ぜんぶ秦恒平文学の話

読書録 2008年

 

* ヒットラーと「SS国家」を読み進んでいるが。国家自体が狂を発しているようで、気が、暗む。イタリアのムッソリーニといい、ソヴィエトのスターリンといい、第三帝国へかけのぼるヒットラーといい。人間が人間を権力で徹底的に支配する快感に惑溺してしまう時代。あのころだけに限られているとは言えない。支配する者もイヤだが、存外に支配されたがる人があまりに多くて、それで過酷な「彼ら」の支配が可能になるとも見えてしまう人間の歴史、それが、情けない。

* 年賀状の中に、今こそ「大連立」絶好の機会と期待している人がいた。
昔からよく知っている、やや世代上の人であるが、この人など、ヒットラーのような支配者が圧倒的にあらわれ、一律に人間を絞って染め上げてくれるのを、「大安定」とでも思って率先忠誠を誓い、「ハイルヒトラー」などと手を高く上げ長靴を打ち鳴らして至福の顔つきをするのだろうかと、ヤンなっちゃう。
わたしはイヤだ。
2008 1・5 76

* 『翁』だけで失礼し、目黒から山手線で上野へ。最終日の『ムンク展』に十五分ほど行列して入る。一点一点詳細に観ようという気ははじめからなく、「ムンク」が諒解できればよかった。ああ、そうか。さもあろう。そう思いつつかなり広い会場と沢山な展示に納得して、出た。お山を一人で歩く気はなく、そのまま池袋に戻って、メトロポリタン・ホテルの地下「ほり川」で美味い鮨を食い、売店で妻の服を物色しておいて、保谷へ帰った。
往き帰りの車中、ナチスドイツとのかかわりから「ユダヤ」の歴史と、ユダヤ人に対するあまりに無惨なナチスの絶滅政策にいたるさまざまな思想的・政治的無道の経過に読み耽っていた。それと「翁」の能とが並列で同居しているわが脳裏の繪図は奇態であるが、どちらにも真っ直ぐ「気」を向けることが出来る。
2008 1・6 76

* 『千夜一夜物語』は、文庫本二十一冊の第二十冊目に入った。『世界の歴史』はいま第十五巻の第二次世界大戦。もう一巻の戦後編で読み上げる。
ルソーの『告白』もほどなく読み上げる。新しい超長期読書に、もう一度芹沢さんの『人間の運命』を読み、さらに谷崎潤一郎全集を全巻読み通してみようかと思っている。
建日子に、わたしの蔵書にはあまり興味がないらしい。とすると、各種の全集・個人全集・事典・辞典・署名本・限定豪華本などの処分を考えておかねばならない。受け取りに来てさえもらえるなら、気合いの合ったタイミングで贈り物にしても構わない。主な蔵書のリストもつくっておこう。なるべく本も溜め込まないようにしてきたのだけれど、必要やむをえず多彩に溜まっている。
2008 1・6 76

* マキリップの英語、佳境の上り坂をじりじりと登っている。かなり眠い晩も、これを読書の最後に手にするとふしぎに睡魔が席を譲り、楽しんで読める。いまはこれと千夜一夜がおもしろい。いやいや『夜の寝覚』がある。懐かしくそして面白い。勝手な言い分だが昔に『慈子』をかいていたさなかの夢のような陶酔感がこの「中の君」の物語にはある。作者は、わたしの好きな宇治の中君を念頭に置いていたのだと想う。
2008 1・8 76

* ヒトラーの自殺、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆投下で、第二次大戦終わる。『世界の歴史』はもう一巻。
2008 1・8 76

* 仮名手本忠臣蔵が太平記に取材していることは、聞き囓ってきたが、いまちょうど、その箇所を『太平記』で音読通過中で。
芝居でも吉良上野に当て込まれた高師直が、浅野内匠頭に当て込んだ塩冶判官の絶世の美女妻に横恋慕する。あげく判官切腹に至る話となるが、ここで立ち止まってみたのは、恋慕へのきっかけになった「価値判断」の問題で。

* 溯って平家物語の好話柄であるが、源三位頼政はいわば「和歌徳」に助けられて恋いこがれた美しい官女菖蒲の前を与えられる。太平記ではそれが鵺退治の褒賞であることを語り、褒賞も褒賞だが、「所領」でも与えられたなら有り難いが、月並みの「美女」ではつまらぬではないかと、ひがみ半分の冷やかしが出る。
それに対し、「さにあらず」という、はなはだ人間的な粋な反論が出る。とどのつまり塩冶の妻の美しさの極みが口さがない或る女から縷々語られて、これに高師直が権勢をかさにきて飛びついたのである。仲を取り持てとその女に強要し恐喝したのであるが、その顛末はわたしの今の関心にはない。

* 恩賞として土地人民を賜るよりも、美女の情けを汲む方がもののあはれも美しく至福のことであるという意見が、ずかっと飛び出している点、はたしてこれ如何と。
一国一城に比して下し置かれたという茶の湯の道具、茶壺や釜や茶碗や茶入れの話は信長秀吉の時代の話題である。師直らの太平記はだいぶん時節が溯るが、わたしは、あまり茶釜や茶壺のはなしには気乗りがしない。しかし所領か、絶世の女かとなるとどうだろう。まして好いた女であったならどうだろう。
新田義貞にもそんな話がある。あの那須与一にもあったと伝える本がある。平忠盛にもあって、清盛出生の秘話が出来ている。藤原鎌足の「安見子えたり」の場合もそうのようであった。
土地という所領と生身の女という比較はあんまり生々しいけれど、この価値観の差はかなり人別の基準に成りそうに思う。わたしなら、おれならと密かに思いが分かれそうなところが面白い。わたしは。さて。
2008 1・8 76

* 絶対王政もイヤだが、世界史を第二次大戦の終局から戦後体制にまで読み進んできて、なにがいちばんイヤかといって、「ファシズム」ほどイヤで怖ろしいモノはない。十把一絡げに括り上げて、生き地獄の業火に投げ込んで行く支配と権力の体制。それはやはり「帝国主義」のひときわ悪辣な変種であり、ナチドイツほどである・ないは別としても、我々日本人も軍国支配に奈落まで蹴落とされた。

* 天皇や皇帝がいるから帝国主義と謂うのではないことを、よく理解しなければならない。「グローバリゼーション」というとなにか世界の安定と平等を誤解するヒトも多いけれど、あれが実は「帝国主義」の一つの同義語なのである。
例えば困っている国に金を貸すかわりに港や鉄道や河川の利用の権利を得て、其処を足場になにもかもを絞り上げて行く。「高利貸し」の徹底した収奪と支配との機構、それが「帝国主義」であり、その最たる本家は、謂うまでもないイギリスであり、フランスであり、その何倍もの勢いを第一次大戦後に得ていたアメリカであった。
ヨーロッパは衰弱し、アメリカ帝国主義が世界を席巻してきたが、対抗して中国がかつてない実力を持ち始めているのが現在であり、ロシアも復帰しつつある。
かつてのドイツやイタリアやロシアや、今の中東勢力など、みないわば英仏米の帝国主義からの苦し紛れの反動で藻掻いて出た、毒性の強い亜種の帝国主義を演じて失敗したり擡頭したり抵抗したりしている。

* 怖いなあと思うこと。
「ヒトラーの最期」の瞬間まで、じつは彼はドイツ国民の多くから見放されていなかったという事実、支持もあり信頼すらあり、まだヒトラーに希望と誇りとを持っていたドイツ国民が少なからずというよりも、多く存在していたということである。
ファシズムの長いモノにぎりぎりと巻き上げられていて、その苦痛が希望かのように錯覚できる人間が、いないどころか、大勢あの瞬間にもいたという事実をわたしは恐怖する。そういう心理の人たちこそが、ともすると「大連立」といったファシズムに希望をもつのだから。

* そして今や誰でもない、地球が痛めつけられている。憤然と地球の反撃が加速度を帯び始まっている、のに、むろん私も含めてだが、みな、まだ、タカを括っている。まさか。まさか。まさか。そう思っている。

* 第二次大戦後の世界に特徴的なのは、よかれあしかれ巨人的な政治家がいないこと、とは誰もが気づいている。そしていったい、どういう政治家を人はいま期待しているのだろう。ヒットラー、スターリン、毛沢東。「大連立」などを期待している人は、いっそ彼らの再来を待っているのだ。わたしは、断然、御免蒙る。戦時宰相のチャーチルも遠慮する。
これだけアメリカ不信のわたしであるが、総合点としては、あの「ニュー・ディール」のフランクリン・ローズヴェルトの業績に、説得されるモノが多い。

* いま、「九条の会」などが引っ張って「憲法」の話題が小さくない。
憲法に期待する人は、一つ覚えのように「ワイマール憲法」を言うし、もっと溯って「マグナ・カルタ」このかたの革命的な英国憲法を讃美する。わたしも讃美する、けれど、あのワイマール憲法を高く掲げたドイツは、ヒットラー第三帝国のナチズムの人質になり虐殺されるまで、ほとんど条文の理想は護られてこなかった。店晒しにホコリをかぶっていた。
理想的な憲法が理想的な政治に結びつくという確信は、かなり錯覚に近いことも残念ながら、事実なのである。
日本の憲法は自慢してもちっとも構わない勝れた前文、条文を持っているけれど、総理大臣や東京都知事等第一に遵守義務のある連中が公然と軽蔑の言葉を憚らないというケッタイな関係にある。憲法の前に、政治家の質、国民の質が問題なのである。その点で、不安なのは日本人はあのヒットラーを最期までおおむね支持していたというドイツ人と気質的に近いモノを持っていかねないことだ。
2008 1・9 76

* 四人組が追放され、華國峰が主席だった中国に招かれて、北京の人民大会堂で、周恩来夫人(当時、いわば国会議長に相当する副主席だった。周恩来首相が亡くなって間がなかった。)と会った。「秦恒平(チンハンピン)先生は、お里帰りですか」と諧謔のアイサツを受けた。
井上靖夫妻以下のわれわれ作家代表団は、滞在仲、何度か演劇や舞踊を観に劇場に招かれたが、「長征」を主題にしたものに一度ならず出会った。
いま、あの戦中の中国での国共合作や対立、そして二次三次の「協商」を経ながら蒋介石の勢力が優勢から劣勢へ転げ落ちるように大陸を追われて行く、まさしく毛沢東共産党の中国に成ってゆく推移を、「世界の歴史」で読み進んでいる。世界をして瞠目させた中国共産党の戦時戦後「解放区」政策の、奇抜にして合理的な成功など、興味深い。
2008 1・12 76

* 『夜の寝覚』のような古典のうちの古典を、わたしは、まるで勝れた現代文学を読むかのように、ヒロインに、また男の、身にも心にも思いを添わせて夢中で読める、のに、また『千夜一夜物語』の途方もない恋物語に熱く思いを添わせて夢中で読めるのに、また過ぎにし人類の久しい興亡の歴史に、真率に思いを添わせて真剣に読めるのに、昨日今日の新聞が読めず、政治や経済のニュースが読めない。その気にならない。
その気になって耳を澄ますのはむしろ地球があげている呻き声の方だ。どうも調子が狂っているようだ。
2008 1・12 76

* 昨夜は、夕食後に寝入り、日付の変わった時刻に一度目覚めて、十冊の本を順繰りに読み、また寝入った。寒い夜だった、加湿し温風器をつけて寝た。歳晩から愛用していた軽量の電気ストーブは、日夜使いすぎたか傷んでしまった。
2008 1・14 76

* 二時近くまで読書し、六時に目覚めてあまり寒いので床のなかで読書し、とろとろとまた寝入った。
2008 1・15 76

* 終盤へきて、名残惜しいほどに『千夜一夜物語』がおもしろい。たがの外れはじけた面白さ。類型があるのに類型の空疎さをはねかえすオリジナルの魅力、それは人間のもった熱い情念・情欲にたいする無垢・無類の肯定と信頼の姿勢にある。「こころ」という頼りないものより「からだ」という生きて働くものへの親愛と肯定とを、神の意志につなぎとめて、奔放なのである。

* 『夜の寝覚』もすばらしい。源氏物語でわたしが終始一貫愛してやまなかったのは、紫上であり、ひいては宇治の中君(なかのきみ)であるが、寝覚の中君は、この二人の聡明と力とを全的に一身に負うて、しかもこの物語の「ただ一人」の女主人公なのである。
源氏ではすばらしいヒロインたちが何人も何人も登場して華麗な絵巻をなしているが、寝覚は、一人の女主人公の希有の人生にひたと焦点を結んで、ブレない。しかも没個性のお姫様ではない。物語の最初から女としては堪えがたい悲劇的負担に傷つきながら、あくまで愛らしく堅固な意志と聡明さで「生活」を自身統括して行く人である。そういうヒロインは、平安・鎌倉の物語で希有そのもの、現形はまちがいなく源氏物語の紫上であり中君である。その、いわば近代文学ふうの典型化に成功している。
懐かしい限りの夢のような世界であるのに、堅実な小説世界でこのヒロインは生き抜いて行く。読み進めるのが、わくわくといつも嬉しい物語である。
作品はじつは大きな欠落部ももち、完結していると言えない、のに、最も優れた彫刻作品のトルソのように、十分完成度を保ってくれているのも嬉しい極み。ねがわくは勝れた現代語で現代人に親しまれ、原作が堪能できる環境が創られて欲しい。

* 『仮名手本忠臣蔵』が高師直と塩冶判官との遺恨沙汰から展開すること、この二人が南北朝の頃の実在者で、険悪な関係からついには判官の美しい妻も師直の手に追われて自害し、判官も討たれて死ぬにいたる経緯は、『太平記』なかでも最も長編に属する劇的話題である。
昨夜は、奥方が家来に胸を刺させてこときれ、幼子の泣き叫ぶところを音読した。ゆっくりゆっくり読み進んでいる。声に出して「読む」のにこれは最良の軍記。わたしの文体も多少ならず感化されてしまっているかなあ。
2008 1・16 76

* 元、東大教授の山中裕さんから、人物叢書の新装新著『藤原道長』を頂戴した。山中さんとは、四半世紀も前か、横須賀へ講演に出かけた会場で声を掛けて頂いた、それ以来の仲で。いつも励まして頂く。有り難うございます。
2008 1・16 76

* 猪瀬直樹氏の菊池寛と文藝春秋を書いた作の、文庫版をもらった。

* 山中先生の『藤原道長』を、もうゆうべにだいぶ読み進んだ。
2008 1・17 76

* 今日は、これから築地、眼科の診察。

* 病院へ出がけの寒かったことは。ダウンのフードをかぶりたくなった。『世界の歴史』は、「鉄のカーテン」「冷戦」そして「朝鮮戦争」勃発まで来た。
:検査無しの眼科診察ははやくすんで、よかった。両眼とも「眼圧」問題なく、かすかなアレルギー(花粉症など)がみられるが、しつこかった「結膜炎」は良好に治癒傾向と。三人目の医師で卓効を得たのがありがたい。「ドライアイ」はなんとかかわして行くしかあるまいが、点眼薬は四種類に、二つ減った。
空腹の快感をかかえたまま、寒さにも背を押され、街歩きはやめて一直線に帰ってきた。「ひとりから」の原田奈翁雄さんの電話に、あやうく間に合った。久しぶりに元気な声を聴かせて貰った。
2008 1・21 76

* ついに『千夜一夜物語』千一夜のシェーラザッドの物語をおもしろく、今日、聖路加の帰りに、読み終えた。大団円をも、読み終えた。これまた俄に感想にしてしまいたくない、が、読んでよかったなあと感謝している。この世界を知らぬまま死んでしまっては残念だ。わたしは、この世界と人と物語とが、親しく嬉しく大好きになった。荒唐無稽と観たり感じたりするのはこっちの勝手なのであり、荒唐無稽にリアリティを感じさせてしまう懐の大きさ広さ深さに感歎したのである。ギリシァもローマもそれなりにとてつもなく大きいけれど、この「千夜一夜」語られた物語達のとてつもない大手をふりひろげた陽気もまたただものでない。
しかも今日のあのややこしい中東世界の世界的に混雑した印象を、ふしぎにしっかり下支えて、なにかしら希望ももたせてくれる。わたしひとりのこととも思われず、無類に感情移入が利くのである。喧嘩なんかせずに仲良くしたいなと思えるのが嬉しかった、と言っておくか。
2008 1・21 76

* 『ソフィーの世界』というベストセラーがあった。少女ソフィーが、不思議の手紙を受け取り続けて「哲学」の歴史を学んで行く。
本が買ってあった。息子が持って行った。読んだか読まぬか戻ってきたので、わたしが読み始めている。
「哲学」という学問は、わたしが大学院で研究対象にする筈だった。それをわたしは一年で擲ち、東京へ出て小説家になった。理屈があったのではない、結婚して家庭を持ち職を持ち、そうしながら勉強したいと思った。そうしたのである。結果、東工大がわたしに専任教授の席を用意してくれた。それも人生。
わたしには「哲学・学」を思い切る気持ちが出来ていた。「哲学する」のはいい。それは大切だろう。そのために「哲学学」の知識や思索がぜひ必要とは思えなかった。ヴィンデルバントの著をはじめ哲学史には学んだけれど、人生の、また安心の「役」に立つわけでない。
静かな心になれて安心の境涯にこそ入りたい。厖大な哲学の森は、所詮哲学は、そういう安心の域にたっするに「何等の役に立たないことを厳として人に理解させる」ためにのみ、存在する。哲学の功とは、哲学学は「安心」の役には立たないと究極われわれに分からせてくれる点に在る。わたしがそう思うだけではない、二十世紀最大の哲学者といわれたヴィトゲンシュタインが、それを示唆していた。
『ソフィーの世界』への入り口にはふたつの問が置かれてある。だが、感想は言うまい、さきを読んでみたい。

* 一昨日、とうどう補遺・補注にいたるまで、浩瀚な『千夜一夜物語』を悉く読み終えた。満足した。
もう一度読み返してみたいと思わせる強烈な余力と主張をこの世界は、ガンとしてもっている。魅力は「アラー」神への絶対の信仰にあるのではない。おそるべき「人間肯定」の無垢と言いたい図太さにある。
2008 1・28 76

* よく人を呼んで「先輩」「先輩」と遣っている図が、わたしは好きでない。しかしまた、先輩・先達をこころよく受け容れるのはとても大切なことで、それの出来ない人は、性格的な歪みをかかえていることが多いと眺めてきた。今でも、そんな図はいくらも眺められる。
仕事師といえるような人で、よく出来る人ほど、その道での先輩・先達の名と業績とその意義を、「歴史」として謙虚に心得ている。感銘を受けることが多い。歌舞伎のような伝統藝能でだけの話ではない。文学・文藝の道でも殊にしかりとわたしは思っている。

* 何度も書いているが、わたしは赤貧の新婚生活で、講談社刊の「日本現代文学全集」を一冊ずつ買っていった。百十巻ほどあったから、完結まで十年かかっている。上京結婚就職してちょうどその「十年め」に、わたしは『清経入水』で太宰賞をうけ作家生活に入った。
それまでの勉強は読書をはじめいろいろあったと思うが、いちばん大きな本質的な励み・励ましであったのは、毎月毎月一巻ずつ増えて行く全集の背文字に、先輩・先達の作家や詩人や評論家の名前を目にも胸にも刻み、年譜を熟読し、いかに優れた大勢が此の道の前を歩んで居られたかを、身にしみ承知したことであった。最大の勉強であった。先達のなかには名前すら知らなかった人もいた。そういう人の仕事にもわたしは謙遜して触れていった。多くの出逢いがあった。
「新人」の生活にはいり、作品を次々世に問い、評価も得て本がバカスカと出版されて行くと、つい世に置き忘れられたかに見える先達を、心にあなどりたがるものだが、わたしは、それだけはしなかった。後輩が先輩をしのいで追い越して行けばこそ「道」はのびてゆくのであるが、その「道」たる善し悪しは、なかなかそう簡単に評価はできない。歴史は厳しい。

* わたしは、いま、ほとんど、昔で謂えば「出家」したような生活をして世に遠のいているけれど、視野には、久しい文学文藝の「歴史道」が過去から未来へかけ展望できている。人の評価は相対的で、しかも絶対の価値を追究しなければならない。先達の踏んだ道を自分が今踏んでいることを忘れたなら、「道」の歩みはなによりも資性として、人間として危ういのである。知らぬがナントヤラの愚かな「只の現在人」になってしまうと、ハダカの王様になる。
2008 1・28 76

* ずっと「世界の歴史」の社会主義圏を読んでいた。「人民公社」「大躍進」より以前の毛沢東中国の一見みごとな「政治的」成功にはおどろくが、筆者(蝋山芳郎氏)の主観的評価があまり称賛に傾いて少なからず意図的に甘い気せぬではない。毛沢東の劉少奇と交代して一旦下野以降の、よく纏めた、よく検討し追究した「中国現代史」が読みたい。ソ連でのフルシチョフの登場から退場までのスターリニズム一掃へのソ連や東欧のあがきぶりにも関心があった。
なににしてもこの中公版文庫本の刊行から、すでに三十数年経っている。現代史という以上は、日本史も世界史もその三十数年にこそ学びたいものだが、良い記述の歴史はまだ書かれていないか。
2008 2・1 77

* 国立京都博物館の元館長、興膳宏さんから岩波新書『中国名文選』を戴いた。総説の中国語概説が要領を得ていて先ず面白かった。これから毎夜、各説を読んで行く。
哲学史の『ソフィーの世界』は、ギリシアの自然哲学を、すんなり通り抜けて行く。分厚い重い本だが、気にしないでさらさらと読んでゆく。いま一つ重い大きい本の『宇宙誌』は妻が読んでいる。
山中裕さんに頂いた『藤原道長』は、文献に即し手抜かりなく手堅く書き継がれる研究者の学風が慕わしく、安心して納得し納得しずんずん読む。一条天皇がなくなり三条天皇の御代。九条流の道長と小野宮流の実資との暗闘確執。二代続いての二后併立。道長の信仰。正妻倫子と妾妻明子。おおかたは識ったことだが、だからこそ文献的にきちっと説き進めてあるのが、安心。
深い共感で読んでいる『夜の寝覚』はこの道長の頃から一世代以上あとの物語。一人の大納言が美しい姉娘の婿になる直前に、互いに誰とも知らずに世にもまれな美しく愛らしい妹娘の方と結ばれてしまい、娘は妊娠してさらに愛らしい女の子を出産する。その秘密の関係がたがいに解きほぐされてきて、表沙汰に噂がひろがりはじめている。そのアンマリドマザーになった妹娘「中の君」が、この物語の真の主人公として、聡明に人生を追って行く。二三頁ずつ惜しみ惜しみ読んでいる。
旧約聖書は『詩篇』百五十の半ばを読んでいる。『総説』では「哀歌」や「箴言」の解説を読んでいて、はやくそこへ行きたいが、まだだいぶ先がある。じりじりと進んでいる。わたし自身は「エホバ(ヤハウェ)」への信仰を持っていない。神的なちからをわたしは決して否定しないが、人格化された神を信じる足場をわたしは持っていない。それにもかかわらず、「詩篇」のひたぶるな信仰のことば、おもいの激しさに胸うたれることは、しばしば。
2008 2・2 77

* 山中裕先生に戴いた人物叢書『藤原道長』を夜前、読了。
本書の一つの意図に、道長への久しい「誤解」を解く、道長個人という以上に平安王朝の「摂関政治」といわれた政治体制への機械的な誤解を解くということがある。道長の人物は、彼の政敵とまでは言わぬまでも歯に衣きせない批判好き本家筋の藤原実資による『小右記』に、もっぱら拠って描かれ気味であった。だが、それではどうも偏跛に流れる。
また道長の体現していた摂関政治は一人独裁の乱暴なモノでなく、むしろ律令制に応じ「陣定(じんのさだめ)」を基盤の「合意・衆議」を原則として重んじていた。またさもなければあれほど満ち足りた穏和な時代は出来上がらなかった。『大鏡』も『栄華物語』も道長讃美をこととしているにせよ、またそれなりの説得力はもったのである。その証左たるに足る道長自身の『御堂関白記』(この後生の名付けは間違い。彼は関白にはならなかった。)が豊富に「道長自身」を表現してくれている。
山中さんは、道長の栄華を肯定的にあとづけされ、たしかに彼の「内覧」に任じて以降の栄華と幸福とが分かりよく示されている。

* その一方、彼道長の「栄華」なるものの数量的・文化的な解説もほしかったし、源義家ら武士「侍」の実態や当時地方勢力の胎動なども、また都の治安・不安の実情なども相対的にもっと知りたいところ。
十一世紀初頭の平安文化はすばらしい、が、当時の京都が放火もふくめて火災の巣であったこと、いわゆる庶民と貴族との格差が天文学的であったことなども、見ないでいてはこまるわけである。
栄華という以上、例えば道長個人の国家から受けていた報酬・給与がどれほどのものであったか、具体的に示されていたら、驚愕のあまり読者は卒倒するだろう。

* たまたまものの下から見付けたラボセンター製作の絵本、日米語対訳の『大草原のちいさな家』を英語で読み始めている。ささやかな地の文と会話で進められるのは、センターの活動として、こういう絵本で英語劇を各地で演じているから。
わたしは同様に『なよたけのかぐやひめ』の日本語作品を書き下ろした。その依頼を受けたときの見本として貰っていた絵本だった。マキリップの『イルスの竪琴』を英語で読み続けて一日も欠かしていないが、絵本の英語はきっぱりと分かりやすく、楽しい。
『かぐやひめ』の英語もつづいて読んでみよう。
2008 2・6 77

☆ 蕨野行 毛沢東 そして、闇  鳶
郵便局から書籍小包で本を送りました。明日あたりお手元に届くでしょう。
先日来、HPで映画『蕨野行』についての思いを書かれています。わたしの手元の文庫本、そして何年前の録画か不明なのですが、舞台で演じられた『蕨野行』のビデオ。 映画の印象にどのように作用するか、いっそマイナスの作用をしないかとも案じますが、送りました。
作者村田喜代子氏、彼女は福岡県の人、作品の持つ不思議な魅力に同じ九州の森崎和江氏や石牟礼道子氏の名を思い出すのも自然な流れかもしれません。何やら土着の、巫女的な微妙な、しかし力強い牽引力があります。九州にこのような女たちが生息することの意味を考えさせられます。
映画『蕨野行』、そして『青幻記』 どちらも以前見て、今回は懐かしく懐かしく、そして悲しく悲しく涙流して見ました。涙の量が多い分はそれだけ歳月がわたしに流れた分でした。
もう一冊は中国現代史の理解の一端になればと思い、二段組みの小さな文字が難点ですが、興味のある箇所だけでも拾い読みされたらと思い、送ります。
現代史は、蝋山氏の本から既に三十年以上経ても、なお確かなものは書けないでしょう。が、書き直されなければならないでしょう。アメリカ人ジャーナリストの記述が普遍的なものでなくとも、何がしかの視点を与えてくれると思います。
毛沢東の、中国共産党のあり方に私自身はかなり批判的な思いをもっています。
ムリをしている、頑張っていると鴉は案じてくださいますが、わたしは多忙な商家に育って親たちの働きを見てきたせいか、自分が苦労しているとは思えませんし、頑張ってもいないと思います。最近の心身の不調は・・突き詰めたら甘えではないか。今はその甘えを認めてゆっくり過ごすしかありません。
眼をとじ、無際限の闇になって闇をみる体験を。これはとてもむずかしい!
「闇は眼そのもの、その眼は意識。他は、無。日ごろ想ったり考えたりしている何ひとつも、じつは「無い」と分かります。すこし静
かになれるでしょう。」
静穏安らぎの境地?
目を閉じひっそり体を休めて回復を願って耐えている時、それでも闇は漆黒の闇ではなく、さまざまな色彩やありとあらゆる光の筋や束の限りない形を眼裏に出現させます。
幼い頃からその闇は脅威の闇ではなく、驚異の闇でした。
「無い」と否応なしに感じつつ、それでもそれでも「無い」と覚悟することは、愚か鳶にはむずかしい。
今日も冬の空、時折時雨れます。
どうぞくれぐれも、お体大事に大事になさってください。

* からだを働かせて動くことは、できるだろう。自分で自分と果てしなく相撲をとっていると、疲れる。

* 書庫に、文化大革命のころを克明に再現し検証した本が一冊有り、読んで暗然としたことがある。
中国へは四人組が追放された直後のまだ荒れ模様のときに、井上靖氏らと訪問した。熱烈歓迎された。なにもかもオドロキであった。その現代中国を、「書く」気にはならなかった。「あさって」にはもう変わっているだろうと感じていたから。
二十年後にまた招かれ、画家の松尾敏男氏やバイオリニストの千住真理子さんらと訪中した。中国の変貌ぶりにも仰天した。前には鄧小平の影も形もあらわれていなかったが、後には、あの鄧小平時代がもう没後のいかつい顔の江沢民主席時代だった。何もかも、前と後と、とても同じ国とは思われなかった。
『蕨野行』にはすぐ手は出さないだろうが、中国の現代史は読んでみたい。

* いま、興膳宏氏による、中国の名文といわれる「文言」例を、毎晩熟読している。
明治の類似の版本を何冊も秦の祖父が遺しておいてくれたが、おいそれとは読めない。それにしても「文言」なればこそ、訓読しないで読み取れることk多いのには、多々感謝してきた。わたしは仏典は、訓読したものより、そのまま音読する方で親しんでいる。その方が煩雑な訓読よりずっと早わかりがする。早わかりというのも危険で尊大すぎるけれども。
法華経でも華厳経でも大経でも、法然さんの選択集でも、いきなり音読の方が大意がとりやすい。自分では訓読できない。訓読してある漢文なら読める。だが舌を噛みそうになる。ハハハ
208 2・6 77

* 書庫に、文化大革命のころを克明に再現し検証した本が一冊有り、読んで暗然としたことがある。
中国へは四人組が追放された直後のまだ荒れ模様のときに、井上靖氏らと訪問した。熱烈歓迎された。なにもかもオドロキであった。その現代中国を、「書く」気にはならなかった。「あさって」にはもう変わっているだろうと感じていたから。
二十年後にまた招かれ、画家の松尾敏男氏やバイオリニストの千住真理子さんらと訪中した。中国の変貌ぶりにも仰天した。前には鄧小平の影も形もあらわれていなかったが、後には、あの鄧小平時代がもう没後のいかつい顔の江沢民主席時代だった。何もかも、前と後と、とても同じ国とは思われなかった。
『蕨野行』にはすぐ手は出さないだろうが、中国の現代史は読んでみたい。

* いま、興膳宏氏による、中国の名文といわれる「文言」例を、毎晩熟読している。
明治の類似の版本を何冊も秦の祖父が遺しておいてくれたが、おいそれとは読めない。それにしても「文言」なればこそ、訓読しないで読み取れることk多いのには、多々感謝してきた。わたしは仏典は、訓読したものより、そのまま音読する方で親しんでいる。その方が煩雑な訓読よりずっと早わかりがする。早わかりというのも危険で尊大すぎるけれども。
法華経でも華厳経でも大経でも、法然さんの選択集でも、いきなり音読の方が大意がとりやすい。自分では訓読できない。訓読してある漢文なら読める。だが舌を噛みそうになる。ハハハ
2008 2・6 77

たまたま、今朝早くに読み返していたのが、「酒壺へ奔った皇女の恋」というわたしの古い原稿で。で、話題に関連の柴又をふいと思いついた。前から、もう一度行ってみたかったのである。
一つには前に入らなかった川千家という鰻と川魚の店に寄ってみたかった。で、店が自慢の鰻重のほか、鯉こく、鯉のあらい、うざく、海老の天麩羅を注文し、酒を二合呑んできた。気楽な店であった。
駅近くの喫茶店で小憩。店のママに、柴又に「癒されましたでしょう」と笑われた。「おおきに」と礼を言ったら大いによろこばれた。上方の出かな。
日暮里と高砂との間は特急だと一気にノンストップ。金町線に乗り換えれば柴又は、すぐ。七十二の「おにいちゃん」になった気分で駅に降り、また乗ってきた。「さくら」と呼びたかったが柴又駅のホームに人影もなかった。大きな川をいくつも渡って行く。入相の空はかすかに遠い夕茜が、たちまちに深い紫から藍いろへひき沈んでいった。
なじみのすくない電車にすわって、用もなくぼー然としているのは、いい。そのためにも春よこいと呼びかけたい。ま、そんな結構な春が来るとは想いにくいけれども。
2008 2・7 77

* 播磨の「鳶」さんから、文庫本の『蕨野行』と劇化された上演ビデオ、それに、中国の現代史をアメリカ人夫妻の特派員が共著した大冊とが、贈られてきた。感謝。
『蕨野行』を今は妻が吸い込まれるように読み進んでいる。わたしは、映画がじゅうぶん自分のなかでこなれて定着するのを待ち、それから観て、読んで、みる。
その前に、中国現代史の方を、今夜からの読書に加える。
「中国」という国は、たぶん今世紀の我が国にとって、とてつもない重荷になり、さまざまな方面からたぶん苦しめられるだろうとは、この「私語」にもじつに早くから、懼れて言い及んできた。この本は、おそらくわたしの難儀な予測を、いやが上に例証してくれるであろうと、かなり憂鬱でもあるのだが、通らずに済まない、「地球温暖化」にも優に現実に匹敵する「中国」なのだからと、覚悟して読んで行く。これから地球上で超弩級の火花の散る地域は、もう間違いなく東洋、極東であるだろうと予測する。
2008 2・8 77

* 偶然だが、中国のものを、二冊併読している。
一つは興膳宏さんに戴いた『中国名文選』で、序章「中国の文章を読む」についで先ず「孟子」次ぎに「荘子」今は「史記」を読んでいる。ほんの抄読で物足りないが、とりまとめ全十二章でいわゆる中国「文言」の推移には、適切にふれることが出来る。面白いし、有り難い。
もう一つは現代中国を語る『新中国人』。
夫妻であるアメリカ人ジャーナリストのN.クリストフ S.ウーダンの共著で、原題は『CHINA WAKES─ THE STRUGGLE FOR THE SOUL OF A RISING POWER』とある。一九八三年七月頃からの体験・見聞・取材に基づいている。この日付は、まだ若き法律学徒だった夫クリストフが、ウーダンとの出会いより早く、英国留学から米国へ帰郷途次に、モンゴル経由の汽車から中国朔北の古都「大同」に、初めて途中下車した時を示している。
「大同」とあるのに、わたしは先ず感慨を得た。わたしが井上靖夫妻、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏ら、また日中文化交流協会の白土吾夫・佐藤純子理事らと、中国政府の招きで訪中し、北京到着数日の滞在後に、夜行列車で、戦後初の日本人一行として向かった先が、雲崗石窟で名高い「大同」であった。一九七六年、昭和五十一年十二月初め、酷寒、だった。
あの折の感動は忘れない。そして、唯一の訪中国記念の小説『華厳』は、この大同を舞台に書いた。華厳寺の大壁画に取材した明滅亡の歴史小説であった。手だれの読み手達ほど、諸手をあげて称賛してくれた。
何度も書いてきたが、此の訪中時、中国全土の壁という壁は「大字報」つまり糾弾ステッカーで覆い隠されていた。熱烈歓迎されて宿泊した北京飯店では「昨日も」ここで「武闘」があったと聞かされた。文化大革命に猛威をふるったという「四人組」が逮捕追放されて間がなく、周恩来首相が亡くなって間がなく、遺体はまだ公然安置されてわれわれも対面した。人民大会堂では国会議長格の周氏夫人が我々を迎えた。主席は若い華国鋒だった。いたるところで高らかに国歌が放送されていた。北京だけでなく、北の大同ですらそうだった、南の杭州、紹興、蘇州、上海、みな同じで、紹興の秋槿烈士の碑の前では、一行の車に投石すらあった。我々は咄嗟に下車して碑前に黙祷し、車を進めることが出来た。

* その六年半後に、この『新中国人』の一人の著者が大同の土を初めて踏んで「中国」に接していたのだ、わたしは、わたしの初訪中後の中国史が読みたかったのである。幸いにも『文化大革命』を回顧し総括した実録ものをわたしは一冊だけ読んで、あらましを承知しているがその後のことは知らない。
二十年後の訪中では、別の国へ来たかと思うほど中国はもう変容・変貌して見えた。
驚くほど大冊だが、読み始めた印象では「中国」の中国人にとって問題点と、例えば我々日本人らにとって中国や中国人の何であるかという問題点とを、近未来向けにかなり適確に観察し予想しているように思う。しっかり読みたい。
2008 2・11 77

* メールを読んだり「mixi」の日記やコメントを読んだりしているうち日付もとうに変わっている。
じつは、昨夜中に起きてルソーの『告白』を一気に、補注や「告白以後のルソー」という一文も含めて、読み上げたものの、心底暗澹とした驚嘆で、あとを曳いている。感想を書こうと思うとかなり時間がかかるが、書かずにおれないタチの暗澹たる驚嘆であった。
もう一つ、興膳さんの『中国名文選」中の一文が、また枯れ葉を巻く疾風の印象で、これは不快どころか、共感豊かな刺激的な名文・書簡であったものの、これについて書くのも、かなりの精力を必要とする。
この二つがドスンとアタマの道を塞いでいるので、この夜更けに、歌舞伎の評判をする元気も余力も今夜はない。潔く今夜は機械の前を撤退する。やすんでおかないと、昼夜顛倒の暮らしになる。それでも夜の読書だけはしておく。
『イルスの竪琴』の英語、モルゴンの孤独な苦闘とともに難渋を極めた、が、ようやく、先の明るみが窺える。
2008 2・12 77

* ルソーのこと、書き出すとたいへんなことになる。が、一言で言うと、この思想の偉人は、とほうもない被害妄想狂だった。誰も彼もが邪悪卑劣に自分を陥れる陰謀で連携していると思い、終生それへの分の悪い「いくさ」を続けた。
しかも彼の感じる「被害」の火種は、けっしてすべて妄想とは否定できず、終始また広範囲にくすぶって、時に猛火をふきあげた。投石もされたし命の危険もあったし、彼への執拗を極めた「逮捕状」は、実は死ぬ日まで実効をそなえて存在し、警察も彼の非難者達も、最後は、要するに見て見ぬふりで通したのだ。
しかし彼が普通の刑事犯や民事犯であったのではない、歴史をゆるがし動かした幾つもの著書に対する非難が、いたるところで彼を苦しめ著書もしばしば焚かれた。だが、またそれほどに廣く多く読まれ、各階層の世人を刺激してやまなかったのだ。
彼は天才的な文学作者であり、思想上の大著述家であり、作曲者・劇作家ですらあった。実に大勢がルソーを敬愛し庇護し交際し、しかもルソーの存在に辟易もし顰蹙もし荷厄介にもした。その才能に嫉妬する者達もたしかに多かったが、その思想を危険視する人たちは、庶民にも貴族にも官吏にもまた貴婦人達にも多かった。ルソーの三部に及ぶ『告白』は、ひたすらそういう陰謀や中傷や悪評や名誉毀損に対する必死の反駁であり弁明であり言い訳であり、挑発と挑戦とであった。
さいごに彼は猛烈な威嚇と脅迫とをはらんだ逮捕状を執行され、逃亡生活に入り、点々としてイギリスにも渡りながら、いたるところで自ら窮し自ら紛争し、徹底的な孤独に追い込まれていって死ぬのである。彼の生涯渇望したのは、人に愛された平和な「幸福」であったが、完全にそれに絶望して「孤独な不幸の極」に死んでいった。
しかし、彼の小説『新エロイーズ』は十八世紀ヨーロッパの最高のベストセラーであったし、その思想はフランス革命を掘り起こして実現へ導いた。人類の歴史が発見した最も刺激的な思想家の一人として、「新時代」をすら彼は「創作」し得たのである。
だがその人となりはあまりに屈折し、理解に苦しむものがある。
彼は多くの女性に愛され、容易に深い仲になって行けた。子供も出来た。ところが、彼はその子供達を一人として育てることなく、その行方すら知れぬまま施設に擲って顧みなかった。一人の女性とは二十五年間同棲し、愛し合い、子を何人もなしながら、不遇のドン底に転げ落ちてから、やっと正式に結婚した。子は捨て育ちのままだった。
信仰の問題でも彼は最も多く時代の各層から顰蹙を買ったように思われるが、そこに彼の新しさと主張の在ったろうことは容易に察しがつく。

* 簡単には言いのけてしまうことの出来ないジャン・ジャック・ルソーがいた。そこまでは、わたし、何も知らないで来た。そして深夜、驚愕のまま眠れなかった。
2008 2・13 77

* 電車では往きに李白の文を読み、回れ右の帰りには文庫の『蕨野行』を読んでいた。
2008 2・14 77

* 小説に組み合いながら、そばの機械で北林谷栄の「語り」のDVDをしみじみと聴いていた。
先ず映画を観、ついで語りの演劇として観、最後に原作の小説を読んでいるのは作者の村田さんには申し訳ないが、たいへんけっこうな順番であった。吸い込まれるようにこの世界に、わたしは自在のよろこびで、かなしみで、安心と不安とで溶け入っている。わたしがあらゆる創作を創作として品隲するとき、この「蕨野行」は一種の原点となる気がしている。是と比べてはどうであるか、と鋭角に問いかけるであろうと思う。
2008 2・14 77

* 興膳さんの『中国名文選』が興深く、食べながら呑みながらズンズン読む。李清照の『金石録後序』まで十二章、よろこばしく読了した。
孟子、荘子、司馬遷、叔夜(=ケイ康)、陶淵明、劉キョウ、李白、韓愈、柳宗元、歐陽修、蘇軾そして李清照。まさしく名文そろいで襟を正した。そしてそれら名文は、今をさることほぼ九百余年から千年から二千四百年前の著述でありながら、例えば今日、西暦二千八年の東京の真ん中で、或る程度選ばれた文士達が二十数人首を揃えて語り合った一切合切に比しても、遙かに人間と人生との本質にしかと触れていて、心捉えて放さぬ魅力と説得力と課題に富んでいる。
彼らの理解で明らかに「七十過ぎ=老」境に入っているわたしは、それ以上の「九十過ぎ=耄」碌に紛れ入る前に、もはや生死の自覚にかすりもしない事柄とはなるべく離れて暮らしたいが、これは「自覚」の問題であり、たんに現象的な事柄できめられない。
理事会は理事会で大事なのである、ただ飼われた「羊」の役でのみ、席に座っていてはならないだけのこと。
2008 2・15 77

* 夜中、とうどう『世界の歴史』を読み遂げた。
『日本の歴史』第一巻にはじまって『世界の歴史』第十六巻まで合計四十二巻。小さい活字のそれぞれ五百頁以上あり、二万何千頁。
読み終えて、ほんとうに面白かった、嬉しい。全頁に紅いペンを手にして臨んだ、斜め読みはしなかった。
学校では、日本の十八世紀以降今日に至る近現代史は「必修」にして欲しいが、指導する人たちの精神に中正を求めるのが容易でない。世界史は、やはり近代に重きをおいて伝えて欲しい。「帝国主義」の邪悪を見つめて欲しい。

* 興膳宏氏の『中国名文選』が好著であった。読み終えて嬉しさがしっかり胸に残った。山中裕氏の人物叢書『藤原道長』も読み終えて良かった。
ルソー三冊の岩波文庫「告白』も複雑な感動の内に読了、『千夜一夜物語』の厖大な読書の嬉しい余韻は、まだ身内にジンジンしている。

