ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2008年

 

* いまの三遊亭円歌と、上野の小店で、たまたまカウンターに隣り合って呑んだことがある。まだ「山のあなあな」を話していた歌奴の時代だったかも知れない。
昨日久しぶりにその円歌の少し若かりし日の咄を聴いた。浪曲をうまくあしらった軽快な咄であった。咄でも噺でも話でもあった。
落語家とかりに書いても、読みは「はなし・か」である。もっと略して「しか=鹿」などともいうが、彼らの藝のタチは「はなし」であり、真似れば「鹿もどき」になる。咄家の藝は「かたり」ではない。「はなし」である。
科白を「せりふ」と正しく読めない時代になって、台詞と書く人が増えている。台本の詞のつもりだろう。山科は「やましな」更科は「さらしな」。科白の「科」は、言葉でなく、躰が創りだす「シナ」つまり身動きである。科白の「白」が、「もうす」とよむように言葉の方を意味している。
「科白」は、身動きと物言いと両方の連動や調和をかかえこんだ、含みの大きい名辞。さしづめ科白表現が渾然一流なら「名優」への道がひらける。

* 旧臘のこの私語で、狂言師の語る能舞台「間狂言」への親近や敬意を書いたと覚えている。
能そのものは「謡曲」というように基本は「謡い」である。「歌い・唱い」につながるが、「語り」ではない。
狂言師の藝は「語り」藝であり「咄し」藝ではない。彼らは謡も語りにしてしまう。そこが微妙である。
その微妙さを、わたしは歌舞伎舞台での歌舞伎役者達の科白に、いつも感じる。変幻の藝として感じる。彼らは、語っても咄してもいない。むしろ分母の部分でものを「言う」ている。しかし漫才師のように砕けて「喋って」はいない。かれら歌舞伎役者のいわゆる「白=申しよう」は、かぎりなく佳い意味で混濁している。単純でなく、多くの味が入り交じっている。だから面白く、だから或る意味で融通が利いて、利きすぎて「普通」に分かりよくなる。
彼ら歌舞伎役者は、意外なほど野村萬齋のようには「語れ」ない。萬齋が「殿上闇討」を純然として「語った」ようには、秀太郎も吉右衛門も「鹿谷」や「祇園精舎」が語れなくて、台本どおりに台詞を「読んで」「言うて」しまう。しかしながら萬齋の「語り」は、途中から喋りや咄しや只の物言いに切り替えられない。高度に純粋に単一に磨かれた「語り」藝なのだ。
ところが吉右衛門でも秀太郎でも、台詞を読みながら、喋る方へ言う方へ話す方へ唱う方へ、かなり自在にいい加減に切り替えが利く。歌舞伎役者にはそんな「いいかげん」が「藝」としてゆるされていて、舞台の上で、個々の役者の「工夫」として、藝質に合わせながら独自の科白へ「仕上げ」が利く。われわれ観客は、その結果をば批評し鑑賞して、贔屓したり貶したりする。

* ひろく謂う「話藝」は、容易ならぬ深淵を蔵している。アナウンサーも役者も俳優も、またかりにも藝能につらなるタレントやタレント志望の人たちも、自身の「声・ことば」を大事に大事に素性を覚悟して発してもらいたい。
2008 1・2 76

* 眼を閉じ、闇に心身を投じていた。小一時間か。自然と眼があいた。痛いような、惜しさ。
無数の未練がある。未練とは、処分しきれないモノのこと。この未練、ぬぐい去れればどんなにいいか。
なるほど「蔽=襤褸」は分厚く重い。脱ぎ捨てるために莫大に藻掻くのである。「すてはててき」と言いつつ西行もすてきれていないものを歎いた。西行ですら。わたしなど、まだ何も棄てられなかった、嗤うべし。

* ムリの多い数年を不快に過ごしてきた。不快はすこしも去っていない、失せていない、減ってない。こういう晩年があると覚悟のなかったのは迂闊であった。迂闊な者は迂闊に生きる。

* 流れ去るように正月三ヶ日は行った。「新年」という思いのこれほど稀薄であった年、かつて覚えがない。それどころかわたしはもう「来年」を渇くように待っている、まるで「来年」でこそ、もう四百日もたてばこそ、何もかも「おしまい」に出来るのだと、思いたいかのように。
らちもない。
しかもその四百日が、四千年も先のように遠くて重い。持ちきれない気がする。
2008 1・3 76

*「小堀遠州」のたしか四代ほどの「孫」に、あの小説家上田秋成があったという画期的な研究が世に出たことがあります。都立大学の高田衛さんの犀利な研究成果でした。
少なくも当たらずとも遠からぬ関わりが二人に認められていて、わたしも四半世紀前に金剛・葛城山の麓まで調べに行きました。残念ながら小説には出来なくて、わたし自身の実父・生母を探索する長い旅になりました。九百枚ほどの草稿が今も放り出してあります。
わたしの育ちました京都新門前通りの東の末が袋町になっていて、秋成がはじめて大坂から京都に移り住んだとき、その袋町に住みました。袋町界隈は久しく「こっぽり」とも通称されていまして、小堀遠州ゆかりの故地であったと想われます。  湖
2008 1・7 76

* 仮名手本忠臣蔵が太平記に取材していることは、聞き囓ってきたが、いまちょうど、その箇所を『太平記』で音読通過中で。
芝居でも吉良上野に当て込まれた高師直が、浅野内匠頭に当て込んだ塩冶判官の絶世の美女妻に横恋慕する。あげく判官切腹に至る話となるが、ここで立ち止まってみたのは、恋慕へのきっかけになった「価値判断」の問題で。

* 溯って平家物語の好話柄であるが、源三位頼政はいわば「和歌徳」に助けられて恋いこがれた美しい官女菖蒲の前を与えられる。太平記ではそれが鵺退治の褒賞であることを語り、褒賞も褒賞だが、「所領」でも与えられたなら有り難いが、月並みの「美女」ではつまらぬではないかと、ひがみ半分の冷やかしが出る。
それに対し、「さにあらず」という、はなはだ人間的な粋な反論が出る。とどのつまり塩冶の妻の美しさの極みが口さがない或る女から縷々語られて、これに高師直が権勢をかさにきて飛びついたのである。仲を取り持てとその女に強要し恐喝したのであるが、その顛末はわたしの今の関心にはない。

* 恩賞として土地人民を賜るよりも、美女の情けを汲む方がもののあはれも美しく至福のことであるという意見が、ずかっと飛び出している点、はたしてこれ如何と。
一国一城に比して下し置かれたという茶の湯の道具、茶壺や釜や茶碗や茶入れの話は信長秀吉の時代の話題である。師直らの太平記はだいぶん時節が溯るが、わたしは、あまり茶釜や茶壺のはなしには気乗りがしない。しかし所領か、絶世の女かとなるとどうだろう。まして好いた女であったならどうだろう。
新田義貞にもそんな話がある。あの那須与一にもあったと伝える本がある。平忠盛にもあって、清盛出生の秘話が出来ている。藤原鎌足の「安見子えたり」の場合もそうのようであった。
土地という所領と生身の女という比較はあんまり生々しいけれど、この価値観の差はかなり人別の基準に成りそうに思う。わたしなら、おれならと密かに思いが分かれそうなところが面白い。わたしは。さて。
2008 1・8 76

* 絶対王政もイヤだが、世界史を第二次大戦の終局から戦後体制にまで読み進んできて、なにがいちばんイヤかといって、「ファシズム」ほどイヤで怖ろしいモノはない。十把一絡げに括り上げて、生き地獄の業火に投げ込んで行く支配と権力の体制。それはやはり「帝国主義」のひときわ悪辣な変種であり、ナチドイツほどである・ないは別としても、我々日本人も軍国支配に奈落まで蹴落とされた。

* 天皇や皇帝がいるから帝国主義と謂うのではないことを、よく理解しなければならない。「グローバリゼーション」というとなにか世界の安定と平等を誤解するヒトも多いけれど、あれが実は「帝国主義」の一つの同義語なのである。
例えば困っている国に金を貸すかわりに港や鉄道や河川の利用の権利を得て、其処を足場になにもかもを絞り上げて行く。「高利貸し」の徹底した収奪と支配との機構、それが「帝国主義」であり、その最たる本家は、謂うまでもないイギリスであり、フランスであり、その何倍もの勢いを第一次大戦後に得ていたアメリカであった。
ヨーロッパは衰弱し、アメリカ帝国主義が世界を席巻してきたが、対抗して中国がかつてない実力を持ち始めているのが現在であり、ロシアも復帰しつつある。
かつてのドイツやイタリアやロシアや、今の中東勢力など、みないわば英仏米の帝国主義からの苦し紛れの反動で藻掻いて出た、毒性の強い亜種の帝国主義を演じて失敗したり擡頭したり抵抗したりしている。

* 怖いなあと思うこと。
「ヒトラーの最期」の瞬間まで、じつは彼はドイツ国民の多くから見放されていなかったという事実、支持もあり信頼すらあり、まだヒトラーに希望と誇りとを持っていたドイツ国民が少なからずというよりも、多く存在していたということである。
ファシズムの長いモノにぎりぎりと巻き上げられていて、その苦痛が希望かのように錯覚できる人間が、いないどころか、大勢あの瞬間にもいたという事実をわたしは恐怖する。そういう心理の人たちこそが、ともすると「大連立」といったファシズムに希望をもつのだから。

* そして今や誰でもない、地球が痛めつけられている。憤然と地球の反撃が加速度を帯び始まっている、のに、むろん私も含めてだが、みな、まだ、タカを括っている。まさか。まさか。まさか。そう思っている。

* 第二次大戦後の世界に特徴的なのは、よかれあしかれ巨人的な政治家がいないこと、とは誰もが気づいている。そしていったい、どういう政治家を人はいま期待しているのだろう。ヒットラー、スターリン、毛沢東。「大連立」などを期待している人は、いっそ彼らの再来を待っているのだ。わたしは、断然、御免蒙る。戦時宰相のチャーチルも遠慮する。
これだけアメリカ不信のわたしであるが、総合点としては、あの「ニュー・ディール」のフランクリン・ローズヴェルトの業績に、説得されるモノが多い。

* いま、「九条の会」などが引っ張って「憲法」の話題が小さくない。
憲法に期待する人は、一つ覚えのように「ワイマール憲法」を言うし、もっと溯って「マグナ・カルタ」このかたの革命的な英国憲法を讃美する。わたしも讃美する、けれど、あのワイマール憲法を高く掲げたドイツは、ヒットラー第三帝国のナチズムの人質になり虐殺されるまで、ほとんど条文の理想は護られてこなかった。店晒しにホコリをかぶっていた。
理想的な憲法が理想的な政治に結びつくという確信は、かなり錯覚に近いことも残念ながら、事実なのである。
日本の憲法は自慢してもちっとも構わない勝れた前文、条文を持っているけれど、総理大臣や東京都知事等第一に遵守義務のある連中が公然と軽蔑の言葉を憚らないというケッタイな関係にある。憲法の前に、政治家の質、国民の質が問題なのである。その点で、不安なのは日本人はあのヒットラーを最期までおおむね支持していたというドイツ人と気質的に近いモノを持っていかねないことだ。
2008 1・9 76

☆ 湖。 お咳の具合はその後いかがでしょうか。  珠
今日は新年パーティで、少々遅く帰宅しました。
さて、帰宅して何故かふと気になってしまい、どういうところから探ってゆくとよいか、湖にご相談させて下さい。
大切に毎日心に刻んでいる言葉、「逢花打花 逢月打月」
花は生、月は死、その逆でも、、と書いていらっしゃったと思います。
茶の稽古でも七事式というのがあり、その一つに「花月」という点前の稽古があります。「花」の札をひいたら点前、「月」をひいたら茶をのむ、これを繰り返してゆきます。
この札の意味がどのように決まったのかも、調べてみたいと思っているのですが、「花」と「月」とはいろいろなところで共に表現されることが多く、いったい「花さん」「月さん」はどのような頃から共に表現されるようになってきたのでしょうか。「月」「花」でなく、「花」「月」が多いのにも意味があるのだろうか。。。などと。
私なりの「花」「月」もとめてゆきたく思っています。
湖。いい休息、そして心地よい目覚めでありますように。

* すこしとりとめなくて、答えにくいが。
この人は表千家の門流と想われるが、裏千家でも「七事式」の習いがあり、つねの稽古日でない臨時の日に叔母も、社中と、「花月」とか「且座」とか、とくべつないわば茶遊の式を教え、また遊んでいた。それ自体はここに謂われる禅語と直接の関係はないだろう。だが茶の湯の道が禅の趣味にまぢかくうまれたのは歴史的に言い切れるのであり、それとても花が好き月が好きの生得の日本人好みに出ているだろう。
花鳥風月ともいい雪月花ともいう。日本人の好尚とはいえ、根は「柳緑花紅」の大陸に生うたものか。
裏の、茶箱点前に、卯の花、花、雪、月があり、表流ではどうか知らないが、たぶん同じだろう。
わたしの早い時期の著に『花と風』がある。わたしの世界観や歴史観の基本の足場を成している。『古事記』の認識には、「花と岩」という対比もあって、四谷怪談にまで手をのばしている。

* ほんまもののナマケモノになって、茫然と暮らしている感じ。これって、いいンじゃないか。
2008 1・9 76

* 『夜の寝覚』のような古典のうちの古典を、わたしは、まるで勝れた現代文学を読むかのように、ヒロインに、また男の、身にも心にも思いを添わせて夢中で読める、のに、また『千夜一夜物語』の途方もない恋物語に熱く思いを添わせて夢中で読めるのに、また過ぎにし人類の久しい興亡の歴史に、真率に思いを添わせて真剣に読めるのに、昨日今日の新聞が読めず、政治や経済のニュースが読めない。その気にならない。
その気になって耳を澄ますのはむしろ地球があげている呻き声の方だ。どうも調子が狂っているようだ。
2008 1・12 76

* 「まったり」という形容が若い人たちにつかわれているらしい。
幾昔かまえは「まったり」は「はんなり」以上に理解されていなかった。いまは、どうなのだろう。
「はんなり」は、「花あり」または「花なり」の語源で、わる口のじつに達者な京ことばの使い手のなかでも、希に見る純真な褒め言葉だろうと思って、早くから小説につかい、講演や読書会では盛んに質問された。『京と、はんなり』という本を書いて以降、類似題の本がつぎつぎに出たのを覚えている。
しかし「まったり」は、意味するところ、つかいみちは承知しているが、「はんなり」とはやや筋のちがった批評語で、裏千家に学んだわたしたちは、主としてお茶のいかにもよく点った感じに用いてきた。どちらかというと、味覚にちかづけて用いていた。悪口ではない、むしろ感触のよろしさを褒めていた。
上の「昴」の文によれば、安息してゆっくりした気持ちで「汽車を待って」いる「気分」を表現しているようで、最近耳にする用例は、これに近いのかなあとふと思う。
2008 1・14 76

* パソコンは、ほんとうに、無数の物書きを生み出している。
ほんとうは「パソコン学」と謂う「人文社会学」が成立して行かないと、この野放図な機械からたちあがった、いろんな生き物たちのすばらしさも異様さも醜さも、行方知れずに混淆して混濁して行くだけだ。
成立しているかのように錯覚している学者達もいるかもしれないが、へんな譬えになるが、柳田国男の行動と蒐集・観察、折口信夫の洞察と構想力とを兼ねたような、天才的な学者が「人間」を基底に、「学問」自体を「創作」しなくては、とても歯が立たないだろう。
2008 1・18 76

* 潮時、という言葉を用いてものごとからきっぱり離れた大小の経験を、幾つか持っている。潮時といえる「ものごと」は有るものだ。自覚をこえて到達してくる潮時も、みずからの決意で招く潮時もある。悔いや未練ののこるのも幾らかあるにしても、潮時は潮時なのである。その言葉を使うか使わずにすますか、それだけのこと。
かならずしも「果てる」潮時だけがあるのではない。それはちがう、「迎え取る」潮時もある。踏み切るとか踏み出すとか肇める潮時もあるのは、とても大事なこと。見落としたり見過ごしたりしてはならぬ「潮時」である。
2008 1・26 76

* プロフェショナルとは何か。歌舞伎役者の坂東玉三郎は、吾が為にも人の為にもぜひ必要な「ある線を高く維持すること」だと。「線」とは、分かりよく質の「レベル」「水準」と考えていい。
あれほど藝に厳しい真摯な努力の天才にして、非常に平易に大切なことを言っている。及びもつかないが、わたしも創作家なら当然のことと自覚している。「駄作(凡打)でもいい多作(打席に多く立つの)がプロだ」という人もいるが、それはミソもクソもの商売人の言うこと。「プロフェショナル」とは自分の仕事に責任を持つ人のことである。その辺の錯覚が「ものつくり」を堕落させてしまう。

* 「同時代日本人」としてともに生きたのが「嬉しい」とまで思える人は、実感として、そう大勢いるものじゃない。
表現者では、坂東玉三郎、美空ひばりをわたしは挙げる。文学の世界にも美術の世界にも一人もいない。谷崎や直哉や川端を「同時代人」とは、残念だが言えないではないか。
ちなみに別の畑でいうと、奇跡を感じたほど力士・千代の富士の小さい大横綱ぶりも、同時代の自慢の一つだった。いまだに信じられないほど驚嘆している。
妻は、美智子皇后を、と言う。
2008 1・27 76

* 『ソフィーの世界』というベストセラーがあった。少女ソフィーが、不思議の手紙を受け取り続けて「哲学」の歴史を学んで行く。
本が買ってあった。息子が持って行った。読んだか読まぬか戻ってきたので、わたしが読み始めている。
「哲学」という学問は、わたしが大学院で研究対象にする筈だった。それをわたしは一年で擲ち、東京へ出て小説家になった。理屈があったのではない、結婚して家庭を持ち職を持ち、そうしながら勉強したいと思った。そうしたのである。結果、東工大がわたしに専任教授の席を用意してくれた。それも人生。
わたしには「哲学・学」を思い切る気持ちが出来ていた。「哲学する」のはいい。それは大切だろう。そのために「哲学学」の知識や思索がぜひ必要とは思えなかった。ヴィンデルバントの著をはじめ哲学史には学んだけれど、人生の、また安心の「役」に立つわけでない。
静かな心になれて安心の境涯にこそ入りたい。厖大な哲学の森は、所詮哲学は、そういう安心の域にたっするに「何等の役に立たないことを厳として人に理解させる」ためにのみ、存在する。哲学の功とは、哲学学は「安心」の役には立たないと究極われわれに分からせてくれる点に在る。わたしがそう思うだけではない、二十世紀最大の哲学者といわれたヴィトゲンシュタインが、それを示唆していた。
『ソフィーの世界』への入り口にはふたつの問が置かれてある。だが、感想は言うまい、さきを読んでみたい。
2008 1・28 76

* よく人を呼んで「先輩」「先輩」と遣っている図が、わたしは好きでない。しかしまた、先輩・先達をこころよく受け容れるのはとても大切なことで、それの出来ない人は、性格的な歪みをかかえていることが多いと眺めてきた。今でも、そんな図はいくらも眺められる。
仕事師といえるような人で、よく出来る人ほど、その道での先輩・先達の名と業績とその意義を、「歴史」として謙虚に心得ている。感銘を受けることが多い。歌舞伎のような伝統藝能でだけの話ではない。文学・文藝の道でも殊にしかりとわたしは思っている。

* 何度も書いているが、わたしは赤貧の新婚生活で、講談社刊の「日本現代文学全集」を一冊ずつ買っていった。百十巻ほどあったから、完結まで十年かかっている。上京結婚就職してちょうどその「十年め」に、わたしは『清経入水』で太宰賞をうけ作家生活に入った。
それまでの勉強は読書をはじめいろいろあったと思うが、いちばん大きな本質的な励み・励ましであったのは、毎月毎月一巻ずつ増えて行く全集の背文字に、先輩・先達の作家や詩人や評論家の名前を目にも胸にも刻み、年譜を熟読し、いかに優れた大勢が此の道の前を歩んで居られたかを、身にしみ承知したことであった。最大の勉強であった。先達のなかには名前すら知らなかった人もいた。そういう人の仕事にもわたしは謙遜して触れていった。多くの出逢いがあった。
「新人」の生活にはいり、作品を次々世に問い、評価も得て本がバカスカと出版されて行くと、つい世に置き忘れられたかに見える先達を、心にあなどりたがるものだが、わたしは、それだけはしなかった。後輩が先輩をしのいで追い越して行けばこそ「道」はのびてゆくのであるが、その「道」たる善し悪しは、なかなかそう簡単に評価はできない。歴史は厳しい。

* わたしは、いま、ほとんど、昔で謂えば「出家」したような生活をして世に遠のいているけれど、視野には、久しい文学文藝の「歴史道」が過去から未来へかけ展望できている。人の評価は相対的で、しかも絶対の価値を追究しなければならない。先達の踏んだ道を自分が今踏んでいることを忘れたなら、「道」の歩みはなによりも資性として、人間として危ういのである。知らぬがナントヤラの愚かな「只の現在人」になってしまうと、ハダカの王様になる。
2008 1・28 76

* 曇天の冷え込み。歯科医院へ、二人で。帰路、バスを途中下車して「リオン」で昼食。ワインがことに美味かった。
フレンチの間にも食後にも、芹沢さんの『人間の運命』を、ふたりして繙くように思い出し、特色を整理して行く。読後の印象も記憶も比較的鮮明で。
一昨日だった、岡玲子さん(芹沢先生息女)のお電話を戴いた。秋には『人間の運命』に関わった話をしに来て欲しいと。
2008 1・29 76

* 画家のいいお話であるが、一つ間違うとつまらないことにもなってしまう。
作品の真価というものを、人により受け取り方がちがうので、良い、つまらないは一概に言えない、と。
こういうことを、享受者も創作者もわりに平気で言う。相対化の可能な、つまりは観る人も創る人も「わたしなりに」という言い訳をしてしまう。
それはちがう。
何が何であろうと、衆目の差をとびこえてより大きくより優れた秀でた作というものは在る。それを創り、それを見分けて行く、それが創作者の意気であり、それを享受者の真の喜びにしないといけない。「解説」の域とはかけ離れたことで、自己満足は赦さないそれが厳しい藝術の誇りなのである。
いいモノだとおもって美術や骨董を買う。幾つか買う。ところがそれらを束にしてもそれよりもずっと優れたものに出会うことがある。出会わねばいけないのである。
そしていいと思ってきた全部を売りはなってなりとも、さらに積み増してでも、より優れた作品をわがものにする。わがものにする、買うというのは、この際の方便で言うのである。
「絵は自由に各個人の感性で見て欲しい。良いと思う作品、つまらないと思う作品は人によって違うし、それで良いと思う」などというのは、創作や鑑賞の厳しさを舐めたはなしであることに、だんだん気づいてくる。
藝術の達成には、厳しく言えば上には上がある。上をはなから見捨てていては、鑑賞も創作も、つまりその程度でおわるだけだ。
そうなんだよ、「松」くん。
2008 1・30 76

* 思案に暮れるというのではない、一心に工夫の必要な念頭の課題があり、なかなか答えが出せないでいる。これはしがみついているしかない。手放せば流れ去って行く。しがみついているしかない。
2008 2・2 77

* いま、手洗いに入るのが楽しみで仕方ない。
京都の道具屋が「これは大事におしやっしゃ」とまるで釘を刺すように誉めていった唐銅の筒に、妻が、草花を。それをわたしは、棚でなく、床におろし、便座から目の真前に見下ろすのである。
草花は見上げるものでない、上から眺めるのが最も綺麗。下に緑の葉もいい千両の赤い実。その上へ白い子花のかすみ草をひろげて、真ん中へ黄のフリージャを数本、やや低めのワキ座にほの赤い小菊。幾重にも層を成して花たちが匂う。目にも匂う。花の美しさが極限に満開して匂っている。
棚に上げたらフツーになる。みおろすと、かかやくように花が宝物になる。わが家で今、いちばんいい場所に「手洗い」がなっている。
2008 2・3 77

* 夕方、どうにもならず機械から離れて床に就いた。九時半まで寝ていた。紙袋に頭をつっこんだ感じか。いろんな勘定が逸れて、湖の本、編輯に手間取っている。からだを動かさないので頭の中がヘンにつまっているのだろう。
わたしは昔から電車に乗っているといろんな着想に恵まれた。いわば「のりもの」(から生まれた)小説が幾つもある。
家に閉じこもっているのが、季節ゆえ余儀ないとはいえ、停滞させている。もっと身軽気軽に外へ出ないと弱ってしまう。
2008 2・5 77

* どうやら、骨子が落ち着いた。スキャンも終えた。いろいろ迷ってかえってハッキリしたのは、わたしたちがツブレないかぎり「湖の本」の百巻編輯は問題なくできるということ。
新作の小説も可能になってくるだろう。作品の方は問題ない。体力・健康という貯金の方がもつかどうか、だ。
このあいだ、耕治人さん私小説の映画化をみた。雪村いずみが奥さん役で桂春團治が耕さんを演じていて、おもしろがっては観ていられなかった。途中で退散した。
鶴見俊輔さんが、もし条件が揃っていたらあの人も「湖の本」をつくりたかったでしょうとわたしに話されたことがある。映画の中の耕さんの年齢がいまのわたしとどうであったかは分からなかった。
作品も本にする技術も必要だが、この年になると体力が最大の要件になり、しかもわたしだけでは保たない。妻の健康をいたわらねばならない。
2008 2・6 77

* ヒッタイト王国の興亡を、考古学や文献解読の苦心とともに、巧みに劇的に解説しているテレビ番組にも、惹き寄せられていた。
『世界の歴史』のなかで、その頃の諸国のはげしい浮沈のさまも読み通してきた。
この数年、わたしの毎日は、『日本の歴史』二十六巻ほぼ壱万三、四千頁、『世界の歴史』十六巻ほぼ八千数百頁の「縦列の読書」で括られて来た。
日本人の、そして人類の「歴史」を、わたしは絶対視はしないけれども、謙虚に尊敬せずにおれなかった。それが基本にあるから、たとえば『蕨野行』の深さやすばらしさや特殊さが、理解できる。
いくらものを識っていても、じつは仕方がない。そう腹をくくった上で、ものと向き合う「らくな姿勢」が出来る。そう大きく間違わないですむ姿勢が出来る。

* 話はちがうか同じかは問わないが、例えば、漱石原作のあの『こころ』で、あの「私」は、なぜあんなに「先生」の過去が知りたかったか、また「先生」はなぜあんなにことこまかに「私」のために遺書をしたため、自分を物語ったのか、と思うときがある。

* わたしは、おそらく、大勢の人に嫌われたり憎まれたりバカにされたりしているだろう。同時にわたしのことを認めて愛してくれているたくさんな視線や思いにふれ得て、心を温めてもらってもいる。
前者の方は余儀ないことであり、また常平生は忘れていて、それは今も問題にしない。
後者の方で、ときどき気のつく一つのことがある。
例えば、人も訝しむほどこの「私語」はもとより、いろんな形でわたしは「自身」をあからさまに「書いて」吐露いや吐瀉し、時に必ず顰蹙を買っているだろうことも承知している。だが、それも今は問題にしない。
それよりも、わたしを愛してくれている人たちの中でも、例えば一切この「私語」などを「読まない」と決め、ただ個と個とのメールや交信で触れあい、それで足る人たちと、すべて残りなく「克明に読ん」で共有してくれている人たちとが、分かれることに、気づいている。
これが一つ、人間「関係」の課題かのように、わたしを時々かきたてる。どっちがいいという問題ではない。
2008 2・9 77

* どの眼鏡も役に立たなくなり、霞む中で乱視の裸眼のまま、顔をしかめしかめ機械に向かっている。
遊んでいるように思われそうだが、いま、夢にもわたしを支配しているのは、「小説」を書いているということ。美しいことも大切だが、爆裂するような人間の性根を、真新しく、書こうと。
『畜生塚』や『慈子』のままを期待しないで欲しい。しかし町子や慈子が死んでしまったのではない。いつまでも若くないだけ。
2008 2・11 77

* ルソーのこと、書き出すとたいへんなことになる。が、一言で言うと、この思想の偉人は、とほうもない被害妄想狂だった。誰も彼もが邪悪卑劣に自分を陥れる陰謀で連携していると思い、終生それへの分の悪い「いくさ」を続けた。
しかも彼の感じる「被害」の火種は、けっしてすべて妄想とは否定できず、終始また広範囲にくすぶって、時に猛火をふきあげた。投石もされたし命の危険もあったし、彼への執拗を極めた「逮捕状」は、実は死ぬ日まで実効をそなえて存在し、警察も彼の非難者達も、最後は、要するに見て見ぬふりで通したのだ。
しかし彼が普通の刑事犯や民事犯であったのではない、歴史をゆるがし動かした幾つもの著書に対する非難が、いたるところで彼を苦しめ著書もしばしば焚かれた。だが、またそれほどに廣く多く読まれ、各階層の世人を刺激してやまなかったのだ。
彼は天才的な文学作者であり、思想上の大著述家であり、作曲者・劇作家ですらあった。実に大勢がルソーを敬愛し庇護し交際し、しかもルソーの存在に辟易もし顰蹙もし荷厄介にもした。その才能に嫉妬する者達もたしかに多かったが、その思想を危険視する人たちは、庶民にも貴族にも官吏にもまた貴婦人達にも多かった。ルソーの三部に及ぶ『告白』は、ひたすらそういう陰謀や中傷や悪評や名誉毀損に対する必死の反駁であり弁明であり言い訳であり、挑発と挑戦とであった。
さいごに彼は猛烈な威嚇と脅迫とをはらんだ逮捕状を執行され、逃亡生活に入り、点々としてイギリスにも渡りながら、いたるところで自ら窮し自ら紛争し、徹底的な孤独に追い込まれていって死ぬのである。彼の生涯渇望したのは、人に愛された平和な「幸福」であったが、完全にそれに絶望して「孤独な不幸の極」に死んでいった。
しかし、彼の小説『新エロイーズ』は十八世紀ヨーロッパの最高のベストセラーであったし、その思想はフランス革命を掘り起こして実現へ導いた。人類の歴史が発見した最も刺激的な思想家の一人として、「新時代」をすら彼は「創作」し得たのである。
だがその人となりはあまりに屈折し、理解に苦しむものがある。
彼は多くの女性に愛され、容易に深い仲になって行けた。子供も出来た。ところが、彼はその子供達を一人として育てることなく、その行方すら知れぬまま施設に擲って顧みなかった。一人の女性とは二十五年間同棲し、愛し合い、子を何人もなしながら、不遇のドン底に転げ落ちてから、やっと正式に結婚した。子は捨て育ちのままだった。
信仰の問題でも彼は最も多く時代の各層から顰蹙を買ったように思われるが、そこに彼の新しさと主張の在ったろうことは容易に察しがつく。

* 簡単には言いのけてしまうことの出来ないジャン・ジャック・ルソーがいた。そこまでは、わたし、何も知らないで来た。そして深夜、驚愕のまま眠れなかった。

* 「濁酒一杯、弾琴一曲、志願畢われり」と。本音のママに生きて死んだ竹林の自然人「ケイ康」に触れては、また追い追いに述懐しよう。未だにこんな有名な人物の名が漢字で機械に出せないとは情けない。字(あざな)の「叔夜」でものを云うより仕方がない。
2008 2・13 77

* 小説に組み合いながら、そばの機械で北林谷栄の「語り」のDVDをしみじみと聴いていた。
先ず映画を観、ついで語りの演劇として観、最後に原作の小説を読んでいるのは作者の村田さんには申し訳ないが、たいへんけっこうな順番であった。吸い込まれるようにこの世界に、わたしは自在のよろこびで、かなしみで、安心と不安とで溶け入っている。わたしがあらゆる創作を創作として品隲するとき、この「蕨野行」は一種の原点となる気がしている。是と比べてはどうであるか、と鋭角に問いかけるであろうと思う。
2008 2・14 77

* 一つの店が同じ場所で二十年以上「営業」している例は幾らもあるが、姿を消している例はもっと多い。
そう思うと、わたしの「湖の本」が、創刊満二十二年に成ろうとしているのは、奇跡のようだ。十巻出せるだろうかと思っていた。九十数巻になった。百巻、夢ではない。ただし「営業」とはとても。出血を堪えて「維持」「継続」というのが本当。だから「奇跡」のよう、なのである。
「湖の本」は、例外なく、すべてわたしの創作・著作・文章に限られている。一字一字、わたしの書いた文章だけで出来ている。いや妻の書いた『姑』という一作だけが何処かに含まれている。
九十数巻中の大半は、過去に、市中の有名出版社から出版され「本」になっているが、新作・新輯のも「湖の本」シリーズに何巻か含まれている。今後に予定の新作・新輯を勘定に入れると、妻とわたしの健康、気力が保てる限り、少なくももう二十巻は、百十数巻までは、出版して行けるだろう。原稿用紙でおよそ三万二三千枚ほど、たいした量ではない。すでに原稿料を稼いである未刊原稿がほかにもう一万二三千枚は在るはずだ。
三十数年の平均原稿料は、確かなところ、一枚五千円前後。出版本約百冊分の印税、そして講演、テレビ・ラジオ、対談・座談会その他出演など含めて、わたしのように、量より質(クオリティ)をいつも大切にしてきた地味な物書き生涯の稼ぎは、簡単にはじき出せる。
この数年、わたしは稼ぎ仕事から、ほぼ本気で手を引いている。蒙御免。独り、好き勝手を楽しんでいる。親の恩、家族の協力、過去の頑張り、そして、時代の幸運。おかげで、ほぼ無理なく今の暮らしが出来ている。感謝する。
但し云うまでもない上のそれらは、みな、まともな「買い手」のあった仕事である。ふつうは、幾ら書き散らしても、「買い手」はいない、のである。物書きで遣って行こう・行けると気楽に考えている人たちには、ふつうは、「およしなさい」としか云いようがない。

* 小説へ小説へ気が向いている。ながく成りそう。
2008 2・18 77

* 校正に余念無い一日を、多く戸外で過ごした。好天で気持ちよかった。
大きな会合には気が乗らなかった。
何が今日のわたしを捉えていたか。昨夜の映画『抱擁』と、床に就いてから読み、今日も戸外で読み継いだ小説『蕨野行』と、書き継いでいる小説と。
随分思案したが、今度の小説は、京都でなく、東京を舞台にしている。しようとしている、まだ確定できないが。京都だと、だれをどの辺に暮らさせても何の苦もない、が、東京に五十年暮らしてきても、いざとなると東京を知らない。まして近郊はまるで分からない。分からないままでは困る。
ロケーションというと聞こえはよいが、とにかく知らないところを歩いてくる、観てくる、しかない。京都なら、何一つそんな手は、いや足は、使わなくて済むのに、と、どうしても此処に迷いが出る。弱る。
2008 2・21 77

* 「mixi」でよく分かる、人の書かれた文章に素直に感歎することは、めったにない。ならば、自分の書いている文章が人サマの趣味に適うことも滅多にないのだと、覚悟していなければいけない。三十数年も売れない物書きを辛抱よく務めていると、それぐらいのことは分かっている、だからほとんど人の喝采とは無関係にものを書いている。
鏡花ではないが、五百人も熱心な読者がほんとうにあれば、たいしたことだとわたしは自負することにしている。お笑いぐさであるが。
2008 2・21 77

* 昨日、「mixi」に、かつて書いた『感染爆発』という憂慮のエッセイを、あえて「フリーセックス」の題で出しておいたら、案の定の予想通りに、風俗まがいの坊やや嬢ちゃん等のキャッキャとした「足あと」がわんさかくっついてきている。いまの「mixi」には、タチのよくない、いわば感染源なみの坊やや嬢ちゃんも雲集して厖大な会員数になっている。会員数の多さを佳い意味での社会運動に組み立てうれば力になるのだが、まだ、そういう動きが効果を挙げているとは聞いていない。

* ペンクラブに「電子メディア委員会」を提案し創設したとき、わたしの現在ないし近未来に具体的に懼れてそれらへの対応を考えたかったのは、技術的な学習やちいさな事件への対処ではない。グローバルに危険な「サイバーテロ」および「サイバーポリス」への恐怖と、その否応もない現実化であった。より具体的には「私民」の個人情報の国家的・世界的権力による、無差別な収集と迫害的な悪用であった。
そういうと、みながまさかと自分に関係はない顔をしたが、とんでもない。
その一端を今朝もテレビは、「データマイン」という観点から、いかに今日の米国社会が個人情報を國に、大統領の手に吸い上げられているかの実情を報告していた。ウソではない「一秒」に数十百億のデータを無差別に収集しながら、篩に掛けるようにして特定の事実へ近づこうとしている。国家機関が民間の情報収集企業と秘密に提携して、信じられないほどのことを現に日々に実行している。
よく映画などで、個人の情報を追究してパンツの色まで、財布の中の小銭の数まで分かると云っているのを見聞きするが、架空のことでなく、もはや出来る機関には何でもないことだ。
問題は、日本でもそれは必ずすでに行われていると云うことだ。
サイバーテロは頻繁に実行され得ないが、サイバーポリスは一秒の隙間もなしに稼働していると考えていた方がよい。電子メディアの上で自分のしている一切合切は、秘密を奪われていることを承知していた方がいい。のがれることは出来ない時代になっている。
諦めたがいいというのでは、ない。現実を最大限に聡明に察知し認識して怖れと怒りをもって、圧倒的な「私」民の多数が意識と連携とで悪しき國の犯罪に対抗しなければならないのだ。
2008 2・22 77

* お見事な「mixi」日記。クリアに把握され表現されてムダがない。志賀直哉の作品の魅力は、長編の『暗夜行路』だろうが短編の『母の死と新しい母』であろうが日記であろうが、こういうふうにクリアに書かれていて、神品なのである。その魅力がだんだんものを書く人たちにも理解されなくなり、じだらくなトンだりハネたり、しかも事理不明瞭な独り満足や独り合点が晒されてくる。
2008 2・23 77

* 一つ「淳」さんに聞いてみようかナ。
「作者の孤独はわかるような気がする。」と「作者の孤独はわかる気がする。」とは違う。違うけれども、それでも、ぜひ「ような」であるべきでしょうか。「わかる気がする」と言い切っては間違いでしょうか。
「やはり人がたくさんいるところは苦手だ。」と「やはり人のたくさんいるところは苦手だ。」とは違う。違うけれども、それでも、ぜひ「人が」であるべきでしょうか。「人の」ではいけないでしょうか。
「やはり、学問を愛する人が好きみたいだ。」と「やはり、学問を愛する人が好きなようだ。」とは違う。むかし「新潮」のベテラン編集者に原稿を見せていました頃、「~みたい」と書くと、黙って、きっと、鉛筆でスイと下線を引かれていました。なぜでしょうね。
2008 2・23 77

* 就寝前の読書時間が延びている。『新中国人』『ソフィーの世界』『蕨野行』を、つい沢山読み進むからだ。『イルスの竪琴』の英語はいちばんおしまいに読むのだが、読み始めると目が冴えてきてつい時間を掛けている。みなそれぞれに引き込まれているのだ、退屈するよりいい。
ゆうべは、その上になお『夜の寝覚』に、時間をかけた。本文には、適宜に小見出しが入れてあり区切りやすいのだが、いままさに、ヒロイン「寝覚の上」は、大きな大きな女の危機に直面しつつある。義理ある娘の一人を尚侍として入内させ、慣例として母親役で付き添い御所に上がっている寝覚の上を、帝が、久しい執心のまま強硬にねらって、上の私室にまで終夜押し込んで来ようとしている。物語のなかで最も差し迫った危機に当たっている。
ところが、帝にそこまで無茶をさせるほどの、完璧な寝覚の上の美しさであり、魅力なのであり、仏の美徳を三十幾つも数え上げるまだその上のものだとまで作者も、作中人物も言を切して「表現」している。読者のわたしも、けしからん帝だ、帝の母大皇だと憎みつつも、つい同調して、あまりの懐かしさにぼうっとなってしまうくらい。
それだけでもないのだ。この物語に絡んで、とうどう自分自身のまた「仕事」にしてしまいたいフツフツとした願望が、具体的に湧いてきているので、やめられないのである。
なにしろ、高校生の昔から、この物語の作者かと擬せられている菅原孝標女に、なみでない関心がある。
生まれて初めて書いた古典論は、高校内の新聞への『更級日記の夢』であった。生まれて初めて書いた小説らしいものは、他の学級の文藝雑誌にねじこんだ、『竹芝寺縁起』であった。そしてまた「竹芝寺跡」と擬されて昔の昔から学者達が孫引きを重ねていた、三田の「現・済海寺説」に決定的な疑問をつきつけた最初のわが着眼も、やはり、みな、同じ高校三年生の頃に生まれていたのである。
源氏物語は別格としても、わたしにとって『平家物語』『徒然草』『古事記』とならんで、最も身内に影響したのは『更級日記』であったし、その日記の著者が『夜の寝覚』作者の最も有力な候補者なのである。思いは、どうあっても騒ぎやすいのである。
で、昨・夜前は、そのことでまじまじとして眠らなかった。消灯後も闇に眼を凝らしてわたしは考え続けていた。
いま、すこし眠いけれども、石波防衛大臣と高村外務大臣とが、テレビでいろいろ弁解するのを聴いてやろうと思った。ああしかし、ろくなことは云わない。ウンザリした。
2008 2・24 77

 

* フイと、黒いマゴを「マゴよい」と呼んでいる。妻へ、「ババよい」「おババよい」と呼んだりする。『蕨野行』で、蕨野へ入った姑(ばば)れんと、里の家をまもる若い嫁ぬいとが、時空を超えて交流し共感して対話する呼びかけが「ぬいよい」「おババよい」であるのを、つい口真似するのだ。
この作品はもはやわたしの心象世界として刷り込まれてしまった。あるいはなべての価値観の目盛りが、尺度が、まるで定まってしまったみたい。この目盛りや尺度からながめて、それには意味があるとか意味がないとか感じてしまう。
2008 2・29 77

* 妻が、書類をひっくり返しながら、税金の申告に例年のご苦労中。文字どおりのご苦労なのは、わたしが稼がないのだから当然だが、とうとう年収が、(月収ではない!) 百万円を割り込んだという。そうだろうと本人がよく承知している。わが家の日ごろの暮らし向きは、一にも二にもわたしの「過去の仕事」に恵まれて足りている。恵まれて足りているのなら、不自由や窮屈を忍んでムリに稼ぐ必要はない、というのがわたしの「自由でいたい処生観・考え方」であり、頼まれ仕事はよほど面白いものか義理のあることしか、引き受けない。ま、夫婦の余生・寿命とは、追っつかっつ間に合ってくれるだろう。昔の学生君達にご馳走したり呑ませたりするなど何でもないのだから、遠慮に及ばない。
稼ぎは求めないが、したい仕事もしている仕事もある毎日で、日記だけ書いているのではない。怠けてはいない。

* 昨日だったか、メールのやりとりの中で、息子より若いというぐらいの人を励まして、言った。「こういうことはこの人にぜひ、と言われる『こういうこと』を、一つでも二つでも持つことの大切さ強さ。百抱き込んで一つか二つもえられるかどうかと言うほどの勉強のすえに、それを、自身の身内に秘めた『持ち前』とうまく『出会わ』『噴出させ』てやらねばならない。きつい厳しい賭ですが、大事です。今云うて今出てくる、そんな促成栽培では、味わいは生まれないよ」と。
それに対する反応が、ちと物足りなかった。
「わかりました。ただ、無理やり、『これ』と決めるのではなく、自分の中から自然に湧き上がる強い興味関心がないと、できないことですね。がんばります」と。
この返辞は、中学生高校生になら当てはまるけれど、三十すぎてしまえばあてはまらない。自然に沸き上がるのを待つ年ではない。むしろ、だんだん涸れて行く年だ。高校大学までなら幾つか持っていた可能性を、大学卒業までにはもう一つ一つ落としてゆく道を歩いている。何としても、これまでに辛うじて持っていた「何か」に、全力で、「新しいエネルギーを継ぎ足し、燃え上がらせ」得なければならない。待っていても、向こうからは、まず、もう、何も来ないのではないか。

* きついことを言ってしまったかとも思うが。

* 「mixi」を見ていても、ものの譬えにも「小説が書きたい書きたい」と言うている人は、掃いて捨てるほどいる。しかし、小説は書かずに現に漏らしている述懐や感想を見ていると分かるが、たんなるファッションのように「書きたい」を口にしているのだ。黙々と疼く動機に迫られ追われて書かずにおれないでいる人、現に書いている人が、極めて極めて少数いるはいても、他は、アクセサリーのように気持ちを飾っているに過ぎない。文章そのものが書けていない。
本気で「書く人」たちを迎え入れられる、「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」を、ながかった空白を埋めて、また稼働したい。今までのママの「機能」でいいか、点検してみる。
2008 3・1 78

* 色川大吉さんに戴いた『若者が主役であった頃 1960年代』は、わたしたちには一入胸に響いてやまない。あたりまえだ、わたしたちが京都から上京・結婚・就職したのは1959年二月末、安保デモの日夜を通りすぎ朝日子の生まれたのが1960年七月末だった。小説を書きたい書きたいと思いつつ激務の編集者生活に励み、勉強し、ちょうど二年後、1962年の七月、朝日子の誕生日過ぎて、とうどう小説を書き始めた。白楽天の長詩「新豊折臂翁」にまなんだ現代の反戦小説『或る折臂翁』が処女作長編だった。仕上がる途中、秋に、短編『少女』を書いた。
書きに書きつづけ、私家版の『清経入水』に、第五回太宰治文学賞が向こうから転がり込んできたのが、1969年。作家としての生活が始まった。
わたしの1960年代は、わたしと妻とだけの孤独な舞台であったが、真剣な真剣な時代であった。色川さんのご本は、じつに克明に色川さんの体験・研究・活動をとおしてこの十年間を再現し批評し、今日只今を叱咤激励されている。
ありがたい一冊で、夜中、読み始めると、とまらなくなる。
2008 3・3 78

