* 電子メディア委員会の山田委員長から、下記「住基ネットに対する意見表明・案」の提言があった。かねて希望していた。山田さんがしばらく療養中であったのが、よほど恢復されたようで喜ばしい。
趣意に異存はない。ひろく合意と姿勢とが纏まって行くといい。あえて、われわれの目下の思い(検討して、より良い形で有効に発信したいと思う。)を、この「闇」へ放っておきたい。
* 住民のプライバシーは誰のもの? ペン電メ研・起案
インターネットに代表される情報のデジタル・ネットワーク化は、これまでの個人情報の管理の仕方や運用の方法を根本から変えることを求めています。
それは私たち個々人がもっている場合や、民間企業が収集・保有している場合にも当てはまりますが、とりわけ公的機関が所有する個人情報において重大な意味を持ちます。
デジタル化は、大量データの集積・結合・検索を容易にするとともに、その恣意的な改竄を跡形なく実行することを可能としました。
ネットワーク化は、どこからでも情報に接近できる可能性を作り出し、いったん漏れた情報が瞬く間に世界中に広がる危険性を内包することになります。
もちろん、これまでにもそのための対策は行われてきましたし、いまでも多くの努力が日夜なされていることを私たちは知っています。
たとえば、ネットワークセキュリティー(コンピューターシステムの安全)を守るために、技術的にさまざまな試みがなされ、また法律が整備されつつあります。ファイアーウォールの強化や不正アクセス禁止法の制定・強化などがそれに該当するでしょう。
しかし、先の長野県が実施した侵入実験でも明らかなとおり、そのシステムに「絶対安全」はあり得ません。侵入の可能性、危険性を常に意識したシステム構築が求められているのです。
そのためには、セキュリティー対策とともに、組織が保有する個々の個人情報をどう守るか、いわゆる「データ・プライバシーの強化」をどのように確立するかが必要になってきます。
そのもっとも基本的な考え方として、個人情報の収集・管理を行う国・地方公共団体に対し、私たちは改めて以下の三つを求めます。
1.データはできる限り分散管理すること。
2.データの名寄せ(結合)は行わないこと。
3.データベースごとに異なったパスワードを使用するなどのアクセス障壁を設けること。
そして、住民基本台帳ネットワークについてはさらに、地方公共団体に、以下の点を強く期待します。
1.住民(の情報)を守ることこそが地方公共団体の最大の責務であることを強く認識すること。
2.市町村区は主体性をもって、積極的なプライバシー強化対策を施すこと。
3.都道府県は臆することなく、国に対してシステムの変更を求めること。
現在の住基ネットが集中管理方式を採用し、いったん侵入があった場合はその被害を大きくする危険性が高いシステムであること、数多くの行政事務が集約され、事実上、個人名の名寄せが無限定に行われていることは、個人情報の安全管理としては、最も危険な状態が増殖しているといえます。
地方公共団体は勇気をもって、住民の立場に立って声をあげて下さい。国が決めたことに従うことが、住民利益を損なうことになるからです。私たちは、勇気ある自治体を応援します。
* これは単に声明として打ち上げるのではなく、可能な限り国と自治体へじかに働きかける「基本」を纏めてみたのである。早い時期の委員会討議が待たれる。
2004 1・15 28
* 手書きと電子化 http://homepage3.nifty.com/willowbrook/ 英国
秦恒平様 初めてお便りを差し上げます。
以前平家物語や梁塵秘抄を語るラジオ講座を拝聴していたおり、古典への深い造詣に敬意を感じていましたが、その時は評論家という肩書で紹介されていたはずで、それ以上には存じ上げませんでした(ラジオ第2放送で平家物語を聴いていた時に、都の歓楽街のお話をされたかと思います。このような場所には古来からの人間の脂のようなものが染み付いていて、中々場所が移らないものであるという指摘をなさったことを、今でも覚えています)。
今回ホームページを見て、やや詳しくお仕事のことや、お考えになっていることが見えてきて、お便りを差し上げる次第です。ホームページは、ご職業がら当然なのでしょうが、その分量に圧倒されました。それでエッセイの部分からまず拝見して、秦様が出版社を介さず直接読者に本を送る試みをして長くなること、ホームページに色々な作品を収蔵・展示していることなどを知り、また文章から拝察される、行動とその根底にある考え方に極めて共感を覚えました。
*
例えば、書家石川九楊の文章を述べたエッセイです。石川九楊の文章は、一時もてはやされたときに読もうと試みましたが、直ぐに読むに耐えないものであると感じ以後全く手を出しておりません。難しげに書いてあるが、言うことは機械に頼らず手書き礼賛の主張でしょう。
それに対しての御主張は、どのような道具で文章を書くかは問題ではないし、環境についても拘泥しない。重要なのは内容であり、要はその人次第なのであるという論旨で、それはこちらの思っている通りでした。石川九楊の悪文を例にしながら、大切なのは内容で、道具は関係ないという議論の展開を興味深く読みました。
大切なのは表現すべき内容であり、手段に拘泥する必要はない、という主張を更に拡大すれば、言語という手段をも越えることがあります。私は、日本語でなく外国語でも、意義ある主張を適切に伝えることが可能と考えています。
機械か手書きか、文体は、場所は、言語はなど、手段の選択は各人の嗜好であり、他人のことに容喙する必要はありません。また、それぞれの手段には個性があり、それはそれで滋味があったり情緒を付加したりするので、否定することもありません。目的を大切にする人もいれば、手段に凝る人もいるのは、世の中の常です。しかし、正直な所を述べれば、様々な手段を用いることができれば、それはその人の容量の大きさを測る目安となると思っています。
*
もう一つ興味を惹かれたのは、日々の書き込みについてです。「耳にする限り、最も関心をあつめ毎日欠かさず読んで下さる人もあるのが、わたしの「生活と意見」を忌憚なく日々にただ率直に、筆を枉げず書き継いでいるページらしい。」という部分です。私もホームページで、余り使われていない掲示板を、訪問者との交流だけではなく、日記代わりに使ってみようと思っていたので、この記述は注意を惹きました。人は人に関心があるものです。
もう一つ、ここには大切なものがあります。ホームページへの書き込みは、それが日記の体裁を取るものであっても、自分だけのノートに日記を書きとめるのとは異なり、外部の読者を想定せざるを得なくなるという点です。書くものが、どのような形であれ公開されることになれば、そこには緊張感と責任が伴うのです。このことに私もある時点で気付いたのですが、そのこともきちんと指摘されていました。公開により文書は私的な性格を変質させるのですね。
*
ホームページに限らず、電子化した文書には様々な可能性があります。私は日本の外におります。日本語の書物を簡単に入手できず、冗費を抑える必要も考えれば、読書を電子化したものに頼るのは避けられません(これは英文など外国語の読書も同じです)。それで、これまでにもかなりものを画面で読んできましたが、電子テキストと在来の書物との比較をして、感じたことがあります。
まず在来の書物の利点。これは一覧できる情報量が格段に多く、必要なときにすばやく検察できることです。将来は電子本も改善してくることと思いますが、今の時点では普通の書物の方が格段に優れています。装丁、挿絵、写真、著者や自分の書き込みなど、情緒的なものも含めての情報総量は書物の方に軍配が上がります。
しかし、収納の問題や複製・伝達については、電子文書の方が効率的です。収納についていえば、読んだもの は、書棚に納める替わりにハードディスクに入れてしまえば、相当の分量のものが、全く場所をとらずに保管されます。
切り貼りは、自分の考えを作らず、安易に他人の意見を引用することになりかねないので注意を要しますが、人間の考えることは万古不易と思っているので、自分の主張(あればの話ですが)を根拠付けるために、適切な引用をするのを否定する必要はないのです。例えばお書きの文章に「魂の色の似た人をいつも捜している」という表現がありました。これは自分と同じである、貰おう、と感じたとします。それはホームページからコピーして文書ソフトに移すだけで済みます。
電子文書は読むだけではありません。外部から取り入れたものに自分なりの価値を付加して、それを再び外部に発信することは、電子文書であれば在来の書物と比較して、かなり容易にできます。適切な手段を選べば、個人であっても、これまでには想像もつかなかった世界に繋がることができるのです。多くの人に見てもらい、そこから新たな刺激を受けるというのは、ホームページによる方が書物によるよりも迅速であり、今後の可能性を秘めているような気がします。
*
やや長くなりましたが、このような事を考えるきっかけになったのが、お作りになったホームページでした。それで一文を草し、こんな読み手もいますという御挨拶をさせていただいた次第です。どうぞご健勝で、ますますのご活躍をされますよう、お祈りしております。
* 一昨年から英国に暮らしている壮年の人のようで、開いてみたホームページは、瀟洒に美しく創られていて、日本語が優れて正確である。バルセロナの小闇など参考になるのではと思うし、上に書かれた徹頭徹尾明晰な観想など、この方面に関心の深い東洋女子大の北田敬子教授にも読んで頂きたい気がする。
こういう方の目に触れて、こういう風に言っていただくと、逆に、私のサイトの性格的な雑駁が目立ってきて、恥ずかしい。「闇」は深く深く遠く、まぢかく。有り難い嬉しいメールを戴いた。申し訳ないが、こういう考え方やこういう表現が、これからの時代の一つの基盤を成してゆくと思うので、ふたたび「闇」の奧へ放っておく。
今後もメールを交わしながら、親愛を深めたい。
* 四国(讃岐)丸亀の****です。ご多忙の中早速のご返事感謝いたします。
お言葉に甘えて、湖の本エッセイ16 『死なれて・死なせて』1冊に、著者識語と共に、私からの贈り物である旨を明記し、下記に直送していただくようお願いいたします。本代も次回にまとめてとのこと。重ねてご好意にお礼申します。
[本の宛先]—————————————-
私事ですが、文学には若くから関心を持ち、友人には才能に秀でた詩人や歌人が多数います。でも、残念ながら私自身は文筆には自信がなく友人たちの協力者として過ごしてきました。
特に壺井繁治賞、自費出版文化賞、現代詩・平和賞(昨年)、高松市文化功労賞などを受賞した詩人・赤山勇は40年來の友人です。
彼の8冊の詩集はすべて書き下ろし長編で、その膨大な資料あつめと、本の普及活動には本人以上に力を入れてきたつもりです。
「創造と普及」は車の両輪。読者あっての著作という立場で、県内だけでも十数人の販売のネットワークを築き、それらの方々が一冊一冊と普及してきました。図書館への納入や書店への依頼も含みます。でも、普及の実務と作品への理解度が必ずしも一致しないのが悩みです。
「秦恒平の文学と生活」は驚くほどの膨大な情報量と中味の濃いサイトですね。また、ペンの電子文藝館も充実しています。これらは、私も書込みに参加を許されている関西の文学仲間のサイトで紹介しました。お閑をつくって一度、下記へアクセスして頂ければ幸いです。URLよりも直接タイトルで検索する方が早いようです。
「文学の仲間リンク集」→「詩人集団『D』」→詩人集団「D」Home pageが出ます。なお、「お知らせ」をクリックすると冒頭に、昨秋実行した「ふるさと紀行」の写真とコメントがUPされています。恥ずかしながら私の投稿です。ハンドルネームは円亀山人です。
長くなりました。また、ゆっくりお話を交換させて下さい。送本の件、よろしくお願い致します。 讃岐丸亀
* 篤志という言葉がふさわしい、こういう方々の支えで、地の塩を得て、文学の仕事の深まっているのは、よそながら嬉しいし、それどころか、私のしていること、してもらっていることが、即ちそれなのである。力及ばないために、「湖」は容易に広まらないが、深くはある。
2004 1・19 28
* ご返事を有難う御座いました。また「闇に言い置く」には懇篤なコメントを書いていただき、嬉しく思っています。
日々の書き込みを拝見していると、電子メディアの様々な可能性を専門の方が充分に論議をなさっていることが、非常に良く見えてきます。
私も実は、手紙ではできない双方向の迅速な対話の結果を、ホームページに反映させて見ようと思っています。そこに新たなページを作り、当方の文書だけではなく、それへの反応も載せてみようと考えているのです。連句を巻くのと同じようなものでしょうか。「闇に言い置く」に色々な方のメールが載っているのも同じお考えかと思います。
それでお願いなのですが、新たなページにおいて「闇に言い置く」で書いていただいたコメントを使わせていただきたいのです。個人的なメールと異なり、「闇に言い置く」のコメントは多くの人の目に触れるものと考えておりますが、念のためご了解をいただきたく、お便りを差し上げる次第です(尚、私の秦様個人へのメールは、公開されても全く異存はありませんので、そのことも申し添えておきます)。
今後ともご縁が続くことを願っております。 英国
* 今朝、客間兼寝室兼書庫兼物置の本棚にならんだ新版の岩波志賀直哉全集を見ながら、半数以上が「日記」と「書簡」なのに改めて気付いた。わたしは、それも全部読んだ。それだけのことはある、と思った。
わたしの仕事がもしも何かの形で残りうるとして、この電子版「闇に言い置く私語」は、秦恒平といういささかならず狂を発していたような作者が、それでも日々に断然生きて在ったことは示してくれるだろう。とても誇りになる日々ではないが、非力な一人の言葉は此処に生きていて、ひょっとして最大の作品となるのかも知れない。その意味で、ここに慎重に選んで採り上げられる多くの他者の声々は、じつは、わたし自身の生の照り返し(失礼)なのである。有り難いと思っている。
2004 1・21 28
* 年にだいたい三百日近く家で過ごしている。かりに百度外出するとして、理事会・委員会・会合と通院・受診と観劇・食事、仕事の旅が、主たるほぼ全部。観劇と食事は、全部に近く妻と一緒。会合の殆どが文壇・美術の関係と東工大卒業生達との歓談。マンツーマンで人と逢って食事したりは、年に十度とない。こう眺めてみるとずいぶん淡泊に暮らしているなあと驚く。淡泊というのではない、それは、メールなどのパソコン環境で描いたヴァーチャルな賑わいに満足しているのだろうという、批評・批判がありえよう。その通りだろうと思う。そういう賑わいは「虚仮」と知っているが、拒む必要も考えていない。むしろとても大事な真実とも膚接していると思っている。
とはいえ、メールだけで例えば恋物語が書けると想うのは、かなり情けなく侘びしいことではなかろうか。本気でそういうことを想う人も、無いではないらしいが、恋こそは金無垢でなければ光らない。「子猷訪戴」風雅の故事は真実をつたえているのかどうか、わたしはかすかには疑いを挟んでいた。今は。さぁ…、と瞑目する。闇は深い。
2004 1・24 28
* 電メ研はかなり熱心な話し合いで二時間半。終わるとふうっと疲れていた。日比谷のクラブでウイスキーを楽しみにしていたのだが、やめて、マッスグ帰った。今はお酒よりも、佳いものを見たい。そんなとき、やはり上野と思う。出光の焼き物も佳い。
2004 2・5 29
* 以下の小闇の言説は、無視しにくい懸念にふれている。「検索」をインターネット機能の大きな一つに数えている人は多いはず。
* ググってミホ 2004.2.7 小闇@TOKYO
Googleがやってくるまでは、ディレクトリ検索はYahoo!、キーワード検索はgoo、新着情報検索はfresheye、どれも精度は低いけど、というのが私のなかでの常識だった。それがGoogleのおかげで、他の検索サイトを使わなくなる。優秀でかつインタフェースがシンプル。おかげでいろんなことを知りあてた。知らない方が良かったこともいくつかあるが、それはまたそれ。
ところがこのGoogleが、広告を取り始めておかしくなった。スポンサーに都合の悪いサイトを、検索の対象から外し始めたのだ。確かにそれまでのGoogleは、タダで優良なコンテンツを提供するという、どうやったって儲かるわけないシステムで、いつか広告をとるだろうということは予想できていた。しかしこれは、当初はえらく優しかった男が結婚詐欺師で、気付けば身包み剥がされたというのに近い。どうせスッカラカンになるなら、いかにも怪しい野郎にだまされた方がまだ納得できる。
ではどうするか。じつはYahoo!もgooも、今使っている検索エンジンはGoogleのもので、理屈の上ではこれらを使ってもそれなりの精度の結果が得られる。本家が腑抜けになった以上は仕方ないかと思っていたちょうど今日。衝撃的なテレビCMを見た。
gooのリニューアルCM。「吉岡美穂」を検索するつもりが「美浦」でも「美帆」でも「美補」でも、きっちり「電話してミホ」のCMで知られる吉岡美穂だと判断し、そのように検索結果を表示するのだという。なんてこった! 私が知りたいのは小学校の同級生の「吉岡美保」のことかも知れないのに!
