* もの忘れ、記憶喪失が、徐々にと謂いたいが、足早に来つつある。それが自然と躱しながら歩むしか無い、どうこうは出来ない事。キイで、まだ自在に文章の打ち出せてるのが、有難い。* 幼少の頃、「心に太陽をもて」と、なにやら絵本の類に逼られていた。わたしは、どうじに「唇に唄を」とも教わって、これは好いこと、大事なこととと感じた。お蔭で、私は今にしてまだまだ、声に出さずもくちもとに唄を欠かさない、ときに、ウルサイヨと愚痴るほど、実にさかんに童謡や唱歌を無音で唱い続けている、
このとみろは、なぜか、「京都ヲ 大原三千院」とばかり聲無く口ずさみ続けている。とくべつ三千院に曰わくがあるのでない、流行歌の出だしだけが口に残って居るのだ、むろん大原も三千院も懐かしい。
懐かしいわけでは無いが、同志社美学藝術学専攻で、妻と同じ一つ下の学年に「三千院の御姫サマ」とやらが、いた。オソレ多くてくちを利いたこともないが、よく覚えている。「御姫サマ」と謂うのがどんな事実にあたつているのかなどは、皆目知らず聞かずじまいだったが。それで、このごろとかく「京都ヲ 大原三千院」という歌謡曲の出だしが口に甦っているワケでも無い。
「唇に唄を」は、私の場合はほとんどが童謡ばかり、それは五月蠅くも無く受け容れている、「サッチャンはね」とか「垣根の垣根の」とか、「柱のキズはおととしの」背比べ、とか。
* 時には口うるさいのだが、「心に太陽を」よりは「唇に唄を」のほうが親しめる。小さいから秦の叔母ツルの手ほどきで和歌、俳句の存在やカルタの百人一首和歌に興味を持ち、小学校四年生の秋には戦時疎開先の丹波の山なかで京都恋しい帰りたい短歌を創っていた。有済校に帰った五年生三学期の教室で、作文の課題に鴨川などをうたった短歌を二首詠みいれていた。文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。
2024 1/5
* テレビドラマで、むかしの、笠置シズ子の元気溢れるうたと、淡谷のり子の懐かしい歌謡曲とを聴いた。
敗戦間もなく、街にも通りにも家近くにも進駐軍の米兵たちはが、もはや鷹揚に散策して、子供たちや女達に声を掛けたりモノを呉れたりしていた時節だ、わたしはチョコレートも貰ったし、綺麗な(ジョウカー一枚だけの欠けたトランプを貰ったりした。)「あの時代」をまざまざと元気に取り込んだ歌い手は笠置シズ子だった、そしてあの昭和後半を象徴した「美空ひばり」を呼び出してくれたのだ。
淡谷さんとは「対談」たこともあった。じつに巧い歌い手で、安からぬハートをしかと抱いてられた。
* 軈ては 「卆寿」へ手の届くわたしが、或る意味「時代の活気」を愛しもし「よかったよかった」と受け容れていたのは「敗戦後」の「學童・生徒」時代やったなあと、金銀の光るほどの眩しさで今も懐かしむ。何と謂うても「美空ひばり」へ誘われたのだ、その「ひばり」との出逢いは新制中学の一年生の真夏、ちょうど今は吉井勇の歌碑で知られた京の「祇園白川端だった、ロケーションであったのか其の下見のような小人数だった、「美空ひばりが来トルでとるデ」の声に実にパンツ一枚の上は裸で跣足のまますっとんでいった。囲まれている隙間を下からくぐり抜けるように前へ出て立つと、「ちっこい子やな」第一印象の美空ひばりとハダカの跣足で初対面した。「二度目」は無かったけれど。
笠置シヅ子は、あの頃がピクの歌声で「ブギウギ」を日本中に撒き散らしていた。好きとは謂えなくても忘れがたい敗戦後のひとりのシンボルだった。その連續ドラマを、いま、心親しく観ている。
* 菅原ツヅ子の「月がとっても蒼いから 遠回りして帰ろ」あたりまでは聴いていたが、今々の衣裳と化粧と身振り手振りで謳っている「演歌」の類いは、見向きたくも聴きたくもない。「うた」の持たねば意味の無い「活時世」がすこしも聞こえてこないのだ。
2024 1/13