* 『夜の寝覚』の巻三を読み上げた。物語の中で最も危急の事件は、大皇と帝にたばかられて宮中孤立のまま帝に犯されそうになるのを、物語のヒロインとしては希有というより絶無にちかい抵抗で、断乎ゆるさぬまま一夜明けるのを待った寝覚の上が、この事件のさなかに自覚した最初の男、今は内大臣との泣きつ恨みつの夜を倶にして、巻三が果てる。
読み手の気持ちとしては、ついこの男・内大臣に肩入れしてしまう。
二人の間には、石山の姫君と、弟のまさこ君とが生まれているが、両親である二人は「夫妻」ではない。この物語の泣き所である。
わたしは、懐かしい、なつかしい、という言葉をいつも思いをこめて用いるが、このヒロインはじつになつかしき女人である。どんどんと読んでしまうのが勿体ないほど懐かしい。
同じ作者かと目されて『浜松中納言物語』もあり、これもなかなか興趣に富んでいるが、男主人公の物語よりも、女主人公の物語の方がなつかしい。
はるかに先行した「かぐや姫」をのぞけば、「寝覚の上」は文字通りに只一人のヒロインなのであり、只一人のヒロインでこんなになつかしい思いをさせる近代現代の小説を、どれほど我々は知っているか、思い出せないほどだ。
『菜穂子』でも『天の夕顔』でもひ弱いし、『ある女』はすさまじい。宮本百合子でも野上弥生子でも林芙美子でも、なつかしいヒロインとは言いにくい。
『春琴抄』は名作だがなつかしみはない。まだしも「お遊さん」が、語り手の秘められた生母としてなつかしい。
鎌倉時代の「後深草院二条」は立派なヒロインだが、実在の人であった。
西鶴の『一代女』はちと凄まじい。歌舞伎には道成寺、玉手、櫻姫、政岡その他、女のドラマが多い。秋成の『雨月物語』にも。だが身に染みてなつかしいヒロインたちではない。いっそ揚巻や夕霧のような優しみのある花魁が佳い。
2008 3・9 78

* 「ロスト・ジェネレーション」という世界思潮の名付けの親であった詩人・小説家ガートルード・スタインの名を覚えている人は、もう少ない。
彼女の盛名を印象づけた「薔薇は薔薇であり薔薇である」というフレーズを記憶している人が、どれほどいるだろう。
だがリアリティ(あるがままの真実)を問えば、則ち、こうなる、「薔薇は薔薇であり薔薇である」と。他に、言うべき・加うべき何もない。日々に無数の言葉を用いていればこそ、スタインのこの透過・透関にわたしは頭をさげる。哲学屋や宗教屋や理屈屋は、しかし、言うにちがいない、それはただ言葉の反復にすぎないと。
「言われ得ない」もののあるを知らず認めえないで、ただただ、「言われ得ない」ことをあれこれ言い散らす人たちがいるが、そういうことが究極何の足しにもならないと自他に廣く分からせるのが、じつは「哲学」最後の目的なのだと、二十世紀最大の哲学者のひとりヴィトゲンシュタインは吐露している。間違いないであろう。
際限ない議論、際限ない哲学。出てくるものは、似たり寄たりの繰り返しで、所詮「薔薇は薔薇であり薔薇である」を超えない。
「生きるとはどういうことか」を「問え・問え」と、テレビの広告でトクトクと話している有名なセンセイがいる。そんなヒマがあったら、「今・此処」を元気に「生きなさい」と励ます方がマシだ。
「生きるは生きるであり生きるである。」
これ以上のことは、誰にも言い得ない。言い得ないことを言え言えと強いる人に、もし同じことを問い返しても、何の足しにも成らないダサイ観念を言い募るであろう。「邪魔」という魔である。
2008 3・10 78

* 太平記世界を支えているのは、「今の今をあるがままに」見つめる乾いた視覚。
そのために起きるさまざまな矛盾のようなもの、撞着のようなもの、感傷、無恥、厚顔、殊勝、信心。なにもかも、そのまま「その時その場」に露わに出てくる。
「文飾」という能力からすれば、太平記時代の知識人、たぶん坊主たちは、布袋腹のように腹中に大量の詞藻をのみこんでいて、本家の中国人ですらヘキエキしそうに縦横に美辞麗句を連ねることが出来る。しかもそれらによって捉えられる事件、文物、人間は、じつは飾られていない。えげつなく凄いほど、あからさまにまるハダカにされている。むきだしである。太平記のリアリティである。
美文の宝庫のように見えていて、それはその通りであるのに、モノもコトもヒトも、むきだしに転がされていて容赦がない。そういう場だ「太平記読み」とは。
2008 3・11 78

* いま「mixi」が会員の「日記等」の自由使用を言いだし大きな反発を買って慌てている。「mixi」の当局が、むちゃくちゃに「もの知らず」であった。
わたしは、数千枚もの作品を「日記」欄に連載しながら、「mixi」がいずれは言い出すであろうことを予期していた。版権や著作権を「mixi」に勝手にされては困るので、ほどよく撤収・削除する気でいたし既に実効済みだが、また一方、「mixi」の皮算用などほとんど実現の可能性は無いに等しいのも事実であった。
たとえばわたしが日本ペンクラブのために企劃・創設して開館を実現した「ペン電子文藝館」には、わたしが館長時代のうちにも六百人、七百作ちかい日本近代現代文学が顔を並べて、国内外に無料発信されていたが、もしそれらを紙の本にして出版するには、単純計算しても物凄い資本がいる。販売して資金回収しなければ破産する。しかしながら、そうそう紙の本は売れるわけが無く、売れなければ保管の倉庫も要る。また著作者への権利料も必要になる。ほぼ百パーセント絵に描いた餅なのである。
「mixi」会員の「日記」が紙の本として売り物になる可能性は、パーセンテージにしてほとんどゼロ。千万会員中の十五点あれば上等だが、紙の本にしての資金回収のメドは、さらに少ない。
「日記」ではない、「日記等」の「等」のなかに何かを掘りだそうという気は、誰にも一度は起きるに違いなかった。編集者なら考える。問題は探索の労が現実に儲けとして酬われる可能性だが、やはりゼロに近い。ケイタイ小説とは似て非なる「場」のように想われる、「mixi」の「日記」欄は。
あまり神経質に身構えすぎて、日記が薄味のメモ同然にになれば、書き手も読み手も少しずつ落胆を深めるだろう。
2008 3・11 78

* くわしい記憶や感想がうまく再現できないけれど、一昔にもなろうか、下鴨の河合神社の前庭に、方丈記の「方丈」そのものの忠実(そうな)復元家屋が設置されていて、たちすくむほどの感銘を受けた。解体して運搬や収容のきく造りであったのは原作のとおり。はたして自分が此処に暮らせるだろえかとは厳密に自問自答に及ばなかったけれど、作者長明の境涯は、風立つように肌身に感じられて、さよう、感動というしかない感慨のままわたしは立ちつくした。日をかえてもう一度観に出かけた気がする。
わたしは、生まれてこの方、広い部屋に暮らしたことがない。いちばん広くて戦時中に丹波の農家で借りて住んだ「隠居」の八畳間。隠居は八畳と長三畳との二間だった。水屋がつくりつけてあったと思う。
「わが家」と名の付く家では、京都では四畳半、東京ではいまも六畳間。この分だと、たぶん広い部屋には縁なしに死んでゆくだろう。もっと広くいたいと願う気、むろん、有る。その一方で、『方丈記』の方丈や、小間の茶席に憧れる思いもウソではない。
しかし住処をわが「抱き柱」にするのはよしたい。温かければ、涼しければ、ありがたい。
2008 3・13 78

* 四国の「六」さんからも留守に宅急便があったという。
一昨日には「鳶」さんからの円地文子作品のプリントが届いて、すぐ読んだ。すくなくもわたしの今書いているものとは差し支えが無いと分かった。まったくムキが違ったし、気に掛けるまでもないモノだった。気に掛けてきたので閊えがおり、また自分の仕事が前へ運び出せる。
2008 3・15 78

* 作品『墨牡丹』を読み終えたと、ありがたい感想メールが来ていた。作者には作を読んで下さったというご挨拶がやはり一番嬉しい。気を入れて書いている。気を汲んで下さるのだもの、たとえ酷評されたにしても有り難い。

☆ 墨牡丹  珠
こんばんは。暖かい春爛漫の週末、湖はいかがお過ごしでしたか。
私はこの二日間、家を一歩も出ず、静かに過ごしました。困ったことに、持って帰った仕事も手をつけぬまま、ですが。
「墨牡丹」を読み終えました。何とも清浄な、気分です。
村上華岳の絵を、また「何必館」の翳る静けさを、想い出しています。
静かですが熱くもあるので、感想を字にしてみました。作者に感想を送るなど、実は初めてです。ご容赦下さい。
*
絵を描くことを生業とせず、真の藝術を求めたそれは、息子として、夫として、父として、日々生きながら、身の中心にある小さな焔を見失わないように、目を凝らし身を削るような、修行の旅。
そんな「村上震一」を「村上華岳」にまでしたのは、「妻」だったように思います。
若かりし頃の小花や、久遠の女性であった成子は、華岳にとって、求める美しい「線」のように、瞬間身の中心の焔をゆらす風であって。けして、きつい風となって吹き消すようでなく、それでも燃えようによっては「欲」となって焔を消したであろうと思うような、愛しい女性二人。
そんな女性の気配を「妻」も感じ、すねて、ふくれて、夫にとって自分がそういう女性ではなく「妻」であることをもの哀しくも思えて、切なく。それでも共に在る生活に、華岳の体調を細々気遣う「妻」は、いつもそばにいて 描くことに苦しむ夫を陰ながら見護るという役を確かにしてゆきます。
それゆえの牡丹画になったのではないでしょうか。気がつかぬうちに、「妻」の好きな牡丹に、丹精し手間かけなくては花開かぬ牡丹に、手をかけてもらって吾の中心にある焔をそっと押し開き描いたのではないかと。
華岳の妻であればよろしいといってくれる「妻」、泣き、呻き、こもって苦しんだ華岳により添つた「妻」、なればこそ、最期ちかく、画室という清浄な空間に妻を愛することで、二人咲かせた「牡丹」を倶に味わったように思えてなりません。
もう一人、成子の最期に、華岳は自分こそがと、聴いて、すべてを受けいれ、そしてその哀しさに小さな焔をわけあたへるよう、温めた、それは、はなむけだったのでしょうか。
華岳は成子からの前年11月8日付の手紙を受けとった11月11日、自語へ鞭をあて、「この一年」への覚悟と大事なとき、を記しています。そして翌年、 11月11日に逝く。
ここまできて思うのは、成子は、華岳にとって、焔をゆらす風だけでなく、焔そのものであったのかもしれないということ。成子の生命尽き、華岳の焔も消える。華岳「震一」は、清浄なる「神知」となって、静かに穏やかに、その観音さんの画に、なるように思えます。
もう一つ、「妻」のいれるお茶、おいしいお茶を所望する夫、華岳に絵筆をおかせる場面すらあるお茶、生活感とまでは言いませんが、華岳に欠かせない大切なお茶こそ、日々を清く潤しながらその身を家におかせた大切なものだったように思えてなりません。
いつも其処にある。何かのときには、手元にある。読んでいて、お茶を飲みたくなって立つこと、何度もありました。「湖の本」この墨牡丹執筆中、作者も奥様のお茶に潤されたのでしょうか。上巻の献辞「妻に」へ、そんな日々を見たようでした。
華岳は今の時代に生きていたらどんな画を描いていたでしょう。
世を儚んで早死にしたかもしれません。筆を折って、山を歩いたでしょうか。
それとも描きつづけ、やはり真の美を求めたのでしょうか。
あぁ、でも、あの時代、だからこその村上華岳にちがひなく。
若い妻を喪った石川利治、その清貧さと画はどうなっていったのかと。
精神に集中乏しいのは、無駄についた肉のような生活全般のせいでしょうか。時代は動き、「求めない」ことすら「求め」なくてはいられないようになっていて。
ただ、単純に、静かに、お茶を淹れて飲むようで、在りたい。。。
読ませて頂き、ありがとうございました。
ながながと、失礼しました。
明日から少々きつい仕事です。この清んだなか、臨めることが、うれしい。
お気をつけて。花粉がねらっていますから。
では。おやすみなさい。

* この作を書いた頃、知己であった河北倫明さんも、小野竹喬さんも、立原正秋さんもお元気であったが。NHK日曜美術館がスタートして五回目に「村上華岳」がとりあげられて、わたしが出演した。あれ以来、國画創作協会の画家というとわたしが呼び出され、出演したり講演したりした。
恥ずかしいことを白状すると、わたしが初めて美術の雑誌から「華岳」について原稿を頼まれたとき、わたしは華岳画をまったく識らなかった。かなり弱った。だが駆け出しの若い物書きは、依頼された仕事を断る勇気が無かった。俄かな僅かな大急ぎの見聞だけで依頼原稿を書いたがひやひやものであった。
しかしわたしは一度で華岳の藝術に魅了され、それから、一克に、熱中して勉強した。そして二足草鞋を脱ぐ記念作として三百枚余の『墨牡丹』を「すばる」巻頭に発表して、会社勤めから退いた。時同じくして新潮社の書下ろし作品に『みごもりの湖』を出した。四十歳にもう少し間があった。
『墨牡丹』は、後年に「湖の本」にしたとき、百枚ほどを書き足して完成させたのである。

* 話題変わって此処に書きたいと思うことが有るが、他に気のせく用事が波立つように迫っていて落ち着かない。やはり、そちらへ気を向けたい。
2008 3・17 78

* この「mixi」の声に、自分は「当事者ではない」「胸の痛みに沈んでいるより、自分の『生』を全うしたい」という趣旨のコメントがくっついていた。わたしは共感しない。

☆ 紫式部や源頼朝や後醍醐天皇が「当事者でない」というなら分かりますが、たとえば今チベットの問題に「当事者でない」といっていられる日本の大人は、むしろ例外でしょう。それは、分かりやすくいえば、「中国」問題に「当事者でない」と云うているのと同じであり、今、どうして日本人が「当事者としての関心」を「中国」に対しもつことを嗤えるでしょう。それで、どうして「自分の生」を全うなどできるでしょう。
近い将来に、日本列島が中国権力の快適な別荘地とされて、日本人がそれに奉仕するサーバントになるかも知れぬと仮におそれたとしても、今の中国覇権や支配の実情からして、まんざらの只の悪夢でもない。
ギョウザの毒についての中国の態度一つにも、日本人はいま「当事者として」の関心をもっているし、それはさらに、その背後や彼方に広がる「対中国大問題」を、政治的にも経済的にも軍事的にも予感させているではありませんか。
そもそも「自分の『生』を全うする」とは、いったいどういうことですか。
われわれは、地球環境や主権在民や人類の基本的人権など、答えまた応えうるものには真摯に、地球大の視野をも持ちながら、応えまた答えねばなりません。チベットと中国についても、全く同じです。
そしてまた、「生を全うする」といった「観念」が、何の足しにも成らない空論で終わりがちなことを、わたしはおそれます。
「胸は痛むけれど」どうしようもないではないかとは、しばしば聞かれる、またつい自分でも云うている俗論です。そこで立ち止まって「ごめん」とあやまって、それでも「全う」できる「自分の生」って、在るんですか。
失礼ですが、共感しかねます。 湖

* 延安に長征し抗日に結束していた頃の中国共産党は、客観的にみて、思想も実践も洞察にも優れていた。毛沢東も稀代の能力と誠意とで働いていた。『論持久戦』などの分析・判断・論に見せていた毛沢東の対日抗戦の精微ともいうべき情勢推移の読みなど、卓越していた。その頃の中国共産党は、がっちり底辺に到る「人民との合作」姿勢をくずさず、指導力も政治力もみごとだった。驚嘆に値した。世界史的な成果をあげていて、なによりもソ連主導のコミンテルンと一線を画して独自に歩んでいた。
そういう初期共産党の成功と実力と、その後に三千万の餓死者をうむような大躍進の大失敗をふくめた共産党の内部矛盾や腐蝕の進行状態とを、乱暴に一重ねにしていては判断をあやまってしまう。

* 横手一彦さんのインタビューの中で、石堂清倫氏が伝えてくれている話題はことごとく傾聴に値し、瞠目にも値するが、わが敗戦前後のコミンテルンに一辺倒だった日本共産党への、中国共産党からの批判・批評の適切さに、わたしは驚愕した。
日本共産党には戦中に有名な「転向」という現象がある。
戦後日共に君臨し続けて最近亡くなった宮本賢治は、最後まで転向しなかった希有な一人であったが、二万三万もの主義者達は、獄中、官憲に転向を強いられ、殆どが転向してきた。
戦後の日本共産党は、転向しなかった論理と実践者とを高く高く評価し、中軸に据えて存続してきたらしい。転向者の思想はむしろ蔑まれ、評価されず容認もされなかったらしい。戦場に闘って虜囚とならないという日本軍のモラルと、転向しなかったのを高いとみて転向者をわきへ押しのけた党運営とは、似ている。

* 中国にも、獄に囚われた共産主義者が、国民党勢力によりつまり「転向」を強いられる例が多々あり、それに対し、共産党中央は党議を建て、獄中転向をむしろ暗に勧奨し、有能な党員は獄から解放されて一時も早く党活動に復帰せよと指示してすらいたというのである。転向により思想的に差別などしないという党議の保証を与えていた。
日本の共産党の転向に対する姿勢とは、まるでちがう。
この場合中共の高度の政治判断には合理性すら感じ取れる。

* 日共は、ソ連のコミンテルン指導を絶対的に崇拝していた。そのコミンテルンの指導に従い、戦中戦後の日共が中心的な課題にしていたのは、則ち「天皇制廃止」であった。石堂氏らの眼には、じつに架空の目標としか映じなかったし、それがどんなに日本では困難で不可能なものか、それのために党の党たる誠実を賭して懸命であろうというのは、軍や政権の偏向より以上に、国民の支持からして殆ど得られないであろう非現実の闘争方針であった。
中国共産党は、これを嗤っていた。批判していた。成らない目標をムリに掲げていると。その判断は我々にも納得が行く。コミンテルンのソ連は、そういう日本に混乱の種をまきちらすことで、関東軍の対ソ連への軍事行動を牽制したいという国家的エゴを持っていたが、日共はそれに利用されていたという批評すら出てきている。
中国共産党は、日共の「天皇制廃止」等の放心に対し、「有理」「有利」「有節」の三面に於いて「過っている」と説いていた。毛沢東もこの「有理有利有節」を重んじていた。日本人の社会運動には往々、これが、全て欠けている。三者の根底で最も大きくモノを言うのは「大衆の目線」であると中共の論理では強調されるのだが、日本でのあらゆる社会的行動や活動や革命的激動に、最初から漏れるか急速に失せてゆくのが、この「大衆の目線」に即した要望で働くという姿勢だ。
歴史をつぶさに読んでいって、いつも感じるものがあり、その巧みな説明が付けかねるのだったが、なるほど「有理」「有利」「有節」を起動させ、支配し支持する「大衆の意志と目線」が、頑強な分母として揺らいではならないのだなと、分かる。

* その意味から、皮肉に今の中国を、中国共産党を観ていると、「大衆の目線」という分母は壊滅してしまい、党の党利党略が大衆の政治的エネルギーを抑え込んでしまって、不自由至極な人権の抑圧を専らにしている。
今のチベット問題も、むろん、そうだ。チベットが、チベットはわれわれの国だ、故郷だという声を、むろん聴く耳なしに中国はかつても強圧し、いままた強圧していて、指導者は以前も今回も「コキントウ主席」その人である。たいへんなことだ。
中国共産党はもう「有理有利有節」のモラルをかなぐり捨てている。
2008 3・17 78

* 「有理・有利・有節」という事に触れて、昨日の続きを此処に書いておく。
石堂清倫氏は、あの戦争末期に中国の共産主義者と接触した際に、日本に帰ったら何をやるかと聞かれたという。
石堂氏は答えて、日本では戦前期共産主義者の大半の者が、「君主制(天皇制)廃止」という党の最高スローガンを放擲し、戦争に参加した。何でそうなったかを党幹部と反省課題としても相談し合ってみようと思う、と。このスローガンは、コミンテルンの指導に出ていたと云うこと、日共はまともにこれを信奉したということ、を、昨日にも此処に触れておいた。
石堂氏の思惑を聞いた中共側は言下に、それはつまらんことではないか、はなから出来っこないことを言うてみた、してみたが、やはり全然出来なかった、出来るはずのなかったスローガンじゃないか、と。そしてこう付け加えたという。
日本人は『資本論』の研究なんかは優秀だけれども、政治は全く赤ん坊だと。
中国の彼らはこう云った、自分たちは、政治スローガンを決定する場合に、一定の基準を持っていると。
これを伝えている「わたし・秦」は、素早く此処で断っておくが、以下に云う中国共産党の「一定の基準」とは、決して二十一世紀の今日のそれを示すものでなく、日本の敗戦前・敗戦後の時期において示されていた大きな原則だということ。今日の中国共産党をも蔽っているとは、とても思われないこと。中国の共産党も共産主義も指導者の資質や思想は全然変貌変質している(であろう)ということ。
混同してはならない。
で、「当時」の中共の指導者らの、先ず真っ先に「有理」を説いて曰く、「例外的な少数の優秀な前衛の眼ではなしに、大衆自身の眼から、ことを決しなければならない。一定の政治的スローガンを考えるならば、まず大衆の目線でそれが道理に叶っているかどうか」を確認する、こみれが「有理」だと。
「これだけでは不充分で、そのスローガンを採用することで、運動が拡大し、プラスになるか利益になるかを、前衛ではなしに大衆の目線に従う」、これが「有利」だと。
「最も政治的なのは、仮に道理に叶って利益になる運動でも、実際には節度がある。どの程度までかを大衆自身に判断させる、これが、有節」だと。
この三つの条件が実現した場合にのみ、政治的スローガンとして提出すべきだと、彼らは「一定の基準」なるものを、石堂氏に対し語った。
なるほどこれに徴して云うならば、あの時代、あのころの日本の大衆に「天皇制廃止」などが、有理で有利で有節である何物をも持ち得ていなかったのは明瞭だった。そして獄中転向は、党議に背くものとして卑しめられながらも転向へ殆ど雪崩を打った。中共の政治センスからすれば、まさにノンセンスな政治スローガンの故に、戦中戦時下の日共は影も形も喪っていたのである。

* わたしは共産党にも共産主義にも全然縁もセンスも共感すらも持たない人間だが、たまたま横手一彦氏の研究書によって読みえた上のような対照的な「共産党」のありようの差異をたいへん面白いと感じた。
と同時に、現在の中国共産党や共産主義は、とうていかかる大衆の目線に本筋を置いたような「有理・有利・有節」からは、萬里も隔たっていそうに実感せざるを得ないと、言わずにおれない。
現在の中国がたとえばチベットに対してしていることは、かつてイギリスがインドその他に、フランスが東南アジアその他にしてきた「帝国主義」となんら異ならないと見えている。だから抵抗も起きていると思わざるをえない。
そういうこと。それをわたしは云いたかった。
2008 3・18 78

* 昨日「mixi」のマイミク「風人」氏が紹介されていた四川省での銃撃虐殺の写真は凄惨眼をおおわしめた。悲惨な情況を伝えてあまりがあった。おなじものか、テレビでもちらりと報道されていた。
この十七日にやはり「mixi」に出たマイミクさんの日記に関連して、飛び入りのコメンテーターとわたしとに、意見交換があった。その一部を此の「私語」に報じておいたが、「当事者ではない」のでとコメントしていた人が、「自分の娘や友」が虐待や屈辱をうけているなら「盾になり守る」けれどという考えを、また洩らされていた。
ちょっと合点が行かない。むろんわたしにもカサにかかって正論を云うような具合のわるさはあるが、正直に反応しているつもりで言うなら、やはり、こうなる。

☆ あなたのお嬢さんでなく、あなたの友人ではない、そういう人、人たち、が、あなたの目の前で虐待され屈辱を受けていても、あなたのお嬢さんでもあなたの友人でもないのだからという理由で、その「虐待や屈辱」から守る「盾」になど「ならないよ」という意味に読めました。
仮にそんな場合でも「盾」が一枚(あなた)だけでは守り抜けないことの、あまりに多いのが、想像出来ないでしょうか。
「盾」「盾」「盾」が連帯し協働しようとしなければ、その一枚の「盾」自体もまた、不当な「虐待や屈辱」に脅かされてしまうでしょう。
娘だから友だからは、たしかに大切なモチーフですが、そこに立ち止まっていては、結局、娘も友もとうてい守りきれないだろうという世の中の過酷な力学に気づきたいと思います。
あなたのようにして小さくエゴをまもろうとすれば、命に関わるほどの「いじめ」や「差別」を、自分とは無関係なら見て見ぬフリしてしまう社会や世界が、出来ていく道理ですね。
「娘」や「友」への情愛はあるが、「虐待や屈辱」への批判や批評が無い。情愛を生かすためにも、その批判や批評や抗議や対抗こそが必要であり、それには一枚の「盾」だけでは足りないのが、ややこしい人間社会のように私は思えています。  湖
2008 3・20 78

☆ And most important, have the courage to follow your heart and intuition. ボストン 雄
今日は、昨日のディスカッションに基づいて、新たな実験手法を模索すべく、文献を探していた。幸い、「これはいけるかも」というものを見つけることができた。満足したので、昼食を挟んで午後は、昨日やり残した脳のスライス作製。
夕方にラボを出て、MIT近くのポルトガル料理の店Atascaへ。マイミクDoppyさんのご紹介で、お二人の方とご一緒した。あまり具体的なことを書いてご迷惑がかかるといけないのだが、お一方は司法の仕事に携わられている I さんという女性。もうお一方は、こちらの製薬会社のvice presidentをされている K さん。K さんは、実は、先週のコンサートでお隣に座られた K さんのご主人でもある。お二人とも個性的。I さんは非常にシャープな、頭の回転の早い方という印象を受けたが、K さんの強烈な個性には、すっかり圧倒されてしまった。
実はDoppyさんと I さんがお店に来られるまでに、しばらく時間があって、K さんと二人で飲んでいたのだが、K さんのこれまでの人生についてお話を伺って、そのスケールの大きさに圧倒された。
大学院修了時に助手として研究室に残るように教授に言われたにも関わらず、「自分のしたいことは、こんなところではできない」といって企業に入られた話。日本の企業で収まり切れずに、アメリカに留学し、こちらで会社を立ち上げた話。そして、ご自分の日本での出身研究室から教授として戻ってこないかとお話があった際、ご自分の作られた会社を見せ、「自分のやりたいのは、このような規模のことだから、とても大学などには戻れない」と一蹴された話。日本の大学のポジションのことなどを、ちまちまと考える自分がとても小さく感じられた。
そんな話だけでなく、何でものめり込んでしまう性格に関するお話、日常に関する下らない話なども可笑しく、大笑いさせて頂いた。
料理も美味しかった。こちらで、これだけの魚介類を口にしたのは初めてかもしれない。イカなども、こちらではカラマリといって、イカフライのように油で揚げたものは良く見かけるが、僕は実はこれが苦手。だが、今日食べたイカは輪切りにしたものを茹でてあり、ソ
ースがかかっているもので、これは僕の好物。イワシを塩焼きにしたものなども、こちらに来て初めて口にすることができた。ワインも美味しかった。なんとK さんが、全員の分をおごって下さった。申し訳ないと思いつつも、有難くご馳走になる。
K さんが繰り返しおっしゃっていた言葉で印象的だったのは、
「自分を枠に填め込もうとするな。自分の好きなことを、好きなようにやれ」ということ。
今年の1/26の日記でも紹介した、AppleのCEOスティーブ・ジョブズの講演の言葉を思い出した。
“Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life. Don’t be trapped by dogma ― which is living with the results of other people’s thinking. Don’t let the noise of others’ opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.”

* これら先達・先輩の教えは、有効で尊い。だが、また、成功者の気炎でもあり、よく聴いて考えれば、この人達のこういう言葉にすら囚われてはいけないよと云う意味にもなっている。それでも、「自分を(社会や世間や時代の強いてくる=)枠に填め込もうとするな」という一言は大きい。
「枠」とはいわば悪しき教育の強いてくる、牢獄。そこへ安易に進んで落ち込めば、もう立ち上がれなくなる。出られなくなる。
わたしもこの「枠に填らないでいたい」流儀でやってきたと思っている。思っているが、「自分の好きなことを、好きなようにやれ」という流儀は、あまり安易には人に奨めなくなっている。「我は我と云うことやめよ 奴凧」と、年初に述懐した。自分で自分の口に轡をはめて得意そうな人はいるのである、この世間には。大勢いる。
全てのコーチから縁を切って大事のマラソンに臨んだ高橋尚子の、あの失敗もあった。適確なコーチの助言を真摯に聴き、世界の頂点にしっかり立ってきた、モーグル上村選手の偉業もあった。
「名伯楽」は、いる。しかし出会うのが難しい。その気がなければ絶対に出会えない。

* 秦建日子はどうだろうか。

* わたしは、孤立の中で創作の生活へ入った。そして小さく固まったという悔いを忘れたことはない。太宰賞をもらって、その選者の先生方をわたしは「先生」としてきた。親しくモノを教わったのではないが、どんな仕事をするときも、少なくも、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という選者先生に「答案」として提出し恥ずかしいような仕事でないと、と、心に決めた。それがわたしのせめてもの志であった。その上でわたしは「自分を枠に填め込もうとするな。自分の好きなことを、好きなようにやれ」と自身を励ました。成功したという自信はまったく持てないが、それが自分の人生だったし、奴凧にもまだ人生の残りが在る。
2008 3・22 78

* チベット・中国は別格で眼が離せないしこのままではいけない、が、例の暫定税率の国会審議などよりも遙かに戦慄に値する問題が、サンデープロジェクトの最後にジャーナリスト大谷氏より報告されていたのを、第一の関心事とせざるをえない。
以前、わたしがまだペンの言論表現委員を辞する前のこと、草薙厚子氏の「供述調書」を無批判・無批評にベタ写しに利用した著書を委員会で問題にした。時の法務大臣がいきなり出てきてその著作の手法と秘匿資料の利用にクレームをつけた。そもそも、そういうクレームを不用意に誘発し、それだけの効果が著作そのものに優秀に発揮されていないことに、わたしも含めて何人もの委員から著者に対し疑義が提示された。「供述調書」といったそれ自体がアヤフヤな作文でありかねない資料を用いてやるなら、もっと大事な、大切な糾明と批判と真相の大展開により一切がひっくり返ってくるほどの結論へ導いて貰いたいが、実際にこの著書はさほどの成果に手を掛けていず、つまりは「供述調書」を手に入れてナマのまま使用したのがまるで手柄かの程度に終わっているのは遺憾であり、遺憾の最大なるものは不当に法務大臣のクレームなどを呼び起こして、警察・検察による今後の言論統制への口実を与えてしまったことだとわたしは文句を言った。
その文句が、その後に露わに警察・検察の強硬な規制行動になって現れ、著者や出版の講談社はわざとのように放置しておきながら、鑑定医師の強制捜査や逮捕・起訴とうへ問題が拡大されていたのである。つまりこういう問題での証言や材料の提供元の首根っこを押さえつけて、今後、報道機関等の取材が極めて不自由になるように圧力をかけ始めたのである。それが拡大してゆくと、報道等を支援の基盤にした冤罪糾明等の活動が根本のところで抑えられてしまい、警察・検察の思うままにそうさや立証や裁判が強行されてその監視や是正の民間からの働きかけが出来なくなる。なんという怖ろしいことが強硬に進められているか、と、そういう告発であった。おそろしいことだ。ほんとに、おそろしいことだ。草薙著書がなくても検察はその方向へ報道による糾明の首を締め付けようとしてきたのだが、草薙著書事件は不用意にその露呈とより速やかな強行とをまんまと誘い出したのである。
不当逮捕と監禁を蒙った医師は、草薙氏を恨んではいないが、著書の内容もその弁明もみなダメだと価値を否定していた。わたしも一読してこりゃダメだと思った。こういう著述に向かう人は、軽率な功名心だけでなく、もっと文藝としての効果に聡明な謙遜な配慮をすべきだろう、或いはそれを乗り越えてより高度の真実なり人間の発見なりに腐心すべきであった。

* ことはもはや草薙著書のレベルを超えて、憲法の保証する権利が守れるか弾圧の前に抹消されるか、その選択と闘いになってゆく。大谷氏のレポートは重大であった。
日本ペンクラブの執行部は、言論表現委員会は、対応の用意があるだろうか。
2008 3・23 78

* 昨日、国文学者の平山城児氏の『春琴抄』にかかわる論考の抜き刷りを頂戴したのが、とても興味深かった。春琴は地唄音曲の名人であるが、事実はともかくとしてそのモデルにとかく擬せられてきた実在の名手菊原初子さんのあったことは、関係者はみな知っている。この菊原さんへの、長い時間をへだてた二つのインタビュー記事を介して、平山氏はモデルの心事を推測推量しながら、この名作創作の一つの深部へ興味有るさぐりをいれておられる。とても面白く読ませてもらった。
そのとっかかり、いや当面の問題として、春琴の口三味線の当否が論証してゆく。
やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガン、チリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと
と谷崎は春琴が口三味線で弟子に教える場面を書いているが、菊原さんは、これがありえないものであると語っていて、平山氏はどこから谷崎がこういう口三味線を表記するにいたったろうかと追究している。
それ自体が名作『春琴抄』の致命の傷になることはないが、作品「研究」の一つの例としては意表に出て興味深いといえば言える。
2008 3・23 78

* めずらしく「二つ」併行している小説を、ジリジリと進めている。
一つは、懐かしいほどの手法で、むかしからの或る疑問に答えようとしながら、土中にめりこんだ土竜のように暗闇を、ちょっと華やかに、進んでいる。
もう一つは、あまりこれまでに例のない素材の扱い方で、一種容赦ない愛の物語になるのかも知れない。
仕上がるか、いつ仕上がるか、いまは言えないが、気は、しっかり繋いでいる。
2008 3・24 78

* 大江さんの『沖縄ノート』の名誉毀損裁判が、大江さんの勝訴に終わったのは、当然でもあり、いいことだった。軍の干与が強制性を帯びて悲劇を多く生んだことには「合理的」な状況証拠や証言が多年に亘り蓄積していて、特定個人への同定や推定があろうともその元にある事実は否定できず、名誉毀損とは言えないのである。
わたしも、親類筋から名誉毀損の執拗な攻撃を受けていて、この「四月」中にも本訴へ持ち込むと通達されているが、ウエブ日記に名前をあげて非難したり批評したりしてあること等が、それに当たるらしい。
しかし何にも先立ち、過去に蓄積された客観の事実には、わたしやわたしの家族が受けた苦痛を証明する「合理的」なものがたくさん在る。それを無視されては叶わない。わたしたちから仕掛けたことは何も無かった。ただ時々にその疎ましき被害に、つい怒りつい抗議したウエブ上の何度かの事例だけがある。なぜ、それが名誉毀損になるのか。

* 「ニュールンベルク裁判」のなかで弁護士が声を大にして、この被告の責任を裁くなら、同じ責任は誰にでもあったと叫んでいた。
そのような論鋒はしばしば人の肺腑をつくがごとくではあるが、わたしに言わせれば、かれは「殺した」ものと「死なせた」ものとの差に気づけないだけだと。
たしかに戦争に関わった同時代の国民には、ときには他国民にすら、それにより無辜の多くを「死なせた」自責があっておかしくない。しかし、それは自責のしからしむる原罪的な呻きである。
しかしナチは無辜を「死なせた」責任者なのでなく、明らかに「殺した」責任者達であった。そこを飛び越えた弁論も雄弁もひどくすると逸脱した詭弁にしかならない。被告ヤニングはそれが分かっていた。しかもなお、彼はガス室の事実を知らなかったといわずにおれなかった。
だが裁判長は、すべては、最初にひとりを無道に「殺した」ことから発したのだ、と突き放している。その通りなのである。
裁判長の決定的な判決には「合理的に非難されて然るべき」「最初の事実」が明瞭に見えていた。わたしは、それが「真の裁判」であると思う。
2008 3・30 78

* 文体についてのやりとりが少し「mixi」であった。不充分だが、小さな感想を今後の踏み段のために書き留めておく。

* 文体は、指紋や独自の体臭に譬えられてきたと思っています。わたくしの理解でいえば、基本に、ことばの「発語」によって成される文学・文藝の本質的な「音楽」性が関わっていると。
いい書き手は、犯しがたく犯されがたい独自の「言語表現音楽」を入手ないし達成しているように思います。「恣意的に選び取る」というより、遅速の差はあれ「成熟の過程で成就されてきた、独自のリズムやメロディを発している表現力」として仕上がっているものでは無いでしょうか。
藤村の音楽と直哉の音楽とは明らかに異なりながら、それぞれに魅力や魅惑をもちます。訴求力をもちます。ファシネーションを持っています。
そして少なくも文学文藝を成そうとする人なら、そういう独自性を表してゆくべく、いい作品を書かねばならないでしょう。  湖
2008 4・2 79

* ありがたい思いをした。
聖路加へ早く着いて、まず血液と尿の検査を済ませ、診察に一時間は余裕のあるのを確かめてから、院外へ散歩に出た。あわよくば特製のオムレツを頼んで早めの昼飯をとも思ったが適当なレストランが見つからないまま、花日和の築地をぐるりと歩いて病院に戻ってきて、手前の交差点角にあるカソリックの教会にはいってみた。
築地は外国人の居留地のあったところ。この教会も早くに出来ていた。
ちょっと見には石像に見えて実は木造のギリシャ建築風の正面をもった会堂、ひっそりと人けなく静まりかえっていた。と、教会の人らしく、どうぞ自由に中へもと声がかかった。その気はなかったが、思い直して、言われたまま中へ入ってみた。
誰一人の姿もない会堂の奥には聖像や十字架などの祭壇があり、木製ベンチがならんでいた。前の方へは進まず、うしろから二列ほどの席に腰掛けてみた。
額ずく気ならそのようにもベンチの前に設えもしてあった。わたしは、そうもしないで、しかし、座禅ではないが瞑目した。
いくら瞑目してみても雑念ばかり、それに戸外に物音はいくらもしていて、とてもとても瞑目・瞑想に堪えられそうになかった、…のだが、じっと目をとじたままでいるうち、ふと気づくと、自分が物音にも雑念にもまったく邪魔されないで黙想できているのに気づいた、いや、そんな気づきすらもすぐ捨てた。目を閉じた視野は一面にほのあかるい波一つたたない池の面のように静まっていて、なんともいえない安居の時空にわたしは落ち着いていた。眠っていたのではない。
我に返って時計を観ると優に半時間以上が経っていて、もう病院へ帰った方がよかった。名状しようのない気持ちよい、全身の軽い快適感にわたしはこころから驚いていた、いや感動していた、しかも胸の内は静かであった。嬉しくてならなかった。
2008 4・4 79

* 毎朝、目覚めとともに、水を打ったように冷え冷えと静かな、あるいは静かに冷え切った何かの破片のような自分を感じる。
こと繁き煩いをどう始末して行くか、これに幸か不幸か難渋する。後顧の憂いがわたしを救っているようなものだ、笑える。そして嗤う。

* 昨日、いくらも書いたつもりの日記が、ほとんど無い。書かなかったのだ、だが何をと、思い出さない。それなら書かなくてよかった。
2008 4・7 79

* また一つ、長い永い書き物になりそうなのを、書き始めた。虻蜂取らず、どれもこれも刺されて頭を掻く事になるかも知れぬが、どれもこれもわたしの楽しみに始めた。小説や、それに近いものに趣くまま打ち込んでいると、その間は、バカげた憂さも拭ったように忘れている。
2008 4・7 79

* 「よく考えなさい、分かるまで」と云われた。「考えてみろよ、バカだな」とも云われた。「考える」ことは良いことの最たる何かだった、長い間。
考えるフリすら出来ないと、「バカか、おまえ」と怒鳴られた。この叱咤のことばは、わたしのむしろ好んでよく我が子に向かっても用いたものだけれど、だが、それを、「よく考えなさい、分かるまで」とか「考えてみろよ、バカだな」という意味には使わなかった。自分の胸に手を置いて、聡明に胸の鼓動の教えるところを「聴いてみよ」と云いたかった。子ども達の引き起こす問題は、いつも、算数の問題を解くとか国語の読解を求めることとは、まるで別ごとだったから。
自分のこざかしい「考え」に固執するな、と言いたかった。
幸い人間には「考える」迄もなくわかっている(この言葉はあまり好かないが、カントの謂うがママに)道徳律を、先験的に実践的にもっている。少なくも大概のことはじつは落ち着いて思えば、「わかっている」のである。。

* 「考える」のは、誰なんだろうか。あなたでも、わたしでも、ない、「頭」だ。「頭」が、考える。
「頭」とは、ほかならない「自分自身」の意味のようにほんとうに久しく人は考えてきた。今でも考えている。ほんとうだろうか。
考えた「考え」が、ほんとうに自分自身のものかどうかは、曖昧すぎて、ちっともわからなくなるときが有りはせぬか。よくよく考えた結果が、じつは他人様の言い分を納得したか押しつけられたかに過ぎなかったり、世間の常識や社会の枠組みに不承不承に同調しただけであったり、自分の欲望を満たしたいために都合良く容認したに過ぎなかったり、する。

* ただし「考え」は、けっしてバカにならない。「考え」という機能には一面実にすばらしい能力がある。能力の成果が、太陽系の果てまでロケットを送ったり、ミクロのミクロの究極から法則性を発見したり、とうてい治らないと思われた病気に克服の道がついたりする。そういう「考え」は素晴らしい。賛嘆せざるを得ない。
しかし「考える」という働きには、機微の真実を技術的に追究して人間未踏の成果を導く、高級で非人情の「考え」とはまるで別に、きわめて人情に纏綿し膠着した日々の欲望充足の補助手段として働くだけの「考え」が、莫大に在る。地球上でふつうの人間のする「考える」はそれで、前者の、高級で価値ある素晴らしい「考える」とは、同じ頭の働きでありながら、全然ちがう。量的に云うても、価値ある方の「考える」は億に一つの程度。
億からたった一だけを引算した残りものの「へたな考え」は、「休む」に似たという以上に、人間のエゴ・私欲に媚びて、刻々に「心」をずたずたにしてくれる。
いや、これはむしろ逆に謂えばよい。すなわち、心(マインド) こそがじつに無責任にナマクラに「考える」のであり、それは、常に「分別」という働きようで全体を細切れに切り刻んでゆくことしか出来ない。「分別くさく」あればあるほど、「よく考える」と謂って世間は称賛したり容認してくれるけれども、それはその「考え」が、他者や目上や社会や権勢の邪魔にならないからであり、ひとたびそれらに抵触すれば、すぐさま「間違った考え」「わるい考え」として非難され処断され処罰される。
何よりも誰からよりも、生半可に考えて得たことや、したことは、たいがい自分自身の中で本当は落ち着きが悪く、むしろ悩みの種になりやすい。
むしろ何も考えあぐねたりしないで、自然の思いに投じた方がすっきりし、「後悔」という名の難儀で新たな「考え」にとりつかれることが少ない。無い。「無心のすすめ」は、端的に「頭」で「考えるな」に在る。「don’t mind=ドンマイ」である。

* ただそれだけのことが、しかし、出来ないから可笑しく悲しい。斯くの長広舌また休むに似た「へたな考え」を出ない。ウフッ。
2008 4・8 79

* チベットの教主ダライ・ラマが来日、ホンの短い時間に大切な言葉をのこしていった。真実の「自治権」を切望すると。

* 中国がチベットやウイグル地区にしていることは、いわば漢民族を大量に送り込んで、現地に根付いた「モノ・コト・ヒト」を根こそぎ強烈に枯らしてしまい、文化的にも政治的にも宗教的にも社会的にもまったくべつものの中国支配地にしてしまう、まさに侵略と支配を決定しようとしているのである。これが「帝国主義」だ。
これは、主としてアメリカが推進してきた「グローバリゼーション」という名の世界画一化的制圧行為を、いっそう露骨に、人権の根底まで蝕む形で、強引に「チャイナイズ」してしまおうとしているということ。

* この「私語」を漏らし初めて、十年になる。十年前から、わたしは「中国」こそ「問題」だと言い続けてきた。日本にとってまさに問題の超大国であり、いまや経済大国の最たる右翼である。
中国を「分かる」のは難しく、ことに日本の政府や、政治指導者、経済指導者らは、中国を、故意にと云いたいほど都合よく見錯りながら、錯誤に錯誤を重ねてただもう商売を考え諸問題の「先送り」に熱中してきた。少なくも此までは日本はあの広い中国で、最も稠密な商売網をひろげて成功してきた儲け上手であった。
日本の文化人・知識人も、多く、また敗戦後久しく、中国のご接待・熱烈歓迎に媚び続けている。中国の日本と日本人に対する敵意や軽蔑の深さから目をそらして、「自分」だけは別だと甘えたフリをしつづけ、老朋友ぶりを演じているが、中国の指導者や国民のある種の徹底した現実主義は、日本の偽善的なお人好しブリをむしろあからさまに嘲笑し軽蔑して止まないのが実情であることを、よその世界人の方が冷ややかに見定めて高みの見物をしているのである。

* 今、中国の実力からすれば、聖火リレーの混乱ぐらいにひるみはしない。それどころか、ガンとして覇権に執着して路線の変更などしないだろう。怖い他国は、もう無いのだ、中国には。
ヨーロッパは、せいぜい首脳の開会式ボイコット程度しかできないだろう。かつてソ連のオリンピックをボイコットしたようなよくも悪しくもガッツは、日和見日本はもとより、何処の国にも無いことは、やがてハッキリする。フランスなど、勇ましげであっても、存外裏で台湾との商取引をチャッカリ進めているのかもしれない、その派手な前歴のある国だ。

