い猛にこってりと書きすすむことで読ませた。活字に唇を添えて啜りたいとわたしは谷崎愛を表明したが、この作詩屋の場合、むろん比較になどならないけれども、この送られてきた長編にはそういうつくりものとしての体臭が漂い、強引さで拙さを隠蔽しながら力走しているところ、可能性であろう。
大正期ではないが、谷崎昭和初年の『卍』は或る種の堪らない作品であり、だから文藝の凄みがあり、古典的な作品よりもいいと臼井吉見先生は評価されていた。
なににしても谷崎作品は分厚い。「分厚い」とは何であろうか。わたしは、谷崎愛といいつつも作風としてはむしろ鏡花に近いと何人かに言われてきたが、それはわたしが谷崎の『卍』タイプの分厚さを、意識して避けてきたこととも関係する。
しかし谷崎の文章と文体が与える安定した華やぎは、駄作でもずしんずしんと地響きがすると三島の言った「大きさ」と直結している。
だから、この作者の場合、叙述の勢いを殺さずに、文章に対し如何なる自己満足に陥らない冷静無比の推敲が出来るか、勝負はそれだ。それが必要になろう。その上でごっつい駄作で終わるか、血の臭いのする美しい秀作になるか、だろう。
2004 8・29 35
* 届いている読みさしの長い小説にわたしは「マーラーの恋」と仮題をつけたが。自作ではないが、この秋の関心事の大きな一つになりそうだ。
2004 8・31 35
* 魯文、資夫、篁村と続々一気に校正室に入り、「ペン電子文藝館」はもう秋の始まりである。城塚副委員長からもう「安愚楽鍋」の詳細な校正が来た。この原作はさまざまに活字に大小がついていて、電子文藝館でも、7ポ、8ポ、9ポ、10ポ、12ポ、と使い分けている。濁点は見えず、スキャンは劣悪。大方手打ちして起稿したが、それでもけっこう面白かった。サンプル感覚でもあり、しかし戯作のなかに写実の味わいがなくもない。
2004 8・31 35
* 「マーラーの恋」とかつてに名付けて読みふけっている寄稿の長い小説も、曰くいいがたい魅力と迫力とを保ったまま大車輪に続いている。読んだのはまだ六割ほど。だが一種の烈風であり、悪の華の匂いもむんむんするが、おめず臆せず書き進まれているのが、力になっている。作品が生きていて咆吼している。観念的とも概念的ともポルノとも決めつけるのは簡単だが、がむしゃらに状況を咀嚼して、作品が音をたてている。
時代の前線を拓いてゆくか、どうか、それはわからない。恐ろしく古くさいとも謂える。なにもかもまだ中途である。だが、可能性が予感できる。期待できる。最もよいかたちで完成させて欲しい、作者の不退転の根気と健康とが要る。物語は悪意と毒と病根とに満たされているので、統御する作者は文章と構成とにひとしお「健康なセンス」が望まれる。さもないと愚劣なほど低俗な新ポルノになってしまう。しかも、そのポルノは観念と概念とでだけ書かれていて、性の陶酔は書けていない
2004 9・1 36
* 「マーラーの恋」を読了。まじめな話、よく書いた。作者としてこれを書かずには死ねないと謂った動機を、よく仮構のなかへ注ぎ込んで、書くべくよく書き抜いたと思う。力作であり、問題作に育つ根が出来ている。大学世代の性と性生活、それも専らに女子三人を通して華麗に描いていて、むろんポルノ小説ではない。荒削りに、素材の膚もあらわな全くの未製品ではあるが、よくよく考え抜いてがっちり構成され、谷崎の謂う「構築的美観」をも、未完成ながらまずまず孕んでいる。ある面できつい切ない限界も持っている。どうにかならないかと思う。けれど、それでいて、大きな、まともな「文学」になりうる素質と才能とで書かれており、この初稿分にさらに多くを「書き加える」必要はない。この範囲内で、作品を「文学・文藝」に研磨し交響させる、センスのいい、根気も良い、うまい「手入れ」がほしい。
この作品、かなりの「音楽」をもう鳴り響かせている。耳を聾するまだ雑然の「音響」にちかいけれど、音楽へと統御されうる素質を抱き込んでいる。無用の雑音をカットし消して行くだけでも、見違えるものになるだろう。
大学生、それも一流校なみの大学生達の「性」ないし「性生活」が、臆面もなく材料にされている。それ自体は珍しいことでない。わたしが早稲田文芸科で、今活躍している角田光代らを指導していたとき、学生の提出してくる作品の多くは「性」がらみであり、しかも男子学生は「坊や」のように性的関係を悩ましく描き、女子学生はけだもののように露骨にはげしくそれを描いてきた。この寄稿された長編に生きている学生達も、この作品自体も、だから、わたしには珍しくない、が、書いているのはもう学生ではない。大学生を子にもった年齢の主婦なのである。
作品世間は中流の上ほどの奢りと華とに満ちていて、学生達は何校か横並びに、始終クラシック音楽の演奏機会をもっている。作中の音楽の扱いはすこしも軽薄でなく、ごく知的に要領を得て書かれており、はなやいだバックグラウンドを呈している。ジャズでもボーカルでもなく、マーラーであり、モーツアルトであり、ストラヴィンスキー等である。下品そうななにものもない、わるくいえば小贅沢なお上品社会なのであるが、その何もかもがエロチックの匂いに噎せも饐えもしていて、質実な風情は希薄、そこに展開する悲劇も喜劇も惨劇もが、みんな計算ずくに仕組まれていて葛藤するのである。それなりに、相当な作者の腕前である。
リアリズムではない、概念と観念のまるで生肉(なまにく)そのもの。新鹿鳴館ふうに舞台はぎらぎら飾られていて、作者の筆はそのなかで意外にこまごまと描写にも表現にも批評にも働いている。燦めくイイ表現が随所に見られ、そのわりに手垢だらけの俗句が少ない。それは、いい。だが不満はたくさん有る。一つ一つ立ち向かうしかないのである。
* ともあれこういう意欲作が飛び込んできたのは、少なからず興奮ものであった。
2004 9・2 36
* 饗庭篁村、岡田三郎と様変わりしたところを入稿して、つぎは岡本勘造筆記による「夜嵐阿衣花廼仇夢」毒婦物を寄稿し始めた。ま、オシルシの程度でと思っていたが、校正しながら先がもっと読みたくなり、どうやら予定の三倍ほどもやっつけてしまいそう、スキャンの追加である。ほかに林房雄、吉田健一、中村武羅夫の評論もスキャン出来てある。
2004 9・2 36
* 六時前。三時間ほど寐て起きて、「夜嵐阿衣」の校正を。こういうつづきものを、どう手に入れてか、新門前住まいの昔、幾種か読んだ。なかでも「佑天吉松」という名を覚えている。毒婦物も二三は読んだ。いろんなものに洗礼されているわけだ。
もう一眠りしたいのだけど、パチッと目が覚めて。しかも眠い。
七八月をかざってくれた天才速水御舟の白芙蓉が、酒井抱一金地の秋草図にかわった。
2004 9・3 36
* フウ…。ようやく岡本勘造「夜嵐阿衣花廼仇夢」初編を入稿した。予定分の数倍を書き足し書き足し入れた。同じならこういう「きわもの」の面白さがよりよく読者に伝わればいいと思って。明治十一年(1878)の「東京魁新聞」に続き物として掲載された毒婦物である。明治初年の近代文藝がいわば誕生の前兆のようなものか。思いがけず難儀な起稿に余分の力を入れてしまった。五編下まであるうちの、それでも初編だけであるが、どんなものかは分かるだろう。
2004 9・3 36
* 「幸福」の題の短篇は、あれで仕上がりです。
が、読者が「幸福」を受け入れるのは、十人が十人、この語り手が次に迎える「日々」です、それが書かれるだろうから、この「幸福」という巧い題の短篇を許容する。次が書かれないなら、此処に書かれてあることは、アタマで書ける程度の物、特別の発見ではない、というでしょう。だれもが、このアトへたぶん苛酷なほど孤独に展開する「出産」への日程を、作者は、いったいどう「書ける」のだろうと期待するわけです。
あるフクザツ微妙な「幸福」という題の一章は、ちゃんと書けた。しかし「別の題」のつづく第二章が提供されて初めて、この一章は、このまま「立てる」かどうかが評価される。読者は、同じこの主人公の「決意」の、明日や明後日を見届けたいわけです。
ほんとうにこの語り手の若い女性は「出産」しうるのか、別の選択を余儀なくされるのか、また何か別の出会いが有るのか、「長谷」との家庭があるのか別離があるのか、自覚はあるが孤独な女一人が、父なる男をすでに他界へ見送ったまま「その、わが子」を予期しながらの日々が、どう可能で、勝利するか挫折するか、さあその覚悟の程を見せて欲しい、見せる「約束」になっているぞと、読者たちは、作者に要求してくる。
そういう意味の作品「幸福」なのです。
これは「最初の一章」だけの題にとどまります。次は「希望」か「苦闘」か「寂」か「悲惨」か「歓喜」か、どんな題で書き切れるか。それが作者へつきつけられた、実は作者が自分自身に突きつけた課題・約束なんです。
そして多分、その一章「幸福」二章「**」とが合体して、いわば作者なりの長編「女の一生」第一部が出来るというわけですが、そこまで今は手をつけなくてもいい。しかしもう一章を、せめてそこまで書いて、初めて短篇「幸福」は小説として生きるんです。それを省くと、此の「幸福」は、アタマで造った、アタマでも造れる、それだけのおはなしに終わり、作者の力量も認識の深さも測られなくなる。
この作者、このままで次の章が書き継げるでしょうか、というのが、大方の好意ある読者の激励であり期待であり、一抹の不安です。わたしも、同じ。
意識を散開せず、ここは集注して自身を深く問うところです。ここで満足し立ち止まってはいけないでしょう。
* 結婚という制度のなかで日本の少子化傾向が改善されてゆくか、可能性はかなり険しく厳しくなっている。若い人達に結婚という制度の空洞化が感覚され、また家庭の女性にも男性にも「子を産む」ことへの深いためらいが出来ている。単線の不安でなく複合された制度と感覚・感情との齟齬が錆び付くように進行し、世の若い夫にも妻にも孤立の毒がまわりはじめている。しかも結婚よりは恋、とまでもなかなか心理も生理も成熟していない。結婚は惰性からも出来るが、恋には勇気が要る。そんなことを言わねばならない時代になっている。まして恋から孤独な出産が結果されてくると、現にその子を腹を痛めて生む女性は、まるで別の多様な問題を抱え込むのは目に見えている。それでも結婚するよりは良いと判断し行為できる基盤がすでに出来ているとも、なかなか謂えるわけがない。例えば、上の「幸福」という小説では、宿した子の父親をもう目と鼻とのさきで死のかなたへ見送らねばならない。しかも断乎「出産」すると自分の母親にも告げ覚悟はしていると言うが、その覚悟に迫り来る現実との対決は悉く「これから」の問題なのだから、この時点での覚悟表明だけでは、読者はとても説得されないのである。で、どうなるのか、と既に問うている。
少子化時代に「一人」の誕生が意味をもつのは分かる。誕生から成長・自立への道は遠い。その遠さに一人の女としてどう同行出来るかで、覚悟の中身は具体化する。先のことは分かるわけがない。しかし、「生む」ところまでは分かっていないとキツイことになる。作者が問われているのは、そこだ。
* 読み上げた別の作者の長編「マーラーの恋」は、「e-文庫・湖(umi)」に収めるなら、直ぐにも出来る。長編だけに隅々まで原作が完成され調整推敲されてはいないけれど、傷だらけの此の原稿のまま読者に呈しても、問題なく読み通させる「力」はついている。現に妻は読みふけりながら、「痴人の愛みたい」と言っているが、妻は大正期谷崎ではこれぐらいしか知らない。むろんそれは「過褒」であり、谷崎で言うなら「金色の死」とか「愛すればこそ」とか「愛なき人々」とか「友田と松永の話」とかに印象的にはちかい。徹したツクリ話に近い。
それであっても、わたしが文藝ものの編集者なら、(わたし自身の好みではないけれど、)この作品にはとにかく立ち止まって手にすると思う。結果としてモノにならなくてもモノにしてみたいと手がける。まだガナリ立てている大音響にすぎないにしても、手入れ次第でそこから或るシンフォニイが彫り起こせてくるだろう。そういう作品なのである。だから、ウカとは「e-文庫・湖(umi)」に公開しにくい。へんに悪意の人に持って行かれてはならないからである。
妻は、作者を知らない。「分かった、東京の小闇さんだ」と言っている。小闇が「私語」を絶って、もう半年にはなるだろうか、別のモノを「待望する」声はちらほら聴いている。だれよりも、わたしが待っている。だが「マーラーの恋」は東京の小闇の仕事ではない。
作品には、しかし東工大のオーケストラらしいグループが、主に男たちが現れている。わたしはこのグループの学生達を、今では卒業生達であるが。わりと多く知っていて親しかった。第一バイオリンやフルートの青年には「恩師」として結婚式に招かれているし、学生として愛していたすてきな女性が少なくも三人いた。うちの二人は今も湖の本を読んでくれている。読み進めていておやおやおやと思った。但し作品の世代とははっきり異世代で関係はないのだが。だが彼や彼女たちの演奏会には少なくも三度は上野や練馬やお茶の水へわたしも「先生」として招かれていた。「マーラーの恋」はそれだけでもわたしには奇妙な思いを強いてくる作であった。
わたしは音楽家の「マーラー」を意識して聴いたことがない。シンフォニイ五番というのを手に入れ聴いてみた。わたしの仮に附けておいた小説題「マーラーの恋」は作者のつけていた「悲惨愛」よりは文藝的で、音楽と小説との臍の緒を掴んでいるかも知れない。しかし作者の執着した「悲惨愛」にも苦笑しながら頷けるものは有る。
* ハタさん、なにをやってるんですか、あなたは。そんな声が無暗と聞こえて来そうだ。わたしは眺めているだけだ、わたしと称する心や体が動いて、今・此処でしていること、したがっていること、を。彼等は「わたし」でもあるが、実はわたしではない。わたしは、わたしの心でも躰でも「ない」のだから。
* 昨日、「エックハルト説教集」を岩波文庫で買った。わたしは「キリストにならひて」「マリアにならひて」等の信仰書を仕事の必要からも、それ以上の必要からも耽読したことがある。キリスト教とは立場のちがうローマ皇帝マルクス・アウレリウスの思索に心酔したこともある。それらはバグワンほどは透徹しないけれどもそれぞれに純然と人間的であった。エックハルトは或る傾きをもった信仰者であり、その傾向が彼の言葉を光らせている。その光りにともあれ自分を打たせたくて躊躇わず買った。
「マーラーの恋」や「夜嵐阿衣」とはちがう深い言葉に出逢いたかった。
* 毎晩、耽読というより熟読している『みそひと文字の抒情歌』の著者から、思いがけずメールを頂戴した。この「私語」で何度も著書に触れてわたしの感想を書いていたのが、どういうことからか著者小松さんのお目にとまったらしい。どういうふうにわたしの謝意を伝えればよいかいい道がなかっただけに、たいそうわたしも嬉しかった。申し訳ないことに美しい御本が赤いペンの書き込みで汚され放題だが、慌てず焦らず、あえて数頁ずつ毎夜読み進めて、十分に楽しませて頂いている。
2004 9・4 36
* 「マーラーの恋」の作者に動機を問い、返辞がメールで届いた。
* 短い期間に、あのように気の晴れぬ重たい作品をお読みいただき、本当にありがとうございました。私語と夕方のメール、涙が出るほど嬉しくいただきました。
悍馬のような欠点だらけの作品です。作品としての限界や欠陥に一つ一つ立ち向かい、根気強く書き続け、もし一つの「文学」にすることができたらと願います。どうぞ、厳しいご意見とご指導くださいますようにとお願いいたします。
作の動機となったものはいくつかあります。急いで書きますのでうまく謂えませんが、主要なものは二つでしょうか。
一つは、人間は愛されないことによってではなく、愛し得ないことによってこそ真実絶望し傷つくのではないか、という問いです。
もう一つは、女(男)は本当に男(女)を愛し得るのか、男女の愛は不可能ではないかという、心底からの疑問です。
性が介在する男女の間に真実の愛は可能か、という疑いに衝き動かされました。性は、人間の愛の不可能を隠し、見えなくして、気づかなくするためのものではないか。 男女には性があり、性愛はあっても、それがはたして真実の愛情に育ち得るのだろうか。
また別の問い方もあります。性のない男女に愛は存在できないのか……。性のないことは愛の入口にも入れないということか?
そして性のない「藍子」と性を謳歌できる「千晶」を創り、二人の観察者である「沢子」を配しました。
何かを振り切ることができたように思います。
* 四百五十枚ほどはある作品。功名心に駆られずゆっくり四百枚に近づけながら、作品の生命線を聡明に断たぬよう手入れが利けば、望みはある。
2004 9・4 36
* エックハルトは、最初の説教で、神殿から商人達を追い出すイエスにふれている。神殿とは神の己に似せて創った人間の「魂」のことで、魂をからっぽにし、そこには神だけがあるべきだと言っている。「商人」という措定にエックハルトは「取引」という言葉を引っ掛けている。「商人」に、あれこれをことばの質にして神に願い出る者たちをエックハルトはアテツケている。そんな「取引」に神はまったく応じないと。そういう取引に奔走する商人なみの人間どもは神殿に無用であると追い出すのである。
祈願という言葉の虚しさにわたしが漸く気付いたのは、数年ほど以前からか。願い祈りたいのは人間の真情の尤も赴きやすいところだが、だからわたしは自分自身にも悉くは否認しづらいのだが、すくなくも吾が為にいろんな誓いを差し出して願うことはしないでいる。他者の為にはまだ祈り願うことは容易に止められない。
2004 9・5 36
* 吉田健一先生の「言葉」という昭和五十二年の論考は、あの独特の旋回晦渋日本語によって興味深い機微を衝いている。スキャンが劣悪で途方もなく起稿に時間が掛かってしまうのが、口惜しい。
2004 9・6 36
* 服部撫松の「東京新繁昌記」は、全編漢文。読んで行くとなかなか面白いが、「ペン電子文藝館」には原文のママでは馴染まない。余儀なくわたしが読み下しの文章をつくっている、そのホンの一部が下記の如く。この作品は全編は十二分に長い。中から見出しの一つを選んでみても、それそのものが十分長く、読み下しの文にしおおせるのはいつのことか知れない。それでも面白くはあって、ちと困る。
* 待合茶店
都下、待合茶店ノ盛ンナル、船宿ト多キヲ争フ。通街ニ、横坊ニ、河岸ニ、橋畔ニ、或ハ祠地、或ハ寺域。凡ソ繁会ノ所ニ至ツテハ、戸ヲ比(なら)ベテ竈ヲ開ケリ。按ズルニ昔日ノ待合ト称スル者、東郭ノ人と西街ノ人ノ集議スル有レバ、スナハチ予メ某坊ノ某茶店ニ会スベキ約ヲ為シ、相待チテ相会ス。因ツテ其ノ名アリ。当今、客ノ此ノ店ニ来タルヤ、ソノ趣同ジカラズ。事有リ而(しか)シテ会スル者アリ。約有リ而シテ待ツ者モ有リ。書画ノ席ヲ催ス者有リ、囲碁ノ会ヲ開ク者モ有リ。往キテ外妾ヲ択ブアリ。来タツテ阿娘(あじやう)ヲ口説クモ有リ。媒酌ヲ談ズル者。歌妓ヲ招(よ)ブ者。或(ある)ハ冨士講。或ハ大山講。何ト曰(い)ヒ何ト曰フ、百般ノ集会、概ネ此ノ店ニ帰ス。中ニ最モ招ブベク最モ貴ブベキハ、則チ酒客ト妓客トノミ。名ハ則チ茶店ニシテ其ノ実ハ専ラ酒肉ヲ売ル、呼ンデコレヲ酔茶店と謂フモマタ可ナリ。或ヒハ妓ト客トヲ宿シ比翼ノ枕ヲ貸スハ、呼ンデコレヲ比翼店ト謂ハンカ。所在ハ高楼佳麗、使婢ハ嬋妍 (せんけん)。竈ヲ開イテ大ナル者ハ、ミナミナ比翼店ノ名ヲ下スベシ。
毎戸紙障ヲ鎖ザシ、右ニ則チ待合ノ二字ヲ書シ、左ニ則チ店号ヲ書ス。若竹トイヘ、梅若トイヒ、何トイヒ何ト曰(い)フ。店前二三ノ榻子(とうす)ヲ連ネ、蒲席(ほせき)ヲ敷キ、火盆ヲ副(そ)フ。側(かたは)ラニ両箇ノ茶竈(ちやがま)ヲオキ、朝(あした)ニ磨シ夕ベニ琢シ。光澤人ヲ鑑(てら)ス。階下ニ茶具架ヲ構ヘ、磁碗重畳、瓷瓶(しへい)陣列、蓋(けだ)シコレ用フルニアラズ。即チ茶店ノ招牌(=まねき)也。室内粲然、席極メテ清潔、一隅ニ三尺ノ小閣ヲ設ケテ、盃盤ヲ備ヒ、茶器ヲ飾ル。閣下ニ一酒樽ヲ貯ヒ、碧薦(コモカブリ)樽ヲ包ンデ、伊呂盛(イロザカリ)ト銘ス。樽前ニハ一大桶炉ヲ安置シ、鐵瓶(てつぺい)湯を滾(たぎ)ラシ、土瓶(どへい)ハ茶ヲ煎(に)ル。煖酒壷(カンドウコ)ハ則チ炉ノ隅ミニ在リ。壁間ニハ必ズ不動尊トトモニ客明神ヲ祭リ、金幣一聯、銀燭一双、天井ニハ皆ナ鳥ノ町(=鷲神社)ノ熊手ト初卯ノ繭玉ヲ掲ゲ、宝船(はうせん)空ニ浮カビ、金匣(きんこう)虚ニ懸カル。
* これだけでやっと「待合茶店」だけの七分の一だから、参る。しかし、ちくりちくりと諷刺が混じって、先を読んでいると妙に止められない。全編読むとべらぼうに面白いのだが、こんな読み下しをしていては堪らない。
岡本勘造の「夜嵐阿衣花廼仇夢」でも、饗庭篁村の「当世商人気質」でも、余儀なく抄録して載せたけれど、わたしは、ヒマを観ては続きを読んで楽しんでいる。戯作の腕前もバカにはならない、いや、手だれの言い回しに惹きつけられてしまう。
2004 9・7 36
* 暑く眩しく晴れて、風だけは残っている。
八冊の本を順不同少しずつ読み、湖の本の初校を終えて、二時に寐た。それでもいつもより早い。朝六時、なにとなく起きたがもう少し寐たほうがいいと、床の中で海外女優の名前を百人まで数えたところでまた寐たらしい。十一時前まで、いろいろ夢をみながら寝入っていた。
朝刊の一面二面、ムカッとすることばかり。
いま、自分の日々を眺めていると、わるい意味でない、むしろいい意味で無為を味わっている。無為自然とは行かない、不自然の混じるのにどう言い訳するか考え考え怠けているようなものだけれど、このラクに、どこまで心身を委ねてイイかはっきりは判らない。その気になればこのままやって行ける。それでいいのかどうか。抱く柱をみな捨てることになり、寒いほど寂しいかも知れないし、自由とはそういうものだと感じてもいる。
2004 9・8 36
* 昨夜も三時前まで本を読み、そしてなんと五時には黒いマゴに起こされたまま、なかなか眠れず、とうとう七時には起きた。メールが二つ来ていた。なかなか頭も始動せぬまま、途中で読みさしていた岡本勘造のきわもの戯作「夜嵐阿衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」全五編を読み上げた。別段傑作でもないが、達者に書き上げて行く戯作の妙の堪能できる読み物で。これは役者嵐璃かくも関わる幕末から維新後の実録きわものであり、週刊誌なみの小新聞はこういう「きわもの」の「つづきものむで人気を競っていた。それもまた文学史の一頁に相当していた。三遊亭圓朝の人情話も、このような講釈まがいの戯作も、黙阿弥のざんぎりもの歌舞伎も、みな幕末を引きずってきた前代の遺産であり、「夜嵐阿衣」にも式亭三馬や為永春水ら滑稽本や人情本の江戸情緒に学びながらの「戯作」なのであった。わたしも、そういう幕末ものでは春水の「夕告鳥」など艶に優しくて好きであった。明治のこの岡本綴る作の、角太郎とお八重の縁など、剽窃か盗作かと想われるぐらい春水のに似ている。「電子文藝館」には第二編の出だしまでを抄出しておいた。
実はもう一つ饗庭篁村の「当世商人気質」も抄出だが、これも最後まで自分では通読しておきたい。捨てがたい面白さである。
* 九時半。当然のこと、眠い。少し躰を休めたい。
* 目覚めて、なんと三時。徒夢の生。疲労感はとれていない。
2004 9・9 36
* 今、吉田健一というあの総理子息の「言葉」という考察を読んでいます。花はこの人のものは知らないかも知れない。まことに独特、独特すぎる旋回型饒舌体のとめどない文章なんですが、これが途切れようのない蜂蜜を掬っているみたいに美味で、また肯綮を得ているのです。わたしの「閨秀」を朝日の文藝時評で絶大に褒めてくれた批評のキーワードが、「言葉」だった。
いつも、言葉と向き合い、言葉を頼み、頼みすぎることなく言葉をいかすことを考えねばならないのが文学の創作者です。チャタレーは魅惑に富んだ言葉の藝術で、思想的にも骨太の大柄な名作です。ものの底から光ってくるようなファシネーションを感受して下さい。 風
2004 9・9 36
* 日付変わって一時半、漸く、吉田健一「言葉」を書き起こした。一にも二にもスキャナーが問題、精度のひくい再現性にほとほと泣かされる。それにしても吉田さんの「言葉論」は人間論であり社会論であり世界観である。面白かった、文体のユニークさももろともに。
2004 9・9 36
* 吉田健一「言葉」は起稿校正し、さらに念のために原本を手に全部音読して間違いなきを期した。「校正」はじつに難しい。一度の読みで入稿するのはじつはむりなのだが、わたしもまたそれを二度三度手元で繰り返している余裕はない。それで委員をも煩わすわけだが、原本原作をもたずにする常識校正には個人差が大きく、三人に読んで貰ってもそれで完全に覆えないことも起きる。普通の文章だととにかくも、ただでも個性的なはずの物書きの文章、それも特異さでは横綱級の吉田さんの作品では、常識が効きにくい。で、原作原稿をにぎったわたしの手元で翻読を繰り返すしかないという次第。興味深くまたもっとも至極の論旨であった。考え考え読んで行かせる文体と謂っておこう。
2004 9・10 36
* 林房雄の「作家について」というエッセイを読みかけているが、夜更かしの暮らしを少し是正すべく、今夜はもう機械を閉じる。十五分ほど前に日付が変わった。
2004 9・10 36
* 早く寐ようと思いつつ、昨夜も、結局枕頭八冊をそれぞれ読み進んで、四時近かった。いちばん気を惹かれて沢山読んだのは日本史の、薩長が「国事周旋」に乗り出してきて、新撰組が京都に露表してくるあたり。長門も薩摩も外国軍艦の武力に散々に打ち負かされて、尻ぬぐいのベラボーな償金を幕府が支払うなど、滑稽にもわらえてしまう成り行きも多く、尊王攘夷が必ずしも「反幕」ですらなかった「敬幕」ですらあった時期から、まちがいなく「反幕・倒幕」へ推移して行く動向、とうてい有り得ない攘夷の「実」が、天誅だの外国人襲撃だのたんなる目先の感情からの激発ばかりで少しも「事実」の見えようがない経緯、つまり無意味に近い「小攘夷」から、むしろ開国し富国強兵をはかって世界に覇権を示そうという「大攘夷」へと、雄藩の一部志士たちが動いて行く「開化・開明」への足取りなど、が、とてもおもしろかった。雑知識でこそ埋められてあるわたしの「維新前後」であるが、雑な知識がきれいに整理されて行く快さに惹かれるのである。
* ああ、そうだ。そうだった。幼かったわたしは、ある日、近くの東山線の古本屋で、欲しくて堪らなくて、あれで親によほどせがんだのであろう、分厚い一冊の古本を買ったのを思い出す。題は正確でない、内容は正確である。明治の皇族や元勲を初めとする、維新に寄与した志士や知名人達の網羅列伝的な紹介で、すべて位階勲等と写真つきの記事が並んでいた。ああそうだ、あれは『明治大帝』という題の本で、今いう記事はその附録のようにして明治天皇の事跡のうしろへ分厚くくっついていたのだった。
なんでそんな本を。その理由はわりとハッキリしていた。「人」への興味だ、歴史が好きで通俗の国史教科書を耽読したのも、興味を繋いでくれたのは(昔のこと、当然だろう)人物への関心や興味であり、人物を批評することで幼いなりに日本史が身に付いていた。「人」を覚えていると流れが見えてくる。明治維新ほどの歴史的に複雑な経緯をわたしは本能的に大勢の人物の名前と経歴を通して「雑知識」として貯えたのである。いまでも多くの名前をそれぞれの軽重にしたがい記憶している。それが、たとえば今読んでいる「日本の歴史」を吸い込むのに、大方役に立っている。
* この「人物」への抜きがたい興味関心で、一つ実を結んだのが、小学館から出た大きな叢書『人物日本の歴史』で、この企画と人物選定に、わたしは、編集者感覚で熱心に協力したのである。わたし自身もその中で「佐々木道誉」「山名宗全」を書いた。大勢の筆者が参加し、バラツキはあるものの今でも参考に資することのある、なかなかの叢書だった。
2004 9・11 36
* 朝に林房雄「作家として」を、晩には中村武羅夫「誰だ? 花園を荒らす者は!」を校正し終え、入稿した。ともに文壇的には記念碑の一つずつである、評論。
林房雄は、作家生涯にいわば二度大きな転向をした作家で、戦後には公職追放され、また「太平洋戦争肯定論」で物議を醸した。彼最初の転向後、第一声うちあげたのが今回「ペン電子文藝館」に入れたい「作家として」である。転向したとはいえ、まだ明らかに脚をプロレタリアート文藝の基盤にしっかり置いている。論旨では只一点、「文学は政治にしたがうのが正しい」としているのが承服出来ないにしても、それ以外、大方肯綮にあたって説得力がある。ことにバルザックとゾラを引き合いに出した比喩による議論は、分かりいい。物書きには「記者」と「作家」がいて、ゾラは前者、バルザックは後者、自分は前者たるべき者とばかり考えてきたのは間違いであった、作家はけっして記者の域に止まってはならぬとしている。