マイクロソフトのWordやExcelの自動補完機能は嫌われている。勝手にスペルや表記揺れをチェックしてそれをお知らせして下さったり、お知らせせずに先回りして直して下さったり。「iモード」はまず間違いなく「Iモード」に「正しく」直されてしまう。昔使っていたスペルチェックのソフトは、「Chiba」を必ず「China」に「正しく」直した。デジタル創氏改名。<>br これらの機能は「オフ」にできる。が、能動的にオフにしなくてはならない。漫然と使っていると、その機能の範疇から逃れられない。
ネット上で収益を得なくてはならない検索サイトが、こうなってしまうのは、資本主義社会では仕方のないことなのだろう。唯一それが通用しなかったはずなのがこの世界、潮目が変わってきている。
* この「潮目の変化」は、われわれの電子メディア委員会も傍観はしていられない。
電子メディア委員会新設を提言して、日本ペンクラブに、国際ペンにまだ無い独特の「電メ研」を創ったときから、わたしは確信していた。ペンで討議する問題の大方が、この委員会領分に触れてくるのに、歳月はかからないだろうと。バイオメトリクス、住基ネット、電子出版契約と著作権、セキュリティーと人権侵害拡大の傾向、ユビキタス、文字コードがらみのいわば新たな漢字制限傾向の潮流化。
先日の委員会で話題にし対応を考慮しただけでも、気の遠くなる問題が山積し、さらにエシュロン連合国と欧州連合との、競合的に拡大してゆく、個人秘密の権力による剥離と管理干渉の強化傾向。これらはみなわれわれの「ペン」とも、近く遠くから関わってくる。理事会に身を寄せ踏み込んでこれらに対応できるセンスや理解があるかどうか疑問は深いが、たいへんな時世にどんどんなりつつある。
* ああ、胸苦しいままに機械の前で夜更かししてはならない。闇にぬりこめて寝てしまうがいい。
2004 2・7 29
* 同僚委員の加藤弘一氏から、また、たいそう気になる情報が届いている。
* 加藤@ほら貝です。拙サイトの記事です。
——Feb08
ジャネット・ジャクソンがスーパーボールのハーフタイムショーで乳房を露出した事件で、TiVoユーザーの間に不安が拡がっている。胸がポロリとした「決定的瞬間」は、他の場面よりも3倍も多く再生されていたとTiVo社が発表したからだ(CNETの「観ているつもりが見られてた」とITmediaの「ジャネット事件が知らしめたTiVoの監視力」)。
TiVoとはDVR(ハードディスク・レコーダー)のシステム名で、視聴者の好みを分析して、勝手に録画する機能を売りにしているが、どの番組のどんな場面を見たかまで筒抜けになっていたのである。
(TiVoについては、小林雅一氏の「メディア・パワーシフト」と小寺信良氏の「DVRの“事実上の標準”になるか――全米を虜にした「TiVo」の秘密」に詳しい。ソニーの「スゴ録」もTiVoのライセンスを受けているとか。)
TiVo社は視聴データの収集をおこなっていることは何年も前から契約書に明記していること、そして個々の視聴者を特定する情報は削除していることをあげ、問題ないとしているが、多くの人は薄気味悪いと感じるだろう。
視聴データ収集機能は本来必要ないはずだが、TiVo社も放送局も、この機能をはずしたくない理由がある。CNETから引く。
DVRを使えば、視聴者は簡単にCMをスキップしてしまえるため、これまでは放送局への潜在的脅威として脚光を浴びることが多かった。しかし放送局側では、視聴者の行動を追跡できるDVRのような機器の力に魅せられてもいる。視聴者が何を観たかといった情報は、マーケティングキャンペーンやその他の効率を改善するために利用できる貴重なものだからだ。
個人は特定できないことになっているが、その気になれば個人別視聴履歴は蓄積できるだろう。これが「売物になるデータ」であることは、言うまでもない。
* あとからあとから、こういう現象いや事件が追いかけるように現れてくる。
2004 2・11 29
* 先日の(電子メディア)委員会でも強く言いましたように、「便利」という言葉こそいちばん難儀な危険性を含んでいます。電子メディア問題の「毒性」は、ほとんどが「便利」の一語に集約されるかと思うほどなので、今後、われわれの委員会は、心して「便利だから」を先立てない姿勢や態度や判断を持して行きたい気がします。 今一度念のために。 秦恒平
* 委員会のメーリングリストに、ことの序でに入れた、わたしの基本的な考えである。
「便利になる」という誘惑が先立ってやってくる一切、殊に電子メディア関連の便利一切には、後続し付帯してくる、いちど嵌れば抜け出しようも払いのけようもない、多くの危険、人権侵害や財産損害にいたる拘束と搾取との危険が、きっとつきまとうと思わねばならない。いま「便利」をぶら下げて、なんとか強引に普及させようとしている一つが「住基カード」である。いまいまのところは、安全・無害・便利を誘い文句に出来ようけれど、制度化されたこのカード機能は、じつは無際限に拡大され得る、さながら怪物のように。子や孫や曾孫の時代には、強烈な一人一人の首の締め輪となり、怪獣のように個人個人を追い回せるのは、すでに外国にかなりな実例がある。カード一枚が、一方でアイデンティティの命綱になることで、それにより信じられないほど多くを、根こそぎ官憲に把握されてしまい、自由な呼吸も苦しくなるだろう。
電子メディアほど便利に個人を一括できるものはなく、その意味で、いったい誰のために「便利」なのかを、よくよく考えねばならない。カード犯罪はますます複雑化するが、電子メディアを悪用した国家犯罪の規模は、地球大にやすやすと可能で、現に巨大盗聴はあなたにも私にも及んで日常化している。自分のようななにごともない尋常な一私民に何が起ころうか、などという暢気に間抜けた考え方が、いちばん危ない。
「便利ですよ」という誘いには、毒害の隠し味のあること、ゆめ忘れまいと思う。
* 秦さんのご指摘、いずれもなるほどと納得しました。どうしても技術マインドなもので、「便利さ」という名の、危うさについて、自戒せねばと思った次第です。 委員
* この「技術マインド」が、「便利」追究を、先行させて行く。何が出来るかという「便利」利用方にのみ没頭し、その便利さを、最後には「誰が」何の「目的」で尤も多用しまた悪用するかの危険性を考えてくれない。技術系の人達の、社会人ひいては一私民としての己れに迫る危険を、まんまと忘れている暢気さである。わたしは、こういうおそれを、文字コード委員会に永く参加していて痛感させられた。思考回路が「技術だけのマインド」に仕上がっていて、それで良いと思っている人達が、電子メディアをさも私有しているような現状がある。それを権力はまんまと利用し、結果を盗み取り、私民の強制飼育に「便利に」に使って行く。政府が、ITとかハイテクとかを口にするときは、その狙いの根元に視線を刺し込んで、早く早くから早め早めに防御態勢を考えねばならないのだが、技術マインドの人達にそれは極めて希薄で、「その他マインド」の人達は、また、そういうことへの洞察や理解が届かない。その大きな落差を利用すれば、「便利」の覆面の下へ強圧支配の素顔を隠した政府が出来上がって行くのは、いとも簡単なのである。「盗聴法」「個人情報保護(=奪取)法」「人権擁護(=排除)法」「住基ネット法」等々、いまも用意されている沢山の電子メディアを利用した法拡充はみな、そのおそろしい鎧を「便利」という上辺の法衣の下に忍ばせている。火を見るより明らかである。
わたしは技術には通じないが、文明の悪意は洞察出来る。歴史は、遺憾なことにそれを紛れなく教えてくれるからだ。いちはやく「電子メディア委員会」創設をペンに提議し実現した私の意思は、それ、である。
* さ、そのペン理事会にそろそろ出掛ける。強い風が天を奔っている。
2004 2・16 29
* メールを利用するようになり、前半期の多くは、何度かの機械のクラッシュで失われたけれど、それでもその以降莫大に自然に残っている。「人」により保存するという分類は出来ていないので保存状態はまさしく乱雑。事務的なのも莫大にあり、処分して何の差し支えないが、「人」によっては、順繰りに読み返して行くだけで、翻読にたえる佳い関わりが記録されているだろう。
2004 2・22 29
* 眼への花粉侵害で思考力が持続しない。こういうときは、機械相手に碁を一局囲む。機械はめちゃくちゃ弱いので負けることがない。しかしこの弱い機械にもいつか負けるかなあと思うのが、ヘンな気分。勝ったり負けたりが面白いので、最高六目まで置かせたことがある。まだ負けていない。対で白石を握っている限り、まず絶対に負けない。安心なようで、刺激はない。
2004 2・24 29
* 個人情報 2004.2.26 小闇@TOKYO
Yahoo!BBユーザーの個人情報、数にして470万件が流出した。Yahoo!BBを運営するソフトバンクBBとその親会社のソフトバンク、まだ認めてはいないが、まず間違いない。前代未聞と言っていい。
ブロードバンド世帯は、2000万とも言われる。そのうちのADSL世帯470万。ネット関連で比較的と新しいものを好むうちの2割強、そのメールアドレスが手に入るとなると、これはなかなか「いい名簿」。ブロードバンド化したことで新たに欲しくなる、例えばそれは家庭内LANかも知れないし、大きなディスプレイかも知れないし、ネット銀行の口座開設かも知れないが、そういうものを売りたい人間にとっては、ふるいに掛けられたこの名簿を使えば、漠然と全国4700万世帯にあたるより、ずっと効率の良いセールスができる。
ダイレクトメールの「返り」は1%あれば、上等。470×0.01=4.7。4万7000人が一気に動くとなると、これはちょっとした革命と言えるだろう。それだけの価値のある情報だ。
ところがなかには、どこまで本気なのか知らないが、クレジットカードの番号が漏れていないなら、さほどの被害ではないというユーザーもいる。本当にそう思っているのだろうか。ミニスカートで下着を見せながら歩く若い女の子の言い訳に似ている。「別にその中が見えてるワケじゃないし」。確かに。でもちらちらと、しかし必死に目で追う側にしてみれば、その下着が見えているということそのものに、大変な意味がある。
昔、日経マグロウヒルという会社から、同社の看板雑誌日経ビジネスの顧客情報が流出したことがある。個人情報保護関連のセミナーなどでは必ず紹介される、「日本で最初の流出事例」だ。名簿業者からそれを買ったのはリーダース・ダイジェスト(その後廃刊)。
当時は個人情報の流出ではなく企業機密の漏洩という報じられ方であった。個人情報という概念がまだ、日本にはなかったからだ。マグロウヒルにしてみれば、良い時代だったし、個人個人にしてみれば、舐められていた時代。
内部犯行であるだろうし、ずさんな管理態勢も明らかになるだろう。が、私が一番注目しているのは「落としどころ」である。ソフトバンクBBはどういうシナリオを描いているのか。全会員に500円の商品券を配るのか、3ヶ月間の利用料を無料にするのか。出方を間違えた雪印食品という会社は、あっけなく消滅した。
私はユーザーではないが、「ベンチャーの旗手」がどう結論づけるのか、興味を持って見ている。
* 電子メディア委員会のメーリングリストに登場する「情報」が、たいそう煮詰まったドキドキするものになりつつある。追いついて行くのも大変なほど。
みーんなが「便利病」に浮かれている内に、電子メディアという化け物はエーリアンのようなマトリックス化を着々遂げつつある。その情報の機微が広く私民レベルに拡大し浸透するまでに時間がかかるが、そんなかかる時間よりずっと早足に、怪物の悪用意思は更に更に拡大し隠微に深化して行く。そのギャップ、その乖離拡大により、大きくいえば人類自滅の毒も速やかに回って行くだろう。この予言が、確実に現象化してゆくことをわたしは疑わない、微塵も。
2004 2・26 29
* 数年にわたり戴いたメールを、一人分通して読み返して行くと、びっくりするほど深いものが表れてくる。
電子メールは、いわゆる郵便の手紙などとくらべて、本質的に「恋文」に近いもの、むしろ「恋文そのもの」になる素質の交信であるだろうと、もう数年以前、雑誌「ミセス」に書いたことがある。たしかにそういうもの、それは電子メールを貶めて謂うのでなく、本来の性質を洞察していたのだ。電子メールはむしろオツに澄ましては飾り立てられない。いいメールほど要点が具体的に、まっすぐ届いてくる。恋文とは素質的にそういうものであるが、しかしながら昔の恋文には、そうでありえない制約があった。人目をおそれ、はばかり、常におぼめかし、ほのめかして具体的に率直にとは行かないところに「表現の微妙」が生まれていた。あんなに恋文が書かれながら、「光源氏の恋文」のような本も出ていながら、本文例はすくなく、有ってもどこが恋文かというものが多い。気持は和歌にばかり託された。和歌とは、やまと歌の意味よりも「和する歌」であって、より社会的な所産であった。
これに対し、電子メールは、個と個との時空間が「一応」守られていることにより、昔の表現とは異なった「率直の美点も欠点も難点も要点も」が出てくる。それは、「表現の革命」をもたらしうるほどのもの、である。
電子メールのかたちで書かれる恋愛小説の秀作は十分期待できるし、期待したい一つである。ストーリーは「紙の本」とそう変わるまい。「特色ある電子メディア表現」は、まずは、電子メール表現の美と魅力とによるそれしか無いかもしれない。ストーリイではない。「文章表現としての新味」が望まれる。望み得る。
2004 2・28 29
* 新たな表現
今年の初めにホームページを拝見してから、ずっと「闇に言い置く」を読ませていただいています。心に留めて意見を聞いてみたいという人に出会えば、その人の日々の記録にも関心を持つのは人の常かもしれません。特に28日付けの電子メールのやり取りをめぐるお話は刺激になりました。恋文との関連を論ずる力はないのですが、感じたことを二つ述べます。
ひとつは、メールの機能的特色についてです。メールでのやり取りは時間も距離も隔てられているので、相対したり電話で話したりするのとは違い、お互いをある程度尊重することができます。この点では手紙と共通するものがありますが、手紙と決定的に違うのは、即時に便りが相手に届くことです。その気になれば打てば響くような応対が可能です。メールが普及し始めたときに、メールは手紙と電話の中間であるとよく言われました。電話のような気楽さを
持ち、手紙ほどには重くない。かといって痕を留めない電話の会話と違って、記録が残る。この2点で電子メールはまさに中間形態といっても良いかもしれません。「率直の美点も欠点も難点も要点も」とお書きになっているところですね。
それに加えてパソコンを使うと、特定の人とのやり取りだけを抽出し、それを時系列に並べることが瞬時にできます。それを順番に読んでいけば、自ずとその人となりが明らかになるのは自然のことです。明らかになるのは相手のことばかりではありません。その人に向けた自分のメールを時系列で並べて読んでいくと、こちらのことも良く見えてきます。
これはメールには限りませんが、さらにはある人を中心にしたさまざまな人とのやり取り全体が、ひとつの独自の世界を作ることになります。「闇に言い置く」に取り込んだ方々の文章の中に、ご自分が反映されると書かれることとも通ずるものでしょう(その時は触発されて、私自身のホームページの日録に「我が生命の照り返し」と題するものを書きました)。
もうひとつ、大切な論点を示唆されているように思いました。それは「電子メール表現の美と魅力」、言い換えると電子メディアの文章表現への影響です。
電子メールが普及し、それを新規の手段として珍しがって使ったり論じたりする時期はもう過ぎています。メールが日常化すると、その特性を生かした使いかたを考えねばなりません。それは電子メールに独特の書き方があるのかという問いでもあります。特にものを書く人々が電子メディアを表現手段としてどう使うかは、とても興味のある点です。
以前石川九楊を取り上げられたときのご主張は、「どのような道具で文章を書くかは問題ではないし、環境についても拘泥しない」というものでしたね。重要なのは内容であり、要はその人次第なのであるというのは私も同感です。手書きからパソコンで書くようになっても、その人らしさは変わらないと思っています。とすれば、電子メールによってもその人の文章・文体が大きく変わることはないのではないでしょうか(これは文学的な表現ではなく、客観的な
