* マキリップの『星を帯びし者』の英文を、うまいものに少しずつ箸を付けるようにして、六十数頁読み進んだ。海で襲われて声も記憶もうしないアストリンに救われたモルゴンが、イムリスの宮殿で、自分の額に刻まれたと同じ三つの星の輝いている古代の竪琴に出逢い、誰の手でも音を発しなかった琴の音をひびかせる。そしてヘドの領主モルゴンであると記憶をとりもどす。畏怖の念にだれもが静まりかえっている。一つの関所をモルゴンはくぐり抜けた。彼の旅は、悠久の時の奧へ険しくも感動的に進んでゆくだろう。
* 英語本も、脇明子さんの訳文庫本も、字がちいさい。わたしはヘッドルーペの御厄介になって読んでいる。
2007 1・2 64
* 室内のまぢかに、大きな鉢のシクラメンが純白に群れ咲いて、緑の葉むらが豪奢なスカートに見える。むかしまぢかい大泉に暮らしておられ、仲良しだった井上温子さんがとうに引っ越していった関西から贈って下さった。やす香への弔意ともわたしへの慰めとも。
雨も風も、通りすぎたか。もう階下へ行く。寝床で、小松英雄、小田実、清水徹、秋山駿氏らの単行本と、世界史、セルバンテス、千夜一夜、旧約聖書、そしてツヴァイクの『メリー・スチュアート』を併行して読み進んでいる。おまけにカッスラーも。混乱はしない。
2007 1・7 64
* 冷えた朝。
* 『太平記』の音読は楽しい。いま後醍醐先帝が配所の隠岐を脱出しようとしている。楠正成の赤坂・千早での敢闘、大塔宮の潜狩なども、少年の昔の記憶を丹念に辿るふうで、なつかしい。黙読では太平記全巻を読み通せるかどうかやや覚束ないが、音読だと惹きよせられる。
ツヴァイク一大の力作『メリー・スチュアート』が、あたりまえだが、面白くなって行く一方。『旧約聖書』は「サムエル後書」に入った。小田実さんの長編小説『終わらない旅』がグイと走り出そうとしている。いまのところカッスラーの読み物よりも小田作品が惹きつける。
妻は高橋茅香子さんの訳本に夢中。
2007 1・9 64
芝居がはねて、タクシーで日比谷のホテルへ。クラブで例の、今夜はブランデーに終始。妻は、グレープジュースを立て続け二杯。これが卓効の疲れやすめになる。美味いサーモンをいつものように切って貰い、またシーフードのマリネも。ほっこりして、帰路に。歌舞伎座を出たときは寒かった。帝国ホテルを出たときは温まっていた。車中、妻は安息し、わたしはカッスラーの『オケアノスの野望を砕け』をほぼ読了。
2007 1・11 64
* 紀田順一郎さんからメールを貰った中に、「中公版『日本の歴史』についてのお言葉があります。私もあのシリーズは通史もののベストで、以後の類似企画には陰りが生じてきたと思っておりました。わが意を得たという思いです」とあり、嬉しかった。学問的にも最悪の水準とペンの理事会の席で発言した学者があり、呆れて顔を見返したことがある。何を考えているのだろうと思った。一万四千頁、読んでの言とは思えなかった。わたしは全巻を読んでいる。今となっては望みうる最良の志で一貫されていると、わたしは、ことに幕末から現代までの八、九巻の熟読を、若い人達にこころから奨めたい。
2007 1・12 64
* 九大の今西祐一郎教授が『和歌職原抄』を下さる。有り難いことに、『神皇正統記』で名高い南朝の忠臣北畠親房の原著『職原抄』版本も付されてある。
聖徳太子の官位十二階制定このかた、日本の官僚社会は、ガチガチに位階官職の世間である。「官職相当」の位階にかかわる知識は、その世間に生きる人達には米の飯ほど必須であった。『職原抄』はその簡要の専門解説書であるが、さらに要領・要点を、百六十五の「和歌仕立て」に覚えやすくしたのが『和歌職原抄』。分かりよく謂えば、官職上の「位取り」を慣習的にまちがえず心得させるのに、和歌の体を手引きに利用する。
公家にとどまらず僧綱、武家その他に及んでいて、古典を読むのにとても便利に使える。「官職位階は昔から色恋にも劣らぬ人間の関心事であった」とある「解説」第一行が、多くを言い尽くしている。「位こそなほめでたきものはあれ」とは清少納言のウソ偽り無い実感であった。『源氏物語』をはじめ登場人物が実名であらわれることは、ほとんどない。光君、薫大将のような綽名か、頭の中将や大将の君というふうに、衛門督や左大臣や頭中将というふうに、官職や位階で呼ばれていて、その「昇進」が、物語の年立てに重要に関わってくる。「官職の事は先づ彼職原抄を学知よりよろしきはなきとぞ。しかれども職原抄ひとりよみがたし。唯これをこゝろえんとならば先此和歌職原を暗(そらん) ずるにあるのみ」と序にある。
右大臣 相当りたる 位をば 従二位とこそ いふべかりけれ
左大臣に あたるくらゐは 正二位ぞ 近代はまた 従一位も有
といった感じに、和歌仕立ては各般に微細に及んでいる。およそ「今日」には金輪際役立たないようなものだが、さにあらず、今日でも、総理は総理、外務大臣は外務大臣で足り、官庁や企業でも、局長、専務等だけで通用している世間はある。ま、とにかくも古典世界の逍遙にはよい手引きであって、「和歌」仕立てを便宜に用いている。さまがわりの「和歌徳」ものとも謂え、茶の湯の『利休百首』なども、この類。
今西教授のご厚意で多彩にこういう基本書を頂戴し続けてきた。ありがたいこと。
2007 1・13 64
* いまツヴァイクの『メリー・スチュアート』に、興奮状態。旧約と千夜一夜と世界史も、相変わらず惹きつける。ドレの画の『ドン・キホーテ』も楽しんでいる。
いまわたしを新たに誘惑しているのは、なんとホメロスの『オデュッセイ』で、とうとう本気で挑戦してみたくなっている。どうも、訳の日本語に馴染めず学生の頃から何度も投げ出してきたが、ヘンなはなし、カッスラーの読みもの『オデュッセイの脅威を砕け』を読んでいる内に気を催してきた。たわいない。ホメロスを読めてないのが、久しい読書歴の中で欠けた醜い疵のように思えていた。『ファウスト』もあんなに愛読したのだし、ホメロスもそろそろ「退治」してやらねば。
2007 1・15 64
* ほっこりと疲れている。疲れながら、こまごまとした、しかししなくては事の前に進まない仕事を、あれをやりこれをやりまたそれをやって、一日が経った。仕事とはそういうもの。そんな間にマキリップの英語を読み、湯舟でカッスラーを読み。
極端にSPAMが増え、まともなのの五、六十倍。イヤになる。ホームページや「MIXI」の更新に影響が出ない手順が分かれば、いよいよメルアドを替えてしまおうかな。しかし年鑑類など、ずいぶん沢山な変更通知が必要になり、それが煩わしい。
2007 1・15 64
☆ オデュッセイの本はお手元にありますか? なければ送りますが、如何? こちらのは筑摩の世界文学全集の1、昭和45年版 高津春繁訳です。 鳶
* たぶん在ったはずと。書庫を探します。なかったら、頼みます。
カッスラーの、ダーク・ピット版がべらぼうに面白くて、読み進むのを惜しんでいるくらいです。『オデュッセイ』をぜったい読みたいという気にもさせましたから、読書の功徳、どこへ転じるかしれません。
ドレのドン・キホーテ画も楽しんでいます、が、ツヴァイクの『メリー・スチュアート』を始めから読み直していて、これにぜんぶ持って行かれそうです。フランスの女王が夫王に死なれ、ただのスコットランド女王に戻りましたが、彼女の紋章にはイングランド女王である主張も描かれていますとか。これからつづく、イングランドのエリザベス女王とのながいながい暗闘。
世界史の読みは、いまその辺をもう通り過ぎ、英国の短かった絶対王政が、議会とジェントルマンたちにより潰されて行くところです。英国史ほど、立憲天皇制民主主義国日本の学び甲斐のある歴史はないでしょうに。なにをやっているのでしょう、われらの「日本」は。
民主党の三人男が、嵐の船の上で演じてみせる「生活維新」とやらいう愚劣な芝居を観ましたか。情けない。
あれで何か訴求力があると信じ、演じているのですかねえ、あんなヘタクソな茶番を。そもそも「維新」などという文字も意義も死語にひとしい。「野党全共闘」をでも敢行しない限りとうてい勝てない与党との戦を前に、具体的な政策と政略、高度の説得がなければならぬ、今。あれでは皮肉なことに高度の利敵茶番にすぎません。
脱線しました。
お元気で。 鴉
2007 1・16 64
* 昨夜は少しく寝そびれて、夜中にも灯をつけて本を読んだ。寝る前に読んだどの本にも心惹かれてついつい量が進んで興奮したらしい。そんなに何冊も何冊も同時に読んでこんがらからないかと案じてもらうけれど、全然そんなことない。
只今は、就寝前にキッチンでバグワン『存在の詩』と『太平記』とを音読し、床に就いてから、順不同で、旧約聖書の「サムエル後書」、千夜一夜物語の「船乗りシンドバットの冒険」、ツヴァイクの『メリー・スチュアート』、世界の歴史の「ピューリタン革命」、ドレ画の『ドン・キホーテ』、小松英雄の『古典再入門』、秋山駿の『私小説という文藝』、小田実の『終らない旅』そしてカッスラーの『オデッセイの脅威を砕け』を順繰りにみな読んで行く。興が乗ってくると一冊を読み続けてしまうので、全体に時間が長引く、と、寝そびれる。
きのうは一通り読んだ後にまたツヴァイクとカッスラーとを読み出した。
『メリー・スチュアート』は文庫本のカッスラーよりも活字が小さい、が、訳の日本語がいいので先へ先へ読みたくなる。ついでにシェイクスピアの英国歴史物を全部読んでみたくなる。横で妻の読んでいる高橋茅香子さんの翻訳小説も、面白そうで気になる。
* 今朝も、わたしを「鬱寄り」ではないかと心配してくれるメールが来ていたが、自分ではちょっとちがう気がしている。外へ外へ、もっともっとと動いて行かないのは、怠け者めくけれども、心の虚、壱、そして静というありようからすれば、あくせくするよりよほど安楽で、リラックスできていて、だからほぼ無心にいろんな本の世界にこころもち静かに溶け込めているのではあるまいか。
2007 1・19 64
* 六時半頃めざめて、そのまま寝床の中で『メリー・スチュアート』『旧約聖書』『終らない旅』『古典再入門』『私小説という文学』を読んでいた。どれもみな頗る興深くまた面白い。一つだけ、挙げておく。
をとこもすなる日記といふものををんなもしてみむとてするなり
よくよく知られた土佐日記の書き出しで、誰が読んでも名文ではない、印象のよくない悪文に読める。そして国語の先生方はこぞって、男の書く日記を女も書いてみようとするのです、などと翻訳して教えてくれる。
小松英雄さんは、氏の鼓吹し主張される、そしてあまりに当然な和文の複線構造理解から、そんなばかげた理解はない、端的に、「男文字で書く日記を女文字で書いてみよう」という紀貫之のまえがきだと読まれる。ひらがなという女文字は土佐日記の金看板。その「をんなもし」を和文の複線構造としてきっちり明瞭に隠していて、そのまえの「をとこもす」が音声的に「男文字」を示唆しているのは明らかであり、作者がやや悪文の謗りを覚悟して、和歌の神様らしいセンスで「をんなもし」「をとこもす(し)」そして日記との関連を表明したんだと云われると、目から鱗を落とした気がする。それならこのまえがきの意義がきっちり立つからだ。本文がいっこう女の筆付きと読めない理由も氷解する。作者が女に化けて書いた日記ではなく、漢字漢文で書く日記を女文字つまりかな文字で書こうと思うと和文の含蓄力に寄せて表明したと。
明快である。そして明解だと思う。
他の作からも紹介したいと思うが、またに譲る。
2007 1・21 64
* 行き帰りにはクライブ・カッスラーの『オデッセイの脅威を砕け』を読んで。このダーク・ピット主役の一冊がめっぽう面白い。ホメロスの『オデッセイ』を是非読みたいと思わせた上に、なんと、あのシュリーマンのトロイ遺跡大発見にたいする、詳細で具体的な反論が、ケルト族文明・文化のグローバルな移動と伝播の説得とともに、二の句もつげない迫力で展開されるのだから、いやもう、とことん興奮させる。まだ読み終わらない。明日の「ペン電子文藝館」委員会へももちあるいて楽しめる。
2007 1・21 64
* 「オール読物」今月の高麗屋父と娘往復書簡は父幸四郎の番。はずれず、はずさず、娘松たか子のよびかけに真っ直ぐ向き合っているのに感心する。意を迎えた何もなく、情愛あって溺れるところはすこしもない。歌舞伎役者の子への「いじめ」回想なども含みながら、その克服過程の回顧が、巧みに娘への話題に斡旋されている。同じ俳優という日常がしっかり出来ている中で、父も娘もお互いに、まっすぐ自分の仕事に精進している姿勢を見合っていて、それをことさら日ごろ口にしあうことなくても、自然とお互いを励まし合っている。父は娘を想っているし、娘は父を敬愛している。高麗屋の親子には、ときにせつないほど、求道という弦が鳴っている。父も娘も藝の戦士である。
もう一つ別のところで、娘松たか子が父幸四郎について一文書いている。それもよかった。
たかぶらない、強いて抑制もしていない、いかにも静かに聡明に父の見るべきを見、父に感じるべきを感じながら自省の実情を措辞に浸透させている。優等生ぶっていない。真っ正直だ。この若い女優、とても精神が柔らかに、聡明なんだと思う。贔屓目でなく文才にも感心する。ものを感じ取るレンズが、きれいに開いている。蜷川演出のジャンヌ・ダルク「ひばり」が、ますます楽しみだ。
2007 1・21 64
* 委員会はふつうに終えてきた。
話し合ってなにかしらコトが決まった風なときは、それを実施し実現して行く「ツメ」が必要になる。ただ話し合って、いろいろ議論があり、それはいいとか、そうしたらいいですねとか。それがそこまで止まりでそのまま流れ去っては、話のための話にしかならない。会議は、何かしら事業を前進させて行く、そのために話し合ったことは実施して行くためにありたい。顔を合わせて話し合うのが楽しかっただけの社交会議で終わらないようにしたい。
* 帰りに、鍋で、浦霞と萬歳楽とを二合ずつのんできた。クライヴ・カッスラーをほぼ読み終え、保谷駅で食パンと餡パンを買って帰った。
* なぜ、こうねむいのか。
2007 1・22 64
* 『和歌職原抄』を戴いた九大今西教授のご叮嚀なご挨拶、痛み入る。
☆ この度は、ご挨拶抜きで拙著をおおくりするという無礼にもかかわらず、「文学と生活」上において、身に余るご紹介をいただき、ありがたく、またうれしく存じました。心より御礼申し上げます。
編者の意図を十二分にお酌み取り下さり、さらに一般的にわかりやすく敷衍していただき、編者冥利に尽きます。
実は、私、自宅ではいまだにインターネットに加入しておりませんので、今回のお言葉も、東京大学の長島弘明さんから教えてもらったという次第です。
三月には『蜻蛉日記』についてのこれまでの文章をまとめて出版する予定です。(以下は相次ぐ研究上のお話ゆえ、秘匿したい。秦 )また、偶然、古書店で宣長の『古今和歌集遠鏡』の稿本に遭遇し、それが筑摩版全集などに所収の版本とかなり相違していることがわかりました。すでに、九州大学附属図書館のホーム・ページ上で、版本とともに画像データベースで公開しております。何かの折りにご覧いただければ幸甚に存じます。
意を尽くしませんが、日頃の失礼をお詫びかたがた、御礼まで一言申し上げます。 敬具
* 篤実で精緻な学術成果が、わたしのような野次馬なみの門外漢にもどんなに「おもしろい」かを、いつも教えてもらい感謝している。長島教授は近世文学の優れた研究者。まだ東大の学部生だったころからの久しいお付き合いに助けられている。助けて貰いながら、しっかり怠けている秦さんを、こうして暗に鞭撻して下さる。痛み入るというのは、ただのごアイサツではない。お詫びである。
2007 1・24 64
* ドレ画の「ドン・キホーテ」を読み終えたので、大作の本編に入った。地ならしが出来ているので、面白く読める。
また新しく、ル・グゥインの河出版の新作小説も読み始めた。
一昨夜、昨夜と、夜更けまで橋本博英画伯の全作品画集をじっくり拝見した。瀧氏の一代記と批評とも全部読んだ。しっかり身にしみて画伯の全容を抱きしめた心地がする。
* ねむくてガマンできない。
2007 1・25 64
* ダビデがエホバの怒りもあえてして人妻のマテシバと寝、二人の仲の最初の子をうしなう。だが、のちに、ソロモンを儲けている。旧約聖書が「サムエル後書」なかば、活況を見せている。
* 優れた女性が激突した史実は、数多くない。
我が国では清少納言と紫式部とが並び立ったとははいえ、面と向かい合ったわけではない。少納言が退職した後へ紫式部が就職してきたような時列であり、一方的に紫式部が娘の大貳三位あいてに猛烈なかげぐちを叩いただけで、まともに激突という場面は無かった。紫式部の夫になった男を、清少納言がちょっとしたことでおちょくった事があって、紫式部は面白くなかったのだろう。
この二人にも、珍しく共通の好みを示したことがある。二人とも「梨」の花を好んだが、梨の花は寂しくて映えないと、同時代はあまり評価していなかった。紫清大輪の二名花、個性強烈なこの二人ともが、寂しく白い梨の花を佳いと眺めていた。わたしには、これが懐かしい。
* 海外でも、よほど優れた女性二人が歴史的に激突した例となると、ざらには見つからない。
何と言っても最大・最強の一例が、イングランドのエリザベス女王とスコットランドのメリー女王の命を賭した衝突だった。
メリー・スチュアートは生まれて直ぐ、もうスコットランドの女王であり、やがてフランスの王太子妃となりフランスの女王にもなった。メリーはその紋章に、自分はイングランドの正当な王位継承権ももった者だとデザインし、それがエリザベスとの確執の原因をなしていた。
エリザベスの方はいわゆる庶子身分から王位をうけついでいて、その地位確保の危うさはなみたいていでなかったが、しかも英国史上もっとも安定した王朝の繁栄、王権の安定、国民や議会の協調を実現した女王だった。
あらゆる歴史のドラマのなかでも、この二人の運命的な角逐は華麗で残酷ですさまじかった。伝記を書かせれば他の追随をゆるさないツヴァィクの『メリー・スチュ
アート』はとりわけ目をみはる力作で、最高級の文学的・藝術的成果である。二人の天才的な女王がゆくはてのカタストロフは、凄惨でもあり強烈なものがある。ツヴァイクの『マリー・アントワネット』も面白いが、歴史的・文学的な意義からは『メリー・スチュアート』とは雲泥の差であろうか。
2007 1・26 64
* 一昨日にトラヴルが起き、落胆のままたくさん本を読んで、さて寝付けなかったので、起きて原稿用紙に手書きで「私語」しはじめた。五枚書いてから、二階へあがり未練な試行錯誤をつづけたが成果なく、寝床に戻って、『イルスの竪琴』をまた英語で読み続けた。
寝入ったころで宅配に起こされた。栃木から苺を頂戴した。そのまま起きてしまうには疲労があり、気が付くと午後になっていた。
2007 1・29 64
* ヘドのモルゴンは HIGH ONE に仕える不思議の竪琴弾きと二人で、果て知れぬエーレンスター山の奥へ、命の危険を冒して新たに旅に出た。この旅は「長い」とわたしは知っている。英語を読み日本語訳を読みまた英語を読んで、次へ次へゆっくり進んでいる。モルゴンがよく分かってくる。パトリシア・マキリップの構想力の破綻の無さに感嘆。
2007 1・30 64
* 二月になった。例の「寝る前読書」に惹き込まれ、目がさえて、また灯をつけマキリップ作の英語『イルスの竪琴』、小松英雄さんの「土左日記」論、そしてツヴァィクの『メリー・スチュアート』を、耽読。気がついたら七時前。起きて血糖値をはかる。97。
* 目のさえた理由に、書きたい小説のことがあった。世に問いたい、称賛が得たいというのではない。だれにでもない、建日子に、父が老境の小説作品を遺したくなってきた。それだけだ、だが深夜それが強い熱い衝迫になり、健康なうちにという思いに身をひきしめた。床から高くさしあげた両の腕に電灯が照って、このごろ気づいて気にしていた痩せと弛みと無数の小じわ。しみじみとしてしまった。
「きれいな手をしてますねえ」と、昔、あれは伊豆の飲み屋で、店の女だったか隣客だったかにほめられ、自覚のなかったことを意識させられた思い出がある。会社あげて慰安の旅の宴会から逃げ出し、湯の町の小店でひとり飲んでいたときだ。
その手が、二の腕が、すっかり痩せ衰えている。そのようにわたし自身がやせ衰えてきているのに相違なく、そのまま衰え過ぎてはのちのち建日子を励ましてやることが出来まい、それでは可哀想だ。
夜中しきりにそんなことを想っているうち、少し苦しくなり、灯をつけて読書へのがれたと言えば言える。
* しかし本のどれもかも面白くて、手離せなかった。
キッチンで寝る前いつも音読してくるバグワンと『太平記」は別格。いま枕元へ置いて、みな少しずつ併読している本が、ちょうど十冊。
旧約のダビデをじっと黙視している。ミケランジェロの彫刻が頭に刷り込まれてある王ダビデの登場から、旧約聖書がまた劇的に活動し、ついつい先へ読んでゆく。わたしの新約・旧約一冊本の『聖書』は文語訳で、必ずしも納得しやすい訳文でも組版でもなく、とても疲れるが、それでも勢いがついている。
旧約は、しばしば戦闘と殺戮の反復であり、イスラエルまたユダヤの、神エホバに先導された征服・聖戦の連続には、今日のイスラエル国にいたる膨大な時間差を忘れてしまうほど、実事性濃厚、驚かされる。ダビデという青年王、かなり陰翳ある登場の仕方で、気になる人物だ。
何度も言うているが、旧約に比して『千夜一夜物語』は、途拍子もなく「気のいい」物語。いま「船乗りシンドバッド」の五回目か六回目の旅を読んでいる。もはや呆れもしないで楽しんでいる。
『メリー・スチュアート』は、著者ツヴァイクの颯爽としてかつ重厚な包丁さばきを喜んでいる。みごと日本語にしてくれている訳者古見日嘉にも感謝。翻訳の巧拙は、海外文学の摂取に大きくものを言う。
同じ事が、『ドン・キホーテ』にも言える。セルバンテスの大冊が、何の呻吟もなくすいすいと面白く読め、思わず頬をゆるめている。まず間違いなく、この大作も読んでしまうだろう、なによりドン・キホーテが好きになってしまっている。「ラ・マンチャの男」を舞台でおもしろく見せてくれた松本幸四郎たちにも感謝しなくてはなるまい。が、もともと、わたしは、何度も接しているハムレットより、噂なみにしか親しまなかったドン・キホーテにこそほろ苦き好意を寄せてきた。ドレの版画本にも巧みに誘導され、ドン・キホーテを読み進める下地ができていた。ツヴァィク、セルバンテス、それにドレもを贈ってくれた「鳶」に感謝します。
小松さんの『古典再入門』に調子がでてきた。著作がスロースタートだというのではない。私の内側で対応して、ひとりでに動き始めた個人的な「関心」があるのだ。うん、いいぞこれはという感触で、わたしは今、刺激されている。うまく襟髪を掴んで振り落とされないまま自分の意図に旨くつなげたい。
近代のヨーロッパ史では、オランダやイギリスの面白さからすると、ルイ十四世の絶対王政の叙述は、つまらない。いわゆる王さんとたち貴婦人と策士の「宮廷」は不快で、つまらない。議会や国民の歴史の方がはるかに興味深い。
* もう一冊ぜひ取り上げておきたいのが、ル・グゥインの新作、『なつかしく謎めいて』で、まだ三話ほどを読んだだけだが、作りも中身も新鮮。「次元間移動」という「旅」で訪れる先々の国の住民・住人たちと地球人である語り手の接触・関係・観察・批評が読めるという作りだ。「新・ガリバー物語」のような進行自体は『オデッセイ』このかた前例がいろいろあるにしても、ル・グゥインの「訪問先」は、さすが特色豊かな「国」や「都市」や「住民」の個性を呈していて、読んでいる眼がピリピリ刺激される。よほど本気で接しないと、次元と次元の間へ振り落とされてしまう。
2007 2・1 65
* 昨日から今日へかけていちばん気がかりだったのは、一日で視力が異様に落ちたこと。機械が新しく、つまり眩しい。どの眼鏡をかけても字が霞んだ。
それで就寝前の読書を、バグワンと太平記はべつにして、寝床では今夜は一冊だけときめ、迷わずマキリップにした。この小説はなぜかたまらなく私を魅する。
このさながらの神話は、現実の地球世界でない別世界を書いている。HIGH ONE の王国がいくつかの領主領に分かれていて、ヘドはその一つのちいさな島国。宮廷もない農業世界。領主のモルゴンも弟のエリアードも妹のトリスタンも、ふつうの農家族を事実出ないのだが、近い過去にこのきょうだいは両親を一時に喪っている。モルゴンが、ケイスナルドの魔術の学園に「不思議」を学びに行っていた間の海上での不幸だった。モルゴンは父の領主権を受け継いだ。
彼モルゴンの額には不思議な三つの☆が刻まれている。彼は生まれながらに、王国のいまなお解かれていない神秘を、自らのその額の☆に「謎」として享けているのである。
物語は、たまたまモルゴンが手に入れた美しい竪琴にいや増しに不思議を奏でられながら、壮大に悠遠に緻密に織り上げられてゆく。物語そのものが神秘をはらんだ波瀾の旅路としてある。安穏ではない必然の行方に、彼は危険も身いっぱいに浴びながら誘われ続ける。森林や砂漠や沼地やいくつもの宮廷とともに、おそるべき命の危険を旅ははらんで、額の☆三つ、竪琴の☆三つの不思議をともない、ひたすら続く。わたしは、まだ始まってまもない、すでに再び三度の身の危険に遭ったモルゴンと旅をともにしているのだが、道連れにも事欠かない。いまはHIGH ONEに仕える竪琴弾きのデスや、女領主モルゴルの娘で近衛兵をひきいる美少女ライラがいる。ヘドのモルゴンの旅路の至りつく先には、運命に約束された未来の妻レーデルルも待っているであろう。
こういう長編の何がおもしろいかと嗤う人もあろう、劇画の原作本みたいだと。その実はそうなのかそうでないかも知らないが、わたしにはわたしの「読み」がある。もう何度も渇きをいやすために読み返し、こんど初めて原作の英語で読んでいるのだが、日本語訳で読み急ぐよりも、いわば「一語一会」の精微なおもしろさに、つい心を牽かれて、昨夜もその一冊と限り寝る前の一時間半を読みふけっていた。夜中に起きてまた続きを読んでいた。
身内の深いところでともすれば騒ぐモノを、わたしは、そうして静めていた。そして七時前には起きて朝の仕事をはじめた。
2007 2・3 65
* 原本の電子化原稿を校閲しながら、合間に、岡下香という死刑囚の獄中歌集『終わりの始まり』を読んでいた。口語短歌「未来山脈」の編集発行人光本恵子さんから送られてきた。この人との縁で作歌に入ったらしく、口語での非定型であることも作者の実意・実情を吐露しやすくしたであろう。
友達と鬼ごっこして遊んだと綴る十才の孫の文字が 時々かくれんぼ 岡下 香
* もう明日になった。眼も乾いている。
2007 2・5 65
* この数日、誘惑に負けて『メリー・スチュワート』についつい読みふけってしまう。こんなにワクワクと胸ぐらを掴まれる面白い読書には、抵抗できない。
彼女には外に敵はいない。語弊あって、それは事実とははなはだ異なる物言いながら、メリー・スチュアートの敵は「彼女自身」なのだ。その知能、その美貌、その運命、その激情と感性。彼女は自身と闘い、歩一歩、自身の可能性のすべてによって打ち負かされて行く。
生まれながらにスコットランドの女王だった。スチュアート家の、あのエリザベスに格段に勝る王家の正嫡だった。フランスの女王ともなり、イングランドの王位継承権を暗に主張してエリザベスの心肝を動揺させもした。二人のうわべは姉妹よりも親しく、下には仇敵を憎む女と女の敵愾心。
イングランド女王エリザベスには、夫フランス国王に死なれてスコットランド女王として故国に帰ってきたメリーが、フランスやスペインからの求婚を受け入れられては困るのだった。国家的な脅威だった。エリザベスはメリーの縁談に執拗に異議と妨害を試みつつ、ついには同じスチュアート家の王筋の貴族を夫にと従妹のスコットランド女王に奨める。あげく、まさか推薦はして来まい、推薦してもまさか受け入れまいと、駆け引きの候補者ヘンリ・ダーンリというエリザベスお手つきのお古青年がのこのことスコットランドへ求婚に出向く。格式だけは上等、人間は「蝋の心臓」のバカモノ貴族。
ところがメリー・スチュアートは、一目でこのイカモノを夫に引き受けてしまい、エリザベスは嘲弄されたかのように激怒する。この夫婦に子が、まして男子が出来れば即座に英国王の継承権をもって他でもないエリザベスの地位を覗うことになる。だが、厚顔にもダーンリを夫にとメリーに奨めたのは、イングランド女王自身なのであった。
ところがまたこのヘンリ・ダーンリは、たちまちメリー女王の倦厭の的となり、しかも二人の間には王子が生まれる。夫も子もないエリザベスのあとを襲いイングランド国王を約束されるのは、この王子だ、いつか歴史はそれを実現してしまう。だが、そこへ達するのはまだはるか後年のこと。夫ダーンリを徹底的に嫌い抜くメリーの宮廷は、宗教がらみにも、貴族の特権がらみにも、女王メリーの性格絡みにも、ほとんど七転八倒の波瀾がつづいて行く。
その修羅の乱麻を快刀でさばくように著者ツヴァィクの論策と筆致は、みごともみごと、読者をさも唖然とさせながらドンドン前進してゆくのだから、二頁三頁ずつ読んでいてはとても満足できない。眼鏡の上から頭にルーペの鉢巻きをして真夜中まで読みふけってしまう。つい夜も明け方になりにけり、それからまだもう少しわたしは他の本も読む。中に、必ずマキリップの英語本が加わり、『ドン・キホーテ』も千夜一夜も旧約も加わったりするから、わたしは殆ど夜中の睡眠をとっていない。有り難いことに、読んでいる間のわたしは静穏で、平和で、思い乱れることがない。
* 浄瑠璃の原作を読み返して行くと、先日の「仮名手本忠臣蔵」のどこをどう割愛して時間の調整をしていたかがよく分かり、面白さを「足し算」してくれる。加古川本蔵の娘小浪と大星由良之助の息子力弥とが許嫁にであること、塩冶判官の刃傷を抱き留めて憤懣を遂げさせなかったこと、それが障りになり両家の縁組みは不可能化しているのを、「道行旅路の花嫁」で母と娘とは山科の大星家へ押しかけの強談判に出向いて行くのが「山科閑居」。この部分を省いての「通し」興行であったのはすぐ分かっていたが、ほかに「お軽勘平」の粗忽な逢い引きなどの発端部分を、すべて清元の「道行」におっかぶせて省いていた。これはほぼ、常套。
浄瑠璃とは、という講義を今朝も起き抜けに全集の巻頭で読みふけって、おもしろく頭の中を整理してもらった。
2007 2・9 65
* 湖心に島があり堅固に孤立した城がある。女王はそこへ監禁されてしまう。
寵臣を、目の前で貴族たちに惨殺された女王メリーは、首謀者であった夫王ヘンリ・ダーンリを徹底的に厭悪し、自分を犯した情夫で実権者であるボスウェルと共謀のうえ、派手に爆殺してしまう。ボスウェルと結婚し彼に「王」の称号を与えたいが為に。すでにボスウェルの子をメリーは宿している。
誰の目にも、スコットランド国民にも各国の宮廷でも、「王」にして夫であるヘンリ・ダーンリを殺害したのが「女王」と情夫ボスウェルだとハッキリ映っていて、どんな小細工の弁明ももう通用しない。そして女王は屈服し、ボスウェルは勝算のない戦陣から逃亡する。無事に逃亡させるというのが女王が貴族たちの前に、国民の前に屈服する取引条件だった。
* ツヴァイクははっきり指摘している、シェイクスピアの、ことに「マクベス」また「ハムレット」にいかにメリー・スチュアートの行跡が濃厚に映写されているかを。頷かざるを得ない。
一巻の評伝の三分の二にまで近づいて、しかし、もう、メリーの未来は気の遠くなるほど永い監禁の歳月と無惨な末路でしかない、が、そこでこそなお彼女の「人間」がのたうちまわって「個性」を発揮するであろう。
わたしは新潮文庫二冊本の上巻だけを古書でもち、「廃位」の前まで読んでいた。下巻が手に入らぬまま歳月を無にした。こんなとき「鳶」は、いつも親切にわたしの読書欲に助力の手をさしのべてくれる。贈られてきた一冊本の訳が佳かった。八ポという小さい字の大冊だが、ヘッドルーペに助けられて昨夜も、籤とらずに、しっかり二章分読んだ。
* それから、佐日記を主材の『古典再入門』、世界史の「プロシャ」兵隊王フリードリヒと哲人王フリードリヒとの、がむしゃらな先軍主義の展開、『ドン・キホーテ』、旧約のダビデ王を読んで、おしまいに、とっておきの英語版『イルスの竪琴』を楽しんだ。
灯を消したのは四時半。暗闇に眼をあいたまま自分の創作の「その先」へ本気で踏み込むタイミングを思案しながら寝入ったようだ。スキーのジャンプと同じだ、踏切のタイミングを急いでも遅れても危ない。しかも見切り発車するしかないのが、「書き出す」ということ。
2007 2・13 65
* 二階で、林晃平さんの大作『浦島伝説の研究』を読み始めた。「序章」が明瞭な認識で、動揺がない。教えられた。
大部四十数巻の『参考源平盛衰記』もまた二階で調べ始めた。
2007 2・14 65
* 読み始めた『浦島伝説の研究』があまりに面白く、少し興奮状態。それと『メリー・スチュアート』の言語道断な苦境。まんまとエリザベスの網に落ちた猛禽。
2007 2・16 65
* 松屋のなかであったから、上の食堂街で「つる家」の和食。医者に叱られると、これで最後にするかとすこし贅沢にうまい昼飯を食うことにしている。上撰白鶴を、一合、少し控えた。
昨日から林氏の『浦島伝説の研究』に魅了され、ペンを片手にどんどん読み進んでいる。評論ではない全くの研究書だが、周到で緻密、しかも論旨の運びは明快で、「正しくて面白い」のが研究論文の最良のものというわたしの思いこみに、ぴたっと嵌っている。倦かせないのだから、すばらしい。
日本書紀、万葉集から今日まで「浦島子」ないし「浦島太郎」のことを知らぬ日本人は少ない、それほどポピュラーでなおかつ抱え持った内懐の深いことも希有な文化的複合であり、源氏物語や平家物語の広大な深遠な読みにも関わってくる。
2007 2・16 65
* ツヴァィクの『メリー・スチュアート』が、終幕にちかづいている。
運命の底知れぬ仇敵。従姉妹同士で、手紙では「お姉様」「愛する妹」と呼び合っているエリザベスとメリーとの、身の毛よだつ死闘。一人はイングランドの王座にあり、一人はスコットランド女王でありながらイングランドに捕獲された、幽囚の身。
凄絶な闘いが、かくも不平等な境遇において実に二十年ちかくも継続し、それこそは二人の「女と女」の、「性格と性格と」の死闘と謂うしかない。
