* あと五分でお正午よと起こされた。ハハハ。
『ジャン・クリストフ』『背教者ユリアヌス』『ローマの歴史』『エレミヤ記』『ルソーの研究』『今昔物語』『千載和歌集』『バグワンの老子』『蜻蛉日記』『現象学派の美学』そして小沢昭一さんの『昭和の歌』を読み、湖の本の校正もしてから寝た。三時頃か。
夢も見ていたが、さほども悩まず。
下保谷のすまいは静かなのがなによりご馳走で。
妻と二人、雑煮を祝い、「萬歳楽」の酒を酌み交わし、たくさん戴いた年賀状を読んでから、近くの天神社へ初詣。すばらしい晴朗の空、天光正に春。
2009 1・1 88
* 朝、親子三人で雑煮を祝う。『マウドガリヤーヤナの旅』の前半を読む。
2009 1・2 88
* ジリジリと『ジャン・クリストフ』も『背教者ユリアヌス』も世界がほぐれ広がって行くだろうと楽しみが身に迫り来るのを感じる。
「感じる」こと。実感せずに、どんなリクツを云うてみても軽薄に空しい。
2009 1・3 88
* いま「mixi」の、「湖」のホームを開くと、さっと栖鳳の名画が目に飛び込む。わずか三センチ四方のちっちゃい写真だが、なんというすばらしさか。それだけで、幸せになる。幸せとはこういうことでもある。日本をわたくしが切に愛するとき、わたくしをそうさせながら支えてくれるのは、無数にある日本の美と創作のみごとさ。政治でも金でも権力でもない。
竹内栖鳳にこの「斑猫」の繪があり、村上華岳に「牡丹」の繪があり、『源氏物語』や『徒然草』や和泉式部や西行の歌があり、芭蕉や蕪村の句がある以上、光悦や宗達や仁清があり、法隆寺や薬師寺や東寺や金閣や鳳凰堂や待庵があり、藤村や漱石や潤一郎の小説がある以上、また能や歌舞伎があるかぎり、少なくも日本は心から敬愛するに足る。そこから元気を得て、われわれは麻生太郎のような権力の亡者を倒さねばならぬ。巷に喘ぐわれわれの仲間たちに一刻も早く手をさしのべうる政治の体制へ踏み込まねばならぬ。
2009 1・6 88
* 東大教授の竹内さん、かつて秦文学研究会を永く主宰して下さった人のメールに答えて。
* 拝復
わたくしは、この十数年来、バグワン・シュリ・ラジニーシに聴いています。いま、わたくしは、余生乏しくなった今、ほとんど「論じる」という営為の限界を遠のきたいと呻いています。
ただ待っています。間に合うかしらんと思いながら。「静かなこころ」を。
「悲」という文字を 「悲しむ」という言葉を 今昔物語は示唆豊かに用いていますね。わたしは毎晩欠かさずいま今昔物語を聴いています。
今一つ、ジャン・ジャック・ルソーに躓き続けています。この人の言葉は、徹底してマインドで組み立てられながら、ハートの言葉であると僭称しているのでしょうか。理論家として周到で卓越していますが、偽善者のことばのように響くイヤな印象も。いま、いちばんひっかかっている好かないが気になる思想家です。
旧約聖書をごく初期の文語文日本語訳で、エレミヤ記まで読み進んでいます。分からない。アラビアンナイトを全巻読み終えたときの方が晴れやかなよろこびに満たされました。
とかくすると「歴史」を読み、学ぼうとしてしまう根底の姿勢に、ときどき途方に暮れます。モンタネッリの「ローマの歴史」を面白く二度目読んでいます。この三年に世界と日本の通史を、そして関連の史書を何万頁も楽しみました。しかし、これはこころを騒がせる役しかしません。
それでも、いま現代がほんとうに歴史的に必要なのは、「中世を再び」の思いと、実践かと。
万葉集を全部、古今集を全部 音読し、いま千載和歌集を二度目読み続けて、秀歌を選んでいます。これは心静まります。
とりとめないことを申しました。 草々
* 年初から楽しんできた小沢昭一さんの『小沢昭一的昭和の歌昭和のこころ』を、夜前深夜に読み終えた。気軽にとりあげた本であったのに、巻末の「美空ひばり」から読み始めて嬉しくなり、巻頭の「藤山一郎」から順に始め、すべて読み通して何度かほろりと泣き、ツンと泣いた。「灰田勝彦」「ディックみね」「勝太郎」「みち奴」「霧島昇」「杉狂児」などなど、小沢さんの歌い出す沢山の歌声にわたしも覚えがある。自分で歌える歌もたくさんある。なつかしのメロディを喜ぶのではないのだ、だが。「昭和」という時代をただ懐かしむのでもないのだ。そこで生きた人間が、自分たちも含めて、省られて胸をつかれ剔られる。
* きのう頂いた中川肇さんの詩句集「或る」も、よろしく。母上百歳、そして父上を偲んで。至純の詩情か。
この中川さんも、ペンを退会しましたと。新聞三社で新聞小説『冬祭り』連載を担当して下さったり、湖の本の創刊に力をかして下さった高畠二郎さんも、ペンを退会しましたと、年賀状に。ペンクラブが、この現実の日本にいわば嚢中の針のように実在しきれていないのだろう。文学がとめどなく通俗化していくように、ペンの精神も通俗に摩滅しかけているのか。
2009 1・6 88
* 書庫から法華経三巻の上を持ち出した。毎晩今昔物語で法華経読誦のありがたい懿徳を読んでいるので、久々にまた読み直してみたくなった。引っ張り込まれるほどであれば、いい。
2009 1・7 88
* 夜前も、読むと決めているものは、みな読んだ。
『ジャン・クリストフ』と『背教者ユリアヌス』が、じわーっと、ものの浮かんでくる感じに面白くなりつつある。前者は翻訳、後者は辻邦生さんの原作だが、よく似た文章として読めるのは、一つには翻訳がこなれた日本語になっていて、原作の方は翻訳日本語に近い、のかも知れない。
昔から、文章は、飯を炊いて餅のようにねちこち練ってしまっては、折角ツブツブの米飯の風味が台無しになるという思いでいた。処女作の頃、そうなるのに我ながらイヤ気がさした。それで、小説書きをしばらく停滞させても、シナリオ研究所に半年通学し、「台詞」を書いた。台詞で風を遠そうと試みた。
辻さんの文学は好きで、『夏の砦』『回廊にて』など感嘆した。ただし、いくらかご飯を餅に練ったのを食べるような文章だなあとも感じていた。久しぶりに思いだして、それが辻さんの作風だと懐かしんでいる。
一緒に三週間近く四人組追放直後の北京や大同、杭州、紹興、蘇州、上海を経巡った昔の旅をも懐かしむ。井上靖夫妻も、秘書長だった白土吾夫さん、巌谷大四さん、清岡卓行さん、辻邦生さんら同行の大方が亡くなってしまった。
* いま、予期していた以上にその個性味に惹かれているのが『蜻蛉日記』で、得も言われず筆者のバシバシとした気合いに魅されている。夫を、来る日も来る夜も待って待って泣きわびている、拗ねている、憤怒している妻女の日記なのに、気概はリュウとして毅然たる勢い。そんな女を他の王朝物語に見つけ出すのは難しい。女日記文学には優れた何編もが鎌倉時代まで、後々にも、在るには在るけれど、この、百人一首でいえば「右大将道綱の母」のような呵責なくつよい気息を噴き上げて憚りない女人には、なかなかに出会えない。『とはずがたり』の後深草院二条ぐらいか。
わたしは、いま、古典として遺された、蜻蛉からとはずがたりまでの女日記のもつ「私小説」性を、大胆に総論し各論できる筆者の登場に期待しているのだが。
むかしなら、わたしが書くのだが。
* 文学の「私」問題では、対蹠的に「没・私」の位置にありそうな村上龍の『かぎりなく透明に近いブルー』を、初めて手にしている。読みづらい。
* 「法華経」を、原典からの翻訳、漢語訳からの翻訳、そして漢語訳そのものの逐字読み、この三種類を並行して読み始めている。煩雑だけれど、この方が徹して読める。そのほかに詳細な註にも親しんでいる。
大乗経としては初期に属する、戦闘的でもある法華経であるが、心澄ましてつとめて無心に、楽しむほどにこの世界にとびこんでみたい。背景に『今昔物語』の多くの持経者や聖人たちの「ありがたい」往生のさまなどを見つめながら。
* いま、成心なく惹かれて押村襄の「案内」に身を預けているのは、ジャン・ジャック・ルソーの、概説。
此奴、ナニモノぞ。
ワケ分からず反感も深いが、共感と感嘆もとても大きい。イヤなやつだが、とほうもなく能力あるオモシロイ人間だ。
* わたしが、なお他にも大きな内容の何冊にも毎夜目を向けている、こういう読書を、むちゃだと思う人もあるだろう。だが、これぐらいそれぞれの世界の意想や位相を異にしたものを、等距離に、苦にせず読んでいることで得られている「世界」の相対化は、まこと有り難いのである。これ有るが故に、わたしは臆することなく現代にも昔にも、誰にも彼にも、あまり偏しないでものがいえるし、ものが見えてくる。
2009 1・9 88
* 耳のうしろがヒリヒリ痛む。眼鏡の蔓がふれるだけで、マスクの紐がふれるだけで、ときどきウッと呻くほど痛い。
寝床に逃げ込み、眼鏡なしの裸眼で読書し、寝よう。
おそらく、後数日で発送の用意はひとまず終え、本が出来てくるまでに暫時の余裕が生まれよう。じつは、珍しく依頼原稿を引き受けてしまった。したい仕事も気楽にはさせてくれぬ。そして愉快でないべつごとのプレッシャーはいつも有る。「生き苦しい」といえばその通りであるが、ま、「息」はしている。
2009 1・12 88
* 輪を描いて、高い空を翔んで啼く、鳶。枯れ木の寒鴉は動かないと云うより、動けない。京都からちいさな旅の用事もお断りした。じっとしているのが心地よくなっているのは、つまり怠けているのか、不活溌なのか。
妻は鉢植えの大きなベンジャミンをいとおしみ、毎年、寒い冬は屋内に避寒させる。それでも葉は日々に畳に落ちて行く。妻は歎くが、そうして長生きするんだよとわたしは眺めている。落ち葉しつくすことは無い。毎年また温かくなると戸外で新しい葉を茂らせてきたではないか。
寒い真冬、わたしは、まだ幼いジャン・クリストフや幼いユリアヌスと暮らしている。美しく、才能に恵まれた、しかしひたすら通って来ぬ夫兼家を待ち暮らしている中年の女の歎きを聴いている。怒り狂うように教えをまもらないイスラエル・ユダの民を叱り続けるヤハウェの声を聴いている。ひたむきに生涯法華経を誦して誦して奇瑞にまもられ往生して行く行者や持経者や僧たちの声を聴いている。
人は、「自然人」であり続けられるのだろうか。そう思いながらルソーの説く「徳」の意味を想っている。
千載集を選していたあの俊成という定家の父の胸に、十二世紀の自然と人事はどんな声音で日々迫っていたのだろう。
ああこの法華経の一種独特の激越な口調は人間のための何処を衝いているのだろう。
寒いけれど。いいではないか。
2009 1・13 88
* 寒さと風邪とをおそれ、家に居竦んでいる。活気がない。この二三日、猪瀬直樹にもらった文庫本『こころの王国』で菊池寛に触れている。女の語り物にヘキエキしていたが、馴染んでしまえば猪瀬氏、のびのび書いている。俗な読み物に堕することなく、ときどきおっと目を見はる、さりげなくてシャープな佳い表現が働いている。佳い表現が二つあると、少々の平凡の七つほどが救われる。
2009 1・18 88
* 夜前『今昔物語』で興味ある一「語」に出会った。やはり法華経の行者の説話ではあるが、寺院の縁起譚でもあり、時の朝廷もかかわり、法華経に深く帰依している龍もあらわれる。頭の中に置いて醗酵させてみたい。
法華経は岩波文庫三巻の大冊を丁寧に、一部は音読している。
この本はサンスクリット原典からの可及的忠実な現代日本語訳を左頁に一貫させながら、対訳のていで、漢訳法華経原文とその読み下し文とを見ひらき右頁の上下にきちんと置いている。わたしは、経典の漢訳文を声に出し白文読み・経典読みしつつ、下段の訓読文を参照し、むろんサンスクリットからの訳を通読している。急ぐ旅ではない、静かに読み進んで、序品はもう通ってきた。
いまのわたしは、法華経の壮大な世界観に簡単に与してはいないし、根の覚悟は、バグワンに聴いて帰依している。つまり「禅」にちかいものを見ている。しかし、大乗経典の中でもことに戦闘的な法華経が成ってきたあらましに素直に聴いて見ようという気はある。
* 旧約の『エレミア記』をついてに通過した。こういう紀元前数世紀の旧約の預言書と、いまのイスラエルのガザに対する不埒な攻撃行為とをどうかかわらせて読めばいいのかと戸惑う。熾烈な砲撃合戦は中休みされていて、案の定、ペンの今更の声明は、やや「十日の菊」のきらいがある。外野にいても理事会の反応が鈍いと思われた。
* 猪瀬直樹『こころのま王国』は、風変わりな物語趣向の菊池寛論である骨組み、つまりコンポジションが、半ばからすけすけに露骨に見て取れ始め、ややシラケながらもそれならそれなりにこの著者得意の下調べや取材がいかされていて、面白く、つい夜更かしが過ぎた。
* ロマン・ロランの巨大さにゆっくり吸引されて行く嬉しさを夜ごと予感している。
* 押村襄著の「ルソー研究」を本を真っ赤にするほど赤ペン片手に耽読している。わたしに『エミール』を読めと豪語した人物が、自分はルソーに深く学んでいるという気なら、撞着というか、論語読みの不行儀な論語知らずだということが、いろいろに具体的に見えてきているが、いまはそんなことは措き、成心もたずにルソーその人を勉強している。いずれもう一度も二度も読み返して具体的に書いてみようと思う。
2009 1・19 88
* 夜前、猪瀬直樹の『こころの王国』を読み終えた。
後半にいたり週末に達するに及んで尻砕けのように展開も筆致もまた論旨等も軽率に流れ、つまらなくなった。ことに菊池寛の『心の王国』という本は、この題に寄せて夏目漱石の『こころ』批判・否認・否定を籠めているという、立証次第では傾聴したい論点が、ほとんど説得力を欠いたお喋りに終始していて、著者の文学観というより、端的に「読み」の浅さを暴露しているアンバイなのは、著者猪瀬のためにも笑止で気の毒であった。『こころ』の「先生」も「私」も職を持たず、働いていないと言った観点から、菊池寛の「生活第一、藝術第二」論の擁護などは、足場がぐらついている。贔屓の引き倒しである。贔屓の引き倒し、は、される方が迷惑であろう、菊池寛論のいわば基幹の思想がこの程度のかるい思いつき一つで、女語り手の感想に乗せられ、やっつけの批評・評価になったの残念無念。場を改めて、この慧敏の著者の、落ち着いた再論を期待したい。
わたしは、ここで漱石の『こころ』については触れない。触れるときは、もっと慎重に作の中心から行文と思想それ自身に則ってやってきた。菊池寛が、漱石の目から芥川などに比較してどう見られ、それにどう菊池が鬱屈していたかなどは、漱石にとっても菊池にとってもさほどたいした問題ではない。
もし文学の問題として問うならば、ともに短編作家であるともいえる菊池寛と芥川龍之介とを厳しく比較し評価し核心に迫った方が生産的なのでは。
わたしは菊池寛のとなえた「生活第一、藝術第二」の論を、かねて好意的に面白く受け容れ、否認していない。芥川の優れた短編よりも菊池寛の優れた短編の方に親しみを覚えてきたわたしである。しかもなお、菊池寛の「存在」が、日本の近代文学史を立派に推進したとは、実は評価しないのである。逆であったろうなと云う憾みを今も実感している。それならば芥川はその逆であったか、というと、そんなにわたしは芥川をも買っていない。
芥川を凹ましたのは志賀直哉と谷崎潤一郎であった。文学それ自体を読み通して当然だったと今も思っている。同時に菊池寛をも念頭に志賀直哉を思えば、彼は「生活第一、藝術第二」などというちまちました理屈なしにじつはその通りの生涯をのし歩いたのではなかったか、最良の藝術家として。また谷崎文学の前では、豊かな鯛のわきに置かれた、乾いた鰯の旨いののように、菊池寛の優れた短編小説が、数多くはなくのこされたという印象である。
もし人間と文学とのシンの魅力という点でいえば、漱石の文学生涯は、はるかに菊池寛のそれより産出的にも感化的にも文学自体としても偉大であった。
いま菊池寛の作品のどれが漱石作『こころ』のように人の胸を揺すり続けているだろう。無いとは言わない、が、寡くて、小さい、のである。
2009 1・20 88
* 久坂葉子という若くて鉄道自殺した、しかし同人誌「viking」の先達に才能ゆえに愛され重く観られていた作家の、芥川賞候補作を読んだ。
家産を大きく傾けた旧名家、それだけでなく父と長男とが死病、難病にかかっている家庭の不羇とも風変わりともつかない娘、少し異様なまで大学生の弟を愛している姉娘の、そんな心細い家の中であるがままになるがままを生きての独り語りである。
頼りないほどの淡彩を塗り重ね塗り重ねていって、不条理な世界がどよんと重みをあらわしてくる。たしかな一才能である。
「e-文藝館=湖(umi)」の「小説」室で出会ってみてください。同人誌を束ねていた亡き富士正晴さんに彼女を題した作があった。富士さんに、遠く関西から電話をもらって、村上華岳のはなしなどした昔も思い出される。
2009 1・21 88
* としはわたしが一つ上になるが、彼は、無骨な人間工学ふうの杖を必要にしていた。歩き回るつもりでいたが、昼のクラブに座り込むことにした。昼は酒が出ないが、彼の方が酒をほとんど飲めなくなっていた。秦さんも呑んじゃいけないんでしょうがと云われ、苦笑した。髪はわたしの方が白かった。
いま何をしているとか、稼いでいるのかと云ったはなしはしなかった。関西にいる昔の知り合いの噂話は沢山聞いたが、別れてきて、奇妙なほどすぐ忘れた。楽しくなかったかというと、すこぶる楽しかったのだが。近くで、気軽に手の出せる鮨の店がある。食欲は二人とも有る方だった。わたしはいつもの二合の徳利をとり、彼の盃にすこしだけついでやった。品川のホテルへ帰るのを有楽町駅まで見送って、有楽町線で帰ってきた。
往きの電車でも帰りの電車でもわたしは、「生死」を語る仏教の啓蒙本に読み耽っていた。禅と浄土教とにまず目が行き、空海と日蓮は後回しになっている。
2009 1・23 88
* いずれ改め取り纏めのきいた読み直しをして行くが、ルソーの主要著作の思想のみごとさに、ああこういうルソーなのかと理解を新たにし、喜んでいる。思索の独創、思想の本質的なこと、深く頷くことが出来る。それらはすべて彼の優秀な脳のちからに発していて、必ずしも彼の人格や性質や徳操に根ざしているのかどうか、模糊としているが。たいそう魅力的で徹底した優れた「答案」のような思想の達成であることはたぶん間違いない。それはそれで、すばらしい歴史的成果であり、つよく共鳴するものが私の内側に在る。その共鳴が、わたしに「エミール」でも読めと豪語した人物にも在るのかどうかは、逆にずいぶん疑わしいのだが。
2009 1・26 88
* 許可を貰っていた沼正三さんのエッセイ一編をスキャンした。校正して「e-文藝館=湖(umi)」に入れる。芥川が採択している野上弥生子の「飼犬」を読んでいる。
2009 1・26 88
* 午前中にも、「湖の本」の新刊が運び込まれる予定。それまでに龍胆寺雄や吉行エイスケや邦枝完二の小説を読む。龍胆寺が文壇から追い出されたり、吉行があの淳之介ほかきょうだいたちの父で業半ばに創作の筆を折っていたり、邦枝がはやく戯作者ぶりの文学少年で荷風に認められたことなど、今は知る人も稀になっている。味な、不思議に懐かしい作家達であった。
* 夜前、与謝野晶子の晶子ぶりで訳した『蜻蛉日記』を読み終えた。頭から脚のつま先まで、まさしく「私小説」であり、この著者がじつに稀有の個性で、つよい、賢い、才能豊かな麗人であったことが、字句や語句のはしばしからそれは興味深く読み取れる。面白い。平安時代の貴族の女性たちのなかでも、図抜けた知性と感性と根性の人であった。
その前に「伊勢集」の伊勢御息所もいたけれど、これらの女人が先ずいて、それで清少納言や紫式部や、後朱雀朝の才女達が絢爛と花咲けたのだと、まこと想わせるほどの「道綱母」の存在感。小野小町のように半身を神話と伝説の闇に隠した人ではない、レキとして実在感に溢れた超級リアルの閨秀であり、それ以上に日々に自覚を研ぎ澄ませた聡明で慧敏な生活者であり、そして女、女、女である。「待つ女」と想われがちだが、どうして。「闘う妻」という印象であり、やはり、あの鎌倉時代末期『とはずがたり』の後深草院二条に上座する先駆者の気がする。泣きの涙で生きているようで、眼光は男勝りに炯々と光り、あの道長ら権勢たちにとって太い根で父で大貴族であったような夫・藤原兼家と対峙し、いささかの隷属感もないほどの強い権妻さんであった。
一人息子で傅大納言にまでなった「道綱母」という百人一首などの名乗りは、或る意味象徴的である。この母あればこその道綱であり得た。これは大人しい息子だった。
歎きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
この歌、ただ淋しい閨怨だけの歌ではない。ガーんと一発夫に食らわせている。こんな風にガラわるく云うのも痛く憚られる、誇り高い麗しい凛然とした貴女であった。
それにしてもこの歌の読み手に挑まれ続けて、夫兼家もまた繁忙の間に、和歌を和する和する、感心する。いまどきの宰相など雲泥の差のその「泥」にも劣っている。
* 就寝まえの読書が、いずれも佳境。どれもおもしろく、つい灯を消すのが深夜になる。『ジャン・クリストフ』も『背教者ユリアヌス』もいよいよ小説として動いてきた。「ルソーの研究」もたいそう面白い。これは読み始めてよかった。ぜひとも批判・批評に値する根底的な思想家の行跡であり、希望も絶望もをともに誘ってくる文筆の人である。「妙な人」だなと思う、ジャン・ジャック・ルソーは、つくづく。
旧約は、或る意味旧約の全貌とヤハウェ神の理解に資するカンドコロの『エレミア記』『エレミア哀歌』を過ぎて、『エゼキエル書』に入った。いまのイスラエルを理解するのにも、旧約は、むしろ必読の大冊と思われてならぬ。
バグワンも『千載集』も、相変わらずわたしを惹きつける。『今昔物語』でも特大の爪シルシをつけておく説話がぞくぞくと現れて、いささかの退屈もない。
『ローマの歴史』もつぶさに読み返しつつ、『背教者ユリアヌス』に繋がるべしと。基督教をはじめて容認したコンスタンティヌス大帝が死去し、逝去の間際についに基督教の洗礼を受けたという。それを避けたかった皇弟ユリウスが、つまり次なる主人公のユリアヌスの父が怒っていた。波瀾はこれから始まるだろう。
さらにこのところ熱中して読んできたのが、「生死」を主題にした日本の仏教史。法然、とりわけて一遍。そして禅。胸板がわくわくするほど気を入れ、読みかつ感じて、瞑目する。
知識は要らない、深いワクワク感に満たされていたい。それもこの年では偏りたくない。わたしの読書法、これを何と呼ぼうか。
* 夜前からの永い夢見も、覚えないがやすやすとしていた。有り難い。
2009 1・28 88
* 和辻哲郎の或る偶像崇拝に関する論文を読み直した。
さて今日も発送作業にかかる。原稿の催促を受けたが数日待ってもらう。こういうことは珍しいのだが。
2009 1・30 88
* 気がかりなことが、一つ解消。天恵。
* よく寝た。寝られるという可能をよろこぶ。ひとつには前夜、小学館版の古典全集で詳細な『蜻蛉日記』解説を読んだ興奮をひきずっていた。偶然であるが道綱母や樋口一葉と同時に付き合っている。しっかりしたお人たちである。
2009 1・31 88
* 医学書院に同期に入社した粂川光樹くんが、今度は小説の力作を論創社から出した、題して『漱石の明暗 ある終章』と。漱石の愛読者なら察しもつき技癢を覚える人も多かろう、事実それを実行して識られた人も二、三は過去に例があった。漱石絶筆の小説を「書き継」いで完成させるのである。粂川くんもこれに二十年来思いを掛けてきたと云われる。出来上がった『ある終章』は堂々の大作で、挿絵も新聞連載の原作を飾った画家の画風に通わせて粂川君が自身描いていて、これがまた好い。早く読みたいが、せっかくだから原作を読んで行き、そのあとを続けて読みたい。
著者は小説こそ初めてかもしれないが、医学書院はわたしよりもずっと早く退社し、国文学の学究の道をあゆんで、フェリス学院の教授から明治大学教授に転じて優れた古代学研究を積んだ名誉教授であり、たんなる好奇心の所産ではない。やみがたい文学・文藝への篤い思いがさせた力作であろうから、わたしも嬉しく、早く読みたい。
2009 2・189
■ 「むかしの私」 厖大量の「私語」を三十種近い項目に分類して下さる有り難い読者がある。送って貰って、読み返してみると、面白い。「朝の一服」のあと、これを此処へ、手当たり次第に抜いてみよう。「いまの私」との相対化が自身で楽しめるかも。
見出し末尾の「データ」は「書いた年月日」。「 」は、「分類名」。 09.01.21連載開始。日替わりで書き換える。
☆ 川口久雄『源氏物語への道』そして「女文化」 1998 4・1 「読書」
仕事柄というより生来の読書癖で、何冊もの本を並行して読んでいます。
いま大切に読んでいる一番の本は、川口久雄の『源氏物語への道』(吉川弘文館)です。平安朝物語の、また古今集などの、はるかな背後を分厚く下支えて影響や感化の豊かな、中国の文学・文献のおもしろさに驚きます。碩学の研究成果とは、こうも平易に手堅く語られうるものかと敬服の一語です。
「女文化」という言葉で日本文化の素質に触れたのは、わたしが最初だと思っていますが、「女文化論」をほんとうに充実展開させるうえで、川口氏の研究成果は大きな支えになるでしょう。
こういう手堅い、示唆の豊かな、大きな研究になかなか出会えなくなっています。狭く細かく限定的な発言はあっても、広大な新たな視野を開いてくれて、しかも堅実な証拠が揃えられ、その故に推理推論にも構築の安定が享受できる研究や学識。わたしの敬慕するのはそういう仕事です。
研究内容の魅力と価値そのもので名声を得ている研究者からの学恩にあずかりたいと切望しています。むろん私の場合、文学や歴史の、藝術の研究ですが、哲学者に抜群の人がいないのも現代日本を薄くしている悲しい理由です。
日本で、今まさに時めいているのは、要するにマスコミに顔を売った評論家やコメンテーターです。詩人と哲学者のほんものに恵まれないことで、まことに特徴的な現代を抱え込んでいます。 「むかしの私」より
2009 2・1 89
* 昨夜書庫の漱石全集から大冊で手に重い『明暗』を運び出し読み始めた。
吸い込まれるように先へ先へ誘い込まれる。漱石はこういう心理的な人間解剖が得意なのであるが、その得意自体に漱石の日々の苦しみが読み取れて傷ましい。あまり傷ましいのでわたしは『明暗』は敬遠と云うより嫌いな方へ押しやっていたが、こっちもいい歳になって暮らしているから、ここの夫婦や夫婦にからまりついた小父さん小母さんたちの世間が若い人たちのポーズの多い暮らしぶりに見えてくる。
それにしても人の一挙一動、眉の上げ下ろしや瞳の動かしようにまで解釈の入ってくる、これを「マインド」と云うのである、バグワンはこの作品を読んだことはなかろうが。「ドンマイ」というわけにどうしても行かぬ人であったらしい漱石は。
それでもぐいぐい文章の力で惹きこんで行くから、この大冊も十日と立たず読んでしまうだろう、粂川君の労作へ早く取りかかりたいと楽しみにしている。
* 都の副知事で奮闘中の猪瀬直樹が久しぶりの新刊を贈ってきてくれた。表紙に装幀されている顔つきがとても懐かしい。お互いクセのある付き合いをしてきたが、ペンの理事会十二年で印象に強く生きた御仁である、猪瀬直樹君は。
2009 2・5 89
* 明日家に帰って余計な飛び込みの用がなければ、一仕事の一段階へ達しそうだ、そんなところまで来て、もうすぐ日付が変わる。休んだ方がいい。今日は加藤一夫の「民衆藝術の主張」という論文を読んだ。こういう論考に情熱を燃やしていた人、それが必要な時代があった。
高田欣一さんの病後の仕事も届けられて、有り難いお手紙ももらった。沢山の手紙を今日も読んだ。
2009 2・5 89
* 本をたくさん読み終えて、寝入っている黒いマゴと妻とにおやすみと声かけて灯を消すとき、寝入ってまた明日目を覚まさねばならぬのかとイヤな気分になる。寝入ったまま起きなくて済んだらどんなにいいだろうとこの頃、かなり本気で思っているのが、困りものだ。
2009 2・6 89
* 「くらむ」という倉持正夫の個人雑誌が、この元日の日付で「追悼・倉持正夫」を出した。笠原伸夫氏と倉持夫人の編輯。正夫さんは昨年のうちに亡くなっていた。創刊以来、湖の本の読者として支えて下さった。
そもそも「湖の本」は、一九八五年に「くらむ」が創刊され贈られたのがヒントだった。いつも数十頁たらずの雑誌ながら表紙の手触りが美しく、この大きさで美しい私家版の全集が出せるだろうかと思った。そして翌年六月、「定本・清経入水」で創刊した。
倉持さんにはペンクラブにも入って戴き、「e-文藝館=湖(umi)」にも幾つか作品を戴いた。年譜によると「くらむ」は二◯◯三年秋に一一号出ていた。倉持さんの小説作品だけの個人誌だった。何度か病気や怪我をされていた。一九二九年九月二十日生まれ。わたしより半まわりほど年長だった。二◯◯八年去年の元日に七八歳で亡くなっていた。
訃報のみあいついで賑やかなあの世かな風ゴトゴトと娑婆を揺る間に
2009 2・6 89
* 疲れたので、今日はもうやすみたい。漱石の『明暗』をわたしは文学としてめざましく見直し尊敬の眼差しを向けて読んでいる。
漱石の、漢字・漢語のじつに明快で適切で巧みな駆使は、彼俳句味の上等なユーモア精神に下支えられていて、めったやたらに日本語が警抜な警句気味の連続放射になっているのだが、それでいてちっとも行文がしんねりもむっつりもしないで、風通しがバカに良い。心理解剖のうるさいほどの連続が、シェイクスピア劇の道化・阿呆らの名セリフのように小気味よく読者をのせて先へ先へ運んで行く。こんな生き生きした藝当のできる日本語の作家は他に出会ったことがない。『背教者ユリアヌス』の日本語や、『ジャン・クリストフ』の日本語訳の文章などは、それにくらべると炊いた米の飯を杵でついて、ねちこちに餅にしたような読みにくさ、風通しのわるさである。
なににしても、早く「粂川・明暗」にとりつきたい。
* ものを捜しているうち、思いがけず谷崎先生の長編二つ、帙入り和綴・袋胡蝶装の『初昔 きのふけふ』という本を見つけ出した。記憶に洩れていた儲けもの。昭和十七年十二月二十五日印刷三十日初版一萬部発行、定価は四圓五拾銭。「出文協承認ア三五◯四三七」と奥付に大きく印刷してある。この初版発行の翌日には日本の大本営はガダルカナル島撤退を決定し、戦雲は暗きを増していた。紙の配給は厳格だったろう。大阪の創元社から出ている。また楽しみにとりつく本が、それも貴重な特装本が現れ出た。
どんなに不愉快な目を日々に見ていても、またこういう心嬉しく心豊かになることとも、幾らでもわたしは出会う。そのように暮らしている。すぐわきで谷崎先生の写真が例の難しい顔をしながら、いくらか含み笑われている風情です。
そうそう、創元社の社長矢部良策さんの勧めで、わたしは東京へ出て就職することに決意したのだった、ご縁を長く感謝してきた。それらも今度の年譜で何カ所かに記載があった。
2009 2・7 89
* 二三日前から漱石の「明暗」を妻と奪い合うように読んでいるが、漱石の表現のなんともいえない「かるみ」と「うまみ」と「おかしみ」を絶賛し合いながら楽しんでいるのに気づく。『明暗』なんて御免だとずうっとながいあいだ思ってきたのに、津田やお延夫妻はもとより、岡本や吉川や藤井らよりもこっちは年をとってしまっていて、彼等の心理合戦なんぞも五月蠅いより可笑しいので、ちいっともいらいらしないのである。
そうなると漱石の行文の妙が浮かびに浮かんで<たいへんなご馳走になる。こういうご馳走を食わせてくれる作家に、ほかにどれだけ出会ったろう。むろん料理の仕方がちがう。いやわたしの云いたい云い方だと文章での「作曲の仕方」がみなちがうが、漱石ほど天才的に楽しませてくれる他の作家というと、そう、おおまけにまけて五十人いることにしよう。五十人もいれば、わたしはその人達を読み返していれば、いつもご機嫌でいられる。
2009 2・8 89
* 前田愛氏の一葉論再読がおもしろく、曾読の記憶と同じく「暗夜」論がことに胸に迫る。読んでいるうちに、自分が一葉作品を「舞台」作のように場面を脚色しつつ読んでいるのに気がついて、ゾクゾクし始める。小説に書いてみても好いのではなどと俄然欲が出てきたり。ナンでもいい「暗夜」を読んでみたくなった。
鏡花は一葉のこの辺の感化を受けている、間違いないなと思ったりする。急に鏡花を論じてみたくもなる。すこし、老人、昂揚しているじやないか。卒業生君に励まされたかな。ありがとう。
2009 2・9 89
* 漱石の『明暗』堪らなく面白い。
辻さんの『背教者ユリアヌス』も物語の水路に乗って滑り出している。あとは読んで行けばいい。
ローマの歴史でユリアヌス帝は、もう帝国が滅亡期に近づいての異色の皇帝。コンスタンティヌス大帝により基督教が国教というにちかいほど公認され、後継コンスタンティウス帝の時代になり、この皇帝は忽ちに(彼の意志で、また加えてキリスト教司教の感化影響でと想われる。)皇位をうかがいうる近親を大勢惨殺した。惨事のなかで奇跡のように命拾いしたおさない兄弟の、弟がユリアヌス。彼は古来ローマの信仰に立ち返ろうとした。「背教者」と呼ばれる所以。
この二作と匹敵しておさおさ劣らず面白いのが、晶子の訳で読むより小学館版の古典全集で読む『蜻蛉日記』で、道綱母もおもしろいし兼家という夫もじつにおもしろく、さらに彼等が投げつけ合う和歌の応酬がべらぼうに面白い。真夜中に、クククなどと笑ってしまう。
そして法華経賛嘆の『今昔物語』に引きずり込まれている。そんなに有り難いのかぁと、どうしても古典全集を読んでいると、引き続き岩波文庫の『法華経』も読まずにおれない気分になる。信仰とはふしぎな電気だ。磁力だ。
預言者「エゼキエル書」も惹きつける。厳かに畏ろしくヤハウェはイスラエルの不信仰や違背を責め苛む。凄い。
だが、バグワンこそ底知れぬちからで、みごとにわたしの魂をゆすりつづける。全身からホコリ(誇り)がチリ・ホコリ(塵・埃)と化して飛散する。
* いま一休み、手の届くところから文庫本大の古色の上製本を引っ張ってみたら、表紙は元々題字等も志士のある風景画にもみな金が捺してあったらしいが、みな褪色してかろうじて「千家詩選」の題だけが読み取れる。
扉によれば、宋の謝畳山の輯、越山芳川伯爵題辞、清国公使胡大臣題辞「志士必誦」の『千家詩撰 注釈』で、日本の四宮憲章が訓じている。明治四十二年三月十八日の訂正四版、発行所は東京神田の光風楼書房、定価金五拾銭とある。秦の祖父鶴吉の蔵書だったに相違なく、数カ所欄外に細筆で覚えが書き込まれてある。こういう古本をわたしは小さい頃から触ったり置いたり開いたりしていた。
この本で愕くのは、選詩一つ一つの読み取りの政治的に苛烈なことで、美しい叙景詩としか読めない作が、唸ってしまうほど慷慨の意に深読みされていること。そこまで読むのかいとやや辟易してしまう。
「詩と云ふものの如何に、含蓄蘊藉の妙ありて、忠愛敦厚の旨を帯び、風流高尚の興深くして、憂世慨時の情に富めるかを知るべく、而して六義の深遠なる又以て人心を振動して、士気を鼓舞するものあるを見む、嗟乎古人の詩を賦す、徒らに花に吟じ月に詠ずるのみにあらざるなり」と鳴洲四宮先生は宣っているが、ご本人も自覚されているように、「但し総釈中、あまり穿鑿にすぎ、往々理を以てこれを格するの傾き」は否めないのではないか。
わたしでも耳に覚えある、蘇軾の
春宵一刻値千金 花有清香月有陰 歌管樓臺聲細細 鞦韆院落夜沈々
は、人君執政たるもの閑暇怠敖を自戒せよとの諷諫にほかならぬと釈してある。良辰美景なればこそ、宜しく政を修め事を立て、空しく遊び惚けてはならぬと。フムフム。麻生総理にならそう言うてやりたい。あれはツケル薬がない。
なおこの七絶の最後の二字「チンチン」は意味は同じだが字が機械で出ない。「沈沈」としておく。不都合は何もないと思う。
この本、実に謝畳山の選詩はどれも美しい。
2009 2・10 89
* そんなに遅くまで三人で話していても、建日子が仕事場へ戻っていってからもわたしは「明暗」「背教者ユリアヌス」「ローマの歴史」「千載和歌集」「今昔物語」「バグワンの老子」「旧約聖書」「法華経」「蜻蛉日記」などを、ぜんぶ読んでから灯を消した。いやな夢は見なかった。
それら読書は、とかく跼蹐をしいてくるモノを、広大な世界へいろいろな輝きと感銘とで駆逐し、やわらかに胸をふくらませてくれる。やわらかい花びらのように生きよと師の安田靫彦は弟子の森田曠平さんを薫陶・激励されたと森田さんから聴いた。「やわらかい花びらのように」と、わたしは思い屈すると自身に言い聞かせる。
2009 2・11 89
* 古い古いつきあいの朝日のグルメ重金敦之さんから『すし屋の常識・非常識』を戴いた。この人は、「週刊朝日」時代にわたしに「京都」について書き始める絶好のきっかけを下さった。わたしの京都論・京都学のいわば生みの親で。そしてグルメ著書をいただくつどわたしは紹介されているお店でひそかに美食を楽しんだものだ、ただ残念なことにいい店も幾つも暖簾をおろした。
* 新聞にあまり親しまない、人の寄る場にも出ないため噂も耳に入らず、知らぬうちに何人もの知己に死なれていた。
倉持正夫さんもそうであったが、昨日一昨日に、小学館の会長だった相賀徹夫さんの逝去を知った。まえに湖の本をお送りしたとき丁寧な感想と礼状を戴いていたのに、今回は小学館秘書室からもう暫く以前に亡くなっていたのを報された。
相賀さんとは銀座の「寿司幸」でご馳走になったり、中国へ井上靖先生等と行った前後にもいろいろご配慮いただいたことがある。なによりも小学館で出る例えば古典文学全集全巻を贈って頂いたり、学恩といえるほどの高配を何度も戴いていた。ご冥福を祈ります。
2009 2・14 89
* わたしは、仏教徒ではないが、いまも法華経を読み、先日まで生死の問題で仏教書を読んでいたり、触れることは少なくない。そしてその感化でもあろう、わたしは人の死後、葬や葬儀後の営みに関し、本質的には深い関心をもっていない。これは世間の常識とははなれるようだが、じつのところ釈尊もしかり、高僧知識には人の没後に「かかわらない」と明言しているほどの人が何人もいるのである。漠として適切にわたしに説明はできないにしても、枢要なことのようにわたしには思われる。源氏物語にも賀の祝は幾度も場面化されているが、亡き人は深くも親しくもよく偲ばれるけれど、墓参の記事はめったに出ない。源氏が須磨にみずから落ちて行く直前にややそれらしい遙拝が看取される程度だろう、さもあろう、よく言われるように藤原道長ほどの権勢の墓も容易に見あたらない。御陵は築かれても、忌日ごとに参拝する風はめったに出会わず、むしろ個別の人情にまかされて世の常識的な行事とは遠くにあった。
2009 2・14 89
* 「明暗」は未完成の漱石絶筆で、最期の日からなお数日連載原稿の用意があり、世に出て、一種凄絶の思いを読者にさせた。たいした力作である、が、ふつう二巻は割り振られる全集の漱石作にも「明暗」は割愛されることがある。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「それから」「こころ」などは籤取らずに選ばれやすいのに。未完成だからか。
たぶんそういうことではなく、この作品にカタルシスの嬉しさや爽やかさの無いことが影響しているだろう。
この作の基本の骨組みは直接話法の会話と、発語をめぐる当の人物への、やすむまもない心理解剖や批評や関係感覚の叙述と、である。行為や事件をの推移なり展開なり変容なりはきわめて控えめで、ゆるやかに場面展開してゆくだけ。はなはだ戯曲の舞台に相応している。台詞と、その台詞を緻密に、また示唆的に、また警句のように解釈したいわば長い詳しい「ト書き」とで、小説が出来ている。それで成り立つのは、登場人物の印象的把握が強烈で、台詞や解釈によって影薄く埋没したりしていないから。ことにお延、お秀、また小林なる怪人物のドストエフスキーばりの実在感の凄みが利く。
津田には「こころ」の先生の空気がからんでいる。
漱石の学生でもあった谷崎が学生の儘この作に噛みついたわけは、わたしなりに理解し共感すら惜しまずに久しく来た。谷崎はむしろ「門」に同情を示していたし、わたしも「門」を愛読した。「明暗」は叶わなかった。その気持ち、今回丁寧に読み返していて、往年のアレルギーは希釈されえてもなおかつ一言で言うと、叶わなさも面白さも、とめどないほどの「五月蠅い」こと、に在る、とそう実感する。
* まだ三分の二。楽しんでいる。
2009 2・15 89
* 瀧田樗陰の明治四十一年正月の月旦を読んだときは面白かった。谷崎が新思潮にかきはじめるより一年前である。つまり取り上げられている作家達はたにざきより先輩作家達と明瞭に分かる。こういう前後の見境をもっていることは歴史的にものを眺める際の前提で、これが曖昧だと論旨が混雑することがある。「夏目先生」が別に評判されている。他は、田山花袋を筆頭に秋声、鏡花、白鳥、青果、独歩、虚子、風葉ら大勢の名が上がる。伊藤左千夫の作が、たいそう褒められていて「野菊の墓」以上だとあるから、むろんその作品をわたしはもう手に入れている。一世を風靡した名編集長の見識である、面白いだけでなくわたしは尊重する。谷崎も中に入っているとよかった、惜しかったと想う。
2009 2・15 89
* 詳細な年譜の再校が出たので、それにかかり切っていた。ただし黒澤明の「姿三四郎」を観た。録音も撮影もさすが昭和十八年、戦時中の粗悪さで。藤田進と轟夕紀子にニッコリ。
歯医者がよいの往復には前田愛氏の「一葉論」に没頭、一葉晩年の充実を思うと胸苦しいほど。
2009 2・17 89
* 蜻蛉日記の二度目も「ローマの歴史」の二度目も、面白く読み継いでいる。「背教者ユリアヌス」がもう自力で前へ前へ進めてくれるので、まちがいなくこの長編も先々が楽しめる。何が何と言っても、やはりバグワンの前で謙遜になる。
今昔物語と法華経の合わせ読みはふしぎに魂をふるわせる。この聖典を聴くだけで多くの異類が転生して今生人身を受け、さらに新たな天への来世を約束されている説話を、次から次へ読み続けながら、法華経原典をつぶつぶと読んでいる不思議さ。
2009 2・18 89
* 粂川光樹の『明暗 ある終章』を夜前読了。それは「漱石 ある崩壊」とも題したい一種の火曜サスペンスであった。
なるほど漱石最期の作『明暗』は、とどのつまり斯くあるべかりしいわば修羅の作と批評する視線も視野もを或る程度自然に保証していると謂える。凄まじい。
三日前にわたしは人にあてて「 漱石は、概してイヤな感じの男を書いては、女に横面を張られていることが多い。三四郎やそれからや彼岸過ぎでも行人でもそうです。わたしが「こころ」の先生にあまり同情の無いのもそのためですが、明暗の津田という男の書き方は、漱石の筆があまり否認的でないのが気色わるい」と書いていた。
この声が粂川君に聞こえたのであろうかと思うほど、「ある終章」の、もはや漱石の文体も音楽も則天去私もふっとばされた修羅の展開、わたしは評判であったさる女性の『続明暗』を読んでいないし読む気もなかったので比較は出来ないが、粂川君は、明暗の津田に臍の緒をつないでいる男・漱石が、嫌いでならないのだろうと読むと、「ある終章」の理解が早い。
粂川君の本意をやたら忖度するのは正しくないし、避けたいが、わたしは、原作を(実は、わたしの記憶では、温泉場で津田と清子とが階段の下と上で鉢合わせした回で終わっていたのである。しかしその後にもう数回分の漱石原稿が新聞社に入稿されていて、そこまでを今度始めてわたしは読んだ。)読んだ昔から「津田」に同情できなかった、嫌いだったと言って言い過ぎでなかった。
今回原作を読んでも、この体温のあまりに低い津田には反感がつきまとった。むかしは苦手だった津田の細君のお延なんて可愛いじゃないかと読めたのに、津田の妹の五月蠅いお秀にしてもとくべつ異様には思わなかったし、兄贔屓の小姑がどんなものかは体験的によく見知っていたのと、たいしてちがわなかった。修羅の元凶のような吉川夫人など、「社長の奥さん」という権力タイプは幾らも例が有ろう。岡本の家庭はよく書けているし、藤井のそれもわるくない。京都の父のシビアなのもおもしろいし、よく分かる。
分からないのは痔に悩んでいる津田だけで、小林のようなむちゃくちゃですら、その存在意義はむしろ明白だった。
だから『明暗 ある終章』は、分からない津田を分からせてくれたほど凄絶なので、ストーリイとしては一気呵成に読めたけれど、その一方で谷崎や藤村とならんで愛してきた漱石文学の、やや陰鬱だが清明軽妙でけっして軽薄でも俗悪でもなく、風通しのいいユーモアにも恵まれた珠のような達成とは、まるで別途の、やはり火曜サスペンスタッチという読後感は免れない。
問題は、漱石がもしあのまま書いていても筋書きとしてはコレに近く進むのだろうか果たして、という、その実ちっとも解決して欲しいと思わない推測の前に佇むことである。
確実に謂えることは、かりに「漱石 ある崩壊」が書かれていても、やはり「やや陰鬱だが清明軽妙でけっして軽薄でも俗悪でもなく、風通しのいいユーモアにも恵まれた珠のような達成」を得ていたであろう、この「ある終章」を文学として評価するならば、少なくともこれは「漱石文学」ではないという結論を持たずにおれない。で、漱石からは決定的に離れて単に自立した一作品として「ある終章」を読めば、やはり結論はかなりドタバタの火曜サスペンスをテレビで観たと近いのであり、もう一度読みたいとは思わない。
2009 2・21 89
* こういう時節になっているということだろう、数日前、西武池袋駅構内の新刊書店をちらと覗いたら、目につく平場に、塩見鮮一郎という人の河出文庫『浅草弾左衛門』『車善七』という二冊が積んであり、ビックリして買ってきた。なかなかこんなふうにあっさり手に入る本ではなかったのに。
弾左衛門の方から読み出したが、始めて知ることの、しかもリアルに多いのに驚いている。読み始めると読みやめることが難しいほど、具体的な知見に富んでいる。幕府の北拓政策を調べていたときに弾左衛門のことはかなり調べたし、昔からのバラバラの知識もありはしたが、車善七のことは名前の他多くは知らない。
民俗学からこの方面は多くを学んできた、柳田国男らから。知っていいのか、知らぬ方がいいのかと議論はあったが、あっけらかんと真新しい新刊の本屋でこういう本が手に入るようになったのは、やはり時代が動いているのである。
* いま就寝前に読んでいるどの本も、甲乙なくわたしを惹きつける。
日本の、蜻蛉日記、今昔物語、千載和歌集、一葉の世界。そして日本のとはいいにくいが、法華経。バグワンの老子。
海外の旧訳・エゼキエル書、ローマの歴史、背教者ユリアヌス、ルソーの研究、ジャン・クリストフ。
ばらばらのようでいて、私の中では偏頗ない統一感が出来ている。そして塩見氏の文庫本二冊がわっと、加わっている。
問題は、視力・眼精の過剰な使用。うえのメールにもお気の毒な事実が書かれていたが、わたしは相変わらず長湯して本を読むという悪習がやめられないでいる。気をつけなくちゃ。
2009 2・24 89
* もう二月はあと二日間でにげて行く。気ぜわしい。今日もいろいろ、一見雑用のような必要なことを片づけ続けていた。
機械を、印刷で勝手に働かせていたあいだ、ふと手の届くところから取り出したのが、フラナガンの
How to understand MODERN ART
読み出したらやさしい英語で、難渋なくなんとか読んで行けるので嬉しくなった。B5判で320頁。夜の読書でなく、機械の傍で読み継いで行く本にする。なんと昭和五十三年の夏以来、一度は通読したが、たいてい図版ばかり眺めつづけてきた本だ。本文は面倒でその後読まなかったが、新たに通読したくなった。おさらいのような読書だけれど。
2009 2・26 89
* 道綱母という人、わたしには、したたかに現実感があり懐かしい。こんな親しめる日記をたくさんな古典の後回しにしていて、もったいなかった。「残り福」の気持ちもわるくないが。
歌が記事にはまって、二倍の妙をみせる。この時代の夫婦のふたしかさも分かるが、道綱母と藤原兼家との相性はこれでなかなかオツなもののようでもある。兼家はしたたかな貴族政治家だが、この日記のお陰でふしぎに親しめる。兼家は、存分に道綱母を「賞味している」という感じ。それほど道綱母の筆つきには彼女の稀有な肉体感もしみこんでいる。これは紫式部にも清少納言にも孝標女にも讃岐典侍にも無い。建礼門院右京大夫にも。