記録であったり考えを順序立てて述べる文章を念頭にしているからかもしれませんが)。
今回「電子メール表現の美と魅力」、「文章表現としての新味が望まれる。望み得る」とお書きになっていることからすると、以前書かれたのとは異なる可能性を見出されたように感じられます。大切なのはその人の問題意識、つまりは書く内容であるように思うのですが、それも新しい手段により影響を受けるものなのでしょうか。28日の文章を拝見して、そのようなことを暫く考えていました。
今年は春が早めの由、とはいえご自愛の程お祈りしています。私の机の上のクロッカスが、紫の花を延ばし始めました。明日には開くかもしれません。
上の文章は長文です。短くすれば次のようにも書けます。相手にもよりますが、こちらの方が電子メール向きでしょうか。
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秦さま 28日の文章拝見しました。本当にメールは便利ですね。続けて読むとその人が見えてきます。ところで、電子メールでは新しい書き方ができるのでしょうか。ちょっと考えています。どうぞお元気で。 英国
* メールに、泣き顔や笑い顔や、あれこれ記号っぽいシンボルを挿入してくる人がいる。わたしへのメールにはそれは少ないけれど、高校生のメールには自然に出てくる。そういうのを多用すると、必然電子メールの文体になるか、文章になるか。否。それはもう問題を少しズレている。それは現象差ではあるが、文章差ではなく、まして文体差でもない。ましてましてや表現差でも実は無い。
表現は、文章でだけ変わるのでも、言い表せるのでもない。内容の「書かれ方」にもよる。その「書かれ方」にかかわって、新しい表現が、文章と内容との両面から新規にどう熟して出てくるか。外側を飾る記号のようなものでだけ示せるわけなんかない。
盛り場の少年少女の隠語のような物言いで書かれれば、即ち新しい表現か。その辺で短絡すると、新文学という看板も、提灯も、太鼓も、みな間違ってくる。見当が違ってくる。調子はずれなだけですんでしまう。
ペンをにぎって人に手紙など、まして文章など、絶対に書かなかった老人が、女性達が、電子ツールにふれて、思いの外に自分の胸の奥の奥の方から言葉を紡ぎ出してくるようになった。信じられないような「書きもの」体験を重ねて、まるでウソのように毎日毎日書いている。そこで培われる言葉と感情とは、一見年相応に古めかしいようでも、新しい息吹なのである。言葉が発見され発掘されて行く、一人一人の身内から、わき出すように。電子メールやホームページだからこそ書かれうる日本語がある。表現の新しみが期待されるなら、そういう生活体験の変化から、に期待がかかる。現象ではない、生理が変わるのでもない、いわば精神が変わってくるのである。
* 例に取り上げては迷惑かも知れないが、「e-文庫・湖(umi)」に掲載されている藤江もと子さんの「新宮川町五条」といい「灰色の家」といい、いかにもわたしと同年配の人の言葉であり文章のようではあるけれど、もしこの人が電子メールに触れず、パソコンを知らなければ、百パーセント書かれなかったであろう所産であったと、ご本人も述懐されている。
たとえばわたしは、パソコンが今消え失せても、ペンをとって書くことが可能であるが、いまではパソコンだから書ける、電子メールだからこうも謂えるああも言えると思い、しかしペンではよう書かないと云う人が、世界中にどれだけいるか知れないのである。そういう広い範囲の「時代の意識」が機械に反映し浸透し、「新しい表現」が可能になって行くことを、わたしは見通している気でいる。
だが、もう少し、もっと継続して、考えて行きたい。
* 文章も言葉も時代の枠組みに、想像以上に縛られている。文学の言葉とはいえ、明治でも、前半と後半でおどろくほど異なるし、大正となるとまた変わる。昭和の戦前、戦中、戦後昭和、平成。みなそれぞれに違う文章感覚に育まれている。だが文章生理はどうか、それは同じ日本語として質的に通有する素質を大きく分かち持ち、べつものではありえない。「ペン電子文藝館」で、各時代の作品を一字一句句読点に至るまで校正していると、よく分かる。現象は大きく異なり、しかし素質は同じである。平成のセンスで明治の文章を常識校正して貰うと、びっくりするほど単純なところで委員達も躓かれる。句読点がまるで打たれない文章に出会うと、仰天されてしまう。宛字やアテ読み、ふりがな、みないろんな時代の「顔」をして文章は書かれている。それは文章が違うと云うほどのことでなく、文章に表れる現象が時代差をもつに過ぎない。
2004 3・1 30
* 急に冷え込んだせいか、もともと血圧の安定しない母の具合が悪くなり、一人暮しなので、食べ物など運んでようすを見に行かなくてはなりませんでした。明日も母のところにまいります。(私が専業主婦であって一番よかったのは、父や母の健康の悪い時に付き添い、病院にもとことんつきあうことができるということかもしれないと思います。)
夕方階下のポストを見にいきましたら、湖の本がございました。大切に胸に抱え持ち帰りました。ありがとう存じます。これから入浴して美肌? を磨き清めてからゆっくり読ませていただこうと思います。
* 春風にふと誘われる気がするではないか。紙にペンや筆で書くむかしの手紙では、この最後の一文は、そうそうは書けまい、まず絶対に書けなかったろうと思う。だが、電子メールだと書ける。文面で分かる、落ち着いた上品な筆致である。ぽろりと書きすぎたのではないだろう、電子メールだから自然とこういう風に書けたのである。闇を伝って個から個への言葉だ、逸脱というようなことでなく、親愛のにじみ出たある安心の表現になる。ペンで書く手紙でなら、この人、決してこうは書かなかったろう。電子メディアでの「新たな表現の可能性」に、こういうことをわたしは読み込んでいる。電子メディアが誘い出している人間味なんだと、個性なんだと、このようにして、「主婦」が新たな己に遭遇して行くんだといえば、言い過ぎだろうか。 2004 3・2 30
* ちらちらとHPを拝見していたら私の名前が出てきて、あらあら。決して迷惑ではございません。全くその通りで、電子メールあっての今の私です。
理系学生だったこともあって、若いときから読むのも書くのも横書きに馴染み、その上文章を書いてから「ああでもない、こうでもない」と間に言葉を挿入したり、クローズを追加したり、ひとかたまりごっそり順序を変えたりする癖があって、手書きの原稿は、異動を示す矢印や、囲って異動先へと引っ張る線でぐちゃぐちゃでした。
それがワープロ機能を使えば、一挙解決。私にとっては本当に革命的な書き易さ、使いやすさだったのです。
秦様にメールを送るようになったきっかけは、それまで夫に代わって「湖の本を受け取りました」と絵はがきなどを出していたのをメールにしてみた、と言うことだったと思います。
やがてメール特有の語り易さから、夫の代理ではなくて私自身が秦様とメール友達のようについ気楽にお話しをさせてもらうことになりました。
でも、それが私の拙い文章を読んでいただくところまで発展するなど思いも寄らぬ事でした。「ちょっと読んでいただけますか」と送る勇気が出たのもメールだからだったと思います。
最近携帯でメールを交換し始めた友人とは、彼女が川柳に堪能なので、限られた文字数で伝えるのに川柳を真似て5・7・5で返信してみました。そうしたら添削した返事が来て、今彼女を師匠に川柳修行をしています。
この年令になってこんにいろいろ楽しい事が出来るのはメールあってのこと、今やメールあって、私です。
* さもあろうと思う。「便利」だけのことではない、どこかに開放のキーが隠されていて、ながいあいだ或る意味で抑圧していた錠前がとかれている。わたしの体験からいえば、このサイトの読者はとうにご存じのように「花籠」さんという関西の女性がおられて、これは本姓ではない名乗りである。ただ自身が名乗るだけではない、わたしのことを「月様」と言ってこられることがある。これは、花籠と月とのかかわりを出典により心得てのいわば確信的愉快犯である。見る人から見ればダアというところだろうが、メールの功徳であるに決まっている。
閑吟集の花の定座に据えられた極めて美しい歌謡=室町小歌の歌詞はこうである。
花籠に月をいれて もらさじこれを 曇らさじと もつが大事な (三一○)
大学のお堅い先生方は遠慮されているが、「ちろり管見」のわたしから見れば、花籠も月も女性と男性そのものを謂うているのは明白で、この小歌は「性」の最高潮を幸せに持した小歌なのである。「閑吟集」を語った私の著書では、この美しい小歌の解説また最高潮に熱が入っている。そしてこの熱い読者は、承知のうえで自身のハンドルネームも「花籠」とし、そしてわたしを「月様」と、戯れだか本気だか、呼んでこられる。むろん四国在住のこの読者をわたしは見たことも触れたこともない。「月様」はどうかやめてくれとも伝えていない。こういうセンスから一人の女性の内部に新しい言葉が、物言いが、表現が開放され誕生してくるのではないかと想っている。
メールとは「恋文」である、と、わたしがまだ電子メールがこうまで普及していない時期に喝破しておいたのは、これである。
むろん、これはある種の危険や頽廃と背を合わせていることにも気付かねばならないだろう。出会い系サイトで犯罪に巻き込まれるような、電子メールによるヘンに自己都合に走った思い込みは、その危険と頽廃を情けないほど軽薄に体現してしまっている。アンナ・カレーニナに触れて、ある人はメールで、「アンナのこと、現代の女性には違う可能性も十分にあり得ますが、その分『遊び』に傾く可能性も」と、警告を忘れないでいる。メールにより開放される或るモノが、遊びに行くか、人間の真摯な開示に行くか、これは微妙に難しい最新今日の課題だ。
2004 3・3 30
* 電子メディア委員会の同僚委員湯浅俊彦氏から、ML(メーリングリスト)で「電子タグ」に関して要領を得て問題の所在を巧みに指摘した、好レポートが入った。わたしの思うところ、われわれの日常に或る意味では「酵素」のように、ある意味では「黴菌」のように浸透してくるモノである。便利とする面が確かに在る一方、精微にわたり私民の日常が権利面でも人格面でも侵害され行くおそれは広く深く、被害の方が受益よりもはるかに大きいかも知れない、そう思って監視や注意が必要になる「ことば」として、「電子タグ」「タグ」は記憶されていた方がいい。
2004 3・4 30
* 電子メディア委員会の同僚委員湯浅俊彦氏によるいわゆる「電子タグ」に関する纏まった私見ないしレポートといえるものが、委員会に伝えられた。このレポート自体にパブリックドメイン的な価値があると思われるので、お許しを得て転載させて頂く。関心のある人の口から口への討議や意見交換が願わしいし、わたしは、これをペンの理事会に提示して、まずは十の一つでも二つでも啓蒙して行かねばならぬと考えている。
読める人は読んで頂きたい。
* 「電子タグ問題の議論に向けて」(2004年3月3日)
日本ペンクラブ電子メディア委員会 湯浅俊彦・案
1.はじめに
最近、新聞や雑誌などで電子タグの話題がよく取り上げられています。回転寿司のすし皿に電子タグを組み込んだ自動精算システムや、農作物の生産履歴や流通経路がスーパーの売り場でわかるなど、きわめて便利なものとして紹介される事例が多いように思います。[電子タグは、ICタグ、無線タグ、無線ICタグ、RFID(Radio Frequency Identification)タグなど、さまざまな呼び方がありますが、この文章では以下、電子タグとします]
しかし、電子タグの導入に関しては便利さの反面、プライバシーが侵害されるのではないかといった危惧の声が上がっていることも事実です。
そこで、ここでは私たち日本ペンクラブとして特に強い関心をもたざるをえない本や雑誌などの出版物と電子タグの関係について考えてみたいと思います。
まず、最近の政府の動き、そしてそもそも電子タグとは何なのかを簡単に説明し、次に出版界、図書館界への導入事例を挙げ、出版物に電子タグを装着することによって引き起こされる問題をいくつか指摘し、この問題に関する議論の叩き台を提供してみたいと思います。
2.電子タグをめぐる最近の政府の動き
電子タグに関して、日本政府の動きはきわめて積極的です。
経済産業省では「商品トレーサビリティの向上に関する研究会」(経済産業省商務情報政策局長及び商務流通審議官の諮問研究会・座長:浅野正一郎国立情報学研究所教授)が、2004年1月21日に「電子タグに関するプライバシー保護ガイドライン(案)」を取りまとめ、国民の意見募集(パブリックコメント)を1月21日から2月20日まで求めました。
(参照URL) http://www.meti.go.jp/feedback/data/i40121aj.html
また総務省では、2003年4月から「ユビキタスネットワーク時代における電子タグの高度利活用に関する調査研究会」(座長:齋藤忠夫 東京大学名誉教授)を開催してきましたが、2004年2月23日に「最終報告書(案)」として取りまとめ、3月22日まで意見募集し、3月30日に開催予定の研究会で正式決定するとしています。
この「最終報告書(案)」では、今後の推進方策として、「①電子タグの高度利活用のための研究開発の推進、②利用者参加型実証実験を通じた社会的コンセンサスの醸成、③950MHz近辺等の新たな周波数利用の可能性の検証、④電子タグの利用促進方策、⑤安心して利用できるルールの整備、⑥戦略的な標準化活動の推進」を掲げています。
(参照URL) http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/040223_2.html
この「ユビキタスネットワーク時代における電子タグの高度利活用に関する調査研究会」の「ネットワーク利用ワーキンググループ」(徳田英幸グループ長・慶応義塾大学環境情報学部教授)は、「世界最先端のIT国家を目指す我が国における電子タグの位置付け」を「①電子タグを用いることにより、物流・物品管理や生産物の追跡・管理(トレーサビリティ)の高度化が可能。②今後、物流分野、食品分野、環境分野の様々な分野で活用されることにより、ユビキタスネットワーク社会の形成、世界最先端のIT国家の実現に大きく寄与」することと規定しています。
つまり電子タグ普及は、まさに国を挙げての事業なのです。
3.電子タグとは何か
ところで、電子タグとはいったい何なのでしょうか。
いま挙げた総務省の研究会では、次のように規定しています。
「電子タグとは、ICチップとアンテナを内蔵したタグのことであり、この中に個別の識別情報等を格納し、それを電波を利用して読み書きすることで『自動認識システム』に利用することが可能である。電波を利用することで、接触することなく読み書きすることや、複数個のタグの情報を同時に読み取ることが可能である。
電子タグは主に以下の様な特徴を持つ。
・データの送受信が可能
・バッテリーがなくても作動
・薄く ・小さなタイプは、モノに埋め込むことも可能
・IDの読み出し機能のみの安価な製品から情報の読み書き等が可能な高機能製品まで多くの種類が存在」
以上のような特徴を持つ電子タグの普及は「世界最先端のIT国家を目指す我が国」にとっては喫緊の課題であり、総務省では電子タグ関連の経済波及効果を 31兆円と試算しています。また、矢野経済研究所は2004年2月14日、電子タグの市場規模を2003年度見込みで34億3200万円、2010年度には242億8000万円市場に成長するとの予測を示しています。(「Internet Watch」2004年2月19日付)
4.出版界・図書館界での電子タグ導入事例
では、ここでいよいよ出版物と電子タグの関係について具体的に見ていくことにしましょう。
一言でいえば、出版業界では実証実験を始めた段階である一方で、図書館界ではすでに実用化されているところもあるというのが日本の現状です。
ここでは6つの場面を取り上げてみたいと思います。
① 出版倉庫流通協議会のICタグ利用研究委員会
出版倉庫流通協議会は昭和図書や大村紙業、河出興産、主婦の友図書などの出版倉庫会社が中心となって組織されており、書籍に電子タグを装着したときの流通過程各種場面での効果を実証実験しています。2003年11月4日、IC利用研究委員会は電子タグ導入試験のプレス発表を行っています。