* ダライ・ラマが血を吐くほどに求めても、他民族地域の真の「自治」など、中国は絶対ゆるすまい。ダライ・ラマは明らかに「独立」という二字を避けて通っているのだが、「自治」は独立の意欲の裏打ちが無ければ果たせまい。世界の輿論を興すことはなかなか難しいはずだ、「独立」への真の気概と切望がなければ。
だが、独立にしても自治にしても、第三次か四次かの世界戦争抜きには、所詮不可能なのではないか。そしてそういう事態になれば、日本の運命もまた、チベットの現況に歴史的に近づくことになる。アメリカは日本をけっして助けてなどくれない。アジアのことはアジアでやってくれと、太平洋のかなたへさっさと退くのがオチだ。
それほどに中国は力をもう備えている。その現実を直視して、日本は日本の長期展望の根本の「自治」を講じなくてはなるまいに、何なんだ、あの党首討論での自民党総裁のヒステリックな無意味な「泣き言」は。
日本国民の、日本国民による、日本国民のためのステーツマンシップは、滴も、いまの政治に認められない。少なくも一日も早く日本国民の直近の民意をさぐって、政策のある総選挙へ踏み切って欲しい。

* 明日、読み直す。絆創膏で目の上を吊っていない今、目は、霞に霞んでいて読み返せない。
2008 4・10 79

* 「人生自体が気狂いじみているとしたら、一体本当の狂気とは何だ本当の狂気とは。 (略) 一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折合いをつけてしまって、あるべき姿の為に闘わない事だ」と、「ラ・マンチャの男」は云っていた。
「あるがままの人生」というよりも、「あるがままの怠惰な世間のきまりに折合いをつけてしまう」のだと読みたい。それが、いちばんイヤだ。
2008 4・11 79

* 久しい哲学の歴史があり、一つの結節、大きな「理性」の結節がカントの手で結ばれた。「弁証法」のヘーゲルがすぐあらわれ、要するにカントまでの、「世界と人間の理解に、普遍的で一定の前提をもちたがる」考えは、遂げ得られないだろうことを宣告した。世界理解は歴史的に変動するのが当然だと喝破した。
ヘーゲル哲学に低頭する思いのあるのは、要するに弁証法のわかりやすさであり、歴史がその基盤にあるという理解の示唆的なところ。歴史を大切に感じてきたわたしの根の思いは、ヘーゲルに刺激されている。

* ヘーゲルが、世界は広大な「斜面」であると表現していたことにも、わたしは感化されてきた。人は、娑婆という斜面を、登ったり降ったりして暮らしている。ときには座り込んでいる。「斜面」とは階段のイメージに近い。上と下とのセンスが、階段や斜面の基底にある。社会的な階層を思うのも早わかりだが、むしろ人間の個々の欲深さが世界を斜面や階段に「傾け」てきたのだ。
早稲田の文藝科で小説の創作ゼミを二年間アルバイトしていたとき、ある学生が「スワリンボくん」という人物を小説に書いた。階段があれば中途に座り込んでしまう青年を創り出し、わたしはその思索の底をかきさぐって、何度も発言し表現したことがあった。
人はふつう斜面や階段をよぎなく上下しうろうろしているものだが、座り込むという態度もある。存外に賢者であるのか、とほうもない愚者であるのか。それはわたしが決めつけることではない。
わたしが「哲学する」ことには心を寄せながら、「哲学・学」という哲学屋の攪拌業に冷たいのは、侮蔑的なのは、かれらが「歴史」をまるで停止した死機械のように分解しているに過ぎないからだ。

* ジャン・ジャック・ルソーは『エミール』の中の早い段階でこう云っている、
「自分の意志どおりにことを行なうことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。これがわたしの根本的な格率だ。」(今野一雄訳)
大事なところを言い切っている、が、かすかに思うのは、ルソーのこの思想を支える分母社会はかなり狭い、小さいようだという歴史的な限界である。
純然の理だけでいうと、みごとな気概である。
しかし彼はあまり優れた社会人ではなかった。社会と(自由な)自分との経験的な対話は乏しかったように感じられる。純粋培養された「理」が立派に語られる。
「社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。」
この指摘にわたしは経験的にも思索的にも共感を惜しまない。が、人間達の「今・此処」の苦渋は、そういう評論だけして立ちすくんでいられるものでない。
ルソーより以降の世界史は、人類史は、社会の毒がじつは自分自身からもにじみ出ている辛い自覚や反省を強いられてきた。
ルソーには「自分が社会」でもあるという生活的自覚より、純理的「思索の精微」へ退避する傾向はなかっただろうか。
2008 4・13 79

* 理事会。発言せずにおれないことが幾らもあり、幾らか照れくさくもあったけれど、わたしは、理事会に出て、話さねばならぬ事を話し発言し提案し記録にとどめてもらうのが役目で、「理事」に当選している。理事なんて、名誉職でも何でもない、意見陳述や討論や提案を期待されていて、期待に背かないよう務めるのがわたしの任務なのだから、必要なら、何度でも発言を求めるのである。
わたしからいえば、理事会に出てボウッと座っていて、そのまま一言も喋らず帰るのはラクでいいが、出席自体が時間の無駄にも近い。しかし、それでこそ如才ないのかも知れない、ほんとうは、誰も私の発言など求めも期待もしていないのがホントウのところであるやも知れない、いや、ホントウなのである。
それはまあそういうものであろう。しかし、議題を知り、説明を聴いていれば、問題点はすぐ見つかる。それに対する思いも即座に湧いてくる。これは大事なことだと思うのに、だれも発言しないまま次の議題へシャンシャンと流れそうなときは、私、やはり云うべきは云うのである。
今日も、七度も八度も九度も発言を求めた。不必要な駄弁はつかわなかったつもりだが、だからといって、結果としては殆どがムダ弾にちかい、または等しい。
そんなことは、同じ理事会に十年以上も出ているから、ちゃんと承知している。承知しながら発言するとは、それぞわたしの至らなさである、などとは思わない。しかしながら、要するに、たいていの場合、だーれも、聴く耳、ましてどうとかしようという姿勢は無いのである。そういう会議である。
結局、自分でやれることは自分でやるしかない。電メ研も文藝館も、いったん承認だけとりつければ、さっさと自分でやってやって「実績」を積み上げた。誇るのではない、組織は、めったにアテにならないというだけの話である。

* 大事と思うことをほんとうに幾つも熱心に話してきたが、此処に繰り返す気にならない。
2008 4・15 79

* 身を「要なき者」となげく老い人の声は古典にもしばしば聞こえてくる。過剰なこんな「なげき」は、強い酸のように身を蝕む、すこしも早く擲ち捨てることだ。何の「要」だれの「要」と思い返すまでもなく、おおかた愚痴に過ぎない。身近なただ身内のために、怪我無く事故無く過ごして負担にならないよう心がけていればいい。老境は「要」で生きるのではない。無用の用を、道の落ち葉を拾って美しいと眺めるように「今・此処」「今・此処」をいつくしむことだ。なにもせず、なにも思わぬことではない。「要」を求めないことだ。できることはすればいい、思うことは百万思えばいい、喜怒哀楽もすべていい。「身の要」を「抱き柱」のように他に求め酬われようなどと願わなければ、歎くなにも、有りはせぬ。それが「老いの自由」だ。
2008 4・19 79

* 新刊『酒が好き 花が好き』の跋文「私語の刻」を、此処に置く。「身の要」をもとめて書いた文章ではない、「老境の自由」として書いた。

* 私語の刻

賀正  平成二十年歳旦 述懐

しやつとしたこそ  人は好けれ    閑吟集

春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎

我は我と言ふことやめよ 奴凧    湖

平和を願い 皆様のお幸せを願います。  秦 恒平

述懐 (平成二十年二月一日)

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り  斎藤史

手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ   高浜虚子

寒ければ寒いと言って 立ち向ふ  湖

述懐 (平成二十年三月一日)

弔葬を喜(この)まざるに、人道は此を以て重しと為し、すでに中傷せられんとす。
心を降して俗に順はんと欲すれば、則ち故(=自己本来の心)に詭(たが)ひて情(=自然)あらず。
堪へざる也。    嵆康

よく晴れし冬の日窓をおし開き鼻の先よりまずあたたむる        山崎方代

底ごもる何の惟(おも)ひに野の霜のかがやきにゐてもの恋ふるらむ  湖

ホームページの「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」の月替わり冒頭に、こんな「述懐」を置いている。先達の言も吾が「思い」として拝借・述懐している。
此の巻は、しばらくぶり、のびのびと心やりたく、好きな「酒」と「花」とに、春を言祝いでもらった。少年このかた嗜好と体験に同伴したのは「茶と酒」であったし、長じて思索と思想を先導した処女評論は、『花と風』(筑摩書房刊 湖の本エッセイ②)であった。
すべてさて措いて、この近日、思いを占めてくるべつの「花」の話題にふれてみようか。もう記憶した人も少ないアメリカの女性詩人・小説家ガートルード・スタイン(一八七四~一九四六)、「ロスト・ジェネレーション」の名付け親であった優れた思想家でもあった人に、
「薔薇は薔薇であり薔薇である」
というフレーズがあった。
リアリティ(あるがままの真実)を問えば、則ち、こうなる。他に言うべき何もなく、日々に無数の言葉を用いていればこそ、スタインのこの透過・透関にわたしは頷く。哲学屋や宗教屋や理屈屋は言うにちがいない、それは言葉の反復にすぎないと。「言われ得ない」ものの在るを、知らず認めえないで、ただただ「言われ得ない」ことをあれこれ言い散らす人たちがいるが、そういうことが究極何の足しにもならないと自他に廣く分からせるのが、じつは「哲学」最後の目的なのだと、二十世紀最大の哲学者のひとりヴィトゲンシュタインは吐露している。間違いないであろう。際限ない議論、際限ない哲学。出てくるものは、似たり寄たりの繰り返しで、所詮「薔薇は薔薇であり薔薇である」を超えない。
「生きるとはどういうことか」を「問え・問え」と、よくテレビで説法している有名なセンセイ方がいる。「生きるは生きるであり生きるである。」これ以上のことは、誰にも言い得ない。言い得ないことを言え言えと強いる人に、もし同じことを問い返しても、何の足しにも成らない難渋の観念をとくとくと繰返すのであろう。人生の、「邪魔」という魔である。
だが、応えうることには、また答えねばならぬことには、根限り応え・答えて成さねばならぬ、大切なことだ。ただ、とうてい答え得ない問題には、ブッダもイエスも何一つ答えようとしていない。まして問いかけたりしない。「薔薇は薔薇であり薔薇である」。
だが、なぜ反戦か、反核か、なぜ憲法の前文や九条を守るか、なぜ列強の帝国主義を憎むかには、答えられる。応えねばならぬ。
日本の憲法はすばらしいか。すばらしい。ではイギリスの憲法は。アメリカの憲法は。あのワイマールの憲法は。みな、立派な憲法である。日本の憲法も立派だから、立派なまま、われわれはその前文や九条を変えたくないというのか。そやろか。違うのと違うやろか。

世界史上、だれもが称賛してきた、憲章や憲法や国際的な宣言が、幾つも在る。例えば、誰もが、あの「議会国家」として誇らしい歴史を持った英国を、真っ先に思い出す。絶対王政という政治体制を拒絶し続けて、あの「大憲章=マグナカルタ」などを実現したイギリス国民の、苦心惨憺・苦闘と主張の全経過を幸いにも我々は知っている。しかし憲法のハナシは、そう簡単なもんじゃない。
アメリカの独立、そして独立宣言という「根っこ」から立上がった「合衆国憲法」も、また理想的な叡智の叫びだった。じつに元気いっぱいの気分で、アメリカ「建国の理想」と、エネルギーの真剣さに感歎する。原則を押し建て、「修正」という名の追加条文を適切に継ぎ足して行く。感歎、また感嘆。
ワシントン大統領といい、ジェファソンといい、フランクリンといい、またアンドルー・ジャクソンといい、またリンカーンといい、初期の大統領や指導者が、率先して憲法を信愛し、深い敬意を払って、真剣に遵守した。これが印象に残った。称賛に値した。日本とは大違いだ。そうはいえども、アメリカのその後の歴史も長く、容易でなく、そしてあのブッシュに至っている。米国にも決して尊敬できない昨日があり今日があった。
「フランスの憲法」は、どうか。フランス革命は、激動と混乱との推移の内に、ルイ王朝の絶対王政を倒し、革命期の恐怖政体と帝王ナポレオンの強烈な覇権王朝と、反動的なブルジョワ国家への、めまぐるしい転進、また変貌を経た。革命当初の、三色の理想に彩られた憲法は、繰り返し改悪され、変質し、理想は、欲深きブルジョアたちの手で蹂躙されてきた。そのフランスが、あのイギリスと、競いに競って帝国主義の牙を強欲に磨き続け、弱小の後身国を蚕食しつづけた史実は、誰も否定できない。
では好評嘖々のワイマール憲法は、どういう状況下で、どんな政体と国民とにより「國の憲法」として奉じられてきたか。あのヒットラーが、ベルリンで最期を迎えた日の、あの第三帝国の憲法が、なお、あの、いわゆるワイマール憲法の末流であったという無惨な事実を、我々は忘れることが出来ない。
それだけではない。ヒットラーが夫人とともに自殺した正に最期のベルリンの、最期の第三帝国国民の、意外なほど大勢が、なお、ヒットラーを支持し、彼が、益々「強いドイツ」を推進し拡大し、威厳を世界に輝かしてくれると期待していた驚くべき事実がある。実に実に驚かされる。歴史的にも最も優れた「民主・平和と人権」の憲法を持していた事実と、あのヒットラーに寄せていた国民の「信頼」という事実とは、いったい「何」を意味していたのであろう。
ワイマール憲法は、どう生まれたか。第一次大戦でドイツを降伏させた戦勝国、ことに英仏米三国にロシアを加えた主導大国のほとんど脅迫によって「ベルサイユ条約」が調印され、引出物かのように「民主共和憲法」つまり「ワイマール憲法」は発効した。この憲法は、人民の主権と政治的自由を強調する、世界で最も自由な憲法であり、経済上でも「経営評議会」を認めて、経営に対する労働者代表の参加権を、正式に許可していた。経営上に、労働者の権利を認めたことは、「産業における民主主義」として、その先駆的意義は画期的だった。
しかしながら、このお飾り憲法の下でのドイツのナチ化、ファシズム化、警察国家化は、何の会釈も斟酌もなしに、ベルリン陥落からヒットラー最期まで、「同時に併存」していた。「憲法」の理想など、ほとんど一顧だにされてなかった。たとえ、ワイマール憲法に、日本国憲法の前文が、また九条の戦争放棄が書き込まれていたにしても、間違いなく、弊履の如く顧みられなかっただろう、それが、ヒットラー前後のドイツの歴史だった。日本もまた、今、同じ道を歩んではいないか、どうか。
さて、イギリスとフランス、やがてアメリカも同様だが、彼らの國の憲法が、「理想」において、「国内」運用においていかに素晴らしかろうとも、「国際的」には憲法など何処吹く風と、「無道の侵略」を恣にした世界史的事実は、誰も見過ごすことは出来ない。彼らのいわゆる「帝国主義」の傍若無人、他国の領土や国民に対する侵略・人権や財産の無視は凄まじく、しかも彼らの憲法または民主的な革命精神は、その国家的エゴイズム・帝国主義の抑止には、まるで無力・無効果であった。
アフリカ諸国への、スエズ周辺国への、バルカン諸国への、インドへの、中国への、南海諸島への、英仏米の「帝国主義」の侵略は、大航海時代のイスパニアやポルトガルなどのそれに何倍も何十倍もする悪意と傲慢に充ち満ちていた。「帝国主義」という資本主義に発する概念・言葉を、その國が王室や皇室をもった帝国であるという意味に誤解してはならない。
かつて英仏という國は、弱小国とみると、まずは「経済援助」や「武力による保護」の名目で、つまり金や武器・兵隊を貸し与え、見返りに、港や、河川の沿岸都市や、交通の要衝に、貿易や武力展開の拠点を要求し、その権益を強引に拡大させながら,遂にはその國の政権を骨抜きにし、いつのまにか占拠し、保護国や植民地にしてしまった。狡猾で強引で強欲なその支配拡大と強化を、即ち「帝国主義」と謂うてきた。そうした暴君的な領土と勢力の拡大政策にかけては、第一次世界戦争を過ぎて、第二次大戦の勃発に至るまで、殊に英国とフランスとの地球上での我が物顔は、途方もないものであった。その、蔽いようのない地球全体にわたる強欲と非道ぶりについては、歴史を顧みれば、容易に、嫌ほどの実例が見いだせるが、彼らの祖国の憲法は、憲章は、甚だ紳士的で民主主義的で、まず、ご立派なというしかない。そしてアメリカもこれへ、第一次世界戦争後のベルサイユ条約体制に乗じて、圧倒的な経済の優勢を力に、割り込んだ。やがて英仏もドイツをも圧倒していった。
いま「憲法」と、米帝国主義との関係で言おうなら、中南米諸国、いわゆるラテンアメリカ諸国の憲法は、どこもかしこも、アメリカの独立宣言やフランスの革命憲法から、美しい理想の限りを引き抜いてきて作りあげた、世界でも、最も進歩した内容の憲法であると認められている。労働立法も、社会保障立法も備わっている。そのラテンアメリカ諸国が、国運をかけて歴史上に証明してみせたのは、「優れた条文の憲法」を持つことと、「優れた理想の政治」を持つこととは、全く「別ごと」であるという不幸で無惨な現実であった。その云うも憚られるさんざんの政情不安の背景には、アメリカの「帝国主義的な圧力」がつねに働き、しかもそれが各国の民主主義的な動きや希望を抑圧し、云いなりの政権を、経済的・武力的にアメリカが援助していた例が、殆どであると言うにおいては、何をかいわんや。
ではさて「日本の憲法」に想い及んで、いったい何をどう考えればよいか。
だから「九条」が大切、「前文」はもっと大切。微塵異存はない。頑張らねばならない。
しかしながら、憲法改訂に反対して、ただ憲法条文の現状存置をはかろうというだけでは、冷えた「抱き柱」に、ただ抱きついていることになっている。すばらしい憲法をただ持っていても、悪しき政府や政権は平気で憲法とは逆様の党利党略へ國の運命を誘ってゆく。わるいお手本はいたるところ強国・大国の足跡として歴史を汚し続けてきた。
総理大臣に、都知事に、大臣に、代議士に、われわれの憲法をしっかり守らせるぞ、護らないなら、公僕の地位は決して与えないという、もっと勝ち身に出た攻撃の運動が燃え上がらねばならぬ筈だが、だが、いま、たとえば国会を取り巻き、国会や政府をゆさぶるほどの国民の政治エネルギーが、何処に有るか。農民はやっとやっと参議院に「捻れ」国会を呼び起こしたが、三分の一以上の非正規社員を平然と見下し、日本のサラリーマンたちはいったい自分たちの國をどこへ道連れにする気か。
例えば、一つわたしに提案が有る。あらゆる「立法」の際の「無条件・当然の前提」として、どの法律の名称・名前にも、むろん憲法にも、率先して、すべてに、こういう角書きを悉く付けるべし、と。「国民の、国民による、国民のための」と。「国民の、国民による、国民のための・日本国憲法」「国民の、国民による、国民のための・個人情報保護法」などと。
そして一々の法律が、この不動の前提である「民主主義」「主権在民」そのものの「国民の、国民による、国民のための」という「意義」に適合していなければ、我々はそれを、「法」「法律」「規則」として、断乎認めないのだという、大きな強いコンセンサスを固め、絶えず、国会にも、内閣にも、裁判所にも、遵守させねばいけないのである。反対する似而非の僕輩は、必ず選挙で落選させ、厳しく淘汰しなければいけないのである。「九条を守る」といった「抱き柱」に抱きついて安心を得ようと云うだけの運動は、弱いなあと、わたしは感じている。
その「弱さ」の象徴でもあるかと思うのが、そもそも「九条の会」設立に、見映えのしない「顔」写真をならべた、何人かの「老人」たちのあの、顔、顔、顔。時代の主役も先導も「若者」であって欲しいのに。老人達は、それをうしろから支える役であって欲しいのに。
ちょうど今、底辺史学者といわれ、秩父困民党など、自由民権運動の克明な研究その他で日本の歴史学に新分野を拓いた色川大吉さんにの文字通り、『若者が主役だったころ わが六○年代』と題された「自分史」を、わたしは熱い気持ちで読んでいる。若者は、歴史を顧みても行き過ぎやマズイ面も露呈はしながら、それでも、やはり若者こそが声を上げ、身を働かせて「民主主義」「主権在民」を動かす時代がまた来て欲しい、さもないて二十一世紀日本は、ただ強権と支配との時代反動の坂を転げ落ちてゆくのではないか。そうしたくない、と、なにより、いま、わたしは願っている。
2008 4・19 79

* 夢を観ているときのリアリティは、よほど妙な夢であっても、ありありと在る。だから怖い夢は怖く、甘い夢は甘い。しかも目覚めれば雲散霧消し、とうてい手元に引き留めておけない。
これは夢でない現実だと思いこんで生きている此の現実も、じつは夢であり、いつか覚めればなにもかも煙のようでしかないといった推察は、自覚は、荘子も、邯鄲の魯生も、あの人もこの人も、大勢が繰り返し口にしてきた。わたしもそう思う。そう思うことも夢でしかないと思う。いやな夢にしたくないと思うのは愚痴か。
2008 4・20 79

* オリンピックの聖火リレーは、「中止」すべきなのである。オリンピック委員会がこの無意味な世界的騒動を座視してきた無見識に、わたしは愕く。日本は、キッパリと、こんなバカげた事態に対する見識として聖火リレー中止を決めてよかった。無意味で、本来の趣意からあまりに懸隔している。なんらの意義もない浪費に陥っている。
オリンピックなるものが、そもそもの成立から断然政治的な意図的所産であったこと、それがスポーツ平和の祭典などと神聖化されすぎてきたしっぺい返しが起きている。

* この際に、日本国民が心して省みるべき、一つの「秘められた悪意」に気づくべきだろう。
「3S政策」である。
セックスの容認・開放、スポーツの慫慂・振興、ショウ・スクリーンの放任・開放。
もともとアメリカで企図されたせいさくだが、日本の敗戦後政治ではっきり意図してこの軟化政策がとられたのは、もはや秘密でも何でもなく、これぐらい成功した占領政策はなかったし、日本政府もそれをまんまと引き継いできた。これらゆえに日本がどれほど変容し変形してきたかは、少し落ち着いて眺め直せば誰にも直ちに明らかに思い知られるだろう。セックス、スポーツ、ショウ。絶妙の魔薬であった。
この三つの政策には、われわれが理屈抜きに大いに歓迎できるメリットがあった。否定できないことであった。
セックスの開放は、その陰険な抑圧に比べて、明らかにわるいことではなかった。だが、人間の秘めていた欲求から意図的に施錠が全くはずた結果の、精神的・生理的影響の深さ大きさもまた計り知れなかった。抑制の利かない犯罪の現代をも、たしかに、招来し実現した。民衆のもっていた政治的エネルギーを不能化するちからとさえなってしまった。

* スポーツに関係して、わたしには象徴的に思い出せる一事がある。国民的な英雄の一人かのようなプロ野球の長嶋茂雄選手が、ある選挙で社会党が大躍進したときであったか、「社会党が勝てばプロ野球はできなくなるのでしょうか」といった趣旨を大まじめに発言したとマスコミ報道された。「3S政策」の秘めた政治意図の中心である「愚民化」が、こうハッキリ現れてきたのにわたしは驚愕し、寒心した。
いま、「スポーツ」とさえいえば、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」式に、ウムをいわさぬ善と力の象徴のようにされているが、それでホントウに好いのだろうか。
わたしは以前にも言った、超一流のスポーツ選手に優れた政治感覚も私民センスもあって欲しい、そしてなにか晴れの場面で、たとえばマラソンで優勝のインタビューとか、たとえ一言で好いから、「環境」について、「人権」について、「憲法」について発言してくれたなら、莫大な費用を節約しながら、大きな関心を呼び起こし、ことに若い仲間達に問題意識が喚起できるだろうにと。イチローくん、谷亮子さん、浅田真央ちゃん、マラソンのキューちゃん、卓球の愛ちゃん、相撲の高見盛関等々。彼らが市民的見識をも発揮してその影響力を、かれら本来のスポーツの場からじかに発信し発言してくれたらいいのに、と。但し長嶋茂雄的な間抜けたはなしでは困るのだが。

* おなじことは、ショウやスクリーンの世界でもいえる。演劇の世界には、優れた思想家達が多かったが、今はどうか。少し寂しい気がする。
国会に陣笠の一人になり数だけに数えられる愚な存在にならないで欲しい。自分の力のいちばん発揮できる場から一人間として発言して欲しいのだ。
聖火リレーに関しても、大の大人の星野仙一監督などには、もう一歩踏み込んで、こんな愚かしい茶番はスポーツの精神に大きく逸れすぎている、と発言して欲しかった。よしましょうよとまで発言して欲しかったとは云わぬが、オリンピックにさえ出ればいいと云う現代世界ではないという自覚が見受けられない。
善光寺の意思表示は評価できる。市民が危ながって店の戸も閉めるような「聖火祭典」の無意味さは、むちゃくちゃ、ではないか。
2008 4・25 79

☆ 自転車  泉 e-OLD 小金井
乗っていますか。
先日の新聞に、黒目川で翡翠が巣作りをしている写真がありました。そんな写真が撮れれば、いいなあ。
翡翠は品のいい好きな鳥ですもの。
小金井公園の池にもいるらしく、アマ写真爺婆がたむろしてます。

* まちがっても古稀すぎた人が可愛い孫を自転車に乗せ、走らないこと。そう思いながらわたしの今の念願は、どうにかして黒いマゴといっしょにサイクリング出来ないかなあということ。

☆ サイエンスセンターのライブラリーへ。  ハーバード 雄
これから始めようとしているプロジェクトに関連して、どうしても目を通さねばならない論文があったのだが、聞いたことも無いような雑誌の上、発表されたのが1965年と古いため、電子化されていない。ライブラリーのウェブサイトで検索した限りでは、ハーバードでも手に入らなさそう。
サイエンスセンターに限らず、ライブラリーに足を運ぶのは、これが初めて。今では、殆どの学術雑誌において、論文が電子化されているので、わざわざライブラリーに足を運ぶ必要がなくなりつつある。
おそるおそるサイエンスセンターのライブラリーに足を運んだのだが、専門のライブラリアンが非常に親切な人で、大いに助かった。3報の論文を入手したかったのだが、うち1報は既に電子化されているという。こちらの落ち度なのだが、親切にもタダでプリントアウトして渡してくれた。他の2報に関しても、どこに行けば手に入るかを教えてくれた。
1報は、サイエンスセンターのライブラリーの地下の書庫に、もう一報は、自然史博物館のある建物内のエルンスト・マイヤー・ライブラリーに、それぞれ保管されていた。
どちらのライブラリーにも、夥しい数の書棚が並んでいて、辺りは水を打ったように静か。図書館独特の臭いがする。僕はこの臭いが大好き。幼い頃から慣れ親しんだ臭いでもある。実家から徒歩5分のところに図書館があったため、図書館は僕にとって格好の遊び場であった。多くの本に触れ、多くのことを図書館で学んだと思う。
こういう雰囲気に浸ると、それだけで何ともいえない幸福な気分になる。
それにしても、こんなマイナーな雑誌まで大切に保管されているとは、さすがハーバード。
てっきり、取り寄せなければならないだろうと思っていたが、こんなにも簡単に論文が手に入るなんて。やはり、ここは学問の都なんだなあと、改めて思う。

* こういう話は、自分はあまりに遠い部外者なのに、たまらなく刺激され励まされる。こう有って欲しいと思うからである。
いま日本の大学の図書館では、保管に苦しんで多くの本を廃棄したり、廃棄同然に死蔵(殺蔵)したりしている。図書館というものの本質的な意義が、日本では、作家達のような本来知的世界の一環を担っているはずの人種にすら理解されていない。自分たちの本の売れ行きばかりを顧慮して、図書館機能の歴史性や超歴史性に理解が届いていないのを、イヤほどペンクラブの中で見聞してきた。
だいじなものは電子化を。そうプロに、助言され忠告されたことがあった。但し電子化した以上は、その財産権にあまり固執していると自己矛盾に逢着することも知っていた方がいい。
2008 4・25 79

* さて今今の問題は、A.S.バイアットの小説『抱擁』。
原題は、『Possession : a romance』。
作者自身が創作の動機を明かしている「選択」と題した一文を読んでいると、(まだ半ばだが)、予想できた以上にわたし自身の初期創作との、方法的・思想的な重なりを覚える。落ち着いてよく見極めてみたく、まだ軽率に走り書きはできないが、『慈子(斎往譜)』『蝶の皿』『清経入水』『みごもりの湖』『風の奏で』『初恋(雲居寺跡)』『冬祭り』『北の時代(最上徳内)』「四度の瀧』『秋萩帖』などの系列作をつらぬく根底の文学意図が、ただに幻想とか美とかいうものでなかったことを、「Possession : a romance」というバイアットの鍵言葉は、私のために貸し与えてくれるようだ。
わたくしの文学に関しては、武蔵野大の原善君に著書があり、四国の榛原六郎氏にもかなり大部の全般論がある。他にも部分的に論究してくれた人たちがあるが、なにかがちがう、またはぬけていると感じてきたものが、このバイアットの自作『抱擁』を語る一文に含まれているらしいと感じ取り、わたしは我が事ながら、少なからぬ感慨を今帯びている。
広言するのではないが、むろん、それだけでは済まないわたしにはより広い、幹はともあれ分岐した枝葉の実りが、小説と詩とエッセイとして生まれていて、幻想だけで済まないように、「Possession」だけで覆い尽くせるとは思わないが、この観点からの視野の開展が欲しいと、ちょっとまた自分でさらに動いて働いてみたくなっている。
わたし個人にとって、かなり大事な述懐を書き記しているつもりである。
2008 4・26 79

* はなはだシマリのよくない気分で、今日を終える。なんとなく、である。
「シマリ」を求めるようでは、自由でないのだ。なにかに binded な状態を求めているのと同じである。
2008 4・26 79

* 芥川龍之介は漱石年少の愛弟子であったといってよい。漱石という名伯楽に励まされ、駿馬は空をかけた。
東大総長になる恒藤恭は芥川の親友であった。
芥川といえばまた菊池寛と双璧であった。
芥川らの雑誌「新思潮」の先輩には谷崎潤一郎らがいて、此の二人は芥川の死に至るまぎわ、文学史に名高い論争を繰り返していた。わたしなど、断然潤一郎の論調にくみしていた。芥川の言説はやせ細っていた。そして自殺した。
書簡を中心にした甲府の山梨文学館の芥川と恒藤との展覧会は興趣に溢れる好企画である。
三浦雅士さんから、岩波新書最新刊の『漱石 母に愛されなかった子』を戴いた。漱石論は文字通り汗牛充棟でありながら、なお新たな視点から論究が展開される。人気もさりながらそれだけ有意義な余地が、襞が、まだ漱石に在るということ。その点でもさすが弟子の芥川を格別に抜いている。
芥川は時代に屈し、漱石は時代のハートを突き抜いて頭上へ出た。

* 書簡というものが、この人達の時代には文化財かのように遺った。パソコンの時代はいかにも味気ない。わたしなど悪筆ゆえに、筆技のあとへ遺らないパソコン時代をじつは歓迎して、めったに肉筆で手紙など書かないようにしているが、味気なさは免れない。

* そうはいえ、「湖の本」九十数巻、発送に当たっては読者の皆さんにわたしは自筆で宛名を書き「四文字」で述懐して、なおお一人お一人の平安を願っている。体調を著しく損じていた二回ほどを除いて欠かしたことがない。
2008 4・27 79

* 夜前、色川大吉さんの自分史『六〇年代』を、多分にわたし自身の歴史と重ねながら熱くなって読み終えた。
時代が燃えていたなあと思う。
わたしも燃えていた。しかしながらわたしの燃え方は、時代の燃え方とは対照的な炎をあげていた。そのシンボルが『清経入水』だった。わたしは死の世界と対話しながら燃えていた。異色と云われ異端と云われ、しかしわたしは自分の方法で、あの時代を「ポストモダン」に裏打ちしていたと思う。

* 自分自分の暮らしの「今・此処」に、気負わず立ち向かってさらりとしていられること、どんなに大事だろう。
一、二ヶ月前の月初めの「述懐」に、
寒ければ 寒いと云って 立ち向かふ
という妙な自句を挙げておいたのに、湖の本の払込票に幾つも反応があった、好きな句ですと。嬉しかった。
2008 4・28 79

* 天長節といい天皇誕生日といい、いまは「昭和の日」とやら謂う。いまの皇室にも確執らしきがあるという新聞種や週刊誌種に接すると、ああそうかなあ、やはり人の世のうちなんだと納得する。
先日、いっしょに仁左、勘三、玉三のいい『勧進帳』をみたあとで、妻が、あの勇将義経にして安宅の関ほど心細げになるのねえと慨嘆していたが、平家物語から源平盛衰記にそして義経記に変容するにつれて「義経矮小化」は蔽いがたくなって行く。
いまの皇室を観たり扱ったりのセンスにも或る意味凡常化はすすんでいるのだろう、たぶん当然の成り行きなのであろうと思われる。三島由紀夫の割腹などにはそれへの苛立ちや嘆息があったと思う。
凡常化は、だが、自然に穏和に促進されていっていいと思う。醜悪にはならぬ程度、ま、新聞テレビや週刊誌の報道に記事になりながら「世の常」になじんで、へんなけじめの抜けて行くのが日本史の行方であるなら、受け容れたい。
なかなかそうはいかないかも知れぬ火種は、小さな炎をもう溜めているとも眺められる。確執の程度から皇位継承の騒動にならないことを日本国のために願うが、いずれそれは数十年さきのはなし。日本の自然環境も政治環境も機械環境も、そのうちには別途の騒動をおこすにちがいない。皇室の無常で平淡な矮小化は、そのかげでホントウにホントウに最も好い意味で平和に進んでいてくれるといい。
2008 4・29 79

* みじかい依頼原稿を日中文化交流協会に送る。中国の古典や藝術にふれて七百字ほどと。いま中国というとそんな気分ではあまり無くて、すこしぶっきらぼうになった。

*  堪へざる也      秦 恒平
養家である秦の祖父鶴吉は、市井の老人にしては多数漢籍を所蔵し、幼少時のわたしは箪笥・長持のそれらを、手の合うかぎり好奇心半分、頁をただ繰っていた。
はやく馴染んだのは、やはり詩で、『唐詩選』の和綴じ五冊本や、袖珍版の『白楽天詩鈔』は子ども心に懐かしかった。なかでも、白居易厭戦の衷情を幼童に向かい物語る「新豊折臂翁」を、繰り返し繰り返し愛読した。
わたしのつたない小説処女作は、上京し就職して一年め、国会をとりまいた六○年安保デモのさなかに「昭和」の兵役忌避を書いた百枚余の、『或る折臂翁』であった。そのことをわたしは、のちに『清経入水』で受けた太宰治賞とならんで、いやそれ以上に、今も大事に思っている。
それより以前、京都で暮らしたわたしは、裏千家の茶の湯に親しんでいた。執心出精を認められると流儀より茶名が許されるが、大学二年のとき、「遠」の字をわたしは希望し、「宗遠」と名乗った。
此の一字、ためらいなく『老子』より選んだ。「有物混成章第二十五」物在り混成、天地に先んじて生じた「道」を、「大」といい「逝」といい「遠」といい「反」というと。反、つまり元にかえってくる遠の道(タオ)を、境涯を、子ども心に重んじたか。
さて古稀をはやく過ぎた今の心境は、三国時代のかの嵆康が放言をよろこび、敢えて抄録して謂う、「弔葬を喜(この)まざるに、人道は此を以て重しと為し、すでに中傷せられんとす。心を降して俗に順はんと欲すれば、則ち故(=自己本来の心)に詭(たが)ひて情(=自然)あらず。堪へざる也」と。気の毒だが、私、この頃機嫌がよくない。 (作家)
2008 4・30 79

* 小説の他にも、すこし纏まった、論点のある新しい長いエッセイを書き始める。
2008 5・1 80

* 岩波の高本さんに頂戴した純米大吟醸「一ノ蔵」が旨い。まだ世間はしんと寝静まっている中で、萩の盃に酌んで心ゆくまで独り吸いかつ呑みながら『漱石』を読み楽しみ、その勢いで二階の機械へ来て、書きかけの『はながたみ』を書き継ぎ、ところが想定外のところへ筆がはみ出していった。「けいこ叔母」の遠い昔の影絵が、にじみ出たように上田秋成のほうへ動いている。収拾がつくだろうか。
2008 5・2 80

☆ 湖様 波
母に愛されなかった子・・・。母の愛ってなんでしょう?
私は本当に子どもを愛したでしょうか? 愛しているでしょうか?
私は本当に母に愛されたのでしょうか? 父をまったく知らないし愛されたこともない。
親子やきょうだいはまったく別の人格なのです。
肉親の愛 というものはあるのでしょうか? 肉親の愛を求めること自体、不自然なことではないでしょうか?
肉親より分かり合える他人もいる。
親もまず健康 子どもたちもそれぞれなんとか幸せに暮らしています。
けれども私の心の波はいつまでも騒ぎ続けています。人が生まれ、人とかかわり、人と生きていく ということはなんと難しいことでしょうか。
人にとって安住の地 というのはあるのでしょうか。
年を重ねるほど悩みの多い日々です。正直、苦しい日々です・・・・。

* えりぬきのエリートで、事業にも大きく成功している e-OLDさんだが、心に、抜きがたい荷を負っていて、年若い人の波騒ぐように苦しそうだ。
親子やきょうだいが「別の人格」なのは、不思議でないあたりまえのこと。ここで一体化など求めては仕方がない。「人として安住の地」が、有ると思える人も思えない人もいて、それとてもおなじこと、いまわたしの読んでいる旧約の、「ダビデの子、エルサレムの王、伝道者」はなに容赦もなく、「空の空、空の空なる哉、すべて空なり」と云い、「我日の下になすところの諸々のわざを見たり、嗚呼皆空にして風を捕ふるがごとし」と云ってのける。
そうかなと居直ってもいい、そうだなとうけがってもいい。
なにかに抱きつける「柱」は、あるようで無いようだ、此の世には。わたしは、もう、たいがいのことは諦めている。すると不思議に嬉しいことも楽しいこともいいことも、無くはないらしいのだ。ただ「風を捕らえる」ようなものだと分かっている。捕らえてやろうじゃないかと思ったりする。
「抱き柱」にしてはいないが、バグワンには、ラクにしてもらっている。それとこのごろ、わたしは育ててくれた、とうの昔に亡くなった養父母や叔母の位牌と、わけもなく、小声でぶつぶつ喋っている。
2008 5・2 80

* カントで大纏めにし、ヘーゲルで近代への新たな足場が築かれ、キルケゴールからサルトルにいたって、現代への新しい哲学が、「実存」という自覚を得てきた。二十世紀は、久しくも久しい哲学史の全容が、おもちゃ箱をひっくり返したように、またもう一度品揃えして見本市をひらいた時代。世界の多様化に応じたか。お好きなのを選びなさいというようなもの。仏教で、持仏・持経を好きに選んであがめ、あが仏尊しでやってゆく、そんなようなことに、哲学も、ならばなれという二十世紀であったが、その賑やかな「哲学・学」の店晒しを経て、やはりわたしに懐かしく親身に思われるのは、少年の日に出会ったサルトル、カミュ、ボーヴォワールらの「実存と自由と不条理」。
それらを大事に感じながらの、「禅」ないしバグワン・シュリ・ラジニーシの「無心」を。

* まがりなりに「世界史」を、知識のためにでなく、理解のために通読した。「科学史」をつぶさに通読した。そして「哲学史」を見続けてきた。ありがたいことにわたしは「藝術史」を自身のために早くに学んできた。
人が人として人生という土俵に上がったとき、生きてゆくとき、政治社会、自然科学、哲学、そして藝術という四本柱は、「目付柱」として基本・基準の必須であった。抱きつく柱ではない、あくまでも目付けの柱。
その四本柱も、いま大相撲本場所の土俵上には無いように、「無くてすむ」のが理想である。「要らなくてすむ」のが理想である。必須の有を殺(せっ)した、無。そういう老境に入ってゆく。
2008 5・3 80

☆ 花たちは、夕方に帰宅しましたが、夕食をとったり片づけたりしたあと、テレビの「ルパン三世 カリオストロの城」を聞きながらソファでうとうと、真夜中に起きてシャワーを使い、今、こうして風にメールを書いています。
今日は、「イケア」という、北欧家具・雑貨のお店で、少々買い物してきました。
二日間、大好きなインテリアのお店を見て歩くことができ、楽しかったです。
明日、母と妹が午頃駅に着く予定ですので、午前のうちに買い物と掃除を済ませておかねば。雨の予報が出ていますが、午後には止むらしいので、幸いです。
『漱石 母に愛されなかった子』が、おもしろそう。
花も読んでみたい。
> 連絡がむずかしく、つい先送りしています。
わかるなあ、これ。逢いたい、と思っている友人が花にもありますが、連絡が難儀で。
花は、「幹事」肌ではありません。
さてさて、風は小説をたくさんお書きになっている。花もがんばる!