渦巻く嵐の吸引力は文字通りもの凄くて、診察室で医者に命の危険を威嚇されていても、食べ物の店で懐石やまた鰻を食って飲んでいても、電車の中でも仕事部屋にいても、どうしようもない女の血闘、ことに困った困ったメリー・スチュアートの不屈の「女性」が、いやいやエリザベスの蛇のようにからみつく嫉妬と憎しみと怖れもが、数百年後の東洋粟散の辺土の一読者わたしを、緊縛して放さない。
ことは、全てと謂えるほどメリー・スチュアートの運命と性格に負うている。気の毒といえば気の毒な面もあるが、自業自得で落ち込んで行く敢為と自尊の人生。生まれながらに「女王」であったメリーは、無惨なイングランドの「ギロチン」に怖れるより「女王」としてでなく死ぬことの方を怖れる。凄い抱き柱だ。囚われのメリー女王が、地位も王国も伴侶も恋人も一切の名誉も、敵味方となく股肱の貴族たちも、我が子も失い尽くして、なお最後の最後に、無惨なまで酷薄に、最高に礼儀にかなった口調と言辞とで、憎きエリザベス女王の最も負い目とした「女」の不毛を、底の底まで告発して完膚無き書簡は、およそこの世で人の手で書かれた「手紙」の、最も凄まじきモノであった。
* 暗鬱。それだ、今のわたしは。しかもこんなに興味深く面白い読書はザラには無い。多年執着して読みたかった。わたしは満たされてもいる。
2007 2・18 65
* 何となくガッカリしたまま、機械から離れたのが、もう一時半だったか。階下でバグワンの『存在の詩』を何度目になるだろう、全一巻「音読」し終えた。
なにもかもを脱ぎ捨てた、いやそれでは格好がつきすぎる、半ばは剥ぎ取られたように、わたしは寒い。ひどく震えている。歳月を掛けてここまでわたしはバグワンに聴いて歩んできた。なにも疑っていない。ただこのまま歩一歩の道を辿って行く。
* さて京の両六波羅はついに明け渡された。篠八幡に祈って出撃した足利高氏自身がもっと激戦するのかと想っていたが、『太平記』本文にはさほどに現れない。むしろ播磨の赤松円心らの軍勢がねばり強い戦を京中や郊外で繰り返してきた。
『太平記』は快適に調子よく音読できる、当たり前といえば、当たり前。
* 床についてからの本は、もう的を絞っていた、『メリー・スチュアート』を読み上げてしまおう、と。
彼女の前半生、フランスの女王からスコットランド女王の時代も、めざましい波瀾に富んで「驚倒」の二字に感想をゆだねたいが、真に劇的なのは、二十年にちかいイングランドでの幽囚生活である。
倦く事なきエリザベスへ女王への挑戦・挑発そして陰謀。
だがそれに輪を掛けたイングランド女王の、偽善と憎念と陰謀の数々に、貴族・議会・教会・国民もこぞって、捕獲したメリー・スチュアートの「首を落とす」断罪が画策される。「エリザベス暗殺の陰謀」を、当のエリザベス自身と大臣・官僚・貴族たちとで巧みに協議画策し、陰謀に夢中のメリーがそれを許諾し承認したという「メリー自筆書簡」の奪取へまで、じつに周到に事は運ばれ、それが動かぬ証拠となり、貴族法廷で死刑がきまる。決まる、が、さ、その先の「エリザべス対エリザベス」の内心の闘いが凄まじい。どちらが被告だか分からない。
「神」がゆるした「女王」身分の生命を、同じ身分の女王が、まして臣下身分の者たちが奪っていい、どんな歴史的口実がありえたか。前例があったか。そんな前例を女王自身がつくりだしてしまった、それからあとあとへのエリザベス女王自身の「責任と名誉」とは、どうなるのか。
ギリシャ・ローマの昔から、暗殺はしらず、王・帝の死刑は取るに足らない微々たる例しかなかった。
一つ間違えば、女王による女王の未曾有の断罪は、エリザベス自身の命運にもかかわるだろう。もしエリザベスに何か不用意な事故が起きれば、ないし死んでしまえば、その瞬間に、ほかならぬ「メリー・スチュアートこそがイングランド女王に即位」することになる。たちまちに政変は力関係を変えてしまう。そういう二人の微妙きわまる間柄であり、ことに王位の尊厳を王自身が死刑という形で否定し破壊するという容易ならぬ前例を、ヨーロッパ中の宮廷社会環視のもとに、どんな口実をつけてエリザベスは公然提出できるというのか。
いかに偽善に満ちた確信の演技で、エリザベスがメリー断罪の執行指令に署名したか。しかもその執行後、敢然とそれは自分の本意でも指示でもなかったと怒りだし、異議を唱えだし、そのうちに、自分でもその怒りが不動の事実そのものと信じ込んで行く、それほどのヒステリー特有の自己欺瞞・自己確信。
エリザベスは、しかし、それをやってのける。いや、愛する妹の断罪を自分が許すわけがないではないかと自分でガンとして思いこむ。
その右往左往と厚顔な自己催眠的名演技による断罪前後のエリザベスの振舞いは、或意味で見事と謂うしかない。
しかしながら断罪されたスコットランド女王にしてチューダー王朝とスチュアート王朝の嫡流であるメリー・スチュアートの、死を賭して仇敵エリザベスを心理的に追い込み圧倒してゆく誇り高さはどうだろう。いつのまにかカソリックの「殉教者」として自己是認して行くすさまじい自己愛。殉難・殉教の女王として死装束のすみずみまで用意し尽くされた気丈で確信に満ちた最期のさまは、信じがたいほど見事に統制されていた。圧倒的な自己主張であった。勝者は自分だと言うように。
そして真っ黒い覆面二人の大男の、三度にわたって振り下ろされる大斧の血も凍る結末。
そして、その後のイングランドとスコットランド。
* 呆然と息をのむしかない希世の名著、人物評伝・ノンフィクションの冠絶の名作。読み終えて途方もなく満足し、また人間というものの凄まじさに、また新たな底知れぬ恐れを抱いた。
小説より奇の程度でなく大小幾百の小説がとびかかっても、面白さにおいてはね返してしまう高度の面白さ。一つには古見日嘉の翻訳がすばらしかった。
言って置くが、所詮漫画本や通俗読み物に読みふけるしか力のない人には、この優れた洞察と探索に依拠した考察や理解は、歯が立たないだろう。それを乗り越えうる読書人にはワクワクする知的興奮と幸福と、また不幸への謙虚さもこの本は与えてくれる。
なにしろ主役がメリー・スチュアートとエリザベス女王である。二人の「性格」は、ほとんどオリジナルの深みをさえ帯びて典型的であり、白熱する。
エリザベスは、あの、ややこしいが輝かしくもある「英国史」歴代の帝王のなかで、最も秀でた安定した時代を造りあげている。彼女にはフランスもスペインもローマ法王庁も何とでも出来た。
だが、しかし、あの世へ行ってからでも、かの誇り高き女王の中の女王メリー・スチュアートには、所詮勝ちきれなかったろう。
* それにしても何とイヤなもんだろう、王だの女王だのというシステムは。
我が家の手洗いで可憐に咲いているスイートピーほども、メリーもエリザベスもわたしは敬愛しない。
* それから、さらにマキリップの『イルスの竪琴』を読み出した。英語が難解なため、かえって世界に惹かれて読み進めたため、もう寝なくてはと気づいたとき四時半をまわっていた。
七時前に目覚め、また少し『世界の歴史』を読んだ。ロシアのエカチェリーナ女帝の亡くなるまでを。この人は我が国の「北の時代」とも関わり大きかった。
目を休めている内に九時に。起床。
2007 2・19 65
* 四時に目覚め六時半に起きた。マキリップを読んでいた。
2007 2・20 65
* もうほどほどにやすんで、明日、松たか子のコクーン芝居『ひばり』に、体力と視力を温存しなくちゃ。いまも腰掛けたままとろとろうたた寝していた。寝入ると、しかし、ロクな夢をみない。今日の明け方もイヤな夢に苦しんだ。起きてしまい、『絶対王政と人民』を読み上げているうちに不快感を追い払った。
2007 2・21 65
* 出がけ、高麗屋の奥さんから、毎月の父娘(幸四郎・松たか子)往復書簡の四月号が送られてきた。今月は娘の順番だったなあと思いつつ、帰ってから読もうと渋谷東急文化村へ。
シアター・コクーン。ジャン・アヌイ作、蜷川幸雄演出の『ひばり』は、期待を裏切らない秀抜のジャンヌ・ダルクを、松たか子が清純しかも毅然と演じ、心底感嘆させた。
先ずは「松たか子讃」を述べておく。劇としての問題点は後から。
2007 2・22 65
* 寝る前に、往復書簡を一度ざっと通読。「ひばり」に触れていて面白かった。
2007 2・22 65
* 建日子がふらりと来て、いろいろと話し込んで。
建日子が家にいると、ほっとする。『バグワン』読みと『太平記』読みとを建日子はじっと聴いていた。
2007 3・2 66
* 機械は、わたしの椅子からいうと鍵の手北向きにモニター付き布谷君作の旧親機があり、西向きに今遣っているXPのノートパソコンと98の古いノートパソコンが二段に置いてある。
二台の機械の奥は、作りつけのがっしりした本棚。鏡花全集や森銑三作品集や、唐詩選や老・荘、古文真宝などの漢籍や日本史大事典六巻やキーンさんの文学史全巻、古寺巡礼京都全巻、そして平家や徒然草や蕪村・秋成などの背文字が、ざあっと見回せる。本は書庫にも東・西二軒の中にも充満し、おまけに湖の本の在庫。わたしたち夫婦は「本の家」に間借りさせて貰っているのと同じだ。
2007 3・3 66
* 三時半に寝て、六時半に目が覚め、しばらく中國の「明」史や、チムールやその他北アジアの英傑たちの歴史を読んでいた。妻と寝ている黒いマゴの手をにぎったり、手先をマゴに噛ませたり。八時に起き、湖の本の校正。
妻をきのう自転車にのせて春散策に出たのは失敗だった。わるいことをした。だいぶ疲れてしまったらしい。
2007 3・4 66
* 太平記は、いましも新田義貞の軍勢が鎌倉へ乱入、ついに北条政権、鎌倉幕府が撃滅されようと。
太平記は、すさまじい合戦につぐ合戦で、勇壮というより時に酸鼻を極め、武士たちが、潔いとはいえ凄惨に次から次へ討死し、割腹し、命果てて行く。
かつて、平家物語には見ない「血」が太平記ではどすぐろいまで流れると書いたことがある。そもそも平家物語の中で「割腹」「切腹」の場面を、粟津での木曽最期のあたりでしか、他ににわかに思い出せない。
極言かもしれないが、十二世紀の平家物語の死闘で、敵の頸は斬るが、まだ自身切腹という死の行儀が一般に成立していない。
ところが十四世紀の太平記の戦闘では、ここぞに及ぶと武士は、名誉を重んずる武士はなおさら、ためらわず腹をかっ斬っている。主が割腹すれば、従も、ぞくぞくと後を追っている。
三百年の間に武士の倫理が、どうおぞましくとも、どう潔くとも、ともかく凄絶な行儀を確立してきている。
そして不思議なことに、予期したこともなかったのに、ときどき、太平記を声に出して読んでいるわたしの声が感動に震えてくる。涙も溢れたりする。
* ドン・キホーテは頭の「おかしい男」に想われがちだが、そう想う者たちのほうが「よほどおかしい」ときもあるのを、セルバンテスは残酷なほど厳しく表現している。たしかにありとある騎士物語を読破のあげくその世界に完璧なほど自己同一化しているキホーテは異常であるけれど、その異常を通して、泰然と昂然と彼は世俗世間の愚昧と傲慢と無知を「批評」している。それに気づけばこそこの大作は生き生きとおもしろい。加えてサンチョ・パンザのキホーテとは逆さまを向いた率直な俗欲のおもしろさ。弥次喜多のような「悪人」ではない、愛すべき俗人の素直さ。たいした人間の「把握」だ。
* 中国の歴史では、割勢された「宦官」たちの国政を壟断して憚らなかったあれこれに、ひっきりなしに驚かされる。わたしは、概して漢や唐より、宋やことに明の歴史にいま興味があるが、明時代はことに宦官の害がひどかった。
だが宦官は中国だけのものではない、むしろ世界的に有力諸国では顕著な例がたくさん見られる。それよりも驚かされるのは、あれほど中国の文化文物や法制を憧れ真似た我が国には、忌まわしき宦官の制が、纏足もそうだが、ついに芽生えもしなかったこと。これは誇ってもいいことではないか。
2007 3・6 66
* 『終わらない旅』は小田さんの代表作の一つに加わるのではないか。そうそう『ロリータ』が家にあった、映画は観たがナボコフの原作を読んでいないのは怠慢に類する。また楽しみができた。
バランスのとれた乱読は、むしろ自身にいつも奨めているが、このところ視力をかばい、就寝前のベッドでの読書を三四冊に減らしている。
2007 3・8 66
* 花粉が洟へ来ている。
田島征彦さんに昨日新しい繪本をもらった。「じごくのそうべえ」のシリーズ三冊目。元気な繪だ。
四月歌舞伎座、昼の部も松嶋屋に追加注文。どうも勘三郎と仁左衛門との「男女道成寺」は見逃したくない。
ものの下から六年前の「AERA」の表紙が出てきた。たぶん中国の映画女優なのだろう李英愛の大きな顔写真だ、大昔の物言いをすれば「スコブルつき」の「トテシャン」で、よほど見惚れ見惚れたので、本文は棄てても表紙をはずして眺めていたに違いない。今観ても気持ちのとろけそうな美女で、降参する。
きれいといえば、吉永小百合のいまいまのコマーシャルの寝顔が、すてきに綺麗に撮れているのに、中年過ぎてからのサユリストは、満悦。いやはや女優は化けるなあ。
今朝のテレビ、音羽屋の娘・寺島しのぶが外国人と結婚するという話題。寺島は話題性だけでなく女優の力量も群を抜いた逸材だけに、舞台や映画から遠ざかられるのは困る、彼女はとても家庭生活だけに甘んじる人とは思わないが。
問題は、男の子が生まれたときに歌舞伎役者として育てるという音羽屋の「期待」だが。ま、そんな成り行き、わたしの年齢では見届けられまいが。
この番組の司会者役のひとり、東ひづるとかいった女優は、デビューの昔からちょっと別格の存在感で目を惹いたが、達者な可塑性で、知的にも感性的にも巧みに化ける。この「生彩」が、女優志願者には欲しい。かしこぶっては固くなりダメなんで、バカにもはじけられる素直な聡さ謙虚さが、成功している女優にはなべてみられる。それがオーラになる。じょうずに伏し目のつかえる人と、ともするととがった顎をあげてしまう人との、差。
2007 3・10 66
* 六時前にめざめ、床のなかで『宇宙誌』『世界の歴史明国の経済』『ドン・キホーテ』『旧約聖書 列王記』そして英語の『イルスの竪琴』を読み進んだ。
「鳶」に送ってもらった『宇宙誌』は、湯川博士の中間子発見から語り始められている。偉大な自然科学のむしろ現代・未来像のようであり、記述は明瞭で冗漫でなく、おもしろい。こういうのを読んでいると、しょうもない身の憂さなんか忘れてしまえますと「鳶」はメールに。そうかもしれない。が、読めるか知らんとしばらく放ってあったが、読み出すとじつに興味深い。
ニュートリノの研究でノーベル賞を受けた博士と、山の上ホテルのパーティで椅子に並んでおしゃべりしたなあと思い出す。いま、そのニュートリノの発見やクオークの発見と理解などを、本に教わっている。
明の経済発展は、都市の展開と農村のマニュファクチュアルな発展が結びつき、大資本の「客商」や地場の「土商」たちが、隋王朝以来の大遺産である四通八達の運河網を利して、多彩な物産を運輸・拡販してゆく。
日本人は、聖徳太子と小野妹子との遣隋使で隋にまず触れるが、一般には評判の悪いごく短期の隋国ながら、言語道断に大規模な運河をあの廣い国土に通しに通しまくったいわば帝王の道楽が、今世紀にいたってなお中国経済への計り知れない遺産としてモノを言い続けていること。歴史の面白さである。
運河は、道。道は、不思議な文化だと思う。古代は絹の道、近代は海の道に多くを負うた。「道」は、不思議な生き物だ。
ドン・キホーテは、崇拝かぎりない彼の「ドゥルシネーア姫」のすばらしさを、まこと簡潔に美しく旅の道連れ相手に語っていた。荘子の夢に見た蝶を連想した。
さて王「ダビデ」はついに死に、いよいよ「ソロモン王」のときとはなった。ま、それにしても「粛清」の次から次へ相次いで、それがみなエホバの意思に出ていることは。
* ヘドのモルゴンは遙かなるエーレンスター山をめざし、豪雪の深林にいましも垂死のていで立ち往生している。ヴェスタと呼ばれる巨大な鹿がいまあらわれて、凍えたモルゴンにふと顔をよせてきた。
* 早朝に読んで、深夜ははやく睡魔に身を任せる方がからだにも眼にもいいだろう。
* 音読している『太平記』は、いましも新田義貞の義兵に攻め込まれた鎌倉幕府潰滅のとき。血みどろの死闘のさなか、最期の執権北条高時入道の側近の武将と一党とが、相次いで凄絶に討死し、また枕ならべて壮烈に割腹死を遂げて行く。
太平記の合戦の描写はあまりに華麗に残酷ではあるが、感銘も深い。
この本、音読していてつぎへつぎへと興を惹かれつづけるけれど、「黙読」ではこの大量の装飾文は読み切れないかもしれない。何度もこころみては結局拾い読みで退散してきた太平記を、「音読・朗読」のゆえに、きっと最後まで楽しんで読み切れるだろうという気が、今、している。
2007 3・12 66
* 夕食にクラブへ向かったが、途中気が変わり、中華料理の小店に入り、ささやかな料理と紹興酒とで、ゆっくり露伴に読みふけってきた。家を出るときわざわざ書架から引き抜いた来た。もう三十年ぶりぐらいの再読ながら、内容は熟知していて、それでも新鮮で、文学・文体・文章の生彩に惹かれ、面白くて面白くて、往きの電車からもうわくわくし、委員会が早く果てるととにかく続きを読みたかった。クラブよりもその店の方が明るくて静かなこと、料理もひと味すぐれていることを前に一度入って心得ていた。紹興酒も飲みたかった。
帰りの西武線は立ったままの満員だったが、その中でも読みやめられず、露伴の妙に浮かされたようであった。久々に文章の夢を観るかも知れない。鴎外の『渋江抽斎』と露伴の此の作とは読んだ夜中に文章を夢見た記憶がある。幸せな体験だ。
2007 3・12 66
* ペンの帰りにお目当ての露伴作を読み上げた。三嘆。悠々の名作であった。痛切に刺激された。嬉しい読書だった。
2007 3・15 66
☆ やっと『宇宙誌』がHPの記述に現れて、読んでくださっていると知りました。「文学的なことばかりでなく、こういう見方も・・」と「不遜なもくろみをもった仕掛け人??? 鳶」は、鴉の反応が楽しみです。
ほとんどの日本人にとって(絶対的な神を抱かない人にとって)、宇宙の誕生や進化論は、宗教の教えからくる呪縛や限定的肯定にとらわれないで読み進められる本です。
当たり前と思われるかもしれませんが。けれども、例えばアメリカは、意外なほど宗教に左右されている社会で、「進化論」を公立学校で教えるな、云々の議論が盛んですし、彼らにとっては此の『宇宙誌』も、おそらく、「とんでもない本、人を惑わせる本」の類に入るのではないでしょうか。新しい知識を得ると同時に、やはり世界観、人間観まで大きな影響がありますから。
わたしはもともとは生物や地質、宇宙に関する事柄に興味があったようです。が、如何せん、数学が苦手で、理科系の人間ではありません。時折科学の本を読み、テレビの科学番組もかなり丁寧に見ます。新しい発見には夢が膨らみます。数式や専門的なことは理解できなくても、凄いなあと・・携わっている人を尊敬してしまいます。
これはコンプレックス? 謙譲の心? 分かち難いです。
数日冬に戻ったような日が続いています。青春切符で琵琶湖一周に出かけたら、雪景色に出会えるはずですが、まだ身体を第一に考えてしまいます。と、言っても、自分で把握できる範囲での、ちょっとした症状で何も心配していません。甘やかしているのです。
近くの白木蓮の花が寒さに震えています。 鳶
* ほうと思った。科学的な事実や発見への、またその科学史への好奇心は、わたしにも強い。自分に不足した側面をいつも補えるようにと、知解しかねるほどの数学や理論物理学や天文学や、みな興味はたやしたことがない。そして感嘆する。
大学の一般教育でも「自然科学」という授業には興味をもって出た。テレビを観る楽しみの一翼に、科学番組は敬意や憧れとともに、ドラマなどよりも確かに在る。
贈られた『宇宙誌』はかなり分厚い文庫本。装幀がいまいちで、題もあまりそっけなく思えたのと東京大学の先生である著者になじみもなく、またフォント (字体)にも気疎かったので、ま、しばらく放ってあった。むしろ妻が興味をもつだろうと思っていた。
たまたま湯川博士の中間子論がわたしたちの生まれた頃ことでもあり、ふっと読み始めたら予想に反して実に読みやすい。たちまち赤ペン片手に読み進み読みふけり、もうずいぶん本が真っ赤っかになった。わたしに読まれる本は、歴史でも何でも白い綺麗な本のままには残らない。あとから読む人の意欲をそいでしまうほど真っ赤に傍線がひかれてしまう。ただ黙読より頭に入り、またの読み直しの時に傍線部分だけでも要点は斟酌できるので、やめられない。
いま、コンピュータのところへ来ていて、ま、わたしの最も近寄りたい、近寄りやすい記述である。
2007 3・16 66
* 竹内整一さんの平凡社新書『はかなさと「日本人」』が贈られてきた。あとがきに、わたしと『みごもりの湖』ほかの作を介して竹内さんの思いが深切に書かれてある。懐かしい気持ちで胸が濡れた。感謝。早速一冊読ませていただく。
2007 3・17 66
* 竹内整一さんの『はかなさと「日本人」』の冒頭に、いまどきの小学生中学生にアンケートして、自分の生きているうちに人類が滅びると思うかと尋ねると、六割ほどもイエスと答えるらしいと、ある。もう以前のはなしだが此のアンケートを報告していたのは、わたしの甥の黒川創だと書いてある。
小・中学生に問うにはムリな質問ではなかろうかと、わたしも思う。それでもなお六割が早晩人類は滅ぶであろうと子供ごころに言いうる背景が現に在るということは、小さな問題ではない。竹内さんは現代の「無常」に問いかけている。
* 竹内様 新刊のご本を頂戴し、あとがきも読みまして懐かしさに胸を濡らしました。農学部前でたまさか出会って、もう何年が経ちましたことか、日頃支えて頂きまして、答案を提出する心地で「湖の本」をお届けしてきましたが。
昨年は孫をはかなく死なせるという痛い目に遭いました。生にも死にも、日々の、もの、こと、ひとの送迎にも、「はかなさ」はつきまとい、しかも厚顔に図太くも居直ったザマを、見て、見せて、過ごしているていたらく、わらうにわらえない始末です。
この数年、もう少し永くか、わたしを捉えて悩ましてくれる思念は、「抱き柱はいらない」ということと、「果たして可能か」という高慢なものです。この物思いのまま、終焉に、はたして「間に合う」だろうかと、堪えるように居ます。親鸞仏教センターから、竹内さんの名前にもふれながら原稿依頼がきました。死なれて・死なせてといったことで話せということのようですが、今も抱いたこの難問へまで筆が及びうるであろうかと歎いています。
またお目にかかる機会もやと願っています。ご本、よく読ませていただきます。心よりお礼申し上げます。お大切に。
原善君、消息に触れず多年を経ています。 秦 恒平
2007 3・18 66
* 血糖値108。正常。好天。予約しておいた散髪に。すこし待つ間、千夜一夜物語で「女の狡知」を連綿と話し次ぐのを読んでいた。『千夜一夜物語』はどことなし長閑で大らか、どんな話になってもとくべつ不愉快ではない。
散髪されているあいだ寝ていた。目をつむったまま海外女優の名前を百八人まで指折り数えているうちうとうとと。お天気、上々。
2007 3・21 66
* 野島秀勝さんから岩波文庫創刊80年最新刊ド・クインシー著『阿片常用者の告白』に次ぐ続編を贈られた。古典である。
* 発送の用意など手が着かずにいるが、疲れ気味なので、はやく休もう。
金星の表面温度が千度ちかい焦熱と知り、惑星探査機はほぼ太陽系惑星を尋ねて旅を完結させているとも知った。明國と清國とが、総髪と弁髪、「髪」型の闘争をしていたことも、知ってはいたけれど、事新たに歴史的に確かめてみる面白さ。
2007 3・21 66
* 『宇宙誌』がおもしろく、つぎつぎと惑星に関する最新記事に驚嘆している。月、水星、金星、火星、木星、土星まで読んだ。惑星探査機のすばらしい成果にしんそこ感嘆。もってきたささやかな知識を豊富に塗り替えてもらった。本が傍線で真っ赤。
* マキリップ『星を帯びしもの』の英語原作も三分の二を過ぎて、いま、ヘドのモルゴンは、狼王ハールに痛い説教を食らっている。モルゴン自身はあくまで自分は、真っ先にヘドの領地支配者であり、また謎解き人であり、そして「星を帯びしもの」でもあると言い張るが、ハールは「NO」と。生まれる前からそなたは「星を帯びしもの=スターベアラー」以外の何者でもなく、そのことに今しも違和を露呈した全王国の「運命」がかかっている、それほどの危機に世界は遭遇しつつあるのだ、と。目覚めよと。多くても五頁ほどずつ楽しんで、のめり込んで読んでいる。
* 世界史は、清の、順治帝を過ぎて、世界史的な名君の一人康煕帝の時代を、興味深く読み進んでいる。太宗いらい、清の建国がこんなに確乎とした足取りをもっていたのかと、実は眼から鱗を落とし落とし、おどろかされてばかりいる。
どうも「清國」はその末期から近代中国への交代期に先入見が出来ていて、妙に情けない國のように感じがちで来たのだが。焼き物ぐらいにしか関心が向かなかったが。
少なくもその前半期の皇帝たちの姿勢ないし施政に対し、たいそう「失礼していた」と悔いてさえいる。
2007 3・27 66
* 九大今西祐一郎教授の『蜻蛉日記覚書』を頂戴した。
『蜻蛉』は、「日記」という名の、文学史初の「私小説」であるとわたしは位置づけている。楽しんで読ませて頂く。
先日の東大竹内整一教授の『はかなさと「日本人」』や、故実相寺昭雄の自伝小説『星の林に月の船』も興味深く読んでいる。
「オール読物」の往復書簡は今月は父幸四郎。雑誌が送られてきた。今日のうちに読む。
2007 3・27 66
* リングのある惑星。その目をむく組成の不思議。もし地球に、衛星の月のほかに土星や天王星のようなリングがあったら、夜空はどんななだろうかなどと子供のように夢をみる。
何十億マイルもの太陽系の端まで惑星探査機が行っている。だが銀河系からみれば太陽系なんてひとしずくほど…と教えられると、妙に嬉しくなる。子供にかえったような嬉しさだ。
* 幸四郎が娘にあてた今月の往復書簡は当然のように松たか子主演の『ひばり』に触れていた。それは、自然なこと。
それでも、今度はすこしわたしにも思うことがあった。
「親娘私信の往来」なら、これでいい。十分いい。幸四郎がもし自分のブログをもっていて、そこで親娘で「私語」しているなら、それでもいい。
しかし雑誌「オール読物」は読者に読ませる出版物であるから、読者を置き去りに、もしもしてしまうことがあれば、それは観客を置き去りにした芝居と同じことになる。
藝談もむろん聴きたい、舞台の苦心にも興味は尽きない。しかしどうしても話題が、劫をへてきた大俳優の「過去」の閲歴がらみに自画自賛ふうに読み取られかねなくなると、自然、読者は、これまでにくりかえし聴いてきた、読んできた話柄をまた掴まされることになりやすい。書簡執筆者の常に「読者」を念頭にした叙事に、オオッと喝采したくなる目の覚めるような工夫やサービスが欲しくなる。
読者は、幸四郎や松たか子が、現代日本や国際社会や法律などにどんな関心を持っているかも知りたい。『ひばり』のような優れた演劇に出逢ったのだから、この際、神や信仰や宗教観なども聴いてみたい。藝人と宗教感情には久しく流れてきた歴史の水脈もあるのだから。また仲間内の仲間ぼめにとどまらない、新しいまた伝統的な藝術・藝能のフラッシュに、どんな個性的な視線をとばして、どんな内心の批評をもっているかも知りたい。
東京や京都といった都市へ、また地方の自然や生活や風習へ、また役者という立場からみた日本や海外の歴史への思い入れとか、さらには趣味の俳句をはじめ日本の詩歌のこと、とりわけ日本語のこと。また音楽のこと、歌唱藝の楽しさや苦心や、そういうことも話し合って欲しい。
また庭先の季節の色や花や、たとえば役者の日常に必要不可欠であろう「書」についてとか、目新しい見聞録とか出逢いとか、「言葉」と「しぐさ」つまり「科・白」の微妙な、みどころ・ききどころとか。そういう読者の思いや嬉しさを肥やす話題もほしい。
雑誌という場での往復書簡は、私事の披露と同時に、読者と分かち合うそういう公開性をもっている。
そんな気が、した。
* 梅原猛さんと二人で編集顧問をつとめている雑誌「美術京都」がようやくNO.38を出した。この号の巻頭で、梅原さんが陶藝作家秋山陽を迎えての対談『<土>とは何であるか』がとても佳い。面白い。
この村上華岳の墨の繪を表紙に置いた年二冊の雑誌は、巻頭対談と、六、七十枚も量をさしあげる長い論考一作とで、構成している。その方が意を尽くせるからだ。この号の論考は、京都工藝繊維大学大学院教授である並木誠士氏の、『中近世絵画史における扇絵』。これも面白い。
団扇絵についても誰かに書いて貰おう。
2007 3・28 66
* 今西九大教授に頂戴した『蜻蛉日記覚書』は、『土佐日記』冒頭の、例の「をとこもすなる日記といふものをゝんなもしてみんとてするなり」の意義理解から書き始められている。この部分の書かれたのは、小松英雄名誉教授の近刊『古典再入門』の刊行以前であるだろう、と想う。
小松さんは『土左日記』の読みを主材料にして瞠目の新見を展開されていて、明らかに此処に今西さんが要約されている理解とは正面衝突する。俄然として読み進むのが楽しみで。
* 日本の小説で、ああこれは名品・名作だなと思える作には何年も出逢っていない。最近読んだ露伴の『連環記』ははるか以前の作であるが、読み直してじつにみごとな大文学であった、圧倒的な文学作品であった。ああいう感動をいまはだれも与えてくれないが、研究や論考の中にはときどきそういう鮮鋭な収穫があるから、どうしてもそちらへ気が惹かれてしまう。
蜻蛉日記はいうまでもない仮名書きの日記ふう私小説である。土佐日記もまた先駆した同種の文学作品であり、蜻蛉を論じる今西さんの念頭に終始土佐のあったろうことは当然だろう。小松論考を一方に控えながら、今西論を玩味嘆賞させてもらう。
2007 3・28 66
* 昨日おそく、猪瀬直樹氏から文庫本『ピカレスク』(文春文庫)が贈られてきた、感謝。単行本で出たときも貰い、とても面白く読んだ。猪瀬氏の本の中で一、二と言いたい追求度で、興味津々というにとどまらない、率直で正確度の高い仕上がり。
「太宰治」という過剰な偶像を相当程度まで正当に批評し得ていて、内心に想っていたいろいろを、ずいぶん代弁してもらえた気がした。ピカレスクとは思い切った題だが著者の容赦ないしかし偏見もない見方が出ている。
太宰文学のよさ、長所は認めている、わたしも。心酔は、だがどうしても出来ない。わたしをこの世界におしだしてくれた有り難い名前であり優れた作者であることはよく分かっている。好きな作家ではないというに過ぎず、そんな好き嫌いは文学としては意味をもたない。希有の人である。
猪瀬氏のターゲットには井伏鱒二もあがっている。これまた太宰賞に一票を戴いた先生であるが、猪瀬氏の追究にも同感できるところがある。純然の文藝批評家でない自由さがみごとな成果につながった氏のこの作品は、多く読まれるに値している、愉快でないと読む人も少なくはないだろうが。
著者の猛勉強の威力が結実。こういう面の猪瀬直樹をわたしは敬意をもって好いている。
2007 3・29 66
* つくばの和泉鮎子さんに頼んで、以前にながく連載されていた和泉さんの「小侍従」論を送ってもらった。もういちど通して読んでおきたかった。
宅急便で届いたのですぐ開封し、鞄に入れて家を出た。往きと帰りの乗り物の中で、また途中乗り換えのところで喉をしめしながら、全編を一気に読み通した。
これは佳い仕事だ。前にもそう思ったが、これがどこかで本にならないなんて犯罪的だと思う。小侍従という和歌の名手の環境がかなりクリアに多面的によく捉えてあるし、和歌の魅力が魅力満点に読み込まれている。中西進氏が「あの人は才媛ですよ」とわたしに褒めていたが、その通り。もう惜しいことに若くない、わたしとどっちがどっちという、E-OLD。しかし気迫は若い。「ペン電子文藝館」の委員として最も信頼できる委員の一人である。
2007 3・29 66
* 昨、就寝前の血糖値が近来になく異様に高くておどろいた。応急処置して、今朝はまずまずの高さ。これから聖路加での検査をうけに出かける。
* 二種類の検査を、順調に終えた。ひとつは両腕、両足首、足指に強い負荷をかけた血圧検査のようであった。首尾はむろん何も分からない。
若い華奢な女性の検査技師が、足首が細くて綺麗ですね、うらやましい、などと妙なところを褒めてくれた。初体験。
もう一つは、中年の女性の医師か検査技師かが、頸になにか塗りつけ塗りつけ指で押したりさすったりしていた。検査用紙にはechoと書いてあった。これも首尾は一切不明。で、解放されたのが二時半。
聖路加ちかくは桜が八分咲き。いっとき暑くなり、いっとき冷えはじめ風が吹いた。松屋のうえに上がり「つる家」で和食。ここの白鶴上撰はうまい。徳利が貧相でないのがいい。料理もたいへんけっこうでした。食べながら『宇宙誌』を読みふけっていた。帰りの有楽町線もうまく西武線直通が来てくれて、半分本を読み、半分寝ていた。保谷では風が冷たく、タクシーで逃げ帰る。
2007 3・30 66
* 平家物語世界は空気が清んでいる。多くの死も戦も語られるけれど、陰惨にならない。むしろ平治物語のほうが船岡山の死刑など、むごい場面を見せる。
太平記は、繰り返し書いてきたことだが、いましも通読・音読、ことに凄惨の感を深める。鎌倉の滅亡、諸探題の滅亡を力を尽くして物語る筆の運びは、「凄い」というならこれを謂うべし。いまの若い人たちが「最良」かのように批評語にしている「すごい」「すごーい」は、血しぶきの散る無残な戦場や、追いつめられて女も子供も逃れる方なく、或いは水に沈み或いは壮烈に割腹、打ち臥しならんで死骸の山をなす有様にこそ用いられていい物言いだった。
幽霊のまざまざと姿をあらわして生前の惨状をなげく。しかも愛し合った男も女も業火にさえぎられて闇夜の水の上で悲歎する。そういう場面が、もうずいぶんつづいた。鎌倉幕府の滅亡とは、まさに修羅の惨状。
平家物語に出てくる和歌は、頼政といい忠度といい名人級の和歌。
太平記の和歌は、よっぽど落ちる。こういうところからも、時代が読める。美意識も死生観も読めてくる。
* 京大名誉教授で中国語学者、京都博物館の館長をつとめてから引退された興膳宏さんから、「漢字」がらみの興味深い本を贈られた。日頃あたりまえかのように用いている漢熟語の、じつはとてつもない誤用・誤解を、面白く正してもらう本である。興膳さんの著では、とびきりとりつきいい啓蒙もの。「糟糠の妻」とか「忸怩」とか。あなた、どう使ってますか?