記者とは、原鉱石をせっせと運搬してくるトラックであり、作家とは、それを溶かして輝く金を表出してくる熔鉱炉だと謂っている。数ある作家のうちにも、記者的残滓ののこる人や作品があると林は言い、鴎外の歴史小説がそう、名作ではあるが藤村の「夜明け前」もそうであり、トルストイの「戦争と平和」などは金無垢を溶かしだしていると言う。ルポルタージュ文学、ノンフィクション小説の陥りやすいところを予言的にかなり厳しく衝いていたとも読める。
それはそれ、「リアリストにして、もしかれが藝術家なら、人生の平凡な写真をわれわれに示すことなく、現実そのものよりもつと完全な、もつと迫るやうな、もつと納得できるやうな人生の幻影をわれわれにあたへるやうにつとめるであらう。」とは、林房雄の言ではない、引用である。この素晴らしいとしか言いようのない至言は、モーパツサンのもの。この一句で「文学」は足りる。
中村武羅夫は、当時我が物顔に文壇を騒がせていたプロレタリア文藝戦線に対して苦言を叩きつけている。その論旨はこれまた肯綮を得て、なにをかいわんやという記念碑的な一文。
* そういう人がいて、そういうことがあり、こういう文章が文藝の一環として書かれていたことを誰が後世にも証言するのか。「ペン電子文藝館」はその役にたたねばならない。右寄りの主張も傾向も表現も、左寄りの主張も傾向も表現も、それらからまた離れて価値ある主張も傾向も表現も、そういうものが歴史的に在って人を動かしていたという意味では、「平等に認知」していいのである。
2004 9・11 36
* 四時から七時半まで昏睡していた。土日は、せめてはやくやすもう。明日の日曜は、機械の前から離れて上野か竹橋かへ繪を見にゆこうか。混む休日にわざわざとも思うが。そうそう鳥山玲さんの個展が明日で終えてしまう。散髪もしたい。週明けには二月ぶりのペン理事会がある。うかうか五日の「金剛の能会」はミスしてしまった。あれこれ招待券が輻輳していて、つい、ミスチャンスしてしまう。眼精疲労でバテてもいる。妻もバテ気味。気分を新たにしないといけない。
* と言いながら、たてつづけに数本の佳い評論を読んだ。伊藤整の「求道者と認識者」は『文壇と文学』連載の一章であるが、瞠目の洞察と鮮やかな整理。
伊藤整や平野謙や中村光夫を耽読していた若い日々を思い起こす。近代文学史は概してこういう国文学者でない大きな才能により耕作されてきた。作品の読みが学者の場合どうしてもこまかくなる。大きくない。文学文藝への愛情や傾倒の深浅が結局成果を分けている。谷崎学など、どう転んでも学者達の器量が作家の前で小さすぎて、その証拠に、少しも谷崎学の成果が評判にも何もなってこない。伊藤整の谷崎論なんてものは、革命的な足場を創ってくれた。そういう仕事が国文学の学徒からまるで現れてこないのはどういうことか。すばらしい新知見、めざましい新提唱、そういう評判を耳にしない。どうしたのか。
2004 9・11 36
* 西垣通さんから「アメリカの階梯」を、菱沼彬晁さんから「中国現代戯曲集」を頂戴。栃木の梨、鳥取の二十世紀、関西の海苔など、戴く。
2004 9・12 36
* 三時半に寝て六時前に、パチリと目が覚めてしまった。起きてしまって、福原麟太郎のエッセイ「人生の幸福」を読んで、校正した。その前には、高見順の「描写のうしろに寝てゐられない」を入稿した。
この睡眠で、からだがもつわけない。昼寝や宵寝で睡眠を補うことをためらうまい。
朝一番に、佳いメールが入っている。
2004 9・13 36
* 伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」を抄出している。福原麟太郎の随筆「人生の幸福」を読み終えた。ほぼ五時間つづけて仕事していて、まだ十一時。早起きは効率がいいけれど、これは明らかに無理。頭痛がしてきた。少し階下で横になってくる。このぶんでは、また今日も不義理を重ねるか。
2004 9・13 36
* 田中美知太郎先生のお話を、数多くではないがわずかな期間(一年)大学院にいて、教室で聴いたことがある。なにしろ哲学研究科は人数が少ない。美学からは大森正一君とわたしとの二人だった。大森君の学部の卒論はプラトンだったし、田中先生はいうまでもない日本のギリシア哲学の最大の先駆者であり泰斗であった。それだけではない、優れて現代的な批判精神とヒューマニズムに立脚した論客として時代に重んじられていた。
いま先生の「古典教育雑感」を心してお話を聴く姿勢で読んでいるが、襟を正させる。この一文は、昭和三十四年、わたしがすでに大学院を見限って東京に出、就職し結婚し、谷崎潤一郎の「夢の浮橋」を読んだかという頃の「新潮」九月号に発表されている。
* わたしは、やたら、昔はよかったなあと古きよき時代に後戻りしたいタチの者ではない。とはいえ、田中先生のこういう毅然として風格確かな論述を読み、一方に今日只今の新聞を読みテレビの報道を聴いていると、ほんとうに今世界はどうなってしまっているのかと暗澹としてしまう。国家の犯罪、テロの犯罪、政治の犯罪、団体・組織の犯罪、野合の犯罪、個人の犯罪、家庭内の犯罪。そして虚しい死の山も築かれている。悲しみも怒りも萎えてしまい生きる喜びすら萎えて行きそうになる。
わたしが「ペン電子文藝館」の作品を読んで選んで作業に打ち込んでいる一つの誘引には、優れた人と文章とに同行している嬉しさが有る。大きく有る。読書の体験のなかでわずかに苦しい息を調えて、この現世の汚辱に堪えているとすら言いたいほどだ。なにもわたしが清廉で清潔で高雅に生きているわけではない、それどころかわたしもまた罪と罰を負うた一人と指弾されて仕方ない生き方をしていると思う、大洋の水をスプーンで奪い取る程度のことにしても。
あーあ、ほんとうに、元気にいい空気を胸いっぱいに吸うて、爽やかに安心して生きられないものか。情けない弱気ばかりに身を細らせていては情けない。
映画「ディープインパクト」に胸打たれるのは、あの絶望的な地球の危機にいたって初めて世界中が一つの祈りと希望とに縒りあわされるさまが、一種異様に清らかに感じられるからで、それは今今の日常への厭悪と表裏しているのだろう、健康なことではない。
2004 9・13 36
* 五時過ぎに起きてしまった。萬田委員の宮嶋資夫「坑夫」の校正が来ていて、長い原稿と逐一照合し、業者へ訂正指示を出した。
* 田中美知太郎先生の「古典教育雑感」は、まさしく謦咳に接して間もない頃の、どことなく一刻な言表と読ませて頂いた。
歴史記述への接し方で、われわれはどうしても通俗な時代区分に盲従しながらよんでいるものだが、いわば水平思考で発想を転換すると、ギリシア・ロマの時代と近代・現代とを「同時代」とも読め・読まねばならない展望が見えてくる。ギリシァ・ロマの古典時代に学んだ近代史家トインビーはそういう提唱をしているし、田中先生はそれを強く継承されている。
わたしはトインビーにも田中先生の著書にも残念ながら疎かった方であるが、この「同時代」感覚を非常に早く、我流でもっていた。そもそも時間を線的な延長として捉えずに、空間と時間とともに風船のような、宇宙のような「球体」にとらえて、その膨張と縮小とで「歴史」を読めばいい、そうすれば、球の大小にかかわらず歴史とは大きな大きな「同時代」なのではないかと「空想」してきた。だから、わたしは小説の時空を何千年隔てていようと同時代感覚で書くことを繰り返してきたのである。紫式部も後白河院も新井白石も最上徳内も、わたしと同時代人であると思える仕掛を「歴史観」として持っていた。物の譬えに「桜の時代」と置いて「古今集」と「細雪」とを同時代のものと読むなども、その応用であった。それは、田中先生に教わったのではない、だが田中先生の此のエッセイにもそこへ鋭く通じて行く論旨があり、懐かしかった。
* さ、伊藤整を読もう。この大先輩の「詩」が好きだった。東工大で語学の教授をされていたと聞いていて、江藤淳さんのアトヘ来てくれないかと言われたとき、伊藤整さんのいた大学だと、背を押された気持ちになったのを忘れない。伊藤さんの評論を本当に宝物のようにたくさん耽読してきたのである。
2004 9・14 36
* 朝十時。伊藤整「求道者と認識者」を読み上げた。これは、「ペン電子文藝館」全体、少なくとも読み物等は除いた近代日本文学の素質や傾向を大づかみにする上でも、これ以上はないほど適切な把握である。平野謙の三派鼎立論、つまり日本近代文学は私小説派とプロレタリア派とモダニズム派で成ってきたという説が素晴らしく優勢であったときがある。だが、いまどきプロレタリアという言葉すらもう死語に近いし、モダニズムという物言いも古びてしまっている。たしかに私小説を書いている作者はまだ異様に多いのだろうけれど、他の二つが有名無実の名付けになっている昨今、もう平野の三派鼎立論は歴史的使命を終えたのである。
しかし、日本近代文学がまさにいろいろであることは、「ペン電子文藝館」の仕事をしているといやでも感じるし、読者も感じていると想う。そういういろいろを文学史として交通整理する優れた視点は、やはりぜひ必要なのである。その意味で伊藤さんのこの論説は、今もかなり、いや甚だ有効であり、代替の有力説をわたしは知らない。物故会員伊藤整のこの論文を「ペン電子文藝館」に戴く意義は、だから、莫大なのである。
これが面白く興味深くかつ実際問題として有用なのは、この中に、中野重治らによるプロレタリア文学観からする強烈な文学史志向もまた紹介されていて、それも我々は一つのものの見方として憶えていてわるくない。われわの文学の常識に、どういう段取りでたとえば樋口一葉や石川啄木が今日のあんな巨大さで定着したかが、わかる。伊藤さんはそれに厳しい疑問符もつけている。一葉など、少女小説じみた「たけくらべ」と日記への私生活上の興味以外に何があるのかと厳しく、啄木の短歌と幾つかの時勢批判の評論をのぞけばその小説も詩も読むに値しないことは、わたしもまったく同感である。そして伊藤さんは、近代に卓越した何百年に一人といえる大作家は谷崎潤一郎であると言い切り、同じことを言い切っていたのは伊藤さんも触れている正宗白鳥であり、また優れた文壇文学史家であった勝本清一郎である。
わたしは、いうまでもなく「谷崎愛」を持って自認してきた作家の一人なのである。
兎に角も伊藤さんのこの論文は、「剴切」とは之と謂えるほど、おみごとである。非常に適切で実状に好く当てはまる。願わくは通俗読み物、大衆読み物、ノンフィクション等を含めてもこれが多分謂えるであろうことを誰かに丁寧に論証してもらいたい。
* ご遺族の掲載ご了解も得てある。
2004 9・14 36
* 当然ながら、続々入稿すると続々「校正」が出て来る。これまた大変で。朝から高見順の「描写のうしろに寝てゐられない」を読み直した。一個所ミスがあった。このところ評論を続けざま扱ったが、いずれも現代のすぐれた「文学」「文化」論説であり、大勢に読まれたい。おいおいに本館へあげて行く。
2004 9・15 36
* 昨日、若い友人の論文を二つ読んで二つとも興深かった。同志社大学教授田中励儀さんの鏡花作品「黒髪」また「瞿麦と竜胆」の成立までを草稿・原稿・校正原稿・初出原稿等から探ったモノで、国文学研究のもっとも基盤的な仕事。
今一つじつに興味深いのは植物病理学者真岡哲夫さんの、「茶道」の流派展開を点前作法から、「非生体遺伝学」の方法を用いて精査した論文で、これには、及ばずながら、感嘆した。考古学にも、必ずしも土中埋蔵品その他の常識的なモチーフに限らない例えば医療技術の考古学も書籍考古学も武器の考古学もあるのは知っていたが、非生体遺伝学という方法論をいかせば、茶の湯の点前作法の流伝変相もこうあとづけられて、私にも十分納得のいく結果が見えてくるのだから、思わず膝をうった。
興味深いことは、こちらの感性次第だが、いろいろあるのだ。血眼でさがすことはないけれど、出会いの楽しさに生き生きと反応できると、嬉しさが、からだにのこる。
二人とも「湖の本」の早くからの有り難い読者である。
2004 9・16 36
* 田辺元と唐木順三の往復書簡、佳境。さすがに胸うつ佳い応酬があり、麗しくも羨ましい。詩、絵画、文学、哲学、宗教、そして死と生と、自然。日常生活や金銭問題、健康と病気と深まる老いと。また死別と。
「恋路ゆかしき大将」に惹きこまれ、かなりの時間をとって耽読している。なんなんだこいつらはとも思いながら。
「今昔物語」は佛教から一応離れて世俗の部に入って、一語が長くなり物語らしくなってきて、面白い。さすがに、ただ読み進めているだけでは、ちょっと惜しくなるぐらい。
そして「徒然草」がいまの心境に寄り添ってくるように、しみじみと読める。死を、というより死の近づいていることにもっと心せよと兼好は繰り返し言う。そのとおりだと思う。死は向こうから来るのではない、背後から迫っているのだと。そのとおりだと思う。「今・此処」に確かに在りたい。
2004 9・17 36
* 血糖値に問題なく、また何だかいつも一番気にされる値が、6.9 とかで正常値のところへ下がってけっこうであると。わたしの方までキョトンとした。この夏の夜と昼の逆転、運動不足、体重のすこしではあれリバウンド、などと好い条件はまるでないと少々フテくされ気味であったのに。
で、食べて、飲んで、読者でながいながい付き合いの可部美智子さんの人形の個展を小田急本店で見てきた。ご主人と二人で我が家へもこられ、そのご主人が急に亡くなられ、あれから四半世紀は過ぎた。可部さん、もう七十二、三だという。女流陶芸展の各賞審査に駆り出されて以来のおつきあいで。「風神」が顔も動感あふれる躯体も、よく出来ていた。焼き物の人形を始められてからも久しい。
小田急デパートへ着いた頃、急激に疲れていた。なにしろむしむしと暑すぎた。病院の外来がそもそも暑かったが、昼食に酒をいれてまた暑くなり、加えて眠くなり、疲れたのであろう。
* それでも池袋からの西武線では、木下尚江「火の柱」をずっと読み継いでいた。佳境に入っている。卑俗な書きザマであるが、三派鼎立でいうとプロレタリア派文学の嚆矢に相当していて、中野重治の強い主張では日本近代文学の正格の本筋を成す最初の作家であり小説であるということになる。どう読んでみても、だが、通俗の味は免れない。
駅から歩く元気なく、タクシーを使った。あれこれしているうち、もう六時半になった。
2004 9・17 36
* きのうのあの困憊は、熱中症ででもあったのか。べつに日盛りをむちゃくちゃ歩いたわけでないのに。帰宅から結局今朝まで十数時間昏睡していた。からだが弱い弱いとふれこみの雀さんの、歳のほども分からないが、元気なことには降参する。
湖の本の再校が出来てきた。発送の用意は何一つ出来ていない。また手厳しい秋の陣になる。
夜前もバグワンと兼好さんとに、いろいろと、したたか叱られ続けた気がしている。
2004 9・18 36
* 演技派と聞いているジュリアン・ムーアは、そんなに惹かれる女優ではない、「ダイ・ハード」のブルース・ウイルスの妻役や、「逃亡者」の中で検査士に化けて病院にもぐりこんだハリソン・フォードを疑い、胸の身分証明書を老化で引きちぎる女医役などやっていたと思う。記憶違いかも知れない。
とにかくこの映画に較べると、さすがに「ロリータ」は名優揃いの名画だった、繰りかえし観ても面白く笑ってしまい、心惹かれる。スー・リオンのロリータも適役だが、ジェイムス・メイスン、シェリー・ウインタース、ピーター・セラーズが三人揃って角逐すると、ただただ呻ってしまう。適役なんてものじゃない。そろって主演賞ものだ。シェリー・ウィンタースは女としては苦手型ながら、「ロリータ」の母・妻役の生彩に満ちて女臭いところは、三度も四度も脱帽する。ピーター・セラーズがまた堪らない。どういう役者じゃいと悩ましくなるほど、うまい。イヤミ臭みもあれまで行くと至藝というしかない。そしてジェイムス・メイスン。「北北西に進路をとれ」などよりも、これだ、と思う。
わたしは「ロリコン」系ではない。女の魅力は「歳」ではないかと思う方である。だがナボコフ原作の「ロリータ」は読んでみたい。うちの世界文学全集に入っていないかな、ナボコフの在るのは分かっているが。
ずっと昔に集英社から全巻貰った「世界文学全集」はお宝もので、二十世紀世界文学。それで何十巻かあるのだから、これを読まずに死ぬのは勿体ないわけだ。プルーストあたりがいちばん最初の巻だったと思う。一巻の量もびっしりと二段組みで多く、かなり永年敬遠してきた。勿体ない。
2004 9・19 36
* おなじ映画を観ていた。「Uボート」と似ているが、出来はあれほどではない。「眼下の敵」ほどドラマチックなつくりでもない、しかしハラハラして最後までみた。やはり小説「女王陛下のユリシーズ号」を思い出していた。海戦ものの小説では、いやありとあらゆるサスペンスものの、いや文学作品の多くと較べても白熱した傑作が、アレだった。ボブ・ラングレーの「北壁の死闘」も素晴らしい作品だったが、「女王陛下のユリシーズ号」の感動は遥かに強烈なボディブローを呉れる。
2004 9・19 36
* 新たに送られてきた一読者の長編小説「トロイメライ」を、夜前、読み終えた。よく推敲された達者な運びで、ところどころに通俗な決まり文句が邪魔な石ころのように残っているのを取り除けば、ほとんど何の手入れも必要なく、そのまま、お上品な中流家庭お好みの、いい香りのする読み物として、おみごとにもう仕上がっている。
藝術的雰囲気の馥郁とただよう一流音楽家の世界で、シンデレラのようにこころよい少女が、世界的な選抜コンクールで、不思議な因縁がらみに脚光と称讃とを浴びて行くサクセスストーリー。段取りはかなり丹念に書かれていて、一部肝腎なところがやや「説明」に流れそれも手薄いかもしれないけれど、弥縫可能の程度でもちこたえている。
一人の少女をもりあげて、大人の誰もかもがいわば献身している。徹底的に、芯になる少女像が賛嘆讃美に近いほど守り抜かれていて、本当の意味での才能の開花を実感させる苦闘も苦悩も挫折もない、いうなればヒロインは一天才かのように「全」肯定されている。もしもこれが作者のみぢかな存在を、モデル風に意識して書かれているとしたならば、これほど身贔屓のナルシシズム藝術家小説は、「異様」と言い捨てていいのかもしれぬ。この作品には真の意味での主人公があたかも不在かのように、ヒロイン自身は他者の親切や愛にやすやすと身をまかせている。
そして最期の「トロイメライ」の弾かれる場面で、わずかに心境が漏れて出て、その効果はわるくない。だが、それも「説明」されている。
この作品、筆致や空気としては、このまま進んで、ある一方へ逸れて行くと堀辰雄めく世界へ滲むように溶け込むともみえるだろうし、べつのもう一方へ逸れて行けば、むかしはよく有った通俗でお上品な「少女小説」という感じへ傾斜し沈没してしまう。
いずれにしても、これは、或る善意にも運命にも見守られた、あれよあれよのサクセスストーリイであるから、不愉快さは、すこしもない。成功の一瞬など、当然ながら或る感動すらある。うれし泣きする読者は少なくないかも知れない。
しかしこの小説は、真摯な求道者の小説とも思われず、人間認識の深みを示している作品でもない。イヤナ気分にはさせず読んで後味の好い作品にとどまっている。何の問題ももたなく見える一人の成績「オールB」級お嬢様が、かなりの問題をかかえている才能ある大人達に、かつがれ、まもられて、思いがけない高みへ押し上げられて行くという(それだけの素地はあるのだが、)けっこうなお話以上には出てくれない。
しかし、その限りでは、うまく、見事にといっていいほど書けている。
これまた、かなり音楽世間、東京芸大だの音楽教室だのコンクールだのの裏事情にも表事情にもくわしい。西欧文学にも古典音楽にもハイな趣味能力をもった作者の、むしろ意外なほどらくらくと書き上げたらしい作品であり、とうてい若い書き手とは思われない。
先日「悲惨愛」と題し、それはあんまりなとわたしが勝手に「マーラーの恋」と改題した作品と、ほぼ等量の長編小説であり、文章や、流暢さということでは、比べものにならないほどこの「トロイメライ」はよく推敲されており、贅沢なほどお上品におさまりかえっている。文藝のうまみも数等抜きんでている。
「マーラーの恋」は、もう、有りとある手足を大車輪にぶんまわした、よく言って「力作」であった。やはり音楽が上手く使われていたし、そしてここでは、大人たちはほとんど責任圏外にあって、東工大や聖心大ふうの音楽好き学生たちが卍巴に絡まり合って主役を演じていた。活気はすごいほどだった。
今の時代にフィットしてゆくとしたら、やはり「マーラーの恋」の方だろうか。これには男女の悲劇が、極限の性的惑乱が仕込まれ表現されていた。音楽という藝術も意味ぶかく参加していたが、なによりも当節の奔放な、奔放すぎる性の饗宴や氾濫がどぎつく表されていた。恋。いや、かれらの性的関係を主にした「付き合い」小説とすら読まれかねない。
それでもなお、この作品ですら、昔風の言葉づかいを用いれば「プチブル」的な臭気もいやみもムンムンしていて、必ずしも当節の若い文学読者たちに好意的に受け入れられるか、すんなり素直に通るかは、かなり案じられる。最近の若い人達の受賞作も問題作も、伊藤整に従うなら、やはり厳しい「人間認識者」として作品を追究しているからである。
まして「トロイメライ」となると、中年以上のロマンチック夫人や老夫人たちの涙と共感は、またテレビドラマ慣れしたミーハーの讃美は得やすいだろうが、読み終えてしまえば二度三度読みたい刺戟は薄いと言える。売り物の本には直ぐにも成っていておかしくないけれども。それくらいうまいものである。
2004 9・20 36
* 笠間書院は日本の古典・歴史の専門出版社として知られており、多年、いろいろの付き合いがあったといえば有った。近年は、中世物語叢書を贈り続けられていて嬉しいのだが、近刊の「恋路ゆかしき大将」一巻は、ことに、なぜか惹き入れられて読了した。鎌倉時代に入ってからの物語も幾つか有名なのは読んできたけれど、このシリーズの大方は題も知らぬ作品が多く、予定の半分ほども刊行されているのを、全部読んでみたくなった。物語というと、亡くなった中村真一郎さんに大きな本があり、書評も頼まれた。ろくな書評も出来なくて申し訳なかったと今も思っている。懐かしいお一人である。
2004 9・21 36
* 伊東静雄の「わがひとに与ふる哀歌」を林富士馬さんにはやくに頂戴した文庫の編詩集から抄している。関西の文学者たちにことに伝説的に愛されてきた詩人で、日本浪漫派の広い輪の中におさまる詩人なのでもあろう。かなり歌い上げている人のようにわたしは感じてきた。わたしは、保田与重郎に代表されてきた日本浪漫派の文学にはあまり感受性をもたない。パセチックなのがつらいのである。日本と言い浪漫と言い、わたしの好みのように思う人もいたけれど、むしろ対極的なところで書かれていたもっと地を這って苦しんだ人たちの文学文藝や、もっと落ち着いた物言いと心境で成される文学文藝のほうに親しんだ。日本ということにこだわるにしても、せいぜい川端康成どまりでよろしく、わけもなく偏して抱き柱にすがりついた人たちは敬遠し続けたのである。むろんそういう人のも、勝れた文章や詩は、偏見なく「ペン電子文藝館」に取り入れたい。
2004 9・22 36
* 早起きして、伊東静雄の詩を二三書き起こした。「わがひとに与ふる哀歌」を抄する積もりで居たが、この分では全編書き起こしたくなるようだ。詩の鑑賞としては最適の方法で私は読んでいるのかも知れない。一字一字の措辞そのものにわたしは手をうける。詩人の気持ちが流れてくる。
2004 9・23 36
* 「日本の歴史」はついに『明治維新』の巻に到達、江戸時代を通過した。神話・原始の時代から二十巻、一万頁近くを読み越えてきた。そして気付くのだが、明治維新から現代までの歴史記述を通覧した体験をわたしは持ってこなかった。むろん断片といっても莫大な知識をこの百数十年について蓄えてきたに相違はないが、歴史記述で通読したのは、大学受験の頃に「京大日本史」という叢書をたぶん通読したのが一度きりだろう、それも近代史まで行っていたかどうか。なんだかおかしいが、「未知」の歴史記述に入って行くどきどきする気分である。
2004 9・25 36
* 「美術京都」の第三十三巻が届いている。「京の町屋の瓦鍾馗」という服部正実氏との対談が出来てきたわけだ。梅原猛さんと交替で巻頭対談を続けて、途中一度梅原さんの病気休回があり、つまりわたしが十七回分、ゲストを招いてインタビューしている。今回のはなかでも好企画の一つではあるまいかと思っている。この巻にはまた論説として神林恒道氏の「京都美学事始」の(上)を掲載した。この雑誌は今では巻頭対談とかなり長編の論説一本とで出来上がっている。
* 九大教授今西祐一郎さんから『日本古典偽書叢刊』第二巻を頂戴した。「菅家須磨記」「清少納言松島日記」「山路の露」「雲隠六帖」「盛長私記(抄)」「阿仏東下り」「兼好諸国物語(抄)」が収録されている。偽書は面白いだけでなく、時に有益な別の視野を与えてくれる。だれでもちょっと考えてみたり書けるなら書いてみたくなる。
わたしにも「ある雲隠れ考」と題した現代小説があるが、この巻にも「山路の露」「雲隠六帖」という源氏物語の偽書が入っている。「山路の露」はべつの叢書で最近読んだばかりで、おもしろかった。こういう本を贈って戴けるのはまことに嬉しくありがたい。読書の冥利である。
南坊宗啓の「南方録」は茶の湯の最も優れた道書であるが、これも偽書なのである。西行の事跡に多く触れている彼の著に擬した「撰集抄」もまた恐らく偽書として実に優れて有り難い本である。人のなす事は端倪すべからざる不思議を帯びる。
* 竹西寛子さんからも与謝野晶子を考察された一書を頂戴している。与謝野晶子は衰えることなくむしろ関心の度を時代の要請としても深めている。
2004 9・25 36
* 雨。冷える。
* 伊東静雄の処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」全編を丁寧に電子化した。いま、念入りにさらに校正している。萩原朔太郎をして即座に「日本にいま尚独りの詩人がある」と喜悦させた一冊、詩人二十九歳の記念碑である。独特の措辞に満ちあふれたメタファ(隠喩)の魅惑横溢。「ペン電子文藝館」にまた一つの重みを加えるだけでなく、この愛惜いまに久しい詩人の面目を世界へひらくのは嬉しい限り。
2004 9・27 36
* ひさしぶりに平家物語をあらまし囓りなおした余韻が残っているが、今一つ「明治維新」がすこぶる面白い。慶応三年はまことに日本史上稀有の波瀾と緊迫の年であったが、徳川慶喜と会津桑名藩ら幕府勢力、とくに岩倉具視がかきまぜては引率していた公家勢力、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽らの藩主勢力、そして雄藩薩長ことに薩摩の大久保一蔵と西郷吉之助の頑張り。これらの渦の中で時勢と世界と日本とを見据えて中央突破を果たしたのは大久保と西郷との胆力であり先見であり確信であった。そのはげしい渦巻きを眺めていると興奮を禁じがたい。
いま、日本と米英とが戦争したことすら知らない若者が一杯だという。縄文や弥生の時代も大切であるが、近世・近代史を真っ先になんとか教室で教えられないものかと思う。
2004 9・28 36
* 加藤克巳氏八十九歳の『自選一八○○首』から、沖ななもさんに依頼して百八十首選んでもらった。すべて読み終えて不審三個所を問い合わせ、返辞を得たので、入稿する。京都府綾部に生まれ、昭和四年埼玉の浦和中学二年ごろから歌を作り始めて、翌年牧水系の歌誌に入り、國學院で折口信夫らに学び、やがて自ら「短歌精神」を創刊、昭和十二年に第一歌集を出している。厖大な作歌と評論を書いてきた人である。あえて「ひとりのわれは」と総題を選んでみた。
いち膳のあしたあしたをかみしめてひとりのわれは生きねばならぬ 加藤克巳
* 最近送られてきた会員須藤徹氏の俳句集「朝の伽藍」には心惹く確かな表現が多く、印象に残っていた。須藤氏から重ねてわたしに限定版の句集「宙の家」や同じく「幻奏録」また俳句論集「俳句という劇場」が贈られてきた。句集はやはりわたしの心を動かす物があり、懐かしいと感じている。あらためてメールも戴いた。忝ない。ドイツ哲学を専攻され「ハイデッガーとヘルダーリン」が卒論であったという。