和泉式部日記の式部には感じる。後深草院二条にもあるが。
しかし高貴な稟質や才能とともに女の「からだ」「息づかい」を感じさせるのは、道綱母が優れている。
* 「エゼキエル書」でのヤハウェ神の罪深き背信のイスラエルに対する怒りのすさまじいこと、読んでいて、つい気を鎮めたくなる。それでかえって怒りの條々に朱線をひいてしまう。怒る神。ヤハウェは、果たしてナチスドイツを怒りで焼いたのだろうか。
* 塩見鮮一郎氏の「弾左衛門」「車善七」を追究した文庫本の、なんと、めざましいことであるか。たくさん、目から鱗が落ちて行く。
* 法華経は、「譬喩品」に入って、俄然修辞が身に迫り来る。「今昔物語集」との膚接のしようも或る意味リアルに深刻であり、両方を同時に読むことで、たんなるおもしろい説話集の域をはみ出て、肌に粟を生じしめることすらある。
* コンスタンティウス帝は、妹で皇妃(アウグスタ)の地位にもあるコンスタンティアの嗾しにものり、広大なローマ帝国に独りの大帝たるべく、ついにユウスの遺児二人の軟禁をとき、とくに兄のガルスを急遽手元へ呼び寄せた。「背教者ユリアヌス」の運命も動いてきた。
そして「ローマの歴史」ではいままさにカエサルの暗殺が実現してしまう。彼に刃を宛てるのは、彼カエサルの実子であるに相違ない、ブルートゥス。
2009 3・2 90
* 今日、第一に記すのは、昨日戴いた陶藝家当代楽吉左衛門氏の大著『茶室をつくった』(淡交社刊)。
琵琶湖東岸に佐川美術館がある、そこに楽吉左衛門館が新たに出来、オープニングにお招き戴いていたが、よう行かなかった。この天才的な作家とのご縁は、いちはやく京都美術文化賞に強く推して受賞してもらった二十年前に溯る、が、もとより楽茶碗の家であり、茶の湯人であれば、みな浅からぬ縁を得ている。わたしもむろん得てきた。
だが、なかでもわたしは、この人の陶藝のいい意味での凄みと豊かさ・毅さを愛してきた。どこか、張即之筆の「方丈」字の理想と重なる愛である。
その人が、もろもろの茶なり風雅への問題意識をかかえたまま、館内に「茶室」を創ろうと決意したとき、言うまでもない従来在来の茶室の風貌を天地へ開放しかつ新たに構築するていの禅行であったろうと想像される。
氏はこれに五年掛け、五年の日々に呻吟し怒号し沈思しつつ日記をのこしたのである。出版されたのが、それである。自愛の所為でありしかし自己批判の所為でもあって、そこを吶喊しておそらく氏は偉大な放心にたどり着いたのだろう。
大きな本の巻頭に、彼の曰く「茶室」という方丈が写真になっている。茶の湯人はみな言葉を喪うであろう。わたしは、いま、それだけしか言えないし言うべきでないと思う。だが、出来た茶室も、日録の文も、すばらしい。
* わたしの作業は、すこしずつ。
2009 3・4 90
* 写真家・井上隆雄さんの最新の光画帖『群生海(ぐんじょうかい) 雪の景』を昨日頂戴した。この人も、京都美術文化賞を受けてもらった最初の写真家。一言でいって「詩人」である。詩は、尖鋭で大度の眼光そのもの。深い。美しくて厳しい。
2009 3・6 90
☆ つかこうへいの小説 1999 2・11 2・14 「読書と人物」
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を、息子の書架から借りてきて読み始めたが、面白い。猥雑で被虐味に富んだ語り口ながら、ジメついていないし、こういう材料への偏見どころか、むしろ親しみすらわたしは昔からもっている。祇園の乙部と背中合わせの通りに育ってきたし、甲に対して乙の存在のあることにも少年時代から自覚があった。乙の方へとかく目を向けてゆく自意識もあった。
そんなことがなくても私は、つかの、舞台台本を読み物化したといわれるこの作品内容に、共感できる。女も男も状況の中で粒立って活躍しているからだし、ワケが分かるからだ。
秦建日子がつかこうへいに師事して、会社勤めも辞めて演劇の世界に飛び込んで行ったのは、親の私たちからは真に一大事であったけれど、反対しなかった、支持し支援してきたつもりだ。だが、ことさらつか氏へ、わたしからは触れては行かなかった。会ったことも挨拶を交わしたこともない。そんなことはお互いに同業ではしにくいし、されても気持ちがわるかろう。しかし、感謝している。
一度、書かれたものも読みたいと思っていた。正直の所読んでみて気が乗らなかったら申し訳ないと思いためらってはいた。
芝居は一度だけ観た。忠臣蔵もどきのものだった、扱われた材料への接近の仕方に、自分のものの感じ方見方とひどく近いものを感じ、ああそうかとうなずいたりしたが、本は読まなかった。初めて読んでみて、よかったと思う。何となく、とても気がらくになった。 1999 2・11
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を読み終えた。明美さんと重さんの物語にあやうく嗚咽しそうであった。
瑕瑾が無いわけではない、重さんのお嬢さんが留学したり成功したりする話は嬉しいけれど、ちょっと照れくさくもある。
重さんと明美さんのことは忘れられないだろう。こんなオリジナリティの鮮明で強烈な小説、むろん過去に無かったわけではないが、確実にまた感銘作を付け加え得て、嬉しい。
これを読んで、読み終えて、私は初めてつか氏に、息子のために感謝した。ありがとうございました。
かつて野坂昭如の『えろごと師たち』などを読んだときにもやや近い感じはもったが、どこかでいささかのハッタリをかまされているような、少し身を引くものがあった。
むしろ瀧井孝作先生の『無限抱擁』を読んでの澄んだ感動にちかい実質を、つかこうへいは持っていると感じた。瀧井先生とはちがうが、つか氏ははっきりとした「憎しみ」をみごとに抱いている。そのことに私は感動した。
秦建日子に学んで欲しいのは人気ではない、虚名でもない。身内の熱塊だ。燃えるモチーフだ。
1999 2・14 「むかしの私」から
2009 3・7 90
* 塩見鮮一郎氏の河出文庫『浅草弾左衛門の時代』『車善七』の二冊を、熱心に読み終えた。教えられる意味では、知らなかった知識が多いのだが、「制度」としての江戸の賎民政策の凄みを習った思いは、衝撃に満ちている。よく書かれ、筆致はサバサバしながら核心に徹している。優れた著述である。
こういう本が、駅構内の新刊の店で実に簡単に手に入る、そんな今の世を、わたしは悪くないと思う。過去のことであり、しかし都市にはいつまでもついて回る。長くひきずるしかない問題の難しさを教えられる。
2009 3・8 90
* もう十一時半。疲れた。あすが、ある。もう、やすむ。と、いってもこれから本を読み出す。
『背教者ユリアヌス』が動いてきた。兄ガルスが、父ユリウスらを殺した従兄コンスタンティウス帝の副帝(カエサル)にされ、帝の妹コンスタンティアを妻にした。彼の運命は『ローマの歴史』を熟読していて先が読めている。
瞑想と学問とのユリアヌスは、旅の道連れとして知り合ったディアという軽業の娘に愛されている。
『今昔物語』四巻中の二巻目に入っている。
『蜻蛉日記』は中巻に入っている。
『千載和歌集』は、引き継いでの再読が、もう「恋」の巻五つを過ぎ、「雑」の巻上に来ている。
『法華経』は「信解品」を慎重に読み進んでいる。
前田愛(中村勘太郎の夫人になりそうなタレントではない、わたしより年配の国文学者) の「一葉」論も興味津々読んでいる。
『旧約』の「エゼキエル書」は新約の時代に近づきながら重要なエポックを成しているらしいと朧ろに知れる。
押村襄著の「ルソー論考」も、慎重に、じっくり読み進めている。
そして。むろんバグワンは大切な糧であって。
2009 3・15 90
* 『背教者ユリアヌス』の兄副帝ガルスの最期は哀れで。コンスタンティウスの皇后エウデピアが登場、いよいよユリアヌスが前面に進み出てくる。深夜まで読んでいた。黒いマゴに二度起こされた。
2009 3・16 90
* 夜前も、他の本のあとで、『ユリアヌス』に惹きこまれ、かなり読み進んだ。今夜も、はやめに床に脚を入れて坐ったまま、続きを早く読みたい。辻邦生さんの温容を思いだし思いだしながら。
2009 3・17 90
* モンタネッリの『ローマの歴史』(中公文庫)を、折り返し二度読み通した。最初通読し、二度目は本をペンで真っ赤にした。
一つには中公版の『世界の歴史』に導かれていた。
ローマのことよく知らないな、面白いなと思っていた。ことにカエサルに至る西紀前のローマの、よく言って質実剛健な農民魂のようなもの、悪く言えばずいぶん乱暴で好戦的な男っぽさ。モンタネッリ本を手にしてみると、辻邦生さんが裏表紙で推薦されていて、なるほどと、すぐ買った。
訳者の藤沢道郎氏も書かれているように、サッパリと書かれている。さしもローマ帝国も滅亡前の経緯はかなり駆け足になっているが、それくらいややこしかったのだろう。
その辺で「背教」のユリアヌス帝に出会い、辻さんが関わってられる意味がよく分かった。辻さんに戴きながらその厖大さにたじろいで読んでいなかった『背教者ユリアヌス』を読もうという気になった。辻さんと「久々の再会」を実現したのである。
モンタネッリという名前が覚えにくかったが、播磨の鳶が、メールで、「モンタネッリでしょ、いい本ですよ」と言ってきてくれたのも弾みになった。鳶はいまごろギリシアの空をひとりで翔んでいる。
* できれば、次はJ・ミシュレの『ジャンヌ・ダルク』を手に入れたい。わたしが西洋史の「存在」に最初におそれと興味でふれたのは、新制中学三年に、全校生で観たバーグマン主演の映画『ジャンヌ・ダーク』だった。その後にもミラ・ジョボヴィッチの映画、松たか子主演の『ひばり』を観ている。いずれも板にしてあり、繰り返し観ている。
ひとりの少女の神秘な体験と最期とに惹かれる以上に、彼女の「存在と信仰」とが、どれほどに西洋史と人間とを批評し得ていたかに関心がある。自身の考えはゆるやかな輪郭をもう持っているが、固まるまえに、歴史家ミシュレの思いに触れたい。
ま、本屋へはめったに入らないし、パソコンからの買い物はしないと決めているから、モンタネッリ同様の偶然の出会いを待つわけであるが。
2009 3・18 90
* 昨夜は読書の景気におされて眠りが浅くとぎれがちだった。
ユリアヌスは、父や兄たちを殺した従兄コンスタンティウス帝の副帝(カエサル)とされ、ガリアに赴いた。あざやかにユリアヌスの運命を踏む足場は、動いて動いて素早かった。
五六冊を一冊にした一冊本は、だが、石のように重い。字も小さくて二段組み。ツカの厚さ七センチは、有る。
今日も花粉にも悩まされながら電車に乗ってきたが、帰りがけ池袋の駅構内の書店で、古来有名なシーザーの『ガリア戦記』と、ついでに三島由紀夫の『禁色』を買って帰った。京都へのともをしてもらおうと。
ガリアというのは、今のフランスの、ただしくは中央から北寄りスイス辺までも含んだらしい。『ローマの歴史』では「ガリア」という「属州」の重要さは数々の事変とともに、ひっきりなしに語られていたが、もっとも有効かつ果断にガリアを征定したのがシーザーであった。彼はまたローマ史に有数の散文家でもあったという。もっとも優れた遺著の一つが、簡単に手に入った。
2009 3・19 90
* 久間十義さんが新刊の読み物を送ってきてくれた。京都への往復に、いいお連れが出来た。三島由紀夫の『禁色』も文庫本で用意してあるが。さ、どっちを読み耽っての新幹線だろうか。
2009 3・20 90
* 二月末の日記に「創作者の自筆年譜」への思いを書いて置いた。「年譜」の方法論で愕然とするほど感嘆したのは、高田衛さんの名著『上田秋成年譜考』だった。
年譜には助けられたり失望したりを繰り返してきた。作品の発表年表だけでは作家論は書けない。「自筆」でないと書けないところも有る。
2009 3・20 90
* ユリアヌスとエウセピア(コンスタンティウス帝の皇后)の邂逅は、稀有の重みをもっていた。その皇后が亡くなった。股肱の臣も遙か遠くへ奪われ、ガリアに優れた戦績と治績をもちながら、宮廷の陰謀の網にひとり絡められてユリアヌス副帝は孤独。ただ戦士たちが多く彼を気持ちの上で支持している。
やがて帝と副帝とのやみがたい確執が政変をもたらすのではないか。
* 妻が『明暗』を二度読みして次ぎに『彼岸過ぎ迄』を書庫から持ち出している。わたしも手を出している。むかしからこの作にわたしは贔屓心ににた関心を寄せている。これもまた漱石作に通有とすらいえる、男の情けないところ、女のきついところが特色を見せる。
* 旅にはこれをと願っても、漱石全集の一冊は重い重い。三島由紀夫の文体や話しの持って行き方に、老境のわたしは若い昔のようには魅せられない。『禁色』には途中で忌避しそうな違和感がすでに在る。
2009 3・22 90
* 東京駅で予定より三十分早い「のぞみ」に乗り換え、社中で、持参の書き物を読み、またカエサルの『ガリア戦記』を読み、京都着。晴天。
2009 3・23 90
* 三条大橋から縄手へ、新門前へ入った。もとのわが家のあと、また建物が変わっていた。
花見小路からエイと車で室町まではしり、宿の部屋でゆっくり湯に漬かりながら、「ガリア戦記」をおもしろく読み進んだ。それから寝床に坐ったまま、二時頃まで書いた物を読み直していった。いろいろものを思った。
2009 3・23 90
* 結局三島の『禁色』も久間さんの本も措いて、旅にはカエサルの『ガリア戦記』が正解の面白さ。
ドイツとフランスというよりも、詳細な地図にも導かれながら、ゲルマーニア、ガッリアと、「聞いて見て読んで」いる方が親しみやすいから妙なモノだ。カエサルという人物の筆に運ばれて、紀元前一世紀をいくさの「旅」をしているようなもの。さすがに評判のモノは評判だけのこと有り。
2009 3・24 90
* 二日のうちに、沢山な郵便が来ていた。郵便をきちんと始末するのに時間がかかった。東大の上野千鶴子さん、親友で女優の原知佐子からそれぞれ文庫本が届いていた。
上野さんのは女縁新社会を語ったもの、知佐子のは夫君実相寺昭雄氏の『昭和電車少年』。牧南恭子さんからも読み物の文庫を貰っていた。
2009 3・24 90
* 上野千鶴子さんに戴いたのは編著『「女縁」を生きた女たち』、亡き実相寺氏の本は『昭和電車少年」で、妻の原知佐子さんが「あとがき」を達者に書いている。わたしは乗り物、鉄道等にとくに興味をもたないので、鉄道少年や鉄道作家の心理についてなにも推察が利かない。
日本人の人間関係を血縁、地縁、社縁の三つに分類されるとして、「そのどれにもあてはまらない人間関係を、女性たちがつくりだしていることに、わたしは気づいた」と上野さんは書いている。展開されるだろう『「女縁」を生きた女たち』の図柄は、まえがき二頁の頭までしか読まないまだわたしには、推察からも遠い。さて読まん。
2009 3・25 90
* 湯船の中で、のびやかに『ガリア戦記』を読んでいた。
二千数十年も昔のカエサルがすぐ間近で、広大なガッリア(フランス)や海をわたってブリターニア (イギリス)をかけまわって、なぜかしらいとも楽しげにと謂いたいほど、軽快に駆け回りながら、夥しい部族との駆け引きや支配や戦闘に日々従事しているのが、すぐ目の前に見えるよう。えもいわれず不思議である。
「背教者ユリアヌス」は、ガリアで、戦士たちにより副帝から皇帝(アウグスッス)に推戴されている。ユリアヌスはこのカエサルの『ガリア戦記』を敬意を籠めて愛読し、これを凌ぐほどの『ガリア』を書こうとしている。そんなユリアヌスの日々も毎晩読んでいる。彼のさらに敬愛する皇帝マルクス・アウレリウスもその『瞑想録』も、またわたしは好きで、読み返したくなっている。
『世界の歴史』このかた、ずうっと継続して「ローマ」に引っ張られているのが我ながらおもしろい。
2009 3・26 90
* 角川から出た昭和文学全集の創刊第一回配本は、じつに新鮮に横光利一の『旅愁』という大冊だった。高校二年だったか三年になっていたか、七条の京都美大(のちに藝大)構内に間借りしていた高校が、泉涌寺下の日吉ヶ丘に新校舎が出来て移転した頃の新発売という記憶がある。二年生のうちであったのだろう。昼食代をほとんどすべて溜め込んでいたわたしは、とびついて買い始めた。
ある時期、ともいえない今もそうだが、横光利一を川端康成の下風には置かない気持ちがあった。あい並んで、互いに兄たりがたく弟たりがたしとみて当然。そういう思いだった。
『旅愁』か、うわあッという気持ちだった。あれは全巻買いそろえた文学全集の最初で、就職上京結婚の折り、愛着忍びがたいものはあったが覚悟の程をみせて河原町京都書院に他のあれこれももろとも売り払った。
東京で六畳一間の新婚新居におちつくと、やがて講談社が百を超すという日本現代文学全集を出すと知り、最初の配本が谷崎潤一郎二巻の一巻だというので、生活は貧の底に甘んじていながら、断乎買い始めた。あの断乎こそが、わたしを作家にそだてた一切の肇まりであったろう。妻がもしも「やめて」と言っていたら、どうなっていたか。一言もそんなことは言われなかった。
* 角川の昭和文学全集は、高校生、大学生にはそれはそれは新鮮だった。意外な思いも、いろいろ持った。
太宰治が独りで一巻を占めているのには驚いた。うまく納得出来なかった。あの心中した…とぐらいにしかわたしは観ていなかった、識らなかった。家の向かいの二階に、ものうげな、どうやら人の二号さんであったらしい女性が間借りしていて、よく二階の窓から、我孫子屋のお蔦のように頤肘ついて通りを見下ろしていた。その人が太宰の代表作『斜陽』をわたしに読ませてくれたが、その作はわたしの好みに合わなかった。
吉川英治の『親鸞』が入っていたのも、新鮮かつ意外だった。文学作品というより、おもしろい読み物であった。
* そんなのに較べると三島由紀夫は青年の思いに知的にも情感でも応じてくれて真実新鮮だった。だれかと一緒に一巻ではなかったか、『愛の渇き』と『禁色』ではなかったか、そうとすると、どっちも胸を震わせた。谷崎、川端、三島という線をほぼ不動に胸に書き込んだと思う。
* 以来、三島は機会あればみな受け容れて愛読したが、だんだん文学世界が乾燥して干上がって行くようで、味気なく、敬遠ないし倦厭していった。末期の四部作も、わるくいえば、ツクリモノに思われた。大輪であってもこの人は「造花に化っちゃった」と思い、遠のいた。
そして何十年、こんど気まぐれに文庫本の『禁色』を買ってみた。
読み始めると、なによりも文章の若い才気が五月蠅く思われる。むかしはこれにイカレていたなあと苦笑しつつ、才気という才にまかせた陳述は、たしかにたいした才能であるが、文学青年の胸をはった気取りになりがちで、わたしは、こういうふうには書きたくないなあと、もっと静かに世界や人事を暮らしの空気そのものと一緒に表現したいなあと思っていたに違いない。『慈子』の書き出しのように作品の位を無用に昂ぶらせまいと願った。才気で演説されるとそこから古びてゆく危険が、読み直していて見えてくる。
劇的な展開や刺激の強烈さには三島ならではの魅力が横溢するのは間違いない。感心する。その感心は、精緻につくりあげた造花のみごとさに「藝」として感心しているという気味がある。
そういうことになると、わたしはやはり川端康成の、モノを真相から汲み取りとらえる「眼」というレンズにより深く魅される。作者が若い昔の『伊豆の踊子』などにも浮かれたり肩肘張ったりしない落ち着きがある。けったいな文学青年の衒気は無い。
むしろ川端は老境に入って、盛んな衒気とみまがう趣向の世界を、ときに朦朧と、ときに清澄に創作して、わたしを嬉しく煙に巻いてくれた。老境にこそこういう衒気が似合うんだなあと、わたしは川端康成の老いのダダっ子ぶりをおもしろく受け容れた。
谷崎の『夢の浮橋』も『鍵』も『瘋癲老人日記』もそうだった。それらは決して、三島のような造花ではなかった、変わり咲きにしても、したたかに生きた花であった。
老境の花は、あらあらしくむしろ大胆不敵に咲いていいのだ。
* 横光利一の世界は、「実験」という意向にまぶされている。若い頃の三島につながる旺盛な意欲、ただし「やっているなあ」という嘆声をさそう。
好きな画家でいうと土田麦僊。最期まで旺盛で意欲に富んだ実験家だった。実験の成果も素晴らしかった。
しかし村上華岳ではなかった。
2009 3・27 90
* 背教者ユリアヌスは、苦闘・苦悩・寂寞とした最期へ歩を運んでいる。
漱石『彼岸過ぎ迄』に、ようやく主人公の男がむ登場。ヒロインの影もちらりと。
いま、十一冊の本を就寝前に読んでいる。文語訳の『旧約聖書』が永くかかっている。いまなお「エゼキエル書」の半ば。『新約聖書』に到達するのにまだ三ヶ月以上かかるだろう。
『ローマの歴史』を二度読んだように『千載和歌集』も『蜻蛉日記』も二度目を読んでいる。
カエサルの『ガリア戦記』が、手放せないほどおもしろいのにおどろいている。
☆ 英語のあと、 花
お医者と食料品など買い物して帰宅しました。
風、お元気ですか。
風、長い小説は、なかなか読み応えがあったようですね。
花は「乱菊物語」を読みました。
前編しかないのが残念な、おもしろい読み物でした。
吉川英治の『鳴門秘帖』みたいな感じで、借りはみたものの、花が今取り組んでいるものにはあまり参考になりそうにないけれど、たまには楽しみのための読書もよし、と、思って読んでいましたら、最後の方で、太守の上総介の迎えた京の女性が、まさに括弧つきの「母」で、谷崎のその後の「松子」ものへの踏み切り台だったのだなあ「乱菊物語」は、と想いましたよ。
さてさて、四月ですね。
* 明日は三月尽
「乱菊」は面白いでしょう、大好きでした。吉川英治とは文学の質的なレベルがちがうと、そういうことも覚えて少年は感嘆しました。母モノなんですね、とても惹かれました。「盲目物語」「蘆刈」へきちっと繋がります。
「乱菊」が中途になったのは、例の細君譲渡事件があったからです。 風
2009 3・30 90
* 「道綱母」と、ふつう、呼んでいる。「兼家妻」とは呼ばれない。後者であり本妻の一人にちがいなくても、本妻格は彼女一人ではないようだ。時姫という正妻もいた。
女の素性は、おおかた、このように誰それの「女(むすめ)」または誰それの「母」と伝えられる例が多い。縦の血統がものを言う。この聡明そうな才豊かな女人にして我が子道綱への溺愛ばかりは人と変わりない。この子もよく母を愛した。
「道綱母」が泣きの涙の憂鬱を抱きしめ、夫兼家の来訪を日々に待ちわび待ち暮らして空しく待ちボケを重ね、ほとほとヒステリー状態でかろうじて気散じをはかるのは、石山寺や長谷寺や北山への物詣での旅。どれもみな印象的な叙事で『蜻蛉日記』の見映えの山をつくっている。
* ローマ・ギリシアの神々に誠心の敬愛を捧げ尽くしたローマ皇帝にして「背教者」と呼ばれる「ユリアヌス」。基督教ローマを一時的にも「異教への迷妄」と断じて復古神道ふうに基督教をユリアヌスは嫌った。嫌う心理的精神的理知的な諸理由はハッキリしている。地上的な現世の理性と生活とを、「天上」への愛と帰依の故に無視し抑圧する来世本位の基督教を批判した。アリウス派ほかの数多の異端をかかえこんで、乱雑この上なく闘争の激しい基督教教会の乱立乱闘のあさましさを嫌った。公同=カソリックへの道はまだ遠かった。
ユリアヌスのギリシア・ローマの文化に対する愛はとほうもなく深く深く、基督教の教会支配は野卑で我が儘に彼には見えたのはムリからぬ。その同情が古来多くの「ユリアヌス」を書かせた。カエサルとアウレリウス。ユリアヌスはこの二人を目標にこの二人を超えて行くことでローマ帝国に酬いられる酬いたいと誠実をきわめた。
辻邦生さんの超大作にも、ユリアヌスへの愛が溢れている。裏返しにすれば基督教に対する批判や批評がみえる。辻さんの基督教観をそう手短かに憶測してはいけないが、ヨーロッパの基督教教会が人類の歴史になしてきた数々の暴行には、無残としか言いよう無いものもある。横光利一の、『旅愁』を通じてのヨーロッパ観には、基督教の世界史的な暴力や残虐への怒りと批判とが先立って刷り込まれていた。
皇帝コンスタンティヌスは、ある時から夢告を利し、十字旗を全軍に押し立てて大ローマ帝国を完遂した。しかしまあ後の「十字軍」という「神の軍隊」の為したことは、どんな彼等の言い訳がつこうとも、第三者的には乱暴狼藉にそう変わらなかった。
だが、同じようなことはまた「別」の神を擁しても、世界中で、大なり小なり繰り返されてきた。「仏」を押し立てさえもするのである。
* 神の名において生を抑圧するような宗教は、みな「マインドの迷妄」に過ぎないとバグワンは教える。その通り。「生きる」というそれ自体が「神」の実現で在らねば。
2009 3・31 90
* 夜前、辻邦生『背教者ユリアヌス』を読み終えた。もののあはれを覚えた。
この皇帝、好きかと問われれば、わたしは頷く。政治家として大成したかどうか分からない。モンタネッリが切り捨てるように、だいたい復古主義に傾く政治は成功しないとわたしも思う。現代は伝統の最先頭で沸騰するもの、伝統も現代の最先頭で沸騰するものと、わたしは「伝統と現代」について書くことの多かった昔、よく「識字」した。ユリアヌスのギリシア・ローマへの愛が、その哲学にであろうと信仰にであろうと、所詮は新しい思潮に塗り替えられて行く。
ただ彼が基督教徒でなく基督教支配の政治的大司教たちの傲慢を嫌った真情は少年以来の孤独と不安とに根ざして同情されるものがある。また理性的にも彼の批判にはたんなる毛嫌いでない論理もある。わたしはその論理にも好意をもっている。
* 割り切って言い切れば、ユリアヌスは、神々とともに在る現実世界での人間の幸福を大切にしそれに感動した。基督教が天国を願い現世の幸福をあの世の神に供養して省みないことに飽き足らなかった。その気持ちは分かる。ユリアヌスの中には禅の生きる場がある。神々とともに嬉しく良く楽しく現実を現実として生きるのが人間の幸福というものだとユリアヌスが考えるのと、生の彼方の神へ生をささげて来世をゆるされようと生きるのとでは、天地の差がある。バグワンは後者の神をマインドの「悪しき影」に過ぎぬと云う。厭離穢土では「人間の生」が無意味にされる。
* 辻さんの小説に全面心服したのではないが、羨ましいほどの力作であること、むろん。辻さんが懐かしかった、とても。引き続いて辻さんの大作を読んでみようか。『春の戴冠』もある。ほとんど全作品をわたしは戴いている。
2009 4・1 91
* あけがた、はなはだ「適切な」「論理的な」夢を見続けていたと思うのに、皆目思い出せない。そこが面白い。
* 『ガリア戦記』は巻七までカエサルの筆になり、巻八は側近の筆が取り纏めている。巻八の冒頭まで読み進んで、カエサルの筆記のえもいわれぬ面白さに惹き込まれつづけた。観念は書かれていない。即物的なまで具体、具体が些かの饒舌なく書き継がれて、ガリア=おもにフランスを縦横に無二無三疾駆し戦闘し続ける名将の聡明と理知と政治性とが炙り出しの繪のようにあらわれる。ところどころ実に明晰にガッリア人やゲルマーニア人の暮らしと戦術と人情の特質が「観察」「分析」されている。すばらしいラテン語とは世界史的な不動の評価だが、そこまで味わう能のない読者なのがもったいない。
* これでわたしも、あのユリアヌスが憧憬した古代ローマの二人の皇帝の名著、『ガリア戦記』とアウレリウスの『瞑想録』とをふたつとも読んだことになる。ありがたし。
2009 4・2 91
* ある人の、兼好の恋を語った本が新聞に紹介されたのは、いつごろだったろう、もう一年どころでない以前ではなかったか。鬼の首をとったかのようなはしゃいだ論旨だったが、とうのとうの昔から、わたしだけでなく、然るべくしかと学者たちも言及していた、論じてもいた「旧聞」に属する内容で、つまり著者が検索・博捜の労を省いただけのお安い勇み足であった。そのとき他用の縁もあった版元に、モノもみせ、少し申し入れておいた。「お返事を速やかにさし上げます」との責任者の弁であったが、それきりだった。
最近又ちょっと他用のさい、ナシのつぶてだねとわらっておいたら、昨日、著者からの封書が届いた。
せっかくの「封」書であり、いまさらの話なので、封書のまま蔵っておく。
2009 4・2 91
* 「ペン電子文藝館」をみると、「評論研究」室の高村光太郎の戦争讃美の一文『戦争と詩」が、「詩」の部屋の「招待席」に移転され、『高村光太郎作品・抄』とある中で、ご丁寧に戦争讃美「太平洋戦争中の詩」篇の、さながら「自注」かの如く掲示されている。目次をみると
『道程』(大正3年)より
冬が来た
道 程
『智恵子抄』(昭和16年)より
人 に
樹下の二人
人生遠視
千鳥と遊ぶ智恵子
太平洋戦争中の詩
十二月八日
真珠湾の日
彼等を撃つ
[評論]戦争と詩
敗戦後の詩
終 戦
報 告(智恵子に)
わが詩をよみて人死に就けり
となっていて、この比率から見ると、高村光太郎という詩人を、戦時中に戦争讃美の詩を書き、それによって若者たちを死なせたと戦後に悔いていた事実を主眼に「紹介」したとしか思われない。看板通り「高村光太郎作品」の「抄」であるならば、とてもこんな小手先の選抄ではすまない。光太郎の場合、「作品」と謂うなら「彫刻」も含まれるなどとは、この際、云わない。
しかし彼の詩集には冊数必ずしも多いといえないにせよ、「道程」「造形詩篇」「猛獣編」「道程以後」「智恵子抄」「典型」「典型以後」「ヱ゛ルハアラン詩集」などがある。詩論も随想も、「みちのく便り」も「アトリエにて」も「ロダンの言葉」「続ロダンの言葉」もある。宮沢賢治と二人で分けた大きい日本現代文学全集一冊の、半分二百数十頁を、小活字と混んだ二段組みとで作品が選ばれていて、厖大量在るが、その中に「ペン電子文藝館」のことさら取り上げた、戦中戦後作は『典型』中の「暗愚小伝」に含まれた「真珠湾の日」のほか影も無い。
委員会は少なくも「暗愚小伝」を深切に読んだのだろうか。
その序文は、稀有痛切な悔恨と反省の弁に満ちている。彼は戦時中、「特殊国(戦時日本)の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた」と、その「序」に明記している。自己批評と懺悔にあふれている。
もし、「ペン電子文藝館」が掲載するなら、この『典型』が包み込んだ「暗愚小伝」の全編を、懇切で的確な説明紹介とともに載せるならまだしも、ぽっちりのツマミ食い。いったい何を考えているのか。高村光太郎の愛読者たちは、ことごとく、この「ペン電子文藝館」の委員会による、かかるねじ曲がって貧弱な「抄」で、「高村光太郎の作品」を代表されるなど、認めないであろう。こんなものを「高村光太郎作品」の大体・大筋でござると、わざわざ「招待」して世に公開する何の意義が在ろう、明らかに間違っている。この選抄に関係した人たちの、文学を見る目の無さだけが貧寒とひびいて露呈されたに過ぎない。
これは担当役員と執行部の責任でもある。
* 岩波文庫の『高村光太郎詩集』は、「道程」「智恵子抄」だけを選び、「典型」を採っていない。光太郎自身の強い意向に拠っている。「愚劣の典型」という光太郎自筆の自覚が尊重されたのであろう。
「もう一つの自転するもの」など、光太郎には「戦争反対」の気持ちの明晰に濃厚な詩もあったのである。目配りを欠いて、大きな先達を、読者の前に誤ってはならない。
* 「ペン電子文藝館」の詩人「略紹介」はこう書かれている。
☆ たかむらこうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。ここでは戦前、戦中、戦後の詩、ならびに戦中の評論を列挙することで光太郎の精神史を振りかえりたい。底本は主に新潮文庫に拠った。
ここに云う「列挙」とは、、「多大の功績」ど挙げることなく、要するに高村が戦争讃美者として戦中、文学報国会の要職にあったが、戦後にそれを悔いて独り山間に逼塞したという「事実」のみを、極めて極めて不均衡に強調したに過ぎぬ。「戦争を讃美した詩人」という紙の冠を、高村光太郎の存在にたんに汚点としてかぶせてみせたと云うに過ぎぬ。これで光太郎の「精神史」を「振りかえ」られては堪らない。
「ペン電子文藝館」「招待席」の主旨から見ても、とんでもない無礼であり、委員会にいまもって自省のないのが訝しい。
* 繰り返していうが、こういう方面からも高村光太郎は「批評しうる」と云いたいなら、(それに否やは云わない。)しかるべき研究者の文責明らかな論考によって真っ向「批評」として為すべきである。「招待」しておきながら、いわば「旧悪」(とぐらいに光太郎自身悔いておられた)を、適切な説明もなく天下に公開するなど、そんな失礼な権限をいつ日本ペンクラブは先人文学者に対し持ったのかと、一理事、一会員として厳重に抗議する。即刻、掲載を取り下げてほしい。
* この際、ついでに言って置くが、ペンの会員には入会時、詩人は詩人として「P」会員にというぐあいに、「P」「E」「N」会員にそれぞれに「登録」されている。業績と専門性とを評価して入会を認めるのである。
当然にも、「ペン電子文藝館」に会員作品が掲載されるのも、詩人は詩で、歌人は短歌で、小説家は小説で、エッセイストはエッセイや論文でと最初に規約されていた。
ただし、文学者には小説家でありながら評論でも詩歌でも、同じく公刊著書が何冊もあり世間もその道の人として公認し是認している人がいる。「N」会員であるけれど評論家や詩人としても他が認めている。そういう例外に限り「ペン電子文藝館」に、登録を越えて作品が出せるはと、やはり最初に申し合わせてあった。
裏返せば、小説など書いたことも著書もない例えば詩人が、「ペン電子文藝館」に小説を書くという越境は、しないし、させないという約束になっている。詩人としては玄人でも、小説家としては素人。素人藝を否定するのではないが、その「藝」は、順序として文壇内での活躍や著書公刊で世間で「認められて来て欲しい」という意味である。文学の「質」を大切にする以上は、当然の話。
ところが、これが、守られていないのではないか。
また同一人の寄稿が重なりすぎぬ為に、「一年間に一作」と厳格に決めてあったのも、崩れていないか。
「ペン電子文藝館」はただの作品公開機能ではない。読者のためには、会員がそれぞれ専門の秀作を呈する場所である。安易な利用は館の自殺行為である。「招待席」を設けたのも館の「質」レベルを高く維持するためであった。
委員会の率先励行を望みたい、気がかりである。
* いい機会なので、高村光太郎の詩と散文とを読み直そうと書架の本を引っ張り出してきた。
2009 4・3 91
* 好機とみて高村光太郎の詩を、「道程」から読み返して、少年のむかしとは較べようもなく感嘆に誘われている。「失はわれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の國」「熊の毛皮」「亡命者」「食後の酒」「寂寥」「声」「新緑の毒素」等々、心惹く詩篇たちは割愛のわが手を痛く締め上げるほど、美しく厳しく自己主張してやまない。
なぜ、こういう光太郎をこそまっさきに「招待」しないのか。なぜ、よりによって本人も悔いに悔い、大勢の読み手も疎んじ避けて通ってそれで「いい」と思っているような、大詩人の恥部を、意地悪く真っ先に晒しものにしたがるのか。分からないし、恥ずかしい。
2009 4・4 91
* 『ガリア戦記』は読み切った。
漱石の『明暗』を読み『彼岸過ぎ迄』へ戻っているが、いいしおに夏目鏡子夫人の口述筆記『漱石の思い出』と子息伸六の『夏目漱石』を並行して読み始めたのがすこぶる面白い。さらについでに福田恆存の『作家の態度』も読み始めている。
2009 4・5 91
* 今度の久間十義さんの本は途中で挫折。どうしても合わなかった。かわりに亡き天野哲夫(沼正三)に貰っていた大冊『許されざる青春』を読み始める。色川大吉さんの「私史」と時代が重なるのも興味のもてるところ。踏み込んで読み進みたい。
2009 4・6 91
* 高村光太郎の詩と文章とを、機械の傍で、休息のつど貪り読んでいる。この厖大な詩業から「選」するとなると、それはもうたいへんな傾倒を、たいへんな鑑賞を要する。しかもその中には戦争讃美の何ものも入っていない。厳しい「美の使徒の、苦行者の、耽溺者の」熱い尊い呼吸がせまってくるだけだ。だれが彼を「冒涜」して良いものか。
2009 4・7 91
* 鏡子夫人の『漱石の思い出』は以前に読んだときはわたしが漱石に依怙贔屓し、あまり愉快に読まなかった。ところが、そういうことからすっかり解放されて新しく読んでいると、すこぶる率直、妙な右顧も左眄もなくて気持ちよくこころよく、どんな漱石であろうとも頷いて読める。
ま、この夫人の何のこだわりもなく親類縁者に関しても何の遠慮会釈なく思ったまま知ったままが語られて、顔面に強いシャワーを浴びている感じ。
伸六さんの漱石追想も併行して読んで行こうとしている。
『彼岸過ぎ迄』はまだ敬太郎が妙なステッキを握って探偵ゴッコに励んでいる。妻は『行人』へ進んでいる。これも読みたいがこれまで何かというと『明暗』とは別の意味で敬遠してきた『道草』もぜひ読みたい。
* 何ということなく、『ガリア戦記』のような有名本を読んだのだから、今度はエッケルマン『ゲーテとの対話』三巻に胸を借りようと、書庫から持ち出し、昨夜「お目見え」した。
一夜に床の上で読む本が、なぜか十四冊にも増えている。なかなか眠れない。その間に黒いマゴが出たり入ったりする。勢い朝寝坊に追い込まれている。よろしくない。明日は早くと。
2009 4・8 91
* 『ジャン・クリストフ』がやや佳境を誘い寄せている。それが嬉しい。いま、クリストフと母の兄である伯父さんとのあいだに「至福の歌」が響いている。なんというすばらしさ。
それにまた若いエッケルマンを「対話」の友として心から信頼し身近にいてほしがる、偉大なゲーテの悠揚迫らぬ風格。その美しいこと。
夏目鏡子の、なにかまうこともないサラサラとしたウソ偽りのない容赦もない、だがほのかに温かい語り口。いい奥さんだ、悪妻だなんて、とんでもない。
2009 4・9 91
* 兵庫県の田中荘介さんは、勤続五十年の学園を退職。記念に、エッセイ等の限定本を編まれた。戴いた。
2009 4・10 91
* 名古屋市大の谷口幸代さんが興味深い、じつは内心関心を持って待望していた、文士の「原稿料」に関わる学術論文をつづけて二編、「出版文化の基礎的研究」として発表、送って下さった。
谷口さんのはともに室生犀星を対象にしていて、なかなかの犀星文学論になっている。こういうことをもきちっと抑えておかないと、近代文学もかれこれ百五十年、手のつけようが無くなってくる。
いま漱石夫人の『漱石の思い出』を楽しんでいるが、漱石の家庭も、結婚から『猫』が本になる頃まではえらい貧乏で、親類知人からの借金を繰り返さなくては家計の切り盛りが出来なかった。
漱石の創作は沸き立つ意欲と才能の問題であるとともに、原稿量や印税の魅力・実効力にも引っ張られていた。『猫』が売れに売れたのは奥さんにすれば真実救いの神であったし、漱石もよく認識していた。
なにといっても「三文文士」という言葉が普通名詞であった、明治から戦前までは。自然主義も私小説も、難しい議論もさりながらメシの種の原稿料は否応ナシの推進力だった。こういう基礎研究は大きい意味をもつ。
* 似た感じの別方面の文学研究で、わたしは九州の横田一彦さんの熱心な「発禁」研究にも「敗戦期文学』研究にも興味を寄せ、声援している。
2009 4・10 91
* 前田愛の『一葉の世界』は優れた成果であった。優れた論文を数々読んできたなかでも、前田の一葉論は面白くて正しいのがいい「評論」の本道を極めている。天晴れの成果である。面白かった。そして一葉の文学の凄みを前田愛の文章で証明しているのが正しいと思えて面白かった。論文としても評論としても優れていて、評論の書きたい人にはすばらしいお手本の一つを成している。
まだ途中だが福田恆存さんの『作家の態度』冒頭の歴史的な観察と論考も示唆豊かに優れている。
* 三島由紀夫の『禁色』は、力ある作家の創作であることを証明しつつ、観念的で全身に痛いような力が入っている。薔薇の匂いと柔らかい花びらに触れているような『ジャン・クリストフ』の観念を読む嬉しさと、三島の観念が押し込んでくる窮屈さとは、どこでどう何が違っているのだろう。
2009 4・11 91
* 『千載和歌集』を二度読んだ。二度目は、分かる、読み取れるものにざっとシルシをつけた。つけた分だけをさらに精選してみたい気がする。この頃の和歌世間のはやりは「題詠」で、つまり題に応じて「その気」になって境涯を、場面を、真情を「つくり」出す。だから坊さんも熱烈な恋の歌をつくるし、まばゆい貴族が質素簡素な情景に身を置いて「つくり」だす。たくみな「つくり」ものが採られている。それなりに技巧の美も感情移入の真率も観てとれる。それら「つくり」ものの歌にまじって、呻き出るような声や言葉の歌もまじっている。読み分けねばならない。
双方を通じて、やはりこの時代の歌風がある。選者俊成の好みの歌風もある。頑固に宿敵六条家の歌や歌風に俊成は抵抗している。さらにその背景に、保元の乱で争った兄崇徳天皇と弟後白河天皇の曰く言い難い思い交わした「意図」のようなものがあり、俊成はそれをかなり真率に「承け」て選している。千載和歌集そのものが幾重もの「層」を成していて、簡単なモノではない。
オッと思って立ち止まると、それは俊成の子定家の百人一首に選んだ歌であるから、さすがである。数えていないが、この和歌集から定家はかなりの数の秀歌を百人一首に抜き採っている。父俊成が選んでおいた中からさらに定家が百人一首に選び出している。選ばれた歌には時代の、俊成の、定家の息が多層に籠もっているわけだ。
なるほどと思わせるほど、それらの歌には独特の重量感がみてとれる。
* もう一層精選してみようかなと思っている。三度目を読むことになる。
2009 4・12 91
* このところの根の疲れで妻も終盤すこし不調に悩んでいたが、それでも地下鉄でも西武線でも坐って帰れて、二人とも遅くまで床で読書。
『ゲーテとの対話』のあたたかさ、『ジャン・クリストフ』のすばらしさ。それにひきかえ三島の『禁色』は、力作は分かるが不愉快に気の沈む、イヤな小説。だがわたしもイヤなと思われるであろう小説を書き進んでいる
2009 4・14 91
* いま、気を入れて読んでいるのが福田恆存の『作家の態度』これは昭和二十二年の処女出版だそうで、大事なのは巻頭の文学史的追究である。二葉亭四迷、志賀直哉、葛西善蔵、嘉村礒多という押して行き方が意表に出て、すこぶる刺激にも示唆にも富む。、二葉亭、藤村、花袋という展開の文学史的追究に多く触れてきたが。福田さんは目次のこのあとへ芥川龍之介、横光利一や永井荷風を置いている。
* ほとんどエッケルマンその人と同じ謙虚さで読んでいるのが『ゲーテとの対話』で。偉大なゲーテは、よほどエッケルマンという青年を愛し信頼して親しんだ。「一事を確実に処理できる人は、他のさまざまなことができるものだ」と青年を気持ちよく迎え入れて暖かく親切に青年に対している。
ゲーテとはいわないがずいぶん多くの先達にわたしもお世話になった。このあいだ貰った人の手紙に、わたしに対して中村光夫さんらがすこぶる親切で温かいのに感嘆しました、昔のえらい人はえらかったなと思いますと書かれていたが、唐木順三、臼井吉見、河上徹太郎、吉田健一、瀧井孝作、永井龍男、井上靖、福田恆存、山本健吉、和田芳恵、杉森久英、野村尚吾、立原正秋、辻邦生あるいは森銑三、下村寅太郎、鶴見俊輔、長谷川泉、谷崎松子等々、数え切れない先達先人に背を押して頂いた。さもなければわたしのような者がこの世間で曲がりなりに生きてこれたわけがない。それはともかく、…
ゲーテはエッケルマンに最初に言っている、「静かに勉強しておいでなさい。結局そこから定まって最も確実な、最も純粋な、人生観と経験とが生ずるからです」と。こういう包括的な助言を大きなまえおきに、二人の間では「詩」が話題になりやすかったが、最初に大作『ファウスト』の作者であるゲーテはこう若いエッケルマンに教えている。
「大作をしないようにしたまへ。優れた人々でも大作には苦しむ。最も豊かな才能を持ち、最も真摯な努力をする人々でもさうだ。私もそれで苦しみ、それが身にしみてゐる。」以下縷々語るゲーテの言葉は体験と叡智とに根ざして懇切具体的で的確。感動する。
エッケルマンが謙虚にまた喜びに満たされて書いている。「ゲーテの言葉によって数年分も賢くなり、進歩したやうな気がする。又立派な大家と邂逅する幸福の何たるかをしみじみと感ずる。その利益ははかることができない」と。
わたしはこの『ゲーテとの対話』を昭和二十六年九月八刷の岩波文庫で最初に読み、赤鉛筆で線をたくさんひいている。いまこのエッケルマンの述懐を誘う、同じようなことをわたしは卒論の試問を受けたすぐあとで、京大の井島勉先生から聴いて肝に銘じたことがある。最初の研究は一から自力で開いて行くのだが、その切りひらいた道の先でまた先達が同じ道を拓こうとしていたのに気づくことがある。博捜と創意とを仲良く協力させていると、道はもっともっとさらに拡がるし伸びてゆく、と。
* バグワンもまた何度も何度も繰り返し読んでいて、たんなる繰り返しに感じさせない力で、わたしに話しかけてくれる。
* バグワンに聴く 生は呼吸とともに始まる 訳者スワミ氏に感謝しつつ
神がアダムをつくったところ、アダムは死んでいたと言われる。そこで神はアダムに息を吹き込み、アダムは生命を得た、と。
同じ話は、キリスト教、ヒンドゥー教、ユダヤ教をはじめ、世界中の数多くの創世神話に語られている。
この話はとても大切な意味を持っているように見える。その意味とは、おまえが息をするとき、息をするのはおまえではなく、神がおまえの中で呼吸するということだ。(全体=謂わば小波に対する大海)がおまえの中で息をする。これはごく深く理解されねばならない。
呼吸は、最も重要なものだ。それとともに生が始まり、それとともに生が終わる。それは最も神秘的なもので、それなしには生命はあり得ない。生命は呼吸の影にすぎないかにも見える。呼吸が消えるとき、生命も消え失せる。だからして、この呼吸という現象が理解されねばならない。
生まれて来る子供はどれも、息をするまで本当に生きているとは言えない。残された時間はごく短い。、もしその子が生まれてから息をすれば、そのかたときの間に、生命がはいり込む。もし息をしなければ、その子は死んだままだ。
生のその最初の数瞬こそ、最も重要なときだ。医者たちも両親も、みな子供が生まれるときは気が気でない。ちゃんと息をするだろうか? 息を始めるだろうか? それとも死んだままだろうか? またしてもあらゆる神話にある通り、あらゆる人間の中にふたたびアダムが生まれるのだ。
子供はひとりでは息ができない。そんなことは期待する方が無理だ。子供はどうやって呼吸するか知らない。誰も教えていない。これがその子の最初の行為になる。ということは、その行為はその子自身の行為ではあり得ないのだ。
もう一度くり返そう。これはその子の最初の行為であり、同時に最も重要な行為となる。それがその子の行為であり得ないのはそのためだ。もし神がそれをなせば……オーケー。もし神にその気がなければ……終わりだ。
(全体)がその子の中で呼吸しなければならない。その数瞬がサスペンスに満ちているのはそのためだ。疑い、懸念、恐れ……。というのも、可能性はまだ五分五分だから。その子は死んだままかもしれない。その場合は手の下しようがない。子供にはどうすることもできない。両親にもどうすることもできない。医者たちもどうすることもできない。人間は無力だ。ことは(全体)にかかっている。
できるのは祈ることだけ、われわれは深い祈りの中で待つしかない。もし(全体)がその子の中にはいり込めば、子供は生命を得る。さもなければ死だ。
この最初の呼吸は(全体)によってなされる。そして、もし最初の呼吸が(全体)によってなされるのだとしたら、呼吸に左右されるほかのあらゆることも、おまえの行為ではあり得ない。もし自分で息をしていると思ったら、おまえは道を踏みはずしている。そして、この誤ったステップのために、自我(エゴ)が生まれる。エゴとは蓄積した無知のことだ。
おまえは勘違いをした。いままで呼吸をしてきたのはおまえじゃない。(全体)がおまえに息を吹き込んできた。ところが、おまえはそれを、自分が呼吸しているかのように思っている。
