* 松本清張の『小説日本藝譚』を読み終えた。「後記」にあるように、この企画が如何に書き手を苦渋させたかはよく分かる。そのわりにこの「藝術新潮」に連載の各編は作者のいい意味での「我」が貫かれて藝術家論をなしており、攻撃的に読めば、恰好の「小説家・人間」松本清張論を成しうるだろう。わたしが若ければそれへ挑戦して松本清張をハダカに出来ただろうと思う。
跋文めく止利仏師はともかく、運慶・世阿弥・雪舟・利休・古田織部、岩佐又兵衛、小堀遠州・光悦・写楽の九人にはそれぞれにわたしはわたしの映像が読む前にあった。清張は、その大方に異論( 彼の方がわたしより年長で、 制作も早いが、) を唱えている。わたしはその異論に不服ではない、興味有る異論だと読んだ。中では光悦への異論に目を留めた。わたしには昔から、 光悦と宗達との同一人説への執着があり、その証明が可能だと、清張の光悦論は微妙になってくる。その宗達に対しての光悦非難は、 一つ視点を変えると二人の同一人説にむしろ適切に符合してくるからだ。
なににしても、清張は、かなり粘っているが、写楽では筆力が急に落ちて締まらなくなった。
2011 1/4 112
* 潤一郎の『蓼喰ふ蟲』は、さすがの筆で悠揚迫らずしかも未曾有のといいたいむずかしい人間関係と環境とを、藝術的に彫琢してゆく。豊かな耽溺の美しさ。『痴人の愛』に相次いでこの名品が産まれてくる谷崎世界の潤沢さ。
2011 1・5 112
* 直哉が、相当長篇の『稲村雑談』で広津和郎らを聞き手に面白いことを言うていて、ああ同じ事を感じてきたなと思い当たるところがあった。
直哉は京都や奈良で暮らしてから、「美術になる一つ前の美しさを楽しむ事を覚えた」というのだ、「美術品でも何でもなく、その一つ手前のものだが、その美しさに気がつくと、 殆ど美術品同様にそれを楽しむ事が出来る事を大変面白く思つてゐる」と。直哉は、坂本繁二郎が空気に溶け入りそうに砥石二つだけを描いていたのから、こういう発見に至ったらしい。「茶の方の井戸茶碗とか、古伊賀の花生とか、古備前のあるものなど、その美が発見された時に、或ひは発見した人にだけ美術品であつて、さうでない者にとつては、きたない物と云つていいやうなものだ。」「( 坂本の) 砥石と同様、美術の一つ手前のもので、これを最初に発見した昔の茶人は坂本君同様、美に対し進んだ感覚を持つてゐたわけだ。」
直哉は砥石の或る美しさに気付いてしまうと、 所望して砥石を譲り受けて書斎に置いている。武者小路が「石」を愛したのもそれに類するだろう、わたしもなにげない物が美しく見えて見えて心を囚われたという覚えを何度も持っている。これは何かだと思っていたが直哉に美味く説明してもらえた。「かういふ美しさも、一度示されると、難解な美ではなく、 誰にでも案外分りいい美であつて、教えられてからさういふものが分るといつて得意がる程のものではないと思ふ」と云う。直哉の親友柳宗悦の「民藝美」などもそういう美だ。
直哉には、当初は計り知れなかったほど、美や美術のことで教えられたり気が合ったりする。
* 谷崎は美術品や美について語ることはむしろ少ないが、たとえば今読んでいる『蓼喰ふ蟲』での妻実佐子の着物や着こなしなどの表現は実に濃やかに美しい。こういう趣味のよさが、文学の味としてかすれて乾上がってきている。三島由紀夫でも、そういうことになると造花のようにカサカサしていた。
2011 1・6 112
* 今日の幸福感。ヘミングウエイの『誰がために鐘は鳴る』を読んでゆくうちに、読書の嬉しさをふくふくと感じたこと。大久保康雄の訳のよさに引き寄せられ、好きなゲーリー・クーパーとイングリット・バーグマンとを思い浮かべ浮かべ、作中にすっかり入り込めていた。ふかく癒されていた。佳い作の豊かな「作品」を浴びる幸せは計り知れぬ。
「 mixi」 の方にも、手当たり次第、十余年もむかしの豊富な読書録を積み上げてみた。思えば去年は「 mixi」 に厖大にそういう過去の記事をアトランダムに再録しつづけてきたが、とくべつ「コメント」が書き込まれるわけでないのに「足あと」は急角度に増えて行く。冷やかしにきてやや手強くて辟易させてもいただろうが、わたしとしては、心こめて選り抜いているつもり。湖の本の二、三冊にもなる量ではないかしらん。
2011 1・7 112
* 六時に黒いマゴに起こされたあと、枕元の書架の本を読み始めた。
* 門玲子さんの新版『江馬細香』を読み上げた。何度も何度も賞嘆の声を発しながら読み進め、「名著」たるを讃えてきた。読了して思いはいや増している。ここに一人の優れた日本女性の生涯が、 過不足無く美しくも充実して書き取られている。終章の「終焉」もしみじみと閑かに美しい。
ヘンな譬えかもしれないが、野上弥生子ほど多年の作家が晩年にここへ、このような閑かに行き届いた筆致へ辿り着いたとならば分かる。門玲子は、文筆にほぼ無縁であった一主婦の身で、たまたま江馬細香に深い興味と敬愛をもち、そこから勉強をはじめた人だ。その数年の成果で処女作がこれだ、もとより瑕疵なきを得ていないが、想像力は優しく全編にゆきわたって、気稟の清質最も尊ぶべく、表現に、くさいけばけばしさ微塵もない。落ち着いて、閑かに閑かに叙されてゆく。観念的に逸ることがない。気高いほどの詩画人江馬細香の資質が、作者の筆に乗り移ったかと想う。「作品」汪溢して、女性の書き手に往々ある無用の昂ぶりが無い。それだけでもどんなに気持ちの洗われることか。
未知の世界に触れて嬉しい読書を楽しませて戴いた。門さんはいまや近世女流文学史研究を牽引する開拓者として地位を確立されている。
* バグワンに例により頭を垂れた。
わたしの気持ちは今落ち着いてはいないが、今朝のバグワンには立ち止まり聴かずにおれない。端的にバグワンは云う、われわれは何処に閉じこめられているのでもない、われわれのいる部屋(人生)に「錠などかかっていない。ドアは開いている。だが、おまえは錠を開ける方法や手段ばかりをしきりに考えている。ところがおまえの前に錠などかかっていないのだ。あくせくした思索をやめない限りおまえは真相に気付かない。感謝して引用を許して戴く。
☆ バグワンは云う。
人は束縛されていない。そう思っているだけだ。そう思うから現に束縛されているのだ。ブッタ゜とおまえの間に違いはない。しかしおまえは有ると思い込んでいる。そうなったら、 違いはある。
おまえは、自分の監獄、自分の錠を、自分でつくりだす。そうしておいて、そこから脱けだす方法を必死に考えている。
行くべきところはなく、為すべきこともない。おまえはすでにそこにいる。おまえはすでにそれだ。ちょっと目を開けるだけでいい。解答の出る可能性はない。そもそも、当の問題が存在しないからだ。
人は皆さまざまな哲学にひっかかっている。おまえは他ならぬ自分の答えにひっかかっている。だが哲学は不要だ。生は生それ自体で充分だ。それは推敲を必要としない。それは説明を必要としない。それは分析を必要ととしない。
もしおまえが分析ゲームの一部に成ってしまったら、それは延々と続く。問題はけっして解かれないがゆえに、解かれる問題などないがゆえに、おまえは答えを際限なく虚しく求め続けねばならなくなる。
わたしはおまえを大地に連れ戻す。わたしは言う。まず、錠がかけてあるかどうかを、扉に錠がついているかどうかを見るがいい、と。
錠などない。扉は開いている。誰がそれに錠などかける?
2011 1ー8 112
* 浦島太郎の研究がこんなに面白いとは驚嘆ものだ。浦島も浦島だが、 一つ事の継続、 連続の「研究」という行為がこんなにも興味深いかと、そのことに感嘆する。 愉快だ。
この林晃平さん五百頁の大冊の最初の章は「浦島太郎誕生以前」とあり、我々は浦島太郎としか頭にないが、日本書記や風土記や万葉集など古伝承では「浦島子」「水江の浦島子」とあり「浦島太郎」ではない。それがいつからか「浦島太郎」になるについては相当な伝承の変遷や書承の堆積がある。次の章はだから「浦島太郎誕生の周辺」となり、多くの各時代の歌学書が詳細に検索されながら、驚くばかり諸問題が追及されて行く。そのなかでも、故郷への帰心に駆られる浦島を懸命に引き留めようと乙姫が見せる四季の庭園のもつ含意が深くて広い。そして当然にも言葉でだけでない、数々の繪、 挿絵が登場して研究の行方を更に面白くする。
浦島と聞けばわれわれはお伽噺と思うが、 その通りに中世末からのお伽草子の多彩なバラエティと本文変化のなかで、 浦島のお話がどれほどに普及しつつ多くの意味づけ、たとえば亀の報恩や玉手箱の意味や、たちまちに老衰し死にさえした浦島が、どう仏教や神道と関わって行くか等々が詳細に探索されて行くが、まだまだ大冊の半分にも至らない。
今日わたしは第四章「浦島乗亀譚の成立」を読み進めて、やっとあの毛の生えた「簑亀の登場」をめぐる面白い追及に目を瞠り続けていた。いよいよ「浦島乗亀譚の成立」に入って行くわけだ、純然のしかも実証の精微な研究であるのに、それゆえに浦島の話の何十倍も興味深くて、重い本なのに手にするとつい読み耽る。林さんには御苦労が山のようだったはず、こんなに楽しませてもらっていて申し訳ないほどである。頁数をみると二百六頁。まだよほど読み込める。
* さて、湯に漬かり今度は『誰がために鐘は鳴る』で、ジョーダン、マリア、そしてパヴロの女房ピラールらと会ってくる。
* ヘミングウエイの作はスペインの反ファシスト戦線を書いていて、いま共和主義者達のファシスト公開処刑体験をバブロの女房ピラールが詳細を究めてジョーダンとマリアとに話して聴かせていた。公開の処刑場面はモンテクリスト伯以来何度か読んできた中でも、『誰がために鐘は鳴る』では断然優れている。直哉に読ませていたら、目に見えるように書けている、トルストイのようだと称讃しただろう。作品豊かで読みやすく、ヘミングウエイでは一二に好き。『日はまた昇る』とどうだろうか。三度目ほどの読みだけれど、上巻が半分足らず、まだまだ楽しめる。
2011 1・9 112
* 機械の前で、届いていた「三田文学」の大久保房男さんの連載を読んだ。戦前の文士と戦後の文士の七回目で、題して「純文学と大衆文学」。わたし自身は戦前作家をほとんど知らないが、 作はむしろ圧倒的に戦前作家を読んできたし、決然としてわたしは純文学の徒と覚悟してきた、大久保さんの言われることは在来も繰り返し読るみ、それは久しく自分が思い考え悟ってきたことを大方追認して頂いたと思っている。それほどに、意外なことは大久保さん、少しも云われていない。
* その純文学の神様が、志賀直哉であったことを拒める人はいなかった。わたしは谷崎愛を看板に掛けたほどの文士であったし今もそうだけれど、いかに志賀直哉に深い尊敬を惜しまないかは、この日録の私語が明かしている。十余年前に直哉の岩波版全集を買い揃え読み通したのがわたしの上の確信を確証した。その上に阿川弘之さんの浩瀚な『志賀直哉』を愛読したのも大きかった。有り難かった。そして全集を今日只今も日々に愛読しているのだ。美しい全集を、惜しみなく朱筆で汚してしまっているが、愛読の証しと許されたい。
* ちょうど書簡集は戦時下の空襲、敗戦、敗戦後に達していて、創作やエッセイの方も戦後に来ている。戦後の直哉でおもしろいのは、歯に衣着せぬ率直なエッセイや提言・批評の類で、 この手の文章は谷崎潤一郎では捜しても見付からない。直哉は一作家である上に社会の知的上層にいて、時局を観る意欲も便宜も持っていた。そこから、当時の文壇人や読書子をおどろかせ時に戸惑い以上の顰蹙をすら招いていたのだが、戦後もこれだけ歳を経てきて顧みると、直哉の意見の多くが、先見性も持ち合わせて十分刺激的であり先見にも富んでいる。こういうことを誰がほかに言ったろうと思わず手を拍つのである。
直哉曰く「私は街の子供達を教育し、善導するのに紙芝居を、もつと利用したらどういふものかと考へてゐる」と昭和二十三年に書いている。テレビ以前の発言だが、直哉は政治や社会が押しつける「成心」ある教訓の悪弊を子供達のためにおそれていた。「成心」とは押しつける下心の意味である。国策の前にね小国民に位置づけられて戦陣に散った青年達の社会的・ 国民的喪失を直哉は本気で憂えていた。「紙芝居」という発想に失笑する向きはあろうが、いい線を衝いているとわたしは思う。直哉は「テレビ悪」の蔓延と浸透前になくなった。
* 直哉は「狂信」を憎んだ。「こんな事の為めに、人間がどの位不幸になつてゐるか、分らない」と。
「理屈」の多いのも嫌った。「文学について信心はあるが、」理論で書いてはいない。「仮に理屈通りのものが出来たって、それそのまま藝術品になるというわけには行かない」と本質をついて揺るがない。この藝術品とはもわたしの謂う「作品のある作品」を意味しているのは明瞭だ。
昭和二十四年の中央公論に鶴見俊輔さんに乞われて答えている「わが生活信条」は集約的に興味深く、出来れば全部紹介したいほどだ、自分のためにも追々反芻させてもらうが、わたしがことに感服するのは、この頃に直哉が決然、科学の行き過ぎた進歩に疑問を投じ、科学の無際限な進歩発展は人類を年々に腐らせ、破滅させて行く恐れ多しと喝破していることだ。
これについては改めて書こう。
2011 1・10 112
* 寝床から手を出すだけで書架の本がすいと抜き取れる。大きな地震が来れば、わたしはひとたまりもなく本と本棚に潰される。怖いと思うが、或る意味わたしには理想のさまなんです、好きなだけ本に手が出せる。無意識に子供の頃から願っていた環境です。「一瞬の好機」が手近に在りそうだ。ほんとに一瞬だといいんだが。チェーホフ全集十六巻も、寝た頭の上へ運び入れた。
健康で、怪我や事故に遭いさえしなければ、天変地異がなければ、夫婦二人はいまぶん呑気にして暮らせる。道楽もしないで仕事だけを続けてきた、その報酬を得ているだけのこと。これも子供の頃に或る程度企図し、思い描いていた。人生のある段階からは誰にも使役されないで、好きなように生きたいと。
思えば七十五年のうち、道草の東工大教授四年半は別にすれば、わたしが会社勤めで給料をもらい使われていたのは、十五年に過ぎない。ま、「作家」という商売も、出版社の「非常勤雇い」今で謂う「ハケン」にすぎない過酷な境涯であるが、幸いその境涯からも十五年ほどで脱却し、以来ほぼ思うままの作家生活を自由にして来れた。出版社に百冊以上も市販本を出して貰い、別にもう四半世紀、百冊を越して「湖の本」を思うまま自力で出版し続けている。湖の本の一冊は、市販単行本の一冊にいさかも量的質的に劣らない。ただのディレッタントには及びもつかないプロの仕事だ、量より何より「自由」である。自由は厳しい寒いものだが、嬉しいものである。
2011 1・11 112
* 直哉の全集八巻を夜前読み終えた。エッセイや雑纂に組まれたうしろの半分以上が興味深かった。他の作家だとふつうそういうところは割愛してしまうが、直哉に限ってそれらが「人間を読む」面白さで引きこまれる。
* 「一遍聖繪」等の絵巻その他に中世ないし近世の庶民の姿がいろんな風体で登場している。下記は初期洛中洛外図に見える二組の「節季候(せきぞろ)」たちで、頭上に裏白をかぶり面上に白い布を垂らして目だけを出している。師走の二十日、二十一日から都に現れて「せきぞろござれやハァせきぞろめでたいめでたい」と唱え家々を訪ねて喜捨を乞うた。江戸時代には太鼓やささらを鳴らすこともあった。節季は歳末をいうことばで、歳末に出て祝言をとなえては給付を求めた時期限定の「祝い芸人」たちであった。正月にはいると、白布が赤になり、「敲きの与次郎」と呼ばれようが変わったとという説もある。二人ないし数人で連れ立ち、必ず一人が肩から袋を提げているのは喜捨の米などを入れたもの。かぶった裏白には呪祝呪能の意味があったろう。広い意味での日本の「藝能人」の祖型の一つが特徴的に観られる。脚絆を巻いているが素足なのは、必ずしも彼らのキマリというのでなく、中世庶民の絵図の中での素足は師走正月をとわず多かったようだ。
もとより暮れと正月とは限られた期間で、節季候がそれだけで糊口を得ていたわけはなく、他の時節には他の芸能・職能で口に糊していた。
覆面はいかにも異類異形の体で、卑賎視された者のきまりのようである、が、鎌倉末期にはこの覆面が世間に流行り、流行が廃れた後もそれの固定的に残存した階層があって、異類異形のゆえの卑賎視のシンボルまたそのまま強いられた容態となった。節季候だけの風体とは限らない。
* この上に表紙カバーをかかげた本「中世の民衆と芸能」は、題名どおりの優れた編著で、じつに多くを教えてくれる一冊。目次と専門の歴史学者達の名に保証されて、多くの呼称と実態への示唆とが読みうかがえる。
ことに後ろの半分以上を用いた座談会は、いまなお多くの示唆を現代意識にあびせかけ、なお研究途上にある課題も少なくないと思われる。たとえば遊女も乞食も抜けているが、かれらも中世には芸人であり職人であった。この本など、かりにも日本の「藝能」の太い遠い根を本気で識ろう語ろうというなら、誰しもが成心を排して素直に読んで識っていい基盤の一つだと思う。根底だと思う。これらは職能であり藝能であった。
同時に、大事なのは「歴史」に内在する「変」「大変」である。藝能史はいままさに「大変」を践んでいる。
目次
中世・民衆・芸能-序に代えて- 横井 清
はじめに……………6
中世「民衆」 への視点……………8
中世「被差別民」 への視点……………12
中世被差別民の生活と仕事
清目きよめ 穢れをはらいきよめ、そして担う 丹生谷哲一……………19
田楽でんがく一 田植をいろどる楽 山路興造……………25
田楽でんがく二 社寺の祭礼をいろどる楽 山路興造……………31
山水河原者せんずいかわらもの 竜安寺の庭石に刻まれた「小太良」「清二良」 川嶋将生……………36
千秋万歳せんずまんざい 初春の主家の祝福から、やがて門付芸能へ 山路興造……………42
大神人いぬじにん 畏敬と差別と-誇り高き祭礼のきよめ役 河田光夫……………48
傀儡くぐつ 人形をつかい、流行歌を舞い歌い、したたかに生きた芸能民 山路興造……………54
皮づくり 牛や鹿の皮剥から加工まで、生産の場は河原であった 源城政好……………59
猿楽さるがく 能楽のルーツは、庶民的な風刺のパントマイムであった 山路興造……………65
葬送そうそう 貴族や寺社の葬儀を生活の糧とする 田良島哲……………71
松囃子まつばやし 松を手に、正月の家々を祝福して歩く 山路興造……………77
犬狩いぬかり 都市生活の発達と充実が生み出した野犬の捕獲 横井 清……………84
声聞師しようもんじ 声聞一揆にみる雑芸者集団の力 川嶋将生……………90
曲舞くせまい 室町期、都に流行した舞いの担い手は農村出身の賎民 川嶋将生…………96
壁塗かべぬり 土をこね、土をねる所作にも、自然界に宿る霊への祈りがあった 吉村 亨…………102
狩人かりうど 神になった狩人-「狩場明神像」にみる青衣と柿衣の謎 河田光夫……………109
節季候せきぞろ 来る年の福と新年を迎えるまでの無事を祈る門付芸 川嶋将生……………115
陰陽師おんみようじ 消えた声聞師=陰陽師村の謎 山本尚友……………121
癩者らいじや 死と再生の輪廻を信じて、非人宿に生命の火を燃やした人びと 横井 清……………128
中世被差別民史への視点(座談会)……………133
出席者 河田光夫 川嶋将生 丹生谷哲一
山路興造 横井 清 吉村 亨
司会 山本尚友
道の芸能から手の芸能へ137 差別と賎視のちがい115
芸能のテリトリー153 芸能者への差別158 狂物と異装164
祝福芸と賎民芸能169 鬼の社会史的位置をめぐって178
芸能のなかの呪術性と賎捜民182 きよめの呪能者としての賎民191
きよめの構造の全体性へむかって200 装いと差別208
言葉の両義性と色216 庭者・猿楽者にとっての近世社会226
被差別民衆像の豊饒化へむけて234
参考文献………240
2011 1・12 112
* 「ドストエフスキーは僕は余り好きでない。僕にはやはりトルストイの方が遙かによく、勉強になる。アンナ・カレーニナなどよいと思ふ」と直哉が書いていると、全く同じ日記を自分も書いたぞと嬉しくなる。ドストエフスキーは「罪と罰」以外は何をいうにもムリしている気がした。鼻をヒコつかせてドストエフスキーを口にする作家達のどれを読んでもただただ観念の念仏のようであった。
「いい材料(=食材)を得てたのしみにしてゐると、料理に気を入れず折角のものをだいなしにして了ふことがあります。これが私には一番嫌いな食物です。かういふ場合、一箸つけたきりでやめて了ひます。必ずしも面当てではなく、我慢して食ふと、尚腹が立つからです。昔から男は食物の事をかれこれ云はぬものだといふ事になつてゐますが私は云ふ事にしてゐます」というのも、嬉しくなるほど同感。
セザンヌの「水浴」を、「日本に来ている洋画の中で一番好きな絵だ」と断定されても、嬉しくなる。セザンヌ、大好き。書いたこともある。「中国のいい染付陶器に見るやうな光沢を感ずる」とも。直哉感覚だ。
2011 1.12 112
* この十数年、 志賀直哉全集の翻読でたいそうな慰安や激励や感謝を得ているので、自然直哉の言葉や思いが此処に反映する。そういうわたしの「私語」なので、またかと思われる向きはこの「私語」にみみを塞がれて構わない。「やめないか」とは云われたくないが。あくまでも「生活と意見」でありながら、「闇に言い置く 私語の刻」をわたしは表現している。
☆ 志賀直哉の『わが生活信条』 昭和24年 中央公論より 抜粋 鶴見俊輔纏め
此間、小泉信三氏の「読書雑記」を読んだ。その中に書いてあるのだが、エドワード・グレイが、幸福に就いて云ってゐる事を、面白いと思つた。グレイは、人間の幸福の条件を、四つ挙げてゐる。
第一、自分の生活の規準となる思想。
第二、良い家族と友達。
第三、意義のある仕事。
第四、閑を持つ事。
この他に、もう一つ、健康といふ条件を附加へてもいいかも知れないが、兎に角、これらの条件の中で、閑を持つ事、といふのは人はそれ程大切な条件と思はず、見落すかも知れず、面白く思つた。僕達(=藝術家の意味か)などには、或る意味で、退屈といふ事は必要だ。 朝から晩まで閑なしに、働いたり、一つ事を考へてゐるやうでは困る。かういふ色々の条件を考へて見て、私は、自分自身を仕合はせだと思ってゐる。
然し、幸福とは、自分の気持の中の事だが、食ふや食はずにゐたら不幸だ。食ふといふ事も大きな幸福になると思ふ。自分の戦争中の経験からさういふ事も云へる。幾らさういふ条件が揃つても、食ふものがなくなると不幸を感ずる。
自分は、明治時代にしては珍らしく迷信のない家に育つた。それ故、子供の時から、迷信的な事は嫌ひだつた。今でも迷信、特に、狂信は非常に嫌ひだ。ザヴィエルの右手などを世界中に持ち廻はる事など良い事とは思へない。
人間は確かにあると思はなくてもそれに祈つたりすることがある。
今度の戦争で無常といふ事を特に感ずるやうになつた。それは悲観的な無常観ではなく、多少虚無的な気持もあるが、色々なものから解放されたやうな大変楽な気持になつて、それから来る幸福を感ずるやうになつた。
戦争中多少栄養失調になり、以来ひどくぼけて、日常生活では色々失策をするやうになつたが、大切な事の判断は前よりはつきりして来た。自分の欲する通りにしてゐて大体間違ひないといふやうな気持になつて来た。若い頃は考へぬいてした事が間違つてゐて、自己嫌悪によく陥入ったが、さういふ事はなくなつた。
まともに暮らしてゐれば、年をとれば、自然にさうなれるやうな気がする。特にむづかしい修養などしなくても、さうなれるもののやうに思ふ。若くてなれる人も、あるかも知れないが。
* まだまだ続くけれど、「人間は確かにあると思はなくてもそれに祈つたりすることがある。」は、何気ないが実に到達して深い。わたしは抱き柱」を抱かず迷信も持たないが、直哉と同じようにしている。「権」でない「本」への畏敬はもっているからだ。宗教家の押しつけるモノはみな「権」の抱き柱に、便法に過ぎない。
後段の感懐、これは「無常」というより、肯定できる意味での「常」を手にしているのではなかろうか、それならとても共感、同感できる。禅の人に教わりたい。志賀直哉の人間的えらさは「常」のかくたるところに見える。わたしの遠く及ばぬところ。
☆ 志賀直哉の抜粋 続き
今の世界の事を考へると、多少虚無的な気持にならざるを得ない時もある。このままで行けば、人間は滅びて了ふかも知れないといふ事なども考へる。然し、自分を人間以外の動物と仮想すれば、今の所謂文明人が死に絶えれば、此世界はもつと平和な、綺麗な世界になるかも知れないといふ風にも思へる。人間は地球で他の生物無生物を征服したが、結局はそれらの物よりも先に絶滅する運命を荷つてゐるやうな気がする。
科学が無制限に発達するといふ事が困る。人間の徳性といふものは、これに伴つて、進歩しないものだから。
「暗夜行路」の終りの方にも書いたが、飛行機の発明などは、人間を大変不幸にしてゐる。人間は、元来地上にゐるべきもので、空を飛んだり、地にもぐつたり、水をくぐつたりするものではなく、そんな事をしなくても生きて行かれる動物なのだ。それが空を飛ぶと、それを悪用しないだけの徳性を持つてゐるならかまはないけれど、それを持つてゐるのは、極く少数の個人に過ぎないから、戦争でも始まると、又戦争を仮想して益々発達して悲惨な事が起る。嘗つてなかつた悲惨な事が起り、今後益々その程度が激しくならうとしてゐる。
それから、飛行機の発明の為めに、地球が段々狭くなるのが淋しい。時間的に節約されると云ふが、その為め、人間は益々忙しくなり、時間に余裕がなくなる。科学には何んとかして手綱をつけなければいけない。原子爆弾の発明など、手綱のないあばれ馬に乗せられたやうな感じだ。人間の自業自得だ。人間の力で此地球を破壊する事も可能になつたといふやうな話は、聴いて実に不愉快を感ずる。本統に可能なのかどうか知らないが。
どういふ社会がいいかと云へば、「王者の民は悠々如たり」といふ風になれば、一番いいと思ふ。今は、人々が総て政治の事を知らなくてはならぬ、などと云ふが、なるほど今は、さうでなくてはならないかも知れない。けれど人々が皆政治を知らなくて済むやうになれば、それが最もよいと思ふ。絶えず政治に注意してゐなければならぬやうな生活ではエドワード・グレイのいふ幸福など味へない。
言論の統制。 一般の人の中には、自由をそれほどいらないと思つてゐる人もあるかも知れないけれど、学問や藝術に携はるものは、自由がなくては成り立たない。
国家は、世界国家などうまく出来れば一番いいし、無政府でうまく行けばそれもいいと思ふ。
男女関係。 昔風に縛るのも、いけないけれども、今流行してゐるやうなのは、 男女間の恋愛といふよりは、男女間の放蕩だと思ふ。恋愛と放蕩とは区別されていい。一生の一夫一婦を、自分は必ずしも支持しない。お互がよりよくなる為めには、別れてもよい。
これは個々の場合で変るものであるから、実際に即さなければ分らない。一概には云へない。
人間が頼り得る最も確かなものとしては矢張り此自然だと思ふ。文学、美術の上の運動も色々あるが、矢張り自然といふものを手繰って行くより他に途はないと思ふ。稀れにさうでないものも出る事があるが、それはそれだけのもので、発展といふ事がない。
何にしても感じが不自然だといふものは美しくない。
形のある神は信じない。そんなものはあり得ない。 僕はまあ無神論者だ。無神論といふ事が、所謂神の言葉として伝へられてゐる道徳を否定するといふ意味ならば、必ずしもさうではないのだけれども。仏教は無神論のやうだけれど、それなら、自分の気特に近い。
戦争の最後の三ヶ月程は僕等のゐる所も段々危険になつて、何時やられるか分らないやうな気分になつたが、その時でも、いい本を読んだり、いい繪を見たりする事は非常に楽しかった。「朝に道をきいて、夕に死すとも可なり」といふ言葉が、変に実感として来た。今までは観念的な言葉のやうに思つてゐたのが、いやに実感で来たのを面白く思った。
もう一度別の生涯を与へられるとしたら、絵描きになる。然し別の生涯を与へられたいとは思はない。今の生涯の意識がなくて、始めからやり直すのならまだいいけれども、今の意識があつて、やり直すのでは、生れ直したいとは思はない。
* 落ち着いて耳を澄ますと、大切なところを直に衝くように語っている。昭和24年はわたしの新制中学二年生だ。国語の教科書に直哉と潤一郎とを並び立てられていたのは高校だったろうか。この年、わたしは毎日新聞ではじめて『少将滋幹の母』に出会い、直哉はまだ読んでいなかったかも。
2011 1・13 112
* 今朝早くに読んだ直哉にしては長めの小説『いたずら』は、漱石の『坊ちゃん』を想わせてもかなり及ばないへんな小説だった。或る気味の悪さに直哉の深層がしみ出ているのかも知れない。
それよりも、直哉持ち前の批評家批判が表に出た『白い線』は、課題性に富んだ、 直哉の本音の確かな秀でた自己批評と呼んでよく、感服した。一代の秀作に属する『母の死と新しい母』などの若い時期の作がどんなにまだ表だけしか見えていない、奥の書けていない作かを語っている。同じ事はわたしも感じてきた。これは年老いて感懐の幅がひろがり届く視線も広がったのであり、一概に謂えないけれど、創作の腕前から離れて云えば、人間が長生きすれば視野も視点も感懐も異なることで説明が付くとも云える。それでも直哉の作家としての自己認識、自己主張の毅いことは確かで、 面白いと想う。
* 昨日紹介しておいた直哉「私の信条」を補足して更に自発的に「閑人妄語」を書いている。直哉は云う、
「自分の仕事と世の中とのつながりに就いては私は割りに気楽な考へ方をしてゐる。私は来世とか霊魂の不滅は信じないが、一人の人間の此世でした精神活動は其人の死と共に直ちに消え失せるものではなく、期間の長短は様々であらうが、あとに伝はり、ある働きをするものだといふ事を信じてゐる。
創作の仕事も その人の精神が後に伝はる可能性の多い仕事だと思つてゐる。完成した時、作家はそれを自分の手から離してやる。あとは作品自身で、読者と直接交渉を持ち、色々な働きをしてくれる。それは思ひがけない所で、思ひがけない人によき働きをする事があり、私はそれを後に知つて、喜びを感じた経験を幾つか持つてゐる。それ故、作家は善意をもつて、精一杯の仕事をし、それから先はその作品が持つ力だけの働きをしてくれるものだといふ事を信じてゐればいいのである。
自分の仕事と世の中とのつながりに就いては私は以上のやうに単純に考へ、安心してゐる。」と。
「その作品が持つ力だけの働き」というところを謙虚に聴けば、それでよい。直哉だからと謂えるけれども、 現にわたしは彼の作品に多くをおうて居る。
それより、この先で直哉の言い出すことが、或る意味で議論を沸騰させるだろう。昭和二十五年(1950)十月という戦後まだ五年での発言だという点はよくよく加味して受け取りたいと思うが、東工大卒業生など若い諸君の感想が有れば聞きたい。
☆ 志賀直哉『閑人妄語』より 抜粋続き 昭和二十五年(1950)十月
何を失ひたくないか。何を長く伝へたいと思ふかといふ問題に就いては私は今の世(昭和二十五年(1950)十月)の識者とは大分異つた考へを持つてゐる。
此間、奈良に行つて、法華堂で、沢山ある仏像を見て、これをこの儘永久に保存しなくてはならぬのかと考へ、一寸憂鬱な気がした。塑像の弁財天や吉祥天を見て、一層この感を深くした。
私は自然に亡びるものは亡びさした方がいいのではないかと思つた。亡びる時が来たものを無理に保護し、残して見ても、それがどれだけ今後の文化に貢献するか、功なり名とげた人間をいつまでもこき使ふ感じで無慙な気がする。法華堂の弁財天がぼろぼろになつて厨子の中に立つてゐる姿を見ると、もういい加減に勘弁して元の土に還してやりたいやうな気がする。それが自然な事だと思ふ。
私はそれよりも、それらを保護し、保存せねばならぬといふ事で、生きた人間が負はなければならない負担を考へ、自分はさういふ役目には廻はりたくないものだとつくづく思つた。
正倉院の仮倉にある古い布れの断片を整理し、安全に保護する為めに一億円の金を国庫から出して貰へる事になつたといふ事だが、重税に苦しみ、一家心中などの出てゐる今日、そんな事をしなくてもよささうに思つた。これまで千年以上もそのままで残つた物を今、急にさういふ事をする必要はない。文化財の保護も大切かも知れないが、一般庶民にとつてはそれほボロ布れといつてもいいものだ。現在は先づ生きた人間を救ふ為めに全力を集注する方が本統のやうに思ふが、こんな事をいふのは青臭い書生論といふものだらうか。文化財保護に使ふ金も一家心中を起こした重税の一部だと思ふと、ものの軽重が逆になつた感じで愉快でない。終戦直後、敗戦の償金として法隆寺をそつくりアメリカに渡しては如何かといふ説を梅原竜三郎は本気で云つてゐたが、国民の苦みを軽くする為めにするのなら、それも面白い考へ方だと当時思つたものである。
文化財保護などいふ事は国民の生活にもう少し余裕の出来た時にすべき事で、少なくとも重税を課してまでやるべき事ではないと思ふ。
この時代は不思議といへば不思議な時代だ。文化財保護などいつてゐる一方では、大変な金を使つて、徹底的な破壊力を持つた原子爆弾や水素爆弾を作つてゐる。真逆、文化財保護はさういふものから保護するといふ意味で急に云ひ出されたわけでもあるまい。
他人に云はせれば閑人の妄語に過ぎないかも知れないが、雑誌「世界」からの課題が早く片附いたので、続けて 少し書いてみる。
「この時代の人間は大変な時代遅れな人間なのだ」私はこんな事を考へた。今の時代では色々なものが非常な進み方をしてゐる。進み過ぎて手に負へず、どうしていいか分らずにゐる。思想の対立がそれであり、科学の進歩がそれである。科学の進歩に対しては何か一つファインプレーがあると吾々は何も分らずに拍手喝采をおくる。例へば或る長距離の無着陸飛行に成功したといふ記事を読むと、新記録好きの今の人々は直ぐ拍手喝采をするが、一体、この事が吾々庶民にとつてどういふ事を意味するかといへば爆撃を受ける時の危険率が増したといふ事以外の何ものでもないのだ。さういふ能率のいい飛行機で愉快な旅をするなど云ふ事は先づないといつていい。それを喝采して喜ぶといふのは可笑しな事だ。
人間が新記録を喜ぶ心理は人間の能力が此所まで達したといふ事を喜ぶ心理で、これが為めに人間は進歩したのであるが、今となつては、それも「過ぎたるは尚、及ばざるに如かず」で、何事もあれよふれよで手がつけられずにゐる有様だ。この事が予見出来ず、これまでに手綱がつけられなかつたといふのは如何にも智慧のない話である。今の人が時代遅れだといふのはさういふ意味からである。
科学に就いては科学の限界を予め決めて置いて、それを超えない範囲で進歩挿してさして貰ふといふわけには行かないものか。大体、かういふ考へ方は学問、藝術の世界では承認出来難い考へで、愉快な考へではないが、科学の場合だけは限界を無視し、無闇に進歩されては大変な事になると思ふ。そして、その限界は地球といふ事になると思ふ。人間は此地球から一歩も外に出られない
ものだからである。
私は若い頃、アナトール・フランスの「エピキュラスの園」の一節で、此地球が熱を失ひ、最後に残つた一人の人間が、何万、何十万年の努力によつて築き上げられた人間の文化をその下に封じ込めて了つた氷河の上で、最後の一人が光の鈍つた赤い太陽を眺め、何を考へるといふ事もなしに息をひきとる、これが最後の人間の絶えた時だといふやうな事があるのを読んで、反抗するやうな気持で、それは地球の運命であつて、必しも人類の運命ではないと思つた事がある。吾々は人類にさういふ時期、即ち此地球が我々の進歩発達に条件が不適当になる前に、出来るだけの発達を遂げて、地球の運命から自分達の運命を切り離すべきだと思つた。これは大変便利な考へ方で、この考へをもつてすれば、大概の現象は割りきれた。究極にさういふ目的があるのだと思ふと、如何なる病的な現象も肯定出来るのである。さういふ人類の意志の変則な現はれだと思ふ事が出来るから、総てが割りきれた。飛行機の無制限な発達も、原子力も(その頃はこんなものはなかつたが)総て讃美する事が出来るわけである。私は三十二三歳まではさういふ空想に捕はれ、滅茶苦茶に興奮する事がよくあつたが、どうかすると急に深い谷へ逆落としに落とされた程に不安焦慮を感じる事がよく有つた。私はそれに堪へ兼ね、東洋の古美術に親しむ事、自然に親しむ事、動植物に接近し親しむ事などで、少しづつそれを調整して行くうち、いつか、前の考へから離れ、段々にその丁度反対の所に到達し、漸く心の落ちつきを得る事が出来た。以来三十何年、その考へは殆ど変らずに続いてゐる。
それは扨て置き、私は科学の知識は皆無といつていい者だが、自然物を身近く感ずる点では普通人以上であるといふ自信があり、臆面もなく、かういふ事を書くのであるが、今の科学は段々地球からはみ出して来たやうな感じがして私は不安を感ずるのである。第一に吾々がそれから一歩も出る事の出来ない地球そのものが段々小さくなつて行く事が心細い。遠からず、日帰りで地球を一周する事が出来るやうになるだらう。これは真に淋しい事である。人間以外の動物でそんな事をしたいと思つたり、しようとする動物は一つもない。しかも、人間にさういふ事が出来るやうになつて、どういふいい事があるのか。考へられるのは悪い事ばかりである。己れの分を知るといふのは個人の場合だけの事ではない。人間のこの思ひ上りは必ず自然から罰せられる。既に人間はその罰を受けつつあるのだ。私にはさう思へる。人間が幾ら偉らくなつたとしても要するに此地球上に生じた動物の一つだといふことは間違ひのない事だ。他の動物を遥かに引き離して、此所まで進歩した事には感心もするが、時に自らを省みて、明らかに自身が動物出身である事をまざまざと感じさせられる場合もあるのだ。
動物の世界も強食弱肉で、生存競争は却々烈しいが、何かその間に調和みたやうなものも感じられ、人間の戦争程残忍な感じがしない。つまりそれは自然の法則内の事だからかも知れない。人間同士の今日の殺し合は自然の法則の外である。
人間は動物出身でありながら、よくぞ、これまで進歩したものだといふ事は驚嘆に値するが、限界を知らぬと云ふ事が人間の盲点となつて、自らを亡ぼすやうになるのではないか。総ての動物中、とび離れて賢い動物でありながら、結果からいふと、一番馬鹿な動物だつたといふ事になるのではないかといふ気がする。今の世界は思想的にも科学的にも、上げも下げもならぬ状態になつてゐる。他の動物にはなく、人間だけがそれを作つた、思想とか科学といふものが、最早、人間にとつて「マンモスの牙」になつて了つたやうに思はれるが、どういふものであらうか。
* 直哉の文章を共感のママにわたしは長めにもこう引用紹介しているが、直哉への敬愛の深さから、また直哉その人が、のちのちに自作や文章に共感してくれる後生があるなら、どのように利用し読んでくれても自分は満足するという趣旨を語り書いていたからである。この直哉の自身著作に関する表明や述懐はこれまた私自身の私の著作に関わる思いと通底し共通している。もとより営利や悪意での私用や悪用は著作権者として赦せないが、善意と共感に発して書き手の思いをいろいろな場面へ正しく持ち出されることにわたしはむしろ歓迎し感謝する。それでよいと思う。志賀直哉には認められたそういう思想に、いつしかわたしも共感し賛同してきたのだろうと思っている。それだけ、直哉の文章に傾倒し思索や生き方にも敬愛の思いが深いということである。
そのことは、前にも少し書いたが、また書いておく。
* 2008:10月、東工大卒業生の「仁」君の発語に始まり、、「☆ 大学の研究者が言わないような類の「科学」の話」で、ずいぶん大勢の活溌な「討論」が成された。その記録は「 e-文藝館= 湖(umi)」に掲載してある。あの場合はあれでアップ・トゥ・デートな話題と討論だったと思う。
あの時点からさえ半世紀以上前の、科学者ではない一人の優れた文学者志賀直哉の上のような発言は、当時もむしろ冷ややかに黙殺されたように思う。まともに応対した科学者も文学者も無かったと思う。あれから六十一年目を迎えているが、直哉の「科学」に向かって投じた不安の大きさは、今日、無に等しい無価値な発言であったろうか。直哉はテレビの爛熟、I T 文明の地球規模での蔓延、破壊兵器のさらなる発明、それらに伴うテロリズムや国際緊張の全部を知らずに亡くなった。発言には蔽いがたい時代の偏りがある、が、むしろそれゆえにこそと謂えそうな、先見性は認められないものか。
こと「科学」に限って、誰それと限らずご意見を寄せて頂ければ有り難い。「拝呈 志賀直哉さん」としてでも。
2011 1・14 112
* 『中世の民衆と芸能』を読み終えた。よく、ここまで書き出してくれたと感謝する。関連の研究書も手に入れてあり、読み積んで行きたい。大勢の共著であるメリットを感じた。研究がますます進んで欲しい。
2011 1・14 112
* 阿川弘之さんの、多年書き続けられた文藝春秋巻頭随筆「葭の髄から」の最終巻『天皇さんの涙』を頂戴した。九十歳を過ぎられている。
2011 1・15 112
* バグワンの『一休道歌』下巻(スワミ・アナンダ・モンジュ氏の訳)で、「音もなく香もなき人の心にてよべばこたふるぬしもぬすびと」というのに、躓いていた。つまり分からなかった。バグワンに聴いているうちに頷いた。
「一休が身をば身ほどに思はねば市も山家も同じ住家よ」が先行していて、これは分かる。分かると謂うよりも、納得している。人は「自身をどこかに置き去りにすることはできない。おまえはおまえについてゆく! おまえとはおまえの意識なのだ。」
すこし訳者にお願いして、先を読ませてもらおう。例によってわたしの願いから、「あなた」とある呼びかけは「おまえ」に替えさせて貰っている。
* わたしが此処で、とかく直哉だのバグワンだのと、自身の言葉でだけで思いを明かさないのは、わたし自身の不活発だということにもなるが、それは否認しないけれども、自身を開いてよりこころよく尊敬し傾聴に値する言葉に聴きたいからで、その紹介自体にわたしの今の思惟や感想が、あるいは悩みや苦しみが表れているからで、他意はない。願わくは引き合いにされる方々の寛恕を請いたい。
☆ バグワンに聴く 知らないに始まり知らないに終わる意味
一休は世間に住む。が、彼は肉体ではないし、肉体に閉じこめられてもいないので、自らの無限と不死を知っている。彼は自らの不生不滅を知っている。 彼は自らの大空のような本性を知っている。雲は来て去ってゆく。だが、大空には何ひとつ跡を残さない。
市も山家も同じ住家よ
おまえも、そうなったら違いはない。おまえはどこにでも住むことができる。ひとたびおまえが自然のなかにくつろいだら、ひとたびおまえが自分の自然な意識のなかにくつろいだら、ひとたびおまえが特別な誰かであろうとしなくなったら、おまえはどこにでも住むことができる。 おまえは行き着いた。
おまえの内なる意識には、匂いも、味も、音もない。それに触れることはできない。 それに気づきなさい。自然であることがそれに気づく最良の道だ。なぜなら、自然であることでおまえはくつろぎ、くつろぐと、おまえは自分が誰であるかを見ることができるからだ。
緊張して何かを追い求めていると、おまえはくつろぐことができず、 おまえの関心は、 自分がなりたいもののほうに置かれて その集中ゆえに、おまえは自分がすでにそれであるものを逃しつづける。
自然のなかにくつろぐことで、人は自らの実存に気づくようになる。
そして、おまえが「私は誰か~」を知るそのとき、自分はその問いに答えることができると思ってはならない。誰かが「あなたは誰か~」と尋ねても、それに答えることができるとは思わないことだ。
中国の武帝が、「あなたは誰か~」とボーディダルマに尋ねた。
するとボーディダルマは言った。
「知らない」
彼は知っている人だった。彼は知っているわずかな者たちのひとりだった。ところが彼は、「知らない」 と言った。
よべばこたふるぬしもぬすびと
なぜならそれはあまりにも広大で、知識の一部にはなりえないからだ。しかもそれは、いっさいの言葉が消えて初めて知られる。だから、それを表わすために言葉を使うのは盗人だということだ。それらの言葉は世間にあっては適切だが、その意識にあっては的は
ずれだ。それは彼方なるものを説明するために、世間から、こちらから盗んできた言葉だ。しかし、そんなことは不可能だ。
ありと言へばありとや人のおもふらん
こたへてもなき山彦の声
神と云われようと何と言われようと、山彦にすぎない。真実のものではない。 危ないのはそこだ。そうなったら、むりやりの信仰が創りだされる。そして、信仰のまわりに聖職者が現われ、寺院が建てられる。信仰のまわりに教会が創られ、信仰のまわりに政治が生まれる。
なしといへぼなしとや人のおもふらん
こたへもぞする山彦の声
「それは在る」と言うと、人々は、それは在るのだと信じはじめる。「それはない」 と言うと、人々は、それはないのだと信じはじめる。どちらも真実ではない。真実なるものは、肯定、否定いずれを通しても言いようのないものだからだ。どの言葉もそれを歪ませ、誤
って伝える。
ないと信じている。在ると信じている。 この世にはこうした二種類の人々がいる。「神は存在しない」と教えられると、だから「神は存在しない」と復唱する。「神は存在する」と教えられると、だから「神は存在する」と復唱する。違いがあると思うかね~ 表面上は大きな違いがあるように見える。一方は無神論者で、もう一方は有神論者だ。一方は信じるが、一方は信じない。だが、ほんとうに違いがあると思うかね~ 両者とも何かを教えられ、両者ともそれを信じて、ただ復唱してきた。
一九一七年のロシア革命以前には、人々はインド人たちと同じくらい宗教的だった。実際、ロシアは世界でもっとも宗教的な国のひとつだった。それがその後どうなっただろう~ 一〇年も経たないうちに、その宗教は、何世紀もの古さを誇るその宗教は、すべて蒸気のように消え失せた あたかもそれは一度も存在しなかったかのように。
何が起こったのだろう~ 権力の座にある人々が、「神は存在しない」と言いはじめたのだ。そして大衆はそれを復唱するだけだった。 これは何という種類の宗教なのだろう~
同じ事は中国でふたたび起こった。中国はひじょうに古い、おそらく最古の国のひとつだ。宗教-儒教、道教、仏教の最古の経典やもっとも長い伝統を有し、光明を得た偉大な人々を生みだし。それなのに、何が起こったのだろう~ 突然、『聖書』、『コーラン』、『ダンマパダ』、『ヴエーダ』、『道徳経』、『論語』のすべてー、そのすべてが消えた。そして人々は毛沢東が書いた小さな赤い本を持ち歩きはじめた。それが彼らの聖典になった。突然、神はもはや存在せず、魂はたんなるたわごと、瞑想は時間の無駄、祈りは馬鹿馬鹿しいものになった。寺院は倒され、僧院は消失し、数年のうちにあらゆるものが消えた。
もし権威があり権力を持った人々が神は存在しないと言いはじめたら、そして彼らがテレビやラジオを使って、大声で「神は存在しない」と言いはじめたら、人々はそれを復唱しはじめるだろう。人々はいつも復唱しつづけている。
一休は正しい、彼は言う。
ありと言へばありとや人のおもふらん
こたへてもなき山彦の声
誰かが、「それは在る」と言った。だが、ただのこだまにすぎない。こだまを信じてはならない。こだまはこだまだ。おまえたちの宗教は、まさにそれで成り立っている。自分自身を騙している。そういう欺瞞をすべて落としなさい。 神に向かう唯一の通は、体験によるものであり、信じることによるものではない。信じることで、おまえは取り逃がす。
復唱に過ぎない信仰を落としなさい。真実の人はそういう信仰を持っていない。賛成も反対もない。彼は、神はいるとは言えない
し、神はいないとも言えない。 知ることなしに、どうして 「神はいない」 と言えるだろう。知ることなしに、どうして 「神はいる」 と言えるだろう~ どちらも愚かな声明だ。おまえは、「私は知らない」としか言えない それが真正で真実で正直なことだ。「私は知らない」という、そこからおまえは深く自身の内奥を見始めよ。そしてその美しさを見るがいい。 そうなったら、どんどん深く進みはじめる。そして、いつの日か知るに至る。
「私は知らない」で始まり、「私は知らない」で終わる。だがそこにはたいへんな違いがある。始めにおまえが、「私は知らない」と言うとき、それは自分は知らないという事実の表明にすぎない。どうしておまえにイエスやノーが言えよう~ が、おまえが終焉し、「私は知らない」と言うとき、それは事実ではなく真実の表明だ。おまえはもう知っている。だが、たとえ何が知られたにせよ、それはあまりにも広大で、どの言葉もそれを収容できない。おまえの存在のみがそれを語りうる。おまえの臨在のみがそれを語りうる。
一休の道歌のようなものを読んだり、ボーディダルマの言葉を読んだり、私に耳を傾けたりするときは、つねに憶えておくがいい。私たちは、おまえが使うのと同じ言葉を使っているが、その意味は違うということだ。違いを知るために、おまえは注意深くしていなければならない。さもないと誤解が生まれる。
一休のような人たちは、同じ言葉を話すが、それでも彼らはおまえと単純に同じ言葉を話しているのではない。おまえは理解するために、とても辛抱強く、とても愛情豊かに、心を開き、共感に満ちていなければならない。そのとき初めて、これら一休の道歌はおまえの存在に意義を明かす。これらの道歌は、一度も閉じられたことのない扉を開けることができるのだ。
* スキャナーを使うとき、小刻みに間が取れる。いいまもバグワンをスキャンしている間に林晃平さんの『浦島伝説の研究』第五章の第一節「神奈川浦島寺の興亡」を興味深く、昔の高小の校長先生の新年と事跡に感心して読んでいた。こころを惹かれることは果てしなくある。、朝七時に起きて、床の中では「栄花物語」直哉の祖父の思い出、バグワン、そして芭蕉の句などを読んできた。
今朝も冷える。煖房しているが、椅子に掛けた両の膝上が冷え冷えと温まらない。
2011 1・16 112
* さても、曰くのついた新年であった。それなりに踏み込んで対応してきた。悔い残る日々ではなかった。
* となりから『アンナ・カレーニナ』分厚い三冊を持ち出してきた。いつ読み上げるだろう。枕元にはゲーテ、トルストイ・チエーホフ、ロマン・ロラン、ヘミングウエーと大物が並び、谷崎は『蓼喰ふ虫』を、直哉は全集の第九巻と書簡の戦後二十一二年を読んでいる。古典は栄花物語と芭蕉。研究は、浦島伝説と上田秋成と、「もののけ」研究。そしてバグワン。
2011 1・17 112
* 山になった書籍の中からはときどき思いがけない掘り出し物が見付かる。『「オンライン読書」の挑戦』という津野海太郎・二木麻里編には、ホームページ「作家秦恒平の文学と生活」が取り上げられていた。本の出版は二○○○年、今から十一年前だ。
☆ 「作家秦恒平の文学と生活」 生活者の息づかいが伝わる創作サイト
インターネットを執筆活動の一環とする物書きはもはや少なくない。だが発信者の秦氏は一九三五年生れ。おそらく最年長の世代だろう。絶版や品切れになってしまう自著をみずから再出版してきた活動を背景に、このサイトでも自作の小説やエッセイが発表されている。表紙をスクロールするとそのまま各項目に案内される簡素なデザインで、「掌説の世界」「生活と意見」「中長編小説」などがならぶ。冒頭の「ページの窓」では自己紹介や、各項目の丁寧な解説を読むことができる。未定稿も含め、生活の息づかいが伝わる発信だ。 (二木麻里)
* 以来十余年、電子版「湖の本」全百数巻、また「 e-文藝館= 湖(umi)」には幕末から平成まで、数百ものわたしが選んだ秀作や問題作や新人の新作もが、満載されている。
日々書き継がれた日記「宗遠日乗」ファイルは、現在112。五万枚。この全日記が、暴風に遭うように、みな消えることになる。
* もう一冊現れた。東京堂出版から2002都市に出版された『現代文学鑑賞辞典』には、348作家・ 評論家の「名作」がとりあげられて「あらすじ」と「読みどころ」が紹介されている。筆者は41人の分担。わたしの「 清経入水」はもと岩波の野口敏雄氏が書いていて、「時空を超えて自在にいきかわせる物語は、作者の自家薬籠中の手法である」と伝えている。本は、「日本の面白い文学完全ガイド」を謳っている。紅葉露伴鴎外漱石藤村一葉鏡花秋声から、わたしの教室にいた角田光代までも入っているが、黒川創はまだ登場していない。
* と、また一冊現れたのが「国文学 解釈と鑑賞」の増刊号で『戦後作家の履歴』の一冊、これは便利な有り難い特集だった、昭和四十八年(1973)の編集である。わたしが自分で驚く若い顔写真を出している。阿川弘之から和田芳恵まで220人ほど、例外なく「略歴」「文壇処女作」「代表作品」「評価」「竜門挿話」を挙げて80人ほどで分担執筆されている。わたしについては長谷川泉氏が丁寧に書いて下さっている。
☆ 秦 恒平(はた・こうへい)
【略歴】 昭和十年十二月二十一日、京都市で生まれた。戸籍面の事情複雑で、現姓の秦家へ貰われた五歳当時までのことは不明である。このことが幼来深刻に影響して、創作モティーフに辛辣な肉親観むしろ肉親拒否観あるいは独特の身内観が現われた。養家は祇園花街に近接し、中学は祇園町の中にあった。また高校は泉涌寺・東福寺にまぢかく絶好の彷徨、空想の場となった。家には独身の叔母が同居して久しく茶の湯と生け花を教授し、幼来頻繁にその稽古場に出入りしたことが伝統芸親灸の道を拓いた。以上の状況や環境が後の創作活動に濃厚な翳を落とした。十歳のころから短歌を詠み十二歳から茶の湯を習ってほぼ今日に至っていることも、少年時代から古典の世界にごく自然に親しんできたことを意味している。同志社大学では美学藝術学を専攻、昭和三十三年同大学院に進んでから哲学に籍を置いたが一年後に退学、上京、結婚して医学書院に就職し今日におよぶ。初めて創作の筆を執ったのは就職後数年の昭和三十七年七月末で、処女作は「少女」および「或る折臂翁」。昭和四十四年六月「清経入水」が第五回太宰治賞を受賞して文壇処女作となるまでの七年間に小説集三冊、他にシナリオ集一冊を自費出版した。同人雑誌の経験なく、師事する人なく、世に出ることもほとんど断念して孤独に書きつづけていた。受賞作は、私家版の一冊が中村光夫の眼に触れ太宰賞に強く推されたという。
【文壇処女作】 「清経入水」(『展望』昭44・8 )。第五回太宰治賞を受賞。平清経の入水死に対する主人公の感受性を経に、主人公の丹波に疎開中の経験や京都での学生生活の記憶を絡ませて、「歴史と現在の『私』、さらにその生活と夢とを打って一丸としようとする野心」を中村光夫・唐木順三、河上徹太郎らがく強く推した。「自己表現の欲求を、たんなる自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実現する才能と根気を作者に期待したい」との中村の朝日文芸時評には、この作家の意味と課題が鮮やかに指摘されている。
【代表作品】 短編集『秘色』四編所収、昭45、筑摩書房)、『廬山』五編所収、昭47、芸術生活社)、書きおろし長編『慈子』昭47、筑摩書房)、限定版『春蚓秋蛇』(二四編所収、昭47、湯川書房)、評論集『花と風』(昭47、筑摩書房)、小説「青井戸」(「新潮」昭47・11)、「閨秀」(「展望】昭47・12)、「隠沼」(こもりぬ)」(「太陽」昭48・ 3)、評論「上村松園」(「芸術生活」昭47・10)・「宗達」(「みづゑ」昭47・9 ~10)、「秋成無慙(「別冊現代詩手帖」第三巻 昭47・ 10 )。
【評価】 文壇的な処女作品集『秘色』は四編四色に分けて可能性を主張してみせた観があり、世評が高かった。ことに桶谷秀昭は逸早く集中の「畜生塚」を『文芸』の時評で注目し、「人間の生活の根源的な主題につながる」寂しさを剔ってしかも「感受性の正統性と
伝統の感覚」を鋭敏にかつ美しく湛えた「倫理的な小説」として賛辞を惜しまず、その後も再三この作家と作品に論及した。「今日の
小説がアクチュアルな主題にあいわたろうとすれば、作家は小説を一つの芸術にみがきあげようとする欲求を、あらかじめ捨ててかからねばならぬ。それは今日の小説作者のまぬかれがたい宿命のようにみえる。秦恒平は現代小説のそういう宿命をまぬかれている数すくない作家の一人だ。おそらく新人の作家では唯一人である」(サンケイ新開)と強調し、重ねて「『清経入水』『畜生塚』は夢みることが生の源泉の凝視と一体である、現代のすぐれた芸術作品である」と評価した。笠原伸夫も現代では不当に異端と呼ばれてしまう「正系の美意識」(日本読書新聞)をこの作家に認め、進藤純孝は『秘色』が、「夢心地に空を踏むに似た生のいとなみの底知れない寂しさ」(中日新聞)を指さすものとして独特の「抒情の切れのよさ」とともに評価した。寡作の作者の第六作『廬山』は第六十六回芥川賞候補作となり、瀧井孝作は受賞した李恢成と並べて推し.永井龍男は『廬山』は美しい作品である。美しさに、殉じた作品である」
と単独で推し第三作品集『廬山』にも右の評をそのまま贈った。作者の処女評論集『花と風』は桶谷のいわゆる「感受性の正統性と伝
統の感覚」をユニ-クに表出し、谷崎潤一郎を通して日本と日本文学の伝統を大胆に問い直した。野村尚吾はその『谷崎潤一郎論』の「独自で新鮮な見解」を支持して著者の「深い古典の造詣」(サンデー毎日)を認め、多田裕計も「大きい常識性をよくまとめた健全
さ」を「広く一般に推したい」(週刊読売)と評価した。『廬山』後一年の第八作『閨秀』は朝日文芸時評で吉田健一によりこの一作だけを挙げて絶賛された。吉田は「一篇の紛れもない小説」、久々に味わう其の「短篇小説」の妙味をあくまで作者のすぐれた表現力とし
て把握し、一人の読者としてみごとな「言葉の秘儀にあずかっているのを感じる」と嘆息して昭和四十七年最終の文芸時評の筆を納めた。吉田は徹頭徹尾『閨秀』を「小説」という文章による表現の藝術作品として真正面から高く評価している。それは秦のように現代
との行動的な交わりをことさら取材上では意図しない、しかも作品を隅々まで克明に磨きぬいていくような作家の作品が、ともすれば
いたずらに異色視される一点を正当に認識しすくい上げた批評として、批評そのものが高度に文学的であったこともあわせ注目され
る。一作ごとに好意ある理解者に恵まれ、着実にその期待にも応えつつ可能性を深めている作者の現に進行中の長編の完成がさらに新生面をひらくことが期待される。
【龍門挿話】 事実上の太宰賞受賞後、第一作となった『蝶の皿』は、奥野健男が「泉鏡花に似た妖しい魅力」(サンケイ新聞)と時評に書いたごとく耽美的かつ妖異な短編で、この系統に限定百部出版した『春蚓秋蛇』の掌編群がある。奥野はこの作者のヒロイソ中一般に典雅をもって好評だった『慈子』や、ことに『畜生塚』の町子に「淫蕩の血」をかぎ分けた唯一の評家であり、作者はその点を大事に記憶しているという。総じて端正清冽な格調を張った作品の底に、『蝶の皿』的な妖美の魅惑を秘めて底籠もった心情のゆらめきを無視しえない。 (長谷川泉)
* なにとも感謝に堪えない長谷川泉さんの厚情あふれる推挽であった。引き立てて下さった殆どの先達が、もう此の世にはおいででない。
たまたまもののしたからこんな本達が現れ、いっとき、ささくれたわたしを潤してくれたことに、感謝したい。
* 日々の日録である、作家・秦恒平の「生活と意見 闇に言い置く 私語の刻」は、必ず毎日読んでいるので、ぜひ読み続けられるよう工夫して欲しいと、アクセスされる大勢の方から熱心に望まれたことが、過去にも何度もあった。
「現在進行中の最新月分」、今なら平成二十三年「一月分」だけは、二月になれば「二月分」は問題なく読んで戴けるよう、「別サイト」を緊急用意しましたので、ご遠慮無くメール
「FZJ03256@nifty.com」
に問い合わせて下さい。
既成の「生活と意見」は過去十余年分、五万枚、すべて暫定、明日にも此のファイルでは読めなくします。
2011 1・21 112
* ヘミングウエイの『誰がために鐘は鳴る』上巻を読み終えた。学生の頃、アメリカ文学ではスタインベック、フォークナーそしてヘミングウエイが現代の三大家と覚えていた。短編ではオー・ヘンリー、古いところでは「緋文字」の作家、など。フィツジェラルドはあまり読まず、読んでも面白くなかった。もう二、 三は読んでいるが、むしろ映画から入っていた。
ヘミングウエイは、『武器よさらば』『日はま昇る』『老人と海』などみな感銘を受けてきた。短編のいくらかも読んだか知れないが、『海流のなかの島々』をまだ知らない、読んでみたいが書店で見付かるか知らん。『鐘』の下巻へ進む。これも三度目ぐらいの読みになる。
2011 1・22 112
☆ から鮭も空也の痩も寒の内 芭蕉 猿蓑
* 山本健吉さんの『芭蕉』下巻を毎夜しみじみと少しずつ味読していて、此処へ来て「芭蕉の生涯の傑作の一つ」という断言に出会えた。
空也の痩とは。空也上人のことではない、空也僧つまり鉢叩の徒で。寒暁、腰に瓢、踊躍念仏して和讃を唱え鉦を叩いて茶筅を売りながら洛中洛外を歩いた。「痩」一字の示す風貌の極限は容易に想像できる。「から鮭」に照応している。この句、何らの叙事でもない。「から鮭」「空也の痩」「寒の内」の三語をただ繋示して一切の肉感を排した徹底詩世界を表したもの。山本先生の「傑作」の評をこころより悦ぶ。
俳句の結社誌を幾つも戴いていつも見ているが、俳味の「詩」に殆ど全く出会えない。おおッと書き留めておきたい腸にこたえるような詩の発見がなく、ただ言葉を羅列して弄んでいる。主宰級の人の句に浅い自足がことに目立つ。見よ、芭蕉の一句。打てば鳴り響く。 この句など、べつだんに記憶しようとして記憶にあるのでなく、句のいのちが脳髄にとびこんできて何十年も凛々と生きている。俳句はたった十七音。記憶されないような句は詩としてほとんど生命を欠いている。 て、
* 「 e-文藝館= 湖(umi)」に「古典を味わう」部屋を新設した。心ゆくまで古典愛読の嬉しさを、集中、表して行こう。新しい楽しみ、喜びをまたわたしは見つけた。
2011 1・26 112
* 立教大名誉教授の平山城児さんの下さった『谷崎潤一郎と宝積寺』は、とても面白く有り難かった。仕事は、平山さんのこういう気概で周到に踏み込んでこそしたい。書き手の意気をはなから韜晦し身を縮めていて、何しよう。何もする気でないならしないがいいと思う。