* いま此処へ、いちばん書き留めたいのは、しかし、バグワンの言葉。だがあまりに大事、あまりに微妙、あまりに謂えば謂うほど言葉は適切を欠きそうで、身動きもならない。
2007 4・2 67
* 熟睡していた。八冊の本を次々に読んだあと。
清王朝の、ことに順治、康煕、雍正、乾隆帝らの渾身の「善政」意志に、眼から鱗をおとして驚いている。明の頃、たった一人の寵妃の一年消費の金額で、清一年の宮廷費がまかなわれ、余儀ない外征にも一文の国民に対する増税もなし。それどころか康煕帝は晩年に一億両の大減税を実施しているし、雍正帝の頃に清国の財政基盤は確乎としたものになっていた。しかもこの親子、ものの考え方では対蹠的だった。それも面白かったが、満州に基盤をもったこの征服王朝が、いわば実に忠実な中国への「入り婿」「押しかけ聟」として、漢民族以上に中国的に努力したという学者たちの評価にもおどろいた。わたしなど、清は、歴代王朝でもいちばんのダメ王朝だったような、理由の乏しい「印象」を永くもってきた。恥じ入る。
こんな知識も、さて、いまのわたしに何の「役」にもたたない、が、だから無私に楽しめる。嬉しくなる。
『宇宙誌』がそうだ。
分厚い文庫本のどの頁も真っ赤に傍線。つまりわたしが驚いたり感嘆したり眼から鱗をぼろぼろ落とした証拠の足跡のようなもの。他の人にはもう読むに読めない本になってしまっているが、いまは地質学の変遷に仰天しているところ。
いかに地球といえどもいつかは冷え固まって死ぬのだろうと漠然と思っていたが、地球はエネルギーを再生し再生して行く能力をもっていて、その秘跡を成しているのが「放射線物質」であり、放射線の発見はまさしく偶然というしかない偶然によったこと、しかもこの発見は歴史を革新したのだと謂うこと。興味深い。
理系の学生なら寝言ででも言えそうなことを、この紫式部の弟子である七十過ぎた老人は、いまごろ教えられて唸り続けている。「バカみたい」と嗤う人がどんなに多いか知らないが、こういう毎日、悪くないと喜んでいる。
どの一冊どの一冊も角度のちがった視野のかわった嬉しさを届けてくれる。そして有り難いことに、このご馳走は体重をふやさない。ただ視力にはこたえる。
2007 4・4 67
* 歌舞伎座の夜の部は、すべて予想通り。
『実盛物語』は後年の加賀篠原の実盛最期までをきちんと視野に入れた手際もむまとまりも佳い歌舞伎で、当代断然の立役者仁左衛門がすっきりと丈高い実盛を小気味よく演じ、孫である千之助を天晴れ手塚光盛に仕立てて一緒に乗馬の晴れやかさ、こころよい歌舞伎で楽しませまたほろっともさせる。
源氏の白旗を死守した母小万を秀太郎が献身的に演じ、じつは小万の父瀬尾という儲け役を、坂東弥十郎が堂々と演じ振舞い、幼い孫の手塚太郎に討たれて、後の木曽義仲股肱の臣たる「初手柄」にさせてやる。その義仲は、つい今し方、亡き源義賢の未亡人葵御前(魁春)のお腹に生まれたばかりなのである。
亀蔵も家橘もそつなく、まちがいのないきちんとした舞台で、仁左の魅力は花満開の美しさ。
二代目中村錦之助襲名の「口上」は、親族方の上席に播磨屋中村吉右衛門や兄中村時蔵。後見役は中村富十郎で大きく決まり、列座は中村雀右衛門、中村芝翫、それに松嶋屋三兄弟など賑々しく。錦之助という名前が晴れやか。妻の誕生日にうまくはまっておめでたい。
そして夜食は「吉兆」で、献立よく、少し乾杯。
その錦之助にうまくくあてがった狂言が、『双蝶々』の「角力場」。なよなよとした二枚目の若旦那と、天下の大関取り濡髪長五郎(冨十郎)に挑む素人角力の放駒長吉と二役。新・錦之助、これをなかなか気前よくやってのけ、危なげなく新鮮であった。
「角力場」はおもしろい場面で歌舞伎味も濃く、さすがに師匠冨十郎にがっちり演じて貰えて、弟子の錦之助、眦を決する意気があった。不安なかった。
大切りは、待ってました中村勘三郎の『魚屋宗五郎』で、出色の女房時蔵とともに勘三郎芝居を堪能させた。
一人の妹を奉公させた屋敷の主君に斬り捨てられたうらみを泥酔しながら盛り上げ、ついに屋敷へ駆け込んで行く強い流れを、中村屋は、息をのばさず集中して、眼光に、魅力の芝居を表してみせた。ま、中村屋だものという安心な期待があり、期待を決して裏切らない愛すべき役者なのである勘九郎、じゃなかった勘三郎は。
勘太郎も七之助もそれなりに熱演した。片岡我當がかれらしい役どころの温厚で賢明な家老職を丁寧に演じ、新・錦之助は綺麗な綺麗な殿様役。
満足して劇場をあとに、そのままクラブに入り、サービスのお祝いシャンパン、そして例のブランデー。妻が自祝の気持ちで18年ものの「山崎」を買ってくれた。クラブ年度替わりのサービス品に佳い赤ワイン一本をうけとって、電車に揺られ持ち帰った。電車ではわたしは『宇宙誌』を、妻は猪瀬直樹著太宰治論の『ピカレスク』に熱中。
2007 4・5 67
* 作業がぐっと進んだ。あと五日かけて、全部とは行かないまでも九割がた発送用意は仕上がるだろう。
午前中作業の片手間に、デニス・クエイドの『ドラゴン伝説』を、午後は植木等のばかばかしい映画を聞き流しにし、つづいて、今も連続ドラマ「ER」に出ているインド人女優が主演の『ベッヵムに恋して』をちらちら観ていた。
晩には、イングリット・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという豪華版で、『さよならをもう一度』をとくと楽しんだ。画面で四十歳というバーグマンの美しい悩ましさ、愛の歓びと哀しみ。幸福であることの、女にも男にも共通の難しさ。なかなか綺麗につくっていた。
ゆっくり湯につかって、『宇宙誌』『世界の歴史』を楽しみ読んだ。
2007 4・7 67
* 早く床を出た。夜前もおそかったので眠気ものこるが、書庫の上でチューリップが二十ほど横に並んで咲きそろい、日射しもここちよい黄金色なので、そのまま朝の血糖値をはかった、106。良い値だ。昨日は95だった。
『太平記』全四巻の二巻めに入った。なかみたっぷりで音読のし甲斐がある。読んでいてこころよい「文学の音楽」を堪能できる。いよいよ建武の親政を迎えようとしている。
子供の頃は、何が何でも「青葉しげれる桜井の」と高唱していた。正成一族の忠にみちびかれて後醍醐天皇をついつい尊崇していたが、成長するに従いわたしのなかに此の天皇への物足りなさ、不信とまで謂わぬにせよ不審が募っていった。
太平記をもう読んでいたわけでない、が、父の蔵書の通信教育教科書らしき『日本国史』を、綴じがバラバラになるほど熟読し、祖父の蔵書の『神皇正統記』や『啓蒙日本外史』にとりついたりしているうちに、後醍醐をはじめ南北朝時代の大勢をみな何となく「あかんやっちゃなあ」「あかんやつばっかりや」と想うようになった。
「あかんやつ」の意味には、じれったい、はがゆい、惜しい意味もあれば、なさけない、いやらしい、好かない意味もあった。要するにこの世界の芯にいた後醍醐天皇に敦厚の「徳」を感じられないのが問題だった。正成や義貞や名和長年や菊池の一党や北畠らが、わたしには可哀想に想われた。
武家社会をおもえば尊氏らの意向は汲めたけれど、京都からの視線で謂えば、大塔宮がはやくに足利高氏の台頭を警戒して軍勢を手放そうとしなかった気持ちが分かった。はては鎌倉の牢で直義に殺される護良親王という人は、よきにつけあしきにつけ此の時代を左右した一人のキーパーソンのように想われていた。
* 昨日から思い立ち、鈴木大拙の『無心ということ』も音読し始めた。講演速記なので音読の方が胸に落ちやすい。
* 『イルスの竪琴』は、狼王ハルの特訓で、モルゴンが心の奥までひらいたりとじたり、また他者の心の奥まで分け入ったり、さらには極寒の森をはせめぐる大鹿に身を変える術などを周到に身につけ、いよいよ世界の奥の奥まで、根源の「違和」の因をさぐりにまた旅立つところへ来ている。
形容詞も動詞も見たこともないような英語がいっぱいで難渋するが、本文に眼をこすりつけるほどこまごまと読んで行くので、翻訳本をおもしろさに任せて読み流して行くのとは比べものにならないほど、作の世界と意図とに密着できる。
2007 4・8 67
* 鈴木大拙の角川文庫『無心ということ』を音読していて、さすがにバグワンの話と符合することの豊かさ、嬉しくなる。大拙さんは禅人であり、しかし念仏の妙好人にも理解の深い世界的に著名な深い深い境地の宗教者であった。
その大拙さんが、宗教の極地は「畢竟浄の受容性」にあるというのは当然至極で、バグワンも常にそれを「女性性」に喩えている。帰依とか、バグワン独特の語彙でいえば「降参」や「明け渡し」などもそうだ。
我=エゴを完全に落とせずに無心とか空とかは、ありえない。努力したり、自意識で強いたり、理に落ちれば、無用の知識も割り込んできて、「本性清浄の受容」のあり得るわけがない。宗教性にふれるもっとも基本の理解は、これ。
バグワンはそういう我執=エゴの根底を「心」と睨んで徹底批判するが、大拙さんも、アッシジの聖フランシスの言葉をかりながら、「今のキリスト教者(= 宗教者)はみんな<心>がありすぎて困る」と言い、この先はわれわれへの出題のように読めばいいが、「死人のように、死んだ人のように、死骸のようにならないと駄目だ」と。
「死骸になれば、どこかにもって行って、立てておけばそのままに立っている。しかし推し倒せばまたそのまま倒れる、そのままになっている。人が何を言っても怒りもしない、笑いもしない」と。
また聖ロヨラの言葉を借りてこうも話している。「今、神様が出て来て、そこの海辺にある、櫂もない帆もない捨小舟、それに乗って大海に出よと命ぜられるなら、即座に出てゆく。なんら躊躇することをしない。後は神のままにされて動く、波間に沈むなら沈む、大洋に浮かび出るなら浮かび出る、どこへどうなるかわからぬが、それでよいというのです。宗教生活にはそういうところがあるのです」と。
「ところが、困るのは人間には分別意識(心)というものがある。知識というものがある、そうして何かにつけて理屈をつけたがる、そこから始末におえぬということが出て来る。」「宗教には、何のかんのと、理論はこうだとか、論理はそうでないとか、そういうことを言わぬところがあるのです」と。
* カソリックの教会が歴史的にやってきた教義の穿鑿や儀式化が、みな、それだ。南都の仏教も、天台・真言も、念仏ですらも同じようなことをやってきた。
バグワンはいかなる宗教宗派にも属さず、ひろく見渡してかつ端的に宗教性を抱いた人間の深い安心と無心とを語り続けてきた。わたしはただただ聴き続けてきた。あたりまえな話だが、大拙さんもしかり、優れた達者・覚者は、究極するところ同じ境地にいておなじ理解を語ってくれる。そう分かってくる嬉しさは喩えようもない。
2007 4・11 67
* 相当昔の難儀な文語訳で『旧約聖書』を読みついできて、ソロモン王の時代に達しているが、『千夜一夜物語』を読んでいて、アラーなみにその「ソロモン王」を尊崇きわまりなきものとする説話にも遭遇する。聖書読みのなにか適切な手引がないかなあと願望していたところ、昨日隣棟の書庫をのぞいているうち、かなり本格かつ浩瀚の『総説旧約聖書』が買ってあったのを見つけた。『聖書学』は伝統的に「緒論」や「神学」など三部門に大別されて研究されるという。その「緒論」は聖書世界に入って行くに不可欠の地ならしをしてくれている筈。こんな良い本が在ったんだと、今までの宝の持ち腐れをすこし悔いた。ま、それはよい。有り難い。
『オデュッセイ』も見つけた。わりと親切に各頁に注のついているのが有り難い。何度か途中までも行かずに投げていたが、今度はたぶん通読するだろう。もともと神話伝説や幻想世界ものには心親しみ多く触れていて、『オデュッセイ』も日本語訳になじめていたらもっと早くに親しんだに違いない。同じことはゲーテにも言えた。訳に親しめないので『ファウスト』にも永くはねつけられていた。読みたい『ヘルマンとドロテア』などもそれで読み通せていない。
翻訳は語学力だけではダメ。日本語が美しく正しく書けない訳者につきあたると、あたら泰西の名作も、一生の不作になってしまう。 2007 4・12 67
* 大拙さんとバグワンとをあわせ読んでいると、覚者の「覚」たるゆえんがレンズの焦点を一つに結ぶかのように、みごと重なり合うから感動する。ことばは異なってもまったく同じことが話されている。
もし異なる点を謂うなら、大拙は宗教を語って「信」を口にしている。講演の聴衆が主として真宗の僧侶たちらしいからそれが話題になるのだろう。
バグワンは宗教性をたいせつに語るが、めったに「信」の一字に言い及ばない。無や空を謂いつつ、大拙のいわゆる「本性清浄」を話してくれる。何かを信じて救われようと謂うところからバグワンは離れているし、たぶん禅人である大拙もそうだろうと推測できる。わたしの言葉でいえば「抱き柱」を彼らは抱かない。抱けば「抱く」「抱きつく」という「我」がのこる。のこれば信は全うできないのではないか。大拙の謂う信には、抱きつけ、縋れと謂うニュアンスはない。そういう我は一切なく、帰依し、基督者のよく口にする「みこころのままに」にある、あれる、かどうか、だ。
* 只管打座(しかんたざ)と禅の人は謂う。ひたすら座って居よと。アッシジのフランシスの、心が邪魔をする、死骸かのように在るがいいというのは、それだろう。死骸はなにもサマをしない。良い格好をしようなどとしない。大拙はこれを生き物の猫にたとえて謂うている。
猫はなにをされても超然として、されてよし、されなくてよし、在るも去るも何に構うという気もなく在る。人間はああは行かない生き物だが、そういう生き物のママで宗教の境地には至れるものでないと。
バグワンもまるで一枚の紙に裏貼りするように同じことを話している。このとうてい渡れそうもない白道を、渡れば向こうは「彼岸」だなどといちいち言う人間は、学者であって、すべてを受動的に明け渡している者はそんな理屈は言わずに、ただ渡って行く。渡れてしまう。つまり「摩訶不思議」とはそれだと、大拙はさらりと話している。
2007 4・13 67
* 近日、ひときわ胸をうった作物に、俳誌「安良多麻」を主催される奥田杏牛さんの編まれた『奥田道子遺句集 さくら』がある。
七十句ほどの小冊の文庫本であるが、吟じてみて、境涯のいかにも俳句にしっくりなじんで、語の斡旋の淳にして瀟洒なこと、舌を巻いて全句共感した。奥田主宰が雑誌を編まれる傍らで、数年前から夫君に強いられるようにして「埋め草」なみに作句されたものというが、信じがたいほどの純熟。まず、俳句の集にふれて、こんな思いの恵まれることは希有である。享年八十三。ご冥福を心より祈りつつ、もっと読みたかったと歎かれる。
杏牛さんにお願いして「e-文庫・湖(umi)」に戴きたいと思う。
* 今は『宇宙誌』にいかれてしまっていて、感想を書きたくて仕方なくても、あまりにこっちがたわいないので、書くにも書けない。
ずうっと『世界の歴史』を読み継いできて、今は清国の歴史を追っているが、『宇宙誌』の一冊は、それがそのまま実に内容の豊富な「また一面の世界史」を、ないし「人類史」を、「精神史」を、「科学史むを成していて、地が雨を吸い込むように頭に入ってくる。
読みながら、それでどうしょう、こうしょうなどという功名心は何も無いのだから、純然読書が楽しい。これが頭に入ってきたおかげで、文学・藝術も、政治も風俗も文化も、自然も、まるで色彩のかわった視野や視角で捉えられてくる。新鮮な体験がからだの奥の方で不思議な歌をうたっている。その気持ちは、「嬉しい」ということばで表すのがいちばん近いようだ。
2007 4・20 67
* 昨夜遅く遅く、松井孝典著『宇宙誌』を読み上げた。最後の最後へきて、少し身震いするほど感銘を受けた。今年になって読んだ本の中で、ツヴァイクの『メリー・スチュアート』露伴の『連環記』とともに、こんなに熱中した本はない。前の二冊は少なくとも以前に洗礼をうけているが、今回の『宇宙誌』は初めて。書店で題を目にとめても買っていない。
ツヴァイクもそうだったが、「鳶」さんの贈り物だった。感謝、感謝。
こんなに猛烈に惹き込まれるとは思わなかった。わたしのなかに、まだ相当な好奇心が、新鮮な驚きを歓迎する気持ちが、残っているらしい、有り難い。本が傍線で真っ赤になってしまった、浴室でも愛読したので少し湯気にも当たった。見つけたら、白い本を買い足そうと思う。建日子にもぜひ読んでほしい。きっと役立つだろう、彼には。
世界観とか人間観とかいうが、すくなくとも一つの基盤にこの本が教えてくれた一切が在ると無いとでは、厚みが違ってくる。
もとより文系の文系人が理系の最先端知識に驚嘆しているのだから、東工大の学生諸君には笑われるかもしれないが、宇宙が一秒に何万キロも膨張しているとか、ビッグバンとか、宇宙の始原のかたちはわずか一センチほどの球とか、時空間が歪んでいるとか、そのために事実はまっすぐ走っている惑星が円軌道のように見えるとか、実はこの手の新知識はむしろ驚けばしまいなのだが、宇宙観と人間観との必然に向き合い重なり合い、そこに哲学や宗教や機械の問題がしのぎを削るように「歴史」を作り上げてきたこと、そして宇宙がかくある「何故」の本質に、「命=人間」をかくあらしめるためであったろうという究極の見解が、優れた科学者たちの精神からわき起こってきているという結びには、魂を揺すられた。
この本は、絶対にキワモノでなく、それどころか優れてみごとな啓蒙の力量をそなえた筆者による、懇切な、まるで「私向け」かと思うほど親切に書かれた本である。興味や関心を宇宙に持つ人なら、だれでも読む気で読み切れるだろう。
* そしてまた読み始めているホメロスの『オデュッセイ』の、読み出せばこんなに面白いものであったのかと、今にして迂闊に久しいミス・チャンスを恨んでいる。
いまから女神アテネの助力を得ながら、帰らぬ父オデュッセイを息子テレマコスが捜索の船出。彼の家では、無道な求婚者たちが、オデュッセイの妻、テレマコスの母に婚儀を迫っている。テレマコスの船出は一年の猶予をえての賭の冒険になるのだろう。
この読書の思い立ちも、「鳶」さんの贈り物であったカッスラーの読み物『オデュッセイの脅威を暴け』が引き金になった。
さらに同じ人の贈り物である『ドン・キホーテ』も興深く読み進んでいる。
* 昨夜ほとんど眠れなかった、至極の読書にもう二つを少なくも加えねばならない。
一つは、『旧約聖書』を読み進めるのに、あまりにわたしに旧約世界への予備知識が乏しすぎると思い、幸い書架にあった『総説旧約聖書』という研究書を読み始めているのだが、おかげで地理・地勢も、旧約の編成も分かってきたし、「モーセ五書」の成り立ちに対する研究史を、いま、ことこまかに読んでいって、ああなるほどと道を開かれるうれしさ、つい時間をかけた。やはり本が真っ赤になってゆく。
もう一つは、これまた「鳶」さんが贈ってくれたマキリップの『イルスの竪琴』三巻の英語本、その第一巻『星を帯びし者』を逐一英語をおって読んでゆく深呼吸での感慨、面白さ。一度電気を消しても、またつけて読み継ぎたくなる。とても翻訳本を読むのとでは頭にしみとおる密度がちがい、面白さもちがうのだ。
* もう一つは、清国が、いよいよ太平天国の大乱に見舞われる。この巻の担当筆者のザクリザクリと中国、その歴史と文化と中国人を解剖し論評する角度も切れ味も、とほうもなく興味をそそるのである。
中国人は、所詮「福禄寿」だと説かれて、たしかに飛び上がりそうに教えられる。また、ここで触れなおしたい。
* そんな按配で、いま、眠い。風強く、戸外は明るい。「雄」くんの日記がおもしろいだけでなく、考えさせられた。
2007 4・22 67
* 夜前も三時頃まで、いくつもの本に読みふけっていた。読み散らしているのではない
2007 4・23 67
* 一日読まざれば肌垢を生ずというが、読むから垢が生えることもあると徳田秋声は金釘の字で全集の扉に書いている。もっともそうな警句である。もし読書が知識と野心への欲にのみこびりついていれば、秋声の言はほとんど正しいであろう。
読書が無心に楽しく嬉しく、あたかも書物でもって心地よいシャワーを浴びている、そういうわたしの場合のような読書は、垢を洗い流すのである。洗垢。そういう楽しさを知るようになって、わたしはこだわりなく本を喜んで読んで読む。垢を洗うシャワーのように、だ。
* 亡き純文学作家島尾敏雄の孫娘にあたる島尾まほさんの著書を、お父さんの伸三氏に頂戴した。伸三氏も作家で写真家、奥さんも写真家、まほさんは作家で、若い美術家でもある。若い人が活躍するのははたで見ていてうれしい。その人が謙遜で勉強家であればなおさら。
松たか子さんのエッセイ集を読んでいた。のびやかに語り、謙虚。
2007 4・24 67
* 大関琴欧州のような男と飛行機で旅している夢をみていたらしい。もう思い出せない。
* 夜前は、島尾まほのエッセイ集をきもちよく読んだあとは、マキリップの英語だけで済ませ、寝入った。脚には寝てやるのがいいような気がした。
まほさんのエッセイは、二十代の半ば前ぐらいで書かれているようだが、のびやかに、佶屈感のないこころよい文体で、筆者の佳い「人」が溢れ流れ出て読み手を誘う。プロのにおいもアマのにおいも抜けたすてきな才能だなと舌をまく思いで楽しんだ。同じ今、松たか子の『松のひとりごと』にも似た感触を覚えている。もう松たか子には、想の起こし方に「書いている」という意識がくっついているが。
2007 4・28 67
* 島尾まほの『まほちゃんの家』を夜を徹するようにして読み上げた。この「文藝」、端倪すべからざる技倆を発揮し、全編を通して、いつしれず一人の少女の内・外そして家庭・家族・身辺を立体的に浮き彫りに。
しかも柔らかく温かく、かつ批評的。作者の存在感をみごとに表している。
なによりも文章表現の、自然で一種独創をしめした個性の光は、魅力にみちている。かなり五月蠅いわたしもほとんど文章に苦情のもちこみようがなかった。いまプロの書き手でも、これほど簡潔に十分に意を表して新鮮な文章の書ける者がどれだけあるだろう。國の大きな顕彰をうけている著名な作家ですら、手あかにまみれた文章をとくとくと公開している時代だ。
なんだこんなものと、口調の平易を勘違いし、オトメチックな随筆と読みとばすようでは大違い、したたかな文藝・文才を示している。独自性のある、これは読ませる「私小説」を完成した作品である。びっくりした。魅了された。これを書いた作者はティーンではない。二十代の半ばにある。
* 松たか子の『松のひとりごと』はすでに少女のころから数々の舞台に主演して実力を高く広く認められた舞台女優の、ゆたかな感性と知性とが、穏やかに謙遜に内省の言葉を語り継いでいる。広い意味で「藝談」に属する好エッセイで、それなりの身構えと心構えとで高ぶらず書かれている。なまじな文人のものより内容にあや(曲折)がある。
こういう豊富な才能の静かな発語にくらべると、今日若い未熟な女流作家の、不要に挑発的で生硬な言辞などにテレビなどでふれるのは、かなり気恥ずかしい。
* 正直に告白すれば、『旧約聖書』は読み進めば進むほど、どう読んでいいのか途方に暮れていた。『総説旧約聖書』の深切な研究成果に、ことこまかに学び初めて、たいへん教わった、地理もまた文藝学的にも、こと細かに今も教わりつづけている。新約『マタイ伝』のあの冒頭の長い系図が、いまわたしの道案内の一部をしめている。そこへすらわたしは長く気づけなかった。
2007 4・30 67
* ルソーの有名な『告白』は読み始めてまだ日を経ない。ほんとうに優れて面白くなる作かどうか、まだ見当がつかない。率直に飾らずに書いていると著者は言っている。幼少の頃の記事などは整理がすぎていて、具体・具象の興味にはまだほど遠い。
* 世界史の明・清を、またインドやイスラムをやがて通り過ぎようとしている。此の巻では担当筆者がはきはきと中国ないし中国人を論評してくれ、興味をそそられた。ことに久しく久しい中国人の歴史を通じて、彼らの人生観・処世観を一貫して謂えば、実に「福・禄・寿」に尽きているという断案に唸らされた。
「福」とは子孫を得ること、「禄」とは地位ないし財の豊かなこと、「壽」はむろんあくなき長命の願い。じつは他に理想も思想もなにも無い、在って無きに過ぎない、「福禄寿」の満足こそが中国人には理想なのだと。徹した現実・現世の満足。
なるほど彼らの隠すに隠せない中華と覇権の姿勢は、此処に、此の願望・欲望に根ざしているのか。
中国は一貫して世界の王者の意識を捨てなかったし、今なお彼らはさの再認識の度を強めている。中国の、他国を「朝貢国」と遇して断乎変更しない中華姿勢は、徹底している。贈り物をもって礼を厚くしてくれば、応えて多くの、貢ぎ以上の下賜品を与える。それがそのまま有り難い「貿易」になるという他国と交際の仕組み。頭を下げて持ってくれば、受け入れて、それ相当のものをむしろ余分に与える。先に持ってくるのが「外夷」の朝貢國なのだ。応じて与えるのが「中国」なのだ。
中国ほど王朝は変遷変更されながら歴史的な態度を大きく変えない國は世界中他に無かったと、この世界史シリーズではどの筆者も繰り返していた。なるほどねえ。
* で、しめくくりはマキリップの『星を帯びしもの』を、夢中に読み進んでいた。この三冊本を翻訳で何度読み返してきたことか、そのつど変わりなく深々と深呼吸し感嘆・没頭してきた。だが原作の言葉で逐一読み進めて行く面白さは、いままでの読みの何倍もの迫力そして濃やかさ。英語を読むなどと謂う煩わしい真似はまずしてこなかったわたしだが、この大作を毎夜、こんなに夢中で読むとは思い寄らぬ儲けもの。
ヘドのモルゴンは、アイシグの鉱山地底深くの暗黒の中で、底知れない陰の刺客たちと死闘してきたばかり。ぞくぞくする怖さと迫力。
* そんな次第で寝もせず六時前に床から起きてしまった。戸外は澄明な朝日子にかがやきわたり、人ひとりの影もなくまだ寝静まったご近所をわたしは痛む脚をひきずりながら、しばらく、ひとまわり歩いてきた。気持ちよかった。やがて朝一番の宅急便が若いともだちからの旅の土産を届けてきた。
2007 4・30 67
* 今朝、石牟礼道子さんから「われらも終には仏なり」と副題した一冊の対話本が贈られてきた。『死を想う』と題し、死は「とっておきの最大の楽しみ」と帯に出ている。そこまで言うかとおどろくが、読んでもないと何も言えない。「いつかは浄土へ」というような願いは、無い。一片のわたしは、波。海に入れば海になる。それだけだ。それまでは嬉々と念々に死去し念々に新生したい。
2007 4・30 67
* 「世界の歴史」の『明・清』の巻を読み終え、次は第十巻、『フランス革命とナポレオン』だ、当然やがてアメリカの登場になる。近代の大きな展開。
このシリーズ、小活字で各巻五百頁を越す。少しも慌てないで一巻に数ヶ月掛けても、じっくりじっくり楽しんでいる。世界史をよく知らずに「現代」をよく理解することはとても無理。
* 夜前は、いつもの音読、バグワンと、大拙『無心ということ』、『太平記』に加えて、ルソーの『告白』それとホメロス『オデュッセイア』も音読してみた。
ルソーが、どうも、まだ、乗ってこない。
それに対し、ホメロスの面白いこと快適なこと、黙読よりひとしお身にしみてくる。声と言葉とで読むそれ自体が、嬉しくなる。ニンフのカリュプソーの愛に捉えられて、絶海の孤島をどうしてもぬけだせなかったオデュッセウスは、女神アテネらの助力でやっと脱出したものの、またポセイドンの憎しみに妨害され、大海の嵐に海へ投げ出されたがまたべつの女神に救われ、アテネにも導かれて、べつの島浜にやっとはい上がった。
オデュッセイはトロイでの戦勝からの帰国中、なぜか神ゼウスらの怒りにふれ、果てしない大海の放浪に悩まされつづけるのだが、その経路が学問的に「問題」にされている、らしい。カッスラーの現代小説の中で、その経路がどうも北アメリカの西の湾あたりに克明に推定されていて、俄然わたしは興味をもった。そんなことなら、停滞していたホメロスの読みを再開したいと。
その欲心が幸いし、訳文にもすばやく馴染んで、今は物語に真実魅されている。映画『トロイ』も役に立った。あの映画のショーン・ビーンの風貌を思い描きながら、荒波に翻弄されて運命と闘っているオデュッセイと、わたしも行をともにしている。
* 『星を帯びしもの』も深夜わたしを眠らせない。アイシグの山の地底深くで不気味な敵と闘わざるをえなかったヘドの若き領主モルゴンは、さらなる旅をエーレンスター山へと目指して、今しも出発のはなむけに、狼王ダナンから、ふとしたおりの瞑想境のためにと、いながらに「樹木」に成る術を習っている。大鹿のヴェスタに変身するよりずっと易しい、「静かに」なればいいだけだと王は言う。「あんたは成れる」とも。わたしがこの物語で最も心惹かれて羨ましいのが、此処だ。静かに一本の立木に成れる…。なんと素晴らしい境地だろう。「静かに」成れば、成れる。これは教えられる。
2007 5・2 68
* 名古屋市大の谷口さんから、脚のけがのお見舞いと、最近の研究論文数本が届いた。ありがとう。
* 明治学院大学名誉教授の粂川光樹氏の大冊、最近笠間書院から出された初の単行本『上代日本の文学と時間』も贈られてきた。医学書院に同期に入社した四人の一人で、彼は一年もするかせぬかで退社し、わたしを大いにうらやましがらせた。フエリス女学院の先生の頃に、わたしを呼んで講演させ、中華街でご馳走してくれた。のちに明治学院大に移った。この方面の研究者とは識っていた。古事記、日本書紀をつづけて音読して間もないこと、楽しみにこの大著に敬意をもって向かいたい。
医学書院で、入社してすぐわたしが主任を務めていたデスクに配置された、中島信也君(筆名・小鷹信光)の、これも早川書房刊の大冊『私のハードボイルド』も、堂々の半ば研究書の印象すらある自伝ふう歴史本であった。彼も医学書院に初出社の日を顧みてあんな情けないイヤな日はなかった、一日も早くやめたいと思ったと書いていて、あまり似ていたので笑ってしまった。
彼は徹底したハードボイルド畑の訳者・筆者で、仲間も、著書もびっくりするほど多いはず。わたしとは、ピンからキリまで方面のちがう書き手で交叉点はなかったが、共通の知人である書き手は少なくない。ペンの委員会や理事会で、彼の本に顔を出していた書き手とも何度も一緒になっている。
退社は、どっちが早かったか覚えない。中島君は会社に入るより前から、大学時代からもうその方面に地歩をもち仕事し始めていた。彼がデスクにいたちょうどその頃、わたしは昼日中東大国文の研究図書室に身を隠し、夢中で徒然草文献に読みふけっていた。その勉強から、書き下ろし長編の『慈子(斎王譜)』が生まれた。無我夢中であのころは勉強した。大学の勉強などものの数でなかった。仲間など一人もいなかった、妻のほかには。いや、編集長重役に長谷川泉がいて、わたしは、長谷川さん、あんなに忙しくてしかも森鴎外はじめ三島や川端の研究と啓蒙者として沢山な研究書・著書を持っているのだもの、自分もやれると、いつも気を張っていた。幸せな環境だったと今にして思う。
他に医学書院からは、わたしの知る限り、後輩に評論家樋口覚が出ている。先輩で上司だった畔上知時氏も優れた歌人で、何度も自著で紹介している。
2007 5・4 68
* ルソーの『告白』がだんだん面白く展開して行く。まだ彼は、少年。今の日本や世界を眺めていると、ルソーの思想は、お伽噺めく空想のように思う人が多かろう。しかし、ルソーの思想と先導なしにフランス革命が成功したとは全く思われない、思われていない。彼の思想は、人民の力を構築し爆発させるだけの素朴すぎるほどの起爆力に溢れていた。人民の、不平等格差への絶対的な怒りを彼自身が共有していた。彼は貴族でもブルジョアでも学歴人でもなかった。つらい格差に揉まれて熱烈に独学した天才的な思想家だった。体験や実践の天才でなく、直観と洞察で人間の本性を鼓舞しうる思想力をもっていた。わが日本のいまの社民党や共産党には、ルソーの確信と怒りと理論とを、ホンのかすかにも受け継いだ思想家が、完全不在。なさけない極み。土井たか子も社会党を投げ出し、失敗した。
2007 5・6 68
* 毎夜読んでいる『総説旧約聖書』は、本格大部の研究成果。わたしなどにはかなり高度にすぎた精密なものだが、例の、頁をペンで真っ赤に汚しながら食いつき、いまいわゆる冒頭「モーセ五書」の解析と諸説を読み進んでいる。同時に『旧約聖書』本文を、もうずいぶん先まで読んできて、おかげで方角も知れない曠野に、道案内がついた心地がしている。
たまたまそういうことになったのだが、もう一つ、『世界の歴史』は「フランス革命とナポレオン」を亡き桑原武夫さんの啖呵を切るような筆致で読んでいて、気がつくと、併行して読んでいるルソーの『告白』が、うまいぐあいに対になってくれている。ルソーのもだんだん面白くなっている、幾クセもある文体で述懐であるが。
今日の流行り言葉でいえば、ルソーほど、人間・社会・政治の「格差」「不平等」を心底憎んだ人はいないだろう。わたしなど、その一点でルソーの歴史的・今日的有意義を思い、日本の政治家の口へ「ルソー」をねじ込んでやりたく思う。
同じくは、『千夜一夜物語』世界にも啓蒙的な解説本があればなあと思いつつ、文庫本の各冊に詳細な「註」をも、克明に楽しんでいる。まだ半途にいる。
2007 5・12 68
* 江古田駅西の武蔵野稲荷に参ってきた。そのころから急に脚が痛み出した。
二時半、そのまま江古田駅に向かい、池袋から有楽町線で新富町までゆき、そこからタクシーに乗り三十分遅れで電子文藝館委員会に参加した。
そのあと、今日で一応総員任期切れの辞職。八人の委員が残り、近くで一夕の歓。朝からほとんど食べていなかったが、その店でもビールと焼酎のほか何もほとんど食べなかった。あと、一人で銀座から帰宅、「千夜一夜物語」を面白く。
2007 5・14 68
* 俄然、鈴木大拙が難しくなってきた、理解が届かない。ところがバグワンの方は的確に胸に響いて、ストンストンと腹に落ちてゆく。透ってゆく。沈透いてゆく。ありがたいと思う。
2007 5・14 68