呼吸という最初の行為が、おまえと(全体)とを橋渡しする。おまえを(全体)とひとつにする。そして、それに引きつづくすべては、おまえの行為ではない。この最初の呼吸のあと、おまえが死ぬまで、最後の呼吸まで、起こるすべては〈全体〉の行ないであるだろう。〈全体〉がおまえの中で生きるのだ。
こうしたすべでを、自分がやっていると思うのは自由だ。が、そうしたらおまえは無知の中で生きることになる。もし、〈全体)がすべてをなしていること、身分は(全体)に支配され、それによって息を吹き込まれていること、自分は一本の中空の竹、一本の笛にすぎないこと、音は(全体)から来るものであること、生全体がそこから来ることに気づいたら、そのとき、おまえは悟りの生を生きる。
無知と悟りの違いは、これだけのことにすぎない。一歩踏みはずすだけ、自分がそれをやったと思うだけで、旅全体がそっくりおかしくなってしまう。しかし、正しい一歩、自分の中でそれをやっているのは(全体)である、自分がやるのじゃない、自分はただの場、神の遊び場、神の歌を奏でる一本の笛、一本の葦、その中を神が流れ、動き、生きるひとつの(無)である、というその一歩を踏めば、そのとき、おまえはまったく異質な生、光と至福の生を生きる。
これが最初の行為だ。
* わたしは、いない。だからわたしは、いる。
* さ、出かけよう。
* すこし羽根を伸ばしてきた。
* 『作家の態度』に教わっている。志賀直哉をこう読むのかと、なるほど漠然と感じていたことをほぼ完璧に修正し確認してもらった、福田恆存さんの処女評論集に。
2009 4・15 91
* 書庫へ入っていて、ふと『女人春秋』と外書きのある紙包みに目が留まった。何かなと紙包みを解いてみると、原田憲雄さんが中国の閨秀詩を選し、森田曠平画伯が繪を描かれた特製本で、二十五万円とある。森田さんに戴いたのであろう、こんな「お宝」がほとんど手つかずに棚の上で眠っていた。忘れていた。
また箱入りの美装、安田靱彦、小倉遊亀ほかの装画がみごとな新書版『谷崎潤一郎訳源氏物語全巻』が目についた。箱から出してみた第一巻の見返しには、見覚えの麗筆で谷崎松子夫人の署名があり、「秦朝日子様」と娘の宛名書きをして贈って下さっている。
書庫にはいろんな、わたしも忘れている佳い物が隠れているが、なかなかそこでゆっくりしていられない。。
2009 4・19 91
* 蜻蛉日記を、誤訳のいくらかまじる晶子の訳で読み、ついで文庫の原文で、さらに全集の原文と語注とで読み継いでいて、裏切られることのない読み応え、興趣に満足している。今西祐一郎さんに戴いた『蜻蛉日記覚書』を更に併せ読んで行こうという気になった。蜻蛉日記は、まちがいなく日記文学のオリジナル・トライのようであるが、名高い謂わば『伊勢日記』(伊勢物語ではない)のような類似の歌物語を前蹤にもっている。
とはいえ、またまちがいなく「伊勢日記」のような雲の上の物語を突き貫いて、生活者の、知識人女性のといいたい個性、著者である道綱母の人格が行文を支配して、「日記」を超えた「私小説」へ発展し充実して行く。あてずっぽうの世の常の早合点から、泣きの涙の恋々たる愚痴日記と思われがちであるが、なんの。ガンとした、負けていないリアリストがここにいる。「負けていない」を、夫婦仲のことと謂うのではない。問題意識を持って生きて行く女性という意味でいうのである。
その意味では、源氏物語や夜の寝覚などの先駆の意義も主張していい、優れたオリジナルトライである。
* オリジナル・トライという意味では『土佐日記』もそうであり、これには虚構の創作度も加わってくる。女の身に成り代わった紀貫之の創作日記であり、「男もすなる(漢文の)日記」に女が似せて書いている建前が、漢字で書く男の具注暦同様に日付を省略していない。書くに値する人事の記事が無くても、日付と、なにがしか天候や泊まりの場所などだけでも書かれる。わたし、そういう日記記事のもつ表現効果をじつは重く見ていて、必ずしも具注暦に倣っているだけとは思わないが、こういう日記本来の日付などを余儀なく、また意図的に欠いた蜻蛉日記の日記とは、おおかた追憶、記憶を書き記すという仕方に従っている。のちのちに続く多くの女日記の半ば以上が土佐日記型ではなく、蜻蛉日記型だが、土佐日記型がすっかり無くなっているとも言えないだろう。むしろ時代が降れば土佐日記型へまた落ち着いてくるとすら言えなくない。
* ずっと以前に考え、思いあぐねて放り出したことだが、源氏物語の「繪」合で、たしか竹取物語と伊勢物語とが付き合わされ、竹取の詞は紀貫之が書き伊勢のは小野道風が書いているのを、何故かと。
後者は問題外で、わたしは竹取を土佐日記の紀貫之に書かせていた紫式部の思いを問うていたのだった、そして竹取物語のモチーフを溯り問いかけていたのだった。関連してまた土佐日記の虚構をも追究したい気持ちであったのだ、が。
* いろんな「思い」「思いつき」を、振り返ればぼとぼと、ぽとぽとと通ってきた道にこぼしてきている。ときどきそれがずいぶん汚らしくも見える。
2009 4・20 91
* 亡くなった「鷹」主宰藤田湘子さんの『全句集』とその「季語索引・初句索引」を、「鷹俳句会」と遺族関係者から贈っていただいた。有難う存じます。
淡い交わりであったが、ご縁はまだわたしが医学書院の編輯者勤めであったころ、しょっちゅう取材に出かけていた日大小児科で、医局のある先生に声を掛けられ、「鷹」にエッセイを一つ書きませんかと頼まれた。わたしはまだ世に出た作家でも何でもなかったのである、あるいは一、二私家版でも出していたかどうか。その若い小児科の先生が俳句をなさることすら知らなかった、驚いた。
だが、わたしは書いた。昭和四十一年「鷹」二月号の「石と利休の茶」で、題と本文に誤植各一ありと年譜にある。題が「利久」になっていた。ま、頼まれて書いた原稿のこれが第一作で、主宰藤田さんとの直接の縁ではなかったけれども、忘れがたい。
爾来、亡くなるまで、ときどき顔があった。雑誌はずうっと戴いていたし、著書や「湖の本」も贈っていた。
俳人では、のちに湘子さんとご縁が濃いらしい能村登四郎さんと知り合ったが、お目にかからぬうちに亡くなった。岸田稚魚さんも亡くなった。亡くなった人を数えているともう際限がない。
* 俳句に魅せられることは深いが、それだけに手を出しかねてきた。それでも、ときどき書き留めるようになっている。サマにもモノにもなっていないが、短歌とはちがった感触がある。
藤田さんのこの大きな遺著、ことに別巻の季語索引はこれからお世話になりそうだ。十一集ある最期の句集の『てんてん』という題が好きだ。最期の五句を噛みしめる。
月細し隣近所の春のこゑ
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ
億万年声は出さねど春の土
われのゐぬ所ところへ地虫出づ
草川の水の音頭も春祭
2009 4・21 91
* 夏目鏡子『漱石の思ひ出』(角川文庫)は、もう漱石「死後」に、長与又郎が解剖所見等を学会報告した記事半ばまで読んでいて、あとは「葬儀の前後」と「其後の事ども」だけを残していた。一気に読み切り、筆録した松岡譲の「編録者の言葉」も、漱石次男夏目伸六の「解説」も、興味深く、共感して読み終えた。
ついで伸六さんの『父 夏目漱石』(角川文庫)を、後半の「父の胃病と『則天去私』」から読み継いでいって、あまりおもしろく、読みに読んで行くうち目は冴え冴えとし、そのまま、「父・臨終の前後」「父の手紙と森田(草平)さん」「岩波茂雄さんと私」「自誡」「漱石の母とその里」「母のこと」「あとがき」まで、わき目もふらず読み切ってしまった。
もうどうしても眠れない。鳩の声を聞いたり、黒いマゴを外へ出してやったり入れてやったりしているうち、空腹を感じ、五時半にわたし独り起きてしまった。パン一枚をバターと砂糖で食べ、生卵一つとミルクとを飲み、ゼリー菓子を二粒食べた。血糖値は、119。心持ち高いが、良の範囲内。
で、機械の前に来た。
* 夫人と子息との二冊は、ともに甲乙無くすぐれて面白く、かつ貴重な、これほど「近親による追憶記」で優れたものはないほど、大切な貴重なものであった。あいついで、「明暗」「彼岸過ぎ迄」「行人」「道草」と読んできたときだけに、奥さんの「思ひ出」の詳細で具体的で端的かつ率直なのが、なにより有り難く、舌を巻くほど感嘆。
この人のどこが「悪妻」なものかと、在来の、主に小宮豊隆を震源とする無用で見当違いでバカげた批評に、改めてまた反感すらもった。
もともと小宮の「漱石解説」を少年時代からイヤほど繰り返し読まされてきたが、わたしは肯定できなかった。モノの譬えにも、あの『心』を「先生の遺書」だけで読んでとくとくと解説する鈍感に惘れてきたし、「則天去私」をまるで開けゴマかのように大層にふりかざされるのにもウンザリしてきた。
繰り返し述べてきたように、漱石という人は、ついに「静かな心」をもつことなく死んだ人だという「断定意見」のわたしは持ち主だが、伸六さんまた明瞭に、「則天去私」をたんなる言葉としてのみ受け取り、父漱石はそんな心境や覚りとは無縁に、精神としての生にも肉体としての生にも最期まで苦しんで死んでいったと思うと言い切って、何の躊躇もない。しかも漱石の死に深いと愛情をもっている。
夫人にしても、伸六さんも、臨終のまぎわまで雲集した漱石信者たちとはちがった冷静な、家族血縁の目で夫や父をまさしく情愛と感慨に溢れて眺めていた。ともに生活していた。家族であるから見えないという点も、むろん、有るのである。が、こと漱石に関しては、信者たちが盛んに自信満々で「祭りごと」しすぎるあまり、かなり文学青年や老年たちの独りよがりも横行してきたのである。
奥さんも伸六さんも、もとより漱石門下生として人一倍の親愛信頼も寄せつつ、また明瞭に例えば小宮豊隆や鈴木三重吉や森田草平ら過剰なまでに親昵の過ぎた門生たちに対する辛辣な批評を少しも隠していない。
漱石を神格化し、小宮など「漱石神社の神主」ともいわれ、しかも夫人を名指しで「悪妻」と指摘し吹聴して少しも慎むところがなかった。これらに反噬する妻と子との言説には、したたかで簡潔・的確な落ち着きが読み取れる。読んでいて少しも不愉快がない。認めるところは認めて、温かい。
なによりも奥さんの夫・漱石に対する態度は、とてもとても悪妻のそれではなく、この人でなかったら漱石はとても彼処まで生きられなかった、創作できなかったろうと、おのずと頭を下げさせる自然さと思い切りの良さに溢れている。達人ですらあるか。
漱石は「病識」あきらかに自身の精神病に苦しんだ。奥さんも、子供たちも、トテツもなく苦しめられた。いまどき言われる夫や父の迫害どころではなかったが、この夏目鏡子という奥さんは、実に早い段階で「そういう病気」だと分かればそれはそれで受け容れるだけのこと、当然妻としてそれにも付き合って行くと覚悟し、終生ブレていない。凡な女性にはゼッタイできなかったろう。そういう夫との間にこの夫人は六人もの子女をなしている。
献身という言葉にはいろんな意味がつきまとうが、鏡子夫人には献身といった言葉がジメついて似合わないほど、からっとした、諦悟に似た似合い方で伴侶の地位を一度も乱れず守りきっていた。
漱石は、こう、人への手紙に書いていた。
「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。君の夫婦が親しければ原則に叶ふ親しからざれば常態に合すいづれにしても外聞はわるい事にあらず」と。
常態を保ちながら原則に近づいて行けば宜しく、病気の時をのぞけば、父漱石と母鏡子とはそういう夫婦としてきちんと夫婦生活を歩み通したと、伸六さんは世の低級な「悪妻」説を嗤っているが、大いに嗤われよと、わたしも漱石に、漱石夫妻に、伸六さんに心から同調する。
『思ひ出』ももう最期に近く、漱石は関西から二人の若い雲水を東京の我が家に迎えて歓待している。歓待という以上に、漱石は、眼から鱗を落とすほどの敬意と親愛とでこの若い二人をながめ、また関西へ送り返した。そのイキサツを語る夫人の言葉に、わたしは感涙を洩らした。
五十の漱石は、雲水の前に、自分はこれまで生死の何たるかもろくに考えたことがなかった、恥ずかしいとまで言っている。そしてほどなく死んで行く。則天去私どころでなかったし、或る意味でもっと素直なやわらかい気持ちに近づこうとしながら死んだのだ。
この妻と息子との二冊は、夫や父を毫も辱めていない、じつにきちんと正直に夫に父に対してきたその満腔に発した佳い言葉で語り継がれている。軽々に漱石論をなす者らに対抗する、二人は強大で、切実な、すぐれたタッグチームと謂える。しかもすばらしく興味深く達筆である。稀有である。
漱石を語る者、これらと向き合っておく手順を忘れ給うな。
* 晴れた日の空いた電車ほど、孤独になれてよく本の読める場所はない。迷いっこない恰好の長距離を往復して元へ戻ってくるだけで用が足りる。退屈すればやすんで窓外に目を遊ばせていればいい。漱石づいていて、岩波文庫の『漱石文明論集』が丁度興に乗っていくらも読める上に、中公文庫福田恆存さんの『作家の態度』の芥川龍之介論がたいへんな力作で、読む方も力業を要する。こういう本は、独りになっていないと読み進めない。浴室か空いた電車がいい。とても面白く、ときに興奮する。
2009 4・23 91
* バグワンの『TAO 老子の道』上下巻をまた読み終えた。新しく、初読みの一巻に向き合っている。
2009 4・27 91
* ゲーテに魅されている。大いさのケタがちがう。
* 千載和歌集を最初通読し、次ぎに、佳いな好きだなと思うのをえらび、三度目は選んだ佳いな好きだなから、更に佳いもっと好きとおぼしきを選び、今四度目、好きな秀歌を選び残している。
蜻蛉日記も、最初に晶子の訳で読み、次いで原作を読み終え、いま三度目をゆっくりまた読み進んでいる。気がつくと、いま、毎夜十四冊も読んでいる。これは多すぎる。せめて寝しなの寝床では半分に減らしたいが、やがて千載和歌集が外れるだろう。
漱石の『彼岸過ぎ迄』と『道草』は読み始めるといくらでも読める。これと対極のように三島の『禁色』と天野哲夫=沼正三の『禁じられた青春』とがはからずも男色もので、なかなか気が乗らない。まだしも沼のものは自伝であり、同時代への過激な批評を孕んでいて読ませるが。
『ジャン・クリストフ』は、ひたすら佳境に入って速度感の増すのを待っている、辻さんの『背教者ユリアヌス』がそうであったように。
法華経と旧約とバグワンとは、ただひたむきに。
漱石の『文明論集』も頁を赤く染めながら楽しんでいる。その「開化」論の端的に鋭いこと。「愚見数則」に打たれる。
2009 5・3 92
* 出かける前に漱石の『愚見数則』をスキャンした。明治二十八年に愛媛県尋常中学校の「保恵会雑誌」に寄稿した原稿で、読者は、学生ないし教師であるらしい。その前提を受け容れた上で読めば、夏目金之助先生の意図には迷いがない。
☆ 愚見数則 夏目漱石
理事来(きた)って何か論説を書けといふ。余この頃脳中払底、諸子に示すべき事なし。しかし是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし。但し御世辞は嫌ひなり、時々は気に入らぬ事あるべし。また思ひ出す事をそのまま書き連ぬる故、箇条書の如くにて少しも面白かるまじ。但し文章は飴細工の如きものなり。延ばせばいくらでも延る、その代りに正味は減るものと知るべし。 (太字は、秦)
昔しの書生は、笈(きゅう)を負ひて四方に遊歴し、この人ならばと思ふ先生の許(もと)に落付く。故に先生を敬ふ事、父兄に過ぎたり。先生もまた弟子に対する事、真の子の如し。これでなくては真の教育といふ事は出来ぬなり。今の書生は学校を旅屋の如く思ふ。金を出して暫らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐ宿を移す。かかる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚(でつち)なり。主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、いはんや番頭丁稚をや。薫陶所(どころ)か解雇されざるを以て幸福と思ふ位なり。生徒の増長し教員の下落するは当前(あたりまえ)の事なり。
勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし。余自ら勉強せず、しかも諸子に面するごとに、勉強せよ勉強せよといふ。諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり。殷鑑遠からず勉旃(べんせん)勉旃。
余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり。その不適当なる男が、糊口(ここう)の口を求めて、一番得やすきものは、教師の位地なり。これ現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非(えせ)教育家でも御茶を濁して教授し得るといふ、悲しむべき事実を示すものなり。世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの沢山あるべし。真正なる教育家を作り出して、これらの偽物を追出すは、国家の責任なり。立派なる生徒となつて、かくの如き先生には到底教師は出来ぬものと悟らしむるは、諸子の責任なり。余の教育場裏より放逐さるるときは、日本の教育が隆盛になりし時と思へ。
月給の高下にて、教師の価値を定むる勿(なか)れ。月給は運不運にて、下落する事も騰貴する事もあるものなり。抱関撃柝(ほうかんげきたく)の輩(やから)時にあるいは公卿に優るの器を有す。これらの事は読本(とくほん)を読んでもわかる。ただわかつたばかりで実地に応用せねば、凡ての学問は徒労なり。昼寐をしてゐる方がよし。
教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶(たまたま)誤りを教ふる事なきを保せず。故に生徒は、どこまでも教師のいふ事に従ふべしとはいはず。服せざる事は抗弁すべし。但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし。この間一点の弁疎を容れず。己れの非を謝するの勇気はこれを遂げんとするの勇気に百倍す。
狐疑する勿れ。蹰躇する勿れ。驀地に進め。一度び卑怯未練の癖をつくれば容易に去りがたし。墨を磨して一方に偏する時は、なかなか平(たいら)にならぬものなり。物は最初が肝要と心得よ。
善人ばかりと思ふ勿れ。腹の立つ事多し。悪人のみと定むる勿れ。心安き事なし。
人を崇拝する勿れ。人を軽蔑する勿れ。生れぬ先を思へ。死んだ後を考へよ。
人を観(みれ)ばその肺肝を見よ。それが出来ずば手を下す事勿れ。水瓜(すいか)の善悪は叩いて知る。人の高下は胸裏の利刀を揮(ふる)つて真二(まぷたつ)に割つて知れ。叩いた位で知れると思ふと、飛んだ怪我をする。
多勢を恃(たの)んで一人を馬鹿にする勿れ。己れの無気力なるを天下に吹聴するに異ならず。かくの如き者は人間の糟(かす)なり。豆腐の糟は馬が喰ふ、人間の糟は蝦夷松前の果へ行ても売れる事ではなし。
自信重き時は、他人これを破り、自信薄き時は自らこれを破る。むしろ人に破らるるも自ら破る事勿れ。厭味を去れ。知らぬ事を知つたふりをしたり人の上げ足を取ったり、嘲弄したり、冷評したり、するものは厭味が取れぬ故なり。人間自身のみならず、詩歌俳諧とも厭味みあるものに美くしきものはなし。
教師に叱られたとて、己れの直打(ねうち)が下がれりと思ふ事なかれ。また褒められたとて、直打が上ったと、得意になる勿れ。鶴は飛んでも寐ても鶴なり。豚は吠(ほえ)ても呻(うな)つても豚なり。人の毀誉(きよ)にて変化するものは相場なり、直打(ねうち)にあらず。相場の高下を目的として世に処する、これを才子といふ。直打を標準として事を行ふ、これを君子といふ。故に才子には栄達多く、君子は沈淪を意とせず。
平時は処女の如くあれ。変時には脱兎の如くせよ。坐る時は大磐石(だいばんじゃく)の如くなるべし。但し処女も時には浮名を流し、脱兎稀には猟師の御土産となり、大磐石も地震の折は転がる事ありと知れ。
小智を用(もちう)る勿れ。権謀を逞(たくまし)ふする勿れ。二点の間の最捷径は直線と知れ。
権謀を用ひざるべからざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ。利慾に迷ふ者に施せ。毀誉に動かさるる者に施せ。情に脆き者に施せ。御祈祷でも呪詛でも山の動いた例(ため)しはなし。一人前の人間が狐に胡魔化さるる事も、理学書に見ゑず。
人を観よ。金時計を観る勿れ。洋服を観る勿れ。泥棒は我々より立派に出で立つものなり。
威張る勿れ。諂(へつら)ふ勿れ。腕に覚えのなき者は、用心のため六尺棒を携へたがり、借金のあるものは酒を勧めて債主を胡魔化す事を勉む。皆己れに弱味があればなり。徳あるものは威張らずとも人これを敬ひ、諂はずとも人これを愛す。太鼓の鳴るは空虚なるがためなり。女の御世辞のよきは腕力なきが故なり。
妄(みだ)りに人を評する勿れ。かやうな人と心中に思ふてをればそれで済むなり。悪評にて見よ、口より出した事を、再び口へ入れんとした処が、その甲斐なし。まして、又聞き噂などいふ、薄弱なる土台の上に、設けられたる批評をや。学問上の事に付ては、むやみに議論せず、人の攻撃に遇ひ、破綻をあらはすを恐るればなり。人の身の上に付ては、尾に尾をつけて触れあるく、これ他人を傭ひて、間接に人を撲(う)ち敲(たた)くに異ならず。頼まれたる事なら是非なし。
頼まれもせぬに、かかる事をなすは、酔興中の酔興なるものなり。
馬鹿は百人寄つても馬鹿なり。味方が大勢なる故、己れの方が智慧ありと思ふは、了見違ひなり。牛は牛伴れ、馬は馬連れと申す。味方の多きは、時としてその馬鹿なるを証明しつつあることあり。これほど片腹痛きことなし。
事を成さんとならば、時と場合と相手と、この三者を見抜かざるべからず。その一を欠けば無論のこと、その百分一を欠くも、成功は覚束なし。但し事は、必ず成功を目的として、揚ぐべきものと思ふべからず。成功を目的として、事を揚ぐるは、月給を取るために、学問すると同じことなり。
人我を乗せんとせば、差支へなき限りは、乗せられてをるべし。いざといふ時に、痛く抛げ出すべし。敢て復讐といふにあらず、世のため人のためなり。小人は利に喩(さと)る、己れに損の行くことと知れば、少しは悪事を働かぬやうになるなり。
言ふ者は知らず、知るものは言はず。余慶な不慥(ふたし)かの事を喋々するほど、見苦しき事なし。いはんや毒舌をや。何事も控へ目にせよ。奥床しくせよ。むやみに遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり。万巻の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙(ふんし)に等し。
損徳と善悪とを混ずる勿れ。軽薄と淡泊を混ずる勿れ。真率と浮跳とを混ずる勿れ。温厚と怯懦とを混ずる勿れ。磊落と粗暴とを混ずる勿れ。機に臨み変に応じて、種々の性質を見(あら)はせ。一あつて二なき者は、上資にあらず。
世に悪人ある以上は、喧嘩は免るべからず。社会が完全にならぬ間は、不平騒動はなかるべからず。学校も生徒が騒動をすればこそ、漸々改良するなれ。無事平穏は御目出度に相違なきも、時としては、憂ふべきの現象なり。かくいへばとて、決して諸子を教唆(きょうさ)するにあらず。むやみに乱暴されては甚だ困る。
命(めい)に安んずるものは君子なり。命を覆(くつがえ)すものは豪傑なり。命を怨む者は婦女なり。命を免れんとするものは小人なり。
理想を高くせよ。敢て野心を大ならしめよとはいはず。理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極(きわみ)なり。理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし。理想は見識より出づ、見識は学問より生ず。学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学でゐる方がよし。
欺かれて悪事をなす勿れ。それ愚を示す。喰はされて不善を行ふ勿れ。それ陋を証す。
黙々たるが故に、訥弁と思ふ勿れ。拱手(きょうしゅ)するが故に、両腕なしと思ふ勿れ。笑ふが故に、癇癪なしと思ふ勿れ。名聞(みょうもん)に頓着せざるが故に、聾(ろう)と思ふ勿れ。食を択ばざるが故に、口なしと思ふ勿れ。怒るが故に、忍耐なしと思ふ勿れ。
人を屈せんと欲せば、先づ自ら屈せよ。人を殺さんと欲せば、先づ自ら死すべし。人を侮るは、自ら侮る所以なり。人を敗らんとするは、自ら敗る所以なり。攻むる時は、韋駄天の如くなるべく、守るときは、不動の如くせよ。
右の条々、ただ思ひ出(いづ)るままに書きつく。長く書けば際限なき故略す。必ずしも諸君に一読せよとは言はず。いはんや拳々服膺するをや。諸君今少壮、人生中尤も愉快の時期に遭ふ。余の如き者の説に、耳を傾くるの遑(いとま)なし。しかし数年の後、校舎の生活をやめて突然俗界に出でたるとき、首(こうべ)を回らして考一考せば、あるいは尤と思ふ事もあるべし。但しそれも保証はせず。
明治二八、二、二五、愛媛県尋常中学校『保恵会雑誌』
* 夏目先生このとき三十歳に満たず。七十三の私、至らない。
* いま最も誠心誠意熱中しているのは、むしゃぶりついているのは、福田恆存の文学史論、そして漱石の近代批判、そのはるか彼方の昔に、悠々と語られていたゲーテの、いわば価値あるモノ、良きモノへの、確信と愛情。
よく身につけ得たととても言い得ないまでも、わたしが高校、大学の頃から比較的謙遜に励行してきたのは、「濯鱗清流」であった、それしかわたしはこのいい加減な自身を厳しく保つによしもすべも無かった。自分が倨傲の悪習になじんできたのをあえて否定しないし出来ないけれども、しかもどんなに嫌いな感じの藝術家であっても、すでに故人になっている優れた力量で、精神として「清流」を成してきた人たちに対し、わたしは、例外なく謙遜に敬意を払ってきた。「濯鱗清流」はわたしの自戒であり自信でもあり激励である。
「人の毀誉(きよ)にて変化するものは相場なり、直打(ねうち)にあらず。相場の高下を目的として世に処する、これを才子(=リッチ)といふ。直打を標準として事を行ふ、これを君子(=フェイマス)といふ。故に才子には栄達多く、君子は沈淪を意とせず。」「理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極(きわみ)なり。理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし。」
清濁併せのむとは、たいてい意義無き「弁解・弁明・誤魔化し」に過ぎない。
2009 5・4 92
* 手の届くいちばん近くにある全集は、「鏡花」と「恆存」。どっちも一冊一冊の充実して重たいこと。恆存の第一巻に、いま、わたしは宝の山のように惹かれる。へんな小説よりはるかに面白い。中村光夫、平野謙、伊藤整などを夢中で読んでいた時代にわたしは福田さんの本をほとんど知らず、優れた戯曲家であると思っていた。その他では「仮名遣ひ論」にたいへん重要な業績を残した人と。一つには、先の三人よりも論旨を難解そうにもってくる独特の文章家だと感じていた。文庫本『作家の態度』一冊で、すでに鍛えられている。
2009 5・6 92
* 千載和歌集 春歌上 わたしの心に適う歌
春の夜は軒端の梅をもる月のひかりもかをる心ちこそすれ 皇太后宮大夫俊成
梅が枝の花にこづたふうぐひすの声さへにほふ春のあけぼの 仁和寺法親王 守覚
春雨のふりそめしより片岡のすそのの原ぞあさみどりなる 藤原基俊
みごもりにあしの若葉やもえぬらん玉江の沼をあさる春駒 藤原清輔朝臣
さざ浪や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな よみ人しらず 平忠度
* 上の五首だけをわが思いに適う歌として選んだ。温和。清輔は百首歌の「春駒」という題詠だが、叙景の清々しさをとった。忠度の歌は、故郷の花という「心」をうたって、ある種の型にしたがっているけれど「調べ」はおおらかに生き、優しい。
2009 5・6 92
* 京都の知己、松本章男さんに頂戴した評伝の大作『歌帝 後鳥羽院』を読んで行く。もう久しいお人である。「『けい子』身にあたる涙をおぼえました」と。感謝。ご自身も、あのなかの「闇に言い置く」で洩らしていたと「同じ道をたどっています」とも。感慨深い。
2009 5・7 92
* 福田先生の嘉村礒多論を熟読。
2009 5・7 92
* バグワンに、初読の一冊を加えた。道家の『太乙金華宗旨』に拠りながらバグワンが語っている。訳はスワミ・アナンド・モンジュ氏とあり、普通の文章語になっている。タントラや十牛図や般若心経や道や達磨や一休を語っていたように、これは、中国のタオイスト道家が久しく伝えた書による講話のようで。
* 一方でエッケルマンの『ゲーテとの対話』を読み進めていて、それを念頭におくが、夜前に読んだバグワンは、こう原典の意を伝えていた、
「生とは、死と彼方の世界にそなえて身支度を整える機会だ」と。準備を怠っているとしたら「おまえは愚か者だ」と。
「生とは機会に過ぎない、おまえの知っているこの生は本当の<生>ではない。本当の<生>は、まさしくこの生のどこかに隠されている。それは深く眠りこけていて、まだ自らに気づいていない。おまえの本当の<生>が自らに気づいていないなら、おまえのそのいわゆる生は、たんなる長い夢に過ぎなくなる。しかもそれはいずれ悪夢になる。本当の<生>に根を下ろさずに生きることは、大地に根を持たない樹のように生きることだから。おまえに美が、優美さが欠けているのはそのためだ。ブッダ(覚者)たちが語る人間の輝きがおまえの目にまだ見えないのはそのためだ」と、バグワンはわたしを呵る。
* バグワンの多くの講話を、わたしはこの十数年、繰り返し繰り返し聴いてきた。なにもバグワンだけが言うことでなく、おなじことを優れたブッダたちは口を揃えて説いてきた。「無明長夜」のおしえであり、このままだと酔生夢死必定、目覚めないで死んで、永劫繰り返し気づかぬままの「悪夢の生」を生きるだろうと。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」も「ただ人は情けあれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に」も、気づいて気づけぬ、目覚めきれないままの悪夢への居直りのようであった。
* 今度の本は、その「気づき」への導きであるのだろうか、まだ分からないが、わたしは抗わないで聴く気でいる。
* ところで別に、かの尊敬に値するゲーテは、こう若いエッケルマンに向かい語っていたのを、わたしは読んだばかりだ。
「私だつて死後の生命を信じられるものならよろこんで信じたい。 然しかかる解し得べからざることは、日々の反省の対象とし、思想を乱すやうな冥想の対象とするにはあまりに縁遠い。永生を信じてゐる人は一人でその信仰を楽しんでゐるがいい。しかしそれを誇る理由はないではないか。 ──現世の後に次の世が恵まれるものなら、私だつて異論はありません。しかし私はああいふ信仰を抱いてゐる人々に、また次の世で出会ふことだけは御免を蒙りたい。でなければ煩くてたまらなくなるでせう。 永生についてとやかう考へるのは、特にこれといふ用事のない上流の人々か女達のすることだ。然しすでに現在を秩序だつたものと考へ、従つて又、日々活動し、奮闘し、努力せねばならぬ有為の人は来世は来世にまかして、まづ現世に於て働き、有用の人となる。且つ永生を信ずる思想は現世で幸福をとりにがした人々に適してゐる。
私はうけあふ、もし善良な(その人達)がもつと幸福であつたら、もつといい思想を持つたにちがひない。」
* 希望に輝いて幸福を実感できている今日只今有為の人たちは、そんな人たちが現に錯覚してでも実在するなら、彼等はゲーテの弁を大いに力にするだろう。健常そうな倫理家達もモラリストも教育者も政治家も成功せる実業家もその配下の猛者達も、まちがいなくゲーテに力づけられて今日只今の仕事に励むだろう。
* だが、わたしはその一人ではない。自身を不幸とは歎いていないけれど、自分が無明長夜の夢から容易に覚めないでいることを承知している。間に合うように、どうかしっかり覚めたいと願っている一人であると思っており、願いは、だが決して来世の永生ではない。たんに、夢から覚め、自分に気づいてそして死を迎えたいだけだ。
これだけいろんな事に元気そうに手を出して日々生きていても、これが夢の中の玉笹をこぼれる露の一粒のようなものでしかないことは、ひしと感じている。
* ゲーテの幸福をひがむ気はない。その言葉の向こうにある、当時の教会・教権の問題や宗教改革のことなどがむしろ感じ取れる。
それにしても、ブッダたちの説く真相と最も有力に向き合ってきたゲーテ風の現世主義の実相との対立を、わたしは「一夜の読書の中で」眺めてきた。今日も明日も、ともに読み進んで行くだろう。
* 千載和歌集 春歌下 より懐かしく心に適った歌は。
吹く風をなこその關と思へども道もせにちる山ざくらかな 源義家朝臣
花は根に鳥は古巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき 崇徳院御製
をしめどもかひもなぎさに春暮れて波とともにぞたちわかれぬる 前大僧正覚忠
* 八幡太郎の歌は子供の頃に覚えていた。類想歌でありながら、勿来(なこそ)の意を風に利かせて読み込み、大らかな叙景の実を得た優しさ。「吹く風を」の「を」の用い方には子供心に教わった。あとの二首。春を惜しむ気持ちはいまの私にもある。崇徳院は歴代天皇の中でもひときわ秀でた歌人であったと、この和歌集はまちがいなく伝えている。
* 凄い勢いで「横光利一を惨殺」の一編で、福田恆存著『作家の態度』を熟読翫味、読了した。いちばん嬉しく読んだのは永井荷風。わたしの共感に裏打ちをしっかりしてもらえた。志賀直哉でも。多くを知らなかった嘉村礒多については的確に教えられた。最大の力作芥川龍之介からは、わたし自身にも直に触れてくる問題を与えられた。
久々に「文藝批評」の真髄を嘗めた心地がする。
わたしはすぐ何にでも感心する、佳い物なら。これが福田さんの処女作だと聴いても、若いなどと割り引かない。年齢になどすこしも煩わされない。第一、七十三の今の私からすれば、たいていの優れた文学者はみな若い。だが、若いから佳い仕事ができないなんてバカなことはない。
さて、この読み終えた本にわたしは刺激されて、半歩、一歩を押し出されたいのである。間をおかず反芻する。
2009 5・8 92
* 千載和歌集 夏歌より 心に適った歌
一声はさやかになきてほとゝぎす雲路はるかにとほざかるなり 前右京権大夫頼政
郭公なきつるかたをながむればたゞ有明の月ぞのこれる 右のおほいまうち君
浮雲のいさよふ宵のむら雨におひ風しるくにほふたち花 藤原家基
さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人 皇太后宮大夫俊成
さみだれの雲のたえまに月さえて山ほとゝぎす空になくなり 賀茂成保
早瀬川みをさかのぼる鵜飼舟まづこの世にもいかゞくるしき 崇徳院御製
さらぬだにひかり涼しき夏の夜の月を清水にやどしてぞ見る 顕昭法師
頼政はあの源三位頼政で。一直線のように潔い叙景に惹かれた。実定卿の一首は百人一首のなかでもすぐれてここちよい格の大きい名歌。賀茂成保のほととぎすも、影もみえるほど冴え冴えと。後世をおそれる鵜飼の殺生もくるしいが、まのあたりに早瀬川の水脈をさかのぼるのもくるしいであろうよと。崇徳院なればこそ、「くるしき」という述懐が胸に届く。顕昭のは少し見得を切った感じだが、彼の六条家に厳しい俊成が採っている歌だと思うと。「さらぬだに」は顕昭らしいリクツぽさ。
* 『千載和歌集』と『作家の態度』を読み上げたので、川本三郎さんに貰っていた文庫本の『荷風語録』と、ハイデッガーの『存在と時間』とを枕元に置いた。
二階の機械のそばにも、今西さんの『蜻蛉日記覚書』、『高村光太郎詩集』、『福田恆存全集』第一巻をひまさえあれば目に入れている。
2009 5・9 92
* 夜前、寝に降りる前に「e-文藝館=湖(umi)」のなかの嘉村礒多『七月二十二日の夜』を読み返してみた。これを採ろうとスキャンした時の記憶もありあり甦って、愕きをまた深めた。
日本は「私小説」の国と言われるが、大なり小なり私小説を書かない日本の作家は少ない。通俗読み物やエンターテイメントの書き手は知らないが、夏目漱石にも『道草』があり、鏡花にも谷崎にも私小説はある。
しかし嘉村礒多の私小説は、彼の師で私小説の極北とうたわれた葛西善蔵の私小説をすらぶち抜いて、文字通り「凄い」としか言いようがない。行き着くところまで行って、なおその壁に血みどろにアタマをぶつけながら藻掻いている。
葛西善蔵、上林暁、川崎長太郎、また志賀直哉、瀧井孝作、尾崎一雄、また島崎藤村、徳田秋声、田山花袋、正宗白鳥等々のどんな優れた私小説でも、とてもとても嘉村礒多のこの惨虐な「私」追究と表現とには出逢えないだろう、ただの一編すらも。
むちゃくちゃなのか。いやいや、これはオリジナルであり、かつ秀作である。みごと、読まされてしまう。
嘉村にはそれが「藝術」だった、彼は作中に繰り返しこの二字を置いている。
近代日本文学の愛読者にして、私小説の水源ではない、至りついた「終点」を典型的に実見したい人は、手っ取り早く私の「e-文藝館=湖(umi)」小説室の嘉村礒多『七月二十二日の夜』を一読されますように。上に挙げた多くの優秀な先達作家たちの「私小説」と読み比べるまでもなく、此処まで来るのかと驚愕されるだろう。
嘉村の、ひたすらに仕えた師が葛西善蔵であること、この作中で葛西はもう亡くなっていることを書き添えておく。
2009 5・10 92
* 筑摩の大系から芥川の一巻を持ち出した。少し年譜も読み直したが、こんな年譜ではまるで役に立たない。次いで、宇野浩二と室生犀星とが芥川作中、随一と推していた『玄鶴山房』を読んでみた。もう昔も昔に読んだことがある。直観的に、これは芥川の終生秘し隠して棺桶の中へ持ち去ったと思われる「自身出生の秘密をあかした作」と、わたしは確実に読んだ。この直観、逸れていないであろう。
そういうことを言った評者が過去にいたかどうか私は知らない。
また福田さんの芥川論を読み返してみよう。
* 芥川は、漱石の弟子であったが、文学的には鴎外の真弟子といってよい書き手であった。芥川の出発点で適切な発射盤を成したのは鴎外一冊の『意地』であった。この一冊には「阿部一族」「興津弥五右衛門の遺書」「佐橋甚五郎」の三作がおさまっていた。
終生永井荷風を認めなかった芥川の処女作は、「老年」で。彼の只一作溢美の江戸情緒作品であった。まさに荷風の世界だったが、以後芥川はこういう作を一つも書かなかった。その真意は、比較的解きやすいのでは無かろうか。
2009 5・11 92
* 日比谷のホテルで、金婚の日に撮った写真を受け取った。そのままホテルの「パークサイド・ダイナー」ですこし早めの食事。佳いメニューに惹かれて、飲み物はキールロワイヤル、これが旨くて妻もご機嫌。デザートには、何故そんな気が利いたものか更に「おめでとう」とチョコレート書き。よほどおめでたい顔をしていたのだろう。
五階のクラブへ上がり、わたしはブラントンをもう少し呑み足した。妻は紅茶。昼の部だけだと、さほど疲れもなく、八時には家に着いた。
車中、文庫本で、ずうっと漱石の講演「道徳と文藝」を聴いていた。
2009 5・12 92
* 千載和歌集 秋歌上 わたしの心に適う歌
夕されば野辺の秋風身にしみてうづらなくなり深草のさと 皇太后宮大夫俊成
こがらしの雲ふきはらふたかねよりさえても月のすみのぼるかな 源俊頼朝臣
塩竈の浦ふく風に霧はれて八十島かけてすめる月かげ 藤原清輔朝臣
季節の歌には類型が跋扈していて、たいがい聞いたような歌ばかりが如才なく現れる。俊頼、清輔の歌はあきらかに目に映るように世界が見えて胸懐が広く明るくなったので採った。俊成の歌はすでに心詞ともに胸の内にあった。
2009 5・13 92
* 漱石の講演を三つ読んだ。真実敬服する。
この人がと思ういい読み手にも、しかし漱石が全然好きでないという人もいて驚いたことがある。
2009 5・13 92
* 千載和歌集 秋歌下 わたしの心に適った歌
さらぬだに夕べさびしき山ざとの霧のまがきにを鹿なくなり 待賢門院堀川
よそにだに身にしむくれの鹿のねをいかなる妻かつれなかるらん 俊恵法師
さりともと思ふ心も虫のねもよわりはてぬる秋のくれ哉 皇太后宮大夫俊成
さえわたるひかりを霜にまがへてや月にうつろふ白菊の花 藤原家隆
もみぢ葉を關もる神にたむけおきて逢坂山をすぐるこがらし 権中納言実守
鹿が目に見え、鹿のなく声が耳にとどき、白菊がひかり、こがらしの声が聞こえる。少し感傷的な俊成歌を軸に。
2009 5・14 92
* 昨日、荷風の「深川の唄」と「狐」とを読んだ。前者は山手から電車に乗って下町へ散歩に行く荷風。彼は近所を散歩するのでなく出かけていって気に入りの界隈を歩いてくる人だ。電車の情景もおもしろく、しかし深川への思い入れに胸をつかれた。
この本『荷風語録』を編んだ川本三郎さんもまた東京散策の大通。この人にずいぶん「東京」を教わってきた。
「狐」は凄みの名品で、言わず語らず明治初期の山手と下町の葛藤が象徴されてあるのが凄い。凄惨な風が作を流れてぞうっとする。荷風のある怨念のごときを肌身に感じ、再読ながらめざましい心地がした。
* 荷風を芥川が終生認めなかった事実に、芥川の根の一問題が感じられる。芥川は江戸情緒を処女作老練の「老年」以降徹底的に拒むことで、先ず身にくい入った何かを「隠し」た。わたしはそう思う。よかれあしかれそうして芥川文学が起ち上がった。
* 全集の一冊をひきぬいて志賀直哉が芥川の死の直後に書いた「沓掛にて」を読んだ。直哉という人の大いさ、強さ、或る意味での正しさが、揺れなく出た名文だった。芥川批評としても出色の確かさで感じ入った。
* 処女出版に『晩年』と題した太宰治も、「老年」という処女作を書いた芥川も、志賀直哉の前にダダっ子のように焦れたり、膝を折って屈していた。ともに自ら死んだ。あんなに芥川賞を欲しがった太宰は、さながらに芥川龍之介のあとを追っていった。
二人とも「女」の影をひいていた。
2009 5・15 92
* 千載和歌集 冬歌 わたしの心に適った歌
冬きては一夜ふた夜をたまざゝの葉わけの霜のところせきかな 藤原定家
ねざめしてたれか聞くらんこのごろの木の葉にかゝるよはの時雨を 馬内侍
うたゝねは夢やうつゝにかよふらんさめてもおなじ時雨をぞ聞く 藤原隆信朝臣
あさぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬ゞの網代木 中納言定頼
ふる雪に行方も見えずはし鷹の尾ぶさの鈴の音ばかりして 隆源法師
夕まぐれ山かたつきてたつ鳥の羽おとに鷹をあはせつるかな 源俊頼朝臣
霜さえてさ夜もなが井の浦さむみあけやらずとや千鳥なくらん 法印静賢
霜がれの難波のあしのほのぼのとあくるみなとに千鳥なくなり 賀茂成保
水鳥を水のうへとやよそに見むわれもうきたる世をすぐしつゝ 紫式部
難波潟いり江をめぐるあしがものたまもの舟に浮き寝すらしも 左京大夫顕輔
朝戸あけて見るぞさびしき片岡の楢のひろ葉にふれるしらゆき 大納言経信
雪ふれば谷のかけはしうづもれてこずゑぞ冬の山路なりける 源俊頼朝臣
雪つもる峰にふゞきやわたるらん越(こし)のみそらにまよふしら雲 二条院御製
ひとゝせははかなきゆめの心ちして暮れぬるけふぞおどろかれぬる 前律師俊宗
わたし自身の目に映じ耳に聞こえ肌に触れてくるもののたしかな歌を採った。類型の多くなる春や秋の歌よりも、わたしの好きな「冬」の歌に親しめる実感が豊かであった。
これで四季を選び終えた。筑波の「香」さんらは、どんな批評であろうかなあ。
2009 5・15 92
* 千載和歌集 離別歌 わたしの心に適った歌
鳴きよわるまがきの虫もとめがたき秋の別れやかなしかるらん 紫式部
行く末を待つべき身こそおいにけれ別れは道の遠きのみかは 前中納言匡房
忘るなよ帰る山路に跡たえて日数は雪の降りつもるとも 源俊頼朝臣
限りあらむ道こそあらめこの世にて別るべしとは思はざりしを 上西門院兵衛
ながらへてあるべき身とし思はねば忘るなとだにえこそ契らね 天台座主源心
「離別」は「死別」ではない。いわゆる漢詩の別れとは国土広遠の程があまりにちがう。それでも、別れは別れ。ことに老いのからんだ別れは覚束ない再会を念頭に、切ないものがある。
2009 5・16 92
* 昨日、岐阜県の山中以都子さんの詩集『水奏』を戴いた。「湖の本」よりもながいお付き合いで、最も早く詩人として目をとめた一人、ペンクラブにも早くに推薦した。「e-文藝館=湖(umi)」にもはやくに作品をもらった。
この詩集は過去の三冊の詩集から自編のアンソロジーで、よく選ばれている。この選集とかぎらず山中さんの詩世界は、死なれ・死なせた人への呼びかけでおおかた成っているとすら謂える。いつも手をのべている。その優しさが弱さでも強さでもある。冒しがたい秘蔵の玉を掌に握っているような詩を、美しく書ける人である。
桐の花 山中以都子
山すその火葬場に
ひっそりと いま
霊柩車が入ってゆく
柩によりそうのは
とおい日の
わたしか
はす池のほとり
しんと空をさす
桐の花
父よ
そちらからも
みえますか
いまほしいのは 山中以都子
なぐさめとか
いたわりとか
しったとか
げきれいとか
──じゃなく
そんな
とりすましたものなんかじゃなく
たったひとつ
いまわたしがほしいのは
てばなしのらいさん
みもよもないほめことば
かおあからめずにはきいておれない
とてもしらふじゃいたたまれない
むきだしのまっかなこころ
ちぶさからほとばしる
ひのことば
かあさん
あんなにわらったのに
かあさん
あんなににげまわったのに
あんなにわたし
めしいたあなたを
べたべたのあなたのあいを
あのころわたし
あんなに あなたを
あなたを
かあさん……
2009 5・17 92
* 千載和歌集 羇旅歌 わたしの心に適った歌
おぼつかないかになる身のはてならむ行くへも知らぬ旅のかなしさ 前中納言師仲
旅の世に又旅寝して草枕夢のうちにも夢を見るかな 法印慈円
薩摩潟おきの小島に我ありと親には告げよ八重の潮風 平康頼
「いかになるみのはてならむ」は、わたしの好きな閑吟集の室町小歌にとられ、「しほによりそろ 片し貝」とうたわれている。尾張国鳴海がよみこまれている。何度も書いているので繰り返さないが、ある人と応酬のさいのこれが秀逸の返歌であった。
康頼の歌は羇旅歌であろうか、清盛に憎まれ俊寛と伴に鬼界島に流されていた歌であろう。慈円の一首は観念的だが、坊さんの歌らしい。そしてふと胸の詰まる境涯歌ではある。
2009 5・17 92
* 久しい読者の浅井敏郎さんの『菊を作る人 私の文章修行』を読んだ。若い頃味の素に入られ、新日本コンマースの社長を経てJTインターナショナルの常務、常勤監査役を経て一九九七年に退社、わたしより一回りお年上で、矍鑠とされており、時折、武蔵境駅近くのすてきなフレンチをご馳走になった。お嬢さんは国際的に経歴豊かなピアニスト浅井奈穂子さん。リサイタルにも何度もお招き戴いている。
* 拝復
御労著『菊を作る人 私の文章修行』 頂戴以来 日かずを経ましたが、少しずつ拝読の日を重ねて、読み終えました。静かに頷いて、感銘を噛みしめています。
よくなさいましたね、奥様へのいわば mourningwork=悲哀の仕事として、久しく行を倶にされてきた人生の回顧を、幽明境を異にしながら心ゆくまで共有なさったものとも感じ入り、寂しさのなかに、ご心境の清明また平静を読み取らせて頂きました。有難う存じます。ことに奥様の句集を共に成されましたこと、有り難く、懐かしく拝読・再読いたしました。
文章への御思い入れの深くまた久しいことにも敬意を覚えます。熟達かつ簡古の筆致に失礼ながら新鮮な驚きを加えました。有難う存じます。