2011 1・26 112
* 高麗屋父娘の往復書簡本が文庫本になって贈られてきた。二月は染五郎と亀治郎のル・テアトルが楽しめる。三月は父子で演舞場。幸四郎の仁木弾正も、魁春の政岡というのも期待したい。俳優座の稽古場で、安部公房作品を若手がやると案内してきた。これも期待したい。気の入った仕事が観たい。マスコミ人間達のジャラジャラした「お仕事」なんてものは御免蒙る。
2011 1・27 112
* 江戸の頃以降のわれわれ庶民が日々の「お寶」に「銭」「金」を思っていたのは自然なことであったが、そのほかに「寶」「寶物」と謂ってモノと限らず「子寶」のようにヒトも謂ってきたし、得も謂われぬ貴き値の何かを心中に抱いていたこともある。むしろ子供の頃はそういう寶モノを身にも心にも抱いていた。最近では人気のテレビ番組に感化されて、書画骨董を「おたから」と観じて価値の鑑定を求めるヒトが少なくないし、奇妙でもなく価値はいつも金額で鑑定される。ホンモノですという段階でとどまるのを物足りないと誰もが思っているからだ。ムリもないが嬉しくもない。「ナンボにしましょ」と司会の紳助はまず当事者に吐かせる。「ナンボ」時代であるなと思う。
* 書画骨董を粗末には思わないが掛け替えのない「寶」とも思っていない、いまぶん私には始末を考えねばならぬ、むしろある種負担でさえある。すべて真贋を確言できるわたしに眼も知識も無い。それにホンモノであるかどうかより、それを自分が愛せるかどうかを、いつもより大切にしている。気に入らぬホンモノはつまり宝の持ち腐れと思うし、好きな物はニセモノでも平気である。
それよりもだ、もっともっともっと大事にしたい「寶」を、自分は、今、持ったり観じたりしているだろうか、わたしは。否定しないが此処へは何も書くまい。
* 司馬温公の箴言がある。漢字だけで書いては読みにくいだろう。
「金を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く守らず。 書を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く読まず。如かず陰徳を冥冥の中に積んで以て子孫長久の計となすに。」
とても陰徳の士でなく、積んだ金も無い。積んだといえるほどの書も持たないが、聚めた書籍の殆ど何物も受け継いでくれる子を持てなかったのが心残りだ。金は喜捨も蕩尽も可能だが、書物は棄てたくない。しかしいまどき嵩張る本を欲しい人などいない。二束三文にもならなくていいのだから、古書の業者を呼ぶしかないだろう。 2011 1・28 112
* なんと午后一時半までイヤな夢も観ず寐ていた。ちゃんと呼吸しているので起こさなかったと。心身のいずれもが希望しているのだと思い、抵抗しないでいる。すぐ機械の前に来て、芭蕉の句と向きあっていた。真実優れたものの前にいると、心身共に安らかになるのはたいしたものだ。
昔の宮廷とかぎらず、優れた書画を邸内に飾っていた例は、数え切れない。たんなる装飾ではなかった。玩物喪志でない、いいものとの向き合い方がある。
自身連日の多読の習いもそういうものと思っている。いいと信じられるものを読んで心身を洗っている。濯鱗清流。
* わたし自身は、他のために、とうてい清流たりえない汚濁の徒、心身に渦巻いている濁流の穢さは我ながらおぞましい。しかし、それも自身であり、ただ心してときおりに清流を恋い慕い心身を洗濯しようとしているだけだ。いや、そんな気持ちすら実は無用ではないかとほんとうは思っている。本は「本」である。読みたいから読むのである。「本」の書きたい人間である以上は、当然。
2011 1・29 112
* いちにちかけて、「芭蕉翁 畢生の名句集」を佳い感じに「古典を味わう」室に招待した。疲れたが、いい気持ちだ。
2011 1・29 112
* 朝松健さんとは「 mixi」 出あった。一休を書かれた作品を読んで力のある人だと思った。時代小説を書く人と思っていたら、ホラーの仕事もあると。今日、リン・カーターという人の『クトゥルー神話全書』と題した本を監訳されたのを贈られた。クトゥルー神話を全然知らないが、ラヴクラフトという人のいわば創作世界であるらしい。沼正三の『家畜人ヤフー』が一種の神話世界であり、そういえば独特のそういう世界を創造した作家はほかにも何人も実在する。それなら、いきなり研究書よりはラヴクラフトの代表的な原作を幾つか先に読んでみたいものだ。やはり作品が先だろうナ。
2011 1・29 112
* わたしの毎日の多読は多年の習慣になっているが、現在只今も十五冊ほどを囓るように少しずつ読む。少しずつというのが味噌なのか、しっかり頭に入る。次へ移り読む際に混乱しない。
そんな中で、これだけはたまたま手に取った本で、少しも乗り気でなかったのに、いきなり取り憑かれておもしろい本が山内昶氏の『もののけ』で。この山内さんを皆目知らなかったし今でも『もののけ』と覚えていても著者の名をすぐ忘れる。法政大学版の「ものと人間の文化史」シリーズに入っていて、このシリーズは随分愛読し参考に使わせてもらったのに、山内さんのこの二冊上下の『もののけ』は買った覚えも人に戴いた覚えもない。妻が生協経由で気まぐれに買ったのではないか、しかしこれは妻の手に合う本でない。ほこりをかぶっていたのを妙に勿体なく感じて読み始め、まさしく『もののけ』に取り憑かれた。じつに博学の成果で、ことに上巻は日本に的が絞られ、徹底的に「蛇」などの「モノ」や「マナ」にふれて具体的であると共に学問的なのである。いま、上巻の巻末近く「付喪神」や「フェティッシュ」について説かれているのを学んでいるが、雑然とあるあたまのなかのアレコレを整理し片づけてもらえている。希有なほんの一つである。「百鬼夜行」の繪なども書庫に誰彼から戴いてあるが、理解などしていなかった。あらあらあらという工合に教えられ、我ながらビックリすることが沢山在るモノだ。
* 玩物喪志のタチではないから、フェティシズムの気もないけれど、三種の神器などというのがそもそもアニミズムならぬフェティシズムだと謂われるとおおそうだと気が付く。後代も後代になりほんとうの物がモノに化けて取りついたり厄介をしたりし始めた、そういう時代には経済が進展してほんもののお化けが退化劣化した代わりに物質や道具が化けてくる。網野善彦氏の手強く画期として指摘した南北朝ごろからいわば神霊の威力がガタ落ちして行き、かわりにフェティシズムが出てくると説明されると、何にでも理屈が憑くのだなあと感心してしまう。
2011 1・29 112
* 寒さしのぎに湯に漬かろうと用意の間に、ふと源氏物語の一巻を抜き出し「桐壺」を読み出したら、うまいものを食べるようにすいすい喉を通ってゆくので、ままよと湯に漬かったまま「桐壺」一帖をしみじみ楽しんだ。最後の方、例の、二条院で、こういう所に思う人を置いて住みたいという大事な少年の述懐を読み、すこし湯の中で泣いた。源氏物語ほど回数多く読んできた本は無い。毎日一帖と決めて読み通したことも二度ある。休まなければむしろ楽に読めてしまう、面白いのだから。折角だから、毎日一帖でなくていいから、また読みたくなった。明日へ続けよう。
たまたまというのでもないが、「e-古典」の部屋に、『桐壺更衣と宇治中君』という講演録を掲載した。きのうの『能の平家物語』と並べば、なんとなく部屋が大きく見える。どんどん増やしてゆく。
2011 1・29 112
* 一休の道歌に、
ゆく水にかずかくよりもはかなきは
佛をたのむ人ののちの世
とある。この教えは大きい。深い。厳しい。
☆ バグワンに聴く。
仏陀のような人に誰も助けを求めることはできない、彼はたんなる臨在、扉だ。おまえはそれを通り抜けることはできる。それだけだ。
ブッダがおまえを助けようとしないのは、外側からおまえに付け加えられ与えられた総べては、おまえの永遠の本性にはなりえないからだ。仏陀のような人ですら、おまえに真理を与えることはできない。なぜなら、真理は与えられたり受け取られたりするものではないからだ。それはおまえの内に生まれる「体験」だ。覚者(ブッダ)とは、おまえがひとりでに真に花咲くことのできる機縁であり、 それ以外ではない。
真理のような、与えられたり伝えられたりする何かがあるとおまえが期待しているなら、まちがいだ。何もない。真理は伝えられない。それはただ湧き起こる。それは育って行く。花の香りのように育つ。そういう真の贈りものは、おまえの内部に生まれねばならない。おまえ自身の手で、おまえを通して生み出されねばならない。ブッダはあたかも助産婦のように、その生まれるのを、見ている。おまえには何の助けも必要でないと知って、黙って見ているのだ。おまえは「自由」なのだ。その意味に気付きなさい。おまえたち一人一人が真の創造者であるという根本の法則に気付きなさい。
一瞬といえども神がこの世界を創造したと考えてはならない。おまえがおまえの世界」 を造っているのだ。しかも「一つ」の世界があるのではない。人の数だけの世界がある。おまえはおまえの世界に生き、おまえの妻は彼女の世界に生きている。それゆえに衝突がいつもある。異なる二つの、いや数え切れない世界は堪えず衝突している。衝突せざるをえない。共に重なり合い干渉し合う。葛藤する。人は決して一つの世界に生きているのではない。ひとのかずだけ世界は有る。
そして覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者であるという真実を見抜き、しかもそれから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。彼はこの世界で生きる。が、世界は彼の中に無い。彼はもうどんな夢も投影しない。
仏陀のような人に近づくことは虚空に近づくことを意味する。それゆえの恐怖だ。人は怯える。仏陀のような人の眼をのぞき込めば、おまえはまったき虚空、深淵を感じる。そしておまえは、そのなかに落ちてしまったら、絶対に底に届かないかのように感じる。誰もいない。底なし。それは永遠の虚空だ──。人は落ちて落ちて落ちてゆく。人は消える。が、その底に届くことはけっしてない。
覚者( ブッダ) はおまえを助けない。なぜなら彼には、やまえの見る夢がわかるからだ。それはあたかもおまえが眠り込んでいて、ひじょうに危険な夢をみているようなものだ。トラがおまえの後をつけている。おまえは悲鳴をあげている。おまえは眠りながら、「助けてくれ′助けてくれ」と叫んでいる。そして、おまえのそばで誰かが目を覚まして坐っている。彼はどうすると思うかね~ 彼はおまえを助けるべきだと思うかね~ そうだとしたら、彼もおまえにひけをとらない馬鹿だ。そうだとしたら、彼はおまえと同じくらい、あるいはおまえ以上に眠りこけている。
彼は笑うだろう。彼はトラなどいないことを知っている。それはおまえの創作だ。それはおまえの創造(妄想)の産物だ。彼は大笑いするかもしれない。だが、おまえは苦しんでいる──おまえのトラは妄想にすぎないが、その瞬間、おまえの苦しみは真に迫っている。涙あふれ震え戦いている。
目を覚ましている人はどうすればいいのか。彼はトラからはおまえを救えない。トラなどそもそもいないからだ。だが彼は一つのことができる。彼はおまえを目覚めさせることはできる。
* 夢うつつの中でも知解はたやすい。だが、体験しなければ、目覚めを体験しなければ、意味無い。
わかったなどと云わない。なにも云わない。
* 昭和二十二年に、志賀直哉は六十四歳。わたしは小学校五年から六年へ進んで、もう戦時疎開の丹波から京都市内へ帰っていた。学校は外地からの帰国者や戦災で移り住んできた生徒達で膨れあがっていた。カルチュアシ」ョックで佳い感じに興奮の日々だった。直哉の書簡集は、敗戦間際の空襲被害や戦後の食糧難などをありありと伝えてくれて興味津々だが、二十二年となるとかなり落ち着いてくるが、 快適には書けていない。「僕はナメクジの這ふ如くしか書けず、又仕上がらなかった」と梅原龍三郎にコボしている。「二三日前中村白葉君の所にトルストイの家出の事聞きに行つたが余り参考にならなかつた、(呵々)」とも書いている。直哉は根からトルストイアンだ。わたしも、そうだ。
直哉の作でも日記でも書簡でも、彼ほど家族友人に濃やかな愛を隠さない人はいないだろう、癇癪持ちでとてつもないフユカイストだけれど、心遣いの濃やかな本当に温かい人だ。しかもケンカもする。彼の大勢の親友達で、ついぞケンカなしで済ませた只一人は柳宗悦だけ。なにか気に入らぬ事を言われたり書かれたりすると、 放っておく所か、即座に「わるくち」で反撃して、辛辣。そういうところもわたしは好き。やられたら、やりかえす。むろん理のあるときは。
「僕は我侭者だが、その反対なところもあつて不徹底になる。近頃はもう少し我侭に徹底する気になつてゐます」「仕事と健康の為め遠慮しない事にしてゐます。」「心身の調和大分注意するやうにな」ったとも、「腹も大分突き出して来ました」とも、上司海雲宛てに書いている。それでも「二度と書きたい小説ではありません」ような作、少年以来多年の友を「藝術」の名においてどうしても赦せないと低俗をつよく詰るながい述懐小説などを遠慮会釈無く書いている直哉である。
* こういう志賀直哉とわたしは日々をともにしている。些か淫している気味もあるか。
* 直哉は「詩」が好きでない。「詩は特別なみの以外は興味なくこれまでも余り読んでいない」と言い放っている。じつは、わたしも詩はほんとは苦手でなんです。ぜったいに佳いというのが、分からない。とくに戦後詩は、わかったようなフリすらも出来ないほどよく分からない。
2011 2・3 113
* 朝松健さんに貰ったリン・カーターという人の『クトゥルー神話全書』という評論を先に読みたくなった。結局、作がすぐは手に入らないし、なにとなく容易ならぬ存在のようにラヴクラフトという作家が想われるので。
エドガー・アラン・ポー以来比肩する作家のいない革新的なホラーSF作家と聞くと、どんな人であるか知ってみたい。「鳶」さんのいわば「現地」解説で、グイと引き寄せられてしまった。
いま、リン・カーターの「序」を読んだ。只一人として羅列された現代作家達を知らないが、群集して作の津波が奔騰している。やはりラヴクラフトに創始された独特のSF世界が出来ていて、大勢がその世界を書き継ぎ書き広げているようだ。前世界と現世界との凄絶な闘いがあるらしい。
2011 2・4 113
* 江戸川乱歩の短い作が三つほどスキャンが出来る用意もあり、中の『二銭銅貨』をスキャンして読み始めている。
* 林晃平さんの『浦島伝説の研究』は三分の二も読み進んできた。いま英訳された浦島本のことを読んでいる。一言や二言ではとても言い尽くせぬほど浦島の話は命とか生しかの深い深い部分に手を触れてくる。フィロソフィを誘導する。ゆっくりと考えてみたい。
* 浴室では、文庫本の『誰がために鐘は鳴る』を読み、源氏物語の「帚木」を空蝉との出会い前まで読み、そして『もののけ』上巻を復習している。下巻は西洋を中心におどろおどろしくギリシァ神話の中の怪物や悪魔達が登場している。上巻は日本。底知れず面白い。
2011 2・5 113
* 乱歩の『二銭銅貨』は古き良き時代のクスリとくる温和しい推理小説で、出世作であり評判作であった。ぜひ「 e-文藝館= 湖(umi)」でお読み下さい。あくどくない、わるくない読み物として、気分をよくされるでしょう。発表当時もさぞ喝采されただろう。
校正を終え、つまり一字一句読み終えて一服代わりにいま憩っている。「二銭」の銅貨があったこともわたしは体験していない。
ここしばらく乱歩の短編をもう少し招待し、楽しもう。
* 夜前、直哉の書簡で、他人や自身の健康を大いに案じたあげく、「ご馳走という贅沢は倹約なり」と格言をモノしているのに破顔一笑、肯定した。
食べて補わねば体疲労するというのだ、疲労の極に医者にかかっては物いりだというのだろう。
おおまかな格言だが直哉の実感には相違ない。
2011 2・6 113
* 片手で『浦島研究』を読みながら、江戸川乱歩の早い時期の「明智小五郎」モノである『D坂の殺人事件』をスキャンし、少し校正もした。好評だったこの乱歩作は、彼が谷崎潤一郎の『途上』に強く感化されて推理の創作世界に踏み入ったことを、あからさまに賛辞とともに書き込んでいて、文学史的にも、忘れがたい。
確かに谷崎の『途上』に初めて出会ったときの怖い衝撃を、わたしも忘れていない。谷崎は芝居・戯曲が好き、映画が好き、そして大正時代の谷崎は推理小説もたくさん書いた。だが谷崎はむざむざとはどれも「読み物」にしなかった。自身の生と性の問題をえぐり出す手段かのように、どのジャンルでの仕事も藝術家の本領を逸れなかった。乱歩の足跡も小さくないが、総じておもしろづくのつくりものに近い。
* 近代の浦島では、二つの英訳本につづく、巌谷小波、幸田露伴、森鴎外らの浦島に林教授は論攷の歩をすすめている。わたしは内心に望んでいたのだが、泉鏡花の『海神別荘』と浦島の関連にぜひ触れていて欲しかった。どうも、その希望は叶えられていない容子。それなら私が考えるしか有るまいか。
2011 2・7 113
* ソクラテス、プラトン、アリストテレス、その前のホメロスなど、少しずつ知っていても、わたしのギリシアの学習は貧弱だ。
いま、ギリシアの、ついでローマの神話と、跳梁する怪物・魔物達の「歴史」を、山内昶さんの『もののけ』下巻で教わっているが、日本のように粟散の辺土でなく、ギリシア・ローマを取り包んで地中海世界やゲルマンやアジア・インドやペルシアなどが神話も信仰も輻輳するので、そう、「圧倒」されてしまう。実に面白い。
一つ、感嘆おく能わぬのは、神々や魔物達の系譜のありようが、論理的に出来ていて科学的ですらあることだ。西欧の藝術論は自然科学と不可分に発達したが、その辺、日本の藝術論は精神論または経験論にほぼ終始していて、もの足りない。ま、今さら仕方がない。
当分、西欧や海外の、モノやマナに面白く興深く楽しんで脅かされつづける。
* 若い光源氏が、方違えに出向いた先で、人妻の空蝉を犯した。明らかにレイプである。空蝉の心情に、初読のときからわたしは惹かれていた。親達は入内させたい娘として育てながら父に死なれ、そして妻を喪った受領の伊予介の後妻になっている。宮仕えしてもし光君とこう出逢っていたのならと思えば、ひとしおこのような一夜きりの不幸で不運な夢が、空蝉には口惜しく寂しい。少年のわたしは同情した。空蝉が二度と源氏を受け容れなかったことも、尼になったあと六条院で源氏の庇護を物静かに受け容れていたことにも、わたしは好感を持ち続けていた。「帚木」の品定めは読みづらいけれど、「空蝉」から先の源氏物語は、わたしのために実に優しい。
2011 2・7 113
* 年代からして六世歌右衛門にふれての志賀直哉の感懐であるが、「なよなよした人ではなく、少なくも藝に対しては並々ならぬ意欲的な人だと」書いている。昭和三十三年師走。
「勝負の世界で、ファイテング・スピリットといふ事を云ふが、私は藝術創作の仕事でも或る年齢までは、これはじつに不可欠の精神だと思つてゐる。」
藝の上のライバルなんぞへのそれではない、「自分がこれから取り組まうとする仕事に対するファイテング・スピリットである」と。
そしてさらに歌右衛門に向けて望んでいる、「他日、ファイテング・スピリットなどといふものを全く忘れ去つたやうな本当の名優になつて貰ひたい」とも。
吟味と咀嚼との大事な言葉である。この頃の直哉といまのわたしとは同年ぐらいだと思い当たれば、自身の未熟が思われます。
* 帚木を過ぎて空蝉も読んで、もう夕顔の半ばに来ている。「和する歌」たちの美事に優しいこと。わたしは源氏物語最初の男女の契りになる空蝉との出逢いが、晶子訳で読み始めたそもそも少年の昔から好きだった。少年なればこそどきどきした。
2011 2・8 113
* 書き下ろしNHK不゛ックス版『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』を、「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典を味わう」室に掲載展示した。わたしの大好きな歌謡集である。ご愛読下さい。
* 古典エッセイ「空蝉と軒端の荻と──女を犯した女文化──」を「 e-文藝館= 湖(umi)」の「古典を味わう」室に掲載展示した。源氏物語はレイプ小説だと喝破した国文学の大家が居られた。はじめて源氏物語を与謝野晶子の訳で「帚木」「空蝉」を読んだ中学二年生初読のときから、わたしはそう実感し、どきどきした。
2011 2・9 113
* 読むのが愉しくて、というのも魅力の作に出逢っているからだが、トルストイ、ヘミングウエイ、源氏物語、栄花物語、芭蕉、蓼喰ふ蟲、直哉全集、もののけ、バグワンなどとあると、とまらない。ほかにも有る。機械の傍には浦島研究があり、谷崎の『途上』も読み返し始めたから、寝る前に読み、目が覚めると読み、睡眠が足りなくなる。昨日の宵寝も響いたかも知れないが。
2011 2・10 113
* 谷崎の『途上』を克明に読み返したが、面白い。作の意図した推理の筋はよく承知している、のに、一行一行の進行に引きこまれ、いまも肌に粟立つものがある。乱歩らが感嘆し烈しく刺激されたのは当然で、乱歩懸命の成果である「D坂の殺人事件」も「二銭銅貨」も「心理試験」も遠く及ばない。大きな一つには、乱歩は人の心理を重くみたにしても、すべて推理小説・探偵小説のために書いている。谷崎は、もっともっとおそるべき内なる動機に催されて書いていた。文学ないし文学者として、天と地ほどそこがちがう。
2011 2・11 113
* 『誰がために鐘は鳴る』がクライマクスをもう目前に迎えようとしていて、感動が潮のように胸に迫る。ロバート・ジョーダンとマリアとの残り時間のない愛の深さに、若い日の昔と少しも変わらない、いやもっと深まった喜びと悲しみとが沸きたつ。この作のまうしろを『アンナ・カレーニナ』が支え、さらに『若きヴェルテルの悩み』が支え、源氏物語と谷崎潤一郎が支えている。贅沢な喜びだ。
そしてわたしはわたしの「浦島」を新たに書きたくなっている。悲劇かも知れないのに。たわいない話とも言えそうなのに。それなのに、千数百年にわたり浦島伝説は書き換えられ書き重ねられて、ほとんど各時代に途切れなく明治に到り、巌谷小波も幸田露伴も森鴎外も彼らの浦島を書いている。北村透谷も書こうとしていた。
どこにこの伝説にそんなエネルギーがあるのか、それが妙だ。その妙、存外誰もが無意識に背負っているのかも知れない。
竜宮とは、玉手箱とは、故郷や親族とは、一瞬の老いとは。それは不幸なのか。めでたしめでたしと終わっている浦島の話がたくさんあるのはなぜか。亀とは何か。どうも、たわいない昔話の儘でいない骨身をもっている。浦島は男だけれど、結婚して家を離れる女の人はみなどこか浦島の境涯にいるのかも知れないではないか。 2011 2・12 113
* ことのついでに谷崎全集本のなかの「検閲官」を読み始めた。気合いのこもった、谷崎潤一郎には珍しい方面の、問題作。
2011 2・12 113
* 夜前、『蓼喰ふ蟲』を読み上げた。
『谷崎の源氏物語体験』を書いたとき、『痴人の愛』に触れて云いながら、『蓼喰ふ蟲』にまで言い及べなかったのはわたしの失陥であった。この作の幕切れは「お久」という明瞭な「藤壷の侵し」であり、源氏に藤壷を黙認して与えたのが父桐壺帝、源氏の母桐壺更衣を死なしめた帝から一種贖罪であったように、斯波要に妾お久を暗に与えたのは、妻美佐子の不義に対する父親からの要に対する贖罪であった。じつに簡単なことだが、それだけに、それの読み取れない読者を谷崎は嗤っていただろう。
わたしは谷崎と松子さんとの出逢いが昭和二年で、その年の内に二人は結ばれていたはずと、ずうっと看て取って云ってきたが、『蓼喰ふ蟲』はその昭和二年の谷崎作なのである。そして彼から松子さんへの最初の贈りものは、小出楢重描くじつにこの新聞小説の挿絵原画であった。
* 書けば数十枚の論攷が出来るだろうが、上の六行で足りている。わたしのまた一つオリジナルな新しい谷崎の「読み」である。
2011 2・13 113
☆ 雨もよい 11.02.14 16:47
うちの周りに雪の降ることは滅多にないのですが、東京はひょっとして雨かな、と想っています。
お元気ですか、風。
富士山麓の平地はほんとうに気候が温暖で、夏も暑くなりすぎません。
連日ニュースで伝えられるプロ野球キャンプ情報を見ますと、九州にも雪の降るこの冬、静岡にキャンプに来ればいいのに、と思いますよ。
花の子供の頃、乱歩原作の「怪人二十面相」シリーズをよく二時間ドラマでやっていまして、好きで見ていました。天知茂が明智小五郎でした。
小説は『押絵と旅する男』くらいしか読んだことがないんです。
探偵小説なら、横溝正史の金田一耕介ものをいくつか読んだことがあります。
花の小学生のとき、角川春樹事務所が映画と文庫を連動させ、大々的に売り出していまして、市川昆の映画のタッチをイメージしながら『三つ首塔』ですとか『病院坂の首縊りの家』などを読みました。特に『三つ首塔』は、ドキドキする展開の中に色っぽい感じもあり、楽しみました。
映画はおどろおどろしい雰囲気が出ていて、『犬神家の一族』のスケキヨだかの川面から突き出た青白い脚の不気味さですとか、『獄門島』での、不自然に置かれた釣鐘の中の死体に驚きパッと手を放してしまい、釣鐘が死体の首をちょん切ってしまうシーンなどが印象的です。『八つ墓村』の、額の鉢巻に懐中電灯を差し、銃と日本刀を持って闇を走る山崎努の恐い映画は、野村芳太郎版ですね。
横溝正史の初期の短篇には、ドイルのホームズシリーズとよく似たトリックのものがあり、剽窃まがいですが、当時は海外の探偵小説は日本語に翻訳されているものがほとんどなかったようなので、バレなかったのかも知れません。
アガサ・クリスティーは『ABC 殺人事件』、レイモンド・チャンドラーは『かわいい女』を読みましたが、どちらもそんなに楽しめませんでした。
花は、推理やトリックものに関心がないのです。そこにドラマがあれば別ですが。
アニメの「名探偵コナン」も、トリックが興味深いのではなく、コナンすなわち工藤新一と幼馴染の蘭ちゃんの遠回りな恋のゆくえが、そこに絡む怪盗キッドとのラブ・トライアングルが気になるのですよ。
推理ものを見たり読んだりすると、「よくトリックを考えるなあ」と感心します。そういうのに興味の薄い花には、とてもムリ。
探偵もの推理ものジャンルにはマニアがたくさんいるようですが、そういったものも、「こだわり」のひとつだな、と思います。
乱歩で思い出したことをつらつら書きました。 ではでは。
* 読むだけは乱歩も横溝も、ポアロもマープルも、ペリー・メイスンも、処分に困ったほどダンボールに幾箱も読んできたが、暇つぶし以上の何でもなかった。大正時代の谷崎が探偵もの推理ものを書いたのは、妻の妹と深くなっていた谷崎自身の「妻殺し」という動機を徹底「演戯」していたからだ、それが小田原事件になり、『痴人の愛』になり『蓼喰ふ蟲』になり「細君譲渡」にまで到った。もう彼は戯曲を書く必要も推理探偵小説を書く必要も、妻の妹を女優に仕立てて自ら映画を製作する必要もなかった。それが「昭和初年の谷崎潤一郎」だった。
花さんは若いが、わたしは、とにかくもあくどいムダ事を強いられている分、ムダに暇つぶしはしていられない。大衆読み物は要らない。
* いまやワクワクとわたしを捉えそうなのは『若きヴェルテル』を魅了し悩ませる、あの永遠のヒロイン、ロッテの登場だ。戦後の新制中学生のわたしを、その後の人生へしっかり背を押してくれた人への懐かしさが、ロッテの記憶に花の香のようにかぶさってくる。
2011 2・13 113
* 鈴木京香が駆け出しの脚本家として憤死しそうな役を演じた、「ラジオ放送」だったか、は、結局のところ度が過ぎて感銘がクリアに残らなかった。わたしはあれより前に、三谷幸喜作であったか「検閲」を扱った芝居を見掛けてこれは面白そうと期待したのに、その後に全体を観る機会を得なかった。なぜ期待したか。谷崎の大正十年十月に『検閲官』という小説があり、なんともかとも憤激させられていたからだ、むろん検閲官として憤激したのでなく、この場合の作中では劇作家として、要するに作者としてアタマによほど血が上ったのだ。
発禁という措置は明治以前にも、当局の忌避にあって手鎖にかけられた有力な書き手はいたし、お上へ相当な遠慮を要したこともあった。仮名手本忠臣蔵など、赤穂浪士と吉良上野の実話が、南北朝太平記の時代へ移転して書かれていた。それが無難だった。
明治になれば発禁という官憲の措置を食らった雑誌や新聞や書き手は少なくなかった、谷崎も例外でなかった。時局が窮屈になればなるほど発禁や検閲は猛威をふるったのだから、谷崎のこの「二人劇」ふうの問題作は、やむにやまれぬ谷崎らしからぬ官憲への不快と抵抗意識に染め上げられてある。半端に短い作ですらない。腰を据えて読み直すに値することでは、彼の名作、『小さな王国』に負けていない。これまた、凄い。
* 公権力による「創作の検閲」とは何だろう。敗戦後にGHQがさまざまに検閲し発禁も強いたことは横手一彦さんの克明な研究が教えて呉れるが、日本国が「国」の名と強制により創作をねじ曲げ、思想表現や言論の封殺をはかったことは目に余るモノがあった。 2011 2・14 113
* 終日、不愉快な対応をはさみながら、愉快であるワケのない谷崎不屈の『検閲官』にも向き合っていた。そして、昨日書いて置いた上申書の文案に手を入れたり。しかし、さらにさらに慎重にわたしは、わたしたちは、対応を間違えないようにしたい。
☆ あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなしわれは我なり 湖
2011 2・16 113
* わたしは善人でも徳人でもない。幾皮とも剥かなくてもけっこう不徳も悖徳も演じてきた。その筈だ。
それでもとにかくも自分を卑しくしては生きたくない。出来ることは出来るだろう、出来ないことを人手を煩わしてまでムリにすることはない。そのことが咎められるなら、さよう、天命というほど大層なことでない、単純に損はするだろうというまで。
* 朝一番からムカッとくる不快に出逢い、蹴飛ばすようにして、家を出て、半日余。呑んで喰って読んで、腹痛に堪えながら空を観ていた。うたたねさえした。あ、寝ているな、どうかして目がさめないといいと願ったが、そうは行かなかった。
* なにごとであるか、このところ人の死んで行く話ばかり読んでいた。『誰がために鐘は鳴る』のロバート・ジョウダンが、源氏物語の夕顔が、死んだ。マリアが死なれ、光源氏も死なれた。さらには読み始め読み進んでいる『アンナ・カレーニナ』の無残な果てをわたしは知っていて、覚悟定めてアンナと歩んで行くのである。おなじように『若きヴェルテル』もまた悲しい恋に死んで行くのをよく知っている。谷崎の『盲目物語』にもつらい烈しい女の死が、座頭弥一の見えぬ眼の奥に描き出される。
* 芭蕉晩年の句に、心惹かれている。山本健吉先生の深切の手引きがほんとうに有り難い。
2011 2・17 113
* さ、源氏物語は「若紫」との出逢いへ来たし、栄花物語では皇后定子が不運不幸のさなか一条天皇の皇女を産まれた。世はすでに道長の時代になっている。紫式部登場にはやや間があり、清少納言の運命は傾いている。
* 『もののけ』下巻は佳境に達して、聖母マリアが基督教世界に燦然輝き始めるカラクリが説明されて行く。聖母と魔女達。カソリックというのは、なまなかの墓場の幽霊よりも遙かに凄い。怖い。
* 腹、しくしく痛い。
2011 2・18 113
* バグワンは、「哲学は病気だ。魂の癌だ。ひとたび哲学のジャングルに迷い込んだら、人は言葉、概念、抽象概念にますますからめとられる。 哲学が完全に落とされない限り、人は真理が何であるかを、神がなにであるかを知ることはできない」と切言する。
こういうバ゛グワンの言説じたいも「哲学」ではないかと思いかつ言う人がいて不思議ではない、わたしはバグワンの講話に親しんでいるが、これが本当の哲学だといわれれば、肯う。
バグワンの否認している哲学とは、「哲学・学」とでも表記すべき「言葉、概念、抽象概念」の無意味に等しい「ジャングル」のことで、たとえばこんなふうに語られると例を挙げてバグワンは嗤う、わたしも同様の例なら山ほど積み上げて腹を抱えて笑う。
バグワンは言う、「哲学・学」は見せかけなので、ものものしい言葉を使う。美辞麗句を使いたがる。大げさな言葉を造り上げ、でっち上げると。わたしの耳まで痛いが、その通り、これはバグワンの笑いこける一例だ。
芸術評論家1 「私が思うに、抽象的デザインの新造形主義は、抽象の客観的概念への神秘的、形而上学的、非人間主義的アプローチであることは明らかだ」
芸術評論家2 「そのとおりだ! 君は要点をついている! 実際、ふと一瞥するだけでも、この絵画が偏執症的批評活動によって創りだされ、自発的でダイナミックな評判によってひき起こされ、ときには、立体派の手法で主観的な感覚を表現している超越的な非曲線と曲線からなる対象の絵画を創りだす、夢遊病的傾向を帯びた鳴鐘術者によってつくられたことは明らかだ」
芸術評論家3 「私は君たち二人にまったく同感だ──。それはつまらない絵だよ!」
つまらない一枚の繪のために 「哲学・学はこのようなものものしい言葉を創りだしつづける。けっして単純ではない、単純でありえない。単純である余裕がない。というのも、もし単純だったら、人々はそれが嘘に等しいと見抜くからだ」とバグワンは決めつける。ウソともわたしは決めつける哲学・ 学の優等生ではないが、たとえば現行の或る著名文庫版ハイデッガー『存在と時間』が、また日本のものなら余りに著名な『善の研究』が、まともな日本語で訳され書かれているか、と尋ねたい。芹沢光治良『死者との対話』で、今にも戦陣へ死ににゆく学徒兵たちが、涙ながらに情け無く役に立たぬと歎いた、口惜しがった「哲学」とはそんなモノでしかなかった。
* 次のような志賀直哉の言葉に、汚されがちな鱗を濯ぎたい。直哉先生は、晩年に何度か、自分の書いた言葉や文章が後生に愛され共感され読まれるのなら、自由に用いてもらいたい、構わないと言われていた。先生の本意・真意であったとこころより有り難く思う。わたし自身も同じようにそう思っている。以下に紹介するのは、わたしも含めて創作に志をもった者の支えと信じるから。
☆ 志賀直哉の「トルストイの小説」と題された、全集を推薦の一文。
トルストイ全集の刊行は今度で何度目か知らないが、何度出てもいい全集だと思ふ。
トルストイの小説を読んで感心するのは一寸出て来る人物でも、場面でも、作者はそれ程書いていないのに変に生き生きと感じられる事である。思ふに、それは作者がその人物を、その場面を、はつきりと想ひ浮べて書いてゐるから、特に描写しなくても、作者の頭に映つてゐるものがその儘読者に伝はるのではないかと思つた事がある。私は、『アンナ・カレーニナ』を読んでこの事に気づいた。
* いま、わたしは『アンナ・カレーニナ』を毎日愛読している。直哉の観察を追認し味わっている。この前に『復活』を読んで、しみじみ感嘆したのも思い出す。
直哉は或る優れた写真家の仕事を推奨しながら、こんなふうに書いている。
☆ 文章では一つ事にはたつたひとつの表現しかないといふが、一つの素材を単に持ち合はせの手法でこなす事はマンネリズムに堕す。向うにある物を其儘、うまく撮すといふだけでなく、自分にひびいて来たもので把へるのでなければ本統の藝術とは云へない。
* 「文章では一つ事にはたつたひとつの表現しかないといふ」という直哉の言葉は、近代日本の散文追究の極致の言葉だと思われる。しかしこれには鏡花や谷崎らのまた別の考え方もあった。べつの日本語の把握があった。それも忘れてはならぬ。
☆ 志賀直哉「漱石全集を薦す」より抜粋
そして、その頃、私に一番魅力のあつたのは夏目漱石だつた。
六十年前の話で、私も今は八十二歳になり、 老人性白内障で、活字が読めなくなつた。
今度、先生の全集が出るに就いて岩波から推薦文を頼まれたが、 前に一度書いた推薦文があるので、それを再録し責めを果たさうと思ふ。
夏目先生のものには先生の「我」或ひは「道念」といふやうなものが気持よく滲み出してゐる。それが読む者を惹きつける。立派な作家には何かの意味で屹度さういふものがある。然し藝術の上から云へば此「我」も「道念」も必ずしも一番大切なものではない。そして誰よりも先づ作家自身、作品にそれが強く現れる事に厭きて来る。「我」といふものが結局小さい感じがして来るからであらう。「則天去私」といふのは先生として、又先生の年として最も自然な要求だつたと思へる。
* いい批評だ。同時に重々しい述懐である。哲学が生きている。
漱石に則天去私は、願われたけれども到達はなかったというわたしの従来の読みに、直哉のこの批評が触れあっているかどうか。
2011 2・19 113
* ペンの同僚理事である菱沼彬晃さんの訳書、中国の現代文学長篇二篇を一冊の、莫言『牛 築路』を頂戴した。不勉強で中国現代文学に殆ど目を向けてこなかったが、この岩波現代文庫版、読みたい。「文革期農村の苛烈な現実」が読み取れて、あの『大地』などをまた思い出すだろうか。パール・バックの本は今も家にある。あの第一部はじつに子供心もゆるがして面白く読んだ。アトヘ行くほど停頓した感じがあった。やはり中国人の書いたものが読みたいと思っていた。
* 志賀直哉の散文で書かれた述懐の中でも、永く記憶され心して読まれていい名文、珠玉というに値する文は、たくささん、たくさん在る。なかでもこの一文は、みごとな高みにある。
☆ 志賀直哉「ナイルの水の一滴」
人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
* 昭和四十四年(一九六九)二月二十三日の「朝日新聞PR版」に出たが、直哉はこの一文を久しく胸に抱いていて、昭和三十五年十二月二十日刊の講談社版日本現代文学全集49『志賀直哉集』には、全文ペン字で書いている。わたしはそれを新婚生活の中で見ている。刊行の翌日にわたしは満二十五歳になった。
極貧の新婚生活の中で、わたしは、この講談社版全集が出始めると、躊躇無く買いそろえ始めた。第一回の配本が『谷崎潤一郎集一』だったから。そして一冊一冊増えて行く。読む。読み耽る。ああ、自分も書きたいと思う。それが最も有効な文学修業だった。そして三十七年七月末、突如としてわたしは小説を書き始め、書き始めたらもう一日として一度も、少なくも以後二十年、休まなかった。
この「ナイルの水の一滴」が朝日新聞に出たのは知らなかったが、その日付のたった二日後、昭和四十四年(一九六九二月二十五日に、わたしは四冊目の私家版『清経入水』を出版している。その巻頭表題作が、わたしの全く与り知らぬ間に、第五回太宰治文学賞の最終候補作に差し込まれて、選者満票でこの年の桜桃忌に授賞された。
2011 2・21 113
* チェーホフ全集が十六七巻ある。わけもなく隣棟の書架に潜んでいたのを、こっちへ持ち出してきて、理由はないが手に触れた第七巻から読み始めている。「幸福」「悪天候」ドラマ」の三編を読んで引き入れられている。ことに巻頭の「幸福」は、一八八七年六月発表、翌年短編集に収められた際、作者自身が「この小説は、これまで書いたわたしの短編全部の中でもっともすぐれた作品だと思います」と書き添えて或る著名詩人に捧げている。事実、すばらしい。幸福をもとめつつ人は成年からだんだんに年老いてゆき、それにより幸福の意味も重みも我が身からの距離も変わって行く、うごかしがたい超度の厳しさ、寂びしみ。ふうっと読んでいて気が遠くなりそうなつらさがある。
巻末には「曠野」というこの作者には異例の長篇が入っていて、むかしに愛読した記憶がある。
健康の優れぬ文豪という印象がぬぐえないのに、創作の量の多さと良質さにおどろかされる。えも言われぬチェーホフ世界を散策して行ける。くすくす笑ってしまうほのかな喜劇味も、またそのままに深い、静かな、救いすらないほどの寂びしみと、厳しい背合わせなのが、チェーホフ。
* 阿川弘之さんに戴いた『天皇さんの涙』、しみじみと。今朝は小沢昭一さんから『僕のハーモニカ昭和史』が贈られてきた。小沢さんの本がもう一ダースに余り、わたしはほぼ全部読んでいる。
2011 2・22 113
* 『アンナ・カレーニナ』ははや悲劇の暗い幕が開いてしまった。ああなんでこんなふうになるのだろうと思いもし、こうなるものであるのだとも悲しむ。
2011 2・23 113
* 笑えてしまうが、めったにしないことをした為の笑劇と思うべし。ペン国際大会にしたわたしの寄付金50萬圓には、領収書も来なかったし、今日わたしに届いた或る理事の曰く、「猫ばば」されていると思うと。指定されたとおりの方法で寄附したのはわたしの自己責任だから笑い飛ばすしかない。「国際大会は成功したんだからいいんだ」というらしい阿刀田会長の言は、放言に近い。成功などというのは何で計るのか、自画自賛に過ぎない気もする。それにそれと会計のむちゃくちゃとは、厖大な放漫赤字とは、別次元にある。
* それよりも書架から引き抜いたわたしの「T 博士」こと角田文衛さんの本から、「陸奥守藤原基成」という論文を読んだのがバカな読み物小説より格段に面白かった。面白さを此処に書き立てるには論攷の内容が濃厚過ぎて歯が、いや筆が立たない。ただ一つ、あまりに名高い秀衡らの平泉文化の淵源を、秀衡が陸奥守に赴任しついに定住した藤原基成の娘を妻にしていた事実に求めているのが示唆的であった。雅びた妻女とその侍女集団との京風女文化が平泉を華やがせたと。なるほど。
もう一つ、あの牛若丸が秀衡を頼んで鞍馬から奥州へ走ったこと、また吉野や安宅の関などで苦労した義経がふたたび秀衡の手に身を投じて兄頼朝を歯ぎしりさせたのも、実は頼っていった直接の先はこの基成であったと教えられたこと。
こういうのを読んでいると、なんとしてもこのわたしのホームページを、プロバイダを威しても破壊させてみせるといきごんでいるらしい、つまらない手合いのことも忘れている。
2011 2・24 113
* ロシア向きに重みかかり、チェーホフの短編に心底感嘆、トルストイのレーヴィン(『アンナ・カレーニナ』)に心惹かれ、寝際に興奮してしまう。ゲーテのヴェルテルが、ロマン・ロランのクリストフが、少し観念的また概念的にさえ思えてくるほど、トルストイもチェーホフも現実の把握と表現が強力に連繋して、的確。そこから人生のリアルな苦痛や感銘が花の香りのように立ってくる。
源氏物語は、断然負けていない。いまにも源氏は「若紫」を二条院に掠って行くだろう。山での出逢いから、色々ある。亡くなる間際の祖母尼と会えていたのが源氏にも若紫にも幸せであった。たんなる略奪でも誘拐でもなく、むしろ切なる尼上の依頼があったとわたしは読んでいる。リアルで美しく奥行きは深く優しい。トルストイやチェーホフより八百年近くも昔の源氏物語だ。なんという確かさだろう。源氏物語のうらうちのように、栄花物語は太宰府に流罪されていた伊周がようやく都に帰参を赦される。不遇の皇后定子、伊周、隆家らに辛うじて残りの温みが戻ってくる。清少納言も皇后のちかくにいたはず。
* 中世から近代へのカソリック教会の「魔」潰し「魔女狩り」の狂奔を知れば知るほど、仕組まれた信仰のあさましさを憐れまずにおれない。『もののけ』の深々とした興趣。一行のトバシもなしにわたしは夢中で朱の傍線を入れつづけている。そして、バグワンがそんなわたしの背を支えている。
* もう直哉の小説もエッセイ等も読み尽くして、今は学習院の生徒の頃の初期文を読んでいるが、書くことの好きで堪らない少年の溌溂とした筆致、文のいい「音楽」がはやくも奏でられている。
そして谷崎の『盲目物語』の流麗な語りくち。この魅力からは逃れられない。
『芭蕉』はいまや「炭俵」期の「軽み」の美しさに句境が極まってくる。 2011 2・26 113
* 浴室で、『もののけ』の魔女学をしっかり学んだ。魔女がなにかというとあやしい油を箒や体に塗って夜空を飛んで行く、あの「油」なるもののまか不思議は、いうまでなくキリスト教の儀式にもいろいろに用いられている。聖油とか香油とか物言いはさまざまだが、油と信仰とにはよっぽどの縁がある。
それと産婆( むかしの言い方で言う。助産婦や助産士と書くとかえって失礼になる。) が各時代や國を通じて魔女なみに観られていたと云うことを、そう聴けば理解は届くけれども、あらためてなるほどと思った。しかしわたしは、いま民間に優秀な助産士が大勢必要な時代だと思う。
ついで「若紫」がとうどう源氏の手に抱かれて、間一髪、二条院に伴われ、日々に馴染んで行くさまを美しく優しく読み上げた。文章がひかりかがやいて想われる。
2011 2・27 113
* どさりと、東京都副知事と肩書明記の猪瀬直樹氏の郵便物も届いた。数日前には氏の『都の地下鉄は誰のものか』という新書版も贈られてきていた。
さて猪瀬さんの挨拶とともに荷物を観ると、「言葉の力」再生プロジェクト活動報告書とあって、題して『東京から「言葉の力」を再生する』と。大判で百頁もある。
見せて貰うが、第一印象、猪瀬直樹本人は番外とするが、ここに関連し関係している人達の中に一人も文学で「言葉」と日々苦闘している人達の名前がない。道理で全体に雰囲気がない。これではこの報告書を人は読まないだろうと思うが親愛なる猪瀬直樹さん、こりゃ、どうかなあ。
* この人とはペンの言論表現委員会で出会った。わたしよりよほど遅れて加わった人だが、やがて委員長として長期間主宰した。わたしは無欠席で協力した。ま、これくらいガンガン怒鳴りあった相手も居ないし、これぐらい敬愛しあった同僚委員や同僚理事もいなかった。彼は単行本も全集も、出すつど呉れたし、貰うつど読んだ。副知事に就任したのもわたしは賛成だった。文句も付けてきたが、兎に角も此の人の勉強力と成果の確かさには信頼を惜しまなかった。
さてさて、これはどんなものか。観てみよう。
* 甲南大学図書館学研究室からも、いつものように「季刊図書館批評誌」「談論風発」が贈られてくる。もともと前に出した名が正式の誌名で後ろのは副題だったが、 逆様にした方が親しめるのではと言い送ったのが、容れられている。図書館のことも、猪瀬直樹委員会で盛んに討議したものだ、懐かしい。
当時ペンでは図書館が目の敵にされていた。図書館をだいじにすべきだと反対していたのはわたし一人という有様だった。シンポジウムも開き、猪瀬座長の指名で会場から発言したこともあった。
ああいうことに打ち込めた時期もあった。その時期時期の「いま・ここ」に懸命に働いてきた。それでいい。若かった。
* 問題は、後期高齢者、今日只今の「いま・ここ」だ。構築などと肩肘はらず、「いま・ここ」をさらに楽しみたい。
2011 3・2 114
* 林晃平さんの五百頁の大著『浦島伝説の研究』を読み上げた。本当につぶさに読み上げたと言えよう、本は傍線で真っ赤になった。一つ事の「研究」とはこういうものなのだと教えられたし、興味津々とはこれかと納得し敬服した。徹底的に教えられた、それも緻密に実証的な追究を通して。
浦島の研究なんてと、かるく観る人もあろうが、どうしてどうして、ここにも「日本の心と体」とが緻密につまっている。これから観ると、「かぐやひめの研究」は、よほどまだ遅れている気がした。
林さんに感謝します。
2011 3・2 114
☆ バグワンに聴く。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独來 一休道歌
関係の世界にウチ耽り過ぎてはいけない。なぜなら、すべての関係は、人間関係であれ何の関係であれ、夢だから。自分は完全に独りだということを覚えていなさい。
* バグワンは厳しいが真実を思い出させてくれる、いつも。
* 悪魔論=デモノロギアの面白くもあり、世界史の理解に有意義であること、底知れない。わたしはそもそも西欧世界への視線は新制中学のころに学校で引率されて観た映画『ジャンヌ・ダルク』であるから、ハナから西欧の王制やカソリックの偽善的教権ないし強権に批判的なのである。
魔女狩りの歴史的な意義が知りたかったし、知る前から見当は付けていて見当はずれはなかったのである。山内昶さんの『もののけ』下巻は徹底的に異端=ウイッチ狩りの全容に近いものを展開解説してくれていて、肌に粟立ちながら、奮然とも唖然とも呆然ともしている。
無数の魔物やサタンを政策的に捏造製作した現況はカソリック教会であったと断定するよりない。その教義にも祭儀にもじつに露骨に魔の仕組みが忍び込ませてある。わがジャンヌ・ダルクがスケープゴートであったことは、歴然としていた。
もう暫くわたしは、西欧の暗黒史を目いっぱい覗き込ませてもらう。
バグワンもまた、実によく観ている。
2011 3・3 114
* 好天。暖かという声がきこえる。
* 志賀直哉全集の創作十巻を読み終えた。亡き紅野敏郎さんの解説もありがたく読んだ。
直哉の真髄を問われたら、「ナイル川の一滴の水」に自身を擬した十行余の感懐に代表させたいと思う。結晶と謂うに足る。
* いま、どきどきして読み進み藝術のちからで緊縛されているのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』で、三大作の中でも最も完熟して魅力汪溢の悲劇と少年のむかしから愛読してきた。後高期に到ってなお同じ思いのまま耽読を楽しんでいる。志賀直哉も繰り返しトルストイの此の一作に対する尊敬と愛読とを語っていた。
* 前の石川近代文学館の館長、四十年の友井口哲郎さんが、雑誌「北国文華」に、最近芥川賞を受けた西村賢太と藤澤清造全集とに触れて書かれたのを、送って頂いた。久しぶりに井口さんの語り口を聴いて懐かしかった。
小沢昭一さんからも『僕のハーモニカ昭和史』を戴いた。
* 夜に大地震が来れば間違いなくそれの倒壊で顔を潰されて死ぬるであろう寝床脇の本だなには、毎夜の読み本のほかにもわたしを誘惑するいろんなのがつまっていて、らくに手に取れる。角田博士の『平安京散策』を二階の機械のそばへ運んできた。機械の傍のひそかに自慢の本だなにも、ぎっしりといろんな全集がある。中でも森銑三先生、福田恆存先生の全集にはひっきりなしに誘惑される。
さ、気を引き立てて仕事に向き合う日々が来た。
2011 3・5 114
☆ ありがとうございます。
今日は移動図書館の日、近くの公民館に巡回車が来ます。
ネット予約ができるので「もののけ」を借りました。
残念ながら「浦島伝説の研究」は蔵書にありません。
午後から気温は上がってストーブなしでも過ごせそうです。こんな日に歩かないと肩こりや正月太り(いまだに!)は解消しませんね。
行ってきます。 碧 下関市
* 山内昶さんの『もののけ』上下二巻は、下巻の西洋篇から先に読み出されるのが予備知識が生かされて早く入れるだろうと思う。そのあとから上巻冒頭の「モノ=マナ」説を納得されると、一段と理解が深まりやすいかも。上巻の前半は精緻な探求と展開になっている。
2011 3・5 114
* 平気で長時間寝てしまう。体が怠けているのか望んでいるのか、今は後者だろうと許している。就寝前の読書も響いているだろう。昨夜は全三冊の『アンナ』の上巻を読み終え、トルストイの略伝や解説も読んだ。
『栄花物語』の本文は、定子皇后最後の不安な妊娠と宮廷からの退下に代わり、道長娘の彰子中宮のはなやかな宮中入りを読み、この歴史物語の「作者」に関する解説なども面白く読んだ。源氏の「末摘花」は、いよいよ見顕しの場面にかかる。
* 『盲目物語』は本能寺の乱のあとの勝家・秀吉鞘当てのあと、お市の方が娘三人を連れ子に北の庄の柴田勝家に再嫁して落ち着いた辺りを、盲法師が物語っている。巧みなモノだ、
が、近松秋江があんな「語り」でなら誰にでも書けると放言した意味も、いささか分からぬではない。大久保房男さんも時代小説には賛成しないと言われるし、その意味はよく分かっている。賛成である、が、歴史小説と時代小説とは「大違い」だという気もしていると同時に、たとえばドラマでいえば、「阿部一族」「遺恨あり」などと「水戸黄門」「暴れん坊将軍」などを一緒に視るのは間違いだと思っている。線は引きにくいが、ありきたりで売るモノと、表現の優れた力で見せるものとには、雲泥の差がある。谷崎の『盲目物語』『武州公秘話』『乱菊物語』などを易く見るのは、見方そのものが易いのだと、わたしは受け容れない。
わたしはといえば、谷崎先生の、『吉野葛』『少将滋幹の母』などの歴史と現在が渾然とした物語に、つよく感化されたのを自覚している。『清経入水』『或る雲隠れ考』『慈子』『清経入水』『みごもりの湖』『風の奏で』『最上徳内』『四度の瀧』『秋萩帖』等々がそう
だ。成功不成功をじぶんでは云わない、が、ありきたりにならないようにようにオリジナルの実験を試み続けたつもり。
2011 3・6 114
* 中学の恩師、給田みどり先生の歌集『夕明かり』を機械の傍で、ちょっとした合間合間に心して読んでいる。
中学では給田先生、高校では上島史朗先生がわたしの短歌を観て下さった。お二人とも亡くなる日までわたしの文学を応援して下さった。去年に亡くなられた橋田二朗先生も、担任だった西池季昭先生も、亡くなる日まで私を購読というかたちででも支えて下さった。
いま給田先生の歌集をみると、口絵に橋田二朗先生扇面の「富貴草」が艶に描かれて在る。先生方がほんとうに仲良しであられた。そんなことが、今もしみじみと嬉しくて仕方ない。
高校一年の夏だった、ある日、まだ弥栄中学におられた給田緑先生は、わたしを誘われ、南都の薬師寺と唐招提寺へ連れて行って下さった。ああ、これがどんなにわたしにとって深く刻まれた体験になったかは想像してもらえるだろう。先生はほとんど解説めいたなにも仰らなかった、二人での静かな遠足を楽しまれているかと思い起こされるほどだった。わたしはだが薬師寺の佛達にも、唐招提寺の伽藍にも、のけぞる思いで打たれていた。いまも、こころよりこころより御礼申し上げる。
給田先生のおもかげは、太宰賞をうけた『清経入水』のなかに描かれてある。
2011 3・6 114
* そのまま又寝の寝坊をして、起きて行くと秦建日子新作の『CO. 命を手渡す者』という河出書房の新刊小説が、河出から贈られ届いていた。臓器移植を扱ったらしく、すでに連続ドラマとしての三月放映予定が進行しているらしい。少し読み出してみると、しっかりした文章で安心した。期待して読み始める。出版おめでとう。
劇作・ 演出・公演と、連続ドラマ脚本と、こうして、小説と。よく頑張って続けている。父の願うのは、ただただ健康です。怪我も事故もなく、健康に、心健やかに心穏やかに元気でと、父はいつも願っています。
2011 3・7 114
* 好天に尻押しされて街へ出掛けてきた。花粉がつらくても堪えて目を擦らぬようにしていた。それで、つらくはあったが乗り切れた。今日はぜひ江戸前の上等の天麩羅か、うまい中華料理が食べたかった。食いに惹かれて。しかし『アンナ・カレーニナ』と、建日子の臓器移植の本の半ばは読み終えた。遅い時間に出て、やや早めに帰ってきた。
2011 3・10 114
* じつは夜前、かすかに不穏に沈みかけ、起きて永く本を読んでいた。今日は休息した。
2011 3・10 114
* よく眠れた。寝入る前に、ぜひという思い入れで必ず手に取る本の中でも、源氏、栄花、谷崎、直哉、トルストイ、芭蕉そしてバグワン。ゲーテ、ロラン、チェーホフそして「もののけ」。そうそう、建日子の新刊。それぞれに佳境にあり、時間を自然にとられている。興奮の質も量もある。源氏の「紅葉賀」の巻、懐かしい。『アンナ・カレーニナ』はレーヴィンの草刈り、彼とドリーとの対話、そして馬車できたキチイをレーヴィンは認めてまた愛を新たにする場面など、すばらしい。若い頃にはまだ感じ取れもしなかった襞々のみごとな表現に身を任せるように嬉しく読んでいる。なんというすばらしさ、変わらぬ新しさ。
2011 3・11 114
* 角田博士の「一条天皇」を校正していると、気持ちが遙かに遊んで安らぐ。博士は文章家ではないが、概説の妙をよく心得ておられる。
2011 3・14 114
* 近藤富枝さんから河出文庫『紫式部の恋』を頂戴した。近藤さんの本のいつもどおり、すらすら読んで行ける。謎が設定されていて謎解きが進んで行く。わたしより一回り年長の筆者、まさに健筆ということ。この前にいただいた単行本『荷風と左団次』も面白かった。
2011 3・15 114
* 根を詰めて機械の前にいる。疲れると、小沢昭一さんから贈られてきた『僕のハーモニカ昭和史』なんて本を読んだり、近藤富枝さんに昨日もらった『紫式部の恋』を走り読みしたりしている。
本は、著者単独の味わいの方が嬉しい。先日来馬場あき子さんに二冊も戴いた本は、鴨長明の歌論書を、若い女歌人の七八人と一緒に読んでいて、何としてもとりとめがない。馬場さん一人の文責で追究し論攷されているなら馬場さんを念頭に興味深く追尋でき評価も出来るのに、まるで馬場小隊による座談でことが運ばれていると、たわいなくて焦点も定まらない。どうしてこんな小隊長と兵隊さんの群議のような事にしたのか、勿体ない。若手を売り出して遣っているのかも知れないが、馬場あき子が渾身の追究をこそ読みたいし、その方が文献としても生きる。
岩波がむかしに実現した「座談会」明治・大正文学史は、一級の読み手達のまさに討議であり、瞬間風速の面白さに多々教えられたけれど、程遠い人達の集いに過ぎない。何を読み取り何を汲み取っていいのか、散漫としているのが長明のためにも気の毒であった。 2011 3・16 114
* 浴室で、葵上の産後死を読んだ。
「閾をまたぐ」こわさの、洋の東西の事例をたくさん読んだ。
バグワンの自殺観を読んだ。
髪を洗った。花粉のせいもあるが、始終睡い。
2011 3・19 114
* 京都美術文化賞に推薦して受けてもらった写真家井上隆雄さんの新刊『光りのくにへ 親鸞聖人の足跡を訪ねて』を戴いた。「合掌 井上隆雄」と毛筆の署名がある。繊細・尖鋭、しかも大きな自然を自然法爾で抱き取る写真では右に出る人がない。懐かしい一冊に仕上がっていて、しみじみする。
* 北澤郁子さんはわたしより一回り年輩、文字通り老境の歌人。『冬のなでしこ』を戴いた。緻密にことばを斡旋して冒しがたい感じに歌い続けてきた人の、老境の自在のほのみえる、やや寛いだ境涯歌集になっている。この人にも久しく「 湖(うみ)の本」 を支えて頂いた。
2011 3・21 114
* 『一休道歌』のバグワンに、暫く、聴きたい。
☆ 自分自身の存在に見入る。それは何もせず静かにいるのと同じではない。依然、何かをしてるのだ。何かをするには努力が働き、努力を通しておまえはやはり緊張、期待、欲求不満を持つ。そして成功すれば自我にはたらき、失敗すれば欲求不満でまた苦しむ。何もしないことは文字手通り何もしないことだ。欲しがっていれば欲しがっているマインドが例の世界をもたらす。
何もしないことは欲しがらないことを意味している。どの方向へも向かわない、未来はなくこの瞬間だけがある。全ては沈黙している。それが人間の意識に起こりうるもっとも偉大なことだ。何かへ近づいていると傲ってはんにぬ。近さもまた限りなく距離なのだ。
精神的な人間は熱い水に似ている。量子的に跳躍する。内と外は消え残された分割は無い、心身なく、この世あの世がない。それがサマーディ、ニルヴァーナだ。
探求は、見出す道ではない。無探求。その瞬間がおまえが何もせずに静かに在る瞬間だ。すると、……春が来て、草はひとりでに萌えている。
2011 3・21 114
* 『一休道歌』のバグワンに、また、聴きたい。
☆ 神に向かう唯一の道は体験によるのであり、信じることによるのではない。信じることでおまえは取り逃がす。信仰を落としなさい。此の道だろうがあの道だろうが、だ。真実の人は信仰を持っていない。賛成も反対もない。彼は、神はいるとは言えないし、神はいないとも言えない。知ることなしにどうして「神はいない」「神はいる」と言えるかね。おまえに言えるのは「わたしは知らない」とだけだ。それが真正で真実で正直なことだ、「わたしは知らない」からしか、何も始まらない。おまえたちは、いつも入り口に立って取り逃がし続けている。
「わたしは知らない」で始まり、「わたしは知らない」で終わる。だがそこにはたいへんなちがいがある。初めに「知らない」と言うとき、それは自分は知らないという事実の表明だ。終焉にさいして「知らない」と言うとき、それは体験して知っていてもあまりに広大で、どんな言葉もそれを収容できない、ただおまえの存在と体験とだけが、おまえの臨在だけが、「知っている」と言えるのだ。
☆ 神を掴み取ろうなどとするのはやめなさい。神がおまえに入ってくるにまかせなさい。神を所有しようとしてはならない。神の探求などやめなさい。神を探し出そうと努力するそのことで、おまえは一つのことを見失うのだ、神はすでにおまえの内側にいるという真実を忘れて行くのだ。探求をやめてごらん。何もせず、 静かに座っていると、春が来て草はひとりでに萌え出ている。
2011 3・22 114
* バグワンにわたしが出逢ったのは、ホームページを開いた1998・平成十年より一年以前で、以来ほとんど一日も間をあけず読み暮らし、また書き暮らしてきた。こんど「生活と意見」として括っていたホームページの日録をやめたあとへ、十数年「バグワン」に触れて書いた記事を、談話風に取り纏めて行こうかと思いかけている。
わたしのバグワンへの思いが、日録を訪れて下さる方々にどれほどのものであったかは分からない。若い人にはバグワンはまだ早いかも知れないが。永い期間継続してバグワンとの思いを書き込み続けてきたわたしには、われ独りででも顧みておくに足る大きな体験であった。
* 万一にも娘・朝日子の目に触れる機会が有れば、なにかしら感慨が湧くことだろう。バグワンゆえにわたしは多くを支えられてきた。朝日子が手渡していった「一生の奇会」であったと、シドッチ神父を接見し訊問したときの新井白石の言葉を借りることも出来る。
* 今日も『一休道歌』から少しバグワンに聴きたい。
