* 夜中に目覚め、岩波文庫の『ヨブ記』をすべて、詳細な註も解説も、読んだ。全能の造物主である神と被造物である人との、対話、対決。深くはありえまいが相応に読みとった。
日本の神話では、民草が神の生んだものという説明は無い。神は神を生んでおり神と神との対話はあるが、神と人との対話は、ほとんど無い。人は神の造った 大地の黴かのように生まれているだけで、神と人とが契約の生活をしていない。神に対する人の義などまったく説かれても求められてもいない。
海外の神話に詳しくないので何も言えないが、神とヨブとの関わりに類した神話をほとんど知らないし、仏陀は神でなく人の光明を得ていたりついた境地である。
ヨブと神との神話は、むしろよほど特異なものであるらしい。わたしの内にも「神」と呼んでいい不思議が生きていないわけでないが、ヨブに対する神のよう な神とは一度も話したことがない。一編のお話しのようにしか迫ってこない。基督教にたいする理解の限界がはっきり感じられている。むしろブッダから会得で きそうな頼もしさをわたしは実感している。仏教と謂っても、大日の阿弥陀の観音のという神話化された教義よりも、端的に、禅という透徹の安心へむかいたい 願いが濃いし強い。
* 空、無と、ブッダは説く。ヨブの神は、言わない。佛は慈悲を謂い、基督教も愛を謂うが、その慈悲と愛とはどう重なり合えるのか、しかとは見えてこない。
ま、どうでもいいことだと思えている。もっとだいじなことが、ある、のだろう。
2016 1/1 170
* この二、三日、小説『墨牡丹』ではないが、村上華岳にふれて書いた自分の旧稿を、懐かしく繙いていた。華岳の生涯と画業を謂いながら、まさしく私自身の小説家としての理想と姿勢と方法を述懐しているようであった。大事に、これを書き留めておく。
2016 1/6 170
* このところ、何度も、グノーの歌劇「フアウスト」を、ただ音楽として聴きながら、原作を想っている。つれて、ミルトンの『失楽園』をなんともいえない 憧れ心地で思い出す。幼少、誰にも知られずわたしは河原町三条の基督教教会へ行ってみたいと想っていたのも思い出す。あれはどうしたのだろう、中学生の 折、人に貰ったとは想われない、偶然に拾ったのかしれないが十字架の鎖を持っていた。英語の先生に見せたら「コンタツ」と謂うものと教わった。身につけは しなかったし、いまでもどこかに仕舞い込まれているのかも知れない。
小さい頃から、家には漢籍も古典籍も信じられないほど豊富だった。だが、そんな中に、誰かから送られたらしい小型の良い新約聖書があり、じつは、わたし はその文語体が気に入り、福音書などはみな繰り返し読んでいた。基督教の空気は、誰からでもない教会からでもない、一冊の聖書から吹き込まれていた。かす かに教会へ気が動き、そのままになった。コンタツとやらを拾っても身には帯びなかった。まったく同時にわたしは、仏壇の般若心経や燈明の色に惹き込まれ、 また地獄の想像に夜中泣き叫ぶ子だった。
高校生のうちか大学入学のころには裏千家から茶名を受けていた。希望した一字は「遠」つまり茶名は「宗遠」とつけられたが、これが「老子」から得た一字 で、老子も荘子も唐詩選も白楽天も、みな祖父の遺していた蔵書で、例外なく小学生の頃のわたしの愛玩書だった、愛読書とまではとても云えなかったが。
わたしは、聖書も含めて古典や歴史書との出会いが、いわゆる小説などの読み物と出逢うよりよほど早かった。変わり者にならずに済まない環境がはなから養家にあったのだ。
2016 1/6 170
* 浴室で未発表の小説『チャイムが鳴って更級日記』を読んだ。快く最初の一節を読んだ。
2016 1/10 170
* 退院した十日の夜に、とうどう曲亭馬琴の大著『南総里見八犬伝』岩波文庫の全十巻の再読を果たした。四年前の春、二度目の入院中から読みはじめ、遅々 として進まなかったが投げ出しはしなかった。一つには馬琴のあくどいほどの文体、クセの強い熟語の猛烈なアテ読み、細緻にわたるルビの読みづらさももとよ りとして、総じて文庫本の字の小ささに悩んだ結果、十巻本に少なくも三年半の余もかけたことになる。感銘は、初読の折りの新鮮な驚嘆に軍配上がり、再読で は大筋の把握は利いたけれど、文学としての魅力はとぼしく、胸を、繰り返しつかまれることは無かった。繰り返して再々読めば読むほど感嘆を深める源氏物語 や寝覚などの、また雨月や春雨などの物語の凛然・毅然とした感銘にくらべると、稗史の臭みは弁護の仕様がない。まことにご苦労を極めた大作であり偉とする に吝かではないが、文藝としては「くどい」というに尽きる。趣向の塊であるが自然味にはよくよく掛けたままの演説読み物になっている。
ま、二度も読めば、もう足りている。幸いに高田衛さんの稠密な労著『八犬伝の世界』に終始手を引いて貰って、いろいろに頷けた、有り難かった。けれど、繰り返していうと、心底からの感動も感嘆もなく、仰山な驚きばかりがあった。
同じ十巻本の、馬琴も大いに斟酌したであろう『水滸伝』の再読を今思っている。
2016 1/12 170
* 今日から「水滸伝」百巻本を読みはじめる。ほかに今はバグワンの「一休」とダンテ『神曲』の「地獄」編を読んでいる。これは、ミルトンの「失楽園」より溯る、文字どおりルネサンスの門を明けて入った古典。そして音楽ではグノーの「フアウスト」を繰り返し聴いている。
昔に、集英社か小学館から現代世界文学全集を全巻貰っている。ジョイスから始まって三十巻ちかくある。サルトルを読みたくなっている。日本の古典は、八 代集のどれかの和歌にしょっちゅう密接しているが、敬遠してきた西鶴をもう少し読みひろげたい。一代男、一代女、五人女しか読んでいない。どうも江戸時代 の日本語表現はすんなり入ってこない。平安物語はもちろん鎌倉室町の物語も愛読してきたが、江戸時代にはいるとなんで日本語があんなに窮屈になるのだろ う。どうも西鶴や
馬琴につっかかるよりは、またまた源氏や平家の方が懐きやすいなと思ってしまう。
ま、奮発して、世界の現代名作を読んで行こうと思っている。 2016 1/13 170
* 今日は睡魔にも負けて(酒の所為でもあるが)怠けてしまった。「なよたけのかぐやひめ」をきちんと読んだだけ。読みはじめた「忠義水滸伝」百巻本に吸い込まれるように入っていった。
2016 1/16 170
* なにかしら集中力を欠いて、ダル重い。腹部不穏を調整できず、仕事に手が着かない。十分寝ているので睡眠不足はないのに、ともするとうたた寝している。
からだを横にすると、モノが読める。水滸伝などに打ち込める。ゲラも読める。
床から起つと、いけない。
街歩きへ出ようともしない。メールもしない。ソーシヤルネットもワケ分からずに使えなくされている。テレビの前へゆくと、コロンボだのポアロだの NCISだのフォイルだの。かと思うと、お肌、ブルンブルン、まさに、なんと、おいしーい、などと喚かれてばかり。国会も、ダメ。
このままだと引きこもりの老鬱にやられる。
驚いたことに東京で五十七年暮らして、あそこへ行ってみたいなと思う先が、思い当たらない。
京都なら、選ぶのに困るほど歩いて行きたいも歩きに行きたい先があり、しかも何度繰り返し出かけても飽きない。
祇園、建仁寺、六波羅、清水坂、清水寺、清閑寺、小松谷、太閤坦、日枝神社、智積院、法住寺、養源院、三十三間堂、博物館、タクシーで泉涌寺即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、観 音寺、泉涌寺本堂、泉山御陵、雲竜院、東福寺、通天橋、三門、本町、東福寺駅から四条、南座、祇園町、母校、八坂神社、円山公園、釣鐘堂、知恩院、三門、 瓜生岩、青蓮院、粟田口、瓢亭、南禅寺三門、永観堂、法然院、銀閣寺、詩仙堂、曼殊院、 タクシーで出町、墓参、糺の森、下鴨神社、同志社、御所を南へ、 鴨川西堤を三条大橋まで、先斗町を四条へ抜けて、縄手から新門前の家へ。
その紀なら一気に回れるが、どの一箇所も其処をだけ目的にしていっても楽しめる。
懐かしくて、いくらか気も晴れる。やれやれ、京都がほんとに遠くなってしまった。
ま、幾らも新しく創作し、とびきりの古典や名作を読み返し、自信のいい本を作り続けるしか元気の道がないようだ。たんに東山べの一画を思い出してみたに 過ぎないが、挙げた名どころの一つ一つにわたしは無数の物語を持っている。そんなのを書き始めたら二百まで生きねばなりまへん。 2016 1/17 170
* 水滸伝の世界、ダンテの地獄、和尚バグワンの境地、加えて、成ろうならわたしはロレンスの「黙示録論」が読みたいのだが、本そのものの重量(福田恆存飜訳全集第二巻)が凄いので棚に上げ、やはり書庫から<サルトルの一冊を抜いてこようと思う。真冬の書庫は寒い。
2016 1/18 170
* ともあれ送り出し作業をひとまず終え、暫く瞑目のままグノーの「フアウスト」一部の第四、五、終幕に聴き惚れていた。ことばは分からないが、成り行き は頭に入っているので、牢ないのマルガリーテ、そしてフアウスト、メフィストフェレスのやりとりはほぼ聴き取れて遺憾はない。この場面じつに多くを思わせ る。
いかなる大才も「フアウスト」第二部は現実の舞台にも歌劇の舞台にも再現できまいが、第一部は出来る。第一部だけであとは失礼した読者も多かったろう、 それほど第一部はドラマとして分かりよく掴みよい。第二部の壮大には、とてもそうはいかない、それだけに第一部とは比べようのない面白さがある。ホメロス の世界ともゲルマン神話の世界とも、無礙に交配されている。しかも全編に不可思議のヒューマニズムが感じられる。そこにゲーテが実在している。
ミルトンの「失楽園」ははるかに神話的で、しすも人間の苦渋に満ちながら、懐かしい。
ダンテ「神曲」の地獄編はかなりイタリアないしフイレンツエのルネサンスに主導されていて、或る意味で偏っている。意味深さ面白さを味わうにはダンテの 頃のイタリア、ローマやフイレンツエなどについて具体的な下敷きの知識を請求される。いましも読み進んでいてそれを感じている。
2016 1/19 170
* ルソーの「孤独な散歩者の夢想」を読み出している。愛読てもなく愛読書にもならないだろう、ルソーは事実の如何を問わず自身を大勢の、いや世界じゅう の他者から悪意に満ちた迫害や厭がらせや苛めに遭い続けてきて、老境の今も変わりないが、ようやくそんな実情を無視しつつ平穏に当然に生きて行ける道と方 法を自分は見つけ得たと、この本で、本気で吐露し続けている。
ルソーはこの世界に近代という新時代の扉を押し開けるに足りた思想家であった、それは認められる。その一方で、粘着性の強い粘液質の性質や言動や思想ま でも大勢の、ことに体制的な人たちから厭悪されがちだったのは事実のようであった。代表作の「エミール」を読んでも「告白」を読んでも、わたしも妙に馴染 めず好きには成れなかった。
いま読んでいる本は、彼の死に近い晩年の夢想・感想の本であり、しんどい荷を負い続け老い逝きし人という印象、捨てがたい。、あ、そうか、あなたはそん なふうに考えるんだと、と胸をつかれることも多くて、賢い人なんだと正直に感じ取れるが、何を励まされるという本ではない。それなのに、こういう被害感覚 のまま世間に怯え世間を嫌って暮らしている人は、本当はじつにじつにかずおおいわけで、そんな人が、お、こういうふうに思えばいいのか、考えればいいの か、やりすごせばいいのかと、かなり教えられることのある本とも謂える。わたしのように「騒壇余人」を自覚して生きてきた作家・文章家からみて、うん、分 かるよそれという言辞もたくさん含んでいて、奇妙に興味も持てるのである。ときどき書き抜いてみたいが、この岩波文庫の文字の小ささ、7ポか、視力の落ち ているときは全然読めないので困る。今も、そうなんです。キイの字は手探りで拾えている。
「水滸伝」は8ポほどか、それに行間がやや広い。しかしなにしろ漢文学、難訓字はルビに頼るのだから、これまた大変ですが、根が講釈。面白く、聴くように読んでいる。
☆ バグワンは言う。
終着地はそこから来た源だ。あらゆるものがその源に帰る。おまえがそこからやってきた<無>、それが真実おまえの目的地だ、自然に生きて自然に死ぬとは それを知るという意味だ。悟り=光明、それは人為的な目的地だ。それを目的になどしてはならない、自然になるのだ、そのときお前は光明を得ているのだ。天 国と地獄は、ひとを支配しようとして僧侶や自称聖職たちがつくりだし発明した仕掛けだ計略だ。人を抑圧するための政治的計略だ。聖職の編みだした論理的結 論のこじつけにすぎない。
ゴータマ・ブッダは、仏陀は天国も地獄も無いと言い切る。天国はないし地獄はない、死後の閨閥や報酬はない。自然に生きて自然に帰るのに聖職者は必要な い、神すら必要がない、存在は自律している。おまえは自分が生まれる前のてんごくやじごくのことを何か思い出せるかね。何も思い出さないなら、そこへ飛び こんで行くことなどないのだ、人はもと来た無へ戻って行くだけだ。無の根底に地獄も天国も無い。聖職の説く人為的・論理的な目標はすべておまえをただ惑わ せる。自然な姿に成るが佳い、人はそうして本物(オリジナリティ)になる。ブッダが体現していたブッダフッドがそれだ、そこに光明エンライトンメントがあ る。
* ブッダの仏教と以降二千六百年もの歴史的仏教をおなじにみることは出来ない。わたしの感触では、禅がもっともブッダフッドに同じいと思われる。だが禅 にも歴史的な境涯禅や趣味禅の禅宗がある。バグワンは、達磨と一休とを、ブッタフッドの至近に在る人と感じているようだ。
2016 1/20 170
* .ルソーの「孤独な散歩者の夢想」は、はじめから、多年かつ多勢からの誹謗・中傷という迫害の苦痛から「平静にかえるまでには十年の歳月を要した」 「運命に黙従して、必然的なものにはもはや逆らうまいとした」ともらしている。たしかに彼は、その死が巷に噂されたときにすら、あの名高いヴォルテールに 言われている、「ジャン・ジャック(ルソー)は死んだが、けっこうなことです。……犬のように死んだということです」と人に手紙を書いていた。何でそう も、という詮索は必要なのか無意味なのか、私にはわからない。ルソー自身には「打つ手がな」く、「あらゆることはなしつくされてしまったのだ、このうえか れらにたいしてなにを恐れることがあろう」「いまではわたしは鼻の先で笑っていられる」と言うのだが、まさしく「あきらめから生まれた心の落着き」だと自 身認めていて、言葉を喪う。しかも、まだこの先に「ついにわたしの胸からこのかすかな希望の光をさえ消し去って、この世におけるわたしの運命が永久に決定 されて」「もうなにもかもあきらめ、おかげでふたたび心の平和をみいだすことになった」などと屈折したもの言いをしているのが、この「孤独な散歩者の夢 想」に入った時期に当たっている。
わたし=秦の誤解でなければ、名の出たヴォルテールとは、優にジャン・ジャック・ルソーと合い並ぶ当時巨大な詩人である。そしてルソーの方は常にほぼ孤立していて、逆にヴォルテールらと呼応する人たちは、当時、國の内外にずいぶん数多かったというのだ。
わかりにくい人である。
2016 1/21 170
* こんな話をバグワンに聴いた。
むかし中国でのことだが、馬祖という優れた禅僧の処へ 、有名な大学の教授が訪れ、悟りを開くには、覚者(ブッダ)になるにはどうすればよいかと教えを請いに来た。馬祖は、ことが事である、まずは仏陀にご挨拶 なさいと甚だまじめに言った。さこそと聞きいれて教授はすぐ、馬祖に頭をさげた―瞬間、馬祖は教授の股ぐらを真っ向痛烈に蹴上げた。――何が起きたか。教 授は笑ったのだ、そのばかばかしさ、に、笑い転げた。教授は悟ったのだ。一瞬に思考は止まり、教授は馬祖が一言もなく教えてくれた意味を「悟っ」た、思考 すべき何も「無」かった。
* ルソーは書いている。
「人間の悟性は官能によって制限されているので、それらを全面的に理解することはできない。わたしは自分の能力の及ぶ範囲にとどまって、能力を越えるこ とには立ち入らないことにした。これは合理的な立場であった。わたしはこの立場をとった。そして心情と理性の同意を得てそこにとどまった」と。
* なんという、馬祖またかの教授と、このルソーとの、径庭、差異。ルソーはさながらに馬祖を訪れたときのかの教授に同じい。そしてルソーは、思い切り股 ぐらを蹴上げられた咄嗟の痛苦のママ高らかに笑い、笑い転げえたであろうか。怒るか、ベソをかくか、「能力の範囲」を駆使して「思考」のかぎり反噬したこ とであろう、西欧の知性の合理と思考分別に頼って足るとし易い寸の短さを感じる。禅の馬祖には、ブッダには、計るべき「寸」など無いのだ。
* 馬祖は中国人だが、中国は広く人も多く歴史の奥底も深い。「水滸伝」の世界にもいろいろと曰くもあろう、禅味さえもあろう、いま、巻の三巻頭の「詩に曰く」に、
時来たって富貴なるも皆命(めい)に因り
運去って貧窮なるも亦た由(ゆえ)有り
事は機関(はずみ)に遇わば須(すべから)く歩を進むべく
人は得意なるに当たって便(すなわ)ち頭を回らすべし
の詩句が読み取れた。こういう現実主義をささえた処世の知恵にも、中国人は臆面というものがない。 ルソーはどう聴くのだろう。
* 「謹呈 小鷹信光」と手書きされた札をはさんで、ハヤカワの「ミステリマガジン」三月の特集号「追悼小鷹信光」が届いた。ハヤカワから届いた。小鷹こ と実名中島信也は医学書院のころの後輩編集者で、その当時からミステリ世界に関係していた。病気に罹ったらしいとは聞いていた気もするが、この特集号巻頭 の「追悼」の辞は小鷹本人が書いている(と読める)。死なれたくはないし、十二月八日とある逝去の日付がまことなら傷ましいが、すこし戸惑う。妻が検索で 調べたところ、逝去は事実のようで、残念なことだ。わたしより一つ若いのである。
中学以来の後輩の信じがたい不孝な癌死を知ったばかり、今日遺族への弔辞などを霊前へ送ったばかりなのだ。気が鬱ぐ。
* 小説「清経入水」の太宰賞受賞「原稿」を読み終えた。受賞作として選評付きで「展望」に発表された「清経入水」は当選原稿を一夜かけて徹底的に推敲改 作した 作であり、むろん編集部にも選者の先生方にも「より、よくなった」と承認の八月号「展望」だった。原稿と改稿とは、ちがうといえば大きく違っている。その 「私家版本」選者銓衡の当選「原稿」を読んだ読者は、世間にまことに数すくなく、よほど多く見ても百人ほど。
2016 1/25 170
* もし人が、「過ちを犯しながら鉄面皮をきめた」ことがあると告白すれば、恥ずかしながら「おれも」と言うしかない。ルソーのように「わたしは過ちを犯 して鉄面皮でいたことは決してない」と言いきるのを読むと、尊敬するよりさきに気分がガタガタになる。ルソーは一七四五年に不幸な女性テレーズ・ルヴァ スールと結ばれ、同棲し、のちに結婚、しかし生まれた子供はみな孤児院に送り、晩年に至るまでテレーズはルソーの「家政婦」だったとルソー自身が「告白」 している。少年の昔に自身の盗みを、無辜の少女になすりつけたのを彼は終生恥じていたが、わたしには、テレーズや彼女とのなかに生まれた子たちへの仕打ち の方が、人種・国家の慣習差を考慮してもなおかつ「鉄面皮」に感じる。むろん近代史のために貢献し得たジャン・ジャック・ルソーの偉さを割り引いたりはし ないけれど。『孤独な散歩者の夢想」における「第四の散歩」前半のごたごたしたあれこれの見解など、まるで「よまいごと」としか読めない。
* バグワンは教えてくれる、「おまえたちはすでにブッダなのだ! ただ忘れているだけだ」と。「必要なのは、それに気付くだけ」「夢から覚めること」と。
ただ、「目覚めは、むずかしい。」「有益だと夢見て有益だと見なしてきた沢山な観念や、分別を、ボロを脱ぐように捨てなければならない」「気付かねばならない」からだ。できることは、「そのまま眠り続けるか、目を覚ますか」そのどちらかしかない。
* 漱石の「行人」を少年の頃読んだ。その中で、悟りを求めて四苦八苦の人が、ある日、自然と無心なまま庭の掃き掃除をしていて、ふと、目に立った石を竹 藪の方へ投げた、竹がカーンと鳴った…即座に、彼は「目覚めた」と有った。なんという美しい目覚めかとわたしは読み取った。この庭掃除の
人、きっと大声で笑い出しただろうと思った。
2016 1/29 170
* 江古田のブックオフで例の岩波文庫を漁り、バルビュスの「地獄」と、ルソーの「社会契約論」を買ってきた。
わたしは、ルソーという人は不可解でかなり辟易するのだが、とはいえ、「聖書」「資本論」と並んで有史以来の三册に挙げた識者もいたほどのルソーの「社 会契約論」に対する敬意はいささかも割引されていない。主権在民の民主主義を真剣に考えるならもう一度も二度も三度もこの「社会契約論」に学ぶべきである と、だれよりも現下の日本の政治家にも国民にもこころから奨めたい。。
* じつは、バルビュスの「地獄」には、というよりバルビュスその人の生涯と晩年には、ルソーへ赴く関心をも超えた凝視を寄せている。徹底的なニヒリスト の地獄から、真摯な反戦に心身を献げて、わたしの生まれる半年近く前にモスクワで亡くなっている。「地獄」は、ほんとうに凄いのである。しかし「地獄」を 超えて出たバルビュスにもわたしは惹かれる。
2016 1/30 170
* 「猿の遠景」という本を出している。中村真一郎さんと最後に会って立ち話の折、というよりも中村さんがわたしを見つけて寄ってこられ、「猿の遠景 よかっ たね、おもしろかった。ああいうのが大事なんだがねえ」と言って下さった。中村さん、その数日後に急逝された。むかし太宰賞授賞式後の二次会にも出て下 さった。痛いほど、懐かしい。
その「猿の遠景」を読みかえした。わたしのたくさんなエッセイのなかで、「能の平家物語」「蘇我殿幻想」などとならんで、いっそ小説なみ、小説として読まれてもいい一仕事になったのではと思っている。
小説「四度の瀧」も読み返している。
2016 1/31 170
* バルビュスの「地獄」 ダンテの「地獄」 ルソーの「孤独な散歩舎の夢想」と「社会契約論」 バグワンま「一休」 そして、「水滸伝」 みな、面白く興味津々楽しんで読んでいる。
2016 1/31 170
* ルソーの「社会契約論」は素晴らしい発言であり論攷であり、論説に賛同するしないを超えて、絶対にして稀有の論旨を打ち出している。このまま「ペン電 子文藝館」などに再掲して再認識して欲しいと願う。少しずつでも此処にも掲載したい。これを真摯に読めば、もはやルソーの「告白」や「エミール」は無用の 存在と排して差し支えないと言いたいほど、「社会契約論」のいわば絶対の民主主義論は決然として耀いている。
2016 2/2 171
☆ 節分
昨日の記述、お母様に対する「永い永い」時間の後の安らい、和みほどける思いを、嬉しく嬉しく読みました。
抗がん剤の副作用が眼や歯に容赦なかったことには圧倒され、絶句します。
歯抜けお爺様は返上して、あと数日で入れ歯ができあがりますよう、とにかく一件落着されますように
身体のさまざまな困難にめげず、靭い精神を保ってらっしゃること、そして行動されていること、読む人の励ましになっていると確信します。
小倉ざれ歌、あと八首、早く百首成って読ませていただきたいと期待しています。
ざれ歌だからこそ簡単に詠めるものではありませんから。
ルソーやバルビュスの著作、いずれも半世紀近く前に読んだことがあります。
ルソーは女性やわが子に対する「処置」を知った時に、たといどんなに立派なことを書いていて
も信じられないと、これはわたしの若気に至りかもしれませんが、以後彼の本は読んでいないのです。
バルビュスの『地獄』はニヒリストの立場ながら読む人は好奇心や覗き見趣味に終わる危険性を孕んでいました。彼バルビュスの後年の軌跡の中でソ連擁護な ど時代背景を考えれば当然だったかもしれないと思いつつ、スターリンの伝記を改作している時期にモスクワで亡くなったなどを知れば、なんともミステリーめ いています。が、詳細は知らないのでそれ以上は・・。『クラルテ』という作品は読まれましたか?
『初稿・雲居寺跡』はまだ読み終わっていません、難渋しています。難しいです。
『資時出家』の中のp20、院が「政に自信はない、と仰せられたよ」とある箇所を読
みながら、同時に院の存在の不気味さ、大きさをも感じました。
『親指のマリア』については既に述べられた方もいらっしゃるので・・ p331以下の絵について書かれた箇所が心に沁み込みます。
「親指とみても小指とみても、両方いいのですよ。小指ならばこの小指は、母に抱かれたみ子・・・もし親指を描いているとすれば、母の愛とともに、父なる神の愛もまた同時に、こうして・・子に・・、人の子すべてにまぢかに在ることを、表してみせたのです」
わたしがあまりに視覚人間だからでしょうか。そして上野の美術館やフィレンツエのピッテイ宮殿などのドルチの絵に魅かれているからでしょうか。
春立つ前の今日、冷たい空気に身が引き締まります。わたしの家族はそれぞれに問題を抱えて、まだ具体的な解決が掴めません。が、ワハハと一番磊落な態度をしているのがわたしらしいです。
娘がHPにあるわたしの詩の一つを読んでママの気持ちが分かって涙が出たと伝えてきました。面はゆく受け止めました。
くれぐれもお体大事に 再度、鴉の歯の修復が早く済んで、少しでも晴れやかになりますよう、風邪ひかぬよう。 尾張の鳶
* ありがとう。しみじみと繰り返し読みました。
この季節には、蕪村描く枯木雪中の鳶の繪、鴉の繪が瞼にうかびます。
親指、小指 あれはしみじみとした気持ちで感得したまま書きました。ああいう箇所にふれてもらえると作者冥利です。感謝。
大幅に歯がないのも、さほど気にせず時に忘れています。昨日も歯医者でこれは蝋で造りました見本、この通りに歯を造りますと手鏡で見せてくれ、なるほど と思いそのまま蝋の歯が入ってるものと思い帰宅して、食事しかけて歯が無いので慌てました。呑み込むには大きいし、電車や路上へ落としてきた自覚は皆無な ので、ギヤアギヤア騒ぎ立てましたので、家内が歯医者へ電話しましたら、見本の歯はこっちに置いて有りますよと。つまり入ってない歯を入ってるものと思い 込んでたワケで。つまり、あんまり歯抜け顔を気にしていないんです。小野小町でも在原業平でも晩年歯抜けでなかった保証無いんですからね、と。
さてさても繪も詩も、ワハハと描いて書いてください。
* ルソーについてもバルビュスについても、だいたいこの人とは、話が通りやすい。世界を繰り返し独り歩きしているし、西洋の文学にも美術にも実物に触れてわ たしなどより遙かに精しく、しかも京大での専攻は中国文学・思想というから、何を教わるにも頼もしい。どれだけたくさんな本を貰ってきたか、教わってきた か、「指輪物語」も「水滸伝」も「抱擁」も「ゲーテ名言集」もマキリップの「ヘド」の原書も、とにもかくにも受容超過の上に、久しくも久しく何かと激励さ れてきた。バルビュスの「クラルテ」は一の名作であり、必読の一冊とは知っていても、まだ手にしていない。「地獄」からは深い深い絶望の情けなさを読み 取ってきたが、この作者の人生は、ウーン、不可思議にひっくり返るのだ。「クラルテ」必ず読もうと思っている。
2016 2/3 171
* 十一時半。もう寝床に入って、いましばらく、「選集⑭」初校 「湖の本129」再校。そのあと、バルビュス、ルソー、バグワン、そして水滸伝を楽しんでから寝ます。地震、ありませんように。
2016 2/5 171
* ペン会員のつかださんからバレンタインデーのチョコやお菓子を添えて、『東欧の想像力』訳本や詩集『世界』の訳本など戴く。
2016 2/6 171
☆ 共感を籠め、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』(桑原武夫他・訳)を、随時に、抄録しておく。「人間の自由」と「民主主義」を大切に思われる方々の胸にも届いて欲しいと願う。
1 自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、わたし(ルソー)の発言が公の政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。
2 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。
3 人民は、(支配者が)人民の自由をうばったその同じ権利によって自分の自由を回復する
4 人間は、理性の年齢に達するやいなや、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人になる。
5 家族はいわば、政治社会のモデルである。支配者は父に似ており、人民は子供に似ている。
6 家族においては、父親の子供に対する世話をつぐなうものは子供たちに対する愛だが、国家においては、支配者は人民にたいして、この愛を持たないで、支配する喜びばかりがはたらく。
7 グロチウスやホッブスの(悪しく間違った理解によると、)全人間は百人ばかりの人間に従属していて、人類はいくつかの家畜の群として分たれ、その各々の群には主人があり、その主人は家畜をむさぼり食うために番をしているということになる。
8 アリストテレスもまた、すべてこれらの連中より前に、人間は決して生まれながら平等なのではなく、あるものはドレイとなるために、また他のものは主 人となるために生まれるのだと(「政治論」で)いった。だが彼は結果と原因を取り違えていた。ドレイ状態のなかで生まれた人間のすべては、ドレイとなるた めに生まれたのだ。(そんな勝手な「状態」がつくられてなかった以前は、人間は本然自由なのであった。)暴力が最初のドレイたちをつくり出し、彼らのいく じなさがそれを永久化したのだ。 (第一編 1、2章より)
2016 2/7 171
☆ ゆくすえにやどをそことも定めねば
ふみまよふべきみちもなきかな 一休
* 未来にも死後にも迷惑してはならない。「目的地」は要らないのだ。「目的地という観念そのものが天国と地獄をでっち上げると、バグワンは正確に教えている。
2016 2/7 171
* さ、黒いマゴに輸液してやったら、床について、もうすこし、いろいろ読もう。水滸伝はもう十巻本の第二巻に入っている。
2016 2/7 171
☆ ルソーの『社会契約論』から
9 最も強いものでも、自分の力を権利に、<他人の>服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人(=独裁者)でありうるほど強いものでは決してない。
10 暴力に屈することはやむをえない行為だが、意志による行為ではない。いかなる意味でそれが義務でありうるだろうか? この(暴力的な支配者が)権利と称す るところのもの そこから結果するものはただわけのわからぬたわことにすぎぬ。
11 もし(暴)力のために服従せねばならぬのなら、義務の意味で服従する必要はない。(もともと)「権利」という言葉が(暴)力や(支配)に附加するものなど 何ひとつ無い。権力者には従え。もしそれが、力には屈服せよ、という意味なら、よけいな教訓(=お世話)だ。
12 力は権利を生み出さないこと、また、ひとは(万人の自由で平等な意志に基づいた)正当な権力にしか従う義務がないこと、を、(心底から=)認めよう。(本 来自由で平等な人間の尊厳において、認めよう。) (第一編の③ 最も強いもの(本来自由な人間)の権利について)
☆ バグワンの『一休』に聴く
仏陀は、神という言葉はけっして使わない。神から、間違ったものごと 僧侶、寺院、経典、儀式が連想されるようになったからだ。神に代わる彼の言葉は、 無 nothingnessだ。無に祈ることは出来ない。儀式を創り出すことはできない。それが無という言葉の美しさだ、それが真実の宗教性を創造する。 その美しさをみるがいい。シュンニャータ、より的確に no-thingness。無は、「何もないこと」ではないのだ。
雨あられゆきや氷とへだつれど
おつればおなじ谷川の水 一休禅師
一休は言う。おまえは自分が生まれる前の天国や地獄のことを思い出すかね! 何も思い出さないなら、そこへ戻ってなど行くことはない。天国とか地獄とかはそもそも一度もなかったのだから、終わり(死後)にも無い。
2016 2/9 171
* 丸川珠代という環境大臣の無知で無恥な食言追及をうけての、うわべを糊塗しようとあくまで醜い無表情で答弁にならぬ逃げ口上をあやつる奇怪さ、大臣自 身がヘドを吐いているに同じいとまるで自覚がない。安倍晋三総理に、任命責任以前の任命能力が無い事例が、ぞくぞくと続く。日銀総裁しかり、NHK会長も しかり、どう言い繕っても「安倍人事」であったことに疑いもない。おりしも株価は大暴落、アベノミクスはとうに「国民を虐げる苛烈なアベノリスク」と変じ ている。退陣せよ。
☆ ルソーの『社会契約論』に聴く。
13 いかなる人間(=権力者)もその仲間(=人民)にたいして(根っからの、本来的な=)自然的な権威(=神にも許されたかのような独裁の権利)をも つものではなく、 人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、(人みなの承諾した=)約束(=社会契約)だけがのこる。
14 他人のドレイとなる人間は自分を(使用支配者に=)与えるのではない、身を売るのだ。(しかも)国王(独裁権力)はその臣民(人民)たち(の安寧のため=)に生活資料を与えるどころか、自分の生活資料(=栄耀栄華)をもっぱら臣民(人民)たちからひき出し(=奪いとっ)ているのだ。
15 専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、と(もっぱら屈従し阿諛を事として=)言 うひともあろう。しかし、彼(=専制権力者)の野心(=と高慢)が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪欲や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民 たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうるところがあろう? この(虚妄の=)安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つで あるならば、彼らは(独裁専権横暴の支配から=)何の得るところがあるだろう?
16 一人の人間たるものが(権力や暴力のまえに=)ただ(=無料、何の反対給付もなし)で自分の身をあたえる(=献上・奉仕)などというのは、ばかば かしくて想像もつかない。そうした(自己喪失・基本的自由の放棄という=)行為は、それをやる人が思慮分別を失っているという、ただそのことだけで、(自 然の本然に背いた=)不法で無効な(愚かしくも誤った=)行為なのだ。 (第一編の④ ドレイ状態について つづく)
2016 2/10 171
☆ ルソーの「社会契約論」に聴く。
17 (生まれながらに誰しも=)一人の人間が、ただ(=何全くらの反対給付も報酬も無し)で自分の身を(王や権力支配者に=)あたえる(=差し出す)など というのは、ばかばかしくて想像もつかぬことである。(強圧の強権に暴力的に強いられているという事情は斟酌せざるを得ないとしても=)こうした(本来自 由な存在として生を得て生まれた人間の屈従の=)行為は、それをやる人が(支配者も被支配者も共に=)思慮分別を失っているという、ただそのことだけで (本来の自然に逆らい、それゆえに本来許されない=)不法な無効の行為なのだ。
18 子供たちは、(むろん、だから大人であっても=)人間として、また自由なものとして、生まれる。彼らの(その基本的で自然な全部の=)自由は、彼 らのものであって、彼ら以外の何びとも(王であれ、支配者であれ=)それを勝手に処分(=無視・圧殺)する権利はもたない。
19 自分の自由の放棄、それは人間の人間たる資格、人類の権利ならびに義務をさえ放棄することである。
20 要するに、(人間が人間同士一致し合意して社会や國の成立を=)約束(=契約・誓約)するとき、一方に絶対の権威をあたえ、他方に無制限の服従を 強いるのは、(本来何の差別もなく自由に生まれた人間の自然な尊厳を踏みつけた=)空虚な矛盾した約束なのだ。(なんら根拠のないただ暴力的で強圧支配の 悪政を事とする王権や政権は、許してはならない。) (第一編④ ドレイ状態について つづく)
* 「有史以来、人間の精神にもっとも大きな影響をあたえた本」として、或る英国の学者は『聖書』『資本論』そしてこのジャン・ジャック・ルソーの『社会 契約論』を挙げていると訳者代表の今は亡き桑原武夫さんは岩波文庫に「まえがき」されている。わたしはまだ「資本論」とは面会していない、「共産党宣言」 や「賃金」論などは気を入れて読んできたけれど。
ルソーという人は、どうにも肌身をよせて近付くには気味の悪いいやみを感じさせるのだが、従って『エミール』も『告白』も、最晩年の『散歩者の夢想』に も親密には近寄れないのだが、この『社会契約論』だけは絶対に無視できない、いやほぼ全面的に受容し協賛したい論考・論理であると、讃嘆を惜しまないので ある。
ただ言い添えるが、これは徹頭徹尾、机上の論理・論考であり、ルソーの肉体化した思想なのかどうかには理解が及んでいない。数学にも似た論理であり、肉体化した熱い血の息づいた思想ではない、と、いまぶん私は感じている。そしてこの論理・論考には承服している。
2016 2/11 171
☆ ルソーの『社会契約論』に聴く
21 負けた者を殺す権利などというものが、決して戦争状態から出てくるものでないことは明らかだ。
22 戦争は人と人との関係でなくて、(支配と所有を無軌道に望む=)国家と国家(=体制と体制)の(欲が先行の=)関係なのであり、そこにおいて個人 (=国民や私人)は人間としてでなく、市民としてでさえなく、ただ兵士(=たるべき者)として偶然にも敵(対者)となるのだ。 要するに、敵とすることが できるのは他の諸国家(=諸体制の王や専制者・支配者)だけであって、(個々の私民である=)人々を敵とすることはできない。
23 戦争の権利を行使しているかぎり、いかなる平和条約(=も、協約)も想定されない。彼らは一つの約束を結んだというかもしれない。だがその約束は戦争状態をなくするどころか、その継続を想定しているのだ。
24 このように、ものごとをどちらの奉公から考えてみても、(人間が人間を=)ドレイにする権利は無効なのだ。なぜかといえば、それは不法であるばかりでなく、バカげた、無意味なことだから。
25 一人対一人の場合でも一人対全人民の場合でも、次のようなせりふは、いつでもバカバカしいことに変わりはない。
「わたしはお前との間に、負担は全くお前にかかり、利益は全くわたしのものになるような、約束(=契約)をむすぼう。その約束を、わたしはわたしの好きな間だけ守り、そしてお前はわたしの好きな間だけ守るのだ。」
* 嗤ってしまうけれど、事実は、そんなふうな好き勝手な政権リスクに国民は本来の権利をちょろまかされ、奪われ続けている。基本的人権、表現の自由、結社の自由、税、生命・健康の安全等々。
2016 2/11 171
☆ ルソーの『社会契約論』に聴く
26 多数者をおさえつけることと、一つの社会を治めることとの間には、いつでも大へんな違いがある。ばらばらになっている人々が、つぎつぎに一人の人 間のドレイにされてゆくとして、その人数がどうであろうとも、わたしはそこに、一人の主人とドレイたちしかみとめない。それは集合とはいえようが、結合で はない。そこには公共の財産もなければ、政治体もないのだ。この<主人となる>人間は、たとえ世界の半分をドレイ化したとしても、やはり(契約された王でも大統領でも総理でもない=)一私人にすぎない。この当人が死ぬようなことになれば、その死後の(じつはなんら帝国ならざる=)帝国は、ばらばらで、つながりのないまま(國でも政体でもなく=)のこされるであろう。
27 もし(一切に先立って=)先にあるべき約束(=契約、憲法)ができていなかったとすれば、(かりに平等な討議やはからいがあったとして=その承諾 や承認のための)選挙(投票)が全員一致でないかぎり、少数者は多数者の選択に従わなければならぬなどという義務は、一体どこにあるのだろう? 主人(君 主・支配者)をほしいとおもう百人の人が、主人などほしいとおもわない十人の人に代わって票決する権利は、いったいどこから出てくるのだ? 多数決の法則 は、それ自身、(初原の=)約束によってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである。 (第一 編の⑤「つねに最初の約束にさかのぼらねばならないこと」 より)
2016 2/14 171
* 詩を書くひとは、なんとなく畏怖する。短歌なら、めったに感服できる歌人には会えないのに、詩人は、詩なる表現がわたしには手に負えないだけに頭をさげてしまう。そしていつも新しい詩集が読みたくなる。
* 大学の頃の亡き恩師の奥さんから一冊の自著を頂戴した。とても、興深かった。御 生家はあの御堂関白藤原道長いらいの公卿家の飛鳥井伯爵家、蹴鞠と和歌の家で、わたしの手元にも雅章の掛け物、七夕を詠じた懐紙がある。百人一首の参議雅 経、新古今集選者の一人はまさしくご先祖。その子孫も子孫も、お姫様の現代の歳月を淡々と高雅に書かれていて、題して『栄枯盛衰』の幾変遷が、まことに面 白い。学生の頃お宅へ先生と碁を打ちに出向いていたし、作家になって以降、東京でお目に掛かってもいる。今は大津雄琴におひとりで過ごされていて、湖の本 など、絶やさずお送りしてきた。
長生きしていると、いろんな面白いことにも行き会える。
2016 2/16 171
☆ ルソーの『社会契約論』に聴く
28 人間は(人間自身の内側から個々に=)新しい力を生み出すことはできず、ただすでにある(慣習的な=) 力を結びつけ、(開発し発明した機械等の能力を借りて=)方向づけることができるだけであるから、生存するためにとりうる手段としては集合(=団結)する ことによって抵抗に打ちかちうる力の総和を、自分たちが作り出し、それをただ一つの原動力で(=社会・国に)働かせ、一致した動きをさせること、それ以外 にはもはや何もない。
29 この力の総和は、多人数の(=自然本然の自由という権利に基づく)協力によってしか生まれえない。(自由な精神の自立意志だけが成し得て、いかなる機械的科学の成果も、邪魔をしさえこそすれ、役には立たない。)
30 「各構成員の身体と財産を、(自由をまもりぬきたい=)共同の力のすべてのとまたひと味違うのと能登をあげて守り保護するような、結合(=団結)の一形式を見出すこと。それ によって各人が、すぺての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」これこそ根本問題であり、社会契約がそ れに解決を与える。 (第一編の⑥ 社会契約について の一)
☆ .ルソーの「孤独な散歩者の夢想 第五」(今野一雄訳)に聴く
(ルソーはその生涯で、弾圧と追及から遁れるように湖のなかのサン・ピエール島に隠れ住んだ短い月日をもち、そこでの日々をこの世の楽園のように愛した。
以下は、その「幸福」を書きとめた文章の一部である。
どう読ま れるかは、人それぞれであろうし、わたとはと言えば、奇妙に、読み煩う。ほんとにそうなのと自分自身に反問したくなる。
ルソーという人の一種気味悪いもの言いに、 つい立ち止まる。
しかし、この「第五の散歩」は、さも最も美しい達成かのように評価高い、文藝的な所産として。)
(前略)
長い生涯のあいだの移り変わりのうちに、わたしはこのうえなく甘美な享楽と強烈な歓喜の時期の思い出が意外にもいちばんわたしを惹きつけ、つよく心にふれるものではないことを知った。
激しい情念にとりつかれたそれらのみじかい時期は、どんなに生気にみちたものであろうとも、その激しさのゆえにこそ、生の直線上にまばらに散らばった点 にすぎない。それはごくまれに起こり、すみやかに消え去るのであって、ひとつの状態を構成することができないし、わたしの心が愛惜する幸福とは、たちまち に過ぎ去る瞬間から成り立っているのではなく、ひとつの単純な変わらない状態なのであって、そこには激しいなにものもないが、その持続は魅力を増大させ、 やがてそこに至高の幸福をみいだすにいたるのである。
この世におけるいっさいはたえざる流れのうちにある。そこではなにものも不変のきまった形をもちつづけることなく、外界の事物に執着するわたしたちの感 情も必然的にそれらの事物と同じように移り変わっていく。それはたえずわたしたちの前にあったり後にあったりして、すでにない過去のことを追憶し、大方は 起こるはずもない未来のことを推測する。そこには心がつよく結びつくことのできる堅固な者はなにもない。だからこの世では一般に移りやすい快楽が味わえる だけなのである。持続する幸福というものは経験されたことがあるかどうか、わたしは疑わしいと思う。わたしたちが味わうこのうえなく強烈な享楽のさなかに あってさえ、「この瞬間がいつまでもつづけばいい」とほんとうに心情がささやくことができるような瞬間はほとんどない。
そこで、わたしたちの心になお落ちつかない不満を覚えさ、以前にあったなにものかを愛惜させたり、これから先のなにものかをさらに願望させたりする、そういう瞬間的な状態をどうして幸福と呼ぶことができよう?
しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して。過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要も ないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や 享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができ る、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような 不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じ させないのである。こうした状態こそわたしがサン・ピエール島にぉいて、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ち さゎぐ湖の岸べにすわって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状 態なのである。
そのような境地にある人はいったいなにを楽しむのか? それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状 態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある。他のあらゆる情念をふりすてた存在感はそれ自体、満足と安らいの貴重な感情なので あって、この世でわたしたちの心をたえずこの感情からそらして、その楽しさをかきみだそうとするあらゆる官能的な、地上的な印象を自分から遠ざけることの できる人には、その感情だけで十分にこの存在は愛すペき快いものとなる。
しかし、たえず情念に悩まされている大多数の人々は、そういう状態をほとんど知らないし、あるいはほんのみじかいあいだしか、また不完全にしか味わったことがないので、それについてはあいまいな観念しかもつことができず、その魅力を感じとることもできない。
そればかりではない、現在のような世の中では、そういう快い陶酔境にあこがれて、たえす心にわき起こる欲求が義務として命じている活動的な生活への興味をうしなうことになるのは、結構なことではあるまい。
けれども人間社会から引き離され、この世ではもう他人のためにも自分のためにも有益な、役にたつことをなにひとつすることができない不幸な人間は、この 状態のうちに、あらゆる人間的な幸福をつぐなうものを、運命も人々も奪い去ることのできないつぐないをみいだすことができる。
たしかに、こうしたつぐないは、すべての人が、どんな境遇にあっても感じることができるものではない。心を平静にたもち、それをみだすようなどんな情念 もあってはならない。それを感じる者にはある種の心構えがなければならないし、周囲にある事物にも協力的なものを必要とする。それには絶対の休息も過度の 興奮もあってはならず、動揺や中断をともなわない適度の一様な運動が必要なのである。運 動がなければ生も昏睡状態にひとしい。運動が不均等だったり激しすぎたりすれば、それは心を呼びさます。わたしたちに周囲の事物のことを考えさせて、夢想 の魅力をそこない、わたしたちを内部から引き離して、たちまち偶然と人間による束縛へと連れ戻し、ふたたび不幸を感じさせる。
絶対の沈黙は悲哀をもたらし、死の姿をのぞかせる。そこで快い想像の救いが必要となるのであって、想像力に恵まれた人間にとっては、この救いはごく自然にやってくる。 (後略)
2016 2/19 171
☆ バグワンに聴く
おまえは自分にまつわる観念にひどく巻き込まれている――自分はヒンドゥ教徒、回教徒、基督教徒、仏教徒、共産主義者、資本主義者、男、女、白人、黒 人、右だ左だ、あれやこれやだ、と。おまえはあまりにも自己確認(アイデンティティ)に巻き込まれているために、内側をのぞきこみ、自分が本来純粋な空 (カラ)以外の何物でもないことを見ようとしない。このあれやこれやは、もな、すべて真澄の鏡である空(そら、カラ、くう、無)をさえぎる雲だ。雲に囚わ れてはならない、空を思い出し続けなさい。
この内なる<無>を見抜いたら、人は、おまえは、真如(suchness)になる。真如という言葉は仏陀において無限の価値と重みをもっている。如如 (タタータ)、すなわち真如。タタータにあってはすべての抑制、すべての規律、すべての操作は姿を消す。自由とはそのことだ――まどわしの雲一切からの解脱(モクシァ)だ。おまえの内側深くにある<空>、真如の<無・空>に生きよ。
* 静かな心にも容易になれなくて騒がしい日々を生きながらも、わたしはバグワンの言葉を根底から肯っていて疑わない。自分の至り得ないのは情けないが、自分 がまさしく「夢」中に生きていて、それらも覚めれば烟のようなものと思い、いつかはたと覚める機に会うのを待っている。間に合うかどうか。それすらも、も う忘れている。当面、したいことをしたいまま無心に静かにし続けていたい。
2016 2/21 171
* 「水滸伝」もう三冊目を読んでいる。もともと講釈に同じい著作であり、そのまま漢学の大家が講釈口調に訳されているのが、読みや易くも奇妙でもあっ て、とんとん進む。豪傑ということばを近年は地を払ったように聞かない。稀に聞いても他人に惘れ嘲り笑って「あいつ、ゴーケツだから」などと謂っている が、わたしの子供の頃は、豪傑という一語が敬愛を帯びて残っていて、塙團右衛門だの後藤又兵衛だの薄田隼人だの加藤清正以下の七本槍だのと具体的であっ た。
いまの世に、映画やドラマや舞台では別にしても、新聞沙汰にまことの豪傑などだれ一人登場しないで、号泣市議や謝罪代議士や麻薬選手や悪政総理だのが もっぱら情けない思いをさせてくれるばかり。腕力・暴力の豪傑は要らない、しかし人間味において豪傑である人には出会いたい。
「水滸伝」は大勢の豪傑が結束して悪しき権勢と対抗する物語であり、「三国志」にも襟を正して向かわせるシンの豪傑が大勢登場して魅力の粋を成している。 あの孫悟空にしても豪傑なのであり、中国人はとびぬけて豪傑を賛美し待望する国民のように思われる。日本史に、真実の豪傑が国政を宜しく左右したといえる 実例がとぼしい。スサノオ、オオクニヌシ、神武天皇、ヤマトタケル、神功皇后、聖徳太子、中大兄・天智天皇、藤原鎌足、天武・持統天皇、藤原不比等、桓武 天皇、坂上田村麻呂、弘法大師、藤原基道、菅原道真、藤原忠平、平将門、藤原道長、源義家、後白河院、平清盛、源為朝、源頼朝、木曽義仲、源義経、北条政 子、北条義時、北条時宗などと思い付くまま人の名を挙げていっても、偉人はいても、豪傑だなあと半ば惘れつつ讃嘆できる豪快なそして大きな人物は少ない、 いない。将門、清盛、北条義時、時宗、そして或いはその上を行ったのはひとり後白河院であったろうか。持統女帝、桓武天皇の位置にも豪なる意義を覚える が。
* バルビュスの「地獄」にも、予期していた以上に文学としても思想としても捨て得ない意義と価値とを感じながら読みすすめている。一言で謂えばこの小説 は終始「盗み見」「覗き見」「聴き耳」という性的な破廉恥行為を積み重ねながらの、「孤独」と「絶望」の文学を成している。飜訳がよく、不快感はうすく、 痛切な悲哀にも失望にも動揺にも満ちていて、見ようによればだが異様に心うたれ心しおれ、「性と生」の人としての底知れぬ虚無を覗き込んでいる自身に突き 当たる。
この作家は、人性と信仰への深い虚無と絶望の世界から、一転していわば「闘士の闘士」として世を支配する権勢への闘いを挑むことになる。
わたしは、その後の作家としてのまた闘士への展開には、作の上で触れていないが、またブックオフで探し出してこよう。
2016 2/22 171
* 起きてまずルソーの「孤独な散歩者の夢想」第六を読み始めた。老いて孤独を痛感している彼ルソーは、バリ市街或るきまりだった散歩道を、途中わきへ曲 げてしまった理由を語っている。貧しい物乞いの少年と出会う道だった、ルソーはいつも気分良く「ほどこし」もし談笑も楽しんでいたが、少年からふと「ル ソーさん」と呼ばれることに躓いた。「ルソー」の何たるも全く知るまいに、と。そして毎日の散歩道を途中で曲げて少年を避けたのである。
彼は書いている、「わたしは、善行を施すということこそ人の心が味わうことのできるこのうえない真の幸福であることを知っているし、そう感じてもいる。 けれどももう久しいまえからそういう幸福はわたしの手の届かないところへいってしまったし、それに」と言葉を続ける。「善行を施す」と書かれた言語での ニュアンスは察しがたいが、ルソーは「ほどこし」という語を少年との出会いや親愛のなかで何度か用いている。「善行を施す」のが「このうえない真の幸福」 とルソーは言うが、その幸福はまったく自分の幸福に局限されていて、施される側の幸福とは必ずしも噛み合っていない。「善行の施し」とは自己満足に流れか ねないいささん気味の悪い幸福感でもある。「施し」さえすれば アトは向こう次第と身を翻せる。「このうえない幸福」とはそういうものか。そしてそんな幸福もめそーの手に届かなくなっていると慨いている。
ルソーは言葉をこう継いでいる、「もう久しいまえからそういう幸福はわたしの手に届かないところへいってしまったし」とは、「施し」の気が遠のいたの か、「施し」たくても不可能になったというのか、「それに、わたしがおかれているようなみじめな境涯にあっては、自分の好きなように、またよい結果を生む ように、真に善であるとされる行為を行うことはとうてい望むべくもない。わたしの運命を左右する人たちがなによりも心がけているのは、わたしにとってはす べてが偽りの、人を欺くみせかけにすぎないものとなることなので、美徳になる動機も、わたしを陥穽に誘いこんでからめとろうとするために差し出すおとりに きまっているのだ。わたしはそれを承知している。わたしは承知している、今後わたしの力でできる唯一の善は、行動を差し控えて、心にもない悪を知らないう ちたに行うようなことをしないことだ、と。」
わたし(秦)は、ググっと前のめりに躓く。ルソーは「このうえない幸福」だの「真に善」だの「美徳」だの「唯一の善」だの「施し」だのと文字にしている が、それらは彼の「何」なのか、曖昧でただ自己的で、あまりに理にすら成らない美辞麗句ではないのか。かの友ですら有り得た「少年」の一切がただかなぐり すてられて、ルソーは或る被害感覚に浸りながら、「ことば」だけを綾取りしている。そんなふうに読めてしまい、微妙に気味が悪い。「大層そうに」とつい頬 が歪むのは、此の私に無理強いがあるのか。
ルソーは、自分はこんなに純乎として真善美たろうとしているのに、他者からの迫害や干渉がそれを妨げるとばかり言っている。深い内奥の価値を、あまりに 自他相関の葛藤に帰している。彼はおそらく最も非宗教的な人、分別と言葉と論理の人に思われる。そして人のセイに帰して行く。
ブッダフッドに生きる覚者ブッダはこうは固まらない。ブッダは固まらない。
「要点を見抜くと、笑いがこみあげてくる…そして、くつろぐ」とバグワンは語ってくれる。「笑いがこみあげてくる」というこの幸福の、くつろいだ嬉しさ の、片鱗ていどは幾度か体験してきた。「こみあげてくる笑い」とは、なんと無垢のうれしさだろう、但しただの笑いではない、「要点」を見抜いたと同時にこ みあげてくる笑い」だ。「要点」だ、それはリクツではない、論証ではない。突貫だ、破裂だ、爆発だ、静かな目覚めだ。
* バルビュスの「地獄」は、はるかに刺激的に率直で、ふかい悲しみや、もはや持ちきれない孤独と絶望の「詩情」を、まるで睡魔とのたたかいかのように、切にうたっている。詩句に鏤められた心情の真味は舌を曲げるほど苦いが、否認のならぬ力をもっている。 2016 2/23 171
* 起き抜けに毎朝ルソーを論うのは愉快でないが、昨日に続いて、夢想する散歩者ルソーは言う、「わたしは、自分が施す恩恵があとにひきずる義務 の鎖のゆえに、しばしばそれを重荷と感じることがあった。そうなると、楽しさは消え去って、初めは快く感じたそうした世話をつづけることにほとんどたえが たい責苦をみいだすだけだった」と。ルソーの「施し」とは「楽し」く与える「恩恵」「世話」であって、その幸福な「楽しさ」が「消え去」れば継続して「施 し」などしたくない、むりに継続すれば「義務」の「重荷」となり堪えがたい「責苦」になる、ということのようだ。
ルソーの「施し」は、即、偽善の最たる表現で、だからもう「施」さないのだとなれば、そもそもかれの「善行を施すのは最高の至福」という思想は一片の紙屑と化するのか。
ルソーは、言い続ける。
「あふれる真心をもってあたえられたその最初の恩恵からひきつづいて予期しなかった一連の約束が(義務として=)生まれ、もうその強制をまぬがれることが できなくなる。」「自由にこちらから進んであたえ(つづけ=)たその最初の恩恵は、次(々=)の機会にかれが必要とする恩恵の無条件的な権利となって、わ たしの無力もそれをまぬがれる理由にはならない。」かくて「まことに快い楽しみもまもなくわたしにとっていとわしい屈従に変わってしまうのだった」と。
ルソーの「施し」とは「まことに快い楽しみ」まさに一方的に与えて得る自己満足であった。しかしこの行為は与える・与えられるという複合の人間関係で成るもの、片方の好き勝手な満足や幸福感のまま推移する事態で無い。
そもそも、上のような一連のルソーの「施し」行為から得たと見える閉口の結論は、滑稽ではないのか。人に安易に施せばそれがいつか双方の契約か義務と権 利とへ擬似的に変貌して行くことなど、少しく人間の世間に通じていれば容易く推測できるはずのもの。「施し」の真義とは、血肉をもなげあたえて辞さない慈 悲心を貫くか、貫けるのかという所へ突き当たる。決して安閑として安易に「施す」幸福をなど歌えることではない。軽々しく「施し」たためにあとあとまで追 求から逃げ続けねばならなかった、そういう事例は見聞けっして稀ではない。ルソーのこの大層な自己満足の挫折報告は、彼が「机上の論理」にみごとに長けて いても、世俗の世間と人間の実情は洞察できていなかった、目を背けていたことを自ら暴露しているのではないか。
* わたしは「エミール」にも「告白」にも深く胸うたれる幸福は得ていない。自己弁護の生涯、体験が希釈蒸発し、アイデアを机上の理論化に懸命な賢い人という、ある種の疎ましさをルソーに対し捨て得なかった。
そんな彼ルソーの到り着いてみごとな「理論」は、ほぼ唯一『社会契約論』であって、フランス革命の論拠としても、マルクスらの共産党へも道を付けた。論 理として精緻精到と読める。だが、しかも、どことなく「空論」じみた言葉の「組み立て」作業に徹している。わたしは「社会契約論」の存在意義も価値も認め るが、その著者のウソクサイ空気感には馴染めそうにない。妙な人であるなと腰を引く。
2016 2/24 171
☆ 冷たいけれど爽やかな風
春の気配も感じつつ、一日一日が過ぎていきます。
先日、腹部の不快感について書かれていましたが、その後いかがでしょうか。
一月に北近江に出かけ、羨ましいとの感想をいただきました。
新幹線や在来線の車窓からの山容とは異なる伊吹山の姿を描きたいと思い、実際に描き始めました。「悪戦苦闘」です。
もう一枚別の絵を描いているのですが、いっそうの技術不足に泣いています!一度塗った箇所の絵の具を取り除くのは容易ではなく、手を加えれば加えるほど事態は悪化で・・足踏みしています。というより、「放棄」したいのですが。
世の中の事、あまりに理不尽なことばかり。怖い、危ないという理由ではなく、多くの人が難民など苦しんでいる処へ安易な浮かれた気持ちで出かけたらいけないという思いが強まり、外国に行く気持ちにもなれません。何が自分にできるのか、問いかけます。
ルソーに関する読書は、区切りがつきそうですか?
バルビュスの『クラルテ』、本の堆積の中から探した一冊は古く茶色になった昭和37年の第二刷版でした。
『砲火』も読んだ記憶はあるのですが、本は見当たりませんでした。
主人公が戦場で負傷して意識が戻るあたりから、そして社会論、政治論といった趣ある彼の思いをぶつけて、小説は滔々と続いていく感がありました。
インターナショナルへの熱い思いや社会主義国家への期待を語れた時代背景を考慮しつつ、ある意味でバルビュスは幸せだった・・(幸せなどという言葉で濁してはいけないとも思いますが)。
約百年の「時差」を考えながら、作者の立ち位置と、自分のそれとの違いも痛切に感じないわけにはいきません。が、基本的な場、人は平等という点では同じではないかと。
本にある解説ではロマン・ローランとの決別に触れていました。彼の小説も昔かなり読んだので改めて考えさせられます。
戦争が何故この世界から無くならないのか。膨大な軍需産業があり、領土と国民を守ることが第一の目的であるという国家があり、ナショナリズムがあり・・etc。
バリュビュスやロマンローラン、『完全な愛』のモルガン、詩人だったらアラゴンやエリュアールなど既に遠い存在になってしまった感がありますが、若い人たちこそ読んでほしいと思います。それぞれに重い問いかけと彼らの伝えたいことがらは明確ですから。
くれぐれもお体大切に、春はそこまで来ています。
大事に、大事に。
ps三月には関西に行きます。ボッチチエリの展覧会も行きたいです。 尾張の鳶
* こういうメールに励まされる。思いを伝え合うことが出来、軽薄に流れず、苦痛も哀歓も伝えあえる。わたしは西欧の地はまったく踏んだことがない (ロシアやグルジアまで、だけ)。繪を描き詩を書いて一世代若いこの京大出の人は、西欧も東洋も、独り旅で、しなやかに意欲的に歩き続けてきた。 それらから教わった物事の豊かさに感謝している。読書家としてもわたしなどを遙かに広範囲に凌いで、この点も、ずいぶん多くをわたしは恵まれた。わたしの手をのばすすべもなかったような良書好著をずいぶん譲ってもらってきた。
バルビュスの生涯を革命的に転じた証明の、「クラルテ」も「砲火」も、機会を得て読みたい。 2016 2/25 171
* 機械が温まって始動するのに、毎朝、七八分もかかる。へたに急いで触るとむちゃくちゃに混乱してやり直すのも大変。で、ひたすら辛抱してまつ。わたし の「待ちごと」の一は、歴代125天皇を一気呵成に呼び立てる。早いときは150秒もかけない。ま、だいたい三、四分で「神武」から「平成」へ到着。
(これ、歯医者でがりがり遣られるときなどにも目をつむって指折り数えている。この天皇の時にはあんなこんなことがあったなあなどとも思い浮かべる。退屈ということを知らないでいる。)
べつのときは、機械のすぐ向こうにかためて立てた、主に和歌や漢詩の文庫本に手を出す。ときには事典や辞典に近い、たとえば江戸小百科『砂払』のような 粋な手引き本を、漫然と、つかのま楽しむ。物識りになりたいなどつゆ思わないけれど、楽しみたいとはいつも思って、そのための用意はしある。
百人一首の幾つを一ッ時に思い出せるかも、いい遊び楽しみで。よく一枚札というが、あんなのは子供の時から知っている。初句五十音のどの音で歌が詠まれ て「いない」かを知っていると、歌を思い出しやすい。女性が何人、坊主が何人、天皇が何人と知っているだけでも、すぐ三十余人分も思い出せる。「あ」音 (16首)」と分かっているだけで歌は自然と口をついてくる。ぞょういんの外来で校正に疲れれば、眼を閉じてこれをやる。目の休息になり退屈も失せる。
以前は、般若心経、赤穂四十七士など唱えたり数えたり出来たが、いまは、自信がない。海外の女優男優の名も、一時は百二十人ずつくらいおもいだせたが、 今は三十人がやっとでは、楽しめない。そのかわり歌舞伎の大名題役者の殆どを屋号もともに数え上げられる。目の前「かぶき手帖」も立っている。
2016 2/27 171
* なにげなく紀要「美学芸術学」28を手にし、「『芸術の終焉』再考」という論文が目に入り興味深く読みはじめている。むかしに『女文化の終焉』という 本を書き下ろしたのとは違う。「ドイツとアメノカの批評から」声範囲に及んでの現代芸術の終焉兆候が語られている。今は、遠近法を放棄し神話とリアリズム との砦を自ら破棄した現代絵画の索漠かつ雑然とした「なんても有り」の「何もなく」なった「ゴミ捨て場」画壇への、怒りの声を、論考は慎重に並べつつあ る。絵画へのその辺の指摘ははわたしには珍しくなく、私もしばしば口にしてきたこと。
むしろ、他の芸術ジャンルの「終焉兆候」をどう捉えているのかに関心がある、ことに「文学」の。
2016 2/27 171
☆ みづうみ、お元気ですか。
わたくしに勉強しなさいと言ってくださる方はみづうみだけです。本当にお心にかけていただいていること嬉しく、ありがとうございます。悲しいのは、何についても一度もみづうみの許容範囲レベルに到達できないことです。
古典の勉強は何をどうしたらよいのか、途方にくれるものがあります。わたくし世代の国語教育では『平家物語』くらいがいいところで、現代語訳なしでは情 けないほど読みこなせません。いよいよ本気でやり直さなければならないと思います。何か良い勉強方法がございましたらお教えくださいませ。
湖の本にとって今年は本当に記念すべき年です。作者と読者の幸福な三十年の歩み。
その後の腹痛は如何でしょう。お元気で楽しんでいらしてください。
雪 雪だるま星のおしゃべりへちやくちやと 松本たかし
* 成心を以てなにかうまいことを狙い願う「だけ」の勉強はモノにならない。面白くて楽しくてその世界へずんずん踏み込めるのでないと勉強の質は上がらない。本は調べるために読まない、嬉しく面白く成れない読書はいかな名著であれ、投げ出される。
与謝野晶子の源氏物語の訳に惹かれなかったら古典へ歩み寄ったろうか。その前に百人一首の和歌との佳い出逢いがあって、だから源氏物語に喜んで入って いったと思う。少なくも平安物語の世界は和歌をたっぷりの栄養に得た世界。平安時代の日記も広くは歌物語に属していて、伊勢も蜻蛉も枕も和泉式部も右京大 夫もみな然り。しかし和歌の全容へ国歌大観なみに近づく必要はない。百人一首と、和泉式部和歌の精選、西行和歌の精選、だけでも和歌の魅力はしたたかに楽 しめる。好きな歌を選んで愛することだ。そして歌謡。わたしの梁塵秘抄と閑吟集でも、ほぼ足りている。
大事なことは、和歌とすぐれた近代短歌との命脈と差異をも直感できること。近代現代短歌は、かずばかり多く派閥感覚も濃くて、むりに近付かない方が良い。わたしの「愛、はるかに照せ」などで表現の妙はつかめる。
和歌短歌については、幸い、よく出来た詞華集もあり、よく選ばれた啓蒙書もある。一冊持っていれば足る。
平安物語では、竹取のあと、意外に面白いのが、源氏以前では落窪物語、以後では夜の寝覚めがすばらしく、和泉式部には物語作家としても私小説作家としても久しく誘惑されている。
ムリして出来もしない原文読みに拘泥せず、面白くなってくると向こうからすり寄ってきてくれる。
どんな読書にも、しかし背景に歴史がある。歴史への好奇心や関心を育てて近付く意欲は手とても大事。
2016 2/27 171
* 嫌いなことば、嫌いな状態や行為や文章に、「なまぬるい」というのが、ある。きもちがわるい。
* 先日来読み返しているエッセイの一つに「石版画詩人 織田一磨」がある。昭和五十三年三月の「季刊銀花」に書いた、かなりの長編。このほぼ忘れられている画家を、わたしはさながら自身の思いや願いや覚悟をかたるように打ちこんで書いているのに、今更に吃驚もし納得もした。いわば「私」に強く鋭く触れてくる人や藝術にわたしは賛同し感動してきたんだと、自分の仕事をふり返る。いわゆる我執の「我」とこの「私」とはちがっている。我はむしろ私の敵と謂えよう。
織田一磨の仕事場もすべての作も、主人公がさながらに生きたままのように吉祥寺に遺族の手で保存されていた。何度も通い、生涯の作も見せて貰った。一磨の一生がさながらに心豊かな「作品」であった。長いエッセイはのちに単行本『繪とせとら論叢』に収めた。
* 戴いた遠藤さん私家版本の「少年の洛中記」を半分まで、おもしろく読んだ。中京と東山の違いこそあれ、呼吸した京都の空気は、ほぼ全面の同時代。出て くるアレもコレも殆ど全部を共有し享受していたのだから面白くないわけ、と言うより懐かしくないわけが無い。おもわず、にやにやしてしまう。
但し、また半分だから早とちりはしたくないが、遠藤さんの列挙している敗戦直後数年のあれもこれも、ある種の年鑑や事典めく資料には、ほぼ整理されてあ る。そんなものと仮に無縁にしても、アノ少年時代のすこし記憶力のある同時期の連中なら、ほぼおなじ事を思い出せるだろうなと思う。
で、こうも思った。
それらこれらキラキラした時代の顔つきや声音を介して、「こんな私でした」という遠藤少年なりの吐息や歓声や悔いや嬉しさや怒りなどが青春の吐息として 書かれていたら、もっと身に沁み読まされるだろうなあと。しかし、そこへ行くともう、記録を主とした思い出の記でことが済まず、小説や物語になってゆく。 書き方が自然ちがってくる。どっちも在りうるのだと思った。
つづきを、そして他の本もつぎつぎ楽しませて貰おう。
2016 2/29 171
* 昨夜は遠藤さんの「少年の洛中記」を読み上げ「京の街角物語」もざっと拾い読んだ。「洛中」の知らないことを、たくさん教わった。甲斐扶佐義くんの写真と も、またちがう。音楽好きな森下辰男くんのセンスに近いのだろうか。標準語はむろん京言葉にも熟達しているという遠藤さんに、わたしの「余霞楼」や妻の 「姑」を読んでもらおうと思う。
2016 3/1 172
十一時。寝床へ退散して、何種かゲラを読み、本を読みたい。眠りが浅くなると疲れが増すが。
2016 3/2 172
☆ 鴉に
腹痛いかがですか? 心配です。
昨日バルビュスの文庫本三冊をお手元に届くよう手配しました。数日のうちに届くと思います。
どうぞくれぐれも無理なさいませんよう。 尾張の鳶
* 謝謝。「地獄」をじっくり読んでいます。あだおろそかには出来ない異色の秀作と感じつつ。
高配に感謝、楽しんで、落ち着いて、読みます。あなたも、お大切に。
2016 3/4 172
* 目覚めて直ぐ床に座ったまま一休の「狂雲集」等に関わる論文を読んでいた。そういう興奮後に血圧を測るとどうしても高い。何もしないうちに静かに計らねば。 2016 3/5 172
* 昨日はじつに久し振りに吉祥寺へバスで出た。高円寺での開場に十分間があったので吉祥寺の「京極」のような繁華をそぞろ歩いて妻はピザで昼の軽食、わ たしは食欲なく、珈琲だけに。そのあと、店の向かいの古本屋に寄り、見つけたマルキ・ド・サドの適法短篇集「恋の罪」を買った。サドの文学とは、「ジュス チーヌ、あるいは美徳の不幸」で出会っており、さらに読みたいと思っていたので幸便であった。サディズムともいわれてきたサドの違法・適法さまざまな小説 や著述の接してきた「時代」転換への辛辣を極めた反時代性をよく知っておくことは、西欧近代への突っ込んだ理解に不可欠という観測をわたしはよそながら 持ってきた。「ジュスチーヌ」はその期待に刺激的によく応えてくれた。「神」の否認、「自然」の賛美と肯定とが示す抗議の意志は強烈だった。
「恋の罪」四編は、どうわたしの眼の鱗へきつい爪を立ててくるか、期待している。と同時に、前からぜひ読みたかったルソーのベストセラー小説「新アベ ラールとエロイーズ」もブックオフで狙っているのだが、まだ出会えずにいる。このルソーの作はサドの創作による主張と、かなり緊密に響きあっているので は、と、見当をつけているのだが。
* バルビュス「地獄」は、読み進むほどに優れた情報量に富んだ作だと敬意が持ててくる。慌てず急がず読みすすめている。
2016 3/5 172
* 尾張の鳶さん、バルビュスの「戦火」上下二巻を送って下さった。いまこそ、この本が日本国民、それも若い国民に読まれたい。わたしも心してしっかり熟 読したい。いずれはレマルクの作などに連絡する先駆作であろうかと思うが、戦闘する兵士達を凝視して、もっともっと険しく凄まじい「戦争」が描かれている だろう。
* サドの短篇集「恋の罪」の第一作へも、すうっと吸い込まれるように入って行くと、ここにもまたあの美徳の象徴「ジュスチーヌ」の様な娘が登場、悪徳のかぎりに穢されて行きそう。したたかに時代を批評して容赦ない一種の「自然」絶対思想をくむ事になる。
2016 3/7 172
* 「地獄」から「砲火」へ、そして「クラルテ(光)」へ。アンリ・バルビュスの三段跳びは人間の歴史上に類のないみごとな文学と思想の生涯だった。シェイクスピアにもゲーテにもトルストイにも出来なかった。
いろいろ書きたいが、みな心新たに読み終えてのことにする。
2016 3/9 172
☆ バグワンに聴いている。
「光明(悟り)を得ようとしてはならない。得よう得ようとすれば、要点をまるごと取り逃がす。」「要点を見抜くと、笑いがこみあげてくる。」
「目的地もなく、道もない。」「仏陀は案内者(ガイド)ではない。指導者(リーダー)でもない。」
「明日(あした)を待つ必要はない。なぜなら、起こることは、(思わず笑ってしまうような機縁は)すべて<今>起こるからだ。木々は今繁り、鳥は今歌い、 河は今流れ、わたしは今話している。なのに、おまえは、明日には光明が得られるかもなどと考えているのかね。」「笑いは、今か、永遠に起こらないかの、ど ちらかだ。」
心とはいかなるものをいふやらん
墨絵にかきし松風の音 一休
* このこみあげる「笑い」の味は、悟りなどとほど遠くても、かすかに覚えがある。「なーんだ、そうか」「そうだったんだ」と、こみあげる「笑い」に笑っ てしまったこと。あの底の抜けたような愉快。あれ以上の寶は無かったと思い当たる。得よう得ようなど思っても決して得られない、「今」「此処」という名の 寶。「いま・ここ」を生きなくて、いつどこで生きるのか。
2016 3/10 172
* 目覚めてすぐ、バルビュス「地獄」 サド「恋の罪」 ルソー「孤独な散歩者の夢想」そして「水滸伝」を読む。近代西欧の三著には微妙な脈絡が聞こえる。いい読書になっている。加えて、バグワン。
* さ、昨日からの作業を続ける。
2016 3/11 172
* 押して、入浴した。もう今夜は機械仕事はできない。封筒へのハンコ捺しも、校正も、機械の前では出来ない。十時過ぎ。いつも実際に消灯して寝に就くの は午前一時半、二時になる。まずは床に座った姿勢で、校正を。それから横になって、バルビュス「地獄」、「砲火」、サドの「恋の罪」、ルソーの「散歩者の 夢想」、そして「水滸伝」 バグワン、さらに思い立ってまたバイアットの「抱擁」も読み返し始めている。強い照明で裸眼で読んでいる。翌日出掛ける予定が ないと、しんから寛いで読書や校正に没頭している。
2016 3/17 172
* サドの適法作「恋の罪」の一作めを、ほほうそういうふうに美徳と悪徳とをからませてそこへ持って行くかと思わせる面白みがあった、が、違法作の、サド 当人も死ぬまで自作と認めなかった「ジュスチーヌ」ものの凄みとはよほど柔らかい。ジュスチーヌの美徳を無惨極まる悪徳の暴行悪行でで膚無きまでいためつ けるあの作では、なんども吐き気を催し辟易したものだが、しかもソドの思想には力ある表現であった。
イギリス現代の知性を代表するバイアットのロマン「抱擁」と、バルビュスの悲愴小説「地獄」と、サドの思想小説と、わたしの頭の中の地図は、どんなふうに書かれて行くのだろう。
2016 3/18 172
* 山中共古の『砂払』ほど面白くて有益な時間つぶしはない。江戸末期の江戸の風習やもの言いやしきたりやえり好みが具体的な片言隻句によって即座に知れる。 知ってどうするわけでないが、歌舞伎の舞台などでヒョイと出くわすことがあると、にやりとなる。中野三敏さんの校訂本、巻末の書名、人名索引、事項索引が まことに詳細かつ親切で嬉しくなる。
好き勝手に拾い読んでいるうち機械が働き始める。イライラと慌てると機械が暴走して手に負えなくなる。じっと待つがよろしい。
2016 3/19 172
* 「水滸伝」では、運命に導かれたように梁山泊に集結した大勢の豪傑たちの豪傑ぶりをさまざまに語る講釈本。
とにかく彼らは、よく大酒を呑み、よく肉を食い飯を食う。槍棒など武闘の至芸そして怪力、強靱、知略。酒量の程は言語を絶し、牛を馬を羊を鶏をたちどこ ろに、かつ何日もつづけて喰いつづけ、それのみか、憎い敵の体躯を割って五臓六腑を平気で喰い飽きない。人を、老若男女をとわず、平然と殺し、首を切る。 殺伐かつまことにからっと乾燥した感性で、銘々の卓越した技倆をつくして結束した梁山泊体制を守り抜く。豪傑達にははっきりした席次があり、しかも共同生 活の団結はゆるがず、ひとりひとりが堅い役目とともに家族と大勢の手下を抱えて広大な梁山泊世界を堅固に確保している。殆どが当然のように男の豪傑だが、 稀に飛び抜けて強くて美しくも現代日本語への
憎しみほどの気持ちを中和したい気はある、リクツにならないもの言いだが。
ときに手厳しく教えられる詩句にも出逢う。
朝(あした)に楞伽経(れうがけう)を看(よ)み
暮(ゆふべ)に華厳の呪を念(とな)ふ
瓜を種(う)ふれば還(ま)た瓜を得(え)
豆を種うれば還た豆を得(う)
経と呪とは本(も)と慈悲なるも
冤(うら)みの結ぼれしは如何にして救はん
本来の心を照見すれば
方便多く竟究(けうきう)す
心地(しんち)若(も)し私無ければ
何ぞ天佑を求むるを得ん
地獄と天堂とは
作(な)せる者の還(ま)た自(み)づから受くるなり
末四句、ずばッと言い得ている。
けたたましいほどの講釈のなかに、時にかかる鞭撻に出逢うのがありがたくて、長編に飽きない。あの南総里見八犬伝にはかかる清冽の詩気に触れることが無かった。
古(いにしへ)の賢しきひとの遺せる訓へは太(はなは)だ叮嚀(ねんごろ)なり
気(はらだち)と酒と財(かね)と花(いろ)とに情(こころ)を縦(ほしいまま)にすること少(な)かれと
李白の江(こう)に沈みし真ことに鑑識(かがみ)なり
緑珠の主を累(わづ)らはせしは更に分明(あきらか)なり
銅山と蜀道とは人何(いづ)くにか在る
帝を争ひ王を図りしも客(ひと)已(すで)に傾けり
寄語す 縉紳よ 須(すべ)からく領(し)り悟るべし
四大(ひとの身)を教(し)て日び営営(あくせく)せしむるを休(や)めよ
2016 3/21 172
* バルビュスでもサドでも、呼応してでもあるまいが「美徳」の名でひろく信仰された「神」なるものを批判し排斥している。サドが違法ものの『ジュスチー ヌ』では神を自然の名で否定していたが、バルビュスの『地獄』では「自然」をすらもおしのけて「ぼく=自分」を世界の真ん中へ立たせようとしている。
「神は神秘と希望とに対する出来合いの返事にしかすぎず、神の実在には、神をもちたいというわれわれの願い以外に、何の理由もない。」「ぼくは形而上学の 言うことに耳をかたむける。形而上学は科学ではない。藝術と同じく真実の真理にむすびついているから、むしろ藝術に似ている。というのも、絵画が力づよ く、詩が美しいのは、真理によるからだ。」「次のような圧倒的な真理をぼくは聴いている――人は世界に関して抱く観念を否定することができない。しかし、 人が世界についてもつ観念のほかに世界が存在することを確認することもできない、と。」「<我考う、故に我あり>を言ったあとで、あの哲学者(=デカル ト)は推理に推理を重ねて、思考する主体のほかになにか実在するものがあると結論しようとして、次第に確実性から逸脱していった。」「われわれのまえに見 えていると思われる自然は、それを見ていると信ずるわれわれの存在だけしか証明しない。」「世界の無限と永遠とはいずれも偽りの神である。」「宇宙にあの 法外な特質を与えたのは、ぼくなのだ。」「真の聖書」とも謂うべきは「カントの純粋理性批判」であって、「社会を高尚な線にそってみちびくために言われた イエス・キリストの言葉も、これにくらべたら、表面的で功利的に見える。」
そして『地獄』の「ぼく」は言いきる、「すべてはぼくのうちにこそある」のだと。世界の芯に「ぼく」をおくのだ、神も自然も「絶対」に信じられない、と。
バルビュスが、この線路上を歩いて行くのか、世界観を変えて行くのか、わたしはまだ『砲火」と『クラルテ』を読んでいない。
2016 3/21 172
* 必要があって、『死なれて 死なせて』を読み返している。思えば『生きたかりしに』のこれは身代わりのように書き下ろされた或る叢書中の一冊で、わた しの本としては、ま、よく売れたらしい。反響も痛いまで深切であった。もうこれを書いた頃には「生きたかりしに」草稿もほぼ出来上がっていて、だが、だれ がこんなのを読んでくれよう、本にしてくれようと、我から棚上げにしたのだった。
よく覚えている、この新刊が評判を呼んでいたまさにその時にわたしは東工大教授として授業を
はじめたのだった、学生諸君はわたしと出会うまえにいくらかこの新著の評判や内容を知ってくれていて、おかげでよほどトクをした。聴講の学生たちが教室へ殺到した。
この本で生みの母や実の父にふれては、今からして事実上の間違いも含まれているが、それらはホンの些事に過ぎない。このほんこそはわたしのいわば「思想」書なのであった。人は「生まれ」そして「死なれて 死なせて」 「死んでいく」。
いま読み返していて、あーあ、こんなところを通ってきたのだなあと嘆息もし、しかし、この先にはさらに嵯峨として嶮しい難路がわたしを待っていた。
* むかし、師表とうたわれている国文学の二人の教授と鼎談したことがある。話し終わったアトで、一人の先生がやおら取り出して見せてくださったのは、巻 物の秘畫であった、その手のものとしては格別に筆が優しく美しかったが、男女の交接をいろいろに描いた絵巻物の春画に相違なかった。もとよりその先生は 「文化・文物」の一端を興趣ゆたかに披露してくださったのである。
どこかの文化資料施設から、むかし「えろ本全集」の広告が送られてきたことがある。フーン、こんなにもあるのかとかなり書目詳細を一覧にし露骨な交接画 もでかでかと印刷されていて、一資料としてその広告は保存されていたが、最近資料棚から現れたのを再見して、もう必要ないとシュレッダーで断裁した。その 種のモノへわたしなりに「分かったよ」という断案が出来ていたから、必要も失せて捨てた。
露骨な春画など、見ていてなにも面白くなく、醜悪で目を背けたいだけ、と、思っているが、そこに描かれてある男女の行為じたいは、貴賎都鄙のわかちな く、洋の東西の別もなく、ほぼまったく同じだという当たり前の認識にわたしは立っている。皇族貴族は排泄すらしないという笑い話は子供の頃から耳にしてい て、だれもがそれを信じてなどいない事実だけが胸に畳まれ、ひいては性の容態・様態もまた同然と、それを本気で疑う人になど独りも出逢ったことがない。
さればこそ、また、わたしは、その厳格な事実性を、愛とか恋とか性欲とかいう人間不可避の営為認識の当然の前提と見てきた。いかなる男女の愛や恋や交情を描くさいでも、その認識を捨てていたことは無い。
アンリ・バルビュスの『地獄』は、露骨に謂えば終始隣室の男女の「覗き」であり、覗きと聴き耳とで、きわめて優れて悲愴な絶望の思想を、優れた文才で描 出している。それこそ、「四畳半襖の下張」めく男女交接をひしひし描いた本は、発禁のおそれをかいくぐって古来けっして少なくはなく、あの戦後となって 「えろ本」が解禁後は、相当に赤裸々にアクドイまで書かれてきたと思う、わたしはまだ少年だったので、実際には読んだことがないと正直に言いきれるが、裁 判になった「チャタレイ夫人」も、誰の作とも断定しきれないで流布した「四畳半襖の下張」も、荷風散人のその手の佳作も大人になってからはちゃんと目にし てきた。いやいや例の「襖の下張り」は、東工大に教授室を並べていた時になんとある日政治学の教授が、「こんなコピーを手に入れましたよも差し上げます よ」と手渡しに呉れたモノだった。むろん、読んだ。ホームページの「電子文藝館」にも入れて、但し転送はしないままに保存してある。