* 名の不思議ということが、この人のメールを読むつど、おもしろい。
もともと「名」の不思議は人の歴史にひろく浸透している。名の扱われようには昔から心して目をとめてきた。魂を嗣ぐかのように家の名字が嗣がれてきた。名字が信頼のもとに授受もされた。諱があった。替え名もあった。通称が用いられた。名を名乗るというのは相手に支配の力を譲ることだった。人の名を聞くのに自身が先に名乗らないのは無礼とされた。西洋人の風儀にも、「ボブと呼んでくれ」などと名で呼ばせるのを、相手への親愛と信頼の表現にしている。お互い名乗りや呼びようの定まらないうちは奇態に窮屈で他人行儀になる体験は、だれでもしている。まして敬称がしいて伴うときは困る。
わたしは名で呼ばれようが姓で呼ばれようが先生と呼ばれようが、「さん」であれ「くん」であれ、相手に任せて気を遣わない。そのかわりと云うのではないが、めったに、先生でもない人を「先生」といわない。ものごとを生徒として教わった学校の「先生」と、習慣でお医者さんだけを「先生」と呼んでいるが、「あなた」で済む場合はそうしている。頼んでいる弁護士も、ふつうに、姓で「さん」と呼んでいる。先輩作家や藝術家でも、明らかな例外はあるが、十分な敬意をこめてわたしは「さん」と呼んでいる。

* この「花」さんがはじめてe-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯に投稿してきたころのメールも手紙も、読むのが「痛い」ほどコチコチで閉口した。そんなことでは、意見も告げにくいし助言もしにくい。それで、ふっと思いつきで近くの額の二字をとり、そっちは「花」こっちは「風」にしましょうと取り決めたのだつた。
わたしの育った社会圏には事実「替え名」の用をなしていた事例や見聞が珍しくなかった。「花」さんはとまどったろうが、しかし徐々にその効果は目に見えてきた。名が「ペルソナ=仮面=人格」化していって、意思疏通は格別になった。
前例があった、それは「囀雀」さんだった。この人はコチコチでなく、まるで渋谷っぽいギャルだった、五月蠅さかった。それで上の渾名をつけた。ところが渾名が出来たときから目を疑うようにこの人のメールは変貌した。云うことも為すことも変貌した。このホームページで最も早くに、一種の贔屓を「書く文章」で得た人は此の「囀雀」さんであった、彼女のために、何であったか荘重な渾名を献じてくれた人さえある。

* 電子メディアはいわば「電影のリアリティ」を創造せざるを得ない世界。「電影のペルソナ」を有効に発揮できる世界である。
それで、わたしは、替え名のおつきあいを是としてきた。一つには個人情報をすこしでも被覆できる。一つには信頼や親愛にハバができる。そして、どうせといえば捨て鉢めくが誰とも事実のレベルで対面などむずかしい間柄、つまり逢わなくていい同士と心得あっている。「電影のリアリティ」が「現実のリアリティ」に遜色など無いと言いうるかもしれぬ、不条理な真実世界、が生まれているのかもしれないのだ。

* ま、そんなことだ。わたしは「おもしろい」と受け容れている。
2008 5・3 80

☆ ロシアの風景 2008年05月06日22:46  淳
またまたテレビの話で恐縮ですが、日曜美術館で東山魁夷の展覧会についてやっていましたね。
魁夷は青を貴重とした作品(の多さ)で知られていますが、その青い作品のうち、北欧を旅した直後に描いた風景画が印象的でした。
以前にもその絵を見たことはあったのですが、「北欧の白夜」についての解説を聞きつつ、テレビ画面に映るその風景画を眺めていて、ふと私は思い出したのです。
異国の風景を。
*
10年ほど前のことですが、ロシアを経由してドイツへ行ったことがありました。アエロフロートのひどくせまい座席に運ばれる長旅。
トランスファーというのか、モスクワで一旦飛行機を降り、そこで一泊して、翌朝再び飛行機に乗り込む。
当時ロシアは民主化の第一歩を踏み出したばかりでした。
空港で4時間以上待たされ、連れて行かれたホテルはずいぶんひどいところだった。壁紙はところどころ剥がれ落ち、浴室のシャワー口からは赤錆びた水がじょろじょろといつまでも流れました。
3人分の料金を払っていたのにも関わらず、私たちの部屋にベッドは二つしかなかった。(英語があまり通じず、面倒くさくてそのまま寝た。)
翌朝の朝食も、出されたティーカップにだれのものとも知れぬ口紅がべったりついていたり、ハムの一部はもはやカビているのかとも見まがわれる様相。
土地を包む雰囲気がずいぶん空疎で古びている印象で、「えらいところだなぁ」と感じたように記憶しています。
眠れない夜の客室に横たわりながら、外を走る車のタイヤの響きを長いこと聞いていました。
翌朝。
6時ごろだったか、7時すぎていたか、とにかくそう早くもない朝のロシアを窓ガラス越しに眺めて、私は遠い切なさを覚えました。
その時目にした風景は、魁夷の風景画のような静謐さと青白さによって、私に訴えたのです。
まさに異国の空気。
一日はすでに始まっているのに、時間は止まっているかのように感じられました。
遠くに広がる森林を包む、もやのような青白い空気は、私の知らない幻想の世界のようにも見えた。
朝はゆっくりと明けていきました。
*
ま、ただそれだけの話でございます。

* このお話しは、わたしにも、はるかに遠い物思いをさせる。
ホテルのひどさは想像がつく、が、わたし自身の実経験はこうまではなかった。それどころか、モスクワでもレニングラードでもグルジアのトビリシでも、招待客だからか、いつも豪華に落ち着いたホテルで、三人の連れが一部屋ずつ用意されていた。
わたしが感じるのは、ここに書かれたロシアの「風景」である。じつにこういう「感じ」だったと、いまも思う。わたしも、作家の高橋たか子さんらと三人で旅したのだが、帰国してすぐ持ち上がった初の新聞小説に、ためらいなくこのロシア旅行を、全面的に取り込んだ。わたしの旅のよろこびも、ものあわれも、あまさず表現されている。しかも民俗学や神話を駆使し、日本列島とシベリア・ロシアの秋を。千年の時空に溶かし込んでしかも現代の愛しい幽霊との「畢生(これは講談社の惹句)の切ない恋を書いた。『冬祭り』である。一箇所も一人称を用いなかった。
2008 5・6 80

* ほんとうにすばらしい何かに出逢いたいと思う。現実の日々の中で出逢いたい。書物の中ですぐれた価値に出逢うことは出来る。新しいのにも昔のにも。逢ってなつかしいと思う人も、すくないながら無くはない。そんなのではない、新聞やテレビの日々を伝える報道や現実の影像の中でいいものに出逢いたいが、もともと報道されるのは異様なものが主になる。世情安穏で変哲もないとき、いちばん困惑するのは歴史を記述する歴史家だろう。異様で異常で人の心を騒がせることだから報道され、記述される。そうとは識っていて、それでも心和んで励まされることに出逢いたいと焦れてしまうのは、よくよく異様なことばかりが多いのだ。
2008 5・8 80

* 黒澤明の昭和二十二年頃、わたしの小学校六年生頃の映画、原節子の『わが青春に悔いなし』を、うち震えそうな感動で観た。戦前京都大学の滝川教授事件に取材した久板栄二郎の脚本で、主人公は、まさしく戦争の「時代」だ。
上等の脚本とは思わないのだが、原節子の変貌・変容をつらぬく悔いなき青春の、戦い抜く生気・生彩。それを引き出した藤田進演じる非合法の戦士。それを方向付けたのは弾劾されて京大を退いた自由主義の、父・元教授だった、「自由のためには犠牲に堪え責任を持て」と彼は娘に訓えていた。対照的に、時流に迎合していった河野秋武演じる検事の卑屈で妥協的な人格。
滝川事件をはじめ、昭和のはじめ大学の自治と自由ははげしく弾圧され、気骨ある教授の多くが放校され隠忍した。そのことに胸も震えて怒りながら、わたしは、日本史を読んできた。滝川事件のことははやくに学んでいた。

* 敗戦、教壇への復帰。闘って死んでいった自由の闘士。あとをついで、第二第三第四の後輩は、ほんとうに、現れたか。
現れたともいえるし、大概は映画で河野の演じたような、如才ない世渡り男たちばかりが世間にはびこっての「今日」だ、とも謂える。情けない。
政見の違いはいい、思想の違いもいい、むろんマイホーム大事もいい、豊かな生活を望むのも好い。が、我も人もの「基本的人権」を守り抜く気概、卑屈にでなく幸福に生きられる自由への譲らぬ気概、それを喪って、ながいものに巻かれながら自分だけは少しでもいい目を見ようなどという者ばかりがはびこっては叶わない。
いまは農民の日々に根を下ろした原節子、かつては大学教授の教養豊かな娘の原節子、のちには非合法の罪に自身も下獄し夫は殺された原節子は、ヤニさがって訪れた夫の友人河野の墓参を凛とはねつける。はねつけるだけの人生が、リアルにもイデアールにも映画に表現されていて、映画は渾身の力で河野の演じている男どもへの、侮蔑と警戒とを表現していた。原節子の美しい「顔」が示した、凄いほどの、怒りと非難・軽蔑。
この怒りと非難・軽蔑にしか値しないような今日、政治の現実、企業社会大半の現実等を思わざるを得ない悔しさが、わたしをうち震えさせたのである、映画の間も、済んでからも。

* 冷静にわたしは思う、こう怒り続けるわたしは、たぶん病気なんだろう、正常ではないんだろうと。ハハハ
2008 5・10 80

* 年年歳歳花相似  歳歳年年人不同

* いつ頃覚えた詩句であるか、遙かに久しくて思い出せないが、この感慨は、一の人生観、処世観、人間観としてはなはだ自然に骨身に染みている。こんなにみごとな観察、こんなにきびしい洞察は、そうは無い。
ことに、「歳歳年年人不同」の実感は年ごとに深まる。その実感、だが歎きではない。それで自然、人の世はそういうものという苦笑であり微笑であり、若かったむかしはともあれ、今此の老境にはただそよそよ、そよ風の吹くに任せる心境である。
私という「鏡」は、いつも「今・此処」にいて、映るものをただ映しているにすぎない。拒みもしないし、追いもしない。雲来たり鳥も飛んでくる。雲は去り鳥も飛んで行く。しかしまた次から次がある。繰り返す。同じ雲でなく同じ鳥ではないだけのこと。人も、また同じ。来ては行き、行けばまた来る。
年々歳々に相似た「花」も、咲いては散り、また咲いてくる。花の場合だから同じ花とも謂えるし、散って咲いてだから愛づらしくいつも新しい花なのだとも世阿弥はいうのである。世阿弥は、よく観ている。
問題は、私という「鏡」の方。
この鏡、時に曇り、また照る。それは私が、まだまだ不出来で不熟だという、そういう話である。出来上がらずに割れておしまいかも知れない。フフフ
2008 5・11 80

* 冷え冷えしている。「濡れて行こう」と粋がるばかりに春雨は、五月雨は、暖かいわけではない。梅雨寒ということばもあるほど、ふとした「冷えの日」は暦の上に残っている。暖房機を片づけましょうかと妻は云い、そして云われるつど、毎年のことだが梅雨寒むということばを思い出す。
寒いには手が打てるが、冷えるのはストレスになる。いい知れず内からの萎えや縮みが思われる。よろしくない。
誰かが書いていた。
石油資源の枯渇。資源争奪戦。
地球温暖化。食糧難。
もうすぐそこまで来ているが、我々は回避できるであろうか、と。
もうこんなゴタク、見飽きて聞き飽きているようで、とんでもない。ほとんど打つ手も見えぬまま日々を「冷やし」、日々にわれわれの肝を「冷やし」て意識の底からストレスに変じつつある。数えればほかにもこういう「冷」源、ぶちまけたように毎日転がっている。
鼻さきで嗤いとばすことも、じつは不可能どころか、誰にでも出来る。じつはみなやっている。そのじつは、諦めているのだ。お手上げなのだ。そして待ったなし「冷え」は世界中に深まりつづけ広がっている。いまにも腹の痛む人が世に溢れて来よう。
2008 5・12 80

* 「あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。」

* わたしには「当然」に思われるが。下降史観を強いられ続けた日本で、それが極限へ来れば、恨みがち、歎きがちに切望されるのは「なぜ平等ではないのか」という呻きに裏打ちされた革命志向になる。しかし政治的に革命のエネルギーを持たない日本の人たちには、信仰という「抱き柱」は、それしかない幻想として魅惑の吸引力をもった。安定して幸福な人は、平等など意識もしないで我が世を謳歌するのが人の世の「常」なのでは。「無常」の思いは多くの場合極度の不幸の自覚にひきがねを引かれてきたように思う。
2008 5・12 80

* 息子のブログに、こんなのが出ていた。

☆ おめでとう☆篠原涼子さん!
篠原涼子さんが、10日に、無事、男の子をご出産されたそうです!
おめでとうございます!
うまく言葉に出来ないくらい嬉しいです。
晩年、篠原さんにとてもとてもよくしていただいたぼくの姪も、天国できっと喜んでいると思います。
篠原さん。
本当に、本当に、おめでとうございます!!!

* 公演の劇場に花輪を出すようなものか、それにしては「言葉」の表現者の物言いにしては過剰に「切して」いて、本心なんだろうが読んでいて気恥ずかしい。人の真情表現とは、ともすると傍目にやや滑稽なものである一見本になっている。まるで自分の子を産んでもらった喜びのようにきこえる。

* むかし医学書院に勤めていた。大勢の名医先生達と知り合った。社内では甚だ交際ヘタであったけれど、先生方には信頼して頂いたし仲良しにもなった。その一人に都立築地産院の院長先生があり、ご一緒に歌舞伎を見にいったり、院長室で碁を囲っていい勝負だった。子どものように可愛がって下さった。
この先生に、一度私的なお願い事を頼んだことがある。デスクの同僚から、奥さんを診察してもらえまいか、夫婦とも子どもがぜひ欲しいのだがなかなか出来ない、と。
夕日子という最初の子が欲しかったために京都を捨てて医学書院に入社し、最高の先生にお願いして危険といわれた出産を無事に成功させ、その感謝の気持ちから一念発起して「日本新生児学会」発足の基盤ともなった東大版『新生児研究』を企画出版していたわたしは、一も二もなく、子どもの欲しい親の夢が叶えられないなんてと、さきの院長先生にその奥さんの診察をお願いしたのだった。築地産院はその方面の業績でもよく知られていた。で、指定された当日、同僚に頼まれて(彼は余儀ない社用で同行出来なかった。)奥さんを築地へ連れて行って、院長先生に引きあわせた。
そこまでは、アタリマエの手順であったが、わたしは何を思っていたのか、じいっと全ての診察や処置の済むまで院内に待っていた。どこかまで連れて帰らねばならないといけないと考えたのだろう。
なにもかも終わって、事の次第は、わたしは尋ねたりしなかった、ただ院長先生にお礼申し上げた。
「なんだ、まだいたのかい。きみの奥さんみたいだな」といつも豪快な先生は諧謔、大笑されたのである。
笑われてみると、そうだなあとわたしも笑えた。べつに恥ずかしくなかったけれどサービスが過剰であったかもとは感じた。

* だから、上の息子くんの「言葉に出来ないくらい嬉しい」も「本当に、本当に、おめでとうございます!!!」も本人の真情だろうと分かっているし、それでもかなり過剰で気恥ずかしいとも思う。オレの子だもんなあと天を仰ぐ気もある。

* なによりも、それほど目出度くて嬉しくて「!!!」なら、自分の子を持てばいいと、息子に孫の欲しい欲しいわたしは思ってしまう。

* で、しばし考えていた。外国の例は知らない。日本の「作家」で、子を持ち子を育てて喜怒哀楽にしたたか呻いて「こなかった」、つまり子のいなかった大作家、優れた表現者が、どれほどいただろう、と。露伴、鴎外、漱石、藤村、直哉、潤一郎。それぞれに事情はちがうが子のあったことが文学文藝に無縁であったとはとても見えない。自分の子の無かった人でも、鏡花も康成も子をもらって育てずにおれなかった。根底からのひずみを和らげ、薄さや浅さをおぎなうために表現者は「子」とともに苦悩し歓喜しときに絶望すらしながら励まされていたのだと謂ったならウソになるだろうか。言い過ぎになるだろうか。
わたしの場合、子があればこそ本当に励めた。張り合いがあった。想像を超えた苦渋や屈辱をたとえ我が子から強いられとしても、それでも表現者には強烈で微妙な薬になりうるのが「子」だ、だから「めでたい」し「うれしい」のだ。
篠原さん達もおそらく同じ思いの日々が始まるのだろう、うれしい、めでたいと自分たちを励ましながら。
もし秦建日子がそこまでわかって、このブログの記事を書いているなら、いい。大きい花輪を自分の名入りで立てましたというだけでは、軽薄だろう。
2008 5・12 80

* 国際ペンの堀さんにも、明大名誉教授でむかしの同僚粂川君にも、その他何人もの読者からもいわれた、今回のエッセイ『酒が好き・花が好き』には、はからずも中に「女が好き」の風情や情緒が匂い出ていると。ただしハッキリ云える、「女は嫌い」でもある。自分自身は、もっと「嫌い」である。無条件に人間が「好き」と思えたこともない。ただしこれもハッキリ言える。人間は好き嫌いに関わりなく「おもしろい」「興味深い」と。
2008 5・13 80

* 夜前の夢は、かつて例の無かったほど平らかに穏和なものだった。はなしの筋が、ではない。すべて受け容れるわが身のがわの開放にびっくりする平和があった。しかももうそれを言葉で再現するよすがはない。夢てふものを頼みそめたと歌った人がいたけれど、夢は、頼んでも、おそれても、こだわっても、所詮仕方ないもの。あるがままの「いま・ここ」が即ち夢なんだもの。いつ覚めるか。わたしは頼まず待っている。
2008 5・18 80

* 色川大吉さんに「60年代」以前に戴いていた、昭和敗戦直後の自分史『廃墟のなかから』を読み始めている。色川さんは学徒徴兵され、学徒将校のまま国内で敗戦の日を迎え、肩章をはぎとり、故郷へ帰り、また、途中ですてた学校へ戻ってゆく。帰るとか戻るとか簡単に書けばそれまでだが、国内の汽車移動の言語に絶した無惨で過酷なこと、もう今の人には想像もならないだろう。また見渡す限り焼け野原の東京、屍体の散乱した上野の駅の地獄繪。
わたしは、かすかに、ごくかすかに敗戦前後のそういう空気を吸った、色川さんの見聞や体験の万分の一ほどの。そして四川やミヤンマーの今の生き地獄を想い、そこに匍いずり回らねばならぬのが無辜の「民衆」であって、官憲や政府の役人や権力者ではなかったし今もないことを、考えずにおれない。
いま一番懸念される近未来は、被災したほとんど全てのヒト・モノ・コトが、掌をさす確かさで、政治権力や役人天国によりほぼ百パーセント見棄てられ棄捨され無処理に処理されて、無かったことかのように扱われるであろうことだ。中国でもミヤンマーでも、そして例はアメリカにもあり、日本にもあったではないか。
2008 5・18 80

* このごろ、どういうわけか、見る夢が気持ちいい。官能的な意味ではない。妙にきれいに物事が割り切れていて、哲学的でおもしろい。覚めてみるとよく思い出せないしワケが分からないのだが、夢中には整然と分別されていて、なるほどこれは分かりやすいし便利でもあると感心している。覚めてみると何に感心していたのやら捉え所がない。
ああそうか。現世の夢からもし覚めたなら、いまいま、なんだか心得顔に割り切ったり納得したりして暮らしているこういう全部が、こんなふうにたわいない煙のようなんだと、ま、そう思うことが出来るし、それは確実なように予想も期待すらもできる。
なににしても不快なイヤな夢でなくて、気分はいい。いまがいま夢見ているこの現実が、さほどひどいものでなく楽しめているのと同じなんだ。どうせ夢、楽しめることは楽しみ、覚めれば上乗。
2008 5・20 80

* 政治家や役人や企業の責任者たちが、マイクをむけられて、「その件は只今係争中なので、コメントを差し控えます」と答えるのを何度も聴かされている。あれを聴いて、もっともだと思った人は少ないだろう、大方は体の良い逃げ口上に使っているのが「見え見え」である。
そもそも、係争中のことにコメントしたり発言したりしてはいけない、どんな正当な理由が在ろう。
むろん管掌大臣や総理や政党幹部や大団体の管理者などに無造作に「口を挟」まれては困る、が、ふつう、裁判所が、一般のそれに「左右される」など考えられないし、係争中の事案に対し関係者が情理を言い立てて明瞭に発言してきた例は、有る。
いま、わたしや妻がおもしろく読んでいる『伊藤整氏の生活と意見』は、あの有名な「チャタレイ裁判」の真っ最中に「一被告」として書いて公に「連載」されていた。裁判の経過に対し、関係者や弁護人、検事等の実名もあげて、発言も表情も感想も、ことこまかに書き記されていたりする。辛辣に戯画化もされている。「猥褻文書の公布」という罪状で起訴されている伊藤被告当人に、何の負い目もなく信念あればこそ、言いたいこと、言うべきことは言うているのである。係争中だから言ってはいけない、法的・道義的な制約があるとは思われない。

* 確かに先にも云う「係争中のことなのでコメントしない」ことが、影響上・責任上ぜひ必要な立場の人は、必ず、いる。
しかし、一私民である当事者が、自身の信念を口にしものに書いて、何の悪影響があり得よう、また何恥じることがあろう、それの出来ない方がよほどおかしいのではないか。

* わたしは、「mixi」の自身の登録プロフィールの中から、娘の実名と婿の実名とを、当人達の裁判所を通じての強い希望で、「●●●」「★★★」と、は置き換えた。
強い希望の理由が、だが、正直わたしには理解できない。どう部分的に伏せてみても、法律的にも行政的にも戸籍的にも、娘・朝日子はわたしの娘であり、娘の夫はわたしの孫達の父である。結婚披露宴で大勢にそう披露もしたではないか、当人達も。娘から何度も聞いたわが家の笑い話であるが、この婿殿、なにかというと「作家の秦恒平の婿です」と、聞かれもしないのに自ら名乗っていたというではないか。
公人でもある立場上、親戚に至るまで関係者の氏名を問われる例は、いろいろ有った。これからも有る。部分的に伏せ字などして何の役に立つのだろう。何故そんなことを、して欲しいのか。
つまりは、「検索」で引っかかるのが具合い悪いのだと言う。
昨今はコマーシャルにもポスター広告にも、よく「検索」が出てくる。インテリも学生も主婦も子どもも誰も彼もインターネット」の「検索」に夢中である。便利でもある。実の父や実の舅から、「損害賠償」をとろうという裁判の、夫婦揃って原告」であるなんて、あまり名誉なこととは見られないだろう。
わたしは、彼らの「被告」にされても、なんら恥じ入ってなどいない。
わたしには「係争中であるからと」警戒したり懼れたりする何の理由もない。

* それはそれ、そもそも「仮処分審尋」中に、わたしが数多く示した「自発的な配慮」は、いうまでもなく「本訴」といった愚な事態を避けるためであった。構わず「本訴」に入るなら、「原状にすべて復帰」した上で逐一検討し「争う」というのが当然だろう。多大の配慮に関わらず「本訴」に★★夫妻が踏み切ったのは、わたしの気持ちを一方的に踏みにじったに等しい。

* 現在、わたしの「私語の刻」では、朝日子婚家の姓・夫★★★の姓名は、ことごとく懇望を入れて「★★★」「★★」「●」の「伏せ字」にしてある。何故の懇望かは措いて、せっかくの希望にわたしが応じておいたのも、親子で、被告・原告といった不穏で不適当な事態を避けたかったからである。
「本訴」になるなら、「すべて元に戻します」とは、代理人にも繰り返し申し伝えてきた。

* 「書かれた」から名誉毀損と言うが、此のわたしにウエブ上で何かを「書かれた」のが気に入らないなら、法廷の法的技術上はともあれ、道義において「なぜそう書かれたか」を、先ず婿として子として謙虚に反省すべきであろう。よく気をつけて、一行としてわたしは捏造などしていないのである。物証は、ことこまかに揃っている。

* 「著作権侵害」でも、わたしは婿の書いたわが家への「手紙」以外のいかなる公的な文章も、一行として読んだことがない。
娘の書いた素人小説を、激励し褒めてもやって、喜んで自分の編輯している「e-magazine 湖(umi)」に、甘い親父とし、いそいそと掲載してやっただけである。娘は自称・女流作家としてそれを「著作権侵害」などと本気で父に「賠償」を求めるのだろうか。人は吹き出し失笑するであろう。
また、不幸な「肉腫」で、あえなく死なせた孫・やす香の、苦悩に溢れた孤独な「mixi」日記を、わたしが、自分の著作に引用し紹介しているのは、やす香のいわば遺志を、祖父として、「mixi」のはなからのマイミクとして、彼女のために心配してくれた大勢の世界へ、心籠めて「伝えた」のである。
やす香は、全面的に祖父母を信頼し愛してくれていた。傍証は、はっきりしている。やす香も、妹のみゆ希も、両親に堅く秘して、あしかけ三年に亘り祖父母との交歓の日々を喜んでいた。その動かない事実を、両親は、やす香の入院によって、初めて「mixi」やケイタイから、「機械」的に知って、慌てたのだ。
やす香の「mixi」日記等のよしない「消滅」をおそれて、「白血病」入院と知るとわたしは、妻も協力して、すぐさま「全文保存」した。その厖大な量の中から、わたしが最終的に、日記文藝『かくのごとき、死』に引用しているのは、最少の必要な限度であり、もしそれをしていなかったら、あの★★やす香の、孤独だった苦悩の極みの「死」の事情は、むざさむざと、くらやみに埋没していたのである。

* 繰り返して言う、湖の本エッセイ39『かくのごとき、死』が読み直されて欲しい。
「仮処分」がもし悪しく定まれば、今後、同題同書の出版・販売は禁じられるかも知れない。わたしはそんないわれないことも承服できないのだが、ともあれ、在庫残部(送料共、2300円)は多くない。

* ともあれ婿と娘達が父を「被告」にし「本訴」に入るというなら、此までの自発的なわたしの配慮は、すべて無意味になった。八十ファイルに及ぶ十年来の日録からまた伏せ字をみな元へ戻すのはいかにも不毛の作業であるが、本訴の裁判時にはすべて「原状」に戻っているだろう。
むろん終始一貫わたしのために代理人として万全を尽くして下さっている、ペン会員で弁護士牧野二郎氏主宰の事務所の良き指導を受け、よくよく相談しながら前途に適切に処したいと、わたしはもとより、妻も息子も、望んでいる。よろしくお願いします。

* チャタレー裁判には文壇からも錚々たる顔ぶれの弁護人が出た。もちろん専門の弁護士も。その一人の環昌一さんはもう亡くなったが、「湖の本」継続の有り難い愛読者であった。わたしの良き理解者であり、当時は最高裁か高裁かの判事であられたと記憶している。

☆ どこにも行く必要はない。むしろ「行く」ことをやめなければならない。そうしたら真理のある「わが家」にとどまることができる。どんな道にも従わない、どこにも行かない。そうすれば「ここ」に在ることができる──そうすれば「いま」に在ることができるし、自分自身のなかに在ることができる。すべての道が誤った場所に向かう、というのがボーディダルマの姿勢(アプローチ)だ。「<道>に入るには多くの小道がある」などとは、ただの学者のいうことだ。  バグワン

* 必要なのは夢からさめること。なにもかも、こうして書いているのも、思っているのも、していることも、あだな「夢」だ、ハハハ。ハハハ。ハハハ。
2008 5・20 80

* たまたまのことであったけれど、数日前に、こう書いたのを、もう一度思い返しておく。

出来ると思うな 出来ないと思うな
それはオレの問題(ジョブ)じゃない。 したいだけ、やれ。 湖
2008 5・20 80

* 西洋と東洋というおおざっぱな区別は、だれしもふつうにしてきたが、文学や詩の場合、いや万般にわたって、たとえば「東洋」と簡単にひとくくりにしてモノの言えないことは、インドの文藝・詩、中国の文藝・詩、日本の文藝・詩を比較してみるだけで、すぐ分かる。大岡信さんはその気宇・規模の大いさがちがい、日本の文藝・詩の世界の、哲学の、感情のたとえこまやかであろうとも小さい狭い、くらべものにならない点を指摘されている。日本の文藝や詩には、インドの形而上学なく、中国のスタイル・様式が無い。どうかすかに模倣してみても模倣を出ない。
にもかかわらず、ではインドの表現、中国の表現にただ感嘆して脱帽しているかというと、正直の所はむしろそれらをしらじらしく平板でむしろ退屈なしろものだと思っていなくない形跡が、自分自身の体験や、古人の表白のなかから読み取れると、大岡さんは告白している。
これは久しいわたしの「批評」と、はなはだ親密に膚接した感想であった。吾が意も得た。
だから日本の表現を誇るのでも高ぶるのでもない。が、明らかに表現者としてそこからはみ出てゆき難い、或る磁場のようなちからが、日本人のうえに覆いかぶさっている。つい、その覆いのしたで自足してしまう。自足しなくても、なにか細やかな柔らかな感性に絡み取られているのを感じている。
そこからの出発だと、「今・此処」をしかと見直したくなる。

* 「お静かに」と日々に挨拶し、「騒がしい」のを醜悪と感じてきた美の体験史がある。「白髪三千丈」式に感嘆しても真似ればロクなことはない。インド哲学のたとえば空観に身を挺してみても、舞台の上で未熟に手足を動かしているような不自然を、日本人は感じてしまう。感じてしまいながら、真似はしてみたがる。じつにブキッチョに、たとえばインドや東南アジアの僧たちの修行を、風土も感性もまるきり違うのを無視して、日本に直輸入してくれる、功名心ゆたかな学者たちは、幾らも出てくる。そしてその片言隻句を「抱き柱」に、できもしない断食だの山林斗藪だのを口にする。むろん口にするだけである。街中ではできないから、山奥へ行こうなどと。
そんなことで悟れた誰がいただろう。お釈迦様でも、そんな真似をしていた間は悟れなかったというではないか。

* じいっと眼を閉じ、奥の奥の闇に身をまかせる。
なんとやすらかな暗闇だろう、五体の感覚が失せ、意識はある。このまま意識がうせ、闇が闇でなく光でもなくあれば、やっと、わたしはあらゆるモノの「名」とかかわりなく、ほんとうに「生き」始めるのではないか。錯覚であり憧憬であり、それも夢に過ぎないが、静かではある。
2008 5・21 80

* そして、わたしは。わたしはただ待っている、そのときを。間に合えばいいが。間に合えばいいが。
分けて選ぶな、と。トータルに取り込めと。完璧とは、分別の到達。完璧は片輪の完成で、トータルではない。しかし裏のない表も、その逆も無い。つごうのわるいものを棄てての完璧など願うべきでない。分けず選ばず、ともに受け容れよ、トータルに、と。
静かさは、そこに在ると。それがどういうことか、夢の中にいるわたしは、まだ間に合っていない。いやな気持ち、強い痛みが濃い煙のように深く動いている。よそのもののように、痛い、イヤなそれをわたしは観察している。棄てない。
2008 5・23 80

* 建日子が、自分も小説家、「裁判」沙汰の小説を、いつか書くつもりと書いていた。
『かくのごとき、死』にひきつづく「民事調停」から「仮処分審尋、本訴移行」へ流れこむ推移の容赦ない小説化なら、材料も理解も、用意万端もうできている。周到なフィクションによる経緯の再現と事件の批評を通した、愛孫の死を見据えた人間苦・世界苦を弛みなく表現することにも、当然ぬきさしならぬ「文藝価値」は有る。ひわひわした通俗読み物にはしない。やるからは文学として光るモノが書きたいし、書ける素材である。
「本訴」の愚を強行しないなら書くまでも有るまいと思っていたが、すでに裁判所に訴状を提出したとこちらの弁護士からは報告を受けている。一両日ないし数日の内に届くのだろう。
小説家は内なる激情の奔出をいつも待っている。
2008 5・24 80

* 大岡信さんの「詩における歓びと智慧」から本質的な一文を拝借しよう、こういう文章の数々において大岡さんに今度戴いた本『人類最古の文明の詩』に含まれた諸編は、数多い大岡さんの詩想ないし思想の、高度に本質的な激白に類していて、わたしは強い喜びでこれらを読んでいる。たまたま引く以下の一文などは、小説家として励ましを浴びる心地がする。

☆ 「言葉は実際、それが露出してみせる自然や社会、または一人の人間の考え方、感じ方を、肉感的といってもいい直接さでひとに提示しない限り、生きているとはいえないし、言葉が生きていない限り、それを発した人間も十全に生きているとはいえない。つまり、人間は世界を感じる度合に応じて自己を感じるのだ。すくなくとも、言葉を発した時、ひとはそのことを思い知らされる。発語者の情熱、世界を感じとろうとする情熱は、言葉の体臭のごときものとなってにじみ出るのだ。
情熱、言いかえれば対象への集中的な関心は、現在のようにぼくらの環境が個人的な夢に対して永続的な関心を持ち続けることを許さなくなっている時代にあっては、他のいかなるものよりも貴ばれ、守られねばならないものである。
およそ個人的な情熱とは無縁にみえる小説にしたところで、すぐれた小説を支えているものは、スウィフト以来、作家のきわめて個人的な情熱や夢想以外にはなかった。ぼくらはその最もよい例を、情熱によってヴォワイヤンとなり、従って哲学者となったバルザックに見ることができよう。
読者を冷静な観察者にとどまらせておく小説は、ぼくには第一級の小説とは思えない。読者を完全に魅しさる小説、つまり読者の足をさらってしまい、自分が現に読みつつあるものがどのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、どのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、それこそ小説としての客観的価値をそなえた小説だ。見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。小説における方法というものが考えられるとすれば、このような条件を無視しては考えられないであろう。自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だといっていい。ということは、小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではないことを意味する。むしろ情熱こそ予見する。ぼくらは小説の中の他愛もない部分に、輝きに満ちた感動的な表現を見出すものだ。」
(大岡信著『人類最古の文明の詩』朝日出版社刊の「詩における歓びと智慧」より。)

* 繰り返し読むに値する。
それが幻想的であれ私小説であれ、もしくは非小説でもあれ、「見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。」「自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だ。」「小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではない。むしろ情熱こそ予見する。」

* あえて言う、『かくのごとき、死』のごときは、日記の体裁を保ちながら、死という運命に刻々とあおられながら現状破壊の自己分解に堪えた「小説」であった。
多くの読者が息をあえがせ、ときに顔をそむけながら、引きずられていったと告白されている。文学の命がうねって堪えていた。
わたしが「事件」を書くなら、あらゆる遠慮会釈抜きに骨は太くのこして皮を剥ぐようにレポートするだろう。
健康をはやく回復して建日子に、優れた文学作品を期待したい。
『嵐が丘』は徹した作り物語りであるが、その文学たる真価は、大岡さんの上の文にあざやかに解説されている。

* 狂奔のために創作するのではない。無為の為のごとく成すのである。分けず、選ばず、そのまま受け取るのである。烈しく強く情熱をこめて受け取るのである。バグワンにも聴きながら。

☆ バグワンにわたしは聴く。 (『TAO 老子の道』より。スワミ・プレム・プラブッダ訳に基づいて。)
彼(ニーチェ)は言う。
「空にとどこうと欲する樹は、地の最も深いところまで行かなければならない。その根は深くまさに地獄まで行かなければならない。そうして初めて、その枝が、その峰が、天国にとどくのだ」と。
その樹は、地獄と天国の両方に触れなくてはなるまい。高みと深みの両方に……。そして、同じことが人間の実存についても言える。
おまえは何らかの形で、おまえの実存の内奥無比なる中核において、悪魔と神の両方に出会わなければならないのだ。悪魔を怖がらないこと。さもなければ、おまえ神はより貧しい神になってしまうだろう。
キリスト教やユダヤ教の神はとても貧しい。キリスト教やユダヤ教や回教の神は、その中に何の〝塩気”もない。無味乾燥だ。なぜかというと、〝塩″が捨て去られてしまっているからだ。〝塩”は悪魔にさせられた。それ(神と悪魔と)は「ひとまとまり」でなくてはならないものだ。
存在においては、反対同士のものの間に有機的な(統一=ユニティ)がある。有と無、難と易、長と短、高と低……。
(老子は言う。)

〝音程と声は互いに補い合ってハーモニーをつくり、
前と後は互いに補い合って結びつく。
かくして、賢者は行なわずして物事を処し……”

故有無相生 難易相成 長短相形
高下相傾 音声相和 前後相随
是以聖人処無為之事 行不言之教

これが、老子が<無為>と呼ぶところのものだ。賢者は行ないなくしてものごとを処す。
可能性は三つある。ひとつは……行為の中にいて無為を忘れる。そんなおまえは世間的な人間だ。
第二の可能性……行為を落としてヒマラヤへ行き、無為にとどまる。そんなおまえは、あの世的な人間
だ。
第三の可能性……市場(市俗)に住み、しかも、市場(市俗)がおまえの中に住まうのを許さない。行動的にならないままで行為する。動き、内側では不動のままでいる。
私はいまおまえに向かってしゃべっている。しかも、私の内側には静寂がある。私はしゃべっていて、同時にしゃべっていない。動いていて動かない。行なっていて行なわない。もし無為と行為が出会ったなら、そのときにこそハーモニーが起こる。そうなったら、おまえは美しい現象と化す。醜さに対立する(争う) 美しさじゃない。醜さも含んだ(取り入れた)美しさだ。
バラの茂みに行って、花と棘を見てごらん。その棘は花と対立したものじゃない。それが花を護る。それは花のまわりの番兵たちだ。保安、安全手段なのだ。真にビューティフルな人間の中では、真に調和のとれた人間の中では、何ひとつ拒絶されることがない。拒絶というのは存在に反するものだ。すべてが吸収されなくてはならない。それがアートだ。もし拒絶するとしたら。それはおまえがアーティストでない証拠になる。すべてが吸収されるべきだ、使われるべきだ。もし行く手に石があっても、それを拒絶しようとしないこと、それを踏み石として使うがいい。

* 分けない、選ばない、しないで、する。強く烈しく情熱的にする。文学が、詩がそこに生まれる。
2008 ・24 80

* 田原総一朗の番組が桝添厚労相を呼んで議論していたが、こういう議論がわたしにもたらす訴求力のなんと萎え落ちてしまっていることか。聞いていても観ていても虚しい。政治か藝術かなどとわたしは分けないし選ばないが、受け取って受け容れるにたる魅力は欲しいと思う、エゴの欲であるか。

* 昨晩に読んだ、坊やの「どうぞ」のような生きてはなやいだ嬉しい起爆力。欲しい。もっと欲しい。
2008 5・25 80

* 梅雨入りになる。夏の暑さも台風も来ている。今年の桜桃忌、作家生活三十九年。ずいぶん、いろいろの坂道を歩んできた。もう少し如才なくやってくれていれば、もっとエラク成ってたんだがと、中学の同窓会で旧友に揶揄された日もあったが、如才なく生きてはならぬと、思ってきた。
向こうから来ると思っていたわけではないが、太宰賞も突然向こうから来た。東工大教授も、美術賞の選者も、ペンの理事も向こうから来た。わたしがハッキリ自分で選んだのは、妻と、東京と、創作と、湖の本。
ほかは、みんな向こうから突然来た。災難も向こうから来た。如才なく振る舞わなかったから来たのである以上、いいこともあれば、不快なこともある。

* もしいつか子どもをもったら、愛し子が、男でも女でも「朝日子」の名をと想いながら、高校に近い東福寺や泉涌寺で短歌をつくり続けた頃、わたしは、まだ十七、八歳であった。
如才なく出来ないあまり、わたしが利かぬムリを自身に強いているかどうかは、わたしには分かっていない。

* 出来ないと思うな 出来ると思うな それはオレの問題(ジョブ)じゃない。
したいだけ、やれ。
2008 6・1 81

* 失せモノ、捜しモノを見付けるのに大苦労。願っている物はまだ見つからないが、他にかなり大量のものの、頼んだ仕事がハンパのまま、物の隈に離ればなれ片づけられていたのを見付け出した。
物書きには、初出本や雑誌の記録と保存がとくに大事で、完備していないと新しい本の編集も利かず、年表も年譜も造れなくなってしまう。

* 手がけている同時進行の仕事が多くなると、頭の中も蜘蛛の巣のようになり、溜め込んだ脳内情報がうまく取り出せないと閉口する。コンピュータのおかげで凄いほど便利はすすんでいるが、それにつれ、こっちの仕事も厚かましくややこしく多岐にわたるから、記憶や資料の交通整理がおろそかになると何十キロ道路渋滞といった、堪らない難儀に落ち込む。それで気が腐ると仕事まで腐りかねないから、よほど日ごろ用心しているけれども、追いつかなくなる。
2008 6・8 81

* もとサッカーの中田英寿が引退後に世界をひろく旅して、環境の破壊に心痛め、その思いをひろく伝えるためにサッカーゲームを企画、自らも参加しながら無数の観客や視聴者の胸に、適切なエコ・メッセージを伝えていた。わたしが期待してきたのは、これだった。
大勢にアピールできるスポーツや藝能の優秀な才能が、率先して機会をつかんでは一言でもいい人間と地球との現状に目を向けて欲しい、「出来ることからして行こうじゃないか」と語りかけて欲しかった。そう何度もわたしは書いてきた。
むかし、好きな選手であった巨人の長島が、「社会党が政権を取れば野球が出来なくなるんでしょうか」と真顔でテレビで話すのを聴いたときの、ショック。
あの長島から、今日の中田英寿らへの大きな感動的な推移を、わたしはやはり人間性の「希望」だと思うのである。諦めてはいけないのである。
力士からも役者からも映画人からもお笑いからも、中田につぐ声や行動が聞こえたり見えたりして欲しい。
作家にも似た声を上げて働いている人たち、いないのではない。が、名誉心や商売がらみや、また訴求力の弱さゆえでか、なかなか広範囲に力強い例は出ていない。大江健三郎ほどの声ですら、爆発する大きさで日本人の、ことに若い人の魂にはもう響き合っていない気がする。
昨今文士は、一般に自身の売名と商売を念頭に動かねばならない程度に、精神も脆弱いのであろう、いま例えば中田英寿ほどに真っ直ぐ広く声の届く文士として、誰がいるか。いないなあ。日本ペンクラブの理事会に十年余も出ていて、わかる、中田ほどの実力者はいない。梅原猛さんは異色の人であり、ものもよく見えていた、が、見えすぎていたかもなあ。そしてもうあまりに歳だし。
地の塩のような瀬戸内さんなど、感化力のある数少ない見識人であろうか。
大江健三郎はなんとなく小さく身を守って身を退いて見えるし、行動力と起爆力の小田実は亡くなった。
なによりも圧倒的な「文学作品の質とちから」で物のいえる、藝術的起爆力のある健康で世界的な大作家が、今は一人も活躍していない。半病人では仕方がない。島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成などと続いたかつてのペン時代などは、存在感だけで、万人が納得し敬愛した。
2008 6・8 81

* わたしの脳裏に、いま、幻影としても「抱き柱」としても「拝」の対象としても、仏像が存在していない。神も存在していない。救いも無い。悟りもむろんない。からっぽの「いま・ここ」だけがある。それでいいのだ。ヤケクソでも何でもない。
しかし、いま、とてもムカついて、気持ちが悪い。とてもわるい。
2008 6・10 81

* ものの下から、ものの中から、ものの奥から、ものに紛れて。何と言っても言い訳でしかなく、ちょうど半世紀前、大学か院かにいた頃研究室の書庫で借り出した図書が現れ出た。
東京へ出た頃、わたしはまだ院の中退手続きをせず、休学の体裁であったのと、勉強そのものをよす気は少しもなかった。しかしこの際の言い訳にならない。
幸い、大学事務室に親しい読者が勤めていてくれるので、おりをみてその人へ「返却」を頼みたい。が、この際もう一度読んでみようと昨日、思い立った。
いまやまこと古めかしいけれど、大西克礼先生著の『現象学派の美学』(岩波書店)で、昭和十二年九月十日に初刷、十六年九月十五日に三刷した本である。わたしが満二歳前に世に出て、真珠湾奇襲の三ヶ月近く前に刷られている三刷本。
現象学は当時ではもっともハイカラな哲学思潮であり、三刷とは、人気を証明している。わたしが学部や院にいたときでも、まだ、現象学的な研究姿勢は人気があった。わたしの書庫にも、創始者といえるフッサールのそんな題の原書か訳書かが、今もあるように、うろ覚えている。
さ、いま読んでわたしについて行けるか、興味を再燃できるか分からない。大西先生の原著で、翻訳本ではない。この先生のカントの翻訳などは読みづらくて閉口したものだ、いっそ原著の方がついてゆきやすかったぐらい。
それもこれもすべて過ぎし大昔のまぼろしであるが。昨今の美学の新思潮など何も知らないが、送ってきてくれる母校の紀要にも、もう現象学的な研究論文は少ないのではあるまいか。
「現象学」て何ですかと問われても、いまのわたしは口を噤むぐらいだ、だからまた学生の気持ちで、しかも自分の産まれた昔の研究書を読んでみたくなった。幸いに著者の原著とはいえ、ご自身の研究成果というより、現象学にいたる思潮をちゃんと踏まえた、レビュウに傾いた著述のように、序文にはある。序文・緒言は読みやすかったので、いささか眉をひらいています。

* 哲学史というと、ついインドや中国のそれが一応ワキにおかれて、古代ギリシャの自然哲学から話が始まるのはある程度やむをえないと見遁している、が、そのまえにも「神話」があり、神話となると、ますます地球規模で無数に多彩であるはず。
神話から哲学へ、その必然の飛越・飛躍に立ち返ると、当たり前の話だが、人間なら誰しもが一度はもった「疑問」にぶつかる。例えば、自分は何モノで、なぜ此処にいるのか。いつまでいるのか、いつかいなくなるらしいが、その先はあるのか、ないのか。多彩な日々のコト・モノ・ヒト。その「存在」はなにに拠り、どの程度確かで、なにがその異同を可能にしまた不可能にしているのか。

* わたしは、ほぼいつも、「コト・モノ・ヒト」と書き分けて「世界」を把握している。この三つからハミ出るような「何か」を、日常的には、ほぼ、持たないから。他に在るとすれば、「フシギ」である。フシギのなかに譬えば「カミ」「マモノ」などを入れたければ入れればよい、わたしの思いは必ずしもそうでないが。
動・植・生・鉱物が「モノ」なのは分かりやすい。「コト」の理解は人により揺れるだろう、が、事件や現象また社会や歴史と見切れば、ほぼ尽くせている。国もその中に在る。
「ヒト」は、人間という理解だけでは足りないはず。わたしのように「自分・他人・世間・身内」と「ヒト」を観ているヤツもいれば、男女や人種や、さらには才能や性質や言語でヒトを観ることも出来る。
あまりよそで出逢ったことのない把握なのだが、わたし自身は此の「モノ・コト・ヒト」という三分法を、便利な発明と自負して、よく利用してきた。わたしの「哲学」の入り口になっている。

* 小さかった頃は「カミ」「ホトケ」を混同しながら、「何でや」と疑問も覚えていたが、「ホトケ」は「ヒト」の内に含まれていい。新井白石のように「カミ」も「ヒト」の内だと見極めた人もいたが、ま、わたしは、カミ様は「フシギ」の範囲内に囲っておいていいと思い、あまり関わらない方がいいとも思っている。

* こんなこと書いていると際限がない、暫く、措く。
2008 6・11 81

* 日経に連載したなかの古証文であるが、ふと思い立ち、もう一度ここへ出しておく。

* のようというのだ  秦 恒平 (作家)
明治に、一時期「美文」が流行った。美文とは何ぞや。文字どおりのご想像にまかせよう、いや想像の必要すら、ない。
昨今では「名文」ということもあまり言わない。名文とは何ぞや。この議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けた方が安穏か。
ま、どっちかといえば当今は「悪文」時代で、それもプロの悪文が横行している。
悪文にはしかし、稀々、時折りとはいえ、とても個性的な「佳い悪文」もあり、見捨てるばかりが読み手の能ではありません。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われた。
文学か、ただの読み捨て読み物か。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造形され表現された作者の「思い」の深さや高さや、オリジナリティー、と、ひとまず謂っておこう。
だらけた陳腐な物言いで、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全く与えてくれない、それはもう読み捨ての読みものに過ぎない。ほんものの作品は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す「真の魅力」に富んでいるように。
書きたい人が、むちゃに増えている。その気ならケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、わたしのところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
ものを書く際に、才能は、どこに現れるか。
少なくも、一つ謂える。
「推敲する」力と根気、
それが創作文章での強い「才能」である。推敲の力は、数行の書き出しを読んで、分かる。明瞭に分かる。
一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。
「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を確かに書き分けられる人も、じつに少ない。文章の品位を左右する例が多い。
2008 6・11 81

* 「週刊新潮」から、電話問い合わせがあった。電話や口頭での取材には、応じられない、代理人に相談もしてと答えた。
わたしのブログなどを見ていると言うが、じつは『かくのごとき、死』すらまだ見ていないという。『死なれて死なせて』も知らないという。その他にも重要な資料はあり、ことに★★が躍起になって公開をイヤがる『聖家族』と仮題の、創作下書きもある。
わたしは書き手である。しかも逃げも隠れもなく文責氏名を明らかにして機械の「闇」に言い置いている。「闇に言い置く私語」と謂う「日記文学」を、わたしは遺している。知りたければどうぞ「書いたもの」を遠慮無く、誤解無きように読んで下されば有り難い。求められれば提供する。
朝日子のブログ「がくえん・こらぼ」とかいったものも記者はみて、シンラツなことが書いてあると電話口で話していたが、一昨年の秋口までのものしか、わたしたちは知らないし興味ももっていない。わたしのこの「私語」を克明に見て、いちいち仮処分審尋の場に持ちだしてくる朝日子側とは正反対である。

* マスコミが参加してくることは、マスコミが真に公正であるかぎり、正直にいえば、むしろ有り難い。結局は、「文学とことば」に執心出精の一作家が、書いて「書き表したもの」が、最期に理解されると信じている。口は閉じていていいのである。「書くように」と求められれば、気負わずに書く。発表の場は、紙でも電子の場でもわたしは持っている。

* そんなことより、困るのは、インターネットがしばしば、長時間機能しないため、外への連絡がまるで出来ない。何の何処が悪いのかサッパリ見当もつかない。

* その後も熱心な取材依頼があった。わたしは上にも書くように、「書いたもの」を読んでもらうのは、むしろ有り難い。有り難いと思うほど心を入れて、籠めて、書いている。それが読みたいと言われて「それは読まれたくない」などという辟易は、いささかも無い。物書きが「書いたもの」を読んでもらうのは自然で当然なはなしである。