わたくしは、時折、半ば冗談でない本気で、「のようというのだ」をぜひ文中多用しないこと、また改行段落のアタマに無用の接続(つなぎ)の言葉をおかず、端的に新段落の文章をはじめること、一人称をむやみに多用しないこと、句読点を適切的確にうつこと、推敲をけっして怠らないこと、など心がけております。それでもなかなか文章上手にはならず、なさけないことです。
但し文章に拘泥する以上に 自身の体臭ないし指紋のような独特の「文体」の発見と精練を望んでいます。文章に拘泥し、型どおりの推敲に拘泥し過ぎますと、没個性の乾いた作文に陥る危険を覚えます。そんなことを、いつも感じつつ自身の文章文体創作に勤しんでおります。
おかげさまで、桜桃忌の頃にも「湖の本」通算「第九九・百巻」を相次いでお届けできる段取りでおります。
題して『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻となります。一つの中仕切りとして、漸く此処へたどり着くかと、日頃のお力添えに、心より感謝申し上げます。
ますますご健勝に、清やかにご長命あられますよう祈ります。
お嬢様もお変わりなく御活躍と存じます。お揃いにて、お大切に、お大切に。 秦 恒平
平成二十一年五月十八日
私、自転車でよくご近所までも駆け回っています。多摩川から稲城市までも、荒川からさいたま市までも、所沢の向こうまでも、運動代わりに。以前はただの自転車でしたが、今は電動自転車を買って貰い、坂もらくらく。長いときは四時間も駆け回っています。
2009 5・18 92
* 千載和歌集 哀傷歌 わたしの心に適った歌
春くれば散りにし花もさきにけりあはれ別れのかゝらましかば 中務具平親王
行き帰り春やあはれと思ふらむ契りし人の又も逢はねば 大納言公任
思ひかねきのふの空をながむればそれかと見ゆる雲だにもなし 藤原頼孝
うつゝとも夢ともえこそ分きはてねいづれの時をいづれとかせむ 花山院御製
をくれじと思へど死なぬわが身哉ひとりや知らぬ道をゆくらん 道命法師
ひと声も君につげなんほとゝぎすこのさみだれは闇にまどふと 上東門院
いづかたの雲路と知らばたづねまし列(つら)はなれけん雁がゆくへを 紫式部
もろともに有明の月を見しものをいかなる闇に君まどふらん 藤原有信朝臣
みとせまでなれしは夢の心地してけふぞうつゝの別れなりけり 右京大夫季能
入りぬるかあかぬ別れのかなしさを思ひ知れとや山の端の月 僧都印性
先立たむ事を憂しとぞ思ひしにおくれても又かなしかりけり 静縁法師
もろともにながめながめて秋の月ひとりにならむ事ぞかなしき 円位法師
人に死なれた悲しさの真率に現れた歌は、さすがに少なくない。
十二首のうち四首も坊さんの歌である。円位とは西行法師。
天皇さんも門院さんも親王さんも高位の人も、死なれてはみな同じようにかなしい。季能の一首、優しく悲しい。数をいとわず選べばもっと哀傷の秀歌は有る。
2009 5・18 92
* 哀傷・悲傷に人の胸は疼いて、呻き出ることばは真率を得やすいが、祝着・祝儀の歌にはどうしても上滑りがある。まして人を、上位を褒めてめでたいと歌う歌には、感銘がうすい。ましてわたしは此処に拾い採っている秀歌の多くのもっている前詞を「無視」して一首をそれ一つで立つ一首と認めようとしているから、賀歌の訴求力はまたいちだん淡まる。
今や千年近い前の宮廷や貴族社会の前詞事情を念頭においてしか和歌が読めないのではシンドい。たしかに前詞とともに読むと興趣有る和歌は数多いけれども、わたしはその必要のない心に適う歌を、記憶するともなく覚えていようと思う。
つぎの賀歌たちは、他の巻の和歌レベルに達しないと感じながら、強いて拾い採ってみた。
* 千載和歌集 賀歌
千歳すむ池の汀の八重ざくらかげさへ底にかさねてぞ見る 権中納言俊忠
ちはやぶるいつき(斎)の宮の有栖川松とともにぞかげはすむべき 京極太政大臣
君が代を長月にしもきくの花咲くや千歳のしるしなるらん 法性寺入道前太政大臣
白雲に羽うちつけてとぶ鶴(たづ)のはるかに千代の思ほゆるかな 二条院御製
祝う人と祝われる人とのいる世間で。自身の感懐を詠じて自身の上を祝えるのは、二条院のような御一人ということになる。賀の視線は、階級社会で、上へ上へ向く。
2009 5・19 92
* 千載和歌集 恋歌一 わたしの心に適った和歌たち
藻屑火の磯間を分くるいさり舟ほのかなりしに思ひそめてき 藤原長能
いかにせむ思ひをひとにそめながら色にいでじとしのぶ心を 延久三親王 輔仁
思へどもいはでの山に年をへて朽ちやはてなむ谷のむもれ木 左京大夫顕輔
岩間ゆく山のした水堰きわびてもらす心のほどを知らなむ 上西門院の兵衛
水隠(みごも)りにいはで古屋の忍草しのぶとだにもしらせてし哉 藤原基俊
歎きあまりしらせそめつることの葉も思ふばかりはいはれざりけり 源明賢朝臣
思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな 前右京権大夫頼政
難波女のすくもたく火の下焦がれ上はつれなき我身なりけり 藤原清輔朝臣
恋ひ死なば世のはかなきにいひおきてなき跡までも人に知らせじ 刑部卿頼輔
我恋は尾花ふきこす秋風の音にはたてじ身にはしむとも 源通能朝臣
またもなくたゞひと筋に君を思ふ恋ぢにまどふ我やなになる 大宮前太政大臣
はかなしや枕さだめぬうたゝねにほのかにまよふ夢の通ひ道(ぢ) 式子内親王
頼めとやいなとやいかに稲舟のしばしと待ちしほどもへにけり 藤原惟規
つれなさにいはで絶えなんと思ふこそ逢ひ見ぬ先の別れなりけれ 右京大夫季能
とにもかくにも、いいなあと嘆息する。真情の優しさ。
2009 5・20 92
* 千載和歌集 恋歌二 わたしの心に適った和歌たち
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
むすびおく伏見の里の草枕とけでやみぬる旅にもある哉 藤原顕仲朝臣
恋ひ恋ひてかひもなぎさに沖つ浪寄せてはやがてたちかへれとや 権中納言俊忠
いかで我つれなき人に身を替へて恋しきほどを思ひ知らせむ 徳大寺左大臣
恋ひわたる涙の川に身を投げむこの世ならでも逢ふ瀬ありやと 藤原宗兼朝臣
朝まだき露をさながらさゝめ刈る賤が袖だにかくは濡れじを 右のおほいまうち君
恋ひ死なむ命をたれに譲りおきてつれなき人のはてを見せまし 俊恵法師
堰きかぬる涙の川の早き瀬は逢ふよりほかのしがらみぞなき 前右京権大夫頼政
恋ひ死なむ身はをしからず逢ふ事に替へむほどまでと思ふばかりぞ 道因法師
思ふこと忍ぶにいとゞ添ふものは数ならぬ身の歎きなりけり 殷富門院大輔
などやかくさも暮れ難き大空ぞ我がまつことはありと知らずや 二条院御製
磯がくれかきはやれども藻塩草立ちくる波にあらはれやせん 藤原家実
契りおくその言の葉に身を替へてのちの世にだに逢ひ見てしがな よみ人しらず
越えやらで恋路にまよふ逢坂や世を出ではてぬ關となるらん 藤原家基
手枕のうへに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな 西住法師
潮たるゝ袖の干るまはありやともあはでの浦の海人に問はゞや 法印静賢
思ひきや夢をこの世の契りにて覚むる別れを歎くべしとは 俊恵法師
我袖は潮干に見えぬおきの石の人こそ知らねかわく間ぞなき 二条院讃岐
思ひ寝の夢だに見えで明けぬれば逢はでも鳥の音こそつらけれ 寂蓮法師
夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり 俊恵法師
をのづからつらき心も変るやと待ち見むほどの命ともがな 静縁法師
よとゝもにつれなき人を恋草の露こぼれます秋の夕風 藤原顕家朝臣
恋ひ死なば我ゆゑとだに思ひ出でよさこそはつらき心なりとも 権大納言実国
ひたすらに恨みしもせじ前の世に逢ふまでこそは契らざりけめ 左衛門督家通
少し大盤振舞いかもしれないが、恋に浮き身をやつす男女の、まんざら口先だけでなさそうな「歎きぶし」がいろいろに身につまされて面白く、棄てていた歌の少しも、また拾ってみた。
得た恋の激情や歓喜や恍惚はまったく伝わらない。この巻の編み様ともそれは説明つくものの、彼や彼女たちに「恋」とは、ひたすら泣くもの、満たされぬものと、はなから覚悟しているかのように受け取れる。日本の恋は万葉集以来、嬉しいよりも、悲しく辛く身をよじて歎くためにするかのようで。一首ぐらいポルノグラフィックなまでに熱烈な無心の境を見せてくれないかと願うが。
まあ、八首採った坊さん達の恋のワケ知りなのにも、例の如く驚く。この時代の仏教行法説法とはどんなものであったか、坊さんの社会性とは、信仰とは、どんなものであったか和歌の不思議と共にだれか分かりよく解いて聴かせてほしい。
2009 5・21 92
* 暫くぶりに特級のイヤーぁな夢で目覚めた。もう寝る気がしなかった。
* 総じて今、就寝前に読んでいる本の幾つかが、気のわるい「負担」になっている。
三島由紀夫の『禁色』は、間違いなく文藝の大才の奔溢する言葉の万華鏡であるが、ゲイというのか、男色の世界の若い英雄を、極度の理想化の中でたぶん悲劇的に追究して行くのだろう、が、徹してわたしの趣味でない。読み終えてはしまうが、たぶん二度と読まない。
同様の異色に徹しながら、自伝として、また同時代史として、さらには『家畜人ヤプー』の著者ならではの古今東西にわたる視野の深さを見せる天野哲夫『傷だらけの青春』も、決して気の晴れる読書とはいえない。
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』は、どうしてこんなに長々、長々書かねばならないのだろうと、叙事の不当なほど仔細に渡って進行しないのに、さすが根気のいいわたしもかなりウンザリしている。一つにはクリストフとオットーとの少年同士のモノに憑かれたような恋物語のような友愛ぶりにヘキエキしてしまう。七十三老の喜び迎えうる記事でも表現でもない。読むべき年齢を逸したのだと思うが、今まで読んだまだその十倍ほども先が残っている。クリストフが青年になり大人になってくるのを辛抱よく待つしかない。
旧約の「エゼキエル書」が、これまた神ヤハウェ(わたしの本ではエホバと表記)の徹底した怒りと報復と凄惨なほどの訓誡が延々と続いている。まだあとへ予言の書は幾つも続いており、新約聖書に到る日を待望しているが、さ、来年に成るのでは。
『今昔物語』は、いまぶん観音様などのおたすけを願う説話が延々と続いていて、一つ一つは短く要領よく面白いが、いかにも生き苦しい娑婆苦に満ちている。
さてハイデッガーの『存在と時間』は、とてもこの翻訳文では判じ物にもならないほど、むちゃくちゃに難解。このような日本語で、何をどう深切に理解せよと謂うのだろう。
戦争の頃の大学生は日本人が日本語で書いた哲学書の『善の研究』などが、差し迫った死生のまぎわに何一つ安心も有意義な意味も与えてくれないのを、泣くように歎いた。
実はこれもあれも同じとは謂いにくく、ま、わかりよくいえばこの『存在と時間』など西欧の哲学書は、いわゆる言葉で意義を通じさせる体裁はとっているものの、真実は「数式と記号」とで「論理」を組み立てているにほぼ同じいのである。「である」で訳そうが、「ですます」で訳そうが、何にも変わらない。
熟達した解説者の、平明な日本語での解説文をこそ読むしか有るまい、この文庫本に関心をもつほどの一般門外の読者は。
わたしは要所に傍線を引いておき、そこを集中的に読み直して理解に近づくようにしている。要所は見当が付く。式や解を読み込むようにそこへ集中すると、何かが見えてくる。見えてこないことも多い。
日本人の「哲学・学」者たちの著も、なまじ日本語で書いてあるぶん、かえって腹立たしい独善記述が多い。その実例はまえにも大西克礼さんの『現象学派の美学』でも此処に例を示したことがある。読みながら思わず吹きだしてしまう。結局はこちら本位に読みたがるのは諦めて、あちらの意図に密接して我慢強く歯もへし折るように噛みつき、ゆっくり咀嚼して肉薄するしかない。
可笑しいことに送られてくる若い美学・哲学の学徒たちの「紀要論文」を読んでいると、かなりの数が、てっきり此処に云うような、どうしようもない独善の悪日本語で書かれている。まるで、それが年季が入った証しかのように。
わたしがさっさとこの学問から小説・文藝の方へ転進した理由も、あながち「駆け落ち」を急いたわけでなく、生涯こんな文章たちと付き合うのは叶わんと思い切ったのだった。
* ところで『バグワン』の新しい本は、訳者がいままでと別の人になり、内容もいくらか難しいが、文章になじむのに時間を要している。
『法華経』は、阿弥陀経などの浄土三部経等に比べると組み立ての壮大、いや壮大すぎて気が遠くなりそうなぶん、こつちへ本当に浸透してくるには、まだ時間がかかる。
さらに、一種の秀作ながら『道草』での「もらひ子」健三=漱石のしんどさ。『行人』一郎=漱石の苦しさ。
昨日だか、ある学会の案内が来ていて、当日の発表者の著書の内に『漱石の女々しさ鴎外の雄々しさ』というのがあり、論拠はかなり察しがつくものの、本質的に首を傾げるところも有る。あえて逆なのではと謂える思いすら有るのである。
もとより宣長にしたがえば「女々しさ」とは真実「もののあはれ」の機微に達する心性であり、漱石にはそれの謂えるところのあるのを承知している。鴎外には「もののあはれ」の人という印象は、わたしには無い。
* さて悦ばしい読書としては、道綱母の生き方に筋の通った『蜻蛉日記』 和歌と時代とが連繋して楽しめる『千載和歌集』 エッケルマンのいかにも幸福そうな感激で満たされた、またそれだけの価値ある『ゲーテとの対話』 こころから共感できる『漱石の文明論集』 『荷風語録』。
* この比率で寝る前に一時間半、二時間も読んでいては、寝苦しくもなるわけだと、笑ってしまう。
* 千載和歌集 恋歌三 わたしの心に適った恋の和歌
我恋は海人の刈藻に乱れつゝかわく時なき波の下草 権中納言俊忠
かねてより思ひし事ぞふし柴のこるばかりなる歎きせむとは 待賢門院加賀
恋しさは逢ふをかぎりと聞きしかどさてしもいとゞ思ひ添ひける 前参議教長
長からん心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ 待賢門院堀川
磯馴れ木のそなれそなれてふす苔のまほならずとも逢ひ見てしがな 待賢門院安藝
人はいさあかぬ夜床にとゞめつる我心こそ我を待つらめ 前右京大夫頼政
難波江の蘆のかりねの一夜ゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当
恋ひ恋ひて逢ふうれしさを包むべき袖は涙に朽ちはてにけり 藤原公衡朝臣
東屋の浅木の柱我ながらいつふしなれて恋しかるらん 前斎院新肥前
思ひわびさても生命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり 道因法師
数ならぬ身にも心のありがほにひとりも月をながめつる哉 遊女戸ミ
枯れはつる小笹がふしを数ふればすくなかりけるよゝの数かな 藤原成親
忍びかねいまは我とや名のらまし思ひ捨つべきけしきならねば 内大臣 良通
いづくより吹きくる風の散らしけむたれもしのぶの森の言の葉 左兵衛督隆房
いとはるゝ身を憂しとてや心さへ我を離れて君に添ふらん 藤原隆親
見し夢の覚めぬやがてのうつゝにてけふと頼めし暮を待たばや 太皇太后宮小侍従
知るらめやおつる涙の露ともに別れの床に消えて恋ふとは 二条院御製
忘るなよ世ゝのちぎりを菅原や伏見の里の有明の空 皇太后宮大夫俊成
さすが百人一首に採られたどの和歌も、すばらしい。末尾の俊成和歌などは「世ゝ(夜ゝ)」「すがはら(するの、す)」「伏見(臥し見る)」などと「音」だけを意味に繋いで体言止めに。よほど新古今荷風に接している。
待賢門院のサロンには、他に兵衛なども含め、閨秀の名手が集まっていたとよく分かる。
頼政といい成親とい、平家物語の人物が巧みに歌っている。後者の「よゝ」は「夜々」であり小笹という竹の「節々(よよ)」の意味でもある。恋ぢからの弱りを歎いている。前者のは逢い得てさらにの歌であり、教長の歌と響きあう。
秀歌の密集している巻。こういうのを嬉しく拾い読んでいると、ううつの歎きをふと忘れられる。自民党はすることなすこと、どうしてああも汚いのか。民主党はすることなすこと相争い、どうしてああも今が読めず先が読めないのか。
2009 5・24 92
* 千載和歌集 恋歌四 私の心に適った和歌たち
いかにして夜の心をなぐさめん昼はながめにさても暮らしつ 和泉式部
これもみなさぞなむかしの契ぞと思ふものからあさましきかな
思ひ出でてたれをか人の尋ねまし憂きに堪へたる命ならずは 小式部
待つとてもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ秋の夕暮 和泉式部
ほどふれば人は忘れてやみぬらん契りし事を猶頼むかな
恋をのみ姿の池に水草すまでやみなむ名こそをしけれ 待賢門院安藝
逢ふことは引佐(いなさ)細江のみをつくし深きしるしもなき世なりけり 藤原清輔朝臣
思ひきや年の積るは忘られて恋に命の絶えむものとは 後白河院御製
知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは 円位法師
逢ふと見しその夜の夢の覚めであれな長きねぶりは憂かるべけれど
心さへ我にもあらずなりにけり恋は姿の変るのみかは 源仲綱
待ちかねてさ夜も吹飯(ふけい)の浦風に頼めぬ波のおとのみぞする 二条院内侍参河
忘れぬやしのぶやいかに逢はぬまの形見と聞きしありあけの空 右近中将忠良
見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず 殷富門院大輔
人知れずむすびそめてし若草の花の盛りも過ぎやしぬらん 藤原隆信朝臣
いかなれば流れは絶えぬ中川に逢ふ瀬の数のすくなかるらん 藤原顕家朝臣
思ひ寝の夢になぐさむ恋なれば逢はねど暮れの空ぞ待たるゝ 摂政家丹後
はからずも和泉式部の歌が四首、西行二首。頼政の子息仲綱の歌も拾えた。後白河院の和歌は珍品。
2009 5・27 92
☆ 気鬱は 花
無理に押し込めようとせず、解放してやるのがよいと思います。ラクにして、楽しいことして、お過ごしください。
これからはますます暑くなるでしょうか。風、毎日汗だくかな。
今日は、図書館のすぐ傍にあるカフェに、一人で入ってみました。二年近く前にそのお店ができたときから、ずっと気になっていたのです。
花は壁に面したカウンター席に案内され、借りたばかりの本を読みながら、料理の来るのを待っていました。
注文しましたのは、今週のランチメニューで、さっぱりした梅味ソースのとんかつ定食。
さつまいものほんの少し甘く煮たのと、きゅうりの胡麻和えと、野菜たっぷりのおみおつけがついて、ヘルシーでした。ピンクグレープフルーツジュースもつきました。
そう広くない店内で、八割くらいのお客さんの入りでした。
カウンター席は、他のお客さんに背を向けているので、視線が気にならず、一人で入りやすいお店だな、と思いました。次回は、トマトスパゲティを頼んでみようかな。
風は、お元気ですか。花はとっても元気です。
* わたしは、高校生頃から憂鬱になることがあり、最後には読書へはまり込んで躱してきた。長ーいおもしろい小説を読み始めて、読み終えるまではイヤなことは忘れていようと。長いといっても読み煩うドストエフスキーのようなのは、ダメ。源氏物語、戦争と平和、モンテクリスト伯が一等手頃で、読みに夢中になれた。悲劇的なのはいけない、三国志はあわれへ流れて行き、気が滅入った。源氏は宇治十帖で持ち直せるのでよかった。南総里見八犬伝を今なら加えてもいい。
* 睡眠前の読書を組み替え、量を減らして睡眠をもっと規則的に取ることにしよう。また水分をもっと意識して大量に採ろう。
* 途方もないことが起きている。
2009 5・27 92
* 勅撰和歌集の眼目は、四季や恋を超えて「雑歌」にある。古今集でも「雑」の歌に学べとことに俊成・西行・定家の頃の師匠格はひとにすすめている。書き写すのも数多く、骨である。
* 千載和歌集 雑歌上 わたしの心に適った和歌たち
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立ゝむ名こそをしけれ 周防内侍
契りありて春の夜ふかき手枕をいかゞかひなき夢になすべき 大納言忠家
かをる香によそふるよりはほとゝぎす聞かばや同じ声やしたると 和泉式部
人知れぬ大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな 前右京権大夫頼政
さゞなみや国つ御神のうらさえて古き都に月ひとりすむ 法性寺入道前太政大臣
ながめつゝ昔も月は見しものをかくやは袖のひまなかるべき 相模
かくばかり憂き世中の思ひ出に見よとも澄める夜半の月かな 久我内大臣
はかなくもわが世のふけを知らずしていさよふ月を待ちわたるかな 源仲正
先立ちし人は闇にやまよふらんいつまで我も月をながめむ 源仲綱
浮雲のかゝるほどだにあるものを隠れなはてそ有明の月 近衛院御製
さびしさも月見るほどはなぐさみぬ入りなむのちを訪ふ人もがな 藤原隆親
霜さゆる庭の木の葉を踏み分けて月は見るやと訪ふ人もがな 円位法師
さもこそは影とゞむべき世ならねど跡なき水に宿る月かな 藤原家基
真柴ふく宿のあられに夢さめて有明がたの月を見る哉 大江公景
月かげの入りぬる跡に思ふかなまよはむ闇の行末の空 法印慈円
契りおきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり 藤原基俊
瀧の音は絶えて久しく成ぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ 前大納言公任
難波がた潮路はるかに見わたせば霞に浮かぶおきの釣舟 円玄法師
久我内大臣や仲綱や円位や慈円の和歌など、いまのわたしの思いにひびきあうものを伝えている。
* ゲーテがエッケルマンに話す数々を、今は、ただ受け止めて気儘に記録しているが、一読し終えたら、仔細に吟味し、さらに深い感銘を得たい、そうする値打ちがある。彼等の対話はちょうど二百年ほど昔のことで、しかもゲーテのいたワイマール公国ないしドイツ世界での対話ある。今私のいる日本とのいろんな意味の距離は無視できない、のだが、そう拘泥する必要のないほどゲーテは「大らかに本質的に批評」していて、その確かさに感嘆する。少しもブレていない、嬉しくなる。みながみな物理的な時空を超え同感できるのではないが、精神的に共鳴できるゲーテの意見や述懐は、魅力横溢。
2009 5・30 92
* 漱石の講演録を、七つつづけて読んだ。漱石の小説の全部に優に匹敵する感銘を受け、敬愛をさらに深くした。
「現代日本の開化」や「私の個人主義」だけが漱石の講演ではない。
「中味と型式」「文藝と道徳」「模倣と独立」「教育と文藝」等、二元対立の話題を漱石ははなはだ今日のセンスとも近く説得力明瞭に語っている。百年の落差を少しも感じさせない洞察の大きさ。
彼と同時代の講演を思い起こして、漱石のほど明晰に新しいセンスの示唆に富む講演は見当たらない。徳富蘆花はときに瞬発力のいい講演をしたが、同時代の具体的な歴史的事件と深く交叉している。
漱石はそうは語らない。本質論を展開して歴史を批評しひいては人間への痛烈な批評を聴かせている。しかも難解でなく、洞察は深い。当時の中学生でも十分感銘を得たろう、それが偉い。
2009 5・31 92
* 千載和歌集 雑歌中 わたしの心に適った和歌たち
あまたゝび行き逢坂の関水にいまは限りの影ぞかなしき 東三条院
今はとて入りなむのちぞ思ほゆる山路を深み訪ふ人もなし 前大納言公任
憂き世をば峰のかすみや隔つらんなほ山里は住みよかりけり
花に染む心のいかで残りけん捨てはてゝきと思ふ我身に 円位法師
佛にはさくらの花をたてまつれ我のちの世を人とぶらはば
もの思ふ心や身にも先立ちて憂き世を出でむしるべなるべき 前左衛門督公光
いつとても身の憂き事は変らねどむかしは老いを歎きやはせし 道因法師
いかで我ひまゆく駒を惹きとめてむかしに帰る道をたづねむ 二条院参川内侍
この世には住むべきほどやつきぬらん世の常ならずものゝかなしき 藤原道信朝臣
命あらばいかさまにせむ世を知らぬ虫だに秋は鳴きにこそ鳴け 和泉式部
数ならで心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり 紫式部
あはれともたれかは我を思ひ出でんある世にだにも問ふ人もなし 藤原兼房朝臣
山里の筧の水の氷れるはおと聞くよりもさびしかりけり 輔仁親王
山里のさぴ゛しき宿のすみかにも筧の水の解くるをぞ待つ 聡子内親王
杣川におろす筏の浮きながら過ぎゆくものは我身なりけり 二条太皇太后宮別当
おのづからあればある世にながらへて惜しむと人に見えぬべきかな 藤原定家
憂しとてもいとひもはてぬ世中を中なか何に思ひ知りけむ 摂政家丹後
思ひきや志賀の浦浪立ちかへりまたあふみともならむ物とは 平康頼
夢とのみこの世の事の見ゆるかな覚むべきほどはいつとなけれど 権僧正永縁
憂き事のまどろむほどは忘られて覚むれば夢の心地こそすれ よみ人しらず
いづくとも身をやる方の知られねば憂しと見つゝもながらふるかな 紫式部
憂き夢はなごりまでこそかなしけれこの世ののちも猶や歎かむ 皇太后宮大夫俊成
うつゝをもうつゝといかゞ定むべき夢にも夢を見ずはこそあらめ 藤原季通朝臣
いとひても猶しのばるゝ我身哉ふたゝび来べきこの世ならねば
これや夢いづれかうつゝはかなさを思ひ分かでも過ぎぬべきかな 上西門院兵衛
あす知らぬみむろの岸の根無し草なにあだし世におひはじめけん 花園左大臣家小大進
岩そゝく水よりほかにおとせねば心ひとつを澄ましてぞ聞く 仁和寺法親王 守覚
おほけなく憂き世の民におほふ哉わが立つ杣の墨染の袖 法印慈円
つくづくと思へばかなしあか月の寝覚めも夢を見るにぞありける 殷富門院大輔
まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける 西住法師
先立つを見るは猶こそかなしけれおくれはつべきこの世ならねば 六条院宣司
世中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
さすがに「雑中」、秀歌の多いこと。此処で個々に感想を書き始めれば、止められない。
いずれ、『わが千載和歌集秀歌撰』として一首ずつ読み味わってみようと、それを楽しみに。
老後を庭に降りて植木をいじっている人もある。
わたしにも機械に馴染みながら、こういう楽しみ、あっていいだろう。これもわが「文学作法」の範囲内である。
2009 5・31 92
* 千載和歌集 雑歌下 わたしの心に適った歌
何となくものぞかなしき秋風の身にしむ夜半の旅の寝覚めは 仁上法師
秋は霧きり過ぎぬれば雪降りて晴るゝまもなき深山べの里 待賢門院堀川
極楽ははるけきほどゝ聞きしかど勤めていたる所なりけり 空也上人
* 今日、荷風散人の墨東綺譚「作後贅言」を読んでいて、この語句に当たった。
* 「わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、その威を借りて事をなすことを欲しない。むしろこれを怯となして排けている。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは藝林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己に与するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、これを怯となし、陋となすのである。」と。
「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」とも。
かかる連中の「常識」を、わたしは「良識と似て非なる卑怯」と、かねて呼んできた。漱石はかかる「群れて恥なき者」をイミテーターと分類し、束になるしかない「槇雑木 (まきざっぽう)」と吐いて捨てている。
荷風も漱石も、そして驥尾に付してわたしも、これを「文学」「藝林」の名において言う。片輪で頑なな思いであるけれど、漱石の言う「自由」にして「インデペンダー」であり「文学・文藝」のオリジナルに身を賭する限り、至極当然の覚悟である。このような覚悟を身に鳴り響かせるようであったどれだけの藝術家と、わたしは出会ってきただろう。
2009 6・1 93
* 留守に、三月書房から出た高麗屋九代目の瀟洒な句集『仙翁花』を貰っていた。感謝。もうすぐ、幸四郎、染五郎、金太郎三代がめでたく門出祝う「連獅子」に逢う。
2009 6・2 93
* 祝『仙翁花』上梓
松本幸四郎様 御句集頂戴
好きな句をくちずさみゐる慈雨の季
五月雨といふ句もありて幸四郎 秦 恒平
*
キホーテと五十路の旅の青しぐれ
まどろみて五月雨の曲聴いてをり
木枯らしの中に楽日の役者かな
冬ざれに筋隈の紅燃ゆるかな
おぼろ夜の鬼女の棲み家を訪ねけり
五月雨に露けき袖や幸四郎
神祀るやしろ涼しきところかな
老人のまどろむでゐる夏列車
機関車の大暑の谷に入りにけり
日盛りの裸足で帰る農夫かな
夕闇のなかに横たふ刈田かな
冬凪ぎの静けきなかの土佐にをり
幾千の木漏日いだき山眠る
冬の山大神のごとおはすなり
ぼたん雪降るをながめてゐたりけり
神々が双肌をぬぐ夏野球
今年またせみ鳴き初めて思ふこと
豊の秋うつして清し御膳水
寒椿散るが如くに又播磨
籐椅子に妻まどろむでゐたりけり
冬日和母の佳き日は暖かき
四代目の金太郎なり風薫る
2009 6・3 93
* 千載和歌集 釈教歌・神祇歌 私の思いに叶った和歌たち
こゝに消えかしこに結ぶ水のあわの憂き世に廻る身にこそありけれ 前大納言公任
定めなき身は浮雲によそへつゝはてはそれにぞ成り果てぬべき
世の中は皆佛なりおしなべていづれの物と分くぞはかなき 華山院御製
月影の常にすむなる山の端をへだつる雲のなからましかば 藤原国房
夢覚めむそのあか月を待つほどの闇をも照らせ法のともし火 藤原敦家朝臣
ふるさとをひとり別るゝ夕べにもおくるは月のかげとこそ聞け 式子内親王
人ごとに変るは夢の迷ひにて覚むればおなじ心なりけり 摂政前右大臣
澄めば見ゆ濁れば隠るさだめなきこの身や水に宿る月かげ 宮内卿永範
見るほどは夢も夢とも知られねばうつゝも今はうつゝと思はじ 藤原資隆朝臣
おどろかぬ我心こそ憂かりけれはかなき世をば夢と見ながら 登蓮法師
水草のみ茂き濁りと見しかどもさても月澄む江にこそありけれ 右京大夫季能
恨みけるけしきや空に見えつらん姨捨山を照す月かげ 藤原敦仲
道の辺の塵に光をやはらげて紙も佛の名告るなりけり 崇徳院御製
めづらしく御幸を三輪の神ならばしるし有馬の出湯なるべし 按察使資賢
さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣 式子内親王
千載和歌集を三度読んで、随時に選んだ全部を書き出してみた。全巻で何首ほどになったか、全容を見直し読み直して、さらに次の仕事を考えよう。
2009 6・4 93
* 遠慮会釈なく酒を、たん熊北店であつらえてきた「熊彦」を呑んでいた。
機械の前でしたたかうたたねもした。
目が覚めると機械の前で今西祐一郎さんの『蜻蛉日記覚書』を耽読。蜻蛉日記の原作は丁度三度目をいま読み進んでいるが、おもしろい。訪れぬ夫を泣きの涙で空しく待つ妻の日記かのように何となく思いこまされ、それで敬遠して、大古典としては著しく出逢いが悪かった、遅かったが、初読みして、いきなりわたしはそのような思いこみを捨ててしまった。これはしたたかな知性の女の感性豊かな私小説であり、自己主張であると読んだ。それを更に二度読んで確かめているところ。
作品『四度の瀧』のヒロインのために作短歌を借りたことのある女歌人が、たしか蜻蛉日記を大学ででも講じていたのではなかったか、本ももらっていると思う。書庫から持ち出しておこう。
いまは専門中の専門家である今西名誉教授の研究書にのめり込んでいる。
2009 6・6 93
* で、今西さんの『蜻蛉日記覚書』を読み始めると、なるほどなるほど、面白くてやめられない。昔の常識をアタマに刷り込まれて、夫に冷たくされた妻の泣きの涙の不遇と愚痴の日記みたいに読んだりしたらたいへんな間違いと、幸いすぐ気は付いたが、ことこまかに研究者の穿鑿を受け容れて行くと、やはりこの道綱母ただ者でなく、夫兼家のしたたかさも骨柄も、情味も、懐かしい。夫は夫で道綱母の能力への信頼も情愛もやはりナミでなく、妻は妻で、兼家と夫婦である喜び誇りもやはりナミではない。子どもは道綱一人しか出来なかったのは寂しいが、兼家が他の女に産ませた娘を、母の死後に養女として引き取り育てているし、道綱母への同じ貴族社会が貢いでいる敬意や親愛もよくうかがわれ、同じ私小説としても、葛西善蔵や嘉村礒多系のそれとは大違い、むしろ白樺系のしっかり自立した恵まれた環境での心境私小説である。源氏物語や寝覚へも、枕草子や更級日記へも岐れて流れて行ける「層的構造」を作者の精神も意図もちゃんと備え持っている。
* たしか堀辰雄がこれを小説に書いていなかったろうか。円地文子は『かげろふの日記遺文』を書いている。
2009 6・7 93
* 天野哲夫(沼正三)の上下大冊『禁じられた青春』が、うまい評語がつかえないが、読ませる。わたしたちが歩んできた道を、時代を、ほぼ一世代先に歩いていた人だ、多くの記事や述懐や時代に、思い当たることがいっぱい有る。話題を探る視野がグローバルに広がるほど、沼さんの世界も見えてくる。微細にディテールを覗き込むレンズと、世界や歴史を望遠するレンズとを使い分けながら「告白」し続けて行く姿勢は、私小説のひとつのまた典型の提出のように思われる。
まだ上巻の三分の二ほどだが、せかせと読み進まないようにしている。
* 旧約の「エゼキエル書」をとうどう通過した。つぎは「ダニエル書」。ますます新約聖書に近づいて行く。非信仰者の聖書読みである。それにはそれの限界が有ろう。同じことは「法華経」読みにも言える。けれど、気を入れて読み続けている。
2009 6・9 93
☆ お元気ですか。 鳶
昨日のHPを、とても興味深く読みました。
ゆたゆたと一日を過ごされていると、勿論「仕事」以外のことで、そのように過ごされていると・・。
親類に関することには、わが身を振り返っても身につまされるものを確認しました。
「自分たちの力と努力とだけで生きることが出来る。」と書かれています。
そのように自立し、かなり「やせ我慢」もして頑張ったとわたしも振り返って思います。同時に結婚によって否応なく多くの「足枷」も感じてきました。二人の合意によってのみ成り立つ婚姻、それはさまざまな要素によって振り回されているのが現実です。
自分の力と努力とだけでしか生きられないのだと、複数でない、「単数」の自分をわたし自身は強く強く意識して生きてきました。
蜻蛉日記に関することには、ある部分で目から鱗、ああそうなんだと大いに納得しました。女文化の視点ですぞ、とお叱りを受けそうな感もありますが。いくつになっても目から鱗の場面に出会います、それも稀どころか、いつもいつも日常で。
千載和歌集は毎日記載されるごとにコピーして楽しんでいました。並行してわたしも手元の本で勝手に好きなものを抜き出して読んでいました。
俊成に共感されているのも面白く読みました。
俊成女・・彼女は血縁の娘ではありませんが・・彼女は晩年京都を離れて所領のある越部の里に暮らしました。越部のあたりには行く機会がありますので、いつしか彼女に興味を抱いています。越部は今も長閑な里です。
昨日、折口信夫に関する本を読んでいました。彼の『死者の書』の表紙はエジプトのミイラの棺と人頭をもつ鳥が描かれたもので、大津皇子と藤原南家の郎女を描いた小説の内容を思うと違和感がありました。が、死と再生に関するエジプトのオシリスとイシス
の神話、さらにキリスト教と仏教の「融合」に到るまで探求していた彼の唯一の小説の表紙として、それも意味あるのだと知りました。奈良時代、ペルシア人が奈良にいたことは周知のことですが、秦氏は韓国からの帰化人ではなく、遠い西方からやって来たユダヤ人だったと・・古くから、既に明治の終わりに論じられていたことも再確認。ただしこの本、『霊獣』安藤礼二に記されたことの多くは、わたしにはまだまだ未消化の事柄です。
まもなく梅雨、くれぐれもお体御自愛ください。憂鬱は雨に流してください。
ps、これまでに書いたものの推敲、再構成にかなりの時間が過ぎてしまいました。今もって迷っています。
* こういう読み手がいてくれる。書き甲斐がある。
* 俊成女は少なくも俊成の娘ではない。孫娘ではあり得るかも知れない。
それよりもこの人を懐かしく思うのは、我が国最初の文藝評論書『無名草子』の著者であるかも知れぬこと。
この本、すこぶる、すこぶる面白い。いま書棚から抜いてきて、拾い読みし始めるとキリがない。述懐も論調も厳しく圭角に富んでいて、さながら俊成卿のボキボキの手蹟を見る心地もする。著者は俊成で、老い尼に仮託したか、とも想われるが、結着は付いていないようだ。祖父と孫娘二人の共著という趣向かも知れぬなどとわたしは面白がっている。なにしろ俊成はしたたかな批評家でもあったから。
* 二階の廊下、外向きの窓の下に、文庫本専用の低い本棚が三つほど並んでいて、その前に座り込むと、宝物を見ているように、とりこまれてしまう。これは貴重と目をつけると、「ド古本」でも、今すぐ読まなくても、昔からの文庫本を多年買い溜めてきた。ウワッと呻くほど珍しいモノも有る。但しどの本も傷んでボロボロにちかい。行きがかり、黒いマゴが爪を磨いたり、ときにはオシッコをひっかけている気配もあり。
ま、いいか、と。それも我が家よ。
2009 6・9 93
* 芥川龍之介編『近代日本文藝讀本』で菊池寛の『出世』 厨川白村の『小泉先生』 夏目漱石の『「山鳥」其の他』など読んだ。八雲を追憶の白村のものは「e-文藝館=湖(umi)」にも採ってある。
いまもしこの六集ある芥川編が、欠字と褪色の紙の本でなく、電子化され「文藝館」になっていたら、どんなに権威をもち歓迎されることだろう。およばずながら、少しずつわたしの「e-文藝館=湖(umi)」に採拾して行く。
* 読む本、読む本がおもしろくて堪らない。ただもう無欲に読むからそうなのだろう。関心は、いい作品だなあとただただ感嘆したいだけである。
* 横手一彦教授から、代表としてご苦労されたシンポジウム「被占領下の国語教育と文学」(プランゲ文庫所蔵資料から)の大判一冊が送られてきた。これがまた実に興味深い。横手さんはなかで、『敗戦と「敗戦期文学」』の研究発表をされている。お願いして「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴したいと願っている。
高村光太郎の戦争荷担・戦意昂揚の仕事でも、ご意見をぜひ聴きたい。
2009 6・9 93
* 「私怨」という言葉に、わたしは少年時代から一種のセンスを持っていた。それは漱石の『こころ』から得たセンスだろうと思っている。
この作の「先生」は、いざというとき人間を悪人にするのは「金」だと「私」に言い、その根の思いや哀しみを、また深い怨みを、わが父の遺産を恣まに蕩尽していた叔父に向けていた。けっして、その「怨みは忘れないのです」と言い切っていた。
この作の「先生」という人は、漱石が書く男達の通弊かのように読まれている或る種ウジウジした男の一人であるが、(それには気の毒に「漱石の病気」が必ずや関与していたであろう。)他の点はとにかくも、「怨み」は決して忘れないと言い切る先生を、わたしは必ずしも指弾しなかった。それでいい、そうあっていい、毅い、と思っていた。
* 文学や藝術の根底には、よく謂う愛や哀しみより、もっと濃密に「私怨」が秘められているとしても当然だろうと、わたしは容認している。いうまでもない『オデュッセイ』や『古事記』より以降、「怨み」は創造のつよい根の力だった。オデュッセイの名じたいが「怨み」の意義を体していると謂われている。『嵐が丘』も『モンテクリスト伯』もしかり、『源氏物語』ですらしかり、洋の東西の名作力作の多くがあらわに底に「私怨」をエネルギーにしている。但し、生きる力になるほどの「私怨」には、他者を納得させるだけの根拠がある。理由がある。
* 夜前わたしは、漱石の『道草』を、感銘に包まれついに読了した。あえて新聞小説を日々読むように、百日ちかくもかけ丁寧に読んできて、ゆうべは最後の数回分を一気に読み上げた。
新聞紙上でいえばその連載百回めで、妻の「住」に向けたこんな「健三=漱石」の述懐を聴いた。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
漱石自身に抜きがたく実在したこの述懐が、どんな具体的な事実に根ざしていたか、『道草』は同じ場所で明かしているし、その事実であったことは漱石の日記も夫人の『漱石の思ひ出』も証言している。
『道草』のその箇所を引いておく。
健三は比田(=姉婿)に就いて不愉快な昔迄思ひ出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であつた。病人は平生から自分の持つてゐる両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「是を今に御前に遣らう」と殆んど口癖のやうに云つてゐた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らない其装飾品が、何時になつたら自分の帯に巻き付けられるのだらうかと想像して、暗に未来の得意を予算(=難漢字。意を踏む)に組み込みながら、
病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなつた人の記念とも見るべき此品物は、不幸にして質に入れてあつた。無論健三にはそれを受出す力がなかつた。彼は義姉から所有権丈を譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合つた。すると其席上で此田が問題の時計を懐中から出した。時計は見違へる様に磨かれて光つてゐた。新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加へられた。彼はそれを勿体らしく兄(=亡くなった兄の下の兄)の前に置いた。
「それでは是は貴方に上げる事にしますから」
傍にゐた姉(=比田の妻か)も殆んど此田と同じやうな口上を述べた。
「どうも色々御手数を掛けまして、有難う。ぢや頂戴します」
兄は禮を云つてそれを受取つた。
健三は黙つて三人の様子を見てゐた。三人は殆んど彼の某所にゐる事さへ眼中に置いてゐなかつた。仕舞迄一言も発しなかつた彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたやうな心持がした。然し彼等は平気であつた。彼等の仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼等がそんな面中(つらあて)がましい事をしたのか、何うしても考へ出せなかつた。
彼は自分の権利も主張しなかつた。又説明も求めなかつた。たゞ無言のうちに愛想を尽かした。さうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼等に取つて一番非道い刑罰に違なからうと判断した。
「そんな事をまだ覚えてゐらつしやるんですか。貴夫も随分執念深いわね。御兄いさんが御聴きになつたら嘸御驚ろきなさるでせう」
細君は健三の顔を見て暗に其気色を伺つた。健三はちつとも動かなかった。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
* 思想でも主張でもない、まさに作中人物「健三」の、そして作者「漱石」自身の紛れない「私怨」である。漱石は少なくも家族や親族に対するこれら「私怨」を、ほかにも、海綿が吸った水のように五体にいやほど含んでいた。それにエネルギーを得て、「心」も「道草」も書いた。他の作品にも大小と無くしみこんでいる。
彼漱石の創作が深く広く支持されてきた理由の一つは、読者たちもまたそういう「私怨」を、当然の根拠もあって大事に身に抱き込んでいるということかも知れぬ。しかし繰り返して云うが、その根拠が、『道草』のこの箇所で謂われている「血縁親族の態度」や「奪われた時計」のような「物証」で理由づけられていなければ、ただの軽薄な虚言になる。
* わたしほど執念深くない妻でも、娘婿から、汚らしい言葉で罵詈讒謗の手紙が連発されてきたあの時の「不快と憤慨」とは「どうしても忘れられない」と云う。
一つには、それがあまりに突然に勃発したからであり、現にその前日にも娘婿は我が家、で妻の口から「生活は大丈夫ですか」と案じられていた。婿の返辞は、「ご心配なく、大丈夫です」であった。
それ以前から、何の問題もない両家親密な交渉などは、例えばその少し前まで彼等がパリに留学していた頃の、手紙やはがきの文面がじつに和やかに示している。このファイルの裾に示した、家族和気藹々の写真にも明らかに見てとれる。
* 一つ譲って、仮にこの漱石・健三の立場に、われわれの娘婿を置いてみても、ここに書かれた「陰湿な時計事件」の如きは絶無であって、恨まれる筋は何もなかった。有ったとすれば、「学者婿を娘の夫」にした以上は、生活費や住居で支援するのが嫁の実家として「常識」だと言い募る、不思議極まる「非常識」以外に、何も思い当たらない。だがそれを云うなら、「若い健康な学生身分」で何を云うか、こちらには九十の坂に喘ぐ義理有る三人の親や叔母を抱えている、「非常識はどちらか」と答えるだろう。
そのわれわれの「怒り」は、もとより家族・親族内でのことゆえ、つまり「私怨」である。こういう「私怨」をわたしは縁のものと受け取り、「健三」の断乎たる言葉通りに、忘れない。不自然に圧殺はしない。してもならないと思っている。わたしが漱石を敬愛する所以でもある。
2009 6・10 93
* いま読んでいるエッケルマンの『ゲーテとの対話』上巻の奥付をみると、昭和二十六年九月の第八刷とある。高校一年の二学期に買っている。最後まで感銘の箇所に赤鉛筆の傍線があるが、いま、なんでこんなところにと訝しむ傍線が全然無い。今の私が胸を轟かすと同じ箇所へ高校生が赤鉛筆を使っていたのを確かめ確かめ、ゲーテへの尊敬の年久しいことに思い沁みる。しばしば叱正も浴びて身が縮まる。
それにしてもこの岩波文庫、外装にさほど傷みはないのに、頁はもう一枚一枚が崩れ落ちてくる。文庫本の五十八年は、寿命か。
* 武者小路実篤の『佛陀と孫悟空』という戯曲(ごく簡略な型式での対話)を克明に校正しながら読んでいた。欠字してたぶん原本の複写本なのであろう、スキャンはごく不十分で手が掛かるが、じっくり「読む」面白さがある。
2009 6・11 93
* 荷風が昭和二十九年ごろに創った『吾妻橋』を読んでから、三島の『禁色』を読むと、私の受けた感銘という点から云えば、後者にはこれに何の意味があるのだろうというほどの、ただシラケた「造花」的な天才だけが有る。藝妓を書き女給を書き私娼を書いてきてついにパンパンを書いている荷風の筆には、東京の変貌に加えて東京大空襲という絶大な被害の苦しさがきちんと書き込まれ、うたた感慨を籠めている。切ない、しかも不思議な懐かしみに荷風の筆は決して冷たい作り物ではない。
* 漱石を読んで、かつて『道草』『明暗』だけはワキへよけるようにめったに手にも目にもふれてこなかった。しかし、古稀を数年過ぎてきて、いまはこの二作におもしろさ、確かさを感じ、ことに『道草』の徹した私小説手法に生かされた漱石の内景に目をみはる。小宮豊隆の解説によれば、この作に書き込まれたすべては漱石自身の実体験・生活上の事実と確認できる、ただ、それの実際に起きていた時間の幅を、創作のために「一年」ほどのなかへ按配してあるだけ、と。
漱石は文学史的に反自然主義のように思われたり書かれたりしてきたけれど、講演の幾つかで、いつも浪漫主義と自然主義を公平平等にかかげつつ、超時代的な浪漫主義以上に今日只今に足をおろした自然主義の現代味に相当親切な理解、ときに共感を隠していない。『道草』はけっして妥協の産物でなく、必然の私小説であった。それについても小宮は分かりよく触れている。