* すべて、知識を得た嬉しさでは、ない。「人間」にふれた感触が、厳しく、暖かく、畏怖に満ちている。そして、視線は自身の「闇」にむかう。
2008 2・16 77

* 色川大吉さんから、先生提唱の造語として知られた「自分史」の纏め『わが六○年代 若者が主役だったころ』を頂戴した。この題だけで賛同する。
わたしはあのころも社会運動の面ではまるで「主役」ではなかったけれど、時代は「若者」が前面に立ち、ことに老年は、聡明にその尻押しをしているときが健全だという考えに終始変わりない。「九条の会」のように老人達が顔を売って、遠巻きに若者が黙りこくっているというのでは、逞しいエネルギーは盛り上がらない。
色川さんの「自分史」はこの前に『廃墟に立ちて』を頂戴している。わたしよりきっちり十年一世代の先達である。わたしは六○年に安保デモに参加し、そして父親になり、六二年夏からひっそりと独りして小説を書き始め、六九年に太宰賞作家として立った。わが六○年代が、たしかに在った。
そろそろ三月初めの「憲法九条談話」の用意もしなければ。
2008 2・17 77

 

* 新潮社から出た、ニックとシェリルと共著の『新中国人』の追究のするどさに驚嘆している。予想をはるかに超えていながらも、予想をほとんど逸れていない、そんな毛沢東以来の「凄さ」に、暗く、頷くばかり。この「凄い」には称賛や感歎はほとんど含まれない、顔を背けるような気分である。
著者夫妻はピュリッツア賞を受けているニューヨーク・タイムスのベテラン特派員。現代世界とその歴史に思いを凝らしている者には、避けて通れない記述に溢れている。
共著の夫人は、中国人の両親から中国人の名をもって生まれたアメリカ人であることも、この本の毅い一筋になっている。

* 古典『夜の寝覚』が、相当量の欠巻を超えて、美しく静かに心理的にすすんでゆく。男に、姉の夫となる男に、互いに誰とも知らぬままレイプされて美しい女児をひそかに産んだヒロイン「中君(なかのきみ)」は、それと知った男・大納言のあらたな恋慕をうけながら、大納言の叔父・老関白の後添いとなり、関白三人の娘達の義母として、関白の死後、娘達のためにも、みごとに家政を運んで一家をきっちり保って行く。男の愛欲から身を凛と持して、しかも情けあり精神的に自立し、孤心を抱いて生きて行く王朝の希有の女ごころが、着々と「表現」される。
研究の成果で、欠巻部分の大筋もかなり精緻によく辿られていて、その補足を借りれば物語大意は、ほぼ損なわれることなく進んで行く。懐かしやかな世界であり、夜ごと古文との出逢いが楽しめる。

* 『イルスの竪琴』は大部の三巻建て。その物語も、前の二巻はことごとく細かに頭に入っていたけれど、最後の三巻目は、詳細に原作の英語を追って行くにつれ、これまで自分が第三巻めの読みを疎かにしていたかなと思い知らされる。
英語ははなはだ難渋するけれども、ことこまかに叙事されていて、毎晩少しずつ大森林や大曠野を行く思いのまま、逐語的に描写を追うていると、あ、そうだったのかと新たに物語のディテールから驚嘆を新たにされることが多い。先を急いではならないと、辛抱よく英語を噛み砕いて、呑み込んでいる。ほんとうに、おもしろい作だ。
2008 2・17 77

* 色川大吉さんの自分史『わが60年代 若者が主役であったころ』に惹き込まれている。結婚式に三笠宮さんが出られたこと、媒酌人は宮川寅雄先生であったこと。なんという懐かしさ。
三笠宮は、敗戦から間もない時期に、オリエント学に成果と著書を出され、皇室なる世界を「牢獄」という表現で、理性的に断定された画期的な宮さんであった。わたしは戦時中少年の頃に母か叔母かの婦人雑誌で、この宮さんの結婚秘話のような記事を読んでいたのも忘れない。
宮川先生は日中文化交流協会の理事長をされていた美術史家であり、かつては「コルトのトラ」と異名された非合法戦士であった。すばらしい人格者で、もし敬慕という文字を使えるなら生涯に実に数少ない敬慕の人であった。
珍しくお宅へも何回も伺い、繪を戴いたり焼き物を戴いたり、そして『初恋=雲居寺跡』など激賞して戴いた。阿佐ヶ谷の飲み屋へもいらっしゃいと誘われたりした。その宮川先生が、色川さんの媒酌人だったとは、なにとなくご縁の深さを感じる。
色川さんはまた今井清一さんと同窓であられたと。これにもご縁を感じる。
「ペン電子文藝館」館長のころ、わたしは通常の作品掲載の他にもいろいろ企劃し実行していったなかに、例えば「反戦・反核」特別室や「主権在民」特別室を創設している。その後者の場合の直接の契機・刺激は、色川さんの中公文庫『世界の歴史』の一冊であった。また今井さんの一冊であった。いまもお二人からは著書を戴いたりお手紙に接したりしている。もしも波長の合うところがあるのなら、宮川先生のお導きかしらんと嬉しくなる。人生も七十の坂につっかかるようになってから、わたしは色川さんに、今井さんに知り合ったが、誇らしく、喜んでいる。亡くなった小田実さん、いまもお元気な真継伸彦さんらとの浅からぬ交際も、また同じ。

* 興膳宏さんに戴いた本の中で、ことに喜ばしく読んだ「嵆康」のことを書きたいと思っても、その名の文字が再現できないじれったさで、手が出ない。まえに門玲子さんの著書・著述を「ペン電子文藝館」に貰いたかったときも、漢文の漢字再現が幾つも不能で諦めざるを得なかった。
ともあれかくもあれ、『中国名文選』の第四章『山巨源に与えて交わりを絶つ書』は、吾が意を得て、まことに痛快であったとだけ、繰り返し云いたい。
2008 2・20 77

* 『若者が主役だったころ わが60年代』を読んでいると、社会や世界や政治や藝術への共感や交響が、生真面目にストレートだったんだと思い当たる。
色川大吉さんはわたしより一回り年上だから、学徒兵の体験があり、敗戦の思想的な生活的な浪を直接かぶっておられる。貧乏も、親の貧乏でなく自身の窮乏生活をされている。それにもかかわらず、かなりの近さで自分も受容できていたあれこれのあることに思い当たる。
たとえば色川さんの挙げられる日本映画への感動や、やってきた京劇への傾倒と賛嘆なども、多少の時間の遅速はあれ、同じようにわたしも眼を輝かせたなあと思い出せる。
わたしはむろん色川さんの何もしらずに、『日本の歴史』の近代の一冊からご縁をえたのだが、氏は若い頃新劇の演出にも脚本にも、それゆえにまた演技や演劇の論や鑑賞にも一家言があり、それらの生真面目で真っ直ぐな表現にも親しみを覚え、心を惹かれるのである。
2008 2・22 77

* このところ演劇人(準演劇人)の文章をトビトビだけれどよく読んできたなと思う。
観世流のシテであると同時に新劇や映画の優れた演技者であり、また演出家として世界をまたにかけて国際的にも国内でも亡くなる間際まで大活躍された観世榮夫さんの自伝『花から幽へ』の鑑賞力の創造的であったこと、生涯「今・此処」に足をおろして真っ向揺るがなかった「意志の演技者」のみずみずしい感性に、終始わたしは息をのんで接した。
またこの二年というもの、毎月、「高麗屋の女房」さんから贈られてくる「オール読物」で、松本幸四郎と松たか子との父娘演劇人としての対話「往復書簡」を読み続けてきた。
幸四郎の演劇体験が歌舞伎舞台にだけあったのでないことは、世界的に周知のこと。シェイクスピアの四大悲劇をはじめ、ミュージカルにも創作劇にも現代劇にも真価は隠れもない。しかもこの人は、感性の上で思索し工夫を凝らす深切な演劇人である。多くの回想や思索や工夫の言葉には、にじみ出る叡智が感じられる。まずたいていの人が足下に及ばないと知って、そして励まされている、その意味では優れて指導的な役者である。
松たか子。この人についてわたしは、こう一言言えば済む。初めてテレビのスクリーンに登場(『華の乱』の今参局ではなかったか。ついで淀殿ではなかったか。)してきた瞬間の驚嘆から今日まで、一度も期待を裏切られたことのない逸材と。その感性の豊饒と用いる言葉の適切も、なみの物書きの及ばない冴えをもち、その才能の全部を、音楽も含めて演劇的表現の全面に生かしている。父幸四郎との往復書簡でも、思索も姿勢も行文もすべて役者魂を漲らせてぶっつかっていた。最終回の文章もわたしは読み終えたところだ。
いま一例をいえば、歴史学者である色川大吉さんの最近の著書だ。
この人は、青年期に新劇の演出家を心がけた人であり、夫人もその世界にあった人のようだ。だがそれを云う以前に、昔風の言葉で謂うと、真実インテリゲンチァであり、やはり豊かな感性の上に知性のかぎりを真っ向「今・此処」に注ぎ込んできた人だ。言葉も姿勢も真摯なのである、ひゃらひゃらしていない。本当のホンモノの本質をつかむためなら、尽力を惜しまない。
その一例をいえば、この敗戦後の氏は貧苦とも必死で頑張らねば生き抜けなかったが、そんな中で、中国から来た京劇を観るために、ソ連から来たボリショイバレーやチェーホフ劇を観るために、どんなに奮闘して働いて入場料を稼いだか。そしてその鑑賞体験をどれほど張りつめて見事な言葉で当時の日記に書き残していたか。
とにかくも榮夫さんでも幸四郎でも色川さんでも、勉強が廣く深い。渇くほどの熱心で視野をひろげて勉強し続けていたことがよく分かる。

* 一流の人は、少なくも、井の中の蛙でない。青年時代に怠けていては、一流には成れない。
いい青年が、ただ持ち前の能力だけで、身の丈にそぐわないことをトクトクと幾らしてみせても、違いの分かる人の眼には、貧相な「はだかの王様」ただの「小山の大将」に過ぎない。

* と、いっこうにオモシロイ話題が、古希すぎた爺からは絞っても出てこない。で、助けて貰うのである。
2008 2・23 77

* 就寝前の読書時間が延びている。『新中国人』『ソフィーの世界』『蕨野行』を、つい沢山読み進むからだ。『イルスの竪琴』の英語はいちばんおしまいに読むのだが、読み始めると目が冴えてきてつい時間を掛けている。みなそれぞれに引き込まれているのだ、退屈するよりいい。
ゆうべは、その上になお『夜の寝覚』に、時間をかけた。本文には、適宜に小見出しが入れてあり区切りやすいのだが、いままさに、ヒロイン「寝覚の上」は、大きな大きな女の危機に直面しつつある。義理ある娘の一人を尚侍として入内させ、慣例として母親役で付き添い御所に上がっている寝覚の上を、帝が、久しい執心のまま強硬にねらって、上の私室にまで終夜押し込んで来ようとしている。物語のなかで最も差し迫った危機に当たっている。
ところが、帝にそこまで無茶をさせるほどの、完璧な寝覚の上の美しさであり、魅力なのであり、仏の美徳を三十幾つも数え上げるまだその上のものだとまで作者も、作中人物も言を切して「表現」している。読者のわたしも、けしからん帝だ、帝の母大皇だと憎みつつも、つい同調して、あまりの懐かしさにぼうっとなってしまうくらい。
それだけでもないのだ。この物語に絡んで、とうどう自分自身のまた「仕事」にしてしまいたいフツフツとした願望が、具体的に湧いてきているので、やめられないのである。
なにしろ、高校生の昔から、この物語の作者かと擬せられている菅原孝標女に、なみでない関心がある。
生まれて初めて書いた古典論は、高校内の新聞への『更級日記の夢』であった。生まれて初めて書いた小説らしいものは、他の学級の文藝雑誌にねじこんだ、『竹芝寺縁起』であった。そしてまた「竹芝寺跡」と擬されて昔の昔から学者達が孫引きを重ねていた、三田の「現・済海寺説」に決定的な疑問をつきつけた最初のわが着眼も、やはり、みな、同じ高校三年生の頃に生まれていたのである。
源氏物語は別格としても、わたしにとって『平家物語』『徒然草』『古事記』とならんで、最も身内に影響したのは『更級日記』であったし、その日記の著者が『夜の寝覚』作者の最も有力な候補者なのである。思いは、どうあっても騒ぎやすいのである。
で、昨・夜前は、そのことでまじまじとして眠らなかった。消灯後も闇に眼を凝らしてわたしは考え続けていた。
いま、すこし眠いけれども、石波防衛大臣と高村外務大臣とが、テレビでいろいろ弁解するのを聴いてやろうと思った。ああしかし、ろくなことは云わない。ウンザリした。
2008 2・24 77

* ルソーには、テレーズという、最晩年になりやっと二十五年間の内縁関係から正式の結婚式をした女性がいて、結婚前に五人もの子を産ませていた。だが、ルソーは五人の子を、ひとりのこらず孤児院にやり、一人として育てなかった。逢うこともなく、我が子の顔もその後見なかったらしい。テレーズにも逢わせていなかったのではないかと思われる。そのルソーに、彼自身が最も優れた重要な著書と誇った『エミール』がある。子弟の「教育」を書いた教育書であり、子供の教育には、父親の存在こそ最も大切と説いているのである。
実際の父親ルソーと、著書のなかで語られる「大切な父親の存在」との、この無惨な齟齬、裂け目、に関してわたしの知識はむろん足りない、『告白』をやっと読み終え、岩波文庫の『エミール』三冊を机の上にいま積んだばかりである。
翻訳者は、上のことを「解説」のなかで故意にか不要と思ってか、書いていない。しかしルソーと同時代のたとえばヴォルテールらは、烈しくこの父・ルソーの父たる「無道」に対し攻撃を加えていると他の本には出ている。ルソーは、最晩年のかなりの長期間、社会からも法廷からも過酷に糾弾され「逮捕状」を出され、ことに『エミール』は各地で焚書されたと『告白』に書いている。
ルソーにはルソーの言い訳があり、いわばその言い訳が著名な『告白』の動機だと言えるくらいであるが、事実として五人の子を一人の女に生ませてその子等を孤児院にあずけっ放しであったことの言い訳は、あまり読み手の胸に届いてこない。

* わたしの知識が足りないので、ルソーの教育観や彼の父たる人格にふれて多くを、この上もの云う資格がないけれど、やす香やみゆ希の父や父方祖父はじつはルソー学者なのである。どのような理解を示していたものか、少し著書を読んでみたかった。
2008 2・24 77

* 灯を消したのは二時過ぎだった。一番最後に「お姑(ばば)よい」「ぬいよい」という姑と若嫁とが交感の物語を、一字一句、句読点まで大事に読んで寝るものだから、しばらく夢にも残響がある。そして寝入る。
ゆうべは寝入る前に、戸棚にもたれて座ったまま茫然とし、うたた寝していた。寝床に横たわってからも、真の闇を眼の底に求めていた。闇に入るとおちついて安心する。なまじいの光なら要らぬとすら思うときがある。
2008 2・25 77

* 昨日も書いた。「灯を消したのは二時過ぎだった。一番最後に『お姑(ばば)よい』『ぬいよい』という姑と若嫁とが交感の物語を一字一句、句読点まで大事に読んで寝るものだから、しばらく夢にも残響がある」と。
夜前は二時半頃まで読んでいて、灯を消したが、かなり堪えた。ことばが、夢になりうねっていた。
インド・ヨーロッパ文化とセム文明との、キリスト教を介しての混融などを、歴史的に語って行く『ソフィーの世界』と、延々と読んでいる『旧約聖書』世界とのニアミス風の接近・接触にも、胸が湧く。ふしぎなほどそれが、二十一世紀を迎えている『新中国人』の情況とも共振してくるのが、凄いほどの刺激だ。
そしてもう今しも母太皇と息子の帝とが、共謀してヒロイン「寝覚の上」を、宮中の暗闇でレイプしようと身構えている。王朝物語『夜の寝覚』の凄さ。平安時代は、高級貴族ほど、愛の以前に「レイプ」を以て男女の事とした時代はなかったのだと、亡くなられた今井源衛教授は喝破されていた。

* 昨夜から、ルソーの『エミール』も就寝前の読書に繰り込んだ。原作者の自注を纏めて全部追って行くと、この「机上の思索者」の思索には、聴くべき透徹の叡智と、もはや今の時節にはお話にもならない上滑りな議論とが、個性的に綯い混ぜられていて、時代を、苦々しいまで刺激したルソーの優れた才能と病気とが、こもごも読み取れそうなのである。エミールという少年が結婚に至るまでをルソーが教育し指導するという建前で話は進むようだが、明らかにエミール少年が、また、ルソー自身こういう風に教育されたかったという自画像的願望の体現になっていると見える。あれだけ貴族社会と親近したルソーは、貧しい無教育な少年期、煩悶と不如意と屈辱さえたっぷり抱えた青年期を生きてきた。わかりよくいえばコンプレックスの塊なのである、が、また時代を先取りして刺激できる思想の才能と文学的な表現の卓越を、彼は堅持し得ていたやはり天才なのである。

* わたしは、いま、猛烈に生き急いでいるのだろうか。読んでいる間は生きているとでも思っているのだろうか。
2008 2・26 77

* フイと、黒いマゴを「マゴよい」と呼んでいる。妻へ、「ババよい」「おババよい」と呼んだりする。『蕨野行』で、蕨野へ入った姑(ばば)れんと、里の家をまもる若い嫁ぬいとが、時空を超えて交流し共感して対話する呼びかけが「ぬいよい」「おババよい」であるのを、つい口真似するのだ。
この作品はもはやわたしの心象世界として刷り込まれてしまった。あるいはなべての価値観の目盛りが、尺度が、まるで定まってしまったみたい。この目盛りや尺度からながめて、それには意味があるとか意味がないとか感じてしまう。
2008 2・28 77

* おめず臆せず「憲法はなし」の用意をしている。目薬ばかり減って行く。煙草という一服がわたしには、無い。本を読むのは、少なくも目の休息にならない。小さい文字よりいいだろうと、こんなとき、撮り溜めてある写真の編輯をしたりする。「mixi」に「フォトアルバム」のサービスがあるので、非公開のまま、気に入っている猫の写真や花の写真や家族の写真を編輯して一服にするのはどうかしらんと考えている。そんなとき同時に音楽を聴いてもいる。
昼間も晩も機械に向かい、済んだら、数えてみて今十二冊の本をきちんと読んでいる。オモシロイので頁のハカが行くと、つまり視力遣いの時間はますます長くなる。休憩のつもりでテレビを見ても、映画を観ても、同じこと。新聞は全然、手にも取らない。見出ししか見えないから。

* もっと外出しなくちゃ。人と会わなくちゃ。人と言葉をかわさなくちゃ。
2008 2・29 77

* 昨夜、やはり二時半過ぎた頃に、『蕨野行』を読了。恰もわたし自身が、「蕨野」を体験した。かくのごとき、死 と謂うか、かくのごとき、生 とこそ謂うか。こ「の名作」に出逢えたことを老境の喜びとする。

* 寝覚の上は、強引に執拗にせまる帝をガンとしてはねつけ恥じしめて、聴さなかった。
文学多しといえども、古代の悪慣習のなかで、男の、まして帝のレイプの意欲をかくハネつけ通した貴女の例は、かぐやひめの他には此の『夜の寝覚』の女主人公の他に知らない。帝の迫り方は尋常でなく、母大皇の寝覚の上への悪意にたすけられた、卑怯な、女にすればのっぴきならない迫りようであった。終夜それを辛うじて拒み続け得た力は、夫、ではない「内大臣」への、意識下の愛のつよさであった。この男は、寝覚の、今は亡き姉の夫であり、まだ姉と男との婚儀の調う直前に、物忌みに出ていた出先で、互いにそれとも知らず男は女を、ヒロインを闇の中で犯し、女は苦悩の内に石山寺近くに隠れて、たぐいまれに美しい女児を産み落としていた。
男が姉の夫であったこと、女が妻の妹であったことは追い追いに知られ、物語は苦悩と愛との淵をさまよってきた。
女は父や兄にも命じられ、三人の女の子を抱えた老関白の切望をいれて後添いの妻にされてしまう。関白はだがこの若い妻を大事に大切に溺愛してこの上なく幸せであった、そして「くれぐれも」と後事を妻に託して死んでいった。
この若い未亡人は、子までなした最初の男を愛するようになっていたが、老いた夫に死なれてみると、人柄や愛に懐かしい感謝を持つようになっていた。夫の遺児である三人の娘をかかえ、女は、みごとに人間的に成長して行き、立派に前関白家を支え、盛り立て、華やがせ、そして密かには最初の男の愛もまた重ねて受け容れていた。二人の間には表向きには死んだ関白の子、じつは内大臣との子である美しい男児「まさこ」も生まれていた。
内大臣は、正妻として今の帝の妹内親王を迎えていたが、男がいまも深く寝覚の上、前関白未亡人と惹かれ合うているのをにくむ大皇、帝や女一宮の母の策謀、そして帝の強烈な恋慕の情のまえに、宮中で、あわや帝に犯されそうになるのである。
帝ははやくに此の寝覚の上の愛と入内を熱望していた、が、女に秘められた過去のあるのを、まだ知らなかった。あえなく老人である関白の後妻にされたことを帝は悔しがっていた。だから関白が亡くなると、女に、尚侍という後宮の一人として入内を求めてきたのを、女は、寝覚の上は、身代わりにと、亡き関白の娘の一人を宮中に送り込んだのだった。いわば娘が入内の付添母として宮中に来ていたところを、帝は、母大皇と共謀して寝覚の上を寝所に襲ったのである。

* 初めて読む物語ではない、事情はすべて知っていて、昨夜はこの悪辣な犯しのきわどく未遂に終わる場面を、また読み通して行った。
かぐや姫は、天女の神通力で簡単に帝の力づくの求愛を退け得たが、寝覚の上にそんな神通力はない、ただひたすらに人間の叡智と、内大臣への秘めた愛情とで帝の理不尽から身を守り抜いたのである。

* ニューヨークタイムズ日本支局長夫妻の著『新中国人』による、共産党中国の現状観察と批判との徹底的であることにも、強い感銘を得続けている。しかも「意外」に思うところが無い。二十世紀の最末期に於いて共産党中国の腐蝕の進度は速まり、深度は予期を超えている。経済的な進展と、人民の九割をしめる農民の意識のゆるさが、崩壊の到来を遅れさせてはいるけれど、過去の全ての王朝の壊滅が農民怒濤の怒りから起きていたことを思えば、農民政策に大きな有効な手だてが尽くされない限り、経済のやがての渋滞時には、表面張力の崩れるように、また、少なくも中国の「共産党」と「共産主義」とは、大混乱を余儀なくするであろうと想像される。
2008 3・1 78

* 色川大吉さんに戴いた『若者が主役であった頃 1960年代』は、わたしたちには一入胸に響いてやまない。あたりまえだ、わたしたちが京都から上京・結婚・就職したのは1959年二月末、安保デモの日夜を通りすぎ朝日子の生まれたのが1960年七月末だった。小説を書きたい書きたいと思いつつ激務の編集者生活に励み、勉強し、ちょうど二年後、1962年の七月、朝日子の誕生日過ぎて、とうどう小説を書き始めた。白楽天の長詩「新豊折臂翁」にまなんだ現代の反戦小説『或る折臂翁』が処女作長編だった。仕上がる途中、秋に、短編『少女』を書いた。
書きに書きつづけ、私家版の『清経入水』に、第五回太宰治文学賞が向こうから転がり込んできたのが、1969年。作家としての生活が始まった。
わたしの1960年代は、わたしと妻とだけの孤独な舞台であったが、真剣な真剣な時代であった。色川さんのご本は、じつに克明に色川さんの体験・研究・活動をとおしてこの十年間を再現し批評し、今日只今を叱咤激励されている。
ありがたい一冊で、夜中、読み始めると、とまらなくなる。

* 創世記から、アブラハム、モーセ、そしてダビデ・ソロモン、以降苦難のバビロニア捕囚また解放への永い時期。『旧約聖書』は「ヨブ記」も過ぎて、百五十の「詩篇」を今、百十編まで読み進んできた。併行して『総説・旧約聖書』の精緻な研究と入門書も、ほぼ読み終えようとしている。総説の手引きは有り難かった、聖書の「すがた」「かたち」「いみ」が輪郭をもって頭に入り、そのために厖大な叙述が、ある秩序のリズムで伝わってくる。インド、ギリシャ、ローマがいわゆるインド・ヨーロッパの視覚型の文化を担ってきた。旧約聖書は、聴覚型のセム文化の一つの粋・髄であろう。そしてどちらかというと、日本人には、いや、わたしにはこれまで縁遠い世界であった。それが頭にあったので旧約は読みたかったし、『千夜一夜物語』も読み通した。『新約聖書』になれば、おそらくは両巨大文明を橋渡す実際が、信仰の言葉で表現されて行くだろう。
2008 3・3 78

* 色川大吉さんの一九六○年、安保闘争の経緯への同時期批判は烈しく鋭く、結果として見誤っていなかったことに敬服する。
2008 3・5 78

* 色川さんの六十年安保の同時期証言や見解の犀利・辛辣・適切なこと、目を見はる。あの時期に、本当に最初の日米安全保障条約の条文をきちんと読み、また改定安保の十箇条条文をきっちり読んでデモに参加していたどれだけの人がいたかと問われると、へこむ。岸信介に対する批評も、十把一絡げの観念的な悪玉扱いとちがい、その性根と限界とを把握した上での批判をされている。教えられることばかり多く、また、知己に接する思いがある。岩波書店刊『若者が主役でった 1960年代』を、いまだから、わたしは若者に奨めたい。
2008 3・6 78

* 『夜の寝覚』の巻三を読み上げた。物語の中で最も危急の事件は、大皇と帝にたばかられて宮中孤立のまま帝に犯されそうになるのを、物語のヒロインとしては希有というより絶無にちかい抵抗で、断乎ゆるさぬまま一夜明けるのを待った寝覚の上が、この事件のさなかに自覚した最初の男、今は内大臣との泣きつ恨みつの夜を倶にして、巻三が果てる。
読み手の気持ちとしては、ついこの男・内大臣に肩入れしてしまう。
二人の間には、石山の姫君と、弟のまさこ君とが生まれているが、両親である二人は「夫妻」ではない。この物語の泣き所である。
わたしは、懐かしい、なつかしい、という言葉をいつも思いをこめて用いるが、このヒロインはじつになつかしき女人である。どんどんと読んでしまうのが勿体ないほど懐かしい。
同じ作者かと目されて『浜松中納言物語』もあり、これもなかなか興趣に富んでいるが、男主人公の物語よりも、女主人公の物語の方がなつかしい。
はるかに先行した「かぐや姫」をのぞけば、「寝覚の上」は文字通りに只一人のヒロインなのであり、只一人のヒロインでこんなになつかしい思いをさせる近代現代の小説を、どれほど我々は知っているか、思い出せないほどだ。
『菜穂子』でも『天の夕顔』でもひ弱いし、『ある女』はすさまじい。宮本百合子でも野上弥生子でも林芙美子でも、なつかしいヒロインとは言いにくい。
『春琴抄』は名作だがなつかしみはない。まだしも「お遊さん」が、語り手の秘められた生母としてなつかしい。
鎌倉時代の「後深草院二条」は立派なヒロインだが、実在の人であった。
西鶴の『一代女』はちと凄まじい。歌舞伎には道成寺、玉手、櫻姫、政岡その他、女のドラマが多い。秋成の『雨月物語』にも。だが身に染みてなつかしいヒロインたちではない。いっそ揚巻や夕霧のような優しみのある花魁が佳い。
2008 3・9 78

☆ 東大寺二月堂のお水取りに来ています。円地文子の作、コピー明日送ります。 鳶

* ぜひ読んでおきたかったもの。いつもながら助かる。
2008 3・10 78

* 太平記世界を支えているのは、「今の今をあるがままに」見つめる乾いた視覚。
そのために起きるさまざまな矛盾のようなもの、撞着のようなもの、感傷、無恥、厚顔、殊勝、信心。なにもかも、そのまま「その時その場」に露わに出てくる。
「文飾」という能力からすれば、太平記時代の知識人、たぶん坊主たちは、布袋腹のように腹中に大量の詞藻をのみこんでいて、本家の中国人ですらヘキエキしそうに縦横に美辞麗句を連ねることが出来る。しかもそれらによって捉えられる事件、文物、人間は、じつは飾られていない。えげつなく凄いほど、あからさまにまるハダカにされている。むきだしである。太平記のリアリティである。
美文の宝庫のように見えていて、それはその通りであるのに、モノもコトもヒトも、むきだしに転がされていて容赦がない。そういう場だ「太平記読み」とは。
2008 3・11 78

☆ コピーそして本   鳶
今日は春らしい一日でしたが、その分花粉症に悩まされているのでしょうね。
円地文子全集は最寄の図書館になかったので、隣市の図書館から取り寄せてもらい入手しました。ご希望の作は全集第14巻に収められていました。
今日コピーを送る前に映画「抱擁」の原作本を一緒に送れたらと思い、本屋に行きました。新潮文庫にあるのですが、現在絶版になっているようで。系列店舗に在庫があったとか、直送してもらうよう手続きしました。一週間ほどで届くということでした。上下二冊で価格から想像しますと各巻500ページくらいの長いものです。映像だけで想像力を膨らませた方が、いっそ感銘深いのかもしれず・・原作がどのような作用をするか分かりません。
それに、いま以上、目を酷使されることも心配ですが、とにかく、お手元に届きます。
昨晩の二月堂のお松明は、場所取りの位置をやや誤った感がありましたが、低気圧通過後の夜空に厳しく美しい炎でした。もっと冷え込んでいたら、春の到来を強く強く祈ったことでしょう。夜の東大寺の境内を歩いたのは初めてで良い体験でした。
くれぐれもお体大切にお過ごしください。

* 『蕨野行』、『イルスの竪琴』の英語版、『メリー・スチュアート』など、この人から贈られた本、探してもらった本は、優に手が四つ五つもないと指折り数え切れない。感謝に堪えない。お舅を見送り、お姑を見舞い続けながら、娘達を世に送り出し、詩を書き繪を描き、ひとりシルクロードやヨーロッパやインドを旅してくる、達人。京大卒。

* 映画『抱擁』を、今日も観ていた。よく出来ている。映画を先ず観てから原作に触れるのは、『蕨野行』もそうだったが、おそらく、その方が、映画化作をあとで観るより佳い気がする。『氷壁の女』も少し見かけた。
脇の機械で映画が観やすくなった。
なーんにもしないで、強いられないで、好きに書いて好きに観て好きに食べて暮らす日々が来ている。薔薇は薔薇であり薔薇である。
2008 3・11 78

* 大きな重い荷が届いたので、何かと思えば、B5判箱入り 戦前・戦中編 戦後編 二冊の『雲中庵茶会記』限定版百部の七十三番本。全巻、毛筆原本の印影本仕立て。昭和五年一月から三十三年四月までの「文化財」的な内容の茶会記であった。
筆者は仰木政斎といわれる茶人。ご遺族の意向で、わたしにも、一本貰い受けて欲しいと国文学研究資料館の伊井春樹館長の添状がつき、贈られてきた。
読みやすい活字版になっていたら、信じられないようなこれは歴史的な『茶会記』の充実作として、斯界に喧伝され顕彰されたであろう。影印本はじつに有り難いけれど、読み取るには途方もない根気を要する。しかし読めない字ではない。読める。読んでゆくと興趣津々、電子文字化できれば将来重い価値をはるかに広げるに違いない。何とかならぬものか。有り難い。びっくりした。
2008 3・13 78

* 昨日は東工大の学生のお父上が書かれた、朝日新書の一冊で、「誰もが豊かになれる経済学」の本が贈られてきた。著者は、経済学者ではない。東大理学部出の異色エンジニアで、娘(元の学生)が企劃し出版にまで持ち込んで出来た、これで二冊目の本。
ただしもうわたしは「経済的に豊か」になりたいと願わない。煩悩が増すだけだから。生きている間だけそこそこ足りていれば、よろしい。ハハハ。

* いま二階で、つまり機械のそばで読んで感銘を得ているのは、横手一彦氏の『敗戦期文学試論』だ、ことに巻頭に収められた石堂清倫氏へのインタビューは貴重な興味ある証言だった。敗戦前後の軍やGHQの検閲の実態を克明に研究している人で、頭の下がる良い仕事だ。

* 気になるのは、貰ったたくさんな本へのお礼状が、なかなか書けなくて。メールのある人には早いんだが。
2008 3・13 78

* 四国の「六」さんからも留守に宅急便があったという。
一昨日には「鳶」さんからの円地文子作品のプリントが届いて、すぐ読んだ。すくなくもわたしの今書いているものとは差し支えが無いと分かった。まったくムキが違ったし、気に掛けるまでもないモノだった。気に掛けてきたので閊えがおり、また自分の仕事が前へ運び出せる。
2008 3・15 78

* 伊井春樹様
青陽の春、花もまぢかく感じられます。いまは、私、花粉に悩んでおりますが。
お元気にお障りなくいらっしゃいますことと存じます。ますますお大切にと祈りおります。
このたびご高配賜りまして、おどろくべき高著(仰木政斎著『雲中庵茶会記』)ご恵贈に胸打たれております。御礼を申しますより早く、惹きき込まれまして拝読してゆくに従い、ますます嘆賞嘆美のおもいにとりつかれました、すばらしい文化財であるなと真実舌を巻いています。記事の克明も深切もさりながら、悠揚とした「茶味」の妙趣が筆者のお人を表現し得ていますかと、ゆかしくまた羨ましく思われます。えらいものをお遺しに成りました、またえらいものを能くお創りになりました。時代と文化とのために心より慶びます、また感謝します。
まだ、頂戴しました方へのご挨拶が出来ておりません、なによりも中を幾らかでも拝見してから、また真っ先に伊井様へ御礼申し上げてからと存じました。こういう時、電子メールの使えますことは有り難く助かりますね。伊井様からも、どうぞ秦のおどろきと喜びと感謝とを御鳳声願い上げます。
おそらく、この大著、活字で「紙の本」にすることは容易ならぬ難事ながら、すくなくも当面、電子文字にして保存されますことの絶対的な必要を覚えます。「読み通し易く」仕立てれば仕立てますほど、この著の文化史的資料的価値はえらいものになります、喜ばれる方々もずいぶん有りましょう。その道の専門家の監修がなければいけませんが、電子化はお急ぎいただきたいと私自身も願います。意外に速やかに成りうる作業かと思われますし、半永久的に、コンパクトに収容されて保存されれば、利用者はのちのちまで絶えまいと思われます。
松屋会記、天王寺会記、槐記などに接したときのよろこびと等しいものを得ました。望外の大慶でございました。御礼申し上げます。
平成二十年 三月十五日 夜   秦 恒平
2008 3・15 78

* 新潮社刊の『新中国人』の著者は、ニューヨーク・タイムスの北京支局で、ねばり強く旺盛に取材しニュースを送りつづけたビュリッツァー賞受賞記者夫妻。浴室で寝床で、わたしは毎日欠かさずペンを片手に熱心に読んでいる。リアリティーにどこと云って不審や疑念を覚えた箇所はなく、さもあらんという中国と共産党とが描破・証言されていて、必読に値する。以下に「mixi」で読んだ「優」さんの体験や実見聞混じりの見解を転写させてもらうが、かなり烈しい批評も、上の『新中国人』の証言とおおかた輪郭を重ねていると読んだ。この際、やはり知っておいていい情報であり判断であるようにわたしも思うので、「優」さんに感謝して、此処に置く。

☆ チベット、中国など  優 e-OLD 多摩
チベットでの人民解放軍の人民弾圧のニュースが――隠し通せるはずもなく──世界を駆け巡っている。これは、毒入りギョーザ事件どころの話では済まない。天安門事件も蒸し返される。中国国内の農民暴動、民族紛争も連動する。
何よりも、欧米(ロシアを除き)は圧倒的に人権問題に関心が深く、フリー・チベットを支持している。欧米を中心に世界中に自由チベッタンが散らばり、広く深く活動してきた経緯がある。
ビルマにもスーダンにも火の粉が飛ぶ。
ようやく落ち着き始めた隣国ネパールの政情も無関係ではありえない。チベットには入り難くなろうが、ネパールにはチベット難民が多く暮らし、最近祖国との交流も増えてきた。世界の登山家、マスコミ、平和主義者、平和ツーリストらがわんさか出入りしているので、生に近いチベット情報が集まり、ネットで情報が瞬時に発信伝播される。
目を転じて、22日の台湾総統選挙投票にも少なからず影響が出るであろう。チャイナ・マネーで大陸と太くつながる野党国民党・馬英九候補の優勢がぐらつくは必至。目元涼しきイケメンの彼は人気高いが、前々から中国共産党とのつながり深く、チャイナ・マフィア、裏華僑筋、日本のアンダー・グラウンドとのかかわりの噂もあって、そんなことは大方の日本人は知らないだけの脳天気。以前から、与党民進党、フリー・チャイナ(自主台湾)の謝候補が優勢なら、また勝つようなことがあるなら、中国は何らかの軍事的威嚇を謀略しているとの専門家の推測もくすぶっていた。
米国ブッシュも、共和党の不人気を撥ね返すべく、何らかの最後っ屁をかますであろうし、こと人権問題なら民主党候補も黙ってはいない。
日和見の、後出し得意の日本政府よ、マスコミよ、言うべきことは言わねばならぬぞ、またまた遅れをとり、世界中に馬鹿にされるぞ。対岸の火事、ブッシュの後になどと、まさか高見の見物を決め込んではいないだろうな。
中印もあやしくなるぞ、経済、マネーだけで世界が片付くと思ったら大間違いだ。
五輪が吹っ飛ぶかも知れない、などと無い智恵絞って先を読みすぎるな、恐れるな、万一ボイコットの動きが広がっても、日本はどうせまわりの顔色見てから決めるんだから、関係ないだろう。
ことは人権抑圧、軍事介入、丸腰人民に対する虐殺問題だ、ウンもスンもなかろうに。
平和象徴の祭典であるべき五輪を望むなら、是々非々で望むのが先決、すると善良友好の中国人民とも仲良く出来るんだ。
米国が今回のデモを仕掛けたとも思いにくい、日本が加担したとはまして想像できない、たまりにたまった弾圧へのうっぷんがチベット大衆の示威行動になったのだろう。
☆ 戦後、中国(中共)の弾圧覇権史:
1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘
—————————————————————–
2008年現在、非漢民族に対する大虐殺、婦女子の強制連行・中絶・不妊手術など民族浄化を継続中。主に北京五輪に向けた環境問題整備、早期収拾目的で全国規模で人民の財産、土地を収奪し続けている。

* まさかと思いたいほどのことも、今一段の実地取材経過や中国人の証言とともに『新中国人』は、ほぼ同じ内容の手記で報告している。驚かされる。

* むろん日本の世情はこういう憂慮の声でばかり蔽われてはいない。のーんびりと春爛漫に酔うている人の方が多いだろう。春闘も、聞けば、なんともしまらない労働戦線の弱い噂ばかり。

* 今日は花粉にいためつけられ、視力も乱れ、仕事が辛かったが、大事な一歩を踏み出して先へ繋いだ。眼が霞み少しこれからの読書が辛そうだ、明日も花粉が怖くて家を出られそうにない。そんなことを云いながら、今も横手一彦さんの本に感心して読み耽っていた。目から鱗が一杯落ちる。
だが、もう休もう。
2008 3・16 78

* 映画『抱擁』の原作本を贈られた、大作だ。落ち着いて読もう。
甲斐扶佐義氏の『生前遺言書』とかいう大冊が贈られてきた。まだ中を見ていないが、まだ若い人の、どういう意図にしても、どういう必然があるのか、理解できない。
2008 3・18 78

* 気が付けば深夜一時半、それから十何冊かの読書でさらに夜が更けてから、寝所の灯を消した。寝覚めどき奇妙に小さい夢を見ていたが覚えない。目、少し痒い。
先日話してきた「憲法は抱き柱か」というのが、雑誌「ひとりから」に早くも掲載され送られてきた。一箇所、わたしの覚え違いのミスもあったけれど、ま、いいか。
今年も大学入試につかわれた文章に対するアイサツが大学から来ている。今朝は東京経済大学から。よくこんな本のこんな箇所を探したなあと感心する。
2008 3・21 78

* ルソーの『エミール』に関心が生まれている。
この本を書くにいたるルソーの動機に惹かれるのではない、理由付けにも惑わされたくない。
ルソーという人は終生何かの「言い訳」をしていた。厖大な『告白』はその最たるモノだ。『エミール』は、同時代に、最も関心をもたれ、最も憎まれ最も感嘆もされた本といえそうだ。
わたしが関心をもつのは、ルソーの展開する「こども」理解であり、正鵠をえているいないは別としても、実に精緻に、驚くべく精細に「こども」を「人間」として教育するための理解や理論を、蚕の糸を吐くように吐き続けてとぎれないという、目前の事実に対してである。
『告白』のなかで、彼が子どもに関心を持ち接触し愛していた場面など、皆無。テレーズという内縁の妻に五人も子を産ませて、すべて生まれ落ちるとすぐ孤児院に育てさせて、ほとんど指一本も彼は動かした形跡がない。会ってすらいない。しかも『エミール』は時代を驚倒した「子ども教育書」なのである。議論は大筋においてむしろ頷かせる。驚嘆にも嘆賞にも尊敬にすら値する方向を示している。
そこに、ルソーという人の、根の深い「病気」すらが窺い知れそうなのである。ややこしい。
見捨てないで、読み続けてゆこうと思っている。
2008 3・21 78

* 昨日、国文学者の平山城児氏の『春琴抄』にかかわる論考の抜き刷りを頂戴したのが、とても興味深かった。春琴は地唄音曲の名人であるが、事実はともかくとしてそのモデルにとかく擬せられてきた実在の名手菊原初子さんのあったことは、関係者はみな知っている。この菊原さんへの、長い時間をへだてた二つのインタビュー記事を介して、平山氏はモデルの心事を推測推量しながら、この名作創作の一つの深部へ興味有るさぐりをいれておられる。とても面白く読ませてもらった。
そのとっかかり、いや当面の問題として、春琴の口三味線の当否が論証してゆく。
やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガン、チリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと
と谷崎は春琴が口三味線で弟子に教える場面を書いているが、菊原さんは、これがありえないものであると語っていて、平山氏はどこから谷崎がこういう口三味線を表記するにいたったろうかと追究している。
それ自体が名作『春琴抄』の致命の傷になることはないが、作品「研究」の一つの例としては意表に出て興味深いといえば言える。
2008 3・23 78

* このところ深夜の読書でわたしを魅了しているのは、石山の姫君と生母寝覚の上との久々の、事実上の初対面、そして姫をひとり育ててきた父内大臣も加わって、親子男女はじめて三人での幸せなまどいを叙している『夜の寝覚』と、大きな秘密が明かされてきた『イルスの竪琴』の、堅実で緻密な展開を英文でこまやかに追うて行く嬉しさ。この大作も、惜しいほど残り頁が少なくなってきた。
2008 3・24 78