この流通倉庫の実務試験では、書協が主催する「謝恩価格本ネット販売フェア」の書籍に電子タグを装着し、流通倉庫では「複数同時読み取りによる出荷検品」、模擬店舗では「商品アクセスのモニタリング、商品アクセス状況の分析、商品内容の確認、精算処理、書棚在庫ロスの見地、商品持ち出しの検知、在庫確認」、流通段階では「書籍貼付タグへの販売管理情報の追記」を実験しています。面白いのは、書棚から取り出した回数(タッチログ)の分析で書籍の売れ筋情報などが得られるとしている点です。販売前の顧客の興味が把握でき、陳列戦略や仕入れ戦略立案を効果的に行うことができるとしているなど、個人を特定する情報が得られればその人におすすめの商品情報が提供されるといった映画「マイノリティ・リポート」(トム・クルーズ主演・スティーブン・スピルバーグ監督)の世界を連想させます。この映画の設定では、住民の行動はつねに監視され、買い物するたびに記録されるのです。
(参照URL) http://www.shuppan-soko.jp
② 日本出版インフラセンターのICタグ研究委員会
正式には「有限責任中間法人 日本出版インフラセンター」で小学館代表取締役の相賀昌宏氏を代表者とし、2002年4月に設立されています。会員企業社 103社。2003年11月より、ICタグ研究委員会の活動を本格的に開始。ICタグ技術協力コンソーシアムを設立し、電子タグが「製造・物流・保管・小売・消費・リサイクル」の様々なシーンにおいていかに活用できるかを検証しようとしています。具体的には現在使用可能な周波数ではなく、UHF帯域を使用可能にするための電波法改定を視野に入れた実証実験をしています。
(参照URL) http://www.jpo.or.jp/
③ 「タグ&パック」
2001年11月20日、文教堂、有隣堂、明屋書店、くまざわ書店、精文館書店、三洋堂書店など当初33法人で始まった会で、コミック版元に新古書店対策としてソースタギングとソースパッキングを要請しています。2004年4月より発展的に解消し、「日本書店万引き問題協議会」になる予定です。
コミックを出版社がパックして出荷し、その上、万引防止対策に商品認識用の電子タグによるソースタギング導入を出版社に要請している書店の運動です。コミック大手5社の会はこの要請に対して、防犯タグとして有力ではあるが、その前段階の過渡期的措置として磁気式タグを書店で貼るシールタギングを逆提案しており、電子タグ装着は頓挫している状況です。万引き問題は書店の死活問題であるのは事実ですが、「古物営業法施行規則改正」「警察庁万引き犯認知件数向上への取り組み」などを進め、新古書店駆逐をめざす余り、有害図書規制などでは自治体や警察に「借り」を返さなければならない事態に陥っているようにも思えます。「青少年健全育成のための法令の一部改正を求める請願」として万引き防止を求めている状態なのです。
(参照URL) http://www.pcomic.com
④ 慶応義塾大学村井純研究室
電子タグを搭載した書籍『インターネットの不思議、探検隊!』(村井純著、太郎次郎社)を刊行し、この本を「実験材料」にして実際の流通経路を通ったあと何割ぐらいが破損するのかという調査を行っています。この本を購入した読者は自宅に持ち帰ったこの本に電子タグが装着されていることを忘れないようにしたほうがいいと思います。「電子タグに関するプライバシー保護ガイドライン(案)」(経済産業省・商務情報政策局情報経済課)で言うところの「消費者に物品が手交された後も当該物品に電子タグを装着しておく場合」にあたります。
出版社の太郎次郎社は「『インターネットの不思議、探検隊!』についているRFIDタグと個人情報について」と題する注意書きをHPに掲載しています。
(参照URL) http://www.tarojiro.co.jp/book/tagwrap.html
それによりますと、「知らない人から知らないうちに読みとれなくする方法を説明します」として、アルミホイルで包む、出版社で手続きをする、という2種類の方法を説明しています。アルミホイルで包む、では写真入りでアルミホイルのかぶせ方を説明していますが、この本を買った人がどれだけこの件を理解しているか疑問に感じます。
「電子タグに関するプライバシー保護ガイドライン(案)」では「アルミ箔で覆って遮蔽できる場合はアルミ箔で覆うなど、電子タグと読み取り機との通信を遮断する手法、又は、電子タグ内の固有番号を含む全ての情報を電磁的に消去する手法等」をあらかじめ説明若しくは掲示、とあります。
このような事態は、映画で言えば「サイン」(メル・ギブソン主演・M.ナイト・シャマラン監督)においてエイリアンからの侵略に備えて頭にアルミホイルを巻きつけて「考えていることを読まれないようにしなくては」と防衛している地球人を思い起こさせます。
村井研究室の斉藤賢爾氏は初版の6000冊に印刷・製本した凸版印刷の人が1冊1冊手作業でタグを埋め込みました、と書いていますが、この実験に自覚せずに巻き込まれている読者についてどのように考えているのでしょうか。
村井研究室の斉藤氏の報告は、下記URL参照
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NBY/RFID/20031225/1/
独立行政法人産業技術総合研究所の高木浩光さんは太郎次郎社の本について、次のように批判しています。
「アルミホイルで包んで自衛しろというのは、IT強者の論理です。IT弱者には、どういうときにどういう問題が起きるかを説明してもらわないと、自衛の必要性もわかりません。昔からハッカーやマニアの間には、嫌なら自分で守るのが当然だという発想があるようです。マニアが個人的にそう考えるのは自由ですが、事業者がそれをやってはいけないでしょう」(東浩紀・高木浩光「対論・『工学化』する書物と社会をめぐって」『季刊・本とコンピュータ』2003年冬号、92ページ)
また、一方で次のような意見もあります。
「逆にいえばアルミホイルや鉛を本のまわりにつけておけば(たとえば、バッグのなかをアルミホイルで覆ってしまえば)、万引きできてしまいます。
(岡部友春「誰のためのICタグか?」版元ドットコム・版元日誌第160回)
http://www.hanmoto.com/diary/diary040218-1.html
⑤ 千葉県富里市立図書館
千葉県・富里市立図書館は2003年4月に開館し、図書管理に大容量の電子タグを導入した日本初の「IC図書館」として出版界にも知られています。
「みんなの図書館」2003年12月号の特集「図書館の最新機器」に富里市立図書館の高橋正名氏が「ICタグによる図書館管理システム」という文章を書いています。
図書館での電子タグ導入目的は「図書の貸出・返却業務の迅速化と、自動貸出機導入による業務の効率化」です。もちろんその背景には職員を何人削減できるのか、があります。ただ、利用者の声として、「職員に借りる本を見られることが気になっていた」、つまり離婚やダイエット、ガン治療などの関する本を借りるところはたとえ図書館職員であっても見られたくないという気持ちがあり、自動貸出機は利用者のプライバシー保護につながるというメリットもあると書いています。また、蔵書点検や棚番号での配架管理などでもICタグは効果を発揮すると期待されています。ただ、面白いことに出版業界で導入を検討しているタグとの関係については、万引き対策として導入される場合、発行されるすべての書籍に装着される保障がないことから、ISBN導入時のように普及するまで時間がかかると見ています。そのほかにも耐久性の問題、無線の周波数帯の問題などを考えれば出版業界のタグとは別に図書館独自のタグを使用するほうがよいのではないかと考えているようです。
(参照URL) 「みんなの図書館」2003年12月号、No.320(図書館問題研究会、
http://www.jca.apc.org/tomonken/)
ほかにも公共図書館関係では、笹沼祟「公共図書館の新たな情報サービス~結城市の事例」(「情報の科学と技術」54巻1号、2004年)において、 2004年5月オープン予定の茨城県結城市立図書館で電子タグを採用する決定を行った経過報告をしています。
図書館と出版界との決定的な違いは、図書館では貸し出しする本にタグをつけるわけですから、コストがそれほどかからないということがあるようです。
⑥ アカデミーヒルズ六本木ライブラリー
六本木ヒルズ「アカデミーヒルズ六本木ライブラリー」の蔵書検索サービスは、iモードが本の位置を教えてくれるということで話題です。利用者はiモードの検索画面に探している本のタイトルや著者名を入力します。すると本に装着された電子タグから送られてくる位置情報をもとに本が見つかり、その本がどの棚の何段目にあるかをiモードの画面上で分かるというしくみです。
このサービスについて、東浩紀氏は次のように語っています。
「六本木ヒルズの会員制図書館ではすべての本にRFIDのチップがついていますね。バラバラに置いてあっても検索すればどこにあるか分かるから本を棚に並べて管理しなくてもよくなっている。同時にここでは、誰がいつどの本を借りたかが完全に把握されている。六本木ヒルズにはアンテナショップがいろいろありますが、この図書館とお店とはデータ的に直結しているはずです。つまり、どんな本を借りたかという客の傾向をデータ化して、ショップでのマネージメントに使っているんだと思います。すべての本に固有IDがつくと、同じことが全国規模で可能になる」(東浩紀・高木浩光「対論『工学化』する書物と社会をめぐって」『季刊・本とコンピュータ』2003年冬号、87-88ページ)
この対論で東浩紀氏は次のように言います。
「本というメディアは、とても長い伝統をもっている。そして数千年前からずっと、書籍はどの本を読んでいるのかわからない、という匿名的な情報流通の媒体として存在しつづけてきた。これは一種の知恵です。図書館で本の貸し出しデータが慎重に扱われるのもそのためです。そのような匿名性には経済合理性はないかもしれない。しかし、この知恵は長い伝統として存在してきたのだから、よほどのことがないかぎり尊重しておくべきではないでしょうか。」(p.87)
出版業界では出版流通システム合理化(出版SCM=サプライ・チェーン・マネジメント)という流れがあり、これは言ってみれば1980年の日本図書コードから一貫した潮流です。その上に万引き対策という書店の喫緊の課題が乗っかってきています。そしてそこでもブックオフに象徴される新古書店対策として、商品のトレーサビリティ(商品の追跡、履歴管理)の観点が入っています。このことは近未来的には買った商品は自分のものという概念から、ある種の使用許諾を得ただけというような知的財産的な権利関係の問題に発展していきそうな気がします。
一方で日本の図書館では人員削減と利用者サービスの観点から電子タグの導入が進展していきそうな気配です。出版業界で導入を検討しているタグとの関係では、出版業界ではすべての本に装備される保障もない上にタグの耐久性や周波数の問題などもあり、出版業界とは一線を画している現状です。しかし、これも将来的にどうなっていくのかは不透明です。
米国の電子フロンティア財団(Electronic Frontier Foundation)は、サンフランシスコ公共図書館が所蔵する約200万冊の図書などに電子タグを添付する計画に対し、利用者のプライバシー侵害の恐れがあるとして文書で計画の見直しを求めているそうです。
(国立国会図書館・カレントアウェアネス-E通信・2003年11月5日[E140]個人情報の流出の要因となるか?無線タグをめぐる議論・米国)
(参照URL) http://www.miami.com/mld/miamiherald/6927665.htm
5.問題の所在
では、ここで議論のために問題の所在を整理しておきたいと思います。
出版物に電子タグを装着することの問題点は、大きく分けて以下の4点にあると思われます。
① 追跡可能性の問題
販売されたあとの出版物の固有コードを読むことで、自宅の書架にあっても、古書店に持ち込んでも、人に寄贈しても、履歴情報が追跡されること。
② 所有者の意思に反して読まれることの問題
離れたところから、所有者の意思に反して、読み取られること。
③ 誰から読まれるか分からないことの問題
市販されている安価な装置でだれでも読むことができること。
④ 知的財産権拡張の問題
書店で買ったあとは持ち主の自由だった出版物が、その貸与や転売について制限される可能性があること。
6.おわりに
電子タグは現在のところ、コストの問題やデータの可読性や標準化の問題などがあり、ただちにすべての商品に装着されているわけではありません。
例えば電子タグ導入を考える業界がまず行き当たるのが、導入コストの問題です。つまり、まだまだ高すぎるのです。しかし、世界最小クラスのICチップ「ミューチップ」を開発した日立製作所では、100万個以上の注文があれば、1つ10円台になるICタグを2004年4月から発売する予定です。(「朝日新聞」2004年1月18日付大阪本社版朝刊)それでも出版界では、たとえばタグの価格が5円、できれば3円以下にならないと出版物には装着できないという意見もあるようです。
また、様々な業界による電子タグの導入実験では、「読めるはずのデータが読めない」「読む必要がないデータを読んでしまう」「誤ったデータが書き込まれる」という事例が報告されています。
そして、電子タグには標準化が進んでいないという問題点もあります。例えば出版業界で装着した電子タグが図書館では使えず、結局別の電子タグをもう一度装着するといった問題です。
具体的に日本の出版業界の現状を考えると、中小零細の出版社や書店では電子タグのシステムに何百万円もかけられないでしょうし、出版社では既刊本に電子タグを改めて装着するとなると、大変なコストがかかるものと思われます。
しかし、日本では電子タグを装着することに対して、プライバシーの観点からの反対運動が起こるようには思えません。海外での事例では、2003年7月に欧米のマスコミが一斉に報道した「米ウォールマート・ストアーズがICタグの実証実験を中止」というニュースや、ベネトンがサプライチェーンにおける商品の追跡管理にフィリップス製のICタグを採用すると発表した直後に消費者団体が「追跡装置が付いたベネトン商品は買うな」と不買運動を起こしたことなどは、プライバシー侵害を恐れる消費者の反発があったからでしょう。
出版メディアについては今日、CD-ROM出版、オンライン出版、オン・デマンド出版といった「電子出版」への関心が高まってきています。そしてそれに伴い、顧客管理上の個人情報の問題や新たな著作権問題がクローズアップされてきています。しかし一方で、電子タグが装着された紙の本や雑誌がもたらす変化にも私たちは注視する必要があるのではないでしょうか。
電子タグと出版物についての論議が徹底的に展開されることを期待しています。 以上
* コンピュータがいかにもコンピュータらしい、でかい恰好、をしていたころから、急速にそれは時代遅れになり、それこそ肌着に至るまでタグが埋め込まれて情報を発信するだろうというほど、細微かつ鋭利な器具に展開し、拡散し、機能して、人の世を管理し始めると予測されていた。「ユビキタス」といった言葉が浸透しているが、それはこういう傾向に拍車をかけている文明思潮に他ならないのである。
上のレポートは、ペンにからめて例えば図書などに的を絞っているけれど、ことほどさように、ありとあらゆる生活の深部にまでタグ文明は攻め込んでくる。そういう予感をしっかり持って、兎に角対応しなくては。
言われているように国家は、政府は、ばかに力を入れてご熱心なのである。何故なのか。いろいろ有るが、とにかく眼がはなせないことは確かだ。
2004 3・4 30
* 電子タグに関するレポートに多大なご評価を賜り、誠に恐縮です。
貴サイトでも広くお知らせいただけるとのこと、私としては願ってもないことですので、どうぞご自由にご掲載下さい。改めてウィルスチェック済みの word文書を添付します。(前日の項に湯浅さんの新しいファイル文章が入っています。秦)
『湖の本』エッセイ31を拝受、いつもながらに、あまりに博識な上に文体のセンスの良さに参ります。秦さんの文章を読むと、私ももっともっと学ばしていただこうという気になります。
