* ひとり起きていて、四時半ごろに寝床で「今昔物語」源頼信の逸話など一、二語読み、「日本の歴史 大正デモクラシー」の農村問題を少し読んで寝た。
さほどわるい夢見ではなかった。いきな着流しの女玉三郎が、出没、軽快な立ち回りを演じていたり。
九時に起き、ふだんのあまりなラク装をやや改めた。建日子から、十時半に着くと電話。住所も名前も分からない人から十時に配達と指定着きの「おせち」宅急便が届く。ふたりとも、思い当たらない。
むかしバレンタインデーに、必ずゴージャスなチョコレートを必ず一つぶ選りすぐり、途方もなく贅を凝らした器に入れて、「ゴディヴァ」店から贈ってくる人がいた。何年続いたろうか。ついに誰とも知れずじまいだった。
「おせち」の人、案外ナーンダと分かるかも知れず、チョコレートのように分からずじまいかも知れない。食べ物ゆえ気にはなるが。
2005 1・1 40
* 夜前。寝ようとしていたところから、坂東玉三郎の深切な案内と解説で、歌舞伎の衣裳、おもに豪華な女衣裳をたっぷりと見せてくれて、あまりの美しさ、すばらしさ、おもしろさに寝に行くどころでなく、恍惚として魅入られた。
ところどころ玉三郎がそれを着て出演している舞台写真が出るのも、ほとんど全部を比較的何時も間近で見ているので、懐かしくも優しくもあり、接写で細部まで近寄れる色彩美、染めや織りの豪奢さ、言葉をうしない、ほおっとなってしまう。
玉三郎の言葉をよくよく吟味した美しい日本語での簡潔な解説も、聴きごたえした。西陣の織り屋などでの打ち合わせや職人気質との出逢いなども要領を得ていて、ほんとうに佳い番組であったが、出逢ったのが二時、終えて三時。これは堪らない時間帯。
寝床へはいってから今昔物語で前九年の役の源頼義らの悪戦苦闘を読み、歴史は大正時代の「日農」成立の頃の農村事情を読み、ライトを消したモノの昼の寝正月もひびいてかいっこう寝付けず、また電気をつけて、今昔巻二十六の解き放たれたような珍奇譚のかすかずに読みふけった。此の巻からはもうとてつもなく面白い話ばかりになってくる。佛教の説教臭がぬけてしまい、名もない庶民の珍妙な話がこれからぞくぞくと出て来るはずだ。
眼も休めてやらないといけないので、また灯は消したが寝られず、何も考えなければいいのだけれど、退屈なので源氏物語の巻の名を四十五巻まで思い出したり、百人一首を六十あまり思い出したり、般若心経を暗誦したり、海外映画の題を百六、七十も思い出したりして、結局寝た感触はまったくなく、八時半に起きて血糖値をはかった。87は低い。三が日の雑煮を祝い終えてしまった。
年賀状を少し書いた。少しだけ。春に湖の本を届けられる方々は失礼させて頂くとする。
* 好天。なれど、おそろしく冷え込む。下半身が痛いほど冷たい。
2005 1・3 40
* 和田傳『村の次男』鶴田知也『コシヤマイン記』はともにとても興味深い作品で、交互に一字一句句読点やルビまで手打ち再現して行きながらも、作品そのもののハートはわたしを頗る喜ばせる。ただ、容易に進捗しない、それほど、原本の活字は古く小さく、作品の量もある。二つともの起稿を終えるのにもう十日はかかるだろう。スキャンの状態が良ければいいのだが、なかなかそうは行かない。
2005 1・4 40
* 今朝も快晴。心地よい。早起きした。冷え込んでいる。三時と五時半に眼が覚め六時半には床を離れた。
* 鶴田知也の『コシヤマイン記』に引き込まれている。アイヌモシリの精気に顔を打たれるような快さがある。巧みな作でも雄大な筆致でもないのに、心優しく惹きつける魅力がある。
2005 1・7 40
* 鶴田知也『コシヤマイン記』は一種のプロレタリア文学として、深い寓意が汲み取られてい、稀有とも読める激しい切ない小説である。読まれたい。入稿した。
2005 1・8 40
* よく眠れなくて、六時半か七時前には起きて朝食した。
* 鶴田知也の小説に引き続いて、和田傳の『村の次男』の起稿と校正をしている。鶴田も和田も農民文学に精魂を籠めた作家であった。この小説もまた読ませる切ないハナシである。『コシヤマイン記』はいちばんつらい最後の一節を、わたしの手違いで二度同じ校正をしなければならなかった。
2005 1・9 40
* 建日子の『推理小説』 いい書評が「週刊文春」その他で出始めている。手法と表現の目新しさ、わたしの所謂「ト書き小説」体が評者を捉えているらしい。ただこの手は何度も使えないから、二作目がややしんどいだろう。
2005 1・9 40
* 今昔物語、全四冊のうち三冊を読み終えた。巻二十六からは、もう面白い面白い話ばかり。
2005 1・10 40
* 七時に起き、一時間寝床で「日本の歴史」を読んで、起床。家中の部屋が暖まらないほど、冷えている。快晴。機械部屋にお日様を入れないのがいけないと叱られた。なるほど。
2005 1・12 40
* 大越哲仁会員より、電子文藝館へ出稿原稿に添えて依頼しておいた別の史料原稿二つを送ってもらった。一つは、徳富蘆花の日露戦争勝利後の「勝の悲哀」と題した、ことに著名な講演。もう一つはこの戦後憲法公布にあたり当時文部省の配布した公式認識と解説の史料も。有り難い。会員自身のは「最初の私費留学生」としての新島襄を論策している。これまた有り難い。
2005 1・12 40
* 石上玄一郎「クラーク氏の機械」を起稿し、校正し、入稿した。追いかけて徳富蘆花の名演説として名高い「勝利の悲哀」のすでに起稿された原稿を、丁寧に校正し入稿した。石上の特異とよくいわれる作風は、例えば「清経入水」や「蝶の皿」や多くわたしなりのの掌説を書いてきた者には、そう珍かに特異なものとは映らない。
蘆花の演説は長くないが要点に言い及んであまさず、鉄腸にもしみいる言説で、すでに「ペン電子文藝館」に掲載してある「謀叛論」とともに、蘆花のえらさを輝かせている。
2005 1・13 40
* 文部省が刊行し、憲法施行直後の八月、主に全国生徒児童を対象に配布した『あたらしい憲法のはなし』は得難い「主権在民史料」の特級ものである。校正して行くにつれて感動が蘇ってくる。たしかにわたしたちの世代はこのように「憲法」と民主主義を学んできて、今なお、信奉している。文部省が内容を十分精査し確認して刊行している此の冊子の「憲法」尊重と遵守の精神は、今の政府与党により、むちゃくちゃに勝手気ままに拡大変義解釈されて、高手小手にねじ上げられていることがよく分かる。
しかし日本国政府は、新憲法を成立させてその精神をこの『あたらしい憲法のはなし』のように理解し解説し、国民の一人一人に、また首相以下の政治家の一人一人に遵守を求めていたのである、決してコレは民間に発生した解釈でも主張でもない。
あえて此所に「一 憲法」をあげてみる。
* あたらしい憲法のはなし 文部省著作発行 昭和二十二年 (1947)八月
一 憲 法
みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。
ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなけれは、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
これまであった憲法は、明治二十二年(=1889)にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちはん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなけれはなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。 つづく
* 中でも此所で重要なことは、「憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、『民主主義』と『國際平和主義』と『主権在民主義』です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。」
この国際平和主義の中に「戦争放棄」の思想の盛り込まれてあることは、云うまでもない。この冊子は一から十五章に及んでいて懇切である。そして刊行の時期よりして、憲法制定のまさにその同時期の精神と理解とが書かれているのだから、憲法の議論はまずは此所へ立ち戻って考えるのが至当で妥当だろう。
わたしは今、日本國憲法の前文以下全条文をスキャンしおえた。これを対にして「ペン電子文藝館」の「主権在民史料」特別室の根幹にしたい。最も願っていたことの一つが、任期切れ前に果たせそう。
2005 1・14 40
* 夜前、柳田国男の『先祖の話』を全編音読し終えた。先祖とは。あらためて思うと、はなはだ難しい。死者と生者との具体的な或いは気の遠くなりそうな「関係」で、また葬法や祭祀や御霊迎えの作法に結びつけて、広く民俗を探って行くと、底知れない世界がひろがっている。しかも、それは幽界幽霊の問題という以上に、いかに生きるか、生者の問題として具体的に深く関わってくる。だれかしら親しい一人一人の死と死後とを想像し、自分はそれにどう係わって行くのかと思ってみれば、このことの問題としての大きさ重さが伝わってくる。
柳田の独特の文体にのせられて、思わぬタイブの著作と毎夜向き合ってきた。
今夜からは「祭りの話」を新たに読んで行こうと。
2005 1・15 40
* 制定当時のままの「日本国憲法」を逐条読み直しているが、これほど興味深く有り難く胸にしみる読み物は、他に、めったに有るものでない。他の何をおいても「憲法」条文だけは、日本人でいる限り我が身と生命財産権利の安全をはかる意味でも、難しい文章ではないのだから、一度通読しておいて、得こそ多けれ絶対に損をしないだろう。「国民の公共財産」としてこれほど価値高き何が他に有るであろうか。
憲法を読まずに自己の安全や権利を願うことは、むろん不可ではないけれども、自己の足場立場を弱くしているのだけは、正真正銘事実である。少なくも「前文日本国憲法」「第二章戦争の放棄」「第三章国民の権利及び義務」は、「我が事」として、即座に読んでおきたいと思う。
* 日本國憲法 前文
日本國民は、正当に選挙された國会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであって、その権威は國民に由来し、その権力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本國民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の國民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの國家も、自國のことのみに専念して他國を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自國の主権を維持し、他國と対等関係に立たうとする各國の責務であると信ずる。日本國民は、國家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第一章 天 皇
第一条 天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本國民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであって、國会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の國事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その國事に関する行為を委任することができる。
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその國事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 天皇は、國会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。天皇は内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、國民のために、左の國事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 國会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 國会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 國務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外國の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、國会の議決に基かなければならない。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠実に希求し、國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない。
第三章 國民の権利及び義務
第十条 日本國民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 國民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が國民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の國民に与へられる。
第十二条 この憲法が國民に保障する自由及び権利は、國民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、國民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて國民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する國民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて國民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、國民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を間はれない。
第十六条 何人(なんぴと)も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待近も受けない。
第十七条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、國又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、國から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
國及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外國に移住し、又は國籍を雌脱する自由を侵されない。
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
第二十五条 すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
國は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第二十六条 すべて國民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて國民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二十七条 すべて國民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
児童は、これを酷使してはならない。
第二十八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補障の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十条 國民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第三十二条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第三十三条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第三十四条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十五条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第三十七条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、國でこれを附する。
第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第三十九条 何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の貴任を問はれない。
第四十条 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、國にその補償を求めることができる。
* 「日本国憲法」は昭和二十一年(1946)十一月三日公布 昭和二十二年(1947) 五月三日施行。此処に挙げたのはその時のままの表記。憲法が、旧仮名遣いで書かれていたことがわかる。それでいて、で「あって」などと、促音は意図して表示してある。
* これを読めば、おやおや、今の政治は、大事なところで相当な「憲法違反」ないしそれに近いことをイケシャアシャアとやっているらしいことが、いやでも見えてくる。いや、しっかり見据えて是正したい。
憲法に基づいて政治を監視し是正するのも国民人一人の義務であることを最高法規である憲法は明記している。小泉純一郎や自民党が「最高法規」なのではない。「憲法」が最高法規なのである。
いま一章を是非此処に書き写しておきたい。、
* 第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本國民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の國民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条 この憲法は、國の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び國務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本國が締結した条約及び確立された國際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九十九条 天皇又は摂政及び國務大.匡、國会議貝、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
* 小泉純一郎や石原慎太郎は、此の誇るべき「日本国憲法」を、しみじみ読んでいるのだろうかと疑う。
2005 1・16 40
* 昨日『大正デモクラシー』の一冊を読み上げ、第二十四巻『ファシズムへ』を今夜から読み始める。以下、太平洋戦争、戦後、の二巻で終えるが、さ、花の散る頃まではかかるだろう。日本史を読み始めたのがいつ頃か、もう見当もつかなくなったが、わたしの日々を、これはこれでしっかり立たせていた。力になっていた。
2005 1・17 40
* 久しぶりの診察日。森本哲郎さんに『吾輩も猫である』をいただき、寝る前に読み、夜中に眼が覚め続きをまた少し読んで、またうとうとして六時半に起きた。七時前の血糖値、99。
* 柳田国男の『祭の話』も大作で。いまは「祭」と「祭礼」とがちがうことを語っている。初読ではないが、この人のものは繰り返し読んで新鮮な、奧から奧、が含意されている。
例えば、神社でいえば、たいていの人は「まつり」にはめったに触れられない。「祭礼」のことをお祭りと思っている。祇園祭、葵祭、神田祭等々、ハデに見物が出て、祭礼を現に担って出る人数も多い。
しかし神社は、多いところでは一年に二百日を越すほど日々に「まつり」をしている。これはむしろ秘儀に属している。
以前、たまたま京都蹴上の都ホテルから、妻とあの三条坂の大通りを降って行く途中、粟田神社のお祭りに出くわした。石段を登り、神社前に地元の氏子が寄っていままさに「祭」の行われるのに、飛び入りで参加したことがある。
神官が何人も神殿の奧で高く長く声を発して恭しいしぐさを永く永く繰り返していた。その間には拝殿での伎楽もあった。
よく考えてみると、ああいう「祭」には、国民学校から小学校への過渡期に疎開していた丹波の村社での「祭」以外、立ち会ったことがない。子供の時の村の八幡さんの「祭」は、それとも認識しなかったのだから、無かったも同じ。さかんに篝火が深夜まで焚かれていたこと、拝殿で樽太鼓をかんかん叩きながら中野の「友サン」が名調子の江州音頭にあわせて村の者がいともさびしく踊っていた。
「まつり」は日本語である。「祭礼」は漢語である。祭の歴史は久しく、祭礼は後発した行事であった。いま祭礼を特色づけている一つに華やかな提灯があり、提灯が恰も主役のような祭礼すらある、が、日本の國にあれにつかう蝋燭が一体いつから存在したか。一体いつから提灯の地紙が、庶民の日常や晴の催しのためにああも自由に使えるようになったか。また竹を細く削り紙を貼り、雨に冒されず、伸縮自在にたためるというような技術がいつから日本に定着したか。そう考えてみるだけでも、「祭礼」のさほどに古くからあったものでないことは知られる、と、柳田は言っている。しかも「祭」はまさに神代にも溯りうる。
そんなことから柳田国男は厖大な日本民俗の層の厚さを説いてゆくのである。おもしろい、という以上の感銘が得られる。それが柳田学の魅惑である。
2005 1・19 40
* 大越哲仁会員の協力で、初期自由民権運動の中心的役割を果たした植木枝盛による、『日本国々憲案』が手に入った。欽定憲法が成る前のいわば「在野の憲法草案」として、最も優れかつ完備したもの、第一級史料なのである。有り難い。
2005 1・21 40
* 夜前、植木枝盛の「國憲案」を原史料で読んで、感銘を受けた。自由民権運動のなかで胚胎された根源の主張や理想が、当時の政局や国情とのかねあいも含めて、切実に盛り込まれている。各条々の記述に「祈り」まで籠められているかと読め、胸のつまることもあった。これとあわせて明治欽定憲法も添え並べ、極端な「対照」をいつでも誰でも観られるようにしてみよう。明治憲法はどこかで簡単に手にはいるだろう。
* この先の国民的課題は「憲法」であること、間違いなく、そのためにもわたしは、この「主権在民史料」特別室に、なるべく判断の拠点となる史料を取りそろえておきたい、それが、わたしなりにこの課題への貢献でありたいと思う。新聞雑誌等へも知名人たちの憲法改正をめぐる感想が継続取り上げられ始めている、が、歴史的な理解はあまり認められなくて、上澄みの感想に流れている。なるべくは明治以来の国民の願い、主権在民への願いを汲み取って、それを堅固な足場に発言して欲しいと思う。明治の自由民権論は決してまだまだ主権在民の民主主義とは程遠かった。
2005 1・23 40
* 柳田国男の『日本の祭』を読んでいて、かすかにかすかに記憶を呼び覚まされるときがある。夜に夜をついで日々の数えられていたことは、知識としても納得していた。王朝の物語を読んでいて、一日が朝から始まるなどとはとても思われない。そういう、実感とまではいかないが予感ないし推知は、たとえば祇園祭の「宵山・宵宮」でもう体感していたのだ、あの祭りのもっとも華やいだ時間は、祭礼当日の鉾巡幸以上に、前夜の宵山・宵宮にあることを、子供心にありあり感じていた。(遠い異国の例をあげて正しいかどうかいささか危ぶむけれど、クリスマスは暮れの二十五日と承知しながら、イヴの二十四日を盛大に祝いあうのも、それに等しくはないのか。)
正月用に蛤を買いに行くのが、わたしの恒例のお役であることは何度も書いているが。新門前の秦でも保谷の秦でも、その蛤汁を大根人参紅白の酢なますなどとともに「お祝いやす」と家族一礼して祝うのは、きまって大晦日の宵の食事からであった。お正月サンは大晦日の夕暮れにはもう訪れているのである。
柳田は言う、前夜の夕暮れから翌朝までが一続きの正月の年霊迎えの祭りであったと。だが、なんとなく、前夜と早朝とにいつしかに二分されてきた。それでも気持ちはどこか、もとのまま「一続き」に、この除夜から元朝へは床に入って寝ることもごく短くか、またはなにとなく通夜のうえで、極く早朝から「祭」の気持ちで雑煮を祝う風が、いまも多い、広い、と。
たしかに我が家でも、今でこそ平気で元朝を日が高くなるまででいぎたなく長寝しているけれど、新門前の秦では、「なんでやの」と子供心に堪らないほど元旦だけは、とびきり早く起こされ、ガチガチ身震いしながら顔を洗い、かなり厳粛に雑煮を祝ったのを憶えている。あれは、前夜の宵から元旦早朝まで「一連の正月祭」をしていたのだった。そういうふうには、なかなか思い至らなかっただけで、おそらく秦の父も母もそんな意識はなかったろうと思う。意識が有れば、あの父なら一席弁じて、説明してくれるぐらいはあったろう。
一つの証拠とも謂えるだろうか、昔から「初夢」とは元日の晩から二日の朝へかけて見る夢だと教わっていた。なんで元朝に見る夢ではないのだろうとまでは、子供なりに不審に感じた。そうなんだ、大晦日から元旦へは、寝ないで大歳神を祭る、それが古来本然の「祭」であったのなら、夢など、見ようがなかったのだ。
* 柳田は、「まつり」とは、「まつらふ」だと謂っている。その日ばかりは神霊の「お側にいて、なにかと奉仕する」のが「まつらふ」「まつる」意味だと。「まつはる」「まつはりつく」とも繋がっていようか。よく分かる。そして「祭」と「祭礼」とは、歴史も形もちがう。祭はいわば近親者が「お側にいて何かと奉仕する」が、祭礼には無関係な見物が参加する。
* いろんなことを思い出すものだ。が、ふしぎと、心身が澄んでゆく気がする。
2005 1・24 40
* 植木枝盛の、「自由民権、人権と抵抗権の保障」を謳った「日本国国憲案」と、この自由民権思想をはねのけ天皇絶対神聖を打ち出した「大日本帝国憲法」いわゆる明治欽定憲法の条文とを、対比的に「ペン電子文藝館」史料として入稿した。
おりしも現政府与党は「憲法改正」の好機いたると動き始めている。何が好機か。選挙が無いのである、ここ当分というもの。
問題は「前文」「憲法九条」だけではない、基本的人権の制約もますます憂慮される。わたしは日本ペンクラブの中にも「憲法研究会」ないし臨時の緊急委員会を設けて、少なくも一々の条文を読みながらの検討を重ねておいて、問題点を具体的に提示しうる体制を用意すべきだと考える。漠然と反対しても漠然と擁護しても漠然と訴えても、観念論か空疎な机上論におわるだろう。手を尽くして或る程度まで具体的な姿勢や主張を固めておくべきだと思う。が、さ、わたしがそんな提案をして、聴かれるかどうか、はなはだ心許ないが。
2005 1・27 40
* 会員からの長い原稿が二つ送られてきて、念のためにプリントで読み始めると、疑問個所がたちまち二十も三十も出て来る。原稿代わりのプリントがそれでは、訂正の拠点がない。二つともいったん返却して作者に点検して貰うことにする。
2005 1・27 40
* 高校二年頃、角川文庫が創刊されてまだピカピカの頃、なけなしの貯金をはたいて高神覚昇という人の『般若心経講義』一冊を買った。昭和二十七年暮れか翌新春に買っている。今、背は、ガムテーブで貼ってある。表紙の角はちぎれ総扉も目次も紙が劣化してぼろぼろ、全体にすっかり赤茶けている。
この本について思い出を語り出せばながい話になる。
よく読んだ。一つにはこれがたしかラジオ放送されたそのままの語りで、姿無き多数聴衆を念頭に話されているため、耳に入りやすい譬えや説話がふんだんに入っていて、高校生にも読みやすかった。
一つには、日吉ヶ丘という、頭上に泉涌寺、眼下に東福寺という環境に人一倍心から親しみを感じていたわたしは、知識欲にもまたもう少ししんみりとした感触からも、しきりに鈴木大拙の『禅と日本文化』だの、浄土教の「妙好人」だのに関心を寄せていたのだった。社会科の先生の口癖のような倉田百三の、たしか『愛と認識との出発』や阿部次郎の『三太郎の日記』なども覗き込まぬではなかったが、同じなら同じ倉田の戯曲『出家とそま弟子』にイカレてもいた。
もう一つは、まだ仏典に手を出す元気はなかったものの「般若心経」とだけは幼くより仏壇の前でワケ分からずに親しんでいたという素地があった。あのチンプンカンプンに少しでも通じられるならばと、勇んで『般若心経講義』を自前で買った、その本が、いまこの機械のわきに来ている。高神覚昇のことは皆目識らないも同じだったし、今も同じだ、が、この文庫本からは多くを得た。ことに知識欲に燃えていた少年は、講話もさりながら、佛教の理義に触れたいわゆる「註」の頁にそれは熱心に眼を向けた。感じるよりも遥かに識りたがっていたのだ、何でも彼でも。
泉涌寺の来迎院で、「朱雀先生」や「お利根さん」、わけて「慈子」と出逢った少年の学校鞄には、まさしくこういう知識欲も、詰まっていたのだった。
青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める 東福寺
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ 泉涌寺
十七歳の高校生が、まさにこの頃から短歌をわがものにして行った、いつしかに小説世界へ心身を投じてゆく、前段階として。『般若心経講義』を読んでいたのと、こういうわが『少年』の歌とはひたっと膚接している。
そして四十、五十年。わたしはバグワンの『般若心経』になかなか落とせなかった眼の鱗を幾つも落とせたと感謝している。
2005 1・28 40
* 録画の「ER」を見てから、機械の前へ来て、未来社創業西谷能雄の「編集者とは何か」を読んで大いに感嘆、すぐさま起稿校正して入稿も済ませた。医学書院の編集者時代からいつも念頭にあり、また今でもたんに編集者としてでなくひとりの人として生きて行く上でも斯くあらんと願う通りのことが明瞭に適切に語られていた。ああ、こういう人と一緒に仕事が出来たならと思いつつ、ま、医学書院の金原一郎創業社長も、長谷川泉編集長も、これに近い人達であった、わたしは恵まれていた。もっともその余はほぼ有象無象で付き合ってられなかった。いい著者達をたくさん識っていたので、識ってももらっていたので、それがわたしを幸せな編集者として支えてくれた。
2005 1・30 40
* 国木田独歩の「正直者」は短篇であるが、人性発見の「認識者」の秀作である。独歩にはむろん多くの短篇作品があり、世に定説的に迎えられたものも多いのだが、「正直者」ほどさりげない題の、さりげなさそうな作品に心をとめた人は少ないかも知れない。しかし今では神話的な重みすらある故勝本清一郎、またその犀利に厳しい評で鳴らした平野謙が、ともに独歩小説の随一かと推していたのが「正直者」で、こわいほどの作の一つである。今朝、一月十本目の掲載作として「ペン電子文藝館」に送った。
2005 1・31 40
* 山の上ホテルで宴会を待ちながらロビーで、そして帰りの電車で、しばらく放りだしていたヘルマン・ヘッセの「デミアン」にまたとりついてみた。はじめのうちが、どうしても気が乗らない。何故だろうと思った、一つの理由は高橋健二の翻訳文がわたしのセンスをかすかにささくれ立たせるのだとわかった。この乾いたような文体と書かれてある観念や描写とがどうにもミスマッチな、というより要はわたしの性に合わないらしいと気付いた。それで、それに辛抱してみようと、行きつ戻りつともあれ物語らしき入り口までは気張って読んで行こう、と。
やっとデミアンが出て来た。高橋健二の訳で、結局ゲーテがずいぶんと読めぬママになっていたのにも思い当たる。彼が訳した「ファウスト」がどうにもわたしは読めない。鴎外の訳が正確かどうかよりも、やはり彼の「即興詩人」の訳のようなぐあいに「ファウスト」が読めるなら、どんなに読みたいだろう。しかし手に入れていない。高橋健二の訳にはファシネーションを覚えないから弱った。
2005 2・1 41
* 昭和史は、はなはだ、しんどい。国際的な視野なしにはものが言えないし、見えない。中国大陸の軍閥の状況だけでも、蜘蛛の巣のようで、それへ日本、英、米、ソビエトなどが勢力と覇権を争って絡みついている。それが日本国内の経済にも思想にも政治の葛藤にも直結してくる。明治の日本はまだ把握しやすかったが、大正から昭和へ、そして太平洋戦争前へ、日本はまるで糞づまりのように息苦しい。ファシズムが魔の綱のように日本国と国民を束ね上げてゆく。
コミンテルンの指導で日本共産党が勢力を扶植して行くが、無産政党活動への強烈な政権によるテロリズムが働いている。拷問と虐殺がむしろふつうの手段として特高や憲兵や警察に普及しきっているのには、怖毛を振るわずにいられない。「主権在民」など、夢のまた夢、ただのまぼろしの如くであった。あんな世界へ、われわれは立ち戻らされてはならない。
* 沼正三の『家畜人ヤプー』完結三分冊本の最終第三巻を読み進んでいる。どんどん読んで行けるようなヤワな叙事ではない、劇薬を少しずつ口に含み含みしている感じ、ものすごい著作だ。こういう作品をともかく許容し出版できる限界点まで、戦後日本はひとまず開放された。だが、この作品のふりまく毒のはげしさは、人により思想によっては、今でもとうてい許容できない「政治性」に溢れている。読んでいて頬がピリピリするほどの刺戟がある。
「家畜人ヤプー」は性的サド・マゾの物語なんかではない、それに韜晦しつつ、強烈に日本國と日本人とを徹底批判し、むしろ傷つけ踏みにじり、それで、日本史を組み立て直そうという意図の、奥深い批評の本になっている。よくもまあ無事に書きおおせ刊行できたもの。沼正三という仮名に、徹して隠れた筆者の知性はしたたかであった。とんでもない、とほうもない、歴史的な奇書で力作で、天才の所産である。
2005 2・2 41
* 坂本四方太の「夢の如し」は、或る静かに良き昔の生活を髣髴させて、中勘助の「銀の匙」とまたちがった風情の好随筆を成している。知る人ぞ知る作で、長編、読み応えがある。ある時代のある日常を文学的に遺すという意義は、民俗学を持ち出すまでもない大事なこと。めったに目に触れることのない埋もれた秀作の一つ。全編スキャンした。また社会主義者荒畑寒村の珍しい短編小説「艦底」もスキャン。スキャナーに大分慣れてきた。
2005 2・2 41
* 幸徳秋水、堺枯川、荒畑寒村などと、先駆的な社会主義者が「雅号」を用いていて、なにとはなく、ミスマッチのおかしみを感じてきた、たいしたことではなけれども。
荒畑寒村の、大正元年、二十六ぐらいで書いた、少年時代の体験を落ち着いて活かした小説「艦底」を、起稿、校正、入稿した。短篇ながら、印象は確かで、よくモノを見た写生文とも読め、鑑賞に堪える。
次いで物故会員の長篇小説の序章と一章とを遺族の希望で起稿し校正し入稿した。「モラエス」を書いた千枚を超す長編だが、すでに第七・八章分が独立作品として展示済みになっている。
2005 2・3 41
* 高神覚昇の『般若心経講義』を、ひどい状態の原本から辛うじて第三講までスキャンしてみた。本紙がもうホロホロと頽れてくるぐらい。酸性紙はいずれみなこういう運命にある。そんな時には電子化されていると、どこかで助かっている望みがもてる。モノを書いている人は、とにかくも電子化されておくことをすすめます、と、電子メディアのプロが言っていて、本当だと思った。そう聴く前から心掛けてきた。
2005 2・3 41
* 般若心経講義を校正し始めると、兎にも角にも引き込まれて行く。おそらく高神覚昇のこれを読んだ頃からすると、わたしの般若心経への傾倒にも、ぐっと角度差がついているだろう。たとえば、「空」のことも。
高神は頻りに「認識」を謂う。認識論と空観とは仏教学では近かろう、けれど認識などしていて空かという疑念は、もうわたしも持っている。空を論理という分別で分析しよう、分かろうなどとわたしは考えない。認識ではどうにもならない、せめて喩ではあるまいかと思いながら、そんな思いつきも、わたしは直ぐ棄てるようにしている。
2005 2・3 41
* 上野から有楽町へ、鰻が食べたいというので「きく川」で。それからビヤホールへ席を替えて。快く疲れて帰ってきた。家に着くと、関西から、京菓子をいろいろ添え、佐藤通次訳、ゲーテの「ファウスト」上下と、実吉捷郎訳、ヘッセの「デミアン」とが贈られてきていた。有り難い。デミアンは読み継いで行きたく、さらに「ファウスト」が楽しみ、前から訳者をかえて読みたい読みたいと飢えていた。この作品、のめりこまなければ、はねつけられる。ゲーテを読んで「ファウスト」が読めていないなんて、お話しにならないと頭に来ていたのである、多年。
2005 2・5 41
* 般若心経講義の第一講を起稿、校正している間、すこし気分がラクだった。興にひかれて猪瀬直樹の「恩赦のいたずら」も読み継いでいった。三分の二も読んできたか。この『天皇の影法師』という彼の処女作は、他のアレコレを産み出す前提ともなったろうが、最も優れたノンフィクションであり、評論である。こういう着実な仕事に触れていると著者までちょっと好きになるからおかしい。
2005 2・6 41
* なにをする元気もない。階下で水分を補給し、本を読んでから床に入ろう。デミアンか、ファウストを読もう。
2005 2・7 41
* 深夜に読む「ファウスト」がおもしろい。冒頭で、「座長」と「詩人」と「道化」とが幕開き前の議論をする。これが、深い。
言うまでもないが座長は企業の眼で見ている。詩人は作者として当然表現の理想を、理想の表現を言う。
道化は舞台に立って演じる者を代表している。
この三者の兼ね合いは、演劇に限らない、文藝にも美術にも当てはまってくる。どの力がほんとうに強いのか弱いのか、どうバランスするのかしないのか。
ゲーテはわたしより二百年は前の人である。その頃にも、こういう議論で衆目の注意を喚起する意味があったし、たぶんギリシャ・ローマや古代の中国やアジアにでもあったのだろう。
作者が「詩人」と呼ばれていて、戯曲家とも脚本家とも呼んでいない。いまの「脚本家」や「戯曲家」たちは、詩人としての理想や自覚や才能を持ち合わせているのだろうか。持ち合わせている人もいたし、今も少数、いると思う。
「詩人」とは何か。「詩」とは何か。画家でも小説家でも彫刻家ですらも、創作者は、とりわけても言語による創作者には、たいせつな内奥の課題だ。
* 昭和に入り、太平洋戦争まで。日本は病める経済・財政の時代であった。途方もない大恐慌、いまのバブル崩壊の不況を何層倍も深刻にした恐慌が、いまから思えばウソのような、金解禁とともにやってきた。金解禁がなければまだしも、台風が来ても窓は閉じてあり桟を打ち付けることもできた。ところが、アメリカから吹いてきた恐慌の大嵐をうけて、待ってましたとばかりに「金解禁」で窓という窓も入り口もみな開いたのだもの、日本経済という家は恐慌台風にぶっとばされた。しかも政策的にデフレ政策をやった。デフレスパイラルで物価は猛烈に下がり、ものは売れない、失業者は蚊のようにわいて出た。「ファシズム」の時代は経済逼塞のトンネルの中へねじ込むように来たのである。
もしも、である。大正の末に、田中義一という歴代最悪陸軍大将の政友会総裁が「総理大臣」をやらず、その次の内閣で、井上準一という大蔵大臣が、もう少し資本主義がドツボにはまりかけていることに気付いていてくれたなら、太平洋戦争の起こる前に、日本は舵をちがう安定の方向へ切り替え得ていたことだろう。
歴史の「もし」はお笑い草であるが、歴史が「繰り返す」とは、なみでない「真理」にちかく、その「似た繰り返し」の中で、あの田中義一に並ぶ言に小泉純一郎でありそうなことに、もっと怒りと用心の身構えをわれわれは持たねばならぬ。
ほんとうに「国のため」に政治をしているのなら、ほんとうに「国民のため」にこそ政治をしているのでなければならない、と、そんな鉄則を小泉総理大臣は何より絶えず「憲法」に聴いていなければならないのに。
2005 2・10 41
* 宅急便で、ペンの会員橋爪文さんの郵便物が届いた。著書その他。
十四歳で原爆をまともに体験し、以来その体験を伝える世界的な行脚と著作で識られている人である。「ペン電子文藝館」の現状が会報に載り、電子化の作業は出来ないけれどどうにかならないかと著作の数々を届けてこられた。まぎれもない体験であり証言である。如何様にも工夫し尽力して「電子文藝館」に掲載展示したい。
かなり量もある。できるところから手を付け、的確に「反核」特別室に取り込みたい。著名作家のベストセラーのようなものはその気で捜せば手にはいるし、図書館にも書店にもある。そういうものでない、しかし見忘れてはならないこういう会員作品の、会員でなくてもこういう書き物の、必ず在る、それを、委員会は発掘してゆきたい。
2005 2・11 41
* 病気で凹んではいたが、胸に溢れる感慨や思索を強いてくるつよいモノに幾度も幾つにも触れていた。バグワンも、耳に鳴り響くハナシをしてくれていた。
柳田国男は「日本の祭」を語りながら、「木を立てる」という事の、遠く深く広い意義をつぶさに実例を挙げながら話し続けていてくれた。イザナギとイザナミとは柱をめぐって国造りをしている。諏訪の祭りはあの有名な御柱を建てることから始まる。ありとある日本の祭りの悉くが何らかの形で、木ないし御幣を以て祭場をさだめ、うつし、神を迎えて人は潔斎する。よく見ていれば気が付くのに見過ごしているうちに、それゆえにずるずると変貌し他と習合して、根源を見失うことになる。「祭り」の根源を安易に見失うことと「日本」の頽廃とが軌をともにしないかと、柳田は真剣に憂えているが、それからすでにまた半世紀が経ち、「日本」は日本の心根をむしろかなぐりすてて平然とした根無し草に漂い行こうとしている。
人は、そんな柳田国男の警告と、たとえば沼正三の「家畜人ヤプー」とが、関係有りとは思いにくいであろう、が、わたしは、柳田は原因を抉り、沼正三はその無反省なための結果を見せつけていると感じている。わたしは今、『家畜人ヤプー』の完結三巻本の第三巻の半ばを読み進んでいるが、日本人の家畜人ヤプーとしての末路のすさまじさは、言語に絶していて、しかも彼等はその境遇に完全に馴致飼育利用されている。そのことに信仰の歓喜をすら覚えている。
日本人が「日本の祭りの根底」を見失い、白人崇拝と、模倣を重ねた愚痴と傲慢の「末路ぞこれは」と、著者は提示している、そう読める。徹底的な「侮辱による批判」である。その一つの証拠に、作者は、日本人の大御神とあがめたアマテラスとは、じつは白人アンナテラスの神話的置き換えであり、日本の神話も伝統もイース国の貴族にして総督であるアンナテラスのジャバン国支配の行政手段なのである。現在の(過去の)地球からふとした事故と偶然に導かれ、未来の (現在の)、イース帝国貴族社会に迎え取られたドイツ人女性クララ・コトウィックにむかい、当の地球総督アンナテラスが、さまざまな実例と証拠とでそれを語っている。そのクララの側には、昨日まで最愛の恋人で婚約者であった日本人男性瀬部麟一郎が、イース国の絶大の科学力により強制強圧で家畜ヤプー化され、去勢され、電磁支配に四つ這いに拘束され、忽ちにイースに馴染んで行くクララの足下で、従属犬として引き回され、次なる運命に怯えながら、はやくも迎合的な期待もかけている。何の期待か。それは此処には書くまい。
柳田国男と沼正三などという観点をもった論者はいなかった。だが「日本」の「根」を確かにしようと努めた柳田の警告を安易に無視していると、沼が描いている家畜人ヤプーの飼育牧場としての邪蛮国が現前し、日本人は白人帝国イースのありとあらゆる道具家具便具に加工され使用され使い棄てられて行く。そんな因果関係を想い描かせられるのは愉快ではない、が、いかにもあり得そうに(毒々しく精緻にリアルに)警告しつづけているのが、天才の奇書『家畜人ヤプー』なのである。
* そして「ファウスト」そして「デミアン」そして「今昔物語」のファルス(笑話)に吹き出し、まさに私の生まれた「昭和十年」に至る、わが近代史の現代史と成り変わりゆく「ファシズムと大恐慌の時代」。今まで心づかなかったが、わたしを「預け子のちに貰ひ子」として南山城当尾の大庄屋吉岡家から預かるまでの、秦の両親たちは、明治三十年以来、ああ、いったいどんなに窮乏と苦辛との庶民生活を生き凌いできたかと、想えば思えば息がつまってくる。
貨幣の価値変動ひとつをとっても、とてもわたしらの想像を絶した、いやおうなしの体験を父達はして生き延び、そしてわたしを迎えて育ててくれたのだ。ああ。
2005 2・11 41
* 幸い風邪もほぼ抜けたと思う。今夜は湯にもつかり、湯冷めせぬうちにはやく寝床ににげこんで本を読もう。
田中励儀さんから「泉鏡花研究会会報」が贈られてきて、二○○二年の研究文献に目を通して、あることに気が付いた。ただ一人だけ、横田忍という人が「水の精の文学」を書いているが、ハウプトマンの『沈鐘』をめぐっての論考で、たしかに水の精にふれねば語れないであろう。数多い研究のなかでこの手の着眼がただ一人なのに、いかにわたしが何処の世間でも最小数派であるかを思い知らされる。
いっそ、晩年畢生の仕事の一つに鏡花論を根限り書いてみようかという気持ちになりかねない。
* かなり楽しんで『般若心経講義』を逐次起稿していて、ああ此の本からたくさんの言葉を与えられているなと、ときどき、くすくす笑えてしまう。この本は、この経は、空を説きながら、構造ははなはだ論理的に緻密であるから、知的興味に逸っていた高校生には、五薀皆空の五薀とは色(物質)と、受(感情)想 (知覚) 行(意志)識(意識)という精神作用との積集(しやくしゆう)であり、などと言われるだけで、そうかそうかと興奮できた。そして所詮「空」は解しがたかった。
いま一字一句講義を読み返して行くと、いくらか五十年余の年の劫が、すこしちがったことも思わせる。ああこんな玉葱の皮をむくように哲学的・論理的にせめて行きすぎると、聞慧・思慧はもとより、行足を働かせた修慧にも「知的理解のエゴ」がしつこくのこって、空は逃してしまわないか、などと。だが、おもしろいことは、すこぶるおもしろい。
全編はむりだが、出だしの第三講「色即是空」まででも、かなり読み応えがすると思われる。バグワンの『般若心経』にふれてきた人なら、あらためてバグワンの透徹に頭を垂れることだろう。
2005 2・14 41
* 森鴎外訳の「ファウスト」を見つけて、読者から贈ってもらった。一冊本でどんと分厚い。
アンデルセンの「即興詩人」を鴎外が訳したのは稀に見る美しい雅文での翻訳であった。あれは鴎外その人の創作と呼びたいほどの名訳だった。「ファウスト」は平明な近代の日本語で訳されている。このゲーテの、というより人類のうんだ近代文学中の至宝といわれる作品は、あたまから深遠だの難解だのと思いこんで「読まない」のが、読みコツで、一行一行をあるがままに読んで読んで読み進めていく平静さが、作品を興味深く盛り上げて行く。だから平易な平明な、耳にも眼にも入りやすい現代語が適切なのではないかと、わたしも、そう思う。「即興詩人」のあの訳のように美しく歌い上げられるとかえって把握の手がかりも見失うか知れない。
エッケルマンの「ゲーテとの対話」も一時愛読したのである。いま読み返せばあの当時より遥かに深く感銘をうけるに違いない。
* 高神覚昇の「般若心経」講義は、むろん「空」を語らねば前へ進まないのだが、「因縁」の事理が援用されつつ、やたら「真理」という二字が繰り返されるが、なかなか、では因縁は、空はという話に煮えたって行かずに、丹念に手探りがつづいている。その周旋のじれったさなどがまた面白さになる。この人、「真理運動」の提唱者で主導者でもあった、友松圓諦とならんで。
バグワンは、さすがに躊躇も周旋もなく、手をつっこんでモノを掴み出すように、いきなり「空」を示す。すごいほどバグワンの透徹は、犀利に確か、あらためて驚歎する。
* 上士聞道、勤而行之、
中士聞道、若存若亡、
下士聞道、大笑之、不笑不足以為道、
「老子」である。
最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、一生懸命にそれに従って生きようとする。
中等の人士が道(TAO)を聞くと、それに気付いているようでもあり、きづいていないようでもある。
最も下等な人士が道(TAO)を聞くと、
大声で笑い出す。
もしそれが笑わないようであれば、それは道(TAO)ではあるまい。 こうバグワンは読んでいる。さらにそれの日本語訳であるが。ともあれバグワンは人間の九十八パーセントほどが中等、下等だと言っているから、わたしを含めてほぼだれもがそのどちらかである。
バグワンはこう語り継ぐ。
* 最も下等な人士が道(TAO)を聞くと、大声で笑い出す。
一番下等なタイプの人は、この「真実」、この「道TAO」とやらは、何かあるめタネの冗談ではないかと思う。彼はあまりにも俗っぽく、あまりにも浅はかで、深みに関することなど何ひとつとして彼にアピールしない。彼は大声で笑う。その笑いはひとつの防衛だ。
そういう最低のタイプには、どこででも出くわせるだろう。
老子は言う。 〝もしそれが笑われないようであれば、それは道(TAO)ではあるまい……″
老子は言う。もし第三のタイプの(下等)人が「真実」を聞いたときに、笑わないようだったら、それは「真実」ではあるまい、と。
いつであれ「真実」が明かされると、最低のタイプはたちまち笑い出すだろう。「真実」と三番目の最低の人間との間には、笑いが必ず起こる。
二番目の(中等な)凡庸と「真実」との間では、知的な理解が起こる。
第一の上等なタイプと「真実」との間には、彼のトータルな実存の深い理解が起こる。彼のトータルな実存が、ひとつの未知の冒険に打ち震える。ひとつの扉が開いた……。彼は新しい世界に足を踏み入れつつある。
二番目のタイプの人間にとっては、その扉は、開くには開くが、マインドの中でしかない。それはたんに「思考」のドアであって、本物のドアじゃない。はいって行くわけにはいかない。せいぜいのところ、それについて哲学すること、それについて考えることができるだけだ。
第一のタイプの人間は、その扉にはいって行く。
二番目のタイプの人間は、せいぜいよくて、それについて「考える」だけだ。きりなく考える。
三番目のタイプの人間は、考えることすらしない。彼は大声で笑い出す。そして、何もかもそこで終わりだ。そうして、彼は忘れ去る。
第三のタイプと第二のタイプが、人類の大部分をなしている。
第一のタイプは、世にもまれな花だ。この人類の大部分のせいで、多数派のせいで、「道TAO」を理解する人間は「ものわかりが悪い」ように見える。本当の理解の人というのは、二番目や三番目のタイプの人たちには、ものわかり
が悪いように映る。
「真実」に向かって足を踏み出す人間というのは、なんだか「後戻り」するかのように見える。世の中の人たちはこう言うだろう。
「あんたは何をやっているんですか? せっかくあんなにいろいろなことを成し遂げていたのに、今度は後戻りしているじゃありませんか。もう少しで**にも挙げられようとしていたのに、そんなことでどうしようというんです? あんたは後退しているんですよ。いま一息でゴールに着いて、大変な富や力や地位・名誉を達せられたものを、何ということをしているんです? あんたは自分の一生と仕事と苦労をぶち壊しにしているんですよ。後戻りなんかして……」
大多数の人たちにとっては、真実の人というのは、どこかがおかしくなったような人間、正常でない、異常な人間なのだ。イエスは異常だ。老子は異常だ。クリシュナは異常だ。彼らは正常の規律に合わない。
* わたしは、笑わない。だが、きりなく考えているだけだと言われれば、反対できない。どうかして、笑われようとノロイといわれようと、心得違いだと責められようと、「世にまれな花」になろうと歩を運びたい。
2005 2・16 41
* 今日もいろんな仕事をしていたが、階下の作業では二本、映画をそばで流していた。昼間のリンゼイ・クローズ主演の映画が大も忘れたけれど小味に面白く惹きつける作品だった。リンゼイが、医師で人気著作者でもある女性の内面の疲労をうまく演じていた。詐欺師集団の男達にわれから紛れ込み、巻き込まれ、被害にも遭い、しかも劇的に抜け出してゆく経緯をとても面白く見せた。
夜分のは超級バイオレンスで騒々しいものであった。ジャン・レノが実悪のマフィアを演じていた。
わたしの仕事もその間に着々捗った。坂本四方太の「夢の如し」を起稿と初校し終えた。ながいので、もう一度通読しておきたい。こういう時代にこういう生活と自然と風儀とがあったのだと、しみじみさせる。
* スキャナーは力を見せてくれている。助かる。
2005 2・17 41
* 高神覚昇「般若心経講義」の第三講までを入稿した。
我が国には久しきにわたり「説経」「唱導」という文藝の、また社会教育の伝統があった。この「高神心経」は、昭和九年夏から秋へかけ、友松圓諦の「法句経講義」とならんで洛陽の紙価を高からしめ、時代の人気を一手にさらったベストセラーでもあった。
読んでみればすぐわかるが、もともと東京放送局からの放送原稿であり、その平易にして俗耳にしたしみやすいこと、感嘆モノである。しかも最も難解といわれる経典の王「般若心経」の「空」観を説きすすめ、同時に、えもいわれぬ佛教入門とも成っている。繪こそ用いていないが、絵解き説法の魅力すら想像される按排で、もしこの語り手が、いまテレビを通じてこれを語っていれば、たぶん恰好の「絵解き説法」になっていただろう。
高神覚昇は「佛教史観」ということをとなえ、友松圓諦とともに「真理運動」を起こした実践味のある佛教哲学者で、ながく大正大学教授であった。
「般若心経」を説いた人も本も夥しいが、ま、おもしろく人を惹きつけるようなものは少なく、砂を噛むように硬い堅苦しいモノの多いなかで、高神のこの講義というより講話は、説法は、説教臭もなく講壇調の偏狭もなく、或る意味では、わたしがそうだったように、やや理窟に馴染んで哲学をかじろうかという高校生や大学生などには、実に好適の読み物であったのだと、思い当たる。どえらい感化を受けていたんだと、いま頃、何となく頭を下げているようなわけである。
2005 2・18 41
* 昨日、バグワンの「老子」で、わたしの持っている十冊近いバグワン本のなかでも最も感動的な個所を音読した。もう数度目であるが、ここを読むと胸が熱くなりいつも涙がにじむ。かなり長めの挿話であり此処に書き写すことはしにくいが、わたしは、いつも此処の挿話を自身のもっとも望ましい起点ないし原点のように感じて、ただもう受容的に「待って」いる。待つぞと待つのではない。ただ待っている。
2005 2・19 41
* わたしは、ありがたく、こういうメールにより、耳の汚れる、気色わるい世間とのバランスをとるというか、いやいや消毒され清まはっているか。はかり知れない。
マドレデウス「ムーヴメント」の歌詞を、高場将美さんの訳で、一つ、聴きたい。
* 1 あこがれ
わたしがあこがれて求めるものは
この社会の
最後の
ヴィジョン
わたしはさすらう
真実の上に
根をおろした
夢の中を
わたしが告白するのは
感受性のない印象
――そしてわたしは祈る
歌のなかに
ほんの少しの光明!
