読書録 1
* 仕事柄というより生来の読書癖で、何冊もの本を並行して読んでいます。いま大切に読んでいる一番の本は、川口久雄の『源氏物語への道』(吉川弘文館)です。平安朝物語の、また古今集などの、はるかな背後を分厚く下支えて影響や感化の豊かな、中国の文学・文献のおもしろさに驚きます。碩学の研究成果とは、こうも平易に手堅く語られうるものかと敬服の一語です。
「女文化」という言葉で日本文化の素質に触れたのは、わたしが最初だと思っていますが、「女文化論」をほんとうに充実展開させるうえで、川口氏の研究成果は大きな支えになるでしょう。
こういう手堅い、示唆の豊かな、大きな研究になかなか出会えなくなっています。狭く細かく限定的な発言はあっても、広大な新たな視野を開いてくれて、しかも堅実な証拠が揃えられ、その故に推理推論にも構築の安定が享受できる研究や学識。わたしの敬慕するのはそういう仕事です。
研究内容の魅力と価値そのもので名声を得ている研究者からの学恩にあずかりたいと切望しています。むろん私の場合、文学や歴史の、芸術の研究ですが、哲学者に抜群の人がいないのも現代日本を薄くしている悲しい理由です。
日本で、今まさに時めいているのは、要するにマスコミに顔を売った評論家やコメンテーターです。詩人と哲学者のほんものに恵まれないことで、まことに特徴的な現代を抱え込んでいます。
1998 4・1 2
* 小田実氏の『アポジを踏む』の表題作に感心しました。最近読んだ最高のエッセイでした。人間把握のエッセンスが磨きぬいたかたちで提出されていて、小説だの私小説だのと呼びたくありません。
上野千鶴子さんの『発情装置』も、明晰な論理が簡潔に端的に文藝をなしていて、ご本人は品格を気にされながら贈って下さいましたが、どうして、優れて知的な風格がにじみ出ています。わたしはこういう知性を好みます。わたしの「女文化」という読みとりに、真の批評と発展を与えてもらえそうな希望をもちます。
1998 4・9 2
* その手の本から五冊特に選びだし、再読三読を楽しんだ。「鷲は舞い降りる」「北壁の死闘」「針の眼」「ブラック・サンデー」「女王陛下のユリシーズ号」だ。
数日前に全部読んだ。
圧倒的なのはユリシーズ号。崇高。それに尽きていて、文学としてもみごとな凝集力を発揮、硬玉の輝きがある。他はあまりに小説になっていて、中では北壁が優れていた。鷲は、失敗のなかに生きた人間の温かみをもち、優秀作だが、つらい。針の眼は、チャタレー夫人とロレンスを意識したエロス絡みで、惹きつける。サンデーは緻密だが重苦しい。
* ついでに出して置いたのが、まったく性格の違う、マキリップの『イルスの竪琴』三部作の一、「星を帯びし者」脇明子の訳。アーシュラ・ル・グゥインが好きだが、その『ゲド戦記』に匹敵するマキリップのこの三部作は、喧噪の街に出て満員の電車のなかで読んでいても、遙かな別世界へ運んでくれる。彼女の世界は深く静かで畏しくも魅力的な魔法に支配され、一分一厘のひずみなく緻密に世界が構築されていて、きわめて複雑な構想が不思議なほど安定している。
* 生形貴重氏の茶の湯の本、バグワンの『存在の詩』、上野さんの『発情装置』、佐高氏、猪瀬氏という論敵同士の本、源氏物語の深層意識を神話的な基盤から論じたもの、栄華物語、平家物語などを併読している。それと法然の念仏本願選択集。「浄土」という雑誌に『わが無明』を連載している。
1998 4/16 2
* 「イルスの竪琴」三冊目を一気に、払暁、読みあげた。此の本に、現実に一人の女性作者の「ある」ことが、なんだか残念な気がする。女性男性の問題でなく、「作者」という存在が付着していなければ、わたしは、此の本を「信仰」すらしたであろうと思う。
亡き下村寅太郎先生が、日本には「魔」「魔法」という思想が根づいていないと言われていた。呪術や忍術はあったろうけれど。
ゲドやモルゴンをわれわれの伝統は所有していない。
1998 4・29 2
* 梶原正昭氏から『平家残照』を頂戴し丁寧に読み始めた。エッセイではない。壇ノ浦で平家が壊滅したあとを、時間を追うように克明に文献により跡づけて行く。当時にむろん新聞はないが、さながら新聞があったかのように日々に移りゆく情報を通して、まさに「死なせ・死なれ」た時代の表情を確認して行く博捜の労作として一冊が始まり行く。
後半はまた趣が変わるようだが、楽しみだ。氏は、重い病から立ち返られ、畢生の思いを平家物語にかけて研究生活の集成に努められているようである。前著、鹿谷事件に的を絞った周到な鑑賞書もいいものだった。頂戴した本に申し訳ないが、書き入れや傍線で赤くなったり黒くなったりする。読む方も、一心。ご健勝を切に祈る。
* 川口久雄氏の、平安物語の、ことに源氏物語の遠い背後に、大陸の文藝思潮や、敦煌をはじめとする莫大な「伝承」とその「絵解き」の盛行を、遠大かつ精緻に読み込まれた述作も、とうとう読み終えた。息をのむおもしろさで、十分説得された。
1998 5・2 2
* トルストイ「戦争と平和」を、何度目か、読み直した。人物の活け殺しの達者なこと、恋愛と家庭の機微を、じつにウブな感動で捉えていて感動させる。そしてナポレオンとのあのロシアの対決を歴史的な戦争論としても、明快に熱心に追究している。「グレートリテラチュア」の最右翼にあることを、また追認した。日本に、『山の民』のような作品があるが、緻密に似て文学的にどこかギクシャクと粗雑だった。戦争と平和を書きながら恋愛や夫婦や家庭をもほぼ完璧に書いた成功した小説は、偉大な大作は、日本にはない。
これから平家物語について二百枚を越す原稿を書くのが、この夏の難行苦行になるが、いっそのこと「参考源平盛衰記」数十巻を読んで行こうと思っている。書くより読む方へ力が入りそうだ。
1998 6・28 2
* 今西祐一郎氏に頂いた「源氏物語覚え書き」がじつに面白い。三好徹氏の「チェ・ゲバラ伝」も新鮮な驚きで読んだ。疎い世界で過ごしてきたのが恥じられる、重いものだった。小中陽太郎氏が小栗風葉にかかわる大冊を送ってこられた。これも読みたい。辻邦生氏の西洋文学に関するエッセイ集も頂戴した。毎日のように本を戴き、けっこう読んでいる。学問的に積み上げた本が好きだが、また「鵜の目・鷹の目・佐高の目」のような佐高信氏に頂戴する本も、猪瀬直樹氏のこのまえの川端康成と大宅壮一とを絡みに書いた読み物なども、面白く、どんどんの読んでしまう。
今西さんの源氏論もすばらしいが、どかんと買い溜めておいた四十八巻の「参考源平盛衰記」を手当たり次第に読みふける面白さも、たいへんなものだ。覚一本や長門本でしか読まない語り本とはまたちがう、ハメのはずれた読み本の元気さ。
1998 8・2 2
* 三木紀人氏にいただいた『今物語』が、たまらなく佳い。鎌倉時代の説話集とも、むしろ随筆集ともいえるものだが、徒然草のように考え込ませるものではない、おっとりとした貴族的な逸話集であるが、この間まで書いていた『能の平家物語』で参照していた多くの平家記事とも時代が重なり、いわば私が取材の「源泉」時代のお話が多いのである。旧知の馴染みをしみじみと実感できる時代であり人であり男女の情である。
著者は藤原信実、隆信の子。血でいえば定家の甥である。私の大好きな『中殿御会図』や、たぶん『随身庭騎絵』の画家であり、隆信の方は建礼門院右京大夫とも恋仲であったし、あのすばらしい『源頼朝像』など、肖像や似せ絵の大家であった。
これでは私が里へ帰ったような気分で読みすすめるのも当たり前だろう、お馴染みさんであり、現世の人よりも心親しいぐらいである。筆致が下卑ていなくて、文体に変化を楽しんでいたりする様子なのも、定家卿を大事に感じている著者にふさわしい「遊び」である。新聞やテレビでろくでもないニュースを押しつけられてばかりいると、こんな「昔物語」が生かしている「今」を、ゆかしく思わずにいられない。この「今」の題字一字は意味深い。
1998 10・30 2
* 歯医者に行くと、帰りに江古田で古本屋に寄る。路上へ向いた吹きさらしの三冊二百円という文庫古本棚で三冊えらぶ。この間は手塚富雄の「ドイツ文学史」と、「永遠の処女」という外国の小説と「あなただけは許さない」というミステリーを買った。
わたしは、本は五六冊は並行して読んで楽しめる。バグワンの「老子」はすばらしい。石黒清介という八十過ぎた歌人の歌集「桃の木」も楽しんでいる。
1998 11・25 2
いま、マーガレット・ケネディーの「永遠の処女」を読んでいる。オースティンの「高慢と偏見」まではとても行かないが、通俗になりがちな材料をなんとか文学として、こつこつと面白く進めている。後半、佳境に入ったが、終末はちょっと仕損じたなという物足りなさ。私の生まれるより十年ほど以前の作品である、その程良いのんびりした感じがよかった。
1998 12・3 2
* 江藤淳氏から『南州随想その他』を贈っていただいた。前にも西郷さんに関わる本を贈られている。西郷理解については深切なものだと思う。
その一方、桶谷秀昭氏との対談その他に読みとれる江藤氏の日本の理解、天皇観、歴史観などには、与し得ない過剰にパセティックなものも感じた。
さきに美智子皇后が幼少来の読書等について国際会議のために講演されていたが、あの美しい言葉に湛えられていた落ち着いた聡明さ、平静さに比べても、江藤氏が認識を示す調子には、過剰な苛立ちと、パフォーマンスともいえる言語の躍りが感じられる。
わたしもまた日本人と日本の歴史・文化文物そして自然を愛しているが、いたずらに皇室にひれ伏す必要も感じないし、薩長この方の保守政治にもいたく不満・憤懣を覚えている。現在の自民党政権にもつよい倦厭の思いを抱いている。しかもなお、戦後数十年の歩みがいたずらに反動的に昔へ戻って欲しくないとも願っている。
今日只今にも感心しないが、もっともっとひどい過去があり、江藤氏の顧みて良しとされているらしき過去を、必ずしも私は懐かしいとは思っていない。過去を反省の具とするのは大切なれども、その大切さが生かされねばならぬのは、前を向いての今日から明日の日々においてである。
来る新世紀にふさわしく、今日から明日へ平静な足取りで、無用の肩肘をはらず前へ歩んでいきたい。「伝統」の最先頭を、後ろ向きにでなく、歴史に学びながら健康に前へ向いて歩いて行きたい。今の天皇皇后の姿勢にも正しくそれを感じている。
明治天皇や昭和天皇の極めて政治的でありすぎた意義を、過度に大事がろうとは思わない、言いしれぬ危険こそ感じても。今の天皇や皇后の文字通り「平成」に開かれた、さらりと明るい世界感覚の方が、奇態な「臣下」感覚よりも、象徴的に信頼できる。
1998 12・12 2
* 梅原猛氏の新著『芸術と生命』は元気な本であった。怨霊を語り、縄文人を語り、日本の神々を語る人だから、かえって、視線が後ろ向きということにはならない。梅原さんの目は健康に前向きで、どことなく無邪気に元気にエッセイを語っている。人を元気づけるのを楽しんでさえいる。それは、いいことだ。
1998 12・15 2
* 林進武という、亡くなった、元東北大歯学部長を務めたお医者さんの遺著『橄欖の枝』という長大な小説を読んでいる。昭和十六年一月から二十年の末までを書き、日本の新劇界が受けた荒い波を書いている。舞台に志のあった著者らしく、本は奥さんの手で著者の没後にまとめられている。死なれての「悲哀の仕事」であり、だから私のところへ送られてきたのだと思う。篤実な筆で一心に小説らしく作ってあり、私よりは数年もの年長者ながら、時期が時期で、関心をもたざるを得ずに読み始め、読まされている。在って良い丈高い作品であり、奥さんはいいことをなさったと思う。
* 今日三谷邦明・三田村雅子共著の『源氏物語絵巻の謎を解く』本が送られてきた。二人とも国文学者として知られた人である。源有仁に着目しながら白河院の宮廷の爛熟を絵解きしてゆくというのだから、今からちょうど四半世紀前に「海」に発表した私の『絵巻』という小説の行き着いたところと似ている。むろん私のは小説であり百枚ほどの小品だが、有仁に着目しながら源氏物語絵巻論ふうの小説としては、珍しかった。三谷氏らの本に挙げてある多くの参考文献もほとんどがずっと後年の研究。ちょっと、にやりとせざるをえない。
* 梅原猛さんの本では、後半の「神々」もの「江戸画家」ものなどは、思いつきのようなことが多く、急に色薄れてくる。
1998 12・24 2
* 今年の収穫の一つとされる坂上弘の『啓太の選択』は、私は、終始なまぬるくて退屈した。作者の仁のよろしさだけを感じた。紳士の私小説。
1998 12・29 2
* 森本哲郎氏の本を、いつものように頂戴した。古今東西の人の「ことば」に触れて氏の感懐が平明に語られる。大教養人の氏にいっとうふさわしい書物であり、どこからどう読んでも佳い。巻頭に「ヨブ記」が語られているのを、妻に読んで聴かせた。昔は子供たちともこうしてよく本を読んだ。「神に抗議する毅さ」が説かれていた。共感した。
子規の「写生」を書いた章で、子規のそれを素直に自然にととらえてあるのは、その通りだが、一方で子規は実にしきりに趣向ということを晩年にいたってますます語っている人であった。そのことへの言及が森本氏にない。それでは写生の捉え方がやや薄くなる。そういうことにもまた気づかせてもらえるきっかけになるのが有り難い。
1998 12・30 2
* 『橄欖の枝』という林進武作の小説のことは前にも触れた。なかに戦時下の、学徒動員で戦地へ学生を送り出さねばならなかった時代の一高の学寮自治のありさまが、軍や文部省や軍閥政府の圧力とともにかなり体験的に痛ましく書き込まれている。安部能成校長以下学生たちの必死の抵抗、自治の伝統、学問への情熱を守り抜こうとするまさに命がけの抵抗が書き込まれてある。
東工大は私にはいい大学で、いい学生であったが、学生が大学自治への情熱も組織もほとんど放棄しているような有様にだけは、終始承伏しかねた。企業に労組が機能せず、大学生が大学の自治を忘れていたのでは、これはバブルもその崩壊も必至の結果であった。 1999 1・5 3
* 碩学小西甚二先生が『日本文藝の詩学』を出され、買って読み始めた。有り難い。石川近代文学館館長で心友の井口哲郎氏が、監修し解題された『中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎集』を贈ってくれた。これがまた嬉しい、楽しい。ほくほくしていたら古代学会理事長の角田文衛先生から『平安の春』が贈られてきた。かつて愛読した本の文庫判、しびれるように面白い本だ。狭い家が自分の本や戴いた莫大な数の本や買った本で傾いているが、「読む」意欲は少しも失せていない。数冊ずつは併読しつづけてきたが、まだまだ。有り難いことである。
1999 1・12 3
* 小西氏の『日本文芸の詩学』は案の定の面白さで、小太刀の冴えをみるような、きびきびとした論調で、教えられる。比較文学者であり、論じかたが広く深く、くどくない。すぱっと切り口が美しい。
1999 1・16 3
* 高田衛教授にいただいた『女と蛇』の一書、久しい待望を満たしてもらっている。生身の蛇はかなわない。高田さんも苦手のようだ。鴎外の『雁』の映画化で学生がお玉の前で蛇を殺す場面があった。必ずしもあれは生身の蛇だけではない、お玉の境遇に絡めたシンボライズされた蛇だと思うが、とにかくも神話世界からはじめて、蛇ほど多層の意義を強いられた生き物はいないのだからと、実に三十年言い続け、書き続けてきた。アジア太平洋国際ペン会議に、ちと場違いのように思われかねない「蛇」の問題で演説の請求をしたのも、ああいう場へは初めての体験だったが、言わずにおれない問題意識があった。「日本の美学」に『蛇ー水の幻影』を書いたのも、鏡花文学を語るのに蛇の問題を落としたままで良いのかと言い続けてきたのも、文化史社会史思想史のこれほど大きな未解決課題はあるまいにという、じれったい思いがあったからだ。自分でやればいいのだが、自分は小説で足りていると思っていた。なにしろ「蛇」という文字だけでもわたしは苦手なのだから。
高田さんが、私の『冬祭り』を、こんなにも優しく蛇を書いた作品はないと紹介して下さっているのはなによりの感謝だ。新聞に連載中、水上勉さんに「すごいことを始めたね」と驚きながら励ましてもらったのも、この、蛇の出てくる超時代的な現代の恋愛小説であった。蛇だけを書いたことはない、いつも日本の歴史、人の歴史を見入れてきた。そこには過酷なものがあった。怖いはずの蛇に私が終始優しく文学的に触れようと努めた背景には、やはり「京都」という都市の凄みが下に横たわっているのだろう。高田さんの労作に感謝している。
1999 1・17 3
* 今暁、林進武作『橄欖の枝』を読み上げた。昭和十五年から二十年まで。太平洋戦争さなかの日本の家庭と青春と社会とを、あたう限りに大きく深く彫りおこしながら、誠実に大作に仕上げてさしたる破綻なく、感動豊かに終局までを「読ませ」た。作者としては無名のもはや故人のいわば唯一の遺作を、奥さんが、朝日新聞社からたぶん自費出版したものと思われる。いわゆる「悲哀の仕事 モゥンニングワーク」の一例であるが、大きな収穫であると思う。文学的に整った表現の美しさがあるとか、目を見張る趣向があるとかいう類のものではない。題材で押しに押していってけれんのない物語であるが、誠実で品格を損なわない大人の文学である。うまいのへたのということを抜きにして、読後の感銘や感動からすれば、百人の九十数人が、いわゆる最近の芥川賞作品からよりも感動した、面白かったと言うだろう、それほど「読ませ」る。沢山の同種の本が届くが、たいていは時間つぶしにもならないのに、この『細雪』ほどもある長編、無名の人の長編を私は投げ出せなかった。
一つには扱われた「時代」を自分も生きてきた、懐かしさや感慨がある。書かれている大人や青年や若い女性に共感の出来る素地を私は持っている。その意味では先の評価は大きく割り引かれるだろう、古くさい書き方だと嗤うのは簡単である。だがそれだけだったら私でも投げ出していたはずだが、頁を追うにつれ離せなくなっていた。ついに徹夜で読み上げた。会心の大作と言っておく。作者は東北大学名誉教授、歯科病院長を務めて勲章までもらい、三年前に亡くなっている。私よりも十歳ほど年上の人だが、いつ頃の作品か筆は平易で若々しく素直である。へんな文飾はほとんどない。
こういうのに出会うから無名の人からの本も、私は、見ないで投げ出すことが出来ない。今度はラフに言えば大儲けをした気分。あの時代の生き苦しさ、日々に命がけに生きるしかなかった国民や学生や夫婦や恋人の、飾り気のない真摯な実状がよく証言されていて貴重なものだ。「題」は、もうすこし工夫してもよかった、いい題ではあるが。
* 作者の意図を読めと、原稿の端々までいろいろ引きずり出してきて、論じてとくとくとしている学者が多い、日本では。文学は、作者の意図など超えて作品の表現に則し本文に則しその本質的な言葉を読み込まねばならないのに。作者の意図はそうではなかったなどと言い訳できると考えたことは、私はない。人の作品も、作者の意図を説明された通りに読まねばならぬとは考えない。小西甚一氏の本に同じ事が書かれて、いまどきの国文学者たちを諷しておられるのを知り、おもわず手を拍った。作者は作者、しかし読者も読者。作品は作者の意図をはなれてそこに在る。在るものを、より深く正しく味わい、良い意味で批評的に読まれるのが作品の幸福であり、運命。今、私のそばには何冊も良い本が並んでいる。
1999 1・18 3
* バグワンの『道 老子』小堀甚一氏の『日本文芸の詩学』角田文衛氏の『平安の春』高田衛氏の『女と蛇』川本三郎氏の『今日はお墓参り』そしてゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』今橋映子さんの『パリ・貧困と街路の詩学』さらには『栄華物語』が今座右にあって、併行して読まれている。寄贈されてくる雑誌や結社誌もたくさん目を通す。暖かくなったらまた旅がしたい、短くていいから。
1999 1・25 3
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を息子の書架から借りてきて読み始めたが、面白い。猥雑で被虐味に富んだ語り口ながらジメついていないし、こういう材料への偏見どころか、むしろ親しみすらわたしはもっている。祇園の乙部と背中合わせの通りに育ってきたし、甲に対して乙の存在のあることにも少年時代から自覚があった。乙の方へとかく目を向けてゆく自意識もあった。そなことがなくても私は、つかの、舞台台本を読み物化したといわれるこの作品内容に、共感できる。女も男も状況の中で粒立って活躍しているからだし、ワケが分かるからだ。
秦建日子がつかこうへいに師事して、会社勤めも辞めて演劇の世界に飛び込んで行ったのは、親の私たちからは真に一大事であったけれど、反対はしなかった、支持し支援してきたつもりだ。だが、ことさらつか氏へ、わたしからは触れては行かなかった。会ったことも挨拶を交わしたこともない。そんなことはお互いに同業ではしにくいし、されても気持ちがわるかろう。しかし、感謝している。
また一度書かれたものも読みたいと思っていた。正直の所読んでみて気が乗らなかったら申し訳ないと思いためらってはいた。芝居は一度だけ観た。忠臣蔵もどきのものだった、扱われた材料への接近の仕方に、自分のものの感じ方見方とひどく近いものを感じ、ああそうかとうなずいたりしたが、本は読まなかった。初めて読んでみて、よかったと思う。何となく、とても気がらくになった。
1999 2・11 3
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を読み終えた。明美さんと重さんの物語にあやうく嗚咽しそうであった。瑕瑾が無いわけではない、重さんのお嬢さんが留学したり成功したりする話は嬉しいけれど、ちょっと照れくさくもある。重さんと明美さんのことは忘れられないだろう。こんなオリジナリティの鮮明で強烈な小説、むろん過去に無かったわけではないが、確実にまた感銘作を付け加え得て、嬉しい。これを読んで、読み終えて、私は初めてつか氏に、息子のために感謝した。ありがとうございました。
かつて野坂明如の『えろごと師たち』などを読んだときにもやや近い感じはもったが、どこかでいささかのハッタリをかまされているような、少し身を引くものがあった。むしろ瀧井孝作先生の『無限抱擁』を読んでの澄んだ感動にちかい実質を、つかこうへいは持っていると感じた。瀧井先生とはちがうが、つか氏ははっきりとした「憎しみ」をみごとに抱いている。そのことに私は感動した。秦建日子に学んで欲しいのは人気ではない、虚名でもない。身内の熱塊だ。燃えるモチーフだ。
* 小西甚一さんの『日本文藝の詩学』も読了し、もう一度引いた朱線や書き入れにしたがい、復習している。すばらしい読書だった。
* 日々の音読でバグワン和尚の『老子』にも傾倒している。オーム真理教の残党が暗躍を続けていると報道されている。実にはっきりしている、バグワンはオームとは全く根底から異なったことを説いている。いかに闘わず争わず生きるかをそれはみごと魅力豊かに説いている。こんなに健康に生き生きと無為自然の老子を語った、禅を語った、イエスを語った、仏陀を語った聖者が、覚者が、かつていただろうか。和尚は宗教家ですらない。死生一如を静かに生きた人だ。危険なことは説かない。深い。明るい。静かだが元気だ。 1999 2・14 3
* 今日一日、角田氏の『平安の春』を読んで楽しんだ。私の最も好きな読書は、碩学の書かれた考察や論文や随筆。知識と同時に、なんというか「眼」を与えられる。久保田淳氏が『六百番歌合』岩波古典体系を下さった。ぼろぼろの昔の岩波文庫古本で読んできたものが、周到な注と一緒に読めるとは嬉しい。
井上靖短編集の解説を書き終えたので、次の志賀直哉に目を向ける。久々に『暗夜行路』を読んで楽しみたい。
1999 2・23 3
* 久保田淳さんから『六百番歌合』を戴き、次の日には今西祐一郎氏から『源氏物語総索引』を戴いた。ともに岩波の大系本である。前者は昔の背高本の岩波文庫のボロボロの古本を三十年ちかい前に古本屋で買って、さらにボロボロにしていた。すばらしい贈り物で、こういう本の手にはいるのが実に嬉しい。高価なのである。索引は、年譜とともに、研究を仕上げる最高の難関で、それだけに周到な索引は無限の魅力で発想を誘い出す。たちどころに、あれも調べてこうしたい、これも調べてこうしたいとアイテアが湧出する。会議や会合でなく、私は、それをこそした方がいいのだと、つくづく思う。だが投げ出せないではないか。
1999 2・25 3
* せっかくだから、福田恆存訳『リチャード三世』を読んだ。名訳。二度目か三度目だが、新鮮に面白かったので、引き続いて『リチャード二世』と『ヘンリー四世』も読んでしまおうと思う。木下順二さんに戴いた『薔薇戦争』へつないで、イギリスの殺伐とした歴史を見物してみる。つい最近テレビで『ブレーブハート』も観た。すさまじい国だ。
* つかこうへいの『熱海殺人事件』は舞台は爆発的に面白いそうだが、戯曲の体で、また小説の体で読んでも、これは頂けなかった。つまり乗れなかった。家内も、『ストリッパー物語』『銀ちゃんが、ゆく』二作ともに、感動したようだ。
* 志賀直哉『暗夜行路』も読み出したが、これは引き込む。さすがに引き込む。それにしても「私は」「私に」「私の」と「私」の乱発に驚く。小説では極力一人称を書かない私は、今更に、驚いてしまう。知らないまに感化されていて、自分で考えたことと思いこんでいた類似の考え方がちゃんと『暗夜行路』に出ていたりして、それにも驚きながら懐かしい。
1999 2・26 3
* 前夜は暁ちかくまでシェイクスピアに読みふけっていた。リチャード二世、ヘンリー四世、そしてリチャード三世、それに編成された薔薇戦争。面白くてやめられない。むかしモロワであったか誰であったか「イギリス史」を読み、血が騒ぐほどの凄さに驚いて以来、シェイクスピアのその手の戯曲は時折読み返したくなる。映画でも西欧の歴史物は努めて観る。反戦映画も自分にむち打つ気持ちで努めて観るが、歴史物は楽しんで観る。
1999 3・2 3
* つかこうへいの『広島に原爆を落とす日』を読んでみた。奇想の作であり、非凡なものがある。渾然とした作品とは言えない、熟した感じでは『銀ちゃんが、ゆく』などの方が優れていたが、奇想を織りなしつつ主想をきちっと持ち出して読者にねじこむ腕力は、すごい。
* 志賀直哉を読んでいたら、尾道のほうで子どもの遊びに、「出てくる敵は、みなみな殺せぇ」と唄っていて、おもわず唸った。たしかにこういう風に唄っていたものだ、これは起床ラッパの節で唄ったように思い出せる。日の丸や君が代は、何としてもかつてはこういう歌とともに国民生活に君臨していた。忘れていいことではないだろう。
* 昨日の晩、「学鐙」編集長の北川和男氏退任の宴会があり、出席した。北川氏が「独断と偏見」とで選んだ少数の筆者たちの集まりで、発起人は紅野敏郎、岡部昭彦、近藤信行の三氏。加島祥造、工藤幸雄、片桐一男氏らと顔があった。文章では親しみ馴染んだ筆者が何人も見えていて、全員がもれなく「言葉」を贈った。
すばらしい編集者だった。私は『一文字日本史』を三年連載させて貰ったし、谷崎のことも中国のことも東工大のことも、その他いろいろ書かせてもらった。北川さんの依頼だと、きりりと気がひきしまった。お礼を申し上げた。「清泉泓泓 ますます豊かに」北川氏の清福を祈りたい。
1999 3・5 3
* グレン・グールドの大きな書簡集を手に入れた。嬉しい。とても心豊かな、瀟洒なといいたいようなエスプリに富んだ書簡を満載している。私には音楽論は、技術はむろんのこと、歯が立たない。しかし書簡にはグールドの「人」が読める。あの演奏の中で聴かせるハミングの主体が、生き生きと親しい人たちに話しかけている。すばらしい。これで彼のピアノがますます楽しめる。今はずっとバッハのトッカータを繰り返し繰り返し聴いている。聴いてなくても、大きめに身のそばで鳴らしていることも多い。家中をグールドとバッハに占めさせる。就寝時も灯を消した暗闇に静かに鳴らしている。音楽がじつにピュアーに世界を満たしてくれる。
1999 3・6 3
* 小西甚一さんの『日本文藝の詩学』きっちり二度熟読した。
1999 3・7 3
* グレン・グールドの書簡集と『暗夜行路』とが就寝まえのとてもいいバランス剤になっている。グールドの音楽が何倍も身近に寄ってきた。書簡集は一流の人のものは決して裏切らない。よくセレクトもされているが翻訳も佳い。大冊だけれどずんずんと読めてしまい、もったいなくなる。こんなに愛すべき人とは思っていなかった。音楽や芸術への考えかたも本質的でじつに豊かだ。ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』も面白くはあるが、深い説得力と普遍的な魅力ということになると、かなり舌足らずに早口にものを言っている。時任謙作のわがままはすさまじいが、それを律して普遍の魅力を与えている志賀直哉の卓越した文体には舌を巻く。ストーリーでいえば退屈な感想と描写の連続で、劇的な主題が平板に語られているどうしようもないものなのに、まぎれもない硬質な文学芸術のはるかな高みに作品を押し上げて安定し、幾らでも読み進めてやめられないのが直哉のえらさである。直哉の人間の偉さでなく、人間に結びついた文体の偉さである。
* それにもまして、バグワンの言葉が、毎日毎夜わたしを刺し貫く。バグワンに叱られてばかりいる。
1999 3・10 3
* 加藤克己氏と岡井隆氏とから同時に歌集が贈られてきた。歌集はたくさん来るが、これほど同時に、自在かつ異質かつ上等なのが届くということは、そう有るものではない。お二方とも私よりは、かなりに年輩の芸術家で先鋭また前衛の歌人である。歌人もいろいろで世渡り上手な御山の大将さんも大勢あるが、それは俳句でも同じだが、加藤岡井氏はほんものである証拠を作品に語らせている。
* また原田奈翁雄氏の創刊雑誌「ひとりから」と篠田博之氏の雑誌「創」が同時に届いた。こういう良心的に編集された雑誌ばかりだとほんとに佳いのだが。君が代・日の丸問題でも、十年前に佐野洋委員長の言論表現委員会で亡くなった夏堀正元氏らと議論していた頃は正確に過去の体験や記憶が生きていて、意見の相違は幾らかあろうとも真剣そのものであった。今、猪瀬直樹委員長のもとでは、どうも軽い。テレビコマーシャルに電話のベルをリアルに使用するのは「反則」「ルール違反」だから、ペンクラブとして抗議したいという猪瀬氏自身の熱心な提議の前に、「君が代・日の丸法制化」問題など霞んでしまう始末。風化を嘆きたくなる。これは単にイデオロギーの問題ではない筈だ。原田奈翁雄氏の、叫びに似た論調は、厳しいけれど、身にしみて痛みを伴う時代への批評である。猪瀬氏はまぎれもない「現在人」だが、真に「現代人」の名は、はるかに年かさな原田氏に譲らざるを得ない。幸いにこの問題は、理事会ではまともに議論された。それでも今もって、政府が法制化を正式に持ち出してから抗議しても遅くないなどと、反応の鈍い声もでるのは困ったことだ。三好徹氏の言うように法案が国会に提案されてしまえば、政権与党は無理にも通すと言うことである。声明のタイミングは「今」だと思う。
* バグワンの『道 老子』直哉の『暗夜行路』に、吸い込まれるように惹かれている。 1999 3・17 3
* 大原雄の「ゆるりと江戸へ」の歌舞伎解説は読み出すとやめられない。作りは、読める辞典のようでもあり、親切な「索引」が付いていればずいぶん売れるだろう。
1999 3・18 3
* 小学館版の古典全集第二期の最初、『今昔物語一』が届いた。原善君の川端康成研究の本も届いた。甥の黒川創の若冲小説二篇も立派な単行本『若冲の眼』になり届いた。加島祥造氏訳、ウェイリーの『袁枚』も戴いた。おかげで本を買うことはめったにない。例外に『グールド書簡集』を買った、これも良かった。シャルトルの大聖堂に没入した、小説ともバロック論ともカソリック中世論ともマリア論ともいえそうな、ユイスマンスの深遠な『大伽藍』も、毎日少しずつ読んでいる。昨日からは届いたばかりの「黎明」第四号で、尊敬する神学者野呂芳男氏の対談を読み始めた。私は併読はすこしも苦にしない。個性的ないろんな色彩や音調がそれぞれに際だってくるので、胸の奥の闇に、万華鏡を覗くような絵が浮かび続ける。そんな中で『暗夜行路』をもうやがて読み上げるが、じつにいい読書だった。この作品を、大学の入試面接で愛読書として挙げたのは不思議な気もするが、志賀直哉の短編はともかくとして、この長い小説はみごとだとの印象は、ずうっと持ちつづけてきた。久しぶりに読み直し、感嘆を深めた。嬉しいことだ。
1999 3・20 3
* ユイスマンスの『大伽藍』は、ちょうど百年前の、まことに特殊な雰囲気をもった小説で、小説の体裁をほのかに備えた、シャルトルの大聖堂論であり聖母マリア賛歌であり強烈なバロック建築論である。そういう一切を通してのカソリック論でもある。私はこの聖堂を知らないが、親しい友人が、ちょうど今ごろその聖堂を訪れている頃かもしれない。絵を描いているかも知れないし、瞑想しているかも知れないし、私のことを思いだしているかも知れない。この小説も、旅の好きなこの友人が呉れた。毎日この小説をすこしずつ滋味を慕うように、慌てず急がず少しずつ読んでいる。そういう読み方でなければ読めない。
アーサー・ウェイリーの『袁枚』もそういう本の一冊だが、この中国近世の一詩人の、伝記と言うよりも「伝記的な逸話人生譚」も、滋味に溢れた好読み物で、詩が優れ、加島祥造さんの訳がいいが、もとになったウェイリーの訳がまたいい。袁枚などという当時の大詩人も今では知る人が少ない。文豪の運命もたいていはこんなもので、名を残すなんて事は虚しい希望に過ぎない。マルクス・アウレリウスの本を昔に読んで、一番先に身にしみたのが、その教えであった。名を残したくて書いてきたのだとは思っていない。せっかく生まれてきたのだから、自分の生涯を自分で楽しもうと思っている。死後に誰かが私について書いてくれようとそんなものは私にはもはや意味がない。自分のことは自分で書き自分で始末をつけ、人がどう思おうとも、自分で自分に納得して楽しんで死んで行こうと思うので、反芻するような真似も平然としている。人のために書いているのではない。せいぜい子どもや孫や愛した人にだけ残しておけばいい。
* グレン・グールドの『書簡集』も、我ながらびっくりするほど楽しんでいる。大冊だけれど、もうすぐ、読んでしまいそうだ。『古事記』は読み上げた。中巻下巻もなかなか面白く読めた。歌謡がいい。久しぶりに軽兄妹の悲恋や引田の赤猪子の哀しい愛にもふれて泣いた。だまし討ちの上手な倭建命は、今度も、あまり好きにはならなかった。「権」の字に「タバカル」という訓みがしてあるのに教えられた。古典はいつでもどれかを読んでいたい。
1999 3・29 3
* バグワンの『老子 タオ』上巻を読了。黙読ではない、音読である。少なくも妻が聴いており、無量無数の霊魂が聴いている。伊那の老子の加島祥造老が『袁枚』に惹かれて詩を訳し共訳の出版に熱意をもたれたのが、分かる気がする。私もこの自由人の色けある人生にとても親しみを覚える。どうやらこの辺にも魂の色の似た人たちがいる。「学鐙」の三年連載でフアンレターを戴いたのは西田哲学門下の故下村寅太郎先生だった。次いで声を掛けて貰ったのが伊那の老子先生だった。加島さんからもう何冊も詩集や画文集を戴いている。バグワンに影響を受けてきましたと、先日、直に聴けたのは嬉しかった。バグワンには心打たれる。
1999 3・31 3
* アーサー・ウェイリーの『袁枚』を読み上げた。こんなに感興の乗る本とは予期していなかったが、予期は、完全に嬉しく裏切られた。政治家ではない。行政官として過ごした時期は短く、あっさりと引退して、詩人としての名声に包まれ、じつに自在な詩を多作し、大勢と交際し、愛され尊敬され、しかも非難や批判もけっこう浴びた。徹して享楽的で、お堅い道徳家ではなかった。女を、美青年を、人生の「花」として愛し、仏教が嫌いで生活を愛した。読書を愛した。悠々とした自由人で著者で書斎人で官能の赴く所に対してせせこましい窮屈さがまるで感じられない大人であった。そういう人間が、そのまま詩に表わされ、それは加島さんの訳の手柄、その前に原著者ウェイリーの翻訳の手柄ではあるが、書き写して座右に置きたい魅力的な詩句が一冊の中にいっぱいある。こういう風に、及ばずながら生きられればなあと嘆息し、羨望し、やはり今も読んでいる「老子」との連絡を当然感じてしまう。魂の色の似たい人、袁枚。それが読後の喜ばしき実感である。 1999 4・14 3
* バグワンのどうやら新刊の説法集らしいものへ、推薦文を依頼されたが、断った。今まで読んできたものは,掛け値なく私を説得し、素晴らしい叡智に溢れていた。今も夜毎『老子』を読み次ぎ、感謝している。だが、頼まれた今度の本は、私にも心得のある十牛図でも般若心経でも老子でもない、道家の古文献に拠ったものらしい。私はそれを知らない。読んだことのない本を推薦する気にはなれない。不用意なことはしたくない。それで、はっきりお断りした。だが『老子』はいい。まだ下巻のとばぐちだけれど、申し分がない。
* 淡交社が、家元嗣子である千宗之氏の日記風のエッセイを二冊送ってきた。読んで見たいと思っていた。これから読み始めるが、ちらと頭をみると推敲がしてないかと思えそうな、書き放しの文章なので、ちょっと気を殺がれた。本にするまでに、十分に手を掛けたのだろうか。若い人が気軽に手荒くものを書いて自足していると、気になる。千氏は大きな組織の上に権威高くいる人であり、要するに「ゆるされ」やすい。そこにこそ用心が要る。純然と茶道の本でない限り、できれば淡交社ではなく、裏千家と関係のない他の出版社から出された方が、本のためにも、人のためにも、良いと思う。手前味噌に思われてはよろしくない。傍の人も気をつけてあげて欲しい。独坐大雄峯といえる家元に、できれば自由人の茶人に、成って欲しい。昔から楽しみに見守ってきた。
1999 4・17 3
* 袁枚の詩を読んでみたいという人がある。ちょっと心嬉しい気がするので、英語に訳したウエィリー先生、日本語に訳した加島祥造さんにお許し戴き、二、三、ここに引かせてもらう。数多い中からであり、ページを開いたところから気軽に引く。
春の夜にふと夢からさめると 春日雑吟
月の光が涼しく差しこんでいる。
窓の外には、花が満ち咲いて 春宵夢醒月華涼
窓の内には、その香りが満ちている。 窓外花開窓内香
花のなかには、散る前に、 花似有情来作別
私に別れを言いたいものもあるらしく、 半随風去半升堂
半ばは風とともに去ってゆくが
残りの半ばは、この部屋に舞いこんでくる。
ベッドに寝たまま、転々として眠れぬ身だ、 病中贈内
人は年を加えて病になると、
いかにして元のように健康になるか
そればかりに心をくだくものだ。
丈夫な時には、
ひとつの微笑を買うのに千金を払って遊んだが、
いまや病んで、はじめて
妻こそが人生の最上の友だと知るに至った、
なにしろ、私がよく眠れたかどうかと
心配して、鶏が二度も鳴くまで
起きていてくれる者なんて、ほかにいまい!
老いた鶯はむりに囀らぬほうがいい。 人老莫作詩
人も老いたら詩を書かんほうがいい。
たいていは想像力が衰え、まず
力強かったころの自分の詩をなぞるだけだ。
白楽天や陸放翁でさえ同じで
あの年まで書かんほうがよかったのだ。
ましてやこの私は、なおさらそうなんだ!
いつまでも書きつづける愚かさを
よっぽど用心せねばならん!
とはいえ、心の動くことは今も起こるし、
口も思わず動いてしまって、
年ごとに新しい詩ができるーー
まるで花が春ごとに咲くのと同じなのだ。
だから私はこう考えるーーもはや
老いてきた以上、老いた詩を書けばいい、
それには光景を描かないで、
己れの感情を語ることだ。光景は
誰の眼にも映じるものだが、感情は
自分ひとりの財産なのだ。
人にはそれぞれの因と想があるーーだから夢はわかりにくい 題黄粱夢枕図
人にはその人なりの感情や情熱があり
だから誰の夢も同じではないのだ。
一度、私は旅で邯鄲の町に宿ったが、
そこで見た夢は大違いだった
私は花の乱れ咲く野で書巻をひらいておった!
* 袁枚がこれらを描いた年齢は、現在の私よりも実はずっとずっと若かった。私はまだ「光景」も描きたいし「感情」も迸らせたい。どのような花も大切に思うし、どのような命もいとおしいと思う。しかもなお袁枚が羨ましい。袁枚のように生きられればと願うし、私よりも年老いて書斎を捨て、東京都の知事をやってみようなどと考えた同じ作家が分かりにくい。『太陽の季節』に感心など出来なかったけれど、梅原猛の言うように文学の力を見せて貰う方がよかった。同じ日本ペンクラブの理事としても、そう思っている。
1999 4・19 3
* 帰ってすぐ志賀直哉の原稿を書き上げた。この原稿をしおに、おおかた主なる作品を読み返せて、よかった。小説家とは呼ぶまい、偉大に優れた「文学者」として尊敬を新たにした。アリス・ウォーカーの『カラーパープル』を一昨夜のうちに読み上げた。黒人の生活と人間関係とを、アメリカとアフリカとにわたって、姉と妹との呼び交わす手紙や内心の独白を、巧みに、スピーデイーにも、配しながら、感動深く盛り上げて行き収束した手腕はたいへんなものだ。初めて読んだ。この五十円の古文庫本は、花見に東工大へ行き、「いろは」で飲んで食べて休息したあとかさきに、昔馴染みの本屋で二冊百円で買った一冊である。
1999 4・24 3
* 九大名誉教授の今井源衛さんから『大和物語評釈』の上巻を頂戴した。こういう、研究成果そのものの本を貰うと真実嬉しい。東大名誉教授の久保田淳さんから少し前に『六百番歌合』を頂戴した。これまた貴重な研究成果。ともに二昔も三昔も以前に古本屋で昔の背丈の高かった岩波文庫の綴じも綻びかけた破れ本を一冊三十円二十円で買って読み、いろいろお世話になった古典である。これを完備した最新の注や語釈や解説を添えて読めるのは、何とも贅沢に喜ばしい。書斎があまりに窮屈になっているので、こういう本は枕元に置いて、少しずつ読む。いい滋養であり、つい夜更かしがひときわ過ぎる。それでも、べつに明日はどこへ出る必要も約束も無いなら寝てしまう必要もないので、このごろは読みたいだけ何冊でも順に読む。大和物語でも歌合わせでも、どこから読んでも十二分に楽しめる。
前に早稲田の小林保治さんに『唐物語』を、お茶の水の三木紀人さんから『今物語』を貰ったが、これらは説話で、やはりどの頁を読んでも面白い。古典には古典のとほうもない懐かしさがあり、なまじに作り立てた昨今の小説に時間をとられるよりも、心豊かに読書が楽しめる。
1999 5・11 3
* 風姿花伝をまたまた読んでいるが、頭がさがる。
1999 5・15 3
* 『草枕』が面白い。実に、久々に読む。グレン・グールドが生涯の愛読書の一つに漱石の『草枕』を挙げていたのを書簡集で知って、大いにおどろき、また分かる気がした。彼はそれを「トライアングルの世界」と言っている。四角四面の世界から「常識」という一角を削った三角世界に住むのが芸術家だと『草枕』に述懐されている。グールドはこれに共鳴したのだろう、私も躊躇いなく共感する。
1999 5・29 3
* ユングはこう考えている。
太陽が上昇から下降に向かうように、人生の前半で一般的な尺度によって自分を位置づけた後に、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めることで、死の受容に取り組むべきだ。それは、下降することで上昇するという逆説を経験することで、大きい転回の為には相当な危機を経なければならない、と。
* エレンベルガーはこう考えている。
偉大な創造的な仕事は、中年における重い病的体験を克服しようとして、自分の内界の探索を行った後に展開される、と。
* 深沢晴美さんの川端康成「少年」論からの孫引きであるが、これくらい切望と自覚とを代弁してもらえると、かえって動転する。動転から回復して静かに思えば、この数年、東工大教授から定年退官後の自分の仕事は、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めるべく、自分の内界の探索を行いつづけてきたのだとハッキリする。「客愁」「聖家族」「年譜・青春」の一切が必要であった。私小説作家になる気かと言われたりしてきたが、乗り越えねばならない作業だと確信していた。『寂しくても』は、それと併行しての一つの自己追究であり、創作である。「湖の本」の継続と維持の苦しい闘いもまたその一環と考えている。
1999 5・31 3
* 『うつほ物語』が面白くて、夜更けても読みやめられない。『竹取物語』とどっちが先か後かというほど古い時期の物語だが読みやすい。『夜の寝覚』ほどの統一感は狙われていない、もっと大らかに構想され統合され、主人公もヒロインも分散する。源氏物語以上とはいわないが、まったく別趣の貴重な作と言い切れる。通読の機を逸し続けてきた眷恋の古典と毎夜おそくまでデートを楽しんでいる。
* バグワンの『道タオ 老子』下巻も半ばを過ぎた。毎晩欠かさず少しずつ音読しているが、読み進めるのが嬉しい。こんなに優れた人の優れた言葉をどうして聴き損じることができるのか、不思議でならない。この頃は妻も興味と共感を覚えるらしく、私が読み始めると必ず耳を傾けているようである。この二年三年、どんなに豊かにバグワンに教えられ手を引かれてきたことか。
1999 6・1 3
* 南海に嵐で流され、奇瑞の琴をえて帰国した才能有る公家が、絶世の美女で父にも優る琴の弾き手の娘をのこして世を去る。娘は貧しく親ののこした家に成人し、ふとしたことで、当代年下の貴公子に肌身をゆるして、その後逢えないまま、妊娠し出産する。のちの「夜の寝覚」に似ている。生まれた少年は母を独特の「力」で守り養い、ついには山中不思議の「うつほ」を熊たちに譲られて、ここへ母をうつし、母を護って年を経る。そして、女はかの男に、少年はまだ見知らぬ父に、再会する。宇津保物語の開巻の半ばまでをいえばこんな筋であるが、古典は筋だけでなく、叙事叙述の気品に命がある。それがなければ遺るものではない。
「夜の寝覚」も長編だが、宇津保物語は三倍もの大長編、源氏はなお二倍有る。古典は、たしかに今日の言葉ではないから読み煩うが、有り難いことに宇津保はずんずん読める。身も心地も洗われて行く。
世の中のナニもかもウンザリのときに、物語の美女や美男の行方を慕って読み進めるのは、天与の清涼剤である。
1999 6・2 3
* 大久保房男氏に『文士とは』(紅書房)を頂戴した。一気に読んだ。「房夫様」と手紙に宛て名を書いた或る女性作家への返事に、大久保房夫は「男」でござるとあったそうな。「群像」で鬼といわれた編集長であり、私は氏が鬼の時代にはつき合いがなかったが、亡くなった上村占魚に下町の鮨屋で紹介していただいた。以来、久しい。湖の本にも、きちっと毛筆の便りを下さる。そういうことは「新潮」のもと編集長の坂本忠雄氏も同じ、講談社の出版部長天野敬子さんも同じ、元中央公論編集長の平林孝氏も同じで、きちっと、その時時の返事が届く。こういう作法は若い駆け出しに近い編集者ほどできない。岩波書店の野口敏雄氏など、必ず全篇を読んでの感想がきちんと届けられる。文芸春秋出版部長の寺田英視氏は必ず電話でじかに労をねぎらい励まして下さる。みな昔の「文士」に交わり鍛えられた編集者であり、こういう文士体験のある編集者と、今日の編集者との落差に文学の危機も悲劇も胚胎している。
大久保さんの本は、文学とは何事であったか、作家とはどのようなものであったかを、怖いほどに語っている。
1999 6・14 3
* マキリップの『星を帯びし者=イシスの竪琴第一巻』をまた読み始めた。この本を読み始めると、ただちに他界に入り込んで、この上もなく不思議に静かに旅が出来る。ル・グゥインの『ゲド戦記』といいマキリップといい、こういう愛読書に出逢えたのは幸せだった。いやなことは当面確実に捨て去れる。入り込んだ世界から、もう戻れないぞと帰還を遮られても、わたしは泣かない。
1999 6・18 3
* 笠間書院が片桐洋一氏の『歌枕 歌ことば辞典』増訂版を呉れた。こういう基本資料が好意的に贈られて来るとじつに嬉しい。片桐氏一人での編纂著述であり、統一感に優れ、読み物としていつでも呼んで楽しめる。なにも和歌の理解にだけ役立つのではない、日本語の組成の秘密の基盤に、こつんこつんと行き当たる。眼か何枚も鱗が落ちるから堪らない。
東工大助手の江上生子さんが『「生命の起源」とロシア・ソ連』という新著を下さった。江川さんは助手とはいえ、わたしより、十とは若くない、気の毒な言い方をすれば万年助手のまま東工大に籍を置いている学究であり、真摯にいつも励んでおられた。こういう変な人事を固定したまま恥じない大学にわたしはずっと不快を覚えていた。頂戴したご本は研究書でも紹介でもあり、「読める」本である。『生命の起源』がオパーリンの歴史的な名著なのは言うまでもない。足でしっかり稼がれた、血の通った佳いお仕事に敬服する。この方のお名前は「ふゆこ」さんとよむ。これがまた佳い。
1999 6・20 3
* 『近世説美少年禄』の「一」が寄贈されてきた。馬琴の傑作の一つで、長い。古典をとことん楽しめるほど豊かな喜びはない。『日本霊異記』と『宇津保物語』を読み継いでいるが、また一冊を加えよう、就寝時間が遅くなる一方だが、だれに遠慮もない日々である。ありがたい。昨日今日、酒以外にはお茶しか口に入れていない。堅い腹が、さわって柔らかくなっている。
1999 6・24 3
* 街の雑踏へマキリップの文庫本『星を帯びし者』を隠し持って行く。満員の電車の中でも、読み出せば、もう一切を忘れる。はるかなそこは別世界であり、ふしぎな魔法と謎との秩序が、整然とし、また乱れても行く。われわれの知っている現実の地球世界とは同じ地球上なのにも関わらず全く別の顔をしている。住む人たちもわれわれと同じ人間であり、しかし、人間をなぜか深く超えている。何でもいい、この世界の抱え込んだ夢はあまりにも濃く深く、小渕だとか公明だとか都政だとか、文字コードだとか著作権だとか誘拐だとか総会屋だとかいう一切を、浄化槽へ叩き流してくれる。ああ、この感想は乱暴すぎる。この作品は、とにかく瞑想を可能にしてくれる優れた鎮静剤なのである。この翻訳本を三巻贈ってくれた訳者の脇明子は、このごろは、どこで、どうしているのだろう。母上は歌人であったと覚えている。アメリカで、わざわさ原書三巻を買って帰ってくれた優しい友達は、遠い西の方でいまもいろんな繪を描いているだろう、心のカンバスに。
1999 7・1 3
* それにつけて胸にもう一度刻んでおきたい言葉がある。今日届いた志賀直哉全集第八巻月報に書いておいた「志賀直哉の自己批評」の中に、直哉が自作の「赤西蠣太」に触れてこんなことを書いている。この全文はエッセイのページに書き込むつもりだが、この箇所だけをここに書き留めておきたい。この小説の原料はじつはいろんなジャンルで使われていた。講釈の円玉も高座で話していて人気があった。直哉は言う。
「円玉の講談中の女中と此小説で書いた女中とは解釈が大分違ふ。此異ひは一方は所謂大衆対手、他はさうでないといふ所から来てゐる。所謂大衆といふものは私が現した女中よりも、円玉の現した女中の方を喜ぶらしい。若しさうとすれば、そして若しさういふのが大衆といふものであるならば、その大衆を目標にして、仕事をする事は自分には出来ない。己れを一人高くするといふ態度は不愉快であり、いやな趣味であるが、現在の大衆に迎合するやうな意識を多少でも持つた仕事は娯楽にはなつても、仕事にはならない。」
「仕事」とはむろん直哉の考えている「文学」「優れた文学作品」の謂いであるのは無論であろう。これに対しわたしは、「完璧に代弁して貰った気がする」とコメントしている。実感である。直哉の謂う「娯楽」をわたしは好んで観るし読みさえするが、書かない。書きたいものにそれは入って来ない。
1999 7・3 3
* 読書は寝入りばなに何冊も、今は五、六冊を少しずつ併読するのが昨今の習いだが、珍しく、今日は昼間からなんとなし続きが読みたくて、滝沢馬琴の『近世説美少年録』を読み継いだ。これは『南総里見八犬伝』なみの大作で、西国の守護大名大内家をめぐる、後の陶と毛利との激闘へ繋がって行く、波乱に富んだ伝奇もの。勧善懲悪の見本のような物で、構想奇想ははではでしく、戦前によく流行った講釈読み物まがいであるけれど、そのレトリックの奇怪なまでに衒学的なのもめちゃくちゃ面白くて、つい読まされてしまう。漢字や熟語へフリガナの「宛て読み」だけでもまことに面白い。小説の文学のということになると、甚だ臭気のきつい読み物でしかないが、これほど手が混んでいると、それなりの敬意は払いたくなる。この作者、よっぽどの男だとは思わせる、あまり好きになれないが。
小学館の古典全集の第二期がはじまり、『宇津保物語』とこの『近世説美少年録』とは併読している。どちらも三巻構成の一巻目だけが来ている。さきざきに楽しみがある。小学館の厚意は、感謝に堪えない。ま、わたしのように届くと右から左へ古典を読み続ける読者は少ないかも知れない。思えば「宇津保」も伝奇性を備えている。平安朝初期のふしぎ物語と近世半ばの極彩色伝奇の取り合わせで、そして、やがて私は鏡花講演のために鏡花文学もまとめて読まねばならない。ついでにわたしも、伝奇的な、また『清経入水』や『みごもりの湖』『冬祭り』『四度の瀧』のようなのを書いてみようかなと思う。
* 昨日届いた『志賀直哉全集』の第八巻、これがまた随想短章ばかりで小説と言うにはあまりに身辺心境の短文章ばかりなのだが、つまり伝奇なんてものは微塵も縁のない文芸だが、これが実に佳いのである。どれ一つを読んでいっても、心洗われる。清々しくなる。カタルシスの効果が身に溢れてくる。ああ、これでも文学なんだ、どんな伝奇ものにも屈しない力を持っているんだと感嘆する。
1999 7・4 3
* 志賀直哉の、ある時期以後の短い文業の数々を、わたしは、見捨てて読もうとしなかった。一冊本の全集類に入っているものでも、『暗夜行路』の他は名の通った短編を二三十も読んでいれば足るものと思っていた。
今度「月報」を書いた巻では、ほんの数編も読んだものがあるかどうかであったが、読み出してみると、一見片々たる短文・短章がじつに佳い。巻おく能わざる味わいにねぐいぐい引き込まれる。随筆類では谷崎のものがゆったりしていて好きだが、さすが志賀・谷崎とならび称された文豪の文章で、はっきり味わいにちがいはあるが、いずれ劣らないみごとな気息の妙に感嘆する。
それにしても、谷崎を読んでいて決して感じない身分「階級」差というものを、志賀直哉は露骨に感じさせる。また、若い昔にはただただ「愉快」「不愉快」という批評でがんと通していた人が、六十過ぎて「それは面白かった」「面白いと思った」などと要所へ来ると「面白い」の肯定がよく見えるようになっているのが、面白い。
とにかく、もっともっと読みたくなった。
志賀直哉から滝沢馬琴に転じると、急にがさつで汚いものに触れる気がする。おそらく学のあることでは直哉の百千倍だろうが、気稟の清質は争えない、馬琴は、少なくも今読んでいる『近世説美少年録』は俗悪である、それでも読ませるが。
『日本霊異記』は信仰がらみの不思議集であるが、今では世離れた話なのだが、引き込むように読ませる力があり、ときどき、ドキッとするほど面白くも深くもある説話がまじる。下巻も半ば過ぎて、やがて読み終える。通読するのは初めてだが、よかった。
松尾美恵子の『異形の平家物語 延慶本』もあらためて読み始めた。いま心惹かれている別の一冊は、ゲルハルト・リヒターへのインタビュー集である。画家なる存在への先入主がみごとに破壊された気がする。
1999 7・5 3
* あんまり毎晩読んでいて佳いものだから、岩波版『志賀直哉全集』を揃えることにした。八巻まで出ていて八巻を読んでいた。七巻までが、けさ岩波書店から直送されてきた。判の大きさが手頃によろしく、函も清潔に美しい。『暗夜行路』以前の大概の作品は、何種類かの文学全集に入っているのだろうと思うが、これほどの文学・文芸ならば完備されていてよく、重複をいとう気はない。第一巻巻頭の処女作「菜の花と小娘」をまず読んでみた。初めて読んだ。フーンという感じだった、心和んだ。「或る朝」「網走まで」とこの作品とが直哉の処女作とされている。書いた順、発表順などでこういうことになる。どんな書き手にもあることで、それは気にならない。三作とも、佳い。好きである。
谷崎、藤村、漱石の全集はむろん揃えている。柳田国男と折口信夫の全集も揃っている。泉鏡花も最初の全集と選集とが揃っている。福田恆存全集も梅原猛全集も井上靖集もある。梅原さんのは全巻頂戴したし、井上さんのも紀行全集の他はみな頂戴している。古典全集は二種類以上が揃いつつある、みな版元や監修者から頂戴している。世界文学全集も意欲的な編集の、ナウいものを全巻もらっている。全集と名のつくものが、数えてみれば狭い家の中にもう何種類もある。昭和万葉集も全巻もらっている。書庫の半分以上が恵贈本である。収拾がつかないほど書庫は溢れている。読まない本は買わないことにしている。買えば、おおかた、すぐ読んでしまう。
直哉の全集は楽しみに、読んだものも、みな読み返そうと思う。瀧井孝作先生のことなど思い出しながら読んで行きたい。
一番最初の私家版であったか、志賀直哉にも送った、おそるおそる。決まった挨拶が印刷されていて、末に、直筆で大きく「志賀直哉」と署名の入った葉書が帰ってきた。志賀直哉という人がこの世に実在するのだと実感し励まされたのを、懐かしく思い出す。詩人の三木露風、歌人の窪田空穂、小説家の中勘助、中河与一からも同時に、本を受け取りの葉書をもらった。いちばん欲しかった谷崎潤一郎のは貰えなかったが、のちに谷崎精二さんから丁寧な謝辞をもらったし、松子夫人との有り難い生涯のご縁も生まれた。いろんな佳いことが、沢山あったわけだ。
* 「三田文学」が届いたら「志賀直哉」の特集だった。巻頭の小川国夫、中沢けい、佐伯一麦の鼎談だけを先ず読んだ。それはそれで面白く読んでいったが、同時に、ほとんど何にも説得されてこない隙間風を感じていた。志賀直哉はずいぶん論じられてきた作家で、むやみな賞賛から相当な酷評までいろいろあったのを知っている。
しかし、志賀さんの文学は、読んで感じたままでいい、論じてみても始まらない、だれがどう論じてくれても、自分が作品を読んで受け取っている満たされた思いを、塗り替えるほどのものになってこない、そんな気がしている。わたしは全面賛美でも何でもなく、むしろいわゆる小説家の「小説としては物足りない」モノの多いのを承知している。しかも、読んでみて満たされる生気がある。生彩がある。心地よい突風も清風も実感できる。よけいな議論を吹きかけ、こねまわしてみても何にも効果のない「文学」になっている。具体的な作品論で新生面が拓かれるのは歓迎したいが、いきなり「作家志賀直哉」から「文学」論議がされることは、したい人はすればいいが、虚しい気がする。
鼎談よりうしろにあった短文は、みな、ほんのご挨拶ばかりでつまらなかった。
1999 7・10 3
* マキリップの『イルスの竪琴』を三巻、また読み終えた。ともだちがアメリカから送ってくれた原書で、最終場面を読み返して、また新たに感銘を深めた。私のためには最も効果的な「安心」剤になっている。やがて、上下二巻の『道タオ 老子』を読み終える。何ヶ月読み続けてきただろう。バグワンに、連日連夜叱られっぱなしであった。嬉しいとすら思い続けて読んできた。いまもし頼まれれば「浄土」に連載した『無明抄』とはだいぶ異なったことを書くだろうなと思う。
志賀直哉の全集第一巻を、日に数編ずつ読み進めている。
1999 7・19 3
* 『志賀直哉全集』の創作十巻中の第一・二巻を読んだだけの話であるが、おかしいことに気がついた。まともに「小説」として読めるモノは、一巻にせいぜい二、三作しかない。それらは、おおかた、これまでのいわゆる日本文学全集の志賀直哉巻に入っている。「小説の神様」といわれた人だが、これは作品『小僧の神様』からの口移しに過ぎず、もっとも小説らしくない作品の多い志賀直哉にこの尊称は似合わないと思っていたが、はっきり言って、これぐらい「小説」の下手だった作家は少ないのではないかと、目下は二巻めの『大津順吉』あたりを読んでいて、思う。『母の死と新しい母』『網走まで』『或る朝』などは、また『クローディヤスの日記』などは優れているが、他は、正直のところ駄作ぞろいで、よくこれで通用したなと思ってしまう。同人雑誌の「白樺」だから通用したのであり、商業雑誌には殆ど出さなかった。『大津順吉』が初めて原稿料を取った作品であったと聞いている。
数ある中には駄作もあって普通だろう、が、作品として魅力に光っている「小説」が少なすぎる。谷崎潤一郎の大正期も駄作は多いが、それでもわたしは活字に唇をそえて味わうほど惹かれた。駄作なりに面白く引きつける魅力があった。志賀直哉初期にはそういうサービスはまったくない。ひとりよがりが余りに多い。刻み込むような硬玉のような文章に魅力が在ればこそ読んでいるけれど、ドナルド・キーンが「作文」「綴り方」にすぎないとかつて酷評していた意味が、『全集』で接して、よく分かる。この人は「選集」で読めば足り、その方がいかにも優れた文学者の真価をつかみやすい。
敬意をいささかも薄めたわけではない。全部読んで行く気だが、いまのところ、目下のところ、実感は、なんとへたな作家なのだろうという驚き。もっとも、この後に秀作の増えてくることは知っている。
* 尾高修也氏から谷崎論が贈られてきた。少年期から大正期の谷崎を扱っているようだ。
十四年前に、谷崎生誕百年にさいして、雑誌「学鐙」に三回連載で「谷崎潤一郎論の論」を書いた。これからの谷崎論に何を期待するかを書いたのだが、それは、谷崎の大正時代の検討がなにより大切であるという趣旨に尽きていた。昭和初年の谷崎には私が集中して手をつけた。大正期は『痴人の愛』『アヴェ・マリア』などの他、秀作傑作には乏しいのだが、そのかわり映画があり戯曲があり推理小説があって、谷崎の根の関心が露出しているし、私生活にも個性的な波乱がある。その周到な解析は、のちの大谷崎の理解へ繋ぐ意味でも不可欠なのだが、あまり集中しては扱われてこなかった。今一番それが必要だと十四年前に強調して置いた。尾高氏の仕事がどの程度期待に応えてくれているか。
1999 7・27 3
* ユイスマンスの『大伽藍』をとうどう読み通した。こんな本を他に思い浮かべることが出来ない。実在のシャルトル大聖堂を、徹頭徹尾「解釈」している。カソリックの象徴主義を徹底して解説している。それがそのまま高らかなマリア讃歌になっている。小説ではない、まさしくエッセイである。エッセイふうの論文でもある。マニアックでもある。有名な実在の聖堂であるから、わたしでも、機会があれば訪れることが出来る。訪れてみたい。それからまた読み返せば、たぶん貴重な思想書として、別の顔で迫ってきそうな一種の奇書である。よく読み通したなと我ながら思うが、退屈したわけではない。
* バグワンの『道 タオ』上下巻を読了し、『ボーディダルマ』に入った。あの達磨さんである。新しい世界に誘い込まれて行く。 1999 7・28 3
* ゆうべも随分遅くまでいろんな本を読みふけり、最後は『志賀直哉全集』第三巻に。 すばやく断っておきたいが、先日、こともあろうに「小説の神様」をつかまえて「なんと小説のへたな人だろう」と書いたが、あれは今度の全集で言うと、第一巻、第二巻のはなしをしたのである。そこまでは前言を撤回する気はない。
第三巻にはいると、印象は大きく改まってくる、と、言いたいが、そう言って置いてもいいだろう。『城の崎にて』『好人物の夫婦』がそれぞれに面白い。面白いと言うよりも、それぞれに優れている。『佐々木の場合』も『小僧の神様』も、読みやすい。直哉に読みにくい作品はない。どれもやはり独特の強烈な魅力を持していると言っていい。それにしても小説とも随筆ともつかないとは、直哉本人も認めているのだから、小説らしい小説とはずいぶん違う。それを物足りないとする者にはすこぶる物足りない。しかし『城の崎にて』のような文章はとても誰にでも書けるものではない。説明的のようで隅々まで表現であり、把握は明晰で、しかも昏く、詩的ですらある。小説らしい小説はイヤになったとして谷崎の書いたのが『吉野葛』であったり『春琴抄』であったりしたことと較べれば、おそろしいほどの隔たりがある。どっちも素晴らしいというしかない。
そんなことの言えるのも、直哉の場合、全集第三巻に入ってから確信が持てるのであり、第一、二巻では、ああいいなと文句なく嘆声の漏れるのはせいぜい数編、いやそれよりも少ない。そしてやたら「不愉快」「腹が立つ」といった偏狭に主観的なもので、相当にイヤ気すらさす。生活態度としても意識でも、好かない部分がずいぶんある。異様に感じるところもある。
例えば「虫」「小動物」を殺す態度の徹底しているところなどは、目を瞠る。『城の崎にて』に、鼠の首を串刺しにされもがきながら流されていく描写は知っていたが、もっと早くの小品のなかで、蛇を殺したりヤモリを殺したりの、直哉の殺し方の、感情抜きのすさまじさには仰天してしまう。そういう資質はまた目下の女などへの態度とも似通っている。直哉には当たり前であったのかも知れないが、好感の持てない、上からの侮蔑感を隠そうともしない。
志賀直哉の文体はきわみなく清潔で彫りが深く観念に毒されていないが、志賀直哉の底籠った人となりのことは、当分は相当の留保付きで読み進めようと思う。それにしても第三巻まで、らくらくと、しかも楽しんで読んできたのである。まだ、先は長い。
1999 7・31 4
* 高田衛さんの『蛇と女』の書評を「学鐙」で読んだ。評者の名をど忘れしたが、評が、蛇の問題を「性」的な深層意識でばかり捉えているようで、そんなことでは「蛇」のかかえた問題は尽くされないと思ったことを書き込んでおく。
1999 8・2 4
* 直哉の和解三部作『大津順吉』『或る男、其の姉の死』『和解』を読んだ。『流行感冒』もここに加えていいのではないか、これと『和解』の二作は、文藝の香気も高く、ともに繰り返し読むに堪える。
全集第三巻へ来て、目白押しに佳作秀作がならんでくる。小説という限定をつけないかぎり、どれもみな佳い文学・文藝であり、感じ入る。結晶度の高い硬玉を掌中にした心地で、やはり「エッセイ」の最もよろしきものという実感である。小説だけが、物語だけが文学ではない。この作家にもっと戯曲があればよかったのにと思う。
* 『或る男、其の姉の死』のなかに突如として鏡花作品のことが出てくる。わたしの方は、これから鏡花作品を心して多く読んで、十月の講演に備えなければならない。
1999 8・4 4
* バグワンの六冊目『ボーディーダルマ』つまり達磨さんの巻を読み始めているが、この巻は優れた叙述意図で始まっている。
達磨には、併せて一巻ともみられる三種類の文書が遺っているらしいが、何れも弟子の記録したもので、達磨自身の著述ではない。釈迦にもイエスにもソクラテスにも自著がない。みな弟子の編纂による「語録」があるだけである。彼らに優に匹敵する祖師達磨にも自筆の著述はない。遺されたその三種の記録により達磨の教えと受け取ってきたのだが、当然ながら達磨に遙かに及ばない弟子たちは、無意識にも達磨の教え、師の教えに、勝手なものを付け加えたり、聴き落したり、押し曲げたりする。悪意によってする事でなくても、未熟によって、してしまわざるを得ないのである。
バグワンは、それを、やすやすと読み分けて行く。これは達磨の言葉、達磨の教え、だが、ここは弟子によるとんでもない間違い、脱線、無理解、歪曲であると、明快に指摘して行く。実によく分かる。一つにはもうバグワンとのつきあいが長いから、わたしにも理解が進んでいる。読み飛ばしではない、じっくりと日々に音読し、目と耳と口とで読んでいる。少しずつ少しずつ、それもなるべく知解しないように、ハートで読んでいる。ああ、これはおかしいなとかなり気づくし、それが、即座にバグワンによって読み分けられて行く。「光明enlightenmentを得ている」人になら、悟りを得た人になら掌をさすようなものであるに違いないと思うので、バグワンの読み解きに不審を覚えることは、いままでのところ一ヶ所もない。一度もない。なるほど、これはひどいやと思う記述が混じっている、相当な量まじっている。
こういうクリティクの本を、あまり読んだことがない。聖書は、莫大な研究により真にイエスにもとづく箇所が読み解かれているに違いないが、バグワンのような一人の「覚者」が、ただもうすたすたと道を歩きながらあらゆる迂路に決して紛れ込まないといったものは知らない。有り難い。透徹した英知である。あやしげな、不穏な、俗欲にまみれた言辞ものは、微塵も認められない。しかも山林や深山に隠れよなどともバグワンは言わない。
1999 8・12 4
* 志賀直哉全集の、すでに配本されている九巻を、全部読み上げた。たくさんのことを考えさせられた。小説の神様だとは思わないが、まぎれなく文学の神様、しかもあまりに「異様に健康な」神様だと感じている。いやもう、よっぽど「へんな神様」である。だが、文学的には魂の色の似た作家だと感じた。共感できたことの方が、その逆よりもはるかに多かった。選集で済む作家だと初めのうち考えていたが、「全集」に触れ得て実に良かった。
* 『夜の寝覚』もこの二三日で、巻三から四へ、夢中で読んだ。風呂の中でまで読んだ。今日も行き帰りの混んだ電車の中で、まこと、うっとりする気分で内大臣と寝覚の上の場面や、二人の間に生まれた姫君が、はじめて生みの母の寝覚の上を父内大臣とともに訪れた場面などを堪能した。幸せをすら感じた。いきいきと、自分の言葉で物語に書きかえてみたい疼きを覚える。
1999 9・3 4
* 泉鏡花の『草迷宮』と『沼夫人』を再読した。まさに鏡花調子で、調子にうまく乗せられるのが、鏡花読みの最初の手続き。これが出来なくてはとうてい読めるものでなく、これが出来れば、途方もなく特異な別乾坤の妙景に、痺れる興奮が味わえる。途中で嗤ってはいけない、何なんだと疑念にとりつかれてもいけない。途方もなく素晴らしいものがあるぞという期待と喚起のある種の努力を、ある種の勉強を、ある種の自己放棄を必要とする。
『草迷宮』にはどこかで『天守物語』の舞台を彷彿させる幻惑の興奮があり、『沼夫人』にはどこか『龍潭譚』を想起させる、通底した作意を感じた。志賀直哉が若い頃に鏡花を『風流線』頃まで盛んに読みあさったこと、感化すら受けたことを書いている。谷崎や里見?なら知らず志賀直哉が何故にと思うと面白い。漱石と鏡花とにも親しい何ものかが有った。直哉の仲間たちは森鴎外にはきわめて冷淡で眼中に入れなかったが、夏目漱石には親しんだ。泉鏡花にもそうだった。鏡花には柳田民俗学の影響もある。折口学にも臍の緒がつながっている。もっとも狭い範囲の特殊な文学の顔をして、じつは、日本の他のどんな作家よりも世界の問題に直に触れているものがある。当然であろう、かれは「水」の作家であり、水は「世界」に繋がり遍満している。
* 学研から『明治の古典』シリーズが出たときにわたしは「泉鏡花」集を担当して『龍潭譚』を現代語に訳し『高野聖』『歌行燈』にかなり詳しく「読み」の脚注をつけた。わたしの「読み」はあれによく顕れてある。幾分かでも追加できれば有り難いが。じつは昔に石川近代文学館で、「鏡花と龍」という題の講演を一度試みている。名高い館長の新保千代子さんに能登島の火祭りを見せていただいた翌日だったろうか、前日だったろうか。八幡神社の祭りだった。
どんなことに十月講演が成るか、まだ水先が見えないので不安だけれど、ゆかりある金沢だ。呼んでくれるのは心友である。再会も楽しみたいし、鏡花ともまた佳い出逢いをつくりたい。
1999 9・5 4
* ゆうべのうちに、『夜の寝覚』を原文できっちり通読した。少し間をあけたりしながら、それでも終始一貫、幾分の恍惚感というか憧れほどの強い心地で、この物語の作者が少女の頃に源氏物語に夢中だったようなあんなものかどうかはともかく、心のとろけるような嬉しさで読み切ったとは言える。このヒロインは、紫の上、宇治の中君の二人に優るとも劣らない魅力と能力の持ち主である。好きである。男君も、一途に女を愛して少しも衰えない点、好感が持てる。これほどの女人と出逢ったすばらしさだけで、男君を称賛したい気がするほどだ。
物語はもっと長大なものだったが、現存の五巻でも完成感は濃い。完成度は高い。むしろ現在の形の方が、伝えられるものにより推察しても、余分な傷がうまく失せていて、わたしは、これで満足だと思った。この物語は、源氏や平家とならんで、おそらくこの後も何度も繰り返し読みたくなるだろう。
1999 9・14 4
* 『更級日記』を、『夜の寝覚』の縁で読み始めた。高校で女友達と教室で一緒に読んだ青春の古典。著者は『夜の寝覚』の作者に擬せられ、有力視されている。わたしは、ほぼ信じている。最初の方の竹芝寺縁起に関心をもち、高校時代に小説に書いてみた。竹芝寺は現在の三田済海寺にたいていの参考書が宛てているのを、間違いであろうと、現在の柴又の辺に考証し、今、私の読んでいる古典全集本の月報に書き、本文の頭注にもそれが援用されている。湖の本エッセイの第一巻『蘇我殿幻想』でも、その件に詳しく触れている。
また、『更級日記』筆者の菅原孝標女が、都への帰途、足柄の宿りで出逢った遊女たちのこともわたしの胸に焼きつき、何度も何度もそれについて書いてきた。更級日記との縁は、濃く、深い。そういえば「更級日記の夢」について高校の新聞にやや長めの原稿を寄稿したこともあった。
* 『マルチメディアと著作権』という本も読んでいる。特許法と著作権法とを並列解説して行きながら、やがてマルチメディア著作権に至る解説的なもので興味深く、なまじの他の読み物よりも目下はわたしの気を引いて余りある。
1999 9・16 4
* 書庫が溢れている。本が重く体力は衰えて、整頓できない。至る所に投げ出してあるので、不便なことになっている。整頓して並べる棚ももう無い。事典や辞典や論文集や専門雑誌や図録や研究書や古典は捨てられない。エッセイ集と小説は、処分可能な物もあるがせめて読んでからと思うと、いつになれば読めるか分からないほど、ある。大方が署名本である。歌集詩集句集も凄い量になっていて、「ミマン」連載の続くあいだは処分できない。月々数十種のいろんな寄贈雑誌は、惜しいけれど大方目をつむって処分している。若いときなら、こんなのをこそむさぼり読み、それが書く力になったのにと思うと胸が痛い。要するに家が狭い。
1999 9・17 4
* 『和泉式部日記』を読んでいるが、緊迫した叙述と和歌とが相乗効果を成し、盛り上がって行く。和泉式部自筆の日記とは思いにくい、わたしは後生による創作物語だと以前から感じていたが、今度もそう感じた。源氏や枕や栄華物語の時期の文章とは思われない、『更級日記』よりも時代が下がるのではないかと感じる瞬間すらある。しかも佳い作品だと思う。ざっくり進みながら感度が高い。 1999 9・25 4
* 『和泉式部日記』を読みおえた。王朝の物語でも日記でも、根を支えているのは和歌であり、これだけ和する歌の才能が、時代と人とに遍在し遍満して揺るぎない確かさをもっていたことに、いつもながら感嘆してしまう。代作を頼まねばならない苦手の人もいたようだし、人数はそっちの方が多かったろうと想像しているけれど、それにしても女房族の歌詠みの「口疾」なことに感心する。しかも巧い。伊勢でも和泉式部でも、また源氏でも枕でも寝覚でも、和歌が楽しめなくては、話がお話にならない。
* 笠間書院の呉れた『和歌の解釈と鑑賞事典』をいちど手に取ってしまうと、暫くのあいだは虜にされてしまう。それほど「和歌」は面白い。ゆったりと浸かりごろの湯に浸かっているような、温かい、無類の安堵感が楽しめる。そのまま近代以降の短歌に移っていくと、浸かっていた適温の湯が、冷やあっと冷めてゆく侘びしさを感じてしまう。優れた「詩」に触れる喜びが近代現代の短歌には認められるのに、人と人との「和する」暖かみ温みは、うすく冷え冷えとしている。
本の帯には「不朽の名歌を触る」とへんな言葉が書かれていて「人麿から俵万智まで」とか。人麿より前の記紀歌謡も入っている。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方に我が恋やまむ
熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
のような歌が、人麿以前に居並んでいる。人麿にはこんな歌がある。
笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
秋山の黄葉をしげみ惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
まだまだある。
平安時代の和泉式部も挙げる。
黒髪のみだれも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに
暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月
ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
これが、全巻のトリを取る現代の俵万智になると、こうなる。
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人
こんな「歴史」の記述は、あんまりではないか。少なくもこんな愚にもつかない戯れ歌と歌人は割愛して、もう一人先に取り上げられた河野裕子の二首で、せめて、締めくくってもらいたかった。この二首とも、わたしの推賞歌である。
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
言いたいことはさまざまあるが、俵万智の、短歌「のようなもの」を、もうこれ以上ワケ分からずにチヤホヤするのは、やめたがよかろう。彼女のちょっと特異な特色を、わたしは、歌壇が騒ぎ出すよりはやくに推賞し、テレビでも紹介したものだ。キワモノであることに目をつむったのではなかった。
『サラダ記念日』をいち早く贈ってきた礼状に、わたしは書いた筈だ、たいへん面白い、が、これは雑誌創刊で謂う「創刊0号」であって、真価は本当の創刊号がどう出るかで見きわめられるだろうと。その後の俵の歌集に進歩はない。相変わらずの安いキワモノ歌ばかりが並んできた。その俗な人気と本質的な保守感覚を「是」とした文部省や教育委員会のオジサンたちがやたら客寄せに持ち上げ、文藝団体のへんなオジサンたちも、ロリータ趣味でちやほやした、それだけのことだ。
現代のちからある佳い歌人たちの道を、こんなモノで塞いではなるまいに。
この『事典』は、佳い本だと人にも勧めたい、が、二人の編者井上宗雄と武川忠一に俵を切って捨てる、もう少しは様子を見る英断と慧眼の働かなかったことは惜しまれる。俵万智の歌は、少なくもここまでは、時代のバブル風俗の一つに過ぎないのに。やっぱり客寄せにしたかったのだろうが。
1999 9・27 4
* 『十訓抄』を読み始めた。「じっくんしょう」である。「じゅっきんしょう」という説もあり、わたしもそう読んでいたが。目次だけを見たら、すぐ伏せてしまう人もあろう、が、それは逸まっている。『徒然草』の一つのネタ本とすら言えるほど、平易に生活的なにおいのする逸話集で、十に分類し大別してある目次づらが、教訓を丸出しなので二の足を踏みやすいけれど、中に入ると、とても一つ一つの短い話が興味深い。面白い。『徒然草』には無常の感覚も色濃いが、『十訓抄』はもっと現世的にけろりとした編纂態度で、気を遣わなくても済む。「ちょっといい話」のハシリのようなもので、しかも関東人の目や耳が働いていそうに読めるのも珍しい、編者筆者は現在未詳であるが。これは、楽しめる。
1999 9・28 4
* 眠りが浅くて五時頃から電気をつけ、寝床で『十訓抄』を読みふけっていた。大判の古典全集の一冊が、どこから読み出しても、面白く読みやすい。
『徒然草』では時に襟を正したり身につまされたり叱られているような気がしたりするが、十訓抄は気楽に、はなしそのものを是非する事が出来る。覚えておけばちょっとした話の種にもなるし、クイズのように考え込まされる話題も多い。徒然草が、かなりここから話題を拝借しているのも分かる。
皇嘉門院別当という歌人が百人一首のなかにいる。「皇嘉門院」という女院に仕えた女房であるが、この女房の話ではない。
皇嘉門院という院号が定まって程なく、この女院御所を訪れたある公卿が、女房の一人に「どういう院号でしたっけ」と尋ねた。その女房は即座に「皇嘉門院です」と答えた。またべつの女房にも同じことを尋ねた。「なんでしたか、なにかむずかしそうなお名前でしたわ」という返事だった。前者の応答がつよく非難され、後者のもの言いがたいへん称揚されている。
或る権勢ある主人が家来筋の男にむかい、わざと、「あそこにいる烏は頭の所が白いようだな」と尋ねた。問われた男は、じっと烏の方をみやってから、一つ頷くような按配に、「そのようでございますな」と生真面目に返事をした。なんという有能な男であろうと主人はますます引き立てた、というのもある。
また或る男が歌を詠んだら、別の男がとても褒めた。すると褒められた男は憤然とし憮然として、言った。自分は漢詩を作ることにかけてはあの男に万に一つもヒケは取らないが、和歌の道ではあの男の足元にも自分は及ばない。そんなあの男から自分の和歌が褒められるとは心外でならない、もう二度と歌は詠むまいと言って、以後ふっつり和歌から遠ざかってしまった。「褒めれば」何でもいいんだとは限らないらしい、じつに微妙なことであるが、事実、「あんたに褒められても、しょがおへんわ」とむくれている大人を、子どもの頃から何度も見てきた。十訓抄のこの例は、しかし、ただ片腹痛いということだけでも、ないようだ。
何にしても人の世の中、「褒める」でさえうかとは出来ない、ましてや「誹る」のはもっと難しい、これぞ「神妙」のところだと訓戒してあった。面白い本である。
あの平清盛という人が、滅多なことでは部下を叱って人前で恥を掻かせたりしない大度寛容の人であったとも、この本はきちんと証言していて、これは信頼できるらしい。おもしろい本ではないか。
1999 9・30 4
* 赤染衛門の『栄華物語』と西鶴の『永代藏』とを毎日の読書に加えた。西鶴を心して読むのは初めて。志賀直哉が西鶴贔屓だったことを全集で知った。それでということはないが、比較的江戸文学に疎いのを気にしてきたので。栄華の方は『大鏡』の物語版のような気軽さで、ずんずん読めてしまう。西鶴のほうが難しい。
1999 10・7 4
* 文学界十一月号の桶谷秀昭「昭和天皇」を読んだ。佳い歌人であったんだなと思う。和歌に表現されたものがどれほどの実感なのか、おそらく偽り無い実感なのであろうと思うし、そのまま素直に読んで、それがいちばんこの苦難の天皇へのよい供養なのであろうと思う。
桶谷さんの『昭和』史は戦前編を戴いて読み通している。戦後編連載の大尾に据えられた「昭和天皇」七十枚というわけであり、だから先ず読んだ。「天皇」のことは、分からない。よくいう喩えでいえば、いろんな登り口があり登り道がある。がらりと景色は変わってしまう。
世にはいささかならず、モノモノしい天皇賛美もあれば、軽薄で荒暴な批判もある。子供心にも「テンちゃん」とか「朕はタラフク食っている 汝臣民飢えて死ね」などというもの言いには軽侮の念しか湧かなかった。どう批判するときでも「天皇」とか「裕仁天皇は」とか口にしてきた。桶谷さんたちのように昭和天皇が心親しい存在であったことは無かった。敗戦後の日本中を、沖縄をのぞいて隈無く歩かれた、誠意ともコケの一念とも言える営為を、かなり重く受け取っていた。昭和二十六年だったと思うが、京都へみえたとき、中学三年か高校一年か、とにかくその姿の遠く小さく見えるところで、京都御所の中だったと思うがタダ一度だけ、肉眼で天皇陛下を観た。まさに観た。
歴代の天皇で、ともあれ、かほど多くに死なれ・死なせた人はいない。それだけが、不動の事実であり、その余の評価はわたしの任ではない。寒暖計ふうにいえば、昭和天皇にむかっての針は、寒暖の目盛りは、依然やや寒い寄りに振っているといわねばならない。
しかし、桶谷さんだから読んだのであるが、桶谷さんの文章により、教わったものは忘れないであろう。「天皇」なる歴史的存在、「天皇制」なる歴史的制度については、わたしの認識がある。過剰にして神秘的なほどの天皇賛美も天皇制賛美もわたしはしない。それは、気味がわるいだけでなく、害にしかならないであろう。今上天皇の一家に対する深い親愛感のようなものと、その認識とは、あまり私の中で齟齬していない。
* 眠れぬままに鏡花の『妖剣異聞』『続妖剣異聞』そして『紫障子』を続けて読んだ。読んでおきたいと思った作を、みな読めてしまって、よかった。佳作秀作といったものではない。妖剣は、目白台下の関口辺にある瀧本寺の大瀧小瀧にまつわる幻怪談。紫障子は祇園物語とならんで、京都ものの作であるとともに、明らかに『南地心中』系の「巳ィさん」信仰もの。先の剣や杜若の花も、鏡花独特の「蛇」シンボルの効果に期待した作なのである。ただの物好きで蛇を書いている作家ではなく、彼の世界観や社会観が、人間関係への苦い認識が蠢いている。それ以上は、ここでは言わない。『妖剣異聞』は一読に値するもの、とだけを。
1999 10・9 4
* 江藤淳の遺著『幼年時代』が「著者代送」として贈られてきた。すぐに絶筆となった幼年時代中絶のところまでを読んだ。痛ましいものであったと言っておく。文章文体はみごとであった。
わたしは自分の自伝を、じつに率直に「こんな私でした」と露表することに心に決め、それはわたし個人には効果があった。江藤さんにもそういう思いがあったか、それよりも「母恋い」を思うさま書きたかったのではないかと思われ、それが痛ましかった。
誰か身近な人の証言では、江藤淳がこの先にほんとうに書きたくて堪らなかったのは「谷崎潤一郎」だったという。これには、ビックリした。ほんとうに面白いのは谷崎だと江藤さんは言っていた、むしろ夏目漱石にたいしては少々疎くなっていたようだともその人は伝えている。
江藤淳が文学との出会いのような「この一冊」として挙げていたのが『こころ』だと知ったときも、ふうんと感じ入った。そうかと思った。今度、谷崎の名が飛びだして、わたしは、何となくすてきに満足した。そのことを書いておく。わたしの『こころ』論が江藤さんに読まれたかどうかは知らない。幾つもの「谷崎」論が読まれていたかどうかも全く知らない。ただ、このことを『幼年時代』読後の記念に書いて置く。
1999 10・9 4
* 『蛇くひ』という凄まじい鏡花作品、ひょっとして処女作にも等しいかと観られている短編を読み直して、肌に粟を生じた。
1999 10・11 4
* 木島始さんから『越境』という詩の本をいただいた。静かに意欲に富んだ佳い文学批評である。
* 城西大学の黄色瑞華教授には一茶研究の二冊を頂戴した。去年だったか友人片岡我當主演で高浜虚子作の「おらが春」を観たのを、つい思い出した。
露の世ハ露の世ながらさりながら
あの月をとつてくれろと泣子哉
きりきりしやんとしてさく桔梗哉
秋深くなりゆくか、肌寒さもひとしおの今日だった。黄色さんは僧籍にある人のように思われる。
* 前夜に読んだ鏡花の戯曲『海神別荘』が、再読三読なのに新鮮におもしろかった。「わだつみのいろこのみや」物語の逆を行く趣向である。海底の公子が陸の美女を娶ろうという。美女の父は海の幸をしこたま請求し、海は、無尽蔵の富の雫程度、と、望むままに呉れてやり、父親は娘の美女を舟に乗せて海に沈める。海底の警衛のものらは八重の潮路をやすやすと海底の公子のもとに美女を生きながらはこぶ。それからの展開が、面白い。『天守物語』とも『夜叉が池』とも趣が違う。しかしいかにも鏡花らしい、まぎれもない「蛇」物語である。
ことのついでに、これも再読の『恋女房』を途中まで読んで、これも興奮を禁じ得ない幕開きで、寝入りそびれた。むかし、いまの水谷八重子が「お柳」を演じているテレビ舞台中継を観てしびれたことがある。鏡花の真骨頂であり、『蛇くひ』『貧民倶楽部』等の同類で、実に厳しい。鏡花といえば縹渺としたお化け作家と思っている人も多かろうが、彼の根は痛烈な「不平」であり、敗者と弱者とに頭から味方して咆哮している作家でもあるのだ。そういうときに鏡花は総身に海や水を負いつつ蛇や龍を幻視してやまない作家でもあるのだ。
1999 10・16 4
* 金澤から、講演に出向く乗車券等が送られてきた。用意した講演原稿は九十分ではとても話せないかも知れない。それだけが気がかりだが、成り行きに任せよう。昨夜は鏡花の戯曲「恋女房」を夜更け、音読してみた。音読の方が鏡花戯曲の修辞に巧く乗れる。凄みのあるはなしであった。わたしはこの「お柳」のような鏡花の女が好きである。舞台でぜひ観たい、『恋女房』も『海神別荘』も。『天守物語』は映画も舞台も何度も観ている。
1999 10・18 4
* 必要あって柳田国男の『遠野物語』『山の人生』を丁寧に読み直したのが、面白くてやめられない。どんなに多くを柳田の著作から学んできたかと思う。民俗学草創期ゆえの学問的方法上の不備などはあろうけれど、採集されている実事の解釈こそ後生にも出来ても、もはや誰にも採集不可能な実事の秘めている示唆はあまりにも大きい。今度読んだものなどは、泉鏡花もいちおうのワルクチは言いながら、実に多くを得て、創作に利用している足跡は露わに、数多い。柳田を読み返すことが出来て、それが鏡花講演の気持ちの下支えにもなってくれた。
1999 10・21 4
* 新潮文庫『愛の終わり』は、相当手ずれて、汚れている。表紙が反ってすらいる。何度も何度も間隔をおいて読んできた。地味な本と謂えば言えるが、心惹かれる。何度読んでもそうであり、ときには練達の読み物ではないかなどと反発しようとするのだが、文学的に魅されてしまう。『凱旋門』『西部戦線異状なし』『陽はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』などとまた違って、もっと私的に魅力を感じる。要するにサラアが好きで、サラアが愛するように愛されたいロマンチックな喜びが若い昔にはあった。ベンドリックスという男がなんでこんなにまでサラアに愛されるのか、じつは分かりにくかった。そういう分かりにくさは、なんのことは無いわたしの作品に対してもときどき遠慮がちに、ときどきは露骨に指摘されてきた。いいじゃないですか、と、言い訳してきたのは、グレアム・グリーンの、このカソリックの毒を秘めた小説の魅力に依存していたのであろうか。
* 金澤へ発つ前夜にすこし読み始めて興奮し、帰りの電車で読み継いで時を喪い、じつは今晩の外出でも、この本が読みたくて電車に乗り、もっと読み継ぎたくて喫茶店に入り、さらに魅惑されて、禁制を破り八時以降に保谷の駅近くでビールを飲んだ。
多くの小説で愛すべきヒロインにいったいどれほど逢ってきただろう。一般にはサラアのような女は、女の人にも男の人にも人気はないのかも知れないが、いやいや、今でもわたしは胸を剔られる。それほど魅力を感じる。それって、けっこう幸せなことの内に数えあげたい気がする。もうあと一両日は、作品に酔っていられる。
1999 10・25 4
* 電車の往き帰りには『愛の終わり』を読み続けていた。すうっと世界に入れる。田中西二郎の訳がわたしの語感に合っているのだろう。なんともなま暖かい秋の夜だった。雨が綺麗に上がっていて、たすかった。
1999 10・28 4
* 妻が生協を通じて、新刊の翻訳サスペンスを三冊も買っておいたので、内の一冊を読み始め、数百頁の大冊だったがどんどん読み進んだ。むろん面白いから読み進んだのであり、スピードではグレアム・グリーンの『愛の終わり』を追い越していった。だが、その面白さは筋書き、ストーリィの面白さだけであり、『愛の終わり』に転じると、直ちに文学の腕に深く抱き取られる。共感や、表現への嘆賞が湧き起こってくる。サスペンスの方は著名な賞をもらっている作品らしいが、感銘などは何ものこらない。事件や犯罪や事柄への興味と惑乱とがあるだけで、そこを離れれば忽ち、読み終わって頁を伏せてしまえば忽ち、に、薄れ去る夢ほどに影薄れて、なにもかも消えて行く。文学の感動や感銘は、筋書きだけで保証されるのでなく、遙かに大きく、多く、文章表現と文体の迫力とで訴える。
サスペンスは娯楽と時間つぶしにはもってこいで、わたしも、ずいぶん読んできた。だが、無数と言っていいそれらの中で、文藝的に印象の濃い作品は、百に一つあればいい程度である。ペリーメースンもポアロも、読み終わればうたかた、もっともっと迫力の筋書きものがいっぱいあるものの、それらは、チェーホフやグリーンや志賀直哉や泉鏡花のかわりには、全くならないのである。
* 偏見だと言う人も在ろう。断じて偏見だと思わないのである。偏見だと言い立てる人は、それならこれを読んで見よと、サスペンスの文藝文学としての秀作を教えて欲しい。よろこんで読みたい。
1999 10・30 4
* バグワンの『ボーディーダルマ』も三分の二以上読み進んで、音読しない日は、旅中を除いて、無い。この巻を読み終えたらもういちど『十牛図』などへ戻って、今度もまた音読して感じ取りたい。日一日と人生をおえる日が近づいている。死にむかって、何の安心も得ていない。深い怖れを感じている。特定宗派・宗団の教えには希望がもてない。また経典や聖書を信仰することも出来なくなっている。『親指のマリア』で新井白石に言わせていた、せめてああいう「安心」を、いや「無心」を得たいが、妻に言わせれば「マインドのかたまり」のようなわたしであるのも間違いなく、これを「落とす」ことは、残り少ない生涯で可能とはなかなか思われない。バグワンに聴きつづけるしかない、そうしようと思っている。大分前から妻もほぼ欠かさず耳を傾けている。そして信服しているようだ。
* グレアム・グリーンの『愛の終わり』を、読み終えた。この作品はカソリックの護教小説とも背信小説とも言われているらしい。さもあろうと思う。愛ゆえに神にゆだねたサラア、愛ゆえに神に毒づく作家ベンドリックス。終わりが始まりであり、初めに終わりが予感されていた、愛憎劇。文庫本の表紙が手ずれで切れてきた。三度び断つかどうか、繰り返してまた読むに違いない作である。これまでよりも、今度がいちばん重い読みごたえになった。信仰の小説は何作か書いてきた。しかし仏教徒にもクリスチャンにもならないで人生を終えるだろう。しかも信仰心は捨てえない。偉大な人の教えを疑おうとは思わない。
1999 11・2 4
* 横浜のセザンヌ展を観て、名古屋の印象派の風景展も観て、こういう画家たちの業績を熱心に日本に紹介してくれた白樺の作家たちに、なにがなし感謝の思いをもっていた。なかでも、まださほど人気もなかったゴッホに目をそそいで熱心に受け容れた、武者小路実篤が、とみに忘れられがちなことに思い至り気の毒に感じていた。
わたしなどは、どっちかというと戦後の作品『真理先生』などから武者小路文学に親しんだので、白樺期の武者小路作品にはもっと後れて触れた。そうこうしているうちに作家は晩年に入られ、書かれるものが独特のくどさを帯び始めた。それで、ついつい離れていった。久しぶりに筑摩現代文学大系の一巻を書架から抜き出してきて枕元に置いた。
1999 11・3 4
* 春名好重氏の『平安時代の書の研究』を頂戴した。研究のエッセンスとしての、まさに煮つめた「事典」になっている。計り知れず便利に参照できる。ありがたい。碩学の研究とは斯くの如き簡素な叙述へ煮つまることで完成して行くのだなと感動する。座右に置いて手放せない。
小学館から待ちわびた『狭衣物語1』が贈られてきた。最も楽しみにしていた一冊である。源氏物語と一対に古来高く評価されてきた。『夜の寝覚』とどうか、今度のは未読の古典なので、震えそうに楽しみだ。書き出しの一行の新鮮さ!! この一冊が届いただけで身の回りの空気の色まで澄んできた気がしてしまう。
岩波書店からは志賀直哉全集第十一巻『日記1』が配本になった。創作の全部を読んだらぜひとも日記もと思っていた。日記と書簡の、続く十二巻がこんなに楽しみになるなんて、実は初体験である。
1999 11・9 4
* 狭衣物語の文章意識のつよさに驚いている。推敲がかなり出来ている感じがする。
推敲というのは微妙に難しく、過ぎると文を窒息させてしまう。尾崎紅葉は文句の付けようない文章の大家であるが、だからといって文学としてすこぶる効果的に作品が生きているとは感じにくい。漱石、谷崎、直哉、康成らの文章が好きだ。個性があって癖がない。鴎外の『渋江抽斎』と『即興詩人』露伴の『運命』なども佳い。露伴の『連環記』も好きである。
1999 11・11 4
* 武者小路実篤戦後の『真理先生』と処女作に近い『お目出度き人』とを、交互同時に読み進めている。この作家の性根がたくましく太いことがよく分かる。優れた文学に立ち会っていると言うより、稀有の人間に出会えて幸せな気分になれる。わたしは昔から武者小路には好意的であった。批評家としても画人としても詩人としても。釈迦また達磨を書いた戯曲も読んだ。
おりしもバグワンの『ボーディーダルマ』を読み進んで最終章に近づいている。この人の言うことは、いちいち身にしみてくる。これほど真率に真相に迫ってものの説ける人には出会えない。出会ったことがないと言っておく。バグワンを武者小路は知らなかったろう、バグワンの方が若いから。だが、この二人ならお互いに分かり合うのではないか、いや感じ合うのではないかと思う。
* 高田欣一さんという「湖の本」の久しい読者がおられる。同世代である。文学者である。演劇にも関心の深い人のようだ。この高田さんが月々に「文藝エッセイ通信」を送って下さるのが、いつも、言説が肯綮にあたって、読み応えがする。今日も届いて、待ちかねたように封を切った。期待は裏切られなかった。
庄司肇さんの個人雑誌「きゃらばん」はもう47号になった。小説も批評もエッセイも、多年練達の成果で、これまた、とても読み応えがする。
倉持正夫さんの「くらむ」も、じつに腰の据わったいい個人誌で、小説だけが、ねばり強く久しく掲載発行されている。この人も「湖の本」を支えていて下さる。
なにも文壇の表舞台で虚名を馳せている人たちだけが、文学に篤志の人と限っていない。実力のある人とも限っていない。わたしは「湖の本」のおかげで、ずいぶんいろんな力豊かな在野の文学者とつき合いが出来ている。全国的に出来ている。矢部登さんもそのような一人で、結城信一を、じつに深く細かく真面目に追っては、モノにしておられる。尊いことである。作家として心嬉しい篤志の人である。
1999 11・13 4