* しばらくは余儀なくこれらの話題に引きずられる。それがわたしの「いま・ここ」なら、それに正対する。不承の方は、もともと「闇に言い置く私語」と題してある、ご遠慮なく目を背けていて下さい。
こういう臭気のきつい醜くすらある場所に、知友の清新な文章も、今後は、なるべく混じらせないようにしたい。
2008 6・14 81

* 駟も舌に及ばずと教えられた。そう思っている。「駟」とは、最速の馬車の意味と思っていい。今日なら音速を超える乗り物と想っていい。それよりも早く、口にしたこと(書き表した言葉)は、もう、我一人の所有では在りえない。
前世紀末から、日本の世間も私民も、電子化情報の時代に、自らパソコンとインターネットを用いて、無数に参加し始めた。
大きくはサイバーテロの恐怖が世界的にのしかかり、対して、サイバーポリスの恐怖時代化も権力による個人情報収奪と管理というかたちで、驀進しつつある。
他方、日常的には、たとえばプライバシーの多く深くが無きにひとしく浸潤されて、それが普通化して行く。
いかなる技術的な抵抗も、いたちごっこで押し越えられる。それにより物凄くて新たな「機械環境」「精神環境」が日々にマトリックス(母胎)化してくる、いや、して行くだろうと、わたしは予測した。
わたしは一度も覗いたことなく覗く気もまったくないが、よほどおとなしく謂って「匿名で過激ならくがきコーナー」のようなサイトもあると、繰り返し聞いている。そこに犯罪の種が播かれ、過激な犯罪がそこから現に無数に産まれてきている。犯行そのものはあるいは制御できるにしても、犯行の種を未然に抑えることは至難となり、対応の立法が躍起に画策されるが、その正体も、「個人情報保護」といった美名のもとに、じつは、私民のプライバシー保護なんかでなくて、いちばん暴かれてはイヤな内情を抱え持った政治家や権力者たちの「秘密保護」が優先目的となっている。
おまけに保護どころか、情報の流出や盗難や悪用やたれ込みは起こりに起こっている。加えて、ケイタイという、文字と言葉の乱舞場も普及し、幼い子たちに至るまで、安全そうで逆に危険な犯罪環境にも肌身で触れあっている。
もはやウエブは大津波のように世界を奔り、誰にも押しとどめられない。権力は抑えようと画策に躍起になるが、それは、日を負うての影踏み遊びで自分の頭の影がどうしても踏めないのと似ている。平たく謂えば、人の口に戸は立てられない文明の登場を、人間は、みずから招いてしまったのである。
そういう時代が来る。来た。
(そうわたしは眺めて、前世紀の最末期に、例えばいち早く日本ペンクラブに「電子メディア委員会」創設を提言し、実現させた。以来十年、しかし時代の潮の読めていない執行部は、これを今期になり潰してしまい、「言論表現委員会」に吸収させてしまった。ただ一例をあげても、紙媒体の出版と電子メディアとの「言論・出版・表現の質の差」を知らないに似た愚行だった。小さな政府が言われていたなかですら、大蔵省が分散された意味を思え。ひとしく「言論表現」と謂うとも、ただ一つインターネットの在ると無いとでは、生じる問題の質も状態も、おはなしにならぬほど異なることが理解されていれば、むしろ時代は、「電子メディア委員会」の多局化をすら考慮すべきに立ち至っているのであり、旧態依然、「紙・活字媒体」時代の意識を重く負うた「言論表現委員会」で、二十一世紀の全ての「言論表現」の問題がカバー出来ないのは、明瞭な事実。現に、出来ているとは思われない。)

* 少し方面が逸れた。わたしが謂おうとしたのは、そういう時代に自分も生きる、わたし自身の思いと態度である。

* わたしは「言論表現の自由」「著作権」を、一作家として、むろん大切に考えている。自由や権利には自然と守らねばならない節度があると考えている。
同時に時代環境は、わたしの幼少また青壮年の昔とは、上に言うように、著しく変容し変質し、その変化の多くがむしろ拒みがたい空気になっている。たとえば、「人の口に戸は立てられぬ時代」を人類の文明は、もはや制止も抑制も、まして後戻りなど出来ないであろう、とわたしは見ている。
わたしは、そういう環境の中で、およそ今のところ、こう考えている。
一人の「物書き」として、匿名では書かない、署名して文責は明らかにする、自分の書いた文章で他者に勝手に商売されては叶わないが、それ以外で有効に利用されるのは、概ね黙認してもよい、と。著作権の、権、権とは偉そうに言いたくないのである。
もう撤退して久しいが、わたしは一時は「某紙匿名欄」をまるで独占していたような、匿名コラムの書き手、でもあった。伝統をもってよく知られた其処はいわば「批評」という「藝」の見せ場でもあった。
だがインターネット時代の最強の毒性発揮は、藝も志も皆無の「匿名」にあることを、わたしは「恥じなき人たちよ」と歎く。蔭に隠れて、卑劣な中傷や捏造で故意に人に傷つける表現行為は卑しい。わたしはしない。しかしされたことがある。身をまもるべく対抗した必然の手段にも、相続権だの肖像権だのをもちだし、「損害賠償」を要求されている。
わたしは人と人との信頼や愛情を大事に思う。ゆるしあう間柄というものが、そこにおのずと出来てきて、それは人生で拾える珠のようなものである。たくさんな珠をえていることを、わたしは心よりよろこんでいる。
たとえば、わたしは、此の日録の中にしばしば親しい人たちの文章を紹介している。もし権利をいえば、それは侵害か。
たとえば可愛くて仕方ない孫の写真を、祖父がウエブに入れて愛おしんでも、内容証明の郵便が来て、権利の侵害である、撤去しないと損害賠償で訴えると、孫の親が自分の親に居丈高に迫って来るとき、「法」は、あるいはそれを是としているのかも知れない。
しかし、わたしの生き方はちがう。わたしには、その間に成り立っている人と人の気持ちに深く頼み恃むものがあり、そこに深い喜びもある。もう一度繰り返す。わたしは人と人との信頼や愛情を大事に思う。ゆるしあう間柄というものが、そこにおのずと出来てきて、それは人生で拾える珠のようなものである。逸脱もせず暴発もせずにたくさんな珠を掌中にえていることを、わたしは心よりよろこんで誇りにもしている。そう想いながら、この生きがたい時代を、残り少ない歳月を、せめてギスギスしないで生きて行く。

* 明かしておくが、あたりまえ、わたしは聖人君子でも大きな顔の出来る善人でもない。偽善者にちかく悪人にもちかいのではないか。韜晦すべく言うのではない。
つまり、そうしか生きられないように生きてきた自覚が、世の常識を・枠組みをおよそ望ましい善と謂う以上は、とても人サマから簡単に赦されそうにないわるいヤツだという意味である。

* ずいぶん書くなあ、秦さんはと思われるだろう。ひ弱いわたしは、こうして心身のバランスを保とうと足掻いているのですよ。喝

* 仕事の合間に昔も昔の原稿を、二つみつけた。さきの「鬼面哄笑」は、太宰賞をもらって新聞から随筆をと依頼され、初めてに近い原稿料をもらった作であるが、それだけでなく、後に新潮社の書き下ろしシリーズに『みごもりの湖』を書いたとき、書き出しにそのまま利用することで、作品世界の「空気」を定めた、私にはとても大事なもの。あまり懐かしく、そのまま此処へ置く。当然とはいえ、今の思いからはさらに推敲したいゆるい箇所が目立つが、そのままに。

* 鬼面哄笑   秦 恒平

清水坂を下るうちに夕かげは濃くなってきた。清閑寺から辿って来た脚が心もち重い。古い雑器を売る店なども奥の方はくらくなって、わずかに道へセリ出した板土間などにはさすがに残る夕日が微妙な縞目をうつしていた。丹波の徳利を寂しい夕ぐれの店の隅に見つけたのは、草臥れた脚をほっと休めるいいしおでもあった。ステテコ姿の取的みたいな主人がくらい中から白い大きな顔を見せて、「へ、ゆっくり見ていとおくれやす」と灯をつけた。切って落としたように外がくらくなった。
「名ばかり丹波」で仕様もない代物だが窯はぜが美しい景色をつくり、肩から口への立ちあがりがむしろ京焼あたりの優しみをただよわせている。一升ばかりのものか、水でも入れて重みをつけたいお手軽な徳利をいくらか値切って買うことにきめた。桔梗の青がよく映るだろう。秋はじめの涼しさともなれば、武蔵野では部屋の中に虫が鳴く。露ばんだ肌で壷は壺なり静かにもの言いはじめる頃、「月皓く死ぬべき虫のいのち哉」と書いた短冊の下にでも置いてやろうと想いながら。
もうそこが高台寺というあたりへ来ると、京都神社の石段の方へ西日がまだ夕明かりをほのかに斜めに残していた。「さいなら」と言いあって三つ四つの男の児ががらがら三輪車を押し押し帰ってゆくのが寂しくなつかしい気がする。
「およしなさいな」と妻は眉を寄せたが、私は道わきの軒の低い店で般若面をのぞきこんだ。
清水焼だが、この頃では精巧なつくりが多く手にとらないと実物との見分けがつかない。小づくりな面に金彩を施した角がきりりと長い。口の裂けよう、眼の窪みようも、写実というとおかしいがみごとな夜叉相で、額ぎわに髪が乱れたさま、いたるところ黝ずんで、むき出した鬼歯に鈍い光がたまるさまを、妻は一々に数え立てて、「気味がわるいわ」と言う。
私の方は最初に見つけた時から、よく出来た鬼面と思いつつ、どうにも般若が大口あけて笑っているように見えて仕様がない。頬のそばから夕明かりがのいてゆくのを感じながら、私はしきりと「笑ってるんだよ」と念を押した。しまいには妻も「そうね」と相槌をうつようになった。
鬼面哄笑という語がぽっかり私の中で浮かんだ。豪快な寛容の哄笑であれとふと願ったが、いやいや所詮は鬼の笑いよと突き返してきた何かがある。他ならぬこの私が笑われているのだと気がついて、得体の知れぬ落胆がうそ寒く肌に迫った。物凄い鬼面に哄笑を見たのが私の余裕からでなく、積み上げることしか知らぬ罪障の咎であることを、妻にさえ私は告げることができなかった。
「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光。微妙香潔。舎利弗。極楽国土成就如是功徳荘厳──」と金銀まばゆく阿弥陀経を書写された花園天皇の宸筆を、前日京都博物館で息をのんで観て来た。経文の華麗もさりながら、豊かな肉筆で料紙を選んで一字一字を写経された帝の想いはどのようなものだったか。
私は以前からこの写経という営みを重々しく意識してきた。経を写すという功徳で後世安穏を願うことは、もはや私の時代には習わしとしても根絶えていて、それだけにこうした筆跡を遺した人たちの極楽往生のほどが羨ましく信じられてならぬ。一字一劃の重みに耐えながら、人々の頭から高らかに哄笑する鬼の顔はうすれうすれて行ったのかと思う──。
妻の歩き出した方へ追いすがるように小走りにかけた。「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」と西山の空へ私のつぶやきは力なく消えていった。

* もう一つはなお七年ほどの知に「藝術新潮」のたぶん「私の好きな路地」とでもいうアンケートに答えたモノか。

* 高台寺への道   秦 恒平

京都祇園祭で名高い八坂神社二軒茶屋の前を鳥居外へ出ると、俗に下川原と呼ばれる静かな、やや広い通が南へ通っている。その道のどこかから東向きに、これは石塀小路と呼ばれている小粋に長く曲りくねった路地内に入って行ける。下川原独特の高級席貸屋や料亭が奥に密集していて、ひっそりひっそり歩ける風情満点の抜け路地になっている。
この石塀小路をぽっかりと東の高台寺下に抜けて出ると、すこし左へ戻れば甘酒の文之助茶屋があり、道の真中から右を眺めれば屋根の上に八坂の五重の塔がにょっきり見える。私の好きな路地はこのアスファルト道からまた東へ、文字通りの高台寺庫裡の前へと真直ぐ長くゆるやかに上りつめた石段になっていて、木深い翳りも美しく、秋には金木犀が香り春には薮椿が朱い。京都へ帰るつど必ず一度はこの路地を上る。一人で、また誰かと二人で。そして、その誰か次第でこの路地は趣を幾重にも変え、しかも私にはこの一筋の石道がなぜか遠く遙かなわが隠国(こもりく)に通うもののように想えてならない。
2008 6・15 81

* バイアットという英国の女性作家はわたしより少し若い。英国で「最高の知性」といつも評されているといい、英国事情は何も分からないが、或る強烈な、知的活溌で充満した人であるとは、作品が告げている。
『抱擁』は巻を追ってますますオモシロクなり、輝きを増して惹きつける。このような作風では、手法では、簡単に読者に投げ出されるおそれもあるが、引きこまれて行くと万華鏡のように部分部分が照りあってきて、独特の「球」のような世界創造が目に見えてくる。
この物語には、過去のヒロインたちと、現代のヒロインたちとが入り交じって生きているが、その過去のヒロインは卓越した詩人であり、その作品も説得力豊かに鏤めたように登場する。それはともかく、いま、わたしはその「ラモット」という優れた閨秀が、作家志望の従妹の家に傷心をいやしに寄宿している辺を読んでいる。
作家志望の若い従妹は、名声ある従姉の指導と刺戟とを切望しながら、活溌に日記を「書く」というかたちで、いろいろラモットに関する証言を積み重ねている。その中で、「書く」「創作を書く」ことについて、ラモットは十分刺激的な示唆をたくさん従妹に与えている。
「書きたい」人には、少なくも基本の示唆がされている。

* 書きたい人はうじゃうじゃいる。書いてあるものは、万に一つもろくなものはないが、それでも志と努力とが書き手を励ますことはある。いちばん不味くてコッケイでさえあるのは、「自称作家」「**会員」「**同人」の書き垂れた駄文駄作。実績なしの「自称作家」で終わっては「くろうとゴッコ」に過ぎない。バイアットの文学、創作、詩への思いは厳しい。本当に優れた作を書きたい人は、出来れば原作で、彼女にも聴くといい。わたしもじっと聴いている。
2008 6・16 81

* 谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地根
老子の一核心である。
谷の精はけっして死なない。それは神秘なる女性と呼ばれる。神秘な女性の扉、それが天と地の根源である。
このアナロジーのとてつもない豊かさ。
バイアットも、それを多彩で豊饒な想像力と言葉とで追っている。語っている。
アーシュラ・ル・グゥインも病んだ世界の根源の扉へ、ゲドを送って回復させていた。
映画『マトリックス』でも、最期にあの二人(キアヌ・リーヴス、キャリー・アン・モス)は、マトリックス(母胎)根源の扉を直しに行った、人類の希望を甦らせようと。
西欧の哲学史を追っていると、中国の老子が、どんなに優れた実存であったかが、感謝と共に見えてくる。カント以降の西欧哲学は、じりじりと老子の膝元へすり寄ってくるようですらある。バグワンのような現代の老子がいたのを、わたしはおどろきとともに感謝の眼で見つめている。
2008 6・16 81

* よく太った小馬にまたがって地上数メートルをゆぅらゆぅら乗り回したまま、うとうとうと眠っている夢を、いま数分のまどろみの中で見ていた。たわいない。

* グレン・グールド演奏によるバッハのピアノ協奏曲一番二番三番四番五番そして七番とイタリア協奏曲、さらにフーガの技法フーガ1から9までと、ゴールドベルク変奏曲のモノーラルを、続けざまに聴いていた。
ディスクが三枚。繪を描いていた「お父さん」の贈り物だった。
その間に、放っておけない残った仕事を全部終えたし、校正の仕事にもハカがいった。演奏はチャーミングであった。マイミクに、絶対音感のある遺伝学の研究者や、ピアノ演奏の大好きな理系研究者がいるので、音楽の感想はつきなみに大雑把にさせてもらう。
言うまでもないがグレングールドは二度死んだと悼まれている。
一度は、コンサートを一切拒否して聴衆を拒絶し、全てスタジオでの録音で完璧な音楽を創り出したときに「死んだ」といわれ、もう一度は惜しい逝去をそう言われた。
わたしには何も言うすべないことであるが、わたしが文壇的通常の姿勢を放棄して「湖の本」による活動に転じたのも、グレン・グールドの場合と同様に「死んだ」「逃げた」と言われた。グールドの拒絶にも理があった。わたしにも積極的にそう選択したのに理はもっている。諸井誠氏のグールド哀惜のことばを読みながら、涙がぽろぽろこぼれた。
2008 6・16 81

* 「作家は技術を磨く事によって──言葉による実験をたゆまず重ねる事によって、初めて作家になるのですよ、ちょうど偉大な彫刻家や画家が、粘土や絵の具を使って実験を重ね、遂には其の媒体が第二の天性になって、望むが儘に形をなして行く様に。」
希有の小説『抱擁 POSSESSION』のなかで作中すでに名声高い閨秀詩人クリスタベル・ラモット(作者はバイアット)は、作家志望の若い従妹サビーヌ・ルクレス・シャルロット・ド・ケルコズに、真っ先に、語っている。ラモットは前世紀の人として描かれているが、創作者バイアット女史は現代の最先頭にいる英国の知性であり藝術作家である。
「推敲のちから。それが文学に不可欠の一つの才能だ」とわたしは思う。それだけではないが、それが真っ先に言われる意義は在って、大きい。
なんと古くさいことをと失笑して顧みないような作家志望者達の手で日本語の小説は乱雑に頽廃し瓦解しかけている。その中からでもすぐれた人間が思いがけぬ相貌で起ち上がってくるのなら、希望はもてる。
いま、作中の人名で親しまれ魂に刻み込まれているどんな名が思い出せるだろう、二十一世紀になりもう十年近いが。いや二十世紀の最後の十年、二十年にわれわれはどんな藝術的な素質の作中人物に恵まれてきたと言えるのだろう。

* この日録の私語は転送するときは読み返しもせぬ書きっぱなしだが、日を経て、また月を越えて、読み返され推敲されて行く。何万枚もの文章がいつも読み直され、「実験」が繰り返されている。
「作家」としてはかなり異色の道を現に歩んでいるわたしであるが、この日録は、むろんわたしには「文学・文藝の作品」である。メモでも備忘でもない。これら全部を、そればかりか他にさらに倍して満載された全部のわたしの文章を、ホームページごと破壊し抹殺した犯人には、インテリジェンスが生来欠けていたとしか言えない。
値するかどうかの議論は別になるけれど、日本と闘ったアメリカは、京都や奈良には結局のところ心して爆弾を落とさなかった。それは日本の感謝である以上に、アメリカの知性であり誇りとなった、結果として。

☆ お早うございます、風。 08.06.17 08:50  花
風のインターネットはまだ通じているでしょうか。
朝は、何時くらいまでつながりますか。
花は、八時半に出勤するのを見送り、すぐにパソコンの前に来ました。できれば携帯ではなく、パソコンでメールを送りたいのです。パソコンの方が、文字を速くたくさん打てますので。
風のお時間が、陰惨なものに消費されることを、花は悲しみます。美しいもの・人をたくさん見て、どうか、楽しんでお過ごしください。
お元気ですか、風。
花のきのうは、友人にじゃがいもと枇杷をいただき、豊作でした。
花は、義母の送ってくれたたまねぎを進呈。
枇杷は、さっそく冷やし、夕飯時のデザートにしました。上品な甘さでした。
爽やかな甘さで、花は風を溶かしたい。
花の元気を受け取ってください。ではでは。

* 晩になってこのメールをもらうより、朝一番が一日励まされてありがたい。ビタミン愛のように服用。手紙では書けない。メールだから書ける。
電子メールの初期の頃、メールの文章は冷淡になりやすく、そのために仲良い人たちが喧嘩沙汰になることが多いとよく聞いた。それも一理ある現象だと思い、電子メディアでの人と人とのふれあいに、新しい風俗としても真情としても文藝的な関心をもっていたわたしは、逆に、メールこそは恋文に近い文章の書けるツールではないかと思うようになった。ちょっとした配慮と工夫と気持ちでそれが実現すると。
そういう意味の恋文をわたしから受け取った、受け取っている人は、変なハナシだが男女を問わずいっぱいいる。もらう方も同じである。大事なことは、それが虚礼でも虚飾でもなくなってゆく。互いの真情が生まれてくる、何の問題もなしに。これまたヘンな譬えになるが「現代の茶室」のように個々の「メール環境」がうまれ、茶は飲まないが思いを分かち合う「メール茶の湯」が楽しまれているのと、同じだ。
もっといえば、わたしが「世界」に連載した『最上徳内 北の時代』で多用していた現世と他界とのはざまに在る「部屋」にじつに似ている。その「部屋」でわたしは紫式部とも後白河院とも、清経とも、蕪村とも、新井白石とも、むろん徳内先生とも、自由自在に出逢っていつも歓談してきたし、それどころか紫上とも寝覚の中君とも、心の先生や奥さんとも逢ってきた。「メール」はうまくすると、この「部屋」に同じい。「個」と「個」とのとざされた部屋とも強いて謂えば言えるが、あの「部屋」よりは現世の俗により濃く触れているけれども。

* このサイトの私語に密かに耳を傾けて下さる人は、想像以上に広範囲に及んで、なかには悪意の検閲をこととしている人もいるようであるが、そんな中から、秦さんはモテますねえよく、などと俗なことを言いかける人もいる。モテルという俗語の意味本来をもし求めるなら、わたしは上のようなメールを此処へ転載したりしない。秘しておく。
わたしは、この私語の「闇」が、わたし一人の陰気に堅苦しい「私語」だけでよりも、華やぎ、ふくらみ、広がるのがただ心穏やかに嬉しい。それである。「身内」が見えてくるのである。
2008 6・17 81

☆ 梅雨の空もようがつづいていますね。気温が低いので、ラクに過ごせます。花はとても元気です。
風はまだおやすみかな。お元気ですか。
診察の結果が、悪くなかったようで、安心しました。お大事になさってください。
花は、髪が伸びたので、美容院に行きたくなってきています。
『神と玩具の間』は、下巻に入りました。おもしろくて、今日にも読み終えてしまいそう。
以前に読んだことがありますが、今回は、違ったおもしろさ、といいますか、前回よりおもしろく読めます。読むときどきに依って、作品が違った顔を見せる、と謂うことがありますが、作品は変りませんので、前に比べておもしろいと感じるのは、読み手である花の内面に、より違いが生じているのでしょう。
今夜から、またバレーボールの国際試合がはじまります。
先日は、全米オープンゴルフを部分的に見ました。世界トップクラスの選手たちが、バンカーやOBをばんばん出していて、「難しいコース」なのだなあ、と、感嘆しましたよ。
もうすぐウィンブルドンテニスがはじまります。
あれこれ、手に汗握る日々です。
ではでは、佳い風の今日を。 花

* 十時までやすんでいました。なにか克明な夢を観ていたはずなのに、けろりと忘れています。
タイガー・ウツズが骨折していて重症らしいのを案じています。つよい人には強いままを維持して欲しい夢があります。イチローにも。やわらちゃんにも。
むかし、橋本聖子というスケートの女子選手がいたでしょう、議員になった。あの人のプレーへの姿勢が好きでした。
谷崎先生達の手紙は、毎日新聞の担当記者から小説家になり佳い谷崎伝記なども書かれていた野村尚吾さんが、遺言のようなかたちで、わたしにぜひ活かして欲しいと遺していって下さったのです。
この本を書くのに、わたしは筆を枉げたくなくて、親しい松子夫人にも取材しませんでした。
この本は、関係者に、むろん松子さんにも、傷みを与えたはずですが、誰一人からも苦情は来ませんでした。わたしの「谷崎愛の純真」に免じてくださったのだと感謝しています。この本を乗り越えて行くことで「昭和の谷崎」論はのびて広がったと想います。
野村さんがわたしを信頼し、新しい谷崎世界をひらいたと認めてくださったのが、エッセイ33の、書き下ろし「谷崎潤一郎論」でした、処女単行本『花と風』 (筑摩書房)に入れたのでした。小説家だけでなく、評論家としての一歩も合わせて踏み出せたのが、わたしに「生活」させてくれました。原稿依頼が文字通り殺到したからです。しかし評論家で歩み出していたら、そうは行かなかった。その辺が微妙な世間でしたね、文壇とは。
出来れば、処女評論の入った『谷崎潤一郎の文学』そして後年の『谷崎潤一郎を読む』も、流れで、あわせて読んでみて下さい。作品論、作家論の「風」ふうが見えるでしょう。原作と拮抗するほど面白く興味深く書くものだ、作品論は、と心がけてきましたよ。
では、風の今日を始めます。
2008 6・20 81

* 「木綿」という文藝冊子をいつも下さる榊弘子さんの巻頭文に、李賀、というより鬼才李長吉でなじんだ唐の詩人の詩句がひいてあった。

長安に男児あり
二十にして心已に朽ちたり
また
人生窮拙あり
日暮聊(いささ)か酒を飲む
祇今(ただいま)道已に塞がる
何ぞ必ずしも白首を須(ま)たむ

二十七歳で死したる詩人。二十七歳で小説を書き始めたわれ、白頭、七十二郎。生きすぎたか。

* シェイクスピアはルネサンスとバロックとに、半身ずつを置いた。バロックといういわば「演劇の十七世紀」を大きくリードしたのは、彼。「演劇」はバロックの象徴的な第一級藝術だった。現代演劇にうけつがれる質的・技術的な「根」は十七世紀にすべて下りた。時代・世紀そのものが、演劇的に白熱した。「人生は劇場」だった。
シエイクスピアの「十二夜」はこう言う。池田香代子さんの訳で聴こう。

世界は劇場
女も男もみんな役者
登場しては、退場し
一生、さまざまな役で七幕を演じきる

「マクベス」では、

人生はうつろう影絵芝居
あわれな役者風情がふんぞりかえり、歯噛みする
ほんのいっとき舞台をつとめ
ぱたっと音沙汰なくなる。どんちゃん騒ぎの
うつけのしゃべるおとぎ話
意味などありはしない

さよう。意味などありはしない。そうと知ってか知らずにか、だからさて、どのように「ほんのいっとき舞台をつとめ」るのか。その「つとめ」ように、浮き世の人さまざまが現れる。俄かも漫才も万才も能も狂言も歌舞伎も新劇もアングラもある。シェイクスピアの辛辣もあればイプセンの深刻もあり、南北のケレンも青果の大まじめも、つかこうへいや野田秀樹の批評もある。スチャラカもケセラセラもある。どうせ「ぱたっと音沙汰がなくなる」のだ、確実に。それがどうした、それでいいんだよとシェイクスピアに尻をまくっても構わない。
バロック時代の演劇人は「人生」を、さよう「劇場」に見立てたが、同時代の詩人達は、人生は「夢」だと言う。一六○○年に生まれたスペインのカルデロンは、芝居の中でこう尻すぼまりに声を落としている。

人生だと? 狂乱だ! 人生だと? 空っぽのしゃぼん玉だ! 作りごとだ! 影だ! 幸福がなんになる。人生はすべて夢、あまたの夢は一つの夢なのだから……
目新しくも何ともない。われわれは荘子の蝶の夢も一緒にみてきた。バロックより少なくも一世紀前の日本では、『閑吟集』が端的に喝破していた。

夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

「ただ狂へ」とは、でたらめでいいという意味ではない。好きなことを好きなだけ一途にやればいいという意味だ。信じたことを信じただけ一途にやればいいという意味だ。出来ることを出来るかぎり一途にやればいいという意味だ。実感のないウワッツラのゴマカシは言うな、するなという意味だ。「くすむ」とは、口先ばかりキレイがる意味だ。
2008 6・23 81

* シエイクスピアの「十二夜」はこう言う。池田香代子さんの訳で聴こう。
世界は劇場
女も男もみんな役者
登場しては、退場し
一生、さまざまな役で七幕を演じきる
「マクベス」では、
人生はうつろう影絵芝居
あわれな役者風情がふんぞりかえり、歯噛みする
ほんのいっとき舞台をつとめ
ぱたっと音沙汰なくなる。どんちゃん騒ぎの
うつけのしゃべるおとぎ話
意味などありはしない
さよう。意味などありはしない。そうと知ってか知らずにか、だからさて、どのように「ほんのいっとき舞台をつとめ」るのか。その「つとめ」ように、浮き世の人さまざまが現れる。
俄かも漫才も万才も能も狂言も歌舞伎も新劇もアングラもある。シェイクスピアの辛辣もあればイプセンの深刻もあり、南北のケレンも青果の大まじめも、つかこうへいや野田秀樹の批評もある。スチャラカもケセラセラもある。どうせ「ぱたっと音沙汰がなくなる」のだ、確実に。
それがどうした、それでいいんだよとシェイクスピアに尻をまくっても構わない。
バロック時代の演劇人は「人生」を、さよう「劇場」に見立てたが、同時代の詩人達は、人生は「夢」だと言う。一六○○年に生まれたスペインのカルデロンは、芝居の中でこう尻すぼまりに声を落としている。
人生だと? 狂乱だ! 人生だと? 空っぽのしゃぼん玉だ! 作りごとだ! 影だ!
幸福がなんになる。人生はすべて夢、あまたの夢は一つの夢なのだから……
目新しくも何ともない。われわれは荘子の蝶の夢も一緒にみてきた。バロックより少なくも一世紀前の日本では、『閑吟集』が端的に喝破していた。
夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を
うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
「ただ狂へ」とは、でたらめでいいという意味ではない。好きなことを好きなだけ一途にやればいいという意味だ。信じたことを信じただけ一途にやればいいという意味だ。出来ることを出来るかぎり一途にやればいいという意味だ。実感のないウワッツラのゴマカシは言うな、するなという意味だ。「くすむ」とは、口先だけキレイがる意味だ。
2008 6・25 81

* 朝、静かに雨。

* 妻の話では、「孫の死を書いて娘に訴えられた太宰賞作家」と見出しの、「週刊新潮」発売広告が新聞に出たそうだ。

* 正しくは、「娘夫婦に訴えられた」であり、原告筆頭は、青山学院大学国際政治経済学部教授の夫・★★★である。
妻・朝日子(私の長女)のかげに入り、ともするとこれは「娘と父との喧嘩沙汰」で、自分は妻の味方をしているだけという姿勢を装ってきた。しかし、世間にもザラにありみっともないことだが、いわば舅と婿との十数年の確執が、太い太い「根」である。
孫を書いた『かくのごとき、死』よりも、じつは長編小説のための下書き仮題であった『聖家族』というフィクションの方に、はるかに太い遠い「根」がある。
★★は、これがイヤでイヤで、なんとかウエブから消してくれと懇願し続け「仮処分」の法廷にも持ち込んだ。和解でもする気かと消去してやると、和解どころか、「千数百万円」を請求の「本訴」に持ち込んだのだ、自分が筆頭の原告で。

* わが家では、老妻も、わたしも、娘の「朝日子と争っている」気では、全然ない。『聖家族』に画かれてあるような男の、卑怯さ愚劣さを嫌悪して、十数年、二十年近く、婿の乱暴と無礼を「ゆるさなかった」だけである。それを、人目も羨む仲良かった娘と父との争いに仕立てて、わが家に対し、ある種のうらみ・ひがみの意趣晴らしがしたかったのであろうか、現に彼の妻に相違ない娘は、その夫と行をともにするしか無いのだ。孫の死を書いた『かくのごとき、死』なら、読んで下さった読者は、実の娘に実の親を名誉毀損で訴えさせるような悪意の産物でないこと、ちゃんと分かってもらっている。 (増刷するな、売るなと勝手なことを要求されているが、たとえば作家論目的で必要とされる方などには、よろこんで、いま、提供できる。)

* 週刊誌記者さんが、たぶん録音して纏めてわたしに伝えてくれ、感想を問うてきた「六項目」、夫・★★★の、終始「真っ赤なウソ(娘の母の即座の感想)」としか言いようない言葉は、まさしく「父娘の喧嘩」に「すり替え」た姿勢を、全面に押し出している。
逐条反駁しておいた終始は、この「私語」の今月、六月二十一日の「つづき」の項に、週刊誌発売より前に全部記録してあるから、読んで下されば事情は分かるだろう。
今朝発売の週刊誌記事の内容は、何も知らない。買いに行って読もうとも思っていない。それより、記者さんとメールでかわした文学談義などのほうが楽しかった。放たれた矢のさきへ奔っていって、受け止めることなど出来はしない。意味もない。

* 娘とわたしとが、どんな親子であったかを示す写真が、このファイルの末尾に載せてある。
ほんとうに仇同士のように仲の悪い娘、憎い父ならば、そんな父親と「同行」して、大手婦人雑誌の「旅」企画に、喜色満面でつきあうワケがない。まして娘は、母親のいわば「代理出演」であり、すでに結婚し子供も生まれていた。「弟の誕生」以後、「娘の死」まで四十年父に「ハラスメント」されつづけたなどと主張している娘なら、こんな「旅」を、こんな笑顔で、父親と二人でとても楽しめまい。「お断り」の一言で済む。
娘は、ウソをついているか、つかされているに過ぎず、どんな「ハラスメント」か、いつ、どこで、なにが、こういう物証が有ってなどと、「原告立証責任」の果たせるわけがない。何の立証も証拠も添え得ぬまま、その逐一が否定されていった経過は、すべて「民事調停」や「仮処分」の法廷がらみに、「記録」がある。むしろ、そんなことのあり得なかった証拠の方が、次から次へ出ている、データもしっかり添え、証拠の現物も付けて。そして一言半句の抗弁も出来ていない。グーの音も出ていないのである。写真は此処に一例として。

 

雑誌「ハイミセス」1991年3月号の「旅」企画に、娘・朝日子
を伴い、松山、柳井、厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
このファイル末尾参照。「ハラスメント」のくらい陰、ありますか。

* 一目瞭然、各時期の全ての写真が、全ての父や母への手紙の文面が、どんな「ハラスメント?」と呆れている。
また保護者たる親が小さい頃に子を躾けて叱ったていどは、どんな家庭にもある。わたしはも叱るべきと思ったときは叱る。「ばかか、お前」と一喝する。子供の意を迎えて子の顔色をうかがうような真似は、わたしはしない。それが「虐待」か、「ハラスメント」か。
物書きの弟息子は、はっきり言うている。
「朝日子は、ビョーキなんだよ。朝日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから、良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。朝日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだよ」と。
同じことは何人もの読者も観測している。口も揃えている。わたしは「ビョーニン」に訴えられているわけだ。

* 結婚前も結婚後も、娘は、父の作家生活にそれはよく協力してくれた。
連載の新聞小説のために、夫や娘と海外生活の間にも、自分で探して大きな写真集を送ってきてくれたり、リードを翻訳してくれたり、和やかな手紙、経済援助依頼と感謝の手紙をくれたり、それが、みな、結婚後のことだ、当然だ。家族でいるのに、手紙など書かない。
結婚後も、母親が疲れてしまうほどよく里帰りし、近所で笑い話になるほどだった。父親にデパートで服を買わせたり、食事を奢って貰ったり。大学に入ったときは、銀座の「きよ田」で祝われ、たまたま同席した懇意の編集者に張り込みすぎですよなどと笑われさえした。そういうのが朝日子は大好きで、有名人のいるパーティーにはよくくっついてきて、岡本太郎や井上靖や梅原猛と会話しては満悦であった。なにが「ハラスメント」か。
あげくはそういうお一人に、谷崎夫人に、きわめて難関の就職に口をきいて戴いたり、結婚式にも出て戴いたり。そんなこと、朝日子ひとりにく出来ることでは全くなく、すべて父を拝み倒さねば出来たハナシではなかった。旅の写真も、その延長である。小さいときからの可愛い写真は、一枚残らず父親が撮っている。嫌いで憎い憎い父親にあんな無垢な可愛い笑顔がどうして向けられよう。
その娘に★★★を引き合わせたのも父親である、完全なミステークではあったけれど、朝日子の方はニタニタに笑み崩れて悦んでいた。
その父に、その夫が、ものすごい暴言をあびせたとき、朝日子は直ちに夫の「暴発です」と謂い、夫の性格批判なども適切に手紙で親たちに書いて寄越している。このファイルのうしろに掲示してある、平成五年自分の三十歳誕生日に父に寄越している朝日子の便りの、なんとおちついて平和なことだろう。
★★★が暴発したあと、母親はつよく離婚を望んだが、私は、父は、賛成しなかった。夫婦には相性があり、そうでなくても孫娘二人のためにも離婚はすべきでないと。じつは、そのために、娘は帰る先をうしない、父を訴えるところまで、もう引き下がれない夫婦の道を歩いてきたのであろう。これは可哀想なことをした。夫婦が離婚の危機にあったこと、それをやす香・みゆ希ふたりが毎晩のように泣いて憂慮していたという「証言」もわたしたちは手にしている。朝日子は、父を訴え、「殺してやる」と叫ぶような、ありもせぬ「ハラスメント」を言い募ってでも、「夫婦」でいるしか行く先が無いのだろう。それを夫・★★★は利して、自分はこの争いに関係がない、妻がひどいおやじと争うのを応援しているだけだというフリをしている、それが「週刊新潮」に喋っていた六箇条に露骨に出ている。「孫の死」を書いた『『かくのごとき、死』にのみ触れて非難し、自身に立場がないと信じ切っているらしいフィクション小説『聖家族』には小指の先も触れようとしない。朝日子をインタビューに出さずに都合のいい代弁で、「真っ赤なウソ」に終始している
。わたしの妻は、記者の伝えた婿の弁を読んで、即座にこう叫んで呆れ返ったのである。

* あの夫婦には、このファイルの「旅」写真などが、目の上のタンコブになってしまい、「肖像権」侵害だとも訴え出ている。わが家でわたしの撮った可愛い孫の写真を使っても「肖像権」は親が相続した、訴えるぞと内容証明の手紙を送りつけてくる。「ハラスメント」などとバカげた捏造を取り下げるなら即時撤去してあげるよと、ツッパネてある。わたしにはわたしの名誉を、ひいては妻や息子の名誉を守る権利がある。

* 今日は、牧野総合法律事務所との打合せ。

* 妻や息子の話では、週刊誌の記事は、案の定、朝日子とわたしとの争いのように、孫の死を書いた『かくのごとき、死』だけ。私の氏名と顔写真は出ているが、★★★は、「仮名・高橋洋氏」になっているという。ガハハ。仮名でなければ、また大学の名など出さない約束でなければ取材に応じないということだったか。娘の名前すら出ていない。
核心は、しかし私の書いた小説の方にあるし、『かくのごとき、死』
は、内容のある「日記文学」なのである。かたちは事実の日録だが、構成上は「創作」され「趣向」されている。
なによりわたしは、陰口を叩かない、自分の氏名と文責を明らかにし、「書く」作家の姿勢で終始している。ウエブで書かれた新世紀の、特異な内容で満たされたこれは「私小説」の新種なのである。なぜこれが「仮処分」で抹殺されねばいけないか。わたしは承服しない。
私の作品リストには、『聖家族』なるものは存在しない、仮題の下書きに過ぎない。なぜこれを私の書斎であるウエブから躍起になって消去させたいのか、そんな必要があるか、義理があるか、これまた全く理解しない。わたしは趣向のあるフィクションとしての小説を、私小説を、ちゃんと書いてはいけないのか。理事であり会員である私のこんな受難に、「日本ペンクラブ」はどういう見解だろう。「日本文藝家協会」はどういう見解だろう。見て見ぬフリか。「週刊新潮」の記事はその辺にどんな見解をみせたか、わたしは読んでいない。
新たに別の取材が有れば、取材に応じるだろう、もし健康が許せば。
『かくのごとき、死』だけでなく、『聖家族』も提供する。「書いた」ものは、みな提供する。あいまいには喋らないが。

* 一昨年の民事調停で、賠償「五十万円」と主張た娘夫婦は、今回本訴で「一千四百二十万円」寄越せと言う。牧野法律事務所は「時間制」で請求書を出します、弁護士一人一時間、一万五千円ほどになる。家一軒分ぐらいすぐかかるだろう。幸い、息子には遺産の必要がない。妻は息子が面倒を見てくれるはずだ、頼む。
一字一字で四百字の原稿用紙を埋めて稼いだ血の汗が、こんなばかげたことに費消されるのは下らないかぎりだが、これがシャバという地獄の在り様さ、それにわたしの稼いだ金を、わたしが使う。底をつけば、スカンピンだった昔へ戻るだけ。命も、金も、ちっとも惜しくないし、仕事もしながら、惜しげなく自堕落そうな楽しみにも、高尚そうな楽しみにも生き生きと使い切ってしまおう。

* この数年余、メールでの年賀に腰折れを書き付けてきたが、六六郎の述懐がそのまま今の思いである。積んだのを齢に代表させたが、ま、あれこれいろいろ積んできたのである。ろくろくと積んできた。済し崩してもとの平らに。一代の男意気じゃなあ。

ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し もとの平らに帰る楽しみ   六六老

来る春をすこし信じてあきらめてことなく「おめでたう」と我は言ふべし
ありとしもなき「抱き柱」抱きゐたる永の夢見のさめて今しも   六七郎

めをとぢてこの深きやみに沈透くなりねがはざれ我も我の心も
よきひとのよき酒くれて春ながのいのち生きよと寿ぎたまふ       六八叟

七十路(ななそじ)に踏ン込んでサテ何もなし有るワケが無し夢の通ひ路   古稀蔵

歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり     十六歳

熊谷じゃないが、みんな夢なのは知れてある。覚めるなら一日も早く覚めたいと、この十年、十余年、願ってきた。「間に合う」だろうか。

* 言うまでもない、こんなことだけに奔命しているのではない。
毎日「書く」「創る」仕事をしている。残り時間が惜しまれる。満身創痍、病気だらけの体で、いつどんなクラッシュが来るか知れたモノではないが、わたしの日々の「いま・ここ」は、この「私語」におよそいつも、これからも、明かされている、確かな文責とともに。
いつでも、だれでも、好きに覗かれていい。正しく引用されるなら、ご自由に。わたしは週刊誌もわざわざ呼んでくれたことだ、「太宰治賞作家」らしく、無頼に元気に、「書いて」生きる。ほかに何も出来ない。五メートル走る体力すらないが、幸い自転車はゆるゆるでも動いてくれる。「一瞬の好機」は、どこにでも有る。「青山」も欲しない。伊藤整さんのいわゆる「ごろつき」のように古くさい「書き手」の余命を好きにつかいたい。現実にベチャベチャして如才なく生きるオポチュニストにもソフィストにもならない。なれない。

* この追伸は、欠かせない。親しい気持ちを寄せて下さっている皆さん、ビックリしてどう慰めよう励まそうなど、考えられませんよう。
わたしは、秦恒平はまっすぐ立っていますから。
わたしが町田市主任児童委員であるらしい娘・朝日子や、青山学院の婿・教授を訴えて出たりするみっともないメに遭わなくて済んだのを、幸いに感じています。
もしこれが筆禍というものに属するなら、文士たるものの勲章かもしれないのです。子が親を筆の上のことで訴える、これは近代文学史で、ひょっとして最初例でしょうか。わたしは書いた作品をいささかも恥じてなどいないのです。
婿達が欲しいのは金で、なにも名誉なんかではない。婿・★★★は名誉など無いから書かれたのであり、娘・朝日子は「ハラスメント」の捏造までして、恥ずかしげなく実の父を訴えたことで、自ら名誉を剥ぎ捨てただけのこと。しかし私は娘をとうに赦していますし、「身内」でない知性もなさそうな婿は、眼中にないのです。裁判の上で応酬するだけの相手です。だから、あまり心配して下さいませんよう。
生まれるときも独りでしたし、死ぬときも独りです、たぶん。なによりも朝日子が恥ずかしくて死なないことを、心より願っています。

* べつだん今急に、わたしにして欲しいことは、弁護士側に無いそうだ。インシュリンと目薬さえ持っていたら、すこし長い旅も出来そうだ。あすは、ひとつ、うまいものを食いに行こう。

* これで、おしまい!
2008 6・26 81

* デカルトの名は高いが、彼の過剰で乾いた合理主義でこの世界や人間を割り切ろうなど、とても思えない。
哲学がほんとうに人間に膚接して意義を深めるには、少なくも近代ももっと先へ出ないと、リクツのためのリクツばかり聞かされる。
そんなものは「哲学・学」でこそあれ、たとえばわたしの不安や安心とは関わってこない。あの昭和の戦争へ駆り立てられた学生達が、目の前に迫っている死をまえに必死で哲学書にとりついて、ことごとく絶望を強いられたという、芹沢光治良さんの『死者との対話』が思い出される。わたしも高校から大学の頃に西田博士の有名な『善の研究』などに齧り付いたが、所詮論理は論理、生きの糧にはならぬモノと捨てた。
それより谷崎潤一郎や夏目漱石や島崎藤村の方にほんとうに哲学した人の思想の励ましがあった。評論を読むよりも、あった。

* さいわい晴れて気温も温まってきている。気を晴らしてこよう。沈黙し瞑目している。いいことだ。そっちの闇に真の光がある。闇には、親たちも、兄も、姉たちも、やす香も、また何人も友がすでにいて、声がかわせる。
2008 6・17 81

* 妻が面白そうに、高田衛博士の本で『雨月物語』を読んでいたので思い出したわけではないが、「mixi」に、気分直しにと旧作ながら『於菊』という短編小説を、二回に分けて掲載した。怪談を読んでほんとうに怖い名作は雨月物語の「吉備津の釜」に、とどめをさす。向こうを張ろうなどいう山気ではなかったが、吉備津の釜に取材し、失明している秋成老人の老残を書いた。後半を今夜校正していて、怕い寒気を感じたと言えばわらわれるだろうが。
こういうのを秋成老にかわって、さささと十ほど書けば佳いんだが。
2008 6・27 81