わたしがあこがれて求めるものは
たしたちの時代の
全体的な
ヴィジョン
その時代を運んでいくのは
現実とは
反対の
いろんな説
わたしは告白する
まだそれでも
すべての意志を
なくしてはいないと
人類の
すべての
写真を
今からでも撮りたい
わたしがあこがれて求めるものは
混乱の
真っ只中でも
ひとつの理由
そしてわたしは待つ
あなたが
止まって
話をしてくれることを
*「あなた」が見つからない。道に惑い、胃が痛む。もう一つ、書き写させて欲しい。
* 4 ラビリンス
わたしは孤独の迷路に迷い込んだ
感じた
動かない場所が積もった
山があるのを
そして昇った
そして目もくらむ未来の
探い谷底に
降りた
太陽を探し求めた
海を探し求めた
でもあなたはいなかった
風景の空のなかに
ここから
結局わたしは出られなかった
でもあなたはいなかった
風景の空のなかに
わたしはわからなくなった
自分が旅をしていることが
もう記憶よりも柔らかくなってしまった石に
わたしは書いた
時の文字で書いた
それを苔(こけ)が覆ってしまう
希望が
わたしたちのまなざしにくれる輝きの文字で
わたしは書いた
でもあなたはいなかった
風景の空のなかに
わたしはわからなくなった
自分が旅をしていることが
でもあなたはいなかった
風景の空のなかに
ここから 結局わたしは出られなかった
でもあなたはいなかった
風景の空のなかに
わたしはわからなくなった
自分が旅をしていることが
* わたしは、「あなた」を「=道TAO」と読む。
2005 2・20 41
* いま横浜市立大学名誉教授今井清一氏にお願いし、中公版「日本の歴史」のなかの『大正デモクラシー」の巻から「関東大震災」の一章を「主権在民史料』特別室に戴いた。この章を読んで、わたしは絶対に忘れてはならない歴史の一齣であると、呻くほど痛感し、以前からお願いしたいと思い続けていた。色川大吉氏の「自由民権 請願の波」とならべ、必読史料として電子文藝館という山原に植え込みたい。
* 文藝家協会の黒井千次氏にも二作目を依頼し、初期の代表作「時間」を出稿してもらえることになった。
* 倉田百三の畢生の戯曲「出家とその弟子」の終幕第六幕も掲載したくスキャンの用意をしている。あと二ヶ月のうちに一本でも多く優れた、大事な作品を此処に植え込んで行きたい。今年はペンの総会が五月末になったと聞いている。連休過ぎまでは仕事を続けられる。数多くより、佳い作品を。あたりまえである。
今日、坂本四方太「夢の如し」を入稿したが、えもいわれない良い文章であった。「随筆」室には長谷川時雨の「旧日本橋」の抄録があるが、それに並ぶ重みの佳篇である。自分史を書きたいほどの人には、こういうふうに具体的に率直に場面を活かして書いて欲しいと思う。すばらしい一つの手本と言える。
2005 2・20 41
* 橋爪文さんの詩集『海のシンフォニー』より十四編を「ペン電子文藝館」反核反戦特別室に掲載すべく用意した。一字一句をスキャン原稿で校正しながら、深く胸を打たれ絞られた。或る意味では、あの名高い小説「夏の花」や「廃墟」にいささかの遜色なく感銘を受けた。こういう作品をどうか「ペン電子文藝館」で掲載して欲しいとわたしに言い伝えつつ亡くなられた詩人木島始氏の霊前に捧げたい。
* 十四歳で広島原爆被爆した詩人の詩集を、心込めてスキャンし校正し、感銘を受けました。凄い体験です。
広島へ行ったとき、というのは、つまり「清経入水」を書くきっかけになった小児科学会を取材の昔ですが、わたしが辛い印象を持ったのは、原爆ドームでも記念館でもなく、ある橋の上から眺めた街の一角でした。原爆被災者のそのままに身を寄せ合って、周囲の町々から孤立している情景でした。つらい気持ちになりました。
広島という今今の街へのある厭悪感を抱きさえしました。いえ、広島へのではない、日本人の底知れない差別体質への嫌悪感でした。なんということだろうと、思ったのを昨日のことのように覚えています。
2005 2・23 41
* 今井清一さんの「関東大震災」を校正中。震災も凄いが、何と言おうと震災救護に名を借りた戒厳令、そのどさくさになされたまさにもの凄い朝鮮人への迫害と殺戮、さらに便乗して社会主義者や労働組合員への弾圧や検束と拷問。軍と警察との、いや国家体制そのもののテロリズムがこのときとばかり暴風のように、猛火のように荒れた。こういうことを隠そう、国民に忘れさせようと、政治がはたらき歴史記述が変質して行く。
2005 2・26 41
* さ、今夜はさっさと眠る。ゆうべは「二・二六事件」の顛末を読んでいて、よほど寝入るのが遅かった。
2005 2・27 41
* 新刊搬入を待っている。好天。寒冷。小沢昭一さんの『明治村から』と題した唄のディスクが、ポストに、贈られてきていた。もうかなりの回数、音信がつづいている、会ったことは一度もないが。
* いま、大内力氏の『ファシズムへの道』を読み終えようかというところ、この巻も力作・力筆で感銘を受けている。芥川龍之介の自殺が昭和二年夏のこと。「ぼんやりとした不安」と遺書に書かれていた。ぼんやりとした状態は、忽ちに苛烈な軍国主義と警察国家へ奔騰してゆく。そのなかで自然科学は世界的な仕事を続々生んでいたし、文学も或る意味では極度の逼塞から不思議な活況へ推移している。だが科学者や文士たちの根底を捉えていたのは、トータルな批評精神ではなかった。小さな自己のうちへ首をすくめて、時代の暴風をやりすごすという、または迎合するという生き方になっていた。
抵抗の精神は衰微し、多くが「転向」へ落ちこんでいった。
昭和十年暮れにわたしは生まれた。妻は十一年の春に生まれている、二・二六事件に一ヶ月余り遅れて。自分たちの生まれた時代について、あまりに無関心で無知識のまま過ごしてきた。驚愕している。
2005 2・28 41
* そうそう、夜前、『家畜人ヤプー』完結版の全三巻を読み終えた。らくらくという読書ではなかったが、或る意味では読むに値し、一度は全部通して読んでおきたい、これは、「神話」であり日本と日本人への苛烈な「批評」書でもあるとの思いを、また新たにした。柳田国男の『先祖の話』『日本の祭』とずっと併読していたのが、思いも寄らないでいた新たな批評の視座をわたしにもたらしてくれた、偶然がとても幸いした。
そして今夜には「日本の歴史」の『ファシズムへの道』最終章を読み上げることになる。いよいよ次巻は『太平洋戦争』だ。歴史と言えばわたし自身、つい近代現代はワキに置いたまま昔のことにばかりかまけてきたが、「通読」を経て、幕末から現代までも熱心に読めたのは大きな大きな嬉しい刺戟だった。
2005 3・1 42
* 歴史が『太平洋戦争』の巻に入り、読みやめられない。朝刊がポストに投げ込まれる音を聴きながら、「蘆溝橋」事件が泥沼の「支那事変」へ突き進む様々を読んでいた。軍の、ことに陸軍の大怪獣のような我が儘な暴れようで日本国は真っ逆さまに破滅へ落ちこんでゆく。内閣が次から次へ変わって行き、その一つ一つに陸軍の横暴は甚だしい。国家予算の43パーセントが軍に占められ、国民生活安定の対策にはわずか1. 数パーセントという、政治のありとあらゆる局面で軍国の国策に随順することの強要されていた時代。これでは、眠れないのである。
* このシリーズ本にも、「魯」でなく、「蘆」溝橋と表記され、さらに、この橋のまぎわに、同じ名の、小さな町村が実在したことも書かれている。この名前は、事件自体はいまなお分明でない闇をはらんで解明されていないらしいが、この蘆溝橋事件が拡大して、底なしの泥沼のような長期日中戦争になっていったことを思うと、歴史上の表記だけは、正確に定めておいたほうがいいと思う。
2005 3・3 42
* 今日は出掛けたかったのに、春眠に溺れこみ、疲れて、家の中でボーゼンと休息していた。明日も雪降りしきりそうな予報なので、もう一日だらけていようか。散髪でもするか。眠い、とても。九時。バグワンと柳田を読んで、太平洋戦争と今昔物語とを読んで、悠々逢春、今夜ははやく寝よう。
2005 3・3 42
* 黒井千次氏の「時間」を起稿し、丁寧に読み返しているところ。氏は言うまでもなく日本文藝家協会理事長であり、いわば今日日本の文藝界頭取である。黒井さんには、このまえお願いして「ネネネが来る」という小説を文藝館にもらった。
第二作をと何度かの立ち話で承諾してもらった。前の作品も佳いものだった。今度の「時間」はおそらく氏の前半期の一代表作たるを失わないのであろう、その小説の方法はかっちりと意識的で知性的で、佳い意味で観念的である。ディテールの表現は手触りもほどよくあらいめで、感性にうったえるよりも、読者からの思考参加をいざなうように、問題提起の連鎖して行く書き方である。わたしの印象をすなおにいえば、よく出来たコンクリートうちはなしの構造性のある小規模建築のようである。私小説であり、しかも構想された実験性に魅力があり、通俗なたるみは少しもない。意思と意図の目立つ純文学で、こういう作品を一字一句読んでいると、世の通俗読み物のつまらなさがハッキリ見えてくる。
こういう現代文学が一本一本堅実に植樹されることで、ペンの「電子文藝館」という山は、質実に美しく価値あるものと成ってゆく。わたしの何よりの希望は、他の理事作家達が、例えば黒井さんのようなこういう優れた作品の出稿で、此の独自のペンの文化事業を、質的に、よりみごとに盛り上げてくれること。
歴代会長はみな優れた作品を寄稿されているではないか。名前はあげないが、読んでみれば直ぐ分かる、なんだろうこれはという程度にただお茶を濁したような薄味な理事作品がけっこうある。まるで出そうともしない理事達もいる。現代文学のいわば「サンプル」サロンである意義が、理事諸公に浸透していないのはまさに責任者であるわたしの力不足だが、その挙げ句はやはり作と作者当人への読者からの失望や批評として、厳しく跳ね返ってくる。現に来ている。それがその人や作のためにも、わたしは残念でならない。
佳い作品、自愛の力作をこそ理事達は此処へ持ち出し、「存在」を示して欲しいのである、名ばかりの作ではなくて。
2005 3・5 42
* やはり和歌学の島津忠夫京都文化博物館館長からも、「特に『谷崎の歌』は私にとってありがたいものでした」と。
国文学の研究者や学会員に多数送ったので、関聨の本が読みたいなど、各地からの嬉しい反応が多い。また著書・研究などを送ってきて下さる人も次々に増えている。佐藤悦郎氏の懐かしい中河与一研究の何冊もなどことに嬉しいし、井上二葉さんの堀辰雄らを論じた視角のするどい研究書も、読ませて貰うのが楽しみだ。
「また谷崎かあと思いつつ、谷崎の味読の面白そうな小説をまた読みはじめたい」などと反響があると、ほんとうに嬉しい。わたしのワキで、谷崎先生の、河内山宗俊めく睨み顔も、少し温和に見えている。
2005 3・10 42
* 今昔物語がべらぼうに面白く、つい次々読みふけったのと、まくらもとの時計のチクタクが耳について、寝そびれたようにして早起きした。花粉かな、鼻の辺からグズついてきた。
委員会が流れたので、午後一番の聖路加診察のあとゆっくりするが、この鼻のようすでは眼へもすぐ来そう。花粉は、わたしの場合洟より眼がつらい。雨らしい、雨で緩和されて欲しいもの。
* 佐藤蘭石氏に戴いた中河与一文献は行き届いている。篤志熱心の読者がさぞ多かったろう。
生前の中河さんには、家へいらっしゃいと何度か誘っていただきながら、果たさず終えた。何といっても『天の夕顔』だった。新制中学三年か高一の頃、たしか角川文庫で買って読み、妹のように愛していた人にあげた。二人ともこの小説にイカレてしまったのが、今にしておかしいほどである。それでいて、二人はいつもケンカばかりしていた。もう五十年余も逢わない。
* 隣棟の書棚から岩波文庫の『戦争と平和』を持ち出してきた。なんだか、昔懐かしい大長編が読みたくなった。我が家にある大長編では、ドストエフスキイは読めるのに、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』がどうしても読み切れないのはどうしてだろう。訳のせいか。大きな全集本だからか。でも読んでみたい。今昔物語って、ほんと、なんて面白いんだろう。
2005 3・11 42
* 『太平洋戦争』ともなると、開戦にいたる息詰まる経緯、真珠湾攻撃からしばらくの間の息もつがせぬ日本軍の戦果また戦果の果てを知っているから、余計息苦しい。が、引きつけられ、読みやめられない。「戦争と平和」第一冊には申しわけ程度に目を向けただけで、戦争史に釘付けになったまま帰宅した。
2005 3・11 42
* 昨日猪瀬直樹氏が二冊新刊を贈ってきてくれた、一冊は『ミカドの肖像』の分厚い文庫本。彼の出世作と聞いているし、本そのものは彼の「著作集」を全巻もらっていてもう読んでいたが、その巻頭に、堤義明のコクドやプリンスホテル等のことが克明に書かれていて、初読、仰天したものだ、この勉強家の早足と周到な調査にはいつも感心する。
もう一冊はわたしもぜひ知りたかった「郵政民営化問題」を多角的に関係者達と討議し解説した一冊で、これがよく出来ている。
わたしは、はなから、小泉総理が提唱してきた二つの「改革」の成ることに期待と賛意をもちつづけてきて、いわゆる抵抗派の議論には、うさんくさい利権防衛を感じてきたが、猪瀬氏は叩かれ放題に叩かれながら渦中に流されも埋もれもしないで、よく頑張っている。スタンスは、そもそも与党的な人材ではあるのだけれど、理解できないではない。今度は郵政民営化のための視野拡張を手伝ってくれている。分かりにくかった内容が適切に分かって来るにつれて、やはりこれも本気で実現して欲しいと思う。小泉には国運を任せたくない不審は徹してわたしに根強いけれども、唱えた改革の足を引っ張るよりは後押ししてでもより良い形で実現してもらいたい、猪瀬氏のより正確な健闘を願って止まない。
2005 3・11 42
* 亡き隅谷三喜男さんの一冊から「大逆事件・明治の終焉」を頂戴した。ながく「ペン電子文藝館」に保存し展示したいと、せっせと校正している。井上ひさし会長の小説か戯曲を新たに欲しいと思っている。残り少ない任期中にいい作品を一つでも多く招待席へ送りこんでゆきたい。わたしが退いた後は、まさかにもう遠い過去の秀作を、小説だけでなく評論や随筆などまで丹念に採り上げてはもらえないだろう。ソレは仕方ないと思いつつ尽力してきた。せっかく新しいスキャナーを貰っているのだから、使える限りよく使ってご厚意にも酬いなければならぬ。
2005 3・12 42
* 食事前に「いただきます」と唱えるのは昔は普通のことで、我が家ではわたしも妻も平気でさぼっているのに、観ていると、息子はかなりきちんと「いただきます」と言うているから感心だ。
ところで、なんで、だれに「いただきます」と言うのか。わたしの子供の頃は「お百姓さんごくろうさん」という歌を幼稚園でも国民学校でも唄ったから、手もなく「お百姓さん」にいただきますと思いこんでいた。親は何も説明なしに、行儀悪く省略しそうになると「いただきますは!」と注意された。それもだんだん戦後になり、われわれが東京暮らしから京都へ帰って行くと、父も母もばらばに食べたいときに食べたいものを食べて、「いただきます」といったけじめは失せていた。子供達が外がちに成人してしまうとわたしも妻もいつか年よりに右へ倣えしてきたようだ。
それにしても「いただきます」と礼をいう相手がお百姓さんであるとは、子供心にやはり思いにくくなっていった。とくに戦後になると、「蓑着て笠着て鍬持ってお百姓さんごくろうさん 今年も豊年満作でお米がたくさん稔るよう朝から晩までお働き」などとは唄自体がそぐわないし、この最後のところの「朝から晩までお働き」という物言いがわたしはうずうずするほど不自然に偽善めいて嫌いだった。
クリスチャンなど外国映画で食前の祈りの場面をみるにつけて、「いただきます」は漠然と神様に感謝の意味であろうと思い直していった。
* だが、ただ神様に感謝ではなんだか漠然とし、形式的なご挨拶にすぎない気もしていた。そんな形式だけで、日本中ともいえるほどの「いただきます」普及は説明できないだろう。
これは柳田国男が正確に教えているように、神人共食の風から来ていたのだろう。いま各地の祭りにも残っている、たとえば芋を煮る祭りがある、大根を炊く祭りがある、餅を捧げる祭りもあり、珍しいその種の祭りは各地に数え切れないが、その際に神様にささげた同じものを人もまた同時同所で「いただいて」食べる。
お下がりという風はむしろ後世の変容かも知れず、むしろ同じ大きな竈や釜で煮炊きしたり、調理したりした食べ物を、むろん真っ先には神に祭ってから次いで人も「いただきます」風儀こそ、日本古来の地域や家庭の風儀であったから、ほぼ、例外ということが無く大人も子供も「いただきます」と手を合わせて食べてきたのだった。なるほどなあ。
わたしは、子供の頃、神様にも仏様にも生の野菜などが山と盛って祭られるのを観て、神さんかてナマのもんは食べられへんやろにと思っていたが、これは人間がだんだん手を抜いたのではないかと柳田は示唆している。生で神に差し上げることでもっとも古くからの例外は、米だけであったそうな。なるほど、洗い米 =しとぎを祭ることは今も眼にする。手抜きではなくて、米を餅にしたり飯にしたりもさることながら、米は生でも食べていた時代がたしかに有ったであろう。生で食べられる唯一の穀物だからこそ米は大切にされたのだろう。
* 柳田国男は、神を祭る作法は千変万化といえども、共通していえる一つは、木を立てて迎えること、食べ物を差し上げること、の二つだと言っている。木の方は、諏訪の御柱も門松も御幣も榊もいけ花もみなその変容を示しているが、食べ物を祭るという此の簡明至極の共通点は、そういえば全くその通りで、日本の神様に食べ物や酒を備えていない祭りようなど、見たことがない。家の中でも、わたしでも、妻でも、なにか手にはいるとなるべく先に父や母や叔母の位牌の前に持って行く。
こんなに簡明なことなのだから、もっと日頃にそういうことは自然に励行すれば好いではないかと思わせられるから、柳田はすばらしい。
わたしは神も仏も抱き柱とは数えないけれど、親しく食べ物を差し上げたりお水を上げたりは、なんでもない心嬉しいことの一つとして、自然に自分の手でもできる。行儀悪く横着せずに、「いただきます」を自然復活させて好いなと思ったりする。
2005 3・12 42
* 大逆事件の章を起稿・校正し終えた。
わたしは「ペン電子文藝館」に、この関聨の作品を幾つも既に招待している。小説の平出修「逆徒」 講演の徳富蘆花「謀叛論」 論考の石川啄木「時代閉塞の現状」 は、今や古典的価値をゆずらぬゼッタイの文献資料でもある。これら原典をもあわせ「ペン電子文藝館」で読まれながら、包括的なその同時代の優れた歴史記述である隅谷三喜男氏の今は遺文となった「大逆事件・明治の終焉」を読んで欲しいのだ。
若い健康な精神をもった人達にぜひ読んで欲しい。こういう仕事を電子文藝館に永久に保存し世界に発信できるのをわたしは心より誇りに思っている。読まれたい。読まれたい。隅谷さんの遺稿はもう旬日を経ずに本館に展示できるだろう。
2005 3・13 42
* トルストイ『戦争と平和』ゲーテ『ファウスト』と枕元に新たに並べて、二階では機械に倦むと、鏡花全集。いまはまたしても『貧民倶楽部』これが好き、お丹が好き。鏡花の心意気が凛々と出る。
この線で、やがて『風流線』上下か『芍薬と牡丹』かを読みたい。『貧民倶楽部』はもとより、鏡花はとても流し読み出来る文章ではない、逐一文字も読みももろともに味わい読んで魅惑される姿勢がいい。生意気に批評的になるくらいならいっそ出逢わぬ方がいい。
* さ、あすのために、早くやすもう。
2005 3・13 42
* 巣鴨の「蛇の目」鮓と思って歩いているうち、こぢんまりとした田舎風仏蘭西料理と看板を上げたビストロを見つけ、とびこんだ、これが、当たり。おいしくて、店の気分も良くて、サービスもよくて、大満足。こういう店を見つけてあると、三百人劇場へ通うのがいっそう楽しくなる。
太平洋戦争の終末、原爆が落ち御前会議の聖断でポツダム宣言を受諾し無条件降伏するところを、異様なほど緊迫した気持ちで、西武線で読みふけりながら、帰った。
2005 3・16 42
* 谷崎作品で最初に三作をと推奨作を聞かれたら、やはり「細雪」「蘆刈」それに「夢の浮橋」を、さらには「少将滋幹の母」「蓼喰ふ虫」や最初期の短編を薦める。「刺青」「少年」「秘密」「麒麟」「幇間」は天才の作である。異色作としては「小さな王国」を。しかし「猫と庄造と二人のをんな」は大傑作である。
2005 3・16 42
* 鏡花の「貧民倶楽部」を久しぶりに読んで、やっぱり痛快におもしろかった。二言目には「華族ぢやぞ」と高飛車で、そのくせ慈善だの慈愛だの人格だのを売り物に世を欺きながら、淫乱な風紀や苛酷なイジメを糊塗すべく殺人すら辞さないような、いわば鹿鳴館婦人達と、四谷鮫が橋の此の世の地獄のような貧民窟に不思議に君臨する颯爽とした美女お丹と配下手下たちとが、「明治」の空気をかきまぜて凄絶に対立し抗争する物語で、対立自体は図式的な構図をくずさないが、ディテールの表現や描写は徹底的に鏡花の美学でつらぬかれていて、さながら歌舞伎。あの凄艶玉三郎が演じる「土手のお六」などより遥かに美しく冴えて烈しい「闘うお丹」を、あの桜姫風に想像すれば、少なくも一方の貧民倶楽部側はあざやかに「組み立て」が出来ている。京橋の「毎晩新聞」なんぞアカ新聞という機略も片方に働かせながらの、相当緻密な陣営だ、お丹乞食はただ者でない。「天守物語」の富姫様に直結してくる。
それに対し、深川綾子だの駿河台のご後室だの、麹町のお姫様小浜照子だの、在原伯夫人貞子だのといった慈善看板の権高(けんだか)華族婦人達のほうは、ふところが甘い。見栄と体裁と底意ばかりで動いているから、サンザンお丹乞食に翻弄され、侮辱され、壊滅的にやられてゆく。勝負は、分(ぶ)も理もお丹の意気にかなりあつまる。それが鏡花であり、わたしはむろんお丹贔屓であるから、とことんすかっとくる残酷の好読み物。わたしなど、泉鏡花とはこういう作品から出発すると心得ている。「高野聖」や「歌行燈」も、ここに出発しつつ、読み込んで行くのである。
* ただし誰にもは読めない。よほどものの読み慣れた人でも鏡花ばかりはもてあます人が多い。まず啖呵が聞こえねば話にならず、戯作や歌舞伎の妙味に通じていないと、これは冗談ものの安い読み物かと誤解する。安いどころか高価にムズカシイ逸品仕立てである。だが「貧民倶楽部」は鏡花世界へのパスポート。手に入らねば、鏡花を誤解してやたら美だの情緒だの幻惑だのと言うて終わる。鏡花はそんな上澄み作家ではない、誰よりも烈しくいわゆる特権上流が嫌いな、大嫌いな、当然の姿勢を持している。それを見ないで何が鏡花か、となる。「たとえ偽善の慈善でも助かる人は有るではありませんか」という思想の人には、さぞ読みにくかろうと思われる。
この作品は明治二十八年七月に発表されていて、四月には「夜行巡査」六月には「外科室」が発表されている。深刻小説の代表作と言われる此の両作よりも、「貧民倶楽部」はズイと突き抜けて、鏡花の動機を奮発噴出させている。優れている。ぜひ気のある人は読み挑まれたい。玉三郎を髣髴としながら読むと、とてもよく見えてくるだろう。
2005 3・19 42
* 鏡花の「冠弥左衛門」は、彼の仕事として発表された、処女作。京都日の出新聞に連載された、明治二十六年。読み始めたらつい誘われてしまい、この分だと春陽堂版の美本の全集を、つぎつぎ読み進みそう。「日本の歴史」は、いよいよ最終巻『よみがえる日本』を読んでいる。「今昔物語」も、もう二ヶ月もせず本朝の全巻全篇を読み上げるだろう。「ファウスト」が面白くなり始め、「戦争と平和」も順調に惹き込んでくれる。
ああ、今日も終日眼が痒くて、さ、もう階下へ、そして寝よう。今日のバグワンと柳田国男とはもう読んだ。
2005 3・19 42
* わたしが生まれた昭和十年(1935)頃、日本は文字通り準戦時体制に置かれていて、軍部の横暴は日増しに猛烈を加え、わるい政財界人が結託して自己の勢力をのばそうと暗躍していた。学問の世界へもすさまじい干渉や弾圧の手がのび、そういう際にも軍部の走狗となり吠え廻る、ごろつき同然の「自称学者たち」もいたのである。
京都大学の瀧川事件のように、マルクシストでも何でもない、ま、こころもち自由な精神をもって学問を積んでいた法学部教授、その著書など時の大審院長 (最高裁長官なみ)が優良書として人にも推薦を惜しまなかった、そんな学者が、よしない私怨がらみにごろつき学者に噛みつかれるようにして議会の非難を受け始めると、その優良著書すらたちまち発禁にあい、文部大臣鳩山一郎は京都大学に対し、瀧川幸辰(ゆきとき)教授の罷免を強要、大学自治の原則をへし折るように反対を押し切り強行したのだった。言うまでもない鳩山一郎とは、あの民主党と自民党とに喧嘩別れしている鳩山兄弟の祖父であり、戦後には首相になった人物である。彼はそののち敵陣営から贈賄嫌疑でねらい打ちされ、弁明にこれ努めたけれど辞職に追い込まれている。
「準戦時体制」とはいかがなものか、それとも知らず、今の日本の政権与党等は、まさしく「準戦時体制」を想定した立法措置や基本的人権抑制を見込んだ体制づくりを考慮に入れて画策している。
瀧川事件では、京大法学部は全教授が辞表を出し、助教授・講師・助手に至るまでそれにならい、学生は瀧川罷免反対に立ち上がり、東大・九大・東北大なとの学生も運動を起こしていった。
だが、京大の他学部はひそとも動かなかった。他の大学も声一つたてなかった。運動を盛り上げたのは学生達だけであった。そして政府の分断・切り崩しにあうと、数人の教授達が節を曲げずに教授の椅子を蹴っただけで、他は総て政府のむろん実意なき甘言を口実に、すべて復職し、ことは絶えたのであった。大学自治の基盤は極めて軽薄であったが、問題は、今日ならどうかである、が、むろん遥かに軽薄の度は増していて、大学全体が政権の意図の前に政治的には「走狗」というに近い。学生にしても、起って烈しく抗議するほどの運動が起きも拡がりもしないであろう。
知識人はどうであったか。みな「個人の良心に従う」という美名のもとに亀の子のように首をすっこめ、何一つしなかった。
個人の良心・良識の目覚めるのを待つだけ、そのきっかけになればいい、運動の組織化は必要ないと、「九条の会」の有力メンバーである井上ひさし氏は、わたしの質問に対し明言していたが、近代史を顧みて、「個人の良心」とは、首をすっこめて身の保全をはかれるだけの亀の甲羅以上の何物でもあり得なかったのは明晰な事実であり、政権側の者はいかほど混濁・腐敗していても大慾ゆえに結局結束して常勝し、野にある者達は、ひたすら小異に拘泥対立し分散し私闘して、結局のところ「個人の良心」という墓穴に隠れ、暴風雨に曝されたのである。結束なしに勝てた政治的勝負など、只の一つとしてなかったのだから、憲法改悪に勝つためにも、力と意思とを有効に結束しなければ、ひどい結末は目に見えている。自分独りの良心にだけ恥じないのを誇って、世の中がさらにさらに悪くなるのに奴隷的に甘んじなければならなくなるのが、目に見えている。
2005 3・20 42
* ひたすら昭和十年頃の日本史に没入していて、頭の中では、そのころの絶望的な日本国転落への道筋と、近時現下の日本の危うさとが重なり重なり、堪らない気分になる。昭和十年は、一つには美濃部達吉の天皇機関説が軍と右翼と神がかり学者達との暴力で蹂躙圧殺され完全に葬り去られた年でもあった。一つの健全健康な憲法学説が、国権により削除されただけではない、それをバネにして、(以下、大内力著「ファシズムへの道」より、)陸軍は、参謀本部が中心になり、「わが国体観念と容れざる学説はその存在を許すべからず」と声明し、(川島義之)陸相は政府に強硬策を申し入れた。つづいて三月二十日と二十四日、貴衆両院は機関説排撃を決議して、ついにみずからの墓穴を掘ったのであった。
陸軍はご丁寧に八月三日、「国体明徴声明」をだしたが、それは、
「恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに我(わが)国体は天孫降臨し賜へる御神勅により昭示せられるところにして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚 (ほうそ)の隆(さかん)は天地(あめつち)とともに窮(きわまり)なし。……もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。……」
といった神がかり調だった。学問はこうして神話のまえに屈したのである。
美濃部(達吉)は著書を発禁にされ、検事局の取調べをうけた。検事はさすがに不起訴処分にしたが、貴族院議員を辞し、謹慎を余儀なくされた。そのうえ十一年(1936)二月二十一日には右翼団体の暴漢におそわれ、負傷させられた。
これよりまえ(昭和十年)八月三日と十月十五日の二回にわたって、政府は国対明徴の声明をだし、天皇機関説の「芟除(せんじょ)」を誓った。十一年一月には(天皇機関説を支持していた法制局長官)金森(徳次郎)が辞職をして、この間題はようやくけりがついた。(二・二六事件直後の)十一年三月には文部省は『国体の本義』をつくり、「我等臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異(こと)にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」ことが、以後の教育の中心思想と定められた。万邦無比の大和民族という選民は、実は、こういう無権利の民だったのである。
この機関説排撃は、日本の学問や思想のうえには重大な意味をもった。これによって国体は一種のタブーとされ、もはやまともに日本の社会について研究したり論じたりすることはできなくなったからである。天皇はこれによって神格化され、国民はそのまえにいっさいを捨てることを要求されるようになった。それは戦争に国民をひきずりこんでいくために欠くことのできない地ならしだったのである。
* こんなさなかにわたしは生まれ、二・二六事件、文部省の「国体の本義」表明の直後には妻が生まれていた。凄いときであったなあと驚愕する。
こういうことに全霊で触れていると、たいがいなことが只単になまやさしい、ふやけたことのように思われてくる、それもまた危険なことで、何としても「今・此処」のこの生きの命を十分活躍させねばならない。
2005 3・21 42
* イランと日本とがテヘランでサッカーを闘っている。一点先取されていた。それでも善戦していると心強く感じながら機械の前へ戻ってきた。
井上清氏の「明治維新 新しい権力のしくみ」を読んでいる。
2005 3・25 42
*「今昔物語」が終盤へ来て面白く盛り上がっている。この物語は、読みっぱなしにしないで、もう一度直ぐさま元へ立ち戻り、印象的な各「語」を再確認しておきたいなと思う。
そして鴎外訳の「フアウスト」に毎深夜感嘆している。訳文の新鮮に平易なこと、親しみやすく読み進みやすいこと。それだけでなく原作の面白いこと。どんどんと楽しめている。いまのところ、トルストイの「戦争と平和」岩波文庫本の第一巻より、「ファウスト」のほうがわたしを惹き寄せる。
* 近代天皇制の確立にいたる「新しい権力のしくみ」を、逐一、いま井上清氏の『明治維新』に学んでいる。漠然と明治維新とはいうが、どのような幕藩時代の制度と差が生まれたかを具体的に知らねば、維新の判断をもつことが出来ない。新しい権力のしくみを知ることで、「自由民権請願の波」の起こりも「憲法制定や国会開設」にいたる道筋も見えてくる。日本ペンクラブがことごとに一つの主張一つの姿勢を示してゆく背後の積み上げとして、そういう歴史の展開への正しい目配りが必要なはず。それが力となり支えとなり、つよい主張に繋がるようでありたい。文藝館にあえて「主権在民史料」特別室が必要と判断したのは、それ故である。
もしわたしがこの文藝館の事業を、いわば同業者組合である日本文藝家協会で担当するなら、こういう特別室はもちこまなかったろう。世界平和と人権擁護と確立をねがうペンクラブなればこそ、それが必要と考えたのである。
2005 3・27 42
* 小雨で、故幸田侑三画伯の遺作展にぜひ出掛けたかった、けれど、いっこう眼の苦痛が治まらずに肌寒さも感じたので、グズグズと出掛けずじまいに、そのかわり、「近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ」を起稿校正し終え、さらに「大平洋戦争総力戦と国民生活」をスキャナーにかけて原稿に起こした。充実した仕事であり、満足している。
画展へは、どっちみち三十一日理事会のために銀座を通って行かねばならず、途中立ち寄って行くことも出来る。もし明日も雨もよいに花粉の舞いが落ち着いていれば出掛けてもいい。
2005 3・28 42
* ダスティン・ホフマンとローレンス・オリヴィエという贅沢な顔ぶれなのに、つまらない深夜映画をひとりで観てから、例の、本を五種類読み継いで、寝た。
「ファウスト」のブロッケン山の百鬼夜行が面白かった。バグワンの知識と認識を語る例話も。そして、新安保条約で国会議事堂が揺れに揺れた昭和三十五年六月の大国民闘争を復習した。変なはなし、あの問題の六月十九日が太宰治の桜桃忌であることを、あの晩わたしは毛筋ほども覚えていなかった。太宰も桜桃忌もまったくわたしのモノではなかったのである、まだあの時は。小説も書き始めてはいなかった、ひたすら初の我が子の恙ない誕生を願いながら、毎日国会デモに動員されていた。それでも、わたしのなかで、「或る折臂翁」の思いがもう胚胎していたことは慥かであった、書き出すまでに、もう二年必要だったけれど。
「戦争と平和」では、庶子ピエールの父伯爵がものものしくも騒がしい人々の思惑のなかで亡くなるのを読んだ。幸か不幸か、余儀なく映画「戦争と平和」が思い出されて、ピエールにはヘンリー・フォンダが、ナターシャにはオードリィ・ヘップバーンの面影が、声音や身ごなしが髣髴とする。二人ともわたしは大好きなので構わないけれど。
そして最後には「今昔物語」を読む。とうどう最後の「巻三十一」に入った。宝の山を踏み越えてきた実感がある。
2005 3・29 42
* 大戦末期の、極度をなお超えた国民の困窮。学徒動員。米機による無差別絨緞爆撃などを克明に歴史記述を介して辿っていると、それ自体他人事(ひとごと) でなく、国民学校の生徒で田舎に疎開していたとはいえ、小なりとも渦中にわたしも生きていただけに、身を刻むように、読書が痛い。キツい。もう少し、もう少しと息を喘ぐようにして一字一句校正している。凄い! とはこういう体験にのみ謂いたいと思う。
だが、日本の銃後にいた子供もたいへんであった、その何層倍も苛酷に、命を刻々ナチの人種迫害に脅され曝されて生き抜いてきたユダヤ人児童達の映像はもの凄いというしかない。つらいと分かっていてわたしは機会が有ればそんな映像にも眼を曝すのを半ば義務のように観じている。
* どこへも出ない。今日イッパイは、この線上の仕事を二つ三つ廻しながら各個に進めて行く。
* 「大平洋戦争総力戦と国民生活」の無惨なかぎりを読み終えた。ああ親たちは、大人達は、たいへんだった、よく育ててくれたと頭がさがる。それにしても、苛酷な軍国ファシズムの準戦時体制から無策極まる総力戦へ、そして原爆投下二発、とは、ひどかった。だが過去完了のこととは思われない。「有事」を予期した準戦時体制の準備を政府与党は明らかに考えているし、そのためにこそ支障のない、都合の良い「憲法改正と新国体」を、既に中曽根もと首相等をはじめ、具体的に模索している。
憲法を適切に、箇条によっては改めねばならないことは、制定後の時久しきを経て当然だろうが、そのどさくさに、改めてはならない憲法の生命線はぜひ守らねばならないのだが、だれが守ろうとしているのか。
学生はいないも同然、労組は無いも同然、野党は消えたも同然、知識人はただ個人の良心にだけ頼んで、つまりは亀の子のように首をすくめて安全で事足れりとしている。ああ若い人達よ、君達の子や孫達を悲惨な地獄へ向かわせるな。
* 孫のやす香は、指折り数えて今年は、この春は、大学へ入学する。どんな学生になりどんな学問に向かって行くのだろう。よき船出せよ。
2005 3・30 42
* 今年は会場関係らしいが、ペンの総会が例年より一月も遅い五月二十三日とか聞いている。それまで理事会も新体制も定まらないし、新委員会への引き継ぎもできない。四月はけっこう今年はユックリできる一と月になりそう。そう言うときに、新しい仕事も始めたいし進めたい。ものごとが流れを早め、逝くは逝き、来るは来て、新緑の季になって行く。わたしは時代を忘れて行くだろう、時代もわたしを忘れて行く。戸も窓も閉じ、どうかして静かに自身の内なる深い闇へ歩み入り、明るい道に至りたいものだ。さ、どうか。思うようには行かぬだろう。それも、それだ。
「戦争と平和」は第二巻に、「ファウスト」も第二部に。「日本史」も「今昔物語」ももうすぐ全巻読み終わる。柳田国男の「日本の祭」も読み終えた。次にはぜひ「古事記」と「世界の歴史」シリーズを読み始めたい。
2005 4・1 43
* 少しずつだが、仕事が片づいてゆく。今は蝋山政道氏による「よみがえる日本占領下の民主化過程」を読み上げてしまいたい。これで明治維新いらい敗戦後の新憲法にいたる近代の歩みの主要な部分、印象的な部分に、都合七つの論考を通して「大筋」が貫通する。「主権在民」を願ってきた近代日本の「苦闘」があとづけられる。繰り返し繰り返し読まれてもいい優れて啓蒙的な歴史記述であり、記述の姿勢は真摯でかつ国民の必要な足場と同じ足場で書かれている。
むろん中央公論社版『日本の歴史』そのものが繰り返し読まれて欲しいと声援をおしまないが、総てを拝借するのは無理な相談。そしてわたしは、この七個所の抄出に自信をもっている。だまされたと思ってでもいい「日本の近代」を知りたい人は、とくに中学高校の先生や高校大学生はこれを読んで欲しいと切望する。もうやがて、「ペン電子文藝館」の「主権在民史料」室に出揃う。わたしの任期内のいちばん今力こぶの入った仕事である。七人の先生方へ深い尊敬と感謝も、此処に。心より書き添えておく。
2005 4・6 43
* そんな中で、とうとうコケの一念のように『日本の近代 主権在民への荊の道』をまとめ上げた。
井上 清「明治維新 新しい権力のしくみ」
色川 大吉「自由民権 請願の波」
隅谷三喜男「大逆事件明治の終焉」
今井 清一「関東大震災」
大内 力「ファシズムへの道 準戦時体制へ」
林 茂「大平洋戦争総力戦と国民生活」
蝋山 政道「よみがえる日本占領下の民主化過程」
の七編。執筆諸氏に深い敬意と共感・感謝を捧げる。それぞれにわずか一章の抄出ながら、太い筋は通せたと思う。だが願わくは、原本の中央公論社版シリーズ『日本の歴史』第二十巻から第二十六巻までが、いままた広く読まれたいもの。それを心より思う。
2005 4・9 43
* 春雨を期待し、傘さして花を探ね歩こうかと言ってたのに、いま、ピカピカの快晴。あまり見ないテレビ番組に佐高信氏が顔を見せていたので、しばらく何人かのキャスターのいろんな意見も聴いていた。
佐高氏が、韓国・中国での反日デモ等に関連して、お互いに今少し歴史に学ぶ気持ち、実践が大事なのではないかと話していたのが、同感だ。
いまわたしは蝋山政道に導かれて戦後四半世紀日本の「民主化」の試煉や苦闘をひもといているが、いましも、そういう苦闘の成果を、もっと以前の息苦しかった日本へ逆歩きさせようさせようとしている施政のこわさに、具体的な相似例を幾つも通して実感する。ここをこう通ってせっかくこう成ってこれたのを、また一気に元へ戻らされようとしている、と、気が付く。歴史に学んでいるとその壮大なムダと無惨とを懼れる気持ちももてる。それが悪政に対する抵抗の力にもなる。「ペン電子文藝館」にがんばって『主権在民への荊の道』七編の歴史検討をかかげてみたわたしの気持ちが、どうか広く伝わってくれるといいが。
2005 4・10 43
* この尾崎紅葉が弟子泉鏡花に与えた叱咤激励の書簡は、胸に響くものがある。小説を書き続けようと覚悟の人に、(むろん、わたし自身にも)この上ないものと、あえて書き写しておく。改行もモトのままに、漢字も正字にしてみたが、もし化けるようなら、また読み下しによみがなが欲しいようなら、アトで加えよう。一字だけ「門ガマエ」に「韋」の入る字が機械で出せないので、便宜に「閨」の字を宛てておいた。圏点傍点などは太字にし、一字だけ二重○のついていた「脳」にだけカッコを伏して太字にしておく。
*「夜明まで」は「鐘聲夜半録」と題し例の春松堂より借金
の責塞に明日可差遣心得にて此二三日に通編
刪潤いたし申侯巻中「豊嶋」の感情を看るに常
人の心にあらず一種死を喜ぶ精神病者の如し
かゝる人物を點出するは畢竟作者の
感情の然らしむる所ならむと私に考へ居候ひしに果然今日
の書状を見れば作者の不勇気なる貧窶の爲に
攪亂されたる心麻の如く生の困難にして死の愉快
なるを知りなどゝ浪(ミダ)りに百間堀裏の鬼たらむを冀ふ
其の膽の小なる芥子の如く其心の弱きこと
苧殻の如し。さほどに賓窶が苦くは安ぞ其始
彫閨錦帳の中に生れ来らざりし。破壁斷軒
の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も
天ならずや。其天を樂め!苟も大詩人たるものは
その「脳」金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず
刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ
況や一飯の飢をや。汝が金剛石の脳未だ
光を放つの時到らざるが故に天汝に苦楚の沙
と艱難の砥とを與へて汝を磨き汝を琢
くこと數年にして光明千萬丈赫々として
不滅を照らさしめむが爲也汝の愚癡なる箇寶を
抱くことを曉らず自悲み自棄てゝ
隣人の瓦を擎ぐる見て羨む志、卞和に
して楚王を兼ぬるものといふべし。
汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至寶なり。
汝は天下の至寶を藏むるものなり。天下の至寶
を藏むるもの是豈天下の大富人ならずや。
於戲(あゝ)天下の大富人汝何ぞ不老不死の藥を
求めて其壽を延べ其樂を窮めざる?!
