ぜんぶ秦恒平文学の話

野分  死なれ・死なせた者たちの源氏物語 秦恒平

『源氏物語』五十四帖のなかに「野分」の巻があり、いま、ふと、とても懐かしい。七十に手のとどく歳になっても記憶にある、京都の小学校に通っていた時 分、台風の後というか、まッ最中ではなく雨もあがった後など、妙に心の開放される爽やかな、賑やかな、しかも寂しやかに荒れてふしぎな感銘を受けたもの だ。人は秩序よりも混乱のさなかに何かしら希望の予感をもつのであろう。
「野分」の巻は、この「嵐」の風情も予感も、いかにも、よく書いている。ちょうど嵐のまッ最中に、光源氏の息子の夕霧が、まだ少年といっていい青年だ が、父光の君を六条院に見舞って、そのとき、初めて、彼は義理の母にあたる紫の上を見かける。当時は、親子の間柄といえど、女はめったに顔を見せなかった し、まして光源氏が掌中の珠のように理想的な妻として大事にしていた紫の上であるから、我が子といえども決して顔など見せない、声も聞かせはしなかった。 それほど箱入りの奥方であったが、嵐のおかげで簾や几帳のあれた隙間から、野分のさまに心惹かれていたか、やや端近に出ていた紫の上を夕霧は見てしまう。 季節こそ違え、咲き盛りの樺桜のような、みごとな紅梅のようなと紫の上は褒められる美女であり、匂い立つ麗しい美しいその姿に、夕霧君は震えあがってしま う。
「見て逢はぬ恋」という。夕霧の父光は「見て逢ふ恋」を藤壷中宮という義理の母宮との間で遂げ、後に冷泉院といわれる天子を産ませている。その底ぐらい 物語を念頭に「野分」の場面を見ると、夕霧が、いかに美しい義母紫の上に心惹かれたかがよくわかる。夕霧はなかなか律儀な息子で、几帳面で、まじめ青年で あるが、魂がとろけたように茫然として、しかし見ているところを見られては気の毒と思い、怖いものから飛び退くように去って行く。しかし彼の心に一度刻ま れた紫の上の優艶な姿というものは、後々までも非常に大事な深い秘密にされ、生きていたのである。
おそらくはそれと似た気持ちを、あの『竹取物語』で「かぐや姫」を見た「帝」が見せている。はじめて竹取の翁の屋敷へ強引に出かけていき、力ずくで姫を 連れていこうとする、と、光は影とうすれて姫の姿も失せてしまう。その神秘に畏れて帝は一度は恋ごころを断念し、乞い願うようにして姿を見せてくれと姫に 頼んでいる。また、かぐや姫は姿をあらわす。恋は断念し、帝はすごすごと宮廷へ帰っていくが、あの変幻のときの何とも手の届かない恋の悲しさ切なさ。それ と似た気持ちを、おそらく「野分」の巻の夕霧はあまりにも美しい義理の母に感じたであろうと、わたしは思っている。
ところが紫の上は、後に、夫光君の此の世の極楽である六条院のすまいから、これは意味深いことだが、わざわざ二条院というゆかりの家、新婚の頃の家に帰 り、「御法」の巻で、光源氏にみとられ先に亡くなってしまう。夫の光の悲しむのはもうむろんだが、義理の息子の夕霧の悲嘆もたいへん印象的に物語には書か れていて、「さもありなむ」と思わせるみごとな筆づかい。
人にとって「死なれる」という取り返しのつかない絶対状況の、猛烈な絶望と悲しみが、なまじ夫である光源氏よりも、義理の息子、そしてたった一度しか見 なかった、見られなかった義理の母の死を悲しむ夕霧の描写によって、逆に読者に大きな感銘を与えている。それが、ふと、いま、とても懐かしい。

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