* 「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。
「いかなる人間の情理も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理があろうとも法を破ることはゆるさぬ。」これが、「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。家康の言ったことだが、「秀忠の時代」に、これが冷酷なまで貫徹されて、後水尾上皇は切歯扼腕、いかんともしがたかった。
だが、なんという凄い、そう、物凄い暴力だろう。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなるばかり。
2008 6・29 81

* 心を養う という物思いがある。分別心をたくましくするのでは、ない。分別の心は棄てるべきである。分別すればするほど、分別して遺したソレにはブレがなく完璧や完成は期待できるけれど、玉葱の皮をむき続けるような小さな完遂だけが残る。分別して棄てた大部分はそのまま残るに過ぎない。分別とは都合のいいものだけ取って他は棄てることである。そんなこと、そんな心(マインド)は、ドンマイ(dont mind)、棄て去った方がいい。大事なのは、養うべきはハート、ソールという心。
いまわたしは、何で、その心をやしなっていると謂えるだろう。

* わたしの著書には、「死」の字を表題に孕んだものが幾つかあるのに気がつく。処女作の小説は初め『折臂翁の死』だったのを出版のさいに『或る折臂翁』と替えたのだった。エッセイでは『死なれて・死なせて』があり『死から死へ』があり『死なれることと生きること』があり、最近の『かくのごとき、死』がある。小説や評論の主なる事件や主題が死であった作は数え切れないだろう。わたしは、子供の頃からいつ来てもおかしくない死と一緒に歩んできたし、いまも、むろんそうだ。死に憧れるなどという不健康な思いでは全然ない。死は生の裏打ちであり、生は死への表現だと感じている。「死から死へ」生きている。
『死から死へ』は湖の本エッセイが第二十巻を迎えた記念の一冊になったが、同時に、江藤淳の自殺から、わたしと同じ血をわけた兄・北澤恒彦の自殺へ、数ヶ月の日々をそのまま記録したのである。表題は大勢の読者を動かした。
いましがた、巻頭の江藤淳の死を悲しんだ一日の日記を読み返した。フシギに胸は水を打って澄み切った。そのまま一片のエツセイになっていた。「日記」は文藝である。下手な小説よりもはるかに純な文藝であり創作であることを、『かくのごとき、死』でもわたしは言いたい。
2008 6・30 81

* 六月二七日仮処分審尋の報告書が届いた。法廷のことは書くと叱られるからあまり謂えないが、『かくのごとき、死』に問題が絞られてきていて、書かれていることの「真か偽か」など問題にしていないと★★★らは主張し、『かくのごとき、死』により★★★夫妻の社会的威厳というか尊厳というか価値というか、が「損なわれた」のを問題にするのだという。
あわてないで、この主張をジックリ吟味してみようではないか。もし「偽」なることが書かれているので社会的地位の名誉を損なわれたと言うなら、書かれていることの真偽、この場合「偽」を追究すればいいではないか。
「真偽は問わない」「問題ではない」とは、『かくのごとき、死』の書いていることはすべてが「真」「本当」だと認めているのである。そうでなければ「真偽」を争えば自ずと先の主張に繋がるではないか。
それが出来ないと言うことは、「本当のことを言われたから」傷ついたということになり、これは「名誉毀損」ではない、自分たちが「恥を掻いた」だけの話である。
「木洩れ日」日記のようなひどい捏造と虚偽によって恥を掻かされたなら、私のような怒って自身の力で証明すればいい。『かくのごとき、死』でそれは★★★らには出来ないだろう、出来るならこの審尋に一年もかかるワケがない。べんべんと「用意」が出来ないと延ばし延ばし、肝腎のモノは何一つ的確に提出できないまま「本訴」へ持ち込んだ。民事の提訴は誰にもゆるされている。しかもその訴状の謂うところがよく裁判所にも理解できなかったらしく、受理に五週間もかかった。よくよく裁判官もこんな長丁場に呆れ、本当なら仮処分と本訴とは別建てであるのが普通だが、一緒の法廷で同時進行することにきまったらしい。有り難いことだ。

* 「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。そう書いたのは昨日のことだ。「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。家康の言ったことだが、「秀忠の時代」に、これが冷酷なまで貫徹されて、後水尾上皇は切歯扼腕、いかんともしがたかった
「いかなる人間の情理も真実も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理や真実であろうとも法を破ることはゆるさぬ。」
なんという凄い、物凄い暴力かとわたしは書いた。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなると書いた。★★★夫婦の、事の真偽はどうでもいい、『かくのごとき、死』で自分たちは社会的価値を損なわれたと唱えているらしい、法廷の報告によると。語るに落ちて馬脚を露わしている。

* それに較べ、映画『バティニョールおじさん』の美しい人間の真実はどんなに輝いて胸にしみ透ったことか。パリの街、占領ナチ軍に捕らわれてユダヤ人一家はドイツに拉致され、終生行方知れない。この逮捕と拉致とに、ちょっとした気分の揺れから関わってしまった隣家の料理人バティニョールおじさん。彼の家族もよくなかった。ことに娘婿として婚約している男は、ナチに媚びて権益を漁り、隣家のユダヤ人一家を密告して捕らえさせている。
ところがある日その隣家の長男である少年がひょっこりバティニョールおじさんのところへ顔を出したから、彼は恐慌をきたした。
だが、結局このおじさんは、少年と二人の従姉妹とをスイスへ送って救おうと、木訥な中にしたかな工夫もガンバリもみせて、虎の尾を踏むスリルを幾たびも必死に味わいながら、ついに四人でスイスの地を踏んだ。おじさんはもうパリには帰らなかった、帰れもしなかった。よろこぶ三人のユダヤ人少年少女三人との人生へ踏み込んだのである。このフランス人に、実は五十年秘めてきたユダヤ人の血が流れていたかどうかは、分かるような分からぬままのような。
ナチは、「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」の権化だった、彼らの法とはすなわちゲシュタポであった、情理や真実はおろか命も屑のように扱う冷血であった。
いま日本の政権のしていることも、自分たちに都合のいい法を乱立しておいて、真実と情理に富んで誇らしいわれらの日本国憲法は平然と押し破るのである。其処の所を読み違えてはならない。
そもそも法と理とが対立するモノのように思う法理解が歪んでいる。真偽のなかに真実と情理を問わずにどうしてまともな法判決が可能になるか。或る知識人が行きずりの女性の恥ずかしい写真を撮ったり、ウエブに載せたりするのと、祖父母が幸福感に溢れて撮った孫や我が子の写真を、嬉しさ愛おしさ懐かしさで自分のウエブに掲示するのと、ひとしなみに積みするような法は、いくら法律家がシラーッと「それもこれも同じ違法行為」ですと謂おうとも、わたしの理と真実とは受け容れない。そういう一律の強行こそを「無法」と謂うのである。

* ではでは。六月よ。 突きあたり何かささやき蟻わかれ 柳多留
2008 6・30 81

* 蕪村の丹後時代に、

夏河を越すうれしさよ手に草履

がある。蕪村の作でも著名な一つ。人を訪ねた門前に細い川があり、少年の日をなつかしみこういうことをしてみたという「解」がふつうである。河川というとき、河は細川ではない、大河を中に家二軒などとも謂う。しかし漫々の大河でなくても、磧あらわな徒(かち)渡りの楽しめる河もある。それは、いい。蕪村の句作に、ただ眼前の、門前の、河だけが眼にあったろうか、とわたしは想う。

春の海 ひねもすのたりのたり哉  蕪村

も、ただこういう海の眺めだけの句ではあるまい、「須磨にて」とあるからは、光源氏が海辺に出てみそぎした日が想い重ねられ、先祖への思いも、海神へのおそれも、巧みに秘められ籠められての秀吟とわたしは読んできた。そういう理解には出会えなかったのであるが、蕪村は、歴史や物語や想像との重層する句作に、発想に、優なる天才を籠めていた人だ。

人言を繁み 言痛(こちた)み 己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る   但馬皇女

高市皇子の妻でありながら、穂積皇子との出逢いに敢然と朝川を渡った皇女の歌も、また万葉世界の空気を震わせた著名な秀歌。
蕪村は丹後の風興に加えて卒然この万葉歌を念頭に、俳諧の表現へ、自身の趣向を嬉しく楽しんだのではないか。訪ねていったさきが女なら、男女逆転しての俳味がまた嬉しい。
蕪村の丹後は、いろんな意味で重要すぎるほど重要だが、やがて京都へ出てきたとき蕪村には、新しい妻が寄り添っていた。丹後でえた後妻であるとわたしは理解してきたが、このあたり、定説がない、アイマイモコとしている。この一句はそういう背景をしのばせるドラマ孕みの一句だとわたしは強く思う。そう読んで、句の面白さは何倍も増す。

* この「私語の刻」に、こんな随感随想なら、一杯入っている。それを読みに来てくださる人が、嬉しいことに多い。「書いて」わたしは酬われている。幸いにそれがパブリック・ドメインでありうれば、いい。有り難い。
2008 7・1 82

* 五時間も寝たか。昨夜は哲学史、ことにヒュームにひきこまれていた。理性よりも感情を世界への優れた触手として信頼するヒュームに、わたしは荷担する。理性はともすると分別に陥る。分別は、果てしなくものごとを分割し、小さく小さくしてはその小さい把握の完璧性に満足する。完成感に達成の満足を誇る。
それはダメだ。ものごとを全体トータルとして生きていない。健康によく働く感情は優れた感性との協力で実感のある世界に迫ることが出来る。
2008 7・4 82

☆ お元気ですか、風。
ナボコフですか。
『ロリータ』は、読んだことがありません。キューブリックの映画なら、断片的に覚えていますが。「いい読者の三(四)カ条」の人として、特に記憶しています。
きのう、図書館で数冊本を借りました。
毎週水曜は、返し、借りる日にしています。評論の準備も途切れることなくしてい、そのための参考書をいろいろ借りました。
そうそう、言いそびれていましたが、先日送りました創作でいちばん言いたかったのは、女性にとって出産とは簡単なことではない、ということでした。
それが、主題と動機です。
ではでは、風、お元気でお過ごしください。
花も、元気に元気に過ごします。

* 「女性にとって出産とは簡単なことではない」のは、太古来、いまも変わっていないから、それを創作の「主題と動機」にするには、よほど大胆で斬新な物語の展開がないと陳腐になりかねない。ま、小説の主題は、しかしながら、大方は似たり寄ったりだけれど。谷崎が言っていたように、「あるとき、あるところに、一人の女(男)を愛している一人の男(女)がおりました」で大方の作品は成り立ってきた。その計り知れない「一般」をいかに「特殊」化出来たかダメかでことは決着する。
たいていはダメなのである。むずかしいが、この難しさを越えて行くしかない。地球が、いや人類が、高温で燃え尽きてしまうまでに。

* ナボコフが語った「いい読者の四箇条」とは、順不同にいうと、
一 記憶力のある読者
二 想像力のある読者
三 辞書を億劫にしない読者
四 少しでいいから藝術的センスをもち作品に参加してくれる読者
わたしはこれに付け加えて、
五 再読からを本当の読書だと分かって繰り返し読んでくれる読者
を「いい読者」「ありがたい読者」と思っている。平凡なようで、なかなかどうして、ナボコフの四箇条は奥が深い。「湖の本」二十余年の読者の皆さんをわたしは敬愛する。

* いい読者は、いつも「いい作者」を待望し選択している。読者の権利である。
同様、作者も「いい読者」を待望している、選択は出来ないのだが。
「いい作者」像は、上の五箇条を、ちょうどそののまま立場を変えるだけで見つかる。漱石も藤村も潤一郎も鏡花も康成も、シェイクスピアもゲーテもトルストイもドストエフスキーも、同じである。
通俗作家は、読者に何も期待しない。期待できないものと読者を下目に思いこんでいるから、記憶力も想像力も求めないで、みな通俗・俗類型で説明的に提供してしまうし、まして辞書など無用、ただただ呑み込んでくれればいい、講釈と変わらない。根が時間つぶしの読みもの、再読どころか、煙草と同じ、済んだら吸い殻ナミにさっぱり屑で出してしまう。
「いい作者」はそうでない。だが、向き不向きがある、読めない人には「いいもわるいも無い」こと、言うまでもない。はじめから本になど手は出さないし、それはそれでいい。本だけが、小説だけが、藝術ではありません。魅力でもありません。
2008 7・10 82

* 夢   小説「清経入水」 序章  湖の本創刊

夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。夢の中では一本筋の山道を上っていた。
道の奥に、門があった。仰々しくない木の門は上ってきた坂道のためにだけあるように、鎮まって左右に開かれていた。
門の中へ入ると、植木も何もない一面の青芝の真中に、一棟の、平屋だけれど床の高い家が建っていた。庭芝があんまりまぶしくて、家のかたちが浮きたつ船のように大きく見えた。
家の内も隈なく明るかった。日の光は襖にも床の間にも、鎮まっていた。
家の中に人影を見なかった。気はいは漂っているのに、闖入を訝しみ咎める姿がなかった。
はじめのうちここで眼ざめ、肌にのこるふしぎな暖かさを惜しいと思った。
夢の数を重ねるにつれ襖の直ぐ向うで、何人かの人声のするのを聴き馴染むようになった。優しい女の声も快活な童子の声も、訳知りらしく落ちついた年寄りの声もあった。顔を寄せ合い、日だまりにいてたのしそうに、しかしいかにも物静かに何か話しているらしい声音(こわね)を、襖のこちらで聴いた。明るさの底を揺るがす美しい波立ちが色やさしくさも流れるように、憧れ心地で僕はあたりを見まわした。
耐らず声をかけて襖をあけると、そこは、何変わることのないもう一つの明るい空ろな部屋であった。話し声は一つ向うの襖のかげにすこしも変わらず聴こえていた。かけ寄って襖をひきあけても、声はまた一つ奥から聴こえて人の姿はなかった。
笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかなかった。
夢はいつも虚しく佇ちすくんだままで醒めた。
2008 7・11 82

* 静かな心のために 二

夏目漱石作の小説『こころ』で「先生」の「奥さん=お嬢さん」は、作中ただ一人実の名を「静」「静」と夫から呼ばれている。「先生」にも「私」にも「K」にも名は書き込まれていない。あれだけよく読まれよく語られた小説なのに、この不思議な事実に言い及んだ人が少なかった。
不思議には両面がある。他の主要な登場人物が揃って「名」無しという一面と、それなのに、「奥さん」ひとりが「静」さんである一面、である。
実の名前には、IDともいわれるように、インディビデュアルな、それ以上分割不能に特定する働きがある。代名詞ではない、固有の所有である。「奥さん」「お嬢さん」など呼ぶのと「静さん」と呼ぶのとでは、印象もつよく局限されてくる。作者漱石が、一つには「先生」「K」「私」などと記号化し「普通」の存在として読者に親しみやすく働かせる一方で、「お嬢さん=奥さん」には或る特別の意義をもたせたかった、だから只一人「静」と名付けたのであろう、と、そう想わせる。
これまでの論者には、作中にも書かれている乃木大将夫妻の殉死に関係づけて「静」は乃木夫人静子に通わせたと説く人も二人三人ではなかったけれど、それを謂うなら「先生」にも希典とは謂わずともそれらしい実名をもたせることは出来た。乃木夫妻に関係づけるならその方が有効だし、漱石は自身に相当する作中人物に「ソウスケ=宗助」と名付けていたこともある。
だが『こころ』で漱石は自決する「先生」に実の名を与えていないし、「静=奥さん」は、乃木夫人静子のように夫とともに自決などしていない。
夏目漱石は、『心』を岩波書店の開店第一冊として初版の際、(この初版本には、本の、函や表紙や背表紙や扉などで「心」と「こゝろ」とを無造作なほど題名として混用してある。)広告用にと、こう書いて書店に与えていた、作者は人間の「心」を研究し「心」とは何かを究めたと。このことには後に触れるであろう。
また、希望して自身でこの本を自ら「装幀」していた。読書人なら『漱石全集』のあああれかと独特な装本を思い出すだろう、が、じつは『こころ』に限って他の作品のそれとは異なったところが在る。
表紙に、四角い窓を設け、中国の事典が載せた荀子「心」の説を「解蔽篇」から抽いてはめ込んだのである。これに初めて言い及んだのは、わたしの東工大先任教授であった江藤淳であった。彼は、だが、そう指摘しておいて先へは踏み込まなかった。
「解蔽」とは、襤褸を脱ぐ意味である。人間の心はむやみに襤褸に蔽われ本真を喪っている。襤褸は剥がねばならないと荀子は説くのであるが、その「心」の説の核心は、「虚」を説き「壱」を説き、そして「静」に至るに在った。   06.2.16

* やはりわたしは、此処から話し始めた。安心だった。

* 朝六時十五分の血糖値、96。たいへんケッコウ。

* 戯曲 こころ(夏目漱石・原作 秦恒平・脚色)  開幕冒頭部  湖の本第二巻
書き下ろし 昭和六十一年八月

以下のように場面を作る。随時、舞台に適切・印象的なシンボル・
ボードを上下させて、場所と季節を指示する。装置は極く簡素に、
各場面は流れるように推移する。
A・1 大正二年、秋。「先生の奥さん=静」が、お手伝いと二人
で暮している。小日向台町の静かな家。
A・2 1と同じ家。明治四十年代。「先生と静」夫婦とお手伝い
が暮している。
A・3 1、2と同じ家。明治三十三、四年頃に、「先生」夫婦と
「奥さん=静の母」とで引越して来た家。
B 小石川源覚寺裏の坂上の家。明治三十年過ぎた頃。「奥さん」
と「お嬢さん=静」との家。
C 「先生」の故郷新潟の家。叔父一家が住んでいる。
* 他に随時、戸外の場面が季節感のあるシンボル・ボードを添え
て挿入される。

第一幕

* 音楽…。
* 幕、あがり…舞台中央の闇に、下手へ斜めに机に向かう「先生」の、静かな姿が浮きあがる。奥を隔てて、障子二枚、真正面に立てる。
年齢四十にやや老けた感じ。白無垢 にちかいかすりの単に、素足。九月とはいえ夏の名残りの遠い物音など……。
* 舞台上手に正座して…斜めに、「先生」を無表情に正視している「K」の姿、および下手にやはり正座して解き難い微笑をうかべ、但しこれは「先生」にうち背いた格好の妻「静」の姿も浮かびあがっている。「K」は年齢不詳、質素な濃い影じみた着物姿。「静」は夏ものながら、幾らかはんなりした(外出着めく)姿で、三十にやや若い感じ。
* 「先生」…書きつぎ…また書きついで…ちいさく息してペンを置く。 目読ー。
(「先生」の声) 『…私は今、自分で自分の心臓を破って、その血を、何千万といる日本人のうちで、ただ…あなた一人の顔に浴せかけようとしているのです。さよう……この手紙が、あなたの手に落ちる頃には、私は…もうこの世にはいないでしょう…。妻は、十日ばかり前から…(この辺で舞台の「先生」は先に読み終え、書いたものをすべて机の上にきちんと揃え…文鎮を置き、一呼吸…静かに起ち…、障子をあけ…奥へ入る。照明が追う。…声は、その間も…)…市谷の叔母の所へ清(きよ)やもつれて病気見舞いに行っています。私が勧めて行かせたのです。そしてその留守に、この…長い書き置きをおおかた書きあげました。時々妻が帰ってくると、私はすぐ…隠しました。妻には、…そうです妻には何も、知らせたくないからです。あなたにはこうして話してあげた私の過去を、妻には知られたくない。知られたく…ないのです』
* 「声」がにわかに衰える…と、短い…が、すさまじい叫びとともに障子に飛ぶ血しぶき…。瞬時にうち重ねて、無表情だった「K」はくわッと目をみひらき…、「静」は笑みをひそめて水のように無表情……。
* 切っておとしたように…闇。突如…大地の底から湧く物音……と聴こえて、無量無数、言葉にならない人間の声が暗闇を大きく噴きあげる。
* ぷつりと、静謐。間髪を容れず緩急と大小ととりまぜて、ものの雫する音。その雫に乗るように、さまざまな人の声が、降るようにエコーする。エコーの間に闇は静かに薄らいで行く。
(声々)……「心」…「心根」「心意気」「心づくし」(間)…「心ひそかに」「心に余る」「心が動く」  (間)…「心がはずむ」「男心」「女心」「親心」…「恋心」 (間) 「人心」 (間) 「心が通う」「心をひらく」「心をとざす」「心…移り」「心…変り」「心にも、なく」「心を鬼に、する」(… 間…)「心…せよ」「心ない」「心の…奥」「、心残り…」「心寂しく」「心、しおれて…」 (間) 「心から」「心から…」「夏目漱石作…『こ」ろ』…… から」(舞台さらに明るんで…)
* 下手舞台の袖に「私」登場。二十七、八歳。服装は簡素。だが若々しくすこし改まった表情で、観客席へ…
私 …私は、「その人」を、いつも…「先生」と、呼んでいました…。だから、ここでもただ…先生…と言うだけにしましょう。それが…そう…自然だから、です。その先生が…、ご自分の切ない過去を私ひとりに書き置いて、…自殺なさったのです…(この間に舞台小日向台町の家になる。かなめ垣の小庭。
奥は木深い。大正二年の秋九月末、一面にコスモスの花。夕暮れて…)
* 「私」、そのまま舞台に入り、仏壇の前へ。香華。灯を入れる。黙然。
* 未亡人「静」、喪服のままねぎらいの茶を運んで来る。丁寧な、改まった挨拶。
静 おかげさまで…無事、一周忌をさせていただきましたわ…
私 いいご法事でした。思わず泣けて……。市谷の叔母さんも…ずいぷんお年齢(とし)をとられましたね。
静 はい。もとからそう丈夫な方でない人でしたけど…うちの母より長生きしましたわ。
私 ……。清やは、(家の内をうかがうように…)いつまで暇をやったのですか。
静 いいんですの、近いのですもの。使いをやったら、すぐ帰って来ますわ。
私 疲れませんか…お着替えになったらいいでしょう……
静 疲れちゃいませんけど…そうしましょうか。…私……ご相談したいこと、あるの。
私 そうですか。私も…お話ししたい事があるから、
静 じゃ…(立ちかけて)失礼して…
私 (思わず口にする…)五年…いや、六年…(茶の方へ手を出す)
静 (行きかけていたのが…)え…。なにか…おっしゃって…
私 いぇ…、先生のお留守に初めて、ここへ…うかがったでしょう。もう六年になります、ちょうど…。最初も、二度めうかがった時も、めったに出られない先生がお留守だった…
静 ご縁ですわ…
私 あなたに、雑司ヶ谷へお墓参りに出られたとお聞きして…それで追ッかけました…
静 ええ…。元気な書生さんでしたわ。
私 高等学校でした…まだ。二年の秋でしたから…二十二位か……
(注 明治四十年頃の学制による)
静 …じゃ、やっぱり…ちょいと着替えて来ますね。このままだっていいんですけどね。
*「静」去る。私、仏壇の方へ向き直る。暗くなり、燈明が揺れる。
(「私」の声)(追いすがる)『先生…』(若々しい)
(「先生」の声)(ギョッとしている)『どうして……どうして…。アトを付けて来たのですか。……』
*いちょうの樹々の墓地。シンポル・ボードが高くあがって…そこだけ明るい…。
*「先生の声」の間に、「私」は旧制高等学校の生徒に変り、墓地へ来ている。舞台明るみ…、「先生」棒立ちで私を迎えている…。
私 (ほがらかに)いいえ。、お宅へうかがったんです。お留守だったもので、奥さんにこちらへと、私が聞いて、来たのです…
先生 誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名を言いましたか。
私 いいえ。
先生 …そう。言う筈がありませんね、初めて会ったあなたに。…
私 (けろりとして…)どなたのお墓があるんですか。ご親類のですか…
先生 ……(渋い顔で)友達の…です…

* この戯曲は、登場人物の綿密な年齢証明にもとづいて、それまで漠然としていた人間関係を、ほとんど「革命的」に理解し直した作として、あらわには「私」と「静」との関わりにおいて、騒然と議論を巻き起こした。この長編のレーゼドラマ(読む戯曲)から舞台用の台本をまた創って、俳優座が、加藤剛・香野百合子・立花一男らで『心 わが愛』を上演、連日超満員だった。主演の加藤さんが、たしか大きな賞を受けたのではなかったか。その記念パーティにわたしは欠席し、大いに叱られた。そういうパーティが苦手で億劫でもあったけれど、ありようはひとごとか茶飯事のように思っていた、今思うと気の毒であった。
主演の加藤剛が、進んで受け容れてくれた脚色主調は、わたしの「島の思想 わたしの身内観」であった。あの「先生」は彼の受けた遺産を、「身内」の名で私消した叔父一家を、生涯ゆるさない人だった。なにを「ゆるさず」なにを「ゆるす」か。『こころ』とはそういう文学でもある。
2008 7・13 82

* 秘色(ひそく) 「展望」昭和四十五年三月号   冒頭

この四月五日、急にO大医学部の平沼教授より、丹精の著書も無事出版されたのでいささか祝盃を挙げたいが、来ないかというお誘いを受けた。版元としては恐縮の体で、むろん社命で急ぎ招きの席へ出向いたのだが、その新幹線で、私は四十にすこし前かという和服の婦人と隣り合わせた。
婦人は京都で下り、大津へ戻って滋賀里(しがのさと)まで帰るという。乗りものの中ではいつも黙って過ごすので、この時も自分からとかく話しかける事は控えていたし、相手も幸いといわゆるお喋りでなく、大津へ戻って、も挨拶代りのつつましい感じで言われたに過ぎなかった。
そのまま、私は例の半醒半酔といった心地で腕組みしていた。が、何となく、となりの人の帰って行く先が、大津といい、殊にも滋賀里といい、麗々(うらうら)と、だがどこか物憂く山なみにけぶりあった湖と重なり、穏やかな、優しい心地を誘うのだった。
京都育ちの私は奈良もさほどでなく、大阪はまして物とも思わないが、東京暮しに馴れてからも琵琶湖は流石に幼なじみでなつかしい。
もっとも今の新幹線は、南湖の端というより、もはや瀬田川の上を駆け抜けるだけで、車窓に見うるのは琵琶の鹿茸(ろくじょう)の、まだその外れの、極く限られた湖面に過ぎない。
この南湖の中ほどにある浜大津から、小さな汽船がたっぷり一時間半以上も北へ向かい、漸(ようよ)う堅田港の向うに巨大な琵琶湖大橋の橋桁を見上げる事ができ、橋の下を潜(くぐ)ったすぐ左が真野(まの)という水泳場になっている。琵琶の本体に相当する大湖はといえば、この真野の先北へ北へ南湖のおよそ十五、六倍もの広さで丹後、若狭に接しているので、大昔はこれを「遠つ淡海(あふみ)」と呼んで、琵琶の柄に当たる「近つ淡海」と区別していたらしい。
しかし、平安遷都の百三十年以前、天智天皇の六年(六六七)春、にわかに飛鳥を去って近江に都を遷(うつ)し、やがて七年の空位・称制をやめ、はじめてこの地で中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が即位の礼をあげ得たという事には、広大な湖辺の実景を求めたとか、水産の豊富に魅せられたのではなかったばかりか、大化のクーデター以来のやみがたい不安動揺が底籠もっていたらしく、しかもこのいわゆる大津京も同じ天智の十年(六七一)十二月、急に天皇の死に遭うと忽ち壬申(じんしん)の乱を迎え、わずか五年の短命の廃都と化している。
まして千三百年もの歳月を経てみれば、大津京とか志賀の都といっても、湖岸の何処に、どんな建物を具えて設営されていたのか、正確な位置も規模も実はそうはっきりしていない。何でも浜大津から湖の西岸に沿って北へ、京阪電車で終点坂本まで行く途中の、要するに今隣り合わせている人が住むらしい滋賀里や南滋賀辺がその大津京趾かと推定されているが、京域(けいいき)の四至が確認できた訳でなく、大極殿(たいごくでん)の跡さえ不明なのだから、わずか五年余で滅びた宮都が復元できるものか頭からむりと思う人も多いのである。
「いえもう、どんどんと家が建てこんで参りましてね」
「それじゃ大津廃京などと言っても」
「はい、さほどの関心もなくて。近江神宮で御婚礼を挙げる若い方も、どなたを祠ったお宮と、知らずになさる方があるそうでございますから」
「そんなものでしょうかね。――あの梵釈寺趾ってのは、あれで近江神宮からはどの辺だったでしょう」
「北の方へ三、四丁、いえもうちょっとございましょうか、たしか南滋賀町廃寺趾と書いてあったかと存じます。昔は竹薮が多うございましてね。こどもの頃でたしかにも覚えませんが、掘り返しておいでだった時分からみますと、あの台地の上にも、周りにも、嘘のように家が建っております」
「はあ。それじゃまだあそこが確かな梵釈寺の跡かどうか確認できていないのですね」
「多分、あの辺の人も梵釈寺というような呼び方はしていないかと存じますよ。ちょうどあそこには正興寺というお寺もありまして、何となく昔の都にゆかりの跡かぐらいで。県の方でも梵釈寺趾とはっきり言い切っていないようでございます」
「あそこがそうなら、これはまちがいなくあの一帯が大津京趾という訳なんでしょうが。天智天皇の霊をなぐさめるため殊さら旧都の真中に建てたといいますから」
「はい。それにしてもほんとうにもうすっかりそんなふうの面影もないようで、思えば、呆気ないくらいでございます」
「そう言えば、志賀峠の方の崇福寺(すうふくじ)の跡など、この頃ではどうなっているのでしょう」
「崇福寺――」と息を切ってその人は顔を見せながら「お精(くわ)しくっていらっしゃいますね」
どの辺からであったか、多分もう富士山も見て過ぎた頃から、何となく声をかけてしまっていた。その人も、世ばなれた話題を厭うふうはなかった。
梵釈寺といい崇福寺といい、京都にいた頃、むろんまだ結婚前の妻と、何げなしに大学での勉強を失敬してむりな山中(やまなか)越えに東山をのり越えてみたある日、思い寄らずそんな廃寺の跡へ迷い出て以来の久しい因縁なのだ。もっとも当時から「日本後紀」に弘仁六年(八一五)の四月、「嵯峨天皇韓崎(からさき)ニ幸シ途ニ崇福寺ヲ過ギ給フ、梵釈寺別当永忠、護命等之ヲ門前ニ迎フ」という記事は頭にあった。卒業論文に須恵器をとりあげる積りの私としては、嵯峨天皇らが梵釈寺で詩会を催し、大僧都(だいそうず)の永忠が手ずから茶を煎じて進めたその際、さしあたりどんな茶碗を使ったか、くらいな関心は持っていたのである。
崇福寺に就いても、梵釈寺に就いても当時まだその上の事は大して知らなかった。それより何より甘い恋に浸っていた我々は、何でもいい何処でもいい、山があれば山を上る、崖があれば崖を下りるという具合に、二人でならどうにでもどんどんやってみる時だったので、春先の、比叡おろしがまだ冷たい、かんかん晴れ上がった日、私は手ぶらで、妻の方は辞書やクセジュか何ぞと兼帯の、いかにも構わない学生らしいレザーバッグひとつ肩にかけた恰好で、いきなり白川沿いに身代不動院の辺から山の中へ踏み入ったのだった――。
名古屋を発つと隣の人は会釈して席を立ち、前をすり抜けて車室を出て行った。私はぬくもりの残ったらしい座席を見やりまた網棚の上を見あげた。どういう旅をしてきた人かよく分からない。小型の、ベージュに藍でふちをとったスーツケースが一つと、四角く結んだ風呂敷包みがもう一つ、それだけで、ワイシャツ一枚を着がえの私の荷物と並べて、棚には余裕があった。
それにしても、琵琶湖や大津の事を話しかけたのは、折から春日遅々の、ただ和やかな気分からであっただろうか。波と光と、靉靆(あいたい)たる湖上の微風とが心のうちをよぎっていたのだろうか。

近江の海 夕浪千鳥
汝(な)が鳴けば 心もしぬに
いにしへ思ほゆ

こんな歌も口に想い浮かべてみながら、私は別な事を考えていた。

堅田の当来寺を訪ねたのは二月末の或る夕暮れであった。所詮は宿をとる気で腹を決めてしまうと、折から琵琶湖を染めた夕日が刻々と薄墨色に溶き流され、沖へ沖へ夕やみの拡がる景色にも眼が離せなかった。雁こそ渡らないが、伊吹山、三上山、沖の島が波の涯てに影をならべ、顧みに比良の峯が大きさを増して、はだら雪がまぶしかった。
教えられた道を辿って、山手の、水の音もする小路を登りながら、私は、当来寺が本当にあるらしい事がふしぎでならなかった。

* 三十八年前になる。この作を書いていた頃、わたしは「客愁」ということを頻りに思っていた。この世へ客として旅してきたモノの底知れない寂びしみを思っていた。そんな題さえ考えた。のちのちまでもこの作を激賞してくれたのはわが友・馬場あき子さんだった。
2008 7・14 82

* 三輪山   「太陽」昭和四十九年十二月号  冒頭

京都の秦家に貰われてきたのは三つか四つの頃だという。元の姓は忘れて久しく知らぬままだったが、曳田と書いてひけたと訓むのが生みの母の姓で、父は朝倉と、高校時代に人に聴いて知った。教えたのは同じ町内のいい年をした大人で、その男は当時何かわが家と大揉めの最中だったらしく、私が実は貰ひ子と暴いて親の方を困らせる算段だったが、噂する者ならどこにもいて、幼稚園の時分にはもう「おまえ、貰ひ子」と近所の子に囁かれ囁かれて知っていた。
曳田と朝倉は分ったが、自分がどちらの姓を名告っていたか、多分向うも知らなかったのだろう、それで、ある日親と些細な口論の際、唐突に、すこし意地わるく、自分がこの家へくる以前の苗字はどちらだったか教えてくれと切口上で喋ってしまった。両親とも顔色を動かし、父は観念したように「ひけたや」と答えた。母は涙をこぼした。私はいっそ陽気にその場を切りあげ、その後わが家の空気にとくに変化はなかった。
曳田は変だ。朝倉の方がすっきり響きもいい。それに父でなく母の姓を私が名告ったことや親二人が別々の苗字でいたことに、陰気な疑問は感じた。但しその種の不審は押し殺すすべも、幼稚園の昔から覚えていた。「二人ともとっくにお死にやしたんやさかいに」という弁解がましい母の呟きも、そう信じておく方がいいと私は分別した。
京都をはなれ、結婚し就職して東京で暮すことになってからは、幾分秦家への遠慮もなく、すると組合で出している年四回の機関誌に、わざと曳田の姓を使って短歌をのせて貰うことも度重なり、はじめは「ひけた」とルビをふっていたのも追々不用になって、「曳田さん」と戯談(じょうだん)に呼ぶ社の人もできた。気に入っていた朝倉姓の父は何でもなく、かりそめに曳田を名告っているうち、時として胸の底の一点を絞られそうに私は記憶にない母のことを想像した。
「あたし、すこしなら知ってるのよ」
妻は京都の母に聴いている貰ひ子の事情を喋ろうとする、のを私は頑なに口を封じて話させなかった。
「知らぬが仏さ」
そう私はうそぶき、「そうね」とあっさり相槌を打たれてもそれはそれでふと寂しい。社宅暮しに娘も一人できて、私はいよいよ熱中して歌をつくった。「曳田さん、今度も頼みますよ」と雑誌の責任者に声をかけられるほど、私は勤め先でひとかどの歌よみとされていた。高等な医学書をこつこつ出している出版社だ、毎日が地味で静かで、大声で電話に出るような編集者は一人もいない。次第上がりの管理職になっても私は誰にも咎められず組合雑誌に短歌をのせていた。
「おたのしみが有って、いいわ」
謄写刷の本ができてくると妻は微笑(わら)い、ささやかな自愛に私はてれる。誰に倣うのでもない、少年の頃から歌は吾一人の口ずさみにすぎぬ。「きみにだって、つくれるよ」「いえいえ。お気づかいなく」と、いつも同じことを言いあい、そして時はゆっくりと、余りにゆっくりと廻(めぐ)った。
この春になって、私の課に三輪君という新人が配属された。入社早々の連中と並んで自己紹介の短文を組合誌に書いているのを見ると、他のはまじめにもふまじめにも年々歳々人相応な中に、三輪君のは歌が一首きりで、それも「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや」は誰でも知っている額田姫王(ぬかたのおおきみ)だか天智天皇だか、何にしても上古の作だ。
「ふざけた奴だなあ」
課長会議では本気で怒っている人もいたが、歌の意味と三輪君の姓を掛け合せて、新入社員昂然の述懐と取れるというのが編集長の説だった。気の利いた新人じゃないか。おおかた笑い声も混って、三輪君の点数は低くなかった。が、私にはかるい反感が残っていた。三輪君が国立癌センターの三輪部長の甥か遠縁かといった申し次ぎも気重だった。三輪先生を責任編者に据え、癌に対する放射線治療の効果を最高の研究水準で多面的に再検討する本を、私はかなり熱心に計画していた。三輪君はよその課へまわして貰いたかった。
総務課長立合いで会議室で初対面の印象は良かった。小柄なところ、優しい眼をしているところ。あれ、と思うほど三輪君の表情は生真面目で、はきはきと背筋を伸ばして私に挨拶した。他の奴らよりずっといい。私はあっさり先入主を放棄して三輪君の色白な額の、子どもっぽいかすかなそぱかすを眺めていた。
「課長さん。今日、昼飯ご一緒していただけませんか」と、その朝のうちに三輪君は私の傍へきて言い、「さん」はよせと念を押し、笑って承知した。言われずともその気だった。どんな私生活上の懸念をもっていないと限らないし、それにあの「三輪山をしかも隠すか」も歌ではあり、それなら同じ号に載った私の作品に、何か感想があるかお世辞の一つも言うかと楽しみだった。それほど誰も私の歌には反応してくれなくて、我から「あれは埋草ですよ」と逆に誘う水を流す始末だった。
「ごちそうになっていいですか」
三輪君は品書き片手にそう訊く。頷き返すとあっさり一番安い握りと言うのに、笑えて私も倣った。醤油や山椒と一緒に油壷ほどの赤絵の一輪ざしが卓にのって、都忘れのちいさな紫に三輪君はかるく指先をふれる。
「課長のことはよく知ってます」
三輪君は、曳田正雄というのは秦課長のことでしょうと言い、その無邪気に得意そうなのが可笑しく、
「へえ、よく知ってるね。誰かに訊いてきたね」と私は恍(とぼ)けた。
「いえ、誰にも訊きませんけどね」
「──」
「曳田──ご存じですか曳田神社」
「いや知らない。──どこにあるの」
「僕の、元の家の近くにあります。えらく荒れてますが、むかしはちゃんとしたお宮だったんです」
三輪君は名大の文学部出で、親の家も名古屋市内だった。字を確かめても曳田神社で、やはり「ひけた」と訓む、が、但し名古屋でなく奈良県桜井市にあると言う。三輪君の祖父母は文字どおりの三輪山の麓、大神(おおみわ)神社の鳥居前から山ぞいに県道を南へ下った金屋という村に健在だった。私が住んでいる都下の保谷(ほうや)市にも保谷さんが多いように、三輪山界隈にも三輪姓の家が多いのだろうし、それなら「情(こころ)あらなも隠さふべしや」は単身就職上京してきた三輪君の気もちを巧みに代弁していて、編集長が解釈したほど息込んだものでもなく、素直な懐郷にちょっぴりお国自慢をこめたものと合点がいった。
私は三輪君に延喜式の式内社だったという曳田神社のことを尋ねた。彼はちいさい頃、夏休みになるとそのお宮へよく蝉や鍬形を取りに行ったが、それ以上に曳田神社で想いだすのは一面の大きな栗林だと言う。

* 「小説の書き出し」にはいつも苦心がいる。作品の「空気」はそれで決まる。「空気」を見定めるのに苦心惨憺。
この数日、戯曲をふくめ受賞作など四つの旧作の冒頭部を、校正かたがた書き出してみた。人さまに見せようと謂うより、自分自身の「呼吸」をさぐっている、今今の創作仕事のためにも。とにかく間違いなく「わたし」といえるものを原稿用紙に刻みつけてきたと思う。
文体の創出、それが作家のIDだ。ゴールは無い。さらにさらに深まり行かねばならない。

* さ、また不愉快な世界へ降りて行く。
簡単に、「よせよせ、くだらない」と嗤わないでもらいたい。「くだらない」ことは千も萬も承知している。だが「今・此処」をわたしは見つめて生きねばならぬ。手を拱いていたら相手は狡知を絞ってあくどく何をしかけてくるか知れない。すでに仕掛けられたモノはキッチリ押し返さねばならない。それでいて、わたしは、わたしを表現し続けねばならない、小説家として生まれてきたのだから。
五十年前と、三十年前と、十年前と、三年前と、去年と、昨日とのあいだにわたしには矛盾も撞着もない。純然連動している。年齢だけが変わり、覚悟の「程」が変わっている。
この現環境では、昨日も「私語」したが、相手の「人間」を見つめる。しかもその一方でわたしはわたしの「人間」も隠さず出しておきたい。それはおまえが宜しくないと言う人にはそう言って貰えるよう、わたしは自身をいろいろに表現している気だ、いつもいつもいつも。
「作品の書き出し」をならべたり「現代詩歌への読み」をならべたりするのも、吾という「人間」をもし品隲なさるなら、どこからでもどうぞという気なのである。
「人間」で、あの男たちと張り合おうなど、微塵思いもしない。あれらは、論外。
何度も書いてきたが、わたしは玲瓏珠でなく、圭角に身を鎧うているようにいわれても(鎧うてはいないが、)仕方がないし、なによりも世間で謂う善人に程遠いゴロツキ(伊藤整の文学的分類に従う。)の資質を、むしろ大事に自覚している。冷たく乾いた法よりも自然の情理を大事にしているし、利他だけでなく、自利の意志もうち捨てていない。聖人君子は嫌い、むしろ屈強の偽善者としてでもつよく生きたい。
望んでいるのはバグワンによく聴きながら、一日も早くすっきり「目を覚まし」たいこと。その時こそを、「一瞬の好機」と迎えたい。
2008 7・15 82

* 慈(あつこ)子   昭和四十七年書き下ろし 筑摩書房刊 導入部

序 章

正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。
正月三日の東福寺大機院では院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年定(き)まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。
高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。
歌はいずれも平凡だった。作品は一応披露されていたが、点を入れることはしないでただ感想を述べた。感想に世間ばなしがまじり、酒盃が往来し、一盞また一盞で陽気になる。院主の小謡(こうたい)が乞われぬままとび出す頃は、歌会もおひらきに近かった。もとより席中の若輩であり、ともすると一別来の、殊に駆け落ち同然に古都を逐電(ちくてん)した一件が肴にされがちで難渋した。
先刻来、茶室脇の広間には綺羅を重ねた人の出入りがうかがわれる。炉中に炭を活け、奥さんの濃茶点前(こいちゃでまえ)に社中が続いて薄茶(うすちゃ) を点(た)てまわしたあと懐石一巡というつねの手順であろう、歌の連中は、茶事佳境に達する頃のこの懐石料理を我が方にもさらえこもうというのであった。
歌はとりとめなく、談は馴染まない。
水屋の方へ抜けて出たが誰もいなくて、今喫(の)んだらしい濃茶の味を問うている奥さんの陽気な声が洩れきこえた。
茶室に入ってみた。三畳の小間で、下座床(げざどこ)に宗旦(そうたん)の水仙絵入りの文(ふみ)を掛け、花はない。にじり口をすこし開け、苔で名のあるこの寺のその苔のふくよかな碧(みどり)を雪の下にはなやかにふと想い描いた。
呼ばれて広間へ通った。道喜(どうき)の花びら餅が運ばれた。淡い蒔絵の縁高(ふちだか)が正月らしく花やいでみえた。
慶入(けいにゅう)の茶碗で茶が出た。さして古碗(こわん)ではないがやや小ぶりな手ざわりに漆黒の美しさが照っている。軽く興奮していた私は、行儀のいい話ではないが楽茶碗からなかなか手が放せなかった。
実をいうと妙に落ちつかないのだった。心の内を何かしら流れるものがある――。
はて…と思い直した時「岩田さん」と奥さんは呼んだ。「もう一服差上げとおくれやす」ときこえて、私は点前の人を真直ぐみた。その人も私をみて、そして替(かえ)の茶碗をとり、型通りに湯を汲み入れた。

* 原題は「斎王譜」であった、筑摩から出す何年か前に書き上げ、菅原万佐という筆名で、私家版の三冊目になっていた。妻が装幀してくれた。この本が新潮社のエライ人を通して「新潮」編集部に届き、突如として酒井健次郎編集長に呼び出されたのだから愕いた。いきなり「本名で書きなさい」と言われた。従った。
いまおもうに、この本の場合は、たぶん円地文子さんの配慮にあずかっていたと思われる。円地さんは当時順天堂で循環器の北村和夫先生にかかっておられ、北村先生とは医学書院編集者として大きな企画をいっしょにしていた。
ある日北村先生からすぐいらっしゃいと電話があり、出かけると目の前で円地さんに紹介して下さった。『なまみこ物語』をおもしろく読んでいて間がなかった。谷崎先生のことなど話し合い、『少将滋幹の母』が好きだと話したように思う。おそらく私家版の『斎王譜』はその後にお宅に送っていたのだろう。
太宰賞の受賞パーティにも円地さんは瀬戸内晴美さんといっしょに見えて、「いいところでお目にかかるわね」と祝って下さった。あれ以来であった。
人生、謙虚に努めていると、いろんなことが有るものである。四冊目の私家版『清経入水』は、小林秀雄さんから太宰章選者の中村光夫先生に渡っていた。そしていきなり授賞した。なにも知らなかった。
2008 7・16 82

* 祇園会の長刀鉾巡行のようすを、お稚児さんの行儀を朝のテレビで観た。宵宮の囃子は野暮用で聴きのがした。
祇園会といわゆる祇園という土地とは不可分というのが常識だろう、が、祇園には今少し生活の上で、いやちがうわたしはまだ子供であったころは、遊びのうえでというのが正しいだろう、縁が濃かった。雑誌「ずいひつ」に書いた、ちょっとしたそんな旧稿の埃を払わせてもらおう。