貧民倶樂部はまだ手を着けず。少年ものは
賣口あり。十分推敲しておくるべし。
近來は費用つゝきて小生も困難なれど
別紙爲替の通り金三圓だけ貸すべし
倦ず撓まず勉強して早く一人前になる
やう心懸くべし
明治二十七年
五月九日 紅 葉
鏡花 君
2005 4・10 43
* 今日は大きな日付になる。
今ではいつからと簡単に調べようもないほど昔に、中央公論社文庫版『日本の歴史』第一巻「神話から歴史へ」(井上光貞著)を読み始めた、朱のボールペンを片手に。そして夜前その最終第二十六巻「よみがえる日本」(蝋山政道著)をすべて読み尽くした。一巻はほぼ五百頁の細字である、すごいほどの読みでであった。
啓蒙的な教科書または準研究書風の歴史記述というべく、各巻錚々たる筆者が責任担当していたので、安心感大きかったし、読み終えて、もうこれだけの日本通史は当分あらわれっこないなと思うほど、専門的にも記述態度としても充実していて、感銘を受け続けた。
知識が得たいのではなかった。もう一度「日本」と付き合ってみたかった。特に馴染みの薄かった、それではいけないはずの「近代日本の歩み」を、ともに歩み直してみたかったが、それには「神話」の昔からなおざりにせずに「通読」の結果辿り着きたかった。計り知れない無欲の体験。そして予期したとおり日本の近代は「主権在民への荊の道」であった。そのことに気付いたときに、わたしは退任するであろう「ペン電子文藝館」への置き土産として、「主権在民史料」特別室を新たに設け、この「日本の歴史」がのこしてくれた「理解や判断」を、新しい読者たちと幾分でもわかち持ちたいと強く願うようになった。その用意も仕上げたのである。もうやがて七人七編の近代日本理解の芯のところを「ペン電子文藝館」は抱き取れるであろう。一万二三千頁の読書は、あるいは生涯最大の規模で有ったかも知れないが、いい思いをさせてもらいました。感謝。
* そしてもう一つ。はからずも同じく夜前に『今昔物語』本朝編を悉く読み終えた。この読書体験からも、堪らない、とろりとした味わいがいま胸に在る。ファシネーションの或る意味の極致を得つづけたという嬉しさ。すばらしかった。
2005 4・11 43
* 六時半過ぎて散会、さっさと出て、クラブに直行し、まるでトロのようなサーモンを切らせ、「響」をゆっくりダブルで五、六杯堪能し、空腹だったのでチャーハンを頼んだ。名大におられた山下宏明先生の「平家物語と祇王などのこと」(抜き刷り)を面白く読んだ。わざわざわたしへの「学恩」を謝する献辞が付いていて、恐縮した。また同僚委員城塚朋和氏の中国煎茶器をめぐる細かに興味深い考察論文にも、思わず時と場所とを忘れた。
帰途は、貝塚茂樹の「世界の先史時代」を楽しみ読みながら、混んだ電車に揺られていた。
2005 4・15 43
* 小山内さんの「3年B組金八先生」の台本は、決定稿の台本で122頁ある。スキャナーしているより書き込んで行く方が早いかなと、やっと20頁分手打ちで書き写したが、前途遠い。普通の散文ともまた戯曲ともちがう形式がシナリオ台本にはある。それをスキャナーは受け入れてくれず、みなフラットに文字だけがベタに出て来るので、体裁を直し直ししているより、体裁を先ず決めておき、手書きしていく方がまだしも能率的。ようやく、ドラマは本題展開の場面に入ってきた。ながの歳月にテレビで数度は見たかという程度なので、登場する「役」の顔がよくは見えない。このさき、面白く展開しますように。.
* 面白い、興趣満々なのは、貝塚茂樹の『先史文化の発見』で、いまは中国周王朝が殷にかわって天子の政をとりだすところ。殷の発見、彩陶や黒陶の文明が見つかって行き、歴史的に確認できる最初の王朝としての殷が、起ち、また滅して行く。わたしは、殷の青銅器・祭器が好きで、出光美術館へ行って一点も出ていないときは落胆するぐらい、あの圧力の強い存在感に惹かれる。
2005 4・17 43
* 春眠暁を覚えないのでなく、覚えて起きて手水をつかい、しかし着替えるのを億劫にまた床にもどるから寝てしまう。寝てしまっても差し支えない境涯、そのラクなこと。当面の難儀仕事は片づけたし、と、夜中の読書を堪能していた。
「ファウスト」は、いよいよパリスとヘレナが幻惑のうちに登場し、なみいる男達女達の評判のかまびすしいこと。ファウスト博士は絶世の美女にこころうばわれて幻惑の場面をむちゃくちやにしてしまう。厚さ三センチ半もある文庫本のちょうど真半分まで、面白く、毎晩読んできた。鴎外訳を珍重している。
「古事記」はいま、大国主命の艶にはなやかな愛と相聞の歌声が、美しく響いているところ。これは床の中で、小声ながら音読している。註にしばしば解説されているが、大国主命の豊かに豊かな好色と、それを破綻させずに満々と保っている、それこそが「大国主」たる根源の能力・資格である、と。好色に堪えて毀れない・壊さない毅さ、内的な豊かさ、を尊しとする東洋の、日本の思想。スサノオやオオクニヌシから、伊勢物語の昔男を経て光源氏へ伝えられるまで、そこまでが好色な英雄の大雄連峰だった。それからは衰微し放埒になる。西鶴の世之介にかすかに太古・古代の脈拍は伝わっていたが、軽い。昭和の谷崎は、おそらく「台所太平記」といういわば六条院物語の戯画化におのが好色の行方を見て死んでいったのだとわたしは考えている。
「戦争と平和」では、ボルコンスキー(アンドレイ)公爵がフランス軍との悪戦苦闘の最前線に出ている。
そして「世界の歴史」はいましも周王朝が、文化と、人間の理想を、歴史に生み付けて行く。バグワンが毎夜話してくれる「老子」はまだ姿をみせない。
バグワンは、平易な物言いで、マインド(=知識・思考・分別・タダの言葉)の虚しさを適切に語っている。それに気付くこと。むろん、わたしは自分が文学・文藝・創作と称し、闇に言い置く私語と称して書きつづりまた口にしている行為の一切に、今はとらわれていない。だからそれを別に手放す必要もなく空気を呼吸するように続けているが、続けるのもやめるのも、つまり同じなのである。何も無いし何もしていないのである。それがいいのである。
2005 4・18 43
* あちこちで作事の物音が。それも春たけなわを想わせる。
* 怪異ということが少なくなったか、ひとがあまり関心を持たないか、そうではあるまいその手のテレビ番組はあるし、ホラー小説だのホラー映画だので世渡りしている人達も多いのだから怪異への興味は、相変わらず、あるのだろう。
左大臣高明の住んだ寝殿の柱に節穴があいて、夜な夜なそこから小さな子供の手が出て招くということが続いた。怖じ懼れた人達は穴の上に経を結い付けたり仏像を懸けたりするが、相変わらず。
或る者が思いついて、征矢(そや)つまり鏃の鋭い戦にもちいる矢をズブと刺し込んだら、ちいさい手の招くことは無くなった。鏃だけを節穴の奧に残しておいた。絶えて怪異はなくなった。
だが時の人達にはべつの怪訝も生まれたというのが、おもしろい。
「心得ヌ事也。定メテ者ノ霊ナドノスル事ニコソハ有ケメ。ソレニ、征箭ノ験マサニ佛経ニ増リ奉リテ、怖ヂムヤハ。」
経や佛で効験無く、武張った征矢を突っ込むと怪異が失せた。こりゃサカサマではないのかと。ドライに観ていて、相当深読みの利く説話に思われる。今昔物語には、こういう、型にはまった・はまりこんだ常識や価値観を平然と覆しているお話が満載されている。芥川のような批評の利く小説家が此処に題材を生かし得たのは、当然だった。
2005 4・19 43
* お元気でお過ごしでございますか。困難で不安の深い日々となりました。いっきに戦後に返ってきた感じがしますが、考えてみますと、戦後に見極めておかなければならなかったものが、いま改めて地下から甦っているのかも知れません。「野間宏の会」で昨年ご縁を頂いたときのものです。最近いろいろと思うことが多くなりました。お元気でお過ごしになられますよう。 合掌 高 史明
* 『野間宏の文学、そして親鸞』という講演録を頂いたので、「e-文庫・湖(umi)」の人と文学欄に掲載させて頂こうと思う。「闇に言い置く」のなかには長い時間の講演であり、一過性に埋もれてもいけない。高さんのいわれる「戦後に見極めておかなければならなかったものが、いま改めて地下から甦っているのかも知れません」という言葉には深く悲しく頷かされる。掲載に、いましばしお待ちを。よく読んできちんと掲載したい。
2005 4・20 43
* 高史明さんの「野間宏と親鸞」のお話しは、深刻な現代の問題にまでかっちり触れられて進む。かなり長いお話しなので、読み終えたら矢張り「e-文庫・湖(umi)」に入れさせてもらう。野間宏の『暗い繪』が語られている。
2005 4・20 43
* 雑誌「ひとりから」に附録で付いてきた、、生き残った特攻隊員、八十一歳松浦喜一さんの「遺書=日本国憲法を護る」を、「ペン電子文藝館」の招待席にいただけないかと、編集者である原田奈翁雄氏・金住典子さんを通じてお願いしている。
* 春陽堂版の天金豪華な鏡花全集の第一巻巻頭は言うまでもない鏡花が新聞連載にデビュー作品の『冠弥左衛門』で、弱冠二十代のたしか前半、いまの大学生ならまだ卒業していない年頃、尾崎紅葉の書生玄関番での、骨太な処女作である。新聞には尾崎紅葉の名が出ていたかもしれない。
これを読むと、紅葉がまだひわひわとしていた弟子鏡花を目して、「汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至寶なり。汝は天下の至寶を藏むるものなり。天下の至寶を藏むるもの是豈天下の大富人ならずや」と激励していたのが、いくらか、分かる。その語彙と語法との豊富にして自在転変、おどろくべく分厚い。物語自体は通俗な読み物世界の如くありながら、すでに鏡花ならではの行文であり、表現であり、構想である。それはこの作品の初読の時から変わりない感銘である。
2005 4・21 43
* 夜前は、床に就いてから二時間半も五種類の本を読んでいた。歯医者を忘れていたわけではないが、八時に起きたときはかなりつらかった。それかあらぬか、歯医者の帰り道、ひどくからだが重くだるく感じられた。「リヨン」で空き腹に生ビールをああ美味いと思って飲んだのが、小瓶一本の少量なのに、よくまわった。保谷の「ぺると」でコーヒーを飲んでマスターと妻と三人でお喋りしている間も、すこしだるかった。
だが、仕事は仕事で、はかどらせている。まだ九時半をまわったばかりだが、今夜ははやくやすもうと思う。
にわかに、明日の午後、都内へ出かける用が出来た。さほどではないが、今日は風もよく吹き、眼のふちがヘンに熱ぼったい。
2005 4・22 43
* 高史明さんの「野間宏と文学、そして親鸞」を、「e-文庫・湖(umi)」の「講演録」に頂戴した。大勢に読まれたい。やはり読んで行くと、僅かながらも誤記・脱字などがあり、それを正してそして体裁も整えるために、少し時間がかかった。
また原田奈翁雄さんの電話連絡で、希望していた松浦喜一さんの「生き残った特攻隊員、八十一歳の遺書=日本国憲法を護る」を電子文藝館に招待できることになった。感謝。スキャンにかかる。日々、なぜかとても忙しい。
2005 4・25 43
* 夜前来、鏡花は『義血侠血』を読んでいる。舞台ではいわゆる「瀧の白糸」だ。もう鏡花も『冠弥左衛門』の肩に力の入ったガンバリからズンと抜け出て、おもしろい話を作り上げて行く。グウンと読みやすく、余裕も出来ている。二度三度と読んできた作だが、それが何の障りにもならず、新鮮におもしろい。
ファウストは、いま、ピロンに導かれ、ヘレナの美へと憧れて行く。
『戦争と平和』ではアンドレイ公爵の妹マリアへの求婚に訪れた心よからぬワ゛シーリィ公爵と美貌で無頼な息子のアナトーリが、きっぱりと拒絶されたところ。
『世界の歴史』は、中国の宗族の祭祀を基本にした都市国家が維持されていた春秋時代が、君臣と法と官僚とで広域制覇が成されて行く戦国時代へと、確実に推移している。孔子から墨子へ、荘子や孟子へ。筆者の貝塚博士は、「老子」を想像された存在と書いている。しかし『老子=道徳経』の紹介はかなり薄く、バグワンを読んでいる目にはやや見当が逸れている気がした。
そして『古事記』音読はもう中巻に入って、男叫びしていま五瀬命がナガスネヒコとの闘いに戦死した。カムヤマトイワレヒコ、後の神武天皇は太陽を負うて戦うべく浪速から南の熊野へ転進して行く。
2005 4・25 43
* 「生き残った特攻隊員、八十一歳」の松浦喜一さんの『日本国憲法を護る』と題した時代・次世代への「遺書」をスキャンし、半ば以上を校正しながら読み重ねていったが、みごとな論議に、真っ向の正論に、感服。この議論に、この提唱に、フェアに挑みうる政治家や論客がいたらお目に掛かってみたい。小泉や石原の顔を思い浮かべ、彼らは松浦さんの此の言説にとうてい駄弁と虚勢の韜晦以外、何も言い得まいと思った、いや彼等の詭弁は念が入っているからなあ。
このご老人の筋金の入った端正達意の名文は、やがて「ペン電子文藝館」に、できれば私の「e-文庫・湖(umi)」にも、頂戴することになるが、独りでも多くに読まれたい。これは、苦辛して揃えた七編の歴史記述とも、戦後に直ぐ文部省が正式に広く配布した『新しい憲法のはなし』ともかっちり符節を合して、末永い基本の文献となるであろう。
松浦さんは慶應義塾大学に学ばれ、学徒動員されて航空隊に配属され、特攻機に搭乗、同じ他の二機とともに姿なき索敵の飛行をつづけ、一機を海中にむなしく喪い、辛うじて重い爆弾等を手放すことで転回し帰還せざるをえなかった。まともな飛行機とは言えない、操舵すら不可能なようなシロモノであった、それは今では確実に広く知られている真実である。敵艦に遭遇することなく一機が海歿したのも、操舵不能であったからだ。
そういう体験を乗り越えてきた松浦さんには、わたしの手に入れた小冊子に数倍する立派な単行本の検証本・証言本もある。きのうわたしはお手紙とともにその一冊を戴き、夜の更けるのも忘れて読んだ。文章も検討も冷静で、荒らかな物言いはなく、平静に鋭い筆致で引き込まれる。プロの書き手がノンフィクションとして書くときに、どうしても売り物の文章、売り物の構成になって、結局味うすにも流れかねないところを、松浦さんはいささかの功名心もなく真摯に書かれる。それがホンモノの魅力と説得力になっている。
2005 4・27 43
* なんだかわたしの『閑吟集』が、はやっているみたい、で。
* 今日、わりと真剣に「文学」を考えているのかなあと想われる表題のホームページをちょっと覗いてみた。かなり大量に書かれ窓口もひろげてあるが、たとえば漱石の心論など読んでみると、要するに言い古されたことがごく狭い範囲から纏められたようなもので、何の裨益も受け得ない。
なによりいけないのは「掲示板」で、その書き込みの汚いこと、程度の低いことは目を覆わせる。これでは、たとえ形だけでも高邁にホームページをつくっていても、実質は遠く伴わない。若い人らしいが、もう少し謙遜に深く考えて、静かに書いた方がイイと思った。
* 若い会員歌人の自選の短歌もまとめて読んだが、はっきり言って、何と低調に奇天烈なんだろう、と。本など何冊も出している人だが、もっと静かに無名の歌人にも、はるかにすばらしい佳境・歌境を得ている人はいくらもいる。もし選考せよといわれれば、採らない。黙っていない。
2005 4・27 43
* やっと、小山内美江子会員の「3年B組 金八先生」シナリオの一作を入稿。さ、次は英訳された原爆詩の校正調整。難儀な仕事になるけれども。
2005 4・30 43
* 鏡花の「義血侠血」はおもいきって自然さを踏み越した人事のツクリ物語であるが、水藝人「瀧の白糸」の造形は、鏡花真骨頂に繋がって行く、大胆で、思い入れの深い佳作。これが、しばらく後の「貧民倶楽部」の「お丹」登場を促しているのは明らか。
次いで「乱菊」を読み始めた。谷崎の「乱菊物語」とは時代も舞台もお話も異なる。のっけに「おろろ」という毒虫大集団が絶世の美女を包み込んで襲うのを、どうのがれたか。こういう物語の妙は、いずれ「風流線」などへ大きく受け継がれる。
* 貝塚茂樹担当記述の世界史第一巻を、妻が横でひろげ読んで、俄然面白い面白いと乗っているのがおもしろい。
2005 5・1 44
* 昨深夜、二三年前にある女性詩人に貰った二冊の詩集を懐かしく読み返していた。
* 鋏
いままで見えていたものが
どこへ行ってしまうのか
忽然と姿を消してしまうことがある
それはたった一つの装身具であったり
生活の調度品であったり
あたたかな思いであったりする
在ることが当然であったときから
もはやないことが当然であるように
日常の心を変えていかなければならない
それはやわらかな春の日から
突然の汗ばむ日のために
衣服を脱ぎ捨てる程度のものではない
庭のバラの花を切り落とすように
何もかも断ち切る鋏があったとしても
私はそれを使いこなせない
夏がそこまで来ているというのに
色あせたままの洋服一枚さえ
まだ脱げないでいる
* 詩はむずかしいが、ときどき、詩人とのいい出逢いがある。
2005 5・1 44
* 布川鴇会員の詩稿十数編を入稿した。しっとりとした佳い詩に思われた。
* 今日ものんびり過ごした。
2005 5・1 44
* 猪瀬直樹著『ゼロ成長の富国論』が贈られてきた。忙しい中でも彼は毛筆で大きく献辞を書いてくれる。財政赤字、人口減少、労働意欲減退。この三つがいま日本をじわじわと苦しめている、これは江戸の昔に、かの二宮金次郎(尊徳)が対策した三つだ、と著者は議論を展開している。
さて、わたしに一つ「感想」のあるのは、人口減少のこと。
猪瀬氏の本文早々に、こうある。一九七四年(昭和四十九年)の人口白書に、「出生抑制にいっそうの努力を注ぐべきである」と、「世界第六位の巨大人口」をこれ以上増やさぬよう警告していた、と。
わたしは同じこの年八月末で、十五年余勤めた医学書院を退社し、そして九月早々新潮社から書き下ろしシリーズに『みごもりの湖』をだし、雑誌「すばる」巻頭に長編「墨牡丹」を発表した。つまり、もう会社にわたしはいなかった。だが、まだ会社にいた時代、昭和四十三年一月生まれの秦建日子がまだ生まれていなかった、少なくもなお二三年以前に、「人口問題」で、じつに印象深いハッキリした一つの「記憶」を持っている。
その頃わたしは雑誌「公衆衛生」編集にあたっており、編集委員の橋本正己先生がおられる芝白金台の国立公衆衛生院に、頻繁に通っていた。目黒の自然植物園の少し先にある、ちと壮麗に威圧的な大建築と振り仰いでいたが、あれが我が国「公衆衛生学」のいわば本丸であった。
其処で、あの荻野式で産まれたという荻野博士ご子息先生とも初めててお目に掛かったし、曽田長宗院長をわずらわせた『農村保健』の大きな分担執筆企画でも苦労した。
いろんな先生のお世話になった中で、とくべつ優しい方であった、小児保健室長林路彰先生のお顔を見て帰るのを、いつも楽しみの一つにしていた。
ところが、その優しい先生に、珍しくわたしは言葉強く叱られてしまった事がある。「お子さんは」「一人、娘がおります」「そのあとは」「………」で、先生は顔を曇らされ、「秦さんのような家庭が、子供を一人しか持たないとはいけません」と、それから暫くの間、日本の人口の確実に減少して行く大きな不安について話されたのである。
正直なところ、わたしはビックリしながら、むろん林先生が本気で言われているのを疑いはしない、が、確かに「実感」はもてなかった。なにしろ当時の日本は、どうなるかと思うぐらい人口膨張の一途だったから。
しかし、わたしたちは、やがて、建日子の誕生を期待した。人口問題からではなく、姉の朝日子が一人子のままでは寂しかろうと考えたのである。
上の「人口白書」が厚生省の公式見解を示していたのは間違いないが、公衆衛生院の権威ある専門家は、その少なくも数年前に既にわたしのような者にも、将来の人口減少と危機性について、ハッキリした見通しを持っていた。その是非や批評はべつにして、わたしのこれは「一証言」として書いておこう。
たぶん、このまま推移すれば、数十年先には日本の人口は五千万人ぐらいにまで半減か、それ以上に減少して行くのではないかとすら推定され、危ぶまれている。林先生はすでにあの頃危ぶまれていた。そうなっては、日本の繁栄などはるか過去の話になってしまい、それどころか極東孤立の地で、日本国の「健康な独立」が保たれているかどうかも、まことに危いのである。
* 人口減少は江戸時代農村では屡々起きた大問題で、深刻な飢饉との悪循環を引き起こし、凄惨な地獄図を諸国に展開した。またそれに対応対策した能吏も、二宮尊徳より大分以前から、実は何人も史上に現れている。
美作久世の早河八郎左衛門正紀(まさとし)、磐城白川の寺西重次郎封元(たかもと)、関東代官竹垣三右衛門直温(なおはる)、同じく岸本武太夫就美(なりみ)、常陸の岡田寒泉らで、ことに岡田、寺西は異色生彩ある「名代官」だった。寺西はことに人口確保に奇策をもって奔走し、「生めよ増やせよ」に一定の効果を挙げた。その著『子孫繁昌手引草』は、近代戦時日本にも活用された形跡がある。他国への人買い、つまり流行らぬ遊郭の遊女達を買い集めて自領の農村に縁づけて子を産ませ、それを保護支援するようなことまで熱心にはかった。
人口減少は一気に進むと、もう取り戻せない重症に陥る。危険で怖い「難病」であるから、よほど本気で食い止めないと、まんまと亡国に繋がること、必至。
* 猪瀬氏の著に関連して、もう一つ触れておきたいのは、いわゆる預金利息が、非常識なほど久しく久しく無利子状態に、都合よく放置されていて、銀行等金融機関の厚顔と傲慢と強欲にのみ利している現状。これが、ひいては財政赤字にも人口減少にも労働意欲減退にも固く結びついている機微と要所にまで、適切に此の著者の視線が差し込まれていないのは遺憾千万。
この状態はまさに政権与党と銀行等金融との合作共謀馴れ合いの、国民に対する強悪そのものなのである。旺盛な猪瀬直樹の「批判と洞察」とが国民寄りに此処へも早く及んで、輿論を正しく喚起してもらいたい。
2005 5・2 44
* 松浦喜一さんの「生き残った特攻隊員、八十一歳の遺書」と副題のある『日本国憲法を護る』を委員会校正していて、一女性委員から、「女性天皇を認めようという末恐ろしい作業」という箇所が引っ掛かりました。女性としては、削除を求めたい心境です。/そのほかの趣旨には、概ね賛同するものですが、「反戦・反核」あるいは「広場」に入れるのはよしとしても、これが「主権在民史料」になるのかという点は、疑問に思います」と。
一応もっともにも思われるが、私の見解は、やや異なっている。
* 委員の主観と短絡はともあれ、「削除」を求めるべき発言ではないと思います。これは、女性差別の問題でも発言でもなく、天皇制存続に疑念と忌避感をもつ筆者の、歴史的未来を見込んだ主張なのでしょうから。
「女帝」問題そのものにも、かなり深刻な歴史の教訓や将来への危惧混乱の懸念は在るわけですが、筆者はそういう意味からよりも、安易に天皇制の延命を手続き的に希釈拡散して行くことへの不安を抱かれていると思われます。「女性としては」はという短絡から、言説の「削除」まで求めたいというのは、性急な一種の言論の抑圧や逆差別にならないでしょうか。
また、文部省がかつて出した「新しい憲法の話」の史料性を疑う人は、現在、無いでしょうが、刊行された昭和二十二年当時すでに「史料」という感覚の持てた人は少なかったでしょう。しかしそれは「史料」でした。歴史の経過の中で確実にそう「成った」のです。
この松浦さんの「遺書」も、おそらく数年内に「史料」的意義を持ちうることでしょう。
「ペン電子文藝館」の作品は、「今・現在」の視点だけでなく、それが半永久存続なかで、どう成り行くかを予測する「先見や洞察」を持たねばなりません。それが吾々担当に期待された見識でもあるでしょう。
八十過ぎた一私民による「学徒出陣・特攻・生き残り」等の歴史的な「足場」に立った、時代と未来への「遺書」が、「主権在民への悲願」を湛えているのですから、まちがいない「史料」性の「証言」を成しています。
しかしまた「史料」という二字に拘泥するよりも、弘通性をもって、むしろ「主権在民」の「願いを結集」して行くところと「主権在民史料室」を考えて下さい。この特別室設置の趣意は、其処に重く在るのですから。 秦
2005 5・4 44
* 静岡からお茶が贈られてきて、床を出た。
昨夜も、校正もふくめ、読書で深夜、というより気象庁用語では「明け方」(午前三時から日の出まで)まで起きていた。米川正夫訳の『戦争と平和』が、今回はハカが行かず、ようやく二冊めを、今日にも終えるだろう。
従来も気付いていたが、トルストイには独特のといえるのか、ロシア作家の通弊かもしれないが、人物の行為や表情に対する「作家内心の声」による心理解剖というか解釈というか批評…そう批評、が頻出する。それが面白かったときもあった。またロシアの当時の貴族社会では、あれほどナポレオン仏蘭西との争闘に痛められながら、フランス語の使用無しには貴族らしさが表現できなかったから、会話の中に、頻繁すぎるほどフランス語が「表現効果」としても、入り混じる。それの面白かったときも、あった。
だが、今回は、その両方がややうるさい。
それと、岩波文庫の活字が小さく感じられ、しかも劣化して薄れてきている。戦後の活字本にはこの「劣化」というアキレス腱があり、一斉に本が読みづらくなりつつある。わたしを文学的に育ててくれた講談社版の「日本文学全集」百十数巻も例外でなく、版面は薄ぼんやりしてきている。こっちの視力も格段に落ちて来ていて、ダブルパンチである。
* いい作品と知っていて、往年には感銘を受けた、戦後直ぐのイタリアン・リアリズム映画などが、今はもう、少ししんどい。「自転車泥棒」「壁」「ひまわり」「屋根むなど。
ポーランド出来の「大理石の男」も、意欲作であるけれど、この私にして、この労働者世界からの強烈なプロパガンダが重く感じられる。社会的な意欲作が時代と時間に侵蝕され、ロマンスはらくらく時代を超えてゆく。この機微はじつに厳しい。
わたしは、創作生活に入った頃から、それに気付いていた。
「或る折臂翁」の道をすぐ切り替え、「畜生塚」「或る雲隠れ考」「慈子」「清経入水」「蝶の皿」「廬山」そして「みごもりの湖」「初恋」「親指のマリア」などへとつづく道を通った。時代と時間の「錆」をはねのけたかった、と、そう思っている。
その現在・現時の時代をすなおに「背景」に置いて書かれている、今日的な私小説や心境小説は、いかに今は現代的と思われていようと、作者が死んでしまうと、その日からもう過去完了へ古び始めるこわさ。これを、わたしは多くの実例で意識している。「ペン電子文藝館」での読み返しでも、身にいたいほどそれは感じた。プロレタリア作家の優れた文学作品の多くが、もう今日性を喪失したかのように湮滅直前にあるのもそれだが、同じことは新感覚派にも言える。川端が力づよくのこり、他の大勢が忘れられつつあるのは、力の差ではない、創作と時代とのかかわりようの問題でもある。
あれほどの天才的なライバルであった鏡花と秋声も、いかに双方とも優れた、いや文学としては秋声の散文のすばらしさには感に堪えるのだが、一見古い表現のはずの鏡花文学はますます光放ちつづけるだろうが、秋声文学ですら、じりじりと時代に侵蝕されてゆく。
譬えていうと、秋声世界では、ラジオであらざるを得ない、テレビは出てこないことが、ガンとしてそのリアリティ自体から限界化されている。それがリアリズムの時代基盤に置かれている。テレビやケイタイ世代からはすくい取りようのない古さが出来る。
鏡花世界では、現象からするともっと古くさいが、そんな古さは作品の中で無意味化される、いわば、みごとな逃げ道が出来ている。そんなのはノープロブレム、もっと大事なリアリティーが別に言語表現や物語や超現実性のうちに確保されている。
現代を書いているという錯覚のもとに、単に作家自身の生身をめぐる「現在」しか書いていない作品は、どんなに現世では栄誉を与えられても、時代と時間が容赦なく呑み込んで早々と失せてゆく。「現代」文学と過称し自負する、じつは単なる「現在」文学、「現代」人であるとトクトクと時めいていながら、実は只の「現在」人に過ぎない名士たちが、なんと多いことか。
現代文学と、現在文学とは、決定的に異なることが理解されていない。それはそれで余儀ない、いや必然の理由に基づいている。優れた批評家にはその視野が求められる。
2005 5・5 44
* 以下前半は、橋爪文会員の全五章長編詩「夏の響」の第二章英訳をスキャンしたママである。ヒロシマのあの日、奇しくも助け合い生きた二人の見知らぬ少年と少女の邂逅をうたう原爆体験詩の途中である。
英訳プリントではむろん詩の体裁もきちんとした英文詩だが、スキャナーでは、こう出て来る。訳者井上章子会員の責任ではない、あくまで機械による再現像であり、このままでは、とても読めない。余儀なく井上さんの翻訳プリントと橋爪さんの原作を首引きに、判読しながら、わたしが「ペン電子文藝館」の掲載原稿として起稿して行く。
II
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二章
傷つき飢えたからだを
焦がす夏
ながい夏
だが焼け野の向こうに太陽が沈むとき
涼風は空を磨き
金色の夕焼けはびんびんと
天空と大地を響かせて謳う
(生きることはすばらしい)
(生きなければいけない)
少女の全身は
生きる歓びにふるえる
(ああ 生きていることはすばらしい)
そしてこの金色の夕焼けの下
少年もまた生きぬいていた
* II
Scorching summer for the wounded and the starved
EIongated summer
But when the sun set below the burnt-out field
Cool wind poIished the sky
Golden sunset sang
Echoing sonorously heavens and great earth
“To live is wonderful”
“One ought to live”
The girl’s whole self
Shivered with the joy of living
“O, to Iive is marvelous”
And under this golden sunset
The boy tried to live out too
そしてさらに委員会はこの英訳自体に問題はないか、専門委員がチェックを重ねることになる。
この英訳詩原稿をわたしが受け取ってから、もう一月ではとてもきかない、三ヶ月もたったかもしれないが、じりじりと起稿をつづけて、たぶん、この連休末にはし終えて、英語の専門委員に寄託するところへ漕ぎ着けるだろう。
先日の理事会で、国際ペン理事でもある堀武昭さんが「ペン電子文藝館」に触れて、もしもこの収録作がつぎつぎに英訳されてそれも載せられれば、日本ペククラブの文学事業としてどんなに世界的に素晴らしいか、その対策がどうにかして立たないだろうかと希望されていたけれど、理事会の意識自体が、なかなかそのレベルに遥かに達していない。理事作品が少しも増えていないことを見ても、分かる。
堀さんの声援は嬉しい限りだが、この課題は、ほとんど予算というものの無い委員会では、望蜀遥かというしかない。裏返せば委員会委員のボランティア負担たる、たいへんなものがある。
* 頑張って、しかし、井上訳稿も入稿できた。英訳詩に日本語の原作も一つ一つ添えて読みやすくした。
* 文藝館委員会にまた一つの議題が生じてきている。喫緊の投稿という意気込みで「ユダヤ人」問題に触れているのだが、原稿はもっぱら「アンネ・フランク・ハウス」への回想を通して、ホロコーストの悲惨におよんでいる、それが全量の多くを占めている。正直の所その内容は、あまりに著名に情報豊富な問題なので、聞いて知っているような域を多くは出ない。しかしまたこの問題への、陰気にタメにするような言説が、故意と悪意とで多年に亘り繰り返し出て来る問題にも触れてあり、その辺はわたしなど極めて不案内で、教えられる点があった。
だが、何が喫緊であるか、それが分からなかった。なぜなら、現下の「イスラエルおよびアラブ」のことに一言半句触れてないのである。しかし、わたしのような門外漢でも、関心が深いのは何で中東はああなるのか、ナチによるユダヤ人受難体験や記憶は、どう生き活かされているのだろう、という点にある。それにひと言も触れず、いま「アンネ・フランク」を思い出すだけでは、なんとも味わいが薄い。それはそれは繰り返し語られてしかるべき大切な史実であるが、かなりに「知識」化している。しかしイスラエルとアラブのあの救い無く見える紛争には、やりきれない思いはだれにもあって、対岸の火事とも眺めていないのである、日本人も。さらにこれにはアメリカという国の関与も深く、その評価には容易でないものがあるのだろう。
難しい。しかし、「ペン電子文藝館」で会員により論じられるのなら、本当の意味で喫緊の要所への発言が読みたい。いちばん早く原稿を読んでの率直な感想である。
2005 5・5 44
* 『戦争と平和』で、ロシア軍総司令官の副官の一人アンドレイ公爵が、フランス皇帝ナポレオン軍との決戦の前線で、瞬時に敵兵の手で倒される。その瞬時の「感慨」が懐かしい。また、敵ながら敬愛してきたナポレオンその人により、危うくフランス軍営に救助された彼アンドレイの「感慨」が、また佳い。
*『あいつら何をしているんだろう?』とアンドレイ公爵は二人を見ながら考えた。『どうしてあの赤毛の砲手は武器も持たないくせに、逃げ出そうとしないんだろう? どうしてあのフランス兵はやつを刺さないのだろう? ここまで逃げ着かないうちに、あのフランス兵は銃のことを思い出して、あいつを刺し殺してしまうだろう。』
実際、いま一人のフランス兵が銃を提げて、相争える二人の方へ駈け寄った。依然として自分を待ち受けている運命を悟らず、揚々として洗桿を(敵の手から)もぎ取った赤毛の砲手ほ、風前の灯にひとしかった。しかし、アンドレイ公爵は、その結果がどうなったか見なかった。ちょうど、だれかすぐそばにいる兵卒が、堅い捧で力いっぱい彼の頭を擲りつけたような気がした。彼は少し痛かったが、それよりむしろ不愉快であった。それはこの痛みが彼の気を散らして、二人の兵卒を見物する邪魔をしたからである。
『これはどうしたのだ? 俺は倒れかかっているのか! なんだか足がへなへなする!』とアンドレイ公爵は考えると、たちまちあおむけにぶっ倒れた。彼はフランス兵と砲手の争闘の結果がどうなったか、赤毛の砲手が殺されたかどうか、砲門は鹵獲されたか助かったか、それを見るつもりで眼を開いた。が、なにも見えなかった。彼の眼の真上には高い空――晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面を匐ってゆく灰色の雲のほか何もない。
『なんという静かな、穏かな、崇厳なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公爵は考えた。『我々が走ったり、わめいたり、争ったりしていたのとはまるっきりぺつだ。あのフランス兵と砲手が、おびえた毒々しい顔つきをして、洗桿をひっぱり合っていたのとは、まるっきりべつだ。この高い無限の空を匐っている雲のたたずまいは、ぜんぜん別なものだ。どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ! この無限の空いがいのものは、みんな空(くう)だ、みんな偽りだ。この空いがいにはなんにもない、なんにもない。しかし、それすらやはり有りゃしない、静寂と平安のほかなにもない。それで結構なのだ!……』(第二巻第三編一六の末尾)
* この最後の一段落には「覚え」がある。こういう思いで広い広い「空」を見たことが、何度もあった、わたしのような戦場など知らなかった者にも。だから、小説の此処へ、最初から素直に入って行けた。この段落は、さながら老子そのままの言葉で書かれている。ただ、一個所「みんな空(くう)だ」だけが、正しくは「みんなでたらめ(=錯覚・幻覚・無価値)だ」の意味であることをのぞいて。それで「みんな偽りだ」に繋がる。
勝れた先人達はこの、隠喩(メタファ)としての「空(そら)」と真実の「空(くう)」とをほとんど同義語のように話してくれる。その空を、「雲」という分別や思考、つまりマインド、を見事に払拭した無限にひろがり無限にふかい「青空」としてイメージしてくれる。人によっては澄んで広大無辺な青空を、そのまま、「鏡」のようにも譬喩している。
わたしがただ映すだけ「鏡」になりたい、来るモノは拒まず去るモノは追わない、即ち一枚の鏡であるような静寂な「湖」で在りたいと願うのは、そのためだ。眼を閉じ、闇に沈透き、闇が即ち鏡のような青空に転じる瞬時を、わたしは焦らず待っている。
アンドレイ公爵は、宮廷や貴族社会や戦争や平和の一切よりも貴い、真実の、静寂と平安のほか何もない「空」を、瀕死の瞬時に初めて見知った。トルストイは、さすが老子らにちかい視野を、覚悟を、得ていたのだ。アンドレイ・ボルコンスキイ公爵は、そのまま「軍旗を持って倒れたプラーツェン高地の一隅に、滾々と流れ出る血をそのままに横たわっていた。そして、低い、哀れな、子供らしい声で無意識にうなりつづけた。」
* (フランス)兵士らはアンドレイ公爵を運んでくる途中、妹のマリヤが首にかけた金の聖像が眼に入ったので、そっととりはずしておいたが、俘虜にたいする(ナポレオン)皇帝の優しい態度を見ると、急いでその聖像をもとへ戻した。
アンドレイ公爵は、誰がどうしてかけてくれたか気づかなかったが、思いがけなくも、軍服の上から細い金の鎖のついた聖像がかかっていた。
『ああ、どんなにかいいこったろう。』妹が心をこめて、うやうやしげに首へかけてくれたこの聖像を眺めながら、アンドレイ公爵は心に思った。『もしいっさいがマリヤの考えるように簡単明瞭であったら、どんなにかいいだろう。この世ではどこに救いを求め、あの世では――墓の下ではなにを期待したらいいか、それがすっかりわかったら、さぞいいだろうなあ! もしいま「神よ、我を憐れみ給え……」と云うことができたら、俺はどんなに幸福で、平穏な気持でいられるかしれないのだが、しかし、誰にそれを云うのだ? 漠然とした、理解することのできないカに向かってか? いや、俺はそんなものに祈ることができないばかりでなく、偉大だとも無価値だとも言葉でいい現わすことができない。』と彼はひとりごちるのであった。『それともマリヤがここにこの守袋の中に縫いこんでくれた神様だろうか? 何もない、何もない。俺に理解のできるいっさいのものが無価値でなにかしら意味のわからない、しかし、非常に重大なあるものが偉大である――ということよりほか、正確なものは何もないのだ!』(第三編一九終末ちかく。)
* アンドレイは「抱き柱」の無用と無価値を悟ってしまった寒々しい孤独の中で、よりはるかに大きな確かなものが、しがみつく「外に在る柱」としてでなく、自身の「内なる天空」のような何かとして予覚できたのではあるまいか。おそるべく大きな体験を、彼は瀕死の重症の奧から掴み出しかけている。そう感じ、そう読んで、わたしはアンドレイと作者トルストイに共感した。このように深いところを書き得ているトルストイの大いさ、それに出逢う幸せ、を覚えた。明日からは第二巻第四篇に入って行く。
* 犬養健、佐々木茂索、十一谷義三郎、今東光、菅忠雄、池谷信三郎の短編小説を読み選んで、スキャンした。倉田百三の「出家とその弟子」を加えて、この辺までをペン総会までに入稿しておきたい。今は、よほどその気を起こしても作品が見当たらないような書き手だが、その時代時代には活躍した書き手ばかり。
* 雨が来ているか、今晩は肌寒い。湯をつかいはやく休んで「ファウスト」「戦争と平和」や鏡花の春陽堂版第二巻を読もうと思う。貝塚さんの世界史は、ゆうべモヘンジョダロの遺跡を辿っていた。西印度にあれほど優れて完璧な都市性を抱き込んだ都会が造営できていたのだ、西紀前はるかに。
鏡花の二巻には「琵琶傳」「海城発電」「化銀杏」「一之巻」から「六之巻」を経て「誓之巻」等、さらに「照葉狂言」「龍潭譚」「化鳥」等の秀作が居並んでいる。
* 物故会員佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」は作者初期の代表作で秀作である。おぢいさんとおばあさんのいる日だまりの部屋の暖かさも静かさも或るさびしさも、それを癒すだけの情味もじつに自然に書けていて、ああ此処にも一つのお手本がある、見ようによれば横光の「春は馬車に乗つて」の若い二人よりも落ち着いた幸せと、しかしやはり拭いがたい寂しみとが伝わってくる。もし短所と云うなら、そうした宜しさの伝わりすぎてくる寂しさにあると云える。校正も終えた。
2005 5・6 44
* 佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」は、身につまされる挿話的な一篇だった。事情は少し違うにしても、わたしもまたこの様にして老い行く父母を京都に捨てて東京へ出て、よく手紙を書いた。それは沢山書いた。
父は、母は、どう読んだのであろう、手紙はみな母が取り置いていた。それも今はどこに蔵われているか。
次いで十一谷義三郎の「仕立屋マリ子の半生」を起稿しかけている。
さしも大型の連休も明日で終わる。妻の話では、去年の母の日に「碧い耳飾りの少女」という映画を池袋で観たそうだ。今年の母の日は明日だそうだ。いっしょに街へ出ようかな。
2005 5・7 44
* ピエールは決闘のあげく、美しいだけの不貞の妻エレンに打ってかかったし、少女ナターシャは運命をしらずはしゃいでいる。映画のヘンリー・フォンダとオードリー・ヘップバーンが、ありありと浮かぶ。トルストイの細部に至るまでみずみずしく精確に把握して行く想像力の豊かさ、途方もなく偉大である。
そしてレダと白鳥の娘、世界一美しい幻のヘレネとファウスト博士とが、いよいよ言葉をかわしている。
鏡花の「琵琶伝」は鬼気迫るムリ強いの短編。だが、嫁いだ初夜に、絶対受け入れる気のない「仇」のような夫に向かい、親の泣いての遺言ゆえ妻の座には直るけれど、決して決して節操は守らない、破れるかぎり節操は破って、愛する従兄に心身を捧げますと言い切る花嫁の、また愛するその従兄の末期が凄い。
また「海城発電」は、鏡花ではむしろ当然の作柄ながら、日清戦争の当時の一挿話として今の吾々にも実に異色異彩を放って唸らせる。わたしは、前々からこの作品には注目措くあたわざるものがある。海城はシナの都市名、つまりは上海などと同じく、この題は、異国からの特派員が母国へ発した「海城発」の電報の意味。
有名な「外科室」や「夜行巡査」より、わたしは、この異色作のもつ鏡花感覚や鏡花の足場に、眼を瞠いてきた。この赤十字社員である日本人青年のキャラクターは、「冠弥左衛門」のお波「義血侠血」の水越節「貧民倶楽部」のお丹ら颯爽たる反体制・抵抗の女性像をあざやかに「男子に反転」しつつ、のちの「風流線」の主人公へ織り上げて行く、見るも鮮やかな糸の一筋を成している。
古事記では、倭建命がついに無窮の空へ飛び去って行った。弟橘姫命の海へ投身の場面など、音読しながら声が熱くつまった。古事記は、目的自体が「系譜の追認」であるから、誰が誰を娶って幾柱の子をなしたか、だれが次の天の下を治めたかが記述の要点になっているのは仕方ないが、煩瑣なそういうところを塗りつぶして物語を繋いで行くと、それはもう、豊かに興味ある実意もある神話伝承の世界になっている。国民学校の二年生になる直前に女先生のお宅を木津の山田川に父と訪ねたおり戴いた、「日本の神話」一冊で、わたしはそれを暗誦するほど耽読したのだった。それが、不出来に出来損ないのひよひよした「あほぼんちゃん」のわたしに、自信をつけた。
もっとも、小学校でも中学高校でも、その後でも、今でも、その時代時代の内輪な何人かの「批評家」たちは、やはりわたしを目して、一様に「あほぼんちゃん」と証言している。けだし、当たっている。
2005 5・8 44
* 十一谷義三郎の「仕立屋マリ子の半生」は佳い作品だったばかりか、今日へもしかと問題の、心理の、根が届いていて思わず唸らせるものがある。しかも作品が少しも荒れていない。一組の夫婦をしかと把握している。小品というよりなく、佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」とも連繋する藝術性で有難かった。さらに菅忠雄の小品「銅鑼」も起稿した。