* 一昨十三日、パトリシア・マキリップ『イルスの竪琴』の第一巻『THE RIDDLE-MASTER OF HED = 星を帯びし者』を原作本で読み上げた。脇明子の訳本で三百頁以上ある。いつ読み始めたか忘れているが、ほぼ一夜も欠かさず、何冊もの読書のしめくくりに、この英語を少しずつ楽しんできた。訳本で何度も読んでおり、ストーリーは頭に入っているが、細部の言語的な感銘は原作を逐一読み通してゆくことで、もっと深く密着でき、おどろきも、発見も納得もやはり原作の表現にはすごみがある。
ヘドのモルゴンは、ついにエーレンスターの奥山に「HIGH ONE」を尋ね、その玉座に、見てはならない顔をみつけて、世界もくつがえすほどの「シャウト=叫び」を放つ。深夜についにそこへわたしもたどり着き、モルゴンの叫びを聴いた。
第二巻を昨夜から読み始めた。
2007 5・15 68
* 『太平記』を読んでいた数日前、「一事一会」の四文字に出会った。注はなく、現代語に訳してある部分をみると、ごく生活的なその文字通りの意味に訳してあった。事も出来事、会もいわば会合。会得するの「会」ではなかったし、「一期」という背景も感じられなかった。もちろん、太平記は堺の茶人武野紹鴎らの時代に相当先行している。この四文字を念頭に、禅に接していたのちの紹鴎や山上宗二ら茶人たちが「一期一碗」と言いはじめたのか、さらに時代がくだって井伊直弼の「一期一会」に達したかどうか。注目していい。
2007 5・16 68
* 心嬉しいことがあった。
医学書院時代の後輩で、わたしのデスクに配属されてきた同僚中島信也君、筆名小鷹信光君が大著『ハードボイルドと私』で評論部門の推理作家協会賞を受けていた。新聞で見つけた。この著は十分それに値すると、もらったときすでに独り思っていたが、適切に実現した。推理作家協会というのはわたしには無縁世界だが、知人には大勢会員がいる。我が息子の秦建日子も現にそうであるらしいが、ペンの同僚の阿刀田氏も猪瀬氏も此の本に名前の見えていた権田萬治氏も、その他大勢が入っている。ま、仲間内、内輪の賞といえども、心ゆく心嬉しい受賞の報に胸が温かい。
2007 5・17 68
* 桶谷秀昭氏から新潮新書『人間を磨く』、小沢昭一氏からちくま文庫『色の道 商売往来(平身傾聴裏街道戦後史)』をもらった。
桶谷さんの本の帯には「人を嗤う人間になるな」とあり、小沢さんのには「真実は、陰・脇・裏にある」とあって、介添人のような役で永六輔氏の名も出ているが、全面小沢さんが「色の道」の商売人たちにインタビューしている。この人はインタビューの名人で、同様の本をもうずいぶんたくさん戴いている。貴重な資料本も含まれていた。
まずは対照的な二冊だ。「胸を打つ40(編)の深い思索」で桶谷さんの本は、ある。まだ両方少しも読んでいない、昨日に貰いたて。ありがたいというか、書庫と二軒の家屋とに溢れている本の少なくも半数は、いやもっとかも知れない、みな、人様に贈られた本。わたしは基本的な辞典、事典や、どうしてもと思う全集や古典こそ自身で揃えるが、小説単行本のたぐいは著者に戴いた本を、人と内容とを吟味して架蔵または手近に積んである。玄関にも階段にも戸棚にも床脇にも積んである。ふしぎにどこにどんな本があると覚えている。
いろんな本を、研究書、小説、詩歌、批評・評論、随筆、地誌、歴史、古典全集、古文献それに、個人全集・事典・辞典まで、久しく贈られ続けてきた。わたしがそれらをよく「読む」からであろう。わたしと人さまとのお付き合いでは、書籍の贈答が最も豊富多彩。愛着も深い。役にもたくさん立てた。よほど畑ちがいでなければ、いまわたしが必要とする程度のことは大方書庫へ入れば見当がつく。堅いのも柔らかいのも右から左へ、いろんな顔と本とが混じっていて、それもわたしの「顔」であり「世間」である。
そして日々にもらっている、いろいろなメールや手紙やメッセージも、いわば寄贈された書籍世界と、範疇としては同じ人間的な質に満たされていればこそ、わたしは敢えて此処へ遠慮しいしい置かせてもらっている、むろん聴して下さる人のものに限っているが。
人は、われ一人の思いこみでは、まず間違いなくまっさきに「自分自身」を見間違え見失う。相対化ということには、相対化なるが故に、蓋然性以上の精度は求めにくいのは知れたはなしだが、絶対化よりは誤謬に距離がもてる。根本において人は孤独で、そうあって自然当然だという想いがわたしにはある、が、それでも日常的にわたしは、自分を滑稽に絶対化しない道を歩いている。自分で眺めている自分なんて、眼をそむけないで暴くように眺めれば、ずいぶんと醜悪で、ねじけて、汚れているものだ。居直ってそれを肯定も容認もしないで、柔らかに静かに生きて死んで行けるようにするにも、わたしは大勢の人に手を貸していただきたいと願っている。
2007 5・19 68
* 十分眠らなかった。『フランス革命』が興深く、手放せなかった、一度は灯を消して寝ようとしたのだが、また灯をつけ読み始めた。桑原武夫担当のこの一巻、なまじな小説より百倍もおもしろく刺激に富んでいる。
フランス革命というとバスチーュにはじまり、ルイ十六世の処刑 王妃マリ・アントワネットの処刑、そして恐怖政治とぐらい概略は知っていても、ほぼ日を月を追うかのように推移・経過の必然を詳細に覚えていたのではない。
岩波新書で『フランス革命』を、ツヴァイクの『マリー・アントワネット』『フーシェ』を、モロワの『フランス史』を読んできたが、桑原さんの歴史としての記述のおもしろさはまた格別。
ことにロベスピエールという人材の大きさや重さを、はじめて共感ももろとも教わった。これまではへんに恐れるように名を記憶していた。ルソーを愛読した希有のこの革命家に畏敬と共感をもったのは、桑原さんの学恩である。ルソーのような、ロベスピエールのような哲学・思索・洞察・実践者を「日本」はついにもてなかった。
ルソーの『告白』も桑原武夫訳。訳がいい。夜ごとに佳境へ。全二巻の岩波文庫を読み終えたら、『エミール』よりも『社会契約論』『人間不平等論』など読んでみたい。
睡眠を奪ったもう一つは、やはり『イルスの竪琴』第二巻。英語を逐一追っていると深夜の睡魔に降参しそうなものなのに、あとをひくようにいつまでも手放せない。この物語のもう一人の主人公レーデルルという公女の魅力をこの巻では先ず追って行くのである。
『オデュッセイア』と部下たちの、神にのろわれた苦難の海行が、神話的に続いている。もっと昔に読んでおきたかった。彼ら受難の大海放浪はトロイからの帰還時のこと、せいぜいあの海域でのこととわたしは多寡をくくっていた。だが、カッスラーの読み物の中で、それがアメリカの西海岸にも至る大航海であったとつぶさに示唆されていて、俄然読んでみたくなった。読み始めると、そんな詮索を超え、やはり神話伝説のおもしろさに毎夜惹かれている。
旧約聖書は途方もなく麻のように乱脈、殺伐としている。エホバ神への契約の恐れが、その導きとともに、時に血なまぐさく続いている。この大昔の訳本では「エホバ」としてあるが「ヤハウェ」が正しいらしく、『総説旧約聖書』にしたがえばイスラエルの神の名は、古くは「エロヒーム」など今一つ二つべつのの名でも呼ばれていたそうだ。すべてわたしの初めて歩いてゆく道である。
ついでというのではないが、会社へ同期で入社した粂川光樹君の、明治学院大学名誉教授としての大著、『上代日本の文学と時間』も読み始めていて、これにも教えられる。視野をひらかれ深められている。感謝。
万葉集の全ての歌を、そして出来たら八代集の和歌をぜんぶ「音読」予定に組み入れたくなった。
そして桶谷秀昭さんの『人を磨く』も半分ほど読んだ。桶谷さんらしい。
* 読書は、わたしには今は「シャワーを浴びる」ような爽快な楽しみ。「知識という垢」はむしろ洗い流される。良い本は、ああ生きていて良かった、良かったと思わせてくれるし、そのどれもこれも直には体験できない世界。天に輝く星星を眺めているような嬉しさ。それだけで、足りている。「今・此処」がきれいに洗われ拭われ、無心を無のまま満たされる。
2007 5・21 68
* 『太平記』がおよそ成ったとき、日本の中世は太平どころか、ほど遠くなっていった。平家物語、太平記、そしてわたしはさらに応仁の乱のころへ次なる関心を重ねて行こうとしている。
* フランス革命はおびただしい恐怖政治の犠牲の血を流し続け、ロベスピエールもサン・ジュストも断頭台に果てた。彼らは「サン・キュロット(長いズボン)」のしかも小ブルジョワや農民の支持を得て、革命の完成に奮迅の努力を重ねたが、「キュロット(半ズボン)」の貴族や大ブルジョアの権力支配へ落ちついて行く歴史の流れを、阻みきれなかった。基盤が狭く薄かった。「キュロット」は多く殺戮されていたが、「サン・キュロット」の力を突き抜いてブルジョア資本主義への動向を決定的にする勢力は、「平原派」と呼ばれる中間勢力として多数残っていた。
わずか五十日後には断頭台に斃れる運命のロベスピエールら「モンテーニュ派」の巨人たちが、革命の「絶頂」として実現した「革命祭典」の演出は、それはそれは大がかりにかつ緻密な意向で構成されていた。責任編者の桑原武夫さんも謂っている、まさしくそれは近代オリンピックやまた北朝鮮の好んで行うあのマスゲームのみごとな濫觴・嚆矢というべきものであった。「恐怖政治を必要とした思想」には少数の権勢により人民大衆の支配が二度と為されてはならないという「不動の理想」が働いていた。理想は、だが、持ち堪えられない。
フランス大統領選に敗れたロワイヤル女史には、どの程度かは確認できないがこの理想が生きていたかと見受けられる。当選したサルコジ大統領は、むしろフランス革命を事実上終結させた軍政皇帝ナポレオンとブルジョア資本主義との継承意志が見て取れなくない。
2007 5・22 68
* たしかな記憶に限って言うと、ナポレオンにふれ合ったのは、『モンテクリスト伯』と『戦争と平和』で早かった。前者では、彼はひとたび敗れてのエルバ島逼塞から再起を期していた。後者ではモスクワへの侵攻と冬将軍への屈服・敗退が壮大に描かれていた。
いま「ナポレオン」を読んでいて、当時のフランスの情勢理解に資するのは『モンテクリスト伯』であって、そもそもエドモン・ダンテスが船主に依頼され雌伏のナポレオンに密かに使いしたのも、その結果ダングラールやフェルナンに密告されたのも、検事ヴィルフォールの手で冤罪のまま死の牢城に絶望的に禁獄されたのも、この検事の父が親ナポレオン派であり、王政復古に出世の望みを抱く息子はこれを王に注進するなど、微妙なところが物語の展開自体で解説されていた。なんだか懐かしくなって、またもやあの『モンテクリスト伯』が読みたくなってきた。
わたしは低俗な読み物を低俗と言い放ってはばからない頑なな男だが、それは低俗だからであって、優秀な読み物は歓迎してきた。世界的にはわたしは『モンテクリスト伯』に匹敵するなら大歓迎としている。国内的にはなかなかそれほどの大傑作には出会えないが、直木三十五の『南国太平記』には引き込まれた覚えがある。
2007 5・25 68
* よく寝た起きぬけの暫くは脚が軽いので、出来るときはつい寝坊する。
午後一番に「臻」くんが機械を見に来てくれる。晴れていて気持ちが良い。腫れていてと、機械が、さきに謂う。気持ちわるい。
夜前、思いがけず録画の映画に引き込まれて二時になり、それから本を読んだ。音読の大拙、バグワン、太平記三冊のほか、世界史とマキリップだけにして寝たが。
『ナポレオン』が政治にも天才的であったことはわかるが、その天才は彼一人の権力構成がいかに正確で強圧的であったかにあり、王政・王党を倒した「革命」精神を利しつつ、自身、世襲是認の終身第一統領から帝政へと強硬に駆け上ってゆく。彼が、国民に「自由」はいらない、「平等に扱えばいいのだ」と謂うとき、頂点に立つ彼の絶対強権下での平等にすぎなかった。
あやしげな政治屋ほど、ともすると彼の天才ぬきに、凡庸に、ナポレオンの強権支配をまねたがる。みな、そうだ。好き勝手に憲法をかえたり勝手に解釈したりしたがる。
『フランス革命とナポレオン』の経緯をていねいに見返していると、いままさに日本国民として迫られている憲法改悪へのあしどりの、隠された、いやもはや露わに露わな政権の強権意志が目に見える。ナポレオンは「宗教協約」をローマ法王と結んで、さらに強権城を守る堀を確保したが、そのローマ法王庁がとほうもない教権・強権により中世を近代へ自壊させたことはだれもが知っている。ナポレオンとローマとの一見「美しい」取引ははなはだ強度のエゴを互いに持ち合っていた。いま安倍自民が、権力志向を徐々に露わにしている創価学会系公明党と巧みに結託している。似ている。歴史的な脈絡をちゃんと得ている。おそるべし。
そして「第三身分」の我々は、またもまたも闘わねばならない、条件はなはだ悪く。
この際政権が真剣に恐れて弾圧を着々派嘗ている対象が「インターネット」にあることを、われわれ国民・私民は、絶対忘れてならない。われわれに身を守れる武器は他にない、「インターネット」しかない。他のすべては権力が握っている。マスコミをすらも。
2007 5・27 68
* 東京會舘への往復に『千夜一夜物語』第十三巻を読み終えた。このところ、ずうっとアラビヤンナイトが面白い。
* ペンの理事会、総会、理事会、懇親会に出て、懇親会の乾杯を待ちかね、乾杯だけし、さっさと帰ってきた。
「きく川」で久しぶりに鰻を食い、本を読みながら「菊正」を二合、おいしく。
2007 5・30 68
* いま、最後の仕事の打ちの一つに、E会員渡辺通枝さんの随筆を読んでいる。この人は「随筆」欄の最初の出稿者で、現在八十半ばになる。最初に原稿をもらった頃のこの人の随筆は、まだいくらかたどたどしくて表現も淡泊すぎるか説明的になりがちだった。
それがどうだろう、今回送られてきたそれぞれに短い二十編は、いわゆる「随筆」のお手本のように無垢に澄んで、表現も美しい。ほろほろと何度も優しさに泣かされもする。こんなふうに随筆は書かれる。むかしの網野菊さんや森田たまさんを思い出す。共通しているのは「生きている日々」の美しさ、人柄の無垢だ、それが読み手をしたたかに感動させる。しなやかに清いのである。
なかなか、だれも気張るものだから、または気取るものだから、とても、こんなふうに自然に具体的に書けない。佳い文章に出逢えたなあとわたしは喜んでいる。人の仁があらわれている。もう一週間もせぬ間に「ペン電子文藝館」に送り出せるだろう。
ついこの間、わたしの『初恋』もふくめていっぺんに三編を送った。その気になれば、わたしの仕事は早い。あと何人かぶんがお預かりしてある。わたしの読みと仕事を信頼してくれる人たちだ。早く済ませたい、が、慌てても仕方ない。
2007 5・31 68
* ゆうべも遅くまでたくさん本を読んで、眠い。 おもしろい録画映画があれば観て、無ければ湯につかってナポレオン凋落の経緯を読むか、千夜一夜物語の面白いあとを読み継ぐか。
『オデュッセイア』もついに「帰国」し、この先の展開が気になる。思い大判の本なので湯につかりながらは、ムリ。なんだか奇妙な味わいのルソー『告白』も、けっこう先を誘ってきている。
「日大」の谷崎話が麻疹休校で気抜けしてしまった。学生たちが何を聴きたがっているのかが分からない。
2007 5・31 68
* 日付が変わる。わたしは、これから、だ。一日の終わりに思うには妙なものだが、人の人にもつ意味や重みというのは、当然ながら変わる。
エドモン・ダンテスにおけるダングラールは、もともとエドモンに悪意を持っていた。彼が陰謀でエドモンをいやしく陥れて地位を入れ替わるのは、むしろ予想される成り行きであったが、エドモンはそこまは察してもいなかった。わたしがあの長編小説で最もイヤなやつだと思い続けてきたのはダングラールである。フェルナンにはまだ従妹メルセデスを想いエドモンを陥れたい恋情があった。恋はくせ者、彼への軽蔑はダングラールへのそれよりはうんとマイルドだった。むしろ、のちに検事総長にのしあがるヴィルフォールの、エドモンを容赦ない冤罪に陥れることで地位と権力へ平然と這い寄って、掌を返すように動き出す偽善は、はるかに軽蔑に値する。ダングラールやヴィルフォールに似た奴ばかりで、人間の世間は、上古このかた動かされてきた。肩書きと権力とのためには彼らはいつも平然と、自身の判断をすら自身で裏切る
2007 6・4 69
* 深夜三時まで、いつも以上にどの本も楽しんだが、断然『オデュッセイア』が面白くなって。オデュッセウスはついにイタケーの自分の国、自分の故郷に帰り着き、女神アテネの助力も得て我が子テーレマコスとももう再会した。いよいよ愛妻ペーネロペイアのまだそうとは知らず夫をまちこがれる我が家に入ろうとしている。物語は佳境の半ば。一気に読んでしまいたくなる。
* ルソーというのは変に捻れた陰翳を身にまとった男で、率直だ率直な告白だと繰り返し言い訳しているけれど、いくらか気味のわるい面がヌッ、ヌッと顔を出す。生涯気に病んでそれで「告白」を書く気にさせられたと言っている、或る純真無垢の少女に盗みのぬれぎぬを押しつけ自分の罪を免れ通した話など、ゾッとする、いやみったらしさ。行為もそうだが、書き方も気色が悪い。ルソーの思想家・啓蒙家としてのえらさはよく分かっているだけに、この違和感はなんとかしたいものだ。
2007 6・5 69
☆ よかった 花
脚がだいぶよくなられたようで。つづけて安静にし、もっとよくなってくださいね。
講演も、新刊入稿も終えられたとは。さっぱりしたでしょう。
お元気ですか、風。
花も、散髪してさっぱりしましたよ。
美容院が混んでいたこともあり、四時間近くかかってしまいました。
帰りしな、ホームセンターに寄ったら、健康そうなパキラが売りにでていたので、買ってきました。前から、いいのがあったら買おうと思っていました。
幹をねじったり編んだりしたものがよくあるけれど、不自然だし、ちょっと気持ち悪いですね。買ったのは、幹がまっすぐ伸びているものです。ねじってあるものに比べ、葉が、きれいにすっと伸びていましたよ。
お天気の日がつづくといいですね。風にいただくメール、いつも楽しみ。
花は、元気元気の毎日です。
* 我が家にパキラが葉を茂らせた初めは、いまはハワイで二人の子のいいお母さんになっている読者に贈られた、ガラスの鉢植えだった。植え替えをしたほどずんずん大きくなった。季節の爽やかさをはんなり送り届けて、このメール、まだ五月の薫風を抱いている。
☆ おはようございます 春
昨日の講演のお疲れはでていませんか。脚の具合はいかがですか。
今日は、近くにパリなみにクロワッサンのおいしい店があるので、そこに買い物に出かけるくらいで何の予定もありません。朝食においしいクロワッサンとエスプレッソがあるとご機嫌です。
と言いつつ、今朝の気分はかなり落ち込んでいます。新聞で小田実さんの病床インタビュー記事を読んだせいでしょう。「生きているかぎり、お元気で。それが私の気持ちだよ」……。そうですね、小田実さんに感謝を。
お元気ですか、湖。今日も一日お元気で、お幸せにお過ごしください。
お願い。もし可能なら谷崎の講演原稿を読ませてください。ホームページに載せていただいても電送していただいても。
もっとも、一番熱望しているものは「私語」全部の復活ですけれど。
☆ 梅雨入り前の晴天! ゆめ
先生、おげんきで大学に出講されたご様子、よかった! その谷崎の講義、できるものなら私も受けたいくらいです。
『湖の本エッセイ 40 愛、はるかに照らせ』は、時々ページをひらいて先生の解説を読むのを楽しみにしています。最初に『梁塵秘抄』(NHKブックス)に出会った時と同じように、先生の解説は他の本とはひと味違うな・・としみじみ思いながら・・・。
再就職の仕事は少し慣れてきましたけれども、役所の事務なのでかなり煩雑で細かく、覚えるのは案外大変です。会場の受付はネットシステムが導入されて4年になるのですけれども、まだ手動と機械が混在していて、そのため二重作業になっているからです。当節のパートとか嘱託とかというのは、給料だけのことで、仕事はしっかり正職員並みに責任を持たされます。
先日教えていただいた井上靖の「娘よ・・・」という詩、私にとっても少し胸の底が痛くなるような作品でした。演劇ワークショップのために作品を書いているとき、無意識に父との記憶の断片がエピソードとして入ってきたりして、自分でも驚くときがあります。そんなとき、好むと好まざるとにかかわらず、そこから一生逃げることはできないのだなあ、と痛感します。
梅雨入り前のひととき、どうぞおげんきでお過ごしくださいね。
* また大学に講座をもったのではない、あり得ない。その気がない。
2007 6・5 69
* ナポレオンは大西洋の孤島セントヘレナで死んだ。歴史の必然を最大限に体現した一人の人間。
* 『ナポレオン伝』の著者スタンダールは言う。桑原武夫の要約に従う。
人間が未開状態から脱するときの最初の政体は専制政治であり、それが文明の第一段階である。
貴族政治がこれにつぐ。一七八九年以前のフランス王国は、宗教的・軍事的貴族政治であった。これが第二段階。
代議政体はきわめて新しい発明で、印刷術の発見の必然的産物だが、これが第三段階である。
そして「ナポレオンは、文明の第二段階が生み出した最高のものである。」
スタンダールの目は、この天才に対する偏愛によって曇ってはいない。ナポレオンはたしかに「革命の子」でありつつも、「第二段階」を脱却しえなかった。内心つねに人民(の結集し団結する力)を恐怖していた彼は、民主主義を理解ないし実現することはできなかった。
* あのように卓越した資質をふまえて、あのようにつよい自信をもつ人間は、もともと民主主義には適しないのである。彼は平静な時代でも、「第二段階」の「名君」にはなったであろう。要するに彼は人民の政治的発言を封じておいて、しかも人民の利益を洞察し、これに満足を与えたいと考えた。そして、その方針は或る程度まで成功した。それはつまり「家父長的」ということである。そう、『世界の歴史』第十巻の桑原責任編集巻『フランス革命とナポレオン』は言う。説得される。
そして再び、凡庸で程度の低いナポレオン批判に対し、スタンダールは静かに言い切る、「俗物には、精神的とは何かということがわからない」と。
* わたしはこの巻を読み終えるよりずいぶん昔に、ソブールの『フランス革命』のほかに、『フーシェ』の評伝を読んできた。わたしが、あらゆる人間のなかで最も厭悪し軽蔑する人間の彼は最悪の代表者であり、フランス革命の全経過ですべての巨人や賢者や才能を裏切り続けて地位と権力を得たヤツである。ナポレオンが二度目の退位宣言に署名を余儀なくされたのも彼の大臣・警察長官であったフーシェの反逆ゆえであった。
* なんとこの世間には、フーシェのように狡猾に立ち回って、地位と権力と虚名へすり寄って行くヤツの多いことか。われわれの身の回りのちいさな組織においてさえ、そういうイヤな例は見られる。それの見えない目は、見ようとしないだけのことだ、阿諛であり追従である。派閥への無意識ないし意識的な追従と自己喪失が働くから見えない、いや、見ないのである。
2007 6・5 69
* 『オデュッセイア』と『イルスの竪琴』『千夜一夜物語』そして『ナポレオン』があまり面白くて、読み過ぎて、目が冴えて、やっと寝た夢には死んだ母が例になくながなが話しかけてきて。五時前に起きてしまった。
2007 6・6 69
*「怨み」を、文学の動機や主題にしてはならないと言う人が、少なくない。「怨み」がときに「愛」の変形であることも知らない、人間をよく知らない人の薄い物言いである。 「葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 怨み(=裏見)ながら恋しや」と室町小歌は謡う。
漱石『心』の「先生」は、父の遺産を奪った叔父への怨みを、決して捨てなかった。あの作品の動機の一つは「金」であり、同じ「金の怨み」を動機にした紅葉の『金色夜叉』よりも、あるいは怨みの根は深い。
大好きで無条件に受け容れてきた『モンテクリスト伯』は、怨みと復讐で大筋が山と盛り上がる。『嵐が丘』も、ま、そうである。いうまでもない「愛」がフクザツにからんでいる。そのフクザツさの質が作品を文学に育てあげる。
『心』の「先生」の金の怨みにだけは、愛はからんでいないと誰もが思うかも知れない。「お嬢さん」ははなからそんな怨みの埒外にあると見える。それでも「先生」ははじめのうち、「お嬢さん」や「奥さん」が自分の財産をねらうかと疑っていた。
それよりも、微妙なべつの「愛」が『心』に認められていい気がしている。大事なポイントだ。この小説に愛の対象は「お嬢さん」一人と読まれてきたが、ていねいによく読んで読み漏らさなければ、「先生」は遺書の中で、十七歳ごろ、生まれて初めて目の覚める思いで「女」に出会ったと告白している。まさしく原体験であった。
作者にしても「先生」にしても、よほどの原体験でなければ、わざわざ、たとえ数行にせよ書き加える必要のないさりげない筆で、だが、明らかにわざわざ書いてある。この「女」体験と、叔父への「怨み」とに或る見えない脈絡が想像できるなら、『心』という小説は、またまったく別のもう一つの物語も生み出せる。
話が逸れた。
いま夢中で読んでいるホメロスの主人公「オデュッセウス」という名前は、「怨みの子」の意義を帯びている。彼のまだ幼い頃の根の太いエピソードに由来しているが、『オデュッセイア』というこの物語そのものも、凄絶の復讐へ絞られてゆく。ペネロペイアという愛妻、テーレマコスという愛息の名誉と安全とがかかったオデュッセウスの復讐劇に盛り上がる。
「足洗い」という章がある。「オデュッセウス」の名の由来がみごとな脈絡のなかで力強く語られながら、神の配慮から落ちぶれた乞食姿のオデュッセウスは、ついに帰り着いたわが館のなかで、それと心づかぬ妻ペネロペイアと語り、帰らぬ夫を恋いこがれて待つ妻の好意で、かつての乳母から汚れた足をあらってもらう。足には隠しようのない昔の傷があり、乳母は気づき、しかし彼は固く口止めしてまだ顕すときでないと乳母をいましめる。すでに息子だけは父の帰還を知っている。だが彼らは館の中でどうしても果たしたい「怨み」の「復讐」をのこしている。「愛」ゆえに、である。消しがたい足の傷に触れて「オデュセウス」という名の由来が巧みに語られている。
* もう語りやめておく。しなくてならない、またぜひしたい仕事が「戻れ」と誘っている。おそい昼食をしてこよう。
* 夕方、疲労して、昨日もそうだったが、二時間ほど昏睡した。何をして過ごしていたのか、あっというまにもう日付が変わってしまった。
2007 6・7 69
* オデュッセウスと子のテーレマコス、忠実な豚飼いと牛飼いとは、彼らの屋敷を野放図に占拠しトロイ出征から還らぬオデュッセウスの妻ペネロペイアに無道な求婚をつづけつつ飲食にふけり続けてきた「求婚者」たちを、女神アテーネの助力をえて、完璧に復讐を遂げた。夫妻の対面は、今夜、読む。こんなに面白い叙事詩をいままで自分が未読であったとは、いっそ恥ずかしい。
2007 6・8 69
* 戦略爆撃の歴史は浅い。だがその過酷な爪痕は、ゲルニカをみても、重慶をみても、そしてわが広島・長崎をはじめとして全国津津浦浦に及んで惨憺たるものがあった。飛行機は戦争の歴史を真っ黒に塗り替えた。東京大空襲、大阪大空襲、横浜大空襲。日本にもう戦力のないことを見極めてからの容赦ない兵器実験の殺戮に航空機は使われた。小田実の『百二十八頁の新聞』と一対たらしめるべく、いまも『戦略爆撃と日本』という今井清一氏の文章を校正している。だれもが読んで記憶して戦争に反対しなければならない。
2007 6・8 69
* 『ニューオーリンズ・トライアル」という「銃」を主題の裁判映画をおもしろく二日掛けて観た。ジューン・キューザックとレイチェル・ワイズの若い二人を芯に、ダスティン・ホフマンとジーン・ハックマンの大物が対決する。銃社会を維持すべく陪審員を大がかりに監視し籠絡し勝つためには超巨額の金を動かす、その悪辣な策士社会をジーンハックマンが好演し、弁護士ホフマンも陪審員の一人キューザックと恋人レイチェルも死力を尽くす。
陪審員制度の背後にこんな闇社会がほんとうに蠢くのかどうかは知らないが、わたしは今毎夜、「アメリカ」がアメリカとして成り立ってゆく歴史を読み続けていて、頭の中でその興味が幾割かを占めている。アメリカの歴史をよく知ることは、今日を批判する前提としてほぼ絶対的に必要なこと。
世界の映画で日本で観られる多くがアメリカ製、そしてフランス映画がついでいるようだ。アメリカ製の現代映画は、どんなにくだらなくてもアメリカを証言していると思って観てきた。『勇気ある追跡』でも『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』でもそうだ。『ダーティー・ハリー』も『ランボー』も『ダイ・ハード』もむろん『マトリックス』や『アメリカン・ビューティ』もそうだ。
アメリカ史に触れて行きながら、映画好きのわたしの楽しみは色濃さを増す。
* 今井清一さんの「第二次世界大戦と戦略爆撃」は日本国土が「米軍機の初空襲」を受けるまでのまさに歴史を記述したモノで、学究の筆は感情的に激することなく、しかも事実を抉ってあまさない。小田さんが書いていた「ボアされた(注がれた)」ゼリーのようなナパーム焼夷弾の開発もきちんと説明されている。無辜の文化都市ドレスデンが米空軍の戦略爆撃により一挙に五万人の市民を焼き殺したことも、広島長崎をのぞいてなお東京、大阪、横浜などの大空襲は上回る死者を出していたことも、淡々と記述されてゆく。今井さんのお許しを請い、「ペン電子文藝館・反戦特別室」に残してゆくわたしの「思い」である。「主権在民史料」もぜひ増やしていって欲しい。
私の校正を終えた。妻にも読んで貰う。
* 望月洋子さんの中村真一郎の思い出を書いた江戸文学論もスキャンした。わたしに託されていた「ペン電子文藝館」への出稿申し出分は、あと四国の薄井八代子さんの分だけだと思ったが、薄井さんのモノは少し調整を必要としている。
2007 6・9 69
* 朝、六時頃に起きた、もう眠い。夜分すんなり、その日のうちに寝入るよう、読書の時間帯や方法を変えた方が健康に、ことに眼のために良いかと、ときどき思う。しかし明日にお構いなく夜更かしして本を好きなだけ読むというのは、老境のとっておきの楽しみでも。
2007 6・10 69
* 夜前『オデュッセイア』を読了。むろん引き続いて『イリアス』を読む。旧約聖書の『列王記』を今日明日にも読み終える。旧約・新約を読み通すのにいちばん時間がかかるだろう。しかし読み通すのが、とても楽しみ。『総説』を併読、ていねいに勉強しながらじりじりと読んでゆく。
2007 6・11 69
* 平曲の海道落と千手とに関心を寄せていた。能の熊野で母重篤を告げてくるのが、平家物語の本にもよるが、熊野の妹侍従であったとしてある。そして東海道を引かれてゆく囚われの重衡を池田宿で慰めたのが侍従となっている。ただそれだけのことであるが、ものあわれでわたしは身にしむのである。橋本敏江さんが演奏の海道落、千手、期待の好演。
2007 6・11 69
* 「江戸文学」が「誤読」の特集を送ってきた。読書とは誤読の集積である。正読というのは幾何学的に謂う線のように、概念としてのみの存在にちかい。
* 鈴木大拙の講演は「義・理」において面白いが、なにとしても仏教から語り宗門宗派から語り信心や座禅から語る。仏教学になり哲学になっている。知識または知解を求めてくる。むろん頓悟や横超や徹底や無分別や無心を語ってくれるが、マインドでの応接になってしまう。
バグワンは有りがたいことに教派や教義をいわない。わたしならわたしの苦や迷や分別を指さして厳しく語ってくれる。バグワンを聴くのにわたしは仏教徒でもジャイナ教やキリスト教や回教徒である必要がない。教義を経典により勉強せねばならないなどと彼は決して言わない、それは分別と知識とに陥って大事なところを見失うだけだと言い切る。さりとて、念仏や題目をすすめることもない。おまえはもともとブッダなのに、ただそれに気づいていない。それだけだ、夢の中にいるだけだ、めざめよ、と。抱き柱としての信心や信仰を彼は強いない。それはむしろ危ないという。
* 弱い自我しか持てないモノの方が自我を落とせやすいと考えるのは間違いだとも彼は的確に警告する。自我に徹し、そのために苦しみ抜いたモノがついに自我を一切拭い去り脱落せしめ得るだろうと謂う。この機微、怖いところだ。
* 弱い自我しか持てないモノの方が自我を落とせやすいと考えるのは間違いだとも彼は的確に警告する。自我に徹し、そのために苦しみ抜いたモノがついに自我を一切拭い去り脱落せしめ得るだろうと謂う。この機微、怖いところだ。
* わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架にならべてゆくことであったこと、そのために生活の窮迫もおそれなかったことは、何度も書いた。その第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻分配本予定だった。一人一巻には錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も収録され、さながらに近代文学史であった。わたしは作品を読む以上に数百人の著作者たちの年譜を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観をえげつなく持たせずに、作者への理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。
* こういう大全集のおしまいは「現代名作選」ということになる。鴎外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみればまだ遙か下界に近いところで頭をもたげている作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊第百五・百六巻が用意されていた。二の方が、つまり最も新しい作家たちである。