☆ 論理は人間が創った、世界の論証だ。論理は人間が実在を押さえつけようとする小さな知解だ。ところが実在は矛盾や神秘すら孕んで、とてつもなく大きい。大きな実在に近づくには小さな論理は落とさなければならない。
よく観るのだ、すべて小さな論理は、まるでものごとが分割され、完全に分割され、橋渡しが不可能なほど分割されているかのようにおまえを説得する。だが観るがいい、そうではなくすべての両極はともに結ばれ、橋渡しされている。たとえば誕生と死は同じ実在の二つの局面だ。安易に分割することで実在を限局してはならない。論理は分割する。そしてそれが上分別だと主張するが、だから間違えるのだ。愛は愛、憎しみは憎しみ、二つは出逢わないと謂うが、とんでもない、二つはいつも出逢っている。愛は憎しみ無しでは存在し得ない。憎しみは愛無しでは存在し得ない。論理は謂う、いつも愛しなさい憎んではいけないと。それは愛の虚構、憎しみの虚構を幻想しているだけだ。あげく愛は殺される。生は、実在は、愛は知っているが、そんな分割の論理など知らない。気付いてもいない。生は非論理だ。論理的なマインドが常に陥っている馬鹿馬鹿しさを見るがいい。
論理的な人は遅かれ早かれ、生は不条理だと言い始めるが、生が不条理なのではない、生に論理を押しつける、そういうおまえたちの努力が生を不条理に見せてしまうのだ。おまえのマインドはおまえの勝手な意味を生に押しつけようと躍起に働くが、生には何も押しつけられない。するとおまえは生は無意味な何かだと腹を立てる。
ところが鳥たちは生を無意味だと感じない。河も感じない。花も風も感じない。彼らが論理を持っていないからだ。すべてあるがまま、生と共に寛いでいる。
論理で生きている人は、じつは臆病なのだよ。論理はおまえを守るからね、だから恐怖はいつも論理と一緒にいたがる。
いつであれ、愛に似た何かがおまえのハートで動き始めると、論理から抜け出せる可能性がある。勇気が湧いてくる。
論理は果てしなく論議するが、愛は、生は、笑い出す。踊り出す。そういう生や愛にわたしは賛成だ。論理に反対はしないがね。
2011 3・23 114
* 山本健吉先生の『芭蕉』を、もう数日で読み終えるところへ来て、すこし胸迫る思いを堪えて耽読している。
この秋は何でとしよる雲に鳥 芭蕉
終焉を予覚したような寂寥をはらんで、芭蕉が無人の軽みの境を歩み去ろうとしている。芭蕉との、いわば真実初対面の初体験であった。感動に、このところ毎夜震えている。
2011 3・23 114
* 源氏物語「あふひ」の巻を読み終
えた。ついでに、その方の晩年にむかって親交をいただいた某教授による、源氏物語の滑稽をあらわした一面を説かれる懐かしい口調に触れた。
『もののけ』では「市」と「虹」との世界的に展開されていた不思議をさまざまに教わった。
そしてバグワン。
このところ浴室ではこの三冊を愛読している。血圧がさがツテ睡くなることがあると、ざぶざぶ顔に熱い湯を当てる。と、眠気は飛んでしまう。
2011 3・24 114
* 夜前、とうどう山本健吉著『芭蕉』全三部を読了した。小説等の創作を別にし、論攷ないしは評釈等のなかで、わたしの読書史の十指のうちに数えたい、感動の名著であった。第三部の、終焉に到る芭蕉の一句一句、残り少なくなるのを心より惜しむ思いで耽読し長嘆息し全身で共鳴した。山本先生との、わずかとはいえ印象深い私的な思い出も湧くようにわたしをとらえ、ああよかった、嬉しかったとしみじみした。先生の選ばれた芭蕉句は、感謝をこめて「 e-文藝館= 湖 (umi)」 に紹介した。さらに拡充を考えているが、先生の深切な鑑賞を読みたい人は、ぜひ新潮文庫の上下巻を座右に備えられるようお奨めする。
* 七十五年を生きてきて、今ほど落ち着いて「読書の幸福」を身に浴びた時期は過去に無かった。もとより思い起こせばすばらしい出逢いは少年のむかしに数限りなかった。バルザックの『谷間の百合』など挙げれば笑われるだろうか。谷崎の『吉野葛・蘆刈』を岩波文庫の☆一つに惹かれて買った感激。そして『細雪』や、人に贈られ聖書のように耽読した漱石の『心』。夜通しの腹痛に呻きながら読み終えた藤村の『新生』、また文体の津波を夢に見た鴎外『渋江抽齋』や露伴『漣環記』等々。
だが読書とは再讀から以降がほんとうのと思い決めて以来の数十年の体験は、読書の喜びを或いは「読み術」も含めて、厚い地層のようにわたしの心身に積み重ねてくれた。なるほど、今がいちばんで、あたりまえなのだと思う。
もう残り少ない余生と分かっている。初めて読んだ『芭蕉』もまた読み返す機会に恵まれるか、確実には言えない。だが、死力の許す限り読書はわたしの楽しみの最たる一つであり続けるだろう。
* 久しいお付き合いの播磨の田中荘介さんから『わが余生』と題した限定記念の一冊を頂戴した。田中さんは「余生」の二字を楽しみの残された「休息 rest 」の生だと言われる。そうでありたい。
2011 3・15 114
☆ バグワンに聴く 『一休道歌』より。
仏陀のメッセージは、ひとつの言葉に凝縮できる。「自由」だ。絶対的で無条件の自由。外的な束縛からだけでなく、内的な束縛からも自由であること。他者からだけではなく、自分自身からも自由であること。
他の宗教も自由について語る。だが、それらは、仏陀がそれについて語った、あの透徹した意味を備えていない。他の宗教は、自己は自由でなければならないという意味で、自由について語る。仏陀は、それに対する新しい次元を携え、まったく逆の意味で語る。
仏陀は言う。「人は、自己そのものから自由でなければならない」と。自己からの自由こそが、眞の自由だ。
自己は束縛だ。おまえは、他者ゆえに束縛されているのではない。おまえは、おまえゆえに束縛されている。 おまえ″が消えないかぎり、束縛は続く。
憶えておきなさい、仏陀が自由について語るとき、政治家たち、僧侶や他の者たちによって語られるありふれた自由を意味しているのではない。
社会的、政治的自由とは、他のすべての人と同じよう行為し、服を着、稼ぎ、話し、買うかぎりにおいて、おまえは自由だということだ。ある条件のもとでだけ自由だ。だが、条件があまりに多いので、自由はまやかしであり続ける。
何であれ、おまえのなかで自然発生的に起こることが完全に許され、受け容れられないかぎり、おまえは眞に自由ではありえない。人間はプログラムされている、おまえには青写真が与えられている、何であるべきか、いかにあるべきか、何が受け容れられ、何が受け容れられないかが。そのプログラムは、おまえがそれらを意識したことがないほど、おまえの存在にあまりに深く埋め込まれている。それで、まるで、おまえが自由から行為しているかのように見える。おまえはこの上もなく騙されているに過ぎない。
おまえが、自分は自由から行為していると思っているときですら、自分は自分自身の良識から行為していると思っているときですら、実はそうではない。社会は、ひじょうに巧妙な方法でおまえを統制(コントロール)している。子供が誕生する瞬間、社会はその子をプログラムしはじめる。社会は、おまえをコンピューターのように扱う。おまえに食べ物を与え、プログラムしつづける。それは、おまえの脳に埋め込まれた電極に似ている。それはおまえを統制する。それがいわゆる「良識」の何たるかだ。
だが仏陀は、そういう機械的な良識には賛成しない、それどころか彼はおまえたちをそんな首輪のような良識から自由にする。たんに時代や県政の都合でプログラムされた良識から自由でいることは、政治、社会、宗教、道徳律から自由でいるということだ。仏陀が人間にもたらした、これが、尊厳というものだ。
物ごとに執着せざる心こそ
無想無心の無住なりけり 一休禅師
これが自由だ。ほんとうに生きている人は、ただ生き、流れ、呼応できて、敏感で、臨機応変だ。あるがままに生きる。彼は、そうだ、鏡に似ている。押しつけられて固執した固定観念を持っていない。出逢う物が何であれ、そのすべてを、その真実を、真の姿を無垢の鏡は映し出す。だが鏡は執着しない。画像にしがみつかない。執着してはいけない。
そうなのだ、そんな鏡の状態がおまえのブッダフッドだ。映し出す特性を絶えず新鮮に保ち、 若々しく保ち、純粋であり続けなさい。知りなさい、だが知識に囚われてはいけない。愛しなさい、だが欲望を創りだしてはいけない。生きなさい、その瞬間、その今・此処に身を委ねなさい。無意味に振り返ってはいけない。
そうなのだ、惨めさとは執着の影にほかならない。執着する人はそれゆえに澱んだ水たまりになる。悪臭を放つ。この世のものであれ、あの世のものであれ、何の違いもない、執着が問題だ。
2011 3・15 114
* バグワンも芭蕉も、わたしを励ましてくれる。
2011 3・17 114
* 野宮での御息所との別れは何度読んでも哀しく美しい。「葵」巻でうとましい車争いがあり、烈しい生き霊のうらみがあり、それでも源氏と御息所とのなかに動かしがたいのは、互いの敬愛であった。かの子と一平とにも太郎とかの子にも、そして眞に恋愛できている誰しもにも、その愛がある。「つきあう」のとはちがう。「賢木」巻、身に沁みてすばらしい。
いま、『若きヴェルテル』は、恋愛の苦しみに呻いている。悶えている。得て得られぬ恋のかなしみ。悩み。その激烈。世界文学でかほどまで「失恋」を突き刺すように描いた作は無い。ゲーテは、自作『ヘルマンとドロテア』は繰り返し自ら愛読したという。『ヴェエルテル』はあれほど読者の熱愛を受けたけれど作者自身はほとんど読み返さなかったという。つらいが、美しくかつ若々しくオリジナルな名作である。
そしてキチイとレーヴィンとは、再会した。アンナは苦境に孤立している。『アンナ・カレーニナ』は幾色もの愛と苦しみとの高い炎をあげ、燃え熾ってきた。
ああそしてまた『蘆刈』の男の、お遊さんを語り継いで倦まないなんという不思議な日本語の美しさだろう。典型を産み出す眞の藝術の魔の魅惑。その虜になった幸福が、いまのわたしに生き生きとまだ働いている。文豪が手招きしていた作に秘めた「謎」解きに、わたしは、少年から壮年までの歳月を惜しまなかった。文学への愛がわたしを導いた。
* そして、バグワン。『一休道歌』の彼に聴こう。
☆ 覚めていなさい、そして聴きなさい。まさにあるがままのおまえで まさにあるがままのおまえで、おまえはブッダなのだ。おまえに付け加えなければならないものなど何も無い。これを認識するその日、おまえは驚くだろうよ、おまえは笑い始める。
* この、「おまえは思わず笑い始める」だろうというバグワンの言葉に、わたしは惹かれた。あ、となにかに気付いて笑い出していたという覚え、自分にも何度かはあったなと気付いた。笑い出すというのは、大きな或る証明なのだ、兆したのだ。
☆ ひとりの僧侶が、かつて、ある禅師に尋ねた。「犬には仏性があるでしょうか?」
彼は応えた。「そのとおりだ、ある」
僧侶はさらに尋ねた。「あなたには仏性がありますか?」
彼は応えた。「いいや、私にはない」
僧侶はさらに言った。「でも、私は、すべての人に仏性があると思っていました!」
師は応えた。「そのとおりだ。しかし、私はすべての人ではない! 実際、私は誰でもない人だ だとしたら、どうして私に仏性がありえよう」
むろん彼に、仏性はある。だが禅の人はこのようにして謎をかけ、自分自身を表現する。彼は要点をはっきりさせている。おまえの「誰でもなさ」のなかで、あるいは、おまえの「平凡さ」のなかで……そして、その平凡さは、おまえが、自分はひとりのブツタだという主張すらしないほどのものでなければならない。もしおまえが主張したら、おまえはブッダではない。だから彼は言う。「そのとおりだ、しかし、私はすべての人ではない。実際、私は誰でもない人だ どうして私がブッダありえよう」と。
ほんとうに知ると、人は主張しない。
2011 3・27 114
* 恩師給田みどり先生、平成元年十一月刊の歌集『夕明かり』より、最初の撰歌を終えた。この年の夏のあとがきに、岡本大無さんに入門されて、四十年とある。数えれば昭和二十四年ごろから本式に歌を始められたことになり、それは私の新制中学二年生の年に当たる。先生はこの年、わたしの学級の担任だった。一年生の時英語をならい、二年生から国語を習った。その当時、わたしは鞄に詩と作文と俳句と短歌のための四冊のノートをしのばせていて、短歌のノートだけが、ずうっと長続きしたのである。
先生には、これより前にもう一冊歌集があった。『むらさき草』と謂わなかったろうか。その一冊も書庫に在るだろう。
2011 3・27 114
* レーヴィンとキチイの結婚式、トルストイの偉大な力量が光彩陸離と輝いて。アンナが登場と舞踏会の場面、ブロンスキイの競馬の場面。レーヴィンの農民との草刈の場面、キチイが再度レーヴィンの求婚を受け容れる場面など、大きな場面が名舞台のように、最良のシンフォニイのように書き上げられてゆく。舌を巻く。
* 潤一郎の『蘆刈』にも久方ぶりに揺すられた。この物語を、母と子との物語として初めて読み抜いたわたしの昔を、とても嬉しく誇らしく思いだした。蘆間の男は自分はお遊さんの妹静と父との子だと明言していながら、そしてそれを誰もが疑いもなく初出以来読んできたのを、そんなバカな話があるか、間違いなく男はお遊さんと父との仲に生まれていると、精細に証明し照明して見せた。「蘆刈」「春琴抄」「夢の浮橋」の読みを、また「細雪」を、革命的に読み替えた「谷崎を読む」仕事は、文字通りわたしが作家になることを通し何より実現したかった根の念願であった。
いま、『春琴抄』を読み始めている。
2011 4・2 115
* 『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』という、えらく長い題の小谷野敦氏の本を貰った、と思うまに妻が病院へ持っていき、入院中に面白がって読み終えてきた。目次を見ただけで何が書いてあるか分かり、実際に読んでみても新たに教わるものはなかった。知識欲のある優等生は、たいがい昔からこういうことに関心を持つ。うちの息子の小学校は、小学生なのに「卒論」のようなことをやらせ、息子は気張って「名前」を論じ? た。それも『ゲド戦記』その他、「名」の持つ神秘性に触れながら、日本の有力氏族の名字に関心を持ち、せっせと書いていた。
諱や諡や号や通称や、武家名など、名前への興味の持ち方には選択肢がたくさんあり、歴史好きの子供ならなおさら興味をそそられる。わたしの育った京都では、近辺根生いの家などでは、奥さんにも女中にも「替名」がついていた。名を替えるという行儀に子供の頃から馴染んでいたのである。
そういえば「 ペン電子文藝館」 を創設の頃、同僚委員の森秀樹さんは、「百姓名を読む」という論攷を呈示されていた。
* 小谷野さんの本でガッカリしたのは、「秦」「漢」氏らに、ことにわたしの縁あって称している日本列島での「秦氏」に、まるで触れてないこと。日本の秦氏は、べらぼうに多数の苗字を派出して、ま、昔から有名であり、法然上人も、長曽我部という大名も「秦氏やで」と、昔、秦の父に教えられた。島津も桜田も井出も和田もなどと聞いたことがあり、井出孫六さんに電話をもらって「同族ばなし」に花が咲いたりしたこともある。
真偽を調べるまでの興味はないが、それよりも、名前に関しては、大津父とか馬子とか不比等とか家持いった「古代な名前」の時代に、どんな幼名や通称があったのか無かったのか、或る時期から急に、なぜきっぱりした良房とか道長とか義家とか時宗とか家康とか吉宗とか隆盛とかいう諱ができたのか、それでいて、天皇の諡など、桓武だの清和だの光孝だの難しげだったのが、なぜ急に一条だの堀河だの鳥羽だのとくだけていったのか、上流下層とも女の子には名付けたのか名付けなくても済んでいたのか、遊女や花魁の名はどんな変遷をしてきたかなど、興味は尽きないのであるが、「武家名」に関心を絞ったらしい小谷野さんはほとんど触れていない。ほんとうは「名乗る」「名を問う」ということ等にも踏み込んで小谷野説が欲しかった。そこには名の本質の不思議があるし、名分論や「無名」の意義も湧いて出るだろう。署名・無署名の問題も小さくない。
また「丸」名乗りにも、小谷野さんの「糞」説だけでなく、もっと深刻な背景があるだろう。犬や牛馬にも船にも丸がつき、仮名手本の松王丸、梅王丸、櫻丸もある。
* 中宮が先で皇后があと、とあるが、后、妃、夫人の制より先に「中宮」があったか。光明子は中宮と呼ばれたか。円融帝のときが始めではなかったか、中宮の制は。
* ま、それほど名前はポピュラーでもあり神秘でもある。
* 小谷野さんは、最後に「匿名」という点に、纏めて触れている。これにはわたしも関心がある。
小谷野さんは触れていないようだが、上古の「童謡 わざうた」中世の「落首」なども含めて、匿名は一つの文化でもあるし、便所の落書きなみに品性下劣で卑怯なヤツもある。
ことにネット時代に入ってからの「匿名」の犯罪的なあくどさはひどいものらしいが、わたしは一切そういうバカげたものは覗きもしないし、見ずにおれないという人の気が知れないが、他方こと「公人」に対してわたしは、政治家も創作者も学者・研究者も藝人も公務員も、甲乙なく実名をあげて批評すべきは批評してきた、ただし自身の実名をいつも隠すことなく、文責は全て明かしてきた。不服があれば聞くし、必要なら議論・討論をすればいいという考え方である。おかげで、自分の婿や娘に訴えられて五年越しの裁判沙汰とは、愚かしすぎる。むろん訴え出る方がである。
ただし、わたしにも「匿名」原稿を書いていた時期がある。その頃はまだインターネットもホームページも無かった。新聞社にまともに依頼され、有名な匿名欄に何年ものあいだ書いていて、多いときは月の三分の一ちかくもわたしの原稿が出たほど。おそらく、全部まとめると「湖の本」の一冊もあるだろうか。
文藝より、むしろ時事問題を熱心に取り上げて批判し続けた。そして数年してすっぱりと切り上げた。べつに理由はなかった。むろん匿名には匿名の歴史文化性を認識していたので、なんら後ろめたさも持たなかった。
ネット時代の最低限、絶対に守りたいエチケットは、なにを書くにも文責を明かしておくことだと、わたしは裁判所に向かっても明言している。
2011 4・3 115
* じつは四日の夜、五日の払暁、腹痛で独り苦しんだ。妻は起こさず、トルストイを読んで堪えた。さしこむ痛みと『アンナ・カレーニナ』の美事な叙述と展開とが押し合い引き合い、横臥のママでは堪えきれずに、坐して、腹部を温めて読んで行くうちに静まっていった。痛みがずうっと下へ降りていって、そして抜けていった。地震以降、妻の入院手術や誕生日をはさんで気疲れが来ていたのだろう。
2011 4・6 115
☆ バグワンに聴く 『一休道歌』より
頭を脱け出して、ハートのなかに入りなさい。考えることを少なくし、もっと感じなさい。思考に愛着を持ちすぎてはならない。感情の中へもっと深く入ってゆきなさい。
ほんとうに覚醒したい者は感受性のあらゆるありようを学ぶ必要がある。もっと感じなさい。もっと触れなさい。もっと見なさい。もっと聴きなさい。もっと味わいなさい。
目覚めていたいと願うなら、おまえは感受性豊かでなければならない。おまえはすべての感覚が炎になるのを許さなければならない。そうなったらハートは生き始める。そうなったらハートのハスの花が開き、二度と混乱はない。
関係の世界にふけりすぎてはいけない。なぜなら、すべての関係は夢だからだ。自分は完全に独りだということを憶えておきなさい。
この生はほんの一夜の宿にすぎない。それに深入りしすぎてはいけない。宿サライで一夜を過ごすとき、おまえは巻き込まれない。
この生はまさに旅だ。この生は橋に過ぎない。それを通り過ぎるがいい。超然として、離れたままでいるがよい。
おまえが巻き込まれていなかったら、争いという問題、苦闘という問題はない。ひどくもがき苦しむのは巻き込まれた人達だ。朝になれば旅立たねばならないというのに。
もしそれと闘い始めたら、おまえはただ自分自身と闘っているだけで、他の誰とでもないのだ。もし生と格闘を始めたら、当然おまえは防禦してますます閉じて行く。そしておまえは結局打ち負かされる。
もし生と闘わなかったら、おまえは流れとともに浮かぶ、おまえは河とともに行く。おまえは下流に向かう。おまえはただ河とともに、いわば身を委ねている。これが信頼だ。これが明け渡しだ。帰依だ。
生と闘わなかったら、生は簡単にお前を助けてくれる。これが手放しだ。レット・ゴーだ。しがみつかずに生きること。喜びながら生きること。執着や所有欲に翻弄されてはいけない。
* わたしは叱られている。叱られて当たり前な、ダメな毎日だ。 2011 4・7 115
☆ さてさて
隣町で英語の先生してきました。
お元気ですか、風。
昨夜は相当揺れたのではないですか。富士山も揺れたくらいですから。
まだまだ揺れますねえ。
就寝前に、アンナ・カレーニナを読みすすめました。
オペラへ行ったアンナが、公衆の好奇と蔑みの視線を浴びて帰ってくるところ、その感じを見事に描写していて、うまいなあと思いました。
身重のキティとリョーヴィンの仲睦まじさ、素敵ですねえ。
リョーヴィンの兄が、キティの友人にプロポーズしようとする場面も、ぐっと引き込まれました。で、プロポーズし損ねたときには、「いやー、そうきたか」と、唸ってしまいましたよ。
読めば読むほど、力作、大作です。
大きくて、且つ、細部がすばらしく瑞々しい。
ではでは。風。お元気で。 花
* トルストイにゾッコンそうなのが愉快。ほんとうに、『アンナ・カレーニナ』の文学藝術としての完成度は、富士山よりも高い。美事な大場面が必然の力学で、いわばとりどりの美味い団子の串刺しのように一貫しつつ変幻自在に展開して。一つ一つの団子の美味いこと、巧いこと。
* しかしまたゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を、生と死との炎として克明に読み終えた切なさというのも、途方もない迫力であった。わたしがこれを人に借りて貪り読んだのは、中学生の時であった。あのころわたしもまた幼いひとりのヴェルテルじみていた。だが、あんな歳でよくこれを読み終えて胸を熱くし、いっそ懊乱できたものだと、そのことが今七十五になって不思議に思えている。
『ヘルマンとドロテア』もよかったが、若い人にはあえてわたしは『ヴェルテル』を通して胸の内を清い炎で洗浄して欲しいと思う。
2011 4・8 115
* しんからワクワクする嬉しい読書生活を満喫しているが、ことにこの数ヶ月は夢のようである。
只今、源氏物語は「賢木」というドラマに富んだ巻を通り過ぎようとしていて、裏打ちのように歴史物語の栄花物語が、ちょうど紫式部日記の冒頭と重なる、道長孫として皇子誕生の盛儀がきらびやかに書かれている。源氏物語の魅力汪溢を、栄花物語がしっかりと底支えしてくれている。
ゲーテの二つの名作を読み終え、トルストイは『復活』についで最高峰といいたい『アンナ・カレーニナ』が佳境を登り詰めている。志賀直哉全集二十巻をやがて読み終えようとし、谷崎潤一郎を『痴人の愛』『蓼食ふ虫』『盲目物語』『蘆刈』からいま『春琴抄』が、なんと豪華なこと、花満開のようにすばらしい。願わくは『吉野葛』も加えたかった。
そしてバグワンは、限りなくわたしに聴かせる、生のよろこびと、死の受け容れとを。
読書の中核が、こうも豊沃であることの幸福は、うるわしい日盛りに似ている。感謝に堪えない。
2011 4・9 115
* 何が有れ、日々の「いま・ここ」を全うするのみ。仕事も用事も、また楽しみも。
春愁に似て非なるもの老愁は 登四郎
バグワンとともに在る日々を喜ぶ。
* バグワンに聴いていた。彼はこんな話をしてくれた。
☆ 寺院で行なわねばならない祈りや、ヒマラヤの洞窟でしか行なえない瞑想 - に大した価値はない。なぜなら、二四時間、それを行なうことはできないからだ。ヒマラヤの洞窟に住んでいる人でさえ、食べ物をもらいに行かなければならない、やって来る冬に備えて薪を集めなければならない、雨から身を守り、夜の野獣に備え、何か対策を講じなければならない。その洞窟のなかですら、彼は千
とひとつのことをやらなければならない。おまえは、二四時間、瞑想ばかりしてはいられない、それは不可能だ。
だが、仏陀はそれを可能にする。彼は言う。瞑想を、ふだんの生、常平生から切り離してはいけないと。ただただ覚めて、油断無く、注意深く、よく見守りながら、瞑想すればよい、寺院やヒマラヤへ逃げ込まなくていいのだ。
聴くがいい。
ある弟子が、師の一休禅師を訪ねてきた。その弟子はかなり修行を積んでいた。雨の日のことだ、彼はなかへ入るとき、履きものと傘を外に置いた。彼が挨拶をすますと、師は彼に、傘を、履きもののどちら側に置いたかと尋ねた。
なんという質問だろう……おまえは、師がこんな馬鹿げた質問をするとは思いもよらないだろう ー 神のこと、クンダリーニが昇ること、チャクラが開くこと、頭のなかに光が生じることを、師が尋ねるのならわかる。おまえたちはとかくこういう偉大なこと オカルト、秘教的なことがらについて尋ねたがる。
だが、一休さんはごくふつうのことを弟子に尋ねたんだ。キリスト教徒の聖者ならそんなことは尋ねなかっただろう。ジャイナ教徒の僧侶ならそんなことは尋ねなかっただろう。ヒンドゥー教徒のスワミならそんなことは尋ねなかっただろう。それは、真に覚者(ブッダ)と共に在る者、覚者の内に在る者--真に覚者である者にして初めて為しうることだ。一休さんは弟子に、傘を、履きもののどちら側に置いたかと尋ねた。
さあ、履きものや傘が、精神性とどんな関係があると言うのだろう ~ もしおまえが同じ質問をされたら、おまえは気分を害するだろう。おまえは、こんなトンチキな男が師であるはずがないと思うだろう。何という質問だろう ~ そのなかにどんな哲学がありうると言うのだろう?
だが、そのなかには測り知れない価値を持った何かがある。一休禅師が、神について、クンダリーニやチャクラについて弟子に尋ねていたら、それは愚にもつかず、まったく無意味なことだっただろう。だが、これには意味がある。その弟子は思いだせなかった、まったく、履きものをどこに脱ぎ、傘を右か左か、どちらの側に置いたか、誰がかまうだろう~ 誰が気にするね~ 誰が傘にそれほど注意を払う~ 誰が履きもののことを考える~ 誰がそこまで気を使う~
だが、それで充分だった。その弟子は師から拒絶された。師は言った。「では、行って、さらに七年瞑想するがいい」
「七年ですって」と弟子は言った、「こんな小さな落ち度のために~」
一休は言った。「これは小さな落ち度ではない。落ち度に大きいも小さいもない。おまえはまだ瞑想的に生きてはいない、それだけのことだ。戻って、さらに七年瞑想し、出直してこい」
これが仏教の本質的なメッセージだ。
注意深くありなさい、あらゆるものに対して注意深く。そして、どんなものごとも、これはつまらない、あれはたいそう精神的だというふうに区別し分別してはならない。それは、まったくおまえしだいだ。注意深く、心を配れば、あらゆるものが精神的になる。注意を怠り、心しなければ、あらゆるものが屑だ。
一休のようなマスターが自分の傘に触れると、その傘はこの上もなく神聖だ。が、たとえおまえが神に触れても、神はつまらないものになる。それはおまえの触れ方しだいだ。
* そしてバグワンに、さらにわたしは聴いた。
☆ 私たちの真の家は心( マインド) ではない。心は旅の宿にすぎない。夜の宿、一夜の宿にはふさわしい。が、憶えておきなさい、朝になれば私たちは行かねばならない。心はおまえの真の家ではない。心が創りだすのは夢だけだ。どうして夢がおまえの真の家でありえよう~ 心が創りだすのは欲望だけだ。欲望のなかで、どうして生きることができよう?
人々がやっていることはそれであり、彼らが苦しんでいるのはそのためだ。彼らは、欲望のなかで生きようとしている。彼らは、ありもしない夢のなかで生きようとしている。欲望とはまさにそれを謂う。彼らは、未来のなかで生きようとしている。未来のなかでどう生きることができよう 在るのは「いま・ここ」だけだ。唯一可能な生は、現在のなかにある。そして、心はけっして現在のなかにはない。それは、過去と未来とにしか無い。存在しないモノの中にしか住めないのだよ、マインドという心はね。
ちょっと自分の心マインドを見守れば、おまえは要点を見抜くだろう。
* 一休さんのはなし、胸に沁みた。
2011 4・20 115
* 今日は水曜日
お仕事は休みですか、それとも、もう退職?
ことし満開の櫻は、地元を自転車で走って観たていどです。青山へ墓参に出掛けた日はもう花吹雪でした。ときどき隅田川の橋を独りで歩いて渡りに出掛けています。主流の橋はもう三つほど残しているだけです。歩いて渡るというのがめあてです。支流や運河の小橋まで含めればたいへんです。
本は源氏物語を今、須磨へ来ています。あわせて栄花物語も。若きヴェルテルを読み終えて、アンナ・カレーニナを楽しんでいます。ジャン・クリストフも。カポーティの「冷血」も。
志賀直哉の全集全二十二巻を読み終えようとしています。谷崎は、痴人の愛。蓼食ふ虫。盲目物語。蘆刈を読み、今、春琴抄を楽しんでいます。先日まで山本健吉の芭蕉に没頭していました。
ほかにも沢山相変わらず読みつづけ、そして繰り返し繰り返しバグワンも、毎夜。
日記では地震津波にも、ことに原発の方へ多く言葉を用いています。
外へ出るとうまいものを探して食べています。お酒もあれこれよく飲んでいます。薬も山のように呑まされていますし、注射も欠かしませんが、体調は不可ほどでもなしに、可ともいえませんが。
土日等の人様の休日には家にいます。ま、そうは出掛けていません、校正の必要なときなど、ゲラをもって外へ行きます。空いた電車に長時間乗っているのも好きです。 湖
2011 4・20 115
* 昨日遅くになり
かなり怖じ気づく強い揺れが来ました。震度3でしたが、ドキッとし、揺れるディスプレイを支え持っていました。
まだまだ何があるか分からない。地盤沈下で家の前が海面になったり、高地でも山津波で家が傾いていたり。行政がキメこまかに働いて欲しいと願う一方、我が事に有らずとは言えぬ地震国の日本に、みな一様に暮らしていて、瞬時に何が襲ってくるかも知れないのを恐れます。風のところは、海からはるかに遠く、大きな多摩川や荒川からは自転車で一時間半はかかるほど離れていますが、地下に断層はあるらしく。
トルストイは、あとが少なくなるに連れ惜しむ気持ちの出る人です。
風は、源氏物語にも相変わらず魅了されています、今は須磨の巻です。源氏は物語、同じ時代の現実を書いている栄花物語は歴史物語。表裏を成していておもしろいです。
それとやはり谷崎世界にも心豊かに惹きこまれています。春琴抄が済むと、いきなり鍵へ行くのかな。少将滋幹の母も久しぶりに読みたいけれど。
しばらくメールがなかったので、具合が悪いのかなと心配しました。花粉には、まッこと困ります。 風
2011 4・20 115
* 歌誌「綱手」四月号巻頭に、「短歌研究」昭和二十一年三月号短歌欄所収二十九人中の五人の、まさに選ばれた「戦後短歌」を読んだ。なかでも冒頭、土岐善麿「食後」十首に感嘆。実感の熱は熱く、表現は沈痛なまで抑制されて胸を打つ。比較と云うもおかしいがつづく四人の歌人の最初の一首ずつを挙げておく。土岐の歌の第一首の衝撃にわたしはのけぞった。
☆ 食後 土岐善麿
あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか
遥かなる南の島にありとのみ伝へ来し子の母とともにありぬ
かくなれば勝つよりほかはなかりしを戦ひつつ知りぬ勝ちがたきことを
このいくさをいかなるものと思ひ知らず勝ち喜びき半年があひだ
いくたびか和平のときをこばみつつ敗れてつひに悪を遂げたり
いざ今こそ道義のちからまさやかに戦はしめしものを撃つべし
軍閥の最後のいくさ敗れしときはじめて正しく世界の民となりぬ
ただ一途にたたかはざるべからざりし若きいのちよ皆よみがへれ
ふとしては食後の卓におしだまり澄みゆく朝の空を仰ぐも
☆ 杉浦 翠子
庭も雪遠野も雪の山家ずみいつくるならむ食満つる世は
☆ 吉野鉦二
旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき
☆ 復員して 石川信雄
国やぶれ山河ありけり背戸川のたぎちを染むる秋の日の色
☆ 筏井嘉一
人民は見ざる聞かざる言はざるを賢しとして国敗れたり
* チェルノブイリ25年、「石棺」と呼ばれる爆発原点内部の立ち入り取材をテレビ朝日は見せた。すさまじい。しかもなお今日三千人とかいう人数が、24時間体制で惨状の飛散を警戒し勤務しているという。汚染は甚だしい暴威をまだ静めていない。福島がどこまでこのような惨状への陥落を防ぎきり放射能の脅威から国土と住民との危難をすくい取れるか、甘いことを言っていては蟻地獄のようにチェルノブイリへ陥るおそれがある。軽率な安全論者の妄言に惑わず、少しでも早く少しでも確実な危害の軽減と禁圧に成功しなければならない。
2011 4・23 115
* このところ騒ぎがちな気持ちを静めたいとき、黙々と給田みどり先生の歌集『夕明かり』を書き写している。先生の気息のひそけさ、視線の静かさ、想いの懐かしさをわたしもまた追体験させて頂いている。ああこんなふうに、またこんなふうに眺め詠めていらしたんだと歌の一首一首に入り込んで、わたし自身の思いをそこに置いている。歌史の玉でないにしても、ここに生涯を学校の先生として努められまた老いて静かに余生を翫味された女先生のお人が「私史の玉」として光っている。慕わしう。
2011 4・24 115
* 一休の次の道歌を読んだ或る西洋の学者は、「病的」だと評し、バグワンは見当を失していると嗤っている。
春ごとに咲けるさくらを見るごとに
なほはかなしと身こそつらけれ
「病的」とは花散る苦痛に対して感傷に過ぎるという非難か。バグワンは代弁している、「これほどにも美しい生が、こうも脆いとは。これ程にも輝かしいのに、こうも儚いとは。これほどの美が、こうも短命だとは。これほどにも美しい人々が、大洋のさざ波にすぎないとは。たった今までここにありながら、去ってしまうとは。誰がこの痛みを避け得られるものか」と。「誰でもそれを感じるだろう、これが生きてある者の逃れられぬ苦痛だ」と。
☆ バグワンに聴く。(スワミ・アナンダ・モンジュさんの翻訳を拝借しています。)
一休の歌に何の「病的」があるものか。無い。ありえない。それが真実だ、むしろ「病的」と感じた者に恐れや臆病がある。彼は自分の女性を想ったのかも知れない、花のことを春のことを考えたのかも知れない、そして怖くなったのだろう。人はこの生の無常を見たくない。それどころか執着したい。なにもみな永続すると信じたい。だがおまえも知っている、誰もが知っている、この地上には永遠はありえない、と。おまえもよく知っているが、ところがおまえは自分が知っているとは知りたくない。おまえはそれを隠していたい。だが奇蹟はない。例外は無い。
だが、いいかね。この辛さはおまえを悲しませるものではないのだよ。この辛さは、おまえをもっと注意深くさせるために在る。矢がハートに深く刺さり、自分が傷ついて初めておまえは注意深くなる。いつもいつまでも生が気楽で、心地よくて便利なとき、誰がかまうかね、誰が真相にむかい注意深くなろうと気にかけるかね。友人が死ぬ、おまえ達の女性や男性がおまえを独りのこして去ってしまう。おまえは泣くだろう、だがね、その悲しみや辛さを活かすなら覚醒しうる機会だ、それが。矢は苦痛を与えるが、それは活かすことが出来る。
生は実際に惨めだ。仏陀はそれをおまえに気付かせる、そのほかの何を教えるわけでもないのだよ。
そうだよ、愛着が壊れるときは、当然、きつい痛みがある。おまえがそれを考えても考えなくても、春は去り櫻は散って行く。仏陀はこう言っているのだ、もしおまえがこの櫻の散って逝くものと本当に知ったならば、そのときおまえはけっして彼も散りもしないあの花に、櫻に到達する可能性がある、とね。来ては去る、咲いては散る花にのみ取り憑かれむなしく哀楽しているだけでは、花は、櫻は、永遠にただ流転するだけだ。
元の身はもとのところにかへるべし
いらぬ仏をたづねばしすな 一休禅師
「元の身」とは、どういう意味だろう。元の身とは、マインド= 分別心を持たない人のことだ。条件付けで生きていない人のことだ。自然な人間のことだ。おまえたちは、とかく条件付けしたがる。養成しようとし教化しようとし、その社会や政治体制に好都合な或るタイプの精神構造= マインド= 心を案出しては人に強いる。子供に強いる。ナントカ教徒に仕立てようとする。自然な人間はキリスト教徒でもヒンドゥ教徒でもない。ありえない。
元の身はもとのところへかへるべし
もとのところへ、本来の、本質の「いま・ここ」へ自然に帰る道が、そうだよ、「覚醒」「目覚め」「気付き」なのだ、無明長夜の「夢」から覚めるのだ。
*
* この、我が「HP日乗」を書き起こしたのは一九九八・平成十年三月下旬で、少し調子をつかんだ四月一日ころに初めてわたしはバグワン・シュリ・ラジニーシに触れて出逢いを書いた。以来足かけ十四年、バグワンに聴き続けているわたしを、辛抱のいいヤツじゃなと呆れている人もあろう。わたしは感謝し、満たされている。 2011 4・25 115
* 湯に漬かりながら、「明石」の巻、巻頭からちょうど十頁ほど小声で音読してみたのが、名文すばらしく、わたしのとても好きなあたり。暗転していた物語にはげしい嵐が来て、そして故院の霊もあらわれ一筋の光が美しく差し込んできた嬉しさを、満喫した。「須磨」もいいが、「明石」冒頭は、ことに好き。
* 新潟大、金沢大の教授を歴任されて亡くなった井上鋭夫氏の『山の民・川の民 日本中世の生活と信仰』はかつて夢中で耽読した研究論文集だが、久しぶりに、朱線一杯の本に黒いボールペンを握ってまた読み返しはじめ、のめりこんで愛読している。小説の構想ももっていてナントカして新潟へ行きたい行きたいと願いながら、この三十年の忙しさに果たせぬママ来ていた。
ペンの理事も辞めた、京都での美術賞の選者も強引に辞めさせてもらった、身軽になったのだ、出不精をやめなければいかんなあ。新潟など直ぐに行けるはずなのに。
* 山内昶氏の『もののけ』下巻の面白さも抜群、もう残り少ないのが惜しくてならない。よくもこれに出逢ったものだと、感謝している。
* 浴槽でもう一冊、カポーティの『冷血』に、確実に乗ってきた。もう惨殺の殺人はなされ、このさき、大冊の大半を用いて、さ、どんな展開があるのか、楽しみでならない。
* で、就寝前には、『アンナ』『クリストフ』そして『春琴抄』直哉の書簡集と日記、そして栄花物語。これだけは毎晩読んでいる。そうそう「日本の古典をどう読むか」秋山虔さんの国文学研究の十二選も読んでいる。すこしこれで減らしているのだが、面白いとどうしても総量で長時間沢山読んで寝そびれてしまう。
2011 4・25 115
* 書いてきたものの整頓や保存は自分でもいい方だと思っているが、ひょいと、モノの中や下から、見忘れていたのが現れる。いつどこへ書いたのか書き入れてないプリントであると頭を掻くしかない。今朝は、こんなのが出てきた。
☆ 私の好きな歌 秦 恒平
たふとむもあはれむも皆人として
片思ひすることにあらずやも 窪田 空穂
同じ歌人の今一首とともに、いつもいつも胸に突き刺さっている。
今にして知りて悲しむ父母が
われにしまししその片おもひ
繰り返し思ってきたままを繰り返したい。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍む」も人間関係に生じてくる感情や言葉を代表して言うかのように読んでよい。むろん親と子と
のそれかと、今一首に重ねて察するもよし、もっと広げた間柄にも言えることと読んで、少しも構わないだろう。どのような心情や表
現も、どこかで足り過ぎたり足り無さすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも、「皆人として」避け難い人情の難所なのである。残念なことに、自分のする「片思ひ」にばかり気が行って、自分が他人にさせてきた「片思ひ」には、けろりとしているのも「人、皆」の通常であり、自分も例外ではなかったと、近代に傑出した歌人空穂は、そう嘆いている。
例外でなかった中でも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる自分に対してなさっていた「しましし片思い」を空穂は挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示し、歌人は我が身を切に恨むのである。父も母ももうこの世に亡い。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、両親に「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向かって)しましし」物思いや嘆息や不安の深さには、目もくれなかったのだ、かく言う筆者も。
亡き父をこの夜はおもふ
話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
安んじて父われを責める子を見詰む
何故にに生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
「片思ひ」も、このように読めば、人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気
がつく。ここへ気がついた時、初めて自分が他者にさせてきた苦痛の「片思ひ」に気がつく。尊大と傲慢は、これに気づかない。
吾がもてる貧しきものの卑しさを
是の人に見て堪へがたかりき 土屋文明
我・人ともに「貧」は幾重にも読める。百冊の「エミール」を只の知識として講じるよりも、何倍も大事な真実を歌人たちは告げている。「うた」として「うった」えている。
莫大な「片思ひ」のまま親や子を死なせ呻かせた恥ずかしさに、泣いてこれを書いた。
* 百冊の「エミール」と読んで、ふと余談にわたるが、夜前読み継いでいた谷崎の『春琴抄』本文中、思いがけず「ジヤン・ジヤツク・ルーソー」が現れて、のけぞった。忘れていた。春琴の美貌めあてに冷やかし半分の狼連が稽古にくるのを峻烈にあつかうと皮肉にも真面目な門弟の中にすら「盲目の美女の笞にに不思議な快感を味はひつゝ藝の修業よりもその方に惹き付けられてゐた者がゐたではあらう幾人かはジヤン・ジヤツク・ルーソーがゐたであらう」と、潤一郎は書いていた、ただそれだけ。
ルソーにはそんな変態性欲があり、しかも彼の『エミール』は小児教育の大著だった。さらにしかも、ルソーは妻ならぬ女に生ませた何人かの子を、顔もみず孤児院に預けて終生顧みなかったと。
それにしても、『春琴抄』の凄み、すばらしい。『蘆刈』も『蓼喰ふ虫』も堪能した。『吉野葛』も読みたい。
* また話は飛ぶが、志賀直哉の書簡集と日記のともに戦後を読み継いで来て、直哉と谷崎との親交が、文化勲章の頃からか、ずいぶん頻繁に愉快に深まっていることに気付かされる。「昨日は夕方から谷崎君を訪ね辻留の料理で祇園の舞子四人来て舞ひを見せて貰つた、相客はキーンといふ人と嶋中でキーン帰国の送別会でもあつた (昭和三十年五月十日 志賀康子宛て)」
直哉老境の感想はときに手厳しく、ときに的確で深々と本質を射抜いて通俗な読み物を認めず大衆の安易さに泥むのを嫌っている。語気は若い頃とすこしも変わらない。「昨日自家の者と( 映画) 「月は上りぬ」を見にいつて却々いいと思ひ、感心して来たが、熱海の見物が、 一寸微笑したくなるやうな所へ来ると皆でゲラゲラ笑ふので実に不愉快だつた。大体大衆といふものはさういうものだと思ひ、仕事の事では全く縁なき奴等だと思つた。 (同年二月一日 里見 宛て)」
2011 4・26 115
* アンナとヴロンスキーとの捻れた葛藤へ来て、悲劇の度、ぐっと濃くなった。暗澹。トルストイの筆は容赦なく人間を追究する。
* 明石入道を感激の余り光源氏のもとへ押しやる音楽の一夜。いろんな楽器、いろんな伝承の奏楽、平安の貴族たちをもっとも貴族的に装飾し得ていたのが、和歌の才以上に音楽の才であったことを、これほどみごとに情景として描破した個所は、源氏物語といえども他に無いと思わせる。物語の本文はことさらに触れていないが、源氏の母「桐壺更衣」と「明石入道」とはまぎれない従兄妹の間柄で。それを胸に畳んでおいて今後の明石と源氏との関わりを読み取って行くと、ひとしお面白さに深みが増す。桐壺や明石入道の親達が王氏であったか藤原氏であったかは明らかになっていないが、わたしは非藤原氏であったろうと想っている。王権回復への太い伏線である。
* 光源氏の時代の最高讃美のことばは、例外なく「きよら=清ら」であった。次位が「きよげ=清げ」であった。次位とはいえ、「きよら」「きよげ」の落差は小さくない。この使い分けはじつに厳格。籤とらずになにごとも「きよら」と謂われているのは、光源氏、藤壺宮、紫上。この語彙を注意して見落とさないで読んで行くのもとても大事なポイントである。
* 夜前から谷崎は『鍵』を読み始めたが、讃嘆と驚嘆とを兼ねて、これぞ「凄い」突入。
谷崎潤一郎の豪快な大きさを此処へ来て全身でガーンと受けとめる。「小説」家として、やはり近代日本文学で、質量ともにこの先生の上に立った只一人も想い浮かべることは出来ない。志賀直哉は、人間存在じたいが時代への良質でじつに高度の文学的批評であったけれど、「小説」家としては蔽いがたい限度をもっていた。谷崎の昭和文学は、まぎれもない大輪の名花の満開である。川端も三島も格においてとても追いついていない。
* バグワンと出逢って十四年。バグワンに聴いて聴いて聴いてきた。何を。
マインド=分別心を「落とし」て、「眼を覚ませ」。おまえとブッダとの違いは、それだけだ。ほかには何も無いと。
☆ 生は、あるがままで道だ。何か別の生を求めても無い、あるがままで、あるべきように「生」は在る。それを取り逃がしているなら、つまりおまえが深く眠りこけていることを示している、それだけのことだ。
目覚めなさい。そうすれば、すべてがあるべきようにある。おまえにはたった一つのことだけが必要なのだ、目覚めていること。罪人もいない、聖者もいない。眠りこけている大勢と、目覚めている少数とだけが存在している。それだけが、唯一のちがいだ。大勢が眠りこけていて、少数が目覚めている。ブッダとおまえとの違いは、それだけだ。ところがおまえは覚醒を望んだことがない。
「覚醒」こそ鍵だ。ブッダという言葉そのものが覚めている人、目覚めた人を意味している。さあ、この違いを見るがいい、他の宗教はおまえにこう言う、「善人になりなさい、道徳的になりなさい、聖人になりなさい」と。他の宗教は、おまえを非難する、「おまえはいまあるがままでは無価値だ」と。
仏教は非難しない、抑圧しない。抑圧して狂気や倒錯に追い込もうとしない。おまえの生は抑圧によって変容されたりしない。おまえが間違うのはおまえに罪があってではない、悪くてではない、目覚めないで、眠りこけているからだ。自分がブッダであることに気付いていないのだ。
仏教は言う。おまえの間違いは、罪は、一つしかない、おまえがそれを罪と呼びたければだが……、それは眠り、無覚醒だ。美徳は一つしかない、おまえが美徳と呼びたければだが……それは覚醒、目覚めだ。
どう目覚めるか、いつ目覚めるか、それはおまえの問題だ、わたしによく聴いて注意深ければ、「いま・ここ」にゆったり自然にあるがままであれば、目覚めるだろう、必ず。そして思わず笑い出すだろう。
* そして、ついにと言うか、わたしはすばらしい言葉を聴いた。それはもう明日にしよう、いや、このまま胸に抱いていようか。 2011 4・29 115
* 『アンナ・カレーニナ』を、払暁、読了。
アンナの悲惨な自死を通り過ぎ、巻末でのレーヴィンの心事、自問自答を重ねたすえの大きな「予感」「確信」「自信」への覚醒に、わたしはバグワンの悟了、エンライトンメントに近似した励まし、わたしへの励ましを感じた。
大きな名作であった。読み直せたよろこびに満たされている。 2011 5・2 116
* バグワンは正当に「叛逆」という精神の姿勢を打ち出してきた覚者ブッダの一人であって、それはバグワンに出逢うよりずっと以前からのわたし自身の精神の姿勢に嬉しいことに線のそろうところが在った。枠組と管理との社会が精神の自由を侵してくる刷り込みの暴力に対する「叛逆」であり、「覚醒」である。
トルストイが『復活』や『アンナ・カレーニナ』の終幕のところでちからをこめて書いている、一種の解脱と内側へ開けて行く自然な自由精神、生活の「いま・ここ」に欣然と内応してよろこばしい精神状態は、必ずしもバグワンの禅とは輪郭を揃えるものではないけれど、じつに似てもいる。それでわたしはトルストイを信頼し喜び合うのだろうと思っている。
トルストイの「いま・ここ」とバグワンの「いま・ここ」とわたしの「いま・ここ」とは、当たり前のこと、「生活」的には全然重ならない。しかも重なり合う精神の波動があり、静謐と自然さへの帰依が感じられる。いや、彼らとくらべて遙かに遙かにわたし自身の遠く及ばぬ小ささを感じて恥ずかしいけれど、「通い合う」という喜びは与えて貰っている
2011 5・2 116
* 源氏物語「明石」巻を堪能した。よほど好きと見える、明石上と呼ばれて行く女性を、わたしなりに高く見ているということか。 2011 5・3 116
* 「明石」巻を読み終えた。他に読むものがあるので読み急がないのだけれど、すいと手の出やすいのは、結局、源氏物語。いくらでも先が読みたい。
栄花物語はそうおもしろい読み物ではない。いま、一条院が崩御され、三条天皇の御代が始まった。これからまだ当分藤原道長が全盛の時代である。
* 『もののけ』が、変わりなく、とびきり面白い。
2011 5・4 116
* 秦建日子が、今月下旬に前進座劇場で秦組公演の『らん』をノベライズし、小説本にした。
「らん」は初演の時、まだ作として煮え切ってはいなかったものの、内容に強い意欲が見え、入念に仕上げれば『タクラマカン』などと繋がる秦舞台の代表作の一つになるだろうと、称讃し励ましておいた。あれから二年ほど経つか、新しい劇場をつかって満を持しての公演らしく、期待している。
しかし、書いた脚本を右から左へ次々「ノベライズ」して売るという作家精神は、衰弱しているのではないか。それも自律し自立した文藝作たる佳い表現と緊張とをはらんでいればとにかく、開巻早々から「ひんやりと冷たい感触を感じる」だの、胸板を袈裟懸けに斬られ」だの読まされると、恥ずかしい。「ひんやり」は「冷たい」のであり、「感触」はすでに「感じ」ている。「袈裟懸け」の要所は「肩」であり、「胸板」ではない。「満天の星」なら分かるが、「満天の星空」も不用意な天と空とのダヴリ。「いったい」「ながら」「すると」「いや」「さらに」など、不要なことばで不要に軽薄な調子をとっている。屍が「折り重なる」ように「転がって」という表現も、切れ味わるく、見た目がちがう。
そもそも書き出しの、改行沢山なたったの八行分に、もうこんなありさまでは、この本は、ただのシノプシス=粗筋本でしかないと謂われてしまうだろう。小説の読者をナメては困る。ここには高次の編集( 者) 機能がまるで働いていない気がする。
気になる一つに、奥付に「執筆協力」として、作者経営の事務所の女性の名が、二人掲げてある。如何なる協力か。わたしは久しい読書体験の中で、こういうスペシャル・サンクスが「小説」本の奥付に掲げられた例を知らない。万一にも下書きをさせたという意味なら、とんでもないことだし、かりにそうであったにしても推敲責任は作者本人にある。
* わたしは毎夜、十数冊の読書の中で、いま、谷崎潤一郎の『鍵』に感嘆している。つい先日までトルストイの『アンナ・カレーニナ』に感嘆していた。そして『源氏物語』にも魂を奪われながら嬉しく嬉しく毎晩接している。
いまいま駆け出しの若い作家のものを、そのような眼くるめく古今の名作や作者と比べるのは酷だと、誰もが言うかも知れない。
わたしは、それは間違っていると思う。濯鱗清流。わたしは、遠く及ばぬまでも高く仰ぎ、身近な間近な低俗な読み物などに目もくれず歩んできた。文藝にかぎらず、創作に志ある者なら、表現にこそ心すべきだろう。それが読者への、鑑賞者への責任である。
2011 5・10 116
* 建日子のノベライズ『らん』が気になり、中程や後ろの方を拾い見ると、さほどひどくなくてホッとしている。この相当にシュールな物語は、そういう造りのゆえに思い切った内容を盛りやすく、むしろわたし好みの題材と展開になっている。熾烈な闘いであり叛逆でさえあり、また手痛い挫折でもある厳しい物語世界がシンボリックに描かれているだろうと想っている。むしろ「原作の戯曲」として読みたかった。戯曲は出版してくれないし読者も少ないという思惑もあろうけれど。それならなおのこと、戯曲作家としての誇りと自負とで、戯曲の伝統を大きく起こそうという意気があってもいい。出版してくれないなら、出来ることだ、自力で本にすればいいではないか。
2011 5・11 116
* とうどうバグワン『一休道歌』上下巻をまた何度目か、読了。しっかり聴いた。
谷崎潤一郎の『鍵』ももう十数頁で読み終える。たいした、たいした力作で感嘆のほか無い。世界中で、かかる抽象の極を爆走した奇異の「性」文学秀作は、例がないのでは。凄いとは、これではないか。追いかつ追い越さねばならぬのは、此の『鍵』ぞ。
2011 5・13 116
* 潤一郎『鍵』を三日前に読み終えたが、余響なお身内に。狭い見聞で言い切れることでないが、世界的なオリジナルではないか。『夢の浮橋』『鍵』『瘋癲老人日記』の三作で、優にいかなるノーベル文学賞の例にも抜きんでていると思う。賞はいかにもあれ、これほどの名品や傑作を死の間際にまで書きつづけた谷崎潤一郎の巨大な実力をあらためてわたしは称讃する。あとの二作は老人の性の闇に分け入って、その思想性も文学表現の独自な自在さも、ならび立つものの存在が思い当たらない。近代日本文学の最高峰と仰いだ眼識の人達の多かったことを当然と、今もわたしは心から認める。漱石や鴎外や露伴や藤村や鏡花や、また芥川や川端や三島がいても、なお鳴り響く谷崎文学の豪壮と溢美には、なにより文学の到達の遠くて高いことにおいて、及ばない。
これらを念頭に、今一方最大関心の志賀直哉全集二十二巻を今にも読み終えようと、最晩年に近づく日記と書簡に毎日眼をさらしている。「創作」と謂われる巻は、とうに一つもあまさず既に読了。
そして思う、昭和二十年代後半から三十年代への直哉の日々の消息や感想を読み取るにつれ、その人物、その家長的な大きな存在感、また時代を健康に超えたともいえる独自の見識や鞏固な審美眼などに感心する一方、彼の謂う文学の「仕事」では、とても潤一郎の比でない、晩年ほど、ほとんど独り合点の作文の域を出ていないこと、生活の全容が親族への配慮、多彩を極めた交際、そして麻雀、将棋、映画、観劇、テレビ、さらに頻繁な外出、旅等にうずめ尽くされていることを、こと「文学」の視点から見れば貧弱と、慨嘆せざるをえない。
しかしまた文学だけが人生ではないという直哉が培った「人間」としての、「生活者」としての幸福な達成の充実ぶりには眼を瞠る。
潤一郎と直哉とほど、しばしば並び称して比較された例は少ないが、比較はほとんど無意味なのだとわたしは思っている。両者共に、それぞれに仰ぐに足る大きな師表である。
* ヘキエキしながらもう一年以上も読み泥んでいる大作は、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』 なんでこんなふうにネチコチと書かねばならぬのか。全二巻本のまだ一冊目を読み通すのによほど歳月を要しそうなほど、小説の美学も力学も無視した書き方に思われる。西洋の作では例が無いではないが、それでも読み泥んでしまうものは結局は無い。同じほど大量のマンの『魔の山』でも読んでいる。ツヴァイクの『メリー・スチュアート』もかなりの大作であったが、小説よりもおもしろくて勢いよく読まされた。ドストエフスキーでも読み切れなかった作は一つもなかった。
いま、英米の現代作であるカポーティ『冷血』と、コンラッドの『密偵』を読んでいるが、まだ作が煮えたって来ない。じりじりと読み進んでいる。
* バグワンは、またまたまた『存在の詩』へ戻って、聴いている。
2011 5・17 116
* 高見順の『昭和文学盛衰史』という大作がある、但し、「昭和」といっても「平成」までを書ききったのではなく、大戦後を、そう永くは書いていない筈。むろんわたしの文壇に顔を出した「昭和末期」には及んでいない。
「末期」とはいえ、わたしが作家になった昭和四十四年( 1969) から数え、「昭和」は名目もう二十年間、昭和六十四年(1989)まで存続していた。最期の年の早々に昭和天皇が亡くなり、「平成」と改元された。
そんな穿鑿はともあれ、高見順の大著に目をふれるのは二度目、書き出しの早々から巧みに面白く書かれてある。
* 昭和の劈頭、田山花袋と徳田秋声とのために錚々たる三十数名が挙って小説を書いて記念出版し、文壇が挙って参集、未曾有といわれたほど盛大な祝賀会をした。秋声を師と仰いだ葛西善蔵も作品を提供した一人で、しかも祝賀会当日の、なんとか委員の一人に選ばれていたが、会場へ出向いてみると、彼ひとりその委員たるの「徽章」が用意されてなくて、はなはだ腐りこだわり、そして葛西ならではの私小説として書いた。
その葛西善蔵の話から高見は書き起こしているのだが、それはさておき、そういう祝賀会や記念出版、助勢出版は、明治のむかし病牀にあった国木田独歩のために企劃されたころから、ときどき文壇では行われていた。だが、昭和まして戦後は聞いた覚えがない。もう今日ではわたしですら「文壇」とたまに謂うは云うとして、タダの名辞に過ぎず、在るとすれば、女流や読み物作者たちの世界にだけ在るのではないか。
ものすごいほどの変化変貌が文士達の世界の表情を変えてきた。わたしなど明らかに日本の「文壇」を、主に「読者」として、そして作家になる頃の濃厚な「記憶」として承知しているけれど、たとえば今駆け出しの作家であるわたしの息子らに「文壇」感覚は稀薄というよりも、知りもせず、関心すらないのではないか。
それがいい、よくないの是非は問わないが、なぜかしらもう「文学」の時代は、日本からは立ち去っているのではないか、高見の表題でいえば、文学は「衰弱」して「読み物」全盛期に文学は圧倒されている気がする。日本文藝家協会、日本ペンクラブを率いている人達の顔ぶれを見れば、それは歴然。「文学」作家は、おおかたそんな場所から身をよけてしまっている。わたしは、それを歎かない。「文学」作家は、書斎に帰って創作ないしは自信の世界を研くときなのではないか。
2011 5・19 116
* 「 e-文藝館= 湖(umi)」へ投稿の小説が、二人から二作届いていた。時間懸けて読む。
2011 5・20 116
* 「 e-文藝館= 湖(umi)」に投稿の、小説二編、吉田優子『さくら結び』 森未砂子『瑠璃の香筥』を掲載した。もう一作、柊文乎作『白い骨、アルバム、ぼくと私』を読んでいる。
2011 5・22 116
* みすず書房が『人の子イエス』を贈ってくれた。見ると、逢ったことはないが、メールや「 mixi」 では久しいお馴染みの小森健太朗さんの訳で。
この本が、とても惹きつける作で、迂闊かつ不勉強なわたしの初お目見えの著者、だが、バグワン・シュリ・ラジニーシと浅からぬ縁のある作家らしく、そういうことで小森さんの厚意で送られてきたのだろうと、感謝している。じつは、わたしよりも妻が熱心に先に読み始め、やや奪い合いになっている。
小沢昭一さんの東京新聞社からの新刊『思えばいとしや「出たとこ勝負」 』も届いている。履歴書ふう。繰り返し同じような内容の本を読んできた。だんだん、わたしのいわゆる「榮爵藝人」になって行かれるのが心配だ。
2011 5・23 116
* カリール・ジブラーンの『人の子イエス』( 小森健太朗訳) のすばらしさ。
夜前、というより払暁五時過ぎまで、わたくしの湖の本下巻ゲラを読み、またこの『人の子イエス』に読み耽っていた。イエスを小説にした作は、多くはないが何作か読んできたが、映画はいろいろ観てきたが、敬虔の思いと感動とで開巻から深々とまた清まはる心地で吸われるように読み耽っているのは、希有の体験。バグワンとも、また何故かル・グゥインとも通うものが想われて懐かしく、また強烈。すばらしい本を戴いた。
2011 5・24 116
* バグワンはまた『存在の詩』へ戻って、一から耳に聴いている。他の本で十牛図や般若心経を語っているように、この本ではティロバというよほど大昔の覚者の詩を語ってくれている。何の予備知識もなく、何度も読んでいるとこの本がいちばん微妙に感じられる。さしあたり、こんなバグワンの言説から聴き入る。
☆ バグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの訳で。
語られることのできないもの_真理
それも弟子のためには語られなければならない
絶対に不可視であるところの
‘‘語られ得ざるもの”---
それも弟子のためには可視にされねばならない
それはマスターにかかっているばかりでなく
むしろもっと弟子のほうにかかっている
優れた弟子のナロパを見つけることのできたティロパは幸運だった
不幸にも
ナロパのような弟子を見つけ出せなかったマスターも何人かいる
そんなとき彼らが得たものはすべて
彼らとともに消え去ってしまった
それを受け取る者が誰もいなかったからだ
ときとしてマスターたちは
ひとりの弟子を見つけ出すのに何千里も旅してきた
ティロパ自身、ナロパを見つけ出すために
ひとりの弟子を見つけ出すためにインドからチベットまで歩いた
ティロパはインド中をさまよったあげく
そうした贈り物を受け取るだけの
そうした贈り物を味わうだけの
それを吸収し、それを通じて生まれ変わるだけの器を持った
ひとりの人間も見出すことができなかった
ひとたびその贈り物がナロパによって受け取られたとき
彼は完全に変身してしまったものだ
そのときティロパはナロパに
「さあ今度はお前が行って.