* 万葉集や古今集を全巻のこらず読んでいる人は、専攻学の研究者はおけば、そうはいないだろう。わたしも古典の好きな和歌集を勅撰・私家集にかかわらず全部を通読したものは少ない。
で、可能な限り音読してみようと思い立ち、万葉集をいま巻二十一まで読み進んできた。便宜に尚学図書の古典全集本を用いているが、訓みに、ときどき記憶と異なるところがあったりする。原表記が入ってるといいのにと思いながら、一日に、少なくも数頁ずつ声に出し読んできて、オリジナルに佳いなと思う歌に、鉛筆で爪印を置いている。
いわゆる「和歌時代」の和歌はかなり頭に入っているので言えるのだが、万葉歌は「ちがう」。日本人詩歌による感情表現では何といってもオリジナルで、はじめてこういうふうに表現したという原点性がくっきり印象づけられる。また忘れていた物言いや表現、はじめて識る表現も満載で興味深い。なによりも、七五でない、五七調が明瞭に確認できるのは音読の功徳であろう。まだ訓読出来ていない詩句も相当あることに気づく。
けっこう覚えているのだと気づくほど、久しい間に記憶に残った歌の多いのに嬉しくなる。いわゆる詠み人「知らず、知れず」の作の多いことが、作者名の入った作よりも「万葉集」を意識させるのも、初体験だ。もともと「歌」はこういう風に生まれていたのだと納得する。
まだ、「いやしけ吉事」の最後の最後まで読み上げるのに、万葉集、先はたっぷり有る。読み始めてよかったと思い、つぎに古今集に転じたときどんな比較の感想や発見があるかと楽しみだ。

* 太平記は、楠正行戦死を迎えようとしている。太平記世界では、楠家に対する同情や共感の深さにはっきり気づかされる。楠家の記事になると、音読していてふと声の湿るのにもおどろかされる。
2008 3・26 78

* 選考会を終えてから、四条通へひとり出て、新しくなった京料理の「田ごと」でゆっくり弁当を食べ、京都駅で乗車時間を少し早いのに換えて、四時三十五分に京都発。
車中は残りの校正を熱海辺までかけて終え、『抱擁』を読みながら帰った。品川で窓外の雨に気づいたが、保谷駅に着いたときは傘の人影はなかった。旅のあいだ、かなり何度も腰の痛むのにへこたれたが、痛み止めなど飲んで、ま、なんとか無事に帰宅。
2008 3・28 78

* 十時半の予約で、先ず眼科検査。済んでから診察。検査と診察の間にながく待つのが眼科。『抱擁』を読むことになる。おっそろしくペダンティックな書き方の長編。映画の方がうんとすっきりしている。これも映画を先に観ていてよかったクチである。
2008 3・31 78

* まずは万葉集、太平記、そしてバグワン。ついで王朝の愛の心理、中国の行方、哲学史、旧約の箴言、旧約聖書学、ルソーの教育論、史学者の回顧録、を読まないと寝に就かない。寝る直前に英語の『イルスの竪琴』、これが終幕前の決定的な場面へじりじりと進んでいる。ゆっくりと逐語的に迫っているのでこっちの呼吸までせまってくる。訳文をながし読みしていてはこの高潮はみのがしてしまう。
2008 3・31 78

* 上の、小町の歌に本居宣長は自著『古今集遠鏡』に、「草ヤ木ノ花ハ 色ガアルユヱニウツロウヂヤガ 色ハアルトモ見エズニ ウツリカハルモノハ 世ノ中ノ人ノハナバナシイ心ノ花デサゴザリマスワイ」と同時代の俗言を用いて謂うている。
九大教授今西祐一郎さんから昨日この『古今集遠鏡』上下巻(平凡社東洋文庫)を頂戴した。宣長は目配りひろく斟酌しながらも、独自の確信から、古今和歌集を、いかにも楽しげに読み直している。今風にいえば現代「話体」訳か。前々から通読してみたかった貴重な本を贈られ、嬉しい限り。ご丁寧にメールも頂戴した。

* じつに綺麗な宣長の手になる稿本があり、そして門弟横井千秋の「千秋云」の補足もついた版本がある。両本の差異に、こまやかに目配りされながら、さぞかしたいへんだったろうと想う手順・手続きを尽くして、此の東洋文庫の上下巻は深切に出来ている。
今日一日で、もう上巻を半ば過ぎて読み進んだので、そういうことを、興味津々確かめ確かめたうえで、厚い感謝を添えて、言いきることが出来る。
私の世代、そして、ま、同じ近畿人という地域的な親近感もてつだって、宣長の俗言平語が渋滞なくとても面白く読める。しかも、好きな古今和歌集である。ちょうどいま万葉集全巻の音読を楽しんでいるときであり、おのずと対照の妙も喜べる。
少年時代のわが家には上田秋成の『古今和歌集打聴』とか題された、変体仮名入りの版本が上下巻あった。いまも在る筈。なにかにつけ対峙して妙の尽きない宣長と秋成との、「古今集」が、手の内に揃ったことになる。比べ読みもしてみたい。
今西祐一郎様 ありがとうございました。
2008 4・1 79

* やや茫然としている。「春眠」の候か。

☆ 辰野 隆の惚れた作家 2008年04月02日 17:58 瑛 e-OLD川崎
昔の仏文の大御所の文章に触れた。露伴を回想して滾々と思い出を語る。
『忘れ得ぬ人々』文芸文庫を読んでの今日の日記である。.
「太閤時代には一流の宗師、一流の先達であったかも知れぬが、それも、深厚なる知識教養趣味に於いて、清貧に晏如たる襟懐に於いて、我らの露伴に比すれば、畢竟、成り上がり者藤吉郎にぶら下がり過ぎて振り落とされたお茶坊主の観がある。、・・・蓋し露伴の日和下駄の塵を払う資格もなかろう」。
露伴翁は茶人を歴史のスパンで振り返り語る。先人は文章に質量がある。

* 辰野さんが露伴の文章を引用されていたのではあるまい、この口調は辰野さんご自身の露伴頌と思われる。やっつけられているのはどうやら、千利休のようだ。露伴自身が茶と茶人ないし利休をどう観ていたか、ふとモノに当たって調べてみたくなった。
露伴は、『運命』でも『連環記』でも、わたしをひっ掴んで酔わせた人だ。『五重塔』が有名だが、わたしは翁の随筆的な、史論的な作品や評釈が好き。
とはいえ、わたしの実父の所持本でと、異母妹らがわたしに呉れた暑さ十二㎝ちかい『露伴叢書 全博文館蔵版』が身近にある。この部屋を出た二階廊下の本棚にいつもある。明治三十五年六月十五日発行で、奥付には著者「幸田成行」とある。秦の父が五歳頃に本になっていて、露伴にはそれ以前にもうこんなに沢山な作品があったのだから驚く。目次をみると殆ど、題にすら馴染みのない五十五篇が上がっている。ウーン
わたしはこれを読まなくちゃいかんのであるなあ。実父の遺産であるからナア。
2008 4・2 79

* 待望していた久間十義さんの長篇新刊『生体徴候(バイタルサイン)あり』を、戴く。この人の、ルポルタージュふうの作は、綿密な調べの上に立つ構築物のようで、スリルにも富み、達意のむだのない文章力で、いつも重厚に楽しませてくれる。わたしたちの体験しうべくもない珍しい世間へ引っ張り込んでくれる。
いきなり妻が先に読み始めた。ま、わたしには『抱擁』がある。これもまた面白く惹き込まれ始めている。
2008 4・3 79

* 昨夜から一冊加わって、旧約や、中国観測などにのほかに現代小説を、英文のを一つ含め、三種類読み続けることになった。どれも大作。さらに頭の中に亡き辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』が出を待っている。
2008 4・4 79

* 夜通し降っていた。夜通しして久間十義氏にもらった『生体徴候(ライフサイン)あり』を読み終えた。前にももらった『聖ジェームス病院』は、やす香の亡くなったあとで読んだ。安楽死や医療過誤が主材であった。今回は循環器の内科的治療と外科的手術のせめぎ合いに病院経営や医学部内政治の問題が絡み合って、一人の女医母子の生が縦筋を通している。大勢の男女を書き分けかきわけながら、男女の情交もぬかりなく話の筋を飾っている。どこかで聞いたり出会ったりした世間の事件が顔形を変えていろいろ現れれでる。そんな気がする。
読み終えてしまう、と、やはり巧みに力一杯書かれた長編の読物であり、たくさんな知識の断片を記憶したかも知れないが、文学・文藝から得た魂の鼓舞や滋養はさほど残っていない。

* こういうとき、わたしはよく志賀直哉の短編、たとえば原稿用紙二十枚にも足りぬ『母の死と新しい母』の与える文学的衝撃や記憶の深さと、比較してしまう。
志賀直哉には、七転八倒しても『生体徴候あり』は書けなかったろう。あまりに文学の筋がちがう。
だが、『母の死と新しい母』というほとんど随筆なみの短編がのこす文体と文藝の感動を『生体徴候あり』は、ほとんど与えてくれない。そのために、たぶんお話の筋すらもやがては忘れて、頭から消えてゆくだろう。文藝という音楽の余響・余韻が、読み終わったもうその瞬間に失せている。
だが、それはそれでよいのでも、ある。読物としてわたしに徹夜させる魅力はあった。直哉の『暗夜行路』をわたしは徹夜しては読まないだろう。
2008 4・8 79

* 久間さんの作の前に、相変わらずわたしは、寝床の外でバグワンと万葉集と太平記を音読し、寝床の中では「夜の寝覚」や旧約の「箴言」やその研究書や啓蒙的な哲学史や現代中国観察や色川さんの六十年代自分史や、翻訳の「抱擁」や英文のマキリップ小説や、さらにはルソーの『エミール』を少しずつ読み終えていた。
それぞれに興味深いのだが、いまはルソーに注目している。
教科書的にはルソーといえば「自然に帰れ」が旗印であったし、『告白』でも『エミール』でも「自然」を尊重した言辞はすこぶる多い。
彼の「自然」はしかし当然にも「人間」と密接している。人間に向かって本質的に人間らしく在るために自然に帰れと説いている。当然だろう。
しかし読めば読むほどルソーという人間自体は、その言表のにちゃっこさとともにあまり自然でない。優れて深い省察を聴かせてくれる言葉が、もってまわって防御的で、そうじて綿密な言い訳ににた主張の仕方で、時に瞠目の意見や考えや観察を提出している。さわやかでなく、うっとおしい。
この人はほんとうは深く精神病理的に病んでいるのではないかと感じさせる体質だか体臭だかを、言葉とともに発散している。自然でなく、理のために理を組み立ててその精緻を見せて胸を張っている。事実精緻であまりに精緻なので、説得されていながら、奇妙な粘液か釉薬のようなものをとろりとろりと肌に流し掛けされている気がする。ちょっと他では味わえない不自然な味わいである。
しかしルソーが人間の不自然さを批評する正確さは、全部が全部ではないが、凡庸でない。「不自然」なほど「非凡」である。このカッコに入れた前者がルソーという人間に謂え、後者がルソーの理に対して謂える。このむきだしの分裂感が『告白』の全部を蔽っているかに感じられるが、断言できるほどはまだルソーの著作に多く触れていない。
2008 4・8 79

* 逢はねば咫尺も千里よなう である。
斎藤辞典、わが家にも祖父か父かが買い置いた、厚さ十数㎝もの斎藤英和辞典、枕になりそうないい一冊があった。紙がいいのか製本がいいのか、持って傾けると女の髪の崩れるように、サアーッと頁が流れ落ちるようだった。

* 昨日、黒瀬珂瀾氏の著、ふらんす堂刊『街角の歌』を贈られた。「365日短歌入門シリーズ①」とある。二月二十一日相当の頁にわたしの歌一首が採ってある。

鐵(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐へてゐにけり

解説は本によって読んでもらうのがいい、異見のある人もあろう、が、全体に好意ある紹介で感謝する。わたしが十七歳の頃の歌で、夕やみせまる電車線路の「鐵のいろ」に、ひかる「街の灯」を眼にしつつ少年のせまる歎きに耐えてひた歩んでいた「あの日」を思い出す。
この著者は、阪大の修士を終えている七七年生まれ。三十過ぎか。わたしの学生諸君よりまだ幾らか若い。ちなみに「元日」と「大晦日」相当の各一首を挙げてみる。

ならび立つ煙突に今日けむりあらず年の始と思はざらめや   植松 寿樹
すでにして暑くなりたる街上に命をかけし物音ぞする     斎藤 茂吉

かならずしも暦に宛てて選んだのではないと分かる。植松の歌も茂吉のも上乗のうたとは思わない
2008 4・13 79

* 往きに、新刊の「湖の本」の前半をわれながら面白くまた読んで楽しんだ。
「酒が好き したみ酒古典の味はひ」
こういうのを気持ちよく書いていたときは、機嫌も上乗であった。佐々木久子さんが編集長の「酒」であった。古典にも触れながら自分の「酒」をここちよく吐露していた。
ペンの事務局に何冊か置いてきた。
日比谷のクラブで、ブランデー二杯、ウイスキー一杯、卵二つのオムレツとサラダ、エスカルゴ。機嫌良く「酒」の話を読んでいたが、帰り際に置いてきた。帰り道、『伊藤整氏の生活と意見』にクスクス笑えてきながら、保谷駅まで読み耽る。
2008 4・15 79

* 鳶さんに贈られた『新中国人』を今暁、雨を聴きながら、読み終えた。二段組み細字の、実質的にはたいへんな大冊であるが、共著夫妻の銘々のいわば力闘と文才とに魅せられ、渋滞することなしに興味津々読み終えた。有り難い。
いちばん今時知りたいことの最たる一つであり、むろん見渡しきれない超大国のこと、いろんな人のいろんな中国観測がありえてそれぞれ対立すらするであろうけれど、この優秀な著者たちの証言は、かねて、そんなではあるまいかと腹中に収めていたわたしの中国見当に、大きなハズレのなかったらしいことを具体的につぶさに教えてくれた。好著であり大著であり、豊かに鋭い指針と推賞したい(新潮社刊)。

* 五時ごろ黒いマゴに起こされてから、また読書に時を移していた。
2008 4・18 79

* 例の、たくさん本を読んでいつごろ寝入ったか、早めであったか遅かったか、覚えない。『夜の寝覚』の、内大臣にとってはいちばん幸せ深い場面での口舌を、時にクスクス笑い出しながら読んでいた。
たった一度のくらやみの出逢い、女は方違えに出ていた先でたまたまこの男は、愛すべきヒロインを犯し、その結果世にまれな美しい娘(石山の姫君)を産ませた。男には今日明日にも妻になる人の妹とは互いに知らずに、その秘しての出産が難渋の極みであったのは当然だった。仲良き姉妹は母を喪っていた。父大臣のもとで一つ邸にともにくらし、姉は問題の夫を、光源氏の再来のような夫を迎え入れていた。妹の秘密はおいおいに互いに知れて、そんななかで、下の兄や心知った母代わりなどの秘めた協力で出産は実現し、子はすぐさまに男の手元へ秘密裡に引き取られた。出産のことは秘しおおせたが、姉にも上の兄にも妹と男とのことは知れてしまった。噂にこころ乱れた父は、信じかねたまま広沢に隠退しかなしいさだめを負うてしまった末娘を身近に引き取った。あげく、皇后の地位すら嘱望された娘を、ひたすらな懇望のままにもう年老いていた関白の後添いの妻に与えたのだった。関白は美しい若い妻を熱烈に誠実に寛容に愛した。そして亡くなった。妻と関白には母を喪った三人の幼い娘があり、「寝覚の上」は一家のすぐれた女主人として娘達を後見した。その一方で、因縁の男との深い愛にとらわれていた女は、男との間にひそかにまた「まさこ」といわれる少年を産んでいた。老関白は「まさこ」を我が子としてなにも云わず受け容れていたのだ。
上に云う、男・今は内大臣にとって「いちばん幸せ深い場面」とは、詳しい経緯は略するが、寝覚の上のもとに、成長した姫君と少年まさこが今は実の母子姉弟として寄り添うそばにあからさまに夫然としていて、しかも女のおなかには、二人の、三人目の子の宿っていることも今しも知られたという場面なのである。
身も蓋もない話のようで、いやいや此の物語の展開はなまなかではない、近代の小説を読むのとかわりない、しかも美しく堅実な作を成している。源氏物語をのぞく平安物語にもかずかず魅惑の女がいるけれども、源氏の女達に匹敵するしかも一人のヒロインと言い切れるのは「寝覚の上」がほぼ唯一の筆頭だろう、わたしはこの、美しいだけでなく愛も深く聡くもある人が大好きなのである。

* で、暁けの五時半に、目が覚め、起きてきた。
「笠」さんの「アイヌの舟」にはやくも魅された人のメールが入っていたのを、今しがた今日の「私語」はじめに書き入れた。
2008 4・20 79

* 春、駘蕩の風情、櫻こそ八重がところどころに咲き残っているぐらいだが、色とりどり数えきれず春の花咲き競っている。そして、読む、読む、読む、 A.S.バイアットの小説『抱擁』。バイアットはわたしより一年若い、原題イギリス「最高の知性」と尊敬されている女性の学者・作家。

* これほど高踏的で美的で観念的な恋愛小説を、わたしはかつて読んだことがない、『フアウスト』のような詩劇以外には。
この題は映画からの逆輸入にちがいなく、原題は、『Possession : a romance』。上下巻あわせて千二百頁ほどのまだ半ばに達しないのに軽率には言えないが、映画はじつに削ぎに削いだあらすじを汲み上げたもので、手際のよろしさに今更に感嘆する、が、原作の巧緻と複雑と詩的な深淵は、攻撃的なまでに徹して読者に対し挑戦的で、この作を、作者の意図を汲んで深々と読み果てて嘆賞の吐息をつくことの出来る読者、作中の詩人アッシュと同じく詩人ラモットの身をよじりあうほどの抱擁の恍惚を彼らの詩世界と倶に受容出来る読者は、はたして、どれほどいるだろうと思う。
映画は「過去」の此の二人の愛の推移と経緯とを探索する「現代」の若い二人の愛の物語に重点をすりかえていたが、原作の「知性」が表現し読者に語りかけている試練は、逆である。
わたしは詩を書かないし、親切ないい読者ではない。それでも、やはり創作という「詩」業に身をすりよせ生きてきた。この作者の、またこの作中の過去の二人の詩人の問題提起には、心ひかれる。同じように熱烈に心ひかれながら相互理解に熱く近づいて行く二人の若い研究者の解釈や愛読にも、心をひかれる。
わたし以上に、この本をわたしに贈ってくれた詩人その人にこそ、この作品は深切にものを問いかけている、と、わたしは思う。もう読んだのだろうか。
おりにふれ、この作には、また触れずにおれないだろう。

* 空腹を上野の山でいやし、妻にパンを買って帰る。
2008 4・22 79

* 新刊の、湖の本に、梅原猛さん、馬場一雄先生、松尾敏男さん、高田衛さん、小山内美江子さん、坂本忠雄さんら、そのほか大勢から、どっとお便りが届いて、紹介しきれない。金澤の金田さんからは、お酒「能登誉」を頂戴。恐縮、感謝。
大岡信さんからエッセイ集『人類最古の文明の詩』を、三好徹さんから幕末長崎物語『侍たちの異境の夢』を、今井清一さんからは「日本の百年」シリーズから、担当された5『成金天下』6『震災にゆらぐ』二冊を、頂戴した。
三好さんの本と今井さんの本と、以前に色川大吉さんに戴いた自分史『若者が主役だった 一九六○年代』とは、一流れに、日本の近代現代史になる。さまざまに色を塗り重ねるように、繰り返し、目を、思いを、そそぎたい歴史が此処に在る。
2008 4・23 79

* 夕方、銀座へ出て、人と会った。とくべつの用事はなかった、前に会って酒を飲みながら難しい話をして以来、十余年。
和食をという希望で、松屋の「つる家」にあがり、ゆっくり時節の話題で笑ったり怒ったり。有楽町駅までの喫茶店でもう少し話を次いでから、別れてきた。
地下鉄有楽町線でうまく座れたので、ゆっくり『酒が好き』を楽しんで、おしまいまで読んだ。笑ってしまう
2008 4・25 79

* パトリシア・マキリップの原作版『イルスの竪琴』全三巻を、今暁、読み終えた。訳者脇明子さんにもらった日本語版は少なくも六、七度も愛読してきたが、原作の英語で、単語の一つ一つにまで密着して読んだのは初めてで、やはり訳本で読み飛ばしていた、気づけなかった多くのニュアンスにつきあたり、教えられて、原作者の構想の緻密で構築的に安定している宜しさをしみじみ実感した。合算すると千頁ほどの大作であった、どれぐらい年月かけたか正確には思い出せないが、ほぼ一夜も欠かさず読んでいたから、読書線が点線化することは無かった。
超現実の魔法世界であるけれども、一種の創世記ふう環境論の物語になっている。なによりも深い憧れを誘われる魅惑がわたしを惹きつけて放さなかった、難儀な英語ゆえに途中で投げ出したいなどと思わず、興趣はむしろ日増しに濃くなり、読み進む頁数も増えていった。

* 滑稽すぎる無惨な聖火リレー騒ぎの中で読み終えた『新中国人』についで、もう一両日で、色川大吉さんの自分史も読み終える。

* そして『夜の寝覚』では、内大臣と寝覚の上とが、父入道関白にもすべてを明かしたうえ、ついに明らかな「夫妻」として、都の一つ邸に居を倶にした。すえは皇后になるに相違ない石山姫君、父の後を襲ぐであろうまさこ君、さらに寝覚の上はあらたに昇任するであろう夫右大臣の新たな子を、もう、やどしている。

* さらに哲学史はフロイトに到り、旧約聖書は詩篇・箴言を経て伝道之書に到達している。「総説」の方はもう読み上げてしまうところ。
またバグワンへの傾倒は、十五年余を繰り返し繰り返し、思い新たに深まりつづけ、万葉集は巻十二の相聞歌を、太平記も半ばを過ぎて、おもしろく音読が進んでいる。ルソーの「エミール」は、頁から頁へじつにフクザツな感想を強いられている。

* さて今今の問題は、A.S.バイアットの小説『抱擁』。
原題は、『Possession : a romance』。
作者自身が創作の動機を明かしている「選択」と題した一文を読んでいると、(まだ半ばだが)、予想できた以上にわたし自身の初期創作との、方法的・思想的な重なりを覚える。落ち着いてよく見極めてみたく、まだ軽率に走り書きはできないが、『慈子(斎往譜)』『蝶の皿』『清経入水』『みごもりの湖』『風の奏で』『初恋(雲居寺跡)』『冬祭り』『北の時代(最上徳内)』「四度の瀧』『秋萩帖』などの系列作をつらぬく根底の文学意図が、ただに幻想とか美とかいうものでなかったことを、「Possession : a romance」というバイアットの鍵言葉は、私のために貸し与えてくれるようだ。
わたくしの文学に関しては、武蔵野大の原善君に著書があり、四国の榛原六郎氏にもかなり大部の全般論がある。他にも部分的に論究してくれた人たちがあるが、なにかがちがう、またはぬけていると感じてきたものが、このバイアットの自作『抱擁』を語る一文に含まれているらしいと感じ取り、わたしは我が事ながら、少なからぬ感慨を今帯びている。
広言するのではないが、むろん、それだけでは済まないわたしにはより広い、幹はともあれ分岐した枝葉の実りが、小説と詩とエッセイとして生まれていて、幻想だけで済まないように、「Possession」だけで覆い尽くせるとは思わないが、この観点からの視野の開展が欲しいと、ちょっとまた自分でさらに動いて働いてみたくなっている。
わたし個人にとって、かなり大事な述懐を書き記しているつもりである。
2008 4・26 79

* 異彩・島尾伸三さんの送ってきてくれた、コラージュによる現代糾弾の新著が面白い。

* 「ダビデの子、イスラエルの王である伝道者」とは、ソロモンをさしているのだろう、その「伝道之書」に入って、いきなり、現世は「空のまた空」であると、ある。
ソロモンは『千夜一夜物語』世界でも別格の尊敬を受けていた。かならずしも栄華も智慧もまっとうされなかったか、旧約を読んできてむしろかれのあとでイスラエルの衰退がやってきているし、かならずしもヤハウェの教えに忠実でなかったかに見受けられた。
「詩篇」「箴言」そのまた総合的な総括ともみえる「伝道之書」に、東洋または仏教的な世界観との出入りが汲み取れるのであろうか。
2008 4・27 79

* 駅構内の書店にふと入り、なんと一冊本の新潮文庫『嵐が丘』を買ってきた。角川文庫の二冊本を買ったのは何十年の昔か。もう紙も劣化し活字も劣化している。何度愛読してきたか。いまでも世界文学の十指にぜひ数えたいかどうか、確かめたかった。なんともいえず、ホクホクしている。

* 久しぶりに船橋屋の天麩羅をたっぷり食べ、甲州「笹一」を三杯呑んできた。満足。しかし、『嵐が丘』を手に眠ってしまい、西武線を東久留米まで二駅乗り越した。
2008 4・27 79

* 夜前、色川大吉さんの自分史『六〇年代』を、多分にわたし自身の歴史と重ねながら熱くなって読み終えた。
時代が燃えていたなあと思う。
わたしも燃えていた。しかしながらわたしの燃え方は、時代の燃え方とは対照的な炎をあげていた。そのシンボルが『清経入水』だった。わたしは死の世界と対話しながら燃えていた。異色と云われ異端と云われ、しかしわたしは自分の方法で、あの時代を「ポストモダン」に裏打ちしていたと思う。
2008 4・28 79

* 創世記このかた気の遠くなるほど「旧約」世界の長距離をあゆんできたが、その間、概してわたしは心親しい思いではその景色を眺めてこなかった、ただただ早足に通りすぎてゆかずに済まない、まさに疎遠な外国旅行のように感じていた。
それが、あだかも、かの名高きソロモンの智慧そのものかと思う『伝道之記』へ来て、途方もなく吹きすさぶような「無常観」と謂いたい思想に急に吹きさらされ、心底愕かされている。一気に我がことのように旧約世界に膚接した自分を感じている。
昨夜は、思わず黙読から音読に転じ、自身の思いをそのまま聴くような気がしていた。

* 『ソフィーの世界』という、甚だ巧んだつくりの啓蒙的な哲学史は、上出来の好読み物である。ただし斜めのとばし読みなら別だが、哲学史に触れたことのないいきなり児童や少年、いや今の大学生の九割九分にまで、そうそうまかり通ることの難しい本だと思われる。ベストセラーだったというが、どれほどほんとうに読まれて滋養になりえたか疑わしい。
一つには、世界の政治史、また自然科学史が下にきちっと軌道敷設してないと、哲学史という乗り物は平穏に走りようがない。ただいま、わたしはフロイトを語るあたりを興味深く読み習っているけれど、「つまみ食い」に知識を聴き囓るのでは、この本もあまり意味がない。そこへ来るまでの「必然の思潮」に乗ってこないと、ヘタをすると無用の受け売り知識を稼ぐことで済んでしまう。
ことにフロイトは精神医学者であり、哲学者という以上に文学や詩やシュールリアリズムの美術などと相互に縒り合うように育った「時代の思想」基盤である。そして或る意味で美術も文学も此処でやや「どんづまり観」ももってしまったように、フロイトの流行りにはやった観測にも、時が経つに連れ一種の不毛という垢がついてこなかったわけではない。フロイトをふりまわせばまわすほど、実は哲学も文化も創作も痩せてきたという観察ができる。必要ですらある。
2008 4・29 79

* すこし見当は異なっているけれど、「幼児教育」に関して歴史的に最も早く深く微妙を極めて論を展開したのは、ジャン・ジャック・ルソーの『エミール』であろうか、むろん先蹤の何らかは在ったろうが。ルソーの論説ほど時代に対し、知識人達に対し、また宗教家や教育者達に対し刺激的な優れた例は、未曾有であったろう。
わたしは毎晩岩波文庫の『エミール』を蝸牛の這うほどの速度で読んでいるが、異様な刺激を受ける。速く読んでゆくには論旨の展開が細微に過ぎ、一行一行に立ち止まらされる。すばらしい洞察であり同時に理屈のための理屈のようにもときに訝しく立ち止まらされる。奇書である。
「雄」クンの日記の題を観たとき、反射的にわたしはルソーを思い出していたし、読み終えた今もルソーの方が頭に居座っている
2008 4・29 79

* 二時半に寝て五時半に起きてしまった。血糖値は、94。宜しい。夜前のどの本もおもしろく、満足した。
明け方に、三浦雅士さんにもらった岩波新書の新刊『漱石 母に愛されなかった子』を読み始め、惹きこまれた。
漱石は最も敬愛し耽読してきた人だが、それだけに他者の漱石「論」は、必要も覚えず、数えるほどしか読んだことがない。汗牛充棟ただならぬことは知っているから余計だが、これまで読んだ幾つかから格別の感銘も受けなかった、漱石からすれば「知ったことか」と嘯きそうな、理屈をこねた理屈本が多かった気がする。
三浦さんの新刊は、息を吸うのと同じように論旨が生き生きとわたしを「元気」づけた。へんな言い方だが、眠っていた関心を一気に適確に甦らせてもらった嬉しさと感嘆。すでに言い古されたことかどうかは知るよし無いが、凡常の論旨でなく、論者の肉声がほんものの張りを帯びている。

* 岩波の高本さんに頂戴した純米大吟醸「一ノ蔵」が旨い。まだ世間はしんと寝静まっている中で、萩の盃に酌んで心ゆくまで独り吸いかつ呑みながら『漱石』を読み楽しみ、その勢いで二階の機械へ来て、書きかけの『はながたみ』を書き継ぎ、ところが想定外のところへ筆がはみ出していった。「けいこ叔母」の遠い昔の影絵が、にじみ出たように上田秋成のほうへ動いている。収拾がつくだろうか。
2008 5・2 80

* 「即ち皆空にして風を捕ふるがごとし」と、旧約の「伝道之書」は一章より二章、三章、四章と、なお先々にいたってもこの言葉を繰り返している。「そもそも風を追て労する者何の益をうること有んや」と言い尽くしている。「伝道之書」は或いは旧約最後尾に位置する編輯かとも『総説』は示唆しているが、この思想は、新約聖書の世界にもニュアンスをかえ吹き及んでいるのだろうか。
なににしても『伝道之書』まできて初めて、わがことを省みる心地で読み進められる。ギリシア、ローマの世界史には何と言っても慣れてきたが、旧約やコーランに蔽われた世界史にはいかにも疎く過ごしてきたのを、やや歎く気持ちになっている。

* 折しも『十牛図』は第九の「返本還源」を通りすぎ、大団円の「入廛垂手」まで来た。バグワンの言葉は時に荒海の如く、時に鏡のようだ。
2008 5・2 80

* 朝の一番に小沢昭一さんから『昭一爺さんの唄う童謡・唱歌』が「謹呈」されてきた。二十三曲。定番ものだ。
昨日はマリア・カラスとマドレデウスとを聴き続けていたが、あいまに中学の友人が趣味の手仕事でつくる「懐かしい歌」を聴いている。
李香蘭の唄う「夜霧の馬車」のような掘り出し物が入っていて、「軍艦マーチ」から「泣くな小鳩よ」まで二十六曲、いいわるいは棚上げに、過ぎた時代の「元気も病気も」ありありと耳に届く。一種の名盤である。
小沢さんには唄とハーモニカの『明日天気になあれ』も戴いている。面識も声識もまったくない小沢さんだが、藝能俗史などの著書をもう十冊ももらっていて、みな読んでいる。書き手としても評価するが、インタビュアとして凄みがある。
2008 5・5 80

* 『ソフィーの世界』は、今夜に読み上げるだろう。哲学史の要領のいいおさらいをしながら「哲学あるいは夢」という題の仕組んだ小説を読み終えることになる。その趣向にわたしは愕かない、そんなことは何度も自分でしてきたから。
しかし、おもしろい本、好著であった。世界史、科学史、哲学史を連続し併行して読み上げてきて、あたまのなかに東西の藝術史もおおよそ有る。宗教的な側面は、いや本質論は、バグワンで足りている。
2008 5・5 80

* お二人の帰路をたしかめ、それなら浅草寺境内をゆるゆる行きましょうと、ひさご通りから花やしき通りをぬけて夜の浅草寺境内へ。
人出の波はすっかり静まり、本堂も五重塔もまだ煌々とライトアップしている。静まった空気の中、人けのすっかり退いての明るい照明は、ふしぎにからんとした異界の風に膚接して想われる。三人ともすこぶる明るくて清寂な浅草寺夜景に満足。
こういう時空が在ったんだと驚きもなかば、いい時に来合わせた嬉しさもなかば。電燈ひとつ消えてないまぶしいほどの明るさながら、いならぶ店店はほとんどが店仕舞いのシャッターでくるみ込まれていた、が、シャッターの一枚一枚が画板になって、店店が趣向の繪で賑やかに楽しませてくれるから、なおなお珍しかった。あれは常の仲見世では絶対に観られない。
歌舞伎の吉原の書き割りを想いながら、三人とも機嫌良く雷門までを通り抜けた、というのはちがった、ちょいと横町の「甘味」の梅園に入ると、鮨を食ってきた老人達がここで甘いモノを食べ、また話したのである。お二人とも大きな鉢で蜜豆だか餡蜜だか。可愛らしい。わたしは蕨餅。若い店の娘達はなにものだと想ったろう。
で、雷門でまた写真をとり、地下鉄で、お一人とは千葉の方へそこで別れ、お一人とわたしとは銀座線に乗った。三越前から半蔵門線に乗られたか別れて、わたしは一人になり、帝国ホテルのクラブに寄るのは今夜はやめて、銀座の「きむらや」でちいさなパンを八色ほど買っただけ、有楽町線で保谷まで『嵐が丘』を楽しんで帰った。
この若い女性の手になる新しい翻訳は、なるほどエミリ・ブロンテといううら若き才媛の生涯ただ一作を訳するのに向いているんだなあと、むかしの角川文庫の訳との口調の差も楽しんでいた。ぜんたいに物語なのだから、いまの訳は適切な翻訳の方針を賢明に選んでいるのだろうと思う。
2008 5・6 80

* 栗田美術館も足利学校も、惜しげなく割愛。藤が観たかった、想像を超えたすばらしい藤のいろとりどりに堪能した、ほかに余力をさく気がなかった。
それでも足利市駅での特急に小一時間の待ちになったのを幸い、すぐ近くの渡良瀬川、日盛りの岸辺に降りて、川波のとめどないせせらぎを聴き、揚げ雲雀の揚げては箭のように降りるのを、並んで腰掛けて、放心したように堪能してきた。
帰りの電車では北千住駅までわたしは眠っていた。
浅草の雷門ちかくで、ビールで天丼の天麩羅だけ、ほかにたらの芽やアスパラや牛蒡のかき揚げ、妻は赤身の刺身を。
浅草はなぜかくつろぐ。
雷門から仲見世をひやかしひやかし浅草寺には一礼して、言問通りゴロゴロ会館の向かいからタクシーで鶯谷駅へ。山手線、西武線で、妻は『伊藤整氏の生活と意見』を、わたしは『嵐が丘』を読んで、保谷にはタクシーも待っていて、渋滞なく七時半に家に帰ってきた。
2008 5・9 80

* バグワンの『十牛図の旅』を一昨夜、また、音読し終えた。巻末に、平成九年十月九日「全編を音読了」「衝撃の名著」と記してある。「恒平」の朱印もおしてある。
以来十年半、同じこの巻を数度は音読している。バグワンの基本の三著は『存在の詩』『般若心経』とこの『究極の旅 十牛図』で、夕日子(仮名)の置きみやげ。
以後に『老子の道』上下『ボーディダルマ』その他数冊を手に入れ、これらを、ほぼ一日も欠かさず繰り返し順々に音読し続けている。今後もそうするだろう。

* バグワンについて「書こう」という気は無い。そういうレベルの対象ではない、もっと血肉にひとしい。
バグワンの境地は、もし謂うなら、至純の「禅」にちかい。それをも超えている。
迷信は語らない。信心や信仰など語らない。どんな教団や教義や儀式や聖典も語らない。おまえの実存は、本質は、「ブッダ」にほかならない、眠りこけて気がつかないだけだ、目覚めよ、とだけ言う。神学でも心学でも実学でも教学でもない。仏教でも基督教でもイスラム教でも神道でも道教でもない。
勉強してSOMEBODY(誰かサン)のようになれなどと決して奨めない。心(マインド)にあやつられて右往左往するのでなく、分別にしか働かない心は落とし、静かに目覚めよ、もともとのブッダフッドに、と。
生死の不安も、恐怖も夢に過ぎない、夢から覚めよと。

* たやすいことではない、が、予感はある。アクセクしないでわたしはその瞬間を待っている、間に合えば嬉しいなと思いながら。

* テレビで、霊魂を操作できるような、透視して支配できるような、運命に手が掛けられるような謂われのない「強迫」「脅迫」で、人のたださえ弱い乱れがちな心に汚い手や口をつっこんで威張り返っている連中、金髪の変態男や、ぞろりと着物の偽善男や、罵詈雑言の獰猛女などを見ていると、文字通りの「邪魔」に想われる。ああいうことこそ、マスコミで放言してはいけない、最たるモノなのに。
彼らのことは無視すればわたしは済むが、あれに掻き回されているあまりに大勢を想うとき、マスコミが最も忌避しなくてはならない、心(ハートの)ない犯罪行為の気がする。
2008 5・10 80

* 昨日河出書房から秦建日子の『推理小説』につづく新しい文庫本『アンフェアな月』をわたしに贈ってきてくれた。著者謹呈の札も入っていたし、小野寺さんの丁寧な挨拶も入っていた。最初の本は六十万部のベストセラーだったというから、お父さんはカンゼンに脱帽である。篠原涼子主演映画の「原作」というのが強かったろう。ともあれ、第二冊も成功あれ。失敗よりは成功が好いに決まっている。そしてそのうちには作品の質で、内容と力とで脱帽させてくれるように。いまのままでは、たった二、三十枚の『母の死と新しい母』(志賀直哉)や『刺青』(谷崎潤一郎)の感銘に遙かに遠い。くらべるものが間違っているのだろうが。
父の願いは、金で勘定して満足なんかするなよ、ということ。
2008 5・10 80

* 平安の古典『夜の寝覚』を三度目、満足して読み終えた。途中に大きな欠巻があり末尾にもあるのだが、幸いに精緻な研究・探索による補足や推測がきいて、現状のまま女主人公の心理と人格的な内面を彫琢した近代小説として、十分読み取れる。秀作と謂うを憚らない魅力。かならずまた読みたくなる。
いま、古典は『万葉集』の巻十二を、『太平記』も後半を、夜ごと音読しているが、「寝覚」にかわって西鶴か、『栄華物語』か、『とはずかたり』を久しぶりにか、音読に加えようと思う。大岡信さんに頂戴した「詩論」も、旧約の「雅歌」も、バグワンの『老子』も、みな音読している。
ゆうべまで、十三種類の本を寝入るまえに次々に読んでゆき、混乱しない。それぞれの面白さがよく引き立ち、きちんと前夜から翌日へと繋がる。読み飛ばすよりよほど良い。ただ、どうしても二時半にはなる。
2008 5・11 80

* きのうバグワンの老子を読んでいた。
老子は早朝に二時間ほども毎朝散歩したという。例のバグワン流の説話であろうか。
この散歩に二十年来隣家の男が連れ立つ。だが、老子も話さない。男も話さない。ただただ無言・沈黙の静かな静かな歩行だけがある。
ある日、隣家の男の客が自分も連れて貰えまいかと、ついてきた。例の沈黙黙の散歩であった、客の男は堪らなかった。そしてついに、
「ああなんときもちのいい朝でしょう。なんて美しい朝のお日様!!」と感嘆の一言二言をもらした。
老子も隣家の男もなにも応じなかった。
老子は云ったという、もう「おしゃべり箱はつれてこないように」と。「あんなことは、わたしにでもあんたにでも分かっている。なんで口にしなくちゃならん」と。
老子たちの沈黙の静かさ・楽しさ、ほんとうに、よく分かる。しゃべるよりも、しゃべらなくて済む静かさの、譬えようない醍醐味。ひともわれも、つねづねしゃべりすぎている。分かっている。沈黙は金なのだ。いや金や銀に譬えるといやしくなる。沈黙は花のようにかぐわしいのである。

* さて、なにともなく、『嵐が丘』一冊をもって出かけるか、アテもなく。
2008 5・15 80

☆ お元気ですか  鳶
5.15
五月も半ばになってしまいました。月初めから忙しい日々が続いて、ホッとした途端に心が緩んだのでしょう。足腰の疲れを強く覚え、午後になると眠り、数日が過ぎました。連休の頃一度高くなった気温が寒冷前線の通過などで低くなったこと、これも体調に大いに影響しています。
介護など老人問題を、介護する立場であると同時に、次はわたし自身のことと実感しています。が、まだまだ元気に今を生きたい、暮らしたい。
ミャンマーの水害は、軍事政権によって復興さえ絞め殺されています。
そして中国の大地震。状況をテレビの画面に追って、さまざまに思わずにはいられません。三日過ぎた今になって日本や台湾などの救援隊を受け入れると・・。そうせざるをえない巨大地震・・それにしても対策が追いつかず、遅い!!
あまりに自分の時間がなく、本を読む時間もありませんでしたが、昨日『抱擁』の文庫本がようやく手に入りました。上巻650ページ、その始めから映画とは異なった構成を感じ取りました。
現代の物語、アッシュとラモットの書簡が字体の変化によって示され、またヨーロッパの異種伝説などもかなりの比重がありそうで、重層した構造とその内容とを読み解いていくには、かなりのエネルギーを要求されそうです。が、最重要な展開はやはりアッシュと
ラモットにあるだろうと思います。少しずつ読んでいきます、と書いても常のわたしのままに、恐らく不用意なまでの速さで読み進んでしまいそうです。
来週は教室の絵の展覧会があり、その方の用事で久しぶりに街中に出かます。
5.16
紫外線も強いでしょうが穏やかに晴れた空、『嵐が丘』を携えて外出なさっているでしょうか。何か面白いもの、美味しいものに出会っているでしょうか。
燻ぶり鳶もいくらか日常を変えないといけません。ただ現在は部屋に閉じこもらないと進まない作業のために時間が過ぎていきます。勿論そんなことを忘れてふらふら飛び立ちたい心境が本来の鳶? ですが。

* この人は、ケイタイのチョンギレよりも、やはり、こういう踏み込んだメールを呉れるのが佳い。わたしの見る限り原作の『抱擁』は、この人ぐらいにしか歯が立たないであろうなと思うほど。映画はほんの原作のシノプシス程度である、それでも佳い映画ではあったけれど。
原作は長大な二巻本のわたしはやっと上巻の十一章を終えて次へ移ったところ。だが、もう構想には手がかりを得たと思っている。面白いがこれは電車では読めない。急ぎ読みにも向かない。
『嵐が丘』は、通俗な読み物性を力一杯自ら打ち砕いて進んでゆく「徹底」の文藝力作で、ヒースクリフやキャサリンほどの人間を創作したうら若い女性作者は、うら若い世間知らずだから出来た奇跡ともいえるものの、天与突然のやはり天才の作というしかあるまいか。
この作者、たぶん、きわめて寡黙な詩人ではなかったろうか。世界文学の十指から外す気はちっとも起きない、嬉しい読書をしている。