いま手近にその巻を持ち出していたので、目次を観ると、感慨に堪えない。
阿川弘之「年年歳歳」金達壽「塵芥」大田洋子「屍の街」山代巴「機織り』島尾敏雄「夢の中の日常」耕治人「指紋」埴谷雄高「虚空」井上光晴「書かれざる一章」三浦朱門「冥府山水図」西野辰吉「米系日人」杉浦明平「ノリソダ騒動記」長谷川四郎「張徳義」小島信夫「小銃」安岡章太郎「悪い仲間」吉行淳之介「驟雨」霜多正次「軍作業」松本清張「笛壺」有吉佐和子「地唄」石原慎太郎「処刑の部屋」小林勝「フォード・一九二七年」深沢七郎「楢山節考」大江健三郎「死写の奢り」開高健「パニック」城山三郎「神武崩れ」福永武彦「飛ぶ男」大原富枝「鬼のくに」で一巻が編んである。
一の方の最後が芝木好子の「青果の市」だった。昭和十六年下半期の芥川賞作品だ。つまり一の方は明治から太平洋戦争までだった。
そう思って二の方を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く文学作家たる市民権を得ていないのが分かる。
この二の発刊は昭和四十四年六月、じつにこの年この月にわたしは小説「清経入水」で第五回太宰治賞をもらっている。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしは全編読んでいる。
* たまたま手近な第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強したものだ。いま河上先生の「私の詩と真実」巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛然とする。批評が文学になってる。
もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。
* くだらない雑文ですが読んでくれるかというメッセージをもらった。よくある。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。
2007 6・14 69
* 久しぶりに朝七時の血糖値が、112。正常値。四時間と寝ていない。
相変わらず大拙、バグワン、太平記をキッチンで音読後、床に座り、ルソー、イリアス、旧約歴世記、総説旧約、アメリカ史、英語のマキリップ、そのあと小沢昭一の淫猥にアケスケな文庫本を耽読してから電灯を消した。
2007 6・16 69
* 壺井榮について書かれた会員エッセイを「ペン電子文藝館」に入稿すべく読んでいる。時代と闘い家庭と闘いなにより貧苦と弾圧と闘って『二十四の瞳』などを書いた壺井榮だ。地味な作家だがまちがいなく一時期を風靡して人気作家になった。
2007 6・18 69
* 小沢昭一さんの「平身傾聴 裏 街道戦後史」下巻の『遊びの道巡礼』を先に読んだ。けしからず面白かったが、無差別には人に奨めにくい。上巻の『色の道商売往来』を読み始めている。「ちくま文庫」はこういう本も出すようになった。亡き創業者の古田晁さんの頃なら想像もつかぬ「きわもの」めく出版だが、小沢さん一連の探索や開発には意義がある。いや意義の何のといってはかえってうさんくさくしてしまう。わたしはめっぽう面白く読んでいると、それだけでいいこと。筑摩の本音は分からない。
2007 6・18 69
* 四国の会員薄井八代子さんの『壺井榮二題 手さげ袋・花一輪』をスキャンして校正した。これは立派な仕事で、長くはないエッセイ二篇が感動させる。壺井榮のためにも心嬉しい回想で、この書き手の小説を前に二作読んできたが、上超す感銘を受けた。それぞれの首尾相応も確かで、佳い一作を「ペン電子文藝館」に加えることが出来る。薄井さんはすでに九十五歳だが現役で地元記念館の講座など担当されているという。敬服。
* 佳いものと出逢うのは、気持ちいい。
2007 6・19 69
* これまで何千と書いてきた原稿の中で「日本の色道」について頼まれたものは、われながら不出来であった。私の身内に西鶴の世之介ふうの、また平成の小沢昭一流の「色の道」は舗装されていないのだと思う。
無関心なのではない、西鶴の名作も愛読するし小沢さんの本のおそらくとても「いい読者」の一人に違いないと思う。でなければ小沢さんも次々へ本を下さるわけがない。ゆうべも、英語の小説をいいキリまで読み進んだ後に、また小沢本『色の道』にずいぶん刺激された。フウーッと真夜中に息を吐いたほど。
2007 6・20 69
* さ、今夜も本を楽しんでから寝る。ろくな夢も見ないので、起きての読書の方がいい。
2007 6・23 69
* アメリカの歴史を読むのは二度目だが、わたしの生まれた年からちょうど三百年前ぐらいが、建国の沸騰期。他の諸国とちがい何かしら歴史記述もからっとして、物珍しい。
植民地から独立戦争、合衆国へ。しかし各州の自立性も日本の府県などとは全く違っている。名に覚えの大統領が、ワシントンから何代目かまでつづく。アダムス、ジェファソンやアンドルー・ジャクソン。モンロー。ことにジャクソンのアメリカ民主主義のいかにも健康な樹立ぶりなど、好もしい。また学びたい。いまのブッシュ政治など、建国時のアメリカの理想からすると、頽廃もきわまれりという凄さ。
* ジャクソンはほとんど学校教育もまともに受けていない。大統領としての裁決に、All Correct と書くべきを Oll Korect と書いて、以来、「OK」という物言いが広まったなど、面白い。オーライより、オッケーの方に戦後児童のわたしらは馴染んできた。こんなところに語源ありきとは。
とまれかくもあれ、此のジャクソンという大統領からは、原点に返るほどに学び直したい多くがある。官僚登用における「インスポイルス・システム」と「メリット・システム」との柔らかに懸命な混用なども。
彼は、官僚には真面目でさえあれば他に特別の才能はいらない、それよりも官僚が同じ地位にしがみついて固着し、頽廃し、怠惰と犯罪に奔る方がよほど国を危うくすると考えていた。大は政府・自治体から、小は団体・組織・企業まで、まことその通りだ。勇退し退蔵する人間はきわめて少ない。とびつき、しがみつき続けたい。そして官軍きどりに威を張りたがる。とてもOKではない。醜い。
* 上尾君がイギリスにいた頃、わたしはアンドレ・モロワの『英国史』を読んでいて、彼も向こうで読んでいたようだ。いまハーバードにいる「雄」君も、在米中にアメリカの歴史をおよそ頭に入れておいてはどうかなあ。わたしが今読んでいるのは、中公文庫の第十巻ぐらいか『新大陸と太平洋』という一冊。これなら簡単に手に入るのでは。新潮文庫にたしかモロワの『米国史』もあるが、中公文庫の方が明らかに読みやすい。
2007 6・24 69
* 午後、校正しながら長々とひばりの番組を観て聴いて楽しんでいた。ゆうべ小沢昭一の『色の道』を多大の興味と満足とで読み終えたが、小沢さんが永六輔と二人三脚で熱心に追いかけてきた世界と美空ひばりの世界とはかなり膚接している。ひばりは権威や権力に背を向けながら自身で名声を築き上げた。好きな理由の一つ。ひばりは日本語を生かして歌ってくれる。大好きな理由の一つ。ひばりはわたしたちと同世代。親しめる理由の大きな一つ。わたしが死にかけたなら、構わず、ひばりのレコードを聴かせて欲しい。
「悲しき口笛」「東京キッド」「越後獅子の唄」「わたしは街の子」「リンゴ追分」「お祭りマンボ」「津軽のふるさと」「港町十三番地」「ひばりの佐渡情話」「哀愁出船」「哀愁波止場」「悲しい酒」「ある女の詩」「一本の鉛筆」「おまえに惚れた」」「愛燦燦」「みだれ髪」「川の流れのように」「城ヶ島の雨」「恋人よ」「昴」
読物小説もひばりの唄ほど日本語が美しく確かであれば許せるが。ひばりの歌う歌詞などおおかたはつまらない、けれど音楽音声としては天才的に日本語を把握し表現して決定的。
2007 6・24 69
* 小沢昭一・永六輔著『色の道商売往来』『遊びの道巡礼』は、先ずなによりインタビューおよびリライトの名著だった。出版の世間には同業の、名も定評もある何人もの編集者が棲んでいる。だがこの二人は、これが本業でないと大方の人は知っている。それが隠し味になり「名著の味」が行間・紙背ににじんでくる。そして内容。
常識を良識と心得ている人たちには「けしからん」と怒られそうだから奨めない、が、「人間なるもの」に根から興味を持っている人たちには、その興味に不可避の底荷をしっかり入れることにはなりますよと、吹聴しておく。
2007 6・25 69
* ヘレン・ミレンの『エリザベス一世』前編を観た。開幕すでにスコットランド女王メリー・スチュアートは、息子にも裏切られイングランドに幽囚の身になっていた。
この前編は、処女女王エリザベスと愛人レスター伯との、ややこしい友愛とも擬似愛ともいえる内縁を縦軸にしている。
フランスからの求婚者カソリックのアンジュー公との、彼女としては相当望ましかった結婚は、国民の反感により成らない。
司教や貴族たちの陰謀に負けたフリをして、ついに女王メリーを断首の刑に葬り、そしてスペインの無敵艦隊に勝利したのと、レスターの死とをラストシーンに、後編へ繋いだ。
ツヴァイクの希世の名著『メリー・スチュアート』やモロワの名著『英国史』を、さらに世界の歴史を熟読したあとで、この劇映画自体は、さほど賞賛できないおおざっぱな平凡作に見えたけれども、とにもかくにもわたしはこういう歴史映画はつとめて、好んで観る。
神が与えて戴冠した隣国の国王を、同じ隣国のそれも「世界一の親友、姉妹」と言い交わし書き交わしていたイングランド国王が、まんまと断頭の刑に死なしめた。これほどのドラマは空前にして絶後であったこと。その土壇場で演じたエリザベスの狡知の悲嘆は文字通りにもの凄かった、ツヴァイクの筆で。
今夜の映画は、それには遠く及ばなかったが、みものであった。 2007 6・25 69
* べつに昨日の芝居は関係ないと思うが、明け方に凄い夢を見続け、最後の最後、危機的な間際に、妻が驚いて飛び起きたほど「シャウト(叫び)」を放った。
魔は退散し、負けずに免れたと自覚して、そのまままた寝入った。
夢は、不連続に連続して長かった。
最初、何人かでまとまって或る金融機関との交渉があり、折衝は危うくなにもかもご破算にされそうな詐欺まがい。のこり限られたごく短い時間で家に帰って相当な金額をまた持ってこなくてはならぬハメにあった。
豪雨の中びしょぬれで家(現実の我が家と違っていた)に駆け戻ったところ、外囲いから、出入り口への横長な前庭が、背丈も及ばぬ草に充ち満ちていて、水の底を游ぐように掻き分けて行かねばならなかった。
夢はとぎれて、
気がつくと、見渡しのひろい街中であった。が、何故か、あっちでもこっちでも、どこでもかしこでも、みな人は駆け足でどこかへ急いでいた。わたしは自分がどこへ行こうとしているのか、走り出すべきかどうか、判断できなかった。
また気がつくと、四角にひろびろとした田舎の、右下から右脇へ通ってゆくだらだら坂を、すぐ先を行く一人の背を追ってわたしは歩いていた。その人はペンの委員会で前から副委員長の、今度も副委員長の某氏であった、わたしは追いついて何か彼に訊こうとしていたようだ、が、ろくに会話もせず夢がとぎれて、あらま、道連れは中村吉右衛門に似ていた。四角いひろやかな田舎の景色は同じで、自分の家がこの景色の中にありそうで無いのが、小じれったかった。わたしは吉右衛門ににた背の高い男にもたれかかって、自分の家が見つからないと言うと、彼は笑って、あるいはにやりと嗤って、あっちだとあごを振って言った。
あっちとは、まるで壁一枚の裏側をでも謂うくちぶりで、ワーンと舞台がまわるように目の前が「あっち」に変わったが、この「あっち」は、もう広やかな田舎風情ではなかった。広くはあるが巨大な地下へ口を開けた、堅苦しい大廊下に似た感じのハイウエイ入口のようであった。連れの狐のような剽悍な男は、はやすでに道の先へ一目散にかけこんで姿を消していた。くらい大廊下のようなハイウエイのような、地下へ潜ってゆくと見えた大トンネルが、実は、びっしり立ち並んだ赤黒い鳥居のとんねるだったとわたしは気がついた。
わたしは京のお稲荷山にかかった果てしない鳥居のトンネルが、昔から怖い、嫌いだ、ものの数分も行くと肌に粟立ちはあはあ息を吐いて外へ逸れて出る。参ったなと思うひまもあらばこそ、だが、もうわたしは吸い込まれていた。決心してわたしはその赤い闇の穴へ我から吶喊し、両足を前に勢い猛に滑り込んだのだ。凄い速度で、暗やみの底をわたしは一個の紡錘のように身を保ち、奔り抜け奔り脱け、幾曲がりも奔り続けて、明るい日の下の水錆びた汚い水たまりに、池に、投げ込まれていた。いやらしい池であった。水面にやっと顔をだすと、岩や石の池のふちに、ちいさな子供たちがいて、可愛げなくわたしを思い切り嘲り、嗤い、みな人の子の顔をしていたがじつは気味悪い狐たちだった。やっと池から這いあがった。そしてこれは記憶が不確かだが、なんでも池の縁のやや小高く岩や石を積んだ胸の辺に赤い一つかみの袋がひっかかっていて、それをどうしても手に入れないとわたしは助からないのであった。
ところが、小高いその岩山の上蔭から、一人の中年女のまっちろい平たい顔一つが、無表情にも、侮り脅すうにも、しらーっとした顔だけでわたしを睨んで待ち迎えていた。見るもおそろしい顔、頭髪が蛇でないのがもうけもので、その人の顔した顔も人間でなしに、まぎれない実は劫を経た白狐だった。わたしは、だが、子狐たちに邪慳に邪魔されながら、どうあっても手に入れたい赤い袋へ、じりじりと足場悪く近づいた。しかし女の無表情にこわい顔もわたしに近づいてきて怖さ限りなかった。
わたしは、されでも頑張った。向こうの手が遮るのとわたしがとびついて手に掴むのと同時、わたしは瞬時に手触りというものの感じられない赤い袋をつかみ取るとたちまち女は形相を変えた。なにか紫色とも青黒いとも先の曲がった太い枝さきをわたしへもの恐ろしく突きつけてきた、わたしは激しく「シャウト」し、はげしく池水に落ちた。水に藻掻きながら負けなかったぞとわたしは思い思い夢の外へぽかりと出た。五体がなんだかボテーっと太って感じられながら、また引きずられるように眠気に落ちていった。
* 夢は夢にすぎない、わたしは囚われない。英語で読んでいる『イルスの竪琴』でいまヘドのモルゴン、星を帯びし者は、エーレンスターの山奥、High One の宮殿ではげしくシャウトしたまま行方知れなくなっている。婚約者のレーデルルや友のライラや妹のトリスタンらがエーレンスター山へ向かおうとしている。世界は、たががはずれたように乱れ始めている。多くが憂い、魔は蠢いている。
そんな読書の影がわたしの夢にもこう伸びたのか。
2007 6・29 69
* 秦の祖父の箪笥や長持に沢山な漢籍があった。ごついのは辞典・事典の類となぜか韓非子の立派に装幀した「枕」ほどの本があった。兜虫の肌色した、なかみは知らないが本の姿や色に圧倒され尊敬した。和綴じの本も小さな文庫ふうのもあり、和綴じの唐詩選五冊と文庫の白楽天詩鈔は子供ごころに最も親しめた。
白詩に接していたことが、わたしを創作生活へと長い期間掛けて押し出した。反戦詩の『新豊折臂翁』を繰り返し読んでいなかったら、あの六十年安保の年にしきりに小説が書きたいとは、また三十七年七月末突如として処女作『或る折臂翁の死』を書き出しはしなかったろう。
漢詩や漢文にはひょつとすると和文の古典より早くに心惹かれていたのではなかったか。白詩だけでなく唐詩の絶句など、よく朗唱した。さすがに漢文はらくに読めるわけがなかったが、同じ蔵書の中の頼氏による訓みくだしの『通俗日本外史』という大冊がわたしのお気に入りの朗読本であったし、おそらくその感化はわたしの文体に相当色濃く残っているのではないか。
久しく漢詩や漢文に遠ざかっていた、が、近年、興膳宏さんの本を重ね重ね頂戴し始めてからまた昔の好みを思い出しかけている。京大教授から京都博物館の館長を務められていた興膳さんは中国文学者。「湖の本」を介してこういう方とご縁の出来るのがわたしの嬉しい余禄というもの。いまも氏の著書を毎晩の読書に加えて、本を赤い傍線でたくさん汚している。
2007 6・30 69
* 加茂といえば、一つには当尾を思い出すが、今ひとつは後醍醐の笠置蒙塵、そして楠木正成。と、なると今も毎夜欠かさず音読している『太平記』に行き着く。全四巻本の二巻目の半分まですすみ、新田義貞、北畠顕家ら官軍は今しも三井寺を攻めている。天皇は比叡山に隠れ、都は逆徒にして征夷大将軍の足利尊氏が占拠。ここで尊氏は情勢を見失って、やがて西国へ遁れゆかねばならないだろう。
この膨大な大冊はとても黙読では読み切れない。音読すると快調、いささか陰惨で平家物語とはだいぶ意趣であるにせよ、たいした名文である。昔の人はこんな文章を暗誦しては型にはまった美文を書きたがった、その誘惑に嵌って得意だった連中はぜんぶダメになったのである。露伴のように、自身の偉大な文体を創出しなければ文学には所詮成らない。
2007 6・30 69
* 『オデュッセイア』もしかり『イリオス』ではことにしかり、神々の人事に干渉してさながら遊戯のごとき観のあるのに、聞き識っていた事ながら、かなり呆れてさえいる。映画の『トロイ』は明らかに『イリオス』の映画化と思われるが、あそこでは神々の恣なチョッカイをぜんぶ拭い去って、人間である英雄たちの物語に創っていたのに今更に気づく。
ギリシァでは、神と人との共在と交感と共演が、つまりは人間の運命を為している。ふつうは神の意志や行為はまた戯れや怒りは目に見えないのだが、ホメロスの叙事詩ではみな見えているところが、妙に卓越した感じを与えるのだから面白い。
* 『旧約』の「歴代志略上」で、いま、ダビデによるヤハウェ(わたしの本ではエホバになっている。)への傾倒と帰依・称賛が語られている。そして『総説』では「士師」であり預言者であるサムエルにより、イスラエルに初の王サウルが立つにいたる意味が解説されている。『総説』を併読し始めて『旧約聖書』世界が構造的にも地理的にも歴史的にもよほど明瞭にあたまに収まってきた。
* 南北戦争の、さながら犠牲となり、アメリカ合衆国を守り民主主義を守りぬいた第一等の大統領リンカーンが、一俳優の凶弾に斃れた。「南北戦争」の経緯・推移、じつに興味深く一気にみな読み通した。建国後、ワシントン、ジェファソン、それにジャクソニアン・デモクラシーのアンドルー・ジャクソンら何人もの優れた大統領に恵まれた若きアメリカの幸運を思う。
リンカーンらとくらべるなど噴飯ものとはいえ、我が国いまの総理大臣の人と政治の紙より薄く低級なことよ。彼は日本を、国民を、ドブに捨てる気か。「人民による、人民のための、人民の政治を地上から絶滅させないため」に安倍自民党政権は何もしていない。その真っ逆さま強行している、あざとい欺瞞の言葉で。
2007 7・1 70
* 夕食後、しばらく昏睡。起きて浴室で、アメリカ史、南北戦争後の、リンカーン暗殺後の、アメリカ史上「再建の時代」といわれた困難な、乱脈な数十年に読みふけった。戦争では大健闘したが大統領としては暗愚であったグラントら凡庸な指導者がつづいたのも不幸であったが、北部の利に固執する共和党と、南部の白人支配に固執する民主党との軋轢も、奴隷制廃止後の黒人問題で混乱を招きに招いていた。だんだんと、今日の日本の与党政治の党利党略に先駆していたようでなさけなく、目前日本の民主主義政治の、いかに脆弱で未熟であるかを、ふつふつと思い知らされた。
2007 7・1 70
* 手近な倉田百三の本を手に『愛と認識との出発』の冒頭を読み始めて、往時渺茫、この本を熱心に教室ですすめた社会科の先生を思い出していた。この先生は「現代社会」の試験でついにわたしに百点以外の点を出さない人であったが、いささかの詩人でもあった。わたしは倉田百三では戯曲『出家とその弟子』のほかは多く読まずに通過した。『愛と認識との出発』に感激するには、わたしの側にもうべつの価値観がうまれていて、泉山来迎院の縁側に寝そべりながら、こんな家に「好きな人をおいて通いたい」などと想いふけっていた。百三はわたしには真面目すぎた。今の思いで謂えば思弁過多であり、バグワンの言葉で謂えばあまりに「マインド」の人であった。マインドが堂々めぐりしていた。
* いま、近くも同じ思いを鈴木大拙の『無心ということ』を読みながら感じている、百三の感傷とは大いに違うにしても、大拙さんの説くところ、結局「哲学」なのである。論理的に無心を語るのであるから真の無心にはとうてい近寄れない。理で無心を捌いている。大拙さんである、透徹しておられるに相違ないが、言葉になると、もちゃもちゃと持って回った論説なのである。哲学なのである。「なんだかワケがわからないであろうが」ともののとじめごとに謂われる、それだけが納得できる。
バグワンは論説しないで「直指」してくれる。彼は「気付け、覚めよ」とはいうが思弁や考慮や哲学は否認する。遠ざける。そんなものどれほど積み上げても徹到・透過の邪魔にしか成らないと言う。わたしもそう感じている。
* 国木田独歩の「山林に自由存す」という詩を読んだのも高校の頃、ひょっとして教科書であったろう。わたしはこういう言葉もあまり実感にならなかった。「市隠」という語を望ましく知った・覚えたのはもっと後年にしても、市街をのがれて山林に隠れたい者には「自由」は分からないであろう、「山林での自由」は変形した自我の執着にちかかろうと思った。バグワンもおなじことを言う。
* 悟りを求めて修行だの苦行だのということを「必要」と考えてしていても、しょせん透徹することは難しいのではないか、やはり自我の執着の不自然な行為ではないか。難行の果てにその虚しかったことに気づいて初めて無心がおとずれる。最適例は、仏陀だ。ありがたそうな経典をいくら読んでみても「気づいて」いない、「目覚めて」いない者には何の役にも立たない。どう知解してみても爽やかにラクにはならない。「気づき」「目覚めた」者にだけ有り難い経典はああそうなんだと保証をあたえるだけだと、バグワンは言う。まったくそうだろうと思う。
名選手や名人や達者は、経典を学習するひまに自身の仕事を鍛錬し達成し、それを通して気づき、目覚めに達してゆく。そういう人がそれから経典にふれるとじつに鮮やかに納得が行くのだろう。経典を抱いて山林に隠れてみても、目覚め・気づきは約束されていない。執着があるだけ遠回りになる。
「今・此処」に生きて満たされていること。バグワンはそれを哲学や論説として語ったりしない。
2007 7・3 70
* 夜前はほとんど眠った気がしないので、十時半、もうやすもうと思う。夜に読む本も、夕方の内に読んでおいた。バグワンと大拙と太平記の音読だけしてからだを休ませたい。今日は午前中脚も痛んだ。自転車で走る元気がなかった。建日子たちに心配させたか知れない、眠いだけだから心配しなくて好いよ。
2007 7・3 70
*「歴代志略上」と『総説旧約聖書』とがうまく時期的に重なってきて、けっこうへこたれていた旧約世界に、いま、かなり嵌っている。興がっている。『太平記』の音読も好調、読むことそのことが面白い。わたしの声楽である。この「楽」はラクでも楽しいのでもある。
2007 7・5 70
* 林晃平さんの『浦島太郎』の研究書からはたくさんを学んだ、教えられた。そう都合良く簡単にさらに教えて貰おうなどは厚かましい話であり、こっちの手に入っていないと質問のかんどころも簡単にはつかめない。久しく浦島太郎にはある野心を抱いてきたが、まだまだ道は遠いなあと慨嘆するのみ。
2007 7・5 70
* 夕食後、ストンと二時間ほど宵寝した。湯につかりながら、インディアンとのアメリカ人、ないし連邦政府との互いに苦難多かりし折衝の歴史を読んだ。
アメリカでは、黒人と比するとはるかにインディアンの方がよく待遇されている事実に驚かされた。少なくも一応対等に受け取られている。インディアンを母親に持つ人がフーバー大統領の副大統領にもなっている。売買の対象にしてはならない農地を一人当たりに与えられて、狩猟・漁労の生活から農業への画期的転換もなされてきた。インディアンは白人と闘って決して負けてばかりは居なかった、勝つことの方が多かったという。連邦政府は、インディアンとの戦争では出費ばかりかさみ、時には一人のインディアンを殺すのに平均二百万ドルも使っていた。これは、ひどい。
インディアンに与えられた農地の経営に白人が雇われていた例もあり、時には三千人ほどのインディアン族に与えられた土地から、莫大な石油が出たり金を掘り当てたりしている例もある。
不幸な烈しい戦も無数に繰り返されたインディアンと白人とだったが、むろん、あくどいのはいつもと言えるほど白人側であり、インディアンの英雄たちの反抗も熾烈であった。連邦政府が徐々にインディアンに州民と同等の特権や市民権やアメリカ人としての立場を認めていったのは、はるかにその方が賢明な措置であったから。
その点、黒人問題は、南北戦争が済んでも根本的ないい解決に到っているとはいいにくい。
今度の大統領選挙に、黒人大統領か女性大統領が出来る可能性があるといわれる。すくなくもブッシュの党には一度退いて貰いたい、が、とにもかくにもアメリカの現代が、日本の現代、世界の現代に大影響しすぎるのは、避けがたい不幸でもあり、なんとか不幸中の幸いな展開が期待・希望される。
2007 7・7 70
* ラクロの『危険な関係』はたしか岩波文庫にも昔から入っていた気がする。読まないが、読んだような気にさせさせられる作で、『クルーエル・インテンションズ』は原題での映画化作品と謂えるだろう、きわものの駄作であるが、ただヒロインのサラ・ミッシェル・ゲラーが破天荒の悪女でありながら、とてつもない美女、いや美少女で、義弟の美少年ライアン・フィリップも、リース・ウィザスプーンも歯が立たない。それだけは値打ちモノの映画で、ときどき一人でこっそり観てもいいなと思わせる、実にけしからぬ味の映画、こんなのをテレビで放映するかなあと呆れさせた。
映画を観はじめて、およそ人間関係も、先の見当も、すぐついた。日本語でよく似た、ながい小説を読んでいた気がする。ヨッポドちがうけれど谷崎の『卍・まんじ』にもちかく、こういう人間把握からとほうもない地獄も表現できるだろうと思う、ラクロの原作を読みたくなった。同じ意味でナボコフの『ロリータ』も読んでみたい。我が家のナボコフ本には『ロリータ』が入ってなくてガッカリした。映画化されたスー・リオン主演で脇にジェームズ・メイスン、シェリー・ウインタース、そしてもう一人名優を配した『ロリータ』は、今日の『クルーエル・インテンションズ』より数段上出来だった。ケビン・トレイシーとアネット・ベニングでアカデミー賞をとった『アメリカン・ビューティ』も、筋はずれるが渋い良い映画だった。
こういう映画からみると、あの古き良き時代だかどうだか『若草物語』などは、もう夢の彼方という感じになった。原題の女はスカーレット・オハラの後を嗣いで追っている。
2007 7・10 70
* おしまいにマキリップの英語をゆっくり読んで。ヘドのモルゴン、星を帯びしもの、の生存が見えてくる。はるかアイシグの山宮に王ダナンを訪れたレーデルル、ライラ、トリスタンの三人に、王はモルゴンが今なお命の危険を懸命に避けながらいることを伝えた。すでにこの世界の巨大な破綻と終末へのおそれは現実となり、望みの少ない最期の闘いがもう始まっている。何としても世界は救われねばならない。
何としても世界は救われねばならないという闘いに、挺身する存在としては『ゲド戦記』のゲド=ハイタカがいた。映画『マトリックス』も何としても世界を救わねばならぬ闘いであった。それだけ世界の奥の奥の底に狂いが生じていた。
いまわれわれの世界にもまちがいなく同じ「狂い」が露骨に見えている。だが誰がモルゴンやゲドのように闘っていると謂えるか。そもそも一人の超人の渾身の力で、現実地球世界の人間が起こした狂いが直せるとは思われないが、良き、本当に良き指導的な力なしには難しい。
その力が見あたらない。仏陀もイエスもいない。神の名においてなされる正義とやらの不正きわまりない乱闘と混乱、底知れない転落地獄。
* マキリップのあと、さらに校正をつづけて、二時半過ぎに寝て、六時半に起き発送の作業を進めていた。
2007 7・11 70
* きのう有楽町のビルの書店で『ゲド戦記』の第一巻「影とのたたかい」を買ってきた。去年の今頃、それは、やす香の病床にあった。最初に見舞いに行ったとき持参、ママに読んでもらい、そしてきっと無事退院して自分で保谷に返しに来るんだよと「約束」したのだったが。
第一巻の欠けたままのを惜しみ、機会が有れば買っておきたかった。なにともなし、ホッとした。そして昨夜からまた読み始めた。ル・グゥインの『ゲド戦記』とマキリップの『イルスの竪琴』とはわたしのまるで聖書のようになっている。そこにわたしのほんとうの故郷が在るかのように。
* 水のただ流れるように日々を送り迎えている。なにをしようとか、したいとか、しなくてはならないとか、思っていない。思わないまま、あれもし、これもし、している。していることはしていないこと、していないことはしていること。同じこと。
2007 7・12 70
* 自転車走の効果があがってか、いつも気にされる値が、一パーセントも下がっていて、ドクターは上機嫌だった。諸検査の結果も、問題なかった。
一時には病院を解放されたので銀座へとってかえし、汗みずくティーシャツ一枚でフランス料理の「レカン」にとびこんだ。せめて備えのジャケットを持って席入りをと頼まれてそうしたが、むろんそんな暑いモノは着なかった。
料理は、涼しく、うまかった。茄子はいやよというのを知っていてくれて、すべて言うこと無いメニュ。ドライシェリーと赤のワインとで。オードブルは新任の料理長が一皿べつにウナギを小粋に焼いてサービスしてくれ、、メインはすてきに美味いフィレ肉をえらんだ。冷製のスープも凝っていて満足。例によってデザートも幾種類も選ばせてくれたし、エスブレッソはダブルで、さらにシングルでとサービス満点だった。わたしみたいに行儀の悪い、つまり服装の簡略な客はなかったのに、ハンサムな若い料理長が出てきて名刺交換までした。馴染んだ店は馴染めば馴染むほど居心地がよくなる。「世界の歴史」の第十二巻をゆっくり読んで、好い昼食を満喫。
2007 7・13 70
* 今日世界史の暗澹たる一時期、ブルボン王政復帰を、堪らない思いで読んでいた。
ナポレオンのワーテルロー敗退とともにフランス革命は、ルイ十八世のブルボン王政復古により完全に蹂躙された。一切を「革命以前に戻す」という、とほうもない「正統主義」のまえにフランス革命で得た人権と自由と平等は、亡命していた王と貴族たちの悪しき政治家の手で完膚なく奪い尽くされてしまう。
歴史の容赦ない揺り戻し。こんな時代に遭遇したフランスの民衆はどんな気持ちであったろう。王や貴族が奪われていた領地や財産や封建的特権を当然奪還したのだという理屈を、わたしは聴く気にならぬ。王とか貴族とか政治や制度の特権者を、わたしは徹底的に嫌う。吐き気がするほど嫌う。自身の努力と寛容によって才能によって得たものではないからだ。
2007 7・13 70
* ゆうべマキリップを思いの外長く読み、それからまた『ゲド戦記む』第一巻も読み進んだので、寝たのは明け方。そして七時半に起きた。血糖値、118。まずまず。そのまま作業に入った。
一日宛名ラベルを封筒に貼っていた。その間に、メル・ギブソンの『パトリオツト』を観ていた。アメリカ独立前の英本国と植民地十三州との激戦。メル・ギブソンには秀作『ブレイヴ・ハート』もあるが、歴史感覚と自由な人権の主張に敏感な、これも彼らしい優れた意図の感銘作。凄絶な展開の中にハートの熱がみなぎった。
2007 7・18 70
* 旧約聖書を「創世記」で覚え始めると、どうしても神話にひきずられるが、それが一種の人類史であり、時を追うてイスラエル史になってゆく。それだけなら古事記や日本書紀とおなじだが、日本の神代記にはじまる日本史には「神と人との契約」をほとんど持たない。しかし少なくも旧約では、モーセの時から神と人との契約が重い歴史的原理となっている。
預言者サムエルが、人と神の間に立ち、曲折あってサウルにより、またサウルに代わるダビデとソロモン父子によってイスラエルに王政が出来てくるが、そもそもサムエルに観られるように、「神こそ王」という人王支配否認というつよい抵抗があったこと、その抵抗を経て人王の王国が実現してゆく経過には、神に授けられた王位という契約がまことに重いものに成ってくる。イスラエルやオリエントに限定でなく、この思想は、近代のヨーロッパ王政にまできっちり引き継がれる。「神の意志」「神の裁き」それがイスラエルの興亡にも、後世の王国の興亡にも影響している。
わたしは今、ソロモンの王国を聖書で読みながら、ソロモン王国の成立と衰退の必然を『総説』に学んでいる。両輪ゆえに、とてもアタマに入りやすく、とほうにくれるほどややこしかった旧約世界がいま視野に収まってきている。
それにくらべると『イリアス』には手こずっている。難しいのではない、呉某氏の訳が日本語になっていないので索漠としてしまう。高津春繁氏の『オデュッセイア』は名訳といいたいほどで興趣をそそったが。『イリアス』訳は文藝に達していない、たぶんもう投げ出して、『ドンキホーテ』に戻ろうと思う。
実は角川文庫版『アラビアンナイト』の大場某氏の訳もよくない。とくに詩がひどい。ただお話の面白さに救われて、いま文庫十四冊目をやがて終えようとしている。もう十冊ほどある。
* 今夜鈴木大拙『無心ということ』を読み終えるが、この本には教えられもし、また限界も覚えた。バグワンの端的な透徹とはよほど差がある。
* ルソーの『告白』三冊の一冊目が半分ほど、なかなか乗れない。しいていえばまだ少年時代なのであろうが、書いているルソー自身は年がいっている。その年のいったルソーの性格が、とにかくも変に気味わるくて。早く二冊目三冊目へ進みたいが、遅々。つまり、まだ、面白くならない。