お前自身のナロパを見つけるのだ」と言ったと伝えられている
そしてナロパもまたそれに関しては幸運だった
彼はその名をマルパというひとりの弟子を見つけることができた
マルパもまたとても幸運で
その名をミラレバというひとりの弟子を見つけ出すことができた
しかしそこで流れはとだえた
もうそれ以上
それだけの偉大な度量を持った弟子はいなかったのだ
幾度となく
宗教がこの地上に現われ,そして消えて行った
幾度となく
それは現われ,消えて行くだろう
宗教というものは教会などにはなり得ない
宗教というものは宗派などにはなり得ない
宗教というものは個的なコミュニケーショソ
いや,個的なコミュニオンにかかっているのだ
ティロパの宗教はほんの四世代
ナロパからミラレバまでしか存在しなかった
その後それは消え失せてしまった
宗教はちょうどオアシスのようなものだ
砂漠は広大だ
ときとしてその砂漠のほんの一部分に
ひとつのオアシスが現われる
それがある間にそれを求めるがいい
それがそこにある間にそこで喉をうるおすのだ
それはとてもとても希有なことだ
イエスはくり返し彼の弟子に言った
「もうしばらくの間だけ私はここにいる
私がここにいる間に
お前たちは私を食べ,私を飲むのだ
この機会を逃してほならない」と
なぜならまた何千年もの間
イエスのような人間は現われないかもしれないからだ
* わたしは、だからバグワンに聴く。毎日毎夜、聴く。もう十四年。
2011 5・25 116
* 不愉快極まる政局の不信任案をめぐるかけひきにむかっ腹が立ち、幸いに、画家モジリアニと恋人ジャンヌとのドキュメンタリーに出逢って、没頭、感動した。
断然の「絵画」達成の美しさ、どの絵にもどの絵にもどの絵にも息をのむ天才の完成が感じられて、しまいには絵を見てわたしは泣いていた。絵を見て泣いたという覚えは、かつてあったろうか。
また一人の娘をモジリアニとの間に生んでいた弟子のジャンヌの才能の高さにも、正直仰天した。モジリアニが結核で死ぬと二日後にはジャンヌも自殺してアトを追った。死ぬ間際に描いていた四枚の水彩画を観てまたわたしは涙をこらえられなかった。
西欧社会での自殺はわれわれ日本人の想像に絶した大事で、遺族はおおきな打撃を蒙ったようだが、お腹に二人目の子を宿していたまま決然としてモジリアニに殉愛をささげたジャンヌの気持ちに、わたしは、強く打たれた。たしかにジャンヌの天才もまた、ロダンにおけるクローデールを凌駕したかも知れぬほどで、だから堪らなく惜しまれるが、それでも微塵のためらいなく自殺して愛する死者へひしとして追いついていったジャンヌという人にわたしは感動を隠さない。藝術か、愛か。むろん愛である。死なずに活かせた愛の可能性もわたしは否定しないが、ジャンヌは死を選んだ。
* そういう感銘を得たのを幸い、不信任案の国会など観たくも聞きたくも無くて、わたしは傘をさして、駅まで歩いて、腰も痛んだが街へ午後から出掛けていった。かなり煮たってきているカポーティーの『冷血』と自分の『バグワンと私』上巻とだけをもち、とにかくも腰さえ掛けていれば腰の痛みは無いので。最後には、馴染んだカウンターの鮨で、「三田村」を二合のんで、夕食にしてきた。シャリをぐっと小さく握らせ、好きな肴ばかりを十一、二ほど。
それから日比谷のクラブへ、タクシーで。そのタクシーの運転手が、不信任案大差で否決というのを教えてくれた。いいともわるいとも言わない、全く当たり前の結果が出たに過ぎないが、何十人と言われた小沢派は、愚かしい二人だけが野党提出の不信任案に賛成し、小沢一郎は卑怯にも欠席して姿を議場にみせなかったと。「なれの果て」であろう。
クラブでは、エスカルゴとパンで、変わり種のブランデー、1978都市もののカルバドスをゆっくり味わい、口を切ってなかった日本産のウイスキー「宮城野」も明け、文庫本の続きを読んだり、人と話したり。すこしお腹に余裕があり、木の椀の稲庭うどんを追加した。珈琲も二杯のみ、機嫌宜しく帰ってきた。小雨が来ていたが、傘の必要もなく、保谷駅からはタクシーで。
家で、不信任否決劇のあらましを妻から縷々話して貰った。
2011 6・2 117
* 二時頃、低血糖を感じて目が覚めた。
血糖値45。危険水準、すぐ糖分と食べ物を口にし、水分を十二分に摂って寝た。
六時半頃、いろいろ思うことあり、そのまま電灯をつけて、ジブラーンの名著というべき『人の子イエス』を読み継いだ。ギリシャの詩人ルマノウスの名で書かれている「詩人イエス」に、胸の内にともる静かな灯を美しく感じた。
* ついで源氏物語の「松風」巻を読み終え「薄雲」巻にすすんだ。なんという名作であることか、この物語世界に身も心もすべりこませると、わたし自身が花のように感じられる。つづけて栄花物語も読み継ぐ。道長妻倫子の老尼母が、愛らしい内親王を抱いてよろこぶ場面など。源氏物語では明石君の老尼母が、おさない美しい孫娘を光源氏の愛する正妻紫上にあずけるように娘に説いていた。一の「幸せびと」と世人にいつか呼ばれるであろうこの尼の「聡さ」がしっかり書かれていた。
* ジャン・クリストフのフランスの音楽、文学への、惑いも多いが決然とした批評などを読み進んで、面白かった。
そして志賀直哉昭和三十六年の書簡集をずんずん読んで行く。柳宗悦がなくなり長与善郎がなくなり、直哉もメニエル氏病で吐いたり揺らいだりして、小康にかえっている。志賀谷崎の親交も記録されていて、なかでも谷崎家で京料理をご馳走になってきた靖子夫人の感想というか批評というのが目に留まり、興を惹かれた。直哉と潤一郎と、康子夫人と松子夫人と。なんという豊かな世界か。
* チェーホフの中期へ飛躍して行く最高傑作の長篇『曠野 ステップ』は、さながらの叙景詩のように進んで行く。眼も胸も存分に優しくひらかれて、自然との交歓は羨ましく深い。
そして、バグワンの『存在の詩』をゆっくり読んで行く。もう何度目だろう。
疑い──
信用──
みなヘッドトリップだ
ハートは信頼しか知らない
ハートはちようど小さな子供のようなものだ
幼な子は父親の手にすがり
父の行くところならどこにでもついて行く
信ずるでもなく、疑うでもなく──
「みこころのままに」とはこれだろう。あの大震災直後のテレビは、コマーシャルというでなく、繰り返し繰り返しそういう父や母の手をさぐりとる幼な子たちの姿をうつし、わたしはどんなに心を静かに嬉しくしたか知れない。わたしはそういう父でありたかったが、なれなかった。朝日子にも建日子にも気の毒だった。
* それからわたしは、戴いた倉田茂さんの詩集をまた何度目か開く。一読して佳い詩集だと直観し、妻もすぐ読み耽っていた。
「百五十年の海 「『生後百日を』迎えたわが家の犬に」をよんだとき、わたしは感動で泣いた。詩を読んで、 泣く……。そんな経験は覚えがない。
百五十年の海 『生後百日を』迎えたわが家の犬に
おまえの足の爪を切っていて
水かきを発見したときの驚き
感動がぼくをつつんだ それから
ゆっくりとかなしみが
おまえ あたたかいクリーム色の
縁あってわが家にやってきたもの
ニューファンドランド島の烈風すさぶ海で
漁夫たちと魚をすなどっていた犬たちの子孫
イギリスに運ばれて たぶん百五十年
民謡の美しい国は犬の体躯をも
用途に添って美しく変えたが 犬たちは
どちらの島にいるほうが幸せだったか
息はずませて駈けるおまえの一日が ぼくには
一日ごとに鹿島立ちのように見える いずこへ?
おまえは思い切り泳ぎたいのだろう
三月にはせめて九十九里につれてゆこう
「きょうはもうおやすみ」
そっとケージを覗くと おまえの目に
百五十年の波を呑みこんだ海がひろがる
ぼくは遠い存在になる
あした それからおまえはまたパスカルになるだろう
遊び疲れて坐ってじっと考える──おおいとしいもの
抱きしめてやろう
おまえが受け継いできたいのちの仕草を
* たくさんな歌誌や句誌や歌集や句集を戴くが、最近胸のふるえる短歌や俳句に出逢わない。ああ、倉田さんの戴いた詩集にわたしはしんから潤っていると感じる。
2011 6・4 117
* すこし疲れたか、安住アナと女優の真矢みきとで司会進行して行く「アースコード」の途中でぐっすり居眠りしてしまっていた。この前に、地球のホットスポットへ、噴火口の間近まで火山研究家が案内してくれる映像の凄さに魅入られ、あれでかなり疲労したようだ。
そのさらに前に、本を四冊も持ち込んで入浴していた。
山内昶氏の大著『もののけ』全二冊読了した。とてもこの本は一度読んだぐらいでは済まない。食いつくようにして読み進め、赤い傍線の引かれてない個所の方が遙かに少ないほど真っ赤にしていたが、それだから読み切れたほど、内容が緻密で、わたしは未知の世界というより、未知の論証と展開とに魅せられていた。折り返し、今度は黒いボールペン傍線を入れながら挑みかかってみる。おもしろい本だった。
もうひとつ我が国での「秦王国と秦氏」とを論究して行く研究書に魅されていた。眼の鱗を払い続けている。
そして、カポーティの『冷血』が渦を巻く、いやとぐろを巻いて行くように核心へ近づいて行く小説手法のおもしろさ。
血圧がさがって睡くなるのを調節しながら読み進んで行く。どれもみな十分な量を面白く読んで行ける。
20-11 6・4 117
* そうそう、山梨県立文学館から『文藝映画のたのしみ』という企劃展の図録を貰ったのが楽しい。
日本の小説家で映画に本格に打ち込んだのは谷崎潤一郎、大正期に書かれた谷崎の映画論には侮りがたい本格の厚味がある。
興味深いことにこの図録を豊かにしている作家はといえば、筆頭の谷崎以下、泉鏡花、川端康成、三島由紀夫と続く。文藝映画の監督たちの好みがうかがえるが、林芙美子の原作も佳い映画になっていた。題名とスチールとを眺めているだけで懐かしい。「細雪」「春琴抄」「鍵」「婦系図」「瀧の白糸」「羅生門」「伊豆の踊子」「山の音」「千羽鶴」「潮騒」「炎上」「墨東綺譚」「踊子」「破戒」「夜明け前」「彼岸花」「浮雲」「めし」「青い山脈」「若い人」「五番町夕霧楼」「楢山節考」「二十四の瞳」「太陽の街」「真空地帯」「異母兄弟」「点と線」「野菊の如き君なりき」等々、思い出すだけで懐かしい。
いかに文藝作品が映画作家たちを惹きつけたかが分かるが、最近では、映像作品のノベライズが安直に書店に出回るのは小説家まがいの志の低さが見えて嘆かわしい。
2011 6・4 117
* 源氏物語に「薄雲」がひろがり、やがて輝く日の宮であった藤壺女院の崩御となろう。それより前には、嵯峨のいわば隠れ家から、のちに明石中宮となり重きをなす少女が、父光源氏と紫上の都の邸宅に引き取られていった。聡明で心優しい紫上の養女として育って行くことで少女の行く末は輝かしく保証される。生母の明石君も祖母尼も辛い別れを懸命にかつ聡明に堪えることで、まれな「幸ひ人」に近づいて行く。
この人生の逆説に紫式部の夢は託されていた、実は只一度も明石上と「上」とは呼ばれも書かれもしたことのない明石君に、さらにいえばあのはかなく死んだ夕顔に、作者はもっとも近い自身を意識していたように想われる。
紫式部は生涯、光源氏なみの或る貴紳にひそかな思慕を見失わずに、露わさずに、たぶん生きたであろうとわたしは読んでいる。最近の著書で近藤富枝さんも触れておられるが、もっと早くに、亡くなった角田文衛博士もあの「夕顔」のモデルを説きながら、暗にこれを示唆されていただろうとわたしは同調していた。それは、当時の大文化人であり、式部の父たちが親族同然に親しい家司として取り巻いた後中書王「具平親王」への、式部が少女の昔からのひそかな愛である。
あの夕顔のモデルとなったのは、当時「大顔」と呼ばれていた親王寵愛の、男子までなしていた美女であり、この美人は洛北千代原山の麓に眠るように静かな池で、親王と同車の月見のさなかに「神隠し」に遭って行方知れずに死んでいた。これが「夕顔」巻の下地にあり、夕顔が生き霊に死なしめられた荒れて淋しい邸も、通説の京極河原院ではなく、同じ六条のすこし西にあった具平親王邸の千種院、紫式部も幼くからしばしば伺候していた千種院であると角田先生は説かれていたし、わたしも共感し追随している。しかも大顔遺児の男子は、紫式部一族の養子として成人していたのである。
* なににせよ幾たびを重ねても重ねても源氏物語名作の魅力は、文にも思想にも準拠の面白さにも汪溢して、まさに巻を擱く能わずとはこれである。
『人の子イエス』『冷血』そしてバグワンの『存在の詩』 すばらしい。
* 直哉の書簡集は創作全部の半量ある。実に筆まめにハガキを書いている。わたしはそれが苦手で、しない。メールは大助かりで、それすら公開の日記で代用している。日記だと、個と個とにとどまらず自身の暮らしが表現できるから。必ずしも最良の方法ではないが。
電話が、ことに掛かってくるのが、昔から嫌い。仕事の打合せには早くて便利だが。自然掛けることもしない方だが、この年になってくると顔こそ見えなくても、声は聴きたいと想う人がいる。用事は何もないから「声」で足りるが、向こうで喜んでもらえると、こちらも嬉しくなる。妻にもハガキで済まさず電話をつかえばいいよと奨めている、ただし向こうで電話が嫌いな人もいるから気は使わねば。
試みに、数人にかけてみた。娘さんの婚家近くに転居していた定年過ぎの男性、『慈子』のような小説を書きながら教育関係の仕事をしていますと。
忙しい盛りのテレビマンは、秋に初の子供が出来ますとご機嫌の卒業生、先生お元気でと励まされわたしも嬉しい。
まあーっと声をのんで喜んでくれた被災地の人も、元気いっぱいに地域での市民活動にいそしんでいますと昔の短大生も。
こういう一服の時間、穿鑿されずに、これからときどき楽しんでみたくなった。
2011 6・7 117
* 志賀直哉全集全21巻の通読、二度目を夜前満了した。書簡集が昭和四十五年直哉米寿で終えている。わたしが太宰治賞を受けた翌年であり、かろうじて「同時代作家」に繋がっている。
最初の私家版を、直哉、潤一郎、勘助、空穂、露風の五氏におそるおそる送りつけたのが、昭和三十九年の晩秋だった。当時現存の小説家といえば、何と言っても谷崎先生と志賀先生とであった、私には。
送って置いて仰天した、逝去前年で高血圧に悩みながら創作していた潤一郎先生以外の、四人の先生方が、葉書の返事を下さった。志賀直哉のは印刷した受け取りの文面にご自身の署名があり、恐懼し感激した。
それから四年半後に小説『清経入水』で、これまたびっくり仰天の太宰賞が向こうから舞い込んできた。
* 米寿の志賀先生、さすがに「老い」に悩まれているのが書簡にあらわれている。老人性白内障は、ま、しかたないだろうが、「テレビは毎晩みてゐます。 44.10.15 」「来年は数えで所謂米寿ですつかり呆けて了ひました 11.04 」「僕は何時死んでもいゝとよく思ひますが、貧しいながら若い時からの仕事が自分の死と共に消失せるものではないと思ふ事で救くはれてゐます 12.18 」
ちなみに直哉が「仕事」と謂うとき、「文学・執筆」以外のなにものでも無かった。
「老年は思つてゐたより案外いやなものだと思ひました 然し食ひものはうまく、よく食ひます 45.03.19」 こういう老いの述懐がちょくちょく混じって、そしてこの年七月三十日、終生じつに仲よかった継妹夫妻宛てお悔やみの封書が、いまのところ年代の判明している最期の直哉書簡である。じつに恵まれた生活者、だが優れて自覚に富んだ文学者だった。万人が存命の直哉にシンに敬愛・心服していた。人物も文学もまたそれに値した。
あちこちに朱の傍線を入れて置いたので、興味深い記事は拾い出せる。「此間テレビを買ひ、おかげで家中よいつぱりになりました。野球は実に面白い。 31.07.16 」などとある。
* 犯すべからざる凡俗性の隠れ家である「批評」と書きながら、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』は、或る面で長大な「批評」の小説であり「批評」そのものに満ちあふれ過ぎているほど。しかし、目に耳にしかと残る批評にたしかに富んでいる。
「藝術とは、通りがかりのどんなつまらない人間でも手を出せばとどく、つまらない食い物ではない」など、そのまま志賀直哉の言葉のようだ。彼にしても同じだ、クリストフことロマン・ロランも同じだ、彼らは、創作者に、文学者にこう聞く、
「君は健康かね?」と。
真に「健康であること」がだいじだったのだ。
「詩人が病気にかかっているなら、彼はまずその病気を直すがいい。病気が直ったら、詩を書くがいい」とゲーテは言った。
そうは言わない優れた藝術家たちも、だが、実在した。
バグワンは、
言葉──
言葉はその根本的な本性からしてあまりにも死んでいて
何ひとつ生き生きとしたみまが語られ得ないほどだ
と言い切る。仏陀も達磨も老子も一休も。ハートとハートの出逢いだけ。あたかも<情事>だと言うのだ。<理窟>ではないのだ。
2011 6・8 117
* 昨夜はよく眠れなかった、読書のせいか、単なる疲労の違和か。ひとつにはカポーティーの『冷血』進展の重みがのしかかって眠れぬ夢魔となったのか。
今日も作業をたくさんした。このままもうやすもうと思う。
2011 6・8 117
* 西の家の、地震でひっくり返っていた海外文庫本の書棚を整理しながら、ついつい題や作者をみて懐旧に溺れていた。幸い日本の文庫小説本は倒れずに済んでいた。
露・仏・独・英・米・伊。小説以外の哲学史や哲学本は、また日本の古典は、単行本も文庫本もみな身近な東の家に置いている。
西欧以外、わが家の中国ものはほぼ全部が明治このかた秦の祖父所蔵の古典ばかりで、小説はゼロ。いまいまの文庫本は、自分で買った水滸伝・三国志・金瓶梅だけ。
枕元の本をつぎつぎ読み終えたので、補充したい気で、少年のむかし恋しい例えばバルザックの「谷間の百合」やスタンダールの「パルムの僧院」など念頭にあったのに、結局はマードックの「鐘」など現代文学を二、三選んできた。
* たくさんな本に触れていると知らず知らず疲労する。本の重みもあるが、本が抱きこんだ世界の重さを感じてしまう。
夕刻前、二時間半ほど寝つぶれたように寝ていた。目覚めて、すこし身がかるく、明るくなったか。
2011 6・12 117
* うら悲しいような日々が続く。
* それでも嬉しいこともある。
色彩の研究で数え切れないほど受賞されてきた梅光学院大名誉教授・文学博士の伊原昭(あき)さんから、もう何冊目になるだろう、十を超す大著や事典を戴いてきたが、新著『色へのことばをのこしたい』と題された実に各編のエッセイの読み佳い、おもしろい、しかも行き届いた各種の索引が便利な辞書とも手引きともなる大冊を頂戴した。
追随する誰もいないほど深い広い究明のなかで文学と色との精微多彩な関わりを全日本史を通じて開拓してこられた。わたしの最も敬愛する研究者のお一人であり、健在をこころから喜ぶ。
「日本の色」は名もむずかしい。しかも微妙に懐かしい。伊原さんにはめずらしい「いろへのことばをのこしたい」という砕けた題に、多年の想いが読み取れて、さもあろうなあと頷いている。愛読する。
* 夜前枕元へ持ち込んでいたのは、やはりバルザックの『谷間の百合』であった、中学生のおり人から借りて最高にのぼせた一冊である、モルソオフ夫人という名が脳裏に焼き付いて、じつは今も離れない。同時にこの長い小説は、わたしに女心の不思議さや怖さをイヤほど教えてくれた。美しいだけの小説ではなかった。
それとマードックの『鐘』は、おそらくわたし好みの長篇に相違ないと予期している。
もう一冊手拍子に『赤頭巾ちゃん気をつけて』を引き抜いてきた。ほんの出来心であったが、読んだことがない。ジブラーンの『人の子イエス』チェーホフの『曠野』そして『ジャン・クリストフ』カポーティの『冷血』に加えて、もののはずみで海外小説が六冊に増え、日本のものは、谷崎初期の忘れられがちな未完の長篇問題作『鮫人』、古典では源氏と栄花とを、耽読中。
* ゆうべ日本の「秦王国」をめぐる研究書を読み終えた。この読書が大きい意味を創作の上で持ってくれるのを期待している。
2011 6・13 117
* 朝の六時から床で読み始めたマードックの『鐘』が、期待どおりに面白く運ばれて、ウキウキしている。丸谷さんの訳がややオドッテいる感じだが、それに引っ張られている気もする。
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の喋くりは、こうるさいなりに才走っている。このまま読んでは行くだろう、が、時世との癒着部分からもう錆をふき始めており、もはや新しみよりも古びの方が目立つ。日比谷の、東大の、東大法学部の、著者本人の名乗りのといったご機嫌のお飾りが、かえって作を遠い過去のものに押し戻し、昔々のテレビドラマや流行歌を見聞きしている感じ。同じ書き手としてちょっとならず怖ろしい。なぜなら、たとえば漱石の『三四郎』や『坊ちやん』を昔の古びではわたしたちは読まないでいる。新しい古いをトビ超えた文学の魅力を読み取っている。庄司作にも、読み終えたときそれが受け取れるかどうか、だ。
小説は、現代を書こうが歴史を書こうが、何とも説明の付かない「現在」「今」に縛られ繋がれている。それをどこまでどう決然と或いは巧みに隠しきれるかがむずかしい。不用意に「現在」「今」の顔つきが残っていると、そこから錆びて腐り出す。
2011 6・14 117
* 上野千鶴子さんの東大院退職を教え子たち十五人が祝って挑んだ『上野千鶴子に挑む』という殊勝な大冊が出来、上野さんに戴いた。
「ジェンダー・家族・セクシュアリテイ」「文化の社会学」「ポストコロニアル・マイノリティ」「当事者主権」という四部に分かれて一つずつがさらに上野さんの主要な「仕事」を示しつつ元学生たちが上げたり下ろしたりしているのが面白く、しかも一部ずつに上野千鶴子による「応答」が書き込まれている、「古証文を前にして」「文化の社会学への越境」「国家というアキレス腱」そして「『ケアされる側』の立場と当事者主権」と上野自身で題している。
これらに編者千田有紀のインタビュー、そして「上野千鶴子から・学生に選ばれるということ」が添えられる。「主要著作目録」も「年譜」も、附録として「ちづこワールドマップ」なる詳細な人生絵図ふうのものも加えてある。至れり尽くせり、堂々の「上野教授退職記念」である。
わたしは上野さんと会ったことがない、が、京都で活躍している学者として東京にいて伝聞していた。東大にみえてからは本の遣り取りだけで久しいお付き合いとなっていて、書庫に何冊も著書を架蔵している。やりとりのつど双方から少しずつたよりを交わしている。今度も、「秦恒平様 mailでお送りいただいた「私は提言する」をツゥイッターで転送しましたら、反応はとてもおおかったです。ご報告まで (上の) PS 住所を変更しておりますので、よろしく」とあった。もう数年は東大にと思っていた。
この本の広告は版元の宣伝物で題名だけ観ていて、お、勇気ある批判学者の挑戦かと、胸躍らせていた。少しちがったが、好企画ではあるまいか。
2011 6・14 117
* また名古屋市大の谷口幸代さんから、「川端康成『住吉』連作の<原文>と<語り>」という論攷をもらった。わたしには、川端の手法からも仕上がりからも興味を惹く作であるだけに、谷口さんがどんな斧鑿を用いて批評しているか、目を見開いて読み取りたい。
2011 6・15 117
* 永代橋の辺を歩いてこようと思っていたが、いつ降り出すか知れず、明日からの作業にも身を備えたくて休養している。暑い。庭の書庫へ入ると、ぼおっとして無数の書物に酔わされる。時間などみんな忘れてしまい、一冊一冊の題にも製本にも、初めて手にしたときの弾む気持ちが甦る。手にしてしまうと読み始め、ああ、いかんいかんと元へ戻すが、戻す必要もないのだ。
一つ驚くのは、戴き本の多いこと、背の高い二十棚を天井まで満たし、 通路にも乱雑に山積みしてある、そのおよそ八割もがみな著者や出版者からの頂戴本。これには今さらにおどろく。古典、歴史、美術、画集、地誌、詩歌、各種藝能、随筆そして文学論や小説。いろんな全集や叢書。専門誌も、地図も事典も辞書も。よくこんなに戴いてきた、だいたいわたしは書店で本を捜すということを殆どしてこなかった。
創作や批評に役に立ちそうなものを保存し、読み物類は用が済めば図書館へどんどん寄贈していてこれだ。
* そんな中から、唐木順三先生のご遺稿である一冊を持ち出してきた。『「科學者の社會的責任」についての覺え書』で、昭和五十五年七月に出て、奥様の「謹呈」札をわたしは見開きに貼り付けている。臼井吉見先生が「あとがき」されている。
「とどまるところを知らない欲望が近代文明、近代産業、近代科學を生んだ基本構造といつてよい。そして、その進歩の極限に原子力エネルギイが、近代科學文明のなれのはてとして出てきて、それが人類、また一切の生きとし生けるものの死滅につながるといふ畏れが普遍化してきた」と、帯の裏に「本文より」引いて掲げてある。帯の表には、「<絶対悪>である原爆、核兵器の開発、使用に抗議し、科学者の自己意識とその社会的責任を追及、現代が生みだした大罪を告発する烈々の遺書。」とある。
唐木先生は128頁未完の長文をこの年二月四日までに書かれ、加えて<An Essay>を三月八日午前零時半、北里病院の病室で、「覺え書」の最後のところへと附記され、一時十五分に「書き終」えられた。五月二十七日に逝去された。
* 最初に、文字通り拝読したとき、先生の烈々の気魄に身を固くしたのを覚えている。わかりよくいえば、日本人としては国民的な誇りですらあった湯川秀樹博士への熱烈な批判が書かれていた。核の問題について、反省が無い。これが太い一本の芯になって「表題」の意図が唐木先生ならではの遒勁かつ端厳な言葉と文字とで書き貫かれている。唐木順三と言えば『日本人の心の歴史』上下であり、『無常』『無用者の系譜』『千利休』『良寛』であり『中世の文学』の人であった。鬱蒼として深い森のような世界を築かれながら「現代史への試み」を絶やされない碩学であった。その唐木先生にしてあり得べき遺書に相違ないとわたしは拝読したのだった。
いま、世界は日本の原発危害の悲惨に注目している。昨夜聴いたインタビューでは原子力安全委員会の斑目委員長は、「人災」であったと断言し、責任を果たせなかったと謝罪していた。
唐木先生よりさらに早く早くに、志賀直哉は科学の危なさを指摘して謙遜であれと発言していた。彼はまた武器として使用される原子力開発の急ピッチに危惧と嫌悪を露わにしていた。
「反省のない科学の進歩」が人類を破滅の淵へ追い込む、いま、日本は日本自身の手で実例を演じて呻いているのだ。
* 唐木先生は、太宰治賞の選者であられた。作家として立って以後も、「花と風」や「女文化の終焉」などをいつもお手紙で喜んで下さった。わたしは、ほんとうにせっせせっせと選者の先生方を念頭に「答案」を提出し続けた。井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫。この方たちに顔を顰めさせるような仕事はしないと思って来たし、今も思っている。たとえヤクザを書こうがエロスを書こうが、である。自由に書いて、なお、である。 2011 6・16 117
* バグワンは、いま、最初に帰ってまた『存在の詩』を読んでいる。「マハムドラーの詩」というティロパという覚者( ブッダ) の言葉を話材にしてある。
バグワンを「知らない」と言われる読者が圧倒的に多い。ましてティロパとなればなおさら。この人は世紀988-1069つまり清少納言や紫式部の生まれて活躍した頃のインドの人で、インドで眞に衣鉢をつぐ弟子をみつけられず、チベットに行ってようやくナロパという優れた弟子に逢い、この「マハムドラーの詩」を与えることが出来たという。ナロパも幸運にマルパという弟子を得た。マルパもまたミラレバという弟子を得た、が、不幸にしてミラレバは真実を伝えるに足る弟子をついにえることなく、ティロパの教えはこの四代を流れ流れて、砂漠の底へ消え失せたのである。
バグワンは、そんな彼らのいわば存在論を、じつに丁寧に説いてわたしたちに手渡してくれようとしている。他の講話で「十牛図」や「般若心経」を語るようにティロパの「マハムドラーの詩」を語ってくれている。おそらくわたしは、これを一等多く繰り返し聴いてきて、よほど血・肉に沁みているが、まだまだまだである。
* あすからの用に備えて、今夜は、バグワンにふれて此処には書かない。もうやすもう。
2011 6・16 117
* 気がつくと、バグワンのほかは、手の届く枕元の書棚には小説や物語が多くならんでいる。
その中で、夜前、トルーマン・カポーティの『冷血』を興深くおもしろく読み終えた。凶悪犯罪者の「人間」を重層的に多角的に彫り起こすように追究し、独特の「方法」に徹しながら、事件と犯罪者、周辺の人達の問題をがっちりと「読ませ」る。動機すらない程のしかも残忍酷薄な二人の行きずりの殺人者と、まこと穏和で善良な四人の親子の被害者。それはフィクショクでない、すべて起きた事実の報告であり記録であり、しかもみごとな創作として構成されてある。いわゆる殺人事件の描写小説や推理小説とは手法がちがう。万の事実を丹念に収集整理し、百に絞って組み立てた「人間」探求になっている。りっぱな文学作品であった。
* 『上野千鶴子に挑む』が、小説ではないが、溌溂として面白く読める。得難い「上野社会学」の入門書にも応援歌にも追究にも成っていて、上野先生も懸命に親切に「応答」されている。
先生が退任の時には往々企劃されて作られる後輩弟子知友等の「論文集」の変わり種の一冊に相違ないが、それだけに終わらない上のような特色がよく実現されている。上野さんはお幸せである。
* ほかに、就寝前でなく、この機械の傍に置いて、わずかなヒマにもちょいちょい読み継いで興がっているのは、近藤富枝さんの文庫本『紫式部の恋』で、恰好の読み物。
階下ではいましも源氏物語は「朝顔」巻で、源氏の前齋院の朝顔に懸想執心するのへ、紫上がやきもきしている。長大な物語の中で光源氏が終始一貫「ふられ」続けた高貴の女人は朝顔が只一人。ちょっとこの姫宮の顔がみてみたい。
そして栄花物語では一条天皇崩御のあとへ三条天皇が即位し、もはや幼い後一条へ譲位したあたりを読み進んでいて、この世界は、ま、わたしのほぼ六十年を「薫染」している。こういうのを読んでいると家に帰った気がする。
近藤さんはこういう本をおもしろくまたよく調べて書く練達の筆者で、安心してお説を聴いていられる。取捨はこちらの自由が利く。
* さ、八時半。前回は九時過ぎに本が届いている。機械を閉じる。
2011 6・17 117
* わたしは愉快なことばかりに取り囲まれているわけでなく、無心とは程遠い重苦しい思いも、さりとて投げ出しもせず地道に付き合わねばならない。
今日は、このところ引き続いた力仕事どもの骨休めにもと、雨のないを幸い町へ出てきたが、何となく気落ちしたまま、池袋の書店で買い込んだ網野善彦の増補『無縁・公界・樂』と波平恵美子の『ケガレ』を文庫本で読みながら、時には自分の本の下巻も拾い読みながら山手線をぐるぐる走り、上野駅構内のやけにきれいになった店店をみてまわったり、蕎麦屋で、ろくに食べずに八海山を二合も呑んだりして帰ってきた。
2011 6・21 117
* ふいと五時に目が覚め、また源氏物語「少女」巻に読み耽って堪能し、カリール・ジブラーンの『人の子イエス』わ感嘆しながら読み味わい、また倉田茂さんの詩集に胸を洗われていた。
それから独り、早朝テレビが「柳川のどんこ舟」の光景を、静かな静かな音楽だけ、なにひとつ人語を用いぬまま写しつづけてくれるのを故郷に帰った心地で観ていた。
また寝床に戻り、バグワンなど何冊も少しずつ読み次いでから、九時まで朝寝。晴天、熱暑というも不可なき気温にびっくり。とても日光の真下へは出られない。
* 田島征彦さん、新作絵本の『りゅうぐうのそうべえ』を贈ってくれた。想も画も天衣無縫というべし。
昨日、金八先生の小山内美江子さんからもお手紙貰っていた。
2011 6・22 117
* 愛誦している倉田茂さんの詩を書いてみずおれない。詩集『平野と言ってごらんなさい』より。
☆ 犬は口を利けない
犬は口を利けない
しみじみとその事実を受け入れるのに
三年かかった
うちのラプラドールは家族だというのに
私がさわっているあいだ
話しかけているあいだ
見つめる目がさまざまに表情を変えるのは
しかし まさに会話であった
もし犬が口を利けたら
この会話はとぎれるだろう
得たりと彼女は言うのだ
「あなたは自分が一番かわいいのです」
文章も口を利けない
犬と同じくらい素直な聞き手だ
不器用に 私がさわっているあいだ
話しかけているあいだ
だまって
応えてくれる
姿勢さえ変えてくれる
もし文章が口を利けたら
この蜜月は終るだろう
ため息まじりに彼女は言うのだ
「あなたの人生は徒労です」
口を利けない親しい者たちが
いまは私の神様たち
目下不満はない
ながれる時間の速さにも耐えている
* 黒いマゴとないしょ話をしているときも、拙く心はやった文章を書きなぐっているときも、ナイフを身に立てる痛さと悲しさと恥ずかしさでわたしもこう感じている。倉田さんは、むごいほどの代弁者だ。
2011 6・22 117
* いま、わたしを深々と感動させるのは、カリール・ジブラーンの『人の子イエス』だ。聖典でも研究書でも福音書でもない。ありていにいえば創作であるが、さながらに一つの聖書とも福音書とも証言集とも読める。数十の証言が美しく積まれていて、一編一編が貴い言葉として読める嬉しさに満ちている。
「恵み豊かなイエス」を語っている「パトモスのヨハネ」の言葉は、長くも短くもないが、その後半にわたしは頭をたれた。訳者の小森さんにお許し願い、ここに上げさせてもらおう、やみがたく、そうしたい。
☆ パトモスのヨハネ 恵み豊かなイエス の後半
小森健太朗さんの訳で 『人の子イエス』みすず書房新刊より
さて、私に、他のことも語らせてください。
ある日、私はあの方と二人だけで野の道を歩いていた。私たちは空腹で、野生の
林檎の木があるのを見つけた。
その枝には、たった二つの林檎がなっているだけだった。
あの方が腕で木の幹を揺らすと、その二つの実は落ちてきた。
あの方は二つの実を拾って、一つを私に渡した。もう一つの実は手に持っていた。
私は飢えていたので、その林檎を呑み込むばかりにすぐ食べてしまった。
それから私はあの方を見、その手にあるもうひとつの林檎を見た。
あの方はそれを私に差し出して、「これも食するがよい」 と言われた。
私はその林檎を受け取った。無恥なことに私は、それも食べてしまった。
それからまた歩きだして、私はあの方の顔を見た。
でも、そのとき私の見たものをどう伝えればよいだろう。
蝋燭の火があたりを照らす夜──
われわれの手の届かないところにある夢
羊の群れが草を食んでいて、羊飼いが平穏かつ幸せに過ごしている昼の日中
夕闇、その静けさ、家路につくもの
そして、眠りと夢──
これらすべてを私はあの方の顔に見た。
あの方は私に林檎を二つとも授けた。私同様、あの方も空腹だったのを私は知っ
ている。
しかし私にそれを与えることで、あの方が満たされていたことが、今の私にはわ
かる。そのことであの方は、目に見えない別の果実を食したのだ。
私にはあの方についてもっと語りたいことがある。だが、どうしたらよいだろう。
愛があまりに広大になると、言葉が失われてしまう。
思い出があまりに過重になると、それは深い眠りを求める。
* わたしは今もたくさんな本を読む。古典的な作を繰り返し読んでいるが、新刊を拒んでいるのではない。そしてわたしは絶えず、本当に絶えずものを「書いて」いる。ただ、無心に書いていて、それでもって手柄を取ろうなどとは少しも考えていない。著者が八十過ぎてもギラギラとした功名心で書かれている本がある、幾らもある。嗤いはしない、が、少し身を退いて読むか、読まずに過ごしている。
そんな中でこのジブラーンの『人の子イエス』には惹き込まれる。
倉田茂さんの詩集にも惹き込まれる。「書く」ならそういう作品に見ならいたい。
2011 6・24 117
* 塚本澄子さんの遺著となった『万葉挽歌の成立』を笠間書院を介して戴いた。すぐ思い出した、作新短大の助教授・教授を務めてられた頃、「 湖(うみ)の本」 の継続読者であった。原善クンが同じ助教授かなにかで机をならべていて、出来る女性が側にいて頭が上がらないとボヤイていたのを可笑しく思い出す。ま、成るべく成って塚本さんは教授に、さらに四年生の教授に進まれた。原は別のどこかへ、総武とかいう大学へ転じたのではなかったか。
* 笠間の重光さんの添書によれば、塚本さん大著の最終部分に「秦先生の作品に触れながら論攷を結ばれているのは印象深い」とあり、なるほど小説『秘色』で十市皇女を書いていたわたしの皇女観に、また皇女を悼んだ吹 刀自の挽歌に落ち着いた筆が運ばれていた。よほどこの小説を気に入って読んで下さっていたようで、懐かしくまた感謝に堪えない。
ご遺族の意向で遺著が成ったらしい。お許しを願い、その『吹 刀自の歌─十市皇女の人間像』とある一節を、「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論攷」室・招待席に展示させて戴く。
2011 6・24 117
* 黒いマゴにちと足の指を噛まれ、起きて外へ出してやった。五時半。外へ出るまでもなく明るく晴れていて。静かで。マゴもゆっくりゆったり朝の空気を呼吸するていで、そぞろ歩いて姿を隠した。
* そのまま起きて、源氏の「少女」巻、夕霧と雲居の雁の幼な恋が内大臣の故障申し立てで淋しい別離を強いられる辺を読んだ。栄花は後一条の東宮がみずから廃太子を願い出て「一の院」「太上天皇」として気儘に暮らしたいと。このあとは、新たな皇太子に大宮彰子は亡き定子皇后の遺子を推し、摂政道長は彰子の長子を強硬に東宮にしてしまう家庭騒動が起きるだろう。
* ロマン・ロラン=ジャン・クリストフの延々たる「フランス論」が続いている。コレットという娘が出てくる。政治家たちが登場する。十九世紀西欧の作家たちの創作手法は、はてしなく、しつこい。もう少し前のバルザック『谷間の百合』の語り手フェリックスの長広舌も、魅力的だけれど惘れるほど大量の美文。よほどの体力でないと書けない。直接話法になった部分を舞台の演劇話法のつもりで聴いてみようとした。名優に語って聴かせて欲しいほど。
* 『上野千鶴子に挑む』 本は汚れるが朱線を入れながら丹念に読んで行く。
この本のどこかで、たしかインタビューしていた千田さんの発言中に「女文化」という三時が出てきた。一過性の偶然の用語なのか、わたしの「女文化」説を知っていたのか、 興味を覚えた。『女文化の終焉』を書き下ろし出版したのは一九七三年五月、千田さんはまだ幼い女の子であったろう。それ以前に「女文化」という語を用い論じた前例をわたしは知らない。近年、ときどき「女文化」と語る論者に出逢う。講演を頼まれたこともあるが、受けられなかったこともある。
* 思わず居ずまいを正すのは、唐木先生の『科学者の社会的責任についての覚え書』だ。いまこそ、筑摩書房はこの本に新たに世の注目を促すべきではないのか。語られ問われ論じられている社会的責任は、いわば科学一般のではない、アインシュタインに象徴されて此の世へパンドラの箱から立ち現れたような「原子力科学」にたずさわる科学ないし科学者たちの、身内を引き裂かれているような二元化し齟齬した社会的責任が強く、烈しく問われている。
* そして、バグワン。
2011 6・25 117
* 日本映画の「蕨野行」や、海外の「グランブルー」さらにはサイエンスフィクションながら「マトリックス」などを想い浮かべて、シンとした思いで床に就いた。
ジブラーンの『人の子イエス』を読み継いだ。たぶん一冊の中の最長篇ではないか、マリアの隣人である、人の母の、しみじみとマリアを語った述懐に、胸のふるえる心地がした。映画では同じマリアでもマグダラのマリアがすばらしい詠唱で、胸にも目にも迫ってきた。
2011 6・26 117
* 『上野千鶴子に挑む』を読んでいて、おお、と思った。
むかし叔母の茶室に稽古に通ってくる年頃の娘たち( なんの、わたし自身は少年にすぎなかったが。) の話題は、何といってもお嫁に行くことであった。縁談が決まって、もうお稽古に来れませんと先生に、つまり叔母に挨拶するときの晴れがましく嬉しそうなようす、たまたまそれを、直に、また噂に聞いた同世代の娘たちの動揺など、わたしは少なからぬおどろきで眼に耳にしていた。限界年齢はぎりぎり二十五歳まで、もう少し早くありたく、それを越すと、焦燥に駆られるらしいのが観ていて分かった。もう敗戦後の見聞であったが。
ところで上野さんの一九八八年頃の記述では、女三十五歳は「惑年」「ポスト育児期の開始年齢」だとある。
「平均年齢二十五歳で結婚した女性が、第二子を産み終えて、その末っ子が小学校に上がる年である」と。フムフム、わたしの見聞や世間一般は大方そんな按配であったと思うが、「惑年」とは、何。
上野さんに依れば、二人の「子育てに夢中だった女性が、仕事に出ようかしら、と悩み始める頃」を意味している。
なるほどなるほど…と納得していては、だが今や様子がまるで違っている。なるほど一九八八年では女の三十五歳はそういう「惑年」であったろうけれど、今日ではウソのようにサマ変わりしていて、同じ「惑年」でも、「初めて子供を産もうかどうか」に「惑い」「悩みだす」のが三十五歳だという話だ。
現に、二十代前半女性の出産数よりも、三十五歳を過ぎた女性のそれの方が、今日「はるかに多い」という。
上野教授に「挑む」筆頭弟子の千田有紀は、この「二十年ほどの間に、何と遠くに来たことか」と惘れたように書いているが、まことに。
しかも遠くへ来たのは、果たして、誰なのか。それがさきざきの日本の家庭・家族や日本国の幸・不幸とどう関わるのかを想うと、うたた胸の塞がるここちがする。
想うに、親と子との「年齢差」のひろがることは、親と子との親子らしい実質を伴った「共生・共食・共働期間の短縮」を必然にする。何もかも促成栽培に近くなり、「少子化」は拡大増進されて國の経済力は落ちに落ちて行くだろう。
わたしは百五十年後に日本国が、中国かロシアか朝鮮半島の別荘地となっているだろうことを、残念ながらかなり本気で憂えている。
生まれる子供は、社会や國が責任をもって養育し、結婚制度に拘泥することから民族として大まじめに脱却したがいいだろうとすら、國のために憂える。プラトンの望んだ理想の「國家」はそうであった。わたしはフランスという國をじつは文化的にも国家的にも高くは買わないのだけれど、子供は社会と國とでという方角へフランスはつとに歩んでいるようにも想うが。
もう一言を、うかと付け足して行くと、こんどはわたしが「上野社会学」に「挑む」ようなことになりそう、そんな物騒なことはしたくない。「①挑発にはのる、②たケンカは買う、③のりかかった舟からはオリない」のが上野さんの処世三原則と洩れ聴いている。
しかし上野社会学、問題の風をたっぷり帆に受けていて、おもしろい。
2011 6・26 117
* 「汲古」とか「本郷」とか「笠間」とかいう雑誌は企業PRを兼ねつつ、断片断章ながらおそろしくハイレベルの研究報告が盛り込まれていてタダで貰うのが勿体ないほど。思い切った冒険も含んだ試論や私見にも史料にも当面する。そういう点では文藝諸社のそれらより保存したい貴重さを、むろん号によるが孕んでいる。けさも汲古書院の「汲古」の巻頭、相見英咲氏の『神代紀・神代記により木花咲耶姫の本当の夫を復元する」と題した勇敢な論攷が読めて、かなり痺れた。この雑誌は「古典研究会」という錚々たるメンバーが編輯されていて、或いは先端とも或いはがっちり後衛といえる論攷でだいたいいつも唸らせられる。今月は巻頭作のほかにも十数編の中に、久しく「 湖(うみ)の本」 の継続読者だった浦野都志子さんが、『黒河春村伝再考 その典拠資料』を寄稿されていて嬉しい。
2011 6・28 117
* クーラーなし、小休止の気でつまらないドラマを見ていたが暑さに負けて倚子のママ寝入っていた。 家の中でも熱中症はやる。去年の夏は日照りの真昼に自転車で走り、あわや入院かと云うほどヒドイめに遭った。高熱で、吐いた。まさか六月ではなかったのに、今年は六月からひどい暑さ。
それでも外へ出たい気持ちは有る。
今は、機械部屋にクーラーを働かせ、「悲愴」は、済んだ、モーツアルトのコンチェルトK438をマリア・ピレシュの綺麗で清潔なピアノで聴いている。何曲も続くはず。さ、それならと手に取る本は、亡くなった網野善彦一の名著の『無縁・公界・樂』で。わたしの頭も、働きます。
2011 6・28 117
* 近藤富枝さんの文庫本『紫式部の恋』は、かるがると読めるためについ何でもなく読んで終わりそうな本だが、内容は容易ならぬ重みと確かさを備えている。近藤さんは、わたしより一まわり以上も高齢だがお元気で、親切な方である。旺盛な筆者で多彩な趣味を活かして楽しんでこられた。研究者でも学者でもシチ難しい批評家でもない、はなはだ「力のある読者」の尤たる大きな存在と認めるのが適切だろう、その近藤さんのこの本は代表作の一つになろう。わたしは楽しみ楽しみ少しずつ読んできてもう四分の一ほどのこしているが、急いで読み上げるのをむしろ避けて楽しんでいる。いま原典は「少女」の巻を終えようとし、栄花は後一条の東宮に誰が立つかという辺を読んでいる。現実には原発だの菅おろしだの、また明日は判決だのと醜い限りを堪えてすごしながら、読書世界はじつに豊かに悠揚として迫らない。
そして「 e-文藝館= 湖(umi)」には、あの「常にもがもな常乙女にて」と叫ぶような吹 刀自の和歌を説く論攷を読みながら招待席におさめようとしている。
2011 6・29 117
* 夜前、カリール・ジブラーンの『人の子イエス』を読み終えた。優れたものに出逢った喜びを堪えきれない。
もうひとつ、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』も読了した。著者の文藝の才能はしっかり感じたが、それ以上の感想は持てなかった。
2011 7・1 118
* メガネを新調に行く気でいたが、気付いて調べると案にたがわず定休日。仕方なく鮨屋に入ったら、いきなり小鉢に茄子が出て腐った。穴子も雲丹も鰈もうまかった、冷酒も佳かったが、茄子がこたえた。
あまり暑いので町歩きはやめ、『無縁・公界・樂』を耽読しながら保谷に戻り、喫茶店でドーナツ二つと珈琲とで書きかけの小説をプリントでしっかり読み返し、ノートなど取っていたが、隣家のご主人にみつかり暫し歓談。別れたあと薬局へ病院処方箋を渡しておいて、「和可菜」鮨でまた肴でビールと酒をのみ、店の夫妻とゆっくり歓談して、歩いて帰宅。
2011 7・1 118
* 湖の本でも永らく支援頂いた元阪大教授、亡くなられた中村生雄さんの遺著を、行き届いたご挨拶を添えて、奥さんから頂戴した。『わが人生の「最終章」』とある。第一部 「死」と向き合う 第二部 「いのち」の日記抄。厳粛である。
☆ 盛夏の候、皆さまにはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
中村生雄が亡くなりまして、早いもので一年になります。
皆さまには生前大変お世話になり、お礼の言葉もありません。本当にありがとうございました。
さる五月十四日には「葬送の自由をすすめる会」 のご協力を得て、夫の希望通り駿河袴で散骨をい
たしました。
当日は夫が好きだった富士山が見えたものの波が高く、とても静かなお別れとはいきませんでした
が、笑いの絶えなかったわが家らしいお別れだったかなと思っています。
さてこの度、春秋社のご厚意で中村生雄の絶筆とでもいうべきものができました。
最後の最後まで執筆していた遺稿と、プログの記事をまとめたものです。お納めいただければ幸い
です。
暑さの折からくれぐれもご自愛くださいませ。
二〇一一年七月 中村家家族一同