2004 3・5 30
* 湯浅俊彦氏の長文「電子タグ問題の議論に向けて」を読みました。すこし思ったところを書きます。
湯浅氏が指摘されていますように、利便性ばかりが強調され、影の部分を隠そうとする意図が働いているように思います。これは来月から適用される消費税の表示方式と根は同じではないでしょうか。内税方式に移行する目的は、近い将来の消費税の値上げをカムフラージュしようとする意思が働いていることは明白です。
電子タグに内在する情報は、プラス(正)といいましょうか、正しい情報として、まず、あるように思います。IT関連業務を生業としてきた私から見れば、電子タグに負の情報を埋め込むことは容易であり、その場合の影響や社会混乱は、鳥インフルエンザの騒ぎなどの比ではないことは容易に予見できることです。
例えば、農産物に電子タグを付け、海外の生産者の情報を入れたとします。やがて流通の過程で、国内の生産者の情報にすりかわれば、国内産として疑われることもなく、以後流通します。
悪意がなかったとしても、個人情報が間違ってインプットされたとして、それが電子タグの類に記録され、本人の知らぬところで読み取られた場合などもどのような事態になるか、怖いですねえの一言で済ませられるものでしょうか。
当分、目が離せないことだけは確かです。 兵庫県
* この指摘は、わたしの恐れている「毒」の部分を、適切に示唆されている。じつに簡単に(と言いたい)悪用が可能な、悪用して私民を食い物にしたい権力や行政や悪商人や悪漢達には、こんな便利な仕組みは無いであろうとすら思われる。怖いことに、そうなのか怖いなあと思う頃には、テキはもう悪用の準備を仕上げている。この「差」のところで、人の世が急速度・急角度に奈落へ誘われ行くのである。若い人達。どうするのですか。
2004 3・6 30
* 電子メディア委員会、山田委員長の体調が案じられる。無事を祈る。
2004 3・9 30
* 好天なれど風はげしく。だが暖かくなった。花粉も少ない。
* 東京の小闇の次の「私語」は、もはや常習犯罪となった顧客情報漏れを介して、その先へ拡大する「個人情報被害」に嘆息したものだ。
* ゴミ袋の中身 2004.3.10 小闇@TOKYO
ジャパネット「たかた」からも顧客情報が漏れていた。テレビ慣れした社長の会見での態度、営業の自粛など、対策も、ちょっと穿(うが)ってみたくもなるほど見事だった。どこかのCEOとは比べものにならない姿を、商売人と投資家との違いというひとがいて、なるほどと。
ファミリーマートローソン三洋信販ソフトバンクBBジャパネットたかた、と来て今日は郵政公社と三井住友カードである。正直、昨日までは私と無関係だった。しかし今日の2社は、どまんなか。どっちにも、ばっちり握られている。特にカードは致命的。どこまで漏れたか知らないが、そもそも同社はまだ公には流出を認めていない、が、カード番号はもちろんだけれど、毎月の電気代や先月西武百貨店にいくら納めたかや、アマゾンドットコムへの上納額や、一週間で 10kg痩せる薬や、盗撮ビデオやアダルトサイトの利用料金などをそれで支払っている事実が公になったら。もちろん後ろの三っつは嘘ですよ。
こう考えるとソフトバンクBBの漏らした内容は、ちょっとほかとは質が違うように思える。住所氏名、電話番号、メールアドレスなどは、ほかの業者からも漏れる可能性はある。ソフトバンクBBは、ヤフーIDを漏らした。これでどの個人がどんなものを、オークションで売り買いしたかが解ってしまう。
スーパーでの買い物籠の中身と同時に、捨てるゴミ袋のなかを見られるに等しい。
昔住んでいた街で、収集日を無視してゴミ出しをしているひとがいた。それが誰なのかは解らなかった。ある日ゴミ収集所近くに住むだれかの堪忍袋の緒が切れて、ゴミ袋の中身を検証したようだった。
ゴミ袋の表には、その中に入っていたらしい携帯電話の明細が貼り付けられていて、その個人名はラインマーカーで強調されていた。
私はその日シュレッダーを買い、ゴミの収集日を再確認した。
それでもこれだけあちこちで個人情報が漏れていては、もう、何を基準にどこを信用して、どんなサービスを使っていいのか解らない。いっそのこと個人情報はすべてオープンにし、漏れてもなーんも問題ないだってもともとみんな知ってるっしょ、という世の中にするしかないのかも知れない。そんな世の中には暮らしたくないけど。
* この様にまるで「あたりまえ」に落ちこんで手の付けられぬ事態になって行くのが、「情報」の性質だ。人間さまはなにしろ「覗き本能」をもっている。我が身から漏れてはイヤだが、人のは漏れてなくても覗こうという。そんな本能に乗じて情報が売り物になり大金に結びつくなら、いいじゃないかと暗躍する手合いは減るわけがない。なにしろ国家というお上が第一番の覗き屋なのだからお話にも何にもならない。住基カードはもうぼろぼろの金網のように成りつつあるが、被害だけ拡大して、私民は何のトクもない迷惑ものに成り終わるだろう。馬鹿げている。世界にはエシュロンやその追随の巨大盗聴国際組織が出来上がっている。だから気にしても始まらないとは言ってられない。
2004 3・11 30
* この一月近く、いかにもタチのわるそうな正体不明のメールが日に日に舞い込む。むろん、水際で受け付けていないから中身は知らないが、よろしからぬであろうことは優に察しが利く。
2004 3・21 30
*「電子タグ」にふれた同僚委員加藤弘一氏の「ほら貝」情報を紹介する。ぜひ東京新聞のサイトで確認して欲しい、とても気になる、時宜にかなった警告である。
* 東京新聞のサイトに「IT監視社会が来る ICタグで行動筒抜け」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040322/mng_____tokuho__000.shtml
という記事が出ています。
かなり荒っぽい記事ですが、その分、わかりやすEですね。タクシーの運転手管理という話題など、目新しいと思います。 「ほら貝」加藤弘一
2004 3・22 30
* 池袋のメトロポリタンホテル一階で、人と会った。何のためにどう会うのか、事前にもよく分からなかった。「文字コード」問題などに関心のある若い (?)男性ライター。文字コードの問題なら同僚委員の加藤弘一氏のほうが適役に決まっているが、取材ではなく懇談ふうにとのことで、出掛けた。
昼前に会い、一階の軽食堂で頼んだサンドイッチが、異様にいろいろの山盛りで、話してもいるので、半分程残した。二時すぎぐらいに別れ、手を洗った後、顔なじみの店で春めく服などちょっと覗き、そのまま家に帰って、三時前。予想通り。
電子メディアの話は、とかく技術論ふうに底浅く流れて、時代や人間や政治などと斬り結ぶ批評や洞察にならない。大事なのはそれであるが、むしろそれは避けて通られる。ほとんど、時間つぶしに終わる。
2004 3・23 30
* 「週刊文春」問題でペンは声明を出し、各理事にも、メーリングリスト使用の「電子文藝館」と「電メ研」にも配布された。わたしの此の「私語」にも書いたことを一つの意見としてMLで両委員会には表明した。早速に同僚委員のお一人から反響があった。
「文春の問題声明に関しては、賛成です。
しかし、秦理事の「私語」を読んで、私も編集に携わるものとして、今後考えるべき大切な問題が含まれていると思います。
言論表現の自由と権利はもちろん守らなければならないとは思いますが、もし、安易に編集した記事があったとしたら、そこには常に何らかの反省があるはず。編集意図した内容は、覚悟?を決めて、出版すべきです。このあたりのこと、あまり指摘する方はおられないので、よくぞいってくださったと思います。」と。
2004 3・24 30
* 理由は分からない、が、頑強に「二重ログイン」が消えず、メールに不自由していた。別に同じIDを使用する他の機械が加わったわけではないので、以前から繋いであるファックス付き電話を、ファックス専用の設定に置き換えたら、それが働いたのかどうか、いま、元のように働き始めた。思わず大きな息が出た。なんだか途端に目が痒い、今日は花粉が舞っているのだろうか。
やれ、一つ、回復した(ようだ)、やれやれ。こういうことも、なんとか粘って見当をつけられるようになったのか、機械の勝手か。
2004 3・27 30
* 電子メディア研究会のMLでは、なお「週刊文春」問題が語られている。それほどの問題なのである。藤原俊彦氏の詳細な、そして具体的な提言も附随の意見が、今日も届いている。
2004 4・7 31
* 若林宣さんという方から、「ペン電子文藝館」掲載の里村欣三に関して、下記のような情報を頂いた。有り難い。こういうご協力を得てはじめて、よりよい一歩がさらに踏み出せる、責任者館長として場違いではあるが、お礼申し上げ、本館招待席に掲載の「略紹介」に、加味したい。
* (電子文藝館に掲載の)里村欣三の経歴中に「軍報道班員に徴用されマレー戦線で戦死」とありますが、彼はマレー戦線従軍後にボルネオを探検。帰国して『北ボルネオ紀行 河の民』などを著した後、今日出海と共に再び報道班員として、今度は敗色濃いフィリッピンに送られてルソン島で戦死したのではないでしょうか。
調べておりまして、たまたま電子文藝館における里村欣三の項に辿り着き、気づいた次第です。取り急ぎ用件のみにて失礼します。 若林 宣
* 今一つ、オノユキコさんからも、下記のようなメールを頂戴した。技術的なことではあり、委員会でよく対応したい。PDF版の方で読んで頂けると、少なくも読みの休止個所が何頁であったか確認できますが、と云うことかも知れないが、丁寧に対応したい。吾々は、吾々の日ごとの作業についかまけ、読んでくださる人の便宜を配慮し忘れているかも知れない。ご指摘に感謝している。
* 電子文藝館の作品閲覧について(お願い)
こんにちは。 インターネットで、良質の作品を無料で読ませて頂けるのは、とても有り難いことで、画期的なことだと感謝しています。
ただ、できたら個々の作品の大きさ(ファイルのサイズ?)を表示していただけると、もっと利用しやすいと思うのですが。。。
たとえば、ダウンロードしないで画面でスクロールしながら読みますので、30分で読みきれるものなら気楽に読めますが、立原正秋の「冬の旅」は延々1時間半も画面に向かってまだ終わらず、やむなく途中で一旦中断しました。
続きを読みたいのですが、読みかけのところに印があるわけではないのですから、延々とスクロールしなくてはなりません。それを思うと二の足をふんでしまいます。(^^;)
他の方たちは、どのように利用なさってるのでしょう?
それとも、どこかにページの表示があるのでしょうか?
何かの方法でお知らせ願えれば有り難いです。宜しくお願いします。 ono yukiko
* 「電子文藝館の作品閲覧について」のことですが、現状ではこうしているという我流スタイルを紹介いたします。
ある友人からダンテ「神曲」を電子メールの「添付」で紹介され読み始めましたが、この作品は、「目で追う」だけでは数ページも読めませんので、ある「量」を「ワード画面」か、メモ帳(字が小さくなりますが)へ一端複写(コピー)し、再度読み続ける時には、複写済みのファイルを開いて読むか、その章を印刷して読んでいます。自分の「目」も摩耗してきていますし、「メモ」やアンダーラインも付けたいので、このスタイルをとっています。
「電子文字の読書」は「読むこと専用」スタイルの技術のみですから、メモなどの「印」を付けることが出来ません。「電子本」を一端自分の自由になる「ノート」に写し、そこに自分の「電子栞」をいれる(読んだところまでの印を付ける)以外に手だては無いようです。
まだまだ電子技術の「未熟さと使い勝手の悪さ」がこれからの技術者の課題とも考えられますが、電子本の公開側に視点を置きますと、その本を読んでおられる一人一人を認識できないと「栞操作」が出来ないことになり、技術的にやはり不可能ですね。電子栞への挑戦は技術的に魅力がありますが、かりに「莫大なコスト」を掛けて読者一人一人の「電子栞」が可能になったとして、次は「個人プライバシー漏洩等」の大問題が出てきます。 電子本の公開を総合管理するシステムに、「自分の書斎」の部屋の鍵を明け渡しているのですから。
「便利さの追求の危険」。
「不便さ」を忘れて久しいこの時代に不便をかこち「工夫」することも「前頭葉の健康」に良いと考えたいと、「愚痴」であります。 川崎E-OLD
* なるほど。
* 「ペン電子文藝館」は単に作品を掲載するだけでは済まない、関連の諸資料を記録し掲載していなければならない。思いつくままに実地にやってきたけれど、専従委員が欲しい。こころみにどんな資料を必要としているか、挙げてみた。
* ペンクラブ現所属全会員名簿
* ペンクラブ物故会員全員名簿
* ペンクラブ現会員ホームページ一覧
* 「ペン電子文藝館」小説室展示一覧
戯曲室展示一覧
評論室展示一覧
詩歌室展示一覧
随筆室展示一覧
出版編集室展示一覧
反戦反核室展示一覧
* 生年順
氏名五十音順
作品名五十音順
作品初出年次順
* 「ペン電子文藝館」年度別掲載一覧
* 「ペン電子文藝館」招待席人と作品一覧
物故会員の作品一覧
現会員による作品一覧
* 「ペン電子文藝館」出稿要領
* こういう資料も、今まではおおかたわたしの手で記録し掲載してきた。が、点検の手が回らない。二三人は、健在の人を物故者の数に入れてお詫びしたこともある。こういう「地固め」に似た基礎データづくりも「組織・団体」であるからはきちんとしておかねばサマにならないだけでなく、大きな間違いに結びつく。これらは、概して分担が効かない。集中して横断的に目配りしていないと抜け落ちて行く。専従委員を物色し、医学書院以来馴染みの向山肇夫委員に頼んでみたが、あっさり断られてしまった。
2004 4・8 31
* 電子メディア委員会は、何としても東京近辺での新委員を数人は増やさないといけない。さもないと委員会自体が課題の多さの前に破産してしまう。委員数人でだけの勉強会のままでは電メ研と呼んでいた「研究会」から「委員会」になった意義が生きない。委員会は「理事会」「会員」への指導や周知を何より大事にしなければならず、委員だけが内輪で満足していては困るのである。
2004 4・9 31
* この「闇に言い置く」ファイルも30ファイルを満たしてしまい、増設が必要になった。さて久しくそれをしていない。手順を手探りで思い出すのにまる一日かかったが半年分を増設出来た、と思う。
2004 4・13 31
* 二三時間もかけてしてきた長文の作業を、タイトルを付けて保存しないまま続けていて、うかと手拍子にそっくり全部消去してしまった。とっさに復活する手順が頭に入ってなくて、どう慌てても闇の藻くずと消え失せている。こういう体験は何度もしているので諦めも早いけれど、時間は惜しい。がくッ。
2004 4・18 31
* えらそうに言ってもわたしはパソコンの技術的側面では初心者なみで、まだロクスッポ分かっていない。秦さん、タブも使えないんだからと、ペンの事務局の若い女性に顰蹙されるけれど、その通りなので、機械環境になんだか奇妙で異様な現象が起きているらしいとたとえ気はついても、打開や改善に技術的に手を加えるなど、夢の夢でしかない。所詮、そういうことは諦めている。
とはいえ、これを「電子メディア」というグローバルな、政治的・社会的な問題として「考え」ていろんな判断を加えたり理解したり意見をもったりするのは、また別のことで、それはわたしにも出来るししなくてはならないと考えた。だから、日本ペンクラブとしてはその当時意想外のことであったけれど、断然「電子メディア委員会」創設を提案し委員長を引き受けたのだ。大事な仕事の一つであったと、今にしてますます思う。
2004 4・23 31
* メールの交換を通じて擬似恋愛を進行させ続け、それが自ずから一編の創作された恋愛小説になって行かないものでしょうかと、相談ではないが、示唆した人もいた。大分以前だ。必ずこういうことを思いつく人がいて、それどころか実践している人たちも、世間に少なく有るまい。携帯電話のメールが写真入りでこんなに蔓延し氾濫している社会現象が、この示唆または思いつきに「場」のあることを示している。それらしい擬似作品が、広い世間にはもう出ているにちがいない。或る意味の精神的衰弱現象。或る意味で先進時代のさらなる先取りも可能な現象。ただ作品が成されるためには、烈火の如き才能が先行しなければダメだ。さもない限り、オリジナルは不可能である。