これを落ち着いて読んでいると、それ以前の漱石作が読者サービスに富んだ優れた作り物でもあったことがはっきり見えてくる。それとてもわたし自身の内景の変容が導いた感想であるけれども。
わたしはまだ、浪漫主義も自然主義も、もう暫く同時に追跡して行くのだろう。
* たくさんの本を戴いている。手に持っての順不同で、北原亜以子さんのおさん茂兵衛に取材した長編『誘惑』、尾辻紀子さんの、「ボアソナードと門弟物語」と副題のある維新ものの『法学事始』、川野里子さんの歌人葛原妙子の戦後短歌に果敢に攻究した力作『幻想の重量』、夫馬基彦氏の『オキナワ 大神の声』、そして小谷野敦氏の漱石論二冊。
此処にお礼を申しておく。追い追いに読んで行く。
2009 6・12 93
* 妻のいま読んでいる本で、著者が、自分は、本は、源氏物語でもカラマーゾフでもいちどしか読まない、世の中にはあの本は何度、この本は何度も読んだといっている人がいるが不思議だと書いていると、笑い出した。わたしも笑った。
* つまりその人は、本を読んでいないだけ、のこと。お札所を巡礼して、なにかに朱い印を捺して貰ったら「お参りしましたの証拠」になるというのと同程度。いくら筋書きは記憶できても、それは顔のうえを撫でたに過ぎない。いい本は必ず繰り返し読んでも新しい発見と妙味を与えてくれる。繰り返し読まないと汲み取れないのは読み手がバカだからと、そういう著者は得意がるのかも知れないが、少なからずコッケイ。そしてあまりに寂しい人である。本が「本」の意味で本当の糧になっていないのだから。
二十歳で読んだ「明暗」や「道草」と、七十で読む「明暗」「道草」も、同じ一回の読みで済むほど「同じ」だと思っているのだろうか。まるで不出来なロボットのようだ。本気で「人間」を生きているのだろうか。
2009 6・15 93
* 本は「一度」読めば沢山だ足りているという自負の声を小耳にはさんだが、京都へは、ローマには、何処でもかしこでも、要は「一度」行けば分かりましたというようなハナシか。この人、ひょっとしてセックスも、一度すれば足りました、分かりましたと言うのではないか。可哀想な気がする。
2009 6・16 93
* 広い世の中。大勢の読者達が、みなそれぞれの「名作」を胸に抱いていることだろう。人がそれを、それぞれを「名作」と思うのは全く自由であり、共通して謂える真実は、その人達がその作品により「深く心励まされた感銘し感動した」ということ、である。それはいわゆる批評学や鑑賞学を超えた次元で胸に抱く「珠」にほかならない。他の人に通用しようがしまいが、それは自ずから別ごとである。
むかし、東工大の学生諸君に、高校までに先生からもらった感動の一言を教えて欲しいと言い、大教室をぎっしりうずめた大勢が、まさしく銘々の記憶の「一語」を書いて提出してくれた。その中には「十七にして親をゆるせ」また「男は風邪をひくな」などがあり、教室がおおっと揺れたことは繰り返し書いてきたが、書き出されたおおかたは、あのときの一言「がんばれよ」の類であった。それを平凡と言うことは、他人には許されたにしても「無意味の批評」である。当人は魂をゆさぶられたのである。
* 広い世の中ゆえそれも一風景ではあるが、人がそれを心から「名作」と思うのは、作品の題がなにであれ、そこに「感動があり深い価値が添っていた」からだと先に云った。そのそれぞれの「名作」を指さし、それは「名作ではない」と論う人も広い世の中にはいる。
ただ、はっきり言えることは、「それは名作ではない」という類の言説は、人それぞれを揺り動かした感動・感銘とはまるで無縁だということ。
それを好んで言う人の魂は、気の毒に「よろこびにうちふるえて」いない。つまり、よけいなお世話にすぎない。いわば、ある種のひからびた乾いた「賢しら」なのである。べつだんの何も生まれないという意味では、「がんばれよ」と先生に言われてそれが生涯の感謝と感銘になっている人に向かい、「がんばれよ」とは何という詰まらない平凡なへたくそな励ましだと批評するのと、少しも変わらない。そこからは何も生まれていない。
そんな真似をして喜ぶより、自分にはこれが「名作」だと心から論じれば宜しい。
批評は、作品論は、その作品がそれにより、さらにさらに豊かに面白くなるようなものでありたい。
2009 6・17 93
* 六月十九日には、三鷹禅林寺の桜桃忌に参加し太宰治の墓に香花をささげることが何年か恒例であった。今日もそれを思い出しながら発送の作業などしていたが、思い立ち、永井荷風の『断腸亭日乗』から鴎外先生の墓参の項を抄してみた。
知る人はよく知っているが、禅林寺は森林太郎墓所である。太宰の墓はやや近くにある。荷風は森鴎外を師と仰ぐほど敬愛していた。向嶋に鴎外の墓のあった頃はしばしば掃参していた。震災で三鷹へ移転し、昭和の戦争が起きてからはなかなか行けなかった。不便でもあった。この日は思い立ち初めて三鷹に赴いたが自然観察のこまやかな荷風の筆は、往年の禅林寺の風趣をいまに伝えて懐かしい。
但し、この頃には太宰治の影も、この寺にはなかった。
■ 鴎外先生の墓参 (『断腸亭日乗』より抄) 永井荷風
招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 日記
昭和十八年(一九四三)
十月念七。晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。
先生の墓碣ぼけつ)は震災後向嶋興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならずその頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花(こうげ)を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもここに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、この日突然倉皇として家を出でしなり。
吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋琴家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都(すべ)て目新しきもののみなり。北沢の停車場あたりまでは家つづきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるるものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清涼になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗(すこぶる)目をよろこばすものあり。杉と松の林のかなたこなたに横(よこたは)りたるは殊にうれしき心地せらるるなり。田間に細流あり、また貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨(はぜ)の紅葉花より赤く芒花と共に野菊の花の咲けるを見る。
吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひてこれに乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側(ひとかわ)並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二、三分にして細き道をちよつと曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりといふ。
道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。その花星の如く二、三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて禅林寺となせし扁額を挂(か)けたり。葷酒不許入山門(くんしゆさんもんにいるをゆるさず)となせし石には維時(これとき)文化八歳次辛未春禅林寺現住眥宗謹書と勒(ろく)したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれどいまだ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作(な)したり。本堂の前に榧(かや)かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるがあり。本堂は門とは反対の向(むき)に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところかへつて趣あり。簷辺(えんぺん)に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾(を)しむ。堂外の石燈籠に元禄九年丙子臘月の文字あり。
林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆かつて向嶋にて見しものなり。
香花を供へて後門を出でて来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。この仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。
停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。
新橋に行き金兵衛に餤す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋(おく)らる。夜ふけて家にかへる。
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* 私の興味は、荷風が、太宰の人と文学ないしその死に関心を示していたろうか、であるが、芥川の跡を追ったような太宰は、芥川が荷風を徹して避けていたように、荷風には触れていなかったろうと想う。同様、荷風も太宰に言及していることは、まずあるまいと想っている。
* 岩波文庫で川本三郎さんの編まれた『荷風語録』を読了。同じく岩波文庫の漱石『文明論集』も読了、編者の解説は行き届いている。また古典全集での『蜻蛉日記』も読了。
さらに飛び入りで読んでいた吉行淳之介の『暗室』も読了。この作については考えるところがある。いま書いている小説と接触しそうな気がする、いや対決するところ、かもしれない。
* 美味しい桜桃をたっぷりいただいて、心嬉しい受賞四十回目の桜桃忌であった。
2009 6・19 93
* いまからちょうど十一年前に二都文学会の出していた小説と評論の「カプリチオ」第9号巻頭に、インタビューで学友鈴木重生氏が語る「吉行淳之介の等身大をさぐる」が出ていて、他に目的があって手に入れた雑誌だったが、ことのついでに読んでみた。
ちょうど彼の『暗室』を読んでなんだか貧相な書き方だなと意外に想っていたときだった。吉行の小説は他に、芥川賞をとった『驟雨』を一つだけ読んでいて、これは掛け値無しの傑作だとまだよほどわたしの若い昔話ながら、感嘆した。
その後に銀座の映画館で、勤務時間内に「砂の上の植物群」とかいった映画を一人で観た。顔の平たい、やや高慢なふぜいの女優が主演していて、ひどくポルノグラフィックな、そのわりに感銘の薄い駄作だった。そういう世界を書く作家だと噂にだけ聞いていた。興味がなかった。
或る年の暮れに、或る文学者が、吉行とわたしとの名前を今年の関心として挙げていて、理由は「女の書き方」とあった。歳末アンケートだから詳しいことは言っていない、女の書き方が似ていると言ったのか対照的と言ったのか。
それ以外に初めて今度『暗室』を読んだ。東工大の或る教官が転勤の時、要らない本を床に山積みにしていた中から、かりにも文学作品だものと惜しんで拾ってきたが、十数年家の書庫に置かれて手も触れずにいた。たまたま、「e-文藝館=湖(umi)」に吉行論を投稿してくれた人がいたので、ついでにあの作も一度読んでみようかと持ち出してきた。谷崎賞作品だったとも、実は今朝読んだ十一年昔のインタビューを読んで初めて知った。
* 吉行淳之介に関係しては、わたしに、他に、二つの具体的な思い出がある。それを今ここで書くか、すこし迷う。迷うようなことは先延ばしにしたほうがいい、粗忽な筆に走らないように。
2009 6・21 93
* 吉行の『暗室』読み終えて、同時に今も読んでいる三島の『禁色』との、比較が仕切れない。天才がちがう。
* いま、佐藤春夫の『星』という短編を読んでいる。少年の昔に古本屋で手に入れた里見トンと連名の円本で。こんな小説の書き方があるんだ、いつか描き方を真似てみたいなあと思ったロマンチックな小説。
* 今日はずっと外出中も、自分の「新刊」を読み返していた。ちょうど十年一昔前のはりつめた「文学との」日々。
十年たって、よほど爺になってしまったが、気の張りや思いは変わっていないと自覚する。こう生きるために生まれてきたんだなと。「濯鱗清流」という題にこめた、優れたモノ・コト・ヒトへの感謝が、自分を支えてきたと思う。
* 佳い演劇に触れてきた日は、その興奮に身をまかせるように、すこしばかり、ぼんやりしている。
2009 6・23 93
* 蜻蛉、漱石の文明論、荷風の東京、吉行の「暗室」を読み終えたのと前後して、臼井吉見『安曇野』と佐藤春夫集とを近くへ置いた。春夫には馴染んでこなかった。代表作の「田園の憂鬱」や「都会の憂鬱」も手にふれてこなかった。この作家にはなにかしらよけいなポオズを感じてきたのである。さ、脱却できるかどうか。
臼井先生のものでは若い日の西園寺公望を書いた維新ものの長編も読み返してみたいが、相馬黒光女史周辺から広大に書き起こして行く『安曇野』にもう一度学んでおこうと。小説家の小説を読む気分ではない、批評家の感想を読むのである。
* 読んでいて嬉しいのは、エッケルマンの『ゲーテとの対話』だ、彼等の時空からは遠く隔たってあるわたしだが、その普遍性に富んだ洞察には頁を繰るつど瞠目する。まるまる呑み込みはしないが、すばらしく旨い料理ではある。
2009 6・24 93
* 山本周五郎について書かれた本をもらい、かなり一気に読んできて、たとえばどんな文学賞も要らないなど、敬服できる逸人の風がある。
ただ、こと文学、こと作品に添って感じ取れることは、何としても「読み物」作家であるという事。苦心工夫の作といわれるモノも、あらすじや部分的に表現を読んでいても、要するに巧みなつくりごとであり、切れ味鋭い文学の意気や意気地ではない。志賀直哉風の観点からすれば、客をしっかり寄せている講釈師の藝のよさ、で止まっている。以前にすこし読みかけたこともあったが、ついて行きにくかった、頼りなくて。評判のよさが理解は出来て、たとえば藤沢周平の作などと同じだが、所詮は読み物の味が抜けていない。
* 山本周五郎について書かれた本をもらい、かなり一気に読んできて、たとえばどんな文学賞も要らないなど、敬服できる逸人の風がある。
ただ、こと文学、こと作品に添って感じ取れることは、何としても「読み物」作家であるという事。苦心工夫の作といわれるモノも、あらすじや部分的に表現を読んでいても、要するに巧みなつくりごとであり、切れ味鋭い文学の意気や意気地ではない。志賀直哉風の観点からすれば、客をしっかり寄せている講釈師の藝のよさ、で止まっている。以前にすこし読みかけたこともあったが、ついて行きにくかった、頼りなくて。評判のよさが理解は出来て、たとえば藤沢周平の作などと同じだが、所詮は読み物の味が抜けていない。
* じつは私、まだ新米のピカピカだったころ、何かの雑誌、新潮社の「波」あたりからこれはと感じて切り出していた「ことば」があった。
たしか、それが山本周五郎の「ことば」だった。
わたしはそれを五糎四方ほどに切り出し、いかにも少年ぽく、といってももう結婚しものも書いていたのだが、貧しいツールに入れ、始終身の傍に置いていた。読んでいた。
二○○○年の元旦、息子に新年の賀詞をメールで送ったなかに、その周五郎の言葉を入れていたのが、今度の「上巻」に出ている。
* 歳末に片づけ仕事の中で、古い、幼稚な、やすい、鉄の写真立てのようなものを見つけました。雑誌から切り抜いたらしい、「言葉」が二つ入っていました。小説を書き始めた若き日々に机に立てていたものです。だれの「言葉」だったか、山本周五郎か、それは忘れていますが、「言葉」には信服していました。その通りと信じていました。
二千年の年頭に、此処に置きます。
此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか ?
水を流そうと思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より深く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。
五センチ四方にちぎった、色変わりのした粗末な紙に、9ポイントの字で印刷してあります。
あとの「言葉」の三行目は、わたしの言葉に変えました。原文では「水の在る場所より低く」とある。「低く」掘るのは間違いだと思う。心して「深く」掘りたい。
きみの悔いなき健闘を祈っています。 父 二○○○・一・一
* この、「水を流そうと思うなら 流そうと思う方を 水の在る場所より低く 掘らねばならぬ」とあった原文が、いかにも読み物の人の、読者の意を迎えた言葉だとわたしは感じた。今度もその本を読みながら何度も感じた、「そうなんだ」と。
わたしは、「深く 掘らねばならぬ」と思っている。直哉でも潤一郎でも荷風でも漱石でもきっと「深く」と自覚していただろう。
* 山本周五郎と例えば私とで、いや私と限らずよく聞くフレーズがある。
「文学に純文学も通俗文学も無い、あるのは良い作品と好くない作品とがあるだけだ」と。言葉の上では、それが正しいであろう。
しかし、その上であえていえば、通俗読み物を贔屓の人たちの「良い」と、たとえば漱石や鴎外や直哉や秋声や谷崎や川端らの作が良いという人たちとの。同じことばではあっても「良い」の質や水準が往々にしてちがう、其処に大問題がある。「良い」のなかみが違っていては、上のテーゼは意味を成さなくなる。
同じく「面白い」でも、読み物が面白いのと漱石や三島が面白いのとではちがっていて、そこにクリティクが無ければ、問題がもとの木阿弥に立ち返ってしまう。説明的なお話が上出来に面白いのと、表現豊かに文体の美しく優れた文藝モノの面白いのとでは、まったく同じ物差しでは測れない。良い小説とは「面白いお話だ読み物だ」というのと、良い小説とは「優れた文体が人生や人間の秘密を深くから汲み出し表現している作のことだ」というのとでは、物差しの目盛りがちがっている。
2009 6・24 93
☆ 秦 恒平様
『濯鱗清流』を拝読しました。「湖の本」の歴史もよく分かりました。妙な話と思われるかもしれませんが、元気が出ました。
頂いた元気の勢いで、小著(=『論集・中野重治』龍書房)を送らせて頂きます。あまりご興味がないかと遠慮しておりました。
本格的な梅雨となりました。ご自愛下さい。 誠
* 興味が無いどころか。中野重治はもっとも大事な、尊敬する「フェイマス」な作家の一人です。唐木順三先生のご葬儀の日、わたしは中野重治さんの雄偉の後頭をみながらまうしろの席で唐木先生を悼んでいた。中野さんと唐木先生とは肝胆照らす仲であった。
* 歌人の大島史洋氏からは新刊の歌集『センサーの影』を頂いた。甲府の山梨県立文学館からは「太宰治展」の完備した図録を貰った。
2009 6・25 93
* 帰宅すると折りもよし、東大名誉教授久保田淳さんから、ちょうど荷風散策を読んでいまもっとも渇望していたような、岩波新書『隅田川の文学』を頂戴していた。嬉しい。目次を観ただけで、ふるいつきそう。川端、芥川、谷崎、荷風、鏡花、黙阿弥、南北、近松、芭蕉などの名が、ずらり。古典が、ずらり。
2009 6・25 93
* このところでは珍しく、朝寝した。夜前の読書が過ぎたか。
吉行淳之介の『娼婦の部屋』を読んだ。佳作。もう一度二度推敲して「のようというのだ」のダレや無造作をスッキリさせれば秀作の域にあっただろう。
ついでに奥野健男の書いた吉行の「人と文学」を読んだが、これはへんにしどろもどろな不出来ものでしかなかった。目から鱗は落ちなかった。
吉行を読むと、つい読み継いでいる三島由紀夫の『禁色』へ思いが行く。『暗室』と比べると三島の巧緻な観念術のほうへ手を挙げたが、『娼婦の部屋』にくらべると三島の男色作は空疎な力みのまま、化石のように、造花のように、乾いて重くて気障である。
* 臼井吉見の『安曇野』は、語り口が軽く軽く浮き上がりそうなのを、史的事象や史上著名人の言説に借りて引き留め引き留め、書生っぽい紙芝居のように進む。授業上手な先生の「お話」のようでもある。その調子で厖大な長編が語り通されるのである、この、これも谷崎賞作品は。
谷崎潤一郎自身に読ませたなら、投げ出していたのではないか。
しかし、とても大事な大事な「近代」の「お話」なのである。余人には出来なかった「お話」を克明に話して行かれる。出て来る人物、人物に心を惹かれ惹かれ読むのが、聴くのが、良い。
* 沼正三=天野哲夫の自伝が、彫り深く、あらけないようで時に精微。虫眼鏡で足もと手もとを覗くかと思えば、端倪スベからざる精緻な遠眼鏡で世界史に切り込んで行く。
夜前は、ヒトラーがなぜああまでドイツに立ち、なぜああまでドイツ人の大半が挙って彼の前に直立して従ったかを、ヴェルサイユ条約以降の途方もない列強の強盗ぶりを描写し説明しながら、的確に語っていた。沼=天野の観察、わたしにも、正確と見える。世界史、近代史を読んだとき、第一次戦争後のヴェルサイユ条約以降の苛烈な経緯に、今日只今の波瀾にも到る、ものすごい強毒と強欲とを感じとり、悪寒に肌寒くなったのを思い出す。
* そんな風にして、都合十四冊もの本に読み耽ってから、やっと電灯を消した。夢をいろいろ見たと思うが、影も形も思い出せぬ。
起きて一番に、「安良多麻」主宰奥田杏牛さんの、亡くなった道子夫人遺句集『さくら』を、「e-文藝館=湖(umi)」のために書き興した。むろん夫君のお許しが得てある。すばらしい句、句に感動し、ぜひにとお願いした。杏牛さんは句誌編輯の「穴埋め」に強いて創らせていたと夫君は云われるが、とても、そんなモノではない。純然かつ清麗、胸を打つ。
2009 6・28 93
* 今日もさしたることなく、ゆらりゆらりと過ごしていた。暑さに負けてアタマがぼうっとしていたとも謂えるし、要するに怠けたのでもある。
あれをしなくちゃ、これもしなくちゃと思うことは目の前にある、のに、別段しなければしないでもたいしたことはないだろうと納得する自分がいて、その自分のなかへ潜り込んでいた。
そして寝る前に読む本を、日のある内に読んでいたりした。『安曇野』はいうまでもない、長野県。わたしの生まれ育った京都とはずいぶんちがう。作の出だしの「研成義塾」設立のお話からして、その燃え方、別世界のことのように感じる。時代が違うだけのことさとも思うのだが。
2009 6・29 93
* 勲三等の勲章をもらわれた小児科医馬場一雄先生の新著を戴いた。多年に亘り、公私ともに数え切れないほどわたしも家族もお世話になってきた。馬場先生の紹介状をいただいて東大国文学の書庫へ入れてもらい、そこでの勉強で『慈子(=斎王譜)が書けた。馬場先生のお力を借りて東大小児科と産科との共同総合の『新生児研究』が成り、これを契機に「日本新生児学会」が生まれた。馬場先生を主幹に名古屋の鈴木榮教授、札幌の中尾享教授、鹿児島の寺脇保教授を編集委員に綜説雑誌『小児医学』を創刊した。馬場先生とのコンビで刊行した研究書は叢書もふくめて何十冊にも及んだ。建日子の誕生に当たっても終始お世話になった。
馬場先生とも鈴木先生とも、いまもこのように懇意にしていただき、鈴木榮教授の日本語に翻訳された女性ノーベル賞作家ラーゲルレーブの短編小説『軽気球』も「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴し、むろん「ペン電子文藝館」にも「招待」した。
2009 7・2 94
* 久保田淳さんに頂いた『隅田川の文学』を、とても懐かしい気分で読み進んでいる。だいたいが情緒的に隅田川を歌いあげている中で、高村光太郎の、口語で、きっぱりと冬をうたう高い調子が佳い。いいものを正確に選び出すことを知らずに大詩人や大作家の作を「抄」したりしては恥ずかしい。
2009 7・4 94
* 福田恆存先生とのご縁は、『墨牡丹』を書いたとき、村上華岳にふれて親切なお手紙を戴いたのが最初だった。のちに三百人劇場で「ハムレット」を訳・演出なさったときに、劇場で初めておめにかかった。ご挨拶すると、「ああ、想っていたとおりのお人でした」とにこやかに云われた。おりにふれ、たいへん印象的な言葉をもちいては、いろいろに激励して下さった。五十歳記念に『四度の瀧』を創ったときも、ひっこまずに頑張るように、まだ若いんだからと励まされ、「湖の本」を始めると、ずうっとお買いあげ頂いたばかりか、何人もの読者をご紹介いただいた。文春からの全集、翻訳全集が出始めると買った。第八巻の全戯曲集は頂戴した。
亡くなったとき寂しい思いをした。その後も夫人はずうっと湖の本を今も買って下さるばかりか、出るつど、二冊三冊と買い足してさえ下さるのである。
福田先生の戯曲は、早くに新潮文庫で他の劇作家達のと一緒に一作読んでいて、とてつもなく面白く、印象に焼き付いていた。『龍を撫でた男』だった。目を開かれた。
「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴できた『堅塁奪取』は劇団「昴」の舞台を観て感嘆した。『億萬長者夫人』にも舌を巻いた。
■ 堅壘奪取 (喜劇一幕) 福田 恆存 招待席
「e-文藝館=湖(umi)」 戯曲室
ふくだつねあり 劇作家・批評家 1912.8.25 -1994.11.20 東京府に生まれる。 日本藝術院賞。 秀抜の人間把握を劇的感動にとりこんだ多くの劇作・演出は、太い逞しい根を実存の深淵におろして現代の不安や恐怖を鋭く指さし示した。
夫人のおゆるしを得た此の掲載作は、文藝春秋刊『福田恆存全集』第八巻所収 「劇作」昭和二十五年(1950)二月号初出の傑作。また福田は数多くの批評・評論活動により現代社会や政治の矛盾・撞着・不備を的確に指さし、日本と日本人に精神の革新を終生迫り続けた。(秦恒平)
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* 今は、目近に架蔵の全集から文学史論、作品論、作家論を、つぎつきに耽読して教えられ続けている。今日も、夫人の優しいお手紙を戴いている。嗣子福田逸さんの率いられる劇団昴の舞台は、拠点の三百人劇場があったあいだはいつも妻と出かけていた。新劇の面白さをありがたく、うんと仕込まれてきた。
福田さんの戯曲は、舞台で当然、じつは活字で読んでも、すこぶる面白くて、しかも難題を容赦なくつきつけられる。
2009 7・5 94
* 余裕で浅草まで行きたかったし行けたのに、なにかしら朝の起き抜けから軽いフラツキがあり、軽微とはいえ肌寒い悪寒のようなものが抜けず、昼前に、太左衛さんにメールで謝って、家で休憩した。大方回復していると思うけれど、大事を取っている。
久保田淳さんの『隅田川の文学』にはまっている。橋という橋をみな渡ってみたくなっている。
2009 7・5 94
浮世絵 両国橋図 割愛
* 隅田川の橋を「歩いて」渡ったのは、以前聖路加の帰りに、妻と「佃大橋」を月島の方へ渡って・戻ったのと、先月、本所回向院のそばで俳優座の芝居のあと、やはり妻と「両国橋」を渡った、たった二度しかない。河の東に西に別れたたくさんな水路や運河の橋も、意識して渡ったのは両国橋のあと柳の葉色した鉄の「柳橋」と、あの「日本橋」ぐらいしかない。
しかも、久保田淳さんの本に煽られて、大げさに云うと隅田川と大小の橋をみな渡ってみたいということばかり頭に渦巻いている。同時に、そう、鏡花の『芍薬の歌』などが痛切に読み返したくなっている。初讀のむかしには頭に隅田川なんてものはなかった。それだけでもずいぶんトンチキな読みをしていたに違いないと分かって身を細うする。
2009 7・6 94
* 「湖の本」の「ファン」という笠間書院の橋本編集長、『色の日本』に「ひかれて読んでいる内に(これはいつものことです。)」色彩学研究の大家である伊原昭さんの名を見つけ、伊原さんとも連絡の上、千四百頁もの大著『日本文学色彩用語集成・近世』を贈ってきて下さった。このお仕事は上代から古代、中世を経て完結した画期的な大事業で、京都賞や朝日賞に推しうるものと思っている。伊原さんからは大著を戴くばかり。感謝。
2009 7・8 94
* 岩波文庫の『ゲーテとの対話』上巻、『法華経』中巻を読了。「対話」の方は、ついに頁ごとにバラバラにほぐれてしまった。昭和二十六年九月三十日の第八刷で、その頃、高校一年生。
ゲーテの大きな姿勢は「平衡」。ブレない「高貴」と「知性」。つねに自足して称讃と非難とに無関心でいられる人。「一事を確実に処理できる人は、他のさまざまなことができるものだ」ともエッケルマンとの出逢いの頃に話している。事実ゲーテがそういう人であったことは多くの事実が示している。
ひとつだけ。ゲーテは多大の実験と自負とで「色彩」「光」について研究し、当時ニュートンの説と対抗していたが、これだけはどうもその後の歴史はゲーテに分のないことを証してきた。わたしには分からないが。もっと知りたい。
2009 7・9 94
* 引き続き笠間書院編集部から、中世王朝物語全集の最新配本『夜寝覚物語』を頂戴した。これはわたしが源氏物語に次いで、いや並んでと言いたいほど好きな原作「夜の寝覚」の中世の改作物語で、まえまえかからこれも読みたい読みたいと思いつつ手に入らなかった本文で、最新の研究成果とともに本文と脚注等が完備した新本、垂涎もので、嬉しい限り。今度の「湖の本」に盛んに原作の寝覚めへの傾倒を書いていたので、この出来本を超特急で贈っていただいたと見える。こころより感謝、今夜から読み物の中へ加えて完読したい。
2009 7・9 94
* いま手もとに、立教大学(名誉教授)平山城児さんに戴いた論文の抜き刷りがある。「国文学踏査」第二十一号、論題は『万葉調短歌と鴎外の「うた日記」』で、今年の三月刊。
鴎外の「うた日記」は知る人はよく知っていて有名だが、明治四十年九月春陽堂から出版された。日露戦争に従軍の時、勤務のヒマに束の間浮かんだ俳句や短歌や新体詩をメモして日記風に書き留めた。
わたしが平山さんの論文に強い感銘と共感を得たのは、直接鴎外の「うた日記」にではない、強いて謂えば平山さんが強調しておられるように、鴎外は日記の作をなしつづけながら、ついに片鱗も戦争讃美や戦意高揚をこととしていなかった真実に目をとめる。
是に対比して、平山さんは、近代の大作家、大詩人、大歌人達の何人もが「万葉調の字句言句を駆使し、どんなにトクトクと戦意高揚、戦争讃美の作をなしていたかの実例を苦々しく拾っておられる。
一例をあげておく、斎藤茂吉は、「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ」の類を戦時無数に歌っていた。『赤光』や『朝の蛍』で短歌開眼をさそってくれた敬愛する茂吉である、わたしは堅く眼をつむってこれらを茂吉の戦争短歌たちを無視してきた。
平山さんが近代現代で名前を挙げておられるのは、歌人の浅利良道、川田淳、佐佐木信綱、小説家の佐藤春夫も「皇国紀元二千六百年の賦」以降、「特別攻撃隊の頌」以下続々愛国讃歌を公表していた。
ついで平山さんは、詩人高村光太郎の名をあげ、具体的な作も挙げている。但しこう加えられている、「戦後、光太郎はみずからの戦争詩を悔いて、東北花巻の山林の中で七年間も隠栖した。そのことがせめてもの救いである」と。
その通りなのである、「せめても」それを「救い」と感じ、加えて「近代的自我意識を追求した、あの『道程』を書き、妻の死後、絶唱とまで慕われる『智恵子抄』を書いた高村光太郎であったがゆえに、わたしたちは、光太郎の「悔い」をあだかも「我々自身の悔い」としても受け容れ、いわばともに「戦争という魔」を憎んだのである。
* 「ペン電子文藝館」(阿刀田高館長、大原雄委員長)は、だが、こともあろうに「招待席」に掲載する『高村光太郎作品・抄』において、文字通り光太郎を戦争讃美・戦意高揚の詩人であると烙印を押したに異ならない、露骨な作品選で貧寒とした「抄」を強行公開してしまい、わたしがどう抗議しても改めようとしない。考えられない非情の強行としか云いようがない。
* 平山論文は詳細な議論であるが、一つの明快な結論は、鴎外は従軍の『うた日記』のなかで、巧みに万葉調の言辞・字句を駆使しながらも、ただ一作といえども戦争讃美や戦意高揚の作は為していないことへの称賛である。
2009 7・11 94
* 新刊の「三田文学」夏季号に大久保房男さんが、「言論の自由について 戦前の文士と戦後の文士 2」を書かれていて昨夜全編音読、妻と大いに聴き、また大いに快笑した。
「文士とはいついかなる場合においても、言いたいことの言える立場に身を置こうとする人たちのことだとわかって来た」のが、大久保さんが「終戦から一年半」で「編集者になって(から)五、六年たった頃」だと、冒頭にある。
氏は戦前から仕事をしてきた文士たちともっぱら付き合われ、おいおいに「戦後の文士」たちとも応接された。
わたしは実は大久保さんとは不幸にして一度も仕事でふれ合えなかったが、いろいろお話をうかがうようになってからももう久しい。ことに此の上の「文士の定義」は、まさしく私自身がほぼ作家生涯の全部をかけて望んで遂げてきた「立場」そのままなのに大いに頷くのである。
いま「濯鱗清流」二冊を手にして多少でも読んで頂いた方は、それを納得して下さるだろう。
* だが、大久保さんは戦前戦後の作家を通じてそうだとは言われていない。それどころか戦後の作家達は「そうではない」と断言されているに近いのであり、わたしの見た限りでも、紳士のような戦後作家達は、むしろ大久保さんのいわゆる「言いたいこと言い」は非紳士的な非常識の所業であるぞと、言わず語らず振る舞っている人が断然多い。
2009 7・11 94
* わたしは、駄作であっても西洋の「歴史」映画は努めて観るようにしているが、それ以上に、反戦ないし戦争を批評的に描いた映画は必ず機会を逃さぬようにしている。それが努めであるかのように大事に観る。
似た感覚で、日本文学の反戦・反権力の作品を、いつも機会あれば心して読んでいる。それらの優れた作品に打たれるのを、つらい、くるしい、かなしい作であっても進んで受け容れている。荷風や鏡花や潤一郎を喜ぶのと変わりなく、だから例えば今日推奨する黒島傳治の小説なども、きっちり読む。読んで、良かったと印象に刻む。こういう作品に触れうることを「文学」のために喜ぶのである。
■ 渦巻ける鴉の群 黒島傳治 招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
くろしま でんじ 小説家 1898.12.12 – 1943.10.17 香川県小豆郡に生まれる。初期プロレタリア文学の最も才能豊かな新人の一人から、長編「武装せる市街」等でスケールの大きい反戦文学作家として藝術的に精彩を放った。昭和八年(1933)のシベリア出兵で病み、筆を断って郷里小豆島に帰り死去。 掲載作は、昭和三年(1928)二月「改造」に初出の黒島反戦代表作の優れた一つ。(秦 恒平)
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2009 7・12 94
☆ きょうは 泉
留守居役で、午後、幼稚園帰りの孫を夕刻まで預かる使命を受けています。六歳の誕生日を迎えたばかりのむちゃくちゃやんちゃ坊主、バアバは付いていけないので、図書館から絵本を借りて、静かに過ごせる体制を整えています。
豊洲ララポート内にある小さな浮世絵美術館へわたしは行っています。
娘達と、レインボウブリッジ経由で川向こう(下谷育ち達は川向こう、と少し差別めいた言い方をします)へはよくドライヴします。但し、荷風さんの情緒は度外視です。
両親の十七回忌を終えて、今週末、私が発案し、喪主の義妹も大乗り気で、私達の親族が集合、両国からのチャーター船で二時間のナイトクルージングをします。
勝手に梅雨明け宣言をしたのは、その為、アハハ
その後、三、四日京都の妹が滞在します。
まあ、何となく慌しい日々です。
あなたがたもお健やかで何より。
* そういえば両国橋の本所側の橋畔にそれらしい船着き場があったかなあ。どんな船だろう。柳橋には船宿小松屋があった。あの辺から屋形船を雇って隅田川に出てみたい。むかし、みらくる会でいちどあの辺から船を出したことがある。
久保田淳さんの『隅田川の文学』ほとんど読了。梅若塚の辺へも行ってみたい。
2009 7・14 94
* 朝いちばんに、座右の、また読み終えたばかりのエッケルマン『ゲーテとの対話』を開く。
☆ ゲェテは云つた、「世には秀れたる人でありながら、何事も即席に気軽にできないで、どんな題材でも静かに考へこまねばならぬ性質の人々がある。かういふ人々には往々辛抱しきれないことがある。欲しいと思ふものが彼等から即座に得難いからである。しかし、即座でのみ最も高尚なるものができあがる。」
また、軽率に作にとりかゝり、最後に型(マニイル)に堕す他の畫家(=作家)達の話をした。
「型は、」とゲェテは云つた、「始終まとまらうとして、仕事の楽しみが少しもない。しかし真に偉大なる才能の人は(型に甘えかからず、逃げ込まず、)仕事(=創意創作)に至高の幸福を感ずるものである。」「より凡才の人々に藝術はかういふ満足を与へない。彼等は仕事中たゞ仕上げ後の出来榮えだけを念頭に置いてゐる。こんな俗な目的と傾向とを持つてゐては偉大なるもののできる道理がない。」 一八二四・二・二十八 土曜
* すこしの言葉で、一見相反するような、しかも通底して厳格なことをゲーテは容赦なく語っている。偉大な仕事をと覚悟するなら、美術でも、文藝・文学でも、これは金言である。疑いなくわたしはそう思う。
* わたしが「e-文藝館=湖(umi)」でまた「ペン電子文藝館」でどんなことを理想としながら「仕事」をしてきたか、具体的な人と作品とを挙げ、開陳してきた。
これらの仕事で、云うまでもない、わたしは一銭の利も得ていない、むしろわたし自身の生活時間と体力とを惜しみなく注いできたし、今も「e-文藝館=湖 (umi)」に注いでいる。その日々は、わたしの「文学作法」そのもので、それもまたわたしの「創作の仕事」である。例示と推奨とを、一ヶ月余も続けてきた、もういいだろう。
いままた暫く、わたし自身のために、心新たにゲェテの言葉に、順序や連絡をあえて問うことなく、ただ深く聴いて過ごしたい。
2009 7・15 94
* 夜前は熱帯夜に負けて眠れず、明け方まで本を読み続けていた。
臼井吉見『安曇野』三島由紀夫『禁色』吉行淳之介『短編三つ』永井荷風『腕くらべ』里見トン『多情仏心』夏目漱石『行人』沼正三『傷ついた青春』福田恆存『国木田独歩』ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』エッケルマン『ゲェテとの対話』『今昔物語』「夢寝覚物語』『芭蕉』『隅田川の文学』そして『旧約聖書』さらに『バグワン』。一冊も欠かさずズンズン読んで行った。
頭にはいるのかと問われるが、この方が頭に入る。走り読みしないから。
そして無類に相対化される。いま、どれもかもとても興味深くおもしろく読める。
ただ、暑かった。寝入ったのは五時かく、十一時ごろまで寝ていた。
2009 7・16 94
* ゲーテは、エッケルマンの目に、「自足して称讃と非難とに無関心でゐ」られる人であった。「一事を確実に処理できる人は、他のさまざまなこともできるものだ」と若いエッケルマンに語っている。「静かに勉強しておいでなさい。結局そこから定まつて最も確実な、最も純粋な、人生観と経験とが生ずるからです」とも手紙(一八二三・八・十四)をやって励ましている。まだ若いエツケルマンもゲェテのように詩に志していた。ゲェテは六十代になっていた。
☆ 大作をしないようにしたまへ。
優れた人々でも大作には苦しむ。最も豊かな才能を持ち、最も真摯な努力をする人々でもさうだ。私もそれで苦しみ、それが身にしみてゐる。
現在は現在としての権利を要求する。日々詩人(=創作者)に思想や感情を通じて迫つてくるものは必ず表現されんことを要求し、また表現されねばならない。しかし(安易に=)大作を目論んでゐると、それと一緒には何一つできない。その他一切の思想は排斥され、其の間生活そのもののゆとりがなくなつてしまふ。たゞ一つの大きい全体を心中にまとめ仕上げるのに、如何に多くの精神の努力と投資とが要るか。又それを流暢に適當に現はすには、如何なる力と、如何に静かなさまたげなき生活状態とが要るか。
もし全体に於て掴みそこねると一切の努力がむだになる。更にさういふ広大な対象となると、その材料の個々の部分によく精通してゐないかぎり、所々に傷ができ、結局非難される。かうしてその非常なな努力と献身とに対して称讃も喜びもうけず、何かにつけて詩人はたゞ不快と衰弱とを得るだけだ。
これに反して詩人が毎日現在(=いま・ここ)を掴み、提供されたもの、たゞ目前にあるものをいつも生新な気持ちで取扱つてゐると、いつもきまつて立派なものができる。よしたまに失敗しても、何の損にもならない。 (『ゲェテとの対話』一八二三・九・十八)
* 硬い姿勢や心情でこれを聴いては、また間違うだろう。これはあの『フアウスト』を何十年も掛けて完成し大成させた大詩人の慎重な老婆心であるとともに、「目前にあるものにいつも生新な気持ちで」直面し把握をつよくせよと教えている。把握が強く深ければ表現も強く深くなるとわたしはこの文庫本を買った高校生のむかしに教わった。何十年も掛けてそれを確かめてきた。
2009 7・16 94
* 築地から千代田線で北千住へ隅田川を越え、さらに東武伊勢佐木線に乗り換えて堀切でおり、広大な荒川放水路の土手に上がった。
ここは隅田川と荒川とを二、三百メートルもあるかないかの綾瀬川が繋いでいる。隅田川は千住大橋からまっすぐ東へ来て、この汐入でほぼ直角に折れて南流する、その角のところで綾瀬川が東を流れている広大な荒川放水路と、ちんまり結ばれている。
ぎらぎらの夏の日ざしをあびながら、墨田という地名の土手下をしばらく歩いて、多聞寺の毘沙門天に参ってきた。区の最も古い建造物だと云うが、境内は爽やかにこぢんまりと静かであった。
そこから小路を西へ抜け出て、夏日の申し子のように黄金色の日光を全身に浴びて墨堤道路へ出、白髯公園に添って水神大橋まで歩いた。梅若塚や木母寺などへ寄りたかったが、左脚が痛い上に腰も痛くて、そろりそろり歩いていたので、上に下に広らかな隅田川汐入の眺望を橋から楽しみ楽しみ、さて、もう歩きつづける元気なくて、来たタクシーに乗り、浅草へ戻った。女の運転手、梅若塚も知らず待乳山聖天も知らず、これにはガッカリした。
雷門から仲見世は例のたいへんな雑踏、どう帰ろうか知らんと思案のうちにも足はそろりそろりお寺の方へ向いていたので、何を急ぐこともないとゆっくりゆっくり人波のなかを泳ぐようにし、ワキ道へも逸れて、伝法院通りで大黒屋に入った。
残念ながらここの天麩羅は好みの揚げ方でなく、大海老三本と大きなかき揚げがいまいち口に合わなかった。このごろ何故かビールも口に合わない。
店を出てひさびさに古書店に入った。なかなかの店で本が揃っていた。なんとわたしの豪華本で無検印の『四度の瀧』も澄まして書架に並んでいた。まっさらではなかった。
目に入った阿川弘之著上下巻の『志賀直哉』がきれいな本だったので買った。前から欲しいと思っていた。
もう歩けそうになかったので国際通りから鶯谷駅へタクシーで行き、保谷までも幸い坐って帰った。駅でタクシーが待っていてくれた。
2009 7・17 94
* 阿川さんの本、今夜から読み始める。
2009 7・17 94
☆ われわれ老人の言ふことをきく人があるか。誰も自分が一番よく知つてゐると考へてゐる。それで多くの人は失敗し、ために多くの人は目のさめるまで迷はねばならぬ。でももう迷つてゐる時ではない。
後から生まれてくる人は──それ以上のことをして貰はねばならぬ。──二度と(ムダに=)迷つたり探つたりしないで、老人の忠言を利用して、真直ぐ正道を行くべきだ。いつかは終局に達するといふやうな歩き方では駄目だ。その一歩一歩が終局であり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。 (『ゲェテとの対話』 一八二三・九・十八)
* 「鱗を清流に濯う」きもちで少年の昔からゲエテの言葉に耳を傾け聴いてきた。
また今夜から、新たに志賀直哉からも聴けるとよろこんでいる。
2009 7・17 94
* 暑さのせいか、心身のネジがほどけたよう。ホウッとしたまま、働かない。
☆ ゲェテに聴く (「対話」より)
世の中は廣く豊かであり、人世は複雑だ。詩(=文藝)をつくる動機がなくて困るやうなことはない。しかし詩はすべて機會詩(ゲレエゲンハイトゲティヒテ)でなくてはならぬ。つまり現実から詩の動機(モチイフ)と材料を得なくてはならぬ。特殊な事件も、(すぐれた=)詩人(=作家)が取扱ひさへすれば普遍的な詩的(=文学的)なものになる。私の詩はすべて機會詩であり、現実に暗示され、現実をきそとしてゐる。捏造した詩を私は尊敬しない。
現実には詩的な興味がないなどといつてはならぬ。なぜなら、聡明にして、平凡な対象から興味ある方面を引き出せる位才気ある点にこそ詩人の価値があるのではないか。現実からモチィフを、表現点を、真の髄を得なくてはむならぬ。そこから美しい活きた全体を造り上げるのが詩人の仕事だ。 (一八二三・九・十八)
* ゲーテのこれらの言葉が、はるかに若いエッケルマンに向けたものだとは知っていた方がいい。誠実で親切な老婆心がゲーテには明らかにみてとれる。そして概していえば、だからこそそれらはみな、わたしのような若い後輩にとって有益であった。「現実」に根をもたぬ放恣な空想の陥りやすい軽薄をわたしは避けた。
2009 7・18 94
* この世界で、というのは、ま、マスコミ・マスセール(わたしの場合は徹底したミニコミ・ミニセールだが。)で生きている場合、よほど自己批評つよく己の分限を察知し承知して腹をくくっていないと、ふわふわと紙屑のように浮かばされてしまい、じつは誰も真に親身になど自分の存在価値を守っていてくれるものでないことを浮かれて忘れてしまう。そして虚名の泡・あぶくばかりをかきあつめ、「俺もひとかど」などと錯覚してしまう。
そんな際にも非情に作用しているのは、只「過ぎゆく時間」であり、時間をうかうか空費していることになかなか気が付けない。気が付いたときは取り返し付かず時機後れになっていたりする。そうしてあたらこの世界から脱落している。
自分に何ができるかも大事、だが、もっと大事なのは、自分はほんとうに何がしたいかがキッと見えて、どういう姿勢や態度でそれがしたいか、信念を持つこと。
如才ない世渡り上手にこの世界をどう泳いでいるつもりでも、いったいどこへ泳ぎ着けるのか、所詮はその体力や世間智以上に、能力が、底力が鍛えられていなければ、おはなしにならない。難破のおそれのあるときは船のキャパシティ自体をすばやく計測し自測してムダを捨てて進路を確保し確認しなければ、嵐の中で舵をでたらめに幾つももってどれを操舵していいのかパニックに陥るようなものだ。船の安定を最低限度守るに足る底荷が積めていなければ、ただもう笹舟のようなもの、洒落にもならない。
若いうちに「現実」にしっかり目も足もつけ、静かに勉強を積んでおくようにとゲェテが真剣に忠告しているのは、それ。
* 阿川さんの『志賀直哉』で、いきなり傾聴せずにおれぬ直哉の信念があらわれる。