☆ エミリ・ブロンテ   鳶
ご想像通りエミリー・ブロンテは詩を書いていました。妹アンも詩を書きました。二人の詩集が翻訳されています。『エミリー・ブロンテ全詩集』1995、『アン・ブロンテ全詩集』1997、いずれも大阪教育図書の出版で、手元にあります。エミリーの本は1ページに20行、約350ページに及ぶ作品群です。1836年から1848年にいたる作です。以下はヤフーの検索からの文章です。
1836年ころから詩を書き始め、アンと共に、大西洋上にある架空の島ゴンダル国での政争を描いた「ゴンダル年代記」を残した。これは現存せず、ゴンダル国の登場人物の作という設定で、『詩集』に抒情詩が収められている。有名なものに、「私の魂は怯懦ではない(No Coward Soul is Mine)」など。姉の権威によってシャーロットによる書き直しがあるという。

* ほんの小冊子詩集かと想像していたが大部のものらしく驚いている。妹のアンと共に、大西洋上にある架空の島ゴンダル国での政争を描いた「ゴンダル年代記」を残したというのも知らなかった。紫式部が仲のいい友人とつくり物語をひそひそと書きかわしていたことも思い合わされ、興味深い。
2008 5・16 80

* 色川大吉さんに「60年代」以前に戴いていた、昭和敗戦直後の自分史『廃墟のなかから』を読み始めている。色川さんは学徒徴兵され、学徒将校のまま国内で敗戦の日を迎え、肩章をはぎとり、故郷へ帰り、また、途中ですてた学校へ戻ってゆく。帰るとか戻るとか簡単に書けばそれまでだが、国内の汽車移動の言語に絶した無惨で過酷なこと、もう今の人には想像もならないだろう。また見渡す限り焼け野原の東京、屍体の散乱した上野の駅の地獄繪。
わたしは、かすかに、ごくかすかに敗戦前後のそういう空気を吸った、色川さんの見聞や体験の万分の一ほどの。そして四川やミヤンマーの今の生き地獄を想い、そこに匍いずり回らねばならぬのが無辜の「民衆」であって、官憲や政府の役人や権力者ではなかったし今もないことを、考えずにおれない。
いま一番懸念される近未来は、被災したほとんど全てのヒト・モノ・コトが、掌をさす確かさで、政治権力や役人天国によりほぼ百パーセント見棄てられ棄捨され無処理に処理されて、無かったことかのように扱われるであろうことだ。中国でもミヤンマーでも、そして例はアメリカにもあり、日本にもあったではないか。
2008 5・18 80

* いま読んで感心しているのは、大岡信さんに戴いた、『人類最古の文明の詩』を巻頭の表題にした一冊。ことに「インド・中国・日本の詩の根源的なちがい」は、大岡さんのまた一つの噴火を想わせる。その他の論考でも、平易な言葉で大岡さんの「断言」が生彩をおび説得力につながっている。万葉にたいして古今をいわば復権させた一人の大岡信さんが、有名な古今集の「仮名序」に云うことが小さいと慨嘆をかくさないところなど、手を拍つ思いがある。
なべて過去の日本文学史に対するあきたりなさの表明からも、示唆と刺激を受ける。
なにかしらわたしの身内で、まだ書かねばならなかった課題が在ったじゃないかと刺激される。

* 三浦雅士さんの『漱石 母に愛されなかった子』の論策は「心」まで来ていて、やはり氏は、「心」を「遺書」で重く読んでいる。当然でもあるが、前の二章は「序」に過ぎないと云っているのには、失望。序に過ぎないから価値が低いとは思わないが、また云ってもいないようだが、直哉『暗夜行路』の序詞とはちがうはずだ。やはり三つの章を一体の「長編小説」と読むべきだ、三浦さんもこれは短編を連鎖の作ではない「長編小説」だと云っているのだから。
漱石の作品には、題された章のとりわけどれかが重く強く光っている例が多いにせよ、やはり他章との照り合いである。「遺書」で『心』を読んでしまうのでは、物足りない。偏頗な読みに読書子をしばしばミスリードした小宮豊隆時代のままである。
2008 5・19 80

* こどもを無事に健やかに育くむのは、とほうもなく楽しくも苦しくもある。毎晩ルソーの育児論『エミール』を読んでいて実感するのは、ルソーは、事実、自身の手と思いとで我が子を全く育てていないという、そのこと。
際限なく、とめどなく、リクツにリクツを重ねて重ねて論理は精緻に運ばれてあるようでも、誰の役に立つのだろうかと、半ば呆れながら読んでいる。書かれ言われていることが的を射ていないと云うのではない。が、上のお母さんの日々刻々の奮戦を片方に観ながら読んでいると、これこそ絵に描いた「机上の論策」であり、へたすれば読んである程度咀嚼するだけで一年はかかりそうな大部の本は、立派そうは立派そうでも、ルソーの旗印である「自然」ということから謂えば、ずばり「不自然」といわざるを得ない。わたしは世の若い親たちにこれを勧めない。
2008 5・19 80

* 小雨をさけて、まぢかの「さくら」という店に入った。細雪のあとで「さくら」はよかった。
富山の料理か。豪快な刺身、桜エビの唐揚げ、強の九条葱をつかった鴨ロースの小鍋、かれいの焼いたの。そして高菜の小結び。わたしは酒を二合、妻は小さいコップでビール。フルに満足のメニュになった。富山なら、あの店には墨の塩辛もきっと置いているだろう。沢山食べて一万三千円でおつりが来た。いまどき上等ではないか。
『嵐が丘』を読みながら満員電車で帰る。タクシーもすぐ来た。 2008 5・19 80

* 大岡信さんの本を読んでいて、鴨長明の方丈記と道元の随聞記からの引用と比較とがおもしろかった。ことに道元。本文にあたらずに粗忽に紹介は今は避けるけれども、とてもそれは励まされる言表であった。そのまえに音読していたバグワンのそれとも呼応していて、ものごとの否定と肯定との魅力的にトータルな理解と覚悟とがじつにうまくかつ微妙に語られていた、道元の簡素な語句文章の中に。

* バグワンは言う、分けて選ぶなと。分別して選択すれば混雑したエゴが出ると。分けるなと。選ぶなと。分けずに選ばずに、そのまま、それに向かえと。それに成れと。神を選ぶから悪魔もついてくる。善を選べば悪もつきまとう。分けず、選ばず。
分別するから、我が出る。分別を超えて、そのまま在れ。怒ってはいけないと思いながら怒るから我が濁って出る。怒るなら、分別も遠慮もなく怒ればいい。泣けばいい。笑えばいい。喜べばいい。これが良くてこれが悪いなどと分別しているから、することなすこと、おかしくなる。
2008 5・22 80

* 旧約「イザヤ書」を、『総説』の道びきを得ながら読み進んでいる。国のほろびゆくときの、神と人とのはげしい齟齬のさまがつよい預言・警告のことばで語られる。ときに預言ははげしい呪詛とひびく。西紀前七、八世紀か。

* 『嵐が丘』はちいさいキャシーとこまったリントンとの、ヒースクリフの野望にあやつられた不幸な幼な恋が、生き生きとした家政婦ネリーの語りで進行している。
これはまあ、なんという小説。そう、ブラマンクの烈しい、濃い、黒に近い青の世界。ちいさな世界ではない、人間の運命の凝縮された、もっとも信仰から遠いように見える人間の神話である。

* 『抱擁』はいまはアッシュの妻エレンが日記を書き継いでいる。多面体の創作世界が万華鏡を綿密に貪欲に構想し表現しつつある。あまりにあまりに知性的な、いっそ衒学的な意図の限りの創作実験。まだ上巻を終えていない。水面から三メートルも下を、息をつめてみしらぬ水源へ平泳ぎで遡上してゆくような気持ち。

* 大岡信さんの語る「詩」と文明論、三浦さんの解く「漱石」の心世界、そしてその史学のために一時茶の湯まで習ったという色川さんの描き出す、吾が敗戦直後日本の生き生きとした苦痛新生の胎動。

* 万葉集はやがて巻十三を通り抜けてゆく。
太平記は足利直義が高師直らの全盛と驕慢の前に出家剃髪を強いられたところ。ここにはあくなき人間の凶暴な強欲と闘争とがむき出しに語られ続けているが、それを語る語りの壮大に華麗な沈鬱にも驚く。太平記を平家物語の下には置けない。

* そしてジャン・ジャック・ルソーのものに憑かれたような狂的に精微な人間理解の、不毛の徹底ぶり。
西欧の知性の根底にとぐろを巻いた精神病の、これは象徴的に露表した例か。
2008 5・23 80

* 心惹かれて、外出している間も、『嵐が丘』に埋没していた。 2008 5・23 80

* 『嵐が丘』を、夜ふけて、一気に読了。
角川文庫で上下巻買ったとき高校生だった。しかも二度三度、読み始めては早くに投げ出した。しかしついに読み進め、読み上げたとき、その凄みの面白さ巧さ、把握と表現の徹底した完成度に、のけぞるほど驚いた。以来、繰り返し読んで、世界文学、少なくも十九世紀までの世界文学十指に躊躇なく数え入れてきた。
久しぶりに新訳一冊本を文庫で見付けて、往年の感動が褪せているか甦るかを確かめたくなった。ベリーグッドであった。
二代のキャサリン、ヒースクリフ、語り手の家政婦ネリー、ヘアトンもリントンもイザベラも、五月蠅いジョウゼフですらも、そそり立つように人間が描かれていた、そして嵐が丘の自然も。
もしただ一箇所、それを欠点とも秀でた美点ともいえるのは、この作品にはこれほどあらあらしい気性が凄いまで描かれて善よりむしろ悪の支配するおそろしい世間であるにかかわらず、セックスにかかわる描写も危うさもいやらしさも全く書かれていないこと。
そこにエミリ・ブロンテという少女作家の矜持も無知も純潔もがあらわれていた気がする。

* しばらく前から、この後の読書方向づけに思案が動いている。七十年に多くに感動してきた、その感動を今回の『嵐が丘』のように確認してゆく、再び堪能しながら自身の人生にそろそろ「さよなら」を告げてゆくのがいいか、より新しい未知のものに触れたが佳いか。後者は時間のムダをも相当覚悟しなくてはならないが、新しいいいものに出会う元気が欲しい気もする。
しかし前者の誘惑は大きいし、深いし、強い。自然、西欧文学は十八から二十世紀前半までの名作になる。それだって全部は読み返せないだろう。
日本文学も、古典から戦後の一次二次世代までの秀作をということになる。事実、わたしは新しい人たちの作にほとんど触れていない。自分で小説を書いている間は、同世代以降は無視していいでしょうとデビューした頃に多くの編集者が示唆したが、わたしもそれが自然で当然と受け容れた。万一書かなくなったなら好奇心にまかせて読めばいいと。
それが正しいのか間違いかは、今の関心には無い。しかし漱石や潤一郎や、直哉の一部は、あまりに懐かしい。
2008 5・24 80

* 大岡信さんの「詩における歓びと智慧」から本質的な一文を拝借しよう、こういう文章の数々において大岡さんに今度戴いた本『人類最古の文明の詩』に含まれた諸編は、数多い大岡さんの詩想ないし思想の、高度に本質的な激白に類していて、わたしは強い喜びでこれらを読んでいる。たまたま引く以下の一文などは、小説家として励ましを浴びる心地がする。

☆ 「言葉は実際、それが露出してみせる自然や社会、または一人の人間の考え方、感じ方を、肉感的といってもいい直接さでひとに提示しない限り、生きているとはいえないし、言葉が生きていない限り、それを発した人間も十全に生きているとはいえない。つまり、人間は世界を感じる度合に応じて自己を感じるのだ。すくなくとも、言葉を発した時、ひとはそのことを思い知らされる。発語者の情熱、世界を感じとろうとする情熱は、言葉の体臭のごときものとなってにじみ出るのだ。
情熱、言いかえれば対象への集中的な関心は、現在のようにぼくらの環境が個人的な夢に対して永続的な関心を持ち続けることを許さなくなっている時代にあっては、他のいかなるものよりも貴ばれ、守られねばならないものである。
およそ個人的な情熱とは無縁にみえる小説にしたところで、すぐれた小説を支えているものは、スウィフト以来、作家のきわめて個人的な情熱や夢想以外にはなかった。ぼくらはその最もよい例を、情熱によってヴォワイヤンとなり、従って哲学者となったバルザックに見ることができよう。
読者を冷静な観察者にとどまらせておく小説は、ぼくには第一級の小説とは思えない。読者を完全に魅しさる小説、つまり読者の足をさらってしまい、自分が現に読みつつあるものがどのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、どのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、それこそ小説としての客観的価値をそなえた小説だ。見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。小説における方法というものが考えられるとすれば、このような条件を無視しては考えられないであろう。自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だといっていい。ということは、小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではないことを意味する。むしろ情熱こそ予見する。ぼくらは小説の中の他愛もない部分に、輝きに満ちた感動的な表現を見出すものだ。」
(大岡信著『人類最古の文明の詩』朝日出版社刊の「詩における歓びと智慧」より。)

* 繰り返し読むに値する。
それが幻想的であれ私小説であれ、もしくは非小説でもあれ、「見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。」「自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だ。」「小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではない。むしろ情熱こそ予見する。」

* あえて言う、『かくのごとき、死』のごときは、日記の体裁を保ちながら、死という運命に刻々とあおられながら現状破壊の自己分解に堪えた「小説」であった。
多くの読者が息をあえがせ、ときに顔をそむけながら、引きずられていったと告白されている。文学の命がうねって堪えていた。
わたしが「事件」を書くなら、あらゆる遠慮会釈抜きに骨は太くのこして皮を剥ぐようにレポートするだろう。
健康をはやく回復して建日子に、優れた文学作品を期待したい。
『嵐が丘』は徹した作り物語りであるが、その文学たる真価は、大岡さんの上の文にあざやかに解説されている。

* 狂奔のために創作するのではない。無為の為のごとく成すのである。分けず、選ばず、そのまま受け取るのである。烈しく強く情熱をこめて受け取るのである。バグワンにも聴きながら。

☆ バグワンにわたしは聴く。 (『TAO 老子の道』より。スワミ・プレム・プラブッダ訳に基づいて。)
彼(ニーチェ)は言う。
「空にとどこうと欲する樹は、地の最も深いところまで行かなければならない。その根は深くまさに地獄まで行かなければならない。そうして初めて、その枝が、その峰が、天国にとどくのだ」と。
その樹は、地獄と天国の両方に触れなくてはなるまい。高みと深みの両方に……。そして、同じことが人間の実存についても言える。
おまえは何らかの形で、おまえの実存の内奥無比なる中核において、悪魔と神の両方に出会わなければならないのだ。悪魔を怖がらないこと。さもなければ、おまえ神はより貧しい神になってしまうだろう。
キリスト教やユダヤ教の神はとても貧しい。キリスト教やユダヤ教や回教の神は、その中に何の〝塩気”もない。無味乾燥だ。なぜかというと、〝塩″が捨て去られてしまっているからだ。〝塩”は悪魔にさせられた。それ(神と悪魔と)は「ひとまとまり」でなくてはならないものだ。
存在においては、反対同士のものの間に有機的な(統一=ユニティ)がある。有と無、難と易、長と短、高と低……。
(老子は言う。)

〝音程と声は互いに補い合ってハーモニーをつくり、
前と後は互いに補い合って結びつく。
かくして、賢者は行なわずして物事を処し……”

故有無相生 難易相成 長短相形
高下相傾 音声相和 前後相随
是以聖人処無為之事 行不言之教

これが、老子が<無為>と呼ぶところのものだ。賢者は行ないなくしてものごとを処す。
可能性は三つある。ひとつは……行為の中にいて無為を忘れる。そんなおまえは世間的な人間だ。
第二の可能性……行為を落としてヒマラヤへ行き、無為にとどまる。そんなおまえは、あの世的な人間
だ。
第三の可能性……市場(市俗)に住み、しかも、市場(市俗)がおまえの中に住まうのを許さない。行動的にならないままで行為する。動き、内側では不動のままでいる。
私はいまおまえに向かってしゃべっている。しかも、私の内側には静寂がある。私はしゃべっていて、同時にしゃべっていない。動いていて動かない。行なっていて行なわない。もし無為と行為が出会ったなら、そのときにこそハーモニーが起こる。そうなったら、おまえは美しい現象と化す。醜さに対立する(争う) 美しさじゃない。醜さも含んだ(取り入れた)美しさだ。
バラの茂みに行って、花と棘を見てごらん。その棘は花と対立したものじゃない。それが花を護る。それは花のまわりの番兵たちだ。保安、安全手段なのだ。真にビューティフルな人間の中では、真に調和のとれた人間の中では、何ひとつ拒絶されることがない。拒絶というのは存在に反するものだ。すべてが吸収されなくてはならない。それがアートだ。もし拒絶するとしたら。それはおまえがアーティストでない証拠になる。すべてが吸収されるべきだ、使われるべきだ。もし行く手に石があっても、それを拒絶しようとしないこと、それを踏み石として使うがいい。

* 分けない、選ばない、しないで、する。強く烈しく情熱的にする。文学が、詩がそこに生まれる。
2008 5・24 80

* あえて、ゆっくり朝寝した。思えば、このところの就寝前の読書は、読み切った『嵐が丘』もふくめて、バラエティもあり内容も優秀、つい一冊一冊の読書時間がながくなり、夜更かしが過ぎてゆく。むろん翌朝がどんな日であるかは考慮する。
バイアツトの『抱擁』は、着実に大きな爆発へむけて巧緻な手順をきっちり追っている。人間の内面は大嵐なのに、創作の手は知性と理性が精緻なほど手綱を捌いている。こういう小説をわたしはかつて知らないように思う。
2008 5・25 80

* 三浦雅士さんの『漱石 母に愛されなかった子』を夜前、読了。漱石作品は全作を三度は、ものによってはそれ以上も読み返し読み返ししてきたし、いくらかは漱石論にも触れてきているから、三浦さんのこの副題に添って読んで所論の解せないところは無かった、各作品の読みでも、『心』をのぞいて、殆どに賛同し、称賛の気持ちをもちつづけた。
『それから』『彼岸過ぎ迄』『行人』に露骨な漱石の「男」の「卑怯」さ(悲願過ぎ迄の千代子の弁)などは、すでに手厳しく言われてきて、言われなくてもわたしもイヤほど感じてきたことだが、三浦さんは母に「愛されなかった」子の負担の意識や事実を、みごとな包丁に運用して、漱石と漱石作品の世界をさばかれている。さくさくと割り切れた議論の運びで、文学論を人間論に大きく盛り立てられている。面白かった。
岩波新書の新刊である、誰にでも容易に手に入る。一読を奨めたいが、条件は、とにもかくにも漱石の原作を先に読んでのあとがいい。
さもないと「読み方」を強いられてしまうだろう。

* バイアットの『抱擁』が佳境にすすんで、わくわくしている。
作の構想も組み立てのおもしろさも、かなりよく読めてきている。この抱擁= POSSESSIONという題は、漢字で先ず読むと、なにかしら浅い、表面的な偏見の先立つおそれがある、映画の客寄せの為に小説の原題から外れ、意図的に通俗化した題と疑う人もあろうか、だが、原題そのもの。
「POSSESSION=抱擁」の意味は、理念的にかなり練られている。哲学でもあるが、宗教味もあって、しかもじつにセクシイ。類い希に優れた前世紀の桂冠詩人と閨秀詩人との、精神と肉体とトータルな相互の POSSESSIONへ極まりゆく、「敬愛の秘蹟」が、もう一方現代の、やはり尖鋭で繊細な感性と理性のペアによる、「学究の姿勢」で、敬虔なまでの相愛の姿勢で追究されてゆく。抑制されたピュアな性の沸騰が、ここでも新たな「抱擁」を成らせてゆく、らしい、まだ下巻に入ったところだが。映画の方は繰り返し観ている。しかし映画は原作の緻密で大部なのにくらべると、みごとなまで粗筋に絞られてある。

* 谷神不死、是謂玄牝、玄牝之門、是謂天地根
老子はそう謂っている。
バグワンはこう読んでいる。
谷の精はけっして死なない。それは神秘なる女性と呼ばれる。
神秘な女性の扉、それが天と地の根源である、
と。そしてバグワンはここで独自に「抱擁=POSSESSION」を語っている。「女性」を神秘な根底にみさだめた信仰は、古来少なくない。その方が断然多い。
バイアットは作中、慎重を極めた序奏を経てから、「女性」自体の即物的な「表現」に精妙な感性と言葉の微妙を駆使して、関心を高めている。抱擁とは、女性への、両性による「POSSESS=所有」を意味してくる。モードとローランドという原題の若い男女も、最高の知性と感性の昔の詩人二人、アッシュもクリスタベルも、「其処」で、ドラマを現出して行く。「世界」というマトリックス=母胎への根源の理解と参加が、儀式を溶かした至純のほのおと成り、無垢に起ち上がることが期待されている。

* 万葉集は、巻第十四に入った。
色川大吉さんの敗戦直後の青春の自分史は興奮に充ち満ち、大岡信さんの詩論は、氏の昂揚した優れた洞見が新鮮で犀利で、数ある近代の名著、たとえば岡倉天心の『茶の本』などにならぶ達成のようにすら思われる。
わたしは、このところ、とても質のいい読書に恵まれている。ただし睡眠が足りなくなる。二時半三時に灯を消し、六時前には起きて機械の前に来ていた。眼が霞み、しかも下肢は象の脚のように重くて太い。

* 早く起きたのは、謡曲『求塚』の詞章を丁寧に読んでみたかったから。感想の輪郭線を、少しく知識で太く濃くしておこうとしたのである。そして気づいたこともある、昭世の舞台、ことに間狂言に異色の補充がされていた。それは理解の、解釈の、強い補強であった、まさかわたしが夢を観ていたのではあるまい、いや夢でわたしが補強していたのなら、ますます面白い。能は文字通りの夢幻能であったのだから。そのところは、だから、ここでは言わない。

* いま、というもよし、昨今というのも、去年からとひろげてもいいが、わたしのアタマは霊獣の獅子のアタマのように火炎なりに新しい思いが三つも四つも渦巻いていて、懸命に飛散を押しとどめようと筆を使っている。どうしても心身疲労し消耗防ぎえない。自分では面白いけれども、まだ人を面白がらせるに距離がある。しんどいことだ。バイアット流には、なにものと、なにごとと、わたしは「抱擁」しようとしているのだろう。両腕で自分の胸を抱くと、きつい痛みが走る。
2008 5・31 80

* 昨日、懐かしい名古屋市大谷口幸代さんの『川端康成「みづうみ」の図像学』を戴いた。「猿猴捉月図」の構図から、また構図へ、論の煮詰まってゆく谷口さん薬籠中の手法と洞察と想われる。京都への旅、車中の楽しみに持って行く。出だしをちらと見た限り、論文をいきなり中心へ運んで行く筆致は、涼しやかにみごとで、本来そうあるべき佳い文章でいい論考をという在りように、ピタリ嵌っているのが嬉しい。同世代の研究者ではたしかに図抜けた力量の人に思われる。これから先々の益々楽しみな人。感謝。
2008 6・4 81

* 谷口幸代さんの周到な康成作『みづうみ論』を読んだ。「捉月図」をきっちりきっちり読み抜いて、手堅い。論文が板についてよみやすく、間ダレしないのもさすがで、確かさに安心して教えられた。感謝。
2008 6・6 81

 

* 建日子は、元気に夜中の二時過ぎまで話し込んでいった。それから就寝前の本を読んだ。
太平記では、尊氏親子や高師直らと、尊氏弟の直義入道とが反目し闘おうとしている。南北朝時代のいわば知名の英雄達はもう殆ど他界。室町時代というのがどう用意され開幕して行くのか、教科書的には甚だ稀薄な時期を、克明な記事で埋めているのが太平記後半だと思えば、もはや血湧き肉躍ることもないただの混乱期も、そうですかそうですかと声に出して読み進められる。
万葉集は巻第十四から十五へ。音読していれば、いくらでも読み進んで行く。ときどき目の覚めるほどの秀歌に出逢う。
2008 6・10 81

* ものの下から、ものの中から、ものの奥から、ものに紛れて。何と言っても言い訳でしかなく、ちょうど半世紀前、大学か院かにいた頃研究室の書庫で借り出した図書が現れ出た。
東京へ出た頃、わたしはまだ院の中退手続きをせず、休学の体裁であったのと、勉強そのものをよす気は少しもなかった。しかしこの際の言い訳にならない。
幸い、大学事務室に親しい読者が勤めていてくれるので、おりをみてその人へ「返却」を頼みたい。が、この際もう一度読んでみようと昨日、思い立った。
いまやまこと古めかしいけれど、大西克礼先生著の『現象学派の美学』(岩波書店)で、昭和十二年九月十日に初刷、十六年九月十五日に三刷した本である。わたしが満二歳前に世に出て、真珠湾奇襲の三ヶ月近く前に刷られている三刷本。
現象学は当時ではもっともハイカラな哲学思潮であり、三刷とは、人気を証明している。わたしが学部や院にいたときでも、まだ、現象学的な研究姿勢は人気があった。わたしの書庫にも、創始者といえるフッサールのそんな題の原書か訳書かが、今もあるように、うろ覚えている。
さ、いま読んでわたしについて行けるか、興味を再燃できるか分からない。大西先生の原著で、翻訳本ではない。この先生のカントの翻訳などは読みづらくて閉口したものだ、いっそ原著の方がついてゆきやすかったぐらい。
それもこれもすべて過ぎし大昔のまぼろしであるが。昨今の美学の新思潮など何も知らないが、送ってきてくれる母校の紀要にも、もう現象学的な研究論文は少ないのではあるまいか。
「現象学」て何ですかと問われても、いまのわたしは口を噤むぐらいだ、だからまた学生の気持ちで、しかも自分の産まれた昔の研究書を読んでみたくなった。幸いに著者の原著とはいえ、ご自身の研究成果というより、現象学にいたる思潮をちゃんと踏まえた、レビュウに傾いた著述のように、序文にはある。序文・緒言は読みやすかったので、いささか眉をひらいています。
2008 6・11 81

* 色川大吉さんの「廃墟の青春」が、七十余歳のわたしを励ましてくれる。知と意気のシャワーを浴びている。他人様(ひとさま)のことではそうすんなり理解できないけれど、わがこととなると、青春と老境との間にむざんな距離はあまり無い。十五も十七も、いまの七十過ぎに、昨日今日の実感で繋がっている。だから励まされうるのである。

* いま「イザヤ書」を読んでいるが、迂闊にも初めて気づいた、これは言うまでもないキリスト生誕より六、七百年も昔のもの、ソクラテスよりも昔のもの。日本の古事記より千年も昔の文章。
なんという豊かな詞藻だろう。なんという早く成熟していた言葉の文化であることか。こういう迂闊さである、この読書子は。だが、こういう気づきが、よろこびである。この旧約聖書を、こういう文語の日本文に直してくれた人たちの存在にも、深くおどろかされる。
2008 6・13 81

* バイアットという英国の女性作家はわたしより少し若い。英国で「最高の知性」といつも評されているといい、英国事情は何も分からないが、或る強烈な、知的活溌で充満した人であるとは、作品が告げている。
『抱擁』は巻を追ってますますオモシロクなり、輝きを増して惹きつける。このような作風では、手法では、簡単に読者に投げ出されるおそれもあるが、引きこまれて行くと万華鏡のように部分部分が照りあってきて、独特の「球」のような世界創造が目に見えてくる。
この物語には、過去のヒロインたちと、現代のヒロインたちとが入り交じって生きているが、その過去のヒロインは卓越した詩人であり、その作品も説得力豊かに鏤めたように登場する。それはともかく、いま、わたしはその「ラモット」という優れた閨秀が、作家志望の従妹の家に傷心をいやしに寄宿している辺を読んでいる。
作家志望の若い従妹は、名声ある従姉の指導と刺戟とを切望しながら、活溌に日記を「書く」というかたちで、いろいろラモットに関する証言を積み重ねている。その中で、「書く」「創作を書く」ことについて、ラモットは十分刺激的な示唆をたくさん従妹に与えている。
「書きたい」人には、少なくも基本の示唆がされている。

* 書きたい人はうじゃうじゃいる。書いてあるものは、万に一つもろくなものはないが、それでも志と努力とが書き手を励ますことはある。いちばん不味くてコッケイでさえあるのは、「自称作家」「**会員」「**同人」の書き垂れた駄文駄作。実績なしの「自称作家」で終わっては「くろうとゴッコ」に過ぎない。バイアットの文学、創作、詩への思いは厳しい。本当に優れた作を書きたい人は、出来れば原作で、彼女にも聴くといい。わたしもじっと聴いている。
2008 6・16 81

* 谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地根
老子の一核心である。
谷の精はけっして死なない。それは神秘なる女性と呼ばれる。神秘な女性の扉、それが天と地の根源である。
このアナロジーのとてつもない豊かさ。
バイアットも、それを多彩で豊饒な想像力と言葉とで追っている。語っている。
アーシュラ・ル・グゥインも病んだ世界の根源の扉へ、ゲドを送って回復させていた。
映画『マトリックス』でも、最期にあの二人(キアヌ・リーヴス、キャリー・アン・モス)は、マトリックス(母胎)根源の扉を直しに行った、人類の希望を甦らせようと。
西欧の哲学史を追っていると、中国の老子が、どんなに優れた実存であったかが、感謝と共に見えてくる。カント以降の西欧哲学は、じりじりと老子の膝元へすり寄ってくるようですらある。バグワンのような現代の老子がいたのを、わたしはおどろきとともに感謝の眼で見つめている。
2008 6・16 81

* 病院でもライオンでも有楽町線でも『抱擁』に読み耽っていた。滾々と涌いて出るおもしろさ。

* それにくらべ昨日戴いた朝日新書、山折哲雄さんと若い島田裕己氏の「死」の対談は読み出してみて、全然乗れなかった。バグワンの透徹とくらべると、混濁して中途半端で、enlightenmentの言説には程遠い俗談に思われる。
「マハームドラー」という言葉を介してオーム真理教の「論理」が語られ始めるが、それがほんとうなら、真実の「マハームドラ」とは何の触れあうものもないまやかしだと、すぐに分かる。
2008 6・19 81

* 何がいま興味深いか。それは云うまでもない、新しい小説を書いていることと、バイアットの『抱擁』を咀嚼するように味読しながら、西洋哲学史を、「バロック」まで歩んできたこと。
大西克礼先生の著『現象学派の美学』の日本語は、失礼だけれど、ムニャムニャと上滑りして、書いてあることはそう難しい事ではないのに、索漠として砂を噛みながら外国人の喋るのを聴いているようです。
2008 6・22 81

* 「木綿」という文藝冊子をいつも下さる榊弘子さんの巻頭文に、李賀、というより鬼才李長吉でなじんだ唐の詩人の詩句がひいてあった。

長安に男児あり
二十にして心已に朽ちたり
また
人生窮拙あり
日暮聊(いささ)か酒を飲む
祇今(ただいま)道已に塞がる
何ぞ必ずしも白首を須(ま)たむ

二十七歳で死したる詩人。二十七歳で小説を書き始めたわれ、白頭、七十二郎。生きすぎたか。
2008 6・23 81

* バイアットの『抱擁 POSSESSION ロマンス』は、もう相当後段、妻エレンの手記を読んでいる。想像以上に巧緻に編み上げて行きながら、そういう手法に邪魔されて緊迫感が落ちるとこともなく、POSSESSION=取り憑かれた状態をも鬼気迫って画いている。まだもう幾つか山も谷もあるか。

* デカルトの名は高いが、彼の過剰で乾いた合理主義でこの世界や人間を割り切ろうなど、とても思えない。
哲学がほんとうに人間に膚接して意義を深めるには、少なくも近代ももっと先へ出ないと、リクツのためのリクツばかり聞かされる。
そんなものは「哲学・学」でこそあれ、たとえばわたしの不安や安心とは関わってこない。あの昭和の戦争へ駆り立てられた学生達が、目の前に迫っている死をまえに必死で哲学書にとりついて、ことごとく絶望を強いられたという、芹沢光治良さんの『死者との対話』が思い出される。わたしも高校から大学の頃に西田博士の有名な『善の研究』などに齧り付いたが、所詮論理は論理、生きの糧にはならぬモノと捨てた。
それより谷崎潤一郎や夏目漱石や島崎藤村の方にほんとうに哲学した人の思想の励ましがあった。評論を読むよりも、あった。
2008 6・27 81

* 日脚の確実なうつろいに、おどろく。

* 北沢栄 紫圭子 両氏の詩集『ナショナル・セキュリティ』は立派であった。メタファの働きを生かした最現代への批評、詩の機能が生彩を放っている。

* 詩を書かないわたしだが、詩人の知人は少なくない。硬質の瞑想と批評に富んだメタファの人だったのが、だんだん柔らかな独り言で、日記のような散文 (詩?)を書いている詩人もいる。必然あってか、怠惰なのか、見分けがつかない。そこにはもう感想しかなく、洞察も批評も失せている。惜しいと思う。詩誌という「仲間」で仕事を始めると、そうなってしまう人がいるのか。孤独をおそれて詩が書けるのか。

* 早稲田大学文藝科でわたしのゼミを一年受けた、妻の曰く「あなたの一等昔の学生さん」である平澤信一君が、もう「君」でもない立派な先生だが、『宮沢賢治 <遷移>の詩学』という研究成果一冊をはるばる贈ってきてくれた。思わず雀躍りするほど嬉しかった。教室で出逢った最初の印象も講義後の会話もわたしは忘れない。ウワァ大変、こんな連中のメンドーをみるのかと、外部のわたしをそんな教室にウムを言わさず引きずり込んだ此処の主任教授を恨めしがったほど、平澤君の舌鋒は鋭かった。新米の作家講師をつるすぐらいの勢いだった。ま、わたしはそうカンタンに吊されないが。
あの年は、息子秦建日子が早大法科に推薦入学し、わたしは「秦 恒平・湖の本」を創刊した一九八六年で、平澤君はたしか三年生だった。
あれからずうっと彼の仕事にも消息にも触れていたし、なにより彼は有り難い真摯な「湖の本」継続読者でいてくれる、今も。彼の研究は、よほど一途に宮沢賢治に集中し、新知見を出すことも度々あった。
この早稲田でのわたしの文藝科ゼミからは作家は角田光代さんを送り出せたし、評論では平澤君がこうして励んでいる。松島政一君のようなたいへんユニークな編輯と評論の活動を続けている人もいる。もっといるだろうと思う。たった二年間、手伝ったに過ぎないゼミであったが、ムダではなかった。

* 御著上梓心より祝します。 秦 恒平
平澤君  よかったなあ、めでたいことです、大きな佳い一歩が踏み出されました。多年研鑽とか執心出精ということばがこの本にこそ燃え立つように輝いている。どの一編にも君の息づかいと体温がある、それがホンモノの証拠ですよ。
折角健康を労りつつ、次の一歩へもう踏み出されていると信じます。着実に、時に大胆無比にも歩んで進んで行かれますよう、都の西北から祝意と激励とを送ります。ありがとうと申し上げる。  秦 恒平
2008 7・2 82

* 五時間も寝たか。昨夜は哲学史、ことにヒュームにひきこまれていた。理性よりも感情を世界への優れた触手として信頼するヒュームに、わたしは荷担する。理性はともすると分別に陥る。分別は、果てしなくものごとを分割し、小さく小さくしてはその小さい把握の完璧性に満足する。完成感に達成の満足を誇る。
それはダメだ。ものごとを全体トータルとして生きていない。健康によく働く感情は優れた感性との協力で実感のある世界に迫ることが出来る。
2008 7・4 82

* 五時間も寝たか。昨夜は哲学史、ことにヒュームにひきこまれていた。理性よりも感情を世界への優れた触手として信頼するヒュームに、わたしは荷担する。理性はともすると分別に陥る。分別は、果てしなくものごとを分割し、小さく小さくしてはその小さい把握の完璧性に満足する。完成感に達成の満足を誇る。
それはダメだ。ものごとを全体トータルとして生きていない。健康によく働く感情は優れた感性との協力で実感のある世界に迫ることが出来る。
2008 7・4 82

* 梅雨が気長に頑張っている。

* きのう遂に、バーネットの『抱擁 POSSESSION』を読み終えた。難渋したのではない、すこしずつ熟読してきた。いわゆる素朴な感動作とはちがっている。巧緻に編み上げた構想力や独創力に素直に感嘆してきた。あまりこの手の小説は読んでこなかったなと思わせられ、べつになぞらえるわけでなく、自分の小説がよく「むずかしい」といわれてきた意味を、少し呑み込んだりしている。
やはりアッシュとラモットとエレンとの関わりに中心の劇があり、感銘もあり、大勢の登場人物のかき分けにも的確な作者の把握が感じ取れる。
この大作を終始変わらぬ関心と興味とで読み切る人は少ないのかも知れない。或る特別の作品という気がした。すくなくも原作『抱擁』と映画『抱擁』とでは厚みがまったくちがうこと、これは知っていた方がいい。映画は原作の効果的な案内にはなった。この作に限っては映画を観ていて助けられたと感謝する。
この本を見付けて贈ってくれた播磨の鳶に感謝する。
2008 7・8 82

* 川西蘭さんという作家と、通産省の文字コード委員会以来のおなじみになっているが、いつのほどか浄土真宗の坊さんになり、こんど『坊主のぼやき』という快著!? の出版となった。真宗の新米? のお坊さんが快刀乱麻の勢いで葬式や戒名のはなしをしてくれている。妻はクスクス、あはあは笑いながら一息で読んでしまった。早稲田の学生時代に作家としてデビューしてきた程の書き手である、わたしなどは出家の動機や心事に関心を持つ。その微妙なところは性急にここに書いてはなるまい。
2008 7・18 82

 

* 雨あがりのせいか、就寝後にすこし蚊が来た。蚊は嫌い。二時半だったがそのまま起きてしまい、機械の前へ来た。

* われながら不思議なこと、大西克禮先生の昭和十六年つまり一九四一年九月版『現象学派の美学』を読み続けていて、なんとかくっついていること、それも興味を維持して難解極まる日本語にくいついて苦にせず毎晩読み継いでいること。
現代美学の哲学的傾向、現代の哲学的美学と現象学という二つの序論を通過し、第一章「心理学的・現象学的美学」という最初の本論へ踏み込んできた。
一つには院生の頃になじんだ西欧の美学・哲学者達の名前に記憶があり、妙に懐かしいままに、惹かれて引っ張られてきた。
デッソアー、ディルタイ、カント、フッサールシェリング、シュライエルマッヘル、オーデブレヒト、ランゲ、リップス、フォルケルト、ムハルトマン、コンラッド、ガイガー、フェヒネル、ブント、ベルグソン、ヴェルフリン、フィードラー、リッカート、バウムガルテン、フィッシャー、クーン、ヘーゲル、ベッカー、ベームなどなど、こう聞き覚えの懐かしい名前が続出してくると、誘いの波にのって、さきへさきへ送り込まれて行く。こんな人たちの思索を追っかけて勉強していたんだと我ながらびっくりしてしまうが、分かりにくい、分からないなりに、じりじりと押して行くと、意外やあの当時の自分の追究の道筋が甦ってきたりして、主任教授だった園頼三先生独特の概念や用語までわがことのように甦ってくる。
それにしても、「自己価値感情と対立せしめられた場合には対象的とは主として美的形式論理の場合の如き、感覚的対象的関係から生ずる快感を指すに反し、かの自己達成(ジッヒアウスレーベン)とか自己満足(ジッヒベフリーディゲン)の契機に応ずる対象的価値感情と云ふのは、既に普通の心理学的快感の問題の層から、特殊なる美的快感の問題の層に入つて、リップスの言葉で云へば、美その者の内容に於ける最高の対立として、崇高(エルハーベネ)の如き美的効果と対立する、特別な性格の美的快感(即ち先きの場合の如き形式美のみの快感でなく、形式内容の過不及なき綜合による調和的な美的効果)を意味してゐるのである。」などという日本語に首まで漬かっていたのだった。
とてもこれは、わたしの「小説語の好み」とは合わない。わたしは同じ専攻の妻の学部卒業を一年待ち、院をはなれ、人と故郷をうち捨てて東京へ奔った。「駆け落ち」と言ってきた。
そのまま新婚生活に入り医学書院の編集者になった。三年こらえてから遂に小説を書き始め、太宰賞まで、盆も正月も病気も例外なく一日と雖も書くのをやすまなかった。受賞後も同じだった。
園先生がなくなったとき、枕元にはわたしの著書が在ったと先輩の郡教授に聴いた。そのころ、『閨秀』を書いて朝日新聞の「時評」が全面をもちいて褒めてくれた。筆者は吉田健一先生。
園先生のお葬式の列の中で、松園嗣子松篁さんご夫妻から、ていねいに『閨秀』にご挨拶を戴いた。

* いま一つ、このところの感銘は、やはりバグワン。「性と死」との問題を『老子』のなかで語っている。何年ものうちにもう少なくも数度は読んできた。いつも深く内奥に響いてくる。
いま、老境の性のテーマがいちばん濃厚にわたしの思いを占めている。その辺から enlightenの文学的追究があり得ればと。峨々として容易ならぬ峻嶮。
2008 7・19 82

* 夕食後に、妻とすばやく池袋に出、「さくらや」で、破損してしまったマウスを二つ買ってきた。妻のマウスを借りて仕事をしていた。用事のあと、となりの服部珈琲舎で美味いコーヒーを楽しみ、帰りの電車では別々に坐ってわたしは相変わらず『伊藤整氏の生活と意見』を読んだ。
珈琲舎で妻は、「服部」をどうして「はっとり」と読むんでしょうと聞いた。「服部」は、「はとり・べ」のこと、律令制以来の職掌由来だよと答えた。「はとり」は「機織り」からと書いた辞書が多いだろうが、絹布を糸にといてゆくのを「はつる」「はつり」と謂ったのとも関わるだろう。
2008 7・20 82

* 世間は三連休だったようだが、わたしたちには関わりないカレンダーだけのこと。欠かさない就寝前の読書現況。
万葉集が最後の一冊に入った。本万葉集に対して、末尾四巻はあだかも大伴家持集。
太平記もやがて最後の一冊になる。煮詰まったすきやき鍋に肉はとうに無いという情況。
長かったイザヤ書ももう先が見えてきた。新約聖書へ気がむかうが、いやいや旧約のさきはまだ永い。
色川大吉さんの敗戦直後の自分史も終幕部に。
エミールは相変わらずだが、ガマンづよく丁寧につきあっている。よほど妙な人だと思うが、「妙」には素晴らしい妙も、奇妙変妙もある。ルソーは、すぐれた時代の思想家であった。性格的にはかなり奇妙な人でもあった。いま読んでいるナボコフの『ロリータ』の語り手ランバート・ランバートに一縷通うような、妙、奇妙。ランバートはニンフェットたちへの病的な偏愛だが、ルソーの少年エミールをいじくりまわす手つきにも、少年愛のくさみがつきまとっていないか。しかも超度の細密思索は、余人の思い及ばぬ奇警な発語で、つい読ませてしまう威力がある。「優れて不自然な」自然主義者の洞察集のように、いまのところ超スローに読み進んでいる。たぶん途中下車しないで三巻とも読むだろう。
哲学史は、カントを過ぎ、ヘーゲルを通りすぎた。現代への足取りにもっとも興味を覚える。
現象学的美学は、「昔の文章」にアテられながらも、この哲学の美学的手法化に少しずつ引きずり込まれて行く。書庫にある美学の古典へも、関連して興味が動く。しかもそれら何冊を積み上げても、目の前に咲いている一輪の野の花の美しさからは、優れた文学や演劇の魅力からは、よほど遠い「口舌・分別の学問」という妄念の所産に思われる。畏れ多いことを云うけれども。
高田衛さんの導きで、意識的に学習気分でまたも雨月物語に食いついている。
そして傑出しているのはやはり、バグワン。いまは『老子』に聴いている。
2008 7・21 82