* 今日は、なにということなく、気が鬱陶しい。もう階下でバグワンも古事記も音読した。神功皇后の新羅渡りを読んだ。もう機械をとじ、トルストイ、ファウスト、鏡花、世界史へ沈み入ろう。ツタンカーメンの発掘で奇怪な原因不明の死者が次から次へ続出したはなしも不気味だったが、太古の言語解読の苦辛にも心惹かれる。一学者の探求があって一つの未知であった偉大な過去の文明が甦ってくる壮大さ。少年のように胸轟く。こういう喜びは、「TVタックル」のガサツな討論より、しっかり残る。
2005 5・9 44
* トルストイの、細部まで揺るぎない想像力と、精緻で安定した把握と。世界文学のなかで群を抜いている。小説を読んでいるという思いよりも、現実のその世界のその現場に、何の隔てもなくそのまま立ち会っている、体験しているかのよう。ボルコンスキイ老公爵の屋敷で、子息アンドレイ公爵は戦死したかと憂色深いさなかに、美しい小柄な若妻は産気づき、アンドレイの妹マリア(マーシャ)は優しい気持ちで、事態に動顛する自身のおののきに堪えている。そこへ傷つき衰えたアンドレイが、奇蹟のようにかつがつ帰還し、妻への愛をはっきり表わして出産にたちあう、が、不幸にも若公爵たる新生児は生まれたものの、若い母親は産褥に果ててしまう。
そういう、屋敷内のビリビリした空気の隅々までを、トルストイは鷲のようにつよい筆と雛の羽根のように柔らかい視線とで、あまさずリアルに掴み取り描いている。
そしてゲーテの歌い上げている「ファウストとヘレネ」との場面の壮麗・劇的な盛り上がりの美しさ、すばらしさ。
古事記の神功皇后は応神天皇を出産し、鏡花は「一之巻」を読み進んでいる。
贅沢に豊かな、これ以上が在ろうかと想えそうな世界を、夜毎に漫遊している。これが幻影なら、現実はそのまた薄い影かのように想われるが、その影を日々に「今・此処」に少しずつでも濃く懐かしいものにして行く、それが「生きる」ということだろう。
2005 5・10 44
* 菅忠雄「銅鑼」を送りこむ。
2005 5・10 44
* MAOKATさんの紀行文は日記体の長文で、私的な書留めでもあり、一時に此処へ紹介することは難しい。わたしが、ひとり、休息時に楽しんで読んで行く。
ペンの仕事が少しでも空けば、「e-文庫・湖(umi)」をまた充実させて行こうとも思っている。「ペン電子文藝館」にほとんどの精力と時間とを奪われ、余儀なく放ってあった。目をみはるような小説の書き手、感嘆する勝れた批評や文化論の書き手が現れ出て欲しい。併行して、わたしも、仰天モノの「わが瘋癲老人日記」を書きたいぞ。呵々。
2005 5・10 44
* 六時半起床、血糖値114は極く良好。雨と予報されていたのも、雨は東へ去り、曇ってすこし肌寒いが、どうやら傘なしで出かけられる。
* ゆうべはさっさと床について「フアウスト」から。もう七割がた読み進んで、フアウストとヘレネとの「結婚」の大場面は通り過ぎた。あの結婚の辺で壮麗に盛り上がり、また作意も汲み取りやすくなる。
「戦争と平和」では、厄介者のドーロホフに妻を奪われたピエールの苦悩と決闘と離婚の顛末(なんと莫大な財産の大半をそんな妻に預けてピエールはモスクワを去って行く。)が過ぎ、同じドーロホフが、美しいソーニャへの求婚をキッパリ断られ、恨みを、恋敵ロストフ若伯爵への強引なカード勝負で莫大に借財させるという、相次いで不快な場面も過ぎ、ジェニーソフの少女ナターシャへの無理な求婚も、当然母親により拒絶されている。
今は、ピエールが秘密結社フリー・マソンの試みに遇おうとしている。物語は大きく大きくうねるようにつづいて、この作品への深い敬意と愛は完全にわたしに戻っている。
鏡花は「二之巻」を読み終えた。教師ミリヤアドと時計屋のお秀。ふたりの愛をうけふたりに無垢の愛をささげるあまりに可憐な少年、新次。鏡花好みの設定で、巻はつぎつぎに続く。この一連をわたしは秀作「照葉狂言」への前哨と眺めてきたが、今回はそれを念頭から離し、素直に読んでいる。鳩時計をなかに、お秀と新次の戯れる場面や、お秀ゆえに、悩乱するほど、盲目年かさの富の市に嫉妬する新次。トルストイの壮大で緻密な世界とくらべれば、いと隙間も多い鏡花の初々しいほどの物語であるが。
そして、床に寝腹這っての、校正。そりかえるので、背骨も腰もいたむが、自稿の展開にもつい引き込まれて読み進めていた。もう終えて寝ようとしつつ、また惹かれてフアウストとメフィストテレスの対話の舞台へ、少しの間もどってから、灯を消した。二時ころか。
* さ、用意をして。木挽町へ。勘三郎の溌剌襲名の舞台を終日堪能したい。
2005 5・13 44
* 五個荘の川島民親会員の『スズメバチの死闘』を入稿した。「ぼくの動物記2」にあたり、前回とあわせて、一つの名作というを憚らない。前回三編、今回二編。筑摩書房から出した一冊が、「ペン電子文藝館」におさまった。民親さん、また新しい作品を書いて欲しい。
2005 5・15 44
* 昨日、鏡花の「一之巻」から「六之巻」「誓之巻」まで読了。この作品には深水家(後に豪家紫谷の室)のお秀、白人教師ミリヤアドという、印象的な、鏡花憧憬の的であるともに「姉さん=母さん」ふうの女人が登場するので、注目せざるをえないのだが、かなり大まかに大げさで、上出来の作とは謂えない。すべてはこの後へ来る秀作「照葉狂言」への習作というか、小手調べのような味がする。
しかし少年(青年ですらある)新次の父親は名人の金工師であり、いとしき母はすでになく、そして新次を内から外から不気味に悩ませる按摩富の市というお定まりの敵役もいて、まさしく鏡花世界の手持ちの札を惜しげなく公開、ならべてみせた趣において、問題作だとは謂える。鏡花が薄幸異色の白人女教師に愛されるような学校に、一時在籍した伝記的事実も背景にしているし、徹頭徹尾新次「少年」が、鏡花好み純粋培養されたような清純にして母性愛を誘うに足るのも、気味が悪いぐらい徹している。
大事なところだが、ミリヤアドと新次とには幻想とばかり謂えずに、実「母」を倶にしているやも知れなさそうな物語の運びがあり、するとミリヤアドは新次の「姉」で、母がわりに「弟」の未来を案じながら死んで行く人とも読まされる。そのミリヤアドの最期の新次への叱正ともいうべき誡めが、「秀」を忘れよと、ある。姉のようであった「秀」ははや豪家に入った人妻であり、しかも新次をおもい、そして現に不幸なのである。不幸の影に按摩富の市の底暗い影法師がまつわっている。どこからどうみても、上出来ではないけれど「鏡花」文学にほかならない。
この作品からすると、「照葉狂言」はこれをよほど「藝術的」に仕上げているのである。
*『戦争と平和』では、ピエールが、隠遁したように世に背いて暮らしているアンドレイ公爵を訪ねて行く。広大なキエフの自領で、農奴たちにみごとに幸せをわかち与えてきた気でいる、その実は狡猾な支配人の思いのままに操られてきたに過ぎない、大の大の富豪であるベズーホフ伯爵つまりピエールと、アンドレイ・ボルコンスキイとが、深い友情の基盤の上で辛辣に議論をかわしている。この二人がわたしは昔から好き。作の中心人物だから当然そうありたいわけだが、もう一人アンドレイの妹のマリヤにも注目せずにおれない。
世界文学や世界の映画演劇のなかから、「マリア」の名を持った十人ほどを選んで、わたしの「マリア」像を結んでみたいと企画して、出版企画も進んだことが二度あるが、わたしが怠惰で放りだしてある、その、最初の動機は、『戦争と平和』の、アンドレイの妹マリヤに得ていた。わたしが、なお気力と根気と体力をもっていたら、これは魅力あるテーマなのだが、もう、そういう思いも希釈されている。だれかやらないか。
印象的な「マリア」は、たしかに、何人もいる。映画『ウエストサイド・ストーリイ』の「マリア」もいる。ヘルマン・ヘッセのたしか『知と愛』にもいなかったか。十人ぐらい、すぐ拾える。この名にかけて作者がいかなる「マリア」世界を観じていて、総合して行くとどんな「マリア」なる世界が現れ出るものか、『親指のマリア』の作者としても、今更書くよりも誰かに優れた構築=論考で読ませて貰いたいと願っている。
2005 5・18 44
* 能は秀逸。勧進帳は一二に好きな歌舞伎だが、能舞台の「安宅」は、その「勧進帳」のホンモノの基盤=お手本というに値する高雅の格。満々員の見所へ、心身の志気を美しく開いて、友枝昭世の弁慶は、威あって猛からず、智勇兼備の静かさで一舞台を悠然と押し切り揺るがなかった。また子方の義経が、生い先見えて末頼もしい、凛々と美しい、可愛い義経で、感情移入した。謡も、また四天王以下の総勢直面の緊迫に一糸も乱れなかったのも、上等の「安宅」すばらしい「安宅」であった。楽しみにしてきた甲斐があった。
知った顔は、ただひとり馬場あき子さんだけ。顔が合い、彼女は例の親しみ溢れる笑顔と声とで、手を握りあい、わたしが「元気そうで良かった良かった、嬉しい」と。馬場さんもいつもよりずっと元気に美しくみえた。気持ちよくさよならを云い、彼女を能楽堂に残しておいて、一路帰宅。行きの電車では、校正。帰りの電車では『戦争と平和』を。
2005 5・19 44
* 夜前、森鴎外訳のゲーテ『フアウスト』を読了。第二部半ばからぐうっと盛り上げ、スピード感もともない、坂を一気に駆け上り、登りつめて終幕。
大きく深呼吸一つ。大きな体験。心して全編を通読したのは初めて。鴎外の平明な訳文に助けられた。
この大きな一冊本(ちくま文庫)は、解説が、はなはだ弱い。こちらの要請にほとんど具体的に応じてもらえない。その点、もう一つの旺文社文庫だったか、佐藤通次訳の二冊本には精緻な案内が付いているので、間を置かずもう一度この本で、今度は解説にも頼みながら読んでみようと思う。
与えられた「時間」が残り惜しいので、ほんとうの名作に、名作に、的を絞るようにして読書を楽しみたいのである。『千夜一夜物語=アラビアンナイト』は角川文庫で揃えて、昔、たくさん拾い読んだ。活字が劣化しているかも知れないが、今度は全巻を通読してみたい。
わたしはロマン・ロランが苦手で『ジャン・クリストフ』も通読できていない。むしろギリシアの『オデュッセイ』など、落ち着いて読んでみたい。ときどき特に懐かしいのが、ヘルダーリーン。
* 今日は、ともあれ、のーんびりと踊り場での休息を。窓の外は、明るいのか曇っているのか。
2005 5・22 44
* 飛行機がすべるように音響の尾をひいて遠のいて行く。鳩もないている。静かな朝。わたしは、まだ眠いのかいくらか朦朧としているが。十一時頃、有楽町まで出かける。今日から『戦争と平和』文庫本の第四巻に入る。十九世紀ロシアの宮廷や貴族社会などわたしには何の縁故もない、のに、からだの一部かのように日々わたしのなかで躍動している。トルストイの生き「生きとした狂気」が発揮している。
2005 5・23 44
*『春秋』は孔子が書いた殷史であるが、魯の左丘明の、これに優れた伝と解と註を施し断然重んぜられたのが、『春秋左氏伝』である。後の韓退之は、春秋の謹厳に対し左氏は浮誇と貶してはいるが、「史体」の創始と云われ、また国語の粋とも。
わたしが祖父秦鶴吉蔵書から持ち出し今架蔵している本は、さらに「講義」を魏の杜預に得ている。本文は大きいが解釈や講義や文法の字は六号程度でじつに小さく、眼がきりきりする。しかし「左氏伝」は読んで興趣横溢として知られるもの、なにもこんな古典籍で読まなくても、しかるべき通行本はあるのだけれど、ま、浮世離れの一服にはもってこいの貴重本ではある。
2005 5・24 44
* 雨がかなり激しくながく降っていた。
犬養健を覚えている人があるだろうか、指揮権を発動した法務大臣だった、あの頃は司法大臣であったかも。軍のテロに殺された首相犬養毅の子だが、若い頃は小説家であった。「亜刺比亜人エルアフイ」という小説を「招待席」にと思い、スキャンした。昨日の夜遅くには、池谷信三郎の「橋」を入稿した。この仕事の関係で、会員からものを頼まれることも年々増えていて、出来ることは引き受けてきたが、出版の世話を頼まれるのは、わたしでは見当違いもいいところであるのだが。
このまえ新聞に書いた「横浜事件」の原稿は、社内記者仲間で好評であったと聞いた。新聞記者と話すのは、ときどき耳おどろくこともあり、おもしろい。しかし気分良く喋っていると何を書かれてしまうかもしれない。
* 昨日の今日で、すこし眠い。はやめにやすもうと思う。
2005 5・24 44
* 昨日から新しい読書をふやした。大物である。
一つは「旧約聖書」で、厖大も厖大。せいぜい「創世記」「ヨブ記」しか読んでこなかったし、気になっていた。「新約聖書」にはむしろギリシヤ・ローマの影が落ちているはずだが、イスラムやあの中東アジア・アラブ世界に、肌身を寄せて理解するには「旧約聖書」はある種の手引きかも知れない予期をもっている。
まず創世記最初の安息日までを読んだ。文語の旧訳、この本は、実父吉岡恒の遺品から異母妹たちが選んでわたしに譲ってくれた形見の聖書なのである。
もう一つは、「千夜一夜物語=アラビヤンナイト」 もう 傑作! とはこれであることは、あらかた拾い読みしていて分かっている。角川文庫本がもうかなり劣化してきているが、ボロ本になる前に「通読」しておくことにする。これまた二十巻以上もある、が、これぐらいわたしからすれば異色な世界もなく、しかも深いところでお馴染みともいえる世界はない。いわば「色」ある世界である。ゆうべは、「女」への徹底不信に追い込まれたシャーリアル王たち兄弟王の嘆きと復讐への序幕を、面白く読みはじめてやめられず、さてさて、千夜一夜を死の瀬戸際で聡く面白く語りに語り継ぐ美女シェーラザーデの登場とはなった。
さ、これから長い長い長短のお話の連鎖となる。「明日の晩」も話が聴きたくて、王は女の頚をはねるのを延期に延期してゆく、が、一つ御意に叶わないと、一夜のセックスの明くる朝には即座に頚斬られる「死刑」が待っている。
そしてゲーテの「フアウスト」も、佐藤通次訳(旺文社文庫)二冊本を、今度は、解説や脚注をゆっくり参照しながら、折り返して再読しはじめている。
世界の歴史は第二巻「ギリシア・ローマの文明」に入っている。上の聖書とアラビアンナイトの選択は、歴史第一巻で、西暦前の中国文明に次いでアッシリヤやヒッタイトやフェニキアなど、またエジプトやイスラエル・ユダの先史時代を読んでの「照り返し」でもある。
トルストイの「戦争と平和」では、妻リーザに死なれたアンドレイ公爵が、宮廷社会や政治の裏面に嫌気して、いましも生彩に溢れた若い処女ナターシャに恋をしている。ナターシャもアンドレイに恋している。一方不実な妻のエレンとまた余儀なく家庭をともにしているピエール伯爵は、マソンの秘密結社に入って、生活と信仰との革新を願いつつも、憂鬱そうである。
この五種類の読書は、合算すると途方もない宇宙的な豊かさ美しさ真実感に溢れている。こういう世界からはじき出されるようなものとは、本気でつきあうまい、そんな「ヒマはもう無い」と思う。これらの世界を貫通する太い太い「真実」とは何であろうか。真実とまで謂わないなら「現象」は何であろうか。「男と女」。それに尽きているかも知れない。
そして鏡花は「照葉狂言」を読んでいる。バグワンは、「老子」を読んでいる。すばらしいもの、ほんものの世界にとり包まれている。ありがたいことに、清い濃い水を吸うようにわたしは「読書」からも命をかきたてられる。
2005 5・27 44
* 夜前就寝前は頭痛がきつく眼は乾いていて、かなり怖ろしいほどの気分だった。だが、「照葉狂言」も「フアウスト」もギリシア先史も旧約の「ノアの方舟」も、千夜一夜の第一夜のながいおはなしも、ロストフ伯爵家のせまる困窮も、雄略天皇の色好みと詩的な展開も、大事な本質的な問題ほど真っ先に対応し処置して、つまらないことへことへと手を出し続けて大事を先送りするなというバグワンの言葉も、みな、生き生きと読むことが出来た。
よきものを、よきことばを、シャワーのように多彩に浴びて寝に就いた。三時に手洗いに立ったときふらついていたが、もちこたえてまた寝た。八時にすらつと目覚めた。黒いマゴとしばらく遊んでから床を離れた。
2005 5・31 44
* 犬養健の「亜刺比亜人エルアフイ」という小説は、楽しめる。オリンピックのマラソン勝者なのであるが、この語り手の話題は意外な人物へやがて絞られて行く。おもわず、フーンとひきこまれて行く。
はやく「ペン電子文藝館」の新体制が動き出さないと、作品が殖えて行かない。わたしが遣りすぎてもいけないし。
2005 6・1 45
* 鏡花の「照葉狂言」には思い出がある。学研版の「明治の文学」で鏡花の巻を担当したとき、どの作品を選ぶかは任されていた。金澤の新保千代子さんほか鏡花については一家言有る研究者は多かった。「高野聖」「歌行燈」の二作はまっとうではあるが、これを外すにはしのびない問題をわたしは感じていた。どちらかを外して「照葉狂言」という声も編集部にあったかも知れないが、「照葉狂言」では感傷的な気がすこしわたしに有った。おなじ清冽な感傷を是とするなら、また少年ものでなら、わたしは結局「龍潭譚」を選んだのだった。その三作を通して、わたしは鏡花の「水」ないし「水神=蛇」へも的を絞ったのだった。
「照葉狂言」は、いかにも懐かしい作に相違ない。しかも少年貢の極端にウブな無垢さも、それを愛する隣家薄幸の広岡雪や照葉の藝人小親(こちか)の貢に対する徹した優情も、此の世のものでない不思議を纏綿させていて、自分の手で今一度世に出すのが心持ち気恥ずかしかったのである。「龍潭譚」を選んで良かったという気持ちにかわりはない。あのとき、できれば「化鳥」も入れたかった。好い作だと心惹かれたのである。
2005 6・3 45
* こんなに佳い面白い、滋味溢るる小説とは覚えがなかった、犬養健の「亜刺比亜人エルアフイ」を行から行へ嘗めるように校正している。もう少しで終える。アンドレ・ジイドに関心のある人には必読。麻布の手触りのようである。
2005 6・4 45
* 昨夜も七種類の読書を終えてから、「湖」下巻に入れている「わが無名抄 思惟すてかねつ」を赤字合わせし、半分ほど再読した。しばらく忘れ果てていた古証文だが、いい時機に、思い切りよく書いておいたと思う。わたし自身の自問自答の今なお続いている多くが、飾り気なく明かされている。反逆的な告白か、支離滅裂の述懐か。わたしの読者がどう批判して下さるかも楽しみ。
2005 6・5 45
* バルセロナ土産の白ワイン。さっぱりしていて、酔いが深い。すこぶる美味い。今晩は、この瓶を楽しんで飲み干そう。「亜刺比亜人エルアフイ」も読み終えた。京薩摩焼の周辺もアタマに入れた。月曜火曜水曜は、気持ち、早めの夏休みにもしてしまおう。
2005 6・5 45
* トルストイの「戦争と平和」ゲーテの「ファウスト」そして「アラビヤンナイト」が何の違和もなく、等質の感銘を夜毎にかき立ててくれる。すばらしいものが、すばらしい。時間つぶしをしているのが惜しくなる。かきたててくれた力を、正当な怒りや正当な権利のためのエネルギーにしなくては。
「九条の会」の運動に一万円を、明日、わたしたちは送る。
2005 6・5 45
* 目覚ましに、黒いマゴが、寝床の脇で頚の鈴を数度小さく鳴らしてくれ、すぐ起きた。七時前。古事記(欽明天皇まで。)と、バグワンの「老子」を音読。
目薬で眼圧をさげ、なにげなく手にした「救心」を、なにげなく三粒口にした、ら、舌がしびれてきた。実に小粒の三粒だが、そういえばいつも一粒だけ口に含んでいた。かつてない、辛いような、舌の左の痛い痺れにびっくりしている、歯医者で麻酔を注射されたあとに似ている。桑原。
2005 6・7 45
* アブラハムが亡きサラのために墓処をあがない求め、またサラにより得たイサクの配偶をもとめに僕(しもべ)を旅せしめて、イサクの妻となるリベカと出逢わせた。
旧約聖書。前途ははるばると遠く遠く遠いが、少しずつ読んでいる。昨日は音読した。
音読での「古事記」は、昨夜、推古天皇の記をもって読了した。上と中と下との巻に分けてあり、上巻は神代記、余は人皇記であり、神話は、ありありと面白く、また人皇記の意図はあきらかに「系譜」「系統」の確認にあるから、どの天皇がどの女によりどの男子と女子を得て、何歳で崩じ、何処に葬られたかが、可能な限り明記されている。その中にも、だが、倭健尊の伝承はとりわけて精しく美しく、また仁徳天皇など諸天皇記にみられる人間味も象徴味も美しい和歌・歌謡の記録も、生彩を放って、読む眼を洗うような新鮮な響きである。
あいついで、今夜からは、古事記に量的に数十倍百倍の「日本書紀」を読んで行こうかと思う。
* 耽読しているのは、泉鏡花。昨夜からわたしの好きで高く評価している「化鳥」に入り、往時の感銘がまざまざと甦る気配だけを楽しみ迎えて、寝に就いた。そのまえに幾つかの短編を読み継いだ中に、「勝手口」という、これまた初期作品の中でひときわ注目してきた小説を読み、またしても深く歎息し考え込まされた。「鏡花学」に必ずしも私は広く目配りしているわけではないが、この作品「勝手口」に触れた論考などを文献目録には見つけにくい。しかし、この作品は女達の生活の気息通える会話のハツラツもたのしいが、その「作意」の如何に大きな問題、深い問題がひそんでいて、私なら、鏡花を論考して行く入り口の一つに、この「勝手口」も大切に大切に据えるだろう。
誰が云いそめたか、鏡花の出世作に「外科室」の「夜行巡査」のというが、あれらは深刻小説としても一通りのもので、異色にして鏡花の本質に触れた初期作には、有名な「義血侠血」「照葉狂言」はもとよりだが、「貧民倶楽部」や「海城発電」や「龍潭譚」や、この「勝手口」や、また「化鳥」などの、異様なほどといいたい秀作を通底する、熱い昏い「怒りの血色」に触れて行かねばならないだろう。
2005 6・10 45
* 何が面白いと云って、ゲーテの「フアウスト」を、一度鴎外訳で通読し終えると間髪いれず佐藤通次訳の上下本でまた詠み直し始めた、これが、一度目よりずうっと分かって読めて面白い。興深い。悦に入っている。
「古事記」を終え、翌日すぐさま「日本書紀」を音読し始めた。古事記は推古天皇までで終えるが、日本書紀は大化改新も通りすぎ、壬辰の乱ぐらい、あるいは天武天皇そして持統天皇の藤原京ぐらいまで詳しい叙述があるはず。歴史時代に入って以降は部分的にかなり読み込んできたが、通読したことはない。
ここしばらく、長大作をあれこれ「通読」して楽しんでいる。何の目的もないけれど。読み始めてまもない「旧約聖書」がまた莫大な量であり、ことのついでに同じ一冊に含まれた「新約聖書」も悉く通読するとなると、何年かかるか知れない。
「世界の歴史」は今は第二巻。スパルタやアテネの民主主義を読み進めている。「前途遼遠」であること、が、楽しめる。
* 鏡花の「勝手口」について書き留めておきたいと思いつつ、いっそきちんと改まった論考を始めればいいのかもと躊躇しつつ、今「化鳥」を読んでいる。橋の際にくらして通行の者から橋銭をとる母子の、その頑是無げな少年の直接話法がめざましくも面白いが、この少年が母親と倶に語っている、話しているなかみは、もっと目覚ましく鋭く辛辣な批評を帯び、鏡花の面目躍如。こういう作品を吸い込むように受容できなければ鏡花を語っても、かなりの不足を生じよう。
2005 6・12 45
* 有楽町からの地下鉄では、『戦争と平和』に没頭して帰り、保谷でタクシーに乗った。ま、なにやかやいろいろ忙しげであったけれど、ま、無事に終えた。明日は休んで、明後日は関西から来るインタビュアーの質問に応じねばならない、東京會舘で。
つぎの日曜日は、太宰治の桜桃忌。学会があり、出かけようかどうか、迷っている。
2005 6・15 45
* 小田実さんからもらった新聞エッセイ二本を、「ペン電子文藝館」にもらうことにした。そういうつもりで送ってもらったものと思う。二本とも大事のところに触れていて、「ぜひ言いたい二つ」とでも総題をつけたい。
印刷所での湖の本の進行がはやく、わたしも煽られている。仕事は、こういうふうでありたい。
2005 6・15 45
* 李恢成氏から大冊上下の新刊小説を贈られた。李さんとも、わたしはせいぜい一度立ち話をして、しかも李さんは別の人物を思っていたらしかった、そんな程度の面識だが、文通はなんどか有り、お互いに作のやりとりは永く続けてきた。なにということなく、信頼と親愛とが出来ている。
わたしが『廬山』で芥川賞に辷ったときの受賞者二人の一人が李恢成だった。
2005 6・17 45
* 日付はとうに変わっている。終日作業を進めて見通しが立ってきた。機械の前でホッコリしている。もう階下におりよう。
日本書紀はイザナキ・イザナミ二神の国生みの、「一書(あるふみ)に曰く」を延々と並べている。すべて音読しているが、苦にならず、面白い。
旧約聖書は創世記で、ヤコブの生涯を語り継いでいる。語り口はちがうけれど、千夜一夜物語と世界を重ね合わせているので、ちょっとしたことに、双方への通路を見つけた気がするときがある。
世界史は、いま、アテネのペリクレスに触れている。
戦争と平和は、婚約者アンドレイ公爵の帰国を待ちわびながら、父親と二人でボルコンスキイ公爵家へ出向いたナターシャが、老公爵と令嬢マリアの前で屈辱を覚えながら帰って行くあたりを読み進んでいる。確かな叙述、確かな伏線。おもしろい。
ファウスト博士は、いましも悪魔メフィストフェレスの手助けをかりながら、無垢の処女マルガレーテを誘惑しつつある。
そして鏡花。バグワン。
黒いマゴが、もう寝ましょうよと鈴を鳴らして階下から呼びに来た。
2005 6・19 45
* 前田河廣一郎の名を憶えている一般の読者はすくないだろう。ペンの物故会員である。新興藝術派の旗手といった人ではなかったか、そういう銘をうった「叢書」の、赤らんだ装幀の古本一冊で、巻頭の、代表作と目された「三等船客」をずいぶん大昔に読んだ。荒々しい筆致の底に流れた人間理解のちからに、子供ながら魅力を感じた記憶がある。その「三等船客」をスキャンし始め、識字率のあまりのわるさに閉口しながら、少しずつ校正をはじめている。急ぐことはない。
やはり物故会員今東光の、新感覚派的な「痩せた花嫁」もスキャンし、これは先に妻に初校してもらっている。初期の、一種の感覚的にトンでいる秀作。
引き続いて、倉田百三の著名な戯曲『出家とその弟子』中の一幕分を抄録したいと思いつつ、手がつかない。
2005 6・20 45
* 今日は街で、好きな鰻を食べました、おいしかった! 名古屋から帰り電車の降り際、小さな男の子がわたしに手を振るので、わたしも「バイバイ」と振り返してきました。
今年受賞の、女性二人の太宰賞作品を読んでいます。感想は、もう少し読みましてから書きます。
三島由紀夫の話、少しだけ。
最近読んだ中では、『仮面の告白』が面白かったのです。あれにいちばん興味をひかれました。
でも、文学者が抱えている狂おしいほどの苦悩が、別の立場からは、脳内物質の分泌で説明できるらしいのです。大学で生物の研究をしている知人の話がとても刺戟的で、わたしは特に性的倒錯を主題にしている文学に関連づけ、おもしろく聴いています。
いつか風にお逢いできることを楽しみに、花はいつも元気、元気。
* 三島由紀夫の初期作品ではわたしも「仮面の告白」にひきこまれた。
角川から出た昭和文学全集は「昭和」と冠したのが新鮮で、第一回配本に横光利一の『旅愁』がずしんと一巻で出たのにとびついた。高校生のわたしは一日十五円の昼飯代を全部喰わないで溜め、この全集を買った。三島の一冊に『仮面の告白』や『愛の渇き』が入っていたと思う。大岡昇平と二人で一巻だったかも知れない。
あの全集に、太宰治が一人で一巻しめていて、少しビックリしたのも思い出す。それほどわたしは太宰に気疎かった。吉川英治の『親鸞』が全一巻で入っていたのが嬉しかった。吉川英治を加えていたところにもあの全集の個性があった。あれこそ全集全巻買い揃えて全部を読んだのである、いい根性をしていた。そして妻と東京へ出て結婚する間際に、売り払ってきた。
だが、同じ全集中の谷崎潤一郎二巻だけは、わざわざ古本屋で古本を買い、新婚生活の数少ない蔵書として大切にした。テレビもなく、わたしは、毎晩毎日谷崎作品を音読し、妻はそれを聴いていた、六畳一部屋の新宿区河田町のアパートで。
三島作品では、いつも言うが、『金閣寺』の完成度に感心し、『潮騒』は三島らしからぬ優しさに一票を投じ、晩年の『豊饒の海』などは豪華に乾いた紙の造花のようで感心しなかった。戯曲は才気に溢れておおかた面白く読み、感嘆した。
「脳内物質の分泌で説明できるらしい」話は、ちょっとおもしろそうだけれど、ほぼその手の「解説」にわたしは「折角ですが」と背を向けることにしている。
むかし、親が愛蔵のピカソだかマチスだかのデッサンを、その家の女の子がひらひら振り回して、「でも、これって、唯の紙でしょう」と言ってのけたのを聴いたある日本の知識人が、いたく「感心」して書いていた。わたしは馬鹿馬鹿しいと思い読み捨てた。花が、この話、もう少し詳しく書いてきてくれるといいが。
2005 6・22 45
* 今東光の『痩せた花嫁』を読み返している。大正十四年に「婦人公論」に書いている。谷崎が、やがて『痴人の愛』を書き『赤い屋根』を書いて「ナオミ」との仲を精算して行く頃だ。
今さんは、「谷崎愛」の人であったから、佐藤春夫には厳しかったと聞いている。わたしに似ている。今さんといえば、裏千家の雑誌「淡交」連載の利休の娘『お吟さま』の直木賞受賞で久しぶり文壇に戻ってきて、以降は河内弁の荒らけた小説や、比叡山の大僧正や、猛弁そして参議院議員当選などでケタタマシイ後半生を送ったが、青年時代はハイカラ好きなしかも無頼に耽溺した美青年であり、かれもまた「ナオミ」の尻を追いかけていた。
この小説『痩せた花嫁』には、自然大正時代の果てて行く頃の彼の居場所の匂いが漂っている。わたしはそう読んでいる。
今さんとは一度立ち話しをし、と言っても彼は車椅子だったが、秦恒平ですと名乗るとすぐわかってくれ、懐かしげな優しい感じで握手を求められ、不思議なほどわたしも嬉しかったのをよく覚えている。あれは谷崎賞のパーティ会場であった。その一度だけしか出逢いはなかったが、今さんは、しっかりやってくださいと言われたか、何だか、有り難うと言われたか。
氏も、谷崎と同じく日本ペンクラブの物故会員である。後半生、晩年の作よりも、前半生の異色の秀作としてわたしはこの作品をえらんだ。
2005 6・23 45
* ゆうべは「フアウスト」のあと、「旧約聖書」の途中で寝てしまった。七時間ほどの睡眠。今日をやすむと三日間の余裕が出来て、月曜に委員会、水曜に本が出来てきて、木曜にも委員会。土曜は国立能楽堂で万三郎の古式「葵上」。成るようにみな成ってゆく。
2005 6・24 45
* 久しぶりに、ゆっくり朝寝した。最近の睡眠は平均数時間という感じだった。就寝前の例の読書で、真っ先に手を出した鏡花の『風流蝶花形』にひきこまれてしまい、短編とはいえ一気に読まされたのは愉快だった。
物語として大成功ではない、ただ菅原という威のある姉さん花魁と清香という妹花魁の宿世の縁を思わせる緊密な親愛を軸に、人の死と、恋の怨念とを狂言廻しするように白い蝶が夢のように舞い狂いつつ、清香の遠い故郷の母の死と、菅原のいわば恋故の怨讐が彼女自身の自死とともに実現して行く。
物語自体は、ま、鏡花調というを大きく出るわけでない。ただ、おもしろいのが、鏡花の自在にあやつる花魁たちの花魁言葉。どこか玉三郎が、しのぶあたりを相手に演じている声音まで髣髴するが、はて、まだ若い鏡花はこういういなせな花魁の風流(ふり) を、いつどこで学習し得たのだろう。彼は紅葉宅の玄関をまもる貧書生に過ぎなかった、金の苦労は人一倍であったことは師匠紅葉の書簡にもあらわれている。狭斜の巷に学習に行くこと、そうは例も機会もなかったろうに。
鏡花は金沢の浅野川ぞいの裏町に育っている。父は名工であったかも知れぬ金工の職人だった。母は江戸の能狂言方の家から嫁いできた。この二親の血からすでに鏡花は多くを得ていた。
だが文学は「言葉」である。言葉は学ばねば手に入らない、まして金沢に育って江戸東京の遊所独特の物言いとなれば。
学ぶのは耳から聴いてか、目で読んでか。鏡花の学習は耽読の所産なのであろうか。
わたしは、あるナイショバナシを小耳に挟んでいる、それは谷崎と芥川、二人とも自負自慢の「江戸っ子」であった、が、此の二人が小声のナイショバナシに、「鏡花サンのあの江戸っ子(江戸言葉、遊所言葉)は、なんだかヘンだよね」と話していた。それを洩れ聞いてわたしはにんまり笑えてきて、そしてそれでよかった、鏡花の「フシ」は鏡花の天才がさせた創造の所産だ、特製の言語なんだと確信した。
なれない人は、たとえば戯曲「天守物語」などの科白は「読み」づらかろう。心ひかれた何人もの役者や演出家達がいても、彼等はそれを目で「読んで」躓いたからこそ、あれほどの名作が鏡花の存命中には一度も舞台に成らなかった。坂東玉三郎という天才役者がそれを耳に「聴い」て舞台をみごとに実現したのだ、あの戯曲を読まずにいきなりあの舞台を観てしまった例えばわたしの妻など、なによりかより「あの鏡花言葉」の精妙の魅惑に一遍にしびれてしまった。もしあの言葉が、なにかのレアルな真似であればああいう幻想世界は映し出せない。言葉を(単語ではない)みごとに創造して行くから藝術としての文学も舞台も実現する。
『勝手口』の女達の、『風流蝶花形』の花魁達の言葉の、不思議な美しさとテンポとは、さながらに音楽であって、文学が、その性根その本質に於いてけっして絵画でなく、より深く音楽である本義を痛烈に表現し切っている。夜の夜中の疲労の中ですら鏡花の成功している文学の言葉は、わたしを眠らせない。
* 「戦争と平和」は苦しい場面に立ち至っている。この大小説のなかでも読者を悲しませる最大の犠牲は、愛すべきナターシャがいやな男に惑わされ弄ばれて、アンドレイ公爵との婚約を泥まみれに破滅してしまうこと、此処へ来ると苦痛で読み進みにくくなる。蟻地獄へ誘い込まれるようにナターシャ(オードリイ・ヘップバーンの最高に愛らしい姿を想え。)が汚されて行くのだ。それは不幸な人妻のアンナ・カレーニナが美貌の将校にはしるのとはちがう、ナターシャこそは無垢の処女であり許婚の処女なのだ。
この小説には、みごとに人物、いろいろの人物がいけるが如く配置され活写されているから、一つ一つの事件にも、読者の息がまるで喘いでくる。どうにかしてナターシャが屈辱の道はずれから救われないかと願いつつ破局へ近づいて行く。話の筋は熟知しているのだからいいようなものの、その辺が名作であり、幾度読んでいようが新鮮なのである。一度読んだら二度と読まないで忘れて行く読み物とは素性がちがうのだ。
* 体験を率直に言い置こうと思う、この闇に。
昭和文学全集を買い始めた高校から大学への、昔ばなし。その中には心惹く意外な巻がまじっていて、あれがあの全集の個性であったが、一つが吉川英治の『親鸞』全一巻であったことは前に書いている。吉川英治と谷崎潤一郎とは奥さん同士の親交もあった。ある種の人気でも、身を置く所こそ異にしていても「双璧」と呼んで可笑しくない二人とも純文学と通俗読み物の大御所であった。むろんその全集でも、例により谷崎は藤村と倶に二巻分を占め、そのうち『細雪』全一巻が収録されていたのは当たり前だ。わたしは当然、親鸞も読み細雪も読み直した。そして、いかに親鸞が読み物として面白かろうとも、こういう書き方では細雪の品位と稟質とには遥かに及ばぬことをイヤほど確認させられた。
吉川英治の『親鸞』は丁寧に書かれた大作である。だが、それはお話であり読み物であり、藝術的な「ことばの魔法」を楽しませる作品ではなかった。筋書きの面白さには堪能できても、言葉の生命力に清明の透徹感は無かった、「ああ、違うんだなあ」とわたしは驚歎した。秋声の『仮想人物』利一の『旅愁』川端の『山の音』『雪国』三島の『仮面の告白』等々こそ『細雪』としのぎを削り得ても、吉川英治のお話は、それらとは明白に「埒外」であった。文藝ではあっても文学の高みへは志していないと感じられた。わたしのその後の行方を、道を、意識を、この「体験」は決定した。
* 前田川廣一郎の『三等船客』をこつこつと起稿している。三分の一も行かないが楽しんでいる。題から察しても優雅で贅沢な世間の話ではない。船底近くに吹き溜まった安い船賃が目当ての客達の、ガサツに猥雑な時空間である、が、それは小説の世界と題材のはなしで、そういう時空間を作者がどんな言葉(単語ではない)を選びながら表現しているか、それが見どころで、また感動できるモノならそれにより感動する。何段ものベッドが一部屋にかなりの数並べてあり、しかも男女混成の一部屋になっている。サンフランシスコから日本への航海で、もう、いやまだ、三日めぐらいか。
こういう航海小説は、日本の作家の名作では有島武郎の『ある女』があるが、ごった煮ににた船旅のすったもんだでは前田川の『三等船客』は秀逸、描写が凡ではない。
2005 6・26 45
* 委員会のあと、ふらりと銀座で下車し、一丁目の、へんに懐かしい地下の「第一楼」で、簡略に空腹を一応満たし、紹興酒二合とビール。「世界の歴史」は、ヘレニズム文化の拡散を、プトレマイオス王朝の推移などとともに読み込んで。まっすぐ銀座一丁目から帰る。
2005 6・27 45
* ゆうべは、明け方まで読書。つまり、どの一冊もおもしろくてやめにくかったから。大きに寝坊。
旧約聖書が、かなり古い文語訳で句読点も節約されていて読みやすくはないのだが、そのぶん、いかにも簡古におもしろく、引きこまれている。いま、ヤコブ=イスラエルの子のヨセフが、兄たちの手で売られたエジプトにいて、神に保護されエジプトで枢要の地位にある。そして七年の大豊作と七年の大飢饉を預言し、賢明にこれに備えて飢饉を凌いでいる。そこへ食糧を買うべく、父の命をうけたヤコブの子らがやってくる。
鏡花も、トルストイも、ゲーテも、日本書紀も。すべて、みな本当の本物で、読んでいるのが、はんなり(=花あり)と幸せ。こういう真実佳い「いのち」とともに、一日も長く、静かに、生きていたい。成ることは成り、成らぬことは成らない、仕方がない人生だから、よけい大切にしたい。
2005 6・28 45
* 旧約聖書がこんなに「興味深く読める」物語のような聖典とは、わたしの認識が及んでいなかった。なにしろ厖大なのでただ敬遠していた。物語の展開する点では、新約聖書より、ずっとずっと。
投げ出すかも知れぬと危ぶんでいたが、それどころか、さきざきが待ち遠しい。
「ファウスト」は、旺文社文庫の佐藤通次訳の二冊本の文庫が好いと思う。鴎外訳を非常に尊重し、従うべきはよく従いながら、何よりこの人が「フアウスト」世界と周辺の時代や文化に深い造詣をもっている。従って、脚注も適切で有難く、また下巻巻末の大量の解説も優れている。ちくま文庫の鴎外訳はいいが、解説は大いに物足りない。凡な随筆を出ない。したがって、この大きな古典世界へ少しでも親しく踏み込んで旅するには、佐藤通次訳と解説の二冊本のほうが、はるかに読みやすい。一冊本は分厚すぎて、手にももちづらい。この二種類の「ファウスト」は、関西の久しい友である鳶が送ってきてくれたもの。それがなければ、わたしはこの古典を「二度繰り返して」読み継ぐという喜びがもてなかった。
* わたしのように、もう先に望みをもたない者には、大作を同時に七冊も、就寝前に読んで行くような夜、夜はゆるされても、若い人にはむろん奨めない。せいぜい二種類。それぐらいは、大長編とゆっくり付き合い続けることはすばらしい。その様にしていつか読み上げて、またいつか読み直したくなるのがいい。
2005 6・28 45
* 昨日、「ペン電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/」の「主権在民史料」室に、「坂本竜馬の船中八策」を入稿し、いま林房雄がまだ「転向」前、パリパリのプロレタリア作家であった大正最末期の短編秀作『林檎』を入稿した。同じこの人がのちには「大東亜戦争擁護論」などで世間を騒がせた。その趣意に賛否こもごもの議論の余地はあるが、単純に、かなりビックリさせてくれるこの人の「転向」人生であった。
『林檎』は、短編ながら話の持って行き方にさすがうま味がある。プロレタリア文学の右肩上がりに世間にハバをしてゆく時代であった。まさにプロレタリア「謳歌」の単純さが、読みやすさにも喰い足りなさにもなっている。
* 林のに比べて、坂本龍馬の『船中八策』は、慶応三年、彼が明快に打ち出した大政奉還後の日本国綱領を、ズイと書き示したもので、薩摩・土佐藩らの上書への、ないし明治維新への「政治展開」を明確に措定した観があり、余りに有名ではあるけれど、さて読む機会もすくない史料なので、とりあげた。明らかに二院制そして憲法制定を見越しており、万機公論に決すべしと云う後の明治天皇の五箇条のひとつをも、より国民の「公議」寄りに明記し、「主権在民」への遥かな第一歩を此処に刻印している。短いものなので、掲げておく。
* 主権在民史料 坂本龍馬の船中八策
土佐藩論が大政奉還に決定的に傾いたあと、慶應三年(1867)六月十五日、坂本竜馬(さかもと・りょうま 1835-1867)は大政奉還後の日本国「政治綱領」としてこれを廟議にも加わっていた後藤象二郎に示した。これより先、六月九日、二人は長崎より海路兵庫にいたる途中これを協議していたので「船中八策」と題されるともいう。薩摩土佐らの上書「新政府綱領八策」の貴重な基となった。幕府にかわる天皇親政を求めつつ龍馬は上下両院設置と憲法制定を見越し、主権在民にいたる道筋をすでに提示していた。『坂本竜馬関係文書』に拠る。
船中八策
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜(ヨロ)シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スべキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及(オヨビ)天下ノ人材ヲ顧問ニ備へ官爵を賜(タマ)ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クべキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採り、新(アラタ)ニ至当ノ規約ヲ立ツべキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スべキ事。
一、海軍宜(ヨロシ)ク拡張スべキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムべキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クべキ事。
以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ之(コレ)ヲ宇内(ウダイ)万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テヽ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟(イヤシク)モ此(コノ)数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国卜並立スルモ亦敢(アヘ)テ難(カタ)シトセズ。伏(フシ)テ願(ネガハ)クハ、公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。
2005 7・2 46
* もう日付がかわって一時半もまわった。新感覚派の旗手のごとく活躍した片岡鐵兵の意気軒昂の評論「止めのリフレヱン」を入稿した。いま、城塚委員長から「漢文」の扱いはどうしてきたかと問い合わせのメールを読んで、返辞した。漢文は、逃げられる限りわたしは逃げてきた。逃げられない場合も返り点など断念して白文にし、可能な限り 別に読み下すか大意をとって掲げてきた。
2005 7・2 46