* たくさんな懐かしい童謡が、土曜日の朝ごとに歌われると時に声を放って泣いてしまう、「もらひ子」幼少時の孤独な悲しみが今にも胸に生きのびている。
2024 1/27
* ザザめく夢に身をよけるように寝ていたが、熟睡は成らず。ひっきりなしに様々な童謡などの意味もなさぬ断片が口に憑き続ける。「唇に歌を」と教わった幼少来のもはやクセと化した同調が、老来老病の一種かのようにわたくしに取り憑いていほとんど片時も離れない、昼間も夜の間も。「タントンタ」「オーヤをー」「屋根よーリ」「ゆふづーきカカ」「一つわたしにクダ」「みーかんの」「ハールよ来い」「つーるぎ投ゼシ」「四百ゥ余シュー」「鈴の鳴-る時キャ」「一かけ二かけて三かけて、仕掛けて五かけて橋を架け」「イチリトラ、ラトリトセ」「一匁ーのイースケさん」等々、ひっきりなし寝ても醒めても、わたくしの「クチビル」を遣い立てる。とても、追い払えない。
2024 2/6
* 『ヴギウギ』というあの笠置シヅ子のドラマを「趣理」とか謂う初顔の女優でうちこんで愉しんでいるが、今朝は、あの『東京ヴギウギ』を繰り返し二度三度聴いて往年を熱いまで懐かしんだ。「敗戦後の歌謡曲」でなら、歴史的な記念としても真っ先に此の歌を私は珍重し評価し懐かしむ。敗戦し、「時代」の大きく動いたその実感を歌い籠めたみごとなうたごえであると、子供心にもいきいきと迎え入れていたのを想い出す。
2024 2/9
* そうそう。今日は音楽というより 「歌・唱歌」テレビをシッカリ愉しんだ。懐かしい佳い歌を聴くと 声に出て泣いてしまう。自分ではロクに唄えないのに、童謡も 懐かしい唱歌も 私は大好きで。今日は、美空ひばりの絶唱までも聴けて、よかった。ソプラノの「さくら」も素晴らしかったし、カウンターテナーの「秋櫻」も、いつも「愛らしい」モモカちゃんの「しょうじょうぢ」も嬉しかった。一緒に唄った。
* サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず。間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は、「ほんと」。可愛い。
世の中、決して安穏でも平和でもないけれど、「クチビルに歌を」という 幼来の好みは私を随分励まし慰めてくれる。唄える歌は自分でも唄っている、いつも。
2024 2/10
* テレビの録画で、たまたま「美空ひばり」生涯の歌唱を通して「觀・聴く」事が出来た。「昭和」を眞に代表する唯一人の「天才」歌手。私は、独り勝手に「昭和の恋人」と想い入れ、懐かしく胸いっぱい充たされた。早起きして良かった。「平成」を代表した天才は、謂うまでも無い四十五回もの「本場所優勝」という途轍もない偉業の「横綱・白鵬」を措いて無い。
2024 2/11
* 夜の八時四十分。一日中何かを「した」という実感も記憶も無い。 ただ、「惚ーれた(惚れたーよ)」と、ひばりの唄の一と声や「ウワーオ」と笠置シヅ子の一と声などなど、誰かの唄の「断片」ばかりが 引き切り無く口サキへ湧いて出る。コレ、私日常、処置無しの「ヘキ(クチ癖)」で、夜なかを「寝ながら」でも、「ジツ」にいろいろに唄の「一句」ともつかぬ「切れっパシ」「口癖」を「無言・無音で唄っ」ている。誰に迷惑も掛けない、幼来の「独り」癖だ。この「ひと聲」ばかりを拾い集めてみたら、いかに多般多彩に「世の唄・唄」が切れ端ながら私の身に染みついているよと感嘆するやろう。「心に太陽を」などと気取らないが「クチビルに(無音の)唄くず」は身を離れない。「これこれ(石の)」「オーイ(中村クン)」「垣根の(垣根の)」「クーモ(雲)に(聳ゆる高千穂の)」「カーサン(お肩を)」「春ーは(名ーのみ)」等々「蓄え」は際限ない。ひばりの唄をたくさん憶えているのに感じ入る。人サマとの對話会話がゼロ化して行く中で、唄の「切れ端」でもこういうツキアイは「孤独」をはげましてくれるだろう。