2004 4・27 31
* もう十年も前になりますか、無作為に送られてきた電通の新聞広告に関するアンケートが、パソコンを始めた頃から年間何回かのネットモニターの制度に変り、今回は生活周辺の問に今、三十分かけて送信しました。
まあいい加減なもので申し訳ないのですが、「今・此処」に若い気持ちが保てるかと、面白がって続けています。
例えば携帯電話も運転免許も持たず、電化製品も壊れないと買い替えない根っからの関西人、この一年で何も購入していないなんて、アンサーとして失格ではないかと思いながらも、精神的な質問には返答しています。性格は「真面目、几帳面」を選択しました。
買いものにも出かけないで、キリテ カナワのオペラのアリアを聴きながらミシンかけたり、イタリア語のビデオで初歩から復習したりして、しっかりヤモリをしていますよ。 E-OLDW
* 事実はどうか分からないにしても、この「闇」を訪れるE-OLDのMもWも、機械を開けばゲームにうつつをぬかしているといった風情が、ほとんど窺えない。実際は分からないが。妻も機械をあけると、校正の手伝いをしてくれている以外は、数少ないメールの往来以外では、よくトランプで遊んでいる。よく厭きないねとひやかしているが、わたしも、機械がさわれるようになった極く当座は、麻雀ゲームでよく遊んでいた。だがみな厭きた。今はときたま碁の勝負で眠気をとばす程度、ゲームのソフトは機械から全部削除してしまってある。
2004 4・30 31
* 新刊のための「挨拶」を、従来のワープロでなく此の機械で刷ってみている。あまり良い格好ではないが、試行錯誤。少しでも作業をラクにと。
2004 5・8 32
* ホームページなどのバックアップをたっぷり取った。ディスクを整理しておかないと、混雑が煩雑に、そして乱雑になり収拾がつかなくなれば、ディスクの意味がなくなる。
2004 5・8 32
* 不正メール殺到。もう一月ほども。全部そのまま削除で攻撃からのがれている。何故来るのか分からない。クレズといわれるウイルスでは無かろうか。防禦ソフトの「ノートン」はそれを削除できないらしいが、検疫はしてくれて、機械に異状は全く出ていない。
2004 5・9 32
* 稚拙合戦 2004.5.10 小闇@TOKYO
何より驚いたのは、各紙夕刊で一面に持ってきていたことである。ここまでこの手の話が浸透していたとは驚いた。
匿名性の高いファイル交換ソフトを開発していた男が逮捕された。容疑は著作権法違反幇助。
ファイルの交換ならメールに添付したり、メッセンジャーにのせたり、あるいはFTPを使ってもいい。このソフトの最大の特徴は、公開のしやすさと匿名性。ほしいファイルがあれば、それを自分の名を明かすことなく容易に手に入れられる。どこから手に入れるか。同じソフトを使う見知らぬ誰かのパソコンの「公開用ハードディスク」からである。
理屈の上では、交換するファイルは、自分の卒業論文でも自画像でもオリジナル曲でもあり得る。つまり著作権が配布者に属するものだ。しかし実際のところは、違法にコピーされた音楽や映画、録画したテレビ番組、スキャンした写真などが、大半を占めている。結果的に、著作権がほかにある作品の複製物の流通を、容易にさせた。
もうひとつ、このソフトの特徴を挙げるなら、著作権を侵害するおそれがあることを開発者自身が理解していながら、そう発言してきたことである。
個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの
従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。
お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば
誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。
最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が
必要になると思います
作者がこう言っている。
彼に間違いがあったとすればこの点だ。JASRACやACCSのこれまでのやり方を支持できるかどうかは別として、法治国家で法に疑問を抱き行動するなら、それなりのやり方があったはずだ。志はまた、別の話。手段が、間違っている。
ロジックは、子どもを殺された親がその犯人を殺すのと同じ。気持ちはわからないではないが、それはやってはならないことだ。
今は下火になったが、肺ガンになった喫煙者が煙草会社を訴え、肥満体の人間がファストフードの会社を訴えたことがあった。そのナンセンスさと同じ臭いがここにある。
フィリップモリスやマクドナルドは、利益さえ上がれば顧客が「ガンになってもいいと思った」「肥満になってもいいと思った」とは口にしなかった。法治国家で負けないための手段としては、正しい、言い換えるならば当たり前のものだ。
今回の逮捕劇のもう片方の主役は京都府警である。ずばりこのソフトで内部資料を流出させてしまった署員のいる団体であり、また、大手ゲーム機メーカーのお膝元である。これらの情報はこれ以上の何も意味するものではない。京都府警は今回逮捕に至った理由を「著作権法への挑戦的な態度」と説明した。
では、そういう態度でなかったらいいのか、ということになる。
一躍有名になったこのソフトの名前は、Win「ny」。以前使われていた、Win「MX」の進化版という位置づけである。さて、またこれが進化した、 Win「oZ」が世に出た場合、京都府警はどうするのか。WinoZの開発者は、「著作権法への挑戦的な態度」など表には出さないだろう。そして静かに違法ファイルは交換され続ける。
今回は、どちらの戦い方も稚拙であると言わざるを得ない。公判の維持は困難を極めることが予見される。しかし今後長く続くであろう闘いの初戦としては、京都府警の完敗である。
* 電メ研でこういうことも論議しておきたい。
2004 5・11 32
* 風が、羨ましい。風のようにふらり吹いて、向かいの席に座って、お顔を見ていたいな。
「パッション」というキリストの映画を見ようと思いつつ、予告編での痛そうな磔場面に怖じ気付いています。
「トロイ」は二十二日から。
その前に「ギリシア」という本を読んでおきたくて、昨夜は、その本を持ったまま眠ってしまいました。
* こういうふうに電子メールの恋は表現できる。しかし電子メールでなくてもこのままたとえば堀辰雄のような小説の場面に組み入れて、違和感、あるだろうか。無いと思う。無いと思えるところに電子メールの恋表現の実は可能性が生まれている。文藝批評家は、新しい電子時代の表現に対応できるE-経験を積んでおかないと的確な批評や鑑賞が出来なくなるだろう。
2004 5・14 32
(* 十九時半現在、機械は生きている。レジユーム効いていない。放置していると動かず、リセットしなくてはならない。リセットで回復する。まだ、復帰以来一度電源を切ってみた。また無事始動したので一安心している。マドレデウスの「ムーヴメント」にうっとり酔いながら、機械では長田幹彦「零落」の校正を続け、今、会員の長編の複雑な訂正に手こずっている。)
* 何を噛み込んだのか分からないが、機械に異様なピピピ連続音が走り、再起動がきかずにわたしには判読不能の文字画面があらわれて、同様の異様音が続いた。動転した。異様画面を二度三度繰り返し、途方に暮れつついろいろ頭を働かしているうちに、ふと音がやみ、そしていつもの順序で尋常の画面が開いた。機械をとめるとどうなるか分からないので、急ぎ必要な委員会等へ万一故障のおそれありと連絡し、可能なバックアップをとり始めた。ウーム、ながく順調であっただけに心配。このところの不正メールの多さが関係しているかどうか。
ともあれ、メールが繋がらず、またこの「私語」に頓挫が有った場合は、そういう次第と。「子機」の方で何程かカバー出来るかと期待するが。
2004 5・15 32
* 数えてみると六百人ちかくあるメールボックスを、整理し始めた。ながく交信が絶え削除して差し支えないアドレスなど、どんどん消して行く。手近な名簿を見れば記載のあるアドレスも、此処に残しておく必要がない。
また、こちらからは発信しない、必要あって受信した場合のみリターンで返事すればたいてい用の済むアドレスも、削除して行く。仕事関係は、向こうから来れば返事をして大概済む。
またメールを読む時間を、出来る限り二十四時までとし、それ以降に受信したメールは翌朝に読むか、読んでも、返事は原則翌朝まわしにするように変えて行こうと思う。大事な用件や必要な連絡の場合はむろん此の限りでないが、なんとはなく深夜メールを待ち迎えるような生活になってはいけない。来れば楽しい嬉しいメールはいくらでもあるが、メールは所詮使うもの。メールに使われたり振り回されたりは、本末転倒。それに機械のこと、いずれ使用不可能というハメにも陥る。機械環境を頼みにした人間関係ははなはだ不安定と覚悟してた方がいい。
2004 5・18 32
* インターネット機能に重大な故障が発生したらしく、インターネット・エクスプローラはじめ、サイトがすべて読み出せなくなった。「ペン電子文藝館」の校正作業も出来ない。校正室が呼び出せない。なにかしら機械に異常が発生しているとは感じてきたが。
とくにインターネットが重くて、マウスも動きにくかった。「Internet Explorerがインターネットにアクセスしようとしています」という警告が出ていた。それ自体が読み取れない。いまのところどうしていいか分からない。この「私語」が無事に転送出来るのかどうかも分からない。
転送できないことが今分かった。
*「再起動」して、辛うじて復活、か。転送してみる。
転送できた。ノートンのマニュアルに従ってもだめなようであったが、再起動で救われたらしい。此の機械、危機的状態にあると覚悟していたい。
2004 5・22 32
* またしても、インターネット故障が起き青くなったが、先日の回復に用いた手探りを思い出し思い出し、どうやら事なきをえて回復したらしい。胸撫でおろしている。布谷君が木曜午後に来てくれる。そのあと食事に出ようと思っている。
2004 5・24 32
* 機械の調子がどこかヘンである。覗いてみたらと奨められた何でもなさそうな案内サイトをあけて何か変になり、ネットスケープの7.1をダウンロードしてから、ますますおかしくなってきた。
2004 5・25 32
* 布谷君が家まで来てくれて、軽い昼食のあと、コンピュータを点検してくれた。メモリとディスクとを調べていますと云うが、わたしには何をしているのか理解できない。だいじょうぶですと保証されるとやはり安心だ。へんなところは無いではないけれど。CDRを使えるようにしてくれた。うまく利用して行きたい。
一緒に日比谷まで出て福助で鮨にし、二人で二合の酒をわけた。そのあとクラブに入り、布谷君はワインとブランデーを、わたしはブランデーだけを呑み、歓談。
2004 5・27 32
* チャットの縺れから幼い女の子同士の間に殺人が起きてしまった。幼い小さい年齢から機械を玩具代わりに与えて野放しにしてきたこの手のツケは、まだまだ、さらに烈しく増加してくる。
わたしは繰り返し昔から云ってきた、この手の機械は、年寄りにこそ有り難い「電子の杖」となり、「E-OLD」の社会的健康に役立つけれど、幼少年には、少なくも小学生にインターネットの無際限な開放やまして奨励は、全く無用のことだと。わけわからずのIT奨励政権は、景気浮揚策の一環としてのみ、幼年の小学校にまでインターネットをもちこんで、その恐ろしさについては何も顧慮してこなかった。
そのくせ、空念仏に過ぎない、むしろ明らかにまちがった「心の教育」などという言葉遊びで、不誠実な無定見を覆い隠してきた。そんな教育は、心ない政府筋や政治家や教育者に出来るほど生やさしい話ではないのだった。優れた宗教者なら、けっしてそんな「心」になど安易に触ってはいけない、心はむしろ「落とせ」と、歴史的に、訓え続けてきた。「心」を何かの役に立てようとして政治的に語る「心」こそが、かえって諸悪の根源であった。
インターネットほどの「ごった煮」を無制限に与え続けながら、そのブレーキ役に「心」を考えてきたのなら、そんな滑稽な錯誤はない。「心」は、ものの悪しき深みへ人間を誘い込んで行く魔物に過ぎないのに。心の欲するままにしている人の「至らなさ」には、越えてはならない「矩」の厳しさが見えていない。そういう「矩」を自覚するのは、むしろ健康な「からだ」なのだ。健康な「ハート(心臓)」なのだ。
チャットとか掲示板というのは、危険で俗悪な盛り場を、ゴマンと密集させたような汚穢の場所になりやすい。わたしがホームペジを立て、ペンクラブにも立て、また電子文藝館を公開したときにも、何人ものワケ分からずがチャット可能にしては、掲示板を併設してはと云ったけれど、断じて無用とわたしは退けた。それどころか時分のホームページに併設していたそれを、いわば命からがら「撤去」した例なら、幾つも知っている。すべて賢明な撤退であった。
子供達がいずれ問題を起こしそうなことは、明々白々であったし、これからもそうだ。携帯電話のあの狂態を、また嬌態をながめて、アレが尋常普通と思える人はいない、商売人以外は。日本ではそういう悪い商売も、政権が擁護しその「あがり」をかすめ取って延命しているのであるから、政治に「誠」が無いのだから、その事実は総理大臣自らが国会答弁で腐った蛙のつらを晒してシャアシャアしているのだから、なんともハヤというしかないが。
それにしても、とんでもないモノを「総理大臣」にしてしまった。国民はいっそこぞってあの総理大臣のように勤務し、あの総理大事のように年金をくすね、あの総理大臣のように詭弁を弄して、天にツバしながら生きてゆくのが良かろう、か。
* 痛ましい殺人事件にからめていえば、機械で表現する「ことば」の問題が、意味深長に大きい。わたしのメール友達はけっこうな大人たちであるが、時にメールの言葉にきつく躓いて、事実以上にわたしが不機嫌と思ったり、こっちからの通信にムクレたりする。大の大人ですらそうなので、「機械言語」のある種の性質が理解されていないと、無用のトラブルを子供達や恋人達がひきおこすことは重々ありうる。メールは「優しい恋文のように」書くのがイイと、わたしがずいぶん以前から発言し実践しているのは、それだ、それでも、足りないときがある。
いささか「演戯性」の加わるのが問題を含みやすいけれども、本当に親しい同士ならば、お互いの名乗りを、本名にしないで、換え名をつけあうのも、表現を非常にラクにスムースにする。こころみていいことだ。メールは、本の姓名でのつきあいから解放してやることで、かえって穏和になる。誤解の多くを融和するのに役立つだろう。お互いにだけ通用する「メール雅号」をわたしは奨めたい。わたしは、めったに、親しい人とのメールでは「秦」の「恒平」のとは名乗らない。「湖」はもっとも通用しやすいし、茶名宗遠の「遠」もつかいやすい。大事なのは、しかし、むしろ相手方を「どう呼ぶ」かなのである。「囀雀」さんのようにこっちから渾名を呈してしまうと、先方も実名から解き放たれ、気楽に「雀」と自称されている。こうなると少々とげとげしい言葉が出ても、吸収されやすい。いつのまにかほんものの恋文になってしまうこともあり得ようが、それはそれで放っておけばいいのである。年の功である。ヴァーチャルな限界を承知して「演戯の他界」がそこに生じるとき、新しい「文藝の世界」も見えてくる。それが、新世紀だ。
2004 6・3 33
* 午前中に気がかりの仕事や仕事の用意をして、午後は電子メディア委員会に出掛けた。新しい委員が一人加わった以外は、高橋、中川、加藤委員と山田委員長、みな、もとの私の委員会時代の委員ばかりで、和やかであった。
* タグが、書籍に組み込まれそうなタグが問題になったが、わたしは、書籍による思想調査的なことは、実際にはもう有効に行える時代ではないように感じている。田宮虎彦の「足摺岬」や「絵本」をはじめ、多くの本で、かつての特高は険悪な思想調査をしていたが、対象は大学生が多かった。大学生の極めて数少ない時代であった。統制や弾圧は量的にもしやすかった。