* わたしは仕掛かりの創作のためにも、字で書いたものよりも、写真による性の容態をコンピュータから意図的にかなり蒐集までもしてきた。女性の裸の写真 は美しく撮っているので美しいモノが多く、知名の女優さんでもけっこう裸の写真はひとに撮らせている。そしてそんなのは、わたしの創作にはほとんど何の役 にも立たない。わたしはいかなる美女といえども、静止して意図して美しく撮られた裸が美しいのは美術に類するのだからあたりまえ、あまり意味がないと思っ ている。そして、どんな美女でも素っ裸で動き回れば決してそんなに美しいわけがないと思っている。ミロのヴィーナスのように人は佇立して過ごせるわけがな い。乳房がたぷたぷしたり、腹が揺れて皺になったり、それは美しいよりは疎ましいモノのように思われる。男でも同じである。ダビデや考える人のように男は ただ立ったり座ったりはしていない。力士達がまわしを外した恰好で相撲を取ればどんなものか、言うまでもない。ほぼ見苦しいだけである。女性ならもっと見 苦しかろう。
しかも、そんな見苦しいような裸形をからませての男女交接の容態は、人類という種の生存保存に避けるわけに行かなかった。皇帝と后妃であれ、浮浪の貧男 女であれ、すること、せざるを得ないことは、ま、同じである。「えろ本」全集の広告にでかでか出ていた春画のいろいろが、致命的なまでまったく変わり映え しない同じ図様・容態であったことを、苦笑いして思い出す。しかもそんな図を乗り越えての理想は、結局「ユニオ・ミスティカ」であろう、つまりは、それも 人間の営む不可避・不可欠の「文化」となっている。文化ならば、たとえ美しくなくどう見苦しくても、見捨てられはしない。
* わたしはわたしの「地獄」をなど書こうとはしていない。どんな作が語られるか、それはナイショだが、しかしバルビュスの「地獄」は、予期した以上に文 学としての美しさと哀れさとをよく備えていて、それを学ぶ・マネぶ気は無いけれど、いましもこの佳い作品を、そろそろ読み終えようとしている。それしかあ るまいという女の声が聞こえてくる。
そういえば戦後直ぐのベストセラーでわたしの感化された二つ西洋人の著していたエッセイがあった。最近の病気で、とっさに書名が出てこない、が、あああの頃からいろんなこと思ってたんだとかすかに納得したりしている。
2016 3/23 172
* 息子が、秦建日子が、いま、三重県の桑名で映画を撮っている、そうだ。わたしは彼のツイッターもフェイスブックも全く読めない(完全な不具合)し、 ホームページも開けなくて、活動のさまはほとんど見えてこない。ず、今日、彼には母港であるような河出書房の小野寺社長から新刊の『KUHANA クハ ナ!』という小説仕立て一冊が送られてきた。東海地区限定で九月三日から劇場公開されるという。三重県書店商業組合推薦図書だとも帯にある。
松本来夢・須藤理彩、それに多岐川裕美と風間トオルの名前が出ている。「アンフェア」原作者が描く、笑いと涙と音楽溢れる物語だそうで、「うちら、ジャ ズ部はじめました!」という「JAZZ×KIDS」の映画になるらしい。本はまだ一行も読んでないが、殺しモノでないらしいのは有り難く、以前の小説 「チェケラッチョ」や「SOKKI」の系列か。心朗らかによめるといいと期待している。
2016 3/24 172
* もうすぐバルビュスの「地獄」を読み終える。期待したよりも遙かにぬきんでて優れた作だった、作品もあった。そして理解もでき共感もできた。
いままでに一度読み通して二度目を半ばまで読み読み煩っているのがぐれあむ・グリーンの「事件の核心」、これは表題の真意がつかみにくい。スコウビイと いう警察の副署長が自殺するのだが、カトリック信仰という問題、神の救いという問題が、人間の肉体や愛や道徳と衝突してくる。なかなか乗って行けなくて (一つには新潮文庫の活字があまりに小さいのだが)いっこう初読時の印象すら甦ってこない。伊藤整の飜訳も煮え切らない。熱心なカトリック信者のスコウビ イは妻のルイズと若い未亡人ヘレンとの三角関係に苦しみ、睡眠薬自殺するのだ、その「何故」が通じてきにくい。肉の愛と、人間への救いと規定されてある神 の愛との「対立」が書かれて、「神の救いがあるべき、あるにちがいない」と小説は進行して行くらしいが、よく、のみこめない。引きこまれて行かない。
* 用が出来てとなり棟の二階書斎へあがり、用を済ませてから書庫の本をさわっていてなかなか離れられなかった。一つには、わたしの全著作が一点につき複 数册書棚をぎっしり埋めていて、それはそれで少し眩しい気分なのだが、そのほかにもウエーと思うような佳い本がほこりをかぶってずいぶん押し込まれてあ る。新井白石全集だの基督教関係の参考書や聖書やミサ典書や聖歌書などが固まっていて、いまでもわたしの好奇心関心をひきつける。
また文庫本専用の書架のまえに座り込むと際限なく手が出る。またひさしぶりに全二十一巻の「千夜一夜物語」が読みたくて堪らなくなる。もっと困るのは此処に在って欲しくて無い本をもたとえば「金瓶梅」なんて本の無いのが唐突に残念に思えたりする。
こつち棟にくっついた鉄筋書庫へなど入ってしまうと、いっそそこで寝起きしたくなる。春になり、だんだん書庫の冷えが和らいで夏はいっそ快適になる。
とにかく、心を鬼にして、良書ほど図書館へ揃えて寄付するようにしているが、重い本の荷作りが
とてもとても大変で。
* いまはわずかに残してある選集をこそ、思い切っていろんな施設や若い人手に分散しておきたいと思っている。ICUの「浩」先生のように希望してくださ ると、本当に心づよい。わたしの手元に置いておいてもむしろ意味の無いのが「秦 恒平選集」なのである。これまでに何人もの方から、全巻をぜひ手に入れたいと希望されてきた。創作は生き物、わたしの家の書庫にとじこめていては、可哀想 なのである。
2016 3/25 172
* バイアットの「抱擁」上巻を、浴槽に落として往生したが、まあまあ読めるほどに肥大しながら乾いてくれておとなしく落ち着いて再度三度目を読み継いで いる。バルビュス「地獄」とはまるでちがう書き方で、素材の処理の仕方、追及の仕方ではこの「抱擁」のほうがわたしのそれに近縁していると思うが、「地 獄」の思想と文学的な魅力にもつよく惹かれている。「抱擁」からは小説表現の魅惑は感じるが思想からの刺戟は無い。「地獄」には、世界の人間の男女の神の 見方からつよい思想的刺戟を受けている。
すぐれた文学には、真実の魅力が発光している。お手軽なこどもの作文なみのつくりものが世にはびこっているようだが、紙屑の山が出来るだけ。もったいないことだ。
2016 3/26 172
* 「死なれて 死なせて」を四章まで読んだ。一九九二年に弘文堂で書き下ろした。二十四年も以前の、言うまでもなく今八十のわたしがまだ五十半ばの著である。その干支に して二回りも年をとってきた間にわたしの思索思想も成熟とは言わないが変わってきた。思えばこの直後にわたしは東工大教授の辞令を受け、学生諸君に夥しく も難儀な問いをかけつづけ答えを書かせ続けたのだった。
最近になってわたしは学生諸君に強いた問いの一つ一つに「秦教授(はたサン)」として答えないのは卑怯な気がして、長い時間書けて全問に答えてみた。 「死なれて 死なせて」とはくっきりと移り動いてきた思案が現れている。まったく変わっていない思いも色濃く残っている。さ、どう読まれるのやらと、すこ し緊張している。
2016 3/27 172
* 『死なれて 死なせて』を読み終えた。わたしの本の中でもっとも広く読まれ多くの読者を得て版を重ねた。だれにでも深く厳しく関わってくる主題であり率直な把握である から当然と謂えようか、いま適当な版を得て新刊されても今日にしていよいよ多くの関心や共感を集められるだろうと感じる。
2016 3/29 172
* 六時に黒いマゴを外へ出してやり、また入れてやって、そのまま「水滸伝」など読んで起きてしまった。花粉のくしゃみ十連発。ウウ。
2016 3/30 172
* 今は、書いて、本にすることを大事の眼目としているが、それでこと終わらせたくはないのだ、最期に、いや並行してもむろん構わないのだが、まだ「読み たい」「読んで楽しみたい」という本好きの性根がガマンしていない。いまこの機械の背後の本棚に、浩瀚な福田恆存さんの全集が八巻、飜訳全集が八巻並んで いて、ことに福田さんの戯曲そしてソポクレスやシェイクスピアらの戯曲、ロレンスの小説など、ぜひ読みたい。春陽堂版の泉鏡花全集十五巻は、それでも彼の 人生半ばの業績だが、読み返したい作がいっぱいある。森銑三さんの著作集も十三巻、これはもう近世文化をのぞきこむ宝庫のようなもの、時を忘れて読みたい 最右翼にある。
書庫へ行けば、潤一郎、藤村、柳田国男、折口信夫らの全集のほかに二十世紀世界文学全集がジョイスに始まり夥しく読んでくれと出番を待っている。数え切れないほどたくさんな頂き物の小説や詩集、歌集、句集があり、何よりも厖大な古典全集が数種類もある。
読んで、逝きたいではないか。
おほけなく憂き身のほどもはげまして
やえの葎のみちを辿らめ 遠
2016 3/30 172
* 七年前に亡くなっていた石本隆一さんの『全歌集』が奥さんの手で立派な一巻に仕立てられた。私にまで頂戴した。生前。かすかにも交流があった、励まされた。「ジュラルミンの光に似た天稟」「地に在る天狼」と評されていた。
しみじみと歌を聴いている。
2016 4/2 173
* サドの「恋の罪」と例の「水滸伝」とがパランスをとっている。
サドノ適法小説は、違法小説の徹底した嗜虐、活字からでも目を背けたいほど過剰過激な悪徳の凶行・凌辱・異様を極めた卑怯と残酷にくらべると、奇妙な配 慮が働いていて、言語道断な悪徳の男が、のちのに善行により世間に感謝されると謂ったツクリを、わざとワザトらしくまわりくどく作り付けることで奇怪な読 み効果を押しつけてくる。さも美徳が結局は悪徳に勝つかのような。しかしサドの本性はいずれにしても徹頭徹尾「美徳」を纂逆に痛めつける「悪徳」の思想を 以て、ウソクサイ現世の偽善を追及している。被告席には「神と信仰という美徳」が置かれ、「悪徳」は「自然」を最良の原拠として「思想」的に譲らない。そ して確かにその神と自然との相剋のけわしさに近代・現代の根底の闇を覗き込むような刺戟がある。わたしは、生涯の半ばを牢獄に繋がれていたサド侯爵の「意 図」を必ずしも「異」とは仕切れないでいる。ウソクサイのはどっちなのか。
サドのサディズムに競べれば宋の時代に梁山泊に雲集した「豪傑」たちの乱暴の限りは、愉快なほど毒気を抜いている。颯爽とも謂わないが、不思議に気の清 んだ空気を全編が呼吸している。ウヘっと思わないでない場面もある、が、たわいないほどウソの様な講釈調に陽気に覆われた大作だ、どんどん読める。この間 読み始めてもう十册本の六册を読み終わりそう。「南総里見八犬伝」十册の再読など、四年も掛かってしまい、何度もそのクドサに投げ出しかけた。高田衛さん の「八犬伝の世界」に周到に道案内されされだから、やっと読み終えた。同じ馬琴の「近世切美少年録」もそうだった、面白くてワクワクしたのは、八犬伝も美 少年録も開幕登山口のせいぜい、二三合目まで。
ま、八犬伝と水滸伝を読み比べてみても仕方ないのだが、しかし馬琴は、強かに水滸伝にも学んでいるのである。
* バルビュスの「地獄」の独自の人間と人生との把握と、やはり神の否定、自然へ身を寄せながらの絶望の深さには、魅せられるモノが確かに在った。その共 感は、言語道断の過酷の戦場・塹壕に溝ネズミのように日夜這い回っている最前線兵士たちの群像を、手に取るように体験的に書き込んでいる彼、バルビュスの 『砲火』にも精確に受け継がれる。戦争に反対するとは、戦線の前方に自分たちと同じくドブネズミになって闘ってくる敵兵と闘って勝つことではない、真の 「敵」は、前線で息もつけず対峙している兵士達双方の「背後」「後方」に居坐って戦争を采配している連中なのだと、敵味方の最前線兵士達がまさしくウシロ をふり返ってお互いの「戦争鼓吹の高官・政治家」たちに勝たねばいけないのだ、バルビュスはその自覚と思想とを、起った一人の作家魂から起こして世界的な 反戦戦線を創始し発展させたのである。
いまこそ、もっともっと知られていい作家であり作であり、作には美しいまでの作「品」が備わっている。
* テレビ番組のおしなべての余りのくだらなさ。せめて佳い映画が観たい。昨日、久々にケビン・クラインの「卒業の朝」を観た。ま、なかなかのものだが、この徹した「教養主義教育」のなにかしらひ弱な限界にも、心が折れる。
むしろ今晩たまたま観た「鷲は舞い降りる」は、この間まで魅入られていた秀作の連続ドラマ「刑事フォイル」と時期も空気も同じくした、戦時下英国でのドイツ空軍の秘密作戦で、「フォイル」には勝てないが緊密な映画作りの速度感に心惹かれた。
この「鷲は舞い降りた」同題の原作は、この手の読み物の中では五指に数えうる緊迫作で、文庫本は愛蔵している。ほかに「女王陛下のユリシーズ号」「北壁の死闘」「針の眼」もう一作、すさまじいまで緻密なテロ爆破の陰謀作が凄みあった。
2016 4/3 173
* 北大の名誉教授、いまは法政大の山口二郎さんから「民主主義を守り抜こう」という単行本の寄贈を受けていた。女流文学研究家の門玲子さんから、またICU図書館からも、選集への挨拶があった。
2016 4/5 173
* さ、湯に漬かって、昨日山のようにダンボール箱いっぱい、まだ一包み剰って届いたゲラを読みましょう、眼が見えるならば。
2016 4/7 173
* 昨日も今朝もその前も朝が早かった。寝床でゲラを読み「水滸伝」を読んで、心地よく寝入りたい。
2016 4/7 173
* 起床8:00 血 圧126-57(58) 血糖値96 体重67.0kg
* 晩の九時まで、ひたすら発送作業。
たぶん、宅配の引き取りこそ明後日になっても、荷造りは明日のうちに終えるだろう。日曜には、プランと遊びに出られるかも知れない、花吹雪すらもう過ぎていようが。
* あと、苦渋を噛みしめながら原稿の読み。
2016 4/8 173
* 早く横になって「水滸伝」か、届いた「三田文学」を読もう。いやいや、やはり校正するか。
2016 4/8 173
* 東京へ出て来てやがて講談社の日本文学全集百十余巻の刊行がはじまり、わたしは文字どおり赤貧の日々なのに、奨学金の蓄えを利して全巻の配本を求め た。月に一冊ずつ届いたが、編集は・製作はどんなにか大変であったろうと思う。あの全集には真実励まされた。作家の年譜を嘗めるように読んで刺戟や激励を 受けた。最良の寶も最良の教科書であった。いまも、折りごとに書架から抜いてきて読み返す。いまは鴎外集が枕元にある。
2016 4/10 173
* 東工大の研究費はわたしには十分に豊かだった。もっぱら書籍、それも事典や辞典を買わせて貰った。「日本古典文学大事典」「日本 史大事典」「文化人類学事典」「日本を知る事典」「小百科事典」「広辞苑」「仏教語大辞典」「日本人物事典」「日本語大辞典」「漢和大辞典」等々。そし て、今もよく使う。「いい読者」である一つの資格は「辞書・事典をつかうのを面倒がらない人」と西欧のある大きな作家、ナボコフだったか、は挙げていた。 その通りだと思っている。
* いましも、日本史大事典の重い重い一冊を引き抜いて、「天皇」を調べた。歴代百二十五代をだいたい三分間かけないで特急で云えるけれど、(実は、平成 から溯って神武まででも五分間とかけないで云えるけれど、)途中一箇所だけ「確認」したいところがあった。江戸も中頃から末期へかけて桜町、後桜町、桃 園、後桃園という女の天皇さんらがおられ、この順番だったか、桜町、桃園、後桜町、後桃園の順であったかを正確に覚えておきたかった。この、アトの方で あった。
* ま、それは些少の確認に過ぎなかったが、事典でどこを引くかとなると「てんのう 天皇」の項なのは当然として、いざ頁を開いてみると、「てんのう 天 皇」の解説、三段組みの細字で実に二十頁にも亘っていた。「太平洋戦争」で八頁弱。「天皇」の項だけで、優に一冊の本ほどあるのだ、これは通して読まな きゃと、つい、思ってしまった。
字は小さく、本は超重くて大きい。けれど、読んでみたくなった。
どこで読むの。寝床か。ちと、困ったなあ。
2016 4/11 173
* 気散じに後撰和歌集の恋の歌を書き写していたが、あのりに面白くてかえってつらくなった。
目の玉が深い霧の底をおよいでいるあんばいで、何を仕掛けても永くはできない。きしきしと目の玉が痛んでくる。
* 「天皇」の事典解説をおもしろく沢山、といっても五頁ほど、読んだ。なるほどなるほどと。事典のありがたみに感謝。
「朝鮮」がどういう国だか、辛うじて上古古代史は読めたが、わが中世以降にあたる時代の政情や民情は全く(いわゆる韓流歴史劇のていどにしか)分からない。ドラマを観ていても時代が読みにくい。
知りたいことが多くて困る。
2016 4/12 173
* 昨夜は眠れなくて、夜中、市川染五郎著の「歌舞伎案内」や「水滸伝」や、わたしの「マウドガリヤーヤナの旅」三校を読んだり。それでも眠気がこないので、起きていって越前の杯に二杯うまい酒を飲んだりした。
若い高麗屋の小中学生へ「案内」の写真もたっぷりの美しい一冊はなかなか気のきいた手引きで、観劇歴は六十余年のわたしとてただもうノホホンと楽しんで きただけに、知らずにきたこと、覚えていないこと、気も付かなかったこと、いっぱい。そのへんを、きちっと沢山補ってもらえて、何よりでした。
「水滸伝」は全十冊岩波文庫の八冊めに入っていて、もう梁山泊には、天罡星三十六員、地煞星七十二員の「豪傑」たちが揃っている。この先へゆくと彼らは一 致して皇帝の「招安」に馳せ参じて、ついには全員が戦死を遂げてしまう。その辺へ来ると勇猛果敢よりももののあはれがまさってきて、かなりつらい思いがす る。そもそも彼らが梁山泊に結拠して剛勇を誇りつつ朝廷に歯向かってきたのは皇帝をとりまく廷臣たちの悪政を憎む余りであった、本音は皇帝を補弼して国の 安寧に寄与したかった。結局は皇帝の「招安」 従来の罪過を水に流し、朝廷に仕えて忠節を励んでくれという要請に応じるのだが。
問題は、その皇帝というのが宋の徽宗というめぐり合わせ。この皇帝は、史上稀な美のセンスに恵まれた藝術家ではあったが、外寇に屈して囚われ悲惨な最期 をむかえる人、宋国は北の半ばを喪失して南宋を保つにとどまるハメになる。いわば梁山泊百八人の豪傑達はこの皇帝に殉じてしまう。初めて読んだとき、わた しはその辺のもののあはれに堪え得なかった記憶がある。
それにしても、豪傑達のおもしろさ。いまは、黒旋風とあだ名されている李逵(りき)のめちゃくちゃな脱線や剛勇がおもしろい。総指揮の宋江はじめ、参謀 の呉用、癇癪持ちの秦明、弓の名手花栄、また花和尚の魯智深、大虎も絞め殺す行者の武松等々、魅力の豪傑らがさまざまに活躍し暴れ回る。盗賊とも義士とも 武勇とも残虐とも賢いともトンマとも、みんな一筋縄ではくくれない要するに「豪傑」集団で、結束の義は金より堅く蘭より香しい。
日本の今日の政情をひびに情けなく見せつけられていると、この破天荒な集団の行状が清涼剤のように思えるのが、ま、もの悲しくもある。
2016 4/13 173
* 天皇と天皇制について、平凡社の「日本史大事典」全六巻の第四巻でつぶさに読みかつ教えられている。何人もの専門学者が分担して解説されていて安心感 が増している。明治以前には各時代によって天皇の存在意義や機能がさまざまに推移してくる。そして明治以降の近代・現代には今日の我々も心得ていて良い 「天皇」の問題がつぶさに解説されていて、まこと興味深くまた他人事ではない。
2016 4/14 173
* 東大教授坂村健さんから著書「毛沢東の赤ワイン(電脳建築家、世界を食べる)」「IoTとは何か(技術革新から社会革新へ)」とお手紙を戴いた。
「秦 恒平先生
前略 ご無沙汰しております。おかげさまで元気Iこしております。
この度は、『湖(うみ)の本』通算129巻のご出版、誠におめでとうございます!
ご本が届くたびIこ、精力的なご活動に深く感銘を受けております。
秦先生の長年にわたるご功績に敬意を表しますととともに、
今後益々のご活躍をお祈りしております。
時節柄くれぐれもご自愛ください。
専門とする分野は異なりますが、私の本を同封いたしました。
お目通しいただければ幸いです。」
* わたくしが日本ペンクラブの理事を務めながら出会ったなかで最も敬愛を覚えた方である。世界的な「電脳建築」専門家で「YRPユビキタス・ネットワー キング研究所所長」でもある。ペンクラブにはじめてホームページを創る責任者として、坂村先生と出会えたのは、最良の賜物であった。「世界を食べる」人で もあり、頂いた二册を楽しみます。
* 日本近世文学の東大教授、上田秋成研究の今や第一人者である長島弘明さんからも、放送大学客員教授としての新講義録『上田秋成の文学』を、「拙い本で すがご笑覧下さい」と謙遜されてお送り頂いた。創刊以来「湖の本」をご購読いただいているが、出逢いはさらにはるかに遠く、わたしが受賞して何年と立たな い春の「東大五月祭」に主催のひとりとして講演の依頼に見えた。院生ではなかったか、本郷の小洒落たライスカレーの店で歓談し、そのときに「秋成」を書き たいとわたしの方が熱を上げたのを懐かしく思い出す。長島さんの方が着々と秋成学の高峰を究めて行かれ、わたしの方は今度の「湖の本」の「序の景」や「生 きたかりしに」どまりで成果が無くお恥ずかしい。
放送大学の講義をたのしみに聴かせてもらう。
2016 4/16 173
* 大岡信さんから「自選」決定版、岩波文庫『大岡信詩集』を戴いた。
布川鴇さんからも詩誌「午前」第九号を送ってもらった。
* 日本の現代詩は、むずかしい。
2016 4/16 173
* 明日は朝から暫くぶりに病院へ。診察のあと、出来うれば何処かで楽しみたい。
今夜は、はやめに、心身やすめたい。
坂村教授に戴いた『毛沢東の赤ワイン』がなかなか面白い。そういえば、ずっと以前に坂村さんから瀟洒な感覚のワインを戴いたことがある。
2016 4/17 173
* 起床7:00 血 圧134-72(58) 血糖値108 体重66.8kg
* 聖路加病院の予約診察日。校正ゲラとバルビュス「砲火」をもって出かける。
なにもかも、どこもかも、平安に。
* 処方箋をもらったあと、銀座三笠会館でキールロワイヤルの肴にパスタ少し。食欲薄く。あと、向かいのビルの地下でコーヒ-。
校正しながら、丸ノ内線、西武線乗り継いで、帰宅。それでも食欲さして動かず。少しのワインで睡魔が寄ってきた。
2016 4/18 173
* 十時。黒いマゴの輸液を済ませたら横になって、「水滸伝」を気楽に読もう。坂村教授の「毛沢東の赤ワイン」もとても面白く読める。
そういえば、夜前はうまい日本茶を数重ねて飲み、おかげで夜中にめざめて明け方まで本を読んでいたのだ、すこしあれは堪えた。
2016 4/18 173
* 水滸伝は、九冊目でとうとう皇帝道君徽宗の「招安」つまりは前科はことごとく赦すゆえ朝廷に忠節をちかい奮励勤仕せよという詔勅をうけ、百八人の豪傑 達挙って梁山泊を離れて都へ入った。最初の仕事が国境を侵してくる遼との戦闘だ。やれやれという感じ。悪辣な高官たちや官僚が政治を領略してきたのへ彼ら は水滸山、梁山泊(泊は湖)に集結して頑張ってきたのに、なんで? と謂いたくなる。皇帝徽宗は、宋の国の北半を外的に奪われたばかりか捕虜となり悲惨に死んでしまう人物であり、豪傑たちの末期も見え透いてくる。そろそろ読みやめたくさえなるほど彼らの運命はいわば悲惨。いやだなあ。
2016 4/19 173
* 平凡社の「日本史大事典」の「天皇」の項、まことに興味深く、これから昭和の戦時に入る。「事典」は気を入れて読みに掛かるとなまじっかの単行本より もはるかに効率よく核心に触れて行ける。ただ字が小さくて。いまわたしの七八つある眼鏡はどう取っ替えても、よく読ませてくれない。いきおい二度の校正を 三度することになり、ますます疲れる。
はれやかな旅がしたいなあとつくづく思うものの、九州の惨状を見知るにつけて、とてもとてもと諦める。
2016 4/19 173
* 「べ平連と市民運動の現在」(吉川勇一が遺したもの)という冊子本が、編者の高草木光一さんから送られてきた。吉川さんは多年小田実らと「ベ平連」は じめ市民活動に挺身されてきた人で、亡き兄の北澤恒彦とも提携して闘ってきたひと、同じ西東京の人で、生前からそこそこの連絡を保ってきた仲である。慶応 大学を沸騰させた白熱の議論を収録したほんであるらしく、高草木さんは慶応の経済学教授。
さきに東大教授の坂村健さんに戴いた二册の内「IoTとは何か」はいわば電脳哲学である。
どちらにもしっかり目を通したい。
* 京都府立総合資料館から『秦 恒平選集』第一~十二巻を一括受領の謝辞に添えて「総合資料館だより 186」が送られてきた。京都では、他に府立中央図書館、市立中央図書館、同志社大、京大、立命館大、京都女子大にも寄贈してある。
2016 4/20 173
* 「蘇我殿幻想」を三校した。エッセイでもある小説と読まれてきた。こういう幻想的ないし推理の利いた歴史への肉薄こそ、わたしの一特色のようだと、今 にして納得している。ちいさい子供の頃から、大人の仕舞い込んでいた通信教育の「国史」を表紙もボロボロにするほど耽読して日本史を脳裏にデッサンしつづ けながら、百人一首の和歌に手を引かれながら物語世界を嬉々としてかき分けていった、その嬉しかった余録のようにわたしの小説の多くが生まれたのだった。
さきに初めて発表した小説「チャイムが鳴って更級日記」と「蘇我殿殿幻想」とは一部でつよく膚接しててながら、前者は菅原孝標女の作家的な素質へ目をむ けて今後の展開をなお希望しており、後者は明らかに大和・奈良朝から平安初期へむかう底昏い歴史を「蘇我殿」追及とともに手づかみにしようとしていた。わ たしを「学匠文人」と名指して下さる研究者がおられた。なるほどわたしの歩みはやはり上田秋成の生涯に歩調をそろえているのか…、そうかなと思う。
2016 4/22 173
* 漱石原作「こころ」も読み始めている。だれもが下巻「先生の遺書」を大事に語ったが、わたしは初めて読んだときから上巻「先生と私」を熱い気持ちで読みに読んだ。
九時半、もう機械向きに目が働かない。
階下でやすもう、寝床に座って明るい照明でゲラや本を裸眼で読むのも慣いになっているが。少し気楽にテレビの録画番組を観てもいい。
2016 4/22 173
* 晩の十時になって、今日は日記を書き込んでなかったと気が付いた。それほど、いろんな仕事をしていた。戯曲「こころ」を読み、鐵斎を読み、「原稿・畜生 塚」(新潮に公表した同題作の私家版本初出原稿)を読み、「蘇我殿幻想」についでシナリオ「懸想猿」正編を読み、新作の小説を書いてもいた。長編の方、も う仕上がりとしても佳いのだが、少しまだ気にかけている。
そんなこんなで、視力を労りながらも、肩がキツク凝るほど頑張っていた。ま、いいでしょう。
2016 4/23 173
* 「畜生塚」の原作を読んでいる。ときおり目尻が濡れてくる。
* 大事典の「天皇」と「天皇機関説」とを読み終えた。目から鱗が何枚も剥がれ落ちた。鵜呑みにするのではないが、あまりに知らない思いの届かない分から ないでいたことが多いのだ、莫大に教えられた。「事典」からこんなにしこたま教わったのは、幼少の秦家で飽かず読み耽った「生活大寶典」以来だ、事典を読 むのは悪くないと思いつつも、ま、書架の多くを塞がせたまま時々に一、二を確かめに開くだけで「読み耽った」ことは無い。しかし「天皇」「天皇制」につい てこれまでのどの読書よりも綿密に的確に教えられた気がする。それにしても重い重い大きな一冊の三段組みで二十余頁の小活字組は読みでがあったし、されほ どの日本の「天皇」であったのだとも合点した。
気持ちでは、読み取ったそれらをそれなりに纏め書きしてより適切に認識したいのだが、残念ながらそれだけの時間をいまのわたしの毎日から割くことは難しい。せいぜい「もう一度読む」ことにしたいと。
2016 4/24 173
* とにもかくにも、今日は病院。「猿の遠景」を持ち歩く。「水滸伝」の九冊目も。
2016 4/25 173
* なんとか帰ってきたが、疲れた。保谷駅へついたころ、少し胸苦しくなりそうであったが、堪えてタクシーに乗れた。
検査と診察とには何の異常も認められず、腎臓も肝臓も血糖値も問題なかった。それでも疲れたのに病院を出、薬局を出てから、銀座まで稲妻なりにうろうろ と歩いて、何を食べたい場所もなく、銀座一丁目から池袋へ戻った。あまり空腹も悪しいかと、八階へ上がり銀座アスターで中華懐石風料理をコースで。紹興酒 を200㎜。満腹した。「猿の遠景」を全部読み終え、水滸伝も読み、帰ってきた。
もう八時過ぎている。
2016 4/25 173
* 機械が温まり起動するまでに十分できかず、待つ。じれて触るとこじれて収拾がつかない、ひたすら待つ。そのあいだに今朝は池田良則さんの「京都よせがき ちょっとそこまで」を開いて、懐かしい京の風光を良則さんの繪を介して懐かしむ。画家の眼と「よせがき」寄稿のいろんな人たちの文とに誘われて佳い散策に なる。行けない帰れない京の匂いをひととき呼吸した。良則さんの本、四季分あって今手元には夏と秋がある。どひこに紛れて冬と春の分も在るだろう。
2016 4/27 173
* 十一時過ぎ。「心」とは、とこの一時間余り、思いと考えつしていた。
階下へ。床について、「ディアコノス=寒いテラス」のあと、水滸伝、サドの「恋の罪」、坂村健さんのグルメのはなし、なと゜読んで寝よう。
2016 4/28 173
* 江戸小百科『砂払』は、どの頁を開いてもおもしろく「江戸」の人・物・事が手早く端的に知れて、つい読み進んでしまう。
2016 4/30 173
* 夜前、就寝前に珈琲を二杯も喫んでしまい、夜中三時頃より目覚めてしまい、サドの「恋の罪」バイアットの「抱擁」バルビュスの「砲火」そして 「水滸伝」をそれぞれ二度ずつ手にしてよほど読み進み、結局寝付けなくて六時に床を離れてしまった。先日にもおなじ事があった。カフェインに弱くなってい るなり掛けました。
* 読んでいる本はそれぞれに面白い。
水滸伝では梁山泊の盟友がつぎつぎに戦死、そのつど主将宋江が悲しむのが辛い。朝廷の招安(帰順)に応じ、命にしたがい尽忠の大功を挙げながら、容易に 酬われぬ儘、百八盟友のもう半ばに近くを喪っている。帝を取り巻いた悪辣な重臣の暗躍を憎まずにお折れず、読むのがだんだん辛くなる。
サドは文字どおりのサディズム、美徳を完膚なく凌辱する悪徳の跳梁が平易な文章でシャアシャアと書かれていて、その思想の苦い味を嘗めながら、しかもそこに組むべき批評を読み取らねばならない。
バイアットの優れて知的に構成されたナラティヴな、いくらかペダンチックな物語は、まことに巧緻につくられている。三度目の読みであり、映画も、進行・画面ともに記憶しているので、むしろ一語一語、一行一行に立ち止まるほどしっかり味わい、読み込んでいる。
バメビュスの最前線最下層の雑多な塹壕兵士たちの群像としてまた個々においての人間把握と表現の的確なことに、強く胸を押される。たいした作家だと思う。
* 実は、この他にも手を出し続けている本があって、ことに現代中国の戯曲がおもしろく、また坂村健さんの、まこと説得力に富んで旺盛に「世界を喰」って いるグルメ談義が、ほかでもない世界的な「電脳建築家」の世界をとびまわり大勢の科学者や関係者と会食を重ね重ねた実効体験談であり、自前で撮りに撮った 写真も豊富、ほうほうと美味しく面白いのである。
2016 5/1 174
* 夜前、「水滸伝百巻」を再読了。宋江、李逵、呉用、花栄、魯智深、武松ら最期のもののあはれは、ひとしお。さかさまに、彼ら豪傑達が一致団結して忠誠を 遂げた当の愚帝徽宗はじめ宮廷大官らの、終始権謀の陰険と汚濁、ついには毒酒を授けるにいたっては怒りでムカムカする。
宋の徽宗は世界史的に一級の画家ではあったけれど、帝王としてはもっとも情けなく外敵に囚われて俘虜死をとげた人。
これに対し、梁山泊に結集した宋江、呉用ら百八人の豪傑男女らは、かならずしもその行状、清廉でも潔白でもなく凄絶な人殺しをも厭わないもの凄い連中で はあったけれど、バックボーンには悪権力への憎しみと帝国への忠節心とをしかと抱いて激戦し悪戦して国難を救い、良民は労り励まし支援を厭わなかったよう な人らだった。廬俊義、公孫勝、関勝、林沖、秦明、呼延灼、柴進、戴宗、阮小三兄弟、その他、ことにも燕青浪子など、まこと忘れがたい名前がたくさんわたしの胸に居残った。みごとな、いっそ天与の清涼飲料水であった。
これに比しては、巧緻 ではあり趣向たくさんではあったけれど馬琴の「八犬伝」はあまりにしつこく、くどく、ついには退屈を強いて再読に水滸伝と同じ岩波文庫十册が、四年近くもかかった。
2016 5/2 174
* 今日もう一つうるうると嬉しかったこと、やはり原作「斎王譜=慈子」を読み返し初めての冒頭、そして東福寺大機院の歌会・初釜の場面など、なにかしら美し い柔らかいうすものの絹に包まれるような嬉しさ懐かしさがあった。文学は歌わない音楽であり言葉による表現の藝術である。ナラティヴな筋書きが文学なので はない、ことばによる表現を生かして人間や生活や思想や感懐が浮かび立つのである。
雑な文章、文品に欠けた常套・陳腐な筋書きツクリには嫌悪感しか覚えない。
すくなくとも原作「清経入水」についで原作「畜生塚」と原作「斎王譜」は、親愛なるわが読者の手元へ送り届けておきたい。読んだ人は、ほとんど無いのだから。
2016 5/2 174
* 機械の起動まで、淵明の「閑情賦」を読んでいた。
古来褒貶ただならず、全否定をいう人あり、称讃して已まぬ声もあった。蘇東坡や魯迅は絶賛し、今日これに従う人が多いとか。陶潜その人の「序」が懐かし い。張衡の「定情賦」や蔡邕の「靜情賦」にならったと云い、「逸辞を検(おさ)へて澹泊を宗とし、始めは則ち蕩(うご)かすに思慮を以てし、而して終に閑 正に帰す。將に以て流宕の邪心を抑へ、諒(まこと)に諷諫に助け有らんとす」と。自由奔放な発揮から清雅端正への帰着を表している。二十余篇 逸興非凡。 なんとなく哀しくなんとなく嬉しくもなる。
* 今日も、幾つもの「読み」「書き」仕事をすすめながら疲れては居眠りして視力をたすけて、もう九時半。今まで戯曲「こころ」を読み耽っていた。まさし く漱石先生の作をかりて秦 恒平の思いを籠めている、科白の一つひとつにも情景にも。舞台では、こんな長大な台本は実現しがたく、むろん今一つ「上演台本」を創ってもあった。その方 は、いますぐは見つからない、どこかに埋もれてしまってるらしい。幸い、一部適切に簡略にされてあるがNHK藝術劇場版のコピーがやはり何処かには在るは ず。
大きな違いの一つは、海と小島とを眺めながらの文字どおりにわたしの「身内」の思いを、「島の思想」を、原作戯曲では「K」が語っているが、舞台では 「先生」役の加藤剛さんの強い希望で、個々の持ち場をというより、主な科白をごう「先生」が語り「K」は聞き役に回っている。どう考えたって「先生」から こんな「身内」観が出るワケはないのだが、そこがスターシステムの上演の機微であった。わたしは反対はしなかった。観客から怪訝の声も一度も聞かなかっ た、そういうものだ、現実は。
今回「選集」に入れたい戯曲「こころ」は、わたしの原作の儘である、当然。しかも上演時にホンの少し書き加えた場面や科白も、「湖の本」第二巻の二刷りのおりに付け加えていたかも知れない。その辺は明日の仕事で確かめられるだろう。
2016 5/4 174
* サドの適法もの『恋の罪』の「アントニオとロレンツァ」は甚だ刺激的な物語なのに、意外になまぬるくもめでたく収束して、拍子抜けした。不愉快なまこ と不愉快な展開が約束されていながら、破廉恥に破天荒なカタストロフがぬるく回避される。サドが頑として自作と認めなかった(だけの)違法もの「ジュス チーヌ』では、言語を絶する美徳への悪徳の凌辱が、えげつなくも手を代え品を代え延々延々と続くのに、適法モノではへんに意外になまぬるい落着をみる。
* バルビュスの『砲火』は、最前線での塹壕兵士達の言語を絶した最低生活が、みごとな群像描写を介して、徹底的無惨に描かれていて、そのみごとさに感嘆 する。レマルクの最前線ものはまだしも乾燥していて、そのぶん兵士達の苦闘にも呼吸の余地があったが、バルビュスはなんらの容赦もなく最苦痛の腐敗も直前 というにひとしい塹壕の惨苦をひたひたと書いて書いて読ませる。たいした筆力だ。投げ出させない、面白いとまで読ませて惹き寄せるのだ。
2016 5/5 174
* 浴槽でも読んでいた。読み書き十露盤とむかしの人は子弟に躾けた。十露盤はできない。この前までのドラマ「あさが来た」のヒロインは、少女ともいえな い幼いころから十露盤大好きだった。わたしとはカスリもしない。しかし「読む」は早かった。国民学校二年か三年で渋々書いた作文を教室で先生に賞められ、 「書く」への自覚ができた。帯同して、和歌(と俳句)への関心が生まれた。六年生でもおなじように作文が賞められ、中学ではもう「読む」とともに「書く」 意欲に引っ張られ、鞄には教科書のほかに短歌用、俳句用、自由詩用、作文用の帳面をいつも持ち歩いていたが、俳句と詩との分はすぐ不要になり、短歌のため と日記のために、いつも二册は大事にしつづけていた。
「読む」のは嬉しかったが、家には母や叔母の婦人雑誌が二、三册のほかに小説、読み物は皆無だった。しかし祖父の蔵書の古典や漢籍は吃驚するほど多くあ り、良くは読めなくても熱心に手に取るクセが出来ていた、小学生の頃から。「百人一首一夕話」「通俗日本外史」「白楽天詩集」が気に入っていた。「生活大 寶典」という事典では多方面に雑学した。「歌舞伎概論」という本のなかから芝居の場面紹介を抜き読みして長科白を暗記したりした。中学へ進んでから、京観 世の舞台で地謡に出ていた父の謡曲稽古本から「梗概」の頁をくり返し耽読した。
「読む」楽しさは捨てがたい。「書く」よろこびも捨て得ない。幸せと云うべきか。 2016 5/8 174
* 懶く、けだるい疲労に負けている。休むにしかず。モンテクリスト伯は、いっそシャトーデイフの地下牢に入ってしまった方が。そこまでは不愉快な場面の人物が暗躍しすぎる。牢の中で、老法師と会う、あの辺からが好きだ。
2016 5/12 174
* 機械始動を待つ間、このごろはたいてい上下巻ある『砂払』のどっちかを手にしている。粋な小事典のような書物、江戸爛熟の世相というより多彩 多数の「洒落本」から書き抜いては、寸評ないし解釈がしてある。この署名も凝っている。洒落本は一般に本の形から「蒟蒻本」とも云われていた。蒟蒻には体 内の砂を払う効能在りと云われてるので『砂払』と。さて、この本の妙味からナニを以て「砂」と見、どう「払って」いる気か、ま、そんな堅苦しいことを云う までもない。
* 「吉原は中座といつて、まん中に居るのがいゝ女郎衆だそうだが、品川じやア両方のはしへすはるがいゝ女郎さ。」
写真に撮られていて、端にいたりまんなかへ誘われたりするものだが。女ばかりの同総会の写真を見せられることもあり、にやりとすることがある。
* 「深川じや… しかけやなにかのさみしいことを「黄楊だ」といゝやす。是は都合の悪い時、あたまのものみんな曲て仕舞て、つげの櫛をちよいとさしてゐ たり何かするから、それが通り(常識のよう)になつて、つぶりのものでも悪いか、しかけがさみしいと、「この頃はとんだつげさ」などゝいひやす云々」
これを評して『砂払』著者の山中共古は、「黄楊の櫛などゝ云はゞ、いきなことなどゝ思ふこともあらん。これも時代言葉の一つなり」と注意している。この 手の「通り」「時代言葉」「習ひ」の実例でこの著は溢れている。好き勝手に何処を開いても「江戸」の世情、風情がムンムンしていて、粋な耳学問が楽しめ る。歌集詩集も何処を開いてもいいが、こういう実例を文献にひろいながらの小事典も、寸暇の楽しみに、恰好である。杉田博明さんが書いている「京都・町並 散歩」や池田良則さんが繪を書いている四季の「京都よせがき ちょっとそこまで」なども手の届くところにいつも在る。くだらないテレビの不愉快ニュースや 殺しドラマやバカさわぎに時間つぶしするより、よほど「心洗われ」て安堵できる。
2016 5/13 174
* 心惹かれたヒーロー、ヒロインのなかでも断然となると、なかなか難しい。ことに男で挙げるのは難しい。「男は嫌い、女バカ」という人間観がはやくから 出来ていて、「女バカ」はむしろ賛美の気持ちなのであるが、本当に慕わしいまたゼッタイに好きな女性となると、これはもう自作のヒロインたちとなり、ま、 別枠に入れておくしかない。