* 中村さんは、わたしが作家になりまだ本郷の医学書院編集者だった頃、間近い湯島で、春秋社の編集者であった。編集者の研修会が箱根だかどこかであったときに初めて知り合った。かれもわたしも大きく転進していった。彼はたしか静岡大から大阪大へ教授として歩を運んで行き、晩年にはわたしの孫のやす香の急死にも、著書の中で深切に触れてくれていた。早くに死なれるとは思わなかった。今度の『バグワンと私』などを尤も見て欲しかった読者であったのに。
* 京都造形藝大教授の羽生清さんからも『楕円の意匠』( 角川学芸出版) という意欲的な構成と内容の新著を戴いた。わたしより一世代若い、それは美しい人で優れた学究であり、湖の本27『誘惑』の巻末にじつに有り難いインタビューをして下さっている。得がたい知己の一人で、湖の本の理解者・継続読者である。
この本の魅力には文字通りの凄みが盛り込まれていて、神話と物語、怨霊と幽霊、島原と吉原など合わせ鏡のような対比から新たな文化の拡がりを学ぶことになる。「古典作品のうつろいゆく命と形」を美意識の根底の問題として問うている。
「民主主義を金科玉条としてまいりました私も ふと これでよいのかと考えはじめて書いてみましたが」と毛筆のお手紙にある。毛筆付いているとも。わたしの今度の上巻跋に書いていたのを羽生さん、受けて書いておられる。丁寧に読みたい一冊である。
2011 7・2 118
☆ ロマン・ロラン(=『ジャン・クリストフ』)に聴く
一つの大きい魂は決してひとりぼっちではない。 その魂が運命によって友らを持てずにいるとしても、結局その魂は友らを創り出すものである。 その魂は、それが充たされている愛をその魂の周りに放射する、そして彼が永久に人々から引き離されていると思い込んだまさにその瞬間に、彼は世の中の最も幸福な人々よりも一層多くの愛によって富んでいるのだ。
一人の藝術家が孤独でありすぎるということは決してない。
* どんなに疲労困憊していても就寝前のジャン・クリストフや源氏・栄花や、またバグワンは、わたしをしんから憩わせる。
* さ、今日も疲労の極まで歩むだろう。それ自身において寛ぐのである、「雑行の無心」を吸い込むのである。
2011 7・5 118
* 生き生きとよく働いている。新たに加えた網野善彦の名著『無縁・公界・樂』の有り難さ、言い尽くせない。『ジャン・クリストフ』が、強く頼もしくなってきた。わたしは、ロランの小説作法にはいささかならずヘキエキするけれども、創作されている主人公の魂には深い共感・身内の思いを禁じがたい。クリストフや拝一刀のような男、映画「マトリックス」が描いたような真摯で清冽な愛、が好きだ。そうありたい。平気なウソやあいさつで繋がれたような当世風「付き合い」はイヤだ。
2011 7・6 118
* 夜前寝る前と夜中四時、「玉鬘」巻を耽読。あの長谷詣で、筑紫をかつがつ遁れてきた玉鬘一行と、もと玉鬘の母の夕顔に仕え夕顔死後は光源氏のもとで紫上に仕えながら玉鬘の無事と再会を祈り続けていた右近の一行との出会いが、なんとも嬉しい。興奮して眠れず、バルザックの『谷間の百合』に惹きこまれた。中学生の時、フェリックスがアンリエツトを恋い慕うように上級生に夢中だった。その上級生に借りて読んだ本である。お元気であろうか、今も。
さらに上野社会学に読み耽り、次いで網野善彦へ。そのまま又寝はしないで六時には二階の機械の前へ。一仕事、二仕事してすこし眼に眠気さしてきてから二時間近く寝た。
2011 7・7 118
* 昨日の夜は芯から草臥れていた。バグワンも源氏・栄花も西欧の小説も読んで寝たが、寝つぶれる心地で夢もなく引きこまれた。夢は目覚める少し前に見ていた。もう十時過ぎていた。すこしは明るい、つまり軽い目覚めだった。
これは記録しておこう、もう一年ばかり、わたしは床から起つのに杖を力にしなくてはならない。脚力だけでは起きあがれない。手をしたについて腕力を使えばいいが、左肩に故障があるか、つよく痛むので杖に力を借りている。
2011 7・8 118
* 五時半に目覚めて、床でそのまま本を読み始めた。
* 『源氏物語』の「玉鬘」巻は何度繰り返しても読み応えがする。夕顔はともあれ、わたしは玉鬘が昔から好きであった。その聡明で意志的なことは、あの『夜の寝覚』のヒロインに通じて行く。寝覚のヒロイン中君は、紫上に玉鬘を合わせたほどのすばらしい造形であった。て『源氏物語』は次いで「初音」を聴くのである、心嬉しい。
* 『上野千鶴子に挑む』は、千田有紀の「『対』の思想をめぐって」、妙木忍の「主婦論争の誕生と終焉 なお継承される問い」を本が真っ赤になるほど書き込んで読み、今は斎藤圭介の「男性学の担い手はだれか」を半ばまで。
おもしろい。義理か厄介なんかでなく、上野のフェミズムや社会学に理解がよく届いて、こころよく教えられるしわたし自身議論にもやや加われる。わたしは「女文化」を上野さんの女性学よりずっと早く初めて日本で口にし、書いてきた。それも「女の、女による、男のための女文化」という定義と共に女権論や女性学の不可欠を日常会話の中で口にしてきた。あの岸田俊子( 中島湘烟) や福田英子への強い関心も、そこに生まれていた。上野さんの単行本で消化しきれないところまでお弟子さん達が懸命に解説し論攷してくれるのがおお助かりだ。上野社会学に添う添わぬはべつとして、わたしは主婦連とはちがった「女性の政党」があるべしとすら、日頃口にしてきた。そしてまたそれが円満に永続するかどうかにも、かなり危うい関心をよせている。上野政治実践へ道は通じていないのか。
* もう一つ、女性の学者である羽生清さんの『楕円の意匠 日本の美意識はどこからきたか』もただならぬ新著で、根底に『古事記』への覚醒が横たわっている。意匠を「こころだくみ」と訓んでみたい意匠学者の日本文化論であり、趣向も巧み。どうその趣向に日本の自然好きが骨格を与えているか、興味津々で読み始めている。
日本の理解では網野善彦『無縁・公界・樂』の着実でかつ放胆な説得力に魅了されている。是に比べると網野の先導者でもあった井上鋭夫の『山の民・川の民』は私などの手に負えない北越・北陸のフィールド・ワーク。知りたい性根はほぼ十分読み取ったので、なかばすぎではあるが、卒業する。
2011 7・9 118
* 秋山駿さんから『「生」の日ばかり』を頂戴。「日ばかり」とは「日計り」の意味か。茶碗に「火ばかり」がある。成形もなにもかも他所でして焼くだけは日本の薩摩で焼いた、つまり「火だけ」は日本という意味だったと思う。「御本の立ち鶴」という茶碗をもっているが、あれは「火ばかり」と聞いた気がするが。間違っているかも。
2011 7・9 118
* 昨夜は、階下に下りて行くと、妻が海外映画を観ていた。途中からだったが、静かに佳い作品だった。青春の恋を再現して行く老境の夫婦愛に感動した。
わたしは気がよほど若いのか未成熟だからか、今でも多くの物にも事にも人にも感動し、実感のあるいい涙にも恵まれている。
秋山駿氏の『「生」の日ばかり』を観ていると、映画にも感じない、昔の美しい女優にも感じないなどと、老朽した自身への嘆息だか諦念だかに満ちているようだが、しかもこの本の表題にもうかがえるように、氏は、文学青年の口吻や行文を脱していない。志賀直哉にはそういう気障が皆無だった。「生」と書かれるといまどきは「ナマ」と読む人が多いし、「日ばかり」を「日計り」と読み取る人は極少で、「日ばっかり」と受け取るだろう。なんだか生ビール賛歌のようだ。「死の間近で」のように意の通る率直ではいけないのか。
2011 7・12 118
* 上野千鶴子さんと、メールで話す。上野さんに弟子達の「挑む」本はこのところわたしの毎夜の好読書なので。
2011 7・13 118
* 『ジャン・クリストフ』二分冊の上冊をついに昨夜読み上げた。すこし、乗ってきた。
『谷間の百合』の、まさにメンメン体にもおどろく。二十歳過ぎの青年フェリックスの恋の吐露の、綿密な美文の延々たること、それはモルソフ伯爵夫人であるアンリエットにおけるも、しかり。彼や彼女のかかる恋愛をかかる言葉と文章とでひたすら述べてとめどないバルザックという作家の剛力に驚嘆する。
トルストイの『復活』と併読していたときの大デュマ『モンテクリスト伯』の叙事は、じつに要領に富んだ巧みな「説明」の連綿で、面白さは何よりその手練れにかかっていた。デュマの叙事に比すると、トルストイの文学は、じつに匂い高い美しい文藝の結晶であるのがよく分かった。
それはそれとして、しかし、フェリックスの恋の一途なこと。読んでいた昔のわたし自身の感激や感傷や感情移入を目前のことのように懐かしく思い出す。
2011 7・16 118
* 亡くなっていた塚本澄子さんの論攷「吹 刀自の歌」をは、読み応えのする周到の論究で、一字一句読み進みながら清爽の感に打たれた。研究者の古典の味わい方のしみじみと心嬉しい実感に彩られていた。「 e-文藝館= 湖(umi)」に「招待」している。もう数日の内等は展示できる。古典世界を論攷しようという人には一つの手本とも成るものか。論の結びに私の小説「秘色」にも触れられていて、光栄であった。
2011 7・18 118
* いま西欧の大作をバルザック、ロマン・ロラン、チェーホフ、マードックの四作読んでいて、日本の近代小説は谷崎の「鮫人」だけ。これがけっこうバランスしていて面白い。谷崎のは大正初期作だが、彼もまた西欧の大作の綿々とした描写を通して近代小説を学習したに相違なく、「鮫人」の書き出しからかなり先までのねちこくしつこい書き方など、むしろそこから脱して行く谷崎文学の大成の歩みがわたしには面白い。彼は彼なりに源氏物語などを、西鶴や秋成などを取り込んでいったのだ。
わたしはいま、古典は源氏と栄花に集中しているが、源氏物語は、上に並んだ西欧の大家たちのどの小説よりも面白く、しかも立派である。驚嘆を新たにしている。
* そしてやはりバグワンが、有り難い。
2011 7・18 118
* 下巻の『バグワンと私』を読み返していて、真実、バグワンという人の深さと端的な透徹に敬意を覚えずにいられなかった。下巻ではじかにバグワンが多く語っているのが、読者にうまく伝わるか知らんと案じていたが、妻など、下巻が圧倒的に佳いと言う。読み返していて納得した。続きを、つまり2007年からの『バグワンと私』もと言ってもらえると、嬉しくなる。それはまた、いつかのこと。
2011 7・20 118
* 街へ出た。颱風一過でなく、どこかで停滞の曇り空、ときどき小雨。涼しい。なんでもない洋食屋で、肉の骰子切りとクリームコロッケ。ジョッキのビール。パン。食べてしまってから、あ、牛肉を食っちゃった…。だが、うまかった。
ひさしく食わないラーメンというのも食べたくて。夕方、西武池袋駅で、立ったまま。
外での読書は『無縁・公界・樂』一辺倒。
街歩きが、楽しかった。腰も、さして痛まなかった。サポーターはむしろ寐るときに緩めにし、外出時はしないことに。膝のサポーターは外出に有効。階段もスタスタと昇り降りできる。
2011 7・21 118
* 馬場あき子さんのグループの田中穂波さんの歌集『さびしい本棚』には面白い歌が幾つも、というより巻を通してだいたい面白い批評の歌であった。「ひとりの米研ぎつつ不意にをかしかりこれほどのもので生きてゐること」「あの人はわたしを好きだと思つてた 回転寿司の乾いたまぐろ」「ふかふかの布団ぺちやんこに圧縮し蔵へばなにか罪のやうなり」などと。短歌体を模したみな面白い批評で一寸感心した。課題は、短歌は批評( マインド) で終わって済むか、だ。美しい魂(ハート)の表現を追求して欲しい。
2011 7・27 118
* 六さん
メール便は久しぶりなので、これで届くかなあと心配ですが。お元気のことと思います。いつも、有難う存じます。
さて今日、
「こころ」とはなにか を郵便で受け取りました。「mixi」で書いてられるのもむろん知っていました。
率直に申して、この考察には、魅力を覚えません。
七十年、まさに心にかけてきた問題で、繰り返し繰り返し答案を書きつづけてきた実感をもつ私には、残念ながら「おおそうか「「そうであったのか」と新たに教えられる喜びが得られないのです。
今の私には、「心とは何か」という、いやほど繰り返しまた読んできた「辞書・辞典」水準での詮議穿鑿や一般論には、関心がもう無いのですね。何も得られない。己の死生に思い惑い苦しみながら、願わくは「心」になど煩わされたくない、どうしたらいいのだろうという、いわば「悲しみ」にこそまみれてきたからです。「もらひ子」の境涯を知った幼年から、漱石の「こゝろ」を読んだ中学生の頃から、『バグワンと私』の最近まで、輾転反側して「こころ」からの自由を願い続けてきた者には、物足りないというより索漠とした作文のように感じられるのです。ごめんなさい。
「mixi」を始めたとき、一機会かと、己れに強いてすぐさま、ぶっつけに、まる一ヶ月「静かな心のために」と題して述懐した数年以前も、わたくしには「心」のことは「なにか」ではなく、「いかに」して静かに無心へと深み行けるかという「死生」の問いでした。
おなじような、なまなましい「あなたご自身の呻きや歎きや煩悩」にまみれて「心」が問われているかと期待したのでしたが、「概念の処理に終始」されていては、所詮マインドという心の分別に過ぎず、ハートという生き生きとした鼓動のことばとは受け取れないのです。したがって結びに近く宣言されている、どんな「責任」を引き受けられるのかが、あなたの文章からは見えないのです。
率直に申しました。お気に障りませんようにと願っています。さらなるさらなる精到と透徹のご覚悟をいつかまた読ませて下さい。 私は、元気に過ごしています。 秦恒平
2011 7・28 118
* ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が、作者母に捧げられた六章「アントワネット」で感動豊かに盛り上がっている。なんでこんな真ん中で大きな道草を食うのだろうと思いつつ、それはただの道草でないに相違ない。ジャンナン氏という父の事業の失敗と自殺により、文字通り不幸のどん底に落ちこんだ母夫人と姉娘アントワネット、弟オリヴィエらの苦闘のパリ暮らしが綿密に描かれて、 母夫人は貧と屈辱にまみれて病死。のこった健気で聡明な姉と、神経質で繊細な弟の、ことに姉の愛情豊かな誇りたかい、だが苦悩の連続によってだんだんと病弱化して行く、じつに美しい姉と弟との愛深き暮らしぶりが簡約の筆で書き継がれている。
姉も弟も音楽を愛していて、姉のアントワネットとクリストフとは、過去にかすかに知り合いすれ違い別れていた。熱い悲しい美しい予感に導かれてゆくようで、わたしは初めてこの大大長編小説の途中で、酔おうとしている。
* 源氏物語は「常夏」巻を経過していて、栄花物語は道長の出家と仏門へのはなやかな寄与が華麗に書かれている。
その一方で近藤富枝さんの『紫式部の恋』をもう読み上げようとしていて、これは快筆の快冊、縦横無尽に、書くべきはみんな書いてあり、自信に溢れた筆致である。どうやら、これほど周到に紫式部と源氏物語とを語り抜いていながら、意図してであろうか、紫式部集の大尾をしめくくる「加賀少納言」の存在には触れずじまいに事終えてあるようだ。
家集の末尾を飾る歌は、自身かあるいはことに著明な人の歌で終わるのが普通だが、「紫式部集」に限って加賀少納言という、今もって誰と確定も推定もされ得ていない女房らしき人の歌で締めくくられている。わたしはその不思議を『加賀少納言』という小説に書いていて、近藤さんは読まれている。読まれたあと、小さな個所での、人物の衣裳での助言をもらっている。
近藤さん、「加賀少納言」にどう触れられるかと思っていた。触れておられないようだ。
ちなみにこのわたしの小説、ロシア語に翻訳されている。
2011 7・29 118
* 近藤富枝さんの河出文庫『紫式部の恋』 楽しんで楽しんでゆっくり時間をかけて、うまいものを咀嚼するように読み終えた。
源氏物語を初めてよんだ年頃も、それが与謝野晶子の豪華本であったことも、以降繰り返し返し耽読していまもいささかも飽きないことも、そっくり同じ体験をしている。わたしの方が一回り以上若いけれど、もう近藤さんほどの「源氏物語」理解を懇切に披露することは無いだろう、もし、好案内を求める人があってもいきなりこれを奨めはしないが、源氏を五度も読んで、自身の鑑賞をさらに深め疑念をただしたいような人には、わたしは名だたる学者たちの浩瀚な研究書よりも、近藤さんのこれを奨めます。「いい本」です。近藤さんに感謝。
* 源氏物語をわが家ほどの親しみで、繰り返し゜帰って」行く、いまもまた耽読して毎日楽しんでいるわたし、「女文化」ということばを創始し創使して久しいわたしに、また一つ、興味深い喜びが、思いがけぬ方角からやってきた。
それは「 上野千鶴子に挑む』第四章を書いている宮本直美の論攷の中で、「かわいい」という、あまりに今日聴き慣れ過ぎている言葉を、「女子文化」の鍵と読み切っている面白さ。めったに眼から鱗を落とす喜びには出会わない中で、なるほどね、と大きく手を拍った。説得された。
ただし、先を読み進まないと断定できないが、宮本はこれを当然にも、現代の、昨今のジェンダーやフェミニズムの論議と関わらせて論じているけれど、源氏物語世界に浸っていると、男の目からみた女の「らうたし」が、頻々と、今日女性の女性同士の「かわいい」ほどもよく用いられていることなど、昔々から承知している。
「らうたし」の意味はほぼまちがいなく「かわいい」に近い。だが女同士で相手や人のことを「らうたし」と評することは少なく、あってもよほどの年齢差の中で年長者が用いているように感じる。しかし男から女へは、口に出す出さぬはべつとして、決まり文句の好評価である。「女文化」を「女の女による男のための文化」と定義してきたわたしの目では、彼ら平安男の「らうたし」は「女」を無責任に好評価して自身も嬉しがる鍵言葉のように思われる。
宮本の論文で、じつはわたしは初めて「女子文化」という概念を知らされ、その胚胎された源泉が「女子校」に在るらしいとも初めて教えられた。
ま、いまは、ここまでで、よい。
この上野教授にお弟子さんたちの『挑む』本、なかなか面白くて、本が朱線で真っ赤っ赤になっている。
2011 7・30 118
* 創作へいろいろ移行して行くため、手ならしに、書きかけてある中から一つ二つと書き継いで行けるようになってきた。
今後もどんな執拗な妨害が来るか知れないのだが、せいぜい忘れていよう。
機械から目をやすめる一服がわりには、それでも結局本をよんでしまうのだが、今日は近藤さんの文庫本を読み上げてしまい、実はチェーホフの長篇『曠野』も数日前に読み上げて、今は、手当たり次第に書架から下ろした五冊の和本『唐詩選』の第四冊と第五冊とを気の向いた方へ手を出して休息している。五絶と七絶、これなら久保天髄の釈義で用が足りる。
九月九日望郷臺
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那従北地來 王勃
北地望郷の念に堪えないまま 南方の他郷他席でしかも旅だって行く客を送って酒盃を重ねているが、ほとほとこの南中に厭きている。それなのにまあ渡り鳥は、なんでわざわざ北から南へなぞ飛んでくるだろう。
ちょっと同情する。
2011 7・30 118
* 夜前、床の灯を消したのは明けの四時さえ過ぎていた。何かあるときちっと対応したい。いい加減をやると、いい加減にした何倍もややこしくいつかハネ帰ってくる。
潤一郎の「鮫人」を終えた。あっけない中途の中断作で、これは、潤一郎と雖もどうにもこうにもならず投げ出すなと予想できた。展開するに展開しきれないで「もっちゃく」していた。新門前の親達がときどきこの批評語を用いた。どうひねくりまわしてもどうにもこうにも退路も血路も開けないややこしさを謂うていた。投げ出すしか手がない。謡曲の「合浦」に用いられていたか、「鮫人」は人の姿をした魚で、泣くと涙が珠になる。ヒロインに「真珠」と名付けての当初からの作の題であったが、結局その「真珠」が活かせず、まわりにいろいろ現れた男たちも女も、有機的・構造的に作中の役を分担できなかった。作者の先へ進めないままの饒舌がいかにもシンドそうで。かなり長篇なのに、ダイナミズムに欠けた。
チェーホフの稀に見る長篇の「曠野( ステップ) 」も、作者の描写力・表現力、いろんな人物の把握の確かさには驚嘆したけれど、ストーリイの魅力には欠けていた、チェーホフにして、である。彼の短篇はどれもこれもあんなに面白いお話であるのに。
2011 7・31 118
* 宮本直美さんの「かわいい」論を読み進んでいる内、こんな言説に行き着いていた。
☆ 「かわいい」という言葉の意味の特性は、 相手の存在を決して脅かさないことであり、相手を絶対的に安心させることである。そこにはあらかじめ従属性、劣位が組み込まれている。常に相手より下の地位にとどまっていることを約束する言葉なのであね。相手より下の位置にいて愛されることを望んでいる。自分より上のものを前提にして、その下にとどまることを運命づけられた概念が「かわいい」なのだ。日本の女性が「かわいい」という規範に強固にに、あるいは緩やかに、縛られてきたとすれば、それに憧れることは、どこかで従属的な立場であることに憧れるということ 二番目、二流を望んでいることになる。「かわいい」というジェンダー規範に無意識につながれた女性たちの多くは、その瞬間に次点の立場を望んでいるということになるわけである。
* これで、 先日言い及んでおいたわたしの謂う「女文化」と今日の「女子文化」は、きれいに反転しながら接続する。「運命づけられた」と女の側から謂えることも、光源氏や匂宮たちは男の側から女を「運命づけ」ていた。その際の鍵言葉がかれらの乱発していた「らうたし」つまり「かわいい」であった。「かわいがられたい」女たちのひさしい女文化的習いが確実に性となって、「女子文化」へ流れてきていた。「らうたし」と「かわいがられ」たかった平安女たちの平安男による馴致の行く果てにこんにちの「キャー、かわいい」という「女子文化」が出来ていたのであろう、 断定はしないけれどね。
* さ、七月が尽きる。
* さ、七月が尽きる。
2011 7・31 118
* アントワネット(『ジャン・クリストフ』六章)が死んだ。こんなに悲しい死をこんなに美しく悲しく書いた例を多くは知らない。深夜、覚えず嗚咽した。こんなに愛に溢れた姉と弟の例も知らない。姉は不幸に死んだ父や母に成り変わって、弟の成人のために生きて生きて汚辱にも堪えて、誇らかに貧苦を凌ぎに凌いだ。その生きの励みは、弟を愛する親のような献身であったけれど、根の深くにはドイツへ出稼ぎに行っていた間に、かすかに出逢い行き過ぎて別れてきたジャン・クリストフへの、意識下に押し隠した愛もあった。そしてパリのとある音楽会で、昂然と頭をあげて聴衆の無礼に立ち向かうクリストフを、すでに病み衰えていた姉アントワネットは、弟と二人で見た、認めた。騒然とした乱暴な会場で、クリストフの音楽のすばらしさを聴き取っていたのは、優れた音楽へのセンスをもっていた此の姉と弟のただ二人だけだった。
アントワネットは、クリストフへの愛を自覚し、しかしもう何の余力もなくて衰えきった心身を、弟の心身にあたかも成り込ませるようにして、ついに逝った。父と母と姉とは、ひとり死なれた弟のなかに、弟とともに生き変わっていた。
クリストフは、あの音楽会にアントワネットのいたのを一瞬認めていた。そしてもう一度街頭で、混雑した大通りの向こうと此方とでたがいに雷のように愛情に打たれあいながら、惜しくも見逃していた。
クリストフは、ドイツでかすかに触れて瞬く間に別れた名も知らぬ娘のために、一つの歌曲を創り、献辞とともに楽曲集の巻頭に置いていた。その楽譜を、あの不幸で乱暴な音楽会のすぐあと、弟オリヴィエは何も気づかず知らぬまま、姉のために手に入れてきた。姉アントワネツトは、献辞にしるされた日付により、それがクリストフの彼女への愛の告白だったとただちに悟った、彼女は無我夢中にクリストフに手紙を書いたが、送り先も知らず知れず、弟オリヴィエの腕の中で死んでいった。アンワネツトの思いがクリストフにいつか届くのかどうかは、わたしにはまだ分からない。
* 「アントワネット」というほとんど独立した愛の長編小説と読める一章により、それまでのジャン・クリストフを書いてきた延々たる綿々たる叙事・叙述が、たちまちにおそるべき分厚さで、克明な印象とともに起ち上がってきた、とわたしは思う。ゆっくりゆっくり読んできたので、わたしはその全容を記憶に刻んでいた。忘れてなかった。辛抱よく、投げ出してしまわず、いい読み方をしてきたと、いま、喜んでいる。
大長編は、やっと半分を過ぎたが六分にも到っていない。没頭してゆけるだろうと嬉しい。七十五郎、少年の愛読者に返っている。 2011 8・2 119
* 竹西寛子さんの新刊『五十鈴川の鴨』を戴いた。「あたうかぎりの寡黙と 忍耐にひめた原爆の影。」と帯にある。
2011 8・3 119
* 「主婦」とは近代の概念だろうか。
主婦という言葉はともかく、主婦相当のはたらきが古くからあったのは間違いないだろう。
家刀自という呼称や名乗り、奈良・平安の交期ごろには記憶がある。蜻蛉日記の筆者である女主人公は、正妻ではないけれど夫兼家の要望に添いながら家事に類する奉仕の才覚があり、采配をふるっている。源氏物語の紫上にも、髯黒大将の妻になった玉鬘にも、また夜の寝覚の中君にも、家刀自らしい采配は見えている。
それどころか大体、女の商人や金貸しの歴史は、想像以上に古くから在り、古代から中世半ばに及んでいる。近代主婦の無賃労働とはちがう実力が認められている。
『蕨野行』などでもそうだが、役に立たなくなって捨てられると同然になる以前には、庶民の家でのオバアちゃん、かあちゃん、の存在感も家内の位置もバカにならない大きさ重さであったのではないか、農家などでは。
2011 8・3 119
☆ 「明晰な真理や、概念や公式の言語、純粋論理や客観的情報や正確な科学の言語がある。が、それはハートの言語ではない。それは愛の言語ではない。宗教の言語ではない。」「ふつうの言葉にもの足り無さを覚えたことがなかったら、おまえは心貧しい人間にちがいない。」「もしおまえが散文の言語──実証的言語、事実や数学の言語は不充分だと感じたことがないとしたら、それはたんに、おまえが生の神秘を何一つ味わったことがない、ほんとうには生きてこなかったということだ。」 バグワン
2011 8・3 119
* 谷崎潤一郎の「鮫人」中断のころのレーゼドラマ「蘇東坡」が悠々然として面白く、感心した。うまい噺家に話して聴かせてもらえたらさぞ満足するだろうなと思った。講釈ではダメ。
そうそう、三好徹さんに「三国志」に取材した一冊を一両日前に貰っていた。
* 少し過ごしやすくて助かる。地震がないと、もっといいのだが。
いろんなことをして、今日も過ごした。
2011 8・3 119
* バグワンに聴いた、ウイリアム・サムエルがこう話していたと。
☆ 「あるとき、中国で、私ウィリアム・サムエルは一篇の簡潔な詩を渡され、読んで解釈を述べるようにと言われた。その場で即座に答えることができたが、二十八日間それについて考えるようにと告げられた。
『なぜそんなに長く?」と、私は、西洋人によくある性急さで尋ねた。
『十二回読むまでは、一度も読んだことにならないからだ』という答えだった。『読んで、また読み返しなさい」
私は言われたとおりにした。十二の十二倍読んだ。すると、そうしなければ聴くくことのできなかった、ある旋律が聞こえてきた。
それ以来、私は、なぜ数えきれないほど読んだことのある聖書や他の書物のなかのある数行が、ある日さらにもう一読するだけで突然広大な新しい意味を帯びるのか、その理由がわかった。」
* バグワンは言う、それが本質の「詩」の意味だと。ただ読むだけでは理解できないと。
「知的に理解できないというのではない──それは単純だ。その言葉や文字の示している意味は明白だ。しかし、外見上の意味は真の意味ではない。隠された意味は、分かるかな、待たなければならないのだ、眞の旋律になって聞こえてくるのを。そしてそれが、いつ起こるかは、誰にも、けっして分からない。」と。
* バグワンに向かって苦情を向けても始まらない。
2011 8・4 119
* 口語自由律短歌の光本恵子歌集「蝶になった母」を送ってもらった。
形が変わっても韻律は大切 リズムがなければ踊れない 光本恵子
これがこの歌人の覚悟であり、この覚悟のない口語自由律短歌は起つことが出来ない。韻律が説明抜きに伝わってくれば、口語自由律短歌は和歌とも短歌ともちがった詩の自律をもつ。光本さんの一冊は多くの歌がよく自立し独自の音楽を奏している。なかなか、しかし、光本さんのようには行かないのが普通である。亡き宮崎信義の信頼にこたえて衣鉢を懸命に嗣いでいる。
2011 8・5 119
* 村上華岳の嗣子であられた常一朗さんに戴いていた随筆『華岳追憶 花隈の屋根の下で』を「 e-文藝館= 湖(umi)」の「随感随想」欄に掲載した。花隈は神戸、京都での祇園花街にあたる。華岳の養父の住まいは花隈にあって、晩年の華岳は、養父君逝去後、京都を去り画壇から去って花隈に住んだ。
長篇『墨牡丹』を「すばるる」巻頭に一挙掲載して会社勤務をやめ、作家として独立したのが一九七四年=昭和四十九年九月一日。常一朗さんのエッセイもその年二月に書かれていた。
☆ いい年齢になり、書くことについて、自分で吹っ切れてきていると思いますよ。
以前は自分を表現しなくてはとガチガチだったと思います。
近頃は、自分を解放して、伸び伸びやっていこうじゃないか、と思えます。決して軽佻でなく。
この感じが書いたものに出るといいなあと思いながら、構想を練っています。
* こんなうに言ってよこされた、が、理解できない。「自分を解放して、伸び伸びやっていこうじゃないか」という姿勢で書いた、書けたことなど、わたし自身一度も思い出せない。「吹っ切れてきている」って何なのだろう。
2011 8・6 119
* 東工大にいた頃、政治学の教授が、にこにこと、「秦先生、あげましょう。」 大きめの紙にプリントした何やらを「プレゼント」してくれた。雑にコピーしたものだが、上書きをみて、ニヤリ。おそらく「荷風散人」の筆かという、むかし世間をすこし騒がせた秘本だった。
一度は読み、定年で退官したときも他の荷とともにわが家へ持ち帰った。仕舞い込まれて埃をかぶっていたが、もののついでに掘りだされたので、休憩かたがたスキャンしようと思い立った。校正しいしいまた読もうという算段だが、元のプリントが上等でなく、活字も昔もの。ま、ゆっくりと。「 e-文藝館= 湖 (umi)」 に入れたいが、発禁もの。欲しい人は、言うてください。
* この二三日、「 e-文藝館= 湖(umi)」にいい投稿原稿を送り込んでいる。スキャンを苦にしなくなっていて、「 e-文藝館= 湖(umi)」を充実させたいスキャン候補作が幾つも幾つも手元に溜まっている。
2011 8・8 119
* 『上野千鶴子に挑む』のなかで、「カワイイ」論が開陳され、一つの指摘として「かわいい」を口にすることで、自身を二番手の劣位に置いているとの自虐気味の観察があった。
それでよく観察していると、必ずしもそうとばかり言えず、「かわいい」と叫ぶことが「かわいいそのモノ」への優位の主張であると聞こえる場面にいやほど出会うことに気付いている。
論者は全然視野に入れていなかったので、わたしは、今日の「かわいい」騒ぎは、大昔、「女文化」を慫慂しヤニ下がっていた平安男たちが、物語の中ででも、乱発ぎみであった「らうたし」「らうたい」の、つまりは逆転態の今日「女子文化」化であろうかと推測し、上野さんに伝えておいた。
だが、必ずしも逆転かどうだか、要するに光源氏が、優位から若紫や玉鬘を「らうたし」と可愛がっていたと同様の優位の表現として、今日の少女達もオバさんたちもやっぱり「おお、かわいい」を叫んでいる一面ないし多面は否定できない。
優位の表現としての「かわいい」と劣位自認の「かわいい」が、今日の「女子文化」に同居しているのが確かなら、論者は、今少し筋道を付け直していいのでは。
* 『上野千鶴子に挑む』のなかで、もう一つ、わたしの文学活動にもかかわる別の論題・論点にも出会っている。これは明日明後日に触れてみよう。
2011 8・10 119
* 宗教に関係した蔵書が手元にたくさん有る。どの一つを手にしても、おおかた、「知識」本、「解説」本、「評論」本。生きる難しさや死んで行く悩ましさに深く触れあってくる本は、実にじつに少ない。経典は、それなりに自身の内面とは隙間をもっている。切でも実でもない。ハッキリいって何の役にも立ってくれない。
けっきょくわたしは「バグワン」に「聴いて」いる。彼と歩んでいる「安心」、彼に聴いている「安心」。
2011 8・11 119
* ふとしたことで、吉田健一先生に書いて戴いた「『閨秀』を読む」を機械の中で取り出し、読み直した。この、「朝日新聞・文藝時評」の全面をもって書かれた批評は、或る意味では太宰賞をもらったより以上に嬉しい絶賛であったと同時に、「小説」という創作の秘儀をあらためて教えて戴いた貴重な教科書であった。たんなる作品批評ではなかったのである。
* 文学とは何であるか。このところそれが念頭の問いであった。
問うまでもなくわたしはかなりの確度で、確信をもっている。確信を支えられた一基盤、それが吉田先生のその一文であり、その背後に小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫、臼井吉見、唐木順三のような方々の存在が、失礼な言いぐさであるが「 うらうち」されてある。吉田先生はそういう先生方を代表して書いて下さっており、わたしは初歩の印可状を頂戴したと感じた。
何度も書いてきたが、これより三年半前、東京會舘での授賞式の会場で、わたしは選者のお一人河上徹太郎先生とお弟子と自認さえされていた吉田健一先生お二人だけの小卓に近づいて、今夜の御礼を申し上げた。お二人ともすっかり出来上がったようにお見受けし、吉田先生の、ときに発せられるポパイのような笑い声は会場内に異響を放っていた。
そのとき、わたしは、河上先生にふと聞かれたのである、「で、きみは、これからどうするのかね。」
わたしは酔っていなかったが嬉しくて浮き浮きしていた。
「自分なりのものを、しっかり書いて参りたいと思います。」
河上先生は打って返された、「そんなもの、あるのかね。」
雷にうたれ、私は青くなった。
「そんなものがすでにあるなら、太宰賞なんかやらんよ」と言われたのだと、瞬時に悟った。歓喜も感激も吹っ飛んだ。吉田先生がヒイーヒッヒーと笑われたかは覚えていない。
一年半後には瀧井孝作、永井龍男先生が『廬山』を芥川賞に推して下さり、三年半後に吉田健一先生はいま謂う『閨秀』評を書いて下さった。あたまから冷や水をぶっかけて下さった河上徹太郎先生は、創刊された或る文藝誌の巻頭に『初恋 雲居寺跡』を書いたとき、人づてに、あれでよいと伝えて下さった。
以来、そして今でも、わたしは、答案を出し続けている。免許皆伝など、なかなか。
* 世に創作・制作されたものは掃いて捨てるほどあるが、それが「作品」であるかどうかは別ごとだと、わたしは考えている。単なる「作・作物」と「作品」とはまるでべつのモノ、コトだ。人が誰もみな「人品」を備えているとは言えぬ。画がすべて「画品」を備えているとは言えぬ。
男が書こうが女が書こうが、何がどう書かれようが、それが「作品のある」「作品に富んだ」作であるかどうかは、まったく小説や文学・文藝の秘儀に属している。その「品隲」は、読み手の力量、ないし読む人の人柄による。
* なぜこんな古い話を持ち出したか。
一つにはいま読んでいる『上野千鶴子に挑む』のなかの、栗田知宏氏の「第五章 表現行為とパフォーマティヴィティ」に触発された。その冒頭で筆者は、上野さん他に二人の、つまり三女性著の『男流文学論』なる本に触れていた。書名の噂は知っていたが、相当に昔の物で、読みたいとは思わなかった。今も、みたことが無い。
わたしには男流は初耳でワキにおくが、「女流」文学なる名乗りも実質も実感してこなかった、筆者・ 作者が女性であるというに過ぎない無意味な、むしろ女性の作家達の「かたまりたい気持ち」はわかるとしても、さして価値も名誉も何もない「自差別」ではないのか、ヘンな意識だなと思っていたのである。
わたしは女性蔑視からは遠い男の一人だと本気で自覚しているし、紫式部や清少納言はいうまでもなく、額田王も小野小町も、女性の創作者や書き手を、敬愛こそすれ男側から差別的にみたこともない。ましてわたしは、上野さんの謂う「ミソジニー 女嫌い」ではない。
「ジェンダー」という認識や意識や社会学的な意義はほぼ認知していても、こと文学・文藝として男も女もなく優れた文学かそうでないかだけが私には大切だ。男流文学、女流文学の差異を言説するのはもとより自由で、事と次第では時勢や思想と関わりとても有意義だが、文学の「質」の問題としては何の関係もない。文学を「社会学的」に「歴史的に」考察するのはむろん可能でまた必要でもあるが、「文学」の質を「社会学その他」で評価できると簡単に思われては困る。それはあくまで社会学的評価に過ぎない。
* ま、そんな次第で、『男流文学論』には関心がなく、上野さんが吉行淳之介の文学に怨みつらみがあってもモットモだと思うと同時に、怨みつらみという社会学で吉行さんの文学の文学的評価は無理だと思う。物指しが違いすぎる。
わたしは、昨日一昨日と、或いは荷風作でありうるなあと思える『戯作・四畳半襖乃下張』を読んでいて、男なる「けもののサガ悪しさ」こそ感ずれ、「文学」の名でものの言えない「ボロクソ」だと思っていた。作品のみごとな『墨東奇譚』とは全くならびようがなく、同じこういうエロスを書くにしても、もっと優れた別の達成が可能ではないかと思っていた。
「女こども」を社会学的に露骨に下目に見扱っていて、しかも文学としては優れた作品・作者が無いわけでない。いっぱい、ある。しかもそれが、小説の秘儀をしかと現じていて、男であれ女であれ、読者を感嘆させる。そこに文学の文学ならではの本質がある。小野小町、伊勢、道綱母、紫式部、和泉式部、清少納言らにはじまり、樋口一葉、田村俊子、岡本かの子、林芙美子、円地文子、佐多稲子、網野菊等々から今日の曾野綾子、竹西寛子らに至るどの一人にも、男の女のという差異からその文学に接した、感じ入った覚えがない。女らしい視線や表現に感心することは有っても、それは男の場合にも謂えることで、それをすぐさま女流・男流とはとらえない。文学の秘儀の自在な表れ方の差異に、個性的差異に過ぎないと想っている。
* 社会学としての『男流文学論』や、政治的勢力団体としての「女流文学会」にも、わたしは何の異存もないが、「フェミニズム文学批評は文学という『ジャンル』そのものを解体するにいたった」という上野さんの豪語などはず失笑を誘う。「女性の文学はけっして貧しい(貧しかった)とは言えない」という上野さんのプロテストなども、歴史上の事実に即して、量はおくとも、 質においてはいまさら何をというぐらい、それは社会学的誤認に発した言説に過ぎないのである。まして、「正典化された文学というジャンル──これこそ上野が『男流』と呼ぶ文学であろう──に対し、一女性がいかに書く主体になるかについての理論的貢献をもたらした」と、上野さんは「フェミニズム批評」を評価しているのだと、この栗田氏は言いきっているけれど、わたしには「正典化された文学」という意義が明晰に受け取れない。
「正典」との同義語として「男流」文学と上野さんは言っていると筆者は明言しているが、そうなると、これは昔から有る「広義の純文学」「広義の読み物」の区別などとは無縁に、即ち「正典= 男流」を等記号で同一視していると思われる。栗田氏は、上野さん等の功績の一つかのように、いわゆる在来の「文学」以外の無数にネット社会で書き出された雑文なみのものも「文学」の範疇に入れ混ぜたことを「特記」しているが、「正典化された」の意味が依然分からない。「文学全集」に採られるような…の意味か。いやいや。かつての講談社の日本現代文学全集には、たしかに吉川英治や山本周五郎ですら加えられなかった。直木賞作家では井伏鱒二だけでなかったか、入ったのは。しかし、女性の作家はしっかり選抜されていた。これらがたとえ「正典化」の意味であるにしても、「即・男流」という限定は誤解に過ぎない。
今日では著明な文学全集にも「読み物」作家は入っている。むしろ純文学作家よりも威張った感じであるが、さて、読んでみれば「読み物」は「読み物」を出ない。優れた「作品」を備えた文学作家の作こそが、つまりは「正典化」されやすく「古典」にも成ってゆくのは、自然の趨であり「文学・文藝」の眞の魅力であって、男流だの女流だのという「社会学」は、文学の質的秘儀には指一本触れ得ていない。当たり前の話であり、「佳い物が佳い」のであり、その批評のちからには男女差・ジェンダー差は無い。おのずからそんなものは別途の学術であり論議であり、文学の質的秘儀とは無縁な詮議・論理に過ぎない。
いわば「散文」世界の代表のような社会学である。それはそれなりの大きな価値を生み出すだろう。その一方で文学はもともと広義の「詩」の範疇内にあり、言語的な特質で謂えば広義の「喩 メタファー」「表現」である。男か女かと謂った算盤ではじきだしてみても、「喩」の秘儀は開かれない。 (『男流文学論』を知らず読まずに言っていることを附記しておく。)
*栗田知宏氏の論文で今一つ、これは私自身の文学営為からも、口出しをさせて欲しいことが、ある。
たしかに、「作品の価値は(=作物の世評は、と謂うべきか。秦)決してその作品の内容だけで決まるのではない。それを称揚し、 推薦する批評家の存在があってこそ、(=こそ、という強調は或いは言い過ぎか。批評家にもいろんな意味でピンからキリまである。秦)作品に価値が附与され、権威となる。(=批評家の黙殺をものともしなかった秀作も、騒がれたけれどたいへんな駄作も、ある。秦)この閉鎖的なメカニズムを正面切って批判することは、文壇や文学研究とは距離のある社会学者の上野や心理学者の小倉(千加子)だからこそ、可能であったのかもしれない」と謂うてみることは一応可能だが、そんなことなら、少しクレバーで読み巧者の一般読者は日々にやっている。
また、「文学作品は、編集者、批評家、書店などといった文化仲介者の『媒介』によって生み出され、流通し、読者に届くものである」という栗田氏の断言は、近代現代において、たしかにあらまし謂えることはあるが、古典時代はもとより、たとえば
微小なりと雖も私の「秦恒平・湖(うみ)の本」 の場合、編集者、批評家、書店などといった仲介者の『媒介』無しに、作者自身の手で四半世紀を超え継続して百八巻まですでに「読者」の手に届き続けている。社会学者たるもの、文学流通の一社会現象にも目を配って論証・ 論考して欲しい。
私には、文学の「流通」に関しても、紙の本と電子の本とについても発言した「仕事」がある。「一般の人々がインターネットの世界で作品や批評を書くという行為に参入するようになった今、文学も批評もますます既存の絶対的な権威を失いつつある」という栗田氏の言も、半面の事実でありそれに就いては作家の私も早くにいろいろ発言しているが、もう半面、栗田氏のいうような実質の価値と内容を帯びたいったいどれほどの作や批評が書かれて、そのために「既存の文学世界」が震えているのか、わたしはネット社会のそれらに関心を持ってすでに十数年、かなり熱心に見回っているけれど、顕著な成績に出くわしたことは無に近い。この辺、かなり栗田氏の議論、裏付けを欠いて薄く、性急な気がする。
むろん、「時代や環境の急速な変化のなかで、『文学を社会学する』作業は『流通』や『媒介』といった観点から、メディア論や若者文化研究などとも接続した、テクスト批評に留まらない多くの観点からの考察を必要としている」とは、全くその通りと申して、だからこそそっくり論者に返上したい。
なによりも、文学に触れる限り、優れた文学を聡明に「読み」取り、「こころを動かす」という勉強も並行して「社会学」されることが願わしい。
* とにもかくにもわたしの日常生活へ「文学」が戻ってきている。嬉しいことだ。
昨日は、頂戴した竹西寛子さんの『五十鈴川の鴨』表題作を、静かな思いで深呼吸するように読んだ。
「誰よりも早く、カリール・ジブラーンの『人の子 イエス』を認めてくださりありがとうございました」と、みすず書房から礼が届いていた。「 湖(うみ)の本」 の中の「『静かな心』という言葉が響きました。静かな心で本をつくっていきたい」とも。すばらしい編集者の大勢出て欲しい時代なのである。
2011 8・12 119
* いまは亡き自称「押し掛け弟子」の石久保豊さんの「今様似せ物語」を、「 e-文藝館= 湖(umi)」「随感随想」の部屋に掲示した。卆壽を越えての希代のエロスにのけぞる。実は前歴の如何なるおばあさんとも知らずじまいであったが、映画世界に縁がありしかもかつてはかなりの重みで短歌界とも縁のあったお人かのように推察していたが、例の深くは尋ねもせぬうちに死なれた。妻と静岡まで病牀を見舞ったことがある。筆まめな人だった。
2011 8・12 119
* 山下宏明名誉教授の「妓王から仏原へ」を面白く読み進んでいる。源氏物語とならんで平家物語もまたわたしの「故居」のひとつである。帰って行けば、親きょうだいに逢うようで。
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
“「空」は何ものも頼まず’’
我々の実在が非実在であるという
このことは
あらゆる知者たちの最も深い認識だ
それは何かではないのだから
何かあるものなんかじゃないのだから
それは何でもないものとでも言うべきものだ
どんな境界も持たない広大な虚空
それはアナートマ(anatma),無自己だ
「内なる自己」などというものでもない
あらゆる自己感覚はすべて虚構だ
「私はこれであり,私はあれである」というような
あらゆる自己同化はすべて虚構だ
究極なるものに行きつくとき
自分の最も深い核に行きあたるとき
突如としておまえは
自分がこれでもなくあれでもないということを知る
おまえは一個の自我(エゴ)なんかじゃない
おまえはひとつの巨大な空であるばかりなのだ
ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり,どこにいるのかを──
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら,深く進めば進むほど
おまえは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ
みんなが瞑想に入るのを恐れるのはそのためだ
それは死なのだ
それは自我(エゴ)の死なのだ
そして,その自我(エゴ)というもの自体
ただの虚構の概念であるにすぎない
人間というのは玉ネギのようなものだ
幾重もの思考や感覚をむいて行けば
最後には何がある?
無だ
この無にはどんな支えもいらない
この無はひとり立ちして存在する
だから仏陀は言う
神はない
神の必要はない,と
神などというものは一種のささえ(抱き柱)に過ぎないからだ
仏陀はまた言う
創造主などいはしない,と
無をつくり出すのにどんな創造主もいりはしないからだ
おまえがそれを実現(realize )しない限り
空は、無は、最も理解し難い概念のひとつだろう
だからこそティロパは言う
”マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり”と
マハムドラーとは体験なのだ、空の、無の。
おまえなどもういない
そのおまえがいなくなれば
そのとき誰がそこで苦しむ?
誰がそこで痛みや悩みを蒙る?
誰がそこでうちひしがれ,悲しみに沈む?