2024 2/20
* 「サツチャンはね」と愛らしく歌い始めるあたらしい「仕事」を足がかりに「京都」「東山」「有済」を彫り起こし初めても居る。
しかし、かなり睡いいま払暁五時五十五分ナリ。やや空腹か。妻も猫たちもまだ寝入っている。
2024 2/21
* 午前から午過ぎに政倫審の質疑、夕過ぎにも政倫審の質疑を聴いていた。又 美空ひばり生涯の絶唱も また 深く感動しつつ聴き惚れた。
その一方での心身疲労はどす黒くいまでわたくしを辛く深く項垂れさせていた。「休む」以外の道は無い。
2024 3/1
* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。
* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2
* 床にいて 夢ともうつつともなく 唄い続けていた。
白山羊サンがお手紙書いた 黒山羊サンたら読まずに食べた
仕方が無いからお返事書いた さっきのお手紙ご用事ナーニ
白山羊サンも読まずに食べた
仕方が無いからお返事書いた さっきのお手紙ご用事ナーニ
* こんな唄のあるのは知ってたが この通りかどうか。一日中 「クチにしてる」ことがある、ムカーシから。コレも。
サッチャンはね サチコて謂うんだ ホントはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッチャンて 謂うんだね
可愛いね サッチャン
* わたしは「独り」でこういうタワイない唄や唱歌を絶え間なく「口に含んで」子供から大人に、今や爺いになった
が、夢にも,仕事中にもよく、「独りごと」に今も歌っている。「独り」が、イヤなのだ。
2024 3/14
* 相変わらず夢にも唱っている、ただし歌詞を追うよりも、童謡の類の冒頭一句や一語のみをひっきりなしに。夜前はなにであったろう、ふと忘れている。
いま、早朝の七時四十分。
2024 3/18
* この日ゴロのテレビドラマで、淡谷のり子の役九が大事に登場しているのが懐かしい。敗戦後にも「ブルース」という謂いようで聴いていた。美空ひばりや笠置シズ子とくらべなんとも「大人っぽい」と 聴きながら不思議に耳を澄ませていた。はるか後年に、ペンクラブか文藝家協会の会長だった、可愛がって戴いた山本健吉先生と淡谷さんと「鼎談」したことがあり、「存在感」のあるひとだった。淡谷さんは「美空ひばり」に厳しいと聞いていて、山本先生も私も「ひばり好き」だったので、鼎談中にも話題が賑わったりしたのを憶えている。あとで山本先生の曰わく「ひばりをけしかけて、面白かったな」と。
和揺る流行歌首都ちがい、淡谷のり子のブルースなど、流石に逸品と聴いてきた。鼎談にも、こころよく乗ってきてもらえた。あれから、もう何十年になるかなあ。
20243/21
* 「はっぴーカムカム」とか「ヘイヘイ」とか「ジャングルで」とか寝入ったまま唱い続けていた。このところ連續のテレビ『ヴギウギ』にイカレているのだ、何と謂うてもあの笠置シヅ子「ヴギウギ」の絶唱は、敗戦後少年にもカンフル剤の注射に似ていた。励まされていた。たしは以降の人生で圧倒的に「美空ひばり」ひいきだったが、先行した「笠置シヅ子」の「ブギウぎ」にも「ヘイヘイ」にも「はっぴーカムカム」にも鼓舞されていた感謝を忘れていない。懐かしい。「対談」したことのある淡谷のり子さんは、笠置シヅ子のよき理解者で励まし手であり、美空ひばりには手厳しかったった。そんなことの、此の日ゴロ自然と想い出されるのも懐かしい。山本健吉先生もご一緒だったあの「鼎談」からもう何十年か。もうだあれも居られない。わたくしもほどなくまた馳せ参じて沢山の懐かしい人たちと逢うだろう。
2024 3/25