日本の古典では、竹取のかぐやひめ、源氏の紫上、玉鬘、宇治中君らの聡明な美しさ、優に匹敵して敬愛せざるを得ないのは『夜の寝覚』の中君、リッピ描く「マドンナ」を感じさせる。
日本の現代物では、今も目の前の書架におられる、臈たけて美しい谷崎松子夫人のあの感じをかぶせた、「蘆刈」のお遊さま、川端作「山の音」のこれまたどうしても映画の原節子の好印象をかぶせてしまうお「嫁」さんぐらいに限られる。
海外作となると、男惚れするのはトルストイ『戦争と平和』の男達や『復活』のネフリュードフ。
ヒロインではバルザック『谷間の百合』のモルソーフ夫人に魂をもぎとられそうに中学時代に憧れたし、『モンテクリスト伯』のメルセデスや、ダンテスとともに去って行く美女エデにも心惹かれた。
かぐやひめなみに印象に刻んで大事に感じているのは、ジャンヌ・ダルクである。
* ときどきこういう暇潰しをしては、神経や気分のバランスを取り返している。新制中学の教室で、同種類のもの・こと・ひとを十選んでおいて、順番にして みろと先生に言われた。「批評」行為の最も素朴でしかも難儀な自問自答は「それだよ」と。そう思っている心から。しかし、ウカとは手を出さない。少なくも 選別の相手に期間、今年とか、この半年とか、ここ三年、十年とか限定しないと手に負えるものでない。
2016 5/14 174
* さ、黒いマゴに輸液したら、欲も得もなくからだを横にして、可哀想なエドモン・ダンテスの不幸を暫くは負い続けましょう。
最悪の最前線の兵士達のドブ鼠のさまを描いているバルビュスの『砲火』は、サドよりも、カトリック自殺へ追い込まれるク゜゛レアム・ぐりーたような 2016 5/16 174
* 夜前本が届いていて気付かなかった。「ひとまず閉店」の『追憶のほんやら洞』本が届いていた。なかに、京大大学院経済学研究科教授依田高典さんの一文 「北澤恒彦が慕った森嶋先生、森嶋先生が愛した北澤恒彦」が有り難かった。兄の、わたしと無縁だった世間での言動を何一つも知らぬ儘に死別したわたしに は、ともあれ、有り難かった。
他のたくさんな「ほんやら洞」人らの文章は、無縁というに近いか等しいだろう、わたしは茶の湯を愛してきながら、しかも生来喧しく「かたまる」のが好きでない。
2016 5/18 174
* 夜前、グレアム・グリーンの『事件の核心』を一気に読了した。「核心」へ達する前線が長大で力動感に乏しく、なかなか進まなかった。一つには、純然、 カトリック(伊藤整の飜訳ではカソリック)信仰の「核心」に触れた作なのだが、読むわたしにその信仰も理解もないので、妻とほかの女性とをともに愛し、し かも神を信じ愛している警察副署長スコウビイの自殺へ極まっていく進行がもすらりとは胸に納まらなかった。告白とかミサとか聖餐とかいう信仰行事の重みも よく感じ取れないまま、読み進んでいた。同じ作者の『情事の終わり』には深い感銘をうけて愛読書の一つに大事に数えてきたのだが、あの場合、カトリック信 仰の、作になげかけている意味や意義のおもみをわたしが受け流していたということなのか。
2016 5/19 174
* 第二次世界大戦までと、一応限界は置いておくが、「民衆無くして戦争は無い。民衆は戦争の材料だ。死骸の山と血の河を拵えるのは民衆だ。民衆がいなけ れば、遠くからどなりあうだけで、戦争はおこらない。だが、戦争を決定するのは民衆ではない。それは戦争を宣言し指導するおえら方だ。民衆はただ戦場へ駈 り立てられ、殺戮の塗擦場へ投げ込まれる。…だから、この世界から戦争を根絶させるためには、民衆こそが非戦論に目ざめなければならない。戦争の惨禍から 民衆を救おうとすれば、戦争によって利益するもの、したがって民衆の犠牲によって戦争を持続しようとする者の根絶を必須条件とする。」 『砲火』や『クラ ルテ(光)』の作者アンリ・バルビュスが後半生の全部を賭けた思想であり主張であった。A国とB国との戦争最前線で、両国の民衆兵士が死闘する、さながら その戦争の芯の敵同士のように。しかし、それは違う。実は、A国最前線の兵士達とB国最 前線の兵士達とは戦争すべき敵同士ではないのだ、むしろ同じ不運不幸を担い合って殺し合っている実は同じ被害者、或る意味では彼らこそは味方同士なのだ。 彼らそれぞれの背後に戦争を求め戦争から巨利と名誉とを求め続けている「おえら方」こそが「最前線で苦闘し合っている両国の民衆兵士」の真の「敵」なの だ。バルビュスはそう『砲火』で書き表し、世界中の闘わされ合う全民衆たちの賛同と歓呼の声に迎えられた。「クラルテ」とは、その思想に結集した世界の非 戦民衆らの世界的な民間組織となった。共産党といった団体ではない。いわば「非戦世界民衆団体」であった、作家バルビュスはそういう運動体を自作の小説を 介して成し遂げていった作家であった。
2016 5/21 174
* 今日は、朝も午後も、疲れ果てていて仕事も捗らなかったが、白鵬優勝後、入浴、すっきりした。「死なれて 死なせて」を気を入れて読み終えたし、「心 わが愛」の台本チェックもぐんと進んだ。
『モンテクリスト伯』出だしの不快はとうぶん続くとはいえ、一等イヤなところを通過、すでにダングラール、フェルナン、カドルッスという「悪」の腹は読めてしまい、つづいてもう一人の猛悪検察官ヴィルフォールも心優しい妻となるルネとの婚約披露宴に登場してきた。
もう、とどまるところなくわたしのデュマ読みは、疾走し始める。岩波文庫の全七巻、何日で読んでしまうだろう。そもそも、生涯に何度目の『モンテクリスト伯』だろう。
2016 5/22 174
* 林康夫さん、京のとびきりの珍味まで添えて、三册の図録を下さったのが、それぞれに素敵に糧気に面白く、目を見張っている。楽しませて頂く。
2016 5/27 174
* いま、仕事のほかに、バルビュスの『砲火』と『クラルテ』、そして『モンテクリスト伯』とバーネットの『抱擁』 さらにサフォンの伝奇ものを読んでいるが、どれも惹きいれてくれる。
* 大デュマの傑作など、ほとんど一行一行、人物の一言一句までもう覚え込んでいるので、読書と言うよりみごとな映像を酔うように追っている感じ。この前 に読んだときはトルストイの『復活』と併行して読んでいたのも思い出す。そしてトルストイの表現のまことにしっとりと美しいのにも改めて感嘆したのを覚え ている。
大デュマは、演劇作家として大いに鳴らした作者でもあった。その力量が小説に面白くて大きな構成を生み出させる。極めの入った大衆小説作家でありなが ら、凡百のつくりものを超えて出た世界大を、戯曲的展開に支えられ、ナポレオン時代の欧州世界の厚みとともに、美しいまでの速度感で描き出す。息子の小 デュマの佳作『椿姫』とくらべてみて、分厚さがよく分かる。大デュマは、はっきりと敬愛を献げてあのゲーテに、そしてシェイクスピアに真摯に学んだ作家で あった。しかも大衆作家であることに終始した。
* しかしもわたしが今、自身「小説家」としてつよく意識しているのは、再読を進めている『抱擁』である。これは、あらためて、論考とまでは行かなくてもわたし自身の「小説」作法の検討のためにも、大事に意識し意図して思い深めねばならない。その力を沸き立たせねば。
2016 5/27 174
* 色川大吉さんから新しい「対談集」を、楽吉左衛門さんからは親子三人展の豪奢な図録とお手紙を戴いた。有難う存じます。
2016 5/28 174
* 「K」も「先生」も、いはば弱い人であった。誰でもない自分自身に負けた人であった。漱石作「こころ」の主人公は、生きて行く若い「奥さん」と「私」 であった。わたしはいま、英訳された「KOKORO」を辞書など手にせず遮二無二読み進んでいる。ヘンな私ではないかと笑いながら。
* ダングラールが大嫌いだとこのまえ洩らしておいた。彼はしかし、ケチで卑劣な悪党で。
ヴィルフォールのようにエドモン・ダンテスとメルセデスの生涯を明らかに無実と承知のまま立身出世のために地獄へ突き落とし顕官の地位をしていった巨悪とは競べられない。ヴィルフォールは、ただ、かすかに微かにもおのが悪行のうしろめたさを意識していた、し続けていた。
それにしても人を裁く立場に立っている人たちの誠意を、わたしは、半ば以上に深く訝しむ。誠実な人格の裁判官の実在を信じている。しかし、ただ法文を弄 ぶようにし反人間的に場を占めているだけの裁判官も半ばほどもいるのではという疑いを捨てきれない。(ついでながら、弁護士にもおなじような危惧と不審と 不信をわたしは体験的に植え付けられている。)
* 戴いた色川大吉さんの対談集『あの人ともういちど』の「あの人」たち二十人のうち、わたしもご縁を得てきた方が何人か、ある。山崎朋子、石牟礼道子、 安岡章太郎、金子兜太、阿部謹也、そして上野千鶴子の各氏六人。名や仕事は承知している人としては、高峰秀子、佐藤忠男、松谷みよ子、宮本常一氏ら。
ま、歩んできた道が異なるとは、こういうことであり、さてどうして知り合いご縁を得たかと顧みると、人生不思議の感に打たれる。
わたしは概して昔から、お年寄りに迎えられるタチの少年であり若輩であったので、「わが点鬼簿」をひらけば、プライベートな親族や知友をのぞいても、ま た遠くからただ敬愛していただけの人はのぞいても、文字どおり各界のえらかったお人の名が、ズラーッとそれは大勢並んでいる。九割九分が当然わたしからは 長者であった。わたし自身が今八十歳になってなお、例えば色川先生のように、お知り合いのかなりの方がわたしよりうんと長命であられる。梅原猛さん、竹西 寛子さん、馬場あき子さんら、数え切れない。お元気でどうかと願っている。亡くなった方があまりに多すぎる。
2016 5/30 174
* 水滸伝の宋徽宗朝廷では、蔡京、童貫、高俅、楊戩という邪悪の高官が権力を恣まに天下を掻き乱し忠良を虐げ国と家と民とを惨苦に陥れている。 彼らは、招安を得て梁山泊を揃って出、皇朝のために奮闘よく外寇の国難を防ぎきった豪傑達の根付くのを嫌い、遅効毒の賜酒を首班の宋江、廬俊義に与え、死 に追い遣る。
遅効毒は世界的にしばしば悪事に用いられた。水滸伝は中国、いま観ているドラマでは古代高麗で皇帝が権臣に遅効毒を盛られていた。「モンテクリスト伯」でも、たしかヴィルホールの二度目の妻が薬物の効果をためすことに熱中し、繊細の娘に遅効毒を暗に服させつづける。
悪政というのもまさしく強烈な遅効毒であり、現在の内閣もまた露わなほど強引に乱暴に国と民とに遅効毒を強い続けている。核汚染により列島を覆って行く放射能危害など典型的な遅効毒である。蔡京、童貫、高俅、楊戩の類いがうようよし、残念なことに愚かしい宋徽宗朝廷にすら僅かに実在していた賢臣賢令が、今の日本の政府にも与党にも国会にも見当たらない。なんと危ういことか、毒はじりじりと効いてきているのに、半数以上の国民は夢見心地に毒を抱いている。
毒は恐ろしいが、裏向きには薬でもあり、適切にはたらけば解毒も叶う。単純なことを謂うようだが、この際は夏の参議院選挙にまず勝つことだ。毒に負けてはならない。
2016 5/31 174
* もう『モンテクリスト伯』が期待の佳境、すなわちシャトーディフの牢獄でエドモンはファリア司祭と奇跡の邂逅を遂げたのである、わたしはこの二人の牢 獄の歳月に昔からとてもとても心惹かれて、邂逅が嬉しくてならなかった、エドモン・ダンテスのためにも、ファリア司祭のためにも。
もう、とまらない。一気呵成に読みすすめずにおれないだろう。
2016 6/3 175
* 十時。黒いマゴに輸液してから、床についてゲラを読み、エドモン・ダンテスの脱獄を応援しながら寝入ろうと。
2016 6/4 175
* エドモン・ダンテスはフアリア司祭の死を見送り、遺体に替わって牢獄シャトーディフから海葬に投げ捨てられ、幸いに脱獄に成功した。胸躍る最初の荒い見せ場を聡明勇敢に彼は乗り切った。
これを初めて読んだと同じ頃に、中学生のわたしは人に借りて「赤と黒」「谷間の百合」「女の一生」「嵐が丘」などを初めて読んでいた。その一方で、すで に与謝野晶子の「源氏物語訳」や岩波文庫の「平家物語」、追い慕うように谷崎潤一郎の「細雪」「吉野葛・蘆刈」を耽読していた。他の日本語の作は読んでも あたまには残らなかった。小説という藝術を受け取る根の基盤が出来たのだと思う。
2016 6/5 175
* 韓国古代史を上下二巻で勉強しておいたのが、韓流歴史ドラマを観るのにやはり役に立っている。「輝くか 狂うか」とヘンな題の進行中の高麗ドラマも、どの 時期の高麗かほぼ見当が付けられる。皇帝と執政、皇室と豪族、それに強大な商団、そしていわば対抗する地下組織、さらには「毒」の使用、秘密のシンボル等 々。
一つの半島のなかでいつも高麗、百済、新羅に三分されていたわけでなく、朝鮮時代も、高麗時代も、新羅時代も、李朝とよばれた時期も、これほど混淆し交 替し合い争い続けた半島は世界史的にも珍しい。「流れ」と「変化」とをおよそ理解していないと、ドラマの追い求めて意味するところは掴めない。韓流の現代 物には目を向ける気はさらさら無い、が、歴史がらみのドラマは、選んだ上で、というよりヒロインが気に入ればというのが正直だが、心して観ている。
日本史は、どんなに公家が武家が豪商がハバしようとも、所詮は一系の皇室をとりまく諸勢力にすぎず、あたまの整理は簡単に出来る。源氏物語絵巻をみながら江戸時代のおはなしなどとは、まず、だれも混乱しない。朝鮮半島の歴史異変にくらべて、甚だ淡泊にラクにできている。
2016 6/7 175
* エドモン・ダンテス、カドルッスを催して、自身を陥れた連中のその後を、また父の、メルセデスの、モレルの現況をすべて知るに至った。
バルビュス『砲火』の主張また方法が周到な足どりで正確に読み取れてきた。
2016 6/7 175
* 視野がくらく滲んで、気が晴れない。それでいて、ああもしたい、こうもしてみたいという気は絶えず湧いてくる。むかしからある「千字文」を読んで何か 問題をみつけたいとか、抱えてきた幾つかの主題から選んで纏まった論考もしてみたいとか。気楽に別に書き始めている小説もあり、描きかけの小説の隘路をど う吶喊するかも。
結局出不精になっている。まして出かけて行く「先」を思案する根気が無い。
さ、黒いマゴに輸液して、エドモン・ダンテスのいよいよ始まる復讐の、まずはイタリアでの展開を楽しもうか。
2016 6/10 175
* 「承久記」を昨夜から読み始めた。書庫の本をどんどん図書館へ寄贈する気をかためるにつけても、読んでおきたいという本が少なくも数百册もあっては寿 命が縮まりそう。手に取り手に取る丼本もこれは読んでおきたいなと思ってしまうのでは、ラチがあかない。若い読み手の人で引き受けてくれる人があればいい が、わたしの蔵書は、大方が読み物ではなく、かなりの論著であり、何方にでもというワケに行かない。自著は国会や都や市や関わりの大学図書館へ送り出す が、戴いている作家達の小説やエッセイは、(署名入りが多いだけに)差し上げるにしても誰でもいいとは行かない。
2016 6/12 175
* このところ半世紀余もむかしの私家版で「畜生塚・此の世」「斎王譜」を読み返している。いずれも徹底推敲して後に「新潮」に発表したり文庫本になった りしている、が、推敲以前の原稿にもそれなりの動機が籠もっているのを確かめて置きたいから。この「読み」が、このところ選集での重い気分をすこぶる慰め 励ましてくれる。推敲すれば作品は良くなるが、原稿には、言いしれぬ作への動機が息づいていて、無意味ではないのだ。「清経入水」でもそれを確認できた。
* 「作」と「作品」とは意味がちがうと言ってきた。
いざ、読みかけてみると、堪らない俗な臭みに顔を背けるように頁を閉じてしまう本がある。よくある。ひとごとながら情けなくなる。そこが文学と読み物と の決定的なわかれだ、近代の文学全集がガンとして通俗読み物を入れなかった矜持を大事に思う。角川の「昭和文学全集」は、京都の昔に、高校から大学への昔 に小遣いで買い集めた初の文学全集だったが、中に吉川英治の「親鸞」一冊が入っていた。読めば読み物なりに面白かった、だが、藤村や漱石や直哉や潤一郎の 文章とは、太宰治の文章とも、歴然と「作品」が違っていた、文学の「品」位を決定的に欠いていて、その落差のはげしさに、わたしは、莫大にモノを教えられ た。文学作品の香気を教えられた。直木三十五の「南国太平記」も、読み物としてオモシロイは面白かったが、そこで文章や表現がトマッテしまって痩せた貧し さは蔽えなかった。
2016 6/12 175
☆ 秦 恒平先生
「湖の本」を有り難うございます。
拙著ではありますが私も謹呈させて頂きます。 藤平信一拝 東工大卒 心身統一合気道会会長
* 幻冬舎文庫藤平信一著『心を静める』 これは日頃わたしの念願に深く関わる表題の一冊、「大事な場面 で実力を 120%発揮する方法」と表紙にある。以前、父君の著を何冊か読ませてもらっている。じつは、いくらか秘かに試み続けていることも有る。戴いた この本、心静めて読ませてもらう。
この藤平君、在学の頃から、合気道の大会では向かうところ敵無い人と聞いていた。温厚な青年だった。父君を嗣いで「心身統一合気道会」を今は主宰しているようだ。栃木県でなければ出向いてハナシを聴いてみたいのだが。
2016 6/13 175
* 「承久記」「モンテクリスト伯」「砲火」そして「静かな心に」を読み、湖の本131を校正し、眠くなれば眠る。
明日あたり散髪もしておこう。
2016 6/15 175
* モンテクリスト伯は、ついにパリのアルベール子爵邸を訪れた。本舞台が始まる。ここへ到達までの大デュマの周到にして巧緻な段取りのみごとさ、おもしろさ、大きさ。賞嘆、讃嘆のほかない。
2016 6/18 175
* なにごともなく、今日を送る。体調は、いくらか重苦しいが、酒量もおさえ、多くは何も食べず、仕事もせず。浴室で、バルビュスの「砲火」とデュマの「モンテクリスト伯」を一時間、楽しんだ。
七時。のんびりしよう。
明日は三部制で「義経千本櫻」を楽しむ。屈指の名作、染五郎の知盛、幸四郎のいがみのごん太、猿之助の狐忠信。猿之助は典侍の局も、染五郎は静御前も、 と、若手は女形でも競演してくれる。酔うほどに楽しんできたい。席は、三列目、四列目、五列目と、いつもながら三部「それぞれの絶好」席を用意して貰って いる。
眼のかすみが、なんとかおさまってて欲しい、が。
2016 6/19 175
* 朝から書庫に入って、書架の整頓をなどと思いつつ、とても整頓どころか、あ、読みたい、あ、これも読まないとと、まるで時間が消え失せたかのように、陶然と茫然と数知れず本に手を出しては誘惑に身をまかせていた。
結局、何の整理整頓どころでなく、たった一冊、「大阪同志出版舎蔵版」で、刊年も不明、奥付というものを全く欠いている、邨田海石書の「真行草 三軆千字文」「天 巻ノ上」一冊 和綴じ本を手に、家へ戻ってきた。
四十余頁に、252字がまさしく三軆で書かれている。家中の何処かに他のもう三巻ほどが隠れているのかも知れないが、たぶん、この一冊の端本だけをわたしが京都のどこかの古書鋪で買ってきたのだと思う、そういう廉価な半端買いも、折りにより何度もしてきた。
「千字文」に関心をもったのは高校時代であった。
「天地玄黄 宇宙洪荒」とはじまって異なる一句四文字、二百五十句で「千文字」になる、宏遠な、ま、漢字での世界観が示されてあるらしいと推し、日本の「いろは歌」のいわば漢字版かのように勝手に思いこんだ。おもしろがった。加えてこの端本の「三軆」本にあえて手を出したのは、一字一字を真行草の書体で読める嬉しさに惹かれたのだろう。
しばらく座右において漢字を楽しみたい。一冊で千字文の本も、またどこかで見つかればいいが。
2016 6/23 175
* 「ドクターX」の以外でわりと共感していたのは、秦建日子の作った「ダーティまま」、ちょっとばかり懐かしかった。テレビ映画としては、断然「阿部一族」そしてビートタケシの演じた「 」。外国製の連続モノでは、「コンバット」。
「コンバット」とは戦線の様子こそちがうけれど、思想的な基盤を一つにしたような、アンリ・バルビュスの小説『砲火』が、じつに佳い線をぐいぐい伸ばしていて、読んでいて、著者の積極的な批評・批判のみごとな表現力へ今まさに惹き込まれつつある。
なるほど将校以上将軍大臣にいたる体制側は、各国で挙ってこの反戦の傑作を嫌悪したが、兵士層の民衆はこれを、じつに敵味方の別なく、という以上に最前 線でドブネズミのように闘わされていた敵味方が、まさしく結束し、声高に圧倒的にこの小説をわがもののように支持した事実に、大きく頷ける。此の作は、当 然、最大級の世界文学として大きく広く顕彰されたばかりか、バルビュスの批評と思想とは世界的な反戦団体の成立を現実に産み出したのだ。
* そして「モンテクリスト伯」の桁外れに大柄なしかも緻密に組み立てられた面白さの表現に、事新しくまたもやのけぞり感心し、堪能している。人生に「読 み物」として大いに感心して受け容れて良い、いや、これだけは一生に此の一作でよいからぜひ読んでおきたい大傑作は、「モンテクリスト伯」だと、またして も言い切っておく。ほかに、時間つぶしの読み物小説など、要らないち言っておく。
* 今日、気の重かった、しかし通り過ぎねばならないしんどい仕事を、ともあれ、一つ前へ押し出すことが出来た。すこし、ほっとした。もう今晩は休息して いいと思う。そう思いながら、やはり眼を酷使して千字文から、「天地玄黄 宇宙洪荒 日月盈昊 辰宿列張 寒來暑往 秋収冬蔵 閏餘成歳 律呂調陽 雲騰 致雨 露結為霜 金生麗水 玉出崐岡 劒號巨闕 珠稱夜光 菓珍李柰 菜重芥薑 海醎河淡 鱗潛羽翔」まで書き出してみた。ハハハ
2016 6/23 175
* バルビュスの「砲火」がしみじみと、小粋なほどにさらりと面白く、デュマの「モンテクリスト伯」が組み立ての緻密な大きさで面白く、そしてテレビでの 「ドクターX」がのこと小気味よく面白い。体調の重苦しさに負けそうな中でもこういう創作の面白さがわたしを掬いあげてくれる。
2016 6/27 175
* 機械の起動に延々と時間がかかる。その間、あせらず側近の書へ手を出し、その開いたところを楽しみ読む。そのため。その書物は、事典、辞書、詩歌、短章で なければならない、拾い読むのであり通読はしていられない。遅いながらも機械は気むずかしく、逆らわないように、しかし出すべき手は遅滞なく出さねば機嫌 を損ずる。つまり画面からの要求には注意して応じないと、元も子もなくして初めからやり直しになる。
* 今朝は自然と陶淵明全集の下へ手が出た。
「感士不遇賦」の序に目慣れた「抱朴守靜」の四字がある。君子の篤素だとある。美しい四文字だ。
「ああ意気を導達するは、それ惟(ただ)文か」という一行にも出会う。まことに、と、思う。
詩人はつづけて言う、「巻を撫して躊躇し、遂に感じて之れ(感士不遇)を賦す」と。
嗟乎(ああ)、雷同して異を毀(そし)る、
物、其の上(かみ)を悪(にく)み、
妙算者を迷へりと謂ひ、
直(ただ)に道(い)ふ者を妄なりと云う。
坦として至公にして猜(そね)むこと無きは、
卒(つひ)に恥を蒙り以て謗りを受けん。
瓊(たま)を懐(いだ)きて蘭を握ると雖(いへど)も、
徒(いたづ)らに芳潔にして誰か亮(あき)らめん。
哀しい哉、士の不遇なる、
2016 6/28 175
* 今朝も陶淵明に挨拶した。
靄靄たる停雲
濛濛たる時雨
八表 同じく昏く
平路 伊(こ)れ阻まる
静かに東軒に寄り
春醪(しゅんろう)独り撫す
良き朋は悠邈(ゆうばく)たり
首(こうべ)を掻きて延佇す
停雲 靄靄たり
時雨 濛濛たり
八表 同じく昏く
平陸 江と成る
酒有り 酒有り
閑(のど)かに東窓に飲む
願(つね)に言(ここ)に人を懐(おも)へども
舟車 従ふ無し
友をおもう「停雲」四聯の前二節。思いは同じく、あいにく酒は払底。代わりに、本を読んでいる。
陶淵明の境涯、しみじみ懐かしい。
2016 6/29 175
* 全七册の「モンテクリスト伯」は第六册まで読み終えた。とまらないのだ。なにともいえず緻密に大柄に物語が設計構築されていて、豪腕に終始驚かされる。
2016 6/29 175
* 今朝も陶淵明に挨拶した。
昔、長者の言を聞けば
耳を掩うて毎(つね)に喜ばず
奈何(いかん)ぞ 五十年
忽ち已(すで)に此の事を親(みづか)らせんとは
我が盛年の歓を求むること (=若い日の歓楽を今一度などと)
一毫も復(ま)た意無し
去り去りて転(うた)た遠くならんと欲す
此の生 豈(あ)に再び値(あ)はんや
家を傾けて持て楽しみを作(な)し (=さればよ、今や)
此の歳月の駛(は)するを竟(お)へん (=終焉を成さん)
子有るも金を留めず
何ぞ用ひん 身後の置(はから)ひを (=死後を煩うなんぞ)
2016 6/30 175
* 「モンテクリスト伯」は、今夜中に寝室で読み上げてしまうだろう、何から何まで分かり切っていても、手放せない。
このあと、三年ほど間が空いたがまた源氏物語を読み続けて見たくなっている、
2016 7/1 176
* 昨夜おそく、大デュマの『モンテクリスト伯』を一気に読み終えた。満たされた。
この作で、挿話的に記憶に印していることがある。その話を昔の湖の本原稿で思い出そう、取りだ:そうと捜して、最近、読者から注意されていた大事なことに気がついた。
このホームページに、多年、月々の日録は、悉く保管してあるのに、なんたること、「湖の本」の通算第百巻以降が入れてなかった。別の場所には入稿原稿と して大方保存されてはいたが、それさえ欠けている巻のあるのに今頃気付いた。まこと厖大なフォルダ、ファイルを抱えているので、おそらくどこかでは探し出 せるかも知れないが、楽観は出来ない。
機械のなかの整理整頓も、落ち着いて心がけねば悔いをのこすことになる。これがまたたいへん難儀な作業になるだろう、このごろ脳味噌の乾燥が進んでいて機械の設定や操作が苦手に成ってきているから。
* 今朝も、陶淵明に聴く。
萬化は相ひ尋繹(=推移交替)す
人生 豈(あに)労せざらんや
古より皆没する(=死ぬる定め)有り
之れを念へば中心焦がる
何を以てか我が情に称(かな)へん
濁酒 且(しばら)く自ら陶(たのし)まん
千載は知る所に非ず
聊(いささ)か以て今朝(こんてう)を永くせん(=ゆっくりしよう)
2016 7/2 176
* 陶淵明に聴く
総髪より孤介を抱き 少年いらいかたくなに自分を守ったまま
奄(たちま)ち四十年を出(い)づ
形迹は化に憑りて往くも からだは自然の推移につれ衰えたが
霊府(=心)は長く獨り(=いつも)閑(しづ)かなり
貞剛 自づから質あり この妥協の無い性格は、これ天性か
玉石も乃(な)ほ堅きに非ず
* 「玉石も乃(な)ほ堅きに非ず」とは言い切っている。思慕しつつ忸怩たるものがある。
2016 7/4 176
* 山頭火が井泉水さんのお弟子だったと、再認識した。いま、わたしの頭の上にはその井泉水さんの揮毫で「秦 恒平雅兄一餐」と為がきのある「花 風」の二大字が額装されて、かけてある。
太宰賞受賞後、雑誌「春秋」に請われて、エッセイ「花」「風」を二年連載中に、「愛読しています」とお手紙を添えて井泉水先生から贈られてきた。私の、嬉しいお宝である。
文章を連載中に、畏れ多いほどの老先生から「フアンレター」を頂戴した思い出には、丸善の「学鐙」に「一文字日本史」を三年連載中に戴いた下村寅太郎先生のお手紙があった。西多幾太郎先生の高弟であられた。
高齢の井泉水先生には伊豆までお目に掛かりに出かけたことがある。
やはり高齢の下村先生とは、もうお一方西山松之助先生と、鼎談の司会をさせて頂いたことがある。
あ、忘れてはならない、岩波の「世界」に「最上徳内」を連載中、森銑三先生に激励して頂き、お目に掛かったり御本を戴いたりした。「森銑三著作集」がいま、わたしの「選集」と並んでいる。
2016 7/5 176
* 「短歌往来」という歌誌の新刊を手にすることが出来、「巻頭作品」のその第一首に目をとめた。
花季ながき鎌倉山の朝ざくら窓より見えて吸ふ息ふかし
カ行音が八音も含まれている。歌一首が硬く竦んで、うつくしい「うた」になっていない。作者はあるいは、「花季ながき鎌倉山の朝ざくら」なる上句の「カ」行音連弾を得意とされているのかも知れないが、とすれば、下句はほとんど遅鈍なムダに終わっている。
そもそも和歌といえ短歌といえ、本質が「うた」である。「うた」の至妙をすくなくも結果として賞嘆したい、真相が「ことば」の藝である。「文字」の藝では、ないのである。
「花季ながき」は、とてもこころよい「ことばのうたごえ」と聞こえない。作者はアタマから「花季」などと、漢字という文字で「語意」を探らねば通じない 無理を敢えてしている。そこで短歌の「ことば」より文字の「意味」が早や飛び出している。本末転倒である。まして「かきながき」は、こわばって硬い。美し くない。一首の歌が、ギツギツと捩れている。
現代短歌の雑誌が、巻頭作品の巻頭にこんな「うた」のひびかない歌を掲げて躊躇わないという現実に、「あかんなあ」と、わたしは歎いてしまう。
松坂弘さんの「四月憂鬱」と題された一連出詠歌の筆頭歌はこうである。
菜の花の黄色が硝子戸に触れて咲く誰も何かの苦しみを持つ
的確に一首は「うた」っている。「誰も(人も、作者も、硝子戸に触れて咲いている菜の花も)」の、生き「苦し」さという負荷を、松坂さんは、尖鋭にしかも「ことば」美しく捕捉して、のがしていない。
* 妻の従姉の息子が、このごろ現代短歌に心を入れ、ネットへも発言したり某誌に投稿もしているという。わたしの機械はその手のネットが読み出せないし、届く歌誌も少なくない。
上のわたしの短歌評など、しかし、初学の彼なら、はどう読むだろうか、ちょっとし話し合いたい気がしている。
2016 7/6 176
* 京都府立総合資料館 東京都立中央図書館、日本近代文学館から、選集⑭受領の挨拶があった。京・下鴨の大学同窓澤田文子さん、奈良県五条の研究者永栄 啓伸さんからも礼状が来ていた。澤田さんからは祇園会や漢字博物館の資料そらに雅な香木などを添えてお手紙を頂戴し、永栄さんにはお手紙とともに紀要「皇 學館論叢」に発表の「秦 恒平『閨秀』論」抜き刷りを二部頂戴した。ありがとう存じます。
また東近江五個荘の川島民親さん、江東区の藤原龍一郎さん、品川荏原の本間久雄さん、渋谷笹塚の佐藤宏子さんから、有り難いご支援を戴いた。感謝に堪えません。
* 源氏物語を、また、読みはじめた。ちょっとハンディな古典文学全集本が、本の造りといい重さ字の大きさといい、浴室で裸眼で読むにも安心でいい。「桐壺」原文の出の、目に染み胸にしみる名文に、惚れ心地を新たにした。
そのまま次ぎにバルビュス『砲火』のクライマックスの名文に、手を合わせる心地で胸うたれていた
。以前、ツルゲーネフの『猟人日記』がみごとな短篇集で日々に驚嘆し称讃してその表現の妙に心討たれ続けたが、バルビュスのこの『砲火』という、最前線の苦痛苦渋の悲惨さに自身真向かって、兵士たちの人と言葉と状況と死生を叙する手腕のみごとさには讃嘆のほか無い。
そして厚かましくも二つの名作に伍する気概でわたしはわたしの選集作の校正もさせてもらうので、あなたは何をしにお風呂に入るのと妻を歎かせてもいるのである。
2016 7/7 176
* さて朝一番には厳しい「表現」ではあるが、これが「戦争」「戦闘」だ、ムカシの戦争だとは謂えるけれど本質においては、まさしく「これが戦争」であ り、後方の大将や将軍や、連隊長や、佐官や参謀や大隊・中隊長らは「決して自らは参加しない」最前線最低に酷薄な戦場の兵士達のすがただ。
この「表現」を胸に彫り刻みたい。作中「僕」とあるのは、単に小説の語り手ではない、まさしくその戦場に一兵士としていた「バルビュス」その人である。
☆ アンリ・バルビュス『砲火』(田辺貞之助訳 岩波文庫 二○章砲火)より
砲弾の穴から外へすべりだし、まるで荷物の包みのように、友軍の聴音哨のなかへころげこんだ。
それはちょうどよい時期だった。そのとき月が照りはじめたからだ。だが、朝まで、そしてさらに夕方まで、その壕の底にちぢこまっていなければならなかっ た。機関銃がそのまわりを間断なくなぎつけた。聴音哨の銃眼からは、土地の傾斜のために、倒れている身体が見えなかった。ただ僕らの視線のとどく際に、彼 らの一人の背中らしいものがあった。夕方になって、彼らの倒れているところへたどりつくために、対壕をほった。この仕事はl晩では終らなかった。次の晩 も、今度は工兵の手で行われた。というのも、僕らは疲れ切って、もはや眠らずにいられなかったからだ。
鉛のような眠りからさめたとき、僕は四つの死骸を見た。工兵が野面のしたからたどりついて、
鈎で引っかけて、対壕のなかへ綱で引きずりこんだのだ。どの死骸にも、目白おしに傷がならんでいた。たまの穴が二三センチの間隔であいていた。機関銃は集 中射撃をしたのだ。アンドレ・メニールの死骸は見つからなかった。弟のジョゼフは兄の死骸をさがそうと無我夢中だった。機関銃の十字射撃で縦、横、斜めに 絶えず掃射されている野面へひとりででていった。そして、朝になって、なめくじのように匍いずってきて、泥だらけのひどくやつれた顔を、塹壕の土手の上か らのぞかせた。
みんなは彼を塹壕のなかへ引きずりこんだが、頬は有刺鉄線のとげで引っかかれ、手は血まみれになり、服のひだにはずっしり泥がこびりつき、死の匂いをさ せていた。そして、気違いのように「どこにもいねえ」と繰りかえした。それから、誰のいうこともきかずに、片隅へひっこみ、銃の手入をはじめたが、いつま でも「どこにもいねえ」と繰り返すすだけであった。
あれから四晩目になる。またも地上の地獄を洗いにきた夜明けの光のなかで、彼らの死骸がえがきだされ、はっきり見えてくる。
バルクは固くつっぱって、途方もなく大きく見える。両腕が身体にはりつき、胸がえぐられ、腹が金だらいのようにへこんでいる。泥の山を枕にして首をおこ し、左手からくるものを足の向うから睨んでいる。顔がひどく陰気で、乱れおちる髪の毛がうすぎたなく貼りつき、その髪の毛には黒くなった血がべっとりこび りついている。眼は熱湯をかけたようで、血を流し、煮くたらしたかと思われる。ウードールは、反対に、ひどく小さく見える。小さな顔は真白だ、あまり白く て、白粉をぬった道化役者の顔のようだ。灰色や青みがかった死骸の重なりあうなかで、彼の顔だけが円い白紙のようにくっきり浮かびだしているのは胸をえぐ るようだ。ずんぐり太っていて、敷石のように四角い、ブルターニュ生れのピケは、どえらい努力をして力みかえっているようだ。まるで霧を押しあげようとし ているみたいだ。このひどい努力は顴骨と額のつきだLている顔にしかめ面となってあふれ、物すごいご面相をこねあげている。そして、泥だらけのばさばさし た髪の毛をところどころ逆立たせ、いまにもどなりだしそうに口をあき、どんよりにごった燧石のような眼のうえに、瞼を大きく開いている。両手は虚空をつか んで、わなわなとひきつっている。
バルクとピケは腹を、ウードールは喉をえぐられている。引きずったり運んだりしたあいだに、その傷はさらにひどくなった。でかのラミューズは血がすっか り流れだして、腫れあがった顔も皺だらけになり、眼は次第におちくぼみ、一方の頬が他方よりもずっとこけている。テントの布でつつんであるが、テソトは首 のところが濡れて黒っぽいしみを見せている。右の肩をたくさんのたまでそぎとられ、腕はずたずたになった袖のきれと、誰かが結いつけた紐とでようやくくっ ついているにすぎない。そこへ運んできた最初の晩は、この腕が死骸の山の外へ垂れさがっていて、ひとかたまりの土をつかんだ黄色い手が(塹壕の底を=)行 きかう連中の顔にさわった。そこで、腕をピンで外套へとめたのだった。
長いあいだ苦しみを共にし、親身もおよばない附合をしてきた、この戦友たちの死骸のうえに、早くも悪臭の雲がゆらめきはじめている。
僕らは四人の姿を見るとき、「四人とも死んでしまった」というが、あまりにも変りはてた姿になっているので、「彼らだ」とはとても考えられないくらい だ。そして、それらの動かない怪物から眼をそらすときに、かえって彼らが僕らのあいだに残した空虚と引きさかれた共通の思い出とにひしひしと胸をえぐられ るのだ。
ほかの中隊や連隊に属する知らない連中は、昼間ここを通るとき――夜は死んでいようが生きていようが、手のとどくところにあるものならなんにでも無意識によりかかる――塹壕のまんなかに積みかさねたそれらの死骸をみて、思わずたじたじとなる。
「死骸をこんなところへ放りつばなしにしておくなんて、どんな根性なんだ?」
「ひでえことをしやあがる!」
それから、こうつけ加える。
「もっとも、ほかへもってくわけにもいかねえがな」
だが、やがて彼らは夜にまぎれて埋葬された。
朝が来た。正面に、谷の向うの斜面が見えはじめる。一一九高地だ。けずられ、掻きむしられ、引っかかれた小山で、電光形の交通壕が縦横に木目をつけ、平 行の塹壕で縞模様をえがかれ、粘土や石灰質の土地をむきだしにしている。なにも動くものがない。あちこちへまるで狂瀾怒涛のように大きな泡を噴きあげて炸 裂する友軍の砲弾は、見捨てられて廃墟と化した大きな防波堤へ轟々のひびきを打ちつけるようだ。
僕の見張り役は終った。湿って雫のたれるテントの布をかぶった他の歩哨たちも、泥の縞目や膏薬をはりつけながら、埋っていた地面から匍いだして、よたよたおりてくる。唇が鉛色だ。第二分隊がやってきて、射撃台と銃眼へ配置される。僕らは夕方まで休みだ。
みんなはあくびをしたり、歩きまわったりする。戦友がひとりふたりと通って行く。将校たちは展望鏡や望遠鏡をもって巡回している。みんなはひとところに 落合って、また一緒に生活をはじめる。いつもの話が入りみだれ、ぶつかりあう。あたりの荒れすさんだ様子や、われわれを谷の傾斜にうずめている塹壕の崩れ た線や、またしゃベるにも声をおさえろという命令などさえなかったら、後方の戦線にいるような気がするだろう。だが、みんなは疲れきっている。どの顔も黄 色く、瞼が其赤だ。徹夜をしたので、頭のなかは泣いたあとのようにぼんやりしている。みんな、五六日まえから、腰がまがり、だいぶ老いこんでしまった。
分隊の連中はひとりひとり塹壕のとある曲り角にあつまる。彼らの寄りあった場所は土がまったく石灰質で、断ち切られた木の根がささくれだっている上側の地層のしたから、何十万年以来暗黒のなかにひろがっていた白い石の層が掘りだされて、陽にさらされている。
ベルトラソ分隊が流れついたのは、そこの広くなっている通路だ。分隊もこの頃ではだいぶ人数が減ってしまった。先夜の戦死者はもちろんのこと、ポテルロ -は交替のときにやられてもういないし、カヂャックもポテルローと同じ晩に弾丸の破片で脚に負傷をした。(もうずいぶん前のことのような気がする!)また チルロワールやチュラックも後送された。一方は赤痢、他方は肺炎だ。チュラックが療養している本部の病院から退屈しのぎによこす葉書では、病気がはかばか しくないらしい。
戦争のはじめから一度も別れたことのない人々のなつかしい顔や姿が、土にこすれてよごれ、空を蔽う灰色の油煙にまみれて、寄りあつまり群がるのを、もう一度僕は見る。――互いに兄弟のようにしめつけられつなぎあわされた連中だ。長いこと洞穴のなかで暮してきた男たちの身装には、初めの時分ほどちぐはぐなところがなくなっている。
* あの素晴らしかったドラマ「コンバット」ですら、いますこし画面は陽射しにも動く空気にも恵まれていたと思う。
もうこんな「戦争」には成らないよとしたり顔をかることも出来ようが、いまも大国が重視して訓練しているのは海兵隊だ。バルビュスの「砲火」は兵士としてはさらに原始的なほどに過酷だ。
このリアルを究めた一兵士からの報告書でも陳述書でもあるような小説『砲火』は各国の支配層から極度に嫌われ、しかし前線で敵味方として向き合った双方 の兵士達や周辺からは絶対の支持と歓呼・感謝で迎えられ、多くの文学的栄誉に飾られた。それのみでなく、この作家と作とをよろこび迎えた各国から連合して 行く「反戦運動」が「光(クラルテ)」となり世界化さえしていったのだ。
2016 7/8 176
☆ 『秦 恒平選集』第十四巻を拝受いたしました。
各巻ごとの編集の妙に、またそれに相応しい内実の蓄積に感嘆しているのですが、本巻も驚嘆です。存分に楽しませていただきます。