仏陀は言っている
もし至福の悦びを感ずるようでは
おまえはふたたび苦痛の餌食にならざるを得まい,と
そこにはまだおまえがいるからだ
そのおまえがいなくなったとき
全く完全にいなくなったとき
そのときそこには何の苦痛も至福もない
そしてそれこそが眞に至福なのだ
第一に理解しなければならないのは
〈自己〉という概念は心によってつくり出されているものだということだ
おまえの中に〈自己〉などというものはない
* 容易ではないが。じっと聴いている。聴いている。
2011 8・14 119
* 今日も小説に手をつけていたが、妻の機械が文章の読み取りスキャンに成功してくれたので、昔昔からこれがぜひ欲しいと願っていた名市大・谷口さんのまだ院生の頃の論攷「秦恒平『誘惑』の逆説 絵屋槇子をめぐる人々」という論文を真っ先にスキャンしてもらった、これは面白い論文なのである。
劣化している新聞の記事や原稿からスキャンし始めてもらえそうで、愁眉を開いている。
2011 8・16 119
* 下関の俳人出口孤城さんが春夏雑詠五十句を送ってきて下さった。上村占魚門の高足。久しいお付き合いになる。私はいつも嬉しく有り難く「獺祭」先生と呼んでいる。「 e-文藝館= 湖(umi)」の詞華集に。
門口に揚舟からび春立てり
松落葉古りて艶ある二月かな 孤城
2011 8・17 119
* あまり集中できないが、幸い仕事はいろいろあって、いろいろ手が出せる。少しずつ、どれもが前へ進む。いつもの「読書」方式で、これも一法。山下先生のも谷口さんの論文も、校正そのものが存分楽しめる。
* 贔屓にしている久間十義さんが、大冊の『黄金特急』を送ってきてくれた。また暫く楽しめる。
2011 8・18 119
* 谷口幸代さんの論文「秦恒平『誘惑』の逆説」を、作者ながら感嘆して再読した。
わたしの小説は、昔から、「むずかしい」とよくボヤかれた。『風の奏で』に出会ったある人は、本を壁に投げつけたと言っていたが、そんな人がわたしの文学のまさに熱狂・熱愛者に変貌していった。作者から読者に仕掛けた「誘惑」が、だんだん読み解けるようになるらしい。
なかでもこの『誘惑』を、この谷口さん、当時お茶の水の博士課程にいた人が、隅々まで読み取ったように読めていた。そんな人は、プロの読み手にすら寥としていた。概念的な謎解きを仕掛けたのではない、異次元に住む同じ姓名の人物を何人も登場させながら作中に渦を巻かせた。たいがいは同じ次元の同じ人物だろうと読みながら目を廻し、ひっくり返りながら、それでも「おもしろい」小説だと言ってくれた。「おもしろくない」小説は書かなかったつもりだ。
谷口さんのお蔭で、なんだか、昔昔の自作の小説ぶりを満喫させて貰った。「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論攷」室に戴いてある。もう一度誤植の無いよう読み返してみるが。
作品論というのは、批判ではない。おもしろさの再発掘であり彫琢なのである。漱石の『こゝろ』論も、谷崎の『蘆刈』『春琴抄』『夢の浮橋』論も、わたしは、そのように書いたつもりだ。
2011 8・19 119
* 『谷間の百合』は、グウーッと胸のつまる作に変貌していた。わるく謂うのではない、どうしても甦ってくるものがあり、ヘタに擬え想ったりすると、とてつもなく気恥ずかしく、また本当に恥ずかしくなるのだ。バルザック作のそもそもの不自然な構想に辟易しているのではない、何と謂えばいいのか。
不自然の話をすれば、この大長篇は、フェリックス氏が現在の愛人にむかい、真面目も真面目に今は亡い初恋のモルソーフ伯爵夫人アンリエツトへの熱列な愛と讃美を、ほぼ全編を費やして語り続ける物語であり、読み終えて、当然というしかない結末をむかえるのだが、あの漱石『心』の「先生の遺書」がながいといっても不自然な長さではないが、フェリックスの長広舌は限りなく果てなく長い。それが男の女に捧げた愛とツロクしているというなら、ま、受け入れるしかない。そんなこと、バルザック自身が承知で構想し創作している。
この夫人は青年の熱愛を完全に胸中にも眼中にも受け入れながら、「母」のように「姉」のようにしか青年を受け入れない。二人いる幼い男児・女児の年嵩な兄のようにみて、而も彼の恋心は十二分に受け入れている。しかし手をとり手に熱いキスをするさえ、アンリエットはたやすく許さない。この堅い堅い建前はフェリックスをほとほと絶望にみちびくのだが。
* こういう恋愛のありようを或いは特徴づけるのが、物語も半ばへ向かう辺で、アンリエットがフェリックスに与える、「長い長い手紙」であり、夫人達のくらしている「谷間」から漸くパリへ出て行く青年のため、「母」のように「姉」のようにまさに「人生の師」のように様々に訓誡を授けている。もとよりナポレオンを再度追い落とした頃の王政復古のフランスという動かしようのない時代制約はあるが、アンリエットの「人生指導」は、さあ、なんと謂うのだろう、叡智に溢れて、しかも万端「示教」である。
わたしがこの本を読んだのは新制中学二年生、むろんわが家にある本でなく自前で買えたわけもない。貸してくれたのは一年上の「姉さん」であった。当時のわたしは確実に作中の大人達と、自分たち中学の上級生と一つ下の自分とを擬え読んで、『谷間の百合』にほぼ溺れた。わたしは西欧の作家で最も早く永くバルザックを尊敬してきたと今でも思う。トルストイもゲーテもスタンダールもあとから現れた。バルザックに早くならんでいたのは、『モンテクリスト伯』を書いた大デュマであったと思う。が、これらはみな余談ないし前置きである。
* アンリエットが、パリに着いてから読むよう堅く言いつけてフェリックスに宛てた手紙は、字の小さい昔の新潮文庫で、二四頁に及んでいる。六、 七頁は黙って読んでいたが、だんだん、ギョッとしたりハッとしたり、居ずまいが悪くないた。わたしは一つ上のとても優しかった「姉さん」に、しかし、 ときどき叱られた。あの感じが、ことばこそちがえ、甦った。
☆ アンリエットに聴く バルザック『谷間の百合』より 石井晴一さんの訳で。
「私の父は、礼儀をはきちがえたやり方のうち、いちばん人を傷つけるのは、むやみやたらに約束することだと言っておりました。ご自分にできないことをたのまれたらはっきりおことわりになり、 してさしあげてもいいとおもったことは、その場ですぐおひきうけなさいませ。」
「信頼を安売りしたり、あいそよくしすぎたり、 他人のことに熱意を見せたりすることはご自分で心してさけねばなりません。 信頼を安売りすれば尊敬をうしないますし、あいそよくしすぎれば軽蔑され、熱意を見せすぎると人からいいくいものにされてしまいます。」
「お友だちの数は、生涯を通じて、せいぜい二、三人ていどになさいませ。 なん人かのひとたちと、ほかのひとたちよりしたしくおつきあいなさる場合にも、いつもご自身のことについては言葉をつつしまれ、 いつかそのひとたちが、自分の競争相手や敵になるかもしれぬというお心づもりで、あくまでもひかえめな態度で接してくださいませ。人生のめぐりあわせとは、えてしてそうしたものなのです。ひややかすぎず、のぼせあがらず、不都合な結果をまねくおそれのない中庸の線をみつけられ、いつもその線をきちんとおまもりになってほしいのです。」
「ひとづきあいの問題ですが、あなたがあいそよくふるまえば、なん人かの馬鹿者たちには、なかなか感じのいいひとだと言ってもらえるでしょう。でもつねづねひとの才能をおしはかったり、評価したりする習慣を身にそなえたひとたちは、まさにそうした事実からあなたのかくれた欠点をつきとめて、あなたはたちまちのうちに、ひとの尊敬をうしなうはめにおちいりましょう。というのも、あいそのよさというものは、よわい人間のおきまりの手で、それぞれの構成員をひとつの器官としか見ていないこの社会では、不幸にしてよわい人間は当然軽蔑にあたいするものとされているからです。それに、社会がそう考えるのもまたもっともで、自然は不完全なものに対してあらかじめ死の宣告をくだしているのです。 社会は、実の母よりもむしろまま母とも呼ぶべきもので、自分の見栄をこころよくくすぐってくれる子供たちだけに、ひたすら愛情をかたむけるのです。」
「熱意は、たがいに思いをわかちあう場合のために、女性と神さまのために大事にとっておくようになさいませ。 世間という安物市場や、政治の投機などに宝をつぎこむのはおよしなさいませ。相手がかえしてくれるのはどうせつまらぬガラス細工にすぎないのです。 いたずらにご自分を安売りするのはおやめくださいとおねがいしているのです。というのも不幸にして、他人は、あなたのねうちなどおかまいなしに、役にたつかたたぬかで、あなたを品定めするにすぎないのです。あなたの詩的な心のなかに、はっきりときざみつけられるような比喩で申しあげれば、数字は、とてつもなく大きく書かれようと、金文字で書かれようと、またたとえ鉛筆で書かれようと、やはり数字にはかわりはないのです。むやみに熱意をもっていればなにかとひとにだまされやすく、その結果、 失望がうまれてくるもとともなるのです。」
「心の花を散らしてしまってはなりません。あなたの感情は、心の花が情熱をこめて讃美される、 他人にはちかづきがたい高いところ、藝術家があたかも恋するように傑作を夢みるところにおけばいいのです。」
「礼儀作法で、なによりもだいじなこころえのひとつとされるのが、自分自身については、ほとんど完全に沈黙をまもり通すということです。そのうち、ただの顔みしりのひとたちに、わざとご自身のことをおはなしになってごらんなさい。たとえば、あなたの苦しみとかよろこびとか、あなたのおしごととか。はじめは興味をそそられたようなふりをしていた相手の顔に、やがて無関心の表情がうかんでくるでしょう。それがそのうち退屈となり、 みなうまい口実をつかまえて、あなたからはなれていってしまうでしょう。」
「ひと前でなさるおはなしについて、もうひと言つけくわえさせてくださいませ。お若いかたがたは、なぜかいつも判断をいそがれ、それはそれとして若さのいい点ですが、 実はそれが結局ご自分の不為になるのです。 今日の若いひとたちは、身につけた知識が温室そだちでまだよく熟していないため、 他人の行動や、 考えや、書きものを、ややもするとあまりに手きびしく判断なさりがちです。まだ使ったことのない剣の刃で一刀両断にしたがるのです。こうしたわるいくせにはくれぐれもご注意なさってくださいませ。 きびしくなさるのは、ご自分に対してだけになさいませ。」
「こうしたものを身につけたからといって、べつにどうえらくなったというのでもないことは、服が天才をつくらないのと同じことなのですが、しかしこうしたものを身につけないかぎり、いかにすぐれた才能といえどもけっして世にむかえられないのです。」
「他人のなぐさみものにだけはおなりにならぬようになさいませ。 人にすぐれたあなたのすがたは、つねに獅子のごときものでなくてはなりません。それに男のひとたちの意をむかえようとすることはおやめなさい。ひとからわるく思われているひとたちは、たとえ評判ほどではないにしても、けっしておそばにちかづけてはなりません。 一度こうときめられたら、けっしてお考えをかえてはなりません。」
「はっきり申しあげることができましょう。あらゆるずるがしこさ、あらゆるごまかしのやり方は、 五日はかならず露見し、 結局身の害となるのにひきかえて、率直にふるまっているかぎり、いかなる事態にたちいたっても、 危険は比較的すくなくてすむということです。 人間などくだらぬものだと愚痴をこぼし、この世には恩知らずしかいないと、したり顔でおっとゃるような人をまねすることはおよしなさいませ。」
「他人を恩知らずに追い込むようなご親切はどうぞおひかえになってくださいませ。その結果、 不倶戴天の敵をつくってしまうおそれがあるからです。 あなたご自身に関しては、できるだけ他人から恩義をうけずにおすましなさいませ。そしていかなるひとのしもべともならず、いつまでも自分自身の主人でいられるようになさいませ。」
「さて、これからいよいよ重大な問題、女性に対してどうふるまったらいいかという問題に話をすすめましょう。 (社交界では)若いご婦人がたはおさけなさいませ。こう申しあげても、よもや私の言葉に、いささかなりとも私心(わたくしごころ)がまじっているとは、あなたもお考えにはならないでしょう。」
* まだ続くが。
読んでいて、冷やっと頸筋の冷えることが多い。いかに不心得に以来六十年余もバカ面を世に曝してきたかと、穴が有れば隠れたくなる。アンリエットではな、新制中学三年の「姉さん」は、とてもとてもだいじなことを、アンリエットの優しさ、で賢しらなわたしの頭に、コツンと投げ込んだ、例えば、「分からんモンには、なんぼ言うても分からへんのえ。分かる人には言わんでも分かるの」と。
どんなに無駄な口数を、入らぬ口数を、わたしは費やしながらこの年まで生きてきただろう、まさに、斯くの如く。
* ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』も、小説の力学を天文学的にはみ出した「文化・藝術論のような超大作」だが、物語の筋を大規模に脱線しているときは、作者や作中人物や史上の人を通して語られる「箴言」に思い切り魅されるようにしている。
「悲しくはあるが幸福だということは、少しも矛盾ではない。」
「腐った果実が樹を腐らせるわけではない。腐った果実は樹から落ちる。」
ベートーヴェンは言った、「おお、人間よ、君自身を救え!」 この確言の意味は。「おお、人々よ、たがいに助け合え!」であると。
「毒のある、現世という樹木が実らす二つの果実の味は、生の泉の水より甘い。その果実の一つは詩(ポエジイ)であり、今一つは友情である。」
「おお! 理解し合うということは何てむつかしいことだろう!」とオリヴィエは歎いた。
「しかしいつでも理解し合っていることが必ずしも必要だろうか?」とクリストフが言った──「僕はそのことは諦めているんだ。愛し合っていさえすればそれでいいさ」
* 亡きアントワネットに導かれて弟オリヴィエは敬愛するクリストフと出逢い、アンワネットの秘めていた愛に導かれてクリストフはかけがえのない友オリヴィエと出逢った そして、壮大で深刻な文化・文明論。
* 関口忠男氏の「『平家物語』にみる女性像 その生き方の研究」から、「千手」の章を頂戴しスキャンした。また三宅晴美さん、 今は深沢晴美さんの「『千羽鶴』のゆくえ 『波千鳥』試論」をスキャンした。論攷を読むのが楽しい。
2011 8・20 119
* 捜し物が現れないまま、家の中をかなり整頓した。押し入れの奥から、往年の豪華限定本の仕舞われていたのが幾つも見付かったりした。『慈子』『墨牡丹』『三輪山』『罪はわが前に』『少年』『四度の瀧』等々。「朝日子・建日子の為に」と墨書し取り分けて二冊ずつ大きな筺に入ったのも見付かった。それから新聞連載『親指のマリア』『冬祭り』を切り抜いてファイルしたものや、誰かが切り抜きを製本してくれたのも見つけた。
そうそう松子夫人にお願いして編輯・出版させてもらった『谷崎潤一郎家集』の豪華本・特装本も。
それでも、捜し物は出てこない。なにかのドサクサで隣棟へ持ち込まれているとすると見つけるのは更に大変。しかし書いている小説のためにも見つけたい、どうかして。
2011 8・21 119
☆ 「仏原」有難う御座いました。 晴
山下宏明氏の「妓王から仏原」を早々と「 e-文藝館= 湖(umi)」に。有難うございます。早速読ませていただきました。
先日観ました「仏原」の序の舞いに、妓王と仏御前の儚さを思い出しています。
「千手」も楽しみに待っています。
奥様の新しいPCでのご協力の恩恵に預かり感謝します。
来年のNHKの大河ドラマは「平清盛」とか。また別の面から平家物語を見ることが出来るでしょうか。
* 妓王も仏原も佳い能で、しかも清盛悪行の手始め。
だが、この女達、儚い存在であったろうか。物語り手も能の書き手も、むしろ稟烈に強かった女達と観ていたとわたしは読む、観る。この時代から伸び上がってくる藝の人たちの「無縁」のつよさに生きた、さきがけ のようにわたしは観ているが。
2011 8・22 119
☆ バグワンに聴く。
「私達の人生はほんの一瞬だ。そのことで心を乱しても何もならない。 すべては、 束の間だ。この世での「ひとやすみ」は一瞬だ。無限なるものに思いを馳せなさい。おまえの前には始まりのない時があった。そして死後にも、終わりのない時がおまえの後をひきつぐ。」
「しがみつく必要はない。それを後押しする必要はない。ひとりでに去って行く。よいものであれ、悪いものであれ、何であろうと去って行く。全ては過ぎて行く。川は流れている。」
「生まれる前、非存在だった。そして死の後にもふたたびそうなる。」
* なににも構わずに、静かにいい秋を迎えたい。
2011 8・22 119
* 『春琴抄』だったか、名作かも知れないが春琴や佐助の心理が書けてないと誰かが口にしたとき、作者の谷崎は「あれで十分じゃないか」と一蹴し、誰もが頷いた。心理を心理としてこまかに説明的に描写されていると五月蠅くてかなわないときがある。川端や三島にさえ、ある。人の姿・形・動き・選択等の表現が自然に心理を浮かばせていれば、済む。
そもそも谷崎は「心理」を書かない作者ではなかった、まして書けない人でなかった。江戸川乱歩の初期の代表作の一つに「心理試験」がある。彼は谷崎の大正期の推理小説・探偵小説に感銘を覚え自身の道に志した人であるが、真っ先に彼を感嘆させた谷崎作は、『途上』であった。精緻に心理的に夫を追いつめて妻殺しを明かして行く。大正の谷崎を代表する秀作でまた主題であるが、当時の谷崎は人の「心理」を書きに書きかつ追いつめて恐怖を描き出した辣腕であった。日本の真の推理小説の、彼は事実上の創始者であったが、推理は、心理の追究の一面を不可欠にもっている。
二三日前、例えば『私』という谷崎作を読んだが、不気味に心理を心理のままえぐり出し、怕い小説として昔から記憶していたし、同工の秀作に大正の谷崎は事欠かない。今は『不幸な母の話』を読んでいて、これも怕い。谷崎はこういうところを自身堪能するほど通り越えてきて、『春琴抄』などを頂点とする昭和初年の盛大な大谷崎時代へ悠々と歩を運んだのだ、もうその時は心理を心理として書く必要のない心理の把握が出来ていた。「心理を書いていない」などと愚をもちだし一蹴されたのは笑止であった。
* ジャン・クリストフが、一度も手に触れたことのないピストルで「決闘」したのには、愕いた。友との友情をねじまげ嗤い物にしていた俗物になぐりかかり罵倒したためだ、こういうクリストフがわたしは好きになっている。彼自身はドイツ人だが、ドイツに身の置き所なくフランスにきて、孤独に悪戦苦闘しながら貧苦の暮らしの中で、音楽の才能と純潔な人柄とで存在感を喪わず、堕落せず、儚く死んだアントワネットを介してその弟オリヴィエとのあいだに美しい友情を見出している。
クリストフは徹して少数派、いやいつも独り行く人、幾らかは独り行くしかない人物であったが、少なくもいまは二人の幸せを分かち合っている。クリストフはより人間的に強健であり、オリヴィエはより詩人的に繊細である。
バルザック『谷間の百合』のアンリエツトは年若いフェリックスの「母」と自称しながら、「姉」のように青年を諭し励まして、そのなかで、「眞の友は生涯せいぜい二、三人でよい」と言っている。わたしですら、ヘエッと一度はその数少なさに愕いたが、それほど「眞の身内」は容易でないということ。ロマン・ロランのクリストフのまだ永い先途に、さらにどんな「身内」が可能か不可能か。
* 源氏物語「真木柱」巻では玉鬘の運命がいよいよ髯黒大将との間で定まった。ドラマの有る巻で、玉鬘の揺れる思いにあはれもはづみもある。光源氏にはじめてかげりのさす巻でもある。光でも、生き写しの帝でも、玉鬘の行く手を止められなかった。有頂天の髯黒大将にも、つらい家庭劇は避けられない。大将の娘でまだ少女の真木柱がせつなく登場する。まぎれもない人間の文学である。
同じように、妓王や仏の、また千手らの登場する平家物語の女達の生き方にふれる烈しさ美しさも、比類ない深い魅力である。はても無う本質の問いをつきつけられる。それが文学や優れた藝能の、おそろしいほど烈しい毒であり妙薬である。
* 生きていながら、上のような本質的な問いかけを受けてシンと思い静まる文学にこそ、出逢いたい。どんなに壮大でもそこに本質の問いの置かれていないただの読み物は通俗で、時間つぶしにしかならない。もうアトのないわたしには、とてもそんなものへ立ち止まってしまうのは堪えがたい。イヤだ。
むろん自身に合う合わぬという問題がある。
マードックの『鐘』は、いま男と男の性愛らしき悩ましげな隘路が書き次がれているが、この話題はわたしに興味がない。わたしの本質と触れあわない。『蝶の皿』でもけじめのつかないながら、男女の相愛をわたしは書いていたと思う。
* 便利さに繋がる謂わば「文明」の側からは離れようと思う。「文化」の問題や話題に、偏ってでも、意識を添わせたい。
「文明」としてはしたたか今も向き合う此のコンピュータの世話になっている。なり過ぎなほど、これが間違いなく私の「仕事」を助けてくれる。いま私のなかで醗酵し発光して膨れている「仕事」はとても手書きでは追いつかないほど多い。早く、多方面が同時並行で書けて、電子化のおかげでうまくすれば知友や読者や子供達に遺して行ける。
いまいまの「文明」の話題は機械的に乾いて、量ばかり多いが、心を深く潤してくれない。人間的なよろしさがそこでは涵養も伝達もされずに、軽薄に賑やかなだけで、花がない。花に見えれば乾いた造花のようだ。そして結局批評がなく、歿批評の自己満足に甘えて増殖して行く、いまいまの「文明」は。
そんな「文明」の恩恵にも多くはあずかりたくないし、その生産にかかわりたくもない。機械的にでなく人間的にほんとうのものに触れていたい。
人は嗤うだろうか、たとえば父・北大路の拝一刀と同行している手押し車の倅大五郎の、あの澄んだ「目」に匹敵する「文明」を最近わたしは知らない。天涯のかなたへ飛んでまた苦心惨憺帰還した人工衛星にわたしも純粋に感動したけれど、大五郎の目は、もっと複雑な「人間」の哀歓を湛え過激と信頼を湛え、「文化」と人間の歴史が織りなした久しい歎きも喜びもを瞬時に見通させる。たんなる時代劇の子役ではない。
* 『母の敗戦』を書いたとき、「父」について書けるとは思えなかった。ところが例えば『父の敗戦』は、はるか厖大にまた人間的なことが見えてきている。父を書いているとわたしはしばしば自殺を考える。母は自殺したのだと兄北澤恒彦は考えていた。わたしも疑っていた。母は時世で「生きたかりしに」と歌っていた。
父も自殺したのだろうかと私は疑っている。今さらその必要もないほど父の人生は凄絶な「敗戦」の連続であったことを、たぶん縁戚の誰よりも現在只今の私が、いちばん材料豊富に知り得ている。父の場合も母の場合も「敗戦」が人間としての「名誉」であったのかもしれない。
兄も自殺した。兄のことは、父よりも母よりもよく知らない。だれも聴かせてくれない。私の手元に送られてきているかなり大量の私宛の手紙やメールだけが、つまり「個と個」としての兄弟対話だけが、自殺した兄北澤恒彦の、弟秦恒平における全容なのである。たぶんわたしは「兄の敗戦」についてトータルな何も書かないで終わるだろう。
主題は、少しずつ近づいてきている。結末は見えていないが、わたしはわたし自身の無頼な「敗戦」をたくさん書いてきた。
文明は勝つモノの卑しさを見せつけてきた。文化は敗れたモノの真実を遺してゆくのだ。
2011 8・23 119
* なんだか齟齬してかっこうがつかないみたいだが、久間十義氏にもらった『黄金特急』もわたしは読み耽っている。まさに文明の最たる、危険の最たる機械世界での若い人たちの欲望まるだしのギラギラの商売。
2011 8・23 119
☆ バグワンに聴く。 『一休道歌』より スワミ・アナンド・モンジュさんの翻訳に拠って。
「私が有れば、限りない欲望が湧いてくる。私が無ければ欲望は無の中からは生まれようがない。これは仏陀のこの世界への最大の贈りものの一つだ。」「私はいない」「そう知れば何をする必要も、何になる必要も、 何を所有する必要も、何を達成する必要もない、と、知ることになる。自己が有れば野心が顔を出す。」「なるほど結構なことのようだ、が、そこでまた罠に落ちる。」「この世のものを望まなくなったにしても、今度はあの世のものを望みはじめるのだ。欲望としては、まるで違わない。」「問題は欲望そのものに、欲しがるそのことに、ある。」
「おまえたちいわゆる精神的( スピリチュアル) な人たちというのはひじょうに欲が深い。トクトクとして言うよ、おまえたちは、『この世のものを欲しがってはならない。なぜなら、それは束の間のものだから。あの世のものを願うがいい。なぜなら、それは永遠だからだ。』」「これを『放棄』と呼ぶのかね。これが放棄かね? これはさらに貪欲になることだ。これは永遠の報酬を求めることだ。」
「あの世的な人々はほんとうに欲が深い。精神の物質主義だ、それはおまえたちをもっと駄目にしてしまう。」「ものを捨てるのではなく、自分の自己・エゴを捨てなさい。所有物を放棄するのではない、所有者であるおまえのエゴを捨てなさいと仏陀は言われる。」「根を断てと。所有物でなく所有者を落とすのだ。そうなったら、おまえは障り無く世間の中で生きられる。問題は何もない。ヒマラヤや山林に逃げ込む必要は少しもない。ただ世間の中で元気に生きなさい、そしてエゴを我を張り、がつがつ所有しないこと。」
* 『十牛図』の第八図から第十図がそれだ。「人牛倶に忘れたなら、」「本に返し源に還って」、まさに山川草木一味同心現住の太虚に、一切が無く一切が有る。在るがままに自然に「いま・ここ」に生きて良のだい。
この世間、雑音に満ちあふれて悪意の毒もいやほど注がれているだろうが、おかしなことに、それへ耳も目も近寄せたくて我慢できない人も溢れている。ご苦労なことだ。なぜなのだろう。なぜそんな風に自身から汚れたいのだろう。
「見ざる云わざる聞かざる」の三猿は、姑息な逃避を謂うのではない、そういう醜いエゴとしての「所有者」を落とせと教えているのだ。
* 文明は、思考・理論・理窟・分別・選択・排除そして数と散文とで成っている。一言に帰すれば「マインド」という心が制作してきた壮大なツクリモノだ。
文化は、「ハート」「ソウル」に根ざして生まれる。本質は、いわば広義に詩的な価値だ。文明文化の両々相俣ねば人類は破産してしまう。今日人類の世界は、破産の際に引き寄せられてあるのではないかとわたしは懼れている。
2011 8・24 119
* 関口忠男さんの「千手」女性像を読んでいる。気持ちの優しい一場の縁に深く結ばれる男女が平家物語でも能でも描き出され、さながら「寶」のように貴い。『能の平家物語』を書き下ろしたときも、「千手」の章はものあはれで身に沁みた。
2011 8・24 119
* ある方から新刊を戴いた。漢語についてのやさしいい説明本を前にも戴きときどき利用しているが、今度は「仏教語」。読み物としては上等である。
だが、言葉で真理を述べた瞬間に、真理は真理でなくなっていると、老子はいの一番に喝破している。何度も繰り返すが、いかに真如の月も、言葉で指さしているかぎり、言葉も指も、決して「月=真理・真如」ではない。覚悟していないと、「語」「言葉」は罪深いものである。
「 仏教語大辞典」 や「仏教辞典」を身近に、数えきれぬほど教えられてきたが、それの呉れるのは語義に過ぎない。なんら求めている、渇いている、こがれて待っているところへ連れて行ってはくれない。バグワンは常にそういう誤信・過信を真っ向教えてくれ、おかげで無用の「知識」「概念」を身内からこそげ落としながら、ただただ待って毎日を送り迎えている。宗教学者や哲学者がただ概念や知識や歴史を語ってくれるだけの、「本質」には塵ほども触れあわない解説や評論こそ、のこりすくない私の日々に無用なものとなっている。それぐらいならノンフィクションやルポルタージュで、かすかにも政治的現代の苦痛や矛盾に触れたい。
やはりやはり「詩」に満ちた優れた小説や演劇や映画や音楽を楽しみたい。酒にも酔いたい。
2011 8・25 119
* 夕食のアト、また寝つぶれてしまった。起こされて、朝なのかと思った。湯につかって、腰湯の体で、『無縁・ 公界・ 楽』『上野千鶴子に挑む』『黄金特急』を読んでいた。前の二つにおもいがけない連絡がみえたようで面白かった。 本を階下に置いてきたので、いずれ此処でもういちど考えてみる。
『黄金特急』の小説としての出だしは前世紀のまつ、ようやく田中君の手で簡単なホームページがわたしの機械に生まれ出た頃に当たるので、ガレージ起業とはいえ熱意と野心に燃え立つ主人公たちとわたしとの水準差、落差はあまりに甚だしく、はじめのうち彼らが何に口角泡をとばしているのかも理解できないありさまだったが、幼稚なりにもわたしにも永く観て二十年近い、HP開始からでも十数年経てきたお粗末な経験や苦渋があり、その歴史に沿うてだんだん、作中世界のあれこれに見当もぼんやり付いてくる。こういう小説での人模様や色模様にはあまりのらないが、ファクトそのものがコンピュータなので、その激戦世間なので、興味はそれに取られてゆく。ふっと、わたしにすら関連してアイデアが去来したりするから面白い。
2011 8・26 119
八時半に盛大に花火は果ててまた心寂しく、ちかくの「登喜」という割烹で、七十前後の気さくな女将と柔和な大将と談笑しながら肴と酒と、ダツタン蕎麦というのを食ってきた。もう十時半、言問通りはまだ人波だったが、幸いにタクシーが拾えて。腰は軽かったのに、西武池袋のホームに上がる前に、異様に両ふくらはぎが張って痛み、あやふく攣るのを避けて、遅くなるのは覚悟で始発にすわってきた。『黄金特急』を読んできた。
2011 8・27 119
* 手に入れたくて、本では入手できず、となたからであったやら頂戴した、辰野隆著『谷崎潤一郎』の全文、表紙から裏表紙にいたるコピーを綺麗に綴じた一冊を、新たものの中から掘り起こした。むろんとうに読んでいるが、辰野先生は谷崎の学友であり、その思い出や追憶の文章は比類なく貴重なのである。なぜかなら先生はただの東大教授でも仏文学者でもない、みごとなエッセイストであられた。
高校生の頃に、斬新の初例で、横光利一の大長編『旅愁』全一冊を最初配本として角川書店の「昭和文学全集」が刊行されたとき、三つ四つ意外に感じて、歓迎したり不思議に思ったりした、横光のことは別に、中で歓迎した一つに『辰野隆集』の入っていたことがある。それから、昭和ではないのに、特別に『森鴎外集』『夏目漱石集』は入っていて嬉しかった。読み物作家の吉川英治の『親鸞』が全一冊入っていたのは珍しい感じで、一度は読み耽ったが、繰り返し読ませる魅力は無かった。
『太宰治』という馴染みのないよく知らない作家が一人で一冊をしめていたのには、びっくりした。しんみりは読めなかった記憶がある。太宰治賞をもらったとき、選者の中村光夫先生が選評や授賞式挨拶でも、「対称的な」作家と話されていた。なんとも謂えない深いご縁であったと今も思う。
* いま思って、わたしは太宰治とそんなに対蹠的とは思っていない。彼の無頼とわたしの無頼とは違うかも知れないが、わたしは、或る意味で太宰に負けない(伊藤整や高見順ふうに謂うなら)「ゴロツキ」作家であり、伊藤や高見とちがい、太宰ともちがい、甚だ「背」文壇型の作家として生きてきた。太宰は芥川賞にこだわっていささか醜態を演じたが、わたしは賞よりも「作品」が大事だ。また、情緒に順応して甚だ泣き虫系の男だが、あの海江田大臣のようには泣かない。地位にも固執しない。辞めたければサッサと辞め、闘わねばならないなら闘い抜く気だが、無意味なことで闘ってみて何になろうか。
大きな全集の収録中に「辰野隆」という名前を見つけて思わず全集自体に価値を感じ顔をほころばせた、そういう自身をいまでも大事に思っている。
2011 8・29 119
* 初代会長島崎藤村による「日本ペンクラブ発会式挨拶」を世界ペン憲章を添えて「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論説」室に掲示した。 2011 8・29 119
* 竹西寛子さんから『最後の一瞬』という随筆集を頂戴した。短編集『五十鈴川の鴨』についで。お元気であるのが嬉しい。わたしも妻も「五十鈴川の鴨」には感嘆した。「最後の一瞬」と読むと例のわたしの「一瞬の好機」が思い出されてどきっとしたが、お話しは別であった。
竹西さんとは対極のような社会学の上野さんに「挑む」お弟子さん達の論文も根気よく読んでいる。いま第二グループからの挑戦に上野教授が応えている。
いま枕元に置いて読んでいる冊数は、十二。以前より少し減らしているが、一つにはどれも面白く引き込まれて時間がかかるからで。八冊が小説。みんな面白い。四冊はバグワンのほか、『無縁・公界・楽』、大西巨人の詞華集鑑賞、そして上野さんの本。本が面白くて堪らないのは幸せの大きな一つ。「書く」のが楽しくも成るのだ。
2011 8・29 119
* 夜前久間十義の「黄金特急」七百二十頁余を読了した。あのホリエモン君らの頃を烈しく髣髴させる若きベンチャー起業家達と金融ブローカーとコンサルタント、中国の怖そうな財力、政財界、官僚たち、銀座ママたちの組んづほぐれつの大乱戦に実感があった。物凄い力業であり、小手先のツクリモノではない。そういう大乱戦の経緯と解説とにはたくさん教えられるけれど、人間的な共感や感動は全然無い。読み物に徹している。それはそれである。
* やはり感動は源氏物語に、バルザックに、チエーホフに、ロマンロランにある。そして、バグワン。こっちがとことん困憊していてもほんのそれぞれ数頁のなかから、滴る美味を飲ませてくれる。文学不思議の功徳である。
2011 9・2 120
* 関西語かと思いこんでいたが自信はない、子供の頃から「ドツクで」「ドツイたれ」「ドツカレた」とよく聞いた。わたしはあまり人を「ドツイた」ことはない、めったには「ドツカレ」なかったが、戦争中はよく顔を張られた、上級生や先生に。
それはともかく、「ドツク」は「土突く」で、建築現場などで昔は手持ちの木材などを垂直に撞き下ろして地堅めをしたのを「土突き」といったのだと。夜の本が一冊減ったので、なんとや、喜多村信節著、安政十三年の事典「喜遊笑覧」上下二巻の大冊を拾い読むことにした。
知識が欲しいのでない、面白い話が聞きたい。
2011 9・3 120
* 今愛読している一冊に、大西巨人さんに戴いた光文社版『春秋の花』がある。すこし風変わりな、剛直の感のただよう、佳い詞華集であり、個性味あふれる選と短文とで舌を巻かせる。
扁舟を湖心に泛べ
手 艪を放ち
箕坐して しばしもの思ふ──
願くは かくてあれかし わが詩(うた)の境
三好達治
箕坐とは足を投げ出して坐る意である。こういう「文学」の境地がどう失せて来ているかと思うと涙ぐましい。
2011 9・4 120
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
最終的なのは無努力であること
‘‘ゆったりと自然”であることなのだから──
十一世紀人のティロパが
‘‘ゆったりと自然に”という言葉で言おうとしていたこと──
自分自身と戦わないこと
ゆったりと自由でありなさい
おまえのまわりに
品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと
自分自身を調教し過ぎないこと
さもなければ
その訓練そのものが束縛になってしまうだろう
自分のまわりに牢獄を築き上げないこと
自由でいなさい
自分のまわりに〈人格〉という衣を着て歩かないこと
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと
水のように自由でいるのだ
自然が導いて行くところならどこへでも動き
そして漂い続けるのだ
抵抗しないこと
おまえの上に
おまえの実存の上に
いかなるものといえども押しつけようとしないこと
ところが
社会全体
何かしら押しつけることを教える
善人であれと
道徳的であれと
これであれ,あれであれ,と
それでは、おまえはすべての自然なるものを失うだろう
そしてそのときおまえは
ひとつの機械的なモノになってしまうだろう。
漂うこともなく
流れることもない
だから,自分のまわりにワクを強要しないこと
瞬間から瞬間へと生きるのだ
絶えざる覚醒とともに生きるのだ
これは理解されるべき深いポイントだ
なぜ人々は
自分のまわりにワクをつくり出そうとするのだろうか?
気を引き締めなくて済むようにだ
なぜならば
もし自分のまわりにどんな性格づけも持たなかったら
おまえはとてもとても醒めている必要があるからだ
というのも
一瞬一瞬,決定がなされなければならないのだから
何の既製品の決定も持たず
凝り固まった態度も持たない
おまえは状況に自分自身で応えなくてはならない
人々はひとつのトリックを編み出してきた
そのトリックというのが〈人格〉というやつだ
自分自身にある一定の訓練を強いて
醒めているいないにかかわらず
その訓練がおまえの面倒を見てくれるようにする
たとえば,つねに真実を語る習慣をつける
そうすればおまえはそれに関して思い悩む必要はない
誰かが質問をする
おまえは真実を語るだろう
習慣で──
しかし習慣から出てきたとき
真実は死んでいる
それに生というものはそんなに単純じゃない
生はとてもとても複雑な現象だ
ときとして嘘が必要なこともある
そして,ときには真実も危険なものであり得る
人は醒めていなければならない
最大限の覚醒をもってそれに応えること
それがすべてだ
つくりつけの心を持ってまわらないこと
ただゆったりと
醒めて
そして自然であり続けるのだ
これこそ本当の宗教的人間の姿だ
そうでないいわゆる宗教的人間など死人に等しい
彼らは彼らの習慣によって行動する
彼らは習慣によって行動しているだけだ
これはひとつの条件づけであって
自由じゃない
意識は自由を必要とする
“ゆったりと”自由であれ
この言葉をできる限り深く心に刻んでおきなさい
この言葉に自分を貫かせるのだ
‘‘ゆったりと’’自由であれ
あらゆる状況にあって
おまえが楽々と水のように流れられるように──
水には抵抗などというものはない
水のように自由でありなさい
あるときおまえは南に行かなくてはならず
またあるときは北に向かわなくてはならないだろう
おまえは方向を変えなくてはなるまい
状況に従って,流れなくてはなるまい
しかし,もしおまえがどう流れるかさえ知っていれば
それで充分だ
もしおまえが流れ方を知っていれば
海はそう遠いこともない
だからパターンをつくり出さないこと
社会全体がパターンをつくり出そうとしている
あらゆる宗教がパターンをつくり出そうとしている
ほんの数人の大悟の人だけが
真理を語る勇気を持っていた
その真理とは
”ゆったりと自然であれ”─一
これだ
もしおまえが自由であれば
おまえはもちろん自然でもある.
ティロパは「道徳的であれ」などとは言わない
「自然であれ」と言う
このふたつは完全に正反対の次元に属する
道徳的人間は決して自然じゃない
そうなり得ないのだ
もし怒りを感じても
彼は怒ることができない
道徳がそれを許さないから──
もし愛を感じても
彼は愛することができない
そこに道徳があるから──
彼はつねに道徳に従って行動する
彼の自然に従ってじゃない
おまえに言っておこう──
もし怒りを感じたら怒るがいい
ただし完壁な覚醒は維持されなくてはならない
怒りがおまえの意識を圧倒するべきじゃない
それだけのことだ
怒りをそこにあらしめなさい
それを起こらしめるのだ
ただし
何が起こっているのかに完全に醒めながら-
自由で
自然で
醒めてい続けるのだ
人が醒めているとき
怒りはだんだんと消えて行く
それはただ愚かしいばかりになってしまう
道徳には何か善いことと何か悪いことがある
く自然であること〉には
何か賢いことと何か愚かしいことがある
自然である人間は
賢いのであって善なのではない
自然でない人間というのは愚かしい
悪いわけじゃない
世の中に悪いことなど何もないし
善いことなど何もない
ただあるのは
賢い聡いことと愚かしいことだけだ
もしおまえが愚かだったら
おまえは自分自身も他人も害する
もしおまえが賢ければ
おまえは誰にも害を与えない
他人にも
そして自分にも
罪というようなものなど何もない
そして徳というようなものも──
知慧がすべてだ
もしおまえがそれを徳と呼びたければ呼ぶがいい
そして無知というものがある
もしおまえがそれを罪と呼びたければ
それがただひとつの罪だ
さて,どうやっておまえの無知を知慧へと転換するか?
それがただひとつの必要な転換だ
そしておまえはそれを強いることができない
それはおまえが
ゆったりと自然であるときに起こるものなのだ
“ゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり’’
* やや長く、且つ抄録ぎみにバグワンの言葉を、大事に拾い読んでみた。
おそらく誰にもそう難解なこと飛び離れたことは語られていない。われわれが常識といい良識といい良き習慣・慣例と感じている多くは、すこしも不磨の大典でなど無い。極端に云えば隣村・隣町ではではなんら常識でもなく良慣習でもなく、極狭い身の回りでだけの「われわれ」同士の締め付けであり、「かれら」のそれは認めない頑固に過ぎない例は、山のように実例がある。
小は家族親族から、村落、町、 群県、地方そして国家社会、さらに時代という締め付けがかかっている。人はほとんその便利を好都合として人間の「自由」をそれら枠組みにむかい「貢いで」いるのがふつうだ、教育もその例外でない。
ひとは十重二十重に縛られていて、或いは身を守られているという根底の錯覚に随い、人間としての「自然でゆったり」という眞の自由を忘れきって、矛盾をかんじる生本能を擲って暮らしている。自由人・自然人であるより、道徳・慣習人、約束・社会人である桎梏を人間本来の義務かのように反省無く安易に受け入れている。バグワンの「叛逆」とは、こういう桎梏を落とせと云う呼びかけにあり、わたしはそれを「聴いて」いる。
* わたしは、バグワンと出逢うよりよほど昔から、社会の桎梏や決めつけに可能な限り抵抗し、作家となってからもある程度の地歩を得てからは、文壇の桎梏や慣習をなるべく自由に離れて「文学活動の自由」を追い求め続けてきた。わたしのような作家はたぶん日本中に他に一人と居ないのではないか。
2011 9・6 120
☆ 登高 杜甫
無辺の落木は蕭々(しょうしょう)として下( お) ち
不尽の長江は滾々(こんこん)として来たる。
万里悲秋 常に客と作(な)り、
百年 多病( たへい) 独り台に登る。
*九月九日と謂うと「重陽( ちょうよう) 」と呼んで祝ったが、ま、日本では平安女文化の昔までか。ただの語彙として記録され記憶されていて、ま、宮中やよほど古風を遺した古社には風がのこっているかも知れない。
九月九日は、だが「登高」の日でもあったが、それこそ日本ではそんな言葉すら覚えている人は少ないだろう。家族友人と小高い丘や山に登り、菊酒を酌んで互いに長寿を祈った。重陽の日のそれが風儀であった。漢文学者の興膳宏さんも、我が国でも奈良時代以降広く行われた書いて居られる。だがいましも毎夜読み継いでいる源氏物語にも栄花物語にも「重陽」にふれていても「登高」の場面に出会った覚えがない。
杜甫の名作は寂しい。彼はあの唐王朝にあって故郷を見失い久しくも久しく「百年」漂泊の詩人であった。「百年」は「人生」の意でありこの「登高」も「独り」なのである。李白とも同じ酒の好きな人であったが「菊酒」の香漂わず、それよりも隠しきれぬ望郷の思愁に彼の気持ちは萎れている。
* 萎れていてはならぬ。もはや人生学校は卒業したが、人生百年、ひとは学校と縁が切れておしまいではない。楽しみはこれからだ。
2011 9・9 120
* 夜前やはり眠りに入りにくく、秦建日子の新刊、刑事・雪平夏見シリーズの四作め『愛娘にさよならを』を読み始めた。ストーリイは残虐そのものの殺しを軸にして行く。なんでこんなムチャクチャが書きたいのだろうとも思うし、人間のむちゃくちゃ加減を云うなら先日読み終えた『黄金特急』起業という名にかくされたムチャクチャもどす黒い。場面やストーリイが違うだけで、要するにえげつない。
ただ身贔屓でなく、建日子作の行文には、褒めたいほどうま味は感じないが、むしろ軽い薄いなり不思議に透明度があり、柄わるくなく落ち着いて読ませる。本を読み進める最低条件を満たしているので、読んでみようと思わせてくれる。それにしても『殺してもいい命』だの、今回キーワードになっているある少女の「たのしみにしています。ひとごろし、がんばってください」というメーッセージ、それにのめりこむ殺人犯といい、吐き気がする。いまの読書界のこれが好みならば、真実情けない。これも出版文化なのか。
2011 9・11 120
* 左頭痛執拗、肩・頸周りの痛みも抜けず、眠り浅く。余儀なく朝五時過ぎに起きて、 無橋田二朗先生夫人逝去のお悔やみ状を書いた。
なにか、まだ朦朧としていてゆらゆらするが、機械の前へ来ると左肩にまできつい痛みが来る。痛みは執拗でおやみない。気にしないで、唐詩選の七絶をだいぶよんだ。給田みどり先生の最初の歌集『むらさき草』にも感嘆を惜しまない。なつかしい。
いま、俳句と称するものが、呑み込めない。
* 秦建日子の河出書房新刊『愛娘にさよならを』を十分納得して読了、頑強な女刑事であったヒロインに「しをり」が出、小説の運びにも自然な「うまみ」がにじみ出て、このシリーズで初めて、彼の膳小説の中でも創作の妙味を初めて感じた。シナリオのト書きのような新鮮だがぶっきらぼうな新工夫から出発した作者だったが、文章のこくのある流れで凶暴とも言える筋をうねるように、しなやかに流れさせる力業に、あまり無理も破綻もなく近づいたのは作者の進境といえるだろう。こっくりと練れた作の進展に、進むにしたがいもののあはれの味わいを濃くして行く。文藝の願わしい進路であろうか。ヒロインにも共感し、愛をさえ覚えた。読者にも伝わればよいが。
2011 9・14 120
* 夜来、ギンギンと響いて痛む頭痛に眠れなかった。洗面所の温湯で患部を温め続けてもその場限りしか利かなかった。仕方なく床に坐り、本を読んで紛らわしても、痛み続けた。『ジャン・クリストフ』『バグワン』『源氏物語。若菜上』なとてもど面白く読んでいても、痛みはかすかにしか紛れない。六時前には起きてしまった。
わたしに医学上の診断などむろんつけられよう筈がない、が、目下の「痛み」に関しては頭頂部に発している「帯状疱疹」の気味が濃いと思っている。わたしの場合これはやや慢性頻発型になっていて、今回は執拗の感がある。
ただしそれだけではない、相当執拗な便秘が起きていて、腹部に膨満感を呼ぶと痛みに転じて不快感が滞留する。下剤や繊維果実のジュースなども、今回はガンコに働いてくれない。せめてこれだけでも快通してくれないかと待っている。
2011 9・17 120
* 夕方から、七時半まで寝ていた。痛みで目が覚める。細い食事を摂り、白ナイル、青ナイルを遡流する大自然のふしぎに奥深い映像美に惹かれていた。
毎日の読書量はとくに減らしていないが、ムリは避けている。源氏物語の「若菜」上、バルザック『谷間の百合』、マードック『鐘』、バグワン、『上野千鶴子に挑む』『無縁・公界・楽』増補版、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』など読み進んでいる。
2011 9・20 120
* こころもち頭痛が和らいできたかと感じられる六時過ぎの目覚めだった。鎮痛剤が効いているだけかもしれないが、有り難い。腹部にやや不穏を覚えていたが苦痛はなく、そのまま、十二冊の本を順不同で次々読んだ。それぞれにみな面白く心惹かれた。チエーホフ、マードック、バルザック、ロマン・ロランもそれぞれに。谷崎の「A とB の話」も、大正期の谷崎らしい善悪の観念論から悪の美学へ手招きされている。毎夜の分を早朝にみな読んで、また八時半まで眠った。からだに活力が戻ってくればよいが。
夜通し、烈しく降ったりやんだりしていた。颱風が各地に大きな水害をもたらし、避難の人数が凄い。
2011 9・21 120
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
”ゆったりと自然であれ’’ と良き教えは教える。
だが、おまえには、それが難かしい。
古い習慣が打ち壊されなくてはならないのだから。
だが、とてもそれは難しい。
おまえたちは偽善者たちの社会に生きなくてはなるまいから。
難しいわけだ、
あらゆるところでおまえは偽善者たちとの戦いを闘わねばならないのだから。
それでも、おまえはそこを通って行かなければならない。
さぞ骨の折れることだろう、
偽りの人工的な見せかけのほうには、
多くの資本投下がついているのだから──
おまえは完全な孤独を感ずるかもしれない。
だが,力を落とすな、それはただの過渡期にすぎぬ。
やがて他の人たちも
おまえの真剣さを感じはじめるだろう。
そして覚えておくこと、
本物の怒りでさえ
見せかけの笑いやウソよりましだ。
少なくともそれは本物なのだから。
本気で怒り得ない人間など決して本物であり得ない。
少なくとも本気で怒り闘うおまえは真正だ。
誠実だ。
自分の実存に誠実なのだ。
真実の怒りは美しいものだ。
偽りの笑いは醜悪だ。
真実の憎しみにはそれなりの美しさがある、
ちょうど真実の愛のように──
まちがえるな。
美しさは真実にかかっているからだ。
憎しみにかかっているのでも
愛にかかっているのでもない
美しさは真実にある。
真実は美しい。
どんな形であろうとも──
自然にゆったりと、
そして
真正でありなさい。
見せかけを落としなさい。
偽善を落としなさい。
自分の自然な実存のまわりに培ってきたあらゆるみせかけを落としなさい。
自然になるのだ、いま・ここで。
からっぽで
自由で
そして自然でありなさい。
それをおまえの生の最も深い気根にするがいい。
2011 9・21 120
* 二葉亭四迷の『平凡』を校正していたが、正字に忠実に、難儀な宛字に読み仮名をとなると、容易に捗らない。読み仮名は必要だが、正字は新字にという原則で紹介しないと、あたら若い読者を困らせそうだ。
2011 9・26 120
* 馬場あき子さんの新歌集『鶴かへらず』を頂戴した。
うらぶれた汚れた孔雀冬ざれの日本にゐて日本に似る
大根を抜かれし跡地しみらかに陽は射せり慰められてゐる安堵感
さきの歌、ちょっと思い付きの感あるが。あとの一首にとくに共感するが、「しみらかに」は所得ているだろうか。楽しみに読ませて貰います。感謝。
* ジェンダーの視点から見た沖縄と副題して「上野千鶴子に挑」んでいる島袋まりあさんの『日本のポストコロニアル批判』が興味深く、また手厳しい。教えられている。
* 書庫にはいると、国文学そして歴史それも中世を論じたいまや古典的な本が数あるが、そして私自身も熱心に中世を考え語り書いてきたのだったが、蔵書としてみる多くの昔の中世論は、いまでは影が薄くなっている。わたしはもともと日本史をいつも裏側から、支配者より支配されている側から観てきたので、過去のでなく近来の活溌な中世論にこそ大いに啓発され励まされる。
何と言っても網野善彦氏や横井清氏や川嶋将生氏らの中世研究に教えられ鼓舞されてきた。京都で感触してきた中世が生き生きと起ち上がってくる。多くの論攷や論文がじつに生き生きと面白い。さてさて、その功徳がどうかして今も取り組んでいる小説に美しく反映して欲しいモノだが。
* 幸いに猛烈な颱風はひとまず去って呉れ、烈しい夜雨を戦くように聴くことは、とまれ免れている。ただし夜雨はいつも激しいわけでなく、秋ふけゆく夜の雨は人によりひとしお寂しかろう。
晩唐の詩人に四川での「夜雨 北に寄す」がある。北にある妻か恋人かが、いつお帰りかとはるばる問うてきた。
君 帰期を問ふも未だ期あらず、巴山の夜雨秋池に漲る。
いつか共に西窓の燭を剪り、却つて話さん巴山夜雨の時。
李商隠の好きな唐詩です。
2011 9・28 120
* 岩橋邦枝さんから『評伝 野上彌生子』を戴いていた。
2011 9・29 120
* バグワンに聴く。 『黄金の華の秘密』より
スワミ・アナンド・モンジュさんの翻訳に拠りながら。
人間は機械だ。機械に生まれついたわけではないが、機械のように生きて、機械のように死んで行く。社会によって、国によって、組織化された教会や寺院によって、既得権益を有する者達によって、比喩的に謂うのだが、催眠術にかけられているからだ。社会は奴隷を必要とする。社会の一員となり文明を身につけるプロセスというのは、すべて深い催眠術に他ならない。
おまえは自分の内にある肉体以上の何かを知っているだろうか。生まれるよりもまだ先に自分の中にあった何かを観たことがあるだろうか。
人間は不死の存在たりうるが、肉体と同一化しながら生きているために、死に囲まれて生きている。社会はおまえが肉体以上のものを知ることを好まない、いや許さない。社会が興味をもつのは知能も含めておまえの肉体だけだ──肉体は利用できるが、魂は社会のためには危険なのだ。魂の人はつねに危険なのだ、なぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ、社会は彼を奴隷に貶めることが出来ない。魂の自由人は単に機械である人間達がつくりあげた社会、文明、文化の構造に拘束されない、拘泥しない、それらに仕えねばならぬとは考えない。考えないで済ませうる自由を生きている。それらのものが謂わば監獄であることを本質的に見抜いている。彼は群衆の一部ではありえない、彼は個として存在し、それらの監獄様のものをべつの生命として個のために活かそうとするしそれが出来る。
肉体は機械化した群衆の一部だ。だがおまえの魂はそうではないし、そうであってはならない。その魂は自由の香りを帯びている。
社会からすればおまえが魂であろう、魂を得よう観ようとし始めたら、たいへんな危険だ。社会はおまえの生のエネルギーがただ外へ外へ流れ続けて欲しい。金や権力や名声や、そういったものに興味を持ちそれらに奉仕し跪いていつづけて欲しい。社会はおまえが生の内側に入って行くことをどうかして妨げたい、そしてその最良の方法は、自分は内側へ向かいつつある、入りつつ有るという偽りの仕掛けをおまえに提供することなのだ、ここに、じつに難儀なトリックが無数に考案される。はっきり言う、巧妙で偽善そのものの落とし穴、罠だ。観てごらん、どんなにそれが多いか。
* わたしは映画「マトリックス」をありあり想い浮かべる。
2011 9・29 120
* 昨日岩橋邦枝さんに頂いた『評伝 野上彌生子』の冒頭で、大いに感銘をうけたのを、ぜひ記録したい。
彌生子は漱石の弟子であった。漱石の絶筆に『明暗』のあることは誰でも知っているが、彌生子の処女作がまた「明暗」という百二十枚ばかりの作で、彌生子は漱石の懇切丁寧な五メートルにもなる巻紙での手紙をもらい、宝物のように終生これを語っているが、自作のほうは彌生子自身見失っていて、死後に発見され全集の補遺により活字にされた。
わたし・秦は漱石先生の批評と激励の手紙の中で、ことに心肝に響く「ことば」と「声」とを聴いたと思っている。すこし此処こ書き写させて頂く。本当に本気で小説を書こう、創作しようと決意した人ならば、こころして聴いて欲しい。
☆ 岩橋邦枝著『評伝 野上彌生子』の冒頭に聴く。
第一章 師・夏目漱石──作家になるまで
野上彌生子は、長篇小説『森』を執筆中の( 齢=) 九十代の日記にしるしている。(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
彼女は、夏目漱石に師事した明治期以来、昭和六十年(一九八五)に九十九歳十一ケ月で急逝するまでたゆまず書きつづけて生涯現役作家を全うした。
彌生子は、昭和四十一年の 漱石生誕百年記念講演〃「夏目先生の思い出」のなかで、夏目漱石から貰った長い手紙をところどころ読みあげて披露した。六十年前、二十一歳の彼女が初めて書いた「明暗」という題の小説を漱石に見てもらったとき、漱石が懇切に批評した手紙である。(人物の年齢は、誕生日前もその年の満年齢を記す)
漱石全集の書簡集に、明治四十年(一九〇七)一月十七日付野上彌生子【当時は八重子】宛の「明暗」評の手紙が収録されていてその全文を読むことができる。次のような書きだしである。
《 明暗
一 非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従つて苦心の割に全体が引き立つことなし
一 局部に苦心をし過ぎる結果散文中に無暗に詩的な形容を使ふ。然も入らぬ処へ無理矢理に使ふ。スキ間なく象嵌を施したる文机の如し。全体の地は隠れて仕舞ふ。 》
このように箇条書きで、漱石は作品の批評とあわせて、文学者になるということの根本義を噛んで含めるように諭している。懇切叮嚀な批評と教えは、七箇条にわたる。
《明暗は若き人の作物也。(略)才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。文学者として十年の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん》
この作者の若さでは《人情ものをかく丈の手腕はなきなり》、だが《非人情のものをかく力量は充分あるなり。絵の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を発揮すると同時に弱点を露はすの不便を免がるゝを得べし》と激励をこめて教えている。
中略
彌生子は、所在不明になった「明暗」の原稿について四十歳の頃すでに、その古原稿を覗いてみたこともないので何を書いたかよく覚えていないと小文「二十年前の私」にしるしているが、漱石からもらった「明暗」評の長い手紙のことは、生涯にわたって何度も感慨をこめて書いたり語ったりした。次に引くのは八十七歳のときの述懐である。
《もし先生が、お前にはとても望みはないから、ものを書くなんてことは断念した方がよからう、と仰しやつたら、私はきつとその言葉に従つたらうと思ひます。さうすれば、作家生活には無縁のものになつてゐたはずです。ところが、さうではなく、いろいろ御親切な教へを受けたこと、わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》(『昔がたり』解説)
彼女は九十二歳の談話でも、もし漱石から文学など考えずにずっと細君業をすべきだという手紙をもらっていたら、自分はなんにも書かないですごしたのではないかと思う、と語っている。
彌生子はもともと作家志望ではなかった。《知識慾には駆りたてられてゐたが、自分でも作家にならうなんてことは夢想してもゐなかつた》(「その頃の思ひ出」)という彼女が小説を書きだしたのは、夫の野上豊一郎から聞く漱石山房の木曜会の話に触発されてのことであった。
* もっと読み続けたいが、措く。
《才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲学と年が足らぬなり。年は大変な有力なものなり。》《余の年と云ふは「文学者」としてとつたる年なり。明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし。》 漱石
《わけても、文学者として年をとれ、との言葉は私の生涯のお守りとなつた貴重な賜物でごさいます。》 彌生子
これだ。文学に志すというなら、これだ。趣味で何が出来るだろう。
* もう一つ、岩橋さんの叱咤も聴くべし、(もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである。)
* いろんなことに雑然と手も出し口も出しているわたしだが、確実にこう思っていて疑わない、「よけいなことをしでかすより、三行でもいい、佳い文章を書きたい、いつまでも書いていたい」と。
* 「小説が書きたい」「書いたから読んでほしい」と、少なくも永い間に数十人ないしもっと多くに頼まれた。だが「文学者として年を」とった、とりぬいてきたいったい何人がいただろうか。世に出る出ないはべつごとである。
2011 9・30 120
* あの腹痛に堪えたまま、増補版『無縁・公界・樂』を大量の「増補」から「あとがき、解説」まで、悉く熟読し終えた。七十年の読書の中で、研究・論攷・史観というなかでなら、躊躇いなく本書を天恵のように感謝し、五指の内に、それも早い内に指折り数える。幸いに世界観を変えられたのでなく、確証なく持っていた世界観を相当堅固に底から支えてもらったという感謝である。
いろんな分野に、むろん、こういう出逢いの本が在る、たとえばバグワンも最たる一であるように。
☆ バグワンに「こころ」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
もし、よくよく目を凝らしてみれば
おまえは決して「心」というような実在には出くわすまい。
それはものじゃない。
それはただのプロセスなのだ。
こうも譬えようか、「群衆」のようなものだ。
おまえは群衆じゃない、彼も彼女も群衆じゃない
だが容易に群衆にもなる。
おまえの思考は群衆としては生まれない だが、
たちまちに群衆同然に集合し離散し混乱し右往左往する。
そういうありさまをなおおまえたちは「心」と呼ぶが
それは「実在」ではない、ただのプロセスであり、
往々にしてただもうとらえどころない心理の雲散霧消にすぎない。
おまえはもっと深い内観を必要とする
おまえの眼がもっと深いところに届くようになったとき
おまえは突然
ひとつの思い、もう一つの思い
またもう一つの思いというように
ひとつひとつの思考がわかるようになるが
しかし、そこに「心」などというものは無い。
寄り集まった思考
何百万という思考の群れがおまえに
あたかも「心」というモノが存在しているかのような幻覚を与える
それはちょうど群衆のようなものだ、 何百万ものね。
だが、いったい「群衆」などというものは在るのだろうか。
「群衆」というようなものがみつかるのだろうか、そこに立っている個人個人、おまえ、彼、彼女らのほかに。
ただの集団性、集合性
それがあたかも「群衆」というモノが存在すると錯覚させるだけだ。
ただ単独の個のみが存在する。
これが「心」への第一の内観だ。
よく観てごらん。
そうすればおまえの見出すのはただ群集し雲散霧消する「思考」であって、
決して「心」になど出喰わすことの無いのを知るだろう。
2011 10・1 121
* 一枚のビラで無署名であるのだが、同封の他の郵便物からしても、ほぼ間違いなく親鸞仏教センター所長の本多弘之氏の文と想われる。たとえわたしの想い違いでも、筆者は問題でなく、書かれてある内容にわたしは強く魅された。もやもやっとしてよく分かりきれなかった観点であり、こう言われてみると嬉しく納得がいった気がした。
これは親鸞信仰の大きなポイントであると同時に、いささか軽率に理解されていないかという不審を、わたしは永く感じてきたものの、自身で割り切ることは出来なかった。下記の理解、有り難い。
☆ 往相・還相回向の問題
これまでの教えの了解に、どうにもわからない問題があった。
何かというと、回向に二種の相あり、往相の回向と還相( げんそう) の回向の二つの相があると曇鸞が言っていて、今までの教義学の正統的理解というのは、回向のはたらきは如来からいただく。浄土に往相するのが衆生の相(すがた)だと。浄土に往相したら、今度は浄土から還相するのも衆生の相だと。だから往相と還相という相は衆生に属すると。
そうすると、この愚かな凡夫が念仏に出遇って浄土に往き、浄土から還ってくるという、往ったり来たりは衆生に属するというイメージが残る。
どうもそれはおかしい。それは中途半端なのです。往相・還相が衆生の相だと解釈するところには自力のなごりがあるのではないか。
親鸞聖人の書いておられるものを読むと、衆生が往ったり来たりするイメージとは矛盾する言葉がいっぱいある。二種の回向、往
相・還相の回向は弥陀の回向である。この往相・還相の回向にもうあう、値遇すると言っている。如来二種の回向によって信心を得る
と書いてある。自分が往ったり来たりするなどと、親鸞聖人はどこにも書いていない。
今までの教義学が間違っていたのではないか。解釈学が間違っているのであって親鸞聖人は間違ってない。それは徹底的に受け身で如来の本願力をいただく。
教義学は受動のような顔をしながら、回向だけいただいて、自分でやるという話にした。その他力は本当の他力ではないのではないか。 (『親鸞仏教センター通信』第37号〈第36回「親鸞思想の解明」〉より)
* マードックの『鐘』を読み終えた。とくべつの感銘は得られなかった。
また枕べに、印象的で面白い秀作を二、三冊どこかから取り出してこなくちゃ。
2011 10・2 121
* 「座談会・秦恒平著『風の奏で』を読む」を、「 e-文藝館= 湖(umi)」の「論攷」室に入れようと校正し始めたが、ずいぶん昔の作なのに、作者のわたし自身がワクワクしてしまい、校正しづらいほどアガッテしまう。
その一方で今度の「 湖(うみ)の本」 は、校正というより思い切った組み付けを試みているが、さ、これがどうなるやら、再校の出を予想して初校を戻さぬ今から、ドキドキはらはらしている。もう、後半部へ移って、後半の校正は容易く進んでいるけれど。
もういつしかに聖路加予約の次の診察日が来る。人間ドックにと妻は強硬で、診察について行くと謂うが、そんなモノやコトに「逮捕」されてしまうのは全く本意でない。どうにかして仕事を前へ前へ運びたいのです。やれやれ。
* 腹痛は避けたい、人サマにも心配をかけてしまう。今夜ももう休むことを考えよう。
2011 10・2 121
* 在野と謂うのは語弊もあるが、いわゆる文壇的な場でないところで着実に佳い仕事をのこされていた、また私的にお付き合いがあって敬意も親愛も覚えていた今は亡き小説家として、順不同に、三原誠さん、門脇照男さん、倉持正夫さんの三人を忘れたことがない。その中の、門脇さんに戴いている『狐火』という短編小説集を読み返しているが、えもいわれず「読まされる」嬉しさをここ毎日重ねている。四国でながく教員をつとめられた。
便りが途切れたなと淋しかったら、人づてに亡くなっていたと知った。「 e-文藝館= 湖(umi)」にも「 ペン電子文藝館」 にもことに愛した作を二つ三つ「招待」してあるが、この一冊からも、もう二、三ぜひ遺し伝えたい作があると喜んでいる。
東京で学ばれ四国に帰られたようだ、ただ一度だけ池袋の天麩羅の店で食事しながら話した。ときたま神田あたりへ本を買い出しに上京しますと聞いたが、文学への熱い願いや意欲を終生抱きしめておられたと想像できる。上林暁ないしは徳田秋声につながる風味の私小説の、そう、「名手」であったと思う。おそらく亡くなるときまで、わたしの「 湖(うみ)の本」 の熱い支持者でもあった。共感や声援を送って頂いた。わたしより幾らか年長であったと思う。いま、『狐火』の十作余に心より親しんでいる。砂子屋書房の本でこれが三乃至四冊めの最期の出版であったろうか、自費出版であったろうと想われる。
三原誠さん、倉持正夫さんの、やはり生涯を在野の「文学者」として過ごされた著書も読み返したい。この二人は関東また東京に住まわれていたのに、会うということは一度も無くて死なれてしまった。
* 毎日とは手を出さないが、いつでも出せば手の届く枕元に、昔々の、やや背丈たかい版の岩波文庫「陶淵明詩集」を愛蔵している。「 湖(うみ)の本」 の裏表紙に心友井口哲郎さんに頂戴した「帰去来」印を用いているように、高校の漢文教室で習って以来わたしは李白や杜甫を遠く通り越してもっと以前の詩人陶潛が好きなのである。部厚い文庫本ではない。幸田露伴が校閲し、漆山又四郎が訳註している。易しくはないが的確な読みが下されてある。今朝も目を覚ましてからしばらく、行儀の悪いことだが寝たまま、ただただ読んでいた。ただもう読んでいた。清水に顔をひたしている心地だった。
2011 10・4 121
* だれもが知っている人ではないが、知っている読者たちにはたいそう愛されてきたヒロイン三人、「源氏物語宇治十帖」の大君、ジイド「狭き門」のアリサ、バルザック「谷間の百合」のモルソーフ夫人( アンリエット) の三人を、少年の昔から、いたく愛しながら、しかも心からはとても受け入れかねる人達だった。フェミニズムからいえばなにかしら間違っていると、大いに、叱られるかもしれないが。
なぜか。
今日読んでいた『谷間の百合』で、呻くようにフェリックスはその理由を、うったえていた、虚しくも。アンリエツトを心底から熱愛し熱愛し熱愛したまま悲痛にうったえていた。悲痛の声は届いているのかも知れなかった、しかしモルソフ夫人はゆるさなかった。そして三人ともこのヒロインたちはほぼ自ら死んで行く。男の手に「身を任せる」ということをついにしないまま。
新秋や 女静かに身をまかす 湖
2011 10・4 121
* 岩橋さんに頂戴した『評伝 野上彌生子』がおもしろい。著者の筆の走りが快適で、ああ、こういうふうにも書いてみたいなあと感心している。彌生子の作は『利休』と『真知子』とぐらいしか読んだことがない。手近な、芥川編の『近代日本文藝讀本』第一巻に「飼犬」が入っているのを読んでみたい。
すこし読み始めた。堅実な筆で渋滞がない。佳い。
にしてもこの野上彌生子という作家は何というか、「べつモノ」である。堅実な持続力にはらう敬意は惜しみないが、かならずしも尊敬してのみ謂うのではない、「べつモノ」である。
2011 10・6 121
* 疲労が濃い。夕食後に二時間、からだを横にし読書していた。読書は次々に皆興深いのに、身を起こし機械の前へ来ると、気が付くとうたた寝している。もう休む。
林丈雄君から機械のことでいろいろ助言されているのに、どういうことをどうすればいいのか理解が届きかね、情けない。わるいアタマが一段とわるくなっている。
遠い遠い昔の亡き給田みどり先生の歌集に、身を沈透くように読み耽る
2011 10・7 121
* やはり夕方まで二時間ほど寝ていた。たいした何も今日は、今日も、出来なかった。
しかし岩橋さんの『評伝 野上彌生子』は面白く興深く、源氏の若菜下の巻も、ジャン・クリストフも面白い。
2011 10・9 121
* 十数年も交わり続けてきた「バグワン」の、何に心惹かれてきたか言い尽くせないけれども、さしあたり昨日今日も読んでいる『存在の詩』の基材にされているのは、ティロパ(988-1069)の説く「マハムドラーのうた」である。その時代は日本でいえば紫式部や藤原道長の頃から宇治の鳳凰堂の出来る頃にほぼ相当しているが、ティロパの生涯と遍歴はけっして華やいでもいないし盛大でもない。しかしおそろしいまで彼の世界は深く「マハー」であったようだ。
その「マハムドラーの詩(うた)」をいますぐ此処に挙げるのはいとも容易だが、かえって読者を困惑させるだろう「マハムドラーのうた」はけっしてけっして容易なものではないのだから。バグワンはそれを、滾々と湧く叡智そのものでさらに大きく説き証してくれている。
それはそれとして、「マハー」は、偉大な巨大な深遠な宏遠な意味合いであることは、ま、知る人は知っている。「マハ」と冠した「ムドラー」とは、では、ということになり、ひとつここを間違うと、わたしはティロパもバグワンもを損ないかねない。しかし、大胆に、ひるんだりおそれたりせずバグワンの言葉に耳傾けてわたしは聴いてみよう。じつは、わたしはバグワンにこう聴くより以前からこれの幾分かを直観し実感していた。
☆ バグワンに「マハムドラー」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
ティロパは繰り返しうたう、”マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ”と。
この何度も何度も出てくるマハムドラーとはいったい何だろう?
何が起こるのだろう?
マハムドラーとは
そこにおいておまえが「全体=全世界」と分離していない実存の一状態だ
マハムドラーとは
「全体=全世界」とのふか~い性的オーガズムのようなものだ
ふたりの恋人が深い性的オーガズムの中にあるとき
彼らは互いに溶け合う
そのとき女はもう女でなく,男はもう男でない
彼らはちょうど陰陽の環のようになって
互いの中にはいり込み
それぞれのアイデンティティー(自己主体)を忘れて
互いの中に出会い,溶け去る
愛がかくもビューティフルなのはそのためだ
この状態が「ムドラー」と呼ばれる
オーガズミックな交合のこの状態が「ムドラー」と呼ばれる
そして〈世界全体〉との最終的なオーガズムの状態が
「マハムドラー」と呼ばれるのだ
大いなるオーガズム──
オーガズムの中では
さしあたって、性的なオーガズムの中では、いったい何が起こるのだろうか?
それをおまえは理解しているか
何が起こるのか?
オーガズムは、彼らがまだまだ恋人でない限り、
夫婦の間にはほとんど決して起こらない
しかしそれは可能だよ
おまえがたが夫婦であって,同時に恋人であることはできるから。
おまえは自分の奥さんを恋人のように愛することはできるし
そうなれば話は全然別だ
それならば結婚とて、強いられた制度でも強いられた現象でもない
東洋では何千年もの間
結婚という制度が強制的に存在していたために
人々は完全に性のオーガズムの何たるかを忘れ去っていた
それは事実だ
何人かの西洋の女性たちが
ほんのここ、まあ七、 八十年というところだろう
オーガズムというものが何か達するに値するものだということに気づいた
それ以外の多くの女性たちは
彼女らがそのからだの中に
オーガズムという何らかの可能性を備えていることを永く永く全く忘れ去っていた
これは、人類に起こり得ただろう中でも最も不幸なことのひとつだ
そして女がオーガズムを持てないとき
男もまた本当にはそれを持つことはできない
オーガズムとは「ふたり」が「ひとつ」になる出会いだからだ
ふたりでこそ
彼らがお互いの中に溶け合ったときそれを持つことができる
それはひとりが持てて
もうひとりが持てないかもしれないようなものじゃない
それはあり得ない
射精は可能だ
慰めは可能だ
ただしそれはオーガズムじゃない
オーガズムとは何だろうか?