2004 10・3 37
* 明治維新の原動力はと聞かれれば、主として薩長土肥等西国雄藩の下級軽輩武士という相場になっているが、彼らだけで、幕府に勝てたわけではない。そこに「草莽」と総称された農山村や宿場町の指導者層の身を挺し私財を捧げた熱い参加があった。その一例は藤村の「夜明け前」に描かれた、中津川はじめとする東山道、中山道、木曾街道等の本陣や庄屋たちの奔走がある。藤村の父に当たる作中の青山半蔵もその熱意の一人であった。彼らのいずれかは志士となり活動し、半蔵等は心と金品とで懸命にこれに関わった。
そういう指導層たちだけではなかった。長州が再度幕府軍の征討に遭いながら、これを一蹴しえたのは、長州の軍にはさまざまな庶民階層が諸隊として組織されていて、彼らは自らの故国を守りつつ自身の社会的な地位や実力を底上げしてゆきたい熱望をもっていた。幕府軍にくらべて雲泥の差で意欲が燃え上がっていた。
西郷、大久保あるいは木戸、伊藤、山県ら薩長の維新指導者らはこういう庶民を組織することで藩権力にも優位を示して、敬幕から反幕、さらに倒幕へと歩をすすめたのだった。彼らは民衆の力を知っていた。恐れてすらいた。
明治維新とは、少なくも国家万民の維新であった。
だが、維新が成り、天皇制統一国家の官僚制度等が整い来るに連れて、薩長中心の士族新政府は、国民を大きく裏切り続けてゆくことで、中央集権の苛酷なほどの実を得ていった。慶応三年から四年を経て明治となり、三年四年にいたってなおそういう国民の不満から起きる一揆や打ち壊しは鎮まるどころではなかった。初めは反幕で、後には反新政府で国民は屡々蜂起し、しかも、確実に新政府の統制と軍力により抑え込まれた。看板に大きな「偽り」を露呈しつつ、それを糊塗し、むりに正当化することばかりが積み重ねられてゆく過程は、じつに無惨というか口惜しいというか、褒められた仕儀ではなかった。
それでも、安政以来の不平等条約の改善を断乎として念願したのは筋道であったし、そのために岩倉具視以下木戸・大久保らをはじめ新政府開明官僚派が、つまりは新政府最高指導者等の大半が、大使節団を成して、アメリカを皮切りにヨーロッパ諸国へのいわば修学旅行に出、条約改善へのこまめな前交渉に当たったのも、やはり「英断」と言わねばならないだろう。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の維新三元勲はその名に恥じない威力を維新の実現に発揮し、さらに維新新政府の性格づくりに強引な権力を発揮した。坂本龍馬が此処に加わっていれば、少し様子は変わっていただろうが、明治維新を曲がりなりに国家万民の力をかりて成し遂げ、国家万民の名目のまま薩長政府を強引に仕上げて、国民に極端な貧乏籤をあてがい泣きを見せたのも、また彼らであった。
* 学校の歴史教育は、なるべく公正な支点を確保しつつ「明治維新から昭和敗戦」までを真っ先に教え、それから応仁の乱以降江戸時代を教え、そして先史時代へ溯ってから順に降って好いであろう。現在、近代・現代史が教室で取り残されるように、この方法では源平と鎌倉、南北朝がわりを喰いかねないが、わたしは、それで構わないと思う。近代現代の百五十年をもっと正当に真っ当に真っ先に教えるべきだと思う。
2004 10・5 37
* 今日、おもしろい本を、久しぶりに、又あらたに読み始めた。『家畜人ヤプー』である。この本は、わたしが作家になって依頼された書評の、二冊目の本であった。一冊目は村松梢風の谷崎論『女人拝跪』だった。「家畜人ヤプー」はちょっとやそっとで内容を伝え得ない大作であり怪作であり、一種異様の名作であるが、書評せよと言われてとても困った。なんで私にと内心憤慨した。しかし丁寧に書評し、その理解は、作者沼正三に大いに喜ばれた。その作者たるや仮名らしく、実物は誰だと当時大いに大いに騒がれていた。三島由紀夫がいちはやく推奨し、その破天荒なサド・マゾが話題であった。だがわたしはこれを作者による「天地創造の神話」であると読んだ。これが作者をよろこばせ、まるで「わが党の士」かのように「秦さん」は喜び迎えられた。これにもわたしはビックリしたが、わたしのように読んで行くと、このおそろしく博大な知識学識からなる奇書が、すっくと、まともに立ってくる。わたしは今でもそう思うのである。
それにしても、人によればこんなに不快な物語は無いかも知れない。作者がついに仮名のママになっているのも、身の危険を避けていたと思われる。「ヤプー」とはヤパン、ジャパン、にっぽん人の意味なのだから推して知れよう。
だが、これは一人の天才の創作になることも間違いない。これほど壮大で華麗で徹底した神話世界の創造は誰にでも出来る藝当ではない。冗談にも「秦さんか書いたんじゃないの」と言われたとき、わたしは不快に感じることなく、むしろ快い驚きを覚えたぐらいである。
大作だが、ことに前半がべらぼうに刺激的によく纏まっている。「アンナテラス」の名でわが天照大神もおおっという驚きとともに登場する。
読み直してみようと思う。書庫には初版本も全一冊本も三冊本も漫画本も揃っている。 2004 10・5 37
* 自転車で、近所の、舗装された未開通道路坂を三往復疾走し、ついでに、一周百メートルと分かっている住宅区の廻りを十周してきた。それからぬるい湯につかって、また誰かさんが怒るぞうと首をすくめながら、「明治維新」の歴史記述を楽しんだ。楽しんだのは読書の快感からであり、読んだ中身は明治新政府の賤民制廃止の実態といい、相変わらずの華族、士族、平民という封建身分制度の現存といい、新刑法における懲罰の身分による露わな不公平といい、もう腹の立つ不快な政策ばかり強行されて行く経緯であるから、アッタマに来るばかり。わたしが、「私」に奉仕しない「公」など要らない。「公」は「私」にたいしてこそ奉仕すべしという「私の私」を護りたい思想は、明治維新の最初から「公」の陰険な凶悪意図により蹂躙され続けていたのである。それを、辛抱よくじりじりじりじりと権利を獲得してきた「私」が、昭和の敗戦でさらに千載一遇の好機を得て「私民の私権」を相当に拡大し得たのに、ハブルの慾夢にうつつをぬかすうち、いつ知れず、またしてもひどい「公むの裏切りにあいつづけて。私の「私」は今や、やせ細りきっている。
そういう歴史的な無念を抱いて読むのだから、やはり湯の中では危険かも知れないと、自戒自戒。
* とうとう木下尚江の「火の柱」一部を抄して、スキャナーにかけた。「反戦」文学とかかげては取り上げにくい作品。古い時代の講釈の臭気からも藝術的・文学的に逃れ得ていないと読んだ。血湧き肉躍るおもしろさでもない。気を惹かれる作品ではあるが、人物の描き方もひどく類型的で卑俗というに近い。だが、こういう露骨なほどの反政府・反官憲・反体制の作品が遠慮会釈なく書かれていた「時代の若さと強さ」はしっかり感得できる。ずいぶんな長編であり、さてどこを抄したらいいか、闇雲に難しいおはなしであった。苦労した。短篇なら何の問題もなかったろう。
* 優れた洋画家であった小出楢重は、また、たいへん瀟洒に洒落た随筆や漫談の名手であった。「漫談・雑談」を何編か抜き出してスキャンしてみた。
早速「火の柱」の起稿校正にかかってみたが、スキャナーの読み取り劣悪、たっぷり一時間かけて最初の一頁分がまともな原稿に未だならない。イヤになる。けれど、止めるわけに行かない。八頁分に、よほど集中しても、のべ十時間かかるだろう。
2004 10・6 37
* 一字一句校正していると木下尚江の「火の柱」がたいした作品でもあることに気付いてくる。小さな活字の二段組みの読みづらい底本を片手に、痛い目で校正してゆくのだが、それを堪えてでもついつい先へ先へ読み進めたくなる。がさつな運びの物語と見えて、がっちりと組み上がった建物は堅固に出来ているのである。そしてわたしは、ちょっと自慢したくなるほど、長編の中の、最も恰好のところを切り出している。篠田長二、山木梅子、山木剛造、松島大佐、伊藤侯爵、菅原銀子。長編小説中の主要人物がこのところにくっきり出揃って、それぞれの顔をし、それぞれの言葉を語っている。物語の大要が見えてくる。
2004 10・9 37
* 小出楢重はすばらしい洋画家の一人であったが、随筆もまるで文藝家そのもの、何冊も生前に出版し、谷崎潤一郎も行為いっぱい推奨していた。さもなければ「蓼食ふ虫」の挿絵をとくに頼むようなことはなかったろう、もっとも、もうすでに深い間柄であったと想われる根津のご寮人松子さんと楢重とは縁戚であった。挿絵は素晴らしい物であったが、谷崎はこの挿絵凡てを冊子に仕立てて松子さんに豪奢な贈り物にしていたのである。やることのケタがちがう。
校正していて、たとえば「下手もの漫談」など、とくに面白い。何冊かから漫談・閑談・雑談その他思い切って多くを採集してみた。楽しみにして欲しい。
木下尚江「火の柱」を、満足して、いましがた入稿した。とても面白く読んで貰えると期待している。
* さ、もうやすもう。
2004 10・10 37
* 体育の日らしからぬ曇った天気。夕方まで、校正したりスキャンしたり本の寄贈の挨拶文をつくったりしながら、機械でマリア・カラスのオペラ名曲集を聴いていた。圧倒的なソプラノに言葉もない。幾つか知った曲もあるがそれには拘らない。今・此処に、素晴らしい「音楽」が鳴り響いていると思うだけのこと。
* 潁原退蔵さんの、「春風馬堤曲の源流」という戦中昭和十八年の画期的な論考をスキャンした。また森銑三さんの優れた知見に富む貴重な研究「最上徳内」をスキャンしはじめた。お二人ともに昭和の碩学であり、大きな足跡をわれわれに遺された。こういう大学者達の代表的な「文藝」もていねいに取り上げたい。
* 洋画家小出楢重の随筆を取り上げたが、自ずからユニークな画論であり文化論をも成していた。同様に上村松園の「青眉抄」や村上華岳の「画論」など、また能のシテや歌舞伎役者の深い藝談なども採集し、「電子文藝館」を豊かにしたい。
* さらには、優れた「翻訳」稿を取り上げたい。上田敏や永井荷風のみごとな訳詩もあれば、鴎外以来の欧米小説の早い段階の翻訳輸入は、近代日本文学の、作者にも読者にも大きな恵みであったこと、忘れてはならない。それらが「ペン電子文藝館」の埒外であって良いわけがない。著作権の切れているもので、忘れがたい名訳、幾らも有る。翻訳者達もまたわれわれの先輩会員であったし、そのジャンルは広範囲に亘っている。
* なんと広大な「ペン電子文藝館」の前途であろう、名樹佳樹の植林は時とともに無限に拡がる。潁原退蔵を読んでいても森銑三を読んでいても、フツフツと、煮られるように熱く成ってゆく五体の感動を覚える。亡くなった木島始さんの長い詩も読んでいた。血が沸く心地がする。「日本共和国初代大統領への手紙」と題されてある、ぜひ採り入れたい。
* 若い若い人の力ある文章が送られてきた。老人は励まされる。
* おかげで少し汗ばんで熱っぽい。連休を幸いとし、寝て、維新史とヤプーとを読もう。「老子」と「徒然草」はもう音読してきた。あまり気乗りしない、しかししてしまわぬ訳に行かない厄介仕事が、もう一つ、残っているのだが。
2004 10・11 37
* 木島始さんの長詩「日本国初代大統領への手紙」を「ペン電子文藝館」の「反戦室」に「招待」した。詩人の遺志を酌みたい。
もう少し、今夜か明日にも、潁原退蔵さんの「春風馬堤曲の源流」を入稿できる。興味深い論考であり、面白い。
明治の新体詩運動は、西洋詩の直の移植であった。蕪村や暁台から学んだ形跡は全くないのだが、その新体詩よりもより清新な新体詩ふうの「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が出来ていて、それとて、ひとり蕪村の天才にのみ根拠づけていいわけではなかったことを、碩学は、ていねいに探索されていた。
近代文学のひとつ奧の部屋を覗く意味でも「ペン電子文藝館」にふさわしい高雅で新鮮な好読み物である。
潁原さんのことはむろん蕪村を調べていたより以前から存じ上げていた、お名前は。ことにわたしは「退蔵」という名の方に心惹かれてきた。広辞苑ですらこれを「隠して所持すること」としか説明しないが、新井白石のものなど読んでいると、世間から地位を退いて静かに野に在ることの意味で何度となく用いられていた。そのうえで価値貴きものを「隠して所持すること」にもなるわけで、「退蔵」は一の理想なのである。
わたしは、小さな存在であるが、幾つかの肩書きを預けられている。預けられて引き受けている限りわたしは隠しはしない。責任を持つ意味からも人にもそれを告げ示すことに憚ろうとは敢えてしていない。
その一方、どうか「退蔵」の宜しきを得たい希望はいつもいつも持っている。なかなかそれも時の力で、叶わないけれども、姿勢は同じである。
2004 10・13 37
* 夕方、ソファでうとうと。で、起きがけ、左フクラハギが強烈に攣縮、あまりの痛さに悲鳴、必死で足指を外側へ撓めて堪えて、長くかかってやっと緩和した。相当緩和させたつもりでも、そのあと口も利きたくないほど疲労感と痛みの余震がつづく。
ほとんど四六時中、ちょっとしたハズミで攣れがさしこんでくる。攣縮の痛み、咄嗟に避けて避けてかわしているが、時々間に合わず処置無しの激痛に見舞われる。フクラハギにダムダム弾が貫通したような、ないしフクラハギにグリグリ弾が残留して中で自転しているような。
明日からの肉体労働に備えて今夜は娯楽映画をみたあと、さっさと本を読んで寝よう。「明治維新」が面白くて。「家畜人ヤプー」はおそろしいほどの密度世界で、読むこと自体が「ちからわざ」である。「今昔物語」はこのところは天狗が続出している。もう奇譚・伝奇の小説世界。扉を排しても排しても風変わりな世界、世界。
2004 10・14 37
* 正使岩倉具視(右大臣)以下木戸孝允、大久保利通等、政府開明派の大半を挙って、「廃藩」直後という大事な時機に、あえて訪米欧の大旅行に出た明治新政府の意図は、信じられないほど壮大で、また差し迫っていた。
文明開化のための諸視察、諸勉強もむろん大きかったが、それ以上に、安政以来の極端な「不平等」条約の期限を控え、独立国としての対等化を一致し切望していたのが彼等の真意、この大旅行では、その改定交渉のための小当たりな打診や折衝こそ、一の大目的だった。
だが最初に訪問したアメリカは、打診と謂うより改定即時協約をもちかけて来て、しかも日本側の希望を全面否認するどころか、従来に倍々する更に不平等で恣まな条件を多数提案し、一方では明治維新の成果をおだて、またすかし、甘い世辞顔をにやにやと見せながら、もう一方の実務では、強硬きわまる権利拡大のみを脅迫してきた。
わるいことに、在米公使森有礼も実力者大久保利通も、ここは凡てアメリカに譲って文明開化の度を進める利をとるべしと、正使岩倉や木戸孝允を熱心に説き伏せに掛かった。信じがたい危機であった。
だが、あわや調印のまぎわとなり、彼等一行に、正式の外交調印の資格が文書的に保証されていないと分かり、慌てて大久保等が帰国して事を整えようとした。だが西郷隆盛ら留守政府は頑としてこれに反対した。ことに政府顧問として傭われていた米国人の一人が、そのような協約にもしアメリカ一国と調印し、たとえアメリカが何らか有利な見返りを用意したにもせよ、国際法上の「最恵国待遇」規定を利して、他の各国は、当然同条件での改定を日本国に強要確保して、しかも何ら他の有利な見返りを日本に対し与えずに済むことになる、とつよく警告してくれた。
一方、アメリカで大久保等の戻るのを待っていた一行のうち、木戸孝允は、日々に、アメリカの姿勢と底意とに疑問と不快と警戒の念をつよめ、ついに断乎「協定調印に反対」して岩倉正使を説き伏せていた。木戸の滞在日記はスリルに満ちている。
かくて結果的に日本国はアメリカ一国との先行調印を破談にし、一行はヨーロッパへ旅程を延ばしていった。まことにスリルに満ちた折衝であり、経緯であり、判断であり、日本国の近代におそろしいほど微妙な岐れみちが、落とし穴が此処に在った。虎の尾を踏む男達は、安宅の関の弁慶等一行だけではなかった。
* 中公文庫『日本の歴史』は、戦後日本の、まだむちゃくちやに今日ほど反動化のつよくなかった、自由な学問的雰囲気の中で編成され、執筆されていた。
ことにこの「明治維新」の執筆担当者井上清は、明晰に、口ごもることなく多くの問題点に的確な意見も述べていて、小気味よい。時代と公権とにおもねる筆致も口吻もなく、公正な歴史記述とその解釈や批評が成されている。今ではもう此処まではっきり批議してくれる自由な気概の学者が、居ないかも知れぬと憂慮される。それだけにこの一冊はことにシリーズの中でも、貴重品であると、わたしは現段階で此処にこの一冊をつよく推奨しておきたい。
歴史ほど、その時々に公の権勢におもねり書き換えられてしまうものはない。その悪影響は計り知れない。
その意味でもこの一冊は、比較的、時代の好環境にあって、好筆者を得て、好記述を実現していると私は胸をなでおろすほど歓迎している。現代日本人は「近代日本史」にこそ、真っ先に我が身のアイデンティティを確認し、学んで欲しい。しかし昨今、歴史教科書記述等に殊に、ある種の意図でねじ曲げるように歴史を「私」していかねない風潮が見えている。そういう際だからこそ、わたしは、一冊残らず一行もあまさず、ペンを片手に読み続けてきた厖大な中公版『日本の歴史』の記述に、総じて、或る安心と信頼とをともあれ表明できるのが幸せである。日本史に心ある若い人達には、あまり昨今の新しい意図的歴史に近づかずに、少し時間の距離を置いた安定した自由な歴史記述に接してほしい、それも戦前や敗戦直後のものは避けて欲しい。あまりなイデオローグによる歪曲が強すぎるオソレがあるからだ。
* 前冊「尊王と攘夷」から今度の「明治維新」にかけて、身の震うような感銘と、眼から多くのウロコの落ちた嬉しさに、わたしはある種の興奮を抑えられないで居る。
2004 10・14 37
* 理事会への途中、少し時間があったので、久しぶりに思い切って「きく川」に舞い込み、鰻重と塩もみキヤベツで「菊正」正一合。名古屋の鈴木栄先生の「白痢」研究一代記をおもしろく読んだ。
理事会はさせる何ごともなく、気分は索漠。沖ななもさんと日原正彦氏の入会を決めてきただけ。
2004 10・15 37
* 夜前は、明治六年の、西郷隆盛、板垣退助らの征韓論が、岩倉具視、大久保利通らの反対により劇的に潰えて下野する経緯に、思わぬ夜更かしをした。興味津々、大河ドラマはこういうところを何故やらないのか、源平だの安土桃山だの忠臣蔵だのばっかりで。新撰組など歴史ということからすれば所詮は徒労の負け方端役。徳川慶喜のドラマは大事だが、それとて維新政府のありようを「批評的」「批判的」に私民の視座から再構築して初めて意義を生じるもの。
何が何でも征韓論に没頭した西郷隆盛には、殉じて死のうという、或る意味では弱気が生まれていた。彼は死に場所を求めていた。戦争を仕掛に仕掛けて、それにより彼を大棟梁と敬慕してやまない士族たちに「働き場」をつくってやりたいと。士族独裁政権への彼のそれが熱望であった。岩倉・大久保達は、だが、国民皆兵への道をしっかり整えていた。そして新政府の莫大な経済負担であった旧大名や士族末端に到る家禄、秩録支給を廃止したかったのが反西郷の彼等だった。
国民皆兵の徴兵制度が確立されれば、士族のもつ特権身分も存在意義も雲散してしまう。士族達の悲鳴に似た焦りを西郷は背負っていた。征韓論で朝鮮征服を実現し、其の勢いで新政府を士族独裁政権に造りかえたい。だが岩倉・大久保たちは、士族の嘆きよりも、国民の一揆的反抗の方をより大きく正確に恐れていた。その為にも中央集権政府の絶対安定と確立を必要とした。外にはおそろしいほどの「不平等条約」が在り、内には財政逼迫が堆積し、へたをすれば外国の内政干渉や政治介入の不安も現実に有った。樺太には邦人へのロシア軍による圧迫や虐待があり、台湾にも問題がある。
そもそも征韓論の謂う朝鮮を一時的に征服しても、得られる経済益はしれたもので、まして民衆の蹶起があれば対応にどれだけの負担が掛かるか、すべて不可能という大久保利通の明白な反対理由に応戦できる根拠は、西郷ら征韓論者にもてるワケも無かった。
それでも三条実美は西郷等の士族の武闘におそれて、天皇の征韓論上裁を求めようとし、発狂か佯狂か、病状に陥って岩倉が俄に太政大臣代理となり、断乎征韓論を許さぬとする「天皇上裁」を確保してしまった。維新当時の言葉で言うと、岩倉・大久保は巧みに天皇つまり「玉」を手中に取り込んで、優勢だった征韓論をガンと潰したのだった。確乎とした大久保利通の道理と策とが勝利した。彼は征韓論派の領袖と西郷にくみする近衛師団その他の士族達の大量の下野帰郷を、むしろ奇貨おくべしと軍の整備をはかる一方、のちのち悪名高い国民管理の大元締めになる「内務省」新設を企図して、初代の参議・内務卿となり、ついに中央集権独裁政府の確立に大きな一歩を印した。木戸孝允もこれを支持した。大久保が勝ち木戸が支持し西郷が負け、つまり士族は行方を失い、武士達の時代は体裁の総てを一応失ってしまった。大きな大きな日本のドラマであった。
西郷の敗死におわる明治十年の西南戦争は、もはやこの征韓論勝負の後産のようなものであった。
* 木戸孝允は筆まめな元勲であった。元勲木戸孝允ではなんだか馴染めないなら、長州の攘夷志士桂小五郎で知られた男だ、彼の日記は面白いだけでなく、実に貴重な明治維新の証言集である。主観的なことは否めないにしても、ものはよく見ていた。病弱に陥った晩年は、西郷や大久保のようには一方を率いる場に立たず、ほぼ筆頭の参議でありながら今でいう大臣、卿として大蔵や外務などを統べる地位には就かなかった。おのずと副首相・副首班格であった。彼を視点に、明治維新を西南戦争まで描き出せば、真実大河ドラマとして価値高いであろう。但し、何かに阿(おもね)った偏した解釈ではダメだ。彼も「公」の大雄であり、「私」民ではない。複眼が必要だろう。
* そんなことを想いつつ夜更かしをむしろ楽しんでしまった。ま、西郷や大久保の必死の角逐からすれば、声さえ揚げておけばそれでいいんです、あとは皆さんが銘々に好きに対応されればいいんですという程度の「九条の会」なんてシロモノは、気ラクなモノではないか。
大久保と森有礼とはあわやアメリカに日本の不平等条約を倍加したまま売り渡す間違いを仕掛けて、木戸孝允は必死でこれを制した。かしこい大久保にもハヤトチリはあった。その大久保は、朝鮮に無理な戦争支配をたくらんだ西郷を断乎制止したが、征韓論が強行されていたら、日本の近代は、或いは諸外国の干渉によりズタズタにされて、又も内乱に陥っていたかも知れない。木戸も大久保も西郷もみな必死に闘って最善を尽くそうとはしていた。憲法九条ほど大事な護りたい拠点を護ろうというのに、アドバルンはあげましたよ、見上げてどうぞ銘々に考えてごらん、と。たしかに、しないよりはマシである。だが、憲法九条を何としても悪しく改定しようとしている連中のしつこさの前に、それはあまりにノホホンとした、自己満足行為で終わりそうなのを、わたしはアホラシイと言うのである。だから、しつこく「闇」に向かい言い続けるのである。
2004 10・18 37
* 井上清氏担当執筆の「明治維新」の巻は、再読し三読したい一種の名著であった。勇気というか気概というか、立つべき視点というものを毅然と与えられた気がする。
それにしても西南戦争と大西郷の窮死まで、つまりそれは士族勢力の潰滅までだが、凄まじい「ご一新」であった。讃美ではない、むしろ酸鼻の大時代であった。大久保内務卿独裁下での一例をあげて、言論表現の徹底的な弾圧法令とその仮借ない実施をみるだけでも血が煮えてくる。しかしまた敢然と政府を批判し続けてやまない言論ゲリラの反骨もなくならない。此の道の先には、憲法発布や国会開設が待っているのだろう。自由民権運動は、民選議会への運動は、既に澎湃と起こっている。士族本位の運動が、ようやく、人民私民の政治参加への意志・意欲になろうとしている。言論があんなにも徹底して弾圧されたときに、言論も表現も鍛えられた。みな、二年三年の入牢を覚悟で為されていた。熱い時代であった。
いま平成の知識人も文化人も言論人も新聞も雑誌も、ゆるフンドシの右顧左眄、我が身に名誉や勲章は歓迎しても、縲紲の危険も犠牲も払う気全くなし。栄誉・名誉の「自己免罪符」発行を以て「賢人の行い」としている。麗々しく「九条の会」などと顔写真を並べているだけの、いささかの泥もかぶっていない綺麗な綺麗な白旗のしたへ、だれが命がけで集まるものか、馬鹿げている。
明治維新から憲法九条が出来るまでに、どれほど広く「私民」の苦闘死闘があったかを歴史に省みれば、「あれはあれだけでいいんです、我々が銘々に声を揚げれば、自然発生で世論は盛りあがる、それでいいんです」とは、政権に固執する者達の悪念凝ったものすごさに較べて、なんというのんきなトーサンの弁であろう。戦争反対という、核反対という、言う以上はその反対自体が巨大な悪意志に対する戦争なのであり、戦争ならば勝たねばならない、勝つためには自然発生なんかでは所詮勝ち目がないということを、自由民権運動の無惨なほどの潰滅は教えているのだが、当節の「賢い」人達は分かっていない。
* 「天下万民」をみかたにつけなければ維新の大業に勝利できないと、幕府より先に気が付いた薩長土肥や岩倉具視たちだから、幕府の力に未練と過信を持っていた勢力を崩壊へ追いつめ得た。大久保利通も木戸孝允も天下万民の一揆する力を恐怖すらしていた。だからこそ、新政府の基礎を固め始めるやいなや、今度は、天下万民の政治的エネルギーをとことん奪い尽くして骨抜きにするための政策を積み重ねた。大西郷率いる旧士族の力よりも天下万民の一揆が怖かったから、西南戦争では西郷を挑発し挑発して鹿児島から引きずり出し、大久保は勝った。象徴的なのは、明治の新兵制下に組織された「土百姓」の軍隊の護るたった城一つを、旧士族軍選り抜きの精鋭が、いくら攻めてもビクともしなかった決戦であった、それが、西郷隆盛の、雪隠詰めのような城山切腹窮死へ一直線に結びついた。
もう大久保には、天下万民は身方と言うより、徹底支配すべき相手でしかなかった。「内務省」がフルにそのために稼働し始めたとき、天下万民は苦しみに喘いで、しかし闘う力はあの戦前戦時にも、まだ命脈を保っていたのを忘れてはならないだろう。
西南戦争前後の日本列島で続発した一揆の数も激しさも、あの江戸時代のそれを大きく越えていた。一揆の質も変わっていた。天下万民は徐々に政治に目覚めていた。そういう一揆の勢いは、少なくも安保闘争で樺美智子が国会前で殺された頃までは続いていた。
民衆は常に「一揆する」権利を持っている。頭の高い「声明」ごっこでは政治の閾値は越えられはしないことを、歴史は正確に教えている。
そんな事を、じつは腹の底までよく識っているのは、政権を握って離さない連中なのである。なんという皮肉。なんという不幸な国民。
2004 10・21 37
* 朝一番に、昨日届いていた高田欣一さんのエッセイ通信「西行以前」を読んだ。
書かれていることは頭にあり、水の流れるように流れに乗り読み進めて、読み終えた。まさしく「随筆」、たぶんに小林秀雄型の行文で、こういう筆致には抵抗してはならず、その場その場の趣意に応じてうなづきうなづき興を覚えて読んで行くのがいい。感興のママに書かれたものは感興のママに決して論議に及ばないように、うまい水をこくこくと飲むように読まねばいけない。
小林秀雄の批評の妙に応ずるには、彼がいかに論議しているつもりでも、読み手は佳い音楽を聴くようにただもう「読み」進むのが佳い。小林は何を書こうというような書き手でなく、書き出すと、なにかがつぎへつぎへと現れてくるから書き留めてゆく書き手である。書き終えられたところで、嗚呼こう言いたいわけだと分かる文章もあれば、分からないままに、佳い音楽の余韻だけがしばらく残っているというのも有る。
高田さんのもそういう書き方で、論旨が、論議が、出来れば出来たでよく、論旨が露わに残らなくてもそれはそれで行文の快さに変わりはない、というエッセイ、つまり随筆である。たいへん面白く適切なことが書かれているのだけれど、こう言いたいのだといちいち立ち止まり強調されてはいない。わたしのように場に馴染んだ者にはその方が有り難い。けれど、馴染みの薄い人には、ややとりとめなく感じられるかも知れない。