ルソーのえらさは歴史的によく知識しているから投げ出しはしないが。それよりブルボン王政復古とともに、ルソーの墓も暴かれたということを他の本で読んでいる。怒りと同情とで、グッときた。
2007 7・19 70
* 予定通り、手近の全集ですぐにも読める万葉集、古今集、新古今集の全歌を、明日から音読し始める。気が向けば一日に何首でも。もともと和歌を詠むのは好きだから苦にならない。むしろ後撰集や千載集なども読みたいのだが、国歌大観を持ち出すのは重すぎるし。字もあまりに小さいし。
2007 7・19 70
* 二十日から『萬葉集』の音読を始めた。音読をつづけているのは、『太平記』と、バグワンと。
黙読は、いま、『旧約聖書』の「歴代志略 下」と『総説・旧約聖書』『イーリアス』『千夜一夜物語』ルソーの『告白』『世界の歴史』のアメリカ、ル・グゥインの『ゲド戦記」第一巻、マキリップの『イルスの竪琴』第二巻を英語で。大拙の『無心ということ』は音読し終えたところ。これらを一括、わが就寝前の読書。
2007 7・22 70
* どの本もおもしろくて夜更かしし、あと眠りはしたが浅く、暗闇に溶け込んでいたり、しらしら明けを感じながらかなり永く床の上で静座していたり、仰臥のまま両脚を十五度ほどあげて三百数えたりしていたが、五時すこし前に起きてしまった。
映画『PROMISE』の後半を観ながら、自分で素麺をゆで、冷やし、朝飯にした。朝飯前の血糖値は、103。
2007 7・23 70
* 何の気なし、もう書庫へ戻そうかと手近にとりあげた「徳田秋声集」の、ふと『あらくれ』というかな文字の題が懐かしくて読み始めたら、やめられない。ぐいぐいぐいともってゆかれ、手放せない。「すごい」ということばをわたしは褒め言葉には使うべきでないと思っているが、しかもよくよくのときに「すごい」という感想で称賛の気の沸き立つときがある。今が、そうだ、散文の魅力のとほうもない膂力にガシッと捕らまえられた、それが嬉しいというほどの思いなのである。
こうでなくては文学はいけない。どこにもゆるみなく、けったいな俗な物言いもなく、派手な場面も筋も無いのに、文章そのものの魅力で小説が読めてゆく。「読まされる」嬉しさである。
秋声がそういう散文を書く超一級の大家であることはヤマヤマ承知で読み始めて、覿面に引き込まれ、「すごい」と思ってしまう。幸福な読書である。優れた文学は必ずこういう嬉しさを、滴るうまみのように恵んでくれる。
秋声も鏡花も、これほど対照的な作家はいないが、幸いにわたしは両方から同じ喜びを受け取れる。漱石と鴎外ともしかり、露伴が然り、潤一郎と直哉がまたしかり。
しばらくぶりに秋声の美味にしたたかふれ、嬉しくて叶わず、書きおくのである。
これでは書庫へまだ返せない。
* なんでこれが此処に在るのだろうと、わたし本人がワケ分からずに、すぐ手のとどくところに『神宮便覧』という、手帖大の一冊がある。とうとう手に取ってみた。
たぶん「神社」に関する簡便な事典かなと想っていた。いつか、どこかの古本屋で買っておいたのか、祖父の蔵書のとばっちりが飛んできて此処にあるのか。
開いてみると見当違い。伊勢の皇大神宮の詳細な「便覧」であった。「昭和三年十月」とある凡例をみると、中に「一、本書ハ神宮諸般事項ノ概要ヲ記シ、主トシテ大正十二年ヨリ昭和二年ニ至ル統計ヲ掲載シ併セテ写真版ヲ適所ニ挿入シテ事実ノ一班ヲ識ルニ便ス」とある。祖父の持ち物とは想いにくい。表の見返しに丸の朱印で青木とある。わたしがどこかで拾い採ってきた本のようだ、おそろしく詳細な資料で「便覧」の名に恥じないが、さて役に立てようもない。書庫へ入れる。
2007 7・23 70
* 秋声の『あらくれ』を読んでいて、話の筋には心弾むハデな喜びは何もない。凡な文章とハッキリちがう一つは、改行のたびに奇妙な「つなぎ文句」をほぼ一切入れないことだ。
凡作では、改行のつど、「とはいえ」「だがしかし」「そしてそれから」「もっとも」「以来」といった安易な「つなぎ文句」が乱発される。こういうのをみな省いて端的に新しい段落を書き起こし、その方が文章が潔白に強くなることに気づかないと、「言い訳・・説明」型のくどさで文章が汚れてくる。
* 秋声のクセのひとつは「ような」「ように」の比較的安易な多用であろうか。「ような気がする」はたいていの人が無反省に使う悪習だが、「ような」と「気がする」は即ち「気味重複」している場合が多い。「ような」「ように」は大概の場合不要か、有って文章を緩く弛めてしまう。
人それぞれに、クセになった瑕疵はある。個性的という印象にまで育っている例もある。そこまで持ち前の力に出来るなら、瑕疵も特長になる。
2007 7・24 70
* 安心な小車に乗ってやすやす引かれて行くように、秋声の『あらくれ』は、散文の魅力を惜しげなく恵んでくれる。読み出すととまらない。
生みの母とむちゃくちゃに仲の悪いお島は、そこそこらくに暮らしている他家へ養女にやられていて、やがてそこで入り婿を迎えねばならない気配になっている。
出だしのしばらく、お島の心境が思い出ともともに淡々と叙されていて何の景気もないのに、よく煮染めた野菜のようにほんのり甘みもともない、至極口当たりが良い。おいしい。魔術のようである。
秋声のこういう名人藝には、彼と出会って、ほどなく、わたしはしみじみ感じていた。
改造社版のいわゆる「円本」の古本を、版変わりながら三冊、古本屋で買って持っている。一冊が円本のアイデアを改造社にやったといわれる谷崎潤一郎のもの。他の二冊は「佐藤春夫集」と「徳田秋声集」とで、この安い買い物に心から喜んだ。値が安くてではない、荷風のも秋声のも代表作が持ち重りするほどドサッと収録されていたからだ。だが『あらくれ』はまだその秋声集に入っていなかった。後に上京して買い始めた講談社版の「日本現代文学全集」で出逢えた。こっちには優れた短編がたくさんな上に、長編『仮装人物』絶筆『縮図』が入っていてわたしを雀躍させた。
春夫のには、魅惑の代表作『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』や、おもしろい『星』のような異色の読み物も入っていた。
本を手に入れることが、宝石を手にする心地であった。古本屋は、他の何処よりも大事な店で、立ち読みも出来た。数え切れないほど出逢ってきた大勢のヒロインたちのなかで、『あらくれ』のお島は、十指の一つに折って数えたい一人になった。
* 志賀直哉型の散文と徳田秋声の散文とは、よほど素質を異にしている。私小説を書く人は大なり小なりこのどっちかに感化されている。または知らぬうちに追随している。だが乗り越えられない。
直哉の散文は、粗く織って風通しのいい、しかも優れて堅固で淳良な風合いの布のように出来ている。
秋声のは、砧でうったように、流れ豊かに波打つ布地の感触である。
この、私の抱いてきた印象は常識的には両作家さかさまに想われそうだが、そうではない。
2007 7・25 70
* 『あらくれ』を読み進んで行くと、いろんな興味が湧く中でも、人間関係のデッサンの正確さに感嘆する。お島には、実の両親やきょうだいたち、育ての両親や許嫁に擬されていそうな作という男、両家に出入りの人たち、育ての母の情夫やその弟などがいるが、その一人一人の表現だけでなく、その一人一人とお島との感情の距離や濃淡の差が、言うに言われないリアリティで適確にとらえられている。不安定な行文が全然露われない。
書かれたのは大正四年、書かれてある生活や風俗や人情や言葉はおおかた明治末年のものであるから、それなりに今日のそれらと比べようもない時代差は歴然としているが、それが文学作品を現に「読んでいる」障りとは、ちっともならない。むしろ、ほほう、ほう、と興味や好奇心や納得に励まされている読者心理に気づくのである。
* なかなか『細雪』や『山の音』のようには書けるものではない。書こうというほどの人は、たいがい書いている中身からみれば秋声の余類にちかいが、どうしてどうして秋声の散文とは天地ほども魅力において届かない。こういう優れた人の優れた散文に、だれも心から親しんでいない。もったいない。
秋声には書生っぽく肩肘をあげた、張った武張った物言いは、全然無い。柔らかく腰をおとし、視線はひくく書くべき「今・此処」に丁寧に据えて叙している。砧でうったような波打つ柔らかさと、筆触の名人藝とがある。書いてあることは庶民生活のさらに低い、さらにまずしい面に膚接しているのに、ちっとも行文は卑しくなく汚れていない。谷崎愛のわたしが感じていたのと同様に、秋声にも活字に唇をそえて呑みこみたいうまみが光っている。ことに『あらくれ』には光っている。
2007 7・26 70
* 今日明日のうちに読み終えようと、『ゲド戦記』第一巻「影との闘い」を読み進めてきた。とても、やす香は病床で読んでもらいようがなかったろう。明日は、やす香の諦めきれない一周忌。せめてと、読み聞かせるように今わたしが読んでいる。
おそらくやす香の写真は、一枚でも母親や妹は欲しいのではないかと、ダウンロードできるように「mixi」にすこし載せてやっている。
2007 7・26 70
* さ、新刊が何時頃に届くのか、届くまで落ち着かないのがいつものこと。夜前は、二時頃に階下におり、それから例の本を九種類全部読み、一度灯を消してからまたつけて、英語のマキリップの続きを読んだりした。七時に起きた。少し眠いが。血糖値、116。落ち着いている。
* やす香の一周忌までにと思っていた『ゲド戦記』第一巻「影との戦い」は二十七日に日付の変わるころに読み上げていた。何度読んでも優れた作。第二巻はたしか娘・夕日子がお茶の水での何かの教室で読んだか使ったかしたらしい英語版が書庫に置いてある、あれを、マキリップと同じように読んでみよう。
『ゲド戦記』をアニメ化したという評判は聞いていたが、観る気がしなかった。右から左に軽い気持ちで脚色できる世界ではない。 2007 7・28 70
* 「オール読物」の高麗屋父娘往復書簡、毎月奥さんから送って貰っていて、今月はお父さんの番。齋クンの初お目見えという初の話題で、幸四郎丈の筆が新鮮に弾んでいる。
やがて月が変われば、松たか子の舞台が楽しめる。八月の納涼歌舞伎は中村屋三役の、少しサマ変わりの『裏表先代萩』が通しで観られる。
2007 7・29 70
* しばらく前から『萬葉集』全巻をと、音読を楽しんでいる。新古今集まで、我が家に刊本で揃っている勅撰和歌集を全部読み通しておきたい。萬葉集は、者によりすこしずつ「読み」がちがう。むかしに覚えたとおりの読みでないと、オヤッと思ったりする。
2007 7・31 70
* 平家物語では那須与一が扇の的を射たり和田義盛が遠矢を射たりする。太平記にもそっくり似た場面が兵庫の沖で描かれている。楠木正成等が湊川で討死にするのを直前に、さもはなやかに哀惜するかの、とびきり佳い描写で朗読していて、沸き立ってくる興奮がある。『太平記』はいまそんなところを読み進んでいる。
『万葉集』は巻二の挽歌。文武天皇の崩御に近侍の廷臣ら哀悼の二十数首のならんだのを夜前、音読しおえた。和歌が、「和する歌」である意味が朗唱していてよくわかる。これだけ万葉学が進んでいるようでも、全てを漏れなく読み進めていると、まだ訓みの定まらずに放置されたままの詩句が幾つもあるのにおどろく。漏れなく読んで初めて知ることだ。
バグワンでは、経過する過去現在未来の現在ではなく、優れて実存的な「永遠の現在」の語られるのを小気味よく聴いて感銘した。
* アカイア勢とトロイア勢との死闘・血闘が、目に見えぬ背後では、ゼウスをはじめ取り巻いている神々のいわば双方贔屓の駆引や確執であること、まざまざ。
「神意」が人の生死をまさしく裏付けしている「ホメロス的な事実」に、呆れたり頷いたり。これは旧約聖書に見える神とイスラエル・ユダとの「契約」とは、様子が根から異なるものの、ともに「神意」というはたらきが「裁き」「ゆるし」につながる人類史上の顕著さに、ふかく愕かされる。大きな意味ではこれは、人間の神にツケをまわした自己都合の、自己弁護なのかもしれない。
2007 8・4 71
* 猪瀬直樹氏の中公新書『空気と戦争』を貰った。豪快に署名がしてある。佳い題で、示唆に富んで怖い題でもある。「空気」が読めないということは、安倍総理にも典型的に見られるように、どこへ事態をわるく引きずってゆくか知れず、戦争という「巨大な社会的・文化的複合」の生起には「空気」が多大に影響する。そこまではすぐに察しがつく。さ、それを彼がどんな材料でどこまでどう論策してゆくのか、彼の著作のフアンでもあるわたしは、辛辣な批評の爪も磨きながら、興味津々読み進めたい。感謝。
2007 8・4 71
* 世界の、また日本の「歴史」をつぶさに顧みつつ悔しいのは、あまりに大多数私民の惨めに虐げられ続けてきたこと。フランス革命以後の近代社会は現代に至るまでいわゆるブルジョア優位の、本位の政治体制で商工業金融資本主義を擁護し続けてきた。農民や零細労働者の生活の悲惨は、反革命以降の近代・現代の覆い隠しようのない現実であり、日本列島でもようやく身の置き所のなさに気づいた人たちの抵抗で、先日の自民大敗を実現した、やっと実現した。小泉純一郎の政治は、西欧の近代史への露骨な追従であったし、冷血な政治手法であった。わかりよくいえば十八世紀のイギリス・トーリ党のブルジョア擁護・農民差別政治の、ほとんど模倣に近かった。
* わたしがしてもいいのだが、本来なら社民党筋の勉強家が試みて論策すべきことがある。少なくも明治維新以降の日本で、できれば室町時代の國一揆等の挫折このかた、「民衆はなぜ負け続けるのか」を地道な踏査であとづけ、そこから学び取るべきを学んで民主主義を再構築しなければ、所詮日本は過去の悪習へあとじさりあとじさりして私民は軛にかけられてしまうだろう。
2007 8・4 71
* 妙なものだ、湊川での楠木正成・正季の自害を音読するのが苦しかった。声がつまった。「七生報国」の四字をどれほど聴いて見て読んだか知れないが、太平記に拠る限り「報國」でなく「後醍醐」のために、ないし天朝のために生まれ変わって闘うといっている。太平記の主人公は「後醍醐天皇」という学説はすでに重きをなしているし、太平記中一貫して言行の始終が称賛されているただ一人は「楠木正成」である。正成への贔屓にはほとんど掛け値の必要がない。彼は後に幽霊となって神剣奪還にあらわれたりするはずだが、精神は一貫している。太平記はあれほど大部の大作だが楠木正成にだけはほぼ首尾一貫の表現に意図的に成功しているようだ。
だが後醍醐天皇はいただけない。足利尊氏も新田義貞もいただけない。名和長年や菊池武時には少年の昔に血を熱くしたとほぼ同じように今もその最期までを見届けられるが、後醍醐と義貞への往時の賛嘆は今はサンタンたる変貌を遂げてしまった。アキマヘン。あかんやっちゃナア、と変わっている。
それにしても湊川の血戦と兄弟刺し違えての自害に声がつまるとは予期していなかった。参った。「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下かげに駒とめて 世の行く末をつくづくと しのぶ鎧の袖のへに 散るはなみだかはた露か」と、幼稚園から国民学校へあがったころ熱唱した気持ちがまだ生き延びていたとも謂えるが、「悪党」正成の痛快な力量に、また「大和猿楽」とのひそやかな近縁に、懐かしい思いをもちつづけたのでもある。水戸光圀や頼山陽や近代の天皇利用者たちの大楠公賛美とはわたしの場合終始異なっていた。その辺を考えると、今はことに正成といえども所詮は「アカンヤッチャなあ」となる。
わたしが正成の逸話で終始印象的であるのは、多聞丸時代に、大きな釣鐘を指一本で揺らして見せた話だった。可能かどうかの実否よりも、大釣鐘といえども、あまた度び繰り返し押して引いていつづければ、必ず指一本で動き出すという少年正成確信の逸話であった。後生の脚色か拠るに足る実話かは知らないが、わたしは少年なりに感心してこれに聴いたのである。今も聴いている。だからわたしは国政の動くのを願い「一票」を空しくしないのである。わたしの息子は先日の参院選挙を、仕事を理由に棄権した。事前投票もできたのに。それではダメだ。
* 猪瀬直樹の『空気と戦争』も三分の一ほど読んだが、行文粗略で静かに諄々と説けていない、がさつに騒がしい。いかに言っている内容がかりにマトモであろうとも物書きがヤッツケの仕事で「本」にする功をあせると、こういう騒がしい上っ調子になる。処女作ともいえる『天皇の影法師』などに比し、「末」路を走っているようで、期待はずれ。いかに講義録とはいえ、講義録だからこそ、学生たちとの真の交感・感応の聴き取れる佳い文章を書いて欲しかった。まるで街頭でのプロパガンダのように騒々しい。
しかし、もう少し、辛抱して読み進めてみる。
2007 8・5 71
* 『記紀』に聴くかぎり日本の神は三貴神はじめ八百万の神さまも、なみの人間に対し教訓的な接し方も強要的な接し方もしていない。およそ神のいる場所に人間も同居し近住している気配がほとんど全くない。神と人との対話も交渉も具体的には認められない。
ギリシァの信仰に関連した教養番組を昨夜おもしろく観た。そのあと例の『イーリアス』も読んだ。此処では神様と人間である英雄たちとは緊密に影と形のように棲み分けながら関連している。そもそもゼウスというダントツに強力な主神は、ほとんど恣に人間である美女たちを犯して数多く子を産ませている。誰もがそれを知っている。多くの神々が、男神も女神もあっちに味方しこっちに味方して人間を贔屓している。ゼウスもほとんど没義道に介入していて、人間たちはそれをそういうものとして受け容れて悲喜こもごもに生きている。オデュッセウスのように或る神に憎まれ或る神には庇護されながら、トロイ戦争の後の帰国に、何年もを大海のここかしことさすらわせられている。すべてはしかし「神の意志」に帰するとして人間は歎いたり悶えたりしながら「神の裁き」に堪えて忍んでいる。
『旧約聖書』を「歴代志略下」まで読んでいると、神と民族との「契約」関係が強烈なのにおどろく。なにも「ヤハウェ」が唯一の神なのでなく、しかしヤハウェは自身が「選」民した民族に対しては是伝いに我のみを神とせよと厳命し、その限りに置いて多大の庇護を与え、場合により厳しい罰をくだしている。旧約の世界を辿っている限り、預言者はいても女神も救世主も現れない。しかし、この世界にヤハウェとの契約を実現すべき責任者としての「王」系の一族が連綿と認められていて、新約聖書世界にまで受け継がれる、らしい。イエスの時にいたり、神と精霊と子と、そして子の母なるマリアが登場する、らしい。わたしの二つの聖書への接近は、連携し継続してでなく、そのときどきにバラバラに読んできたから、「らしい」という付記が必要になる。今はまだ新約聖書世界について感想は言わない。
『千夜一夜物語』はひたすら面白いが、このイスラム世界には、「アッラー」なる絶対神が始終人間の言動の基盤に、背後に、頭上に在り、同時に多数の魔神も実在する。キリスト教世界とは不倶戴天の険悪な対立のようであるが、旧約の王者ソロモンは伝説的にこのアラビヤンナイトの世界でも尊崇信愛されている。ややこしい。ここでは神と人とは、帰依と庇護とのかなり現世利益ふうの約束関係かのように見受けられる。アッラーが唯一の神であるわけではない。また帰依すればいろんな民族であってもイスラムの民になれる、らしい。新約のキリスト教でもその点は、旧約のヤハウェのように厳格に選民しているわけでない。世界宗教への道は開かれてある。
* 仏教には「神」はいちおう存在しない。存在してもそれは仏とはべつの力でしかない。仏は神でなくあくまで人が仏になったのである。キリスト教もイスラム教も神は人を教導し規範を与えているが、人に向かい神になれ・なれるとは言わない。
仏教は人に仏に、ブッダになれ・なれると教えている。生きて向かう目標を仏は人に自身と同じ境地へと導いている。そこが、まったく他の世界宗教とは異なっていて魅力にも説得力にも富んでいる。仏教も顕密をとわず仰々しい儀式化をみせてはいるが、基本のところは、人それぞれの性と死との実践のなかできまる。禅がもっとも基本にある。わたしはバグワンに多く聴いてきてそのように感じている。そこには「契約という抱き柱」はあり得ない。「帰依という抱き柱」すらありえない。あり得るとするのは、有り難い方便である。「信仰は高貴な方便としての抱き柱」であり、わたしはそれを否認する気は毛頭無いが、それへ抱きつきたくはない。
* ルソーの『告白』がじわじわと興味をそそりかけてきた。フランスは、いま『世界の歴史』では「七月革命」がまた実現した。シャルル十世が逐われた。当然の帰趨。
2007 8・6 71
* 夜はマキリップの英語、第二巻の「レーデルル」の物語にひきこまれて、眠いはずであったのに、なかなか本が置けなかった。
2007 8・8 71
* 『イルスの竪琴』第二巻半ば過ぎて、婚約者レーデルルと「星を帯びしもの」のモルゴンとが、ようやく再会。世界を建て直す熾烈な闘いが、第三巻へかけてこれからながく続く。
『イーリアス』では不徳の指揮王アガメムノーンと英雄アキレウスとの確執が続いている。映画『トロイ』のアキレウスを演じたブラッド・ピットの顔が重なってくる。
2007 8・11 71
* 「ペン電子文藝館」で同僚委員だった眞有澄香さんから勉誠出版刊人と文学『泉鏡花』を戴いた。この人には鏡花の著書がもう一冊有り、他にも学術研究の大著が二、三ある。着々と地歩をすすめている。「小伝」を半ば近く読んだ。そつなく纏めてある。
江古田の日大からはわたしの教室での話を関東に載せたおで「江古田文学」が届いていた、が、興はすっかり褪せていて、見る気もしない。谷崎文学については十分に踏み込んで愛読している人たちとともに話し合いたい。わたしの読書計画では、谷崎全集前巻のまたの読破が予期されている。それが実現したらわたしは新たなノートをとるかも知れない。
2007 8・12 71
* 『千夜一夜物語』が文庫本の十六冊めに入っている。十五冊めの辺と限らず、年老いても子を授からない王様立ちの歎きに歎いて不思議を招く物語の数多いことに驚く。
『世界の歴史』はフランスの二月革命、六月事件を読み越えて行った。
『萬葉集』は巻三の「譬喩歌」を読み継いでいる。悉く音読しているので、いいなと思うとつい二度ずつ読み返している。黒人の歌がよかった。人麻呂の長歌短歌もやはり大きい。
『閑吟集』についで『梁塵秘抄』の原稿作りも進めていて、やがて全六章の三章半ばに達する。『梁塵秘抄』はNHKラジオで語った口調のママに原稿が再現されている。『閑吟集』は倣うていの口話体で書き下ろしたのである。
* 気のせく仕事へ手が着かず、すこし弱っている。
2007 8・16 71
* 就寝前にたくさんの本を、少しずつ読もう、その本も、気儘にあり合わせたものでなく、「超」の字のつく長編ばかりを読み通そうと思い立って、ずいぶんの歳月になる。
一つの長編に読みふけると、他の仕事をフイにしてしまいかねない。それで、かえって棒を折ってしまいかねない。棒を折るぐらいなら、根気よく時間をかけて確実に読み通したいと思った。
一冊ずつではない、一晩に何冊も何冊も併行して読んで行こうと決めた。多いときは十冊を越えていた。少なくも七、八冊。
そうと決めてしまえば、べつに強迫されるわけでない。源氏物語はむかしからその手で繰り返し読んできた。一日一帖と決めていた。これはかなりきついが何かしら「励み」にもなった。
毎晩、少しずつでよいと決めてあると、何種類でも一夜に読み進められる。頭にもきっちり入る。一例が、買い置きの中公文庫『日本の歴史』二十六、七冊。全巻、赤鉛筆片手にあたまから読み終えた。小さい活字でぎっしり、一万五千頁はあった。『旧約聖書』「新約聖書』も「創世記」のあたまからいまは「歴代志略」下巻を読んでいる。半分にまだ達していないが、レベルの高い参考書までそばに置いて併読している。ユダヤの世界がかなり明るんで見えてきている。
『南総里見八犬伝』はみな読み上げた。『千夜一夜物語』二十何冊も、「第一夜」からずうっと来て、やがて「第八百夜」になろうとしているが、なんて面白い読み物だろう。イスラム、アラブの世界がやはり独特に開けてくる。
そんな具合にはじめて、もう随分な数の大長編を通過してきたし、内の二三冊、「バグワン」は籤とらずに、もう一冊二冊も必ず「音読する」ときめている。『源氏物語』全巻も『日本書紀』全巻も『古事記』も、みな音読した。今はバグワンといっしょに、『太平記』と『萬葉集』とをおもしろく音読している。黙読分は毎晩七、八冊。ホメロスも、セルバンテスも、またツヴ
ァイクの『メリー・スチュアート』も、『戦争と平和』も『ファゥスト』も『志賀直哉全集』も、毎晩かけて面白く読み通した。
「知識」を求めてではない。賢くなりたいのでもない。心の栄養とも生き甲斐とも思っていない。あえていえば、日ごろ夜ごろの何にも囚われたくないから、そうしている。何かに抱きついたり縋りついたりしないで済むように、そうしている。譬えれば戦時中山なかに疎開していた子供の真夏、昼は盛大な蝉の声に、夜は蛙の大合唱に呆れたように小さい耳を預け切ってていた、あれ、と同じである。あれら蝉も蛙も、その気になってしまえば一種の静寂というものであった。清寂とすらいえた。今のわたしに、読書は蝉や蛙に似た多彩な「シャワ」ーに似ている。
* 「励み」ということを、永い間本気でそれはよく考え考え自身にいつも仕向けてきた、が、もう、励むという気、いつからか、していない。しない。
* 今日は理由もあり、気が沈んでいる。湯につかって、うっとり本を読んでこよう。西欧のブルジョア世界が革命と反革命とのめまぐるしい交替のなかで「動揺」しつづけている。
2007 8・19 71
* 『ゲド戦記』第二巻「欠けた腕輪」も読み始め、ルソーの『告白』に附された桑原武夫の解説も読み始めている。
『千夜一夜物語』のキーワードの大きな一つが「愛恋」無限なら、『旧約聖書』では神ヤハウェ(エホバ)との過酷なまでの「契約」励行。ところがこの契約をとかく破る。破れば神の跋も仮借無い。民族が他国の捕囚となり苦吟する歳月も永い。千夜一夜の満月の輝くような王子たちも王女たちも、男たちも女たちも、数奇に翻弄されつつ互いに恋し恋患いして、悲嘆や歓喜に泣き叫び、失神し、蘇生し、接吻し抱擁し互いに抱きついてはなれない。
* 『萬葉集』は巻三の挽歌を声に出して読み、次いで『太平記』で後醍醐や新田兄弟らの二度目の比叡山籠居を声に出して読んでいる。この間に七、八百年の歳月が流れている。昨日一昨日は叡山から南都への長い牒、つまりは後醍醐方へ参戦勧奨の手紙、またその長い返牒を読んでいて、萬葉人の哀慟を伝える言葉と、南北朝前夜の延暦寺や東大・興福寺の文飾の限りを尽くした坊主たちの言葉との、おそろしい差異に、そう何と言うてよいか、愕然、いやいっそ憮然とした。一口で人間といい歴史というが、簡単なものではない。歳月を隔て処を隔てて、なかみもことばも同じ「人間」同じ「歴史」同じ「言葉」と思いこむのは、誤解である。
2007 8・21 71
* 一八七一年の「パリ・コミューン」の偉大な逃走と悲惨を極めた壊滅とを読んだ。或る意味ではほぼ百年前のフランス革命を乗り越えて行く優れた理念と方向とを持っていたが、また民衆の闘争のかならず陥って行く杜撰さも抱いていて、それゆえに反動王政の狡知と実力の前に凄惨な死の破滅を体験した。
「民衆の闘いは何故敗れるのか」 いま、この歴史的な反省が具体的になされて、その反省の積み上げから賢く学ばねばいけない、もう最期の機会かもしれない。だが、誰も本気で自分は民衆の一人だとも本気で考えていない、なにかしらバカげた錯覚で自分は別だと思っている。
* バカげたはなしだが、例えば去年の夏の甲子園以来、いったいわれわれは何人の「王子」を称賛してきただろう、「ハンカチ王子」「はにかみ王子」「なんとか王子」と。どうしてこうも人は「王子」だの「王女」だの「王さん」だのが好きなんだろう。そんなものが真に人のタメになったことなど、一度だってありはしなかったろうに。なさけない。
2007 8・21 71
* 世界史が、「ブルジョア」の世紀から「帝国主義」の時代へ入って行く。十九世紀後半から二十世紀前半へ。わたしが生まれる頃までの「百年」ほど。とても興味がある。
明治維新から、わたしの生まれる一九三五年ころまでの「日本史」は読んだ。これから「世界史」を読む。
* ルソー『告白』の、巨きな内蔵されたオリジナルに、少しずつ気がついて行く。創造的な内発の実感・主観が「世界」を変えて行く、自然な変革力。外から来る暴力的な歴史や時代の「枠」を、魔法のように溶かし去る生き生きした人間主体の実感力。
2007 8・22 71
* 用があり、芹沢光治良の大長編『人間の運命』をまた隣から運んできたのを、出逢いというか、妻が拾い読みの内にいたく面白がり、第一巻から熱中しているようだ。
この作は、かつて、日本人小説家としては、世界一名の通った、海外での盛名のほうが日本の文壇でより遙かにぬきん出ていた世界作家の、晩年畢生の代表作で、「創作された小説」であるが、「完備した自伝とも私小説とも」いえる、芹沢文学の特質を最大限に発揮した名作になっている。
いろんな点で、日本の文壇文学とはずいぶん、顔つきも声音も体臭も異なる。思想も異なるし作の環境も異なると謂えるだろう。しかも日本の私小説の伝統にむしろ背をむけた作風なのに、いわば赤裸々にこっちが照れるほど真正直に書かれてあり、おそらく、架空の人物は実は一人もいないのではないか。
文壇作家の林芙美子や平林たい子との初対面や、その後芙美子の、昔言葉で謂えば「モーション」のかけ方など、なかなかの書きようで、芙美子ぶりは、臭いとも、難儀とも、可笑しいとも、辟易のていに言葉優しく書かれているのだが、表記名は「林扶喜子」、またお連れだった平林たい子は「平森たき子」としてある。他にもこの手の例は少なくなかったと思うし、実名も沢山出て来る。
日本の小説で、実在の人物をこういうふうに擬似ないし実名のママ書き示す例が実際にどれほどあるかと思ってみると、近代の作品数はべらぼうに多いし、随分多読してきたわたしも、そんな目で一つ一つ読んで来なかったから、すぐさまとは行かないけれど、先ず思い出すのは『人間の運命』だった。
名前の擬似例も多いが、数えきれぬ登場人物のおよそ全員が特定できることだろう、谷崎の『細雪』でも漱石の『我輩は猫である』なんぞも同様であった。
森田草平という漱石の愛弟子の一人は、有名な「青鞜」創始の平塚らいてうと心中未遂事件を起こし、その顛末を『煤煙』に書いたとき、たしか、ヒロインの実名「明子」を、「朋子」ときわどく形示していたのも記憶している。こういう例、拾えば随分多かろう。記憶のある方のお教えを請いたい。
2007 8・31 71
* 『ゲド戦記』は第二巻のアチュワンの指輪で、闇に「喰われし」大巫女であるアルハの、地底の迷宮(ラビリンス)での「闘い」を、今しも読み進んでいる。
残念ながら英語の原書が書庫に埋もれ、見つからない。
奇しくも『イルスの竪琴』第二巻でも、海と炎の娘レーデルルが、闇にまみれ、死の世界から無数にあらわれてきた敗者王たちに取り囲まれ、懸命に闘っている。アルハもレーデルルも、世界の頽廃と破滅の危機に直面しながら、精神の健康と強靱に魅力を保ち、いささかも誇りと平衡とをうしなわず、落ち着いて、きたない手はつかわない。
それにくらべると『太平記』で死闘をつづける尊氏も義貞も、また後醍醐帝も、妄執の鬼のようでしかない。闘いようそのものが、醜い。
* 十九世紀後半から二十世紀前半の世界、発明と発見との「便利」という大毒をはらんだ「文明」開華の世界をのみこむ「帝国主義」むきだしの野望。
世界史は、あまりに身近な、自分自身の七十余年の人生にもう密着してきて、読んでいても、息が喘いでくるよう。
『旧約聖書』は、また大きな区切りを越えていった。今暫くすれば、詩篇やヨブ記などへ到達する。『総説・旧約聖書』を便りの道案内に、なんだか原野・曠野を旅している心地である。
『イーリアス』は、正直の所もう、いつ打ちきってもいいほど。叙事詩としての性根も手法もみえて、物語の展開にもさらにきわだった展開は期待しにくくなっている。
『オデュッセイア』で十分ホメロスの魅力は味わった。また大冊『ドンキホーテ』に戻っていいだろう。
むしろルソーの『告白』を続けて行こう。人間も叙事も、どっちも「一種異様」な告白のおもしろさである。ないしは、おもしろくなさ、でもある。訳者の桑原学派の人たちはたいへん聡明に持ち上げている。説得されるが、簡単に売り言葉に説得された読書は危ういものになりやすい。落ち着いてルソーとは付き合いたい。
2007 9・1 72
* わが幼年時代の雑学の仕込み先として、絶大に楽しませてくれた『日用百科寶典』は、文學士玉木昆山閲、小林鶯里編、東京の尚榮堂刊、明治三十九年八月に編纂者小林識の「自序」があり、目次なみの詳細な「索引」が本の前についている。
奥付はなく、うしろに「諸君は小川尚榮堂出版図書を悉く讀まれしや」と、図書目録がずらあと満載してあり、これまでが、今となっては興味深い。本文は一 ○八三頁ある。
「凡例」には、「巻中を類別して左の二十類とす。」とあり、國体及皇室 教育 宗教 文学 国文及国語 英文法 歴史 地理 法制 経済 社会 科学 数学 商業交通 農工藝 軍事 生理衛生 家政 音楽遊戯 雑 とある。国際海外知識は項目として意識もされていない。
ここしばらく、この「寶典」の薄れた活字を霞んだ眼で追ってみようと書庫の奥から持ち出してきた。酔狂なことだが。
* ときどき繙いて、浮世離れのした我一人の思い出をたのしんでやろう。
2007 9・1 72
* 今日数える皇統では、後二条、花園、後醍醐、後村上、長慶、後亀山 そして百代後小松天皇と続いて、北朝の光厳、光明、崇光、後光厳、後円融天皇は数えない。
しかしわたしの愛読した『日用家庭寶典』では南朝の長慶天皇を数えずに、上の北朝天皇たちが数えてある。南北朝のことは、明治三十九年の本にして、なお結着されていなかったのだ。