わたしがよく云う、文学は「絵画」であるよりも本来「音楽」である、「文学」と表記するより音楽同様に「文楽(ぶんがく)」とあってよかったのだという想いと、つよく共振してくる。
晩年の志賀夫婦がいつもかかっていた整体指圧の先生で白井栄子という人がいた。「生涯一切の迷信を拒否し、医学も、頼るなら近代西洋医学に頼らうとする傾向の強かつた志賀直哉が、此の女性整体師には大変親しみを持ち、腕を信頼してゐた」が、ある日この人に、文章にうるさい小説の神様直哉が、「指圧の方で一人前になるにはどんな勉強をするのですか」と聞くと、「色んなことを勉強しますよ。プロになるまで、真面目にやつて十年かかります。それでも、人の身体のリズムといふものは中々つかめません。操法の技術も行きつくところ、一人々々の身体のリズムをきちんとつかめるやうにならなくては駄目なんです」
直哉の様子に「納得」のていが見えた、「さうネ、人の書いた文章なんか読んでみても、上手に出来てるといふだけでリズムの感じられないものはつまんないですからね」と。
阿川さんは書いている、直哉は「だから、ちやんとしたリズムを持つ作品なら、自分には読んですぐ分ると言ひたげであつた」と。
直哉流の藝術論としてかつて批評家にしばしば取り上げられたものに、昭和初期の短い随筆『リズム』があると阿川さんは引用している。
直哉いわく、「藝術上で内容とか形式とかいふ事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思ふ。響くといふ連想でいふわけではないがリズムだと思ふ。此リズムが弱いものは幾ら『うまく』出来てゐても、幾ら偉らさうな内容を持つたものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではつきり分る。作者の仕事をしてゐる時の精神のリズムの強弱──間題はそれだけだ」と。
* 「文体」という理解されにくいことばの真相を、直哉はまっすぐ貫いている。文学のかくあるべき真相であり、内容の形式の、また純の通俗のといった議論を直哉は犀利に突貫している。
2009 7・19 94
☆ ゲェテに聴く (エッケルマンとの対話から)
精神と、詩的なところとは近代の悲劇詩人達にもあるが、多くは流暢に生々と描写する力がない。彼等は力以上のことをしようと努めている。私はこの点で彼等を「やり過ぎの才能」と呼びたい。(一八二三・十・二十五)
2009 7・20 94
☆ ゲェテに聴く (「対話」より)
君は今の立場を切り抜けて、必然的に藝術の眞に高尚な、困難な地点に到達しなければならぬ。君には才能もある。進歩もした。今こそさうしなくてはならぬ。
いづれにせよ骨を惜しまず、よく研究して書き給へ。
むづかしいのはよくわかつてゐる。けれども特殊なるものを把握し描写するのが藝術の眞の生命である。
特殊なものは模倣できない。他人は経験しないからだ。又、特殊なものは他人の興味をひくまいと心配する必要はない。一切の性格には、よしどんなに特殊な物でも、又石ころから人間に至るまで一切の描写されるものには普遍性がある。なぜなら萬物は繰返され、たゞ一度しかないやうなものは、この世に一つもないからだ。
個性の描写をするやうになつて、始めて所謂独自な文体 (Komposition)ができる。 (一八二三・十・二九)
* 類型を説明的に利用していては、ただの読み物になる。講釈に過ぎない。そんなものが、いかに多いか。
2009 7・24 94
* 静岡大学名誉教授の小和田哲男さんに頂いた『北政所と淀殿』一冊を興味津々、多く教わりながら読み終えた。史実の推移の勘所、勘所で、なるほど、さもあったろうといわば正確な「確認」をさせて頂いた。
研究者が研究成果をもとに読み物を創られると、こういうふうに、適切な啓蒙書が出来上がる。それも大事な仕事だなと感謝した。 2009 7・24 94
* エッケルマンは、ある日ゲェテに向かい、自分が、観念的な理論的な傾向からだんだん脱して「刹那の境地」を貴ぶようになってきたと述懐した。
ゲェテはこれに応えている、「さうでなかつたら、困る。それを固守し(=大事にし)、たえず(=いつも)刹那(=いま・ここ)に即してゐ給へ。如何なる境地も、さうだ如何なる刹那(=いま・ここ)も無限の価値がある、その一つ一つが永遠の表はれであるから」と。 (一八二三・十一・三)
* ゲェテはそういう人であった。地に着いた「いま・ここ」に深く的確に着目し発想し、その結果として『フアウスト』のような巨大な世界と世界観とをみごと構築した。
2009 7・25 94
* 阿川さんの本を読んでいて、亡くなる少し前の川端康成が、阿川さんに、志賀直哉の『菜の花と小娘』を読んできたが「いいですね」と褒めていたのを知った。
直哉の処女作というと「白樺」第一作の『網走まで』か、そのまえの『ある朝』かが云われるが、もっと早い明治三十五年頃の童話『菜の花と小娘』がほんとうの処女作なのであり、阿川さんは、だれもこの作について口にしないのが久しく不平だったが、川端康成が初めてそう言ってくれて、「自分の処女作が褒められた」ように嬉しかったと『志賀直哉』に書かれている。
で、全集の冒頭に挙げられたこのアンデルセンふうの童話を、夕食後、妻にも聴かせて音読した。
妻もわたしも、わたしの『桔梗=露の世』を思い出していた。ふっと昔懐かしかった。
2009 7・25 94
* 昨日、大阪の眉村卓さんから、句集『霧を行く』を戴いた。氏はSF作家でペンの副会長。
そこは句集や歌集の特色といえようか、まずざっと拾い読んでいっても、よく分かる。佳い句境が、年を追って多彩に的確に表現されていてわたしは感じ入った。
専門の俳人ではない小説家の、といっても句歴は久しい。俳人と名乗られていないぶん、自在の境涯が、語や句の斡旋にときに目映く、時に異色に生きてくる。それが有り難い。感謝。
2009 7・26 94
* けさは五時半に目が覚めてしまい、いま八時前。
夜前もたくさん本を読んだ。
このところ「旧約」「今昔」「芭蕉」「存在と時間」「ゲェテとの対話」「ジャン・クリストフ」「法華経」「恆存全集」のほかに、日本の小説を、つい、たくさん続け読みしている。
臼井「安曇野」三島「禁色」里見「多情佛心」荷風「腕くらべ」沼「傷ついた青春」漱石「行人」そして小説ではないが阿川さんの「志賀直哉(物語)」。
里見と荷風とは花柳界もので、作者が悦に入っているほどのものではないが。
他は、それぞれの特色に於いて食い込んでくる。三島の作が後半へ来て盛り上がり、これはもう男色という題材の特異さをはなれていえば、やはり天才的な彫琢といわねばならない。
安曇野と青春とからは、近代・現代への、前者は文献や史料の駆使による、後者は身に刻んだ体験の深刻さと洞察・観察の精微による、きついほどの迫力がある。
そして漱石と直哉との大きさ確かさ。魅力。
枕もとにはほかに安岡章太郎と松本清張との短編集が来ているのだが、前者にはどうしても乗れず、後者はよほど作を選ばないと文学語が雑でいけない。
* 漱石という人は、『行人』を書いて一度狂い『こころ』を書いて一度死んだと誰かが言っていた。もう昔々にそう読んだことがある。
『こころ』はもとより、わたしは『行人』という長編がかなり好きだった。どう好きだったか適切に思い出せないが、今の今読み返していて、最後の旅に出ているところでの一郎の苦痛が身につまされ、身にしみてよく分かる気がして、読んでいてわたしまで苦しくなる。夫人の『思ひ出』も読んだし伸六さんの『父、漱石』も読んだ。最近に読んだ。『道草』も最近読んだ。『明暗』も最近読んだ。昔には『漱石の病跡』という精神科医の研究書も読んでいる。
漱石の狂気は少しも事新しい知識ではなく、むしろ、漱石その人が自身の病識をしっかり把持したまま「病気の自分」とたたかかい続ける確かさ、つよさ、聡明さにわたしは打たれるのである。
『行人』の一郎の苦悶し友人Hさんに告白している多くが、なんとなしわたしにも分かる。そして堪らない。この二三日不快なこともあり、自身の鬱気が重荷に感じられているときだけに、一郎の告白、Hさんの観察、それが「ともに漱石自身の筆になっている事実」に揺すぶられるのである。そして、漱石への親愛と敬意とがいよいよ増す。
2009 7・26 94
* 俳優の小沢昭一さんに、岩波新書の『道楽三昧』頂戴。小沢さんに頂いた本が、かれこれ十冊になろうと。のこらず、興深く読んでいる。
五島美術館から、いま、茶の湯を彩る食の器『向付(むこうづけ)』の美しい図録が送られてきた。展覧会には行けなかったが、これでよほど楽しめる。
2009 7・27 94
* 臼井吉見先生の『安曇野』へ引っ張られる。
阿川さんの『志賀直哉』は就寝前に耽読、かなり時間をかけ興津々読みみ進める。
2009 7・28 94
* 単純だけれど反復また反復の夢を見て、すこし寝苦しかった。暑くもあった。就寝前の読書がいろいろに寝入ったわたしに「のしかかる」ということは、ある。
* 「法華経」にもうすこし近づきたいと願うが、岩波文庫三巻の上中巻には部分的にしか近寄れなかった。以前に読んだときもそうだった。「浄土三部経」や「般若心経」は経文自体に迫ってくる具体的教えや叙述があるが、「法華経」はずうっと叙述・記述そのもののようについ読めてしまう。それでも「下巻」にはいると、ことばはわるいが面白くなって行くことを以前の読みで覚えている。
厖大だった「旧約聖書」がもう先が見えてきて、早く「新約聖書」を落ち着いて読みたいと期待。
旧約はいわゆる予言書が多く、それが複雑な史的背景とからんでいて、幻想的でも抽象的でも黙示的でもあり、しかも明治の頃であろうか、じつにややこしい文語文で訳されているので、ガマンが要る。わたしの自分自身に感心するのは、よう一行もぬかさずに此処まで読み続けてきたなあということです。意外とわたし、辛抱がいいのだな。
荷風の『腕くらべ(私家版)』里見の大冊『多情仏心』には、それぞれの差異は差異としても、代表作の一つは一つとしても、すこし参っている。
むしろここへ来て三島由紀夫の『禁色』の収束に期待をもっている。投げ出さずに、大作をじっくり読み継いできた、いろいろ三島の手法や叙事や表現を味わいながら。臼井吉見先生の『安曇野』からはそういう味わいようは出来ない。
沼正三という書き手はやはり「凄い」と敬意を覚え続けている。『家畜人ヤプー』以外にどの程度の量を書かれていたのか知らないが。
2009 7・30 94
* 若いエッケルマンは、ある日(一八二三・十一・十四)、大ゲェテの盟友たりしあのシラーに対し「奇妙な気がします」と異存を唱えている。「読んでゐるうちに自然の真実性と矛盾した所にぶちあたり、それからさきが読めなくなります。 『ワルレンシュタイン』のような作ですら シルレルの哲学的傾向がその詩を損ねてゐると考へざるを得ません。理念の方が一切の自然よりも高尚なりと考へるまでに、それどころかそのために自然を破壊するまでになつてゐます」と。
ゲェテは云つた、「あれほど非凡な才能の人が、役にも立たない哲学的な思考方法に煩はされてゐたのを見ると気の毒だ」と。「無意識に、いはば本能的に、作してゆくのはシルレルのやりかたでなかつた。彼は為すことを一々反省せざるを得なかつた。彼が作詩のの計画について無暗と人に話さずにゐられなかつたのもそのためだ。 私は萬事一人静かに胸中に抱いてゐた。大抵できあがるまでは誰一人も気づかなかつた」と。
* 金澤の画伯は、描くよりも、何百倍も哲学して反省に反省する。考え込む。わたし自身は、どうかしてそうならないようにと願う。
2009 7・30 94
* 雨が降ると云われて今日は家に籠もっていたが、降らなかった。むしろガンガン照りで。あすで七月も終わる。むかし夏休みというと宿題やもろもろ義務的なことは七月中にみな済ませてしまい、八月はまるまる遊ぶのを楽しみにしていた。小沢昭一さんにもらった『道楽三昧』を妻と引っ張り合い楽しく読んでいる。
バッハをサキソフォンで聴いている。巧く言えないけれど、とても佳いです。昨日はソ連の旅の写真を見つけたし、今日は「音楽」と手紙を貰って。
2009 7・30 94
☆ ゲェテに聴く 「人が莫大な金を一枚のカルタに賭けるやうに、私は現在(=いま・ここ)に賭け、誇張なしに、できるだけ現在(=いま・ここ)の価値を高めようとした。」 (一八二三・十一・十六)
2009 8・3 95
* 「独創的な努力は長所ではある、が、ともすると有為の青年を脱線させるものだ」とゲェテは或る才能を評していた。「趣味を精練してすぐれた手本にもきちんと学ぶか」が今後を占う、と。(一八二三・十二・一)
2009 8・4 95
* 数えてみると夜前寝る前の読書は十五冊、微増の気味で、視力のためにも睡眠のためにも十冊未満にしなくてはと思うが。で、夜前はそれぞれどういうことを読んだかと聞かれれば、ぜんぶ返辞できる。一冊を何十頁も一気に読むより二三頁ないし十頁ずつぐらいの方が鮮明に読め、記憶にきちんと残っている。本に「読み方」という規則はなく、自分に合った読み方を楽しめばよい。
その中でもこのところ、いちばんオシマイに楽しみにして読むのが、阿川弘之『志賀直哉』で、これが、ついつい何十頁も読み耽る。ゆうべは、いよいよ「瀧井孝作」登場で、読み已められなかった。瀧井先生だけでなく、我孫子の暮らしへ文人・藝術家たちが集まってくると、目を惹くやりとりがどうしても出てくる。この頃に芥川龍之介も直哉を訪れていて、そのことは芥川死の直後に直哉の書いた『沓掛にて』がくわしくて率直だが、阿川さんの記事にもまたしっかり立ち止まった。
* 興味深くてすこし長く引かせて貰うが、わたしがとびきりの関心は、中程の、漱石と芥川とが「志賀直哉の文章」についてかわした対話である。
☆ 「暗夜行路」は、犬養健に頼み、橋本基の装幀で世に出た。定価二円五十銭、初版部数三千五百であつた。印税率一割二分として千五十円の収入、到底志賀家の家計を長く賄へる額ではなかつた。我孫子の家に火災保険をかけた記録があつて、母屋五千五百円、離れの書斎一千円、物置二百円、崖の上の家二千五百となつてをり、三年分の保険料茅ぶきの為三割増しの百五十一円八十七銭五厘が払ひ込まれてゐる。別棟の書斎一つの評価額と、「暗夜行路」の印税総額と大体同じであつた。だから直哉は、原稿料印税に頼つて生活しないですむやうに、又、生活の為の不本意な仕事をしないですむやうに、銀行から借金したり、箱根に持つてゐた土地を手放したり、台湾製糖の株を売つたり、色々工面をしてゐる。
芥川来訪の日も、それに類する話が出たやうである。活動写真の小屋で偶然顔を合せたのを別にすると、お互ひ未だ面識が無かつたのだが、芥川は直哉の書くものに前々から尊敬の念を抱いてゐた。漱石の生前、「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいふ文章が書けるんでせうね」と訊ねたら、漱石が、「文章を書かうと思はずに、思ふまま書くからああいふ風に書けるんだらう、俺もああいふのは書けない」と答へたといふ芥川の談話記録がある。
我孫子を訪れて初めて会つた時、芥川はちやうどスランプの時期だつたらしく、自分なぞ小説の書ける人間ではないんですと言ひ、かつて直哉が作品を全く書かなかつた三年間のことを聞きたがつた。
「それは誰にでも一度は来るものだから、一々真に受けず、冬眠してゐるやうな気持で、一年でも二年でも書かずにゐたらどうです」
自分の経験からすれば、それで再び書けるやうになつたと、直哉は話した。文壇の評判とか、その種のことはどうだつていい、経済的な問題も、腹の決め方一つで何とでもなるだらうといふ含みの発言だつたと思はれる。
「さういふ結構な御身分ではないから」
と、芥川が答へた。ちなみに、芥川龍之介は此の時満三十歳である。その日、小穴隆一瀧井孝作も交へてあとどんな話をしたかは、芥川の死後書かれた直哉の作品「沓掛にて」に詳しい。 (阿川弘之著『志賀直哉』上巻「沼のほとり」より)
* 芥川龍之介が「漱石の生前、『志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいふ文章が書けるんでせうね』と訊ねたら、漱石が、『文章を書かうと思はずに、思ふまま書くからああいふ風に書けるんだらう、俺もああいふのは書けない』と答へた」とある、こういう箇所がわたしには、大げさに云うと仏陀と仏弟子との問答のように耀いて読める。
直哉の文章の魅力については汗牛充棟もただならぬ大勢の発言が積まれているが、直哉文章の生理を漱石はさすが即座に喝破してくれている。わたしは襟を正し深く頷く。自分の手が筆を執っていましも動こうとするような感覚をもった。阿川さんに感謝。
『志賀直哉』は畏怖するにたる大冊で、これほど夢中に読んでいてまだ三百頁、三分の一ほどにしか達していないが、あとが楽しめる。それを喜んでいる。突き刺さってくるような魅力の記事が充ち満ち、わたしはこんな稠密で文藝の魅力に富んだ作家物語を他に知らない。夫人鏡子や次男伸六の「漱石」を語った二冊を併せて「やや近い」かと思うが、用意周到隈無く到ることにおいて阿川「直哉」の物語は驚嘆というよりも讃嘆に値する。
* 朝一番に、清水英夫さんから、かねて下さると予告のあっ『表現の自由と第三者機関』を頂戴した。必読、時宜に適った論著である。清水さんは一回り以上もの先達であるが、かなり長期間ペンの言論表現委員会で同僚委員してお付き合いがあった。湖の本にも丁寧に手紙を下さる。
* 本を買って読む人は、出版社にも関心がある。贔屓の出版社もあるだろう。またこの著名な大出版社はどういう素性から発足しているのだろうと創業精神に関心を寄せている人もある筈。「e-文藝館=湖(umi)」は、むろんそういう関心にもきちんと応えているつもりです。
* 「e-文藝館=湖(umi)」を見習いいわば新たな出城のようにわたしが提案して創ったのが「ペン電子文藝館」であるが、「ペン電子文藝館」の建前はもともと「日本ペンクラブ」の「会員作品」から成り立つ建前で成立させた。 だが、創立と運営委員長また館長を務めたわたしは、会員作品だけでは到底「質的レベル」が保てないとはなから見抜いていた。
それで、開館時にはせめて「歴代会長作品」を先ず揃えることで「質」の物差しを真っ先に突きつけようと心に決め、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫といった錚々たる顔ぶれ、以降井上靖や遠藤周作や大岡信や現会長梅原猛にいたる会長の作品が揃わない限り「開館しない」と厳に覚悟し、実行した。
そういう体勢がきまると、今度は会員は「おそれをなし」てそうは出稿してこないはずだと読んだ。それを利し、すかさず谷崎潤一郎や横光利一や与謝野晶子など「物故会員」の作品を入れると決め、ウムを言わせず実行して行き、そうなると、自作に自信のない現会員は、現理事達ですら、ますます様子を見てどうっとはとても作品を出してこない。
わたしは、それを最初から予測し、むしろ願っていた。事実、そんな按配だった。
わたしは、次には、日本ペンクラブと会員関係の無かった作家達、つまりは「幕末以来日本の近代文学史を担ってきた多くの文豪や大詩人達の優秀作や問題作や記念作を」どんどん「招待席」に取り込んでいった。
委員会には二十数人も委員がいたが、委員からそういう推薦作品が出てくることはめったに無く、ながいあいだゼロに近かったので、わたしはひたすら「招待席」「物故作家」の「作の充実」に昼夜の別なく、盆も正月もなく没頭し、委員にはただ入稿掲載直前の単なる「常識校正」だけを委託した。
たちまちに、数百にのぼる充実した大読書室が仕上がって行き、新井満理事のように「すばらしい植林ですね」と敬意を表して呉れる人も理事会に出来てきた。
こうなると、そろそろ、それほどの文豪や批評家や大詩人達の中へ自作を出してみたい「現会員」も出てくる。それが、わたしの、今は躊躇いなく謂うが「独断専行」の「策」であった。
* すべてそれは、わたしが自分の「e-文藝館=湖(umi)」のためにしていたことの、「ペン電子文藝館」への自然波及であったこと、云うまでもない。
そして新たな創意工夫としてわたしは、
「反戦・反核」特別室、
「出版・編集」特別室、さらに
「主権在民」特別室
を提案、即実現してすべて軌道に乗せ、委員会内にグループをつくって、特別室に掲載すべき人と作品とを提案させた。それに応じられる、例えば「出版編集経験のある委員」は、わたしの書き下ろし谷崎論を担当して出版してくれた元六興出版の城塚朋和氏や医学書院を定年で出てきた昔の部下の向山肇夫君や、また中川五郎氏らがいて好都合に働いてもらえた。
そんなわけで、「ペン電子文藝館」にも「e-文藝館=湖(umi)」にも、岩波書店、講談社、新潮社、平凡社、中央公論社、改造社、第一書房、淡交社、婦人の友社等々の創業者や著名編集者らの「自分史のスケッチ」「人と思想」が存分に取り上げられている。
しかもすばらしく読ませる興味深い記事が揃っていて、真実感銘を受け敬服する文章も、それほどでないのも、並んでいる。
「出版や編集」が無くては「文学」は流布しない。それだけに彼等のまさに「人間の質」が影響してくる。
* ぜひ「e-文藝館=湖(umi)」の「自伝」や「人と思想」の部屋で、そういう先覚たちの足跡に触れてみて欲しい。
* ゲーテほどの人でも「わが七十五年間を通じて眞に楽しかつたのはもののひと月となかつたと言つてもいいだらう。繰返し繰返し上へ押し上げようとして一つの岩をたえず転がしてゐたやうなもの」とシジフォスのように歎いている。「人が一度世間のためになるやうなことをすると、世間の人は手出しをして二度とさうさせまいとすするものだ」とも愚痴っている。(一八二四・一・二七)
2009 8・8 95
* 小沢昭一さんの『道楽三昧』を読み終えた。
☆ 七〇の声を聞いた頃から、やっぱり間もなく死ぬんだということをひしひしと考えるようになりました。七〇というのは、体のおとろえがはっきりしてきますね。男の平均寿命が七〇半ば過ぎぐらいですから、それももう過ぎたあとのわが人生、どうやって過ごしたらいいのかなと真剣に思いめぐらしたんです。
もうこの歳になって、一所懸命に仕事なんかやったって、ばかばかしいや、人生を楽しもぅじゃないか、ということに、だんだんなってきました。身も心も忘れて楽しめるようなものがないと、俺もかわいそうだなと、思ったわけです。
ちょうど、そう思っていた頃に、私と仲の良い友達で、博才豊かな男が、手ほどきをしてくれましたので、ちょっと競馬をやってみたんです。いや、これが面白くて、面白くて、 (小沢昭一『道楽三昧』より)
* 似た思いはあったけれど、わたしは小沢さんのようではなかった、今の気持ちもちがっていて、要するに「仕事」を「仕事」としてむやみと頑張ってきたのを、「仕事」のまま「仕事」を楽しもうとわたしは切り替えたように思う。そのためにその周辺の心やりも、そのまま楽しもう、と。
私の場合「仕事」とは、直哉の物言いと同じ「文学・文藝」以外のなにものでもない。文学が楽しめるなら、そのための喰いも呑みも歩きも読みも楽しむ。人ともつきあう。極端にいえば、人も憎み、政治も嫌う。
2009 8・9 95
* 寄稿されていた「評論」原稿をおもしろく、いま読み終えた。論旨は適切に理解できる。その後の問題は評論し批評する筆者の文体・文章が文藝の魅力を持っているかどうか、だ。「文章」「筆致」が文藝の魅力と深みをもつこと、すると論旨はさらに説得力と魅力を得る。
評論もまた文藝作。優れた批評家は作家以上に紛れない立派な文体で説得した。この肝心の所が近年、いやもう久しくこの世界で忘れ去られているのは残念。
2009 8・10 95
* 清水英夫さんの『表現の自由と第三者機関』を、先ず妻が詳細に読んで参看箇所をチェックしてくれた。次いでわたしが読んでいる。清水さんの大きな願いは「公権力の干渉」から「メディアを守る」ところにも有る。ペンの言論表現委員会でもわたしたちは多くそれを憂え警戒し、そのためにも言論表現の自由と責任について討議を尽くしていた。
清水さんは「透明性と説明責任のために」も第三者機関の公正な判断が必要と説いてこられた。なかなか第三者機関とまで行かないなら、わたしは例えば広い意味でのウエブやインターネットの「読者」に期待してきた。これは極めて微妙であるけれど、わたしは今やそういう「時代」であろうと観ている。
* パソコンやインターネットが「イノベーション(だれもが容易に思いつけなかった革新的な初めてや制度改革のこと)」であることは否定できない。イノベーションを起こせる人間は少ない、千人に三人という説もあるが、巨大なイノベーションは十万百万に一人の天才や剛力が創り出す。そして数えきれぬ大勢がそれに追随してあたりまえのように、真新しい、従来とは一見「別時代」を成し上げてゆく。
その観点からすると、最も時代後れに迂闊で魯鈍な体勢を引きずり歩くのが「法」である。「名誉毀損」がらみに譬えて謂えば、こんなに数量的に広範囲に世間に関与していながら、質的に不出来なまま、ユーザーの権利と自在とを拘束して時代後れなのは、サーバーによるウエブ表現規制の見当違いなお粗末さ加減である。
* これについては徹底的に別に書く。
* いま手に触れた馬場一雄先生の本で読んだ、りっぱな小児科医であった馬場先生には、当然のように各誌が独特の健康法を問うて来たが、記事にされた例はなかった。
「飲み放題、食べ放題で、ゴルフもジョギングもやっていない」のでは記事にしようがなかった。「無理はよくありません。威勢の良いのもほどほどです。何事にも無理をせず、食欲に応じて食べ、マイペースで飲み、歩きたければ歩き、疲れればタクシーを拾うのが、たとえ雑誌の記事にはならなくても、最良の健康法だと固く信じています」と。
先生は大正九年(1920)生まれ。九十歳。この本『花を育てるように』(東京医学社)は、自身編輯された新刊。各種学会の学会長を十度務められている。
2009 8・10 95
* 三島由紀夫の『禁色』を読了、たっぷり時間を掛けた。それが良かったと思う。久しく離れていた三島由紀夫の、さすがにスケールの大きな小説の、天才豊かな構成と表現を満喫した。堂々として分厚い小説。
『豊饒の海』四部作などはだれがどう太鼓を叩き鉦を叩こうとも豪奢な造花にふれただけであったが、『禁色』は若い三島のはちきれるような活気と生気と衒気に魅力的に満ちている。文庫本後ろの「解説」は、とてもこの大作の深さに追いつけていなかった。二度と手に触れないだろうと思いながら読み始めていたのに、だんだん、論証的にすらも食いついて行くほど面白くなり、もう一度はいつか読み返してみたい、とさえ思っている。文学という意味からは、荷風の『腕くらべ』よろしからず、里見とんの『多情仏心』は投げだし、臼井吉見の『安曇野』もいわば日本近代史「外伝」を読んでいる気持ち。文学としてはむしろ下巻に入った沼正三(天野哲夫)の『傷ついた青春』のほうがヴィヴィッドに迫ってくる。
ことわっておく、三島や沼のような、わたしはマゾヒストでも同性愛者でもないのだが、創作する魂に精気を覚えた。
* 元新潮編集長の坂本忠雄さんを芯にした、扶桑社の新刊『文学の器』という討論集を頂戴した。まず最終章坪内祐三・福田和也氏が加わった討論「昭和から平成への文学の変位」を読み、次いで小林信彦・宮本徳蔵氏との谷崎潤一郎「鍵」「瘋癲老人日記」を読み、江國香織・柳美里さんらとの太宰治「斜陽」を読んだ。ほかに十五六人の作家・詩人・批評家らについて討論されている。
わたしは岩波書店の『座談会明治文学史』『座談会大正文学史』に莫大に学んできた。あの感銘からいうと、読んだ限りでは、いまのところ比較して物足りない。
侘びしいほど、「批評力」の手薄時代なのではないかとこの二十年ばかり歎いてきた印象が当たっていそうで、ふと、たじろぐ。
すぐれた討論や座談会には瞬間風速が吹く。『太宰治』論など、口やかましいわりにそれが無い。谷崎論には耳を傾けるところが、少し、有った。
それでも、こういう本にはそれなりの有効な刺戟があり興味もあり、わりと素早く全部読んでしまいそう。
2009 8・12 95
* 『旧約聖書』の予言書は「書」により「預言者の人」によりまた「時代」によりさまざまに難解であったり玄妙であったり執拗であったりするが、昨夜読んだ「ヨナ書」は短いしかも物語で、どこかいつか小耳にも挟んでいたようで、心惹かれた。
神と人との対話的な状況が説話ふうにうまく設定され、人の小さい意地と神の意思とが衝突し、はたと読み手は「問いかけられ」る。どう応えるか人によるだろうが。
前四世紀頃のものと言われる。日本では海と山の兄弟が争っていたろうか。
* 阿川さんの大著『志賀直哉』上下巻の上巻を読み終えた。上巻だけでふつうの単行本の二冊分はある綿密で周到な、心温かいしかも冷静な筆致に、行文に、魅力がある。毎夜沢山な読書のいつも最後に手に取り、心ゆくまで読み進めるので、これでも上巻瞬く内に読み通してきた気がする。書かれている直哉の幸せ、書いている阿川弘之の幸せを味わっているといえる。
2009 8・13 95
☆ 歌舞伎座 ♪ ♪ ♪
残暑お見舞い申し上げます。
歌舞伎、とっても楽しみです! 多分迷子にならずにお会いできると思います。
おじい様おばあ様とお揃いにしたく、私も白いTシャツを着て伺おうと考えています。三人でお揃い、嬉しいです。
最近私は、(研究目的で=)渋谷の bunkamura傍の映画館に通い詰めています。今日も行ってきました。
今上映しているのは古典名画シリーズで、(特に目的のある=)学生は600円で2本の映画が見られます。ハリウッドが中心ですが、今まで見てきたフランス古典映画とは違った面白さがあり、見飽きません。
作られてから70年以上経った映画でも笑いが色褪せないで残っているコメディーなんて、やっぱり映画っていいなと感じます。ハリウッド黄金時代は、やっぱり黄金です。
地震怖かったです!
母は私の部屋のクローゼットの棚からブーツの箱が落ちた! と騒いでいましたが、実は私が数日前に落して、知らんぷりしていたものでした。
うわー、直す前にバレてしまいました。
今、父から回ってきた (村上春樹の=)「1Q84」を読んでいます。
これが終わったら、志賀直哉の「暗夜行路」を読みます。母が二・三日前に読み終わりました。深くドップリはまったそうです。私が読み終わるまで感想は教えてくれません。ただ(清水焼の=)清水六兵衛が出てきた、とだけ教えてくれました。
同時に映画関係の本を3冊読んでいます。
今日から原書でロベール・ブレッソン監督関連の本も読んでいます。
冷夏で夏バテを免れている 光琳
* この時節に 志賀直哉に、『暗夜行路』にドップリはまれるなど、敬意を覚える。
昨夜阿川さんの本を読んでいて、前後のことは控えるが「男がいる」という言葉が、ある人たちの会話に生き生き書かれていて、心底共感した。
志賀直哉のある日常場面での発語であったが、ひいては志賀直哉に接している人たちのこころから志賀への讃嘆の言葉でもあった。
それは知るよしもなかったが、わたしも似た思いをある状況に迫られて口走った覚えがある。
大学に入るさいの面接で、お定まりのように好きな作家の好きな本はと聞かれ、「谷崎愛」のわたしが、ためらいなくトルストイの『復活』と志賀直哉の『暗夜行路』と答え、何故と問われて「男がいる」からと即答していた。そのことを書き下ろし谷崎論『神と玩具との間』の書き起こしに書いている。
わたしの谷崎愛の質を裏打ちしていたのは、志賀直哉という「男がいる」事実だった。その説明は、わたし自身にはいとも容易いが。
阿川さんの本で嬉しいのは、志賀先生と瀧井先生とのことがふんだんに書かれていること。阿川さんはたんに恩師である志賀直哉をめぐる事跡を記録されているのではない。直哉とともにじつに大勢の「人間」を彫り起こすように書いて、まさしく、そこに「人間がいる」と想わせてあまりある魅力を創り出しておられる。わたしはそれに惹かれて惜しみなく夜更かししている。
2009 8・13 95
* きのう坂本忠雄さんに頂いた本のどこかで、たしか小林秀雄だったと思う、この人のゲラ訂正の多くは、殆どは、「語尾」の直しだったと。
目の覚める思いがした。
じつは、わたしも、たとえば「濯鱗清流」を校正しているあいだ、もっぱら文章の文末、語尾に意識を集中していた。いつからだろう、この数年だろうと思うが、語尾を大切にするようになっいる。それが、直哉のいう「リズム」とも関係する。そう思う。
2009 8・13 95
* しばらくバグワンに触れて書かなかった、ここずうっと、『黄金の華の秘密』という道教の根本義書をバグワンは語っており、訳者が代わって、スワミ・アナンダ・モンジュ氏に。訳の口調もスタイルも変わって印象が固くなった。で、ずっとただ黙読してきた。
* 「まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。決意とともに、人間が誕生する。優柔不断な生き方をしている者たちは、本当はまだ人間でない」と、呂祖師の言にふれ決然とバグワンは昨日も語っていた。同じように実感と倶に生きたかったわたしは、納得した。「権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められないでいるからだ。彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを阻んできた。 決断することで、あなたは個になってゆく。」「優柔不断さとは何か? あなたが臆病であるということ。」「決意とともに、明晰さが生まれてくる。決然とした態度がすみずみにまで及び、あなたの基盤と関わるようになったなら、必ず人間が誕生する。」「あなたは他人によりかかってしまうが、そんなやり方では魂は成長しない。」そして「決断するなら、必ず実行すること。それができなければ、決断などしない方がいい。そのほうがもっと危険だからだ。」「決意しながら、いつまでたっても実行しない者たちがいる。彼等はみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。」
* 独特の創意でバグワンは謂う、
「先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」
女が言う。「何言ってるの、これがその「死後の生」よ!」
バグワンは警告している、「おまえはまるで活気のない死人のような生き方をしている。しんだとしてもこれ以上悪くなることはない。」おまえはまさに「死後の生」を生きているに過ぎないからだと。
「決断するなら、肚を決めもことだ。やり遂げるがいい。それができれば明晰さが内側に湧き起こり、雲が消え、何かが自分の中で根づき、中心を定めてゆくのがわかる。決然。それはとほうもなく重要なことであり、意味がある。」
* こういう言葉を決然とかつ柔軟に、聡く聴かねばならない。たんに言葉に拘泥すればまた新たな優柔不断がうまれるから。
* 荷風の 『私家版・腕くらべ』を読み終えた。荷風の真価を代表する作ではない、荷風「ご趣味」の発揮である。たとえばわたしは「e-文藝館=湖 (umi)」に荷風の『花火』『勲章』『adieu』をとりいれさらに訳詩の『珊瑚集』をもとり、また初期の秀作『狐』を採りたいと用意している。
巧みなものだが、荷風の真価を『腕くらべ』などで測ってはいけない。
2009 8・14 95
* 久しいお付き合いの宮下襄さんから、すばらしい力作「藤村研究のためのノート」が届いた。宮下さんの藤村研究はいまいまのものでない、腰を据えての多年の研鑽で。今回のものはしかも意欲ゆたかに『テーヌ管見 私の「英国文学史」』であり、大冊の単行本ほどの量がある。読んで行くのもたいへんだが、これほどの力作をわたしの細腕でいったい、どう励ませるかと思う。このままにしておく手はあるまい。ウーン。藤村学会がどう受け容れて力になってくれるか。昔なら藤村とはゆかりの筑摩書房編集者の胸をたたくところだが、いまは絶縁に近く、編集者を一人も知らない。
ま、読むのが先、と。
2009 8・14 95
☆ hatakさん 終戦の日に maokat
永く抱えていた論文の一つを、米国の雑誌に投稿しました。これから審査で安心していられないのですが、肩の荷は一つ下ろした気持ちです。
久しぶりに書いたものをお送りします。今日に間に合いました。
自転車転倒、よろしくありません。くれぐれもご注意ください。
たん熊北店で昼飯をごいっしょしたいです。機会ありましたら。
立秋も過ぎました。ご自愛下さい。
* 幸いいま用いている貼り伏せのゴムが優秀なのか、膝下も肘下も痛痒無く経過し歩行にも動作にも違和感はない。繰り返していると骨に損傷や大怪我が出るとまずい。注意します。
* maokatの寄せられた長いエッセイは或る映画を語って、気が入っている。わたしは観ていないが映画好きの人は此処で「私語」を聴いて下さる人たちにも多いのを知っている。正確に言えば映画『愛を読む人』を語りつつ原作『朗読者』に入り、また映画を観てさらに思いを原作と映画とに注いでいる。「終戦の日に」の思いが戦争とも生とも死とも人間とも濃く関わっている。数日の内にさらに推敲が加わるかも知れない、「e-文藝館=湖(umi)」はよろこんで頂戴する。
若い友達には映画を勉強している院生もいる、刺戟になればして欲しい。
映画はわたしも大好き、だが、ここまで踏み込んで感想を書いたことは無い。それでも執拗なほど胸の思いを少しずつ吐露した感動作は幾つも過去にあった。『グラン・ブルー』が思い出せる。『蕨野考』もそうだった。いま一升瓶の空き箱にぎっしり入れて手近に運んである映画の録画板をざっと観ていたが百数十枚ある。階下に数倍もある。題名を拾うだけで胸がわくわくする。ことに日本映画は選りすぐっているので今すぐにもつぎつぎと観なおしたいが、そうは行かない。だが「蔵書」にならぶ「蔵画」とでも謂おうか、大切に思っている。
2009 8・15 95
* 終日断続、幾つかの「仕事」を巡回するように繰り返す。いつのまにか、日付が変わりそう。目もかすんできた。就寝前の読書をへらそう。
2009 8・15 95
* 上と関係はないが、今昔物語を毎晩よんでいて、一両日前、すこし唸る話に出逢った。巻第十九の第二十七語、「河辺ニ住ム僧洪水ニ値ヒテ子ヲ棄テ母ヲ助クル語(コト)」で。原話はカタカナ書き。ひらがなで書き写す。
今は昔、高塩上りて淀河に水増りて、河辺の多の人の家流れける時に、年五六歳許(ばかり)にて色白く、形ち端正(たんじゃう)にして心ばへ厳(いつくし)かりける男子(をのこご)を持て、片時も身を不離れず愛する法師有り。
而る間、其の水に此の法師の家押し被流れにけり。然れば、其の家に年老たりける母の有けるをも不知ず、此の愛する子をも不知ずして、騒ぎ迷(まどひ)けるに、子は前に流して、母は一町許下(さがり)て浮び沈みして流下けるに、此法師色白き児(ちご)の流れけるを見て、「彼れは我が子なめり」と思て、騒ぎ迷て、游(およぎ)を掻て流れ合て見るに、我が子にて有れば、喜び乍ら片手を以て子を提(ひさげ)て、片手を以ては游を掻て、岸様(ざま)に来て着(つか)むと為る程に、亦、母水に溺(ただよ)ひて流れ下るを見て、二人を可助(たすくべ)き様は無かりければ、法師の思はく、「命有らば子をば亦も儲(まうけ)てむ。母には只今別れては亦可値(あふべ)き様無し」と思て、子を打棄て、母の流るゝ方に掻き着(つき)て、母を助けて岸に上せつ。
母水呑て腹脹(ふくれ)たりければ、つくろひ助くるに、妻(め)寄り来て云うく、「汝は奇異(あさまし)き態(わざ)しつる者かな。目は二つあり、只独り有て白玉と思つる我が子を殺して、朽木の様なる嫗(おうな)の今日明日可死(しぬべき)をば何(いか)に思ひて取り上げつるぞ」と、泣き悲むで云ければ、父の法師
、「現(げ)に云ふ事理(ことわり)なれども、明日死なむずと云とも、何(いか)でか母をば子には替へむ。命有らば子は亦も儲(まうけ)てむ。汝ぢ歎き悲む事無かれ」と誘(こしら)ふと云へども、母の心可止(とどむべ)きに非ずして、音(こゑ)を挙て泣き叫ぶ程に、
ここで、佛は、「母」を助けた僧のこころをあわれに思われたのか、その「子」も人に命助けられて「父母相ヒ共ニ限無く喜ビケリ」と続いている。
其の夜、法師の夢に、不見知(みしら)ヌ止事無(やむごとな)キ僧来(きたり)テ、法師ニ告テ宣(のたま)ハク、「汝ガ心甚ダ貴シ」トナム讃メ給フ、ト見テ、夢覚ニケリ。
「実(まこと)ニ難有キ法師ノ心也」トゾ此レヲ見聞ク人皆讃メ貴ビケル、トナム語リ伝ヘタルトヤ。」
* いまどき虚をつかれる思いの「人の子」が、さぞ多かろう。
2009 8・21 95
* 荻原碌山が相馬黒光への思慕と愛恋に堪えなくなっている。長編「安曇野」の山場の一つ。力満ちた美しい女の像が若い彫刻家の天才で、悩ましく切なく彫琢されて行くだろう。黒光女史の身近には薄命の天才が炎に巻かれる蛾のように寄る。黒光に咎はありや。
* 清水英夫さんの第三者機関の必要を説く新書本に、目を皿にしている。いまの私に、是非必読の一本。
* 広末保氏の「芭蕉」をジリジリと半ばまで毎晩読んできた。ずいぶん芭蕉を教えられた。これまで、ごく常識的にだけしか芭蕉に触れて行かなかったが。今は取り組むように読んでいる。
2009 8・23 95
* 徳富蘇峰の書いていたこんな説を「安曇野」のなかで読んだ。
もっと長くて、先へ行くとわたしの関心や興味に逸れ、「ほっといてくれ」と云いたい蘇峰流へ流れるのだが、ここに書き写してみた限りでは、やや聴くに足りている。「地方の青年に答ふる書」五回ほどのうち最初の方で、地方の一青年が、煩悶中の人生問題を訴えたのに対する回答といった形式のもの。
「元来小生は、いはゆる人生問題の研究と申すことが、気に食はぬことに候。わけても青年諸君が、かかる無益の仕事に精神を徒費するは、最も不服に存じ候。そもそも人生問題とは、何事に候哉(そうろうや)。人は何処(いずこ)より来りて、何処に行くべき乎(か)。人は何故に、この世に生れたる乎なぞと申す儀に候哉。左様なる問題は、果して吾等が解決の出来得べきものと、信じ被成候哉(なされそうろうや)。小生は、孔子の未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らむやと、申したる言を以て、かかる難問は、打切り度(たく)存じ侯。それよりも人生は真実也。現実也。須(すべか)らく之を認識し、その日その日に為すべきこと、為さねばならぬこと、沢山有之(これあり)候。六畳の部屋に、寝たり、転んだりして、妄想に耽りつつ、安心を得んとするは、言語道断のことに候。かかる不埒なる怠惰漢は、自分で苦汁を分泌し、自分でその苦味を喫するのほか、何等の果報もなかるべく候。人間得意の時あり、失意の時あり。ある時期には、いはゆる煩悶もあり、苦痛もあり、然しながらその苦痛や、煩悶や、ただ奥歯にて噛殺し、速かにこれを脱却して、自己当面の職分に竭(つく)すこそ大丈夫の面目に候。青年の大敵は怠惰に侯。精神的煩悶なぞと申せば、立派な名目に相成候得共(あいなりそうらえども)、そは畢竟(ひっきょう)閑人の閑愁に候。草略不一」
* 「自己当面の職分に竭(つく)すこそ大丈夫の面目に候」の辺に、蘇峰の問題がある。滔々として「国家への忠誠論」へ蘇峰は持ってゆくだろう、わたしは国家への誠実を持ち合わせたいし日本を大切にも思うが、一人一人の私民に「その日その日に為すべきこと、為さねばならぬこと、沢山有之(これあり)候」ものをうち捨て、ただただ「国家への忠誠」を前に置くのは御免蒙りたい。その余の言説は概ねわたしもさよう考えている。ワケ分からずに哲学的な煩悶に逮捕されてしまうのは、「つまらぬ分別」に類すると思っている。
* その一方で、例えばゴーギャンの難しい題の「あの」繪が、思い出せる。
「自分は何処から来たか。自分は何ものか。自分は何処へ行くか」
画家はこの大作を描いてやがて自殺を図った。何故か。何故か。
2009 8・25 95
* 広末さんの「芭蕉」とともに、芥川の皮肉や警句に彩られた「芭蕉雑記」も読んでいる。露伴の芭蕉鑑賞も読みたい。
2009 8・26 95
☆ 『文豪 てのひら怪談』 晴
『蝶』は怪談というより美しい幻想の世界。
針を持つ手の美しさ。 もう遠い世界です。
今年は夏の到来が遅く、怪談への出会いも後半から。
先日はTVで「嗤う伊右衛門」で小雪の美しいお岩さんを。京マチ子の「雨月物語」を見ました。
夏の寝床の読み物として、今年は「雨月物語」「春雨物語」を円地文子訳で読んでいました。
毎夏古典を語る会を開いている知人の、伊勢物語から「盗人」の段 「芥川」の段 野火止の平林寺近辺の説話とを織り交ぜて「語る」のを聴きました。
文豪の皆様方の怪談集を読みついで、夏の終わりにしましょう。迪子様共々夏のお疲れにご留意いただき、ごゆっくりとお過ごし下さいますように。
* ご大層な題の文庫本が私の手もとにも届いている。
夥しい「怪談」が集められていて、わたしの掌説「蝶」など、怪談ではないのにアタマから三番目に採ってある。漱石や直哉も入っているけれど、あまりに「文豪」だらけで大安売り。わたしは読まないが妻は全部読んで、わたしの「蝶」だけ、とびはなれて美しく変わっているそうだ。あとは千篇一律とか。御苦労なこと。
2009 8・29 95
* 平山さんの論文を興味深く校正している。万葉調の表現で先の戦中に戦意高揚の声を高く上げた中に、佐藤春夫がいたことも知った。佐藤は谷崎の親友であり、絶交したり和解したり奥さんを譲られたりした後輩だが、わたしはどうも佐藤文学に馴染まずに来た。弟子などもたなかった谷崎とくらべて「門弟三千人」などと嘯く人は苦手。大正時代の出世作『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』もどうしても読み進む気がしない。
その佐藤春夫が、「中国との戦争に突入すると、たちまち「皇国紀元ニ千六百年の賦」 で、「八紘(あめがした)ヲ掩ヒテ宇(いへ)トセント/大御言(おほみこと)遂ゲザラメヤハ!」と叫ぶ。これは、「撃ちてしやまむ」と同様に戦時中の国家的標語となった「八紘為宇(八紘一宇とも)」(日本書紀)をふまえている。
太平洋戦争になると、『大東亜戦争』という詩集を発表し、「特別攻撃隊の頌」「軍神加藤少将」「落下傘部隊礼讃」「日本陸軍の歌」「シンガポール陥落」などの愛国讃歌をたてつづけに披露した。」太平洋戦争中の歌人や詩人たちが迷いもなく天皇讃歌を量産したことを思うと、「詩人」というものは、「なんのこだわりもなく時代の雰囲気にのみこまれて我を忘れてしまう人種なのだろうか」と平山さんは爪弾きし、かつて戦中には「特別攻撃隊の頌」を書いた佐藤春夫のごときは、戦後の「昭和三十年六月には、一八〇度転じて『ゼネラル・マッカアサア頌』を書いてい」たことを呆れ顔に紹介されている。
こういうことから、あの原爆投下も「しょうがなかったんだよ」とにこやかに口走る防衛大臣などが世に現れてくる。
* 「バスに乗り遅れるな」と慌て、「空気が読めなくちゃ」と「人の顔色を読ん」では右往左往する。そうでなくては世渡りの無事は無いと賢こがる。
* 臼井先生の「安曇野」第二巻で、ロダンに学んで帰った若い彫刻家荻原守衛は傑作「女」の像を遺して突如、血を吐いて死んだ。読んでいて涙がこぼれた。この頃「パンの会」が盛り上がる。「新思潮」第二次の若き谷崎潤一郎は『刺青』『少年』『幇間』『秘密』等に永井荷風の絶賛を得、一夜にしてバイロンのような盛名を得ていた。だが、もう目前に大逆事件が近づいている。
2009 8・30 95
* 『今昔物語』の第二冊を読み終えた。予定の半分。
旧約聖書はもう一ヶ月を経ず読了するだろう。わたしの読んだ最も長大な本は『旧約聖書』だろうと思う。千夜一夜物語よりも長い遠い遙かな道のりであったと思う。新約聖書を待っている。
『法華経』ももうのこり少ない。
荷風の『あぢさゐ』も、『腕くらべ』なみの花柳界もので、こういうものだけでは荷風の真価は読み取りにくい。しかしこういうものを一応読んでおきたくて、ついで『つゆのあとさき』へ入ろうとしている。谷崎が、ようやく荷風の復調を認めて一文を草した作である。
いま断然おもしろく、おもしろいだけでなく感銘を得続けているのは、阿川さんの『志賀直哉』。一日の最後にかならずこの本に時間をかける。裸眼がギトギトしてくるまで、つい読み進む。
2009 8・31 95