* 志賀直哉の『日記』は、二十一歳頃から収録されていて、明治三十年代の後半から始まっているが、一読、ビックリしたのは直哉の青春を、「見える」形で覆っているのが「歌舞伎芝居」と「女義太夫」であることで、「見えない」「見せない」かたちで生活に底流しているのが内村鑑三への帰依と内省であるらしいことだ。
芝居好きということなら谷崎潤一郎をはじめ同世代の学生たちも例外ではなかったらしいが、志賀直哉のように、三百六十五日をそこに漬け込んでいたような、あんな真似は経済的にも谷崎や芥川らには不可能であったろう。
* 直哉の芝居に対する、役者に対する、義太夫に対する「批評」は端的だが細部に及んで詳細であり、玄人じみた目と理解と好みとをその若さで発揮している。選集だけで直哉の文学に接していた頃、こういうところは、読めなかった。知る人は知るで、ウカツといわれればそれまでだが、おどろいている。
加えて外国の美術への先行的な愛好があり、のちには「座右宝」の自力出版に至るような仏像への熱い好み、骨董への率直な審美眼が直哉にはある。こういう美術に愛着の深い人だとは、白樺の傾向からも、作品からも、むろん知っていたけれど、芝居や女義太夫にこれほど通とは思わなかった。
* 武者小路の『真理先生』『お目出たき人』の併読もゆっくり進んでいる。慌てて読むまいとしながらも、ついつい読み込んでいる。不思議な文学である。長与善郎の『竹沢先生といふ人』が、高校ごろのかなりの愛読書だった。ほとんど印象も記憶も摩滅しているが、『真理先生』『馬鹿一』などはそれともよほど趣が違う。天衣無縫というよりも、もっと、大破れのした魅力である。時代を超えて行けそうで、しかし限界も見えたかと思われる基盤の崩れは否めない。武者小路の散文がどんな運命を辿るか、わたしのように書架からまた持ち出してくる人は少ないだろうな、すでに、という気がする。
そこへ行くと志賀直哉はやはり屹立し聳立するものがある。厳然とあり、『暗夜行路』を凌ぐ作品がそうそう出てこれるものではないと思えてならない。なぜか分からないが『暗夜行路』と匹敵しうるのはドストエフスキーの『罪と罰』だという直感が私の内側を奔っているのである。
1999 11・17 4
* バグワンの『ボーディダルマ』を読み上げて、昨夜からまた『究極の旅 十牛図』を読み返し始めた。無心を得たい。が、得たい得たいはそれもエゴでありマインドの所為である。なにも考えずにバグワンの言葉と声に聴き入る夜々を重ねて行く。
1999 11・25 4
* 三木紀人さん訳注の『今物語』(講談社学芸文庫) を、またまた楽しんで読み返し始めた。どんな不愉快なざらついた気分も、これを読み始めるとたちまち故郷に帰ったように、うっとりと和む。鎌倉時代の優秀な説話集で、他の多くのどれよりも、文芸としての雰囲気に濃密な統一感と優雅さとがあり、三木さんの訳も注解も驚くほど的確で簡潔である。ある程度まで平安物語や和歌の魅力に馴染み、貴族社会の風情にも通じた人には、この本に盛られた理解や豊富な知識は堪らない味わいで誘惑してやまないだろう。超満員の電車の中で窮屈な姿勢で読んでいても、完全に、時の感覚を喪っているほど没入できるから嬉しい。
1999 12・3 3
* 今年の三冊をとある新聞の依頼があり、例年は断るのだが、今年は書いた。
小西甚一『日本文藝の詩学』高田衛『蛇と女』持田叙子「折口信夫独身漂流』で、理由は、新聞に出たあとに此処へも書き込むつもり。
1999 12・4 3
* 狭衣物語に、とてつもなく行儀のわるい女房たちが、狭衣中納言をまえにして上を下へ大騒ぎし、几帳は倒すわひっくり返るわ、「ぱぱ」ともの言うわを演じてくれる。こういう場面は源氏物語にも枕草子にも夜の寝覚にも無い。しかし無い方が異様なので、有ったに違いない。そう思っていたとおりのミーハーぶりが騒々しく活写されているのに吃驚し納得し面白かった。途中だからまだ断定できないが、狭衣を読んで、ますます寝覚の上のリアリティーが懐かしい。寝覚の上は魅力と落ち着きとのある人間的な貴女に描かれているが、狭衣大将は、どうかすると光源氏以上に現実離れのした造形のように思われる。 1999 12・10 3
* 「狭衣物語」とバグワンの「十牛図」と直哉の「日記」をずっと併読し続けている。ときどき「謡曲」も読む。昨夜は「砧」を読んだ。砧の妻が死んでのちに、夫の前にあらわれて、生前「邪淫」の罪深くして死後の責め苦に悩まされていると告げているが、この「邪淫」という強い言葉にあらためて驚いた。これは考えてみてもいいカンドコロであろう。明後日に、堀上謙夫妻と小林保治氏とで忘年会をする。その際にでも専門家のお二人に聞いて見よう。
1999 12・16 3
* 前夜、バグワンの「十牛図」を読みながら突如動揺し、眠れなくなった。人は社会に追従することで己が「決断」をすべて回避し放棄し、そのように生きていない者を狂人のごとく誹り、非現実的な愚者と嗤い、しかしながら、至福の静謐に至る者はすべてそのような狂人のように愚者のように遇されて生きてきたとバグワンは言う。その通りだと思う。バグワンに出逢うよりもずっと以前からわたし自身がそのように生きたかったから、そう説かれれば本当に深く頷ける。
頷けるにも関わらず、そのように生きることでどんなに傷ついているか、耐え難いほどである自身の弱さに気づいて、あっと思う間もなくわたしは動揺し動転してしまった。寝入っていた妻を揺り起こして苦しいと訴えた。訴えてみてもどうなるものでもない、わたしは惑ったり迷ったりしたのではなく、ただ意気地なく辛く苦しくなっている自分を恥じ、情けなくなったに過ぎない。
* 義経記を読み狭衣物語を読み、おそくまで物語世界に漂いながらやっと寝たが、朝早くに目覚めて、また狭衣大将と付き合い、二冊本の第一冊をとうとう読んでしまった。
主人公としての狭衣をわたしは好まない。
実の兄妹のように馴れむつび育った従兄妹の「源氏の宮」への深い恋のゆえに、狭衣は、帝に直々に望まれた内親王との結婚をためらいつづけ、そのあげく、ふとしたことからその「女二の宮」を犯して妊娠させてしまう。そのような劇的な状況設定は、物語としては珍しくないにしても、その表現は、なかなかのものである。若宮を生んで後のうら若い母宮が、徹して狭衣を拒絶するのも劇的に優れている。
もう一人「飛鳥井」という女性の危難を狭衣は救ってやる。二人ははかない愛を育むが、狭衣のエゴイスティックな不徹底ゆえに、飛鳥井はべつの男に西国へとさらわれてしまう。女はだが抵抗し、入水しする。だが、どうやら飛鳥井は救われてどこかでに生きているらしかったりする、のが、巻二の最後であるが、こういう狭衣大将を実のある男には思いづらく、光源氏のほうがまだしも遙かに好もしいし、伊勢物語の昔男はもっともっと懐かしく好もしいと思ってしまう。
1999 12・19 3
* 辻邦生の佐保子未亡人からモウンニングワークの遺著を贈られた。昨日は新井満氏から、今日は三田誠広氏から、エッセイ本を貰った。
凛として襟を正すような本が読みたい。そういうものが書きたい。書けるモノなら何であれ、書きさえすればいいのだろうか、本になればいいのだろうか。そう思っていた時期もあったが、そうは思わない。
義経記を読んでいると、流布本の平家物語が、いかに素晴らしい古典かが分かる。
1999 12・22 3
* 左馬頭義朝が討たれて源氏の御曹司たちは、ちりぢりに或いは殺され或いは助けられている。義経記はそこから始まり牛若は鞍馬山に入り、いつか金売り吉次に誘われて奥州に入る。またひそかに都に戻り武蔵坊弁慶と主従になり、再度奥州に入る。鎌倉の兄頼朝が挙兵するとはせ参じて兄弟が涙ながらに対面し、ただちに義経は平家追討の大将軍に任じられる。
平家追討の大活躍はあっというまに省略されて、もう、腰越から義経は兄頼朝の厳命で都へ追い返されてしまう。この辺に、いかにも既成の平家物語を意識した叙事が見え、義経記もまた大きな意味での平家物語異本群の一角を成していることが推量できる。源平盛衰記がそもそもそういう異本の大雪崩を成しているとわたしは感じている。
* 平家物語の流布本、覚一本などがいかに優秀な文芸性を備えているか、幾度言っても言い足りない。よくまああそこまで言葉や思いを鍛錬し精錬し洗練したものだと感嘆する。太平記はどす黒い。血の色がしばしば感じられる。平家物語でも烈しい戦が繰り返されながら、拭ったようになまなましい血の色、血の印象は拭ったように清められている。小林秀雄は平家物語の「活気」の面をとくに称揚したけれど、それをさえ含めて優美に凛々しいのである、平家物語は。
1999 12・24 3
* 兄の『家の別れ』をひらいてみて、最後の最後にわたしの名前を母の思い出とともに書き添えているのを読み、思わず声を忍んで泣いてしまった。ある心親しい読者からも、わたしの「湖の本」たちに取り囲まれるように北澤恒彦の『家の別れ』などが自分の書架に今も見えていますと便りを貰った。
この本を落ち着いて再読するのには、もう少し時間がかかる。
1999 12・25 3
* 用事の合間に映画「若草物語」を覗いたりすると、角川文庫の分厚いのを愛読した高校一年生ころを思い出す。あの頃でもこの原作は十分に時代小説であったが、あの少女たちは、まだ感覚的に手の届くところで活躍していた。いまでは、見ていて「はづかしく」なる。これは日本の古典などで、ほんとうに気品に富んで非のうちどころない人を見るときの感情である。あまりに相手がお行儀いいので、こっちが恥ずかしくなる。そういう思いを、この物語の少女たち、メグ、ジョー、エイミー、ベスたちはさせる。させてくれる。渋谷や新宿や池袋で出逢うストリートガールのような異様な化粧と服装の少女たちと較べたりするのは、もう間違いなのではないかと諦めかけている。
すぐれた少女というのは、少年時代にも、なぜか丈高く神秘的だった。いまでも胸の轟くような「はづかしく」も丈高い少女とまったく出逢わないわけではない、が、寂しいほど払底している。
『若草物語』はどこかで『ハイヂ』や『小公子』『小公女』また『クオレ』などを読んだ昔を思いださせるけれど、もっと溯ればオースティンの『高慢と偏見』のような名作の系譜とも見える。あれはまことに優れた小説であった。
* 志賀直哉の明治四十三年の日記をゆうべの夜中に読み終えた。谷崎の「少年」を、とても変わっている、同情はしないが、とにかく面白かったと書いていた。三十七八年では連日連夜の歌舞伎や義太夫の評判に終始していたのが、白樺の創刊からは、ひとかどの作家らしく短編を書きついで、意識は甚だ高い。「濁った頭」のころである。谷崎はすでに「刺青」などを新思潮に発表していた。同人雑誌時代であった。
わたしは「仲間」で文学したことが一度もない。出身大学を基盤に二度ほどそんな動きに絡められそうになったけれど、成るまいと予期したように雑誌は成らなかった。惜しいとも思わなかった。寄って集って青臭いより、一人で孤独に青臭い方が恥ずかしくなかった。
* 悪癖かも知れないが、浴室で、長湯しながら本を読むくせがついてしまい、何かがないと落ち着かない。上等の紙をつかった企業PRの雑誌には、ときどき堪らなく刺激的な佳い記事の出ていることがある。「ちくま」「本」「波」など文芸的な物がかえって面白くなくて、競馬や鉄道や電信電話や商社の贈って寄越す物に、斬新な中身の興味深い記事が特集されていたりする。ところが不景気のためか廃刊して行くのも増えてきた。真っ先に切られて行くものだろう、雑文で稼いだり対談や座談会で稼いでいる人たちは首筋が寒いだろう。
* 最近はビニールカバーでしっかり装幀されている古典の小型本をときどき浴室に持ち込む。『堤中納言物語』など短編で、ほどよい。巻頭の「花桜折る少将」本文を、頭注から対訳から解説まで読み上げて、程のいい時間になる。なんとまあ先行の源氏物語が偉大なお手本であったかなど、じつによく分かる。可愛い人を寝所に忍び込み拐かし得たと思って自邸に帰った貴公子が、まんまと頭を剃った尼お祖母さんを抱きかかえてきたと分かる短編だが、短い中に趣向が感じられ、わるくない。小説の歴史も久しいものであるなと感心する。
* 今夜は、むかしに、中公新書『古典愛読』を書かせてくれた編集氏と、池袋で恒例の歓談。久しいお付き合いである。
1999 12・27 3
* 作家・日本ペンクラブ理事の肩書で、某紙に昨日あたり掲載されたろう、今年の「私の三冊」を挙げておく。
小西甚一氏の本『日本文藝の詩学』は一読し、ペンを片手に再読し、別色のペンをにぎって三読し、さらに通読した。「分析批評の試みとして」と副題して主に芭蕉句がとりあげてあるが、「或る作品が読む人を感動させるのはなぜか。批評は何をなすべきか」という著述の動機が完璧に説き明かされているのはむろんのこと、文藝の研究とはどれほどのことであるかを、あだかも最高の人生指南書にふれるほどの的確さと簡潔さで、わたしを感動に震えさせた。文藝論のほんものに出会いたい人、また芭蕉句に親しんできた人には至福の読書となろう。
高田衛氏の本『蛇と女』は、出るべくしてなかなか穴から出なかった「蛇」を、ついに引きずり出して論策した希有の労作であり、「女」ないし「性」に限定されてはいるが、「蛇」論議の非常に有力な優れた一角が豊富な事例や表現と共に解説されたものとして、この価値は、信じがたいほど高い。神話的・民俗学的な「蛇」論は若干先行してはいたし、問題提起はわたしも多年続けてきたが、社会学的な、また人間学的な面からの論議が続々期待される。蛇ないし龍への根深い洞察抜きに人間の歴史は語れない。
持田叙子さんの『折口信夫・独身漂流』は優れて新鮮で切り口深く、若き学究の個性に彩られ魅力横溢、今後を期待させる。
1999 12・28 3
* 義経が腰越から追い返され、土佐房に夜襲をかけられ、ついには都を落ちて吉野の山にさすらうて以後の『義経記』には、哀れも添い、引き込まれる。ことに佐藤四郎兵衛忠信の奮闘や最期など、大きな英雄に仕上げられていて、叙事に生彩がある。勧修坊の鎌倉へ下っての頼朝相手の堂々とした陳述も気持ちが佳い。義経がめそめそと出家じみたりせずに敢闘精神をまだ失っていないのも嬉しい。
『うつぼ物語』『夜の寝覚』『和泉式部日記』『更級日記』そして『狭衣物語』「堤中納言物語』と読み継いできて、今度の『義経記』は大いに様子が違う、けれど、馬琴の『近世説美少年録』ほどは通俗でなく、古朴な語り物・読み物の味わいを楽しませる優れていいところも持っている。大方の義経や弁慶らの物語は少年時代から知っているので、血の通った郷愁も味わっている。
2000 1・3 5
* 『義経記』を読み上げた。印象強烈な幾場面もがあり、これは声に出して読めればもっと面白くなるに違いない。義経の「そらおそろしき少年」時代から衣川の自害までは謂うに及ばず、弁慶、忠信をはじめ多くの武者たちの、すこし大津繪ふうであるが軽妙で颯爽とした個性の魅力は、忘じ難い。これもまた平家物語の大雪崩の裾野をなし、物語を補完している。平家物語での義経らの活躍がみごとに割愛され、その前後をたっぷり語っているのがその証拠である。とても、楽しんだ。
2000 1・7 5
* 出雲国風土記を読んでいる。なぜか溌剌として生彩豊かに昂然とした筆致であるのが、頼もしい。出雲は出雲だぞと胸を張っているのが気持ちいい。部分的にはあちこち読んで知っていたが、今度は、隅々まで読み通してみようと思っている。常陸国風土記は以前にかなり気を入れて読み、一作、珍しくも茨城県が舞台の小説を書いたことがある。「ぎょうせい」が出した府県別の文学全集の、京都府・滋賀県・奈良県にわたしの作品が採用されているのは、ま、当然として、茨城県の巻にもその小説「四度の瀧」が載っている。べつに出雲の島根県でも小説をと思っているのではないが、現世にくさくさし飽き飽きしてくると、つい風土記が読みたい、日本書紀を通読しようかな、などと考えてしまう。
2000 1・10 5
* 三月十一日土曜日に、もう随分昔から断続して続いている「秦文学研究会」を新たな構想で再開すると報せがあった。また新たに『清経入水』から読んで行くらしい。十数年前だろう、研究会の始まった頃は主宰の竹内整一現東大教授はまだ専修大学におられ、世話役の原善現上武大教授は、まだ作新短大かその前の夜間高校の先生だった。新たに東大の学生たちも加わってもらいながら続けたいということだろうか、有り難い。必ずしもいつも一般に開放していなかったかも知れないが、かなり突っ込んだ討議がされているらしく、わたしは、本番の研究会には出ないで、終わる頃に参加し、少しだけ話す。そして二次会がフリートークの懇親会になる。
2000 1・11 5
* 出雲国風土記を克明に読んでいる。風土記にはそれなりの記載統一のマニュアルがあつたらしいが、現存のもので見る限り、国によって相当の違いがある。出雲の国のものは、筆記責任者が固有名詞で並んであるのが珍しく、想像以上に整然と記事が整備されまた具体的で、その気で一つ一つの「もの」の名を読んでいると、確かに手づかみに「出雲國」に触れている錯覚を覚える。観念を語らず、事実ないし事実と思って伝えてきた事や物が律義なほどこまかに記録してある。その印象は「山」や「川」や「木」や「花」の名を、ものは尽くしに挙げていた「枕草子」の名辞の列挙の不思議な魅力に通い合っている。
* 昨日また高田欣一氏の「文芸通信」が届いた。前田青邨の名作「知盛幻生」と能の「船弁慶」を語って、秀逸のエッセイだった。わたしの『能の平家物語』にとりあげた「船弁慶」の説にも有り難い丁寧な挨拶があって恐縮したが、そういうことを抜きに、高田さんのエッセイは文もよく、想がまたすばらしい。いつかこういうものこそ、佳い本になって欲しいと思う。江藤淳の死を氏なりに語られた朝日新聞への感想文というのも読んだが、よく胸に届いて適切なものであった。
2000 1・20 5
* 創の『硫黄島』ざっと一読した。きちっとした感想は、もう一度ゆっくり読まないと出ない。読みやすくて、わるくないと感じているが、いいかどうかの見極めが一読ではつけられない。ルポルタージュ小説とも、内向の世代の跡継ぎみたいだとも、色んな要素の、時には妙な具も混ざっている「混ぜ飯」のようだとも。だが誠実に、落ち着いた佳い仕事のように感じている。批評でかなり受けるかも知れず、全然受けないのかも知れない。その辺、文運を祈ろう。
2000 1・23 5
* 大阪へ発つ前夜に黒川創の『硫黄島』をもう一度読み返していって、恥ずかしからぬ良質の文学・文章であると、感じを深めた。評価されていい良心の作品であり、瑕瑾は免れてはいないが、「あらたま」の磨き甲斐ある作品と思われた。さらに読み進めたい。
2000 1・25 5
* 黒川創の『硫黄島』を再読した。
これは、ほんとうに佳い作品、久しぶりに、心に触れて永く響きつづける文学の生気を浴びた。
佳い構成で、巧みに纏まり破綻なく、文章は、ルポルタージュふうでありながら独白と対話・会話の配合に説話も混じり、その自在さは、わるく反転すると緩みになるのかも知れないけれど、その不安はさほど露出しない。語り手の息づかいに混じる孤心が、かすかな泣き言のように輾転反側するにかかわらず、「硫黄島」を語る芯の真は、揺るがない。じつに誠実である。「硫黄島」という独特の歴史的な生体を、視点でなく視野として掴み出す手法、殺して解剖するのでなく、生かして立ち上げる手法、これが魅力的であった。
文学の、斯くありたい実験性も、人間の把握も表現も、身贔屓だとは言わせないある種の完成度・完結度を十分持っている。
なにより、芸術を根底で光らせるファッシーネーションの優しさも毅さも、誠実さも、この作品は静かに湛えていて、それが嬉しかった。それが、「硫黄島」をただの戦争の落とし物としてでなく、人間と自然の歴史から、丸彫りに、「生き物」として生かすことに繋がっている。ただ「戦場」としての過去の「硫黄島文学」のもちえなかったモノを、さらりと、しかしかすかに悩ましげに表現=提出してくれた。有り難うと読者の一人として伝えたい。読者の大勢が同じように言ってくれるかどうかは分からない、が、読んで欲しいなと期待している。
* 黒川創の「勉強」もよく活きた。創の才能がほんとうに出口を得たのではないかと思う。死んだ兄に、この小説をこそ読ませてやりたかったと、残念で残念でならない。
創の父には、息子の大作『若冲』は、素材的にもよほど気遠く気疎かったかも知れないが、この『硫黄島』には少年の昔からのこまやかな父の薫陶に自然にむくいてさりげない宜しさが、ある。あると、わたしは思いたい。兄に心安んじて欲しいのである。
* 親鸞と唯円との「対決」とでもいう内容の、山折哲雄氏の中公新書『往生と悪』を戴いて、いま、集中しているさなかにある。『歎異抄』は親鸞の信仰を語って最も信頼され愛読されてきた「近代発見」の古典である。この親鸞直弟子の著は、浄土真宗を真に樹立した蓮如により中世のさなかに発掘発見され、蓮如は驚嘆しつつ、これを、門外不出どころか、生半可な誰にも見せられないと厳しく封印して遺した。近代の門徒がこれを解禁したのであり、その感化は広く及んで、余恵にはこの私もあずかっている。
だが蓮如は何かしら『歎異抄』に深く畏れた。杞憂であったか、問題があったか、山折氏は、明確に問題があった、極端に言えば「師は弟子に裏切られている」とまで論じ進めている。すこぶる刺激的である。
山折氏の論点の意味しているところは、問題提起としては容易に理解できる。途方もないことが言われているようで、そうではない。問題の提起から先へどう論旨が有効に展開するかが問題であり、革新的な、偉大な一石が投じられて、大きな課題にわれわれは当面するであろう、その予感と期待の大きい論述が、まだ続いている。途中である。ある畏怖の思いとともにわたしは著者の導きにしたがい、途中の難所を一つ一つまた先へと上り下りしているところだ。
2000 1・31 5
* 山折哲雄さんに頂戴した親鸞と唯円の論は、大きな構図も、山折さんの読みも論点も論旨も、みな、わりと真っ直ぐに読みとれた。これは、大きい。たいしたお仕事であるなと感じ入った。小説を読むより読書の面白さが味わえたほど、劇的な表現になっている。面白づくではなく面白く、面白い以上に厳しい議論で、『歎異抄』に簡単に降参してきたわれわれのやや安易な共感や立場を再検討しなければならない。わたしは、潔く山折さんの軍門に降ろうと思う。
唯円が「否定」されているのではない、『歎異抄』が否認されているのでもない、それ以上に、また「親鸞」の大いさが増したのである。言われてみれば、ああそうかと目から鱗の落ちる一つの例がまた加えられた。「歎異抄と名づくべし」と唯円が胸を張ったその瞬時に、彼は、親鸞を踏み外した。親鸞には「歎異」は無かった、師も弟子もなくただ阿弥陀の本願しか無いものに、何の歎異のあろう筈がない。
唯円には、親鸞は師で自分は弟子で、師説に最も近い私説、他は異説だった。親鸞はだが「弟子一人ももたずさふらふ」と言い切っている。師弟相承の信仰なのではない、ただ阿弥陀如来に戴いた信仰なのである。誰もがその「信」に徹底していれば何処に「歎異」の我執が生じ得よう。唯円の信仰は深く純で清しいが、親鸞の域に遠い。
『歎異抄』への過度の依存は静かに修正されねばならない、その上で愛読し畏敬したい。山折さんのお気持ちはそんなところか。
2000 2・1 5
* 山折さんの中公新書『悪と往生』を読み進めて、基本、昨日のわたしの感想に変更はない。が、唯円論が進んでの親鸞の理解で、おやおやという見解の衝突点があらわれてきた気がする。山折さんは『歎異抄』に表れる親鸞の言葉の中の、「一人」の重みを慎重に計って行かれる。もつとも、「親鸞は弟子一人もたずさふらふ」の「一人」は、素直に、一人も持たない、誰一人も弟子には持たない意味と取っていいだろう。これは師弟の問題と言うよりも、阿弥陀仏の前には、みなが一列平等の信心を授かっているのだからという強い気持ちである。そこまで読んで自然当然であり、単純な師弟論ではない。山折氏もそこまで読んだ上で、唯円「歎異」の心根に不足を見られたのである。
それなのに、もう一つの「一人」に、なぜ、まわりくどい解釈を巻き付けて、自縄自縛の見当はずれ(と思わせる方)へ顔を向けて仕舞われるのだろう、いやいや、まだ、そんな失礼を言うのは早い。本はまだ中途なのだから。
* 「上人の常の仰(おほせ)には、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」
* これがそんなに難儀に解釈しなければならない「親鸞一人がため」だろうか。親鸞の信のありようを深く素直に聴く限り、彼がこういうのは当然であるとともに、例えば唯円の身にすれば、同じく「唯円一人がため」の阿弥陀の本願なのである、さもなければ、信の徹底は無くなってしまう。阿弥陀の慈悲に差別は無い。いわば師弟になぞらえて謂うなら、誰もが全く同じ阿弥陀の弟子、師は阿弥陀なのである。師弟相承の慈悲や信仰でなく、ひたすらに直接、みなが阿弥陀に縋っている。その意味を「よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」は当然で、「ひとへに唯円一人がためなりけり」も当然なのである。ここは、そういうことを、そういう途方もなく深い大きい真実を親鸞は語っているのであり、これは独り言であるとか無いとかの議論など、あまり意味が無く感じられる。端的に、阿弥陀と衆生の一人一人との絶対不二の縁が確信されているのではないか。
山折さんの読みはもう少し先まで辿って判断しないといけないだろうが、なんだか、むりやり議論が回旋している気がして、おいおいおいと真夜中に声が出てしまった。
2000 2・2 5
* 『悪と往生』の「親鸞一人」の山折さんの読みは、やはり、妙にぼそぼそと調子が上がらない。が、ゆうべも言うようにここは「決然」とした甚信の極地でなければならないようにわたしは感じている。阿弥陀と親鸞とが直に向き合っている、阿弥陀はひたむきに親鸞一人のために顔をまっすぐ振り向けて下さっている。親鸞は阿弥陀に、阿弥陀は親鸞にぬきさしならず、他の介入もならず、占有されてある。ただ親鸞にはわかっているのだ、それが法然でも唯円でも、この私であっても、全く同じ意味で阿弥陀と「一人だけ」とが真向きなのであるとも。阿弥陀如来が無量光であるとは、いかなる衆生の一人一人のためにも、やはり「ひとへに我一人がためなりけり」と信じて良い慈悲を与えている意味だろう。そのことを親鸞は我が身に引きつけて絶対として語っているのだから、これは強い強い「信」「帰依」の表白表明なのである。
* 「上人の常の仰には、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは、「ひとへに我一人がためなりけり」の決定的な表現なのである。だから阿弥陀の恩は有り難い。そう親鸞は心から帰依し感謝している。それほどの思いと信仰のまえにあって、唯円の「歎異」の嘆きなど何事であり得るのか、問題にもならないではないかと、そう親鸞の大いさによって山折さんは唯円の信の不徹底を咎められているはずなのである。そういう「親鸞一人がため」のはずだ。山折さんの与えられた『歎異抄』批判は核心を射抜いていると思う。
去年の初めには小西甚二さんの『日本文藝の詩学』に多くを学んだが、今年は山折哲雄氏の新書に教えられている。有り難い。
2000 2・3 5
* 山折哲雄氏の『悪と往生』は気持ちよく読了した。山折さんの本では最近になく立派に力が入っていて、説得された。親鸞理解の「表現」など、たいへん「文学的」で微笑ましくさえ感じられたが。
一つ確認できたのは、親鸞や唯円や「歎異抄」の理解に大いに役立つけれども、死生の境を歩み行く真の安心を得られるような著述ではなかった。研究といい哲学といい論考といい、或る点から眺めれば生き死にの大事には何の役にも立ってくれない。まだしも優れた文学作品から得るものの方が深いことがある。魂を揺さぶられまた深められ導いてもらえる。
ヴィトゲンシュタインは今世紀どころか哲学の歴史始まって以来の真の巨人だが、彼は自身の偉大な著作のすべてをゆびさして、要するにそれらが「ノンセンス」の一語に尽きていることを識り、その向こうへなお歩んでもらうために書いたに過ぎないと言っている。聴くに値する凄みのある述懐であり認識である。哲学の役はそんなところにある。
* 随分以前から枕元にあってわたしを呼び続けてやまない一冊の本がある。深沢三千男氏の『源氏物語の深層世界』である。「王権の光と闇を見つめる眼」と副題してあるが、これにはとらわれない。深沢氏の文章は稀にみる悪文である。しかし、縺れ返ったことばの網の目をくぐり抜けて行くと、途方もない「世界」が透視され幻視され、戦慄させられる。その魅惑の力をうまく言い表せないが、一度の読書に、本文を十行ないし一頁もよめば満腹してしまうほどの奥行きがあり、本を置いてゆっくりと想像の闇の底へ降りて行く。そういう本だから、実に何十冊分もの読み応えがする。一部でも引いて書き写したい衝動にかられるが、そういう真似はしない方がいい。しても役に立たない。
2000 2・9 5
* 井上靖の次女黒田佳子さんから、父君追想の一冊を頂戴し、終日少しずつ少しずつ音読して、ほぼ読了してしまった。懐かしい井上先生の面影が、暖かく柔らかく達意の文章で編み上げられて行く。かなりの範囲でわたしにも想像ができ推察が利き、興味津々の好文体を成している。ふみ夫人から伺うよりも、お嬢さんから聴かせてもらう方がなぜか聴きやすい。
医者のこと、三島由紀夫のこと、旅と取材のこと、文壇の先輩とのこと、中間小説のこと、墓地を買うこと、美術館やお寺での作法、母親への姿勢のこと。
そうではあるまいかと思っていた一つ一つが、確かめられて行く面白さ、興味深さ。仕事をしていながら、一息つくごとに本を手にとって読んだ。黙読などしていられずに音読した。
井上靖という作家から受けたかずかずの好意や配慮の大きさに、今さらに身内が熱くなった。去年、短編小説全集の最終巻のうしろに、長い感想を書かせて貰えたことが、また今さらに嬉しくなった。谷崎や川端のような芸術家とはちがった、漱石や藤村ともちがった、戦後社会の欲した新しいタイプの物語作家であった。話術に長けた紳士であり、文壇の大きなボスの一人であった。死を直前にして深い不安、大きな畏れを沈着に娘に語りおくことの出来た人であったことに、感銘を新たにした。
* 清水書院から出ている『親鸞』を持ち出して『歎異抄』の例の「親鸞一人のため」という箇所の著者の説を読んだ。親鸞の「きちがいじみた」感想のように読めるが、それは阿弥陀如来に向かう「心構え」なのだとしてある。わたしなら「帰依」いや、やはり「深信」と読むのだが。
* しばらく島崎藤村文献と平安物語に関する論文集数冊を身の側に置いて読んで行く。新しく配本された直哉『日記』の三巻めも楽しむ。
2000 2・10 5
* だが、面白いの質はちがうけれど、わくわくするほど面白かったのはゆうべ床に入ってから克明に読んだ、『夜の寝覚』を論じた国文学研究者たちの諸論文だった。
とくに後半が無残に散逸した物語だが、それにも関わらず現存している部分で十分な完結性を確保していて、それで鑑賞に堪えると言うよりも、それだけで読んでしかるべき、遺憾ない完結した物語だとわたしは思ってきたが、まったく同じ根拠から同じように論じている論文のあることに、驚きもし、嬉しくて堪らなかった。また、「夢」の扱い方、運命の予示に対する感性の類似などから、ほとんど、この物語の作者としては『更級日記』の著者以外に適切な作者はいないと、殆ど決めてかかって読んできたが、これにも論調においてまったく同じに主張し立証している研究者がいて、これにも、思わず床の中ではねてしまいそうに喜んだ。『夜の寝覚』に『源氏物語』の偉大な感化を否定することなど決して出来ないが、その大きな手のひらから一歩も出られなかった亜流物語とは、わたしは思っていない。優れてこの物語ならではの個性的な深みへ、人間創出の筆を運んでいて、敬服できるのである。この点にも同様に論じ評価して呉れている論文がちゃんとあり、久しぶりに「論文」読みの醍醐味を味わい続けて、夜更かしも夜更かしをしてしまった。だが、幸福とはこういうことかなあと思う、心から。
* 黒田佳子さんの父井上靖を語る一冊も、二日かけて、おおかたを音読、読了した。とても気持ちのいい懐かしい読書であった。少し前に芸術座で「月の光」という井上さんの代表作の一つを芝居にしたのを、観ていた。あの舞台で水野真紀の演じていたお嬢さんが、たぶんこの本の著者である。何度かパーティーなどでお目に掛かっている。
2000 2・12 5
* 梅原猛氏文化勲章お祝いのお返しに、日向神話の地を探訪した紀行風考察の一本を頂戴した。読み始めたが、すこぶる気合いがいい。珍しい現地写真の豊富な中に、梅原さん自身が撮られているどれを見ても、ペンの理事会で草臥れきっている顔とは大違いで、溌剌として元気いっぱいの笑顔なのが、心嬉しい。いつであったか、死んだ兄との手紙やメールのやりとりのなかで、わたしが梅原猛がずいぶんいい顔になってきたと言い、兄もその点満点異存がないと返事してきたことがある。正直のところ大声上げて斎藤茂吉なんかをやっつけていた頃の梅原さんは、やたら闘争的で静かなところが無かった。書評や解説で、わたしは、ずいぶんその辺を非難気味に書いた覚えがある。しかし近年、ときどき、うん、いい顔をしてると眺めるときもある。が、今度の本のなかに写っている梅原さんの顔は、さらに飛び抜けて、見ていて心地佳い。それが行文にも乗り移っていて、歯切れよく、少なくもえらく楽しんで書かれてある。楽しめる。
日向が「天皇家の故郷」かどうかは、さしあたり関心がないが、神話は少年の昔から大のお気に入りの世界である。出雲と日向が神話的に大切なのはその通りだが、梅原日本学に中国筋の、ことに吉備をめぐる神話探訪が加わって欲しい。吉備は背後に出雲を背負い、同時に神武東征神話の道筋であり、それだけでなく、皇統のなかでも微妙に問題の多い垂仁景行天皇頃の事跡が、縁深そうに察しられる。
なににしても、意欲的な「旅」にどんどん踏み出して行ける梅原さんの気迫に、改めて敬意を払う。ご健勝を祈る。
2000 2・13 5
* 木更津市木更津から庄司肇氏の出される「きゃらばん」49号は、「私」小説論のための第四集で、特に、巻頭の『「私小説」私論』はたいした面白さであり、重要な提言である。出たばかりのもの故、ここに要旨を紹介してはいけなかろう。逢ったことは一度もないが明らかに私より年配の文学魂矍鑠たる方で、お医者さんである。著書も沢山ある。なんとなく心親しい。湖の本にもずいぶん送金していただいている。恐縮し感謝している。 2000 2・16 5
* 梅原猛氏の『日向神話の旅』では、神話が、神話的だけれども何らか拠り所のある事跡として探訪されており、だが、他方に歴史的に現存した「委奴國」や「邪馬台国」などの歴史的・文献的な事実とは、触れ合おうとしていない。難しい機微ではあるが、まともに九州での神話時代を問い続けるには、「委奴國」や「邪馬台国」時代との、また「肥前國風土記」などとの接点を失うことは、大きな不備に繋がる。
紀行として読めば梅原式でもよく、だがもう一段踏み込んだ研究となるには、さらなる用意の深さが望まれる。わたしの「蛇=水神」視点などからみても、梅原さんの神話理解には、想像力のやや尋常な薄さが感じられる。一点注視でやや近視眼的にその場でことを片づけてしまおうとしている。現地に即する姿勢は大切であるとともに、それにのみ足をすくわれない、もっと堅固な視点と広い視野との確保が大切だろう。その辺が梅原日本学がご本人の大きなかけ声ほどは学問世界で正面から問題にされない理由になっているのではないか。参考文献や先学のオリジナリテイーへの配慮考慮も少なく、面白い評論に終わることが多いのは惜しまれる。
わたしの定義ではいい「評論」は面白くて正しいもの、良い「研究」は正しくて面白いもの。梅原さんの著述が、正しさへの深い手続きや配慮以上に、面白さへの熱中度が高いと人に感じさせやすいのは、学問的には明らかに損であり欠陥になっている。
* 源氏物語を「匂兵部卿宮」の巻から読み始めた。「紅梅」「竹河」とならんで、光源氏死後の過渡期の模索がつづき、そして宇治十帖へ連続する。なにもなにも大きな或るものの通り過ぎていったあとの物語であり、物語の歴史でいえば、最も具体的に、のちのちに感化し影響したのも宇治の物語であった。少なくもそこでは、男と並んで、女の主体的な運命が、男の蔭ででなく表へ現れて、問われ始める。大君、中君、浮舟の三姉妹が、匂宮や薫大将とほぼ対等に人生を悩み、それぞれに自身を自身の意思で処して行こうとしている。わたしは殊に宇治中君をむかしから愛してきたが、その生き方が、『夜の寝覚』の中君に引き継がれて徹底して行く面白さを、大事に感じている。寝覚や浜松の面白さを満喫したいが為にも、宇治十帖を気を入れて読み直したい。
思えば未熟は未熟ながら、胸膨らませて大学に入った年に、専攻に「紀要」らしきものがはじめて出来、一年生ながら投稿して活字になった文章が「宇治十帖」論だった。お話にもならないものだが、あの頃のわたしの源氏読みは、まだ島津久基校訂の、たいへん読みにくい岩波文庫版だった。それでも魅力にひかれ、繰り返し読んだ。
「匂宮」の巻のような、ま、半端な巻でさえ、読み始めるとたちまちに別次元に引き込まれる。こっちの方が、もともとの自分の世界のように思われてくるから、妙だ。
2000 2・17 5
* 志賀直哉の『日記』三巻めを見ている。若い頃とちがい記事が簡単で、一瞥でおよそ見える。おそるべく日々の来客の多い人であり、同様に他を訪問することの多い人である。瀧井孝作先生は一時期直哉の家の近くに住まわれ、志賀・瀧井の交互の訪問は日のうちにも繰り返され、話し、遊び、将棋を挑み合い、用事を頼みと、思わず唸ってしまう親密ぶり。もともと、わたしに、そういう性癖がない。瀧井先生は数度八王子のお宅からお電話を下さり、言下に「いらっしゃい」であった。わたしも、即座に家を出たものの、自分から思い立ってお邪魔するといったことはしなかった。
志賀直哉の日々を覗いていると、そういう交際ぬきの日常はあり得ないかのようである。
家族も多く、直哉は癇癪玉を始終破裂させており、子どもたちも奥さんも直哉本人も、しょっちゅう順繰りに頭痛や風邪や発熱で困っている。そんな中で、不規則に創作している。『暗夜行路』前編の初版が三千五百部だとある。妥当だなと思う。
* 直哉の日常から、藤村の『家』に転じると、これはまあ何という深い昏い嘆きの世界だろう。小泉三吉は新妻お雪を迎えて教師暮らしの合間に、妻や書生と慣れない畑仕事をしている。そんな辺りがわずかに日の光の作中に照っているときである。藤村の妻は秦氏であった。いまその縁者に当たる方が、札幌から「湖の本」を買っていて下さる。
「お雪」の人生は悲しく若くして果てた。子どもたちも多く生まれて多く死んだ。そして『破戒』などの作品が世に送られた。
よくは知らないのだが、藤村の初期の作品は「緑陰叢書」の名で出版されている。改造社とか博文館とかいった既成の出版社からでなく、いわば藤村自前の出版方式を採ったもののようである。そういうことにもわたしは関心があるが、よくよく思えば、わたしは藤村の伝記的な理解を十分持っていない。適当な参考書も手元にない。ただ主要作品だけを大切に読んできた。『破戒』『家』『新生』『夜明け前』それに『春』や随筆や短編の主なものを。やはり「年譜」でいいから詳細なものを『全集』から読み取っておきたい。全集に語彙索引の無いのは残念だ。索引のない全集は落第だ。
* 源氏物語に戻ると、家に帰ったような安堵感がある。
2000 2・18 5
* 「白磁」という、佐賀県伊万里辺の同人誌がときどき届く。今度のは主宰の片岡繁男氏の長編一本で一冊になっている。片岡氏だけが東京の中野在住と同人名簿にある。半分ほど読み進んだが、雑駁な構成で、物語でいう「語り地」があらわに頻出し、話題のとびはねかたに放埒感が凄い。しかし題材とするところの生月の隠れ切支丹がらみは、なかなか興味深い。安易な語り地を全部殺ぎ捨て、もっと小説の文章で語り手の主観をおさえながら切実に書けば、とても深いものが現れ出そうな気がする。亡くなった三原誠氏のキリシタンものは、もっと求心的に迫力のよく絞り込めた作であった。懐かしい。
片岡氏の作品からは、ちょっと書き留めておきたいような佳い知識や情報が受け取れる。そういう功徳はしかし小説の為になるとは限らない。それでも、面白い。
* 直哉の『日記』に、癇癪玉の爆裂音が連続している。そのなかでときどき若々しい藝術論が書き留められていて、興味深い。今のわたしの長編の主人公に聴かせてやりたいような言葉があった。
2000 2・20 5
* バグワンを音読して深く落ち着き、心憧れるほどの気分で源氏物語を十数頁ほど読み、藤村の『家』を読み継ぐ。別の部屋では直哉の『日記』を読み返している。
充分だ、これで。そして寝に就く。金融なんとか庁の越智なんとやらいう大臣のバカさかげんや、あれやこれやのウンザリの事件続きには、ガッと背を向けていたくなる。
2000 2・26 5
* はやく休もうとわたしを誘うのは、藤村の『家』だ。こんなにつらい重い生活もそうあるまいと思うが、それはそれとしても文学を読んで行く堪らない嬉しさをも味あわせてくれる。読むのが「嬉しい」ような魅力。勝れた作品にはそれがある。なにも潤一郎や鏡花や川端だけが、漱石や鴎外や露伴だけが、楽しく読めるのではない。わたしは花袋の『田舎教師』『時はすぎ逝く』『百夜』なども、題材は辛いけれども喜々として読んだ。読むことが嬉しかったものだ。ファシネーション=FASCINATION。その魅惑は、題材では決まらない。そしてこの魅惑こそが芸術の魔術だとつくづく思う。
2000 2・28 5
* 藤村の『家』を、ゆうべ、ゆっくり読んで、読み上げた。
京都にまだいた頃に古本屋でこの作品の入った作品集の片割れのような巻を買った。ちいさな版だった。読んで、しびれた。その以前に、破戒、新生、嵐、若菜集などの入った、筑摩の文学全集第一回配本分を買って読んでいた。クロースとインクとの匂いのぶんぶんする真新しい配本で、これが「文学の匂い」かとばかり、耽読した。『新生』を読みかけた日は腹痛が起きていた。のたうちながら堪えて、徹夜で読み上げた、全巻。
『家』は、そんな感激の継続で手に入れた。読んで、わたしは、この作品は新生にも破戒にも優っていると思ったほど、感心した。久しぶりに、といっても、その後にも二度は読み返しているが、すこしも古びないで新たな感銘を受けた。家と人と暮らしと、そして喜怒哀楽が、クリアに、これほどのことが文章は、小説は、出来るのだなと感じ入るほどクリアに、すこしのブレもなく写し取られている。しかも内容に重量があり真実感が深い。最近の文芸誌の小説など、軽い埃のように『家』の前でしらじらしく舞い散ってしまう。藤村なんて古いという文学の愛好家がいるなら、文学の新しさというモノを知らないのだと思う。
2000 2・29 5
* 藤村の『桜の実の熟する時』を読んでこなかった。今夜からこれを読書に加える。
2000 3・1 5
* 九大名誉教授の今井源衛さんから大部の『大和物語』評釈を贈っていただいた。勅撰集でいうと後撰和歌集的な宮廷社会「歌語り」に感じられる。伊勢物語のように、清明で、ある主題的な一貫性を感じさせるというものではないが、より世俗的な噂話の集成のようでもあり、この時代を「作家の目」で覗き込み探り取ろうとするときには、たいへん便利ないい視野を与えてくれるし、しかも面白いので、格好の愛読書にしてきたる。その大和物語に多年の努力と執愛とを傾けられた今井さんの研究が大成した本であり、嬉しくてならない。上巻はとうに頂戴しており、下巻で完成。心よりお祝い申し上げる。読める楽しみがまた増えた。好きに拾い読んで行くだけでも十分面白い。
* 直哉の新しい『日記』が配本されてきた。
2000 3・8 5
* ある芥川賞作家から時代小説が送られてきた。「巨大な槻の木がある。/ 緑に包まれた大木にぎっしりと白い花が咲いている。」と書きだしてあり、それだけで先を読む親切心が失せた。「巨大な」「ぎっしりと」がイヤだ、ことに花の「ぎっしり」という語感に躓いた。「緑に包まれ」ているのが事実なのか「ぎっしりと白い花」が事実なのか、粗雑・雑駁な把握というしか、ない。優れた文学にはこういう表現の齟齬や雑駁は無いものだ。長編の書き出しがこれでは、あとは推して知りうる。事実そんなような、手ぬるい時代読み物であるらしく、どこにも芸術の香気は無い。
時代小説は昔から嫌い。歴史は、できればわたしは『みごもりの湖』や『秘色』や『北の時代』のように書きたいし、書いてきた。気の低い仕事はいやだ。
2000 3・14 5
* 明治屋から「嗜好」という小冊子がいつも送られてくる。ポケットに入りやすく、読んだら処分していいぐらいの気持ちで持って出るのだが、読むと、捨てがたい記事が入っている。今日のも巻頭に、立命館大の安斉教授のインタビュー記事があんまり面白くて、持って帰ってきた。美空ひばりの晩年の名曲の一つの中に、春には二重に巻いた帯が秋には三重に巻いてもあまるといった「泣かせる」歌詞がある。それが、いかに変な歌詞であるかを絶妙に安斎さんは説明してくれる、その、おかしさ。
わたしは、よく息子に言う、忙しくて本が読めないと言うのなら、各企業の宣伝雑誌の類を読むが佳い、じつに工夫した編集で要領のいい面白い記事が満載、話のタネにぴたりぴたりのものが多いよと。エンターテイメントに徹したいのなら、雑学の深さと広さとが大切であり、雑学を拾うのには例えばこの「嗜好」のような小冊子が面白いんだよと。
2000 3・14 5
* 例会は失礼し、帝劇地下の鰻の「きくかわ」で、堪能するほどの大丼を、ビール一本を相手に、本を読みながら満喫してから帰った。昨日もらったばかりの『電脳社会の日本語』という「ほら貝」の加藤弘一氏の本を、赤いペンを片手に、どんどん読んでいる。
* 九大名誉教授の今井源衛さんから『死から死へ』へ、熱い共感と激励とのお手紙を頂戴していた。医学書院時代の上司で鴎外研究の長谷川泉さんの同級生だった今井さんで、心根のいつも新鮮に燃えて熱い方である。『源氏物語への招待』という文庫本を戴いた。単行本も戴いて読み切っている。平安物語で男が女と初めて寝る場合は、みな「レイプ」だと喝破明言された研究者で、わたしは、その一言だけでも多くの研究成果に匹敵する風穴をこの世界に明けられたと敬服している。『大和物語評釈』の大著は、明確に歯切れの良いもので、連夜、就寝前に数編ずつ楽しませてもらっている。
古典が、義務的にでなく心から楽しんで読めるようになってきたのは、いつごろからだろう。外国語の本はなかなかはかばかしく行かないけれど、せめて昔の日本語で日本の古典がおおかた楽しめるようになったのは、どんなにわたしを楽にしてくれているか知れない。
文壇は別にしても、あるいは文壇以上に、わたしは国文学・歴史学研究の碩学とかなりの人数お近づきを得てきた。たいへんな魂の糧になっている。
2000 3・15 5
* 昨日頂戴した加島祥造さんの本は、加島さんと、「三つちがいの兄さん」にあたる詩人で画人の故三好豊一郎との幽明境を隔てた交感録といえる。加島さんの「媒介者とは」と題した巻頭詩を引いておきたい。
* かつて君という実在があったが、いま
君はぼくのなかにいる。
やがて君は
どこかの誰かのなかに移りすむのであり
ぼくはその媒介者にすぎない。
寡黙だった君が
全く黙りこんでしまったいま、ぼくは
はじめて君の声に耳を澄ます。
そして君の声から、ぼくは自分が
君と比べて
いかに愛の薄い者だったかに気づくーー
そうなんだ、
媒介者とはいつも
このように気づく者のことなのだ。
* 加島さんは、わたしの『死から死へ』を手にしたうえで、この詩画集を贈って下さった。「ぼくは自分が/君と比べて/いかに愛の薄い者だったかに気づくーー/そうなんだ、/媒介者とはいつも/このように気づく者のことなのだ。」と。
そして三好豊一郎の「消息」という巻頭詩はこう結ばれている、「凛乎たるものは確かに、ある」と。
芭蕉は言った、「気稟の清質最も尊ぶべし」と。これに尽きる、斯く在りたい。ペンクラブの理事会なども斯く在りたいのだが。
佐高信さんの『葬送譜』も、加島さんの謂う「媒介者」としての謙譲と愛とで、多くの優れた故人を語って倦まない。魂の色の似た人。これはわが喪失せる娘の、わたしたちにかつて語った言葉であった。多く人は、名言と言う。
* 立命館の安斎育郎教授の「春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋」の話を、分かるように紹介してと言われてしまった。安斎さんの発言を、申し訳ないがそのまま「嗜好」巻頭の「人はなぜ騙されるか」と題したインタビューから引かせていただく。
「歌詞をきいて、アレッ、何か変だなと思ったんです。そうすると調べなくては気がすまない。(笑)春のウエストを60センチとすると二重に巻いた帯は 120センチでしょ。それを三重に巻いても余るとなれば、秋のウエストは40センチ以下ですよ。ところが円周が40センチとなると半径は6センチです。するとやつれた体の直径わずか12センチになってしまう。(笑)」
* わたしでも、歌詞はオーバーなとすぐ感じたが、こうは調べないで通り過ぎて行く。「春のウエストを60センチとすると」という前提が不適切だと太めな妻は反論したがったが、これは却下。だが、「そんなことをいちいち考えてたら歌えなくなってしまうじゃないですか。(笑)やっかいなご性分ですね」という聞き手の安田容子さんの慨嘆はもっともではある。
2000 3・17 5
* 少し変わった本が読みたくて、版元の広告につられ、山口宗之九大名誉教授の著になる『陸軍と海軍』と題した新刊の研究書を取り寄せた。戦闘や作戦の本ではない、いわば國軍創設以来の「人事」研究なのである。
子供の頃、軍人・兵隊の位には、誰もが一応の関心を払わねばならなかったが、大将になった人数がどれほどのものかなど知るわけがなかったし、どういう人物が大将や元帥になるものかも知るわけがなかった。その一方、陸軍と海軍との漠然とした差異については、子供でも関心をもっていて、贔屓が分かれやすく、なにとなく「開明的な」海軍に人気があり「硬直した」陸軍に陰気なものを感じていた。戦時中に感じてもいたし戦後に増幅された感もある。阿川弘之や司馬遼太郎らの海軍礼讃の感化は大きかったろう。東条英機よりも米内光政に心を寄せていた所はわたしにもあった。そして海軍の方が陸軍よりもと評価していた。
この本は、軍の「人事」に的を絞りながら、いかにそういう思い込みが事実と違い、陸軍がむしろおおらかに緩く、海軍部内がいかに差別的に硬直したいっそ冷酷な空気をもっていたかを、克明に反証して行くのである。
一つの例として、いわゆる挺身的な「特攻」で、陸軍ではエリート将校が率先垂範して死地に赴くことが多かったのに対し、海軍ではいわば学徒兵をもっぱら追い立てて、エリートは殆ど特攻に参加しなかったと謂う。また大将や高等な将官への昇任でも、陸軍では事実が示すところ経歴や学歴に関して拘泥を大きくは示していなくて、意外に柔軟公平な人事をしているのに対し、海軍での内部差別は強烈なものがあり、学歴や経歴がほぼ不動の重みをもっていたと立証して行くのである。実名付きで事細かに追及されていて、記憶に残っている将官も多く、なかなか面白い。
断って置くが、著者の山口氏は軍の人でも自衛隊の人でもなく、もともと「橋本左内」を中軸に幕末思想の克明な研究者で、在任中にかつて『陸軍と海軍』的な論文や著述が有ったのではない。ただ、余技か趣味かのようにいろいろと資料を蓄えていたのを大学社会を退いてのちに、ぽつぽつと検討を加えた成果が一本に纏まったのだという。遠い動機は、親族に三人もの将官や高級将校があり、幼時から見なれていたということも有るらしく、納得がゆく。
意外なようで、これは思いがけない基本の分野を立証されたものとして、かなり高価な本であったが、読書欲を大いに満たされた。わたし自身は軍人にも兵隊にも全く成りたくなかった子供だったが、戦争の推移にも戦後の敗戦処理にも時代環境として触れていたから、記憶は実名とともにたくさん残っている。漠然とし雑然としていたそういう記憶に幾分の整理がついて、ふうんと感じ入ることも多かった。
幼年学校と士官学校とが、中学と高校にあたり、幼年学校生は無試験でうえに進むが、試験をパスして士官学校へ入ってくる者もいる。この幼年組と受験組との確執が凄かったらしい。わたしの娘はお茶の水女子高校へ受験して入学したが、幼稚園以降無試験で上がってきている「内部」から「外部」扱いされ、かなり弱っていた。同じことは息子の早稲田高校にもあり、中学でパスしていた息子らは、高校から入ってきた「外部」連中に肩で風切っていた気味があった。陸軍にも海軍にも根強くそんなことがあり、しかしそれが大将や中将に進むに当たって、陸軍はあまり影響せず、海軍では頑なに迄影響していたと著者は、事実と数字とで証明し、むやみな海軍賛美は当たっていないと言いたいらしいのである。なるほど、なるほどと読んでいった。
* 佐高信『葬送譜』は、例の佐高さんらしい視線と主観と哀情とで、多くの故人を悼みつつ顕彰してゆく、心持ちの佳い本になっている。この著者には曖昧ものは無く、刎頸の友のようであった、例えば中坊公平に対しても、気に入らない進退を見届けると「見損なったぞ」と噛みついてくれる。これは、稀有の徳というものであり、中坊氏についてわたしはすぐ様の判断は加え得ないが、佐高氏は佐高流できびきび発言してもらうのがいい。ばっさばっさと斬っていて軽率なようで、しかし氏の斬りつけてきた相手も理由もわたしは九割り方賛成だし、残る一割はわたしのあまりに知らない人物なのである。
2000 3・20 5
* 早速、こんなメールが舞い込んできた。こういう記憶や体験のどんどんと消え失せて行く瀬戸際のような時期に今は在るのだと思う。山口宗之氏の著書『陸軍と海軍 ー陸海軍将校史の研究ー』に手を出したわたしに、そういう判断のあったことは否めない。忘れ果てていいことか、記憶を繋いでおくべきか、その辺は微妙だけれど。幼年学校の最期の生徒として終戦を迎えた加賀乙彦氏のような作家もある。終戦の日、わたしは国民学校の四年生で、疎開した丹波の山なかで暮らしていた。国民学校の講堂の高いところに「至誠」と、荒木大将の二大字が額に掲げてあった。感想は『丹波』という自伝的な手記に書いた。
びっくりするほど当時陸海軍の元帥大将らの氏名を記憶していたことに驚いている。崇拝の念らしきものをもった人としては、やはり山本五十六元帥ひとりがあった。心したしい気持ちでいた米内光政大将は、その「名」の響きに惹かれていたので、実像への知識は短期間の首相という程度。また同じ「ハタ」の音を姓で共有していた畑俊六元帥のことも特別に記憶しているが、実像への知識はゼロのままだった。A級戦犯の一人だった。
本はまだ半分ほど読んだだけだが、興味深い。
* 九大今西祐一郎教授の新しい論文の抜き刷りと、お手紙とをもらった。手紙の中味はわたしの或る「読み」にふれた和歌の話で面白いが、それは今は措く。論文の方は『蜻蛉日記』のなかに出てくる、諸本に一致して同箇所に出てくる「のたちからし」とある難句を、「のきちかく」とあざやかに読み解いた話で、これはもう、これしかない。なにしろ、むかしの本は連綿のひらがなで綴られているから、誰の目にも「のたちからし」と読まれてきた字体が、丁寧に他書の事例も検討比較して行くと、これが「のきちかく」の紛れであったと確証できる。そしてそれならば原文の意義の通りが全く無理なく自然に決まる。鶯が軒近くへ来て、さも「人く=来、人来」と鳴くので、すばやく対応しているのである。
では「のたちからし」はどう読んできたのか。「木」が抜けていると補い読み、「木の立ち枯らし」に鶯が来て鳴くと。しかし「立ち枯らし」という物言いは他に例がないので、さらに「木の立ち枯れ」にと解釈を加えて本文を変更させてきた。今西さんが、それはあまりに不自然で勝手な変改ではないかと、むしろ書字の上での読み違いではなかったかと、多くの例から無理なく「のきちかく」という読みを発見し措定されたのである。
今西説の鮮やかさに感心するのは当然だが、それ以上に、年久しく「木の立ち枯れ」のような無理読みを敢えてしていた学者達にびっくりしてしまう。
ではわたしはどう読んでいただろうか。そんな難儀な字句はとばして読んでいたし、それがなくても、要するに鶯が飛んできて「ひとくひとく」と鳴いたことは分かる。一字一句の翻訳を要しない読みの場合は、こういうトバシをけっこうしているものである。人と会話していても、こんなことだろうと聞き取れなくても察している事はある。たいがいそれで大過なく済むが、誤解していることもある。要するに言葉は百パーセント信じるわけには行かぬタチの、便宜、なのである。目にもハートにも物言わせるしかない。
* わたしの『猿の遠景』でとりあげた話だが、宋の毛松筆として重要文化財に指定されている「猿図」を、いまの天皇さんが一目見て「日本猿だね」と言われ、美術関係者がひっくりかえるほど驚かされたという事実をわたしは、思い出す。ニホンザルは日本列島にしか棲息していない。その猿を、十二世紀、どうやって宋の毛松が描いたのか。描けたのか。
これにはあとへ長い長い推理と展開があり、それがわたしの著になった。よけいなことだが、亡くなる数日前に中村真一郎さんがパーティーの席でわざわざ寄って見え、『猿の遠景』はことのほか面白かった、あれはいい本だねえと褒めてもらった。中村さんには、三十年前に太宰賞受賞の日の二次会のホストをしてもらった。直に話したのは、その次がその亡くなる寸前だった。ただ、途中、一度は時評で、一度は口づてで褒めてもらったことがある。谷崎潤一郎家集を編んだときと、源氏物語のわたしの理解についてであった。ま、それはそうとして。
学問といえども、不確かな面は一杯持っている。そんなことは当たり前なのだが、この当たり前に謙虚になれない学者と、いつも「ちがふのとちがふやろか」精神を失わない学者とがいるということである。雲泥の差である。
* 加藤弘一氏の『電脳社会の日本語』が、なんとか、すらすらとは言わないけれど読めるのは、パソコンににそれだけ親しんでいる日々のおかげだろう。どちらかといえば、文字コード委員会の延長のようで、言葉の、器械の上での表記・表現問題が主であり、いまのわたしの関心からはやや背後に置いてきた感があるけれど、たいへんいい復習になっている。
2000 3・21 5
* 三省堂が出している企業PR誌に「ぶっくれっと」がある。新書版の小冊子だが、月により、読み始めるとやめられない興味深い署名記事が多い。いま湯に漬かりながら読んだ、作家の逢坂剛ともう一人鹿島某氏との映画館対談など、こういうマニアも世の中にはいるのだなと自分の視野を相対化できてよかったし、巻頭の、いちど一緒に同じ壇の上で喋ったことのあるエッセイストの、「うただ荒涼」と題した話題も、いま人気の歌手「うただひかる」にひっかけた、キザっぽくも面白い批評であった。映画評論家の品田雄吉が、わたしの好きな映画の「カサブランカ」を語って、あれは上出来のメロドラマだと批評しているのも良く納得できた。良くできた脚本だと思っていたが、なかなか書き上がらずにちぎれちぎれ撮影していったと聞くと、かえってまた感心してしまう。
とびきり面白かったのは、筆者は忘れたが、「海のネルソンと陸のスミス」という、ナポレオンをさんざん悩ませた、しかも明暗を分けて評価されまた忘れ果てられた二人の軍人の話だった。この三人に共通していたのは、だが「womanizer」だというエピソードの紹介なども、歴史知識という大石垣のすきまに小石を挟むようなくすぐったくも嬉しい気分になる。
* わずか小一時間のうちに楽しんで読めるのだから、なまじなテレビ番組よりよほど効率も良く、味わいも佳い。批評類や随筆類はなにもかも単行本で読もうとし過ぎると、概して「概論」を読まされるものだ。とりとめないものの中から金無垢の小粒を拾えと、大学で授業を始める一番最初に話したのを覚えている。ただし、わたしのが「文学雑論」だったからである。専門学科でならそうは言わないが、それでも、概説や体系的な教科書から啓発されるものは存外少ないのが常のように、わたしは、感じてきた。
2000 3・27 5
* また佐高信氏の新刊を貰っていた。対談集である。風呂の中で猪瀬直樹氏との遺恨試合のようなのを読んだ。
それなりに二人のちがいは見えている。従来やられっぱなしだった猪瀬が、心構えして佐高に反撃している対談で、佐高さんは猪瀬さんに言うだけ言わせている感じである。かなり言われている。おまえのはプロパガンダで軽薄な流行、おれのは作品で重厚な不易の仕事と猪瀬氏は言っている。そういう対比へ持ち込もうとしている。作戦としては巧妙で、これだけ読めば効果を挙げている。
ただ、話の発端におかれた猪瀬直樹著『ミカドの肖像』をめぐっていえば、猪瀬氏の天皇制理解や研究がそう深いものでないことは、発言から直ぐ分かってしまう。もう昔に、亡くなった淡谷のり子さんと亡くなった山本健吉氏と三人で、「歌」を話し合った際のとまどいを思い起こす。編集者は「歌の歴史」をと望んでいたが、淡谷さんにとって「歌の歴史」はせいぜい近代以降に限定されていたし、それでは山本氏の記紀歌謡や万葉の時代からの「歌の発生」論は持ち出しようがなかった。
猪瀬直樹の「天皇制」ないし「天皇」観にも淡谷さん的な薄みが感じられるのである。おおげさにいえば、神武から後小松百代までを諳んじ言いながら、崇神垂仁ぐらいからあとになれば、一人一人の天皇の前後左右に、わたしは、いろいろの文化・政治・私生活の陰陽を察しうるし、室町時代の、安土桃山時代の、江戸時代のいろんな天皇や皇室事情を介して感じ取っている天皇制は、どうしてどうして、猪瀬概念論なみにそんなに単純ではない。政治の象徴であり得たときは少なく、多くの天皇方は、余儀なく文化的な存在であることで辛うじて認知されていた。近代以降の天皇制のほうが歴史的には特殊なのである。そういう検討がこまやかに十分にされていれば、とてもそうは言えまいと思われる発言があり、そんなこったろうなとわたしに首を横に振らせるような発言を、猪瀬氏は以前にテレビ対談の「廃仏毀釈」解釈でかなり軽薄に喋っていた。そのことには、このページでも触れている。
佐高氏の仕事にはなるほどプロパガンダに見える。が、同時代を生きるものとしては血潮の匂いのする、厳しい、避けて通りたくないところをズケズケやっている。猪瀬氏はたしかに勉強家で彼なりにゆるがせにしない仕事をしている。わたしはきついことも言うが猪瀬氏のそういうところが好きである。だが「仕事」はまだまだ薄く、とても不易の発見になんか満ちていないし、深みには甚だ欠けている。そして、わたしなどからみれば、猪瀬氏のテレビや会議の仕事には、プロパガンダ以外の何ものでもない流行の所産が、かなりアイマイで不確かな表情とともに読みとれる。
猪瀬氏はいつ口ごもって話すことで、言い訳も用意している。なにかの顔色をいつも見ている。佐高氏はその場その場で言い切って行く。志がなくてはとても出来まいことを、あまり重厚にではなく、時として安直そうにやっつけている。だが、言って欲しいなと切望しているような所を代弁してくれている。
そういうことが分かって面白かった。湯あたりもしなかった。
2000 3・29 5
* 『邪教・立川流』研究は面白いが、記述・文章の下手さに読み疲れる。これは編集者の問題だ、著者と読者との仲介役を誠実に果たしていない。編集者が著者にもっともっとものを訊ねて確かめようとしていれば、何割も読みやすくなるものだ。
2000 4・9 5
* 時事通信社の出している学校学校教師対象の雑誌から、「書評」欄ではあるが、好きな本のエッセイふう「紹介」でいいからと原稿依頼があったので、もう一年ほどになるけれど、好きだった本を紹介した。
* 袁枚悠々
この十年ほど「書評」を書かなかった。読書の楽しみを「仕事」に置き換えたくない、などというキザっぽい話ではない、ただ面倒で。だが、何か言いたい書きたい「本」に出会わないということではない、それでは困る。
就寝前に数冊の読書を楽しむ。興が乗れば明け方に及ぶ夜もある。小説を一に対し、古典や研究論文、批評などを三、四の割合で読んできた。
小西甚一『日本文藝の詩学』高田衛『蛇と女』山折哲雄『悪と往生』今井源衛『大和物語評釈』それに古典では『夜の寝覚』『十訓抄』や『今物語』など、記憶に新しく、多くを教わった。新しい志賀直哉全集を楽しんで全巻読み上げたし、久しぶりに島崎藤村の『家』に感銘を受け『櫻の実の熟するとき』にも深い気分に誘われた。雑駁に痩せた昨今の小説を読むぐらいなら、テレビで二三流の西洋娯楽映画を観ているほうが肩の凝りもほぐれる。
そんななか、加島祥造・古田島洋介訳、アーサー・ウェイリーによる『袁枚』一冊を、毎夜どんなに楽しんだろう。平凡社東洋文庫のまだ新しい方の一冊である。「えんばい」と訓む。「十八世紀中国の詩人」だと副題してある。科挙に及第して重きを成した人だけれど政治家ではない。行政官として過ごした時期は短く、あっさりと引退して、詩人としての名声に包まれ、じつに自在な詩を多作し、大勢と交際し、愛され尊敬され、そのエロスと自由ゆえに非難や批判もけっこう浴びた。
徹して享楽的で、お堅い道徳家ではなかった。女を、美青年を、人生の「花」として愛し、仏教が嫌いで生活を愛した。読書を愛した。悠々とした自由人で著者で書斎人で官能の赴く所に対してせせこましい窮屈さのまるで感じられない大人であった。
そういう人間が、そのまま、懐の広い暖かい「詩」に表わされ、それは加島さんの二次訳の手柄、その前に原著者ウェイリーの原翻訳の手柄ではあるが、書き写して座右に置きたい魅力的な詩句が一冊の中にいっぱいある。こういう風に、及ばずながら生きられればなあと嘆息し、羨望し、ちょうど今読んでいる『老子』との連絡も深く感じとれる。魂の色の似たい人、袁枚。それが読後の喜ばしき実感であり、感興は余韻となり、いまも潺緩として流れ琳琅と身内に鳴っている。
「人老莫作詩」と題し袁枚は歌う。
老いた鶯はむりに囀らぬほうがいい。人も老いたら詩を書かんほうがいい。たいていは想像力が衰え、まず力強かったころの自分の詩をなぞるだけだ。いつまでも書きつづける愚かさをよっぽど用心せねばならん!とはいえ、心の動くことは今も起こるし、口も思わず動いてしまって、年ごとに新しい詩ができるーーまるで花が春ごとに咲くのと同じなのだ。だから私はこう考えるーーもはや老いてきた以上、老いた詩を書けばいい、と。
袁枚がこれを描いた年齢は、いまの私よりも実はずっと若かった。私はまだ「光景」も描きたいし「感情」も迸らせたい。花も愛したく命もいとおしい。しかもなお袁枚が羨ましい。袁枚のように生きられればと願うし、私よりも年老いて書斎を捨て、東京都の知事をやってみようなどと考えた同じ作家が分かりにくい。
2000 4・11 5
* 梅原猛氏の『天皇家の”ふるさと”日向をゆく』は、結局のところ、面白くもあり失望もした。
九州ほど神話遺跡と考古学的・古文献的遺跡とが共在している時空は少ないのに、後者への言及も考察も推論すらも、拭ったように欠けている。本造りの一つの「行き方」であることは認め得ないではない、が、物足りないのも確か。「神話レベル」での梅原好みの推察や想像がたくさん語られているが、読み手の側にも、関連して考古学や文献の雑知識もあり、それらとも照応し呼応する推察や想像でないと、神話につきものの放恣な空疎感の去来するのも無理はない。「梅原日本学」と称されるものが、実地の研究者や学界から概ねまともに遇されること無く、ただ壮大そうな面白いばかりの評論めいて受け取られ放置されてきたのは、梅原著述に学問的な手続きが薄く、先行文献への精査と尊重にもしばしば欠け、優れた直感や想像力が分厚く底堅めされていないからではないか。そのために、いたずらに頭の固い学者たちも、くみしやすしと知らぬ顔して、京ことば風にいえば「勝手に言うとい」「せいだい言うとい」「言わしとき」といった扱いをして「文化功労者」になんぞ祭り上げていると言えなくもない。
梅原氏は、要するに「評論家」なのである、超弩級に面白く読ませてくれる。むろん、それでいいと思う。より正しければ、それでも足りている。だが「研究」のように自称するのならば、面白さよりも先に正しさをしっかり立て、正しさそのものが面白くありたい、そうなって始めて一流である。評論ならば、面白く、より正しい方角を指示し示唆し、直観し、暗示していれば、まずは一級である。日本学を語る際の梅原猛氏の肩書きは「評論家」でいいと思う。
2000 4・12 5
* 『邪教・立川流』はなかなか奥深い。ことは「密教」の芯に触れてくる。邪教とされたのも無理からず、しかし、どうしてそれが生まれざるを得なかったか、どうして衰えたか、興味深い。
2000 4・12 5
* 直哉の日記、明治四十三年一月二十四日には、のちの秀作『和解』に深く関わる、父親と直哉との泣きながらの会談の模様が書かれていて、あと、「母の墓に詣でる、途々涙があふれた。然し墓についた時は、殆ど常の心になつた、室咲の菜の花をさして帰る」とある。二月一日にも父子の会談があり「父から相談を受けた事が嬉しかつた、自分はあれ程の(不和)の関係になつてゐた父とダンダン親しみ得る事が不思議な位に思ふ」と書いている。はっきり言ってファザーコンプレックスの直哉であったのだ。藤村と父親、漱石と父親は、とてもこんな段階ではなかった。もしもあれほどの神の眼のような文体と文章が持てなかったなら、直哉の作品は大方が作文に終わっていただろう。だが、文体・文章こそは文学の保証なのであり、ストーリィといえどもその根と幹の上に咲かせる花であり茂らせる言葉なのだ。
四月十日過ぎた頃には島崎藤村との往来に触れている。四月二十三日には荻原守衛とマーク・トゥエーンの死を朝刊で知り、「トゥエーンは兎も角彫刻家は惜しい事をした」と悼んでいる。夏八月になり正宗白鳥の『落日』に接して「ウマイ」と批評しながら「あんなものなら作れると思つた」とも書いている。十一月九日には、「来年は思つた事 考へた事、感じた事 知つた事の日記をつけやう、など思ふ、仕た事ばかり書いても仕方がない」と。
* かつて人の日記など読んだことはない。潤一郎の『鍵』のような趣味はなく、妻はいつもすぐそばで日記を平気で書いているし、わたしは片端も覗いたことがない。直哉の『日記』は日記を読む初体験に近いが、メモ程度のものながら、ときどき、気になる、興味あることが書かれている。付箋をつけておいて読み直す。
明治四十四年になると直哉は「白樺」だけでなく、視野を広げている。一月四日には、「酔はない男と酔つた男と一緒にゐると、酔つた連中の方がどうしても景気がいい、然し左う長く人は酔つてゐられないし、酔つぱらいの言葉も左う長くは聴いてゐられない。スバル連は酔つぱらいである。酔つて警句をハイてゐれば満足の出来る連中である。酔つた勢で自然派をつぶせなどクダを巻いてゐる連中である」と、いわゆる芸術派をやっつけている。藤村を読み白鳥や花袋を読み、敬愛していた漱石や少年時から愛読したという泉鏡花をべつにすれば、直哉は高く評価しないまでも自然主義の作物によく接している、反自然派のものよりも。直哉の私小説も、いうまでもなく自然主義の流れに棹さしていたことが分かり、しかし自然主義をはみ出た物が「何」であったかの見極めが是非必要になる。「自然」の捉え方がだいぶ異なっているだろう。
この年の五月二十七日、直哉はこういうことを日記に書いている。
* ○雀のクチバシを拭ふのにリズムがある。小鳥の声に実にsweetなシメリ気のあるのがある。鳶の舞は舞の舞と同じである。 ○自然の美の方面を段々と深く理解して行くのが芸術の使命である。 ○かうもいへる、芸術心(人間)を以つて、段々自然を美しく見て行くのも使命である。 ○だから、普通の人の見るに止まる自然を再現した所でそれは芸術にはならない。 ○自然を深く深く理解しなければいけない。 ○然し人間は段々に自然を忘れて、芸術だけの芸術を作らうとする。 ○その時に自然に帰れと叫ぶ人が出て来る。 ○自然といふ事を忘れてゐる芸術は、芸術の堕落である。 ○自分は華族様の表情のない美人のお姫様の顔が此の堕落した芸術と同じだと思ふ。 夜(どこへも出ずに)自家にゐる。
* この述懐を読み解くのはたいへん興味深い。この年の一月六日には、「他人と会ふといふ事は今年の自分にはいけない事であるやうだ、孤独を平気で仕事をするやうに何者かが自分を向けてゐるのかも知れないといふ気がする。/今年は『仕事』といふ事をモットーとして過ごさう。『仕事』。仕事!!!」と。
「白樺」からひとりはみ出たものも持っていた直哉は、この頃から、意識して仲間と深い距離を保とうとしていたようであり、直哉にとって心から許し合えたのは武者小路実篤ひとりであったように察しられる。
2000 4・16 5
* 直哉の『日記』をもう少し見ておく。
明治四十四年一月前半に、直哉はアナトール・フランスやモーパッサンを読んでいる。一月十八日には「夜精養軒でスバル、三田文学、新思潮の連中と集まる。気分合はず不愉快な一夕であつた。/(略)合同号を出すとかいふ事は立消えになつた。吉井(勇)と小山内(薫)とは、余程此方で感情を害してゐると信じてゐおるやうだ。ああいふ男ともいつか会つて話だけは出来るやうにして置く要がある。/(永井)荷風とは話をしなかつたが話しよささうな男である。白秋の好人物らしい事は思つた通りだが、話は合うかどうか疑問である」としている。
この会には森鴎外が上に立っていたが、直哉らは鴎外は「眼中にない」と他の作品に書いていた。谷崎潤一郎も出ていたはずだが、そして最も華やかに当時遇されていたのだから印象が書かれていそうに思うが、出ていない。翌日にはもう北原白秋と長時間をともにし「常識的な気持のいい男である」としている。同じ日記の続きで、「自分の欠点に、面倒臭がるといふ事がある。総てわづらはしさに堪えられなくなつて事を単純にしやうとして失敗する事が少なくない、白秋と会つてゐて、白秋の友達の事でも評する場合、気兼をする事がわづらはしく、為めにイクラカ不快を与へたかも知れぬ。然し失敗とは自分は思はぬ 或る程度に自分の本統を見せるのだから長く親しむべくはいい事なのであると信ずる」と書き加えている。
精養軒の会の日は、大逆事件で「無政府主義者廿四人」に「死刑の宣告」の下りた日でもあった。「日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である、自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思はぬが)その自分が今度のやうな事件に対して、その記事をすつかり読む気力さえない、その好奇心もない。『其時』といふものが歴史では想像できない」と直哉はすこしうわずって、処置なしの声を発している。
直哉の感想は、やむをえずその社会階層の「上位者」たるゆとりからも出ていることを忘れてはいけない。直哉は必要とあれば政権の中枢とも私人としていつでも会える環境にいた。そういう中での文学の「仕事」だった。鴎外など眼中にないと言うとき、文学的な意味でだけ読み込むことは正しくない。位取りの途方もなく高い人であり、それが「白樺」だった。他の世間の文学者は、対等の文学仲間でなく明らかに下目に眺められている、いつでも。
直哉という人は、ただ自身に対してのみ誠実を尽くし責任を感じていた。一月二十四日には、「仕事は自覚を持つて仕なければならぬといふのはどれだけの意味を持つてゐるのかしら ? 而して自覚とはどういふものかしら ?」と自問している。
2000 4・17 5
* そんなことをして、道草が過ぎるという声も事実聞くけれど、それには患わされない。わたしが判断することである。それにもかかわらず、わたしを深く誘ってやまない別世界の現にあることは確実で、電子メディアの議論を斡旋しながらも、わたしを胸の底の方でぎゅっと掴まえていたのは、例えば送られてきた大阪の三島祐一氏の『蘆刈』論だった。論文を読みかけていて読み切れていなかった。読んでしまいたいと、高畠さんの発言に感動しているときにも、一方にそれが有った。それはわたしの、何と謂えばよいのか、生きることそのものに直接関わるほどの関心事だった。そういう種類の関心事が他にも有る。幾つもある。そしてその方面では心根の断たれることはないだろうと分かっているが、電子メディアについては、強いて頑張らねば容易に心根が守りきれない。そのことが今、私の意識をピリつかせている。
* 遅れて会議の場を外へ出た頃は、雨があがっていた。いつもと逆に地下鉄赤坂方面へ歩き、注射が打てて適当な食事のできる店を探した。「京料理」とある看板にひかれ「三井」という店に飛び込んだが、気軽な店ではなかった。結局、お任せで一通りを喰うことにし、お銚子を一本つけた。気の利いた料理が出てわるくなかったし、久しぶりの日本酒が、嘗めるほどに口にしていても、美味くて身にしみた。筍、さよりと鯛と小海老との刺身その他、数えてみると一つ一つの品に満足していた。高くついたが、よかった。
食べながら三島さんの論考もとっくり読み終えた。おもしろい筋へ誘い込んで行く論だが、論証のきめは粗く、やや性急に結論部分の突出にだけ労力が使われている気がした。かなりキビシイ批評が必要だなと思いつつ、それでも三島さんの着想に、また知見の幾らかには、面白く心惹かれた。
原宿へもどって、ゆっくりした気分で帰った。
* 家では、直哉の新しい配本の『日記』が待ってくれていた。いまごろ志賀直哉なんてと云う人があるのかも知れないが、ちがうと、そう確信できるものが有る。高畠さんの声がもう一度胸によみがえってきた。
2000 4・20 5
* 『邪教・立川流』は、もとより密教と膚接している。この本は軽薄な面白づくのものでなく、行業深重の密教僧の書いた専門書なみで、筑摩書房が出している。が、一般の私のような読者の歯の立たない記述も平然としてあって、かなり根気よく立ち向かい、辛抱して読んでいる。面白いかと云われれば面白い。立川流は邪教であろうけれど、そういうものの現れでてくる基盤は、「セックス」を識った者にはむしろ容易に察しがつく。セックスが極度の生ともいえる死に近い沸点を体験させることは、幸せな性を覚知してきた人には分かるはずで、そこから、密教的な即身成仏などの教義へ切迫し近接して行くことは筋道としては難儀でない。多くの宗教がその極致に性的な絶頂感に似た意義を認め、それが混乱し歪曲された体で教団内の性的乱脈報道になったりしていることは、今日でも珍しくないどころか、あやしげな宗団の話題にはやたら絡みついている。教祖的人物によるレイプ騒動があとを断たない政治的な大宗団もある。
立川流に興味を感じた文学者は何人もしられている。谷崎潤一郎もそうだった。司馬遼太郎も取材していた。立川流の理解なしには計り知れないものが特に中世の宮廷社会にある。古典の読みに影響してくる。『とはずがたり』のような女房文学にも濃厚に影が落ちている。大岡山の古書店でみつけ、躊躇なく大枚を支払った理由もそこにあった。
* 性にからんで衝撃をうけたことがある。『死なれて・死なせて』を出したときだ、北陸の人で、最愛の夫に死なれた妻女からの手紙をもらった。悲嘆の余りその人は、毎夜巷をさすらい、行きずりの性行為にまみれるしか哀しみに堪えることが出来ませんでしたと、凄絶なモゥンニングワーク=悲哀の仕事を語ってきた。批評はいろいろに出来るだろうが、理解を絶しているとは思わなかった。かろうじて死なれた辛さを克服していったその人に、だが、返す適切な言葉をわたしは知らなかった。
2000 4・21 5
* 京都今出川の「ほんやら洞」を維持し経営している、優れた写真家でもある甲斐扶佐義氏の「ほんやら洞通信」が、ゼロ号から一、二、三月号まで送られてきた。亡き兄北澤恒彦追悼号も含まれていた。「ほんやら洞」というかなり有名な場所を、浅はかに此処にわたしが解説し紹介するのは避けた方がいい、知らないも同然だから。一度二度立ち寄ったことがある。風変わりな喫茶店で、コーヒーを飲んだだけで立ち去ったほぼ行きずりの場所だった、が、甲斐さんや兄たち多くの人たちにはもっともっと別の意義ある価値ある「活動拠点」であったらしい。鶴見俊輔、中尾ハジメといった人たちの感化のもと、大勢の活動的市民の大切なオアシスふうの拠点であったのだろう、これ以上は言うまい。
その「ほんやら洞」の再建と維持に甲斐さんは自ら任じ、新雑誌を創った。その創刊以来の四冊が届いたのであり、寂しいことに兄の原稿は読めないが、兄を取り囲んでくれていた大勢の息づかいは伝わってくるし、兄にふれた文章も幾つも載っている。甲斐さんは手紙一つ添えないでそっと送ってきてくれた。ありがたい。
わたしは、兄を、兄の活動や交友や精神の向きについても、事実、ほとんど知らないままに死に別れた。だから、こういうかたちでしか兄にふれることができない。
むろん、それら一切をたとえ知らなくても、わたしの兄はわたしの兄である。しかし知らなかった兄の多彩な容貌も見てみたい、今は知りたい。それが幾らかかなえられている「ほんやら洞通信」と甲斐さんの好意とに、頭を垂れている。
2000 4・21 5
* 昨日、川本三郎氏から文庫本の『荷風と歩く』を戴いた。いつも著書を貰っていて荷風研究のほかに「東京」を歩く川本さんのエッセイ本が多い。そういう一冊かと想ったが、そうでもあるが、中味は荷風小説が何編もとられてある編著で、各章に川本さんの解説が付いている。ひときわ趣向の贈り物で読むのが楽しみでならない。
荷風、直哉、潤一郎、鏡花、藤村、武者小路、川端、漱石。このところを振り返ってみて、いつ知れず親しく想い入れて接してきた文学者たちである。受け継いできたこれら大先達の「文学」の質を、精神を、どうあっても守り続けたいと思う。先日、銀座の「ベレー」に来ていた某出版社出版部の某、某たちが、盛んに「天才」呼ばわりしていた赤川次郎ほか今、今のベストセラー読み物作家たちの名と作とを思い比べて、なにの他意も邪心もなく、それはもう比較を絶しているとしか言いようがない。同じ「文学」の名の下に置く方がおかしい。
* 昨日の三島佑一氏の「蘆刈」論で、谷崎が二人目の夫人となる古川丁未子への「求婚」の手紙をはじめて知った。文面は、三人目の夫人となる根津松子への有名な恋文と、趣旨も行文すらも酷似していて笑ってしまった。三島さんもいうように、丁未子へは上から物を言っているし松子へはオーバーなほどへりくだっている違いこそ有れ、谷崎と女と谷崎文学との三角構図は、みごと同じなのである。そこに谷崎の不自然がでなくて、まさに自然がある。それが分かるので笑ってしまった。この手紙が一つ初見出来ただけでも三島論文は有り難かった。
2000 4・21 5
* 宇治十帖の悲しみは、心理的にも情景からも時代からもしっかり支えられて、女の、男の、世界そのものの吐息に、静かに曇って冷えている。宇治の川霧たえだえに、あらわれ渡る人間の悲しみ。幾度読み返しても深い。
2000 4・24 5
* 「立川流」にふれて理趣経に及んだ読者のメールも受け取った。空海は、「自然界にある全ては欲情を持っており、全ての動物も植物も、ありとしあらゆるものの、妙適の感覚は同じであり、その意味で菩薩に通じるとしたのである」こと、「そこに空海の偉大さがあり、自由人としての面目躍如たるものがある」こと、「然し、空海に於いては、こうした欲情を超越して、或いは止揚する事が即身成仏の条件と考えたのではないだろうか。歳とともに、この事が理解できる気がする」こと、を述べた或る善知識のことばを、伝え報せてもらった。立川流一派については「平安後期に、男女の性的な結合が即身成仏の秘術であると唱え広まったこともあった。勿論、のち邪教として取り締まりを受けたことは言うまでもない」とのみ、添えられていた。
その通りであるが、それが俗情的には分かりやすくもあったか、爆発的に立川流は広まり、また長く「邪教」のそしりを受けながらくすぶった。公家社会に意外なほど浸透していたと受け取れるところが意味ありげで、古典愛読の際に無視しがたい。
2000 4・24 5
* 吉川弘文館という歴史専門書の版元が「本郷」というPR誌をだしていて、最新号に佐々惇行とかいう人が「沖縄の二人の護民官」を書いている。電車の中で思わずくくっとむせびそうなほど感動した。あの戦時最後の県知事が県民を守ろうとしての奮励努力の結果の戦死、また最後の海軍陸戦隊長だった人の自決。佐々氏のおしまいの辺の手前味噌がすこし臭かったけれど、こういう、本土では忘れられた人物について書いて貰えたことは嬉しい。こういう小雑誌には、読みやすい佳い記事が惜しげなく載っている。
2000 4・25 5
* HOW TO UNDERSTAND MODERN ART というGEORGE A.FLANAGANの本が手元にある。大学の頃に愛読した英語の概説書だ、久しぶりに取り出してきた。英語の本も久しく読んでいない、復習のつもりでと、枕元に置いた。十冊あまりが積んであり、毎夜、数冊は少しずつ読む。少しずつでも、いつの間にか読み終えて積まれる本の顔が変わって行く。
2000 5・2 6
* 猪瀬直樹氏から、新著を、わたしの体調を案じ見舞う毛筆の手紙を添え、贈ってもらった。有り難う。
* 井上靖全集の浩瀚な別巻が贈られてきた。完璧に近い博捜の成果で価値高い。世田谷文学館での記念展レセプションを失礼したのに、鄭重に贈っていただき恐縮である。井上さんについて書いたり考えたりするときに、まさに必携の大著である。
2000 5・3 6
* 同志社の河野仁昭さんが『京の川』を京都の文学作品に語らせた佳い本を出された。京都の川はもっと大切にされねばいけない、川を殺して何が山紫水明かとわたしは言い続けてきた。わたしの小説『初恋』などが「鴨川」の章に、深切に引用されていて恐縮した。猪瀬氏、久間十義氏、河野氏、井上靖ご遺族、川本三郎氏、甲斐扶佐義氏ら、立て続けに著書の恵贈がある。歌集や句集もまじってくる。今日も加藤克巳氏の歌集を戴いた。読んでの返礼をなるべく欠かさないようにしているが、輻輳してくるときは、容易なことでない。湖の本の再校も出揃い、京都行きもあり、今月は舞台も五つ六つは観にゆくから、ゴールデンウィーク明けにはたいへんなスケジュールになりそうだ。
2000 5・4 6
* 川本三郎氏にもらった『荷風語録』巻頭の「深川小唄」「狐」と読んで、荷風の文芸にしびれる。あまりに懐古的であるけれど、徹している。好き嫌いは別にして、ここに信頼できる「作家」がいると、嬉しくなる。
今日、日本ペンクラブ編の『人生を変えた一言』とかいう一冊が届いたが、正直のところ日本ペンクラブの仕事だとは思わない。むしろ川本さんの『荷風語録』のような編著を考えた方がよほど価値がある。本を出して「儲ける」「儲かる」ことを考えるよりも、出費してでも日本文学の底入れや底上げに寄与する仕事をすべきだとわたしは考えている。市井の版元にまかせて済むやすい企画に奔走するなど可笑しい話で、それならば三好徹氏のいわれるような、例えば「このまえの戦争」に絡んだ、時代の証言とも表現ともなる、本質的な意図を生かした仕事を工夫すべきだと思う。
2000 5・6 6
* 誰の作品か覚えないが『目撃』というミステリーを読んでいる。建日子の書架に置いてあったのを借り出してきた。主人公のFBI捜査官の人柄のせいで、読みやすい。読み物だけれど、刺激の濃い液体のようにわたしの日常に流れ込んでいて、存外こんなハードボイルドに、ある種現在只今の空しい気分が救われている。妙なものだ。
2000 5・12 6
* 満ち足りて有楽町からまっすぐ保谷へ戻った。車内では、このところ熱心に読み進んでいる新谷尚紀著『神々の原像』を、ペンを片手に、さらに読んだ。厳島の御鳥喰神事、出雲の神在月神事。烏といい龍蛇といいぐうっと心に触れてくる。バスジャック少年の事件や人を殺す経験がしたかった少年や、病院や警察や教師たちの対応の悪さや。その他もろもろのウンザリに優にバランスするだけでなく、魂をゆするほどの刺激が神事や神話にはある。こういう世界にわたしはどんなに救われてきたか知れない。
『邪教・立川流』も『陸軍と海軍』も、どれもみな赤いペンを片手に読みふけっているのだが、面白い本は、いくらでもあるものだ。
2000 5・13 6
* 電車では多田富雄と山折哲雄の優れた対談『人間の行方』を読みふけっていた。静かで深く、そして明快に大切なことが語り「合われ」ていて感嘆。
2000 5・17 6
* 三度目の診察はまことに順調、この調子で更にと、予想通りの指示が出た。体重は減り、朝一番の血糖値が安定し、ヘモグロビン値も下がっている。血糖値検査も夜はやめてもいい、朝だけでいいとも。ただしインシュリン使用は、いつかやめることも不可能ではないのだから、さらに続行し、自力でインシュリンが分泌され機能するところまで努めて欲しいと。納得して引き下がって来た。病院の食堂で例によって聖路加弁当を食し、ゆっくり本を読む。思いの外早く診察が終わったのである。
『神々の原像』が巧みに分かりよく纏まった実証的な論考で、小説より面白い。研究書であり論文ですらあるのに、説得力に富み、取り上げられた神事や祭事の深みが民俗学的に手に取れるように覗ける。学問的に手堅く、無用に逸脱しないから、安心し信頼できる。夢中で読める。
今一冊は多田さんと山折さんの『人間の行方』対談で、深く傾聴できる。こういう本を鞄に入れていると、電車の中でも食堂でも、時を忘れ、心から落ち着ける。どんな本かと具体的に書けばいいのは分かっているが、今その時間がない。テレビで「ER」が始まるわよと階下から妻が呼んでいる。中断。
2000 5・19 6
* ゆうべ、三冊の本を一斉に読み上げた。
新谷尚紀『神々の原像』は、よく書けた深切な論考、適切な解説であった。歴史文化ライブラリーがこのように著者に書かせているのでもあろうが、安芸厳島神社の「御島廻式と御鳥喰神事」出雲佐太神社の「神在祭と龍蛇祭祀」遠江見付神社の「裸祭と人身御供・成女譚」美作両山寺の「護法祭と護法実」の四つを興味津々の具体例に、民俗学探究の実際と深層とを論策して行くのであり、面白いことも限りなく、つよい衝撃に驚きながら楽しめる読書であった。書き込みで本が真っ赤になった。
多田富雄・山折哲雄対談の『人間の行方』は、題にもう少し工夫があったろうと思うけれど、対談という難しい方法で成功している稀有例の一つ。免疫医学・生物学と宗教学の大家とが互いの見識を惜しみなく披露し、なれ合いに流れない討論がよく整理されている。あるいは編集者のリライトの苦労がよく実った本なのかも知れず、かなり手の入った対談で、垂れ流していない。知識を求める人にもよく応え、思索を尋ねたい人にも確かに応えている。山折さんの健闘が光っていて、多田さんのモダンな学問の基盤をよく引き出していた。多田さんの話し方もお手本のように要領を得ていた。DNAと時間論、誕生と臨終の決定、免疫、美の問題、染色体等々、話題は深刻に多岐にわたり、新世紀への過渡期を見渡して反省も批評も深いところに及んでいる。
山口宗之『陸軍と海軍 陸海軍将校史の研究』も、興味深く手堅い統計的手法での追尋で、動機に、秘めた筆者の強い思いが働いた。在来の陸軍悪玉・海軍善玉思潮への強烈で具体的な反論反証、そこに眼目があり、成果を上げていて疑問の余地を多くは残さない。軍人の社会とはこんなであったのかと、わずかに戦時未萌の少年期を生きたわたしにも、いまさらに納得ゆくいろんなことがこの本から学べた。面白かったなどという感想は不謹慎であるかも知れないが、終始飽きなかった。
* 「三田文学」が九十年を記念して名作選増刊号を贈ってきてくれた。森鴎外の『普請中』のような問題作が巻頭を飾っている。目次を見た限り、『普請中』も例外でなくすべて名作なのか玉石混淆か分からない、が、なつかしい作品も作家も大勢並んでいて、いい企画に思われる。
2000 5・22 6
* 佐高信氏にもらった『黄沙の楽土 石原莞爾』が、読み始めて、意外と読みづらいのに気づいた。筆の運びの、息があらいのである。小説とも評論とも批評ともつかないのは、まだいい。なによりも著述に、筆致に、深い落着きが欲しいのに、ザラサラと文章が肌荒れしている。読み進めるうちに印象がよく変わればいいなと願っている。
文は人だという。確かにそれが言える。と同時に、体調や姿勢も影響してくる。状態の良くないときの文章も構想も、つい荒れがちになりやすい。
2000 6・5 6
* 志賀直哉は、日記や全集の著作のなかで、ロレンスをひどく批判し、なにも分かっていない、なにも見えていない、だめだと断定的に切って捨てている。そんな記事に、少なくも二度三度出会っている。ロレンスの作品を継続してかなり読み込んで間も無かったので、さすが直哉の批評も、見当違いに、うつろに聞こえていた。
たまたま京都からの帰り、読むものが欲しくて、完訳版の『チャタレー夫人の恋人』を買ってきたのを、そのまま継続して今日も読み続けていた。やはり、佳い。嬉しくなるほど、惹かれる。
志賀直哉のロレンス批判は「お門違い」というか、どだい直哉には無理な気がしている。直観的な感覚の鋭さは無類で、それを言語的に把握してくる力はすばらしい人だが、時代や思想や性の深みを、世界の運命として捉えてくるような知性的で原始的な精神の回路は、とても直哉にはできっこないと思う。そういう知性ではない。哲学もない。感覚的な批評は厳しいし鋭いが、本質的に論理的な批評家には成れない作家である。『チャタレー夫人の恋人』はロレンス作品の中でもひときわこなれて、鋭く豊かで輝いているが、志賀直哉には理解できなかったという、そのこと自体が、直哉の資質のプラスもマイナスもを証している。
* チャタレーのような真実の名作に触れていると、たいていの本は影が薄くなる。そんななかで、配本されてきた近世随筆中の本居宣長の『排蘆小船』などは、また別趣の軽い興奮にわたしを引き込んでくれる。少なくも日本の和歌を「読む」ためには、したたかな、したたかすぎるほどの手引きをしてくれる。
バグワン。これは比較を絶している。煩悩の静まって行く嬉しさ。たいがいのことが、よけいな、軽々しいことに思えてくる。
2000 6・6 6
* 太宰治賞の去年の受賞作が単行本になり、今年の受賞作ならびに最終候補作の五編が一冊のムックになり、筑摩書房から届いた。去年にもムックは来ていたのだろうが記憶にない。紛れ込んでいるのかも知れない。
わたしが第五回に受賞した今から三十一年前は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、川上徹太郎、中村光夫の六先生が選者だった。こういう人たちに見いだされて作家になった。再開された新太宰治賞の選者は、吉村昭、高井有一、柴田翔、加藤典洋の四氏だが、時代が変わったなあと思う。吉村氏は先の先生方に見いだされて第二回に受賞した人である。
選評だけをざっと、今、読んだ。
2000 6・7 6
* 佐高信氏の『石原莞爾』の良いところは、厳格な批判に、いちいち「裏」がとれてある点で、安心して読める。批判のいちいちにきちんと頷ける説得力があり、あらい文章のあらい叙述ではあるが、佐高さんらしい意気と誠意がしっかりくみ取れる。ぐんぐん面白くなり、申し訳ないが湯船の中ででも読み進めている。礼状にも書いたが「石原莞爾」などという人物は、わたしは戦時中でも噂に聞いて好きにはなれなかった。なにか「ちがう」という気がしていた。どうして、きちんとした批判がされないのかと、伝説化され信仰さえされたような賞賛本が噂になるつど、苦々しいとはっきり思っていた。佐高さんが石原と「同郷」なるがゆえにかえって書かずにおれないのだと言われる気概に、敬意を覚える。
2000 6・7 6
* 混線もしないで、このところ併読の本の数が、バグワンを別にしても七八冊。『石原莞爾』『チャタレー夫人の恋人』近世の随筆集、宇治十帖などがメインだが。去年の太宰賞作品が単行本になっている。建日子より二つ三つ若い作者であるらしい、これもを読んでみようか、と。読者である矢部登氏の編まれた、中戸川吉二作の三短編、簡素な一冊の新刊もよかった。時代を超えて読ませたのは、巻頭の一作ぐらいだったが、ハートのある出版企画で、心嬉しい。
2000 6・11 6
* 佐高信氏の『黄沙の楽土 石原莞爾』に、文芸的満足は少ないけれど、「批評」としては意義ある力作で好著である。石原は、満蒙を舞台に、関東軍ないし日本軍部を一時壟断して、じつに物騒な名声を博した「戦争屋」であった。東条英機と対立したことからか、古型の日本人には人気根強く、信仰すらされていて、延長線上に森首相の「神の国」「国体」発言などが出てきている。佐高さんは、これに周到な思想的・実際的批判を浴びせかけ、石橋湛山や穂積五一らの今にしてまこと明確に正しい議論や行動を配して、論旨を、丈高く構築している。
今時分に幽霊なみの石原莞爾を批判して何になるかというのは、トンチキな認識不足であり、戦後自民党政権の足取りは、隠れた意図において、石原的な侵略や謀略への憧れを、今一度追えるものなら「夢」として追いたいというものであった。森の、確信犯的に語って倦まない語調がそれを露わにしており、呆れていて済む話ではないのである。佐高さんの著述と批評の意義はよく汲み取られねばいけない。
* 木崎さと子さんの『青桐』に感心した。若書きがもたねばならない幾分の気負いが、またそのまま魅力になるということも、いわゆる初期作品には一般に多いものだが、この小説は、若書きながら落ちついた筆致で、畏怖に満ちた主題をよく織り上げ、遺憾ない。だぼっと重たい織りではない。手触りはしなやかで愁いを静かにとりこみ、かつ感傷に少しも流れていない。読書で、「読ませる」文章に出逢うほど嬉しいものはない。まだこの一作しか読んでいないが、少なくもこの作には「文品」が静かに感じ取れ、よかった。
2000 6・16 6
* 明日は「罪と罰」の舞台を観る。ドストエフスキーの中で、いちばんこなれた名作である。ソ連の作家同盟に招かれ、その後不幸に亡くなった美しい通訳エレーナの親切な案内で、レニングラードの「罪と罰」遺跡を訪れた日のことが、ありありと眼に甦る。宮内寒弥氏、高橋たか子さんらと一緒だった。帰って、新聞小説『冬祭り』を連載した。
『罪と罰』は藤村の『破戒』を初め、日本文学に大きな感化をのこした。観劇を機に、訪ソ以来ひさしぶりに『罪と罰』も読み返そうかと心用意している。意図して、ロレンス作品と併読してみようと思っている。
* もう一つ楽しみにしているのは、九大今西祐一郎教授から教わっている、源氏物語の影印本と活字本文とをサイトで対照しながら、全編読み込めるようになったという話。これで通読の、また新たな源氏物語体験をしてみたい。何度も何度も何度も読んできた源氏物語が、影印本とともに味わえるなら、古筆の勉強にもなるし、またひとしおの読書になる。対照して読めるというのが嬉しい。そうでないと素人には荷が重すぎる。
2000 6・16 6