それにしても西行、良経、源氏物語、躬恒、業平などなど、なんと和歌の美しく優しいことか。年を取れば取るほどにわたしは和歌の魅力に吸い込まれ、結局は其処へ帰って行くような気がする。百人一首で育って和歌の世界へ。和歌がなければ源氏物語は絶対に生まれていないのである。
2004 10・22 37
* さて日付も変わった、一日を終えて、本を読んでからやすもう。
日本の歴史は、第二十一巻「近代国家の成立」を色川大吉氏の担当執筆で読み始めている。今昔物語も近代日本史も「家畜人ヤプー」もすこぶる面白い。
そしてこの日頃は讀賣文学賞や野間文学賞や朝日賞などの推薦依頼が重なる時期で、できるだけいつも珍しい人と作品とを推している。
2004 10・22 37
* としのセイと思われるが、沼正三『家畜人ヤプー』を読み進みながら、往年のように軽快にクツクツ笑ってのめりこんで行けず、ズシーンとボディブローを喰らっている。「重み」がある。浪を分けて泳ぐのに譬えると、真水の浪でなくて濃厚な油の浪をかきわけかきわけ平泳ぎして行く感じ。どういう脳髄から、こういう不思議が絞り出されるのかと、奇才に、すなおに負けてしまう。
三冊本の第一冊を読んで、もうほどなく通過するが、「イース世界」のトンデモナイ在りよう、われらヤプーに擬せられてある日本人からはトンデモナイ在りようが、縷々、また縷々「解説」を重ねて叙述構築されてゆく、その壮観というか熱意というか狂態というか、が、まさに「凄い」のである。興味をそそぎこんで、じっくり知的な「つかみ取り」で読み進むのが、コツであろう。
それにしても、日本人男子の運命の無惨さには、渾身のちからで堪えねばならない。ドイツ人美女クララと相愛婚約し、華燭まぢかな日本人留学男性瀬部麟一郎が、恋人と嬉々と山中に遊んでいて、とほうもない世界に二人とも呑み込まれてゆく。
とほうもなさが、凡庸な想像の程度をむちゃくちゃに超えていて、しかも叙事と状況には苛酷きわまるリアリティが担保されているため、読んでいて、もうはや、自由な身動きがガチッと制されてしまっている。おう、クララと麟一郎との、いやいや麟一郎こと家畜人リンのあんまりな行く手よ。日本人男性の読者としてはどうしても麟一郎に呻くほどの同情を禁じ得なくて、さてそれがそのまま愛の歓喜に化学変化しうるのかどうか、作品全部が仮借ないリトマス検査紙のように読者に迫ってくる。
平凡ながら桁違いな「奇書」と呼んではおくが、その程度ではこの作の魅力も毒も、百分の一も謂い得ていないかも知れない。
第二冊から、華麗な神話が展開されるはずだ、が。
* かすかな私小説まがいをしこしこと書いて息を切らしている創作者たちには、想像力はかくも桁外れに奥行きをもっているのだぞと、この「奇書」ははなはだ教訓的にそそり立っている。
2004 10・25 37
* 明治十三年ごろの、東京の「店」の軒数を多いのから並べて行くと、どんなのが並ぶか、見当がつきますか。あっと驚く、びっくり仰天。
古道具屋 4740 古着屋 4546 古鋼鉄商 2703 質屋 1946 損料貸し(レンタル) 1915 屑屋 1396
これが「ご一新」の「花の東京」に最も溢れていたお店であった。この「読み」は難しくも興味あるところ。明治十年過ぎの東京をこの数字によって「理解」し「展望」しなさいという課題が、おもしろく成り立つ。東工大時代にこのような数字を知らなかったのは残念。教室にいた諸君にアイサツさせてみたかった。
2004 10・25 37
* 例の如くバグワンと徒然草を音読のあと、床の中で小田実さんの本、訳詩とエッセイ、そして日本史、今昔物語、家畜人ヤプーとつづけざまに読みふけり、三時近くなっていた。
小田さんの「随論日本の精神」は、題が題であり、いきなり「こころ」「精神」の辞書記載から話題が始まる。三省堂1977年版の「明解」を引いてあり、たしかにうまく記載されている。むろん辞書は辞書で、わたしの、バグワンに学んでいる「こころ」観、ないしは生来のわたし持ち前の「こころ」観からいえば、論議はいやでも起きる。しかし大部の本の先の方でいかに小田さんが自前の「こころ」や「精神」論を展開されているかを、素直に読んでしまいたい。小田『随論』は快調に的確に書かれていて、小田精神のデッサンに少しの揺らぎもない。明快・痛切。感想は、折々にであれ纏めてであれ先のこととして、戴いたお手紙の最後にもあり、本のあとがき最後にもある「ホナ、サイナラ」に触れておく。
* 小田さんの曰く「ホナ、サイナラ」は大阪弁であり、京都の人ならどういうのかと手紙で聞かれていた。これには、すぐ答えられる。わたしの耳に残り、また自分でも京都で暮らしていたら自然にそう言いそうなのは、「ホナ、また」であろう。
*「ホナ」とは、それならば、そういう次第ならば、コトはそれぞれ左様に相済みましたから、と謂うほどの含意である。その意味で、質実の所は、かなり理詰めにツメている。そして大阪の人だと、そういう「ホナ」についで「サイナラ」となる。小田さんはそう言っている。「サイナラ」が別れの「グッバイ」なのはその通りであろう、とすると、「ホナ、サイナラ」とは、「コトはそれぞれ左様に相済みましたから、お別れ申す」というようなことになる。なにも一日の遊びや仕事の最後とも限らない、訪問して帰るときも会談して終えるときも、好きあった同士が喧嘩別れの時も、互いに名残惜しいときでも、久闊を叙したあとでも、「ホナ、サイナラ」になる。
* 京都人は、これでは理詰めが過ぎて、ことが截断され断裁されて続かないと本能的に感じる。避けたいと思う。「サイナラ」は平和であれ、紛争であれ、ともあれ離別・決裂のあいさつである。たんに「サイナラ」ならそれはそれだが、そのまえに「ホナ」という納得づくが前置されていると、これは一応「アト」というものが無い。言葉の上で「アト」の「ツヅキ」は期待していない「かたち」である。
京都のセンスではこれは避けたい。で、「ほな、また」で手を振り合う。「あと」「つづき」「あした」「こんど」を互いに認定しておく。断絶や離別を確認し合わないで、つなぎを「後」に残すのである。
わたしが言葉の上で遊んで強いて謂うのではない。これがまさしく京都感覚であることは、この「また」「又」という一語一字が歴史的に持ってきた、実におもしろい、鶴見さん風に謂うなら「悪者」的なことばが示すのである。これを、しこしこと論文にしてある例も実在する。
歌舞伎役者の名に「又一郎」「又五郎」があり、京の能役者「又三郎」がすぐ思い出せて、たぶん「又」を冠した次郎、二郎、四郎、六郎、七郎、八郎、九郎、十郎も、又右衛門や又兵衛も、捜せば結局はその辺の世界に見つかるはずだ。だが、東京語感覚で謂うと「又」とはまた何の変哲も、たいした意味も無い字でしかあるまい。
ところがどうだ、上方では「又」には、或る、またとない機能のようなものが秘められてある。どこか「ひとをじょうずにだまして、しかし損ばかりはさせない」男、の意味だと謂ってみよう、ともあれ。
狂言に有名な「末広がり」で、まんまと古唐傘を「末ひろがり」だと高直(こうじき)にうりつけ、しかし、もし国へ帰って主人が小言をいえば、こんな小唄を唄い舞ってみせてよろこばせなさいと珍な歌を口伝えに教えてやる。
巷間とも文献上にとも、こういう男には「又」**(たしか、又九郎)という名が普通ついていたのである。にくみきれない悪いやつの意味である。そしてどことなく、これは京ならではの「文化的所産」かのようによそからは見えたし、内輪にもそういう男どもを京都は「飼い慣らして」容認していた。
それから離れ、ただ語彙の意味からして、「また」は、あきらかに継続の精神を含む。打ち切らないのである。喧嘩別れにもなりかねない「サイナラ」よりは「また」と言葉を濁しておく、繋いでおく。
だが、往々にして京都の人間が「また」と一度口にしたときは、「サイナラ」どころか実は完全無比の「拒絶」であることが多いのである。門口に押し売りが来る。「いらん」とは言わない、「またにして」「またおいでやす」ないしは単に「また」で済ませてしまう。これはもう絶対拒否で、言葉のうえは継続だが、その実は断裁なのである。アトはない。ただし「サイナラ」という露わな終焉終末ではない。だからもし凄みの文句が出ても、「またにしまひょていうてますやろ」と逃げ道がちゃんと繋いである。
京都では「ホナ、サイナラ」は、理詰めにこわばると感じる。オシマイの宣言になる。そうではなく、「ホナ、また」とゆるめておくのを極意のようにしている。鶴見俊輔さんも、しばしばこの「ホナ、また」を味わってこられたのであろう、だから、まっさきに「悪者」という謂わば渋い「讃辞」から「京ことば」を話題の対談は始まった。
2004 10・28 37
* 小田実さんの「随論」は読み進んでいて何一つといえるほど「不審」なく「同感・共感・賛同」できるので、おっそろしく精神衛生が佳い。妻とわたしとで、ひったくり合うようにして互いに読み進めているが、妻の方がだいぶ先へ走っていて頻りに感銘のつぶやきを洩らしている。
こんな世の中に一人ぐらいこういうスカッとする「普通」の哲人・鉄人がいてくれなくては、気が萎えて堪らない。
わたしなど、「べ平連」と長いあいだ聞いていて、亡兄北沢恒彦は京都での活動でいい仕事をしたんだと人に言われても、実状には無知でしかなかった。この間の鶴見俊輔さんに上野千鶴子さんらがインタビューしていた本ででも、鼎談なりの宜しさもあり話題の途切れもあり、十二分には分からなかった。小田「随論」は論者が一人で思うさま語っているので、納得しやすい。
もうよほど昔で、初対面だったと思う、新宿の「風紋」あたりだったかで小田さんと少し話したときに、「あなたのお兄さんは、えらい男やったでぇ」と二度繰り返し言われたのが記憶に鮮やかである。関西弁であるから、文字にした「えらい男やったで」とはニュアンスを変えても受け取れる会話であったけれど、わたしは素直に言葉通りに受け取り頭をさげた。
それにしても黒川創はどうしたのか。湖の本はちゃんと毎回届いているらしいので転居したでも無かろうが、全く音信が無い。噂に聞く兄に関わる本も一冊も送ってこない。題も知らない。
2004 10・30 37
* 日付が変わり神無月も尽きる一日に入って、とうどう森銑三「最上徳内」の一応の起稿が成った。すぐには入稿できない、もう一度は自分でよくよく読み返さねば、研究論文としては破格の長編だが、それだけの価値があると信じている。碩学のかかる地道な探索と積み上げとにまさに導かれて、また新たな文学文藝の開花は励まされるのである。或る意味では小説よりも興味津々と読まれる読者があろう。何故ならこういう仕事は、いわゆる「ウラ」を取って取ってじりじりと進むもの、だから確認可能なことだけが新潮に積み上げられるので、絶対とは言えないし全部とも言えないのではあるが、かなりに信頼し依拠して安心なことが識れる。文末に森先生は、寅軒井上鋼太郎氏の撰になる漢文の『最上徳内伝』の一節を、慎重にまたつよく「同感」して引き、あえてご自身入魂の労作に「結語」とされている。今此処に挙げておく。
* 内容は従来の徳内伝から出てゐないが、その末尾に、近藤重藏、間宮林藏の両探検家を徳内に継いで起つた者として、「重藏の択捉(ヱトロフ)島に航するは寛政十年(1798)に在り、徳内に後(おく)るゝこと十三年。林藏の樺太(カラフト)に入りしは文化五年(1808)に在り、徳内に後るゝこと十七年なり。然(しか)らば則ち北彊探検の先鞭を著くる者は実に徳内と為す。其の名聲宜しく天下を震暴すべくして、世これを知るもの少く、重藏林藏の名は即ち三尺の童子猶ほこれを称するは、是れ何を以て然(しか)る耶(や)。抑(そもそ)も亦た顕晦(けんとくわいと)命(めい)ある耶。然りと雖(いへど)も方今皇威八紘に振(ふる)ひ、樺太南半已(すで)に我が版図(はんと)に帰(き)す。徳内にして知るあらば、則ち当(まさ)に地下に於て踊躍抃舞(ゆうやくべんぶ)すべき也」といはれてゐるのは同感である。この一節を仮りて以て蕪稿の結語とする。
* わたしはカラフト南半を「制した」と徳内が欣喜するかは疑うけれども、重蔵と林蔵が十人束になっても問題にならないほど徳内の大きさとえらさとは、あまりに知られなさ過ぎていると思う。
ただに探検家ではない。シーボルトは優れた科学者として徳内を敬愛した。彼の医学とともに儒学・経学もなお今後の研究に待ちたいものがあろうと、森先生も推察される。そして同時代の実に大勢の人が彼の話を聴きたがり、彼の博物・本草の知識を頼んでいた。漂流者は別としても、ロシア人と生活をともにし多くを聴き知った、徳内は最初の日本人幕吏でもあった。一人の家出百姓の身から徳内は九度に亘り蝦夷地、奧蝦夷(カラフト、千島)を探索し観察し報告し、働いた。その抜群の功績により出自に比して異数の地位に昇っていた。その偉功の奧には新井白石を経て本多利明に到った、開明の叡智と、信じがたいほど健康な肉体とがあったのである。
* むろんわたしの意図は、そういう偉人を調べ上げて行く森銑三という碩学近代の学風を、電子文藝館に刻印しておきたい、其処にある。
2004 10・30 37
* 徒然草の「全」音読を夜前に終えた。久しぶりの徒然草であり、いちばん痛感したのは、わたしが年をとったということであった。全面的にではないにしても、各段の読みに昔とは明らかな差が生まれてしまっている。ああ前に読んだ頃は若かった、ものごとの味わいようが、元気または暢気または勝手であったと、いちいちに突き当たった。
わたしは兼好という人を、かつて、「従者の眼」から深まっていった人、どこかに市隠の陽気をはらんだ人、俗を俗として拒まない人、どこか「したり顔」の人とも眺めていた。その多くを訂正する気はしないけれど、深く共感でき舌を巻き教え直されることも沢山沢山あって、わたしはしみじみと兼好さんと膝をつきまじえた気がしている。徒然草を選んでよかったなあと、今すぐにも頭からもう一度黙読し直したい気がするほど。
もとより兼好は仏道への即座の帰依と信仰とを求め続けている、読者にも。わたしは仏道というような枠組みは少しも望んでいない、そのところを調節しておけば、兼好のことばに心から服することはたいへん多い。まったく興味も関心も知識もない段々もたくさんあり、今のわたしからすれば、そういう有職の知識や人物談義は割愛した本文が欲しいぐらいセッカチにもなっているが、いい場所を用意して、丁寧に本文とも兼好とも向き合いながら述懐できる「部屋」が欲しい。このホームページの中に、そういう「部屋」をつくることは何でもないわけだ。
2004 10・31 37
* 書庫に出入りの用が重なり、ふと目に入った石の森章太郎のマンガ『家畜人ヤプー完全降伏篇』とあるのを持ち出してきた。こんなのも何かの折りに原作者沼正三のほうから贈ってきてくれていたのだ、今まで見たことがなかった。で、一気に一冊読んでしまった。読んでと言うと変なようだが、やはり作者によるイース世界案内に画家が沢山な繪を添えていると思ってよく、なかなか分かりやすい。それだけでなく、もし世が世ならこんな一冊が書庫に架蔵されている事実を、官憲は弾劾し糾明してきそうな「思想」に貫かれている。強烈なサディズムと猛烈なマゾヒズムとが表裏して、徹底的に日本と日本人とを「批評」している、と言うのは、穏やかにそう言うまでで、もっともの凄いのである。乗りかかった船という。この我が所謂「神話の船」に乗って航海を続けてみようと、これから原作の第二冊めに入って行く。相当な大作なのである。相当に知的興奮をもてる精力・体力の必要な読書である。
2004 10・31 37
* アルゼンチンより hatakさん
十月の上旬から昨日まで、アルゼンチン・コルドバ市に滞在しておりました。
仕事は、国立研究所での講義でしたが、今回楽しかったのは、講義を受けに南米八カ国から集まってきた研究者・技術者達と宿泊も移動も全て一緒に過ごせたことでした。
出勤は8人乗りのバスに12人が乗り込んで、車内は朝から笑いとお喋りの渦。騒々しいことこの上なく、しかも全てスペイン語なので、何を言っているのかさっぱりわかりません。そのうち歌を歌ったり、写真を撮ったりと、まぁ中学
生の修学旅行のような騒ぎなのです。
仕事が終わってホテルの部屋に戻ると、かならず誰かから電話がきて「何時、どこどこ」とたどたどしい英語でお誘いがかかります。日によって、行き先がクリーニング屋だったり、CD屋だったりするのですが、それは行ってみない限り私にはわかりません。夜は早くても9時、遅ければ11時頃から夕食になり、そのあと誰かの部屋で、チリ産のワインが出るとか、メキシコ産のテキーラがあるとか、酒飲みの会になります。誰の部屋へ行っても必ず音楽がかかっていて、サルサやメレンゲや、ときによってはタンゴなどを、大騒ぎしながら踊り出します。深夜のホテルで、足踏みならし拍手喝采大爆笑しても、一度たりとも、誰からも抗議が来なかったのは、さすがラテンの国でした。
一昨日も朝まで騒いで、昨日は閉講式・フェアウェルパーティー。パーティー会場から、それぞれの国へ散ってゆくときは、皆しんみりするかと思いきや、そこかしこでワーワー言いながら抱き合い、にこにこ大きく手を振ってのさよならになりました。
皆と別れ、乗り継ぎのためブエノスアイレスのホテルに一人こうしていると、この二週間がまるでこの世のものでなく、夢か幻だったのではないかと思えてきます。全く言葉は通じないのに、なぜ何の不自由も感じずに、むしろ心から楽しんで、飲んで食べて踊って、なおかつ喋っていることができたのでしょうね。
そんなことを考えながら、ぼーっとしております。
彼らのことは、かならずいつか、書いておきたいと、思っています。
あと一時間でホテルを出ます。ワシントン経由で日本に着くのはおよそ30時間後、その後すぐに静岡の国際学会に向かい、京都、九州をまわって、来月中旬に札幌へ戻る予定です。
hatakさんの本は、今頃雪の降り始めた札幌の寒いわが家のポストの中で、私の帰りを待っていることでしょう。
十月三十日、アルゼンチンブエノスアイレスARGENTA TOWER HOTELにて maokat
* わたしまで陽気な心地に揺すられる。「彼らのことは、かならずいつか、書いておきたいと、思っています。」
* これで思い合わせたのだが、森銑三先生の長い論文のいわゆる実証の「ウラ」は、同時代人たちの残している無数の日記や記録や聞書や回想や書簡にある。あの遠山の金さん、刺青判官にもたしか『耳袋』というこまめな聞書本があり、古書店のボロボロ岩波文庫で上下買って置いたのは大昔のことだが、おもしろくて、そこから一編の掌説を書いたことがある。江戸時代も後半になると、無慮無数にこういう文献が堆積して行く。だれもかれもが「書く」ことに一途な興味と姿勢をもち、むろんピンからキリまであるにしても、その時代精神の解析は興味深い深層を浮かび起たせるだろうと思う。それらは作品意識はそう高くない、記録資料性への満足度が高い。
思うに今日のエッセイ感覚や作品意識に繋がるより、遥かに古代中世以来の公家日記や僧侶の日録に近い。その時代の人にはそういう記録は後代への示唆や教育やまた伝達意識に満たされていた。その古い時代のその手の記録はつまりは「前例」「残したり確認したりして「伝統」というものにしたのである。「九条殿遺誡」のような摂関家の確立して行く頃からのものにはそれが多かった。
その意味では江戸半ば以降に簇生する記録は、また性質が少しちがい、前例を確認したり作ったりするのでなく、新奇の見聞にたいするあくなき好奇心と記録意識とが氾濫するのである。
最上徳内の名著「蝦夷草紙」なども典型的な一例であり、そういうのの聞書に貴重な大作を残した人達もおおい。
「甲子夜話」などはさきの「耳袋」を何倍もする聴書輯の宝庫である。そんなのが山ほど在る。それらを掘り起こし掘り起こし同時代の人物像を彫琢して行かれたのが森銑三の学問であった。そしてその恩恵に多くの書き手は潤ったのである。
MAOKATさんの書き置かれる一文を楽しみに待とう。どういう表現と批評とになるか。
2004 10・31 37
* 明け方五時までとっかえひっかえ本を読んでいた。笠間行きが流れ、さしづめ用がないとなると、夜更かしして好きな本を読んで行く楽しみに身をまかせてしまう。徒然草を読み終えたので、バグワンとならんで次は何を音読しようかと、今夜中に選んでしまいたい。太平記、栄華物語などの大作を思っていたのだが、徒然草を読みたかったのも源氏物語を読んだのも、たんなる読書ではなくどこか内省と繋げたかったと気が付く。すると太平記も栄華物語も黙読で足りる。いっそ、古典ではない古典を、柳田国男の民俗学から選ぼうか。柳田全集をわたしはカナリの量読み込んできた。繰り返しても構わない、しかし読んでいて妻がはたで聴いていてもおもしろそうな作を選びたい。
また民俗学にやみつきになる、それもいいだろう。敗戦直前の四月から起稿され、直後の昭和二十年十月に序文の書かれた『先祖の話』を、ゆっくり音読して行こうと決め掛けている。
2004 10・31 37
* とうとう森銑三先生の大作「最上徳内」の二度目三度目を読み終えた。
* 井上清氏の『明治維新』に感じ入って、愛読三嘆のあと、こんどは色川大吉氏の『近代国家の出発』を読み始めて、早や本半ばになる。この巻がまた素晴らしい。
明治十年の西南戦争から憲法発布・国会開設に至る明治半ばの十数年史である。
こう言うと、近代国家の成立へ「曙光と希望」とのかがやかに晴れ晴れとした時代のようでありながら、その陰惨・陰険の政治動向。それに対抗する草莽崛起の鮮烈な自由民権民衆運動。政党成立への複雑な人渦と権利思想の成熟と大弾圧。
こういう歴史を、色川さんのように毅然決然とした視野と視線と視認に導かれて読み進む、嬉しさ、面白さ。
だが、いかんせん、憲法は人民による人民の憲法ではなく、天皇絶対神聖の欽定憲法となり、思想表現と人権の主張には容赦なき弾圧が熾烈に熾烈化し、政治と豪商とのつかみどりのような利権癒着は天文学的に膨れ行き、そして塗炭に喘ぐ民衆の窮乏と絶望はこれぞ地獄苦と言わねばならないのだから、読んでいても、もう腸の煮える歴史だと言うしかないのである。
しかも読み進んで行く手応えと感銘とは、何物もこれに叶わない。
なんで「こういう歴史」を、せめて高校で率直に教えられないかと痛嘆するが、歴史というのは往々、いや常に、権力の手に邪まされ、私され、歪曲されてきた。
だがそういう中で、民間の一出版社から民間気鋭の誠実な学者達による、さながら「後生に対し自ら歴史の証言台に起つ」ような、真摯な的確な「歴史記述」は、これこそ「宝」というべきではないか。
いかがわしい近時の「歴史ひねくりまわ史現象」を強く突き放し、世の読書子は、絶版にならぬ今のうちに、この中央公論社版「日本の歴史」シリーズを、全巻は大変にしても、せめて幕末尊王攘夷編から明治維新編を経て近代現代の巻巻を、子孫への贈り物として残して欲しいと思う。それらが、少なくも今後編まれるであろうどんな新企画よりも、遥かに「信頼できる姿勢」で書かれていると思うからである、わたしはそれを確信している。
2004 11・2 38
* 小田実氏の翻訳詩「南京虐殺(J.ローシェンバーグ)」とエッセイ「『フーブン』の詩人の重い答」とを一作品として「電子文藝館」反戦特別室に送りこんだ。ズシンと重いメッセージである。
永井荷風の珠玉の翻訳詩集『珊瑚集』をぜんぶスキャンしてみようと思う。美しい文化財である。
翻訳された文学には二つある。日本の作品が翻訳されていった例。もう一つは海外文学が優れた日本語に翻訳された例。前者はわたしの手が届かない。後者は、この『珊瑚集』もしかり、鴎外の『即興詩人』や山内義雄の『狭き門』など詩でも散文でも文化財が幾らもある。全編とは行かなくても、ひときわ優れたものを拾い上げ植え付けてゆきたい。
* 今一つ考えているものがある。近代以降の、「自由と人権のために」放たれた記念碑的な建白や檄文、憲法草案などの類である。ペンの精神に照らして素晴らしいもの、時代に先駈けたもの、時代を超えて伝えたいもの、が拾い出せる筈である。植木枝盛らの「民権数え歌」や「国会を開設する允可を上願するの書」や「日本国憲法案」や「日本国民及び日本人民の自由権利」など、また櫻井静の「国会開設懇請協議案」や松沢求策らの「国会開設上願書』等々。時代を超えてその真実の失せないもの、永く人の胸を鳴らし続けて欲しいものを、ぜひ掲載し記念したい、特別室を設けて。残す任期をこれに絞るぐらいに力を注ぎたい。
2004 11・3 38
* 新しく音読を始めた柳田国男の『先祖の話』は初めて読み出したのではなく、文中にわたしならではの、やたら傍線など引いてある。論旨はおよそ頭にあるが、しかも新鮮、興味深い。なにより、諄々と、此の時機にこそ語っておかねばという一種志士の心情と、えもいわれぬ話体といおうか文体の妙とに、惹かれ乗せられて、「音読」するここちよさが胸を満たしてくる。さがせば音読していいものは山ほど有る中から、なぜか曾読であるのにこの『先祖の話』をなぜ自分は選んだのだろうと、このあけがたの心臓の異常のさなかにも思っていた。
論旨の懇切と明快とは、柳田にとりこの話題が深く熟していたことを想像させる。民俗学といえば柳田と折口信夫とが一続きによみがえって思われるのが常識だが、文体や話体でいうと、わたしは柳田国男にまず心惹かれる。
2004 11・4 38
* 朝一番に、東大の坂村健氏より新刊が贈られてきた。『ユビキタスとトロン』の、回想的な纏めらしい。
* 『近代国家への出発』に読みふけっていて、新富町から一つ乗り越した。
2004 11・5 38
* それにしても明治十四、五年ごろからの自由民権運動や自由党などの政党・政社への凄惨で熾烈な徹底的残虐弾圧のむごさ、あくどさはどうであろう。他の何もかも忘れ去ってしまうぐらい陰惨苛酷の不快さに、シンから参ってしまう。弾圧の鬼県令三島通庸、監獄地獄の鬼官僚金子堅太郎、絶対政権へ冷酷なまで緻密に民衆制圧を画策して余すところ無かった鬼官僚井上毅、かれらの上にのり天皇制絶対専制政治に君臨した伊藤博文や岩倉具視。
それに対峙し、国民の自由と権利とのために闘い闘い、しかも無惨に敗れ去っていった近代草莽の知性たちの哀しみや存在感。そんな中には北村透谷もいたし、彼と美しい許嫁を競った平野友雅もいた。颯爽かつ清冽な詩藻と闘志に満たされた細野喜代四郎もいた。何人も何人も何人も忘れがたい、思想の人たちがいた。
2004 11・5 38
* 藤江夫人の「ふつうのくらし」と題した、たぶん七十枚あまりの作品を読んでいる。まえの「ひまわり」は巧みに小説ふうであり、今度のはエッセイふうに運ばれている。ダウン症のお子さんを育ててきた体験のうえに文字通り「平成」に文章が組み上がっている。ひとつのことが、次ぎのひとつのことのキッカケに組み合わさりながら、いつかこの人は某福祉県の懇談会の委員のような所へ、いましも動いて行っている。まだ三分の一も読んでいないし、もう少し推敲はあつた方がイイにしても、興味深く書けている。あまり問題なく「文章」に読ませる運びが出来ているのは、センスがいいのだ。こんなことを謂うと叱られるが、いまわたしに書いたモノを読ませてくれる人達の中では、最高齢(わたしの同級生の同窓夫人なのだから。)になるが、きびきびと若い。生彩とまでいうと褒めすぎになるので、生気があると謂っておくが、一つには上手に書こうといった成心がないので、すらすら言葉が出て来るのだろう。手垢の付いた俗な成語がとても少ないのがえらい。
2004 11・7 38
* 上島史朗氏の歌集「比叡愛宕嶺」を招待席に、新会員沖ななもさんの「樹木礼賛」を詩歌室に、会員宮田智恵子さんの「橋のむこうに」を小説室に入稿した。会員日吉那緒さんの「雪後の陽」が詩歌室に送られてきている。さ、また新しいスキャンも始めたい。さしあたり荷風の美しい泰西翻訳詩集『珊瑚集』を読み返すのが楽しみだ、とても楽しみだ。衰えゆく気持ちを励ましてくれる藝術は、在る。いくらでも在る。
2004 11・9 38
* 六義園からの帰り、藤江夫人の「ふつうのくらし」を読んでいて、二度三度、声をもらしそうに熱い感じをもった。名文だからではないが、一途に踏み込んでためらいなく、成心もなく想うままを深く書いた文章は胸を打つものだとしんみりと納得した。ダウン症の我が子との共生を「ふつうのくらし」として成就してゆく家族のつよさ、聡明さ、はかり知れぬものがある。
* このようにして、毎日、少しずつ少しずつでもいろんなことに出逢い、いろんなことに躓いたり感動したりする。