* いま、午前九時四十分。朝方、起きた識からうしろ腰のきつい痛みに弱った。朝食して、二階のソファで寝入り,今しがた目ざめた。マリア・ジョアオ・ピレシュの、躍動して好きなピアノコンチェルトを、昨日から繰り返し聴いている。
すっかりピアノ曲好きになっている。大學の頃、同じ同志社で英文学の教授を努めていた吉岡の叔父とたまたま一緒に市電で三條の方ヘヘ帰るあいだに、私が洋楽は苦手でと云うと,美学藝術學を専攻して何を謂うかと窘められた.モットモと心を入れ替えた。懐かしい有難い価値ある想い出だ。此の叔父、当然にも私が専攻の主任園賴三先生ともご懇意で、叔父の口から園先生へ私の生い立ちなどは伝わっていたようだ。東京へ舞い立つ院生の途中まで、わたくしのことをそれは優しく見守って下さった。同じ専攻の一年下、妻になる人と東京へ出たいと申し出たとき、園先生はむしろ前向きに賛成して送り出して下さった。「作家」への道を亡くなられるまで励まし続けて下さった。
はるか昔の事になった。
いまピレシュの美しく躍動するピアノ曲に聴き入りながら、なんと永く生きてきたろうと粛然とする。先生先達にも同輩友人達にも,後進の人らにすら多く死なれてきた。
いま,私の日々に音楽がある有り難さは言い尽くせない。むしろ美術への愛好が、外出も成らない障害で塞がれている。
* 腰の痛み やわらいで呉れようか…。
2024 4/8
* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9
* わたしは昭和十年の冬至に生まれ、昭和二十年八月十五日に、日本は「敗戦国」となった。わたしは国民学校(戦時の小学校)四年生夏休みに戦時疎開していた丹波の山なかで「終戦(敗戦)」を聞いた。五年生の二学期に大病して京都へ帰った。戦時中には軍歌こそあれ、歌謡曲などつくられていなかった、それが敗戦後の日本に,京都似も溢れ出汁、その頃の歌が最近にも屡々聴かれる。「歌」とは異様なまで不思議な生きものである。ミミにもクチにも,こびりついたように、七十年後の今にも残って居て、けっこう唱えももする。流行歌はさながらに時代時世を記憶のおんょうの用だ,今いまの歌など識りもしないのに、敗戦五の歌謡曲は、したたかに貴覚え唱い覚えている。
2024 4/15
* 永らく、マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノを聴いてきたのを、グレン・グールドのベートーベン、ピアノ・ソナタ30 31 32に替えた。ピアノ曲が好き。
2024 4/20
* 午後一時半も過ぎて。呆然と暮らしている。グレン・クールドがピアノ演奏のベートーベンを聴くともなく。正直に云うと、グッスリ寝入っていたい。
したいこと。幾つも幾つも在る。のに、此の機械の前でも、頭はグタリと深く垂れて上がらない。
2024 4/26
* 七時過ぎ。ベートーベンの美しい曲をグレン・グールドのピアノで、いま、聴き惚れている。鳥肌がたつほど美しくも懐かしい。
2024 4/29
* アルベルティーニのバイオリンソナタ集を聴いている。演奏はエレーネ・シュミットか。最初に聴くのは、なんと「荒城の月の主題による変奏曲」とさえ謂いたい第一番ニ短調、あの滝廉太郎の名曲「荒城の月」を「とりいれたか」とフト想わせる、とはいっても、これまた、なんと、滝廉太郎が懸賞応募作として作ったのが1901(明治三四)年。もう一方は、慶長から元禄に至る「1600年代の古曲」と想われ、私が軽率に誤算していなければ、こりゃ、凄い。
* 昼には、マドレデウス「ファド」を、聴いていた。明日には、アマリア・ロドリゲスの「ファド」を、と。
2024 5/1
* エレーネ・シュミットの演奏しているイグナチオ・アルベルティニを聴いていると、慥かに紛れもなく聞き慣れてきた滝廉太郎の『荒城の月』メロデイの一部分が聞こえて来る。この曲は遙かに滝廉太郎より古く遠くですでに作曲されていたのだが。