* 色川大吉さんに戴いた敗戦直後の自分史『廃墟に立つ』を読み終えた。『六十年代』は先に読んだ。
読めば読むほど色川さんと自分とに気持ちのというか、娘のむかしの物言いにしたがえば「魂の色が似ている」感じ、離れない。
中公版「日本の歴史」の近代を何冊も読みながら、真っ先に色川さんにとりついて、著の一章を「ペン電子文藝館」に戴いた気合いが、今にして一段と納得できる。色川さんから新井正紘さんを照会され、さらに今井清一さんに近づきをえていった。
色川さんを読んでいると、たとえば歌人の玉城徹さんや日中文化交流協会の宮川寅雄先生や、思いがけず親しかったお人の名前が幾らも拾い出せて、それにも驚いた。
わたしは人とべったりくっついては付き合わないが、仕事を通してえてきた知己は、各界にびっくりするほど数多い。わたしのようなブッキラボーでいつも独りでうろうろしている者が、どうしてそんなに識り合いがいるんですかとよく聞かれる。別段の事はない、五十年、わたしは自身の積んできた仕事を通して、知己と信頼を得てきた。仕事・著作を看てもらうのがいちばん確実である。
湖の本二十余年やがて百巻に達するが、湖の本以前にまた並行して出版された著書が小説やエツセイでやはり百冊ほどある。それらを買って読んでくださった読者のほかに、さしあげて読んでもらってきた各界人は数え切れないほど多い。
婿・★★★が(=希望を容れてマスキング)どう画策しようと、娘「夕日子(=希望を容れて仮名)」がどうもの蔭に隠れて書き散らそうと、半世紀の、逃げ隠れしない信用は剥げ落ちない。
2008 7・26 82

* フウ、戸外の暑いこと、本の入った鞄をもって駅まで歩くと、苦痛で顔が歪むほど後ろ腰が痛むのを、なだめなだめ行く。新富町まで坐って行けて助かる。
予約よりずいぶん早くついて検査は、予約時間十時半には、もう済んでいた。
視野検査はほんと苦手。両眼で小一時間はただただ光の点滅を把捉してボタンを押し続ける。しっかり疲れる。疲れるのはまだしも、そのアトの診察の順番待ちがあまりといえばあまり、二時間以上もまたされた。予約時間から一時間半も遅れていた、しかも担当医師が退職していて、別医師のドンジリまで待たされた。
いらいらしながら待てたのは、『冬祭り』のおかげ、夢中で上巻を読み終え、用意よく中巻も持って出ていたので、没入できた。待ち時間を忘れていた。

* 津軽海峡からナホトカへ、そしてハバロフスク経由雨のモスクワに入って、ドストエフスキー誕生の建物を観たり、トルストイ伯爵邸だったソ連作家同盟で食事したり、ザゴルスクの三位一体教会を訪れたりする内にも、旅の「私」は、今はモスクワに住む「冬子」ともう電話で話し、明日早朝にはジェルジンスキー公園で逢おうと約束が出来ていた。二十数年ぶりの「再会」だ。
ひとは本気で笑うだろうが、わたしは読みながら、胸のつまるほど本気でわくわくしていた。その幸福のために、つまり、わたし自身が読みたくてそして嬉しくも懐かしくもなりたいために、わたしはわたしのすべての小説を書いてきた。読者のために書いてきたのでは、申し訳ないが、ないのである。「わたしの批評」に適うほどの作をわたしがわたしのために書いてきた。わたしの作中人物は、現実のだれかれよりもインパクトつよく豊かに美しく、みな真正の「わたしの身内」だ。ことにこの作品の「冬子=ふうちゃん」は、すべての「現実」と均衡して優にあまりあるヒロインの一人、唯の一人。
2008 7・28 82

* 二時半に読書の灯を消し、三時過ぎに蚊の声で床を離れ、そのまま黙々と小厄介な発送の仕事を独りつづけて、いま八時半。幸い、すこし鬱陶しい塊のような手作業を一気に通過したので、肩の荷がかるくなった。綿のように眠気が来る。少しやすんでから今日の作業を再開する。

* 『冬祭り』の空気が、うねるように脳裏に甦ってくる。迫ってくる。呼んでくる。
じつに簡単なことだ、呼び声に答えてそこへ入っていき、後ろ手に現世の戸をしめ鍵をチョンとおろせばいい。むかし、『桔梗』という作でそれに失敗し、独り現世に帰ってきてしまった。三十年生き延び、いろんなことがあった。
2008 7・29 82

* 山口の出口孤城さんに戴いた美味い清酒「獺祭」二本の、お礼申し上げる前に一本を呑んでしまった。四国の岡部さんから、磬石を打って妙なる音楽を演奏されているディスクを戴いた。こんなことが出来るのかと驚いている。作家の李恢成さんに超大作「地上生活者」の第三巻を戴く。
2008 7・29 82

* 一時半まで読んでいた。バグワン、万葉集。そして南北朝混戦の太平記は、残る一冊になった。
『冬祭り』が読みたくて、その三冊でやめた。
モスクワのオスタンキノホテルに旅宿の早朝、近くのジェルジンスキー公園でわたしはモスクワに今は暮らす冬子と逢った。深い夢を見るような一刻を、ホフマンの『黄金宝壺』が伴奏。わたしを「アンゼルムス」と冬子は呼んで、繁ってかすかに揺れる枝葉のおくから「セルペンティナ」を招いた……。ま、そんなことはいい。
読み進んでいて、血の気が引いた。こわくてではない。懐かしさと、おそれとで。

☆ 冬祭り  八章「再会」から一部分

「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くったって、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いぐさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言えるのか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いっせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっとり潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の……こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこと見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがってるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりたというんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたとおりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほんとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にもった。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッセイをあげた。離婚したばかりの順子(=冬子の妹)と京都で逢ってきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願ったが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。みな嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえてしまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげるべきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああもっともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思ったろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でなく、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まことならば、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は「一瞬の好機」であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思うからで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになりたいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれてきてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子どもだと思った…」
「…でも」
「あのセルぺンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃんの口遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい口走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪咎の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやまぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。

* 「卑怯よ」と言われたあの瞬間に血糖値が急降下し始めたのだろう、この日ごろぼんやり思い、執拗に抱いてもいる気持ちを、突然、作中二十余年ぶりに再会したモスクワの冬子の口が、突き刺すようにわたしを咎めてきた。いま、いちばん聴きたかった言葉を「冬子」が口にし、現実のわたしに爪を立てた。その瞬間まで忘れていたそんな冬子の言葉にのけぞった。目の前が、薄青いいろに変じていた。

* いま一つ。
「二日、半」しか生きなかった「ぼくたちの子」が、横浜の埠頭でバイカル号に乗船いらい、わたしにつきまとい続けていたではないか、「加賀法子」と名乗って。
2008 7・31 82

* 『冬祭り』をもって、気分を直しに出かけた。池袋地下西口になんとなく大きな気楽な喫茶店があり、そこへいきなり腰を据えて読み続けた。

* むかし家族で櫻の頃に川越の喜多院へ出かけた。うまい鰻を食った。もっとほかの何か池か沼のようなところへも行った。電車でなく建日子の運転する車だったろうか、姉娘も、ひょっとしてやす香もいっしょだったか。
喜多院へはそれよりも前に出かけたことがある。此処には「職人尽繪」の優れた伝承品がある。徳川家が大事にした寺だ。そのときは暑い日照りの夏だった。

* 猛烈な夏。池袋へ戻って、立ったまま熱いラーメンを食った。『冬祭り』中巻がもう終える。
2008 8・1 83

☆ 悟り  慈
子規の言葉。 「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。」

* 『糸瓜と木魚』で子規をを書いていて出逢った。胸に、深くおさめた言葉。
2008 8・1 83

* 『冬祭り』の冬子も、死のう死のうと生きるのは「卑怯よ」とモスクワの朝の公園でわたしを窘めた。それもまた、いま、心新たに聴いた。
ソ連を旅してグルジアまで行ってきたわたしは、モスクワにまた戻った晩、高校の先輩牧田氏の家に招かれた。約束だった。冬子は牧田氏の、妻。
「来て。モスクワへ来て」と夫牧田氏からの手紙に、その横文字の署名に鉛筆で、わたしたちにしか判読できない約束の暗号を添えてきたのは冬子だった。
レニングラードへ、そしてグルジアへ発つまえは、二日続けて、モスクワのジェルジンスキー公園で早朝のデートももう重ねていた。
とうとう、牧田家へ訪問のときがきた。晩景のモスクワを、ソビエツカヤ・ホテルへ迎えに来た牧田氏の車で、郊外のアパートへ走った…。会った。

* 手練れの読み手である当時中公の文藝編集者だった青田吉正氏が、「こんなに完成度の高い作だったんですね」とおどろいてくれた賛辞を、わたしは、いまあらためて素直に感謝いっぱい受け取る。
そこまで読んだ、そこまで読んで、いま、手を入れたい、削りたい、まずいと思う一箇所も認めなかった。なにか大変なモノに手を惹かれて書いていたようだ。一字だけ湖の本に誤植を見付けた。

* 谷崎潤一郎も書いていた、晩年は自分の書いたモノを読み返して過ごしたいと。
そう知った頃のわたしはまだ少年か青年だったが、さもあろうなと思った。彼の『吉野葛』を読んで、これは作者自身がいちばん読んでみたかった小説にちがいないと思った。
他の誰も書いてくれない以上自分で「書く」しかない。わたしは、まだ書き始めてもいない中学高校生だったが、「書く」なら人に喜んでもらうまえに、自分で「読みたくてたまらない」ような小説こそ「書きたい」ものだと思った。
自分の書いてきたたくさんな作品の中で、そうでなく書かれたモノは、在ってもごく少ない。あれもこれもそれも、みなわたし「自身が読みたくて、いつでも読み返したくて」書いた。死んでからも読みたい。
2008 8・2 83

☆ 気遣うことが多い日々 お察し致します。
お会いして教えていただきたいこと多く 機会を作ってお伺いしたいと考えておりますが……   阿弥

* 栃木の「阿弥」さんに啓蒙的な『哲学入門』の共著本を頂戴した。今読んでいる哲学史をそろそろ読み終えるので引き続いて読ませてもらいます、興味津々。
2008 8・2 83

* 阿川弘之さんと娘さんとの記事を「AERA」で読んだ。わが娘にも読んで欲しい。
2008 8・3 83

* それから、いつもの本を読んだ。やはりバグワンに耳を澄まして聴いていた。
アリストテレスは、AはAであるという論理を発明した。
ジャイナ教のマハヴィーラは、AはAであるが、Bでもあり、Cでもあり、DでもあってZでもあるという論理を発見した。
マハヴィーラの論理は「おそらく」という底知れぬ深い理解と吸収の力をもつ。論理を超える。神は存在するか。彼は答える、「おそらく存在する。」神は存在しないか。彼は答える、「おそらく神は存在しない。」
この「おそらく」の底知れ無さは、老子の底知れ無さにつながる。
論理は、分別。
タカが知れている。
2008 8・6 83

* さらに『冬祭り』を読み進めた。火まつりの山から、みごもりの湖へ、生死の境をひらいた物語はふしぎに展開して行くが、その際、「わたしは、法子」と、幻想ないしは妄想していたらしい現実われらの娘は、そんな心の荷物をどうかかえて結婚したのか、わたしはなにも気づかず、なにも聞いてやらなかった。
結婚よりもアメリカへ行きたい? 何のために? 分別が、先立った。
華燭の幸福は永くなかったかもしれぬ、と、想像した。
母親は離婚をのぞんだが、父親は孫二人のことを思い賛成しなかった。賛成も反対もない、もう、連絡はかたく絶えていた。
婚家でむごく孤立している娘を両親は想い、年ごとに平安と健康を祈っていたが、むなしかった。
やす香が決然と祖父母を訪れ嬉しい親交を再会したとき、彼女は、どうか母を救い出してと言いたかったのか。
やす香も、妹も、祖父母を訪ねていることを最後まで親たちには知られず、知らせていなかった。秘し隠さねばならないと口にしていた。
だが、一昨年の正月と二月の来訪時には、「でも来年頃にはね」というようなことを、姉妹目を見合わし、口ごもり話していた。「離婚は決定的」とよその人の目にも耳にもほぼ確かな時期にそれは当たっていて、もしその時期に、わたしたちの娘が、自身それに触れて「何かを表現」していてくれたならと、わたしは今にして歎く。
2008 8・6 83

* 長崎総合科学大学の横手教一彦授の研究成果をまた二、三種頂戴している。
横手さんはいわゆる文学作品の「敗戦後検閲」についての綿密な専門家であるが、日本の敗戦期と敗戦後に生きた三人の関係者をインタビューされた長い記事は今回ことに貴重で、かつ興味深い。有り難い。
また長崎女性史研究会が根を洗うように懇切に編んでいる『長崎の女たち』第二集を頂戴したが、長崎という場所の史的背景もかかわって興味深い。
もう随分以前に出たらしい第一集の中の「丸山遊女史ものがたり」というかなりな長編も読んでみたいと思う。
2008 8・13 83

* ちょっとした勘違いも、幸い手直しが早くできて、結局予定の二倍の作業を一気呵成にかたづけた。終えてビール。眠くなった。就寝前読書にまた『モンテクリスト伯』とトルストイの『復活』を加えた。
2008 8・19 83

* 万葉集を習った初めに、防人歌や東歌をことばとして覚えた。
いま万葉最終巻を読み進んでいるが、最終の二巻はいわば大伴家持家集にちかく、そのなかに、彼がその職掌との関連で多くの防人歌を収集し、拙劣なのは捨てて選別に力を大いに致していたことが分かってくる。有り難いこと。防人制度というのは想像を絶して家族の悲劇であった。胸に迫る歌がある。素朴な日本古語にも出逢う。
もうやがて万葉読みも大団円を迎える。
同じく太平記も残り少なくなってきた。一度は全巻を通して読んでおきたい、次は、今昔物語か。
旧約聖書は、まだまだ歳月がかかる、そして新約聖書もある。今読んでいる文語大冊の聖書は、実父の遺品。異母妹たちが呉れたもの。
2008 8・20 83

* 「鳶」さんのかなり長い小説『抱擁論』を読ませてもらった。まだ下書きのようだが、問題になる作中の要点・要所が丹念に抄録されていて分かりいい。論として入念に仕上げられると佳い。この人は、早く「詩集」を何冊かに整備してくれるといいのだが。
2008 8・21 83

 

* 『抱擁』論について  鴉
とうどう読み終えました。昨日今日二日掛けて、まずは一気に読んだのです。
あの大作を印象的に読み返しているに等しいほど、密着した思いで読みました。字句が推敲され、改行や行アキさえ適切にされていたら、行文の粗雑はかなり印象をあらためて情・実感を増したでしょう。自分でしようかと手が動きかけながら、自制しました。ありのままを読みました。
文学論としてだけでなく、あなたの人生論の一種として読めるわけだし、それがもっと徹底していたら熾烈な文章の一編として立ち得ていたと思います。そう仕上げる余地も可能性も十二分在る。かなり抑制して筆を殺しているのも分かります。
現代のペアでなく、先立つ時代のアッシュ、エレン、ラモットないしブーランチ。文学としても人生としても、論ずべきはこの三人(四人)。
あなたの優しさでその誰に対してもいわば途中で筆を抑えてあり、そのためにこの長い一文が凄絶に破綻をきたすことなく或る程度の纏まりに落ち着いている。選択は難しいが、「論考」「言説」としての体裁を大切にするなら、かすかに不本意が残っても、更に更に論旨を徹して行ける余裕がのこしてあると感じます。
こんな大所高所で平然とわたしが話しかけていることを、苦笑し或いは爪弾きしていることでしょう。わたしが反応しうる道は、あなたの言説にわたしの言説として対応することではなく、少なからず別の道・創作の道があるということでしょう。
わたしは今、なにもかも「自然減」の日常の中で、ピュアな、徹した、老境の性の幻出・表現を願っています、むろん文学的に。愛などという混濁を捨象した信頼の両性があるだろうと。
で、何をしてこの日ごろ過ごしていますか。また海外ですか。お元気ですか。
2008 8・22 83

 

* 五時前と七時に目覚めた。七時の血糖値、114。血圧はこのところ高め推移。マインドフルな「夢」の影響か、わたし自身のこれは「モンダイ」だ。睡眠前の読書も「夢」に来ている。
魔の手におちていくエドモン・ダンテス。不幸な被害から淪落の道を滑り落ちているカチューシャ。
ほんものの「ビョーキ」のハンバート・ハンバート。
優れたどんな作品も、とても現象において、「優しい」ものではない。過酷な痛みを読者の胸にも毒の針のように打ち込み叩き込んでおいて、その上でいわばほんものの「優しさ」を追究し表現してゆく。
2008 8・24 83

* 長崎の横手一彦教授のメールをもらった。ユニークでねばり強い探索・研究者とまた一本のパイプが通じた。心強い思いがする。

☆ 秦恒平さま   長崎の横手一彦、です。
メール文を、有り難く、拝読致しました。
当方が身勝手にお送りした小著『敗戦期文学私論』を、丁寧に読んで頂き、本当に、有り難う御座います。確かな読者の方に出合ったことが、小著の何よりの喜びです。
「名著」とは、過分なお言葉です。未だ、努力が足りません。自分の言葉が上擦っていて、きちんと表記するという点において、また誤字なども多く、恥ずかしい限りです。しかし、また、うれしいお言葉でした。
来週から10日間ほど、半ばは研究旅費で、半ばは自腹で、短期渡米調査に出掛けます。
・ ***大学東アジア図書館長****氏の聞き書き調査
――江藤淳がワシントンに短期留学し、プランゲ文庫を調査し、「無条件降服論争」の資料的側面を支える切っ掛けの私信を書き送った司書です。20年前からお会いしたいと思い、この春にようやく連絡をとることが出来ました。
・ ハーバード大学図書館及びコロンビア大学図書館調査
――敗戦期に米軍が接収した資料類が膨大にあり、それは日本の官庁資料や官庁付属施設のもので、そのなかの有用な日本語文献を、米国の10余りの大学が分散して収書しました。そのリストを一つひとつと求め、そこに記載された文学関係書籍を確認することが目的です。そこに旧内務省検閲文献も含まれていると考え、戦前期の伏せ字表現(××など)を、その典拠に基づいて、一つでも、二つでも、復元したいという思いからの発意です。
帰国後に、その成果をきちんとお知らせ出来る出張仕事になるよう努力したいと思っています。そして、このような牛歩のなかに、研究というものが自ずと形付けられるのだろうと思っています。
駄弁を申し上げました。秦さま(本来は秦先生とお呼びするべきかもしれません)の確かな言葉や確かな読みのなかに、その文章を拝読していて、無言のうちに、叱咤されたり、励まされたりしているような感じを頂きました。
追伸 突然にインターネットの一部の機能が通じなくなってしまいました。当方のパソコンが古く、その不具合です。帰国後に、専門医にみてもらいます。

* 「検閲」は、文学の書き手、研究の書き手にとって天敵であり、どれほど多くの摩擦や軋轢で作品や研究や筆者作者が傷つき呻いてきたか知れない。
もとより真実犯罪であるものの検閲もあるであろうが、関係吏僚の悪しき主観や悪しき支配意志の強硬な横槍が、作品や筆者の運命を左右した例は少なくなかった。しかし実態はあまり大量、あまりに権力の闇に紛れていた。
横手さんの働きは、たぶん孤独ななかでの苦労の多い尽力であるだろう。
わたしはこういう働きにいつも感謝を覚える。
2008 8・28 83

* 昨日、二冊、本を戴いた。
一人は久しい読者の小山光一さん。新刊『身近な漢字を楽しむ』(文芸社)が贈られてきた。小山さんは『漢字な~るほど話』『漢字の歩む道』などの著者。漢字学者。
漢字は無際限に在る。一字ずつ選ぶ方がむずかしいほど。それが熟語化すると、意義は飛躍的に増えてくる。日本語と違い、漢字での言葉づかいは、増殖性が莫大。
「菊」が好きだが、目次を見ると「外来種で、訓がない」と。たしかに「菊」には訓がない。万葉集に菊の歌は一首もない。平安初期へかけて日本へ来て、薬用以上に花が愛され、古今集には十三首も菊の歌がある。百人一首にも白菊の歌がある。白菊は孝女の名前にもなったし、「白菊の目に立ててみる塵もなし」と芭蕉は吟じた。
なんといっても漢字とのお付き合いは私的にも久しい。わたしの『花と風』『手さぐり日本』『日本を読む 一文字日本史』『日本語にっぽん事情』などの著書は、漢字一字の含蓄を通しての日本文化論・日本社会論だった。
あなたも貴方の本が書けます。
もう一冊は、先だってメールをもらってハテわが娘かと思案に暮れたが、「空」さんの本だった。三十四歳の娘さんに死なれた母親の、まさしく「悲哀の仕事」として結晶した、『あなたにあえてよかった』。
これから読む。こういう本が日本中、世界中でどんなにたくさん出来ているだろう。そこまでは出来なくても、生きている人の胸の内は、死なれ・死なせた者の奥津城になっている。
2008 8・30 83

* 『モンテクリスト伯』を初めて読んだのは新制中学の内で、もとより人に借りてであった。
わたしは自宅に自分の持ち物としての文学・文藝本を一冊も持たなかった。自分のものとして持っていたのは幼稚園で月に一冊ずつ配られた「キンダーブック」一年分。それしか持てなかった。漫画などゼロ。講談社絵本などもゼロ。
他に、持てていたのは祖父鶴吉の蔵書であるたくさんな漢籍、すこしばかり日本の古典、評釈。祖父のか、父のか分からない中学用の通信教育教科書、そして明治期の事典や随筆、美文典範、浄瑠璃本の類。母や叔母の数冊の婦人雑誌。
特筆すべきは観世流の謡の出来た父の謡曲本。
仕方なくわたしはものごころついてより、それらを片端から順繰りに繰り返し開いていた。国民学校の生徒、小学・新制中学生には、おそろしく偏った書物環境だった。
だから、本を読ませてくれる人、まして一日二日でも貸してくれる人は、神様ほどありがたがった。少々遠くても、よくは知らない親しくもない人の家でも、本を読ませてくれるなら平気で出かけていった。
「お構いなく」で、ひとり読み耽り、読み終わるとくるりと頁を元へ戻し、必ずもう一度読んだ。そして、「おおきに。さいなら」と帰ってきた。
医者の注射が怖くて大嫌いなのに、医者の待合いはものの読める誘惑と魅力のある場所だった。

* 本のうえで忘れがたい恩人は、思い出して、一軒と二人。
死にかけたほど満月ようにむくみ、母の咄嗟の判断で丹波の疎開先から一気に京都の東山松原の樋口寛医院の二階座敷に入院したとき、枕元の戸棚に、漱石全集のうちの数冊、新潮社版世界文学全集の数冊がならんでいた。漱石本のあの装幀といくつかの題を見覚えたが、読もうとした記憶がない。
手を出したのが『レ・ミゼラブル』やダヌンチオの『死の勝利』やモーパッサンの『女の一生』やフローベール『ホヴァリー夫人』などだった。『モンテクリスト伯』はなかったと思う。読んだとは言えない、病気を治して早く家に帰りたかった。
とはいえ、「本」の世界はどうもこの辺に本道がある、ほんとの世界があると敗戦直後の小学校五年生なりに気が付いた。その感化と恩恵とが大きかった。

* 二人の一人は、恩を受けた順に言うと、与謝野晶子訳の『源氏物語』豪華な帙入二冊本を、頼めば惜しみなく家の蔵から持ち出し貸してくれた、古門前の骨董商、林本家の年うえのお嬢さんだった。叔母のもとへ裏千家茶の湯のお稽古に通っていた。
何度も借りた。源氏物語ただ一種とはいえ、わが生涯に恩恵は計り知れない。その時期が、『細雪』で名高かった谷崎潤一郎の新聞小説『少将滋幹の母』を愛読していたのと重なったのも、言いようなく有り難かった。源氏物語と谷崎とは一重ねにわたしの宝物になったのだから。

* 次の一人は、源氏物語と谷崎愛とも、とても無関係であり得ない、が、今その話はしない。新制中学二年生の夏前に初めて出逢った上級生で、わたしはそのひとを「姉さん」と慕った。その姉さんが、どういうことか、泰西の名作本を次から次へ惜しげなく学校へ持ってきては貸し与えてくれた。十八・十九世紀のヨーロッパの代表的な名作は、別れるまでのわずか半年のうちに姉さんが読ませてくれた。なぜそんなことが姉さんに出来たのか詮索のスベはないが、ゲーテもトルストイもバルザックもフローベールも、むろん『赤と黒』も『女の一生』も『椿姫』も、そして『モンテクリスト伯』も、痺れるように感動して読みに読んだ。
そして、最期に、卒業してよそへ去って行く卒業式の日に、姉さんはわたしの手に漱石の春陽堂文庫『こころ』一冊を、形見のように呉れていった、「呈」梶川芳江と署名して。
『こころ』はわたしの文学愛の原点になった。「源氏物語」と谷崎も同じく。
そして読み物をあまり高く見ないわたしの読み物の最愛作として『モンテクリスト伯』もその方面の不動の原点になった。

* いままたわたしは『モンテクリスト伯』を読み始めている、意図してトルストイの『復活』と並行して。この二作に因縁を求めているのではないが、大学入学の面接で愛読書を聞かれて『復活』と『暗夜行路』とカッコをつけたほど、男の小説としてわたしは愛読してきた。『モンテクリスト伯』もやはり「男」の小説ではないか。そして大デュマのは読み物で最高に面白い大長編であり、『復活』はいわば純文学の極北。ちょっと較べ読みしてみたいと思った。
不愉快な日々の多くを忘れさせる力のあることは分かっている。
わたしは高校生の頃から、嫌なことがあると先ず食べた。だめだと、なけなしの金をつかって映画を観た。それでもだめだと大長編小説を読んで、読んでいる間にたいていはカタがついていた。『モンテクリスト伯」か『戦争と平和』か『源氏物語』を選んだ。今なら『南総里見八犬伝』も加える。『ゲド戦記』全巻もすばらしい。

* で、今読み始めて『復活』の出だしにリードされている。
エドモン・ダンテスが、悪人ばらのたくらみで地獄のシャトー・ディフに落ち込むまでは不愉快きわまること、毎度承知。いっそ孤絶の地下牢に入りきってからが希望が持てる。ダンテスが婚約披露の幸福の絶頂を経て逮捕されてしまう辺までのデュマの筆致は、読み物そのもの、快調だが通俗なお喋りでジャンジャン進めてゆく。だがトルストイは軽い筆付きで運びながらも要所をおさえ、あわれな娼婦マースロワ、かつてのうぶな少女カチューシャの淪落と、何の呵責ももたず彼女をそこへ突き落としていて知りもしなかった青年貴族ネフリュードフの、それぞれの道筋を簡潔に語り継ぎ、そして今これから「再会」の場面に入って行く。そこはマースロワを殺人の罪で裁く法廷であり、ネフリュードフは陪審の役を帯びている。彼はまったくカチューシャのことなど忘れている。

* これから大デュマは徹底的に男の復讐を描いて行く。その規模は雄大で華麗で、一抹のあわれもいたみも秘め持っている。ダンテスを陥れたフェルナン=後のモルセール伯爵の妻となったメルセデス。ダンテスが命と愛した婚約者メルセデス。だがモンテクリスト伯となったダンテスは、凄絶な復讐を遂げて行きながら、救いあげた美しい元奴隷王女のエデをひそやかに深く愛して行く。
ロマンチストのわたしは、メルセデスに姉さんの面影を託し、エデに妻を感じたりしてきた。それは源氏物語の場合の藤壺と紫上にも連動しやすかった。おかしな秦サンではあるまいか。
伯爵大トルストイの筆は、ネフリュードフの贖罪と、甦るカチューシャの魂の物語を、遠くシベリア徒刑地の果てまで追って行くだろう。二つの名作を並行して読むことで、わたしは、物語世界をわたし独りの自在な思いで、さらに豊かに自分のものに創り上げたいのである。この歳だ、ゆるされていいだろう。
2008 8・31 83

* いつから読み始めたろう、一夜も間をあけることなく、『万葉集』全二十巻を、「いやしけ吉事(よごと)」まで悉く、詞書や人名・職位までも、みな読み終えた。
巻十九、二十により、万葉集が大伴家持の編纂物であったことを、つくづくと知らされる。そしてこの編纂作業が、すくなからず家持の人生苦、時代への怒りや失望とともに終熄してゆく寂しみに、きつくとらわれる。柿本人麻呂や父旅人や山上憶良のように、家持は時代にうけいれられ常に褒めそやされていた歌人ではなかった。歌道執心のわりに孤独な作者、孤独でなくても必ずしも花やかな時代の表へは出て行けない歌人であった。
巻二十最期を飾る有名な一首も、明らかに山陰に左遷された任地での作だ。そしてこの後の家持の後半生は、悲惨な最期へ転げ落ちて行き、つらい死後をさえ迎えねばならぬ。彼は大伴という武人の誉れを帯びた家の、それを大切に意識し続けた、繊細な心根の一歌人だった。情熱もあった。ロマンチストだった。女達には愛されたが、権力社会からはいつも距離をもって離れていた。
うらうらと照れる春日に雲雀あがりこころもかなしも独りしおもへば
わがやどのいささむら竹ふく風のおとのかそけきこの夕べかも
そんな歌があった。
そういう家持とともに読んだ、彼が熱心に職掌をいかして収集した「防人歌」は胸に残った。つよく残った。
家持の存在をまだ少しも意識しないでいた、万葉集大半の前半は、おおらかで力強く、治世を賛嘆する雑歌も、愛・恋の相聞も死の挽歌も、みな一首一首が独り立ちして記念碑的な相貌を帯びていた。物語歌も大切に集められていて有り難かった。
わたしの意識してきたかぎりで、それらはいわゆる「和歌」でなく、まさに「万葉古歌」であった。
家持が手をかけるより以前に、三巻ないし数巻は「原万葉集」がすでに形成されていたかどうか、そういう議論には踏み込まないが、偉大な遺産がこの二十巻に凝集している民族の幸福を、わたしは今、静かに感謝して反芻している。

* やっぱり就寝前毎夜の読書は、やまない。数えてみると十一冊ある。旧訳の「イザヤ書」と「太平記」を、もうやがて読み終える。
2008 9・2 84

* 「悪いやつ」とも長い人生にたくさんぶつかって来た。ひとつ言えそうなことは、文学の名作で「悪いやつ」だけを書いたものは少ない。すぐ思い出せない。どうしても「悪いやつ」は懲らしめられている。典型として「悪いやつ」、と子供ごころに脳裏にやきつけたのは、やはり『モンテクリスト伯』のダングラール、フェルナン=モルセール、ヴイルフォール、そしてカドルッスの四人だった。似たり寄たりこういう「悪いやつ」と出会ってきたなあと思う。

* ダングラールは嫉妬深さと出世したさと、尽きるところは金銭欲で、陰険に策を弄して人を陥れたぶん、自分は上へ上へ上がってゆきたいという「悪いやつ」である。究極は金銭欲と物欲。実直で健康な青年エドモン・ダンテスを、卑劣極まる悪知恵で他人を手先に踊らせて地獄へ突き落とし、ダンテスの地位を奪い、善良な主人をだまし討ちにしてゆくような男である。
フェルナンはそんなダングラールの手先につかわれて、恋敵のダンテスを政治犯として訴え地獄の底へ突き落としておいて、女をうばい、小心なくせにきわどいところで後ろ暗い手ひどい悪事をなすことで、思いがけず栄達してゆく卑怯な悪人である。
ヴイルフォールは、栄達と保身の為なら鷺を烏に描きかえても、善良で無実の者を、じつは善良で無実と知りつつも徹底的な地獄に突き落とし、二度と日の目を見せぬ事で身の安全を図り、権勢に媚び諂って地位を高めてゆくような悪いやつである。
カドルッスは、いささかの分別をもちながら身の安全のためには目をつぶり、負い目を酒を浴びてわすれ、目前の欲に目がくらんで悪事の山を築いてゆく陋劣で破産的な悪人である。
デュマという作家は、エドモン・ダンテスの造形以上にこれら「悪いやつ」の典型を栄華や惨憺の巷に活かした作家として凄腕であった。

* わたしは、子供心にこれら悪人像をやきつけたが、これらの亜型・亜流にどれだけ多く出会ってきただろう。会社にも団体にも学校にも大学にも文壇にも、知識人社会にも、うよと蠢いていたのは、これら「悪いやつ」の末流・末裔であったし、だから人の世は混迷の内に滑稽な活況をみせてもいるのである。
彼らにはっきり言えるのは、金、地位、名誉、栄華、偽善、色欲。「抱き柱」に抱きついていない者は一人もいなかったということ。
もう一つ、エドモン・ダンテス=モンテクリスト伯は事実上此の世に存在しない、し得ないとしても、上の、ダングラール、フェルナン、ヴイルフォール、カドルッスなら、うじゃうじゃいるという否定しがたい娑婆の現実。
さらに今一つ。むろんわたしも含めて、人は、己が内なるダングラールやフェルナンや、ヴィルフォールやカドルッスの断片と日々に向き合いながら、堪えて暮らさねばならぬと言うこと。
そこを超えるためにも、人はむやみと「抱き柱」をかついでは、しがみついては、ならない。どう寒くて心細くても「自由」に独りで立たねばと思う。

☆ かりそめの台詞なりとはよも知らず膝を正して頷きし夜や

苦しいよ 口惜しいよ
だが、此の道は
偉い……と言われる人間が
一度は越えた道なんだ

まころびつ越えむか今宵恩讐の岡のかなたに白き道あり

恩讐の岡ふみ越えむ瞬間のわれを抱きて泣かむ人あれ

光明は彼の岸にありわれを焼きし業火はすでに消えにしあるを

けさ見れば小さき花弁にべに染めて薔薇の挿芽に初花ひらく

わが挿しし挿木ゆ青き双つ葉のうら若々し命ゆたかに

初花のうら優しさよ紅つけて小首かしげてたれ待つ汝れぞ

このあした愛し初花ほころびてわが膝のへに露でかたむく

* 上は、わたしの生母・阿部鏡(筆名)が遺して逝った歌文集『わが旅大和路のうたうた』のなかの、極くすこしの抜き書きである。わたしはいまこの本からの、こうして歌詠みであったらしき母の歌を、一つひとつちいさな「ほころび」は調えながら、写経するように書き写している。さだかに、今此処まですすめて引き出してみたわずかなこれらが、いつ頃の感懐であるやらもわたしは判然としない。「東文章」の櫻姫のように、兄北澤恒彦にいわせれば「階級を生き直したような」凄惨な母の生涯であったというが、「苦しいよ。くやしいよ」という呻きのなかからも薔薇の初花にそそいでいる視線は静かに優しいと、子として人としてわたしはよろこぶ。いうまでもないが、母のためにことわっておく。ここに「偉い……言われる人」は、ブッダやイエスを思っていたのである。
わたし自身で歩いて聴いたが、この母はある世間では「魔性」「魔物」といわれ、ある世間では「生き仏」「仏様」といわれていた。
2008 9・3 84

* さて。明日、聖路加の耳鼻咽喉科の初診を受ける。数年前から、あるいはもっと若くからわたしは睡眠時の空咳がきつく、ずうっと続いて持病並みであり、だから逆にあまり気にかけず、自ずからな消長にまかせてきた。
二、三年前に一度耳鼻咽喉科への紹介を頼みかけ、よしたことがある。
わたしが毎夜、三種類の本に限り「音読」してきたことは、此処に何度も書いてきた。
平成九年(一九九七)十月九日にバグワンの『十牛図』を初めて読み終えた記録があるから、その数ヶ月前から音読は欠かしたことがなかったのである、最近まで。源氏物語も日本書紀も、数々の東西の大作を選んで、みな音読してきた。最近はバグワンのほかに「万葉集」「太平記」を音読していた。ところたが、三ヶ月ほど前から喉の違和感が亢進しているとはっきり感じ、すぐ音読をやめた。
子細はまだ何も分からない。「診察を受けたい」と自覚しただけである。十月のうちに京都へ秦の母の十三回忌法事とか控えているのだが、この受診が先だと思う。苦痛は感じていない。違和感と、咳となにより「声のかす」れである。昨日かかってきた杉原氏との小一時間の電話中にも「これは早い受診を」と思い立ち、晩に、志村喬のひどいかすれっ声の『生きる』を進んで観ることで受診決意の尻押しをした。

* 夕方まで、濃い疲労に負けてソファに腰掛けたまま寝入ったりしたが、それでもやすみやすみ気がかり仕事を片づけ片づけしてきた。
2008 9・4 84

* 八時半までに聖路加に入ろうと思っている。雨、どうだろうか。『モンテクリスト伯』と『復活』とで待ち時間をしのぐ。
2008 9・5 84

* ネフリュードフとカチューシャの初々しい恋愛から悲劇へ、また法廷で窃盗と殺人の罪を問われて、軽罪で放免されそうなところを陪審員の不注意からシベリア送りの重い判決を受けてしまうカチューシャのようすなど、トルストイは生き生きと筆を働かせてめざましい。デュマの筆も、ムダなく多くの人とことがらとを描写と会話とで的確に描き出し、いささかも冗漫というところがない。これから若き検事補ヴィルフォールが、ボナパルト党の父の暗躍をおそれ、王党での出世を確実にすべく無実のエドモンを、残酷に地獄のシャトー・ディフの地下牢へ送り込んでしまうところ。しかしもう、彼ヴィルフォールのこころよき許嫁の哀訴などを織り込んで、後々の伏線が周到に敷かれて行く。
2008 9・6 84

* 太い長い丸太を次々転がすように夢は来る。目覚めると忘れている。

* エレミヤ書に入った。イザヤ書も長かったが、これも六十章ちかい。
前七ないし六世紀の預言者エレミヤの、イザヤよりもより具体的な内容に富んだ神ヤハウェとの交感、また亡国イスラエルの民への厳しい預言と訓誡とがつづく。
日本はこの頃縄文式土器時代にあり、「ことば」「文字」の遺産を全く欠いているが、同じ時期にこのように豊かに駆使されて「ことば」が生けるもののように績み紡がれているのを、わたしは、羨ましく読み継いでいる。わたしにはヤハウェへの信仰はない。旧約から学ぶことは少なくないが、文化史的な関心と興味に流れるのは部外者の性というものか。
2008 9・8 84

* 三好徹さんの新刊「ゴルフ文壇覚え書」を頂戴した。ま、これほどわたしと縁のない本はないのが、残念。ゴルフに縁がなく、文壇とも終始一貫縁遠く過ごしてきた。
今や文壇は「溶けて流れて」ほぼ原状を喪っているし、たとえ知らぬ物陰ではそうでなくても、わたしは縁つなぎを欲していない。リツチとフェイマスという譬えからすれば、ゴルフはリッチな人たちの群れたがる世界である。三好さんは硬派で好きな文士のお一人で、いろいろ教わってきた。だがゴルフでは、どうしようもありません。同じ「文壇覚え書」でも大久保房男さんの方から読み取る方が親しめる。
2008 9・11 84

* 「よろづの事も始め終はりこそおかしけれ。男、女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひあだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとはいはめ」と兼好は徒然草百三十七段に書いていて、ひとしお懐かしい。こういう思ひを懐いて、かつ真情を喪はないこと、極意であろうか。
作意は甚だ離れてみえるが、雨月秋成の『浅茅が宿』を読み始めている。『白峰』『菊花の約』を通ってきた。

* エドモン・ダンテスは小心な野心家ヴイルフォールに嵌められ、シャトー・ディフの地下深くに監禁された。地下の闇の何処かにファリア法師が禁獄されていて、やがて二人は厚い隔ての壁や地下を穿ちながら出会う。「希望」の始まりであると知っているから、ここへ来るとむしろ、ほっとする。優れた万能の知識人と出会った聡いダンテスの人間形成が、「徳=能力」の鍛錬が始まるのも読んでいて喜ばしい。デュマの筆は生き生きと活躍している。たいへんな語り手である。
『復活』の青年貴族ネフリュードフの方は、はるかに悩ましい。ダンテスやファリヤ法師は極限状況に投げ込まれているから、情緒や思念のあれやこれやねばっこいものとは逆に無縁で、ひたすらお互いを「力」と感じ合って励まされている。一切の能力がある一つの方向へ鋭く焦点を結んでいて、ためらいがない。無用な悩みや悶えはむしろ切り捨てられ、切り捨てることで生きて行ける。つくられた読み物の特権を迷い無く活かしている。二人は「一つ」だ。
トルストイは読み物作家ではない。しかもネフリュードフは、あらゆる意味で恵まれた社会と財と名誉に生きる、教養も思想もある貴族。「引く手あまた」の青年貴族。その彼がいまや「結婚」の二字で意識し、窮境から救い出すのを自身の使命と感じているような相手カチューシャは、不運で不幸な女徒刑囚として収監されている。二人はバラバラの「二つ」の場所にいる。

* ナボコフの大作『ロリータ』を、読み終えた。読んでいるあいだも、読み終えても、この作品には読書の嬉しさは湧かない。世界的な問題作として、名作と云う人も、はげしく非難する人もいる。作家の把握と表現はすばらしい力量をみせ、曇り無き言語表現の冒険を遂げている。しかしこの世界は、明らかに過剰に病的で、一種歪つな「愉快犯」の犯罪のようにおぞましい。そういう世界を、母国語のロシア語でなく、いわば亡命先の諸国語で書いて行くという文学的冒険に作者の愉快な意図はあるようであり、それは成功しているが、物語の読者が物語から感じるものは、一言でただ「おぞましい」と云うて尽きる。

* バイアットの『抱擁』も、読み終えて時間を経るにつけ、趣向の過度に、自然の感銘が圧されていたなという感想に落ち着くが、力量の凄みは、ひとつの確かな「モノ」であった。

* 映画でロッサナ・ポデスタの「トロイのヘレン」やブラッド・ピットの「トロイ」など読み、さらにホメロスの二大叙事詩を読んだアトで胸を改めて鳴らすのは、ゲーテの『ファウスト』のさすが構想と思想と表現の大きさ、脱帽という実感だ。あれをわたしは間をおくことなく三度つづけて読んだが、また読みたくなる。

* 万葉集二十巻を読んでいる間、はやく古今集を読みたいと思っていた。古今集の春の歌を毎夜読み継ぐにつれて、万葉集の、譬えがわるくて恐縮するが、かたい便を絞り出すようなつよい表現が、懐かしく思われたりする。
古今集和歌の表現は、その後、ご千年余の和歌表現の規範になったけれど、とにかくも言葉や調べの出方がまことに「ゆるい」「やわらかい」。魅力であるが、ひっかかりが弱い。それでいて、万葉が強烈な真情なら、古今は理づめに過ぎた抒情。意味もおもしろみもわたしはよく受け取れるけれども、万葉から、変われば変わるモノだなあと云う愕きは大きい。そしてわたしが好きな和歌というときは、この古今和歌からは幾世代か先へすすんだころの、拾遺・後拾遺ころの、物語和歌と並行した、理の淡まった優艶な抒情ににじみ出る王朝人の悩ましさだと分かってくる。
ところが古典文学全集は、万葉古今のアトは新古今へとんでしまう。
2008 9・12 84