前巻掲載の「迷走」(三部作)遅ればせながら拝読。秦さんが、このような”人間臭い現実”を作品化されていたことに驚きました。労働組合が不思議な力を 持っていた時代、私は幸か不幸か闘争に深くかかわったことはなかったのですが、同時代にすぐ傍にいたものとしてリアリティ以上のものが押しよせてきまし た。
これもまた秦文学の世界なのですね。
今夏は格別の暑さになりそうです。どうぞ呉々もご自愛下さいますように。
いつもながらのご厚意に御礼申しあげます。 敬 講談社役員
* まだまだ騒壇人で働いていた頃、講談社からは、単行本『初恋』『冬祭り』『愛と友情のうた』『茶ノ道廃ルベシ』など出して貰い、秋成の書き下ろしは書けずに迷惑をかけたりしていた。
しかし、なによりかより講談社とのご縁で感謝に堪えなかったのは百十巻前後の「日本文学全集」の配本だった、最初の配本は谷崎潤一郎集の一、わたしたち が上京し就職し結婚してまだ間もない頃であった、貧の極、大学院での奨学金の残りで敢然と購読し始め、その月々の一巻一巻がわたしの文学教室となった。読 みに読んだ、作品はもとより各作家詩歌人批評家らの「年譜」まで目を更にして読んだ。あの出会いがなかったら、わたしの文学人生ははるかにやせこけてとて も半世紀など保たなかったろう。
俳誌「みそさざい」主宰の上村占魚さんの丁寧な紹介があってかつて「群像」の鬼編集長といわれた大久保房男さんにも親しくして戴いて、もう「騒壇余人」 になっていた身でずいぶん心強い文学のちからを戴いていた。徳島さんや天野さんともペンの理事会や会合で出会った。このお三人からはあの「日本文学全集」 編纂に立ち会われたであろう文学の香気がいつまでも感じ取れてそれが有り難かった。
2016 7/9 176
* 明日は参議院選挙。この國の いや、書くまい。源氏物語を読み、「砲火」を読み、自分の小説を読む。詩を読み和歌を読み、芭蕉や蕪村を読む。そして小説を書く。 2016 7/9 176
* バルビュス『砲火』の、弾丸(たま)すだれを潜ってひたすら最前線を前進する先頭兵士らの死生、そのみごとな叙述と表現とに圧倒される。このように優 れた把握と表現の例にはめったに出会えない。これは作家バルビュス自身の兵士としての奇跡的な生還体験であり、先頭兵士たちのほぼのこりなく命絶えて行く 中に彼自身が生きていての「証言」なのだ、厳粛にしてその筆致の確かさに深く頭をさげて感謝する。これが「肉弾戦」だとすれば、無辜の市民は、ただむざむ ざとそんな最悪の前線へ追い遣られるべきではない。
* そして『源氏物語』の把握の堅固に美しいにも、毎日毎夜、感嘆を惜しまない。
* 東工大の教室にいた藤平君、今日日本の合気道最高指導者、の書いた「静かな心」を頷き教えられながら読み進んでいる。父君の薫陶をうけて高ぶらない若き達人の「ことば」が、静かに生きている。
* 大学での恩師、亡き金田先生の奥さんの自叙伝も興趣にあふれ、妻と、愛読している。奥さんのご実家は平安時代の昔からまもり嗣がれた蹴鞠道の宗家、近 代の伯爵家であった。なかなかそんな世間は覗けもしない、ふぁー、ふうんと感じ入り続けている。先生が亡くなってのちも、奥さんとはお付き合いが続いてい る。励まして頂き、ときには北海道のお魚などを送って下さる。
* 文学作品のなかに数えきれず、親しい、敬愛できる知己がある。作者も作中の人も変わりはなく、願いさえすれば私の「部屋」へ襖一枚あけていつでも向き合ってくれる、洋の東西なく。
そして現実のこの世にも、無茶ものと嫌われてかもしれないのに、有り難いこと大勢の親しい知己や友を私はもっている。顔を合わすことはむしろ皆無にちかいのに、心親しいこと、有り難いこと、極まりない。
余生は、余命はけっして永くはあるまいが、「部屋」は静謐に堅固であり、よき人は、みな「身内」にふれあい心あたたかい。
ぬしとわたしはねからはなれぬ、
ぴつたりべたべた、しつくいにかはに、
はいとりもちやら石うるし、
ねつてかためた中じやもの
こんな、『払砂録』に謂う、「三下リいたこぶし」とは、全く、ちがう。ありがたい。 2016 7/13 176
* 『斎王譜』を読んでいる。「慈子」と在る、最も幸せな読書。このヒロインを世に出してわたしは男性の読者を多くつかみ、女性の読者を手放したとまで編 集者に観測された。こんなに佳いヒロインを書いては女性は離れるんですと笑われた。まさかと思うが。わたしは、最上徳内や新井白石を書きはしたが、圧倒的 に多く、すてきに佳い女ばかりを絵空事の主人公に書いてきた。なかばわたしはその世界に住んでいた。
2016 7/13 176
* 起床まえに、床に坐したまま、源氏物語「ははきぎ」を読み、「砲火」を読み、私の作になる戯曲「こころ」の終幕近くを読んだ。合気道最高指導者である藤平君の著書も、時に叱られもまた励まされ感じ入りながら静かに読んだ。
バルビュス「砲火」の、圧倒的な視覚と感性・知性に、ただ驚嘆。こんな凄みの、しかも叙述適切に美しい「戦闘」「惨状」の表現、他に全く類を見ない。
2016 7/15 176
* さ、黒いマゴに輸液して、寝床に座って校正して、本も三、四册楽しんで、寝る。
2016 7/15 176
* 源氏物語全帖のうち、おそらく最も、わたしのような現代普通の読者が読みわずらい立ち往生する語句の多いのは、「掃木」第二だろうと思う。雨夜の品定 めというように、物語りよりも、堅く言えば論述に要所があり、直接話法という会話・対話の曲直に几帳面に語意を質しつつ付き合うのはかなり荷が重くなる。 物語りは流れで読めて行くのに、である。
しかし、此の巻、おもしろい。しかも後段、中の品とおぼしい空蝉へ源氏が忍び入ってハキといえば犯す、レープする場面は、女の思いが複雑なだけに読む思 いをも戦がせる。わたしはこの大長編に登場する女人達の多くに読者としての愛を注ぎ続けてきたが、この、後々までごく地味に書かれている「空蝉」という女 人の、情もやさしく、しかも光る君ほどの男を躱し通して崩れなかった聡い知性、わたしは敬愛を惜しまず記憶して来た。朝顔と呼ばれている高貴のひとの源氏 との男女の接点の全く見てとれない侘びしさにくらべ、空蝉と源氏のこの「掃木」での逢いと別れとは、男のむごい仕打ちでありながら掻き乱されながらの女の 思いの深切さが悩ましくも優しく哀れで、この「犯し」一場は源氏物語を読みはじめて最初のつよい衝撃とも感銘とも成ってくる。
* もちろん「掃木」のこの女人が次の巻でまこと「空蝉」と化して光源氏を美しいまで痛切に躱し果て、二度と身を許さない。しかも身は人妻ながら、闇にま みれたただ一度の情交を忘れず、源氏への愛とも恋とも情けともいうものを終生喪わなかった「空蝉」の生きようは、優しく聡い。多くの中でも敬愛して佳い 「中の品」の女性の一代表と、わたしは子供の頃から、見定めてきた。
空蝉には、もの露わな愚かさがまったくない。男に空蝉を抱かせておいて、恋し愛する女の身は、人妻である儘にも、乾いていない。情のこわさが無い。この「空蝉」のあとへ現れる「軒端の荻」のうわついた女臭さが、ひときわ効果的に空蝉の女を光らせる。
* 「軒端の荻」「近江の君」そして「女三宮」に通じた女の幼稚さ粗忽さは、今日只今でも、叶わない叶わない。要するにこの女たちは、一言でいうと、為すこと言うことが思慮に欠けて「露わ」で。とても、好きになれない。
* バルビュスの小説『砲火』のなかの「砲火」の章は、70余頁もの熾烈苛烈猛烈な弾幕をかいくぐる最前線塹壕戦。死屍累々の汚泥を這い泳ぐように生き 残っているあまりに僅かな兵士達の、生と死の、仔細かつ活眼の描写で埋め尽くされている。しかも文面から顔を背けるどころか、引き込まれるように一字一句 を読みすすめずにおれない筆致の的確・精確。こんな文学の達成をわたしは他に知らない。日本で言えば小田実の「玉砕」などか。あれは激しく苦痛に呻かされ る。
バルビュスは文藝のちからで、容赦なく、しかも読者が踏み込んで踏み込んで先を読まずにおれない表現の妙をみせる。
地獄さながらの死骸の破壊・解体・腐敗・悪臭・醜悪・信じられないような死勢や死貌のむごさ、しかもそれら死者たちとまさに抱き合い共寝し合うほどに敵 襲を防ぐしかない生ける兵士達の疲労困憊や絶望までが、決して一目何行読みをゆるさぬ文章のちからで、読者を引っ張る。つくづくと、戦闘の根底にある人間 の愚の深さ悲しさを想わせる。
参りました、まだ先があるけれど。
2016 7/17 176
* 『慈子』の原作「斎王譜」を読んでいる。わたしの魂のかけがえない「故郷」が、この作には在る。この作に取り組もうとしたとき、「世にも美しいかぎりの小説を書く」とわが声に出し、書き始めたのを昨日のことのように記憶している。明らかに「畜生塚」を承け、そして「或る雲隠れ考」へ。この三作がが三部作としての糸を紡いでいるとは、まだ指摘した人がいない。
2016 7/20 176
* いまも短歌の同人誌は、俳句よりも多数送られてくる、むろんざっと目を通すが、胸に届く表現に出会うことは、めったに無い。投稿義務を果たすべく無理 じいに五七五七七をツクッテいる。しかも詞がいかにも貧相に乾涸らびている。日本語の素養がなくて、短歌ゴッコに集団で精を出しているらしいが、指導者の 歌からして、なかなか出来ていないから読むのがしんどい。
わたしはここ久しく、歌を、ツクラない。デキルのを書き留めて、いささか推敲している。時に「ざれ歌」を楽しむ。
* こんな一首をはるか昔の日記にみつけた、
香ぐはしき空の色して若葉咲く萌え野の原の日の光かな
清瀬の平林寺へ、まだ小さな娘の朝日子を連れ、夫婦して日曜に遠足に行った。そのとき、朝日子が景色の中で片言のようでいながら本気でいろんな感想を言 うのだった、そんな片言をほぼそのまま一首にしておいた。歌は、ま、こんなふうに実感とことばとが触れ合って生まれてくるのが本来だろうと思う。むりやり の義務義理でこねあげた歌がまるで「うたっていない」のは、当たり前だ。
青竹のもつれてふるき石塚のたまゆらに顕(た)つ櫻子のかげ
こんな歌を、自分の書いた昔の小説の中で、見つけた。嵯峨あらし山のなつかしい墓地の春か。
在るとみえて否や此の世こそ空蝉の夢に似たりとラ・マンチャの男
幸四郎と松たか子の舞台に惹き込まれながら、歌っていた。壇のうえにいたがる人ほど文藝から遠くなっていないか。
2016 7/20 176
* つとめて永く寝ているようにしている、視力・視野のすこしでも安定して仕事に迎えるように、と。眠れば、見づらさの少しはたしかに改善され る。画面の明度にも気配りしている。眼鏡も再々取り換えている。仕事は進めている。寝床での読書も、以前のように一夜に十種類を越すような量はしていない が、昨夜も、選集の十七巻から漱石「心」論を面白く校読し、源氏の「夕顔」(懐かしく)バルビュスの『砲火』(もの凄く)バイアットの『抱擁』(文藝的 な、あまりに文藝的な)を読み進み、そして合気道藤平君の好著『静かな心』を心して学んだ。零時からおよそ一時間半か。
なによりも誘惑されてわたしの弱いのは、読書。家中に、おさまりきれないむきだしの本が目に見え溢れていて、そばをすり抜けるしかないわたしを誘惑す る。昨日も二階廊下の窓際で、亡き加島さんの書かれた東洋文庫「袁枚」が目につき、立ち止まり、立ったまま、たくさん頁をくって艶冶な詩人の詩を幾つも読 んでいた。
心惹かれた本ほど家に溢れているのだから、誘いもキツい。この窓辺の小廊下には、それでも数百もの文庫本、新書版本が新旧の別なく(ただし小説は此処に 置いてない)並んだ小棚からわたしに呼びかける。杖をついてよたよた外出するよりは、ついこの本たちに誘惑されていたいと思ってしまうのは健康ではない が、不健康ともどうも思いにくいので困ってしまう。
2016 7/23 176
* 久保田淳さん(東大名誉教授)から新著『鏡花水月抄』を頂戴した。多年に亘る泉鏡花への論考や発言の集成された一冊である。感謝。
2016 7/23 176
* 大相撲の山場をテレビの前から離れてきて、『斎王譜』の祇園会あと祭りの場面を読んでいた。泣きたくなるほど懐かしい好きな場面、三つになる朝日子の夢中 で興奮していた声が耳の奥に宿っている。親娘三人で祇園会に京都へ帰るのが心底楽しみだった。夫婦で、街の夜歩き食べ歩きを楽しんだ。美しい京都であっ た。
2016 7/23 176
* 「いい読者」をもつ幸せ、作家を刺戟し育てる力がそこに在る。ちょうど今しがた、「螢籠とうから」の徳女句を慈子の部屋で目にしているところを私も原作「斎王譜」で読み直していた。
2016 7/25 176
* 浴室でもゲラを読んだ。特製のライトで明るくして読むので、眼も少しラクです。
バルビュス『砲火』の、この、まあ何という、惨憺たる最前線の塹壕の底を這い回って命生き延び、しかし身の回りは生存兵に何倍する破壊され汚臭を放った 死屍累々とさながら抱き合って過ごさねばならない緊張と疲労との極生活を叙して、顔をそむけるどころか引き込まれるように読んで行ける、読まずにおれない 筆力の確かさ豊かさ、こんな筆づかいの見事さ強さ美しさをわたしは他にそうそう思い出すことが出来ない。
戦闘と弾幕と悪気象とひっきりなしに襲う命の危険。ふつうならとても読めない、投げ出し逃げだして了いかねない、のに、わたしは一行としてとばし読みなどしないしたくない魅されて読み継いできた。とても投げ出す気がしないほど「読まされてしまう」魅惑に捉えられている。
源氏物語はゆっくり「夕顔」の死後と源氏のなげき、「若紫」への推移の気配を楽しんでいる。
今一つバイアットの『抱擁』、今日はシャーンとして姿勢も正しい女性の研究者モード・ベイリーと、学問と学者世間の重い空気の底で、ぐたりと疲れながら 懸命に或る詩人の妻の浩瀚な日記研究にうちこんできた女性との、なかなかの対決と宥和と共感の対話の箇所を面白く読んだ。この作は頗る知的な緻密構造、緻 密すぎるほど創られた「現代」と「過去」との対位法の妙を懸命に汲み取らねばならない大作。一度読み通し、そしてたまたま出来ていた映画も二三度も観て、 そしていま二度目の読みに挑んでいるのです。そう年齢的にも離れていない、イギリスの知性の代表格にみられている女性作家の力作、作中へわが頭から掘って 掘って潜って行かねばならない。これに比べれば同じ「小説」として云うと『ダビンチコード』なんかの方が通俗な感じ。
* 「ユニオ・ミスティカ」 現在、450枚ほどでほぼ出来ている。が、三部構成の、めいめいにガランゴロン、ガランとまるで違う音響で鳴っているような放埒に、作者自身が戸惑って遠慮して縮んでいる感じ。
「清水坂(仮題)」も、展開が手の舞い足の踏むところない暴れようで、なだめ静めるのに苦労している。これは、手を掛けている割りに量的には長いという作ではない。アッとおどろくタメゴローのような題材化している。わたしがいちばん今、ガマンしている。楽しんでもいる。
2016 7/27 176
* 「お利根さんの話(一)」を逐一言葉を追い押さえて、読み終えた。保谷でも、平成でも、都知事選でも、乱れ騒ぐ世界でも、リオの五輪でもない、そんな類をものの見事に消失させてしまうまったくの静謐・清明な別世界に今日はひたっていた。
それが、文学・文藝として良いことなのか、宜しくないことなのか――。そんなにも静かに現実世界から世離れていて、そんな小説世界はお遊びにすぎないのかどうか。
むろんわたしは、今でも「斎王譜」の描いた来迎院の日々、慈子との、朱雀先生やお利根さんとの世界を、深く深く慕い続けている。わたしの「生きる」の少 なくも一半は其処にこそ厳格に実在していて揺るがない。幸せという言葉で自身人生を思うとき、来迎院ははかりしれない深さと重さとでいまも私を魅する。 ま、笑われ嗤われるだろう、だからわたしは「騒壇餘人」であり、むしろ先に挙げた現実世界のあれこれを「ウソクサイ」とじつは嫌うのである。しかしいくら 厭おうとも「あの世」へ帰るまで私はこの現実を生きる。懸命に生きるしかないではないか。
2016 7/31 176
* 「来迎院」の静かさ、懐かしさが、天与の甘露に感じられる。
そして……、久し振りに「梁塵秘抄・閑吟集」世界へ帰って行こうと、旅支度している。
2016 8/1 177
* 朝から原作「斎王譜」を叮嚀に読み返していた。疲れると階下へ降り、デッキチェアでうたた寝したり、横になって読書したり。
2016 8/2 177
* 久保田淳(東大名誉教授・中世文学)さんに『鏡花水月抄』を先頃いただいて、ほぼ毎夜就寝前に拾い読みを楽しませてもらっている。拾い読みの利くなつかしい目次立てになっていて、敬愛やまにい泉鏡花への思いを久保田さん共有させてもらえる。
今日、門玲子(近世女流文学研究者)から、あの柳田国男先生の祖母上にあたる『幕末の女医、松岡小鶴』の生涯と詩作品を編んだ著書を頂戴した。よいお仕事が次々に成る。すはらしい主婦研究者である。
以前に戴いていた色川大吉先生の『新世紀なれど光り見えず』は、今日の日本が気になるつど手を出して繙かずにおれない。まぎれもなく同じ慨嘆の筆が的確に運ばれていて、はげまされるのです。
戴く本は多く、心して目は通させてもらっている。
バルビュスの名作『砲火』最後の、兵士達の戦争を忌み、人間の平等をねがって叫び合う声を、今しも聴いている。
バイアットの『抱擁』は、まこと途方にくれかねないほど、層々と時代・時空をへだてての人と物語とを積み重ね読み合わせて行くじつに詩的な大小説である。つよく刺戟される。
光源氏の物語は「若紫」の巻を読み終えるところ。わたしが、小説という世界の中で、もっとも早く出逢って愛したヒロインの「紫」は第一番の人。ついで、「お遊さん」それから「心の静さん」だったかなあ。
2016 8/9 177
* 宮下さんの「一冊の詩集にかえて (一)(二)」はとても清々しく寂び寂びと熱く胸に届いた。ともに「e-文庫・湖(umi)」の詩歌集に収めてあり、どうぞご愛読下さい。
* 長岡市の詩人植木信子さんから、新刊の詩集『田園からの幸福についての便り』が届いた。
また早稲田教育学部千葉俊二君らの編著『谷崎潤一郎 中国体験と物語の力』一冊が贈られてきた。
2016 8/10 177
* ひどく気が滅入っている。海に浮かんだ、足二つしか載せられない小さな島に、一人ぽっち立っているような、心の寒さ。
なぜか分からない。
こころ励まされる読書に浸りきりたい気分だが、さて、どんな本があるか。
2016 8/14 177
* バルビュス『砲火」最後、みずと泥びたし、死骸だらけ、の塹壕に身動きも成らないままの兵士達の「声」「言葉」を聴き取った、深く深く心して。
2016 8/15 177
* バルビュス『砲火』の収束部をながながとスキャンし校正していた。それ以前の、生彩にあふれた凄惨な戦闘場面の連続から、雨と雪と泥と洪水に ひたされたままの、兵士達の懸命の戦争論議が続いた。なんとしても言葉での舌足らずの論議は観念・概念にも空想にも激情にも流されやすいが、兵士達が云お うとしている意味もも意義も、分かる。大事なことは、筆者のバルビュス自身がこれら惨憺たる塹壕兵士の中に「僕」として加わっていて、けっして想像や作り 話はしていないという一点を見落とすまい。
『砲火』は、戦争の企画指導者や利益享受の上の階層、国支配の階層からは、甚だしく憎まれ嫌悪され排撃されたけれど、敵味方の別なく圧倒的多数の世界中の 「最前線兵士達」バルビュスのいわく「「戦闘の無数のあわれな労働者たち」の共感と感謝と気勢とを受けて文学としての高い評価と顕彰とに輝いたのだった。 「戦闘労働者」おお、なんという的確な定義であろうか、兵士とはそんな存在に他ならない証拠の文章や映像は、ナポレオンの近代戦争このかた、第一次第二次 大戦ばかりでなく、世界各地でのさまざまの戦闘現地で実証されている。「兵隊さんよありがとう」という戦時戦後の浮ついた唱歌が、わたしは嫌いだった、大 嫌いだった、なんというウソくさいイヤらしさ、と。
けっして恵まれること無い「戦闘労働者」 前線の兵士とはそれに尽きている。戦争を企画し決行し統率する指導層はぜったいと謂えるほど弾幕の中での「戦 闘労働」には従事しない。義経には共感しても頼朝をどうしても好きにならなかったわたしは、戦争で損だけを請け負う戦闘労働者と、戦争で名誉や勲章や得な 利益しか請け負わない指導層・支配層との、けわしい対立を、どのような理が働こうとも、納得はしない。あきらかにわたしの人生の第一章の門柱にはかの白居 易作詩「新豊の折臂翁」が掛かっていた。
* バルビュスの『砲火』二册と大冊『クラルテ』を、読みたいなと日記に漏らすとすぐ買いととのえて送ってくれた「尾張の鳶」の友情に嬉しく感謝してい る。この人からは、どれだけ多くの本を貰ってきたことか、しかも本の吟味はいつも行き届いていて、わたしの文学への姿勢や好みや作風をより以上に刺戟する 体に選んでくれてあるのが常であった。たとえば、今も綿密な再読を楽しんでいるA.S バイアットの『POSSESSION:A ROMANCE 抱 擁』など、わたし自身深く深く驚いているほどわたしの「文学」「創作」をかなりの相似性において刺戟してやまない。「いい読者」は分かっていて、好刺戟を 優しく厳しく送ってきてくれる。感謝している。
2016 8/17 177
* 小谷野敦さんと深澤晴美さん共編り詳細で重量豊富な「川端康成年譜」を戴いた。尽力の結晶を祝する。死蔵しないように努めねばならない。
* 先日門玲子さんに頂戴した「松岡小鶴」(柳田国男の祖母)の詩文集と紹介とは、しみじみ読むに値する名著の域にあり、感嘆しながら毎夜味読し楽しんで いる。市井に生まれて巨きな研究につぎつぎ励まれている門玲子さんにはいつも驚嘆し敬服する。わたしより年長のご婦人である。市井の一主婦として漢詩文や 古文書を読み習い、追随を許さない業績を挙げられている。さの漢詩文や文献等の読みの精確にかつ和語の美しいのにも教えられる。
* 源氏物語は「紅葉賀」巻をゆうゆ読み進み楽しんでいる。
近藤稲子さんの訳された漱石作「こころ」の英文は、ずうっと棒読みして楽しんでいる。
* バイアットの『抱擁 POSSESSION:A ROMANCE』巧緻を極めた多層的な「詩」の世界の深みへまるで身をなげるようにし読みすすむので あるが、もうひとつ、やはり「尾張の鳶」に贈られたカルロス・ルイス・サホンの「天使の手帖」が、同じ作者の世界的大ヒット『風の影』についで同じバルセ ロナの重なり合う世界の秘儀を書き進めていて、引っ張り込まれている。
そして、もう一作は、アンリ・バルビュスの到達した世界史的な問題作『クラルテ』にも惹き込まれている。
2016 8/19 177
* 連載エッセイの処女作「花 と風」を読んでいて、或る箇所で、ググッときた。泣けてきた。おやおやと思い、つづく行文に目をやると、「私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと 胸を熱くする」とある。それを書いたのは昭和四十五年の「春秋」十一月号であり、いまからまるまる46年も昔なのだ、半世紀もまえのわたしの感動の感触は すこしも変わらずまだ生きていた。ちょっとその辺をそのまま書き写してみる、と、谷崎の「細雪」にふれて書き進んでいたのだ。
*
その桜に逢った悦びのまま平安神宮の庭に繰展げた蒔岡姉妹の振舞いを、私は前に物狂いと言って置いた。「花のもとにて春死なむ」と願った西行の確信にも、同じこの物狂いがあったと想われる。
この、物狂いとは何か。
源氏物語「葵」の巻で、帝が代って新たに賀茂に斎院が入られ、その御禊の儀に光源氏が特に供奉として加わる場面。こういう特別な場合の特別の貴人には臨 時の随身が与えられるのが慣わしであり、この時は六位蔵人将監が誇らかに源氏の馬の口をとった。何しろ都大路を光りかがやくばかり美々しく進み行く源氏の ことだから、この六位の晴れがましさも大変なものであった。
が、場面が変って「須磨」の巻へ来ると、光源氏は朝廷の咎めをおそれて官位を捨て、今愛人たちにも別れ都を西へ落ちる間際に、父桐壺院の御陵へ参る条りがある。
この時、極く僅かの供の中にかの六位もいて、これも官を奪われ、落莫の源氏に随って都をすてる覚悟を決めているのだが、一行が下賀茂神社まで来た時、さ すがにこの若者は晴れがましかった日の誇らしい記憶に惹かれて、思わずわが馬を下り、光源氏の馬の口をとって昂然と歩んで見せるのである。
私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと胸を熱くする。六位の気もちは想像するに難くなく、私はこれをも「繰返し」の催すみごとな物狂いだと思っている。
物狂いというのは、日本人の心情の特性を解く一つの鍵ことばであって、ある特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へみずから嵌って行こうと する一種の美的能力なのである。一つの行為を殊さら繰返して見せるというこの自己呪縛の物狂いの中で、六位は、負の像でではあるがこの場合幸福という絵空 事を、我にも人にも強烈に構えてみせたのである、と私は思う。
*
おおっと感じたのは、わたしがまだ二十台から三十台のころ、源氏物語のここへくると必ず泣けた心情が、いまも、ここへ来て昔の儘に甦って一瞬も外さな かったこと。いい物語やいい作品から受ける感銘とはまことこのように涸れない泉のようなのである。むろんそういう作品に出会うのは容易でないが、一度出逢 えば宝石のような光は消え失せないのだ、こっちが八十の爺になっていようと、である。作品のちからであるが、わたしも老いぼれていない、まだと嬉しくなっ た。
* 谷崎が言っていて、若い若い日のわたしがつよく共感した一つに、年を取ったらもう他人の書いた物でなく、自分の書いてきた生涯の作を静かに身を入れて読み返したいと願っていたことがある。
あたりまえだなあとわたしは羨ましく共感した。わが谷崎愛の一例である。
いま谷崎潤一郎の年齢を超えて、わたしは、谷崎の述懐にも倣いたく、しかし加えて、日本の作家の作品ではただもう谷崎の、漱石の、藤村の作品を、そして源氏物語と和歌と、もうそれだけで好い心ゆくまで読み返しながら老いを重ねたいと願うのである。
* 今日も、いろいろと仕事をした。
2016 8/21 177
* 桐壺、掃木 空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀と読んできて、花宴へわたって行く。急ぐ旅ではなく、ゆっくり読んでいる。程よい刊本の堅牢なのを、と きに浴室へも持ち込んでいる。「或る雲隠れ考」をうんうん唸って書き継いでいた昔も思い出しているが、ま、何といってもわたしは紫が好きなので。
* さ、もうやすもう。黒いマゴに輸液してやって。床に就いてから、深夜まで好きに本を読み、好きに校正もする。わたしの眼に宜しくないのは、機械画面のギラギラなので、寝床では明るいライトと裸眼とで読んでいて、むしろ、だんだん読みやすくなる。
2016 8/22 177
* ぜひにも、紹介したくて、下記の長文を置いてみる。思いが通ればいいがと願いつつ。1915年の筆、ちょうど100年前の仏獨死闘の最前線の惨状であ り、田辺貞之助さんの飜訳をそのまま頂戴している。戦争そのものは、現代のそれとはサマ変わりしていようとも、なんら変わらない「戦争の本性」が懸命に暴 かれている。
☆ アンリ・バルビュス作『砲火』最終章「夜明け」の後半から巻末まで
「おれは知らねえ」と、予言者のような重々しい(塹壕に埋められた誰か兵士の=)声がいう。
「もしも戦争精神がおしつぶされなけりゃ、いつの時代にも戦争が絶えねえだろう」
「ちげえねえ……ちげえねえ!」
「戦わなけりゃ駄目だ!」と、僕らが眼をさましてから、ずーっと泥のなかにめいりこんで固くなっていた身体から、しゃがれた声がどなる。「戦わなけりゃな たらねえ」そして、その身体が重そうに寝がえりをうつ。「おれらのもっているものを全部、力も、命も、心も、生活も、おれらに残っているあらゆる喜びも、 みんなささげなけりゃならねえ! 今のような(塹壕に埋もれたまるで=)囚人の生活も、両手で受けとるんだ。一切を耐えしのぶんだ。いま世界を支配してい る不正も、眼のまえに見る汚ならしいいやなことも――一切合財、戦争にうちこんで、敵を征服するんだ! だが、こういう犠牲が必要なのは」と、ぶざまな男 は、もう一度寝返りをうって、絶望的につけくわえる。「ひとつの国のためではなく、人類の進歩のためだ。ひとつの国が相手ではなく、世の中の間違いを相手 にして戦うからなんだ」
「戦争をぶっ殺すんだ」と、最初にしゃべったものがいう。「ドイツ(秦注・この小説ではフランス兵がドイツ兵と熾烈に戦闘している。)の腹のなかにある戦争をぶっ殺すんだ!」
「とにかく」と、木の芽のようにそこへ根をおろしてすわっている連中のひとりがいった。「とにかく、なぜ前進しなけりゃならねえか分りかけてきたぞ」
「それでも」と、今度はしゃがんでいた猟兵がつぶやく。「それとはちがった考えをもって戦ってる奴らがいるぜ。若い連中で、人間らしい考えなんか鼻もひっ かけねえ奴らに会ったことがある。奴らに大事なのは、国の問題だけだ。ほかのことはなんにも考えねえ。戦争は祖国同士の問題なんだ。めいめい自分の祖国を 光らせることだけさ。だから、そういう連中はよく戦ったよ、一生懸命に」
「お前のいう連中は若いんだ。まだ年がいかねえんだから、大目に見てやらにゃなるめえ」
「自分のやってることをよく知らねえでも、立派にやれるからなあ」
「まったく人間は馬鹿だよ! こりゃいくらいってもいいすぎることがねえ!」
「気違いじみた愛国主義者は蛆虫だ……」と、影のような男が不機嫌にいう。
彼らは、まるで手さぐりで歩いていくように、何度も繰りかえした。
「戦争をぶち殺さなけりゃならねえ。戦争を!」
僕らのうちの一人、泥のよろいに肩をはさまれた男が、首も動かさずにいう。
「そんなことはみんな駄法螺だ。こう考えようとああ考えようと、それがなにになるんだ。勝たなけりゃならねえんだ。結局、それだけよ」
だが、ほかのものはさがしはじめていた。現在のことよりもずっと向うを知りたい、見たいと思っていた。自分らの心のなかに知恵と意志の光を生みだそうとして、わくわくしていた。ばらばらの確信が頭のなかで渦をまき、唇からとりとめのない確信のかけらがとびだす。
「そりゃもちろんだ……そうだ……だが物事を見なけりゃならねえ……おい、いつも結果をみなけりゃ駄目だぜ」
「結果! この戦争で勝つことさ」と、その境界石のような男がつっかかる。「それが結果じゃねえのか」
二人の男が同時に答える。
「ちがうぞ!」
*
そのとき、にぶい音がおこった。叫び声が僕らのまわりで噴きあがり、僕らはぎくっとした。
僕らがなにも知らずに背中をもたせていた丘から、粘土の皮が一面にはがれて、僕らのまんなかに、両足をのばしてすわっている死骸をむきだしにしたのだ。
土くずれが丘の上にたまっていた濁水の関をきって、水が滝のように死骸の上に流れおち、見ているまえで死骸を洗った。
みんなが叫んだ。
「真黒な顔をしてるなあ!」
「この顔はなんだろう?」と、誰かが声をはずませてきいた。
元気な連中ががまがえるのようにそのまわりに輪になる。土くずれでむきだしになった壁のなかに、薄浮彫のようにあらわれた顔は眼もあてられなかった。
「この顔! 顔じゃねえ!」
顔のあるべき場所に髪の毛があった。
そこで、すわっているように見えたその死骸が、身体を裏がえしにまげ、へし折られているのに気がつく。
僕らは固唾をのんで、そのばらばらになった死体の見せている真直ぐな背やだらりと垂れてうしろへまがっている腕や、どろどろの地面へ爪先で立っている、長くのびた足などをながめた。
すると、この怖しい形で眠っている男に刺戟されて、また議論がはじまった。
「ちがう! 勝つことは結果にはならねえ。おれたちが征服しなければならねえのは、奴らじゃなくて、戦争だ」
「それじゃ、お前は戦争と縁を切らなけりゃならねえってことが分らねえのか。いつかまたはじめなけりゃならねえなら、今までやったことは水の泡じゃねえか。よく考えてみろ、水の泡になるんだぞ。二年、三年、またはそれ以上も、無駄な殺しあいをしたことになるんだぞ」
*
「ああ! もしもおれたちの苦しんできたことが、この大きな不幸の終りでねえとすると、――おれは生きていてえんだ。女房も、子供らもいる し、そいつらのすんでいる家もあるし、後の暮しについても考えているんでなあ――だが、もしもそうなら、おれは死んだ方がいい」
「おれは死ぬんだ」と、ちょうどそのとき、この言葉の木魂のようにバラヂの隣りのものがいった。きっと(自分自身の抉られた=)腹の傷を見たに違いない。「だが、子供らのことを思うと、死にきれねえなあ」
「おれは」と、向うでつぶやくものがあった。「死んでもいいと思ってるが、それはかえって子供らがいるからなんだ。おれは死のうとしている。だから、自分のいうことはよく分ってる積りだ、が、《子供らは平和に暮せるだろう。あいつらは》と思ってるんだ」
「おれは死なねえかも知れねえ」と、別のものが、死を宣告された連中のまえですら、おさえがたい希望に身をふるわせながらいう。「だが、おれは苦しむだろ う。それを、おれは、<困ったことだ>とも思い、≪結構だ≫とも思うんだ。もしも苦しむことが何かの役にたつと分ったら、もっと苦しんでも苦にならねえだ ろう!」
「それじゃ、戦役がすんでも戦わなけりゃならねえのか」
「そうだ、多分な」
「お前はもっと戦争がしてえのか、お前は?」
「うん、もう金輪際戦争がしたくねえから、戦おうってんだ!」と、誰かがうめく。
「戦争たって、外国人とするんじゃねえんだろうな」
「多分、そうだろう」
一段とはげしい風が吹いてきて、僕らの眼をとざし、息をつまらせた。その風が吹きすぎ、突風が、ところどころで、泥まみれの残骸をつかんでゆすぶった り、一軍の墓場のように長々と口を開いている塹壕の水を掻き立てたりしながら逃げて行くのを見送ると、みんなはまたしゃべりだした。
「結局のところ、戦争の偉大と悲惨をつくりだすものはなんだね?」
「民衆の偉大さだ」
「だが、民衆ていやあ、おれたちだぜ」
こういった男は僕の方を見て、眼できいた。
「そうだ」と、僕は答えた。「そうだよ、君。そのとおりだ! 戦争は僕らをつかわなけりゃできない。僕らは戦争の材料だ。戦争は一兵卒の肉体とたましいだ けで成りたっている。死骸の山と血の河をこしらえるのは僕らだ。――あんまり人数が多いために、ひとりひとりの姿は眼にもつかず、いってることも聞えな い、僕らみんななんだ。からっぽにされた町やぶちこわされた村は、僕らのこしらえた沙漠だ。そうだ。戦争は僕らみんななんだ、僕ら全体なんだ」
「そうだ、そのとおりだ。戦争とは民衆なんだ。民衆がいななけりゃ、遠くからどなりあうだけで、なんにも起らねえだろう。だが、戦争をするしねえをきめるのは、民衆ではねえ。戦争を指導するのはおえら方だ」
「民衆はいま自分らを指導するおえら方をなくそうとして戦っているんだ。今度の戦争はフランス大革命のつづきだ」
「そういうわけなら、おれたちはプロシャ人(=敵として闘っているドイツ人)のためにも骨を折っているのか?」
「そうだ」と、あわれな行倒れのひとりがいう。「そのつもりでいなけりゃならねえ」
「ちくしょう! とんでもねえ!」と、猟兵がうなった。
が、首をふって、あとはなにもいわなかった。
「おれたちのことだけやっていこう! ほかの国の奴らのことに口を出す必要はねえ」と、例の頑固屋が喧嘩腰でどなる。
「ううん、必要があるんだ……なぜって、お前はほかの国の奴らっていうが、結局は同じような連中なんだからなあ」
「いったい、なぜ、おれたちだけがいつもみんなの先に立って進まなけりゃならねえんだ?」
「そういうもんなんだ」と、ひとりの男がいう。そして、さっき口にした言葉をもう一度繰りかえす。「困ったことだし、また結構なことだ!」
「民衆ってのは、いまはゼロなんだが、全部にならなければいけねえんだ」と、このとき、今しがた僕に問いかけたものがいった。――彼は一世紀以上もまえか ら言いふるされた言葉を、知らず知らず口にしたわけだが、ついにこの言葉に、いみじくも世界的な大きな意味を与えたのだ。
そして、地獄の苦しみから逃げてきたこの男は、泥かすのなかに四ん匐いになったまま、癩病やみのような顔をあげて、むさぼるように、自分の前を、無限の彼方を見つめた。
彼はいつまでも見つめていた。天の扉をひらこうとしていたのだ。
*
「民衆は、手をかえ品をかえて民衆を搾取する奴らの腹のうえへのって、肌と肌で理解しあわなけりゃならねえ。大衆はみんな理解しあわなけりゃならねえ」
「人間は結局平等にならなけりゃ駄目だ」
この降って湧いたような言葉は、僕らには救いのように思われた。
「平等か……そうだ……そうだ……正義とか、真理とか、偉大な思想はいくらもある。おれたちが固く信じ、まるで光明へすがりつくように、いつもそれへ心を引かれているものはたくさんある。だが、そういうものの筆頭は平等ってことだ」
「自由や友愛もあるぜ」
「だが、第一は平等だ!」
僕は彼らにいう。友愛なんて夢、だ、雲のように変りやすい感情だ。知らない人間を憎むことは人間性に反するが、知らない人間を愛することも同じように人 問性に反する。自由についても同様だ。人間が否応なしにばらばらに分裂している社会では、自由はあまりにも比較的なことだ。
だが、平等はいつも同じだ。自由や友愛は言葉だけのことだが、平等は一個の事実だ。平等、(もちろん社会的平等だ。なぜなら、個人の価値には大小の差が あるが、めいめいは同じ程度で社会に参加しなければならないからだ。それが正義だ。ひとりひとりの人間の生命の価値には変りがないのだから)平等は人間の 偉大な公式だ。これは実に重大なことだ。個々の人間の権利の平等と大多数の神聖な意志という原則は完全無欠、絶対不可侵だ。――この原則はほんとに神聖な 力をもって、一切の進歩をもたらすだろう。第一にもたらすものは、あらゆる進歩の広大な坦坦たる基盤だ。それから正義による紛争の解決。これは正確に一般 的利益と同じことだと。
そこにいた庶民階級の連中は、以前の革命よりももっと大きな、まだ自分らにはなんだか分らない革命を垣間み、自分らがその口火となっていることや、その革命がすでに自分らの喉に湧きあがってきていることをさとると、口々に繰りかえした。
「平等だ!」
彼らはまずこの言葉をたどたどしくつぶやぎ、それから、やがて、いたるところにはっきりと読みとっている様子だ。――そして、この平等に触れた途端に崩 れさらない偏見や特権や不正は世の中に存在しないと分ったらしい。これは、この崇高な言葉は、一切への回答だ。彼らはこの平等という観念をいろいろの方面 から考えで、一点も非の打ちどころがないことを認める。そして、世の中には種々の弊害や悪習が眼もくらむばかりに燃えさかっていることに気がつく。
「平等たあ美しいな!」と、ひとりかいう。
「美しすぎて、真実でねえみてえだ!」と、別のものがいう。
だが、三番目の男がいった。
「平等ってことが美しいのは、真実だからだ。真実なことよりほかに、美しいことがあるものか! ………だが、平等が実現するのは、美しいから じゃねえ。美しいことってものは一般に流通する力がねえ。愛と同じようだ。どうしても平等でなけりゃならねえってのは、平等が真実だからだ」
「とすると、民衆は正義をのぞみ、しかも力をもっているんだから、正義を実行しなければならねえ」
「もう実行はじめてるよ!」と、誰かがいう。
「物事がもうそういう方へ向いてるんだ」と、別のものが教える。
「あらゆる人間が平等になったら、どうしたって団結せずにはいめえな」
「空のしたで、三千万の人間がいやいやながらやっている、こんなひでえこと(=殺し合いの肉弾戦)は、もう起らなくなるさ」
それはほんとうだ。反対する余地、がない。どんな見せかけの議論でも、ごまかしの返答でも、<空のしたで、三千万の人間がいやいやながらやっている、こ んなひでえことは、もう起らなくなるだろう>という言葉に対し刃向うことができるだろうか。僕は耳をかたむける。そして、苦悩の野に投げすてられた哀れな 男たちが口にする言葉の論理を追う。彼らの傷と苦痛とからほとばしる言葉、彼らから血潮のように流れだした言葉だ。