2007 9・2 72
* ルソーの『告白』が岩波文庫の中巻に転じた。第二部と謂うらしい。第一部は青春時代と謂う気であるのか。ずいぶん、われわれの今日の生活とはかけ離れすぎた暮らしのパタンで、おどろかされることが多かった。一言でいえば「へんなひと」である。ただ歴史上のルソーの存在の重さ大きさを先入主として識っているので、最後まで読みたいと思うのだが、出来れば他の著書にもこの際触れたい。『エミール』は書庫にあるが、『社会契約論』や第ベストセラーだった小説『新エロイーズ』なども。
* 旧約聖書は『エズラ記』を読み進んでいる。千夜一夜の『バッソラーのハッサン』がむやみと面白い。思いをとろかす魅力がこの物語本にはある。『太平記』は心傷ましめる。
ル・グゥインの『アチュワンの腕輪』にずんずん惹きこまれる。パトリシアの「レーデルル」の巻はもう少しで終える。みごとな進行で、アンの宮廷に役者がつぎつぎ乗り込んでくる。グゥインからもパトリシアからも、病む「世界」に対する思いを通して厳しく伝えてくる、警告。じっと聴いている。
2007 9・6 72
* いまアチュアンの地底の闇の大迷宮(ラビリンス)奥深くで、「闇に喰われしもの」である大巫女アルハと、魔法使いゲドとが、直面しようとしている。わたしは、その闇の濃さが懐かしい。うすっぺらな、ろくでもないものばかりを見せつけるような光よりも。
2007 9・7 72
* 早く起き、パグワンと太平記と万葉集とを音読。バグワンには、持つな、捨てよと聴く。
2007 9・8 72
* 江古田のブックオフで、グレアム・グリーンの代表作の一つと、ジョイスの『ダブリン物語』を買ってきた。これはめっけものであった。
2007 9・8 72
* 京都南山城古寺探訪と題してある略地図には、一休寺(酬恩庵)、法泉寺、観音寺(大御堂)、蟹満寺、神童寺、海住山寺、禅定寺、山城国分寺(恭仁宮跡)、現光寺、笠置寺、岩船寺、浄瑠璃寺(九体寺)の名が上がって写真も。木津川は東から西へ流れ、もののみごとに木津で眞北へ折れて北流している。川の東に沿ってJR奈良線が、川の西に沿って縒り合うように近鉄奈良線とJR学研都市線が走っている。
* その近鉄山田川駅に、国民学校一年生の折の吉村ひさの?先生が住まわれていて、何の用でか、その学年を終えた春休みに、秦の父につれられ、はるばる山田川まで先生宅を訪れた記憶がある。大人の話にすっかり退屈していたが、帰り際、先生は私に「古事記」を訓み下した古本を下さった。日本の神話にどっぷりつかった最初で、あの春休み中に、同じ本をわたしは何度も何度も何度も繰り返し読み、ほとんど暗誦した。二年生になり、わたしは日本神話を、先生に命じられ教壇にあがって「話す」役を、何度もつとめた。泣き虫のダメ一年生が、元気に立った転機であった。
2007 9・8 72
* 昨夜も遅くまで励み、それから読書。
ル・グイン『ゲド戦記』第二巻の「アチュアンのリング」にひきこまれ、眠さもすっとんだ。ついに地底の少女テナーはゲトとの「信頼」をかためた。この巻だけを脚色すればいいのに。
『イルスの竪琴』英語の第二巻も、レーデルルの敢闘を経て、アンの宮廷の広間でクライマックスを迎えている。この作者の構成力と破綻のなさに感嘆する。辞書をくるのは時間が惜しくて脇さんの訳本をそばに置いている。英語では英語ならではの細密な表現や描写が、難渋してもとても楽しめる。アチュワンの原本も見つけたかったが。
この二冊を読んでいて、いつも念頭へさしかけてくるある種関連の感化は、映画の『マトリックス』三部作だ。
この世界の病根を抜くことを、ゲドも、星をおびし者も、また映画の主人公たちも、命がけでやっている。安倍内閣はどうだ。アメリカはどうだ。イラクはどうだ。北朝鮮や中国はどうだ。汚い、と思う。
* グラッドストーンという自由党の宰相が、イギリスの十九世紀末から二十世紀へかけて数次の政権で活躍した。
この人は、ビクトリア女王に嫌われながらも圧倒的な国民の支持を何度もつかんで、三次もの「選挙法改正」で、貴族から農民に至るあらゆる所帯主に選挙権を確保し、主権在民の議会主義に大きな前進をもたらした。
徹底的にいじめぬいてきた属国アイルランドの国民にも同情し、あらゆる反対を押し切って、アイルランドの自主独立への画期的な路線をつけたのも、彼、グラッドストーンだった。
自由党は、軍の統帥権を、国王から議会へという目の覚めるような大改革のために、上院の横暴を実に我慢強く繰り返し押し返して、断然実現した。
その点、日本の貴族院はひどい存在で、日本を戦争へかりたて、天皇の名で、大きなわるさをした。なさけない。
必ずしも好きなとも言わないイギリスであるが、議会政治の歴史を確実に積み上げてきた一面には心からの敬意を覚える。
* ジャン・ジャック・ルソーってなんて、奇妙な個性だろう。たぶんに鼻をつまみたくなる、『告白』第二部を読み進みながら。
* えっ。雨か。今日は新宿に出なくてはならない。
2007 9・9 72
* バスを待たず、通りがかったタクシーで保谷駅へ、そして東京駅へ、さらに京都へ。新幹線車中で、入念に午後の「対談」の心用意。それから「世界史」を読み継ぎ、またグレアム・グリーンの『事件の核心』を読み始めた。
2007 9・13 72
* 大伴家持と数多い女性達、ことに坂上大嬢らとの相聞歌に優れて佳いものがある。心惹かれる。
『太平記』も、世界史のビスマルクの平和も、根は醜い。
夜前、『イルスの竪琴』の英語版第二巻を読み終え、今夜から第三巻に入る。
2007 9・18 72
* アカデミー賞で九冠を獲た映画『イングリッシュ・ペーシェント』の原作、M.オンダーチェの『イギリス人の患者』、まアイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』を友達に貰った。
麻田浩展の画集も手に入った。小さな写真になってしまった写真は写真だが、会場の大作が目に甦り、おもわず歯の根を噛む心地がする。
古くからの元気旺盛な繪を描く友達が、過労で入院したと。七十になってグループなどの過剰な人付き合いに振り回されていては、体も堪ったモノでない。聡く一人になることに、勇気をもちたい。
2007 9・19 72
* 唐木順三先生の『日本人の心の歴史』上下は名著であるが、ことに引用されてある多くの詩歌文章を拾い読むだけで、いまわたしには、足りている。先生の地の文はそれら詩歌や文章の背後から、おのずと立ち上がり耳に聞こえてくる。
百人一首の昔から和歌には苦もなく心惹かれてきたが、このごろ、いよいよますます和歌にも俳諧にもこころをひかれる。万葉には真率の喜怒哀楽がわきたち、平安和歌には室内遊楽の余裕の奥に、ふしぎな弧心の奏でを聴くおりがある。それが増してきている。私の昨今を反映しているのだろう。
2007 9・20 72
* 睡眠をけずり地獄を巡り歩くような、ダンテめく仕事をしながらも、精神は静かな平衡を保っている。だからモノが書けるし、本が読める。どんなに疲労しながらも読書をわたしは楽しんでいる。
* バグワンはまた『十牛図 究極の旅』に戻っている。もう何度目になるか、五度は音読している。
「牛の探索(尋牛)」から。
☆ <牛>というのは エネルギー、活力、ダイナミズムの象徴だ。牛はまさに生命そのものを意味する。
牛はおまえの内なる力 おまえの潜在力を意味する 牛はひとつのシンボルだ それを覚えておきなさい
☆ おまえはそこにいる おまえには生命もある
だが、おまえは生命が何であるかを知らない
おまえはエネルギーを持っている が、おまえはどこからこのエネルギーが来て どんなゴールにこのエネルギーが向かっているのかを知らない。
おまえがそのエネルギーなのだ!
それなのにまだ おまえはそのエネルギーが何であるのか気づかない おまえは知らずに生きている
おまえは根本的な問い 「私は誰か?」を問うていない その問は牛の探索と同じものだ 「私は誰か?」── これが知られない限り どうして生きてなどいられよう? そうしたら、すべては空しいものになるだろう。
なぜならば、最も根本的な問いがまだ問われず まだ答えられていないからだ。
おまえが自分自身を知らない限り 何をやっても空しいに決まっている。
最も根本的なことは自分自身を知ることだ。
ところがなんと、われわれはその最も根本的なものをのがし続け 些細なことにこだわり続けてゆく。
(スワミ・プレム・プラブッダ氏の訳に拠っています。)
* なんだ、そんなの哲学の最初歩じゃないかと言う人は、まんまとのがしてしまう。それは、これらの言葉を知識で処理する姿勢だ。大事なのは知識ではないし哲学なんかではまして、ない。「今・此処」を生きて立ち向かうことでなければ、「私は誰か?」も空念仏にすぎない。牛を探しに旅立つことは、いわば知識や哲学や倫理の積極的な放棄なのだ。抱き柱の放棄なのだ。
念のため。バグワンは「おまえ」などと呼びかけてはいない。「あなた」といっている。わたしがそう聴いているだけ。
* 『万葉集』は第五巻に。『太平記』は、新田一党の凄惨な最期をむかえる敦賀金ヶ崎城が、まだ僅かに活路を保っている。音読こそ最良の二冊である。
* 『旧約聖書』は「エレミア記」をもう少しで越え、やがて律法・預言書へ入ってゆく。それで昨夜は二時半を過ぎてから、『総説』の方で、先だって予習もした。モーセにはじまる古代イスラエルの優れた預言者たちの基本の性格を、唯一絶対神との深い関わりで、勉強。おもしろい。
『イーリアス』はなかばのところ、トロイアのヘクトールの勇戦の辺で停滞している。しかし『世界の歴史』の「帝国主義」の猛烈な拡大ぶりは肝の冷えるほど凄く、ゆうべはスエズ運河をめぐる英仏の死闘、エジプトの苦難の歴史に、引きこまれるように読みふけった。
『千夜一夜物語』は一に指を折りたいほどロマンティックな長編の伝奇物語を今しも通りすぎ、一心太助のようにやんちゃでへんてこな漁師の物語、ほとんど内容の同じ二篇を読み終えた。精緻な補注すら「読み物」として楽しめ、何の懸念も無しに別世界へ誘い込まれる嬉しさは、こういう時、わたしには頓服の魔薬である。
ルソーという人物は、『告白』中巻をどう読み進んでも好きになれない、ケッチな(京都のスラングで、けったいな)ヤツだ。ちっとも面白くなって行かない。桑原武夫の学派にまんまと担がれているかのようだが、そうも言えない人物でルソーがあるのは、間違いない。しかし人には奨められない退屈な、ただ長たらしい本だ、『告白』は。
グレアム・グリーンは伊藤整の訳にひかれているが、まだ『事件の核心』に至らない、けれど、これは先への展開と深化とに確かな期待がもてる。
何と言おうとル・グゥインの『ゲド戦記』第三巻が名作の吸引力、読み出すと先へ先へ持って行かれる。世界の均衡があやしく歪みかけている。危機である。ゲドとアレンの働きはいのちがけになる。映画『マトリックス』が重なって見えてくる。
同じことは、英語で読み進んでいる『イルスの竪琴』第三巻にも言える。運命のような深い愛にむすばれたモルゴンとレーデルルとの世界危機への死闘のときが迫ってくる。英語の読みが、だいぶはやくなっているかなあ。
まだ有る。岩波文庫で『止観』を読み出している。禅に、もう少し作法的にも触れてみたいから。だが容易でない。
加島さんの『求めない』にも鎮められている。
そして最後に、鳶に送ってもらった『麻田浩展図録』の絵を、一点だけ、深く深く細緻に覗き込む。
やっと電気を消し、黒いマゴと「ゴッチン」してから、寝に就こうとする。すぐ寝ることも、暗闇に瞠目していることも。
2007 9・25 72
* 二時まで、眼を霞ませながら数多く読みふけり、おしまいに、『ゲド戦記』。アレン王子と大賢人ゲドとの、世界の歪みを救いに生死の世界のさらに奥への危険な危険な、ぜひ必要な旅の話。
そして最期の最後はいつものようにマキリップの英語最終巻『風の竪琴弾き』に、夜前はひきずりこまれて、二十頁近く読み進んだ。一度灯を消したが、また灯して読み継いだ。眠くなっていても、この本にたどり着くと読んでしまうから、不思議。
ひとり、灯火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
兼好さんのお説、まったくごもっとも。
同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじかりければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ただひとりある心地やせん。 兼好
ついこうなってしまう。
妻でなければ、ま、ひとり見ぬ世の人を友としたくなる。いい傾向ではないのだが。
2007 10・2 73
* 東大の上野千鶴子さんから『おひとりさまの老後』を、日大の尾高修也氏から『壮年期・谷崎潤一郎論』を頂戴した。
2007 10・5 73
* バグワンに聴いて、ああやはりこれだと、胸に思いがおさまった。
このところ万葉集の巻五で、山上憶良の「詩文」に引きこまれている。日本の「文豪」として山上憶良は最初の一人だと実感する。
太平記は、後醍醐帝の一宮が魂を奪われた恋人・御息所との出逢いのほどの、優艶きわまりない和文を音読し、いささか上気した。太平記はまこと音読でしか読み通せない魅力を、凄みに通う魅力を、もっている。
いましもわたしの底知れぬ不快を癒すのは、ひとつ、見ぬ世の友‥。ふたつ、何のためらいも、うたがいもなく、わたしの横に立っていてくれる人‥。
2007 10・5 73
* 藤村庸軒が利休の孫・千宗旦から利休についていろいろ聴き、庸軒の女婿久須見疎庵がまたそれを書き表した『茶話指月集』は、屈強の茶の逸話集で、おもしろい。いまどきは知らず、利休といい宗旦といい容易ならぬ達人であった。
このところ、機械の前で、やや思い屈すると手に取り読んで楽しんでいる。
2007 10・7 73
* マレーネ・ディートリッヒ、ゲリー・クーパー、アドルフ・マンジューの映画『モロッコ』に感嘆。映画ファンに久しく愛されてきた理由が分かる。ディートリッヒの魅力と貫禄、その所作の美しさ、豊かさ。史上最高の女優哉と思わせる存在感の美しさ。
むりな筋立てだとは思うけれど、それを成り立たせる表現の力。映画の純文学か。
すこし見かけていた例えばショーン・コネリーとキャサリン・セタ・ジョーンズの泥棒映画゜エントラップメント」など、どれほど金を使って作ってあっても商業映画の通俗読み物の域を出ない。同じならシャロン・ストーンの氷の魅惑と美しいセックス・シーンの『氷の微笑』の方に、極限の悪に膚接した魅力があるが、モノトーンの『モロッコ』が描き出す必然の力には勝てない。『情婦』のディートリッヒも立派なものであったが、『モロッコ』の彼女には愛を覚える。ゲリー・クーパーもアドルフ・マンジューもともに好演してくれた。
映画の端的な魅力に比べると、翻訳で読んでいるグレアム・グリーンの『事件の核心』は核心に入ってくるのが遅い。同じグリーンの『情事』には、もっと求心力があり、胸にこたえて感銘が酸のように身を灼いたものだが。
2007 10・7 73
* 明治時代に大和田建樹という、実に活動的な文士がいた。唱歌の作詞もするし美文も編むし博文館から「通俗作文全書」といったものを何冊も何冊も盛んに編集出版した。相当な有名人だった。いま覚えている人はほとんど有るまいが。
いまここに『日記文範』という一冊があり、古今の佳い日記文を親切に聚めて楽しませる。四六版のハンディなつくりで、中身は本居宣長の『菅笠日記』にはじまり、充実。『家長日記』『中務日記』『蜻蛉日記』『讃岐典侍日記』などへも溯っており、珍しい編も少なくない。
そればかりでない、本文の上欄を利して、柏原益軒や新井白石等、近世三十大家の短文がみごとに厳選してある。おもむくままに時々手にして、見ぬ世の空気をめずらしく呼吸しているのだが、編者大和田の「はしがき」も、気に入っている。
☆
おのれ八つ九つの頃なりけん。父は京都詰とて。一年ばかりも家に在らぬ事ありけり。母は其日々々にありたる事を。細大漏さず記しおくるとて。或日おのれに讀み聞かせたるに。何がしより芋の餅を幾つ貰ひしとといふ事あるに至り。子供心にこんな事まで書いてあるとて。いたく笑ひしを。さな笑ひそ。かゝる事を書きてこそ。父上も家にある事まで委しく知ろしめし。又人さまの御親切も貫くわけなれば。御身も成長して後日記かゝんには、さる方に心を用ひよとて。其ついでに、日記かく事の必要を説き聞かされしは。四十年来わが身離れぬ教訓とぞなりぬる。
青年に至りて廣島に遊学せしに。いまは世に亡き小山壽といふ友を得たりしが。父上の命なりとて。日記かく事一日も怠らず。或日学校の教師なる英国人が寄宿舎に来り。畳の上に両足投げ出しすわりしが可笑しかりしとて。畫をさへ添へて父上のもとに郵送せんとせしをおのれにも見せしが。共に見て討ち興じたる事ありき。その時母の教へを思ひ出でゝ。おのれは未だ履行せざるに。友は既に履行しつゝ。しばしば父上を喜ばせもし。笑はせもしつらん事を羨みたりしは。これはた十とせを三つ重ねたる程の昔になりぬ。歳月流るゝ如く。一日の怠は百年かへらず。おのれも三十の頃よりは附けたれども。その前のが有りたらんにはと。後悔せらるゝ事こそ多けれ。前車のくつがへるは後車の戒め。青年諸子に勧めんとすること。獨り日記のみにはあらねども。
午の十一月三の酉の日 編者しるす
* 明治四十年八月十三日の発刊本であるが、「はしがき」は前年に書かれている。句読点の「、」を全く使わない。明治の頃には例があった。
こういう時代の書き癖を知らないと、例えば「ペン電子文藝館」の委員校正でも、よく不審をもらす人がいた。それにしてもあっさりとした事例で趣意をとおした、うまい「はしがき」だ。
具体的に具体的にとわたしは人には言う。なかなか出来ないのだが。つい観念的に書いて気分良くしているものだが、後々になれば、具体的な記事には間違いなく勝ちが生きるが、観念的なのはカビの生えていることが多いと案じられる。
2007 10・14 73
* ルソーの『「告白』に、ディドロやダランベールの名前が出始め、ぐっと興味深い時期に入ってきた。
グレアム・グリーンの『事件の核心』もようやくヘレンと副署長との出逢いに濃い、くらい味がにじみはじめ、グリーンならではの、せっぱ詰まったせつない虚無と懊悩の恋が深まってゆく。俄然深追いを誘われる。
旧約は『ヨブ記』に入って、戦慄の体験が食い込んでくる。しかも彼の信仰のひたすらとは離れたところで、茫然と私は佇む。『総説旧約聖書』との併読で助けられる。
後醍醐の一宮と御息所との数奇の恋と苦難と悲劇的な末期は、ながい一編の物語として独立して読めたが、つらい一編であった。
そして今は、尊氏等の怨嗟と憎念の的となった比叡山を滅ぼすことの是非を彼らに問われた、玄恵法印の衒学のきわみの感歎に値する大雄弁がはじまっている。衒学は気の毒、おそるべき学殖とはいわないが、おそるべき才覚と詞藻。これは弁慶の勧進帳の百倍にあたる咄嗟の延暦寺擁護の弁説であり、すこぶる面白い。
* だが、ゆうべも心に残って深く頷いたのはやはりバグワン、そして『ゲド戦記』でのゲドとエンラッドの王子アレンとの生死をめぐる簡潔な対話であった。簡潔だけれど千万言にあたいした。
ル・グゥインと言う人はあきらかにどこかでバグワンと交叉している、思想的にも語彙の上でも。何度繰り返し読んでも優れた作家だなあと感心するし、ありがたい刺激を受ける。本気で受け取れる。
マキリップの英語も最終巻の三分の一ちかくへ進んできて、モルゴンとレーデルル夫婦のいわば決死行。それはゲドとアレンとの果て知らぬ海上の旅と似ている、彼らは底深い山野の旅であるが。
万葉集も読み進んでいる。全巻の音読はあたりまえ、この先和歌の時代にはいるのが楽しみ。
もう一冊、観世栄夫さんの自伝的演劇論の遺著『華から幽へ』も楽しんでいる。
* 眼はつらいが、良くなるものと信じて、点眼で堪えている。本は読めるうちに楽しみたい。今日は、国立へ幸四郎の俊寛を片目で見にゆく。早く帰ってくる。
2007 10・17 73
* 今夜から息子の新しい連続ドラマだとか。題も覚えられない、なんだかガサツな出演者の前売り口上を、さっき、ちらと見聞きした。しょせん静かに人間の内奥の闇を覗き込む手の仕事ではない。
* 十時から半過ぎまでみていたが、浴室へ。
第一次第二次バルカン戦争から、オーストリア皇太子夫妻の暗殺までを読み、さらに第二次インターナショナルの推移を読んだ。帝国主義の支配者側の強欲非道の暗闘をイヤほど読んできた。これから暫くは、下からの抵抗の動きを読んでゆく。日本からは日露戦争のあと、片山潜が参加している。議長と二人壇上に立ち、万雷の拍手が五分は鳴りやまなかった有名な話は聴いてきた。
2007 10・18 73
* 午になる前に、妻と歯科医へ。そして江古田駅ちかくへ戻って蕎麦の「甲子」で天麩羅蕎麦の昼食。
この店は、堅固な蔵屋敷のように出来ていて、設えが風情に満ち、飾った絵もひときわ面白く、置いた雑誌もよく吟味され、大きな卓も椅子も、そして用いているやきものの食器なども、すべて立派なのである。
蕎麦もいいが、酒と肴のいろいろがいい。肴というより、上品な惣菜。ただし今日は酒も肴もとらないで、あつい汁蕎麦に、大きな海老天麩羅が二本。
で、江古田駅で妻とわかれて、わたしは千駄ヶ谷の国立能楽堂へ。梅若の橘香会。時間をはかって、その前に、喫茶店「ルノアール」で世界史を小一時間読んだ。ひっそりと静かな店内。
2007 10・20 73
* 独特の議会制度を打ち樹てていったイギリスという國には敬意を惜しまないが、近代の「帝国主義英国」の強欲で狡猾であくどい独善支配も群を抜いていて、他国を一段も二段も抜き離している。ことにインドへの徹底的な苛斂誅求にはおどろくほか無い。
インドという國がまたややこしい。中国はあれだけ大きな國だが、中国の歴史には意外に単純なわかりいいものがあり、とんでもない誤解は避けて通れるのだが、インドはあまりにややこしく、ややこしさの中に我々の常識とはよっぽどちがった、よく謂って伝統、わるくいえば理不尽が多すぎる。支配者イギリスのコモンセンスからすれば径庭の甚だしい差異も、彼らをしてインド人蔑視に向かわせたに相違なく、だからといってその狡猾に過ぎた統治の貪欲は、明らかに非道。
だがインド人社会のあのカースト問題だけでなく、言語を絶した女性差別のさながらの生き地獄ぶりにも、憤慨を抑えることは出来ない、わたしでも。
よくもあしくもイギリスという國は、歴史で謂えばつい最近までまこと世界を牛耳っていたんだなあと、愕きながら世界史を学んでいる。毎日、毎日がおどろきである。
だが、その手のオドロキは、いわば啓蒙されているだけで、表面的である。いささかもどう学ぼうとイバレルことではない。じつは物知りになったというほどのことですらない。擦過傷をうけてその痛みで、ああ生きているんだ俺はと自覚する程度である。
* だが『ゲド戦記』やバグワンや、また『ヨブ記』から受けとる自覚は、身内に食い込んでくる。血管注射のように痛く受け容れる。鈍感に慣れて枯れてゆく心身のために、わたしはそういう種類の読書を、まだまだ大切にしている。
2007 10・22 73
* 読んで欲しいと「小説」が送られてきた。中編という規模だろうか、書き出しから、簡潔な、佳い文章で書かれている。少し時間を掛けて読む。
* 「mixi」では、「甲子」老の旺盛な筆意と表現に敬服している。「mixi」でのこまぎれでは作品が惜しい。少しも早く「e-magazine 湖(umi)=秦恒平編輯」に手を尽くしたいと思う。四国の「六」さんはどうされているだろう。
2007 10・25 73
* バグワンの『十牛図 究極の旅』は、第三「見牛」に入った。いま、就寝前に三冊を音読し、床に入ってから九冊を順次読んでから灯を消している。
いま『千夜一夜物語』がべらぼうに面白く、観世栄夫の遺作自伝『華から幽へ』も興味深く読み進んでいる。
この家の近くに、昔、喜多流の宿老後藤得三さんが住まわれていて、榮夫さんは観世流を離れて一時、後藤得三の藝養子になっていたことがある。わたしたちが気さくな後藤夫人と親しくなっていたころは、もう栄夫さんは観世流に復帰のころで、能以外の劇界での多彩で旺盛な活躍はよく耳にしていた。後藤夫人からも良く彼の名前がおもしろそうに口をついて出た。
栄夫さんとのご縁はそれだけではなかった。彼は谷崎夫人の娘さん、恵美子さんと結婚していたから、谷崎潤一郎のお婿さんでもあった。その方角からもわたしは榮夫さんとご縁を繋いでいた。
観世に復帰されて最初の『楊貴妃』から最期に近い『邯鄲』までわたしは幸いたくさんな彼の能をいつも見せて貰えた。『景清』や『檜垣』や、小町の老女ものなど印象に濃い。舞台や映画にふれあう機会が意外に無かったけれど、能は観てきた。彼の生涯を載せた分母は確実に「能」であった。やはり「能」であった。
ひとまわりは私より年かさであったけれど、おだやかにいつも応対して下さり、「ペン電子文藝館」に谷崎作の欲しかったときも、お頼みすると「秦さんがなさることなら、なにも問題ありませんから。どうぞ」と簡単であった。恵美子夫人もいつも親切にしてくださり、夕日子がサントリー美術館への就職を熱望したときも、谷崎夫人の口利きで、じつは、この観世夫人恵美子さんが親しい自分の友人を動かして、只二人の採用の一人に夕日子を押し込んで下さったのだった。夕日子の結婚式にもその三人が揃ってお祝いに参加して下さった、谷崎夫人には新婦側の主賓をお願いしたのであった。列席の尾崎秀樹、加賀乙彦、長谷川泉、紅野俊郎、藤平春男といった人たちが、松子夫人の主賓を、とても歓迎されていた。わたしも嬉しかった。わが谷崎愛のひとつの結晶のようにそれはそれは嬉しかったのである。
2007 10・26 73
* 「ヌル・アル・ディンとミリアム姫」という『千夜一夜』でも屈指のロマンティック長編を電車の中で読み終えた。夥しい数の詩篇が挿入されていて歌物語にもなっている。想像以上に『アラビアンナイト』には読んでいて照れてしまうほどの純愛物語が多いが、純愛であっても、なお濃密にからだで愛を交わしていて、それはもう耽溺というにも近い。そういうところがこの物語の健康に美しいところで、わたしは好きだ。
むかし中河与一の『天の夕顔』を読んだとき、プラトニックに共感していたが、近年に読み直したとき、プラトニツクにわるくこだわっているのがむしろ愉快でなかった。囚われているのはどっちだろう、と思ってしまう。
2007 11・2 74
* 『マスルールとザイン・アル・マワシフ』『アリ・ヌル・アル・ディンと帯作りのミリアム姫』という相次ぐ二編は、千夜一夜物語のなかでもかなりの長編で、ともに、綺羅星のように恋愛詩を織り交ぜ、輝かしい歌物語に仕上がっている。「濃厚な純愛」と謂うと撞着して想われかねないが、それがそのように成り立っていて、何の矛盾もないから面白い。かえって「濃密に清冽な」と謂いたい印象を与える。恋愛はこれが本当だなと想わせる一途さを、文藝として生かしている。面白かった。
ミリアム姫は「フランス国王」の王女でありながら、奪われて奴隷女として市場に出され、自身で、美貌の貧しいヌル・アル・ディンを見つけて一目で愛し、乏しい有り金でムリに自分を買い取らせ、アツアツの夫婦になり、夜ごと熱愛し合い、妻は才藝を発揮して夫を富ませる。しかも自ら基督教を棄てて真摯な回教徒に改宗する。
だが運命はそう簡明ではなく、幾波乱にも見舞われる。だから読まされる。
マスルールとマワシフも、もっとフクザツな運命に翻弄され、文字通りな波瀾万丈に鍛えられ熱愛の度をひとしお高めて行く。凄いような美女のマワシフは、世界でもっとも強暴な魔王最愛の娘なのであり、とても人間の男とは添い遂げ得そうにないのだから、ややこしい。
まあ、これら男女の美貌の表現力はどうだろう、また才藝力量の豊かさは。物語の桁外れな破天荒は。
もうすこし訳の日本語が適切で、ことに挿入詩が美しく訳されていたら、魅力は十倍したであろうにと惜しい。
2007 11・3 74
* オーストリア皇太子夫妻がセビリアで暗殺された。ハプスブルグ家の衰退一途を象徴していたような皇太子と、彼に愛されて三人の子をなしていた宮廷不遇の妃との最期だった。オーストリアとドイツはセビリアに過酷に迫り、ロシアとフランスはセビリアの背後にまわる。第一次大戦の火ぶたがあがる。もう現代史といわねばならない。
2007 11・5 74
* 老大家である鶴見大学名誉教授岩佐美代子さんの、克明な労著である『文机談・全注釈』を頂戴した。
鎌倉時代の「楽人」の遺した、いわば音楽史ふうの説話物語であり、口伝とも見識とも随筆ともいえる多彩な大作に、現代語訳と、詳細な語注や論考や関連付録や索引が付いている。むろんわたしは初見、読み進むのがとても楽しみ。ちょうど文永・弘安、つまり二度の蒙古襲来時期の成立。
「大鏡」の趣向を踏襲したようなつくりでもあるようだ。
* 去年亡くなった親しかった歌人青井史さんの遺歌集『天鵞絨の椿』が、ご子息の手で編まれて上梓された。一冊を有り難く頂戴した。
題が佳い、青井さんを彷彿とする。年をへだて二度も癌に冒されたとは思われない、艶やかに元気そうな和服姿に何度もペンの例会で会ってきた。むしろ体格は豊かに見え、ときに、ひやかしたほどなのに。美貌、心懐かしい閨秀歌人であった。
声援し続けた「鉄幹」研究で、たしか日本歌人クラブ評論賞を授賞し、それが最期になった。わたしの編んだ詞華集にも幾つも歌をもらっている。師匠の馬場あき子の雰囲気をいちばん美しく受け継いだ感じの佳人であった。主宰歌誌「かりうど」の収束も潔く見事だった、感心した。まもなく死なれてしまった。
響灘とよむを聞きて戻り来つ一瞥がよし故郷といふは
夫の作る酢豚少しずつうまくなり老後という時間始まりてゐる
死の日まで言はざる言葉一つもち椿は渾身の朱の色を燃す 青井 史
2007 11・9 74
* 『ゲド戦記』第三巻「さいはての島へ」を読み終えた。
王子アレンと大賢人ゲドとの死の暗黒世界への決死行であった。生死を隔てる扉を不死を欲望するあしき魔法が開いてしまい、よう元に閉ざすことができぬまま、世界は混濁し衰弱しつつあったのを、二人は果てしない旅の果てにその扉にたどり着いて、ゲドは渾身の力でやっと扉をもとのように閉じ、封印した。世界は元気を回復した。王子アレンは久しく空位であった王位につき、ゲドは故郷ゴント島の森ふかくに姿を隠す。だがゲドは持てる大魔法使いとしての力の悉くを使い果たしていた。
なぜか、わが家から第四巻が欠けている。建日子が持ち帰っているか。どこか書店で、新しく探してこなくては。大きめの本屋さんも、入ってみるととても見られた物でない本ばかり溢れていて、欲しい本ははなから諦めるしかない。「本」でない本があまりに多くて、「本」というにふさわしい本ものは書店でも少ない。
* 江古田のブックオフで買ったグレアム・グリーンの『事件の核心』も読み終えた。真っ向からのカソリック小説。この作者は、葛藤をへてカソリックに入信した人。『愛の終わり』ではさほどその臭みはなく、耽溺するように愛読したが、今度のこの作品は消化不良な気がした。むしろ旧約の『ヨブ記』だけを引き抜いて、読みやすい翻訳で熟読してみたい。
いま傾倒するように読みふけっているのは、観世栄夫の遺著『華から幽へ』で、自伝風の経歴譚をぬけだし、能楽の体験にねざした「藝」の言説になると、俄然として興味津々。
ルソーの『告白』は、どうもこの人物の臭みがたまらない。告白でなく、むしろ論考が読みたく、また『新エロイーズ』などの小説といわれるモノが読みたい。
* 妻が、ついに芹沢光治良の超大作『人間の運命』を読了したという。わたしが半年掛けたとしたら、妻は三分の一ともかけず、朝と言わず夜と言わず熱心をきわめて読みふけっていた。口を開けば「次郎さん」であった。
わたしにしても、そのつど作のいちいちを思い出すから、これだけでも夫婦は厖大に話し合い批評しあったことになる。妻には、向いた文体で向いた叙事で向いた表現であったようだ。ひとこで「おもしろかった」のだ。すぐ繰り返しもう一度読めば、いろんな意味で妻の財産ができるだろうに。
折しも作者の息女である岡さんから、来年か、おそくも再来年にまた「ホール」で話して欲しいがと、お手紙を戴いた。わたしもまた読み返すかな。
2007 11・10 74
* 「ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ‥‥」
ル・グゥインは、この、太古の詩句に託しつつ『ゲド戦記』を書き起こしている。詩句もまた『ゲド戦記』の創作であるけれど、古来あらわれた多くの「覚者」たちの覚悟に同じい。真理は、ことばで語った瞬間に真理でなくなる。闇がなければ光は生まれない。死は大海であり、人の生はその一風波にすぎない。瞬時にまた大海に帰る。
ル・グゥインの見解(けんげ)は、みごとなまでバグワンに接している。
2007 11・11 74
* ゆうべ夜遅くなってバグワンを読んでいて、また眼から鱗を落とす思いがした。
わたしは、遅くも会社勤めした頃から、なにより「集中力」を胸の内で誇っていた。最近でもまだそのケが無くない。
集注、あるいは瞬発の決断、自分でつけてしまう決断、も。それでものごとが一気に運んだり展開したりした。ものすごい失敗はしなかった、それは、これからするのかも知れない。
とにかく集中力でわたしは、もの、こと、ひとに向かう「べき」だというほど窮屈に「今・此処」を働かせていた。
☆ バグワンに聴く 「十牛図」講話から 訳者・紹介者の星川淳氏に多大に感謝しつつ゜
集中というのは意識の狭隘化だ 集中された心はほかのすべてに対してごくごく無感覚になる
それに対して瞑想とはこういうことだ
起こっている「一切に」醒めること どんな選択もなく ただ無選択に醒めていること──
十牛詩の作者(=十牛図の作者でもある)廓庵禅師はこう歌う。
私は鶯(ナイチンゲール)の歌を聞く
太陽は暖く、風はやさしく
岸辺の柳は青々としている
ここlこ
牛の隠れる余地はない!