* 新居格の「文藝と時代感覚」とを興味深く起稿し終えて確かめたら、もう早くに「ペン電子文藝館」に掲載していた。ウーム。すぐ気を取り直して稲垣足穂の短編二つを起稿し校正した。この人には『一千一秒物語』という掌の小説集があるが、わたしの「掌説」とは白と黒ほどちがう。
2005 7・3 46
* 石濱金作の作品を見つけて読む人はすくないだろう。やや刺戟のつよい「ある死ある生」を午後に起稿し、晩に校正し、今、日付の変わるところで入稿した。「清流の鮎のような」「ストレート」と評された作者であるが、この作品は、むしろややとんがったところを柔らかにまあるく書いていて、異色を帯びている。たわいなげな話でありながら、語り手の他に四人が登場して二話を成し、その五人共がさすがにくっきり個性を持ち、たわいなくない話に成っている。その辺がおもしろい。
2005 7・4 46
* 同僚委員の真有澄香さんが立派な『「読本」の研究 近代日本の女子教育』という大著を刊行された。博士論文の公刊でもあるか。心優しい行き届いたお手紙も添えていただき、有難く、恐縮している。「読本」を「とくほん」と読める人も少なくなり、また図書館や研究機関への風圧のつよさから、歴史的な史料が累卵の危うき、雲散霧消の危うさ、を招いているときであり、こういう貴重な研究が、しっかり書籍として誕生したのは本当にお目出度い。
2005 7・4 46
* 明治の「自由新聞」が『権利之源』と題した「論説」をかかげていた。当時としては優れた高度の思想で纏められ、感動の一文。「主権在民史料」として入稿した。名文だが往年の文語文なので、「ペン電子文藝館」にいれて誰もが容易く読めるとも謂いにくい。が、こういう史料を確かに積み上げ伝えて行くことに、わたしは或る種の使命を覚えている。
今一つ、明治天皇による維新の際の「五箇条のご誓文」またこれを受けて立った敗戦翌昭和二十一年元旦の昭和天皇の詔勅を、「主権在民日本」への大切な「史料」の一つとして、きっちり掲げておこうと思い立った。
* 明治元年(1968)の維新に際し明治天皇は「五箇条」の国是を以て詔勅した。越前藩の由利公正による先駆相似の五条があったが、此の「ご誓文」に、昭和の敗戦と以降に及ぶ近代・現代日本の基盤と目標が存在したことは、敗戦翌年(1946)の昭和天皇による「昭和二十一年年頭詔書」が明記、再確認している。しかし、これらの真旨が、必ずしも日本の近代・現代史にあって遵守ないし推進されたと言いがたいところに、今後真に「主権在民」の日本を実現して行く難しい課題が残っていると観なければならぬ。併記して再び三度び趣意を熟慮したい。昭和天皇の詔書はあえて平易に読み下している。
明治天皇五箇条のご誓文
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各(おのおの)其(その)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習(ろうしふ)ヲ破リ天地ノ公道ニ基(もとづ)クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大(おほい)ニ皇基ヲ振起スベシ
昭和天皇昭和二十一年年頭詔書(全文)
ここに新年を迎ふ。かへりみれば明治天皇、明治のはじめに、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
いはく、
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一、知識を世界に求め、おほいに皇基を振起すべし。
叡旨公明正大、また何をか加へん。朕(ちん)は個々に誓ひ新たにして、国運を開かんと欲す。ずべからくこの御趣旨にのつとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もつて民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。
大小都市のかうむりたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、まことに心をいたましむるものあり。しかりといへども、わが国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束をまつたとうせば、ひとりわが国のみならず、全人類のために輝かしき前途の展開せらるゝることを疑はず。それ、家を愛する心と国を愛する心とは、わが国において特に熱烈なるを見る。いまや実に、この心を拡充し、人類愛の完成に向かひ、献身的努力をいたすべきの時なり。
思ふに長きにわたれる戦争の敗北に終りたる結果、わが国民のややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪(ちんりん)せんとするの傾きあり。詭激(きげき)の風やうやく長じて、道義の念すこぶる衰へ、ために思想混乱あるは、まことに深憂にたへず。
しかれども、朕は汝ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚(きうせき)を分かたんと欲す。朕と汝ら国民との紐帯(ちうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもつて現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもつて他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。
朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、わが国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振興のために、勇往(ゆうわう)せんことを祈念す。わが国民がその公民生活において団結し、あひより助け、寛容あひ許すの気風を作興(さくこう)するにおいては、よくわが至高の伝統に恥ぢざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは、実にわが国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆゑんなるを疑はざるなり。一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕とその心を一(いつ)にして、みづから誓ひ、みづから励まし、もつてこの大業を成就せんことをこひねがふ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
2005 7・5 46
* 池田市の友人に手紙を出そうと自転車に乗った。雨も上がって、道は濡れていたが夜風は心地よかった。自転車を走らせるのに何の違和もなかった。二十分ほども近くを大回りして、帰ってきたいまは右の脹ら脛が噛みつかれたように痛んでいる。ま、いいか。
十一時。この辺で機械にさようならをして階下に降りると上等なのだが、じりじりやっている前田河廣一郎の「三等船客」が佳境へ来ている。
*「ペン電子文藝館」校正室にわたしの扱って入稿した四本の作品が出て来た。石濱金作「ある死ある生」稲垣足穂「短編二つ」林房雄「林檎」片岡鐵兵「止めのリフレヱン」である。入校前に繰り返し読んでおいたので、三本には直しがなかった。稲垣作品はうっかり一度の校正で入稿したために、数カ所に直しがあった。
四月五月で十三作、六月七月でも十三作品を起稿・校正・入稿してきた。
2005 7・5 46
* 今日もたくさん手紙やハガキをもらった。
『家畜人ヤプー』の沼正三さんから、湖の本への謝辞を添えて、署名入の著書『マゾヒストMの遺言』を戴き、ビックリ。しかもこの本、谷崎も三島も、康夫と慎太郎も登場、マゾヒストだけでない、異様な碩学の沼さんだから、ワクワクする。今夜から早速の楽しみに。
南山大の細谷博さんには評伝『小林秀雄』を戴いた。小林のことは余りに無知な私は、これまた楽しみに一気に読んでしまいたい。添えられた手紙にはわたしの今度の本に、「その奥行きの深さ、かつ語り口の闊達さ、鋭い批評性等に圧倒される思いが致しました、『折』の章など大変興味深く、次々とたどられる思考・連想の動きから、実にさまざまな事を考えさせて頂きました」とある。感謝。
2005 7・6 46
* 川端康成が、優れた小説家であるに加えて相当に透徹した理論家であり批評家であった一つの証明のような文章、「新進作家の新傾向解説」という大正十四年「文藝時代」一月号の評論を起稿してみた。云うまでもない新感覚派の文藝に対するつよい主張である。千葉亀雄が当時の文学の二大傾向を、新感覚派とプロレタリア派とに分別して以来両派の主張は烈しく衝突しながら、お互いの作品を生んでいった。わたしはこのところ意図してその両派からの記念作や秀作を「ペン電子文藝館」に送りこんできた。川端康成のこの評論は、たいへんいい参考文献になっている。
* おかげで、もう二時になる。
2005 7・6 46
* 感銘を受けながら、第四代ペンクラブ会長であった川端康成による大正十四年当時の「新進作家の新傾向解説」を入稿した。新感覚派の理論的根拠を明快に解き明かしていて、たんに時代に棹さしているだけでなく、新たに文学を創始しようとする人達への刺激的な発言にもなっている。小説をいましも書いていて新たな一石を投じたい人は、一読しておいたほうがいい。
* 明治初年の国会開設建言の波を「ペン電子文藝館」記念しておきたくて、いま、二つの草稿をスキャンした。三好徹さんに提供してもらった史料に拠っている。
* 城塚新委員長の体制もすぐに活溌にとは行かない。来るモノをただ「待つ」だけでは、過去三年半の体験からして知れている。まだ多数二十余人の委員の、どんなグループで、誰が何を分担し、どのような目標で作業が多彩に発効してくるのか明瞭に見えていない。当座は、わたしが、委員会の中で委員会とやや自立しつつ実績をつくり、新体制を支援して行く必要がある。それで、相変わらずせっせと、かなりの集注で入稿・掲載をドンドン独りで進めている。「館長」という、なんとなく自律の利く指導的利点を活かしている。四月末新年度入り以来、すでに二十七作品の入稿・掲載が実現しており、やがて委員会の活溌な始動・稼働をわたしなりに「待機」している。
「目標」を持たない仕事は、ただの遊びに似てくる。三年半でほぼ六百作を実現してきたのだ、せめてこの年度、少なくも百五十作程度は「発信」できないものかと願っている。ムダな労力をはぶき効率をあげるには、会員出稿分の「校正杜撰」をつとめて防ぐこと。完全な原稿と、校正室で何十個所ないし百個所を超えるような直しが出ていては、捌く委員長が堪らない。委員長を退いてからの自分での起稿分は、スキャンの精度を丁寧に期待し、最初に校正したあと、もう一度自分で「読み直し」てから入稿するという手間をかけている。おかげで校正室での直しをほぼ要せず、効率よく本館に挙げられる。
* 昨日一つ気がかりがあり、向山肇夫委員にその「原稿」を送付して欲しいと頼んだ。阿部真之助の「山県有朋」を入れようと云うのだ、阿部真之助は物故会員でその名も仕事も知られているが、山県有朋への視点や紹介・批評の方向次第では、日本ペンクラブとして問題を抱えかねない。
なぜなら、近代の政治家として、山県有朋こそは、日本国を軍国主義から戦争へ、また陸軍と長州藩閥との過剰な肥大へと陰に陽に推進した元凶であり、扱いを間違えると、最も反ペンクラブ的な「軍国政治家を顕彰する」といった妙な間違いになりかねない。公正で妥当な、鋭い批評の原稿であればいい。阿部にはほかにもいい仕事が多いのであるから、好んで火中の栗を拾わぬようにしたいのである。
山縣有朋に対し、どういう角度と批評で書いているか、少し心配で、必ず見せて欲しいとメールを入れた。こういう仕事をこそしてくれと、わたしは館長を委任されたものと考えている。
2005 7・7 46
* 明治の岸田俊子に「同胞姉妹に告ぐ」と題した渾身の論説がある。永く永くつづく。明治皇后に文学の講義役に入内下頃の俊子は、京都市出身のハイティーンであった。まさに俊秀の才媛であったが、一転して自由民権運動の渦中に毅然として身を投じ、女権拡張のために一貫活躍した。フェリス女学院を束ね、初代衆議院議長の夫人となり、死の前日までみごとな日記を書きのこし、端然と死んでいる。日本の近代が生んだ最高度に知性的な優れた女性であった。「同胞姉妹に告ぐ」を読み、そうして雀さんやココさんのメールを読んでいると、遠くを歩んできたと想う。
2005 7・7 46
* 鏡花全集(春陽堂版)第二巻をほぼ全編読み上げた。「琵琶伝」「海上発電」「化銀杏」「一~六之巻」「照葉狂言」「龍潭譚」「勝手口」「化鳥」「風流蝶花形」「七本桜」「山中哲学」など秀作・佳作・問題作がならんでいた。第三巻には「蛇くひ」があり、多く初対面の作があり、出逢いが楽しみだ。びっしり詰め込んだ全集の一冊一冊だが十数巻、それで鏡花の人生半ば、全作品ではない。春陽堂版全集を読み終わるのに、毎晩少しずつ読んでいても来年いっぱいかかるだろう。
2005 7・7 46
* 角川書店の佐藤吉之輔さんから『歌舞伎鑑賞俳句日記』というきれいな函入り著書を頂戴した。むかし、むかし文庫本『清経入水』を出してもらった。目次に十七句が出て、何年何月、劇場名が出ている。歌舞伎座が大方で、国立劇場が二度、新橋演舞場が一度。本文に当たってみると、新橋演舞場の花形歌舞伎の他は、悉くわたしたちも観ていたのには、いまさらに、ビックリした。国立で我當の演じた伊賀越道中双六に佐藤さん、「笠かざし相良と告ぐる秋時雨」と、佳句。どの一舞台一舞台も、髣髴と懐かしい。
* 小谷野敦氏には『恋愛の昭和史』を戴いた。「恋愛」に王道なし 不公平で、不平等なもの、それが「恋」なのである と、帯に有る。そうかも知れない。そうでない気もする。採り上げられているのは概ね知名文人達の恋愛やその表現に関して。
むかし、「消えたかタケル」を芸術生活に書いた頃、「日本俗情史」ということで企画にしようか、してくれと話が煮えていた。わたしは上澄みの感情を掬うだけでない、もっと地を這って流れる俗情の系譜を抑えておかねばいけないだろうと考えていた。今もそう考えているが、わたしは、もう手を出さない。
* 沼正三さんの巻頭エッセイ「家畜人ヤプーのこと」が興味深かった。細谷博さんの小林秀雄の伝記へも、するする入りこんでいる。枕元にはまた本が二十冊ほど積まれている。その中の七冊は必ず毎夜少しずつ読んでいる。目が霞んで来るのも当然だ。
2005 7・7 46
* 陸軍歩兵伍長松村辨治郎が明治十三年(1880)四月に建白した「国会開設の儀」を起稿し校正して、いま入稿した。「布衣」と自ら称しているのは官位をもたない一介の私民であるという意味。そういう「私」にして「兵士」が、自ら筆をとって「国会開設」と「憲法制定」を切望する気持ちが文面に漲っている。こうして澎湃と起こった声と願いの末に、実に曲がりなりにというしかない「明治欽定憲法と明治国会」とは実現した。大きく裏切られた自由民権の願いであったけれども、これを巻き起こした力は、むしろ「草莽」にあったことを我々は誇らかに忘れることは出来ないのである。
今日「草莽」在りや。情けない限りの選挙のありさまよ。しかしわたしは、郵政の問題で小泉の案が潰えてもいい、国会解散総選挙になることを切望している。
ああまた二時をまわっている。これから本を読むのである、明日の朝はシンドイかも。しかし土日月と、三日家を出ない。
2005 7・8 46
* 板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」を採り上げる。「国会」のいわば源流だ。
現代が、「主権在民」の確立へ真実向かっている過程にあるか、その挫折の歴史を歩んでいるのかは、まだ判断が付かない。だからこそわたしは「ペン電子文藝館」に「主権在民史料」特別室を設けて、その足跡の消えてしまわぬよう、心有る読者たちには思いを新たにするきっかけと成りうるように、願うのである。
2005 7・9 46
* 前田河廣一郎の「三等船客」を日に全集見開き見当で校正し続けているが、記憶に生きていただけあり、たいした作品である。腰を据えて等身大に場面を確実に、具体的に、鷲づかみにして書き取っている。その魅力が感覚的ににおい立つように表されている。どこからどう観ても船底の三等船室情景で、はれだつ何もなく猥雑と言えばたいへんなものなのに、ものともせず描き出されていく力は、健康な肉体のはずみのような魅力を放ち始める。石川達三の「蒼氓」もしたたかな作品であったが、前田川のたちはだかる剛の者のような筆致と展開とは、男くさいことくさいこと。あせらずに、文字や表現の一々を呑み込んでみる気持ちで読み継いでいる。「ペン電子文藝館」のなかでも重量級の作品になるだろう。
プロレタリア派の代表作品とされてきたが、そんな区別は意味を喪うような作で、川端康成もこの作品と作者とを尊重した発言をしている。宮島資夫の「坑夫」といい里村欣三の「苦力頭の表情」や木村良夫の「嵐に抗して」といい、たいした作品がプロレタリア派から遺されている。遺憾にも今では忘れられかけているが、すばらしい力である。
一方の新感覚派からは、間違いなく川端と横光利一とは大作家であったけれど、論客は勇ましかったけれど、遺された小説に地鳴りのするような感銘作が少ない。なぜだろうと、川端の「新進作家の新傾向解説」や片岡鐵兵の「止めのリフレヱン」を読みながらわたしは感じていた。
2005 7・9 46
* 少し必要もあって、杉山平助の「商品としての文学」という昭和六年の朝日新聞に書いた評論を「招待席」に入れた。びっくりする、先見の明を見せている。文壇でこういう論文が昭和六年に既に出ていたことに、わたしは驚歎する。杉山は昭和二十一年の師走に亡くなっている。戦後の出版をほとんど見ていないのである。しかも的をついている。存生なら飛んでいって堅く握手したいところだ。
* いま「招待席」に切望しているのは沼正三さんの「八月十五日」という一文である。おみごとと言っておく。比較的ご近所であり、自転車で尋ねて行こうかなと本気で思っているのだが。
細谷博さんの小林秀雄評伝、いろいろ教わっている。あまりにも小林のことはよく知らないで来た。まだその批評をしげしげ読みたいというところまで行かないが。
2005 7・10 46
* 日曜の夜は閑散。はやく寝床で本を楽しもう。「出エジプト記」は執拗なエホバのこころみとパロの不服従。しかし遂にパロは屈し、イスラエルの民はエジプトを離れようとしている。映画「十戒」がありありと眼に甦る。
アラビアンナイトは、三人の片目の男達が一人一人不思議な体験を面白く語って、これから文庫本二冊目、三人目の片目の男が話し出す、じつはシェーラザーデが王に語って聴かせる。面白い。面白い。詳細な訳注が面白い。なんで絶世の美女達が黒人を選んで隠れた恋人に持つのかにも、はなはだ即物的な解説がついていて、つい、唸ってしまう。面白い。
鏡花は春陽堂版全集の分厚い第三巻に入り、巻頭の「辰巳巷談」から読み始めている。
トルストイは、ナポレオンの軍の、はや、アンドレイの父公爵や妹マリアたちの暮らしている処へ、数日のまぢかまで迫っている。緊迫の砲撃がきこえてくる。
日本書紀はいましも木花咲耶姫の一夜孕みなどについて、延々と「一書(あるふみ)」の証言を掲げ続けている。初めて知る伝承もあり、興味津々。
ゲーテは、第二部の早々、ある王の宴遊の詩篇にさまざまに蘊蓄を傾けていて、傾聴させられる。
世界の歴史は、建国期のローマが、ギリシァに比べてもまたカルタゴ等に比べても、いかにみごとに緩やかな政治体制を敷くことで、多くの危機を、賢明いや聡明にのがれ、大帝国への基盤をかためていたか、聊か意外なほどの敬意をさえ払いながら、興味深く読み進んでいる。
そして、籤とらずのバグワンには、すっかり降参し帰依して平易に深いことばに服している。
2005 7・10 46
* 一気に前田川廣一郎の「三等船客」を読み上げた。充実した作品で、満足して血の沸く思いがあった。この作品に昔触れ合ったのはほんとうに偶然で、古本がやすく買えたから買ってみただけで、前田川ともう一人の金子洋文も、それまで名も知らなかった。題をみても読みたそうではなかったが、巻頭の「三等船客」に、得も言われぬ満足、純文学の満足を得て敬意を覚えた。爾来、何十年になるか。この作品への敬意をわたしは忘れていなかった。「招待席」にと思って躊躇は少しもなく、かなり長編だけれども割愛しないでとすぐ決心した。一行一行に、緊密な視線と思いがこもっていて、校正にも力が入った。いちいち学習しているようで、その気持ちが少しも負担でなく楽しかった。ああよかった、と。
さ、次なる力作は伊藤整の「近代日本人の発想の諸形式」である。これまたとびきり優れた長編の論考で、とても有益で興味津々。このごろ、こういう優れた論考がだれによって書かれているのか、少しわたしは疎くなっている。理窟をこねただけの評論が如何につまらないか、それなりに識っている。中村光夫、伊藤整、平野謙、山本健吉等々の論文を貪り読んだ頃の昂奮は、いま誰が読者に与えているのだろう。時代を画するような、作と作者をまた新たに生動・躍動させるような評論を、いったい誰が今は書いているのだろう。
* 小栗風葉の秀作「寝白粉」には問題がある。それについて、わたしは起稿後も校正室に送りこんでからも、長く抱いたまま本館掲載を躊躇していた。で、新委員長と委員会に判断を委ねたのだが、二十数人もの委員の誰からも反応がない。
2005 7・11 46
* 一太郎のファイルを整理していて、大事な今の今必要な記録のファイルを消去してしまい、苦心惨憺して機械の中から少なくも途中までの原稿を見つけ出し、それに急遽追加して、辛うじて事なきを得た。汗をかいた。日付も変わったので、今夜はもう休息する。
伊藤整の論文「近代日本人の発想の諸形式」がとても面白く興味深く。こういうのと取っ組んでいると、前田河の小説同様に、嬉しくなってくる。吸い込むように読み進められる。
2005 7・12 46
* 山のようにメールが来ていて、「ペン電子文藝館」の校正室へもわたしの扱いの校正が五作六作とどっと出て来た。主権在民史料は、自分で読み直して、ぜんぶ本館へ挙げてもらえるように校正し始末したが、前田河廣一郎の「三等船客」は長編なので、おそるおそる三人の委員に読んで欲しいと頼んだ。みなさん、長い作品を原稿なしの常識校正=通読は、普通の校正以上にたいへんなのである。
2005 7・15 46
* 伊藤整の長い論文を、みなスキャンした。また嚶鳴社が明治十二三年頃の「憲法草案」をスキャンした。あれあれというまに日付が変わりかけている。深夜のメールは海外からとどく無数の不正メールと相場がきまってきた。
2005 7・16 46
* さて、目をさまして、また伊藤整を読み、初期自由民権期の草莽の志を「憲法草案」に読みとりたい。
2005 7・17 46
* 一気に読みました、「近代日本人の発想の諸形式」。
> しかし、その(藤村の「新生」の)やうなリアリズムの逆行的利用を「偽善」と考へるやうな芥川的な明晰な考へ方をする人間が、日本の社会で論理的な仕事をしながら生き続けることは無理であつた。
どうして無理なのか、伊藤整は説明していますが、この辺がなかなか腑に落ちません。じっくり文脈を追ってみます。
また、概観的なこの論文のみでは、登場する作家たちのすべての作品・作風を理解していないわたしには不十分です。
例えば、「藤村、鴎外、漱石、荷風、潤一郎」といった作家について謂われていることは、「フムフム」と頷けるのですが、「有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、宮本百合子、中野重治・・」などの作家については、表面的なことしか知らないので、「そうなのかなア」と思うにとどまります。
つづきを楽しみにしながら、この論文を読みこなせるように、読書範囲を拡げていきたいです。
風がお元気で、嬉しい花。
* なるほど近代文学を、大方の傾向を、避けずに広く読んできたわたしの興味や関心を、やや押し付けかけていたナと、反省した。わたしのようにいろんなジャンルと傾向とに狭く拘泥しないで「読んできた」人は、じつは文壇のプロたちにも、めったにいない。出逢ったことがない。学者は、専門があるからむしろ当然のように狭い。それだからこそ、作家のわたしにも、「ペン電子文藝館」の仕事ができるのだ。数百におよぶ掲載作品を、わたしは読んだものから選んできた。広く読んでいないと「選べ」ないのである。
なるほどなるほど、白樺派の大家たちも左翼の大物作家たちも、文学を志している若い人にあまり親しまれていない。すこしショックがあった。
* 現時点では、伊藤整の論文を隅から隅まで理解できません。中に登場するすべての作家の著作によく通じていないから。偏にわたしの勉強不足のせいです。
かといって、知識を得るために興味のないものを無理に読むつもりはありません。作者の血肉である作品を、知識のために読むことは意味がないと思うのです。興味を持っているときは、読んだものがすうすうと体に染みてゆき、深く記憶に刻まれます。そういう自覚が生まれての、自然な読書欲に身をまかせています。
「読んでみて」と教えてくださるのが、風であるがゆえに、興味の湧くということもありますし、手をつけるよいきっかけになっています。押し付けだなんて感じたことありませんよ。
知らないことばかりですから、新鮮ですし、そこから拡がる世界というものもあるのです。
ま、「近代日本人の発想の諸形式」のような評論を、すらすら読めるようになれたらいいのですけれど。
「三等船客」を読んでみます。
> この数日、ノンビリしています。
よかった。たまにはノンビリしてください。 花
* 知識欲から小説を読むのはたしかに上等な読み方ではない、そういう附録は読んだ跡に自然と残るだけ。花の姿勢は、当然そうあっていいことだ。
2005 7・17 46
*「嚶鳴社憲法草案」を入稿したのに続いて、小田為綱らの「憲法草稿評林」を抄録しようと、また沢辺正修らの「大日本国憲法」案の全部をスキャンした。自由民権派の主要な憲法構想は遠く新憲法を経て今日までの、主権在民を求めてきた歩みの、やはり大きな第一歩。読んでいて、興味ふかいものがある。
関聨して阿部真之助の「山県有朋」を読んだ。これは山縣批評として正鵠をえていた。あの軍国日本へ陰険至極にひた押しした政治家を少しでも過って評価していたら館長として絶対採らない気でいたが、さすがに的を射て厳しかった。それならば、好エッセイとしてむしろ積極的に採りたいと思った。
2005 7・17 46
* 伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」を起稿しおえた。これは、「ペン電子文藝館」に実にふさわしい大きな論文として、中村光夫の「知識階級」や同じ伊藤の「求道者と認識者」とともに、文学のいい読者に必読を誘う魅力となるだろう。長い作品だが、もう一度丁寧に通読してから入稿したい。感謝。
七月に入って以降、わたしの扱いで起稿・入稿した「ペン電子文藝館」作品は、これで、十六。五月と六月の分が合わせて、十五。四月末に新年度に変わっての四月分が、四。新年度滑り出しのところをこれだけ手伝っておけば、当分休ませてもらえるだろう。自分の、したい仕事が目の前にぶら下がっている。
2005 7・20 46
* 『ファウスト』二冊本の一冊を読み終えた。ドラマは第二部に入っていて、ファウスト博士が、「母の国」(これはゲーテのかなり難しい理念を含んでいる。)に赴き、あのトロイ戦争二人の主人公、美男子のパリースと美女のヘレーネの霊姿を現世へもたらす。そこで一冊めが終えている。一度目を通読したときとは比較にならぬほど精しく丁寧に読んでいて、興ふかいことも比較にならない、じつに面白い。正直の所、こうもやはり面白い佳いものとして自分にも読めるとは期待できなかった。一度だけの通読で手放さなくてほんとうによかった。訳と註の佐藤通次の丁寧な配慮に感謝する。
2005 7・20 46
* 小田為綱らの「憲法草稿評林」を校正していたが、疲れてきたので、あと十五分で日付の変わらぬうち、機械の前を退散しようと思う。郵便局のポストへ一つ投函しに走ったとき、大きな月があかく暈をきていた。あすは雨か。
カトリーヌ・ドヌーヴの映画を、もう少し見残している。
2005 7・20 46
* 明治初年の「憲法」制定をめがけて、顕臣も、官僚も、草莽も、外国人も、競って憲法案を書いている。その代表的な例を「ペン電子文藝館」の「主権在民史料」特別室のためにスキャンし起稿しているが、なかには、条に応じて評論しつつあるのもあり、興味深い。天皇制と天皇についても、右も左も、いろんな考え方で条文をつくっている。議論の起こし方に個性がある。わたしが、日本ペンクラブのなかで「憲法学習会」をもち、憲法論争に即応できる体制をと繰り返し理事会で発言してきたのも、そういう史料を読んで知っているからだ、こういう用意があって初めて議論も出来声明も起こせる。
2005 7・21 46
* 松田存さんの「ペン電子文藝館」出稿分が手元でスキャンされている。電子化できないこういう会員からの頼まれものも、出来る限り親切に手伝ってあげたい。「能の笛方鹿島清兵衛をめぐる人々」と、もう一本。
2005 7・22 46
* 松田存会員の「能の笛方鹿島清兵衛をめぐる人々」を入稿。鹿島の能笛はしかし彼の趣味・道楽。実像は、明治にしか現れないような奇男児である。おもしろい男。松田さんの著『近代文学と能楽』所収。
* 伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」も起稿と校正を終えた。妻に二度目を読んで貰ったが、こんなに面白い興味深い論文はめったに有るものではないと、いたく伊藤先生に感じ入っていた。さもあるべし、同感である。
「小説家・文藝批評家・詩人 1905 – 1969 北海道に生まれる。近代日本の文壇文学史を形成する上で不滅の業績を積み上げた昭和の文学者として記憶される。伊藤の批評は常に時代の先頭を切り開いて鮮明に視野を広げたが、その支えに、実証的また洞察に富んだ研究と、実作者の体験があった。 掲載作は、昭和三十五年(1960)の『求道者と認識者』に先行して、昭和二十八年(1953)二月-三月『思想』に連載。日本近代文学百年の『発想』の性質を剴切に把握・分類した示唆豊かな、独創の『日本人』論でもある。」
「求道者と認識者」は、さきに「ペン電子文藝館」に招待した。
*「ペン電子文藝館」にはすでに六百の作品が掲載されている。そろそろ、この多彩に溢れている館の、いわば「蔵書群」に対する、いわば司書役の「道案内」が必要になってきたと思う。現会員の作にはうっかり触れがたいが、「招待席」「物故会員」「特別三室」には、それが出来るし必要になってきた。掲載作品群を見渡して、「単独作品」での、また「複数作品」での、また「対照的作品」での、また「グループ」での、また「時代」での、また「文学的な主張や傾向」での、簡単でいい読みやすい「案内」が出来ると、電子文藝館を訪れてくる不案内な読者には、ずいぶん便利で親切だろう。
ただ、こういうことを云い出すと、それの出来るのは、結局殆どの作品を読んで選んで納得して掲載してきた、主として、館長のわたしになってくる。ほかには委員の中でも大学で国文学の講座を持たれている委員が三人おられる。考えたい課題として、じつは、ずうっと以前の理事会でも、他の理事からそんな話題が、要望が出ていた。だが、まだ作品数が少なかった。もう十分だ。
2005 7・23 46
* 公爵アンドレイ聯隊長がボロヂノの戦場で仏軍の砲弾に腹部をうたれて野戦病院にかつぎこまれた。前のオーステルリッツでであったかの、仏兵に殴り倒された負傷もあっけなかったが、今度の被弾もなんだかウソめくほどリアリティがある。イザとなると知識人のよぶんな智恵の廻り方が本能を瞬時停止させてしまう、そういうときにこういうふうにコトは起きる。
トルストイは、どうしてこうまでモノが見えるのだろうと呆れるほどだ。
ピエールが伯爵の富豪という身分に任せて、ごく普通人のいでたちのまま錯綜する戦場を「見物」にきて、将官や将校や兵士たちに苦々しい不安と不快をかき立てながら、本人はいっこう気付かずのめりこむように戦況に浸り込んで恐怖心すら見失っているうち、戦死累々の屍骸にとりかこまれ、ようやく恐ろしくなり不格好に馬を馳せ廻らせて逃げ出す。このピエールのある種とんでもない、ぶざまに配慮を喪った無感覚な暢気さ加減も、ピエールを識って入る読者にはとても信じられないほどの、しかしリアリティーに溢れていて、把握の強烈さに仰天させられる。ああいうバカげたことを身分に守られた特権の知識人というのはやらかすのである、ほとんど無自覚に。
トルストイのこの『戦争と平和』の書きっぷりは、才能のある作家が才能を発揮したというが程度の書き方ではない。トルストイは「書いて」いるのでなく、その現場をまさによく見える眼でまざまざと「観て」いるとしか思われない、神かのように。あの大きな歴史的戦争を細部に至るまで、心理も行為もすべてガチッと掴み取るように書いている。ディテールが具体的なので批評が概念的にならず、それこそがトルストイの意図であった「戦争」論と「人間」把握とに徹底した哲学的考察と化している。
ずいぶん戦争ものも読んできたが、また世間の大きい小説も読んできたが、トルストイの書いているのに比べると、みな、小さな機械的な想像力の不自然そうな所産かのように見落とされる。
アンドレイの二度目の重傷が、やがて大きなドラマの転回点へ作品を運んで行く。トルストイの邸宅が「ソ連作家同盟」になっていて、其処の食堂でエレーナたちと食事をしていたときに、初めてもう亡くなった講談社専務の愉快な三木章氏と通訳として同行していたらしい米原万里さんとに、声をかけられた。大声で皆がおどろきあい話し合った賑やかさを、いま、まざまざと思い出す。佳い建物だった。
*「出エジプト記」の出エジプトを終えてからのエホバ神の、イスラエルの民へのさまざまな要求がいまえんえんと続いている。ウヘェーッという感じ。
日本書紀は神代を抜け出て、神武天皇即位直前の「カンヤマトイワレヒコ」の、大和へ進む悪戦苦闘が叙されている。土着の勢いをいろいろにたばかり討って行くところで、わたしのあまり好きになれない大和朝廷成立前記である。騙し討ちが双方の戦略になりがちで、陰気なのである。
* それに比べると『千夜一夜物語』の不思議な魅力、飽きもさせず荒唐無稽のおもしろい体験談が、いろんな連中の口から、やすむまもなくつぎからつぎへ止めどなく語り継がれて行く。休んでしまったら、只一人の本当の「語り手」である美しいシェーラザーデは(介添えの妹をのぞいて)只一人の聴き手である王様により、縊り殺される運命にある。
この物語は、文字通り大勢の体験談連鎖でつづくのだが、単純な連鎖ではない。幸田露伴の『連環記』に似ている。露伴翁は千夜一夜物語の話法を小規模的にじつは取り込んだのではないかと想像してしまう。一つの話題が環を書いたように元へ戻ると、すぐそのまままた別の環を描いて次なる別の話題が進んで行く、それが露伴『連環記』の胸を張った手口・語り口なのだが、その同じ手は『アラビアンナイト』が千夜一夜にわたり駆使している。譬えて云えば、ペンをもち、ひたすらグルグルグルグルと同じ所に環を描き続けるかのように、話は進んで戻ってまた進んで戻って話しつづけられる。その中に、ヘンチキリンだが要所を衝いた詩句・詩篇が鏤めてある。世界史の中で桁外れに豊かで巧妙で底知れない最大の「おはなし」美女が、シェーラザーデなのだ。
だれかのメールに「エジプト」が舞台とあったが、エジプトも含めて少なくもアラーの神の「世界」が本舞台である。
この物語で、若かりし日のわたしが最初に覚えたのは、ことに美少年や美男の形容に「満月」の用いられることであった。日本の古典に満月を人間の肉体美に推しあてた表現は記憶がない、三日月のような眉とか目とか謂うようだが。
*『フアウスト』の骨格の太さ強さをますます魅力的に感じ、ほとんど詩句の一行一行を舐めるように読み進んでいる。幽霊の美男パリースに嫉妬してフアウスト博士は強引に彼を消そうとし爆裂にあい、卒倒したまま悪魔メフィストフェレスに厄介をかけている。メフィストはフアウスト博士のもとの書斎へ横柄に立ち返って、現世の研究者や学者を嘲弄している。
それにしても日本の有力な学者さんたちは、どうして、ああも延々地位をもとめ転々し恬としてしかも陰気な顔つきなんだろう。現役の地位にいないと、うかと引退してしまうと、「位階勲等の栄爵」が舞い降りてこないからだと解説めく噂を聞いた。なるほどなるほど。お利口なことだ。
* 笠間書院が中世物語の『松陰中納言』を贈ってきてくれたのが嬉しい一方、挟み込みの月報に、今井源衛さんが一年も前に亡くなられていたと初めてしらされ、仰天した。悲しい。永く九州大学におられ、定年退官されていた。物語文学の研究者としてすこぶる剴切な論説で旺盛に読者を刺激して下さったし、わたしは「湖の本」を介してかげにひなたにずいぶんのお力添えを戴き続けたのである。
ああ、こういうふうにお別れしていたのか、わたしは知らずに本を贈りつづけていたのだ。ご遺族も黙って受け取っていて下された。頭を垂れる。
わたしには、学会でも大勢の知己がある。なかでもお名前に「衛」とつく角田文衛、目崎徳衛、今井源衛三先生には、それぞれに異なったしかし温かいご教導と親愛とを賜り続けたが、目崎先生が先に、ついで今井先生があとを追われ逝かれた。
長谷川泉さんのことも思い出す。今井さんと長谷川さんとはかつて清泉女子大学で同僚であられた。
しかたないことだが、大勢の恩人に死なれて死なれて死なれてきた。なるほど「点鬼簿」とか「掃苔録」とか、ある時期が来ると書きたくなるわけだ。どのような人に力を添えてもらいながら生きてきたか、息子や娘や孫達に遺しておく必要を、にわかに感じ始めている。
* 世界の歴史は、ついにシーザーも、アントニウスとクレオパトラも死に、シーザーの養嗣子オクタヴィアヌスの時代とともに共和政のローマが帝政へ大きく転じようとしている。なんとも言えず興味深い。
* 鏡花はいまは「通夜物語」を読んでいる。このあたりの鏡花は一つの停滞期か。
2005 7・24 46
* 会員の望月洋子さんの電話を受け、「ペン電子文藝館」への出稿の手伝いをすることになり、望月産の出世作、新潮選書『ヘボンの生涯と日本語』の第一章をスキャンしてあげた。メールで送り、校正起稿は望月産に任せた。
2005 7・24 46
* 昨日の台風は、ついに一度もなにも感じないまま、読んだり書いたりして夜更けになり、それから八種類の大作を順々に読み進み、少し恢復してきたのかも知れない黒いマゴの相手をしてやり、あけの四時にはおきまりの外出に玄関のドアを明けてやって。文藝館のことでも委員長と必要なメールを交換したり。校正したり。あまり眠らなかった。いま、少しあくびが出た。
2005 7・27 46
* なんだか長与善郎の「竹澤先生といふ人」が無性に読みたくなってきた。高校時代に憧れるように耽読した。武者小路の「真理先生」や「馬鹿一」よりはるかに前のこと。さ、今読んで胸にしみとおるか、もう受け付けないか、少し予断ならないが、あの頃はもう無性に理想的に感じたものだ。
2005 7・27 46
* 明治十三、四年に書かれたと観られる、小田為綱ほかの執筆「憲法草稿評林」を遅々起稿している。元老院による「国憲」第三次草案を各条かかげて、それに対し小田為綱自身と観られる前後二様の、また別人と観られる今一人(あるいは複数)の、批評・評論が書かれてあって、たいへん読み応えがする。一つには、元老院といういわば国権の最高機関の意を体した「国憲」草案が提示されているのが参考になり、この各条へ加えた自由民権思想からする「評論」であることが、貴重。
ことにこの「評林」は他に例のない「廃帝」ないし「政体変更」までも視野に入れた議論を試みていて、ヨーロッパ各国の憲法へもかなり広い適切そうな目配りをしている。主権在民を冀求するものには参考になる、傾聴に価するところの多い明治初年の所産であり、こういうものを観ればみるほど、たとえば「九条の会」の努力などが、ただただ憲法改正反対のムード醸成により大きくかかわるだけに終わりかねないのを怖れる。この「評林」のような討議もまた欲しい。それも有志がバラバラに自慰的にやっていては纏まった力にならない。
2005 7・28 46
* メールで送られてきた、ほぼ百枚ほどの小説を読んだ。読み終えてほろりとする個所もあった、きもちのいい、しかし淡泊、明らかに長すぎる額縁小説であった。或る話題で始まりその話題で締めくくられる。その間に同様・同味の思い出がタップリと経時的にサンドイッチされている。小津安二郎の映画のシナリオのようで、それは譬えが良すぎてそうはうまく行ってない。何よりも「愛おしく」書かれている人の「外形の記憶」に頼らざるをえないという、内面を端折った書き方になっていて、それも実に淡々と抑制した筆づかいであるため、人間も事柄も「活・躍」していない。
しかし、題の「夏みかん」に絞られてくる収束はけっこう綺麗にため息の出る切なさで書かれている。伊藤左千夫「野菊の墓」や嵯峨の屋御室「初恋」の息づかいに遠く繋がりそう。しかし、ああいう名作と比べられる出来には、まだ、成っていない。六、七十枚にまで絞り、物語のどこかに強いメリハリを設け、起承転結の体でいうなら、強い「転」の工夫を大小二つも用意すると、快い読後感の短編が出来上がる、かも知れない。
なによりこの作者のためにイイと思うのは、作品を下支える或る文学的な「明るさ」「光源」を見つけたらしい気のすることだ。文学・藝術はファシネーションで人を魅惑する。いかなる材料を書いて、創って、いてもである。
2005 7・28 46
* 電子文藝館で、「寝白粉」と「三等船客」を読みました。
「三等船客」では、石川達三の「蒼茫」を、やはり思い出しつつ。骨太な作品でした。おもしろかったです。
「寝白粉」には、ムウと考えさせられました。
あの「新平民」の扱い方は、当時の感覚としては普通だったのかも知れません。そういう資料として読むことはできます。
藤村の「破戒」を、「藤村という知識人にしてこのていどの認識だった時代をあらわす資料的価値しかない」と云った人がいました。
差別表現に敏感になった今日では、常識的な意見かもしれません。ですが、それがために、文学としての価値がまるでないとは、言えないと思います。
差別問題と文学と。判断基準は一つではありませんから、難しいですね。
「寝白粉」は風葉の代表作なのですか。ほかに佳い作品があれば、そちらの方が無難と思いますが。
今日はバレーをして、疲れました。
ほんとうは用事に出掛けたいのですが、一旦家に入ってしまうと、出るのが面倒になります。「中日」という物言いが身にこたえるほど愛知県の日射しはガンガンですし。
もうすぐ八月なのですね。早いなあ。
昔の暦ではそろそろ秋に近づいていますが、現代は、これから夏本番という感じですね。 花
* すっかり書き忘れていた話題を、この読者が持ち出してくれた。「中部日本」出身の小栗風葉「寝白粉」のことである。
先日の電子文藝館の委員会に、わたしから提出して、もう一年半も「校正室」に店ざらしのこの作品を、本館に「掲載」してよいと思われるかどうかの意見を請うてみた。事前に二人三人が、メーリングリストで意見を下さっていたのは、此処へも書きうつしたか、どうか。
掲載するのに大きな問題は、「今では(こんなこと)無い」のではないか、掲載していいのではないか。そういうことだった。
先日の委員会で、何人かの委員が発言された。
おどろいたのは、この作品のついに「近親相姦」にいたっているのを「あさまし」とは読んでも、近親相姦に追い込まれるまでの、強烈に社会的な「人間差別」のむごさ・あさましさには、あまり、いやほとんど、理解や感受が届いていないこと。ひどい例では、たとえば身体的ないわゆる普通の差別的表現と、この作品の書き表している、身分という以上の人外差別とを、まるで同レベルにものを云われる理解の薄さ。愕いた。