今は、誰が弾くか、清らかに美しいショパンを早朝の書斎で聴いている。珠をころがすように、ピアノが、嬉しそう。
2024 5/11
* こう禁足の歳月が続くと「絵画・彫刻」を観に出る事ならず、代わりに、家で(妻のでは無い)溢美のピアノ独奏曲を聴く。いい独唱も愉しめる。合奏や合唱は遠慮する。
* いやなことは,とかく、向こうから近寄ってくる。佳い事は、努めて自身で呼び寄せねば。
2024 6/3
* 夜通し、夢中唱い続けていた、歌は,昨夜は、宮澤賢治作の「星座」でも唱ったかという内の聞き覚えの一節を、ただただ執拗に口ずさんでいた。「クチビルに唄」、ひねもす、真夜中にも「唄の』一節一句を唱い続けるとは,私の、苦痛とも厄介とも嘆くほどの、奇妙な習癖。悪癖か。
しかしクチビルから唄が消えてしまうのは望まない。幼来、独りで唱っている唄こそが、わたくしの「身内」「きょうだい」であったのだから。
2024 6/24
* 両の頚わき、肩の痛み執拗に。著うょく、したかどうかも呆然。文字通りの、梅雨。大声で好きな童謡でも唱おうか。
白山羊サンが お手紙書いた
黒山羊サンたら読まずに食べた
仕方がないのでお返事書ーいた
さっきのお手紙 ご用事ナーニ
八十八老 コー謂うの、好き。
2024 7/1
* 半睲半睡のような一夜だった。これは疲れのもとになる。
○ 老いほれた保谷の鴉は 羽根うたず 匍匐停頓
疲れても疲れてもいかに疲れても疲れの淵を生くいのちなる
右の頚と肩とが 暴れるように 疲れで痛む
『信じられないことだけど』と、ながなが 書き進めながら 疲れると 可愛らしい サッちゃん や 白山羊サン の ウロ憶えの「童謡」を 幾つも唱っているす。繪は描けない けど、歌は唄える カアカアカア
京都へ帰りたいが。汽車二もレ無い、宿も無い。円通寺や 鞍馬や 嵐山へ 渡月橋を越えて、せめて夢路を辿りたい。
2024 7/2
* 芯から疲れているが、ふんばる気は在る。憶えてる限りの「童謡」の断片・切れ端だけを、始終口ずさんでいる。「花は咲く花は咲く」「垣根の垣根の」「恋しや」「早も來啼きて」「櫻木を」「とまやこそ」「あるじは名高き」「岸の家」「おーぼろ月」「鐘が鳴ぁある」等々。頓服のクスリなみに。
そして京都の日々を想い、はるかな平安古代を想い、今日の世界の葛藤と汚濁をにくむ。ネタニヤフ、プーチン、を嫌う。
明日の都知事選を想う。蓮舫の新鮮を買うか、投票所までの酷暑を懼れる。
2024 7/6
* 録画しておいた「懐かしい唱歌」番組で、『おじいさんの古時計』を、いつも唱歌をきれいに優しく唱ってくれる男性歌手で、しんみりと聴いた。原歌はアメリカのと聞き覚えているが、まことにしみじみと「佳い日本語に飜訳」して呉れているのが、詩人「保富康午」 私の妻迪子の「今は亡い実兄」で、末々まで永く遺るにちがいない「美しい懐かしい唱歌に」して呉れている。妹の保富琉美子も詩集をもち、繪も描く。われわれの息子建日子も軽快に小説本の出版をかさね、劇作や映画監督も手懸けている。
ついでめくが、私の亡き実兄「北澤恒彦」は批評家としての仕事を数冊にしかと遺し、遺兒の「黒川創」「北澤街子」も、小説で、現在「しかと活躍」している。恒彦、恒平の生母「阿部ふく」は生来の歌人であった。歌集ももち、故郷滋賀里に歌碑を建てられている。私も、いま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』につぐ第五短歌集『老蠶・閉門』を編み終えようとしている。
2024 7/7
* 「夏のことです、思い出してごらん」と謂った唄が口に浮かぶ。お盆の入り、大文字、地蔵盆、盆踊り。町内へ街なかの落語や漫才や喋べくり芸人を雇ったり、路上高く向き合うた家の二階から二階へ大きな幕を吊って写される「青い山脈」などの映画を覧せてもらったり、いつになく家の仏壇や町内のお地蔵さんがきららかに扉とびらを開けて蝋燭の火が揺れ、大きな蓮の葉にお供え物が盛られたり。