*  祇園の路地遊び   秦 恒平

今、合併で「西東京市」と新たに呼ばれることに決まった東京都郊外に暮らしている。東京暮らしが京都の頃の二倍の永さになったが、いまだに、京都からわざわざ「いつお見えでしたか」と聞かれたりする。京都の住人と信じてくれている人が今もいるのである。
武蔵野の匂いのまだ少し残っているような市にいると、街並みはあっても、京の祇園の辺とは、なにもかも違う。あたりまえの話だろうが、何故あたりまえかと理屈を言い出すと難儀なので、適当に思考は停止している。
西東京でのご近所についぞ見たことがなくて、祇園にも、生い立った新門前通りにも幾らもあったのが、「ロージ」だ。大勢がそんなことには気が付いているといえば、その通りだろう、が、そうでないかも知れない。「ロージ」というものをつぶさに知って暮らして、また「ロージ」など捜しても見つからない街にも暮らしてみて、やっと、気が付くのかも知れないではないか。
四条の表通り、祇園町南側にも、路地(と書く)はあるが、北側ほど数多くない。割烹の「千花」のように路地の奥に店は明けているが、裏ん丁まで通り抜けの抜け路地となると、南側ではほとんど記憶にない。
だが北側は、ことに花見小路より東にはいったい何本の抜け路地が通っていることか。花見小路より西になると、中華料理の「盛京亭」や割烹「味舌」などのような、こっちはドン突きの路地が多い。そのかわり富永町へも辰巳橋・新橋まで通り抜けのきく便利な辻がある。新橋通りの先には「菱岩」の切通しへ出られる抜け路地もある。あれが無かったらどんなに不便やろ。祇園の人たち、八千代はんのお稽古場へすいすい行けなくなる。
祇園の南も、奥へ踏ん込むと、これは数え切れないほど、蜘蛛手十文字なすほどの路地がある。抜け路地がある。パッチ路地もある。路地の奥の粋に出来てあるのは祇園甲部のご自慢のうちであるかも知れない。
だが少年というよりも、もっと子どもの頃から駆けずりまわって遊んだ者には、祇園町の路地は、なかなかの秘密境なのであった。「探偵ごっこ」などというものが流行った時は、有済学区の新門前の子ども達が、探偵と泥棒の二手に別れて、躊躇もなく弥栄学区の祇園の路地という路地を、追いつ隠れつの戦場に「利用」したのであった。
言うまでもないが、行き止まりの路地は逃げ隠れの側には物騒で感心しなかった。抜け路地が便利でスリルがあった。パッチ路地は、ことに在り場所を心得てその長所を生かし、奥の暗がりや物陰を伝い隠れては胸を轟かせて、捜しかつ逃れ走って、興奮のるつぼであった。
あのワルサがと、祇園の人には迷惑千万であったろうし、本誌に「お茶屋遊びの文化」などを説きまわすお人たちには無粋の極みだろうが、わたしの祇園体験には、こんな路地遊びの秘密の見聞が、申し訳なく微妙に刷り込まれている。
だから堪らなく懐かしいのである。

* さ、気を奮いたたせて、今日も今日の「今・此処」に直面する。
2008 7・17 82

* 「手」には独特の命と不思議が籠もっていると感じたときに、『手さぐり日本 「手」の思索』を書いて本にし、発展して『からだ言葉の本』『こころ言葉の本』へ展開した。天の岩戸を押し開けた手力男神を、腕力・膂力の神さんとだけ思ったのは正しくなかったのでは。
近代人で「手」のふしぎな力を自覚していたのは石川啄木であった。彼の歌には手の不思議へのオソレをすら歌ったのが幾つもある。野茂のジャンケンは動体視力だけではなかったかもという「馨」さんの勘は鋭い。
2008 7・18 82

* われながら不思議なこと、大西克禮先生の昭和十六年つまり一九四一年九月版『現象学派の美学』を読み続けていて、なんとかくっついていること、それも興味を維持して難解極まる日本語にくいついて苦にせず毎晩読み継いでいること。
現代美学の哲学的傾向、現代の哲学的美学と現象学という二つの序論を通過し、第一章「心理学的・現象学的美学」という最初の本論へ踏み込んできた。
一つには院生の頃になじんだ西欧の美学・哲学者達の名前に記憶があり、妙に懐かしいままに、惹かれて引っ張られてきた。
デッソアー、ディルタイ、カント、フッサールシェリング、シュライエルマッヘル、オーデブレヒト、ランゲ、リップス、フォルケルト、ムハルトマン、コンラッド、ガイガー、フェヒネル、ブント、ベルグソン、ヴェルフリン、フィードラー、リッカート、バウムガルテン、フィッシャー、クーン、ヘーゲル、ベッカー、ベームなどなど、こう聞き覚えの懐かしい名前が続出してくると、誘いの波にのって、さきへさきへ送り込まれて行く。こんな人たちの思索を追っかけて勉強していたんだと我ながらびっくりしてしまうが、分かりにくい、分からないなりに、じりじりと押して行くと、意外やあの当時の自分の追究の道筋が甦ってきたりして、主任教授だった園頼三先生独特の概念や用語までわがことのように甦ってくる。
それにしても、「自己価値感情と対立せしめられた場合には対象的とは主として美的形式論理の場合の如き、感覚的対象的関係から生ずる快感を指すに反し、かの自己達成(ジッヒアウスレーベン)とか自己満足(ジッヒベフリーディゲン)の契機に応ずる対象的価値感情と云ふのは、既に普通の心理学的快感の問題の層から、特殊なる美的快感の問題の層に入つて、リップスの言葉で云へば、美その者の内容に於ける最高の対立として、崇高(エルハーベネ)の如き美的効果と対立する、特別な性格の美的快感(即ち先きの場合の如き形式美のみの快感でなく、形式内容の過不及なき綜合による調和的な美的効果)を意味してゐるのである。」などという日本語に首まで漬かっていたのだった。
とてもこれは、わたしの「小説語の好み」とは合わない。わたしは同じ専攻の妻の学部卒業を一年待ち、院をはなれ、人と故郷をうち捨てて東京へ奔った。「駆け落ち」と言ってきた。
そのまま新婚生活に入り医学書院の編集者になった。三年こらえてから遂に小説を書き始め、太宰賞まで、盆も正月も病気も例外なく一日と雖も書くのをやすまなかった。受賞後も同じだった。
園先生がなくなったとき、枕元にはわたしの著書が在ったと先輩の郡教授に聴いた。そのころ、『閨秀』を書いて朝日新聞の「時評」が全面をもちいて褒めてくれた。筆者は吉田健一先生。
園先生のお葬式の列の中で、松園嗣子松篁さんご夫妻から、ていねいに『閨秀』にご挨拶を戴いた。

* いま一つ、このところの感銘は、やはりバグワン。「性と死」との問題を『老子』のなかで語っている。何年ものうちにもう少なくも数度は読んできた。いつも深く内奥に響いてくる。
いま、老境の性のテーマがいちばん濃厚にわたしの思いを占めている。その辺から enlightenの文学的追究があり得ればと。峨々として容易ならぬ峻嶮。
2008 7・19 82

* 蝶 の 皿  秦 恒平 「新潮」昭和四十四年九月号新人賞受賞者特別号 導入部

呼びもどそうにもお名前も聴かいで、あのように夕暮れ過ぎた時雨の道へお見送り、もう何を待つあてもないと、つくづく気落ちしてしまいました。法然院から裏山越えにくる風と雨が心凄う、よう寝られずに割れた皿の残る一かけらを夜一夜ながめあかしますうち、いつか、庭一面の月かげに惹かれて、泉水のきわまでも立ちまようたようでございました。何より先この蝶の皿にお眼をとめられたのがおなつかしく、とは申せ、今はこの部屋に、ゆうべ二人きり時を過ごしたのも何か夢うつつ、無かった事かと思われるのでございます。が、この皿の虧け、たしかに二つに割って片はしをお持ちになりましたもの、そればかりは繪文様のすみまでよう覚えています。二度とお逢いできるあてもすべもなく、ただあの片割れ一つが残る縁かと心乱れて、読まれもすまい手紙を物狂おしくこうして書きはじめました。お顔の遠うけぶって参ります魂消ゆるような寂しさも御存じなく、今どこに、どのようにいらっしゃるのでしょうか、この山ぐらい侘びた住まいのかげから、そんな跡ない詮索に胸がふさぎます……。
この豆彩蝶文の盤が真半に割れて、半ばは影も無うなっておりましたのをすぐにお見咎めなさいました。頑なに口を噤んでおりましたのも、その訳を申し上げてしまえば、もうまさかにあのような夕山道へひとりはお帰しならなかったからでございます――。
蝶の皿を手に入れましたのは七、八年前の事、柄にも無うやきものに魅入られましたはじめは、三嶋、伊羅保、熊川(こもがい)などの肌に手荒い高麗茶碗からで。祖母について茶の湯を好みました幼いからの、すこし生意気な佗び好みでございましたでしょうか、が、そのような土物の親しさも、きんと張りつめた中国の磁器の味わいには及ばぬのでございました。幸せな事に、ホノルルの美術館から参っておりました古月軒の梅花文碗を観られたのが眼のあいたはじめでした。古月軒は清朝精磁中の絶品で、精魂を尽したこれ以上みごとな磁器はないと評されているようでございますが、この梅花文碗と申しますのが、差しわたし五寸足らず、高さは二寸ほどで内は白無地、裏に上繪の藍で大清雍正年製の銘をもち、清純な粉彩の梅花文が白玉の滑らかさに浮きたつばかり芳しい匂いを放っておりました。清朝もののお嫌いな方もずい分ございますが、まあこの時ばかりは碗の清らかさに打たれ、それはもう魂を奪われてからだ中が萎えたのでございます。狩野や等伯、友松の梅ではございません、紛れない中国の梅樹、梅花の鋭いあでやかさに、また無比の仕上りに、堂々とした高台のかたちに眼を瞠きました。それ以来でございます、のらくらと遊び、親兄妹のいい迷惑者になりながら、私は憑かれたように清朝ものの白磁を蒐めはじめました。愚かな者の心萎えた思い上りで世に背いて人のお金を異国のやきものに替えるばかりの、そんなばかげた生きようは、思うさえも無慚な事でございました。
で、そのように致しましても、さて逸品となりますと至って数少ないもので。とは申せ身分相応のものを狙っていては面白みがございません。背伸びをし、ありたけの手を伸ばし、それでも届かなかったら踏台をしてまで高いもの、またその上の高いものと手を出さないと気はすまぬもので、蒐めました中どころの三品四品をより佳い一品に替えては上へすすみます。父に叱られ、兄に叱られ、ただ祖母と母とのふびんをいい事に無理算段も何とか叶いましたのは、幼いからの見るめも痛々しいひよわさが、我慢な、心傲った、世にすねた私を押し包んだなり、他人様の眼に、殊にも祖母や母には哀れな、生涯どうにも世に出て生きるすべない片端者と映るようでございましたからで。茶の湯、活け花、歌舞音曲の果てが分けてお金のかかる骨董道楽と、二十過ぎた頃には新聞一つ読もうとせぬとろりとした遊び人のまま、嫁とりもものぐさな気後れで、静かに、けれどよほどひねくれて、ひとり大きな家の離れに暮しました。その離れの軒に、美濃の窯師に緑釉に猜軒と刻して焼かせた瓦を懸けました。親兄妹がどう呆れ憎みましたやらもよう知らいで……。
或る日も日本橋壺中居のあの重い扉を押してみました。漢緑釉の耳盃、荊州窯の白磁茶碗、宋の柿天目や鉄繪、青磁の劃花文碗など観せられましたが眼はあらぬ方を見つめ出していました。ちょうどいつものでない店の人で私の好みを知らずに応対していたのでございましょう、そぶりに気がついて、お気に召しましたら、どうぞ。でも、力のない声は私の若さと品物の高価さを秘かに見比べた感じでございました。ふっと血が湧きました。いったい殊に色白に生まれつきましたのが時には青白いばかりの細面、それへ血ののぼりますのはめったでなく、それが女のように美しいと子供の頃からよう笑われ、長じては里の女たちに妙な世辞を言われて参りました。店の人は恥じらったと思ったのでしょう親切に飾り棚から出して手にもたせてくれました。それが、この豆彩蝶文盤でございます。差しわたしが八、九寸、可憐なお皿の色どりの美しさは言いあらわしようもございません。豆彩のつねで、ろうたけた白磁の上に繪具がすこし盛り上っておりますが、赤、黄、緑の単純な色かずに染付の青が心にくいまでに配され、ふしぎに色と色とが映え合ってはっと瞬くように光ります。中央の牡丹花を囲んで蘭菊梅竹、ほかにもとりどりの花が目も彩に咲き散る中を、大小の蝶が群れ遊ぶさまが清朝ものお得意の筆の優しさで叮嚀に描かれております。とりわけ心を惹かれましたのは、親の蝶らしいのが右の翅で子蝶をかこんでそっとかばうような恰好をしている容子でございました。その翅の描き方が、右翅を細うしなわせて先をちょっと繪具を含ませて止めてあるのです。親蝶の子を想う情のいかにも清らかなのが、私のようなすねた者の気もちにも美しく映ったのでございます。蛾のようなのが一つ、存分に翅をひろげ足をのべていました。王様なのではないか、すると左右から向かい合っている蝶は侍女かも知れませいで、どこか媚を含んだ優しさにも見られました。お皿の裏には高台を大きくとってございましたので、細い、すこし立ち上がった環(わ)なりに、見込みと同じく花と蝶が描かれて、画面こそ違えやはり蝶の想いのとりどりな晴れやかさ寂しさが花の匂いを静かに舞い誘うようでございました。高台の内は染付の二重円に大清雍正年製と、あの古月軒の梅花文碗に変らぬ文字が厳めしく書かれてありました。
この蝶の舞い遊ぶ花園の風情に私は魅入られました。みごとな白磁の肌に温かくにじみ出たお皿の作者の情のあつさを感じました。それから何かしら王昭君や虞美人など、幸い薄い美女の運命のようなものを想いました。ふしぎな事でございました。何の苦もなく祖母や親兄妹に甘えてこられた自分に、その時私はほっと安堵の息をつきました。かぶさるように胸底をひたひた揺すったあの言いようない寂しみ。今想い起こしてなつかしく哀しく、それ以来その寂しみのまま夢うつつに過ごして参ったのか、と思い当るのでございます。
さて箱を作ってもらうため壺中居に暫く預けまして、いよいよでき上って家へ持ち帰り包みを解いてみますと、大清雍正豆彩蝶文盤と、思いがけない立派な箱書がしてございます。紛うことない広田不孤斎老の筆蹟、この方の視線が止まればそのやきものは値があがると言われておりますほどで、箱書などやすやす引き受けてくれるお方ではございません。さすがに上気致しまして、すぐにも御礼に上りました。壺中居主人はしっと私の顔を御覧になって、あんたの物だから箱書したんじゃない、中身が立派だから書いたんだよと、ふいと向うをむいて仕舞われました。

* この作を此処に発表したとき、雑誌を手にして、沈み込むようにガックリした。阿部昭、黒井千次、坂上弘等々他の七八人、どれもこれもみな、私小説ふう。わたしのような作柄は独りもなく、完全な孤立。これではこの文壇という世間で長生きできそうにないと、文字通りヘキエキした。
おまけに先月「展望」に太宰賞受賞作を発表して受賞第一作は「展望」にというのが不文律らしかったのに、そんなことはツユ知らないもので、筑摩書房にえらく叱られた。よけいガックリした。
だが「蝶の皿」は思いの外に熱心な手練れの読み手たちに恵まれ、気持ちを取り直すことが出来た。
私小説は、老境の文学でよいという考えだった。私小説風を思い切り活かしてフィクションを書こうというのが、『清経入水』も、そうだった。
現代の怪奇小説と選者にいわれていたが、それほど、幽霊の出てくる小説などその時代にはまだ鉦と太鼓で探しても、わたしの他にそんな作者はいなかった。半身はあの世に隠している作家などと評する批評家もいた。この作風は、小説よりもドラマや演劇の方でよほど遅れてポツポツ追随者があらわれた。井上ひさしの舞台『父と暮らして』のような作が今では少しもふしぎでなく流行るが、『清経入水』や『蝶の皿』のころは「変わった小説を書く人」にされていた。
2008 7・19 82

* いろいろ教わることがあった。教えてもらうとき、わたしは心から感謝し縋るほど心から教わるが、それでも不得手なことはなかなかスンナリのみ込めない。ひたすら辛抱し繰り返し繰り返し失敗して、また教えてもらい半歩ずつでも進んで行く。なあんだ、なんでそんなことが分からなかったんだろうと可笑しくなるが、分からないときは暗闇を行くよう。

* ひとつまた新しい一歩を踏み出した。しかしややこしい戸惑いもある。頭の交通整理があまりキレイでない。
2008 7・20 82

* ディアコノス=寒いテラス  秦 恒平
湖の本創刊十五年記念 一九八一年九月八日より二十日書下し  導入部

薫先生、ごていねいなお見舞いのお便り、恐れ入ります。あのような記事のお目にとまったこと、何より気が重うございます。夫も、私も、まだ半ばうつつなく暗い顔を伏せたまま閉じこもって居ります。幸い節子もその後小康を得まして、最悪の事態はせきとめたかとお医者様にも励ましていただいて居りますが、心配――と申しますさえ(小沢様のことを思いましても)、身もすくみ心が凍ります。
薫先生に、幾度これまでもお手紙が書きたかったことでございましょう。お縋りして……と思い、詮ないことと思いとどまり、さてお手紙を差上げようにもその後のお住まいを存じ上げないのでございました。そんな、越後湯沢などという遠くへ、ご実家へ、お帰りとは存じもよらず、道理で一度二度あったクラス会も間遠のはずでございましたのね。連絡がとれないのと節子も時々申しておりました。
当然でもございましょうね。娘たちが薫先生に担任していただいたのは、小学校、一、二、三年生の三年間。その節子がもう大学の三年生ですもの。母親としては若い方でございました私なども、あの時分に生まれました節子の弟が中学の二年生にもなって、時折り、白髪さえ気になるくらいでございます。
薫先生。ご記憶でいらっしゃいますでしょうか。娘の節子の入学式がございました十二年前の四月、夫の母がまだ達者で(今では願っても叶わぬ年齢になっておりますが)、京都から孫娘の晴れの一年生ぶりが見たいとわざわざ東京へ出て来てくれました。当日は、姑 (はは) と嫁でそろってお式へも。お教室へも。嬉しゅうございました。へたな写真をルバムで眺めましても、まぎれなくあの日の、ちょうど夜来の雨が朝にあがって、繪に描いたような校庭の桜や、プールのわきのチューリップなど、それは美しかったことが、今も胸ふくらむように思い出されます。
あの日、家に帰りまして、むろん夫の帰宅を待って、心づくしのお祝いをと思っておりました。その用意のさなか、せまい台所の立ち話でございましたか、姑が、耳うちぎみに申しました、それが、申しわけのない、あの小沢妙子ちゃんのことでございましたの。
「なンやしらん、一人、ウロぉッとしてるお子がいやはったンやないか。新入生の弟(おとと)か妹(いもと)かいなァ思て見てましたンやが……おンなじ一年生……やろかしらんテ。ちょっと…妙どしたえ」
鈍な私は気がついてませんで、「まァ、そうでしたか」と、そんなぐあいでございました。むろん母の申したとおりのことが娘のクラス、薫先生ご担任の一年二組の現に事実でしたこと、そのお子が妙子ちゃんでしたことは、その週のうちにも知れたことでございました。
初の父母会に、薫先生、あなたは妙子ちゃんについて早速私たち親同士の切なる理解と協力とをお求めになりました。ご覧になったように、精神薄弱ではないが自閉症ぎみの新入生が一人いて、親御さんもお医者様もどうかして小学校での共同生活をふつうにさせたい、改善の見込みも十分あるとの強いご希望で、学校側は受け入れられるかどうか議論も迷いもなかったとは言わないけれど、自分が(と、薫先生は仰言いました)引き受けました。どうか学校やわたくしの意のあるところを汲んで下さり、生徒はもとよりクラス父母の何とかお力添えを願います……と、そう言ずくなの内にもベテランの学年主任らしい、お気持ちの徹した仰言りようで頭をお下げくださったのでした。誰ひとり異存を申し上げた保護者もなかったことを、はっきり憶えておりますの。そして初めての授業参観での妙子ちゃんがどんなだったかは、これはまたおかしいくらいに記憶がございませんの……。
正直のところ私どもでは、その、妙子ちゃんの件をとくべつ意識も致しませんでした。迷惑に思うなどとも協力しようとも、そもそもピカピカの一年生、節子の毎日にいささかの翳もさすわけがないと、いえ、そんなことさえ思いも致しませんでした。朝には節子が一列に並んで集団登校致します。ご近所の同じお母様がたと見送って、ちょっと立ち話を楽しみまして、(姑もまた京都へ帰ってしまいますと)もう一歩家に入ればすっかり自分の時間でございましたし、……弟の貞夫をちょうど身籠もった時分でもございました。幸せで…… で、節子の帰って参る刻限ともなれば、今日はどんなことがあった、何をして何が楽しくて何で泣いて、誰と仲良くしたか、薫先生に叱られはしなかったかなどと問わず語りに、憶えていらっしゃいましょうか、ちょっとおしゃまでございました節子のお喋りに相槌をうつのが楽しみでした。そしてそんな時にも、とくべつ妙子ちゃんのことを、節子の口から聞いたということはなかったのでございます。
梅雨に入っていましたでしょうか、一年生の。もう節子も、なかなか一人前の小学生らしいもの慣れたようすで、もともと学校が大好きなたちでございましたから、毎日のじとじとした長雨にも屈託なく通学しておりました或る日の下校時刻……ご近所の方が微笑まれますぐらい、十メートルも先の路上からいつもの「ただ今ァ」が前ぶれで勝手口へかけこんで参ります。
「ママ。あたしね。妙子ちゃん係りになったのよォ。薫先生がそう仰言って、きまったの。妙子ちゃん係りよ」
「係り…なんテ。なにをするの」
「席が隣りでね。なんでもお世話をするわけ……妙子ちゃんテ、時間中もじっとしてないでしょ。出てったりもするし、すぐお手洗いに行くし、行ったら帰ってこないし、時々、キェキェキェなァんて笑い出して、起って一人で唱い出したり人のこと怒ったりするんだもン」
「……で、どうするの節ちゃんが」
「妙子ちゃん、あたしの言うこと、ちょっとは、きいてくれるのよ。いッとき静かになるの。薫先生が仰有ってもだめなことを、あたしが<タ・エ・コちゃん。だめでしょ>って言うとね。ちょっとのま、あたしの顔見て、それから温和しくするの。ホンの暫くですけどね」
「それで、係りかァ。オマエさんに、そんなこと出来るとはねぇ」
「へッ。恐れ入ったでしょ、ママ」
そんなことを暢気に喋り合いまして、また、そのまま私は気にかけませんでした。娘の、そんな「係り」などに関心をもつのが、なぜか親御さんにもわるいという気がございましたのでしょう、節子から言い出さない限りは何を訊ねることも致さずじまいでした。節子もとくべつそれまでと変わった話題を持ち帰りもしません。たぶん、大なり小なり妙子ちゃん係りめいたお役目は、もうすこし早い時分から薫先生のおめがねで節子に預けられていた、ということでございましたのでしょう……。
娘は最初のお通知簿をいただいた時から、母親の申しますのも面映ゆいことですが、当の薫先生に申上げるのでモトが知れております、有難い良い評点をいただいて、親には何不足のないちょっと優等生すぎるくらいの娘でございました。からだも大きく、わりと物もはきはき申しましたから、一年生二年生、いいえ小学校時分、市立の中学へ進みましても何となくよそ様のお子たちより落着いて見える、本人にも何でもマカセといてという大人びたところがあったように存じます。
私どもでは、かしこい子にありがちな、へんに意地のわるいさかしら立った娘にはしたくありませんでした。夫も日頃からうるさく躾けておりましたし、幸い節子にそういうところは、今も、すこしもございません。でも、あの時分夫はたまに私にこんなふうに申しました、「外むき、とくに先生むきの優等生にさせるなよ」と。
夫はあの頃は、ご記憶かどうかまだ外資系の化粧品会社の宣伝部勤めでございました。娘や息子の育て方はだいたいに私まかせで、それでも、あれほど忙しくしていてよく見てることと、ちょっと胆が冷えますくらい子どもたちの部屋の片づきようやら、お帳面の書き方、教科書へのいたずら書きなどもちゃんと見つけてすべき注意はするというふうでした。娘の図画や綴り方も、見せますとよろこんで眺めたり読んだり、晩酌のお肴がわりに批評らしいことも言って機嫌ようしてくれて居りました。
その主人に、いわゆる「いい子」にならせるなと言われていましたこと、当座はハイハイと返事しておりましたし、夫も気軽に注意しておくくらいでおりましたでしょうに、節子のためには本当はとても大事なところへ触れていたのだな、と、今さらに思い知らされております……。

憶えていらっしゃいますか小沢妙子ちゃんを。華奢というではない、ちょっと小ぶとりの色の白いお子でございましたわね。
「力、つよいのよぅ」と節子の申しますのも道理な、二の腕などがっしりした体格で、髪の毛のふさふさと黒い、それよりももっと黒い大きな瞳(め)とちょっとゆるんだ口もとと、かなり内輪に重そうに脚を運んで行く歩きようとが、やがて、あああれが妙子ちゃんと登下校の途上で遠くから、近くから、承知致しました頃の印象でございました。
* 途方もなくだいじな作品をわたしは書いていたのだと、いまさら気が付く。わたしたちの娘と家庭の雰囲気がそのまま出ている。実話を背景にこの作は悲劇的に展開して行くが、作の途中、少し上の学校に通っていた頃の娘が母親に語りかけている。

「ディアコノス(仕える人)というギリシア語が聖書に出てくるらしいのね。その趣旨からね、ナポレオン戦争後にフリートナーというドイツ人の牧師さんが、道ばたで死んで行くような人をみな担ぎこんで、病院を作ったの。<母の家>っていうの。その<母の家>に入って生涯神の他に嫁がず、病人や廃人を介抱し続ける人が<奉仕女(ディアコニッセ)>。そういう人、日本にもいて、売春禁止法のあと、施設で介護の必要な、もと売春婦たちのお世話なんかしてるんですって。生涯お嫁に行かないでよ」
「……」
「ある宗教学者なんか、もし奉仕女の生を生きることが出来ないとしたら、ぼく自身の生を生きることだって出来ないじゃないかと言ってた」
「で、その人はそうしてるの」
「いえ。もちろんぼくが廃人の世話をするというようなことは、とても出来ませんがという但し書きがついてるの」
「なァんだァ」
「でも実際献身的に何十年やってる方もあるのよ。その深津さんて牧師さんが、さっきの宗教学者との対談で、こう言ってらした。まあ誰も損はしたくない。誰も重い荷物は持ちたくない。そして宗教といおうが教会といおうが、みな本質をすりかえて、自分の利益になるように立ち回っている。その中でたった一人、ほんとうにその気で損をしたヤツがいたら、そりゃやっぱり見事だろうと思うッて」
「その方はそうなさってるンだから……一言もないわね。あたしたちは見事にサカサマね」
「でもママ。そのあとでね。深津さん仰有ってるの。しかし、それが見事でなくなる時が来なけりゃいけないテ。

* 容易ならぬ主題で、「愛は可能か」ということを考え、親しかった牧師で神学者であった野呂さんに先ず読んでもらったのを思い出す。こういう小説を書いたことが無かった。「いいものです、大事なお仕事になりました。本になさるべきです」と野呂さんはすすめてくれた。それでも永く躊躇っていた。
2008 7・20 82

* 過剰なことだと驚くことが多い。日本人はだんだん肝っ玉ちいさく、神経質になりすぎてきた。私生活上、悪質で知性を欠いた大の大人の「長上」に対する罵詈雑言などは、礼儀知らずのしつけの悪さで、ただただみっともないかぎりだが、子供同士の喧嘩口が、あるていど毒々しいのは昔からのことで、みんなそれらを聞き流しながら、ミソもクソもある「人間の世間」と学習してきた。
言葉での攻撃を受けて自分の命をちぢめたり、刃物を振り回して復讐したり、江戸の仇を長崎で犯罪を犯したりは、精神の弱さも丸出しで、あまり同情できない。社会や学校や親や時代が、大らかな健康さと健康な判断力とをどこかへ置き忘れているのだ。
子供の頃の喧嘩腰で互いに罵り合いアトを引くのも、あれはそれなりに相当なものではあったが、もともと喧嘩とはそういうものであった。陰口よりはサッパリしていた。陰口で何か言われても、自分の耳に届かぬ限りわたしは放っておく。
親にあれこれ叱られたり、勉強をしろと云われたり、厳しく躾けられたり、制限されたり、少々頭をこづかれたりなんぞ、日常茶飯のことだった。だれもハラスメントなどと変なリクツはつけなかった。いつのまにか親に、虐待されていたの、ハラスメントを受けていたのと、大学も出て民生関係の仕事にもついていて、四十もとうに過ぎて、老いた親を裁判沙汰へまで引きずり出す娘がいたりするのは、人間としての未熟さが、なんとも恥ずかしい。少年少女が親への意趣返しにバスジャックしたり、親を刺し殺したりするのと、ちっとも変わらない。一人前の「人格」だというなら、それらしく振る舞えばいいのに。わたしの娘など、どうかすると五十に手が届く。

* それにつけても「十七にして親をゆるせ」と高校生に教えていた先生は、ものが見えている。十七にもなれば、親がどうあろうと「勝手に赤い畑のトマト」のはずだ。たがいに仮に恨み辛みがあろうと、その辺で大人のセンスで昇華して行く。それが出来ないでは、「ビョーキ」呼ばわりされても言い訳が立つまい。

☆ 十七にして親をゆるせ
自慢じゃないが、裕福には育ってこなかった。食べるのに、そう苦労をしたとは思わないが、満足に食べていたわけでもない。世をあげて貧しい時代であったから辛抱できた。そんなものだと子供心に思っていた。戦後の数年、あの美空ひばりが焼け跡の子らを歌いはじめていた頃だ。わたしは新制中学に通っていた。京都の街なかだった。
京都の冬は寒い。足の裏から膝へじりじり凍ててくる。噛まれたように痛い冷えである。食の細さも響いていただろう、雪のちらついたりする日は、曇り空が恨めしかった。
そんな寒さにも、体操の時間は上半身はだかだった。強要された。まいった。
体操の先生は二十歳すぎの臨時教員だった。画学生だったが、体操の時間も担当されていた。むろん先生もはだかだった。こわい先生だった。苦情は言えなかった。
その先生はだんだん立派な画家になられた。今は創画会の会員で、京都のある大学の美術学部長もなさっている。わたしの本の装画なども、お願いすれば気持ちよく引き受けてくださる方である。
東京へみえた最近に、ホテルでお食事をさしあげた。楽しかった。わたしが、だれの、どんな、善意のいたずらでやら東京工業大学の、工学部「文学」教授になっているのもよくご存じで、それで、こんなことを話された。日本の国ではわれわれ人文系の人間は、たとえ理工科系の知識にどんなに乏しくても、有り難いはなしいっこう恥じしめられるという事が、ない。ところが理工科系の人が人文系の素養や知識を欠いていると、ことに世界に出ていったとき、ひどく恥をかくことが多い。なるほど。
「そぅやいうて、あんたが、蘊蓄(うんちく)を傾けて東工大の学生にぎゅうぎゅう知識を授けてみても、学生のほうは迷惑なんやからな。そゃからな。あんたの学生が、どこへ行ってでも、受け売りのしよいよう、しよいように、親切にものを言うてやらなあかんで。本人が受け売りしてるとも思わんと本気で受け売りをしよる。つまり、それくらい身につくいうのかな、覚えやすいように話してやらんと、両方で、時間をムダにするハメになりまっせ」
なるほど。
で、ことのついでに、勇をふるって、あの四十年昔の「寒中はだか体操」に、積年の恨み言を言ってみた。半ば冗談めかして。ところが先生は笑われなかった。あのころの生徒が、とくに一部の生徒が身につけていた肌着のひどさ加減といえば、ちょっと、口にする勇気もなえるほどだった。
「そゃし全員を一律にはだかにしましたんや」と。シュンとして、わたしは、声もでなかった。
なるほど……。
「あのころの親は、たいへんやったなあ」
「たしかに……」とうなずきながら、その親にどれだけその後も苦労をかけたことかと思うと、そら恐ろしかった。しかも、けっこう愚痴も言い、恨みさえして親の嘆きを何倍にもしたのである。恩返しもろくすっぽせず、死なせてしまったのである……。
その後、五百人ほどのわたしの学生たちに、小・中・高校時代の先生からつよい印象を受けた「一言」を、書きだしてもらった。たくさん集まった。それも、文字に書き表したかぎりでは、案の定、ごく尋常なものが多かった。が、それは、その一つ一つの言葉の不適切や無価値を示しているのでは、けっして、なかった。「頑張れ」と、小学校何年生のときに何先生が声をかけてくれた、あの「一言」が、今も自分の励みになっている。そう書いている学生とその先生との間では、決定的にその「頑張れ」の声は鳴り響いたのであり、それで十分なのである。そういう数々の「一言」を、じつに大勢がじつに大切に記憶しているという事実が貴いのである。
大学生に対しなんと稚いことをと嗤う人は、考えが浅い。上(うわ)ずって「大学生」をむりに演じかけている少年少女に、もう一度自分の「根」を思い出してもらい、気をとり直し落ち着いてもらう意義は大きい。学生諸君は一瞬に或る閾居(しきい)をしっかり越えてくれるのだ。
なかに、わたしを、震撼させた「一言」があった。
「十七にして親をゆるせ」
十七歳ぐらいの時が、いちばん「親をゆるさない」年頃だといえば、大概分かってもらえるだろう、だからこそ、この、「十七にして、親をゆるせ」の訓えの意味はあまりに深い。
「親をゆるせ」とは親の言動をとかく謂う意味では、ない。端的に、「独り立て」という教えであったに違いない。これを伝え聞いた学生諸君の反応もつよかった。「十七ではまだ出来なかった。十八のときに、ぼくは、親をゆるしました」と告げてきた一人の出席票余白の文字に、わたしは、涙をこらえられなかった。
月刊「ずいひつ」一九九三年一月号

* イキに察して金を出さないのは非常識だ、姻戚に値しない、絶縁すると云ってきたとき、わたしの婿は、働く気なら働き盛りの三十そこそこ、健康だった。家の中でジリジリブラブラしていた。ベストセラーなど逆さに振ってもでてこない物書きのわたしたち夫婦は、九十の坂の恩有る育ての親老人三人を京都から東京へ引き取り、ずうっと抱えこんで、まだ先があった。「ばかか、お前ッ」と言ってやりたかったが、言いはしなかった。逆に言われたのである。

* わたしたちに娘が生まれたのは、結婚して一年半ぐらい。その頃わたしは通勤の財布というものを持たなかった。容れておく金が十円玉もなかった。電車がとまれば、本郷から市ヶ谷河田町まで歩いて帰った。
一食十五円の食券を買っておき、会社の食堂で、白いどんぶり飯にみそ汁をぶっかけ、足りなかったら、醤油かソースで味付けして、それだけで二年以上も平気で済ましていた。貧乏など恥ではなかった。イキに察して金を出してくれる先など無かったし、人に金を呉れなど、口が曲がっても言わなかった。
妻は妊娠し、出産は危険と医科歯科大学では止められた。だが万全の対策でそれも乗り切った、夫婦の協力で。
つわりの妻にそばにいられるとかなわない、実家が引き取るべきだなどと云うわれわれの婿とは、生活の思想が桁違いだった。

* わたしは、文藝上の匿名コラムでも活躍した経験者だが、日常生活では、陰口を叩くぐらいなら、黙っているか、文責明らかに批判し、批評し、非難すべきはする「書き手」である。隠さない。陰へ回って策動し人の行方を妨害するような、卑怯なことはしない。火の粉がかかれば払う手立ては尽くして立ち向かうが、陰険な手は使わない。どこに何を書いたか、ふれまきもしないが隠しもしない。
わたしぐらい大方何を考え何をしているか分かりやすい男はいないだろう。名前は隠して★★★にして欲しい「仮名」にして欲しいなどと懇願したりしない。
2008 7・21 82

* 静かな心のために 六

三十年このかた「からだ言葉」についてわたしは発言し続けてきた。近年は三省堂から『からだ言葉・こころ言葉』を出版し、今月には『からだ言葉の日本』を「湖(うみ)の本エッセイ」の一冊として出版した。次の『こころ言葉の日本』も用意しているが、此処では、直接に「こころ」を問題にしているのだが、それでも、「こころ言葉」の紹介は、前提に、無くては済まない。
「心」は目に見えない、とらえどころが無い、が、「こころ」と付き合わずに済む日常はない。「心」って、何? という自問自答をつい余儀なくされてしまう。

人の心は知られずや 真実 心は知られずや   (二五五)
浮からかいたよ よしなの人の心や   (九二)
うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ   (二九一)
文はやりたし 詮方な 通ふ心の 物を言へかし   (二九二)
よしや頼まじ 行く水の 早くも変はる人の心   (三◎◎)
恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた あら何ともなの さても心や   (三◎二)
花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ   (三◎五)

目に付いた『閑吟集』(数字は集の中での番号)から室町小歌をひいてみたが、万葉集このかた、人はかように「心」を問うて問い続けてきた。あげく「物」と対極の「心」に、まるで物と同じ属性を授け、例えば「心根」「心の底」「心構え」「心の奥」「心の闇」のように、また「心を砕く」「心を痛める」「心を抱く」のように、また「赤き心」「清き心」「濁った心」「心の鬼」のように、また「広い心」「狭い心」「偏った心」のように、「心細い」「心丈夫」「心頼み」のように、また「熱い心」「心冷える」「心温もる」のように、また「心得る」「心付ける」「心掛ける」のように、あたかも物に触れたり、物を使ったり、物の大小・色彩・冷熱などと同じ何かが、さも「こころ」にも在るかのように「こころ言葉」を用い、ようやくに「心とは何」かに或る見当をつけてきた。推知・推量してきた、そういう「日本」「日本人」が目に見えてくるではないか。
わたしは、「からだ」にしても「こころ」にしても、出来合いの観念から入って難儀な哲学や生理学や心理学を持ち出す、その前に、日本語の中に莫大に現に存在し、何の難儀もなく日々常用している「からだ言葉」「こころ言葉」への理解や洞察から、より具体的・生活的に、より日本的・日本語的に、「体」や「心」のことは考えた方がいいと説き続けてきたのである。
だが、今この場でのわたしの(可能ならばのはなしであるが)追究は、今度初めてやっと「こころ」を、「ことば」は念頭にしながらも、直接に端的に考えてみたかった。大胆すぎるが、待ったなし直かに「心」へ向かってみようというのである。  06.2.21
(この「mixi」の「日記」という場は、秘め事なみに狭い範囲の知人にだけ発信するブログとちがい、夥しい会員の目に、触れれば触れる仕組みになっている。しかし会員の全員に近くをわたしは知らない。その意味で、「日記」は覗かれていると頭で知っているだけのわたしの「孤室」である。
そもそも「匿名」でものを書くのは、(筆名ですら同じと思うが、)「ラクガキ」に同じで、だれより自分自身に対して無責任に流れやすい。わたしは無責任な書き手ではありたくない。日記の公開に危惧する人はときどきいるけれど、密室の日記は(よほど優れた人間を例外として)概して飾られている。人によるとはいえ、日記を実名で公開していると、(サカサマに思われるだろうが)恥ずかしくてウソは書けない、極めて書きにくい。
「秘める」という本能は、当然生物であり人格である人間には或る程度許されているし、必要なことでもある。だが、匿名に隠れてひゃらひゃらした日常や言葉を書き散らし垂れ流してあるものを見ると、自分はそんな真似はしないとあらためて思う。自分自身に恥ずかしくなるのは御免である。
この『「静かな心」のために』は、『静かの文化を論ず』と仮題し、数年来予定していた仕事の一つなのだが、難しくてなかなか取り組めないで来た。たまたまご厚意に出逢い此処へ招かれ、そうだ、此処で「見切り発車」しようと思い立った。用意も何もないエッセイとして、此の場にふさわしいかふさわしくないかなど考えもせず、いきなり書き始めた。
立ち往生のおそれもあるが、腹をくくっている。
「孤室」が好き。テレビに出るよりわたしは「ラジオ」の孤室に抛り込まれる方が、いつも気楽であった。スタッフから終始覗かれていても、である。)
2008 7・23 82

 

* 畜生塚   秦 恒平   「新潮」昭和四十五年二月号  導入部

一、夢の中

空は明るかったが富士はみえなかった。
疲れてくると本を膝の上に伏せて私はうとうとものを想った。汽車は西へ走りつづけていた。

根岸守信の『耳袋』巻之二の中に「賤妓発明にて加護ある事」という一条がある。「浜町河岸(がし)箱崎近辺の河岸へ、船(ふな)まんじうとて船にて売女する者あり。至って下賤の娼婦也」とあり、風狂の酔漢が興余の戯れに立ち寄って、舟中雲雨の交りを致すらしく、あらましは、客の一人が忘れていった大金を後日持主へつつがなく戻してやってその男の嫁に望まれたという話なのだが、嫁に云々は私にはどうでもよい。ただ「船まんじう」の呼び名が頭にあったところへ、数日前にオトギヤロということばを覚えた。
これも売春舟のことだけれど、茶の湯の裏千家で出している「淡交」誌上に小田という人が書いていたことで、いかがわしい話ではない。ここにいうオトギヤロとは、その売春舟と形こそ似ているが茶の湯でつかう青磁の或る型物香合(こうごう)の蔑称なので、「笹舟に丸屋根の覆いがしてあって人間が一人、舟の艫(とも)の方にうずくまっているものだから、道具屋は、これをオトギヤロと呼んで、あまりその価値を認めない」のに憤慨した或る数寄者(すきしや)の逸話が、この耳馴れないことばの出所であった。
数寄者はこの香合の図柄を、売春舟どころか、千古に高風をうたわれた王子猷(おうしゆう)が親友戴安道を訪ねる故事と取った。とするとあまりに違い方がはなはだしい。蔑称にしてももうすこし言い方があろうというので、道具屋仲間の入札のときには、わざわざ「青磁戴安道香合」と呼び歩いたあげくに、自分の手もとへ高額で落札した。そうまでして香合の名誉挽回を策したのに「オトギヤロは訂正されず、その数寄者が戴安道さんと呼ばれるようになってしまった」というのである。
はなしは面白いし、この型物香合が子猷訪戴の故事に由来するらしいことも間違いなさそうに思われる。笹舟に丸屋根の覆いがしてあって舟の艫に人がうずくまっているという説明は、蕪村が描いた絵の、また狩野元信が描いた絵の中の小舟、エン渓(えんけい)に住む友人戴安道の門前まで来ながら逢わずに舟を元に戻す王子猷をのせた小舟にそっくりである。王の言い分はこうであった。自分は興にのって出かけた。興が尽きたので帰った。何も戴に逢わねばならんということはない。
この故事に、自分をひきくらべてみるのはまるで見当ちがいであったけれど、それでも、忙しすぎるほど忙しい職場を離れ、妻や娘を家にのこしてまで慌しく汽車にのりこんだ私自身について考えこませる、恰好のはなしではあったのだ。私を催して、なぜ、なぜと執拗(しつこ)く迫ってくる想いがある。その想いを強引にねじ伏せねじ伏せして来たのだったが、「オトギヤロ」や「船まんじう」のことも、ねじ伏せられた意識がふと誘い出した幻像にちがいなかった。
汽車は、すこし前から、あの規則的に繰返す音をやめていた。ヒュルル……と流れて飛ぶものの印象を与えていた。運ばれてゆくという感じの方へ私は馴染んでいった。

七月上旬の朝、突然速達のお便りを受けとって以来、御無沙汰のうちもう九月の声、夜風のつめたさに秋のおとずれを感じます。
皆様にはおさわりもなくお過しでいらっしゃいますか。迪子様随分おわるかった御様子其の後如何でございましょうか。さぞ大変だったろうとお手紙いただいた時は本当にびっくり致しました。
あの時の”また彷徨の旅路かとも想いながら”の文字通り八月はじめから山口県秋芳洞をふりだしに尾道、生口(いくち)島、仙酔島、倉敷、鷲羽山など瀬戸内海と山陽路の旅を六日間ほどの旅程で遊んできました。
内海の凪いだ静けさに、たゆとう波の面、心ばかり淡くなった陽のきらめきなど、独身生活の最後の旅という想いもひとしお言いようのない心の中(うち)でございました。
あなたには新しい生活をふみ出してからお知らせしようと思い決めて今日まで何もお話ししなかったのですけれど……私、十月六日に結婚することにしました。もう、余程の時が与えられない限りあなたともお逢い出来ないと思います。
あの博物館での散策が最後でしたかしら……。
閉ぢし眼を何に開かむ歩みこし道にふたつの影ながきかも
どうかくれぐれも、お体お大切に。
町子
宏様
九月十日夜更けて

讃岐町子の手紙は総務課から直接私のデスクヘ届けられた。見覚えのある手漉きの細い封書は、校正刷や原稿類の傍におかれるといっそ不似合な静かさだった。親展という町子の人なみ秀れたペン字さえもが他でもない私だけにものをいう風情で、雑誌の校了間際のちょっとしたいざこざから、激しい調子で印刷所との電話にかかっていた私は、ふいに胸さきをかるく押されたような心地で受話器をおいてしまった。
三日間の休暇願は課長の顔を思いきり渋くさせた。
妻を納得させるのはもっと難かしかった。
妻は、讃岐町子を知らない。逢っていないとか詳しく知らないというのでなく、町子の存在さえ知っていない。
妻だけでなく、両親も、友だちも、私が年久しく町子と親しいことを毛すじほども知らない。出逢いのはじめから今日まで、世間に曝(さら)されることを、これほどまで拒みつづけてきた本当の理由は、私にもよくわからない。来てほしい、そう町子が呼んでいるかどうかも詮索する気はさらになかった。岐(わか)れゆく日が早く来すぎたとも思わない。おめでとう、お幸せにと手紙に書いてそれまでということだけが夢にもあり得ようと思えなかった。讃岐町子に逢わねぱならぬことはない、と言ってはならなかった。