表現としての「片手落ち」の「目暗(めくら)」のというのとそれとは、比較にならない別ゴトである。そもそも近親相姦は浅ましくも厭わしい限りであるけれど、それは広い世間には起きている当事者間の悲劇でこそあれ、先天・世襲の不当差別とはまるきり問題がちがっている。「寝白粉」問題は、そんな近親相姦にまで必然兄妹を追いやって行く、社会そのものの差別意識の「あさまし」さであらねばならない。
またさらには、そんな人外の差別など、とうに過ぎ去りし明治の「昔昔」の世相や偏見によるもので、今ではほとんど問題ないだろう、知らない、と云う人までがあった……。なるほどね。だが、日本の実態はまだまだそんなワケに行かない。
作品の掲載は差し控えたほうがいいのではと云う意見も、有った。それもよく聴けば、ある種の団体的な力がその掲載を目の敵にして暴力的に抗議してきた場合に、日本ペンは、ないし文藝館の委員会は「対抗できないから」というまでの意見であり、その先へは半歩も出ない。判断がストップしている。
この風葉「明治」作品に書かれているのと全く同次元・同様の現れようで、今なお強烈に人が人に差別されている「平成」の現実の、なお多く多く日本列島に実在していることには、ほぼ誰も、誰一人も遺憾の実感や見聞を持っていないらしい事に、わたしは「ああ、やっぱり」と心から愕いたのである。そういう「幸せな人達」の討論で終始したのである。
「寝白粉」は佳い作品か。佳い作品だと思うという人が多かった、てんで分からないらしい人もいたけれど。
非常に大事な応酬もあった。文学として現に優れた達成を得ているのに、差別問題などでその評価を左右するのは本末転倒であろうという発言があった。
正論に似ている。しかし、それは狭い正論であろう、「幸せな人は不幸せな人のことは気に掛ける必要はない」という議論に繋がりかねないのも恐ろしいことだし、ま、その辺は別の議論にゆだねてもいい。しかし、わたしがこの「寝白粉」を文藝館のために選び、起稿し、校正室にまで送りこみながら、本館への掲載を長く躊躇ってきたのは、「人権」のためにも闘っている筈の「日本ペンクラブ」が、また協賛する「電子文藝館」が、いかに「寝白粉」が風葉代表作の一つであり魅力の文学表現であるにせよ、他にも作品の無いわけでないのに、このように深刻な問題含みの作品をわざわざ公に持ち出していいものだろうか、という「ペン」の事業上での配慮と不安であった。
一例を謂おう、かつての副会長であった現役の某作家から、優れた作品であるからと、「反戦反核」特別室のために推薦された作品があった。櫻井忠温作「肉弾」である。往年の話題作で、わたしも朧に記憶していた日清か日露かの戦争に取材した昔の小説であった。念のために読み直してみた。明白に戦意昂揚、侵掠も肯定、外国国民への侮蔑表現もいっぱいの、しかしながら力作に相違はなかった。
「ペン電子文藝館」はたんなる文学全集でも図書館でもなく、日本ペンクラブが国際ペン憲章に賛同した思想団体としての文化事業である。いかに力作であれなにも好戦文学を進んで世に広める役はしなくてもいいと、わたしは委員長権限で握りつぶした。当然のことだ。
文学作品として優れていれば何の問題もない、差別のどうの、戦争のどうのという外的問題に煩わされ、評価をあやまるのは間違いである、論外である、と、本当に「言える」のだろうか。作家である前に一人の人間で一人のペン会員であるわたしは、そんな文学・藝術の至上主義者には安閑とはなれないのである。配慮の出来ることは配慮してみる、それが知性ではあるまいか。
或る一人の委員から、これはかなりのレベルに達した小説で、その意味では掲載の価値は十分あるが、作者の姿勢から云うなら、「人外・制外の差別」をただ単に「手法的に利用」して物語をおもしろく創っており、その意味では、これに後続して世に出た例えば藤村の「破戒」ほどの自覚も批評も持っていないのは明瞭であり、読み終えた時の感想には「イヤ」なものが混じっていたという発言が出た。それがわたしの思い、わたしの躊躇と、しっかり重なっていた。
ちなみに、わたしが掲載候補作「寝白粉」に書いて提示した略紹介は、こうである。
* 招待席 小栗風葉 おぐりふうよう 明治の小説家 尾崎紅葉の愛弟子 此の掲載作は作者の力量を示す一代の代表作の一と謂いうるとともに、その題材の扱いや表現に、今日の認識よりして異様に不穏当な遺憾極まるもののあることは覆いがたい。編輯者はこれをつよく憎むと同時に、此の作に見せている作者文藝の才には感嘆の思いも深い。読者は心してコレを取捨されたい。作者の意識認識は愚劣である。しかも文藝の結晶度はすぐれて堅い。
* これは「委員会向けの討議資料」でもあった。普通にいつもどうりに書いていたら、誰も問題にしないで、掲載可能であった、委員長館長判断でわたしはそうしてもいっこう構わなかった。だが、一年半店ざらしにして誰かの反応を待った。何も出てこなかった。それでとうとう委員会議題にしてもらった。
その議論では、掲載問題なしの意見が多数を占め、やめたほうがいいを圧倒していた。それはそれでいい。わたしが、愕いたのは、差別される人達の身になって、この問題を考える姿勢や言葉が、ついに誰一人からも出なかった事実である。そして、関西と関東では、問題意識も現実もちがうのだと片づいた。それにもわたしは内心驚愕した。藤村の「破戒」を識らない委員もいてこれにもビックリした。それでいいんですよ、寝た子は起こさない方がイイという、毎度の声が耳の奧の闇へかすかに届いていた。そうかも知れない。
* さきに届いていた愛知県の一読者のメールは、藤村の「破戒」についても触れつつ、そして文学の価値が差別問題がらみでのみウンヌンされるのは間違いであろうと正しく言及し、しかし、「寝白粉」には、「ムウ」と絶息させるものがあると認め、もし他に良い作品があれば、それに差し替えた方が「電子文藝館」として妥当穏当なのではないかと語っている。わたしの認識を、うまく代弁してくれている。
委員会の、このような問題に対する認識を知りたくて、提題した。
電子文藝館への作品掲載には、こういう慎重な、視野のある判断がぜひ必要なのである。
会員提出の原稿は、今の内規では絶対に審査できない、する気も、権限も、資格もない。しかしその余の作品については、目の前に原作・原稿さえあればよく読まないまま、無反省にホイホイと進めてはならないのである。まして少数であれ多数であれ一つ一つの掲載作品が、謂われなく人を傷つけて良いワケが無い。電子文藝館委員会はそういう「責任」を自覚してやってきた、わたしはそうしてきたし、今後もすべきである。より良いものを選ぼうという利用者への真のサービス精神なしに、「電子文藝館」を拡充する意義など、何も無い。パブリックドメイン(公共財)なのである、「ペン電子文藝館」は。
* 一任された「寝白粉」は、館長判断で掲載を見合わせ、他に匹敵する風葉の佳作を探してみる。
2005 7・28 46
* 話し疲れてもいたし、この上クラブで酒を呑んでは堪らんと思い、一直線に帰宅。一つには、「世界の歴史」のローマ帝国にキリスト教が誕生しようやくヘレニズムとヘブライズムが組み合い、そしてわたしの好きな哲人皇帝マルクス・アウレリウスが登場しようという辺りを電車で読みたくて堪らなかった。
2005 7・29 46
* 或る読者から「ペン電子文藝館」の作品に対する佳い批評的感想文が投稿されてきて、委員会でも感謝し評価して、これを機に、「ペン電子文藝館」に、「読者の庭」を設け、掲載作品(群)や作者(群)を自在に論じたて投稿を受け入れ、むろん厳正に審査して掲載して行こうということになった。
素晴らしい呼び水になるのではないかと期待している。投稿者に文章や用字をもう一度念のために点検してもらった。
この試みはきっと成功するだろう、成功させたいと思っている。この「読者の庭」から優れた批評家が誕生して欲しい。少し機械環境上の用意をしてから、まず此の委員会で歓迎された三十枚ほどの投稿から掲載して行く。感謝している。
2005 7・29 46
* 鶯谷からタクシーを使って浅草寺裏へ。四時半についた。ひさご通りの「米久」に直行、一人前、その代わり「トク」のすき焼き。御飯など遠慮。お酒一合。ぺろりと美味かった。このまえ「米久」へと思い立ち、生憎定休日で果たせなかったことがある。玄関で太鼓がドンと一つ鳴る。客は一人の意味か。すき焼きはさっさと片づけて、お通しの肉の佃煮でゆっくり酒をのみながら、ローマ帝国がじりじりと坂を転げ落ちていくあたりを読み進めた。
* 花屋敷から浅草寺へ。まだ日盛りの中で花火目当ての人がカビのようにひしひしと本堂にこびりついていた。路上にも溢れていた。夏空が高く、少し曇っていた。露伴の「五重塔」は名作だと云われるが、わたしはさほど好きだったことがない。そう思いながら塔をみあげてきた。
* お目当ての「ローソン」で、智恵も働かずに、なんとなく「サントリー」のダルマを一壜買ってしまった。またなんとなく「リッツ」を一函買ってしまった。自前でこれを飲み出したら花火どころじゃなくなっちまうと思い、缶ビールの心持ち大きいのを一つ買い足しておいて、そのビルの屋上へあげてもらった。今晩は太左衛さんは留守だけれど、是非どうぞと三度も親切にメールをもらっていた。
ここまで、汗みずくであったけれど、屋上は流石に風が流れていた。六時、まだ誰もみえてなくて太左衛さんの弟子筋の人が椅子を出してくれた。茣蓙に坐るより椅子が大助かり。サントリーのダルマは、「寄付」のつもりでその人に渡してしまい、缶ビールを少しずつ口に含みながら、屋上の夕明かりで難なくローマ帝国史を読んでいた。
追々人も見え始め、世話をしてくれる人から酒の肴やビールの追加などいただいた。隅田川の上流と下流といってもそうは離れない二つの場所から、夥しい花火が競うように打ち上げられる。わたしの居るところは、上流の花火が目の前に、手で掬ったり受けたり出来そうな絶好の場所。六時半、四十五分と、上と下、互いに迎え打ちに小手調べの打ち上げが始まり、七時になるともう宵空へ無数につぎつぎと打ち上がる。
取材か、客を乗せてもいるか、ヘリコプターの音も絶え間ない。
* なんと綺麗なものだろう、花火とは。感傷に襲われることもなく、心地よくいくらか米久の酒とローソンの、また振る舞いのビールとに酔い、とろりとした気分で歎声を放ち拍手をしながら、双眼鏡もデジカメも使って、ひとり大わらわに花火を楽しんだ。
八時半にきっかり終わる、終わり間際の乱れ打ちの華やかであったこと。一つ一つの花火の工夫や華麗さをいま此処で書き表してみせるサービス心はないが、やっぱり一人ででも、来て良かったと想った。
太左衛さんのお嬢ちゃんが母親の名代できちんと挨拶に来てくれたし、帰りには一人でエレベーターまで見送って、帰り道の混雑ぶりを案じねぎらってくれた。さ、もう高校に入ったろうな。行儀も良く浴衣も似合い愛想よろしく何より気働きが行き届いている、まだ幼くさえあるのに。もう何年も引き続いてみているが、すっかり大人しい少女になった。気持ちよく、さよならをして。
* 晩の奧浅草の賑わいを楽しみながら、帰りはもう鶯谷まで歩くと覚悟して歩いた。一人なら何でもない。入谷まで来て、ああ去年豪勢に喰った欧羅巴料理の「ビストロ・KEN」は此処だなと確認したし、他にも食欲をそそるいい感じの店は幾らもあったけれど、自重してどこへも寄らず、鶯谷駅から真っ直ぐ家に帰ってきた。
帰りは「戦争と平和」を読む。ナポレオンがモスクワへ入城しようとし、勿論降伏したロシア貴族団の出迎えがあると期待したのに、モスクワはもはやカラッポ。そういうところを読んでいた。アンドレイは重傷を負い死んだと伝えられているし、伯爵ピエールも、けったいな彼ならではの、混乱と冷静と分別と動顛のカオスのなかで、人の逃げ落ちたモスクワにうろついている。そして、アンドレイは実は瀕死のからだを偶然にも前の婚約者ナターシャのロストフ家の親切に抱き取られており、それをナターシャだけが知らされていない。
トルストイの「戦争と平和」やローマ帝国の歴史と隅田川の花火とが、何の撞着もなく互いに不純にもならずに、わたしの脳裡にきれいにおさまってくれる。それが安心というもの。
2005 7・30 46
* 七月最期の最後の仕事として、小田為綱による「憲法草稿評林」を、ついに入稿した。まことに天稟烈々の雄志にあふれた憲法論であった。こういうものが明治十三、四年に書かれていた。主権在民の道への強い一石であった。最終末部での、彼が熱誠のマニフェストを採録しておく。心ある人は読まれたい。
ああしかし、わたしの視力は小さな文字とルビとを懸命に追いに追いかけて、霞んでしまった。もう二時だ。
* 世人或ハ代議士院ノ外ニ華族院ヲ置カンコトヲ論ズルノ皮相者アリ。余ハ夢ニダモ想ヒ能(あた)ハザル程ノコトナレドモ、筆次試(こころみ)ニ之ヲ略論セン。欧洲諸国貴族院ヲ置クモノ往々之レアリト雖ドモ、常ニ君主ニ諂事(てんじ)シ、之ガ威権ヲ助ケ、平民ノ自由ヲ抑制スル階梯トナラザル者少シ。独リ英国ノ貴族ハ、漸有ノ権力ヲ以テ能ク君主ノ暴政ヲ扞制(かんせい)シ、保守ノ老練ニ因テ平民ノ競争ヲ抑停(よくてい)ス。是レ彼ノ貴族ガ千二百年代ニ於テ、平民ト相合(貴族ノ力十分ノ九ニ居ル)シ、彼(かの)有名ナル「マグナカルタ」(ノ約定ハ千二百十五年ニ在リテ、人民ノ代議士ヲ下院ニ出セシハ〔千〕二百六十三年ナリ)ヲ約定シテ人民ノ権利ヲ伸達シ、代民院ヨリモ早ク貴族院ヲ創立シ、且(かつ)積約(せきやく)ノ威重ニ因テ今日ニ至ル迄君民政権ノ権衡ヲ保テルハ、独リ英国時勢ノ由来ニ於テ止(や)ムヲ得ザル所以(ゆゑん)ノ者ニシテ、我国華族ノ如キ無気無力ノ者ト年ヲ同(おなじう)シテ論ズべカラズ。夫レ我国華族(大小名)ハ藩政奉還迄ハ非常ノ権力ヲ有(西南ノ大藩ニ限レドモ)シ、間接若(もし)クハ直接ニ朝政ヲ可否改定スルノ権ヲ有セシガ故ニ、好機会ナル藩政奉還ノ際ニ当り、同族相一致シテ立憲政体ノ創立ヲ皇帝ニ請願セシナレバ、今我輩人民ガ千辛万苦之ガ創立ヲ図ルニモ及バズ、夙(つと)ニ其成蹟ヲ見ルニ至ルべカリシニ、国家ノ盛衰安危を見ルコト痛痒相関セザル者ノ如クニシテ、此(かく)ノ如キ好機会ヲ閑過[看過]シ、今ニ於テ些(いささか)ノ感覚ヲ起ス者アルヲ聞カズ。如何ゾ如此(かくのごとき)無精神ノ華族ヲシテ、人民ニ大功アル英国貴族ト一般、国家ノ大権ニ参決スルノ権利ヲ特有セシムべケンヤ。ヨシヤ吾輩平民ガ代テ大権ヲ皇帝ノ掌裏ヨリ分取シ来リ、分(わかち)テ彼レニ与フルモ、之ヲ使用スルノ方法モ知ラザルべシ、之ヲ保有スルノ気力モ無カルべシ。
然ラバ則チ代議士ノ一院ヲ以テ足レリトスルカ。日ク、否(い)ナ。若(も)シ代議士院ノミヲ創立シテ立法ノ権柄(けんぺい)ヲ専有スル時ハ、偏(ひとえ)ニ民権ノ過強ニ失シ、政柄(せいへい)ノ権衡ヲ得ズ、却テ国家ノ安寧幸福ヲ保ツコト能ハザルニ至ルべシ。余友小野梓氏ハ代民一院(方今希臘<ギリシア>国ニテハ代民ノ一院而已<のみ>ヲ置ク)ヲ以テ足レリトスルノ説ヲ唱へ、或ハ雄弁ノ舌ヲ鼓(こ)シ、数回ノ演説ヲナシテ、或ハ椽大(てんだい)ノ筆ヲ揮(ふるつ)テ若干ノ論文ヲ著(あらは)セリ。然レドモ江湖賛成者ノ少ナキヲ以テ之ヲ見ル時ハ、政学上ノ理論ハ少(しば)ラク之ヲ措(お)キ、方今我国ノ輿論ノ容レザル所タル知ル可(べ)キナリ。又史ニ頼(よつ)テ之ヲ徴スレバ、独逸(ドイツ)古制ノ如キハ三院ヲ置キ、方今瑞典(スエーデン)ノ如キハ四院ノ旧法ヲ改メズ。此(こ)ハ是レ上古封建時代ノ遺物ニシテ、今日開明ノ人情ニ適セザルハ論ヲ俟(また)ザルナリ。故ニ余ハ長城氏等ノ起草ニ傚(なら)ヒ、稍(やや)其方法ヲ改メ、代議士院ノ外、別ニ元老院ヲ創立スルヲ以テ可トスルコトヲ主張シ、兼テ江湖諸有志ノ賛成ヲ請ハント欲ス。
余ガ引用スル各国憲法ノ如キハ、僅ニ記憶スル所ノ者ニ限り、他ノ諸書ニ就キ牽捜(けんさう)セシモノニアラザレバ、素(もと)ヨリ読者ノ意ニ飽カシムルニ足ラズト雖ドモ、余ハ只(ただ)一ニ証例ノ一助トナサンガ為メニ過ギザレバ、読者若シ各国憲法ノ諸款ヲ遂比(ちくひ)セント欲セバ、世自(よおのづと) 其書ニ乏シカラズ、自ラ就テ之ヲ覓(もと)ムべシ。
余ハ今筆ヲ閣(お)カントスルニ臨ミ、数言ヲ陳ジ、他日憲法起草ノ委員トナルべキ諸人ニ告ゲント欲ス。嗟(ああ)諸有志ヨ、試ニ欧洲各国ノ歴史ヲ繙(ひもとき)テ見ヨ。古来民権ヲ拡張シ、憲法ヲ約定スル、啻(ただ)ニ紙上ノ議論若(もし)クハ請願ヲ以テ之ガ創立ヲ得、又君主ノ恩恵ヲ以テ設定セラレタル憲法ノ鞏固ヲ得シ者、夫レ幾希(いくばく)カアル。眼ヲ転ジテ近古我国ノ形勢ヲ察セヨ。恐レ多クモ一天万乗ノ皇帝ニシテ、一進一退皆武門ノ束縛ヲ受ケ玉ヒ、僅カニ爵位ヲ除任[叙任]スルノ権ヲ有スルニ過ギズ。夫(それ)サヘモ多クハ将軍ノ上奏ヲ可スルガ如キ有様ニテ、朝廷ノ権威ハ極微極衰ニシテ、数郡ヲ有スル一小諸侯ニモ如(し)カザリシガ、徳川氏ノ末路ニ至り、時勢ノ風潮ニ攪起セラレタル諸有志四方ニ輩出シ、幾苦幾辛ヲ嘗(なめ)テ、卒(つい)ニ此朝政復古ノ盛業ヲ成(せい)スルニ至レリ。而シテ此成業ヤ他ノ計術アルニ因ルニアラズ、名議[名義]ノ正シキト有志者ノ身ヲ以テ国家ノ犠牲ニ供スル百敗不撓ノ精神トニ外ナラザルナリ。今ヤ諸有志者、民権ヲ拡張シ、自由ノ権ヲ保有セント欲ス。宜ク天稟(てんぴん)ノ権利ヲ復スル正義ニ頼り、彼欧洲各国人民ガ各自ノ身産ヲ国家公共ノ為メニ抛指シ、幾多ノ人命ヲ民権自由ノ犠牲ニ供セシガ如ク百敗其志ヲ回(めぐら)サズ、斃(たふれ)テ息(や)ム矣(い)ノ精神ヲ以テ百方智略ヲ逞(たくましく)シ、誓テ民権ヲ回復スべキナリ。夫レ吾輩ハ治人ノ誘導ヲ受ケテ只管(ひたすら)之ニ依頼スト世人ノ嘲笑ヲ蒙リタル羅馬(ローマ) ノ人種ニモアラズ。彼藩政ノ時ニ当リテハ、仮令(たとひ)成文ノ法制ハナキニセヨ、常ニ間接若(もし)クハ或時ニ於テハ直接ニ政事ニ参与シ、藩主ヲシテ人心ニ背馳シテ施政スルコトヲ得ザラシメ、且天子ガ身体自由ヲ得、政権ヲ復セシ改革ヲモ成就セシモノ共ナリ。況(いはん)ヤ今我国今日ノ文化ハ、英国千二百十五年、「マグナカルタ」ヲ約定セシ頃(こ)ロニ比スレバ、其開進度、智者ヲ待タズシテ知ルべキナリ。嗚呼(ああ)有志者ヨ、尚早論者ノ盲説ニ誘惑セラルヽコトナク、蹉跌(さてつ)ノ万死ヲ顧ズ、公共ノ事業ヲ勉メ、後人ノ続カザルヲ慮(おもんぱか)ラズ、天稟ノ性分ヲ尽シ、大東洋中ノ一孤島ニ於テ金甌 (きんわう)無欠ノ最良憲法ヲ約定シ、遠ク英国ノ上ニ駕シ、全世界万国ニ向テ誇称センコトヲ勉メテ惰(おこた)ルコトナカレト云フ。 〔「小田為綱文書」〕
2005 7・31 46
* ペンの物故会員の一人である十返肇の、昭和三十年代に、つまりわたしが小説を書き始めて作家になって行ったより半時代ばかり早くに書かれた、「『文壇』崩壊論」「批評家の空転」を読んだ。伊藤整の「近代日本人の発想の諸形式」に次いで「求道者と認識者」とが書かれた時期に重なっている。そしてこの十返の二論説また実に優れている。同時代に即して、見誤り安いはずの所を的確にとらえて説得する力はつよい。こういう論も又「ペン電子文藝館」には貴重な宝になる。
* 城塚さん扱いの野田宇太郎による「パンの会」回顧という風のエッセイを「校正室」で読んだ。明治四十一年ごろから、白秋や吉井勇や木下杢太郎や、また谷崎も加わって、藝術至上主義の文学集団が異彩を放った、その評論の一部を抄出されている。城塚さんがいた頃に「六興出版」で本になっていた。
* ふと時計をみるともう日付が変わって二時半になっている。宵寝していたのをすっかり忘れ、そろそろ十一時ぐらいかなあと思っていた。いやはや。
2005 8・1 47
*「戦争と平和」全八冊の岩波文庫版を六冊読んできた。瀕死のアンドレイとナターシャとの再会は読みながらも心から待望していた感動の場面で、みごとな筆。それ以上に、ピエールが燃えるモスクワに隠れて居残り、フランス将校の命を救い歓談しまたひとり惑乱して街上に彷徨のあげく、モスクワ放火犯かのようにフランス兵に逮捕されるまでの心理や言動の、いっけん不自然なようでおそろしいほどリアルな把握と表現には驚歎、讃嘆、言葉がない。深く呼吸して呼吸をとめ、瞠目のまま思わず知らず無心に首を振ってしまう。
* 世界史は、初期キリスト教会史に入っていて最も興味深い。グノーシス派など異端信仰の登場にわたしはかねて興味を抱いてきた。哲人皇帝マルクス・アウレリウスがキリスト教をつよく抑えたことも知っていた。しかもその皇帝の「自省録」をわたしはわたしの主人公の一人であるシドッチ神父に「愛蔵」させることで、自分の気持ちにある種の意義を添えたかった。
2005 8・2 47
* 八時に起きた。五時間足らずの睡眠。
まず急ぎたい論考に取り組み、次いで「ペン電子文藝館」に新しい「立て札」を二本立てた。しばらくは「館」のおおまかな道案内である。「開館と沿革」「館の構成」そして「歴代館長」「物故会員」のこと。おいおいに作品へ触れて行く。
明治の国会開設や憲法発布の直前に数多く生まれた、各界の憲法草案や自由民権の上書なども、昨年末の新設以来数多く貴重な史料を「主権在民史料」室に集めてきた、が、少し趣のかわる、岸田俊子(中島湘烟)の『同胞姉妹に告ぐ』をそろそろとりあげたい。
明治十七年五月から六月へかけて「自由燈」に書き続けた文章で、方面こそ異なるけれど、正岡子規の「歌よみに与ふる書」に似ていて、女権確立をねがう気概のマニフェストである。わが故郷京都の近代女性で、わたしはこの岸田俊子と上村松園とを最も優れた閨秀として敬愛している。
2005 8・6 47
* 「戦争と平和」は一つのクライマックスを、粛然と越えた。二日前から「それが始まった」という言い方で叙述されるアンドレイ公爵の、死生の「門」の厳粛さは未曾有の表現、いや絶後でもある表現で。わたしは、深夜、呼吸を忘れていた。
ひきかえ、「千夜一夜物語」の或る大臣兄弟と子孫の物語のおもしろいことは、堪らない。はじめてこの本をあっちこっちと自堕落に拾い読みしていたときには、挿入された無数の詩というか歌謡というかの面白さが、少しも解せなかった。訳もずいぶんでたらめに感じられたが、整然と順にしたがい読み進むと、このエエカゲンそうな詩句たちの顔つきが興味深い音色で耳に入ってくる。そして、荒唐無稽にみえる、事実荒唐無稽に違いないはなしのもつ底知れない面白さを堪能させてくれる。
仲の良い兄弟が仲の良さのあまりに、同じ日に互いに結婚し、互いに初夜に妻に子をみごもらせ、生まれた男の子と女の子とを結婚させようと「約束」するのだが、そのあとがおかしい。兄は弟に持参金はいくらかと問い、その多い少ないから本気の喧嘩をはじめてしまい、兄の留守に弟は家出して行方知らずに、兄弟はながの別離となってしまう。二人はまだ結婚もしていないのに、である。
こういう突飛な物語が奇想天外に展開するのに、そのリアリティを疑うより早くその面白さへ引きずり込まれ、読者は、シェエラザーデの話を「聴きづけて飽かない王様」とおなじ立場に立つのである。
* この按排では夜更かしは過ぎて過ぎて、もうアケ白む頃に寝るハメになる。今日は余儀なく午後四時頃にたまりかねて仮眠し、食後もさらに仮眠した。中・朝のサッカーで中国男子が二対零で勝った面白い試合をみた。今は日・韓男子が闘っているはずだ。
2005 8・7 47
* 熱帯夜で眠りにくかった。七時半には眼が覚めてしまった。その前の四時間あまりでも何度も眼が覚めた。仕方なく「丹波」を読み進み、「京薩摩」対談に手を入れていた。三時間と寝ていない。外出して、少し本格の栄養をとろう、体重も血糖値もさほどではない。夏バテの方が困る。わたしは小さい頃から夏は元気、秋ぐちには降参のタチであった。
2005 8・9 47
* わたしの愕くのはアラビアンナイトでなく、旧約聖書のエホバの神さま。
「出エジプト記」の後半から今「レビ記」のはじめまで、数限りなき細緻を極めた、民への命令(掟)。金銀の底抜けの要求、獣肉・獣脂・獣血にあふれた荘厳と火祭と供御。その香気の生臭さ。延々とまた延々とその要求と禁令とが続いている。
これに比べれば古事記や日本書紀のわが三貴神にせよ八百万の神々にせよ、人間に対しては何にも要求したり強要したり禁令したりしていない。そもそも日本の神話時代には、神ばかりで、人間がちっとも登場してこない、不思議なほど。
* 眠たい。明日は休む。明後日は歌舞伎。
2005 8・9 47
* 夏はもう終わりかけています
hatakさん 札幌も暑いのですが、この月曜ぐらいから、日中炎天下のうちにも、どこかに、かすかに、秋の気配を感じてしまうようになりました。北の夏は爛熟して終わるのではなく、ふっ、と気がつくといなくなってしまうのです。
「ペン電子文藝館」の「読者の庭」、私のオリジナリティを活かして、小論を書いてみたいと思っています。ネットで遺伝子配列や論文や特許情報を常時サーチしている読者としての視点がうまく表現できれば面白いのですが、どうなりますか、減らせるのは睡眠時間しかないので、興に乗って破綻しないよう、自重していきます。
『戦争と平和』残念です! 最後の「歴史論」をおいて、ピエールやナターシャやマリアやニコールシカ小公爵のことをもっと語って欲しかった。作中人物に「お別れの挨拶」をしないまま読み終わってしまいました。 maokat
* 『戦争と平和』は、マジに「戦争」を主題にしたひとつの「論考」なんですね。読者のねがいをいれるよりも遥かに広大な願望が、強烈な動機が、トルストイにはあった、「戦争は、どう起きてどう終わるのか」の「事理学論文」なんですね。
わたしも過去の読書でたいがい最後の所はナゲましたが、今度は読もうと思っています。そこへ行くまでにも、トルストイの筆は、戦場場面や戦争・戦闘・作戦展開の批評で耀いていました。端倪すべからざる鋭さで、戦争と平和が大波動する複雑怪奇な事情を腑分けして行くトルストイに、舌を巻き続けました。
愛すべき主人公達の物語はこの作品では上等なお添え物なんですね。
すばらしい作品です。藝術的な熟成では「アンナ・カレーニナ」はみごとですし、思索的には「復活」が素晴らしいけれど、小説世界の巨大さ、細部の表現の生彩まで、「戦争と平和」はとにかく骨太です。読まれましたこと、嬉しく、また年を経てきっと立ち戻り、べつの感銘も得られることと思います。
「読者の庭」楽しみにしています。三、四十枚で、求心力の論旨を、気負わずオモシロク展開してください。筆名か本名かは任せます。
わたしは、夏のうちの夏バテか、睡眠不足の祟りでしょうね、今日は枕から頭が上がりませんでしたよ。maokatさん、お大事に。気がつくと夏はふっといなくなっている…。いい表現ですねえ。 hatak
2005 8・10 47
* 長門の清酒、栃木のぶどう、そして奈良漬の大きな一樽、そして色川大吉さんの新刊を頂戴した。感謝。
2005 8・13 47
* せねばならぬ仕事に手をそえず、今日は三島由紀夫の「女方」を読んでいた。大岡昇平の「母」「父」にも心惹かれている。生田長江の戯曲「天路歴程」にも、倉田百三の戯曲「出家とその弟子」にも。また高見順の長編「生命の樹」にも。このところおちついて映画も観ていない。しかしイランとのサッカーの前半を観た。日本チームが好調に働いて一点先取して前半を終えた。後半は失礼したが、二対一で勝ったらしい。
2005 8・17 47
* 色川大吉さんの「昭和自分史」を読んでいる。
高見順の「生命の樹」も読み出した。通俗な私小説仕立てであるが、独特の饒舌体で言葉が口から滾れるぐあいに話し続けている。以前に読み、初期作品とくらべてどうかと惑った記憶がある。凛としたリアリティはない。私小説を、小説としてはぐらかして書きすすむことで、やはり俗な私小説を免れてはいないと感じるのだが、プロの書き手の長編を、出だしのところで決めつけるのはよくないかも。
秋元千恵子さんから歌人上田三四二評伝をもらっている。上田さんとは浅くはないご縁があった。秋元さんの筆致はきびきびと気持ちがいい。短歌で鍛えられた人には優れた文章家が少なくない。北沢郁子さんのエッセイなど、いま一段深みがあり懐かしみに富む。
2005 8・18 47
* 昨日のメールだが、いま見た。
今というのが早い。ほぼ一睡もせず本を読んでいて、四時頃に起きて機械の前へ来た。それからずうっと三島由紀夫「女方」に惹き込まれるように。とくに秀作とも言わないが三島の気が入っているのが一字一句ずつ校正しながら読み進んでいるととてもとてもよく分かる。面白い。
校正に倦むときれいな花の写真を何十枚もスライドショウで楽しむ。そして朝雀(じつは昨日の夕雀)の声を気持ちよく聴いた。
2005 8・19 47
* 三島の「女方」に惹きこまれて読んでいる。
寝ぎわに読んでいる本では、「アラビアンナイト」がいま面白い。ついつい頁を繰りすすんでしまう。
が、いちばん感嘆しているのは、自分も信じにくいほど「フアウスト」の第二部第三編あたり。藝術的な風に大きく煽られ、広大な世界へ自身も組み込まれているような。脚注の道案内を頼りながらであるが、面白い。ああこんなにも大きい大きい藝術世界であったんだと、つくづく首肯。早くも、「フアウスト」を三度つづけてまた読み返しそうな予感にとらわれている。
「戦争と平和」は、トルストイ懸命の戦争と平和=ナポレオン論に突き進んできている。おそろしいような、これは大論文。
『世界の歴史』は、中世の法皇権の確立過程を、ベネディクト修道院等の活躍とともに、読み進んでいる。
旧約の「レビ記」では、エホバのモーセを通してイスラエルの民に要求し続ける戒律や奉仕の夥しさに呆れながら、じっと我慢して読み続けている。
鏡花は「辰巳巷談」「玄武朱雀」「蛇くひ」「黒百合」「通夜物語」などと読んできたが、短編「蛇くひ」に戦慄し感嘆したぐらい。ほかに名作に出会えない。第四巻にうつろうと思う。
「日本書紀」はいま第十一代の垂仁紀。神武天皇が実在したかどうか、以降綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の第九代までは「架空の天皇」だろうといわれる。第十代の崇神天皇が事実上「歴史的天皇」の肇ではないかとも。そしてこのあとも何人もの天皇の実在が否認されている。いま読んでいる垂仁天皇の治世には四道将軍のこと、埴輪のことなど、史実らしき確認の利くいろいろがある。だが第十二代景行天皇の実在に学者は否定的で、皇子日本武尊の実在も、胸をうつその伝説の生涯があるにかかわらず、否認されている。
バグワンは、やがて「老子」上下巻をまた通りすぎて行く。
そして、これに読み足して色川大吉さんの「昭和自分史」と高見順の「生命の樹」も読み始めた。これでは睡眠がとれなくても当然か。やれやれ。
2005 8・19 47
* 三島の「女方」を仕上げた。必ずしも傑作ではない、三島由紀夫らしい優れた読み物であるが、さすがにと感じ入るものを魅力的にもった小説。息子に送ってやった。
2005 8・20 47
* 京都へ五時前に入る。車中で、中澤かねおさんの作品を通読した。
2005 8・22 47
* 角田光代さんが、近作二冊と手紙をくれていた。 この教え子の作家になってからの作品に接するのは、これが初めて。妻の方がさっさと持って行ってしまった。
2005 8・23 47
* トルストイ「戦争と平和」の物語、オードリー・ヘプバーンのナターシャ、ヘンリー・フォンダのピエールの物語が、大詰めを迎え、そしてこの大作の動機 (モチーフ)である戦争と平和=ナポレオン論も、精魂込めた論議に入る。今度は避けずにそれも読む。
数度目の読書でわたしはトルストイの関心の核心「戦争と平和=ナポレオン」へ興味の焦点を重ねている。だが、それはそれ、劇としての「物語」はすばらしかった。この物語を偉大な通俗小説ととなえた日本のわが先達たちのちいさな「さかしら」を、わらいたい気持ちがある。
その一方で、今日のわが文藝雑誌などの貧寒と倦怠感は、気の毒なほど。ま、『戦争と平和』や『アラビアンナイト』や『世界の歴史』と同時に読み比べられては、泉鏡花ですらアプアプしているのだもの、当然か。
鏡花の「鴬花径」も、なんだか夢魔にうなされた譫言のようであった。全集(春陽堂)第三巻は、所詮短編「蛇くひ」の詩的高潮を以て代表させるほか、堅固な成功作は見当たらない。
荒唐無稽であるにかかわらず『千夜一夜物語』には比類ない独自の磁場が出来ていて、容赦ない強力がわたしをひっつかんで、物語へ引き摺り込む。気が付くとどんどん頁数がはかどっていて、つまり夜更かしになる。確かな確かなものが在るのだ、語り口の奧に。いま読んでいた時期の鏡花作には、その「確かさ」が欠けている。出たとこ勝負に奇態な日本語を、乱れた蜘蛛の糸のようにふきだしている、だけ、とも言える。
* いま一つ新しい「やまとことば」の本も、わたしは読み始め、引き込まれている。
2005 8・25 47
* 読書に興奮し、眠りづらくなり、二時間ほどで起きてしまい、「朝まで生テレビ」の議論のための議論もいやになり、すると幸いジョディ・フォスターの「羊たちの沈黙」の途中にぶつかった。この映画のジョディ・フォスターはすばらしく、アンソニー・ホプキンスにも不思議な魅力がある。二人の心の通った緊迫のドラマに惹かれるのだろう、気持ちのわるいストーリーなのに緊迫ゆえの清潔感がある。しょせん「朝まで生テレビ」など、したり顔の俗人どもの我は我はを見せられるだけ。それよりは「表現」されているものの美や緊迫に心を惹かれる嬉しさを取るのは当然だ。
* 同じことをより嬉しくいうなら、ああ何という「ファウスト」の感動だろう。むかし、初めておろおろと頼りなくこのゲーテの作にふれた時、第一部はまがりなりに掴めても、第二部には途方に暮れたのだが、しかもわたしは「結婚」という一語で第二部の性格をなんとか感じ取っていた。ギリシアとゲルマンとの「結婚」という風に。そしてそれは間違ってはいなかった、よほど正確であった。少なくもギリシアの美の極致であるヘレーナといわばゲルマンの智の巨人であるファウストとは、魔法の世界でではあるが結婚して「子」をなしている。その「子」がイカルスかのように冥府に堕ちて行くとき、母ヘレーナもまた我が子に付き添って去って行く。そのあたりまでの壮大な詩の展開には魅了という言葉の真髄がはたらいている。ファシネーションの極限の表現と言おうか。わくわくして、胸の高なりが鎮まらない、これでは眠れない道理だ。だが、幸せを覚える。
「アラビアンナイト」もまた然り、「旧約聖書」の尽きる事なきエホバの戒、モーセの指導にも圧倒される。さらに「景行紀」に鳴り響くいまや日本武尊の叙事詩の展開。「バグワン」も、また。
* で、わたしは四時前から起きていて、機械の前で、だいぶ仕事もした。していて、二三度気がついたがADSLの調子がよくない。ピキピキと間歇音がしている。わたしの機械のせいか、サーバーの方で何かしら整備しているのか分からない。これが悪くひっかかると、メールが使えなくなる。機械のことは、ワケが分からない。
2005 8・27 47
* 保谷に着く直前に、昨日から読み始めた中河与一の『天の夕顔』を読み終えた。複雑な感想ではない。筆致やはこびと同じく、かなりおおまかに書いてしまえる。中学か高校の初めに読んで感動した。少なくも五十五、六年経て読んでみて、少し恥ずかしく照れてしまう。ヒロインの表現も典型的というより概念的・理念的な設定の所産と感じられる。浪漫的というキマッタ看板に作者は酔ってしまっていないのだろうか。あらすじを書くような筆の運びは、或る意味で参考になり、藝としてうまい。こういうふうに書いて欲しいといまどきのややこしい小説の書き手にちょっとお手本に見せたくもあり、必ずしも推奨する気はしない。昭和の『滝口入道』(高山樗牛)みたいな気がしたというとアテズッポウ過ぎるだろうか。わたしは、こんな風に男も女も洗い清めた瀬戸物のようには書けない。
2005 8・31 47
* 中河与一『天の夕顔』の余韻が身内にある。
どんなきっかけで、どんな版で読んだかも忘れているが、はっきり覚えているのは、この小説は、わたしが独りで読んだのでなく、「妹」と二人で読んだのだった。
なにもかも書いてきた周知のことであるが、わたしは新制中の二年生三年生ころ、いまの何必館主(京都現代美術館)梶川君の三人の姉たちと、わたしの人生を左右したかと思われるほど深い気持ちで親しみあった。姉はわたしより一つ上級生であったから「姉さん」と呼んでいた。下二人はわたしの一つと二つ下の学年にいた。「天の夕顔」は、経緯は全く記憶にないが、そのうち一つ下の「妹」と読みあって、二人とも大いに感動したのであった。だいたいこの妹とは、「ケンカ」していた時の方がずっと多かったけれど、この本に、いやもう一冊「細雪」を読みあっていた頃だけは、不思議と気持ちが寄り添っていた気もする。
それからはもうポーンとなにもかも途切れてしまい数十年になるのだから、そして可愛かった一番下の妹は亡くなったとすら風の便りに聞かされているのだから、往時渺茫、あまりにはかない。
今度読み返してみて、しかし、あの時代、あの年頃の、読書好きな少年少女であれば、この作品に感動しない方が可笑しいかも知れないという気がした。
当時わたしは、もう源氏物語は与謝野晶子の導きで繰り返し暗記するほど読んでいたけれど、もともと、宇治の物語で大君が薫を振り切る話だの、ジッドの「狭き門」でアリサがジェロームだったかを拒みきる話だの、ゲーテの「若きゥェルテルの悩み」でヒロインが青年ウェルテルを受け入れずに死へ追い込んで行く話だの、またバルザックの「谷間の百合」にしてもそうだったが、その手の「心こわき女」をあまり好きにならなかったものだから、小説を書き始めても、とても「天の夕顔」みたいな恋愛を書く気はしなかった。だから、というのも可笑しいが、中学生の昔、わたしは「姉さん」を「姉さん」とは別の恋の対象のように想うことなど、わたしの方で強く避けていたと想う。「姉さん」はむしろわたしには「母」であった。恋をする可能性は妹との方にあったろうけれど、どうしたものか、いつもきつい「ケンカ」ばかり。のちのち聞くと周囲の眼には、そうでもなかったらしいのだが。
* 「天の夕顔」の著者中河与一を、小説を書き始めたわたしは、むろん忘れるどころではなかった。初の私家版を造ったときも、すぐ住所を調べて謹呈した。折り返し「遊びにおいで」と手紙でお誘いがあった。その後も二度三度あった。その後の長い間、亡くなるまで本もお送りしたし、簡単な文通もあったけれど、ついに一度もお目に掛からなかった。気後れでないにしても、何かしら「ご迷惑」を憚る気持ちが、誰方との場合にも、先に動くのだ、わたしは。瀧井孝作先生のように突如お電話が来て、「すぐいらっしゃい」では、八王子まででも即座に出かけて行くしかなかったけれども。
中河与一という作家には、経緯は知らないが、かなり公然と戦後文壇から「逐われ」ていた印象が、いや事実が、あった。そういう「文壇」なる権力をわたしは今でも嫌っている。ワケは分からないが、明らかに世界的に高く評価された名作「天の夕顔」の著者ではないか、と。中河さんは横光・川端とならんで「文藝時代」の同人の一人であったのだ、もともとは。
この作品、国内の文壇には全面黙殺されたが、与謝野晶子、永井荷風、佐藤春夫その他、「文壇」外の優れた文学者や詩人や知識人らには絶賛された。海外では、カミュその他著名な大勢の文学者から、実に公平に高く称讃され、翻訳され続けたし、わが国内でも、わたしや「妹」のような少年少女に至るまで、江湖の読者を爆発的に獲得し、永く今日まで版数を重ね続けている。それに優に価する名品なのである。
しかしこの著者は、日本文学社会では極端な不遇の人であった。通俗虚名であったからではない、その逆の、極北に位置するほど清潔無比、高邁な精神的な恋を書いて成功していたのである。
とはいえ、今日のシブヤやシンジュクにたむろする少年少女たちの目に、この恋がどう映じるかは計り知れない。存外ものすごく受けるのかもしれない。そして何かが変わるのかも。日本浪漫派の重鎮安田与重郎は、「解説」で、文学とはいかなる価値かを高らかに説き、文壇をつよく批判して、いかにこの作品が優れているかを胸を打つ熱意で書きつづっている。その核心部分では深く聴くべき言葉がある。(わたしは日本浪漫派の思想に与しうる性向を持たないのだけれど。)
わたしは一度中河さんの谷崎論を書評したことがある、が、忘れた。さほどの印象を持たなかったのであろうか。
2005 9・1 48
* 『日本書紀』という名は「日本書の帝紀」の意味である。「日本書」とは日本の歴史のこと、「魏書倭人伝」とか「韓書」「後韓書」というの類。日本書紀では、天皇帝王の治世で巻が送られ、記事も帝政の経年で書かれてある。その定例を読んでいると「朔」という字が必ずあらわれる。何年何月の「朔=ツキタチ=ついたち」に、と。昔の暦では一日とは「月立ち」であった。今では京都の月行事の「八朔」にこの字がその意味でのこっている。
2005 9・1 48
* トルストイ「戦争と平和」は、本編が第十五篇まであり、アンドレイ公爵に死なれたナターシャは、アンドレイの妹公爵令嬢マリアと暮らしている。そして伯爵ピエールの来訪再会により、衝撃の、しかし予定調和にも似た新たな愛の確認ができる。マリアはそれをいとおしく眺めているところで終える。
が、そのあとへ「エピローグ」が二篇書き加えられ、その一編は、幸せな幸せなナターシャとピエールとの、また結婚したマリアとニコライ・ロストフ伯爵 (ナターシャの兄) との家庭生活が、生き生き描かれて、ピエールを熱烈に尊敬している少年ニコーレンカ・ボルコンスキイ若公爵(亡きアンドレイの遺児、マリアの甥)の目で、未来が、ソッと覗き込まれるように、この人達の物語は明るく結ばれている。
MAOKATさん、此処までは読んだのかな。
そしていよいよエピローグ第二篇として、戦争と平和の議論が始まる。其処を、今夜から読み進める。
2005 9・2 48
* 昨日、三好徹さんに頼まれた「わたしの森敦」「思い出すこと 井上靖と大岡昇平」の二篇を、わたしの「e-文庫・湖(umi)」から取り出して、ひとまとめにして「ペン電子文藝館」に送りこんだ。併せて三島由紀夫の「女方」に略紹介を入れ、入稿した。今は著者希望で、会員望月洋子さんの『ヘボンの生涯と日本語』から、第一章「ヘボン維新前夜の日本へ」を入稿すべく通読している。新潮選書のこの本は讀賣文学賞を受けた。望月さんの伴侶であった渡辺実元京大教授(国文学・国語学)が、わたしの実父方の遠い親戚に当たるらしい、くわしいことはよく知らないのだが。
同じような親戚筋の人がもう一人ペンクラブにいる。
2005 9・2 48
* 和泉式部の歌をメールで読み、わたしもすこし思うところを書き写してから、階下で、寝床で、八種類の本をつぎつぎ読んで、灯を消したのは一時半ごろか。
三時半頃一度起き、五時半には黒いマゴに、あちこち噛んで起こされた。起きなさいというのだ、踵や二の腕や頬をかるく噛みに来る。ま、いいかと起きた。妻も起こされた。このマゴめ、人を起こして少し食べて、自分だけもののかげへ引っ込んでまた眠る。
* 夜昼顛倒の暮らし、よくないよと黒いマゴは教えてくれているのだろう。
2005 9・4 48
* 出がけに、男性の二百五十枚はあるか、小説一編のプリントが届き、鞄に入れて出かけた。
2005 9・9 48
* 成瀬巳喜男監督の映画人生を、現場のいろんな証言で構成された映像番組を、おもしろく観て、それから八冊の本を順に読んで、寝た。そして黒いマゴに四時半に起こされ、六時前に起きて連載エッセイの用意をしたり、「ペン電子文藝館」原稿の校正をして送ったりしていた。さっさと投票に行き、昼間すこしやすもう。
2005 9・11 48
*「憂愁」の化身を追い散らして、フアウスト博士の言い切るこんな言葉を読んだ。(佐藤通次訳)この場面のフアウストは王者のごとくあり、欠乏と罪責と困窮の化身たちには近づくすべがない。ただ「憂愁」だけはものを言い掛けるが、フアウストは拒む。
原作者ゲーテは、この場面のフアウストは自身で百歳と考えていることを側近の友エッケルマンに話している。
おれは、ただもう世の中を駆けて通った。
どんな歓楽をも、その髪の毛を掴んで捉えた、
意に満ぬものは突き放し、
逃げ去るものは、勝手に逃がした。
ただもう、望みを掛けては、ただもう、望みを遂げ、
また、あたらしく願いをいだいて、勢いよく、
生涯を駆け抜けた。はじめは威勢がよかったが、
今では賢く、思慮深くやっている。
地上の事はもう十分に知りぬいた、
天上を見わたす道は吾々には鎖されている。
目映(まば)ゆそうに天上へ空しく眼を向けて、雲の上に
自分と同じ者がいると想うのは、莫迦者だ!