こんなホームページにわたしは、臆面もナシにそういう自分をさらけ出しているけれど、こうして「生きている」のだなと思う。ときどき「よく、湧くように書きつづけられるものですね」と不思議そうに言われるが、なるほど世の中にホームページは無数にあるが、自分の言葉を湧き出すように噴出させ続けているわたしのようなバカは、そうそういない。書くことと書くことばと書いている感銘や感情が限りもなく身内にあることを、やはり喜びとしたい。
* 柳田国男の『先祖の話』を読んでいると、わたしのように天涯孤独で生まれ、親族からきれいに切り離されたまま人と成った者には、気の遠くなるような「家」「家督」「一家」「一門」「まき」「とく」「分家・別家」の歴史で。
わたしは、自分が「ご先祖」になるのだと小さいときから想っていた。事実、そんなアンバイになりそうだと一人で胸を張っていたのに、息子がこどもを作ってくれないのでは、たった二代ぎりのご先祖で終わりそうである。笑えてしまう。子供が欲しいなあと、ときどき痛切に思う。育ててくれた秦の両親にとても気の毒な気がする。こればかりは、もう、どうしようもないが。
明日は何も無いので、心行くまでいろんな本を読みながら今日はやすもう。二人からお奨めのヘッセの『デミアン』は、近くの図書館で文庫本でも借りるか。
2004 11・10 38
* 荷風が選んで訳した近代仏蘭西詩選『珊瑚集』をスキャンしているが、底本があんまり劣化していて、スキャンは最悪の精度。しかし、一つ一つ書き起こしてゆく気でいる。いま、やっと巻頭の一つを書き起こした。嫌いではない。こういう佳い翻訳で四十一篇有る。なんという楽しみ。機械からは、マドレデウスのディスク「ムーヴメント」が、もう三周目をうたい続けている。テレーザのヴォーカルが、こよなく懐かしく悩ましい。
* 死のよろこび シャアル・ボオドレエル 荷風訳
蝸牛(かたつむり)匍(は)ひまはる泥土(ぬかるみ)に、
われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。
安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨を埋(うづ)め、
水底(みなそこ)に鱶(ふか)の沈む如(ごと)忘却(わすれ)の淵に眠るべし。
われ遺書を厭(い)み墳墓をにくむ。
死して徒(いたづら)に人の涙を請(こ)はんより、
生きながらにして吾(われ)寧(むし)ろ鴉をまねぎ、
汚(けが)れたる脊髄の端々(はしばし)をついばましめん。
あゝ蛆虫(うじむし)よ。眼(め)なく耳なき暗黒の友、
汝(なれ)が為めに腐敗の子、放蕩(はうたう)の哲学者、
よろこべる無頼(ぶらい)の死人(しにん)は来(きた)れり。
わが亡骸(なきがら)にためらふ事なく食入(くひい)りて、
死の中(うち)に死し、魂失(う)せし古びし肉に、
蛆虫よ、われに問へ。猶も悩みのありやなしやと。
2004 11・11 38
* 憂 悶 シャアル・ボオドレエル 荷風訳
大空重く垂下(たれさが)りて物蔽ふ蓋の如く、
久しくもいはれなき憂悶(もだえ)に歎くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方(よも)閉(とざ)す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か。
蟲喰(むしば)みの床板(ゆかいた)に頭(かしら)打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠(かはほり)の如く「希望(のぞみ)」は飛去る。
限りなく引つゞく雨の絲
ひろき獄屋(ひとや)の格子(かうし)に異らず、
沈黙のいまはしき蜘蛛の一群(ひとむれ)
来りてわが脳髄に網をかく。
かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家(すみか)なく彷徨(さまよ)ひ歩く亡魂(なきたま)の、
片意地に嘆き叫ぶごと、
大空に向ひて傷(いたま)しき声を上ぐれば、
送る太鼓も楽(がく)もなき柩(ひつぎ)の車
吾が心の中(うち)をねり行きて、
欺(あざむ)かれし「希望(のぞみ)」は泣き暴悪の「苦悩(くるしみ)」
黒き旗を立つ、垂頭(うなだ)れしわが首(かうべ)の上に。
2004 11・12 38
* 暗 黒 シャアル・ボオドレエル 荷風訳
森よ、汝、古寺(ふるでら)の如くに吾を恐れしむ。
汝、寺の楽(がく)の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の喘咽(あへぎ)聞ゆる永久(とこしへ)の喪(も)の室(へや)に
DE PROFUNDIS(デ プロフンデス)歌ふ声、山彦となりて響くかな。
大海(おほうみ)よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海(おほうみ)の声に聞く。
辱(はづかし)めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。
されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と、
赤裸々(せきらゝ)求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて
われに語らふ、其の光だになき夜(よる)ぞうれしき。
暗黒の其の面(おもて)こそは絵絹(ゑぎぬ)なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼(まなこ)より数知れず躍りて出(い)づれば。
* 荷風訳詩をこう引いてみるだけで、なんとこの私語の「闇」の光り出すことよ。
2004 11・13 38
* 眼の酷使が過ぎている。痛い。古い岩波文庫の『珊瑚集』活字が劣化していて、校正のために眼を皿にしても、なかなか読み切れない。それでも校正が楽しい。すこし休まなくちゃ。ボオドレエルを終え、ランボオとヴェルレエンも起稿し終えた。あと十三人もの詩人の作がならんでいる。
高校に入った頃、安く本を買おうすると、岩波文庫よりもアテネ文庫が安かった。ただし薄かった。その薄い文庫本でハイネの詩集を買い、西洋の詩人のなんとアケスケにキザなんだろうと呆れながら、ま、翻訳だものとその辺は斟酌しつつ、けっこう夢中に、歯の浮きそうな詩句を愛読した。詩は翻訳したのを読んでもムダだと思いつつ、それでも鴎外訳の「即興詩人」をあたかも散文詩として熱愛したし、荷風の「珊瑚集」も、上田敏の「海潮音」も尊重し愛読した。
日本人の詩にこそ、容易に馴染めなかった。それではよくないと、電子文藝館の仕事で、つとめて詩を起稿して詩のおもしろさに馴染もうとした。だが、正直の所、詩で唸らせてくれる作品は数少ない。藤村、白秋、朔太郎、そして後にはむしろ小説家の井上靖や高見順や伊藤整の、また佐藤春夫や室生犀星らの詩を通ることで日本の詩に触れてきた。わたしの読者に高木冨子さんのような、プロではない佳い詩人のいたことも、詩に親しむ気持ちを持たせてくれたと思っている。
それかあらぬか、わたしは、詩人を、かなり大勢、日本ペンクラブの会員に推薦してきた。岐阜の山中さんや千葉の布川さん愛知の紫さんらの詩も好きな方である。
2004 11・13 38
* 藤江さん 感銘を受けました。申し分なくよく書かれていて、あなたの聡明に支えられた確かな目配りが全文に貫徹されています。これでいいのだと思いますよ、こういう趣旨の文章は。
自分を少しも飾ってなくて、あるがままにありのままを書き切ることは実に難しいのに、平然と書けています。
あとは、先に申し上げたような文章上の少しの瑕疵を訂正しておけば、内容は過不足なく上等です。私も家内も感動しました。もう一度通して読んで手を入れられたら、ファイルでお送り下さい。「e-文庫・湖(umi)」にひとまず入れてみましょう。
2004 11・13 38
* 「日本の歴史」色川さん担当の巻が終幕にむかい、北村透谷がこの巻ではとても大切に語られている。おそらく透谷が今日若い、いや年寄りの読者にも読まれることは極めて少ないであろうが、彼の、たんに文学というよりも近代日本の優れた魂の自立と自由とをめざす渾身の生き方とその痛ましい挫折を、もっと確実に身に受けたいものだ。
わたしがもう三十年早く透谷にほんとうに出逢っていればと、つくづく悲しい。わたしは「ペン電子文藝館」に彼の一文「各人心宮内の秘宮」を早くにとりいれたが、同じ論文に色川さんも触れている。
2004 11・14 38
* 暗 黒 シャアル・ボオドレエル 荷風訳
森よ、汝、古寺(ふるでら)の如くに吾を恐れしむ。
汝、寺の楽(がく)の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の喘咽(あへぎ)聞ゆる永久(とこしへ)の喪(も)の室(へや)に
DE PROFUNDIS(デ プロフンデス)歌ふ声、山彦となりて響くかな。
大海(おほうみ)よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海(おほうみ)の声に聞く。
辱(はづかし)めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。
されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と、
赤裸々(せきらゝ)求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて
われに語らふ、其の光だになき夜(よる)ぞうれしき。
暗黒の其の面(おもて)こそは絵絹(ゑぎぬ)なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼(まなこ)より数知れず躍りて出(い)づれば。
仇 敵 シャアル・ボオドレェル 荷風訳
若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし
暴風雨(あらし)の闇に過ぎざりき。
鳴る雷(いかづち)のすさまじさ降る雨のはげしさに、
わが庭に落残る紅(くれなゐ)の果実(くだもの)とても稀(まれ)なりき。
されば今思想(おもひ)の秋にちかづきて
われ鋤(すき)と鍬(くは)とにあたらしく、
洪水(でみづ)の土地を耕せば、洪水(でみづ)は土地に
墓と見る深き穴のみ穿(うが)ちたり。
われ夢む新(あらた)なる花今さらに、
洗はれて河原となりしかゝる地に
生茂(おひしげ)るべき養ひをいかで求め得べきよ。
あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命(いのち)を食ひ、
黯澹(あんたん)たる「仇敵(きうてき)」独り心にはびこりて、
わが失へる血を吸ひ誇り栄ゆ。
2004 11・14 38
* 風雨。けれど、空気は乾燥し眼は痛む。
* 秋の歌 シャアル・ボオドレェル 荷風訳
一
吾等忽(たちま)ちに寒さの闇に陥(おちい)らん。
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
薪(たきゞ)を投込むかなしき響(ひゞき)。
冬の凡ては――憤怒(いかり)と憎悪(にくしみ)、戦慄(をのゝき)と恐怖(をそれ)や、
又強ひられし苦役(くえき)はわが身の中(うち)に.返り来る。
北極の地獄の日にもたとふべし。
わが心は凍りて赤き鉄の破片(かけら)よ。
われ戦慄(をのゝ)きて薪(たきゞ)を投ぐる響をきけば、
断頭台(くびきりだい)を人築く音なき音にも増りたり。
重くして疲れざる戦士の槌の一撃に、
わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟(ものみか)。
かゝる懶(ものう)き響に揺られ、揺られて、何処(いづこ)にか、
いとも忙(せは)しく柩(ひつぎ)の釘を打つ如き……そは、
昨日(きのふ)と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声は、
さながらに死者を葬る鐘にも似たり。
二
きれ長き君が眼(まなこ)の緑の光ぞなつかしき。
いと甘かりし君が姿もなど今日の我には苦(にが)きや。
君が情(なさけ)も暖かき火の辺(ほとり)や化粧の室(へや)も、
今のわれには海に輝く日に如(し)かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如(ごと)かれ、忘恩の輩(ともがら)、ねぢけしものに。
恋人か将(は)た妹(いもと)か。うるはしき秋の栄(さかえ)や、
又沈む日の如く束(つか)の間の優しさ忘れたまふな。
定業(さだめ)は早し。貪(むさぼ)る墳墓はかしこに待つ。
あゝ君が膝にわが額(ひたひ)を押当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟(やはらか)くして黄(きいろ)き晩秋の光を味(あぢは)はしめよ。
* 譬えて謂えば永観堂の紅葉に匹敵するのは、このボオドレエルの秋の詩。政治でも宗教でもない。そんなものと共に生きてはいられない。「さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。母の如(ごと)かれ、忘恩の輩(ともがら)、ねぢけしものに。恋人か将(は)た妹(いもと)か。うるはしき秋の栄(さかえ)や、又沈む日の如く束(つか)の間の優しさ忘れたまふな。 / 定業(さだめ)は早し。貪(むさぼ)る墳墓はかしこに待つ。あゝ君が膝にわが額(ひたひ)を押当てて、暑くして白き夏の昔を嘆き、軟(やはらか)くして黄(きいろ)き晩秋の光を味(あぢは)はしめよ。」
2004 11・15 38
* 腐 肉 シャアル・ボオドレェル 荷風訳
わが魂などか忘れん、涼しき夏の
晴れし朝(あした)に見たりしものを。
小径(こみち)の角、砂利を褥(しとね)に
みにくき屍。
毒に蒸されて血は燃ゆる
淫婦の如く脚(あし)空ざまに投出(なげいだ)し
此れ見よがしと心憎くも
汗かく腹をひろげたり。
照付(てりつ)くる日の光自然を肥(こや)す
百倍のやしなひに
凡てを自然に返すべく
この屍(しかばね)を焼かんとす。
青空は麗しき脊髄を
咲く花かとも眺むれば、
烈しき悪臭野草(のぐさ)の上に
人の呼吸(いき)をも止むべし。
青蠅の群(むれ)翼を鳴らす腐りし腹より
蛆蟲(うじむし)の黒きかたまり湧出でて、
濃き膿(うみ)の如くどろどろと
生ける襤褸(らんる)をつたひて流る。
此等(これら)のもの凡(すべ)て寄せては返す波にして、
鳴るや、響くや、揺(ゆら)めくや。
吹く風に五体はふくらみ
生き肥(こゆ)るかと疑(あやし)まる。
流るゝ水また風に似て
天地(てんち)怪しき楽(がく)をかなで、
節(ふし)づく動揺(うごき)に篩(ふるひ)の中なる
穀物の粒の如くに舞狂へば、
忘られし絵絹(ゑぎぬ)の面(おも)に
ためらひ描く輪郭の、
絵師は唯(た)だ記憶をたどり筆をとる、
形は消えし夢なれや。
巌(いは)の彼方(かなた)に恐るゝ牝犬(めいぬ)。
いらだつ眼(まなこ)に人をうかゞひ、
残せし肉を屍(しかばね)より
再び噛まんと待構(まちかま)ふ。
この不浄この腐敗にも似たらずや、
されど時として君も亦(また)、
わが眼(め)の星よ、わが性(せい)の日の光。
君等、わが天使、わが情熱よ。
さなり形體(けいたい)の美よ、そもまた此(かく)の如(ごと)けん。
終焉の斎戒果てて、
肥えし野草(のぐさ)のかげに君は逝(ゆ)き
白骨の中(うち)に苔むさば、其の時に、
あゝ美しき形體よ。接吻(くちづけ)に、
君をば噛まん地蟲(ぢむし)に語れ。
分解されしわが愛の清き本質(まこと)と形とを
われは長くも保(たも)ちたりしと。
* ボオドレエルがすでに欧州の近代の、かかる爛熟と終焉を歌っていたとき、日本は性急な近代へと烈しい葛藤の速歩を強いられていた。三百年を三十年で駆け抜けようとしていた。ああ、無惨な試煉であったこと。
2004 11・16 38
* 色川大吉氏の歴史記述になる『近代国家の出発』を読み終えた。二十数巻、一万ページを越す「日本の歴史」をここまで孜々として読み進めてきたのは、この巻にはたと出逢わんがためであったかと思うほど感動し、教わり、そして切に口惜しくもあった。せめて刊行された当時にすぐ読んでいたら、わたしの血は煮えて、別の方角へ脚は走り出していたかも知れない。
若者よ、忘れずに、見つけて読んで欲しい。若者でなければならない、日本の未来はきみたちの手にあるのだから。
わたしは、今日は歌舞伎見物だ。なんということだ。
2004 11・16 38
* 今夜からは隅谷三喜男氏担当の『大日本帝国の試煉』の巻を読み継ぐ。いきなり朝鮮問題から日清戦争になる。この戦争が、日本史に、また世界史に与えた影響はあまりに深刻。
2004 11・16 38
* 好天。
夜前は帰宅がおそく、しかし印象のある間に芝居の感じも書き置きたく、メールもいろいろ来ていたが、そこそこに一つだけ返辞しておいて、「私語」に時間がとれた。やっと例の本、バグワンと柳田の『先祖の話』を読みに階下におりたのが、もう二時半。「大日本帝国の試練」を読み進み、「今昔物語」は大力の女や男や僧の話を読み継ぎ、「家畜人ヤプー」はアンナ・テラスの神国を経巡って、そして、寝た。
明け方、なにかしら某出版社との応接の夢をみていたが、わけわからず。
朝の血糖値は103。なんでこんなに低いのか。
継ぎ紙展で会った主宰近藤富枝さんの旧作文庫本『相聞-文学者たちの愛の軌跡』がいちばんに届いた。ノンフィクションで著名な作者。中の一編を「ペン電子文藝館」にとあの藤原画廊で依頼しておいたのへ、返信である。またスキャンだ。作品の欲しい会員は、たいがい電子化の作業が出来ない。誰かに頼んで欲しいといえば、まさに絶望の「ホナ、さいなら」になってしまう。やれやれ。
2004 11・17 38
* 日本の近代が西欧列強との極端な、ウソのような不平等条約にがんじがらめに縛られたまま始まったこと、そこからの脱出は明治の国民と政府との悲願であり、これだけは呉越本音も共にしていたが、そしてじりじりと回復していったが、忘れてはならないのが、それほどの同じかそれ以上の不平等条約を、日本国は、かさにかかって朝鮮半島に対し強硬に押し付けてはばからなかった歴史的事実。朝鮮支配を通して国際的に日本国の重みを主張しようと、明治政府も民間も画策し続けた歴史的事実。
その必要から、日清戦争は起きた、起こされた、のであった。帝国主義こそが日本の近代史を蔽うが、そのテコとしてあくまで利用されたのは「朝鮮」への支配欲であった。これは、辛い話だ、頬被りして忘れてしまっていいことではない。
2004 11・17 38
* 月の悲しみ シャアル・ボオドレエル 荷風訳
月今宵(こよひ)いよゝ懶(ものう)く夢みたり。
おびたゞしき小布団(クッサン)に翳(かざ)す片手も力なく、
まどろみつゝもそが胸の
ふくらみ撫づる美女の如(ごと)。
軟かき雪のなだれの繻子(しゆす)の背や、
仰向(あふむ)きて横(よこた)はる月は吐息(といき)も長々と、
青空に真白(まつしろ)く昇る幻影(まぼろし)の、
花の如きを眺めてやりて、
懶(ものう)き疲れの折々は下界の面(おも)に、
消え易き涙の玉を落す時、
眠りの仇敵(きうてき)、沈思(ちんし)の詩人は、
そが掌(てのひら)に猫眼石(ねこめいし)の破片(かけら)ときらめく
蒼白き月の涙を摘取りて、
「太陽」の眼(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。
そゞろあるき アルチュウル・ランボオ 荷風訳
蒼き夏の夜(よ)や、
麦の香に酔(ゑ)ひ野草(のぐさ)をふみて
小みちを行かば、
心はゆめみ、我足(わがあし)さわやかに
わがあらはなる額(ひたひ)、
吹く風に浴(ゆあ)みすべし。
われ語らず、われ思はず、
われたゞ限りなき愛、
魂の底に湧出(わきいづ)るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
ぴあの ポォル・ヴェルレエン 荷風訳
しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色(うすばらいろ)の夕(ゆふべ)に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして快(こゝろよ)き
すたれし歌の一節(ひとふし)は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の移香(うつりが)こめし化粧の間(ま)にさまよふ。
あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節(ふし)、何をか我に思へとや。
一節毎(ひとふしごと)に繰返す聞えぬ程のREFRAIN(ルフラン)は
何をかわれに求むるよ。
聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。
* 人間の営みを何と名付けてよいか。気まぐれか。ものぐるいか。欲か得か。絶望か。希望か。
2004 11・17 38
* 藤江君の夫人の「ふつうのくらし」第二稿が届き、読み直している。せっかくの佳いエッセイだけに、少しでもきちんと委曲をつくした佳い文章で読みたい。しばらく読み直してみたい。
同僚委員の向山氏から、羽仁もと子の「半生の記」がファイルで届いた。読んで行くと少し気になる個所もあり、原稿のプリント到着を待つ。エッセイであるか、出版編集特別室に入る内容の物かを読みたい。
* おやおや一時をまわっている。明日、少なくも東京を動かないのであれば、あすもゆっくり出来る。お利口でいようか、おばかをやろうか。呵々
2004 11・17 38
* 道 行 ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
寒くさびしい古庭に
二人の恋人通りけり。
眼(まなこ)おとろへ脣(くちびる)ゆるみ、
さゝやく話もとぎれとぎれ
恋人去りし古庭に怪しや
昔をかたるもののかげ。
――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。
――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。
――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、
お前の心はいつも私(わたし)を夢に見るか。――いゝえ。
――あゝ私等(わたしら)二人脣(くち)と脣(くち)とを合した昔
危(あやふ)い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。
――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。
烏麦繁つた間(なか)の立ちばなし、
夜より外(ほか)に聞くものはなし。
夜の小鳥 ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
鴬は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲(かしわ)の木の
頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジュラック)
霧たち籠(こ)むる河水(かはみづ)に樹木の影は
煙の如くに消ゆ。
その時影ならぬ枝の間(あひだ)より何処(いづこ)とも知らず
夜(よ)の小鳥は泣く。
あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、
青ざめし君が面(おもて)を眺むらん。
いかに悲しく、溺れたる君が望みは
高き梢に嘆くらん。
* 『珊瑚集』の解説を、佐藤春夫は、「荷風先生は毅然たる現実主義精神を抱いた散文作家であると同時に、一面には嫋々たる抒情詩人である。この両面を解して後はじめて先生が真面目に接し得られるといふべきである」と書き始めている。昭和十三年夏に書いている。春夫はまだ太平洋戦争の荷風、戦後の荷風を見ていない。
「珊瑚集」を起稿していると、ぜひ上田敏の「海潮音」も「ペン電子文藝館」に残したいと思えてくる。そういうことを思い立っているときが、幸せである。まぎれもない藝術の別世界が厳として時代を超え世界を越えて此の小さな胸に蘇るありがたさ、これをしもはかないとは思わぬ。これをしもまことなしとは云わぬ。政治や宗教に対する嫌悪・厭悪はもういかんともすること叶わないが。
2004 11・18 38
* 暖き火のほとり ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
暖き火のほとり、燈火(ともしび)のせまきかげ、
片肱(かたひぢ)つきて頭(かしら)支(さゝ)ふる夢心地、
愛する人と瞳子(ひとみ)を合すその眼とその眼、
語らふ茶の時、閉(とざ)せる書物、
日の暮れ感ずるやさしき思ひ。
くらきかげ、静けき夜をまつ時の
いふにいはれぬ心のつかれ、
あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。
幾週日(いくしうじつ)の遣瀬無(やるせな)さ、
猶(なほ)ひたすらに其等(それら)を追ふ。
返らぬむかし ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
あゝ遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや、
衰へ疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、
風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光(ひかり)漏れ落(おつ)る時なりき。
胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃(ひらめ)く目容(まなざし)は突(つ)とわが方(かた)にそゝがれて、
輝く黄金(こがね)の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。
打顫(うちふる)ふ鈴の音(ね)のごと爽(さわやか)に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほゝゑみ)にて、
われ真心の限り白き君が手に吻(くち)づけぬ
あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然(しか)り」と頷付(うなづ)く初めての声。あゝ其の響はいかに。
* 荷風自身の「永井」と朱の検印ある昭和十三年九月一日初版の文庫本からスキャンすると、もののみごとに騒然雑然の文字が識写されて出る。原本が総ルビのうえに活字はとうに劣化して、半分がた薄れている。それを眼を凝らして読み取り読み取り上のように正確に起稿し、無用のルビは割愛している。煩わしいそんな作業がむしろ楽しめるほど荷風の言葉はなつかしい。こういう情調にわたしが心酔するのではない、こういう言葉を駆使して仏蘭西の抒情詩を日本に移植しようとした荷風の思いが懐かしまれる。いずれ近いうちに「ペン電子文藝館」に掲載するのだが、この「私語」に耳をかして下さる人へのホンのお裾分けの気持ちも、いささかメッセージを送り出すほどの洒落気もある。だれがどのようにメッセージを聴かれるかは知らないが。
2004 11・19 38
* 何とも、気の弾まないお天気で。
建日子の置いていったBSの映画もいずれも、しんねりむっつり、気の晴れ立つ秀逸の娯楽作がない。
文学の娯楽作はたいていボンクラな駄文ゆえに文学として楽しんで読めないが、映画はたとえ娯楽作でも、映画性において秀逸の表現なら、ドタバタもまた傑作名作に成り得て興奮させられる。しんねりむっつりと純文学の私小説をわるく真似たような映画では、退屈する。
映画の表現技法はきわめて多彩多角、一通りのものではないが、テンポと切れ味と、設定、ことに極限状況の巧みな設定が必然の急を告げに告げて行くとき、魅せられる。わたしは、ハリソン・フォードの演じるスピルバーグの「インディー・ジョーンズ」ものは必ずしも好きでない。「シンドラーのリスト」の方に感動する。インディはおもしろづくが過ぎ、それならばむしろ「007」の上出来のヤツが面白い。「ダイ・ハード」や「ランボー」や「リーサル・ウエポン」や「エイリアン」や「ターミネーター」などの方が、どこかに現代(ないし未来)が生きてくる。