* 久間十義氏から『オニビシ』という、アイヌものらしい題の小説が贈られてきた。言論表現委員会での仲間である。前に貰っていた『ダブルフェイス』を先に読みたくなった。
2000 6・17 6
* 久間十義氏の『ダブルフェイス』を読み進んでいる。有能な女性総合職が夜には売春していて殺された事件に取材しているらしい、あらあらしく、筋書きがハードに運ばれて行く。表現も語り口も内容にマッチしているといえ、よく読んだ翻訳物のサスペンスやミステリーの類と同じと言える。序の口なのでまだ多くの判断はしにくい。
続いて読んでいる木崎さと子さんの『沈める寺』も、まだ何とも判断しにくい。『青桐』では「表現」が主導的であったが、『沈める寺』では「筋」書きが説明的に先行して行く感じで、それにしてはやや足取りが重い。久間氏のと、どっちが、わたしを惹きつけ読み進めさせるだろうか、二冊が手近に並べてある。
加島祥造さんの『タオ』が、腰を据えて読んで行くと、よくこなれて「老子」が詩訳されている。これは、さすが、なかなかのもので感じ入る。バグワンの『タオ』が豊かに活かされてあるのがよく分かる。老子は「論理」ではない。論理に背いた「喩」としての直観で語られて行くので、理屈っぽく接するのが一番の毒である。「論語」ではないのだ。 2000 6・18 6
* 木崎さと子さんの『沈める寺』が「蛇」を使う作品であったのに吃驚した。わたしの作品の「蛇」とは意味がちがっているのか同じなのか、もう少し落ちつかないと判断できない。土地の伝説を踏まえてあるようだが、フィクションにしても、『清経入水』や『冬祭り』や『四度の瀧』とは、扱いようが質的にちがう感じもある。仲立ちの野口敏雄氏は、この辺も見渡して『清経入水』など贈れと示唆されたか。『親指のマリア』より先に『冬祭り』を見てもらうべきだったかも知れぬ。『沈める寺』は、だが、『青桐』に比して清冽感は失せ、やや、もたもた、ごたごたして、印象は混濁気味であった。ストーリィに足を取られ、心持ち読み物へ流されかけるのを、木崎さん独特の佳い表現がくい止めている。北陸の真宗大寺を取り巻く環境や方言の効果も適切に活かされていて面白かった。微妙な
芯になる場面で、かすかに大事なものが逸れてしまい印象を曖昧にしていた気もする。「蛇」が何かのシンボルのようには表現されきってなく、生身の気味悪さになっていた。不快感ものこった。カタルシスを得にくかった。
聖路加病院の往来にも読み進んで、帰路、保谷駅から家までの路上で読み上げた。歩きながらも本を読んだなんて高校生以来だ。あの頃は河原町や四条の繁華な往来ででも本を読みながら歩いていた。
* 今夜中には久間十義氏の『ダヴルフェイス』も読み上げてしまうだろう。これはもう、読み物でありエンターテイメントである。筋は追っているが、「読む」嬉しさのようなもの、ファシネーションは、無い。読み始めた以上は、このストーリィは読み終えておきたいと言うにとどまる。ふしぎなものである。比較して谷崎の『春琴抄』などは時代といささかもこすれ合わない閑文字と読めるだろう、直哉の『暗夜行路』でも。漱石の『心』ですらも。だが、それらを読んでいると「読んでいる」ことが嬉しくて堪らなくなる。文学の、魅惑する力に溢れてている。ストーリイからすれば『ダブルフェイス』は段違いに現代のにおいを発散し、刺激的にひきつける。表現でもハードボイルドに、手荒さの魅力を作品に彫りつけている。だが、あの「嬉しい」感銘は無い。題材がイヤなのだろうと言われれば、そんなことは無いと断言できる。要するに、すぐれた表現には有る「ファシネート」な「読む嬉しさ」は喚起されてこない筋書き、しかしダイナミックな今日只今の筋書きなのだ。それがわるいとは言わない。だが、それだけでは優れた「文学」で有り得ず、あの直哉の単に作文なみの「純文章」の魅惑にも結局勝てないのである。
それでも、読んでしまいたい。読者の人数からすれば、いまどき『暗夜行路』や『春琴抄』を読む人は少ないだろう。久間氏のこの力作には何十百倍もの読者がついているに違いない。それが、だが、何だと言えるのだろうか。生涯の、魂の糧、魂の財産。古くさい物言いだけれど、そういうことを考えている。そうなれるか、なれないか、だ。
2000 6・21 6
* 桶谷秀昭氏の『昭和精神史』戦後編を頂戴した。省みてわたしの「戦後精神」を慮る指標は、何であったろう。目次でうかがうと桶谷氏は、東京裁判、三島由紀夫事件、昭和天皇崩御などを大きく挙げていられるが。
新憲法、戦後処理、言論表現の自由、国民・婦人参政権、テレビの登場、美智子妃殿下入内、労働運動の盛衰、芸能人の氾濫、核家族の自家中毒、管理社会化と教育崩壊、環境破壊進行、政治理想の壊滅、猥雑の自由、新世襲化社会、価値観の量的拡散、孤独感の浸蝕。
残念だけれど、文学や芸術が本質的に時代精神に衝撃を与える力は、ほとんどなかった。変わって行く人間を現象的に呈示したものの、例えばわたしの「身内」観のような、新しい哲学が殆どうち立てられなかったし、浸透して行かなかった。
* 桶谷さんの本を新たに読み継いで行きながら、考え直して行きたい。
2000 6・25 6
* 観世流名誉師範という人の「能」にかかわる「珠玉のエッセー・評論集」を、版元から贈られた。あまり「珠玉」とは思えない呼吸のあらいガサツなもので、読む気がしない。書かれている内容はまともにモノが踏まえてあるのだろうが、騒がしい、気息が。囀るぐらいは可愛いが、吠えかつ吼えている。人によれば、それがいいと言うだろうから、しつこくは言わぬが、わたしは御免を蒙りたい。
* 吼えると言えば佐高信氏にもらった『日本は頭から腐る』の「一撃」も烈しい。だが、この人のはそれが「藝」であり「手法」であって、気概は確かで汚くないし、荒波の下は深く、聴くに耐える。筆者への信頼がはたらき、乗って読める。文章は不思議な生き物だ。
* 待っていた馬琴の『近世説美少年録』二が届いて、昨深夜から読み始めた。これまた騒がしき美文、いや舞文の代表作で、気品を大いに欠いている。しかし、ただものの文章藝ではない、たいへんな味わいである。学殖深甚の講釈で、べらぼうに面白いが、異臭に耐えているような堪らなさである。長い時間読んでいると毒気にあてられ気分がわるい。幸田露伴の『運命』が、いかに気凛超絶の芸術作品かを強いて想い出したりして、喘ぐ息を休ませている始末。
* 『チャタレー婦人の恋人』に転じると、たちまちその世界に吸い取られて、うまい水を飲み下すように胸の内に文学の香気が感じられる。三十頁も読めば、静かに本を下に置いて、また明日にと心落ちつく。そしてもう一冊、読み切ってしまおうと、木崎さんの『鏡の谷』のあとを次いで行った、ウーンそうか、そうなのかと自分の問題へも興味を引き寄せ引き寄せながら。今回も、最後の収束、扇の要のしめくくりようが、やや物足りなかったのが惜しい。寺を書き、宮を書き、日本の蛇をぐっと追ってきた。独自性のつよいすごみのある書き手だと感心している。またしても、鏡花が読みたくなってきたので長編『由縁の女』を書架から出してきてある。
* そして、バグワン。無心に音読。やっと寝ようという気になる。毎夜、そうである。 2000 6・28 6
* 明け方まで、本を読んでいた。木崎さと子さんの『光る沼』は三部作の到達作のようであった。北陸の真宗王国といわれる風土に密接して、創作の「場」が、「素地」が、丹念に用意されている。素地の自然の方が、図柄という物語よりも深く捉えられていて、この作品に借りて比喩的に批評すれば、素地と図柄とが渾然とトータルに迫ってこず、やや「地すべり」が生じている。八割九割まで面白く読み進みながら、収束の緊迫において、緩く流されている。その瑕瑾を無視すれば、三部作は独特の成果で、主題にも多面性がある。だが、芥川賞作品の『青桐』の、あの地味な物語を美味を吸うように読ませて魂に震えを呼ぶ静かな魅力、文学の魅力は、つくり物語にやや不均衡に重きをおいた三部作では濁されている。そう思った、が、凡百の瑣事小説ではない。
* 桶谷秀昭氏に頂戴した『昭和精神史 戦後篇』が、問題をはらんでいる。戦前編の大作はすでに読んでいる。戦前は、概ね、わたしのものごころつく以前の「歴史」であり、体験的に参加できた時代ではなかった。だが戦後は、少年ながらわたしも体感するところのあった同時代である。
さて、日本国は「無条件降伏」であったか。われわれ国民一同は微細に関係史料の読める立場にはなかった。研究的に「敗戦」の条件を論策出来る立場になかったから、実感として「無条件降伏」という分かりのいい言葉の方を、「ポッダム宣言受諾」といった吟味のきかない言葉よりも、端的に、そのまま受け取らざるをえなかった。その意味では、後々の吟味や検証や議論でどうあろうとも、「無条件降伏」のつもりでいた心理的・情況的事実は、今さら動かしようがない。
「無条件降伏」を全面に拡大的に「ポッダム宣言」を解釈し、したいように占領軍側の「謀略的作為」による占領政策が力づく行われていたと謂われれば、なるほどさもあろうと思うが、あの当時の「何をされても」の無条件の実感を打ち消すことは、今さら出来ない。戦後占領施策の、敗戦処理の、GHQ指令といわれる全てを、眉をしかめてでも致し方なき「無条件降伏」のツケであると、少なくも政治交渉の衝には遠く遠く置かれた国民が嘆息し受容していたのを、もはや「過ちであった」などと、悔悟の対象にばかりはなしがたい。あれが敗戦だったのだから。
極東軍事裁判の法制的な不備や矛盾についても「その後」の吟味検証議論で多くを承知しているけれども、あの当時の段階では、余儀なく、議論の余地なく、ただ受け容れていたのが大方の反応だろう。わたしのように中学生になるならずの疎い少年には、どんな報道も、まずは「無条件降伏なんやし」と聞き入れるしかなかった。広田弘毅のような、子供ごころにも何故にと愕かされた死刑判決はあったけれど、その余の大方の判決を呑み込んで異議なかった国民が大半であったとして、それは「間違っている」などと言えるあの当時では有り得なかった。それもまた「無条件降伏」なるが故にと思っていたとして、仮にその誤謬を、あの時点に戻って実感の根底から書き直すわけにはとても行かないのである。その意味では、幾分かは、あれは占領軍が裁いていただけでなく、日本国民も裁いていた裁判なのであり、A級戦犯としてあの市ヶ谷法廷に引き出されていた殆どの元軍人たちの過去の所業に、「賛成」できた国民は極めて極めて数少なかった真実を、大事に見て取って良いのである。
たしかにインドのパル裁判官の、東京裁判を全否定した見解は尊いけれども、そういう議論とは別に、国民が胸の内で裁いていた裁判では、やはりあの判決の大方は、不動の鉄槌なのであった。桶谷さんの論証には、そこが落ちている。あの軍事裁判が不当な論理の上に立った占領軍の偏見と誤謬のものであれ何であれ、それはそれ、その埒外で粛々と国民の胸中でも進行していた戦争犯罪人と思しき連中への怒りや恨みや批判は、それまた、厳然と動かぬ指弾であった。その事実まで黙過しては、いかにも「為」にする議論のための議論に陥り兼ねないのを、桶谷さんのためにも惜しみたい。
* 天皇の人間宣言や新憲法問題でも、占領軍の政策的恫喝や策謀が働いていただろうことは、桶谷さんらの証明されるとおりだと思う。だが、だから天皇は人間になってはいけなかったのか、明治憲法が克服されたのは良くなかったのか。主権在民、象徴天皇は日本国を悪くしたか。
わたしは、そうは考えていない。天皇を神であるなどとわたしは少年時代から、あれほど神話に親しみ日本国史に親しみながら、だからこそ、考えたこともなかった。天皇制は一つの文化的・政治的な仕掛け・工夫の一つであり、存続させた方が、愚かな権力志向者の暴虐をまねくよりよほど賢いとこそ思え、「天皇に支配されている国民」という図式になど、反感とまで謂わなくても違和感は禁じがたかった。天皇陛下万歳などと本気で叫んだことなどなく、そういうことの出来る人たちは歴史病患者で病膏肓に入っているとしか思わなかった。楠正成の勤王を理解しても、後醍醐天皇の誤謬もまたわたしは理解した。天皇が人間であると宣言したとき、「あったりまえやん」とわたしはハッキリ感じていた。理屈をいろいろつけて、それを嘆いた人たちの大袈裟な感覚には、ついて行けない。
明治憲法の多くが克服滅却されたことは、後々までも、今でも、よかったと思っている。教育勅語も、根底の趣旨において全面否認。その上で、また取り入れるべき語句や趣旨もあるだろうと思うだけのことだ。明治憲法の文章文体の、どう荘重であろうが高雅であろうが、根本精神に「天皇中心の神の國」を「国体」とし、国民はそれに滅私奉公せよとの強烈な支配意図は、ひらに御免を蒙り、葬り去りたい。どんなに新憲法の文章・文体が、いまいまの、たとえ翻訳調であれ、それまた「素心平意」の理想を新たな国民の胸に届け得る程度であれば、言うまでもなく憲法のことは「中に盛り込まれてある」内容で以て評価したい。主権在民、象徴天皇・国際平和・国民参政権・基本的人権の確立・思想信条言論表現の自由などの多くが、歴史的に初めて得られた大きな変化であり権利であることの大きさは、明治憲法が国体と共に存続していたのと比較すれば、数千万倍にあたる喜びであると、わたしは、新憲法を、とにかく喜びとしている。その上で現下の不備をよりよく改めて行くことに少しも反対しない。
あの敗戦後の現況下にあって、わたしは、日本の古い体質や姿勢をもったままの一部政治家たちの手で、旧国体観や万世一系の天皇神権政治が温存されてしまわなかったことを、心から、ああよかったと思っている。感謝している。
新憲法のああいう決定的な理想主義には、たしかに人為的で欺瞞めいたウソ情況が、方便としても必要だったと思う。それでもなお、明治憲法による天皇制支配の国体が打破されたことは、よろこばねばならない。桶谷さんの議論では、その辺があまりに曖昧で、詮索に行方が見えてこない。大筋明治憲法のまま、天皇の神の國でよかったと言われるのなら、そうハッキリ言われるべきであり、主権在民は否定したいと言われるのなら、それもそうハッキリ言われればよい。新憲法が、占領軍に強いられて成立したかどうか、強いられたろうとわたしもほぼ認めているが、だから、それが、明治憲法をあのまま容認する根拠になどならない。憲法まで強いられた、そういう戦争であり敗戦であったが、わるいものを強いられていないことに、いっそ、よかったという気がある。日本の政治家に任せていたら、旧態依然に相違なかったのだ。ましてや文章文体で憲法の内容を是非するなど、本末転倒も至れりで、唖然とする。新憲法は、少なくも現憲法のように、素心平意の口調で分かりよく起草された方がいい、たとえ一部を書き改めるにしても。
* 國は守らねばならず、極東の近未来は危険に満ちている。戦争放棄・国際平和は原理的に保存しつつ、しかし、安保条約になにほどの期待も掛け得ないと知れば知るほど、自衛の姿勢は、まず思想からして確立すべきだと思う。が、軍備について明確に言う足場を持たない私は留保せざるを得ないが、近隣近国との間に生じる軍事的緊張のさほど遠からぬ事態には、備えをせねば、やはり、どうにもなるまいとは怖れている。
* 桶谷さんの指摘にある「国語」にたいする悪しき戦後の干渉については、もっともっと諸方から声が挙がっていい。現にわたし自身も新かなづかいを用いているけれど、その意味で言行不一致の誹りは免れないけれど、新かなづかいなるもの、およそ不合理を極めているのは確かであり、日本語に浸透した自然で必然の文法に深く、蕪雑に、背いている。日本中が勇断と聡明にしたがい、若干の配慮を加えて旧に復すべき反省に立ちたい。二十世紀日本語に対する「国民の恥ずべきいじめ行為」であった。新聞が、決然と立ち向かわねばいけなかったのに、新聞が事態をわるくした。日本のマスコミの恥ずかしさは、新聞も、テレビも、出版も、極め付きの質の低さである。日本語への愛と敬意を最も欠いている世間がマスコミなのだ。
* 桶谷さんの本は、なおなお慎重に丁寧に読んで行きたい。銘々に考えねばならない問題が、一貫して桶谷さんの判断で、取捨されてある。これだけで「昭和戦後の精神史」を尽くしていると思っては誤る。自分の胸に、正しく問うことが必要だ。わたしも、もっともっと落ち着いて考えて行く。今は思ったままを、即座に書き込んだのである。
2000 7・1 6
* 直哉の『戦中・戦後日記』を読んでいる。昭和二十年のは、記事自体は極限まで簡単だが、ものすごい連日の空襲と爆撃のなかで、動じる気色なく、有志知識人たちの座談会が頻々と繰り返されている。そういう営為から戦後に岩波の雑誌「世界」が誕生していた。わたしもその「世界」に、『最上徳内』を、あしかけ三年も連載させてもらった。
直哉も若くに愛読し親交もあった泉鏡花の、長編『由縁の女』を、また読み始めた。一つの特異な、差別問題を厳しくはらんだ鏡花らしい代表作である。急がずに読んで行く。『チャタレー夫人の恋人』も堪能しながらすこしずつ読み進んで、森番との出逢いが始まろうとしている。ロレンスが、もっと若い人に読まれて欲しい。
『宇治十帖』も夜々の思いを深くしてくれる。
息子が持っていっていて読めないのが『罪と罰』で、とても読みたい。これがいま枕元にあれば、現在「読書」の楽しみは最高に充実するのだが。
筆頭は、だが、バグワンの『タオ=老子』で、籤とらず。澄んだ水を無心に呑むように何も考えずに、読んでいる。少しずつ音読している。
そうそうもう一冊を挙げておく、荷風、だ。楽しんでいる。
知識や教養のためにこれらを読んでいるのでは、ない。「読む」のが嬉しくて堪らず、読んでいる。知識なんて。なんとつまらない毒物であることか。
2000 7・2 6
* 電車では文庫本がいい。上野方面に出た時など岩波文庫の川本三郎編『荷風語録』は最適だ。正直のところ荷風の懐かしく描き出す明治大正の東京、震災後の東京の地理地名には極く疎いどころか、皆目東西も南北も知らない、にもかかわらず毎々いうことだが「読んでいる」ことが、堪らなく嬉しい、それほど文章の喚発力が見事に緻密で、強烈なのである。むろん、わたしも還暦過ぎて数年の老境にあり、いまの若い読者とは同日に語れまいとは思う。思うけれども、やはり、いい文章の魅力は時を越えて、段が違うのである。同じ荷風にでも、作品によりやや出来もあり不出来もある。それが分かるなら、いつ誰の如何なる作品でも、出来と不出来とはおよそは分かる。わたしはそう思っている。文章が大切である。美文でなくてもいいが、根に、詩という音楽=うたが、響いていて欲しい。
* サライ編集長の東直子さんが、パソコン特集を余分に一冊贈ってくれた。一冊は「初出保管」してしまうので、この号は、もう一冊手近に置いておきたかった。初心の人には、殊に、どう使いどう器械を選ぶかから、たいへん巧みに便利に編集してあり、きっと役に立つように思う。いやわたしも、そばに置いておくと少し心強いかなと期待し、東さんに著者としてねだったのである。三日間で完売し、増刷したらしい、さもあろうと思う。 2000 7・3 6
* 車中で読みふける『チャタレー夫人の恋人』は、さすがに、すうっと惹き込む。
2000 7・6 6
* ロレンス『チャタレー夫人の恋人』、鏡花『由縁の女』、馬琴『近世説美少年録』直哉『戦後の日記』に打ち込んでいる。読書が楽しい。ときどき落語を聴いている。中元に酒やビールが届くのに、「残念」の悲鳴。ただ悲鳴は上げるが、つい飲んでしまう。意志薄弱の見本である。
2000 7・7 6
* 目の前の書架には、春陽堂版の『鏡花全集』、中央公論社の『森銑三著作集』、岩波書店の井上靖『短編集』『歴史紀行集』、福田恆存の『全集』『翻訳全集』、ドナルド・キーンの『「日本文学の歴史』」全巻、平凡社の『日本史大事典』全巻、淡交社の『古寺巡礼・京都』全巻、学研版の『現代語訳 日本の古典』全巻、小学館の『探訪神々のふる里』全巻、岩波版『日本古典文学大辞典』全巻、角田文衛博士の研究書数巻、そして『老子』をはじめ漢籍講義の二十冊ばかりが入っている。『蕪村集』や『秋成文献』や『平家物語覚一本』や田辺爵『徒然草諸注集成』も入れてある。森田草平訳、ドストエフスキー『悪霊』も、庭の書庫から移してきてある。書架に入りきらない絵巻大成本が、『「信貴山縁起』『伴大納言繪詞』はじめ六七冊持ち出してある。岩波の『広辞苑』、東京書籍の『佛教語大辞典』、集英社の『国語辞典』が手に届くところに在る。
そんな中に、谷崎潤一郎先生のおっかない顔を囲むようにして、澤口靖子のいろんなカラー写真が、いろいろに置いたりピンで押したりしてある。カレンダーは山種美術館の呉れる今年は「奥村土牛」の繪である。
ぜんたいに、異様に似合わないと言う人と、おもしろいと言う人と、黙っている人とがある。あまり賛成されていないようだが、みんな好きなものに取り囲まれているのは、心やすらかで、有り難い。だが、器械の前で腰掛けた足元の畳の上は、これはもう騒然雑然と本の山で、わずかな空地を踏んで部屋を出入りしている。物干しへ往来の妻が嘆くのも怒るのもまったく道理である。本を片づけるのが、ほんとうにシンドクなった。
2000 7・8 6
* いい映画もなく、テレビドラマは見る気にもならず、結局、本に戻る。
桶谷さんの『昭和精神史』を、だいぶ読み進んだ。熱心に保田與重郎への声援が続く。戦後の多くの保田批判に対し熱心な反論や反駁がされている。言えているところも、分かるところもある、が、言い過ぎではないかと首を傾げてしまうところもある。かつて、どうしても、わたし自身は保田與重郎の弁口に無心に賛成できなかった。妙にまやかしめいて胡散臭く曖昧にしか感じられないものがあった。小林秀雄の修辞にも保田の修辞にも、晦渋という以上のややこしさを覚えた。そういう過去の読書歴を顧みつつ、桶谷さんの論調に、気は重い。貫く棒のごときものの性格が、わたしとは違っている。
わたし自身は、どちらかというと浪漫的な性質をもっているのだろうが、あの昭和十年代の日本浪漫派の人たちからは、多くを学んだ気がしない。へんにイヤだった。へんに危いものを感じた。どっちみち戦後に接したのだから、こっちにも偏見があったろうと思うけれど、基本的にわたしは、戦後民主主義に育った少年だ。背後の闇にどれほど占領政策の影響、それに便乗して報復的な考え方で跳梁した戦後のマスコミや党派的偏見などがあったにしても、少年のわたしにはまだ到底見えなかった。「見えない」ことが大事な点で、見えないまま身に帯びたものに、根本の「毒」がひそんでいたという気はしていない、それが、もっとも大事な点なのである。
むしろ、「天皇中心の神の国」のような国体観へ、今になって懐古的に押し戻されかねない反動の潮流を、わたしは嫌う。警戒している。特定のイデオロギーに毒されてきた体験も自覚も、わたしは、自分に対し認識していない。できない。呼吸のように身に帯びた敗戦後日本に、いやなところもいっぱいあるけれども、かと言って、戦中戦前の日本へなど戻って行きたいとは思わない。へんな亡霊を今さらに甦らせ讃美されたくはないというのが本音である。
2000 7・9 6
* 『由縁の女』は底知れない伝奇ものとも、情緒纏綿の恋愛ものとも読めるが、そんなことはさておいても、文章が乗っていて、歌っていて、普通は乗って歌った文章は困りものであるのだが、鏡花にかぎってそれが生きる。黙読していてはつっかえるかも知れない美しい蜘蛛の糸のような文章が、音読すると、読みやすくて生き生きする。句読点を信頼し、そのとおりに息を継いで読み進むと、堪らない味な世界が幻の像を結んで増殖して行く。手にとるように世界が活躍してくる。そこでヘタな理屈をこねずに、うっとりと乗せられ音読を楽しみだすと、もう、やめられない。
じつにいろんな小説が可能なのだ。そういう可能を堪能していると、いまどきの評論家が、小説に「点」がつけられるかどうかなどとイチビッテ時めいているバカらしさも、忘れられる。
文芸批評は採点ではない。面白い、優れた、この上ない作品をさまざまに見つけ出して、その面白さ良さを、さらに豊かに開発できる能力を問われている。いつの時代にも時期にも、イチビッテ奇道を行くもののいるのは、或る意味で必要な現象だ。それを、どういち早く卒業してババカードを次の誰ぞに渡すか、それまた才能の内なのである。限度は三年ぐらいなものだ。それ以上にイチビッテいるのはほんものの、バカもの。
* 新しい『直哉全集』の配本、日記の最終巻をとばして、『書簡集』最初の巻が届いた。直哉は盛んに手紙を書き、初期の日記は簡潔そのものなのに、逆に手紙はたっぷり量を書いている。作品よりも長い手紙をたくさん友だちに宛てている。旅先からのものが多く、純直なと表現したい、生一本にぶつけた、しかもユーモアに富んだ手紙が満載されている。わたしは、谷崎のは別にしても、あまり人の日記や手紙は読んで来なかった。志賀直哉全集の読みやすさのおかげで、また直哉という作家の人となりに惹かれて、驚くほど、踏み込んでよく読んでいる。なにか今のわたしを、支えられてさえいる。直哉の手紙は、そのまま直哉文学であり、文学全集の付録ではない。それをしかと認識し楽しんでいる。 2000 7・11 6
行き帰りの車中で『チャタレー夫人の恋人』に引き込まれ、森の小屋で、はじめて男爵夫人のコニーが森番のメラーズに抱かれる場面の優しさに触れえたのが、何よりであった。ここのところ、美術展は軒並み「文学」に負けている。
2000 7・13 6
* ゆうべ遅くまで直哉の『書簡』を読んでいた。畏友有島壬生馬に宛てた直哉のみごとな述懐の長い手紙をたてつづけに読んだ。「ほんもの」の魂が活躍している手紙だった、それが大学に入る前後に真摯に率直に書かれている。書く人も書かれる人も立派だ。当時の直哉からすれば、今のわたしは三倍も年をとっているのに、幼き者の気持でわたしは読んでいる。この頃、特に気づくのだが、自分がやがて満六十五歳になる人間なんかでなく、まだ中学高校の頃と同じ気持ちで日々を過ごしているような。哀しむべきか悦ぶべきか分からないが、「老い」を思って然るべき境涯へほとんど実感が持てずに、未熟に若く日々を送り迎えている。ウーン、不思議な気がする。一つには、若い頃の作品を一字一句ずつ正確に書き写しているのが、感化しているのだろう。いいことか、よくないことか。
2000 7・15 6
* 鏡花『由縁の女』の、蜘蛛の巣のような舞文の妙だか隘路だかに惑わされて、唸っている。あまりといえばあまりに言葉の嗜虐的な遊びようで、小説の構想や構成をただ追っていては、ガハッと、嘔吐しそうなほど珍妙至妙の日本語駆使である。
これは黙読していてとても筋など追っては行けない。句読点を水先案内に信頼し、その通りの息づかいで朗々と音読して行くと、さながらに舞台に現じた幻想の繪に紛れ入った心地で、面白く先へ先へ運ばれて行く。
鏡花が戯曲にたけていたのはもっともで、鏡花の小説は、いつも、どことなくみごとな舞台の長い精緻な「ト書き」に読める。鏡花の小説などまるで読まない妻ですら、『天守物語』のあの不思議な台詞の美しさは堪らない魅力だと感嘆する。読んだのではない、何度もいろんな舞台を観て聴いてそう言うのだ。鏡花の言葉は、根からの演劇言語なのだ。
* 若き日々に、志賀直哉が、フランスにいた心友有島壬生馬に宛てた手紙が佳い。その中で直哉は、幾度となく島崎藤村への敬愛を、謙譲のことばづかいで書き込んでいるのに目がとまる。『破戒』が自費出版され『春』が書かれていた頃に当たる。この頃に直哉が親近していた作家は、先生の夏目漱石、幼くから愛読したという泉鏡花、そして間近に初
めて出逢った藤村文学であった。親友では、漸くに武者小路実篤の人間に理解と親愛とを深め始めている。この二人は気質的にはだいぶ違っているが、武者は、はじめのうち直哉には堅くて窮屈であったらしい、が、それを押し越えて肝胆相照らす信頼が深められて行く。尊い真実である。
直哉は面白いことを書いている。周知のように直哉は、若くから、女義太夫や歌舞伎にぞっこんの大通で、耽溺していた。しきりにその話を武者小路にもして聞かせる。実篤は顔をしかめ、さもいやそうにしている。
実篤は、人間は不快なこと、同心得心出来ないことには反対の意思表示を「まずは言葉に出して言わねばならぬ」と言う。言葉に出しにくい場合でも、「顔に不快不得心の表情を出して横を向いているべきだ」と言う。つねづね、それを言う。直哉はよくよく知っているから実篤の渋い顔の意味が分かっている。だが直哉は直哉で、遠慮しない。話したいから話し、言いたいことは言う。そう直哉は愉快げにパリの壬生馬に伝えている。
* わたしも、なるべく、そうしている。気に入らない、得心できない状況や話には、おおかた、即座に顔をしかめる。無表情に聞き流していたりしない。口に出さないまでも、首を振ったり眉を顰めたりして、自分がへんな妥協に走らないように自分で自分に警告している。ただ直哉のようには、相手のいやがっている話題をしまいまで言い抜こうとは、あまりしない。其処まで出来ない。
* 「チャタレー裁判」なんてことが、なんであんなに仰々しく必要だったのだろうと、今さら不思議な気がするほど、ロレンスをもっともっと読みたくなる。『息子と恋人』『恋する女たち』『死んだ男』など。直哉がいかにロレンスはダメと指弾しても、こればかりは聴けない。
* 桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』を読み終えた感想は、人はそれぞれの戦後精神史を自身の体験を通して自身に問うべきだ、ということ。桶谷さんの本は桶谷さんの自問自答であり、こういう本の書き方のお手本として、まことに周到、賞讃を惜しまない。だが、六十年安保闘争の章など、わたしもまた一企業の組合員として国会を連夜取り囲んだ一人であり、桶谷さんの視点だけでは言い尽くせないものがあると痛感した。あのデモに参加した一人一人に「白い封筒」の現金入りが配られていたといった、或いはごく一部にそういう事例があったかも知れぬにせよ、わたしたちには思いも寄らぬ事実無根であり、こういう視線から「一事が万事」式に書かれると、殆ど何かの中傷のように読めてしまい、桶谷さんのために惜しまれる。
2000 7・26 6
* 加藤克巳さんの歌集『游魂』に泣かされている。歌壇の長老、ときどきお目にかかると声を掛けて下さる。豪快に大きな全集もみな頂戴し、このあいだは記念会に来ないかと「個性」の皆さんからお招き頂いたりした。それは辞退したが頂戴した歌集は拝見している。六十年をともになされた奥さんの死を嘆きに嘆かれるモゥンニングワーク=悲哀の仕事。短歌の形にももう囚われない自在な歌いぶりは、早くから定型と定型崩しの自在さに独特の境地を確保されてきた老歌人にふさわしく、ポンと境涯自体を高く突き抜いている。それでいて老い込んではいない、意志が生きて、けっしてよろめいていない。
* ついでにまた山形裕子さんの『子どもなんか』も読んで、また笑ってしまう。歌集の全部を書き写したくなってしまう。いっこう愉快ではないのだが、八十九の実母と、作者長女と、長男やその他の家族や嫁、孫や、犬猫らも入り乱れての、本音の露出のすさまじい、めったにない歌集なのである。
カナリヤの唄を忘れた母さんをお背戸の藪へ捨てる相談
病院へ入れたらどうと言ったって八十九歳は病気でしょうか
長男と末の娘の二人だけ まだ泥棒と言われていない
百万円昨日やったと仰せです 返してくれとおっしゃるのです
盗った者に盗ったと言った 盗った者が盗ったと言い出す例は聞かぬ
遣ったゆえ遣ったと言った 受けた者が自分の方から言い出すものか
子どもらが食事の世話をしないならご近所さまへいただきにゆく
子どもらはみんなお先に死ねばよい わたしは百を越えてみせよう
いや、あっぱれ物凄いが、腹を断ち割ればこういう家族が世間に一杯で、例外の方が少ないのではないかとふっと想わせて、笑いの凍りつく歌集である。
* 麻川禮吉という金沢出身、東京で妻のお橘と暮らす詩人小説家が『由縁の女』の主人公で、彼をめぐる、お橘も含めてもう三人の女が登場する。従姉弟で人妻で幼い昔から相愛の針屋のお光、禮吉が少年の昔から遙かに憧れた、今は不幸な人妻の麗人お楊、禮吉を慕う数奇の美貌露野。露野のかつての乳母は、露野らの没落後に、世に人外と受け容れられない夫をもち、露野はその乳母夫婦に今は命からがら頼る身の上である。
話の大筋は、禮吉の亡き両親や祖父たちの墓が、市の「有力者たち」の開発で失われるのを嘆いて、その骨と土とを東京に移そうと、金澤へ帰っていった間に展開される。鏡花の根底のモチーフには、いつも暴虐の有力者と、弱く差別を受けてきた者との対立抗争がある。むろん、禮吉は露野が献身の愛に心底酬いる立場にあるし、侠気に富んだお光も、また応援してくれる。作者が渾身の魔術師ぶりで絢爛多彩な日本語の幻術を尽くすのは、先に謂う微妙で執拗な対立を、文芸の秘技の中で「韜晦」しながら書き示そうとしているからででもあろう、か。ちょっと今日には、すらすらは書けない難しいところへ、露骨に鏡花は触れている。そこがまた彼の真骨頂で、『由縁の女』にはそれが際だっている。だから、秀作なのに、復刊されにくい。『蛇くひ』『貧民倶楽部』『化鳥』『風流線』その他数々の名作がある。戯曲は殆ど全部がこれに関わる。根底に蟠るシンボルは「蛇」で、それなのに鏡花研究者の、まだ実に例外的な人数しか、鏡花の「蛇」には触りたがらない。「蛇」が気味悪くて厭なら、鏡花の「水」「海」「川」「沼」などへ踏み込むべきなのだ。そこに、鏡花が涙を流した「女」の被差別問題が横たわっているのも識るべきだ、環境や慣習の問題とともに。そういう視野をまるで持てないで、「水」を主題に「女」の問題をうすっぺらくシンポジウムにしているようでは、仕方がないだろう。いまの日本の「女」問題をふかく取り押さえられないのは、むしろ賢そうな当節の「女たち」の方だという気が、強くしている。日本の文化は素質的に「女文化」なのだが。このわたしの指摘が、まだ課題として関係者の意識に上ってきていない。「世襲」問題なども、「いじめ」にも、少しの注意力で根底に「蛇」問題が巻きついていることは分かるはずなのに。木崎さと子さんが、それに気づいて小説を書いていると知ったことが最近での我が収穫であった。
2000 7・27 6
* 「チャタレー夫人」の、ここはこれまでの版では削除の憂き目に遭っていた箇所だなとハッキリ分かるところを、今日読んだ。よく書けていて、猥褻ではなかった。コンスタンスの深い歓喜、メラーズの優しさが、よく伝わってきた。
* この器械のそばに拡げて、器械での待ち時間などに少しずつ読み始めて惹き込まれているのが『福田恆存全集』第五巻、今は「道徳は変わらない」という石川達三徹底批判の一文を読んでいる。石川達三は新聞小説『風にそよぐ葦』だったかで子供の頃に名前を覚え、最初の芥川賞受賞者としても記憶にあったが、なにとなく俗っぽい、それも薄い物言いの人という印象から、ことに谷崎の『鍵』への見当ちがいな発言内容からも、やや侮り遠ざけていた。その石川達三の「今日のモラル(道徳)への疑問」と題して昭和三十七年四月号「婦人公論」に書かれたものを、福田さんが断固として解析し批判し非難し尽くしている。まことに、手厳しいが当然の批評なので、少しも読みにくくない。どんな時代にも軽薄に時流に便乗して「かなひたがる」人はいたのである。やっぱりそうだったんだと、福田論文にすっきりする納得があった。
本当に読みたいのはこの巻の巻頭、『批評家の手帖』なのである。これを楽しみにしている。
2000 7・28 6
* ゆうべは明け方までとっかえひっかえ本を読んでいたが、『直哉書簡』がひとしお面白かった。有島壬生馬と武者小路実篤と最も深い心交のあった時期で、「白樺」創刊も胎動している。直哉は雑誌にとくに熱心ではないのだが武者小路を世に送り出すために有効で必要だと、応援の一意から積極的に賛同へ動いているなど、実に気持ちがいい。山内英夫(里見?=壬生馬や有島武郎の弟)との親交も始まっている。率直で清潔。青年の気迫も、また怠惰も意欲も、混在して自由。ま、自由の利く人たちではあるのだが。壬生馬を介してロダンと接触したり、セザンヌらに関心を強めたり、直哉らの共通した美術や美への愛好心にも目がとまる。いま、わたしは直哉世界を「呼吸」しているみたいだ、森林浴のように。
2000 7・31 6
* 京都の宇治市在住の仏獨現代文学の元教授の幻想性のある伝記的な小説の分厚い本を贈られた。なんと贈られたのは秦恒平でなく、「繪屋槇子」「安曇冬子」に、と巻頭に献辞が挿し入れてあった。槇子は『みごもりの湖』の、冬子は『冬祭り』の、ヒロインたちである。こういうことは初めてであり、彼女たちのために悦んだ。
埼玉県大宮の、久しい熱心な読者である女性詩人も、県下の興味深い「伝説」にことよせた考証や感想や詩的な随筆をまとめ、一冊にして贈ってこられた。「釆女考」は中でも力作だった。
* この数日、佐高信氏とテリー伊藤氏が、対談で、徹底的に公明党と池田大作を筆誅批判し尽くした本を読んでいる。文句があるなら法廷で争ってもいいくらいな堅固な確信で対談され、編成されていて、対談の合間に何人かのジャーナリストたちのレポートや論考が挟んであるのが、どの一編もじつに読ませる。
創価学会と公明党に対しては、終始、眉に唾をつけて眺めてきたし、直接にも、或る経験をわたしはもっている。昭和三十六か七年頃であった、お世話になった母系家庭の孫娘が心臓を病み、手術の必要有りと当時の権威である榊原仟東京女子医大教授の執刀が決まっていた、のを、創価学会に入信まもなかった患者は、学会のつよい示唆で、間際に手術を断り、そして呆気なく悪化し死んでしまった。榊原先生にお願いして欲しいと頼まれ、その手はずを調えたのは医学書院に勤めていたわたしだった。その当時は、よくある話だった。「折伏」の叫ばれた時代だった。
佐高・伊藤氏の本を、ともあれ、大勢に読んでみてもらいたいと思う。判断は読者に委ねたい。
2000 8・2 6
* 鏡花『由縁の女』を読み終えた。二度目だが、印象を大いに新たにした。作者の憧れ心が過大なまでに浪漫的に幻想的に情緒的にもちこまれて、徹している。淫している。鏡花の強みであり、人によりそれが躓きの壁になる。何度も言うが、句読点に頼って無心に音読すると鏡花文学は楽しめる。まさしく音楽であり、文楽である。「文学」などと表記したのが間違いだったのではと、毎度のように痛感する。「文楽=ブンガク」でよかったのだ。いまもし音楽が「音学」と表記されていたら、こんなにも人の楽しみになり得ていたかどうか。
2000 8・3 6
* 直哉の全集をしっかり読みながらの関心の一つに、彼が、谷崎潤一郎をどう観ていただろうということが、ある。戦後になって以降の家族的な交流はかなり日記に見えている。谷崎側の文章にも手紙にも見え、また直接松子夫人にお聴きもして知っているが、若い頃にまた戦前にどうであったか、これが直哉側の作品でも日記でも容易に見て取れなかった。やっと、書簡の中で、名指しはされていないが「悪魔派的」という語にふれながら「平凡な人」という指摘のある文面を、一箇所だけ発見した。大正五年四月十八日の山内英夫つまり作家里見弴宛て書簡で、である。
悪魔主義は、この頃の谷崎の「旗」であった。千代子夫人と結婚したのが前年、やがて長女鮎子さんが生まれると谷崎は『父となりて』という、言いたい放題の「悪魔派」的発言で世間を驚かせた。既に谷崎は、日の出の勢いの人気作家であり、はや「大」谷崎と冠されそうなほどだった。「白樺」の勢力は定着し、直哉らの声価も安定して高かったけれど、潤一郎のようなベストセラーではなかった。
不思議なことに、だが文壇的な「位取り」では終始直哉らは他を或る意味で他をドンと押さえていた。「小説の神様」という称号は直哉のものになって行った。だが、直哉に「小説」という仕事がどれだけあったか、これは考え物である。『小僧の神様』などで谷崎の『刺青』『少年』『幇間』『秘密』『麒麟』などに匹敵するわけがない。だがまた大正期に入っての谷崎の小説は、評判ほどではない駄作も多かった。むしろ直哉の私小説が、純度や硬度を、文芸的に誇り得た。大勢の同業文壇がこれに追随し追従した。谷崎のような作品なら簡単に書けるとさえ言う連中もいたぐらいだ。
参考までに、直哉のこの書簡の一部を書き抜いておく。
* 僕は近頃手近なものから地道に実行したいといふ考を持ちだした。
悪魔派的な考を持つた平凡な人程下らない不愉快なものはない。偉い人間が平凡な道徳的行為に忠実なのは感じのいいものだ。
(略)
下から堅めていつた塔は確かだ。
観念でビホウした行為で生活してゐる位不安な生活はない。一つ一つの行為に観念が必要になる。そしてそれは非常に感じの悪い行為になる。
手近なものから堅められて行つた行為は総ての行為に対し自(おのづか)ら或る正確な感じを持つ。
* 谷崎の悪魔主義が観念客気の所産であったことは間違いない。自称「谷崎愛」のわたしも、そういう時期のそういう谷崎のパフォーマンスには、従来から冷淡だった。
そうはいえ、谷崎の「不安」と、直哉の「確か」「正確」とは、かなり大きな対照の意義を感じさせる。谷崎は意図的に生活を「不安」に曝しつづけ、「安定」を拒絶しつづけることで、大正時代の自身の芸術を鍛錬した。すべてが成功したとは言えないけれど、その成果と体験なしに昭和期への大きな飛躍はありえなかった。谷崎は内心の不安を表面の自信や自負に置き換えるむずかしい生活操縦を自らに強いて、たじろいだとははために見せなかった。そこに谷崎の骨の太さがあり、作品にも反映した。だから、わたしは、駄作といえども活字に唇を添えてそのうま味を啜ることに、終始悦びを持ち続けた。
三島由紀夫も言っていた、谷崎の大正期作品は、駄作であろうとも巨像の足音の響くようであったと。少年時代のわたしは、三島と同じように感じていた。「不安」を演出し続けて正確や確かさではなくとも、豊かな成熟へと谷崎は歩み続けた。
志賀直哉の「確かさ」「正確」は、いかにも、よく分かる。はっきりものが目に見えてきてから、見えたように正確に書けと直哉は繰り返し言っている。そして生活もそういう意味で、自在で、かつ経済的にも社会的にも心理的にも余裕があり、堅実そのものだった。 谷崎は三人の妻と出会い、一人の妻は佐藤春夫に「譲渡」している。妻とは、神でもない玩具でもない、それほど詰まらない家庭用の道具同然のものと言い放ってはばからぬ長い時期を谷崎は持っていた。
直哉の家庭生活は、子沢山で親類にみちみち、友人との往来は、さながら家の中も大道と異ならないぐらい頻繁だった。谷崎はあれほど尊重し愛した松子夫人との間にすら子供を拒絶しとおした。
* 直哉にとって、大正五年当時のまさに華々しき存在であった谷崎潤一郎が、「悪魔派的な考を持つた平凡な人」で「下らない不愉快な」存在であったらしい事実は、多くの考察の一つのポイントとして、記憶していたい、わたしは。これが直哉の谷崎(らしい人)に触れた最初だということが、大きい。谷崎愛に生きてきて、志賀直哉の境涯にいま深く深く触れたいと願っているわたしには、この書簡の一節は堪らない刺激である。
2000 8・6 6
* 直哉が『暗夜行路』をとうとう完成させた頃の書簡を読んでいる。昭和十一、二年頃だ。谷崎の昭和初年と直哉のそれとは、産出力において、天と地ほど谷崎が勝っている。瞠目の大噴火時代であった、谷崎潤一郎には。
志賀直哉は決定的に重い文壇的地位をしめていながら、創作の湧出力は激減して、長編の完成にも音をあげながら四苦八苦している。だが生活は、悠然としている。敬意の受け方も深いし、瀧井孝作、網野菊その他の後輩友人達への全面的なといえるほどの精神的・実質的支援は、これまた、目を瞠るほどこまやかに親切である。そして、ときどき、作品の批評をしているのが、とても啓発される。
次から次への旅また旅、自身や家族の絶えざる病気、頻繁な引っ越しや家作、古美術への親炙、大家長としてのあらゆる面での配慮は、ひろく友人知己の上にまで及んでいる。友人も知己もいわば直哉には「大家族」なのである。
昭和十一年の谷崎の秀作『猫と庄造と二人のをんな』への賞讃の弁が、瀧井孝作への書簡に初めて現れる。同じ頃の横光利一の作品は比べて問題にもならないと貶してある。谷崎を文章にして評価した、これは最初かも知れない。
* 谷崎潤一郎と志賀直哉は、真正面から比較して品隲されたことが、不思議だが、まだ無い。私には、出来るかも知れない。それはまた間違いなく、わたし自身を問い抜く課題になりそうだ。さ、どうか。
2000 8・16 6
* 滝沢馬琴作『近世説美少年録』全三巻のうち、配本された先の二巻を読み終えた。すかっとする作品ではない、ごてごてと不自然に作り立ててあり、語彙の豊富さや言い回しの大層さには感心するが、澄んで深い感銘にはほど遠い、講釈本であった。
ロレンス作『チャタレー夫人の恋人』も、また読み上げた。これには満足した。性の表現にも感心したけれど、作品の構造的な組立て以上に、やはり嶮しいまでの「反近代」の姿勢・思想に共感した。名作の名に背かない、わが愛読書の有力な一冊である。
直哉の、新たに配本された書簡集も、一気に読んだ。次の巻が待たれる。
* いま、多大の悦びで毎夜没頭できるのが小学館版日本古典文学全集第二期の『落窪物語』で、これは古語が易しい。ちょっとした注があれば、ほぼ大過なく読めて、描写も運びも的確簡明、落窪も、侍女の後見あらためあこぎも、魅力あるアンサンブルなら、落窪に通う少将も随身も、なかなか面白いキャラクターである。随身とあこぎとが夫婦なのだが、この組み合わせが軽妙で、あけすけで、センスも感じもよく、微笑を誘う。
この作品、わたしは、初見なのである。新鮮で面白い。とても親しめる。うれしくて仕方がない
2000 8・29 6
* 寝る前と決めているのに、読みたくて、夕方ごろりと寝そべりながら『落窪物語』をほぼ終わる辺りまで読み進んだ。こんなにやすやすと読める王朝古典は珍しく、被虐、報復、孝養、庇護が、古今に稀な一夫一婦の純愛に支えられて極めて割り切れた話体で進行する。こういう話を喝采して受け容れたのは、上流ではなく、下層の女房族ではないかと解説されているのも頷ける。
落窪の君は、とても「いい人」である。夫もじつに「いい人」である。こういう一組の夫婦に、終始気を揃えて活躍させる作意が、特殊である。まだ全巻を通していないので言いにくいが『宇津保物語』より遙かに明快なテンポをもち、『狭衣物語』より遙かに気分がいい。今後も繰り返し読むだろう。
2000 9・4 7
* 先日、委員会で猪瀬直樹氏にもらった『天皇の影法師』という本を読み始めたが、これは、面白くなりそうだ。意表に出た話材を、足まめな調査でかためながら、面白い切り口をつくって惹き込んで行く。達者な運びで、安心して身を任せておれそうなのが嬉しい。よく勉強している人だと思う。
2000 9・8 7
* 中村光夫のもう古典的な『志賀直哉論』を書庫からもちだしてきた。大昔に読んだ。真っ向批判の手厳しい批評だったが、直哉の全集を良く読んだいま現在、どう読み直せるかと。中村先生の風貌も声音も、よく覚えている。中村紘子のピアノリサイタルの会場で立ち話に、「きみのような人が、(文学の世界に)もっといてくれるといいのだがね」と温顔で、まじめに言われたのが忘れられない。縁もゆかりもなかったわたしの手を掴んで、太宰治賞を握らせてもらったのが中村先生であった。
2000 9・12 7
* この両三日熱中しているのは、中村光夫著『志賀直哉論』で、論は明晰、文体も明瞭、「批評」の文として魅力に溢れ、組立てもかっちりと冗漫な揺らぎが全くない。名刀の切れ味とはこうかと、久しぶりに文藝批評の藝にも文藝にも触れ得て、嬉しい。全集や日記書簡に至るまで耽読してきたところなので、論旨があざやかに読みとれる。
かつては、あまりに厳しく、よく此処まで書くなあとある種のおそれをなしたものだが、中村さんの言われるとおりに、これは、これで、たいした志賀直哉への高評価であり、偏見は語られていないと感じ入った。言うべきは全て適切に的確に言い切って、無用の容赦は全くない。それだけに、根本の敬意、評価もまた気持ちよく深くくみ取れる。おそるべき批判の数々も、ほとんど例外なくわたし自身の感想を代弁してもらっていて、「それはないな」と思う筆誅は殆ど無いのである。
中村さんにも『志賀直哉論』は谷崎論よりも自信作であったようだが、中村さんの同時代には、綺羅星のように優れた批評家がいたと今にしておどろくのである。伊藤整、平野謙、山本健吉、瀬沼茂樹のものを初め、もっともっと大勢の批評家の「藝」に感嘆したものだ。節度と文藝によって批評が魅力的だった。
昨今の、多くを知らないので言うまいが、知る限りにおいては、節度も落ち、なによりも文藝がない。文藝批評家と称しているが、本人はほとんど文藝家ではないのだ、ざらざらした手触りが気持ち悪く「おいおい」と言いたくなる。
「中村」論だけで話を決めてしまいたくはない。志賀直哉には無数のオマージュが捧げられているが、最後の弟子であったろう阿川弘之氏の大作『志賀直哉』を何処かで手に入れ、早めにぜひ熟読してみたい。
2000 9・14 7
* 中村光夫先生「志賀直哉論」とは性質が違うけれど、猪瀬直樹君の『天皇の影法師』は、彼の著作の中で最もわたしたち夫婦をよろこばせ、楽しませた。敬服したと言いきっていい。わたしが、一つ批評をするとすれば、元号を論じながら、国民に「暦」を授けるという皇室の不可侵根源の意義について一言の言及もないのは、元号そのものの根底に考察や洞察が及んでいないという一事。その余は、たいへん興味深く教えられることが多々あった。「八瀬童子」のことも、貴重な言及になっていて、「おぬし、やるな」と嘆賞の声を起こし敬服した。ただ、この議論は、独立してもっともっと深く掘り下げて行く必要がある。『猿の遠景』ではないが、遠景がぱっと開けてくるところがあるのだ、その先をぜひ期待したい。とにかくも大きくウンと頷かせてくれた佳い猪瀬直樹の仕事である。今夜の司会も楽しみにしている。
2000 9・14 7
* 例会では巖谷大四、伊藤桂一、長谷川泉氏ら懐かしいお年寄り達に逢えたし、新入会の野口敏雄氏や湖の本読者で歌人の高橋淳子さんらにも逢ったので、途中で独り抜けだし、帝国ホテルの「ザ・クラブ」に腰を据え、ウイスキーとチーズで、猪瀬直樹著『天皇の影法師』の「八瀬童子」の章を読みふけってきた。この本ばかりは我が猪瀬直樹に親愛と敬服の念を惜しまない。じつに面白く、じつによく調べてあり、安心感が持てる。それもオリジナルの追及であり、大いに教えられた。
これで京都の風土的社会的な秘められた素質にもっと彼が通じていたら、さらに深い歴史的な遡及も可能であったろう。八瀬童子には、死と死者と葬儀の問題が基盤にある。わたしの新聞小説『冬祭り』が現代の愛を書きながら、二千年の日本の歴史にも相渉っていたのは、ヒロインとその家とが伝えた「葬」の文化が絡んでいたからだ、そして「蛇」の問題も。猪瀬君の視点からは、当然のように、そういう「歴史」的背後の闇は切り捨てられているのである。
しかし、たいした仕事だ。聴けば処女作に近いとか。道理で叙述に真摯な熱がある。
2000 9・18 7
* ペンクラブの高橋茅香子さんに『英語となかよくなれる本』(晶文社)を戴いた。お話を聴くようにやすやすと読める、むろん日本語で書かれた本である。ああもっと英語で読む習慣を自分に強いておけばよかったと、ちょっと今さらに悔しい。そんなことを言ってないで、なかよくしたいなと思わせてくれる親切な本である。友だちが贈ってくれたジョージ・マキリップの『竪琴』三部作がいつも手近にある。高橋さんのひそみにならい、アガサ・クリスティーも買って来ようかなと。アガサの訳本は、ほとんど、家にあるのだし。
やはりペンクラブの相原精次さんには、『鎌倉史の謎』を戴いた。これは歴史の本でもあり、踏み込んで興味津々読める。歴史の大石垣の大事な隙間をしっかり埋めて行くような探索であり、大事な仕事だ。
佐高信・福島瑞穂共著の『「憲法大好き」宣言』をいただいた。ずんずん読める。「平和思想」の根本にかかわる所、民主主義・主権在民の基本に関わる所、現憲法の基本のところは、改変に反対である。時勢に遅れてどうにもならない手続き法的なワキのところは直せばよいが。明治憲法の文体に劣るの何のといった、キザで二義的な議論はムダであり、経緯はいかにもあれ、誇るに足り護るに足るいいところは、敬愛して維持し続けたい。残したい。佐高・福島二氏の議論が上滑りせず説得力に富んでいることを願いながら、読み始めている。
むかし、東工大におられたドイツ語の野田教授訳の『アッティカの大気汚染-古代ギリシア・ローマの環境破壊』(ヴェーバー著)も面白い。人のやることは変わらないものだと苦笑いも出る。
ペンクラブの斎藤俊彦さんに戴いた中公新書『くるまたちの社会史』がまたたいへん面白い。乗り物は道とともに発展する。人力車から自動車まで、この歴史、身近であり示唆にも富んでいる。
やはりペンクラブ会員で湖の本の読者でもある中野完二さんにいただいた『太極悠悠』には、ぐぐぐっと目を引き寄せられるエッセイがところどころまじっている。「毒蛇」とか「へびと大嘗祭」とか、気になっている機微に触れてある。まさに日常から見つめる非日常の不思議に筆が届いている。
作家でドクターである庄司肇さんの「きゃらばん」五十号も頂戴した。小説風に、評論風に、雑文風に分けてすべて氏の原稿で満たされてある。私版の文集で五十号、縦横無尽の論客である。敬服する。
ペンクラブの齋藤雅子さんから戴いた新潮社の大冊『絶えて櫻の』は、業平の昔の業平が語る私小説。応天門炎上の時代であり、それだけで大胆に意欲的な取材だと分かる。もっとしなやかな、時代と主人公にふさわしい文体と文章・表現ならいいのにとは思うが、難しいことである。取り組んだだけでも力業で、書き上げてあるのだから、えらい。
そして津野海太郎・二木麻里編徹底活用『「オンライン読書」の挑戦』と、芝田道さんに頂戴した、こんな時どうする?『Eメールの素朴な疑問』の二冊は、座右を離さず今まさに「活用」中であり、感謝している。
目下読書の芯は、『志賀直哉全集』および中村光夫『志賀直哉論』、それと西鶴。さらに心から信頼し、欠かさず音読しているのがバグワン・シュリ・ラジニーシの、今は、『道(タオ) 老子』の下巻。こんなに魂に触れて嬉しい本はないのである。
その他「ミマン」連載のために過去現在の歌集句集歌誌句誌をひっきりなしに探査し鑑賞している。倉橋羊村さんに戴いた『俳句実作辞典』も手の届くところにある。
2000 9・27 7
* 枕元の本で抜かしていた一冊がある、河野仁昭さんに頂戴していた『中村栄助と明治の京都』で、枕元であきたらず、このところ外出時の鞄に入れていたのである。東遷後の明治の京都は、未曾有の試練を味わったものだが、それだけにまた仰ぎ見て讃えたいほどの偉人も輩出した。中村栄助は生粋の商家の人であったが、新島襄と出逢い、その清潔な人柄と精力的な意欲とで、事業家としてもむろんだが、府政に市政に国政にもみごとな足跡をのこした。ああこんなに立派な人がいたのだと嬉しくなる。これこそが近代の京の町衆であり、人格者であり、懐の深い基督者であった。
河野さんの「京都」の仕事にはつねづね敬服しているが、この本はひときわ優れた著述になっていて、地味な評伝であるのに面白く感動させられる。こういう人物を、黒川創のような批評の力のある京都出で同志社出の作家に、豊かな小説にしてもらいたいものだ。明治の京都に興趣と郷愁はもっていたが、これほど優れた啓蒙書に出会えたのは幸せであった。中村が新島の薫陶をかくも深く受けていた同志社の主要な社人であったことなども、わたしは全く知らないで来た。疏水開設にも市電開設にも、平安神宮建立にも、めぼしいあの時代の京都の大事業には悉く主要な役割を担い、市民の信頼を得ていた。その三男が、わたしの少年時代にながく京都市長をしていた高山義三である。
2000 9・30 7
* 河野仁昭著『中村栄助と明治の京都』を読み終えた、電車の中で。何度か嗚咽しそうに感動した。優れた人間が存在している、それだけで、感動するのだ。いい本を読んだなあと思う。
梅原猛さんから大冊の『法然の哀しみ』が贈られてきた。法然こそ最良の宗教者という思い入れは、わたしにも同じものがある。むろん親鸞も明恵も日蓮もすばらしいが。大冊だけれど気を入れて読みたい。
2000 10・1 7
* いまごろ、かすかに雨の通ってゆく音がする。寄り道しなくてよかった。すこしまた鏡花をよみたくなった。この間は『由縁の女』を読み返した、こんどは『婦系図』でも読み直すかな。
2000 10・4 7
* 佐倉の高田欣一さんの「エッセイ通信」もたいへん気力に満ちた批評で面白いだけでなく、刺激を受けた。
2000 10・10 7
* 馬場あき子歌集『飛天』を頂戴した。巻をひらいて、第一頁から、
読み更かし涙眼濁る冬の夜の精神を抱く肉体あはれ
とは、何じゃこれは。次の頁には、
乾坤といふ大きさを忘れたる都市の濁れる巷を帰る
父の薔薇ゆめの浮世の秋闌(ふ)けの陽にかがやきて吾を宥すべし
どどつと乗り込みぎしぎしとせる急行の荒きちからに冬が来てゐる
枇杷の花咲いても咲いても醜くて小春びよりのさびしさが湧く
はっきり言ってひどい歌である。拙劣であることだけが分かり、胸にとどく作者の真摯な生の感動はちっとも感じられない。どういう編集かにしても、歌集巻頭の五首がこれでは、先へ進めない。一冊の歌集を、これだけで云々しては問題があろう。だが、かりにも馬場あき子ではないか。
初心の熱がかくもぬけ失せ、謙遜の姿勢も失せてしまうのは、これも結社というお山の大将に安住して、歌の推敲や自己批評すら手抜きしているのではないかと、久しい友人のために惜しむ。与謝野晶子にも斎藤史にも、巻頭にかかる「駄歌」を置いた歌集は無い。わたしは、面白くない。いい気分ではない。つづきは、間をあけてから、読む。
2000 10・24 7
* 都賀庭鐘の「英草紙」を一編ずつ、玄関の全集から本を抜いて、机まで行くのも面倒で、立ったままその場で音読を楽しみ始めた。二編目がとても面白かった。少年時代から本を声に出して読むならいが身についている。
* 八上芳枝『続笹の葉』という、もうずいぶん昔に貰った歌集を、しみじみと読み通した。六十年前に夫を見送った人が、いまなお切々と夫恋うる歌をよみ、師友を偲んでいる。こういう人をこそ「短歌」が育てたのだと思うほど、澄んで清い境涯を冴え冴え表現して清水の湧くごとく楽しんでいる。能村登四郎氏の句集『芒種』とともに、心洗われるとは、これかと思う。こういう真実・真率そして丁寧な歌集もあるのだ、ほとんど無名に近い歌人にしてである。いや無名に近ければこそか、有名が着物を着て歩いているような馬場あき子の『飛天の道』は、まだ、とても続きを読む気がしない。
彼岸すみし日の照る庭を歩みゆく背(せな)を伸ばせと自らに言ひて
六十年の夫の忌日もすぎゆくと思へる庭の遠き雷鳴
倉の前梅花うつぎの白き花この窓に見し人の恋(こほ)しき
音のなく若葉の揺れて風ゆく庭夫を偲べど思へど寂し
新しくも何ともないが、しずかな感銘の質は新しくて清い。それでいいのである、短歌藝術は。鬼面人をおどろかして実情を欠いていては、ただの曲芸を出ない。蕪雑なものでも人を感動させることはあるが、感動のない曲藝は、藝術の世界ではただ卑しい。いいものが、読みたい。
2000 10・27 7
* 原善の「初恋」論をスキャン原稿から校正しているが、べらぼうに長く、独特の「悪文」なもので、はかどらない。入念な行き届いた論考なのは分かっているが、いい文章の面白いものを、嬉しく読んでいるという気にならない。論文はより正しくて面白いのが良く、評論はより面白くて正しいのが良い。どっちも同じなのだが、学者も文章の推敲はていねいにした方が結句トクだと思うのだが。 2000 10・28 7
* 理系の学術論文は、臨床医学や基礎医学のものは、勤務の昔にべらぼうに大量読んでいたが、東工大の諸君の論文は、建築の卒論や修士論文の梗概を読ませてもらった程度で、とても読むだけの力もない。実験という言葉は耳にタコほど聞いたけれど実地には想像もつかずにいる。この博士課程の院生の研究など、まさに「生体の科学」のように想われるが、見当がつかないほど精微なもののようだ。うまく行ってほしいものだ。
2000 10・28 7
* 都賀庭鐘の『英草紙』は、馬琴の波瀾万丈と云うより講釈まがいに陥って行く『近世説美少年録』よりも遙かに知的に面白い。一編読んでは、ウーン、やるもんだ、やるもんだと、まさしく意表をつかれて感心したり吃驚したり。紀任重という我慢のつよい男が、閻魔大王に代わって、閻魔庁でも積み越しの三難題を快刀乱麻で裁きをつける付け方など、あっという面白さ。白話小説の翻案がこの学者風小説家の持ち味なのだが、なかなかの構想力で独自の道を闊歩できる文士、秋成の師匠格でもあった。もっと読まれ高く評価されてもいい。これまでのところ、どの一編にも欺かれることはなかった。若い人よ、いろんなところから刺激を仕入れたまえ。
2000 11・8 7
* 「後醍醐帝三たび藤房の諫を折く話」「馬場求馬妻を沈めて樋口が婿と成る話」「豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話」「黒川源太主山に入って道を得たる話」「紀任重陰司に到つて滞獄を断くる話」「三人の妓女趣を異にして各名を成す話」まで『古今奇談英草紙』を読んだ。どの一編にも欺かれることなく楽しんだ。どれをと選びきれないほど甲乙ない面白さである。若い作家よ、見るがいい、おのずから別趣のストーリイを手に入れ得るだろう。
* 山折哲雄さんから『「林住期」を生きる』日本での実践者たちを紹介する本を、いただいた。仕事や家を離れて第三のライフステージへ、と副題してある。わたしの現在などは、どうなのだろう。
猪瀬直樹氏からも、かねて予告されていた太宰治の評伝が贈られてきた。
2000 11・9 7
* ペンの事務局に大量に届いていた柿を、帰り際、たくさん貰ってきた。重くて、どこへも立ち寄らず、日比谷経由有楽町線で帰った。
車内で、猪瀬直樹君の『ピカレスク 太宰治』を読み始めた。例の丹念な調査で畳み込んで行く。筆力がぐうっと高まるかと思うと、資料を貼り付けて行くところもある。小説風の筆致で始まっているが、読み進むに従い、やはり小説の文章ではない。ルポルタージュの解説的な文章に平均化して行く。劇的に生きた太宰であり、面白くないわけがない。ただ、何としても太宰治である、それも猪瀬流に遠慮なく毟って行くから、かなり論調は厳しくなって行くだろう。べたつかない気持ちの良さがある。太宰神話の担ぎ手のような人の太宰治を何度か読んでいるが、途中ですこし気色がわるくなるものだが、猪瀬君の太宰は、筆の厳しさに少しずつ太宰が可哀相になって行くかも知れない。まだ、そこまで進んでいないが、ぐいぐい読まされている。いい仕事だと思う。
2000 11・10 7
* 建部綾足の『西山物語』を読んでいる。再読。面白くはあるのだが、この筆者、作中の語彙にいちいち説明や出典を付記するのが、それはそれなりに有り難くもあるが、筋を読もうとするとうるさくて叶わない。論説論文の中に、むやみに引用や説明や記号や数字や註番号が入り、引用原典まで克明に書き込んだのと、ときたま出くわすが、じつに読みにくく、何を読んでいるのか忘れてしまうことさえ有る。過ぎるとぶちこわしになる。相応の工夫や親切が欲しい。ま、綾足のなど、頬笑ましい程度であるが、珍しい。学のあることが尊重された時代の所産であることも、よく納得できる。学とは関係ないが、少し以前の芥川賞作品にもやたら註のあるものがあると、聞いた。読まなかった。それも浅い気取りにちかいか。
2000 11・13 7
* 行き帰りに猪瀬直樹の『太宰治』をぐいぐいとむさぼり読んでいた。志賀直哉との精神的な葛藤のところをもう少しわたしは読みたかったが。
太宰と井伏鱒二との葛藤は刺激的によく剔られてある。太田静子との出会いなど、じつは、わたしは太田静子さんとも娘の治子さんとも、二度ほど自宅に呼ばれて逢っているので、ひとしお実感に迫られて読んだ。
* スペンサー・トレーシーとエリザベス・テーラーの映画「花嫁の父」をみると、太宰世界のどすぐろさをふと忘れられる。そうはいうものの、太宰の晩年の奔流のような作品の展開と質のよさにも、驚かされる。材料さえ得られれば、料理法には凄みと巧みを遺憾なく発揮する作者だった。だが、何とも言えない堪らなさが太宰にはつきまとう。女難の人と言うては間違いで女の方が太宰難に遭遇している。そんなことにお構いなく、ややこしい女性関係のなかで培った材料ゆえに、いいものの書けた作家にちがいない。ほんとなら伝記など読みたくも知りたくもなくて、ただ作品にだけ出逢っていたら、もっとピュアーに引きつけられたろう、か。わからない。 2000 11・18 7
* 昨夜就寝前に『ピカレスク 太宰治』を読み終えた。太宰はしっかり猪瀬直樹に毟られた。井伏鱒二がかつてなく明快に毟り尽くされ、これには驚いた。日の当たらなかった作家の頑張りに紛れ込んだいろんな無理が、こんなふうに曝露の光をさしこまれてしまったことを、気の毒にも思うし、猪瀬君の頑張りにも敬意を覚えた。彼が純然とした文壇人でなく、ある意味ではもっと力強い足場に足をかけて書いていることが、よく分かる。遠慮がないのだ、文壇にも文壇での名声にも名作と持ち上げられた作品に対しても。それは大事なことなのだ、批評の本来のためにも。
やはり太宰治の志賀直哉に対する死に際の口撃に、いま一段深く射し込む視線と視野とがあれば、太宰論としてもっと面白くなったろう。その余は、過去に読んだ野原一夫らの太宰治論よりも刺激的に面白かった。野原氏は明かな太宰信者であり、吾が仏尊しの立場でみていた。それが或る意味でもの足りなかった。太宰のような男(才能の意味ではない)は嫌いだし、太宰のような材料の集め方も利用の仕方も嫌いだし、太宰のような何度もの偽装の自殺行為も含めて死に方一切が嫌いだし、太宰のような女の扱い方も嫌いだから、わたしにすれば、太宰作品を読むことにしか共感の余地がない。作品も、どれもこれもが佳いとは思わない。不思議にやりきれないような魅力に溢れた作品のあることを明確に認めているということである。それは否定しない。
しかし、太宰治は過大評価されてきたという実感は、野原の論、猪瀬の論をまつまでもなく、私の中ではハッキリしていて、少しも動揺しない。人間は誰しもそうであり、わたしもそうであるが、誠実に不誠実であり不誠実に誠実なところを持ち合わせているものだが、太宰治の場合はそれが才能に転じるほど過剰であった。それだけだ。
井伏鱒二は、わたしを太宰治の名のついた文学賞で文壇に送り出してもらった大恩ある選者の一人である。それはそれとして、『山椒魚』の昔から、『遙拝隊長』や『珍品堂主人』その他を読者として経てきて、とても本格の大作家だとは思いにくかった、ただ、ふしぎにユニークな天才を愛好していた。『黒い雨』が異様にもてはやされたときわたしは手を出さなかった。なにかしら、井伏と原爆体験とに厳しく結びあう必然が感じられなかったから。そしてそれが、入手した原資料のアレンジメントに過ぎないと知れてきて、作者当人も全集から外したがっていたと知れてきて、ああ、やっぱりなと思った。井伏の弟子の太宰は、そういう作法を見知っていて、かれもまた他人からの日記提供に大いに頼っては佳作をものしていた。リライトに近いものもあったと猪瀬直樹氏は克明に証明している。
原資料をリライトして仕上げて行く文学作品を、わたしは可能性としては否定しない。リライトの仕方に作者の批評も創作も有りうると知っている。わたしでも、ほんとうに優れた資料なら、その味わいを壊さない利用の仕方を試みるであろうし、ただの資料より遙によく高め得られると信じている。井伏鱒二の仕事でもそれが言える限り、猪瀬氏の筆誅とはまた少し違った評価をするだろう、が、問題はそれらの資料性が作家の根底の動機に結びついているのかどうかだ。緊密に結びついていれば尊いが、そうでないなら、利用したと言うだけなら、安易な姿勢だと思う。井伏鱒二の『黒い雨』に手を出す気がしなかったのは、その辺で、違うなと感じたからである。太田静子さんの日記をもぎ取るようにして太宰が書いた『斜陽』は、一読して堪らなく好きになれないものだったが、だが、あれには太宰治のいやな体臭が染みついている。太宰がにじみ出ていて彼自身を裏切っていない。
2000 11・19 7
* 昨日、手紙の整理のことを絶望的に考えていたあと、ふと、これなら出来るかもと思ったのは、これまでに読んだ書物を死ぬまでにもう一度ぜんぶ読んでみるということ。全部は無理だろうし、読みかえすというのに馴染まない本も多いが、小説を中心にとすれば、不可能なことではない。到達しないまでも、人生をまた違う感じで食べ直す・噛み直す・味わい直すことにはなり、記憶も帯同して、いささか後ろ向きの嫌いはあるが、私的には悪くない試みになるかも知れない気がする。懐かしい本が無数にある。あれはと、痛切に思い出しながら題の出てこない作品まである、ゲーテだ。『モンテクリスト伯』も『谷間の百合』も『狭き門』も『パルムの僧院』も、『竹澤先生といふ人』も『銀の匙』も『天の夕顔』も『土』も『無限抱擁』も『多情仏心』も、また『南国太平記』も『宮本武蔵』も『愚弟賢兄』も、講釈の『祐天吉松』も、漫画の『長靴三銃士』や『のらくろ』も。『キンダーブック』も。何千冊あるだろう、講談社版の日本文学全集や小学館版の日本古典全集だけでもすさまじい量だ。
新しいものが読みたくないわけではないが、それから得たものをどう今日から明日への糧にしうるかとなると、なるものとならぬものとの選別に時間が足りない。知らない土地への旅も少しはしたいが、曽遊の地を静かに訪れたい気持ちの方が遙に強いことに思い当たる。
ゆうべ息子の部屋から枕元へ借りてきた本のうち、村上龍の『限りなく透明にちかいブルー』は、一頁で気が萎えた。むししろ翻訳もののミステリー『空白との契約』は、調子よく刻んでテンポの早い訳文にも引き込まれ、これは眠れなくなると押しやるように遠慮した。井上靖の『額田姫王』は、さすがに読ませるものの、淡い浅々しい印象からも逃れられなかった。
* この数日、わたしをとらえて、片手にペンも放せなかったのは今井源衛さんの『源氏物語への招待』であった、再読なのに、惹き込まれ、今井さんの言説も優れている上に原作への溢れるような愛と懐かしさとが湧き出て、形容の仕方もない嬉しさに包まれた。この種の源氏物語案内本には何種も出会っていて、しかも飽きずに読むというのは、一に、原作の魅力がそうさせるのである。こういう思いにはまって行くのを、あながち、後ろ向きとは思わない。新作を読むのと変わらない、いやそれに何倍する新鮮さがあるのだ。
あるいは、昔に読んだものを今読み直せば、かなりのものにもう魅力を覚えられないかも知れないと思う。だが、はじめて触れたあの日になぜあんなに心を打たれたかとは懐かしく思い合わせざるをえないだろう。限られた長さの人生を反芻するのは退嬰的でつまらないという見方も、より幸せに豊かな生き方だという見方も、両方在るに違いない。うまく使い分けてみるのも佳いのではないか、と、そんなことを考えたのである。
* その一方では、この器械の能力のまた新しい一つでも二つでもを覚えて新しい楽しみを得たいなあと、マニュアルを辛抱よく読んでいる。マイクロソフト・エキスプレスでも、マイクロソフト・アウトルックでも、まだ、どうしてもアドレスブックに入れた大勢のアドレスに宛ててメールが送信出来ないでいる。随分試みているし、受信したことはあるのに発信しない。こういうときに、癇癪もちの昔の父なら「この器械はおかしぃゃないか、器械がおかしい」と当たったろう。このごろのわたしは謙虚になり、絶対に自分の扱いが、手順・手続きがワルイのだと思うようになっている。そして、投げ出さないでしつこくストークする、泣き言も並べて。
2000 11・26 7
* 上野氏の小説は、能の「西行桜」をたまたま脇正面の席で一緒に観た男女の話で、かなり能の中味にふみこんで物語が設定されていた。題の「白川」は、京都の、わたしの家の近くを流れている川のことで、祇園の方へ話の結末が流れて行く。わたしには、なんだか昔懐かしいような話材であり、また、この材料を今の自分ならどう書くかなあなどと思いながら読了した。初対面の男と女とが、道を歩きながら謡を謡い合ったりするところが、その道筋などもよく知っているだけに照れくさいほど気恥ずかしかったりした。男はかなりの能体験を持っているようでいいのだが、女の方は謡を稽古し始めて「鶴亀」もまだあげていないと言っている、それで、謡曲の詩句がすらすら出てきたり謡えたりするのでは、ちょっとすなおに感心しにくい。「鶴亀」というのは、ほんとに入門して最初に習う初手の謡曲なのであるから。そういう辺のリアリティがきちっと抑えられていたらいいのになと思った。『畜生塚』や『雲隠れ考』や『慈子』を夢中で書いていた三十前の日々がふと懐かしかった。この『白川』とやや似た話材で、もう五六年前にたしか『桜子』という数枚の掌説を書いていたのを思い出した。「無明」という総題で、このホームページにその掌説集も収めてある。
2000 12・8 7
* 相原精次氏に戴いた『鎌倉史の謎』を楽しんでいる。鎌倉時代でも鎌倉幕府でもない、それよりももっともっと古い時代の「鎌倉」という土地の歴史に入って行く。そういう追究はとても大切だ。京都でもそうで、「京都以前」を忘れてはいけない。大伴家持のような人物によってこの京都以前と古き鎌倉の地は微妙な縁に結ばれている。夢が疼く。
* そうだ、明日は、鎌倉でもいいし、気の向くままに遠くへ出かけてみよう。天気良く、暖かいことを願っている。
2000 12・9 7
* 本で家が潰れそうなので、戴くばかりで、よくよくでないと新しい本は買わない。このところ買っていたのは新しい岩波の志賀直哉全集だが、これがもう一冊で完結する。それでというのではないが、吉川弘文館の「シリーズ近世の身分的周縁」六巻を揃えて買った。また勉強しようという興味がもくもくと湧いた。ついでに高価本だが『明治の日本 宮内庁書陵部所蔵写真』輯も買った。中に、京都東山の「円山温泉」の景観一枚に眼がひりつくほど驚いた。安養寺、左阿弥、円山公園の見当を遠望しているのだが、山のかたちからそれとは察しうるものの、眼に入るなにもかもが、たたずまいも含めて信じられない眺めなのである。そもそもまるで金閣のような三層の建物が山腹に建っていたりする。
歴史的な景観の変遷とは斯くの如きであり、小説を書くものには心すべきことである。まるで京都の字引ぐらいにうぬぼれかねないわたしにして、明治の円山界隈にこんなに仰天するほど、現在の景観とはちがうのだ。昔の写真を大事に思うのは当然なのである。とくに都市景観の変化は大きいのである。
* 『上野千鶴子が文学を社会学する』という本も、これはすごい。手強い。変なもの言いで上野さんが苦笑されるだろうが、どうも、むしゃぶりつく、かじりつく気構えでとりつかないとはじき飛ばされる。佳い本だが、舐めてかかってはいけない、真面目に読んで行かねば。
* バグワンはまた『ボーディーダルマ』を読んでいる。これには、バグワンを実習するような感じがある。そして意味も何も考えることなく、反復般若心経をいつも誦している。
2000 12・14 7
* 島尾伸三君が贈ってきてくれた『雲を呑む龍を食す』がとても美しい文章でみごとに書けている。「おなかがすいたら どこでも食卓」「中国、香港、マカオ……忘れられぬ故郷の味を求めて」心優しい著者のフィロソフィーが感じられる。これはグルメの本ではない。愛の本である。
2000 12・23 7
* 近世の身分的周縁を考えるシリーズの第一巻では、信仰にかかわる周縁の存在を論考している。まとまって、こういう身分制度にふれた具体的検証にしっかり手が着けられたのは、初めてであろう。朧ろには感じ取れていたものの、しかと目に見えきってなかった風貌や働きを、いましも興味深く、時を忘れて読みふけってしまう。
この間の浅草平成中村座で、中村勘九郎が演じていた「法界坊」も、この巻の解説を読んでいたなら、もっともっと興味深かったろう。
いま「神職」といえば、決まった神社神宮の神々しい神主さんたちを思うけれど、近世の「神道者=神職」というと、一般には、よくても祈祷業者であり、大方が公家ふう神官のなりをしながら、首に箱をさげ鈴を振って門付け物乞いしていた人たちであった。神主や神道学者もいたにはいたが、世間の常識として「神道者=神職」とは、門付け物乞いを専らにした、中世以来の例の「職人」概念のうち宗教系に属していた。同様の宗教系職人は、仏教からも修験道からも陰陽道からも、それらのごったな坩堝の中から混合系のものたちも、あふれ出すようにして巷に生きたのである。それが庶民の世間の一角とも地平ともいえる場を自然に占めていたのであり、そういう一種深玄で広範囲な庶民社会の根底を理解しないままでは、生きた歴史社会は正しく語れはしないのである。
古い時代からのこういう方面への関心を、ほんとうに長い間もちつづけてきたわたしだが、やっと近世社会に歩み入るようになった。興味尽きない。
* 静かなクリスマスイヴであった。
2000 12・24 7
* 昨晩のことだが、浴室で湯にあたったか、血糖値に高い低いの異変でもあったか、火照って冷えて、気分わるくそのまま寝入ってしまった。目が覚めたのは夜中の三時で、電気をつけてバグワンを読み、また、荷風を読んだ。『寺じま』とか『墨東綺譚』」のサワリとか、じつに佳い。うっとりしてしまった。描写の具体的にリアルで、落ち着いた筆致、なんとも謂えずみごとで、賛嘆のほかない。
芝居に行くにも、その、編者川本三郎氏に貰った文庫本をもっていったが、どこで読んでも、しみじみとする。いわば東京散策の記にすぎないのに、文章はあくまで味わい深く、文学とは、名文とは、斯く書かれるものだと思わずにいられない。これこそが「実に優れた文体」なのであり、文体という言葉は、こういう名品にこそ正しく用いられるべきなのである。文体とは、優れた文学にのみ表れる品位とアイデンティなのであるから。
2000 12・26 7
* 勝田様。重ねて有り難く。
路上、中年の婦人がだれかに、今日は寒い寒いとこぼしていました。自分だけじゃないらしいと安心しました。
買い物はさっさと済ませました。池袋の西武も東武も、食品売場の例年はもっともっと人が多く活気に溢れ返るのに、今年は歩きやすい感じで面食らいました。いつもの年ですと、何を見ても、旨そうで食べたくて買いたくなるのでしたが、今年は、何を見てもふっと顔を背けるような気分で、用事だけ済ませて、売場を抜け出しました。
いつも家内や息子に正月用の贈り物を探してやるのですが、それだけでなく、自分で自分に何かをとデパートを歩きまわるのですが、そういう気の張りがなく、おしるしだけのセットものを買い、さくらやへ寄り道しても、とても品選びなど出来ずに、保谷へ戻りました。保谷の最近気に入りのコーヒー豆を売る簡素なお店で、苦いコーヒーをたててもらい、本を少し読んで帰ってきました。元気のない時は、それ相応にやり過ごすのがよかろうと思い、しばらくテレビをみていました。
あすには息子が帰ってきて、正月は親子三人で静かに過ごせそうで、何よりです。
いま、江戸時代の、社会の周縁部に身を置いていた人たちの実証的な論文集を、面白く興味深く勉強しています。第一巻は民衆社会の宗教者たちを論考しています。神職・神道者、神子、祭礼奉仕者と読み進みまして、これから三昧聖について読んで行きます。ひっくるめて周縁宗教者たちのことですが、これらの他にもいろいろ在り、本当に庶民生活の底知れぬ深みにふれながら歴史を識るには、欠かせない世間です、が、なかなか研究が公開されてきませんでした。
面白半分にではなく、貴賎都鄙といわれる貴と都とだけで日本を考えてしまうのは、危険な偏向だと思ってきました。それにしても、今手にしている吉川弘文館からの叢書は、わたしの関心にとても深くよく応えてくれるので、大満足しています。ほとほと仕事をして夜更かしのアト、さらに寝床の中で明け方までこういう本を読み耽るのですから、毒を呑んでいるようなものでもありました。二時までに消灯するようにします。
バグワンは、マインド(頭脳・思考・知識等)を批判します。禅の人といっていい覚者=ブッダです。このわたしはまた、マインドの塊のように生きてきましたので、毎日毎晩、バグワンに叱られ叱られて暮らしています。「般若心経」「十牛図」「老子」「達磨」など名薬を服するように何年も日々に欠かさず音読し続けてきました、なるべく知解を排して。苦しみを、とても救われています。
またインシュリンの注射に階下におります。ありがとうございました。秦 恒平
chiba e-oldってのが、いいですね。わたしも、west-tokyo e-old と名乗りましょう。お元気で。
2000 12・30 7
* もう、今年の仕事にかかっている。
* 惣墓制といって、数村で一つの墓地を共有していた時代が長かった。惣墓をとりかこむ村々を墓郷(はかごう)と呼んでいた。墓地に住み、葬と死骸の世話をしていた三昧聖(さんまいひじり)は、伝統的に税負担を免ぜられた除地に住み、諸役負担もおおかた免ぜられていて、かわりに、墓郷全域の葬祭実務を担当した。そういう聖が、一惣墓を、多くて数人でまかなっていた。村方や領主方と三昧聖たちとのあいだで、税や役の負担分担問題で、近世もすすむにつれ繰り返し紛争が起き、個々の聖たちの孤立無援は覆いようもないのだったが、そのつど、三昧聖たちは一種の産別労働組合のような結集と組織化の動きに出て、大和国では、東大寺青龍院を本山に頼み、その権威下に、伝統の権益を確保すべくかなり強烈な団結力を働らかせていた。一国内の三昧聖組織は、大きく畿内連合体へも拡大的に動いていた。
こういうことは、現代の学究たちの地道な研究成果に拠らぬ限り、われわれには分かってこないが、解き明かされて行くと、わたしなど、そういう動きのあったろうことも朧ろに感じていた、さもあろうなと納得できるものがある。近世の身分的周縁を研究した叢書が、六巻。読書が、たまらなく刺激的に興味をそそる。もっと早くに読みたかったなとつくづく思う。
2001 1・2 8
* 例の近世社会の身分的周縁者たちの「叢書」第一冊を、面白く、本を傍線で真っ赤に汚してしまうほど夢中で読み上げた。「神道者・神子・祭礼奉仕人・三昧聖・道場主・虚無僧・陰陽師」などの巻だったが、どれも、目から鱗の落ちるほど納得させられた。虚無僧のことなど、ほんとうによく知らなかったことが分かり、そのことに感動してしまった。中世では「薦僧」でしかなかった存在が、禅の普化宗から、江戸時代中頃には「侍慈宗」化し、武士身分に特権的に変貌して行く。幕府行政とも巧みに切り結びながら、盛んに、私利にちかい権益の質と量を却って広げて行く不思議な成り行きと、ついには、村方庶民の知恵と団結と、(寺社奉行所ならぬ)勘定奉行所の力とで、衰退への道へぐいぐい押し戻されて行く経緯など、小説のように面白い。町方役人などの手では、あの「法閑」といわれるかぶりものを脱がせることは許されてなかった。武芸をつねに心がけ、懐剣小刀の類は身に帯びていなければならなかった、など、あの侘びしげな「薦僧」身分から、町人や農民を排除しつつ、そのような武士身分に準じた独占権益を謳歌し得る「団体」にまで組織を成しあげていった、人と時代との不思議さに驚いてしまう。そういう際に、伝来の権益を保障する旨の「文書」が偽造されて行く、それが、幕府行政をまんまと縛る形になるのも、面白い。むかしに読みいたく刺激されまた教えられた、いわゆる「河原巻物」の類が、いかに周縁身分の者たちに大事にされていたかが、よく理解できる。周縁庶民が差別を受けつつ、じつによく団結して、時代と社会とのなかで人知を尽くしていわば一種の闘争を継続しているのにも、感銘を受けずにおれない。同時に、「本所」と謂われる存在の意義にも驚かされる。神道者の吉田家、白川家、三昧聖の東大寺龍松院、陰陽師の土御門家などである。江戸時代物を書いたり創ったりする人が、こういうきめ細かな研究成果に拠らないでは、誠実を疑われることになるだろう。
* ペンの会員の相原精次氏から、今度は「文覚」に関わる一書を贈られた。文覚はふしぎな存在であり、その混沌とした実像に迫るのに、近代の彫刻家荻原守衛の代表作「文覚」の謎を追求しつつ推測が深められる。面白い「考察の対象」が、とだえもなく現れて世の識者を刺激するわけだ、読んで行こうと思う。
2001 1・7 8
* この数日夜の十二時になると、妻に、強引に器械の前から剥ぎ取るように離されてしまう。もっとも、それから本を読み出すのでたいして違いはないのだが、昨夜は叢書の第二巻めから、「庄屋」と「八王子千人同心」とを読んだのがタメになった。引き続いて猪瀬直樹君の『黒船の世紀』を、これがまた読ませる面白さで、すっかり夜更かしした。直樹さん、たしかに、うまい。自在に勢いよく話題をぶんまわし、飽きさせないのがえらい。こういう本のそばにあるうちは、精神衛生が維持しやすい。味のいいお薬である。彼は長野県の人と、本の後の方をみて知った。彼には長野の知事をやってもらうより、書く方を期待する。田中康夫君は、知事が向いている。前からそう思っていた。石原慎太郎は、少なからず図に乗って最近はイチビッテいる。憲法に誠実な態度をとらない首長を民主主義社会で持ち上げる気にはなれない。アメリカの大統領就任の宣誓でも、なによりの誓いは「憲法」へのものだ。石原のいまの姿勢は、イチビッタ太陽族の頃から一寸の前進もないガキ大将の小児性マルダシではないか。
2001 1・8 8
* 例の叢書の「文化・芸能」巻の総説を読み、ついで「鉢叩き」の考察を読んで、あまりの面白さに興奮してしまい、夢の中でまで、いろんなことを思い続けていた。中世の鉢叩きから近世後期の鉢叩きまでには、大きな、行儀や容態の変遷がある。空也寺の、「本山」として果たした、或いは利用された、したたかな意義というものがある。踊り念仏から茶筅づくりへ、また踊躍念仏へ、そして各国に「末派」を組織し一大集団を形作って行くに当たり、いかに幕府行政や朝廷公家社会の伝統権威を取り込もうと努力してきたか、等が、ありありと実証されて行く、面白さ。
「鉢叩き」に興味を覚えたのは、与謝蕪村に幾つも優れた繪や句があり、わたしは、ひそかに、彼の母方出自に、この鉢叩き末派とみられる丹後の「鉢(屋)」が関係してものと読んできたからだ。そのことは、『古典愛読』にも『風の奏で』でも、また『あやつり春風馬堤曲』その他小論小文でも繰り返し触れてきたが、昨夜読んだ論文は、蕪村には微塵も触れていないし、論考の有り様からしてそれは自然なのだが、なおかつ、わたしの蕪村考察をもかなり力強く支持してくれていたのである。
わたしが、蕪村周辺に「鉢」(「茶筅」などとも)を感じた最初は、彼の「根」の出自に触れている母を追善の「花摘」連句中に、「母びとは藤原うぢ也」という一句があったからだ。伊勢物語にからめた述懐なのは言うまでもないが、この「藤原」とは、地域によって独特の意義を与えられている呼称であって、転じて「藤内」の呼称にも繋がり、(蕪村に即して謂うのでこうなるが、もともとは「藤内」を意識した「藤原うじ」なのであろう、と。)これは「十無い=八=鉢」と読まれてきた独特の文脈に絡められているのである。蕪村は、母方の出自にこの微妙に古典的な「藤原氏」を置くことで、「藤内」から「鉢(屋)」への道筋を自ら告白的に示していた、と、わたしは今でもそう読んでいる。それかあらぬか、蕪村の「鉢叩き」の繪も句もきわめて優れており、あたかも自画像の深まりをもっている。
そういう読みを、わたしは或る確信を持って示し続けてきたものの、そういう指摘も推測も、他の研究者や識者から聞くことはかつて一度も無かった。当然ながらわたしの推理に触れて「是非」した議論もなかった、が、今回読んだ「鉢叩き」論考は、かなり、わたしには有力な議論の足固めを得られた気がしてならぬ。それだけでも興奮して眠れなかった、無理もないのである。
* 近世の初めに、公家から末賤にいたる「職業」や「芸能」を分類した、みごとな事典がある、が、それらの裾野の民を、近世社会に視点を据えつつ歴史的に後追いしてくれるような仕事は、これまで、雑誌論文をひろく渉猟する以外に簡単には読めなかった。もう柳田民俗学のような査察だけでは、とても、実情には迫れなくなっているのである。柳田学のレベルから深く細かく知りたいと願っていたのが、今回吉川弘文館の「周縁」叢書は満たしてくれる。門外漢には有り難い学恩である。どうしても中世どまりで、研究や言及の勢いが近世にはいると落ちると思えてならなかったが、あらたまった。何といっても近世に、江戸時代までに及ばなくては、歴史研究が現代をぢかに裨益することは難しいのである。
* 英文の、わたしの「蛇」論を今スキャンし校閲している。これも「周縁」叢書の趣意に繋がっている。
* バグワンの「ボーディーダルマ」も欠かさず読んでいるが、じつに、感じ入る。文庫を増頁できたら、版元の「めるくまーる社」の許可を得て、バグワンを抄記・紹介したい気持ちに駆られる。廣く読まれねば、もったいない。
2001 1・10 9
* 雑誌「本とコンピュータ」が届いて、さっきから鶴見俊輔さんの対談を読み始めた。対談というのは、切り結んでいないとちっとも面白くない。一人がもう一人への相槌、是認的な相槌ばかりでは対談の意味がない。
2001 1・10 8
* 猪瀬直樹氏の『黒船の世紀』は叙事の手法が面白く、その面白さが中だるむと退屈してしまう。日米戦争のなぜ起こるに至るか、必然とも偶然とも、故意とも偶発とも、ともかくややこしいあれこれの事象を、巧みに日本側から、米国側から、二筋のモノをどこかで一筋に束ねてはバサバサ料理して行く。包丁の冴えを問うのは難儀だが、包丁をつかう腕力はわほどのもので、見物していて、はらはらしながら感心させられる。なにしろ鰻よりもよほど相手は大きくて難儀な「時代と民族」という生き物であるが、この著者、慌てるということがない。上手い下手など度外視して、変なもの言いを敢えてすれば、「乱暴なほど悠然と」料理する。脱線して、油も平気で売る。その油の売り方まで自信たっぷりなので、ついつい安心して読んでいる、と、そのうちにまためっぽう味善う面白くなってくる。つまり、かなりあちこち綻びて見えるのに、ざくざくと包み込んで行く風呂敷型の把握で、そのかわり、叙述は勝手気ままに自在。むりやりに系統だって格好をつけないから、肩は凝らない。それは有り難い。調査は十二分、飾り立てず事柄をこまかに具体的に書いてくれるので、信頼感も臨在感も豊かである。しかしまだ半分近いという段階では、どこへ連れて行かれるのかもよく分かっていない。
* 「伊勢大神楽」のことを例の叢書で読んでいる。かちっとした論考であり、資料の扱いも的確で簡潔、この獅子舞を軸にした「太夫村」などの人たちの、言語に絶して忙しい「回檀」の旅から旅の一年間など、息をのんでしまう。伊勢太神楽と近江国との縁の濃さに触れてあり、それが滋賀県愛知郡の能登川辺に及んでいると、わが生母の里でもあり、思わずふうんと感じ入る。近江と伊勢とには縁組している家が多いと感じていたが。山本という伊勢側の大事な姓と、佐々木という近江側の姓とが、微妙に交錯しているらしいのも、この論文に教わって、目新しい。日々に楽しみが尽きない。
2001 1・12 8
* 美術展の会場で係りから受け取ってきた「菱岩」対談の再校ゲラにも、帰りの「のぞみ」でみな目を通し、『黒船の世紀』を半分過ぎまで読み進めている内に、もう東京だった。端倪すべからざる猪瀬直樹の著述であるが、いささか燥しい。語り手の「ぼく」が張り扇をつかい過ぎる。弁慶と牛若丸のチャンバラを、猪瀬くんは一人芝居で二役演じているみたいに、大わらわに語っている。ところどころで退屈する。また持ち直して、面白くなる。その交替がなんともせわしない読み物であるが、そこが面白いのでもある。
2001 1・18 8
* 名古屋方面の或る国文学者とのメールのやりとりで、辣腕刑事のように作家の真相に迫る猪瀬直樹評判の「太宰治=ピカレスク」のことを話し合った。猪瀬氏は太宰文学を論じていない。一人の男としての人間太宰を、ついでに人間井伏鱒二を厳しく毟って赤裸にしてみせた。そういうことの出来た猪瀬直樹には、文壇や作家へのいわれない遠慮が、はなからかなぐり捨てられていた。そういう立場と姿勢とで作家論をやった人は少ないので、そこに強烈なメリツトがあった。新しい方法であり姿勢であったし、しかもよく徹していた。太宰や井伏に、また文壇におもねったり遠慮したりする必要が、彼には無い。ほんとは誰にも無いのだが、みな、妙に腰が引けた議論をして、礼儀をまもったような気になっている。国文学者としては驚かれたであろうが、この人は、メールの中で小林秀雄の、つぎのような、あたりまえな言葉を想起されていた。
「小林秀雄が昔、『文学など屁でもないという世界があるのだ』と言い、また、『作家はサラリーマンなどとは違うなどと力んでいい理由が何処にある』等々と語っていたことを思い出します。(猪瀬氏が)高級な言葉でなく言い放っているところが大事な気がします」と。
* その通りなのだ。「文学など屁でもない」と思っている世間はじつに広いのである。外の世界へも深切に目配りし、自由に生きていれば、こんなことは簡単に分かることで、作家達や批評家達の井の中の殿様蛙のように世間知らずに反っくり返っている姿を滑稽に眺めてきた思いは、もう、実に久しい。賞などを取り立ての若い作家達にしばらくのあいだそういう臭みがぷんぷんするのもおかしいものだが、とくに若い女作家が凄いが、いい年をした物書きにも、「作家はサラリーマンなどとは違う」と必要以上に「力んで」いるだけの人がいる。うようよいる。そういうのは、立場への自尊心に過ぎない、なかみは伴っていない。小林秀雄の上の言葉は、まことにその通りなので、よく思いに秘め置きながら、しかも、自分の仕事により深く打ち込んで行かねばならないだろう。
2001 1・20 8
* 昨夜、寝入る間際に吉原の里を書いた荷風の一文を読んだ。ああいうふうに懐かしく京都の昔をしみじみと書いた文章がめったに手に入らない。
2001 2・20 8
* 古典文学全集は何種類も出ているし、いまも立派な編成の長大に及ぶ刊行を、毎回戴いていて、途方もなく大きな楽しみなのだが、一つ、ふしぎなことがある。和歌集である。万葉、古今、新古今は籤とらずで入る。そして中世和歌集も近世和歌集も入る。だが、何と言っても和歌の黄金時代は、古今から新古今への八代集、つまり平安時代のはずだが、古今につぎ、新古今に先立つ、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載集をせめて平安和歌集としてでも一巻、何故入れないのだろうか。和漢朗詠集があり、物語和歌があり、秀歌撰としての歌論集もあるのだからとは言えるが、歴史的には勅撰和歌集からの経時的選歌集があれば佳いのになという思い、禁じがたい。わたしは後撰から後拾遺への和歌史にも、金葉ごろからの和歌の変貌にも、興味をもっている。百巻を越す大全集に「欲しい一巻」であるが、残り二十冊ほどの予定には結局洩れているのが残念だ。
2001 1・24 8
* 「近世の身分的周縁」叢書の、纏めのシンポジウムを面白く読んでいる。歴史学の論文は、文学の論文よりも専門的なのを沢山読んできたと思うので、研究者達の細部にわたる発言も、難解と言うよりも興味深く、かなり理解できる。この叢書では、近世の専門家達の結集で成っているが、もともとわたしの関心は、ながく、近世以前に培われてきた。近世には臆病でなかなか入って行かれなかった、が、それでも、白石や最上徳内や、蕪村・秋成などを介して接触しては来た。そして「周縁」存在への強い関心を持ち続けてきたことも、少しも隠していない。上からでなく、裾野や周縁から時代を読みたいと思い続けてきたからこそ、ちくま少年図書館のために『日本史との出会い』も書いた。
そして、わたしの中で、歴史の基底部によこたわる、結局は、死と死者と死骸を介して、社会の構造を理解し時代の変容や文化意志の推移を読もうという思いの強かったことに気づく。人間の基本の分業が、いわば死骸との距離差により決定されてきたという高度に比喩的な、しかし比喩に止まらない根底の理解が有れば、相当に物わかりが、よく、深く、早くなるように思ってきた。
* 士農工商などという一つ覚えから、全面的に脱却しないと時代も社会も分業も見えてこない。そんな簡単で簡明な社会ではなかった、近世は。そんな区分から洩れこぼれたおそろしく広範囲な人と職と集団とが実在していた。
2001 1・24 8
* アタマが、機械向きに冴えていなくて、せっかく布谷君からも親切な指示を得ていながら、指示が実現できないでいる。とんでもなく、ものを間違えてしまいそうな気がするのだ。一月も通り過ぎて行く。昨日、ようやく猪瀬直樹の大作『黒船の世紀』を読み終えた。趣向と趣旨とはよく分かった。収拾のつかないほど枝葉がむっくりもじゃもじゃ繁茂した樹木を、なんとかして上へ上へ木登りしてゆくような苦労な、だが、面白い読書であった。日米未来戦記というべき著述が海外にも国内にもこんなに永きにわたり夥しく出版されていた事実に、ほとんど気が付かずにいた。埒もない読み物もあり、好戦的・扇動的なのもあり、厭戦的・戦争抑止的なのもあり、専門の軍人・参謀・指揮官も驚くような精緻に実証的かつ洞察に富んで事実現実をみごとに先取りしたのもあり、繰り返すが、そういう本が、ペリーの黒船来航から太平洋戦争勃発の直前までに、日本でも米英でも、実に数多く出版されしばしばベストセラーになって、国の政策と軍事とを実際に動かす程の影響力を持っていた。猪瀬氏はそういう事実を、中でも優れた視野と展望と洞察の持ち主であった日本人と英国人とを「彼我」に対置して、「戦争」がどう起きるのか、実際にどう起きたのかを、精力をこめて論証して行くのである。全体の印象はけっして整然としたものでなく、包丁の使い方は荒い。ぶちこみの「やみ鍋」のようである、が、味はいい。うまい。食って満腹の満足とかすかな虚しさとはあるけれど、決して不味かった損したとは思わせない。
かなりの大作で、だからというのでもなく叙事の繁褥にへこたれるせいもあったが、読了にかなりの日数をかけた。だが、投げだそうとは思わなかったのである。なるほど、戦争は、軍人たちのあしき欲望でだけ起こるわけでなく、思いのほか民衆の愚昧な興奮やマスコミの安易な無責任や、それらをけしかけて変な世論を沸騰させたがる、さまざまな批評家達の手によっても引きずり出される厄介な「生き物」だという著者の意図は伝わってきて印象に焼き付けられた。それに異存はもたない。
ラジオしかなかった時代でそれだったとして、今は、猪瀬氏も手玉に取っているテレビ時代であり、電脳ITの時代であるから、幕末明治大正昭和の昔よりもさらに安易に世論は誘導される。
こういう考えと批評とをもった猪瀬直樹のような存在がテレビでコメントしていてくれるから幾らか安心と言えるのか、それ自体がなんだか知れず問題なのか、その結論は急ぐまいが、かつての「日米未来戦記」群の著者達によく似たテレビキャスターやコメンテーターがうようよと繁茂している今日の情報社会は、これは安穏なのか剣呑なのかと、われわれノンテレビ派は、よほど賢明でなくてはならないというのが、大事なところだろう。 2001 1・28 8