バスを雇い町内の大人に守られて琵琶湖畔での水泳や水遊びに出かけたり。京の街育ちの私は大人になるまで「湖」は見ていても「海」は知らないままだった。
何と謂うても、八月の地蔵盆は町内から町内へ渡りあるく「盆踊り」が華であった。京都の町じゅうに「東京音頭」がうたわれるなど、妙なモノであった
* この歳になり残り寡ないとじりじり覚悟の日ごろに、「想いだして御覧 あんなこと・こんなこと 有ったでしょ」と唱われるのは微妙な気分。ましい「想い出」を造型して「文藝」にしている者には。然し、戦時中の、敗戦直後の「夏八月」は、比較にならず異様であったよ。京都市を覗く歳という歳は爆撃されて燃え盛り、ヒロシマ・ナガサキの原爆で息の根を止められた。
2024 8/11
* 「おカーサン」「ナーニ」「おカーサンて好いにほひ」と。秦の母もそうだった。五歳ともなる前に「もらひ子」して呉れた養母であったが、字義のまま「好い匂いのお母ちゃん」そして「頼もしいお父ちゃん」であった。
いま私の家、一回廊下の奥が 仏壇では無い正面に秦の両親の温顔よく撮れた二枚の写真、そして忘れがたい家族の亡くなった「猫たち」と想い親しんでいる小像が温座している。手洗いの往き帰りに、日に何度も何度も私は壇の前に暫く佇み、「お父ちゃん お母ちゃん」とこのまま聲にして呼びかけ、「ネコ、ノコ、黒いマーゴ」と呼びかけて「語り合う」ている、「有難うございました、有難うございました」「アリガト、アリガトウ」と、心からアタマを下げ、懐かしんでいる。そのわずかな「時間たち」が 老いゆく私を「向こうから」支えてくれる。
2024 8/12
○ 恒平兄上様
毎日酷暑が続いていますが、その中で「私語の刻」をお送り下さり有り難うございます。 やはり 通信があるとほっとします。
「おもいでのアルバム」の童謡は、私達の娘たちの幼稚園の卒園式に、思い出の行事を「替え歌」にして歌った懐かしい曲です。兄上様もご存知で、ちょっと驚きました。そして確かに私達の年齢になると、人生の「あんなこと こんなこと」が色々思い浮かびますね。
また今回は、迪っちゃんの親友だった「もっちゃん」の文章もあり、懐かしいです。ご夫妻そろってお元気でおられることも感動です。
兄上様も迪っちゃんと、そろって まだまだお元気でいて欲しいと、妹の私は心から願っています。
1日も早く、涼しい風が吹いてくれますように~ 琉美子
* 昔の、いわゆる流行歌謡曲を想いだし口ずさむことは無いのに、童謡のたぐいは、自然に口に甦ってくる。
コトコト コットン コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン コトコト コットン
いつの日か (楽しい春がやって来る)
など 思い屈するとき フト くちもとへ浮かんで 気が和らいだり弾んだりしてくれる。
* しかしまあ なんと蒸し暑い晩か。ウェイ…
2024 8/12
* 十一時過ぎ。懐かしい好きな唱歌番組を聴いていた。
義兄で詩人だった亡き保富康午(妻の実兄)の譯詩で「おおきなノッポの古時計、おじいさんの時計」など。私、この歌が、好き。懐かしい。
この唄番組も大好き。愛らしい「ののか」ちゃんの唄声も好き。
わたしは、唄が好き。幼少の昔、どんなに孤りの寂しさを独りで励まし、慰められたろう。
2024 8/30
* 安眠に入れず、夢寐に妙な啖呵を謳ってたり。
ナンダ、ナンダナンダ エー
あんな 男の一人や二人
欲しけりゃ あげます 熨斗つけて