* バックアップも、ものによるとずいぶんコピーの貼り付けに時間がかかる。その間に、中村光夫の荷風論を読んだ。
2008 9・13 84

* 山本健吉さんの晩年は、ひとしお懐かしい。わが若き日々にその論文を愛読し耽読した頃は、莫大に教わりただ畏服していたが、金澤市での祝祭「フードピア」で楽しんだり、横浜関内で相次いで一緒に講演したころから、出会うつどなにとなくいつも空気はユーモラスですらあった。こころから親しんだ。
その山本先生の父君で、明治の作家かつ論客であった石橋忍月の屈指の秀作、明治期の歴史小説中でも屈指の作の『惟任日向守』は、まこと朗々として作者の肉声が鳴り響く傑作。わくわくしながら難儀なスキャン原稿をこつこつと校正した日を忘れない。「e-文藝館=湖(umi)」を飾るまた一つの秦 恒平・撰である。
もう一つは有名ではあるが、今日では忘れられている石川啄木の歴史的な発言『時代閉塞の現状』は、時代こそ変われ、今日にも角度を変えぜひ顧みられねばならぬ、記念碑的かつ今日的な卓越した論考。ひろく読み返されたい。
2008 9・14 84

* デュマとトルストイの筆致のちがいに、大いに満たされている。
若き検事のヴィルフォールは己の悪辣に、その自覚に震えながら、しかも栄達の道をとらえてパリの王廷にひた走った。エドモンとメルセデスは絶望の底に落とされ、陰険な陥穽の発起人ダングラールはいとも満足して安眠し、恋敵を官憲に売ったフェルナンは小心に従妹メルセデスの愛を求めて冷たい汗にぬれながらまつわりつき、カドルッスはかすかな良心の痛みを卑怯に泥酔に押し殺している。
デュマの筆は多彩によく働く大きな機械のように、唸りを生じている。
一方のカチューシャも思いも寄らなかった徒刑囚のハメに突き落とされて、牢の中でもうなかば諦めかけている。女牢内の活写にトルストイは、おそらく周到に取材したのであろう。青年ネフリュードフは、ものの憑いたように、いっけん浮かされたように、カチューシャ救うためなら何でもする、結婚してもいいと本気で動き出している。
デュマの世界は割り切れているのでムダも躊躇いもなく、物語の上を爆走して行けるが、トルストイのリアリズムはリアリティの確保に奮励努力を強いられる。
『復活』と『モンテクリスト伯』とをこのように読んで行くなど、夢にも想ったことはなかったのに。

* いま、古今和歌集も旧約のエレミヤ書も現象学派の美学も雨月の浅茅が宿も、それぞれに屹立して、おもしろい。
2008 9・15 84

* 愉快な仕事も、不愉快だが必要な仕事も、たくさん、した。
長塚節の『鍼の如く』全部をていねいに読んだ。伊藤左千夫の明治期の短歌抄も。前田夕暮、若山牧水という双璧の代表的な歌集も撰抄した。
長田幹彦の力量豊かな忘れられていた秀作『零落』や、白柳秀湖の記念碑的な問題作『駅夫日記』も。埋もれていた中から拾い上げて、読んで、思わず感嘆の声を漏らした作だ。田山花袋の『蒲団』と時期を同じくしながら、武蔵野の風情も豊かに、しかも日本の労働者初のストライキを生真面目な筆で書いて、プロレタリア文学に先駆した力作だった。
2008 9・15 84

* マイミクさんから「『飛騨匠物語』試論」と題した興味深い論考が届いて、じっくり読んで、初出データなどをもとめかたかだ感想も送った。
この原作はなかなかあれこれの原拠めくものを巧みにとも厚かましくとも大胆にとも自在にとも利用し活用して、好読本に仕立てている。
むかしの読本作者は、上田秋成もそうだが、和漢の材料によく通じていて、或る意味では今日の学者が「後追い」するのに恰好の運動場を提供している。
この論文に、原作そのままでも、現代語訳ででもいい、付録としてついていると嬉しいがナアと思った。
マイミクではないのだが、妻の親友がミクシイに日記を書いている。この人は「能」にはまりこんでいる。そのうちに能について書いた文章を数編纏めてもらいたいが。まだ、能の梗概に添った「知識」を大切に、楽しんでいるようだ。もう少しして、能を通して自身の人生が文章に関わってくるようになると、がぜん別の深みが出てくるだろうと楽しみに待っている。
2008 9・17 84

* 驚くことは有るものだ。一枚のコピーが、日本の近代文学研究者で、久しいわたしの読者である人から送られてきた。
「どこかで見たような話ですが、ご存じの人ですか」と、さりげない。コピーは、つい最近、八月三十日土曜日の朝日新聞「文化」欄記事であるらしい。
わたくしの、お馴染みの読者の方々にも、ことに、『慈子』を愛読して下さった方には、改めて此処でもこの記事を読んで頂こう。紹介されている話題は、光田和伸氏の近著『恋の隠し方』(青草書房)のことである。なかなかそそる題であるが、記事を再掲させて貰う。

★ 光田和伸さん著「恋の隠し方」 朝日新聞 2008年(平成20年)8月30日 土曜日「文化」欄

徒然草に秘めた恋? (大見出し)

愛した女性と進展できず、やがて死別…(中見出し)
徒然草に吉田兼好は恋の思い出を隠した? そんな大胆な説を国際日本文化研究センター(日文研)の光田和伸・准教授(57)が著書『恋の隠し方』(青草善房)で発表した。
光田さんの専門は和歌、俳諧を中心とした日本古典文学。244段からなる徒然草を徹底的に読み込んだ結果、29、30、31、32、36、37、 104、105段に、兼好自らの恋を描いたことが判明したという。女性と恋に落ちたものの、うまく進展せず、そのうちに女性が重い病となり、永の別れとなる。そんな様子が浮かび上がると説く。第32段には「九月二十日の頃、ある人に誘はれたてまつりて明くるまで月見ありく」とある。新暦の11月末ごろの冷え込む京都で夜が明けるまで月を眺めて歩くほど恋に苦しみ、寝られない兼好の姿が分かるという。
なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか。光田さんは「徒然草は隠者の無常観の文学だ、という教科書的解釈の思い込みがあまりに強かった。それに、伝統的に関東の学界など、東びとの心で解釈されてきた影響ではないか」とみる。

「8つの段に兼好自らの経験」
「兼好は他人の恋の歌や恋文の代筆をしました。恋の味わいを解さぬ男は話が通じず、特上の杯に底がないようなものだとも書いています。しかし、武家文化の影響が強い東びとによる解釈は、上方のようには色事に好意的、許容的でなかった」
では、兼好がその恋を文章の中に隠したのはなぜなのだろうか。「平安以来、女性は恋した人との思い出を書いても良かったのです。『蜻蛉日紀』『和泉式部日記』のように、相手の男性のことを洗いざらい書いて発表することもできた。しかし、世間体のある男性にはそれは許されなかったからでしょう」
秋には俳人松尾芭蕉が「隠密」だったという説を紹介する著書を発表する予定だ。   (大村治郎)

* その本を「読んでいない」ので、或いは、わたしの過去の幾つかの仕事を「参照・引用」が明示して有るのかも知れず、それなら、問題無い。
しかし徒然草に「なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか」とある。これは困る。
半世紀近くも前に同じ内容をわたしは論文にしている。よく読まれた小説にも書いている。またわたしが勉強した先行の研究者にも、そのようなことを指摘していた学者は何人もいたのである。

* 此処に光田氏の挙げている「各段」を、すでに全てきちんと指摘し、「兼好の秘めた恋」を「徒然草の執筆動機」の大きな一つとしてわたしが論じたのは、はるか以前、まだ作家以前の昭和三十年代後半のことである。医学書院に編集者勤めの傍ら、東大文学部の研究室書庫に入れてもらい、徒然草文献を集中して読み、『徒然草の執筆動機について』論文を書き、母校の紀要「同志社美学」に送り、二回に分けて掲載されている。趣旨はまったく光田氏新刊の通りなのである。
しかし、それだけでは、光田氏の博捜にも漏れたのであろう。しかし、わたしのこの徒然草・兼好論は、最初の書下し小説となった『斎王譜』(昭和四十年)、のちには『慈子(あつこ)』(昭和四十六年)と改題して筑摩書房から書下し長編小説として二度版を変え、刷りも重ねていて、さらには集英社文庫にも収録された中に大きな範囲で相当詳細に使用されている。現代の愛の小説であると同時に「兼好」論とも読まれて、わたしの作品中もっとも廣く愛読されてきた一作なのである。刊行時より、注目してくれた研究者もいた。
わたしの徒然草ないし兼好の隠れた恋に関する執筆内容は、上に簡略に紹介されている光田氏の新説なるものに、ほぼ全面的に先駆しているだろうとは、紹介からでも、優に察しがつく。だからこそ、不審を覚えたべつの研究者は、朝日新聞のコピーをわざわざ届けて下さったと思う。

* さらにいえば、小説にまで目は配れないという点もあるかも知れぬ。
ところが、例えば旺文社から、瀬野精一郎氏の責任編集で刊行された大部の「日本歴史展望 第五巻」、南北朝を分担した『分裂と動乱の世紀』(昭和五十六年刊)という大版の准専門叢書の一冊に、乞われて、『兼好の思い妻』と題したかなり長い原稿を寄せている。この一文は、まさしく兼好の「隠した恋の伝記的事実を各方面から証明した論考であり、かように、光田氏のとりあげている徒然草各段の全部を検討しながら、わたしは、半世紀も昔から繰り返しモノにも書き、出版もしてきて、とにかくも「周知」と主張して問題ないのである。これを知らずに自身の新説とされるなら学者として杜撰であり、知って新説とされるなら剽窃のおそれがある。繰り返すが本を取り寄せて読み、問題ない場合はわたしはこの不審を撤回するに吝かでない。
むしろ問題を追試し確認されて大いに喜ぶ。まことこれまで「誰も気づかなかった」、的を射た真に新説であるならば、同好の一人としても愉快である。が、その様子が上の記事だけではうかがい知れない。

* 上の記事に、第32段がことに引いてあるが、わたしの半世紀前の論考でも、此処から大事に先ず問題点を引き出していて、井伊直弼の『一期一会』とも絡め、論文でも小説でも「眼目」を成している。ところでこの段は、紹介記事にあるように兼好自身が恋をして歩いていた内容ではない。主人筋の恋の探訪に「従者」として同行していたことは、本文により明らか。
そこから、わたしは主筋の堀川具守と兼好と延政門院一条との三角関係らしきも引きだし、「思い妻」なる「隠し妻」をあぶり出していったのである。それにすら先達の学者は何人も言及していたことで、「誰も気づかなかった」ことでは無い。いったい誰をどう指さして、「誰も気づかなかった」兼好の恋人とされているのか、注文した光田氏の本を早く読んでみたい。

* どうして、こういう本が、今になって「新説かの如く」持ち出されるのだろう。むろんその本を読んでいない現段階ではあるが、日文研といい青草書房といい、わたしのそういう著作を記憶されている何人ものセンセイ方が関与されている。ま、そんなことは知ったことでないのだろう、わたしもそれ以上は言わない。
ああ、ビックリしたとだけ特筆しておく。
不審の方は、わたしの湖の本⑨⑩『慈子(あつこ)』および旺文社の上記の『日本歴史展望第五巻』所収の論考「兼好の思い妻」を読んで頂きたい。
さらに博捜される向きは、半世紀前の「同志社美学」の第六・七巻あたりをお探し願いたい。「徒然草の執筆動機について」上下として、若書きのつたない論文を二回にわけて掲載している。「論文の目的」は、執筆動機の背景にある兼好の「隠れた恋」に他ならず、光田氏の謂われるとおりのモノである。以来ずうっと言い続け書き続けてきたのであり、「誰も気づかなかった」ことでは無い。

* 正直に言うと、わたしは光田氏の本に出会うのが「楽しみで、嬉しい」のである。
わたしは、自説のオリジナリテイなどを頑固に主張する気はさらさらない。学説も新説もパブリックドメインだと思っている。その上へ、先へ、研鑽が伸びてゆけばいいのである。わたしが少年以来の、「徒然草は隠れた恋ゆえに書き始められたのではないか」という不審が、新しい学徒のちからでさらに見事に前進し展開したのなら、それを喜びたい。

* ただ、学者の論説には学者だからふむ手順がある。わたしのような小説家はその辺はガサツで不行儀であり、好いことではないが。学問研究の場合は、先行の説にはしっかり配慮された方がいいと云うことをわたしは言っておきたいのである。

* 幸い『兼好の思い妻』一編は、「e-文藝館=湖(umi)」の「論考」室に掲載済みで、今すぐにも読んで頂ける。『慈子』も、このウエブサイトのなかに、「電子版・湖の本」第九・十巻としてすぐ取り出して読んでもらえる。
2008 9・18 84

* 十一時前。いま青草書房から光田和伸著『恋の隠し方』が届いた。

* この本、①わたしの仕事にも名前にも触れていないこと、②恋の相手をわたしの論考と同じく「延政門院一条」と挙げていること、扱っている徒然草の各段もほとんど全てわたしが、半世紀近く以前に、論証に用いたのと同じであること、が分かった。
一冊の単行本であるから、わたしの扱わなかった範囲に筆の及んでいるのは当然で、それはわたしの問題ではない。
朝日新聞文化欄が「売り」として扱った限り、「兼好の恋」を本の題としている限りに於いて、著者光田氏は、先行の兼好論に博捜の学者的義務と義理を欠いていたのは確実と言える。論旨の剽窃かという疑いをかけることも、事実が示している限り、暴論暴言にならないだろう。また「これれまで気づかれなかった」と主張しているのだから、参照・引用されている他の各氏の仕事からも、光田氏主張は「隠した恋」に関しては、何も汲み取っていないということになる。しかし遙か早くに「ほぼ結論の同じ論策」が実在して、その後にも繰り返し敷衍し公刊されていたことを、氏は、知らない、調べない、ままに新説を豪語していると謂うに等しい。
朝日新聞に紹介を書いた大村治郎氏をわたしは知らないが、感想を聞きたい。
青草書房編集室の意見を聞きたい。
私の個人的な歴史から謂うと、文壇処女作「清経入水」に、誰より早く第一番にフアンレターをくれた杉本秀太郎氏は、青草書房の創立に関わっておられるように仄聞するが、氏の見解も聞いてみたい。
日文研には私的にも親しくしてきた何人もの方が、光田准教授の上席に並んでおられる。機会あれば、感想を伺いたい。

* 一時  青草書房の、また問題の本の刊行責任者らしき民輪めぐみさんに電話、事情を告げて、論考「兼好の思い妻」をファイルで送ることを約束。そして送る。受け取ったと返辞があり、報告に、少し時間が欲しいと。
2008 9・19 84

* 耳に馴染まない奇妙な言い訳をさえされなければ、何度も言うように、自説が追試され確認されてゆく過程のようなモノなんだから、喜びこそすれ、荒立てる気はすこしもない。学者の仕事にこういうことがなるべく無いようであってもらいたい。誰にでも起こりうることである。
そもそもこの程度のことは、専門外の若い日のわたしにすらもたどりつけた結論なのだ、しかもわたしは先立った学者達からも十分結論を示唆されていた。研究の場合、原作本文を徹底して読む大切さのほかに、先学の追究にも目を配らなければ、お話しにならない結果を招く。
なるほど、本の帯を読んで「誇大な宣伝文句」に新聞社が乗せられたのかも知れない。そもそも兼好の凄さやすばらしさは、「恋の隠し方」などには無いのである。
秋には、芭蕉が「隠密」だったということを売り物に、同じ筆者の本が出るそうだが、そんな噂はまえまえから繰り返し聞いてきた話だがナアと、心許ない。
2008 9・19 84

* 新刊『恋の隠し方 兼好と徒然草』のこと、学者の著書としては通俗で、もうわたしは、物言う気も失せている。それよりもわたしは言いたい、「徒然草」という本はほんとうに素晴らしいので、どうか原作を読んで欲しいと。
ただし徒然草の古語は必ずしも初学の人に読みやすくない。この本は岩波文庫でむかし☆一つのいちばん安価な一冊だったから、新制中学の頃、国語の先生のすすめで真っ先に買い、しかしこれは容易でなかった。後追いした「平家物語」上下巻のほうがらくらくと読めた。よい参考書があった方がいいだろうが、読み味わいは自前がいい。徒然草は「恋の隠し方」を手引きした本とはまったくちがう。誤解がないといいが。
2008 9・20 84

* そうそう大久保房男さんの『文士と編集者』を戴いたのが、おもしろくて、吸い込まれるように外出の乗り物のなかでも読み耽っている。
しみじみと惚れ込むような「ことば」に溢れている。その道で鬼といわれた人の文学愛の結晶だとありがたく読んでいる。いまどきまともに文士といい文壇小説といい私小説という人は、ピカピカの新しい人たちには受け取りにくいだろうが、その一段も二段も深い下を流れているものを汲み取りたいし、汲み取れるのである。「群像」にわたしは縁がなかったけれど、大久保さんとはご縁をながく戴いている。有り難いと思っている。
2008 9・20 84

 

* ゆうべずいぶん遅くまで大久保房男さんの本を読んでいて、今朝は十時起き。血糖値は、それでも、112。
2008 9・22 84

* 相変わらず深夜の読書はつづいているが、声を庇って、バグワンの老子、古今集、太平記の三冊「音読」は、やめている。太平記は、もう数日で全巻読了する。

* 何と言っても自然と、古今集に感想が涌く。恋の巻の五巻は、いろんな面で堪能もし、ウンザリもし、感嘆もした。四季と恋の歌以外にも秀歌は多い。しかし総じて類歌がじつに多い。パタン化ということでは、万葉集よりはるかに類型・類想化の危険に古今集は身を埋めている。一つには編纂方法が凝っていて、微妙な歌意と表現の差異をくみながら、同想にちかい歌を精緻に並べて行くのだから、似たような歌ばっかりだとつい思わせられる損もしている。万葉集はけっして雑纂ではないのだが、比較してそう思えてしまうほど古今集の編纂方法自体が、オリジナルに「創作」的で、その長も短も感じられるが、やはりたいした創意工夫だと思う。
友則、貫之、躬恒、忠岑といういわば下っ端官僚に本邦初の勅撰和歌集をゆだねていた醍醐朝の選抜姿勢にも興趣がある。いろいろ問題を投げかけてくる内容の豊富さだけでも古今集はけっしてバカには出来ない。

* エレミア書の、エホバ(ヤハウェ)と、預言者と、預言を語られる聴き手と、そのなお外回り敵対国や敵対民族との「関係」が、「ことばつき」に現れでて来る微妙な格差・波動差を、日本古文体の翻訳で読み分けて行くのは、なかなかの力わざ。頭の中に飛沫が散る。旧約聖書の大きな大きな部分を「預言者たち」の語りが占めているが、はじめは何とも思わずただ読み進んでいたのに、いまは、預言者なる「人格・半神格」の「ことば」の不思議さ力づよさに心惹かれている。

* そして『復活』トルストイの小説の書き方、『モンテクリスト伯』大デュマの物語の書き方。精緻な把握と表現、生彩ある事態推移の動力学をことばのちからでぬかりなく説明し続けて魅了する描写。「いいものは、いい…」というわたしの基本の文学受容に、これほど対照的にかつこれほど同じ説得力で迫る魅力は無い。二冊の本で、同時に五冊分ほどをたのしめる読み方をわたしは今、実験しているのだ。
2008 9・29 84

* 大久保房男さんの本はたくさん読んできたが、今回頂戴した『文士と編集者』はことにバラエティのなかに統一感もあり、おもしろくまだ夢中で読んでいる。いい本は力になる。気も清まはる。
2008 9・30 84

* 夜前、とうとう『太平記』全四十巻を読了。
はっきり言って後半は竜頭の蛇尾。しかしこういう「文飾日本語」がゆたかに創造されていた歴史的事実には感心する。滝沢馬琴が後世文飾の限りを尽くして読本を書くが、なんとなく文体がぎごちない。『太平記」のそれはホンモノの流暢を最期までうしなうことがない。流石と言っておく。

* 大久保房男さんの一冊は、最終の文壇ゴルフのパートだけ興味が持てなかったが、他は、襟を正すほど愛読した。お礼申し上げる。こう書いても、たぶん機械になど手も触れまい大久保さんには伝わらないんだ。このごろ手紙というのを書かないので、つい礼を欠きかねない。
2008 10・1 85

* フランスから帰ってきた「琳」さんを誘った。幕間に高麗屋の夫人が、めずらしく洋装で席まであいさつにみえた。三田和代の弟だったかペン委員会の同僚だった三田誠広君も来ていた。
はねたあと、三越真向かいのビル九階の精養軒で三人で食事した。「琳」さん、フランスのお土産を下さる。地下鉄大手町駅で別れてきた。
満員の地下鉄でも西武線でも『モンテクリスト伯』もう離れられない。深い地下牢獄のさらに地下道を通じ合ってファリア法師とエドモンの出逢い。わたしが全編の中でもっとも励まされ勇気と智慧とを与えられ感動するのは、其処だ。
そしてファリア法師は「息子」と愛したエドモンの目の前でついに死んだ。そこまで来た。
ほんとうに隅から隅まで、みな記憶している。それなのに純粋に胸は鼓動し掌は汗ばむ。デュマの文章には美的な文飾や表現はむしろ乏しい。無いとすら謂える。つよい濃い線を彫り込むように、事柄だけがのっぴきならない勢いでずんずん進んで行く。何らの晦渋も微妙もない。断乎としてじつに面白くことが運ばれる。もう、とまらない。もう、逃げられない。
2008 10・2 85

* 太平記にかわり、『今昔物語本朝編』の全部をと、一昨日から読み始めた。部分的にはたくさん拾い読みしてきたけれど、この大部の著作から観れば数少ない。源氏物語からすれば百ないし百五十年はおくれた編纂だろうとおよそ記憶しているが、その表記日本語の、女物語たちとは目をみはるほど筋異なっていることよ、ほぼ現代文を読んでいるようで。今日語にわざわざ翻訳など必要がない。
突端(とっぱな)は聖徳太子略伝とも別伝ともいえるもの、要領良くて面白さでも引き込む。今昔物語の骨頂はすでに明瞭、ケッコウ。
この今昔の、文飾にはしらぬ直接話法の彫り込みのみごとさが、いましも引き込まれて離れがたくなっているデュマの「モンテクリスト」語り口の魅力と通じていることにも気づいた。おもしろい。よく切れる刀でクイクイと彫り込んで、無用な飾りはつけない説得の文体。なるほどなるほど。
日本の十一、二世紀、西欧の十九世紀、はるか海山を隔てながら、此処に一つの文章表現の「タイプ」が露出しいる。通有している利点は端的な「説得力」だ。「面白さ」だ。
トルストイの『復活』の表現、そのリアリズムを体した文章ににじみ出てくる情理のこまやかさは、日本の女物語、ことに優れた源氏や寝覚の魅惑に通い合っている、小説自体は理屈っぽいのだけれど。すこし強引に謂うとそう受け取れる感触あり。
2008 10・3 85

* 帰り、国立能楽堂から千駄ヶ谷への途中、「五万石」能登海鮮料理の店へ上がって、会席をはずみ、「立山」三合の酒で、とっくりと楽しんできた。いい値段でもあったけれど美味しいものを食べさせた。満足した。
エドモン・ダンテスがファリア法師に譲られたとほうもない無尽蔵の宝をモンテクリスト島の二重の洞穴の奥の奥で発見するところも、うまい酒と一所に堪能していた。あの洞窟が後には幻想いっぱいの夢ににた御殿に変貌するのだが、どうやってと訝しむぐらい奇跡的。ま、それはデュマの腕前としておく。
2008 10・4 85

* いま、ある人の作品を預かっていて、やや判断しかねている。
当人は「詩」といわれ、わたしには「詩」と読めない。特定の人たちを見入れた「檄」と読める。
その人は、詩とは、人への「応援歌」だといわれる。応援歌も詩であり得ぬわけではない。人を励ます詩はいくらもある。問題は、詩である応援歌か、詩とは呼べない応援歌かだ。だが一種の「詩論」とともにその人は代表作として四編の作を添えておられる。詩としてのみ「e-文藝館=湖(umi)」に掲載するのは躊躇われるが、詩論に添えたサンプルとして一つの論説として受け容れるか。迷っている。その人に恥を掻かせたくない、掻くのがわたしであっても、それはガマンできるが。

* 迷いや思い乱れのあるときは、湯につかり本を読む。くすりだ。

* 万葉集全巻に次いで、『古今和歌集』全てを、興趣津々、読み終えた。巻末の真名序もおもしろく読んだ。
根を心地(しんち)につけ、花を詞林に発(ひら)く。
韻文とは謂わない、詩歌を愛し志す人が、生真面目に忘れてはならぬ原則だ。思慮遷りやすく、哀楽相変ず。マインドという分別心や軽躁な遊び心で「いじくり、いらう」には詩歌は容易でなく、たたのファッションやパフォーマンスで詩歌に戯れかかるとき、深く自らの人品をかえって軽薄に損なうはめになる。事神異に関(あづか)り興幽玄に入るのも、かならずしも神代に限ったことでなく、現代の優れた詩人達も心を尽くしてそうしている。映画『ル・ポスティーノ』の南米詩人が、詩に真摯に惹かれて行く郵便配達夫にむかい詩を一心に語り伝えようとし、かれもまた真剣無比に学んだのは、「隠喩」一事の深さと高さであった。
むろん詩に「喩」だけがあるのではない。東洋では風・賦・比・興・雅・頌の六義をはやくより教えてきた。諷刺、直叙、直喩、暗喩、そして善政をほめ神の盛徳をほめた。
いま詩歌は直叙におおきく偏り、根はふかい心地から遊離し、花は詩香を忘れた恰も達意だけの標語に堕している。まさに人奢淫を貴ぶに及んで浮詞雲の如く興るていたらく、それが残念ながらケイタイ風俗に結実し流布し、「mixi」のようなソシアルネットも例外でなく、詞藻涸れて浮花いま咲き栄えようとしている。情けないことになろうとしている。

* 詩歌という「うた」は、人渾身の「うったえ」であることを忘れ、遊具に見立てて詩精神は縊られて行く。情けないことになろうとしている。

* 詩歌に思いがあり、しかし読まれる機会の乏しいのを嘆く人は、どうか、わたしの「e-文藝館=湖(umi)」詞華集を開いて、かなり精選された近代の作者や現代の作者たちに、創作や鑑賞の思いを添わせてみて欲しい。そしてそれらの中へ、「比較されるため」にこそ自愛の自作を大胆に送り込んできて欲しい。
2008 10・5 85

* 新制中学の修学旅行のまえ、父に富士山は「どれぐらい高いか」と尋ねたことがある。父は、ナミの山ならこれぐらいと、かすかに眉をあげ、「富士山はなあ」と、ぐいっと頤を高く上げた。ものの説明であれほど適切だった例をあまり知らない。
秦の父に習ったこと、教わったことをときどきそういう風に思い出す。「秦」は「はた」ではない「はだ」が古い読みだとも正確に教えてくれた。祖父も蔵書に筆で「hada」とローマ字書きしていた。
祖父から口頭で教わったことはないが、想像を超えた大量で良質の漢籍や辞典や古典の蔵書で以て、信じがたいほどわたしを裨益した。
父は、読書は極道やと嫌いつつ、なによりも自ら謡曲という美しい伝統藝を少年わたくしの耳に聴かせ、また大江の能舞台へ、また南座の顔見世歌舞伎へ行かせてくれた。
叔母は茶の湯と生け花をたっぷり体験させてくれた。短歌や俳句という創作へクイと尻を押してくれたのも間違いなくあの叔母であった。
わたしは、新門前のハタラジオ店に「もらひ子」されて、数え切れないトクを貰っていたのである。親孝行をしなかったのが今になって恥ずかしくてならぬ。
2008 10・6 85

* 万葉集、古今集についで、というよりポーンと跳んで、今、岩波版の『千載和歌集』を読んでいる。こんな本を買っていたのかなと思ったら、月報のアタマに「俊成の時代」というエッセイを自分で書いていた。岩波からの謹呈本であった。著作カードに書き忘れるところだった。
それでいて、古今集の次は千載集を読むと決めていた。本のあるのは記憶していた。
わたしは近代に感化された短歌もつくってきたけれど、遊び心では物語和歌にふんだんに薫染されていて、和歌ふうにも自然に「述懐」している。そしてたぶん歌風としては、後拾遺ないし千載集に近かろうと自覚していたが、いま、千載集を「春上」から読み始めると、なんだか、わが家に帰ってきたような安息と親愛にとらわれ、どれもこれも秀歌に思えるのだから幸せなもんだと悦に入っている。
もともと古今集も新古今集もすこし「やり過ぎ」と漠然と思ってきた。古今集を通読してそのとおりに感じながら、その限りで古今集の価値高さも再認識できた。
千載集は肌身にふれ、心親しい。わたしの日本の自然や心情に承けてきた、ある静かさや寂しみは、この辺の和歌に根をもっていたのかと思う。
なに不思議はない、言い替えれば小倉百人一首で古典語にはじめて触れたという基盤が露出しているに過ぎない。百人一首と源氏物語の和歌。前から後ろから寄せて返す波のようにわたしは千載集ふうのあはれや静かさにいつとなく染め上げられていたのだ。千載和歌集など、かつて一度も手にしたことは無かったのに。
「俊成の時代」か。なるほどわたしは俊成や西行の弟子筋であったか。定家、定家と口にしつつ、じつは定家をわたしはほとんど書くことがなかったか、俊成・西行があっての定家を観て書いていた。『月の定家』という小説一編も、もともとは「しゆんぜい」「さいぎやう」を書いて、時を置いてから「さだいへ」を副えて一編に纏めたのだった。

* たまたまのことながら、また当たり前だが、『今昔物語集』をたいそう面白く「一語(ひとこと)」ずつ読み進んでいる。また上田秋成の『雨月物語』は原文のほかに、高田衛さんの「批評」をわざと読み副え、ゆっくりゆっくり楽しんでいる。

* ただいま、そのほかに、バグワンの「老子」、旧約の「エレミア記」、ルソーの「エミール」、そして「復活」「モンテクリスト伯」さらに『現象学派の美学』と哲学史とを毎晩、就寝前の一時間半ほどかけ、少しずつ興味深く読み進んでいる、欠かさずに。
2008 10・13 85

* ああ、もうそろそろ日付が動く。階下でもう少しし残している仕事をしてから、就寝前の本を読みます。
2008 10・13 85

* 『モンテクリスト伯』ほど登場人物の多い大長編小説のなかで、ピュアな恋愛は、四つしか書かれていない。順にいえば、エドモン・ダンテスとメルセデスとの、ルイジ・ヴァンパとテレザとの、マクシミリヤンとヴァランティーヌとの、そしてモンテクリスト伯とエデとの。
最も多く筆を用いているのが三番目の恋で、これが検事総長ヴィルフォールに対するモンテクリストの陰惨に運ばれる復讐劇の一環に組み込まれている。だが若い二人の恋は、泥中の蓮のように可憐に純情に描かれて、今日の読者からはいささか気恥ずかしいほど行儀良く愛情にあふれていて、大デュマと謳われた物語作家の底知れない力量を証している。モンテクリスト伯はもとより、ノワルティエ、ヴィルフォールとその夫人、サン・メラン侯爵夫人ら、二人をとりまいて何人もの大人達が複雑にダイナミクに絡み合い、しのぎを削る。その葛藤に浮かび上がる純な恋愛。コントラストは、文字通り凄い。
ところで、わたしは、そんな大復讐劇を耽読しつつ心をやっているのだが、無道な悪意とたたかっている身には、この伝奇物語は予想していた以上に刺戟つよく、疲れたわたしの気持ちを優しく慰撫する方にばかりは効いていない。
ホメロスの『オデュッセイア』もわたしは楽しんだけれど、あれもまた壮大な「復讐の叙事詩」であった。わたし自身もそれに近い気持ちで長編小説をいつしれず書き終えていた。
世界史以来の大長編かも知れない『旧約聖書』をわたしはまだ三分の二あたり、一足一足歩んでいるが、預言者の物語を読み重ねるにつれて、この神が、預言者を介してイスラエル・ユダの民草に語りかけている言葉は、とめどもない怒りであり脅しであり、呪いであり、それらを裏返してやっと看取できるていの愛である。
こんなにも、神までも人を憎み、まして人は人を憎み恨み復讐心に燃えて闘うのか。いましも世界はそうした適例を旗印にしてそれぞれ自分に都合のいい名分をたてて闘い合っている。ほとほと、イヤになってきた。
2008 10・14 85

* 京都博物館の館長さんだつた興膳宏さんから、新刊『中国古典と現代』を頂戴した。感謝します。

* 奈良県の永栄啓伸さん(近代文学会会員)が、皇学館論叢に『秦 恒平「初恋」論 ─ 連鎖する面影のなかで ─』を書いて贈って下さった。有難う存じます。
『初恋』(原題『雲居寺跡』)という作品は、手頃の中編ということもあってか、よく話題にしてもらえる。亡くなられた河上徹太郎先生は雑誌に発表するとすぐ頷いて下さり、同じく亡くなられた宮川寅雄先生も、単行本になったすぐに「あの作、たいへん有り難かったです」と仰りビックリしたが、京都の河野仁昭さんも熱心にあちこちで紹介して下さった。萬田務さんも批評を書かれ、原善君も早くに詳細に論じて呉れている。永栄さんの今度の論はまた切り口が新しく、相当の長編で。有り難いこと。
2008 10・16 85

* 夜前、依然「フロイト」の辺を読んでいた。「老子」も読んでいた。いちばん不快なことから顔を背けて逃げないこと、逃げているとトラウマになると、二人とも不思議に口を揃えていた。
あと七千年でナイアガラの滝はなくなる、もっとも柔らかい水が最も堅い岸壁を砂にするとバグワンは言い、海底や海浜の砂はすべてそのナイアガラの巌のなれの果て同然だと語っていた。さざれ石は巌にはならない。巌がさざれ石になる。もっとも柔らかい水がそうする、と。水は攻めないし逃げない。ただ浸透し流れて行く。
2008 10・17 85

* 夜前、岩波文庫全七冊の『モンテクリスト伯』最後を、一気に読み終えた。少なくも中学高校以来七度八度は読んできたが、今回は原作者の「構想」に身を寄せ、小説家としての関心からもことに丁寧に読んだ。
出逢いが早かったこともあり、わたしには、読み物というかエンターテイメントとしては、真っ先に指を折る記念の作である。『風とともに去りぬ』とか『大地』とか『椿姫』とか、だいたい同じ頃に人に借りて耽読したけれども、大デュマのこの作ほど「おもしろい」と思ってその印象の全く変わらない、いや今回などさらにおもしろさに磨きがかかった、そんな読み物は他に例がない。大長編であるなかで、しかも、十度ほど、十箇所ほどでわたしは感極まって胸を熱くし、しばし息を調えねばならなかったりしている。
一人の青年が、極限状況を経て神の如き超人と化し、凄惨な復讐を遂げて行きながらも「人間」に立ち帰って行く物語であり、「待て、しかして希望せよ」という思想としての結語にも十分「力」がある。「幸福」がある。
この大長編を、生まれ変わって行くエドモン・ダンテスとエデとの恋愛小説として読み切れて行くようになると、作品の輝きは一層深まる。まことに巧緻な大胆な組み立てであることにも感嘆するが、「喩」に傾くのをむしろハッキリ避けた「直叙」の話法、読み物としての潔さが、これだけ壮大な物語を、いささかの混乱無しに遂げるのに役立っている。そのことへの、わたしなりの「確認」は一収穫であった。

* 牢獄はこのエドモン物語の最初の魅力ある「語り場」であるが、併行して読んでいたトルストイ『復活』の牢獄のとらえ方書き方とのめざましいほど手法の違いは、多くを教えてくれた。
もうこれで読むのは最期か知らんと思いつつ取っついた『モンテクリスト伯』であったけれど、そうは思われぬ。かならずまた無限の懐かしさで書庫から持ち出すに違いない。ほんとうは数ヶ月も掛けて読み上げる気でいたのに、こころよく追いまくられてしまった。それも読書の幸福。
さてはたして日本の近代に、これほど面白く、微塵の停滞や退屈ものこさない絶大の読み物があるのだろうか。近世馬琴の『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』がふと思われるが、確信は持てない。吉川英治の『宮本武蔵』にしても大デュマの鉄腕からみれば、ほんの小味である。
エンターテイメントということを何か独自なもののように謂う人もいるけれど、デュマがこの作品に傾注した精神の高邁さは、エンターテイメントといったまやかしではない。堂々とギリシア神話や叙事詩、シェイクスピアの大建築と伍して何憚りもしないという藝術家の自負自信が読み取れる。
2008 10・22 85

* 大小の文藝誌、詩誌・歌誌・句誌、同人誌、また小説や詩歌の単行本を戴く。及ぶ限りは目を通し、しかしなかなかお礼状にまですぐ手が着かず失礼することもあるのが心苦しい。
それにしても、さまざまに「文学」活動されている。孤独に続けておられる方もあり、仲間での例も多い。すべて一隅を照らすいとなみであり、大海の小波にひとしいけれど、目を向けていると教えられたり感銘を受けることが有る。胸の痛むのは、いつしかに幾つもの訃報に触れること。
2008 10・25 85

* なぜか機械の前で昏睡ぎみに姿勢が崩れかけ、ビックリする。

* 「三田文学」に、谷崎の『飆風』が載ってすぐさま発禁に遭ったことを、武藤康史氏が論じていた。この発禁は有名なことで承知していたが、当時のマスコミが報じた際、谷崎という姓を「ヤサキ」「ヤザキ」と読んでいた識者ないし記者のいたことは忘れていて、改めて可笑しかった。
可笑しいでは済まないところもある。当時の谷崎潤一郎はまだ新進作家以前の「新思潮」に拠った学生だった。苗字の読み違いも、ま、ありえたこと。
ところが、今仮に「飆風(ひょうふう)」の字を借りて書いた谷崎作の表題は、こんにちの全集では大方「ひょう」の字が「風」の右に「犬」三つになっているけれど、初出「三田文学」での「ひょう」の字は「風」の右に「火」二つだった。それが「火」三つに書かれた例もすくなくなかった。なにより今わたしの使用している機械での文字パレットからは、「飆」しか取り出せず、他の三漢字はみな「?」になって出る。
2008 10・25 85

* 昨夜、やはり久しい読者の「小説」寄稿があった。読んでみて、佳い話材だとおもしろく思ったが、文字等のヌケなど、読みと推敲とがまだ必要だと思った。手が入ったら送り返して欲しい。
2008 10・27 85

* 帰りの地下鉄で、初めて落ち着いて新刊の「湖の本エッセイ45」を、長い気の入ったあとがきや、馬籠での藤村講演や、国際ペンでの演説原稿など読んできた。出すべき機にきっちり出した一冊という自信をもった。
2008 10・27 85

* 騒がしい夢見になやみながら少し寝過ごした。就寝前読書の「エレミア記」では、エホバ(ヤハウェ)の呪いや脅しや警告が、彼(?)を信じないで裏切り続けるイスラエル・ユダの民にむかい、炎のように襲いかかる。
ちょうどいま、亡くなった大野晋さんの、日本のカミについての啓蒙書『日本人の神(新潮文庫)』も克明に読んでいるが、この方は、持ち前の理解を整理整頓する役をしてくれているが、幸か不幸かわれわれの神様は、ヤハウェとはよほど根性が異なっている。それで助かるとも、もっとどうにかとも議論する気はない。ヤハウェは「凄」い。

* 今一つ、高田衛さんの懇切の手引きを得ながら、かつてなく克明に字句と行文とを追って『雨月物語』を「蛇性の淫」まで読み進んでいるが、巻中さすが抜群の雄篇、はやく通読してしまいたくなる手綱を引き締め引き締めて、いま大和椿市に逃れてきた豊雄、追ってきた真名児の「再会と祝言」のくだりを凝視している。ここにある恐怖と恍惚と。
異種婚姻譚は古来いくらも例がある。たいてい、いや悉く不幸な破滅や別離に終わって、互いの思いを温和に平和に遂げる物語・説話はすくない、無いに等しいが、何故かという疑問をわたしは、道成寺を読んでも、狐草子絵巻を読んでも、うらみ葛の葉を観ていても感じる。互いによければよいではないかと。その辺にいわゆる「差別」の根底がある。

* 中国筋に出て名高くなった或る猿まわし氏と、或るテレビ・プロデューサーさんとの結婚、そして私小説の出版が「AERA」で話題にされていて、読んだ。猿回し氏の一家が毅然とした意識をもち登場してきた頃、わたしは筑摩書房刊のその人(の父上)の著書を紹介した記憶がある。今度の結婚にも出版にもわたしは注目する。

* 雨月物語は、根幹において中国白話小説からの多くが翻案とみられ、人によっては様変わりの翻訳小説ないし盗作とまで極言するけれど、秋成独自の美学と作家の資質が輝いていて、何といおうと優れた「創作」の美を遂げていると感嘆する。

* しかもなお十種におよぶわが「真夜中の読書」でわたしをもっとも捉えるのは、魅するのは、やはりバグワン。

* 大きな「哲学史」を引き続き繰り返して二度読んだ。妻はいま自身で三度目をまた読み出している。なにがわれわれを捉えるのだろう。
ただ残念なことに通常の哲学史は西欧に偏り、幾らか良くてイスラム世界のそれを少し取り入れる程度で、インドや中国の哲学思想を「割愛」というよりよう「取り込めない」でいる。インド人であるバグワンのように透徹した「死生の導き手」に一度出会ってしまうと、西欧中心の哲学史がかなり空しくなる。すくなくも実存哲学のめばえが見えるキェルケゴールより以前の「森林」のような哲学の懐に案外に何も抱かれていないのが見えてくる、いわば「理」の集積でしかなく想われてしまう。それでは人は知識やある種のヒントを授かる以上に、何も救われない。二十世紀の大哲学者ヴィトゲンシュタインが喝破したように、「哲学」とは、「いかに哲学が役に立たないかを知らしめる」点で最終的に人に貢献するのだということを、ほぼわたしは信じている。哲学の後へ、実存哲学の後へきてわれわれを真に鼓舞しうるのは、少なくも西欧出来の哲学でも宗教(宗教学・神学)でもないようにわたしは感じている。