いまこの時代に読書傾向によりその人物の思想調査がそう簡単に可能とは思われない、第一書籍だけでなく多くの情報がマスコミ・ミニコミの形で氾濫している。たとえば、読書だけで秦恒平の「思想」調査が的確であり得ようか。たぶん、むりである。わたしが極左翼か極右翼か、たんなる軟派かきわめて硬派か、だれが結論を下せるだろう。公安も、本など調べるよりむしろ電子メディアの使用状態を盗聴するだろう。ますます。あいまいに不確実に思想調査がもてあそばれると、だが、コワイことになる。
* それよりも、電子メディアという「機械環境」が人間に及ぼす影響を「環境」問題として把握しなければ。少なくとも「環境とは自然環境」の意味にばかりとらえていてはならない。小学生少女のチャット等に由来したらしい殺人事件も、いわばそういう「環境」精神や心理や行動や判断を取り巻く「機械的な環境」の起こした事件として起きたのを、正確に見抜かねばならない。環境といえば、山だ川だ海だ空気だとばかり云っていて済む時代ではない。たいてい、その底に「機械環境」が禍している。
たかが小学生に、なんで教育までが機械を強いるのか。そんな必要がどれほどあったのか、それも分かっていない。利権が絡んで莫大な機械が初等教育施設に流入した。だれかが陰険に大きな「得」を得たかわりに、インターネット漬けの少年少女達の不健康な「機械オタク化」が拡大した。軽薄に「心のケア」などと云うのなら、子供達を包囲している、機械や制度による「人工的環境」の毒素について深く考え直さねばいけない筈。
* いま一つ電子メディアで、ペンに携わるわれわれが真剣に考えねばならないのは、主として日本語の「表現」が、機械環境との接触やアマルガム現象の中でどう動いているかの把握だ。チャットの言葉一つで殺人が起きるのである。人権。環境。表現。そして平和。それらの「分母」として「電子メディア」が多大の意義や意味をもう厳に持っている。これが思想の実質なのである。
わたしが、日本ペンクラブに「電子メディア委員会」を提案し創設したのは、単に機械が再現できる漢字数の不足の対策だけなんかではなかった。大きくは、グローバルな視野そのものを変質させてゆく「環境変化への対応」こそが、新世紀の最大必要だと考えていたからである。わたしは、技術はなにも分からない、が、技術しか分からない人より、少しは深く広く「人間」に則し「歴史」に即して感じかつ考えることが出来る。東工大にいて、「理」の塊のような各学部教授会にむかい、いかに「文」の理解力が大切でしかも欠けているかを語ることのあったのは、そのためである。「文理」は分離してはいけなかった。
* 委員会の前に、菊正で鰻の白焼き二匹を喰い、委員会の後には天麩羅を喰い、そして酒を呑んだ。注射も忘れなかった。家に帰ってから、好きなトミー・リー・ジョーンズとクリント・イーストウッドの「宇宙」もの映画をちょっと楽しんだ。
2004 6・4 33
* 長崎の少女間殺人事件の、放映されている少女のサイトを観る機会があった。ブログラムとしても巧緻に創られてある。毒々しいモノは殆ど感じられない、ざっとみたところは可愛い印象のサイトであるが、動画で、熊がなにかに馬乗りになり、背を此方へ向けて殴りつけている。熊が振り向くと顔が血しぶきにまみれているのは、やはり異様に感じられる。バトルロワイヤルのクラスメートの名前を男女別に列記したのもあり、やはり思いなし頻りに痛ましい心地がした。こういうのを見つけ出してきてアドレスを知らせてくるような人もいるのである。
* なんとなく疲労もした一日であった。
2004 6・9 33
* 妻にもいわれ、仰天して調べたら、やはり六月九日以降の転送が出来ていない。欠かした気はなかったので愕いた。どうもネットスケープの調子が悪い、幾度インストールし直しても穢い感じの漢字群の付着した「エラー窓」が開く。それを退治してからでないと「私語」の頁へたどり着けない。たどり着けるだけで助かっているが、とても面倒くさい手順になっている。なんとか「転送」は確認できたが、布谷君にも直せなかった故障。ま、なだめなだめ機械と付き合うしかない。
2004 6・13 33
* 「江戸文学」三十号が贈られてきて、ああもうこんなになるかと驚いている。「湖の本」が八十巻、十八年。われながら信じられない。この午前中にも出来て我が家に届く予定。それからが、我が家は戦場。
その「江戸文学」巻頭に深沢昌夫氏の『近松の「闇」』という論文が出ている。冒頭に興味深いのは、いまネット上で検索すると、「心の闇」が約二万八千、「闇」だけなら約九十四万六千件に達するとある。確かめてみたが、今はもっと増えている。凄い。
長崎の少女間殺人事件をひきがねに、またしてもマスコミは少女達の「心の闇」を盛んに指摘しているが、笑止にも、その「心の闇」が、そんな言葉だけの域をこえて具体的に追究され解明されたという話を聴いたことがない。出来る話ではないらしいことを証してあまりある。
せいぜい彼等が語るに落ちるのは、心とは「心理」のこと、心理的ケアというようなことになる。ケアといえば聞こえはいいが、コントロール、マインド・コントロールといえば、あのオーム真理教や統一協会のおぞましい所業と何処が違うのかと問わねばならなくなってくる。つまり、そういうことが、ますます「心の闇」をかたくなな地獄に変えてゆくのではないか。
「心を育てよう」と識者はすぐいう。「心」は育てられるモノではない、サガしても容易に把捉できないのが心という非在の機能。育てるなら「体育」の方がいいにきまっている。健康な肉体に健康な精神は宿るといわれてきた平凡そうな人類の智慧が、置き忘れられて、機械オタクを、幼稚園小学校からツクリだそうとするから、不幸な事件にもなってくる。彼女が機械のエキスパートになる前に、校庭や戸外でかけまわる楽しさを十分体感していたら、どうだったろうと、昔を思い出し出し、わたしは嘆く。
コンピュータは偉大な「杖」である。若いというより幼い世代に「杖」は無用ではないか。放っておいても彼等は電子的な技能など、社会の波に揺られながら自然に覚えてゆく。それは彼等には「准・母国語」にひとしい。慌てることはなかったのである。莫大な数の機械を小学校へ持ち込んだのは、政治的な利権がらみの手配であったろうと、わたしは疑わない。その段階でいわば「生徒の心の闇」は当然に棚上げされていた。そうしておいて、事件が起きると「心」の責任にしている。政治の責任、ないしは大人社会の責任でなくて何であろう。コンピュータは、老人にこそ適性と言い続けてきたわたしの、これが真意である。
2004 6・14 33
* 日曜らしく、すこし放心ぎみに一日を過ごした。そういえば、六月の「私語」がまるまる放ってあったのを、読み直して二十一日分の文章を日付順に点検し訂正した。書きっぱなしのわたしの日録は、ときにはめちゃくちゃ転換ミスがある。ま、とれたての機械書きの文章にはツキモノだと居直って、内心、少し気にしている。ゆるされたい。手を入れつつ読み直していると、ま、ここまでよく言うよと我ながら頬笑ましい文章もあるし、けっこう発明の文章もある。とにもかくにも、わたしの言葉である。
2004 7・4 34
* 明日、E-OLD の会をもつ。電子メールとインタネットの使用できる老境が寄って、べつに電子メディアに拘泥せず、粗食ながら美酒すこし入れて、閑談清談を楽しみ、ときに政談にも冗談にも渡ろうかというつもり。もともと千葉の勝田貞夫さんと二人で、鰻を食べたり和食を食べたりすき焼きを食べたり鮨を食べたり天麩羅もあったかどうか。新宿、浅草、池袋、日比谷、銀座などで「おとこ酒」をやってきた。一度、森秀樹さんに入って貰ったが、森さんはまだお若い? のではないか。
今回は川崎の玉井研一さん(初対面)と同僚委員で久しい友人の和泉鮎子さんに入ってもらい、さ、どんなことになるか、心涼しく楽しくありたいもの。勝田さんは呼吸器系のお医者さん、玉井さんは電子計算機など理系の技師さん、和泉さんは歌人で古代古典の研究者である。わたしはお三人のどの分野にも少しずつ接点がある。そして四人共に文学という芯がある。
電子の杖をついている六十五歳前後以上の人はわたしの読者には大勢居られるはず。さしづめ同年の和歌山市三宅貞雄さんなど近ければぜひ入って欲しいが、遠い。わたしほど読者のお名前と住所を大勢心得ている文士は少ないが、向こうのお年齢はわからない。妙齢としか思われない佳いお名前の方が、一回りも高齢の刀自であったりもするのである。
だが、ま、六十五歳前後以上というのが、E-OLDの名に恰好ではないか。お人よく、話題おもしろく、さらりと淡交。それが何よりである。神戸の芝田道さんも東工大出身のプロであるが、お歳は分からない。お若いかと思われる。
2004 7・9 34
*『バグダッド・バーニング』の高橋茅香子さんからお返事があった。「さっそくどんな風にできますか、考えてみます」と。 「私はほかの8人が訳したものを全部原文にあたり、間違いを直し、日本語としての統一をはかるという監訳を担当いたしました。 いつも目いっぱい、時間に追われて、ちっとも落ち着いて物事を処理できなく、申し訳けなく思っております。 翻訳は常に孤独な作業でしたが、これ(の翻訳)は、メーリング・リストを活用して、(共訳の)9人がちょっとした疑問でもすぐに話し合い、分からない物の名前などが出てくると教えあい、<電子文藝館>についで、インターネットの力強さを感じることができました」とある。
2004 7・9 34
* 電メ研が、六本木のあの新しい大きな建物に出来ている会員制の新しい図書館を見学に行くという。興味深いが、昼間の六本木は暑いであろうなあと、ややヘキエキしてもいる。
2004 7・17 34
* 鶴見さんを囲んだ鼎談のなかで、主に過去の追体験がされていたのだから無理もないのだが、三日間の話し合いのアトには、食事の歓談ももたれていた。そんな中にも、思想の科学者、プラグマティストの鶴見さん達の話題に、毛筋ほどの「電子メディア」への言及も無かったのは、大きな「限界」であるなと思ったことを書き置く。未来への展望については、裁ち落としたように話題が伸びていなかった。申し合わせであったのか。
* わたしは、電子メディアが、ないし電子的環境がすでにもたらしている思想と生活への深甚な影響を見入れない、哲学や思想は、適応力と指導力を急速に落として行くと見ている。紙の本でしか本を考えないのと同じである。
同時に、わたしの関心は、深いところで、それらの上には無いのである。「タントラ」のような、あらゆる夢から醒めての生死のことに有る。平たく云えば、政治や経済や創造よりも、より親しく深く、愛と死とに関心がある。そして無心に向かいたい。自分のしていることの悉く夢であることは分かってきている。もっと徹して分かって行くだろう、分かろうとしないでも。
* 東京の「小闇」が「闇に言い置く」私語を休止して、もうだいぶん経つ。休止そのものには大闇は賛成した。才能の小出しになるのは惜しかったから。何かしら「他」の方面へ、書く意思と意欲とを振り替えたいという話だった、それは私の思いと一致していた。「私語」の聞けないのは、日々の楽しみであったから大きな寂寥感はあるけれど、新たなどんな挑戦の結果と挑発とで再登場してくるか、わたしは、じっと待っている。
まったくおなじ事が、バルセロナの「小闇」にも言える。彼女も書いて考えているさなかである。
はやりのブログに、わたしは必ずしも全面共感はしていない。とくに若い人達のものには。蓄積すべき「時」の、空気漏れのようなブログは、かなり自慰的な小出し現象に堕して行く危険もあるからだ。ブログは、これまた、むしろE-OLDのものだと言いたい。
2004 7・25 34
* 風が吹けば桶屋が、ではないが、ハッキリ言ってブッシュ政権をともかくも勝たせないこと、後継政権に国際世論を注ぎ込むこと、日本では躊躇なく、ともあれ小泉政権、つまり小泉純一郎の手から政柄を奪い取ること。後継政権には国内世論を一気につぎこむこと。遠回しだが世界平和にソレが必要だ。
国内世論の盛り上げ、国際世論との提携のために、たとえばわたしのような電子メディアのユーザーは、機会ごとに適切な意見や世論を文字通りWWW (world wide web)に電子の闇を透して発言し続けること。どこかのに機関を設けて、日本語の勝れた発言を英訳等の翻訳でインターネットに放射して欲しいこと。そんなことを、わたしは言いたい。
2004 9・6 36
* 同僚委員の加藤弘一さんから情報が来ている。住基カードなど、こういう垂れ流しは予想されたとおりのことで、ただただウンザリする。これじゃあ、わたしが雀さんや鳶さんや花さんや酔芙蓉さんたちのメールを転記して、サイトの空気をせめて柔らかい和んだ感じにしたいと思うのは、あたりまえだ。だからと言って目をつぶってやり過ごすことが出来ない。
2004 9・19 36
* ホームページが相変わらず開かない。こんなに一昼夜もかかる「メンテナンス」があろうわけなく、今、BIGLOBEに問い合わせのメールを送った。何となく気鬱である。
2004 9・25 36
* 相変わらず、マイクロソフト・インターネット・エキスプローラで開くと、このわたしのホームページ・サイトは「メンテナンス」中で今暫くしてからアクセスして欲しいと、これでもう二昼夜も続いている。ホームページが開けませんという声も届いているし、ちゃんと開けていますという声も届いていて、ワケが全く分からない。少なくも私の機械では、従来当たり前に開いていた IE では自分のサイトが全然観えてこない。しかし「転送」は利いているらしい。見える人には何の異状もないのに、「メンテナンス」中と言うことで拒絶されているビジターも有る。困惑している。
2004 9・26 36
* 問題なくホームページ内容の届いている人もあり、届かない人もあるとは、困惑する。肝腎のわたしの機械がわたしのサイトを「メンテナンス」中として、見せてくれない。妻の機械でも見えない。ビッグローブに問い合わせても返辞が無い。
* 雨やまず。なにとなく気が滅入っている。
2004 9・27 36
* 湖の本を宅配便で「責了」したついでに、少し市内を自転車で走ってみたが、風が強く二度三度ハンドルをとられかけた。早々に後戻りし、「ぺると」のコーヒーを呑んで帰った。「e-文庫・湖(umi)」にどうしても原稿が送り込めないので、正しい手順を教わりたく、今晩お店が済んでから我が家に立ち寄ってもらうことにお願いした。
2004 9・30 36
*「ぺると」主人の森中さんにきてもらい、「e-文庫・湖(umi)」へ作品転送の手順を学び直した。こうすぐ忘れてはいけない。感謝。
2004 9・30 36
* うって変わった快晴。
* 数日前のこと、ヤフーの検索で、一服がわりに「恒平」を検索してみた。14073件出て来た。少ない方であろう、そう出会う名前ではない。それでもわたし以外の「恒平」さん、いるわ、いるわにビックリした。音楽の方で名の通った人が二人いるようだった、それは問題でない。
仰天したのは、わたしでない同姓同名の「秦恒平」君に遭遇したことである。何度ちいさい目をおおきく見開いて確かめても、同字の同姓同名。「広報はくた」というサイトに出ていた。第23回伯太小学校水泳大会結果情報という表覧があり、「4年以下」の「秦恒平」君は、25メートル競技の、平泳と自由形と背泳とで各「2位」を占め、バタフライでは「1 位」優勝しているではないか。わたしは、あまりの不思議に深呼吸してしまい、しばしがほど口もきけなかった。
わたしは京都の武徳会育ちで、泳げるけれどもいっこう得意でもない。弥栄中学での夏のプール競泳で25メートルを泳いだときも、水をはねるばかりであわやコースを逸脱しかねない失笑ものであった。伯太小の同姓同名君は何とも何とも頼もしく、どんな少年だろう、連絡が取れないものか、などと夢見てしまうのである。
伯太とは聞いたような名だが、しかと何処かすぐは分からない。そもそも「はかた」と読むのではないかとなんだか塩のコマーシャルで聞いた気がする程度。で、北九州かとかってに思ったものの、伯耆の国がある。その伯と通うなら山陰だ。
なに「伯太」で検索すればいい。
やってみると、島根県能義郡に伯太町があり、今正に平成十六年十月一日から合併して「安来市」に入っている。おう神話の国かあと思ったが、これだけでは安心ならない。何故なら大阪府和泉市にも伯太町の地名がある。
で、直接「伯太小学校」と入力すると、なんとはや島根県には「伯太小学校」が出てこない。大阪府和泉市立伯太小学校の記事がずらりと出揃って来た。なんだかうんと近くなった。