また、空がくもってきた。大きな雲が空を青くそめて、低くよろいのようにつつむ。上の空は、錫めっきのようににぶく光り、湿っぽい霧が空を掃くようにもうもうと流れて行く。あたりが暗くなる。また雨が降りだすのだろう。まだ嵐も長い長い苦悩も終りにならないのだ。
「<いったい、なぜ戦争なんかするんだ>と、考えてみるがいい」と、ひとりかいう。「なぜだか、そりゃ分らねえ。だが、誰のためにというなら、返事ができ る。めいめいの国が毎日千五百人の若者のぴちぴち生きている肉を、戦争という偶像にささげて、思う存分に引っ裂かせているのは、ほんの数えられるくらいの 指導者たちの快楽のためなんだってことが、いやでもおうでも分るだろう。方々の国の民衆が戦闘隊形にならんで屠殺所へ歩いて行くのは、金筋をつけた階級が プリンスなにがしっていう自分の名前を歴史に書きのこすためだし、奴らと同じ仲間の金満家の事業が繁昌してだ、使われている人間もふくふくになるし、店も にぎやかになるためなんだ。だから、眼をあけてよく見れば、人間同士のへだたりはおれたちが考えているようなものではねえ。そんなあんちょこなへだたりな んかじゃねえってことが分るだろう」
「おい、聞けよ!」と、誰かが急に話をさえぎる。
みんな口をとざす。遠くの方で大砲の音がする。すさまじい砲声が空気の層をゆすぶる。その遥かな力が泥にうずまった僕らの耳までつたわってきて、かすかにふるえる。一方、まわりでは、洪水が依然として地面をひたし、高みの土を徐々にくずしている。
「またはじまった……」
すると、僕らの一人がいう。
「ああ! なにもかも、こっちの気持はお構いなしで、やらされるんだ!」
運命の素晴しい傑作のように、この敗残の語り手たちのあいだではじまりかけていた対話体の悲劇に、早くも一沫の不安と躊躇がすべりこむ。いままた眼のま えで際限もなくはじまろうとしているのは、単に苦痛や危険や風雨の猛威だけではない。それは、真理に対する物と人との敵対、特権の蓄積、無知、無関心、悪 意、専断、残忍な既成事実、それから頑迷無礼な集団と解きがたい序列である。
そして、暗中摸索する思考の夢が別のまぼろしへつづき、そこでは、永遠の敵意が過去の闇から出て、現在の闇のなかへあらわれ、修羅のちまたを現出するのだ。
*
ほら、やってくるぞ……世界を黒一色に塗りこめた雨雲のいただきへ、空にくっきりと浮かびだした影絵が見えるようだ。きらびやかに練りあるく騎馬の戦士 たちが――甲冑や飾綬や前立や王冠や剣をになった軍馬の一隊が……彼らはあざやかに、またはなやかに、燦然とかがやきながら、隙間のない武装も重だけに進 んでくる。手振り身振りも古くさい、この勇みたつ騎馬の行列は、さながらあくどい芝居の書割のように、空に根をおろした黒雲のなかにえがきだされる。
下界からながめている熱っぽい視線のうえに、ぬかるみの窪地や荒れはてた畑の泥をべっとりかぶった死体のうえに、この行列は地平線の四方から押しよせてきて、空の無限を押しのけ、青い深みをかくしてしまう。
彼らはローマの軍団だ。そのうちには、戦争を賛美し、戦争を呼号する戦士や、世界的な奴隷制度で魔力にひとしい力をおびた者どもばかりではなく、あちこ ちに、平伏する人類のうえへ傲然とつったった絶大な世襲の権力者もいる。そして、彼らは、一大打撃を与えるべき時期が来たと見ると、突如として正義の天秤 にのしかかるのである。しかも、意識するにしろせぬにしろ、波らのおそるべき特権に奉仕する群衆がいるのだ。
そのとき、陰気な悲劇的な語り手のひとりが、まるでこの光景を眼に見たように、手をさしのべながら叫ぶ。
「だが、《立派な人たちだ!》っていう奴らもいるぜ」
「《民族は憎みあうものだ!≫という奴らもいる」
「<わしは戦争で肥えふとるんだ。わしの腹は張りきってきたぞ>という奴らもいる」
「《戦争はいつもあったんだから、これからもあるぞ》という奴らもいる」
「〈おれは足の先より向うは見ねえんだ。だから、ほかの連中にも向うを見てもらいたくねえという奴らもいるぜ」
「〈子供はみんな赤や青の猿股を尻につけて生れて来たんだ>という奴らもいる」
「〈頭を下げげて、神を信じろ>という奴らもいるぜ」としゃがれた声がどなる。
*
ああ! 君たちのいうことは正しい。戦闘の無数のあわれな労働者たちよ、いまだ幸福をつくりだすには役立たないが、全能の力をもって、自分の手で大戦争 をやってのけようとしている諸君、ひとりひとりが苦悩の世界をになっている群衆よ、長い黒雲が悪魔のように乱れとぶ空のしたで、思考のくびきのもとに背を かがめて物思いにふける諸君よ、そうだ、君たちのいうことは正しい。何もかも君らの考えに反して行われている。すべては、君らを度外視して、また君らがい ま垣間みたように、そのまま正義と融合している君ら全体の大きな利益に反して行われている。――世の中では、サーベルを振りまわす奴らと、うまい汁を吸う 奴らと、不義不正の奴らばかりが幅をきかしている。
銀行家とか、大小の事業家とか、利益にきゅうきゅうとしている怪物ばかりだ。彼らは、よろいを着たように、それぞれの銀行や屋敷にもぐりこんで、戦争で くっている。訳のわからない正義をひけらかして昂然と額をあげ、金庫のように無表情な顔をして、この戦争最中にもしごく安穏に暮している。
また、砲火のきらめかしいうちあいを讃美し、軍服の派手な色を見ると、女のようにうっとりしたり、喚声をあげたりする奴らがいる。軍楽隊に陶酔し、小さな盃のように民衆へそそがれる流行歌に夢中になる奴らがいる。眼のくらんだやから、精神薄弱者、狂信者、野蛮人がいる。
過去にもぐりこんで、昔の言葉しか口にしない奴ら、つまり保守主義者がいる。そういう連中は、過去の悪弊を永遠のものと考えて、それが法律的な力をもつ ように信じ、死者に指導されることを望み、ぴちぴちと脈うつ情熱的な未来と進歩とを、幽霊や乳母のお伽話の支配に服従させようと努力している。
また、こういう連中にこびりついている坊主がいる。坊主どもは、世の中のあり方を変えまいとして、天国というモルヒネでわれわれを興奮させ麻痺させよう としている。さらに、弁護士や、経済学者や、歴史家や、そのほか数えきれないほどの有象無象がいる。――その連中は学術用語で人の頭を混乱させ、民族と民 族のあいだには敵意があると主張する。が、近代国家は国境という抽象的な線のなかに勝手につくった地理的単位にしかすぎず、そこに住む人民は民族の人工的 な混淆にほかならないことを知らない。さらにまた彼らいかがわしい系図屋は、征服と略奪の野心のために、いつわりのしちむずかしい証明書や、空想的な貴族 の称号をでっちあげる。浅慮短見ということは、人間精神の病気だ。学者とは、多くの場合、物事の単純性を度外視し、公式や瑣末にとらわれて、全体を没却し 汚損する無知蒙味のやからだ。書物のなかからは、こまかしいことは教わるが、全般的のことは教わるものではない。
しかも、そういう連中は、戦争はいやだと口でいいながら、戦争を永遠につづけさせるために全力をつくしている。彼らは国民的虚栄心をあおりたて、武力に よる優越感を助長する。彼らはみんな自分の仕切りのなかで、「勇気と忠誠と才能とよい趣味を保持しているのはわしらだけだ」といっている。彼らは一国の偉 大さと富とを、国民を食いつくす病気のようなものに変えてしまっている。愛国心にしてからが、感情や芸術の領域にとどまっているかぎりは、家庭や郷土につ いての感情とひとしく、尊敬すべきものであり、また神聖なものであるが、彼らはこれを、世界の状態と不均衡な、いたずらに空想的で永続性のない観念にして しまう。この観念は、まるで癌のように、すべての活力をうばい、いたるところにひろがって、生命を押しつぶす。しかも、伝染性をもっているものだから、し まいには、戦争の危機をまねいたり、国力を涸渇したり、武装平和の窒息状態におとしいれる。
彼らは讃美すべき道徳すら腐敗させてしまう。国家的というただひとことで、いかに多くの罪悪を美徳に変えたであろうか! 彼らは真理すらも変形させてし まう。永遠の真理をすてて、一国家の真理におきかえる。だから、国家の数と同じだけの真理がうまれて、真の真理をゆがめ、捻じ殺してしまう。
こういう連中は≪わしがはじめたのじゃない、君だ!――いや、わしじゃない、君だ! ――君からはじめろ! ――いや、君からはじめろ!≫というよう な、鼻もちならないほど滑稽な、子供じみた議論をつづけてぃる。君の頭上に、そうした騒ぎが聞えるだろう。だが、子供じみたといいながらも、これは世界の 大きな傷を永遠化するものだ。なぜなら、こういう議論をしているのが真の利害関係者ではなく、戦争を終らせようという意志のないものばかりだからだ。地上 に平和をもたらすことのできない、または欲しない奴らは、どういう理由にしろ、過去の状態にしがみついて、それに理窟を見出したり、理窟をひっつけたりす るものは、誰でもみんな諸君の敵だ!
そういう奴らは諸君の敵だ。ここで諸君のあいだにころがっているドイツ兵がいまは敵であるのと同じことだ。――もっとも、このドイツ兵たちは見るもあわ れにだまされて、愚鈍になった、まるで家畜のようなものだが、――とにかく、今いった奴らは、どこで生れ、どういう名を名乗り、どこの国の言葉で諸君をだ まそうと、諸君の敵だ。天地のすみずみまで彼らをさがして、よく見ておけ。いたるところにいるんだから! そして、それが誰だか分ったら、永久に忘れずに おきたまえ!
*
膝をついていた男が、両手を地面へついて身体をのりだし、番犬のように肩をゆすりながらうなった。
「奴らは<君は素晴しい英雄だった>というだろうが、おれはそういわれたくねえんだ。英雄だの、ずぬけた人間だの、偶像だの、そんなのはまっぴらだ!おれ たちは人殺しだった。人殺しの仕事を正直にやってのけた。これからも、腕のつづくかぎり、この仕事をやるだろう。戦争をこらしめ、戦争の息の根をとめるに は、この仕事をすることが偉大であり、重要だからだ。だが、人殺しの動作はいつでも恥すべきことだ――時には必要なこともあるが、やっぱりいつでも恥すべ きことだ。そうだ、残酷な、疲れを知らない人殺し。おれたちはそれだったんだ。だが、おれがドイツ人を殺したからといって、立派な戦功をたてたなんて言っ てもらいたくはねえ!」
「おれもそうだ」と、別のものがどなる。たとえ反駁しようとしても、誰にもできそうもなかったほど大きな声だった。「おれも、フランス人の命を救ったから といって、そういわれたくはねえ! そんなことになりゃ、人命救助が立派なことだからといって、火事を讃美するのと同じじゃねえか」
「戦争の美しい半面を見せるってことは罪悪だよ、たとえ、そんな面があるとしても!」と、陰気な兵隊のひとりがつぶやく。
「そういうのはだな」と、最初の男がつづける。「お前の骨折を光栄という褒美でごまかし、また自分がなにもしなかったつぐないをするつもりなんだ。だが、 軍隊の光栄なんて、おれたちのような一兵卒にゃ、うそだよ。そりゃ二三人の人間のためのもんだ。そういうお歴々のほかには、兵隊の光栄なんかありゃしね え。戦争のなかで美しく見えるものと同じように嘘だ。実際、兵隊のはらう犠牲は闇から闇へ葬られるものだ。攻撃の大きな波をつくる無数の兵隊たちには報酬 なんかねえ。ただ光栄という、怖しい影みたいなもののなかへとびこんで行くだけだ。彼らの名前さえ、まるで虫けらのような、あわれな小さな名前だもの、帳 面にのりゃしねえや」
「そんなことはどうでもいい」と、別のものが答える。「おれたちには、ほかに考えることがある」
「だが、今の話のようなことを」と、まるで眼もあてられない手で蔽いかくされているように、泥にまみれた顔がきれぎれにいう。「口にだすだけだって大変だ ぜ。世間の奴らからのろわれて、火あぶりにされるだろう! 奴らは前立のまわりに宗教をでっちあげてるんだからなあ。ほんとの宗教と同じようにたちがわる くて、くだらなくて、毒になる宗教をだ!」
その男は起きあがったかと思うと、どさりとたおれたが、また起きあがる。彼は泥のよろいのしたに負傷していて、地面に血が流れていた。彼はこういったとき、彼の大きく開いた眼が、世界の傷をなおすためにささげた血を、つくづくと地面のうえに見つめた。
*
みんなはひとりひとり起きあがる。風雨がますますはげしくなって、掘りかえされいためつけられた野原一帯に吹きおろしてくる。昼は夜の闇にとじこめられ ている。黒雲の山脈の頂きに、十字架や軍旗や教会や王侯の宮殿や兵営などのどぎつい影絵ができ、そのまわりに、人間の群の不気味な形が次々と絶えずあらわ れる。そして、それがもくもくとふえて行き、人間の数よりも少い星の光を掻き消してしまうように見える。――しかも、その亡霊たちは四方八方からこの窪地 へなだれこんでくる。そして、現実の人間たちが算をみだして投げだされ、麦粒のようになかば土に埋っているなかで、あちこちうごめきまわるように思われ る。
まだ生きている戦友たちは、ついにみんな立ちあがった。彼らはくずれた地面のうえへかろうじて立ち、泥まみれの服にとじこめられ、奇妙な泥の棺桶にはま りこみながら、無知そのもののように深い土のそとに、この世のものとも思われない単純さをつきたてる。そして、眼を、腕を、拳を、日の光と嵐のおちてくる 空へのばしながら、動きまわり、わめき叫ぶ。彼らはいまなおシラノやドン・キホーテさながらに、勝ちほこる亡霊へいどみかかっているのだ。
彼らの暗い姿がわびしくひかる荒野のうえに動き、元の塹壕のなかによどんでいるほのかな水面にうつるのが見える。塹壕は、見渡すかぎり雨にけぶる極地のように荒涼たる野面に、白々と水をたたえ、大地のはてしない空虚だけの住み家になっている。
だが、彼らの眼は開いている。彼らはさえぎるものもない物事の単純性を理解しはじめている。真理は彼らのうちに希望の曙光を走らせるばかりでなく、力と勇気とを回復させはじめている。
「奴らの話はもうたくさんだ」と、彼らのひとりが命令口調でいう。「奴らなんかどうにでもなれ。……問題は、おれたちだ! おれたち全部のことだ!」
庶民階級相互の理解、世界の民衆の奮起、粗野なまでに単純な信念……これ以外のことは、ほかのことは、過去、現在、未来を通じて、絶対にどうでもいいのだ。
ひとりの兵隊が、初めは細々とした声ながら次の文句をつけくわえる。
「もしも今度の戦争が進歩をひとあしでも前進させる、戦争のいろんな不幸や人殺しは大目に見てもいいだろう」
やがて、僕らがまた戦争をはじめるために、みんなのところへ帰ろうと支度をしているあいだに、僕らの頭のうえで、嵐にとじこめられた真黒な空が、ゆっく り開きはじめる。二つの黒雲のかたまりのあいだから、静かな光が流れだし、その一筋の光は、まるで物思いにふけっているように、身をちぢめ、うら悲しく、 貧しげではあるが、ともかくも、太陽が存在することを証明している。
一九一五年十二月
アンリ・バルビュス作 田辺貞之助訳 『砲火』終章「夜明け」後半 完
* 「e-文庫・湖(umi)」の小説欄にも掲載したので、この箇所での長文は二、三日無後には撤去するかも。
* 「「e-文庫・湖(umi)」への入り方は、このホームページの總表紙を開いて「目次頁」へ入り、「e-文庫・湖(umi)」」の横文字表記をクリックすれば良い。著者別、ジャンル別に本文へ入って行ける。
* 「e-文庫・湖(umi)」への掲載手順はほぼ確実に理解したので、良い寄稿、投稿を期待します。また各界の知友へも依頼して「作」を頂いて掲載して 行く。現在、ほぼ六百作の近代、現代の名作・傑作・問題作・珍作・力作が掲載されてある。ことに湮滅の危機にあった往年の秀作の復刻をことに大事にわたし (責任編輯者)は願いとしている。もう一つは、まだ無名の新人の力作に出逢いたいとも。奮って投稿して下さい、誠意を持って読みますので。
2016 8/23 177
* 松岡小鶴の、就学中の一子文(操)に与えた、漢文や漢詩での書信に感動している。操の子の柳田国男は、異彩の女医であったこの祖母小鶴の没後に生まれ ていた。兄弟は皆優れた足跡を遺した。柳田の全集、折口信夫の全集は、わたしの、一時期、むしゃぶりついていた愛読書だった。こんな全集も、ほかに古典 の、近代・現代の文学全集、漱石・藤村・潤一郎・鏡花・恆存・森銑三らの堂々とした全集も、みな、いずれ廃物のように処分されてしまうのだろう、情けな い。
2016 8/23 177
* 京大名誉教授、前京都博物館館長の興膳宏さんから、『杜甫詩注』「成都の歌 下巻」 を、「前巻」に引き続いて頂戴した。第一期10册の今回完結編で吉川幸次郎先生著を興膳さんがさらにオリジナルに編成されている、京洛の地に結実した『杜 甫詩注』の決定版である。わたしは今日の中国政治は大いに嫌厭しているが、古代以来の詩史と実績にはこころからの親愛と敬意を寄せている。陶淵明、そして 李白と杜甫、また白楽天から中世近世の詩人達にいたるまで、折り有れば愛読し続けてきた。ことに杜甫にとって成都は生涯のおおきな一到達点であり、あらた な詩境をひらいた大切な住地。陶淵明全集、唐詩選、古文真寶等々とともに、愛読し続けたい。
* 大学、図書館からも。京都宇治の水谷先生からは、いま、御電話を戴いた。
2016 8/26 177
☆ お元気ですか、みづうみ。
まず忘れないように大事なことか ら。お送りしたポータブルの外付けハードディスクはUSBとまったく同じ使い方をするものです。パソコンに繋いで「名前をつけて保存」をクリックするだけ です。USBに取り込むのと同じ方法で、遙かに大容量のデータを取り込むものです。USBがお使いになれるのですから、みづうみがお使いになれないはずが ありません。是非こちらにみづうみの諸データを保存してくださいませ。パソコン故障する前にお願いいたします。
とりあえずみづうみの機械で可能かどうかだけでもお試しいただけないでしょうか。わたくしはみづうみの可能な限りのデータを頂戴したいと思っていますので、どうかお使いくださいますように。使えることがわかったらみづうみ用にもう一台新しいものをお送りします。
湖の本、選集、ホームページの他にとくにデータで欲しいものは、まだ読ませていただいていない小説含めたみづうみの文章すべてです。湖の本になっていない ものです。ああ、まるで舌切り雀の欲張り婆さんのようなお願いです! ですがこのハードディスクがあればいざという時に欲張り婆さんのように風呂敷に本を いっぱいにして逃げる必要がありません。携帯できるデータは宝物のように大切なものです。
スタンダールは小説の最後にいつも英語で for the happy few と書いたそうですが、みづうみの選集を手にするつどこの言葉を思いだします。とても楽しみにしています。
みづうみの読書記録にスタンダールについての記述を読んだ記憶がないので、みづうみはスタンダールはあまりお好きでないのかもしれません。『赤と黒』は陰 鬱ですけれど、『パルムの僧院』は『モンテ・クリスト伯』のように読みだしたらとまりません。わたくしはこの小説の世にも魅力的なヒロインの大失恋の物語 気に入っています。
マゴとのお幸せな時間が永く続きますように。
虹 虹立ちて忽ち君の在る如し 虹消えて忽ち君の無き如し 虚子
* スタンダールの「赤と黒」は中学二年生のとき、三年生に借りて読んだ。「パルムの僧院」は文庫本を手に入れて読み、バルザックに負けないすこぶる面白くま た分厚い作だと感嘆し、西欧作のなかでも三本の指のうちに数えたい愛読書になった。たまたま、谷崎潤一郎がベタ褒めにしていたのを知り、ワクワクと嬉し かったのを覚えている。「赤と黒」も分厚い作だが、たしかに暗澹ともする。「パルムの僧院」は掛け値なく面白く、少し面白すぎるほど。スタンダールでは、 むしろ「恋愛論」をシコシコと愛読した。
2016 8/26 177
☆ 陶淵明に聴く
采采たる栄木、
色はなやかな木槿の木が
玆(ここ)に根を托す。
この地に根を張っている
繁き華 朝(あした)に起るも、
この花は朝には満開に咲きほこるが
暮には存せざるを慨(なげ)く。
あわれや 暮れがたにははや散ってしまう
貞と脆(ぜい)とは人に由り、
正しく身を保つか、もろく折れてしまうかは、その人の生き方にかかっているし
禍と福とは門無し。
人の世の禍と福に定まった原因はない
噫(ああ) 予(わ)れ小子、
ああ、このつまらぬ男であるわたし
玆(こ)の固陋を稟(う)く。
うまれつき頑固者であるうえ
徂(ゆ)ける年 既に流れ、
歳月は容赦もなく流れ去って
業は旧に増さず。
学業はいっこうに進歩しないありさま
彼の「舎(や)めざる」ことに志し、
かの荀子の「功は舎めざるに在り」を
自戒としてはげむつもりであったのに
此の「日(ひび)に富む」ものに安んず。
いつのまにかこの「日々に富む」ヤツ
(=酒 詩経による)に慣れ親しむようになってしまった
* この「怛焉(だつえん=傷つき痛んで)」かつ忸怩たる思いに沈みこみたくない。
2016 8/27 177
* 「花と風」などというと、風情の綺麗ごとに思われそうだが、わたしの処女作に当たるこのエッセイは、その後に莫大につづいた各種のエッセイ、論攷、批評 等を束ねて締めくくるような、もっとも根底の哲学を抱え込んでいる。いままでわたしの小説を論じてくれた人も論文も少なくないが、この「花と風」の趣意す るところを深く酌みながら賞味された例は少ない、と謂うよりてっきりパスされていたように思う。すこし胸を張って大層にいわせてもらうなら、わたしの「花 と風」ことに「風」の思いは、谷崎文学に対する、かの「陰翳礼賛」の大事さに類して、さらに徹底の層が厚くもあり深くもある。
* 今日も、むろん必要に迫られて三つ四つ五つと仕事を追って過ごして、ふと、煙草の代わりではないが目の真ん前の書架へ手を伸ばし、春陽堂版、天金仕立 ての「鏡花全集」から手当たり次第に「巻八」を引き出してみた。この全集は岩波版よりもぐっと以前に贅を尽くして造られた版で、当然にも全十四巻、いずれ も千頁ちかい大冊だけれど、鏡花生涯の文学の半ばをも収め取れていない。それはそれでいい、それで取り出した「巻八」のなかみはと、函から出し、目次を見 た。おおッ、「婦系図前編」「後編」が真っ先に。以下になお十一編のなかには「草迷宮」「沼夫人」「星女郎」「海の使者」「吉祥果」そりに「神鑿」など が、ぞくぞくッとしそうなのが並んでいる。黙ってもとの棚へ戻すにもどしづらくて「婦系図前編」をいきなり読み出した、ら、やめられない。おいおいおい、 困るぜととめにかかろうにももう鏡花にとっつかまっては勝ち味がない。本一冊がべらぼうに分厚くて重いのが何だが美麗本で心地は好い。仕方がない、仕事の 方を少し切りつめてでもこの巻の何編かでも読みましょう。「婦系図」もじつに久し振りだ。
源氏は今、「花宴」で、朧月夜との懐かしく棟の疼く出逢いがあった。けしからん場面と叱る人は読まなければ宜しい、わたしは、好き。
「抱擁」も佳境を分厚く進んでおり、バルビュスもサホンも乗ってきている。小鶴女史の詩文や書簡にも心惹かれていて、さらに加えて英訳の漱石「心」もとにかくもどんどん通読している。
そこへ鏡花の割り込み、なにかワクワクしてきた。こんな読書にも「花と風」は地下水のように意味を持っているなあと思いつつ、もう眼が見えなくなってきた。
2016 8/27 177
* アンリ・バルビュスの最初に『地獄』を読み、ついでこの作家が果敢に飛びこんだ仏獨塹壕戦の惨憺たる『砲火』を読み、さらにいま『クラルテ(光)』を 多大の共感ももって読み進んでいる。どんな作か、訳者の田辺貞之助さんの解説から要点をかりて此処に書き置きたい。時代の差は否めないが本質においてバル ビュスの到達には大きな説得力がある。
☆ バルビュスの『砲火』から『クラルテ』へ
『クラルテ』は一九一八年九月に脱稿、翌年フラマリオン書房から刊行された。
世界平和を確立するには、ドイツの軍国主義を打倒しなければならない。ドイツの軍国主義こそ世界平和を攪乱する元兇であると信じて、四十一歳という年ですすんで出征を志願し、血気盛んの壮丁にまじって惨憺たる塹壕戦をたたかいぬいた作家バルビュス。
しかし、戦場で彼が発見したことは、当の敵が目前に突撃してくるドイツの兵卒ではなく、彼我の前線の背後の宮殿のなかで兵卒を操縦している国家の指導者 であることだった。彼ら指導者、すなわち彼のいう権力と金の国王たちはわが身とわが階級の利益のために民衆を犠牲にして、大ばくちをうっているのだ。それ なのに、民衆は無知と愚鈍から、輝かしいものへ心をひかれ、権力者にこび、みずから墓穴を掘っている。こうした奴隷根性をたたきなおさなければ戦争は決し てなくならない。だから、この世界から戦争をなくすためには、戦争の道具にされている民衆がこぞって「戦争はいやだ]といわなければならない。主脳者だけ では戦争はできないのだから。――これが『砲火』によって彼バルビュスの得た真理だった。そのために、彼はA・R・A・C(旧戦闘員の共和的連盟)をつく りⅠ・A・C(旧戦闘員の国際的連盟)をつくった。
しかし『クラルテ』にいたっては、彼バルビュスはさらに論をすすめ、世界のプロレタリヤートが今までの奴隷的境涯および奴隷根性をかなぐりすて、一致団 結してあらゆる特権および特権のうえにあぐらをかいている搾取階級を打倒し、自由にして平等な、民衆による世界国家を樹立すべきことを説いた。処女作『泣 く女たち』からはじまったバルビュスの真理の探究は行きつくべきところへ行きついた。
『クラルテ』の主人公シモン・ポーランは平々凡々たる会社の事務青年だったが、召集されて前線に戦い、傷つき捨てられて、荒野に呻吟しているあいだに、 「戦争の唯一の原因はおのが肉体を持って戦争をする人々の奴隷根性と黄金の王者たち(すなわち資本家たち)の打算であることに気づいた。
* 戦争・戦闘そのものの様態には必然の変化は有るにせよ「戦争」そのものの実相は変わらず、バルビュスがカンパしたとおなじ事を、わたしにしても推察しほぼ確信している。戦争反対の思想も運動も、現象的には戦争で利を得る立場のものらへの闘いでなければならないだろう。
2016 8/28 177
* 昨日、近江五個荘の川島民親さんから頂戴した、少壮気鋭の学者と滋賀県とのコラボになる一冊『近江の商いと暮らし』を、夜前、おそくまでかけて読んで いた。なるほどこういう各論研究の集積が郷土史の着実な開明へ、また展開への機縁に成り得るのだと、とても新鮮な意欲を感じ取れた。作家でもある川島さん が最年長の辺に位置して、同じ五個荘のなかでの「枝郷」の史的問題を独特の熱意と動機とから腑分けしている。「枝郷」とは何かと思うなら対蹠のものとして 「本郷」の二文字を想ってみればよい。他は、はるかに若い、しかも各大学や研究施設の教授や准教授達が各自関心の主題へ組み付いている。わたしがもっと若 くて健康な意欲に満ちていれば、この一冊本のなかからまた新たな『みごもりの湖』が生まれ得たろうにと、少しく残念な気もした。
こういう各論的な探究地誌が積み上がれば、郷土への理解が層を成して分厚くも具体的にもなる。在地の出版社の応援も欲しいし行政の積極的な支えも望まれる。
2016 8/28 177
* 陶淵明が懐かしい。敬愛する古人は数え切れないなかでも、断然として身近に身内に信愛し敬服できる。彼の伝の実を問わない、ひたすら詩句にむかう。
衰栄は定在すること無く、
彼れと此れと更々(こもごも)之れを共にす。
寒暑に代謝有り、
人道も毎に玆(か)くの如し。
達人は其の会(=道理)を解し、
逝々(ゆくゆく)まさに復た疑はざらんとす。
忽ち一樽の酒と与(とも)に、
日夕 歓びて相(あひ)持(ぢ)せん。
* 陶淵明全集のまぢかに無い日は考えられないほど。それすらいつか忘れて了うだろう。
2016 8/29 177
* 鏡花の『婦系図』めちゃくちゃ日本語が面白くて、苦もなくざああっと大量に読めていって止められなくて困ってしまうほど。
しかし「葵上」巻の美しい読み味には、一段と高い藝術美を覚える。
バルビュスもバイアットもサホンも飜訳、漱石の「心」も英訳、訳にはどうしても限界がある。
西欧の詩は、わたしには読めない。じつはそれではバイアットの「抱擁」世界も読み切れはしないのだが。ま、仕方がない。
と云って、わたしに陶淵明の詩、杜甫や李白の詩、白居易の詩が読めていると云えるのか。これは、ま、残念だが、飜訳を読んでいるのではないが、詩韻の妙はやはり酌み切れてなくて、つまりは漢字の意義を読み取っているに止まるのが、残念。
2016 8/29 177
* 理屈抜き、「婦系図」のどんどんどんどん読ませること、惘れるほどの文体・文章・語り口の魅力で、文学の藝術のといったモノではないオハナシなのだが、物 語り方の抜群というよりあまりに独自独特突飛なほどの牽引力にぐいぐいと持って行かれてしまい、それが少しも不快でも負担でもなく、無性に嬉しがって読み 進むのだから、手が付けられない怪かつ快味格別の、そう、やはりたいした文学であり、「文楽」と書きたい気が、強くする。師匠紅葉らの我楽多文庫の伝統そ のままにガチッと居坐った鏡花にしか出来ない意地と意気地の特殊藝能である。
* たまたまそばにあった「岡本かの子・宇野千代」集も開いて、両方巻頭作を読みはじめたが、かの子のは一頁と読めず、宇野千代の「色ざんげ」もばかげて古くさく、陳腐としか読めなくて投げ出した。鏡花は、えらいもんだと再認識し、もっともっと再読したくなった。
だが、半途までの春陽堂版全集でも、大判で一万数千頁あるのだからなあ。ウーム。あれこれ、鏡花の懐かしい秀作の題が思い浮かぶだけでも、長いのが二、三十作はある。気が遠くなる。藤村、漱石、潤一郎、鏡花、恆存、それに柳 田国男、折口信夫、森銑三。新井白石全集も。みな死ぬまえにもう一度読んでおきたい…それだけではない。、二十世紀の世界文学全集という、ほとんど手をか けていない何十册がある。日本の古典の百余巻、それに国歌大観、講談社と筑摩との現代日本文学全集は、ま、おおかた目を通してきたけれど。
2016 8/30 177
* なんと。鏡 花『婦系図(をんなけいず)』前後篇を読み終えてしまった。「鏡花」を満喫した。物語の筋は凝りに凝って、しかし通俗読み物の弊を聊かも免れない、のに、 語り口に天才・泉鏡花ただ独りにしかゆるされていない日本語の華麗な綾と表現とがあって、惹き入れてやまない。だれもかもがその妙趣を酌めるとは思えな い、残念ながら。しかし酌める者には堪らない妙味なんだから仕方ない。東工大で、だけであったか独りの男子学生が、「秦先生、泉鏡花だけは僕、よう読みま せん」と音をあげてきたのを、フフと笑えて思い出す。
『婦系図』は数多い鏡花文学の図抜けた秀作を以て名指すことはできない、新派劇の舞台での久しい人気でおもしろさを保証できる水準であるが、それなのに 此の忙しく仕事におわれているわたしの時間をやすやすと盗んで数百頁を数日で繰らせたのだ。千頁もの重い重い全集版でなかったら確実に二日で読んでいた、 読まされていたと思う。「読ませる」ちから、それが筋書きからくるのでなく表現、文の「楽」味に籠もっている。まさに歌わない音楽。いやいや、鏡花はかな り本気で歌を歌っている。その徹底にこっちは負けて惹き込まれてしまう、それが鏡花だ。
* いささかオソレをなして、続けて別の鏡花を読むか、よしておくか、迷っている。
鏡花の真に名作といえば、一に『歌行燈』、そして数ある二のうちの一つが『高野聖』で、短篇なら無数の秀作中からわたしは『龍潭譚』をわたしのことばで訳したことがある。この三作で学研版現代文学選の一巻にしたのだった。何十年も前の懐かしい仕事だ。
読むなら何を読もう。『由縁の女』『芍薬の歌』『春昼』いっそ『海神別荘』か『天守物語』か。
鏡花は、論じたい作家ではない。ひたすら読みたい。仕事ができなくなる。
2016 9/1 178
* がっくり気落ちして寂しい夫婦は、三時過ぎ、土の下でモコやノコと出逢ったであろう黒いマゴに、出かけてくるよと声を掛け、まず、江古田まで。銀行 で、一つは凸版印刷に選集⑮巻の支払いを、また染五郎の「そめいろ」へ九月歌舞伎の支払いを済ませてからも二丁目の歯医者へ。娘のような女先生にもっと大 事にしなさいと痛いねじを巻かれてきた。それでも歓談し、ドア外まで出て見送られてきた。
バス、新江古田駅で途中下車し、久し振りに「リオン」でゆっくりフレンチのディナーコースと赤ワインを味わってきた。ブックオフにも立ち寄り、「聊斎志 異」分厚い上下巻を千円足らずで買ってきた。古今のいわば怪談、珍話、寓話の満載本で、日本語訳がすてきに宜しく、無類に面白い読み物として永く愛読でき る。
2016 9/9 178
☆ 前略
館造の嵯峨本『方丈記』の原寸、カラー複製を造りましたので、お送りいたします。
秦 恒平先生 今西祐一郎 国文学研究資料館館長
* 先日のお宝鑑定団に同じ「嵯峨本・方丈記」が出ていて、流石にとおもう超高価な鑑定がされていた。「嵯峨本」のなかでも光悦筆・宗達下絵の歌巻など億 という単位を下るまい、高校・大学のころから「嵯峨本」という江戸初期出版の精美をつくした意欲に深い敬意を払っていた。
戴いた原寸原色「嵯峨本・方丈記」の嵯峨本を流麗の文字、まことに読みやすい。いわゆる写本ではない、あきらかに当代の「読者」を意識し期待した木版字での出版物であり字粒も大きい。原点文庫本を片手にもてば此の嵯峨本の文字、難なく読める。すばらしい。有り難う存じます。
今西館長のご厚意でこれまでも資料館刊行の貴重本をずいぶん沢山頂戴している。有り難う存じます。
2016 9/14 178
* 七時から一時間、床で「斎王譜」を読み、そして起床。
2016 9/17 178
* 潰れそうに眠く、横になって、源氏物語「須磨」巻をしみじみと半ば以上も読み、また松岡小鶴女史漢文の書簡を数通も面白く読み、近江商人に関するある 論攷を半ば読んだところで少し寝入り、目ざめて、また手近な書棚から手当たり次第に引き抜いた小冊子が汲古書院刊十年ほど以前の古典研究誌「汲古」だっ た。相見英咲氏の巻頭論文がなんと「木花開耶姫の本当の夫を復元する」と。届いたときにも読みかけていた筈だが、今日はとことん打ちこんでややこしい幾つ もの神代系図を参照しつつ、舌を噛むような神々の名にもへこたれず論攷を読み切った。ウーンと唸った。説得されたと云うにはわたし自身の記紀への勉強が足 りては居ないのだし、しかし昔から関心してあまりある皇統譜のうえに美・醜をもって登場し叙述されている姉妹姫の素性穿鑿であるからは眠けも飛んだ。おも しろく、胸ぐらを押されるように読んだ、とだけ書き置くとする。
疲れは安まらなかったが。
バイアットの『抱擁』もようやく終盤へ来ている、これがまたフクザツに多重構造の異世代の恋物語であり、ちっとやそっと読み飛ばして把握・受容できる文学ではない。しかし噛みしめて味わいきれば
忘れがたいナラティヴなロマンスに出来ている。
バルビュスの『クラルテ』も計り知れぬ大落盤を予期させるナラティヴな思想文学であり、とても立ち止まれない。
これらに比べればサホンの長編は、構造的だけれどかなりに読み物の気配が濃い。
* 書いても読んでも、いっこう疲労は休まらなくて、引き摺られている。つまりは、つぎつぎに書きたいことが身内に湧き出てくる。意欲をもちこたえる気力はあると思っているが、健康は、あやしい。
2016 9/17 178
* 源氏物語は「明石」巻に入って、ますます面白くなって行く。松岡小鶴女史の漢文での書簡、何とも謂えない滋味が酌め、引き寄せられいる。サフォンの 「天使のゲーム」は、ただただ物語に乗って走っている。「抱擁」し作者の意図を汲み酌み、はからずも似た作風で仕事をしてきたなあと思っている。
そして『聊斎志異』の面白いこと、ビュンビュン読めて行く。
ルソーの『社会契約論』も納得し批判し、論旨のピュアーではあるけれど、フランス革命の強硬なメンバー達にだけ激しいまでに協賛・称讃されたということ に立ち止まる。最も望ましい、君臣契約ではない民主的契約であることを、さもありたいと痛切に思う一方で、結局は支配と従属という社会契約が歴史的に一般 である現実に、と胸をつかれてしまう。
* 暁けの五時半ころから眼を覚まして本など読んでいたので、晩七時を回ったばかりだが、躯を横にしたい気分でいる。
無意識にとはいえないが、七、八、九月、ずいぶん酒を飲んできた、七、八升は飲み干したようだ、固形のもの、細いもの、細かいもの、堅いもの、が食べに くい。強いて食べるとモ胃袋のない細い鳩尾辺で食べた物が溜まって息苦しくなり、えづいて戻しかねなくなる。つい流動性の飲み物かそれに近いモノへ逃げ込 むことになる。食べる物がきまらず、妻も困りわたしも食事を楽しまなくなっている。宜しくない。 今晩は冷や奴とみそ汁、ワインで済ませた。
2016 9/21 178
* バイアットの『抱擁』、文学・言葉・創作・構想・表現等々に関して、ともにものを思うに足る刺激的なフィクション。残念ながらわたしはバイアットらの もつ神話・伝説とともに彼女らの「詩」と「韻律」とを倶にはもてていない。散文は飜訳でもなんとか理解出来るが、「詩と韻律」は言葉を理解して発音。発声 出来なくては話にならない。
* 日本人は和歌・俳句・今様等の詩は持っていたが、西欧詩とおなじ詩はもてていない。日本人が詩と称して創っているのは、九割九分、小洒落た散文の気 取った分かち書きというに過ぎない。むろんそういうのを指して「詩」と呼んでもそれなりに構いはしない、が、定型詩とも韻律詩とも呼べはしない。定型や韻 律には構わぬ美しい短散文の洒落た表記を今日日本では「詩」と謂うのですと、それだけのことである。それだけのまま見事に美しく心打つ表現が成るなら、 成っているなら、それで良し。定型や韻律の効果を期待できないぶん難しい創作だと自負するのも、べつに構わない。おおよそは、そんな自負で日本人の現代詩 集は編成されてある。それ以上でも以下でも、ない。
2016 9/22 178
* 仕事を、ほぼ終日、小休みながらも続けていた。浴槽でも、照明と裸眼とで校正にはげみ、また、源氏「明石」巻を面白くも懐かしくずんずん読んでもいた。
* 明日午後には、青田吉正さんと久し振り、池袋で会う。今夜は、もう休む。つまり床について、やはり明るい照明と裸眼とで、「抱擁」「天使のゲーム」「光」「松岡小鶴文集」そして「聊斎志異」を存分に読む。
このごろ夜中に目がさめる。暗闇の中で、いろんなあれこれの「数」を数えるうち、また寝入る。
2016 9/22 178
* 湯の中で、好きな「明石」巻をおおかた読んだ。源氏物語を置いて、ついで梁塵秘抄の四句神歌を面白く読み返していた。
2016 9/25 178
* 目ざめると先ずテラスの戸をあけ、ネコ、ノコ、マゴに「おはよう、今日も元気で楽しくすごしなさい、トーサンもカーサンもいつも一緒に此処にいるからね」 と声を掛ける。それから体重などをはかる。妻はまだ寝ている。独り湯をわかし茶を点てる、二服。食パン半枚。たくさんな服薬。郵便物の用意を二つし終え、 二階へ来て、延々と時間掛け機械を起動。待つ間に、「後拾遺和歌集」の六撰めをゆっくり楽しむ。今朝は雑の一、二巻の辺を。
秋をまてといひたる女につかはしける 源 道済
いつしかとまちしかひなく秋風にそよとばかりもをぎの音せぬ
軽いことばあそび、女の口約束のフイになりそうな怨み歌で。「秋(飽き)風」「をぎ(荻・招ぎ)」を利かせて、こんなの後拾遺歌人らには、お茶の子サイサイ。「そよ」にも、「そう願っていたとおりには」という苦情がこもる。
和歌集はやまと言葉づかいの宝庫。
2016 9/27 178
* 門玲子さん 編著の『幕末の女医、松岡小鶴(1806-73)』 西尾市岩瀬文庫蔵「小鶴女史詩稿」全訳を、多大の興味を傾けて今日読み終えた。漢詩、漢文の、その読 解と飜訳の妙味をしんから味わった。「柳田国男の祖母の生涯とその作品」を紹介して「文学的」にも完璧の名著となっている。漢字ばっかりなのに、読み進む のが楽しかったのは、門さんの読みの慥かさと名文に依る。わたしより四歳もの長者なのに、久しくわたしを大切に迎えて、湖の本もずうっと応援して下さって いる。お目に掛かったことの無い敬服の知己である。清冽の日本語そして漢文のおもしろさ確かさを味わいました。
* バルビュスの『クラルテ』が俄然として熾烈な戦場へ場面を移して行く。簡潔な描写で的確に事態を表現するのに長けた作家であり、安心して文章の勢いある流れへ乗って行ける。
* 光源氏はみごもった明石の君を親元に残したまま、上にゆるされて帰京した。紫上のよろこび、いかばかりか。この以降は物語が、すくなくも「若菜」下の巻当たりまでは、いわば朝のけはいを越えて、かがやく真昼間の充実世界へと移りゆく。えもいわれない見事な物語である。