* むかし森銑三先生に戴いていた小冊子非売品の『新島ものがたり』を気持ちよく読んで、スキャンさせて貰おうと。書庫にはいると森先生に戴いた本が何冊もあり、間近には著作集もある。
今一つ。久しいお付き合いの矢部登さんに頂戴してある小冊子『結城信一 眩暈と夢幻』も。生涯をかけて結城信一の人と文学を検討し彫琢しておられる。
* なにげなく志賀直哉全集の一冊を取り出してみたら、月報のアタマにわたしが原稿を寄せていて、ビックリ。そう恥ずかしくもなく書いていたのでホッとした。
昨夜は直哉が熱海住まいの頃の広津和郎とのまこと惚れ惚れする親交のうるわしさを阿川さんの筆で教わり、胸の底から濯われた気もち。濯鱗清流、まさしく。
ひきぬいた全集で、直哉の戯曲を一つ読んだ。以前にも読んでいて、わたしは、戦後の直哉の作で好きな一つに記憶していた。作者自身もそうであったらしい。老いらくの恋とさわがれ老歌人川田順のもとへはしった人妻に取材したらしく、もとの夫と娘との静かな、だが気分の深い対話劇。舞台でも観たいと想う。
2009 9・1 96
* 清水英夫さんの新書版『表現の自由と第三者委員会』に、たくさん、たくさん、学んでいる。
2009 9・3 96
* 貰っていながら、手に触れる余裕の無かった小谷野敦氏の『私小説のすすめ』を機械の前で読み始めて、三分の二に及んでいる。今日中に読み上げてしまうだろう。
わたしの感想が肯定的か、否定的か。肯定的である。
小谷野氏の論調は破壊的な乱暴を含んで厳しいのだが、状況や背景をよく博捜していて、あざといアテズッポウは言っていない。そう思う。
言わずもがなの言い過ぎはこの人の得意技で持ち味であるから、不愉快には目をつむってとばし読みをしても義理を欠くことはないが、包丁は、かなりに肯綮に当たっていて、面白い論策というより、裏の取れてある興味ある放言なみの新説である。奇説とも読める。そして不思議なほど多くの点で氏のきめつける細部の結論は、わたしの久しい持論とも重なる。氏と同じことを、最低限この十二年間のこの「闇に言い置く私語」で、わたしは、かなりたくさん言ってていると思う。
* 一例、わたしが、田山花袋作のかなり多くを称揚し、ことに『蒲団』を世評よりもずっと興味深く面白く読んで肯定してきたことは、たとえば「e-文藝館 = 湖 (umi)」や「ペン電子文藝館」に花袋作を載せるとき、躊躇なく『蒲団』を先ず選んで、その理由も、文学史的通説による以上に、作品そのものがなかなか優れて面白いからだと言ってきた。
中村光夫先生は私には大の恩人であるが、小説として面白いかどうかなら、わたしは藤村の『破戒』より、花袋の『蒲団』の、なんともいえぬおかしみを「文学」として今でも評価する。『破戒』はもはや博物館入りだと思う。
この小説『蒲団』をスキャンし、句読点に到るまで校正しながら、何度も嬉しいほどくすくす笑って楽しんだ夜々のことをよく覚えている。
* 小谷野氏説に安易に乗ってしまうと、隠し業で身勝手にうっちゃられる懼れのあるのも、なんとなし分かっているから、わたしは自分自身の思いや読みや評価を逸まらず、いささか楯のように鎧のように身を固めて<氏の本に向かっている。
この人はいわば文壇野党のいま最たる若手批評家であり、また、いつ一朝に文壇与党でハバを利かすか分からない危ない批評家にも想えている。
だが、歯に衣着せずに、ある種豊富な知識に足場をのせ、(あえて豊富な学殖とは言わないが。)割り切れた物言いで通説の不確かな論点を取捨・分別してゆく切れ味は、現在文壇与党を自認しているかも知れぬエラソーな批評家たちの曖昧な言説よりは、今のところ、かなり面白い。
ただランボーなのではない。映画の主人公のランボーに或いは近い思想的敢為を彼なりに為しつつあるのであろうか。
* しかし小谷野氏「定義」の、「女にフラレ男達」の情けない自虐的な告白「私小説」だけでは、「二十一世紀の私小説」は言い尽くせまいとわたしは考えている。
わたし自身は、今も、これからも、私小説も非私小説も書く気だが、少なくも「私小説」の場合小谷野氏ふうにはたぶん決して書かないだろう。
インターネットの時代である。優れた新才能が現れてくるとき、「私小説」の相貌はそんな情けない脆弱な動機を越えて、はるかに自爆的なほど強い問題を社会に投げかける私小説が現れうる。そう考えているし、覚悟している。
* 知り合いの作家に或いは師事している人か、冊子版の時代小説を送ってこられた。書き始めの三行を読んで思わず顔をしかめた。
若い人ではない、わたしとどっちかという老境の書き手だが、「漆黒の闇夜から突然、劫火の焔が上がった。」など、感覚的に叶わない。漆黒、突然、劫火の、想像力を欠いた言葉遣いの安さ。「から」は「に」であろう、語法がちがう。
小説書き始めのこの一文に作者は、もっともっと「文学」を凝視し建立せねば、と、思います。
2009 9・5 96
* 小谷野敦氏の『私小説のすすめ』残りの三分の一を、夜前、読了。ほとんどつまづき無く、むしろたいへん読みやすく説得もされ、文壇事情に疎いところも大いに補ってもらい、妙に励まされてでもいるように、かなり気持ちよく読了。末尾の、自身「作家」として「未然」の愚痴や宣伝文はできのわるいご愛嬌だが、本気なのだろう。氏の小説本ももらっていたが、感心しなかった。
* それよりも、あらためてわたし自身が「私小説」をどう受け容れたり突き放したりしてきたか、もういちど思い直したくなった。小谷野さんならわたしの全作から、これは私小説でしょう、これは違うなどと、どの程度選別できるだろうか。そんなことも思ってみる。出来そうで、そう簡単にそんな分別はできないので無かろうか。
* それはともあれ、徐々に私小説も書こう、書きたいと意識してきた。意識の外側から事情に強いられる気味もあった。老境に入れば私小説も好いとわたしは早くに覚悟していたし、若くて私小説はムリと思っていた。
2009 9・6 96
* 小谷野氏の新書版に続いて、清水英夫さんの新書版『表現の自由と第三者機関』を綿密に読み込み、読み終えた。素晴らしい示唆であった、「今日人」には必読の大事な本だと感謝。座右を離すことの出来ない基本の指導書。ペンの全会員が読んでいたい本だ。
折しも、明日は久しぶりの法廷。何事がまたどんな顔つきで現れ出るやら。
2009 9・6 96
* 広末保氏の『芭蕉』は、議論がかなり重い。俳諧を「詩」ととらえて詩論が展開されている。詩は詩だけでもむずかしい、詩論はもっとややこしく、時に議論のための議論のようであることが多い。しかも論じてわかる詩は少なく、或いは無く、感じて感じて溶け合ってゆかねばならない。違いますか。
* 散文で書かれている議論ないし感想では、手近なところ、阿川弘之『志賀直哉』 清水英夫『表現の自由と第三者機関』 小谷野敦『私小説のすすめ』が、それぞれ見事にものを言っているし、阿川さんの大著は今も嬉しく読み耽っている。
* 荷風の『つゆのあとさき』は、やはり今の私には、つまらない。少年の昔あれほど惑溺して読んだ里見トンの『多情仏心』を、いまでは投げ出してしまうように、いかに荷風といえども、『狐』『花火』『勲章』などとくらべて耽溺の花柳界遊泳ものは、物足りない。
2009 9・8 96
* 夜前、阿川弘之『志賀直哉』上下巻、読了。
志賀直哉という稀有の文学者に「全面」で触れた「幸福感」、計り知れない。阿川さんの誠実な構想と、博捜・洞察と、筆致・筆触の美しさに、心より感嘆し感謝する。わが七十年の「読書史に不朽の一冊」を加えたことを心底喜ぶ。感謝する。
感銘は、そのつどに湧くように迸るように具体的に甦り来るであろう、心挫けよろけそうになるつど、「心の杖」と頼みたい。
* 直哉は、文学賞というものを生涯に何一つ持たない。文化勲章以外の賞も、たしか、なに一つ受けていない。名前はどうでもいい「作品」だけが作品としていささかも変害されず読まれれば、十分だと、確乎として考えていた。
* 濯鱗清流。 志賀直哉全集に六巻分(小説は十二巻)の「日記」がある。拾い読みはしてきたが、全編を通し、気を入れて読んでみる。
ゲーテはエッケルマンに向かい、シラーやバイロンや誰彼となく無数に優れた人からの「書簡」を現物で読ませて、そこから学び取るように、打たれるものにはまっすぐ打たれるように「教訓」している。よく分かるし、とても羨ましい。
直哉の書簡集は五巻ある。漱石全集にも優れた書簡集がある。言うまでもない「日記」も「書簡」も、「断簡」すらもすべて彼等には、そしてわたしにもそうだが「文学」としての「仕事」である。
わたしの機械には、十数年、じつに大勢との、万を遙かに越す「書簡(メール)往来」がそのままほぼ全て記録されている。ご厚意に甘えてこの「私語」にも、同じ十数年の間に記載されたものが少なくない。それは下さった人の書いたメールであっても、往来し応答のある流れは、俳諧連句の付合と同様、自然「合作」されてゆく人と人の連帯であり固有の時空を成している。もし真実「成心ない」人が編めば、まちがいなく豊かな、時に創作された小説より興味ある赤裸々な往復書簡集が少なくも数十冊すぐ出来るだろう。まさかそれは出来ることでないとしても、千彩万姿、すばらしく組み合わせながら創作世界に溶かし込んで錬金術をほどこせば、まさに「I T」時代の小説世界を組み立てることは少しも難しくない。
* いま「成心」という言葉を書いた。此の機械でも「成心」と直ぐ出るが、多年、ほんとに多年愛用してきた新潮国語辞典(昭和四十七年二月の第四刷)に載っていない。びっくりして『広辞苑』第四版を見ると出ていて、思った通り、「一 前もってこうだと決めてかかっている心。先入観。 二 心中にもくろむところのある心。したごころ」としてある。
「成心」をもたないこと。
2009 9・11 96
* 阿川さんの大著を読み終え、それでも十二冊ほど毎晩読んでいる。なかで『今昔物語』が仏法僧の説話をほぼ終えて、いまは、天狗などの変化のモノが法師や聖人をまどわすような説話が、がぜん面白くなってきている。一つ一つの説話も長めに、読みでがある。
『安曇野』は、胸病める画家の中村彝、インド独立の闘士ボース、盲目のエロシェンコたちが相次いで相馬愛蔵・黒光の「中村屋」へ出入りしている。
直哉の「日記」を二十歳過ぎの第一巻から読み始めている。阿川さんの本は妻が引き取って読み始めている。
きのうは、たまたま書庫から出ていた谷崎全集から、吉井勇、長田幹彦、谷崎潤一郎が北原白秋を訪れ行く短編小説を読んだ。
* あまり読み耽って昨夜は眠れなくなり、深夜に床を出て、映画『トラトラトラ』を観て夜明かしした。映画のあともそのまま機械の前で仕事をつづけた。
「仕事」はいくらでも有る。しかし眼が霞んでしまい、午後になり三時間ほど寝入った。からだをうまく休めないと体調を違乱する。
2009 9・12 96
* わたしを東工大教授に引っ張り出してくれた、故川嶋至さんの『文学の虚実 事実は復讐する』を多大の興味で読み始めている。この本を生前の川嶋さんに戴いたのは、よほど昔で、まだわたしの興味の範囲に入ってこない探索であった。今は断然そうでない。
* 広末保氏の『芭蕉』論攷を読み終えた。ずっと年長の著者である。芥川龍之介の『芭蕉雑記』は読ませる。
* 直哉日記は明治三十七年の記事を詳細な補注と一緒に読み進んでいる。元日から女義太夫、歌舞伎。それがもう連日連夜。しかも直哉の批評の熱心なこと、曲に即し、詞や言い回し唄い方に即し、演者や役者に即して、具体的に、詳しい詳しい。この年直哉は二十一歳の学生である。これだけ批評できるのは、これ以前すでにずいぶん月謝を払っている。来る日も来る日も来る日もまだうら若い十五六の娘義太夫昇之助を軸に直哉の日々は流れている。
2009 9・15 96
* 今日の衝撃は幾つもある中で、故川嶋至さんの本で読んだ『安岡章太郎論』には仰天た。心を落ち着け、改めて書きたい。どうやら本腰入れてこれを考えねばならない。
2009 9・16 96
* 昨日は鳩山新内閣の発足にたっぷり付き合って夜更かしした。それから本を読んで寝た。川嶋さんの本では高見順論を二本読んだ。安岡章太郎をはげしく追糾した論文のジンジンする余韻を抱いたまま。
2009 9・17 96
* 『今昔物語』は佳境に入っていて、読むもの、読むものに心惹かれる。過去の書き手達がこの説話の宝庫に惹きつけられたのは当然。わたしだって、ウズウズする。
2009 9・17 96
* 藝術祭十月大歌舞伎は夜の「義経千本桜」は失礼し、昼の部だけを人を頼んで予約した。藤十郎、富十郎、菊五郎、吉右衛門、玉三郎が競演し、「毛抜」「蜘蛛の拍子舞」が珍しく、本命の「川庄」がある。はなやかに菊之助、松緑が競い、時蔵が紀の国屋小春を、三津五郎も粂寺弾正を。チラシを観ているだけで楽しい。
* 十月は国立劇場で高麗屋肝いり趣向の新作歌舞伎が待っている。千葉のe-OLD 勝田さんをお誘いするつもりで十月二十日火曜日が予約してあるのに、勝田さんへご都合も聞いていないし連絡もし忘れている。どうも、この頃こんなことばかり多い。ごめんなさい。
木津川の従弟に珈琲を注文してと妻に頼まれていたのも、此処へ書いただけで忘れていたら、ちゃんと「承知の返信」が従弟から来てビックリ、有りがたい。よろしく。
* こういうズボラが利くと、ますます、ズボラ兵衛になる。
2009 9・17 96
* ウエブは、ノートブックでの日記や郵便・はがきとは、性質も機能も異なる。ここへ人の実名や評判を書いてはいけないなどというそれ自体、「百年前の感覚」だとわたしは考えている。
わたしが電子メディアを用い、匿名や変名や無名で言いたい放題人を批評するのでは問題は大きく、かつ好ましくない、いや良くない。しかしわたしが、立場や、職業も氏名も文責も明らかにしながら自分の交際や主張、思想に触れ、また公人や公への歯に衣きせぬ意見や批評を公開することは、内容がフェアである限り、二十一世紀の「普通」であらねば「ウソ」だと考えている。それがウエブ社会での現実でありマナーだと思う。
ものかげの「紙の日記」ではむちゃくちゃ勝手な悪口や中傷毒舌も見遁されて、また「某チャンネル」などで無名・変名・仮名等で便所の落書きに類する捏造や中傷や意味のない罵倒を重ねてもすべて見遁され「まかり通っ」て良いわけがない。
一方、まともな人間がまともな意識と自覚と責任とで、当てこすりでなく人の名も正しく挙げながら交際の本来や、意見や認識を書きして法に咎められるのは行き過ぎだ。この「コンピュータ時代」ではむしろ「普通」の良識・常識として公認されねば、むしろ可笑しいとわたしは考えている。
ものを「書いて生きる」者の一人として、陰湿な「かげぐち」は良くて、公明公然の批評や批判は法的に名誉毀損と咎められるなどのアンバランスは、「是正さるべし」とわたしは確信している。
ウエブ、インターネットとは、そういう「生きものの機械機能」にもう成りきっている。その性質を、好き勝手に陰険にねじ曲げることは出来ても、殺して「無」に帰することはもはや不可能。それならば、大切なことは、良識を伴った「文責」という公明さ、そして当事者相互の討論・交渉であろう。
公平・公正にはとうてい型通りな「法」ではとり仕切れない、取り扱えない、「人の口に戸は絶対的に立てきれるものでない」以上、真に取り締まるべきは、非難さるべきは、「匿名・無名・変名等に隠れた陰湿な陰険な中傷や捏造で人を傷つける犯罪行為」だ。フェアが正しい前提であるとして、「公人(パブリック・フィギュア)間のフェアな言説はアンフェアなルール違反とは別だ。ミソもクソもいっしょくたにすべきでない。
わたしは「現代ウエブ作法」を云うている。公人として生きている者が、安直に名誉毀損を振り回すのは間違い、むしろ卑怯に類している。
* さらに別に「私小説、小説」での問題がある。
いま川嶋至の遺著『文学の虚実』を読んでいるが、巻頭の安岡章太郎作『月は東に』を論じた「歪曲された事実の傷痕」は衝撃に満ちた弾劾の批評であり、この一編に限って云えば、かつての同僚川嶋教授の筆鋒は、問題の核心を刺し貫き、批評本来の役を完璧と見えるまでみごと果たしている。
この小説作者のモデルに対する悪意と自己弁護は、醜い。侮辱されたモデルの苦痛は計り知れない。
が、その一方、この小説は文壇で文学的に顕彰され、また九割九分九厘の一般読者にそのようなモデル問題は見えてくるワケがない。
こういう傾向の私小説しか書けない書き手で安岡氏があることは多く氏自身の述懐やエッセイを通して推量できるし、書かずにおれなかったから書かれたとしてそれは作家の負うた宿業だといえる。言えるけれど、だからといってモデルがこの表現を憎悪し赦せないことは火より明らか。
* 川嶋氏はこの評論ゆえに文壇で多大の顰蹙を買い逼塞を強いられたと仄聞してきたが、そういう文壇であることを私は嫌った。その辺のことは、更にオイオイに書いて行く。ひとまずこの話題を離れながら、
* わたしは「私小説」について今つよい関心をもっている。年が行けばオイオイに必然「私小説」も書くだろうと久しく思っていたし、書き始めても来たが、実もって、川嶋さんが面貌の皮をひんめくった上の安岡作のような私小説なら、書かない。現に書いていない。
むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさの「情け無い恥を」、「うしろめたさ」を敢えて忍んで「そのまま書く(掻く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として作品は「純文学」作者は「藝術家」という名誉を手に入れてきた、と。
わたしの考えている「私小説」は、まるで、ちがう。
どうちがうかを、わたしは実証し実現して行かねばならないが、一言で言えば、「いま・ここ」に在る人間として「私」を書き、「私」の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」として「私小説」を書く。
わたしは「男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさゆえの」「情け無い恥」という観念や概念に殆ど毒されていない。ほとんど実感が無い。鉄面皮なエゴイズムと叩かれかねないが、わたしにはそれらが何故に「恥」なのか、ピンとこない。生きていてその日その日に遭遇する体験の集積は、ただに自己責任ないし自己実現と謂うに過ぎないし、まして「生い立ち」など、どうあろうと、わたしの「知ったことではない」。高見順は「私生児」に恥じ拘泥しつつ私小説を書いたが、自身が私生児として恥じてきたはずの「私生児」を、生涯に二人も(一人らしいが、作家自身は有る期間二人と自覚していた。)妻ではないべつの女たちに産ませていた。それを私小説に書いていた。
芥川龍之介は生い立ちへのこだわりを事実の説明としては書かなかった、書けなかったのである、どうしても。しかも深く深く拘泥して恥じていた。
わたし自身は、自身私生児であった生い立ちを、それと知った子供の頃から恥じたりしなかった。「私の知ったことではございません」からである。そんなことからは終始一貫あっけらかんと「自由」だった。むろん「恥じ入り、恥ずべく、恥ずかしい」ことは他に山のように有る。みな、生きものとしての人間なら、どうしようもないことだ。私の場合むしろその恥ずかしさを、儒教その他の道徳学で正そうとか制しようなどというコトのほうを、「敢えて避け」てきた。不自由は、イヤだった。自分の問題だと見てきた。
わたしの生きるエネルギーは、「自由」でいたい欲求と、漱石のように「私怨は忘れない」という熱意だろう。その立脚点からわたしはわたしの私小説を書きたい。自然それは書き手の「いま・ここ」に在る思想や感想を背負って自身を確かめ確かめ表現する「私小説」である。『蒲団』でも『新生』でも『和解』でも『月は東に』でも『宴のあと』でも、ない。
わたしの場所は、過去にも未来にもなく、「いま・ここ」にある。「いま・ここ」でどう生きているか、そこに自分の思想や感想が産まれているなら、それを書きたい。そういう私小説が書きたい。「恥」を書き(掻き)たいのではない。恥は掻こうが掻くまいが、たんに恥の「ようなモノ」に過ぎない。それが藝術家や藝術を保証するわけではない。
2009 9・18 96
* 高田さんへのメールが届かなかった。此処で通りますと幸いですが。
* 高田欣一様
健康の方、お変わりなくお元気であればいいがと、ふと、懐かしさも手伝い、気になりました。
「興福寺の阿修羅蔵像」「美智子皇后の歌」など読み返していました。「古今和歌集をよむ会」はずいぶん進まれましたか。
わたしは、外へ出てするペンクラブなどの仕事を徹底的に省いて、日々、好きなように暮らしています。ま、そんなふうにして不快なことどもとのバランスを取っているのかも知れませんが。
余儀なく「私小説論」をたくさん勉強しています。いまは亡き川嶋至さんの安岡章太郎論などにみられる強烈な批判の批評を耽読の一方、ずうっと長い月日掛けて志賀直哉を読みに読み返してきました。
幸い、健康は、ま、なんとか…という按配です。好きなことを好きにして楽しむ、楽しんで書く、ようにしています。
「e-文藝館=湖(umi)」にいただけるような新しい珍しいお仕事があれば、読ませて下さい。
とにもかくにもお元気でと願うばかりです。 秦 恒平
2009 9・19 96
* 川嶋至の本『文学と虚実』では、安岡章太郎の『月は東に』論「歪曲された事実の傷痕」につぎ、高見順の『深淵』「言いがたき秘密住めり」と『生命の樹』「宿命からの逃避」の論を読み、大岡昇平の『俘虜記』論「ヒューマニズムと怯懦」を読んだ。
文学評論としてわたしは高く評価する。これらを狭量に受け容れず、川嶋氏をあだかも追放したような日本の文壇をわたしは唾棄する。
それは、比較の材料にやや差のあることは承知で謂うが、あの「九・一一」テロの犠牲者家族が、犠牲者の名を利してブッシュ政権が戦争行為を正当化したのに強く反対し、運動し、すると、国民も寄ってたかって彼等の発言や運動を弾劾し身の危険の及ぶほど迫害した行為に似ている。
* 直哉の日記 明治三十七年から引いてみる、最も適例とも謂えないが、義太夫を聴きに行き、批評している。このとき直哉は二十一歳。直哉の日々はこの年、元日から大晦日までこういうことの連続で。
わたしが歌舞伎を観ても能を観ても、こういう批評からすれば大雑把で遊びと楽しみとに蔽い取られているが、直哉日記では、科白の細々に至って批評している。この若さで年季と月謝が入っている。「白樺」の連中も大勢が娘義太夫に入れ込んでいるし、この当時のインテリ学生や若い作家達の流行であったけれど、直哉ほど「批評」できている例は無いに同じい。
☆ 明治三十七年二月二十七日 土 直哉日記
朝から休む、昼少し前より雪、
平一と喜吉(きよし)に行く 大口の丼子にて評もなし、次が初登り万八の柳なりしが和田四郎の出より、木やりの前までにて、普通省く所なり。渋味ありて中々しつかりしたもの。次が花米の楼門 此人は声も有り広勝よりは有望なり 地のみにて評価しがたし。岡太郎の日吉三は二度目にて弾き語りせし故、絃、壷をはづれ聞苦し 五郎助の間道を教ゆる詞をぬきしは不埒なり。大吉の壺坂は沢市内のみにて今迄で聞きし相生、昇之助、段昇に比して最も下手なり。友の助の寺小屋、一字千金より語り出し。詞になる所よりづつと飛び。かゝる所に春藤玄蕃よりにて、「跡には人勢村の者」(不可)「ハイハイハイハイ」(ヌク)。松王重身少なし。蟻のはいでるをはいづるは悪し。「ひとりづゝ呼出せ」(弱さうなり)。呼出す所昇之助程賑かならす。「ヤこりやけふ初て寺、イヤ寺参りした」(不可)「ムヽこりや菅秀才の首」(落付きすぎたり) 「何とて松のつれなかるらん」(憂ひありて大によし)。「すい量あれ」はよし。「道までいんで見れども」(ナアを云ふ方よからん)。泣笑ひを聞き落せしは残念なり。かわらんと立ちよれば松王丸。を一息に云ふ必要もなかるぺし、無理有り。御だい若君からは昇之助のも感心せざりしが此人のも感心せす 梅登の此所は感服せり
(<欄外> 友之助は昇之助より下手なり 正視町 立花 磯田なども居る)
2009 9・21 96
* 宮下襄さんの「藤村研究のためのノート」と副題の添えられた書き下ろし長編論攷『テーヌ管見 私の「英国文学史」』を、ひとまず「e-文藝館=湖 (umi)」の論考・書き下ろし長編の二箇所に掲載した。
厖大であり、ちょっとした組み設定や改行にも打ち直しにも、「一つ一つ」長い時間がかかり、完成した形で読まれるのにはしばらく手間が掛かる。が、むろん今のままでも読み下しは可能。
雄大な論攷で。投稿を感謝します。
島崎藤村や英国文学史に関心の深い人たちの愛読をぜひ願っています。
2009 9・22 96
* 「仕事」
* 合間に、FLANAGANの『HOW TO UNDERSTAND MODERN ART』を、拾い読むのでなく、アタマから読み進む。辞書のご厄介にならなくてもなんとか大意は取って行けて面白い。
一九五一年、わたしが高校へ入った年に出ていた本。カラー図版は一つもないが好きなマチスのデッサンが二点入っていて、久しくお気に入りの洋書。
* 永い連休で、郵便物もメールも無い、少ない。「仕事」ははかどる。
2009 9・23 96
* 川嶋さんの本がおもしろい。佐伯彰一さんの『日本の「私」を求めて』もぜひ読み終えてしまいたい。
* 勉強しているというのではない、関心が関心へと美味い具合に繋がり、本の方から手もとへ寄ってくる。
2009 9・25 96
* 二階へ上がり、しばらく、日本の唱歌集を読んでいた。いの一番に「あおげば尊し」、歌詞もメロディも骨の髄に擦り込まれている。小学校でも高校でもない、弥栄中学を思い出す。「蛍の光」の歌詞は好みで唱ったことはないが、「四季の月」が懐かしく、そして「庭の千草」。
高崎正風「紀元節」の皇国調は、それなりに和語の洗練にのせていて、京の二月の季感とともに歌詞は身に染みている。
そして明治唱歌一、スコットランド民謡に取材して明治二十一年五月に出来ていた「夕空はれて あきかぜふき」と唱う「故郷の空」は、東京へ出てきてからも、ひとり湯槽のなかでひそかに涙を洗いながらよく口ずさんだ、「ああ わが父母 いかにおはす」と。「すみゆく水に 秋萩たれ 玉なす露は すすきにみつ」と唱う歌詞がすきだった。
2009 9・27 96
* 昨日、川嶋至氏の畢生の遺著『文学の虚実』を読み上げた。優れた仕事だった。たくさん教えられた。
* 今日ついに『旧約聖書』をことごとく読み終えた。「創世記」から「マラキ書」まで、一行といえども飛ばし読みせず、じっとじっと読み継いできた。感想はとても手短には言えぬ。
これほどの「ことば」が、西暦前の千数百年にわたり、語られ書かれ記録され保存され、聴かれ読まれていた文化に心底驚嘆。日本人は同じ時期、文章はおろか言語伝承をほとんど何一つ遺さなかった。言葉を話していたのは当然としてもその痕跡を遺せなかった。
『新約聖書』に到達したいと旧約を読みながら永く思っていた。旧約の読み通しに何年かかったろう、茫々、思い返せない。
2009 9・27 96
* このところ「仕事」がらみに一気に熟読をおえたのが、清水英夫『表現の自由と第三者機関』小谷野敦『私小説のすすめ』川嶋至『文学の虚実』だった。
2009 9・28 96
* 死の三年ばかり前、芥川は『芭蕉雑記』を書いていて、これに共鳴する。
悠々としかも端的に芭蕉の真髄に目も胸も開いている。引いている芭蕉の句もすばらしい。
「六 俗語」には、「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」を、「悉俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しみに溢れてゐる」と読んでいる。
「命なりわづかの笠の下涼み」「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」を引いている。
「七、八 耳」には、「夏の月御油より出でて赤坂や」「年の市線香買ひに出でばやな」「秋ふかき隣は何をする人ぞ」と。
さらに「春雨や蓬をのばす草の道」「無性さやかき起されし春の雨」とも。
芭蕉、耳のよさよ。
2009 9・29 96
* 『新約聖書』に惹き込まれている。
旧約に比して、現代の言葉を読みかつ聴くように浸透する。よろこばしく尊く、ついつい手にして読み進む
2009 9・30 96
* 今日は校正刷りをもってなかった。『ゲーテとの対話』第三部を持って出て、電車でもどこででも、いたるところで興味津々嬉しく読み耽っていた。
ゲーテという人、果てしれず大きい。ならぶなら、シェイクスピア、そしてトルストイか、な。
2009 10・1 97
* 生母「阿部鏡」(筆名)の、母が自身「日記」と呼んでいた歌文集『わが旅 大和路のうた』のうち、散文部分をのぞく「短歌抄」を、「e-文藝館=湖 (umi)」に入れた。なぜか「著者別」索引「あ」行でしか出ない。作業手順を間違えているらしい。著者別「あ」行でなら、問題なく読める。この祖母になみなみでない関心を寄せていたわれわれの娘のためにも、「散文」部分もはやく整備し、「短歌集」と併せて復元しておきたいと思うが、これまた並大抵の作業で済まないだろう。歌はそれなりにそこで表現が完結しているが、散文の場合、思い込みも性格も反映し、まして重い死病の床での作業らしく、背景も状況も理解できないところがたくさん有る。調べて歩こうにも、もうわたしにはその元気がない。
2009 10・2 97
* 二時間ほど寝ていたか。四時半頃手洗いに立ち、そのまま眠れず、「マタイ傳」を十九章読んだ。読みやめられず、魂を吸い取られるように読んでいた。
旧約へは、かなり入りにくかった。太古、上古の世界だった、神も人も言葉も。
マタイ傳は、そのままいまの私の思いで聴ける。
ちょうど今、『法華経』を観音品まで読んできているが、仏経また、旧約ともかけ離れた「超世間の言葉と讃嘆」が描き出されている。佛は人だと聞いてきたが、経典を成している時も空も、佛も、人間の実感からは果てしない厖大な理法を体している。
理知が働くからではあるが、『般若心経』はまだしもわが手に戴いて汲み取れるところがある、具体的にとは言わなくても、認識の対象として、大いにある。
だが『法華経』はなまじの理知など受け付けない。言われてあることは、具体的と言えば具体的でよく分かるけれども、その分かりがどこへ運ばれて行くのかは深い観念の底に沈みゆき、戸惑いと懼れとが残る。浄土三部経を受け止め得るように、受け止め得た気にさせてもらえない。なかで観音経などは飛び抜けて分かりよいのは観音信仰について下地があるからだろう。
読誦の回数も足りないのであろう。阿弥陀経や観経は繰り返し返し何度読んだか知れないのだから。大経でも数度は読んでいる。
それでも、いま「マタイ傳」を(数度は読んできたが)新たに読みはじめた瀧の水を吸い込むような感動は、新鮮で無比。信仰とはちがう。感嘆であろう。讃嘆でもあろう。いや感謝というのが当たっている。感謝しながら、深く羞じ慚じる。と同時に、それでもこのまま生きて行くだろうと感じもする。そのかすかな力みが慚愧を誘うけれども、たぶん…と思うのである。
* すこし寝て、六時過ぎに起きてしまい、しばらく秦の父母・叔母の位牌と話していた。もう小一年もの朝のならいである。
2009 10・3 97
* このところスティルバーグの「ジュラシックパーク」を三作観たが、やはり二番煎じ三番煎じほど「これでもか」となり、要するに気味が悪い。第一作は単純に驚きながら楽しんだが。
なにを観ても読んでも、このところでは阿川弘之『志賀直哉』と、新約聖書『マタイ傳』が圧倒している。永井荷風の『腕くらべ』のあと『あぢさゐ』『つゆのあとさき』と次いで、いま『ひかげの花』など、みな、特別の情緒も感じない。『墨東綺譚』で清い感じに触れて荷風を終えたいもの。
2009 10・3 97
* 夜前、余儀なく就寝遅れ、読書と校正とでさらに遅れ、今朝の寝覚めも少し遅れた。田原総一朗の番組で、天下りと官僚の問題、聴いていた。元大臣、中川昭一氏の急死を知る。
* 『ゲーテとの対話』第二部の結びは、ゲーテの死に直面したエッケルマンの哀哭と感動が美しく書かれていた。深呼吸して読んだ。
この対話は、さらに第三部がある。理由があって、在る。感銘をいや増しに、読み進んでいる。優れたものに、ひたむきに向き合いたい。わたしに残されてある時間は永くないのだ。
2009 10・4 97
* 上方の小説家で、しかも歌舞伎通の、湖の本のはなからの読者でもある川浪春香さんに、新刊の『歌舞伎よりどりみどり』を戴いて楽しくもう読み終えたが、歌舞伎未見の人には話がまるで通じないだろう。
歌舞伎へ「本」から入ろうというのは「能」以上に存外ムリな相談で、「観る」「観つづける」のが何よりの本道。
家内は、俳優座や小劇場へは一緒に出かけても、歌舞伎などとんと昔は気の無かった人だが、今では歌舞伎座や国立のどの舞台ででも、ワキや端の役者さんまで顔も覚え名も諳んじ、大の歌舞伎好きになり切っている。そのおかげで他の新劇などもさらに面白く観られるようになっている。観て観て好きになれば歌舞伎は、まったくリクツ抜きにぞっこん楽しめる。
新劇を観ても商業演劇やアングラを観ても、歌舞伎や能に深く学んでいる技術や意想の例は、観れば観るほど舞台のはしばしからあれこれ看て取れる。いやいやまだ学び切れていないお宝が、おもしろい歌舞伎の舞台には真実贅沢なほど盛り込まれている。心ある作者や俳優や演出家達ほど、身に染みてそれを知っている。生きた勉強なのである。
2009 10・5 97
* 強い大きな颱風が上陸してきそうな雲行き。
☆ 千八百三十二年三月二十二日私は無数の高潔なるドイツの人々とともにかけがへなき彼、ゲェテの死のために泣かざるを得なくなつた。 エッケルマン
ゲェテの死んだ翌日、私は、彼の現世の姿を今一目みたいとの切なる憧憬にとらはれた。彼の忠実な下僕のフリイドリヒが彼の寝かせてある室をあけてくれた。
上向きに彼は眠つてゐるもののやうに横たはつてゐた。崇高な高貴な顔の上には深いおだやかさと安らかさとが漂つてゐた。いかめしい額はまだ思想を宿してゐるやうだつた。わたしは彼の髪が少し欲しかつたが、畏敬の念にさまたげられて切りとれなかつた。身體は裸のまゝ白い寝布につゝまれ、大きな氷の塊りが邊におかれてあつた。出来るだけ長く清新に保つためである。
フリイドリヒは布をひらいた、そして私は四肢の神々しい美はしさにうたれた。
胸は非常に力強く、廣く、盛りあがり、腕と股は丸々として柔らかに肥えてゐた。足は華奢で実に美しい形をしてゐた。どこにも肥大、憔悴、衰頽の跡がなかつた。完全なる人が非常に美しくわが前に横たはつてゐた。私は恍惚として一時、不滅の霊がかかる屍を去つた事を忘れてゐた。
私は彼の胸に手をおいた──深い静かさがあるばかりであつた。──私は顔をそむけ、抑へてゐた涙を心ゆく限り流した。
* 『ゲェテとの対話』第二部は、こう結ばれていた。わたしは、深々とした驚愕と讃嘆と憧憬とで読み、エッケルマンの哀しみのためにも泣いた。「対話」は幸いに第三部に続いていてエッケルマンはゲーテとの至福の時と思い出とを渾身の力で書きつづってくれている。
* この、ゲーテの最期の姿を、此処に録しておきたかった。
「偉大な人」はいたのである、それは人類の歴史に恵まれた至福であり最良の鞭撻である。心からそう思う。
* 「仕事」を前に進めた。核心を得ながら進めた。
2009 10・6 97
* 夜前『マタイ傳』読了。臼井先生の『安曇野』第四部にすすむ。
荷風の『ひかげの花』読了。『腕くらべ』『あぢさゐ』『つゆのあとさき』『ひかげの花』と読んできた。時代が、藝者から女給へまた私娼へ移り動いている。情緒纏綿というふうにはあまり感じない。まぎれない女の姿・タイプは書かれている、が、思いの外に書かれてある女の一人一人はワンパタンで。風景や情景の描写・表現の方が女よりもはるかに生彩を見せる。
次いで、名作の誉れ高い、頂点かと思う『濹東綺譚』を読む。
直哉のごく初期短編『彼と六つ上の女』を、おもしろく読んだ。吉原の大店「角海老」の花魁に若い直哉は通い、花魁に気に入られていた。直哉も気に入っていた、互いに惚れ合っていて、付き合いはかなり長く女が廓の外へ出てからも続いたようで、女が年上だった。
この作の表現にかなり「直哉」が露出している。何度も立ち止まった。
「how to play a love sceneと云ふ事をよく識つた女だ」と初会で彼(直哉)は思っている。そして「或満足を与へ」られたとも。「彼と女は互いに冷い心を潜ませ、熱した恋の形に耽つて居た」と。
直哉は性にも性欲にもまっすぐ健康に立ち向かう思想の持ち主だった。しかも男と女との触れあいの奥には、男にも女にも「何の興味もない、又必要もない、『無益な殺生』」に類するエリヤがある。直哉は女の示唆をうけいれてそれを悟っていた。
* 直哉は女を、「美しいと云ふより総てがリッチな容貌をした女」と書いている。この「リッチ」は金に卑しいそれでなく、直哉のセンスでは、相当な、いわば最高度の褒め言葉であった。かれが漱石先生の文章を「リッチ」で、自分はかなわないと褒めていたことをたしか阿川さんの本は伝えていた。それに触れてわたしも書いた。映画「ベスト フレンド」のバカ売れ作家が「リッチ」と呼ばれ、真実尊敬される「フェイマス」作家と対比されていたのとはちがい、直哉が「リッチ」と観るのは、豊かな大いさを内包した人間や藝術のキャパシテイという質量なのであろう。わたしは、この「リッチ」を尊敬する。
* 同じ直哉のやはりごく初期に、『こども四題』と題した寸景描写のみごとな寄せ書きがある。直哉の簡潔で把握確かな文章・表現のまさに「エッセンス」で、一種の名作を成している。
直哉の作を手書きで書き写して特色を学ぶなら、この作品がよい。
2009 10・12 97
* 愛知県高浜市の詩人に、『鈴木孝 詩 作品集』を頂戴した。ペンの会員で、同世代。出来たばかりの美しい大冊で、箱入り、四つの詩集『まつわり』1957 『nadaの乳房』1960 『あるのうた』1971 『泥の光』2000 が合冊してある。
詩人畢生の思い入れが、なお新たな「これから」を促し、堂々と起ち上がっている。
2009 10・13 97
* 「片鱗」という語を、なにかの片端、切れ端のように誤解している例が、ときに見受けられる。才能や価値あるものごとの片鱗なので、うっかり誤用すると恥ずかしい。「濯鱗清流」とわたしがものの本に題するとき、「鱗を濯う」とは、精神的ななかみや、研かねばならぬ才能を意味している。むろん「清流」とは、自分より遙かに何もかも優れた大先達への敬愛や信頼を謂うている。
今日もゲェテを読んでいると、わたしの永く胸に畳んで思ってきたのと同じことを若いエッケルマンに奨めている言葉がならんでいた。
2009 10・13 97
* 深夜の読書がやはり「過ぎ」ている。雑炊のように雑多雑然とした夢をみる。
2009 10・14 97
* 近くの病院はちっとも楽しくない。それでも前立腺癌の検査を受けてきた。
待合で、荷風の『すみだ川』を愛読していた。この作の自然描写は荷風の全作品の中でも一等しっとりと水気を帯び、懐かしい。一葉の『たけくらべ』を思い出させもする。
2009 10・16 97
* 十一月へかけて、気ぜわしい落ち着かない秋がふけて行くが、やり過ごすぐらいの気組みで越して行きたい。
* いま荷風の『すみだ川』、天野哲夫の『禁じられた青春』、佐伯彰一の『日本の「私」について』そして直哉全集の第一巻、『ゲェテとの対話』第三部を、それぞれ引き込まれて読んでいる。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』も根気よくすすんでいる。ほかの数冊も同時に。もうすぐ『法華経』を読了し『マルコ傳』も過ぎて行く。
2009 10・17 97
* 秦建日子新刊、河出書房版の女刑事物の本が届いていた。『殺してもいい命』だって。何という題だろう。やがて父親は『凶器』という本を出すのだ、何という父子だろう。恐縮。
2009 10・17 97
* いま、観ようではすこしだけ或る仕事の「合間」になっている。他に仕事はあるのだからそれをすればよろしいのに、何となく遊んで過ごしたいとも想う。日照りでない街へ出て雑踏に身を滑り込ませてこようと思う。『すみだ川』や『花火』についで荷風の『濹東綺譚』を読みながら。
佐伯彰一さんの『日本の「私」について』を、いまとても興味深く読み直している。とても優れている。
関連して、この佐伯さんと激しく論争された中村光夫先生の『想像力について』も読んでいる。
読書世界を散策していると、いろんな入り口や出口があらわれて、そこからまた自身の惑いや笑いと出くわすのである。
* 荷風の『雨蕭蕭』をじつに楽しんだ。終日楽しんだ。荷風文学の一頂点か。
しかしまあ「旧文学」の箱に入る。もう二十一世紀の読者はこれを喜べまい、理解すまい。鏤められた漢詩、また昔風の書簡。なんと懐かしいモノだろう。
わたしは、べつに芭蕉翁にならったわけでないが「聴雨」の趣味を解する一人と自認しているが、荷風作にしみじみ「雨」の風情を感触した。『濹東綺譚』最初の佳い場面も夕立だ。
* さて何の用があって街をさすらうのでもない。漫然と空いた乗り物に乗り、窓外に移りゆく下町のわびしい景色を見るともなく観ながら、荷風を読み、そして池袋の書店で手に入れてきた、なんと、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読むのである。この作は昔も昔に古本屋で手に入れた新潮社の世界文学全集で読んで以来、数十年ぶり。読み始めてその明快なリアリズム、完璧な写実具体の描写。直哉に惹かれている昨今のわたしには、まごうかたなき直哉文学のすぐれた先蹤を観た思いがする。目にありありと見えるクリアな描写、それがきっちり心理表現を兼ねている。
なにをそれ以上に書くのか、わざわざ心理など説明しなくても十分ではないかと谷崎が自作の『春琴抄』に心理描写が無いと咎められたとき昂然と反駁した、直哉でも云う、クリアに目に見えるように書けば心理を書くどんな必要があるかと。
フローベールは、直哉や潤一郎の百年も前にそのとおりクリヤに書いて叙事は躍動している。
* 晴れすぎもせず、陰気ではなく、秋はたしかに深まっていて、京葉の一直線は往きも帰るもごく散文的に静かであった。
2009 10・19 97
* そうそう昨日文庫本の『ボヴァリー夫人』を買った書店の入り口の真ん中に、秦建日子の「雪平夏見女刑事」もの新刊『殺してもいい命』が、二十冊ばかりドンと積まれていた。秦さんチからも、ベストセラー作家が出ています。その方は息子に任せておける。それにしても凄い題。少し読みかけたが、まだ置いてある。
『ボヴァリー夫人』は、読み始めて、やめられない、夜更かししそうになり、もぎ放すようにやめて寝た。中学生の頃、上級生から借りて十八・九世紀の西欧文学を何冊も読めたなかで、フローベールのこの作の面白さは分からなかった。もう少しだけ成長してから新潮社版の世界文学全集を古本で買って読んだときも、いまいち乗れなかった。スタンダールやバルザックの方が面白かった。
すっかり成人してから、モーパッサンに完全にいかれた。感嘆した。フローベールには手を出してなかった。
そして昨日、文庫本を一思案してから買って読み出して、ものの五頁も読んで十二分にすばらしさを理解した。このぶんでは二三日もせず一気に読んでしまうだろう。三島由紀夫の『禁色』はほぼ頁数ほどの日数を掛けて読み切ったが、これはそういう読み方の方がよかったと思っている。書き方が違うのだ。
永井荷風もちがう。
ロマン・ロランもむちゃくちゃ、ちがう。
臼井吉見の『安曇野』もえらくちがう。
それがふつうだ、違う書き方がいろいろに可能なジャンルとして小説はある。「実験」こそが必要なジャンルだ。
* 高木さんのそれぞれに豊富な詩集『やさしい濾過』『シチリア』二冊分を、ひとまず「e-文藝館=湖(umi)」に入れた。何冊分もの詩集を預かっているはるか昔からの、優れた寄稿者。
掲載の仕方など統一してかからねばならない。「e-文藝館=湖(umi)」にも、初期と本期とで載せ方や紹介の仕方が異なるのを少しずつ統一している。まだまだ手がかかる。
2009 10・20 97
* 昨日今日、とくにややこしい夢も観なくて。早く寝ようと思いつつ、昨夜もたくさん本を読んだ。
一昨夜、岩波文庫の『法華経』上中下三巻とも、解説や注もふくめ読了した。1990年の春に一度読み終えている。わたしの法華経受容は、あまり進歩していないなあと思う。
仏教に限らず「経典」「聖典」にはいろいろ在る。
『般若心経』など一貫して「教え」そのもの。『マタイ傳』『マルコ傳』などはイエスの行跡とともにそのつどの「教え」がストレートに、また譬喩で伝えられている。
厖大な『旧約聖書』こそいろいろで、神秘的でもあればはなはだ現実的でもあり黙示的に不思議でもある。
『浄土三部経』には、幾らかの調子の差はあるけれど、説話的な要素に「教え」と受け取れる理念や示唆が相応に具体的にすら語られ説かれている。
『法華経』は二十八部に分かれて縷々多くをいろいろに物語ってくれる。此の法華経なる聖典が、一乗の、他の何にも優る経であることをつぶさに説いている。それに比して、その優れた「法華経」そのものの「教え」の本態を、どこでどの文句によって統一的につかみとるのがいいのか、それが難しい。難しいなあと思いつつ、読みおえてきた。わたしの姿勢に何かまちがいがあるのだろう。
* バグワンに関して久しく此処で触れないで来た。道教の根本経典の一つに基づいてバグワンが『黄金の華の秘密』を語ってくれるのが、これまでの語り口と異なっていて、それは翻訳に拠るのだろうが、老子とはまたすこしニュアンスの異なったやはり「道教」にわたしが戸惑うからである。
それでも夜前、聴いたバグワンの言葉は強かった。
世の中で出逢うあらゆる「機会」を忌避して逃げよとは、バグワンは云わない。「それよりもその機会を使いなさい」と云う。バグワンは山に隠れよ、ヒマラヤへ遁れよとは決して云わない、街なかに、市なかに在って生きよと云う。
「絶えざる混乱を使わなければいけない。おまえはその目撃者でいなければいけない。それを見守りなさい。どうすればそれに影響されないでいられるか、それを学びなさい」と。「自分がしていることを意識しつづけなさい」と。
「日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、ものごとに対してつねに打てば響くように対処する力をもつ」ように、「それが第一の奥義」だよと。
但し、「行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。傍観者にとどまりなさい。何であれ、必要なことなら打てば響くようにやりなさい。必要なことはすべて仕遂げつつ、しかも単なる「doer やりて」になってはいけない。それに巻き込まれてはいけない。それをやり、それを終わらせてしまいなさい──打てば響くように」と。
「主観を交えずに行動しなさい。状況に留意して、何であれ必要なことをするがいい。そのことで心配してはいけない。結果を苦慮してはいけない。必要なことをただ仕続け仕遂げ、油断なく目を見張り、泰然自若として遠く離れた自身の中心にとどまり、そこに根をおろすがいい」と。
* 願っていた、心がけていた、そのように集中して仕遂げてきた、しかもじつは拘泥していない、そういう「仕事」とわたしは今しも、懸命に向き合い、しかも芯のわたしはそれを、ただ傍観している。
ありがたい。バグワンが、ありがたい。
2009 10・23 97
* おそくまで本を読んでいた間に血糖値75まで低くなり、寝にくいので、起きてすこし口にものを入れて寝た。
荷風の『雪解』まずまずの佳編。ひとかどの商人だった男が、おちぶれて二階借りしている時分に、昔振り捨ててきた女房子供のうちの、娘と、はからずも湯やで出逢い、娘に労られるように酒を飲んで涙ぐんだりする風情がよく書けている。男の身で女から自然と顧みられなくなる侘びしさをしんみりと表現している。「此の世」を感じる。
次いで『濹東綺譚』を読み始めた。さすが、これは素晴らしい出だしで、快調な出逢い。荷風作品は、ご当人も云われるとおり背景の描写が人物を喰ってしまうぐらいだが、この作ではヒロインの登場があざやかに印象深い。運びが生き生きし、人も生きている。