オーガズムとは,おまえのからだが
もう物質としては感じられないような状態のことだ
それはエネルギーのように,電気のように震動する
それがまさに根底からあまりにも深く波打つために
おまえはそれが物質的なものだということを完全に忘れてしまう
それは電気的な現象と化している
事実,それは電気現象なのだ
いまや物理学者たちは
物質というものは無いと言っている
一切の物質はただの見かけにすぎない
奥深いところでは
<存在しているそのもの>は、電気なのだ
物質じゃない
オーガズムにおいて
おまえは,もう物質というものが存在していない
肉体のこの最も深い領域へと降りて来る
ただのエネルギーの波
おまえは舞い踊るエネルギーとなる
波打ち──
もうなんの境界もない
脈動する──
が,もう実体を持っていない
そして相手の恋人(=愛し合える妻や夫も) また脈動する
で,だんだんと
二人がお互いに愛し合い
お互いにいっさいを分かち合い
脈動の,波動の,エネルギーであることの
この瞬間にいっさいを与えきって
そしてそれを怖がらなければ
──というのは,それはまさしく「死」のようなものだから──
からだが境界を失い
からだが蒸気のようなものになり
からだが実体としては蒸発してしまい
ただエネルギーだけが残るとき──
ひとつのごく微妙なリズムだ
──ただしそれはまるで自分がいないかのようだ
ただ深い愛の中でしか人はそこにはいり込めない
その愛こそはまさしく死のようなものだ
自分を肉体だと思っている限りにおいておまえたちは、あたかも、死ぬ
からだとしてのおまえたちは死ぬのだ
そしておまえたちはエネルギーとして
ヴァイタルなエネルギーとして昇華する──
そして妻と夫が
あるいは恋人同志が
あるいはふたりのパートナーが
ひとつのリズムの中に波打ちはじめるとき
彼らの心臓の鼓動も,彼らのからだも「ひとつ」になり
ひとつのハーモニーを創り出す
そのとき──叫びのように
オーガズムが起こる
そのとき、おまえたちはもはや「ふたり」ではない「ひとつ」だ
男が女の中にはいり込み
女が男の中へはいり込む
いまや彼らは環だ、輪だ。
そしておまえたちは「ひとつ」のまま震動する
脈打つ
おまえたちのハートはもう別々じゃない
鼓動はもう別々じゃない
ひとつのメロディー・ひとつのハーモニーとなる
それは世に存在し得る最も偉大な音楽だ
ほかの一切の音楽など、これに比べたら顔色なしだ
ふたつのものがひとつになって波打つこの震動を
オーガズムと言う
同じことがほかの人間とではなく
存在全体との間で、世界そのものとの間で、起こるとき
それが「マハムドラー」だ
「大いなるオーガズム」だ
信じるがいい
それは起こり得る、それは起こる。
私はおまえたちに,そのマハムドラーが
大いなるオーガズムが可能となるように
話してあげたいと思う。
* わたしは、若い日々に、若くてまだ健康であった妻とのあいだで、バグワンの語る「ふたつ」が「ひとつ」に化る「死」にも同じい「生」のハーモニーを、確かに何度も聴いたことがある。忘れていない。だから、バグワンのことばは大きな譬喩、豊かな譬喩、力に満ちた譬喩として素直に聴けた。有り難いと思った。「存在」という「全体」との、「世界」という全体との、「マハムドラー」の「起きる」のを、だから、わたしは「期待」として信じ持つことは出来る。わたしは待っている。
2011 10・10 121
* かすかな違和感が後頭部にあるが苦痛と謂うほどではない。昨夜は十時頃には床に就き、零時頃目が覚めたので、二時間ほど十余冊の本を読んで、また寝入った。睡眠は足りたと思う。
2011 10・12 121
☆ 独り敬亭山に坐す 李白
衆鳥高く飛び尽くし 孤雲独り去って なり
相看て両つながら厭はざるは 只 敬亭山のみ有り
* 「静夜思」とならんで、ことに好きな李白詩。ティロパやバグワンの歌いまた説いている「マハムドラー」とは、この李白と敬亭山との「一致」のようではあるまいか。
このところ、しかし、唐詩以上に、昔の岩波文庫版で『陶淵明集』を懐かしんでいる
酒有り酒有り (ひま)をえて東の窗(まど)に飲む とか、
人も亦た言へる有り 心に称(かな)へば足り易しと。
この一觴を揮(つ)くして 陶然として自ら樂しむ。 とか。
2011 10・12 121
☆ 雑詩の一 陶潛
人生 根帯無く、
飄として陌上の塵の如し。 (陌は街路)
分散して風を逐うて転ず、
此れ已}(すで)に常身に非ず。
地に落ちて兄弟と為る、
何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならん。
歓を得ば当(まさ)に樂しみを作(な)すべし、
斗酒 比鄰を聚む。
盛年 重ねて來らず、
一日 再び晨(あした)なり難し。
時に及びて当に勉励すべし、
歳月 人を待たず。
* 老境の独白ではない、むしろ若い人に寛大に友(=わたくしの謂う身内) を得て楽しみ且つ勉励せよと語っている。「人生 根帯無く、」 「何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならん。」といさめ、「盛年 重ねて來らず、一日 再び晨(あした)なり難し。時に及びて当に勉励すべし、歳月 人を待たず。」と。
此処へ来て我が老境のとりかえしのつかぬ実感に呼応し、切実。
* 山瀬ひとみさん久しぶりの長篇『消えた弔電』を読み始め「読まされ」ている。まだ数章までだが、「文学」の作「品」には遠いが「通俗読み物」でもなく、材料と叙述のなまなましい現実的効果と叙事の力とで押しまくられ「読まされ」て行く。推敲はまだ相当利くだろう。
* しかし読み終えて感嘆し、大いに大いに鞭撻されたのは岩橋邦枝さんの『評伝 野上彌生子』であった、この本から受けた叱咤や鞭撻はわたしにとってとても軽くは見られない。日本ではまこと男でも女でも他に一人として類例無い優れた資質の「大べつもの」作家であった。岩橋さんの「評伝」の姿勢と行儀にも敬意を覚えている。座右の書として心より珍重し叱咤され激励されたい。
2011 10・18 121
* 朝がた、少し冷え冷えしていた。夜前、二時まで人の原稿を読んでいた。
☆ ご体調も万全ではなく、新しいご本でお忙しい中、原稿をお読みいただいて、まことに申しわけございません。ほんとうにありがとうございます。幸せものです。
今回お送りした原稿はストーリーの面白さを考え、なおかつきちんと人間を描くことを目指しましたが、単なる出来の悪いミステリー風読み物と一蹴されてしまわないかとおそれています。結末を悩んで何度も書き直しました。
お加減のほうは如何ですか。病院で適切な診断と投薬をと申し上げるしかありません。休養だけではたぶん同じことの繰返しでしょう。帯状疱疹だとしても、体力が弱るたびにぶり返すわけですし、腹痛も再燃するとお辛いでしょう。どうかお大事になさってください。
おせっかいながら、お薬をお茶で飲むのはよろしくありません。お水になさってくださいませ。 山瀬
* 四百十一枚、全部読みました。家内もその前に全部読みました。
これは力作で、読ませました。紙の本にしても、或る程度「イケル」感じの、ブレのない長篇になっています。むろん、かなり推敲はまだ利きますが、冗漫感はなく、後妻も先妻も、語り手の方の一族一人一人も、よく書き分けて印象は立っています。数年前の長篇では人物がみな操り人形のようにウソくさかったけれど、したがって物語もチンチラしていたけれど。今回は、比較にならぬほどシッカリ地に脚がついていて、後妻の人格障害気味がかなり正確な存在感に表現できています。語り手の「批評家」気味も過剰にならず随処に露出していて作者をホーフツさせ、ときどき笑いました。
ま、これ以上は作中の誰も彼も過剰に書きすぎず、つよめず、むしろ細部の言い過ぎや月並みな手垢表現などを小気味よく削ぎ落としてみること。
もう一つは、やはりエンディング。やや未練がましくだらだらと述懐が続きますが、どこかでキリッと切り上げて終える勇断が欲しいと。読者の二人とも、それは一致した感想です。
これは、手入れ次第で世間に出て独り歩きできる内容の作です、文章はあまり文学的でないけれど、小説としての「用」は足していてイヤミもありません。これまでと比較すれば、真面目な力作で、佳作秀作たりうる資格をもっていると感じました。書いてよかったね。
題は、微妙です。推理小説めく売りのようでもあり、これが鍵でもあり、と。
原稿の最初の二枚ほどを徹底的にムダのないいい音楽の名文に推敲すれば、あとはこのままでも流れはわるくありませんが、無用の小骨は抜いておくといい。ちょっとした言い過ぎ、あまりに当たり前な物言い、など。
ともあれ、この作には素直に感心しましたと伝えます。
* この作のいいのは、文学の香気には乏しくても、通俗な型どおりの読み物でなく、まぎれもなく不気味な「人間」の臭いがしかと捉えられ、柔らかい普通人の世間と異様な人格の異様なまま目を光らせているコントラストが、不気味に対峙していて、そう簡単には誰にも書けないところ。こう云ってはわるいが、最近読んだプロ作家達の『黄金特急』や『愛娘にさよならを』よりも物凄い引力で、たった一日の内に妻とわたしとの二人それぞれに四百十枚を読ませてしまった。派手な事件はなにも起きていない、人が一人病死しただけなのである。
幸い出版されても残念ながらされなくても、秦建日子が渾身のちからで脚色してくれないかと、思わず両親で言い合ったほど。主役には若くてもよほどの演技者を。
2011 10・19 121
* 「おまえは催眠術にかけられているから」「おまえは条件づけられているから」催眠を解くプロセスを通りぬけ、条件づけを解かねばとバグワンは云う、「死がやって来つつあるのだということを覚えておきなさい」と。「死は、 今日は起こらないと考えてはいけない、死はいついかなる時でも起こりうる。実際、全てのモノゴトはつねに、今起こる。すべてのモノゴトは今この瞬間がもたらす空間でのみ起こる。過去では何も起こらず、 未来では何も起こらない。現在が存在する唯一の時間だから。過去とはおまえの記憶、未来とはおまえの空想に過ぎない。」
どうかして過去の黄金時代へと人を導く宗教があり、どうかして未来の黄金時代へ誘いたがる主義者たちがいる。彼らは相反した思想や思い込みに抱きついたまま、けっして「いま・ここ」に生きなさいとは教えない。しかし今ここを生きる以外に生はない。だがそうするためには、かけられた催眠を解かねばならぬ。「おまえは機械でなく、人間だ、おまえは意識的にならなければ危ない、なのに、 意識的でない」とバグワンはわたしを叱る。「この七十何年、おまえは夢遊病者のように生きてきた、夢をみたまま、おまえは一度も生きていなかった」と。
人は一瞬一瞬を──それが生の瞬間であろうが、愛の瞬間であろうが、怒りの瞬間であろうが、死の瞬間であろうが──生きなければ。それが何であろうと、 人は一瞬一瞬を可能なかぎり意識して生きなければならない。
「おまえは上の空でぼんやり生きている。どうしてまわりへの留意をそこまで欠いたまま生きてられるのだろう、留意の欠けた状態は、闇だ。留意は光だ」と、バグワンはわたしを叱る。
* わたしは元気でない、今。頭をとりかこむように薄暗い膜がかぶさり、出来るなら眠っていたくなる。
2011 10・19 121
* 六時ごろから寝付けなくなり、そういうときは、手を延ばせば届く書架から本を抜き出す。
「源氏物語 若菜下」では優麗かぎりない六条院での「女樂」や、その後に続く光と夕霧との、また紫上との、音楽演奏等についての美しい対話を楽しんだ。そして「栄花物語」は御堂関白道長造営のいわゆる「御堂」の豪奢と不思議を経て、巻第十九へ移った。
「ジャン・クリストフ」では、知り合い親しくなった女優とクリストフとの一風ある「人間的」な交際・恋愛が生き生きと面白く進む一方、「谷間の百合」では、モルソフ夫人アンリエットの、フェリックス子爵に対する深い深い絶望と失恋・嫉妬の間近な死へ、のっぴきならない悲歎のさまが物語られて行く。
チェーホフの短篇「ライオンと太陽」も、おみごとという切れ味。そして今、もう一編、瀟洒に巧まれたフランス文学、パトリック・モデイアノの『ある青春』に乗っている。作品の風味も色彩も初体験のような気がする。
このところ妙薬の美味を味わうように、大西巨人さんに戴いていた詞華集『春秋の花』を、数頁ずつ翫味し嘆賞している。本の表の見開きには、巨人さん自筆の住所と献辞とが貼り込んである。
しみじみ佳い本である。
そして、バグワン。
* それだけで終えても、一冊ずつの読み時間が長くなり、時計を見ると八時を過ぎていたので起きた。
2011 10・20 121
* なぜか漢字が読みたくて。
背を押されるように、宋の黄堅が選し明治の久保天随が釈義して前後二集ある和綴じ『古文真寶新釋』の前集を、わきの書架のてっぺんから引き出してきた。『唐詩選』五冊や、 他にも漢籍の何冊かが書庫から持ち出してある。
『古文真寶新釋』は中学の頃から、二階への隠れ梯子段の一番上、古い箪笥にもたれ込んで、ただもうやたらにめくっていた。前集だけでも「勧學文」に始まり「五言古風短篇」「五言長篇」「七言古風短篇」「七言古風長篇」「長短句」「歌類」「行類」「吟類」「引類」「曲類」と内容豊富。解題も作家小傳」も備わっていて、こういうところは子供でも読む気で読めるから、司馬温公も白楽天も陶潛も李白も杜甫も、名前だけはお馴染みになっていた。
長文は難渋するが、いわゆる絶句、律詩ならすこし難しくても返り点がしてあれば読めた。漢字表現の詩趣や世界に慣れてきた。なにしろべらぼうに広大な中国ゆえ、地理・地名や国名には追いつけないが、風趣は察しられる。
近来・現今の中共中国は甚だ苦手だが、歴史国家の中国には畏敬の想いもあいまいではあるが親愛の情ももっている。ときおり痛切に「漢字での表現」が懐かしくなる。現実がよほどイヤなときの逃避であるかも知れない。
いまパラッとめくるとこんな詩が現れた。子供心に興味をもった懐かしいような、三国志後語とでも謂うか。
☆ 七歩詩 曹植
煮豆燃豆 。 豆を煮るに豆莢を燃す。
豆在釜中泣。 豆釜中に在つて泣けり。
本是同根生。 もと是れ同根の生なるを。
相煎何太急。 相煎ること何ぞ甚だ急なる。
題義 曹植は、曹操の少子で、極めて文才があつた故に、父に愛せられ、一時は嗣にもならうとしたことがある。やがて、操の死後、兄なる曹丕が飼いで魏王となると、いたく、植を憎み、之をいぢめ、ある時、植に命じ、汝は詩を作ることが早いといふ評判だが、今、七歩の間に一首を作れ、もし出來ぬときは、大法に行つて、殺して仕舞ふぞといつた。すると、曹植は、七歩どころか、声に應じて、この詩を作り、曹丕も感心し、再び友愛を篤くしたといふことである。
字解 「 」 豆がら。即ち豆の莢。
* 三国志はまだ読んでいなかったけれど、詩のおもしろさには、この解題で事足りた。
2011 10・20 121
☆ 酒を飲む 二十首 陶淵明
余閑居して歓び寡く、兼ねて秋の夜
巳に長し、偶々名酒有り、夕べごと
に飲まざるは無し。影を顧みて獨り
尽し、忽焉として復た酔ふ。既に酔
ふの後、輒ち数句を題して自ら娯し
む。紙墨遂に多くして辞に詮次無し。
聊か故人に命じて之を書せしめて以
て歓笑と為すのみ。
其五 其の五
結廬在人境 廬を結んで人境に在り、
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し。
問君何能爾 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)る、
心遠地自偏 心遠ければ地自(おのづか)ら偏たり。
採菊東離下 菊を東籬の下に採り、
悠然見南山 悠然として南山を見る。
山気日夕佳 山気 日夕佳なり、
飛鳥相與還 飛鳥 相與(あひとも)に還る。
此中有眞意 此の中に眞意有り、
欲辯已忘言 辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。
詩意 わが廬(いほり)は、深山の奥でもなく、矢張、人間の境に在るが、しかし喧しき車馬の声も聞こえない。そは、何故かといふに、我が心、世を厭離したから、たとび、喧境に居ても、偏僻の地も同様に思ふからで、何事も心の持ち様次第である。かくて秋の日東の籬の下に咲き匂ふ菊を折り、ふと首を挙ぐれば、ゆくりなくも、南山が目の前に見えた。その南山の山気は、朝夕翠にして、景色えもいはず、鳥は暮になれば自ら飛び還るので、あらゆる物は、その天性を得て、毫も係累なく、身、亦た其中に在れば、さながら、宇宙枢機の一端に接触したるが如く、かくて我、試み個中の眞意を述べむと欲するも、吾自ら眞意に入り、その言を忘却して、復た言ふことが出來ぬ。
余論 採菊の二句は、この詩の生命で、東坡は、之を解して「採菊の次、偶然山を見る、はじめより意を用ひずして、景、意と會す」といつた。即ち期せずして、天我契合の聖境に到達したので、田園詩人たる陶淵明の本領は、まさしく、此辺に在る。
* 詩は岩波文庫『陶淵明集』で幸田露伴・漆山又四郎に随い、詩意以下は『古文真寶新釈』前集で久保天髄に聴いた。
この詩を高校に入って漢文の教科書で読みまた習ったときの新鮮な感銘を、昨日のように忘れない。云うまでもない、「菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。」「此の中に眞意有り、辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。」に、肺腑を、こよない憧れと共に衝かれた。
以降数十年、思い屈する時にも日にもこの詩句に還ろうともがいてきた。
ティロパの歌う、バグワンのかたる「マハムドラー」を、陶詩はうたっていた。「期せずして、天我契合の聖境に到達し」ていたのだ。読者はわたしの「 湖(うみ)の本」 の裏表紙に、井口哲郎さんに刻して戴いて、「帰去来」三字の印してあるのをみられるであろう。
2011 10・21 121
* 今度戴いた馬場あき子歌集『鶴かへらず』は、佳い。
一首一首に腰のねばりがあり、表現や措辞や「うた」の魅力に溢れている。馬場さんにはたくさんの歌集をもらっているが、『鶴かへらず』は読みごたえ最良の一冊の気がする。佳い歌集に出逢うのは、まこと、嬉しいものです。
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
小さな教えはおまえに
何をし、何をすべきでないかを教える それだけだ
彼らはおまえに「十戒」をあたえ「百戒」もそれ以上も用意している
「これをしろ、あれをするな」
小さな教えだ
大いなる教えはどんな掟も与えたりしない
おまえが何をするかなどに構いはしない
おまえが何で在るかに関わる
おまえの実存Being
おまえの中心Center
おまえの意識
大事なのはそれだ
ティロパは言う
「小さな教えの餌食になるな」と。
見るがいい 大勢がそれだ
* むかし、全身に小さい真っ黒いピンが刺され、痛みに追われて人は日々奔走していると愚痴を漏らしたことがある。バグワンの謂う「小さな十戒、百戒」がその「真っ黒いピン」なのではないか。 2011 10・22 121
* 西宮の歌人井上美地さん著になる「竹むきが記」私論と補遺の一冊を頂戴した。女流日記検討また紹介の歴史に『とはずがたり』に次ぐ中世日記を加えて貰ったわけで、これは、ありがたいことである。「私論」の名のとおり、今後の訂正や充実がなおなお期待されるけれど、それでも、とてもありがたいことである。書きおかれたのは相当以前だが、井上さんはわたしよりも七つばかり年長。歌誌「綱手」の編輯にも論攷とうにも元気に働かれている。南北朝乱世の「告発者」である日野名子の名を印象にとどめる好機となろう。
2011 10・22 121
* これも『古文真寶』前集。 昨日お城に行くことがあり、いま帰ってきて泣き濡れている。城内には全身お蚕づくめに綺羅を飾った人ばかり。だがあの人達はわたしのような養蚕の苦に日々まみれている人ではないと、「無名氏」の詩が遺っている。
夏の真昼時、田の草取りをすれば流れる汗は稲の根土に滴り溜まる。暢気に日々の飯を食っている人たちは、その一粒ずつが辛苦の産であると知らない。
春には一粒の粟をうえ秋には萬顆を収穫している。 四海に閑田はない。しかも農夫はなお多く餓えて死んでいる。
「農」を憫むそんな李紳の二首もあるのを、今、読んだ。
むろんそんな詩を子供の目で『古文真寶』から読み得ていたわけはない。が、その年頃に「簑きて笠きて鍬もって お百姓さんご苦労さん」と幼稚園の教室でこう歌っていたのは当然であった。しかも「今年も豊年満作で お米がたくさんとれるよう」という唄のしめくくりが、「朝から晩までお働き」とあったその「お働き」に、わたしはどうしても納得できなかった。「働いていらっしゃる」の意味であるのだろう、だが「せっせと働け」と受け取れ、むしろそうとしか受け取れなくて、なんともいえず不快であったのを忘れない。
歌詞という文藝の拙なるに過ぎまいが、わたしが推敲を自然に憶えたのは、文を「読んで」よりも、こういう歌詞を「聴いて」の感覚的な快・ 不快からであったと思い当たる。
2011 10・23 121
* 昼食のあと、だらしなくまた寝入ってしまった。自壊作用が起きているかのよう。
半日一日も早く卸しておきたい肩の荷の、まだ、どの一つも卸せぬままべんべんと日が経ってゆく。放っておけばいいという内心の声が大きくなるにつれ、日一日、心身は芯から腐蝕してゆく。ものの順序が根から間違っている。
* この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる逆らひはせぬ 湖
* 陶潛の「五柳先生傳」を愛読し、しばらく心身を労る。
2011 10・26 121
☆ 影答形 陶潛
存生不可言 生を存すること言ふ可からず、
衛生毎苦痛 生を衛(やしな)うて毎(つね)に拙きに苦しむ。
誠願游崑華 誠に崑華に游ばんことを願ふも、
然茲道絶 然として茲の道絶えん。
與子相遇來 子(し)と相ひ遇うてより來(このかた)、
未嘗異悲悦 未だ嘗て悲悦を異にせず。
憩蔭若暫乖 蔭に憩うては暫く乖(そむ)くが若(ごと)くなれども、
止日終不別 日に止まりては終(つひ)に別れず。
此同既難常 此の同(とも)にすること既に常にし雛し、
黯爾倶時滅 黯爾(あんじ)として倶時(くじ)に滅せば。
身没名亦尽 身没して名も亦た尽きなん、
念之五情熱 之を念(おも)うて五情熱す。 喜怒哀楽愛
立善有遺愛 善を立つれば遺愛有り、
胡為不自竭 胡為」(なんすれ)ぞ自ら竭(つく)さざるや。
酒云能消憂 酒は能く憂を消すと云へども、
方此 不劣 此に方(くら)ぶれば (なん)ぞ劣らざらん。
* くらくらする。
2011 10・26 121
* 高麗屋より『幸四郎的奇跡のはなし』と題した一冊を貰い、興に惹かれるまま読み進んでいる。写真もふんだんに入って、断想の構成されたものながら、それぞれに俳一句でしめくくるなど、筆者の愛着と意図とがうまく発光している。大方の話材はこっちももうよほど承知していながら、同じ話材への読みや理解にあらたな思索が加えられており、思わずおどろかされる深みがある。「伝えられた歌舞伎の魂を受け継ぎ、演劇として進化させたい」とは幸四郎丈の変わりない信念だが、進化に励んできて深化に静まりゆく役者魂を、それら断想の少ない言葉数に豊かに言い表している。それこそがこの本の立っている、またひと味新たな境地に想えて、わたしは、嬉しくなる。この新しさは、とってつけた彼の「抱き柱」とはちがう。体験に鍛えられたのはまちがいないとして、しかも松本幸四郎のこれが「個性」「才能」そして「素顔」なのだと想う。いや、素顔にまで「成って」来たのだと思う。
まだ頁は半ばだが、この感想と称讃は裏切られないであろう。
俳句づくり一層の深化、いや進化、にも心より期待したい。この十年、俳句は苦手としてきたわたしが、ときどき自分でも俳句らしきを書き散らしまた書き留めてきたのには、幸四郎俳句の刺戟が有るのでないかと自覚し、これも感謝している。
* このところ漢字に惹きつけられて、二階廊下に並べた小型本のための本棚から、國分青 閲、井土霊山選の『選註 白樂天詩集』や田森素齋・下石梅処共選の『頭註和訳 古今詩選』を抜き出して身近へうつした。ついでに大宮宗司編纂『日本辞林』や内海以直編纂『新編熟語字典』も持ち込んだ。むろん明治二年生まれの秦の祖父鶴吉が旧蔵本で、白詩集は崇分館明治四十三年の四版本、金六十五銭。辞林は明治三十五年十五版を数えている。
小児のわたしは、漢籍の中でもとりわけ『白楽天詩集』をポケットにまで入れて愛玩愛読し、今見ても、かなり本を傷めてしまっている。中学や高校時代の習作をのぞけば、わたしの処女作、「小説が書きたい書きたい」と思い詰めて初めて筆を執った作は、単行本『廬山』におさめた、今は「 湖(うみ)の本」30 に入れてある『或る折臂翁』であり、云うまでもない此の『白楽天詩集』のなかの反戦長詩「新豊折臂翁」に、強く嗾されて書いたのであった。わたしは、国民学校四年生の戦時疎開中も、いつか兵役に就かねばならぬ事を痛切に嫌っていた。すでに白楽天の此の詩を見知っていて、共感も称讃も、大学を出て就職し結婚したあとまで、少しの衰えも無しに残っていた。是が非でも「小説」が書きたい原動力になった。
なじまない、こわいお祖父さんであったけれど、一介の町民でありながら父など「学者やった」と褒め畏れた祖父の蔵書、夥しい漢籍・和本等の恩恵は、まともに、わたしに流れ込んで、今もなお生きて働いている。感謝せずにおれようか。
こころみにスキャンをと願ったが、叶わなかった。
* とめどなくなり、沢庵禅師旧鈔・森大狂参訂『老子講話』まで手元に引き寄せ、これはアタマから理詰めに読み出すのは得策でないと、自在な拾い読みを始めた。これは利く。読める。「大道廃有仁義。智慧出有大偽。六親不和有孝慈。国家昏乱有忠臣。」とある「大道廃章第十八」など、只読むだけなら何でもない、ただし『老子』はそんな、読めるので読むだけではおなしにならない。バグワンの『TAO 老子の道』上下の大冊を数度も音読してきた。その余韻を胸に鳴らしながら読んでみる。
* バルザックの大作『谷間の百合』をほんとうに久々に再読し終え、一人の文藝の天才に終始一貫胸をつかまれ揺すられつづけた。沸き返るように生まれる「ことば」で、途方もなく分厚い、緻密で華麗な、 広大な恋愛の絨毯が織り上がって行く。これこそ凄い体力と気力とで描き出す夢の恋愛絵図であり、人性の批評であり、しかも辛辣を極める。オルソーフ夫人 ダドレー夫人 ナタリー夫人 そしてオルソーフ夫人の娘マドレーヌ。よく書けている。ああ、それにしても、なんという、なんという…阿呆なフェリックスだろう。
やっぱりわたしは、宇治の大君、狭き門のアリサを聯想しながら、オルソーフ夫人アンリエットを読んでいた。
バルザックは他にも読んでいるが、この『谷間の百合』ぬきのバルザックというより、「文学や読書」ということが私にはあり得なかったなあと、しみじみ今も思う。よくしかし、これを新制中学の二年生が読んだなあと、ふと夢見心地がする。
2011 10・27 121
* もう一年二年になるか、わたしの左肩は亜脱臼でもしているかのように、ちょっと力が入ると電氣が奔るほど痛む。むかしよくした、行儀悪いはなしだが寝腹這って本を読むことが、だから、今は出来ない。肘を床や畳につけ
ば真っ直ぐ肩関節に痛みが来る。とはいえ、どんなときも読書では左手が本を持つ。右手で頁を繰る。
* バグワンは、身体の不調に受け身で苦しむより、苦痛じたいを冷静に観察するがいいとどこかで話してくれた。
誰に聞いたのだろう、解体新書の著者の一人は、晩年の日記を、体調違和の精緻なほどの記述に費やしていたそうだ。バグワンの謂うように、向き合っていた、のだろう。
プラトンの『国家』には豊富なオドロキを恵まれたが、そのトッパナで、人は健康によく生き、もし病気になれば、天然自然の意志をと受け入れ、医療のような不自然にはしらず死んで行くのがいい、といったことが語られていてのけぞるほど愕いたが、正しいとは言えないにしても一つの考え方だなあと、感嘆にちかい思いをしたのを覚えている。
2011 10・28 121
* 日記『竹むきが記」の筆者「日野名子」を語って現代歌人井上美地さんの筆致は、きびきびと足早に、あの持明院統と大覚寺統佚立のけわしさを読み切っている。南北朝対抗となると、さ
らに世は太平どころか陰惨にさえ移りゆく。名子は日野家に生まれ西園寺公宗の妻となり、その夫を後醍醐・光厳のあいつぐ重祚のどさくさに煽られ、いわば南朝の手で処刑死している。そのとき名子の腹には公宗の子が宿っていた。これが後に嗣子実俊として西園寺家を復興する。母名子の筆は、南朝・吉野朝の動静にふれては頑強に働かない、用いない。それが『竹むきが記』の態度であり個性であり特徴であり、ひいては名子日野氏の怨念ともいえるのを、井上さんの筆は随処に捉えて放さない。しかしまた、それ故にも『竹むきが記』は、南朝正閏を奉じてきた近代現代に冷視白眼視されてきたとは、かなり頷ける。
わたしの少年時代など、「 嗚呼忠臣楠氏」と謳い慣れて、正成・ 正行らはもとより、護良親王にはじまり新田・菊池・ 名和また北畠父子等にばかり目と同情が向き、足利尊氏などは憎き逆賊として、明治維新のドサクサに尊氏の肖像が冒され晒し者にもされた。わたしとて例外でない南朝贔屓だった。
だが、徐々にわたしの胸に批評のきざしが動き出すと、だれよりも後醍醐天皇への批判の気持ちが先ずあらわれ、南朝武将達のひ弱さにも目が行った。「あかんやつ」という批評がつぎつぎに胸に動いた。北朝天皇に同情と謂うことは無いなりに、井上さん
に持明院統の天子には文化度の高い人が多かったと謂われると、その通りだ伏見、花園、光厳といった人たちわたしもに知らず知らず敬意を覚えていたことが自覚された。
この本の、はっきり「 竹むきが記」を正題にしなかったのは惜しい。『我だに人のおもかげを』だけでは文献としての重みがちがってくる、いかに「乱世の告発者日野名子」と副題してあっても。惜しいと思う。しかし佳い本を世に送り出してもらえた。
* 日本史に目が向いていると、つい、その方面へ気がうごく。わたくしの「T博士」こと亡き角田文衛さん卆壽記念「御挨拶」が二通封じられてある大冊の『二条の后藤原高子 業平との恋』を読み始めた。そこはそれ角田博士の本である、徹底した史料博捜による研究成果であり、凝った美文ではないのが有り難く、ざくざく・ずいずいと読んで行ける。歯に衣きせない文章家で、爆走する大車のように精微な論証で押し進んでゆくから、途中でなかなか已められない、いっそそれが難かのように面白く読める論攷である。
高子の「あやなくの恋」についで、八人もの「平安朝の女たち」の章があり、加えて「紫式部そして清少納言」への博士のどうやら断乎たる批評が二章分用意されてある。戴いていながら、角田先生からの戴き本は大冊がたくさんあり、この面白い本、初読。分厚くて本の重いのがしんどいが、夜更かしがまた加わりそうである。 2011 10・30 121
☆ 十月尽
晩秋というにはいささか可笑しなほどに暖か、汗ばむ陽気です。
今しがたコンビニから荷物を送りました。明日には届くそうです。本で溢れている家に本を送るのは半ば済まないような奇妙な気持ちにさえなるのですが、以前メールに書いてらした「おもしろい大作『イルスの竪琴』三部作のような。『ゲド戦記』のような。ナントカの指輪とかいうのは面白いのですか。」「マキリップの竪琴のように、埋没できる面白い他界小説」というご所望に、さてなかなか難しいなあと・・・やはり当人が実際に読んでみないと分からないですね。手元にあってわたしが読んだものもありますが、全く読んでいないものも取り混ぜて梱包しました。お手にとって読み始めて面白ければ、続き物に関しては改めて手配し送ることにします。
最近のHPを見ますと、漢詩や日本の古典への関心に傾いていることと察します。藤原高子と在原業平などあまりに取り上げられてきた話ですが、角田氏の著作ではどのように書かれているのでしょうか。
家の整理やさまざまな用事があり、家族の将来に問題もあり、それでも淡々と日々を過ごしているのは歳月のなせる業かという心境です。今週後半から再び(お姑さんの=)岡崎です。
どうぞくれぐれも大切にお過ごしください。取り急ぎ 播磨の鳶
* 鳶に「イルスの竪琴」三巻の英語本をもらって、奮発して読み上げたのは、なかなかの事件であった。それほどマキリップの脇明子訳を何度も何度も愛読したといううこと。訳本は脇さんに貰ったが。そのご消息を知らない。
さて、どんな本が届くのか楽しみ。
2011 10・31 121
* 二十冊ほども、大小、摩訶不思議そうな本が播磨の鳶から送られてきた。みなそれぞれに、どうか面白く楽しめますように。
* トールキンの『指輪物語』第一部上巻が入っていた。楽しみ。 2011 11・1 122
☆ 尋隠者不遇 賈島
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知処
* 何ともいえずこの五絶が好もしい。師は非在でなく不在なのだ。だが、薬草をとりに雲深い山中に在るとしか分からない。それが懐かしい。有り難い。目をとじ美酒の盃を引くような嬉しさだ。
2011 11・1 122
* むかしふうに明治節と呼んでも、明治節にとくべつの思い出はない。「秋」という季節に分厚くどの年も埋もれていた。まだしも寒い寒い二月の紀元節には、ふしぎなほど肌身に沁みた思い出がある。町内で炊き出しの「粕汁」の香も甦る。秦の父は粕汁さえ苦手なほど酒の香に弱かったがわたしは好きだった。母の粕汁はうまかった。
もっと昔は、明治節でも紀元節でも天長節でも学校で紅白の饅頭が出たと聞いていたが、わたしのときは太平洋戦争がもう始まっていて、そういうウマイ話は覚えていない。年々に砂糖は貴重品であった。
* 明治節はともあれ、しかしわが家には「明治」の空気は残っていた。むしろ「大正」の年号のついたものが滅多に無かった。祖父も両親も叔母も「明治」生まれの人だし、例の蔵書なども、奥付はほぼ例外なく「明治」だ。たまたま今手にした東亜堂書房刊の『澤庵禅師 老子講話』は明治四十三年三月の四版で、「正価壱圓参拾銭」、初版が同年一月とあり、どれほど刷るのか、こんな難しい本が二ヶ月足らずで四版とはめざましい。秦の叔母が十歳、父は十二、母は九歳。間違いなく祖父の蔵書である。祖父秦鶴吉は明治二年に生まれていた。
文友堂書店蔵版の『頭註話訳 古今詩選』は明治四十二年師走の初版本で「正価金五拾銭」。奥付のあとへ版元文友堂の発行書目がついていて、もちろん宣伝文が付いている。わたしは、それらを読むのも好きである。『三字経國字解』『抄註 平家物語』『ポケット日本外史論文講義』や白隠禅師の『夜船閑話』もある。『傑作小説 手紙大観』の売り言葉など、「拝啓 読者各位に申上げたき事御座候」と始まり長々と功徳を述べ立てているすべて「候文」の手紙仕立てだからおもしろい。
おそらく大正時代の刊本となれば、よほど様子がちがうだろうが、つまり祖父も父も大正時代になると「本」を買わなかった、読まなかったようである。
2011 11・3 122
* 「鳶」さんの送ってくれたたくさんな本は、わたしの望みでもあったが、皆、幻想的なフィクション。いわゆる、ファンタジイ。中でも、念頭にあったためか、浩瀚な三部作で知られている『指輪物語』第一部上巻に、もうずぶと入り込んでいる。久しく繰り返し熱愛してきた『ゲド戦記』や『イルスの竪琴』の先駆作のように想像される導入のようで、懐かしみを感じる。大冊なので。外出時にも持ち歩ける文庫本でも気に入りを見つけておきたい。
『ライラの冒険』など、文庫本が六、七冊も送ってもらった荷に入っていた。ライラの『黄金の羅針盤』から読み出すだろう。
ル・グゥインの『ゲド戦記』には、明らかにバグワンの講話と通底する深い宗教性があってわたしを揺るぎなく引き付けるし、マキリップの長篇にも独特の世界観とともにそれがあり、ともに「他界」の魅惑に溢れている。『指輪物語』からもそうした深さや懐かしさが汲み取れるのを期待する。
最近ではよく『ハリーポッター』というのを耳にしていたが、知らない。原作も読まずに映画を観るのは遠慮した。だれだかの解説の中に、「ハリーポッター」と『ゲド戦記』とは両極の位置関係、としてあった。両極の意味は不明だが、あれほど『ゲド戦記』に心酔してきたのだから、「ハリーポッター」は喰わず嫌いに終わるのかも知れない。わたしが「他界」度の豊かな幻想的なフイクションに求めるのは、不壊の値で惹きつける、宗教性の豊かな「死生観」。
当分の間、「鳶」さんからの本を堪能するほど楽しませてもらう。むろん、毎日の読書のその上に、である。
源氏物語は、長篇「若菜」巻の下を。栄花物語は「御堂」道長の栄華の極みを。チェーホフは、チェホーシャからチェーホフへ飛躍してゆく時期の諸短篇を。ジャン・クリストフは、妻と離別してきたオリヴィエの再生がいましも語られている。瀟洒な、苦みにも富んだフランス現代文学、パトリック、モディアノ作の『ある青春』も軽妙に佳境を辿っている。
他方、北朝の意地に生き抜いた名子日野氏の『竹むきが記』を論じる歌人井上美地さんの追究も深まり、角田文衛博士の平安女性像彫琢も、当然のこと、たっぷり読み応えがする。さらに加えて、東大上野千鶴子教授に「挑む」門弟方の社会学も、我ながら地道に飽かず読み進めている。
高麗屋の手記はおもしろく興深く読了し、大西巨人さんの詞華集は「二度め読み」を楽しんでいる。
そしてバグワン。機械の前へ来れば、陶淵明や白楽天や『古文真寶』『老子講話』が疲れを癒やしてくれる。気の乗った読書とは、えもいわれぬ「美味」そのものである。幸い手近に美酒もある。
2011 11・3 122
* 送ってもらった本は、ほんとに沢山あり、残りも点検してみると、どれも面白そうで、しかも此の世ならぬ不思議の雰囲気に満ちあふれている。表紙カバー繪など刺激が強すぎるので、とり外して、心温和しく馴染みたい。わたしは、ル・グゥイン作こそかなりの数読みあさってきたけれど、必ずしもこの傾向の他の書き手のファンタジイには出会っていないし、特に探し求めたこともないが、さすが「鳶」さんの渉猟は広く深そうで感心している。数冊も併行して読みたいほどだが、さしあたりトールキンの『指輪物語』と、「ライラの冒険」とに絞って、もう引き込まれている。
2011 11・4 122
* 野田という新総理には、このひとが早く早くに党代表選に名乗りを上げた頃から、へんにウサンくさい不信感がぬぐえなかった。なにごとであれ、無表情に時に鉄面皮にゴリ押しして行きそうに想えたからだが、「脱原発」から逆行の舵とりが早くもみえてきたし、米国への追随も平気で進行させそうで、菅総理にはむしろありえなかったような、保守的で財務主導の政権維持と官僚支配のためなら、黙々のうちに何でも既成事実化して行く懼れが、すでに露わになっている。自民政権へ逆流して行くにひとしいのをわたしは危惧する。
ほとほと、イヤになる。
劉程之の信に酬いた陶潛の、こんな詩を、想ってしまう。フクザツである。ハイキングでもしたい。
窮居して人用 寡く、
時に四運の周るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已に秋を知る。
新葵 北 に鬱として、
嘉 南疇に養はる。
今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不やを知らんや。
室に命じて童弱を携へしめ、
良日 遠游に登らん。
* ロマン・ロランはときどき作中に、ギョッとすることを書き込んでいる。「幸福とは、自分の限界を知って、それらの限界をいつくしむこと」とか。
こんな風にも、女と男に対話させている。
「……女の人たちはあまり幸福でないのですわ。一人の女であることはむつかしいことなのですわ。それは一人の男であることよりも、ずっとむつかしいことなのですわ。このことが、男のあなた方に、よくお解りにならないのです。あなたがたは一つの精神的情熱や一つの活動に熱中することがおできになります。あなた方は生活の一部分を全体から引き離して部分的な熱中をしても、それによって却って一層幸福であることもできます。健全な女はそんなふうに生きれば必ず心が苦しいのです。自分自身の一部分を窒息させる
ことは人間らしいことではありません。私たち女は、何か或る一つの仕方によって幸福なときには、それとは別な仕方が恋しくてたまらないのです。私たち女は複数の魂をもっています。男のあなた方は、魂をたった一つしかもっていらっしゃらず、その魂は私たちのより逞しいのですけれど、ときどき残酷で、非道でさえもあります。私は男のあなた方に感心いたします。けれど、あんまり利己主義でありすぎないようにしていただきたいのです! あなた方はずいぶん利己主義で、そしてご自分ではそのことに気づいていらっしゃらない。あなた方は女のあたし達にずいぶん悲しみをお与えになる。そしてそのことに気づいていらっしゃらない」
「仕様のないことです。それは私たち男の咎ではありません」
「ええ、それはあなた方男の人々の咎ではありませんわ、したしいクりストフ。それは男の咎でも、女の咎でもありません。結局のところ人が生きるということは、簡単なことではありませんわね。自然な生き方をするほかはないとよく人々は言いますね。でも、 自然なとはどういうことなのでしょう?」
そして、こんなことを言う、「愛が原因で心にできた傷を直す唯一の良薬は愛だ。しかし愛は、最も良く愛する人々でさえも無尽蔵にもっているわけではない。その貯蔵には限度がある」と。
また、「不幸が、愛し合っている心と心とを引き離すのはたびたびあることだ。不幸は、生きようとする人々を一方へ、死のうとする人を他方へ分類する。生のこの恐るべき法則は愛よりも強い!」とも。
* もっと「凄い」こともロランは敢然と言ってのけており、迂闊には此処にあげられない。世の中には、かるはずみに生きている大勢があまりに多くて、わたしも例外にはいないのだ。こわいことだ。
2011 11・4 122
* 井上美地さんの『竹むきが記』私論を、読了。「言を左右せず 一路の追究と論証とをほぼ正確に成し遂げて みごと」と、或る文学賞に推した。一歌人の永きにわたる関心の果たしえた希有の追尋は、また真摯で誠実で、 読書を楽しませてもらった。
* この歳になるまで実感しなかった『古文真寶新釈』の、かくも嘆賞にたえた読み物とは。
* トールキン『指輪物語』第一部の上巻にひきこまれている、版元の評論社で全巻を求めようか、期待に応えてくれると嬉しいが。いい予感はある。
フィリップ・プルマンのシリーズらしい「ライラの冒険」は、『黄金の羅針盤』上巻を読んでいる。並行世界を書いているが、まだ海の物とも山の物ともわからない。それよりもラルフ・イーザウの『ネシャン・サーガ 1』の方へどんどん入ってゆけそう。
* 向きはまるでちがうが、隣棟から、清水書院刊・星野慎一著、『人と思想 ゲーテ』と、 城山三郎の『小説 日本銀行』とを手近へ持ってきた。満足できるかどうかは読んでみないと分からない。城山のは、昭和四十六年刊、日本銀行があまりに「古い」かも。
2011 11・5 122
* じわじわと頭痛。体疲労。着替えて、傘をさして能楽堂へむかう元気が無く、。
* しばらく陶淵明集を耽読。まさる妙薬なし。
床に就いて、読書。睡る方がいいのだが。
2011 11・6 122
* 亡き門脇照男の遺作となった『狐火』『誕生日小景』二作を「 e-文藝館= 湖(umi)」に「招待」、スキャン原稿を校正してから掲示する。門脇作を、よく選んで都合五作を「 e-文藝館= 湖(umi)」に遺し置くことが出来る。縁あって此処で読んで下さる新たな読者と門脇作とが深切に出会いますように。私小説の顔をしているが、手練れのフィクションである。
これも亡くなった、三原誠の遺作も、なかんづく秀作を三つすでに掲載してあるが、記念・記憶に値するもう二、三作もぜひ遺しておきたい。いずれも凡百の書き手ではなかった。敬愛失せない。 2011 11・6 122
* 気が付くと、明け方の四時過ぎ。朝刊を配るバイクの音がしていた。夜前に、あのデビッド・リーンの名作映画「戦場に架ける橋」 に見入っていた。アレック・ギネス畢生の代表作だろうか、早川雪州もウイリフム・ホールデンもいい仕事で、弛みない劇的な劇映画、画面に「説明」がまじらず全てが繪として表現されていた。もう四度も五度も観てきたのに、面白かった。懐かしくもあった。
それから床に就いて本を読み始めた。十五冊。どれも面白い。案の定、角田博士の平安時代の「女」論攷が読ませる。
光源氏は、若い柏木を、ほとんど睨み殺してしまった。
おしまいにファンタジーを四種類、次々に。最後はトールキンの『指輪物語』、数百頁の大冊のもう頁は残り惜しくなっているのに読みやめられない。大冊がもう五冊つづくらしいが、その五冊は、明日明後日にもどこか街の書店へ買いに行かねばならない、あるいは図書館に借りに行かねば。
* なんとか指輪五十頁ほど残して読みやめたあと、「 湖(うみ)の本」 新刊の三校ゲラを読んだが、これもなかなかやめられず、四時過ぎと分かり、渋々電氣を消した。
明日、あとがきの再校が届く。全体の責了は間近い。ただし発送用意はまだ用事が残っている。二十五日金曜から送りだせる予定。
* 読み書き算盤と、よく子供の昔聞いた。算盤はダメだが、結局「読み」と「書き」の一生になった、願ったまま。それも終盤。「柿の木に柿の実が生りそれでよし」。それ、「神釈」か。
老少同一死 老少同じく一死、
賢愚無復数 賢愚また数ふる無けん。
日酔或能忘 日に酔うて或は能く忘るれども、
将非促齢具 はた齢を促(つづ)むるの具に非ずや。
甚念傷吾生 いたく念ふ吾が生を傷ましむることを、
正宜委運去 まさに宜しく運に委ね去るべし。
縦浪大化中 大化の中に縦浪として、
不喜亦不懼 喜ばず亦た懼れず。
應盡便須盡 盡くべくんば便(すなは)ち須(すべから)く盡くべし、
無復獨多慮 また獨り多慮すること無かれ。
2011 11・9 122
* 大宮宗司という人の編纂になる東京博文館蔵版の『日本辭林』は文庫本より小さい、しかし六百数十頁もある。「文典大意」や「冠詞一覧」付の周到な一冊で、なんと「紀元二千五百五十三年三月廿五日のつとめて」に書かれた「緒言」も持っている。「明治廿六年三月三十日印刷出版」で、いまわたしの手にしている本は、同三十四年三月の「十四版」本。もうとうに九十六歳で亡くなった秦の母の生まれ年の本である。
いまもって耳慣れない、つまり私の知らないまま来た「辞」「語」が無数に説明されていて、見飽きない。「ひじり」とは云うてきたが「聖、 佛、僧になる」 意味で動詞の、「ひじる」とは、迂闊にも読んだり書いたりした覚えがない。こわかった秦の祖父鶴吉の遺産と思うと、いまごろ、 自然に頭がさがる。
機械を使っていると、隙間のように訪れる「待ち時間」がいろいろ有る。そんなときわたしはこういう大昔の本を、ちらちらと読んでいる。巻末の広告も近刊予告なども楽しんでいる。ミステリアスな不似合いに相違ないが、恰好の時間利用でもあるのが可笑しい。
* トールキン作『指輪物語』第一部「旅の仲間」前半を読み終えた。序章のように、前に出ていた「ホビット紹介」も読んだ。
大変な大冊であるが、ものともせず、まさに旅、それも言語道断な危険から逃走の「旅」の描写を書き尽くし
て、しかも渋滞なく読ませてしまう。筆致は叮嚀で風格に富み、雅趣にさえ富んでいる。表現は具体的で観念や説明に堕していないのが佳い。しかしまた此処までではまだ事変は危険に満ちてかつ序の口であり、この今後を読まないというワケに行かない。播磨の「鳶」さんの手元につづきが在るなら拝借してでも読みたく、無いなら何処かで借りてでも買ってでも手に入れたい。ファンタジイがただのおはなしならこのまま抛ってもいいが、そうは思われない強い誘いを覚える。「鳶」さんに、申し訳ないが問い合わせている。
2011 11・10 122
* 播磨から送ってもらった文庫本『指輪物語』は何冊あるものか、生憎わたしたちの留守に届いたらしく、残念。
* 永く身のそばを放さない一冊に手が伸びた。大学で、非常勤の講師先生に習ったとき、教科書として買った創元社刊、澤瀉久孝・佐伯梅友共著『新校萬葉集』一冊で、奥書も付いて、四三一六首ぜんぶ収録されている。読みがきちんとふりがなしてあり、正確に番号もふられてあり、ありがたい実に便利なハンディな一冊。表紙がちぎれそうなほど愛用してきたのも、ガムテープで抑えてある。専攻の原書はべつとして、大学の教室で用いた本で手元にのこった只一冊。
いくつも爪ジルシのついた歌があちこちにある。たまたま開いた頁には、「正述心緒」のこんなのが、 有る。
面忘 何有人之 為物焉 言者為金津 継手志念者 (二五三三)
おもわすれ いかなるひとの するものぞ
われはしかねつ つぎてしおもへば
「言」の字が「われ」と読んである。漢詩でも、古詩には何度もそう用いられている。
萬葉集は、底知れぬ、日本語と真情との「宝庫」だと思ってきた。
☆ 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可禰都 鳥爾之安良禰婆 (八九三)
よのなかを うしとやさしと おもへども
とびたちかねつ とりにしあらねば
* まことや。
2011 11・11 122
* 無事に『指輪物語』文庫本九冊 今日頂戴。感謝。 鴉
昨日の夕過ぎに届いていたのですが、雨の中、留守にしていました。
おかげで、引き続いて読めます。訳もよく、楽しめます。ファンタジイに没頭していると、ますます世離れて行きそうですが、わるくは思いません。
ぜんたいに、いま、心身活気が無く、本にも誘惑され、ともすると横になって読んでいます。睡魔も容赦なく襲います。
萬里路長在 六年今始帰 所経多旧館 大半主人非 白居易
当時歌舞地 不説艸離離 今日歌舞盡 満園秋露垂 無名氏
ついこういう詩に目が留まります。秋心ですかね。
バグワンは言ってくれます。じっと聴いています。
おまえは内なるものへと足を踏み入れなくてはいけない
現実リアリティはそこにある
おまえはもっともっと深く
おまえの実存の深みへ降りて行かなくてはならない
それが何であれ自分がいまいる場所を
いまの自分を
そして自分に起こっていることのすべてを受け容れてごらん
それではじめて
おまえは「ゆったりと自然に」なれる
さもなければそれは空念仏にしかすぎない
無理をしたり
自分の実存の中に緊張をつくろうとしたりしないこと
リラックスだ
ゆったりと自然にしていれば
間もなくおまえは
存在とのオーガズミックな絶頂( マハムドラー) に至るだろう
それはおまえに起こるのだ
達成できるものじゃない
それに手を伸ばすことはできない
それのほうがおまえのところへやって来るのだ
おまえはただ受け身で
ゆったりと自然にして
そして、しかるべきときを待つことができるだけだ
何ごとにもその時機というものがある
それはその時機に起こる
なんで急ぐ?
それはおまえに用意のできたとき不意にやってくる
足音さえ聞こえない
突然来る
おまえにはそれが来ていることさえもわからない
それが花開くと
突然、おまえはその開花を見
芳香に満たされる
2011 11・12 122
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
「おまえの心」は
ちょうど曇り空みたいなものだ
雲が動く
雲は、うしろに隠された空が見えなくなるほど厚くもなれる
空の巨きな青さが失われ
おまえは雲に覆われる
そんなときでも,じっと見守り続けてごらん
ひとつの雲が動くーー
ほかの雲はまだ視界にはいって釆ないーー
すると突然
巨大な空の青さがのぞく
同じことがおまえの内側でも起こる
おまえは空のその巨きな青さだ
そして思考はちょうど雲のように
おまえのまわりを徘徊し
おまえをいっぱいにする
だが、切れ目は存在する
まぎれもなく存在する
その切れ目の空を一瞥することを 〈さとり〉と謂う
そしてその〈さとり〉の空になりきってしまうのが〈サマーディ 三昧・絶対の覚醒境〉だ
(さとり〉から〈サマーディ〉まで
そのプロセスの一切は心への深い内観ーー
それに尽きる
心は一個の実在として存在しはしない
これがまず、ひとつ
ただ思考が存在するだけだ
ふたつめは
その思考というものがおまえと離れて存在するということ
れれはおまえの本性とひとつであるのじゃない
彼らはのべつ往き来する
が,おまえはとどまる
おまえは持続する
おまえは無垢で不動の青空のようなものーー
決して来たらず,また去りもしない
それはつねに今・ 此処にある
雲とおなじ、 思考たちは来ては,また去って行く
雲も思考もみな一時の現象だ
永遠じゃない
来ても去らないわけにいかないのだ
屋考はおまえのものじゃない
おまえに属するものじゃない
たんに訪問客として訪れる
ゲストだ
しかし彼らはあるじじゃない
深く見つめてごらん
そうすればおまえがあるじだと知れる
思考はお客だ
お客としてならば,彼らは素晴らしい
だが,もしおまえが自分が主人であることを完全に忘れて
かわりに雲のように去来する思考があるじになってしまおうなら
そのときおまえは混乱におちいる
それが地獄というものだ
おまえがく家〉のあるじなのだ!
その〈家〉はおまえのものだ!