しかし、まだ少し不審がのこる。「広報はくた」というサイトは、島根県の「伯太」で引いたときに見ている。だが、なぜかそれは小学校の広報でなく、高校のであった。ではと、「広報はくた」で検索すると、どうやら是は島根県伯太町の広報で、大阪和泉市のではない。こちら和泉市内の伯太町であり、あちらは島根県の伯太町である。「広報」を公的に出すならこれは島根県能義郡伯太町のほうがそれらしい。しかし伯太小学校の見出しは出てこない。
はいはい、では「島根県能義郡伯太町伯太小学校」とご丁寧に問い合わせると、該当する項目が「ない」と来た。
かくてわたしと同姓同名の頼もしき「秦恒平」君は、島根県安来市の少年か大阪府和泉市の少年か、判然としないままなのである。どうすりゃ、いいのさ、このわたし。
* などと遊んでいたのが、わるく障ったものか、転送出来なくなってしまった。ffftpのピンチである。参った。そういえば、十月六日になにかしら操作変更をするということをbiglobeは言っていた。そのせいか。それなら一日程度で回復するのかも知れないが。「接続しています」と出て、しばらくして「接続出来ません」と出る。FFFTPは働いているのではないか。
「とてもよく晴れているので、洗濯しないと損のような気がしてしまいます。風のホームページ、今日は家のパソコンでも『メンテナンス中』と出ています。『10月6日の1:30から20:00まで』と書いてあります」と、愛知の花さん。BIGLOBEのやることがよく分からない。ま、待つとしよう。
2004 10・6 37
雀さんのメールは、自分の体験や行動を単に報告していて、伝えられるわたし自身との交渉は何もないように、一見みえて、そうではない。これらをこの人はいろんな人に同報しているのでなく、他でもないわたしに伝え、そしてわたしなら興趣を覚えてくれると信じて、つまり「話しかけて」きている。それがよく分かるから、わたしは読んでいる。書き写しもしている。
数あるメールの中には、(私の知らない)誰それと、今日こうした昨日はああした、それがどんなに自分には楽しいことかとだけ伝えてくるのも交じる。気持ちは分かるけれど、わたしは「関係ない」ので、時にシラケる。たんに日記がわりを疎遠な気分で読むのは味気ない。どこかでそれが読み手のわたしへの「話しかけ」に成っていないと、メールは意味薄い。
日記を、半月一月分まとめて送ってくれる人があるのは、これには熱いものを覚える。ちょこちょこのメールなんか面倒でじれったいのでも有ろうけれど、しかし、まるごと自身をこっちへ預けてくる親愛感は感じられる。主に「近世」の風と謂っておくが、日記をまるまる送るという「証しの風習」が、或る世間ではひそかに行われていた。その人はそんなことは知るまいが。
* メールは貰うのは歓迎だが、習慣化してくると書くのが億劫に成りやすい。それで、そのまま何となく疎遠に戻ってゆくという例は、それこそ普通の成り行きであるだろう、自然淘汰というに近い。そうはいえ、淘汰してはならない間柄もあるはずで、いくらかは双方に意識や努力がないと、疎遠の悔いをのこすことも広い世の中にはやまほどあるにちがいない。微妙なことだが、そこがおもしろい。「電子化心理学」がメールなどを素材に方法化され探究されてゆくだろう。試みている学究もいる。
2004 10・12 37
* この機械はかぎりなく便利とも、ひとたび故障すれば完くのお手上げとも、なんともややこしいモノである。同僚委員の機械故障では一月以上も連絡が杜絶したように思う。郵便も電話もあるのだから杜絶はおおげさだが、機械に馴染んだ暮らしや関わりだと、一度メールが途切れると他の手段も使えない気がするから、おかしい。
2004 10・25 37
* 千葉のE-OLDに贈られた白いソックスの動く黒猫クン、喉も鳴らすし可愛い声で啼きもする。手を働かせて、獅子が蝶を追うようにカーソルを愛らしく追っかける。ストレッチアイの休息に最適だ。おじさんの連絡では、どうやら外国人女性の創作であるらしい。癒しという物言いがはやりすぎていて気持ち悪いが、気持ちの和むことはテキメン。デスクトップにおいて、いつでも呼び出せるようにした。
* この機械は、電源を入れるとすぐ佳い緑色バックの中央に名刺大よりは二回りほど大きめな、澤口靖子の普段着ふう軽装斜めの笑顔が、ぱっちり現れる。超美人の靖子というよりも、ごく身近に親しめる爽やかにふだんの笑顔で、最良のビタミン、愛。気分が佳い。機械画面の深い緑と、淡い翠の写真の地色とが小気味よく映え合って。気分の重いときも、どんなに「癒され」ているか知れない。
それに「白ソックス」の黒ネコ君が加わった。あぁあ、こうして人はすこしずつ生身の人間同士よりもヴァーチャルな幻像のほうに、安堵・安心のゆかりを求めて行くのだ、機械の毒の一種である。しかしまた、周の、夢に蝶になる類とも謂えようか。
2004 10・26 37
* 不正メールが多く、右左に削除しているが、ついでに消してはいけないのも消してしまうことがあり、困る。この頃は手が込んできて、化け文字でも RE メールでもなく麗々しく普通の名前で、初めましてなどと来るのがある。女名前であるが、yahoo.co.jp ではしおらしい「個人」ではないと分かる。むろん開かず削除する。
2004 10・26 37
* 徒然草の「全」音読を夜前に終えた。久しぶりの徒然草であり、いちばん痛感したのは、わたしが年をとったということであった。全面的にではないにしても、各段の読みに昔とは明らかな差が生まれてしまっている。ああ前に読んだ頃は若かった、ものごとの味わいようが、元気または暢気または勝手であったと、いちいちに突き当たった。
わたしは兼好という人を、かつて、「従者の眼」から深まっていった人、どこかに市隠の陽気をはらんだ人、俗を俗として拒まない人、どこか「したり顔」の人とも眺めていた。その多くを訂正する気はしないけれど、深く共感でき舌を巻き教え直されることも沢山沢山あって、わたしはしみじみと兼好さんと膝をつきまじえた気がしている。徒然草を選んでよかったなあと、今すぐにも頭からもう一度黙読し直したい気がするほど。
もとより兼好は仏道への即座の帰依と信仰とを求め続けている、読者にも。わたしは仏道というような枠組みは少しも望んでいない、そのところを調節しておけば、兼好のことばに心から服することはたいへん多い。まったく興味も関心も知識もない段々もたくさんあり、今のわたしからすれば、そういう有職の知識や人物談義は割愛した本文が欲しいぐらいセッカチにもなっているが、いい場所を用意して、丁寧に本文とも兼好とも向き合いながら述懐できる「部屋」が欲しい。このホームページの中に、そういう「部屋」をつくることは何でもないわけだ。
* この「私語の刻」が、あまりに雑多すぎると思いつつ覗いてくれている人も有ろうと思う。だから例えばと、話題を部類して幾つも「部屋」に分けたなら、おそらくアクセスに不便・面倒で、こんな妙な作家一人の渾然いや混然として生きている痩せた「すがた」が、さらにやせ細って仕舞うかも知れない。整然と仕分けた「私語」よりは、雑炊のような「私語」に活気や生彩をわたし自身も求めたい気がするのである。
2004 10・31 37
* このサイトが「濃密」に閉じられた時空間でありすぎ、気軽に入ってゆきにくいととも書かれたのを、サーフィンしていて、どこかで誰かが呟いているのを聞いたが、ほんとうにある種の濃密があるならば、わたしは此のサイトを公開はしないで秘めておく。「闇」に言い置くのではあれ、なに分け隔てなく(量と興味とから取捨はするけれど、)なんでも自然にとりこんでいるのは、おそらくこれほど濃密とは逆のありようはないだろう。密であっても、秘密でないからである。
むしろ此処ではかなり無遠慮に開放されてしまう、そっちの方で問題があるというのなら分かる。
2004 11・1 38
* 結婚式のあった椿山荘で、使い慣れない新しいデジタルカメラで数枚を写してきた。手持ちのカメラだとわたしはかなり構図に気を入れるが、小さい手ぶれのする不慣れな機械では、何が何とも格好も付かずにボタンを押している。機械自体はわるくない最新のものだが、掌におさまる小ささの、佳いこともよくないこともある。テレビにもパソコンにも入れられる。機能は例によって奥深そうだが、マニュアルは読みづらい。ほんの玄関でうろうろして過ごすのだろう。
それでも新しいオモチャにはそれなりの癒し効果が有ろうと期待している、が、所詮は機械。いささか毒を嚥んでいる気味もある。うしろめたささえある。
2004 11・7 38
* おかげさまで、京都の「たん熊北店」、六義園よかったです。
将軍綱吉や柳沢吉保が歩いているのを感じられる程には想像力K働かないのが残念ですが、一瞬一瞬で変化する暮れなずむ木立の中をやっぱり歩いたのかと思うと、身近に感じます。
戴いた『私の古寺巡礼』を読みながら帰りました。「さりげなく懐かしい」「けんねんさん」を感じ、都の人の『京のひるね』を感じました。
家に戻ったら、落花生の新豆が届いていました。お送りしてみます。
それから、これからは、遅くなろうが何だろうが、走ったり急いだりしないでください。ひまなおじさんが遊んでるのですから。今日はお疲れになりませんでしたか?
以下はお時間のある時に:
ブラウザを立ち上げた際に、最初に現れる画面を自分の好きなものにする方法:
1.現在のままで、ブラウザを開く
2.上の方の欄の「ツール」をクリック
3.プルダウンメニューから「インターネットオプション」をクリック
4.「インターネットオプション」画面の「全般」をクリック
5.「ホームページ」欄の「アドレス」を記入する欄に、自分の好きなホームページのアドレスを記入する(好きな画面を出して、そのアドレスをコピーすると間違いがありません。)
6.下の方の「適用」をクリック
7.「OK]をクリック
以上で次にブラウザを開いたときには、自分の好みの画面が先ず表示される筈ですが。だめだったらお知らせ下さい。また考えます。
* 感謝します。わたしの機械では、いまだにマイクロソフト・エクスプローラで自分のホームページを開こうとすると、「ビッグローブ」が、今は「メンテナンス中」なので、と、画面を出してくれない。もう何ヶ月メンテナンスしてるんだと呆れている。なにか、ヘンテコ。勝田さんに教わった上の方法でなにかすると元へもどるか知らんと期待しているのである。
* 勝田さんが送って下さった白いソックスの黒猫くんは、いまやこよない仲間で、いい休息になっているが、これを制作した外国婦人のホームページへ入ってゆくと、こりゃまた何とも不思議の森のようで、ドキドキする。
2004 11・10 38
* DIMAGEのViewerが写真の保管と閲覧に便利で、楽しんでいる。この親機にはスキャナーが接続してないのでいわゆる普通の写真から機械にはとりこめない。
2004 11・11 38
* めったにないが、旅行などでときどき、いつからいつまではメールを下さいますなと断ってくる人もある。気の利いたお利口なアイサツで助かる、が、おもしろいことに、書かなくていいとなると、メールなんてものは書かずに済むものだということまで分かってくる。習慣性に陥って、ともすると双方中毒気味になりやすい。携帯電話でメールに狂奔しているらしい人達を、街なかでも電車でも店でも教室でもみかけると、その毒の、習慣性猛毒ぶりがよく分かる。メールを本当に人間関係に役立てて使いたければ、ただの口先のアイサツはやめて、お互いのハートに溶け入るような、射し込むような、鳴り響くような必要な「まこと =真言」の開発が大切になる。それにより多少の刺戟が出ても、うわべのウソよりいいだろう。
2004 11・17 38
* デジカメで黒い猫を撮っても、強いフラッシュライトでハレーションして、漆黒の毛並みが白っぱくれるには参る。また意味は分からないが画素数が多いためというふうに聞こえたのだが、撮った写真がやけに大きくなる。勝田さんに三枚だけでも送ろうとしたが、大きすぎて送れないと警告された。二枚では通過したモノの本当に送れているのかどうか分からない。
ディマージュX50 も、DIMAGE VIEWER も性能が精微に多彩なため、かえってマニュアルが読み取れないし、読み切れない。第一、マニュアルの字が、よくまあこんな細小字を平気で使うなと呆れるほど小さいため、白内障も寸前に来ているらしいわたしにはたいへんな苦労。新鋭機も、まことに難儀。
テレビを買い換えないと、昨日辺りからとたんにガタンと画面が薄くなった。幽霊世界を覗いてるみたい。アンテナのどこかが外れたんだろうとわたしは勝手に診断したが、電器屋の来て見て断罪するに、ブラウン管のこれは典型的な老化ですと。おもしろくもない。
2004 11・21 38
* パソコンもテレビと煮たような軌跡で社会の表面からは無くなりはしなくても、他の開発技術に大きく取って代わられて行くとは、もう早くからさすがにペンの電子メディア委員会創設者で委員長を勤めた、耳にも目にも、繰り返しはいっていた。NTTコミユニケーションのこの君は、もうよほどの先を歩いているのだろう。西武の松坂大輔投手がこの君に感じがよく似ている。松坂が逞しくなって行くのをブラウン管でみるつど、思い出していた。よく風邪を引いていたが、元気で、嬉しい。
2004 11・23 38
* さっき、ブラウン管と書いたが、ブラウン管との久しく久しい付き合いが、テレビの上では昨晩でついに途切れた。液晶の今までより六、七インチ画面の大きいテレビに買い換えた。妻がわたしに買ってくれて、わたしはDVDデッキを新鋭機に買い換える。
京都新門前のハタラヂオ店にテレビジョンという驚異の機械が新商品として初登場したのは、いつごろであったろう。狭い店先へ幾重もの見物が犇めき合い、まだ猛将藤村富美男が阪神タイガースの三塁を守って巨人軍と死闘を重ねていたのを忘れない。力道山の空手チョップのたまげる威力に喝采したのも忘れない。
人の寄るのはこういう時であった。対談集で対談相手の日展画家堀泰明も見に来ていたと語っていたし、遠く粟田学区からも見に来ていたりした。さ、中学か高校か。すぐは思い出せないが、むろんカラーではなかった。
以来数十年。何台のテレビを買い換えてきただろう、指を折って数台、それ以上か。東工大でも教授室にテレビかあった。みなブラウン管だったし、いまわたしの目の前の日立製しっかり大きいディスプレーもブラウン管で、これも東工大の研究費で買ったのを払い下げて貰っている。
* ブラウン管というと、こんな思い出があり、信憑性は今もわたしの中で曖昧だけれど、大学の二年生ぐらいか、はたラヂオ店の店主である父の命に従い、大阪の門真市にあるナショナルの工場内で、一夏、テレビ技術の講習を受けに遣られたとき、二つだけブラウン管について記憶した。一つはテレビ画面が、何本だか決まった数の「走査線」とやらで出来ていること。もう一つは、ブラウン管の中は天文学的な高圧を頑丈に内包していて、万が一にもこの正面画面の防壁が破壊され不幸にしてその前でテレビを観ていようものなら、瞬時にして内圧の暴風で人間の首は千切れて吹っ飛ぶ、大変危険なものです、と。
走査線のほうは、後年、医学書院勤めで写真製版発注に手を染めていたから、普通の写真なら133線だの、紙質がわるいと80線ぐらいだのと注文し分けていたから、これは類推できた。
もう一つの首が千切れて飛ぶ方は、今も半信半疑で、そんな事故をきいたこともない。しかしへんにブラウン管のまえにいるのは気味が悪い。
そういう因縁もののブラウン管テレビと、昨夜、とうどう訣別したのは「歴史」的である。まことに歴史的である。
2004 11・23 38
* 話しことばをお留守にして、書きことばに頼りすぎていると、大事なモノやコトやヒトから、いつ知れず疎遠になり、冷えて、離れてしまいがちになる。ことに人間関係はエネルギー活動、補給がなければ衰える。親しければ親しいほど、親しさに怠惰に甘えていると、もとも子も失うのが疎遠という意味だ。そういうものだ。顔も見ない、手も触れ合わないで書き文字だけが氾濫する電子メール時代に、ほんものの「恋」なんぞますます育ちにくいたろう。
いま、この大事なことを、わたしは「e-OLD小説家」として云っている。ドギモを抜くかも知れない。
2004 11・24 38
* 新しい「すご録」こと録画デッキの操作が難しくて閉口している。たくさんビデオにしてあるのを再生してみると、妙にもやもやと画質がわるい。どこかで設定がまちがっていはしないか。これでは、前のデッキの数倍もおかねをかけて役に立たない。新しいすぐれものの機械ほど、落ち着くまでに、時間が掛かる。
2004 12・27 39