これほどまでの感受性のもとでは どうして牛が隠れられよう?
牛(=無垢無心の本来のおまえ自身)が隠れられるのは
おまえが一つの方向に集注している場合だ
そうすると,牛が隠れられるたくさんの方向ができてしまう
だが,おまえがどの方向にも集中していないとき あらゆる方向に開いているとき どうして、どこに牛が隠れられる?
ビュ-ティフルな詩句だ
もうそこには牛の隠れる余地はない
なぜならば,隅から隅まで あなたの意識に落ちこぼれはないからだ
そこには一つの隠れ場所もない
集中を通しては,かえって逃避の可能性がある
あなたは千と一つのほかのものを犠牲にして 一つのものに目を見はる
瞑想の中では,何ひとつ括弧でくくり出すことなく おまえはただただ醒めている 何ひとつ脇に寄せたりしない おまえはただただ「間に合う」。
もし鶯がうたえば おまえはそれにも間に合う
もし太陽が感じられれば おまえのからだに触れて暖かければ おまえはそれにも間に合う
もし風が通りすぎれば おまえはそれを感ずる おまえは間に合う
子供が泣く 犬が吠える
おまえはただただ醒めている
おまえはどんな対象も持っていない
集中というのは対象を持っている
瞑想には何の対象もない
そして、この選択なき覚醒の中で <心>は消え失せる
なぜなら,心が存続できるのは 意識が狭い場合に限るからだ
もし意識が広かったら 大きく広がっていたら 心は存在できない
心は選択とともにしか存在できないのだ
おまえが 「この鶯の歌はきれいだ」と言う その瞬間、ほかの一切は締め出され 心がはいり込んでいる
それをこういうふうに言ってみてもいい
<心>とは意識の狭隘化状態だ
意識はごく狭い回路を流れる
トンネルだ
瞑想とはただ広々とした空の下に立つこと
すべてに間に合うのだ
ここに 牛の隠れる余地はない!
宗教的探索は科学的探索とは違う
科学的探索、問いかけでは おまえは集中しなければならない 全世界を忘れるほどにまで集中しなければならない
好例はいくつもある
ただ科学的探索では 「牛」は見つからない。 探索にもいろいろある。それは事実だ。
* 集中力で済むことも有る。現実生活では大切な働きになる。しかし心を解き放って、無にして、落としきって、静かに一切と溶け合う「とき」に、「牛」がありあり感じられる。そういう「とき」をわたしは置き忘れがちなタチだ。
2007 11・11 74
* また、とびきり面白い、また長い長い小説を読み出してみよう。
2007 11・13 74
* 西銀座の旭屋で、やむなく、版型のちがう『ゲド戦記』第四巻を、きのう歌舞伎座への前に手に入れた。これに気持ちは膨らんでいる。『太平記』は新田義貞のなにとなく物足りない最期が迫り来つつあって、陰気。
2007 11・15 74
* 待合いで、たくさん世界史の「第一次世界大戦」総力戦の国際状況推移を読み進めてきた。東洋では対中国支配に日本は漁夫の利を得て、ほとんど狡猾なほど悪意の算術で外交を切り回していた。いまの日本の外交と大違いだ。高価な金銭を支払って大量の石油を買い、それを外国の戦争行為への支援に無料で提供し、しかしそんな戦況はちっとも好転していない。それを称して「国際協力」だと。失笑ものである。
第一次大戦のころの露仏英三国協商に加わってイタリアも、ドイツ・オーストリアを裏切り、さんざ断り抜いてきた日本も、中国の利を固めると戦勝後の講和へ加わるべく、ちゃっかり参戦に踏み切っている。列強も、ドイツも、社会主義者まで内閣に加えている。
いまは、孤独な平和への提唱者だったロマン・ロランの挫折し掛けながらも、ねばりづよく「平和への良心」たろうとする発言や行動を見守っている。すぐれた知識人や文化人の多くも戦争に協調を唱える人たちが多かった。だが、国民の疲弊は各国ともに目を覆うばかりのひどさ、日増しに深い。タンク、飛行機、潜水艦、毒ガス。戦場だけが被害を受けるのではなかった。
* 最近、テレビで、小沢昭一がインタビューを受けていた最後の最後の一言に、「戦争はいけません、しちゃいけません」と語っていたのが、胸にしみた。また今、毎夜読んできた亡き観世栄夫さん傘壽直前の遺著、『華から幽へ』でも、実に力強く、戦争への反対を語って、平和のためになら何でもする、何でもしてきたと言い切るのを、繰り返し聴いた。生きがたい時代を、真摯に生き抜いてきた真の「大人」真の「藝術家」真の「藝人」の性根の確かさ太さに、こころからの敬意と共感をわたしは覚えた。
* 歴史に学ぶことを忘れてはいけない。忘れはて、また気も付かないでいるどんなに多くの大事なことに、気づかせてくれるか。
* むろん、気づくだけでは何にもならない。今年ノーベル賞を受けた地球温暖化を警告し続けてきた団体の責任者、インド人の博士が創り上げた「報告書」の科学的な重みを縷々述べていたのを、わたしも聴いた。だが、問題は「報告書」に従って起こす決断であり行動でありその遵守であるが、そのためには強烈な「政治」の施策と指導と達成がなければいわば紙片の山を築いたに過ぎなくなる。それが問題だ、各国の政治が糾合されて一致団結して「報告書」を「活かす」のが、問題だ。
が、わたしはどうにも楽観できない。人間を、人間のエゴと怠慢とを日々に思い知るとき、わたしは、だんだん集団としての人間の誠意が信じられなくなっている。その人間たちが形成している国家のエゴイズムは、もっと甚だしい。そこで蠢いている現代の政治家たちのエゴイズムたるや、さらにさらに甚だしい。
三十年で北極がなくなるというコマーシャルがすげない程、当たり前な声音で流されている。誰がその暗い意味について、おそれ、うれい、たちあがり、手を打って、実現するのか。
若者よ。知性の人たちよ。体力をもった人たちよ。才能と実技にたけた若き有名人たちよ。その個人技をりっぱに達成したときには、人びとが盛んに拍手しているその瞬間に、一言でいい「地球環境」について世に広くうったえ勧めて欲しい、政府と政治家とを動かしましょうと。昨日の野口みずきのマラソン力走は素晴らしかった。あのすばらしさが生む影響力や感化力で、一言アピールしてくれたら、信じられない力への一押しになるはずだ。彼女にはわるいが、ただゴールを新記録で走り抜けただけでは、それでおしまい、それだけだ。人々を感動させたのは素晴らしいが、感動した人たちの、人間の「寿命」が残り少なくては、やはり、はかないではないか。
2007 11・19 74
* 幸四郎・染五郎フアンと思しき人たちの「mixi」足あとが増えている。歌舞伎フアンは決して少なくない。
幸四郎・松たか子が親娘で往復書簡中の、毎月の「オール読物」今月号が、一昨日「高麗屋の女房」さんの手で届いていた。今月はお父上の番で、国立劇場で「俊寛」を演じていた最中の手紙であり、冒頭から俊寛の話題であった。
高麗屋は、「俊寛」の型が、初代吉右衛門で大きく完成したことを書いておられ、まさにその通りだったと思う。そして今も俊寛を演じるのは、幸四郎・吉右衛門兄弟と、この間の演舞場の中村屋がもっぱらであり、中村屋のお父さん先代勘三郎は初代吉右衛門の実弟で、兄の薫陶あってやはり俊寛を大事に演じた人であった。むろん今の高麗屋のお父さん、先代幸四郎も俊寛はとびきりの当たり役だった。
今回の娘あての手紙で当代幸四郎は、繰り返し「俊寛の人柄の優しさ」を強調されている。
また、他の総勢が赦免の船に乗ったあと舞台で、独り残された島娘の千鳥がかきくどく場面についても、たいへん貴重な証言をされている。
あの千鳥の場面を、高麗屋はかつて「長い」と感じていたと言う、が、現在ではべつのことを思って、あの間の長さに意味深いものを認めている、と。
あの「長さ」は、一度は船に乗せられた俊寛の、このまま行くか、それとも船には千鳥を乗せてやろうかと惑い迷う葛藤の時間なのだ、と。
これには教えられた。あ、あ「いい読み」だなと思った。
* 一方 俊寛の「優しさ」ということであるが、言うまでもなく彼が船を下りた決断には、少将成経や新婚の千鳥への思いあまっての配慮がある。
同時に、たとえ京へ帰れても、もう我が愛妻東屋は死んでいるという、すべて詮無き絶望も在る。優しさと絶望とどっちが大きいと比較はならないが、絶望には亡妻への愛の深さの裏打ちがあり、それもまた俊寛の優しさへ帰ってくる評価ではある。
ただ、「優しい俊寛」像は、あくまでも戯曲の作者近松門左衛門の、解釈というよりも創作であり趣向であり、十二世紀の実像俊寛がどうであったかとは、全く別問題なのである。
平家物語諸本を調べ読んでて、容易に読み取れるのは、俊寛のいわば剛情我慢であり、我執偏屈であり、決していい人柄には書かれていない。また鬼界島に流されて以後も、成経、康頼ともに神仏への祈願行業に熱心であったのを、俊寛独りは見向きもせず頑なで無信心であった、少なくも信仰厚い高僧善知識とはとても見受けがたい人物であったと書いている。
もともと鬼界島への流罪は、公の罪ではない、清盛一人の怒り・怨みに発している私刑なのであるが、ことに俊寛に対する清盛の憎しみには、そういう俊寛の性質もかなり加わっていたらしく読まれる。彼一人を鬼界島に置き去りにする憎しみはいかにも過酷な、わざとの仕打ちであり、それが、ひいては「平家悪行」の最も象徴的な行為と世人の目にも映じて、ここから急激に平家は衰運へ滑り落ちて行く。
平家物語での実にそういう微妙な位置に俊寛事件は大事に布置されている。同時代人の目に、俊寛は平家を呪い落としたのである。その点で、讃岐の崇徳天皇と鬼界島の俊寛とは、並び立って平家の栄華を呪う大怨霊だった。金毘羅と厳島への信仰もついに平家一族の海没を救い得なかったのである。
* 俊寛のそんな怨念を、みごとに清く救いとったのが、近松門左衛門であったことになる。彼は、貞女東屋の自裁、千鳥と成経の祝言という二つの虚構を用いて、俊寛に絶望と慈悲心との二つをあたえ、餓鬼道、修羅道の苦をさながら現世でもう味わい尽くして、のこるは往生浄土のみと、自ら鬼界島に「居残った」のであり、ここに平家物語の「置き去り」俊寛ではない、別の新たな俊寛像を創作したのだった。
高麗屋さんの「俊寛の優しさ」発見も強調も、近松の「居残り」俊寛において、正確な「読み」になる。船へ未練の「おーいおーい俊寛」で終わっては近松の趣旨に添わない、それでは平家物語の無惨な俊寛のままになる。
演舞場の勘三郎も、国立劇場での幸四郎も、近松俊寛の「絶望と優しさ」に共感した頓生菩提のけはいを漲らせて、わたしを喜ばせたのであった。
2007 11・25 74
* マキリップの英語版『イルスの竪琴』第三巻もじりじり読み進めて楽しんでいる。同じく『ゲド戦記』第四巻も。
旧約の『ヨブ記』をもう読み終える。『総説・旧約聖書』は、預言者エレミヤについて読んでいる。
『アラビアンナイト』は、今手にしている巻を通過すると、九百何十夜かにたどり着く。今は大臣と王子とのしかつめらしい賢人問答が続いている。
世界史は、一次大戦後を左右する、クレマンソーとロイド・ジョージと、ウィルソンとの会談が始まろうとしている。
はっきり言ってルソーの『告白』は、つまらないと言うより好きにならない。よほどへんな性質の人だ、ルソーというのは。
いま床に就いてからは、これだけを読んでいる。就寝前の音読は『万葉集」巻八、『太平記』がもうすぐ二十巻を終える。バグワンの『十牛図』は道半ば。
2007 11・26 74
* 猪瀬直樹氏から新刊が送られてきた。
日本の人口が、去年をピークにもう可逆の可能性もなく、このまま世紀末には五千万ほどに減るという。ほぼ四十年前に専門家から警告され、二人目の建日子を生むことにしたあのころからの私には「常識」なのであるが、まだまだ地球温暖化問題ほども、人は日本の人口問題に怯えていない。
わたしは、来世紀は、つまり百年もしてもし日本列島の寿命があったにしても、日本国はどこかの大国の植民地、いまのアメリカの属州的地位よりもっと被支配的な鉄鎖に喘いでいるだろうと考えている、もしも人口問題に適切な対策を持たなければ、の話。
「対策」というのが難しい、増えはしないだろうから。増えないで減って行きながらの「対策」である、政治家がまだそれに神剣に発言しているのを聴いたことがない。
猪瀬氏の本の出だしは、問題提起が利いている。なんだか、懐かしい気分で読み始めている。
* 国文学者の島崎市誠氏から漱石と関連周辺を論じた一書も贈られてきた。たしか『こころ』論がご縁でもう長くお付き合い願っている。論題が「漱石」である、ぜひ読みたい。
2007 11・26 74
* バグワンと万葉集と太平記とは、朝のうちにヒドイ小声でもう読んでおいた。太平記は二十一巻、いわば第三部に入った。後醍醐は吉野に逼塞し、護良親王は鎌倉で討たれ、楠木正成は覚悟の戦死をし、新田義貞と北畠顕家とはほとんど犬死にし、南朝側の第一次の主役たちはほぼ姿を消している。ひとえに後醍醐天皇の不徳の反映である。太平記自体はまだ半分残っている。麻のように乱れた主役不在の皮肉な「太平」の記になる。読みたい欲はかたっと落ちるが、乱世とお付き合いをする。
2007 11・28 74
* 何故かわが家にも新約聖書と讃美歌集とがあり、秦の叔母がある時期に人から貰っていたものではないかと察しられる。一編の小説がそこに横たわっていた気もする。
二書ともに今もわたしの座右にあり、新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ傳だけは何度も読んだ。般若心経はべつとしても、仏典とは、もっと遅れて出逢っている。
いま私は「旧約聖書」の「詩篇」を読んでいる。旧約を読み、新約聖書を全部読み通すまで、まだ数え切れない歳月を要する。
知識は求めない。救われを願いもしない。ただ無心に読んでいるだけであり、それで足りている。
2007 12・5 75
* とても快調という体調ではなかったが、『ゲド戦記』第四巻を読み終えたところで、第五巻を、楽しみに鞄に入れて病院に行った。これがあればかなりの時間を待たされても苦にしないでおれる。
久しぶりにナースの新担当、とても懇切な面接で恐縮した。優に三十分。こりゃタイヘンだ、後続の人は。懼れていたほどひどい血糖値でもヘモグロビン値でも悪玉コレステロール値でもなく、先月より少し値高い程度で済んだ。
2007 12・7 75
* 『ゲド戦記』は一巻が面白く、二巻は更に面白く、三巻はさらにさらに面白く、四巻も、人はどうであれ十二分に面白い。そして五巻の華麗さは、またひとしお。わたしは、まるでバイブルかのようにもう何度繰り返し読んできただろう。
ゲド、テナー、レバンネン、テハヌー、ハイタカそして龍のカレシン。
マキリップの「モルゴンとレーデルル」の英語も、おもしろく進んでいる。
2007 12・7 75
* 子規の高弟というよりも「客分」のような先達に、内藤鳴雪翁がいた。明治四十年十一月に博文館から出た『鳴雪俳話』一冊が、私が少年の昔から家にあり、今もこうして手に取ることがある。
夜前、なにげなく多く採拾されているいろんな発句俳句を拾い読みしていて、いささか趣味に投影させていた。明治元年には京都に遊学していた人で、後に文部書記官にも任じていたが、つまりは子規の盟友だったとだけ覚えている。
文字通りいろいろな視点から述者の好む又は批判する句を多く取ってあるなかで、季節はずれながら、目に入った一句にたちどまった。
中間の堀を見てゐる涼み哉 木導
「中間=ちゅうげん」は、邸奉公、武家奉公している奴・小者のことだが、いいしれぬ彼または彼らの境涯が物静かに見えて、興を惹かれた。伴をしてきた主人の用の済むのを待っているとも、仕事の合間の休憩とも想われるが、たんに「堀をみてゐる」一句の働きのたしかさ、よろしさに感心した。
「涼み」「涼しさ」の句は少なくない。みな、かなりに、句にする前から「趣向」している。これが過ぎるとかえって暑い。
こんな雅な本ともいっしょに育ってきた。建日子は、たぶん読むまいなあ。本の処分を考えるとき、今にして頭が痛い。
2007 12・8 75
* 吉田博歌集『にび色の海』を戴いた。友人のご主人、理系の老学究である。八十近いとうかがっている。
全編を拝見して、近年から作歌に臨まれたということも分かるが、歌のセンスに、初々しい抒情味と、久しい人生を歩んできた人の把握の深さとが、こころよく入り交じって読めるのが個性的で、好もしい。
全巻をおおって、断然重みを成しているのが、全五章のさらに前に置かれた一首であり、じつは初めにこれを読んで、一瞬畏怖し緊張した。これほどの歌で一巻がうずめられていたら、ちょっと怕いなと。
一刷けのあかねを乗せし朝の潮いさりを終へて舟帰り来ぬ 吉田博
優れた写実味をもちながら、述懐の深みに久しい「人生」を静かに省みた自愛が溢れている。なにごとでもない情景と見えて、措辞のたしかさだけが表現しうる象徴性をもっている。他者にも自身にも丁寧に懇切に生きてきた人なのだなという感歎を、わたしは全編を通読して惜しまなかった。
歌の巧拙はいろいろに批評できるであろうが、此処に紛れない「私史の玉」が光っていると思った。
2007 12・9 75
* 咳喘息で声もつぶれ、しばらく音読が出来なかった。今夜も未だムリだろう。
あと三週間の今年だが、すこし落ち着いて半端にうち捨てられてきたものを、こまめに元の軌道へ戻しておこう。思い切ってすべきことにだけ集中してきたが、大方は、本来ならしなくて済んで当たり前のことだった。今の私だから出来たことだが、もし勤務などあったら対応できていなかった。
2007 12・9 75
* たくさん本を戴く中で、ちかごろ感心したのは、横手一彦さん・長崎総合科学大学の研究、『被占領下の文学に関する基礎的研究』論考編・資料編二冊、及び大著『敗戦期文学試論』一冊である。
コロンブスの卵のように、こう目の前に見せられて、「ああ、こういう視野も視座も視線もありえたはずだ、有り難い仕事だな」と賛嘆した。
モノの譬えにも、あの被占領下にどれほどの文学作品が、文学的論策が「発禁」ないし厳重指導をうけて日の目を見ずに終わっていたか、「資料編」は目をみはる事実を、ほぼ網羅してくれる。
日本国が占領軍による被占領状態、GHQの支配下にあったときが、有る。「敗戦」という事実の前に喘いでいたときが、有る。それをすら、われわれは忘れかけている。志賀直哉の『灰色の月』や徳田秋声の『無駄道』のような一体何がといぶかるような作者や作品を介して、「敗戦」が省みられ「検閲」の爪痕が具体的に指摘されていると、思わず粛然としてしまうものを、わたしなどは年齢的にまだあのころ小さな少年であったにかかわらず、身内に抱えている。
* 優れた批評と思想とに導かれて成ったこういう研究書を、わたしが「私」していては勿体ない気がする。横手さんについては、何も知らないが、何かの機縁でこういうご本が戴けたことを、誇りにすら感じる。
* 喜多隆子さんの歌集『系統樹の梢』は、この人の第三歌集になる。最初の歌集から戴いている。古代史の巣のような「大和」の奥深くを呼吸している歌人で、措辞も表現も個性に富んでいる。大和には、東淳子さんのような優れた歌人も暮らしているが、それをいうなら吉野山にも大きな歌人がさながら蟠踞している。「大和短歌」といってもいい近代短歌群が、前川佐美雄の昔から在る。わたしの生母も、その末の末流にいて歌を作っていた。
* 喜多さんの一冊の中で、これは大和短歌とは関わりない一首ながら、ふと目にとめたのが、
母妹に養はれつつ養ひき 子規山脈に女岳(めだけ)なかりき 喜多隆子
という批評の歌、慨嘆の歌で。
子規門には短歌に伊藤左千夫、長塚節らがあり、俳句に高浜虚子、河東碧梧桐らがあり、そういう彼らの末へ行くとことに俳句には幾らかの女岳も目立ってくるが、第一次の山脈には、なるほど「女岳」は皆無にひとしい。何でもない指摘とも大きな批評とも着眼とも謂える。
洛陽の紙価を高めるわけではないが、歌壇には喜多さんばかりでなく、日本国土にしっかと根付いた表現で、ゆるぎない個性と達成をかかえた女歌人はまだ何人も実在していて、虚名にうわずらない地の塩の味わいで「日本語を磨いている人」たちがいる。実にくだらない歌しかつくれない人もいるが、じつに確かな言葉の持ち主もいる。
* 四半世紀をこえて親しくしてきた多摩の詩人に中川肇氏がある。中川さん、最近『一行詩集』を出して贈ってきて下さった。無季の句も多く混じっていて、ただそれだけのことではない思いから、「一行詩」とされたのだろう、わたしは全編を読んで気に入った詩に爪印をつけていった。年代の新しい作、古希に近づき古希に達した近来の詩に多くそれが附いたのは、めでたいことであった。箱入りの佳い趣味の本で愛蔵に堪える。半世紀以上も昔の作には、
春の土手校長の子と喧嘩する 中川肇
がある。見えるようだ、が、わたしは「春」を推敲できないかしらとも思った。近年の作では、
身にしむや頼みの綱の主治医老ゆ
秋の蝉みんな空見て死んでゐる
待宵や切ないほどのまた明日 中川肇
などへ来る。最後の句にあえてほのかな春愁も読みとりたい。
* 岩波新書、藤田英典編『誰のための「教育再生」か』が著者連名の挨拶付きで贈られてきた。『なぜ変える?教育基本法』のいわば第二弾。「いまの改革では学校は崩壊する」とうったえた研究報告の声である。
2007 12・11 75
* 同僚理事の倉橋羊村さんから『おはよう俳句』を、関西の笠原芳光さんから『日本人のイエス観』、ペン会員のつつみ真乃さんから句集『水の私語』を頂戴した。
毛布にてわが子二頭を捕鯨せり 辻田克巳
こんな句を倉橋さんの本ですぐ見付けた。笠原さんの本を今夜から読書のうちにすぐ加えてみる。『総説・旧約聖書』『旧約聖書』そして『日本人のイエス観』とならぶとわたしの関心を示唆するようにみえるが、関心は関心にしても関わりようはあっさりしている。無心の関心である。
2007 12・13 75
* 今井清一さんから、『横浜の関東大震災』というご本を戴く。
2007 12・14 75
* 戴いた四国の玉井清弘氏歌集『天籟』をしみじみ読んだ。
はじめて玉井さんの歌集に出逢い、朝日新聞の短歌時評でとりあげて、もう四半世紀に近い気がする。この人の短歌を読んでいると、短歌という述懐の確かさが信頼されて、嬉しくなる。本ものの文体が毅然と立っている。女の人では、米田律子さんや北澤郁子さんの短歌にもそういう意味の感懐をもつ。
ずいぶん不確かで味ない歌集もいくらもいくらも在りすぎて心許ないけれども、けっしてそんなのばかりではない。ただ、これらの歌人より世代を一つ二つ若くしたときに、そこから確かな安堵をどれほどの歌人が得させてくれるか、その辺わたしは不案内である。求めて探しに出歩いてもいない。
2007 12・16 75
* 何度も手洗いに立って咳き込んだ。ラクな会議ではなかったが、空腹にもたえかね、また用事もあったので、帝国ホテルのクラブで、ブランデーで海老フライを食べ、来年用のダイアリーを受け取って、帰ってきた。食べ物も酒も、いまひとつ胃の腑にしっくりしなかった。
往き帰りに世界史の「第一次世界戦争」を読み終えた。世界史は、あと二巻になった。
2007 12・17 75
* なにかしようしようと思うより、ゆっくりしなさいしなさいと自分に勧めている。やすめるときに、よくやすめばいい。
昨夜『ゲド戦記』を五巻「アースシーの風」まで充足感で読み終えた。世界史は、いよいよ、ヒトラーとナチスへ来た。
2007 12・18 75
* たくさんなクスリ負けではなかろうか、視力がくらく落ちている、霞んでいる。しばらくやすんでいたバグワンや太平記の音読もまた始めたのに。
新しく、つのるほどの気持ちもあって、また、『夜の寝覚』を読み始めた。源氏をくりかえし読んできた眼には、読み患うことのほとんど何もない、いっそ平易な古文である。ワケがわからないが、すこぶる懐かしい物語世界である。
是に比べると、成り行きで読み進んでいるものの、ジャン・ジャック・ルソーの『告白』など、なんていやみな読み物だろうと思う。岩波文庫三巻本の下巻に入っているが、気分的には棄ててしまいたいほど。
2007 12・22 75
* 就寝まえに 『夜の寝覚』を読み始めると、どきどき胸がさわぐ。「中君」という、いわば日本の小説で女主人公としてすっきり独り立ちした最初のこの女人に、よほどわたしは心惹かれているのだ、『ゲド戦記』を通して読み終えて、今度はこの作がわたしの街日の読書群の芯になる。
* あっというまに眼が疲れて霞んでくる。「サンテビオ」をさすと一瞬に視野がクリアになる。ドライ気味なのであろう。
2007 12・23 75
* 師走の街は、黄葉がまだ足下にまぶしい。寒かったが、心静か。はげしく咳き込むこともなく、右目の潤み霞みもほぼ平常に戻ってきて、乗り物に乗っている間は夢中で世界史の「ニューディール」と「スターリンの大粛清」を読んでいた。そして「榛名」で佳いメニュのフルコースをゆっくり楽しんだ。シェフの面倒見がとてもよく、辛いめの、重いめの、シェリーと赤ワインも美味かった。わが歳末はおだやかに過ぎてゆく。感謝。
2007 12・26 75
* 原典『平家物語』を聴く会から、巻第一を贈ってきてもらった。喜多郎のテーマ曲ではじまり中村吉右衛門が「祇園精舎」野村萬斎が「殿上闇討」その他「祇王」を平野啓子が、「鹿谷」を片岡秀太郎が、語っているらしい。DVDのようだ。亡くなった梶原正昭さんらが監修している。お付き合い久しい山下宏明さんらが推薦されている。事務局の古場英登さんから鄭重な挨拶を戴いている。恐れ入る。
2007 12・26 75
* インドとパキスタンとの核保有をグズグズに容認してしまったのは、核戦争の脅威をよほど現実の物にしてしまったと、わたしは歎いてきた。中国、北朝鮮、そしてロシアも。東アジアは核の帯で締め上げられている。
わたしの世界史は、恐慌とニューディールのアメリカ、大粛清と一党独裁のソ連を通りすぎ、いよいよ満蒙で牙をとぐ日本軍国主義の俄然擡頭の時代、田中義一内閣の時代へ来ている。凄い、としか言いようがない。
いっそ『千夜一夜の物語』世界が、懐かしいアジールのようですらある。
『太平記』は、後醍醐天皇も吉野で崩御。護良も正成も義貞も顕家も武時も長年も、みーんな死んでしまって太平記はまだ半ばに達したかどうか。
いまわたしの読み進んでいる本でいちばんアホらしくなっているのはルソーの『告白』だ、ルソーという書き手のキャラがイヤになっている。
2007 12・28 75
* 昨日、日本史には女性崇拝の騎士道の顕著例は見あたらない、その意味でもドラマ『瑤泉殿の陰謀』に注目したと書いた。それを妻と話題にしていたときも、むろん『南総里見八犬伝』のことが出ていた。
ただしあの場合はただに慕わしき女性ではなく、厳格にいえば八犬士たちの「母」が崇拝されている。無垢の無欲のまま女人を思慕し拝跪し男が身をささげた高貴なほどの事例は、残念ながら見あたらない。坂崎出羽守には欲と面子がある。「狐忠信」の静への思慕などを辛うじて数えておくか。
第三部も、おもしろく観た。
2007 12・31 75
* 『三四郎』の三四郎が『それから』の代助、『門』の宗助になるのではない、これはよく読み誤られている。野々宮宗八が代助の前身であることは、美禰子と野々宮との関係を正しく読んでいれば容易に分かるのだが。三四郎は『こころ』の「私」の前身なのである、わたしの読みでは。
2007 12・31 75