* 毎夜の読書で今わたしを瞠目させている一冊に、トルストイの『復活』がある。
この小説について知っているかと問えば、存外『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』以上に知っているような気分になる日本人が多いのかも知れぬ。「カチューシャ」というヒロインの名が、通俗演劇や歌謡のなかにまで顔を出して、それが集団の記憶にのこっている。
貴族ネフリュードフは、叔母達の小間使いで愛らしかった少女カチューシャと少年の恋をたのしみ、そして青年の欲情のままにカチューシャを犯してそしてそのまま顧みなかった。妊娠した少女は貴族の家から追い出され、売春婦に身を持ちくずして、とある裁判の被告にまでなる。その裁判の陪審員の一人になったかの青年貴族は、被告がカチューシャと知り……。
その先は書かないで置くが、『復活』は、たしかにこの二人の物語を今後も続けてゆくが、じつはこの作の作者の意図は、かなり別の方面へ「渾身の批評」として発揮されている。トルストイ伯爵は、徹底的にしかも小説表現の技倆をみごとに活かしつつ、現行キリスト教(正教・カソリック)を批判し、現行ロシアのツアーリ国家を批判し、それに寄生した貴族社会の腐敗と没理性の暴虐に対し、ことこまかに「表現」という誠実を以て告発し続けて行く。どんな叛逆的なプロパガンダよりも徹底的にしかも小説の美学を持ち崩すことなく、具体的に具体的にさらに具体的に一人一人の貴族や彼らが構成する行政の組織に対し呵責ない批評と非難とを浴びせ続けて行く。ロシアは、あの革命よりまだはるか以前にある。しかもトルストイはなにひるむことなく、国の犯罪、貴族の犯罪を暴く。なんという「高貴な、非常識な、孤独な」所行。だがそれは時代と国とを動かした。
カチューシャという冤罪者の「牢獄」を実態把握の基点にしているから、国と体制との批判がみごとなコントラストを為して読者に伝わってくる。ネフリュードフとカチューシャの物語は、そうした批判・非難の有効を保証する「絶妙の下絵」になっている。
これを、ぜひ、書いて置きたかった。
2008 11・1 86

* 歌人の伊藤一彦氏に『牧水の心を旅する』を戴いた。中学生だったわたしは、茂吉より先に牧水に出逢った。

* 原田奈翁雄さんに『日本主権者革命への序章』を戴いた。ぜひぜひこう進んで行きたいものである。

* 作家北原亜以子さんに『白雨 慶次郎縁側日記』を戴いた。時代小説らしい。

* むかし医学書院で机を並べていた小鷹信光(筆名)君が、このところつづいて二冊の本を贈ってきてくれた。一冊は、彼の領分ハードボイルド小説など翻訳してきた体験から生まれた「英語表現」に関するエッセイ、今日届いたのは、海外「珠玉のミステリー二十編」のアンソロジーに彼のエッセイをちりばめた大きな編著。楽しみに読もうと思う
2008 11・1 86

* 今現在にも、あのネフリュードフという『復活』の主人公はかなりの変わり者に観る人があるだろう。まして作品が公開された頃のロシアやヨーロッパでは、いくらかトルストイが狂を発したかとぐらいに訝しんだ「常識人」が多かったろう。
我々日本の大人にも、ちいさいながら有島武郎や武者小路実篤の「新しい村」運動などが記憶にある。トルストイは伯爵、大きな貴族であった。トルストイを直ちにネフリュードフに重ねることは出来ないが、また重ねて観ようとしないならそれもまた大きな手落ちになるほど、二人の臍の緒は事実レベルででも繋がっていた。トルストイの容赦ないキリスト「教会」批判に初めて出逢うと、胸の底から、おやおやおやと半ば動顛するほど愕かされる。そして「尊敬」と「理解」が始まる。

* 『今昔物語』本朝編の冒頭はひとつの「祖師と大寺」紹介による日本仏教の「流れ」の再確認になっている。ここを丁寧にアタマに入れておくと、少し特異でありながら、藤原氏や朝廷とはべつの歴史の下絵を、いつも眼にしておれる。「今昔」を通底するうまい仕掛けになっている。
2008 11・2 86

* 聖路加午後一時予約の診察、早くに病院入りしたがコンピュータ・システムに故障があり、かなり遅れた。
幸い、体重のこと以外、いつものデータは改善がすすんでいて、ただただ「体重」注意と言われてきた。降参である。
昼飯は院内で食べたが、夕食は街でイタリアン。日本のビール、イタリアのワインとビールで二種類のパスタを食べてきた。
今日は、以前に貰っていた久間十義さんのルポふうのサスペンスをずうっと読んでいた。

* 日が短くなっている、外へ出るともう街は黄昏れている。食事が済んで出るととっぷり暮れている。
2008 11・7 86

* 『サラマンダーの夜』はいまいち収束がものたりなかった。たっぷり書いて欲しかった、通俗なおねだりではあるが。将棋番組で熱戦の終局をもう分かり切ったことのように省いてくれるとき、それでも俗落ちの最期まで見せてみてよと願うことがある。かなり一気に読み進んだだけに呆気なかった。

* 今昔物語は、昨夜は「清水寺」の縁起を読んだ。坂上田村麿と清水との縁は知っていたがこんな前史は知らなかった。不思議に懐かしく読んだ。千載和歌集は覊旅の巻を読み終えた。この和歌集はやすやすと心やすく読んでいる。
バグワンは「道・タオ」上巻を終えようとして、連夜、いろいろに鞭打たれ続けている。
2008 11・9 86

* 家の中を暴力的にでも片づけないと、冬を迎える用意すら出来ない。手書きの生原稿の未整理なのがダンボール箱に何杯もみつかる。山積みにして物置などに入れようならそのまま死んでしまう。出しておけば生きる機会もあるだろうが、こっちの方で生きているかどうか。
湖の本は、入稿原稿を機械でつくり、機械で入稿する。初校ゲラが出て初校し、再校ゲラが出て再校、ときに部分的に念校する。その校正ゲラが残っている。機械で入稿した機械内原稿を、初校と再校・念校ゲラで照合して直しておかないといけないわけだが、その作業がじつはなかなか出来なくて放置される。機械の中で電子化されている湖の本が「未校了」とあるのは、直しゲラとの照合が出来ていない意味である。
湖の本のゲラはA3用紙で出るから嵩が高い。一校で三部ずつ出るから嵩は凄い。しかも実に重い。裏白の不要分を捨ててしまうのは、裏白の紙を貴重品として育ったわたしにはとてもし辛い。半切し気軽なA4用紙としてプリント用に使いたくなる。十分使える。校正ゲラだけは、機械との照合さえ済めば処分出来片づいて行くのに、それに手が出ないで、狭い部屋は漸々層々占領されて行く。手伝いますと言ってくれる人もいるが、バカに嵩高いモノをひっきりなしに郵送しなければならない。

* 本は、書籍は、諦めることにしている。何を諦めるか。片づけることも、処分して図書館などにまわすことも諦めるのである。どっちにしてもモノ凄い肉体労働になる。たちまち腰と胸に傷みが来る。書庫が書庫として機能しないほど通路にまで積んで積んである。体裁よく総ガラスで作った飾り窓も、ただただ山積みの本の置き場にしたまま、倒れたらどうなるか知らない。強い地震の逃げ場としても堅牢に作っておいた書庫だが、大人二人がたとえ逃げ込んでも、中で崩れてくる本の山が痛い凶器になる。ケセラセラ。
2008 11・9 86

* 西武ライオンズが八回逆転勝ち越しの一点、さらに巨人ラミレスの内野ゴロで九回決勝の瞬間を観た。第一戦に勝ったとはいえ終始ジャイアンツが押し気味であった。若い渡辺監督のライオンズはよく勝ち抜いた。投手も野手も、選手という選手をほとんどわたしは知らない。巨人では原監督、上原投手、阿部捕手ぐらい。西武では誰一人知っていたという選手がいなかった。
わたしの野球は「プロ」野球でなく、「フロ」野球で始まった。少年のあの頃、銭湯へ行くと脱衣棚の扉に大きく書いた番号で、「3」か「16」が欲しかった。大下弘か川上哲治か。それでまだ空いている早くに銭湯へ行った。

* じつはセとパとの決勝戦とは忘れていて、湯につかり大野晋さんの『日本人の神』を熱心に読んでいた。のぼせかけた。
その前は「篤姫」を観ていた。若い名も知らぬ女優がいい芝居を懸命に演じていて好感をもっている。ただ、ドラマの原作であるか脚色であるか分からないが、必ずしも適確な歴史の把握であるか、かすかに不審も覚えている、が、主演女優の存在感は、なかなかけっこう。
なににしても日本の近代の幕あきには問題が多々ある。その問題がいまの自民の保守政治にもイヤな感じでまとわりついている。
わたしが言いたいのは、はっきりと「いま、『中世』を再び」である。
2008 11・9 86

* 毎日冷えて、曇天つづき。今日は小雨も落ちて。
「復活」を読み継いでいます。「復活」というと可哀想なカチューシャと思うのが常ですが、どうしてどうして。この小説、トルストイの「反体制」というに止まらない痛烈なヒューマニズム作品だと、感動もし、納得しています。
徒刑囚に陥るヒロイン、その裁判、その牢獄、その刑地への過酷な移送。作の運びから必然のこういう状況を確乎と備えた上で、それにかかわる大臣、貴族、高級官僚、典獄、獄吏たちのありようを徹底的に批判して行くトルストイの思想的政治的な立場は明瞭。それが観念的・概念的・抽象的に成らぬように場面場面の具体と人間性把握のありのままの凄みが、作品を生き生きとしたものにしています。ロシア国教というキリスト教も、ほぼ全的に否認されて行く。容赦ない筆の運びに魅されるにつれ、大正の日本知識人が受け容れていたトルストイズム理解の場当たりの安さも、恥ずかしいほど見えてきて、いよいよトルストイが大きな作家であることに胸打たれます。 風

☆ 『復活』には(半分くらいしか読んでいませんが)、アンチ・エスタブリッシュメントなものが根底にあり、さまざまな階層の人たちの、それぞれの醜悪さ・ご都合主義・保身・手前勝手などが、具体的な描写によって語られていますね。『復活』だけでなく、『戦争と平和』も。農奴たちの血と汗を搾取している実感などまるでなしの貴族バカボンボンが、カード賭博で莫大な税金に相当する賭け金を、どんどんスッていくところが、強く印象に残っています。『復活』で、農地解放するネフリュードフは、作者トルストイの実際の姿と重なります。
いったい、トルストイと同じ目線でものを見ていたエスタブリッシュメントが、当時、彼の周りにどれくらいいたかと考えるとき、貴族に生まれた彼は、孤独だっただろうなと想います。支配階級にある彼の書いた、アンチ・エスタブリッシュメントなものを根底に持つ小説は、当時のロシア社会で、どのように受け取られ、理解されていたのか、興味がわいてきます。
「大正の日本知識人が受け容れていたトルストイの人道主義理解の場当たりの安さも恥ずかしいほど見えてきて」とおっしゃるところ、なんとなくわかります。吉行淳之介も、『復活』は、自分が不幸にした女を救いに走るというところがクサくて鼻についた」というようなことを書いていましたし。 花

* 吉行が言っていたのは知らないけれども、言いそうなことだ。吉行の限界だろう。
だが『復活』のモチーフは、そういうところを肝腎要で逸れていて、しかもネフリュードフの自己解剖には、辛辣でかつ純に筋が通されていて、そんな「鼻につく」くさみとは別の「徹底」を得ている。それにわたしは心動かされる。
2008 11・12 86

* 芥川龍之介編の「近代日本文藝讀本」を読んでいた。芥川が自身読んで選んだというのを「お宝」に感じて。どうしてあれやこれを選ぶかなあと思いながら。身辺雑記にちかい心境ものを多く選んでいる。志賀直哉に気負けしていた芥川らしいといえるか。短い詩歌の選に心惹かれる。全六巻あるが、すぐ読んでしまえそうだ。
2008 11・14 86

* なにより興味深く読み上げたのは、今日は新潮文庫、大野晋さんの『日本人の神』であった。江戸時代の国学のもっていた日本文化史上の大きな意味を適切に解説している。日本語の本来を日本の本来と重ねて正しく問おうとすると、契沖が起こした「古学」の方法論が断然有意義になる。有意義を一段と学問的に押し広げた本居宣長の大事さも契沖の方法論あればこそといえる。
宣長はほんとうに大きな存在であった。だが、その宣長にしても日本の「神」の理解では視野が不足していた。
大野さんは日本語としての「神」が、輸入された文化の一つの重要な芯であった理解を、言語学的に引き絞って行く。
日本語というのは、存外にややこしく出来ていて、近隣諸国に言語学上の精微な枠組みからその同類ないし祖形とみていい言語を探し出せない。同類ないし祖形というからには、文化の基盤に相当する分野で滞欧する語彙が数百は見あたらねばならない。それが、じつは容易に近隣諸国の言葉に見付けられないのである。
大野さんはそれをインド南端のタミールの言葉に見付け出したことで有名な学者。先の敗戦後にはレプチャ文化に日本文化の祖形を求めた学者の著が爆発的な大ベストセラーになった。大野さんのタミール説には、それに勝る説得力が備わっている。なぜならば日本の水稲耕作文化に言語学的に「対応」する基本の語彙がずらりと拾い出せるだけでなく、「カミ」にかかわる宗教的な語彙もまたおおきなセットを成して日本語のそれらと緊密に「対応」しているから。
水稲耕作はまさに語意からも「カルチャー」そのものの文化であり、それらが関連する言葉をずらり伴って生活的にも対応して逸れていないことは、押し返しようのない大きな証拠と観られる。そしてそれら文化を支えて祝ったり祭ったり祈ったりする対象の「カミ」に関係する基本の言葉が詳細に一致し対応するのも、否認のしようがないほど、ウムを言わせない。
もとより言語学そのものがまだまだ議論の多い、可塑性に富んだ、つまりは未熟をのこした学問領域であることを無視出来ないから、今後にも曲折あるは不可避だろうが、タミールとの対応を一応棚上げしたにしても、日本の「神」についての大野晋さんの解析は周到で説得力をもっている。それだけでも有り難い。
およそ神仏習合だの本地垂迹だの、太古来「日本に固有の神」のというような「神」観念は、事実に置いて成り立ちはしないのは、大野さんの解説をまつまでもなくほとんど無価値な駄法螺に過ぎなかった。
大野さんのいう「神」に即して言えば、それは水稲耕作が文化として言葉と対になってもたらされた「弥生式文化」に始原を求めることになる。
しかしまたそれに先立つ何万年もの「縄文式文化」の時代にも「かみ」という語彙こそたとえ無かったにしても、神に類する物思いと生活との文化が必ずあったことは否定できない。たとえば、梅原猛さんのように縄文時代の日本学的精神を重んじる人からみれば、弥生時代に発する「神」で「日本の神」を語り終えてしまうのでは物足りないに違いない。
なかなか日本人の神の話は、言葉だけでは解決してしまわない。なぜなら、言葉はむろんあったろうが、それが文字で表記されなかった時代の方が遙かに永いのだから。文字がないから「神」に類する文化的複合が生まれなかったとは、断定できるわけがない。わたしにいわせれば、人や生きものに「命」があり、人にそれを意識する精神が在った以上は、「神」という「存在」を人は文字に頼らなくても必ず発明せずには済まなかったろうからだ。
2008 11・14 86

* 目が冴えて。夜中起きて、高田衛さんの『雨月物語』の評釈本を読了し、さらに詳細な解説も全部読み終えた。雨月物語の成立事情の判明していること、いないところ、よく分かった。読み急がずに「白峰」から「貧福論」まで、丁寧に読んで十分楽しんだ。

* 『復活』もだいぶ読み進んだ。
この作のモチーフは、頁を追うつど「立派に」理解できる。まさしく、かくありたき「人間」かくあってはならぬ「人間」どもを見つめて、制度と時代の悪を抉っている。
朱に交わればあかくなるという、が、なにがホントウに良い好い人間であり、誰が好くない快くない人間であるかを、「身勝手な常識や宣伝」に一切惑わされることなく、見つめ直して理解したこと実感したこと真実の信念としえたことを、トルストイは、心こめて書いている。彼はそのために、ふつうにいわゆる罪人や徒刑囚や監獄や流刑者移送などという、また農民・農奴たちのような、人・事・物、場面・状況を適切に選んで、必然の「作の場」としている。貴族や高官や紳士や貴婦人などが、いかに性悪に善悪の常識を都合良くつくりあげてその上にノホホンと過ごして人を人と思わぬ悪行を為し続けているかを、概念や類型や十把一からげにならぬようにつぶさに具体的に実情に即し即して書き上げている。その精神の高邁で清冽であることこそ、この作品の命であり、ネフリュードフもカチューシャもその「作の場」で新ためて「人間形成」していく。これは甘くも臭くも概念的でもない、優れた意図を優れて成功裏に表現し得た「やはり名作」というに憚らない。
2008 11・18 86

* いま、そばに『露伴叢書 全』という1880頁の本がある。優に厚さ10センチ余ある。明治三十五年六月に博文館の出したもので、それより以前すでに幸田露伴の書いた「小説その他」がおさめてある。有名な『五重塔』が入っていないが、数えると、五十五編。それも博文館のために書いた作だけで全一冊にしたものだという、圧倒される。
露伴はこの戦後までも長命した人。『運命』『連環記』その他、史伝にも多く優れたものがあり、「芭蕉の評釈」も大きな仕事であった。随談ふうの作に好きなものがある。
この大きな大きな一冊は、わたしの実父吉岡恒の遺品で。生前に父の手から受け取ったのでなく、歿後に異母妹たちが呉れたように記憶する。装本にも多年の黴が出ているが、酸性紙でないので活字も頁も劣化せず、十センチ余の分厚い本の製本が堅固に崩れていない。近頃の本は粗製もいいところだ、風格が無い。
わたし自身の百冊近い単行本も、豪華限定本は例外としても、初期の本ほど堅牢で趣味もよろしく美しい。

* 『露伴叢書』の中の、じつは一編もわたしはまだ読んでいない。であるのに、興味津々何度も眺めているのは、奥付の後に何頁分も載った博文館刊行の既刊近刊予告の書籍広告で、尽きず面白い。
今は一例をいうにとどめるが、この大なる叢書は奥付の記すように「明治三十五年六月」が動かないから、「予告」の本以外はその時点以前の刊行になる。
そのなかに「田山花袋君著」の『南船北馬』三版『続南船北馬』再版なる二冊の紀行文の広告がある。
正編は、「随処に感興を作り到辺にと想を着するは花袋子の紀行文なり、ことに子は暗勝の景に富みて残山剰水処として至らざるなく、処として探らざるなければ、その紀行文には珍談奇話百出して或は渓村の夕或は深山の夜、或は怒濤岩を噛むの辺、或は山中の湖畔など、他の紀行文には見るべからざるの妙あり、編中志摩巡り熊野紀行の如き其精彩の躍々たる真に一幅の写真図なり。」と褒めちぎられ、「全一冊洋装袖珍五百頁」「正価金四十銭郵税六銭」とある。
続編には目次があり、「雪の函館、浅間横断記、草津嶺を踰るの記、狐島、南洋の遺跡、並木づたひ、陸羽の一匝、瀬戸内海、播磨名所、鎮西の諸勝、一歩一景、箱根影記、雪中の木曽、華厳と霧降と裏見、戦場ヶ原、栗山卿(郷?)、老僧、三ねの松、冬の日光、多摩の水源、富士川を下るの記」と並んでいる。「老僧」というのはわたしには分からない。古刹に名僧を尋ね歩いたのか。
田山花袋その人はまさかに人の記憶から多くは薄れていまいが、かかる紀行本の著者として売れていたとは、わたしにも唐突、ややミスマッチの感はあった、が、名作『田舎教師』に推しても自然描写はことに優れていたのだから、下地に紀行をものする旅の歳月があっても好いのだろう。
ただ、田山花袋といえば近代文学史を『蒲団』一作で動かした画期的な作家として名高い。そういう名高さのさも「余録」のように後に悠々旅を楽しんだかともふと想われるが、『蒲団』の発表は明治四十年という史実が動かない。この『南船北馬』の好評は、それより五年以前の事実なのである。蒲団以前の花袋先生前史にこれらがあったことを、本の後ろ半頁の広告が教えてくれている。昔の本のこういう広告の楽しみようをわたしはいつも珍重している。

* こんな落書きをしていた、この瞬間に、日付が二十日に変わろうとしている。さ、やすもう。
2008 11・19 86

* このところ興味深く勉強しているのは、「かぐやひめ」のこと。竹取物語のかぐやひめが天上に罪を得て人間界に「流謫」され、罪尽きて天に帰って行く物語であるのは、きちんとした順を得ている。
ところが、現行の古典文学『竹取物語』より時代が降って『今昔物語』以下いくつもの文献に散見するいわば「竹取説話」は、『竹取物語』のような「天人流謫譚」の体裁をすべてきちんとは備えていない。この、物語と説話群とのきわどいすれちがいが何故起きているのかを問う声は、以前から上がっている。学者でないわたしは、しかも『竹取物語』成立に強い関心をもってもいる。そんなわたしの興味は、誰も誰とも確認できないでいる「此の物語」作者が、どの程度いわゆる幾種類もの「竹取説話群」を見聞承知していたかにある。
紫式部により「物語出来はじめの祖」とされた竹取物語は、九・十世紀の交には成っていた、遅くも十世紀前半には成っていたと見てよいが、いわゆる「竹取説話」はそれ以前に皆無だったろうか。歌物語の『大和物語』とも接触があったかと記憶している。此の物語作者はどれほどの竹取説話に触れながらあの『竹取物語』を書いたのか。作者の触れえた先行説話群には、天人流謫に関する前提や結末は語られていたのだろうか。
わたしは、あくまで物語作者の立場・時点でそれを考えたい気持ちでいる。わりきっていえば、彼は『今昔物語』や以降の文献の記載している竹取説話内容とは全く無関係でいたか、居れたか、だ。

* わたしの今読んでいる本の著者は、別の学者の意見にも拠りかかり、日本には「天人流謫の伝承は不在」と言い切っている。天と地といった「垂直の世界観」が日本になく水平に平板な世界観だと人の説も挙げて謂っている。つまり『竹取物語』が明瞭に天人流謫の形を備えているのは、中国ないし古代インドの例の「輸入・借り物」であろうと。そういう議論もあらかたわたしは過去に調べてきている。
ただ、「スサノオ」の高天原追放は、天人流謫とは「事情が違う」と言い切れるのかわたしにはまだ理解が届かないし、不定形ながら「アメワカヒコ」のことも問題外で好いのかと思う。また垂直世界観で謂えば、高天原、芦原中津国、黄泉の国または天・地・海という世界観も否定し得ないだろう、それはどうなるのか。他界をはるか海彼のニライカナイにだけ求めたのではなく、海底国への恐れや執着はいろんな場合に露骨に現れている。ヤマサチもウラシマも竜宮に行っている。海没した平家は海底に王国を誇っていたという伝説もある。天と地と海底との三層垂直世界は日本でも無視できないように思われる。

* と、まあ、なにかに手を出すとすぐそこでいろいろ物を感じるから、楽しくはあるが、ヒマにならない。
よく特定の一人の書き手が好きになると、そればかり読むという人がいる。わたしにもその傾向が全然無かったわけでないが、行き着くところ、いつも此処に書いているように、深夜の読書は、東西にも古今にもジャンルもバラバラである。だが、わたしの中ではバラバラではない。徹底した相対化の中で、わたし独りの興味世界をいろいろに機能的に構築してくれる。壁を造る本も、畳になる本も、食べ物になる本もあり、バラバラという印象は全然無い。自分で繋ぎ得て納得できれば、それはそれでよろしいのである。いつまでもそう在りたい。そのために大切にしたいのは「視力」ですが。ウム…
2008 11・20 86

* 志賀直哉全集から第二巻、第三巻を抜き出し機械のそばにはこんでいた。ここには『大津順吉』『和解』『或る男、其の姉の死』という一つの木から三つに分かれた三作が収まっていて、根に直哉と父との抜きがたい不和、軋轢、葛藤があり、そして和解の喜びに到る。『大津順吉』ととりわけて『和解』とは、すべて事実が事実として書かれている。『暗夜行路』を別にすればこの二作は志賀直哉を質的に決定するような名作である。また読んでみようと思ったのである。
その前に第二巻冒頭の『祖母の為に』を読んだ。明晰に志賀直哉の指紋が刻印されていた。
わたしの所蔵する個人全集では、岩波書店から出た『志賀直哉全集』がいちばん新しい。判型も好きで箱入りの装幀も簡潔に美しい。なんともいえず直哉の作品は琴線を厳しく懐かしく揺する。本を手にしていると、ふしぎなほど親のような人の匂いをかぐ。漱石、藤村、潤一郎、鏡花、それに柳田国男、折口信夫、また福田恆存、森銑三らの個人全集がすぐ身近にある。自分で読まないような本は買ってこなかった。もう一度も二度も、買った本はみな楽し~く読んでから死にたいなあと思う。
2008 11・23 86

* 嬉しいことがあった。「ぜひ文藝批評(作家論・作品論)をお書きなさい」と奨めてきた人の、予想をグンと飛び抜けた優れた評論作品が舞い込んだ。一読、これは「e-文藝館=湖(umi)」への掲載を急ぐまい、もっとしかるべき機会を他に求めた方がいいと思った。手伝えたら手伝ってあげたい。
小説には読み手によりどうしても向き不向きや好悪の判別がついてまわるが、評論は一読して図抜けたモノとつまらぬモノとが評価できる。文藝評論を歴史的にも多数読んできた、書いてきた体験からも、また行文の確かさからも出来は見て取れる。扱われている作家と作品にも親しく、納得も強い。高ぶることも気取ることもなく、落ち着いて書いている、読みこんでいるのが素晴らしかった。ちょっと敬服した。
2008 11・24 86

* ゆうべバグワンに聴いた挿話は(初めてではないのに)胸にしみた。
近所中に親しまれかついささかバカにもされているお婆さんが、戸外でしきりに失せモノを捜しているので、近所の者達も協力した。何を捜しているのかと確かめると、針が一本だという。こんな広い路上でやみくもに針一本を捜すのはムリだ、せめてどの辺で無くしたか分かるかと聞くと、「家の中で」と言うではないか、みんなは惘れて家の中での失せモノを「家の外で」捜すバカがあるものかとおばあさんに詰め寄った。おばあさんの返辞。
見当が付きますか?

* 千載和歌集の「恋」の巻二を読み終えた。予想していたように、千載集の恋の歌はなだらかに大人しく、措辞いかにもいかにも優しい。すこし月並みに尋常すぎるのを割愛すれば、たいへん優れて心地よい恋の歌がゾクゾク楽しめる。
俊成の撰で、平家物語にもしられるように平忠度は西国落ちの直前に師の俊成の門を叩いて家集一巻を預けてゆく。勅撰の栄誉にせめてあずかりたいという心根であり、唱歌で覚えた。そういう時代であるから、『女文化の終焉 十二世紀美術論』などの著者としては、もっとも深く馴染んだ時代に編まれているから、作者の名も古今集なみによく分かる。顔見知りというぐらいの気がある。その人達の日々の恋情を噛み砕いて歌にした言葉に惹かれる。
その人達が年がら年中恋に酔いしれているわけではない。しかし「恋」って何? という演習を彼らは欠かさないのだ、それが人間理解のベースにある。なんという尊い平和だろう。
おかしいことに、恋の巻へ来て、坊さんの名前が続々現れ、まことに典雅に酸いも甘いも噛み分けた恋の歌のならぶのに笑えてくる。圓位(西行)、西往、寂蓮、俊恵、寂然、寂超、源慶、朝恵、静縁、静賢、顕昭、道因、仁昭、祐盛、慈円等々数え切れない馴染みのある坊さん達が、公家や女房をそっちのけに恋の秀歌を連発しているのを読むのは、苦々しいどころか、平和なものである。

* 昨日、ふと気が走って、池袋西武線の構内にある新刊書店で、文庫本の『ローマの歴史』を買った。比較的近代の、いや現代の著者のモノで、いわゆる古典ではないが、また研究者・学者の学術書ではないが、謂うなればわたしが日本の「中世史」を書くようなモノかなと厚かましく思うことにして買った。著者の名前がまだ覚えられない、カンパネッリ? 夕べから深夜の読書に組み入れた。「ローマ」誕生の前史から始まって、読みやすいし面白い。文庫本の背中をみるとなんと懐かしい辻邦生さんが口上を述べていた。

* 中島信也君(筆名・小鷹信光)の呉れた大冊には、「珠玉の20撰」で短編の海外ミステリーが入っているのも、拾い出して一つずつ読み始めている。面白い、これは「珠玉」の看板に恥じないなと、妻と交互に本に手を出している。
これで、いま、わたしの枕元には順不同、バグワン「老子」 旧約聖書、ローマの歴史、千載和歌集、今昔物語、ルソー「エミール」、トルストイ「復活」 かぐやひめ研究、現象学派の美学、ミステリー撰、志賀直哉全集が積んであり、欠かさず読んでいる。昼間に仕事のためなどに読むぶんは「この他」になる。目の霞むのも当然か。
2008 11・26 86

* 坊さんたちがすてきに深切な恋の和歌を詠んでいるのも感嘆ものだが、もっと感嘆するのは。
いまもし「昭和和歌集」が勅撰ないし国家的文化事業として企画されたとき、天皇さんも皇后さんも皇太子さんも遺憾ないことは毎年の歌会始めで存じ上げている。だが、内閣総理大臣や最高裁長官や衆参国会の議長各氏は、名を連ねて和歌が詠めるだろうか。俳句なら中曽根さんはやる、和歌の話はあまり聴かない。陣笠大臣達がりっぱに参加できるとはとても想われず、麻生総理などいちばんに落第。
ところが古今集でも千載集でもどうだろう。天皇、院、法皇はもとより、摂政も関白も太政大臣も左大臣も右大臣も大納言も中納言も、現代と比して目もくらみそうな高位高官たちが、四季の歌も賀の歌も哀傷の歌も、旅の歌も、とりわけて恋の様々な歌も、まことに美しくみごとに歌っていて、かえって万葉集には含まれていた庶民や下級官吏の歌など、皆無に近い。ときに遊女の和歌がまじるが。
古今集の撰者達はみな下級の貴族公家達であったが、千載集の選者は藤原俊成。大納言を極官とする羽林家の総領、大貴族だ。ま、そういう時代であったんだからと納得しておくけれども、つまりは誰よりもまずこういう人たちが世を動かす文化人であり知識人であり藝術家であったという事実には、やはりちょいと当節と較べて頭を下げておきたくなる。
2008 11・26 86

* 終演後、タクシーを拾い、三人で池袋西口に走り、東武百貨店の上の「美濃吉」に入った。出た料理には全く感心しなかった、わたしの体調のセイだろうか、とても疲労していてヘンに息苦しくハアハアしたりして。ま、そういうこともあるさと思って深くは気に掛けていないが。
建日子と長時間話せる機会はすくないので、今日のような日は、年ごとに大事になって行く。
料亭の席をいつまでも塞いでるワケに行かず、メトロポリタンホテルへ移動し、二階ラウンジで話の続きを楽しんだ。
池袋駅で別れて帰ってきた。妻をすわらせ、わたしは立ったまま『復活』を読みながら保谷まで。
いまカチューシャは、国事犯たちのなかに混じっていて、男性囚の一人が彼女に愛を抱き、ネフリュードフの理解を求めていた。トルストイがこの作品では国事犯たちとも深く接して「革命」の匂いへも果敢に接近している。ネフリュードフや国事犯男女たちの「人間」認識はそれぞれに辛辣でシャープで、トルストイという「非常識」極まる貴族作家への敬意を、わたしはますます深めている。ある時代の常識に対して優れて批評的に、また孤独に耐えて非常識であるということの凄さとすばらしさ。

* この疲労の背後には黒いマゴの夜中気儘の「運動」が響いているようだ。しかし、まだまだ、有る、今夜もまだ有る、わたしの仕事は。
2008 11・28 86

* 夜中、執拗な不快感になやみ血糖値をはかると、74。ブドウ糖を一袋口にし、食パン一枚を黒いマゴとわけ、赤いワインを少し呑んだ。
頻回目が覚め、熟睡に到らず。起きてしまう。就寝前の読書の、ことに直哉の『和解』で、初めて生まれた女子を死なせてしまう場面を気を入れて読んだのも響いたか。

* 思えば。わたしは以前にも書いている、ことに「谷崎愛の人」と亡き水上勉さんに推薦の帯文をもらった『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』の冒頭に書いたことだが、大学に入る際の教授面接で、影響をうけた文学はと問われて言下に、志賀直哉の『暗夜行路』とトルストイの『復活』と応えたこと。
何故。
その返辞が奇妙だった、二つとも「男」が主人公だからとは、ほとんど意味をなしていない。先生方は笑って、不問に付してくださったが、そんなヘンな返辞も、わたしの内ではだいたい根拠があったことと思う。当然「谷崎」と応えるところを対蹠的な「直哉」を持ち出すことで、わたしは両者の文学への深い敬愛を過不足なく自分のために表現したのだと思ったし、『復活』には、追究されればまだうまく表現できなかったろうけれど、やはり「ネフリュードフというトルストイ」への深い尊敬を持っていたのだった。
そして、思えば。七十三歳、いまの今、わたしは直哉全集を熱心に繙いており、『復活』を熟読している。両方について問いの追い打ちを掛けられても、いまなら喜んでいろいろ具体的にも直観的にも感想を述べられるだろう。
2008 11・29 86

* 他人様の原稿・作品もひきつづき次々に読んでいる。なかなか難しい。
2008 11・29 86

* 芥川撰の本から坂本四方太の、ちいさい姪をつれて向島に遊んだ、たぶん「ホトヽギス」にでも載ったらしい写生文を読んだ。同じ作者のもっと長い追憶の文章を以前に読んで、その詳細で落ち着いた筆致に楽しんだが、今読んだ「向島」は姪の機嫌をとりとりのんびり散策の風情がなかなか佳い。子規や虚子らに近い人、また漱石のものにも名前がよく出る。
すこし気をのどかに、眼鏡かけ直してこういう拾い読みもいいものだ。
2008 12・1 87

* 栃木から、新米を十キロ頂戴した。久しい読者の一人からお洒落そうな紅茶のセットを戴いた。サハラから、砂漠と遠山との蒸気に揺れたような写真が来た。
近藤富枝さんから新刊『文士の着物』を戴いた。谷崎の見たことのない和服の写真、懐かしい松子夫人らの華やかな写真が出ている。漱石の珍しいのも。立原正秋さんの和服はすっきりしていた、いつも。一つには体型か。
2008 12・2 87

* いまの時代、分かりにくい。百年に一度の深刻な金融恐慌は事実だろうが、時世粧はとめどなくバラバラで、流れが読みにくい。

* 「ペン電子文藝館」の委員長・館長を務めていた頃の日常といえば、皆さんご存じのように、献身・没頭そのものであった、そうでなければ、「在って無きがごとき影の薄い」電子文藝館になったであろう。
わたしの、当時、内心に堅く持していた創設と運営「方針」は、不動のものであった。確定していた。

一つは、もしも「現会員作品だけで構成」などしたら、まず作品が集まりもすまいが、たとえ集まったとて、作品の「質の低さ」は世の文学愛好家達の物笑いにしかなるまいと、憂慮し、つよくつよく懸念していたのである。そして事実はその通りであった。
理事作品が加わったとて、極く少数をのぞいて彼らの大方は、此の館のために自発的に、自身の意欲作・秀作を提供してくれる姿勢でも、度量でも、意気でもないのを、よくよく察知していたから、早まって「ペン電子文藝館」をそんな「低調」のまま発足させれば、早晩、大恥だけかいての立ち往生が、目に見えていたのである。

わたしは、館の収載展示の「質を上げる」ためには、また「量を積み上げる」ためには、絶対条件として、先ず「歴代会長」の力作を進んで提供して頂くと同時に、有力で著名な「物故会員」生涯の力作・優作・問題作を、ご遺族の許諾を得て多数収録せねば、到底成り行かぬことを覚悟していた。
さらにそれに止まらず、幕末から昭和に至る、ペンクラブとはたとえ無縁の人たちであろうとも、鄭重に「招待席」をもうけて、諭吉や、紅露逍鴎や漱石や一葉や、鏡花や秋声や、潤一郎や太宰治など、文豪・思想家・大詩人・大学者ら、それのみか、かつては大活躍していた力量ある今は湮滅に近い作家達の、「力作・記念作・秀作・問題作」を、能う限り掘り起こし、事実上「近代日本文学史」の「流れ」を「ペン電子文藝館」は表現・体現せねばならぬ、それ以外に、国内外に公開発信して恥ずかしくない「質水準」は、とうてい確保できないと、じつはこれ、かなり情けないことであるのだが、確信していた。

国民的にも自負できる「大読書室」に育てるには、何よりも収載展示作の一つ一つが、「上質」でなければならぬ。
ところが、遺憾にも「ペンクラブ現会員」に出稿資格を限定してしまえば、その文学・文藝の質は、かなりお恥ずかしくお粗末であることは、そんなに苦労せずとも分かり切ったことであった。
事実、私が委員長・館長として扱った「現会員作品」は、先ず予想通り極めて少数、そして少数の中でもこれはいいな、恥ずかしくないなと感心して読ませてもらった作は、理事作も含めて、贔屓目に見ても、小説で云えば、二千会員中にたった五十人もいただろうか。委員会委員の「常識校正」という群作業を束ねていた観測からも、ペン会員の文学・文藝の「力」がよほど不足していることは、心細くなるほど明瞭な事実だった。提出された一編の小説に、ヒドイ例では百箇所以上も疑問をはらんで、いちいち推敲を掛け合わねばならなかった。

* わたしは、上記の姿勢で「断乎」所定の腹案を推し進め、就任期間内に、五百人以上、六百作を越す会員外収録作品を、自身で読み、選び、提供を依頼し、スキャンし、校正し、そして委員達の校正作業を監督して入稿し、毫も手を抜かなかった。
さらには館内の特別室として「反戦反核」「主権在民」「出版編集人」室を新設し、ペンクラブ憲章の意図に副おうと努めた。

* 昨年、館長職を退き、委員会からも自身退任したわたしが、いまごろ、何でこんなコトを書いておくかというと、つい最近、事務局経由で、「会員原稿」投稿勧告・募集のお知らせが来たのである。
そういう募集は、私も形式的に繰り返ししていたけれど、実は、すこしも熱心でなかった。「優れた会員作品」の寄稿はあまり期待できず、それどころか、きちんとした編集者の眼識や批評を経て来ぬまま、書いて直ぐの未発表・未推敲原稿を、たんに「発表場所」を求めて持ってくる。「ペン電子文藝館」が雑誌なみに安易に「利用」されるという心配な傾向が目に露骨に見えていたからである。
そんな安易なことでは、「作品の質水準」は下がる一方に成りかねぬ。
わたしは厳格に、現会員作品の提出は、必ず「初出」データの確定したものに限るという「歯止め」を付けていた。新しく書き下ろした作品は、しかるべき発表場所に掲載を済ませ、そちらで原稿料をお稼ぎあれと願ったのである。

* 今回の「現会員原稿募集」の背景に、もしも、現委員会に「物故会員」「招待席作家」たちの作品を「読んで・選ぶ能力」が落ちてしまっているのなら、と、率直に危惧している。
「候補作品を選んで読んで良しと評価し、さらに作者の文学史的位置を正確に見極め、適切な短文で紹介する」という、最低それだけのことを「委員会」は励行しなければならぬ。それ無しに、掲載作品数は増えて行くわけがない。勢い、現会員の投稿を手をつかねて待つだけになる。
しかし、大事なのは「数」ではない、掲載される作品の「質」である。
かりに「千」作品を目標にと云っても、駄作・凡作・体を成さない作品を積んでみても、文学的には無意味というしかない。無意味以前に恥ずかしい。
やはり、物故会員や優秀な故人の多数の作の中から、孜々として秀作・有意義作を拾い上げてくる質的努力と能力とが委員会に無ければならないだろう。

* もう一つには、過去の作品の内には、著作権者の許諾を必要とするものが当然混じる。多数混じる。それを依頼するときに、「日本ペンクラブ」として相応の「信頼」をえながら懇請しなくてはならない。
わたしは、館長を退くとき、その意味でも、せめて私以上の「新館長選任」をと執行部につよく勧めたけれど、聴く耳をもたれなかった。そういうことの必要性がまるで理解できなかったらしい。
わたしは、沢山の方に直接、またご遺族に連絡して、自身も名乗り、懇切に作の提供をお願いしてきた。
幸いに秦恒平と名乗れば分かって下さる方が多くて、殆どの方が秦さんにお任せすると快諾して下さった。
「ペン電子文藝館」は、ペンの中でも、唯一といっていいほど組織の外へ開かれた機関である。外向きの責任者・代表者はそれなりに是非必要なのだ、それには広く経歴ある作家や詩人や批評家が就かねば役に立たない。存外というより当然のことに向こう様は気むずかしいのである。

* わたしが、今ひどく恐れているのは、収録作品の「相対的質低下」である。「ペン電子文藝館」は現会員だけのものでなく、ペンクラブ自体の、世界に提示する「文学的な存在理由」である。広く国内外に日本の文学とはと、識ってもらうべき機関である。
会員への安易な作品募集が、なんらか無反省な妥協の行為でないことを願うのである。委員会のさらなる意志強い充実を希望している。

* もう一つ云っておく。
わたしは、「ペン電子文藝館」創設企画の「原点」として、自身の「e-文藝館=湖(umi)」を夙に先行させていた。ペンのため没頭して沢山な仕事をしていたときも、むろん「e-文藝館=湖(umi)」のことが念頭にあり、作品提供をお願いするとき、ほとんど全部の場合「e-文藝館=湖 (umi)」にも併せて提供をお願いし承知して貰っていた。よく選ばれた作品の読書室が、現代、「幾つでも必要」という思いがいつもあった。
自分のための時間の出来てきた、いま、わたしは「e-文藝館=湖(umi)」を、日々新たに充実させている。いずれは、「ペン電子文藝館」を追い抜いてゆくほどの「質」と「新掲載」の充実を願っている。そのために今も多くを「読んで」いる。「スキャン」もしている。校正もしている。そして他の類似館・文庫に無い、ちからある「新人の作品」をも多数、責任編輯者の目と姿勢とで見出したいと心がけている。
2008 12・2 87

* 朝一番に、海外在住柳沢正臣さんの旅と体験「内蒙古と北京」を、「e-文藝館=湖(umi)」に収録した。「招待席」作品も日々新たに加わっている。

* 重さ二キロを越していそうな「露伴叢書」で、昨日『新浦島』を読んでみようかと取り付いた。作品の題は知っていた。
露伴は『露団々』など、早くから長編のおもしろいものを書いている。尾崎紅葉にもある。ただしみな文語で、それも相当に凝っているので、それが現代今日からの読者を阻んでいる。古典の現代語訳と同じ感覚で露伴や紅葉らの文語文小説を読みやすくする試みがあってもいいのではないか。

* 手に入れておきながら手に取らぬ儘だった若い学究達の著書を読み始め読み終えて、真摯な姿勢で書かれた仕事は、説得力にも新知見・新理解にも富んで、感心させられる。嬉しくなる。このところ、もっぱら入浴時に集中して読み終えた二冊は竹取物語研究で。ありがたく啓発された。
新知識を得た喜びではない。なにかしら生きているものに触れている嬉しさを著述自体に感じ取れたのである。
2008 12・3 87

* 笠原さんの、新井奥邃における「父母神信仰」とは何かを論じた論文を興味深く読み始めている。「旧約聖書」を読み継いできたことが役に立っている。バグワンに叱られるが、おもしろい興味深いことは限りなくある。
2008 12・3 87