* 『聊斎志異』下巻で、父の不幸な死に抗議して閻魔庁の暴虐に屈せず訴え闘い続ける孝子の噺が痛烈に面白かった。中国という國は、大きくて面白くておッそろしいなあと感嘆する。
* そしてバイアット『抱擁』の「補遺」をのこして本編を、たいそう面白く読んだ。そうはたやすく読者をうわつかせては呉れない絶境や難所にあふれた強烈 で複雑なな創作だが、ロマンスとし一級の渦を巻いている。奨めて本を贈ってくれた「尾張の鳶」さんに感謝する。十二分に読み込むには西欧世界の秘密の深層 にあまりに疎いのが残念だが、読みすすめながら、しきりにもう一度ミルトン『失楽園』やゲーテの『フアウスト』が読みたくなっていた。
* バイアットの「創作」は、わたしがずうっと追いかけ心がけいくらかは実現してきた、異なる時と処と人とを「層」構造に積み上げる行き方とかなり密接 に、より複雑緻密に広範囲にわたって、間近い。その辺を見て、奨めてもらったのだと思う、さもなければとても出会わなかった作と作家であった。バイアツト はたしか、わたしとそう年齢も違わない。「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「初恋」「冬祭り」「秋萩帖」「四度の瀧」などを、こ の同世代作者に読んでもらいたくなる。
こういう書き方は、通俗読み物は知らないが、日本の近代文学では、少なくも極めて少数派で、泉鏡花の一部作品にみられるほか、なすぐには思い浮かばない。潤一郎は他界や他次元を書かないし、川端や三島にもこういう「層」を重ねて展開する書き方の例は知らない。
健康さえゆるしてくれるなら、意欲を深めて奇妙世界を作の中に築き上げたい、もっともっと。
* 明日には、選集第十六巻の刷りだし一部抜きがもう届くという。十月七日送り出しの用意に、もう掛からねば。ここを一気に乗り切って、いわば選集第二期へ分け入って行きたい。それ自体がまたわたくし晩年の創作を引っ張って呉れる筈。書くのが先、本は仕上げの形だけ。
2016 9/27 178
* バイアット「抱擁」を読み終えた。補遺は映画のしめくくりに付け加えたのかも知れない、無くてもかまわないだろう。本編の結びは静かに熱く燃えて終え た。映画は何度か観てきたが、原作の意欲からはよほど遠く、ロマンスを筋として追っただけ、好きなグィネス・パルトロウがそれなりに好かったけれど。この 原作を原作を生かして映像にするのは、容易でなく、いっそムリであったろう。
意欲と実験との原作ではあるが、完熟の妙味として味わうには作意や作為の強行で果実にキズが走っていた。「嵐が丘」や「谷間の百合」のわうな醇熟のうま味は出ていない。
しかし、現代英文学の意欲に満ち溢れた先駆の秀作に相違ない。
* 「聊斎志異」のおもしろさには歓声とともにバンザイである。けさも、床を起つまえにふっと頁をひらいて、読んで、おもしろい一編にポンと手を打った。 とにかく「異」聞ばかり、お化けの世界であるが、さりとて、どこにも人間世界と齟齬して不快・不自然というおはなしが無い。フーン、フーンと納得さえして 面白くて堪らない。一編一編が絶妙に短篇短章ばかりで重苦しく読みあぐねたりしない。上下二巻、その上巻をわたしより先に妻がもっていって、せっせと読ん でいる。面白いと言う。わたしは下巻を読んでいる。
* 昨日は書架から、持った手の痺れるほど重い平凡社版『日本史大事典』六巻のうち二巻を引きずり出し、承久の変、和田合戦と和田義盛、近江の佐々木氏、 関東の渋谷氏などの項を、あまりに小さな活字に泣き嘆きながら、読み耽ったりしていた。「初稿・雲居寺跡」の中断のあとへ何か弾みがつくかと思案している が、サテ。
久しいわたしの読者でご夫婦で愛読してくださる方、奥さんから、すこし以前に長いお手紙を戴いた。ご主人が鎌倉武士「渋谷平氏」の延々とした子孫であ り、知行国の薩摩に久しい由来と多彩な展開とを経てこられた由を、かなり細かに教えて頂いた。東郷平八郎も一族の一人であったとも。
この渋谷氏と近江國由来の「佐々木源氏」とには、かなりこまやかな関わりがあった。佐々木は、和田合戦で北条義時と果敢に闘って壊滅した「和田氏」とも縁の濃いことは、歌舞伎の「盛綱陣屋」を観ても分かる。
あの承久の変前夜に取材していた「初稿・雲居寺跡」は、上のような経緯と微妙に縺れ合っており、それゆえに上のような「渋谷氏」後裔ご夫妻のお手紙も戴いていたのである。
* 「初稿・雲居寺跡」で優に半世紀余もむかしに意図もし触れもしていた時代や人物と、関わりないと言えない、ややこしい「現代」「志異」小説をも、今ま さにウンウン唸りながら楽しんで書いているのです。出来映えも大事だけれど、この、楽しむという動機が生きないと、この歳になって小説を書く意味がありま せん。
2016 9/28 178
* 「聊斎志異」の面白さに降参している。東洋文庫でこの手の本を「寓話集」「伝奇集」「捜神記」など相当量読んできたが、この岩波文庫の日本語訳が簡潔かつ 生気があって、まことに読みやすく面白く、巻を蔽うことができない。けさも床も出ずに二編を耽読した。たいがいのテレビドラマがどんなに空疎に拙なものか が分かる。底をぬいたような「志異」精神のあかるさと奇妙さ、もっと創作者は学んでいい。この世界へ、わたしなど、移転したいと思う素質をもっている。現 代は、あまりに索漠と面白くない。
2016 9/29 178
* さ、もう休む。仕事は、今日一日も、しっかり、出来た。床に就いて、源氏物語を楽しむ。明石から都へ帰った光君は、住吉詣でに出、すでに娘を生んだ明石君と、逢えないままにも懐かしく歌や消息を交換する。好きな巻である。
2016 10/1 179
* まこと久々に、谷崎作品を読み始めた。
2016 10/2 179
* 明日は十時過ぎには病院へ出かける。床について、ゆっくり本を読んで寝入りたい。
源氏物語は「澪標」の巻を通り過ぎた。六条御息所の姫宮「秋好む」の入内が画策され、光源氏の宮廷政策が進行する、元の頭中将との対抗関係が出来て行く。次は「蓬生」の巻。悠々とした物語。
サホンの「天使のゲーム」も佳境へ。バルビュスの「クラルテ」き凄惨な独仏戦闘場面へ展開して行く。「聊斎志異」もまことに面白い。
2016 10/2 179
☆ お送りいただきました包み、
沢山、恐縮です。
息子に開封させたました。
一通り中身を確認した後、手にしたのが、「かぶき手帳2016」でした。まだ、この夏、歌舞伎を見た興奮が覚めていないのでしょうか。
息子用の本棚のスペースに頂いた本を並べました。
気になったとき、順番に 手に取るのではないかと。
取り急ぎお礼まで。 川口由紀子
* 九歳のボクの手で本の包みが開かれたというのが、嬉しい。聡明なお母さんの、佳い配慮、有り難い。
九歳では、まだ手が出ると思えない本へ、それでもやがて確実に手が伸びて行くと信じている。五年生というあたりが、わたしや息子の体験からも、いい時機になるのでは。
少年専用の書架にならぶというのも、いろいろ考えて選んで贈り物したわたしとしては、なによりの喜び。目に見えるようで嬉しい。
本がほんとうに生きてくれるのは、大人にでなく、成長して行く少年少女やせいぜい二十歳までの若い人たちこそ、と思う。
2016 10/3 179
* もう一度 後撰和歌集を読み進んでいる。拾遺、後拾遺とのあいだに明らかな差異が見受けられる。たんに歌風の差異でなく、時代・王朝の「熟」の進みと読むと、歌人の表情や姿勢の差まで見えてくる。
2016 10/4 179
* ガッカリ。 福田恆存飜訳全集最終巻中の「聖女ジャンヌ・ダルク」を福田先生の解説というよりまこと見事な「論」とあわせ夢中で読みはじめたことを、関連の感想もろとも気を入れて書き継いでいたのに、あっというまに消え失せてしまった。ガッカリ。
しかし本は消え失せない、読む楽しみがドッカーンと増えた。恆存先生は劇作家であり、偉大な翻訳者でもある。全集八巻 飜訳全集八巻、しかし一巻一巻の 内容の猛烈なほど大量なこと、したがって本の重たいこともたいへんで、覚悟を決めて手に取らねばならないが、つい手に取りたくなるのである。この機械の席 からそのまま立つと、手の届く目の前にほぼ書架の一棚を占めて恆存全集はぜんぶ並んでいる。じつはその下の棚にわたしの「選集」がすでに十五巻並んでい て、三日後には十六巻になる。ま、それはいいとして、「ジャンヌ・ダルク」は中学生の昔から重く重く頭にあるのだ、エリザベスやメアリやヴィクトリアや、 多くの西欧女性のなかでも、「マリア」とならんで気になる、気にし続けてきた女人なのである。
それを言い始めると長くなる。また機械に嫌われて消え失せかねない。
* 今日もいろんなことをした。蚊がいなくなったので、テラスへ、ネコやノコや黒いマゴたちのそばへデッキ・チェアを出して、閑吟集や斎王譜をきもちよく 読み、この機械では、久々に谷崎先生の「夢の浮橋」論を読み返しはじめた。ほかにもいろいろと。そして、腰を伸ばして立ち上がり、フウッと恆存飜訳全集の 一冊を抜いていたのだ。
オイディプス王 アンティゴネ ヘッダ・ガーブラー サロメ それにT.S.エリオットの 寺院の殺人 等々とならんで、バーナード・ショウの 「聖女ジャンヌ・ダルク」が入っていたのだ、おうと声が出て、機械をはなれてソファへ移り、福田先生の解説と称された猛烈な「論」から読みはじめたのが 面白く、待ちきれずに論の半ばで「第一場」を読んでしまった。
* 明日はまた聖路加の腫瘍内科検査と診察で、昨日よりも一時間余も早くに出かけねばならない。そろそろ、店じまいして、階下で、別の本を幾つも読む。光 源氏は忘れていた常陸女王を訪れる。バルビュスはまたしても塹壕戦を闘っている。サホンの「天使のゲーム」のほかに、「フーコの振り子」も読みはじめてい る。
2016 10/4 179
* ショウの「聖女ジャンヌ・ダルク」は「シェイクスピア以後の英語で書かれた最大の戯曲」とさえ言われている。今夜は、読み耽りたい。わたしの勘ではこ の戯曲、ミラ・ジョボビッチ主演の映画「ジャンヌ・ダルク」の原作であるかと思われる。あれはいい作であった。ダスティン・ホフマンも異色の登場だった。
はるかにそれ以前には、新制中学三年生のころ学校が映画館で全生徒にみせてくれたイングリット・バーグマンの「総天然色」「ジャンヌ・ダーク」がいわば 映画体験の原点、根底の感動になった。ジャンヌ・ダークがわたしに棲みついたというほど。わたしの西欧の歴史へ関心の芯にこの聖女が居坐ってきた。松たか 子がコクーンで大熱演したみごとな「ひばり」、あれもすばらしく印象的なジャンヌ・ダークだった。あの舞台一作だけでも、わたしは、松たか子を最も優れた 名優の一人に数える。
2016 10/5 179
* なんということなく休息かたがた前回「湖の本」131の「京都散策」をばらばらっと読んでいて、いつしかに読み耽っていた。文春専務だった寺田さんの 感想に、京都の人にしか分からない京都、「京都は魔都」と書かれていたのを反芻する気であった。ははーん、こういうところを寺田さんは言われていたんだと 納得してニヤッとした。ここ二度ほど「京の散策」を本文のうしろへ添えて、二度ともえらく好評なのに嬉しいやら照れるやらしていた。なるほどね…ともう一 度ニヤッとした。
なんといっても、わたしの文学は「京都」に太い根をよほど深く下ろしている。
もっともっと書いて置いていいなと思う。
* 七時半。よほど今日も疲れている。このまま機械の前ではもう奮発が利かない。躯を横にして「読んで」過ごす内に、すこしは回復する、か。
2016 10/7 179
* 映画「戦馬(直訳)」を観て、泣いた。人間同士の関係に純真無垢にこころを打たれる嬉しさは容易に得られないが、人と動物との無垢の愛には胸打たれて しまう。「聊斎志異」には、人の人ならぬ生き物との真摯で無垢の関わりがあたりまえのように無数に描かれている。不自然がそこに無いのに胸を打たれる。
* アタマが、シャンとしない。アタマにムリ強いしては、疲れるだけ。本を読んで、別世界へ入ろう。「聊斎志異」でも「源氏物語」でも「閑吟集」でも「ジャンヌ・ダルク」でも、わたしを迎え入れてくれる。
2016 10/8 179
☆ 眠られぬ夜に、自分の生涯の決定的な洞察や決断を見出した人びとは、かぎりなく多い。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* この、ヒルティの言、真実にちかいと実感している。
2016 10/9 179
* しょうのない不徳人であるが、幸い「孤」ではない。孤独でもなく孤立もしていない。幸せである。
世には、孤独・孤立のさびしさに呻いている「おとな」たちがいるらしいのを、余儀なくも身の遠く近くに「感じ」ている。「わかい人」の孤立感・孤独感を 大学でかれらとじかに接してしばしば驚き燃し胸を痛めたが、「おとなたち」「高齢者」のそれは今やいや増して問題だと思われる。
ついでながら引いて置くが、ヒルティは『眠られぬ夜のために』の冒頭の弁でこう云っている、「体が衰弱して安静と養生を必要とする人びとにとって、とく に大切でありながらあまり注意されない問題は、<人との交わり>である」と。これもあたりまえのようで実は機微に触れた一難所である、というのも、こうい うところへ引き沈んでいる人が、意外なほど人嫌いになっているから。さびしいことだ。
2016 10/9 179
☆ 執念ぶかい憎しみは内的生活をむしばみ、憎しみの相手よりも憎しみをいだく当人の心を害うものである。
悪い人たちをすてておけ、争いはやめよ。おなえに任せられないことをすてておけ。かれらは恵みに浴することのない重い鎖をひきずっているではないか。(カール・ヒルティ 1833-1909)
* こういうヒルティにわたしは同調しない。こういうお高いことを言うているまに、安倍総理は独裁ヒトラーの真似を本気で演じ、厚顔無恥の稲田防衛大臣は 平然と変節し、菅官房長官や高市総務大臣はあからさまに法の不備を口実におのが悪徳を肯定する。彼らは法以前の良心と見識とで政治すべきそんざいではない か。かかる悪質で低劣な政治家や政治を「憎み」「正す」のは主権者国民のあまりに当然な義務である。「悪い人たちをすてておけ、争いはやめよ」などと寝言 を言ってられる日本の現実ではない。
ヒルティ自身も、実はこう言っている。「改めさせることのできる、また改めさせねばならない明白な不正に対しては、沈黙してはならない。不正を心ひそか に憎みながら黙っているのも、まちがいである」と。当り前である。ヒルティはこうも言っている、「われわれの目に入るあらゆる悲惨を、われわれみずからの 恥とすべきだ」と。恥多く生きている。なさけないと思う。
2016 10/10 179
* ショウ戯曲の大作「聖女ジャン・ダルク」読み終えた。いい作に出会えたと、感謝している。ミラ・ジョボビッチの映画も見直したくなった。
とほうもなく重たい全集本ではあるが、ソフォクレスやエリオットの戯曲も読んでみたくなった。
2016 10/10 179
☆ エゴイズムがつねに自分自身に悪い結果をもたらす。これをふかく理解し得た人は一大進歩を遂げる。
人生はたえざる克服か、もしくは屈服である。地上においては、いかなる人間にもそれ以外の道はありえない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 人生は、苦しい、ないし悲痛なほどの克服の連鎖であった。だからこそ、ちいさなオアシスほどではあっても、温かい喜びも味わえた。そして、この道はまだ終えていないのだ。
2016 10/11 179
* 徹底的に谷崎潤一郎の「源氏物語体験」を論及しつつ、少なくも昭和の谷崎文学を決定的に読み込み得ていたと、しみじみ、幸せに想える。
研究だか批評だかはどうでもいい、作家と作品とを論じるならば、わたしの「夢の浮橋」や漱石の「こゝろ」論の水準になければ価値がない。平野謙の藤村 「新生」論などにわたしは刺激を受けてきたが、谷崎や漱石の「こゝろ」を検討し探究していたのは、平野謙らを知るよりずっと以前であった。論攷になじまな いと想えば、たとえば紫式部を語って「加賀少納言」のような小説を書いた。上村松園を語って「閨秀」のような小説を書いた。
眼光紙背に徹するといわれるほどの論攷・探究でない限り、おおかたの作家論や作品論は石地蔵のあたまを掌で撫でているようでしかない。
2016 10/11 179
☆ 悪い読書は、よくない交際よりも危険である。一冊の書物が人の一生の不幸を(もちろん同じように幸福をも)招きよせることさえ珍しくない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* そうも言える。しかし同じ「一冊」が人によって幸福へも不幸へも導くこともありえないわけでない。読書に限らない。映画でも演劇でも、そうである。ただしその書物や映画や演劇じたいの「質」評価は別問題である。
書物についていえば、わたしの場合、わたしの人生を音高くもプッシュした書は、中学時代、まっさきに出逢った与謝野晶子現代語の手引きによる「源氏物 語」 すぐ追いかけて、潤一郎の「吉野葛・蘆刈」 漱石の「こゝろ」 そして大デュマの「モンテクリスト伯」 高校へ進んで、藤村の「新生」 そして「般 若心経講義」であった。それらの全てに先立って挙げるなら、国民学校時代の「小倉百人一首」と 白楽天の詩「新豊折臂翁」と が、電光のように思い出せ る。有り難い出逢いであった。だが、あくまでも「わたしの場合」と謂うに尽きている。出逢いは人それぞれというしかないだろう。
* 空也上人が歩いていると、ある家の門に年七歳になる子が泣いていた。上人が訊ねるとその子は、二つの時父に死なれ、今朝また頼む母一人にも死に別れた哀しさに泣くという。
上人は「泣くな泣くな」と励まし、「朝夕歎心忘、後前立常習」と口ずさみながら行ってしまった。
子どもはぴたりと泣きやみ、近所の者はあんなに哀しんでいたのにといぶかしんで訊くと、その子は即座に「朝夕になげく心を忘れなん後れ先立つ常のならひぞ」と詠った。
上人の口ずさみをとっさに歌一首によみ解いたのだ。
ただものでないと人が感心した通り、この子はのちに立派な僧になったとか、と『古今著聞集』哀傷の項の「空也上人詠歌慰孤児事」は書いている。
もう二ヶ月もすると八十一爺になろうというわたしだが、とてもそうは、行きません。「常の習いだから」が「泣かない」力になるとは思いにくい。ある禅の高僧は、親に死なれ、弟子や人が驚き呆れるほど泣いたと謂う。当然のこととその禅師は言っている。
2016 10/12 179
☆ 近代の自然科学と宗教とを和解させようとしたり、すべての自然現象をいきなり宗教的に説明しようとするすべての企ては、あまり効果がなく、また現代人の精神にとってはかなり無益でもある。
神を把握することも、定義したり公式的に表現することもできない。
だが、神を愛することはできる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 二十世紀を代名詞化しようとした三つの特徴ある思想は、ニーチエ、マルクス、そして進化論であったろうが、ヒルティは肯定しなかった。神は死にはしな かった。しかし形式的・封建的な教会も否認していた。彼にとって、真に人の「生活に影響すべきものは、(神という=)名前の背後にある実在(=神)で あ」った。その敬虔と謙虚は酌むに足る。
2016 10/13 179
☆ こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい。
いたるところで力のかぎり、すべて善きものをはげまし、卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティのこの言をもっとも喜ぶのは、今の日本では悪しき安倍政権であり、またスマホやゲームで愚民化を大車輪に手伝っている儲け主義の企業家であろう。「すべて善きもの」といわれるいったいどれほどの「善きもの」をわれわれは、今、所有していると言えるのか。
2016 10/14 179
* 源氏物語は「繪合」を読み終えた。ソフォクレスの「オイディプス」を肌に泡立つ思いで読んでいる。バルビュスの「クラルテ」が凄惨な塹壕戦のなかでの兵士のいわば「自覚という蘇り」をみせ始めた。「聊斎志異」も時に鳥肌が立つ。芥川龍之介の「一塊の土」を読んでいる。
* 梁塵秘抄と閑吟集とをつぶさに読み返した。「閑吟集」はわたしならではの精彩在るよみに成っていて中世への思いも勉強もいい感じに浸透している。谷崎先生の「蘆刈」の読みも徹底して正鵠を射ている。いいかげんな仕事はしてこなかったと、すこし嬉しくなっている。
初校を戻せるところまで読み切った。
2016 10/15 179
☆ ひとから受けた不正をいつまでも思いつづけることはつねに有害であり、たいていは無益である。払いのけて元気を失わないようにするのが一番よい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* なかなかそれが出来ない。
2016 10/16 179
☆ 人間のあいだの友情と愛とは、上品なお楽しみに堕してはならない。おたがいの内的進歩をつねに眼中におくことが大切である。内的進歩は魂の震撼によってのみ実現する。魂の震撼をあまりに恐れてはならない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 八十の人生を省みて、このヒルティの言には納得する。具体的にアレコレと記憶が甦るわけではないが、「上品なお楽しみ」のままな友情や愛は稔り少なくただ流れ去りやすかった。
2016 10/17 179
* 昨夜、ソポクレスの「オイディプス王」を読み切った。底知れぬ恐れに無垢に襲われた。感動とはこれかと思った。ギリシャ悲劇の極致・原点にあり、世界の藝術の原点にありしかも静謐の極致を成している。
「父の陳述」など、生やさしいものだ。まだまだモノが抉り出せていない。
ソヘポクレス、引き続いて「アンチゴネ」を読みはじめている。
2016 10/17 179
☆ 人間のあらゆる性質のなかで、「最良のもの」は「誠実」である。この性質は、ほかのどんな性質の不足をも補うことができるが、この性質が欠けているとき、それをほかのもので補うわけにはいかない。
ところが残念ながら、この性質は人間にはむしろまれで、かえって動物の方にしばしば見られる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ふっと、微笑ましい。ヒルティは、これで、回り道をとりながら「進化論」を否認しているのだ。人間の方が動物より誠実の性質をもっているのなら「進化 論」を信じても好いが、遺憾にも人間が動物たちより性質としての誠実に富んでいるとは認められないと彼は、言い切っている。かなりびみょうなところでヒル ティは躊躇っている。
わたしはどうだろう。わたし自身も含めて人間の誠実に太鼓判をおす居直りはできない。亡くなったネコやノコや黒いマゴは徹底的に信愛しているのに。
2016 10/18 179
* 村上開新堂の山本社長さん、神戸の吉田章子さん、浦和の出田興生さん、京の澤田文子さん、それぞれ懇篤の来信あり。
そして亡き詩人立原道造にご縁の布川鴇さんが編輯している、詩と評論の「午前」第十号に、手紙も添って届いた。「午前」は立原が生前に期していた詩誌の題と聞いている。詩誌も歌誌も俳誌もたくさん頂くが「午前」誌のたたずまいは、誌も論も、いかにも凛としている。
2016 10/18 179
☆ 完全に健康でなければ、立派な仕事はできない、という見解を信じ込んではいけない。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、心ある人にふさわしくない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 人に強いる気はないが、自分としてもそう感じている。
2016 10/19 179
☆ 厭世観は、けっしてよい徴候ではない。肉体的か精神的に、かならずなにかが欠けている。こういう人の晩年に憂鬱や怒りっぽさや不機嫌が伴わなかった実例をただの一つも知らない。
力の許すかぎり、中絶せずに有益な仕事をすることは、およそ人生が与えうる一切のうちで、最も良い、最も心を満たしてくれるものである。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 何が誰のために「有益」なのかを納得する難しさはあるが。つまるところ、自分の納得や満足に帰するのか。
2016 10/20 179
* 「春琴抄」論を気を入れて読み直した。「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」 これを越す谷崎潤一郎論が、谷崎作品論が、読みたい。残念ながら、この昭和と平成に、出会えたことがない。
* 疲れて横になりながら、恆存先生の超重い飜訳全集でソポクレスの「アンティゴネ」を読み、ウーンと唸ったまま二時間近く寝入っていた。おかげで少し視力回復、すぐまた機械の中の原稿を読みに読み継いでいた。気温が上がってきて、一枚ぬぎすてた。
2016 10/20 179
☆ 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。ロックは言っている、「世の中に間違った意見と いうものは一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるで持たないで、他人の意見か、ただ噂や批評などの受売りで満足し ているからだ」と。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ま、そんなようなものだ。
2016 10/21 179
* 源氏物語は「松風」を終えて「薄雲」巻へ来ている。明石の姫が紫上の手元へひきとられ、母明石や祖母尼は寂しい、が。この辺、好きな巻・巻であるが、薄雲では藤壺女院の逝去という寂しい場面がある。桐壺があっての藤壺、藤壺があっての紫上だと思い沁みてきた。
妻は、岩波文庫「聊斎志異」上下巻をわたしより先に読み上げてしまった。じつにじつに面白い読みやすい不思議と懐かしい幻妖微妙の物語集。昔、日本のインテリたちが愛読し、巧みに借用しては自身の筆技に生かしていたのは至極もっともだと思う。
サホンの「天使のゲーム」もいわば志異の物語。
バルビュスの「クラルテ」は惨憺たる塹壕戦闘からの無惨な敗退の真最中、読ませる筆の冴えに引き摺られている。
しかし、何と云おうとソポクレス「オイディプス王」「アンチゴネ」という「悲劇」の迫真迫力には畏服。こと文藝の創作に志あるものは、この一連の悲劇の真実に接してのちに立ち向かえと言いたい。
2016 10/21 179
☆ われわれが人生において人の憎しみをうけるとき、その大部分は、相手の嫉妬か、報いられなかった愛のためである。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* おもわず、わらえた。
こうもヒルティは言うている、「内的進歩をしめす最もよい徴候は、善良な、心の気高い人といると心地よく感じ、愚昧で乱雑な人たちのなかでは不快を覚えること」と。
ヒルティは、性本来かどうか「お高い」気味の濃い紳士であり、自信に満ちて言い過ぎていることばもあり、しかも熱誠のクリスチャンであることもそれへカブッテ来る。その辺の顧慮をもちつつ聴けば、彼のことばは正確であると感じやすい。
2016 10/22 179
* 「聊斎志異」には、幽鬼や狐が夥しく現れ出て、しかも生ける人間との間で婚姻し生活し死生をともにしたり、別れたり再会したり、深い愛を交わしたりし ている。まことに自然に平和に普通に関わり合っている。それが、呼んでいて時に、いやしばしば素直に羨ましくさえなる。一冊数百頁の上下巻を妻はわたしよ り早く読み遂げてしまい、おもしろい、おもしろいとしきりに感謝していた。一つには訳された人の日本語がなだらかに自然で、選奨の一編一編も適切なため か。
こういう世界、また陶淵明や李白・杜甫や白楽天らの詩歌の世界、美しい陶磁器の世界に親愛と尊敬をこめ馴染んでいると、今日只今の政治的・覇権的・ガサついた中国への嫌悪感との落差に、メゲそうになる。
ま、似たことは、トルストイやツルゲーネフやチェーホフのロシアと、あのプーチンのロシアとにも観じてしまう。いやいや、そんなチグハグはは英仏米独伊などいたるところの國にも同じように感じているのだ。
そもそも日本という我が国にそれを感じて、日々のギクシャクが辛くて堪らず、アブナイこともつい想ってしまうのだ。危ない、アブナイ。
2016 10/22 179
☆ 今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実を見わけるある種の本能である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティの「今日」とわれわれの「今日」はちがうが、今日のわれわれにとっても同じく言えるであろう。
また、こんなことも彼は言っている。
☆ 死後にもその人柄の印象を長く残すような人は非常に少ない。たいていの人は、重要な地位にあった者でも、数年ならずして忘れられてしまう。最も長く心にのこるのは、その人の誠実の追憶であり、また女性の場合は、彼女のやさしい愛情の思い出である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 「誠実の追憶」というのは微妙にアイマイだが、「やさしい愛情の思い出」というのは女性と限らず、うったえてくる。
2016 10/23 179
* 明石の姫を紫上は養女のように可愛がり、光源氏はそんな紫にいいわけして明石上のすまう嵐屋へ出向いて行く。そのときの源氏の愛妻へ言い訳もコミのお出かけ挨拶を、この物語は、「罷り申し」と表記している。
2016 10/23 179
☆ どんな仕事でもすべて、長い間かかってまわりくどい「下準備」などはせず、即座に元気よくとりかからねばならない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* ヒルティさん、ちと乱暴ではあるけれど。それでも彼は言う、「人生の重大な別れ目においては、つねにまず敢行することが大切である。そうすれば、おのずから力が生じ、最後に、その行為が正しかったという洞察が与えられる」と。
結果を見た洞察などどうでもいいが。
2016 10/29 179
* 『聊斎志異』全話 読了、まことにまことに面白くて満足した。繰り返し懐かしいほどの気持ちでまたまた読み返すことだろう。
* バルビュスの『クラルテ』 戦場の惨憺、凄惨な負傷、混濁と夢想とからの脱出、救済から回復、生還帰宅への圧巻の表現に、感動抑えがたく。
2016 10/29 179
* 退院しました
篠崎様 平穏なご退院を喜びます。よかったですね。お大切に予後をお労りください。
じつは、私もこの土曜、一昨日、に退院してきました。胃袋が無くて腸閉塞の気味に落ち込み、痛み、便秘、嘔吐などに悩んで聖路加へかけこみました。吐物の誤嚥で軽い肺炎の危険もあり、一週間、点滴をつづけていました。
その間、病室でたくさん本の校正ができました。
結局、病院では便通なく、退院帰宅後の我が家で、やっと今暁四時、無事便通しました。ホッとしているところです。
病院では、源氏物語と聊斎志異と、アンリ・バルビュスの記念碑的な「クラルテ」とを愛読していました。
源氏は、須磨・明石から帰っての、「松風」「薄雲」から「朝顔」「少女」の巻へと、好いところでした。
中国の「志異」「伝奇」は、「詩」とあわせ、大好きなんです、何故かしら。
感じ入ったのは、仏独の熾烈で惨憺たる塹壕戦を体験したバルビュスの、適確で感動的な文学の佳さと、反戦への強い起ち上がりようでした。
退院してからは、「昭和初年の谷崎潤一郎」ほかの論攷と、新しい小説とに向きあっています。
あいかわらず酒と甘い物。純米の「越乃寒梅」と金沢の「和三盆」、主食代わりには麹町の村上開新堂のクッキーを少しずつ、で済ませています。
久しく観ない京都へ帰りたいです。
お大切になさって下さい。ぜひ。 秦 恒平
2016 10/31 179
☆ 世の多くの人びとは、自分が何を欲するかを、まるで知らない。また、それをよく考えることもほとんどしない。
可能なこと、つまり、自分の力と現実の世界秩序とに相応したことを、確固として辛抱づよく欲する人びとは、つねにその目的を達成してきた。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 上のヒルティ二段落はじめの「と現実の世界秩序と」を、わたしは抹消する。端的に「自分の力に相応したことを」で良い。今日、「現実の世界秩序」を安易に受け入れてはならない。革めねばならない。
同じヒルティの言に聴くなら、「われわれが自己を改善しようと努力する場合に、あらゆる悪を避けようようとするよりも、すべて醜いものや卑俗なものを避けようと決心する方が、直ちに、もっと効果があがることが多い」と言うているのへ、概ね、頷く。
2016 11/1 180
* わたしの生まれて数年後に、真下五一という作家が『京都』という小説を本にしていた。何十年かまえに古本で買って、妻とも、腹を抱えて大笑いしながら読んだが、久し振りに書庫で見つけて持ち出してきた。
「京都」の書かれた小説で、文学としての「作品(醇度・精美)」を問わないなら、真下のこの『京都』は、卓越して「批評的」に面白い。こんどま読み返して いても、噎せ返りそうにやはり面白い。郷土文学全集の「京都編」二巻に採られていないのが惜しい。残念なことに、やや校正が雑で、しかも驚いたことに官憲 の手が入ったか一部に文章の削除がある。もうそんな「時代」になっていたのか、削除の必要そうな作ではないのに。
2016 11/2 180
☆ 同じ時期に
秦先生もおつらい思いをなさっていたのですね。
“ 病室でたくさん本の校正ができました ” には唯々敬服致しました。
私も病室に『バグワンと私 上』、『ギリシア語文法』、そして電子書籍(これには哲学書、古典文学、大衆文学など約500冊が入っています)を持ち込んだのですが、しっかり読んだのは『バグワンと私 上』だけ。
病院のベッドの上では、手術部位が痛み、肩と腰も疲れてきて、難しい本は集中できませんでした。岡本綺堂、久生十蘭、中里介山など家の書斎では先ず読むことの無い本を読んでいました。
聊斎志異は、私も大分以前に大変面白く読んだことがあります。今昔物語、宇治拾遺物語に通じるものがあるように思いました。
秦先生におけるバグワンとは意味が違いますが、私は『正法眼蔵』をなかなか理解できないままに毎日少しずつ声を出して読んでいます。
しばらくご無沙汰している京都、奈良を歩きたいと思っていますが、体調が回復するまでは実現は難しそうです。
大分寒くなってきました。
先生も何とぞお体おいといくださいますようお祈り申し上げます。
p.s. 湖の本「みごもりの湖」に1996年9月15日付け日経新聞の「作者から読者へ、手渡され続けた作品」の切り抜きがはさまっていました。文中に、“46冊目を送り出した” と記されています。
それから丁度20年、さらに100冊近くを発刊されたことに深い敬意を表します。 篠崎仁
* 篠崎様
目方の重い本は、キツイですね、ベッドでは。しかし 文庫本は字が小さくて、半盲の視力では辛く、湖の本も選集も 10ポイント組にしています。入稿前に作や論を原稿として読み返すときは12ポに大きくして読んでいます。
ホームペイジの日記も、いつの間にか、大きな太い字でしか書けなくなりました。
正法眼蔵とは、大きな山ですね、わたしも何度か登りかけては途中下山。
代わりにというのは変ですが、臨済録を多年愛読しています、それと陶淵明全集も座右に。加えて平安の勅撰和歌集をしょっちゅう休息用にそばに置いています。
湖の本130の記念に、「自問自答」を入れましたが、篠崎さんにも多彩なご思案が期待できそうです。今思うと欠けている問いもいろいろあります。あれらはみな二十歳過ぎの学生への挨拶でしたから。
お大事にご静養ください。 秦 恒平
2016 11/2 180
* 篠崎仁さんに、「臨済録」を愛読していると書いた。書きはしたが、要するに「臨済」師に手ひどく叱られ叱られ叱られ続けるのを感謝しているという話。 臨済の獅子吼にただただ反して背いてはなはだ事多くのみわたしは生きて生きて汚れにまみれているだけのこと。恥じ入るすべも知らない。
寒暑に代謝有り
人道も毎(つね)に玆(か)くの如し
達人は其の会(え)を解し
逝くゆく将(まさ)に復た疑はざらんす
忽ち一樽の酒と与(とも)に
日夕 歓びて相持せん
陶淵明にも、臨済禅にかよってかつ心優しき清閑の美がある。
2016 11/3 180
* このところ何冊もいろんな著書をいろんな人たちから貰っている。なかなか、読めないが、頁は繰っている。中国人の小説や、老境を「ひとり」生きるにつ いての山折さんの本や、若い女子学究の中島敦研究書などなど。写真集もあった、歌集も詩集もあった。馬場あき子さんからはごく尋常な「百人一首」解説本が 届いていた。
わたしは寝入る前に、床で、自分のゲラ校正のあと、きまって源氏物語の今は「朝顔」巻、サホンの「天使のゲーム」、バルビュスの「クラルテ」、真下五一の「京都」 そしてイプセンの「ヘッダ・ガーブラー」を少しずつ読み進んでいる。
余の本は昼間に手に取る。
* 「ひとり」ということは、身に迫ってくる話題であり、上野千鶴子にさんざ「脅され」ているが、山折さんには、往時の祖師らのそれでなしに、山折さんご自身 の「ひとり」を語り聴かせて欲しかった。似た思いは馬場あき子さんからいまさらに小倉百人一首の手頃な解説鑑賞本などより、もっと差し迫った老境の研究な り考察なり述懐の本が欲しかった。率直に「自身」の老い悟りを語って欲しかった。
2016 11/5 180
☆ 古代の知恵の最も美しい表現は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの有名な日記の一節に含まれている(この日記は、皇帝が急死したさいに、その長袍の襞のなかから発見されたとつたえられている)、
「たえず何かしら人びとの役に立つ者になれ。そしてこのような不断の鷹揚さをおまえの唯一の楽しみとせよ。しかも、時おり神性へ一瞥をささげる義務があることを忘れるな。」 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* わたしも実にこのアウレリウス皇帝の遺著に心酔し敬服を惜しまずに来た。シドッチ神父の来日行に際してあえてこの日記を所持させたのも、わたし自身の 願いであった。ヒルティの引いている一節も美しい。まだまだ、まだまだ心を打つ美しくて深くて静かな思惟の輝きがアウレリウスの「内省録」には籠もってい る。懐中書としてもっともっと広く親しまれ敬愛されていい一冊だと思う。岩波文庫にして、軽量の一冊、文字どおり懐中に値いしている。
☆ 陶淵明に聴く
閒居すること三十載
遂に塵事に冥(くら)し
詩書 宿好を敦くし
林園 世情無し
如何なれば此れを舎(す)て去らんや
* 此の三十年、「湖の本」とともに「騒壇餘人」を自覚し、「塵事」の世をただ「ウソクサイ」と恥ずかしく眺めつづけてきた。わが「林園」は「いま・ここ」に在り、それすらも無い。
2016 11/6 180
☆ 信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。(少信根の人、終に了日無けん。) (臨済 唐末期・九世紀の禅師)
* 真っ向、打たれている。『臨済録』は宗派の聖典とはまったく違う。見識が師以上でなければ無意味とされた厳しい師資相承の唐代禅の大雄峰。「埒のあかない」一人であるが、ただただ向きあって聴いている。バグワンにも同じい。
☆ 人との交わりにおいて、最も有害なものは、虚栄心である。虚栄心はつねに見すかされる。虚栄心は決してその目的を達し得ないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* このヒルティには素直に聴くべきである、その通りである。