* 福岡大学の卒業論文要約かなと思われる、留学生らしい名前の人の『春琴抄論』を読んだ。論旨は、とくに珍しいものではないが、落ち着いて叙述の性質を分析し解釈して、適切な運びの中で、いわばこの作品を介しての谷崎から読者への誘惑というか、挑発というか、独特の「意図」のようなものを読みとらねばならないだろうと結論していた。火傷かどう起きたかは曖昧を曖昧のまますり抜けていたけれど、「賊」犯行のあり得ぬ事は指摘し、佐助の加害ということには一顧も与えていない、と読めた。そのうえで、作者の作意を現実次元のさらに奥へ踏み込んで汲むとすれば、何が残っているかは、知れている。答えられることは一つしかない、春琴による、佐助への痛切な誘いと捨身の敢行、つまり「春琴自傷」である。
2001 1・28 8
* 福田恆存の『ホレイショー日記』をふいと手に取り、読み始めた。いや、引き込まれてしまった。これほどの知的な創作を日本文学はもっていたのだ。当分器械の側に置いて読み進めよう、以前に同じ著者の戯曲『明智光秀』もそんなふうに読んだ。この恆存全集の最終巻は、福田さんが特に編集者に命じて、購読中のわたしのために、この巻は著者寄贈で届けるようにはからわれた一巻だった。『キティ颱風』以下の福田戯曲がすべて収められてあり、巻頭にこの『ホレイショー日記』が置いてある。わたしには、お宝の一冊なのである。
書庫へ入れば、この手のお宝がまだまだ在る。小林秀雄の謹呈宛名書きのある『本居宣長』も思いがけない頂戴本だった。
読み余している本がいっぱいまだある。元気でいたいと想うのはそういいう本の数々を思い出すときである。
2001 1・29 8
* 昨日、深夜に書庫の谷崎全集から、戯曲の入っている巻をぜんぶ抜き出した。『細雪』のころまでは、戯曲の創作がある。明治から大正のうちは、ひっきりなしに戯曲が書かれている。明治四十三年の「新思潮」に相次いで書かれた「誕生」「象」を昨夜のうちに読んだ。東大に在学中の、二十五歳前後の創作だが、その、何というか学殖豊富にして華麗な措辞、しかもデッサンはじつに安定して美しく、真実舌を巻いた。いまどき評判の平野啓一郎クンのケバケバしい文飾が、いかに危ういデッサンで描かれた言葉繪に過ぎないかを、改めて思い較べさせられる。谷崎が中学の頃から既に神童といわれ天才と謳われたのは果然当然で、感嘆のほかない。むろん、作者も胸を張って、それを、それだけを、まさに見せに見せている。読ませようとしている。小説「刺青」や「少年」や「秘密」などにある深い怖れも、感銘も、戯曲の「誕生」「象」からは受け取れない。それでも、真実、その国語の魅力には引き込まれる。また、谷崎がその若さですでに堪能するほど仕入れていた歌舞伎劇の魅力も伝ってくる。お手の物として、谷崎の素質そのものと化し、措辞の隅々にまで溶け入っている。歌舞伎に馴染み、かなり適切に、ことこまかに批評し鑑賞することの、たぶん谷崎以上によく出来たと思われる志賀直哉は、それほどの歌舞伎好きを、趣味以上にはほとんど文学的には生かそうとしなかった。
この機会に谷崎戯曲を一気呵成にみんな読み直してしまおうと思う。谷崎の「芝居気」は、大事な大事なキイワードである。それが一つの持論である、わたしの。
2001 1・30 8
* 「恋を知る頃」「春の海辺」という大正二年と三年の谷崎戯曲を昨夜読んだ。
「恋を知る頃」には、悪女・毒婦ふうの少女と、その男の手代が出てくる。傑作小説「少年」と、この前後の「お艶殺し」「お才と巳之助」などに通うモチーフで、不出来。
大店の旦那が妾に生ませたという、その実は別の男との中に出来た娘が、奉公の体で旦那の家にひきとられるのだが、娘はお店の手代と出来ていて、常に逢いたさに生母をすてて本家に入り、本家のまだ幼い息子を幼い色に迷わせつつ、手代に殺させる。
通俗な無理筋で、お安い、が、ま、悪魔派谷崎の底の浅い正体曝露の体で、それが印象に残る。それだけの、「恋を知る頃」。先日惜しくも亡くなった澤村宗十郎が演じ、そのいけずっぽい女ぶりを谷崎は大いに気に入っていた。
この作品は、後に「検閲官」という長編の対話もので、谷崎にははなはだ珍しい公権力との激しい抵抗を「芸術家」として敢行している。良風美俗・勧善懲悪を旨とする検閲官からさんざん改作を強いられながら、谷崎の聡明なポレミークぶりが出ていた。谷崎はこの作中のような女が好きだと公言していた。「悪」の美しさと強さを強調して存在を撃ったのが谷崎の大正期なのである。
「春の海辺」は、もっと、よくない。おもしろいはなしに、なるぞなるぞと持って回ったものの、おさまりがつかず、半端に終わってしまう。振り上げた拳で、痒くもない頭を掻いてみたような失敗作。
2001 1・31 8
* かすかに芯のところで頭痛がする。今夜ははやく床に入り、谷崎の戯曲を二つ三つと読み続けよう。つぎは「法成寺物語」だ、短くない。
* 必要在って川端康成の「掌の小説」の一編か、「心中」というのを読んだ。捨てられた妻子のもとへ捨てて世間を彷徨うらしき夫から繰り返して手紙が来る、おまえたちは物音をたてるな、その音が我が身に響くと。そして妻子が死ぬと、ふしぎに夫もならんで死んでいたと。問題作として認知されてきた作らしい、が、わたしには、さほどのものだろうかという感想が湧いた。こういう不思議は、切羽詰まった感じは、わたしには少しも珍しくなく、こういう材料をこう書くのであれば、もうすこし巧く書けていいではないか、寸が足りていない、釘がきちっと打てていないという気がした。
2001 1・31 8
* 料理を食べワインを飲みパンをちぎりながら、谷崎戯曲の「恐怖時代」を読んでいた。ありとあらゆる登場人物が尽く死んでしまうという、とんでもない時代劇である。歌舞伎である。谷崎が、盛んに世間向きにワルがっていた時期の、これでもかこれでもかという濃厚仕立てのどぎつい造りだが、読んでいてちっとも怖ろしくも恐くもない。しかしあの男前のいまの菊五郎が無表情に演じたりすれば、怖いかも。
* 昨夜は「法成寺物語」を読んだ。オスカー・ワイルドが作者の念頭にあったのだろう、今昔説話も反映しているようだが、この、とても舞台にはこのまま乗せにくい長大な戯曲は、レーゼドラマとしては、いかにも谷崎ならではの個性を持ち得ていて、一種の傑作になっている。大柄で、身振りの大きいドラマであった、藤原道長や仏師定朝の登場する芝居らしい格の大きさが出ている。円熟した演劇言語というより、演劇言語にそれらしく作り立てた科白の一つ一つに谷崎の地が出ている。痩せた地ではない、甚だ豊満で華麗で、そして歌舞伎である。平安時代でも戦国時代でも江戸時代でも、みんな歌舞伎の科白である。いいじゃないか歌舞伎でと谷崎の声が聞こえてくる。いいじゃないですか、と、わたしも、大負けで、賛同する。
「法成寺物語」の大きさを容認してしまうと、あの処女作というてよい王朝の「誕生」江戸半蔵門の「象」が、たいした作品であったことに、またまた思い至る。永年馴染んでいるので、お馴染み甲斐に心したしくばかり思いかけているが、作家谷崎潤一郎は天才であったのだ、永井荷風も正宗白鳥も川端康成も三島由紀夫も膝を折るようにして心からの讃辞を呈したことを思い出す。
戯曲ばかりを通して谷崎を抜き読みするのは初めてのことだ。
* 英国住まいの森嶋通夫博士から著書が贈られてきた。兄北澤恒彦の追悼の長い文章が入っている。朝日新聞社の雑誌「論座」に連載されていたのが本になった。兄の部分を以前に紹介させてもらっている。感謝に堪えない。
2001 2・1 8
* 戯曲「恐怖時代」は、ほんとうに、みんな舞台で死んでしまった。死にざままで微細にト書きに指定してあり、くすりっと笑ってしまう。歌舞伎のお家騒動ものの趣向はみーんな使ってあるし、どんなに悪の権化のようであっても、はなはだ記号的な存在ばかりなのだ、が、そうは言いながら谷崎の「人間理解」の下絵は透けて見えるし、ああこの役が今度はあの小説のあの人物へ化けて行くのだなと教えてくれもする。深刻感も恐怖感もなく、しまいにいちばんのワルの男女まで、ワケが分からないが差し違えるように自殺してしまうなど、作の収拾はかなりいい加減なのも可笑しい。はっきり言って駄作なのであるが、谷崎作品には、駄作でありながら堂々と自信に溢れた大柄な魅力が備わっていて、そういう魅力にひかれて、若い頃から、活字に唇をそえて美味の滴りを吸いたい実感をわたしは抱き続けてきた。「谷崎愛」とわたしが自称してきたのはそういう意味からである。駄作だからといって他のだれにも書けない駄作を臆面もなく谷崎は差し出していたのだ、ことに大正時代には。それは、歌舞伎作品の魅力とつまり通底しているということである。歌舞伎もたいていは駄作なのだが、駄作にも惹かれてしまうのである。そこが大事の所である。
* 対話劇の「既婚者と離婚者」にいたっては、どうしようもない、谷崎のその場しのぎに読めるのだが、この大正六年六月頃というと、千代子夫人と結婚し鮎子さんが生まれて、あげく「父となりて」という言いたい放題の悪魔主義的露悪のエッセイで世間を騒がせていた谷崎の、あくどいほどの「離婚願望」を吐き出したかなり戦術性濃厚な「わざと」の作と言えるから、その後の小田原事件や、絶交した佐藤春夫との和解や、その佐藤への「細君譲渡事件」そして昭和初年の谷崎瞠目の充実と飛翔までを見込めば見込むほど、これは問題作だと言わねばならないだろう。自立した一つの作品としては、まことに厚顔で軽薄な、「よう言うわ」といった不出来なシロモノを出ない。だが、谷崎の作家生涯のある一点はしっかり鮮明に告白されている。したたかな戦略の効果を彼は着々得て行くのである。
* いま一つ、この三四日前に未知の人から牧野大誓作『天の安河の子』という童話ふうの小説を贈られているのが、まだ読み通していないけれど、稀有の出逢いになるやもしれない予感がする。映画の「風のナウシカ」「もののけ姫」から受けるものの、なお原動力のような堅固な迫力を備えていそうに、読み始めている。作者はもう随分以前に亡くなり、遺族による出版のように見受けるが、古事記世界を生かしながら、古事記も神話も越えて出たはげしい葛藤と相克の叙事詩のようである。秦建日子の「タクラマカン」の、強烈な素地とすら見えてくる上下・強弱のせつない闘いが繰り広げられて行くらしい。
2001 2・3 8
* 容易に思い違いや記憶違いを看過していることに、ときどき気づく。shall we dance? を、平然と、shall you dance? と書いて暫くして気づく。「既婚者と離婚者」という戯曲の題を、対話している二人の名乗りのまま「法学士と文学士」と書いていたりする。老化現象といえばその通りだが、どこかに、どうでもいいだろうぐらいな居直りも進行している。これも老化の一つか。
* 谷崎戯曲の「鶯姫」「或る男の半日」を読んだ。
「鶯姫」は現代の女学校で、華族の女生徒と老国語教師とが、教師昼寝の夢の中で、鬼の案内で平安時代に誘い込まれ、老人は鬼に身を変え、懸想していた姫を羅城門に奪い去ろうという、白昼夢ふうの奇怪談である。谷崎らしい趣向はしてあり、美女と野獣めくぬきさしならぬ好色趣味も古典の知識も多彩に生かされているが、傑作と言うには程遠い。
谷崎は鏡花と異なり他界を書かない。書いてもせいぜいこういう「夢」の世界である。そういうことをまた思い出させた、それだけの凡作。しかし、この凡作は、他の露骨なレーゼドラマから比較すれば、舞台に乗せてみると、演技も演出もし甲斐のある可塑性をもっていると、言えなくない。ざくざくしているが、それが上演台本には必要なのだ。
「或る男の半日」は、もうむちゃくちゃな「或る作家の半日」で、露悪と嗜虐と自堕落をそのまま、しどけなく書き流してある。書き渋っている小説のかわりに、居直ったように戯曲の体裁にしているのだ、出来映えを考えないでするならその方が遙かにラクである。この戯曲では、昭和六、七年の谷崎の家庭、妻と妻の妹と娘とがいて、引っ越しを繰り返し、妻子を疎んじ、白人の女を買うことにも熱心だった谷崎自身の日々の戯画化で、実像にも限りなく近いといえる。その意味ではこの問題多き当時谷崎像の解説にはなっている。笑ってしまう駄作であるが、それ以上に笑ってしまう作中の生活である。ある一握りの文士なる存在の、ある時期での実相に近いところがきわどく書き留められたと言えなくもない。この「自由」は、尊い自由ではない、顰蹙者の我が儘な自由であり、だがそういう自由を駆使しながら、やはり時代に抵抗していた「無意識」もかいま見られる。一概に嗤いされないものがこびりついている。作品が、作者の自覚とは無縁に、時勢というものに拘束されている。
2001 2・4 8
* 谷崎の「仮装会の後」は、対話劇とあり、演劇の舞台効果などは度外視して、そのかわり谷崎の当時の創作動機や関心の露出した面白いものになっている。谷崎論者にはいちおう注目に値する。観念的にいえば「美と醜」との強弱関係に的をしぼり、醜悪の美につよい光を当てて、真に美しいものは、単に美しいものにより、強烈に醜悪な者の強さに随うものだといった、当時の谷崎流フィロソフィーを露骨に披瀝している。仮装会で美しいが上に美しく仮装して、主催の未亡人に接近をはかる三人の美青年紳士の、会の翌日の浮かぬ「対話」なのである。
彼らは仮装会でそれぞれしのぎをけずり、あわや美しき憧れの未亡人を手に入れ掛けながら、みな失敗に終わる。美しき好色の未亡人を手に入れたのは、会なかばに乱暴狼藉の体に闖入してきた雲つくような醜悪な「青鬼」に扮した男であった。三人にはそれが誰かが分からないが、常日頃人とも思わず見下していたボーイではないかと思い至り、呼び出して問いつめるのである。
なんとも醜い、まさに鬼瓦のような大男で、なぜあの華奢に美しい未亡人がこんな男にと、美青年達には合点がいかない。しかしその鬼のような醜い大男は、醜さの美しさ強さということをあなた方は知らないのだと傲然と言い放ち、凱歌を奏するのだ。
大正時代のと限らず、谷崎の芸術を語る際にみおとしてはならない「言明劇」であると言っておく。
* 次いで「十五夜物語」も、珍しくこれは悪とか醜とかは露出していないで、一段と静かに深く大事な動機を戯曲にしている。浪人者のこころよい兄と妹との寺子屋暮らしが語られ、村の庄屋は男に、娘の婿になってくれと頼み込むが、丁重に断られる。男には吉原に身を売っている妻がある。妻は男の母の病を治したい一心で貧のあまりに身売りしたのであり、その母はかいもなくもう死んでいた。兄妹は、妻の、兄嫁の、やがて切れる年季奉公を首を長くし愛情深く待ち望んでいるのだった。
そして妻は帰ってきた、が、心身ともにひだるく、妻の体調は思わしくない。魂では求めあい愛は深いと互いに分かっていながら、妻のからだは生ける骸のように朽ちていて、夫はそれがつらくやるせなく申し訳もなく物足りない。妹を十五夜のまつりの買い物に出した夫婦は、たがいの思いを語り交わし、心では繋がれながら、このままではその心も変わって行くだろうと、死んであの世で、母の元で、もういちどやり直そうと心中してしまう。妹は帰ってきて、置き去りにされたことを悲しんで烈しく泣くのである。
これは情景も風情も意図もしんみりと胸に届いて、優美ささえ感じさせる戯曲であった。舞台に載せることはそう難しくないだろう、中村雀右衛門が妻を演じたこともあったと思う。この劇では「心」と「体」との相克が、微妙に語られている。どっちの方が人間の愛と生活に必要かと、優勢かと、単純に問題にしているのではない、が、そこを問いかけているのも確かで、作者はそれをまだ提示しかできないと思い、悲しい優しい夫婦の「心中」という強引な手段でドラマを結んでしまう。強引とは言うが、読んでいて、そうなるだろう、それが二人の愛と幸福とのためには残された一つの道だろうなと、予感してしまう程度に自然に運ばれている。一掬の涙の禁じがたいつくりであり、谷崎潤一郎が悪魔主義の旗色をゆっくり塗り替えつつあるなと思わせてくれる。
この頃、千代子夫人と美しい義妹と谷崎の三角関係には、佐藤春夫や今東光や映画の男優なども加わって、谷崎家ははなはだややこしい空気にとりつつまれて行こうとしている。「十五夜物語」には、ちらりちらりと谷崎の胸の内のある柔らかい弱さや窪みが透けて見えるようで惹かれる。
* 江戸時代の「杣」という職を面白く勉強した。山林の樹木から一つの材木、一枚の柾の出来てわれわれの家に届くまでに、具体的に多くの階梯があり技術や工夫がある。道具も仕掛けもある。そして多くの人数がまさに手分けをしている。材木にそれがあるように、他にも無数にそういう世間がある、山にも里にも浦にも川にも。そしてお互いにあまりよそのことは知らない。知らないどころか、互いに「へっとも思わない」でいる。自分の関わっているそれだけで、世界というものが出来ている。
文学人間は、とかく文学様様の顔をしているし、演劇の人はその世間に没頭している。きれいな和服で日本舞踊や邦楽に夢中の世間もあれば、社交ダンスの世間もある。政治家達は自分の立場しか考えないでいるし、テレビ屋は自分たちの天下だと力んでいる。会社は会社の狭く閉ざされた世間であり、社長や重役が神様のようである。大學では学長や学部長やと、想像以上に小さく固まったケチな出世欲世間でしかなかった。
しかし、そんなひとつひとつの小さな世間にも、生産があり、価値が生まれ、階層は必要なものとされている。
あまりいろんなことを識ってしまうと、孤独に寒くなる。自由とは、その寒さに堪えて得られるものなのだろう。わたしは、だが、自由でいたい。所有される存在ではいたくない。
2001 2・5 8
* 谷崎全集の第六巻が行方不明で箱の中がカラッポ。書庫の通路に、入りきらずにむやみに山積みされ場所ふさぎになっている中の、一山のいちばん底から発見救出、ひやりとした。何度も何度も整理に掛かり、しかし、一冊一冊みていると処分出来ない。大きい目の本棚が三十本ほど入っている勘定の書庫だが、棚は満杯通路は通りにくい。書庫を溢れた本が、二軒の家の至る所に。どの辺に何がと覚えているだけでも我ながらエラかったが、それも怪しくなってきた、日に日に。もういいやと思ってしまう。整理するといっても、重すぎるのだ、本の移動や片づけは。
2001 2・5 8
* 谷崎戯曲の「誕生」「象」に直ぐ続く初期作の「信西」を読み落としていた。これも同人誌「新思潮」時代の堂々とした歴史劇である。谷崎戯曲のト書きの文章の美しいことは、かれの戯曲が「読む戯曲」であることを印象深く示唆している。この戯曲はおみごとと言える。もっとも谷崎戯曲の大方の特徴であるが、エンディングが演劇的でなく、小説としてならいいが、舞台で見たら、ああ終わったという感慨や感動には恵まれまい。それは、演劇台本としては難であるが、谷崎はあまり気にしていない。だから舞台に載せるとき、例えば小山内薫が「法成寺物語」を演出したとき、遠慮なくそぎ落として台本らしく作り直し、谷崎は呆れながらも半ばは納得していたように記憶している。
「信西」は、平治物語などを的確に活かして、いきなり、逃げ込んだ山中の場面に始まり、無気味に光る運命の星のもとで、けっこう説得的な進み方をする。まだ、この直後あたりから展開された谷崎らしいどぎつさも影うすく、典雅な絵巻を繰るような落ち着きがある。だが、読んでいて惻々とせまる或る肉体的な「畏れ」を感じさせる点で、はっきりと谷崎の特質を見せているのである。永井荷風に絶讃されていきなり華々しい新進作家として重きをなす直前に、既にして彼は小説家としても戯曲作者としても「文学的」に大成功を挙げていたのが分かる。この作ではことに「運命」の畏れを信西自身の身体に及ばせ感じさせて、作劇の破綻はない。後の西光法師、あの清盛を小気味よく面罵して殺されて行く師光のような家来をさりげなく登場させたり、端倪すべからざる蓄積をさらりと披露している。まだ明治期での作品であり、この作は「新思潮」でなく、他流試合の「昴」に公表していた。永井荷風との縁を呼ぶ大きな契機の一つだったろうか。
* 大正六・七・八年を過ぎて行くと谷崎の家庭問題は深刻の度を増し、彼は小説でも戯曲でも現在の妻を殺すというモチーフの作品を執拗に連発している。「途上」のような、江戸川乱歩をミステリーへ誘い込んだ傑作もあるが、「呪われた戯曲」という小説の中に戯曲をはらんだ妻殺し作品などは、小説風の地の文よりも戯曲の部分が、独立してでも面白い。赤城の山に大人しい貞淑で無邪気な妻をつれこみ、谷へ突き落として殺す内容の戯曲を書いた夫が、その現実そのまま妻を赤城に連れ込み、その現場でその戯曲を読んで聴かせ、戯曲のままに会話しながらついに突き落としてしまうのである。夫は戯曲の中の科白をそのまま喋り、畏れ始めた妻が哀訴する現在の言葉が、戯曲にはすでにほぼその通りに書き込まれてあるという、巧緻な、だがリアリティーを少しも喪わないじつに心理的に的確な把握がされている。「呪われた戯曲」は小説として発表されているし、その通りの作品なのに、戯曲としても十分読ませるという、谷崎の才能の凄みを十分証明している大正八年の問題作である。
ついで、「戯曲体小説」と角書きした「真夏の夜の恋」が中途で投げ出されたままになっている。傑作になりそうな気配はないが、或る執拗さが出ている。強者と弱者とを、あるいは悪意と善意とを対比的に書くことの、ことにこの頃に多かった谷崎だが、心友であり妻をはさんでの恋敵でもある佐藤春夫と自分との「戯画的対比」も作者の脳裡で、もう間違いなく進行している。しかし半端に終え損ねたこの戯曲では、女優にした義妹セイ子をはさんでの、今東光ないしは岡田時彦と自分との戯画的競合の方が、作意としてつよく動いているかも知れない。作品としては問題にならない。ずるずると会話を書いて先を探っているのだが、うまく展開して行かないようである。
* ある人から預かったかなりの数の私編詩集を読んでみたが、うまく結晶していなくて、感じが薄い。かなりハイな調子で書かれていて格調ありげなのだが、細部細部がざつにそれを裏切って、空疎になっている。なにもかもを言い過ぎて説明に終わって行く。
2001 2・6 8
* 谷崎の「蘇東坡」を読んだ。谷崎は一度だけ中国に旅している。その関連作はいくつかあり、これも、一つ。もっとも谷崎は「新思潮」の頃にもすでに緻密な短編の「麒麟」を書いている。中国には興味も知識も蓄えていた。だがあれほど憧れを書いて止まなかった西洋の地は、ついに一度も谷崎は踏んでいない。かれの得ていた西洋は、本と映画と、通販カタログと、そして白い娼婦からのものだ。いや、原点にあった、祖父がひそかに信仰して祀っていた、白い肌のマリア像のことも忘れてはならぬ。
この「蘇東坡」はゆったりと楽しんで書いたらしい文人趣味と知識とに装飾されている。傑作でも秀作でもないが作品たる美味は湛えて、愉快に出来ている。くつろいで、上品に大らかに書かれている。谷崎には珍しく、蘇東坡と毛澤民という男性二人に圧倒的な重点が掛かっていて、女達は、ま、添え物である。これは、よほど谷崎としては珍しい力点の移動であり、気分が、とにかく心地よくいつもと変わっていたのだろう。
2001 2・7 8
* 谷崎の戯曲ではないが、発禁を議題にした、芸術家と「検閲官」との長い対話を読んだ。谷崎の戯曲「恋を知る頃」と思われる作品に対し、勧善懲悪と良風美俗の立場から改作を慇懃に強要する検察官と作者との、じつにねばり強い延々とした対決対話に終始していて、谷崎潤一郎という書斎に居座った作者にしてはきわめて珍しく真正面から公権力の政治と見識との不足に刃向かっている貴重な仕事である。気力充実して、これは戯作ではない大真面目に闘っている文学である。谷崎の明晰な知性とむかっ腹を立てていた感じが露出している。これを明らかに踏まえて、最近の人気劇作家三谷幸喜が傑作喜劇を上演していたのをテレビで観ている。
つづく「或る調書の一節」も文字通り「対話」で、正確に、つづく代表作戯曲の一つ「愛すればこそ」のモチーフを、すはだかに書き記している。背後に谷崎と妻千代子と佐藤春夫との小田原事件にいたる家庭内不和と葛藤とが濃い影になっている。女を作って妻をいじめぬき、善良そのものの妻が泣けば泣くほど、それで夫は心が清く洗われるような気がしてならぬといった、とんでもない告白を執拗にくり返しているが、これこそが大正十一年一月に発表した「愛すればこそ」の意義であり、「悪」のつよさと魅力と感化の力を徹底して書きながら、小田原事件により絶交した佐藤の影をセンチメンタルな善人三好数馬に、板挟みの妻澄子の卑劣な悪人夫山田の位置に自身谷崎をあたかも据えたように、長い三幕戯曲は書かれたのである。むろん、「検閲官」に対する痛烈な反噬の作であった。
* 谷崎の大正十年十一年は戯曲とシナリオの年で、豊富に多産されている。私生活の事件から巧みに離れつ即しつ脚色してゆく天賦の才能がみごとである。
* 牧野大誓『天の安河の子』も読み終えた。こんな有り難いメールも今、届いていた。 2001 2・12 8
* こういうときに古典を読む。このところ平家物語にかなり関わっていたが、谷崎の戯曲にも時間を多く割いてきた。ずいぶん幕数の多い長いのも多く、はかどらない。いま、なぜか枕草子が読みたい。
* 京都博物館で観てきた強大な気迫の弥生時代の大瓶を、いますぐにも、もういちど観たい。気の衰えを励まされたい。
2001 2・14 8
* 昨夜に、寄り道めくが谷崎の映画シナリオ、大正十年の「月光の囁き」と、翌年の「蛇性の淫」を読んだ。前者は意味も効果も散漫な無理筋の作であった。こねまわしてあるが、面白みも散漫錯雑、作者が気負っているほどには何も迫ってこない駄作で失敗作と観た。上田秋成原作を愚直なほどになぞった後者も、脚色の上のひねりもサビも利いていなくて拍子抜けした。もうちょっと大胆不敵な趣向で原作に谷崎が挑みかかっていいだろうにと、意外に感じた。原作や原作者を尊重したとしても、これでは、原作を読んだ方がおもしろい。溝口健二の名作映画「雨月物語」の脚本は優れていたなと、今更感嘆する。
2001 2・15 8
* 会を終わって、ほっこりした。わたしひとりが乃木坂駅へ戻り、家に電話したら昨夜の夜更かしで妻は疲れていた。食事は外で済ませてきてというので、銀座かなとも思ったが、先に来た明治神宮への地下鉄にのり、山手線に乗り換えて新宿で下車、深切につくった肴三種で日本酒をゆっくり飲んだ。ご飯の代わりに稲庭うどんをあっさりと。酒と食事の間に谷崎の戯曲「本牧夜話」「愛なき人々」を読み上げ、寒風に巻かれながら大江戸線で練馬経由、帰った。きもちよく、くつろげた。
2001 2・16 8
* 谷崎全集の第八巻は少なく見ても三分の二が戯曲とシナリオである。大正十年を過ぎて十一年初の「愛すればこそ」から、映画台本「蛇性の淫」戯曲「永遠の偶像」「彼女の夫」「お国と五平」「本牧夜話」「愛なき人々」を経て、大正十二年初の「白狐の湯」の八編がならび、小説は「或る罪の動機」「奇怪な記録」「青い花」そして「アヱ・マリア」があるだけ。ただしあとの二作はこの期の問題作として記憶に値する。
この時期は小田原事件の直後にあたり、即ち妻の妹と深い仲にはまっていた谷崎は、いったん離縁して佐藤春夫に譲ろうとしていた妻千代を、土壇場で翻意して手放さなかった。千代を愛していた佐藤は谷崎の翻意に怒り絶交状態に入った。その後双方でこの事件を念頭に置いた創作上の格闘が始まり、谷崎のこの頃の作品は大方のモチーフをこれに拠っている。きわめて露骨に人間関係などを現実になぞりつつ、だが、すべて微妙に脚色されていて、谷崎自身を悪に、佐藤を善人風の弱に設定したりしているが、「愛なき人々」では脚色そのものもどぎつくて、佐藤への攻撃は人身攻撃的に露骨で、自身の役割も悪に徹したようでいてどこか戯画的に被虐的であり、作の姿勢には醒めて冷ややかなほどの視線が生きている。うわずっていない。ただ、むきだしに、男も女も悪意や虐意をみせて、読んでいてもカタルシスに欠ける。うんざりする。
それぞれに無視しがたい証言をはらんでいるので、谷崎論のためには、大事な拠点になるが、戯曲ないし上演ということになると、「お国と五平」が谷崎戯曲のなかでも傑出して簡潔である。夫の敵討に出ている妻お国と従者五平、敵の友之丞の三人だけの心理劇がおもしろく絡まり合って焦点を見いだしている。三者の気持ちにすべてに妥当な自然と不自然とが蔵されていて、悩ましくも納得が行く。小田原事件を谷崎が血肉として体験しよく対象化し得ていた、さすがにと賞賛したい作劇である。
「本牧夜話」は、脚色されたものだが、谷崎の白人趣味と本牧時代をまざまざと推察させる品のない風俗劇であり、凄まじいという印象を与えながらも、印象に残る。千代夫人の位置が透けて見える。ここで、硫酸がつかわれて面貌の破壊がドラマを転換させてゆく働きをしている。遠く「春琴抄」へ繋がってゆく感じがある。
この白人趣味が「白狐の湯」でも意味を持たされている。谷崎は他界へ行かない、せいぜい夢か狐憑きのところで現実に踏みとどまる。谷崎潤一郎の秘密の色は「白」であり、それも「月光」に洗われた白にエロスをかきたてられる。それは、「少将滋幹の母」のクライマックスへも反映している。このエロスが谷崎のほしいままなる「マリア信仰」と表裏している。この時期の大事な問題作である小説『アヱ・マリア』がそれを濃厚に示唆し得ている。
「愛すればこそ」と「愛なき人々」は一双のやや冗長だけれど凄まじい内容の、この時期にあって無視できない戯曲であり、主題的には前者の方に深く突き当たる重みがある。後者は諷意するところがどぎつく、作品の中にだけ印象がとどまりがたくて、つい佐藤春夫的な存在への顧慮が読者側に働いてくるのが愉快でない。
「永遠の偶像」「彼女の夫」も露骨な私小説ふうの私戯曲で、あてつけがきつい。
谷崎潤一郎というと、小説の大家として文豪の名に恥じない存在なのは言うまでもないが、根が天才でありしかも神童とうたわれた秀才でもあった。小説だけでなく、彼の批評力のあることは、若くして漱石の「門」「明暗」を論じたものにも知られ、論争では芥川を自殺へまで突き放したほどの剛腕ぶりを示した。そういう力が戯曲の脚色にも浸透していたことは察知されて良かったのだが、主には佐藤春夫の作戦もあって『思想のない作家』と遇され続けてきた。とんでもないはなしで、伊藤整がこれを逆転させて谷崎を論じ始めてくれたのは大きな収穫であった。
2001 2・17 8
* 昨夜に、谷崎戯曲の「無明と愛染」を久しぶりに読んだ。高校へ入った年に、創元社から「谷崎潤一郎作品集」が出て、わたしは昼飯代を食べずに貯めてこの新刊シリーズを楽しみに買い続けた。七巻ほどあったろうか。戯曲ではことに「無明と愛染」が好きで、本気で演出ノートを書いたりした。また日記に「無明抄」という題をつけていたのもこの作品の感化であった。一乗寺の上人を佐藤慶の演じた映画も印象的であった。そうはいえ、無明の太郎が三船敏郎であったような気がするだけで、かんじんの女優たちを覚えていない。なぜか、佐藤慶だけをねちっこく記憶している。不出来な映画ではなかったが、なにしろ登場人物が四人だけ。どこか舞台劇の映画化という感じながら、わたしには、それが成功していると思われた。映画になって山奥の荒れ寺の風情などが生きた。聖人と毒婦の対決である。毒婦が残酷に勝ったようでありながら、必ずしもそうとも言えない。無明太郎の妻は絶望して自害するが、非道の太郎は無明から醒める。悪婦愛染は上人をたぶらかし死なせるが、その死に様には尊いものが無いとも言えぬ。小田原事件を越えてきて、もう克服してゆく気配の色濃い作であり、作品世界は完全に創造されよく自律している。「お国と五平」にならぶ簡潔で完成度の高い秀作である。もう谷崎は関西で暮らしていた。
つづく「腕角力」は、何ということもない駄作に属するが、読まされてしまう。それだけのものである。大正十五年には谷崎と佐藤は和解する。その四五年後、細君譲渡という世間を瞠目させた取り決めが、二人の作家と一人の女性の合意によって実現する。
2001 2・18 8
* 谷崎戯曲の「マンドリンをひく男」は、小品だが面白くできている。谷崎好みの仕上がりで、映像にも舞台にも成り立つ作であるとともに、他の作とも共通した執拗なあるパタンを繰り返しながら、男女関係の錯綜に作者自身が舌なめずりしているような耽溺の気味が感じられる。
「金を借りにきた男」は、借金そのものが谷崎の半生にほとんど趣味的につきまとっていた体験であるだけに、同じ主題の他の小説などもあり、作の手口が堂に入っている。常習犯の借金男の執拗に卑屈に狡猾に巧妙に結局は借りてゆく鉄面皮と、結局は貸してしまう側の不快感とが、うんざりするほどねちっこく戯曲化されていて、愉快な気分は微塵もない。この不愉快にさせることも悪の魅力の一つに数えているかのように、大正時代の谷崎は繰り返し不愉快作を愉快そうにたくさん書いている。病的にはいっそ不可能な創作であり、逆に谷崎の神経が不逞なほど強豪であることを示していると取りたくなる。
大正十三年ごろの「白昼夢」は、歯医者が患者の令嬢を失神させて犯すという刺激的な白昼夢を装った、夢ともうつつともつかない露悪の作劇で、愉快なものではない。だが、こういう事態はだれしものかすかには想像したりしないでない秘めた欲望とも絡み合うので、谷崎は、そういう読者の心理を引きずり出すことにも愉快犯的な手腕を用いるのである。一種の芝居っ気であり、悪ぶった趣味でもある。
* 大正時代までの全戯曲をわたしは読み上げた。漏らしてはいないと思うが、何作あったか、数えてはいない。谷崎の大正時代は戯曲作家時代であったともいえる。同時に、推理小説風のミステリーも谷崎はこの期に幾つも書いていて、「途上」のような秀作も幾つか含まれる。さらに重ねてこの期の谷崎は新興の映画に多大の興味と好尚をもち、映画会社に関係してシナリオを書き、制作にも踏み込んで家族を出演させ、それのみか映画芸術にたいし理論的・趣味的・美学的な関心から貴重な論考や観察をふくむエッセイを幾つか書いているのである。
歌舞伎に培われた芝居好きと戯曲制作、西洋賛美の興味にもひかれた映画芸術への傾倒、そして趣向と犯罪と悪への傾斜を示した推理的ミステリー小説・犯罪小説への猟奇的な興味。さらに悪の美と魅力と、それゆえの強さに対する根強い共感の露出傾向。
谷崎潤一郎の大正時代は、およそこういう特色をその制作面に示しているが、これを触発しまた裏打ちした強硬なモチーフに実生活・私生活における小田原事件へ高まってゆく妻の否定・妻殺しの願望・妻の妹への被虐的な愛と耽溺などを認めねばならない。ただ、谷崎のこの両面には、きわめて意図的・意識的な「演戯」性をも正しく見通さねば大きな間違いをしてしまうだろう。自然は芸術を模倣するというワイルド風の美学を盾にとって谷崎は、西洋賛美とともに輸入していた性的倒錯の「新味」を演じ抜いて悪魔派の旗を揚げてみせることに或る勘定をつけていた。すべては「芝居っ気」に発した表面的な演戯性に根ざしている。この病的なほど悪を振りまいていた谷崎潤一郎その人は、根は、平凡なほどの健康者・健常者であった。それが、駄作をすら豊かに見せる秘訣であり秘儀なのであった。
* 昭和期に入り根津松子との出会いを活用して大噴火した谷崎文学は、もう戯曲を表現のために必要としなかった。昭和八年に最後の大作戯曲「顔世」を書いて後、ついに戯曲の筆は断たれたのである。いま、その「顔世」を読んでいる。
* 「昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち」と副題した、『神と玩具との間』(湖の本エッセイ 6.7.8巻)は、わたしの谷崎論の一つの太い柱である。女は神であるか玩具であるかだと、谷崎は『蓼喰ふ虫』の作中人物に語らせたが、谷崎は、妻とは、神にも玩具にも使い道のないただの道具のようなものだと、大正四年に結婚し、すぐ「父となりて」直後に書いている。その妻を谷崎は生涯に三人もった。昭和初年は三人の妻の交代期であった。その十年間に谷崎は真の文豪たる名作を次から次へと書いて一世を風靡した。谷崎を超え得た作家はまだ一人も出ていないとわたしは見ている、あの夏目漱石でさえもと。
2001 2・19 8
* 昨夜、寝入る間際に吉原の里を書いた荷風の一文を読んだ。ああいうふうに懐かしく京都の昔をしみじみと書いた文章がめったに手に入らない。
2001 2・20 8
* 谷崎戯曲の最後の大作「顔世」を昨夜読み上げた。五幕ある。それだけでも大作だが、ト書きの隅々、舞台設計まで気を入れて書いてある。舌なめずりするように絶世の美女で人妻である顔世つけねらう高師直の惑溺と暴悪とを書いている。舞台に実現したい意欲満々の作劇であることは容易に理解できるが、作者の興奮しているほど見ていても興奮するかは分からない。顔世その人は、最後の最期に自害して果てた死骸としてしか登場せず、終始チラリズムに徹している。陰翳礼讃の時代で谷崎の好みであるが、効果のほどは分かりかねる。ただ、例えば「法成寺物語」などに比べてもざっくり書かれてあり、読む戯曲という以上に演出や演技のための台本の傾向がつよくなっている。よく書けているし、幕ごとに事態が移り動いて悲劇的に終え、顔世のいわば聖性や超越的な美しさは感じられる。陵辱されなかった永遠の美を谷崎ははっきりすくい取っている。女への敬意と拝跪とがハッキリ出ているところ、大正時代の谷崎とは大違いである。昭和八年は、『春琴抄』が書かれ『陰翳礼讃』の書かれた昭和初年の絶頂期であり、根津松子との同棲が公然と始まっている。すでに形ばかりの二人の結婚式が営まれる昭和十年一月には間がない。ついでに笑い話を添えて置くが、わたしは昭和十年十二月に生まれた。水上勉さんが、筑摩の編集者に、秦さんは谷崎と松子さんの隠し子かいと小声の真顔で尋ねられたというのである。わたしの「谷崎愛」は、そんなナイショ話にまで熟していたかと思うと、正直、嬉しかったものだ。
谷崎は、「顔世」を最後に最期までもう戯曲は書かなかった。何故か、それも一つの解答があっていい課題の一つである。
2001 2・21 8
* 昨夜、バグワンを読んだ後、もらっていた「三田文学」別冊特集で松本清張の『ある小倉日記伝』をひさびさに読み直した。初読にちかい新鮮さであった。言うまでもない芥川賞受賞作であり、例えば今季の受賞作と比較してみたいなという気もした。読まずに憶測するのはまずいが、もっと神経質な入り組んだものでありそうな気がする。そう思わせるほど松本のこの作品は骨っぽく荒削りに叙事が運ばれて物語体である。描写よりも叙事で押している。ざらっとした触感だが、どこにソツがあるのでもなく、渋滞なくどんどん書き進まれて破綻しない。ぐうっと押していって、くっと結んでいる。巧緻とか巧妙とかいう筆致でも結構でもないが、ザックリした文体が魅力になっている。この程度で芥川賞というのはよかったのかと思うあっけなさと、だが、なかなかの創意で面白いと思う敬意とが交錯した。本気で今季の受賞作を読んでみたくなったが、その前に受賞を逸した甥の作品をそろそろ読んでやらねばと思っている。題材が兄にも、その死にもあるであろうと分かっていたので、とても手が出せなかった。わたし自身の胸にあるべつの『もどろき』との当然の抵触も気持ち的には避けていたかった。だが、そんなこだわりはもういいだろう。
2001 2・23 8
* 谷崎の戯曲について書き始め、山折氏との対談ゲラの最後の分に目を通し始め、そして、昨夜はバグワンのあと、贈られてきた古典全集の最新刊で近世の俳諧の最初期の作をくすくす笑いながら楽しんだ。俳諧とか俳優とかの俳の文字には滑稽な笑いに通じた軽妙な趣向のおもしろさが籠められてある。今では俳人といわれる人がきわめて厳粛な詩人の代表になっている。どこか勘違いしている厳粛な狂言師に似ている。
とにかく山崎宗鑑から始まる芭蕉以前の俳諧に、想像以上に大きな才能の働いていたことを知り得たのは愉快であった。このわたしの愉快は、「魔法の粉」や「文芸の諦念」に感じた人の、また「目の保養」を楽しんだ人の、共感と通い合っていないだろうか。 2001 2・25 8
* この数日、わたしを喜ばせてくれるのは、「三田文学」が先年に特集した大冊の記念号。早くに貰っていながら、なかなか手に出来なかった。森鴎外の「普請中」、泉鏡花の「朱日記」、久保田万太郎の「朝顔」、谷崎潤一郎の「飆風」、水上瀧太郎の「山の手の子」、そしていま永井荷風の「ある戯作者の死」を読んでいる。なんという豪華版、この調子で芥川も佐藤春夫も、そして三島由紀夫も出てくる。詩歌もエッセイもある。さすがに文学の老舗である、「三田文学」は。私小説系のじみな作品の多かった「早稲田文学」とちがい、ずいぶん色彩豊かである。久保田、水上など、今では読者も多くは無かろうが、素晴らしい筆致であり、世界は古めかしくなっているにかかわらず文体と文章に載せられてゆく嬉しさは限りない。魅惑たっぷりといえる。百編をはるかに越す近代文学の秀作問題作がずらりと並んでいて壮観、ちょっと手放せない。
それらの世界に入っているときは、いやなことも忘れていられる。
そして、選ばれた歌集と句集のいいのを読む。和歌を読む。俳諧を読む。昨夜も三時半まで蕪村の句を楽しんでいた。海外文学からはすっかり遠のいている。
2001 2・28 8
* 作業を追い込んで、ほぼ予定通りの所へ運んだ。いつ本が届いても送り出せる。搬入まで一週間の余裕ができ、助かる。多少、ぼんやりとした気分にはまっている。寝る前には、よく選ばれた江戸の俳諧を、口当たりのいい薬湯でも呑むように読んでいる。芭蕉と蕪村と一茶だけの江戸俳諧でないことが、よく分かる。一部に、さきの三人こそ江戸俳諧の傍流で、その余の大勢こそが基幹なのだという説も出ているという。そういう発想も分からないでない。わたしには、そういう議論もたいした意義をなさないだけのこと。三人を欠いた俳諧のありえないと同時に、三人で言い尽くせないものの在るのも事実なのだから。ああ好きだなと思う俳人が、三人のほかに何人もいる、それも事実なのだから。
2001 3・2 8
* 石黒清介の歌集『桃の木』を余念無く読んでこの日を送った。
人の心をうつ生活歌がいつよりか軽蔑されつつ短歌おとろふ
その通りである。「心をうつ」ことのない語彙玩弄の歌がいたずらにもてはやされる。
夢に風夢に雨音かくまでも覚めてゐるのに覚め切れば夢 宮尾壽子『未央宮』
適量の毒と言葉に春愁を加へて君に稲妻送る
この手の歌を読むのは、知的遊戯の域をでない。「今慈円」の石黒さんの歌を読んでいると、さらさらとして快い音楽を聴きながら日々に生きてあるよろしさに感謝したくなる。「どこがいいの、こんなの」と思う人がいても、とてもとても容易には真似得ないのである。
八十一になりたるわれは正月の雑煮の餅(もちひ)をたのしみて食ふ 平成九年
鯛焼の熱きひとつを公園の夜のくらきに入りて食ひけり
佐渡の海の春のわかめのにほひよき味噌汁を食ふ椀を重ねて
対岸の松の梢にとまりゐしからす羽ばたきてとびたちにけり
罅入りし岩垂直に立ち並ぶ向ひの岸に昼の日の射す
やはらかき越後の茄子の一夜漬なみだいづるごとわが食ひにけり
吹きとほす風をすずしみ新しき家の二階にひる寝すわれは
人身事故のためにとどまりゐし電車のろのろとして動きはじめぬ
尾を赤く曳きて夜空にのぼりたる最初の花火は静かに開く
ベッドのうへに体おこして聞きてをり雨のしづくは草にふるらし
廊をゆくひとのあゆみがカーテンの裾よりみゆるに我のたのしむ
音もなくしづかに朝の明けゆくをまなこ見ひらきみつめつつゐぬ
中庭に梅の古木と葉を垂れてしづまる桃の木と並びたり
昼寝よりさめたるときに葉を垂れて仏のごとく桃の木のたつ
ベッドの上にからだ起して温かき飯をぞくらふ熱のさがれば
夜の庭に鳴く虫の声病室の窓にあゆみより聞かむとしたり
夜ふかくわが起きいでて鳴く虫の声をあはれむ耳かたむけて
病院の食事の味の薄ければあるいは塩を振りかけて食ふ
散歩より戻りきたりてしばらくをベッドのへりに腰かくるなり
手の爪を切りたるついでに足のべて足の爪を切るベッドの上に
雨ふれば朝より寒き病室のベッドの上に足袋はくわれは
散歩よりかへりてくればあなうれしあたたかき栗飯が配れてゐき
寒き風吹けば散歩を取りやめてベッドの上に昼寝をぞする
蟷螂が硝子戸にきてとまりたり青きからだを逆さまにして
いのち死なず生きてかへりしわが家の二階の部屋より外を眺むる
菊の花の黄ににほへるをひと袋もとめぬひでて今宵食はむと
わが家の裏をたまたまとほるときもひるがへる物干台見ゆ
スタンドの電球の線の切れしかばあたらしき電球とかへてもらひぬ
駅前のポストまでゆく道のべに檀(まゆみ)は赤き花をつけたり
看護婦の見習の少女休日にあそびに来たり昼寝してゆけり
虫籠のなかの飛蝗(ばった)を幼子は我に見よといひ目の前におく
蚊屋吊草と狗尾草を道のべに引きぬきて来てコップに活けぬ
百日振りにいで来し会社にわが友の二人死にたる報せとどけり
明治生れの歌人の二人日をつぎて死にたることをわれのあはれむ
髪をうしろに靡けながらに口かたく噛みて走りくる上岡正枝は
国際千葉駅伝 女子一区
ルーマニアのルハイヌスをば追ひ抜きて一位の中国に迫りつつあり
二区田中めぐみ
中国の楊のうしろに迫りつつやうやくにして追ひ抜きにけり 三区高橋千恵美
うしろより追ひかけてくる中国をふりきり遠く引き離したり 四区大南敬美
一位にて襷を受けし松岡は最後ののぼりに今さしかかる 五区松岡理恵
独走態勢に入りて走れるランナーのうなじの汗がしたたりにけり 六区高橋尚子
ちから尽して走れるものの顔みればみなうつくしくがやくごとし
席を立ちてゆづりたまへばありがたく遠慮をせずに腰かくるなり
白百合の白き花弁(はなびら)汚しつつ黄の蕊(しべ)ながくのびいでにけり
肩寒く目ざめし夜半に肩までを布団ひきあげてふたたびねむる
すこしずつからだよくなりし健康をよろこびあへり朝の電話に
肩痛くなる前に止め朝々の五日がほどを年賀状書く
汚れたる眼鏡の玉に熱き息吹きかけてぬぐふ歳のをはりに
前を歩きてをりたるひとが立ちどまり不意に後を振りかへりたり
幸福に暮してゐんと思(も)ふのみにその人の名を思ひ出だせず
追風に背(せな)を押されてあゆむときたのしかりけりをさなごのごと
朝々に摘みて食(を)すといふ青き菜の二畝(ふたうね)ばかり風にそよげり
すこやかにからだ癒ゆればうれしけれ口つけて吸ふ葡萄一房
撞木にて撞かれし鐘はその胴をゆるく揺りつつ鳴りひびきけり 平成九年歳晩
一冊一年の歌集『桃の木』六七二首から、恣に書き抜いてみた。石黒清介第二十四歌集である。ここまで読んできて、こういうふうには、ものごとはなかなか見えるものでなく、まして、こういうふうにはなみの歌人には表現できないのである。だから力のない人ほど語彙を玩弄して賢しらに陥る。石黒さんのこれは名人藝で、真似よとは言わない。石黒さんは大正五年生まれ、現役の会社社長である。幾首有るか数えていないが、書き抜いた歌を自然と読み進めば、その日々と境涯とは悠々として見えてこよう。これ、禅と謂うべきか。
2001 3・4 8
* ゆうべ、黒川創『もどろき』を、単行本でやっと初めて読み始めた。はっきり言って、最初の「 1 」までだが、落胆した。いい文章の書けるヤツだとまともに褒めて置いたのに、その文章に魅力がない。ザクザクし、グサグサして。へんな演説も鼻につく。しかし、長い作の最初の一章でサジを投げては、わたしも辛抱がなさ過ぎる。最後まで、ちゃんと読みたい。この先のあざやかな立ち直りを期待している。
2001 3・6 8
* 篠塚純子の第一歌集『線描の魚』を、ひさしぶりに読み返している。むかし、この一冊を手にし目にしたときの驚愕と感動を忘れない。歌集の体裁をえた小説のように読み込んだ。教養深き才媛は、高校で英語の先生をしていたが、和歌や古典にもふかく入っていて、蜻蛉日記や和泉式部に傾倒し、歌誌に延々と連載していた。その短歌にも、和歌の匂いがしみこんでいて、砧に打ったような措辞で、しかも西欧文化の香気をも表現できた。表題にもそれは表れていた。東西の比較文化にも気を入れていたのではないか、しかも歌人の実生活は傷ついていた。
わたしはこの未知の歌人の新歌集にすっかり刺激されて、一編の幻想的な小説を書いた。その歌集の出版記念会によばれ、はじめて口を利いた。
この歌集のよかった点は、巧みな編成にも認められた。一編の「物語」を成していた。堀辰雄のような、岸田国士のような風情すらあった。一首一首がすばらしく巧みとか感動的とかというのでは、むしろ、なかった。その世界が、人その人のように呼吸していた。生身の哀しみと、ある種インテリ女の傲りすらも感じさせる、ふしぎに香ぐわしい「女」の歌集だった。読み返していて、印象は今もかわらない。わたしと同年の篠塚さんは、いまは大学教授になり国文学を研究している。昔ながらに「忙しいのがお好き」さんである。
2001 3・6 8
* 私小説を書くのであれば、大胆と誠実とが数倍必要であり、その必要は、他者によりも、何より自分自身の表現に即して重くあらねばならない。ある程度のハラをくくれば、他者に対して辛辣であったり深刻であったり軽妙であったりは難しくない。しかし、自分に対して厳しく真実に迫ることは容易でない。過剰に自虐したり、強いて観察の「眼」とのみ化した気で圏外に遁れ出てしまう。容易い、が、誠実ではなく、小心である。カミュの蠅のように透明なガラスに頭をすり羽をすり、飛べないガラスの彼方へ飛び続ける苦渋を永続する、そういう不条理な大胆さで、自分自身を表現しなければ、私小説は不純に陥る。
黒川創の私小説は、祖父や妹や母や父や実の祖父母は適切にリアルに書いている。よく書いている。これを物語る「私」のハートは書こうとしていない。書かないのだ、という方法のようである。貫く棒のごときものとして「私」の斯く『書く意志』が、確かな表現と徹底を得ていない、まさにそこが、或るお洒落な感じを与えると同時に、読後に、さてこれという感銘をのこさない。
わたしたちには私的興味に助けられたり邪魔されたりするところがある、が、遠い場所で読んでくれる読者は、この「よその家」の顛末にかかわる三代の心理の交錯に、どれほど心打たれるものか、見当がつかない。
自殺した父を目して、「父の死骸は」と書くことで、作者は、「私」の真相・真意を表現した気か、逆に鎧い隠して守っているのか、たんに不用意なのか、微妙なところだが、妻もわたしも、ドキッとした。わたしたちは、あまりに関わりが濃すぎる。正しそうな批評が出来ないと思った。高田欣一氏のいわれるような「感動作」とは、わたしは特には感じなかった。作風が、散らかる感じに固定されてきたようだ。句読点を過剰にほどこした、きれぎれの短文節短文章は、ある軽い弾みと乾きとを作にもたらし、湿っぽさを吹きさらす効果になっているが、そんな効果の陰へも、ほんとうは書かれなくてはならぬ「私」が逃げ込んでしまっているのかも知れぬ、という気がした。ちらちらと、した。だが、読みやすかった。
わたしたちだから分かり、わたしたちだから可笑しく、わたしたちだから悲しいところが有るだろう。わたしには、これ以上は言えないし、言うのはよそうと思った。エッセイの筆致であり、筋とか物語とかの太く逞しく表立たないのが、『若冲の眼』『硫黄島』『もどろき』に共通した特色となった。とりとめなげに短章・短説を連鎖させて行く。谷崎に学んだわたしは、その手法をとることはあっても、おおかた「ストーリィ」を書いてきた。創は、ちがうようである。ストーリィをむしろ崩すようにして書いている。それが新しい感じ感覚になっている、と言えば、言えよう。
2001 3・7 8
* 湖の本をはじめる以前からではなかったか、四国香川県の作家門脇照男さんと、ずうっとお付き合いが続いている。小説家であるが、最近、小説ではないいろいろなエッセイで編まれた本を贈ってもらった。昭和二十一年には二十歳前で国民学校の訓導になったというからわたしより十ちかくも先輩に当たる。堅実な私小説を書かれ、はじめて著書を贈られていらい敬愛していた。ときどき東京へ古書店を探訪にみえていて、一度、池袋で食事をいっしょにした。今度の本には、教員生活の思い出と共に、文学への志を抱き、東京で単身過ごしていた頃のことも書かれていて懐かしい。上林暁を「先生」と呼んで訪問もしていた。簡潔できちつと勘所をおさえた達意の行文に敬意を覚えるだけでなく、思い出の記がおもしろい。こういう作家が日本列島のひろくにおられることを、幸いにわたしは「湖の本」のおかげで良く知っているし、門脇さんだけでなく大勢お付き合いしている。湖の本を支えていただきながら、著書も頂戴する。こういう大勢を識らなければ、わたしは、「e-文庫・湖umi」を着想しなかつたろうと思う。
これからは、文学の新人には頭角をあらわしにくい難しい時代になりかねない形勢である。いろんな「場」が必要になる、受け入れの。呼んでくれる読者のある「場」が。
門脇さんの思い出は、生きてきた時世を多く長く重ねているので、頷きも深い。
2001 3・7 8
* インシュリンと注射器とを持ち忘れて出かけたが、ままよと、会議のあと、サンキエームにより、マール酒とワインとで、いつもの料理をゆっくり楽しみ、門脇照男氏の本をたっぷり読んだ。食べながら飲みながらの読書が、いつのまにかわたしの行儀のわるいスタイルになってしまった。門脇さんの「田舎教師」の思い出は、よかった。いろんなこまごましたところで、ずいぶんわたしは門脇さんに似ているのにもビックリしている。
* 恵比寿で人身事故のため、山手線が不通。原宿から千代田線で日比谷へ逆戻りし、有楽町線で保谷帰った。明日は電メ研。これから少し用意にかかる。もう十二時だが。
2001 3・7 8
* 昨日会議の果てたあと、猪瀬直樹が、鞄から文庫本『日本国の研究』を取り出し、読んでくれと。黒船のときも、日米戦争未来記という意表に出た仕立てだった。この本も、題名はしばらくわきに置いておく、これも優れて意欲的な現代への斬り込みのように、先ず一瞥、想像される。成心なく読み進めてみようと、幸い文庫なので今日からポケットに入れて外出する。批判もうけやすい出る杭のなかでも目立った才能だが、もっとも活発な現代の一精神でたいへんな勉強家であることは、わたしにも快い刺激。元気をもらうという俗語がはやっているが、そういう気分も少なからず、有る。苦いビタミン、効用をすなおに期待している。
2001 3・8 8
* 芝居のくだらなさと打って変わって猪瀬君の『日本国の研究』は、「財政投融資」という名の日本政治の病巣と病根へ、著者みずから潜り込むようにして、診断をくわえて行くまさにもの凄い本である。気分の良くなる読書とはとても期待できないが、メスのさばきに目を瞠れるのではないか。目を背けて投げ出してしまえない性質の警世の書であるようだ。こういう本が、それなりの改善や対策に結びついてくれるのならいいのだが、なかなか、言いたければ「勝手に言うとれ」といったタチのわるい居直り政治風土が出来上がっているかと思うと、つらい。評論家では限界がある。この著者のような人材が、政治家に転向すれば、どういうプラスが生じうるのだろう。分からない。長野の田中康夫君のことも念頭にあるが、猪瀬君ならあの向う意気で何が出来るだろうかと、ふと想像してしまう。
* こんなことを言うても信じられないだろうが、はるか昔に、わたしは匿名欄で大蔵省をやめ、財務と金融とに分けよと書いている。夢物語としか思われない時代だった。ずっと昔の宮沢大蔵大臣と橋本大蔵大臣とが、日本の経済を破滅に追い込む失政の犯罪的責任者であるとも、橋本大臣在任の時に書いた。そういうことは、なにも、そう難しい発言であるとは思ってなかった。人がまともに耳を傾けてくれる時点でもなかった。素人でも門外漢でも、市民は、いろいろに思ったり言ったりし続けたほうがいい。その姿勢があれば、たとえば猪瀬君のこの著書にも視線をそそいで読み進めることが出来るが、政治に関心を失い続けていては、その盲目のうちにだいじなものを見失ってしまうことになる。
2001 3・8 8
* 晴れやかに目覚めた。暖かになりそうで心地よい。加藤克巳氏の歌集『樹液』を読み上げた。八十歳台の五百首。よくいえば自由自在、きびしくいえば勝手気儘な放埒な「うた」声である。元気。
片丘に月落ちてゆくつかの間を遠い昔のごとく見ている
五十年いつしか過ぎて在りたるがありたるままに庭石はある
かの石に腰をおろして杖をつき顎すこし上げし父も今亡し
無明長夜をあるがままよと三日三晩眠りつづけて腹切開(きら)れたり
春の愁いのほどろほどろの降る雪のそこはかとなき悲しみである
照りかげる気多の神山すべり径(みち) しもととりかね妹が手をとる
とんとんと膝頭を叩いてぴくつかせ何を調べているのであるか
月はいま黄いろくまるくほのぼのと酔うがごとくに空のぼりゆく
庭隅の茗荷の芽をひとつとって来て三輪そうめんでもすするとするか
独り身もなかなか乙なものなどと言うてはみたがさみしいものだ
死せる妻の名しばしば呼びてわれとわがおろかしとあわれ空穂悲しき
わたしの好みで選んでみたこれらは、この歌集を代表していない。
神は各自の心にあるかないかだ ないものにはない あるものにはある
フォンタナの一閃 ああ 敢然とわが晩年がはじまるのである
* 老人は元気であらねばならぬ不幸な時代になってきている。衰えゆくものなどと思っていては老境三十年は地獄と化する。加藤さんの「元気」は汲み取らねばならない。
2001 3・14 8
* 久保田淳氏が桜を特集した「国文学」を送ってきて下さった。今度の京都ではまだ桜には早いが、四月の初め、和歌山から朱心書肆の三宅貞雄氏の上京される頃には、東工大の桜をまた楽しめることだろう。
* 東洋女子短大の「ことばを考える会」編の『対話』を頂戴した。湖の本のいい読者である北田敬子さんが、巻頭に、インターネットでことばを磨くと副題した「窓越しの対話」を書かれているのに、つよい興味を覚える。私の関心に極めて深く重なり合う。こういう考察が生まれて来つつ、行きつつあるのは、当然であり必要なことだと思う。電メ研でもこの方面の討議を重ねてゆきたい。その趣旨からも、このホームページの「雁信」の頁に選んで掲載させてもらっている電子メール数々の「表現」にも目を向けて欲しい。
2001 3・16 8
* 「三田文学百年」特集の中で、中勘助の「漱石先生と私」という長いエッセイが、とほうもなく面白かった。漱石を語った文章はいっぱいあるけれど、これほど個性的で飾り立てない、率直に辛くて温かい文章は類がない。『銀の匙』だけで中勘助は済むなどと想うのは間違いである。漱石はこの作品を作者の理解する以上に高く評価したが、勘助はそういう漱石先生に辛辣なほど不審の視線を突き立てている。そして心から感謝もしている。
初めて私家版をだしたとき、わたしは、中勘助という作家へも送った。作家では他に谷崎と志賀直哉に送っていた。もう一人いた、中河与一だった。中さんはきちんと受け取りの返事を下さった。中河さんは二度三度、話しに来なさいと誘われたが、遠慮が先に立ち行かなかった。志賀直哉の自筆署名のハガキももらった。他に窪田空穂、三木露風に送って、二人ともきちんと返事が届いた。嬉しかった。来るわけがないと想っていた谷崎潤一郎からはやはり返信は来なくて、それにも納得した。中勘助という人は、そういう人であった、わたしには。
2001 3・17 8
* 中央公論社社長で四年前になくなった嶋中鵬二氏の遺文集『日々編集』が夫人の手で編まれ私家版として贈られてきた。モウンニングワークである。対談・鼎談も、また嶋中さんを哀悼する数氏の原稿も入っている。達意の文で折に触れて編集人、出版人として、また経営者として、経営者の息子として、滞りのない筆致で多彩に書き語られてある。
夫人の「あとがき」も哀切である。嶋中さんとは一度だけ言葉をかわしたことがある。谷崎潤一郎が話題であったのは双方にとって自然の成り行きであった。そのうちにまた会おうなどとリップサービスも頂戴した。大きそうな人であった。苦労もされたが、佳い時代の出版・編集も満喫された人だ。その文章を通して、わたしもまた懐かしい昔の匂いを少し感傷的にかいでいる。
存命の頃に、小説集『閨秀』中公新書『古典愛読』を出してもらった。文芸誌「海」には谷崎論をはじめ小説も何本も載せてもらった。感謝している。
いろいろな人を見送った、こういうモウンニングワーク=悲哀の仕事としての「本」が、書架に、もう何冊になっていることか。
* 単行本『対話』のなかで、「書かれる話し言葉 -インターネット上に見られる新しいコミュニケーションスタイル-」と題した西村由起子という人の論文を読んでいる。なかなか佳い。誕生する新しい対話表現の実例が面白い。少なくもわたしの交わしているインタラクション・メールには殆ど現れてこない例ばかりなのも面白い。漢字で気分を説明したりしている。「独りでした・・・(泣) 」といったのが、たしかに掲示板などで見受けられる。擬態語・擬音語も。(クス)とか(プンプン)とか。わたしのところへは、六十すぎたお一人が、この手の擬声語やツッコミをときどき挿入してこられる。気の若いおばあちゃんのようである。論文では、「斬新な表記方法」と評価してある一面もみえるが、陥りやすい「言葉の潰瘍化」現象とも謂える。わたしは避けている。
* 「四畳半襖乃下張」といういっとき世間を騒がせた謎の文章を、わたしは、コピーで、人にもらっている。東工大の政治学教授がある日へへへと笑いながら呉れた。誰の作品とは分からずじまいにその猥褻表現が問題視されたのは、だが、「チャタレイ」裁判よりもずっと以前であったような朧な記憶がある。跋には「昭和の二十一といふ年の春」の作とあり、これは敗戦の翌年であるが。
いまどき「チャタレイ夫人の恋人」を猥褻などと思う読者は一人もいないだろう、が、この作品はどんなものか。版権の所在も知れず、試みに「e-文庫」に採録すると言ったら、身を乗り出す読者もあるのだろうか。この口調、この筆致、若い人には読めないかも知れない。
2001 3・26 8
* 米田利昭という歌人が亡くなり、奥さんが、遺稿を本にして贈ってきて下さった。津田治子というハンセン氏病に苦しんだ優れた歌人について長く連載されていた原稿を、纏められたもの。米田さんは生前から本にしたくて、亡くなってみると、「本」と書き添えた預金通帳が出てきましたと奥さんはあとがきに書いていられる。「本」というのは、ものを書き創り命を削ってきた者には、それほどのものである。死なれたもののモウンニングワーク=悲哀の仕事は、この場合も、嶋中鵬二氏の奥さんの場合も切ない。
* 古典の栄花物語は、物語であるが歴史であり、歴史にしては物語であるけれど、だから面白いし、おまけに平安時代の物語の中では一二をに読みやすい。わたしはそう感じている。女性の筆であるが、さっぱりとした人柄なのか、物言いが比較的ねじくれない。さらさらと直に話が流れてくるので、戸惑いが少ない。大きな全集で三巻もあり、平家物語よりも長いが、長く感じない。
読み上げたら、次は、ウイーンの甥の猛がいましも読んでいるという、日本書紀を、全巻読み返してみようかと思う。
しかし、道長栄華の訪れ寄る頃には、次の配本で、浜松中納言物語が手にはいるという予告、渇望していた初読の物語だから、それが先になろうか。たぶん、すぐに飛びついてしまうと思う。
この間まで俳諧・俳文を読んでいたのが、栄花物語へ行き、今度は日本書紀か浜松中納言かと、読書の向きがめちゃくちゃであるなと思われても仕方がない。だが、なんで今さら学習のために、系統だった読書をしなければなりませんか。死ぬまで勉強ですというのは、尊敬される最もみごとな生き方であるらしいが、勉といい強といい、どっちみち頑張っていてあまり自然なことではないのだ。おのずと選別の利く体験をしてきたのだから、残り惜しい時間のために、好みでない、程度の低いものは自然に避けるし、途方もない脱線はしていない。好きにしたいだけだ、こと読書に限らない。
2001 3・27 8
* 深夜床についてから、バグワンを小声で二三頁、読む。心=マインドをブレイク・スルー突破するか、ブレイク・ダウン破壊するか。この違いを、西洋はともに「狂気」としてしまう。東洋はこれを分別することができるものの、往々にしてブイク・ダウンした者をもブレイク・スルーした者と見錯って、狂気した者を聖者と尊崇している例がある、と、バグワンは言う。突破スルーも破壊ダウンも、ともに心マインドの外へ出ている点は同じだが、出てゆく向きが違い、たしかに悟りと狂気は似ているようだが決定的にちがうのであると、適切に、ボディーダルマの語録をバグワンは説き語ってくれる。バグワンの言葉は安定して生き生きし、ブレイク・ダウンした曖昧な揺らぎがない。心マインドに執着しそこに跼蹐していることの危険を的確に説いてくれる。
* バグワンについで、昨日は、嶋中鵬二氏の、永井荷風にかかわる対談をふたつ読んだ。一つは荷風その人と、一つは武田泰淳氏との。谷崎との比較にも触れられ、また荷風の口からあらましの経歴と共に「女」観などが端的に語られているなど、なみの評論よりも対談の持つ利点歴々として、大いに満足した。荷風と嶋中さんとの口にしている「日本語」も面白かった。
* ついで栄花物語を分量多く読みふけった。歴史物語であり、史実への記憶違いや情報の経路による混線など有るのは致し方ないとして、簡明は簡明に、丁寧は丁寧に、叙事に用捨の妙があり、勢い、読み継がされてゆく。
村上天皇の後宮は中宮安子の見識温和の故に安定していたが、その村上帝が、こともあれ安子の妹の人妻でもある登子に恋着される。その経緯もなかなかのもので、「夜の目覚」の作意などにもこの件は波及しているだろう。聖帝といわれ藝術家肌でもあった魅力あるこの帝は、クイズのように和歌を用いて、後宮の女たちを混乱に陥れたりされている。薫き物をすこし欲しいがという希望を隠し言葉にした和歌表面の意味にひっかけられて、薫き物どころか、美々しく自身着飾って帝のもとにはせつけ、そのために寵愛をほとんど喪ってしまったような妻妾の一人もいた。この逸話は大鏡にも書かれている。この物語にも書かれている。この物語の作者は、どうもこの失寵した女のその後へのひそかな作家的関心もそれとなく継続して筆にしていなかったろうかという、これも作家的なわたしの好奇心を刺激するのである。扇を射た那須与一をさらに挑発したために無惨に射殺された犬死にの平家の侍がいると、ふっとそういう男に興味を覚えてしまうように、その恥をかいた妃のこともわたしは気になっている。そういうことを想い想い本を読んでいると、夜の更けるのがはやい。
* さらに継いで、とっておきの「浜松中納言物語」を読み継ぐ。中納言は、いましも唐土にいて、唐の帝の后の一人に恋して妊娠させ、ひそかに子が生まれたところである。帝とこの后との間にすでに生まれている皇子は、じつはこの日本の中納言の前世の父親であった。それを遙かに伝え聞いて、父恋しさに堪えず中納言は、母ややはり妊娠させてしまった愛する姫とも別れて大陸の朝廷を、三年と限って、訪れているのである。転生の物語であり因縁の物語であり、場面を大陸にまで押し広げつつ王朝の物語を美しく繰り広げている。いやもう、おみごとであり、ますます更級日記の著者、菅原孝標女が好きになる。「浜松」はまず間違いなく彼女の創作であり、あの名作「夜の寝覚」も彼女の創作であるとする定家らの証言を、少なくも否定する証拠は出ていない。わくわくしてしまう。紫式部は別格としても、この菅原氏も、日本の誇りうる古今の大作家の列に加えてしかるべきであろう。願わくは歴史家たちよ、奔走してこの女性の実名を探り当てて欲しい。菅原花子でも菅原妙子でもいい。ちなみにわたしの高校の頃に名乗っていた筆名は菅原万佐であった。三人の女友達から字を引き抜いてつけ、女名前の匿名で、当時の生徒会長をからかう一文を校内新聞に投書したのである。余り感心した菅原氏ではなかった。しかし三冊めの私家版まで、わたしは「菅原万佐」と名乗って出し、また谷崎にも志賀にも中勘助にも送っていたことになる。呼び出されて「新潮」の酒井健次郎編集長に会ったとき、「えっ男かぁ」とのけぞられ、すぐさま本名にせよと助言された。それで本名でつくった私家版「清経入水」が、まわりまわって太宰治賞にひとりでに押し上げられていたのだ。
2001 4・1 9
* 昨夜はバグワンのあと、嶋中さんの本で、村松梢風との対談、谷崎松子・河野多恵子との鼎談、川端康成・池島信平との鼎談を楽しんだ。川端さんのお話が際だって面白かった。
* 西垣通さんの新刊本『インターネットで日本語はどうなるか』で、第二部「日本語はどうなるか=インターネット多言語情報処理環境」を読んでいる。
改訂された新JISの漢字は6355字、これだけが器械で文字コードをエンコード=与えられていること、更にJIS補助漢字5801字が追加されているものの、これは事実上「文字集合」としてエンコード候補にされているだけで、「現在でも、日本の大半のパソコンやワープロで使える漢字は」さきの、「6355字」に「限られている」ということまでを確認した。合計して「12156字」がJISの「文字コード」なのではない。日本国内にあってもなお文字化けなしに多方向に使えるのは「6355字」だけ。
使用頻度だけでいえば、おそらくこれで九割近くカバーしているに違いなく、だから理工系・経済系、文部省系は、十分だとしてきた気味がある。ところが、予想される漢字の数は、学者により、最大200万字ないし以上とすら言う。大幅に割り引いて仮に10万字としても、JIS漢字は、全体の 10 パーセントにも遙かに足りない。そしてそれら夥しい数の全漢字は、現に一度は使用されたことがあるから「存在している」と、これは原則として認めねばならない。過去の文物の研究上、そんな稀用文字など、抹殺してもいい、無視してもいいと謂える権能を、たかだか「今日生きている」だけに過ぎない我々が、無条件に持てる道理がない。それこそ甚だしい傲慢で越権だといわねばならない。釈迦も孔子も、日本書紀も名月記も殺してしまうことに成りかねない。
そこで、「文字集合」と「エンコード」との、果てしない道程における、「リーズナブルな折り合い」が必要になってくる。「文字集合」がどう完備されようと、十全なインターネットで機能するには「エンコード」を経なければその価値に限界のあるのは明らかだからである。現に「JIS補助」の5801字も、絵に描いた餅に近似している。その辺までは、わたしにも、もう、だいぶ以前から理解できている。コンピュータは、例えば「わたし一人の器械」でだけ何とかなれば済むという器械では本来ないはずである。それなら昔のワープロにすぎない。世界中のあらゆるユーザーに無条件・無前提に通用する器械として偉大なのではないか。
そういう理解の上で、なお、わたしは、漢字は「原則」「全部必要」説をとり、「確認不可能=当たり前」であるその観念としての「全部」から、「リーズナブルな折り合い=判断」により、賢明に「引き算」し、現実問題として、「文字集合=文字セット」に「文字コードを与える=エンコード」あらゆる技術的・学術的・実用的な対策と研究へ「前進」してくれることが大事だ、と主張し続けてきた。必要になったら足すという「原則」にもならない原則は姑息だと批評してきた。
「エンコード」は少ない方がいいのだと言う議論の背景には、正にいろいろあるのだろう、が──莫大な金がかかるという経済的なことも、検索の煩雑などということも──、それはそれとして、文化的には、コンピュータが真実人類社会のインフラとして揺るぎなく定着の可能性があるのなら、なおさら、どんな桎梏も克服されてゆくことに「原則的な希望」をもつことが、それを断念し放棄することよりも遙かに、大事だと考えるのである。今が今にも直ぐというような事は、わたしは一度も言わない、最初から。
しかし「原則」を曲げようとも、放棄しようとも、断じて言わなかった。
技術の問題は、いわば坂村健さんたちが、時間をかけて達成してくださるものと信じたい。検索にも飛躍的に簡易化した道がひらかれるものと期待したい。
金のことは大事だけれど、極端に言えばそれは一私人の知ったことでなく、それこそ国と行政とが国家や民族の文化に誇りを持って「大きく永く対処すべきこと」というに過ぎないのである。
* この辺までは「講習」を受けようが受けまいが、原則の認識として、あまり変わり様がない。ことは「文字コード」のレベルに終始した話なんかではありえないのだから。「文字・言葉・表現・研究・受容」という「文化」そのものの問題なのだから。これを外しては、国語の表現者、東洋文化の愛読・愛好者としての自己放棄に繋がってしまう。ここの所を、この「コンピュータ世間での先行者たち」に説き続け、希望し続けることが、目下わたしなどの要務なのである。分かってもらわねばならない。その上で初めて「折り合う」必要が生じ、「折り合う」ことが可能になる。
2001 4・3 9
* 西垣さんの本を読み継いでいる。知識が整理されてゆく。へえっと、視野の開ける気分と、ふっと立ち止まる時とがある。「JISコード」では第一第二水準の6355字しか使えない、現在までは。だが、国際的に「ISO=国際標準化機構」による国際共通コードを経て、主として米国企業の共同と主導とによる「ISO10646-2 UCS=ユニコード2」にまで用意されて、「万国共通コード」への態勢が出来てきたという。
これの説明には、まだ理解の届かない箇所がわたしには残るが、目の前のかなり明るくなることも書かれている。「現在、すでに『ユニコード2』は、ウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンOSの内部コードとして用いられている」と。わたしのこの今の器械は確かウィンドウズ98だからダメなのだろうと分かる。ぜひ近いうちに、そのウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンに出会いたい。もう売っているのかな。
そして、こう書いてある。「ユニコード2」の「文字集合」は38885字と。そのうち「漢字は20902字」と。おお、それほどなら、もう「?」など出てこないのだろうな、だが、待てよと。
ここに西垣さんは「文字集合は三万八千八百八十五字」と書いているがこれらにすべて「万国共通の文字コードが与えられている=エンコードされている」とは書いてはいないように読める。わたしには分からない。これが、たんに「エンコード以前の候補文字集合」の意味ならば、つまり実装されていないのなら、先の望みはあるが、今は絵に描いた餅に過ぎないという「?」の継続というわけだ。
そうなると、「UCS=ユニコードは、その後、引き続いて拡張されている」と、漢字は「27786字」が「収容されている」としてある、景気のいい話にも、明らかに「文字集合は」とあって、このあとへも威勢のいい数字がまだまだ続くのだが、それらもみな「文字集合」として「文字コード」をいつか与えられるであろう「候補文字」に過ぎないのかも知れない。この辺は西垣さんの叙述をどう受け取っていいのか、わたしには、明快に分からない。
それというのも、先日の文字コード委員会でも、わたしの発言に対して苦笑まじりに「実装」の話は「マイクロソフト社の問題」で、希望があればそっちへデモをかけてくれという幹事の解説があった。「文字コードと実装とは別の問題」なのだと言われた。しかしながら、わたしなど初心のユーザーからすれば、「文字コードと実装とは別の問題」なのではなくて、「文字集合と文字コードの実装とは別ごと」なのだと言われているように感じるのである。文字コード委員会といいながら、実は将来「文字コードを与え=エンコード」すべき「文字集合を補充」の委員会のように思われるのである。べつにそれはそれで必要な作業だから宜しいが、あくまで「ユーザー」感覚で言わせてもらうなら、要するに文字セットで漢字を引き出しても「?」しか出ないようなのはイヤである、そんなす不備を解消したいという希望が先だって来るのだ。要するに万国共通で使える「文字コード」をもった漢字を、候補のママにしておく期間を短くできないかという希望が先立つのだ。
まして西垣さんの本に上げてあるように数万字もの追加が検討されているのはともかく、「ISO10646?2」の「二万九百二字」をただの「文字集合」にしておかずに、「エンコード」して使い物になれば有り難いなと思うのである。わたしは、「全部必要説」の「引き算」論であるにかかわらず、一方、当面は「二万字」が目標だとも発言してきたのだから、もし新しい器械を買ったその日から「20902」字が利用可能なら、当分は「文字コード」問題を専門家にあずけておいてもいいかなどと思ってしまうほどである。
だが、西垣さんの本は、いまのところ、この辺がよく読みとれないので悩ましい。さて、「講習会」で「文字コード」の専門家は何をどう教えてくれるのだろう。
2001 4・3 9
* 西垣さんの本を座右に、器械を扱いながらの「間合い」を利して、じつに少しずつ少しずつ読んでいる。今、104頁まで読んで、計画中の「ISO10646-2」が実現してゆくとUCSに「収納される漢字の総数はやく七万字近くになるはず」とある。これは言われるまでもなく康煕字典や諸橋大漢和辞典の収容字数を超えている。ただし、「文字集合」の段階なのか、ここに謂う「収容」とは「実装=エンコード実現」なのかが分からない。「新拡張JIS」のところでも「収容された漢字は」とあるが、「収容」の意味が正確に掴めないでいる。
それにしても「インターネット上の国際共通文字コード・システムは、すでにUCS(ユニコード)の路線でほぼ固まった。」「近々、あらゆる国の公用語で使用される文字群は、すべてUCSに収納されるはず」と聞くと、明るいような気分になるのだが、「使用」と「収納」との間にどんな距離があるのか、文字は集合収集されているけれど、文字コードを与えられてOSの中に「実装」されているわけでは全然ないのか、が、心許ない。
使用語彙の定義が確定していると、その定義に沿って語彙が選ばれる、それが科学だと思われるから、この場合、微妙なところで定義不明のため「叙述」が理解へまっすぐ飛び込んでこない。たんにまだ絵に描いた餅が大盤振舞いの数字としてだけ大山積みなのか、第一・第二水準の段階以上に、どの辺までが、どんな器械でなら「インターネットで無条件に万国使用」できるのか、わたしの不慣れもあり、愚鈍もあり、どうにも掴みにくい。
収納されたら、使用できます、というのであれば、これから文字コード委員会は、何をするというのか。ぽつぽつと康煕字典や諸橋大漢和にもない漢字を探し続けるのが「仕事」なのか。どうも、収納したが、使用できるわけではないぞというように、疑心暗鬼、読めるから悲しい。
そんな、愚痴を聞き止めて、「ほら貝」の加藤弘一さんから、助け船が入っている。わたしのような人もまだ多い故に、広く伝えさせて欲しいとおゆるしを得たい。
* 多分、「わかった」とお考えになっておられる事でも、誤解されているのではと危惧しております。
どの分野でもそうですが、暗黙の前提がありまして、長く係わっていると、暗黙の前提を周知の事実と錯覚してしまうようです。
暗黙の前提としたことを、4月3日の条に即して、説明いたします。
> これの説明には、まだ理解の届かない箇所がわたしには残るが、目の前のかなり明るくなることも書かれている。
「現在、すでに『ユニコ>ード2』は、ウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンOSの内部コードとして用いられている」と。わたしのこの今の器械は確かウィンドウズ98だからダメなのだろうと分かる。ぜひ近いうちに、そのウィンドウズ2000やウィンドウズNTといった新しいパソコンに出会いたい。もう売っているのかな。>
Windows2000とは昨年出たWindowsNTの新版のことで、プレインストール(OSをはじめから組みこんであること)したパソコンは、かなり前から売っていますし、現在お使いのパソコンに、Windows2000を組みこむことも可能です。年内には、Windows2000の新版がWindowsXPとして発売されます(XPは評判がいいです)。
つまり、 WindowsNT → Windows2000 → WindowsXP というように、出世魚よろしく、名前が変わっているのです。
Windows98でも、ユニコード文書は作れることは作れます(ユニコードは、実装されています)。しかし、Windows98でユニコードを使うには、めんどくさい手順が必要です。WindwosXPでは、簡単に使えるようになるらしいので、発売までお待ちになった方がいいでしょう。
ただし、読むだけでしたら、Windows98でも、ソフトがユニコードに対応していれば、ユニコードを使った文書を普通に読むことができます。ソフト未対応なら、「?」になります。これはWindows2000でも同じです。(画面上で、こっちはユニコードモードのウィンドウ、あっちはシフトJISのウィンドウと、ウィンドウによって使う文字コードが異なるケースが生じます。過渡期なので、仕方ないです。)
UCS=ユニコードの漢字セットですが、次のようになっています。
1. CJK統合漢字 約二万字 Windows98、WindowsNT(Windows2000)などに実装済みです。
2. 拡張A 約七千字 いつでも実装できますが、まだ実装例はない?
3. 拡張B 約四万二千字
今夏に正式決定されますが、すでにエンコード済みです。
4. 拡張C ? 今年九月まで候補を募集中。 漢字統合をやめたので、異体字がはいります。
「エンコード」とは、文字に符号(文字番号)を与えることを言います。「1」から「3」までの七万字が「エンコード済み」です。
「実装」とは、文字データをOSに組みこんで、「実際に使える」ようにすることを言います。Windowsには、「1」の、2万字すべてではなく、XKP協議会が選んだ1万7千字ほどしか実装されていないのですが(この数字はうろ覚えで書いています)、それは日本で使うことのまれな中国や韓国の文字の一部を、コスト的な理由から、はずしているからです。(ひょっとしたら、Windows2000には、2万字全部はいっているのかもしれませんが、文字コードから離れているので、わかりません。最新の情報は講習会でお聞きください)。
「拡張A」はいつでも実装できますが、Windowsにすべて実装されることは、多分、ないでしょう。幹事の方が、「マイクロソフト社にデモをしろ」と言ったのは、その意味だと思いますが、「僻字がほとんど」なので、無理に実装する必要はないと思います。
「拡張B以降の実装」は難しいです。サロゲートペアという特殊な方法で実装するので、拡張Aまでのように、フォントをいれれば、即、使えるようになるという具合にはいかないのです。しかし、これも時間の問題です。
「拡張B」が使えるようになれば、7万字、「拡張C」で9万字程度までいくと思いますが、Windowsにフォントがはいるのは、「せいぜい二万字程度ではないか」と見ています。それ以上のフォントは、必要な人だけがいれればよいということになるでしょう。5万字からのフォントをダウンロードするには、現在は一晩がかりですが、「拡張C」が使えるようになる時点では、5から6分でダウンロードし、自動的にインストールされるようになっているはずです。
* これは、嬉しい、有り難い、明快なお話で、こんなふうに、これまでも委員会等で聞いていたに違いないのだろうが、容易なことに耳には入りきらなかった。
* さて、かくて、わが文字コード委員会の目的の大きな一つは、「4. 拡張C ? 今年九月まで候補を募集中。 漢字統合をやめたので、異体字がはいります。」いう、これらしい。要するに、「エンコードするための文字集合づくり」だということらしい。誤解かも知れない。当たり前じゃないかと謂われるかも知れない。いずれにしても、どうやれば、「?」としか出ないような器械から、欲しい漢字が引き出せるのかという、ユーザーとしての貪欲が満たされるような、満たされにくいような、曖昧な按配である。かなりの「魔法」に通じれば、今でも二万字ていどまで呼び込めるらしいが、魔法使いにはなかなかなれない。ならなくて済むようにしたいものだ。「漢字が足りない」という段階の議論が、もう全然不要なのか、原則不要なのか、まだまだ喧しく言わないと文字集合での大渋滞こそあれ、文字実用には相当の歳月待ちとなるのか。目が、やはり、放せない。なんだか、もう全部解決したという明るい話では、やはり、ない、のだと思うことにしておく。
加藤さんに、心よりお礼申し上げる。
2001 4・4 9
* 深夜まで毎晩本を読んでいる。浜松中納言は唐土から日本へ帰ってきた。唐后とのロマンスは、不自然も感じさせずに、ものあわれに面白く読ませた。栄花は、いよいよ東三条殿兼家の大手をひろげるところへ来た。蜻蛉日記の著者をてこずらせた夫だ。
珍しくも斎藤史さんの小説本というのを頂戴した。わたしが帯の文を書いた歌集『ひたくれなゐ』など、近代屈指の大歌人であるが、小説も書かれていたことは知らなかった。
嶋中鵬二氏の遺著は、著者の亡くなっていることを忘れてしまいそうなほど、元気のある佳いもので、有り難く、儲けものをさせてもらったように喜んで読んでいる。
真有清香さんの泉鏡花論も読みたいと思っている。
高史明さんにいただいた本はすぐに読み通した。
山折さんの日本の美意識を説いた本は、谷崎の『瘋癲老人日記』の部分だけを読んだ。 2001 4・4 9
* 嶋中さんの『日々編集』を読んでいると、せめても、まだしも文学の世間は、わるくない伝統、すばらしい人材をもっていたな、と思う。それもいまは変質し低迷の気味。もっとも最現在の沸騰というモノは、いつも、かなりに軽薄に映じるモノではあるのだが。 2001 4・7 9
* 三日つづけて出ていた。外で飲食すると、金がかかるという心配はしないが、明らかに体力を要する。夜ふかしして沢山本を読むという嬉しい習慣はあまりやめたくないが、夜は寝たほうが健康にいいに決まっている。
栄花物語は、もう道長が、時姫の生んだ兼家三男として登場して来ている。兄に道隆、道兼がいた。清少納言の仕えた皇后定子は道隆娘であった。紫式部の仕えた中宮彰子は道長の娘であった。彼らの異母兄弟に大納言になる道綱がいた。母親が、蜻蛉日記の著者である。百人一首に名高い「嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」の歌人でもあり、この時代に、一二をあらそう才媛であった。
* 九大の今西祐一郎教授から、その大納言道綱母の一首の「読み」にかかわる論考等をいただいた。
この名歌は、藤原定家が百人一首に採るより以前から、圧倒的に人気の高い歌であった。拾遺抄や拾遺和歌集に採られ、大鏡にも出てくる。
日記によれば夫兼家の訪れた夜、しきりに戸を叩くが道綱母は入れなかった。そして明くる日、アテツケに兼家に送ったのがこの歌であり、兼家も立ちん坊の不服を返歌している。そのころ彼は、彼女の家の前を素通りして町の小路の女のもとへ通うことの度重なっていた。道綱母はそれにむくれ、たまたま立ち寄って戸を叩いたのを、知らぬ顔に外で立ちん坊させたのである。
この知る人ぞ知る名高い挿話の、だが、拾遺や大鏡の記載と、日記の記載とでは、違っている。前者では、さんざ焦らせて置いて迎え入れ、ぼやかれたのに対する即応の和歌となっているが、日記では、ついに入れずじまい、翌朝以降の夫婦の応酬となっている。そのように読める。どっちがどうかと古来議論があり、今西さんの論考は、また新たな論議を持ち込んでいるのである。
日記には、立ちん坊で入れて貰えなかった後の兼家の反応が、書かれず省かれていると今西さんは説き、本当は、兼家の方から、翌日になってであれとにかく何らか道綱母の対処を咎めて抗議していたはず、その夫からの苦情に対して答えているのが道綱母の「嘆きつつ」の歌であり、それがあまりの秀歌ゆえに兼家もまた、「げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるはわびしかりけり」と返歌でぼやいてみせ、事態を収束した。道綱母は、夫を家に入れず、そして翌日自分から先ず歌を送ったのではなくて、兼家に抗議されたので切り返すように歌で気持ちを伝えた。送った。それに兼家は返歌したのだ、と。そのように日記本文の経過を、拾遺や大鏡とはべつに整理し、理解された、ということのように今西説を拝見した。
* さて、わたしのような一愛読者は、こう考えてきた。
まず和歌集に詞書して収録したり、大鏡のような歴史物語に採録される場合は、もはや日記的事実を超えた編集・編纂の取材もの割り切って、別に自立し自律した脚色と受け入れ、その限りにおいて、事実以上の真実感を酌んで興がることにしている。ウソがウソではなく、脚色されていていい、そういうものなのだと。
一方「蜻蛉日記」本文の流れを、わたしは、今西説のように、兼家側からのアクションに対するリアクションの「嘆きつつ」とは受け取っていなかった。
道綱母という人は、「嘆きつつひとり寝る夜の」つらさ侘びしさをしたたか兼家により体験させられている。そんな夜の長さ、夜の明けるまで悶々として寝られぬ長さがどんなにつらいものかを、イヤほど知った人だ。それゆえ情動不穏に陥っている。ヒステリーも起こしている。それあればこそ、家の前を素通りしてゆくようなむごい夫兼家に対し、気まぐれに表戸を叩かれると、心身違乱、毒くわば皿までと突っ張って、内へ入れずに追い帰してしまった。
兼家という夫は、そういう道綱母であることをよく承知して彼女を操縦していたから、立ちん坊に、自ら先に抗議したかも知れず、しかし知らぬふりで抗議などわざとしないという兼家流も、また優にあり得たであろう。どっちとも言えないが、どっちであろうと、道綱母の方は、それぐらいやって置いてなお追い打ちに、「嘆きつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる」ぐらいは蒸し返し押し込まねば気の済む女ではなかった。和歌がうまければ、相応に評価もしてくれる兼家だとも承知でつっかかることぐらい、何でもなくやれるお高くてヒステリックな女の性を道綱母はもっている。それさえも魅力の一つにしている。
それに、この歌は、香川景樹がクレームをつけるほど、蜻蛉日記のなかで意味不都合があるようには、わたしは、感じて来なかった。
この一首は、なにもこの時に限って強烈にあてはまった「ひとりね」の歌ではない。いつも慢性的に「まちぼけのひとりね」体験を強いられている女の、腹に据えかねた味気ない夜の長さをいわば底荷にした、ふだんから憤懣の一首である。悶々と夜の明けるまでが「いかに久しきものと」「あなたは、知っているのか、知りはすまい、頭に来る」と歌っている。
「少々門の外に立たされ、入れてもらえないぐらいで、文句など言えた義理ですか」とやっている。そのやり方が、きついけれど、ひどく巧い。おそるべき秀歌なのである。本人もそれは自慢であるから、歌を突きつけた辺りから、もう、怒りもすこし中和されている。この歌、いつか叩きつけてやると、すでに嚢中に秘匿されていた手榴弾であったかとすら邪推できるのである。ねらい澄まして、うまいのである。
兼家の返歌は、にやりと、女の歌の巧さに感じ入り、しかも素知らぬ顔で、「しかし、あれはひどかったぞよ」とぼやく。鷹揚なものである。とくべつ、強いて兼家からのアクションを待たなくても、劇的状況は首尾調って自然に成り立っているものと、わたしは読んできた。まずいだろうか。
沖ななもという、現代の、すこし軽薄にみえる歌の達者な歌人がいて、「わたくしがいなければだめになってしまう、と思わせておくも男の手なり」と歌っている。
道綱母は、これを「女の手」と信じたい直情の人であり、兼家はそれを「男の手」として、悠然と、道綱母を操った。この相い和する歌のやりとりは、その辺の勝負であり男女の齟齬なのであると、やっぱり感じている。やられたのは女で、男ではあるまいと観ているが、道綱母一人は夫をへこませたぐらいな気でいる。「男の手」が見えていないのである。
「蜻蛉日記」の現状の本文は、こう読んで過不足無いように、今も、感じている。今西教授に、感謝して、そう返事してみようと思うが、どんなものか。
* さて、もう一本「『大嘗会のけみ』考」という論文も今西教授に戴いている。蜻蛉日記絡みである。辞書辞典の記載如何ということも絡んで、今西さんならではの博捜と実証とで「大嘗会のけみ」と本文にある「けみ」は、検見・毛見などのけみではありえず、「小忌=をみ」の読み違いであると確証されている。蜻蛉日記の「大嘗会のけみ」を出典により一般の検見・毛見とはべつの意味項目を立ててしまっている辞典編纂者への撤回改正を求められている。これは、もう両手をあげて賛成し感謝したい。
2001 4・8 9
* さて、もう一本「『大嘗会のけみ』考」という論文も今西教授に戴いている。蜻蛉日記絡みである。辞書辞典の記載如何ということも絡んで、今西さんならではの博捜と実証とで「大嘗会のけみ」と本文にある「けみ」は、検見・毛見などのけみではありえず、「小忌=をみ」の読み違いであると確証されている。蜻蛉日記の「大嘗会のけみ」を出典により一般の検見・毛見とはべつの意味項目を立ててしまっている辞典編纂者への撤回改正を求められている。これは、もう両手をあげて賛成し感謝したい。
2001 4・8 9
* 「千葉文芸」という四頁の小型の文芸新聞が、創刊号から第九号まで、庄司肇氏から送られてきた。意気なかなか尊いものである。全国から志ある書き手が原稿料なしで、掲載料なしで寄稿している。読ませる文章もある。詩歌にも印象に残るものが入っている。一部百円。これもなかなかの気合いである。庄司さんは自分の文章は好きに「e-文庫・湖」に使ってほしいと。
氏は「きやらばん」という個人文芸雑誌を多年出し続けられている練達の作家であり厳しい批評家である。「千葉文芸」の主軸になって居られるようであり、「くらむ」の倉持正夫さんも「エッセイ通信」の高田欣一さんも寄稿されている。「文芸」の火種を真摯に継いでゆこうとされる人たちは少なくない。ときどき思うが、日本ペンクラブや日本文藝家協会の役員や理事達は、自民党永田町組のようであり、しかし、全国にもっとべつの政治や国民のことを考えている党員のいるように、文藝の書き手たちの大勢いることを、つい忘れているのではないか、いや軽視しているのではないかと感じる。
2001 4・8 9
* 松尾聡遺稿集全三巻の上中巻が、笠間書院の名で贈られてきた。上巻の表題が「中古語『ふびんなり』の語意」で、中巻は「『源氏物語』──不幸な女性たち」とある。下巻に「日本語遊覧『語義百題』」と著述目録が予定されている。 これまた夫人とご子息、門下生のモゥンニングワークである。享年八十九の碩学であった。語彙の語義・語意を歴史的に追尋して行く独特のねばり強い精査の学風は印象深く、わたしは、「ほほゑむ」の語意の理解について質す手紙を送り一度ならず文通したことがあり、丁寧に接していただいた。感謝しご冥福を祈る。直接のご縁はそれだけで、ご遺族のご厚意か笠間の配慮か分からないが、わたしの最も愛読する方面の著書であり、有り難い。嬉しい。こういう本を、軽く誤解されては困るが、わたしはポワロやメイスンの本と同じほど、楽しんで読む。 2001 4・10 9
* 浜松中納言物語は、夜の寝覚とは作行きはちがうが、ロマンチックに面白いことではヒケをとらない。ストーリィはもう最後まで知っているけれど、本文が佳い。ときどきジンとするほど佳い。源氏物語、ことに薫と匂を意識していることはあんまりなほどだけれど、源氏にはない「転生」の不思議をとりこんで、その範囲が唐土と日本に及んでいる。中納言が強いて唐土にわたるのは、亡父が唐の帝の一人の皇子として生まれ変わっていると知り、慕わしさのあまりに渡海するのである。その中納言は、三年の滞在のうちに、父の生まれ変わりの皇子を生んでいた唐后と愛し合い、一人の男子を産ませてしまう。中納言は帰国に際して、ひそかに出産されたその男子を日本に伴い帰る。
中納言と愛し合った唐后は、もと唐人と日本の女性との間に九州で生まれ、母とは別れて父に伴われ唐土にわたっていた。長じて帝の妃の一人となり、愛されて皇子を生んだのが、浜松中納言の、元の父の転生であつた。
一方、中納言は日本に帰り、唐后の生母と会う。生母は他の貴族と結婚して女児を、唐后の異父妹を生んでいた。唐后によく似たこの佳人を中納言は愛するが、その女人も中納言を慕うが、運命のいたずらで中納言と親しい式部卿宮=東宮に奪われてしまい、女は、かの唐后の転生した女児を生む。
こういう転生譚は、源氏物語にはない。唐土も出てこない。作者は新味の提供に精励し、かなりに成功している。あわれに物語が面白いのである。
* そして栄花物語もじりじりと御堂関白道長の時代へ近づいている。同じ古典全集で平家物語は二巻であり、栄花物語は三巻ある。平清盛は生前に既に源氏物語に対する、また栄花物語に対する、即ち平家栄花物語を欲していたが、時期尚早と観て平家納経の荘厳に力を尽くしたのではないか、というのがわたしの推測である。
* 松尾聡さんの遺稿集もおもしろい。「中古語『ふびんなり』の語意」という表題を簡単にいえば、むしろ今のわれわれの語感では、「ふびんな」は、不憫な、つまり気の毒な、かわいそうな、いたわしいといったことになり、その語感で源氏物語等の「ふびんなり」もつい読んでしまう。ところが、源氏物語の時代ではまだそんな意味はなく、「不便な」つまり不都合で、ぐあいがわるくて、けしからぬといった意味の方がもっぱらだというのである。これは、その通りで、わたしの知る限りでも源氏物語の「ふびんなり」を不憫と読んでいてはほとんど意味が通らず、不便・不都合の意味になっている。
しかし、時代が下ると、はっきり不憫のほうへ転意してゆく。そういう語彙は他にもたくさんある。松尾さんは、そういう実証にじつに丹念な努力をされた。
2001 4・11 9
* 上野重光氏から、短編「泥眼」が届いた。いま、一読した。出久根さんの作品も読みなおした。もう二時だ。目から疲れている。 2001 4・12 9
* 昨日「三田文学」の百年特集で、吉行淳之介の作品「谷間」を読んだ。読み終えてみて必ずしも成功した感銘作とは覚えなかったが、少なくも導入の文章と語りとには惚れ惚れした。一字一句、句読点に至るまで、そのまま澄んだ水をひくように受け入れて、その嬉しかったことは。読む嬉しさとはこういう的確で美しい文章に接することだと、文学するものの深い喜びにひたることが出来た。吉川英治賞のパーティで大久保房男さんと永く立ち話をして慨嘆し合ってきたのも、こういう文章力にもう容易にはお目にかかれなくなっているという現実・現況の薄さであった。
吉行さんのその箇所を書き写してみたい。
その日の空は、盛夏にふさわしく奥深く晴れわたつた濃紺色で、私は大学図書館の前庭の芝生に仰向けに寝そべり、なかば放心して空の色に眼をはなつていた。
白い蝶が一羽、風に捲きあげられてゆく紙片のように、とめどなく高く舞いあがつて、強い輝きを孕んでいる空の藍色にいまにも紛れそうになつた。
──蝶なんて、あんなに高く飛んでいいものだろうか ?