もっとも、歴史的なもの、幻想的・神秘的なものも好き。ミッシェル・ファイファーが昼は鷹に、夜は美女になり、恋人は昼は騎士に夜は狼になって、辛い美しい旅を重ねる「レディ・ホーク」など、胸にしみて何度観ても魅せられる。どこかにかけがえのない人間の苦悩と歓喜とが疼いている作品は、映画で表現されるとき我を忘れるが、どうやらBSの映画は、黴の生えたような古びた「名画」が多いのか。テレビを買い換えようと云うのに、すこし腰が引けてしまう。
こんなつまらない日は、「オペラ座の怪人」のように音楽も美しい大柄な人間劇に埋没したい。それとも、ひたすら仕事をするか。いやいやそれよりトルストイの『戦争と平和』が久しぶりに読み返したくなってきた。
2004 11・19 38
* 心なんて、なにの頼りにもならない。 あら何ともなの さても心や と昔の人も身にしみて知って嘆息していた。「さても(ひと=他人)のこころや」とは呻いていない、そこ(底)が、深い。マインドでこだわるから嘆くことになる。欲も深いのだ。なんてかなしい生き物だろう、人間は。
* ありやなしや シャアル・ゲラン 荷風訳
よしや反響のきかれずとも、物には凡て随ふ影あり。
夜来(よるきた)れば泉は星の鏡となり、
貧しきものも人の恵に逢ひぬべし。
澄みて悲しき笛の音(ね)に土墻(ついぢ)は立ちて反響を伝へ、
歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、
蘆の葉は蘆の葉にゆすられて打顫(うちふる)ふ。
憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心(ひとごころ)、
あゝ、そはありやなしや。
* 告白 アンリイ・ド・レニェエ 荷風訳
まことの賢人は永遠(とこしへ)の時の間(あひだ)には
一切の事凡(すべ)て空しく愛と雖(いへど)も猶(なほ)
空の色風の戦(そよ)ぎの如く消ゆべきを知りて
砂上に家を建つる人なり。
されば賢人は焔の燃え輝き消ゆるが如くに
開きては又散る薔薇(さうび)の花を眺め、
殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて
浮世の人と物とに対す。
疎懶(そらん)の手は曉の焔と
夕炎(ゆふばえ)の火をあふらざれば
夕暮は賢者に取りて傷(いたま)しき灰ならず、
明け行く其の日は待つ日なり。
移行くもの消行くものの中にありて
我若(も)し過ぎ行く季節に咲く花の枯死(かれし)すは、
これそが定命(ぢやうみやう)とのみ観じ得なば
亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。
然(しか)るに纏綿(てんめん)たる哀傷の心切(せつ)にして
われは悔いと望みと悲しみに
又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて
わが身を挫(ひし)ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。
いかにとや。砂上の薔薇(さうび)の香気(かんばせ)も
吹く風の爽(さわやか)さ、美しき空の眺めさへ
永遠(とこしへ)の時の間(あひだ)にも一切の事凡て空しからずと、
我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。
* 仏蘭西の詩人達も日本の詩人も、心に嘆き傷ついていた。なんといういとおしい生き物だろうか、人間とは。
2004 11・19 38
* 返らぬむかし ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
あゝ遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや、
衰へ疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、
風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光(ひかり)漏れ落(おつ)る時なりき。
胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃(ひらめ)く目容(まなざし)は突(つ)とわが方(かた)にそゝがれて、
輝く黄金(こがね)の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。
打顫(うちふる)ふ鈴の音(ね)のごと爽(さわやか)に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほゝゑみ)にて、
われ真心の限り白き君が手に吻(くち)づけぬ
あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然(しか)り」と頷付(うなづ)く初めての声。あゝ其の響はいかに。
偶 成 ポオル・ヴェルレエン 荷風訳
空は屋根のかなたに
かくも静(しづか)にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰(うちあふ)ぐ空高く御寺(みてら)の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来(きた)る。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く、
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
2004 11・20 38
* ボジョレーヌーボーの余韻がある。さわやかな果実の薫りがした。脣にふれて秋が歌うようであった。
* ロマンチックの夕 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ 荷風訳
夏よ久しかりけり、われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵は遂に打ち負けて、身中(みうち)つかるゝまでの快(こゝろよ)さ。
われ小暗(をぐら)きリラの花近く、やさしき橡(とち)の木蔭に行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如し。
よろづの物われを惑(まどは)しわれを疲らす。行く雲軽く打顫(うちふる)ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来る。
列車は過ぎたり。燃(もゆ)るよろこびよ。その響(ひゞき)空気をつんざく。神経は破(やぶ)れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。
あゝわれ此宵(こよひ)、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチックなる事柳のかげにも優りたる吾心(わがこゝろ)の懶(ものう)き疲れを、かの人は吸ふべきに。
われ彼(か)の人に、「誘(いざな)ひしは君ならず、そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如くにふくれしむ。
されど君はあまりに若ければ、黄金(こがね)の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん夜(よる)にのみ。
あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜り泣きの声、煙りし空に上り行けり。
うるはしき夜(よる)のみ眺めて語りたまふな。傷(いたま)しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん脣に、消えも失(う)せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯泣きたまへ。」と語るべし。
* 久しぶりに加藤紘一が高村元外相と、いまの外務副大臣と三人で、田原総一朗の番組に出ていた。加藤の物静かに譲らないイラク派兵否認の言葉のみが耳に残った。
それにしても、笠間でみてきた楽茶碗たちの美と確かさ。ボジョレーヌーボーの秋を刺し抜く爽快。そして十九世紀の伯爵夫人の深い吐息。それを写す荷風の詩性。そしてそして小泉政治の腐臭や北朝鮮といいアメリカといい吐きけをもよおす覇欲の傲慢。片方だけを選べない現代の悲歎。
2004 11・21 38
* せっかく色川さんから紹介された教え子先生から連絡が貰えなくて、頓挫している。ま、からだを動かして自分で調べて材料を手に入れてゆこうと思う。
今日も、足尾銅山の公害闘争に命をかけた田中正造が、天皇に直訴した一文を読んだ。幸徳秋水が田中の熱情にほだされて代筆した優れた名文であり惻々胸に迫って苦しいほどだ、が、狼狽した政府は田中正造の「発狂」としてこれを闇に葬った。足尾銅山の垂れ流し公害は、四県の大地と人民の心身産業を破壊した、古来稀な大害大悪であったが、経営者古河は農商務大臣と縁戚関係を結んで惨状を平然放置し拡大し、政府も産業保護の名目で何一つ救済や改善の手をつけなかった。天皇は赤子の不幸に対し何の役にも立たなかった。
この戦後にもまた大きな公害事件は続出した。水俣公害は中でも大きな不幸をもたらした。いま皇太子妃のお祖母さんが亡くなって皇太子夫妻の弔問が報ぜられているが、この故人は問題を起こした「窒素」の責任者夫人であったと聞いている。
日本の社会は微妙に危うく織られたひ弱い布のようで、その糸筋のなかには明らかに害毒を匂わせ染みつかせた繊維が混じる。
2004 11・21 38
* 近藤富枝さんのノンフイクション「水上心中 太宰治と小山初代」を入稿した。太宰では、いちばん新しい猪瀬直樹の追究が、いちばんドライで的確であった。
何にしても太宰治は好きでない。太宰賞「清経入水」で世に出してもらった者の云うことでないかも知れないが。彼の計算づくの捨て身が書かせた文学には、うその魅力が横溢していて、それは才能と呼ばれていいのだが、一部の人の云うほど感銘深いと感じたことはない。ずっしりとした本格の小説を読ませて貰った記憶がない。『斜陽』など気味が悪かった。やはり二度目に正式に結婚した頃の「津軽」「富岳八景」「走れメロス」などが印象では落ち着いていた。大作家だと感じたことはない。わたしが太宰賞をこころから喜んだのは太宰ゆえではなく、「選者」先生たちの息を呑む本格の重さゆえ、その満票当選であったのが身の引き締まる感激であった。
2004 11・21 38
* 取りようでは、自分の大事な時間を費消しているようであるが、藤江夫人の「ふつうのくらし」第二稿を一字もゆるがせにせず読み直していると、真実というものが伝えてこようとする生気にしっかり打たれて、そういう体験はこれまた生きの実感であり、何かがその生気により培われるのである。『ディアコノス』を湖の本に初出したとき、藤江さんに感想をもらった。あれを書き上げる前にもし今度のこの藤江作を読んでいたら、どう筆をすすめていたろうとふと想う、が、それは済んでしまったこと。
今日のうちに、「e-文庫・湖(umi)」に掲載できるだろう、大勢の人に読んで欲しい。プロの書き手なら、これはこのまま手練れの小説にも仕上げていたか知れないが、そうしないで、あるがままを思うままに書いたことも、かえって力になっている。それでいいのではないか。名文だけが文藝ではない。
2004 11・23 38
* 羽仁もと子の「半生を語る」を読んで行く。スキャンと一読とは委員がしてくれていたのだが、スキャンミスも校正ミスも数えきれぬほど続出。
この著者の少女時代が、よくもあしくも、甚だ個性的でおもしろい。ひと言で彼女の語彙を借りていうなら「理義」に固執して、なにもかも、なかなかスムーズに滑り行かない。「頭脳は優秀、手は低能」と書かれているが、優秀な頭脳からの電信が実践へなかなか結びつかない。「理義」に納得するまで手足もなにも動こうとしない。
こういう人は、ここまで極端でなくても、いる。批評だけは人一倍出来るけれど、実践できない。
羽仁もと子のえらいところは、その批評がまっすぐ自身に向いていること。尋常ないし凡庸な批評家は、批評が決して自身に向かおうとしないで、自分は棚上げのまま、他をあげつらう。賢い人の陥りがちなところで、その限りでとても聡明な批評家とは云えないことになる。
「理義」とはつまりは「分別」である。いい・わるい、白い・黒い、好き・嫌い、正しい・間違いと勝手に分けて選択して行く。分け方が間違っていると、まさにドツボにはまって頑固な固執に陥るのだが、それが信念というものだ、などと頑張る。ま、そんな風に頑張ってもいい時期も、あると言えばあるのだろうが、ろくなことはない。柔らかくトータルにものを観なくなるだけでなく、深く隠れた本質を観ようとしない。深いところでは、正しいも正しくないも、白いも黒いも、いいもわるいも実は相当に溶けあっていて、「二」つのものごととは容易く分別などできない。本質の直観は理義では通せない。
理義に固い時期には、人はとかく、認識と判断ということに重きを置くものだ、わたしにもはっきりその二語を用いるに昂然たる時期があった、長かった。しかし認識や判断とは、「判・断」の二漢字が意味するように、つまり「分別」して「選ぶ」のである。選ぶから狭くなっていることも有るのに気付かずに、選択の正しさに酔いたいのである。マインドトリップの最たる汚点は、たんに偏向し固着した選択を、我賢こに鼻に掛けてしまう怠惰と不実なのである。政治と商売と宗教事業はこれで行われているから、大衆に幸せな恩恵は、めったなことで来ない。
羽仁もと子の理義の自覚が少女時代から「自由学園」の教育者に、また「婦人之友」創刊や展開に、どう克服されたり鍛錬されたり変容して行くか、それがどう読み取れるかを、この先に、期待している。
2004 11・28 38
* 柳田国男の『先祖の話』は、少なくも東京人種の日々の暮らしからは払底したような民俗の探訪であり探索であり推測であるが、日本列島のうちでは、まだこの本の意図し念願された趣旨は、受け継がれうる余地を持つと信じたい。
ああ、新門前の我が家でかつがつ生き延びて、嫁としての母が、毎年の盆や正月にはきちんと守っていた(少なくもわたしがまだ京都にいた頃は。)作法の意味までは、当時のわたしは思い至らずに傍観し、そして忘却し、いまの我が家では、ほとんど新年の雑煮の祝い以外、何一つものこらず過去の記憶からさえ失せてしまった。妻が、わたしの妻ではあったけれど、家の嫁ではほぼ無かったから、母から受け継ぐということを一切しないで来たのだ。
年神と言うほどの意識は、新門前の親たちになにほども明晰ではなかったろう、が、幾つかの小碗に白い飯を盛り、苧殻を折った箸を一本ずつ立てていたのは覚えている。一本箸は目に付いた。その正確な碗の数はおぼろであるが、我が家では十二であったか、家族の五人と別にもう一つであったか。
正月にはむろん小餅を祭っていたが、子供心にその餅のなかに、「星月さん」と呼んで、小餅の上にポチリと親指の頭ほどの餅を積んだ一つだけが必ず加えられていて、その「星月」さん(字はアテ字であるが。)の意義も、一度や二度は母に聞いたか叔母に聞いたか父にも聞いたかと思うけれども、残念なことに覚えられていない。
そのほかに先祖祭や年神の祭りをどうしていたのか、そんな意識はあの家にはもう廃絶していたのか、わたしが迂闊に見過ごしていただけか、凡て分からないのが惜しい。
柳田は、「先祖の話」と題して精細にそういう民俗の拠ってきたとおもわれる背後と過去と現在とを、真実「日本」と「日本人」の暮らしの基盤を探り、愛して語り継いでいて、縷々尽きない。その諄々と説く文体の落ち着いた男らしい確かさには、敬愛を寄せずに居られない。もし書庫の中の「文学以外」で一種類だけ手元に残せといわれれば、わたしは老いての読書のために、この『柳田国男全集』をと指を折るだろう。
2004 11・30 38
* 深田久弥の作品は初めて読んだ。百名山など山の仕事が記憶にあるが読んだことはない。「あすならう」はナイーヴなもので、もう今時は生まれて来ようのない佳作といっておく。
2004 12・1 39
* シーボルト風に謂うと、今日は白い石で書きたい記念の一日になった。
* 秦建日子が「小説」を出版した。河出書房新社刊『推理小説』ほぼ三百頁。わたしは、まだ手にとってその重さを味わっただけ、読み始めてもいない、が、久しく小説家である父親の次から次への出版を家にいて眺めてきた建日子が、自分でも小説処女作をとにかく世に送り出したということには、さぞ感慨も深く嬉しいことだろう。私家版を除いてわたしの処女出版は、受賞作の「清経入水」や「蝶の皿」や「秘色(ひそく)」などもう一作(忘れてしまった)を収めた『秘色』だったが、記憶を呼び戻せば嬉しいよりも怖かったというのが当たっている。自分の本がどう読書界に受け入れられるのかが分からなかった、わたしの作風はあまりに孤立しているように見えていた。
たぶん、建日子も嬉しい中に或る怖さを感じて緊張しているだろう、題の通りの推理小説らしい。
おめでとう。なにはあれ、おめでとう。ほんとうに実現したんだ、編集者と出版社の関門を通ってきたんだ、えらかった。
建日子は知っているのだろうか、河出書房にはむかし坂元一亀という名高い編集長がいた(その息子が名は忘れたが世界的に働いている音楽家だ)。それより昔にも以後にも佳い編集者が揃っていた。佳い編集者と出会うことが書き手の財産なのだと覚えていて欲しい。
どんな風に書けているのか、読むのはこれからだ。読んだあとは厳しいパンチがとぶか、テレビドラマ「ラストプレゼント」の時のように手放しで褒められるか、一節(ひとふし)でも、ウーンと感心させてくれると嬉しいが。
* 小説本には普通不文律のように著者あとがきを書かない。わたしも小説ではあとがきを書かない本の方が多いと思う。小説本に関しては刊行後歳月を経てからはいいが、出た当座は作者はストイックに寡黙なのがいい。妙にはしゃいで舞い上がって色々書くのは作品の言い訳を作者が始めているようで、あまりみっともいい物ではない。テレビ業界よりはその辺がかなりシビアで、人が騒いでくれるのはいいけれど、作者は楽屋裏や謝辞や嬉しさなどを乱発しない方がいい、ましてホームページなどに。
推理小説と雖も、小説の読者と、テレビの視聴者とはかなり何かがちがうものだと思う。じっとこらえて、とにもかくにも、読んでもらうこと。
2004 12・2 39
* いまいまの若い人の文体の多くは、さすがに時代を反映して似ているが、それをさらに徹底させることで秦建日子作『推理小説』(河出書房新社)は、いわば「現代ト書き小説」のスタイルを創っている。脚本や劇作で簡潔であるべき「ト書き」を、彼はこれまでに多く体験し鍛錬している。
「ト書き」とは、その向こうに「映像」を幻出させるのが根のタチ、いわば「ト書き文学」性というものがある。「レーゼドラマ=読む戯曲」は、昔から「ト書き」を多用して映像や舞台の幻出効果を期待するのが常の作法であった。
秦建日子の新小説は、そういう傾向の最先端を行くこと、ほぼ間違いないだろう。つまりいちばん仕慣れた手法を拡大活用し、自信を持ってリアリティを捻出している。初小説の書き方としては賢いやり方であり、同時に「どうだい」と居直っている。その図太さがともあれのびのびと筆を遣わせている。脚本家の、小説通念に対する挑発のようなもの、それあればこそ、作品を終えた後ろに、この作品は事実に基づくものではありません旨の、よくテレビドラマの終わりに出て来るのと同じキャプションが、愚直なほど厚かましく据えてある。在来のふつう小説作品では「これはウソです」などと、そんなことは滅多に謂わない。むしろ事実は事実として押し出す「ノンフィクション」という文藝も有る。
秦建日子の『推理小説』は、テレビ脚本家で劇作家である作者の、ふつうの小説作法に対するかなり意図的な挑発行為に、結果として成っていると云えそうだ。「現代ト書き小説」と読むと、なるほどその道のプロの書きっプリになっている、と、これは、技法への感想。
まだお話への感想ではないし「推理」の手際への感想でもない。小説が面白いのかどうかはまだ二三章しか読まないから云えない。
が、上のことだけは、一つの批評ないしは、限界または可能性の示唆として、たぶん云いうるだろう。
一気に読ませて貰いたかったが、なにしろ読み始めたのがもう深夜の二時近くであったから、堪えきれず欠伸が出て、急いでお定まりの今昔物語の一語だけを読んで、すぐ寝入った。今昔物語という、読みようではノンフィクション短編小説集のしたたかさとおもしろさを、改めて新鮮に感じながら。
2004 12・3 39
* お歳暮の届く師走になった。
お歳暮といいお年玉といい、もうその由来も曖昧模糊と型のようにしか受け取られていないが、先祖の「みたま」祭りと無縁なことではなく、その遠く遥かな由来を示唆して、民俗学は視野を広く深くしていった。いま音読している柳田国男の『先祖の話』は、その、謙遜な、しかも重要な探索と思索とのみごとな成果であり、必読の一冊である。
「先祖」とは何か、一般論としては云えても、具体性を追求して定義的に謂うには、実に難しく、我と我が家の「先祖」を、指さすように確かに云えて間違いない人も、家も、そうそう有るものではない。それどころか、数代も溯ればもう分からない、知らない、言い伝えすらない、のが、むしろ普通。それでいて「ご先祖様」の「みたま」は盆に正月に少なくも千年や千五百年に溯って、かなりきちんとした方式や儀式や感覚で祭り続けられてきた。盆や暮正月の、家内の、それともないいろんな作法を思い出せる人には、何かしら見当もつき、実感もかすかに残っているはずであり、それどころか、そういう祭りや行事を、たとえワケ分からずにもきちんと引き継ぎ続けて守っている旧家が、都市にも田舎にも必ず有る。
それらが、佛教や神道とも混乱し混淆して、甚だややこしいことになり、なって、続いてきたものだから、たとえば「みたま」という言葉も物言いも、漢字で置き換えて、聖霊、精霊、尊霊、御霊から生霊にも亡霊にも幽霊にもなったりすればするほど、ワケが分からなくなる。それでいて日本列島の、ほとんど例外さえ少なく、通有の祭りの痕跡や実績が今も確実に、また漠然と、じつに多く多く遺されている。
一家一門を「まき」と呼んだり、その保有する有形無形のキャパシティを、総称して「とく」と呼んできたりした。家督を継ぐなどと漢字で書くから「督」とはなにぞやと頭を痛くするが、そのまえに「とく」という言葉がそれを示していたのなら、「有徳」「無徳」の徳の本義も見えてくる。眼からウロコがおちて、ああそういうものの総体全体を相続するのが「家督」を継ぐのか、と分かる。
人が生きて暮らせば事繁きことは百千万できかない。それらが折り重なり千年も二千年もその余も歴史的に堆積すれば、いまもいう言葉と文字との迷路だけでも、おそろしいほど出来ている。民俗学の大切さと面白さとは、それらを実例の探索と推測と証明をもって実現していることだ、わたしが小説等の創作は別として、一つだけ携帯を許されるなら柳田国男の全集を選ぶだろうというのは、それがまさに、私自身の足下を探求してくれているからである。
2004 12・4 39
* 嬉しいことも、ある。
色川大吉さんにご紹介いただいた専修大学教授新井勝紘さんから、「自由民権(主権在民)」特別室に関してお力添え戴ける胸の親切鄭重なメールを、たった今拝見した。有り難く、励まされる。
夜前は『日本の歴史 大日本帝国の試煉』の中の「日露戦争」を一気に読んだ。帝国主義列強に伍してアジアに地歩を確立したい帝国の野望と苦心との、一つの決算行為が日露戦争であり、よくもまあ勝ったとおもわれるが、一つには陸海軍のこうも短期間に優秀に育っていたことも、日英同盟ということも。
また外交の苦心。伊藤博文らの大局観等ある中で、此処に一つ到底無視できなかったのが、一日本人諜報員のロシア帝都における、機宜と発想と行動の俊敏を得た、ソビエト革命使嗾の隠密活動があったこと。ソビエト革命のロシア関係者等は、旅順で、ロシアが日本に敗退するのを掌に汗してむしろ待望していたという。そして革命が起きた。日露戦争の勝利は複雑な深層を秘めていたわけである。
日本の近代史現代史は、生なかの読み物を読むよりも、はるかにヴィヴィッドに面白い。ただしそれは、正鵠を得た史観の持ち主の記述に拠らねばならない。腹に一物の、政権に媚びたりすり寄ったりしている歴史家では毒害はひどい。
この仕事へ必然入って行くが為に、わたしは、多く歳月をかけて一万数千頁もの『日本の歴史』を読み始めたかと、今、感慨を覚えている。
* 日本ペンクラブ会員で先夜の「ペンの日」に初対面の大越哲仁氏が、やはり近代史がらみに新島襄や徳富蘇峰の研究をされている。わたしの後輩に当たるが、この人はエプソン勤務。スキャナで悪戦苦闘しているのを不愍に思われて、なにかいい智慧を戴けそうな按排で、正直喜んでいる。
2004 12・5 39
* 利根川裕さんから、『あらすじで読む名作歌舞伎50』が贈られてきた。「ペンの日」に会ったとき、この頃の道楽の一は歌舞伎ですよ話していたのを覚えておられたのだろう。劇場でもときどき見かける。「あらすじ」「役者」「みどころ」「季節」「隠れた物語」で知ると、帯にある。妻と一つずつ点検して行くと、選ばれてある五十のうち、まだシカと観たと言い切れないのは、せいぜい二つほど。よく観てきている。近年の舞台写真なので、写っている場面や役者まで記憶にあるから、話題が尽きない。
うしろに主要な役者家の幕末ぐらいからの系図が出ていて、我々には便利する。ついでに、いま絶えている名跡で主なモノが上がっていると、誰がいつか襲名するだろうなどと、噂も推量もできる。壽海、魁車、中車、我童、延若、梅幸、羽左衛門、宗十郎、勘弥、歌右衛門、勘三郎らが、今、いない。鴈治郎がちかぢか坂田藤十郎という、東の団十郎にならぶか、それ以上の古い上方の大名跡を襲うと聞いている。翫雀が鴈治郎を継いで順当。勘三郎は勘九郎がもうすぐ継ぐ。歌右衛門も福助とほぼ決まっていると聞く。勘弥は、継ぐなら玉三郎。梅幸は菊之助にもう資格が十分ある。
いっとき塞ぐ胸をこの本で軽くした。上島先生のお楽しみは何であったろうか。
* 存じ上げない方から著書を戴くのは屡々であるが、今日は北海道の高等学校の先生山崎省一氏から『安岡章太郎論』を頂戴した。いきなり第一行に、「驢馬が旅に出たからとて馬になって帰りはしない」とスペインの諺。安岡さんの教育論『驢馬の学校』に引かれてあるというが、教育論から離れてもこの諺、手厳しい。バルセロナの小闇に、スペインでの諺の使われようを教わりたい。
安岡さんは「第三の新人」の代表者のような人。わたしは看板でくくられたグループ作家とはご縁がない。大体、安岡さんや亡くなった吉行淳之介らの手前の所で現代文学とは、一線を引いて以降は本の例外的な人達しか読んでいない、と云って言いすぎでない。
三島由紀夫や井上靖や野間宏や椎名麟三や阿川弘之で、急ブレーキをかけた感じ。
だが、そろそろこの垣根をはずしてみようかなと思わぬではない。そのキッカケにこの安岡論が推力になってくれるといいが。
2004 12・5 39
* 建日子の小説を少し読みすすめ、日本史をたくさん読み耽り、今昔物語を二語。その前にジョン・ウエインとキム・ダービーとの「勇気ある追跡」を観おえた。ジョン・ウエインとキャサリン・ヘプバーンとの「オレゴン魂」の姉妹編。どちらも好感の持てる小味な西部劇だが、キャサリンのうまさを以てしても、やはりキム・ダービーの若々しい可憐で強靱な表情や声や演技には魅力を一歩譲っている。キム・ダービーのような娘が欲しかった。で、寝たのは四時半。
* 知識は無際限にあらわれる。いくらでも教わり蓄えられる。しかしどんどん移り変わって行く。知識に関しては若い者が確実に年寄りを凌駕して行くのは当たり前の話。知識という分別に関する限り、若者はいつの時代でも年寄をバカ扱いしてきた。九十の老人の知識はそれだけ古びていて、二十歳の若者の新知識に並べるワケがない。だが、それとてもどんどん移り動いてゆき、定着する知識というのは想像以上に少ない、いわば賽の河原。もっと適切には青空を覆い隠しながら湧いては流れて消えて行く無際限な雲の群れのようなのが、知識である。