足をしっかと踏みしめて、今・此処で周囲(まわり)を見まわすがよい、
有為な人間に、この世は口をつぐみはせぬ。
なんで永遠などへさまよい入(い)る要があろう!
人が認識するものは、手に掴まえることができる。
こうして地上で日々を送ってゆくがよい。
幽霊が出没するとも、かまわずに我が道を往(ゆ)け、
進み行くうちには、苦もあろうし、楽もあろう、
どうせ、どの瞬間にも満足したりせんのだ!
* 安易には読めないが、ゲーテの毅いものがあらわれて、深夜わたしを背を押すように近づいた。
2005 9・11 48
* 那珂甲子雄さんの書き下ろし長編小説「夏はすぎても」を「e-文庫・湖(umi)」の書き下ろし長編・小説の二つの欄に掲載した。
「e-文庫・湖(umi)」肇めてこのかたの力作(投稿)長編であることを疑わない。秀作と言い切っても佳い。
作者は名の示すとおり一九二四年、大正十三年甲子の生まれ、今年(二○○五)はもう傘壽も過ぎておられる、しかもこれは末尾脱稿歴の示すとおり、今日只今の創作であり、筆力の確かさに驚く。「夏」の一字に託されたのが、人生の夏という以上に、あの敗戦の夏であることは察しがつく。大きな川の流れのように書かれながら、作者はたんなる経時的記録構成を排し、全編にアヤをつけている。新奇でも珍奇でもないが、動機のつよさが表現によく反映している。こういう才能に嗅覚の及ばない当節出版・編輯のちからを、思わず慨嘆する。未萌の若い書き手たちよ、刮目して批評・批判し、励まれたい。:敬老の日に先だちて掲載。 湖
* 那珂甲子雄・・・ 甲子 05.9.14
ありがとうございます。小学四年生だったころ、歴史の時間で、遣唐使・小野妹子の話になりました。そのとき先生が黒板にわたしの名前を大きく書き、「子」という字を女の子の名前に使うようになったのは武家社会に入って以後のことで、その前までは男子にも頻繁に使われたものだ、と話されました。
ある同人のWEB から誘いがかかったことがありました。もちろんメールだけの交信でしたから面識はありません。年齢を聞かれ、「名前からおわかりのとおり、甲子園ができた年です」、と答えましたところ、「お父さんは余程のプロ野球ファンだったのでしょうね」という返信に、足を遠ざけてしまいました。
「中かねお」と思ったこともありましたが、先達に「中勘助」があり、「中」一文字に未練は残りましたが、あやかり根性と思われるのも嫌で、あきらめました。
「那珂 甲子雄」 後尾の「雄」がじゃまな気もするのですが、いかがでしょうか。 なお、HN の「甲子」はそのまま続けたいのですが・・。
長いものをお煩わせいたし、感謝いたします。もう、つぎに書くものに手をつけました。
かっ、と照りつけています。少し暑いようですが、軽装でいられるのがなにより。
夏ばてのなごり、お気をつけ下さいますよう・・・ 甲子
* 全編を出来る限り丁寧に読み、改行の曖昧なところ、不審な化け記号などもみな私なりに斟酌して落ち着けまして、「e-文庫・湖(umi)」の小説欄と書き下ろし長編欄の二個所に掲載しました。 おみごとでした。
私には苦になりませんが、未熟な読者は時制(テンス)にやや立ち止まるだろうと思います、が、安易に経時的に書かない力技に務められた気魄で、成功していると思います。会話の多用と練達とが、全編を、佳い小説の空気で包みました。
感謝します。「e-文庫・湖(umi)」が重きを加えました。 湖
2005 9・14 48
* 聖路加へ行く妻にくっついて早く家を出た。銀座一丁目で別れて地下鉄をおり、さて日射しのギラギラする銀座通りにヘキエキし、以前歌舞伎座の帰りに寄った地下のイタリア料理の店に入って、スペシァルランチを注文。ちいさいビールと、可愛らしい女の子がわたしの顔を見ながらなみなみとサービスしてくれる赤ワインを二杯。そして中世ヨーロッパの歴史を楽しんだ。
2005 9・15 48
* 一昨夜に、ゲーテ『フアウスト』の二度目を読み終えた。一度目は鴎外訳で、二度目は佐藤通次訳と補注を参照しながら。いかに鴎外訳でも、ちくま文庫には有効な注も解説もなく、ただもう読むだけの不親切本だが、旺文社版の佐藤訳は鴎外訳に敬意を払いながら専門家らしい「注・解説」が親切で、とても助けられる。やはりそれがないと、今日の日本人にラクに読める大作ではない。
おかげで、二度目の感銘はさらにさらに深まって、陶酔感覚すら屡々あじわうことが出来た。大作の構成・構造、ゲーテの意図や動機や主題までかなり掴めたと思うので、躊躇なくもう一度今度はディテールの表現や詩想・思想に立ち止まり立ち止まり読み直そうと思っている。
大学の一般教養で「教育原理」を講義された志賀教授が、口を酸くし、われわれは耳を蛸にして「フアウスト」を話され、また聴いた、が、なにもあの大教室ではつかめなかった。
一度だけ何かの本(高橋健二訳)で通読したが、あいまいな受容であったから、今度友人から本を贈られて読み直すまでにこの作品はほとんどわたしのからだには爪痕の一つ二つのほか残していなかった。すばらしい体験を与えられて、譬えようもなく感謝している。
2005 9・17 48
* バグワンの「老子 TAO道」上下巻を音読了のあと、次はまた『ボーディダルマ 達磨』を読み始めている。
「仏陀の道には果報などというものはない。なぜなら、果報を求める欲望そのものが貪欲な心(マインド)から来ているからだ。仏陀の教えのすべては無欲であることの教えだ。」
「瞬間から瞬間を内発的に生きよ。」
「<道>に入るには多くの小道がある」などとボーディダルマが言うことはありえない。「真理に至る道がある」とすら達磨は言わない。「彼の全アプローチは、”あなたこそ真理だ”ということだ。どこにも行く必要はない。むしろ”行く”ことなどやめなければならない。そうしたら真理の在る”我が家”にとどまることができる。」「すべての道が誤った場所に向かう、というのがボーディダルマの姿勢(アプローチ)だ。」「どんな修行も必要ない。あなたは現在在るべき場所に在る。」必要なのは早くそれに気付くことだ。「ボーディダルマはほかの誰よりも『信ずる』という言葉を嫌う。信念などけっしてあなたの眼にはなりえない。それがもたらすのは光でなく、先入観や意見や観念だけだ。」
そういうことをバグワンは言いながら、達磨の言説と伝えられた文献のなかの、虚妄・誤解と、金無垢の真実とを、厳正に選り分けて行く。バグワンの透徹がすばらしい。また数ヶ月、わたしは達磨にも聴きバグワンにも聴きつづける。
2005 9・18 48
* 今日は惘然と遊んでいた。一日中、機械の前でうとうとしていた。気が付いてみると「ペン電子文藝館」の仕事の手を全く止めている。すると、わたしの時間はこんなにラクなのである、ラクだからよいということはなく、それならそれで、すべき仕事は山になっているが、この時期、本当に心身をやすませる必要がある。ゆっくりした気分でいたい。
日付が、わずかに動いた。もう、やすもう。いま鏡花は「湯島詣」を読んでいる。トルストイの「戦争と平和」論は遅々としているが、読み飛ばさないで思考を受け入れ受け入れして読み進めている。旧約聖書もじりじりと読み進んでいる。「世界の歴史」は快調に、いましも第一回十字軍の聖地奪回と暴虐のかぎりを。
ポーランドとコサックの闘いを描いた映画「隊長ブーリバ」はややドラマとして単調だったが、写真は綺麗。ユル・ブリンナーは嵌り役。トニー・カーティスはすこしとらえどころのない俳優。ヒロインのクリスティン・カウフマンも温和しすぎた。しかし映画の舞台キエフや大草原の時代は興味深い。コサックという「戦争と平和」の軍隊内ではやや下目にみて白人に追い使われているが、果敢な騎馬の兵士たちであり、匈奴やフン族やデーン人や、蒙古やタタールなど、いろんな強烈な闘士たちのこともあわせ想われる。裁くとはまた一味異なるアジアとヨーロッパのあわいに拡がった草原世界のことは、詳しくない丈に興味も津々。
2005 9・19 48
* 昨夜は潰れるように寝た。バグワンと日本書紀は音読し、『ファウスト』は読んだが、もうそれ以上はダメだった。
* 七時半に起き、キッチンでひとり全集版『日本書紀』三冊の上巻「解説」に読みふけった。上巻本文は昨夜に読了、今夜から中巻に入るので、本をしまうまえにと思った。
「解説」とはいえ、専門家が分担して書いている学術的なレビューであり、分量も今朝読んだだけで文庫本のうすて一冊に及ぶだろう、とても興味深く、吸い込まれるように、いや吸い込むように、二時間ほど、傍線をいっぱい引きながら、夢中で読んでいた。読んだ限りは概ね理解しアタマに入った。本文をいましも応神紀最後まで読んでいたからだし、また先だって読んだ(もうずいぶん以前とはいえ)『日本の歴史』最初の数巻の記憶が有効に生きていた。こういう論説文にくらべると、昨今の評論やエッセイ・小説のほうがよほど呑み込みづらく感じる。
* 一つ、私としたことが長く見落としていたことに気付いた。
主に神の名前の末尾についている「ミ」の音である。わたしは長い間「山津見(ヤマツミ)」「海津見(ワタツミ)」を山の民、海の民と読もうとしてきた。それで適切な場面の多いのは事実であるが、「ヒコホホデミ」の「ミ」などに注意が足りていなかった。
「やまツみ」「わたツみ」の「ツ」が「0f=の」である以上、これは「山の神」「海の神」であり「み」という神が水神である蛇神・竜神なのもあたりまえであった。神武天皇のいわば本名として「ヒコホホデミ」がいわれており、父は、その母で海神の娘である「トヨタマ」が蛇体に身をかえて産んだ「ウガヤフキアエズ」であり、母は「トヨタマ」の妹「タマヨリ」である。そして「とよたま」の夫がまた「ヒコホホデミ」の名を持った。彼こそはあの釣り針を求めて海宮にいたり「ワタツミ」の娘「トヨタマ」を妻にした「ヤマサチ」即ち火遠尊であり、降臨した天孫「ニニギ」の子、母は「ヤマツミ」の娘「コノハナサクヤヒメ」である。二重三重に「山の蛇」「海の蛇」を肉親にはらんでいた神の子として人皇第一代に神武天皇は即位せしめられている、神話的・歴史的に。
むろん、推古朝から天武朝を経て数十年にわたる日本書紀編纂者たちの、壮大深遠な、意図周到な架空の創作であった。
神武天皇から仲哀天皇にいたる十四代天皇は、歴史的には架空の所産、日本書紀の意図には、「応神・仁徳」朝を以て我が日本国歴史時代の創始を、暗に確認、する大修史事業であったらしいと、研究の成果や到達は、かなり明快に結論している。
2005 9・24 48
* 一時。やすもう。巻が変わって鏡花の先ず『湯島詣』は佳い作品だった。神月梓は例の鏡花風で男性としてそう頂けないが湯島の藝者蝶吉の造型は天衣無縫しかも情実備わって、姿も言葉も心根も気負いもお見事というしかないハツラツの活写を得ている。読んでいてなるほど鏡花が描きたくてたまらない女性であり、例えば明らかに『歌行燈』のヒロインへ繋がる。彼女が伊勢の海でひたすらいじめられる場面と蝶吉の痛苦の場面は呼応している。また蝶吉の切符には溯って『貧民倶楽部』のお丹に繋がっている。
『湯島詣』は悲劇である。心中ものである。鏡花がこのようにして作中のいとおしい男女を二人とも殺してしまう性癖は初期作にすでに見えていた。『歌行燈』の如きはハッピーな一例で、さてこそ名作の資格もそこにあった。
さて、『湯島詣』の次に一台の代表作として『歌行燈』にならぶ『高野聖』が出て来る。これにもわたしは夙に注釈を書いて公にしている。よく心得ているのでとばして味読の作品へ行くかどうか。階下へ降りて気合いで決める。
2005 9・25 48
* 鏡花全集をぱっとあけたら『葛飾砂子』があらわれたので、それを読み始めた。眠かったのに目がパチンとさめて読み進み、強いて電気を消したけれど寝つきにくかった。床へ入ってから、つい文庫本(四種類)を先に読み、次いで大判の旧約聖書と鏡花全集になる。おもしろいのを最後にすると眠さが飛んでしまう。最後に『戦争と平和』終末の論文か、聖書「レビ記」の際限なきエホバの掟か、にすれば睡魔を呼び出しやすいか、な。
* 音読の『日本書紀』は第二冊めの冒頭、仁徳天皇を読んでいる。応神・仁徳陵の巨大なことは世界的に知られている。この二人の大王(天皇)から日本の確実な歴史時代は肇まったと学者たちは言う。なかば神代の神武はもとより欠史八代は架空としても、わたしは永らく第十代崇神天皇からは歴史時代かと想っていた。天皇たちの長い長い和風の名前をていねいに腑分けしてゆくと、神武天皇から十四代仲哀天皇までの名前が、後世からの潤色・造作であることが透けて見えるのである。逆にいえば伝説伝承をもとにもしたであろうが、実に苦心の創作・脚色がなされていたということ。日本武尊の事蹟も、なにらかの民族の記憶を繍いこんだはなはだ優れたフィクション、タペストリーの繪なのであった。それもまた、佳いではないか。
* もう一冊のバグワン音読は『ボーディ・ダルマ 達磨』である。実在の大覚者達磨和尚の名で、三つのそう長くない法話が遺されている、が、達磨自身の述作ではない、弟子筋の「記録」やさらにその解釈や翻訳を経てきたモノである。釈迦もイエスも達磨も、真に悟っていた人達ほど自身の手で書いたものは何一つ遺さない。その名で伝わる「言葉」はすべて後世の記憶に基づく解釈や翻訳以外の何者でもなく、当然(悟ってはいない)筆録者たちの未熟な賢しらや誤解にまぶされている。覚者にはそれが見える。バグワンにはそれが見える。経文や本文のどこが達磨から真に出た言葉か、どこが後世の善意の誤解によるまちがった解釈や翻訳かがバグワンには分かる。(わたしは、それを信頼する。)この本は、そういうおそるべき「腑分け」本なのである。わたしは、ただただ無心にバグワンに聴くだけである。声に出して読んで耳に聴くのである。
2005 9・26 48
* 世界の歴史を読んでいると、ときどき眼の覚めることがある。ヘェ、そうなのかと。
中国史で、「公侯伯子」の爵位の起こりや、「郊外」の初出にフーンとおどろいたり、ブルジョアよりもはるかに遠く、古代ローマにすでに「プロレタリア」の称呼が通用していたこと、「達者(パーフェクト)」という言葉がキリスト教のある種の混乱期にある種の覚者の意義で通用していたこと、など。
求めて得る知識ではないが、自然に飛び込んでくると、ひとしお興がり、楽しむ。嬉しくもある。
むかし、「徳(バーチュゥ)」とは、たとえばコロンブスやマゼランのような大航海時代の「船長」こそが備え、また絶対に備えていなければいけない資格であったと教わり、あれが、「一文字日本史」の冒頭に「徳」を置いた動機になった。
先日観た映画で、潜水艦の艦長が戦死し、引き継いだ副長が、敵攻撃から身をかわす必死の漕艇に際し、ウカと、「おれにもどうすればいいか分からないが」と口にした。
後刻ベテランの士官(チーフ)にものかげで、「ああいうことを艦長は絶対口にしないで欲しい、それが兵士の命を危険に陥れるからです」と警められていた。艦長は「徳」つまり、絶対に深く広く正しい判断と言葉と人格を持っていなくてはいけなかった、今も、そうであろう。
「徳」乏しく唇薄き政治家に率いられている「国の不幸」の身にしみる秋(とき)である。
2005 9・29 48
* 妙なことを言うようだけれど、ゲーテは、不朽の大作『フアウスト』のなかで、「男と女」につよい関心を披瀝し続けている。
第一部がフアウストとグレートヒェンの悲劇的な恋の経緯であり、それに倍する第二部がフアウストとヘーレナとの時空を超えた恋慕の出逢いと別れであってみれば、当たり前のことであろう。
その上で場面場面に立ち止まってよく耳を澄ませば、聴かずにおれない厳しい至言にしばしば出逢う。例えば、今は世俗の大学者をもって任じているかつての学生ヴァーグネルは、悪魔メフィストフェレスを前に神妙に述懐している、「今までわたしは年寄、若者、いろんな人にいろんな問題を持ち込まれて、赤面させられてきたのです。一例を言えば、『霊と肉とは、こんなに見事に適合して、けっして分離しないように、堅く結び合っている、それなのに、しょっちゅう日々の生活を辛くしている、それをこれまで誰ひとり会得した者がない』というようなことです」と。
老碩学に化けている悪魔は、即座に「お待ちなさい! それを問うほどなら、むしろ『男と女とはなんでこう折合が悪いか?』と問いたい。あなたなんぞには、所詮この点は分かるまい」と突きつける。霊肉一致なんかではない、もともと男と女は一体であったはずでないかと、悪魔の皮肉はきつい。作者ゲーテは往々悪魔メフィストフェレスの口を借り、痛いまで辛辣で厳粛である。
「男と女とはなんでこう折合が悪いか?」
これほど普遍的な不審を、他にそう多く人間は持たない。この難問を突き抜いて行くのも名作『フアウスト』根底のモチーフであろう、少なくもその一つの。
ペネイオス河の下流で、レーダと白鳥の相愛を幻想するフアウストその人の詩句は、うっとりするほど美しく艶めかしい。
彼はやがて、探し求めた「フィーリュラの名高い息子」ヒーロンの通りかかるのを呼び止め、その背にのせられ、憧れの世界へと運ばれるが、フアウストはその背中でヒーロンに問いかけるのだ、ヒーロンの出会ってきた最高の男(ヘラクレス)のことや、「いちばん美しい女」について話してくれと。
「なんと言う!……女の美などはつまらんぞ、とかく凝り固まった外形に堕しやすい。美としてわしが褒めることのでききるのは、いそいそとして生を喜ぶ心から湧くもののみだ。美女は自分だけがいい気になっているけれど、優雅こそは抗いがたい魅力を人に及ぼす、いい例が、わしの背中に乗せてやった時のヘーレナだ」とヒーロンは答えている。自分があの「ヘーレナ」と同じ背中に乗っていると知りフアウストは感激する。
「女の真の美は凝固した外形の美にはない、活きた優雅(=エレガント、グレースフル)のうちにこそあるとは、レッシング、ゲーテ、シルレル等の見解」であったと佐藤氏は訳注に書いている。ファウストは美(ヘーレナ)、メフィストは醜(魔女)へのいわば愛欲をもって作品世界を宏大に飛翔しているのだった。
『フアウスト』は形而上学へ希釈される観念の作ではない。
男と女との情念を殺さずに昇華される、信仰の告白なのである。
それに似た信仰をわたしは、遠い昔、例えば百人一首、伊勢の御の歌などに教わっていた。
* 難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや 伊勢
2005 10・4 49
* 輪島ときくと反射的に「鏡花」と想ってしまう。とくにこれという作品を思い出すわけでもないのに。「海」を感じ、そして「泉」の姓、それから出たに違いない「白水郎」という名乗り、それが往古「あづみ」の海士たちの名乗りでもあったこと。そういう一連の聯想が脳裡で飛沫(しぶ)くのである。
* きのう、鏡花研究者である委員から、受け持たれている学生(一年生)の、鏡花感想のレポートを送ってきてもらった。よく書けていた。「読者の庭」にすぐ掲載するには、具体的な作品にまだ触れていないのだが、もし、その学生に、鏡花の作品論なり鑑賞的な感想文なりを纏めてみたい気があるようなら、「ペン電子文藝館」に現に掲載されている二作品、小説「龍潭譚」と戯曲「海神別荘」に関連した、幾つか、ポイントになる「質問」をあげ、答えてもらえるといいがと、委員に返辞しておいた。一年生では、まだそれまでの気はないかも。
* 鏡花全集はいま第三巻の「湯島詣」「葛飾砂子」についで「註文帳」を読んでいる。まだ佳境に入らない。
2005 10・5 49
* 能村登四郎さん最晩年の句集「羽化」と、文庫本になった生涯の選句集を、嗣子である能村研三氏より贈られた。嬉しく。文庫本を早速鞄にいれ、午後一番の電子メディア委員会に出席した。
2005 10・6 49
* 加賀乙彦さん、李恢成さん、小沢昭一さんらの新刊も戴いている。堂免信義氏の『日本を滅ぼす経済学の錯覚』もおもしろい。
旧約聖書はとうどう「レビ記」を読み終えた。この延々のヱホバの訓戒集にはかなり音をあげたが、読み飛ばしはしなかった。時間をかけた。
2005 10・6 49
* 朝日子著作の「徽宗」をスキャンして読んでいるが、よくこれだけを二十歳前に書いたと、正直の所おどろいている。独創性をいうのではない、課題が「人物中国の歴史」の一人なのであるから、根底は「調べ仕事」になるが、調べたことをどう表現するかは才能である。朝日子には、穏和な文章のこだわりなさと、調べ仕事をナマのままに書き並べて済ませない、強いていえば藝術的なセンスが育とうとしていた。
小さいときからいろいろ書かせて、どのように推敲するかを教えていた。この一文は、二十歳になったときの、父親へ提出した卒業論文なのであった。平明に書けたいい文章を読むのは楽しい。いま楽しんでいる。
お茶の水女子大の卒業論文は「ムンク」であった。これも読み直してみようと思う。やす香を抱いてパリで暮らし始めた記念は、いま「e-文庫・湖 (umi)」に載せてあるが、「パリ通信」という私信めく文集も朝日子は保谷の家に置いている。これも読み返して復刻しておいてやりたい。
朝日子はいま碁打ち仲間との交信を楽しんでいるらしい。碁にふれた川柳だか俳句だかのコンクールで、末席の方に駄句を入選させている。そういう境涯もまた心身健康ならいいであろうが。
2005 10・7 49
* 朝日子の書いた「徽宗」をスキャン校正し終えた。ほう、といろいろ教わった。よく調べ、よく参考文献をかみ砕いて、二十歳の筆とは思えない、気負わずゆったりと書かれた、しかも悲惨な一皇帝の人生であった。この皇帝の悲惨は自ら招いたと言えなくない。君臨する人としても政治家としても、最低に無責任な皇帝だった。そんな人物がなぜ「中国のルネサンス」と題した一巻に数人の一人として採り上げられるか。彼の稀有の藝術家たる才能のゆえである。彼の宸筆と確認される「桃鳩図」は我が国愛好の国宝に指定されている。朝日子は、その辺をよく調べよく考えて評価し、興味深いエピソードなども採り入れて、ほう、ほうとわたしを喜ばせた。
同じ『人物中国の歴史』で、もう一人、「李陵」に就いてもわたしは朝日子に代筆させている。それも読み直してみたい。せいぜい大学一二年の時にこれらを書いた。原稿料名義のお小遣いも欲しかったのだろうが、今となればそんな金銭づくは意味薄れて、これを、これらを朝日子は間違いなく「書いた」ことが大きい。青春の意気が生彩を放って此処にのこっている、それが大きい。父親の身贔屓でなく、そう思う。
2005 10・7 49
* 竹西寛子さんの「兵隊宿」を読んでいる。 2005 10・11 49
* 昨夜思い立ち、ツヴァイクの「メリースチュアート」(残念なことに新潮文庫本上巻だけしかない。)アンドレ・モロワの「英国史」上下巻を読み直してみたくなった。二度も三度も読み、わたしの英国観をかなり作り上げた観がある。
* 鏡花の親戚筋であるはず、松本たかしの俳句をまとめて読み始めている。生前親しくして頂いた「みそさざい」上村占魚さんの先生の一人。登四郎俳句も読みかえしかえししていて、このところ俳句とも和歌とも仲がいい。
2005 10・12 49
* 高田欣一さんの「西行」論の続きを聴いた。待賢門院兵衛の名がまず出て来る。堀川の妹だ、西行と親交のあった高名の歌詠み姉妹である。ふしぎに親類か何ぞのように親しみを覚えるのが待賢門院をとりかこむこの三人だ、崇徳院を加えてもいい。白河院を加えてもいい。
* 高田さんは西行の歌から、紫式部の名を出し小野小町にさかのぼり、また業平と伊勢の斎宮との有名な相聞なども引き、「うつつ」と「ゆめ」とを差し向かわせながら繰り返し「夢」の「現」に対する優位ということをかなり大事に語っている。これは、同様の和歌と歌人達に触れてモノの言われるとき、かなり広くいろんな人の用いる論の行方であるが、その先へもっと深くは、前へも奧へも突き抜けない、行き詰まりの議論に陥っている。
「うつつ」など在りはせず、「ゆめ」もとより在るわけがない、優劣の在る道理がない、と、その空・無に「気付いたとき」に、「覚めたとき」に、初めて「うつつ」も「ゆめ」も在ると謂えば謂えるるのかも知れない、それだけのことであり、小町はともあれ、紫式部も、また和泉式部も、そして西行も、それが分かっていたであろうとわたしは思っている。
* 高田さんのエッセイは、じつに佳い。こういう文章が「通信」というプリント形式でしか余に配布できないことが、とても口惜しいとわたしは感じる。四半世紀早ければこれは高田さんの代表作かのように時代に受け入れられていただろう。インターネットへ推し流れて行く潮流は、こういうフェイマスな仕事を容易に認知しようとしない。それでいいのかと、電子メデイア委員会でわたしは、たらたら不平を述べたものだ。誰かは、リッチとフェイマスとは両輪だと謂っていたが、理窟に過ぎない。「情報」はもてはやされるが、例えば高田さんのこういう正しく「エッセイ」は、出版社がそもそももう受け付けないのである、惜しいことに。
* ヘーレナとフアウストとは、母となり父となって「詩」と「活力」との象徴である愛子オイフォーリオンを得るが、何の羈束もうけいれないオイフォーリオン、愛らしい児童からたちまちに青年戦士となり、まっしぐらに天に飛翔して、イカルスのように羽根をうしない父と母のあしもとに堕ちる。ヘーレナは子の呼び求めるのにしたがい、ファウストに別れを告げて地底に去って行くのである。
わたしは今日、もっとも美しい個所を読んでいた。
2005 10・12 49
* 前京都国立博物館の館長をされていた興膳宏さんから、研文書院刊「日本漢詩人選集 別巻」の『古代漢詩選』が贈られてきた。先ず読んだ「あとがき」がおもしろく、おのずとこの別巻の成る経緯も知られた。
それよりなにより、日本の漢詩は和歌の隆盛と尊重におされ、かなりワリを喰ってきた。致し方なき点もあるが、当然とも言いかねるのであり、興膳さん、その辺を力説されている。この一冊、また座右の書に加えたい。
試みにこのシリーズが本巻で採り上げている十七人の日本の漢詩人の名前に、趣味を感じつつ、此処に並べ直しておきたい。
菅原道真 が古代でただ一人。これでは別冊に「古代漢詩選」が当然必要になる。
中世にとび、 絶海仲津 義堂周信 の禅坊主ただ二人。これも寂しい、一休さんなども欲しいが。
わたしはもともと、しかし、詩禅一味だの画禅一味だの茶禅一味だのというお題目は信用していない。あれらは禅である前に、禅趣味に過ぎない。
次いで近世に入り、ぐっと増える。
伊藤仁斎 新井白石 荻生徂徠 服部南郭 柏木如亭 市河寛斎 菅茶山 良寛 頼山陽 館柳湾 中島棕隠 広瀬淡窓 広瀬旭荘 梁川星巌 人選に異存はない、けれど、詩をつくるために詩をつくっていた人が近世には多い。和臭の詩も少なくない。日本人が日本人めく英語やフランス語で詩を書いて得意であったような時期が近世であり、いやどの時代も外来知識とはおおかたそんなものであり、そうだとすると、わたしなどは万葉集以前に、孤独に熱中されていた少数の詩人の漢詩が懐かしい。興膳さんの本はその辺をかなり大きく補って下さる。あえて増補別巻の意義であろう。
ことの序でに別巻が目次に採り上げている上古・古代の詩人達の名を拾っておく。
大和・奈良時代には 河島皇子 大津皇子 文武天皇 大伴旅人 山上憶良 大伴池主 大伴家持 下毛野虫麻呂 刀利宣令 長屋王 安倍広庭 百済和麻呂 藤原房前 藤原宇合 山田三方 吉智首らがあり、大友皇子の名前も欲しいところ。
平安時代には 嵯峨天皇 有智子内親王 淳和天皇 朝野鹿取 良岑安世 小野岑守 菅原清公 巨勢識人 滋野貞主 空海 島田忠臣 そして 菅原道真に到るわけである。
2005 10・20 49
* 軽い鬱ならば、自然に任せるより、きっぱり拒否する働きの方が大事です。一歩下がれば二歩つけ込んでくるから。
うつをもし自覚したら、つとめて うつ的な匂いのするなにもかも遠ざけ遠のいていた方がイイ。「うつ診断」なんて、自分から蟻地獄へにじりよるようなもの。
わたしは、軽いときは喰うか呑むか。次は娯楽性のある映画。最後はなるべく長いオモシロイ小説を読み始めて、読んでいる間はウツなど忘れていてやる、ことにします。若い頃からです。結構うつに襲われる方なのですが、回避の方法もいろいろ覚えました。
モンテクリスト伯 という長いオモシロイ小説は読みましたか。 風
* > きっぱり拒否する働きの方が大事です。
そういうものなのですか。意外でした。
うつと長年おつきあいなさってきた風のおっしゃること、聴いておきます。ま、お気に入りのDVDやビデオを見るのは、いい気分転換になります。
「モンテクリスト伯」は、ジュニア版を読んだことがあります。 花
* ジュニア版とは「巌窟王」みたいなものだろうか。この小説は、原作のママがいい。世界一面白い小説だった、とすら言える。気鬱のときは、この作品の持っている噴き上げる豊かさと毅さと明るさとが気分を救ってくれた。わたしは前半しばらくの、エドモン・ダンテスの不幸のところをさえ、楽しむようにして読み返し読み返ししてきて、飽きたことがない。遠のいていても、いつも、彼処には心強い物があると感じつづけているのだ。誰彼なしに古文の光源氏は薦められないが、翻訳のモンテクリスト伯は誰にでも大いばりで勧められる。乱暴でも下品でもなく、壮麗な大構想をもっている。
2005 10・20 49
* 秋扇や生れながらに能役者 松本たかし
代々の宝生流座付能役者の家、松本長の子と生まれて初舞台もふみながら志半ばに病弱で藝道をはなれたたかし述懐の代表句である。愛弟子上村占魚の『松本たかし俳句私解』に多くを教わりながら句を書き写していた。
2005 10・23 49
* 青井史さんがとうどう『与謝野鉄幹』を、稀有の大冊にし出版した。馬場あき子のもとを離れて歌誌「かりうど」を主宰し始めてから、まさに果てしなく根気よく書き続け、この巨人の生涯を覆い尽くしたのは偉業であり、顕彰に値する。いま、一つ二つ優作の推薦を求められているが、恰好の大作が目の前に成ったのがよろこばしい。
2005 10・25 49
* 能村研三氏に貰った亡き登四郎さんの最後の句集『羽化』を側に置いて、機械にほっこりすると箱から出して、一句一句ゆっくり読んで行く。最期の句集が『羽化』とは何という佳い題であろう。「淡淡」と題された平成八年九年の句から好んで書き写す。
白絣着やすきほどの黄ばみかな
終りしと思ひしころの遠花火
白服の旅一度きりに終りけり
秋風の銀座にいくつ路地稲荷
七夕の竹負うて来て孫の家
露滂沱たる中に音あるいのちかな
朝の間にきく盆経をよしとせり
盆燈籠とうに捨てたる家長の座
老人に追ひ抜かれをり秋の暮
新藁の束を貰ひて富むごとし
穴惑ひめく逡巡のわれにもあり
何かゐて小春の池の水ゑくぼ
うすき肌着重ねしごとき小春の日
羨(とも)しとも息長き鳰の水潜り
母の世の玉虫いでぬ錆箪笥
残菊や老いての夢は珠のごと
牡丹散りし後の風雨のほしいまま
肉色に殻透き若きかたつむり
ちちははのあまりに杳(とほ)し迎へ盆
苧殻折る音やさしくて折りにけり
秋口までといふ約束のありにけり
晩景に逢ふたのしさの白絣
羊歯叢にたしかひそみし蛍かな
月の下椅子二つあり誰もゐず
湯壺まで這ひ来し葛の花もてり
墓洗ふ月射すころを思ひつつ
とつくりセーターより首出して今日始まる
* 衝撃のまま、瞑目。 月の下椅子二つあり誰もゐず 登四郎
2005 10・25 49
* 『フアウスト』の冒頭に、「劇場での前戯」というのが出る。この作品はいわば詩人ゲーテ畢生の詩劇に創られている。それは劇場の舞台にいましもかけられて見物が観ているかたちに、演出指示やト書きまでも「表現」されている。「劇場」劇であるからは劇場側の関係者は「座長=経営者」「座付詩人=創作者」「道化方=俳優たち」の三者であり、三者が、開幕前にそれぞれの思惑や主義主張を述べあい議論しているのが、この「前戯」である。
言うまでもない、一つの興行・創作・演戯論として、かなりシビアな内容になっている。ゲーテは詩人の立場からだけこれを書いていない。座長にも俳優にもしっかりモノを言わせて、詩人はいささかタジタジ気味とも読めるのが面白く、またわたしにはチクチクどころでなく切り刻まれる思いがある。
訳としては佐藤通次訳が深切だが、鴎外訳の新鮮な口語にすばらしく驚かされたので、「ペン電子文藝館」の「翻訳」室にこの部分を一藝術論として大切にとりあげたい。漢字は今日のモノに、しかしやはり仮名遣いは鴎外の時代にしたがいたい。
* 『フアウスト』全編の理念はおそらく終末部で天使等がうたう、「誰にもあれ、たえず努め励む者。/その者をわれらは救うことができる」という二行に看取できる、しかもここに表れる至高の愛は聖母マリアによって表現され、全曲を結ぶ二行は、「永遠にして女性的なるもの/われらを牽きて往かしむ。」である。
此処に、ゲーテの基督教への批評もありまた人間の文明への洞察もあり、形而上学の原点もうかがわれる。ゲーテの、もし有るとして信仰の基盤には、女性=母性への世界史的な洞察がある。ゲルマンの森林と地中海を囲む大地への信仰がある。フアウスト博士は、聖母の愛にゆるされてあるグレートヒェンの愛、またヘーレナの美によって、天上へ誘われ救われて往く。
七十への間際にして、繰り返し、ゲーテの作品に浸され得た。
また昨夜、ついにトルストイの『戦争と平和』も、最後の歴史と人間まですべて読了した。最終の「議論」までを読み尽くしたのは今回が初めてで、トルストイという人にさらに深い敬意を覚えている。ロシアへの旅で、場所を替えながらトルストイの邸宅や書斎などを観てきた感銘も、この読書に有難く生きて加わった。
* さ。いつもの臨戦態勢に入って行く。機械へ近寄る回数が減るだろう。
2005 10・28 49
* チャン・ツィーイの中国映画「LOVERS」を中途からテレビで観た。この女優は「恋人の来た道」で可憐に好演した印象的な美女。うって変わった武藝の達人としてめずらしい闘技を、美しい自然の緊迫のなかでふんだんにみせてくれた。概して中国映画はみないのだが、現代物でないのと主演女優に惹かれた。
明日からに備えて、幾らかまだ用意は足りていないのだが、気長にやるつもりで今夜はやすもうと思う。
「千夜一夜物語」も、西欧の「中世史」も面白い。まだ「フアウスト」の前半も読み返している。「日本書紀」はいま雄略天皇紀。最も個性的な天皇の一人。面白い。弱るのは「旧訳聖書」で、まだ叙事詩としても物語としても展開せず、ユダヤの部族ごとの人数を克明に数え上げたり、掟を説いたりしている。じりじりと読んでいる。バグワンの「ボーディダルマ」は強く胸を打つ。説得の力というより、感じさせる真率さと深さに、感動。
2005 10・30 49
* 高麗屋から、夫妻の著書がどっさり贈られてきた。『俳遊俳談』や『高麗屋の女房』など数えて十冊。市川染五郎時代の珍しい『ひとり言』もある。(他に松たか子さんの『松のひとりごと』など三冊もある。)入会が決まると同時に「ペン電子文藝館」へ加わってもらうが、作の選択は任された格好で、骨折れそう。楽しんで読んで行く。
* 藤間紀子様 ご本たくさん戴きました。お嬢さんのもあり微笑みました。高麗屋さんの染五郎時代のが珍しく、嬉しく。
沢山の中から作品として選ぶのはたいへんな宿題になったと思っていますが、今回は、私の思いで適宜選ばせてもらいます。何度にも分け、少しずつ展観させてもらおうと思います。 有り難う存じます。
ペンの事務局長に、二十五日の「ペンの日」七十年に、「入会」を歓迎してお招きするよう申し置きましたけれど、むろんご公演最中のこと、お気に掛けて下さいませんよう。時候がら お大切に。「ペン電子文藝館」秦 恒平
2005 11・3 50
* 泉屋博古館へは脚の便がわるいとみて諦め、予定通り牡蠣フライでビールをと、ニュートーキョーに行った。牡蠣はやはり美味かったから、大ジョッキのビールもじつにうまかった。シーフードのパスタは余分であったかも知れないが、そのおかげで居座る時間がとれ、甲子さんにあずかって読んでいた小説を、また読んだ。
今まで読んだ甲子さんの他の三作より、この作がいちばん完成度の高い短編に感じられた。ごく幼い男の子のめから親たち大人の世界を眺めるというむずかしい書き方をわざわざ選ばれている。そして成功している。それにともなう瑕瑾はある、が、小説の力学や美学を歪めるほどではなく、やむをえない。むしろ、それらを蔽いとり、この作は深みも優しさも静かさも、あるもののあわれに光っていると感じた。しかも「時代」の鼓動が正確にとらえられている。ビックリするうまさである。川端康成賞の候補作ぐらいの妙味がある。
2005 11・4 50
* 『戦争と平和』は作者の述懐も訳者の解説も、ことごとく一旦卒業した。
『アラビアンナイト』は第三巻を終え、文庫版の四冊目に入り、『世界の歴史』も今日にもヨーロッパの中世史を通過して行く。文化的にはともかく、政治社会史的にはイギリスの先進性は認めざるをえない、フランスよりも相当前を歩いていたし、ドイツときたらフランスよりもまだひどく遅れていた。それぐらいなことは高校で世界史を勉強した頃からわかっていたが、西欧または欧米のものの考え方や仕組みが知りたいなら、あんどれ・モロワの『英国史』と『米国史』とを或る程度纏めて承知していないと、本質をずらしてしまうとも感じたころに、わたしは新潮文庫でその二種四冊を買って読んだ。それを世界史と並行して、トルストイのかわりに読み始めている。
気が付いてみると、『日本書紀』『旧約聖書』『世界の歴史』『英国史』『アラビアンナイト』そしてゲーテの『フアウスト』が毎晩のきまりの本になっているのは、ひと言で言えば「歴史」を泳いでいるようなものだ。小説は鏡花全集で、今は『高野聖』これはもう、ぞくぞくする。たいへんなものだ。
そしてバグワンの『ボーディダルマ』には、わたしが抱きつくのではない、バグワンにわが全体(トータル)が掴まれている。すばらしいというしかない。
2005 11・4 50
* 「千夜一夜物語」の最長編物語を読み進んでいる、この一話だけで百何十夜をくだるまいかと想われるが、それはどっちでもいい。
今日読んでいたその中で、ある国王の皇女が、ふとした不幸から流浪と困窮を経て絶世の美貌奴隷として、じつは異母兄である大公の妃になりかけている。奴隷売りの売り言葉に、女は万般の学問に精通しているというので、大公シャルルカンはそれを試してみる。女奴隷は、世の中のことは大きく四部門に別れているが、最初に大切な政事について申し上げますと言い、まさに滔々と政治論を披瀝するのが、すこぶる面白く、イスラム世界が政治と宗教を分かつよりも積極的に一体化しようとする「理由」がかなり明快に大まじめに説かれていて、なかなか教えられた。
じつはまだ政事を語る長広舌の半ばにあり、すぐにどうこうは言えないけれども、この「千夜一夜物語」のじつに端倪すべからざる土性骨に触れた心地がする。「知識」として受け売りする気は全くないが、なんという面白い本だろう!