そんな言葉が浮んだのがきつかけで、私は放心状態から醒めたらしく、三四郎池の木立で囀つている小鳥の声が、一斉に耳にとび込んできた。と、ときどき私の網膜にあらわれる三角形や矩形の模様が、からだをふくらませた小さい鳥のかたちに変つて、その形が幾つとなく身をすりよせ、身をふるわせながら重なり合つてとめどなく数を増し、空の果までも積みかさなつてゆきそうになった。失神する直前のような、不安と安定感の混り合つた奇妙な感覚であつた。
躯の衰弱のせいもあろうか、このような状態が、時折そのころの私を襲つた。
一九四五年(昭和二十年)八月九日の正午ごろのことである。そして、その一時間ほど前、長崎市にヒロシマに次ぐ原子爆弾が投下されていた。
長崎には私の因縁深い友人が、医科大学に在籍していた。当時、文科の学生は徴兵適齢になると検査を受けて入営させられていたが、文科から徴兵猶予のある理科系の大学へ進むことは特例として認められた。私はそのまま東京の大学の文学部へ入り、大学図書館へ勤労動員されていたが、佐伯明夫は長崎医大へ入つていたので、その報道は痛くその安否を気遣かわせた。
八月十二日、ニケ月余り音信のなかつた佐伯明夫から部厚い封書が私宛に届いた。しかし、それは彼の生きている証明にはならない。通信事情の悪化のため、八月七日の消印の手紙がやつと届いたのである。私はその長文の文面から、彼の安否の気配を嗅ぎ出そうとでもするかのように、丁寧に読んでいつた。
昭和二十七年の作である。その頃のわたしは高校二年生で短歌にすこし眼を開きかけていた。
吉行さんの当時の文章の癖か、現代かなづかいのなかで、「いつた」「やつと」という表記だけが昔のままである。もしこの文章でわたしなりにてを入れてみたいと思うのは、「そんな言葉が浮んだのがきつかけで、私は放心状態から醒めたらしく、」の最初を、「そんな言葉の浮んだのがきつかけで、」に替えたいぐらいで、ほぼ間然するところ無い佳い音楽として、文章・文体は落ち着いて完成度豊かな美感を湛えている。「た」「た」とらぶ語尾の中に二箇所の「である」もみごとに嵌っている。自然な勢いで、勢いづかず、ことばの内面が平静に流れている。腕前といえばこれは腕前なのである。筋書きだけでは文学にならない。これは読み物の文章ではなく、文章が命となり光っている文学の文章だ。ほんものの作家の仕事である。ほんものでない作家がいるのかと聞かれれば、たいがいほんものでないと言うしかない。
* 吉行さんの小説の導入にひかれて一夜をすごし、朝起きて、夜中に来ていた息子の見たいという(ビデオ撮りを昨晩頼まれていた。おかげで映画を見損なった。)新番組どらま「ラヴ ストーリィ」の一回目を一緒に見るはめになった。ベストセラー作家だが二年も書けないでいる、独身、四十前の人気作家豊川悦司と、三十になった派遣編集者中山美穂のドラマで、業界でも一といわれるスタッフが鳴り物入りで前宣伝していた、ドラマ。たまたまわたしも前宣伝を見知っていた。
だがまあ、いくらわたしが古物作家であるにしても、こういう作家像、こういう編集者像が、今の時代には通用するのか、まさかと、アホクサクて見てられなかった。どこがどうと一々指摘しているほどヒマではないが、若い作家とも識りあっている。先輩同輩でも相当な人たちと大勢識り合ってきた。編集者など、のべにすれば千人もつき合ってきたと思うが、誰にも相似形のはいなかった。いるかも知れぬ、いたかも知れぬ。が、どうでもいいような連中だ。ドラマのこんな作家から、こんな編集環境からは、ひょっとしたら、「あんなのやこんなの」ぐらいは出来てくるのかも知れないが、とても吉行淳之介や永井荷風は間違っても生まれてこない。先日夫人から贈られてきた亡き嶋中鵬二氏の『日々編集』など読めば、ひとしお、このドラマは、ただもうバカらしい。そういうものなんですよと、息子は言う。ドラマづくりは、という意味でいうのだろう、気の毒に。
先頃の「編集王」はマンガ雑誌ではあれ、まだしも編集室を書いていた。これは、ただ薄味恋愛の刺身のツマていどのデタラメ作家と編集者のおはなしのようである。まちがいなくダントツの視聴率をとるであろうと業界では目されていて、息子なども、「見ておかないと」と本気なのである。お付き合いにアイサツの一つも欠かせないらしい。気の毒だと思うが頑張ってもらうしかない。仕方がない。
* むかし、森鴎外の「渋江抽斎」幸田露伴の「連環記」を読んだ晩は文章・文体をそのまま夢に見た。夢の中で文章が唸りを生じ続けた。わたしは新しい時代の新しい創作行為や特色を決して否定しない。いいものは、必ずいいと感じられると思っている。若い人にも、理由なく体験もなくただ古いと見捨ててきた過去の仕事の中に、足下にも及べない真にすばらしい名作秀作の今なお在ることを、片端でも自分の思いで確かめて前へ歩んでいってくれないかなと思うのである。
2001 4・16 9
* 『路上の果実』という歌集が未知の人の小川優子さんから贈られてきた。巻頭の離婚の歌などはたわいなげであるが、嬉しく予期を裏切られ、なかなか厳しい批評味に富んだ強い歌、うまい歌、感銘を覚える佳い歌が混じっている。まだ作歌数年のいわば初心の第一歌集であるが、「歌う」根性に人生に真向かって苦しんできた人の真実の声音が聞こえてくる。これは若い歌人の場合稀有のことといっていい。
俵万智の歌が、そうだ。魂に響いてきて思わず胸に手をおく作品は皆無に近く、風俗的にも詩的にもただ巧妙そうなアイデアだけの表現で、ウキウキと世渡りしている。ほんとうは、『サラダ記念日』などを遙か置き去りに、真実心の展開を「短歌表現」に見せて欲しいのに、最初の好評に足をとられ、ただただ前作模倣の「標語歌」作成に浮き身をやつしている。深まらずに、軽く薄くなってしまっている。
昨日贈られてきた米川千嘉子の「四番目の歌集」という『一葉の井戸』を、期待して読み始めたが、五十五頁まで来てただの一首も質実に胸を打って表現の光った歌が無い。馬場あき子のところでいかにも売り出された今では名の通っている歌人であり、この前の『たましひに着る服なくて』には、書き留めて置いたいくつもの作があったのに、今度のは、口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ葉のように並んでいる。あとを読むのがイヤになりかけている。「口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ葉のように並ん」だ歌集が、なぜ、こんなに「世に出た」歌人たちに多いのか。
それからすると、たとえ数少なくともゴツンとくる凄みの歌を、この三十歳そこそこの小川優子という歌人は、第一歌集に入れてきた。
むろん米川さんのも見捨てずに、読む。なにしろ自撰五十首が欲しいと頼んだ人である。さ、呉れるか、どうか。
2001 4・18 9
* 浜松中納言は、いわば義理の兄妹になった継妹を愛して妊娠させたとも知らず、父の生まれ変わりと噂に聞いた異国の皇子に逢いにはるばる唐土へわたり、姫はその留守に出産し、尼姫君となってしまう。中納言は帰国してそれと知り、尼姫君と夫婦として、しかし一線はかろうじて保ちながら、一つ家に暮らしている。帝の愛する内親王を妻にとすすめられても辞退してしまう。こういうところが、異常でありながら、自然に運ばれている。不思議と心懐かしい運びになっている。『夜の寝覚』でも男主人公は別人と思いこみつつ今しも妻になる人の妹、女主人公、を犯して妊娠させ、しかも生涯の恋人とし、また妻にもする。両作の作者がおなじ『更級日記』の著者であろうとされているのが頷きやすい。源氏物語より一歩半歩でも前に進もうとする作者の努力が、寝覚の大臣といい浜松中納言といい、あの光源氏よりなお心温かい男の像を願っているのも明らかである。
中納言は唐土にわたった折り、理想の女である后の一人と出逢い、夢の紛れのように愛し合って男子を産ませてしまうが、異国の朝廷を乱れさせることはならず、厳秘して、男の子を連れ心強く帰国したのであった、が、日本の吉野山中には、かの唐后には異父妹にあたる姫が、母尼=唐后の生母=男子の祖母と暮らしているのを、后の懇願により中納言は訪れて手を尽くし後見する。
この辺からが、かなり宇治十帖に似てくる。姉の唐后に似てじつに美しい妹吉野の姫を中納言の愛するのは自然の流れだが、彼は慎み、その間に親友の式部卿宮に奪われてしまう。そして吉野の姫は子を産むのが、なんと「唐后の転生した女児」なのである。宇治の大君、中君、また浮舟、また薫大将と匂兵部卿宮とのことが自然に思い出される。大きく異なるのは、やはり転生ということのとりこ込みである。
わたしにとって魅力的なのは、寝覚の上ももとより、浜松の女たちが、すこぶる懐かしくも魅力的なことである。唐后には藤壺の懐かしさがあり、吉野の姫には宇治中君のよろしさが継がれている。わたしは、しびれる。夢にも出逢いたい。
* 妻が、網野善彦氏の『日本の歴史』を生協で買って置いてくれた。これは、楽しみ。この間は、東南アジアの写真中心の『龍と蛇』を買って置いてくれた。良い本であった。渡辺千万子さんの義舅谷崎との往復書簡集も買って置いてくれたが、これはあまり丁寧に見ないで仕舞ってしまった。なんとなく、はしたない感じがしたからだ。
2001 4・23 9
* 小川優子の歌集『路上の果実』は身を入れて読んだ。読まされた。感情移入をさそう歌がかなりの数有り、爪印がたくさん付いた。構成のいい歌集で、組み立てに風が走っていた。まともに苦しんで、飾り立てていられないと言う息づかいが魅力になっていた。歌壇の将校を以て任じ、テレビやなにかで、ちゃらちゃらと、気の利いた歌がいい歌ですと軽い軽い出見世をだし得意そうな連中には、こういうズーンと重い苦痛との闘いが失せてしまっている。べつに、表紙カバーや本文中のきれいなお尻の写真に惹かれたわけではないのも断っておく。
2001 4・24 9
* 浜松の前に、松尾聡の「源氏物語の不幸な女性達」をずうっと読み継いできている。光源氏が性的に関わった女性を松尾さんは十二人挙げてられる。わたしの勘定では、源典侍が落ちている。この光や頭中将よりはるかに年上の女と貴公子達は性的な仲でなかったとは読めないのに。
ともあれ十二人の、いかに光源氏によって不幸な女であらねばならなかったか、その経過ないし理由が、押し込むようにぎしぎしと書き連ねてあり、物語の復習には有り難いけれど、必ずしも、男女の機微が深切に汲みとられているようには感じにくい。光源氏はたしかに全ての女性に対し性的加害者にちがいなかった。和姦は、ま、朧月夜が一人だけ、それと承知で結婚したのは女三宮が一人だけ、だ。今井源衛さんは、他のすべてはレイプであったと明言されて話題になったが、この当時の男女の出逢いは概してそうであった。時代は降るが「問はずかたり」の二条が後深草院に犯されたときなど、着物はびりびりに引き裂かれている。平安時代でも手強く抵抗すればそうであったに違いなく、だからこそ夜の寝覚の寝覚の上が禁中で帝に襲いかかられたのを徹夜で拒み抜いたのは極めて異例の描写であったのだ。
だが、それだけで、その後の女の不幸をむやみに強調されたとき、当の女性の方からどんな感想が出て来るであろうかと、何が何でも不幸にしてしまう決めつけには、微妙な違和感がある。性的関係とは、生理的な関係でもあり、肉と性との生理感覚が、心理の表層よりも相当に根深くものを言っている男女関係というものはありそうな気がしてならない。不幸であったかと問われれば、幸福ではなかったと皆が答えるであろう気がするが、それは不幸であったという答えとはひと味ちがうだろうという気がする。この辺は女性読者に聴かなければ分かりにくいが、松尾さんの仕分けはあんまり機械的に線引きしすぎてはいないだろうか。
いま、紫上の項を読んでいる。松尾説にはかように一言挟んでいるけれど、読み物としてはおもしろくてやめられない。源氏物語について語った文章は、論文でもエッセイでもみなおもしろいが、わたしは研究論文の方が、より、おもしろい。ありがたい。
2001 4・25 9
* 同人誌「季節風」が届いたのをそのまま持って秋葉原に行った。布谷君の買い物を待つ間に、一冊ぜんぶ読んでしまった。三原誠氏がここにおられ、作品をずうっと送ってもらっていた。亡くなってしまった。惜しい死であった。奥さんは誠氏の遺志を守るようにわたしの湖の本を支え続けてくださっている。同じようにしてくださる奥さんがもう二人三人でなくおられる。切なくも有り難いことである。
「季節風」は水準の安定した同人誌で、安心して読める。安心して読めるところがむしろ限界であるのかも知れない。数編の小説はみな読めた。だが、鋭い緊張感はなかった。手慣れている。そして、みな似ている、作風が。亡くなった三原さんの小説は厳しい詩性をはらんで魅力があった。
* 疲れたので、湯につかって休もう。
2001 4・28 9
* 尾辻紀子さんという人の『雲水 街道をわたる』という小説本をもらっていた。薩摩の人、越前永平寺六十世住職・臥雲童龍の生涯が書いてある。ペンクラブ会員とは失念していた。貰ってからしばらく放ってあったが、ふうっと手に取ったら手放せなくなった。よほどこまやかに禅寺と禅僧の世間に通暁している作家らしく、それ自体は人によって調べのつくことだが、感心したのは筆致の軽快と清爽、省筆の妙で、いかにも禅にふさわしい。話よりも話しぶりに魅せられた。こんな読書はあまり例がない。
読みついでいる途中に、先日ペンの懇親会で尾辻さんにぱたっと出会ったので、大いに賞賛してきた。昨日読み終えたが満足した。奥をみると、わたしと同年の人であった。
* バグワンは、昨日から、初読の『一休』に転じた。どんな出逢いになるかと楽しみだ。
2001 5・1 9
* 今日は電車の中で、木下順二氏に以前署名入りでいただいた『ぜんぶ馬の話』をまた読んでいた。題が佳い。その年の読売文学賞を受けた本で、国宝の随身庭騎繪のことなどでその後に文通したことがある。かりに『ぜんぶ秦氏のこと』といった本をわたしが書くとすると、木下さんのこの馬の本との接点に、さきの絵巻物が上がってくる。わたしは競馬も馬術もまるで知らないが、古代末期から中世へかけて宮廷社会での秦氏には、馬藝の達者がじつに多かった。さきの随身庭騎繪で乗馬している、只一人をのぞいて他の全てが秦氏である。梅原猛さんは、秦氏は帰化人の末であるゆえに差別を受けていたという論拠から「法然の悲しみ」を語り始めているが、「国境をもたない王国」を日本列島に築き得ていたと言われるほど秦氏の分布は、源平藤橘を上越すほどに多彩に苗字分散しているのである。清宮内親王が嫁がれた大名の島津家も、もとを辿れば秦氏である。石をなげれば元秦氏に当たるかもというほどではないにしても、梅原さんの梅原も分からない。一概な議論に流れては話の味がうすれてしまう。 2001 5・2 9
* 寝覚の上の生涯には慕わしいほどのよさにある種の敬意さえ加わって感じられた、が、浜松の女人達は、尼姫君も唐后も吉野の姫君も、ひたすらいとおしい魅力の持ち主である。この作者の女人造形には心を惹かれる。蜻蛉の夫人も紫式部や清少納言ですらも、どこか鬱陶しい。だが、架空の女人はいいものである。
2001 5・3 9
* 人さまの出歩いて楽しまれる連休には、あまりお邪魔はしないのを習いにしている。それも今日の日曜で終える。昨夜は三時近くまで起きていた。深夜に入浴しそれからまた本を読んだ。不眠症というのではない。
バグワンは、「ボーディダルマ」から、初めての「一休」上巻を毎夜少しずつ音読している。バグワンはものの喩えでわかりよくしてくれる。なかでも「鏡」の話がわたしは嬉しい。明鏡止水とはすこし違う。あの鏡は月のことである。そして動揺する心のことを戒めているが、バグワンは、心=マインドは徹底的に落とせと言う。人の本性はブッダだと謂う。ブッダの本性は無心だという。無心とは澄んで無一物の鏡だとも謂う。鏡はなにものも所有していない。来るものは来るに任せて映し、去る者は去るに任せて動じない。鏡と鏡とを向きあわせにすれば、奥深いただの「無」の深みは底知れず果てしない。ブッダの境地、無心のさまは、そのようだと謂う。このイメージにわたしは惹かれている。
人は小さな「波頭」のように生まれて生きている。一瞬ののちには「海」にもどりあとかたもない。だが海はある。波はまた立つ。 2001 5・6 9
* 匂宮にむしろ親愛をおぼえ、薫君をどうも支持しきれないのは、宇治の姉君を思うあまりにその愛とはからいとに背いて妹君を匂宮にまるで呉れてやるという振る舞いが、子供心にも、許せなかったからだ。しかも、姉君の死の後は悔いて妹君を追い慕う。わたしは、もともとが妹の中君贔屓なので薫の仕打ちには昔から憎しみほどの気持ちを抱いてきた。
浜松中納言が、まんまとこの薫の轍を踏んで、唐后の異父妹吉野の姫を式部卿宮=東宮に奪わせてしまう、らしい。まだそこまで本文は読んでいないが筋は知っている。いまいましいことである。吉野の姫は、宇治中君とその異父妹浮舟を重ねたような存在で、わたしは、浮舟を昔からさほど贔屓にしなかった。品格と愛嬌と知性とにおいて中君の方にはるかに惹かれて、それは紫上好きに似ていた。中君は紫上に代わって二条院に天子にもなるであろう男子をもたらす女人である。物語世界における重みは、明瞭に桐壺、藤壺、紫上という紫のゆかりを仕上げるほどに、大きい。
浜松や寝覚の作者は、稚い年頃から源氏物語の熱烈な浮舟フアンであったと更級日記に書いている。わたしは、いま、浜松中納言物語を好きな食べ物を惜しむように少しずつ少しずつ愛読している。これは、まさしく源氏物語の嫡子といっていいしかも優れた女物語である。
これに対して「うつほ物語」はどうみても男の手で書かれてある。物語の文学的効果を無視してもなお、詳細に、力をこめて年中行事のたぐいに夥しい筆を用いて、そういう場面に一切省略がない。さながら「記録する」ことを以て義務のように執拗にそういう場面を書き楽しんでいる。平安貴族のインテリ度数の誇示である。男物語の特徴であると学者達も認めている。そういうものだと承知して読んでいると、女物語とはべつの興趣に導かれてゆく。男の筆で、女物語のすばらしい先導をしたのは、竹取物語よりもむしろ伊勢物語であろう。
2001 5・6 9
* 笠間書院から昨日もらった中世物語二編、平安物語よりは痩せて体温もひくいけれど、表現ははるかに読みやすくなっているし、物語の筋には新奇の趣向立ても余儀なくされている分、気を惹く興趣はもっている。絵巻でいえば現存最古の源氏物語絵巻以降時代ごとに何点も源氏繪はあるが、だんだんに薄く硬く縮んでいる、それと似て物語も、時代を追って痩せてゆく。ふっくらという魅力が失せ続けてゆくのは、風船の空気がしぼんでゆくのにも似ている。覆いがたい事実である。それを心得て置いてから面白く読むという道もある。源氏が春なら浜松や寝覚ですでに秋深まりゆく風情である。読み返さねばしかとは謂えぬが、鎌倉時代の松浦宮物語までくると、つくりものの度が増して、そのぶん肩も背も肘も縮んでいる気がしたものだ。
2001 5・13 9
* 確かなものに触れていたいと胸の深くで痛いように渇望している。川端康成のいま『雪国』を読んでいる。川端の文章表現、いや文学は、この昨今では嬉しいほど確かなものに感じられる。読んでいる間はまぎれなく安心の境に身を置いていられる。そしてバグワン。どんなにキツく気持ちのささくれたときも、バグワンに戻れば拭うように本質の時間に帰って行ける。少なくもそういう気持ちになれる。
禅の語音はディヤーナ。禅寂、寂静、静慮。老荘も荀子も、ブッダも、バグワンも、ここぞという核心には「静」一字を置いて示す。『心』に苦悩した漱石は知っていた。「お嬢さん=奥さん」にだけ「静」という固有名詞を配し、「先生」「K」「私」たちの揺れる心を痛切に刺激した意義は深い。「静かな心=無心」こそが漱石の願いであった、が、得られたかどうか。「則天去私」の四字を、わたしは少年時代から漱石の見果てぬ渇望であったと直観してきた。絶筆となった『明暗』はあまりに「騒がしい」ではないか。明と暗といった二元対峙をまだ念頭にしていては、「静=ディアーナ」は覚束ない。ヒロインの名に「清」を持ってきた意識は深いけれど、それも得られたとは読めぬ。
2001 5・23 9
* 著名な俳人の立派に装幀された句集をいただき、よろこんで読んだ。だが、全巻から六句しか、共感できなかったのには驚きかつ失望した。以前に能村登四郎氏の句集を戴いたときは、感銘句が多すぎて慌てたほどであった。作風の合う合わぬということなのか、作句の考え方にわたしが承伏しないのか。句集にも歌集にもこういう体験はしばしば繰り返してきた。一読者として、わたしは、軽々に妥協しない。
2001 5・25 9
* 映画小説の『髪結いの亭主』を読み始めたが、映画の記憶ももどってきて、これはいい作品だと思う。少年が散髪をしてくれる理髪店の女主人に憧れるあんな気持ち、至純の殉情、掬すべきものである。絶対という強調語を添えて肯定したい。少女にはなく少年にあるもののように感じられる。
2001 5・26 9
* 雨の一日。あれこれと仕事を片づけながら、ときどき階下でテレビを見聞きしていると、途方もないイヤなニュースの多いのに滅入ってしまう。幼児や小動物を平気で虐待している。黙秘権で、殺人容疑の濃い女が、立証できぬまま無罪を獲得している。通学の電車の中で高校生が放埒無残に荒れ放題。わたしもよく電車の中で席をつめてもらって妻を座らせたり自分が腰掛けたりするが、それだけで殺す殺されるという世の中になったかと、暗澹。そして、ふっと気づいたが、現世にふつふつと嫌気がさすと、相対的にであろうが「死ぬ」のが怖くもイヤでもなくなる、それどころか、死んだ方がいいなと甘い誘いを受けたような気になるから、これも、怖いことだ。みんなに先立たれて独り残ったお年寄りにはこういう気持ちが日々に襲いかかっているのかも知れない。
いまのこの世で、だれが、ほんとうに確かな言葉で語ったろう。そう思うと、わたしは、今はバグワンに心底力づけられていると気づく。幸い優れた藝術の力にも、わたしは信頼を置いている。川端さんの「雪国」は、神経質だが、神経のとぎすまされたみごとさは驚嘆に値する。いまは「千羽鶴」を読んでいる。戦後に、まだ高校生でこの作と「山の音」に出会い、両方に感心したが、「山の音」により感嘆し、「千羽鶴」には、そうあの栗本ちか子の胸の痣ににたいやみも覚えた。いま「千羽鶴」は読んでいて、「雪国」に比すると通俗の気というものが隠せない。「雪国」に響いている川端康成の「深く澄んだ音」が「千羽鶴」からは聞えない。「山の音」へうつるのを、楽しみにしている。
2001 5・30 9
* 昼間、あまりイヤな気分なので、玄関に並べた古典全集の謡曲集をぬきだし、「翁」の「とうとうたらりたらりら」を声に出して読んでみた。いいものを見たい、聴きたい、読みたい。いいひとに逢いたい。
2001 5・30 9
* 川端さんの『千羽鶴』を読み終えた。なによりも往時が懐かしまれた。
あの当時、高校生の頃、わたしは叔母の茶室や学校の茶室で、茶の湯に熱中していた。その方角からの視線もこの作品に射し込んで、共感したり反感を持ったり批評したりした。映画では栗本ちか子を杉村春子が演じて疎ましくも適役だった。太田夫人を、人気絶頂の頃の、春日野でもない八千草でもない名前をど忘れしたが、忘れようもない巧い、あの映画ではもう巧すぎると疎ましかったほどの女優が、ゆるい生水のようになよなよと演じて、少年の五官を疼かせた。娘文子は乙羽信子だった。この役の頃から、この怪力の女優はある毒を清楚な中ににじませ始めていた。
千羽鶴の令嬢は新人の起用だった、が、作品でのそれと同様、魅力はあまり感じられなかった。作品の芯を象徴的に支ええた造形とは、読みも、眺めもしなかった。いささか空疎で、そこにこの作品の弱みがあった。
もっと大きな弱みは、菊治に実感がちっとももてなかったことだ、はなはだご都合のいいつくりもので、しかも確かに働いているとはいえぬ希薄さが不満だった。今度もそう思った。『雪国』の島村は、もっと露骨につよく作中に生きていたではないか。あの当時、鎌倉に菅原通済という実業家の物持ち通人がいて、わたしは雑誌「淡交」でよく見知っていた。菊治の父親は菅原のような男かなと想像したが、若い菊治は顔立ちさえもうかばなかった。映画ではだれが演じていたか忘れている、例によってあの頃なら森雅之あたりだったか。山村聡か。何にしてもくさい男にしか思えなかった。
川端康成の茶といい茶道具といい、茶室といい、かなりに観念の所産であると、読んだ最初から不満に感じていた。茶室を情事の場にしたりするのは、一種冒涜の快感なのではあろうと、その限りでは文学の効果として肯定するけれども、そして立原正秋のそれよりはさすがに美しく書いているものの、やはり誤算だと、いいたい、いえる、と感じるものをわたしは実地の茶の湯体験から持っていた。茶の道具も、ほとんど骨董美の感覚でしかいわれていない。もっと道具であることによって道具を超えてゆく魅力をもつものだが、抽象的に、ただ一個体としての道具に淫して、もてあそばれている。玩物喪志、趣味の域に淫して、茶の湯小説的にはあまり成功しているといえない、ゆがみと臭みとがのこる。
しかし、そのゆがみ臭みに「性」がからんで、喩えようのない濃厚な、まさに女体のなまぐささが昇華されてゆく小説としてみると、稀有の表現と魅力は確かに得ている作品なのである。高校生の肉体をもてあましていた頃に、この官能と美とのせめぎあう誘惑的な通俗味の小説が、あんまり刺激的に過ぎて、いくらか憎んだことも、今に思い出されてくる。それが懐かしかった。
2001 5・31 9
* 川端文学は「山の音」に移っている。これは、高校の頃から胸にも身にもしみた。菊子に惹かれた。映画で原節子が演じてからは、もうあの美しい映像から逃れられない。「菊子」という名によほど惹かれて、わたしは後に「祇園の子」にも「みごもりの湖」にも大切にヒロインの名につかっている。「千羽鶴」の菊治には爪弾きしたのに、「山の音」の菊子にはゾッコンであった。理想のお嫁さん像が出来てしまい、この悪影響に悩まされたのはわたしだけではあるまい。とにかく面白い。佳い。
東工大にいたとき、助手というのではないが、お茶の水女子大の院生が正式に一時期手伝いに来てくれていた。谷口幸代さんで、ドクターに進み、いまは名古屋で、立派な大学のいい先生になっている。寡黙というより、声音のあまりに清しくちいさく話す佳人であったが、教壇での講義を一声でも聴いてみたい。
この谷口さん、川端康成の優れた研究をその後幾つも積み重ね、幾つも読ませてくれた。もっともこの際に大事なことは、教授室に映画「山の音」のビデオを持ってきて見せてくれた、思い出だ。映画、懐かしかった。原節子、山村聡、上原謙、杉葉子、長岡輝子。濃密に組み立てられたカメラワークと脚本とで、優れた映画作品に成っていた。あまり優れていたために、原作を文章で追う際、イメージが決定してしまって、これには嘆息してしまう。どう頑張っても原節子のあの理想的な美貌と好演から「菊子」の印象を他にうつすことが出来ない。まいった、である。山村も良すぎるほど良かったが、極めつけは上原謙で、あれを観て原作の息子修一が見えてきた、いや見えすぎて、まいった。
「山の音」の話題はつきない、が、名古屋の谷口さんの活躍も嬉しく、また大いに懐かしい。彼女は「山の音」で修士論文を書くと言っていた、二人で大いに議論の盛り上がったこともあった、と、言いたいが、うまく谷口さんに誘導されてわたし一人が迷論悪説を吹っかけていた。もう何を言うていたか、忘れた。
2001 6・1 9
* 「髪結いの亭主」はよく吹っ切れた秀作であった。通俗ではない、純文学の風格がある。息子のもちもののダンボール箱から拾い上げた薄い文庫本の一冊であったが、愛読書の列にくわえて他の名作や秀作とならべても、味わいを保ちうる。
2001 6・3 9
* 高田衛氏の『江戸文学の虚構と形象』を戴いて、早速、本居宣長と上田秋成の「日の神」論争を論じてある章を読んだ。この二人を理解するのに最良の話題とは言えないが、二人が不倶戴天の論敵同士であった当の話題として、これほど面白い大事な話題はないのである。従来もこれを語った論説は大小となく読んできた。その中には高田さんの論考もむろん含まれていたが、この本では、問題点がよりシャープに整理されていて有りがたい。
今日の知識と感性からして、宣長の「日の神」論のばかばかしく強引で幼稚なことは、とうてい知識と常識とに富んだだ秋成の論の敵ではないのだが、何故、ああも宣長が大上段から確固として神の国を甚だ論理的な言い回しで説かずにおれなかったか、その基盤への視線を見失ってしまうことも、慎重に避けねばならぬ。宣長は神と国の歴史を考え、秋成は人と世界の生活を足場にしている。そんな秋成の立場からは、世界地図における極東粟散の辺土日本国の神話にもとづき、尊大に世界中の日本帰服を求めるような議論のばからしさは明白である。宣長からする日本の神話は、日本の中でこそアイデンティティーを保って周辺に知情意の世界を構築できるにしても、世界と普遍の人間的論理の前には限界がはっきりしている。秋成は鋭くそこを衝く。しかし宣長は、そういう秋成の立場を「漢意=からごころ」に毒された狂気だと激しく排する。
この論争だけを取り上げれば、所詮は宣長に二十一世紀の歩はない。だが、宣長の存在の大いさをここからだけ眺めては間違うのであり、高田さんも言われるように、例の「もののあはれ」の論なども大きく汲み尽くしながら、かなり落ち着いて接しなくてはならない、また、そのようにして宣長に付き合ってゆくと、いつしかに偏狭で頑迷な論法に見えていた「日の神」論に、それなりの特異な場と構造と思想とが備わって見えてくる。一概には済ませにくいものがある。
またこのご本で、その辺をたっぷり楽しめるのが、有り難い。忝ない。『江戸文学の』とあり、枠外ではあるが、江戸時代に起こった博物学・本草学・地理学への関心を実地に裏打ちした、「探検」という時代の思想と営為についても読みたい。最上徳内ほどの先駆者に大方の視線の容易に及んでゆかないことが、じつは残念でならない。間宮林蔵にしても伊能忠敬にしても、最上徳内からすれば、東郷平八郎に対する広瀬中佐か杉野兵曹長ぐらいに位置しているのであるから。
2001 6・4 9
* 昨日、駒場東邦高校の坂本共展氏から笠間書院刊の堂々の大冊『源氏物語構成論』を贈って戴いた。六百頁近い研究成果で、源氏研究ならわたしは何でも読みたい方なので、この高価なご好意にはいたく感激した。書店が代送してきたので、著者へのお礼が直に言えない。とりあえず、この場に深甚の謝意を書き込んでおく。高田衛さんの江戸文学の大冊にもお礼がまだ言えていない。くるくると太ったまま立ち働いている内に、すべきご挨拶やらお礼やらを失念したり失礼したりが多いかと心底恐れる。
忘れてはならない、松本八郎氏のEDI叢書からも、買うつもりで注文した保昌正夫著『瀧井孝作抄』を、保昌さんの名で贈って戴いた。瀧井先生はわが恩師のお一人であり、ぜひ読んで見たかった。保昌さんにもお礼を申さねばならない、松本氏にも。
2001 6・6 9
* 『誄』しのびごと、という本をいただいた。主として慶應義塾の関係者への追悼文を編みながら巻頭に著者の代表作とされる小説や、後半にはいろいろのエッセイの纏められた、面白い造りの一冊である。冬文舎刊で「著者代送」とある。本は階下にあり、著者はよく存じ上げている、のに、名前が急に出てこない。このごろ、こういうことが多い。慌てると、生き物が穴にすっこむように出てこない。じっと辛抱して待っているとひょいと顔を出す。今は、まだ出てこない。しかしこんなことは覚えている。「嵩」という漢字があり、この著者は「こう」と読まれ、わたしは「すう」と読んで、その時どちらも譲らなかった。今この機械で書くと、「すう=嵩」は文字皿の三字目に出ていて、簡単に書き出せる。しかし「こう=嵩」も、文字セットを開くと二百番目ぐらいに出てくる。どっちの読みも在るのだ、だが京都の姉小路寺町東にある嵩山堂は「すうざんどう」であったと覚えている。ああ、これでもまだ著者の氏名が蘇ってこない、ア、出た !! 桂芳久氏だ。江藤淳の名も出ている『誄』とは、寂しい題である。心して拝読する。
京都外語大からは「無差」という面白い表題の紀要が贈られてきた。「二条の院」に触れた論文が一つ載っているのは見逃せない。源氏の生母桐壺の実家であり源氏の最初の私邸になり、こういう家に義母藤壺のような理想の女人を「据えて住まばや」と思いながら、むろん父帝の后であっては叶うわけもなく、やがて藤壺の幼い姪を源氏は奪い来て隠し据えるのが、後の愛妻紫上である。二条の院は紫上の心やすい私邸となり、此処に帰って死ぬ。死ぬ間際に遺言のようにして、みごとな紅梅と樺桜の木ともにこの邸は孫の匂宮に譲り置かれ、宮は、いつしかに此の私邸に宇治の中君を迎え取って男御子の父になる。桐壺の父方以来の皇位への悲願が、この私邸で男子誕生として実現しかけているのであり、まさに桐、藤、紫のゆかりの家と言わねばならない。中君の存在意義はじつに大きいのである。これが基本のわたしの「源氏読み」大筋を成している。上の論文は、こういうこととは関係ないように見受けたが、とにかく読んでみたい。
2001 6・7 9
* 筑摩書房から今年の太宰賞受賞作と最終候補作二編が、選評付きムックの体で届いた。受賞作はかなりの長編であるが、舞台は外国で登場の人物も外人のようで、国際時代であるからそんなことは問題ではないけれど、すうっと入って行きにくくはある。面白そうであるが。
* 大学へ「湖の本」を寄贈しているので、いろんな大学がお返しに紀要を送ってくれる。これがなかなの読み物になる。そうはいえ、感じ入るほどの研究の少ない、極めて少ない、のも確かである。ま、仕方がない、が、閉口するのは、文学をあつかう論文の日本語の概して粗悪なことで、これには辟易し、また驚く。索漠とした文章で名作の魅力や秘密に迫ろうというわけだ、どうにか成らないものか。もっとも私の専攻した美学藝術学の論文のなお遙かに日本人離れした日本語には、学生時代に仰天し、あわやわたしも悪弊に染まりそうで逃げ出したのだが、最近の紀要を見ても相変わらずで、頭痛がする。どうにか成らないものかと思う。
* 歌人でも学者でもある山田吉郎氏が『前田夕暮研究』という大冊を下さった。秦野市で、前田夕暮記念の公開講演をしたことがある。その時からのご縁で、湖の本も読んでもらっている。この研究書も一万八千円するが、最近に戴いた幾冊かの研究書はどれもほぼ同じほど高価であった。研究書は売れない、自然、部数は少なく高価になる。しかし、そういう書物の中から「文化」の積み上げというにふさわしい貴重な作物が残ってゆく。いま、マンガ本のブックオフ商法に話題が集まっているが、ある人によれば、読書の通過価値は定価に比してあまりに低いとか。繰り返して読ませるモノもが少なければ、仮に一時間で読めて千円、一度読めばそれきりの本なら、新しいまま古書店に投げ売りもするだろうと。そういうことから比較すると、例えば山田さんの夕暮研究の浩瀚かつ周到なことは、千円のマンガに比して一万八千円がむしろ安いとすら感じさせる。そういう本を戴くのは心苦しくもあり嬉しさはもっと深い。
2001 6・13 9
* 谷崎潤一郎の「小野篁妹に恋すること」を久しぶりに読み直して、心底驚嘆した。なんとみごとな間然するところ無き文章の妙。悠揚迫らず、随筆かのように書き起こしながら、ぐいぐいと豊かに豊かに美しい文学・文章・文体の世界に引き込む。その前に読んだ正宗白鳥の「本能寺の信長」や、谷崎に続く室生犀星の「舌を噛みきつた女」とも、比較を絶したすばらしい「文品」である。位が、断然高いのである。堂々と文体の懐が深く大きく、また世界が落ち着いて美しい。藝術の魅惑そのものである、ファシネーションに溢れている。わたしは、昨日の情けない吐き捨てたい気分を、きれいに洗われた気がした。こういう文学の書ける人だから、初めて藝術家なのだ、文学者なのだ。ほんものの文学者が、わずかな寄付行為を顕彰してもらおうと、建物の壁に名前を刻んで貼り付けてもらいたい、「よろこんで」などと思うだろうか。作品にこそ名前を刻めばいいではないか。
2001 6・16 9
* 室生犀星「舌を噛み切つた女」は通俗な駄作であった。その上に悪文の魅力といわれる悪文・悪表現が、少しも魅力を発揮せず、只の悪文、つまらない表現になっていて落胆した。金沢の三文豪とは言うが、犀星の文章は、鏡花、秋聲に比べれば、二段ほども低い気がする。
続いて子母沢寛「明月記」を読んだが。すすらすら読めてしまう手際のいい時代読み物に過ぎず、文章の運びも語り口も卑しからずみごとなものだが、何としても文学の位はひくく、巷談の流れをたくみに汲んでしっとりと面白いお話というに尽きる。藤沢周平の時代読み物がそう、伊藤桂一さんの時代読み物もそうだ。卑しからぬ文品は備えているが、文学そのものが凛々と放つ香気はもたない。もっても甚だ淡く地を這う。谷崎の「小野篁妹に恋する事」は、たわいないといえばたわいない平安の古物語に依拠した、ただ世離れた話題に過ぎないのに、その筆致の自在にはたらいて丈高いことは無類、白鳥も犀星も子母沢も遠く及ばない。ふしぎなものだ、文学の魅力とは。
ただ余計な話かも知れぬが、「小野篁妹に恋する事」は、誰にでも気安く読めるものではない。和歌が入ってくる。物語の地の文も出てくる。それはある種の障害をなすであろうが、障害に感じないほどの読者には、たまらなく、こたえられない魅惑の世界がそこにあるのだ、何より表現そのものとして。
2001 6・17 9
* 梅原猛氏から新刊の『京都発見三』が贈られてきた。洛北を探索してあるが、これは、わたしの久しい関心や興味に触れてくる目次である。索引の入っているのが有り難い。 2001 6・20 9
* 梅原さんの『京都発見』洛北編は八瀬童子の話題から入ってゆく。例によって論証は欠いた、直観ないし梅原流の思いつきが面白づくでポンポン出るから、とても読みやすい、が、これでは新書版ていどの信頼もおきにくい。知識量の豊富な読み物随筆として迎えれば、旅の友にはいい本だ。
* 川端康成の『山の音』を少しも急がずに読んでいる。川端文学は精緻な心理主義文学で、芯になる信吾とか島村とかの内心の声とひっきりなしに付き合うことになる。川端文学の深い音とは、この登場する主人公の内心の声音なのである。谷崎文学では、こんなに精緻に精細に人物の心理など書かれはしない。春琴や佐助の心理が書けていないという批評のあったときに、あれで十分ではないかと谷崎は動じなかった。彼は、叙事そのものに人物の心理を託するが、川端は人物がしきりに内省し反省し考察し感情してやまない。絶えず大銭や小銭や札びらを勘定して報告している。谷崎は財布のママずしっと投げ出して、なかが見たければ読者がみればいいという行き方をする。川端文学には心理の罅が縦横に走った廃器の感があると述べたのは、もう三十年前のことだが、読み返していて、感想は基本的に変わらない。魅力がないのではなく、魅力は横溢して読むうれしさに満たされるが、谷崎のようにおおらかではなく、優れて神経質な美しい文学だと言わねばなるまい。
2001 6・21 9
* 佐藤春夫の「戦国佐久」もまた張り扇の音の響いた時代読み物で、行文甚だ仰々しく、古めかしい。佐藤の時代の語法や趣味に少しは通じているから、難なくわたしは読むし楽しむけれど、そして噺が拙なのでは少しもないけれど、作家の懐に谷崎のような天空を闊歩するような姿勢の大きさが無い。門弟三千人、地上の権威人の尊大と傲岸とが書かせている。見たか見たかと肩をそびやかし、作品が意外なほどこせこせと縮まっていて、とうてい優れた文学の味わいではない。
つづいて井伏鱒二の「普門院の和尚さん」とかいうのを読んだが、井伏先生とは思われない拙劣な駄作で、まいった。要するに間に合わせに責めをふさいで、そそくさ、せかせか書かれた最悪の意味での難のある売文もの。いい材料をむざむざごみにしてしまっている。
* わたしのM教授こと亡き目崎徳衛氏、また懐かしき故藤平春男氏に師事したというペンのメンバー秦澄美枝さんから著書と手紙が届いた。「E-文庫・湖」に使って欲しいということで、先日の例会で、長谷川泉さんと三人でしばらく話していた。姓は同じだが関係はないかった。なんとかアカデミーの院長だと以前に聴いていたが、それだけ記憶していて人は忘れていた。七十すぎた事業家肌の女傑だろうと勝手に思っていたら、先日会って若い人だった。しかも清泉大で長谷川氏と同じ先生をしていた国文学研究家、長谷川さんにも大後輩であった。送られてきた論文集は「研究」論文というにふさわしいかなり綿密なもの、もう一冊は「清泉女子大学セクハラ事件」と銘打った『魂の殺人』かなりな硬骨本のようである。出会いのいい一冊二冊になればよいが。
2001 6・22 9
* 角田文衛博士の米寿を記念するムックと著書『薄暮の京』が贈られてきた。わたしの『風の奏で』ほかに T 博士として登場される碩学である。ほんものの碩学である。この方の著述は、じつに安心して読んで参考に出来る。教わることが山ほど、惜しみなく書かれてあるのだから、戴く本はそのまま座右につい出しっぱなしに、ことあるつど読んでいる。今度の本でも、ぱらぱとめくるだけで、グググっと目を吸い寄せられてしまう。いくら面白ずくにすらすら読める本でも、安心して受け取れない論証抜きの思いつきを書いた本では仕方がない。やはり学問の手続きを正当に丹念に踏んで、あまりな間違いなく書かれてあればこそ学者、研究者の本といえる。評論というのはその辺が弱い。あまり役に立てにくい。
2001 6・23 9
* 『山の音』読み終えた。ゆっくり、聴き込むように読んだ。信吾との年齢の近づいてきたこともあり、肌にふれてくる言語的感触は、高校大学の頃とは比べものにならない理解の波動がある。濃厚である、この世界は。『千羽鶴』のように巧んだ濃厚とは見せない文藝に、魅力がある。恐れ入った。
それにしても神経質な文学である。折りを同じに「反橋」という短編、著名な短編も読んだ。これには特別感心しなかった。おなじく話題をいろいろに古典に迎えて背後を成していても、谷崎の「小野篁妹に恋する事」のおおらかに腹のふとい文学作品に比べると、神経質で繊弱な感傷の毒を川端はみずからあまりに多く嚥下している。二つを、音読してみたが、これは比べものにならない。谷崎作品は、声にして一点一画にいたるまで滞りなく嬉しく嬉しく朗読できて、生理的な快通感覚は底知れぬものがある。名文とはこれだなあと驚く。川端康成のそれは音読していても息が切れそうにひ弱い。
* 石川淳先生の「前身」は、戯作のタッチとはいえ、毒気は意外と浅く薄くて、文学的な感銘には手の届かないものであった。中山義秀の「月魄」も佐藤春夫の「戦国佐久」なみに仰々しいけれど、いかにもこなれない料理を食った感じであった。古典「浜松中納言物語」の一章一節をウマイものを咀嚼するようにゆっくり読み進めるよろしさには、はるかに及ばない。佐藤や中山の上の作のような口調がいやなのではない、が、さすがに鴎外の史伝や露伴の名文のようには自然に言葉が流露していないのだから仕方がない。作者が感動して書いていない、資料を操作しているという感じなのだ、中山のなど、小マシな方かも知れないが物足りない。
2001 6・27 9
* 野呂芳男氏らの雑誌「黎明」で、近時の福音書研究にかかわる対談などを読み、いたく刺激を受けた。四福音書の書かれた年代が一頃の通説からかなり訂正されて、紀元七十年から九十年ごろまで多くとも三十年もない期間に集中して成立していると、最近の研究は一致してきたらしい。宗教史研究の縦糸と横糸といった見地なども、比較宗教的に、とても示唆に富む。イエスの理解と把握とにも、相当な葛藤が、国際的に学界に渦巻いているらしいのも耳新しく興味深い。イエスを人間的にみるか、神話の仮構とみるか、どのような言葉と教えとがイエスその人にまで遡れるのか、けだし聖書ほど精緻に研究の進んだ文献はないのだから、だからかえってさまざまな認識が錯綜しうる。
一方にバグワン・シュリ・ラジニーシの徹した禅的な理解に深く帰依しながら、基督教神学の討議にも触れていると、不思議に性格と系統との異なる音楽を交響楽のように聴いている心地がしてくる。
* その一方で、角田文衛博士の、たとえば絶大な独裁を誇り得た「白河法皇」の豪奢な生涯や、平泉奥州と京都との関わりの中で、あの牛若丸義経がどのように二度奥州に下り得たかなどを、周到な研究成果に支持されて読み進める面白さにも限りがない。たいがいなことは、イヤでも忘れてしまえる。
* 幾つも時代小説を読んだ。なかで神西清「雪の宿り」が、意欲的に応仁の劫火を語り極めて、力作であった。メジャーな作家ではなかったが、豊かに澄んだ資質をもった、優れた藝術家であった。その気力の横溢した作で、敬意を覚えた。かなりの語りで、必ずしもすいすいは読みにくいが、臨場感をはらんで、概念に逸れてゆかぬ描写に力が漲っていた。
神西清に比べると、海音寺潮五郎「極楽急行」も久生十蘭「鈴木主水」も山本周五郎「裏木戸はあいている」も、説話の焼き直しであったり、芝居話や人情話の時代物であったり、いずれも下品さはないが、凛とした位のない、要するにお話にすぎず、何の感銘も受けなかった、受けられなかった。直木賞を受けていたり拒絶していたりするのだが、こういうのでは所詮は通俗読み物の優という以上に出ず、文学作品とはとても呼べない。林芙美子の「羽柴秀吉」など全くの駄作で、ねらい方としては正宗白鳥の「本能寺の信長」の続編のような題材であり似た扱いだが、雑文の域を出ない、ひどいシロモノ。
まだ続々と並んでいる「歴史小説の世紀」戦後傑作短編55選だが、「歴史小説」に値するものは稀有で、殆どすべてが時代読み物でしかない。看板に大いつわりである。テレビドラマの水戸黄門や大岡越前を歴史劇と呼びますか。「阿部一族」ぐらいが歴史ドラマであり、森鴎外の原作も歴史小説であるが、今ここに挙げたようなものは、神西清の作は措くとも、他は悉く暴れん坊将軍や必殺仕置き人などの並びで、さすがにあんなにはひどくない文芸とはいえ、低俗の範疇に入って一歩も出ていない。ただの時代娯楽読み物を、「歴史小説」呼ばわりはどうかやめてもらいたい、かりにも「新潮」ほどの臨時増刊に。
2001 7・1 10
* 円地文子「ますらお」は、題からすぐ察しられたが建部綾足「西山物語」上田秋成「死首の咲顔」の話で、老境秋成の噴出する創作意欲に手をふれた小説、さすがに円地さんの筆致は落ち着き、確かで、ゆるみたるみも、あまみくさみも微塵もない。きちんとした作品だ。これに先立った永井龍男「夕顔の棚」は、永井先生の作とはいえどもあまりに手薄くて読むにも堪えなかったのは残念至極。とはいえ、「ますらお」とても秋成原作からすれば二番煎じに過ぎない、それほどあの原作は凄いのである。
2001 7・3 10
* 林晃平著『浦島伝説の研究』が、版元からやっと届いた。骨太の読書が楽しめる。
* 平林たい子「額田姫王」は、材料に薄味を施しただけの、読み物としても半端な凡庸な作物。「秘色」でしっかり触れてきた時代であり人物たちであるので、よけいにヒドサが見えた。「秘色」を書いたより前に、井上靖にもう長編『額田姫王』があった。わたしは読んでいなかったが、新潮社の池田雅延氏が、はるかに「秘色」の方がいいですよと言ってくれたのを頬を暑くして聴いたのを覚えている。のちに井上さんの作を読んでみたが、途中で投げ出してしまった。池田さんは世辞を使っていたのではなかった。知名の作者の作品だから佳いなどと決めてかかるのは滑稽な事大主義である。たいがいのものは、よろしくない。読んでいる「歴史小説の世紀」という大特集が如実に示している。まだ半分ほど読んだだけだが、谷崎潤一郎「小野篁妹に恋する事」のほか、せいぜい神西清「雪の宿り」円地文子「ますらお」ぐらいしか、文学の域に達していない。しかし名前だけをみればびっくりするほど知名の作家が顔を揃えている。情けない話である。歴史小説なんてものは殆ど見あたらない。現代より昔の人や時代に題材を得ているという、ただそれだけの似て非なるインチキ特集である。テレビドラマの「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」を歴史ドラマだというのなら、それなみの歴史小説という定義を容認しないでもないが、途方もない軽薄な話である。
2001 7・4 10
* 明治大正昭和三代天皇の頃の行幸行啓に即して、いかに、「見る」という行為を媒介に天皇制統治の実質が拡充され浸透していったかを論証する、原武史氏の研究は、「想像」を媒介に天皇制国家の基盤が築かれてきたとする在来の国家観への大きな訂正を含み、その限りにおいて明治天皇の行幸も敗戦後の昭和天皇の全国巡幸も質の違いはなかったのだと説いている。そう読めるものを論旨が含んでいる。異論はない、が、もう一歩をすすめて、平成の天皇一家の場合をみても、なお、同じなのか異質な要素が生じているかについて論考が有れば、わたしは知りたい。
2001 7・5 10
* 坂口安吾が美濃の斎藤道三を書いた「梟雄」は、尻切れの駄作だった。勢いに任せて書き殴っているが文藝の冴えのまるで感じられぬ跳ね上がった凡作で終っていた。締め切りに追われ、材料をこなしてやっつけようとしていても、そんなことで読み手を惑わすことは出来ない。
井上靖「聖者」は、書き込みの豊かなあくまで小説、説話的な遠い背後をもった西域の物語で、その限りではこの「歴史小説選」の中では、力作に属する。異国種の作品ということでも珍品である。井上さんの小説としてことに上等とは言えない、かなり印象の黒い、つまりやたらに漢字と漢語との多さで紙面の黒く見える重い小説になっている。これが「歴史小説」であるかという確信をわたしは語れない、古い昔に取材した想像力に富んだ物語には相違ない。初めて読んだ作でなく、いい材料がやや重苦しく書かれて損をしているというか、すっきり抜け上がっていない印象は否めない。井上作品としては野暮な書きっぷりかなあという感じ。
井上靖と「歴史小説」論争を展開して、やや有利にやっつけた感じだったのが、文壇勢力を二分したといわれる大岡昇平だが、ターゲットは井上の「蒼き狼」だった。ターゲットをもって攻めれば、攻めの方が守りより有利なのは知れた話であるが、とにかく井上さんはかなり閉口されたように感じられる。
その大岡さんの「高杉晋作」を読んだが、これは小説の名に全く値しない、高杉随想でしかない。文章も粗雑だし、理解にも資料にもとびぬけて小説の香気や魅惑をもったものとは、とうてい言えない。評論としても手ぬるく、高杉の魅力も周辺事情の解説も凡庸なシロモノでがっかりした。なぁんだという落胆。少なくも此処では、小説家としては井上靖に高く軍配を揚げるしかない味気ない作品合わせであった。
とびきり知名の、それだけの意味でなら一流作家を並べた特集だが、真に鑑賞に堪える作品の片手の指の数にも及ばないとは、ま、そういうものだと思わねばならないだろう。名前で評価するのは明らかに間違いで、個々の作品を読んで真価を測定するしかないのが「読者」の作法である。
2001 7・9 10
* 花田清輝の戯作「伊勢氏家訓」を読んだ。応仁の乱のころに義政の幕府で暗躍した伊勢氏家法・家学の礼式に絡んだ風刺的戯文であり、切れ味は今ひとつで、心を動かす力に欠けていた。歴史小説でも何でもない、才子の閑文字であった。文壇という変な場所で変にちやほやされて忙しくしている内に、間に合わせの仕事を連発して世にときめくけれども、よく読む厳しい読者からすればただの思い上がった「おふざけ」作品がいかに多いか、よく分かる。花田はなかなかの文学者であったから、この作品についてのみわたしは言うているが、秀作・傑作・名作がそうそうあるものではないという簡単な結論より前に、いわば佳作ていどのものさえ、めったに有るものでないと認識せざるを得ない。それは、なぜか。読者の程度が低すぎるから書き手が図にのり、ごまかしで済ますのだとすれば、読者にもこれはよく考えて欲しい。わたしが、けっして数多くはないわが「湖の本」の読者に心から感謝して作品を提出しているのは、妥協のない「いい読者」の多いことを知っているからである。一騎当千という言葉にはリアリティーが有る。
2001 7・11 10
* 三原誠作「白い鯉」を久しぶりに読んだ。昔に読んで感心した記憶があったが、痛切な印象は今回も同じで、ああ佳い作品は感度と感銘とがちがうなあと嬉しかった。「歴史小説」の新潮社特集にいならぶ五十人の知名度はたいへんなものであり、三原誠という作家を記憶している人は同人「季節風」の人たち以外にはごく身近なひとたちだけであろうが、作品のよさでは、さきの知名作家たちのどの作品にも負けない品質と文学の香気ないし光輝を発している。「有名には細心に、無名には大胆に、」作を評価して、売られた名前に屈しない、つよい姿勢を読者は失うわけにゆかない。
2001 7・11 10
* 松本清張「運慶」田宮虎彦「末期の水」は力作で、それぞれの感銘があった。田宮虎彦の作には惻々と迫る感動もあった。
運慶の、父の弟子快慶に対する、あるいは快慶を通じての「批評」には、藝術家小説の根源の主題、古さと新しさ、自負と不安、伝統と現代といった重荷との葛藤が、図式的なまでに取り上げられ、松本にはよくある話材を利用した問題提起、認識吐露、要するに小説で何かを「論じ」ている気味が濃厚にある。それが手際よく成功して、し過ぎていて、かえって難と通俗を招いているともいえたが、面白く読ませた。
田宮虎彦の作は、彼が他にも書いている奥州幕藩の末期のあわれで、この短編も、さながら森鴎外の「阿部一族」の流れをくむように、人と事とを小さく確かに積み上げ積み上げ、いわば無辜の下級武士の子女を迄巻き込んでの破滅の哀れを、冷酷なほど平静な筆で書き込んでゆく。感動を誘う。感動の底には、しかし、なにゆえの、誰ゆえの末期か、徳川幕府への最後の最期に忠誠をもって武家の誇りに殉じる、そんな「末期の水」だと知らしめての作者の批評が利いている。批評をわずかに体した或る妻女の一人も、真っ先に戦死して行くのである。
谷崎は別格としても、神西清といい田宮虎彦といい、もう知らない人のほうがはるかに多い作家たちに、こういうみごとな力業の作品が残されている。
田宮などは、存命中、知名度抜群の大人気作家であり国民文学の旗手であった。「絵本」「足摺岬」また「銀心中」また「落城」などの名作秀作を多く持っていて、わたしの大学生頃にはまぶしい存在であったが、なぜか、あっというまに声名が遠のいて、きわめて不遇になくなった。だが優れた作者の一人であった。久しぶりに出会ったが、心を揺すられ嬉しかった。
松本清張も或る意味で不遇に冷遇されていた。だが、好き嫌いをべつにしていえば、この人の仕事は、漱石、藤村、潤一郎たち文豪の雄をもってして手の届かなかった領域を耕した作者として、わたしは評価を惜しまない。ただ、清明なカタルシスを恵んでくれることの甚だ乏しい作風であるために、好んでは近づきにくい。気分の悪くなることの方が多いから。
2001 7・12 10
* 檀一雄「」武田泰順「女賊の哲学」は、ともに歴史小説でも何でもない、が、面白く読めた。檀さんのは直木賞の「石川五右衛門」なみに軽い読み物だけれど、更級日記の竹芝寺の男と皇女の噺を扱っているのが懐かしい。わたしの高校時代からお気に入りの噺で、「竹芝寺縁起」という小説を、その頃よその学級で出していた文芸雑誌に寄稿し掲載されている。一部は書き下ろしの長編『慈子』に組み入れてある。まるでちがう行き方であるだけに、懐かしい檀さんらしい味わいが面白く、そして、ぎらっと光る凄みもあるのだった。武田さんのは中国の「十三妹(シイサンメイ)」の解釈であり、とにかくも読まされる。何かがあとに残る。二作とも完成度も磨きもない出来だが、卑しくはない。文学の香りがある。それが大事なのだ。
* 浜松中納言物語では、中納言最愛の吉野姫君が式部卿宮に奪い去られてしまう。必然あの浮舟や宇治中君のことを思い出さされる。この二人の間に女の子が生まれてくるのが、中納言が唐土で熱愛し子までなして別れてきた姫君の異父姉=唐后、の転生した女人なのである。薫君の愛した宇治大君をいやでも思い出させる。苦労苦心の趣向であるが、この物語にはふしぎにそういう趣向が邪魔やイヤミにならず、懐かしい空気づくりに成功している。一つにはこの著者一流の女人造形の品の善さと優しい魅力のゆえであろうと思われる。もう物語はヤマをみな越えてしまって五の巻は中納言の泣きの涙のようなものだが、ま、読み終えたい、ゆっくりと、少しずつ。
2001 7・13 10
* 浜松中納言物語を、ご馳走を惜しみ惜しみ食べるように、読み終えた。巻五もとても深切によく書けていた。吉野姫君をなかにした中納言と新東宮との間柄も、こういうものなんかなあと感じ入るほどに微妙に書けていて、しかも、衰弱の極みにあって吉野姫君が、自分をかどわかし犯した式部卿宮=東宮にむかい、「中納言を」と名指しで救済を希望するくだりは、王朝物語ではきわめて珍しい意思表示で、感銘深い。この辺、「夜の寝覚」のヒロインが、宮中で、無体非道に寝室に侵入し犯そうとする帝に対し、終夜徹して抵抗し切って、そのさなかに、日頃は冷たく遠のけていた久しい恋人を思い浮かべ、ここで自分がくずおれては「あの人」がどう思うことかと帝を拒絶しぬく、あの感動の場面を、ありあり思い起こさせる。両作をともに「更級日記」著者の創作であろうと信じたいわたしの勘なのであるが、どんなものか。浜松中納言は、あんまり優柔で歯がゆい善人であるが、源氏の薫大将に対する「理解」が、このように造形され表現されているのかと想像すると、微笑ましくもある。落窪、寝覚、浜松。いつも二番手に控え役を演じさせられてきた作品だが、わたしはこの三作を愛読書の高位に置く。
* 配本の完了しない「うつほ」「狭衣」についてはものを言い切れないが、「寝覚」「浜松」ほどの女物語と優れた女の魅力にふれてしまうと、いわば男物語としかいいようのない「うつほ」など、いたって読みにくい。男たちが求愛し狂奔するヒロイン「あて宮」に、抱きしめたいほど女の魅力が彫まれていないのだから、本尊不足の感、いまのところ否めない。
男の書いたものに相違なくても「伊勢物語」という作品は、さすがに断然の魅力。
歌物語というジャンルをわたしは大切な遺産であると思っている。現代でも試みられて佳いのではないか。もし作者篠塚純子さんが許可してくれるなら、わたしは「e-文庫」に収録した彼女の二つの歌集から、この歌人篠塚とはまるでべつの架空の女歌物語を、現代日本語で書き表してみたいほどだ。あの二百数首はあのままで小説を暗示し得ている。
2001 7・19 10
* 大原富枝「菊女覚え書」は「おきく物語」なる古反古によって成したという仕立物で、刺激の薄い、可もなく不可もなく面白くもない読み物であった。ただ巧みに運んであった、落ち着いた文章で。
それにくらべ、田中英光作「桑名古庵」は、破れかぶれの悪文で、噛み散らしたように筋書きが吐き出されて行き、甚だ不行儀で下手な叙述であるなかに、あわれ、無残にすさまじいある一族一党の悲惨が焙り出され、息を呑まされる。作風といえばそれまでの放埒極まる作だが、巧みな大原作品よりも感銘がつよく残る。胸ぐらを掴まれて揺すり立てられた感じで、後味はひどくわるい。それをしも迫力というなら認めてもいい。
つづく杉浦明平作「秘事法門」がまた殺伐として悪辣無惨な作だが、これには田中作品に感じられない意図的な批評が看取できる、即ち北陸の中世を支配した浄土門・念仏宗団に対する痛烈極まる否認と批判である。叙事ははじめのうち知的に統制されてなんだか考証もののように始まりながら、だんだん両手足を大車輪にまわすような荒けない文章が炸裂するように、坊主たちの内部闘争のえげつなさが暴き出されてゆく。反吐の出そうな読後感だが、批判の筋はきっちり通っている。確信犯的に知的な作品だとすら言えて、これは歴史小説になっている。嬉しくはなかったが、よく書いたなあと感心もし評価した。共感すら、あった。門徒の人は読みづらいであろうが、宗門なる団体のいやらしさがよく書けている。
船山馨の「刺客の娘」はかなり気取った小説であった。池田屋で坂本竜馬を斬ったのが誰かという謎に対し、真犯人の娘が世上の通説の偽りであることを、かつての志士、いまは華族の田中光顕に訴え出てくる話である。小説はこう作るものというお手本のような手際で手練れであるが、感銘があるのでもなく、一場の挿話、おはなしである。作家というのは或る円熟を意識し始めたとき、こういう、旨いけれどどうでもいい読み物を器用に幾つも書いてしまう。あまり名誉な結果にはならない。
* 「うつほ物語」は人物が多く、だれが主人公であるのかが掴みきれない多焦点の作なので、興味を繋いでゆくのに骨が折れる。そのかわり、直接話法の会話劇のような場面が多出し、臨場感の効果が突出する。情緒纏綿といった女物語の行き方ではなくて可笑しいし、乾いた面白さになっている。
2001 7・21 10
* 「うつほ物語」の半ばをゆっくり読み進めている。これはストーリィに惹かれてどんどん読むという作品ではない、半ばあたりは特に。出だしはすこぶる伝奇的に面白いのだが。東宮や貴族たちの異様に身を入れた「あて宮」への求愛・求婚がながくつづき、東宮に入内後の貴族たちの悲嘆ぶりがまた凄い。歌など、いいところをつまんで掠めるように披露するのが女物語の方法なのに、男の書いている「うつほ」では、関係者全員の和歌をえんえんと並べる。直接話法の戯曲的な会話羅列でことが進むところも多い。おまけに絵巻にするための絵指定の文もくっついている。平安時代の物語といえども、いろいろあるのだ。どれもが源氏物語のようであるわけではない。
* 日々にいちばん心をとらえる読書は、やはりバグワン。一休の道歌を材料に「禅」を説いている。
バグワンは禅=道の人である。慰安を与える宗教家ではない。自身をみつめて自我を離れ自我を落とすことを、抑制することのない真の自由を説いている。悟れなどと謂わない、そんなことは忘れてしまえと言う。悟り=光明=enlightenmentを目標や願望の対象にしていては得られるわけがないと云う。あたりまえだ。
何一つを写していない無限大の澄んだ鏡を、身内に抱いている、抱いていたい。そんな鏡で自分はいたい、という、その希望すら捨てて持たぬように。そして、目前に去来する多くを、クリアに写し、クリアに通り過ぎさせたい。鰻を食べ、人に逢い、眠り、読み、電子文藝館も実現し、喧嘩もし、一理屈もこね、文章も書き、鼻くそもほじる。血糖値もはかる、インシュリンも注射する。メールで息子に話しかける。すべて、することはする、だが、することにすらとらわれないでいる。パソコンも昔の物語も、政治もバグワンも、ペンもパンも、ウンコもオシッコも、夢である。鏡を通り過ぎる影絵だ。ばかにもしない、それ以上のものでもない。いいものもある、つまらぬものもある。だが、それ以上のものではない、みな影絵として失せてゆく。慰安にもならないが、恐怖にもならないように。
わたしが、光明など望む資格もないのは分かっている。一匹の野狐である。
こんな狂歌があると西山松之助先生の本でみつけた昔、苦笑した。いまだに苦笑している。
ある鳴らず無きまた鳴らずなまなかにすこしあるのがことことと鳴る
2001 7・26 10
* 新しく贈られてきた古典全集の『沙石集』は待ちわびていた。無住の著わしたこの仏教説話集は、評価が微妙に分かれてきた。一途に純で高度な内容とは言えぬと軽く見る人の方が多く、その話藝だけが称賛されてきたふしがある。話藝はともかく、高く評価されないで来たまさにその部分に、じつは、自在にとらわれない宗教家のスピリッツをみようという考え方もある。今度の読書は、その辺をわたしなりに見極めるものになろうか。
* 何度も言うが、わたしにバグワンへの縁を結ばせたのは、嫁いでゆく娘が物置に仕舞って行って、もうそれ以前から久しく顧みなかった三冊の説法本であった。三冊がその後にはわたしの意志で七冊にも八冊にもふえて、ほぼ十年近く、読まない日はないだろう。そのバグワンに帰依の現在からいえば、わたしは、無住の自在さにある種の共感を覚えているかも知れない、もう一度読み返して理解したい。少年の頃から、仏教の基督教のという区別にも、念仏の法華のといった教派の差異にも、ほとんど心をとらわれてこなかった。だが信仰心というか宗教的なセンスは信じて手放さないで来た。比較的、法然・親鸞の至りついたところを日本仏教の粋として感じ取ってきたが、それが仏陀の仏教からかなり遠く隔たり離れてきた甚だ特殊な変形であることも分かっている。宗教家の運動としてそれは少しも差し支えないことだ。ただ、法然・親鸞の教えは、基本的には慰安という名の安心の授与信仰である。抱き柱を抱かせて不安を取り除くものに他ならない。仏陀その人の教えは、禅に伝えられている決定的な脱却、端的には「静かな心」という無心、心を落としきることで知るありのままの自身、その安心。そういうことかと思われる。バグワンは、それを端的に示唆し、タオ=道を指し示しているが、それにすらとらわれるなと彼は言う。へんに「柱を抱くな」といわれているように思う。未熟なままの考えである、わたしのは。ただ、ありのままに生きていたい。 2001 7・27 10
* 佐高信氏から『経済戦犯』日本をダメにした9人の罪状という本を贈られた。すぐ最初の三人、即ち宮沢喜一、橋本龍太郎と亀井静香への「告発状」を読んだが、佐高さんの論告に一点の疑義ももたなかった。宮沢、橋本という二人の失政と無能とが日本国をどれほどひどい目に遭わせてきたかについては、もう何年も何年も前にわたしは新聞に書いている。そして亀井静香がとても国民の受け入れうる政治家とは思われぬことを、わたしは繰り返し此処にも書き続けてきた。佐高さんの指摘は、指弾は、頷くことばかりでそれはと首をひねる只一点もない明快さである。
* 佐高氏の著書はもう二十三十冊は戴いているが、大方はこのての著書でありそこに彼の使命感がこもっている。それにしてもシンドイ仕事だなと時に同情する。人を告発のものが多く、読んでみると、わたしの知らない人も多いが知っている人の場合は、大方全部が同感できたり共鳴できたりする。わたしとちがい理由もきれいに説明されているから、わたしにすれば、感じていることを裏打ちしてもらった気分になる。佐高氏の政治家や官僚や財界人へのそれら批評を、わたしは、高い評価で称賛することにやぶさかでない。彼の言うことなら信じたいと思っている。
だが、よほど気力のある時でないと読み出しにくい。平易な文章で論旨と証明は明快なので、難しくて読めないのではない。時には称賛集の本もあるのだが、称賛も告発も表裏の批評であるから、つまりはかなりシンドイ読み物なのである、文学作品の批評や作家論とはちがうのだ。
佐高信も文学にふれ作家にふれることはある。経済小説や同郷の時代物作家などが取り上げられ、正直のところわたしには興味もなく、知っている限りではほとんど説得されないでいる。かなり贔屓目があるのではないか。文学に関しては、佐高氏とはよく角突き合わせている猪瀬直樹氏の例えば太宰治や井伏鱒二を容赦なく追及した本や、また『日本国の研究』にしても『黒船の世紀』にしても、あらっぽいけれど、批評の根は太く読ませる魅力は(文芸の魅力ではないけれど)濃い。猪瀬氏の本からは、共感するにせよ疑問符をつけるにせよ、切実に自分に、自分の生き方に跳ね返ってくる課題性がある。佐高氏の糾弾は激越でしかも聴くべきものに充ちているが、へたをするとただ聴いている一方になる。書かれている対象を忌避する気持ちは増したり固められたりするけれど、なにも教わらない。魂に人間の問題が残りそうで残っていない。妙なことを言うと、筆致にもののあはれが乏しい。もののあはれとは何か。この場合は、声高に語っている筆者佐高信その人の、揺れ動いて陰翳に富んだ人となりや表情や心情が見えにくい意味だ。
2001 7・29 10
* 日本列島秦氏族史と銘打った『「秦王国」と後裔たち』という本が贈られてきた。高価な大冊である。目次の第四章近畿地方の中には、「古代近江国愛知郡は、小さな『秦王国』」とあり、なんとそのワキに「作家秦恒平家の家系」と見出しが出ていて、四頁ほどの記事になっている。わたしの小説から適宜に推察したもので、家系といっても私自身が知らないし、亡くなった育ての父や叔母もほとんど何も知らなかったのだから、ま、編者に気の毒であったけれど、途方もないことは書いてない。わたしの生母が愛知川にちかい神崎郡能登川の人であったことは確かであるが、父は南山城の当尾の別姓であり、秦氏とは、わたしが実の父母から離れて養育された京都市内の養家の姓である。この秦家は、滋賀県の水口宿から京都へ出てきたようだと、それぐらいしか分かっていない。水口町には現在も数軒の秦さんが有る、らしい。
わたしは、ご縁でもあるから、滋賀県の秦氏には多大の興味を持っている。かなりのことを知ってもいる。「みごもりの湖」を書きながらも、母なる近江湖国の「秦」とは何であったろうと、夢のようによく想っていた。だがあの長篇にはいわゆる「愛知秦」のことは取り込まないで済ませた。鈴鹿の奥の木地屋伝承へ迫っていった。
いまも、なにもかも抛って近江に取材の悠久の歴史小説をまた書きたいという気がふつふつと沸いてくる。それを望んでくれる人の多いのもよく承知している。人の生は、しかし、流れている、蕩々と、かなり早く。流れに逆らって抜き手を切って遡ってゆくのが自然な行為とは、もう考えていない。成るように成って行くものだ。かりに読者の手には届かなくても、わたしの中ではたくさんな小説が、物語が、書き続けられていて、わたしはそれを常に常に楽しんでいる。
刊行元の「秦氏史研究会 歴史調査研究所」も、編者の牧野登という人もまるで知らないが、ま、わたしには興味深い文献であり、感謝して、一冊別に注文することにした。 2001 8・1 10
* 幸い今日は昨日のような暑さではない曇り日。はやく目覚めて梅原さんの文章をじっくり校正し続けたりしていた。
一時期、「水底の歌」などしきりに梅原著書の書評がまわってきた。「隠された十字架」やその他の文庫本解説までまわってきた。あまり親切な読み手でも書き手でもなかったか知れない。その当時の梅原氏の原稿は甚だ闘争的で、ときに乱暴、ときに傲然として無礼なほどであったから、一流の文章はもっと静かなものだと不満をぶっつけたりした。だが噴出するマグマのようなものを氏が抱え持って、噴火しそうでしないと、胸苦しそうに胸を手で打ちながら話す姿も見知っていた。さすがにそういう時期を氏も通り過ぎてこられた。穏和になり、しかし、すこし普通の「評論家」になられた気味もある。
「闇のパトス」を逐字的に読んでいると、題のままの、身もだえのような勢いが感じられる。氏はみずから、当時この論文の評判がさんざんであったと回顧されているが、さもあろうと思う。哲学でも美学でも、当時の論文ときたら砂利を噛むようなすさまじい文献解説ばかりであったし、それが論文書きの作法であった。わたしが大学院での美学におさらばしたのは、一つは恋の為でもあるが、もっと大きかった一つには美学哲学研究の日本語に耐え難かったからだ。「闇のパトス」はとてもその点で当時のいわゆる論文ではない。「詩的ですらある散文」での感想とでも揶揄ないし罵倒されたのかも知れない。それを敢えてしていたところが梅原猛の「猛然文学」性というものである。「非小説」を書く「猛然文学」者というのが、長い間のわたしの梅原評であった。「闇のパトス」にもその趣は濃厚で鮮烈だが、加えて「これが哲学」というものだと思わせる「私想から思索へ」の徹底が見受けられる。惑い無くそこへ踏み込んでいる。踏み込み方が純真で無垢に感ぜられるところが、わたしがあの厖大な業績集を一点一作で代表させて「よし」と読み切っている理由である。
* 藤村のは迷っている。「嵐」「ある女の生涯」「分配」などの他に、「若菜集」などの詩をとりあげるか。だがわたしには、尊敬する藤村は「小説家」なのである。電子文藝館に「家」ではだが長篇過ぎる。
2001 8・2 10
* 「秦氏」の本は真面目に編纂されていて、たくさん教えられた。なにより、我が家の戸籍で秦の字は、デタラメ字であろうと思ってきたほど、奇態な漢字で、むろんわたしの機械ではどうしても見あたらないが、ところが、同じ字の秦さんが、九州にも東北にもいる。秦の父の根は滋賀県の水口と聞いているから近畿にもあったわけだ。秦氏は福岡、大阪、東京・神奈川にとても多い。
源平藤橘と謂った四大氏であるが、藤原氏からは多くの佐藤、近藤、権藤、江藤、工藤等の藤原系の苗字が派生した。九条も近衛も鷹司も西園寺もみなそうだ。源平も橘でも同じであり、北条は平氏だが足利は源氏である。怪しげな由来のものもあり、徳川の源氏も豊臣の藤原氏も信じがたい。そういう意味で秦氏は、上の四大氏も遠く及ばないほど多彩な苗字に分岐していることが、太田亮の「姓氏家系大事典」でも明言されている。秦氏は研究に値する古代氏族であった。
今度の本では「秦氏」「秦家」に拘泥しているため、少しは触れられていても、多くは秦氏系の分布に関して割愛している。島津、和田、羽田、波多野、和田その他無数の苗字に分かれていて、井出孫六氏も桜田淳子さんも、松本幸四郎家ももとは秦氏である。あなたも、こなたもね辿れば秦氏に行き当たる可能性はかなり高い。しかも全国に分散しているし、土木・鉱業・機織・醸造・造船・農耕・牧畜等多種類の産業を背負っている。領界なき「秦王国」があったと歴史家がいうのもむりはなく、北九州の東寄りは、また京都と近畿には、また関東にも、大きな拠点があった。国境のない王国であったと説かれている。
わたしの興味を覚えているのは、古代末期から鎌倉時代へかけての、宮廷周辺の馬術・馬藝で勤仕していた秦氏たちである。徒然草その他の随筆や説話にこの秦氏がよく出てくるし、「随身庭騎繪」という国宝の絵巻で馬に乗り馬を御しているほぼ全員が秦氏の名乗りで記入されている。観阿弥・世阿弥も秦氏、法然の母方も秦氏、宇佐にも稲荷にも松尾
にも鴨にも、多くの古大社の宮司や神主に秦氏がびっくりするほど多い。
わたしの実父は吉岡氏、生母は阿部氏で、つまりわたしは秦氏の血は受けていない養家の姓を継いでいるだけだが、阿部はどうだか、吉岡氏がはるか遡って秦氏との縁の有無など、わたしは知らない、分からない。とにかく、とてもとても面白い世界が漠然と広がってくる。こんなに苗字の多い国は世界中に無いのだから、難儀だけれど、面白い。
2001 8・12 10
* 柴田錬三郎「無想正宗」は、例の眠狂四郎もの。採るにも言うにも足りない消耗的な読み物。中村真一郎「砕かれた夢」は腰砕けの生硬な史談で、徳川忠輝の最期を書くようでいて焦点散漫、年譜をただ舐めて済ませている。味付け雑駁で小説の魅力には遠く達していない。水上勉「天正の橋」は、よく知られた精進川裁断橋欄干の銘文に取材して巧みに纏められた一編、堀尾茂助の戦死した嫡男かといわれる金助を、じつは叔父の息子であったと考証してゆく縦糸にそい、不運な父子、かなしい母の思いを書いている。ファクトノベルであり、腕のある作者が気に入った「材料」に出逢ったとき見せる手腕である。文学の香気とは遠い読み物の最たる一例であるが。つまりは真の文学がストーリイではなく、いわば比類ない文品であることを、逆に教えてくれる。「天正の橋」と谷崎の「小野篁妹に恋すること」を比べ読めば分かる。
阿川弘之の「野藤」と名付けられた鷹と鷹匠との話は、事柄が具体的に適切に把握されていて、表現も確かな佳い作品であった。阿川さんにこういう作品のあるのを知らなかった。鴎外に近いね歴史小説という品位をさも感じさせた。興味深い世界が文学として造形されていた。
五味康祐「喪神」は、この手の作品群の傑作であり、通俗読み物の域を頭抜けた表現を得ていて、魅力に富む。昭和二十七年の芥川賞に選ばれてあることに異存を覚えなかった。久しぶりに読み直して初読の昔の感銘がおおかた損なわれていないのをよろこんだ。松本清張の「ある小倉日記伝」とならんでの受賞だったが、ともに良い収穫であった。
山田風太郎「みささぎ盗賊」は、器用に書かれたコケおどし気味の語り読み物で、それ以上でも以下でもない。語りでなく、品位ある散文でこれだけの中身が静かに書けていれば、肌に粟したかもしれない。瀬戸内寂聴「ダッ妃のお百」(女ヘンに旦の字が再現できない。困ったことだ。)は文品低俗な読み物、他に言葉もない。
文品という言葉はわたしは昔から用いているが、あまり他では見ない。人品と比して読んで欲しく、わたしは「作品」にもそういう意味合いが本来あったと思っている。作があり、その作に作品が有るか無いかはべつの批評であり、べつの価値観なのである。この読んでいる「戦後傑作短編50選」の「歴史小説」特集のなかにも、作はたしかに五十有ろうとも、作品のある、文品のある文学は、寥々としているという事実を苦く苦く嘗めているわけだ、わたしは。池波正太郎「看板」など、要するに文学の世界とは別の住人で、暇つぶしの読み物としてもあまりに低俗。娯楽としてもあまりに軽薄。こういうのが面白いと言われればそれも理解するが、こんなものなら、たとえ書けても書かない。
志賀直哉が「赤西蠣太」を書いたとき、同じ材料で同じ頃に寄席の講釈師が評判だった。だが直哉は、自分はあんな風になら「書かない」と断言していた。書ければ何でもどのようにでも書くという書き手になんか、なりたくない。それが自分の手足を多少なり縛ることになろうとも。子母沢寛、海音寺潮五郎、久生十蘭、山本周五郎、柴田錬三郎、山田風太郎、池波正太郎。みな通俗読み物の雄であるらしいが、偏見なく読み進めて、どれもみな文学作品とはほど遠い消耗品でしかなかったのは、残念なような当然のことのように思われる。べつものなのだ。
娯楽。それはよい、その限りでなら。どれもこれもテレビドラマの「捕物帖」や「必殺もの」や「暴れん坊将軍」や「大岡越前」と選ぶところのない、ま、少しは巧みな、娯楽作ばかりだ。
2001 8・13 10
* 昨日、大津の読者から、少し自分も関係した本ですと、原田憲雄著魅惑の詞人『李清照』を頂戴したが、これは碩学によるもののみごとな名著であると疑わない。王国維による「中国の文学史を概括する名定義として廣く認められ」ているのが、井波陵一訳によると、以下の一文となる。
「およそ一代には一代の文学がある。楚の騒、漢の賦、六朝の駢文、唐の詩、宋の詞、元の曲、どれも(その時代を代表する)一代の文学であり、のちの時代がそのままひき継ぐことはできないものであった」と。
李清照はその宋詞に卓越した第一人者といわれる女性であり、時期的には清少納言、和泉式部、そして式子内親王のちょうど間の時期をしめて活躍し、この日本の誇る三女性の特色を兼ね備えた人であったと原田さんは説き起こされている。
「詞」とは日本で謂う歌詞に近く、主題は纏綿たる恋愛に材を得ることが多い。わたしも二冊の著書をもっているあの「梁塵秘抄」「閑吟集」などの内容と近いと想って見当はずれでなく、しかも巧緻な芸術性をもって宋という文化的に成熟し爛熟の気配もみせた大時代を代表したのである。この女流詞人はその宋詞の時代を「婉約」の魅力により豊かに制したのである。
原田さんの大著(朋友書店 6500円)は全巻、わたしに話しかけるように講話されている。耳を澄まして聴けば良く、詞はことごとく口語で訳されている。李清照の詞作全部が丁寧に克明に鑑賞されている。在野の、だが著名な碩学の手になるあくまでも学術的な検討を十分経た論著である、安心して読める。こういうプレゼントほど心の臓にふれて嬉しい物はない。読み進むのが楽しみで、かるく興奮している。
2001 8・14 10
* 昨夜は、バグワンのあと、明け方近くまで、「秦氏」の本と、「李清照」と、もう一冊夫人の編集に成る「追悼米田利昭」を読みふけって、ほとんど寝そびれてしまった。寝入るために、その前夜につづき、能の曲名を数え始めた。前夜は103番を指折り数えた。ゆうべは90足らずまで思い出して寝入ったらしい。
「秦氏」の移動移住の道筋がかなり具体的に読みとれる本で、それが興味深い。ゆうべは長野県の秦氏が、越後新潟県や土佐にまで及んで長曽我部氏に至ることや、近江との関連や、すてきに夢を誘う微妙な歴史的な軌跡に唸り続けていた。
「李清照」では、いま、詞史をおさらいしながら、詞の文学的な魅力やその有力な担い手について認識を新たにしている。この辺をしつかり耳に聴いておくことは、李清照の魅惑に触れるための前運動として欠かせない。
そして亡き人「米田利昭」へのモゥンニングワーク=悲哀の仕事の一冊。これが、予期以上に遺稿の論考部分が面白くて、やめられなかった、望外の収穫、有り難い読書だった。
なにげなく田山花袋の「『一兵卒』と啄木の日露戦争」から読み始めた、その「一兵卒」への視線の差し込み方がつよくて面白いなと、つぎに「歌くらべ『東海の』」という啄木作の短歌に関する蘊蓄と珍解を読んだ。これも面白く、それならと、次の絶筆となった「論考『雨ニモマケズ』」を読んだ。自解を書かれる前に亡くなったが、これまた相対立する谷川徹三と中村稔の論争の紹介その他が、興趣横溢、唸らされた。おしまいに「子規の自立─子規と芭蕉、『古池や』『瓶にさす』『鶏頭の』」を興味津々読み終えた。みな、わたしの高く評価する句であり短歌であり、小説『糸瓜と木魚』にも大切に取り入れて私なりに作中で論究してきた。
おう、米田利昭とはこういう論客でもある歌人だったのかと認識をあらため、論文読みの好きなわたしは、失礼ながら短歌よりずっと面白いなあなどと思った。遺稿集とか追悼集というのはあまり読まれないのかも知れないが、わたしは努めて読むようにしている。近来、嶋中鵬二夫人の『編集から』が、また松尾聡夫人らの『論文集』が優れて印象に残っていたが、米田夫人のによるこの本も、これほどわたしを寝入らせなかったのだから、たいへん優れた内容と言って良い。無縁に過ごした歌人であったが、こうして遺稿追悼集を贈っていただき感謝する。
* とはいえ、暑さのせいもあるがひどく疲労している。仕方がない。しかし三日間酒を飲んでいない。血糖値も問題ないし体重も増えていない。睡眠は時間をずらして補うようにしている。「脅かすわけではありませんが、気持ち程には、無理は利かない身体の筈です。頭でっかちにならずに、くれぐれも体調にお気をつけて」と心配してくれるメールもあるが、この「頭でっかち」はどうなのだろう。身も蓋もない非難でかわしようもないが、自分は極力マインドで、思弁や分別で、は生きていない、自分の為しているなにもかも、少なくもここ一年二年はみなハートから血を迸らすようにして生きてきたと思っていたが。甘いかも知れない。つもりは、そういうつもりなのだが。「黒いピン」をさしたままの仕事では、やはり頭でっかちの仕事なのだろう、か。妻はどう謂うだろう。
2001 8・15 10
* 中国文学史での「詩」と「詞」とのちがいを理解するのは難しかった。教室でも「唐詩・宋詞・元曲」などと教えては貰ったが、教科書にはもっぱら李白や杜甫の詩がならんでいた。原田さんの「李清照」で、少しずつ詞の感じがくみ取れてきた。かなり複雑な表現上のルールがある。詩に平仄の法のあるのは知識としては承知しているが、詞の平仄はさらに複雑微妙であるらしく、原音で原詞が読めないと理解できないが、原田さんの軽妙な日本語訳から察して読み進むと、味わいが、添い寄るように身内に流れ込んでくる。七言絶句とか五言律詩とかとちがい、一句の字数がかなり自在に変化し、われわれの唱歌や歌謡曲の歌詞に一番二番などとある、詞はその根源であったのか、謂わば一番二番というぐあいに聯になっている。すべてが恋愛詞ではなく、豪放に述懐したり自然描写したものもあるが、総じて情緒纏綿の人情や恋情を個性的に表現している。オリジナルな例えば「小原節」とでもいった原詞ができると、さながら替え歌のていで時代を超えて同じ「小原節」が出来てゆき、人気を博していたりする。作者は時の宰相であったり高官であったり碩学であったり大詩人であったりする。むしろ大方が彼らの風流な余技かのように宋以前から作られていたのが、宋で大成する。魅惑の女流李清照はその大成者の最たる一人なのである。もともとは作曲され謳われていた歌唱歌詞であったけれど、文藝の粋として発達し洗練されてゆく。
今、蘇軾や王安石の詞を読み終えた。この二人は北宋での旧法と新法という大きな政策上の対立者としても知られ、政治的には蘇軾は敗れて都を逐われているが、ともに巨大な存在であった。すでに李清照は生まれている。読み進めてゆくのが毎夜就寝前の楽しみである。
* 米田利昭の遺稿は、昨夜は鴎外の戦陣での詩歌や、妻シゲへの手紙などを語ったエッセイを読んだ。駒沢女子短大での最終講義は漱石の「吾輩は猫である」なのを最期の楽しみに残してある。鴎外という人はまことにフクザツな人物であった。仕方なく韜晦の二字を冠して分かってみたフリはするのだが、もっと生得の性質なのではないか。自然の発露ではないか。そう想いたくなっている。
* 日本史ではことに、わたしは、人ないし人々の移動に興味がある。よく特殊な信仰をになって人が旅して彷徨していた例は、中世に及んで聖や御師や歩き巫女など毛坊主・濫僧のたぐいがいわれるが、もっと以前、上古ないし以前でのたとえば「秦氏」の全国的な移動分布の道筋、さらにさらに遡って水や海の民がどのように列島の海辺から川を遡って山の民に変じていったか、などである。代表的なのは安曇の民。典型的な海の民でありながら山の民とも点在している。宗像は安曇にならぶ大水民・大海民で、「ムナカタ」とは「ウナカタ=海方」であるのは間違いない。そして全国に「ヤマカタ=山方」が存在する。山形や山県になっている。「秦氏」もまた海にかかわる存在でなかったと言い切れぬ。「海=ワダ・ワタ・ハタ」の近縁は否みがたい。だがかなり根強く秦始皇帝と弓月君やまた徐福伝説と関わり込んだ氏族伝承の多さも無視できない。秦氏の列島分布はまた日本国の帰化人政策とも関わっていた。政策的に分布定住を強いられた展開と、その後の氏族や一族内での私的な移動の両面が、時期と時代を次いで想像される。『「秦王国」と始皇帝の末裔』」はなかなか面白い。この本のわたしなりの拡充は、老後探索の趣味として恰好の課題かも知れぬ。
2001 8・18 10
* 就寝前の読書のしんがり四冊目に、とうとう婉約の詞人李清照に到達するまでの「前史」を通読した。原田憲雄さんの巧みな趣向で、李清照による卓抜の「詞論」にうまく沿うかたちで歴史が繙かれてゆく。この閨秀詞人は、原田さんによれば、じつに若く、二十歳前にこの「詞論」を成していたらしく、しかもその批評の正鵠を得て適切かつ辛辣なことは、引用されてあるその言句・文言ごとに、つよく頷くことができる。李清照の「批評」について原田さんの下している批評もまたみごとなもので、深く深く共感できる。すこし長いが引いて置く。文学を愛読するは、心して胸中に置きたい。曰く、
* 彼女(李清照)の育った家庭は、男も女もみな読書家でした。しかも当時の最高の知識人クラスだったのです。きかん気の彼女は、十五歳くらいまでに、家の人たちに劣らぬ読書家になっていました。われわれがいわゆるガリ勉によって手に入れるような知識ではなく、好きで好きでたまらずにする読書、従って彼女のなかでは、古典が感性となっていました。
優れたものと、そうでないものとは、詩であれ、散文であれ、舌にのせれば一滴の水でも、水道の水か井戸の水かが分かるように、判別されてしまうのです。そのような感性は、批評の高い水準を自分の内部に持っていて、作品に対するとき、基準に達しないものは自然にふるい落としてしまいます。作者がどのような職業のいかなる地位の人手あるか、などには関わりなく。
つまり彼女の批評は、ジャーナリズムからは遠く、作品そのものの価値を問題とするのです。「詞論」における彼女の批評は、だから、詞の歴史のなかだけで論じているのではなく、彼女に至るまでの中国文化全体を基盤として、新しい様式の詞がどれだけのことをそこで達成し得ているかを、論じているのです。これこそ、二十一世紀になった今日でも、世界中のどこに出しても通る「批評」というものではないでしょうか。
もちろん、彼女の下した判断が今日から見て全く訂正の要がない、などというのではありません。しかし、彼女の批評ほど本質的な普遍性を備える詩論は、中国の詩話類にはそう多くありません。たいていは、ジャーナリズムに汚れているのです。わたしがここでジャーナリズムというのは、詞は詩や文よりも下級なものであると初めから決めてかかる当時の文壇の常識にあぐらをかいた発言、詩人を論じるのにその家柄や官歴、文壇での地位等を問題にする態度、などわいうのです。
* 李清照が好きで好きでたまらず読んでいたのは、優れたいわゆる「古典」が主であった。通俗読み物では決してなかった。さもなくて一滴の水から、水道水か井戸水かを味わい分けるような作品の優劣の批評や選別は出来ないのである。この少女はジャーナリズムの汚れた低俗に引き込まれていなかった。これは、大事なことである。いまわれわれの文壇で行われている批評の大方は、出版ジャーナリズムに奉仕し迎合し、かなりに汚れている。大きな文筆家団体の年度のアンソロジーが、見渡しての選別でなどあったためしなく、じつに商売寄り仲間寄りに偏っている。作品よりも作家のネームバリューや情実の関わりで成されている批評や選抜や授賞が多い、多すぎるのである。
かくて、李清照の「詞論」に沿いながら的確に、簡潔に「詞」の歴史が前史、黎明期を経、柳永、張先、晏殊、欧陽修らを前駆とする、蘇軾や王安石や晏幾道、賀鋳、秦観、黄庭堅ら近時の大家・名家にまで至りつく。そして李清照自身が登場してくる。秦観の「千秋歳」を掲げておく。原田さんの訳である。「?」の字は「苑」のヘンに「鳥」のツクリ。
水辺沙外 水べ 砂州のかなた
城郭春寒退 市街にも春の寒さはなくなった
花影乱 花かげ乱れ
鶯声砕 鶯の声がさざめく
飄零疎酒盞 おちぶれて酒うとましく
離別寛衣帯 別れてからは帯もゆるんだ
人不見 ひと見えず
碧雲暮合空相対 青雲の暮れてなびくを見つめるばかり
憶昔西池会 憶えば昔 西池の宴で
? 鷺同飛蓋 すぐれた人たちと共に遊んだ
携手処 そこに今
今誰在 誰がいようか
日辺清夢断 都への夢断たれ
鏡裏朱顔改 鏡の顔は変わり果てた
春去也 春は去り
飛紅万点愁如海 千万のくれない飛んで愁いはさながら海
*「淡雅清麗」「和婉醇正」などと評された秦観を李清照は「感情趣致に主眼をおき、知的裏付けに欠ける。たとえば貧しい家に育った美女が、あでやかにふっくらしていても、富貴な感じに乏しいようなもの」と評している。鋭いといわねばならぬ。
いよいよ、その当人の詞に触れてゆく。まだ、頂戴した古賀晋さんにお礼も申し上げてないのは、恐縮。
2001 8・19 10
* 「李清照」を130頁まで読んだ。宋の略史と新旧派の政治的な抗争のなかで、旧法派の名家に生まれた李と、新法派の名家に生まれた趙明誠との恋愛結婚の経緯がおもしろい。まるで、ロミオとジュリエット。幸いに悲劇に至らず華燭をあげている。
李清照の仕事はハイティーンにして歴史に残るほどの上質な達成を得ていて、それを念頭に置いていないと読みとりの遠近法をまちがえてしまう。唐の元結がつくり顔眞卿が書いて磨崖碑にしたいわ
ば玄宗皇帝と皇太子の治世を賛美した「中興頌の詩」がある。これに後に和した宋の張耒の詩が添っており、李清照は、元結の頌にも、張耒の和詩にも辛辣に応じた批判詩、詞ではない詩、を二編残している。十八で結婚する以前の作とされている。
彼女は真っ向から天子をも批判して、「通念や常識」に対し知性と思想からの反撃を果敢に、かつ美しい詩句をもって展開する。すかーっとする、が、若い女性の身で、あの男尊女卑の古き時代の中国で、異様にめざましい表白である。それを許す文化が宋の時代の知識人・文人達の世間に在った、有りえたということか。
とにかくも清新な印象で読み進める本が手元にあるのは、堪らなく嬉しい。
* わが現代の選ばれた歴史小説はどうか。遠藤周作の「最後の殉教者」は維新のころの九州きりしたんの迫害を書いている。きめのこまかい文章ではない、ざらついた粗い生地のままのお話で、はなはだ感銘に乏しい。優れた作品を読んでいるというファシネートな嬉しさがまるでない。元に置かれた材料の祖述にすこし小説風の加工がされている、それだけだ。遠藤周作の作にして、講談の種本のようなモノであるのに落胆した。池宮彰一郎の「清貧の福」は、さらに輪をかけて正しく巧みに書かれた人情話か講釈の台本そのもの。あの大円生が声に出して読んでくれれば、聴かせるだろう、それでは小説の魅力とはいえない。お話である。読み物である。司馬遼太郎の「侠客万助珍談」は、池宮のより下手に書かれたやはり講釈そのもので、前座藝に一席うかがうだけの通俗読み物。この人は啓蒙思想家としては福沢諭吉以来といえば褒めすぎかも知れないが、小説はさっぱりうまくない。手荒い、安いモノが多い。文学で残る人ではなく、風化が早いかも知れない。
隆慶一郎の「柳枝の剣」は、五味康祐「喪神」なみに面白くうまく書かれて引き込まれる。藝としては、今挙げてきた誰の作よりも底光りしている。第一行から結びまでに、鳴って流れる音楽がある。作者の胸に文学の気が入っていると見ておく。文品がある。綱淵謙錠の「鬼」は、ものものしげでありながら、疎で粗、つまらない話題でありつまらない表現である。途中退屈感がともない、読みやめかけた。この文章でこの題材では、いっそ書かれない方がマシである。
次に読むのは三島由紀夫の「志賀寺上人の恋」だ、 谷崎の「小野篁妹に恋する事」の文品にどう迫れているか。期待しよう。
2001 8・26 10
* ゆうべ読んでいたバグワンは、こう話していた。
* 多くの人が巻き込まれれば巻き込まれるほど、あなたはますます考える。「それには何かがあるにちがいない。こんなにたくさんの人がそれに向かって殺到しているのだから、きっとそれには何かがある ! こんなに多くの人が間違っているはずがない」
いつも憶えておきなさい。こんなに多くの人が正しいはずがない ! と。
* また、こうも話していた。
* 生は、どこでもないところからどこでもないところへの旅だ。しかしそれは “どこでもないところ nowhere” から “今ここ now here” への旅でもありうる。それが瞑想の何たるかだ。どこでもないところを “今ここ” に変えること。
今(傍点)にあり、ここ(傍点)にあること……。と、突如として、あなたは時間から永遠のなかに転送されている。そうなったら生は消える。死は消える。そのとき初めて、あなたは何があるかを知る。それを神と読んでもいい、ニルヴァーナと呼んでもいい──これらはすべて言葉だ──が、あなたはあるがままのそれを知るに至る。そして、それを知ることは解放されること、いっさいの苦悶から、いっさいの苦悩から、いっさいの悪夢から解放されることだ。
<今ここ>にあることは、目覚めてあることだ。どこか別のところにあることは、夢のなかにあることだ──。”いつかどこかは夢の一部だ。 <今ここ>は夢の一部ではなく、現実(リアリティー)、現実の一部、存在の一部だ。
* バグワンはこういうことを、一休禅師の、「たびはただうきものなるにふる里のそらにかへるをいとふはかなさ」という道歌を大きな見出しにして語ってくれていた。
God is nowhere 神はどこにもいない を、無心の子供は、一瞬にして、 God is now here 神しゃまは、今、ここに、いましゅ と読み替えてしまうともバグワンは話すのである。
2001 8・26 10
* 大学受験生の若き友人から「夜更かし」のメールが来ていた。新潟にも秋が近づいているだろう。きびきびと、息づかいの正しい散文になっている。宇治十帖をつつがなく夢の浮橋にいたってください。そう、古典は声に出して読むのがいい。音読できるということは、言葉として受け入れ得ていることになる。細部の語彙以上のものがしみこんでくる。娘朝日子の大学受験勉強をてつだって、古典を山と積みあげ、片端から少しずつでも音読させて聴いてやったことが思い出される。「読める」それが「分かる」初めなのだとわたしは考えてきた。それで、わたしは今も多くの本を飽きることなく音読している。
2001 8・27 10
* 三島由紀夫の「志賀寺上人の恋」は不出来にツマラナイ作であった。ペダンティックに気が逸っていて、文章がさわがしく、観念的な議論にばかり作の動機が吸収され、痩せた、乾いた、ざらざらの造花のような作品だ。谷崎は満開の花、川端は雨に打たれた花、三島文学は造花と、わたしは評してきたが、造花のつまらなさがこの作品では露わであった。同じペダンティックでも、谷崎が大学時代に書いた「刺青」「麒麟」等にくらべて、三島の「志賀寺上人の恋」は観念的な議論が作品の中で昇華されていない。消化不良の吐物のように美しくない。上人も御息所にも人間のふくらみがなく、美辞麗句と観念の傀儡になったまま終えている。谷崎の玲瓏とした「小野篁妹に恋する事」に劣ること甚だしく、戯曲「無明と愛染」の域にもまだ遠い。「金閣寺」の作者にして、こういう若いときがあったのかとむしろ懐かしくさえあった。
2001 8・29 10
* ながく病床にある歌人冬道麻子が、手作りに近い小冊子の写真歌集を送ってきた。故郷にある三島大社の写真をもらって歌を書き添えたものだ。写真はいろいろに鑑賞に堪える綺麗なものばかりだが、かんじんの冬道さんの短歌がいけない。これでは、わたしが中学の修学旅行でつくりまくった短歌習作とえらぶところがないと、目を疑った。
この歌人はなかなかどうして、高安国世の門下で、病床で苦心したいい歌集をもっている。わたしの詞華集でも作品を採ってきた。
懐かしいからといって、写真を眺めながら写真や神社の解説のような歌をつくってはいけないだろう、拙劣空疎に陥るのは当然である。もともと紀行の詩歌には練達の人でもろくなものがない。感動が他人には伝わって来ないのだ。まして写真で歌をつくるのは、写真で繪を創るのと同じく、よくない。絵葉書の説明にしかならないのである。百近くあるなかで、わたしの辛うじて選び得たのは
只一首。たった、それだけ。ダメなのと並べておく。
恋人のそれぞれと来し夏祭り思い出としては切なすぎるが
大社にて源氏再興祈願せし頼朝のかげ偲びつつゆく
前のにはまだしも哀情が流れているが、後ろのは空疎な文字が定型を追いかけて置かれただけ。歌人と名乗るのなら、こんなお遊びではいけなかろう。自分自身の「今」と向き合うべきだ。
2001 8・29 10
* 電メ研の新しい仲間に迎えた加藤弘一氏に、新刊の『石川淳コスモスの知慧』をもらったのが、思いがけずと言うと失礼だが、明快ないい文章で書きはじめられていて、思わずぐんぐん引き寄せられている。石川先生は、わが太宰賞の生みの親のお一人、わすれたことがない。じつは、戦後の古本屋立ち読みの雑誌で、新制中学時代に石川淳の小説たしか「鷹」を読んでいるのだから微笑ましい。何となく何かを感じた気がした。難解と見えて明晰に知的な作家であられたと感じていたが、加藤さんの論調にも、はやそういう言辞がちらつくようで、しめしめと思い先を楽しみにしている。感謝。
三田誠広氏にも『ウェスカの結婚式』をもらっている。「吉村昭氏絶賛の純文学連作小説集」と帯に麗々しい女流の新刊ももらって一頁めの書き出しの文章の鈍さに、閉じてしまった。それでも巻頭の一作だけを読んでみたが、例えば故三原誠や、門脇照男、倉持正夫、大久保督子いった、湖の本でご縁の小説家達にくらべ、質が低すぎる。
純文学は、血のにじむ推敲からはじめてもらいたい。
* そんなことを言いながら、この「私語」は、一度めは書きっぱなしである。後に読み直すと、転換ミスがぞろぞろ出てきて恥ずかしい。
2001 8・29 10
* 昨深夜に上司小剣の「鱧の皮」を再読、質感豊かなリアリズムに、独特の生彩と生動があり、大阪弁の面白さにのせられた人物像のねばっこさと、それにもかかわらず不思議な軽妙感とに、とにかくも感銘を新たにした。まぎれもない文学作品であり、濃厚で、うまみが充溢。たれの利いた鰻とか鱧とかの味であるが、お茶漬けも添っている。織田作之助とかをはじめ、似た作風をおもいつくことは出来るのだが、よく味わってみると、こういう腰の据わった文学は作之助にない、もっと軽いし、わるくいえば上司作品のおっとりときめこまかな品位に及ばない。「電子文藝館」には、ぜひこれをもらおうと思い、編輯の高橋茅香子さんを介して青空文庫版の本文を入手した。
じつを言うと、わたしはこの作家の名の正しい読み方が確認し得ない。「じょうし」「うえつかさ」「かみつかさ」「うえじ」「かみじ」などと読める。「じょうし・しょうけん」とばかり読んできたが、さてとなると、確かでない。わたしの手持ちの講談社版文学全集には、一箇所もふりがながない。
志賀直哉の全集書簡には再々奈良の上司海雲という人が登場する。人名索引では「か」の項にある。小剣も奈良の生れで、家は手向山八幡の神主であった。海雲とは一党であろうか年譜では「上司の丘」に住んだので上司氏を名乗ったらしい、もとは紀氏であったという。日本人の氏名の読みはほんとうに難儀。編集者は、正しい読みを記銘しておくべきだろう。この作家の別の作品にもいろいろの趣味をおぼえているが、『U新聞年代記』という実名ものが面白い。
著作権の切れている「鱧の皮」を、敬意を表して、「e-文庫・湖」創作欄に頂戴する。
* ペンの初代会長島崎藤村の『嵐』本文も青空文庫に拝借した。
* 歴史小説の方で、双璧のようにみられている永井路子と杉本苑子の作品を比べ読んだ。永井の「右京局小夜がたり」は源実朝を、杉本の「風ぐるま」は、永代橋の崩れを書いている。作風がかなりちがう。永井さんは小説を利して史実を論じている点、わたしにもそのヘキがあり、分かる気がする。ただ、実朝御台の乳母の目から幕府の内情と実朝暗殺に至る経緯を推察させているのだが、新しみも深みも感じられず、特別面白く教えられた何もなかった。これでは、語りが成功していない。また、作の品位も低い。
杉本さん「風ぐるま」の描写は、あまりな通俗読み物で、うまいなと所々軽い叙述に立ち止まりはするものの、芝居の書き割りか、人情話のハナシカ口調のようで、筋は端から割れているし、意外性も興奮もおしまいまで何もない。売文の仕事ゆえ書かずには済むまいが、ご苦労なことという気もする。いまのわたしなら、これを書くぐらいなら昼寝していたい。
上司小剣「鱧の皮」のようなこっくりと味わい豊かな文学に触れて、一方に読み物作家の読み物を読むと、知名度では今や小剣などめったに知る人すらいないが、文学の格はちがうなあと驚嘆してしまう。
* 追分に暑を避けて静養されている木島始氏より、お手紙を戴いた。なかには、わたしの為につくられたコラージュ作品も含まれていた。いろんな広告を用いて創られてある。じっと眺めている。この八月十五日の東京新聞夕刊に寄稿された「分け隔てない戦没者霊苑」の切り抜きも入っていて、「e-文庫・湖」第11頁の論説・提言に戴こうとスキャンしてみたが、新聞記事には囲みの題字や写真や見出しがあり、うまく原稿として取り出せない。短いものだし、そのまま、わたしの手で書き込んだ。大事な提言であり、一読を願いたい。
2001 9・3 10
* 昨深夜に、芹沢光治良「死者との対話」、岡本綺堂「近松半二の死」を読んだ。電子文藝館の掲載候補作としてであるが、ともに、感動した。ことに芹沢さんの「死者との対話」はこの作家の根の真面目を痛切に書いていて、驚嘆した。敬服した。哲学に対し鉄槌をふるいながら、知性の真に在るべき在りようを示唆してあまさない。戦後の昭和二十三年に書かれている。これは、ぜひ欲しい。日本にも哲学者はいて、西田哲学はことに世界的なものとして喧しかった。だが、なんという日本語であったかと、わたしなども、さじを投げて嘆いたものだ。芹沢さんの批判はさきの戦争の不幸に触れながら、ことばと表現についても根源のことを適切に話されている。昔に読んだときよりも、はるかにさらに強い感銘を受けた。どなたが著作権者であるのか、そういう下調べが先ず急がれるが、ぜひにと願う。
岡本綺堂の新歌舞伎戯曲は、上演された有名なものでなく、優れた内容なのにふしぎと上演の機会をえないままの「近松半二の死」に目星をつけてみた。期待通りの、読んで静かな感銘作であった。長さも程良かった。著作権切れの岡本綺堂であり、スキャンしてみたい。
2001 9・5 10
* 「李清照」を読み継いでいる。宋詞の面白さが、趣の佳さが、解説的には言いにくいけれど身内に浸透してきている。見ようによればかなり特殊な内容の本であるが、退屈しない。著者原田憲雄氏の行き届いて親しみ深い麗筆の恩恵であろう。三田誠広君から「天神 菅原道真」という文庫本が贈られてきている。
* 昨日就寝前の読書は二時三時に及んだが、一休の道歌を説きながらのバグワンのことばに驚いた。わたしが、ものを書き出してこのかた、創作動機の芯に置いてきた一つ、「島」の思想、とおなじことが語られていた。おッ、同じことを言っていると思わず口に出たほど。
わたしは、言いつづけた。人の生まれるとは、広漠とした「世間の海」に無数に点在する「小島」に、孤独に立たされることだと。この小島は人一人の足を載せるだけの広さしかない。二人は立てない。そして人は島から島へ孤独に堪えかねて呼び合っているが、絶対に島から島へ橋は架からないのだと。「自分=己れ」とは、そういう孤立の存在であり、親もきょうだいも本質は「他人」なのだと。だが、そんな淋しさの恐怖に耐え難い人間は、愛を求めて他の島へ呼びかけつづけていると。
そして、或る瞬間から、自分一人でしか立てないそんな小島に、二人で、三人で、五人十人で一緒に立てていると実感できることが有る。受け入れ合えた、愛。小島を分かち合ってともに立てる相手は、己に等しい、それが「身内」というものだと。親子だから身内、きょうだいだから身内、夫婦だから身内なのではない、「愛」があって一人しか立てぬ「島を、ともに分かち合えた同志」が、身内なのだと。だが、それは錯覚でもありうる。いや貴重な錯覚だというべきもの、愛は錯覚でもあるだろう、と、わたしは感じていて、だからこそ大事なのだと考え、感じてきた。
昨夜、バグワンは、語っていた。(スワミ・アナンダ・モンジュさんの訳『一休道歌』に拠っている。以降、同じである。)
* ひとり来てひとりかへるも迷なり きたらず去らぬ道ををしへむ 一休禅師
一休はどんな哲学も提起していない。これは彼のゆさぶりだ。それは、あらゆる人にショックを与える測り知れない美しさ、測り知れない可能性を持っている。
ひとり来て一人かへるも──
これは各時代を通じて、何度も何度も言われてきたことだ。宗教的な人々は口をそろえてこう言ってきた。「われわれはこの世に独り来て、独り去ってゆく。」倶に在ることはすべて幻想だ。私たちが独りであり、その孤独がつらいがゆえに、まさにその倶に在るという観念が、願望が生まれてくる。私たちは自らの孤独を「関係(=親子、夫婦、同胞、親類、師弟、友、同僚、同郷等)」のうちに紛らわしたい……。
私たちが愛にひどく巻き込まれるのはそのためだ。ふつうあなたは、女性あるいは男性と恋に落ちたのは、彼女が美しかったり、彼がすてきだったりするからだと思う。それは真実ではない。実状はまったくちがう。あなたが恋に落ちたのは、あなたが独りではいられないからだ。美しい女性が手に入らなければ、あなたは醜いじょせいにだって恋をしただろう。だから、美しさが問題なのではない。もし、女性がまったく手に入らなければ、あなたはだんせいにだって恋をしただろう。したがって、女性が問題なのでもない。
女性や男性と恋に落ちない者たちもいる。彼らは金に恋をする。彼らは金や権力幻想=パワートリップのなかへ入ってゆきはじめる。彼らは政治家になる。それもやはり自分の孤独を避けることだ。もしあなたが人を観察したら、もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう──。あなたの行動はすべてみな、一つの原因に帰着しうる。あなたが孤独を恐れているということだ。その他のことはすべて口実にすぎない。ほんとうの理由は、あなたが自分は非常に孤独だと気づいているということだ。 で、詩は役に立つ。音楽は役に立つ。スポーツは役に立つ。セックスは役に立つ。アルコールは役に立つ……。とにかく自分の孤独を紛らわす何かが必要になる。孤独を忘れられる。これは魂のなかの疼きつづける棘だ。そしてあなたはその口実をあれへこれへと取り替え続ける。
ちょっと自分の=マインドを見守るがいい。千とひとつの方法で、それはたった一つのことを試みている。「自分は独りだという事実をどうやって忘れよう?」と。T.Sエリオットは詩に謂うている。
私たちはみな、実は愛情深くもなく、愛される資格もないのだろうか?