智慧はちがうと、バグワンは云う。智慧は雲の彼方の不変普遍の青空のように在り、知識とはまるで異なる。青空は決して移動も消長も増殖も雲散も霧消もせずに永遠の過去から永遠の彼方にいたって、なお在る。智慧はそういう青空のように在り、人がそんな智慧に至る(=気付く)には、普通の場合滴が垂れて溜まるように時間がかかる。東洋では智慧を重んじたので老人が重んじられたが、西洋では分別可能な知識が優先されたので、老人は歴史的に重んじられにくかった。バグワンは、ゆうべ、そんなことをわたしに語って聴かせた。わたしはそれをもう数編聴いている。聴いているだけである。分かったなどとは云わない。普遍の青空と浮動の雲霧。智慧と知識。なるほどと、そういうふうに受け入れられる実感への素地は作ってきていた。
* 高史明さんから文庫本上下の自伝『闇を喰む』を頂戴した。これまでの本を再編し改題され、筋を通された。入魂の著である。
2004 12・6 39
* 建日子の『推理小説』はまだ読み上げないが、方法と表現の(わたしには)とても斬新な魅力は、読み終えてなくても、云える。才能に溢れている。作家は、自分の脚で、脚力で、確実に歩んできたことをよく証明している。読み上げて、物語の筋がどうあろうが、それが面白かろうがたとえチンプンカンプンであろうが、それと関わりなく「方法と表現」にみせている才能は、掛け値なく認められる。わたしのような、「父親」でもある、という特殊な読者には、それなりの特別の感慨があり、物語や作品を読んでいる以上に、一行一行とその行間に、我が「息子・建日子」を読んでいる。それが頗る感興をそそり、いちいち、おお、これをあの建日子が語り、書き、感じ、観察していることなんだと思い至る、納得や、意外さや、驚嘆や、顰蹙が、面白い。鏤められたフラグメントの脇や背後や根が、見えたり察しられたり、思わず笑ったり考えたり出来るのは、一般の読者にはない「親ドク」というもの。
わたしの好みであろうがなかろうが、それは関係無しに、秦建日子処女作小説にほっと安堵している。センスははっきり出ている。毀誉褒貶や成功不成功は論外、もうわたしは息子から「卒業」できる。自由自在に行くがいい。
2004 12・7 39
* 猛烈に呑んできた。寝込んでいた終点の池袋で、人に起こされてきた。乗り継いだ西武線では、保谷まで「日本の歴史」を読んでいた。
2004 12・7 39
* こういう原稿を親切の「主権在民史料」特別室に送りこんでみた。
* 「主権在民」史料特別室
掲載の史料は、「平民新聞」明治三十七年(1904)三月第十八号冒頭に掲げた、当時のロシア社会民主党宛て公開書簡「与露国社会党書」と、若干の経緯である。この直前二月十日、日本国は対露宣戦布告し日露戦争が勃発していた。幸徳秋水、堺枯川らの『平民新聞』は、日露戦争は帝国と帝国との戦争であるとし、国民の反戦意思を明確なものにしようと連帯を呼びかけた。公開書簡の反響は全欧州に湧き、この後同年八月オランダのアムステルダムで開催された万国社会党大会では日露の代表が並んで副議長席につき、堅い握手は、満場に鳴りやまぬ感動の拍手喝采を喚び起こした。
露国社会党に与ふる書 (『平民新聞』社説・1904.3)
「嗚呼(あゝ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖(いへど)も、而(しか) も我等の諸君を知り諸君を想うことや久し。
一千八百八十四年、諸君が虚無党以外、テロリスト以外、別に社会民主党の旗幟(きし)を擁して、職工農民の間に正義人道の大主義を宣伝して以来、茲 (こゝ)に二十年、其間(そのかん)暴虐なる政府の迫害、深刻なる偵吏の羅織(らしき)、古今実に其(その)比を見ず、或は西比利(シベリヤ)の鉱山に無間(むげん)の苦を受け、或は絞台の鬼と為(な)り、或は路傍の土となる者、幾千幾万なることを知らず、而も諸君の運動は之が為めに微毫(びがう)の頓挫 (とんざ)を見ることなく、諸君の勇気は一難を経る毎に百倍し、遂に客臘(かくろう=前年十二月)露国全土の各団体を打て一丸となし、其勢力実に天に冲するに至れり。
諸君よ、今や日露両国の政府は各其(かくその)帝国的欲望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり。然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。
然れども我等は一言せざる可らず、諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也、社会主義者が戦闘の手段は、飽まで武力を排せざる可らず、平和の手段ならざる可らず、道理の戦ひならざる可らず、我等は憲法なく国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成す急なるが為めに、時に干戈(かんか)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出でんとする者にあらん乎、我等は切に其志を諒とす。而も是れ平和を求めて却つて平和を撹乱する者に非ずや。」 (「平民新聞」明治三十七年<1904>三月の第十八号冒頭大要)
この公開書簡に接し、「歴史上重大文書と謂はざるべからす。(中略)力に対するには力を以てし、暴に抗するには暴を以てせざるを得ず、されど我等がこの言を為すは決して虚無党又はテロリストとしてにはあらず、我等は先に露国社会民主党を建設してより以来、テロリズムを以て不適当なる運動方法となし、曽 (かつ)て之と闘うを止めたることなし、然れども悲むべし、此国の上流階級は曽て道理の力に服従したる事なく、又将来然(しか)すべしと信ずべき些少の理由だも発見すること能わず。
然れども此問題は今此場合に於て、さしたる重要の事にあらず。今我等の最も重大に感ずるは、日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り。我等は満幅の同情を彼等に呈す。
万国社会党万歳!」 (ロシア社会民主党機関誌『イスクラ』返信 大要)
この返信に接し、「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す、然(さ)れど吾人がさきに、暴力を用ふる事に就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶 (なほ)終に暴力の止むを得ざる場合あるを言ふを見て、深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず。」 (『平民新聞』の所感大要)
* こういう文書や草案や建白や上願や檄文の、今にも、未来にも伝えたい数々の史料をわたしは現代の若者に、後生に、伝えたいのである。いろんな方面でいろんな真率な声が遺されてある。ムダにしてはならないのである。
2004 12・7 39
* 羽仁もと子の『半生を語る』が、流石に読ませるし面白い。これは「随筆」として扱って佳い、わざわざ「出版編集」特別室に入れる必要はない、いわばその「前史」のようなもの。人柄が、じつにキビキビと出て来る。奧州八戸から苦労して出て来て、明治女学院の生徒になった。のちに自由学園や婦人の友社を起こしている。自伝を書こうという人の手本として、一つのタイプである。この人には小説は書けなかったろうなと思う。
* 二葉亭四迷の「余が言文一致の由来」が佳い姿勢で、とても参考になる。「未亡人と人道問題」とあわせ、「表現と創作二題」として招待する。北村透谷は「明治管見」のなかの「二、精神の自由」以下を抄録する。
2004 12・8 39
* わたしの活気や歓びは、我が生彩は、いま、何から得ているか。それは、数え切れないほど多い。
いまも読んでいた二葉亭四迷のエッセイに、「僕は貞婦両夫に見(まみ)えずといふ在来の道徳主義を非とする者で、天下の寡婦(くわふ)は再婚すべしといふ論者であるのだ、事情の許さるゝものは兎も角も、いや、普通の事情位は刎(は)ね退(の)けて、再婚すべしと言ひたいのであるが、」などと読むと、わたしは、ぐっと、嬉しくなる。日露戦争直後で、十数万の寡婦を生んでしまった戦争であったから、それだけでも四迷の言をわたしはよろこぶのであるが、この発言自体が、四迷本来所信であると思うと、ふしぎと励まされるのである。明治の昔に、こんなまっとうなことをズバリと云っている。それが、近代小説の一番バッターとして「浮雲」という綺麗な大ヒットを放った、二葉亭四迷の言だということが嬉しいのである。
2004 12・9 39
* 三十六計「寝てる」に如かずと、何故かこんな句が夢を支配して、二時まで寝ていた。昨夜のお酒を抑えるためにもその方がいいのだとリクツをつけて。何の不快感もなく目覚めた。夜前は、日本史の伊藤博文ハルビン駅頭での暗殺から韓国併合という理不尽の歴史を夢中で読んでいた。
柳田国男のホカヒやヒラカの話も、何度読んでも興味深い。歌舞伎で勘九郎がお得意の「法界坊」あの名前の由来をすぐ言える人はいないだろう、ならば、柳田国男の『先祖の話』など読むといい。「ほかひ」は「ほかふ」「ほがふ」など古語であり津々浦々に今も潜んでいる語彙である。盆の棚などの、端の方か埒外に、粗末ながら供物が置かれて外精霊(ほかじょうろ)たちを迎える。ふつうの供物は家族等がのちにお下がりとして食べるが、ほかひの食べ物等は戸外にうち捨てられ、犬猫や、あるいは人の来て持ち去る料ともなる。この持ち去る人らへの通称が「法界」坊、おっそろしく差別的な名付けである。
縁やゆかりを皆失ったような老人を悪罵して、「柿の葉め」と貶める風もあったそうだが、これは柿の葉にほかうことと連繋した、とんでもない罵倒であった。こういう民俗が行われたかげに、つまりは「先祖」とは誰のことか、どこまでが先祖霊か、という難しい問題がからんでいる。
2004 12・11 39
* とうとう羽仁もと子の「半生を語る」全編を寄稿し、校正し、入稿した。最初の頃に書いた印象をわたしは全面撤回しよう。この一文、実に優れた個性の述懐であり回想であり、いろいろ個性的な女性は歴史的にも知っているけれど、まぎれもない一人を此処に追加できる喜びを、書き留めておきたい。
面白い、じつに面白い「自分史のスケッチ」であった。ウソも飾りもないと信じられる。明治という大きな時代に生まれ出た大きな意志の人の、気持ちいい「半生を語る」であり、志有る若い人もすでに家庭の主婦もどうか読んで欲しいと思う。ましてものを「書こう」と思っている人達は読んで欲しい。
「ペン電子文藝館」はまた一つの立派な樹を植えた。旬日を経ずにやがて本館に姿を現す。
同僚委員は、中途の十節ほどを割愛していたが、それはよくないと思って、自分でスキャンし追加してみたが、あまりのヒドい機械の識字に、仕方なく妻に頼み、みな最初から書き起こして貰った。佳い読み物が一つ加わり、苦労もしたが気持ち佳い。
抱き柱を抱いていない、それゆえに自由、それゆえに謙遜、それゆえに意志的な日本の女性、敬愛に値する「半生」であると心服する。その後のことはわたしは知らない。昭和三年に書かれていた作である。
2004 12・11 39
* いまどき、巌頭之感を大樹に墨書して華厳の滝壺に身を投じた、弱冠十八、第一高等学校生徒藤村操を語ってみても、知る人も少なし、かりに知る人もバカにしてかかるだろう。
だが日本の多くの自殺の中で、藤村操の場合ほど一つの「時代」を画した歴史的意義の大きかった自殺はなく、芥川も太宰も三島も川端もその前には顔色がないのである。敢えて藤村の辞世の遺書、ならびに同時代人の反響の声々は、優に明治にわき起こった「主権在民史料」の一つであることに恥じないと云いたい。これを読んでどうか近代現代は「世界の中心」に何を据えようとしたかを再考したい。
* 藤村 操 ふじむら みさお 第一高等学校生徒 1885 – 1903.5 明治三十六年、十八歳、日光華厳の瀧壺に投身自殺。 掲載作は、傍らの樹木を白く削って書き記した遺書であり、追随の多きをおそれた官憲はこれを削除。日清戦争後・日露戦争前の大日本帝国が、列強をおそれつつ半島大陸に権益を求めて奔命のさなか、此の一青年の自死ほど時代の空気を震撼した例は古今未曾有といわれる。辞世本文とともに、同時代の声を添えて一つの天皇制絶対専制「明治」国家への反措定と捉えおく。
巌頭之感
悠々たる哉(かな)天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此(この)大をはからんとす。ホレーショの哲学竟(つひ)に何等(なんら)のオーソリテーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す、曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだい)て煩悶終(つひ)に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを
「藤村君とは深い交りの歴史はない。然しあの巌頭の感はいかばかり僕の心をうつたであらう。僕の過ぎし日の苦痛は藤村君の外に知りうるものはなく、藤村君の死んだ心は僕の外に察しうるものはないといふ様な感がした。又藤村君は至誠真摯であつたから死に、僕は真面目が足りなかつたから自殺し得なんだのだと思つた。こまかい事はわからぬが、僕は藤村君の煩悶と僕の煩悶とは甚だ似てゐたものだと思ふ心は今もかはらない。羨しき藤村君の死は僕をして慟哭せしめ悶絶せしめた。僕は生れて以来藤村君の死ほど悲痛を感じたことはない。僕は死を求めて得ざるに身を倒して泣いた。かゝる思は数日つゞいた。僕の心は暴風のふきまいた後の様な感じであつた。」 (藤村友人の魚住影雄『折蘆遺稿』より。また魚住は斯く『弔辞』も書いて友の死を哀惜した。「悲惨の事伝りて満都の同情を動し遠近の涙を促ししもの真に故あり、道路相伝へて君が辞世の感慨を暗誦しぬ。君をして時代の煩悶を代表せしめし明治の日本は、思想の過渡期に当りて実に高貴なる犠牲を求めぬ。」)
「我国に哲学者なし、この少年に於て始めて哲学者を見る。いな、哲学者なきにあらず、哲学のために抵死(ていし)する者なきなり。」 (萬朝報社主黒岩涙香「少年哲学者を弔す」より)
「その頃は憂国の志士を以て任ずる書生が、乃公(だいこう=自分)出でずんば創生(=民衆)をいかんせん、といつったやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて、人生とは何ぞや、我は何処(いづこ)より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代であつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥じ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。
当時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正(たゞし)三君の如き畏友と往来して、常に人生問題になやんでゐたところから、他の者から自殺でもしかねまじく思はれてゐた。事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であつた。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。」 (藤村友人で岩波書店創業者岩波茂雄の回想による。岩波は「死以外に安住の世界がないことを知りながら自殺しないのは、勇気が足りないからである」とまで煩悶したことも書いている。)
「憂鬱の日がつゞいた。それから大学を出る頃まで、われわれのクラスは自殺者を三人出した。」 (藤村と同級であった文学者野上豊一郎の回想による。)
「さながら見知らぬ曠野の中におのれを見いだした人のやうに、怪しき不安が私のうちにきざした。何か深刻な欠乏を私は意識しはじめたのである。しかしながらそれが何であるかは私自身にわからなかつた。たゞ私はさびしくあつた。
何としもなきさびしさが日々の私のうちにつのつた。目にふれ事にふれるものみながさびしく感じられた。美しい秋の日の光がさびしかつた。軒にひびく豆腐屋のラッパ、野路にほゝゑむ野花の色、一つとして私にさびしからぬはなかつた。
不安は要求を意味する。アウガスチンのいつたとほり、人のたましひはある処に憩ふまでは平安を得ないのである。」 (藤村の死んだ同年に一高に入学した藤井武の感慨。『藤井武全集』より)
そして藤村自死後一年、再び学友魚住折蘆は、「一高校友会雑誌」に「自殺論」を寄せ、或る意味で画期的な、彼覚了の「前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん」の言句を吐き、国是国策である「君」でも「家」でもない、「自我」こそが世界の中心と言い切った。「明治」絶対専制国家へ放ついわば「自我」からの対決の宣明、新時代への変化の宣言であった。
「至誠の結論は天地の空白虚無を観じて自らこの世界を去つて一切と交渉を断つに至らしむ。この覚了なる、その前に君国何かあらん、親と兄弟と朋友と何かあらん。我れあに父母に乞ひて生れ来らんや、君国に誓ひて生れ来らんや。君国の恩は我等が無垢の児心に小学校教員が刻み込みたる迷信にあらずや。この迷信を脱却して自我本然(ほんねん)の純なる中心の声を聞かんがために要せし苦心はそも幾何(いくばく)なりけん。誰かなほ君父の空名を傭ひ来つて死の一念をひるがへさしめんとするや、人の尊厳はその自由にして外物の支配を受けざるにありと悟らずや。」
* 明治日本はかつて歴史上に実在したことのない神国日本の観念を絶対専制の手段で国民に浸透させてきた。天皇はまさに君父であり国民は赤子であるという擬似家庭観により、「国」と「家」との入れ子型の連繋を強化しようと躍起であった。まさに世界の中心に「君父(母)」を据えて揺るぎない社会と信仰と教育を実現しようとしていた。そのような最中での藤村操の自死は、まるで異なる価値としての「自我」そして「生死」を一気に沸騰させた。国是とは真っ向からのこれはインテリジェンス、人間の尊厳からする対決姿勢であった。
決して死にはしなかった例えばあの羽仁もと子など、この「自我」を世界の中心に置いて、あえて他のいかなる抱き柱をもきれいに排した近代女性であった。彼女の中で、大人達への敬愛はあるが、かりにも母親が何時までも世界の中心に君臨して子を導くなどということはあり得ようがなかった。
* わたしはこの次には北村透谷の「精神の自由」を、そして田中正造が足尾鉱毒事件に挺身して、明治天皇に直訴に奔った直訴文を「ペン電子文藝館」に取り上げようとしている。
2004 12・12 39
* 秦建日子『推理小説』も読み終えた。読み終えてみると、いつものテレビドラマの、やや長いのをまた一つ見おえたような気分であった。中身にかんする感想としてはそれで尽きている。ホウホウと、表現と技法とにかんする感想は、すでに書いたし、書き直す必要はない。適切な批評であったと思う。
2004 12・13 39
* 「主権在民史料」室に、足尾鉱毒事件に関する田中正造明治天皇直訴文を新たに入稿した。
* 羽仁もと子さんの「半生を語る」読みました。
前半はやや退屈でしたが、読んでよかったと思える、とても爽やかな気持のよいものでした。お勧めくださった理由もわかります。
たとえば次のような文章に筆者の魅力がよく出ていました。
「苦労が私を囚へるよりも、いつでも希望が近くに私を待ってゐた」
「人は自分で自分を放棄しないかぎり、放棄しないばかりでなく健気な心を持ってゐるならば、この世の中には、多くの哀感を掩うてあまりある慰めの力が、愛の泉のやうに湧き流れてゐることを、私は自分のさまざまの実験からも信じてゐる」
あの当時の離婚のダメージは現在の比ではありませんのに、なんと天真爛漫な、晴れ渡った青空のような女性でしょうか。成功するために必要な「ポジティブシンキング」の見本のようです。人間、何事も前向きに肯定的に捉えないといけないということがわかります。
父や祖父の姿が描かれるのにくらべ、母の影の薄いことは驚くべきことです。たぶんお母さまのことはお好きではなかったのだろうと想像します。そこに後半生の羽仁もと子さんに漏れ聞く、母親としての悪評や問題点の芽があるのかもしれません。
この作品に関しては私が羽仁もと子さんの美質に学ぶ点は多いと思いましたが、もし私がこの羽仁もと子さんのような瑞々しい生活力を求められるとしたら、それはなかなかムズカシイ。
そして大変感動愛読するという類のものでもありませんでした。羽仁もと子さんはビジネスに成功するタイプで、物書きとしては欠けているものがありそうです。それが何かおいおいに考えていきたいものです。
今の感想では、自分のやりたいこと、すべきことなどわかっている人、自分を素直に愛する人ではあるけれど、他人への深い関心、共感、鋭い観察眼が少ないかもしれない。いつも積極的に前向き自由人で、嫉みや執着や憎悪などのマイナスの感情に囚われないけれど、それは愛の濃さが足りないと言えるかもしれない等々。
とにかくさらっと楽しく読みました。ありがとうこざいました。 蝸牛
* 同じ一つの文章でも、おそろしく読み取るところ、感じ入るところは異なるものだなと、このメールに教えられた。
わたしは、引用されている修身のような言句には少しも惹かれない。もっとはしばしのところに噴出している感性や自照のするどさ、たしかさ、濃やかさをよろこんで感心していた。著者の「人間」に対する「読み」でも、わたしはこのメールに正直少しビックリしている。
しかし、これが、「読み」という行為の本性に関わってくる不思議な面白さであり、目の付け所は、かように千差万別であるのが、むしろ普通なのでる。人は同じものだけを見てはいない。羽仁さんの掲載作は、やがて本館に出る、読んで欲しい、大勢、ことに女性に。
2004 12・13 39
* 小沢昭一さんによく御本を頂戴する。こんどの、ちくま文庫『私のための芸能野史』という題がおもしろかった。この人の本は、藝人語りの口調で書かれていることが多く、わたしは、それは少し勘定違いで、読みにくくしていないかなと恐れるときがある。耳で聞くときはいいが、目で読む文章がいわゆる「咄し」口調の時は、話している本人の楽しさほどは読者にラクに伝わらないからである。普通の口話体でものを書くのをわたしは多用してきたが、文章体の文章よりも遥かに気を使う。よほど耳にも目にも入りやすい音楽が響いていないと、口話体はかえって読みづらいものになりやすい。その方が読みやすいだろうと軽く考えるのは勘違いである。
* ある京都女性の書き手から、同人雑誌が二冊送られてきて、いわば邪馬台国時期の、卑弥呼時期の小説が二編。
よくものを識っている。ただ、わたしには書けない、こうは書く気のない小説のスタイルだった。
つまり遥かに時代は溯っているが、時代小説ふうである。横光利一に「日輪」などがある、最近では三田誠広氏もこの手の味わい薄い読み物をおもしろく多産している。
私も歴史が好きで、少年来読み重ね、また創作にも何度も取り込んできたけれど、取り込み方にはかなり気をつけ、できるだけ、読んだ知識をストレートに書き込むんで構成するのは、避けた。「清経入水」でも「秘色」でも「みごもりの湖」でも「初恋」でも、その他数々、大体において、現代の語り手と交錯しながら、昔と今の物語を創り出してきた。そこのところが、この人とは方法的によほど違っていた。
そのままの古代ないし太古物語、神話物語にして行くときに、ともすると、知識に入ったものの按排や叙述に力点がかかりすぎ、創作の秘儀と叙述(文字やことばや)とのあわいに「薄い隙間」が出来、熱心に書かれるわりに何か遠いところで行われている不思議な演戯を覗き込んでいる感じになりがち、と、想ってきた。
リアリティーに感動する前に、なにかの答案を、報告を、読んでいる感じになる。
もの珍らかな字句や名辞や事柄がたくさん羅列された文章をよく読んでみると、意外と「平凡な日本語・日本文」が読み取れるばかりで、気が抜けてしまう体験もよくしてきた。
長年にわたり多くを原典や研究書等で読んでいると、作品のあれこれの場面や記述が、ああ何々を元にしたな、あれこれを使っているなと、分かることも多くなり、それが場面場面に唯単に「それだけのこと」として使われていると、やはり気が薄まり、興が削げると云うことも感じてきた。
この人のが即さようとも云われないが、ややそれに近い憾みももたなかったではない。
2004 12・13 39
* おはようございます。
今はとても日が短いので、あたたかい昼の時間を無駄にしないよう、早寝早起きになりたいなあと思っていますが、なかなか。
風は相変わらず夜更かしなさっているのですか。 花
* 夜更かしはわたしの「生きている」楽しみの一つになっている。
夜前も、バグワンと柳田国男を音読し、床に就いてから、「第一次世界大戦」に入る直前の大隈内閣成立までのごたごたを読み、蘇峰会会員から贈られた本の中で蘇峰蘆花兄弟に関わる四論文を全部読み、今昔物語を面白く数語読んでから、四時過ぎて灯を消した。四時間半ほどして起きた。読書を抱き柱にしているわけではない、面白いから楽しんでいる。『先祖の話』のような滋味深き論考には、吸い取られそうに惹かれてしまう。京都の臼井史朗老から贈られた『神仏合体の動乱』も、臼井さんらしい筆致の、奔放で放胆な論旨と表現が、楽しめそう。小沢昭一氏の「芸能野史」も。
なにかに間に合おうと「生き急ぎ」しているのかも知れぬが。
2004 12・15 39
* 二時半か三時まで本を何種か読んで寝た。
2004 12・15 39
* 色川大吉さんにお許し戴いて『自由民権請願の波』の章をスキャンし、校正氏ながら起稿している。北村透谷の論文もスキャン追加した。一月前に親切が理事会承認された「主権在民史料」特別室に、もうつぎつぎ史料が入り始めている。
こういう事業は電光石火に進める以外、軌道に乗らない。「ペン電子文藝館」を開いてまる三年一ヶ月、これだけの莫大な仕事が可能になったのも、理論や技術は知らないが、電子メディアのメリットだけは直感的に分かっていたからだ。
三年に、「ペン電子文藝館」だけでいうと数十万円しかつかっていない。もしこれだけのコンテンツを紙の本にしていたら数千万円を費消して、むろん殆ど回収不能であるはず。「ペン電子文藝館」はウソ偽りのない「無料公開」が出来ている。インターネットの凄いような強みである。日中文化交流協会年会費の受領証が届いて、理事さんの「電子文藝館」いいですねと添え書きがあった。
* 栃木からたくさんな美しい苺が、川崎の下の妹からワインが二本、贈られてきた。あす、嬉しい客があり、その時に、と。
京都国立博物館の館長から『古写経』という大冊を頂戴した。わたしは古筆の書が大好き、古写経にははかりしれぬ夢を誘われる。わたしの『みごもりの湖』の筆が動き出したのは、京都博物館で石村石楯(いわれのいわたて)の名のある写経をみて息をのんだ、あの瞬間であった。石楯こそは近江湖上に美少女東子の父である恵美押勝を追いつめて斬った当人であった。美しい写経に眼くらむ思いのまま、興奮を静めてわたしは長い小説のはるかな前途を夢見ていた。夏の休暇か出張中の寸暇であったか。国立京都博物館は、限りなく懐かしい想像の惹きだし口であった。興膳宏館長に感謝申し上げる。
* 書も、画も、人も、ほんとうに美しい物は少しも軽薄でない。人をあつかましく挑発しないで、静かに優しく魅する。いつまでも魅する。ときに魅惑はセクシイなほどつよい。
2004 12・16 39
* 「大正デモクラシー」も、「白樺」登場まで読んできた。
「白樺」も大方読んできたが、今まで心に残っているのは、「白樺」派であろうがなかろうが志賀直哉の『暗夜行路』を筆頭に、いくつかの短篇。日記。武者小路実篤は一時愛読したが、胸に刻み込んで離れないという程の作はない。『友情』や『愛と死』など子供心にも甘いと思い、谷崎『刺青』時代の短篇にも遠く及ばないと感じていた。それでも、ま、初期の物か。『真理先生』『馬鹿一』など後期の作は、その頃は面白く読んでいたけれど、いささかばからしくもあった。滝沢修ら演じる『その妹』のような舞台が気に入ったことがある。有島武郎の『ある女』は、文学史にも突出した名作。海外の文学にならべて遜色ない本格の作で、「白樺」であるないが問題にならない。長与善郎では『竹澤先生といふ人』をそれは愛読したものだ、感化も残っているだろう、だが、今また読み返したいとは思わない。里見トンでは結局『多情仏心』が只一つか。気取った軽みの文体をわたしは自然な物とは受け取れないで来た。