2009 10・23 97
* 隣棟に行けば行くで、こちらにも書籍がたくさん在り、手に取り出すととめどなく誘惑されるが、かろうじて『総説・新約聖書』を持ち出してきた。かんたんな解説ではない、聖書研究の全般を研究書風にレビューした大冊で、『総説・旧約聖書』がなかったら、あの旧約聖書を読み切れなかったかも知れない、本格の手引きなのである。
「マタイ傳」「マルコ傳」と読み進んでいるので、はやく隣から持ってきたいと新約の『総説』を待ちかねていた。つまりそうそうは地続きの隣棟へも行けないほど、こっちで毎日やっさもっさしている。
狭くて話にならず、こっちの一部屋の荷物を隣へ移動させたいのだが、何年越し片づかない。片づけかけるとアレにもコレにも立ち止まって、読んだり調べたりするから全く進行しない。叱られてばかりいる。
実父、生母関連のとりあつめ得た文書や写真や資料がたくさん在る。これらに本格に手をかけはじめると、わたしは「老年の小説世界」におそらく首までつかるだろう。
数限りなく「仕事」があるなあと、気力もわくが、吐息も出る。お宝といえば、小説家にはずいぶんなお宝がまだわたしを待っていてくれる。ウーム。
* そんな中で「阿部鏡子さま」と上書きした薄い紙包みにこんな写真が入っていた。「阿部鏡」は生母が遺著に用いた筆名、しかし通称としても用いていたかどうか。
書物の粗末な写真版ではとても見切れなかったのが、この小さな写真でよく見える。ことに子供達の表情や風景が見える。しかし何処であるか、分からない。奈良県の中であるのはたしかで、大和郡山市あたりではないかと漠然と推測する。
母は、四十すぎてから大阪市内で保健婦養成校を卒業のあと、おもに奈良県内のあちこちで、ほとんど地を這うほどの意気込みで活動していたらしい。この写真で見ると、さ、どういう施設で働いていたか。
* 写真裏には「二十二の瞳よ幸あれ」「指切りして写す」「昭和三二、一二、」とある。遺著『わが旅 大和路のうた』には「噫々 二十二の瞳よ」と題した三頁にわたる一文と、歌二首が挙げてある。
二十二の瞳集まる わが里の 真上(まがみ)に晴るる 青き大空
右左わが肩に寄る 二十二の 瞳に見たる 神のまたたき
みんなと指切り合うた あの、風冷みたい午後 昭和三二、一二
しかし文も歌も後年、「奇禍」に遭い病牀に就いて以降の回想のようであるから、この写真が昭和三十二年の撮影とは限らないが溯っても数年ではあるまいか。幸か不幸か母の顔には蔭が落ちていても、幸い「二十二の瞳」ちゃんらの表情は、小学生か、なかなかハッキリしている。もっと拡大にも堪える。
文中に「小さいオルガンを頼りに」「日曜学校を開いて来た」とか、「かつて何の由縁も無かった此の寂しい村落に、侘しさも哀しみも忘れて微笑む私だった。」ともある。そして「西田中」の「子供等よ」とあるのが、わずかに「村落」を示す地名でもあるだろうか。
* 母の本のぼやけた写真版で観ながら、これは働いていた母を示す唯一の記念であるとともに、この子供達もわたしには懐かしかった。昭和三十年前後にこの年齢なら、まだこの「瞳」たちは達者に生活されているだろう、母の記憶がすこしでも生き延びているだろうかとわたしは永く想ってきた。そして、図らずもこのちいさな写真をもののなかから今日見付けた。
この家並み、この笑顔たち。手がかりが得られるだろうか。もう白髪をいただいていたらしい母は、自ら求めて福祉園や孤児院や僻地・僻村を選ぶようにして保健・養護活動をしていたという。この母に、わたしは「母として逢った」ことが一度も無いのだ。
2009 10・24 97
* 荷風の小説「濹東綺譚」は、なにやら懐かしい。あの雨の出逢いがよかった。
明日は雨らしいが。
2009 10・25 97
* 居酒屋で赤海老のさしみで酒と焼酎を呑んでから、山手線に乗ったつもりが京浜東北線だった。気が付いたら王子を越えていてヘキエキした。酔っていたのでも寝ていたのでもない。朝一番に貰っていた上野千鶴子さんの『男おひとりさん道』に読み耽っていたのである。
この本、憎らしいほど面白い。ただ面白がっているわけに行かないのが少なからず憎らしいが、良い本である。かなり参る。
2009 10・26 97
* それにしても上野千鶴子さんの『男おひとりさん道』は、「男たち必読」の書といわざるをえない。男と限らないが「おひとりさん」には ①死別おひとりさん ②離別おひとりさん ③非婚おひとりさん の三種があるが、どのケースでも現代では、男性の場合、悲惨度が女性よりぐんと高い。これに 介護を受ける 介護する の二つの状況も襲いかかる。孤独度や性の問題も深刻に来る。ウーン。
「元気に老い、自然に死ぬ」などと山折哲雄氏と放談していたが、上野さんに掛かればなーんにも分かってないと云われても、実はグーの音も出ない。降参。名著である。
悔しいのは、読めば、ではどうなる、なにができる、どう生きるとすぐに右から左へ覚悟の定まらないこと。子供の元気な間に、上手に揃って死んでやることを考えますか。現代の近松なら、お染久松や三勝半七や小春治兵衛などでなく、老夫婦または老男女の「新心中時代」を書き起こすだろう。みごとな主題である?! たしかに「おひとりさん」は、若い未婚者たちの問題以上に中年、壮年、老年、高齢者の意識と生活の革命をうながす問題であると、わたしは認知する?!。
2009 10・26 97
* 近藤富枝さんの新著『荷風と左団次』を戴いた。『濹東綺譚』に没入しているいまのわたしには、ピシャリと嵌ってくる関心事、感謝します。そして播磨の鳶さん、浩瀚とすらいえる『東京の橋』を贈ってきてくれた。いやもう、橋、橋、橋の集積、本そのものはやや過去の版だから隅田川と周辺にはその後架けられた橋がいくつもあろうが、それはそれ。この二冊とも、もう今日からの読書に加わってくる。
鳶さん、もう一冊、トーマス・マンの大冊『ブッデンブローグ家の人々』も贈ってきてくれました。
マンというと、辻邦生さんが感化された大きな一人と思う。辻さんの「大作」という行き方もその辺に淵源がある。
大作というと、いまじりじり読んでいるロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』も、べらぼうな大作。なんでこんなにくだくだ書くのだろうと思うほど、やたら緻密に長い表現と叙述だ。辻さんや加賀乙彦さん、競い合ったように、大作でなくてはといった書き方でたくさんの作をされてきたが、わたしは長いほどいいとは全面的にはしたがわない。小説の力学が「大作」という志向だけで満たされるかは疑問。小説の力学や美学を無視して長く長く書くのは、ある意味でラクなのである。ラクな道として大作になるのは賛成でない。
藤村の『夜明け前』は、あれは目いっぱいの長さとして必然の力をもち、読んでいて長いと感じず、もう頁の残り少なくなると惜しい気がするほど、佳い長さであった。大作ならいいといった描き方で大作になった作とはとても思われない。
マンの『魔の山』を読んだのは大学生の時で、わたしは乏しい小遣いで買ったのだが、長すぎるという印象がぬぐえず、上京するとき惜しまずに処分した。鳶さんの下さった『ブッデンブローグ家の人々』は『魔の山』ほど長くはないか。面白く読みたいもの。
2009 10・28 97
* 前立腺癌のための血液検査の結果を近くの病院で聴いてきた。全く問題なく「きれいなものです」と、あっさり。
待つ間に、荷風の『濹東綺譚』を感嘆・称讃の嬉しさで、読了。かけ値なく「名作」と呼べて、懐かしい。むろん誰しもに、たとえば作家である息子の秦建日子にもひとしく同じ讃嘆を求めることは出来ないだろう。候べく候の書簡があったり、風情の漢詩や新体詩が点綴されていたり、泥溝(どぶ)の臭いと蚊の雲集する玉ノ井の娼家・界隈といい、そもそも泥濘(ぬかるみ)をしらない今の若者にはあまりに風情がちがっている。しかし、娼妓お雪の像は生彩をえて美しく、作者に擬してもいい初老文士の境涯といい、時代を超えて生きている。
むかし谷崎の『吉野葛』を読み、こういう小説が書きたいと少年ながら憧れた。もしあの頃に荷風の『濹東綺譚』を読んでいたら、まちがいなく、こういう小説が書きたいと憧れたに相違ない。随筆のように入って作中に作が重なりながら、自在に風趣に乗じて述懐を惜しまない。むろんわたしは今でも、こういう風に書きたいし、書きたい材料をもっている。余儀ない雑事に煽られて殺風景にも日々を凝視して生きているのは、それはそれで大切だが、『濹東綺譚』や『吉野葛』のようにしみじみ夢に遊びたい気は些かも失せていない。
このところ荷風の花柳界ものを幾つも読んで、かならずしも共感しなかった。わずかに『すみだ川』『雪解』を懐かしみ、分けて『雨瀟瀟』に感嘆したけれど、『腕くらべ』『あぢさゐ』『つゆのあとさき』『ひかげの花』など藝者もの、女給・・街娼・私娼ものには美感も共感もそそられなかった。むしろ疎ましかった。
だが『濹東綺譚』は清く光っていた。山本富士子の演じたお雪の稀有の好演が眼にあったのも乗りを助けているが、あの映画で男をだれが演じていたかまったく思い出せず、すべて焦点はお雪に結ばれていた。荷風が初めて一葉『たけくらべ』の「みどり」に並んでいい女を発見したという嬉しさ。いま、わたしは感傷的なまでジンジンして読後の時空を楽しんでいる。男と女との出逢いも美しく、別れ方も胸を打って、よい。逢うのは或る意味で容易だが、別れるのは難しい。その機微を描いて間髪をいれない荷風の達意・達観に哀しいほど心を惹かれた。愛という、この際あまり似合わないかもしれぬ一語の価値を実感させて、憎い限り。
* 近藤富枝さんに戴いた『荷風と左団次』(河出書房新社)は、一面に近代前半の歌舞伎・新劇略史の趣もあり、懐かしい写真も親切に点綴して、独特の「富枝ぶし」で、ざっくり、あっさり、意外な情報も数あって、おもしろく読ませる。もはや二世左団次にわたしのいれこむことは叶わないが、荷風に関する伝記的な記憶の隙間をいろいろに埋めてもらえたのが、咀嚼のためにも有り難い。
近藤さんは、じつに近藤さんらしい、この人でなくてはという領分を丹念にとも大胆にともいうべくよく耕してこられた。文学史の内外の小径を繕うようにして歩きよく見よく通してこられた。感謝する。
数度、慌ただしくではあるが、会っている。著書のほかにも、色紙など、わたしが持っていた方が佳いと想われた貴重な文学がらみの品などを、ときどき突如として送ってきて下さる。多年の内にそうした品が何点も手近を飾っている。有り難い、ご縁というもの。
* 高木冨子さんに頂いた『東京の橋』からいの一番に「千住大橋」を読んだ。ま、隅田川最上流そして最古(永禄年間)の架橋と考えたく、一日も早く、これを渡ってきたいと思いながら、まだ果たせないでいる。
* たまたま手にした青磁社通信20号表紙がかかげた、伊藤一彦氏の「秋」七首に目をとめ、よろこんだ。最近、すぐれた現代短歌に触れた覚えが無かった。読まない、見ないからではない。わたしの手もとには驚くほど歌集も歌誌も送られてきて、じつにこまめに目を通していてそう云うのであるが、伊藤さんのこの七首、ここに挙げないけれど、身に染み「秋」を覚えた。稀有のことと特筆しておく。
* 今朝は、元京大教授、元京都博物館長の興膳宏さんから、新刊の『杜甫』(岩波書店)を戴いた。中国の古典関連、また漢字関連の御本をこれまでも何冊も戴き、みな読んできた。「戦禍にあえぐ庶民を見つめ、僻遠の地の李白を憶う」と帯の文にある。やはり巻中に多くの詩の読めるのが嬉しい。
2009 10・30 97
* 夜前も夜更けまで、読書三昧。いま読んでいるもの。
『今昔物語』は面白い世俗説話の連続で、一話一話堪能している。『新約聖書』は、今日から「ルカ傳」に入る。『ゲーテとの対話』第三部、ゲーテが雄弁に天才を語り創作行為に触れて語っている。フローベール『ボヴァリー夫人』は過酷に悲惨の予兆を描き続けている。ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』はじりじりと読むばかり。トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』は読み始めたばかり。永井荷風は戦後の小説、そして詩作・日記等へ進む。志賀直哉全集の小説第一巻、日記第一巻。臼井吉見『安曇野』第四部。
天野哲夫の大作『禁じられた青春』がもうほどなく読了。これは徹底した自伝であり、つまり濃厚ですはだかの私小説であり、しかも時代・歴史を描いて批評秀抜の一異色の傑作。おもしろかった、たいへん興味深い労作であった。敬服している。
近藤富枝『荷風と左団次』が折りに合って、興味深い。興膳宏『杜甫』さすがに引きこまれる。上野千鶴子『男おひとりさま道』は、いろいろに凄い! そして『東京の橋』は隅田川十三橋の「白髯橋」をおもしろく読んだ。
いま一冊、これには少し書いておきたいことがある。佐伯彰一『日本の「私」について』。
すこしも混乱しない。どの本はどこを読んでいると、覚えて楽しんでいる。
ちっとも本の数、減らない。十六冊に増えている。そうそう、昨日歌人の坂井修一さんから新評論集を頂いてもいる。昼間に、機械の傍などで読む本や雑誌は、また別のもの。
2009 10・31 97
* 佐伯さんは、いましも『日本の「私」について』のなかで、漱石の『こころ』に触れておられるが、一昔も二昔もむかしの本だからしようがないとはいえ、作の読みは大昔の通説をなぞっていて、いただけない。
この作品は「死」が圧倒的な強さで支配していると、死の数々を佐伯さんは数えている。「K」と「先生」とだけの小説と読む「小宮豊隆以来の読み」に従順に随っている。
「K」と「先生」を死なせたあとの、「静」に子が生まれているか生まれようとしていて、「私」との間に愛ないし夫婦愛が育っている「現在の重み」を、佐伯さんも読み落としておられる。それでは作品『こころ』が死を克服して新しい生の物語に進んで行く漱石本来の思いがまるで汲まれえない。
『こころ』の「私」は、死のではなく、死生のドラマの担い手であり推進力であり、ともに自死した「K」「先生」の、「静」「私」らの現世に托した「生きる希望」の意味がまるで読めていない。本文が丁寧に読まれていない。
この「先生」は、明治天皇の三人も五人もなくなったところで自死する動機は持っていない。「静」を「私」に托してもう大丈夫という思いが、「K」のもとへと「先生」を死なしめたのである。
小宮豊隆以来、佐伯さんもふくめて『こころ』は片端だけの観念で読まれてきた。本文を丁寧に読めば陥るはずのない大きな「事実」「現在」がちゃんと書き込まれてあるのに。それを読めば、この作品がただ「先生の遺書」だけで成っているのでなく、「先生と私」「両親と私」の全三章が有機的に関わり合って死の向こうへ生の物語を、あたかも幾何学証明の補助線のように延ばしていることに気づいたであろうに。
主題は死ではない、「静かな心」を自身の所有として保ちかねた「K」「先生」の死が、新しい命により鋭く批評され克服された「生」の物語なのである。
わたしの『漱石「心」の問題』(湖の本エッセイ17)や戯曲『こころ』(湖の本2)を、よく読んで欲しい。
2009 10・31 97
saku098
宗遠日乗
闇に言い置く 私語の刻
平成二十一年(2009)十一月一日より十一月末日まで。
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宗遠日乗 「九十七」
述懐 平成二十一年十一月
花籠に月を入れて 漏らさじこれを
曇らさじと もつが大事な 室町小歌
露寒や凛々しきことは美しき 富安風生
あの月を捉へようとした馬鹿者を
むねの痛みに抱きしめてやる 湖
東福寺・張即之
* 平成二十一年(2009)十一月一日 日
* 霜月。
* 今月のわたしの「述懐」歌は、どういう意味かと妻に聞かれた。「自分」のことだよと答えると、「分かった」と。
* よくは知らないが「捉月」は、太古来、人間の衝動として古今東西に在ったのではないか。猿でも、と、そのような画題の秀作を幾つか思い出せる。
「指月」もそうのようだが、わたしの子供の頃、そばにだれもいないとき、繰り返し懸命に背伸びまでして、じいっと月へ短い手を、指をさしのべたのをよく覚えている。満月にも弦月にも。時には、ひょいと縄をなげれば引っかけられそうに想った。
こんな掌説を書いたこともある。
春
若者は縄を投げるのが巧かった。縄を巧く投げたとて誰が褒めるわけでもなかった。若者はしょんぼり樹の下にうずくまった。腹も減っていた。夕闇が葉洩れに若者の上へ静かに落ちた。
春であった。
月影が淡く物憂くひろがって、遠い空はまだ薄紅の夕あかりであった。鳥が啼いて帰って行った。きれいな三日月であった。
腰の縄をまさぐりながら若者は夜空を見上げていた。人影が去り、杜かげが沈み、家々には灯がともった。裏山に風が鳴って木を揺すった。侘びしかった。帰るとても独りずまいの火のない藁屋だった。
若者は裏山へ上った。山は真暗だった。えいえいと声を出して上った。
峯の秀へよじのぼると、三日月がぐっと大きかった。樹々の梢が獣のように谷底に首をもたげていた。
若者は縄をつかみ、腰をひねって夜空へ飛ばした。
一筋の縄はひゅるるとうなりを生じ、高く高く星影を縫って発止と月を捉えた。三日月の輝く先端に食い入った縄を手繰りつつ、若者は力強く峯を蹴った。みごとな弧を描いて若者のからだは広大な空間に、一点の黒い影と化した。
三日月の真下に吊るされ、若者は縄一筋を頼みに宙を踏んでいた。
広い空。
しかし大地も広かった。若者は、見たことのない土地のすがたを月光を浴びながらはじめて知った。
壮烈に死のうと若者は思っていた。だが、暖かい春の夜空にぴたりと静止した今、何かしら香ぐわしくさえある宇宙のやすらぎに抗って、遥かの大地に我が身を叩き落とすのがふさわしからぬ事に思えた。
ままよと、若者は縄を揺すって上りはじめた。
烈しい渇きのような孤独が来ると、眼を閉じ、掌の感じだけを頼んで上りつづけた。聞こえるのは自分の息づかいばかりであった。高く高く、高く、もっと高くと若者は無二無三に上った。月は遠かった。
若者は幽かに縄の鳴るのを聞いた。
耳を澄ました。まぶしい月かげの中から確かに一つの影が縄づたいに近づいていた。滑るように影は奔ってきた。女だった。ひらひらと裾をひらいた女の姿は若者には一層まぶしかった。眉を寄せ、心もちはにかんで若者は縄の中途で女を待った。
月の世界とて退屈なものよと美しい女は物珍しげに若者の顔をのぞき見て言った、女は下界をゆかしく思うようであった。下まで行けはせぬと若者は眼をそむけて呟いた。
月の女とわかものは天と地の真中で縄によじれて顔を合わせた。何となくおかしく、また気の遠くなる世界の広さであった。
女は若者に戯れた。
若者は身をよじった。
ふくよかな肌が若者の顔や唇に触れた。二人は夢中で絡み合った。
月はいよいよ優しく照っていた。天涯にあまねく星の光が瞬き、地平遙かに春風はかすみとなってただよった。静かに、まどかに、縄一筋が銀色に光ってかすかに揺れた。天もなく、また地もなかった。
女と若者は抱き合ったままどちらからとなく心を協せてゆっくり、ゆっくり縄を揺すった。
ゆら、ゆらと、やがて次第に二人のからだは大きく、力強く、烈しく天地の間を火玉の如く奔りはじめた。二人だけの永遠が、風を切って確実に月光の中で時を刻みはじめた。
また、こんな掌説も書いたこともある。
遠い遠いあなた
逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。
あれから、もう千年経っているんですね。
昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。
わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。
いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵わたしは高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、遥かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ.:。
また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋がれてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。
牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされても、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかった。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のためにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。
だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごとにわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。
だが、上の述懐歌は、そんなロマンチックな渇望を謂うている気ではない。「月」にたぐえて何かしらを捉えたい掴みたい、あるいはたどり着きたいと願っていたのだろう、「いま・ここ」を離れて。遠く離れて。
顧みてそんな自分を「馬鹿者よ」とわらい、しかもかすかに痛んでいる胸に抱いてやるのである。未練と謂うほどのものは残っていないが、そういう「馬鹿者」でありえたことは認めて、そう、愛おしむ気持ちが全く無くはない。そういうことか。
* じつは、一昨日、昨日あたり気に掛けて思い出していた鎌倉の人から、卒業生から、短歌稿とメールとが、今朝送られてきた。作り続けているといいがと願っていたところへ。嬉しかった。「聞馨集」と題してあるこの人の歌集に、新作が加わった。よしよし。静かに拝見します。
☆ 秦先生 馨
すっかりご無沙汰しております。
HPはよく拝見しておりますので、なんとなくお会いしているような気がしておりますが、でもやはりミクシィにいらしていた頃より距
離があるような気がして、さみしくも。
私の方は7月末に仕事に戻りました。子どもが増えて、仕事にも家庭にも馬力が必要になっています。
年齢だけでなく、下の子たちを短い間隔で生んだというのも大きいのかもしれません。妊娠・育休、と二年間ずつ「走れない」状態が二回あると、ずいぶんと長いブランクです。
幸い、仕事の方はこんな私でも待っていてくれており、恵まれている、と思いながらも、「でも遠回りしたなぁ」とも思ってしまっている自分もいます。以前とは比べられないほどお財布から出ていきます。啄木になって手を見ちゃうわ、と主人につぶやいたりも。子どもはいつでも宝で、仕事やお金とは比較にならないものなのですが。でも、ありとあらゆる現実というものの重みが非常に密度を増してずっしりのしかかってきている年齢です。おそらく40代もこの重さは軽くなる気配もなく、ひたすらに増していくばかりとの予想が容易に立つのですが…。
そんな中で、一瞬の幸せを感じた時に「歌」という形にとどめておく方法をお示しいただいた先生に本当に感謝しています。
瞬時の幸福を記憶にとどめておくことすら忘れて、せっかくの幸せを浪費してしまうような余裕のなさの中、こういう形でなら日々の
中のやわらかな気持ちをいくばくかとどめておけるようになる気がしております。
ときどきに作っているだけですので一向にうまくならないのを感じつつも、また甘えてお送りしたいと思います。
お送りしようと思って読み返すと、どうやら私は子ども達の寝顔が好きなようです。寝ている子をよんだものが多いのに気づきました。
先生の日記の中で法律事務所からのメールをすぐには開ける気にはならず、と拝読したとき、あまりにもそのお気持ちが身につまされました。
一人の「島」を強く感じつつも、ともに立ってくれる人の貴重さをもまた強く強く感じるのが、私くらいの年齢なのかもしれません。
先生もお心を強くお持ちになって、奥様と人生の色彩を鮮やかにお過ごしくださいますよう。
冬に向かい体調を整えにくくなってきますが、どうぞどうぞご自愛くださいませ。
* 良夜かな赤子の寝息( )のごとく 富安風生 (漢字一字、入れたまへ。)
* 冷えてきたので、冬の嫌いなベンジャミンの大きな重い鉢を植木ごと部屋の中へ入れてやった。寒いあいだ、繁っている青葉をはらはらと落としつづける。すっかり葉が少なくなる頃、また温かくなっている。狭い部屋がいちだんと狭くなるが、翠の葉と一緒に暮らすのは寒い季節の、一風情。
* 十一月一日 つづき
* 西武池袋線全線事故運休に閉口し、あわや諦めかけたが、北口でタクシーに乗れたので東伏見駅から西武新宿線にのり、鈍行で高田馬場で乗り換え、千駄ヶ谷駅で開演に十分前。和服の女の人すらわたしを追い越して行く。あんなに早く歩けたのにナアと思いながら、それでも手洗いを済ませて、二分前に辛うじて汗みずくで招待席へ。
舞台真正面中央の九番席、「江口」のシテとは終始まっすぐ直面する絶好席、こんなよい席をもらえていたとはと、友枝会に感謝、感謝。しかも右となり二席があいていて、気持ちゆっくり、少しずつ汗をおさめた。
* 美しい能であった。白象にのり、白雲に乗じて江口の女、普賢菩薩の空に消えて行く橋がかりでは、感動に胸がつまった。くっと泣きそうだった。
観てきた「江口」の能のあれほどのすばらしさを、いま、わたしは文字や言葉におきかえるちからがない。書いてフイにしたくないのだ。前シテから後シテまで、とろりとも睡魔に襲われなかった。かけている遠用眼鏡が鈍くなっているので、ほとんどシテとの対面には双眼鏡をひたとあてて手放さなかった。いやがうえに、レンズ一枚隔てただけでシテとわたしとは個と個の直面になる。わたしが楽しむのは能ではない、この直面なのである、いつでも、どんな舞台でも。そこに待っていたのはもう「江口の女」でも「シテの昭世」でも「普賢菩薩」でもなく、純粋の「女」であった、わたしは茫然と女の美しさに吸い込まれていたのであり、能を観ていた、「江口」の能はかくしかじかなどと微塵思いもせず、ただただ美しい女に、女の顔にひたとレンズ越しに密接し恍惚としていた。邪道かしらん。いや、一切のリクツを排してシテに吸い込まれているあの醍醐味の深さが、邪道であるわけない。知識では観ない。わたしは無二の誠をもって舞台の女に、女の崇高で懐かしい美しい価値に帰依し信仰していたのだろうと想う。
* 舞台の感想はある。タクサンある、チミツにある、が、書きたくない、今は。
有り難いことに、最後の最後までほとんど迷惑な拍手がなかった。感動を抱いて身震いしたまま席をたった。冷え込んだ狂言、そして黒塚の女鬼の能を観る気はもう失せていた。この「江口」の女を抱いて帰れば、十二分。嬉しさを壊したくなかった。
廊下で、馬場あき子さんと出逢い、抱き合ってきた。珍しく洋服だった。嬉しいオマケがついたと、すっぱり他は思い棄てて国立能楽堂を出てきた。
* 今日に残してあった発送用意の作業は、留守に妻がみなして置いてくれた。ありがとサン。
* 天王寺屋、八十になる中村富十郎と十歳の子息鷹之資との『勧進帳』弁慶と義経の成ってゆく矢車会風景をつぶさにテレビで観せてもらった。濯鱗清流、みごとな無垢の意欲と精進に頭が下がった。富十郎はことに好きな役者であるが、老いた彼が幼い息子にそそぐ愛と祈願とを、飛沫くようにひしと感じる。これより前の時間に、権力政治のために醜悪な政局に明け暮れた永田町二十年前をやはりテレビで見聞きしていたが、何という穢い危うい日本の政党政治であったことかと、いまさらに憤激の遣りどころもなかった。今度の本のあとがきにわたしは、この八月三十日の衆議院選挙を、久しい「怨み」のすえにやっと手にした快挙だったと書いている。
* 潔いものごとばかりでこの世間は出来ていないと、重々承知しているが。
* 十一月二日 月
* なにを渇望しているのか、手が届きそうで消え失せる夢を、あけがた執拗に観ていた。京都だった、祇園会の人盛りだった、四条通だった。
* 近藤富枝さんの『荷風と左団次』にたくさん教えられた。感謝。筆致に悠々の余裕があり、推量にも断定にも描写にも自信のほどを見せる。小気味よい。
上野千鶴子さんの『男おひとりさん道』は、かなり辛い。怖い。上野さんの腕力が頸にまわって来て、締めてくる。目をつむって逃げ出す先がない。逃げなくて何が出来るかを、考えるのでなく手立てとして見付けなくちゃ。
2009 11・2 98
* 近藤富枝さんに、新鮮な荷風像・荷風批評とともに、二世市川左団次というみごとな歌舞伎役者・演劇人について教えていただいた。名だたる文藝評論家たちの荷風論をいくらも愛読してきたが、いま、近藤さんに伝えられた荷風批評とならべて、心服して良いのはやはり福田恆存さんの荷風だと思う。お二人とも、東京を肌身に染み分かった上で荷風を観ておられる。これには、勝てない。
2009 11・3 98
* わが家ではめずらしく、白ワインを晩にあけた。あっさりと旨く。余韻のまま、いま中村光夫昭和九年、わたしの生まれる一年前に書かれた『永井荷風』を読んでいる。
2009 11・3 989
☆ バグワンに聴く どこにもない國こそ、真のわが家である。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマテイルタは、最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた。彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の壁に誰の目にもわかる大きな文字で、「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書きつけていた。彼に会いにきたり訪ねてきた者はみな、まず「神はどこにもない」というこの文字をいやでも目にすることになる。あなたが 「神はある」 と言おうものなら、手ぐすねを引いて待っていた彼がただちに飛びかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだまだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、、子どもはそれを二つに分けてこう読んだ──「神はいま・ここにいる GOD IS NOW HERE」 NOWHEREは、NOWとHEREの二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったからだ。意味がまるで逆さになってしまう ……神は「いま・ここ」にいる。彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、はじめて何か神秘的なものを感じた。はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
そしてラーマティルタは、この友人が息を引き取るときには、彼の知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
「いま・ここ NOW HERE」と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。神が「いま・ここ」にいると分かると、「神はどこにもいないことも分かる。同じことだ。神があまねく存在しているのであれば、神は至るところにいると言っても、神はどこにもいないと言っても差はない。
何処にもない國とは、「いま・ここ」のことだ。「いま」が唯一の時間であり「ここ」が唯一の空間・場所だ。「いま・ここ」で神を見出すことが出来なければ、どこへ行っても神を見付けることなど出来ない。
☆ 「人間の本性には、不思議な力があるものだ」とゲーテは云うている。「われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ」と。
☆ 「わたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない」とは伊澤蘭軒に拠って森鴎外の放った警醒の弁。数を頼んで常識だの良識だのを無意味な怯懦の隠れ蓑に使う人のいかに多いか。
☆ 「曾てわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田(=慶應義塾)に教鞭を把った事もあつたが、早く辞して去つたのは幸であつた。わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門(=早稲田)に負けないやうに尽力していたゞきたいと言はれて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあつた。彼等は文学藝術を以て野球と同一に視てゐたのであつた。
わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯となして排(しりぞ)けてゐる。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは藝林に遊ぶものゝ往々社を結び党を立てゝ、己に与(くみ)するを揚げ与(くみ)せざるを抑へやうとするものを見て、之を怯となし、陋となすのである。」
永井荷風は、斯く言い放つ。
* まだ九時過ぎだが、コントロールが利かないほど眠い。寝よう。
2009 11・4 98
* 中村光夫『蒲團と浮雲』は戦後すぐに書かれていた論文であった。スキャンしてみた。
そのまえに昭和九年に書かれていた『永井荷風』論を読んだ。『ひかげの花』を肉化された達成として認められていた。『腕くらべ』からいく山も越えて『つゆのあとさき』を経ての『ひかげの花』は、たしかに。だがあとへ『濹東綺譚』が来る。
中村先生は、田山花袋を戦後時点で完全に忘れられた湮滅作家と読まれているが、わたしなどは、花袋をけっこう読ませてくれる命のある作家と見てきた。『田舎教師』や『時は過ぎゆく』や『百夜』などが惹きつけたし、そもそも『蒲團』もそうバカにしたものでない面白さを認めていた。
2009 11・5 98
* 昨夜から、秦建日子の河出書房新刊『殺してもいい命 女刑事雪平夏見』を読み始めた。好調に滑り出していて、これまでこの系列三作の中でいちばん入りやすい。独特の文体をもっているのがいい。文章は簡潔で表現に富み、いいかげんな説明に堕していない。物書きとして練達の味が出てきている。あまく走った文章に流れなければ、強い書き手になるだろう。続きを読んで行くのが楽しみで、機械の前をそろそろ離れようと。まだ九時だけれど。
2009 11・5 98
* 一通り十五六冊をよんだあと、睡魔をおしのけ建日子の新刊を半ば以上面白く読み進めた。大事な感想・批評も首をもたげているが、読み終えてからがいい。雪平夏見という女刑事の造形はたしかで、面白い。どうしてもドラマ化での主役篠原涼子の顔が浮かんでくる。篠原は、この役をやってはじけて美貌に個性味とゆたかな照りが添った女優、むかしからわたしに、おおおと想わせる意外性をもった女優だった。彼女の顔が浮かんでくるのはこの読物のためには大きなトクだろう。
2009 11・6 98
* 夜前、息子の、秦建日子の『殺してもいい命』を読み終えた。読み終えて、これがわたしのいわゆる「読み物」の域から「文学」の域に半身を入れた、これまでの建日子小説の中でいちばん優れた一つになっていると理会した。
半ば近く読み進んで感じていた不満を先ず書いておく。
題名にも「殺」すという言葉があり、人が人を殺すというのは謂うまでもない容易ならぬ動機、苦悩や憤激や怨嗟や絶望があるもので、読者は、殺人小説に堪らない思いとともにドスーンとした人生の重みを覚える。松本清張の優れた作の幾つかなど、そういうふうに印象に残っている。ただの「読み物」を超えた人間の苦渋や人の世のきつさ、きたなさを思い知らせ「文学」の域に入ってくる。この秦建日子の新作にはそれが感じ取れない、殺人がただ「読み物」作りの必要だけで用意され消費され濫費されている。感動や感銘とは無関係にストーリイが紡がれて行くだけではないか。その限りにおいては簡潔な文体で、意外性も伏線らしきもきちんと用意して巧みに物語られているんだが…と。
さて、読み終えて。上の印象をくつがえす作ではなかったけれど、清張型のリアリズムとは別質の「人間」把握、いうならば底知れない人間のもつ気味悪さ、論証によって明らかにされるような人間のリアルを無視したシュールな不気味さ、いや気味の悪さ、を持ち出している。日本の推理小説が、清張型の社会性や時に政治性を衝くことでリアリティをもとめたのとは、意識してか無意識にか、この『殺してもいい命』は不合理と不条理との「人のこわさ」「人の気味わるさ」を主題化して表現したといえる。ヒロインが犯人と向き合って銃弾を放つことをせずに、犯人の恣まな銃撃に斃れるのも、いわばヒロイン自身が身に抱いた気味の悪さを自ら撃ったにひとしい。そこまでたどり着いて、はじめてヒロインをはじめ殺された者、殺した者たちの過去や人生が、かすかに何かを証するように微動する。そのまま小説は一段落している。
自然派の、あるいは社会派の謂っていいが、要するに自然主義文学がハバをきかせていたとき、青年谷崎は、人間の人間であるが故の気味の悪さを美しくひっさげて文壇に現れた。荷風は、谷崎が「都会的な人間の神秘」を書いて新しいと指摘した。そんな話を此処へ持ち出すのは明らかにものの言い過ぎである。が、秦建日子の新作をあげつらうのに、便利ではあるなと感じたので言っておく。荷風は潤一郎を絶賛した。わたしは、称讃というよりまだずっと手前で、たんに「指摘」するにとどめる。俗には俗の質感があり、作者はそれをすらぬぐい取るように文章の上で洗いとっている、と感じられるが過度に俗のよごれをおそれなくてもよい。やりすぎると綺麗なつくりものになってしまう。
ともあれ、読み終えて父に「おもしろかった」と素直に頷かせたことは、建日子自身の文学上の意識や自覚とは関係がないだろう。肉親にだけ分かるいろんなメッセージが発信されているのも感じるが、それはそれ、それだけのこと。彼には彼の手探りが続くであろう、そうでなければならぬ。
2009 11・7 98
* 天野哲夫著の上下に大冊『禁じられた青春』を読み通した。稀有の力作。自伝であり、徹した私小説。徹し方が、凄い。時代と権勢とに対する批評も、批評のためのデータの集積も運用も、凄い。これは最高に近い称讃である。自身異色の性質・行為もすべてあからさまに叙述されている。この著者こそ、あの沼正三『家畜人ヤプー』の「実」作者。わたしはそう思っている。
天野さんに頂戴したとき、この大冊、わたしに読めるだろうかと少し惑った。べつに戴いた沼正三名義のエッセイ集へ先にとりついた。だが、天野さんのこれもやはり読まずにおれなかった。
秦さんのような作家が自分に関心を寄せて下さるとはと、天野・沼氏は手紙でおどろきを表明されていたが、これは「ご挨拶」であり、わたしが『家畜人ヤプー』を書評したのは昭和四十四、五年で、最も早い時期の書評者であり、沼さんがその書評をとても喜ばれたことを聞いているし、その後の多くの刊本を、マンガにいたるまで皆貰っている。会ったことこそないが、付き合いは久しい。
わたしは沼正三の才能をこそ「天才」と感じてきた、かれのマゾヒズムとはわたしは遙かに遠く在るけれども。
* 天野自伝、読んでよかった。たくさん教えられたし、時代の回顧は手厳しくも懐かしい感慨を呼び起こした。歴史の批評はかくこそ在らねばウソと感じた。亡くなるまぎわまで、とにかくも著書の交換のありつづけたご縁を嬉しく思っている。
2009 11・8 98
* 古典の笠間書院から新刊『わが身にたどる姫君』上をもらった。嬉しい。
2009 11・13 98
* 志賀直哉は、批評家など要らないと言って騒がれ嗤われすらした文豪だが、ご当人は意外に思われるほど「批評」豊かな人で、文学以前にも、油絵や浮世絵など絵画や彫刻などの美術、娘義太夫、歌舞伎等への批評は、二十歳過ぎの頃から詳細なものがあった。相当な語学力で海外文学を多数原書で手に入れて次々読破している。むろん文学ことに小説への批評は、さりげない中に的を射て厳しかったり深かったりする。要点のとらえどころが適切で、必ずしも自身の好き嫌いだけで押し切っていない。
明治四十三年八月、「白樺」第一巻第五号に直哉は相当量の「新作短編小説批評」を担当していたが、有名無名の書き手の数々の作品を右から左へ遠慮無く寸評しているのが、とても興深い。
「どうか小説になってくれるな」と思ひ思ひ読む内に段々と小説になつて了った。 など、機微をとらえている。
自分は気持の悪い小説も厭ではないが何の意味でもレディームするものなしに気持の悪い題材を取扱はれるのは閉口である。 と言っている。この redeem に、当時内村鑑三に心酔していた直哉の傾向が反映しているのだろう。
題材から云つても書き方から云つても気持のいい小説である。 別に仕組と云ふやうなものもなく、しかもまとまりのある小説である。 にも直哉の感性が届いている。 全体にスラスラ楽に書けてゐるのが──いいとも悪いとも云へよう。 なども高等で精微な批評に属している。
もっと引いておきたい気はやまやまだが、ともあれ、この調子で「評語」を拾って行けば、明瞭に直截に志賀直哉の「批評」がたっぷり興味深く読み取れる。教えられる。
* 佐伯彰一さんの『日本の「私」を索めて』を読んでいて、芥川龍之介「西洋」「西欧的な知性」が、どうも信じるに足りない、浅はかな程度でしかないという指摘に頷いた。同感である。
「西欧派としての芥川といった通用のイメージには、眉に唾してのぞまねばならぬ。 なるほど西洋好き、西洋風なお化粧好きではあったが、果してどこまで深く西欧が彼芥川の内側に入りこんでいたかは疑わしい。西欧的主知主義者などというわが國の通用レッテルには、よほどの用心が肝要 芥川の精神の深部において、西欧との真の触れ合い、衝突が生じていたとは、どうにも思われない。」「むしろ感受性の人、多分に伝統的な感受性の作家たるところに、芥川の本領は存したのではないか。」
まったく佐伯氏の見解に、わたしは同感。まえまえから、そうとしかわたしには思われなかった。
2009 11・15 98
* 荷風の『葛飾土産』が懐かしかった。いい文章。
2009 11・18 98
* 歯医者通いを鬱陶しい一に数える人が多いが、何十年も通い続けていると、場合により散髪よりあっさりと気持ちがいい。
季の歩みはやく、何処の家の庭先も垣根や塀の中も秋過ぎての風情閑散、薄澄んだ空の青を日の光が静かに流れていた。
「リヨン」で昼食、マスターがボジョレーヌーボーをご馳走してくれた。前菜の生ハムも小蕪の泡立てスープも主菜の海老も美味しかった。
保谷へ戻って、めずらしく本屋に入り、なんと古典の中の古典、プラトンの『国家』上下巻を買ってドキドキ。この年になってプラトンを読むかなあと。チラと見て訳がとても読みやすかったので、ためらわず手に入れた。これって、存外元気なのかなあ。
2009 11・21 98
* 湯槽の中で、『国家』をおもしろく読み始めた。これまで聞きかじりであったのが、翻訳とはいえ原典で読み進められる。気持ちは少し昂揚する。権田萬治さんに頂いた『松本清張論』、河野仁昭さんに頂いた『大正期の京都の文学』、興膳宏さんに頂いた『杜甫』、そして今日も、わたしと同世代ペンの女性会員から自伝風に子供の頃を書かれた単行本を頂いた。みんないっしょに同時に読み進めて行く。減らすどころか就寝前に決まって読む本がいまは二十冊にちかく、枕元に四つの山をつくっている。いまや佳境に入って興味津々なのは『新約聖書』と『総説新約聖書』『ボヴァリー夫人』『ジャン・クリストフ』『今昔物語』『志賀直哉全集』の小説巻・日記巻、荷風の『西遊日誌抄』臼井吉見『安曇野』の第四巻など。ちょっと題をいいたくないきわどい本もひそかに耽読している。みんな、面白い。新しい本もみんなおもしろい。そして言うまでもない、『バクワン』がある。
2009 11・21 98
* プラトンの『国家』 クスクス笑い出したりするほど面白い。ソクラテスを人の囲んだ場所に、自分も聴き手として輪に加わっている気がする。そんな臨場感で、いま「正しい」「正しさ」についての俗論がソクラテスの弁論で翻弄されている。
* ゲーテの謂う「穏和な自由主義」の意味も、彼の生活と立場と広い視野に即して聴いていると、彼のためにも人のためにもモットモだと思われる。
* 『安曇野』を読んでいて、芯を通しているのが中村屋の相馬愛蔵、良(黒光)夫妻なのはこの六千五百枚の大作の大前提だが、ほかに魅力たっぷり大筋に伴走し継走してくれる人物達が、おおげさに謂うと無数にあらわれる。なかでも、荻原守衛、田中正造、木下尚江、石川三四郎は四天王に思われる。人間の魅力の点ではことに惜しみてあまりある守衛、仙骨の活動者として一貫大逝の正造、純真のアナーキスト三四郎に惹かれる。
尚江はいろんな意味で好個の「呼び出し役」をとことん努めて社会主義をどこかへ突き抜いた詩人として生涯を閉じた。
この作品は、社会主義の側から日本の近代史を市民感覚と知性とで徹底照射した歴史文学。純熟した文学作品とはいいにくいが、そのかわり近代史としての証言や批評としては網羅的に「日本」を論じて遺憾無い。この大作に名前を出してくる厖大な群像の一人一人に何等かの記憶をもつだけでも、ものすごいまで勉強が可能。わたしのような老人でなく、若い読者を得たいもの。
2009 11・21 98
* 天気はよし、せっかく横浜へ来たのだしと思えども、地理を知らない。偶然、海上の乗り合いバスのあるのを見付け、山下公園まで船で往復してきた。公園前のニューグランドホテルのレストランで遅めの昼食。ワイン。また横浜駅へシー・バスで戻って、東海道線で品川・池袋経由、帰宅。六時半。温かい一日だった。乗り物では、権田さんに戴いた『松本清張論』に読み耽っていた。
2009 11・23 98
* 角川文庫版は「注解」がていねいで、学問的には追究が出来ていてずいぶん勉強しましたが、日本語訳は時に、珍に過ぎました。「千夜一夜物語」では、なにかというと人が朗々と謡います、その歌の詞が破天荒に面白いのだけれど、日本語の詩にした翻訳は珍妙で奇天烈でした。それでも二十数冊読み終えたときは、宝物を、両腕に抱えるほどざくざく預けられたような喜びがありました。アラビアの人たちの、ヨーロッパ人とは別質のあかるさと人の好さと恐ろしさとを感じ取りました。
プラトンの「国家」は翻訳が上手で、頭を使うだけでソクラテスの弁論術に引き込まれます。
せっかくだから、それほど面白くはないけれども、『もらひ子』を読んで置いて下さい。「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」での「校正」体験でよく分かっているのですが、ちくいち「校正」しながら読んで行くと、文章文体の弱みや強みがよく読み取れ、ただ読み流して行くより興味深かった。できたら、「e-文藝館=湖(umi)」からダウンロードして、そんな風に「校正」しておいてくれると安心です。気が付いたことは、忘れぬうちにメモしておくと、なにかにつけ便利。ただし紙切れメモは無意味。機械の中へ積み上げメモにしておくと使い道がつきます。
いま人に貰った『松本清張論』を読んでいます。たくさん読んでいるという相手ではないのですが、菊池寛から入っていった、特異なザラツキの文学質に、余人の冒し得ないものがあると思う。現代物の推理小説に優れたものがある。歴史小説と時代読物の差異がアイマイかなあ、とも。清張は、明瞭に私小説嫌いです。 風
2009 11・24 98
* 診察は簡単にものの数分。四ヶ月先に視野検査と。
二時五分には解放され、銀座松屋でおそい昼食。有楽町線の清瀬行きにうまく乗れて、帰ってきた。電車では、志賀直哉全集の創作第二巻を読んでいた。
短編ながら、やはり『母の死と新しい母』を名作と思う。行文生き生きと、間然するところがない。芥川龍之介に問われて漱石先生、「おれもあんなふうには書けないよ」と言われた感嘆が分かる。
2009 11・25 98