だとすれば、人は独りだ。
もし愛が可能でなかったら、人は独りだ。愛はぜひとも実現可能なものに仕立てあげられねばならない。もしそれが不可能に近いなら、そのときには「幻想」を生み出さねばならない──。自分の孤独を避ける必要があるからだ。
独りのとき、あなたは恐れている。いいかね、恐怖は幽霊のせいで起こるのではない。あなたの孤独からやって来る。──幽霊はたんなるマインドの投影だ。あなたはほんとうは自分の孤独が怖いのだ──。それが幽霊だ。突然あなたは自分自身に直面しなければならない。不意にあなたは自分のまったき空虚さ、孤独を見なければならない。そして関わるすべはない。あなたは大声で叫びに叫びつづけてきたが、誰ひとり耳を貸す者はいない。あなたはこの寒々とした孤独の中にいる。誰もあなたを抱きしめてはくれない。
これが人間の恐怖、苦悶だ。もし愛が可能でないとしたら、そのときには人は独りだ。だからこそ愛はどうしても実現可能なものに仕立てあげられねばならない。それは創りだされねばならない──たとえそれが偽りであろうとも、人は愛しつづけずにはいられない。さもなければ生きることは不可能になるからだ。
そして、愛が偽りであるという事実に社会が行き当たると、いつも二つの状況が可能になる。
* そしてバグワンは、深くて怖いことを示唆する。
それにしても、わたしは、バグワンと同じことを考え続けて書いてきたのだと思い当たる。所々のキイワードすらそっくり同じだ。そうだ、わたしの文学が、主要な作品のいくつかに「幻想」を大胆に用いた根底の理由を、バグワンは正確に指摘しているのである。いま上武大学で先生をしている原善はわたしを論じた著書をもち、しかもわたしの「幻想」性に早くから強い関心を示して論点の芯に据えているが、じつのところバグワンの指摘した「幻想」に至る必然には目が届いていないと、作者としては思ってきた。だが彼のために弁護するなら、作者のわたしとても、かくも明快に意識していたかどうかと告白しなければなるまい。
もう少し、バグワンの重大なと思われる講話の続きを聴きたい。
* ブッダたちは情報知識=インフォメーションには関心を示さない。彼らの関心は変容=トランスフォーメーションにある。あなたの世界は、すべて、自分自身から逃避するための巨大な仕掛けだ。ブッダたちはあなたの仕掛けを破壊する。彼らはあなたをあなた自身に連れ戻す。
ごく稀な、勇気ある人々のみが仏陀のような人に接触するのはそのためだ。波のマインドには我慢できない。仏陀のような人の<臨在>は耐え難い。なぜ? なぜ人々は仏陀やキリストやツァラツストラや老子に激しく反撥したのだろう? 彼らはあなたに虚偽の悦楽、うその心地よさ、幻想のなかに生きる心安さを許さない人々だからだ。これらの人はあなたを容赦しない。彼らはあなたに真実に向かうことを強いつづける人々だ。そして真実はぼんぞくにとっていつでも危険なものだからだ。
体験すべき最初の真実は、人は独りだということ。体験する最初の真実は、愛は幻想(=錯覚、貴重な錯覚)だということだ。ちょっと考えてごらん。愛は幻想だというその忌まわしさを思い浮かべてみるがいい。しかもあなたはその幻想を通してのみ生きてきた……。
あなたは自分の両親を愛していた。あなたは自分の兄弟姉妹を愛していた。やがてあなたは、女性、あるいは男性と恋に落ちるようになる。あなたは、自分の国、自分の教会、自分の宗教を愛している。そしてあなたは、自分の車やアイスクリームを愛している──そうしたことがいくつもある。あなたはこれらすべての幻想(=夢・錯覚)のなかで生きている。
ところが、ふと気づくと、あなたは裸であり、独りぼっちであり、いっさいの幻想は消えている。それは、痛む。
* この通りであると、少なくも「畜生塚」や「慈(あつ)子」や「蝶の皿」を、「清経入水」や「みごもりの湖」を、そして「初恋」や「冬祭り」や「四度の瀧」を書いた頃を通じてわたしは痛感してきた、今も。
だが、バグワンとすこし違う認識が無いとも謂えず、それは大事なことかも知れない。「慈子」や「畜生塚」のなかで用いていたと思うし、請われれば答えていたと思うが、わたしは「絵空事の真実」と謂い、「絵空事にこそ不壊(ふえ)の真実」を打ち立てることが出来ると書いたり話したりしていたのである。一切が夢だから、早く醒めよ、そして真実の己と己の内深くで再会せよというのが、バグワンの忠告であり、じつは、ブッダたちの、また老子たちの教えである。そういう教えのもっている怖さを回避するために仏教や寺院や経典ができ、また基督教や教会が出来、道教への奇態な変質が起きた。バグワンはそれらに目もくれるなと言いたげであり、わたしは彼に賛成だ。それらはその名を体した人の本来とは、ひどくかけ放たれた俗世の機構にすぎない。
いま触れた点でのバグワンとわたしとの折り合いは、そう難儀な事とも思えていない。わたしは「幻想」を創作の方法として必然掘り起こしたときに、「夢のまた夢」という醒め方から、絵空事の不壊の値に手を触れうると思っていたし、今もほぼそういう見当でいる。
* わたしが、ふとしたことからバグワンに出逢ったことは繰り返し「私語」してきた。もう何年、読誦しつづけていることか、しかし読んでも読んでも、聴いても聴いても、飽きて疎むという気持ちは湧かない。ますます理解がすすみ、嬉しい安堵や恐ろしい叱責を受け続けている。その核心にあたる機縁に、昨夜はじめて手強く触れ得たのは幸福であった。
2001 9・7 10
* 三浦朱門「冥府山水図」は、初読みの昔、かなり感心した。今度読んで、意外にバサバサと乾いた文章で書かれていた描かれていたのだと、すこし目の前がざらついた。かなりに頭でつくりあげたものだ。画と剣との違いを度外視していうなら、五味康祐の「喪神」はよく書けていたなと比較して思う。この歳になり、ものも見えかけてくると、三浦のこの作はツクリモノであり、感動は薄いものだと分かる。再読にかけた期待はむくわれなかった。
2001 9・8 10
* 「李清照」の人生は平穏ではなかった。稀有の夫婦であったけれど、夫は壮年の道半ばに早世した。金国に逐われる北宋の末路とこの夫妻の転変とは符節をきっかり合わせたように、東奔西走、つまりは金の脅威からの逃亡に明け暮れるようにして李清照は寡婦となる。その詞は、とみに哀切をきわめ、表現は美しく磨きあげられ、胸にせまる。
以前に、詩人「袁枚」の境涯に心を惹かれたが、むろん李清照は彼のような骨の髄までとろりと煮えて悟ったエピキュリアンではありえない。彼女の人生、まだまだこの先があるようで、日に数頁ずつだが美しい詞とともに、原田さんの佳い講話を楽しんでいる。日々の救いであり癒しである。
2001 9・10 10
* たまたま「文藝館」のため持ち出してい高浜虚子・河東碧梧桐の文学全集本を、ポンと開いたそこに、「遠山に」と題した虚子の手記が、埋め草ふうに組み込んであった。わたしの読みや感想は感想として、句の作者はどんなことを言うているか、書き写してみる。
* 遠山に日の當りたる枯野かな 虚子
自分の好きな自分の句である。
どこかで見たことのある景色である。
心の中では常に見る景色である。
遠山が向ふにあつて、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は當つてゐない。落莫とした景色である。
唯、遠山に日が當つてをる。
私はかういふ景色が好きである。
わが人生は概ね日の當らぬ枯野の如きものであつてもよい。寧ろそれを希望する。たゞ遠山の端に日の當つてをる事によつて、心は平らかだ。
烈日の輝きわたつてをる如き人世も好ましくない事はない。が、煩はしい。遠山の端に日の當つてをる静かな景色、それは私の望む人世である。 (昭和三三・三・二二)
* どこに書かれたものか知らない、新聞俳句欄の囲み記事ほどの分量である。これを読んでいて、これと関係なく、わたしがこのような景色を感じたとすれば、京阪か阪急かで大阪の方へ向かう車窓から、西の生駒山脈の方を眺めたようなものかなあと想われた。虚子がこれを書いたのは、ちょうどわたしが大学を出て、大学院に進むことの決定されていた時に当たっている。句の作られたのはずっと以前のいつかであろう、しかと認識していない。
この句にたいする憧れは、あるいは原作者よりもわたしの方が深いかも知れない。わたしには広漠の感はあっても落莫の感は微塵もなかったし、今もない。人生を日の当たらぬ枯野の如きものといった喩え方をしようという気もなかったし、今もない。総じてわたしは、この景色に「人世」ではなく、人世から離れた、一段も二段も深く沈んだ「別次元」を感じていたし、「日」は遠山にも、しかし枯野にも、ともにやわらかに落ちていた。目を遠くへはなてば、あああんな「遠山にも」日が当たっているなあという、嬉しさであった。虚子は枯野をくらく、遠山のみを明るく眺めているようだが、わたしは、心身をとりまく一面の枯野を、暖かな枯れ色にあたためている「日の光のあかるさ・やわらかさ」を感じて、感謝していた。
虚子とわたしとが倶に享有している最大の価値は、心平らかに「静かな」ことだ。「寧ろそれを希望する」という虚子はすこし芝居がかるし、「それは私の望む人世である」もミエを切っている。だが、「心の中では常に見る景色である。」「わたしはかういふ景色が好きである」と虚子は間違いなく思っていただろう。この人も、したたかに黒いピンを運命に刺しこまれて、ともあれ奔命し奔走しながら、烈日のように輝いた大世俗の人であった。師の子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を、認めない人だった。
わたしには、この「遠山」の一句を与えてくれて、有り難い人である。
2001 9・15 10
* 田村俊子の「誓言」が、とても刺激的に、文学的に面白かった。「木乃伊の口紅」は極めつけの代表作だが、語り口に乗せられて行く快感では、「誓言」が優っているかと思うほど。こじれた夫婦喧嘩の徹底した描き出し方に、女作者の地力の凄みを感じる。今読みついでいる歴史小説特集には、こういう凄みの現代文学に優る成果は、ほとんど無いと断言できる。歴史小説はつまらないと言われる、かつて大久保房男さんの説にこだわったことがあったが、大久保さんの説はおおかたの歴史小説にあてはまると、わたしも思う。人間の、人間関係の、真実のドラマが、葛藤が、歴史的な時間と背景に溶かし込まれ希薄にされているからだ。同じ風景画を描いていても、日本の風景でなく、珍しい外国風景を描いていると、それだけで何か一段点数を稼いでいると、画家本人まで錯覚しているのと似ている。歴史小説は、古い時代に旅をしているつもりであり、作者がそれを無意味にどんなもんだと自慢にしている、いや何かの隠れ蓑を着込んだつもりでいる。かえって胸をうつドラマが薄味になる。田村俊子ほどの剛力で、本気になって書かれる夫婦の葛藤は、それ自体は犬も食わないものであれ、文学の気迫と魅力は強くて深いのである。ゆすぶられる。
* 「李清照」の詞が、ますます佳い。一夜に一つ二つと読み継いでいるが、飽きるどころか惹き入れられて、ときにほろりとする。あまり表現の美しさ切なさに。
2001 9・16 10
* 京都今出川ほんやら洞の甲斐扶佐義氏が写真集「STREETS OF KYOTO」を贈ってきてくれた。画家秋野不矩が京都市文化賞を受けた1979年に、ほんやら洞で祝する会があり、自作詩を朗読して祝っている亡兄北澤恒彦の姿も写っている。甲斐さんは優れた写真による批評家である。その京都に肉薄した写真の一枚一枚は、本来そこに身を置いて育ってきていながらわたしの脱ぎ捨ててきたような京都であり、生き生きとして迫力満点、懐かしいきわみのもの。今度はこの人と対談したい。 2001 9・21 10
* 前夜、長時間かけて甲斐さんの写真集「京の町通り」を、一枚一枚、読み込むように鑑賞した。写真が技術的に高度高質化してかえって難しくなっている風潮とは逸れて、甲斐さんは、あくまでスナップに徹することで、被写体の「生活感」を批評的に掘り起こして伝えてくれる。写真技術ではなく写真の中味が深切に訴えてきて、面白く、ほろ苦くもほろ甘くもある。懐かしくて、おかしくて、おどろきに充ちていた。もう何冊も彼の写真集は見せてもらっている。甲斐さんは兄北澤恒彦の盟友であった。
2001 9・22 10
* 深夜の読書中から体調不和、ときどき心臓につよい不安感が沸き立ち、今朝、寝覚めがよくなかった。『李清照』を読み上げた。この大冊を戴いたとき、宋詞の鑑賞に付き合いきれるかどうかと一瞬思ったが、ほとんど、一日も欠かさず読み継いだ、少しずつ少しずつ。それがよかった。原作のすばらしさに加え、何といっても著者原田憲雄氏の講話そのものが過不足なく美しくて、文藝の冴えに感嘆した。躊躇なく、野間文芸賞に推薦した、小説ではないが、「その他」として。
* 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。
2001 9・25 10
* 「近世説美少年録」は長大作。同じ古典全集で平家物語が全二巻、これは全三巻。出始めは壮大な神話的といえそうに不可思議に活躍した物語であったが、しだいに講談調の世話ががったくだくだしい話になり、それが、まだ続いているから多少辟易ぎみに読み進んでいる。背景に、いや下敷きに、毛利元就と陶晴賢との葛藤があるらしい、が、そこまでは行かずに、中断の長篇と謂うからタマラナイが、ま、読み終えてしまおう。作者馬琴の詞藻の、博大に豊饒であることだけは、大いに大いに楽しめるので。
2001 9・29 10
* 和食の店を訪れて、日本酒と、ワインと、今日新着の無一物という焼酎とを、少しずつ堪能した。刺身と土瓶蒸しと焼き物は、いつものわたしの好物で。幸せなひとときであった。ここで「方丈記」を読み終えた。梅原猛さんと八代目清水六兵衛氏との対談も読んだ。「望恨歌」の謡曲台本も静かな気持ちでもう一度読み返した。
2001 9・29 10
* 岡本かの子の「東海道五十三次」と「老妓抄」を読んだ。むろん目星をつけて選んで読んだのであり、二つとも優れた作品、甚だ独自の思想に貫かれた、いわばフィロソフィーのある文学作品であった。女性の文学でこう或る種形而上学的な思想の提示のあるものは、日本では稀有と言えるほど珍しいものだった、かつては。今の作品はあまり知らないから何も言わないが。そして風格と品位を保っていた。型破りに不思議な夫婦親子の日々を意識的に構築していた作家として知られるが、そんな実像をぬきんでて、ことに晩年の秀作群には、しんとする魅力が備わっている。別格の風格がある。読んでいて、へんな文章と感じるスキがない。雑なものがない。手あかにまみれたものがない。単なる説明文がない。説明も時に応じて表現の効果を上げる役はするが、始めから仕舞まで説明の連続のような小説も実は珍しくないのであり、つまり下手なのである。歴史小説と称するものにそれがひどく多い。
* 吉村昭の「コロリ」はへたな小説ではない。だが、これが小説の文章かしらんと思う叙事と説明の多い作品であることに、わたしは何度も何度も何度も立ち止まらされた。小説の文章とは美文の意味ではない。誤解されても困るが、泉鏡花も小説の文章なら、対極にある徳田秋聲の散文もみごとな小説の文章なのである。気韻生動と謂うが、小説の文章には読み手なら味わいとれるそれがある。吉村の「コロリ」にはストーリーを展開し前進させてゆく技量は感じられるが、小説の文章を嬉しく楽しませる魅力が無かった。そのために読後に読書体験がいささかも感銘として残らないのである。
藤沢周平の「驟り雨」ときたら、凡俗という以上のなにの感想も湧かない、これなら落語の人情話で足りているというツマラナイ作物であった。
次いで読んだ渋沢龍彦の「儒艮」は、もうすこし渾然とした美しい一編を期待したが、終始一貫頭だけでデッチあげた血潮の通わないツクリモノでしかなく、文と謂い想といい、なんという不出来なものだろうと落胆を久しくした。高丘親王の天竺渡りや薬子の変など、古典世界に親しむ人間なら一度や二度は感情移入している。その体験に徴していえば、渋沢は才人と聞いていたけれど、どこに才があるのか全く掴めなかった。鍍金のはげたレプリカのように味気なかった。こんなものなら書かない方がマシである。さて、残るは六編。一つぐらいは、痺れさせて欲しいが。
言って置くが、私には個々の作家への個人感情はない。たとえ谷崎でも川端でも駄作なら駄作という。現に御恩の深長な例えば井伏鱒二や石川淳や永井龍男の作品にも、わたしはいささかも斟酌無く感想を述べている。
2001 9・30 10
* 寝る前にかなりの長さ読みふけった馬琴「近世説美少年録」の文章力に浮かされ、夢に馬琴調の文体で盛んに文章を書き募っていた。久しぶりの経験。むかし森鴎外の「渋江抽斎」幸田露伴の「連環記」などを読んだ晩にも、文体が夢に渦巻いておそろしいまで興奮したことがある。
2001 10・1 10
* 宜しくないと思いつつ、今宵も湯船の中で歴史小説 =時代小説を読んだ。二つ読んだ。一つが三浦哲郎作「贋お上人略伝」もう一つが平岩弓枝作「ちっちゃなかみさん」で、二つとも面白く好意的に読めて、嬉しかった。歴史小説ではない、平岩のなど文字通りの時代人情話で、亡くなった志ん朝などが、ゆっくりしっとり語り聴かせたらさぞいいものだろうと思う。話の運びが自然な流れをもっていて躓かない。セリフがいい。ほろりほろりとさせられる。出来たお話にすぎないが文藝としての藝が利いていて、やすらかに心を預けられるのが心地佳い。三浦の話は面白い。ただ、雑な語り口で、あるいは意図してそうしているとも言えるが、そう気を弾ませることで、原材料に寄りかかった作行きへの照れを、はずし隠ししているとも見える。その一つの表れが、段落の変るたびに文頭にでる、わたしはこれを自分でも「申し訳」とか「言訳」とかよんでいるのだが、しきりに「それが」「こうなってしまうと」「いかにも」「ところが」「だが、待て」「けれども」「ただし」「たとえば」「そんなふうに」「実際」といったたぐいの、実は慎重に省けば叙述がかちっと立ってくるところを、ぐずつかせたことばがやたら多出すること。これでは文章はだれる。雑になる。この材料を、料理はこのままでいい、文体は例えば鴎外先生の歴史小説のような抑制されて簡潔な文章語で仕上げられていたら、藝術的な感銘作になりえたろうになどとわたしは読んでいた。ま、そう思わせるほど面白いお話であった。だが、二作続けて佳い話に出逢うなんて、この「55選」では珍しいのである。
2001 10・6 11
* 宵のうちに曲亭馬琴作『近世節美少年録』を巻六十まで読み終えた。刊行されたのは、そこまでだが、あと一巻分が稿本で見つかっているという。何にしてももう二十巻も書かないでは、陶晴賢と毛利元就との決戦まで達しまい。ただ、この終ったところまでで、善玉の美少年元就の前身が大いに活躍してくれるので、それが気分良くてどんどん読み進んできたのだが、配本の第一、二巻では美男子ながら陰険な悪党の晴賢=末朱之介の話がえんえんと続き、気分が悪くて、いいかげんウンザリしていた。それが読後のサッパリしたところで、ともあれ綴じられていて結構であった。この大長篇を高くは買わないが、馬琴という人は、言葉の、いや語彙の、豊富な駆使という点では芯から感心させてくれる。文字コードに加わっていないだろう難漢字をみつけたければ、この本がいいと思う。途方もない漢字を無茶に豊富に用いてくれる。文体というかカタリであろうが、人の心を浮かして夢見させるだけの力がある。読み返すというのでなく、版面を眺め眺めもういちど全部頁をくって文字遣いや口調を鑑賞し直してみたいと思うほどである。
* 現代小説として林芙美子の「清貧の書」に惹かれている。貧乏たらしい小説だと思われる貧乏暮らしの描写なのであるが、その描写、表現にも、えもいわれぬ余裕と温かみとがあり、作者の天真がみごとに浸透している一字一句である。感動する。文学の魅力はさまざまに奥深く幅も広いけれど、この作品にもかけがえのない妙味というものがあり、いくら面白い、うまいとは思えども、三浦哲郎の「贋お上人略伝」にも、平岩弓枝の「ちいちゃいかみさん」にも、この芙美子作品が匂いたたせている「文学」的真実感は味わいとれないのであった。
2001 10・7 11
* 零時半ごろ床について、バグワンのあと、正宗白鳥晩年の秀作「今年の秋」を読んだ。驚嘆ものの達人の筆致であり、筆意である。白鳥のものでは初めて心底感嘆した。著作権者のおゆるしをぜひ得て「電子文藝館」を飾らせて戴きたい。白鳥の後、「うつほ物語」を読み継いだ。あて宮が東宮に娶される日がちかづくにつれて、あて宮に恋いこがれる無数の公家たちが、さながら狂態をさらして恋の歌をおくり物を贈るが、女ははなはだ冷淡を極め、返事もしない。へんな物語であるが、さきざきの落としどころがどうなるのか実は知らずに、とても楽しみにしている。配本は第二巻で、第三巻まであるのだから「美少年録」なみの大長篇である。完結にはもう暫く時間がかかるらしい、その前に「狭衣物語」の方が二巻で次回配本で完結する。百何十巻、残りなく寄贈を受け、有り難い。感謝し、またトテモ楽しめている。
2001 10・9 11
* おやおやまた午前二時になる。しかし「うつほ物語」をいまわたしは楽しんでいる。バグワンも。
2001 10・17 11
* 横光利一は「春は馬車に乗って」という不思議な味わいの作品を選んで、今校了した。川端康成と並んで新感覚派の旗手と謳われた優れた作者であった。この作品は新感覚派のここちよい優れた特色に溢れていて、悲しい物語であるにかかわらず、作家が「表現」の喜びにうちふるえるように初々しく確かにモダンな日本語を績み紡ぎ出していて、魅力横溢の初期代表作である。何十年ぶりかで読み返した。
2001 10・20 11
* 息苦しいほど片づけて行かねばならぬ仕事がある。せめて文藝館の仕事半分、自分自身の仕事半分と時間も割り振り体力も割り振りたいが。ああ、眠気がさしこむように来ている。階下に降りて朝のインシュリンを注射しよう、その前に血糖値を測らねば。
手洗いに、妻が庭からはこんだらしい、柄も色も佳い草の葉が、古い伊万里の土から出たきずものの徳利にさしてある。名前は知らないが、可憐な葉の一枚一枚の真ん中に、輪郭に相似の赤い色変わりが美しい。そういうのを目にとめてくるだけでも気持ちいいものだ。木の花も草花も好きだが、木の葉、草の葉の多彩な造形には見飽きしない。
「うつほ物語」が、巻を追い、あて宮の東宮入内が済んだあたりから、「内侍のすけ」の巻あたりから、うってかわり面白く興深くなり始めて、読み始めるとやめられない。たしかにこの物語には、女物語と異なる克明さが感じられて、それが最初のうち負担であったが、だんだんにそれまた時代と世界とのリアリティーの如く伝わって来始めると、ひょっとして源氏物語の宮廷社会よりも、男の見て生きて書いている「うつほ」の方が現実に近い調子をもっていそうな気もし、それが或る迫力・魅力とさえ感じられてくる。ながく、左大将正頼家に偏して「あて宮」への求愛行為が公家達を騒がせ翻弄していたのが、またもとの俊蔭一族の話に戻りかけてくると、物語に求心力が働き初めて惹きつけられる。古典はいいなあと読めば読むほど惚れ込んで行く。まあ、なんと二十歳代の青年のようにうぶに可愛い感想を書き付けていることと苦笑もされるが、本音のところ、わたしには六十六になろうなどという実感よりも、二十歳台に噴出した感性のあの波立ちのまま今も揺すられ続けている気分が強い。つまり年ほどはとても成熟していない。仕方がない、どう繕い隠すわけにも行かない。
2001 10・22 11
* またもや一時半。これから横になってバグワンと「うつほ物語」を読む。何冊も新刊を戴いているのも読みたいが、歴代会長のなかの遠藤周作と石川達三の作品を読んで、掲載候補作を選ばねばならない。わたしは疎い方なので、お二方の佳い短編小説を、どなたか、教えて欲しい。
2001 10・25 11
* 芹澤光治良作「死者との対話」を校了した。深くにも何度か嗚咽をこらえた。このような作品の前で、靖国神社に参拝することで死者たちへの感謝が表現できるのだと考えている日本の総理大臣を思うとき、暗澹としてしまう。この宇野千代に会ってゆきたいと語り、先生の語ったベルグソンの唖の娘のはなしに涙ぐんで最後の別れを告げ、人間魚雷回天に搭乗して死地に赴いた若い知性は、政治的意図を抱いて靖国神社に来る総理に、戦死者として何を逆に語りかけるだろう、よく来てくれたと名誉に思い感謝するのだろうか。昭和二十二年の歳末に書かれたこの文章は、わたしのまだ小学校六年生時代の戦後さなかの苦渋と反省との作である。こう結ばれている。
* そう、そう、忘れるところだった。十九年十月九日の手記に、君は書いている。
「この頃私は、時々女の夢を見る様になった。大竹は勿論、武山でも夢といえば、食物か家の夢しか見なかったのだが、身体と気分が楽になって、そろそろ私にも男性としての本来がもどって来たのかもしれない……」
女のことを書いてるのはこれがただ一度ぎりであるし、長い師弟関係の間、君が女のことを僕に語ったのもただ一回ぎりだった。
壮行会でみんな集った時、諸君は出征前に会っておきたい人々の名を次々に挙げて、女流作家に会って行きたいが誰がよかろうかと、冗談らしく僕に質問した。僕はその時宇野女史の名をあげた。その少し前に、出征している夫を思う妻の手紙という形式で愛情にみちた美しい小説を発表していたし、人柄といい薔薇のようなきれいな印象を諸君にのこしてくれるだろうと考えたからだった。次に野上(弥生子) 女史の名をあげた。諸君に理解ある母を感じさせるだろうと考えたからだった。殺伐たる戦場で、諸君が遠く故國を想う時に、宇野女史も野上女史も諸君の胸をあつくはげますような印象をきざんでくれるだろうと信じたからだった。
その時、僕は諸君に誰も紹介状を書かなかったが、諸君は紹介状はなくても、どんな人物の門をも叩くフリーパスを持っている様子であったから、必ず二人の何(いず)れかを訪ねるものと思っていた。ところが、君は最後に独り訪ねて来た時にいった。
「先生、宇野千代さんに紹介状を下さい。女を訪問するに紹介状がなくては失礼でしょう」
僕は、うん書くといいながら、紹介状を書く前にいろいろ話しているうちに、ベルグソンの話になり、その果てに、君は訳のわからない感動に涙をこぼして、それがてれくさくもあったのだろうし、又、叔父さんの家の晩餐の時間がとうにすぎたのを気付いたのであろう、あわてて帰り支度して、紹介状のことも忘れて帰って行ってしまった。出征前に宇野さんを紹介状なしに訪ねたのであろうか。あの翌日、紹介状をわたさなかったことに氣付いたが、もうおそい気もして苦にした。帰還したらばおつれすればいいだろうと、家人は簡単に僕を慰めた。君が戦死しようとは考えなかったのだ。
今日も君の手記の十月九日の手記まで読んで、はっとして、紹介状をわたさなかったことが、またしても悔いられた……
それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。
(昭和二十三年十二月)
* なにもかも、どこかで有機的につなぎ合わされている。わたし自身のこのような毎日の思いも、また、つなぎ合わされたなかの一つの小さな結び目である。思想も人生もこうして形を持って行く。
2001 10・28 11
* 三木清の「新しき知性」は明晰な、しかし平明な語彙と構築とのめのさめるような好論文である。科学、技術、知性、歴史を深く見入れながら、構想力へ触れてゆく論考の流れように美しさをすら感じ取れる。あの不幸な戦争の最中にこれが書かれていたかと想うと、思わず頭がさがる。以下「伝統論」「天才論」「指導者論」を採り上げた。やはり日本ペンクラブの会員であった。
中村光夫会長のものを、「正宗白鳥論」でと思っていたが、夫人のご希望で「風俗小説論」か「知識階級」という題の論考かで決めたい。前者は一冊の本であり、やはり前半ていどを抄するよりない。後者は未見のものであり、いま青田委員に依頼して国会図書館ででもプリントして貰おうとしている。志賀直哉のは、「早春の旅」をと思っていて、志賀直吉さんから「それでもよい」ペンクラブの判断に一任すると言われ、考え込んでいる。あまり簡単に手に入るものでない、良いものを選びたいのである。石川達三会長のものは、第一回芥川賞の「蒼氓」第一部が欲しい。
白柳秀湖の『駅夫日記』という歴史的に非常に問題をはらんだ秀作を用意できるのも嬉しい。かなり長いが。
しかし、電メ研内の「手伝います」の声もなんだか細く遠のいて、この分では、こういう作業の全部にちかくわたしがしなくてはならぬかと思うと心細い。だが、し甲斐はある。
2001 11・1 11
* 「哲学ノート」の第二章「伝統論」も、優れて興味深い展開であった。あの時代に、歴史と伝統と文化と芸術にかかわりながら、人間的な理解と洞察を少しも形崩さず揺るがずに、明晰に解き明かしてゆく魅力はたいしたものだと思う。
2001 11・1 11
* 三木清の「天才論」を読み終えた。カントの『判断力批判』に多くを拠りながら語られ、大学時代に戻ったような気分。この本は美学の教室ではバイブルほど大きな存在で、妻の卒論はその「構想力」についてであったから、まさに三木清の関心や論策に重なっている。彼はあの戦前戦時にここから「指導者論」へ繋ぐことにより、戦後日本の混乱と再生を予見し、また洞察したのであろうか。
2001 11・2 11
* 気にしていた汚い髪を散髪し、気分すっきり。しかし、「お風邪ですか」と訊かれたように、すこし熱っぽいのかも知れない、かすかに頭痛がある。昨夜就寝前にかなり左の首筋に危ない痛みが来た。そのままバグワンと「うつほ」とを読んで寝た。
「うつほ物語」は、最初の方での俊蔭漂遊や琴の伝奇などがえらく面白かったが、そして、巨木の「うつほ」住まいをしていた俊蔭女と一粒種仲忠が、ついに父であり夫である兼雅に見つけられるあたりまでは、べらぼうに面白かった。だが、宮廷社会で、権門源正頼の娘「あて宮」への、大勢の公家達のあまりな求婚騒ぎになってから、じつは、興味をぐんと失っていた。
だが、少し長い中断のあと、また読み始めて行って、ちょうど「あて宮」が東宮に入内してしまったあたりからは、また「俊蔭女」「仲忠」母子に物語の軸芯が移動して行く、と、これがまた面白くて堪らなくなり、一日の最後に「うつほ」を読むのが楽しみでその日を頑張るような昨今になっている。源氏物語が完成された女物語とすると、「うつほ物語」は、どうも、男社会の男物語で、筆者も男で、男の関心と興味とで宮廷社会の日常を克明に、表現、と言うより記録し記載して余すところ無く、そのあまりな克明さに音をあげていたのに、今度はそれ自体が面白く、興味深く、とてもリアルに感じられるようになってきて、これにくらべると源氏物語など、やはり女のつくり物語であるなあという感想
もつ。、「うつほ」には(物語のことを云うのではないが、)実録的な重量感が大きな魅力になっている気がしてならない。
『狭衣物語』ももう完結しているのだが、この、女をとらえ、女を捨て、しかも後悔ばかりして、しかも女を泣かせ続けて果てしない、いずれ天子にも登位する狭衣大将のことが、主人公としては、源氏物語の薫大将よりもいじいじと煮え切らず、どうにも好きになれそうにない。いや、まだ読み終えていないのだから、早合点は止しておこう。
* 新聞もテレビも、ニュースとなると不愉快なことばかりで、気が腐る。
2001 11・2 11
* 四時に起き、三木清の「哲学ノート」から、序・目次とともに冒頭の四編「新しき知性」「伝統論」「天才論」「指導者論」を抄出し終えた。西田幾太郎門下の最優等生として知られた哲学者で、 1897.1.5 – 1945.9 兵庫県揖保郡に生まれている。昭和二十年(1945)三月、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、九月、豊玉拘置所で獄死。『哲学ノート』は昭和十六年真珠湾奇襲の直前十一月、河出書房刊。著者は「序」にその緊迫の刊行日付と共に、こう書いている。
* これは一冊の選集である。即ち「危機意識の哲学的解明」という最も古いものから、「指導者論」という極めて最近のものに至るまで、私の年来発表した哲学的短論文の中から一定の聯関において選ばれたものであって、その期間は『歴史哲学』以後『構想力の論理』第一を経て今日に及んでいるが、必ずしも発表の順序に従ってはいない。程なく『構
想力の論理』第二を世に送ろうとするに先立って、私は書肆の求めによってこの一冊の選集を作ることにした。ここに収められた諸論文は如何にして、また何故に、私が構想力の論理というものに考え至らねばならなかったかの経路を直接或いは間接に示していると考えるからである。
これらの論文はたいてい当初からノートのつもりで書かれたものである。種々様々の題目について論じているにも拘(かかわ)らず、その間に内容的にも聯関が存在することは注意深い読者の容易に看取せられることであると思う。もとより私はそれらを単に私の個人的な感心からのみ書いたのではない。現実の問題の中に探り入ってそこから哲学的概念
を構成し、これによって現実を照明するということはつねに私の願であった。取扱われている問題はこの十年近くの間、少くとも私の見るところでは、我が国において現実の問題であったのであり、今日もその現実性を少しも減じていないと考える。その間私にとって基本的な問題は危機と危機意識の問題であったのである。
私のノートであるこの本が諸君にもノートとして何等か役立ち得るならば仕合(しあわせ) である。すでにノートである以上、諸君が如何に利用せられるも随意である。必ずしもここに与えられた順序に従って読まれることを要しないであろう、──初めての読者は比較的理解し易いものを選んで読み始められるのが宜い。その選択はすでに諸君の自由である。私が示した問題解決の方向に諸君がついてゆかれるかどうかはもとより諸君の自由である。ただ、これはノートである以上、諸君がこれを完成したものとして受取られることなく、むしろ材料として使用せられ、少くとも何物かこれに書き加えられ、乃至少くとも何程かはこれを書き直されるように期待したいのである。
昭和十六年(一九四一年)十月廿一日 三 木 清
* 哲学者が殆ど身を挺して警世の言を発していたことが察せられる。その内容は、太平洋戦争勃発直前にのみ適合するのでなく、読めば読むほど、現在只今の我が国の「危機」にも当てはまっている。「e-文庫・湖」第六頁に収めた。三木清もまた日本ペンクラブの会員であった。獄中作家の一人であり、不幸にして獄死した先輩である。
2001 11・3 11
* 文化の日、いま、朝の七時半。もう三時間余も機械にむかっていたことになる。過剰なのは分かっている。真夜中、ふとピピという音に目が覚めると、妻が、寝床の中で携帯メールの通信中。そのまま目がさめてしまい、二階にきた。ディジタルの、変な世の中。おかげで、三木清のことばを深く聴いた。「指導者論」など、彼が何を言いたいのかが痛いように察しられて、小泉だの田中真紀子だのの指導者としての失格性にも思いが落ち込んでいった。(歯の根がガクガクしている。) 2001 11・3 11
この気分のわるさは、昼間から読み始めていた三田誠広作「菅原道真」の、およそ文藝の藝の感じられない、索漠として説明的で、歴史年表を滑り台にして滑っているような、しかも無茶なつくりごとに、かなりムカムカしていたのを増幅してくれた。もっとも、題材が道真の時代となると、「秋萩帖」を書いたわたしには興味がある。どんどん読んでゆく。
あしたの講演に気が乗らなくなってきた。弱った。バグワンと「うつほ」を読んで、風邪薬をのんで寝てしまおう。何が何でも明日を済ませてしまって、明後日の眼科診察だ。 2001 11・4 11
* 夜前の「うつほ物語」では笑ってしまった。仲忠が父兼雅に向かい、父のうち捨てて顧みなかった多くの妻妾を、自分の生母のために父が盛大に造営し一緒に暮らしてきた三条殿へ、すべて引き取って差し上げるように提案するのである。源氏物語六条院の前駆であるが、この成行きの中で、父が官位のことや女のことで、息子仲忠や愛妻俊蔭女に話す中身や物言いが、これが平安貴族の左大将ほどの人のものかと目をみひらかせる奔放、というよりもむちゃくちゃなもので、猥雑この上なくかつ可笑しい。これが薬になったのか、就寝前に172もあった、血糖値が朝には105の正常値。結構であった。心用意して、昼過ぎには出掛けようと。
2001 11・5 11
* 妻の買って置いたDVD「ホブソンの婿選び」を見始めたら、想像を絶して面白い出だしで、ぐいぐい引込まれ、かろうじて中断した。映画をぜんぶ見通すほど時間に余裕がない。
中村光夫「知識階級」の校閲がちょうど半分、かなり長い。啓蒙的な書き方だが、要点を押さえながら漸進してゆく。明治維新から明治以降へ、日本の歴史を動かしたような動かし損ねたかも知れないような「知識階級」への批評が、そのまま日本の近代論になっていて面白い。前へ進みたい。まだ半ばなので。
中村先生独特の口話体の批評はかなり読んでいた、小林秀雄は敬遠しても。志賀直哉論、谷崎潤一郎論、風俗小説論、カミュの異邦人論など、愛読したと言える。それだからこそ、中村光夫の推薦で太宰治賞に知らぬうちに最終候補へ差し込まれたのだと聞いたときには、嬉しかった。しかし中村光夫に「清経入水」を送っていたわけではない。批評家で一番偉いのは小林秀雄らしいと思っていたから小林秀雄には送っていた。筑摩書房に送っていたのではなかった。小林秀雄はどうやら中村光夫の師匠格であるらしいという程度はものも知っていたが、小林秀雄は読まなかった。だけど私家版はいちばん偉い人に送るものと思っていた。だから小説家では谷崎と志賀直哉に送っていた。新人というのはおかしな人種である。なつかしくなる。
2001 11・6 11
* 昨夜の内に「うつほ物語」配本第二巻分を読み上げた。もう一巻の配本が待ち遠しい。兼雅と俊蔭女の夫婦、その子息仲忠と妻女一宮のいわばホームドラマのように読み出せてくると、物語に筋が動き出して、らくになる。こんなに毎夜楽しみに読み進む物語だとは思われなかった。もっと期待していた「狭衣物語」の方が手にするのが気が重い。じれったいエゴイストである、狭衣という大将は。それよりいっそ、時代は降るがまた鎌倉時代の物語を楽しむか、それとも浄瑠璃に挑んでみるか。「義経千本桜」を通しで堪能したので、今度は黙阿弥の「三人吉左」が観たくなった。師走は、もう気らくに過ごしたい。あ、そうか、今度は湖の本か、ラクは出来無いなあ。
2001 11・9 11
* 昔、学研から二十一巻の「日本の古典」が出た。カラー写真を豊富に使った現代語訳を中心にした啓蒙的で華麗な大判本だった。井上靖監修で、わたしは「枕草子」を担当した。同じ趣旨の「明治の古典」シリーズでは「泉鏡花」を担当した。その日本の古典の方で、村上元三さんが担当された「義経千本桜」を、三夜かけて通読したのが、とても読みよかった。通読した巻は、じつは、自分の担当巻はべつとして、初めてだった。うまく編集してあるなと、当時の学研編集者にいまさらに敬意を表したい。
ついでに、馬琴の「椿説弓張月」を読みたくなった。黙阿弥の「三人吉左廓初買」も読みたいが、探したが家になかった。
2001 11・12 11
* 二時過ぎにテレビから離れバグワンを読み、すこし湖の本を校正し、それから馬琴の「椿説弓張月」を平岩弓枝さんの紹介で読んでいった。馬琴は北九州の辺から話を起こすのが好きなのか、「近世説美少年録」もそうだったが、この物語のヒーローの源為朝も、九州から琉球へ動いた末に、また大きく運命に誘われて琉球へ流れよる。おもしろい。お話だけで面白く読みたいのなら、この学研版「日本の古典」はすこぶる読みやすいし写真も豊富で楽しい。
2001 11・13 11
* 白柳秀湖の「駅夫日記」を読み始めたが、すばらしい。作品の存在すら念頭になかった初の出逢いだ、作者は明治十七年生まれ、昭和二十五年に亡くなっている。この作品は、明治四十年十二月の「新小説」に発表されているので、自然主義作品としては花袋の「蒲団」に重なってくる。まだ予感ながら「蒲団」以上の社会性に富んだ自然主義先駆の記念碑作のように思われる。これが電子文藝館や「e-文庫・湖」に拾い採れるのは、とてもとても誇らしく、また嬉しい。
山手線の目黒駅を舞台に語り始められている。目黒はね東工大に通った頃の目蒲線への乗り換え駅だった。今はずいぶん立派な駅になっているし、権之助坂辺の景色もこの作品の頃の寂びしやかに武蔵野めく風情からは、ウソのように都会の顔をしている。またも、佳い作品に出逢える予感で頬がゆるむ。こういう先輩作家の秀作をこうしてまた世に送り出せるのが、言いようもなく嬉しい。
2001 11・13 11
* 「椿説弓張月」のストーリイの面白さは「近世説美少年録」を優に遙かに凌駕している。「南総里見八犬伝」よりも大らかに楽しめる。日本の文学史にこういう面白い読み物の伝統があったことは、忘れがたい。溯れば西鶴があり御伽草子があり、遠くは竹取物語へ達するか。
2001 11・15 11
* 白柳秀湖「駅夫日記」を書き起こした。正字で旧仮名遣い。仮名遣いは生かせるが正字は化けて出る事例が多く、試みにこの原稿では正字略字の混在を敢えてした。主人公が、年齢相応にやや感傷的で俗に云う貧困に育ったことを恥じ入りすぎているのが、劣等感の強すぎるのが焦れったいけれど、たいへん素直な前期自然主義の美しい描写と感動のなかで、素朴にストーリーが績み紡がれ繪を成してゆく。時代は古いがモチーフはかっちり強く捉えられていて、この先の闘争がどう展開するかといろんなことを考えさせる。無理矢理の妥協や不自然な作為のない、得難い古典性を帯びた秀作に出逢えてほんとうによかった。「破戒」から「駅夫日記」へと自然主義が伸びてゆけば、よほどまた別の趣の近代文学史もありえたろうに、埋もれてしまったのが惜しまれる。不運の秀作と呼ぶに憚りないものであった。
2001 11・16 11
* 学研版の啓蒙「椿説弓張月」を読み上げたが、原作が読みたくなった。これに比べると「近世説美少年録」は駄作である。構想といい、為朝伝説で琉球の不思議をふんだんに奔放に、しかも幾らかは拠るべきモノに拠りながら書いてある気がする。この原作を読み、ついでに敬遠してきた「南総里見八犬伝」も読んでやろうかなとうずうずしてきている。
2001 11・16 11
* 城塚さんから送られてきた吉川英治の文庫本「柳生月影抄」を読み始めている。久間十義氏から戴いた「海で三番目につよいもの」の書き出しから導入部のはこび、すてきに新鮮で息をつかせない。ああいいなと嬉しくなっている。
2001 11・17 11
* 直哉の「邦子」は何度も読んできたが、ある読み違いをしていたような気が今度はした。これは夫の浮気で妻が自殺する話ではあるが、直哉の意図には、芸術家と家庭との問題意識の方が重く沈んでいる。直哉は、なかなか「書けない」文豪であった。その「書けない」苦しみと平和な家庭との相克は、他者の評論以上に直哉にとって重いことであった。それがこんなに真正面から主題化されているのに、わたしは、ながくこれを「山科もの」の同作というふうに読んできていた。明らかにわたしの大きな間違いであったと気がついた。本質的にたいへんな苦悩がココには書かれていたのだ。
2001 11・18 11
* 吉川英治の『柳生月影抄』のなかでは、「大谷刑部」「鬼」が、まずまず、よかった。まだ皆は読んでいないが。
2001 11・20 11
* 気分はよかったので、美しい人のいる店に寄り道して、三種の鉢物で熱燗の酒と焼酎無一物をゆっくり堪能し、森瑤子の「情事」という第二回すばる賞作品を読み始めた。彼女のその授賞式にはわたしも出ていた。じかにお祝いを言うたかどうか記憶にないが、ちょうどわたしが「すばる」巻頭に長篇『墨牡丹』を出していた頃にあたっていた。そして今日観てきた芝居のまさにその時期に当っていた。森瑤子は、早くあっけなく死んでしまった。「情事」は彼女のいわば文壇的処女作に当っている。のちのちの乱作ものより、かくべつよく練れていると思う。吹っ切れて書けている。
しかし作品よりも、相客のいない静かな割烹の店で、黙然と酒を啜って放心できるのどかさが、わたしにはさらに有り難い薬であった。くつろいだ。
2001 11・21 11
* なんとか言いながら「狭衣物語」を読み継いでいる。すばらしい男であるように書いてあるが、妙な男である。優雅の極みの変物である。子どもを産ませた女が二人いて、一人には徹底して嫌われ、一人には死なれている。死んだ女に産ませた子を、たまたま引き取って育てていた最高貴の女にうかと近づいて、結婚してしまうハメになりながら、これまた徹底して嫌われている。それでいて、宮廷社会に褒めないもののいない奇蹟のような男なのだから、こんな奇妙な作り物語もないと思いつつ、この物語、文章がじつにこなれて美しいから、こまってしまう。結局読まずに寝てしまうことが、ここずっと一晩もない。
* バグワンの「一休」上下巻を読み終えた。また「存在の詩」か「老子 道」かを読み始めようと思う。
2001 11・25 11
* 「狭衣物語」の主人公の理想化は、ことばでの表現のかぎりでは至れり尽くせりで、それが逆に自然さを欠いて趣向倒れにちかくなっている。文章がいいので読ませてくれるけれど、義理にも贔屓にはできない、むしろこうなると、終始寄せ付けない理想の女人、「源氏の宮」、犯されて子を産み尼になってからは、子の父の狭衣を避け通す「女二の宮」、成り行きの夫婦になってしまい、夫狭衣を嫌い抜く「一品の宮」などのガンバリに、声援したくなる。狭衣大将は光源氏にならんで大人気のヒーローであったようだが、うつほ物語の仲忠、落窪の中将、浜松中納言、寝覚の大将達の方が、伊勢の昔男や源氏物語の男達の方が遙かに佳い。そんなことを思いながら、情趣のよさに読み継ぎ続けて飽きないのだから、すばらしい。
2001 11・29 11
* 遠藤周作「白い人」をとにかく原稿に仕上げてしまいたい。それに気が急いていて、帰ると直ぐ。字義通りに「凄い」作品である。もっときちんと推敲されていたらさらによかったろう。「凄い」とは当節の軽薄な嘆賞の俗語だが、もともとは、そんなものではない。心にまで粟立つ寒気がするような、顔のこわばるような、こわさを言う。
2001 12・4 11
* 遠藤周作原稿「白い人」は重みのある、凄みのある、主題深甚の一佳作であった。こういう現代作品、信仰と人間を深みから把握しようと試みた思想性の烈しい小説作品を、われわれの電子文藝館が抱えている意味深さを考える。どんな人のどんな作品も、何を書いてもいいが、質的には、こういう作品と真摯に鎬をけずり火花を散らす作品であらねばと思う。文藝館にどれほどそういう作品が出てくるか、それが楽しみでならない。ここは、そういう「場」だ。「白い人」の校正は永くかかったが、力強く読ませてくれて嬉しかった。つぎは久間作品をコピーし、加賀作品をとにかくも試みにスキャンしてみる。
2001 12・5 11
* おかげで、夜更かしして本を読みすぎ、朝も寝過ごしてしまう。籤とらずのバグワンは「般若心経」に戻っている。
そして「狭衣物語」が佳境から大団円に近づいている。狭衣大将は理想の「源氏の宮」によく似た美しい「式部卿の姫宮」を、この度こそ我から望んで東宮を出し抜くほど熱心に妻にし、一通りの幸せにやっと辿り着いた。あまつさえ天照神の託宣を得て東宮を超えていきなり天子になり、いまは内裏住いしている。冷酷に手痛い目をみせ尼にしてしまった「女二の宮」との間には、祖父母の嵯峨院と皇后宮との子として育った若宮があり、狭衣の子であることを天照神は夢告している。また思い侘び入水を救われた後に出産して死んだ「飛鳥井の君」も、美しい姫宮を父狭衣の手元にのこしていった。
式部卿の女宮との出逢いから結婚へかけて、狭衣ははじめて家庭らしい家庭の愛にちかづいたところで、即位という大変を迎える。此処まで来て、源氏の宮も女尼入道の宮も飛鳥井の君も一品の宮も、式部卿の宮も、女が一人一人しっかり書けていることに気付く。それが主人公で男の狭衣を照らし返すように生かし得ている。
* 久間十義氏にもらった上下巻の「ロンリーハート」は、外国製のハードボイルドを乱読してきたのと調子が近い。頁を開いて数行のうちに、女の子が車にひきずりこまれ、一頁もすすまぬうちに下半身裸にされて車の外へ棄てられている。そのテンポの早さ荒さなまなましさは、外国ものでもなれているが、日本にもこういうハードボイルドな暗黒風俗警察ものが、成り行きの凄いのに比べて、まぶしいほどしらじらと書き次がれて行く時代なのだ、面白いとかどうとかではない、襟髪をつかまれてながら、自分でも走っているようにして読めてゆく。この作家の「ダブルフェース」もこういう気分で前に読んだ。文章に停滞や渋滞のない劇画タッチのシナリオふうである。
* 少しずつスキャンし校正をはじめた加賀乙彦氏の「フランドルの冬」は、遠藤周作の「白い人」と同じく、フランスに取材の太宰賞候補作であるが、導入のあたり、遠藤さんの作よりも文章がざらざらとあらく、今一つ表現に妙味がうすくてドキドキしてこない。かなり長いので今後の展開を待たねばならぬ。
「校正しながら読む」というのは、作品の評価にはじつに厳しい、しかし良い道である。小剣も、秋声も、芙美子も、白鳥も、利一も、みな「校正しながら読」んで感嘆した。「白い人」でもそうだった。もうちっと推敲して欲しいなあと思いつつ読まされていった。 2001 12・7 11
* 何日もかかるのがいやで、あけがたまでに久間十義氏の「ロンリー・ハート」を下巻まで全部読み上げた。無縁と言うしかない世間のようでいて、何時どのように巻き込まれるか知れない犯罪時空間である。主筋は、三人の高校生男子が、行きずりに知り合ったベテラン警部補の十五になる娘を、それとは知らず、誘惑し監禁して強姦する話である。そこへいろいろの副筋がからむけれど、ま、そんな話が陰惨にというよりも、甚だドライにハードボイルドに渦巻くように書かれて行く。二度は読みたくないが、刺激はつよく、まちがいなく現代東京のすさまじい青春が書かれていて、小説であるが実話のように読めてしまうほど、端的に、ト書きをトントン並べるように書けている。十五の少女というと、遠いよそごとでなく、上の孫娘の年である。
ロンリー・ハートという題の切ないニュアンスはあまり伝わらない。ただもう殺伐と乾ききっている。
2001 12・8 11
* そして「狭衣物語」を読み終えた。かなりグチグチと悪口を並べながら読んできたが、読み終えたところで言うと、さすがに佳い古典であった。もう一度も二度も心静かに楽しんで読み返したい。「好色」物語の一つの有り様、最も自然に近い有り様を見せていたのではないか。男って、こんなんだわと、なんとなし苦笑混じりに思い当たらせてしまう。女がよく書けているので、逆にそれが見えてくる。凹型の男である、狭衣は。
2001 12・9 11
* 今日は、高麗屋父子を芯にした「三人吉左廓初買」を通しで観てくる。一部分なら観ているが、通しは初めて。しかし大筋は、ごく子供の頃に、明治版「歌舞伎概説」という家にあった本を繰り返し読んで、つぶさに知っていた。覚えていた。へええ、そんなややこしいめぐる因果ってあるんだと、驚く筋書きであった。有名な「月はおぼろに白魚の」の長科白も暗記した。一番早く覚えた歌舞伎の「知識」であった。理屈の所はとばしとばし読んでいた。
その本は蜜柑色の堅い表紙で、分厚く、今見てもきちんとした参考文献である。安っぽいところは少しもない。ところどころ主要な歌舞伎劇の梗概が小さい活字で書き出されていて、そこが、幼いわたしの目当ての読み物であった。能の稽古本でも、梗概をかたはしから読んだ。
2001 12・10 11
* 夜前はおそくまで長谷川泉著「森鴎外論考」の大著を読んでいた。歴史小説論でもある「阿部一族論」を電子文藝館にもらおうと決めた。文体は独特の調子を持っていて、しかも論旨は明快、さすが碩学の風趣に富んでいて、読みは極めて深い。評論家の読みではない文学鑑賞学の大家である真実学者の精緻な読みである。これは電子文藝館に更に大きな幅を加えるに違いない。任すよと言われている。任された期待に応える選択をと緊張していたが、自信がもてる。
加賀乙彦「フランドルの冬」第一、二章がもうすぐ掲載にまで運べる。それ以上、もう倍も長くとなれば、アルバイトを頼むより無い。伊藤桂一さんの作品は、やはり中国への兵隊体験の生きた小説を選ばせてもらいたい。これも「任せる」と言われている。
2001 12・10 11
* 長谷川泉さんの「阿部一族」論を読んでいると、原作もそうだが、テレビ映画の「阿部一族」も思い起こす。ずいぶん数多くの単発テレビドラマも観てきたが、もし只一つと限定されればわたしは「阿部一族」を挙げるだろう、少なくも歴史モノとしては、他にあれを凌駕した秀作は思い浮かばない。娯楽ものなら五社監督の「雲霧仁左衛門」なども思い出すが、感動作という批評性と完成度からは「阿部一族」を取りたい。そして森鴎外のと限らず、近代以降の歴史短編としても「阿部一族」を最高の作品の一つと認めている。たいていの読み物の歴史物は時代物でしかなく、なによりも文品いやしきものが多すぎる。
* 遺品あり岩波文庫「阿部一族」 という無季句の傑作が六林夫にある。大岡信さんが最小で至純の戦争文学というふうに受け止められていたのに、わたしも賛成である。
東工大の学生諸君の多くが、この句を読み替えて、 気品あり岩波文庫「阿部一族」としていたのが懐かしい。
2001 12・14 11
* 昨夜から、「東海道中膝栗毛」を読み始めた。弥次喜多というコンビは、世界に類のない日本文学にほぼ固有の存在であり、しかも今も未来にもだれよりも長生きしてゆくであろう日本人であり、人間なのである。読み進めば進むほど、ばかにし侮り憤慨しながら、憧れもじつはもっているような、こんなであればどんなに気楽に楽しかろうかと思い秘めているような、それが我らが弥次喜多なのである。弥次喜多とだけいって、大方の日本人にすいと受け取られるそんな人間像は、他に誰一人なく、他に誰一人も創り得ていない。ばからしさの、軽薄さの、ずるさの、なさけなさの、しみったれの、そういうものの普遍不変の価値を思い知らせる古典である。これぐらいに分かっているのだから今更読まなくても佳いようなものだが、じつは、そう読みやすいモノでもないのだが、とかく賢くなってしまおうとする自分を、我から「おちょくる」ためにも当分道中に付き合おうと思う。
* 長谷川泉著作選十二巻は、たとえば朝日賞などにふさわしいものと推薦したことがある。なかでも博大な「森鴎外論考」「川端康成論考」の弐册は、座右に置いてあるとついつい手が出る。文体の魅力に富んだ詩人である国文学研究者であり、この人に出逢っていなかったら、わたしは「小説」を書き始めるきっかけをとても掴みにくかったろう。
今から「阿部一族論」を慎重に念校する。 2001 12・15 11
* 弥次喜多が道中へと滑り出した。口から出任せのような狂歌が巧みにおかしい。江戸者とみると宿銭外の酒を謂わなくても小女がせっせと運んできて弥次喜多を閉口させる。籠に乗れば籠かきが前後ろで連れて喋るなかみが、凄まじい。宿の呼び込みも、なにもかもくそリアルな地の言葉で、傍注や脚注と首っ引きでないと舌を噛みそうになるが、鉋屑をめらめらと燃し附けたような直接話法の連続また連続で、地の文は小さい字のト書き程度。とてつもない古典である。「うつほ物語」「狭衣物語」「浜松中納言物語」など、立て続けに読んできたが、これが同じ国の古典文学かと呆れるほどの大違い。もしこれが当然の時代差の魔法のようなモノとすると、海外の文学を読むにしても、なんだか海外物は全部一と面の同時代モノのように錯覚しているけれど、言葉遣いも語法も語彙も、十七世紀と二十世紀では大違いのはずと心得ていなければならない。
言うなれば、翻訳小説というのは、時代の差をすべて均した現代語訳でもあるのだ。シェイクスピアは近松門左衛門の頃の人である。近松と竹田出雲と南北と黙阿弥では、歌舞伎そのものがえらく違う。表現も言葉も生活も違う。そういう違いが、ぼんやりした違いの程度ではない、烈しい。そんな激しさが、「クレーヴの奥方」や「高慢と偏見」の訳文と、最現代の文学の訳文とで、たいして違わない日本語に置き換えてわたしたちに与えられている。二百年の言葉の差が翻訳では「現代語」へみな均されていて、読む身の方で、風俗や人情の差にそれと察して、ああこれは昔っぽいな、これは今今の感じだなと読み分けている。「若きヴェルテルの悩み」も「異邦人」も、訳文そのものに言語の時代差は、その通りに表現されていない。出来ない。
翻訳小説とは、原文の忠実な再現ではなくて「現代日本語訳」なのである。鴎外の「即興詩人」は雅文の名訳であり、アンデルセンの原作原語の訳では、むしろ、ない。訳したのは筋書き・事柄だけで、表現は鴎外の胸の内なる文学言語であり、現代語ですらない。
* 同じ日本語でも、日本人により、明治以前の日本語は全然読めない分からない人の方が圧倒的に多い。翻訳を業とする人でも同じで、現代の英語作品を日本語に置き直せる人が、雨月物語程度でもまともに読めない、徒然草などとてもとても、源氏物語となれば皆目だめな者がいるはずだ。そういう翻訳者に、海外作品の二百三百年の言語差が正しく翻訳できるとはなかなか信じられない。せいぜい出来て、ひとしなみに現代語訳してくれているのだ。外国語の「翻訳」なんてものは、正体はそういうモノである、大方が。享受の恵みには限界限度があるということだ。あらすじだけは読めるのである、あらすじだけでも、面白いモノは面白い。「ドンキホーテ」などを、なまじ古色をつけて訳されるとよけい退屈するとも言える。坪内逍遙のシェイクスピアよりは福田恆存の訳のほうが有り難いのである。
2001 12・16 11
* 谷村玲子著『井伊直弼修養としての茶の湯』(創文社)を戴いた。学術研究書である。秦文学研究会でお目にかかり湖の本も支えてもらってきた。こういう研究に従事されているとは聴いていたが、満を持しての出版で、襟を正させるおもみが本そのものに備わっている。泉鏡花や折口信夫や、若い、と思われる女性研究者による良い追究の本が、続いて贈られてくる。門玲子さんや上野千鶴子さんなどを先駆に、この数年、印象的な、女性による学究の開拓と出版がつづいている。とても力強い。
これは歌集だが、水沢遙子さんの「空中庭園」北澤郁子さんの「夜半の芍薬」もさすがに心深い表現で、吸い込まれるように読み継いでいる。
研究も短詩型のも苦にならないが、詩情の意味でなくジャンルとしての「詩」となると、難しい。詩、散文詩、散文のあいだに方法と内在律の自覚がどれほどあるのだろうと読んでいて惑うことも多い。そして感動の問題。詩は、読むのが難しい。似たものを書けといわれれば書ける気がする。書くのは俳句が難しい。
2001 12・17 11
* 夜前は、二時間半も寝ただろうか。弥次喜多と道中していて、くすくすくすと笑わせられながら、つい夜更かししたが、絶対必要な宛名はりなどの残っているには逃れようなく、五時前に起きて仕事にかかった。朝の血糖値は正常値であった。弥次喜多はグルになって世間にちょっかいを出すだけでなく、お互いにだましつすかしつろくな真似はしない。それでいてやはり弥次喜多道中なのである、ふたりとも風呂釜の底を抜いて下駄履きで入浴し釜を抜いてしまったり、弥次が宿の女をちゃっかり口説き落とせば、喜多は女にあれはたいへんな病気持ちだと吹き込んでオジャンにしたり、そのくせあっけらかんとして俗の俗のおかしみに溢れている。
2001 12・18 11
* 谷村玲子さんの『井伊直弼』は、すうっと引込むように冒頭から読ませる。
「彦根藩井伊家は、慶長六年(一六○一)初代彦根藩主直政が旧石田三成の居城跡であった佐和山城に入って以来、幕末まで一度も所替えはおこなわれることがなかった。現在彦根市金亀町にそびえる彦根城博物館は、江戸時代を通じて彦根藩歴代藩主が政務をとると共に、日常生活をいとなんだ表御殿の跡を復元建築したものである。現在でも彼地に立てば、溜間詰筆頭大名三十五万石の威風が感じられ、荘厳かつ華麗な藩主の生活ぶりがしのばれる。さらに城の北北東には、城の内濠とかつての琵琶湖の内湖の間に位置する庭園玄宮園が広がっている。唐の玄宗皇帝の離宮に基づく池庭で、かつては舟遊びも楽しまれたという。」
「おこなわれることがなかった」は単に「おこなわれなかった」でありたいが、この筆致でとんとんと読まされてしまい、気がつくとずいぶん先へ進んでいる。これはしかし小説の文章ではない。谷村さんの本は研究論述の本である。
* 高木卓の芥川賞を拒んだ「歌と門の盾」だと、こういう筆致である。
「天平二年も押しつまった年の暮、十三歳の大伴家持は弟妹と共に父大伴旅人に伴はれて五年ぶりで九州から奈良へ帰つてきた。久々で見る平城京(ならのみやこ)の物珍しさもさることながら、思へばやはらかい少年の胸に数々の忘れがたい印象を刻みつけた太宰府の五ヶ年であった。」
これは小説の文章である。
この差異が掴めていないと、読めていないと、歴史物の小説はなかなか評価できない。 2001 12・18 11
* 森秀樹委員に送ってきてもらった長谷川時雨『旧聞日本橋』がすてきに佳い。時雨が創刊した「女人藝術さ」誌のいわば白を売らないために埋め草として書き継がれていたという原稿であるが、今日時雨の表芸であった戯曲を読むよりもこの本を懐かしく面白く愛読する人の方が遙かに多い。見ようによれば編集者が書く「埋草」という編集余技の文章のようでありながら、どうしてどうして短編小説の連鎖ともみまがう溌剌と生彩豊かな好エッセイなのである。さて、どの辺を選んで電子文藝館に入れるか、悩ましい。
2001 12・19 11
* 毎日のように歌集が贈られてくる。水沢遙子さん「空中庭園」北澤郁子さん「夜半の芍薬」はそれぞれに静謐で清冽な憂愁と諦念にいろどられ美しく表現されている。昨日は松坂弘氏の「草木言問ふ」が、今日は高崎淳子さんの「風の迷宮」が。松坂さんは愛妻歌人だと昔から思っているが、わたしと同年、老境ますます穏和な夫妻の歌が歌われている。高崎さんのは才気のようなものが、さきへさきへ跳ねるように飛び出て行き、頁から頁へキャンキャンと言葉が叫んでいる。いろいろあるものだ。
歌集ではなく、吉野光氏の長篇書き下ろし「棹歌」も戴いている。京都五条楽園などが舞台であるらしい、私より僅かに若い京都の書ける作家の一人である。鴨川沿いには昔から遊郭が流れるように延びていた、そのなかで五条楽園は七条までもつづいたごく庶民的な歓楽地帯で、商店勤めの若い住み込みの店員などが大阪からもこっそり遊びに来るなどと聞いたことがある。東本願寺の東の川沿いに当っているから、古代で謂えば左大臣源融の「河原院」に近い。吉野さんのことだから、きっとその辺のハナシにも絡んでいるかどうか。
じつは小説の大册で、不思議に融や家持や雲林院などに絡みついた小説を三冊四册人に贈られていて、あまり大冊なので、未読になっている。文庫本で三田誠広君の「菅原道真」だけは持ち歩いて読んだ。文学作品としては物足りなかったが、関心のある人物なので読み込んでいけた。
* めったなことで本は、とくに小説は買わない。書店へ行かないし、専門書は注文して買う。小説は贈られてくるのを読んでゆくだけで有り余り有り余る。狭い家の中にそんな本があふれ出て、書庫など、もう私の手では始末に負えない、踏みこむのも難儀になっている。だが本は処分できない、心を鬼にして整理を初めても、つい読んでしまい、惜しんで残してしまう。やれやれ。いまも歌集を読んでいて、早くも一時半。明日は早起きして湖の本の新刊搬入に待機する。
2001 12・19 11
* 昨夜寝入る前に、建日子のくれた雑誌で、宮沢りえのと澤口靖子のと、インタビュー記事を読んだ。ま、予期したとおりであった。宮沢リエは天性の演技者で才能であり、澤口より随分若いけれど話すことには深い蓄積と覚悟と洞察がある。読んでいてもおもしろい、とても。それに比べると澤口は、年齢は十分に大人だが、演技者としては漸く目が開いてきたと思わせる素直に明るいものが感じられる。これからがさらにさらに楽しめる女優になるだろう。宮沢りえの方は、成熟にもう向かおうとしている。デヴューした頃から、この子はすごいねとまだ幼かった息子と感心してテレビを見ていたことがある。掛け値なしの才能だという思いは、作品に接するつど、美しいときでもやせ衰えていたときでも裏切られたことは一度もない。澤口靖子はそうは行かなかったが、だんだんに階段を上ってきているのは確実で、このごろはかなり安心して見られる。本人にもそれが分かってきている。いいことだ。やすい連続ドラマのヒロイン慣れしてほしくない。テレビの世界で連続ドラマの主人公を確保しているのは業界的には大変な重みなのだと、むかし俳優座の演出家島田安行に聞いたけれど、大俳優加藤剛のために「大岡越前」が真にプラスしているのだろうかという、あの時のわたしの不審は晴れてはいない。宮沢えりは作品を悠々と選んでいる。選んで行ける地位と覚悟を手にしているということか。定期的な連続ドラマのヒロインになどならない宮沢の自覚は大きい重みである。
2001 12・20 11
* 師走の街へ出歩きたいとも思いつつ、ついつい思うに任せずに「校正」を先へ先へと急いでいる。久間十義小説を予定の箇所まで読み終え、次いで前田夕暮短歌をもう半ば以上読んだ。いやもうもう、「かなしい」「さびしい」「恋しい」「わかれ」「泣く」の多い青春短歌であり、歌人や詩人とは「かくある」もののように夕暮以降に或る型=タイプが出来ていったのか知らんとさえ思ってしまう。流行歌や演歌の歌詞のいわば原型を、明治大正の詩人や歌人が大まじめに創り上げていたという理解は的はずれであろうか。
夕暮の歌、それでいて佳いのである。当人も「自序」に宣言しているように、文字通り「正直」にうったえている。「うた」とは「うったえ」であることをはっきり思わせる。いまも、やはり恋とはこうであろうか、そうかもしれない。
夢中でやっていて、もう二時半になろうとしている。
2001 12・27 11
* 山口の俳人で「湖の本」の読者から、稽古の第一句集に添え、心祝いの純米大吟醸が二升とどいた。豪快そうな、九州京都(みやこ)のお酒である。新年を祝う清酒が出来た。おめでたい。
夕汽笛鳴りをり独楽の澄んでをり 孤城
佳い。感謝。そういえば、こう寒くなってくるとまたうまい酒粕も出来る季節だ。
この家を設計してくれた池田忠彦氏からは、建築の本が届いた。郵政省に勤めて郵便局建築をもっぱら手掛けて居られ、その頃に、昭和四十三年に我が家を設計してもらった。保谷でご近所住いだった。そのうち神奈川県に越され、たぶんKDDに移って常務取締役まで進まれ退任されたようである。やはり「湖の本」を支えて貰っている。池田さんはこの大きな本の、巻頭にちかいところで、通信施設の建築の歴史を執筆されている。
先日、「ペンの日」に会場で初対面の光本恵子さんから、無定型新短歌の歌人で小説も書いた『金子きみ伝』を送ってきてもらった。
もらった本が、泓々と湧くように我が家に溢れる。わたしから差し上げる本も、いろんな家を狭くしているかも知れぬ。それでも本は、本を読むのは、読めるのは有り難い。
2001 12・27 11
* 今日は外出したいと思っていたが、ぐずついて出なかった。そのかわり、石川達三の「蒼氓」第一部を読みあげた。
新感覚派的に流れても、プロレタリア文学に走っても、少しもおかしくない時機に文学に志しながら、そのどちらにも身を寄せず、小市民的な視線と場所とをねばり強く守った作家の本領が、みごとにあらわれている。流行作家ではあったし、通俗を恐れない「孤立した常識」の姿勢を生得守り抜いて、手放さないところがあった。石川達三のあらゆる意味での可能性も原点も特質も、この一作に凝集している。
昭和十年の芥川賞創設第一回受賞のこの作品は、「星座」という小さな同人誌に、その年の春に書かれていて、達三本人はまだ作家になるつもりすらなかった、帰郷して獣医にでもなろうかと考えていた、という。
手堅く具体的な描写を連ねて、当時の新進の作にしては、手法に新奇な趣はむしろ皆無で、古めかしいとすら云われた。ところがその堅実さのゆえに、今もこの作品は少しも古びなくて、生き生きと新しいままなのだ。独特の感動があり、初校した妻もたいへん佳い読後感を得ていた。
なにしろ悲惨な貧移民の話であるが、概念的にイデオロギーの主張に流れたりせず、ひたすら具体的に、それも特定個人でなく大きな集団を根深く書ききっている。ブラジル移民団、いや事実は棄民団にひとしかった千人近くの大団体の、不安と興奮と生活苦を、脂汗のようににじませ、また噴出させている。たいへん優れた作品であるが、好んで求めて読む人は、今の時代に多いと思いにくいだけに、「日本ペンクラブ電子文藝館」に、はればれと元会長作品として保存し公開できることは、とても嬉しい。
この作に比べれば、大概の人の作品は、遠藤周作でも加賀乙彦でも、井上靖でも、つまり特別の意味であまりに「知的所産」であるが、石川達三のこれは、徹してで市民と農民との具体像を刻み上げた作品である。そこに「個性」がある。
2002 1・6 12
* 戸川秋骨「自然私観」は優れた力の入った文明論で、その文語体も懐かしい律動感に富み、「人間」に基本をつよく据えた文明批判や日本文化への批評など、時代背景を考慮しても無視しても、堅実で健康な、いささかもひるむもののない毅然とした論旨であった。今読んでも少しも古びたものでなく、むしろ本質的に意義を失っていない。佳い論文を読んだと、嬉しくなった。英文学者であるが、また文学界の同人であり、透谷や藤村に親しい同僚であると共に、夏目漱石とも親しい人であり、西洋文明や文学、思想の摂取に安定した真摯なものを感じ取らせる。明治の人の踏み込みの確かさである。秋骨の雅号は藤村によるものという。
2002 1・8 12
* 長谷川時雨の『旧聞日本橋』のおもしろさ、懐かしさといったら、ない。わたしは京生まれ京育ちで「明治の日本橋」とはずいぶん別天地に育っているし、時雨の時代とは幾世代も離れている。それだけに、かえって違和感もなにもなく旧い昔の日本人の暮らしが、町並みと共に再現される嬉しさは、言い尽くせない。谷崎モノの「少年」時代なども、この読書で、生き生き甦ってくる、ああそうかと。
永井荷風の東京下町は、山の手の目でみた下町である。時雨のような生粋のものではない。荷風には荷風の面白さがあるが、例えば水上瀧太郎の「山の手の子」と比べて、時雨の日本橋回顧は対照的である。水上のものも作品として優れているが、時雨のシャンシャンとしたメリハリの文章、とても佳い。自序から最初の章を読み終えて、次の「利久の蕎麦屋」へ読み進んでいる。
* 入浴しながら、若い女性研究者の「鏡花論」を二章も読んだ。一章でうだりかけたていたが、二章が「龍潭譚」を語っていたので、ふんばって、汗たらだらの中で面白く読んだ。
ただ、どうにも、もう一段深く突っ込めないのかなあとじれったくもあった。鏡花の小説を素直に読めば、呪物も呪性もたいへんなのは要するに常識であり、なんでそれが出てくるのかが解かれねばならぬ問題であろう。鏡花作品では想像以上に人間が対立して、死んだり殺したり恨んだりしているが、対立の図式はわりとハッキリしている。鏡花の文学的な本性の根には差別被差別問題がとぐろを巻いている。それにズブリと視線をさしこむことを躊躇った鏡花論は、ほとんど、ことごとしいまでに観念的なものに韜晦してしまう。
2002 1・9 12
* 気骨も折れていて、今晩は映画「007 殺しのライセンス」を見て過ごした。こころもち不眠気味で困る。一つには「東海道中膝栗毛」が面白いのだ、真夜中にクスクス、ゲラゲラ笑いながら、もう弥次喜多は、京の都まで来てしまっている。
なんという小説だろう。職業としての小説家第一号といわれる十返舎一九である。なんという騒がしいケッタイな小説だろう、なんという卑小な滑稽だろう、それなのに、なんという、からっとした笑いの取り方だろう。笑うわけがないと思うのに、真夜中にも笑わせられてしまい、やっと寝てからも、弥次喜多のバカげたしくじりのアトを追って、夢を見ていたりする。
こういうどうしようもない、うつけた二人組を主人公に据えた文学、古典を、どうしても他には思い出せない。しかも途方もないベストロングセラーであった。
2002 1・10 12
* 四時間しか眠れなかった。五時に目覚め六時前に床を離れた。暫くの間、ゆうべビデオにとった、キアヌ・リーブスの娯楽映画の頭をみて、甘酒をあたためて飲み、機械の前に来た。高木卓の小説を読み始める。
* ペンの会員で知り合いでもある人が渡辺崋山を書いたらしい小説風の本を送ってきた。冒頭をちらと読んでやめた。文章がとてもよくない。その上に、表紙から文中まですべて「華山」になっている。あの渡辺崋山なら「崋山」である。よほどわたしの知らない特別の理由で「華山」が正しいのだとなれば謝るが、何度も崋山にふれて書いて来ているし、そのつど崋山の「崋」に神経を使ってきた。まさかと思うが、特別の秘密があるのだろうか。信じられない。
2002 1・13 12
* 井口哲郎氏の「評伝中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」が面白い。野鳥の大家、雪の研究、建築家の三人とも石川県出身である。そういう科学者を、石川近代文学館の館長さんが「文藝」の面からスケッチし、そして適切な、内容豊かな「年譜」を添えている。「いい年譜を書く」のが人物研究では「上がり」なのである。年譜のついた研究は或る程度安心して読める。そのう意味でも、一つの立場からの一つの仕事として、たいへん典型的であり、こういう仕事がペンの「電子文藝館」に幾つも入ることが大いに望ましい。「年譜」への関心がもっと持ち上がらねばならぬ所で、「年譜学」という方法論がしっかり出来上がることを、わたしは昔から希望し発言してきた。井口さんの過不足なく的確な年譜描写、一つの「文藝」なのである。
* 高木卓の歴史小説は、まだ、頭の少ししか読まないが、物足りない。
2002 1・13 12
* もう少しという気があり、場所を変えて、気に入りの「三趣の肴」で酒ののめる店に足をはこんだ。時間はやく空いていて、美しい人にくりかえしお酌をしてもらい、ほろ酔うて機嫌良く保谷に帰った。駅で、もう一杯生ビールの冷たさだけを味わってきた。ありていは、ずうっと読みながら来た森瑤子の「情事」を読み切ってしまいたくて、足をもう一度とめたのである。
この小説はよく書けている。他の人は知らないが、この小説は、わたしには書けない、書けないが読んでよかった、と思う。よく出来た処女作にある、丁寧さと厚みとがしっかり備わっていて、身を寄せて読み入ることができる。
2002 1・14 12
* 待っていた米原万里さんの随筆原稿が送られてきた。日本ペンの理事仲間、ロシア語同時通訳とエッセイストとしての元気旺盛な活躍で知られている。エッセイが六編、「或る通訳的な日常」という総題をつけ、筆者も賛同してくれた。ちょっとうまい題の気がしている。気取って上手く書こうという書き方ではない、言葉と文字とが元気に胸の内から吐き出されて行く。勢いが活気になりどんどん読まされてしまい、すべて体験的な話題が具体的に絵柄として紡がれているので、新鮮な景色を車窓からながめている気分になる。ただ、かなり品のない物言いも平然と吐き出され、それがお好みなのかと思わせられ、嫌みは感じない乾燥したテムポの文章だけれど、その手の露骨さまでも敢えてけっこうけっこうとは思わない。下ネタへハナシを持って行かなくても、読ませる力はあるのだから。とくべつ「チンボコ」が出たから、「ケツをまくる」から面白いわけではないのである。女もののスカトロジイは、昂然とした性器玩弄趣味は、へたをすると未熟な気取りに成りかねない。
2002 1・15 12
* そしておそらく今夜辺り、這う這うのていたらくで京の都を逃げ出し浪速に滞在の、弥次喜多「膝栗毛」の一巻も、ことごとく読み終えてしまうだろう。干支ちがいで百両の富籤を拾い損ねた江戸の二人は、とんだ浪速の夢は夢の又夢で終えることかと、笑いをかみ殺してしまう。
2002 1・15 12
* 中西悟堂の年譜を読み上げた。すばらしい八十八年であり、文学活動も鳥学にかけた行動的な意欲も実践も、ほとほと驚嘆させられる。不都合なことは、大きく政治家に真っ向働きかけることで、中止や廃案やまた成立や推進や保護に結びつけている。その行動力は、ひょんな比較をするなら、「声明」ばかりを発して「わがこと成れり」というような現今文学団体のやり方とは、まるで違う。気迫が違う。野鳥、探鳥、県花県鳥、環境保護、史跡保護、我々の知る随分沢山なことにみな悟堂の指導力と行動力が関係している、また何かをやろうという際の企画やアイデアの俊敏さにも驚かされる。詩人にして文学者、天台宗の僧正であり、学会を率いる純然の学者であり、目的に向って旺盛な生活者であった。井口哲郎氏作成の「年譜」は簡要を得て貴重である。
2002 1・15 12
* 「東海道中膝栗毛」は信じられない早さで読了した。これは一体験。優れた文学とはとても思われない、いろんな意味で二流の才能のものだけれど、無類の才能のものでもある。乾燥した陽気に溢れている。騒々しいから陽気なのでもあるが、世間には騒々しい陰気もある。不快をながく沈殿させてしまわず、あっという間にこの弥次サン喜多サンは吹き払ったように忘れて、機嫌をなおす。その辺の達人めく底の無さが陽気になっている。二人とも達者な狂歌で失意も落胆も茶にしてしまい、あんなにヒドイ目に遭いながらとこっちが気の毒がっているのに、泣いた烏がもう泣きやんで次の境涯へ自身を押し流している。
ことのついでに、式亭三馬や為永春水のものも読んでみようと、別の一巻を枕元に運んできてある。
* 何ということなしに中村光夫さんの「老いの微笑」もだいぶ読んだ。中村さんの小説は珍しい、が、さほど珍重しない。やはり独特の話体の批評や随筆がしみじみと佳い。
長谷川時雨の「旧聞日本橋」はじつに面白いが、猛烈な女の特色が長短ともに露出もしている。米原万里さんにも感じたが、出来る女文士たちは、概して必要以上に猛烈で有りたがる、猛烈に振る舞いたがる。そういう手法で世間に「かなひたがる」とも見える。「かなふはよし。かなひたがるはあしし」という利休の境地からは男よりも女の方が遠いような気がする。田中真紀子にもそれは謂えようか。温厚で的確な井口哲郎さんの静かな文章などに触れていると、ほっとする。「清らかな意匠」を称えた建築家谷口吉郎の生涯を過不足なくおしえてもらった。
* しかし、毎夜、底知れずわたしを癒すのは、バグワン・シュリ・ラジニーシだ。
2002 1・17 12
* 佐高信さんから新刊の『手紙の書き方』が届いた。題を見ていささかたじろいだが、中を拾い読んで、軍神と宣伝された特攻玉砕兵加藤健一の、「ただ抱いて欲しかった」というたった一行母への遺書に、いきなり、泣かされてしまった。
軍国の母であった、あろうとした加藤まさは、敗戦半年前の二月、最期のあいさつに帰宅した息子に、黙って先祖伝来の短刀を置き、「虜囚の辱めを受ける前に、潔く自害せよ」と言い渡していた。
佐高氏によれば、この母は、当時の流行歌「軍国の母」の三番がうたう、このとおりの母だった。
生きて還ると 思うなよ
白木の柩(はこ)が 届いたら
出かした我が子 天晴(あっぱ)れと
お前を母は 褒めてやる
「短刀を受け取った加藤健一は、まるで上官に対するように母親に正確な挙手の礼をし」「そのまま一度も後ろを振り返ることなく発って行ったと謂う。」
だが、戦死して後日、来訪した戦友から手渡された秘かな母への遺書を開いてみると、そこには、ただ一行、微かな震えの見える文字で、「僕はただ、母さんに抱いて欲しいと願っていただけなのです」と書いてあった。
この「母は、まさに慟哭したという」と語り部のように佐高信は伝えてくれている。
「母」なるものにも問題がある。
「おふくろはもつたいないがだましよい」という古川柳があったが、息子が母をだますよりも、国が、女である母をまずたぶらかしにかかっていた、また女が、母が、それに弱いと謂うことも、厳然として歴史的にあったし、これからもありがちだとは覚えて置かねばならない。
ともあれ「慟哭」というツケを息子からまわされないように、「母」よ、我に返って自分の鼻をつまむがいい。
本は、題だけでは分かりにくい。ハウツーものかと一瞬たじろいだわたしは、佐高信という著者に失礼であった。彼ならではの趣向がきちんと出来た、手紙の威力を語る本であった。
* もう一冊、岩波文庫に入った野島秀勝氏の訳になる「ハムレット」を、訳者から頂戴した。以前に「リア王」を戴いている。補注までも面白く、克明に楽しんで読んだ。新刊も、同じ手法で本づくりをしたとある。有り難い。
2002 1・18 12
* さて、ちと勝手違いの話題になるが、夜前来、為永春水の人情本「春告鳥」を読み始めたのが、すうーっと旨い酒をひくように読めてしまうのに、実はビックリしている。芭蕉や蕪村や上田秋成はべつにしても、江戸文学をやや苦手にしてきて、西鶴ですらあまり知らない。黄表紙、読本、洒落本、滑稽本、人情本など、敬することもなく遠ざけ、むしろ毛嫌いしてきたのだが、それではよくないと、馬琴の「近世説美少年録」を手始めに、十返舎一九まで、あれあれという間に読み上げて、それならと、手当たり次第に為永春水に手をつけたのが、案に相違し、「膝栗毛」よりなお遙かに読みやすいし、面白いのである。
吉原で旧知の花魁と出会う若旦那のはなしから始まるが、キテレツな廓言葉に出くわしても、これは、円生や文楽や志ん生の名人落語をむやみと沢山聴いてきたから、驚かない。そうかそうかとにやにやしながら読んでゆく。
そしてその次ぎに出てきた、上品に美しい素人娘と、この若旦那との出逢いが、なんとも艶めかしくて佳いのである。お民という、まだ十六の少女ながら色ある優しさ、これはもう、若旦那鳥雅でなくても、心から贔屓にしたいと思うほど佳い娘なのである。ほほう、こういう世界のこういう人情も、懐かしいもんやなあと、わたしは今、少し味をしめた気分でいる。
それと「膝栗毛」の本でも感じ、感心したことだが、近世文学の研究者の頭注の置き方が、じつに佳い。精緻に、しかもツボを押さえて、知りたいなと思うことを書いてくれている。じつは、これにも心惹かれて読んできたし、もっと読みたい。へんてこりんな現代語訳のついていないのが佳い。
平安物語には訳がついているが、どういう基準で訳しているのか、たいていが、途方もない悪文で、鑑賞になどまるで堪えない。情けない。
2002 1・19 12
* 四時間寝て、六時半には起きた。血糖値92、ヨシヨシ。本当はもう少し眠らないといけない。バグワン「般若心経」中村光夫「老いの微笑」為永春水「春告鳥」そして山本健吉撰の「日本詞華集」春夏秋冬編の春の章を読んでから電灯を消したのだが、四時間して、ぱちっと目が覚め、黒いマコを玄関から外へ出してやり、そのまま機械へ来た。
2002 1・20 12
* 森瑤子の「誘惑」もしっかり書けていて、めったになく面白く読み進んでいるが、気付かせられるのは、いわば文学世界の中での過剰な「性的肥大」というか、夫婦や男女の致命的な破綻が、どうも「性」ひとつに、あまりにも重きを掛けつつ実現してゆくことである。夫婦の関係は性の関係だけではない、わたしは、結婚生活のいわば15パーセント程度の重みを性生活がもつものと、実は、結婚以前から何となく考えていた。漸次その重みが減っていくにしても、たとえ1パーセントでも2パーセントでも、これは必要なものとして欠けてはならないと、今でも思っている。しかし、森瑤子の「情事」「誘惑」を続けて読みながら、この二つの夫婦ないし男女達のありようには、あまりに過剰に性的肥大が進んで、その重みに押しつぶされて地獄苦を現じてしまっている気がした。
* 「闇に言い置く」私語のなかで、わたしは、あまり性に関して触れてこなかったが、性的に淡泊だからではない。おそらく、生死の実感において、ふやけた多くの観念に遊ぶぐらいなら、遙かに至純の体験が性にあることを感じ、とても大事に感じればこそ、かえって森さんの表現に、危うい挫折の必然を感じるのだと思う。性は金無垢、絶対に必要であるが故に、また、若いときですら、多くも生活の15パーセントを超えて「性」が肥大したときは、その暴力により結婚生活や男女の間が、かえって貧しく窮し行くものとは、確実に、いつもわたしは考えていた。性意欲がエネルギーである以上は、欲望通り自在に行くはずのないきわめて微妙な人間関係であるのは、自明なのである。森さんの文学の行く手には、気の毒だが、途方もなく苦しい自壊と荒廃と窮死がありはせぬかと感じた。それかあらぬか、森瑤子は、あまり早く亡くなったのを、今、心から惜しむ思いでこの感想をわたしは漏らすのである。ただし、まだ「誘惑」の方は、荒廃寸前の夫婦が、夫の生家のあるイギリスへはるばる旅に出た途中までだが。
* もう、わたしの「性」の思惟を、わが「老いの微笑」として、ときどき、漏らしていい時機のように思われる。
2002 1・20 12
* 谷崎と川端の作品を一字一句原稿に照らし合わせて読んで行くのは贅沢な体験で、創作の呼吸や思索や感性そのものに触れている実感がある。「夢の浮橋」と「片腕」はともに晩年の秀作。どきどきする。「夢の浮橋」論は、わたしの批評では、太宰賞を受けた小説「清経入水」に重さで匹敵する。こののち、谷崎についてわたしが語れば、人は黙って耳を傾けてくれるようになった。「片腕」はカフカのように昏くせつなく妖しい。
2002 1・22 12
* 就寝前の読書も度が過ぎてきて、数えてみると前夜も六册を、つぎからつぎへ読んで、やっと電気を消している。頭は冴えていて、どの本にもそれぞれに引込まれる。それだけの時間を一冊だと眠気がくるだろうに、向きを変えてゆくから面白く、やめられない。生形貴重氏にもらった「利休の逸話と徒然草」も、研究者であり生来の茶家に生れた茶人の著であるからは、そしてわたしも茶の湯好きはむろん、徒然草は大の大の愛読書であるからは、面白くないわけがない。春水の人情本など、もう終盤へ来ている。
2002 1・23 12
* 夜前二時頃に、為永春水作「春告鳥」を読み上げた。いや、うまい菓子を食べ惜しむようにもう十頁ほどがのこしてある。若旦那の鳥雅とお民とは、波瀾の境遇にながく仲を隔てられながら、幸福な再会に恵まれた。
作の中ほどに、これが作者春水のやりくちだが、平気で弟子に代作させた箇所があり、その辺が余りにひどい出来なのだが、春水の書いているお民との出会いや再会の場面は、情緒纏綿、懐かしい極みの上出来なのである。しかも、もう落語の人情話へ臍の緒が繋がっていて、まんざらその方面に無知識でなく、受容れ用意が出来ていたから、しんから溶けいるように世界に入り込める。こういうの、嫌いでないのである。馬琴の世界のあくどいほど複雑怪奇なのにくらべても、一九が弥次喜多の猥雑で凡庸なのとも違い、鳥雅もお民も薄雲もお熊も、梅里その他も、おっとりと、人情に富んでいる。不思議な言葉づかいのようで、しかし気疎さや不自然さは感じない、むしろ、こういう言葉から、江戸東京の過渡期に養われてゆく、いわゆる「いい言葉遣い」や「いい挨拶」や「いい心遣い」の誕生がうかがわれたりする。
* そこでもう一冊の長谷川時雨「旧聞日本橋」が恰好のバトンを受け取っていると読めてくる。時雨の育ったのは日本橋通油町だが、そこは、江戸末期の滑稽本や洒落本や人情本の産地のようなもの、十返舎一九達のすまいや版元の蔦屋などもあったところだ。時雨の縁戚には武家筋もいれば芸人達も大勢いた。途方もなく面白いこの本のことは、また書き留めておくことがある。もう寝ないと、またノビてしまう。じつは、何を、と、まだ「闇に言い置く」のも早い難儀な仕事に、このところ追いまくられている。遅々として進まないが、やらねばならん自分自身の仕事なので、体力をコントロールして置かねばならない。
2002 1・25 12
* 「跖婦人伝」という、いわば江戸軟文学の、先駆的重要な布石になった短編がある。洒落本に属しているが滑稽本にも人情本にも黄表紙にも、ある種の要のような位置にいて、或る粋人学者旗本の手で書かれたもののようだが、文学史的なことはおいても、すこぶる刺激的に面白く、詳細な注を逐一参照しながら、興奮して読んだ。それでよけい目が冴えたとも。
江戸の入江に夜鷹として生きた「せき」という姉娘が、吉原で全盛の妹花魁や姉株の有名な高尾太夫を相手に、それはももう、スカアっとした色道の啖呵を切るのである。妹は、姉が夜鷹では自分も困る、姉もおそらくは卑下していようと、姉株の高尾に頼んで、せめて吉原での女郎暮らしを説き伏せてもらおうとし、高尾も鼻高々に入江の河岸にまで出向いて、高飛車な説得を始めた、のを、せきは、ぴしゃりと遮り、滔々としていかに吉原女郎が入江の夜鷹に比べて低俗低級な、不自由極まる偽善的境涯であるかを解き明かし、なみいる大花魁を顔色無からしめて、みごとに追い払うのである。
その上で、このせきが書き置いたという「色道」十二章の、かろうじて遺ったという六章を掲げている。これがまた。
むろん、すべては趣向された泥郎子の著作であるが、洒落の滑稽の人情のというところアタマのてっぺんを叩き抜いてしまった「志」の清さすら、この一編は、感じさせてくれ、いいものに出逢ったなあと思う。
2002 1・28 12
* 長谷川時雨の「旧聞日本橋」を全巻読み通した。これは、わたしがしくじった、巻頭の二編を機械的に選んでしまったが、他にも文藝として優れて面白い章が幾つもあった。いずれ追加したいものだ。掛け値なく名著といえるし、資料性にも抜群に優れていて、江戸のなお生きている文明開化の東京日本橋界隈を知るだけでなく、江戸から東京へ、激動の大きな時代転換期をさまざまに生きた庶民生活の手に取るように具体的な細部までが、美しく、はずみよく、おそるべく個性的に描かれていて、まるで手に触れるようである。この本に教えられることのもう三十年早ければ、どんなに良かったかと悔やまれるほど。
* バグワンは、また「存在の詩」に戻っている。山本健吉撰の詞華集は「春」の章をゆっくり楽しんでいる。古典は、洒落本の「遊子方言」と、新配本の「将門記」を併読中。生形貴重氏の「利休の逸話と徒然草」もそのままわたし自身の畑のもので、水を吸うように楽しめる。電子文藝館の戦友である高橋茅香子さんの翻訳になる、頂戴した新刊小説も読み始めようとしている。ドク・ハタと呼ばれるフクザツな主人公の老境を、韓国系アメリカ人の若い作者が書いて、ヘミングウェイ賞などを受けた評判の文学作品とか。願わくは翻訳の日本文も優れた文藝をみせていますようにと期待している。
そんな就寝前読書をしていると、マゴに早暁に起こされるからでもあるが、三時間か四時間しか寝ないで起きてしまう。幾ら何でも睡眠不足である。
2002 2・3 12
* 昨日文化庁の金子賢治氏から日本の陶芸をいろいろに論策した大冊の評論書をもらった。
* 倉林羊村氏に戴いた俳句集「有時」を読んでいて、やはり、近年いろんな句集で気になっていた体言止めの句のとても多いことに、あらためて一驚している。ざっとみて六割をこえているのではないか。それに比して切れ字を用いた伝統的な句型は実に少ない。自然、漢字が多く句は漢字で黒くなり、語調も語勢も重い。かるみの俳句から、現代俳句は離れて離れて深刻な短い詩になろうなろうとしているようだ。
2002 2・3 12
* 久米正雄の「虎」「小鳥籠」という二短編を読んでみた。この作者の造語として知られた微苦笑を繪に描いたようなもの。菊池寛とならべて言われることの多かった作家だが、菊池寛ほど徹したものがない。佳い作品の、程良く短いのを選びたい。
2002 2・6 12
* 五時に起き、古語の「こころ言葉」を大辞典で全部読見直した。信じられないほど多い。妙なもので、初めて知ったという「こころ言葉」は、二、三もなかった。日本語の特徴とも謂えるが、一つの語に多彩に意味が重複している、それを押さえてゆくととても面白く語のふくらみが理解できる。起き抜けに本を一冊読んだような勉強をした。日本人が心というモノをどう捉えてきたか、どう捉えきれないで、惑い、迷い、翻弄されながら適当に付き合ってきたかがよく分かった。
2002 2・7 12
* 十日の夜、「傾城買四十八手」という洒落本のアタマの一つを読んだ。ウブな若旦那と若旦那に惚れた気のいい若い花魁の枕ごとで、色気有りイヤミはなかった。なかなかよろしい。
2002 2・11 12
* 猪瀬氏が新刊を呉れた。いまの構造改革渦中で奮闘している彼の精一杯の最期の叫びが、どの頁からもつらいほど聞えてくる。猪瀬氏の向こうに見えるもろもろの抵抗族議員たちのあの顔この顔、その背後にいる此の国をダメにしてきた策士や領袖たちの顔が思い浮かんでくると、わたしは、確信を持って猪瀬直樹を応援したいと思うのである。
2002 2・12 12
* 夜前「将門記」を読み終えた。以前、「蘇我殿幻想」を書いたときに、参考にざっと走り読みしたことがあったが、今度はゆっくり読んだ。書き手の足場のやや受け取りにくい曖昧さがあるのだけれど、きびきびとした漢文で書かれ、かなりペダンチックでもある。次ぎに続けて「陸奥話記」を読んでゆく。軍記物語ではわたしは「保元物語、平治物語」の筆致が好きで、「平家物語」とは別趣のあわれが観じられるけれど、先行した「将門記」には、相当な古色がついていて、文学的な匂いの底に、論述の響きを聴いてしまう。これは、一種評論のようなものとも謂えようか。
* 今、加賀乙彦氏、庄司肇氏ら何人もの人に著書を戴いている。さらに「電子文藝館」への出稿分も読むので、私の生活はいまちょっとした「読書屋」稼業である、稼ぎには全くならない稼業であるが。
2002 2・25 12
* 「将門記」についで「陸奥話記」は一晩で一気に読了、これは清爽の文藝味を帯びた軍記そのものであった。経時的に話が分かりよく進み、子どもの頃の講談社絵本「源義家」などの懐かしい記憶も甦り、水を吸うように読み切った。この漢文が将門記の漢文に比して、上だ下だという議論があるけれど、わたしは「陸奥話記」の行文は練達の清明感、将門記にはやや程度の低い文飾意識が叙事を混濁させているように感じる。それだけ将門という人物に底昏い分かりにくいものが出ている。その点、源頼時も頼義も義家も複雑ではない。安倍貞任、宗任なども分かりよい。事態の把握に強いものがあり、表現がよく整理されている。もっとも源氏にとっては大切な軍記であり記録であっても、国家的にはどうであったろう。「陸奥話記」には武家社会へ向かう最初の胎動が感じられるものの、「将門記」のような国家的な物騒さはうすい。地域の遠隔ということもあろう、そういう感じ方にはやはりわたしの「京都」が、影響しているとも謂える。
2002 2・27 12
読書録 2
* 妻が病院に行っている留守に、櫟原聡氏の短歌を読んで整理し、また尾辻紀子さんの「チャプラからこんにちは」を二度通読した。友人の、ネパールへの農業ボランティア体験を聞き書きした児童文学だが、テキパキとおもしろいテンポのよさで書ききられていて、けっこうだった。こういう素朴な味の作品が、なにげなく電子文藝館の一画を占めるのは良いことだ。
手元で新たに七本の入稿原稿を用意した。明日には送れる。前便とも合わせ、この半月、わたしの手で、十余本を送り込むことになる。
2002 3/1 12
* 「保元物語」を久しぶりに読んでいる。もう重ね重ね馴染み続けた時代であり筆致でありながら、新鮮だ。平家物語のかげになりがちな「保元・平治」物語だが、独自の魅力を発している。平家物語の美しさは近乃至遠距離にひろがる画面の美しさだが、保元・平治では、かなり近距離接写されている。話者と事柄の距離が、よかれあしかれ間近いのである。生身の哀れが匂ってくる。
2002 3/1 12
* 昨日「曾我物語」が届いた。あらましは講談社の絵本のむかしから知っている。すこし珍しい異本の曾我を人に戴いて読んだこともあるが、あらためて曾我兄弟にちかぢか見参できるのは有り難い。厖大な古典全集の第二期配本が、あともう六册にまで。次回は「住吉物語・とりかへばや」そして「うつほ物語」の三、室町物語などが残っている。正直なところ、とても自前では買い切れなかっただろう、どんなものよりも日本の選ばれた古典の本をこんなにも贈り続けられたありがたさは筆紙に尽くせないし、また、よく読んできた。読んで楽しまない全集など、場所ふさぎに過ぎない。
2002 3/2 12
* 谷崎の「夢の浮橋」をゆっくりゆっくり読んでいる。なつかしい。もし一つだけと問われれば、わたしは、この京言葉の美しい、懐かしい「夢の浮橋」を好きと答える。
2002 3・3 12
* 谷崎潤一郎の「夢の浮橋」を堪能するように読み終えた。この冷やあっとする狭霧の底のような不思議な物語の魅力を、わたしは「谷崎の源氏物語体験」と読み解いた。その読みは、正確で揺るぎないと思っている。少年以来の谷崎愛がさせた読みである。わたしのなかに、この物語を語っている「乙訓糺」への身内の愛のあるのを、いつも感じる。
昭和三十四年であった、わたしたちは京都を離れて市ヶ谷河田町に新婚の新居をもった、六畳一間のアパートだった。テレビ・ラジオはむろん、冷蔵庫も洗濯機も箪笥も、しばらくは食卓すらなかった。カーテンを買い、食卓を買い、そして僅かに京都から持ってきた谷崎の本を、わたしが朗読し、妻は聴いていた。そういう日々であって、わたしは財布に百円のお金も入れず勤めに出た。会社の食堂で十五円だすと白いどんぶり飯とみそ汁が出た。わたしは飯に醤油をかけて食べていた。そんな生活であったが苦にならなかった。
その年の秋はじめであったか、わたしは谷崎が新作を書いたと知り、思い切って中央公論を買い「夢の浮橋」を読んだ。なんともいえない魅力を覚え、魂の底までゆすぶられた。小説が書きたいなあと思った。
あれから四十二年半ほど過ぎた。その四十二年半がほんとうの私の人生であり、まだ先がある。
「細雪」「芦刈」そして「夢の浮橋」へ飛んだ。この三つを繋いで貫くものを、わたしは「松の段」に凝縮させた。幸子と雪子、お遊さんと静、二人の茅渟(と澤子)。水上勉さんが、半ば本気でわたしのことを谷崎と松子夫人との隠し子かと想われたのを、わたしは我が身の上の一つの悦びとすら数えているが、ときどき自分が、この物語世界の中に紛れ込むような嬉しさを覚えたりする。「細雪」の論を書いて谷崎研究者野村尚吾のつよい推挽をうけ、近藤信行氏の依頼で「夢の浮橋」論を書きまた「芦刈」論を書いたのは、いわばわたしがものを書いて暮らしたいと願った年来の希望の幾分かを果たしたようなものだった。それらの下地に、中学以来親炙し耽溺してきた源氏物語世界への愛情も生きていた。こういう体験や経路がわたしの人生をかなり決定していたのだなと想い想い、今朝早くにまた久しぶりに「夢の浮橋」をわたり終えた。
2002 3・4 12
* 腰はだいぶ固まっていたけれど、ゆっくり立ち上がり、さすがに帝劇から日比谷クラブへ歩く元気はなくてすぐ地下鉄で一路帰宅。車中で、中島和夫氏の、結城信一他の文学者回想を面白く読んだ。
駅から、ゆらゆらと二人歩いて帰ったが、さすがに疲労感があった。重い鞄を持ち続けていたので、絶えず左右に持ち替えないと背骨や背中が痛む。ギックリ腰のオジサンをからかいながら心配してくれるメールが留守に幾つも届いていた。
2002 3・5 12
* 「保元物語」は、かなり源氏に力点をおいて語られているう。為義・為朝が崇徳新院につき、長子義朝は後白河天皇の方につく。清盛も天皇方にいるが、ものがたりの進展のなかでは、源氏の動静に、記憶していた以上に重きが置かれているのだ、少し驚いた。保元・平治の二つの軍記物語は、平家物語とのバランスでか、源氏の悲運・悲劇をはっきり表立たせている。義朝がこれから新院御所に夜討ちをかける。そこには、先手で夜討ちをと主張しながら左大臣頼長に否認された、強弓の鎮西八郎為朝が待ち受けている。まだ清盛方の平家は、源氏の蔭にいて控えめだ。
2002 3・6 12
* ちらと玄関で立ち読みした西鶴が、(狭い我が家では、玄関に大部の古典全集が積み重ねるように並んでいる。その中間に、古典に守られたように沢口靖子署名入りの佳い写真が、にっこり。)やけに面白く、つづけて読みたくなってきた。いまこの手の誘惑はいろいろ障り多いのだけれど。
2002 3・7 12
* 「保元物語」義朝夜討ちを迎え撃っての鎮西八郎為朝の弓勢のすばらしさ、威風堂々と小気味よく、叙事の柄がからりと大きい。魅力満点で、「平家物語」でもこの為朝褒めほど本格の、気分のいい個人称賛はあまり無い。眠くなっていてから読み始めて、眼がシャンとしてしまう。
2002 3・8 12
* 夜前は就寝前に「保元物語」中巻、あっさりと夜討ちして白川殿に火をかけた後白河天皇側の源義朝勢により、崇徳上皇側がむざんに敗退、左大臣頼長は流れ矢に首を射抜かれて苦しみ、院は都の内外を逃げまどう。そして下巻では、信西少納言入道の容赦ない画策でもって、清盛は叔父忠正を斬り、義朝は父為義や弟たち、わけてもまだ幼い乙若はじめを船岡山で斬らねば済まぬところへ追い込まれる。「保元物語」は、鎮西八郎為朝の神のような力量の表現とならんで、下巻の鬼哭啾々の殺戮の光景が凄い。読んでいてはっと泣いてしまう。「平家物語」で泣けるところもむろん何箇所か有るが、「保元物語」の義朝方の強いられた血族の殺戮は、あまりに切ない。あまりに酷い。しかもそこがじつによく書けていて、佳い文藝になっている。
* 「保元物語」のあとで、中川五郎さんに借りた「事件文壇史」を読了した。「円本」のアイデアマンが谷崎であったことが知られていないなど、物足りないところもあったが、この手の本はそれなりに面白い、興味深い。中でも、大杉栄と妻の野枝とが震災のどさくさに虐殺されたり、小林多喜二が凄惨に官憲に虐殺されたり、田中正造が鉱毒事件で直訴したり、柳原白蓮が、姦通罪も辞せず敢然と新聞に夫への離別状を公表したり、わたしは、そういう話に心惹かれていた。いやな時代が過去にあった。だが、そこへ事態は戻ってゆかないという保証がない。おまけに、あのアメリカだ、困った増上慢である。
2002 3・11 12
* それにしても、平成の政局も、十二世紀保元の政局も、すさまじさに於いて変わらないどころか、昔は、人が血しぶきをふいて大勢死罪にされている。それも政局がらみの殺戮であり、保元も平治も、源氏に上回る平家の、清盛達の辣腕がものを言っている。さんざんの源氏を書くのが、同情的に書くのが、保元・平治物語の意図であったようだ、そして平家物語では、源氏のリベンジと平家の滅亡。美学は、何れの場合にも敗者にあるものと物語られてあるのが「日本」の心情か。
2002 3・13 12
* 「平治物語」では、あっけなく信西少納言入道が自死してしまう。信西の評価は平治物語ではとても高い。この手の物語の唱導には、信西の遺族や関係者が深く関わっていたともみられるので当然かも知れないが、傑物であったのは間違いない、一時の勝者となった藤原信頼などという愚物に比べれば、遙かに。
この信西自死の場面をタネに、谷崎はごく若い時期に、「信西」という、読む戯曲を成していたのが興味深く顧みられて、二重三重におもしろかった。「保元物語」との因果もむろん感じ取れる。「平家物語」を深くたのしむために「保元・平治物語」はじつに優れた前書きである、成立時点のことは別に考えるとしても。そして、この二作では、単数ないし少数の作者が推定されていいだろう。わたしは、もともと平治に死んだ信西や、保元に弓射られて死んだ悪左府頼長の個性が嫌いではなかった。