江戸っ子のようだが、耳にしたのはむかし 京都の夏、盆踊りの賑わうころの町内のレコードでもあったか。それを憶えるとなく憶えているので、これは女の啖呵。わたしらの盆踊りは祇園の廓うち、それも戦時の強制疎開で広げれた新地の新道などで夜通しに盛大であったから、ま、こんな啖呵も場所柄であったたのだろう、「欲しけりゃ あげます 熨斗つけて」で「熨斗」なるものの「用」がおもしろかった。わたしは,告白すると,ものごころツイテ以来、年がら年中口の内で唄を噛みつづけている子供だった。上のような唄は幼ではなく少年以降に仕入れてたのだろう、「ハタラジオ店」で育てられたあの知恩院下の新門前通りは、昔も今も、主に観光の 外人客を迎える日本の新古美術骨董の店が目立つ、ま、静かにハイカラな通りだが、我が家の脇の細い抜け路地を南へくぐりぬければ「廓」「花街」の「祇園乙部や甲部」であった、異色のおもしろい街゛った,今も同じ。上記のような啖呵唄は祇園を描いた映画ででも唄われていたか、も。
* ただ、私が始終口のうちに咬んで唄っているのは、概ね、童謡や唱歌。
しかし、こんなのも。
秦の母は唄が好き、父は苦手、なのにその父が私に唯一唄って呉れた唄が有る。
おじいさん おじいさん
あなたの眼鏡で もの見ると
ものが 大きく 見えますね
そんなら カステラ切るときは
眼ぇ鏡 はずして下さいね
あの ラジオ・電器屋の父に貰ったたった一つの歌遺産。わたしは四歳から五歳前ごろに「ハタラジオ店」に「もらひ子」されて、そんな頃にあの父が唄って呉れていた。
おお。「カステラ !」 なんとハイカラに嬉しかったか、それをあの父は、唱いながら切り分けて呉れたのだ。私、昭和十年の暮れに生まれ、十四、五年の「カステラ」ですよ。幼稚園や真珠湾奇襲に二年ほど前。
2024 8/31
* 保谷厚生病院で朝九時、エコー検査を受けに行く予定。
いま、㈣時半。目がショボショボと、視野の清明を欠いている。
昨日歌番組で愛らしい「ののか」ちゃんの元気いっぱい高らかな歌声を聴いた、ソレを夢にも見てわたしも唱っていた、すこし、泣きながら。。
お母ちゃん
ナーニ
お母ちゃんて 佳い匂い
洗濯していた匂いでしょ
お母ちゃんて 佳い匂い
お料理していた匂いでしょ
幼かった日々、京都の、新門前の、「もらひこ」で入った、四、五歳、秦家での懐かしい、慕わしかった「母」のもう還らない「佳い匂い」の想い出が、歌声になって甦る。あの「秦」の母、「育ての母」は時に怕く、けれど優しく「佳い匂い」がした。「生みの母」「実母」を、わたしは全然知らなかった。
「ののか」ちゃんの歌声を「電気のように」即座に覚え、そして口の中で唱ってた。夢にも唱ってた。
2024 9/2
* 馴染みに馴染み愛している「唄番組」で、「ちいさい秋みつけた」や「象さん象さん お鼻がながいのね」などを、しみじみ、聴いていた。唄の無い人の世、考えられない。
2024 9/8
* わたしは、人前では唱いたくないが、ひとりではショッチュウ何かしら 聲は無くも、くちずさむも、唱ってることが多い。新門前の秦家に「もらはれ」たころ、近所に友だちが出来なくて、それで口ずさみの独り歌に親しんだ。
以下、かなりキザに想われかねないが、本郷の医学書院に就職して直ぐ、労組の簡素な新聞様のモノに、「新入社員は「入社の感想」を書くのだと、高飛車に強いられた。出版社の社員誌に「作文」などしたくない。
で、これだけを書いて「係りサン」に手渡した。「はるは名のみの かぜの寒さや」と。
先輩社員の「係りサン」はふざけるなと怒り、わたしは黙っていた。「たった、そのまま」が私の署名で活字に組まれた。
笑われた、嗤われた、が、当時の「編集長」は、著名な国文学者で詩人の「長谷川泉さん」で、若い管理職社員を怒らせていたわたしの「投稿」を、即座に、「春は名のみの風の寒さや」に続いた「渓の鶯うたはおもへど 時にあらずと声もたてず」まで、識られた「唱歌」の儘に読み摂って下さり、金原一郎社長も「心よい」と喜んで下さった。なつかしく、今も、うれしい。
「歌」が好きである。
親しく願っているエッセイスト宗内敦さんの文庫本『歌は心の帰り船』を手近に置いている。
2024 9/12