* 昨日はバグワンに、あの有名な「拈華微笑」について眼から鱗の落ちるはなしを聴いた。絵画にも画題としてよく採り上げられているが、画家達はこれを何と思って描いているか、ちと尋ねたくなった。釈迦が一軸の蓮の花を手にもち、くるりとまわしてみせた。一人の無口な高弟が笑い出した。釈迦はおおいに認めて悟りのシルシとしてその蓮を与えたのである。「拈華微笑」というが、笑いの程度は分からない。哄笑ではなくても、にやりと声もなく笑ったかどうかはべつごとで、つまりその弟子は「笑った」のである。その弟子を釈迦は大悟したのだと認知し称讃した。
こういうとき、われわれ凡俗は、何故かと口にする。それしか反応のしようがないのだ。
バグワンは的確なことをわたしに告げてくれた。有難いことであった。
2005 11・6 50
* 懐かしい人もいた、卒業以来初めての人もいた。来ていていい人が欠席しているのもいた。年は偽れない、男も女も正に、古稀。それでも健康で又こうして逢いたいと願う人達が多い。わたしは、シンとしていた。もうこれ以上望んでいない自分に気付いていた。
「過去」というのが、わたしには寂しくなっている。この先へ先へ、あしもとを見ながら、トコトコと歩いて行く自分があるだけだと想う。世界中を、死ぬまで旅して廻って楽しみたいと言う友人には、げんきやなあと思う。まだまだ月給を稼ぎ続けていたい人にも、やはり、げんきやなあと思う。
二次会に誘われて行ったクラブで、六人ほど、それはもう上手に演歌の数十曲をうたいまくって、ますます燃え上がる男子女子には、ほとほと、ほとほと、感心してしまう、げんきやなあ、昔の七十とはえらい違いやと思う。ディスプレイに浮かぶ煽情的な男女の写真、そして演歌の歌詞という歌詞の、うーん……。しかしこのようなメロメロの歌詞を、メロデイを、間違いなく日本のインテリも、そうでない人も、おしなべてあまりに深く濃く心身に刷り込まれていて、自民党を大勝ちさせるような日々の意見や生活態度がそこから生まれているのだから、わたしなど超少数派は、あまり口を利く余地はないなあと惘れていた。
それから、さらに何人もでどこかへ流れゆくのには、一人「さよなら」して、四条通をノンビリ歩き、そうだ懐かしい「梅の井」の鰻を食って行こうと縄手の店に入った。出来たら、いつか、この店の主人と「京の町衆」といった対談を企画したい気がある。
そしてどういうかげんか、予期していたよりも、特上の鰻重も赤出汁もすこぶる美味くて、重かった酒の氣もすうっと抜ける心地。そのまま烏丸の宿まで、町歩きをたのしんで帰り、そして入浴、スイと寝たと言いたいが、読み継いでいる「千夜一夜物語」がすこぶる面白く、一時過ぎまで読んでいた。
2005 11・8 50
* 『松本幸四郎の俳遊俳談』から、「役者幸四郎の俳遊俳談」と題して掲載されている随筆全十六編をスキャンして校正を始めた。大判の八千円もする大倉舜二撮影の写真集でもあるが、高麗屋自身の俳句と随筆集である。なだらかな達意の口語でおのずからその系譜や世間や家庭や歌舞伎・演劇が語られ、口跡を聴くようである。あれこれ混ぜないでこの一冊に集中して保存し伝達するのがうま味があると判断した。
ことに十六編中の「奥入瀬谿谷をゆく」という何でも無げな紀行の一文が佳い結晶度で、それに惹かれて全部を採った。そこへ行き着く経過をもていねいに見たいと思った。役者としての家筋にこの上なく恵まれて大きくなってきた人の、またそれなりの苦心も深く、批評の余地もむろん無いではない中で、ユニークな俳優半世紀を堅固に立派に築いている。
わたしは少年の昔からほぼ一貫して播磨屋、高麗屋系の芝居に馴染んできたのだが、はっきり言って近代の歌舞伎でそれが本流であったかどうかは微妙で、だからこそわたしは関心を失わずに来たのだった。「ペン電子文藝館」にいちはやく小宮豊隆の「中村吉右衛門論」を招待したのも、そういう思いが働いた。
2005 11・12 50
* 幸四郎の本の表帯に、「神の春とふとふたらりたらりらふ」という彼自身の句が引かれているが、「とふとふたらり」はもしや歌舞伎台本の何か手控えにでも拠っているのか。能の「翁」または「神歌」に名高い呪言・呪詞である。「鳴るは瀧の水」ともあるように瀧ないし激湍・奔流などとの近縁が推知されている。とすると「滔々」「蕩々」あるいは「どうどう」に近く、仮名遣いは「とうとう」「どうどう」で、すくなくとも「とふとふ」という仮名遣いは当たらない。これは気になった。
ついでもう一つ初代吉右衛門が祇園の茶屋「吉つや」に遺している句の一つに「冬ぎりや四條をわたる楽屋入」があると幸四郎は書いている。その軸も写真で出ているが、字は微妙に小さくて読み切れないのである。
おそらく、四條大橋を渡って、または四条大通をよぎって南座へ「楽屋入」するのであろう、「冬」だから明らかに南座の顔見世興行以外に考えられない。わたしはこの初代吉右衛門の顔見世興行で生まれて初めて南座顔見世歌舞伎を観たのである。
しかし「冬ぎりや」という句語が解せない。これは「冬の霧」か「冬限り」を歎息した「や」でしかありえないが、前者でも後者でもピンとこない。鴨川に霧がたたないでもないけれど、京の市内で、ことに南座の近辺で暮らしていたわたしの記憶では、「霧」を口にしたり嘆じたりしたことは、まず、ない。大通りで霧をみた記憶はない。四條大橋の上で川霧をけっして見ないとは言わないが、乾燥のすすんだ冬期、秋霧のようには冬霧は立たない。「冬霧」という用語もまず簡単には見ない。
わたしの率直な感想では、これは、「冬ざれや」ではないのだろうか。
叩けば鳴りそうな乾いた底冷えの京の師走は、よく「冬ざれ」という実感を催したものだ。胴震いのする冬の寒さと奇妙に乾いた空の明るさ。まして四條の橋の上では、ぞくっと来る。
冬ぎりと冬ざれ 写真では判明しないが、走り書きだと混同の可能性のあるひらがな二字ではある。「気になった」と言っておく。
2005 11・12 50
* 昨日ペン会員の俳人が「四人」という同人雑誌を送ってくれた。「文学散歩旅行私記(その六京都・洛外コース)」を高杉勲という方が書いてられ、「京都生まれ、京都育ちの作家」「秦恒平の小説『慈子(あつこ)』相当な量の深切な筆を用いておられるのに、驚き、感謝した。
2005 11・13 50
* 東大の西垣通さんから、「ペン電子文藝館」へ佳い会員出稿があった。今朝いちばんに読んだ。西垣さんのように、現会員から、めいめいの「代表作」と自負されるほどの作品が出揃ってくればどんなに充実するだろう。こういう思いを率先して若い理事諸君がもってくれるといいのだが。一般会員から力作が入り、理事作品にほんの間に合わせが並んでいては、情けない。
2005 11・15 50
* つよめに振ると痛みが両側頭に巣くっているのが分かるけれど、気分はよほどよく、少し冒険かも知れないが入浴し、そのかわり早く寝ようと思う。
歌集「少年」をもう明日は手放していいところまで入念に繰り返し読んだ。また「役者幸四郎の俳遊俳談」に「付(つけたり)」の「父幸四郎(先代)との対話」をスキャンし校正しておいた。二三の不審個所について、いま夫人に問い合わせのメールを入れておいた。
2005 11・15 50
* 福島美恵子会員の自選歌「きまじめな湖」をスキャンし校正し入稿した。秋元千恵子会員からも自選歌が届いて、やはりスキャンし校正したが、秋元さんの四冊の歌集からの自選歌はとても立派なもので感心した。よく選歌されていて一首一首が粒だって光っている。胸板を敲いてうったえて来る。うったえる、それが「うた」の原義であろう、しっかり現代を生きている自覚とまたそれだけに痛みも鬱も深い大人の短歌に成っているので敬服した。いま、入稿した。「地母神の鬱」と表題した。
2005 11・16 50
* 妻は聖路加へ、わたしは留守番して、気になる連載「本の少々」随筆を二本、送った。また「高麗屋の女房」さんと、エッセイの不審個所でメールを往来。一等気にしていた初代吉右衛門の句が、わたしの希望どおり正しくは「冬ざれや四條をわたる楽屋入」であったと確認され、ああ、それで佳い句が佳い句になったと安堵した。
奥さんの出稿作品も『高麗屋の女房』から中ほどの一章分を全部もらうことにし、『私のきもの生活』から「付」を少し出してもらうことに決めた。
幸四郎丈が前回湖の本の『日本を読む』を「座右の書」にしていると聞いてよろこんでいる。わたしの書くモノはかなり伝統藝能や庶民の歴史と交叉している。どこかしら交響しあうものがあるだろうと望んでいる。
2005 1・17 50
* 『フアウスト』の詩句(科白や歌詞)の一行一行に立ち止まるという読み方で、わたし自身の人生体験と内的に交叉するところを、朱の傍線で確認している。こういう読み方も出来る大いさを持った作品だ。
ほんの一例だが、「劇場での前戯」の冒頭で(フアウスト劇を上演する)劇場の「座長」は、観客というのは「ひとつびっくりさせてもらおうと思っている」と言い、そのために座席に「ゆったりと腰を据えて、眉をつりあげ」ていると言うのだ。
眉をつりあげこそしないがわたしも、木挽町や三宅坂や千石や六本木で、また息子達の劇場で、そういう気持ちなのは間違いない。手短に、しかし的を射ている。
なにも演劇だけのことではない、あらゆる藝術・藝能の場で、読者も観客も聴衆も同じ期待をしている、「ひとつびっくりさせてもらおう」と。これほど簡潔な一つの創作論があるだろうか。忘れがたいことである。
「びっくり」の中味はむろん客により千差万別。それにどう応えるかでリッチとフェイマスも分かれてくる。ゲーテの底知れぬ大きさは、のっけからこういうふうに出て来る、まだ、「フアウスト劇」は始まりもしていないのに。
朱の傍線を引いたこの佐藤通次訳の文庫本上下は、またわたしのわたし自身による自己批評の証跡になるだろう。この「私語」の場所から、手ばなせない本である。
2005 1・17 50
* ゆうべも、読書で、しっかり夜更かしした。
世界史はいま中国の「晋朝」の頃を読んでいて、つまりわたしの『廬山』恵遠法師や、好きな陶淵明また王羲之・王献之、泰安道らの生きた時代。場所も紹興・会稽など訪れたところであるから、親しみ深く、また此の時期の歴史・政治・社会も文化も、かなりにハチャメチャに無残な場面多く、つい、身につまされて読み進んでしまう。
その上に『アラビアンナイト』が途方もなく面白く、読み出すとやめられない。全編のなかでも大長編の、まるで蛸の脚のように話の拡がって行く野放図な物語の組み立てようにあっけにとられながら、ひきずりこまれている。「ひらけゴマ」などと絵本のたねにされて、子供の読み物と誤解される気味もあるが、どうしてどうして、これぐらい露わなエロスと大人たちの欲望の赤裸々に渦巻く説話世界は他にあるものでなく、それでいて、アラブというのかイスラムというのか、何とも言えない美意識も世界観も、怒濤の勢いで読者の胸の奥へ突入してくるから、こりゃもう、かなわない。少し纏めて千夜一夜物語について自分の感想を書き留めておきたい気がする。
『雄略天皇紀』がまだ盛んに続いている。モロワの『英国史』もおもむろに佳境へわたしを誘惑している。そして『旧訳聖書』がすこしずつ煩瑣な掟の草むらから抜け出て行きつつある。鏡花は、少しずつ読んでいる。
2005 1・18 50
* 寒さに脅されてマイセン展は遠慮した。会期中に行けばよい。
「高麗屋の女房」を思うさま選んで読んで、校正した。
日本の藝能は、根底に死者の鎮魂慰霊があり、転じて生者の偕楽成の興行が表裏膚接している、それが基本だ。高麗屋の文藝にも奥さんの文藝にも痛切にそれがあらわれ、彼等の歴史と日常とは、死と生とに綯い混ぜられているのがよく分かる。だから常人には味わいがたい、涙と感動と輝きとが見える。先代幸四郎の死、その夫人松派小唄家元松正子の死、そして藤間夫人実父の死。その大きな死の影を深々と背負ったまま、幸四郎夫妻や役者の子供達も、「舞台」に立ち続ける。毅い人達の世界に触れたのを喜んでいる。
役者達の世界をよくないと非難する人もむろんいる。批評のものさしはしかし安易な一本だけではないのである。
すくなくもわたしなどは、あくまでも役者の舞台に力づけられ楽しませてもらえば有難い。この夫妻の文藝は、終始知性と感性のバランスの上に清潔であった。それで足りている。
2005 1・18 50
* 高田衛さんから、ちくま文庫『八犬伝の世界』を戴いた。馬琴の大長編は『近世美少年説』しか読んでいない。『椿説弓張月』は簡約されたもので読んだだけ。八犬伝を前から全巻読んで見たかった。どこかで本を探さなくちゃ。高田さんの本をさきによんでしまうと『八犬伝』読みのウブな楽しみが喪われてしまう。先に原作。
砂子屋書房の『能村研三句集』を戴いた。能村登四郎の「沖」後継者である。俳句の世界には世襲の後継者、多いようで多くはない。
* 小田実さんから、彼の作「玉砕」をイギリスの放送局でつくったラジオ劇のディスクを戴いた。作品は「ペン電子文藝館」に掲載されている。
2005 11・22 50
* なぜか夜中に目が冴え、灯をつけて『フアウスト』をすべてまた読了した。今は手に入りにくいらしいが、佐藤通次訳の旺文社版は、ほんとうに良い本であった。しばらくなお座右に置いて部分的に詩句に親しみたい。ついで、『千夜一夜物語』角川文庫版の第五巻の原注をこまかに読み終えた。あけがた、新聞配達の頃にまた枕元の灯を消した。起きたら八時半、たいして寝ていない。
2005 11・24 50
* ときどき、手安めのために、貰ってそばにある松たか子の『松のひとりごと』を読んでいる。過不足のない達意の文章で、きっちりと、清(すず)しげにいろんなことを述懐している。なかなかのもので、豊かな内面か、具体的な記述を通して感じとれる。物書きとして書いていない、俳優であることに根をおろして、その体験をとても素直に書いている。
俳優のモノでは小沢昭一のを最近戴くに任せて読んでいるが、この人は徹して談義調。それはそれなりの体臭というモノで、いいときも臭いときもあるのは余儀ない。
松たか子は若い魅力を自意識からでなく文章の根から吸い上げている。簡単にできることではないのだが。
2005 11・24 50
* 例によって一万円の会費が払ってあっても、わたしは、大混雑の中で立食できない。ほとんど飲みもしなかった。そして八時半、疲れているのでタクシーで帝国ホテルへひとり移動し、クラブにやっとひとり落ち着き、強い酒で、おきまりの角切りステーキ、エスカルゴを食べ、ほうっと一息ついた。空腹での強いお酒がジンジン身に沁みた。キープしてあるウイスキーの一本は、1990年余市で蒸留のNIKKA。アルコール分が67%もあり、わたしはそれを生のママ飲む。生のママでないと、せっかくの酒の香も味もうすまってしまう。ま、毒をのんでいるのと変わらない、愚の骨頂だけれど、ときどき此処へにげこんで、ひとり放心したり、お行儀のいいホステスと仲良くお喋りしている。此処だとまず誰とも出会わない。
しかし以前一度だけ、家のすぐ近所の人が、某出版社勤めの接待のためかなにか数人で来て客をもてなしているのと鉢合わせしてしまったことがある。
* 千夜一夜物語を読みながら帰宅。
2005 11・25 50
* いま、アンドレ・モロワの『英国史』に引き込まれている。イギリスがイギリスに成るまでに、あの島国にはラテン・ケルトの人達と、アングロ・サクソンの人達との久しい烈しい角逐があった。北欧からの仮借ない侵入もあった。
わたしは、イギリスという国に親和的な気持ちも、とくに反感ももっていないが、民主主義ということを考えるとき、この島に発展した政治思想や仕組みには思い惹かれる多くが、他国に比して、確かに在る。学ぼうというほどの気はもうなく、しかし、せっかく大部の「世界の歴史」を読み進めているのだし、西欧の纏まった歴史ならイギリスとフランスとを別途に読んでみたいと思い立ち、書架の本を枕元へ移動させた。モロワの記述には独特の風格が感じとれる。
いま「世界の歴史」は、インド。
インドは、その「歴史」を統一的に把握することの実に困難な、ケッタイな国である。歴史感覚を受け入れなかった国とでも言おうか。隣の中国はこれまた「歴史」そのものを実に愛好し編史・修史の事業は古来夥しいし、日本もそこそこ歴史編纂には国家的に取り組んできた。むしろ近代以降に権威と良識あるそういう修史の発起が国民的に起きてなかったのが、歴史的怠慢とすら思えるのだが。
インドは、まさに摩訶不思議。「0」を発見し、いまだに公然と階級差別し、佛教を追い出し、核爆弾を保有している。インド史のなかで、ゴータマ・ブッダを除いて何人の偉大な個人の名をあげうるか、わたしは、アショカ王、達磨、そしてバグワンを挙げ、ガンジーもタゴールもそれに較べて小さいと思っている。いま、インド古代の推移を追うている。
* アラビアンナイトは、いましも小動物たちを主人公や語り手にした寓話の数々を並べている。小動物の口や振舞いに寄せて語られる説話は、圧政や虐政の時期にうまれやすいだろう。権勢の暴威をかわすには、鴉や狐や狼や鸚鵡らに話させるのが無難。千夜一夜物語は、こういう寓話の宝庫でもある、語り口も巧みで読み手を引きよせる。
* 建日子の家に行ったら、河出書房からもらったという新刊のル・グゥインがあって、「お父さん、読むだろ」と貸してくれた。よろこんで持って帰り読み始めている。ワクワクする。
鏡花の『高野聖』を読み終えた。やはり、心うばう魅惑。そして新しい「発見」ももてた。それは、書いてみようか、誰かに書いてもらおうかと思う。妙味のしたたり落ちるいい切り口である。
* 鳶から、「南総里見八犬伝」を送りましたとメール。オゥ嬉しい。
2005 11・28 50
* 『南総里見八犬伝』岩波文庫全十巻を買いかいととのえて、遙々姫路から送って来てもらった。有難い、有難い。早速第一巻の冒頭を音読。『近世美少年説』を全集で読んだとき、導入の壮大と深遠奇怪なことに驚嘆したが、行く先々で世話に流れ、やや冗長に竜頭蛇尾の観を免れなかったが、こちらは結城合戦に始まり先ずは平明に入って行く。戦場から父に別れて結城義実が落ち延びて行く先の運命と、八犬士登場のあたりから幻怪味を深め拡げて行くはず、これは黙読か音読かと迷うが、外出時に携行すればマサカに音読はしにくい。なににしても、折良く『戦争と平和』『フアウスト』の二大作を十分に読み終えたところであり、嬉しいバトンタッチになった。『千夜一夜物語』との好一対であり、楽しみ。
*『日本書紀』は、顕宗天皇紀についで仁賢天皇紀を読み進んでいる。この「オケ・ヲケ」兄弟天皇は父を雄略天皇に殺されて丹波から山陽道へと逃げ隠れ、人に使われて暮らしていたのを見つけられた。皇統を問うときには問題はらみの二天皇で。
ことに仁賢天皇は、天皇として初めて諱「大脚(おおす)」を明記されている。それまでの天皇に諱は現れない。仁賢が兄で、顕宗が弟であったが、清寧天皇の皇太子に挙げられたのは当然兄が先であった、が、兄は固辞して弟を先ず即位させ、その皇太子となり弟天皇の死後に即位している。弟の先帝顕宗には諱が伝わらない。小さい問題のようで、気になる事蹟であり、実在如何の確認に気になるところがある。
そして次へ来る武烈天皇が、さらに次へ来る継体天皇が、さらにその後へ続く安閑・宣化両天皇との継嗣関係がすべてフクザツで、次の欽明天皇との皇統に、いささか難儀そうな波瀾がある。この辺の皇室はややこしく、神武以来の万世一系など、夢のまた夢に過ぎないとされている、歴史学では。
2005 1・29 50
* 二時に放免されたので、帝劇モールの「香味屋」に入り一揃えの定食を。ちいさい生ビールと赤のグラスワイン。感じの佳い昔ながらの洋食屋で、店内には落ち着いた高級感があり、わたしは贔屓にしている。ご自慢のビーフシチューとメンチカツ、その取り合わせ皿をメインに、オードブル、コンソメスープ、牡蠣グラタン、サラダ、パン、そして小味なデザート、美味いコーヒー。「南総里見八犬伝」をびゅんびゅん読み進みながら、店内に相客は無く、のうのうと食事も読書も楽しんだ。
2005 11・30 50
* 八犬伝に引きずり込まれている。この分では十巻は早いかも知れない。予想していたより淡泊に読みやすい叙事。大作の焦点が比較的明瞭に活かされて行くだろうから、その求心力に身を寄せていると感情移入しやすい。
2005 11・30 50
* 泉鏡花、「海異記」は怖かった。今日は「吉原新話」を。 冬
* わたしは「海の鳴る時」を昨夜読んだ。粟生の井口さんのお世話で金沢の文学館へ講演に行ったとき、ご案内いただいた鏡花ゆかりの宿を、あの辺を、思い出しながら。
2005 12・2 51
* 東京はあまりにデカイ都市だけれど、交通網に恵まれてもいて、移動が苦にならない。車中で読む本を持っていれば、時には、電車になるべく長く乗っていたい気がすることもある。都心から上野へ、また浅草へという移動は、このごろのわたしには、都心から渋谷や新宿へ移りうごくより、不思議に気楽である。一つには食べ物の店に気に入りの有ると無いとでもきまってくる。渋谷にも新宿にも、心静かに、鄙びていても美味くて落ち着くという店を今は知らないのである。
2005 12・2 51
* 栄光館といえば、同志社のシンボルの一つ。いちどだけクリスマスのキャンドルサービスのような催しに入ったことがある。
従妹は風邪をひいていないだろうか、わたしは今、少し頭痛がしている。かすかに熱っぽい。まだ九時前だけれど、やすもう。『八犬伝』も『英国史』も『インド史』も『千夜一夜物語』も面白い。鏡花は初見の短編類を読みあさっている。
七日には国立劇場、十日にはコクーン。よく寝ておくにしくはない。明日、もう一押しもすると一仕事が上がるところへ来ている。今夜ムリすることはない。
今夜から息子の猫クンが同居。黒いマゴとはもう馴染みの従兄弟のようなもの。
冷蔵庫に隠れていた缶ビールを見つけてチーズで飲み、少し気を持ち直したが、もうやすむ。
2005 12・4 51
* フアウスト劇の始まる前に、内々「詩人」「道化」に顔を合わせ、「座長」はこう期待している(『劇場での前戯』)、「すべて(舞台=舞台が)清新溌剌として、含蓄があり、しかもおもしろいというのには、どうしたらよいでしょう?」と。あげく「そうした奇蹟を十人十色の見物に起こさせるのは、詩人だけです」と作者に水を向けている。
この前に商売人の彼はいわゆる見物=受容者たちが、「ゆったりと腰を据えて、眉をつりあげ、ひとつびっくりさせてもらおうと思って」劇場=作品の前へ来ていると言い、「連中はべつに最上のものを見慣れているわけではない、だがおそろしくたくさん読んでいる(=情報だけは持っている)のですな」と、「客」を見抜いている。「詩人=作者」へプレッシャーをかけている。
「詩人」は、それがイヤだ。
「おお、あの雑多な群集のことは言わんでください、あんなものを見ると、詩人の霊は逃げてしまいます」と半ば悲鳴をあげる。観客を喜ばせるだけにピカピカした安手なことは出来ない、「上光りするものはただ瞬間のために生まれ、真正のものだけが後の世までも残るのです」と。
「道化役=俳優」は実際家であり、しかし演技表現による藝術面も担っている。彼は即座に言う、「後の世がどうのということは願い下げにしたいですな。たとえば、わたしなんぞが後の世に構っていた日には、いったいだれが当世の人を慰めてやります? みんなは慰みが欲しいし、また慰めてやらなくてはならんのです」と。
そしてこうだ、「空想という歌い手に、あらゆるコーラスをくっつけるんです、理性よし、悟性よし、感情よし、情熱よしです、しかし、いいですかい、おどけを忘れちゃいけませんぜ!」
笑いを取れという指令は十八・九世紀にすでにかくも至上性をもっていた。そしてその上へ「座長」は追い打ちをかける。
「ところで何よりも、盛り沢山ということに願いたいね!」
* ウーン、「詩人」センセイの分は、まことに悪い。ゲーテ大先生は、芝居の始まる前に作者たる自身の立場を我から追い込み、追い込み方も、苛酷なまでに厳しい。
「座長」はほとんど居丈高だ。
「いろんな事件が眼の前に繰りひろげられ、見物は口あんぐりと見惚(みと)れるという風にできさえすれば、それであなた(=詩人・作者)は広く大衆を掴んだことになる、人気の立つことはまちがいなしです。大勢をこなすには、嵩でゆくほかはない、そうすれば銘々がけっきょく何かしらを捜し出します。数を多く出してやれば、選り取り見取りというわけです。 一つの作を持ち出すには、さっそく幾つにも刻んでください! 手軽に工夫をして、手軽にお膳立てするのですね。纏まったものを出したとて、何になります、どうせ見物がむしり取ってしまうのだから。」
たまりかねた「詩人」は叫ぶ、「そんな細工がどんなに下劣なものであるか、真の藝術家にどれほど不似合いなものであるかを、あなたは感じておられん! いかがわしい先生がたのやっつけ仕事がどうやらあなたの金科玉条になっているようだ。」
だが「座長」は、軽くはねのける、「そんな悪口を言われたって、わたしは平気だ。だれを相手に書くのかを、目をあけてみてごらんなさい!」
* まだまだ続く、三者の論争は。まあ、なんというゲーテのきつい「批評」だろう。この三人の間では「詩人=作者」は孤軍孤立して半分泣き言に聞こえてしまうほど。
『フアウスト』は幕の開く前から、なんもかとも面白い。建日子などは「座長」でもあり「作者」であり役者をつかって「演出」している、ゲーテに少し賽銭をあげてみてよかろうに。
2005 12・5 52
* やがて九時半。昨日の楽吉左衛門の茶碗がまだ眼裏に在る。今朝、もう、バグワンと継体紀とを読んだ。あと一時間ほどで三宅坂国立劇場「天衣紛上野初花」通し狂言に出かける。
2005 12・6 51
* 八犬伝は岩波文庫の第二巻めに入って、読み始めるとひきこまれて行く。今夜は他になにもせず、休息し、本を読んでぐっすり眠りたい。もしうまくすると、このまま二十日の京都行きまで、のんびりできる。
2005 12・10 51
* 目下のところ『南総里見八犬伝』に『千夜一夜物語』が気圧されている。
アラビアンナイトは波瀾万丈の大長編物語を過ぎ、短い動物説話群を過ぎて、たまたま、やや退屈な悲恋物語の途中なのである。
アラビアンナイトで特徴的に気付くいろいろの有るなかで、「月=満月」に譬えられる美男美女の多いこと、悲歎しても歓喜してもやたら彼や彼女達は失神し卒倒すること、わが平安朝の公家や女房達の和歌応答にたけていたように、たちどころに詩句を駆使して真情をのべること、教主に権力があつまり「アラー」の神は絶大であること、魔神の現れる世界であること、貧しいモノは極端に貧しく豪奢に暮らす者たちの贅沢は言語に絶すること、飲食や香料や衣裳の多彩なこと、農の印象はほとんどなく商人と工人の世界であること、夥しいまで奴隷のいること、など印象深い。
ロマンチック。そして信仰にかけた妥協のない絶対の重さ。キリスト教嫌い。あのままでは、ヨーロッパとアラブとの平和は、容易に成就しないと、歎息される。
* 鏡花全集(春陽堂版)第三巻は、『高野聖』以外に秀作があらわれない。読めども読めども駄作。ただただ書きまくっているけれど、それが鏡花調であるには相違ないけれど、筆は走っても想が分散放恣に流れるばかりで、主題や動機へ収斂しない。鏡花ものが、「選集」されざるをえないこと、「よく選ばれた選集」で読むのが結局賢明なこと、よく分かる。駄作でも何でも書きに書いてプロだという考えの人は多いけれど、わたしはそんなプロになど、ちっともなりたくない。鏡花の駄作は、大正期の潤一郎の不成功作より始末が悪い。作者は薬物にラリったようにブレーキから手を放した書き方をしており、やたら妄走し、やがてクラッシュの残骸としての作品が、ハンパに残る。「そういう鏡花」もしっかり観て、その天才を(天才に相違ないけれど)評価しないと、ミソもクソも一緒にしてしまう。彼の愛読者にはそういう人もいたのである。
* 応神天皇以降の日本書紀では、何といっても、朝鮮半島、百済や新羅や任那地方との折衝・交渉・戦闘・外交に大きな焦点の一つが出来ている。言えることは、複雑な国と国との位取りにふりまわされた「不信と離反と闘争」の繰り返しであること。日本国は海を越えての侵掠は受けていない。むしろ優位に侵攻し前線として南端の任那等を経営して百済を助けたり新羅を責めたり高麗と折衝したりしているけれど、安定していない。いつも揉めている。日本の高官の中に明らかに他国の賂(まいない)を取っている者もいる。
その一方で、日本は、半島を経て入ってくる文物や文化から学ばねばならぬものを多く持っていた。菅原道真の進言から遣唐使を廃して一種の鎖国に入った平安時代まで、日本の極東政策は、懼れや不安を抱きかかえ、容易でなかった。今日と、少しも変わらない。同じなのは、あの頃も今も「日本は優位」にあるという不自然な勝手な思い込みだけ。
粟散の辺土の危うい背伸びを、平安時代は、賢か愚か、辛うじてかわして地に足をつけ独自の文化に華咲かせたが、平成の自民政権は、国民をどこへ連れて行くやら、これまたハンドルもブレーキからも手を放したラリった政治をしているのではないか。
2005 12・13 51
* 車中でもう次の「湖の本」の校正をはじめ、また八犬伝の運びの巧みさに魅されて、退屈がない。坐っていれば脚も痛まない。
しかし、京都行きは大丈夫かな、荷物をもてば痛みは増すだろう…、成るように成る。
2005 12・15 51
今日の東京の街なかは寒いほどではなかった。保谷でタクシーの列に並んでいるときも、八犬伝を読みながら、トクに冷え込むことはなかった。少しアルコールで温めてはあったけれど。
脚が痛んで気が乗らないが、有楽町では空腹だったので地下鉄に乗り込む前に、ビール少しと赤ワインとで「香味屋」の洋食を食べてきた。椅子に坐らないと痛みが堪えられなかった。
地下鉄、やっと坐れて、たすかった。有楽町線は乗ってしまえば保谷まで行ける。これにもたすかる。
2005 12・15 51
* 第二巻を終わりかけて、八犬士の五人までがもう登場した。第二巻のあとへ岩波文庫で八巻分のこっている。どんな展開になるか、結城の家運はあらかた知っているけれど、八犬士の活躍が期待される。馬琴先生、読ませてくれる。
2005 12・16 51
* ペンクラブ広報室松本侑子さんの評論「赤毛のアンに隠されたシェイクスピア」を電子文藝館に入稿した。
2005 12・18 51
* 八犬伝は、岩波文庫の第四冊めに入った。アラビアンナイトも今は、ロマンチックな面白い王子と王女の恋物語を楽しんでいる。鏡花は「註文帳」を読んでいる。この物語の凄みがうまく伝わってくると嬉しいが。日本書紀はいま大王といわれた欽明天皇紀。いよいよ佛教公伝の目前。英国史は、征服王ウイリヤムにより、サクソン・デーンの島国にノルマンの王朝が幕をあけて、中世的な折り合いをつけている。
世界史は、いま大同石窟を創り出した北魏が、洛陽へ遷都していったあたりを面白く読んでいる。大同は、紹興とならんで、最初の訪中国時の大きな嬉しい目玉であった。大同へも紹興へも、戦後日本人として初めてその地を踏んだといわれた。まさにそれに相違ない五体の痺れ震えるような歓迎、熱烈に凍り付いたような歓迎、であった。大同の駅を出た瞬間、吾々の一行が自覚したのは、自分達が大きな擂り鉢の底に立ち、周囲にはびっしりと幾重にも取り巻く現地中国人の視線そして沈黙があったということ。
しかし大同の旅泊は、寂しくもまた興奮に満ちていた。そして市街の巨大な九龍門、そして上華厳寺、下華厳寺の豪壮・華麗。底知れずひろがる炭鉱。その上に、二キロに及ぶ奇蹟の大同石窟五門に充満した大小の石仏達の偉容・異彩。
わたしの感動は、帰国後に「華厳」一作に結晶した。あの小説は、わたしの心の震えを刻印して、完璧であった。
そしてバグワンに聴く日々はつづく。つづく。
2005 12・29 51
* 石川布美さんの訳になる『娘たちと話す 左翼ってなに?』が、よく書けている。島田雅彦の解説の一文にも心惹かれ、共感した。この人の思想に賛同する。
* 「九条の会」来信。梅原さんや小田さんや鶴見さんら九人の言葉も入っている。
* 戦争の放棄
第九条
一 日本国民は、
正義と秩序を基調とする
国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、
陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。
国の交戦権は
これを認めない。 日本国憲法より
2005 12・29 51
* 松尾美恵子作『北条政子 女の決断』が叢文社から刊行された。この原稿を松尾さんが送ってこられたとき、一気に読み込み、こういう作柄が、題材が、好きかどうかはおいても、これは間違いなく売り物になる、本にしたい、してもいいと思う版元がきっと見つかるだろうと思った。安心して、出版できる作品の候補という気持ちで、一字一句手を加えたり苦言を呈したりしないで「e-文庫・湖(umi)」へすぐ公表した。
作品のつくりを支える措辞と文体にほぼ間然するところがなかった。松尾さんにもその時そのように言うて励ました気がする。そしてそれが一冊の本になって出版された。そのかんの事情も、この版元の性格なども何も知らないけれども、ほぼ適切な定価で売り物になって世に出たのは、松尾さんの「文藝」の力であったと思う。お祝い申し上げる。この前に帯に推薦文を書いた『異形の平家物語』は研究色の評論、今回は小説。しかしこの人には、『ランボー(ある地獄の季節)構成論』(牧書房)や、ブルーメール賞を受けた 『ロートレアモンの論理 「マルドロールの歌」解釈』(ZOOプランニング)のような研究・批評の本もある。志確かに野にひそんだ佳い書き手の一人としてわたしの記憶にいつも有る。出あったのは、沢山送られてくる詩を書く人達の同人誌のなかで、なにか気になってその後「連載」を読み継いだのであった。『異形の平家物語』を纏めるときは、かなりうるさい註文を言い続けたが、じつに柔軟に対処され、着々と纏まっていった記憶がある。
歳末の、慶事。
2005 12・31 51
* 昼前に出かけて、無くてはならない京都の雑煮用白味噌と、蛤とを買い、文房具を少し補充し、西武八階の「伊勢源」に入った。なぜか鰻が食べたかった。で、特上の鰻重を註文し、生ビールで口を示してから、店内で見つけていた濁り酒「津軽の風」をコップに注いでもらった。病みつきになりそうに美味い濁り酒で、ほろほろと酔いが出た。鰻も美味い美味い。このシーズンにかぎり一度に四本しか手に入らない濁り酒だと店の女将は言い、つまりわたしはちいさな幸運を得たのである。
ご機嫌で地下におり、すこし私のために酒の肴を買い足して、帰った。
往き帰りに八犬伝。面白い。
2005 12・31 51