2002 3・17 12
* 森鴎外が、明治四十五年一月に「帝国文学」に送った翻訳小説、ハンス・ランド原作「冬の王」は、短いが、寂しくも胸に沈んでしみじみとさせる佳作であり、翻訳も真実感横溢、こういうのをこそ「電子文藝館」にぜひ「招待」したい。翻訳小説というのは、いろいろの意義と意味とで近代文学を刺激した。鴎外には「即興詩人」という冠絶した名翻訳作があるが、「冬の王」は時代を感じさせない悠々とした言文一致の達成で、これが翻訳かと思うほど、みごとな鴎外その人の文藝である。おそらく「冬の王」を鴎外の仕事として記憶している人は稀だろう。そういう珍しい記念に値する作品を文豪達から拾い上げ、現代に甦らせる、それがわたしの謂う「招待席」の意義である。日本ペンクラブの悦びである。むろん読者にも作品にも、作者にも、喜んでもらえるだろう。
* 高橋健二訳のゲーテ格言集は、妻の手を借りて形を整え、わたしも通読し、「ゲーテの言葉」と総題して、用意された全文を掲載することにした。妙な譬えをするが、西洋の映画俳優、男優だとジョン・ウエインかジェームス・スチュアートを先ず思い出す。女優ならイングリット・バーグマンかエリザベス・テーラーを思い出す。その式で西欧近代文学の大家といえば、わたしは一にゲーテと指を折ってきた。並んでシェークスピアであった。それほどゲーテはよく深く読んできた方だから、彼の「言葉」には、実にいろいろ教わってきた。頭を垂れてきた。むろん「切り抜き」としてではない、豊かな思想と文脈上に於いてである。なにしろ大学へ入ったその日から、或る教授に、耳にタコほど「フアウスト」を聴かされたし、「若きヴェルテルの悩み」「ヘルマンとドロテア」また「エッカーマンとの対話」等々心魂を多く染められてきた。
今度、相当な量の言葉を「断片」の形で読み返すことが出来た。さすがにゲーテと感嘆する言葉に満ちているが、残念なことに切り刻んでは意義の通じにくい言葉も少なくなく、惜しいと思った。言葉というのは、切り抜いたからと謂ってエッセンスが取り出せるとは限らない。また量でもない。やはり作品の中で出逢ってひびきわたるもの、それが魅力であるなと痛感した。
もっともローマの皇帝や、ギリシャの奴隷哲人の語録など、「語録」へ、多くの信頼と興味をあずけた青春期もわたしは経てきた。ゲーテの言葉が、二十一世紀の、これからの人生にうまく響き合ってもらいたい。
* 夜には続けて樋口一葉を読んでいった。一葉といえば懐かしい、また口惜しい想い出がある。新制中学の頃、家のわきの抜け路地の奥に、市田さんという美青年が、若い綺麗な人と同棲していた。勘当されてきた好いた同士だと聞いたような気がする。青年というのはわたしの読み違えで有るかも知れない、人の年齢はよく知れない、わたしも子どもだった。
この市田さんが、わたしが本好きと聞き知ってか、ある日、ひょいと一冊の本を呉れた。ちょっと勿体ないような本格の本で、横長に、草紙でも開くように読んでゆく、厚さと来たら少なくも七センチはあったような、布装の「一葉全集」だった。
正直のところ、あの頃の私には勿体なかった。和歌と日記と小説と書簡も入っていたかも知れない、まさに「全集」の名に恥じない一冊本であったが、どういうわけか、自転車の前籠に乗せて走っていて、どこかで無くしてしまった。惜しいという気持ちは、年数が立つほどに逆に深まる。
それでも、わたしは、一葉の日記がどのようなもので、和歌を詠んだ人だとも知った。ただ文語文の小説は、容易に取り付けなくて、だが、「たけくらべ」は読んだし、「にごりえ」はややこしかったが、感じはつかんでいた。「暁月夜」「十三夜」そしてことに「おほつごもり」と「わかれ道」は読んで印象に残していた。
そのなかの「わかれ道」を読み直して、「なるほど」と思った。結び目の意味深長が読みとれた。
2002 3・18 12
* 宇田伸夫という人をわたしは全く知らないが、その人の送ってきた小説を読んでいる。ドカンとやられた感じである。時代は聖徳太子の死後、大化改新といわれる頃への飛鳥のさわぎである。なんだ、それなら知っているという人は少なくないが、宇田氏のようにこの時代を考えた人は、民間の歴史家などに何人かいたはずだが、小説にこう書き表した人は少ない。知らない。井上靖に「額田姫王」という小説があるが、たいしたものではなかった。あれならわたしの「秘色」の方が遙かに凄みがあると言った人もいた。それでもわたしは、いわゆる天皇家の歴史を軸にしたまま書いていた。
宇田氏の小説を読んでいると、史実などは史実のままなのであるが、しかも空気と組み立てとが、ガラリと変わっている。われわれの常識にしてきた皇室が「無い」のである。のちに天智天皇になる葛城皇子も、大化改新で彼に殺される蘇我入鹿も登場しているのに、宮廷の内容がまるで我々の知っている「大和朝廷」とはべつものなのである。読み進むに連れて、そのこと自体がなかなか面白くて、やめられない。信じて読む、信じないで読む、は人それぞれでいいが、わたしはこういう大胆発想の保つリアリティーを大いに楽しむ。高等な文学作品ではないが、お話がうまく書かれていて、大きな破綻がないからえらいものである。
2002 3・19 12
* 一葉の「わかれ道」みごと。ふしぎなもので、「にごりえ」でも「おほつごもり」でも「わかれ道」でも、もう三十年後に書かれていれば左翼小説とはいうまいが、まさしくプロレタリアートの小説と言うことになったであろう。一葉の時代には、貧乏や女の薄幸はまるであたりまえのようであった、玉の輿にでものらなければ。そして玉の輿がなにであったろう、其処にも不幸のタネはいっぱいだった。一葉の小説のある種の物は「放浪記」や「清貧の書」の林芙美子に先駆けている。時代の差でそういうところが見落とされがちではなかろうか。
この小説の結びの先で、不幸せな、愛し合う二人は男女として「結ばれた」とわたしは読んだ。一葉の意地と涙と愛とがそこへ凝っていると読んだ。
2002 3・19 12
* 京都への留守に、幸田露伴「幻談」の初校が出来ていた。帰宅して念校を始めたが、悠々「大人(たいじん)」の語りで、比較を絶している。露伴の史談は「連環記」も「平将門」もみな凄みのきいた途方もない仕事であり、「運命」など人間業とは思われない大文章。「五重塔」などの彫琢の名作群もある。しかし前半期の多くが文語であり、言文一致の語りになるのは後半期で、其処へ来ると、もう文壇などの枠から遙かに天上したような大人の風になりきってしまう。そういう露伴の前へ持ってくると、いわゆ小説家の小説がかなりなまぐさくすら感じられてしまう。
鴎外はそれでもかなり露伴に近いところへ落ち着いていたが、鴎外の史伝は、露伴よりもかるみに於いて、重く沈む。小説も例えば「じいさんばあさん」まで鴎外は行くが、露伴の「幻談」ほど晴れやかには行かない。むろん晴れやかすぎる、あぶらっけが抜けすぎているという人もあろうけれど、わたしは、そうは思っていない。小説の魅力をたもったまま、からりと枠を取っぱらっているのが魅力だ。
こういう魅力に、最近に接したのでなく、二十代で十分魅了されていたのが、或る意味でわたしの不幸かも知れない。たいていの小説が露伴に比べると若すぎる、子どもじみるとさえも、感じてしまうからだ。谷崎潤一郎は、鴎外よりも露伴を深く畏敬していたようにわたしは感じている。
2002 3・21 12
* 旅中の友に途次買ってみたディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」を、夜前読み切ったが甚だ物足りない運びで、アガサ・クリスティや江戸川乱歩がほめた程のものではなかった。ひところ、つまり大岡山の大学に通勤していた頃にむやみとこの手の本を電車の中で読んだが、今は、完全に冷えている。人のほめるミステリーなんぞより、はるかに一葉の「わかれ道」や露伴の「幻談」や鴎外の「冬の王」の方を深いと受け入れるし、また読書として楽しめる。自分の読書に自信がもてる。
* 宇田伸夫氏から続編の「新羅花苑」が贈られてきた。この作者は、韓国と縁のある人か、前作は韓国で大きな評判だという。日本の古代を、三韓勢力が支配し、朝廷もまた大和朝廷でなく蘇我氏の百済朝廷だったという架設のうえに構成された前作であったから、以前から、とかくそういう「朝鮮半島主導の古代日本」という意図的発想の現れるつどかの国では特殊な関心の沸き立つらしい事情からも、頷ける。わたしは、ある種の非文学的な露骨意図に流されて作品が構成されることにむろん賛成でないし、そういう意図的な受取り方で作品意義の歪められるのも好まない。宇田氏の意図が那辺にあったかは知らない。今日もらった作品も、面白く気持ちよく読めると佳いなと願うばかりだ。
* 日本列島は、樺太や千島を経ても、太平洋南海諸島をへても、沖縄の列島を経ても、朝鮮半島からも、直接中国やシベリアからも、伝うように降るように多くを受け入れてきたから、どのルートの要素が濃いのか薄いのか、簡単にはまだ明言できないし、少なくも一律一様なことは謂えないことだけは確かだ。推測的に言われてきたわりには、日本語と朝鮮語との重なりは、さほどでないという言語学の報告も出ている。
なににしても、例えばヤマタイ国にせよヒミコにせよ、大和朝廷をめぐる推測が、ま、興味に惹かれた憶測や私説となって飛び出すのは「言説の自由」でありわるいことではない。ただ、それらが、ねじ曲げられた民族感情の餌食になることは、わたしは好まない。願わしいのは、優れた文学の誕生であり、妙なプロパガンダの先兵に利用されて汚されるのはイヤだなあと思う。宇田氏の力作がそのように非文学的に埋没してゆくことのないよう希望している。
2002 3・22 12
* 北村透谷を読む人は、専門家以外にはもう稀有であろう、大きな存在だとはうすうす識っていても。藤村作の「春」の青木のモデルであり、雑誌「文学界」の事実上の要であり、島崎藤村の心から敬愛し兄事していた思想家で詩人だ。だが、そんなことは知っていても、透谷作品を読んでみた人はやはり稀有であろう、今一般には。
こんど、「各人心宮内の秘宮」という論文を読んでみたが、文語ではあるけれど理路整然として、曖昧さの少しもない聡明な文章であることにあらためて感嘆した。明治二十五年(1892)の文章だが、西欧文明と思想の学習においてすでにデッサンの狂いのないリアリティーに富んだ摂取と咀嚼のさまが、嬉しくなるほど読みとれる。そして、西欧の人間理解の基本に基督教(批判)をしっかり置いて、「心」を重視している。その重視の仕方に東洋のそれよりも確かさを西欧に求めているかに、今のところ、感じ取れるのがおもしろい。
同時に透谷より三四歳若い国木田独歩が、明治四十年一月に、三十八で書いている「我は如何にして小説家となりしか」というエッセイを読んでいると、生まれた世代は透谷とほぼ同じだが、原稿の書かれた十五年の時間差、年齢差を通して、明治の知識階級が社会にしめる、時代にしめる位置に、微妙な地滑りが起きているのが読みとれる。透谷は日本と日本人を考えているし、独歩はすでに自分の心内におきた一大革命といういい方で、個人の人生を考えてきたことが分かる。独歩のこの文章もとても興味深い。
* 甲斐扶佐義氏の送ってきた分厚い「ほんやら洞通信」をあらまし通読した。いろんな人の思い思いのスタイルの原稿を雑多にならべ、ところどころを細字の「カイ日乗」で仕切ってある。
心惹かれたのは、三人ほどの女性のアラッポイ小説だった。女の人だからこう書くのか書けるのかなあと思うほど書き方が手荒くてなかみも凄まじい、が、なにかしらを言い切ろうとはしていて、独特な統一感を保っている。褒める気もないが、どれも読んだのである、短くもない物を。
「ほんやら洞」のような時空間を堪らなく愛している人の少なからぬ事は理解できる、わたし自身は距離を置くけれども。ここは亡兄北澤恒彦がながく深く関わり感化してきた場所である。甲斐氏はかなりの強度で恒彦兄に近接しつつ、存在感を確かにしてきた。日常という名の視線と思想に根付いた、甲斐氏は、極めてユニークな写真家でありパフォーマンスの人である、らしい。
むろん甥北澤恒=黒川創も、幼時から、ここに育ったとすら謂えるらしいが、このところはあまり連絡がないと甲斐氏は苦笑していた。
* わたしも黒川と久しく接していないが、送られてくる「同志社時報」に、彼が、恩師で考古学者の森浩一氏について書いているのを、懐かしく読んだ。巧みに書いてある、すこし巧みすぎているのかなあと、むしろ作文の藝を感じ取りながら、今ひとつ底まで実感はつかみにくかった。「如才なく書きすぎるなよ」と少しだけ呟きながら、健筆は看取し、甥のためにひとり盃をあげた。黒川は、彼のうちなる「ほんやら洞」的なものと幾らかいま葛藤しているかも知れない、わたしの憶測ではあるが。
2002 3・23 12
* 北村透谷の「各人心宮内の秘宮」には、感嘆した。カソリック教会への歴史的な批判・非難を下敷きに、人間精神の表層と深層とへの洞察から、人間として真実に生きるありようを明快に説いて倦まない。表現こそ明治二十五年の美しい文語体であり、現在からはかなり煩瑣に感じられるだろうが、論理は正確で、すこし推察の力が有れば透谷の説くところを大きくは誤解しないであろう。「ホンモノだなあ」と謂う思いが敬意に動いてゆく快さ、まことに嬉しかった。こういう思想家が先ず大きな扉をひらいて我々を迎え、通してくれた。文学や思想の世界に身を置いて、心新たに感謝にたえない。
* 物故会員の浅見淵による「細雪」論をスキャンし、校正した。浅見さんの代表作の一つで、「細雪」を「心境小説」であると論じた点、谷崎の当時を「擬古的生活者」と見た点などに特色がある。また筆者自身が神戸の育ちであり、東京から関西に移住した原作者の関西ないし大阪の表現にも異見を述べている。昭和二十四年の論文で、三巻本が出揃い評判が高かった頃に書かれている。当時わたしは新制中学二年生で、この年毎日新聞に連載されていた「少将滋幹の母」を毎朝楽しみに読んでいた。小倉遊亀の挿絵にも惹かれていた。そして一年もたたぬ頃に、縮刷版になった一冊本の「細雪」を読んだ。秦の母にも読ませた。めったに褒めることのない母が、「ええ本やな」と言ってくれたのが記憶に刻まれている。
浅見さんの論文を読んだのはずうっと後年のことで、講談社版「日本文学全集」の第百七巻「現代文藝評論集」の一編として、配本されてすぐ熟読した。昭和四十四年七月刊行であり、ちょうどわたしの太宰賞受賞作が「展望」八月号に出た時期に重なっている。谷崎論を書こう、それも「細雪」に焦点を結んで書こうと、もう、とうから私は考えていた。そして書き下ろしたのが、最初の評論集となった筑摩書房版『花と風』の中の「谷崎潤一郎論」であった。谷崎の伝記で大きな仕事をされていた野村尚吾氏が、まったく新しい谷崎論の登場として評価して下さり、そのご縁は、のちのちのわたしのいろんな仕事によく作用した。
2002 3・24 12
* 宇田伸夫氏の「新羅花苑」は、唐と三韓にも舞台をひろげた国際小説になっている。文学的な香気は望むべくもない通俗読み物であるが、そつなく面白く話が運ばれている。読ませる。
日本列島に日本人が一人も居ない印象を受ける。出てくるのは高句麗人、新羅人、百済人と自覚した宮廷人ばかり、それが「日本」の朝廷なのである。そんなことに眼くじらさえ立てなければ、史実は史実を巧みに踏まえてある。隅におけない。へんな喩えだが、日本人の会社だと思っていた会社の構成メンバーが、顔も名前もそのままで、実はみな三韓人として日々を送っている、そういう「理解」の読み物である。
そういう気味は、いくらか歴史的にあったにちがいない。言葉も不自由なく半島語のあやつれた大和朝廷であったろうと、それはそう思わないと理解しきれない歴史の場面が幾つも考えられるからだが、「主と客」といういい方をすれば、大化改新の頃には、もう、やはり「日本」という国に「客」として「今来」の渡来人も混じっていたと、ま、そう思ってきた。蘇我氏はまったく百済人、天智も天武も弘文もとまでは、考え進んでいなかった。しかし彼等が百済贔屓なのはハッキリしていて、だから百済救援に無理に遠征し、白村江で新羅や唐に大敗してくる。
こういう歴史を、ほんの子どもの頃に、なにかうまくまとめた歴史読み物で興味深く読んでいた。わたしは、朝鮮半島にも半島の人にもとくべつな思いは持っていない、が、小さい頃に三韓物語を読んだりしていた朧ろな、しかし手強い印象が、たとえば井上靖先生の「風濤」を高く優れて感じる読書などへと繋がっている。
* 「平治物語」では左馬頭義朝が敗退し、藤原信頼はざまもなく死刑された。清盛が、すべて黒ずくめの出で立ちに兜だけは真っ白に輝かせ、大将軍の風格で決戦の場に出てくる。源氏は潰えてゆき、日の出の平家が印象づけられる。
「平治物語」は軍記物としてなかなか優れた風味を示している。「平治物語絵巻」は有名で、一部が切手にもなっていたが、あの清明華麗な印象を静かにこの古典は秘めている。
* だが何がといえば、やはり毎夜のバグワンに心身を沈ませゆく時が、有り難い。枕元に、いま、本が二十冊ほど置いてある。「曾我物語」に入る前に「住吉物語・とりかへばや」が配本されると、気持ちはそれへ奪われてしまいそう。
2002 3・25 12
* 「電子文藝館」が、着々と水嵩を増してゆく。露伴と鴎外を、本館「招待席」に迎えられるところへ来た。一葉も二葉亭も、すぐに。透谷や独歩も、また浅見淵のも、もうすぐ送稿する。そして新原稿続々と、またまた、日々追われてゆく。
久間十義氏の「海で三番目につよいもの」を、すでに途中まで掲載していたが、最後までスキャンし、妻が初校してくれた。あとはわたしが読んで、入稿する。久間作品に執着したのは、作品がいいからだ、若い三島賞作家の処女作にちかいらしいが、得難いのは文章の清明なよろしさ。こういう現代的で軽快で整った文才には、そうそうお目にかかれない。木崎さと子さんの「青桐」とともに、かなりの量になるが、頑張ってスキャンした。校正もした。時間がかかったが、佳い作品を送り込めるのは嬉しい。
紀田順一郎委員からも、「南方熊楠」にかかわる評論原稿が届いた。紀田さんのディスク原稿である、形だけ整えてそのまま入稿できる。もう二本べつに届いており、さらに福田恆存戯曲が手元に届くことになっている。
校正はほんと難しい。完璧に行かない。
2002 3・28 12
* 今朝は、明け方四時半ころまでかけて、宇田伸夫作「新羅花苑」を読み上げた。「百済花苑」の三倍ほども長い。大化改新から、古人大兄皇子らの殺戮、蘇我山田石川麻呂らの殺戮、有馬皇子の殺戮、孝徳天皇の窮死、斉明女帝の死と白村江の大敗、百済の滅亡、中大兄皇子の称制から即位、そして鎌足が死に、天智天皇も死に、壬申の乱による弘文天皇の敗死と天武天皇の飛鳥還都までが、唐や三韓の政治的推移も大きく含めつつ、書かれている。だいたい知っている史実がなぞられているので、「百済花苑」での新鮮な衝撃はもうなく、歴史のおさらいをした感じだが、日本が、まだ日本に成る前のいわば「三韓コピー環境」として徹底的に我が国当時の宮廷や王族貴族らの社会が書いてあることでは、特色のある歴史読み物と言える。かなり刺激をうけて読んだのは確かである。いい作品かとなると、首はタテにふれないが、少し役に立つところがあったと謝意を表しておく。
* 「平治物語」は下巻にはいると義朝が平賀に浴室で騙し打たれたり、頼朝が苦労して命が助かったり、常盤と牛若丸ら三人の幼子が悲惨に逃げまどう。みなおなじみの話で、「平家物語」への助走物語のようになる。平家と平治とどっちが先に物語化されたかは微妙であるが、事実問題として、保元・平治物語があるから、平家物語は平家に徹し得た。もっとも「平家物語」も「源平盛衰記」という大きな唱導基盤や変容と関わっている。平治物語のアトへ、「義経記」に前後から抱きつかれたようにして「平家物語」が在るのだとも、一面、言えなくもない。そんなことを云えば「曾我物語」は源頼朝の平治以後を書いて、これまた「平家物語」を平家だけに純化させるための援護をしていると言えるだろう。
とにかく、ややこしいようで、また妙に割り切れた前後関係の創られてあるのが、軍記物語成立史の面白さだ。わたしのような素人はそう受け取っていて差し支えない。
* 終日、よく降っている、花くたしの強い雨が。
2002 3・29 12
* 志賀葉子会員の「戦争と教育」と題したながい論説を読んだ。戦前から戦後まで、いかにして日本が戦争にやぶれ、それが果たして軍部だけの独走や責任であったろうか、「我が青春に悔いあり」と、克明に歴史的な経緯を、一女子教員であった体験に徴しつつ淡々と、しかし気力をこめて具体的に書かれてあり、感銘を受けた。1921年生まれの方である。わたしよりも一回り以上も年輩の作家。こういうものが「電子文藝館」に掲載できることは意義深い。大勢に読まれたい。
* 小泉首相が「米百俵」の話で持ち上げられていたが、志賀さんの原稿の中には、「米四粒」の実話が出てくる。南島死守の日本兵の、ついには「一日に米四粒」しか食べ物が配られなかったこと、内の一人分の米一粒が半欠けであったため、自分には「三粒半」しか呉れないのかと深刻な喧嘩になったという、九死に一生の帰還兵の告白を紹介しているのだった、こういうことも、もっと知られて佳い。
* 久間氏の長編小説も、佳境を、すっきりした感じで進んでいて、あと三十頁ほどで読み上がる。
2002 3・30 12
* 「平治物語」を読み終えた。「曾我物語」はたんなる仇討ちものではない、赤穂浪士の討ち入りや荒木又右衛門の敵討ちなどもともども、時代の変遷に伴う「公と私」との暗い烈しい葛藤が底籠もっている。曾我兄弟の話はかなり陰気に重いのだが、おかしいことに、曾我もののバラエティーは、歌舞伎などに満ちあふれて、華麗な祝祭的高揚をみせている。あの「助六」も曾我兄弟の化けたもの。「対面」も。他にもいっぱいある。能にもある。
小さい頃、わたしは曾我兄弟の話には惹かれなかった、なぜか本能的に避けたい気分であった。今でも、さ、読もうか、べつのものにしようかと迷っている。「住吉物語」は典型的な継子イジメだし「とりかへばや」は性倒錯の話である。もう王朝物語と謂うより鎌倉時代の匂いに染まった改作物語だ。わたしはもともと鎌倉時代が苦手だった。南北朝をくぐりぬけて室町ごころが横溢しはじめるといつもほっとした。戦国時代を暗黒だとは思わなかった、鎌倉時代の方がよっぽど暗いと感じてきた。曾我兄弟の物語はその鎌倉的な暗さに染められている。
2002 3・31 12
* 夜前、「曾我物語」をおそくまで読んだ。単に十郎、五郎兄弟が、父河津三郎の仇工藤祐経を討ってめでたしという、そんな簡単な話ではない。敵討ちというと、討つ側がいい、討たれる方はわるいと単純に思いがちだが、曾我・河津・工藤と、すでにして三つの苗字が入り乱れている。さらに伊藤がある。すべて一族なのである。
兄弟の母は河津の妻であった、が、夫を工藤に討たれてのち、舅伊藤祐親の命で、祐親の甥に当たる曾我祐信に再嫁している。この、曾我兄弟からすれば父方の祖父に当たる伊藤祐親が、そもそも、難儀な火種であった。彼は、かなり陰険に、工藤祐経家の財をかすめとり、自身の子に継がせてもいたので、祐経が伊藤・河津父子を殺そうとした最初の怨みは、伊藤祐親に発していたのである。ややこしいのである。
伊藤の家長たるこの祐親は、平家により伊豆に流されていた源頼朝の最初の愛妻の父親でもあった。二人には男子も生まれていた。ただ、この二人は、舅=父である祐親が京都へ上っていた留守に結ばれていた仲であり、時代はなお平家全盛、頼朝は流罪の弱冠で、はなはだ未だ肩身狭い存在だった。祐親は都から帰ってきて娘のまぢかに子どもの居るのをみて不審に思い、頼朝の子と知ると激怒、いとけない子を家人に殺させ、娘は頼朝から引き離して強引に他家に嫁がせ、それでも足りず頼朝も討とうと兵を差し向けているのである、それほどに当時の頼朝は心細い力弱い存在であったし、伊藤祐親という男にはまた苛酷に容赦ないところがあった。頼朝は辛うじて逃げ出して北条時政を頼り、そこで後の尼将軍政子と出会い相思相愛の夫婦になる。
曾我兄弟は、有力であったがはなはだ穏健でない一族のなかで成人した。幼かった兄弟には単純に父の仇は工藤祐経であったが、祐経にすれば、十郎・五郎兄弟のあずかり知らない苦い過去の怨念も身に抱いていた。複雑であった。「曾我物語」がくらくて重苦しい背後を抱えているというのは、こういう悪因縁がとぐろを巻いているからで、しかもそれには十郎・五郎は無頓着でただもう一途なのである。単純と複雑とが葛藤したお話なのである。つまり筋書きは甚だ面白くなる。だから読みふけるわけである。
2002 4・3 13
* 漱石の「私の個人主義」という講演も立派なら、徳冨蘆花の「謀叛論」にも感服する。大逆事件で死刑がなされて一週間と経たぬ間の「講演」草稿であり、よくもまあと舌を巻くほど率直に当局の非をならし、死刑は政権による暗殺であると断言している。文学者で大逆事件にきっちりしたものを云った唯一の言説であり、「詩」による表現としては与謝野鉄幹に「(大石=)誠之助の死」があり、妻晶子の「君死にたまふことなかれ」に勝るとも劣らぬ作を成している。過去の優れた文学者たちのとびきりの作品を文藝館に「招待」することで、現代の「現在文学」を何らか問いつめることも大切と考える。
2002 4・4 13
* 芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」を読んだ。昭和二年七月自殺の際の遺稿遺書の一つと目されてきた。芥川作品は主要な大方が比較的簡単に入手できる。彼の自殺は近代の精神世界を震撼した大事件であった。「ぼんやりした不安」から死ぬと書いていて「末期の目」という有名なキイワードも含んでいる。自殺の直前まで谷崎潤一郎との間に小説表現の本質をめぐって論戦があった。谷崎は筋のある小説こそといい、芥川は筋のない小説に惹かれていると論じていた。昭和十年十一月に日本ペンクラブが創設され、その少し前に芥川の名にちなんだ第一回芥川竜之介文学賞が石川達三作「蒼氓」を当選作として発足した。石川は後に日本ペンクラブ会長を務めている。その受賞作「蒼氓第一部」もペンクラブの「電子文藝館」は収録している。
会員として亡くなった福田恆存作一幕の喜劇「堅塁奪取」をスキャンした。
2002 4・7 13
* 昨夜、一気に「曾我物語」の残りを読み上げた。原文はすこぶる読みやすい。すでにして説経節の文脈と呼応する息づかいも感じられ、おそらく「ごぜ」や歩き巫女のたぐいを中心に語られ唱導されたであろうという民俗学からの提言は正しいであろう。
繰り返し言ったように、これはただの敵討ちの物語ではない。素朴な原始の風紀を備えた武士の時代から、頼朝の権威を頂点に秩序化された武家政権体制へ移行の時節に、そうは簡明に「適応」しきれない武士達の暗く鬱屈した気持ちも内部に取り込み、いわば体制へ「謀叛」の性質をも否応なく帯びた敵討ちになっている。兄弟の初一念を支持する層も厚く、しかし身内にすら、まして一族には、敵討ちなどを否認し危惧する保身の感情も渦巻いている。そんな中で、十郎、五郎の兄弟は遮二無二父河津祐行の仇工藤祐経を狙い、討ち果たし、あまつさえ将軍頼朝の座所へも足を踏み込んでいる。
兄弟の「心情」はひたぶる父の敵討ちだが、討たれた祐経には、兄弟の祖父伊東祐親に親からの遺産を横領された怨みが先行していた。それだけでもない、祐親にすれば、祐経の父というのは、自身の父親祐継が、後妻(祐親には継母)の連れ娘に産ませていた子であった。一家系の中の血縁の混濁と、財産の葛藤。それらが、武士達の世間の冷暖こもごもの環境内で発酵してゆきながら、祐経が受けるはずの工藤の資産が、伊東祐親を介してこの河津祐行に動いていた。それで祐経は祐行を殺し、しかし祐行の子、母の再嫁とともに曾我家に育てられた十郎、五郎は、遅疑なく専一祐経を殺すことに若い身空の一切を賭けたのである。
どうしようもない、暗い重い、しかもどこかに呆れるほど無頓着に澄んだものの感じられる敵討ちでもある。話は単調に似て複雑に変幻する。だが淡泊な物語の筋であるのも事実だ。
荒木又右衛門の仇討ち(助太刀)は、大名と旗本との深刻な葛藤の中で世間の耳目をあつめた。
赤穂浪士は幕府裁断の不公平を糺すべく、幕府の面目をさながら失墜させようと大がかりに吉良上野を討ち果たす。
日本三大仇討ち物語は、いずれも私的と見えて、大きな「公」との葛藤をはらんだために、興味ぶかいものになった。
それにしても「曾我物語」の兄弟も、女達も、まわりの武士達も、頼朝でさえも、よく泣くよく泣く、泣きの涙の連続の中で物語は終始運ばれてゆく。頼朝はともあれ秩序的な管理社会への余儀ない移行を泣いて嘆いているように見える。敵討ちなど時代遅れだ、やめておけおけと言い募る連中は、だが、涙を流さない。仇討ちよりは訴訟して裁判にかかればよいと、そういう男達は、兄弟に助言する。だが五郎たちには、裁判と敵討ちとが一つの土俵のものとはとても信じられない。敵討ちは武士の魂の問題なのだ。この撞着は大きい。
そして弟五郎の一途にして冷静な判断、大磯の遊女虎と相愛深く、とかく判断のミスや甘さを弟に窘められながらも、純粋な優しい兄十郎。こんなに運命的な仲良し兄弟は珍しい。敵討ちの是非はおくとも、この兄弟や大磯の虎を嫌いになる人はいないだろう。この物語では、頼朝ですら好感の持てる情けある一面を物語の結び目でしっかり見せてくれるから頼もしい。畠山重忠も和田義盛も、何人もの武士達が情け深く登場して物語を豊かに分厚くしている。
古典の一巻を、実質数日のうちに読み上げたのは珍しい。一昨夜はほぼ夜通しで仇討ち成就まで読みふけった。
2002 4・9 13
* こんどは「住吉物語」を読み始めた。改作物語である。原作は「落窪物語」の頃に出来ていたから、継子イジメ物語の双璧であったろう、だが、原作の「住吉物語」は今では散逸して、後代の改作が残っている。改作されたのがいつ頃かという判断はかなりの幅で学者の間でも意見が分かれている。ある時期には原作と改作とが併存していた可能性もあり、出は何故原作と別に改作が現れたかというのも問題になる。詮索は専門家に任せるが、とても人気の高い物語であったからこそ、これは江戸時代頃になってなお絵入りものなども出来ている。ともあれ、王朝古典の中でも一二かと思うほど本文が、分かりやすく読みやすい。すいすい行ってしまいそうだ。要するに継母が娘の婚姻をさんざん妨害するはなしであり、結末は暗くないはずだ。
* その一方で、宮沢賢治、葉山嘉樹、有島武郎という毛色の異なる三人の作品を読み始めた。葉山嘉樹はプロレタリヤ文学の中でも傑出して才能に恵まれた佳い作家の一人である。小林多喜二と葉山とは、近代文学のその方面では欠かせない質の高い文学作家であった。その中でも佳い短編を「招待席」に招きたい。宮沢賢治と有島武郎のことは言うまでもない。
* 湖の本を支えてもらっている、川柳作者で、大学の先生でもある速川美竹氏から、俳句・短歌・川柳という「国際化した日本の短詩」を編んだ一冊を頂戴した。
2002 4・11 13
* 昨夜は二時半まで、いろいろと仕事があった。それから床につき、バグワンを読んで、次ぎに「住吉物語」の下巻に入ったが、どんどん読んで、読み上げてしまった。こんなに読みやすい古典は珍しい。なぜだろうと思ううち、学問的に謂われている改作物語とは、原作の「現代語訳」に近い性質のものではないかと思い当たった。
十世紀の半ばに書かれていた原作が、通説に従えば鎌倉時代に改作されたとすると、少なくも三百年近く経っている。
我々現代の人間は、古文をたいてい苦手にしていながら、いわゆる古文で書かれていたおよそ千年間の昔人たちは、みな同様にすらすら古文は読めていた、同じように書いていたと思い込みがちだが、そんなバカげたことがあるわけがない。当節の人が、すでにして露伴も一葉も読めない。文語は読めないと謂うが、そうでない読みやすい鴎外や漱石ですらそろそろ苦手にしている始末で、三百年とは行かない上田秋成の「雨月」や「春雨」も読みわずらうどころか、英語より難しいという学生もざらである。
とすれば、古今集の後ぐらいに出ていた「原作住吉物語」が鎌倉時代に現代語訳的な「改作」を望まれても自然だろう。この読みやすさは現代語訳に通有の読みやすさではないかと思った。これ、或いは「発見」かも知れない。
* 「住吉物語」は「落窪物語」より淡泊であり、継母とそれに同心するえげつなく凄い悪女の二人だけが表立った悪役で、その母の二人の娘は気だてよく、母にいじめられて住吉へかろうじて逃れていった異腹の姉姫を慕い愛し、ヒロインの姉姫も妹たちを純粋に愛して、末々まで面倒を見たようである。実の娘達にも夫にも疎まれて死んだ継母をも、この姫が後生を弔っている。その辺が、落窪とはかなり違う。落窪の継母もその娘たちも、ヒロインをひどくいじめるし、同調する悪役も続出するので読んでいてハラハラした。そこがスリリングであり、聡明な落窪とその恋人、また忠義者の侍女夫婦らの、心をあわせた闘いぶりも面白い。復讐すらも面白い。よくもあしくもアケスケにぶちまいているのが落窪の長であり、住吉ははるかに品がいい。あっさりと淡彩の美しさで、しかも都を離れた住吉という海浜の名所を使っているので、変化もめざましい。この辺が人気物語の大きな売りであったにちがいなく、改作の実現した理由であろう。その点落窪は、まさに落窪に軟禁状態のなかで闘う姫である。
次は、やはり改作物語の「とりかへばや」を読む。何とも言えず心嬉しい、古典世界へしずかに心身を解き放っていると。
2002 4・13 13
* 宮沢賢治の詩集「春と修羅」から掉尾の二作と、「手帳」に書き留められていた遺作を数編、「招待席」のために起稿した。葉山嘉樹短編の代表作「淫売婦」はスキャンした。二つとも云うこと無しの作品である。
2002 4・13 13
* 葉山嘉樹の「淫売婦」を初校した。「セメント樽の中の手紙」というごく短い衝撃に満ちた短編があるが、「淫売婦」はさらに腰を据えた力作で、どこかシュールなリアリティーをもっている。一読忘れがたい訴求力に満ちている。
* 新たに読み始めた「とりかへばや物語」は刺激的な設定でありながら、おそらくは「新しい女」創造への意欲すら秘めた、時代の批評を示していそうに思われる。二人の異腹の兄と妹が、兄は姫君として育ち、妹は若君として育ってゆき、若君は女の身でありながら官界で栄達し妻ももつ。姫君として育った男君にも波瀾の日々が訪れくる。
日本の物語は、あまりにも源氏物語に被われているものの、優れて面白い問題作が他にもいろいろ在る。
「竹取物語」「伊勢物語」を先駆に、「うつほ物語」「落窪物語」「住吉物語」「夜の寝覚」「浜松中納言物語」「狭衣物語」また「松浦宮物語」「堤中納言物語」やこの「とりかへばや物語」など、ともあれ面白い物語が数ある。早い時期の「平中物語」なども異色を帯びている。そして中世にもけっこうの数の物語があって、スローダウンして行く。
近代の選りすぐりの秀作と併行してこういう王朝物語にしみじみと日々に触れていると、とても贅沢な世界が身近にあることが嬉しくなる。
永田町のあれやこれやの暴露合戦など戦記物にもならぬくだらなさで、ウンザリだ。だが、やがて政治家の悪徳不正スキャンダルの暴露取材にかぎって防御的に取り締まれる悪法律が国会で成立してしまう。作家達のデモ行進など、遅すぎた。声明を出してさえいれば何かしているような錯覚から、ないし言い訳から抜け出して、早い段階で街頭に出るなり躰を動かす運動をしないといけないだろうと何度か提案したこともあるが、もう目の前で国会通過成立が見越された段階での声や行動は、じれったいが、遅すぎる。
その点で、陶中国外相が訪中の古賀代議士に機先を制して靖国参拝に釘を刺したのは、あっぱれな素早さである。日本でも希望を伝えて置いたとおりに、木島始さん達のグループが動き出されている。できれば、三人の有志の声でとどめずに大きな声と行動の輪にする努力がほしい。宇治川の先陣争いのようなことで済んでは、大きな戦力にならない。
2002 4・15 13
* 田山花袋の「蒲団」では、くすくす笑ってしまう。美しい女弟子に惑溺し懊悩する小説家の「竹中時雄」は齢「三十六」である。ごく相応なことを云ったりしたりしているのだが、くすくす笑わせる。明治四十年、わたしの死んだ秦の父が数え年で十歳の大昔に書かれている。それを思うと、このかなり率直な書きぶりはそれなりに強い意欲の作品だと分かる。ルソーの「告白」のような先駆作に標題からだけ学んだ気味もあるが、誰もがやらなかったことをやり抜いている小説だという点では、はなはだ日本的にオリジナルである。踵を接して掻かれた白柳秀湖の「駅夫日記」も告白小説だが、此処には鉄道の職場があり、労使の、階級間のすでに闘争姿勢があり、社会的な現実にしっかり目が向けられている。その点では藤村の「破戒」をかっちりと後追う姿勢で書かれている。田山花袋の「蒲団」は、だが、徹頭徹尾中年男の愛欲無残である。その徹頭徹尾のさまが読ませる。花袋は読ませる力のある間違いない大作家の一人なのである。
それにしても花袋の前にあの「告白」を支えてくれた外国文学の輸入があった。ルソーもハウプトマンもツルゲーネフも。同じように藤村の「破戒」にもあった、ドストエフスキーの「罪と罰」が。そして「罪と罰」は、我がプロレタリヤ作家の第一人者といえる葉山嘉樹の代表的短編「淫売婦」にも、顕著に作の基盤にそそり立っている。
作家達も画家達も、明治大正の人達は魂を入れて西洋から学んでいた。西洋からと限定しなくても、いろいろ学んでいた。現代の創作者にはもうそんなことは必要がないと謂えるものだろうか、わたしはもうあまり若くもないので自分のこととしては何とも言えないが、学んでいる方だろうと思っている。
わたしの身の側には、少なくも甥は小説家で、息子は劇作家であるが、どう考えているのだろう、聴いてみたこともないが。
2002 4・15 13
* 花袋の「蒲団」が長い。なかなか校正が進まない。ダレているのではない、けっこう面白い。ウヘーッ、ウヘーッと思いながら読み進んでいる。ごく若くてウブな頃に読んでいて、へえ、こんなもんなんかなあと想っていた。主人公より三十も年かさになってしまい、そやな、こんなもんやなあと苦笑いしている始末。これを書いたなんてエライものだ。
* もっと驚いたのが、藤村。井出孫六氏に、解説を書かれた岩波文庫「千曲川のスケッチ」を戴いた。有名な作で、味わい深いまさにスケッチの文集である。信濃の風光をとらえて自然描写の豊かなのは当然としても、藤村の関心はいつも人事にあるから、そこで捉えられた人間たちは、淡彩ではあれ風貌の内側まで陰翳ふかくクリアに描写される。藤村である、当然のことである。だが、とりわけて驚いたのは、人間ではない、殺されてゆく牛や豚を冷然と観察しスケッチしている藤村に、だ。
或る正月早々、藤村は人の案内で、積極的に、意図的に、「屠場」を見学に行き、スケッチの四節分にわたって、克明に、雌雄の牛四頭、豚一匹が完全無欠に屠殺され捌ききられるまでを書いていて、微塵の動揺も感傷や感動も不快感も文章の上に示していない。凄いとは、こういう藤村の眉一つ動かさない態度を謂うのだろう。読んでいる私の方が少し弱った。これを書いたなんて、やはりエライものだと謂っておく。花袋のエラサとは対蹠的である。
そういえば、国木田獨歩がもう死ぬという臨終に近い時に、花袋と同席で枕頭に見舞っていた島崎藤村は、じつに沈着な面もちと口調とで、危篤の友にむかって、「いま死んでゆく気持ちとはどんなものかね」と質問した、びっくりした、と花袋は書き残している。人生の従軍記者を自認していた作家の多かった時節の中でも、藤村のその姿勢は冷厳なまで徹底していたと謂うことである。驚いたとかいている花袋もまた素顔である。
* 「とりかへばや物語」も佳境に進んで、いる。女性の身で男として宮廷社会に入り中納言にまですすみ、あまつさえ貴紳に育った姫と結婚までしている「男君」は、よそ目には穏和に暖かい理想的な夫婦生活の間に、親友である宮の宰相に、妻を奪われ、妊娠させられる。実は女である「夫」中納言にはありえないことで、話がややこしくなる。
一方、男性の身で女として、これまた最上級の尚侍=ないしのかみとして女春宮の補佐に宮廷入りした「女君」は、春宮との日夜の同衾の間に、抗しきれずに春宮と肉体関係におよんでいる。やがては妊娠というのっぴきならぬ所へ進むだろう。父親も、それぞれの母親も、ごく身辺にいた者も、真実を知っている。少なくも確実に中納言が妻の四の君を懐妊させることは出来ないのである。
夜更かしをついつい強いられてしまうほど、面白い。面白い読み物はほんとのところ限りなくある。
2002 4・18 13
* 卑怯未練、卑劣な、似非道徳家の偽善者である、花袋作「蒲団」の主人公竹中時雄氏は。そう決めつけるのはごく易しい、とにかくヒドイものだ。しかも噴飯モノで可笑しくて、何度もグハグハ笑わされ、その笑いがすぐ凍り付く。顧みて、「おれはチガウぞ」と言える男がどれほどいるかと、我が身わが心にも問うてみるとき、ウーンと唸ってしまう。こういう内向痴漢を克明に書ききっているのだから、これは「問題作」だ。同じ作者の「田舎教師」のような清冽な名作でも「百夜」のような円熟の秀作でもないが、文学表現の歴史を震撼した難儀な問題作、かなりよく書けた佳作なのは疑いもない。竹中時雄だけが問題でなく、堕ちた「新しい女=芳子」を書いている。その点、神学生崩れの「田中」は平凡だ。とにもかくにも、やたらに「神聖な清い恋」の「肉」の「霊」のとさんざ繰り返される空疎さのなかに、花袋自身が自覚していなかったろう今日的な批評が露出し噴出している。今でも新「蒲団」論は可能である。
* 西山松之助さんから、佐高信さんから、井出孫六さんから、李恢成さんから、今西祐一郎さんから、つぎつぎと興味津々の著書を戴いている。御礼を一気に書いて出した。著書の御礼は、たやすくは書きにくい。
2002 4・19 13
* 「今とりかへばや」の女中納言は、吉野へ、唐土から素晴らしい姉妹の姫を伴い帰国していた大徳の古宮を訪ねてゆく。源氏物語の宇治八宮に相当するとみれば、直ちに女中納言は薫大将に、そして彼(=彼女)の妻四の君を奪った好色殉情の宰相は匂宮に擬してみることが出来る。同時に、吉野の姫宮たちは、宇治大君、中君姉妹に相当して読めるうえに、浜松中納言物語の唐土帰りの中納言たちも影を落としている。こういう影響関係が王朝物語ではおもしろく絡み合い浸透しあっていて、一つの「王朝物語」という鯛の兜煮をこまごまとせせり食らうような味わいようも出来る。こういう楽しみは、飲み食いのそれとも、観劇や繪を観る楽しみともひと味も二味もちがっている。「古典愛読」である。「古典研究」は堅苦しくも細かく細かくなりすぎるが、わたしのような素人は、好き勝手に縦横無尽の「古典愛読」を堪能しても許される。
2002 4・19 13
* 今西九大教授から送ってもらった「文学」巻頭論文、「近代『蜻蛉日記』研究の黎明」は、台北帝大教授であった国文学者植松安の足跡を丁寧に辿って、学者の研究生活が抱きこみがちな運命の明暗にふれた、こころにくい論説であった。興味深い追尋で、角度的には史伝への誘惑を秘めて見えた。小説を読んでいるかとふと錯覚しそうなほど、たとえば鴎外の渋江抽斎などへの近接すら感じた。今西氏の論文抜き刷りは、私の好んで耽読するものの一つである。少しでもよい本文、原典がないなら原典に少しでも近い写本を求めに求めて何十種類モノ古本を蒐集し謄写し校合して行く努力。そういう仕事を同時に何人かの学者が併走して進めているとき、思わぬ機微明暗が生じてくる。蜻蛉日記なら蜻蛉日記を評論するのはわたしにも出来なくはない。しかし異本の厖大な蒐集と校合から少しでも善い本文の発見や定着へという研究生活は、わたしなどの想像を超えているが、今西氏はときどきそれを垣間見せてくれる。学者の知己をもつありがたさである。
* 今西さんが同時に送って下さった九州大学出版会からの編著『文字を読む』は、すこぶる知的好奇心をゆさぶる。世界の言語は五千ほどあり、そのうち文字言語は三百程に過ぎないが、それだって、文字の同類とも思われないほど顔かたちが異なっている。読みはもっと奇々怪々に異なる。二十章にわけて研究者が分担し、今西教授は王朝女流文学に於ける「かな」を読んでいる。変体仮名の字形一覧など出ていて、わくわくする。他にハングルも満州文字もタムやインドやアラビアの文字を読んでいる章が見える。文字だけでなく「ことば」にもふれてある。「ことば」に触れるのなら、わたしぱ日本の「からだことば」「こころことば」を誰か専門家に読んでみて欲しいと前々から希望している。わたしが造語しわたしが論究してきた程度では初歩に過ぎる。それでもまた、わたしは「からだことば」「こころことば」を当分の間目の前に置いて仕事をすることになる。
2002 4・19 13
* 夕方、元岩波書店の野口敏雄氏から東京堂出版刊・栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』が贈られてきた。氏が、わたしの「清経入水」紹介を担当してされているとは、聞いていた。この種の紹介では、ずいぶん以前小森陽一氏の書いてくれた「慈子」の読みと解説が抜群で、作者の私が教わった気さえした。野口さんのは、まだ読んでいない。
二葉亭四迷にはじまり、さ、だれが一番の新人なのか、とんと昨今の文壇には疎いが、早稲田文芸科でわたしの教室にいた角田光代も入っている。平野啓一郎も入っている、が、黒川創はまだ届いていない。
全部で、348人の名があがり、紹介された作品数は、390作とある。二つ作品を紹介されている作者は、文藝館「招待席」の参考になるだろう。五十音順に「索引」を追ってゆくと、芥川龍之介、安部公房、有島武郎、有吉佐和子、泉鏡花、井上ひさし、井上靖、遠藤周作、大江健三郎、大岡昇平、開高健、梶井基次郎、川端康成、国木田獨歩、幸田露伴、河野多恵子、小林多喜二、小林秀雄、佐多稲子、志賀直哉、島崎藤村、高橋和己、太宰治、谷崎潤一郎、津島佑子、永井荷風、中上健次、中野重治、夏目漱石、花田清輝、林芙美子、樋口一葉、松本清張、三島由紀夫、宮沢賢治、武者小路実篤、村上春樹、森鴎外、安岡章太郎、山本周五郎、横光利一、吉行淳之介となっている。
面白い。他の人と差し替えたい名前もあるが、批評はしない。
これぞとわたしの思う人は、ほぼ洩れていない。いろんな意味で参考になる。文藝批評家は入っているが、詩歌人は抜いてある。大衆小説やノンフィクション系もだいぶ落ちている。2作組では山本周五郎一人である。私小説という意味でない「純文学」の顔ぶれが主に並んでいて、一つの判断を示している。ペンの会長も、副会長でも、専務理事も入っていない。
2002 4・20 13
* 終夜、よく降っていたが、もう雨はれて、鳩が啼いている。
* 「とりかへばや」では女中納言が、親友の宮の宰相に女体と見あらわされ、犯された。宰相は中納言の妻四の君とともにその「夫」である中納言も犯し、さらに男尚侍=中納言異腹の兄にも、男とは知らずに迫っている。なまめかしくも混乱した場面がつづく。王朝貴族の好色はほとんどがレイプだ。女はそういう際に「情け知らぬ顔」ではありたくないという自意識から、めったに身を守らない。「夜の寝覚」の寝覚の上が、宮中で帝に押し入られたのを抵抗し抜いたのが稀有の例だろう。「とりかへばや」で宮の宰相が尚侍に挑みながら果たさなかったのは当然で、じつは尚侍は男なのだ。
* 西山松之助さんのインタビューが、頗る面白い。とてつもなく独特な「達人」である、この老碩学は。ちょっと類がない。
似た感想が寺田寅彦を追想した、元岩波社長小林勇氏による縁辺のインタビュー本にもうかがえる。この本では、小宮豊隆の序文からすでに情意を尽くして暖かい。
そして、バグワン。全ての言葉が豊かな清水の味わいでのどもとを降りてゆく。
2002 4・22 13
* この数日、わたしの一番深くでわたしを揺すっていたのが何かと言えば、「電子文藝館」でも「電メ研」でも「日光への小旅行」でもなく、「とりかへばや物語」だというしかない。いやな対極には小泉内閣や国会の危険きわまりない汚濁がある。
物語のことを今詳しく書く時間がないけれど、わたしが、結局の所いちばんやすらかに故郷に帰るほどの気持ちで陶酔できる世界は、文学的には王朝物語の「端正と優雅」なのだと思い当たらずにおれない。事柄としての物語ではない、それは現代の文学以上に実は生々しいのである。一例を挙げれば男女関係はほぼことごとく男のレイプであることに間違いない。そういう事を懐かしんだりはしていない。ものの「書き方、語り方」その端正と優雅に襟を正す思いがある。「とりかへばや」はあまりの面白さに夜更かしを強いる。古典なのに、全集本にして百頁を越してゆくほど就寝前に読みふけっていて、慌てて灯を消して寝付こうとするが、夢にも文体が蘇ってくる。
この明け方も遠い昔に返った懐かしい夢を嬉々として見ていた。
2002 4・26 13
* 西山松之助さんのインタビュの本が面白くて、糖尿病外来で待っているうちに読み上げた。家元制の研究とともに「江戸」学の権威であるが、学風は、生活民俗に徹底的に取材した文化社会史研究であり、文学でいえば、作者でなく読者の側から、藝能でいえば役者でなく観客の側から、基盤構造や機能が追及されてゆく。
茶杓の実測比較研究でも著名な成績をのこされているが、拾い上げ究明された名杓が2700本ほど。だが西山さん自身が、竹を求め求め歩いて、自身の手で曲げて作られた杓は8000本を数える、と。それに付随しての銘名なども夥しい数にのぼるが、それとても更に多くの活動からみれば氷山の一角であり、これほど人生境涯の隅々に至るまで楽しんでされて健全無比の学藝生活というのは、近代に類がないのではないか。たいがいのことには驚かないつもりでいるが、この老碩学の楽しさと深さとは途方もない。けっして楽なことをされていないのに、楽しんで尽きない。しかもどれも浅くも薄くもなく、学藝世界に革命的な見解を打ち込んで説得の度は広く深い。こういう人の人生に触れるのはじつに嬉しい。しいて「駆り立てて」そうなってゆくのでなく、自然にゆったりとそう結実してゆくのだから素晴らしい。
* 寺田寅彦の回想もじつに面白い。
2002 4・26 13
* 「とりかへばや物語」大団円、満足した。物語として首尾整い、巧みに構成・構築された構造的美観の豊かな作で、美しい。面白い。佳い物語であった。繰り返し読みたい。「今尚侍」も「今大将」も、女に戻り男に戻り、揺るぎなき中宮と関白にのぼりつめた。好色の宮の中将も、内大臣に。前の二人の宜しく書かれて端正優雅なのに比し、この好き者内大臣の評価はぐっと低く書かれている。人物はそれぞれに表現に統一感があり、存在感はつよい。
次は曾読の「松浦宮物語」を読み返したい。
2002 4・27 13
車中で、小林勇編「回想の寺田寅彦」を最期の最後の弔辞の行列までみんな読み上げ、目頭が熱くなるほど涙を溜めた。真に徳高き人の最期であり、死なれた人たちの悲しみが溢れんばかり一冊を満たしていた。
2002 4・27 13
* 有島武郎の「An Incident」と永井荷風の「花火」をスキャンし校正した。それぞれに興味深く読んだ。
有島を「観念の作家」というと、わるく謂うように日本では取られるが、観念は、西欧の作品では重い意味をもち、大なり小なり観念的な深みに感銘の理由をもっている。ゲーテでもシラーでも、ホフマンのような作家でもそうだ。トーマス・マンに至るドイツの作家達ばかりではない。シェイクスピアもアンドレ・ジィドでもそうだ。日本の作家は観念をむしろ苦手にし、そのついでに観念的という姿勢を鍛える前に排斥してきた。有島武郎は観念を表現した珍しい作家の一人である。観念的なものを忌避した例えば広津和郎が、有島を頑固に認めようとしなかったのはその辺の事情を対蹠的に見せている。こんど「ペン電子文藝館」のために採り上げた有島の短編は、書かれていることは具体的である、が、夫の心理の推移に焦点を絞りながらの、「苦渋の孤立感」の持ってきかたには、観念操作を経ている。どう受け止めるかは読者によるが、一字一句を校正しながら読んでいると、有島の生苦の重量感がひしひしつたわって来る。
永井荷風の短編「花火」は荷風という作家の転回点を明示しながら、峻烈に日本の近代社会の「濁流」化を批評しているが、むろん、批評あらわな「藝」の無い作ではなく、巷に隠れた市隠のさりげない姿勢と物言いから、恐ろしいほどの皮肉を利かして文学者としての底意を見せている。佳い作品なのだが、「略紹介」を書き始めて、没年を十年早く思い込んでいたのに気づいた。太宰治と混同していた。荷風が亡くなったときわたしたちは新宿河田町で新婚生活をしていた。「招待席」にぜひ欲しい作家であり作品なのだが、遺族と折衝できるかどうか。筑摩の現代文学体系で読み返したが、全集本奥付に「永井」と検印紙が貼ってある。ペンの会員ではなかったし、作品を寄付して戴くことは難しいか。 2002 5・1 13
* 快晴の五月。昨日はメーデーのメの字も見なかった。荷風は花火、祭り、の連想から、日本の祭礼がいつしか社会的な祭りへ動くに連れ、提灯行列や万歳やなにやかやと変容してきた明治以来の推移を、淡々と回顧している。そして近代社会と政治との汚濁や混乱を、仮借なくしかしさりげなく「示唆」している。大正七八年の作である。
藝者組合が祝祭に乗じて練り歩いたところ、見物が殺到し、果ては藝者達を路上暴行凌辱、いのちからがら悲鳴をあげて藝者達が逃げまどい、悲惨な被害者がひた隠しの中で仲間内で見舞われていたとも荷風は書いている。狭斜の巷にあえて沈倫していた荷風ならではの情報であり、批評の言葉はほとんど書かれていないのに、その意思も意図も、つよく伝わってくる。
以来、ほぼ百年。日本は、「また新たな戦前」の抑圧時代にさしかかっている。
2002 5・2 13
* 定家の「松浦宮物語」には、浮かぶような陶酔感を誘う魅惑はうすく、固く、男性の書く物語はこんなふうになるという、見本のよう。浜松中納言にかなり影響されていて、中国の后や皇女との幻想的な恋が書かれる。なまめかしく、ひたぶるな情感で夢うつつの出逢いが書かれて、この辺も女の物語よりせまっている。二度目の読みだが、昔読んだよりも面白く感じているのは、わたしの古典の修行もすこしは進んでいると云うことかな。
* だが、やはりバグワン。降参する。
2002 5・2 13
* 「新潮」巻頭に甥が、黒川創が長編を発表しているのに、ふと目が届いた。あやうく見過ごすところだった。まだ通読に及ばないが、ロシアだの「湖」だの「鏡」だのと、わたしの『冬祭り』を思い出させるワードが惹句に謳われていて、おやおやといった妙な気分になる。詳しく読んでいないから何とも謂えないが、ロシアへの旅で不思議の少女と出会うのは『冬祭り』の「法子」がそうであり、かの地ロシアで様々幻想的な愛の物語が展開する。黒川が、何を、どう書いているのか、読み進めたい。
出だしのアタリは、すこしこれまでと手触りがちがい、ザラザラしている。いい文章を読みたいものだが。ねばり強く頑張っているようで頼もしい、嬉しい。よい作品でありますように。
* ラボ教育センターの請いで昔に書き下ろした「なよたけのかぐやひめ」を読みなおしている。
2002 5・3 13
* 寺田寅彦の長女が幼い頃、父寅彦から天文の話をしてもらいながら、宇宙が無限だなんてこわくて気味悪く感じると感想をもらすと、寅彦は即座に「宇宙が有限であるほうが、よっぽど変で気味が悪いよ」と話したそうだ。これは端的で、わたしは、小手をうつ気分でその「回想」を読んだ。
* 「松浦宮物語」読み上げた。
一の感想は、全体が、とは言わないが、後段に入ってすばらしく文章の佳いことに気づいた。文章として書かれていない物語は多い。物語られているのだが、「松浦宮物語」はさすがに定家という最初の専門歌人というか文学者の意識が、文章表現にも集中しているのが分かる。感心した。簫女と皇后とがイメージの上で入り乱れながら、幻想的な愛欲の場面がつづくあたり、定家の文章はきもちよく潤って妙である。
もう一つ、特色は、国と朝廷の存亡にかかわるほどの戦闘場面が書かれていることで、あまつさえ、日本から渡った遣唐使の中でも年少の主人公が、住吉の神に守られて強豪の敵将を斬り捨てる場面など、およそ王朝の他の女物語では想像も出来ない風変わりな場面である。戦争嫌いを日記「名月記」に言い放っていた定家が、事も有ろうに戦乱戦闘の場面を不思議の恋の物語のなかに書いている。
「松浦宮物語」の三つ目のつよい印象は、歌のうまいことだ、これは当然としておこう。もっともこの物語を書いていた頃の少将定家は、出世は停滞し、歌作はいたって不評で鬱屈のさなかであった。だが定家らしい濃厚な措辞でみごとに心境を表現し得ている例が多かった。
「うつほ物語」の最終巻が届くのを待ちわびている。
2002 5・3 13
* 表面家庭苦を書いたように見える有島武郎の短編「出来事」と太宰治の短編「桜桃」と。小説合せふうにどっちかの肩をもつとしたら、どうか。比較に堪える問題を両方ともいろいろにもっているが、一つ共通して謂えるのは、成った作品でなく、「つくった」作品だという事。こう書こうという最初に方法的なものが意図して働いて、作者はそれを追っている。その追い方に、太宰は己を用い生かし、有島は己を抑制して意図を生かそうとしている。さすがにどっちも旨いが、太宰には見せる芝居気が露わになり、有島は苦渋という薬品をのみこみなから自分の中で起きる薬効を確かめようとしている。ともに観念的な作品である。小説合せとしては「持=引き分け」と判定せざるをえない。
2002 5・4 13
* 黒川の小説をなかなか読み進めない。スーリーとの相性なのか、すぐ飽きてしまう。ストーリーがなかなか見えてこないせいもあるが、余計なことを書きすぎているのかも。最初の十分です、勝負は。映画監督もシナリオライターもそう教えてくれた。必ずしもいつでも何にでも適当な説かどうか断言できないけれど、本人が満足しているほど読者は作者の知識や見識に乗ってきてくれない。乗せたければ文章の妙で引きずり込むしかなく、それは容易でないが、文学作品の決戦すべき要所だ。但し文章の妙は、時代や年代で受け取りかた、受け取られかたがマチマチになる。鴎外や露伴の文章なら誰でも感嘆するとは限らない。また長く書けばいいというものではない。冗漫は、長編になら許されるというわけではない。短く書ける作品はより短く書き上げての「藝」なのではなかろうか。短くて済む話を長く引き延ばすのは、欲でこそあれ、藝ではない。「読ませる力」が大切だ、どんな時も。
新潮には小島喜久江さんという編集者がいた。わたしの出逢った中で、編集者としてもっとも厳しく最も優れていた。言われることの一つ一つが的を射ていて、作者を黙して反省させた。口に出して多くは語らないが、鉛筆のひゅっと引いた線だけで、よく考えよと指摘してくれた。自分で考えよと。小説に瑕瑾を許さなかった。不用意な口語体が文章にまじるのでも、黙って指摘した。例えば「花みたいな人」なら「みたい」にすっと線が引かれた。今の小説は瑕瑾だらけで満身創痍になっていて、だから文章の底光るファシネーションを失っている。その文章を読んでいるのが嬉しくて堪らない、ストーリーなど二の次だと言うほどの文体の魅力が必要なのに。真の文豪にはそれがあったし、ただの売れっ子にはそんなのは無い。フワフワのポンのようなものだ。ふくれた砂糖菓子にすぎない。 黒川にはそうならないで書ける才能がある、はずだ。「きみは書けるよ」と、励まし勧めてきた、小説への道を。少年の昔から。やって欲しい。
まだ読み上げていない作をとかく言うのは当たるまい。しかし、いい作品は全部読まなくても分かるし、良くない作品の九割九分は、出だしから分かる。良い例外であって欲しいナと願いつつ、ゆっくり読み進めている。 2002 5・5 13
* 京都神宮道の星野画廊主人が「石を磨く」というすこぶる個性的な画論を、関西の産経新聞に連載し始めた。石を磨いて珠に帰してゆく、そうとしか謂いようのないほど優れた発掘者でコレクターである星野さんの、本領発揮の面白い興味深い読み物で、コピーを送ってもらうのが待ち遠しいほどだ。めったにない画商さんである、研究者も真っ青、いつも彼に助けられているような美術館関係者が多いはずだ。
2002 5・5 13
* 王朝から転じて、今度こそという意気込みで西鶴「好色一代男」へ取り組んでいる。こんどは、するすると読み進めている。
2002 5・9 13
* 終日、機械の前に。坪内逍遙、石川啄木を起稿し校正し、妻が念校した。それでも、どこかしら誤植はのこる。機械の画面での校正は、ゲラで読むよりも目が滑ってむずかしい。それにしても明治二十三年の逍遙「小説三派」の至れり尽くせりにも感心したし、わずか二十五歳の啄木が、大逆事件の大々的に報じられるや、直ちに筆を執って書いた「時代閉塞の現状」にも感嘆を新たにした。自然主義文学を論じるかの筋道から、近代日本の「強権」の背後基盤をなしている真の「敵」とは何かを慎重に示唆して、大胆かつ的確である。彼の警告はむなしく、不幸にしてあの大戦火に至り付いて敗戦、今に尚余燼は火を上げかねない。天皇制という「敵」は、幸い当代皇室の比類ない叡智と誠実さとで、むしろどの政権与党よりも人間的に信頼深いものがあるが、しかしながら「制度」というものは悪辣に利用されやすい。しかし「敵」は、啄木の頃からすると、大逆事件の頃からすると、いまはむしろ「政権与党」こそが国を誤るおそれの「敵」になっている。政治家の質が悪すぎる。そういう連中を選んでいるのだから、「敵」は我が身うちに腹蔵しているのだと覚悟すべき時だ。
* 折りも折り、中国北部での日本領事館がしでかした、前代未聞、世界でも類例の少ないであろう怠慢な亡命者への対応には、情けないを通り越し、惘然自失。
* 三好徹氏の「遠い聲」苦心惨憺スキャンしてみたが、数十ペイジの五分の一ほどがそれらしく識字反応し、他は化けに化けて、モノにならない。だが、乗りかかった船であり、力の入った作品をつぶさに読むという楽しみに切り替え、とにかく頭から打ち直しはじめた。一月ほどもかかるだろうか。三好氏ほどの作家のいわば出世作が、単行本にも入っていないというのは、作品のために可哀想という思いがわたしにはある。値打ちがないならともかく、「真空地帯」を書いた野間宏があれほど強く推して「文学界」も掲載した次席作である。一肌脱ごうと思った。
* 梶井基次郎から「檸檬」「蒼穹」「闇の絵巻」を選んでスキャンした。中島敦の「名人伝」もスキャンした。「おまえの仕事はいつするんだーい」と、あちこちから声が聞こえてくるようだ、が、今のところ「これもわたしの仕事だーい」と答えて置くしかない。この没頭が、生きる力にも次の力にもなるだろうし、たとえならなくても、没頭はいいことだ、しかも拘泥は少しもしていないのである。何をしたって、どっちみち夢に過ぎないと分かっている。
2002 5・10 13
* 梶井基次郎の「蒼穹」「闇の絵巻」とも、しみいるように美しい深い文章で、ともにわたしの関心深い「闇」に触れている。こういう名品を、一字一句校正してゆく功徳ははかりしれず、一言で言えば「嬉しい」というに尽きる。中島敦の「名人伝」にかかっている。
京都の会員から短歌百五十首を選んだので、人に頼んで電子化してもらい、ディスクかメールかで送ると。有り難い。どうしても出来ない人には手伝ってあげたくなる。そんなときも、梶井や中島があたえてくれるような「嬉しさ」をどうか恵んでもらいたい。
* 三谷憲正氏に戴いた「太宰文学の研究」を読み始めたが、切れ味がいい。最初の「葉」試論から、巻をおかせない。作者の実像を作品にもちこんで安易に論じるのでなく、作品の表現に、文章の中に突入しながら、背後の典拠に手を触れてものを言おうというのだ、いい姿勢だと思う。両々相俟ってよりいいであろう。本文に即して「読み」をはかり、作者の資質や特徴にも考慮しつつ、典拠にも斟酌する。大切さは、この順番である。思いつきでは困るのである、一頃流行った「佐助犯人説」のような。
太宰が富岳百景で、富士山を高さ三七七八米と書き、じつは三三七六米ではないか、こういう「基本」のところで太宰は杜撰であり、この二米の差に、太宰という作家の重大な問題がひそむなどと論じた松田修説に、三谷氏は、べつの「基本」文献で、富士標高を三七七八米としている例はあり、それゆえに太宰が杜撰などと断罪する愚を指摘している。
こういう例は他に幾つもあり、たとえば日本橋の往時の長さ、三七間四尺五寸、昨今の長さ廿七間と太宰の書いているのに対し、こんな数字の実否は太宰にはどうでもよく、実は「三七四五即ちミナシゴ」で、「二七はフナ」を意味すべく工んで太宰はこう書いたのだなどと言う、長篠康一郎説に対して、三谷氏は、まさに日本橋に関して上の通りの実数字を掲げてある文献、太宰が参照した文献をあげて、慨嘆かつ批判している。こんな「読み」の延長上で、三七四五は足して太宰の十九(重苦)、二七は足して太宰の九(苦)などと落し話にされたのではかなわない、とも。
まことにもっともだ、こういう脆弱な論拠から太宰治の創作や作家性そのものを論じられたのでは堪ったものではない。文学研究には多くの方法論が立てられているけれど、思いつきでの詭弁は方法のらち外で、はた迷惑と言うしかない。
2002 5・12 13
* 全面に新規書き直しの三好徹氏の「遠い聲」は、読み進むに連れて、野間宏をのぞく他の新人賞選者たちの「読み」は的はずれであるようにしか思われない。非難されている何れも、作中にそれなりの強い理由を持っているし、荒削りで若さから来る観念的ななまなものも無いではないが、要所要所に文学として優れた、読者として頷ける「表現」が決まっていて、佳いではないかという「得点」の方が、マイナス点よりずっと多い。これだけの題材を徹底して追及したのは、決して材によりかかって文学を犠牲にしたといったものとは思われない。うまいへたではない。これをこうまで書いている力と意気は確実に文学的に構成されている。しかしまあ、絞首刑執行の現場にまでこう間近に立ち会うとは思わなかった。凄い。しかし文学として読んでいるので、緊張は凄いが、不快感とはちがう。
* 中島敦の「名人伝」はまだとばぐちで何かと言うことは出来ないが、この作家のほんとうに佳いところばかりが喧伝されてきたとは、わたしは考えていない。「山月記」「名人伝」がなにかというと取り上げられるが、とりあげかたに「ことごとしい」ものも無いでなく、あえてペダンチックに出たこけおどし的なお話の部分にのみ惹かれていてはなるまいにと思う。梶井基次郎といずれとなれば、わたしは梶井の「詩」に惹かれ、中島短編の「話」を警戒する。評判とちがい、「李陵」や、最晩年の長編の文章と志とを、わたしは、中島敦の場合、愛する。
2002 5・13 13
* どんなに遅く床についても「バグワン」と「好色一代男」を読んでいる。それから芹沢光治良の出世作「ブルジョア」を二夜で読んだ。日本人作家では、芹沢さんの頃だと、きわめて新鮮に珍しい作風であったろう、これは。西洋の小説を読むようにデッサンがたしかで面白かった。海外を書いた作品では横光利一の「旅愁」を、とくに前半を愛読した。辻邦生の作品にも外国はよく出たが、芹沢さんのものとは随分違っていた。むかしに芹沢さんの「巴里」ものの一作を読んだと思い、その印象はやや感傷的で中間小説めくかなあというところがあつたが、少し気を入れて読み直したい。
* 黒川創の作品が読めていない。妻は読了したらしいが、特に何も言わない。そんなことで、まだ、作品については何も見えていないし言えない。
そうこうするところへ、妻の妹がきれいな本の「詩集」を出して、送ってきた。この義妹は、死んだ自分の兄に熱烈な思いをもっていて、捧げる詩を書いたようだ。義兄は詩人にはならなかったが若い頃に詩を書いていた。その当時の友人谷川俊太郎氏が跋文を呉れている。花神社から出た。大岡信氏らの詩集をよく出している専門の版元だ。お金を掛けた私家版だが、ま、いいところから出せてよかった。わたしは何も手伝っていない。どんな作品だか、まだ見ていない。
なんだか身の回りで、創作活動するのが増えてきた。黒川創の妹の北沢街子も佳い文章が書け、著書もある。独特のセンスを持っている。画家だが文章の方でも生きられそうに思う。わたしの娘の朝日子も、才能はあったが粘りが無く棒を折った。環境に恵まれ努力していれば、何かし遂げえただろうにと惜しい。孫娘たちの「お受験」に奔走するおやすい教授夫人なんかになっていないで欲しいが。
建日子は、必死に頑張っているようだ、連続ドラマをチーフで書き続けている中で、六月の「タクラマカン」に手応えを感じているらしく、妻の話では彼のホームページでもボルテージがあがってきたようだ。わたしの機械が壊れて以来、彼のホームページは見られないままで。佳い舞台を楽しみにしている。 2002 5・19 13
* 「金色夜叉」の熟語のよみの特異さにふりまわされる。校正はしていても、誤植をみつけるのでなくふりがなし続けることで疲労する。それなのに、貫一お宮の熱海を叙する紅葉の筆はとっても興味をそそるのである。
* 近藤富枝さんから「服装で楽しむ源氏物語」が、愛知のペン会員紫圭子さんから詩集「受胎告知」が贈られてきた。先のは文庫本、詩集は泰西の名画に飾られたしんと重い佳い装丁だ、ざっとみた感じ、紫さんの代表作に成り得ている気がする。この人にも「電子文藝館」への出稿をぜひ声かけよう、ただ残念ながらこの人も機械が使えない。「e-文庫・湖」のときもわたしがスキャンして掲載した。まだまだパソコンは、そうそうは浸透していない。
2002 5・20 13
* 夜前は、一時間しか眠らなかった。その仕事のためではない。芹沢光治良の「巴里に死す」を読み出したら、引き込まれ、眠くならなかった。それでも強いて電気を消したが、一時間して、四時過ぎに外へ出たいマゴに起こされた。玄関から出してやり、寝ようとしたがもう目が覚めていた。そっと二階に上がり、機械の前で自分の仕事にかかった。おかげで捗ったが、昼前ごろは眠かった。
* 「巴里に死す」は意表に出た構想であり、また「ブルジョア」を先に読んでいるので、なんとなし作風の脈絡が感じ取れていた。日本の文壇では孤独な作家とされながら、しかも日本ペンクラブ会長も務められたし、ノーベル文学賞候補にも推薦者にもなった人だ。文壇くさくない。それがいい。この長編に書き出された長い手記の女性筆者の個性など、あまりお目にかからない特異な心理と神経と我を備えていて、こういうのが実はいちばんリアルな女の人の書き方ではないのかなと感じもした。芹沢さんという人そのものが、甚だ「普通に変わった」人だ。
2002 5・21 13
* 昨夜就寝前に、元「新潮」編集長の坂本忠雄氏から贈られてきた、これは岩波の「文学」だろうか、特集の中で氏がインタビューを受けている記事を読んだ。坂本さんは、むろんよく存じ上げている。わたしと同年の1935年生まれ、在任中に「春琴自害」や漱石の「心」論を載せてもらった。湖の本にも毎回欠かすことなく懇篤な感想の返信をいただく。わたしから見て優秀な編集者は、そういう姿勢がじつにハッキリしていて、共通している。坂本さんも名をあげている元「群像」の大久保房男氏、同じ講談社の天野敬子さん、元「文学界」の寺田英視氏、元「中央公論」の平林孝氏、元岩波の野口敏雄氏など、はがき一枚にしても懇切で一貫している。
そういうことよりも、この坂本氏のインタビューには、さすがに共感し同感し、さながらにわたしの思いを各所で的確に代弁して貰っているようで、心強く感じた。いくらかを抜き書きして、わたしだけが言うわけでない要所を、今一度も二度も確認しておきたい。 2002 5・25 13
* 昨日の夜中に、芹沢光治良の「巴里に死す」を読み終えた。堅実な中編の「ブルジョア」より、だいぶ長い。それが長短こもごもに作品を揺すっていた。母というより女であり妻である内面が、少し珍しいリアリティーでよく書けている。これにくらべると、たいていの女の書き方はよくもあしくもホンマではなく思われるほどに。
2002 5・27 13
* 芹沢光治良の「橋の前」と「秋扇」を読んだ。前者には伏せ字が多く、それなりの時代色はあるといえるが、少なからず風化したとも、いやこの官憲の権勢復活時代にはよそ事でなくなって居るとも、いえる。緊迫感を維持しているとは、だが、言いにくい。後者は、けっこう凝ったストーリーであるが、深い感銘はない。「ブルジョア」から受けた緊迫と文学的な厚みがうすれている。やはり「死者との対話」を選んだのは正解であった。 2002 5・28 13
* バグワンは、このところずっとティロパの詩句を語る『存在の詩』を、もう三度四度めを読んでいるが、心底、動かされる。よろこびを覚えて帰服する。多くの宗教は、わたしの謂う「抱き柱」を与えようとする、神だの仏だのと。バグワンは根底から「生きて在る」ことを示唆してくれる。「抱き柱」をなどとは全く口にしない。地獄の極楽・天国のなどというまやかしも謂わない。まっすぐ、生死の本然をどう生きるかを語る。その安心感と的確とは、身内のふるえを呼び覚ますほどで、卓越している。真に宗教的であるが故に、それは宗教を超えた印象を与える。それが安心を呼び覚ます。
* そして西鶴の「好色一代男」を読み進んでいる。昨日は、室の津で世之介が出逢った、美しくて振舞優しい若い遊女の話を読んだ。徳川初期には多かった、由緒在る家の子女で、よぎなく苦界に身を置いた女たちのなかの殊に優れものの一例で、深夜に読んで、思いもしんと正しくされた。この連鎖的に一口話の続いてゆく西鶴代表作は、さすがのもので、出逢うのが遅すぎたと悔いている。
2002 5・31 13
* 村野幸紀という人から『万葉の朝の夢』という短編小説集をもらっていて、手頃の厚さなのをさいわい、二度の外出で、読み通した。「傑作短編小説集」とは帯の売り文句が少し過ぎるけれど、この人は的確に平明ないい文章の書ける人で、いささかも読み煩うところなく、むしろそれが味わいを淡くしているかとすら思うぐらい、よく推敲されていた。感心した。らくらくと書いてある。また万葉時代のかなり面倒な政界を、きばらずによく把握し、ごたごたさせずに一編一編のモチーフを形にしている。淡々とし過ぎると言えば言えるが、いやみがない。その点は、もう少し古い時代を、かなりの意図と解釈とでケレン味たっぷり書いて読み物にしていた『百済花苑』『新羅花苑』の宇田伸夫氏とは行き方がだいぶちがう。
感じからすると、往年、芥川賞を固辞して受けなかった高木卓の『歌と盾の門』に近く、あれよりも小説としてきれいに纏まっている。文章もすっきりしている。住所不明でお礼の言いようがないので、ここに感想を言い置く。
2002 6・6 13
* 菊池寛の一幕物『父帰る』を久々に読み、一字一句校正して、分かり切った筋でありながら、胸にツンと来た。言うなれば普通の収まりようで物足りないはずなのだが、しかも、読まされ、納得させられてしまう。長男賢一郎の思いもつらく、他の家族の思いもつらい。六部の気の弱りのように自分で見捨てた家と家族の元へ虚勢をみせて帰ってくる父親には、いまでも共感できないが、よく描けている。
これで「ペン電子文藝館」の戯曲は、岡本綺堂、菊池寛、福田恆存と、大きな三人の三作が並ぶ。井上ひさしかつかこうへいの作品が欲しい。戯曲を充実させたい。
2002 6・7 13
* 話が大きく変わりすぎるが、昨夜も夜中まで西鶴「一代男」の好色人生をおもしろく読みふけっていた。太夫と呼ばれる最高級の遊女から極めて下賤とされた売色の女まで、たまに素人の女も含まれるが、主人公世之介の人生行路に出逢う数々の女たちとの、文字通り「多彩な」交渉が「多彩に」描写されて、鎖のようにつながってゆく。すてきにいい女もいて感動したりもするし、ひどい女もいる。それらの女に対峙して世之介自身もいい男だったり男を下げたり、いろいろ変化して興趣が尽きない。場所も、諸国に散開しながら、そういう買色の諸制度がピンからキリまで甚だ具体的に描かれていて、その方面での知的な刺激も大きい。驚かされる。さすがに西鶴の一大傑作として古典の中の古典と、亡き森銑三先生もこの一作だけは揺るぎない西鶴の真作と折り紙をつけておられたが、悠々の書きぶりに驚嘆する。西鶴苦手でこの年まで放っておいて老いたのが悔やまれるほど、面白い。読み上げたら、くるりと最初へ戻って、もう一度、今度はノートとペンをそばに置いて読み直してみたいと本気で思っている。
2002 6・10 13
* イタリアとメキシコのサッカー試合は、引き分けた。上位トーナメントへの進出をかけたイタリアの猛攻が期待されていながら、メキシコが幸運に先行し、イタリアは苦渋の試合であったが、もうダメかという時に同点に追いついて、双方合意のような痛み分けで終えた。この二チームが上位に進むことになった。メンタルなゲームで、ちょっとした集中力のとぎれをついて、得点される。何が起こるか分からない目が離せない意味で、野球よりよほどスピーディーであり昂奮する。
明日は日本がチュニジアと下位リーグ戦の最終試合。勝ってこのグループの一位でトーナメントに進出して欲しいが、うかうかしていると途方もない悲劇に見舞われかねない。「炒り豆にも芽がでる」ことがあるから凄い。油断は禁物で、ドーハでは、最後の最後のロスタイムに一発のコーナーキックをヘディングで得点されて、日本選手たちは泣き崩れた。絶対の優位がひっくり返された。あれは、もうご免だ。
2002 6・13 13
* 近松秋江の名作「黒髪」 葛西善蔵の少なからず異色の秀作「馬糞石」 そして萩原朔太郎の詩集「純情小曲集」をスキャンし、校正を始めた。脇腹の機械でDVD映画「アマデウス」を映したまま、もう一台の機械でスキャンをはじめ、退屈せずに三本がすらすらスキャン出来た。いい作品の校正は苦にならないどころか、創作の秘儀に参加するように一字一句の斡旋がおもしろい。作品が良ければ、である。
秋江の「黒髪」など連作を読んでつよく揺すぶられたのは、もう会社勤めをしていたか、いや大学までに買いためていた本の中でもう読んでいたかも知れない。なにしろ舞台は祇園であり、しかし祇園であろうがなかろうが、この男の惑溺の深さには、かなり前向きに驚愕したのを忘れない。
むかし恋は、押しの一手などと云った。いま押しすぎるとストーカー法にひっかかる。わたしの「初恋」という作品なども、ストーカーのような恋を書いている。近松秋江に学んだわけではないが、こういう情痴の境涯もいいなあと感じ入って読んだ昔が懐かしい。 2002 6・15 13
* 長谷川泉氏の「舞姫論」に堪能した。長谷川さんは有るほどの議論のほぼ全部を巧みに紹介し、必要な原文を読ませてくれながら、要点をついて議論してくれる。これは知的にも情緒的にもすこぶる興味を惹くうまいやり方で、そうは云うものの、たいへん難しい手法なのである。へたな料理人がこれをやると、砂を噛み舌の攣るような悪文を読まされる。長谷川さんの漢文脈の明快さは、詩人でもある彼の文藻の豊かさと相俟って快い「文藝」そのものを成しているが、論考の名に恥じない周到な説得力を持している点に最高のメリットがある。鴎外の作「舞姫」を論じて至らざる無き面白さに、この数夜、眠気を覚えなかった。これまで知らなかった多くを教えられた。
太田豊太郎と森鴎外を同一視しすぎてはならないこと、舞姫エリスと「普請中」のエリスを語る場合よりも遙かに大きい。豊太郎の恋はそれなりに信じて語れるが、「鴎外の恋」はあやしい。鴎外はことエリスに関する限り周到に在独時代の証拠を自ら湮滅抹消していて、ほとんど作品「舞姫」以外の痕跡を残さぬように処置したことが明白である。
その一方で、親族にたいし漏らしていた限りの口吻からすれば、鴎外は、エリスを独身男性の当然の性的伴侶以上のモノではなかったかのように扱っていたらしい。またそれが当時の風であった傍証や証言には、事欠かない。鴎外がドイツ時代に接した女性は数少なくはなく、なかにはルチウスのように、真実鴎外を魅していた上流の女性、相愛と云うに近かった存在も知られている。性的につき合ったと思われる固有名詞や状況をも彼はエリス以外は秘匿していない。
エリスは追いかけてきた。エリスの心情は「二万哩」が証言している。そのエリスは森家の総がかりの意思で追い返されたが、その意思に鴎外自身も確実に加わっていた。彼がエリスに会うのは、エリスが帰国を承諾して以後である。「普請中」がその一度で、もう一度は、去りゆく船を見送ったときであるらしい。
鴎外は二度結婚している。最初の妻はエリスの事件後に母に強いられた不本意の相手であった。長男はなしたものの、鴎外の意思で一途に離婚へ進んだ。小説「舞姫」は鴎外が身構えて成した幾重もの意図のある小説であったと、多くの論者だけでなく、暗に鴎外自身が認めている。「舞姫」は斯く書かれた、エリス事件の風評を「済んだこと」として自身の手でおさえこむために。母や妻への抵抗や刺激のために。その意味では島崎藤村が姪との二度のあやまちや渡仏のかげの事情を、長編「新生」を書くことで自ら暴露し告白してしまった「効果」にちかいものが意図されていた。それが「舞姫」であった。
鴎外はエリスを追い返し、最初の妻を離別し、二年ほどの独身のあいだは性の処理のためにのみ「かくし妻」を抱え持ち、そのあと、「美術品」のような若い妻しげ子を得て、みずから「デレツク」の境地を「かのやうに」生涯演じた。
鴎外は美人が好きであった。エリスは美しかった。最初の妻はそうではなかった。母は森家の柱である期待の息子のために、とびきりの若い美女をさがし、鴎外の後妻にあてがった。鴎外は大いに気に入ったが、この妻しげ子は姑の峰子とは、終生不倶戴天の仲になって鴎外を悩ませ続けた。
* 「舞姫」は一気に読める短編である。近代文学の劈頭を飾る青春の感傷をみごとに描いた流麗の擬古文であり、傑作と謂う以外のことばがない。こういっては何だが、同じ時期の知識人の苦悩を書いた二葉亭四迷の「浮雲」よりも、読後の感銘にはるかに美と堪能とがある。文藝にあやなされてしまうのであり、ファシネーションとはこれである。「浮雲」は、よくぞ書いたと思う力作であり歴史的な意義はまことに大きいが、読んで楽しかったという読者は少ないであろう。文学を男一生の事業としては認めずに、政治的な気持ちを持ち続けた四迷と、文藝・文学に最大級の知識人としての全てを秘匿することでしか、最高級の公人として生きねばならなかった己の苦悶や苦悩を「バランス」出来なかった鴎外との差が、見える。鴎外文学をもし欠いた軍医総監・低湿博物館総長の森林太郎が、いったい何ほどであり得たか。それを思えば鴎外は「舞姫」その他を成し遂げたことで、家にも親族にも陸軍にも国に対しても、徹底的な少なくもバランスをとることに成功していた。その最終評価が、官憲による一切の「外形的」扱いを拒絶し、一岩見人森林太郎として死ぬと宣言した、不動の遺書であった。
2002 6・16 13
* なんとなく頭がゴミ袋のよう。虚と壱の状態を欲していながら、さりとて、とくべつ騒がしいわけではない。
一昨夜であった、『一代男』の世之介は、好色丸(よしいろまる)に、ありとあらゆる怪しげな性具や媚薬・強精薬を積み込んで、親しい仲間とともども、もう日本中の女という女は識ったのでと、女護島めざして遙かに船出していった。傑作であった。恥ずかしい話だが、西鶴は初体験。このオリジナリティーはたいしたものだ、こんなに剛毅で健康な好色文学が他にあろうか。
2002 6・22 13
* 北原白秋の抒情小曲集『思ひ出』を起稿校正。楽しんだ。岩波文庫で白秋詩集を人に借りて読んだのは中学時代、若山牧水歌集とならんでいた。ことに「思ひ出」には、年齢のこともあり、措辞の魅力もあり、心惹かれた。久しぶりに読み返しても、やはり、いいなと思う。先日朔太郎の『純情小曲集』を読んだばかりだ、北原白秋に捧げられていた。白秋は大きな一大源泉であった。優れた詩人があとに続いた。白秋ともう一方の極に、高村光太郎がいた。わたしは白秋の天才に傾倒した。
2002 6・26 13
* 近松秋江「黒髪」が、佳い。筆の運びに騒がしさがない。
2002 6・27 13
* 少し節々から熱が落ちて、痛みが和らいだ。六月尽。元気な七月を迎えたい。七月は書き下ろしの進行、そして「ペン電子文藝館」のさらなる充実を。
「招待席」はやがて限界に来る。限界まで充実させることで、「ペン電子文藝館」のいわば文化財的な「質」を高めておきたい。そのあとは物故会員の秀作を増やしてゆきたい。質的な水準を高く高く維持してゆくことで、現会員の出稿に、佳い意味でのプレッシャーをかけ、誇りを持って作品を自選して貰いたいのである。自分のもちもののうち、最高度の作品をここに展示したいと思うように成って欲しい。こういう場所で恥をかいて欲しくない。
* 辻井喬さんの「亡妻の昼前」を丁寧に校正し終えた。静かに胸に落ちる感銘作であった。才気で書かれていない、落ち着いたハートの波動が自ずからな変化と脈絡を得て一編を玉成していた。渋いけれど、切ないけれど、ほろりとくる秀作で、また「ペン電子文藝館」はしっかりした作品を加え得たと悦びたい。辻井さんの作品を読んだのは初めてである。
このようにして、他の理事諸公も佳い作品を送り込んで欲しいものだ。
2002 6・30 13
* からだに痛みがあり寝にくかった。黒いマゴに起こされて外へ出してやり、そのまま起きて、辻井喬氏に預けられた二作から「亡妻の昼前」をスキャンした。「ペン電子文藝館」の読者を勝手に想像し推定するわけに行かない。だが、秦の兵馬俑壙に匹敵する遺跡を偶然発見した或る中国男性の人生を批評した、題材からして読者の知的好奇心にふれてくるかも知れぬもう一つの「発見者」は、わたしには、やや文学的にたわいなく、ただ粗筋を読んだように感じられた。そうは言っていけないのかも知れない、この作品は、他の二十人ほどと一緒に或る年度の「文学選集」に採られているのだが、わたしは、この手の看板はあまり信用していない。
自分で読み比べ、「亡妻の昼前」は地味であるが筆致に深みあり、胸に残る思いが「発見者」より良いと思ったので、こちらを掲載することにした。審査でなく、二本から選べという辻井氏の指示に従ったにすぎない。「発見者」には興味は惹かれても感銘は受けない。批評としても軽い。自分の選択にわたしは自信を持つ。
* やっとこさで伊吹和子さんの長大なスキャンを終えた。これは識字率も宜しくなく、校正にずいぶん手間取りそうであるが、川端康成を語り、しかも伊吹さんは谷崎潤一郎によって編集者に仕立てられた京都人でもある。わたしもお世話になっている。スキャンこそうんざりしたが、校正しながら川端と谷崎の世界に、二人の素顔に触れうるのは願ってもない。
2002 7・1 14
* 伊吹さんの「川端康成瞳の伝説」の校正を初めて、編集者時代を思い出す。医学と文学では大違いにしても。おもしろい。そして、これは、おのづから昨今の編集衰退時代に一石を投じることになる筈だが、いやもう「前世紀の遺物」と珍重されて終わるのかも知れない。せつない。
2002 7・2 14
* 伊吹さんの「川端康成」をだいぶ校正した。純然の批評とちがい、編集者として近侍した人の回想であり、礼節と情愛が先行し自ずとそれが長短をなすのは致し方ない。大きな作家のごく身の傍まで近づける面白さ興味深さがあるにしても、賛美的に終始するのとつき合うのだから、かなりこちらは受け身になる。反り身になる。編集者の書いた作家との日々の回顧は数多くあるが、野原一夫さんの太宰治のもの、小島喜久江さんの檀一雄のもの、伊吹和子さんの谷崎潤一郎とその家庭のものなどが近年は評判であったろうか。作家論風であるようで、そうではない。まして作品論としては手薄な感想に流れがちに思えたものだ。筆を曲げているとは思わないし、伊吹さんの場合はことに京都の人のたくまざる仮借のなさがちらちらとよそ事の方で光り、源氏物語など、こういう古御達の口でもの語られていたのだろうなと思い当たるおかしみ、これは有って佳いのであるが、わたしが『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を書き下ろしたときに、資料以外には用いず、一人として濃い関係者や登場人物には執筆前の接触を避けた、そうして筆の自在を確保した、丁度その避けた理由のようなものが、編集者による評伝の場合は、避けようがない。好く知っている利点と、知っていると思うための筆の重さや薄さが、避けられていない。そういう感じが、読んでいて残る。
2002 7・3 14
* 三田誠広氏にもらった『角王』というシリーズものの、最初巻を読んでみた。敦賀の地名の起源に置かれている漂来の神人、額に異形の角あるミマキ皇子を主人公に、これが崇神天皇となる設定の神話的物語で、文章はブッキラボーなほど簡潔で読みやすく、しかし読みやすいも難いもない、たわいない、字で書いた劇画的「おはなし」である。背後にある日本書紀や古事記やその他の文献や神統記的知識をほぼ十分にもち、ことに近江のそれには親近感と調べた体験もあるから、そういう背景を浅く滑ってゆく爽快感で読み進み読み終えるのは簡単であった。知識のない人は、いろんな名前に躓き続けるかも知れないし前後の境目を見失うと混乱するだろう。二冊目も贈られてきたら、わたしはすぐまた読むだろう。こういうシリーズは、一冊目より二冊目三冊目がより面白くなるということが不思議に少ない。そこを三田君がどう切り抜けるのか腕前を楽しみに見たい。
* 西鶴の好色五人女。お夏清十郎、樽屋おせん、おさん茂右衛門、お七吉三郎、おまん源五兵衛。これは、しっかりした女たちの物語である。心の自由で、掟の不自由に挑発的に挑戦してゆく魅力的な生き生きした女達が書かれている。作者による潤色がよく生きていて、実録はもっとアッサリした端的な悲劇だったに違いない。
だが、さて。これは西鶴作品として名高いけれど、確証は極めて弱い。西鶴その人の影は甚だ薄い。森銑三先生は、生前、言葉を尽くして西鶴の真作と確実に信じられるのは、浮世草子では「好色一代男」がただ一つ、他はことごとく怪しいと熱くも論証されていた。森説はほとんど学界の受け入れるところでないが、「一代男」を読んで直ぐ「五人女」に転じたとき、しばらく、わたしは、これが同一の筆とは思いにくかったことを書き留めておく。むろん、あ、この辺は西鶴らしいなと、つまり「一代男」の筆付きに近いなと思うこともままあったが、ひどくかけ離れて感じたことの多かったのが事実。
ま、そんなことは専門家に委せるが、と言いたいが専門家というのは存外だか当然だか甚だ保守的で、森先生の説のようなおそろしい議論には近づこうともしない。真っ向から反論した例も知らない。しかし森銑三著作集のなかでも、このことに関して森先生は堂々の大論を収録されている。ただの無視では済むまいに、全く放り出したまま、一人として真正面からぶち当たろうとしない専門家達。どうした、どうした。お高くとまっているとは、それであろう。お高いどころか、碩学の胸を大いに借りて力を尽くしたが良かろう。
* 日立の重役、最後は日立セミコンデバイスの鑑査役まで勤めて、とうどう会社生活から引退した友人が、『鑑査役短信』なるプリントの冊子を送ってきてくれた。以前に、「なにか書けよ」と奨めておいたが、やはり立場上か、わたしのように「闇に言い置く私語」ではなく、企業内の公的な言葉を取りまとめたようだ。自然と、情報や資料や数字での判断や見解や見識が書かれる。そうか、彼の持ち前の読書等から得た知識を介して、彼の思いがやや重々しく公的な出で立ちで出てくるのは、やむを得ないだろう。だが次回は「私語」による述懐や意見や思索を読ませて欲しいと返事を送った。
2002 7・3 14
* 岩波茂雄の「読書子に寄す」は岩波文庫創刊の宣言であり、誰が仮に起草しようとも岩波茂雄その人の出版人としての理想と意思の結晶した、歴史的な大文章として、ぜひ新たな目で読み直してもらえるといい。加えて「回顧三十年」は、絶筆ともなって中断したままの談話筆記であるが、本人が熱心に手を入れて成ったという述懐の長文である。ここに、出版人として唯一文化勲章を受けたことがあまりに当然自然な、理想的実践者のほぼ公人としての全部が語られている。
( )品あり 岩波文庫「阿部一族」
という六林夫の秀句の虫食いを、東工大の教室で埋めてもらったとき、断然多かったのが「気品あり」であった。原作は「遺品あり」である。戦死した兵の遺品に岩波文庫の森鴎外作『阿部一族』があった。それだけの、しかし巨大な衝撃波を秘めた世界一短い戦争文学である。だが大方が「気品あり」としたところに一つには鴎外作品の、また岩波文庫への畏敬の念が生きている。東工大では「阿部一族」が鴎外作とまでは分かる学生も、たいていは読んでいない。なかみは知らない。だからこの「気品」は岩波文庫により多く感触されていたと読んでいいだろう。その根元のところを、岩波茂雄は「回顧三十年」に語り尽くしている。同時にそれが、はからずも近時の出版と出版人への痛烈無比の批判とすら成っていることに、頷き、共感する人は多かろう。
こういう人がもっと各社にいたら、そしていい出版をしていたらと、慨嘆久しくする。
* この岩波茂雄の文章をわたしに提供されたのは、電子メディア委員会の、中川五郎委員である。中川さんは寺田寅彦の『喫煙四十年』をもたらし、高木卓の『歌と門の盾』をもたらされた。有り難い同僚である。
* 島木健作『黒猫』がおもしろかった。我が家の黒いマゴは華奢な少年だが、島木健作が最晩年のむなしかった闘病の床から接していた黒猫は、雄偉にして堂々、諂うことも音をあげることもない。時は昭和十九年から敗戦の二十年へかけてで、作者はこの黒猫をとおして、時代と人間の脆弱と汚濁とを見据えていたのだろう。その筆致は正確で、感傷的でなく、志賀直哉の『城の崎にて』に文学の姿勢として近似している。のちの尾崎一雄の『虫のいろいろ』もそうか。優れた文章の持つ落ち着いた静かさも深さもあり、懐かしく読み返した。
* 若くして逝った立原道造の詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』もぜひ「招待席」に入れたい。確実に七月中に、「ペン電子文藝館」の収録展示は百六十人に達するだろう。これこそが、日本ペンクラブだから出来る文学活動である。わたしの思いには早くから「データベース日本文学者の年譜と業績」が用意されていて、理事会でも一応発言してあるが、完備したデータベースを備え持ってこその、世界的な文学団体だと思う。こういう発想が必要なのだ、百年二百年の礎石としても。 2002 7・4 14
* 岩波茂雄、近松秋江、島木健作、辻井喬らの作品を明日には入稿出来る。いずれも起稿し校正した。とても気持ちの佳い読書、感銘を得た読書であった。
2002 7・5 14
* とうどう伊吹和子さんの長い『川端康成瞳の伝説』を読み終えた。これは川端さんを書いたこと以上に、ひところの編集者が、いかに作家と協働していたかを証言する、その面で貴重な文献の一つになるだろう。その意味で面白くも興味津々でもある回想録である。川端康成がとても美しく優しく書かれている。氏の晩年の憔悴と荒廃を伝える他の幾つかの証言も目にしてきた。それらからすると伊吹さんの川端晩年の像は無垢に穏やかに光り輝いている。誤解をおそれずに言えば、作家と編集者の双方に信頼と愛とがある。校正という作業をしていたので時間がかかったが、ただ読み通すには読みやすいものである。伊吹さんを幾らか存じ上げている。私としては谷崎先生との縁で近づきを得ていた伊吹さんであったが、谷崎家とはいろんな屈折もあり、ただ安らかな日々ではなかったろうが、川端康成の担当編集者としてはこの上なく幸せな人の一人であったと心和む。
* 山本健吉さんの遺された詞華集から、或る目的で沢山の和歌や俳句をこの機械に書き写した。全体のまだ半分しか出来ていないが、和歌や俳諧のすぐれたものに触れ直すのはこころよいものだ。優れた日本の固有の藝術である重みが、とどこおりなく胸におちて理解できるし鑑賞できる。
2002 7・6 14
* 卒業生の丸山・柳君と新宿で逢った。朝から飲食を節して、歓談に備えた。美しい人の気持ちよく迎えてくれる店で食事し、歓談し、ついでうまい酒の飲める別店に移って、さらに歓談。いちばん気のおけない二人と、いちばん心の開ける店で、時間の経つのを忘れていた。ほどよく別れることも若い人を相手のときには大事なこと。で、大江戸線に一人乗り、きもちよく寝てしまい、光が丘まで行きました。目がさめ、尾崎紅葉の「金色夜叉」岩波文庫を読み始めたのが、どんどん読めそう。先入見を持ってしまっていたが、「金色夜叉」の文章は流石に秀逸であり、これだけ冴えた堅固な文章で書かれた小説が通俗であるわけがない。それに気が付いた。
* 西鶴は「好色一代女」に。平行して森銑三先生の西鶴論を読んでいる。森先生の西鶴論が、まともに学界で論議されていないらしい実情に、つよい不満がある。森先生は、西鶴の真作と謂える浮世草子は「一代男」ただ一作で、他の西鶴作品とされている全ての浮世草子は、西鷺ないし団水の作に西鶴が「編輯」の手を加えたものと断定されていた。その論考にほぼ一冊の著述をあえてされている、が、西鶴学者の誰もが、ただ口先で否定するのみで、本格の反論も追究も推考もしていない。不満である。こんど、「一代男」を読んで感嘆し、「五人女」を経て「一代女」に読み進み、ますます森銑三先生の論証につよく説得されている。西鶴で飯を食っている学者からすれば、西鶴の真作は「一代男」が一つだけで、他は「参考作品」というのでは堪らないであろうが、否定するなら学問的にきちんとして欲しい。無視するだけでは、読者は困るのである。
2002 7・13 14
* 湯船の中で、去年の今頃に書かれていた、梅原猛氏の、題は正確でないが「穴の中の哲学者ムツゴロウの独白」のような、小説だかエッセイだか、本人は小説のつもりだろうが、なんとも恐れ入ったモノの第一回を、たまたま見つけて、読んだ。いわば「我が輩はムツゴロウである」式の戯作である。
悪いが、おそまつ。「新潮」前編集長の坂本忠雄氏が話されていた「純文学の説」からしても、とても文学とは呼べないだらけた文章で、それでいて、夏目漱石の「我が輩は猫である」を同輩のように批評していたりする。「雲泥」の差という以外になく、どちらが雲で泥かは言うまでもない。梅原さんの体調のわるさが禍したのだろうと贔屓目に想像しておくが、あたまから「文学」が分かっていないのでもあろうか。「猛然の非小説」と、昔に、批評したそのままの私の批評が、いやになるほど当てはまるのだ、今も猶。こまったものだ。
この程度の思想的な見解を、この程度の藝のない戯文にするぐらいなら、まっとうな普通語で、至誠を面にあらわし切々と環境問題を正面から説いてもらいたかった。こういう駄作が「新潮」巻頭に麗々しく出て、「すぐ本になります」と予告されているのだから、現代日本文学もワリを喰っているというしかない。
そういえば、クローンを題材にした梅原狂言の噂も聞いている。見ていないので、もちあげる人の言葉も貶す人の言葉も是非できないが、堀上謙氏らの「新・能楽ジャーナル」で痛烈に酷評していた文章には、わたしも流石に全面的には頷けない誤解が混じっていた。いた、と思っていた。だが、諫早のムツゴロウ問題の「文学的」把握と表現が、こうもお粗末では、クローン狂言の酷評にも理があるのかも知れないなと、心配するのである。
* 黒川創の小説はまた芥川賞に届かなかった。新聞に報道された前日に、人から候補に入っていると聞いた。今回は無理だと思っていた。枚数の多い作品が求心力を欠いて、拡散ぎみ。ぐいぐいとひきこまれて読んで行けなかった。前よりも、前の前よりも、作品がラフだった。もっと短く、百枚かせいぜい百五十枚までで迫力に富んだうまい小説が読みたい。めげずに奮起して欲しい。
2002 7・18 14
* 眠い。「ER」を見たら、今夜ははやく寝よう。それまでに黒島傳治の「豚群」を読んでしまおう。
2002 7・19 14
* このところ、目的があって、古今集の和歌を全部通読し、山本健吉氏の撰になる詞華集二巻を全部読み、さらに近世俳諧、川柳を全集で、全部通読して必要なモノを選んでいった。近世の俳人だけで百五十人ほど、その代表作を読んでゆくのは想像以上に楽しかったし、川柳は、俳諧ほど分かり良くないだけに注を参考にしいしい、グスグスと笑い続けていた。そしてやはり和歌がわたしは好きだと分かった。
これらから必要な作をすべて機械で書き出して行く。べらぼうな作業量で、保存すれば良い資料には成るのだが、汗が噴き出す。日本の詩歌とは、百人一首の遊びこのかた、ずっぷり漬かってきた。物語など、和歌があればこそひとしお面白い。また芭蕉や蕪村のいない日本の近世なんて、どれだけ侘びしいだろうと思う。
ときどき、もう残り少ない人生に、そんなに読書してどうなるのと、不届きなことも思うが、昔は、読書して何かの役に立てようという欲が確かにあった。今は、もう役立てる仕事もないが、そのかわり楽しめることでは、純然、楽しめる。それが有り難く時を忘れる。視力だけが心配。
2002 7・21 14
* 伊吹さんほど豪華に幸せな文藝編集者は珍しいが、ご苦労も察するにあまりがある。川端康成について書かれたモノは、ずいぶん読んでいるから、伊吹証言をそのままそれだけで受け取るようなことはないが、伊吹さんの気持ちは分かる。谷崎潤一郎の方は、多少とも私自身が深入りして書いたり調べたりしてきたから、伊吹さん一人思いの「われよりほかに」を、尊重もし斟酌もし、ま、距離も置いてきた。川端に関しては、わたしにそれほどの動機がないので、気楽に読んでいる。ことに川端の晩年を彼女は接し見守っていたのだが、同じ晩年の証言では、まるっきり違った内容と色合いの仰天するような証言もすでに幾つも出ている、それを知った上で、伊吹さんのモノは伊吹さんのモノとして丁寧に受け入れたのである。長編なので校正にも時間がかかったが、もう今日明日にも「ペン電子文藝館」の仮サイトで委員間の校正段階に入る。
* あれれ、まだ十時ぐらいと思っていたのに、もう午前一時をまわっている。よほど今日はわたしは変調だった。
2002 7・21 14
* 田畑修一郎の「鳥羽家の子供」は昭和十三年の芥川賞有力候補作であった。落ち着いた私小説系作品で、こういう小説はこういうふうに書くのだという、手本のように堅実で余裕のある筆致。そしてやすやすと読ませる。まさに純文学。
* 親しいある作家が、時代小説の長編を送ってきてくれた。無駄のない清潔な文章で、かつ読みやすいことは無類。だが、いくらすらすら読めても、歯ごたえがない。時代物のこれは決定的な弱みで、まともに踏み込んで行けない、要するに「お話」に終始している。どうひっくり返しても歴史小説という風格にも欠けている。この文章力で現代小説が書けたらいいのにと、余計なお節介だが思い思い本を途中で置いた。
* ところが岩波文庫の「金色夜叉」は、ウン、凄い物だ。読み始め、読み進み、今日も電車で読み続けてきたが、巻を追って面白い。云うまでもないが文章の紅葉。一字一句として推敲できる隙間がない。完璧な文章といえるものの書けた大家の、紅葉は、最右翼である。じつはそれが紅葉の短所ともなったろうことを、かつて私は論じたことがあるが、完璧の魅力はやはり大なる魅力と云わざるをえない。構想力と趣向のうまさ。現代の読書人には明治二十年代の凝った擬古文は読みにくかろうが、それなりに自然で説得力に富んだ構想を展開させてゆく。通俗? とんでもない。「純文学」の大作だと云う説に賛同してもいい。なにしろ面白い。あれれと思う間に分厚い本の半分を通り越している、エライ! 尾崎紅葉の筆力が、エライ!