* 今も、ほぼ日常にひとり口をついて出る幼来の唄に、憶え違いなければだが、コレが、在る。
象さん 象さん お鼻が長いのね
ソーよ 母さんも長いのよ
ちょっと「母と子」の理路必然の對話とはきこえにくく、「象さん母子」のやりとりではあるまい、人の子の「母さん」の思いやりに、なにかしらわが子への諧謔、ユーモア、いとおしみが表れたのか。
ナニにしても、此の、まだ、幼かった「私」には、即座に「ソーよ 母さんも」と応じてくれる実の生みの「母さん」像が、身の周りに「実在して無い」のだった。それで此の唄は、要は「孤り」の「もらはれ子」の私には「苦が手」であった。
しかも、イヤ、だからか、今でも、オー、老耄の私は、しばしば「象さん」「象さん」と口ずさみ唄っている。
いわゆる流行歌は、わたくし、おぼえないし、唱わない、ごく稀にしか。
* いま階下でこの唄を妻がすぱっと当然に訓みとるのを「ホー」と納得して二階へ来たのに、その妻の訓みをもう忘れている。困るなあ。
2024 9/13
* グッスリとは寝ていない,半ば夜中も床のママ私はいろんなふうにモノを思うて居る、ラチもないことも想いながら。幼かった日々におぼえた奇妙な唄を想ってたりする、この歳で。。
イチリットラ ラットリットセ
スガホケキョーの 高千穂の 忠霊塔
何事とも まったく判らない、が、十歳ごろから唱っていた。ほかにも幾つも在り、唄は憶えているが ワケは判らない。
一匁の イ助さん イの字が嫌ーらいで
一万一千一百石 一斗一升 お藏に納めて
二ィ匁に 渡ーたした
と この調子で 「十匁の十助さん」ま真で、近所友だち何人もで声を揃え、唱った。ことに眞夏の暑い晩の戸外の遊びで、よく憶えていて、いまも「夢うつつ」に唱ってたりする、バカらしいとも思わずに。もうもう取り返せない、大昔のことだ。
2024 9/14
* またまた『光る君へ』道長女の中宮彰子と一条天皇の、ようやく男女の仲へ向き合うた辺を観,確かめてから、いま、目覚めて午後三時十七分 よく寝入っていた。寝入っていれば、まさしく平和。私にはいま、そういう「平和」が 無償与えられている。有難いとばかり謂えないが、なにかの衝動があるまで、心静かに受け取っておく。
○ だーれかサンが だーれかサンが
だーれかサンが 見いつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 見いつけた
* 此の唄の 此の 「ちいさい秋 見いつけた」
という唱い出しが 好き。「秋」は 胸に沁みる。
私自身こんなふうに 口ずさんだ 覚えがある。
柿の木 柿の実 柿の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ
栗の木 栗の実 栗の木坂を
ころころ落ちた どこまで落ちた
秋の夜 秋の夜 だーれも知らぬ
はてを知らず 落ちて行く命 と私は感じている。それならば「秋の夜」であって欲しいと 願うのでもある。
2024 9/16
* 晩方すこし寝入っていた。いま、九時四十分、為すべきほどの何も無いときめて、聲なく「ノーエ節」でも「ストトン節」でも「ヨサホイ節」でも、子供の唄でも口ずさみながら寝入りたい。睡ってしまいたい。
2024 9/16
* 讀書も映画も弱り果てた視力に障る。ならば、音楽。幸いに、数えきれぬほど録音盤がある。古今亭志ん生なら落語での全集もある。
唄は、自身口ずさめる。
* 吾と我が身が誰と惑ったりする。
2024 9/18
* 「セイムス」へ脚を運んで、頚や肩の関節の痛みにロキソニン系の塗り薬と3リットルの「京の酒」と肴を買ってきたり。
私、病気や怪我を為ぬ限り、いまや日々の消光に何の義務も厄介もないありがたさ。いまは背のほうで、マリア・ジョアオ・ピレシュが、次々に、モーツアルト、シューベルト、ショパンのピアノソナタを熱くしかも清冽に美しく聴かせて呉れている。感謝。
2024 9/20