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
人も亦た言へる有り
「心に称(かな)へば足り易し」と
玆(こ)の一觴(=盃)を揮ひ(=飲み干し)
陶然として自ら楽しむ
* ま、せいぜい、このへんですか、ね。
2016 11/7 180
* 山折さんの『ひとりの哲学』、大事なことへ触れてきておられる。読んでみたい。が、「ひとり」の問題は哲学とともに生活行為学でもないと、やって行けないでしょう。
2016 11/7 180
☆ 陶淵明(365-427 晋の詩人)に聴く。
采采たる栄木 玆(ここ)に根を托す
繁き草 朝に起るも 暮には存せざるを慨く
貞(=正しく身を持する)と脆(=もろく折れる)とは人に由り
禍と福とは門無し(=定まった原因は無い)
* この後ろへ、「道」に依り「善」に敦かれと二句あるが、そこまでは引かない。引けないのかも。
2016 11/8 180
* 文藝誌「新潮」の突然の手紙で呼び出され、筑摩の太宰治賞を受けてほどなく新潮社の新鋭書き下ろしシリーズに加えられて『みごもりの湖』を書いた。そ の創作途中に担当の編集者池田さんから戴いた現代語・古語の入った久松潜一監修『新潮国語辞典』を、四十七年近く文字どおり手近に愛用し続けてきて、つい 先ほども「刺」という字が「名札」を意味し「名刺」の「刺」であることを確かめたばかり、それにしてもさすがに手擦れで、表紙はガムテープで剥がれは防い であるが、気の毒なほど表紙じたい痛んで反り返り裏剥がれたりしている。お世話になったなあと、つくづく。どう見た目は窶れても、版型といい厚さといい、 じつに温かに手慣れて懐かしいのである。
小説の良い読者とは、いい想像力、優れた記憶力、創作性のいいセンス、そして、進んで辞書をひく気性と挙げていた世界的な作家がいた。辞書を座右に愛し うることが優れた読書の基礎の条件だという、わたしは諸手を高く上げて賛成した。今一つ加えれば、「繰り返し読めるちから」「本当の読書とは、再読から始 まる」とわたしは思ってきた。自身そう楽しんできた。上の条件を皆満たしている読者に、再読を誘わない作や本は、足りないのである。
わたしはこれぞという本を一読だけで棚上げしたこと、ほとんど無い。近年読んで、いま強く再読を心誘われているものに、ミルトン『失楽園』がある。宇宙 を飛翔するように我と現実とを忘れうる。詩といえる作の最大規模の最優秀作ではないか、しかもほぼ失明のまま書かれたという。
* わたしもほどなく失明に近いことになる、が、限界までは体力を保ち根気を保ち、時間を惜しんで半歩でも一歩でも仕事の前へ出たい。ムダに遊んでられる ヒマはない。わたしの仕事に不二の価値があるの無いのではない。意義は何もない。他のだれにも出来ないこと、というだけの話。笑い話であるが。
* 腹具合はよくならない。すこし間違うとまた入院になる、心づかいしてそれは極力避け、よく寝て視力をすこしでも労りたい。元気の少しは残っているうちに、いちどでいい京都へ帰りたいが、叶いそうにない。
☆ もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* これぞ、わたしの信条でもある、心情でも真情でも身上でも、ある。 2016 11/10 180
* このあとは「梁塵秘抄」「閑吟集」を読んで行く。米国のトランプ騒ぎから、少しく雅にしんみりと、逃避したい。語っているわたしが、生き生きしている。病気など綺麗に忘れてしまう。
* 朋あり、遠方より帰り来る、また嬉しからずや、という心地になれる。
2016 11/12 180
☆ すべての苦難は、それがのちに現実となった時よりも、その前に想像されていた時の方が、よほど困難・難儀・厄介に思われる。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* そう実感したことは数えきれず多い。例外は有るが。
* 昭和初年の谷崎先生に触れ続けていると、あまやかな苦痛すら覚えながら、久々に「吉野葛」を読みたくなる。わたしが日本現代作家の作を最初に岩波文庫 を買って読んだのは、「☆」一つの『吉野葛・蘆刈』だった。その本は、まだ大事に持っている。岩波文庫「☆」一つが十円であった、のが十五円になってから だったか、そこまで覚えていないが大事に大事に読んだ。西洋のものではシュトルムの「みづうみ」でやはり「☆」一つ、古典では同じく、「徒然草」を買っ た。上下本で合わせると「☆」五つの「平家物語」を買ったのは大奮発であった。とはいえ、どの一冊も、後年の作家・秦 恒平の大きな滋養にも助けにもなってくれた。なにしろ「湖の本」とまで名が付いた。「蘆刈・吉野葛」は、一つには谷崎論の要に成ってくれたし、また母もの 谷崎の感化からいつしかに『生きたかりしに』へも導かれたと思う。
「徒然草」は『慈子』に成ってくれた、「平家物語」は『清経入水』『風の奏で』などに化けて出てくれた。まだ今もあわよくば、新作『清水坂(仮題)』へ跳ね返ってくれそうである。
* 幼いながらも、文学の優れた名作や秀作に出逢う有り難さは、人生に響いてくる。詰まらない読み物からは、所詮得られない、深い熱い刺戟がある。わたし も「小説を書く」なら、そんな力有る「作品」を生み創りたかった。わたしの作が、人の或る苦しかった時期の「救いでした」と何度か何人かから打ち明けられ てきた。昨日も、「二十年前」を回顧した「救いでした」というメールを、久し振りに貰っていた。なにがどう働くのかは人それぞれであろう。わたしは、ただ 心籠めて書くだけである。「救う」ために書くのではない。
2016 11.13 180
* 歴史に取材した文学と、時代読み物とは、まったく別と思っている。亡くなった元「群像」の鬼編集長大久保房男さんは徹底して時代物、歴史物を嫌われ た。わたしは時代物は低俗だが、佳い歴史小説は有り得ますと抵抗していた。しかし大久保さんの姿勢には基本与していた。講談社の日本文学全集には吉川英治 も入っていなかった。直木賞作家で入っていたのは井伏鱒二ただ一人だけだった。それほどの厳しさが文学の名において守り抜かれていた。もうあのような厳格 な文学全集は編まれない。
* そんななかで、テレビドラマの時代もので、藤田まこと、山口馬木也、堀島しのぶの「剣客商売」は愛している。本格の歴史ものでは、鴎外原作の「阿部一 族」を超えたテレビ映画には出会えない。劇場映画では優れた作品がいろいろあり、それはもう文学でなく映画芸術なのである。「羅生門」「七人の侍」「近松 物語」など。ほかにもいろいろ。しかしテレビドラマでは、時代物の九割九分が屑である。もっとも現代物の九割五分も屑である。電波が勿体ない。
2016 11/13 180
☆ われわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが「最も愛の深い仕方」であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。
なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* これは「達者」の示唆である。従えるならこの示唆に随うのがもっとも心よくはあるだろう、かならずしも容易ではないが。
わたしはヒルティの示唆になにもかも賛同はしてこなかった。こうして引いて挙げている彼の所感や示唆は全体の一割にも満ちていない。ことに神や基督教信仰と触れ合った言説からは、たとえ共感できる何かの有るときでも、あえてすり抜けている。
2016 11/14 180
* 十一時をまわった。目もまわっている。とっておきの有元さんのお酒もきもちよく回っている。
源氏物語は「少女」の巻。夕霧と雲居の雁のおさない恋のかなしみが始まる。好きな帖である。
真下五一の小説「京都」 いささか刺戟強く批評されながら読んでいる。
イプセン劇、身に迫ってくる科白の迫力。こわいほど。
バルビュスは「クラルテ」で、演説を始めた。
昔々、小学生だった建日子にお年玉にそえてやった岩波文庫、ツルケーネフ「初恋」がひょいと手元へ現れたので、なつかしく読み返している。
2016 11/14 180
☆ 魂の底にふれることなく、ただ良心をなだめるためにのみ存在する、外面的な、わざとらしい宗教を持つよりも、全く宗教など持たない方が、おそらくましであろう。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* つよく同感する。
が、この際の「宗教」を「信心・信仰」と置き換えても、そうか。迷信と異ならず迷信と承知しつつ、われわれは凡庸なまま平然と念仏したり神様を呼んだり、まま、している。そんな安定剤なみの信心もとりあげてしまうべきか、どうか。
2016 11/15 180
☆ 全体として善い生活をすごしてきた場合でも、それが陥る最も危険な時期は、ときとして、生活がいくぶん退屈になりはじめる頃である。 むしろ苦悩を、新たな種まきの時期として利用するのが良い。 (カール・ヒルティ 1833-1909)
* 同感する、そして努めてそのように生きてきた。魂の凍えるほど日の下が苦しく寒かった日にもわたしは「新たな種まき」に励んだ。人によれば作家・秦 恒平後半生の汚点かのように見られかねぬ「逆らひてこそ、父」も「父の陳述 かくの如き、死」も、わたしは決然と書いた。作家なら当然と心決めて書いた。 浅い私憤や逃避のためになどわたしは書かなかった。
* もっとも、ヒルティにこう聴いて頷いたわたしは、同時に詩人陶淵明や臨済和尚にも聴いている。彼らはまた別の境地を聴かせてくれてわたしは憧れる。これは矛盾や撞着なのか。たんにわたしがバカであるに過ぎないのか。
☆ 陶淵明に聴く
去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)ふべけん
「さっさと隠遁するだけのこと、何をためらうことがあろう。」
世俗は久しく相欺(あひあざむ)けり
悠悠の談を擺(はら)ひ落とし
「世間のよいかげんな取沙汰など払い捨てて」
請ふ 余(わ)が之(ゆ)く所に従はん
「わが道を行けばよいのだ」
* 「わが道」も人それぞれであろう。
☆ 臨済に聴く
少信根の人、終(つひ)に了日無けん
「信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。
2016 11/16 180
* で、安倍の臣従にちかいトランプ詣での名簿(みょうぶ=名刺)を捧げる儀式など見たくもなく、床に就いて、源氏物語「少女」の巻を読みあげ、梁塵秘抄を校正し、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」に胸ドキドキさせたい。
2016 11/17 180
* 田井安曇の歿後歌集が贈られてきた。わたしの歌集『少年』の解説をして貰ったのは、もうよほど前、朝日子が中学生で師事していたのはもっとはるか前になる。
田井さんの歌集、先日は馬場あき子歌集も貰っている。わたしの書庫には、斎藤史全歌集をはじめ、上田三四二も岡井隆も田井安曇ほか著名歌人からの戴き歌集が沢山入っている。むろん斎藤茂吉のも入っている。欲しい人もあるのでは。
同様に、詩集も句集もかなり揃っているし、よく読んできた。堀口大学や島尾敏雄や井上靖や大岡信らのめずらかな詩集がある。
誌も短歌も俳句も、気が動けばよく手を出して読んでいる。
* 読んだといえば、昨夜、福田恆存訳、イプセンの「ヘッダ・ガーブラー」を戦慄のうちに読み終えた。ソフォクレスの「オイディプス」「アンティゴネ」にも、ショウの「ジャンヌ・ダルク」にも震えたが。
重い重い一冊だが、書架へ戻せない。つぎはワイルドの「サロメ」やバリーの「天晴れクライトン」を読んで行く。もう少し活字が大きいと助かるのだが。
字は小さいし墨は淡い真下五一昭和十五年の小説「京都」も昨日読み終えた。一風ある読み物でわたしなどとは異なった粘っこい中京の京ことばが面白かっ た。もっときちんと校正しておいて欲しかった。わたしが満で四歳ころのもう国家総動員体制目前の国策も行文の背後にかげっている、地味に洒落たわるくない 小説だった。
2016 11/17 180
* やはり外出疲れが残っている。機械からは離れ、からだを横にし、明るい照明に助けられて本を読むか。ワイ ルドの戯曲「サロメ」、原作原画の奇抜におそろしい豊富な挿絵も楽しんでいる。ツルゲーネフの「初恋」は、小学生だった建日子にやった岩波文庫。ちゃんと 読んで、かなりの刺戟を得ていたらしかったが。すっかり、つかこうへいの門下に入りきっているらしい、今は。自分のモノがもう確かに出来てきてよい時機かと。
源氏物語は「玉鬘」へ入っている。しそがず、楽しんでいる。ぐんぐんと物語が盛り上がってくる。
京の森下辰男君が送ってきてくれた、懐かしや「李香蘭」の歌20曲を聴こうかな、とも思っている。「夜来香」「支那の夜」その他、懐かしすぎる歌が録音してある。
2016 11/21 180
* ワイルドの「サロメ」のあと、J.バリーの戯曲「天晴れクライトン」を読みはじめた。まったく予備知識を持っていない。そのあと、T.Sエリオットの 二編が待っている。わたしを待ってくれている本は、無数に在る。残念ながらすばらしい本ばかりでなく、期待を裏切る本もある。いま手にしているあの優秀な 女の歌人「伊勢」を紹介した学者の本が、雑駁で趣が無い。だいたい「文学・藝術」を扱う論攷・論文の日本語が粗雑でしかも「上から目線」では、興を殺がれ る。
2016 11/22 180
* 明日には、「選集」⑲の再校が届くという。投げ返しておいたボールは必ず投げ返されてくる。校正往来の本来である。十二月は、落ち着いて、校正をむしろ楽しむとしよう。
十時半。もうからだを横にしよう。少なくも床に就いて、気分を換えて『閑吟集』の室町小歌を楽しもう。玉鬘の筑紫からの脱出を見守ろう。西欧の戯曲や小説を読もう。
いい夢を見たいが。
明日は「冬祭り」の日、天気はどうか。
2016 11/22 180
* 高野山に籠もって谷崎が『武州公秘話』を書いていた頃を『紙と玩具との間』で論じていた辺りを丁寧に読み返しつつ、たまたま妻が録画しておいてくれた 市川崑監督の映画『細雪』を観た。何度目かでありながら、新鮮に面白く観た。胸のつまるほどの感銘も得た。岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子と いう顔ぶれ。目黒の雅叙園で篠山紀信が彼女らの写真を撮ったときにわたしも立ち合い、豪奢な写真集にわたしの細雪の読みを入れた思い出がある。四人の女優 ともその際に出逢って、言葉も交わした。
大きな作品であった『細雪』というのは。なまじいな姿勢でははじき返されてしまう凄みの世界でもある、美しさそのものに凄みが秘められていた。
* 幸せというものか、わたしはわが「谷崎愛」の行方の中で、誰よりもこの『細雪』世界の主人公である、二女幸子、即ちというてもよい谷崎松子夫人と親し く識りあうことが出来た。作家水上勉は、秦 恒平は谷崎夫妻の隠し子かと一時期本気で推量していた。それほど、亡くなるまで親しかった、ほんとうに佳くしていただいた。
いま思えば、わたしの谷崎夫人とのおつきあいは、また「谷崎愛」は、あまりに「書く」ことに尽くし過ぎていたかも知れない。ひたすら谷崎を読みかつ書いて夫妻への敬愛を表現しつづけた、つづけ過ぎたとすら云えるほど。
『神と玩具との間』を書き下ろして世に問うたとき、松子夫人は一言もわたしに苦情を云われなかったが、書かれていた内容は、或る意味で「わたし」だから 赦していて下さったかと想える険しいものだった。いましもそれを読み返し進めていて、ありありとそれを思う。わたしは「書く」ことに全身全霊熱中し、熱中 できるようにと、松子夫人をはじめ微妙な関係者の何人にもあえて取材もヒアリングもしなかった。徹底して自身の「読み」を通し、それで良いと確信していた のだった。
* いまわたしの目の前直ぐに、谷崎潤一郎自身が最も気に入っていた、またわたしの見る限り最も松子奥様らしい優しい美しい顔写真がわたしを見ている。親 の写真の一枚もないのに、谷崎夫妻の最良の顔写真にわたしは一日中見られている。ときどき、こんなに書いてしまってごめんなさいとあやまっている。
明日からは「第三章」ゑ進む。
2016 11/24 180
* 十一時半になる。床へ坐って、本を読みます。バリーの戯曲「天晴れクライトン」が面白い。サフォンの「天使のゲーム」も、ツルゲーネフ「初恋」も、 バルビュスの「クラルテ」も、しっかりわたしを呼び込む。そして何よりも「玉鬘」、ホッとした、長谷での右近との再会。これから玉鬘は、ほぼ副主人公 にも成って行く。なさけ深く聡明な、好きな女人である。
2016 11/24 180
* アンリ・バルビュスの『クラルテ(光)』を読み上げた。『地獄』から『砲火』へ、そして『クラルテ』へ、バルビュスのまさしき「革命的」大成に息を呑み、感嘆した。忘れがたい人と作とにわたしは出逢った。
* バリーの戯曲『天晴れクライトン』の二幕まで読み、抱腹の笑いと諷刺とにこれもまた感嘆の拍手をすでに送っている。ほんとかどうかは今、知識に問うす べもないがイギリス貴族社会のさも慣例または風習かのように、年のうち日をさだめて、その日だけは全従業員を「主役・主人」として日頃の貴族家庭人たちが 家の広間に「歓迎」するのだと、そんな場面が奇抜な第一幕になっている。なかで、執事のクライトンだけはそれを「不自然・自然でない」と心中に忌避しなが ら貴族の主人・家長の指示にしたがっている。家長には三人の娘がいて上のような「不自然」を嫌っている。
そして第二幕は、なんとこの一家の主要メンバーがうち揃って海で遭難しかつがつ無人島にのがれているが、生活の実際を支えるのは忠実な執事クライトン で、おのづと主人方貴族家族とクライトンとの指示指導関係が逆転しそうなのを、そんな「不自然」には堪えられないと家長も娘たちもクライトンから離れて住 まおうとするのだが、それでは身の安全も食事の用意もできず、すごすごとクライトンのそばへ寄ってくる、そして第三幕へ移る。なんとも、彼ら貴族と使用人 との意識を縛っている「自然」「不自然」感覚が奇妙で、ドハドハと読まされる。クククと笑いながら読まされる。
2016 11/26 180
* くさくさすると、小説や戯曲のなかへ入り込む。ピーター・パンの生みの親であるバリーの戯曲『天晴れクライトン』こほど「読んで」面白い戯曲は「初め て」でした。グツグツ笑ってしまった。たわいない笑いではなかった、人間社会の自然と不自然の構造的な怖い根を、目の前に突き出され、唸りながら感慨に耽 り、しかも思い切り尻を蹴飛ばされたような思いをした。舞台でも観たいなあ。
ひきつづき、福田恆存訳で、T.S.エリオットの戯曲「寺院の殺人」を読んで行く。
光源氏は六条院へ夕顔の遺児玉鬘を引き取った。新年の晴れ着を紫の上とふたりで選びながら、女たちに配る晴れやかに艶やかな場面を読み終えた。玉鬘十帖といわれる源氏物語のはなやかな場面がここから盛り上がって行く。
2016 11/28 180
* 暫くぶりに江古田二丁目の歯科へ、妻と。
帰りに、江古田で「中華家族」に寄り、妻は好きな鮑と酢豚を、わたしはマオタイを。食後向かいのブックオフで「椿説弓張月」三巻と「無門關」とを買い、妻は駅前の花屋で黒いマゴたちのために鉢の花を買った。
さ、「選集⑰」の出来てくるまで五日間、有効に、用意もし、楽しんで休みもし、仕事もたくさんしたい。平穏に無事に歳末を送り新年を迎えたい。二十一日、誕生日。迎える一年を、八一と名乗ることにしようか。
* 十時半、ひたすらの辛抱仕事で、もう眼は、機械向けには、限界を超えた。
冷えても来たので、階下へ移動。「無門関」「弓張月」を今夜から就寝前の読書に加える。
* 建日子の、河出からの小説新刊が今日送られてきた。さきごろの舞台劇と同題、どっちが先に書けていたのか知らないが、長ぁい英語題であるのが、うまく伝わるといいが。テロリズムへ触れた社会性のある作という。わたしはまだ一行も読んではいない。
2016 11/29 180
* 眼鏡が幾つあっても役に立たず、裸眼のママたくさん仕事した。「神と玩具との間」第三章を読み終えた。五分の三。まだまだ山また山を越えて行かねば。
2016 12/1 181
* 子供の頃、わたしの英雄というと、鎮西八郎為朝か真田幸村だった。それで「椿説弓張月」の原作を読みたいと思いつつ、八十一になってしまった。幾らか浮き浮きと読みはじめている。
それにしても「椿説」を「ちんせつ」ではつまらない。主人公は名だたる強弓の「鎮西」八郎為朝ではないか。「椿説」のよみは鎮西を通わせ弓の源為朝に通わせた「ちんぜい」でなければならぬ。政治家の「遊説」は、「ゆうぜい」と読んでいるではないか。
* 源氏物語は「胡蝶」巻をはれやかに楽しんでいる。光源氏に、花は春の紫上。そして秋好中宮、明石上と姫、玉鬘、それに夕霧。二条院にはじまる物語は今やまったく六条院物語の豪奢と華麗とに席を譲っている。
* サフォンの「天使のゲーム」も終盤へ懐かしく盛り上がって来ている。
* 岩波文庫のツルゲーネフ「初恋」扉に、「建日子に 一九八〇年」とわたしの字が記している。お年玉であったか。昭和五十五年に当たっていて、わたしは 四十五歳、建日子は十二歳だった。しきりに感じ入っていたのを覚えているが、昨晩帰ってきたので聞くと、よく覚えていると。同じ頃に、建日子は「モンテク リスト伯」を読み終えて、いっしょの風呂の中で、「お父さん、人生は死ぬまでの休憩室なんだよね」と云いだし、聞くと、「モンテクリスト伯」で読んだよ、 と。あのときは、びっくりした。その後わたし自身で読み返して、なるほどそういう意味のことが書かれてあるのを確認し、もういちどビックリした。建日子、 小学校五年生ころのことだ。
「初恋」半分ほど読んだ。建日子のテロリスト小説とやらはまだホンの序の口だけ。
エリオットの戯曲「寺院の殺人」は、やや手強い。
2016 12/2 181
* 国会といい内閣といい、世界の動揺といい、付き合うのがイヤになるが。ただもう一喝しておいて、また本を読んで寐よう。
2016 12/2 181
* 明日に備えてやすむ。本を読む。十一時半になっているが。
2016 12/5 181
* 「和可菜」寿司の肴でやまと櫻の純米吟醸を楽しみ、浴室で、源氏物語「螢」巻、無門關、サフォン「天使のゲーム」 椿説弓張月を読み、湖の本133再校をゆっくり読んだ。
そのあと、もう何度目になるか、ハリソン・フォードの映画「エアフォース・ワン」を、やはり引きこまれて観た、この主演者には馴染めないのだけれど、彼にはこういうガンバリものの秀作が重なる。
2016 12/7 181
* 昨夜は三時半に手洗いに立ち、そのまま睡れず、「螢」の巻を読み、鎮西八郎初度の琉球を読み、ツルゲーネフ「初恋」を読み、なによりもT.S.エリ オットの戯曲「寺院の殺人」に重い関心を寄せて読み進んだ。教権と王権の葛藤、信仰と支配との抗争、ローマ法王庁と英仏王家との軋轢などを下敷きに進んで いるが読み終えるまで軽々に決め付け得ない鈍い重さがある。明快な秀作ではない、劇なのか詩なのか論なのか観念なのか。
2016 12/8 181
* 『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』 いよいよ最終章へ。谷崎夫妻のお写真に手元を覗き込まれながら読み続けている。谷崎論が書きたくて「小説家」になりたかった私の、紛れもない一代表作になった。読まれれば、分かる。
2016 12/8 181
* 源氏物語は「螢」での物語論を終えて「常夏」へ。玉鬘が実の父、昔の頭中将に逢える日も近づいてきた。
玉鬘が九州に不幸な少女時代をすごして大夫の監といった荒くれの武家に脅かされたのとは様子はちがうが、鎮西八郎為朝の妻白縫らも、保元の乱後、まさしく九州で難儀に遭う。原作を初読の「椿説弓張月」面白く展開している。
「無門關」がどのような「奥」を湛えた本かの、瀬踏みをまずはすすめている。
2016 12/12 181
* このところ読んでいるT.S.エリオットの長編戯曲「カクテルパーティ」に惹きつけられ、面白く読み進んでいる。
ツルゲーネフの「初恋」読み終えた。
* 「神と玩具との間」はほとんど凄絶な成り行きであるが、書いている私の筆は、あくまで「谷崎愛」に立地・立脚して微動もせず遠慮もしていない。しては ならないと思い決め、真っ向書き進んでいた。松子夫人もさぞ困惑なされていたと想うけれど、一言も私に向かっては苦情を仰有らなかった。わたしの真意・誠 意がひたむきに「谷崎文学」のより正鵠を射た解明と理解に向かっているのをご理解下さっていた。
あるパーティで三島由紀夫夫人につかまり、松子夫人がお気の毒と叱られたが、わたしはただ黙礼だけして離れた。「気の毒」で書ける世界でなく、しかし 「昭和初年」のあの峨々たる谷崎文学の理解に「三人の妻たち」の意義を究明することは絶対に不可欠であり、それならば気の毒がって遠慮して筆を枉げるなど あってはならないと確信していたのである。
2016 12/13 181
* わたしの日々は、もう「仕事」づくめで、この数ヶ月、寝ての夢にも小説や選集や湖の本へのあれこれが連続し、なんだか寝ているのか起きたままで寝ているのか分からない。
この明け方は、最近の建日子の小説本をしんみりと批評し案じて話しかけていたが、おかしいことに本身の建日子の姿はなく、目の前でいかにも少年のように 小柄な建日子がわたしの話に聴きいっていて、「いいなあ。こんなふうに話し合えるのがいいなあ。(建日子も)帰ってきたらいいのにナア」と小首をかしげて 言うのである。「そうだな。こうして話せるのも今の内だもんな」とわたしも口にし、ビックリして目が覚めた。
建日子の新刊が、わたしには少し心配なのである。「話」は書いてあるが、書かれてある「文章」に魅する味が薄く、ぶつ切りの「説明」ばかりに見えてく る。小説を「文章」で読まされる、読む、妙趣がかなり薄れていて、こんなつくり「話」だけが常になってしまうと、もう文学へは高まれなくなるのが怖いの だ。文学へ戻れないのだ。わたしもそんな怖さをかつて自覚し、ゾウッとした記憶があるのだ。建日子、佳い文体と情感とを生得持っているのだから、せかせと 急いで「話」家で終わることなく、「小説」家、「劇」作家の「藝」をいい文章で深めて欲しい、と、夢の中でも願っていたのだ。
* 午前中 懸命に仕事に励み、昼過ぎ、録画のドラマ「漱石悶々」を楽しんだ。宮沢りえの祇園のお多佳さんというのが嬉しかった。新門前の秦家でも「お多 佳さん」の名は親しく伝わっていた。茶屋「大友」へも近かった。豊沢悦史の漱石もわるくなかったが、宮沢りえの祇園の「おかあさん」役は凛々しく美しく懐 かしかった。
見おえてしみじみ思った。
朝の内、潤一郎と丁未子夫人のものあわれにに付き合っていて、午後は漱石。
もし千人の女性に、潤一郎を読み漱石を観て、どっちがと聞けば、千人が千人とも漱石に好感の手を挙げるだろうな、と思う。だが、その潤一郎からは昭和初 年の「吉野葛」「武州公秘話」「蘆刈」「春琴抄」「猫と庄造と二人のをんな」や「細雪」が生まれた、のちには「少将滋幹の母」や「鍵」「夢の浮橋」が生ま れたが、漱石の晩年からは「道草」「明暗」しか生まれなかった。「猫」や「それから」「門や「こころ」という漱石の文学世界をわたしは深く敬愛している が、谷崎文学の豊饒とはやはりくらべがたい。
むずかしいところだなと、しみじみ思う。
2016 12/14 181
* 京の正因寺万年先生、また永田澄雄さんから「とらや」の羊羹を、神戸の吉田章子さんには「蟹」を、川崎住まいの異母妹昭子、宏子からそれぞれにチョコ レートを、そしていつものように村上開新堂の山本社主から特製のクッキー詰め大缶を、頂戴した。「本年も残るところ あと半月ほどになりました。先生の選 集 拝受いたしました。お手書きのおことば忝けなく ありがたく存じます。 先生の大事なエネルギー 私に頂くのは余りに申し訳なく お喜びいただけると 思いまして 送らせていただいております。 奥様にもお礼状の御負担がかかりますことが 気になります。 どうぞお気になさらず クッキー お納め下さ い。 御身 御大切に 道子」と。このお店のお菓子は、宮中へは届ける以外、総理大臣の注文であろうと配達しないと言われている。美味しいのである。
笠間書院からは中世王朝物語全集の第五巻「石清水物語」を戴いた。
もう十数年来まったく無収入で暮らしているわたくし達には、いずれもいずれも、心の晴れる賑わいで。それもまた「騒壇余人」のよろこびと、楽しませてもらっている。
2016 12/14 181
* 豊島の松島修三さんからマスクメロンを一顆戴いた。札幌の真岡哲夫さんから百合根をたくさん戴いた。
いま、松島さんの送ってこられたかなりの長編小説「遊戯幻想」を読んでいる途中。安定した筆致で進んでいるが、まだ、幾らか、もどかしい。題も、コレでいいのかと、すこし気になる。
2016 12/15 181
* 正古誠子さんの久し振りの第二歌集『のこるおもひを』を戴いた。落ち着いて深みのある言葉と表現で、最近出色の歌集であると観た。
例によって乱立もいいところの小説教室から同人誌が送られてくるが、感心できない。「小説ごっこ」に堕していないか。行文から熱い血が垂れていない。
もっとも、知名の画家も交え何十回と続いている画会の「選抜展」の繪など(写真で)見せて貰ってもなんと貧相な売り繪ばかりよと泣けてくる。時代に、旺盛で創意豊かな藝術精神が憔悴してしまっている。
2016 12/17 181
* 部屋の照明を暗く感じている。このキイボードがさだかに見えずも慣れ打ちでやっている。頭の上の蛍光灯四本の照明が古びているのだろう、ただ新しい管 に交換するという脚立に乗っての作業が今のわたしには怖い。うっかり転倒したら大怪我になる。しかし、電器屋に来て貰うにはあまりにケッコウなお部屋過ぎ るのです。で、まぶしい近接照明を用いているが、眼には甚だ宜しくない。
* えもいへぬ疲れに負けそうになるが、負けていられない。まだ九時過ぎだが、横になってこよう。エリオットの戯曲「カクテルパーティ」を、サフォンの「天使のゲーム」を読みげたい。「源氏物語」では可哀想な近江の君がわらわれている。そろそろ夕霧に存在感が見え始める。
笠間書院に貰った中世の「石清水物語」 しっかりした長編で、「夜の寝覚め」ほどに読めると嬉しいが。もういちど、平安期の、源氏のほかの物語も読み返 したくなっている。こう昔語りが懐かしいばかりでは困るが、柳田国男の全集にもまた手を出そうとしてるし、満を持して書庫に蓄えた中世の「音頭説経」本を もぜひ読んでおきたい。書庫へはいるのは今は冷え切った寒いけれども、何といっても宝の蔵。いっそ、近代現代の小説、エッセイ本、評論、詩歌また美術の単 行本は、惜しいけれどもうそのまま「処分」し、書棚を開けたくもなっている。つい歴史や古典や史料ものへ手を出したくなる。が、どう処置するにももう体 力・膂力が用に届かない。老いらく、ムリはすまい。
2016 12/18 181
* そんな中で、湯に漬かりながらも仕事をしている。本も読んでいる。
サフォンの『天使のゲーム』世界中で二千万部も売れ、色んな文学賞をかっさらったという作だが、読み終えてさほどの文学作品とは受け取れていない。読み物の域は出ていない。
次いで新しい別の西欧小説を読みはじめている。まだ、海のものとも山のものとも分からない。馬琴の「椿説弓張月」は、まずまず面白く読み進んでいる。
やはり源氏物語が、まあ、何度も何度も読んできたのに、やはり新鮮に面白い。
断然惹き付けられているのは、T.S.エリオットの戯曲「カクテルパーティ」で、今夜遅くらも読み切れるだろうと思う。
2016 12/19 181
* 午後から夕食時への疲れ深く、夕食後、堪えきれず床に就いた、とはいえ、床に坐ったまま恆存先生飜訳全集の戯曲第八巻を読み終えた。源氏物語は好きな「野 分」巻に入って、嵐のさなかたまたま夕霧が義母紫上の姿を遠くから初めてみて魂を奪われる場面を心温かに堪能した。「弓張月」では為朝妻の白縫と讃岐院と の邂逅の場面を読んだ。
それから、崩れるように寝入って、十時、喉の渇きで目ざめた。
2016 12/21 181
* 笠間書院に貰った「石清水物語」 読みやすい。玉鬘の物語にも、夜の寝覚にも、いろいろに身を寄せながら構想されているようで、なによりも比較的すらすらと読めて有り難い。
* 読み疲れたまま潰れ寝ていた。夕食というほどの食も摂れぬまま、谷崎潤一郎に触れて論じたり書いたりの夥しい旧稿を読み継ぎ、校訂している。眼疲れし て眼を閉じると背いっぱいに疲労の重みが乗り被って来る。また眼を開いて、その「世界」へ立ち帰り立ち帰りする。立ち止まってはならぬ。
2016 12/23 181
* もう十一時を過ぎた。今日も身の奥にズーンと疲労を抱いたまま、思いの外に沢山な「眼」仕事を積み重ねてしまった。こうしてキーを叩いていると元気が あるが、やめると、のしかかるような疲労に潰れかける。しかし仕事が捗ると嬉しくもあり先へ先へラクにもなりそうな気がする。
そして、これからまた床について、本を読む。送られてきている原稿も読む。睡れなかったら夜中にも電気を付けて読む。
明日も明後日も、休める。明日は日曜か。クリスマス・イヴののこりものが街にまだ溢れているだろう。そんなのに興味はないが、フラッと歩きにでもいいかなと、想うだけはラクに想える。
2016 12/24 181
* 昨夜から新しい作を読みはじめた。シェイクスピアの歴史劇「タイタス・アンドロニカス」を恆存先生の訳で。「リチャード三世」は以前に読んでおり、ま た蜷川演出で舞台も観ていた。迫力があった。今度の「タイタス・アンドロニカス」はローマ帝政の時代劇、沙翁の戯曲はみな長編で読み通すには体力も要る、 が、歴史劇、おもしろいのである。
* いま一つ、これはもうずっと前から読んでいて、しかもこれほど難儀で理解を絶する、しかも不思議な牽引力に富んだ本は在るものでない、即ち、『無門 關』 南宋の無門慧開の編んだ公案集四十八則である。とにかくも心を新たにしてただ文字を読んでいるが、まったく歯が立たない。しかも惹きつけられて動け ない。かろうじて二十三則「不思善悪」など、今日の詞に直されたのを読んで、かすかにモノに触れたような感激が湧いてくる。しかし原文の難しいことはどの 則もまるで歯が立たない。
それでも、読んでいる。読まずにおれなくて読んでいる。
禅のものは、現代の詞で説かれてあるバグワン和尚のものは別として、『臨済録』にもっとも親しんできた。浄土経は三大経を覚えるほど読誦してきたし、菩提寺から戴いた経文集にも折り有れば目をふれている。
根本の『般若心経』講義は、高校の昔から心して愛読愛聴を重ねてきた。岩波文庫で『ブッダの言葉』にも近年目をふれることが出来た。
今は 禅に…という願いを抱いている。分かろうなどとは願っていない。思っている…のである、ただ。『無門關』 読み続けるだろう、分かろうなどとは間違っても願わずに。
2016 12/25 181
* 谷崎愛に凝り固まって、読んでいる、自分で書いて書いて書きためてきたものを。
* 寝床では沙翁劇と源氏物語を芯に読み耽る。もう年内、さしたる用事はない、雑煮の味噌ももう用意があるというし、なかなか手に入らない蛤のために歳末 の百貨店を右往左往は諦めた。正月が楽しみという気分は失せている。新年つまり来年には何が自分に出来るか、それがたのしみだ。
2016 12/26 181
* 寒さに、血圧や血糖値の計測計が働いてくれない。電池を取り出し掌で揉んで温めてやっと血糖値は計れたが、血圧は乾電池をゴシゴシ揉んでも今朝は働いてく れなかった。真冬には例年のことであるが。大古のコンピュータも温まらないと起動してくれない、少なくも十分ほど毎朝かけている。そんなものと諦めてユッ クリ付き合っている。待ち待ち読める小事典や箴言集や詞華集も手の先にいつも備えてある。
* 夜の寝入る前に読んでいる中の沙翁ローマ史劇「タイタス・アンドロニカス」の凄みの重み、美しい毒を噛むよう魅力である。残年ながらこれに比べると馬琴の「弓張月」は叙事がチャチい。
* 山瀬ひとみさんが論攷の大作『愛のかたち』を送ってこられた。原稿のちいさい字では眼にキツイが、メールで送ってもらったので、ワープロソフトに移し て字もドンと大きく変えて、ともあれ読みやすく用意が出来た。メール便の容量が前世紀とくらべて幾桁も違って増えて大助かりしている。わたしの大判で五百 頁もの選集一冊分でもメールで入稿できるのだから。
山瀬論文、少しずつ読んで行く。
2016 12/27 181
* めんめんと大谷崎の人と文学についた書いた旧稿を、このところ休みなく読み返している。ああこういうことが書きたくて作家になりたかったんだと、少し笑え てしまうが本音であった。学者や研究者や批評家の「仕事」で書いた原稿とはちがう。それらとは劣るのか。ちがう、その人らには所詮書けないところを観て 思って書いている。
2016 12/28 181
* 沙翁劇「タイタス・アンドロニカス」を読み終えた。「凄い」とはかかる創作世界に謂うに値する評語であろう、怖くさえ有った。つづいて「リチャード三世」を読もうと思う、これは蜷川演出の舞台を観ている。むかし、映画でも観ている。戯曲でみっちり読んでみたい。
源氏物語では「行幸」の巻、とうどう玉鬘が実の父内大臣(かつての頭中将)と名乗り逢う用意が出来て行く。
2016 12/28 181
* 閉じていた「部屋」の奥へ、最期の襖が明いた。
* たまたまテレビで、蜷川演出の「ハムレット」の舞台を、ひとしきり、非業に殺されていた亡き父王の幽霊から王子ハムレットが復讐をせまられる場面だけ観ていた。平幹治朗の語りに引き込まれて。
沙翁劇の科白を聴き、また読んでいると、この世で「演劇」といわれる世界は、天にも届く沙翁劇をはるかな頂上に、余の群れははるかな麓で右往左往してい るかに見える。言うまでもなく日本には能があり、近松門左衛門もいたし、現代には福田恆存や三島由紀夫がいた。そさそされはされと認知して深く頷くけれども、か りにもわたしなどが、戯曲を書いたことがあります、上演されたこともあります、などとは、恥ずかしくてバカらしくて言つてはならないことに思われる。猛毒 をはらんだ神かのように沙翁は文字取りに「もの凄い」世界を突きつけてくる。遁れ得ず、引き込まれる。
それにしても酷い。読んだばかりの『タイタス・アンドロニカス」の通称とも副題とも謂えるまさしき「凌辱」(殺しと犯し)との烈しさに読みながらわたしは肌を冷たく硬くした。
いま読んでいる「リチャード三世」では、開幕していきなり殺しと犯しとが宣言され、殺された王子の美しい妻アンを、殺したグロスター(リチャード三世)が、葬列のさなか、旺盛で剣呑極まる雄弁一つで、さながらに犯して自身の妻にしてしまう。
いまテレビで垣間見た場面によっても、王子ハムレットの父王は、父の弟である現王に殺され、王妃は現王の妻となっている。
沙翁劇ではむしろこのような愛憎・害被害の輻輳はナミの事であり、だが何故にそうなのかと「人間」の暗く深い淵の底を覗き見るという勇気を人は持ちにくい。持ちたがらないまま沙翁をはるかな高みに鬼である神かのように振り仰いで柏手だけを貢いでいる。
* 読み物の例は無視するとして、漱石文学ほど愛読者の多いはあるまいとおもいがちだが、そうでもない。わが谷崎潤一郎も「先生」ながらも漱石に冷ややか であった。はやくにわたしを認めて親愛をよせてくれた文藝春秋の前専務寺田さんも漱石には冷ややかだ。『心』は岩波一の読者を得た作だが、馴染まないで終 えてきたという読者にも、まま出逢う。
2016 12/30 181
* 名酒の櫻室町で年越しの鴨蕎麦鍋を戴いた。酔いつかれて横になり、源氏物語「行幸」の巻を読み終えた。源氏物語と沙翁劇とでは他は太刀打ちが成らない。で、わたし自身の「日本を読む」を読み耽っていた。
これから湯に入る。なにか。のんびりと読みたいが。いい詞華集をとも。山本健吉さんの選ばれたのを、懐かしく思い出しながら読もうか。
2016 12/31 181