2002 7・23 14
* 立原道造の詩を読み、「金色夜叉」や「鳥羽家の子供」に誘い込まれて他を忘れているとき、少なくも自分が或る落ち着いた地盤の「他界」に憩っていることが分かる。覚めたあとで思い知らされる。悩み多く、物思いがちな人々よ。「ペン電子文藝館」の秀作に憩い給え。
2002 7・25 14
* 理事の高田宏氏作「ヤマへ帰った猫」の、妻がしてくれた初校のあとを、読み始めた。話し言葉で平易に語られているが、さらりとした淡々調が、しいて「調子をとっている」ようでやや気になる。猫の話、面白くなってほしい。そういえばやはり理事の一人の新井満氏は、犬との物語だった。
2002 7・25 14
* 昨夜、尾崎紅葉の『金色夜叉』を読み上げた。こんなに面白い小説であったかとすっかり見直した。未完だというが、これで十分だと思った、紅葉の意図していたほぼ全容はもう書かれていて、これ以上は要らない。文章は完全無欠。筋の変転、趣向の妙の自然さ。会話する明治男女の意外にリアルな実感の豊かさ。そして「金と恋」という題材を扱ったユニークな近代感覚。漱石の『こころ』は金と恋に触れた問題作だが、『金色夜叉』ははるか先だって、より根本からおめず臆せず書ききり、遺憾がない。明治文学の名作の一点と賞してすこしも可笑しくないと、新ためて尾崎紅葉を仰ぎ見る気になった。これも「ペン電子文藝館」のおかげである。
2002 7・27 14
* 小学館古典の「うつほ物語」第三最終巻が贈られてきた。待ちわびていた。
物語の基調には、神秘の琵琶の音楽的奇跡が一貫している。宮廷絵巻が繰り広げられて一見多数の人物が平版に錯綜するようであるが、貫いているのは、俊蔭、俊蔭女、仲忠、仲忠女という四代が身に負う「音楽=琵琶の天才」が奏でるめでたさ。しいていえば、そのわきに宮廷・朝廷における太い主筋のようにして、東宮妃藤壺所生の皇子立坊という「国譲」物語もある。物語の大団円は、だが「国譲」についで、琵琶の秘伝がはなやかに厳かに、幼い姫に世襲伝授される「楼の上」でこそ大きく終える。それで物語は首尾相応する。
源氏物語を例外に、この小学館古典全集で、長編三巻もの「つくり物語」は、他に、馬琴の「近世説美少年録」があるだけだ。久しく「うつほ物語」が読みたかった。「落窪物語」「浜松中納言物語」「夜の寝覚」「狭衣物語」「堤中納言物語」「住吉物語」「とりかへばや」「松浦宮物語」など、渇くように求めていた物語の大方を、再読、また初めて読むことが出来たこの全集に、わたしは、ほとほと感謝している。のこるは、もう三巻の配本のみ。
2002 7・27 14
* 昨夜、明治の初期作品集を開いていた。仮名垣魯文の戯文や成島柳北の漢文の「柳橋新誌」や、三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」や黙阿弥の戯曲等々が入っていた。
その中の山本勘蔵の毒婦物の小説を読み出した。昔の新聞には読切や連載で、侠客物や毒婦物の読物がよく掲載され、読者に大いに受けていた。わたしは、子どもの頃に、どういう縁が在ってか、「佑天吉松」だの何だの原版の切り抜き集成のかたちで、そんな講釈小説を、一時立て続けに読みふけったことがある。山本勘蔵の「夜嵐阿衣」もその手の物で。あああ、こういうところから近代日本文学は歩み出したのかと、改めて、うたた感慨を催した。
とんとん読める。講釈のようで、どこかで七五調になったり、世話に砕けたり、小さい活字がずんずん読めるのだが、だんだんその品位の低さに染まりそうな「いやけ」がさしてくる。本を伏せて、次いで「うつほ物語」へ移ると、ほっとする。清水で心身を洗うような心地がする。
* 今日テレビで東大の船曳教授の話を耳で聴きながら、目は菊池寛の「わが文藝陣」を面白く読んでいた。菊池寛の明快さに比べると船曳氏の話には、惹きつける面白い正しさがあまり感じられなかった。耳で聴いている方が目で追っているものに負けて影が薄くなるようでは困る。大教室がよそみや私語で騒がしくなるとき、いっぺんにシーンと注意を惹きつける技術のようなものを、いくらか身につけた。講演していても、それは自然に出来る。耳は目より、と思ってきた。菊池寛の文章と論旨のつよさが、だが、今日は東大の論客を追いやった。
2002 7・31 14
* もう何十年戴いている「茶道の研究」で、湖の本の読者の生方貴重氏と谷村玲子さんが、それぞれ、これも頂戴している著書「利休の逸話と徒然草」「井伊直弼修養としての茶の湯」により茶道文化学術賞を受賞されているのを見つけた。二冊とも受賞して至当な優れた著作であった。前者は平易な口調で話しかける書き方ながら奥行きがあり、谷村さんの井伊直弼論は見事な研究成果で感心していた。湖の本は、こういう人達によっても支えられてきたのである。才能に優れた読者が数えられないほどで、生形さんは推薦して日本ペンクラブに入ってもらっている。
* 米子工業高専の助教授をしている平沢信一君からは、筑摩の「国語通信」に載った芥川「羅生門」論に添えて久しぶりに手紙をもらった。早稲田の文芸科にいた人で、一年下に角田光代がいた。文芸科の人とも数人今もおつき合いがあり、湖の本を支えてもらっている。東工大の学生君達より何年か以前からのご縁だ、そういえば、そうだ、湖の本を創刊した一九八六年から二年間、わたしは早大文芸科の小説ゼミを手伝ったのだった、二年で勘弁してもらった。平沢君は一度二度わたしの作品論も書いてくれている。
* そういえば原善君と、ちょっとご無沙汰だ。作新短大から上武大教授へ転進して、さらに今度は東京に帰れるようですと朗報も届いていたのだが。実現したのだろうか、それなら報せてくれそうなものだが。相変わらずチョー多忙なのであろう、今でも。目をむくほどアチコチかけもして講義に駈け廻っているのだろうか、健康で、元気でいるといいが。
2002 8・3 14
* 寝苦しかった。夢を見ないで眠っていたことは、無いというに近いほど、執拗にいろんな夢を常に見る。疲れる。目覚めるとほぼ完全に即座に忘れてしまうし、夢に過大な意味づけをする愚には陥っていないが、見ないで済めば有り難い。就寝前にしたたかに読書する習いの有る間は、無理か。
西鶴の「一代女」は、作者が真実誰であるかは別として、「一代男」とはまたひと味ちがった傑作であることを疑わない。編から編へ、流れは首尾よしとは言えないが、その話その話ごとに生きている話者一代女の一種吹っ切れた個性いや人間のおもしろみは捨てがたい。瞬時に、ある敬意をすら覚えて話に聴き入っている自分に気付く。話していることは徹底的に性と、性の風俗なのであるが、偽りというものを感じさせない清爽感とともに深まってくる「あはれ」に、美しさが有る。
2002 8・4 14
* 牧野信一「父を売る子」を入稿した。伊藤左千夫の明治期短歌をわたしが自身で抄している。「糸瓜と木魚」を書いた頃に、左千夫の短歌は熱中して読んだものだ。
そうそう三田誠広氏から例の古代史劇画風読み物の第二巻が贈られてきた。心待ちにしていたのである、実は。第二巻は「活目王いくめのおおきみ」である。この時代にとにかくも心を遊ばせるのは、日々の悪しきニューズに塵労のヨゴレを呻いているよりは、どれほどか霊気に富むことか。バグワン、そして「うつほ物語」「好色一代女」の横にも奥にも読みたい本がわたしを呼んでいる。何を生活から落として、何をのこすか。潮時はもうまぢかに来ている。ひらめくように、だが、いま、「モンテクリスト伯」が読みたいなあと。いやはや。
2002 8・5 14
* 揺れ揺れて底知れない倦怠感が全身をとらえている。体調がはずまない。鼓舞するものがない。前夜、三田誠広作「活目王=イクメノオオキミ」を読んでしまった。出てくるカタカナの名前の大方が古事記等でこっちの頭に入っているから、ストーリーを追うのも問題がない。予備知識なしにこれだけ名前が多く出ると混乱するかも知れないが、巧みに事は運ばれていて、昨日一日、それも京都から東京へ戻る途中のもう小田原を過ぎた辺からページを初めて開いての読了というのは、読ませたということである。文字で書いた漫画か劇画のような印象は変わらないが、それなりに三田氏はサービスのいい仕事を見せていると言っていいだろう。次巻も贈られてきたらすぐ読むだろう。
2002 8・8 14
* さ、静かにバグワンを声に出して少し読み、またまた「うつほ物語」の世界に沈み込もう。貴公子たちの降るほどの求愛をことごとく黙殺して東宮に入内した「あて宮」を最初のうち好きになれなかったが、東宮妃になってからの彼女には豊かな光彩と魅力が添い、仲忠、実忠らとの交際には胸に火のともるようなやすらかさを覚えたりする。「国譲」中巻を読み進んでいるが、この古典の大作は、もう今から再読をぜひにと刺激してやまない。
* こんなことを私語していて、すこし、胸の芯もやわらいだようだ。
2002 8・9 14
* 「うつほ物語」の「国譲」上・中を、だあっと一気に読んでしまい、熱心さに自分で驚いている。が、おもしろくて、やめられない。譲位、登臨、立坊。そして後宮。平安宮廷の「政治」とはこれであったと言えるほどの大事だが、さらに源氏と藤原氏が蜘蛛の糸のように人脈を絡め合い、外戚たるアドヴァンテージを競い合う。艶であり優美であり、しかも人間的なのである。この「うつほ」に比べれば、「源氏」の方がはるかに取り澄まして絵巻のようである。
この物語は、最初は俊蔭の南海漂流と琵琶の神秘、俊蔭女と子仲忠との不遇な大木の「うつほ」暮らしなど、伝奇的に始まって稀有の面白さだったが、源正頼家の繁栄と息女の一人「あて宮」への途方もない求婚ラッシュの辺では、だいぶ退屈した。ところが配本の二巻目に入ってからは、また、うって変わって物語がダイナミックな人間模様を美しく描き初め、あれれというまに、すっかり魅力にとりつかれた。三巻目の配本をとても待ちこがれた。いまその三巻目もたちまち半分以上読み進み、眠気もとんでしまう。西鶴の「一代女」もついワキに置いてしまわせるのだから、わたしの好みもあるが、ホンモノである。
いやなことばかりの現世平成の汚濁にまみれた一日を、せめて就寝前に、古典の生気・精彩で清まはることの出来るのが有り難い。
2002 8・10 14
* 十一谷義三郎の「静物」と圓朝の「牡丹燈籠」とを交互に校正しているが、噺家の圓朝が一八三九年生まれ、新感覚派の十一谷が一八九七年生まれ。六十年足らずで、こう「日本語」での語り口が動いてきたのかと、感慨しきり。二つとも面白い。
昨日は大正四年生まれの菊地良江さんの自選短歌百五十首をスキャンし校正していたが、歌の佳いのに感心した。さすがに結社で選者格のベテランは、歌の一首一首で人生を彫琢してきた気概が、措辞ににじみ出る。わたしより二十歳も年長の人が、日本ペンクラブ入りして、すぐに生涯の制作から百五十を撰して届けられる。それが「ペン電子文藝館」により、世界に公開発信されて、残る。
* 小説だけでもやがて百もの作品を入稿し掲載させてきた。その作業に熱中していて、わたしの気持ちの奥の方にあるのは、やはり露骨に云えば「勝負」でもあるのだと気付く。言い方は露わすぎるが、作品は作者の全的表現であり、出来れば、ああこれには負けたなとは思いたくない。他の人にも易々書けるようなものを書いていては恥ずかしい。文学史的に、自分の文学に存在理由が言えるだろうか、独自性を言えるだろうか。やはり、そういう思いを云わず語らず下に抱いて、一本一本「校正」している。この場合具体的には自分の出稿作「清経入水」と比べて…これは、それは、あれはと、かなり真剣に考える。味わいの淡い作も濃い作もある。軽妙なのもある。重厚なのもある。むろん敬愛すべき秀作を選んでいるつもりだが、ああ、みな、いろいろだ、個性的だと思う一方、わいてくる自負の念もある。それに励まされて、進みたい前方の道なき道も見えてくる。
はっきり云って、この仕事も、来年三月の任期切れまでで、わたしのなし得ることは、ほぼ程過ぎているだろう。人が変わった方がいい。わたしが退けば、とたんに館が閉鎖されるというのは困るが、日本ペンクラブの誇りはそうはさせまいと思う。インターネットで検索してみると、「電子文藝館」「電子文芸館」「ペン電子文藝館」「日本ペンクラブ電子文藝館」など表記はバラつくが、いろんな検索名で、もう相当数三百近い記事が拾い出せるし、「電子化読書室」としての評価はもう定着している。ともあれ全力で、せめて、二百人を越せるだけ越して掲載・展示し、それまでに、心行くまで他流試合を続けておきたい。「清経入水」を沈め去るほどの作品には、幸か不幸か、一つも出逢っていない。 2002 8・11 14
* 新感覚派の一画に身を置いていた新居格の評論を拾い上げたものの、とてつもない悪文で、書き殴った感じ。こういうものが、文学全集にとられてある。「文藝と時代感覚」と、題も狙いもわるくないのだが、頭でっかちの文学青年が気だけで走り書きしたような、さほど妙味のないもので落胆。この人は「物故会員」で、作品は掲載せねばならない。「招待席」になら採らない。そういう作品も混じってくる、それは当然でもあり余儀ないことである。
2002 8・15 14
* 若山牧水の歌集『別離』は彼の生涯のうちで最も華々しい好評に包まれたもの、二十六歳での第三歌集である。牧水の歌集をわたしは、新制中学三年のうちに岩波文庫で買った。白秋詩集とともに、愛読した。茂吉の自選歌集『朝の蛍』を古本で手にした時は高校生になっていた。
今日、「別離」上巻をスキャンした。相当な歌数になるが、国民的な愛誦歌も含んで、一つ一つの歌がいとおしいほど懐かしい。「略紹介」にこう書いた。
「わかやま ぼくすい 歌人 1885.8.24 – 1928.9.17 純情、浪漫、憧憬、人生、哀愁そして旅情、酒。じつに「新風」そのものであった。多くの愛唱歌を抱き込んだ「別離」は東雲堂より明治四十三年(1910) 四月刊行の第三歌集で、非常な好評を博した。歌人は時に二十六歳。上巻の大半を収録」と。この校正は、量的にたいへんだけれど、歌をよむ醍醐味に恵まれる。
2002 8・15 14
* 牧水の短歌をまなんでわたしは多くの「言葉」を覚えた、「身につけた」ことが、校正していてまざまざと思い出せる。わが歌集「少年」にもっとも色濃くかげを落としているのは若山牧水であったと、いまにしてしみじみと懐かしい。「幾山河越えさり行ば寂しさの終(はて)なむ国ぞけふも旅ゆく」などの歌に出逢った感動は当時のままにいまも胸に在る。「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」とも。牧水にたっぷり漬かってから、茂吉に出逢った。茂吉に出会えてよかった。茂吉の『万葉秀歌』も愛読し耽読した。だが、すべての出発点にあったのはやはり和歌であり、百人一首の恩恵があまりに深い。呪縛だとは思わない。
人は、老いて、すこしずつ去ってゆく。もう、そういうことに驚いて心をひどく傷めることはしなくなりつつあるが、古典は、かわりなく胸の内で新しい。
* 本が読みたい、本が読みたいと、六年生頃から高校生ごろのわたしはいつも飢えていた。本を貸してくれる人は鬼やお化けでも歓迎だった。
いま、その飢えを好むままに満たせている。人は多くいまや気軽に旅に出るし海外へも出て行く。いくらか羨ましいが、行くかと誘われるとかなり煩わしい。独りで行く気はせず、他人とは気疲れがする。体調の整わない妻とは一泊か二泊が限度で、いまは黒いマゴが足どめする。読書は次善の旅行であり、作品が優れていると次善どころか、ありふれた観光の旅よりも深いよろこびや感動をもたらしてくれる。なによりも過去世へもとんで行ける。現世に多くの希望をもっていないわたしには、そういうタイムトリップがまた新鮮で嬉しい。
* 「うつほ物語」はいよいよ大団円の「楼の上」上下巻に入った。この大作は、長編性をよく生かして悠揚迫らず、しかも巧緻に組み立ててあり、あて宮と父正頼の左大臣家と、仲忠と母俊蔭女の右大臣家とが、大きく豊かに均衡をえながら朝廷の綺羅と琵琶にまつわる神秘とが面白く物語られてきた。平安物語は、わたしには、かけがえのない「お宝」に感じられる。
2002 8・16 14
* 「女ありき、われと共に安房(あは)の渚に渡りぬ、われその傍(かたは)らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春。」この一連の牧水短歌にどんなに陶酔し憧憬したろう、読んだわたしは十五六歳で、歌った頃の牧水は二十三歳だった。海も濱もあまり縁のない京の町中で育っていたし、或る意味では非常に遠慮深いタチでもあったから、牧水のこの無垢にして赤裸々な恋愛の賛歌にして悲歌にして陶酔の歌声には、心底驚いたし、動かされたのであった。
ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま
接吻(くちづ)くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
声あげてわれ泣く海の濃(こ)みどりの底に声ゆけつれなき耳に
わだつみの白昼(ひる)のうしほの濃みどりに額(ぬか)うちひたし君恋ひ泣かむ
忍びかに白鳥(しらとり)啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨(ゑん)ずるがごと
君笑めば海はにほへり春の日の八百潮(やほじほ)どもはうちひそみつつ
そして又、
このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ来にけり
松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚(なぎさ)に臥して黒き海聴く
闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海(あをうみ)を見る
空の日に浸(し)みかも響く青青と海鳴るあはれ青き海鳴る
海を見て世にみなし児のわが性(さが)は涙わりなしほほゑみて泣く
白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ
かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
* ほとんど驚愕した。与謝野晶子の「みだれ髪」には反撥していたものが、牧水短歌ではみごとに開放された。胸を押し開かれ、少年は目を瞠いていた。あの鼓動の高まりと少し気はづかしかったこと。初めて読んだ、初めて知った、そういう感動だったのを思い出す。あの少年の気持ちが、しかし、いまも胸の内に在る。わたしはまだ憧れて胸うちふるえる事が出来る。
2002 8・17 14
* 昨日小林秀雄について、安岡章太郎氏と粟津則雄氏との対談を読んでいた。読み終えていないが、興味深かった。粟津さんが京大生の頃に、小林さんに来てもらい小人数で話を聴いた。熱心に聴いた。酒になってまた話を聴いた。一晩では残り惜しくて堪らず、もう一晩飲みたいとせがんだら、いいよと、もう一晩飲んで話を聴いた。そういうことも話されていた。
心に飢えを抱いた若者達は、機会をえれば縋り付くように偉い人の、尊敬する人の、話を聴こうとした。そして質問した。された方もよく答えた。
芹沢光治良の「死者との対話」もそうだ。やがて人間魚雷「回天」に搭乗し自爆の決死行に出撃してゆくような学徒兵らは、必死の願いをこめて「哲学」に安心を求めたが、世界に誇るという我が国の哲学者の日本語は、何一つ生死の悩みに答えてくれない、チンプンカンプン以外のなにものでもなかった。彼等は悔し泣きしながら、時代に追い立てられて戦場へ散っていった。戦後の青年達も、同じことを訴えて、哲学「学」の先生に迫って、かの西田(幾多郎)哲学の弟子に迫って、哲学言語の効果のなさに対し鋭く非難した。彼等は死ぬか生きるかの瀬戸際で「問い」かけ、答えは哲学からも宗教からも得られなかった。だが彼等は「問いたい」思いに駆られていた。
粟津さん達もその世代であった。わたしよりも半世代ほど先輩になるか。
息子の書いているドラマを観ていると、そこに小林秀雄や芹沢光治良のような大人はまったく影もささない。先輩すら一人も出てこない。なにもかも仲間内で処置しようとしている。
わたしの息子は早大法科の四年間に出逢った、只一人の尊敬し敬愛し感化された教師などいなかった、いない、と断言する。彼等の氏名すらほとんど記憶にないという。事実彼の口から早稲田で教わった先生の良くも悪しくも「評判」を、一度としてきいたことがない。称賛も批判も一切一度もない。一つには息子自身の至らぬところも有る。が、彼にも、尊敬ないし敬愛した作家や音楽家や劇作家や脚本家達はいる。それは聞いている、それとなく。つかこうへいなど、終生の恩人・恩師であるだろう。
だが、例えば早稲田は天下に聞こえた演劇博物館のある大学だが、彼は、一度としてそんな場所に足を向けたことすらないのではないか。彼は、能にも歌舞伎にも人形にも、近松や南北や黙阿弥にも、いや井上ひさし以前の劇作家達の誰にもほとんど関心がない。知識もない。必要ないとすら云い、それで、やっている、やっていけると、そう思っている。彼等は「問わない」のではないが、「問うに足る」大人達がいない、少ないとは思っているのだろう。
若い人達の生き方が、昔のママではない如実なこういう表れに、わたしは、ただもう、じいっと目を向けているだけだ。
2002 8・20 14
* 古泉千樫のエッセイを校正していて、ああこれでは歌人に気の毒だ、一代の短歌から抄出してあげたいと思い、作業を中断した。長塚節の「鍼の如く」は、一つの達成としてはやくから繰り返し愛読してきた。できるだけ原型通りに再現しようと、これも校正に手がかかるが、わたし自身、いわず語らずに恩恵を受けてきた歌人である。少々手数の苦労なら、避けまい。
河竹黙阿弥の校正こそ、ほとほと手こずるだろうと思うが、意欲をもっている。近代の小説らしい小説、四迷の「浮雲」の前で助走していてくれたのが、演劇や噺であったことの再認識を、形の上でしかとしておきたい。同時に、黙阿弥に始まる近代演劇史の筋道として、綺堂、菊池寛、福田恆存につぐ人と作品とを早く定めたく、モリエールの翻案でもある創作性の強いしかももとは義太夫の台本として書かれた井上ひさし作「金壺眼恋達引」がもらえまいかと、今日遠回しに (義妹の米原万里さんを介して)打診してみた。返事は無いが。
若松賤子訳の「いなッく、あーでん物語」瀬沼夏葉訳の「六号室」など女流の優れた翻訳の仕事が目立っている。女性作家の仕事を樋口一葉だけでなく、草創期文学から数点「招待」するのは当然の礼であろう。
* 夜前というより明け方までかけて、大作「うつほ物語」を読了した。ウン、これは満足満足。とっても嬉しい。骨の太い名作であった。源氏物語は、ふとん着て寝たる姿の東山めいてなだらかに整った姿の山並みだが、「うつほ物語」は嵯峨とした北山の奥深い風情を負いつつ、リアルに華やかである。俊蔭女と仲忠ほど理想的な母子像は珍しい。それに仲忠女があり亡き俊蔭がいる。四代にわたって琵琶の神秘に護られた天才。この金無垢の一筋を囲んでの大勢の人模様が、なかなか賑やかにリアルなのが面白かった。
この全集には入っていないが笠間書院の厚意で中世物語の何冊もを貰っている、これからはそれを読んでみたいし、腰を入れて西鶴も読み進みたい。
2002 8・21 14
* 小林秀雄と三木清の対談がすばらしい。安岡さんと粟津さんの対談は、間接に小林秀雄を語っているが、三木清との対談では、小林秀雄がみずから語っている。だいじなことを語っている。あらためて触れたい。
2002 8・23 14
* 一両日前に田島征彦氏から『ピコちゃんを食べた』という楽しい絵入りの「労作」エッセイを戴いた。田島氏は双子の弟の田島征三氏とともに、自身の「祇園祭」や「じごくのそうべえ」などで世界的な場と名声を得ている版画家・絵本作家だ。むかし朝日ジャーナルに『洛東巷談』を連載したとき、挿絵を担当して貰い、一度二度ならず会っている。口丹波に二千坪もの土地を得て米や野菜を収穫し小動物を飼育しながらの久しい制作活動だった。一口には言えない不思議に面白い人である。すっごく面白い人という点では、田島征彦と島尾伸三とがわたしの胸の中では双璧。島尾氏にとは、「ミセス」での『蘇我殿幻想』の旅に終始写真撮影を担当して貰った。淡い交わりながら、この二人とは、それぞれに心知った気安い親しみがある。だから仕事から離れてもう忘れるほど遠い以前から会わないのに、二人ともとご縁が生きている。
田島さんは、本の見返しに、手書きでわたしの名前も入れて絵を描いてくれている。手紙も書いて添えてくれている。エッセイはみんな書き写したくなるほどおもしろい。
田島さんは鶏や兎や鳩や七面鳥や豚などを可愛がって飼っている。そして機会あれば、屠って、家族や友人達と食べている。「舌のとろけそうな美味」に歓声を発している。これは俗人には出来ないが、至り深い感謝の生活である。「土に鍬をうちおろし 絵本のことを考える。鶏の羽をむしりながら 命を慈しみ 感謝する」と、帯にある。
2002 8・24 14
* 左千夫、節、千樫とアララギ系の短歌をたくさん読んで、節の写生には、以前からすこし感じていたが、なにか、型が先行していて情感に疎いもののあるのを感じた。島木赤彦は選歌に難渋するほど歌集も歌数も多いので、正岡子規と同じく、逸らして、エッセイを採ったが、期待しているのは実は中村憲吉の写生歌である。だがこれも対象が多すぎる。正岡子規は、いざ採ろうとすると、人口に膾炙したとっても佳い歌と、凡なのとの落差がはげしく、選びきれなかった。
黙阿弥の歌舞伎台本には一切句読点がない、改行がない、総ルビに近く、起稿はじつに煩雑。それに原本のママでは若い読者といわず歌舞伎慣れない人にはとても状況も察して貰えまいから、せめて会話は、話し手ごとに改行し、ト書きにも適当に句読点を入れている。原稿の改変であるといえばその通りだが、「読まれる」ことを考慮すれば余儀ないこと、その代わり一字一句の変更もしていない、電子化不可能の文字以外は。黙阿弥はさほど難しい字は使っていないが、そのかわり「厶(ござ)り升(ます)」ふうのものがしきりに出てくる。
もっとも三宅花圃の「藪の鶯」のような明治初期の女学生や書生の会話ときたら、今の若者が読めば逆におかしがって「逆流行」しそうな珍奇なもの。作者が珍奇に書いているのでなく、ごく気を入れて写実的にやっている、そこが底知れずおかしくも面白い。
* だいたい、勉強のために小説を読んだりしない。調べる目的で論文や参考書にあたることは、以前は山ほどしたが、それはそれなりの目的が具体的にあるからするので、今では論文も研究も小説も、わたしは、ただ楽しいから読んでいる。この読み方の方が気分はいい。知識が欲しくて読む真似はしない。どうせ忘れてしまう。忘れるものを覚えようとするのは気の毒である。身内を通過して行くその喉ごしのうまさのようなのが楽しめれば、読書は最高で、のど元を過ぎて行けばいずれは排泄されるか知らぬうちに身になっている。
* きのう池袋でも保谷の書店でも、岩波文庫で「モンテ・クリスト伯」が手に入らなかった。岩波文庫が置いてあってもすこしだけ。参った。このところ仕事をしたり、ものを喰ったりしている最中にも、ふいっ、ふいっとエドモン・ダンテスがわたしを呼ぶのである。我が家には昔の新潮社世界文学全集で上下二冊本があるが、二段組みの字もいたんでいて読みにくい。軽い文庫本で、できれば山内義雄の訳で読みたい。簡単に手にはいるとタカをくくっていたが、そうでないようだ。困った。
2002 8・24 14
* 斎藤緑雨という辛口批評の元祖が居た。存命の昔は鴎外や紅葉・露伴らと並び称された批評家で、ぴりりとした小説も書いた。この人の「わたし舟」は、これこそ「凄い」という言葉遣いの当たった短編である。近時、人の思いの荒廃かつ無惨な、すさまじいニュースが多くてうんざりさせるが、明治の早くにこんな凄い母親が書かれていた。ごく短い作品だが息を呑ませる。ごく短い数枚の小説だが「招待」したい。
2002 8・25 14
* 長塚節「鍼の如く」斎藤緑雨「わたし舟・小唄」高山樗牛「一葉女史の『たけくらべ』を読みて」を起稿校正し入稿した。みな若くして死んでいる。
高山樗牛は二十六歳で第二高等学校教授になっている。実績を高くは評価しにくいやや上滑りな美文家の「美的生活」論者であったが、鴎外との論争でもあとにひかず、文字通り一世を風靡する勢いを持した。夏目漱石とたしか大学で同期の人だが、樗牛が文壇に牛耳を採っていた頃の漱石は全く無名であった。しかし漱石は「なんの、高山の林公が」と歯牙に掛けていなかったという。樗牛の通称は林次郎だった。
秦の祖父、樗牛より二歳上の祖父鶴吉はわたしに多くの古典籍を遺してくれたが、その中にけっこうな数「美文典範」や「美文の粋」といった本が混じっていた。いかな私も「美文」には馴染めなかった、が、たしかにこれが大流行したことがあったようだ、高山樗牛の存在がそこで大きかったのか。『滝口入道』など有名で、一読はしているが再読は遠慮してきた
* 斎藤緑雨の「わたし舟」は読ませる。唸らせる。全文べた書きなので、慣れない読者には堪るまい。作者の短い地の文と、船頭と女との対話。大方は女が話しているが、少し船頭が合いの手を入れている。そこで改行して置いたので、誰でも読める。添えて置いたいくつかの小唄も佳い。
* 魯迅と古泉八雲も用意した。また明治期を代表するといって言い過ぎでない歴史小説の佳編、人によれば名作とも謳う石橋忍月の「惟任日向守」も用意した。忍月は懐かしい故山本健吉先生の父上である。山本さんというと殊に詩歌の読みで多大の恩恵をうけた大先達だが、それとともに思い出してはくすっと来る話がある。井上靖先生と仲良く、よく中国へ行かれたが、向こうで自分の名を呼ばれるときの発音が「シェンボン・ゲンジイ」なのがイヤだね、あんたはいいな「チン・ハンピン」か、と。井上さんはたしか「チンシェン・チン」だった。斯う並べると「秦」という姓は向こうでは大きいし、古い。この「CHIN」が「CHINA」の国名に今も成っている。
それでもわたしは、あまり中国が今は好きでない。秦始皇帝も、雄大な一面は認めるけれど、あんな馬鹿げた人馬俑の大墓壙を見てからはイヤな奴という思いを棄て得ない。
2002 8・26 14
* 前田愛の「樋口一葉の時代」を持ち歩いて読んでいる。わたしの好きな岸田俊子の頃から書き起こされていて、頗る、おもしろい。下田歌子といった、もともとはそうでなかったと思うが明治政府のぐちゃぐちゃの地獄に堕ちて汚辱にまみれた女のことも書かれ、一葉はその下田歌子の社中にいた。この社中には「藪の鶯」を書いた三宅花圃がいて、一葉を刺激した。花圃は逍遙の「当世書生気質」をみて、これなら書けるわといわば「当世女学生気質」を書いたのだが、それも「ペン電子文藝館」には取り入れたい。一葉は「藪の鶯」がお金になるのならと、まちがいなく原稿料だけが望みで書き始めた。華族の子女にまじってそういう社会に屈辱をかみしめながら出入りしていた一葉が、そのような嫉視と憧憬と虚栄心から一切抜け出してしまえた時に、あの「おほつごもり」「にごりえ」「たけくらべ」等の傑作が生まれ始めた。一葉の世界と緑雨の「わたし舟」とは膚接していたといえる。その実感が、今日一日、わたしの気分を少し重いものにしていた。
2002 8・29 14
* 歯医者から新宿へ出て濁り酒を二合呑み、八海山を少し呑み、焼酎の無一物を呑み、保谷の駅でビールを呑んだ、明日は診察日なのに。べつに何という理由はなかった、ま、父の命日だという思いがあり、酒の飲めなかった秦の父にかわって呑んだというような理由にも成らないことを書き留める以外にない。夕食も食べずにぐっすり寝た。目覚めて入浴。寅さんの映画は敬遠し、小林秀雄の戦時中の講演録を読んだ。小林さんに、名刺に「謹呈秦恒平様」と自筆の添ったのを挟んで大著『本居宣長』を頂戴した。ふしぎなことだ、今頃、わたしは小林秀雄を読んでいる。
* 内田魯庵の「文学一斑」総論の校正を始めた。指を折り、数えてみると、この労作は魯庵がまだ不知庵と名乗っていた弱冠二十四歳の著述なのである、彼は大学生であった。しかも、この著述はその後の文学者や文学青年達にかなり長く感化し得たのである。世に「評論時代」といわれるものを石橋忍月と共に招き寄せたのが魯庵であった。
小泉八雲は、「文学」としては、小説、物語そして詩を重視した。その国をしてほんとうに広く他国の人に親しみ敬愛せしめうるのは、いかなる概説でも案内でも批評や論考でもない、間違いなく勝れた「文学」作品こそが、それだけが、国と国民とを正しく深くみごとに伝えうる、と云っている。その証拠の一つとして、ロシアが、かつてヨーロッパでは人間の住む国と思われていなかった、その政府と軍隊に至ってはヨーロッパの「悪夢」以外のなにものでもなかった、のに、プーシキンがあらわれ、ツルゲーネフが登場し、トルストイ、ドストエフスキーが活躍するにいたって、ロシアの国と自然と国民の暮らしや感情は遺憾なくヨーロッパの敬愛を集め得た、と。どれほどの国力と外交と概念的解説が積み重ねられようとも、天才の勝れた文学作品の一つにも匹敵し得ないと、八雲は『人生と文学』の冒頭に力説していたのである。彼はそういう日本人の書き手が自分の教室から出ることを心から望んでいた。
* 小林秀雄は外国人には読まれない。川端康成は読まれるのである。だが、それはそれである。小林秀雄の意義をうしなわせるものではない。
2002 8・29 14
* 合間に、魯庵の「文学一斑」を校正している。なにしろ二十四歳の著作である。つまり二十四歳にもなれば、もう若輩ではなく、其の気なら堂々とした一人前以上の仕事が出来るということ。気概と気勢に飛んだ筆致の中に、冷静な論理構築があり、勉強の成果とも魯庵その人の見識ともうかがえ、興味在る言説が積み重ねられてゆく。われわれは「文学」「文学」といっているけれど、思えば不思議に奇妙な二字ではないか。魯庵はそのことを真っ先に取り上げて「文学」を定義しようとしている。漱石が「文学論」の冒頭に算術のような数式めいた形で文学の定義を下したのは有名だが、魯庵のは、それよりもかなり早い時期に若くして思索されている。若いと云うことの輝きが、明治の文人達には溢れていた。今の五十六十の、それも文学よりの大人達よりも、はるかに文藻にも見識にも富んでいた。
* やがて招待席に招き入れる中島湘烟いや岸田俊子は、京都の呉服屋の娘であったが、幼少来の天才少女で、数え十六歳で宮中に迎えられ昭憲皇后に「孟子」を講じている。しかも三年後には宮廷を辞して、日本初の女権拡張の志士となり、各地に演説し、投獄もされて屈することなく、景山英子ら後進の女性達をすこぶる鼓舞激励したことは、女性解放運動の歴史に特筆される。二十歳を過ぎるか過ぎぬかの活躍であり、後には初代衆議院議長中島信行と結婚し、フエリス女学院の初代の学監に就任し、しかも若くして亡くなったが、亡くなる数日前まで書かれていた日記の気丈にして平静なことは、舌を巻かせる。 2002 8・31 14
* 内田魯庵の満二十四歳に出版した『文学一斑』の総論を、読み直して、入稿した。年齢的に云えば今なら遅めの卒論か、早めの修士論文の時期だが、そういう目的で書かれたのではない、一文学者として本格の著作になっている。若々しいが未熟ではない。気概に富んで適切な論説がつづく。
2002 9・3 14
* それからすると斎藤緑雨の「わたし舟」は、ごくの短編小説だが、すごい。舞台を観ているように心から失せない。書いたときに著者は、「天体観測」のライター、秦建日子と同じ三十四歳だった。緑雨が文才を示したのは十二歳ごろであった。わたしの息子が初めて「思想の科学」に原稿を寄せたのもそのような年ごろだったろう。緑雨は正直正太夫と名乗り、超絶の辛口批評家であった。「箸は二本、筆は一本」と言った。
2002 9・3 14
* ついでながら今ひとつ加えておく。うら若き政客たりし岸田俊子が、皇后の侍講の地位を去り、決然決起して女性解放・女権拡張を江湖に訴え、演説会の華として大評判であった頃の漢詩である。さきのものは、宮中に満十六歳で入っで二三年、明治の政治に激しい違和を感じた頃のものである。世は堯舜の聖代を言祝ぐかのようでいながら、此の明治の御代のどこに堯舜の政治があり、どこに心楽しき堯舜の民の平安が見られるかと喝破している。二十歳以前の作である。
次のは、前書きの通り。「学術演説会」とはいえ、女性の解放を凛々と説いたのが咎められての投獄であった。この時の詩編は数多いが、最初の一編を意訳した。一八六三年に生まれて、初めて投獄されたのは丁度二十年後であった。
* 宮中読新聞有感 宮中に新聞を読みて感有り
宮中無一事 宮中 一事とて無く
終日笑語頻 終日 笑語頻りなり
錦衣満殿女 錦衣し殿に満てる女
窈窕麗於春 窈窕とし春より麗し
公宮宛仙境 公宮はあだかも仙境
杳々遠世塵 杳々と世塵を遠ざく
幸有日報在 幸いに日報在る在り
世事棋局新 世事も棋局も新たに
一読愁忽至 一読忽ち愁いは至り
再読涙霑巾 再読涙は巾を霑せり
廉士化為盗 廉士化して盗となり
富民変作貧 富民変じて貧となる
貧極還願死 貧極つて死なんとし
臨死又思親 死に臨みて親を思ふ
盛衰雖在命 盛衰は命なりと雖も
誰能不酸辛 誰かよく酸辛せざる
請看明治世 請ふ看よ明治の世は
不譲堯舜仁 堯舜の仁に譲らねど
怪此堯舜政 怪む此の堯舜の政に
未出堯舜民 堯舜の民未だ出ぬを
* 明治十六年十月十二日、学術演説会を滋賀県に開けるに、はしなく警察官吏の拘引するところとなり、留めて監獄中に送らる。斜雨柵に入り寒風骨をきる。此の夕べ母は旅窓にあり、余は思ひ構へて夢見る無く、たまたま詩を賦す。
仮令吾如蠖曲身 たとへ吾れ蠖の如くに身を曲ぐも
胸間何屈此精神 胸間何ぞ此の精神を屈せんものぞ
雨声無是母親涙 雨声は是れ母親の涙には無くして
情殺獄中不寐人 獄中に不寐の吾が意志よ強かれと
2002 9・3 14
* さて何ということもない一日であった。「させることなし」と書かれた昔の日記記事をよくみるが、そんな次第。黙阿弥の芝居をこつこつと校正していた。小学館古典の「室町物語草子」集が届き、あますところ「浄瑠璃」集と「漢詩」集の二冊だけ。また一つのエポックメーキングとなる。
2002 9・4 14
* 中島湘烟の明治三十四年三月三十日からの日記を、書き込んで、校正している。病気はすでに軽くはなく、二月と経ずに三十九歳で死んでしまう。だが日記の克明にして平然たる、男勝りに武士のようである。いや、気張ってなど少しも居ないのである。
黙阿弥の歌舞伎台本は、とりあえず仮りに入稿した。
2002 9・8 14
* 今ひとつの感銘は、湘烟日記の校正作業。明治三十四年五月二十五日に三十九歳でなくなった湘烟は、死の五日前まで、端正に的確な感想に充ちた平静淡々たる日記を書いていた。抽象的なものではない、生活者の耳目の生きた日記である。数多くの日記を読んできたが、子規と兆民との末期の絶筆日記に比して、上を行く端然たるものとして昔に「新潮」欄に書いたことがある。ここ数日の楽しみはこの校正だが、だが明後日には新しい「湖の本」の発送が始まる。手際よく送り出したい。こんな作業も、もうどれだけ続けられるか分からない。楽しみたい。
2002 9・9 14
* 夕刻過ぎて最初の発送。その後も「007」を耳に聞きながら、かなり頑張った。切り上げて、幾つものメールを読んだ。胸に残るものも有った。
それからまた「湘烟日記」の校正を楽しみながら、終えた。楽しむというのは言葉づかいが宜しくない。なにしろ五日後に逝去した、三十九歳の日記である。迫ってくるものがある。筆者自身よりも、こちらの方が筆者の死期を承知している。むろん当人も百も覚悟しているが、正確に何時のこととは分かっていない。絶筆の日記は、こう結ばれてある。
明治三十四年五月廿日 晴
朝無端(はしなく)出納帳一見せねばならぬ事到着して序手(ついで)に算盤をはぢかねばならず。銀行の切手、役所の入要等二三事を為して、はやくも、ぐんにやりとしてたのしみの部類は何ひとつ為す事なくして、此一日も過せり。
昨朝美人の投身者ありとて、なかなかの評判なりき。美人の投身(みなげ)は殆ど熟字の如く、未曾(いまだかつて)て醜婦の身なげたる語を聞かぬもおかし。されど、多くは其美といふものが、死の因を為すに似たれば、矢張美人にやあらん醜婦なれば兎角(とかく)天下太平なり。
わが幼時翠琴といふ十八九の婦人、美濃より京に来り、詩文の先生を訪ひ、われも一家を立てんの心組なり。其(その)號の奇麗なるに似付(につき)もせぬ顔(かんば)せなり。漢学はたしかのものにて、詩も達者なりとの事なれど、何分みにくきが祟(たゝ)りを為して、誰も一臂(いつぴ)の力添へんといふものなきのみならず。文人交際の心得なきものなりなどゝ、難くせ付て遂に京を放逐(はうちく)同様の待遇を為せり。醜美の関する所実に甚哉(はなはだしいかな)。 ──絶筆 五日後に逝去──
* 重度の肺結核ですでに呼吸困難に陥っており、しかも夫(中島信行号長城、貴族院議員男爵、第一回衆議院議員にして議長。自由民権の闘士であり、外交官も勤めた。)亡きあとの主婦であり家長であった。
わたしに息をのませる記事は、数日前、鳴き声を見舞いにと贈られていた京都からの河鹿の噂から、生け簀に静めてある故郷鴨川の「石」を語る言葉であった。湘烟=俊子岸田氏は京都の町中に育った人である。
十八日 雨
昨夜はこゝちあしき程の暖気。此病客さへふらねるのみにて恰(あたか)も(=よし)といふわけなれば、地震にてはあらぬやと気遣ふもありしが、夜間雨声枕に響きしが、朝来(てうらい)風もかはりて、屋後(おくご)の山窓(さんそう)戸に隔りて親しむを得ず。いづれの部屋も暗澹たり。けふは、書齋にゆき給ふとも陰気なれば、筆硯を枕もとにもたらさばやと、品のいふに任かし、終日一室に閉居せり。いき切(ぎれ)はすこしもよき方に向はざれど、熱度は大に減じ、八度に達するは稀れなるに至れり。食も幾分かすゝみ気味なり、唯ものいふ事の次第に苦しくなりゆくを覚ゆ。
京都よりかじか日々なくやと問ひ来れり。故山(こざん)を離れし為か、主人の変りし為かよくなきしと、聞く程にはなかずやうなりし。されど、其音声の真価は吾十分これを知れり。美音を藏(をさ)めてなかざるも却て趣あり。殊に多弁家のかなりやのあとなれば自(おのづか)ら妙、夜深く人定(さだまつ)て後、七八語わが半眠半醒の耳にいる甚(はなはだ)あしからじ。このかじかに伴ふて来りし三四個の石、鴨川砂清く瀬浅きの辺より得しものなりと聞く。是尋常一般のものなれど、吾にはこの尋常一般のものより涼夜(りやうや)虫を売る柳陰の景より東山三十六峰霞をこむ春の曙(あけぼの)緑竹声絶(たえ)て寒に凝る冬の月、阿翁(あをう)と憩ひ、阿兄(あけい)と遊びし紅梅紫亭のおもかげ等生じ来りて坐(そゞ)ろに今昔の感に勝(た)へぬもおかし。
* ただの川底の石といえども、それが「鴨川砂清く瀬浅きの辺より得しものなりと聞」けば、連想と懐旧の情とは、旺然と湧くがごとくであったに違いない。必ず女史は、中の小石を蓐中掌に包んで眼をとじていたことであろう。わたしでも、その期に及べばそのように京都を思うに相違ない。
2002 9・11 14
* 今日特筆するとすれば、前夜、西鶴の「好色一代女」を読み上げたこと。「好色一代男」に匹敵し、一面優るとも劣らない魅力。時代と近世初期の都市生活を背景に、女の性的生活や稼業を洗いざらい紹介しながら、性行為にいわば命をかけて掛け抜いた一人の「一代女」の、徹底した生涯を、たくまざるリアリティーで描き尽くしている。わたしが男であるからか、「一代男」のスケベーな性的体験記よりも、「一代女」が生涯掛けて歩んでみせた性行為実現の情況・環境・職性などの驚くべく豊富なバラエティーそのものに、驚嘆。そして女の秘めている途方もない性欲。これは感動に値する。女は男以上に本質的に性的存在なのだと教えられた。この「一代女」に比較すれば、世の男どもは、たんにスケベーな弱虫に過ぎない。
文学作品としても、西鶴の場合は「幅」が広いが、「一代男」「五人女」「一代女」を時間を掛けて丁寧に読み終えた体験量の豊富さ、表現の面白さに、さすがにと小手を打って感心した。いい読書であった。西鶴には恥ずかしながら初体面であった。
2002 9・12 14
この数年に、小学館の厚意で贈りつづけられた日本古典文学全集の多くの巻を読み通してきた。もう二冊で九十巻近い浩瀚な全集も完結する。なかでも源氏物語はもとより、竹取、伊勢、大和、平中、うつほ、落窪、堤中納言、また狭衣、浜松中納言、夜の寝覚、住吉、とりかへばや、松浦宮などの平安王朝の物語がどんなにわたしの日常をバランスしてくれたか計り知れない。
また「ペン電子文藝館」のために読み続けた福沢諭吉以降、現在立原道造におよぶ優れた百余の先輩作家・文学者達の遺作にもどんなに励まされたことか。福沢諭吉は一八三五年一月に生まれ、ちょうど百年後の十一月に日本ペンクラブは創設され、一月後にわたしは生を享けて、この師走には満六十七歳になる。どうみてもわたしは少年ではないが、どうみてもまだわたしの内側に少年が生きている。ホームページ「秦恒平の文学と生活」の表紙に、はじめ我が十七歳の「しかすがに寂びしきものを夕やけのそらに向かひて山下りにけり」を置こうと思い、結果は二十七歳の「うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 」を置いて今日の思いをも代弁させた。
いつまでたっても、いつまでたっても、どこかに未熟なこどものままであることを、半ば恥じらい、半ばは諦めて日々を過ごしている。いろんな意味でもう潮時が来ている気はしている。斯く云う「私の私」もまた「公」の前に連戦連敗している。今秋以降わたしの文筆収入は、作家以前の限りなくゼロに近くなる。赤坂城は、そろそろ撤退して新しい千早城に次の手だてを静かに考えて良いようである。
* 昨夜から中世「室町物語草子」集を開いて、お定まりの「文正草子」から。おめでたづくしで、昔は正月の読み初め用の定番であったそうな。平安物語と直ちに比較などしてみても始まらない。文正の途中で、「和泉式部」の道命阿闍梨との母子相姦を読んだ。たわいもない。が、これらから展開された、柳田国男の民俗学的和泉式部論など思い出された。御伽草子といわれるものの中にも、図抜けて伝奇的におもしろいものが幾つもある。そういうのを早く読み返してみたい。
* つくばの人から、山内義雄訳「モンテ・クリスト伯」の岩波文庫版が揃って手に入ったので送ってあげると連絡があり、楽しみに待っている。このごろ宅急便があまり早くない。木曜日に渡した本がやっと日曜に届いている例がある。
2002 9・15 14
* 山内義雄訳の「モンテ・クリスト伯」岩波文庫が七冊、無事に、パリッとして届いた。有り難い。嬉しい。ずいぶん久しく願ってきた、手軽にもてる本を。
2002 9・17 14
* 外出には、籤採らずむろん「モンテ・クリスト伯」を持って出る。誰しもそうであろうと思うが、エドモン・ダンテス時代とモンテ・クリスト伯時代は、色彩を大きく異にし、ことに、エドモン・ダンテスがメルセデスとの幸福の絶頂から真っ逆様にシャトー・ディフの底知れぬ牢の闇に突き落とされる辺りは、辛くて読みづらい。ダングラールの悪の奸智にのせられ、従妹への恋と嫉妬に狂ったフェルナンがエドモンを密告するあたりも、イヤなら、新進の検事ヴィルフォールが保身のため、無実を承知でエドモン・ダンテスを非道に牢へ送るのもイヤなのである。
むしろ牢に入って、牢内でファリヤ法師と出逢ったり脱獄したりする辺りからの方が、のめりこみやすい。まだ牢へ送られていないが、次ぎに読むときはそのくだりになる。ダングラールやフェルナンの悪企みを察していた酔いどれカドルッスが、かなり明瞭に密告に至る事態を把捉していたのが、のちのち、大きく影響する。もう読みやめることは出来ない。
岩波文庫を手にしている心地よさは、そのまま少年時代のわくわくする読書欲を思い出させる。佳い装丁だ。
2002 9・24 14
* エドモン・ダンテスはシャトー・ディフの深い闇の牢に投獄され、マルセーユの新進検事ヴィルフォールは、パリに急行し、直接国王に、エルバ島のナポレオンが進出してくるのを報じ信任を得ている。序幕は終えた。これからは牢獄の中のドラマが始まるとともに、エドモンを陥れた連中のそれぞれの出世物語が始まる。もう、とまらない。
2002 9・26 14
* このところ、寝入る前のバグワンは籤取らずだが、きまって室町物語草子を少しずつクツクツ笑いながら楽しんでいる。「文正草子」「御曹司島渡」「猿源氏草子」「ものくさ太郎」「橋立の本地」「和泉式部」いずれも表現としては甚だ雑駁に出来た、まさに巷間の「オハナシ」でありながら、想像力の奔放といい、展開の心理に裏打ちされた欲望や願望の人間くさいことといい、なまなましくてリアルな面をしっかり抱え込んでいる。けっこう面白い。夢のでたらめにちかいほど、場面変換もすさまじい。それでいて、伝統の知識などが巧みすぎるほど巧みに、しかもでたらめも承知でぶちまけられていて、笑わされる。三島由紀夫が猿源氏で歌舞伎を書き起こした気持ちが、よく分かる。
是まで読んだ全体を通じて、いかに庶民生活の中で「物知り」に価値が置かれていたかもよく分かる。モノを知っていればこそ窮地を逃れて出世の縁がつかめると、こればかりは根強く、どの作にも露出している。
まだ一巻の三分の一ほどしか読んでいないが、主なモノは以前に岩波文庫で読み知っている。御伽草子から西鶴らの浮世草子へ繋がる文脈は、生き生きと太い。
* バグワンは、もう幾めぐりの読み返しになるか、このごろは「十牛図」をとりあげたのを、すこしも変わりない新鮮な感銘に突き動かされて、読み進んでいる。このまえが「般若心経」そのまえが、さらにそのまえがと、バグワンに触れるわたしの旅は、十冊ほどの本を、終わり無き輪をつたい行くように繰り返し繰り返しつづく。勉強心ではなく、薬を飲む気持ちでもなく、お経を読むのともちがう。無心にただもう、一夜に二三頁ずつ音読しわが耳に聴いている。バグワンの言葉は深く透徹している。出逢えてよかった。
2002 9・27 14
* 血糖値が高めかなあと気にしていたが、これで宜しいと。もう一つの何だか大事な計測値の方も、正常値に成ってきていて、良いのだそうである。ま、病院側でそういう判断ならありがたいと思うことにして。
雨もよいでうっとうしい天気ながら、有楽町で途中下車して「きく川」で菊正二合の鰻は最高、塩もみのきゃべつもたっぷり、ご機嫌であった。
なにしろ「モンテ・クリスト伯」があるから、病院で待たされようが、悠々。全編の中でもわたしの一番好きなのは、シャトー・ディフの牢獄で、エドモンとファリア法師が出逢うところから、脱獄し、そしてエドモンが孤島モンテクリストにひとり残って、ファリヤ法師に譲られた莫大で絶大な財宝に出逢うまで。そこを今日は読み継いでいたのだから、雨も何でもない。
高校時代にはじめて知って愛した、夢のような読書の日々を思い起こしつつ。
印象深い人物の数多い物語だが、ファリア法師との出逢いには胸の震える感動があった。あの陰惨で孤独なシャトー・ディフの絶望が灼然と燃えるような希望に変貌してゆく力強さにわたしは打たれた。今日読み返しても、嬉しかった。文庫の二巻目に入っている。
* 「モンテ・クリスト伯」のモチーフは何だろう。簡単に「復讐心」と謂えるかも知れない。猛然たる復讐の物語には違いない。しかしわたしは「希望」だと思ってきた。この壮大を極めた全編の物語を結ぶことばは、「待て、而して希望せよ」ではなかったか。復讐はエドモン・ダンテスの強烈無比のモチーフだったが、待ちかつ希望してやまなかったのはファリア法師であった。作者のデュマには、たしか幾らか黒人の血が混じっていただろう、そういうのも創作のモチーフに生かされていると思われる。黒人ではないが奴隷にされていた美女エデとともに、「復讐世界」から永遠に立ち去ってゆくエドモン・ダンテスは、愛して已まなかった許嫁のメルセデスを、自身を密告により陥れたフェルナンの妻になっていたメルセデスを、受け容れることなく去ってゆくのだ。だが、去りゆくエドモンは、まさにそのとき、ファリア法師の魂の弟子であり愛子であった。
2002 9・30 14
* 「モンテクリスト伯」はもう止まらない。モンテクリスト島の招待、山賊ヴァンパの物語から、ローマの祭りでのこれから見せ物として死刑執行がある。いずれも文章を記憶しているほど頭に入っているが、一行一行引きこまれて丁寧に読み進んでいる。外出時の読み物のつもりなのに、家にいても読みたくなる。
就寝前にはバグワンを読み、室町物語草子を一編ずつ読み、そしてモンテクリスト伯へ。寝入るのがどうしても遅くなる。
お伽草子は一寸法師、酒伝童子、浦島太郎、そして肉付き面の磯崎、橋立の本地、熊野の本地などと進んできて、どれも趣向あり興味深い。読みやすい。
今ひとつは、広末保氏の「芭蕉」を少しずつ読み進めている。何を読んでも、佳いモノが待っている。広く遠くはとても歩き回れないが、読みたい本は跡を絶えない。だいいち、過去に読んだものが、より一層新鮮になって立ち返ってくる。
2002 10・3 15
* これからすると、偉大な通俗小説の「モンテクリスト伯」は、地下鉄の中でもたちまちに底知れず引きこんでくれる。この今日の身の回りのどんな日本人よりも、主人公の伯爵はもとより、アルベールもフランツ・デピネーも山賊ルイジ・ヴァンパも、遙かに手応え確かに語り始め動き始める。小説とはこういうものだ、やはり力づよい。
2002 10・5 15
*「モンテクリスト伯」を心を落ち着けてとっくり熟読することの出来るのは、長年付き合ってきた新潮社版二冊の重い全集本でなく、七分冊の持ちやすい岩波文庫だから。どこででも没頭・没入できる。池袋へ少し早く着いていても、この本を読み出すと、記者さん遅れてきてもイイよという気になる。
デュマは、真っ直ぐの太い主軸を高々と延ばしている。それを単調に進むのではない。主軸の幹から、前後左右へ豊かな枝が出てこんもりとした物語の葉を茂らせ花を咲かせ、そしてまた幹に戻り先へ進んでまた大きな枝葉を茂らせる。魅力的に話に花を咲かせる。ファリア法師の物語、フランツ・デピネーのモンテクリスト島の物語、ローマの謝肉祭と山賊ルイジ・ヴァンパの物語、そして家令ベルッチオとフォートイユの邸の秘密な物語、こういったものが太い幹を介して濃密に関わり合ってゆく面白さ。この枝葉に分かれる塊の魅力を煩わしいなどと思うのでなく、コクがあると思うようになると、全体の大いさが途方もなく生きてくる。
はやモンテクリスト伯こと復讐の鬼のエドモン・ダンテスは全知全能に近い力量を、満身に秘めて、パリにいる。そしてモルセール伯爵こと、漁師のフェルナンとも逢った。フェルナンの妻になっているあわれな許嫁メルセデスにも逢った。かれらはエドモン・ダンテスを見分けることが出来ないが、メルセデスは何かを感じている。分かっていたのだ。銀行家になったダングラール男爵とも、検事総長になっているヴィルフォールとも、エドモンはもう逢っている。だれもがモンテクリスト伯の財と知と底知れぬ魅力に圧倒されている。
これからが、いよいよ巧緻に仕組まれた復讐の実現になるが、単調ではない。もののあはれをはらんで、物語はとてつもなく面白く展開するはずだ、わたしは、それを記憶しているけれど、そんな記憶が何の邪魔にもならず、新鮮な驚きにひきこまれながら、もう文庫本の四冊目に入ってしまった。しまった、とは、もっと長いとイイのにというもの惜しさの気持ちである。
* そして「惟任日向守」の、ここまで真っ向微塵にものが書けるかものが言えるかという異数の魅力。一字一句とそのふりがなとに立ち止まり立ち止まり、だが、魅されている。
室町物語草子は、最後の一編、これは蘇り物語ともいえる地獄遍歴で、すさまじい。お伽草子には、縁起物、本地物、そしてこういう絵解き物がある、むろん祝儀・祝言物とべつにである。それぞれに面白いが、どれを好むかは人に寄るだろう。わたしは「猿源氏草子」などが好きである。「磯崎」のような肉付き面の話などは、子供のむかしに講談社絵本などに、もしなっていたとしても、怖がってわたしはよう見なかったろうなと思う。「百合若」や「阿新丸」でもわたしは怖がった。「孝女白菊」でも「万寿姫」でも本の表紙を伏せて投げ出した。逃げ出した。
* いま、べつに、心をとらえているのは、浄瑠璃と枕草子とである。どうしてこうなるかなあ。ま、ビールもウイスキーもワインもマオタイも老酒も、腹の中へ入ればみなアルコールだ、そんなものか。うまいかどうかが問題だ。
2002 10・8 15
* 仕事をしながら、ビクトリア・ムローヴァのヴァイオリンを、小沢征爾らの指揮で聴いていた。チャイコフスキー、シベリウス、パガニーニ、ヴュータンという魅力のディスクである。バックに聴きこみながら、ここ二時間ほどは枕草子を読んでいた。なかなか双方が良かった。
2002 10・8 15
* 医学書院のころの部下であった小林謙作君が、先考小林篤司氏の遺著『ソ連市民になった二年間』(昭和二十七年刊)を、五十年忌に際し、立派に復刊・復刻された(発売星雲社・発行愛生社 1400円)。
父君が新聞記者であられ、家族して戦後に樺太から内地へ生還されたことは、むかし、仕事の机をならべていたころに聞いた覚えがあり、そういう著書の出来ていたことも耳にかすかに残っていた。戦後の動揺のまだまだ激しかった頃に、樺太での稀有の体験を冴えた筆で証言されたこの実録は、刊行された地元秋田市では好評に読まれて、速やかな再版も実現し、新聞その他で大いに当時評判された様子が、残っている資料などでつぶさによく知れる。だが知れはするものの、いかにも時機は時代の奔流期にあり、日本の国はあれよあれよと、戦後の混乱とも復興ともないし爛熟ともいえる方角へひた走るうちに、この本が深く時世の底流に置き忘れられて、読者の記憶もうすれ、また原本そのものももう容易に手にできない稀覯の本になっていったのは、無理もなかった。
だが、この著述自体の示している内容は、「樺太」という、江戸時代このかた日本とロシアの中にあって極めて因縁深い歴史的な大島における、あの世界戦争当時の、また終戦に至る当時の、さらに戦後の領土問題処理においてロシアがいろいろに動いた当時の、いわばまさにドサクサのさなかにあった日本人や現地人やソ連人たちの、政治的・社会的な坩堝の中でのあれこれを、如実に証言したものであり、今となって、かけがえのない記録であり体験であり資料であることは、誰の眼にも歴然としている。
小林謙作君はそれらを合わせ考慮して、父上の逝かれて五十年を記念し、また終始行を倶にされたやはり今はなき母上をも哀悼すべく、この本の復刊・復刻を思い立った。立派に成って、頂戴した。有り難いことである。
わたしと樺太では、あまりに縁が遠いかと想う人もあろうが、さにあらず。
わたしの作に、岩波の「世界」にながく連載し、後に筑摩書房から刊行した『北の時代=最上徳内』(湖の本32・33・34)がある。樺太というと「間宮海峡」の名から間宮林蔵を思い浮かべるのが常識で、彼が北方政策の先駆者かと誤解している人はあまりに多いが、日本の蝦夷地、樺太や千島をふくむ奥蝦夷地への幕府政策の、最も早い先魁をなし偉大な成果をあげたのは、間宮林蔵等よりも二昔もはやくから活躍してきた幕吏最上徳内であり、彼は、樺太の地図も、はやくにかなりリアルに描き得ていたばかりか、樺太が半島でなく、大陸とは海峡を隔てた一大島であることも、間宮らの登用されるよりずっと以前からよく認識していた。むろん何度も樺太に渡り、一時はシベリヤ経由し欧州へもという探検感覚をきらめかせていたのである。
間宮が、樺太に、そして間宮海峡を確認したのも、それは徳内の認識を「確認」した展に意味があり、けっして彼が前人未踏の「発見」をしたわけでは無かったのである。この時の間宮等の樺太行も、実は最上徳内が自身行く予定であったのを、彼のような北方政策の先覚・実行者で見識に長けた高位の者を、万一酷烈の極地で失ってはいけないという当路の緊急の判断から、若輩の間宮林蔵等が代わって、「確認」の意図も含めて派遣されたのであった。林蔵は、最上徳内のはるかな後輩であり、いわば蝦夷地探検等での最上徳内配下なのであった。
もとより最上地方の農民から出た徳内には、蝦夷地政策の当初から上司が何人も居た。だが、最初期の普請役たちがことごとく幕府政変の煽りで消え去ったあと、抜群の行動力と、アイヌへの深甚の理解や共和・協働の実績等が高く評価され、ついに独り最上徳内だけが、その後の幕府にも重用され、有名な近藤重蔵らとのクナシリ・エトロフ探索等でも、実質の働きをなしたのは常に徳内唯一人と謂うしかないほどのことであった。有名な「大日本恵登呂府」の標柱を押し立て得たのも、ロシア人=赤人たちと実生活を共にしたのも、幕府の官僚では、すべて最上徳内の単独行としか言えない結果であった。
樺太への関心も大きく、彼は回数を重ねて樺太に渡り、単独最北端近くまで探索している。
この最上徳内に関心を持ち続けたわたしにすれば、樺太は、チェーホフによる「サハリン紀行」の面白さにもたすけられ、いつも大きな比重を保っていた、少なくも一時期保ち続けていた。関連の小説を書き始めたときにも、だから小林君のお父上に、樺太から帰還の前後をめぐる著述のあったこともかすかに、しかしハッキリ思い出していたのである。
遺著自体の値打ちもたいしたものである、が、それとともに、樺太の収容所にいた当時わずか四歳ほどであったという小林謙作君が、父上の著述に大きな愛と誇りとをもちつづけ、記念の復刊を成就・実現されたその供養の思いにも、わたしは敬服する。
この種の復刊には、花巻の照井良彦氏が、やはり父君の遺著『天明蝦夷地探検』を繰り返し刊行されてきたことが思い出される。わたしはこの著に、莫大に教えられた。この著がわたしを導いてくれなかったら、『北の時代』は容易なことで成らなかったろう。はしなくも、今それを思い起こし、先人の地道で地味な、しかし根底からものを掘り起こされた徹底した著作の力に、心新たな感謝を捧げずにおれないのである。
わたしの『北の時代』は、徳内さんを主人公にしている、が、実にまた現代小説でもあり、終幕の一椿事として大韓国旅客機の樺太沖のあの悲劇的な墜落事件を描くことで、われわれの眼のまえに、「北の時代」はいまもなお続いていることを、愛すべき一韓国女性と語り手の作家の関わりなどから、うったえていた。或る日本人家族が、樺太で「ソ連市民になった二年間」をもっていたという稀有の体験とも、うえの私の創意は、遠く、また近く、関わり続けていたのである。そういうことからも、小林君の贈ってくれたこの新刊を手にし、たとえば作家李恢成氏のことなどを反射的にわたしは思い出した。氏には樺太にかかわって、韓国同胞のひとたちと分かった苦渋の帰還問題などを書いた長い作品があり、戴いたことがある。
* もう一冊戴いた本のことを書かずにおれない。田島征彦氏よりこのまえ戴いた随筆『ピコちゃんを食べた』にも触れられ予告されていたが、たじまゆきひこ・作の絵本『てんにのぼったなまず』復刊・限定出版の一冊を贈って戴いた。1987年世界絵本原画展金牌受賞の傑作で、なんと見返しいっぱいに、わたしの宛名も添え、実に大きな、むしろ美しいといわねばならない墨描きの大なまずが描かれてある。ありがたい、これは金額には換算できぬわたしの「お宝」になる。手紙も添っていて、
秦 恒平様
月皓く死ぬべき蟲のいのち哉
そんな季節です
と、わたしの作句を引いて嬉しいご挨拶が附いている。「うみべのむらに えのすきな おじいが すんでいた。」と大扉に書き出してある物語は田島さんならではの批評味もこめてある。これまた、心よりお礼申し上げる。
* 朝日子の仲人さんである早大小林保治さんからは共著の注釈『続古事談』を頂戴した。有り難い。室町物語草子集をもう読み終えるので、引き続きすぐ楽しませてもらう。
* つくばの和泉鮎子さんから歌誌「谺」がとどき、巻末この人の執筆になる「作品評」を読んでいる。たいへんこまやかに、さりげない歌のささやかな命脈にふれて歌の意義を立ち上がらせる寸評の、よく行き届いているのに感じ入っている。思いがけない出逢いの中に佳いモノは静かに隠れているものだなと思う。
2002 10・9 15
* 妻の初校してくれた、テニスン卿作・若松賤子訳「いなっく、あーでん物語」を読んでいる。適度に古く感じられる上品な明治の日本語が、今にして、たいそう佳い効果をあげている。感心する。胸に迫る物語で、こういう仕事をじつに近代の早い段階でしてくれた先人に感謝したい。大人にも今の子供にも読んでほしいが、お母さんが肉声で子供に聞かせてあげて欲しいとも。
今ひとつ校正中の石橋忍月「惟任日向守」は、なかなかハカが行かないけれど、手を付けていると他の仕事を忘れてしまいそうに、時間長く引きこまれて困るほど佳い「文章」である。声高に語られていて佳い文章というのは少ない。他には幸田露伴の「運命」を思い出す。忍月の明治期屈指の、いや最高の歴史小説と評された作も、露伴の「運命」も、いまでは読まれていない。読みたくても本がなかなか無い。
2002 10・12 15
* 毎日新聞のための難しい原稿を、一稿をとにかく書き上げて、いまさき、メールで送ってみた。担当記者サンの意見も聴いて、書き直せる時間の余裕も見て書いた。ほっこりと疲れ切って、ねむい。あたりまえだ、ゆうべはホームページをたっぷり読んだあと、寝床に行ってから「長宝寺よみがへり草紙」もとうとう読み上げ、モンテクリスト伯四冊目の文庫本の、うしろ半分を最後まで読んでしまった。なにしろこの伯爵、腕にヨリをかけて復讐にかかっている。手の込んだ凄さ。わたしには出来ないことだと思うと、引き込まれる。ちょっと、ヘンかな。
2002 10・13 15
* 忍月の光秀はいよいよ爆裂のときを迎えんとし、なお悶えている。石橋忍月というと反射的に山本健吉さんを思いだし、あああの方のこれはお父上なんだと思いながら校正している。
全編はとれないが、樋口一葉を文学の世界へしたたかに引きずり出す牽引車の役割をした、三宅花圃の「藪の鶯」を第一回分だけ「招待席」に入れた。坪内逍遙の「当世書生気質」が出ると忽ち、その女学生版を思い立ったという「歌子塾」元気じるしの才媛であり、明治二十一年に刊行され、好評。いたく刺激され、原稿料というよりもまさに生活費を「稼ぐ」べく創作の決意をしたのが、同じ萩之舎塾の先輩花圃女史の成功を羨んだ一葉樋口夏子であった。
「藪の鶯」では鹿鳴館の貴嬢たちの会話から長い物語が始まる。記念には値する書きっぷりである。
* 矢崎嵯峨の屋「初恋」江見水蔭「女房殺し」平出修「逆徒」相馬泰三「六月」中戸川吉二「イボタの蟲」松永延造「ラ氏の笛」佐々木俊郎「熊の出る開墾地」加納作次郎「乳の匂ひ」など、近代前半期にうかとすれば埋没して終いかねない、しかし忘れては成らない作家達の秀作優作がある。「ペン電子文藝館」の招待席は貴重な役割を果たして行くであろう。わたしに能うかぎりを、よく読み、よく取りげておきたいと思う。これは私の意思でも何らの利得でもない、ただもう純粋に「よかれ」と願うだけの尽力である。わたしにも照らせる「一隅」が此処にもあるというだけの話。
* 桶谷秀昭氏から新刊を贈られた。三十余年、桶谷さんの本を戴き続けてきた。昭和精神史のような大著も。
2002 10・14 15
* 歯医者と理事会との間が三時間もあいてしまい、「モンテクリスト伯」の第五巻を、「きく川」の鰻と茅場町の喫茶店で読み上げてしまった。何の苦もなく、時間を忘れるほど入って行けた。ヴイルフォール検事総長家の連続毒殺事変が渦巻くところで、令嬢ヴァランティーヌと、モレル家のマクシミリヤンの甘い恋が痛い試練に逢う。モルセール伯爵家へも暗雲が覆ってくる。銀行家ダングラールは損を重ね追いつめられてゆく。端倪すべからざるモンテクリスト伯の打つ手が、一つ一つ効き目を見せてゆく中で、全身不随眼光一つで生きて頑強な、ブ。フォールの父ノワルティエの存在がずっしりと重い一冊で。もうはや残り惜しい心地で、明日明後日の京行きに、のこる第六・七巻を連れにする。
2002 10・15 15
* ロシア通の米原万里さんが理事会で隣席にいたので、ちょっと話して置いたが、小林謙作君の父上の遺著「ソ連市民になった二年間」は、実に優れた証言集で、繰り返し読んで何度も何度も小手を打つ面白さである。面白さというと誤解があるなら、まことに興味津々教わることが多い。今はロシアになっている。しかし今の北朝鮮がおそらくこの往時のソ連に近いのではないかなあと想像され、これがまた刺激的である。
2002 10・15 15
* 石橋忍月の「惟任日向守」をやっと初校し終えた。忍月は第一高等学校の在学中に既に非凡を認められる評論・批評を以て世に立っていた。帝大在学中には幾つかの好評作を出し、小説家としても安定した地位を確保していた。いま彼の批評や小説を多く読み返すことはなかなか難しいけれど、その中で、逆賊光秀のために万斛の熱涙をふるい衷心からその「人と一族」の美を称え評した小説は、ひとり忍月小説中の傑作であるのみか、明治歴史小説の名作に伍して優なるものと称賛されている、一代の代表作のひとつである。
こんなに熱の籠もった光秀論にはお目に掛かったことはないが、瞠目に値する力作で、その声高であることもあまり邪魔になっていないのが、文学として、有り難い。
「ペン電子文藝館」に招待を思い立ってから、此処までに、だが、びっくりするほど長い日数を要した。起稿も校正も容易でなかった。読み泥んだのではない。したたかに読まされたがルビの多く必要なのには参った。
2002 10・18 15
* とうとう「モンテクリスト伯」全七巻を、夜前、寝入る前に読み終えた。第七巻の集結部への盛り上げは、デュマという作家の才能を十分に感じさせる、大きな、真率な、大胆な展開であった。メルセデスと最後に別れて、モンテクリスト島でマクシミリヤンにヴァランティーヌを引き合わせ、エデとの愛を確認して、幸せの内にフランスから永遠に去ってゆくエドモン・ダンテス。
待て、しかして希望せよ。
「モンテクリスト伯」はこれで少なくも数度目を読み、じつに細部に至るまで記憶していて、曽遊の地を逍遙するようでありながら、感銘は新鮮で喜び大きく、一つ一つの記憶を確かめ確かめするつど、読書の喜びとともに長く生きてきたことをも喜び思う気持ちがわき上がった。
名場面、印象的な場面を無数に象嵌した物語であり、加えて大きな戯曲家でもあったデュマの趣向の、構築と変幻とに、こころよく揺られて旅をした。モンテクリスト伯はさながらに神の如き超能力を得ていて、源泉はあの牢獄の底で出逢ったファリア法師に在る。シャトーディフを訪れて、恩人であり第二の父であるファリア法師渾身懸命の遺作・遺著を牢屋番から受け取るダンテスの感慨。思わず泣けた。少年の昔にまざまざと実感をもってわたしは帰っていた。ありがたい読書を果たして、さあ、もう何度これを読むだろうかと、前途を思ったりした。
* あの「丹波」と「モンテクリスト伯」と。はからずも、太い深い己が根をさぐりえた昨日一昨日のことを、大事に感じている。
くさくさしたことを忘れたい人は、なんだバカバカしいと思わず、またせかせかと読み急がずに、その場その場を堪能しながら、デュマの思索や思想にも挨拶しながらこの大長編を読まれるよう勧めたい。読んでいる間は他のウンザリなことは忘れているようにと、も。動機は復讐心の強烈さにあるが、収束は愛と希望とに在る。とても朗らかな天地へと開かれて物語は遙かに去ってゆく。復讐は無比に厳しいが、後味は美しいと謂えて、とても佳いのである。
2002 10・19 15
* 帰りは雨にふられ、保谷駅で数十分並んでタクシーに乗った。そのあいだ、鞄に入れていた小林篤司著樺太での「ソ連市民」たりし二年間を、読んでいた。
2002 10・19 15
* 昨日にはもう次の「湖の本」が組み上がってきた。
そして今日は、これは大きな一の区切りであり、ゴールインなのであるが、「小学館版日本古典文学全集」第一・二期を通して「全八十八巻」が、最期の『日本漢詩集』をもって、遂に完結し配本完了した。
配本とはいうが、全巻を小学館の厚意で寄贈してもらったのであり、こんな有り難いことはない。大きな立派な本が八十八巻揃った嬉しさだけではないのだ、じつにわたしはこれらを、多く、良く、読んだ、読んでこれた。それが嬉しく有り難い。毎月一巻としても七年の余を経てきた。小学館からは、この前の、小型版の古典全集も戴いていた。筆舌に尽くせない恩恵であり厚意である。
感謝は、「読んで」示すしかなく、さらに願わくは、得たものが肥やしになりべつの新たな仕事へ流れ込んでゆくと良い。どうすれば、それが可能になるか。答は、道は、比較的よくわたしにも見えている。あまりにせわしい人生の二学期を、いやいやもはや正月冬休みを「終了」してしまうことだ。三学期に静かに踏み入ることだ。
2002 10・19 15
* 小学館版八十八巻の古典文学全集完結に、昨日は興奮と感謝を禁じ得なかったが、今日、またずらりと玄関に並べた全巻構成をみていて、実は質問も受けているのだが、何んな巻がまだ欲しいか・抜けているか、つらつら考えてみて、これまでの気持ちを改めて追認した。
まず、古今・新古今の間の勅撰集から「古代和歌集」抄録が欲しい。物語和歌は物語が完備されていて不要だが、後撰集から千載集までのせめて「勅撰和歌集」の抄、また代表的な「家集」の集、つまり『古代和歌集』が一巻か二巻ぜひ欲しい。和歌はこの時代の「根」であり、多すぎるということは、ない。
ついで『中世物語集』が一巻欲しい。改作ものの「とりかへばや物語」「住吉物語」また定家の「松浦宮物語」など代表的なのは揃ったが、見落とせない短編物語の佳いのが、中世の前半に数多く残っている。
近世に入ると、各界からいわゆる「随筆」が厖大に増えるが、その中から、たった四編で一巻だけが提供されている。しかし、もう少なくも二巻分ほど『近世随筆集』を補強して貰いたかった。
またせめて鶴屋南北・河竹黙阿弥を中軸とした『歌舞伎狂言集』が、既刊の「浄瑠璃集」と並んで欲しい。
もう一巻、柳亭種彦の『にせむらさき』を入れて置いて欲しかった。馬琴の「近世説美少年録」三巻は、ま、感謝に値するが、出来映えからすると、『椿説弓張月』か、ことに『南総里見八犬伝』という真の代表作のどっちか一つも入れて貰えていたら、大サービスであったのにと思う。
最後に、学問の要請からすれば、『総索引』が出来れば、この全集の真価は、倍増といってもきかないほどになろう。
2002 10・20 15
* 来週も四日間外へ出て行く。今年のインフルエンザが恐ろしいと報道している。風邪は大の嫌い。気圧が低いのだろうか、ふうっと時々息が詰まるような感じ。喘息持ちではないがときどきかるく息が詰まる。そういうときは天候が良くない。書庫へはいると冷えるようになった。季節は確実に動いている。足の踏み場にこまるほど本が書架から溢れている。一度書庫にはいると、ああこんなのがあった、読みたい、読みたいとなって際限がない。
今日はヘーゲルの「美学」に誘惑された。だめだめと呟いて押し込むように元の書架へ。就寝前の枕元には本が増える一方である。
2002 10・20 15
* 宮本百合子の「刻々」は、小林多喜二の作品とも並んで、戦前・戦時下の日本の思想弾圧がどんなにもの凄いモノであったかを、手に取るように証言している。長い作品のとりあえずその「一」だけを、プリントし、スキャンした。もう一人、歌人土田耕平の大正十一年の処女歌集「青杉」全編をスキャンした。ムローヴァのバイオリン・ディスクを一枚聴いている間にスキャン出来た。音楽を聴いていると、無味乾燥な機械の操作中も心穏やかに楽しんでおれる。
2002 10・21 15
* 佐高信氏にもらった「タレント150人を斬る」という怖い題の本を読了した。斬られている人の実人数が150人なのか、猪瀬直樹氏のようにめったやたら繰り返し繰り返し斬られている人も多いので、もっと人数は少ないのか、勘定する気はないが、わたしの、知った人も知らない人も大勢いる。知らない人のことは分からない。何となく知っている人の場合、斬られようにいろいろあることが分かり、面白い。ほとんどは、頷けるのである。わたしの好きでない人も実に多いからだ。だが、これは気の毒にと感じる例もある。
こういう罵倒型の月旦は、誰しもが内心一度はやってみたいものだ、が、当代では佐高氏の「特技」である。そして段々効果や意義は薄れている。訴求力が逓減し、どぎつさを増さないと読者はマンネリに飽きてくる。同時に、同じ斬られ方をこの著者自身もされることになる。この「特技」にかかれば、斬られずに済むどんな人があり得ようかと思われる。あげく水掛け論の果てしない応酬が、アチコチで現になされているのかも知れぬと想像させる。ウンザリする。
書いていても書かれていても、むろん愉快ではないだろう。それでも「書く」には、それでも「斬る」には、それなりの意義と効果がたえず必要になる。「意義」はリクツとしてたとえ識認できても、読書の魅力は速やかに減ってゆく。失せてゆく。すると「斬る」自体が著者の徒労に終わることになる。
佐高信氏ほどの「ちから」が、より効果をもって、うまい工夫で社会に浸透することの方が大事であり、この「斬る」方式は、もはやキワモノめいてゆく一方に傾きつつあるのではないか。こういう「キレる人」が、何時の世にもいて欲しい。だが、ただゲリラでは保ちこたえられまい。信頼されながら深く斬る工夫。難しいが、此の著者にそれの必要な時機だろう。
2002 10・25 15
* 水上瀧太郎の「山の手の子」は、第一作品集では文字通り「処女作」という表題にされたような処女作だった。この手の作品は永井荷風の「狐」が近く、中勘助の「銀の匙」も、ま、谷崎潤一郎の「少年」も近いが、谷崎の作品は下町の中でのもの、瀧太郎や荷風は文字通り山の手の「坊ちやん」であった。
こういう作品を読んでいると、もう夢を見ているようである。こんな山の手のお屋敷なんてあったにしても家の奥の奥までテレビや新聞の、また電話やインターネットの情報が侵蝕し尽くしている。
かろうじてわたしの世代、それも意識して明治や大正の風俗や生活にも郷愁とまではなくとも、関心のある・あった世代には、こういう景色も人情も、やっとであるが実感に近く受け容れられる。いいなともいやだなとも思わないが、すべてが懐かしやかに夢の中の夕暮れて行く景色のように見えてくる。
水上には「大阪」「大阪の宿」のような、若かった昔に読んでしっとりの胸に落ちた秀作があるが、この処女作も又捨てがたい魅力で迫ってくる。お屋敷を抜け出て坂の下の町の子らにまじって遊びたい気持ち、お鶴という年上の娘にいつも膝に抱かれ抱きしめられて、憧れているお屋敷の稚い少年。夕方になるといろはにほへとちりぢりに夕餉に帰って行く町の子に、まるで見捨てられたほど寂しく気重に、厳めしい父の率いる晩餐の沈黙へととぼとぼ帰って行かねばならない山の手のお屋敷の子。
もう二度と書かれないであろうこういう小説を、ただ天然記念物のように思ってはいけない。じつに佳いのである。もう五頁ほどのこしている。
* 次いで原民喜の原爆体験「夏の花」そして明治初期の山田美妙が苦心奇抜の文体で練りだした小説「胡蝶」が、わたしの校正を待っている。
2002 10・30 15
* 原民喜「夏の花」を一気に読んだ。
広島で被爆した作者は、便所にいて激甚の被爆をかろうじて免れた。その目に映じたすべてを彼は「書き」おこうと決意して、克明に書いている。凄いという言葉はこういう体験にこそ用いなくては成らない。
読み終えて「ペン電子文藝館」に入稿したが、今の感想は、この作品をこそ英仏独西、また中国語韓国語に翻訳し、「ペン電子文藝館」に掲載したいということ。一片の声明よりもどんなに優れた意義をもつかと思う。一度に出来ないなら、一カ国語ずつ、順にやっていって良い。翻訳の費用が問題になるなら、わたしが負担してでもやってみたい気がする。おそらく過去にこの作品が翻訳されていないわけはないだろう、その訳者が分かれば助力をお願いもしたい。
なにはともあれ、委員の常識校正が済み次第、文藝館へ掲載になる。一人でも多く読まれたい。
* けさ札幌から届いた小説が、たいへん面白く、いま読み終えて思わず深く息をしている。茶杓縁起とも茶室縁起ともいえて、品のいい人情噺のよう。噺になりきらぬ方が佳いとは思うが、ほうほうと声も出そうにうまく運ばれていた。
2002 10・31 15
* 山田美妙の「胡蝶」を起稿・校正した。何度読み返しても奇態な作品だが、作者は自負と真面目で胸を高く反っていた。明治二十一年(1888)の仕事だ。百十四年も昔である。日本近代文学のまさに意識的な先駆者の渾身の工夫だった。試行錯誤だった。今の眼からは、わるくすると噴飯物かも知れないが、命を削るように苦心した言文一致の地の文と会話との調和をはかった、趣向といい苦心といい、此処を通り過ぎて来てのわれわれの今日だと謂うことを、わたしは「大事」に考え感謝している。
壇ノ浦、安徳幼帝の御最期に取材している。筋は歌舞伎である、よく譬えて。だが美妙齋は「文学」として真剣であった、意識を尽くして。そこを深切に汲んで立ち会いたいと思い、やっぱり校正しながら、ときどき噴き出したのも白状しよう。
2002 11・2 15
* 都立大学の高田衛名誉教授から、南北四谷怪談の『お岩と伊右衛門』という、刺激的な題の研究書を頂戴した。伊右衛門を、南北らしい「主役創造」だと思ってきた。高田さんには、たくさんのことを教わる点で、有り難い極みの面白い著作が多い。高田さんとも、思えば久しい心親しいおつき合いであるが、お目にかかったことは一度もない。ウソのような本当で、こういう知己の多いのを心からの喜びにしている。
2002 11・3 15
* 昨夜から、源氏物語をすべて音読してみようと、始めた。いつもは一日一帖をかならずと決めて読了してきたが、それは黙読。今回は音読してみようと思う。だから日数は莫大にかかるだろうが、櫻の散る頃には夢の浮橋を渡り終えるかも知れない。もっと、かかるかな、それは構わない。
2002 11・5 15
* 源氏物語は、ずるずる読んでいても必ず挫折する。なにか、機械的に自身を迫めつけていないと途切れるおそれがある。それでわたしは、昔から、読み出す限りは「一日一帖(以上)」を自分に強いた。この人のメールにもあるように、「若菜」上も下もそれだけで中編小説ほど長く、此処を乗り切るのがきつい。しかし此処まで来ていると、物語世界にも浸染されていて、それに力づけられいる。頓挫したことは一度もない。
この人は、アバウトに読み違えているが、わたしは今度は、別の迫め方をしようとしている。一日一帖ではない、「音読で毎日」である。音読では一日一帖は無理である、声が続かない。永くかかってもイイから「音読」を楽しむのであり、二日め、桐壺更衣の死を読み終えている。声に出して読むのが昨今のはやりだそうだが、音読習慣をわたしのようにもう十数年毎日欠かしたことのない人は、少ない。始めても、みな、一時の気まぐれでやめているようだ。
むろんバグワンの音読は、やめない。幸い傍にいる妻が、バグワンをいやがらない、この昨今は進んで聴いているらしい。ときに感想も言うが、賛嘆の気持ちが汲み取れる。
言うまでもなく、源氏の音読は「美しい」体験である。心地よい音楽に遊ぶようである。同時に、こちらの理解や味読の度が如実にためされる。
むかし、娘の大学受験勉強を手伝って、古典は声に出してどれほど正しく読めるかがポイントだよと、本を積み上げ、片っ端から音読させ、聴いて間違いを正すという、それだけのおつき合いをしたことがある。娘は、おぼえているだろうか。声に出してまともに読めてしまうなら、かなりものは見えている。 2002 11・6 15
* 高田衛さんに戴いた『お岩と伊右衛門─「四谷怪談」の深層』がおもしろく、忽ち半ばまで読み進んだ。
わたしは怖がりだから、怪談には好んでまで触れようとは思わない。しかし怪談にはどこか「怕」いという文字が暗示しているように、心を真っ白にするような働きがある。秋成の「雨月」や「春雨」を愛読書の上位に早くから置いてきたには、それだけの感銘があったからだ。
四谷怪談がべらぼうに怖いことは、まだ物心さえ頼りない小さい頃に、祖父の蔵書の中に、明治か大正の『歌舞伎概説』があり、文中、細字で幾つも狂言の梗概が挿入してあるのを、そこだけ拾い読みして興がっていた中でも、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の粗筋に惹かれ、黙阿弥の「三人吉三廓初買」などとともに、印象深かった。
活字で読む限りお岩さんの幽霊も、さほどは凄くはない。そして印象の中で、お岩のあわれ以上に伊右衛門の悪の凄みに、何かしら創作の意義を覚えていたと思う。
* 大人になってからも、舞台を、観に行く気はなかった。歌右衛門のを初めとして四谷怪談は、歌舞伎以外でも上演ごとに新解釈の演出が評判になる。それほどのつまり「深層」のありげなことを興味をもって推測していた、いつも。
高田さんは、この材料はイヤがる人もあるので献呈を遠慮していたのですが、やはり差し上げたいと、送ってきて下さった。嬉しかった。ご厚意も嬉しく、しかし「お岩と伊右衛門」とはズバリ関心に応える好題で、「待ってました」という本であった。期待も裏切られなかった。
それにしても四世南北の台本には、先行する実録小説「四谷雑談(よつやぞうたん)」があり、それらに依拠して、馬琴も種彦も読み本を書いていた、また南北歌舞伎に先行して「謎帯一寸徳兵衛」などの歌舞伎劇も在ったことなど、わたしは初めて克明に教わった。いや、そういうことをきっと教われるだろうと期待したが、章を追って期待は酬われている。だが、四谷左門町のへんにあるという「お岩稲荷」や「民谷神社」にまで行ってみたい好奇心は、ない。怖い。
* それよりも、ここでわたしの一つの感想を、いや感想へ纏まるかも知れない手がかりを書き留めておこう。高田さんの本で、出てくるかどうか、後半はまだ未読であるが、勘では、出てきそうにないから。
四谷怪談は、もともと実録に依れば、一つの幕僚組織の中で旗本三家に襲いかかった絶滅の物語である。そのうちの一家がお岩の家で、岩は、稀代の醜婦であった。父亡きのち、婿に来てのないのを、悪く謀るようにして浪人の伊右衛門を迎えたが、彼は妻のたとえようもない醜貌を祝言の盃をかわし、民谷家の相続者と成り終えてから、初めて見知った。仰天したがあとの祭りであった。
この民谷と職務上ごく親近した上司には二人もの妾があり、伊右衛門は、その一人の花という美人に心惹かれた。上司もそれと察していたが、そのうちに花は上司の子をはらみ、体面上よろしくないと思った上司は、花と伊右衛門とを夫婦にし、腹の子を伊右衛門に預けてしまいたいと画策した。そのためには、妻の岩が邪魔であった。
だが邪魔者は何とかして遠ざけた。事実上岩は納得づくで伊右衛門と離縁したが、彼と花とのことは、岩は知らなかったのである。
伊右衛門と花とはうって変わって仲良い一組の夫婦となり、さらに三人の子を花は産んだ。ところが、それと知らずに家を出て他家に奉公していた岩の耳に、そのことが聞こえたのである。岩の逆上と変貌と狂走・失踪の場面はすさまじい、が、ま、その後四十年もの歳月をけみして、その間に関わった三家の上には、陰惨で不思議な死がおちかかるが、その方は、今は措く。
実録小説だから事実どおりと思うのは早まりで、それはそれ、潤色も脚色もあろうけれど、ここで、気になるのは、伊右衛門をはさんでの二人の妻の名前が、「岩」と「花」であること、これに着目すれば、なにかしらこの創作的実録のまさに「深層」に、古事記の天孫妻問いの場面がよみがえるではないか。美しき木花咲耶媛と、あまりにも醜き岩長姫。親神の大山祇神は天孫にむかい二人ともに娶れと奨め、しかし、天孫は岩長姫に辟易し木花咲耶媛だけを妻にした。父神と岩長姫はのろいを発して、岩の命のとこしえをうち捨てて人の世に生きようとする天孫の子孫は、あわれ、寿命みじかいであろうと。
* なんとも符合して、「岩」「花」なのである。伊右衛門は水際だった美男であり、天孫の風情を或いは承けてもいようか。
さ、こんな気の遠くなるような所ヘまで高田さんの筆がのびているかどうか、読み進めて行く。
* 柳浪の「黒蜥蜴」は、凄まじいとはこれだという悲惨小説であり、うんうん唸りながら、ぐいぐい読まされる。読ませる力にまた凄みあり、一種の傑作である。
川上眉山の「ゆふだすき」は、深刻でも悲惨でもない、さりとてただの人情話でもない。やはり最後の最後までだあっと一気に引っ張ってゆき、そこで趣向になる。やはり観念小説では仲間であった、一時の鏡花の感じにもちかいが、鏡花の天才とはくらべられない。いい男であった、樋口一葉はこの眉山に好意ある印象を生き生きと書き残しているが、この美男子作家は自殺している。彼をよく知る同時代作家は、一言「貧窮」の死なりと、ことわりを付けた。自殺でなくても、貧しくて死んでいった優れた文学者は過去何人もいた。一葉も啄木も。紅葉でも鏡花でも広壮なお屋敷に住んでいたわけではない。昨今では、古い大きなお屋敷住まいが看板になり、ワケの分からない栄爵にあずかっている物書きもいる。家しか自慢できない文士なんて、バカみたい。
2002 11・7 15
* 昨日、東大教授の上野千鶴子さんから、『サヨナラ学校化社会』というおもしろい本を贈られた。教育学というより、社会学の本で、堅苦しくはないが本質へ鋭角に触れてゆく上野千鶴子流の体験論になっている。すうっと、本文に溶け込むように惹き込まれる。上野さんには会ったことはないが、京都から東京へ出てきた人という妙な親しみがあり、うじうじしていないところも昔から好感を持って見ていた。この人と田中優子とは必ず表へ出てくると期待していて、その通りになっている。上野さんからは、これで三、四冊も本をもらい、いずれも歯ごたえ確か。『発情装置』といった「題」よりも、いつも中身は堅実で、深いし、鋭い。
* 昨日の遅くに、松永延造の「ラ氏の笛」を一応校正し、今日妻に補校してもらって入稿した。この作者の名前も昭和二年(1927)に書かれていたこんな作品の名前も、今では殆ど誰の記憶にもないだろう。いわゆる湮滅作家の一人であり、わずかに宇野浩二、平野謙、また草野心平や伊藤信吉、さらに滝田樗蔭らが記憶していて、掘り起こしてくれた。その人達も今は悉く亡き数に入っている。「ラ氏の笛」は波乱に富んだ物語ではない、ひとり日本に在って病に窮死したインド人のことを書いている。地味な作品だが、得も謂われず胸に実存の音楽を響かせる。この作者は重いカリエスのため、身動き不自由で通学もならず、独学で哲学や心理学をまなび、白樺を介してトルストイやドストエフスキーに学んで、一種風情に飛んだ実存的諦念を身につけていた。それが作風に結びついた。苦労して書き下ろしの長編小説を、継いで戯曲集も出版したが、おそらく自費出版ではなかったか、その後に滝田樗蔭に認められたか「中央公論」に作品を発表したが、終始文壇のアウトサイダーに徹したまま、カリエスの悪化から若くして死んだ。
こういう作家の作品を「ペン電子文藝館」に招待することに、わたしは喜びを覚える。
いま校正している松本勝治の「十姉妹」も、プロレタリヤ文学の忘れられた秀作の一つであり、黒島傳治の「豚群」とほぼ時を同じくして、優るとも劣らない。
わたしは、自身の作風や好みは、それとして持っているつもりだが、他方、どのような作品でも優れているかどうかは理解し受け容れることの出来るタチである。プロレタリヤ文学や非合法活動で苦しんだ人達の優れたものは、時代の証言としても、ぜひわれらが「招待席」に呼び入れたいと思い、多くを、精力籠めて読み直している。
校正を始めた平出修の「逆徒」は、大逆事件の被告弁護人の立場で、最も緊密に事件に接した問題作。
わたしは、日本の近代史を省みるとき、いつも大逆事件を大事な原点の一つと見る。与謝野鉄幹の「誠之助の死」徳富蘆花の「謀叛論」石川啄木の「時代閉塞の現状」なども、それを念頭に、大切に採り上げた。平出の「逆徒」は一つの極めつけになる小説であり、この作品の背後には森鴎外が隠れている。鴎外は平出のためにひそかに世界の社会主義なるものについて指導を惜しまなかった。
大逆事件は、「私の私」が「公」の弾圧とフレームアップ(でっちあげ)により潰されて行った最たる歴史的事件の一つであり、忘れてはならない。
2002 11・10 15
* 清明で、少し寂しい。そしてものを思う。故郷をしのぶように。
松永延造作「ラ氏の笛」の、「ラ氏」ことラオチャンドの死に目に遇えなかった、此の日本で唯一人故人と親しかった作中の「語り手」は、物語をこう結んでいる。
* 最後に、私は此処で、ラ氏が言ひ遺した一つの思念を想起する。
「私は何んな場合でも、極く自然に、幸福を自分のものとした例を知らない。何時も不幸でもつて、幸福を買つたのである。」
それなら、最も大きい不幸たる彼れの死を條件として、漸くに買ひ取つた幸福がありとすれば、それは一体何物であつたらう。
私は思ふ。それは彼れが日本の地で持ち慣れた横笛を故郷の母へ無事に送り、その笛をして「汝の息子は平和に息を引き取つた、そして、汝の息子がこの地上から影を隠すといふ事は、結局、月の一部が虧(か)けるのと同じで、本統は何一つ失はれて居ないのである。」といふ諦認を物語らせる事に他なるまい。
然し、幸福といふには足らぬ、そのやうな浅い喜びを除いたなら、他の何処に彼れの死を以て買つた幸福が発見されよう。私は全く、その問ひに対して、正しい答への出来ないのを寂しく思ふのである。
* この最後の、無念とも不審ともいえる言葉をもちいることで、作者は幸福を否定したととるか、容認したととるか、判断をすててその向こう側に跳び越えたとみるか。
不幸に哀しみ悩んでいる人は、少なくない。
2002 11・10 15
* 高田衛さんの『お岩と伊右衛門 – 四谷怪談の深層』を読み終えて、お礼に代え、下記の手紙を送った。関心ある人の反応も得たいと「闇」の底へも送り込む。
* お岩さんという名前
お手紙と、ご本『お岩と伊右衛門』を頂戴して、数日を経ました。ご本を読み終えてからと思っておりました。夜前、ことごとく読了、あらためて御礼を申し上げます。
私は怖がりで、芝居は殊に好きでよく観に参りますのに、「四谷怪談」等の怖そうな狂言は敬遠しております。とは云え、ご存じのように根が上田秋成の愛読者ですもの、文字では、読んで、いくらでも楽しめます。四谷怪談は、ことに私には馴染み深い狂言でして。まだ国民学校の昔、祖父の蔵書中の「歌舞伎劇概説」のような単行書に、主要狂言の梗概や抜粋が細字で多く載っていましたのを、それのみ大いに愛読し、ことに四谷怪談と三人吉三とに心を惹かれておりました。おそらく、血縁のややこしい趣向立てなどを、なにとなく我が身の生い立ちに引き比べて興がったものかと思います。
ことに四谷怪談では、忠臣蔵との表裏の関連や、伊右衛門の個性に、ま、知的興味をこえた、泥深いおそれや、時代の煮詰まりなどを追々感じとるようになり、「問題に富んだもの」という意識と関心とをずっと持して参りました。さりとて、それ以上に自ら踏み込むほどでなかったので、ご本を頂戴したときは、好機到来、四谷怪談に関して頭の中を整理して戴けるぞと、ことのほかに歓迎し、喜びました。期待を裏切られなかったのも、云うまでもなく、たいへん楽しんで着々拝読し終えました。
で、読み進みながら、いつしれず私の頭に浮かんで、ひょっとして中で触れておられるかなと思いつつ、実は最後まで触れておいででなかった、むろんたわいないことですが、また一つの「深層」「遠層」というか、「関連」というか、いいえ「無関連の連想」というか、それを申し述べて、お礼にかえうるかなあと。
以下、お笑い下さい。
ご本では「伊右衛門」の名前に関して、その異同など、精細に多方面から考察や挙証がなされました。
その一方「お岩さん」の名前は、実録でも南北狂言でも柳桜講釈でも、例外なく「お岩」さんであり、それが「実名」であるか「趣向」であるかの詮議はなされていなかったと思います。登場の男達の姓名はモノによりずれて、かなり動揺しながらも、どこかそれぞれ類似しています。類似さえしていたらそれでいいほどの、或る程度ルーズな命名になっています。
ところが「お岩」だけは不動です、なんだか洒落を云うようですが。
あまり動かぬだけに、当然根拠ある「実名」のようでもあり、同じ理由で「ツクリ名」であるとも謂えるかも知れません。ご本に、その点で特別議論のアトの見られなかったのは、多くの研究者達も、「お岩」に限っては籤取らずと、無駄な詮議を割愛されたものかと想像しました。そうでないのかも知れませんが、一応そのまま申し上げます。
私は、今度、実録資料をも詳しく教えて戴いて、その感を深めましたのが、「お岩」という命名は、誰だか分かりませんが、この怪異物語を語り始めた(脚色ないし流布した)ある種の知識人の思いに発した、「ツクリ名」ではなかったろうか、と思うのです。
そのたわいない私のコジツケを白状すれば、実録でも講釈でもそうですが、「伊右衛門」をはさんで対立する二人の女の名が、「お岩」と「お花」であるという、その表現上の事実に、痛く刺激されるからなのです。
申すまでもなく、この「美・醜」によって対立した二人の女は、遠く遙かに「天孫」の妻問い神話、醜き「岩長姫」と美しき「木花咲耶媛」を、直ちに、私に想起させるのです。南北は「お花」を「お梅」としていますが、「咲くや木の花冬ごもり」の古歌からしても、此の「花」は、また、季節にさきがけた「梅」になぞらえ詠んだものでした。
四谷怪談の「深層」としては、まぎれなく、この「岩」と「花=梅」との、凛々しき「天孫ニニギ」をはさんだ神話的対立も、また、加え読まれてしかるべきではないか。それを感じました。
そもそも、実録(とは云え、細部に渡り、また要所に触れても、それがすべて真実事実通りであるとの保証などありべくもないわけですが、)「四谷雑談」を、またそれに取材したと思しき南北の名作「四谷怪談」を、他の何より先ず最初に緊縛した発想の根元には、この「お岩」「お花」という、「なぞらえの命名意識」が働いていなかったか。そう思いました。働いていたのは確実ではないか。
単に、美貌・醜貌の明白な「符合」からしてもそう思われるのですが、その意義が、「古事記的な深層意識」とともに深く読み込まれ得るモノなのか、それとも単に其処ドマリの浅い「趣向」に過ぎないのか。その「読み込み」や「判定」を経ないままでは、「四谷怪談」の、生世話にとどまらない国民的・民族的な怪談の真義が、云いおおせないのではないかなあと、そんなことを強く感じつつ、ご本を拝読していたという次第です。
たんに「岩・花」「醜貌・美貌」の対比だけでなく、天孫ニニギをめぐる妻問い神話には、父神オオヤマツミが花だけでなく岩もいっしょに娶れと奨めていますし、ニニギはこれを退け美しきコノハナサクヤビメだけを娶(い)れていますし、これに対し、山神も、おそらくイワナガヒメもともに、以降の人間の寿命・短命にふれた、激しい「呪言」を浴びせていますし、さらには、この美しき妻の「出産」をめぐっては、一夜孕みの疑念などからも、奇怪な火立ての産が強行されています。
これらの多くは、四谷怪談の中で巧みに脚色されて居るともいえますし、そうでなくても、ここに男女の愛欲や嫉妬や疑惑や、人間的な感情のドロドロのすべてが、既に描かれていたのだとも、謂えるようです。
四谷雑談でも講釈でも、「お岩」さんは、殺されはせず狂走し、多年失跡していますが、その後の恐ろしくも血腥い成り行きを、予期また既知した人ないし人達が、この女のほかでもない「実名」を、此処へ明らかに露出し固定しえたでしょうか。深い深い、遠い遠いオソレからも、はるかに日本神話に思い及んで、確信犯的に、伊右衛門(天孫)をめぐる二人の女に、「岩」と「花」との名を与えたと見た方が、より根元的・心理的に妥当ではないのでしょうか。
あまり深入りしてもたわいないボロがでるだけですから、ここでヤメます。またこれだけの話です、お笑い下さい。
殺風景な機械の文字で書きましたこと、お許し下さい。
どうぞ、日々お大切に、またますますのお仕事の加わりますことを祈念し、待望いたしおります。ご健勝を切に祈ります。
* 『古典愛読』という中公新書を出した冒頭に、わたしのような素人は、本を読むときに、極端に云えばありとあらゆる読書体験や実体験を総動員して一つの作品に向かうと書いた。しかし専門家になればなるほど、そういう視野の展開はむしろ避けているようだとも書いた。江戸文学研究の泰斗である高田さんから、何か云ってきて下さるか、少しワクワクと楽しみにしている。
2002 11・11 15
* 山本勝治「十姉妹」は、幕切れが辛かった。平出修「逆徒」には緊張する。佐左木俊郎「熊の出る開墾地」は出だしから引っ張ってくれる。中戸川吉二「イボタの蟲」は巧みに語り初められ、何だろう、と少し息を呑んでいる。
着々と起稿も校正も進んでゆく。わたしの仕事も進んでゆく。家から出なくて済むと、なにかとハカが行くが運動不足にもなる。体重は、だが、願っている水準をかたく守っているし、血糖値も正常値に落ち着いている。 2002 11・11 15
* 佐左木俊郎「熊の出る開墾地」が読ませる。もっとも優れた農民文学の代表的な一つと目される。思想的には左から右寄りへ動揺の大きかった作者であったが、農民文学では地に足の着いた佳い成果をのこした。とくに「熊の出る開墾地」は小説としてよく出来た、表現の魅力に富んだ秀作で、まぎれもない代表作である。出だしからクライマックスへかけて、相当ドキドキさせる。もののあわれがある。
* 「年譜」を人がどれほど読むか知らないが、わたしは、文学全集などを揃えてゆくとき、まず一人一人の年譜をかなり丁寧に興味深く読む。それによりその作家への共感や敬意やオドロキの念をもっておく。
日本では近年「年譜学」的な関心も動きかけたと見えて、すぐに引っ込んでしまいがちだが、素晴らしい「年譜」は或る意味で最良の「研究成果」なのである。作家論をする人がその作家の年譜を、たとえば論じている具体的作品の周辺に限ってもよいが、どれほど書けるか、それが鼎の軽重をおしはかるポイントだとすら思っている。
年譜にも、まるで役立たずなものが多い。が、ほんとうにいろいろな人生があるのだという感嘆と、人間社会の相対化の果たせるのが、年譜の「徳」である。
「年譜」の大切さと、作りよう次第で恐ろしいまで成果を上げることも、わたしは、高田衛さんの名著『上田秋成年譜考説』に教えられた。わくわくしながら読みふけり、ものを思い続けて、何十年になることか。
2002 11・12 15
* 佐左木俊郎の「熊の出る開墾地」は、迫力あり面白みもあり、秀作と呼ぶに憚らない佳いモノだった。映画にもなったらしい、成りうると思った。何といっても移住開墾者集団の辛苦が、共感豊かによく書かれ、物語が惻々として身に迫ってくるのが佳い。大勢に読まれて欲しい作だ。妻に念校して貰い、今日にも入稿できるだろう。さらに同僚委員に念校して貰い、キーマンとしてわたしが業者に最終指示してから、ようやく「文藝館」に掲示する段取り。一つ一つの作品の展示までに、じつに多く手をかけている。
2002 11・13 15
* 源氏物語は、いま「帚木」のなからを読んでいる。急がずに続けようという方針で、そのためには楽しむ気持ちがいちばんだ。まあ、よく、これほどのものが書けたなあと感嘆に掛け値は微塵もない。
2002 11・14 15
* 小栗風葉作「寝白粉」は、「ペン電子文藝館」に「採用しない」と決めた。作品が、作品としてわるいか。とんでもない。たいへん力作であり、秀作と称するのもわたしは憚らない。だが、この作は、不当な人間差別の固定化に繋がる、あまりに露骨な表現・欠陥をもっている。読み返してみて、大先輩作家風葉の力量に敬意を覚え、文藝作品を読む喜びは強く感じたけれど、この小説を日本ペンクラブが積極的に公表し流布する必要は「無い」と私は結論した。
風葉は紅葉の愛弟子。力ある短編作家。しかしまた急速に古びていった風俗小説作家であった。彼がある時期、それはそれは大変な人気作家であったなど、誰が記憶しているだろう。その中で、「寝白粉」は、今なお凄みのある感銘作なのは間違いない。おそらく古びてさえいない。だが、藤村の「破戒」が問題になった以上に、無批判に、手前勝手にだけ人間差別を話題にし過ぎている。その上に近親相姦が暗示されている。
発禁作品で、この戦後まで世間に出なかった。この作品が、公開後に議論や批判の対象になったかどうか知らない。しかしこんど風葉を「招待席」にと考えたとき、候補作として直ちに思い浮かべたのは「寝白粉」であったし、文藝の出来の良さとして、その判断に間違いはないと信じる。しかし、「ペン電子文藝館」で、「さ、お読み下さい」と広く公開するのは明確に間違っているとも、わたしは信じる。
妻に起稿と初校を依頼し、例の無いほどの厖大な「読みがな」振りに他作の数倍もの苦労を掛けた上だが、やはり、掲載は断念。
岩野泡鳴作「醜婦」と少し似た作の境遇であるが、さすが名文家風葉の趣向と行文は、フォービスト泡鳴とちがい、絢爛として派手で、また深くあわれである。ヒロインは嫁き遅れているが、とても美しい女。惜しい。が、わたしの決断は変わらない。
2002 11・17 15
* 「帚木」を読み終えた。深夜、床に座っての音読だ、多くは読めない。寒いのである。それでも、まずバグワンを読む。必ず読む。ついで源氏物語を読む。やすまない。それからからだを横にして、いま、山折さんとの対談を読み直している。上野千鶴子さんの『サヨナラ学校化社会』は多大の興味を覚えつつ読了した。高田衛さんの『お岩と伊右衛門』も読み上げた。いま、伊勢の論文集を読んでいる。
* 伊勢物語九十八段は、こういう内容である。
ある「太政大臣」に、お仕えしている或る男が、頃は九月、季節でもない梅の作り枝に雉をつけ、こんな和歌一首を添えて贈った。「わが頼む君がためにと折る花はときしもわかぬものにぞありける」と。その「おほきおほいまうちぎみ=太政大臣」は、「いとかしこくをかしがり給ひて、使に禄(=当座の褒美の品) たまへりけり。」と、ただそれだけの短い一段なんだが、で、「これは何なんだ」という話になる。
2002 11・22 15
* 中村光夫の『風俗小説論』は、小栗風葉の「青春」と島崎藤村の「破戒」との、厳粛な比較からはじまっている。作品が公表された当時の「小説家」としての人気も、たぶん技や巧さも、藤村は、風葉の敵ではなかった。尾崎紅葉の愛弟子、小栗風葉の勢いはおそるべきもので、文壇を肩で風切りのし歩いていた。藤村の方は、「若菜集」などでしられたロマン派の一詩人に過ぎなかった。
「破戒」を自前で出版するまでの藤村の困苦と勉励はまさに凄まじく、おかげで愛児を次々に死なせ、夫人にも死なれた。一「破戒」がそれに値するというのだろうかと、険悪に非難した作家もいた。我が家でも、大昔、作品『破戒』と藤村の家庭の惨苦をめぐり、険しいほど妻と議論をした覚えがある。コレに比べれば、大作である「青春」の出版は順風に乗っていた。
だが、その「青春」はおろか小栗風葉という作家もまた、無惨かつ無残に忘れ果てられ果てられて久しいのである。他方「破戒」も島崎藤村も、盛名は高く保たれて、今日も大きな大きな存在である。
何故にかかる岐れが起きたか。運と不運との問題か。いや、ちがう。それは「文学」「創作」への姿勢の故であると中村光夫は詳細に説得する。何一つの異論もなくわたしは同感する。
風葉作品は巧者である、が、綺麗な「売り絵」にほぼ等しく、彼の魂の苦悩から呻くようにして発したモノでない。そのために風俗の変容とともに作品も古くさく、力なく、話の面白みも干からびた。おそらく、この間来、「ペン電子文藝館」に招待したくて、だがあまりに心ない「差別」の意識と表現のゆえに、難在りと見捨てたあの「寝白粉」のような作のほかには、読み直すに値する、読み直したいと思わせるモノが、ほとんど無くなっているのである。本当に無いも同然なのである。
どうかして「人に伝えたい」「伝わらないまでも書いておかずには済まない」、そういうものを、島崎藤村は終生書き続けた。まぎれもない文学史の事実である。小栗風葉作品にはそういう「動機=モチーフ」の強烈さが感じ取れない。無い。よしよし、こう書けばおもしろくてよかろう、こんな話だと人は面白がるだろう、という風にしか風葉は書いていない。それだけなのだ。むろん短編小説の巧いことは名人級で、今時の通俗小説より遙かに技巧的に達者でソツがない。でたらめは、ない。細部の措辞や表現の工夫など見事と言うにも憚らない、が、肝心要の、「これが言いたい」、「これを伝えたい」、「これを書かずには死ねない」という真の「勢い」というか、生気や動機が無い。だから時間の風化に堪えきれず、古びて古びて、もうお話にならないのである。
みまわせば、同様に、モチーフに欠けた、材料への興味から小手先でつくりあげたつくりもの小説が、なんと世の中には多いのだろう。有名には細心に、無名には大胆に接しなければ、本当のモノは、見損なうのである。 2002 11・23 15
* 大岡信さんの最新の詩集を戴いたが、氏の数多いコレまでの詩集をグンと図抜けた面白さと言葉の確かさで魅了する。ああいいなあと、全編手を拍ちたいほどの初の大岡詩集だといったら怒られるかな。趣向もいい。趣向を磨き上げた真実性=リアリティがいい。
神坂次郎さんからは、おもしろい読み物を頂戴した。当代この人の独擅場である江戸時代の武家もので、材料も趣向も珍らかである。多くの文献や資料を操っての実録だが、軽妙な語り部の語りを聴く気合いで藝がある。そもそも江戸時代に、たったの百二十石どりで十万石の大名並みに柳の間詰めという武家の実在したなんてことは、知らなかった。
昨夜、寝床の上掛けの裾でとみに大きく重くなった黒いマゴに横に成られて脚も伸ばせず輾転反側どころか身動きもならぬまま、浅い眠りがさめてしまい、それで神坂さんの分厚い本を、とんとんと半分以上も読んでしまった。このごろ、床のそばに本があるというよりも、本の間へ床がとれているといった按配である。
2002 11・25 15
* 江見水蔭の小説「女房殺し」、現会員中川肇氏の詩「花のゆめ いのちの像」を入稿した。
いま、妻の校正した加能作次郎の小説「乳の匂ひ」を読み進めている。どれもこれもを二人で読むわけにも行かないのだが、二人の目の通っている方がやはり間違いは少ない。それでも委員の常識校正の通読で、数カ所の訂正を入れることもある。
「乳の匂ひ」は全くの京都、それも四条から先斗町へ入るきわにあった浪華亭だの、三年坂だの、西洞院だとか、懐かしい。なによりその昭和十五年頃の京ことばの嬉しさ。この小説の主人公は十四歳ぐらいで伯父の店の浪華亭へ越前の方から丁稚小僧として奉公に来ている。わたしはこの年までに秦の家に貰われてきている、戸籍には入れられずに。満で四歳ぐらいではなかったか。
この小説の少年は、伯父の養い娘で、もとは河原で乞食をしていたものの子であったという、今は一人の嬰児をかかえて、漉き在った男とともに上海へ行こうとしている「お信さん」を姉のように慕っている。
わたしにも、似たようなことが何回となくあった。なにしろ叔母の稽古場へは「きれいなお姉さん」達が何人も稽古に来ていて、わたしは小学生もまだ小さかった。中学生になってもまだ年若かった。慕わしい人が何人もいて、やはりそれは姉とか母とかいう感じであった。ちいさな、掌説とも随筆ともつかない創作がどこかに在る。そして「月皓く」といった小説がたちどころに思い出せる。「罪はわが前に」の「姉さん」もそうであった。思いがけず、加能の作品はわたしに昔を思い出させた。佳い作品だ。
現会員の萬田務氏が、芥川の「地獄変」を論じた論考を送ってこられた。
2002 11・28 15
* 北朝鮮はワルあがきし、つられて軽率に蠢く日本のマスコミや政治屋もあり、外では同時テロだの餓死だの。なんとも落ち着きのない現実である。昨日「乳の匂ひ」を校正しながら感じていた「永遠」を思わせる感動の無垢な底光りとくらべると、醜悪としか言いようがない。
「乳の匂ひ」という題から、人はどれぐらいな想像が働くだろう。わたしはそのワケを知っているけれど、何も予備知識なくこの題を見て、小説の行方が具体的に読める人はほとんど無いだろが、そこにこの小説の意外性というか、構想の妙も曲も、あった。
* きのう、矢部登さん(「湖の本」の読者)が年譜を書いている、結城信一の文庫本『セザンヌの山・空の細道』から、「空の細道」と「鶴の書」を読んだ。この作者は、二十歳頃に少し年若な「初恋」の少女に会い、死なれ、生涯繰り返し繰り返し此の女性の面影を書き続けた。幻想味のにじみ出る、またそれしかない書き方でしっとり静かに書き次がれた。何度か受賞の機会を重ねたモノの、支持する人からも「懸賞かせぎには向かない」とむしろ名誉ある除外にあった。そして最期の最後に「空の細道」で大きな賞を得てから亡くなった。
結城のたしか「蛍草」であったかについて、平野謙は言っている。一見古めかしい作品でも、伝えずには、書かずにはいられないで落ち着いて書かれたものは、かならず人の胸を打つものだ、と。わたしのツネに言いたいのが、ソレだ。それがモチーフ=動機というモノだ。だが、そんな強い純粋な動機を持ち続けるなんて、ナミたいていな事ではない。だから、世の中には、動機があるといえば、ただ売りたいから、金にしたいから、評判が得たいから、またおもしろづくだけで書かれたモノの方が圧倒的に多くなる。ただの読み物である。消耗品である。
結城の作品にはパンチのつよさは無い。が、静かに、ぬきさしのならない文章と思いとで綴られている。見ようによれば美しい妄想が書かれている。
評判だった「空の細道」など、それだけを初めて読む人は、よく筋書きもつかみにくいか知れない、病熱に浮かされたような筆致と見えるかも知れない。この人は生涯の複数作品で一つの物語の変奏曲を書き続けていたのだから、最後の一つだけをとっても、むしろ頼りないと感じるだろうが、これが結城信一の「夢の浮橋」であったのだ。
「鶴の書」は、わたしの提案した「ペン電子文藝館」の「反戦・反核」作品室の中に収めたい「空襲」の悲惨を書いているが、それもまた結城生涯物語の一章を成していて、どこか夢のようである。
2002 11・30 15
* 古典は、世離れて、奥が深い。妻の兄が訳詞を書いた「大きな古時計」が今年は盛んにはやった、あれは「癒し」とか謂うらしいが、伊勢物語や源氏物語を小声で音読していると、魂の奥の方でふしぎな旋律が湧いて出てくる。根底の癒しである。昨夜も六条の御息所をおとずれた源氏が、つとめての帰りがけに、お気に入りの侍女の中将の袖をひかえて戯れる辺りの、前栽やにはたづみの美しい風情。読んでいるだけで、うっとりとそこへ引き込まれてゆく。理事会や「ペン電子文藝館」や委員会なんぞであれこれ出入りしている自分ではなく、この気色に引き込まれて共生し得ている自分がほんとうの自分にちかいのだと感じる。「乳の匂ひ」に感じ「鶴の書」の哀しみに感じている自分の方をわたしは大切におもう。
2002 11・30 15
* 竹西寛子さんから『贈答のうた』を、桶谷秀昭さんから『歴史と文学』下巻を、木島始さんから詩画集『予兆』を、石黒清介さんから歌集『夜のいのち』をいただき、湖の本装幀の画家から「林檎」、萬歳楽蔵元から清酒、茨城の読者からクリスマスを待つ紅い花の鉢を戴いた。
木島さんの稀覯の詩集は、「ペン電子文藝館」の「反核」室にくださったもので、感激している。木島さんはペンの会員ではないが、この「私語」によく耳を傾けて、早速反応してくださったのである。
2002 12・2 15
* 「夕顔」巻で夕顔がものに憑かれて光源氏の腕の中で息絶えた。「なにがしの院」の夜のこわさが、源氏や侍女右近の恐れ惑いとともにみごとに書かれ、まくらがみに立つ女姿のもののけにリアリティがある。声に出して読んでいて感じがじつに深く、感嘆する。「桐壺」の文章は荘重、「帚木」は直接話法のおもしろさ、「空蝉」は生活感で心惹くが、「夕顔」は美しさに胸打たれる。小説として場面がとても生きている。
この「なにがしの院」については私の「T博士」角田文衛さんに有力な別説があり、わたしは、それに従い、「夕顔」という現代と古代との感応する小説を書いたことがある。ちいさなどこかに齟齬があったかも知れない小説であるが、もう少し長めに書き直すと佳いかも知れぬ。広沢の池、円成寺の御仏、美しい大顔の失踪、具平親王の嘆き、遺児の運命。それらと現代の夕顔塚を壺庭のうちに抱いた京の女との数奇の出逢い、恋、そして嵯峨野の友、紙屋川の師。短編の中にたくさんを書いた。一度、読みなおしたい。
2002 12・5 15
* 小栗風葉の大長編「青春」を、昨夜おそくに読み上げた。中村光夫が藤村の「破戒」と比較し、『風俗小説論』で厳しく論難した作品。読んでみて、その通りだと思った。日本の近代文学中、これほど観念的な、抽象的議論の多い小説は、そう、横光利一の「旅愁」とか、また長与善郎の「竹澤先生といふ人」ぐらいしか思い出せないぐらいだが、議論も観念も、まさに時代の、というよりこの作品のお化粧のようなもので、それ自体が作中人物のファッションでしかなく、しかも、そこから悲劇的に無残なストーリイが展開してゆく。藤村の「破戒」は息苦しいほど真実感のある小説の空気で、表現としてリアルに落ち着いているが、風葉のは、一言で、浮薄である。彼は「文学界」派の若手作家や詩人たちを、商店の広告文すら書けないようなヘタクソと思っていたようだが、絢爛とも評されたレトリックも、とてものことにいまでは古くさくリアリティを喪いきっている。
「破戒」はいまでも古いの新しいのでなく、主題の、動機の、切実さで読者に迫ってくる。
先日の芸術至上主義文芸学会の二次会で、風葉の「青春」を面白いと云う人もいたけれど、読み終えてみて、やはり、つまらなかった。関欽哉も小野繁も魅力的な男女ではなかった。明治の青春も平成の青春も、たいしてかわらないなあと思い思い読み終わった。師匠の尾崎紅葉の「金色夜叉」には、他を以てかえがたい力と魅惑を覚えたけれど、この「青春」は古びていた、無残に。中編の「寝白粉」の方が、はるかに悩ましく悲しく優れていた。
2002 12・9 15
* 昨日ペンの会員山中伊都子さんに戴いた詩集「雪、ひとひらの」は、じつに完成度の美しい、まことに「詩」そのものに満たされた佳い詩集で、感嘆した。思わず、詩に志のある友人に、メールを送った。
「みごとでした。言葉を磨き抜いて完璧な音楽にしていました。すぐれた日本語の書ける人がいるのだなとおどろき嬉しくなりました。
時間的に集中したからよいわけでなく、深いところでそれをどこまでわがものに生きたかで決まるのだと思います。さわがしくならず、深く静かに、そして熱く激しく。なにも急ぐことはないが、不用意に手を放してもいけない」と。
言葉の美しい命を豊かに開放するのが「詩」であろう。この詩人のこの詩集、コレまでの境地をぐんと深く完成ていた、近来これほどの詩集を手にしたことがない。いい編成で魅力ある力もある日本語で、好きだ。思わず言ってしまう、ありがとうと。こういう「言葉」を生み出してもらい嬉しくてならないが、さ、これからどう新たな鉱脈へすすむのか。楽しみ。
2002 12・11 15
* 「夕顔」から「若紫」に入り、源氏は、ごくいとけない若紫をみそめて、その祖母尼に失笑されながら最初のアプローチを、あえてしている。「若紫や」と禁中で声をはなって作者紫式部をさがしたという公任卿のパフォーマンスが耳の奥によみかえってくる。源氏が治療の祈祷をうけに出掛けていた北山は鞍馬辺と言われてきたが、岩倉辺と読み替えられている。岩倉には式部の母方祖父の縁があった。角田文衛さんの説は妥当であろうと思う。
2002 12・13 15
* このところ、外へ出るとき少しずつ結城信一の文庫本を読んでいる。二十歳頃に小学校の少女に初恋し、年若くにその少女に死なれたあと、生涯を通じてその死んだ人をいろいろにただもう書き続けた作家である。寸刻のひまもなく、死とむきあい死に親しみ、健康に恵まれない人であったが、六十八歳まで生きた。いまのわたしより年長であった。
はっきり言ってその死生観に、すこし異議がある。「あなた」が早く死んでしまったのだから、二人の愛の証明のためにも自分は生きていなければならない、自分も死んでしまったら二人の愛は永遠に消滅してしまうと、作者は言っている。よく分かるし、ふつうはこういう理解が正しそうである。無理のない理解であり感覚である。が、わたしの『慈子』もまた同じ問題を扱いながら、数百年の、また何世代もの層を重ね、さらに飛躍的な三千大千世界の時空間を透視し、全くちがう「はからい」を、登場人物は語っている。実のモノは失せるだろうが、絵空事には不壊の値があると。
結城信一は稀有の作家である。しかし気にはならない。ひ弱さが美しい作者である。敬愛するが、わたしは同行しない。堀辰雄のたよりなさに似ている。
2002 12・15 15
* わが朗読の源氏物語は、とうどう光源氏め、若紫を二条院に攫ってきたところである。流行の言葉では、拉致か。誘拐か。誰も立ち塞がれない尊貴の地位を利したセクハラか。
だが、わたしは「若紫」の巻が昔から好きだ。女の子を「教え・育てる」いわばお人形ごっこのような真似を、すばらしい貴公子がやるわけだ。存外、男はこういうことをやりたがるものか、だから、谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読んだのは「源氏物語」より後であったが、ああ、このジョウジとナオミとの関係は、光源氏と若紫とのパロディだと、すぐ思った。誰もそんなところに眼も思いも届かずにいたのが、まったく不思議だった。
わたしの「谷崎論」が、或る安定感とともに高い評価をうけるきっかけになった、「谷崎潤一郎の<源氏物語>体験」という論考の「根」は、此処に、先ず下りていた。小説「夢の浮橋」を論じたのでもあったが、谷崎の家庭は、しばしば小規模な六条院であったり二条院であったりしていたのである。
あの「ナオミ」を思うさまに教え躾けようとして、まんまと強烈なひじ鉄と逆ねじをくらうジョウジは、光源氏のことが概して小癪にさわっていた谷崎による、痛烈なパロディなのであった。じつはナオミのモデルであった、最初の妻の妹に、谷崎は恋をしかけては翻弄されまくっていた。しかし、そんな谷崎も、さすがに凄い。その体験をきれいに清算して「痴人の愛」という傑作を書き、いわばナオミを卒業して、次なる松子夫人との出逢いに「昭和初年」の大噴火を賭けたのである。
大成功した。それは、一にも二にも、松子夫人の優れた素質の中に、「ナオミ」の要素と「若紫=紫上」の要素とが絶妙にバランスされていたからである。壁の花の芥川龍之介を尻目に、谷崎は初対面に近い人妻根津松子とチークダンスが出来たし、すでに老いしある日の松子夫人は、わたしと妻と三人でしている食事の座敷で、若い昔に覚えたチャールストンを軽やかにおどり、ミーやケイや田中好子で若い世代に爆発的にもてていたあの「UFO」ダンスすら、面白そうに踊れるほどの人であった。もう七十を超されていた。
そしてその一方では、優れて雅びな、まさしく一人の紫上のようでもあった。沢山頂戴している色美しい巻紙の長い長い書簡を見てもらいたい気がする。
2002 12・18 15
* 豊田一郎氏の小説を入稿した。「ペン電子文藝館」に迎える二作目の寄稿。二作とも、濃厚な場面をふくむ「性」が主題の作品で、中流社会のふつうの職業人や家庭の性風俗として読むと、ショッキング。しかし、なにかしら、前作もそうであったが、性が「論じ」られている。特別関心も共感もしないが、今度の作品からもモチーフはよく読みとれて、ただ性の場面が描写されているのとは違っている。読みやすい。だが、柔軟に胸にしみいる小説の文章ではない、よく謂って、乾いている。もう少し辛辣に謂えば概念的な、なにかの報告のような叙事で、味わいもふくらみも無い。無いから、読みやすく読める。それにしても、男と女。「やがて、やってくるその日」の性と思っていたのが、江戸の昔にも、万葉の昔にも、神代にも、有ったかも知れない。
2002 12・19 15
* 遠足前のこどものように、よく眠れず、七時に起きた。夜前、バグワンと、「末摘花」の巻のあと、すこし黒いマゴと遊び、それからさらに学研版「椿説弓張月」の絢爛たる浮世絵挿絵など眺め、何とも覚えにくい名前の登場人物たち一覧解説に目を通していた。前後続さらに続の続・続続の続と、五編にわたる大長編の、たぶん続編以降、つまり琉球舞台のところを主にするのではなかろうか。
2002 12・20 15
* 書庫の中と外とで、ずいぶん体を動かした。書物は重い。しかし済んだわけではない。書庫を整理しないと、本当に読みたい叢書や研究書が、いい感じですぐ取り出せるように並ばない。こんなに収容力のある書庫をつくられて、いっぱいになるのですかと設計士にわらわれたが、なんの、あっというまに書架は溢れ、溢れ出た本は住まいのいたるところを蚕食し、親の残した隣の棟にも溢れている。ずいぶんセレクトしているので、処分したい、つまりよそへ出したいと思う本があまり無いまま増えて行くのである。暖房のない書庫へ入ると、冷え込む。それでも読みたい本が目に付くばかりでなかなか出られない。 2002 12・25 15
* 洋画家上杉吉昭氏から、『橋本博英追悼文集』を送って戴いた。懐かしい人。生涯の出逢いの中で、私には十指のうちに数えているほんとうに懐かしい優れた人であった。優れた画家であった。まだ東工大に出ていた頃だった。石川の万歳楽利き酒の会の流れで、人に連れてゆかれた銀座の鮨屋。そこで、たまたま、その一度だけ、その店で同席したに過ぎない。あとはせいせい三度ほど画会で顔を見合わせた。文通は多かったし、私の送る本をけれんみなく読んではよく褒めてくださった。いいかげんではなかった。作品が気に入ると、ご褒美のように新潟の名酒秘酒をよく送ってこられた。ながく足柄におられ、病気が進んでからは東大にちかい西片町に帰っておられたようだが、例の遠慮をするタチで、伺うこともしないうちに亡くなり、落胆した。
今も夫人は湖の本を買い続けてくださっている。
文集を読んでいると、思った通りの橋本さんが生き生きと立ち上がってくる。たまらなく懐かしい。
文学ではなく絵画の世界の追悼文が並んでいても、そこに文学のよく分かって愛していた画伯の気持ちが、汲み取れる。それと、実に厳しい、基本への愛。この人がどんなに石膏のデッサンのうまい人であったかは、いまなお芸大では語りぐさになっていると聴いている。その上で、彼は高雅な自然を暖かに確かに描いた。懐かしい人。俗なものを微塵ももたなかった、磊落で無私なお人であった。
2002 12・26 15
* 北海道の名酒を飲み干して、今度は山陰の珍しい美酒に酔っている。源氏物語は「末摘花」から「紅葉賀」の巻に入っている。青海波を舞った光君にひそかに胸をとどろかした藤壷は、こらえられず、彼からの歌に返歌する。藤壷という人の、こころ映えのうつくしさ優しさのほろりと洩れて見えるところで、読んでいて嬉しくなる。光源氏がその文をもう手放しもできず嬉しくて嬉しくてたまらない様子なのも、佳い。苦しくとも、恋はかくありたい。
2002 12・30 15