それなのに,お客が主人になってしまった
お客を受け容れ,面倒を見るのはいい
彼らといっしょくたになってしまっては駄目だ
心が難問となるのは
おまえが思考というものをあまりにも内面深く取り込んでしまい
彼らは訪問者であって
来てもまた去るのだというその距離を完全に忘れてしまうからだ
つまり同一化ーーそれは病気だ
必要なのは、 一つ
来てもまた去ってしまうものと同化しないことだけだ
2011 11・14 122
* 久間氏にもらった『黄金特急』もあまり楽しまなかったが、半世紀以上も早い戦後の『小説 日本銀行』も、甚だ楽しまない。こういう世界に、疎いと謂うより肌が合わない、合わなさ過ぎる。それ以上云う必要がない。
2011 11・15 122
☆ 招東鄰 白楽天
小 二升酒 新簟六尺牀 能來夜話否 池畔欲秋凉
* 上の詩、「拝啓」とでも前書すればよい。「お隣りさん、話しにいらっしゃいませんか」と。
☆ 池窓 白楽天
池晩蓮芳謝 窓秋竹意深 更無人作伴 唯対一張琴
* 謝は、散るの意。「だれも訪れ来ない」のである。わたしには…。読める書物あり、こうして「日乗」もできる。
2011 11・16 122
* トールキンの『指輪物語』は、「古典」の域に在る。『ゲド戦記』のような死生観にまつわるフィロソフィーを書いてはいない。が、生き物を支配する大自然の神秘的な凄みを書きに書いて「神話」のように超自然的に、しかも遺憾なくリアルに読ませる。夜更けて読み始めてやめられない。三時になり四時になり五時になる。手洗いに立ち、もう寝ようと思って床に戻っても、目は冴え、また読み継がせてしまう。いい意味の魔の仕業のようである。
そういう読書に出逢えるのは、至福といわねばならぬ。『指輪物語』に比べると、他の、今回「鳶」に貰ったどのファンタジイも、読み物の域を出ないようだ。
2011 11・17 122
* 六条院の晴れやかな源氏栄華は、長大な「若菜」上下巻を経て、「柏木」の死、遺族の悲歎、夕霧の不審と友情、源氏や女三宮らそれぞれの哀感に浸されている。薄ら寒いかなしみの風に巻かれている。みごとな長篇の運び。幾たび読み返しても引きこまれて行く。
匹敵する長篇でも、『指輪物語』の運びは、源氏物語の写実やリアリズムとはよほど異なっている。事件はむろん在る、が、無いにもひとしいほどに主人公達の危うい逃避行は、広大無辺の世界の広さ深さに、その精緻な描写と叙述とに、ほとんど呑み込まれている。世界が主人公。ホビットやエルフやドワーフや魔法使いや野伏たち一行は、地を這う蟻のよう。しかも惻々として底知れぬ危険や悪意にかれらは追い捲られている。傷つけられている。かれらの旅がどこまで続くのか、長大な三部物語のまだわたしは第一部後半を読んでいる。
そんなわたしを今も現実として脅かし歎かせ暗い憂慮にとり包んでくるのは、日本列島に浸潤し続ける「原発爆発による放射能被害の果てしなさ」が、第一。比較すれば国会も政治も外交も、うそのように煙と化してただようだけだ、古人が「わがことにあらず」と政治や武力の無力をつっぱねた感懐は、こういう頼りなさへのいらだちでもあったのか。
☆ 夜雨 白楽天
早蛩啼いてまた歇み
残燈滅えんとして明し。
窓を隔て夜雨を知れば
芭蕉の まづ聲をあぐ。
☆ 晩秋閑居 白楽天
地は僻なり門深く送迎少し
衣を披き閑坐し幽情を養う。
秋庭掃はず藤杖を携えて
閑 梧桐黄葉を みて行く。
* ついつい、かようの感懐にこころを寄せる。それでいて目の前の仕事の山を確実に低めて行く。楽しみは就寝まえの読書。
2011 11・19 122
* むかし淡交社の呉れた『原色茶道大辞典』は愛読書の一冊で、見開き二頁に、多い場合五つほども原色写真が出ている、 その記事を読んで行くだけで、なんとも趣味のいい楽しみになる。
「昨夢軒」などと茶席もある。
染井吉野、山椿あるいは桜鏡など花の写真や花生も観られる。
「櫻川釜」などと釜の写真も、むろん名碗や墨跡や菓子・干菓子の写真も出ているから見飽きることがない。
辞典を読むなど索漠とした印象のようで、これは少しもそうでない。じつに珍しい物にも出会える。
今は圓能齋好みの「猿臂棚」を観ていた。客付のハシラ一本に竹が用いられ、弓張りの透かしがあって、運び水指が入る。中棚に薄茶器、天板に羽帚と香合、あるいは柄杓と蓋置を莊る。
大振りな時代ものの源氏車蒔絵平棗を莊ってみたい。水指にはいまも毎日観ている華麗な竹泉造祥瑞の捻がそのままぴったりだろう。そういう想像も楽しめる
2011 11・20 122
* 就寝前の読書のトリは、ずうっとこのところトールキンの『指輪物語』で、第一部の下の②を読み上げてしまった。一度は寝に就いたのに夜中手洗いに立ったあと続きを読み始めて文庫本の四冊めを読み上げてしまったのだ、品質の高い読書になっていて、一字一句も疎かにできず「読まされ」る嬉しさがある。さすがにファンタジィの大古典。優れて文学の品位に富み、的確な把握と表現の力づよさに心身を捉えられてゆく魅惑。物語の筋書きに惹かれるより遙かにつよく「文学の表現力とその透明度」に惹かれる。
* 寒いとさえ。睡く、疲れている。体疲労か、気疲れか。
* 『上野千鶴子(=教授)に(=門下生たちが理論に於いて)挑む』大冊をわたしはたゆみなく、少しずつ、朱いペン片手に読み継いでいる。社会学のなかでも謂わば「上野社会学」に議論は限定されているのは当然として、上野さんから刊行のつど頂いて単行本や新書本を耽読で読んでも、門外漢のかなしさ理解の届きかねる場合が幾らも在ったけれど、この本では総合的に主題を一つ一つまたは複合的に連絡のとれた仕方で、学問としての問題点や主張や議論の長短が汲み取れる。それが大いに有り難くまた面白くて、ねばり強く本気で読み継いでいる。むろん議題は学問的なものだが、自然と「上野千鶴子」という学者ないし人の像が立ってくる、それが有り難い。
それにしても本が真っ朱になっていて、部分的にもスキャンして見なおすことが出来ない。
わたしの読書の悪癖に類するのかも知れないが、佳い本、面白い本ほど、いっぱい朱い線が引かれ、さらに黒い線がまた重ねられて、三読四読にかなり差し支える。なるべくそれをやらぬようにしようとしながら、今も『ゲーテ 人と思想』を夢中で読み進みながら朱ペンを手にしたくて堪らない。人生の師表という意味になると、わたしは「ゲーテ」そして「バグワン」を躊躇わず挙げたくなる。
☆ 陶潛詩
嗟(ああ) われ小子
(こ)の固陋を稟(う)けつ
徂年 すでに流れ
業は舊に増さらず
彼を志して舎(す)てず
此に安んじ 日に富む
我 之れ 懐(おも)ふ
怛焉(たつえん)として内に疚(やま)し
2011 11・21 122
* ゲーテの生家は今ではドイツ名物の一つだと星野慎一著、人と思想『ゲーテ』に聴いた。いま、「日本」名物の一つとして列島中の日本人が意識しているそんな或る「一人」の「生家」が、有るだろうか。
星野氏の叙述に聴いておく。深夜に読んでいてわたしは胸にせまるものを熱く感じていた。
☆ ゲーテの生家は一七三一年に父方祖母が買い取って移った家で、祖母の死後改築された。ゲーテの父は一七八二年五月七二歳で没した。父の没後一三年間ゲーテの母が一人で住んでいた。だがようやく老境に入った彼女は大きな家を一人では持てあまし、息子ゲーテと相談した結果、息子のすすめに従い一七九五年七月人手に売りわたした。今日風に言うならば、広い家を売り払って便利なマンションに移ったようなものである。家具類はいっさい競売に付された。ゲーテの父が長年かかって蒐集した書籍や絵画のた
ぐいも四散した。
ゲーテの生家はレーシング家の所有となった。ところがゲーテの文名があがるにつれて、文豪の生家を一目見ようとして訪れる人びとが年々外国からもあとをたたなくなり、困りはてた同家はしまいに受付の訪問帳までおく始末になったが、その後腐朽がひどくなり、一八六〇年ころには改築の必要に迫られ、原形を保つことが困難な状態に立ちいたった。これをきいたオットー= フォーゲラーは、とりあえず私財を投じてゲーテの生家を買い取り、広く募金をして復旧につとめた。単に原形をとどめるばかりでなく、ゲーテ家の昔の家具、書籍、絵画類をもできるだけ買いもどそうとする運動の端緒がここに始まったのである。
オットー=フォーゲラーは一八五九年フランクフルトに「ドイツ自由中央研究所」(Das Freie Deutsche Hochstift)という一種の民間の総合文化研究所を独力で創設した人である。ドイツの科学研究所は一七世紀中葉以来すべて王侯によって設立されたものばかりであったのにたいして、これは初めての民間の機関であり、かつ封建的な枠をとりはらった、自由な、全ドイツの総合的視野に立ったものであった。当時にあっては全く斬新な卓見と言わねばならない。彼のおかげでゲーテの生家は研究所の財産となり、今日のように公開されるにいたったのである。
一九二五年一〇月、オットー=ホイア一教授のあとをついでエルソスト= ボイトラーがDas Freie Deutsche Hochhstift の三代目の所長となり、一九六〇年病いに倒れるまでその職にあった。彼はゲーテの生家を今日の形にとりもどすためにあらゆる困難な努力をかたむけたばかりでなく、第二次大戦における危険を天才的に予感し、開戦前にいち早く家具いっさいを疎開させたばかりでなく、万一の日の再建にそなえて、あらかじめ建築物その他の寸法を精密に記録させておいたのである。一九四四年三月二二日の深夜ーー奇しくもその日はゲーテの命日であったがーー烈しい空襲によってフランクフルトの旧市街とともにゲーテの生家も記念館も跡方もなく壊滅したのである。今日世界の人たちがゲーテの生家をまのあたり見ることができるのは、まったくエルンスト= ボイトラーの功績であると言ってよい。戦後あらゆる苦難な条件のなかでフランクフルト市会が、「ゲーテ・ハウス」再建を復興事業第一番の仕事として議決したという小さな新聞報道を、私(星野慎一氏)は今もあざやかに記憶している。
* ただに家屋が完璧に再建されたのでなく、第二次大戦の惨害さなかにも、ゲーテの当時の家具調度や美術品等までがほぼ万全に保存された。後生にそれまでの動機を遺したのは、ゲーテの人と思想と、とりわけ偉大な世界文学であった。ドイツは、ゲーテを魂の太い支柱とも敬愛しているということ。
もとよりわたしはソ連時代のソ連をソ連作家連盟の招待で訪問したおりに、トルストイやドストエフスキーやチェーホフらの遺蹟を何カ所も訪れ、保存のこまやかさに感動したし、中共中国を作家代表団として公式に訪問したときにも、魯迅や孫文の故居に案内されていたが、それが国と国民との「名物」的な魂の支柱とまでは思わなかった。
日本にも作家を記念した文学館や生家は多く存在するが、ドイツにおけるゲーテへの思いとはやはり径庭がある。
ゲーテは「ドイツ人の富士山」のような讃仰の存在なのだ。匹敵するのは英国のシェイクスピアしかいないだろう。
* 星野氏は、一九四五年、ドイツが全面降伏した翌月六月初旬にアメリカの国会図書館でトーマス・マンのした講演「ドイツとドイツ人」に触れ。マンが、ドイツ的な特色をもっともよく表した三人として「ルター、ゲーテ、ビスマルク」を挙げたと叙している。 「ドイツ人的性格のなかでもっともきわだっているのは、音楽的なことと、ロマン主義的なことである。そしてこの二つの傾向は、ドイツ人の著名な本質である「内向性」と深い結びつきを持っている。ドイツ民族は世界の文化にたいしてたくさんのかがやかしい貢献を果たしながら、一面においてたび重なる戦争を引きおこしては大きな迷惑をかけてきた。そのこと自身がドイツ的性格と深いかかわりがあると、トーマス=マンは見ている」と。
この「迷惑」云々に関して、マンも星野氏も、宗教家マルティン・ルターと政治家ビスマルクとをあげ、対照的に文学者ゲーテの偉大さをそうした点の少しもない健全な世界性に認めて、称讃している。
ビスマルクは措いて、今はルターについて書いて置くが、星野氏は書いている、「マルチィン= ルターは言うまでもなくドイツ的本質を具現した偉大な人間像である。彼は宗教改革を遂行し、聖書の翻訳によって現代ドイツ語の基礎をきずいた。信仰のみが神の恩寵にあづかる唯一の道であると説いて、スコラ哲学のわずらわしい束縛から人びとを解放した。良心を神に直結することにより、研究、批判、哲学的思索等の自由を、飛躍的に拡大した。彼の偉大さにたいしてトーマス=マンはいささかの異議もさしはさむつもりはない。にもかかわらず、マンはルターが好きになれない。なぜなら、ルターにはドイツ的長所と欠点が同居しており、その恐しい欠点の面がドイツ人の歴史の上にくりかえしあらわれ、禍いをふりまいたからである」と。
トーマス・マンのルター批判は、ゲーテの抱いていた痛切なルター批判に根ざしていた。それはわたしのルターへの関心にも強く響いて頗る興味深いが、今は、 これ以上に及ぼさない。ゲーテの眞の「師表」性をおおよそ示唆できうれば足るとしよう。
* そして、バグワン。バグワンに聴いて深く頷いたことのたくさんあるなかで、彼が人それぞれ「内奥無比」の「実存」の本質を「鏡」に譬えて、「それは何であれその前に来るものすべてを映し出す」と示唆してくれ、
「病いがやってくる あるいは健康がーー 空腹や満足 夏や冬 幼年期に老年 生と死 そこに起こることがなんであれ それは鏡の前で起こるのだ 決して鏡そのものに起こるんじゃない 鏡はそこで起こっている何事とも同化・同一化しない」
と云いきって呉れたのは、とりわけ肯きやすかった。嬉しかった。
☆ バグワンにもう少し聴こう。
ものごとはやって来ては過ぎて行く
鏡は無垢で からっぽで 空のままだ
これがティロパの謂う無自己だ 鏡には同化されるような自己 夢でしかない自己は、無い
これはきれいだのあれは汚いだのと言いはしない
鏡は映すだけ
解釈したりはしない
鏡は何も言わない ただ見守って映すだけ
鈍な区別も差別もなくーー友であれ敵であれ
そうだ鏡にはなんの過去も未来もない にんの選択もない
鏡は選択しない
2011 11・23 122
* いま、就寝前に十四冊の本を読んでいる中で、重い本なのに手に取るとなかなか置けないのが、角田文衛先生の「平安時代の女たち」を精微に論攷された記念の論文集。きのうまで、歴代皇妃のうち最も華麗に多幸であったといわれる「建春門院滋子平氏」の生涯を読んでいた。後白河院は、頽廃には陥ることのないしかし好色の帝王であったが、上西門院に仕えていた滋子平氏を知って以降、他に人なきがごとく滋子を鍾愛され、熊野詣でにも、はては厳島詣でにも、さらには有馬温泉への湯治にまでも同行、女院の亡くなるまで行幸また御幸をともにされたこと数限りなかった。よほど美しく、それ以上に聡明で気概にも恵まれたすばらしい国母であった。高倉天皇の母女院への孝行もうるわしかった。定家卿の姉・建寿御前= 建春門院中納言の日記『たまきはる』はさながら女院滋子の讃美歌かと思われるほど、ありありと、生き生きと、この高倉母后の輝く魅力を後生に語り伝えて光っている。『建礼門院右京大夫集』の死なれた哀しみに満ちあふれているのと大違いである。
建礼門院は高倉天皇の中宮であり、母后からは姪に当たっている。この悲運の女院の姿は、小説『風の奏で』に、かなり生き生きと書けたとわたしは自負している。
わたしが、もともと後白河院に深い深い関心や親愛感を持っていたことは、「仕事」が証明している、『女文化の終焉』『初恋・雲居寺跡』『風の奏で』『冬祭り』『梁塵秘抄』そして『千載集』そしてまた「中世の源流」論など。この、 鎌倉の頼朝には稀代の大天狗とみえた後白河法皇は、いまの三十三間堂の一帯を広大に占めた法住寺御所にかなり多く起居され、まぢかに、信仰の余り迎えられた新日吉社も今熊野社も今なお在る。平家といえば六波羅だが、法皇や女院の生活された御所や神社と六波羅とは、ごく親密な地縁にあった。
言うまでもなく、そうした地域の一帯全体がまたわたくしの育った京の東山の中心地区であった。国史好きに育ったわたしの後白河や平氏に関心の深まるのは、はなから約束されていたようなものだった。
* まさしく同じその東山一帯の空気をもう一度現代の目で書き取ってみたいのが、さしあたり今わたしの重い課題になっている。果たせるかどうか、ぜひ果たしたい。
2011 11・24 122
* 夜前もやはり角田先生「三条院」の論攷が興味深かった。この女院は鳥羽院の内親王、後白河院の異母妹であり、後白河皇子である二条天皇の中宮でもあった。早くに落飾された薄幸かつ数奇な生涯だった。
この尼女院は、あの入道信西の子で海内一の能説( 説経上手) を謳われた大僧正澄憲の子を生まれ、さらに二人目の出産に際し不幸に産褥で亡くなっていた。公式には腹の腫瘍と烈しい下痢でといわれているが、真相は「知らぬ者のない」公然の秘密と、三条院につねに伺候し近侍していた九条兼実は日記『玉葉』に書いている。
角田先生の学風は「人」において特色あり、それは近世学の森銑三先生の広大な探索に、結果として類似しているのかも知れない。この「人」好きは、わたしにも。
もう往年というしかないが、小学館の編集者に、浩瀚な「人物日本の歴史」の企劃を勧め、多数の史上人物の選定にも協力し、自分でも佐々木道誉、山名宗全を担当して書いた。この「わたしの好み」に角田博士も森先生も、はなはだ有り難い先生方であった。自然と身近にお二人の撰集や著書を置いて再三再四目を通すことが多い。
人には、体臭があり体温がある。歴史上の人物から独特の体臭や体温が感じ取れるようになると、「小説」や「批評」にも手を染めやすい、たとえ現代を各場合でも。
2011 11・26 122
* 中央公論社刊のチェーホフ全集は十六巻ほどある。B6の瀟洒な小型本で、手に優しく愛蔵してきたが、『サハリン行』や唯一の長篇『曠野』、そしてむろん後期戯曲の全部は読んだほかは、「可愛い女」「犬を連れた奥さん」「六号室」など著名な短篇の拾い読みだった。各編ともすこぶる面白いが、短篇の数、数え切れないほあまりに数多い。
今度、一冊分でもいいその全編を読んでみようと第七巻を抜き出した。この巻は、いわば前身であるアントーシャ・チェホンテから、完成されたアントン・チェーホフへ転進して行く、大事な変容期。その立派な変わり目に長篇『曠野』が巻末に登場していて
、先行する短篇、この巻だけで36編も収録されている。一巻ぜんぶが短篇なら優に50編を越していただろう。
その巻を、夜前、読み終えた。退屈した作は36のうち2、3も有ったろうか、とにもかくにも世の中に短編小説と称する幾千萬あるか知らないが、わたしの読んできたそれらの内には、直哉のような人の作もあるにせよ、それらのいい・わるいの印象を、チェーホフ短篇は懸絶している。とくに編から編へと読みかさね読み進んで行くに連れ、その懸絶ぶりが納得されてくる。題材の取り込み方、人間の把握と表現の生彩に富んで精緻で批評に富んで徹していること、他の優れた短篇作者が目でしっかり捉えているというなら、チェーホフの目は拡大鏡のように光っていて、つまり細部までじつによく見えている。じつに把握が具体に精微に自在に働いて、しかもその素材世界に触れている目も精神も、徹底して庶民の貧苦に悲歎に暢気に滑稽に、膚接している。よくまあこんな話材に手が出るモノだとあきれるほど、モノ・コト・ヒトを良く観ている、いやよく見えている。泣きたいほど情けない辛い苦しい人や状況を書きながら、筆致に漂うペーソスにユーモアが働いている。
短篇で彼の他に舌を巻いたのは、モーパッサンであったなあと、今も納得する。
16巻ほどのたった一冊だけでも、それもいわば習作期であったチェホンテ作のもので、こうなのである。ぜんぶ読み上げるのに相当な時間を要するけれど、わたしは仕事として読むのではない。読書の幸せを味わうだけ。ゆっくりとまた次々の巻を楽しみたい。
2011 11・27 122
* 夜前も夜更けて、また夜中に読書。夜中には待ちかねるように『指輪物語』文庫版の新しい一冊をとりあげて一章分を読んでしまった。すばらしい叙述で、いよいよ戦端が紐解かれて行く。そして新しく恋の芽生えも予感されるのが嬉しく心はずむ。
* それにしても、その後、よく寝た。しきりに手洗いに立つ夜がある。まるで一度もその必要のない夜もある。いずれにしても夢を観るので死んだように熟睡しているとは謂えぬ。
2011 11・28 122
* 寝入る前にたくさんを読み、夜中に二度目覚めてまた二度読んでいた。
角田博士のものはずいぶんとお世話になった思い出の「建礼門院の後半生」を読み上げ、「池禅尼」を半ばまで。なまなかの小説などよりこれら人物論攷の精微なおもしろさに掴まれてしまうと、巻を擱くことができない。
源氏物語は「柏木」巻をしみじみと読み終え、「鈴虫」に入っている。わたしは、やや副主人公めくものの「夕霧」という貴公子が性格的に好きである。めったに崩れないひとだが、柏木未亡人の落葉宮に血迷って行くこれからの暫くが、よしよしと頷けてむかしから大いに許容している。少なくも筒井筒の雲居の雁、五節の惟光娘、そして落葉宮の三人の妻をもつようになる夕霧だが、それぞれの出逢いや結ばれに物語としての変妙があり、作者の配慮に感嘆する。
夜前から、チェーホフの完成期の戯曲群を、第一番に「イワーノフ」を読み始めた。
読み物ではない、評伝『ゲーテ』もじつに面白い、ことにゲーテとヴァイマール公国との出会いなど、ずいぶん何も予備知識無くゲーテを読んでいたものだと、軽い惘れさえ感じるほど。岩橋さんの評伝『野上弥生子』も面白かった。「人」のはなしは、なんといっても好奇心も手伝いおもしろいのは当たり前なのだろう。
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には目下その過剰な議論に難渋しているけれども。
バグワンは、あらゆる意味で別格に大事に読みやめることがない。
大西巨人さんの撰になる詞華集も、味わい尽きず繰り返し読んでいる。
そして「上野社会学」も、栄花物語も。また読みかけたのだからと、『小説・日本銀行』も読んでいるが、これは、やや気疎く感じている。
このところ読書の本命は、ファンタジィ数種のなかの、抜群『指輪物語』で。夜中につい電灯をつけてしまうのも、これが読みたくて。この三四日の盛り上がりはすばらしい。この世界へ没頭して行くと、もろもろの現世の汚濁を忘れる。ほかに『風の声』『ライラの冒険』『ヨナタンの杖』なども読んでいて、そこそこ面白いがトールキンの『指輪物語』は断然引き離している。おそらく『ゲド戦記』『イルスの竪琴』にも優るとも劣らぬ愛読書となるにちがいない。
2011 11・29 122
* 立教大学名誉教授の平山城児さんから、論攷大作『ダヌンツィオと日本近代文学』を頂戴した。
思い出す、わたしが西欧の作家の名を本の背で覚えた一等早かったひとりがダヌンツィオであった。
小学校五年の秋、戦時疎開してそのまま永逗留していた丹波から、満月様顔貌に腫れあがった急性腎臓炎の息子を、それとも分からぬまま咄嗟に母がひっかついで山奥から京都市へ連れ帰り、家にも帰らずかかりつけの樋口医院に真っ直ぐとびこんだ。絶対安静、そのまま医院の二階に入院。母の機転と医師の親切と医師秘蔵の新薬ペニシリンとで、わたしは命拾いした。
そのなおりがけ、容易には退院させて貰えないまま、わたしは医家二階座敷の蔵書戸棚で、生まれて初めて近代文学の本らしい本に出会った。印象深く装幀の記憶も鮮やかなのは漱石全集だったが、他に、今思えば新潮社の世界文学全集であったろう数冊がまじっていて、そのなかで『ダヌンツィオ 死の勝利』を認めて記憶した。二人一冊本で、もう一人はうろ覚えながら、『ユーゴー レ・ミゼラブル』ではなかったか。
だがわたしはこれらの本を借りて「読んだ」実感がない。眺めて、作者と作の題だけを憶えたのだった。『モンテクリスト伯』や『ボブァリー夫人』『女の一生』などは後に中学二年に人に借りて読んでいるが、ついに『レ・ミゼラブル』も『死の勝利』も読まずじまいに来た。なにかしら理由が在ろうが覚えがない。
平山さんに感謝して、ダヌンツィオに初見参を喜びたい。
* 夕食後を、床について一時間余り、読書。
2011 12・1 123
* 『指輪物語』第二部「二つの塔」の前半を読み終えた。すばらしい。さらに世界の深奥に入って行くだろう、有り難い出会い。
2011 12・2 123
* すさまじかった夜中の雨振り。『指輪物語』も、陰惨なほど五里霧中の「沼わたり」。八時に床から起ち、しかし激しい雨の音に、また床の中へ。目覚めて午過ぎ。なぜか梅原猛さんとながなが話し合っている夢から覚めた。こうも寝るのは、からだに毒かも、薬かも。「好きに、し」「勝手に、し」と、身を任せている。懶けているのかも。休んでいるのかも。
2011 12・3 123
* 深夜読み終えて、三時。そして四時六時と目が覚め、つどまた読んで、結局ほとんど眠れないまま八時前に起きた。どの本も面白いという幸せが不眠をさそう。
* とりわけ『ゲーテ』の評伝に胸を掴まれた。彼の、偉大な普通さの天才。当たり前のようにひろがる世界文学への実践に裏付けられた展望。亡くなる間際までの深い健康な知性と感性。奇矯でない豊かさ、偏狭でない自由。非凡で多彩な生活者、現実から足を滑らさない藝術家に徹した壮大な想像・創作力。人を惹きつけてやまない人間の大いさ。「マリエンバートの悲歌」そして「フアウスト」完成に至って、終生衰えなかった愛のある情熱と人間への洞察。
いつしれずわたしは涙をぬぐいながら読んでいた。
ゲーテの家庭生活は、不幸だった。自身は病牀にありながら重篤の病で妻に死なれ、その翌年に息子は結婚し孫三人に恵まれたがみな健康には育たぬまま、四十歳を越えたばかりの息子にも死なれていた。
☆ 「人と思想 ゲーテ」星野慎一著に拠りて
最後の恋愛 息子(アウグスト)の結婚の結婿の翌年(一鉢一七)からゲーテは三年つづけて毎夏カールスバートへ湯治に出かけたが、目だったききめがなかったので、一八二一年には初めてマリエンバートへ行って一か月ばかり滞在した。場所をかえてみたのである。マリエンバートはカールスバートの南西約三〇キロの地点にある、ボヘミアの新しくひらけた温泉村であった。ここで、はからずも、ゲーテはウルリーケ=フォン=レヴェツォーという一少女を知るようになった。たまたま彼がウルリーケの祖父母の館に止宿したのが、この奇縁を生むきっかけとなった。
シュトラースブルクのフラソス学校の女子寄宿舎に何年かすごしてようやく一七歳になったばかりのウルリーケは、ゲーテがどんな有名な人なのか、またどんな偉い詩人なのか、さっぱり知らなかった。だから、彼女はゲーテにたいしては全く無邪気な一少女にすぎなかった。それなのにゲーテは戯れにみずからに言わねばならなかった。
老人よ まだやまないのか
またしても 女の子
若いころは
ケートヒェソだった
いま 毎日を甘くしているのは
誰なのか はっきり言うがよい
翌二二年夏ふたたびマリエンバートのレヴェツォ一家の客となったゲーテにとって、ウルリーケはもはや恋の対象となっていた。ゲーテは手元に送られてきた新刊『従軍記』を彼女に贈って、その扉に次のような小詩をしるした。
一人の友の辿った道がいかばかり不幸であったか
この書は それを物語っている
されば この友の慰めとなるねがいは
折ごとに彼を忘るな ということなのだ
マリエンバート 一八二二年七月二四日
「折ごとに彼を忘るな」というゲーテの願いは、はたしてウルリーケに通じたであろうか。この日、七月二四日は、ゲーテが一か月余にわたるマリエンバートの滞在を終えた日である。彼女と別れた直後、彼は『アイオロスの竪琴』という一つの長い詩をつくった。ウルリーケにささげる詩であった。
日もわれにはものうく
夜の灯も無聊のかぎりである
やさしききみの姿を新たに描くことこそ
残されたただ一つの楽しみなのだ
風にふれればおのずから鳴りいずるというアイオロスの竪琴のひびきに、彼は恋の苦悩を託している。
翌二三年の夏、ゲーテは三たびマリエンバートを訪れた。この滞在によってウルリーケにたいする恋心がおさえられなくなる。数十年来の友カール=アウグスト大公を通して彼女に求婚する。ゲーテは七四歳、ウルリーケは一九歳である。五〇歳以上も年令の差のある結婚が世人の目にグロテスクに映るのは、全くやむを得ない。ゲーテの悲劇は、彼の愛情が彼女に通じなかったところにあ
る。彼にとっては情熱的な恋愛であっても、ウルリーケには、所詮ゲーテは畏敬と尊敬とをもって眺める親しいおじいさんにすぎなかった。
深い懊悩を老人の平静のかげにつつんでさりげなく彼がマリエンバートをあとにしたのは、一八二三年九月五日であった。ヴァイマルに辿りついたのは九月一七日である。そのあいだじゅう馬車の中でも、宿舎の中でも、彼はたえず詩作をつづけた。苦悩を表現することによって苦悩を忘れうるのは、詩人の特権である。ウルリーケにたいする失恋の苦悩も、これ以外に逃れるすべがなかったのだ。彼はわれわれに『マリエンバートの悲歌』という、きよらかにして深い、高くしてゆたかな愛の詩を残してくれたのである。
きよらかなわれらの心の底には
より高きもの よりきよらかなもの 未知なものに
永遠に名づけられぬものを みずからにときあかしつつ
感謝して すすんで身を委ねようとする努力が 高く波打っている
われらはそれを敬虔と名づける! 彼女の前に立つとき
わたしはこのような聖なる高さを 身にしみて感ずるのだ
愛人の美しさは私利私欲を焼きつくす光である。愛することは聖なる園に入ることである。ウルリーケは彼の手のとどかぬ天の門であった。老詩人の理性は、このように彼に教えている。だが、彼の情熱はなお青年のようにたぎっている。
されば涙よ 湧きいでよ そしてとめどなく流れるがよい
しかし この心の焔をしずめるすべは いずこにもありはしない
生と死がおそろしく闘っている
わたしの胸のうちは すでにはげしく狂い はりさけるばかりだ
古来詩人の数は多いし、比較的高齢にいたるまで詩作活動のつづいた詩人もけっして少ないわけではない。だが、七四歳になっても(島崎藤村の)『若菜集』のような若々しい詩情を持ちつづけた詩人は全く見あたらない。杜甫や李白には、恋の詩はない。深い人生観のにじみ出ている芭蕉の詩句にも、この恋の詩はない。四一歳にして奥の細道を旅した彼は、すでに芭蕉翁と言われていた。天成の詩人と言われたヴェルレーヌでさえ、晩年は全く頽廃してしまった。若いころ活躍した薄田泣董、蒲原有明、土井晩翠などのわが国の詩人たちを考えても、その後年の詩は著しくみずみずしさを失っている。
ゲーテが偉大なのは、何よりもこの人間の、あたたかいゆたかさにある。
* ゲーテは高齢であったが老耄してはいなかった。他の批評はどのようにも出来るだろうが、それだけは真実であったし、希有であった。愛欲でない、付き合いでもない、恋愛できる若い精神を喪っていなかった。
* いま一つ、わたしを感動させたのは、或る日本人、本家本元のヴァイマールやドイツ本国にも劣らない、まして他国のそれらに追随を許さないという、鉄筋地下一階、 七階建の瀟洒な「東京ゲーテ記念館」の存在と、創立者粉川忠さんの少年以来一貫したゲーテ愛の深さとすばらしさだ。なぜこんなすばらしい日本人の存在とその生涯のみごとさをわたしは知らずに今日まで過ごして来れたのだろう。いつか改めて触れようと思うが、渋谷道玄坂の上に戦後に建設され開館された、まさしく民間篤志の一組の夫婦のちからで起こされた「東京ゲーテ記念館」を、ぜひ先に、まずは訪れたいと思う。読みたいゲーテもたくさんたくさんある。かなり整った書店を探さねばならぬだろうが。
2011 12・5 123
* ゲーテに推服し愛読した近代日本の大きな作家達は想像以上に数多い。鴎外、藤村、そして英文学に学んだ漱石ですら。樗牛、馬場胡蝶、平田禿木、戸川秋骨、星野天知ら、それに劣らずかの北村透谷も。そして、 紅葉も独歩も蘆花も実篤も倉田百三や木下杢太郎も。また長与善郎も山本有三も堀辰雄も亀井勝一郎も。
* しかし、ことに深くまた対照的に熱心にゲーテに接したのが、一人は憧れたというべき芥川龍之介であり、もう一人は自身と共鳴するものを体感していただろう谷崎潤一郎である。この二人のゲーテ観を星野氏は巧みに拾い上げている。
* 芥川は言う、「ゲエテは『徐ろに老いるよりもさつさと地獄へ行きたい』と願ったりした。が、徐ろに老いて行つた上、ストリントベリイの言つたやうに晩年には神秘主義者になつたりした。聖霊はこの詩人の中にマリアと吊り合ひを取つて住まつてゐる。彼の『大いなる異教徒』の名は必ずしも当つてゐないことはない。彼は実に人生の上にはクリストよりも更に大きかつた。況んや他のクリストたちよりも大きかったことは勿論である。彼の誕生を知らせる星はクリストの誕生を知らせる星よりも円まるとかがやいてゐたことであらう。しかし我々のゲエテを愛するのはマリアの子供だつた為ではない。マリアの子供たちは麦畠の中や長椅子の上にも充満してゐる。いや、兵営や工場や監獄の中にも多いことであらう。我々のゲエテを愛するのは唯聖霊の子供だつた為である。」
星野氏が「人生と文学とのかかわりあいにおいて、龍之介はゲーテを、『最大の多力者』と信じていた」と付け加えられたのは正しいが、龍之介の上の述懐自体には晦渋の気味がただよう。
他方で、谷崎潤一郎は、その著『雪後庵夜話』のなかで、自身の女性観を永井荷風のそれと比較しながら次のように語っている。
「対女性の態度でも( 荷風) 先生とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はさうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、フアナチツクであり、ラヂカルで生一本であるが、先生はさうではない。先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風があるが、私はそれに堪へられない。私は女を自分より上のものとして見る。自分の方から女を仰ぎ見る。それ
に値ひする相手でなければ女とは思はない。」
荷風との比較ではこのとおりだが、問題は微妙でわたしは全面的に谷崎が言うままには読まないけれど、谷崎が「値ひする」女に限っては女性礼讃者である点まちがいなく。その点、ゲーテとじつによく似ている。「ゲーテと言えば誰でも『永遠の女性』を想いだす」と星野氏が指摘されるのはその通り。そして「ゲーテも潤一郎も女性好きで、明るい。ふたりとも文章がのびのびとして一種のゆたかなリズムを持っている。こういう資性の一致が潤一郎をしておのずからゲーテ好きにし、彼を高く評価させている」のも間違いないだろう。谷崎潤一郎の次の一文はゲーテの特徴をたくみに捉え得た作家的な感想であるのも正しい。
「いつたい独逸文学は思想の重みが勝ちすぎて柔みが乏しく、何処か窮屈なトゲトゲしい気持があるので、どうも私には肌に合はないが、ひとりゲーテにはその風がない。真に悠々たる大河の如く、入江となり、奔湍となり、深淵となり、湖水となりして、千変万化しながらも、全体としては極めてゆるやかに、のんびりと流れつゝある。その文章は秋霜烈日の気を裏に蔵しつゝ、春風駘蕩たる雅致を以て外を包んでゐる。紅葉山人のようなのどかさと流麗さがあつて、而もストリントベルクの如き鋭さと激しさとを底に隠してゐるのである。バルザックは圧倒的であるけれども幾分鬼面人を喝するやうな気味合ひがあり、ドストイエフスキーは深刻であるけれども焦燥の
嫌ひが多分にある。たゞゲーテのみは焦らず騒がず、天の成せる麗質をそのまそこへ投げ出して、森厳な容貌に微笑を湛へてゐるやうである。品格に於いてはトルストイと雖(いへども)到底及ばない。われわれの如き群小の徒は大山岳に打つかつた如く、筆を投じて浩嘆之を久しうするばかりである。」
もとより繰り返してわたしは熟読してきた、谷崎先生のこの言を。的確、万端同感を禁じ得ず自身挙げられた他の大作家への感想とも微塵わたしは齟齬をおぼえなかったのである。
あの大谷崎が、「われわれの如き群小の徒」などと筆にされたのは生涯この一個所であった。それが、「大山岳」ゲーテに向かってであった。
* 大西さんに頂戴した本の見返しには「謹呈 著者」の札とともに「大西巨人」自筆の氏の現住所を書かれた封筒の切り抜きが貼り付けてある。大きな字だ。春の部には牧水の、「しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや」などが挙げてあるなと思うと、犬筑波集から、
夫婦(めうと)ながらや夜を待つらん
まことにはまだうちとけぬ中直り
のような前句付け句が出ていて、「私一己は、そういう成り行きを是認しない」としながら、「邪気のないほのぼのとしたエロティシズムが人性の機微をうがっている」ともある。この『春秋の花』はたさいであるなかにところどころバレ句めく作もひろってある。
詩人の咏物、画家の写生ハ、同一ノ機軸ナリ。
形似稍易ク、伝神甚ダ難シ。 田野村竹田
まことや、と、思わず呻く。面白い詞華撰であるが、頷けないのも、ある。それが面白い。
2011 12・7 123
* 角田文衛さんの大冊を読み終えた。本の題は「二条の后藤原高子 業平との恋」だが、一冊の全内容は『平安朝の女たち』である。恬子内親王、尚侍藤原淑子、高階光子の悲願、小野小町の実像、幸運の后建春門院、悲運の后高松女院、建礼門院の晩年、池禅尼の本心、紫式部の生涯と源氏物語の遺跡、清少納言の生涯と晩年。解説や概説ではない、論攷であるのが堪らなく刺激的で興味深く、へんな物言いをすればたらふく満足した。一行もとばさず、系図も付表も絵図も読んだ。
こういうのに引きこまれてしまうとなまなかの小説など読む気にならない。もうしわけないが城山三郎氏の『小説 日本銀行』など敗戦後日本経済の機微に触れた題材なのに、通俗で低調で、困惑気味。
で、角田論攷に手を引かれながら歩みを勧めたい世間が、開けようとしているのだ、わたしはもう一度この大冊の半ばを読み返すのである。
2011 12・8 123
* とうに亡い人である四国の門脇照男さんの最後の短編集『狐火』のなかの「誕生日小景」を読んでいる。語っている作中の男はせいぜい四十二、 三。もう死をさえ予感して、陰鬱だ。いまわたしの息子がこの語り手より一つや二つ年嵩だと思うが、いつ顔をみても働き盛りの元気な若僧でしかない。わたしもその年頃なら、或る意味で日の出の勢いだった。現在のわたしでも、この小説の語り手ほど陰気ではない。しかしその小説をわたしは一字一句読み違えまいと注意して読んでおり、的確に書いてあると称讃さえしている。ただ、自分ではこうは書かない、こういうことは書かないし書けないという気持ちもある。だから、ことさらに心を寄せて読んでいるのだと思う。自分でも書けると思えるようなものは面白くない。逆だ。門脇さんのような私小説はわたしには書けないし書かないだろう。だから惹かれる。
2011 12・9 123
* 歌人九十五六歳の清水房雄さん、第十五歌集『汲々不及吟』を下さる。帯に、
いつかそうした
日々が訪れる。
どんな秤も
生の重み、
苦悩の重みを
測りえぬ日々が。
時は流れ
日は過ぎゆく。
噫、死は
生のなかにある!
と、あり、共感はあるが、これ、版元不識書院の「付け足し」であるのかも知れぬ。清水さん自身の「後記」は、単に「第十五歌集五五◯首。努め努めて遂に叶はず、か。」と。徹して老境を「述懐」の五五◯首と読める。わたしはこの歌人の、
思ふさま生きしとおもふ父の遺書に( )き苦しみとといふ語ありにき 清水房雄
が忘れがたい。この一字虫食いに「長」を入れた二十歳頃の学生は、予想以上に少数だった。そこに或る真実が露出していたと思う。若い子には、この父の「長き」という平凡そうな二字のつらさが分からない。そして知りかつ分かって、子は胸をつかれる。自分もそういう父のあとを追って生きていると思い当たるのだ。その清水さんはわたしより二十も年長の1915年生まれと奥付に出ている。 2011 12・10 123
* 九十五翁清水房雄さんに戴いた新歌集に感嘆している。なるほどここまで来るのだな、来れるのだなと、境涯に嘆称を惜しまず。どの頁を開いても、把握と表現に痺れる。新短歌と称し口語短歌を作る人たちの歌詞ももらって読むが、そのような主義主張とはまったく似て非であり、自然に成った境地と謂うべし。
九十五年も生くれば様々の事ありき苦しみのみを実感として
何としても此だけはと言ひし人のこと覚えて居りて事は忘れぬ
明日もまた生きてあらむと目薬をさして眠るも昨日のごとく
庭草を詠み花を詠む心ゆとり羨(とも)しみやまず君が遺歌集
何でもない事を何でもなく歌ふのみ斯かる境地は思ひ知らざりき 清水房雄
2011 12・12 123
* 翌日に出掛ける予定のない前の晩は、心おきなく本が読める。眠れなければ夜中にも読める。源氏物語とバグワンとが、通例の芯になり、疲れていても各自に先に読む。いま最後の最後の楽しみは『指輪物語』でもう第三部上巻の半ばに来ている。古来古典の十指ないしは番外三作の一に数えたいほどの名作であり、興趣も津々、「鳶」さんのはからいで出会えたのを心より喜んでいる。まだ数百頁のこっていて、もう残り惜しくさえ有る。
* 『ジャン・クリストフ』で作者ロマン・ロランが、「民衆」というのは歴史の途中の貯水池だと謂うているのに納得した。じつに多くが流れ込む。じつに多くが流れ出す。流れ込むものと流れ出るものとの名前はいろいろに変わっても、「民衆」という貯水池のはたらきは博大であり、また清濁をあわせのみこんでいいかげんである、と、これはわたしの感想である。
2011 12・15 123
☆ 自由 福田恆存語録『日本への遺言』 (編・中村保男 矢田貝常夫)
自由といふこと、そのことにまちがひがあるのではないか。自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はさう考へる。
自由によつて、ひとはけつして幸福になりえない。
自由といふやうなものが、ひとたび人の心を領するやうになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向ふものと、外に向ふものと。
自由を内に求めれば、かれは孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だといふのだ。
奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いづれかの道を選ぶ。
(人間・この劇的なるもの・Ⅲ・五六一)
* 上の本は、言うまでもない二人の「編者」の理解を基盤に雑纂されたもので、「福田恆存」自編ではない。挙げられた言葉は間違いない原筆者の原文と認められる、が、切り刻んでの纂出は原筆者の作業ではない。言わず語らず現「編者」持ち前の寸法または好みで為されている。その限りでは読者の不満や誤解・誤読を導きかねない遺憾もある。上に挙げた一文は本書の巻頭を飾っている。編者の評価のほどが窺える。
しかし、このいかにもいかにも福田先生の語気と筆致と論鋒を伝えていながら、これをこれだけで読む人からは、瞬時の称讃とともに瞬後の不可解をも導くのではないか。
「自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。」
それだけのことは論法としては明快に説かれている、が、では「奴隷の思想」は不可なのか、仕方ないのか、は瞬時には読み取れまい。なぜなら、だから「自由」はダメと言われたか、「自由でなくていい」と言われたか、もし「自由でなくていい」「不自由でいい」と言われたとすれば、「不自由」こそは明瞭に奴隷の境涯ではないかという疑念の前に立たねばならない。
「自由を内に求めれば、かれは孤独になる。」
遺憾にも、その通りである。しかしそこに奴隷でない世界があることは、眞の創作者にしても科学者にしても宗教者にしても、知っている。彼らはそれを不自由とも奴隷の境涯とも思わずにむしろ自立している。なぜ、かれらが「奴隷」なのか。
自由にはたしかに、幾つかの側面があり、警句的な言表を操って人の意表に出た、鬼面人をおどろかす体の論説を呈すること可能であるが、それだけに軽々しくは読みも書きも言いもならない。自由は、言語で操れない。眞の価値は、言語で左右できない。自由に生きたいか不自由も構わず生きるか、でしかないだろう。
自由に生きたいなら、自由とは何かの問いへ戻るのであるが、屁理屈を言えば、人には奴隷として生きる自由もあるさという事になる。不自由けっこうと言う自由もある。そんな議論には、だが、意味がない。
福田先生は、同じ本の、 次の頁、次の掲出文中で、「眞の自由」を、「ーーすなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひをーー」と言い替えておられる。
これまた、フクザツを内包して、ピンからキリまで、いろいろに読み取れてしまう。言葉通りに最も端的に「すなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひ」を言うなら、性のオーガズムの絶頂(ムドラー)こそそれだとも言える。それを世界大にまで拡大すれば、「採菊東籬下 悠然見南山」とか「相看両不厭 只有敬亭山」とかいう、いわば「天我契合」の極致( マハームドラー) の境地こそが「眞の自由」と謂えるのだろう。だが、思い切り跳ね返って盗人にも悪事にも利権政治にすらも「すなはち対象と合一して、対象とともにある生きがひ」は強弁できる。
福田恆存は稀代の論客であったし、その真率と的確とは疑いないが、論旨を深切に体する以前に、読者や編者が、勝手な好みのママに部分をただ小さく切り取ってしまうと、サマにならぬ誤解や短絡に陥ること、よほどよく知っていないと危ない。
2011 12・16 123
* 九五翁清水房雄さんの歌集『汲々不及吟』に魅されている。
齢だからと言ひつつ遣り処なき思ひ吾より若き友の逝きたり
如何にすれば救はるるかといふ嘆き神も仏も有り無しのまま
今にして吾が力には片付かぬ事のくさぐさ更にまた一つ
いとま有るごとく無きごとき一日にて雨ふりやみし庭の唐梅
老年性被害妄想の故かとも纏はりやまぬ此の不快感
* 下に掲げる詩は、『古文真寶』は一応陶潛の詩としているが、古来異論あって後人の擬作であるかも知れない。しかも佳作であることは一致して認められている。わたしも好きである。
官途にありしとき、官使来訪、山中故郷のことを問い、退隠の志を叙している。三度び呻くほどに「山中」と繰り返しており、有名な「帰去来辞」に呼応している。彼陶潛がかかる退隠・退蔵の思いは、往年しばしばわたしを誘惑してやまなかった。
問來使 陶潛
爾従山中來 なんぢ山中より來たると
早晩発天目 天目を発ししはいつぞや
我屋南山下 我が故居は南山下に在り
今生幾叢菊 今は菊畑も生いや茂れる
薔薇葉已抽 薔薇はすでに芽ぶけるか
秋蘭氣當馥 秋蘭今しも馥郁たるべし
帰去来山中 ああ帰りなんいざ山中へ
山中酒応熟 山中まさに美酒熟しおり
☆ 奥さま
今年の梅干しと初しぼり( 近江の美酒) をお送りします。行事のようで楽しんでいます。
今年初孫が生まれ忙しさの中で生姜を漬けられず 梅酢が多少残りましたので ほんの少しですが入れました。5cc位を2~3f倍の水に薄めて飲むと 疲れた時とか気分の悪い時によく効きます、おためし下さい。
良いお年をお迎え下さいませ。 敬美 湖東
2011 12・17 123
* 眠りにくくて、尿意頻りのせいかもしれぬが、つい起きたまま本を読みつぎ、結局寝ていたなあと覚えているのは計三時間ほど。『指輪物語』は、ついに指輪所持者フロドと従僕サムとの過酷な艱難の果ての果て、まで読み進んだ。この物語の最大の手柄は、人物、と簡単に謂うのはじつは正しくなくて「人間」も類似の生ける存在の一種に過ぎないのだけれど、とにかく名前をもった主要な八人の、いやそれ以外の多くの人物達のヴィヴィッドで確かな書き分けである。ことに忠実で真率でユーモラスでもあり無類に頑張って脱線もしないサムの優しさは、忘れがたい典型の像を成している。ガンダルフもアラゴルンもメリーもピピンもギムリもレグラスも、さらには勇士ファラミアもセルゲン王も、いや、大自然のしかも細々とした個物の表情も質感も、極み無く精微に書き取られてある。
行をとばして斜めに読むことを、文学の、文章のちからが魅力と迫力とで禁じてくる。
* 就寝前の読書は、すべて枕もとに本がある。
この機械のそばにも、合間合間に読む本がたくさん置いてある。古文真寶、陶淵明詩集、唐詩選、白楽天詩集、古今詩選それに老子など漢字ものが在る。福田恆存さんの『日本への遺言』や、清水房雄さんの最近の歌集にも手を出している。原色茶道大辞典もたくさんな写真を拠点にして、「愛読」しやすい。
そして、さしあたり「小説」という「仕事」のための文献がかなりの数積んである。多すぎるとも謂える。また「湖の本」の、ことにエッセイ編は全巻漏れなく身のそばに置いて、いつ何時でも直ちに関連の個所が引き出せる。ぜんぶ記憶にある。
こういう全てを放棄し心身から脱落させてしまいたい気もあるが、なかなか出来ない。
昨日は、実兄、今は亡い北澤恒彦との「往復書簡=京都私情」をエッセイ10で読み返していて、感無量だった。1979年、兄は四十五歳、わたしは四十三歳だった、いまは息子の秦建日子が四十三歳。
湖の本の出せるうちに、建日子との「往復書簡」一冊が出来ればどんなだろう。兄とはいわば「京、あす、あさって」を書きかわした。建日子とは、「創るということ」など、「書き合い」「考え合う」話題にならないだろうか。
2011 12・18 123
* 午後にも宵にも、くずれるように二時間余ずつ寝入っていた。申し分のない体調と謂うには腹具合などいつもグズついている。そういうときは、せいぜい心地よい古詩を温ねて口ずさんだり、書き写したりしている。
詩は、どうあっても陶潛や李杜らのそれであらねば。漢詩にかぎっては日本人の作は、大友皇子らの蒼古まで溯ればともかく、たとえ道真ですら山陽ですらも、いわゆる「和臭」堪えがたい。白詩の境地が平安貴族の好みに投じたのはよく分かる。「和臭」という非難の意味するところは存外重いし大きい。
閑坐 白楽天
暖 紅炉の火を擁し
閑 白髪の頭を掻く。
百年慵裏に過ぎ
萬事酔中に休す。
室あり 摩詰に同じく
児無きは 攸に比す。
論ずる莫れ身あるの日を
身後といふも亦憂ひ無し。
これまで、身に沁みて和漢朗詠集を愛読はしてこなかったが、一冊を抽いて坐辺に置いてみたくなった。
2011 12・18 123
* 『上野千鶴子に挑む』という大冊、貰って直ぐから、連日、欠かさずに朱ペン片手に読み続けて、今朝読み上げた。
上野社会学を、体系的に批判や討論も含めて克明に学んだという気持ちだ。単立の上野著書をだけ読むよりも、門下生達の真摯な論究や批評や紹介・読解を通し、また上野さん自身の応答や討論を通して、立体的・構築的に読み取れていったのが、甚だ有効であった。面白かった。学風は冒険に富みながらアカデミズムのなかでの制度化にも堪え、凡百の学者・研究者は顔色を喪っていると感じた。「女文化」という言葉の発明者であるわたしとしては無視できない、社会学の異色の一体系にヴィヴィッドにダイナミックに出会ったという喜び、なかなか深い。
2011 12・19 123
☆ バグワンに「静寂」を聴く。
静寂だけでは駄目だ
それは、静寂というものが
生ではなく死の性質を持っているからだ
おまえの過剰な人生とのかかわりあいから
数日間、数瞬間脱け出して静かになるのはいいことだ
おまえはそれを楽しむ
しかし、永久に楽しむことはできまい
すぐにおまえはこれだけじゃ足りないと感じるだろう
これは滋養にならない、と
静寂はおまえを不幸や幸福や興奮から護ってはくれる
だが、その中にはなんの滋養もない
それは消極的な、ネガティヴな境涯にすぎない
* バグワンは「ナミ」の心をもった人間に三つの境涯を指摘し、さらに第四の優れた境涯を示唆している。
第一は、熱病のように「絶えず<もっと>を求めている」が、「それには、きりがない」。比喩的には、彼らは絶えず「食べ」続けている、ものも人間までも。そして互いに「食い合って」いる。「もっと」は、当然にも「満たされ得ない」。だからこそ「もっともっと」が尽きないのだ。哀しみと不満とに付きまとわれる。
第二は、いわゆる宗教家らにみられ、実は第一の裏返しに過ぎない。一見「ナミ」ならぬようで、やはり「ナミ」に過ぎぬ。彼らは「与えよ、分かち合えよ、捧げ出せ、寄附せよ」と教え続ける。これも「もっともっと」と同じだ。そしてそんな「もっと」も尽きてしまう。所詮は不可能の悲しみと不満とへ突き当たる。第一の「もっと」と第二の「もっと」は、質的に同じだ。
第三は、心じゃない、 無心の境涯だ。そして、 欲しいとも与えよとも謂わない、そんなことに「無関心」だ。力点は「無所有」にある。求めも与えもしない、所有すべきでないとする境涯だ。「おまえは物や人を所有しようとすべきじゃない」「 所有の世界からドロップアウトするのだ。取るか与えるかなどという問題じゃない。」「おまえはこの世界に何も持たずにやって来た、無一物で。そして無一物でこの世界から出て行く。所有すべからず、無所有の常態であれ。」
☆ かくてバグワンは言う、
この第三の境涯にある人は、静かだ、穏やかだ、
しかも 彼にはうわべの上機嫌とはちがう、深い充足がある。
顔には笑いさえ見当たるまい。
幸福でも不幸でもない、もちろんだ。ただ、やすらいでいる。
これがアナシャクティ=離脱、無関心だ
だが、それでも彼らの力点はなお「もの」に置かれている
物や物の世界に無関心であり、無執着だ、が、
あくまでも物に応じた離脱、無関心だ
他に応じた無心だ
静かではあるが生きていない
その静かにも、第一第二より格別とはいえ、真に生き生きした滋養がない
第四の境涯が、おまえの行く手にあると知りなさい。
* しずかにありたい、無心にありたいと願ってきた。それも叶わないのに、まだその先があると。おお。
* 絵本作家の田島征彦さんから新刊の絵本と手紙を貰った。
2011 12・19 123
* トールキン作『指輪物語』巻末に誌す。
稀有の文学 宝玉の名品。 平成二十三年(二◯一一)十二月二十一日 七十六歳誕生日の午前一時二十分 感動して読了。
* 出逢いの喜びに満たされた。終幕の美しさ懐かしさに涙した。
同類の結びに過去二度出会っている、『モンテクリスト伯』と西鶴の『好色一代男』。それぞれに異なっているが、指輪所持者フロドの幸せな旅立ちは、老いし私は懐かしくも憧れを誘われ胸ふるえた。
出逢いを与えてくれた播磨の「鳶」さんにもお礼申し上げる。
2011 12・21 123
* さて、今日は夜の部で、午後ゆっくり出掛けられる。朝の時間もこうしてゆっくり使えた。
* と言いながら、わたしの風味で、感あり。
☆ 有感 白楽天
往時勿追思 往時を追ひ思ふな
追思多悲愴 思へば悲しみ多し
來事勿相迎 來事を期待するな
相迎已惆悵 すれば失望する丈
不如兀然坐 無心に坐しておれ
不如 然臥 安楽に臥しておれ
食來即開口 食が来れば食って
睡來即合眼 睡くば睡ればいい
二事最關身 寝食こそ健康の基
安寝加餐飯 よく寝て美味く食し
忘懐任行止 忘も懐もおもむく儘
委命随脩短 万事は天運に任せ
更若有興來 更にもし興催せば
狂歌酒一盞 歌うも佳し美酒も亦
2011 12・21 123
* 「若菜」下、「柏木」「横笛」「鈴虫」そして「夕霧」の巻巻、優れた一巻の長篇小説を成していて、苦い美味としかいえない魅力を満喫した。何度読んでも何度読んでも、圧倒的な名作は源氏物語。
2011 12・25 123
* 名ばかりの「雲隠」をとんで、「匂宮」の巻を読み始めた。もう光源氏も紫の上もいない。すこしの繋ぎの巻を経て、「橋姫」から宇治十帖に入る。
* 新たに辻善之助の『田沼時代』を読もうと、岩波文庫を持ち出した。わたしは世評の如くに田沼が途方もない悪政の人であったなどと思わなかった。よほど優れた政見と実行力の持ち主として、『北の時代 最上徳内』世界の統領にふさわしいと見、書いた。辻博士のこの本を知らなかったが、岩波の「世界」に連載中には知り、その識見に感嘆した。通読するのは今回が初めてになる、わくわくと楽しみにしている。
* バグワンが、ティロパの「存在の詩」を語りながら、人の最上最深に到りつく「第四の境地」を語るのに、耳傾けて聴いている。
そろそろこの辺で、その千年も昔に覚者「ティロパ」が最良で只一人の弟子ナロパに与えたという「詩」を、バグワンの、そして訳者スワミ・プレム・プラブッダさんの言葉で、まとめて読み返してみる。理解を助けるかどうか分からないが、その前に、わたしがさきの『光塵』のあとがきに書き入れていた「ムドラー」と「マハームドラー」ということを挙げておこう。
* スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら、彼らに聴いてみる。
( バグワンは説いている=) マハムドラーとは「全体=全世界」とのふか~い性的オーガズムのようなものだ
ふたりの恋人が深い性的オーガズムの中にあるとき彼らは互いに溶け合う そのとき女はもう女でなく,男はもう男でない 彼らはちょうど陰陽の環のようになって 互いの中にはいり込み それぞれのアイデンティティー(自己主体)を忘れて互いの中に出会い,溶け去る 愛がかくもビューティフルなのはそのためだ この状態が「ムドラー」と呼ばれる 死とも重なるほど オーガズミックな交合のこの状態が「ムドラー」と呼ばれる
そして〈世界全体〉とおまえ自身との大いなるオーガズムの状態こそ、「マハムドラー」と呼ばれるのだ
(秦は、思う=)「採菊東離下 悠然見南山」と陶淵明の詩に見られる「天我契合の聖境」と(上の、マハームドラーとは=)一つであろう。李白の「( 衆鳥高飛盡 孤雲獨去 ) 相看両不厭 只有敬亭山」も、また然らずや。だが、わたくしに「マハムドラー」(=の小説はまだまだ)は書けない。幸いまだ若い日々の幸せな覚えの身内に在るのをさぐりつつ、わたくしの「老いの性」「男女の性」を、妄想し構想し遂げておきたいと願っている、谷崎とも川端とも、また中村光夫とも異なって。生命力は明らかに減じている。生きて甲斐ある「日本の今日」かと問えば、内心はためらいなくノーと答える。足りないモノは足りないまま、もう、このままでよい。しょせん独りしか立てないちいさな「島」に生まれきて、幸い何人もの人たちと立てているのなら、それ以上を望まない。望むな、という奥深い声に聴いている。
☆ マハムドラーの詩 ティロパ(988 ~1069)
マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり
もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり
空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん
空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし
長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず
「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり
からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん
真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて,人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり
解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり
ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし
二元性を越ゆるは王の見地
戦乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏む者、ブッダフッドに至らん
はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん
水の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見出すことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり
はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ──
2011 12・26 123
☆ バグワンに聴く。 自然と不自然と。 「存在の詩」より。
エゴイストはつねにあらゆるものから独立しようとする
エゴイストはつねに
あたかも自分は
誰からどんな助けもいらないかのようにふるまおうとする
これは愚かしい
馬鹿げている
だれひとりとして依存してはいない
だれひとりとして独立してはいない
だれもが相互依存しているのだ
おまえはただの一瞬たりとも独立して存在してはいない
そして、だれひとり絶対的に依存しているひともいない
そんなふたつの対極は存在しない
生とは相互依存だ
相互の分かち合いだ
生は相対性の中に存在する
もちろんティロパはそれを知っている
彼は自然な道を指さしているのだ
生はギヴ・アンド・テークだ
分かち合うがよい
ただし、それに拘泥することはない
それを考え過ぎなくていい
おまえはそれが起こるのにまかせていればいいのだ
ただ自然に与えうるだけを与え
ただ自然に得られるだけを得る
誰に恩義も持たず
誰に恩義を感じさせもしない
おまえはただ生が相互依存だということを知っていればいい
意識は巨大な大洋であり
だれひとりとして孤島ではない
我々はお互いに出逢い溶け合う
なんのさまたげる境界もない
境界などすべて虚構 思い込みにすぎぬ
ティロパは言う 「与えずまた取らず
人はただ自然のままにあるべし」と。
取るのはいい
しかし、取ったと思ったら
おまえは不自然になってしまっている
与えるというのはビューティフルだ
しかし、おまえが自分は与えたんだと思った瞬間
それは醜いものになり
おまえは不自然になってしまっている
人間はただひとつの不自然な生き物だ
宗教を求めるのはそのためだ
人間だけが宗教を求める
人間が不自然になればなるほど
それだけ余計に宗教が必要になる
そして
へんな宗教も出てくる
一つの社会があまりに文化漬けされたら
テクノロジー化されたら
必ずそれを釣り合わすためにさまざまに宗教が現れる
微妙なバランス作用だ 結果としてもっと悪いことも起きてくる
自然でゆったりした社会にも人にも宗教は要らない
老子は
「法律があるために人は罪人になり
道徳が出来たために人々は不道徳になった」と言う
過剰な「文化」や「技術」があるためにーー
老子は警告の宗教だ
孔子は過剰な文化だ
宗教は
よかれ悪しかれ薬と同じように
悩める人々に必要とされる
「自然なるもの」が失われたとき
社会は病気になる
人間も病気になる
いつも「自然なるもの」といっしょに
「ゆったりとしたもの」を覚えておくこと
なぜなら
自然であろうと頑張りすぎて
まさにその努力事態が不自然になってしまうことがあるから
かぶれ屋というのは、そうして生まれる
宗教家や信仰者には往々そんな「かぶれ屋」がいる
「自然に」ということが心の負担になるようであれば
すでに不自然になっている
「ゆったりと」という言葉をいつも胸にとどめておくように。
2011 12・27 123
* 島尾敏雄の孫娘である島尾まほさんのエッセイ『ガールフレンド』を父親の伸三さんから送ってもらうと、すぐ妻がとびつき、読んでいる途中も、読み終えてからも、絶賛。まほさんは三十三歳ぐらいの筈、しかも純真無垢のことばが紡がれていて、しかも「スッゴク」面白いと。この作はわたしは未読ながら、分かる気がしている。前作をもらって読んだとき、まったく同じ感想をもち、絶賛してお父さんに礼状を送っている。いまどき、純真の「ことば」に触れるなど奇跡に近いのである。
わたしも新作を、読もう。
* 城山三郎の『小説 日本銀行』は野心的な試みの力作であることは認めるが、小説としては通俗でリアリティに乏しい観念の作に過ぎなかった。ただ、日本銀行という銀行および日銀マンという人たちが、どんなに澱んで退廃的な空気を堆積させ呼吸しているかは、いやでも、つぶさに教えられた。かんじん要の津上という主人公に深く共感・同情するには、造形が、つまり把握と表現がヘタという気がした。松本清張が書いていたら、不愉快なりにももっと物凄い作を書いたのでは無かろうか。
わたしの相当年嵩な父方従兄に、日銀理事を務め、定年後は天下りしていた人があるが、たいへんな務めをしていたんだなと惘れたような気分に襲われた、会ったことも言葉をかわしてことも無いが。大阪の支店長をしていたころの官舎が、門から家屋玄関までも自動車でないと、歩けばたいへんな距離、などと聞いていた。
2011 12・27 123
* 島尾まほさんのエッセイ集『ガールフレンド』には、カラーの写真集が別に付いていて、只一字の題も説明もない。写真だけ。
「私 随筆で書いた私小説」という一冊を出したのは、去年の六月だった。巧みな発想だと好評を得ていた、たしかに随筆集は、内容と編成次第で読みやすい、ちょっと優しい私小説になる。『ガールフレンド』は佳い文章で惹きつけながら、そういう趣を優にそなえていてぐんぐん読まされる。
辻善之助の『田沼時代』はほぼ文語に近い速度感のある筆致で、たくさんの文献が平易に適切に、必要なものは全文、必要が在れば図解もとりいれ、いささかも渋滞なく語り明かされてゆく。筆頭老中田沼意次の子意知は若年寄として父のもとで権勢を張っていたが、佐野善左衛門に殿中刺殺されるという突発事があった。その詳細も世論も波紋もてきぱきと語り明かされて行き、面白い流行り歌、はやし唄までもどんどん拾われてゆく。なんだか果敢に男っぽい筆付きで心地よい
2011 12・28 123
* 吉田優子さんが、「書かなかったもの」「復讐のために」に次ぐ吉行淳之介論の第三弾「ファントム」を成し遂げた。前作に次ぎ丹念な追究がブレのない批評となって、この難しい現代作家のかなり急所に厳しく突き刺さっている。よりオリジナルな論の結び方も可能ではなかったろうか。表題ももう一思案欲しい気がするが。評論不作の現代に、こういう論者の相次ぐ登場が望まれる。論究の基盤をさらに「近代文学史」へ深く求め、この筆者の犀利な聡明な展開を期待したい。
2011 12・28 123
* ほぼ終日、思い立って『千載和歌集』に関わっていた。千載和歌集の時代というまとまった原稿も書き下ろした。「書いて」いると時間がはやく過ぎる。早めの朝に書き始めると早起きの徳も納得できる。
なぜ千載集が好きなのだろうと問うのは、自分自身を問うのとほぼ同じい思いがする。
片方で東北の人たちの辛苦艱苦に泣く思いすらもち、東電のエゴイズムや原発の成り立ちひいては御用学者への怒り、野田政権へのもう引き返しようのない不信感などを抱きかかえていると、額の真上まで黒雲が被さってくる。立ち向かう姿勢は捨ててはならないが、愉快でない。愉快でなくてもやはり立ち向かわねばと思うに連れて、わたしなりの「理世撫民」をわたし自身に対し計らねば済まない。千載和歌集がかっと目の前に立ってくる、そういうところが、わたしである。
「理世撫民」は、千載集勅撰を意図した後白河院の表向きの建前であった。院が、あの建礼門院右京大夫の恋人であった平資盛を院使に、藤原俊成に勅撰和歌集を命じて院宣をくだした寿永二年二月。その二ヶ月後には早や挙兵した木曽義仲軍により、越中礪波山で平家方は大敗し、七月には都落ちしているのである。歌人忠度が馬を返して俊成の門を敲いて自歌巻を托して去ったのがその時だ。
* 歳末。すこしずつだが、迎春のためにも手足を動かしている。卯は、辰に場所を譲る。玄関には、むかし大河内さんに原稿料の代わりに戴いた「龍」の印池を置いてみた。
わたしたちのように正月を現住の家で過ごす人ばかりではない、わたしたちも昔は苦心して東海道線に乗り京都の親の家で正月を迎えた。楽しみであった。しかしいつしか京都の年寄り達をわが家にみな迎えとって、以来、どこへも動くに動けず、動く気にもならなくなった。
いまごろ自家用車を駆って、自動車道を東西南北へと走っている若い人たちが、新幹線に乗った人たちが、列島に溢れていることだろう。
わたしは、もう同報で数百人に年賀を申すこともしないし、賀状も出さないで許してもらっている。明日は蛤を買いに池袋まで出るが、その余は特別なにをする気もない、「書きたい」書き物に向き合い、読みたい本を読むだけ。明後日は大晦日、明けて元日、寝て二日。ありのそのままに時は過ぎて行く。
そうそう。ありそうなものと二階廊下の書棚から、國漢文叢書第四、五編の『和漢朗詠集註』上下之巻、詩文の註は永済、和歌の註は北村季吟という二冊が見付かった。袖珍版で、背はきつく傷んでいるが、手に馴染んで読みやすい。明治四十三年六月七月の刊で、版元は寶文館。手にとって読もうとしたのは最初のことで、古典全集版の重量がなく、それが嬉しい。歳末から年始への気の弾みになりそう。漢詩は、原作漢語表記のまま、和語にうつすように読み下しており、諷詠の趣に惹かれる。たとえば、紀淑望の作とも唐土の公乗億の作とも言われる「内宴進花賦」は
かぜを逐ひて潜かに開く芳菲の候を待たず。春を迎へて乍ち変ずまさに雨露の恩を希はんとす。
と読みかつ朗詠されたらしい。平安物語の引歌ならぬ引詩は大方かかる読みで貴公子たちの口にのぼっている。
2011 12・29 123
* 辻善之助の『田沼時代』は文語調なのでなく、きびきびした「語り」の面白い速度感が、こころよく論旨や資料提示を受け取らせてくれる。田沼の頭角を顕す以前から幕政は贈収賄の盛大を極めていたのが正確な事実であり、幕府幕政と限らず朝廷の方でも紊乱を極め、幕府はこれに対し徹底的な逮捕や処断を下してもいた。悪質な者の首を刎ねることも遠慮しなかった。後桃園天皇の頃である。辻さんの意図は、何もかもここぞと「田沼意次」にすべて悪しき風評を事実と背負わせていたのは言い過ぎ、と。こと田沼に関して全部を言い逃れもなるまいが、大方は時代の風潮、悪しき風潮を代表して背負わされていたと、ものの言い過ぎを是正されている。も頗る読みやすく面白く、かつ信頼できる。
* 源氏物語の源氏薨去を暗示した「雲隠」以降「宇治十帖」の始まるまでの、「匂宮」「紅梅」「竹河」三帖は、明らかに筆致も語りの調子も、紫上逝去後を切々とものがたる「幻」の巻までとは異なる印象がつよく、別筆を疑う論者がいても仕方ないと想えるので、通読の際も何と無くさあっと通り過ぎてきた。しかしまた「匂宮」巻など、のちの宇治の物語のためには不可欠の「前置き」になっている。軽率に読んではいけない。
「紅梅」巻を読んでいて、面白い叙述に目を留めていた。
「紅梅」とは、亡き「柏木」次弟にあたる按察使大納言で、亡くした北の方に大君、 中君の二人を産ませ、後添いに得た妻の真木柱にも一人の姫の連れ子「宮の御方」がある。あの玉鬘に執心していた蛍兵部卿宮は、想う人をあっさり鬚黒大将に掠われ、縁は異なもの鬚黒の長女である、玉鬘の義理の娘となった真木柱を妻にして、上の、「宮の御方」を産ませたのだったが、蛍宮は亡くなり、残された真木柱と娘の宮り御方は今は紅梅大納言の妻であり継娘となっている。かつて六条院の光源氏が娘ならぬ娘として育てていた美女玉鬘、あの夕顔の忘れかたみにかなり熱く懸想していたように、紅梅大納言も宮の御方に、妻の連れ子に、まだかすかながら想いを寄せている。東宮妃に上がった大君の後見に宮中に付き添って継母真木柱が不在の留に、なにとはなし大納言は宮の御方にちかづいて、さかんに昔のよき時代を回想して聴かせたりしている。彼には、亡き六條院の光源氏や父太政大臣らの昔が、懐かしくも誇らしくてならない。輝かしい盛時聖代の大立て者達は、そして紫の上も、もう此の世の人ではない。しかし、光や紫や父大臣らを、また蛍宮などを、こうして偲びに偲んで歎いている者も数多いのだ。
そこで大納言は、こんなふうに言う、「おほかたにて思ひ出でたてまつるに、胸あく世なく悲しきを、け近き人の後れたてまつりて生きめぐらふは、おぼろけの命長さならじかしとおぼえはべれ」と。
あれほどすばらしい人たちと一時代を倶にしながらみな亡くなられてしまい、輝かしい想い出ばかりにこうして生きているなど、かれもわれも、長生きはかえって重い負担ですね、と。
「おぼろけの命長さならじかしとおぼえはべれ」とは、なべて死なれまた死なせて生きている者達の心底の嘆息に他ならない、まして大震災や大津波に泣いた人たちには、痛いほどのこれが実感であるだろう。いやいや、こんなわたしにしても同じ事。先立っていった人たちの顔や声が切実に甦ってくる。
これにひきついで、更にもう一つ付け加えておこう、同じ「紅梅」大納言のさきの問わず語りを受け、地の文は、彼が、「もののあはれにすごく思ひめぐらしたまふ」と見定めている。この「すごく」を編註者は「索漠たる気持ち」と説明しているが、もっと深く濃く胸を剔って懐旧にも悲歎にも堪えがたいのである。「すごし」「すごい」とは、もともとこういうふうに用いられる語なのである。 2011 12・30 123
* 千載和歌集を反復読み、更に読み、そして、に就いてこつこつ書いていた。
* 目が疲れてきた。
2011 12・30 123
* 千載集をさらに精読している。
2011 12・31 123