白樺のもちだした、人道も個性も自由も、貴族末流、氏素性の特権に結局は乗っかっての立言であったのが、ファショナブルで弱く、ただ西欧の美術をしっかり輸入し紹介してくれた恩恵、総じて文化運動としては感謝するところ大きい、彼等だからそれは可能だった。谷崎や芥川や川端では出来なかった。
2004 12・17 39
* 北村透谷の「明治文学管見」は、最晩年に近い、見事な洞察と批判とを蔵した好論文で、「精神の自由」を政治や宗教の上位に据えて、せつせつと且つ適切冷静に人間と文学とを語ってやまない。優れた明治人は多かったけれど、これほど歴史と人間とを、背景に明治新政府の圧政を負いながら、まちがいなく論考しえた達人はすくない。
死の前年、明治二十六年に「評論」誌上に書いているが、この時透谷はわずか二十六歳。彼は明治と年齢をともに歩んできた思想家で、明治半ばに自ら逝ってしまった。こういう気迫の批評家、至誠の文学者、いま文壇に誰があると言えるか。
老人は、もういけない。
志高い若き文学者、若き作家が待望される。エンターテーメントを書いて儲けて有名になりたい・なっている物書きばかりが、世間の牛耳をとっている。とっている気でいる。しまつのわるい「気の低い」時代である。
透谷の文章は、この当時普通の和漢混淆の文語体だが、こういう人の思想こそ、現代語におきかえ、若い知性の目にもっと触れたい気がする、いやなに、そんなに難しい文語ではない。取り付いて欲しい。入稿した。
2004 12・17 39
* 元筑摩の日比さんからも中川さんからも、建日子作『推理小説』に手紙をいただく。売れ行きは好調でもう初版本は手に入りにくい。こういう本は脚が早い、どんどんと行くのがいいので、永くは保ちにくい。
2004 12・17 39
* 十和田操「判任官の子」は、「ペン電子文藝館」五百数十作の中でも、異色で且つおもしろいことで、断然のトクダネである。小学校の真ん中より下あたりの子供、その子になりきって語られ続ける語りの、愉快に可笑しくて面白くて、すこし切なくて、そしてスケベイでイジワルで、クヤシクて、ちょっとナサケナクて、ホコラシクて。仰天ものの傑作である。校正しながらグツグツ笑えてしまう。
楽しい作品にも出逢うものだ、これは初読だった、大儲けした気がする。
2004 12・17 39
* さ、日付かわって、一時になる。また、しんきくさい土・日だ。
ゴッホ展が始まるのはいつからだろう。千葉まで「清水六兵衛歴代展」に各駅停車に揺られてごとごと出掛けるのもいいかなあ。階下で少し映画を見て、本を読んで、寝よう。来年、来年。
2004 12・17 39
* 十和田操「判任官の子」を起稿し校正したが、ま、こう異色で、孤立して、面白く懐かしい作柄の作は、繰り返し云うが、珍しい。一読魅せられ惹き入れられ、「文学」の懐深さに自から思い至る秀作だ。昭和十一年(1936)同人誌「文學生活」七月号に初出、第四回芥川賞の候補作である。いま、遺族に電話で掲載承認を許して戴いた。
2004 12・18 39
* 色川大吉さんの『自由民権請願の波』は、正しくは「国会開設請願」であるが、それを云うなら「立憲政体請願」でもあり、だから「自由民権」と、当時の政治運動の称を借用した。
現在の我々は「民主主義」憲法をもっているが、明治憲法は立憲君主政体をとなえ、従って民主主義とは謂えなかった。だが憲法解釈の正当な議論として「民本主義」は云い得たのである。明快にそう説いたのは、吉野作造であった。
自由民権運動は、天皇制否定など考えに殆ど入れていなかった、つまり「民主主義」への運動ではなかった。だが、たとえ欽定憲法であれ、憲法に基づく「政治・政策の目的」は「国民」であり、「国民の」権利・福祉と安全のために憲法は機能するのだから、「民本主義」は当然で至当との議論は、説得力を持った。成り立った。自由民権運動とはこのいわば「民本主義」運動なのであった。それが大正・昭和・敗戦を経て、やっと「主権在民の新憲法」へ受け継がれ、初めて「民主主義」になれた。その価値の重さ・大切さを忘れたくない。
「請願の波」を読んでいると、やはり、今日のインテリたちの政治発言や声明や講演やシンポジウムの類が、いかに民衆の動力とは乖離し遊離した、ただの売名的平和ボケであるかが、イヤでも分かってくる。切実感がてんでうすく、例えば「憲法九条」の凄いほどの重さや価値高さや大切さ、それを喪失してしまう大変さの実感が、まだお偉い顔ぶれ達の間でさえ成っていない、のである。
あれほどのエネルギーが諸国に結集されてもなお、日本の権力は「私の民」の願望など踏み蹴散らして、ついに太平洋戦争の敗戦にまで強引にひきずっていった。いまもなお似たハメに我々は引きずり込まれようとしているのに、相も変わらぬ「人寄せパンダ」の人気講演会など幾ら開いてみても、焼け石に水に近い。会場は熱気でムンムンしていたなどと謂っても、会場を出たとたんに、帰りに何処で何を食べていこうか、飲んでいこうか程度で褪めて行くこと、つまりはカルチュアセンターなみ、わたしの理事会なみなのである。結束と継続と日常活動の伴わない運動が成功したタメシは、歴史に徴して、絶無なのである。
2004 12・19 39
* ベートーベンの三大ピアノ曲を、ホロヴィッツとアシュケナージで繰り返し三度四度と聴きながら、余儀ないスキャンを八十頁ほど敢行した。途中一度、十二頁分ほどあやまって消去してしまい、二度手間になった。さて、スキャンの成果は。
会員作品、送られてきたプリント用紙がばかに大きく、ムリにスキャナーに据えてみても、行の上と下と二三字ずつ、前と後ろが三四行ずつ、欠け落ちている。校正しながら書き起こさねばならない、間違いがでやすく、閉口。私より一つ年上の女性会員だが年相応の病状や日常が次から次へ現れ、同情もするが身につまされゲッソリ辟易もする。
そして不正メールの多いこと、日に三十本ほども見ないで削除するヘンテコメールが舞い込む。どうなってんだろ。
2004 12・19 39
* バグワンと柳田国男を読んで、そして機械から離れる。すぐうしろのソファで黒いマゴが、わたしのカーディガンに埋まるように、ぐっすり寝入っている。安心しきってるマゴを見ているのが好きだ。心底、嬉しくなる。おやおや、もう階下へ行きましょうと起きてきた。いつも抱いて降りる。
2004 12・19 39
* 民本主義を明快にとなえて時世を揺るがした吉野作造にも、限界があった。かれは民衆が政権の座に着くことはよしとせず、「よき指導層」の政権を、「民衆」は監視出来るし監視すべきだという、吉野はそういう「立憲民本主義」者であった。これに対し山川均らは、政治の主導権を民衆が、国民が持たない「建前の民本主義」の脆弱さを批判し、やはり「民主主義」「主権在民」でなければならないと説いてやまなかった。よく覚えていたい。
2004 12・20 39
* もう、二時半。本を読んでから、やすむ。佳い誕生日であった。
2004 12・21 39
* 佳い句集をいただいた初めの方に、「お白酒まづは女人にほがひする」という一句、少し立ち止まる。
古代の辞書や文献にも「ほがふ」「ほがひ」と濁った用例はない。濁点を打たない風はあるものの、万葉仮名にも「加」と書いてある。それよりも意義であるが、祝ふ・祭るの意味は公式の行事等に触れた用例では、辞典にも、そう有る。だが、どういう祝い方で祭り方であったかは、むしろ民俗学の究明が詳しくて、必ずしもおめでたい慶祝とばかりは謂いがたい半面がある。
「ほかひびと」は、祝言して歩く「ものもらい、こじきふうの行路の藝人」の意味であり、なにを貰うかというと、「ほかひ」の食べ物を貰って行く。その御魂に備えた食べ物にも、家の者が大事に喰う祭食もあれば、犬猫乞食のために戸外へなげ棄てるのもある。
と謂うのも、まつるべき精霊にも、家中に親しい親しい新御魂もご先祖精霊もあれば、無縁で迷い来る精霊もあり、その外精霊(ほかじょうろ)らに、大事な供物を持ってゆかれないため、別に粗末なのを用意して、みたまの棚の端の方や外や下に置く、それも先にそれを「ほかひ」しておいて、そのあとで鄭重にすべきものに祭り備える。
そんないわば精霊への差別的な扱いが、いつ知れず久しく行われてきたから、粗末な方の「ほかひ」ものを貰い歩くような世外・人外のものたちが「ほかひびと」と呼ばれ、また近世には、ならずものの「法界坊」ともなってきた。
上の句はうやうやしく親しく祭る風情の、雛の日の句であると読めるが、「ほかい」はまた行器、皿(さらか・さらき・ほとき・ほとけ)の別名であり、「ほかひ」の食べ物は、この「ほかい」に盛る、のである。それとても土器木器と限らずに、時には「柿の葉」などを代用する。「柿の葉め」と罵る言葉もあるのは、「ほかひびと」やそれに準じた世外無用の者らへの侮蔑の言であった。家にあれば笥(ケ)に盛る飯を、旅中はものの葉に盛って食べると、悲痛な有馬皇子最期のうたがある。「ほとけ・ほとき・さらき」等の「き・け」に通うのであり、必ずしも木や竹の「笥」というより、たんに「器」に等しい。
作家大佛次郎の「仏」は「さらき」の孤独な用例であるらしいが、これも謂うまでもなく、南都東大寺の大仏さんではなく、「ほかひ」のための大きめな行器の名を謂うている。死人死霊を「ほとけ」と言い習わしてきた日本の民俗は、なにも佛教由来であるよりも、「さらき」などで「ほかひ」される者タチの意味であった。大佛(おさらぎ)は貴重なその表明になっている。
上の句は、「ほがひする」の原意や遠意を、思い切りおめでたく美しく理解し転用した例であろうか。
2004 12・22 39
* 四時間ほどしか寝なかった疲れで、三時過ぎから夕食の七時頃まで横になっていた。
少し骨の折れるメールでの折衝や連絡などを経て、相当量の校正をしつづけ、その勢いで更にスキャンも続けて仕事の連繋をはかり、もう深夜二時に近い。階下におりて本を読んで、やすんでも、また四時近くなるだろう。
明日は天皇誕生日、国民の祭日。わたしはもう少し辛抱して、仕事に一段落をつけてから仕事納めにしたいところだが、出稿の会員原稿がいま三本ないし五本届いていて、二十五日にもう一本増える予定。スキャンはしてあり、わたしの校正起稿待ちの招待作が二本ある。
去年と同じく、結局大晦日も元日もなさそうだ。「こぞことし貫く棒の如きもの」と謂えるかどうか、分からない。ことし、どんな人とどう出逢ったろうか、そういうことも考えてみる必要がある。
2004 12・22 39
* 散髪。そして伊吹知佐子さんの「足を病む」を起稿校正して、入稿。ぐうっと腰を低く落として「足を病」む経緯から入院した一昼夜などを、克明に書き取ってある。観念的にならず徹して具体的な事態の推移と感想とが、しっかり綯い交ぜられて、不思議なほど効果をあげていた。
2004 12・25 39
* 機械の前にいて、足の爪先がちぎれそうに冷えている。
幸徳秋水による「万朝報」明治三十三年の社説『自由党を祭る文』を入稿した。自由民権運動と板垣退助の自由党とは切っても切り離せないものだった、だから彼が紙幣にも登場したのだが、自由党の自由民権は段々に膿み潰れるように潰滅したものだ、ことに伊藤博文が「憲政政友会」を結成して専制帝国主義政党の看板を掲げたとき、自由党転じて板垣を総裁とした憲政党は、当の板垣党首を置き去りに、昨日まで自由党にあらん限りの圧迫を加え続けた伊藤を総裁に戴く政友会に埒もなく合流してしまうのだ。
幸徳秋水は「万朝報」で、これを痛烈に撃った。
ついでに、日露戦争の開戦前に幸徳傳次郎と堺利彦という優れた思想家であり記者であった二人が、連名で明治三十六年に書いた『退社の辞』を、同じく内村鑑三の筆を折る辞などとともに、「反戦・編集・主権在民史料」として「ペン電子文藝館」に送った。
色川大吉さんの『自由民権 請願の波』を、委員校正を終え本館掲載にまわした。
* さ、日付が変わった。ぬるま湯で湯ざめの風邪をひかぬうちに、階下で一息入れて、やすもう。
2004 12・27 39
* ハマちゃんとスーさんの映画も途中で失敬して、鶴田知也の叙事詩文学『コシヤマイン記』に、打ち込むように、起稿と校正とを進めていた。もうとうに日付が変わっている。さすが歳末、深夜のメールもはたと途絶えている。
この鶴田の小説を、あたりまえのアイヌものと読んでは、作者の北海道に於ける労働運動の体験の深さを見落としてしまう。アイヌをよく調べよく識って書いているのが分かる。わたしは「世界」に長く連載した『最上徳内=北の時代』で、徳内サンにならいアイヌに没頭していた。その体験に、いまのところ鶴田の作品は背いていない、丁寧に情愛と敬意をもって書いていて、そこに労働者として資本家の暴威と直面してきた作家の思いがにじんでいる。アイヌの「カムヰ=神威」崇敬のもつ意味も正しく捉えられていると想う。偉大な自然神から半神としてのアイヌラックルに伝えられた威力は、まさしく本来の「おとし魂」のように各部族の酋長(オトナ)に分かち与えられており、それ故に、良きオトナへの部族の忠実と結束と勇気とが保たれる。それは、織田信長に木下藤吉郎が忠義を行い明智光秀が謀叛したのとは同じタチの道義ではなかった。アイヌ世界は神威の統べた世界であり、少なくもその神威にだけはいかなる異種の部族も威服し崇敬の念を共有していた。部族間の協働も、また対立も、だからこそあり得た。
昭和十一年の芥川賞を得ている。すこしクセのある日本語で叙述しているのがエキゾチックな味わいを成している。この短くはない作品の起稿を、年末年始の仕事にする。スキャナの精度は劣悪で、頼りなくトビトビに字を追いながら全面書き直している。アイヌ語でのカタカナのフリガナが多く、目がひんまがりそうである、が、読む楽しさには恵まれる。
コシヤマインはアイヌの伝説的な勇士であり、シヤモ(日本人)の暴虐に立ち上がり猛威をふるう悲劇的な戦士でもある。彼が闘った時期の松前藩は、騙し討ちを主にしたアイヌ討伐と支配を重ねていた。そのあくどい姿勢は、同じ日本人ではあれどとても許しがたく、危うくわたしは日本人が嫌いになりそうになる。
2004 12・29 39
* 夜前音読したバグワンの言葉を、何と云うことはないが、今年の一つの締めくくりかのように、書き写してみたい。これは和尚の、『TAO老子の道』上巻 (訳者はスワミ・プレム・プラブッダ)の中ほど、250頁以降の数頁である。同じ個所をもう数回わたしは翻読して、そのつど何かしらを感じ、つき動かされる。
長冊の唐突な途中からであるが、それは気に掛けない。どうやら、これはとても大勢の聴衆を前にしたバグワン談話であるらしい。しかし「あなた」と呼びかけていれば、むろんわたしは自分のことと思い、聴いている。
* 意識というのはひとつの祝福にもなり得る。が、それはまたひとつの禍いにもなり得る。あらゆる祝福は、必ず禍いと連れ立ってやって来るものだ。問題は、どう選ぶかはあなたにかかっている、というところにある。それをあなた方に説明させてほしい。そうすれば、われわれはこの経文(『老子』)に楽にはいってゆくことができる。
人間には意識がある。人間が意識的になったその瞬間、彼は「終点」をもまた意識するようになった。自分が「死ぬ」定めになっているということ—。彼は明日を意識し、時を意識し、時間の経過を意識するようになる。遅かれ早かれ「結末」は近づいて来る—。
彼が意識的になればなるほど、それだけ死というものがひとつの問題、唯一の問題になってくる。どうやってそれを回避するか? (だが)これは、意識を間違った使い方で使っていることにほかならない。それはちょうど、子供に望遠鏡を渡しても、その子がどうやってそれを使うか知らないようなものだ。彼はその望遠鏡を、反対の端からのぞくこともできる。
「意識」というのはひとつの望遠鏡だ。あなたはそれを間違った端からのぞくこともできる。そして、その間違った端にもいくつかそれなりの利点がある。それが新しいトラブルを生んでしまう。望遠鏡の間違った端からでも、あなたは多くの利点があることを発見できる。短い目で見ると、たくさんの利点が考えられる。「時間を意識している」人たちというのは、「時間を意識していない」人たちに比べると、何かしら得るものだ。「死を意識している」人たちというのは、「死を意識していない」人たちに比較すれば、達成することが、たくさんある。西洋が物質的な富を貯えつづけ、東洋が貧しいままだったのはそのためだ。
もし死を意識していなかったら、誰が構う? (この東洋的な)人々は、瞬間から瞬間へと、まるで明日など存在しないかのように生きている。(それなら) 誰が貯蓄する? 何のために? 今日だけで、あまりにもビューティフルだ。なんでそれを祝わない? そして、明日のことはそれ(明日)が来たときにしよう……。
西洋(の人達)は無限の富を蓄積してきた。みんながあまりにも「時間」を意識しているからだ。人々は自分たちの一生を”物”に、物質的なものごとにおとしめてしまっている。摩天楼……。彼らは大きな富を築いている。それが、間違った端から(望遠鏡を)のぞく利点だ。彼らは近いところにある、短距離の特定のものごとしか見ることができない。彼らは遠くの方を見ることができない。彼らの目は、遠くを見ることのできない盲人の目のようになっている。
彼らは、それが最後には大きな代償を払うことになりかねないということを考えずに、いまのいまかき集められることだけしか見ようとしない。
長い目でみたら、こんな利点は、利点ではないかもしれない。
あなたは大邸宅を建てることもできる。が、それが建つまでにあなたはもう「さよなら」の支度だ。あなたは全然そこに住めやしないかもしれない。あなたは、小さな家にビューティフルに住むことだってできたかもしれない。山小屋だって用が足りたろう。ところが(西洋風な)あなたは、自分は宮殿に住むのだと心に決めた。(だが、)いま、宮殿ができてみれば、肝心の(住む)人がいない。あなたがそこに「いない」のだ。
人々は、「自分自身という代価」を払ってまで富を蓄積する。最終的には、結果的には、ある日彼らも、自分たちは自分たち「自身」を失ってしまっており、そして自分たちは、役にも立たないものを買い込んでいる(いた)のだということに気づく。その代価は大きかった。しかし、いま(「さよなら」の時)となっては、どうすることもできない。時は過ぎている。
もし(「さよなら」への)時間を意識していたら、あなたは、狂ったように「物」を貯め込むことだろう。あなたは自分の生命エネルギー全部を「物」に転化してしまうだろう。
(「時間」だけでなく、)「全領域」にわたった意識を持っている人間は、この(今・此処の)瞬間を、可能な限り楽しむ。彼は浮かび漂うに違いない。彼は明日のことなど気にかけまい。なぜならば、彼は「明日などけっして来やしない」ことを知っているからだ。彼は、最終的に達せられなければならないものは、ただひとつ、自分自身の〈自己〉だということを深く知っている。
生きるがいい。それも、「自分自身」(の実存・本質)と接することができるくらいに、本当に「トータルに」生きるがいい。それに、(トータルに生きる以外に、)ほかに、自分自身と接する方法などありはしない。(トータルに)深く生きれば生きるほど、あなたはそれだけ深く自分自身(の実存・本質)を知る。人間関係においても、ひとりでいても…:.。
“関係”の中に、「愛」の中に、深くはいってゆけばゆくほど、あなたはそれだけ深く(トータルに自分を)知る。愛がひとつの鏡になるのだ。そして一度も「愛したことのない」人は、”独り alone” になることもできない。せいぜいのところ”孤独 lonely” になれるだけだ。
愛し、そして(人間同士の本質的な)「関係」というものを知った者こそ “独り” になれる。いまや、彼の”独りであるこ
と” には(それ以前とは)全面的に違った質がある。それは(もう) “孤独” じゃない。彼は(これまで)ひとつの関係を生き、自分の愛を満足させ、相手を知り、そして「相手を通して」彼自身をも知った。(だが)いまや彼は、自分自身を「直接に」知ることができる。もう「鏡」の必要はない。
ちょっと、誰か、一度も鏡に出くわしたことのない人のことを、考えてごらん。目を閉じて自分の顔を思い浮かべることが、彼にできるだろうか? 彼は自分の顔を想像することもできない。彼はそれを瞑想することなどできやしない。
しかし、鏡のところへ来てそれをのぞき込み、それを通して自分の顔を知った人間は、目を閉じて内側でその顔を見ることができる。(人間その他との)「関係」の中で起こるのが、それだ。ひとりの人間がある関係の中にはいってゆくとき、その関係は「鏡」(の代わり)になって、彼自身を映し出す。そして彼は、自分の中に(とうから)存在していたことなど夢にも知らなかった、たくさんのものごとを「知る」に至る。
その相手を通して、彼は、自分の怒り、自分の慾、自分の嫉妬、自分の所有性、自分の慈しみ、自分の愛を初めとする、彼の実存の何千というムード(生の実況)を知るに至る。彼はその「相手を通して」たくさんの空気と遭遇する。
(そして今度は)だんだんと、彼が(我から自然に)もう「独りになれる」瞬間が来る。彼は目を閉じて、自分自身の意識を「直接に」知ることができる。私が、一度も「愛したことのない」人たちには、瞑想はごくごく難しいと言うのはそのためだ。
深く愛したことのある人たちこそ、深い瞑想家になることができる。(本質的な)関係の中で愛したことのある人たちは、今度は、自分たち自身で(自立し自覚して)いる態勢にある。いまや彼らは「成熟」している。もう(たんなる)相手は必要ない。もしそこに相手がいれば、彼らは(豊かに、自由に)分かち合うこともできる。だが、(殊更にそうしたい)その”要求”は(それ自体)消え失せている。もうそこには何の依存(関係も必要すら)もない。
* ( )内はわたしが敢えて補足した。いまぶん、その程度のわたし、だということになる。「身内」は、関係(呼び名)をすら溶解していわば「匂い合う」ような間柄だと以前に私語したのを、バグワンはより平明に、深く語っているのではあるまいか。
バグワンはこの前の辺で、死は「敵」ではない、生まれた瞬間からの「友」だと示唆していた。死と敵対すればするほど、不安と恐怖は深まる一方で、然も絶対に勝ち目はない。死を敵視して藻掻きにもがくのは聡明ではないと。
* 折しもあれ、柳田国男は『先祖の話』の、わたしが昨夜音読した六十四章で、「死の親しさ」をこう語っていた。柳田は合理性の豊かな観察と推理のみごとな民俗学を開拓し実証してきた。彼の言葉はただの観念ではなく、日本列島だけを謂っても、津津浦浦へ足を運んで見聞し調査した結果を具体的に語ろうとしている。宗教性で説くのでも哲学として思索し洞察しているのでもない。事実に足をのせている。
* 死の親しさ 柳田国男(『先祖の話』より)
どうして東洋人は死を怖れないかといふことを、西洋人が不審にし始めたのも新しいことでは無いけれども、この間題にはまだ答へらしいものが出て居ない。怖れぬなどゝいふことは有らう筈が無いが、その怖れには色々の構成分子があつて、種族と文化とによつて其組合せが一様で無かつたものと思はれる。
生と死とが絶対の隔絶であることに変りは無くとも、是には距離と親しさといふ二つの点が、まだ勘定の中に入つて居なかつたやうで、少なくとも此方面の不安だけは、ほゞ完全に克服し得た時代が我々(の日本)には有つたのである。
それが色々の原因によつて、段々と高い垣根となり、(生死の境という)之を乗り越すには強い意思と、深い感激との個人的なものを必要とすることになつたのは明白であるが、しかも親代々の習熟を重ねて、死は安しといふ比較の考へ方が、群の生活の中にはなほ伝はつて居た。信仰はたゞ個人の感得するものでは無くて、寧(むし)ろ多数の(社会)共同の事実だつたといふことを、今度の(世界大)戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。
但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、(昭和二十年現在では)時期がまだ余りにも早過ぎる。其上に常の年の普通の出來事と、竝べて考へて見るのは惜しいとさへ私には感じられる。仍(よつ)て是からさきは専ら平和なる田園の間に、読者の考察を導いて行くことにしようと思ふのである。
日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其消息に通じて居るやうな気持を、抱いて居たといふことには幾つもの理由が挙げられる。さういふ中には比隣の諸民族、殊に漢土と共通のものもあると思ふが、それを説き立てようとすると私の時間が足りなくなる。茲(こゝ)に、四つほどの、特に日本的なもの、少なくとも我々の間に於て、やゝ著しく現はれて居るらしいものを列記すると、
第一には、死してもこの国の中に、霊は留まつて遠くへは行かぬと思つたこと、
第二には、顯幽二界の交通が繁く、単に春秋(お彼岸)の定期の祭だけで無しに、(生者死者)何れか一方のみの心ざしによつて、招き招かるゝことが、さまで困難で無いやうに思つて居たこと、
第三には、生人の今は(臨終末期)の時の念願が、死後には必ず達成するものと思つて居たことで、是によつて子孫の為に色々の計画を立てたのみか、
更に、再ぴ三たぴ生まれ代つて、同じ事業を続けられるものゝ如く、(さながら湊川討死の楠公のように、また怨霊のように、)思つた者の多かつたといふのが、第四である。
是等の信條は何れも重大なものだつたが、集団宗教で無い為に文字では(めったに)伝はらず、人も亦互ひに其一致を確かめる方法が無く、自然に僅かづゝの差異も生じがちであり、従つて又之を口にして批判せられることを憚り、何等の抑圧も無いのに段々と力の弱いものとなつて来た。
しかし今でもまだ多くの人の心の中に、思つて居ることを綜合して見ると、そ’れが決して一時一部の人の空想から、始まつたもので無いことだけは判るのである。
我々が先祖の加護を信じ、その自発の恩澤に身を打任せ、特に救はれんと欲する悩み苦しみを、表白する必要も無いやうに感じて、祭はたゞ謝恩と満悦とが心の奥底から流露するに止まるかの如く見えるのは、其原因は全く歴世の知見、即ち先祖にその志が有り又その力があり、又外部にも之を可能ならしめる條件が具はつて居るといふことを、久しい経験によつていつと無く覚えて居たからであつた。さうしてこの祭の様式は、今は家々の年中行事と別なものと見られて居る村々の氏神の御社にも及んで、著しく我邦の固有信仰を特色づけて居るのである。
少なくとも二つの種類の神信心、即ち一方は年齢男女から、願ひの筋までをくだくだしく述べ立てゝ、神を揺(ゆさ)ぶらんばかりの熱請を凝らすに対して、他の一方にはひたすら神の照鑑を信頼して疑はず、冥助の自然に厚かるべきことを期して、祭をたゞ宴集和楽の日として悦び迎へるものが、数に於て遥かに多いといふことは、他にも原因はなほ有らうが、主たる一つはこの先祖教の名残だからであり、なほ一歩を進めて言ふならば、人間があの世に入つてから後に、如何に長らへ又働くかといふことに就て、可なり確実なる常識を養はれて居た結果に他ならぬと私は思つて居るのである。
* 柳田独特の文体と学殖と実際に即して多くを、読み説かれていると、こういう言説からは、スマトラの津波を引き合いに出すのは憚られるけれども、まるで津波のように、久しい日本列島の死者と生者との互いに折り敷くような日々、年々の「暮らし」の不思議と哀歓とが見えてくる。
バグワンも智慧の、柳田も智慧の「ことば」で語ってくれる。決してただの知識ではないのである。
2004 12・30 39
* 和田傳といえば「農民文学」の久しい間、代名詞であった。代表作はというなら、やはり『村の次男』であろうか。農家と田畑。これほど悩ましい間柄はあるまい、トク分の田畑を、子供達に分けて嗣がすことは出来ない、「田分けはタワケ」と言われるのも当然、家の総合力は低下してしまう。分家や別家には、あくまでも本家の農作を手伝わせたい。だが次男三男らにこれはつらい人生だ。都会が好況で労働力を吸収してくれるなら都会へ出て行ける、、不況になれば農村へ還流した過剰な労働力と意欲とで農村の生活は酸素不足になり、窒息してしまう。せいぜいのところ軍隊に応募したいところだが、それさえ美味い具合には当たってこない。
『農村の次男』土まみれの里芋同然の「信平」は、そういう苦境にいましも立ちつくしたまま小説の幕が明く。
鶴田知也の『コシヤマイン記』と、シーソーに揺れるように、同時併行で起稿し校正して行く。
2004 12・30 39