* 志賀直哉の『和解』を、読み急がずに、充実感で読み終えた。感動した。直哉の一作を問われたら、躊躇なくこの名作を云う。短編でなら「母の死と新しい母」などを云うだろう。直哉の作は必ずしも心理に同調せず、彼と呼吸をともにして読む。このような直哉を「小説の神様」と呼び、この人もこの人もそうかと思うほど世を挙げて直哉の文学を尊敬したと聴いてきた、そのような「世」に対してもわたしは顧みて嬉しさと敬意とを持つ。直哉の文学や文章が分かっていたというのは、思えば、底知れず大事なことだった。

* 千載集を一首一首熟読して行きながら、勅撰和歌集としての千載集をいまごろに読んでいる自分の手遅れを残念にも申し訳なくも思っている。十二世紀という百年をこの上なく大事に考えて、小説もエッセイも論考もおどろくほど数重ねてきながら、千載和歌集をその分母として前提として読んでいなかった弱みに、改めて気づかされている。崇徳院と俊成と後白河院との、云うに云われぬ至妙の連繋をすべてに先だってわたしは承知していなければいけなかった。反省としてのみ書いておく。
2008 12・4 87

* 天野哲夫さんが亡くなった。比較的近くに住まわれ、「湖の本」を贈るとお返事や著書を戴いた。いまも沼正三著『マゾヒストMの遺言』、大冊の天野哲夫著『禁じられた青春』上下巻が手の届くところに在る。天野さんは沼正三であり、また沼正三の影のひとでもある。わたしは「同じ人」と想っている。
沼正三の名著『家畜人ヤプー』のごく初期の書評依頼が、太宰賞からまだあまり間のない頃に来て、わたしは読む前に実はすこし奮然とし、よし書いてやると腹をくくって読み出した。そして完全に惹きこまれた。気を入れて書評、というよりもむしろ、論じた。沼さんは秦の書評をとても喜んだと、他のところで話したり書いたりされていた。わたしはマゾヒズムに持ってゆかれることなく、一つの優れた「神話の誕生」として、平常の時間理解を超えた「多層時間の美しい構築」として批評したのだった。

あれから四十年近くなるか。天野さんのわたしへの厚意は、戴いている新刊類の重さが証明している。「秦恒平様 沼正三」と署名された一冊の中の「神話としての八月十五日」その他は、わたしの「e-文藝館=湖(umi)」に掲載許可も頂戴している。
また肉親の一部のように感じていた知己に死なれた。死なれてゆくことは日増しに多く、わたしはそっとそっと人知れず嘆息して胸をおさえている。
2008 12・4 87

* 風がしきりに物を鳴らしている。植木鉢も途方なく大きく重くなったベンジャミンを、寒気の戸外から今日あたりどうしても、冬ごもりにまた家に入れてやらねばならぬ。

* 新井奥邃の父母神思想にさらに踏み込んでいた。奥邃にというより、古代のグノーシス思想がどんな歴史の潜流となって露表したのかに思い惹かれる。興味深い。
シェーカー教はもう消滅していると思うが、キリストとしてイエスがまず男子で世に現れ、時を経て十八世紀、英国人女性のアン・リーが女子として現れたと、教祖アン・リー歿後に、イエスとアンとをシェーカーの信者達は「一対視」していた。渡米して奥邃が心身を預けたハリスの新生兄弟社も、シェーカーやクエーカーに信仰の性格上親近していたと思われる。ハリスの感化は紛れなかったかと論者は推察している。
2008 12・5 87

* 入浴しながらモンタネッリの『ローマの歴史』を読んでいて、わたしは湯船から起ち上がってバンザイしたのである。嬉しい読書はしばしば体験しているけれど、こんな嬉しさの読書には、老醜をべつに人目にさらすわけでなく浴室の中でひとりバンザイして少しもさしつかえあるまい。但し、ひとりで喜びたくない、この「闇に言い置く 私語の刻」を共有して下さる大勢と一緒に、拳をにぎって高く上げたいと思う。
ただ、今夜は明朝の歯医者の約束があり、もう、やすまねばならない。できれば早起きして、出かける前にここへ「私語」して協賛を求めたいと思う。若い読者に訴えたいと思う。
2008 12・5 87

* 昨晩の続きを書きおく。なぜ、これを喝采と共に引用しておくか、この時節に鑑みて、明瞭だと思うが。
とてもいい本である、引用を許して頂くと同時に、全編を読まれるようにみなさんに奨める。
少し長めであるが、嬉しくなる一章であった。わが仲間である日本国の平民・私民たちよ、とりわけて若い人たち、働く人たちよ。戦争には賛成しないが、民主主義は守ろうではないか。

☆ SPQR  モンタネッリ著 藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)に聴く。

前五〇八年、共和制成立以来、ローマ人は至るところに記念碑を建てまわり、それに必ずSPQR(セナトウス・ボプルス・クエ・ロマーヌス)の四字を印する。「元老院とローマ人民」の略記である。
元老院については述べた。そこで人民について述べよう。最古のローマでは、人民という言葉は現代とは違って、全住民を意味しなかった。パトリキ(貴族)とエクイテス(騎士)の二階級だけが人民の範疇に入る。
パトリキはパトレス、すなわちローマ市建設者の後裔だった。ティトゥス・リヴィ  ゥスによれば、ロムルス(=ローマの創立王)は市の創建に際して百人の家長(パトレス)を助力者に選んだ。かれらはもちろんよい地所を先に抑え、国の主人として振舞った。初期の王はどんな社会問題にも悩まされずにすんだ。全人民が王と同等、王も人民の一人で、宗教上その他の役割を皆から委されているだけだったからである。
だが、タルクイニウス王朝の始まるころから、ローマには、主としてヱトルリアから、異人種の群れが流れ込むようになった。父祖たち(パトレス)の子孫はかれらを不信の目で眺め、元老院を自分たちの家系の占有物としてその砦にたてこもった。これらの家系はそれぞれ、草創の祖先の名を冠していた。マンリウス、ユリウス、ヴァレリウス、アエミリウス、コルネリウス、クラウディウス、ホラティウス、ファビウス……
かつての開拓者の後裔とそれ以外の新参者という二種の群れが共存し始めた時から、ローマ市内の階級分化が始まった。すなわち貴族(パトリキ)と平民(プレプス)である。
ちょうどアメリカの貴族(パトリキ)、ピルグリム・ファザーズの家系が、次々に押し寄せる新移民の波に埋没してしまったように、ローマの貴族も、量においてはすぐに圧倒された。だがローマの貴族はずっと長くこの埋没に抵抗した。数では劣勢だが抜け目のない階級の常として、自己の特権を巧妙に守り続けた。つまり、特権の一部を平民にゆずり、それによって平民もその特権を守るようにしむけたのである。
セルヴィウス王の時代には、階級はさらに分化した。平民の中からブルジョアジーが分れ出たのである。これは数も多く、財力に富んでいた。王が五階級の金権体制を創り、百万長者の階級に圧倒的多数の投票権を与えたとき、貴族は大いに不満だった。成り上り者が、金に物を言わせて威張るのだ。だがタルクイニウス驕慢王を追放して共和制を建てたとき、かれらは単独で他の全階級を敵にまわすのはまずいと思った。そしてあの富豪たちを味方に引き入れようとした。富豪たちを釣るには、元老院の門を開いてやりさえすればよかった。
富豪たちは騎士と呼ばれていた。すべて商工業の経営者で、元老院議員になることが終生の夢だった。だから民会ではいちいち貴族に味方した。役職につけば惜しみなく私財を提供した。娘を貴族の家に嫁がせるために、女王様のような持参金もつけた。貴族たちはかれらの名誉欲を最大限に利用した。ついに騎士が元老院議員になれる日が来たが、その時も貴族の一員として遇されたのではなく、その同僚(コンスクリプトウス)として迎えられたのである。そこで元老院は、「父たちとその盟友たち(パトレス・エト・コンスクリプテイ)」から構成されることになった。
貴族と騎士だけが人民で、他はすべて問題外の平民(プレプス)だった。職人、小店主、事務員、解放奴隷等は、この状態にもとより満足ではない。だから共和ローマの最初の百年の歴史は、人民の概念を押し拡げようとする人びとと、それを血統と富の限界に止めておこうとする人びととの間の、社会闘争の歴史でもある。
共和国宣言の十四年のち、前四九四年に、この闘争ほ開始された。王制下に獲得した領土をローマがすべて失い、ラテン連盟の覇権をも放棄しなければならなかった時のことである。悲惨な戦が終ってみると、平民の状態は絶望的だった。地所は敵に占領され、戦場に出ている間の家族を養うために、借金はかさんでいた。この時代に借金といえばたいへんなことである。債務を払えなければ自動的に債権者の奴隷にされ、倉庫に監禁されても、売りとばされても、殺されても文句は言えない。債権者が複数の場合は、その哀れな男を殺してその屍体を分ける権利さえあった。そんな極端なことにはまずならなかったとしても、借りた者の条件はひどすぎた。
こういう状態を改善するために、平民は何ができたであろうか。民会では下位の階級に属しているため、百人隊の数が少なく、従って票数も少なくて、自分たちの意志を通すことはできない。そこでかれらは街頭や広場に出て、もっとも弁の立つ人間を代表として、借金の棒引き、土地の再配分、司政官選出の権利を要求して騒ぎ始めた。
貴族も騎士も元老院もこの要求に耳を貸さなかったので、平民はスクラムを組み、町から五キロ離れた聖山(モンテ・サクロ)に登り、畑でも工場でも働かない、軍隊にも出ない、と宣言した。
ちょうどこの頃、新しい敵がアペニン山脈から姿を現わしていた。エクイ一人、ヴォルスキー人という蛮族が、肥沃な土地を求めて、アペニンの山々から雪崩を打って低地へと押し寄せ、すでにラテン連盟諸市を圧倒していたのである。
尻に火のついた元老院は、聖山へと使者を何度も派遣し、市の防衛のために協力しようと平民に要請した。メネニウス・アグリッパは、平民を説得するために有名な寓話を考案した。すなわち、一人の人間があって、その手足が胃袋に怨みを抱き、食物をとることを拒んだ。そのうち栄養が尽き果て、相手の胃袋も死んだが、手足の方も死んでしまった、という話である。
だが平民の態度は変らなかった。債務奴隷を解放しその借金を棒引きにせよ、平民を守るための司政官の選出を認めよ、さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。
元老院はついに折れた。借金は棒引き、債務奴隷は解放、そのうえ毎年平民から二人の護民官(トリプヌス)と三人の造営官(アエディリス)を選出することになった。この選出権はローマ無産階級の最初の大収穫であり、その後の闘争に大きく役立った。前四九四年は、ローマと民主主義の歴史の中でひじょうに重要な年となった。
平民の復帰で祖国防衛戦が可能になった。ヴォルスキー、エクイ一両蛮族とのこの戦争は六十年続いたが、今度はローマは孤立していなかった。ラテン-サビーニ系同盟諸市だけでなく、ヘルニキー族もローマに忠誠を守った。
戦局は一進一退した。その中でひときわ目立ったのはコリオラヌスという若いローマの貴族である。有能な武将だがごりごりの保守派で、政府が飢えた民衆に穀物を分配しようとした時、激しく反対した。選ばれたばかりの護民官はかれの追放を要求した。コリオラヌスは敵に走り、その将となる。連戦連勝、たちまちローマの城門に迫った。
この時もまた元老院は、つぎつぎに使者を送り、コリオラヌスの攻撃を思い止まらせようとしたが失敗。しかし母と妻が涙ながらの嘆願をくり返して向つてくるのを見ると、かれは部下に退却を命じた。部下は怒ってかれを殺す。だが有能な指揮者を失った敵軍はけっきょく敗走したと言う。
この混戦のなかにエクイ一族が現われた。すでにフラスカーティの町はかれらに蹂躙されており、ローマと同盟諸市との連絡も断たれてしまった。この難局を乗り切るため、元老院はT・クインティウス・キンキナートゥスを独裁官(ディクタトール)に選び、全権力を委ねた。かれはただちに出撃、包囲されていた味方を救い出し、前四三一年、決定的な勝利を得た。ローマに凱旋してすぐに辞任、畑を耕しに帰宅した。独裁官の権力を行使した期間わずかに十六日。
しかしその間に、新しい戦争の火の手が北方ヴェーヨの町から上っていた。エトルリアの中心都市の一つであったヴェーヨは、この機にローマを決定的に叩きつけようとしたのだ。エクイー – ヴォルスキー両族に対する防衛戦の間も、この町はローマにいくつか意地悪をした。ローマは歯がみしながら耐えていたが、両蛮族を撃退してしまうと、矛先をヴェーヨに向け直した。これも苦戦となり、再び独裁官を任命しなければならなくなった。マルクス・フリウス・カミルス。この独裁官は名将である上に人情家でもあって、大変革をやってのけた。すなわち兵士に給与(ステイペンデイウム)を支払うことに決めたのである。それまで軍役は無料、家族は故郷で飢えに泣いていた。カミルスの改革に兵士たちは奮発し、戦意倍増して一挙にヴェーヨを攻略、一木一草まで破壊しつくし、全住民を奴隷としてローマに送った。
大勝利であり模範的な懲罰だった。ローマ領は二千平方キロ、四倍に拡大した。ローマの人心は驕り、戦功赫々たる独裁官に嫉妬と疑惑を抱くに至る。カミルスがエトルリア諸市を次々と陥落せしめている間、ローマでは、あれは野心家で、戦利品を私しているという噂が流れていた。それを知ったカミルスは独裁官を辞任、弁明にもどる気にもならず、そのままアルデアに亡命。
ガリア人がローマに押し寄せなかったら、カミルスはその地で、中傷に名声を傷つけられたまま、忘恩のローマ人を呪って死んだであろう。だがガリア人はもっとも頑強な最後の敵だった。すでにフランスからなだれ込んで、ポー河流域の平野を埋め、ポイイー、インブリー、ケノマニー、セムノネース等と呼ばれる自分たちの諸部族にその肥沃な土地を分配していたが、そのうちの一部族がプレンヌスの指揮下に南へ移動、キウシを占領、アッリア河でローマ軍を破り、ローマへと進撃してきた。
永遠の都にとって不名誉きわまりない戦だったに違いない。歴史家たちは多くの伝説で煙幕を張らねばならなかった。その一つ、ガリア人がカンピドリオの丘に夜襲した時、ユノー女神の聖なる鵞鳥がいっせいに鳴き騒ぎ、マンリウス・カピトリヌスを目覚めさせ、かれは守備隊を率いて敵を撃退した、という。事実ほ、鵞鳥が鳴こうが鳴くまいが、ガリア人はカンピドリオの丘にも他の地区にも、かまわず侵入してきたのだ。市民は近所の山中に避難していた。だが、元老院議員は避難せず、威儀を正して元老院の木の腰かけに坐っていた、と歴史は語る。議員パピリウスは、いたずらなガリア人にひげをひっぱられて、象牙の笏でそいつの顔を張りとばしたのだそうだ。敵の大将ブレンヌスは、ローマの市街に火を放ってから、退散料として莫大な金を要求し、秤を突きつけて迫った。議員たちが抗弁すると、かれは秤皿を踏み、分銅を投げて、あの有名なせりふを叫んだ。「ヴァエ・ヴィクティス!」だまれ、敗者! そこへまるで奇蹟のようにカミルス登場、「祖国は鉄で再建する、金は無用!」と見得を切り、天から降ったか地から湧いたのかさっぱり分らぬが、一軍を率いてガリア人を敗走させたのだそうだ。
事実はどうか。ガリア人はローマを劫掠したのだ。そして強奪した金銀財宝を鞍にのせローマから引き上げた。かれらは兇猛な野盗であって、政治路線も戦略もなかった。攻撃し、掠奪し、退却し、明日を思いわずらうことがなかった。かれらはローマを荒らしまわったが、破壊はせず、もと来た道をロンバルディーアの方角に引き返した。その間にアルデアから急遽呼び戻されたカミルスが、陣容を建て直した。おそらくガリア人とは一度の小ぜりあいもなかったろう。かれが帰任したのはすでにかれらが引き揚げた後だったから。
さてカミルスは、旧怨を水に流して再び独裁官に就任、トーガの袖をまくり上げて市と軍の再建にかかる。かつて中傷した連中が今やかれを「ローマの第二の創建者」と呼ぶ。
だがこの外患をのりこえるなかで、ローマは十二表法を制定し、内憂克服の峠を越したのである。これは平民の勝利を意味した。
それまで法律は神官に独占され、神官職は貴族(パトリキ)に独占されていた。平民は聖山から降りてからも、法律の公表を要求し続けていた。市民の義務は何か、それに背いた者はどんな罰を受けるのかを、万人の前に明らかにせよ。当時、裁判の基準は秘密であり、その基準を記した法典は神官たちに保管されており、しかもそれが宗教儀式の規則と混同されていた。殺人犯でも、神様の機嫌が好ければ無罪放免になるかも知れず、出来心で一羽の鶏を盗んだ哀れな男が、神様の機嫌が悪い日に当ったために、串刺の刑に処せられるかも知れない。神々の意志を解釈する役割が貴族に占有きれていたから、平民はいつも不安であった。
ヴォルスキー、エクイー、ガリア等の侵攻と、聖山総引揚げを武器とする平民の闘争と。この両面の圧力に押されて、元老院はさんざ抵抗をくり返したが、ついに譲歩を余儀なくされ、議員三名をギリシアに派遣、立法者ソロンの業績を調査研究させる。帰還後、十名より成る立法委員会(デケムヴィリー)が作られ、アッピウス・クラウディウスを長として、十二表法を編纂した。これがローマ法の基礎となった。時に前四五一年、ローマ建国以来約三百年。
だが、事は円滑に運ばなかった。元老院は十人委員会に全権を与えたのだが、この権力の座はまことに心地よかったので、一年間の任期が切れたのちも、解散しようとしなかった。歴史家の語るところ、悪の張本はアッピクス・クラウディウスである。この委員長はヴィルギニアという平民の美女に惚れ込み、権力を利用して彼女を奴隷に落し、言うことをきかせようとした。娘の父ルキウス・ヴィルギニウスは抗議したが、アッピクスは取り合わない。憤激した父は、こんな男の言うなりにさせるくらいならと、娘を剣で刺し殺し、その足で軍営に駆けつけ、事の顛末を訴え、専制者を倒せと煽動する。平民は憤って再び聖山への総引揚げを敢行、軍も大いに動揺した。そこで元老院は緊急会議を開き、十人委員会の解散を、おそらく内心ほくそ笑みながら、決定した。アッピウス・クラウディウスは追放され、権力は執政官(コンスル)に返還された。
こうしてローマの民主主義は巨大な前進を見た。SPQRのPは、現代の「人民」に大きく近づいたのである。

* このように人は闘い、闘いとってきた、西紀はるか以前から。
闘いとったものを、もっと大切にしようではないか。
ローマ帝国になると鬱陶しいが、「それ以前」のローマ、「帝国以前」のローマに心惹かれてモンタネッリの本にいきなり手を出した。昨日此処を読んで、わたしは嬉しかった。
2008 12・6 87

* あれこれしている内、十時半を過ぎている。疲れて目が霞んできた。夕食の頃、胸が痛んで気味が悪かった。姿勢のせいか。
もうやすもうと思う。やすむと言っても床に坐って、裸眼で本を読む。『復活』ではカチューシャに赦免が成り、しかし彼女を愛して結婚を望む優れた個性の徒刑囚がいて、ネフリュードフは微妙に心揺れている。
トルストイを読んでいると直哉を感じている、わたしは。直哉を読んでいてもトルストイを感じている、同様に。どういうところをと反問されたとき、わたしは真っ先に二人の風景や細部の描写のクリアに美しい一点を挙げることも出来る。
直哉は遠いものもクリアに書ける強い視力を持ち、印象深くクリアに描き込んで行くが、トルストイもそういう技倆に天才的に優れていて、美しいのである、目に見える景色や状況が生き生きと。
2008 12・7 87

* 宮嶋資夫という小説家の「第四階級の文學」という激烈な論文を読みながら、記念碑的な彼・宮嶋の小説『坑夫』を思い出していた。石川達三の『蒼氓』とか、前田川廣一郎の『三等船客』とか、ズッシーンと来る小説を思いだしていた。
志賀直哉の文学が好きだが、ことに今度読み返して、『和解』『或る男、其姉の死』には感嘆したなあ。あの時代の各派の作家達が挙げて直哉を尊敬した事実に納得する。
文学が音楽である意味にしかと突き当たる。
2008 12・8 87

* 散髪。

* 夜前、『復活』上下巻を読み終えた。少しも急がず、丹念に読んだ。この作をトルストイの本意を汲むことなく賢しらに甘い物語かのように読む人は、恥じねばならない。
もし太平洋戦争の最中ないし以前の昭和期に、天皇制の軍事国家を克明に冷静に非難し批判し続けて真っ向ゆるがぬ小説を書く人が存在し得たろうか。一日として生存できたろうか。
それに等しいことをトルストイは、ロシアという過酷な風土と体制の中で敢然として書いた。しかもプロパガンダのためにガチガチ観念的に主義し主張したのではない、ときに抒情的に美しい筆の冴えをみごとに鏤め、自然の匂いや人情の香りを点綴しつつ、裁判・監獄・徒刑・流刑、その被告達や囚徒達や国事犯達また貴族や高官や典獄たち、農民、農奴、管理人達を多彩に駆使して、盛り上げるような筆力で的確に書き切っている。
なんとものの見える分かる感じられる作家だろうと、ほとほと感嘆。中村白葉の日本語訳もよかった
2008 12・9 87

* いま、「悠」さんに纏めてもらった、今年一月半ばからの「mixi」日記を、一日のこらず全部読み返している。間違いがないかと読み返すこういう作業はややシンドイものだが、この人の育児日記は、読み返しているそれ自体が不思議に嬉しくて、つい他の仕事がとまってしまうほど。やっと「三月」に入ったところ。
読んでいて感心するのは、このお母さんの表現の簡潔で要を得ているところ。そのために一種懐かしい音楽の聞こえてくる文章になっていること。むだにぞろぞろ書いていない。物書きの鑑のよう。このお母さんがとても忙しい理系の研究者であること、そして人柄の行き届いて優しいことがかかわっていると思う。一番に感じるのは清潔な文体から来る気稟の清質。ラコニックにちかいのである。

* 志賀直哉の文体を特徴づけて、「ラコニック」という。ラコニア即ちスパルタの別名に拠っている。いわゆるスパルタ教育の厳しさと直哉とに関係はないが、その文章の削ぎ落とすべきは徹して削ぎ落とした、文飾のない簡素・簡朴の極みのような表現を「ラコニック」と評するのである。バッハの無伴奏曲のような印象か。無類の音楽美。
これを悟ることが、文学に志す者の、第一のとは言うまいむしろ究極の門であろう。そして不思議にも対蹠の感をもちやすい谷崎文学の流暢な音楽も、漱石文学中期以降の簡潔な音楽も、それぞれにラコニックの空気を擁している。優れた文章はみなそうなのである。
2008 12・10 87

* 夜前ひととおり沢山読んだあと、すこし寝そびれたのと温かい夜だったので、頂戴して間もない秋山駿さんの『忠臣蔵』を討ち入り前にと読み始め、全一冊一気に読んでしまった。忠臣蔵というか、あの劇的事件の「論」で、秋山節にも溢れていて、するすると読んでいって読み終えていた。
沢山の引用がある、それに躓く人には読みづらいかも知れぬが、苦にならない者には引用と地の文とがメリハリになって、はずみがついた。
綱吉という将軍、吉保という側近政治家、元禄という時代、そして大石内蔵助の一身を貫いた劇的な判断と行為。
それらを、絵空事にも逃げ足をすこし掛けたまま、大胆に推測や想像や論証へ持って行き、キーワードに「思想」という一語を煮詰めながら、秋山さんの戦中・戦後体験と思想とを吐露している。
2008 12・11 87

* NHKテレビが『少将滋幹の母』をドラマにしていたが、観ないで入浴し、『ローマの歴史』のカルタゴやハンニバルに読み耽った、なぜかこっちのほうがずっと面白いと思った。
2008 12・13 87

* ローマは、ついにギリシアへの遠慮というか敬意というか劣等感のようなものを捨て去って、ギリシア・マケドニアを統合し一属州にしてしまった。一つにはギリシアの文化ボケも手伝って、落ちるところへ落ちたのであるが。
カルタゴがついに完膚無きまで潰され、やはり属州になり「アフリカ」になってしまったが、名称ハンニバルやスピキオに象徴される数次のポエニ戦役の歴史的な面白さに、息を呑んだ。ローマはようやくイタリア全土をほぼ統率した。文庫本の粗末なちいさい地中海地図を見い見い読んで行く『ローマの歴史』である。
これに時期的にちょうど重なってもいた、いま旧約の「エレミア紀」では、預言者エレミアに受難の時がきて、泥の牢に落とされたり辛うじて救われたりしている。ローマの歴史ではフェニキアとの角逐もあるが、旧約でイスラエルの民を脅かし支配しているのはバビロン。

* 書庫にあった押村襄著書の中の「ルソーの研究」を読み始めた。著者は娘婿の父君。結婚の直前に亡くなった。白金台の寺墓地に、孫・やす香と同じお墓に名をならべている。専攻の学者の「研究」とあるのを信じ、せっかく読んできた『告白』『エミール』への理解に良き基盤を得たい。
2008 12・15 87

* こんなにおもしろい本にまだ出逢えるんだと、ほくほくしながら、モンタネッリの『ローマの歴史』を「カトー」まで読んだ。何世紀にも及ぶ歴史であり、諸民族角逐の激動史でもあって、元老院にも執政官にも将軍にも敵対する諸国にも無数の「人」が登場する。ことにローマでは、姓の数が甚だ少ないので同姓同名も平気の平左で現れるから、その愉快にふりまわされるこっちの混乱ぶりまでが面白い。
ローマ「帝国」になるとウンザリだが、少なくも西暦以前のいわば初原ローマは、活気があり面白いなあと、以前、浩瀚な『世界の歴史』に組み付いたときから思っていた。「ローマ」の歴史を、いい本で、もいちど読んでみたかった渇きが、いま、癒されている。
一つには映画好きなわたし。この手のものは「駄作でも観ておく」と決めてきた西洋史映画で、記憶の中に、相当量の「ローマ」種の歴史映画が溜まっている。いいのもグズなのもまじるが、モンタネッリを絵巻を繙くように読んでいると、スクリーンで観ていた情景や人物が甦って、時に心地よく符合してくれる。シェイクスピアの史劇にも、ハタと向き合える。

* バグワン流にいえば「歴史は過去のもの」で、実存の秘密には触れないのだが、嗜好にひっかけて謂うなら、「歴史」は酌めど尽きない美酒にひとしく、どんなに人類の愚と不幸とをあらわした歴史からも、譬えようのない刺戟の美味が酌める。
いやいや、歴史に、愚と不幸いがいのどんな聡明や幸福が酌めるというのか、それはたいがい錯覚であり、人類はせっかく手にした聡明や幸福もあっというまに永い永い暗い愚と不幸の手に手渡して、平気でのたうって苦しんできた。それが分かる。歴史が聡明と幸福の連続であったりしたら、歴史を読もうという気はたぶん起きないだろう。

* やはり今愛読している『千載和歌集』の、丁度三部ある「雑」巻のなかの「雑中」といわれる一巻を読んでいて、俊成の編纂意図の痛切さに愕かされている。古今和歌集からわたしはいきなり千載集にきたので、先立つ勅撰の五集を編纂意図から意識した覚えがないし、紀貫之等の古今集の雑の編輯に特別胸にギクリという覚えはもたなかった。
だが藤原俊成は凄いほどの意図をもって、「雑上」には藤原道長時代を中心に、晴れやかな王朝の栄華と平和と満足の歌を列挙し、対比的に「雑中」には俊成時代の「現代」の生の懊悩や絶望や不安の歌を押し並べている。勅撰の主人公である後白河院への非難や批判を意味してはいず、むしろ、この王者の政治により、源平闘諍にあらわな現代の苦境が除かれるであろうという「期待と称賛」の気持ちこそをむしろ表しているようなのである。そこには後白河院との紛れない申し合わせである崇徳院鎮魂の気持ちが前提になっている。
こんな編纂意図が隠されていたとはわたしは迂闊に分からなかった。順に従った「通読」という読み方でないとこれは分かりにくい。

* 今昔物語のおもしろさは云うまでもないが、きのうは書写山の性空聖人の語(こと)をおもしろく読んだ。その前日には、多武峰の増賀聖の語をおもしろく読んだ。
2008 12・17 87

* かのカエサルの暗殺まで、そしてアントニウスとクレオパトラの結婚まで、一気に読んでいった。カエサル(シーザー)のことは、アレクサンダーやナポレオンとならべて概念的な知識は持っていたけれど、またシェイクスピア劇からも幾つかの映画からも識っていたけれど、モンタネッリの要領のいい歯切れのいい (これは翻訳者の日本語にも、感謝。)叙述にぐいぐい惹かれて、はなはだ「人間的に」おもしろかった。よほどの英雄であったことはよく分かる。

* そんなことにも感じ入りながら、千載集で「丹波康頼」の、ようやく流刑地の喜界が島を離れて都に戻り、近江にまでお礼参りに出かけている歌を読んだりすると、まざまざとそこに「渦中の人物」の気息もうかがえ、平家物語で読み知る康頼とはもっとなまなましい「存在を実感」できたりする。次の正月、歌舞伎座でまた幸四郎が俊寛を演じるが、千載集で読んだ康頼の歌一首ゆえに、よほど印象深く舞台に真向かうことであろうなと感じたし、今も感じている。康頼は播磨屋の歌六がやる。

* 押村襄著のなかの「ルソーの研究」もしっかり読み進んでいる。断っておくがわたしは、ルソーに関するごく一般的で歴史的な概念のほかには、『告白』をかなり熟読したし、『エミール』もゆっくり分け入るようによみすすめているものの、それだけで、他の著述は知らない。
彼は小説も戯曲も書いているし、もっと社会的な思想的な論著もある。さしあたって今それらに手を広げて読む余裕はないが、大部の『告白』から受けた、ある種異様な彼の人間性に関して、論者がどんな意見を述べているかを学んでみたい。いまのところ、モノはいいようだなあと云う、ややわが田に水をひいている印象も否めないが、そういう第一印象にあまり足をとられまいと思う。

* 神明寺の、効験あらたかな持経者を語る今昔物語の一語もおもしろかった。この勢いでゆくと、今昔物語は面白くて面白くて堪らん方へ引っ張って行かれそうだ、ありがたい
2008 12・18 87

* 好天。それだけで心地よい。

* 亡き小田実の想いは、遺志は、生かされて行くのだろうか。彼がこの百年に一度といわれる世界的金融恐慌と、それに揺さぶられた多くの苦しむ人たちを見たなら、病躯に鞭打ち、どのように働いただろうか。
口惜しいがわたしには躰を働かせて彼の後を追う元気がすでに無い、が、せめても彼のわたしへ直接の遺志をうけて書いたり紹介したりは出来る限りしたいと願う。
託されていた小説『玉砕』を読み返しながら、同時に菊村到の『硫黄島』や結城昌治の『軍旗はためく下に』などがまざまざと胸に蘇る。若い読者達にどうか読んでもらいたいと思う。
2008 12・20 87

* いま蜻蛉日記を読んでいるが、日常の述懐にも、それどころか対話・会話のあいだにも頻繁に、呼吸するのと変わりなく「和歌」が出る。男でも女でも、詩的な言葉のあたりまえのような斡旋力におどろかされる。俗談平語がよほど洗練されていないと、そこから瞬時の飛沫かのように和歌がああも適切に生まれうるワケがない。貴族達の日常言語がどんなであったか、奥ゆかしい。
口ぎたないのは、二十一世紀当節の恥ずかしいありのままだが、テレビジョンと、タレントと他称される人たちとの我が物顔が、日本語をひどく汚くしているのは間違いない。年末年始、高い電波代を濫費し、なに厭う顔もなく各局ともに鉦と太鼓で埒もないタレントたちを好き放題遊ばせ騒がせて「見せ物」にするのが決まりのようだ。正直、苦々しい。「藝」への敬意は心底深いけれど、藝無し猿の程を知らぬ放埒を「時世粧」かのように容認する気はわたしには無い。テレビ局番組関係者達の低俗度がそのまま氾濫しているに過ぎない。
この時節、電波に掛かる費用をもっと節約すべきではないのか。
2008 12・23 87

* 二棟の家の大半が蔵書で傾いている。隣棟の書庫から昨日、とうどうロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を枕元へ持ち出してきた。超大作で、うーんと早く、まだ京都時代に手に入れていたのに、どうしても読めなかった。字が小さく二段組み。それにどうもロマン・ロランが喰わず嫌い。勿体ないと想いながらホコリをかぶらせ続けてきた。
同じ姿の本で『オデュッセイ』も『ファウスト』も『魔の山』も『カラマーゾフの兄弟』も読んだのに、『ジャン・クリストフ』には手が着かなかった。
どうやら今度は読んで行けそう。楽しみにしている。

* 押村襄著の「ルソーの研究」は、いま、あの『告白録』三巻を主に下敷きに、伝記的な記述が続いている。『告白録』を読んだ経験のなぞりが利いて、ルソー生涯の再認識にこれは助けられている。

* 蜻蛉日記も今昔物語も、エレミヤ記も、日々、興味深い。
2008 12・25 87

* モンタネッリの『ローマの歴史』読了。最終盤はかなり早足で、早足自体、ローマ終焉の収拾不能な大混乱が象徴的に伝えられてある心地。

* 「社会階層凍結政策」がローマ「終焉」を加速させた。
日本風に翻訳すれば「身分」の固定だ。農民を土地と地主に縛り付けて農奴化し、職人を世襲の絆に繋いだ。富裕層として登録されれたものは、どんなに貧乏になっても高額の税金を払いつつづけねばならない。払えないと刑務所行き。
身分の凍結とは、言い替えればむざんな国家「解体」傾向への必死の「固定」化だった。断末魔のあかきだった。
「各人が自己の運命の決定者たることを確認し、法の前での万人の平等を保証し、(皇帝たちの時代ですら=)市民は、ただ臣民であるだけでなく主権者でもあると見なしていたローマ法の精神は、ここで死んだ。」
「上から見おろしてもっともらしい理屈をつければ、ローマは使命を帯びて生まれ、それを果し、それとともに死んだと言える。その使命とは、ギリシア、オリエント、エジプト、カルタゴなど先行諸文明をまとめあげ、ヨーロッパと地中海全域に普及し、根をおろさせることである。哲学でも藝術でも学問でも、ローマの創造したものは少ない。だがその普及の道を開き、その防衛軍を提供し、その秩序正しい発展を保証する厖大な法律体系を用意し、その普遍化世界化のための言語を完成したのは、まさしくローマだった。
政治形態についても、ローマは何も創始しなかった。君主制と共和制、貴族政と民主政、自由主義と専制、これらはすでにみなよそで実験されていた。
だがローマはそのすべての模範を生み出し、どの政治形態においても、実践と組織の天才を発揮して、みごとな成果をあげた。コソスタソティヌスは行政機構をコソスタソティノポリスに移すが、このローマ的機構はその地でなお千年にわたって生き続けるのである。
キリスト教すら、世界に覇を唱えるためには、ローマ化しなければならなかった。沙漠を通る細々とした道でなく、アッピア、カッシア、アウレリア等、ローマの技師によって造られた堂々たる街道を通ってはじめて、イエスの教えが地上を征服するのであると、ペテロはよく承知していた。」

* 刺激的にも本質的にも堪らなく面白かった。
日本が、うえに謂う古典的な「ローマ法の精神」を学ばず、学び得ずに、近代の寸の短い支配主義思想に学んで「主権在民」に程遠い政体をいまなお一部の利益者が飢えたように追い求めて執拗であること。
現代日本の不幸の根は、じつに深く日本人の体質に食い込んでいる。

* 次は、これも戴いていながら読めてなかった、辻邦生さんの超長編作『背教者ユリアヌス』、ローマの皇帝の一人に、取り組むことにしようか。

* ずうっと以前に、伊賀の名張在住の読者(「雀」さんではない。)に頂戴していた、一冊の花袋作小説本。『名張少女』とは、あの根はロマンチックな田山花袋らしい題だが、彼の学んだモーパッサン短編の翻案小説でもあるのだった。
そのやや長めの作を、夜中、一気に読んだ。モーパッサン原作の題は、「ゆるし」。花袋は、苛烈なモーパッサンにはむしろ稀有な、その思想に共鳴したのであろうが、一つにはよほど「名張」の地が好きであったらしい。
わたしは前に、此処で、或る明治本の巻末の書肆広告の中に、花袋の、旅行・紀行のあるのを興がって話題にしたが、花袋は真実旅行好きで精到隈なきばかりであったらしい。ことに伊賀という国、中でも名張を愛したらしい。
わたしは名張に有り難い読者をもっているのだが、あのあたり、全く知らない。この『名張少女』すこし長いが、しかも篤志の人の復刻された昭和四年本の原本に傷みもかなりあるが、能う限り「e-文藝館=湖(umi)」に再現してみたいと思う。
2008 12・27 87

* バグワンに、もう今更いわれなくても、おのが「マインド」と謂う「分別・思考」のしつこい愚かさは、少なくも知解している。
マインドは徹して自身の「合理性」を言い張り続ける、自分は合理的なんだと。人間とは合理的な動物なんだと。
だが、フロイトを魁として二十世紀は、人間が全然合理的でないことを発見した世紀だった、人間は合理的ではない、合理化「する」動物であるに過ぎないと。
合理化の理由は好き勝手に見付けられる、人間はマインドがむりやりにもたらすその理由付け条件付けをひたすら信用し濫用して、自身のまわりにすべて虚構の見かけをでっち上げ続けている。
それを見抜くのはそう難しくない。
じつに難しいのは、そのマインドから聡明に、バランスよく身を退くこと。マインドを否定して人間は生活できないことは知っていていい。バグワンは、「距離をおきなさい」と言う。ハートを。もっとハートを。

☆ バグワンに聴く。

ものごとを論理的な観点からだけ見ないこと。あまり論理的になりすぎないこと。ときには、非論理的になる必要もある。そうして初めてバランスが保たれる。合理的で、非合理的でもありなさい。おまえはその両方なのだから……。
もしマインドが、ものごとを見るおまえの唯一の方法になったりしたら、そのときには光が強すぎる。破壊的だ。そのマインドの閃光は、おまえがものごとをありのままに見るのを許してくれないだろう。ちょうど、太陽を見て、それからほかのものに目を移すと、すべて
が暗く見えるようなものだ。明暗が狂ってしまう。

〝その混乱を鎮める……〟 老子

マインドの中は絶えざる混乱状態にある。渾沌だ。休む間がない。嵐がいつまでもいつまでも続いてゆく。それを鎮めなさい。さもなければ、それはおまえに、生のより柔らかな音楽に耳を傾けることを許してくれないだろう。それはおまえに、生のデリケートを見るのを許してくれない。感じることを許してくれない。
いかにして、その内なる混乱を鎮めるのか? どうしたらいいのか?
ひとつ……もし自身の内側を観てそこに動揺を感じたら、ただ「川岸」に坐り込めばいい。その中に飛ひ込まないこと。川は流れている。おまえは岸に坐って、川に流れさせなさい。何もしないこと。しないことによってものごとをやる術(アート)を学びなさい。
ただ坐って、見守る。それは本当に大変な秘密だ。もしおまえに、マインドの混乱を見守っていることができれば、それはだんだんとひとりでに落ち着いてゆく。それはちょうど、おまえが家の中にはいってくると埃が舞い上がり、おまえが坐るとまたその埃がおさまるのに似ている。もしそれをおさめようとしはじめたりしたら、おまえはなおさらそれをかき立てるばかりだ。
だから、飛び込んで、混乱を鎮めようとしないこと。そんなことをしようとするのは誰だろう? それに、おまえはどうやってそんなことをするつもりかね? おまえはそれのもっと深い層をかき乱すだけだろう。
何もしなくていい、ただ坐ってごらん。そして、その坐ることが瞑想なのだ。
日本では、瞑想のことを「坐禅」と言う。坐禅とはまさに坐ると意味だ。そして何もしない……。

* わたしが、いままで、いまも、来年も、余儀なく立ち向かわねば済まぬ不条理を押しつけられていることは、言うまい。押しつけられたものから距離をおくことは生易しくない。しかし、わたしはじっとバグワンに聴いている。
2008 12・27 87

* 千載和歌集を一度読み終えた。気に入りの「秀歌」をえらびながら、もう一度読もうと思う。

* 夜前、バグワンを読みながら、むせんでしまった。所詮「間に合わない」のではないかと悲しくなったのである。

* 西洋人はたぶん体力にもよほどわれわれと差があって丈夫なのだろうが、作家の長編にも、観念や論説や述懐を厭うことなく、縷々書き込んでいる。わたしなら書けないか省いてしまうだろう叙述が、お構いなく延々続いたりする。
ロマン・ロランにいつも入りきれなかったのは開頭部での細密な陳述。ドストエフスキーの『悪霊』でも『カラマーゾフの兄弟』でもそういうことで、かなり入ってゆきにくく手こずった。
その点、トルストイの『アンナカレーニナ』など、いきなり書かれる世界の真ん中へ引っ張り込まれる。トルストイは観念も陳述も厭わない作家であるけれど、読者を作世界へ引っ込む具体のつよさ、図抜けている。
いま『ジャン・クリストフ』に組み付いている。はやく物語の「波」に乗りたいと、初心の読者なみに気がせいている。あの『嵐が丘』ほどの作にも、少年時代二、三回ははねかえされていた。つまり気が乗らなかった。信じられない。
2008 12・28 87

* 戴いていた庄司肇さんの文庫本『夢の女』の巻頭の二作を、昨夜、いつもの読書をみな終えてから読み足し、感銘を受けた。わたしより一回りほど年配の、何といおうか在野多年の書き手で、りっぱな全集もある人。眼科であったか、お医者さんでもあった人。
そのインターン時の体験を書いた情合いの作も、老母の苦しい病躯の最期を看取った作も、ともに往年の恋慕にふれたもので、抑制が利いたというか節度のたしかな行文。
ご縁で、もう久しくわたしからは湖の本を送り、庄司さんの作も頂戴し続けてきた。リクツには成らないが、戦友めく親愛感をわたしからはもっていて、しかしお目に掛かったことがない。逢っておきたいと想っているお一人である。妙な云い方だが自在に達筆の作家である、庄司さんは。

* 久しぶりに辻邦生さんの筆致にも出逢い直している、一冊本二段組み細字の『背教者ユリアヌス』を書庫から持ち出した。『ジャン・クリストフ』とならんで、さ、いつ読み上げるだろう。
『今昔物語』も行方遙かな長い旅であり、『旧約聖書』もまだまだ先があってその先に『新約聖書』全巻が待っている。苦には少しもしていない。
与謝野晶子の訳している『蜻蛉日記』も(底本の問題もあるのだろう、部分的に誤訳もまじるようだが、取り敢えず気に掛けず)に読んでいる。地の文もさりながら、わたしには翻訳されていない「和歌」の数々が面白い。

* 押村襄の「ルソーの研究」は、もっぱら伝記的紹介がつづいていて、有り難い。『告白』に告白された彼の言辞・言説を超えた深みからも、彼の思想の性格が吟味され批評されねばならない、そのためにもルソーの別著作の紹介されてあるのが有り難い。
2008 12・30 87

上部へスクロール