「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」
開いたまま膝に伏せた本をとりあげて、もう一度この言葉をきいた。岡倉天心の『茶の本(浅野晃訳)』は第一章をこの言葉で終っていた。
ほのかな明るさをたたえて空は瞑(く)れかけていた。汽車は木曾川の上を音たかく走りぬけようとしていた。

* 「私の」と謂える最初の小説、この小説と歌集「少年」ゆえに、わたしは初の私家版を思い立った。
医学雑誌と同じB5版の8ポ二段組み、八十頁ほどのまるで雑誌大だった。
妻が表紙の繪を描いてくれた。
「新潮」の小島さんは私家版のこの作を最初から気に掛けてくれ、わたしは大薙刀をふるって推敲した。「新潮」に出たとき、桶谷秀昭さんが「文藝」で一頁文藝批評の全部を用い、称賛してくれた。グイと前へ押し出してもらった。立原正秋さんも褒めていたよと人づてに聞いた。褒めて貰うということの嬉しさと怖さとを、ゾワゾワっと肌身に覚えた。

* そのころまだ「不倫小説」といったことばは公用語でなかった。「怪奇幽霊小説」でもいわゆる不倫主題と読める小説でも、わたしは、人のしないことをし始めていた。「妻のいる男と夫のない女との出会い」を書き続けていったのだから。
「美と倫理の」作家という呼び方で、また「異端」の作家という呼ばれ方でわたしは、おそるおそる文壇に足を載せていた。
2008 7・23 82

* マイミクさんの日記に、ひとりは「やるしかない」と書いて自身を励ましている人があり、深夜の独り言で「もっと」「もっと」と自身に鞭を当てている人もいた。どっちにも、ひさしい「覚え」がある。それなりにわたしの中に生まれている感懐もある。

* 「やるしかない」クンとは、何百度も顔をつきあわせてきた。たいていの相手は来ては去りまた来るのだが、この「やるしかない」クンはこびりついて離れて行かない、憎らしいけれども、一面親しくもある。彼が励ましてくれなければ、「簡単で詰まらない」ことしかできなくて、彼は失望して去っていっただろう。彼にこびりつかれているのは、良く強く生きる天恵なのだと思っている。
また、「もっと」「もっと」「もっと」 もっと健康になろうなどというのは結構。しかしこの「もっと」クンは何らかの欲、意欲や貪欲とくっついて人間を食いつぶしてきたそれが真面目な仕事の場合ですらも。
意欲を持つなと言うのではない。なにかべつの誰かサン(ことば)を発見し発明して、「今・此処」を健康に。豊かに。
「もっと病」は、精神のがんで在るのかも知れない。
2008 7・24 82

* いまどき、ましてわたしなどが「マルクス」と謂っても時季はずれを笑われるだけだが、しかし幾らかの欠点がその思想に見出されたにせよ、マルクスの資本主義批判には、今の我々も、働く人々は殊に、もう一度傾聴し奮発してよいものが的確に籠められていた。「働く」というと、何のために、誰のためにという根の問いがすぐ出る。資本主義社会では労働者は生活のために働くと言いたいが、基本は他人のために、つまり資本を持ち動かしている者達のために働いている。彼らが生産の結果は、ほとんど全てがそういう持てる人たちのものとなり、あてがいブチの極めて不当な僅かがやつとこさ働く大多数の手に滴のように零される。

* 「働く」といえば、誰よりも自分のために、また家族のために、ないしは属している社会のために働くのなら、労働本来の意義は成り立つが、資本主義経済の社会では、じつはそういう労働者の希望や願望や理想は全くといっていいほど、今日のように修正された制度のもとでですら無視されている。働いても働いても働きの結果は自分の手には貯まらない。
はたらけど はたらけど
我が暮らし らくにならざり
ぢつと手をみる
と啄木は歎いた。啄木の時代はとうに過ぎたのか。いやいや、彼が味わった時代の閉塞感は、いまや天皇制にはないだろうけれども、経済と政治との帝国主義的構造そのものに今も同様にこびりついて、鎖のように働く人たちをくくりつけている。格差などという物言いそのものがなまぬるく、実対は遙かにえげつないのに、働く人たちの意識は、啄木のようにも研ぎ澄まされていない。
どうにかなる、おれだけはなんとかなる。
そんな愚かしい錯覚にあまえたまま、ボケている。

* 哲学史のなかでマルクスはダーウインやフロイトらとならんで異色の存在だが、異色を絶対に必要とした「近代から現代へ」の脱皮に、どれだけ人類は身もだえして苦しんだか。その苦しみの価値が、いまでは、みなまた悪しき資本主義的構造に吸い取られて、世の中に臨時雇いの社員ナミばかりが息を喘いでいる。それが正社員の足もひっぱつているのを、正社員はノンキに高見の見物。なんということ。秦テルオの「血の池」のような繪をわたしは、毎日毎日の一見気楽そうな現世に観ている。
2008 7・28 82

* フウ、戸外の暑いこと、本の入った鞄をもって駅まで歩くと、苦痛で顔が歪むほど後ろ腰が痛むのを、なだめなだめ行く。新富町まで坐って行けて助かる。
予約よりずいぶん早くついて検査は、予約時間十時半には、もう済んでいた。
視野検査はほんと苦手。両眼で小一時間はただただ光の点滅を把捉してボタンを押し続ける。しっかり疲れる。疲れるのはまだしも、そのアトの診察の順番待ちがあまりといえばあまり、二時間以上もまたされた。予約時間から一時間半も遅れていた、しかも担当医師が退職していて、別医師のドンジリまで待たされた。
いらいらしながら待てたのは、『冬祭り』のおかげ、夢中で上巻を読み終え、用意よく中巻も持って出ていたので、没入できた。待ち時間を忘れていた。

* 津軽海峡からナホトカへ、そしてハバロフスク経由雨のモスクワに入って、ドストエフスキー誕生の建物を観たり、トルストイ伯爵邸だったソ連作家同盟で食事したり、ザゴルスクの三位一体教会を訪れたりする内にも、旅の「私」は、今はモスクワに住む「冬子」ともう電話で話し、明日早朝にはジェルジンスキー公園で逢おうと約束が出来ていた。二十数年ぶりの「再会」だ。
ひとは本気で笑うだろうが、わたしは読みながら、胸のつまるほど本気でわくわくしていた。その幸福のために、つまり、わたし自身が読みたくてそして嬉しくも懐かしくもなりたいために、わたしはわたしのすべての小説を書いてきた。読者のために書いてきたのでは、申し訳ないが、ないのである。「わたしの批評」に適うほどの作をわたしがわたしのために書いてきた。わたしの作中人物は、現実のだれかれよりもインパクトつよく豊かに美しく、みな真正の「わたしの身内」だ。ことにこの作品の「冬子=ふうちゃん」は、すべての「現実」と均衡して優にあまりあるヒロインの一人、唯の一人。
2008 7・28 82

* 一時半まで読んでいた。バグワン、万葉集。そして南北朝混戦の太平記は、残る一冊になった。
『冬祭り』が読みたくて、その三冊でやめた。
モスクワのオスタンキノホテルに旅宿の早朝、近くのジェルジンスキー公園でわたしはモスクワに今は暮らす冬子と逢った。深い夢を見るような一刻を、ホフマンの『黄金宝壺』が伴奏。わたしを「アンゼルムス」と冬子は呼んで、繁ってかすかに揺れる枝葉のおくから「セルペンティナ」を招いた……。ま、そんなことはいい。
読み進んでいて、血の気が引いた。こわくてではない。懐かしさと、おそれとで。

☆ 冬祭り  八章「再会」から一部分

「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くったって、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いぐさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言えるのか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いっせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっとり潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の……こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこと見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがってるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりたというんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたとおりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほんとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にもった。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッセイをあげた。離婚したばかりの順子(=冬子の妹)と京都で逢ってきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願ったが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。みな嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえてしまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげるべきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああもっともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思ったろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でなく、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まことならば、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は「一瞬の好機」であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思うからで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになりたいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれてきてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子どもだと思った…」
「…でも」
「あのセルぺンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃんの口遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい口走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪咎の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやまぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。

* 「卑怯よ」と言われたあの瞬間に血糖値が急降下し始めたのだろう、この日ごろぼんやり思い、執拗に抱いてもいる気持ちを、突然、作中二十余年ぶりに再会したモスクワの冬子の口が、突き刺すようにわたしを咎めてきた。いま、いちばん聴きたかった言葉を「冬子」が口にし、現実のわたしに爪を立てた。その瞬間まで忘れていたそんな冬子の言葉にのけぞった。目の前が、薄青いいろに変じていた。

* いま一つ。
「二日、半」しか生きなかった「ぼくたちの子」が、横浜の埠頭でバイカル号に乗船いらい、わたしにつきまとい続けていたではないか、「加賀法子」と名乗って。

* 一時半まで読んでいた。バグワン、万葉集。そして南北朝混戦の太平記は、残る一冊になった。
『冬祭り』が読みたくて、その三冊でやめた。
モスクワのオスタンキノホテルに旅宿の早朝、近くのジェルジンスキー公園でわたしはモスクワに今は暮らす冬子と逢った。深い夢を見るような一刻を、ホフマンの『黄金宝壺』が伴奏。わたしを「アンゼルムス」と冬子は呼んで、繁ってかすかに揺れる枝葉のおくから「セルペンティナ」を招いた……。ま、そんなことはいい。
読み進んでいて、血の気が引いた。こわくてではない。懐かしさと、おそれとで。

☆ 冬祭り  八章「再会」から一部分

「なら、その国民経済成果博覧会とかいうソ連の万博は、遠慮するよ。かりに話すことがもう無くったって、ここでこう、さっきも言ったけど、二人でいたい。せっかくならね」
「ありがとう。でもソ連も、たくさん見て帰りたいンでしょ」
「ぼくのは、ソ連でないと、という旅じゃないんだ。冬(ふう)ちゃんが呼んでいる、だから来た。来たかった。たわいないか知れないが、それが…ぼくの、生きてるって意味(こと)でね」
いかにもたわいなかった。浅々しいそんな言いぐさに頬朱らむのを自覚した。だが冬子が呼べば冬子のもとへかけ寄るそれ以外の、そんなたわいなさ以外のどんな生きる意味を抱きかかえてきたと言えるのか。政治、ちがう。文学、ちがう。肉親、……ちがう。夫婦だけだ。ほかはどれも百万年の記憶に耐ええない。冬子は、だが永劫(えいごう)の一閃(いっせん)──。
あたりは尋常な西洋庭園の風情だった。白い幾何学模様の浅い浴槽(ゆぶね)ににた池や、池に通じる太い鎖状の水路や、物指をあてたような大小の敷き砂利が、まぶしい芝の緑にひき映えている。空気も、しっとり潤って感じられる。噴水のまだ出ていないのがかえってありがたく、ひっそり池の端に腰かけ、内側へ一つ段が造ってあるのに足をあずけて内向きに冬子とならんだ。日の光が頭、背、膝を、足先までを黄色く包みこみ、池水は雲のかげをうかべ、時おり小波をひろげてはまた静まりかえる。
「あなた(三字傍点)の……こと」と、冬子ははじめての呼びようで、間を、ちょっとおいた。「ずっと……永いこと見てましたの。考えてたの」
「………」
「あなたは、遺書を書くぐあいに小説や随筆をいつも書いてらっしゃるのね。いつでも、もうこの仕事が最後と思って、待っていらっしゃる」
「待つ…」
「そうよ。なるべく不意にそれ(二字傍点)の来るのをね。で、それで、なにかに対し、頭をさげたことにしたがってるみたい。でも、……それ(二字傍点)は卑怯だわ」
「そう。卑怯だね。…帳尻をあわすみたいで」
「あたしが言うとおりのこと、でも、思ってらっしゃるでしよ」
「………」
「ですからお逢いしたかったの。一度、早いことお逢いしなきゃ、と思うようになりましたの」
「ありがと。あれ(二字傍点)をネ、例の牧田さんの手紙。あれを見たとき、やっと…と、思った。肩の荷がおりたというんじゃむろんないが」
「へんな言い方しますけど、つまり、退場する権利を手にいれた……」
思わず微笑(わら)えた。退場する権利、か。うなづいた。
「するとこれは、今度のご旅行は、花道かなんかのおつもりですの、舞台を下りる」
「そりゃ今度に限らない。この数年、いつも、なにをする時もその気だった。あなたが見抜いていたとおりさ。ただし死は自分で決めることじゃない。不意に決まってくれる。それを待っている。それはほんとだ」
「宏ッちゃんに、あたし、提案があるの一つ」
「なに…」
「まだ、言わない。でも近いうちにきっと言うわ。だから、なるべく受入れていただきたいの」
なにに拠って冬子が「遺書」の一語をひきだす忖度(そんたく)をしたか。察しに錯(あや)まりがないだけ興味を逆にもった。冬子は、即座の一例に、「絶筆」というエッセイをあげた。離婚したばかりの順子(=冬子の妹)と京都で逢ってきた、あの年の霜月すえか、師走はじめに書いていた。
──伊豆の山に浄土房という僧がいた。寺は弟子にゆずり、山ぎわに庵室をかまえて後世菩提(ごせぼだい)を願ったが、長雨に山がくずれて、庵室もろとも埋められてしまった。惨状、ほどこすすべもなく、せめて師の遺骸をえたいと弟子が土を掘りのけてみると、庵室は跡形ないなかに師の御房(ごぼう)はつつがなかった。みな嬉し泣きしたが、当の浄土房ひとり浮かぬ顔で、「あさましき損を取りたるぞや」と愚痴っぽい。
損とは庵室のことか、本尊などを失ったことかといぶかしむ弟子に、浄土房は首を横にふった。自分は如来観音を念じて災厄をまぬがれると思い馴れてきたので、此度もとっさに「南無観音」ととなえてしまった。だが、そのひと声をとなえた同じひまに「南無阿弥陀仏」ととなえて極楽往生をこそとげるべきだった。つまらぬ命拾いして、「うき世にながらへんこと、本当(まめやか)に損をとりたる心地す」と、浄土房はさも□惜しげに涙を流した。聴く者もみなもの哀れに思った──。
なにげなく古い本で拾い読んだ話だが、理屈ぬきに同感、も言いすぎだろうが、同情できた。ああもっともだと思った。いい話だなといった価値判断ではない。自分が浄土房であっても、同じことを思ったろう。そればかりか、即刻只今、浄土房と同然のはめに陥ったとして、願わくは現世利益(りやく)の観音でなく、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の南無阿弥陀仏をとなえて往生したいと思うと、わかっていたからだ。弥陀の本願まことならば、といった条件をつけてではない。また死を望むのでもない。
死は「一瞬の好機」であり、すばやく果すべきものという気がある。これは自殺とはもっとも遠い観念だ。好機は稀に恵まれる。浄土房が一瞬の逸機を「損」と思う悔いの痛みは、だから一層重く、尊い。
多少の気はずかしさに抗(あらが)って、「念々死去」の四字がいつも頭にある。好機にたしかに逢おうと思うからで、これも、進んでは死を望まない意思表示であるつもり、浄土房のような山崩れの下敷きになりたいとか、交通事故に遭いたいとか、重病に罹りたいなどというのではない。逆だ。
──と、そんなことを枕に、正岡子規や尾崎紅葉らの絶筆に対する感想を書いたのだった。
「……考えることは変わってないが。この数年、気もちはずっとなさけなく、濁ってきてる。よごれてきてる」
冬子は、すこし潤んだ眼で見かえすように視線をとめ、黙然と、膝においていた手をとりすり寄って、顔を、胸へ埋めてきた。
「ぼくが、どれくらいいいかげんな男か……子どもが死んだと聴いた先刻も、即座に、牧田さんの子どもだと思った…」
「…でも」
「あのセルぺンチナ。そうさ。奇蹟みたいなあの綺麗な小蛇にさっき逢わせてもらった。そして冬(ふう)ちゃんの口遊(ずさ)みに誘われて、ぼくは……原作にない、〈娘よ〉と、つい口走っていた」
「ええ」
「きみは…、ぼくの子を産んだのか」
「いいえ、死なせたのよ。あたし……あの子を、抱いてもあげられなかった」
「あの……一度で、か」
夢にも幾度想い描いたかしれぬ罪咎の始終をうつつに聴きながら、実感とほど遠い心地で、顫えやまぬ冬子を日の光のさなかに抱いていた。
「ぼくたちの子。……どれだけ、生きられたの」
「二日、半」と冬子は顔をおおった。

* 「卑怯よ」と言われたあの瞬間に血糖値が急降下し始めたのだろう、この日ごろぼんやり思い、執拗に抱いてもいる気持ちを、突然、作中二十余年ぶりに再会したモスクワの冬子の口が、突き刺すようにわたしを咎めてきた。いま、いちばん聴きたかった言葉を「冬子」が口にし、現実のわたしに爪を立てた。その瞬間まで忘れていたそんな冬子の言葉にのけぞった。目の前が、薄青いいろに変じていた。

* いま一つ。
「二日、半」しか生きなかった「ぼくたちの子」が、横浜の埠頭でバイカル号に乗船いらい、わたしにつきまとい続けていたではないか、「加賀法子」と名乗って。
2008 7・31 82

☆ 悟り  慈
子規の言葉。 「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。」

* 『糸瓜と木魚』で子規をを書いていて出逢った。胸に、深くおさめた言葉。
2008 8・1 83

* 人は大海の孤島、我一人の足をのせて立てるだけの孤島に、投げ込まれるように「生まれた=was born」と、少年の昔からわたしは思ってきた。しかもその小さな島に、いつしかに「身内」の何人もと、何十人もと、倶に立つ事が出来ると思ってきた。タイヘン貴重なそれは相互依存の錯覚であるだろうけれど。
ところで、そんな孤島に投げ込まれた「わたし」とは、だが、どんな「者」であるのか。無味無臭の記号のような単体であるわけがない。また自分の意向でそんなひろいひろい海の孤島に自発的に飛び込んだのでもない。
「was born=生まれる」とは、文法上も優れて自然であると同時に、間違いなく受け身の意義を帯びている。投げ込んだ「何か」もとの力が在り、人によれば「神」とも呼ぶのだろう。わたしは「神」という文字に足を取られたくない。わたしは、途切れることのない「時空」の働きと、その孕んでいる内容を想っている。自分のなかに「過去の全部が関わっている」と。突然、無意味に記号のようにわたしは涌いて出たのではない。
バグワンは言う。言い切っている。
「過去の全体がおまえによって携えられている」
「おまえは過去全体の運搬者だよ」と。
過去全部の総決算としてわたしは大海の孤島に立たされた。投げ込まれた。
「おまえは、過去の全部の果実であり、そして、おまえは、全未来の種となる」とバグワンは明快にわたしを打つ。
わたしはいま、何人の身内と「島」を共有しているのだろう。
2008 78・2 83

* 「慈」さんは子規の言葉を、いま、新ためて贈ってくれた、
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた」と。
わたしの頭にも染み通っていた言葉だが、「いま・ここ」できっちり心新たに聴こう。

* 『冬祭り』の冬子も、死のう死のうと生きるのは「卑怯よ」とモスクワの朝の公園でわたしを窘めた。それもまた、いま、心新たに聴いた。
ソ連を旅してグルジアまで行ってきたわたしは、モスクワにまた戻った晩、高校の先輩牧田氏の家に招かれた。約束だった。冬子は牧田氏の、妻。
「来て。モスクワへ来て」と夫牧田氏からの手紙に、その横文字の署名に鉛筆で、わたしたちにしか判読できない約束の暗号を添えてきたのは冬子だった。
レニングラードへ、そしてグルジアへ発つまえは、二日続けて、モスクワのジェルジンスキー公園で早朝のデートももう重ねていた。
とうとう、牧田家へ訪問のときがきた。晩景のモスクワを、ソビエツカヤ・ホテルへ迎えに来た牧田氏の車で、郊外のアパートへ走った…。会った。

* 手練れの読み手である当時中公の文藝編集者だった青田吉正氏が、「こんなに完成度の高い作だったんですね」とおどろいてくれた賛辞を、わたしは、いまあらためて素直に感謝いっぱい受け取る。
そこまで読んだ、そこまで読んで、いま、手を入れたい、削りたい、まずいと思う一箇所も認めなかった。なにか大変なモノに手を惹かれて書いていたようだ。一字だけ湖の本に誤植を見付けた。

* 谷崎潤一郎も書いていた、晩年は自分の書いたモノを読み返して過ごしたいと。
そう知った頃のわたしはまだ少年か青年だったが、さもあろうなと思った。彼の『吉野葛』を読んで、これは作者自身がいちばん読んでみたかった小説にちがいないと思った。
他の誰も書いてくれない以上自分で「書く」しかない。わたしは、まだ書き始めてもいない中学高校生だったが、「書く」なら人に喜んでもらうまえに、自分で「読みたくてたまらない」ような小説こそ「書きたい」ものだと思った。
自分の書いてきたたくさんな作品の中で、そうでなく書かれたモノは、在ってもごく少ない。あれもこれもそれも、みなわたし「自身が読みたくて、いつでも読み返したくて」書いた。死んでからも読みたい。
2008 8・2 83

* しばらくぶりに、小説のつづきに手をかけた。気持ちがはずむ。したいことが、幾らもある。
2008 8・2 83

☆ 藁のお布団  珠
暑い土曜日。。。一昨夜の稽古の替わり、昨日は土曜稽古へ。
日照りの中、しばらくぶりに駐車場へ行く。
駐車場の隣は大家さんの畑。柵越しに赤いトマトや葉物繁る様子がよく見える。
この暑い季節の農作業、さぞかし大変なことだろう。”雑草と競争だよ”と言って、欠かさず畑に出ていた祖母を思い出す。大家さんもお婆さん一人、日々の仕事にと畑だけは手放さず、毎日手入れをされていると聞く。
ふと見ると、私の駐車スペース後方に藁の束がこんもり。。。何、これ?? どけようと恐る恐る束を掴むと、なかから西瓜が出てきた。
まぁ!
もう小玉西瓜並みの大きさだ。柵越えして伸びた蔓の先、駐車場のアスファルト上で実をつけてしまったらしい。西瓜の下には藁の敷布団。アスファルトでは西瓜も茹(ゆだ)って辛かろうということかぁ。。暑いけど、頑張って、大きくなぁれ! 藁布団を掛け直す。
土曜稽古はおば様方多く、賑やかで、五月蠅い。茶以外の話しが多くて、残念。夜眠れないからと茶は飲みたがらない、足が辛いと客にはなりたがらない、、
お指図のまま有難く客になってお茶頂いてたら、気づくと八服! もう充分です、ホント。
で、撤収も速いおば様方でした。
稽古って、何でしょうか、ね。「稽古場に来た」その事実だけが、大事なのでしょうか。。いい人達には違いないけど、共に茶をするのは、疲れます。笑顔の相槌も、徐々に強張る土曜稽古。はぁ、、、
夕方、駐車場に車を停め、西瓜のご機嫌伺い。早く大きくなぁれ。、、、でも、これ、私が穫って食べるわけには、いかないのかなぁ。うーん、食べたいよぅ。。。

* 茶の湯と談笑とは、ひとつのリトマス試験紙のようで、人により反応が違いますね。「和・敬」の理解でうごいてきます。
稽古場の茶と茶席の茶とは、どうあるのでしょうね、同じが当然か、違って当然か。
茶席も、正客の理解一つで、押し殺したような沈黙と型どおりなアイサツに終始したり、和んだ談笑のうちに茶・菓や床や花や時節が楽しまれたりします。人が寄っての飲食の遊藝と観るか、座禅瞑想の変形と観るか。へたをすると茶の湯が、ともに緩んだり乾いたりします。
稽古場では、何を覚えるか。作法や精神。それもある。寄り合った者達を通して「人間」の世間・社会を観てくるのも茶の湯ゆえの功徳です。大事なのは「茶」ではなく、「人間」観察ではないか知らんとも思っています。
これは「真」さんにも聴かなくては。 湖・宗遠

* 西瓜が目に見えるような、夏。こういう夏って、好い。
2008 8・3 83

* 安城市の伊藤暢彦さんからは、スッキリしたデザイン、純白のマグカップを今朝戴いた。翡翠の粉末が練り込まれてあり、微妙な効果があるという。それもいいが、姿が好い。お茶にもビールにもミルクにも、ワインにもスープにも、あるいは花を挿すのにも使える。ボテッと重いところがなく、いい大きさなのに軽妙に軽いのもとても好い。取っ手の付きが上手で、不自然に傾く不安定がない。有難う存じます。
もう久しい、最初からの「湖の本」の読者。ていねいなお手紙も添えられていた。

* 秦さんの「書いて」こられたすべてが秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。

* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。
事実を追ってみると、
二十五日火曜日にやす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親から家へ電話が来た。医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取ってはと伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。
その二日後、二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は断言している。

* 造血機能が完全に破壊された「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。かくて必然、「母親の誕生日」に十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。

* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、おどろいた。熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが偶然の奇遇とみるか、意識された契合とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれずぞぞっとくる愕きにとらわれた。何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。

* 我々の娘は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏に、「わたくしは『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞していただけだが、あの娘の例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の聞き捨てをふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたようよと云う。
詳しくは書かないが、「加賀法子」は、訪ソの旅に他の作家たちと出かけた私に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。私は、モスクワに逢いたい人を待たせていたが、その人妻は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を死なせていた。「法子」はどうも、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは私の娘、であるのかもしれないのだった。

* わたしたちの娘・夕日子は、じつに、「加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない「唯一の」情報だった。
野呂さんは、私の今後の作に、また繰り返し「法子」らの魅惑に富んだ復活をと、同じ書評の中で期待されていた。小説を読んで確かめて欲しいので、此処に『冬祭り』をくわしく語ることはしないが、成田へ帰国した場面を参考に引いておく。
同行した宮内寒弥さんはモスクワから単身ヨーロッパに向かわれた。わたしは高橋たか子さんと二人で成田空港へ帰ってきた。
「創作」された小説 (フィクション)なので、他の多くの作品同様、作中の「朝日子」は、当然、マスキングも仮名化もしない。現実の娘とはべつの、著作中のまるで別人と想って欲しい。

☆ 冬祭り  「冬のことぶれ」の章より
──Tさんが先ず朝日子を見つけた。見送りの日のまま、オレンジ色のワンピース姿で手をあげている。
と、──朝日子のすぐうしろから、竪(た)てた指一本を口にあて、ちいさく頷いて咄嵯に人波に沈んで行った、ジーパンの、赤いティシャツは──。
東京箱崎のターミナルビルまで空港のバスを利用し、Tさんともそこでいよいよ別れを告げてしまうと、自動車のにがてな娘にしんぼうさせ、タクシーに大きな荷を積みこんだ。
成田までもご苦労さん。留守中は変わりなかったか。出した手紙はみな届いているか。えらい暑さだが、母さんは夏バテしていないか。
やつぎばやに訊く一方だった、が、答えるほうはのんびりしていた。おやじが、無事に帰ってきたのだ、朝日子にしても連休初日の早起きで、ほっとして睡くもあるのだろう。そう思いつつ、明日ともいわず今日からもう始まるもとの暮しへの無事着陸も果したかった。
そんな、もと(二字傍点)の暮しなどという安直な考えが、日本の土を踏むとたちまち湧いて出るていどの旅だったではないか。つまらないやつだおまえは、と自分で自分が嗤(わら)えたが、その嗤いにしても一種気取りに類する、やはり、帰ってきた興奮なのであった。
「えーと。今日は…」
「日曜日。だから、けさお父さんの古典講座、八回めのラジオもちゃんとお母さん、聴いてたみたいよ。それと北の湖、また優勝」
「そうかい北の湖。そりゃいい。十七回め、か。新横綱はどうだったい。三重の海は」
「よく知らないけど、可もなし不可もなかったんじゃないですか」
「建日子(たけひこ)は」
「本気みたいよ、中学受験」
「へえ……」
「けさも、さっさと勉強に出かけてたし」
「代々木」
「いえ。二学期からは、同じN塾だけど、お茶の水にもあるんですって」
「で……おまえは。矢が、まともに飛ぶようになってるか」
朝日子の弓がどんな腕前か知らない。弓道部がそっくりどれかの流儀に属しているのは当然として、道場に、袴をつけた部員たちが正座して居並ぶわけだ。射手の矢が的を抜けば、すかさず「ヨツシャぁ(良射)」とはやし、逸れれば「ちよいやァ」と泣き、たまたま四射して四中しようなら、声をそろえ、「カイチュウ!(皆中)」とさけぶはなしは、いつか妻からまた聞きに聴いて大笑いした。二本に一本の率で当たれは「ハワケ(羽分け)」たなどともいうらしく、朝日子が、ハワケるまでとても行かないのはまだ半年たらずの稽古でしかたないが、いろいろある同好会のなかでなんで弓道部なのか、妙にくすぐったい気がしていた。
「お父さんこそ、どうなの。ソ連が、面白かったとかって。さっきから、すこしも言わないじゃないですか」
「そりゃ面白かったさ。家へ帰ったらいやほど喋るとも。聴き手は多いほうがハリアイもあるしラクだからな」
「お母さん…心配、してたわよゥ。まいンちうるさいくらい」
「どゥして」
「どしてってことはないですけどね。なンてっても、テキは、ソ連ですから」
「テキはないだろう。お父さん満足してちゃんと帰ってきてるんだからな。ソ連が厳重要注意だとは、やっぱり思ってるけどね。あそこは隅々にドジでドンで、能率の悪いとこが多いわりに、外をむけば、大号令の威力をめちゃに表わしそうだし。……もっとも、本気で日本に親切な大国なんか有るはずないと思う。……マ、隣国の島国からすると、奇妙に、どこもけんのんな大国ばかりサ」
「さかさまだと、安心なのにね」
「どういうことさ」
「日本みたいに、大号令は通らなくても、末端(はじ)は、なんとかテキパキしてる……」
娘は父親の凡庸な大国論を、ほとんど素知らぬ顔でそんなふうにやりすごすと、一言、
「ま、これからせいぜい勉強してね」とつけ加えた。それはそのとおりだった。分からんことは分からんとそれで済ます気はないにしても、見さかいなく通(つう)がるのは、はた迷惑だ──。
タクシーは目白を走っていた。
「仕事……来てそうか」
「暑苦しいくらい。お机に山積みよ」
「やっぱり。どこか涼しそうなトコを見てくるなんて話でも、ないかいな。それにしても、なァんて日本は暑いんだろ」
「取材旅行の話なら、ありましたよ。窯場を見てきてって」
「また…。どこの」
「お母さんが電話で聞いてたけど。山陰のほう…じゃない」
「萩……。出雲。それとも丹波かな。丹波だといいがな」
「どうして」
「立坑(たちくい)の、蛇窯って登り窯が見たいんだ」
「蛇…窯。恰好が」
「だろ。たぶん山坂をうねうね這うぐあいに窯が築(つ)いてある」
「丹波というと、京都府ね」
「兵庫県だよ、丹波焼の窯があるのはね。丹波は昔は丹後も、だぶん但馬も含んで、出雲勢力圏と山背(やましろ)、大和、伊勢とをつなぐ微妙な古代の道だった」
「四道将軍の一人は、丹波に派遣されてましたね」
「ああ。よく憶えてたナ」
「そうそ、パパ」と朝日子は幼い日の呼びようにもどって、
「ホラ蛇窯といえば、あの、Y女史の、蛇の古名〈カカ〉説だけど……」
「………」
「あれと、べつの説が出てたの、ご存じ」
「べつの説なら、幾らもあるんだよ、以前から。ヘビは、ハビ、フェビ、ハブ、ハバ、ビミ、ベミ、ハミ、チャミ、みな同根の名前だって。チ、ツチ、ツツ、カガチもそういうし、沖縄の青マタ赤マタのマタもそうだし、ほかにも、ナ、ナガ、ヌガ、ヌラ、ナワ、ナメ、ノジ、ヌシ、ノロシ、ナブサなどと、きりないね。
柳田国男は〈青大将の起源〉なんて論文を書いてるけど、日本中でそりゃ蛇はいろんな名で呼ばれてて、カカなんて、じつは未知数の新説なのさ。で、なんだって。どこで見たの。きみのその説は」
「中村さんて弓道部のお友だちに聞いたの。彼女は週刊誌で仕入れてギョッとしたんですって。でもお父さん知ってたのね。ナカ=蛇族説」
「……週刊誌はよく見てないんだけどね。柳田が拾った名前にも、ナ、ナガ、ヌガなど挙がってるしホレ、北九州志賀島(しかしま)で見つかった金印。漢に貢(みつぎ)する倭(わ)の奴(な)の国の王に対し漢王が与えたという金印さ。
この場合の〈奴(な)〉は自称か他称かわかンないが、あの辺は大昔アヅミ族の根元地で、シンボルは多分まちがいない、蛇。そして海人(あま)の原郷ともみられる中国江南語では蛇を〈ナ〉と呼んでる。もっと南のタイまでも行くと、頭に角の生えた密林の巨大な怪蛇を〈ナーク〉と呼び、実在が信じ怖れられているそうだし、インド語やマレー語の蛇神が〈ナガ〉……」
「ナークなんて、英語の、スネーク(四字傍点)にもつながりそうね」
「それでね。日本のことを豊葦原のナカツクニというじゃないの。この呼びかたはどうも上中下の中の意味じゃなく、茂った葦原に根づいた蛇族(ナカ)の国だろうという人もある。首領がナガ髄(すね)彦さ」
「中村さんをびっくりさせた週刊誌のK氏説が、そうなのよ」
「そりゃギョッとしたろうね。この、蛇をトーテムにする渡海種族が、それ以前の日本の、粟作と焼畑を主とした農耕生活に、新しく稲栽培を、米を、もちこんだらしいよ」
「じゃ、ヘビという言葉は」と、朝日子。
「これは朝鮮語なんだね。ビミ、ベミ。金思燁という学者は、耶馬台国の卑弥呼をさしてはっきり、蛇姫ないしは光明姫の意味だと言ってる。お父さんはこれは彼女らの自称じゃなく、様子を知った朝鮮、中国の人から見ての他称だろうと思うし、奴国(なのくに)と卑弥呼は、同じじゃないにしても、ナもヒミも蛇族の名のりである確率は高いと思うよ。あの金印の摘まみは蛇のかたちだしね」
「いやァね……」
「でも、それが日本さ。主に海から糧(かて)をえていた、漁(いさ)りをしていた漁夫(いざなぎ)、漁婦(いざなみ)がいて、アマ照ス日の神、月の神、海の神がいて、その子孫が、山の神の娘や海の神の娘と次々結婚したんだもの。日本の神話はおおかたアマの伝承に根づいていた。それを征服王朝である大和朝廷が、じつに上手に彼らの支配を妥当化すべく系譜化しちゃったんだなァ。
国生みの一等最初に出来た淡路島も、出雲国も、伊勢国も、難波(なにわ)も熊野も吉野も山背(やましろ)も、みなアヅミやハヤトらアマの根拠地だよ。その範囲は日本中の海ぞい、山なかにわたって断然広い。まさに葦原の蛇族(ナカ)の国といえる時期がなが(二字傍点)かった」
「そういえば、長虫ともいうわねェ」
「そもそも、なが(二字傍点)いという日本語の語源が、蛇(ナカ)だったとも思える」
「お父さん、おどろいちゃァだめよ。そのナカさんが家を訪ねてみえたのよ」
「えッ」
「ナカ・ノリコさん。ジーパンに赤いティシャツの美人。小説見てほしいって。読者よ。あたしはきのう弓道部で留守だったの。お母さんと建日子と、おそいお午の最中だったので、クロワッサンとスープとご馳走したんですってよ」
「どこの……人」
「よく聞いてませんけど」
「……ナカさん」
「ネコとノコとが、ぬッと例によって脚で障子あけて、右と左からお部屋に入ったの。その方ね、きやァとお座蒲団で、こう、ガードしたそうよ」
「かわいそうに…」
「ほんとね」と朝日子は笑うが、とても笑えなかった。
「写真たくさん撮れて」
「写真…。あ。禁止命令(ニエット)は一度もなかった。自制すべきは、したからね」
「税関で、ぜ-んぶ消されちゃうとか」
「それはぜったい無い。そういうことを、お互いに言ったり思ったりするのはいかんね」
「そうね。ごめんなさい」
娘は頭をさげた。タクシーはやがて西武鉄道を跨ぐ大きな陸橋へかかるだろう。ふっと黙りこんだ。
その、ノリコとかいう名の、中か、那珂か那賀か、名賀かもしれない「読者」が留守中家族に会って帰ったという話の、ほぼ決定的な冬子帰国のことぶれ(四字傍点)であるのを、信じた。カガ、法子──に違いないと思った。空港へわざと姿を見せた、あれも。

* わたしと娘とが話すときは、だいたい、ま、こんな調子だった、大学を出て谷崎夫人のお力添えでサントリー美術館に就職できたころまでは。
訪ソのときも、横浜埠頭へも成田空港へも、頼まなくてもこういうふうに見送りや出迎えに来てくれる娘だった。
そして後に、この場面にまた姿を現している「ノリコ」と自分とをなぜか「一体化」させ、空想だか幻想だか妄想のペルソナ(仮面・役)を「自身に配役」していたらしい。

* この加賀法子に遙かに先立っても、娘は「ノリコ」ちゃんには弱かった。小説『ディアコニス=寒いテラス』の背後に隠れていたのも本名「ノリコ」ちゃんであった。

* こういう追究をあえてしているのは、例の娘による「ハラスメント」という異様な申し立てが、いったいどんな心理的な背景を持っていたか、不思議でならなかったからだ。小説家として追究してみたかったからだ。なにかしら異様なモノとの「一体化」に娘は溺れていたのか。

* むかし、私がある種の成行に対する予測を語ろうとすると、娘は、よく金切り声で叫んで止めた、「パパが云うと、その通りになっちゃうから。云わないで!」と。
娘は、父に、どんな威力を感じていたのだろう。

* どうか。娘と、ふつうに話し合いたい。今起きている何もかもから離れて、上の小説の中でのように。あれやこれやを。それが今の願いだ。

* ★★★は、「秦氏は、私が義父(=秦)に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、週刊誌記者氏に語っている。

* 何をか云わん、「平和で安穏な10数年」どころか、「家庭の崩壊と離婚への足取り」は決定的で、幼い娘二人はいつも泣いて歎いていたことを、必死に堪えて絶望していたことを、やす香の親友ははっきり証言してくれている。どっちが信用できるかは明らかだ。やす香親友の言葉には、ピュアな真情がこもるが、上の★★★教授の言葉には、何が「証拠」で、どこが教授かと眼も耳も疑う、薄っぺらさが露呈している。
もし娘が、父を訴えた事情を本気でぜひ話したいなら、あの週刊誌記者にむかい、娘本人が出てきて率先話していただろう。それでこそ、記事表題通りに、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」といえるが、あの「週刊新潮」記事には、娘・夕日子の名も顔写真も、父を攻め立てる一言葉すらも出ていなかった。
出ていたのは、何処の馬の骨とも分からないように「仮名・高橋洋」を名乗っていた青山学院の★★★教授であった。
2008 8・4 83

* わたしの「今・此処」は、何だろう。
作家としての創作生活。まちがいなく、それが在る。閑却も放擲もしていない。
仕掛けられた、裁判。まちがいなく、それが在る。裁判所へ提出された双方代理人の書類が、最近のだけでもダンボール箱にぎっしり詰まって溢れそうである。みな、A4判の紙書類だ。むろん閑却も放擲もならない。
法のことは代理人に一任しているからといって、わたしや妻の考えは法廷に伝えねばならず、そのためにはそれらを読んで咀嚼し、批判しなければならぬ。関わっている以上責任があり姿勢がある。
第三者からは「放っておく」のも「ほどほどにする」のも簡単だが、私たちには簡単ではない。簡単でない物事を、キザに簡単「がって」嘯く趣味はわたしには無い。ひとさまのことはこの際考慮におよばない、わたしはわたしの「おそらく、それでいいのだ」という道を歩いてゆく。「絶対にいい・わるい」ということは考えない、それこそ高慢なことになる。

* 「おそらく、これでいいのだ」と思い、その道をわたしの「今・此処」と受け止め、歩んでゆく。嗤う人は嗤われてもかまわないが、願わくは嗤わないでもらいたい。
あるいは嗤われずに済む私たちの道が、他にあるなら、教えて頂きたい。

* 書いている小説等の「創作」に類することは、このサイトにいきなり持ち出さない。ワープロソフトをつかい、書き溜めている。「静かな心のために」のように、校正かたがたサイトへ持ち出して、より大きな仕上げのために、人に読んでもらい自分も読み直している仕事もある。
下書きの小説『聖家族』も、未完成のうちは、始終推敲のためにサイトに持ち出し、手直しを繰り返していた。『お父さん、繪を描いてください』の場合などは、実験的に最初からサイトで初稿を書き進めていて、メドの立ったときからワープロソフトへ引き上げ、そこで長編小説として完成させた。

* 娘が、つまり姉娘がブログで小説を書いていると、弟息子・建日子から「ぜひ読んでやってよ」と言ってきたとき、わたしは最初ガセネタだと思い、道草を食うなと息子を窘めた。息子ははじめ、サイトのアドレスだけを言って寄越したので、息子の隠れ遊びのようなモノかと思ったのだ。
「ちがう、姉貴が書いているんだから、読んでやって」と言い直してきたときは、文字通り「驚喜」した。
だが、その不幸な顛末は、もう広く知られてしまっている。
しかし、「顛末」というほど、事は「済んで」はいないと考えてきた。

* 娘は、弟に対し、父に小説を書いていると報せたのを怒り、父が「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」に保存したことを怒り、第四作目に当たるらしい『葛の葉』の出だしが「気をつけないと緩んでいるよ」という父の助言に腹を立てた。のちには、「高慢に批評する父親」といった物言いで、著作権侵害を言い立ててきた。「損害賠償せよ」と。なんたること。

* わたしの記憶では、作品を最初に読んだ時点と、著作権侵害で訴えると言ってきた間に、かなり時間差がある。父親が甘い点をつけ、作品保存・保護の意味からも「e- magazine 湖(umi) 」に掲載していた時期がけっこう永くあり、その間、じつは娘からはなにも苦情は来ていなかった。
すべては、やす香の『かくのごとき、死』直後の、★★夫妻連名での「提訴の脅し」から始まっていた。記憶の間違いがなければそうである。

* なぜ娘はあんなに時季後れで怒ってきたか。怒ったのは、ほんとうに娘だったのか。じつは、夫★★ではなかったのか。
★★は、娘が笑って漏らしていたように、外の世間では、聞かれもしないのに「作家秦恒平の娘の夫です」と口にする男であったという。事実は知らない。しかし、「作家・小説家」というわたしに対抗心か敵愾心をあらわに持ち、妻を前にしきりに「作家」をバカにしたがったということは、彼自作の『お付き合い読本』を読めば、察しがつく。

さ 作家とのお付き合い  作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは「ウソ」であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに。

わたしはこの言説に「苦笑した」と、小説の中でとりあげている。他のくだらない項目より、これは或る意味謂えている一面も無くはない。
それにしても、彼は、すでに「作家」であり、娘を妻にもらうに際して「光栄です」というウソくさいアイサツで頭をさげたようなその作家に、相当な対抗心・嫉妬心を持っていたのは分かる。彼が筑波でやっと技官に成ったか成らない時期に、舅は、思いもよらず東工大から工学部教授として正式に辞令を受けている。どうせ「ぱんきょう(一般教育) でしょう」と言われたときは、正直、彼が可哀想になり、代われるなら娘のためにも代わってやりたかった。
ともあれ私の前では光栄がっても、妻になった娘には、「作家」なんかボロカスであったろうことは分かる。ありそうな、なにもとくべつのことではない。
しかしながら、その妻までが、自分に隠して「作家の真似事」をしていたと知ってみると、怒りは、まず夫から爆発したのではないか。「著作権侵害」とか「提訴」とかいう「法」がらみは、★★★の昔からの得意技で、わたし自身、東工大時代に彼からそう「警告」されたことがあった。彼から送りつけた親を罵詈讒謗の手紙類を、もし秦が秦の書き物に利用したなら「訴えるからな」という手紙が大学へ届いていた。そういうヘキの人物なのである。
じつのところ自分の妻が「作家」秦 恒平の「娘」である事実が、夫★★には時が経つに連れ、忌々しくて仕方なかったのではないか。

* 「秦氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、★★★教授は、昂然と週刊誌記者氏に語っているが、彼の虚勢と虚偽は、明らかに否定されている。
「平和で安穏な十数年」どころか、以下の「証言」は、はるかに真率に★★の自己満足がウソで虚勢であることを告げている。

☆ やす香が「病気になる前」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃん(仮名にしてある)だと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。

* 十数年前、「大過去」とわたしの呼んでいる「罵詈雑言事件」で、わたしは娘の手を放し、すでに孫二人いる★★家へ委ねた。離婚は望まなかった。その時の騒動ぶりはフィクションながら『聖家族』が伝えていて、だれの想像からも、夫は妻に、最初のうちは知らず、かなり八つ当たりに当たり散らしたとみても可笑しくない。★★の親族間でも、「秦の娘」に親切や同情は寄りにくかったろう。娘は孤立しているだろうな、だが女の子二人は「母の娘」として「心支え」になっていてくれるだろうと想っていた。幸いにもし父親が娘たちを愛していれば、妻への当たりようも和らいでくれるだろうと想ってそう願っていた。

* 小説を書いているのを父親に報せたと、娘が息子に怒ったとき、怒りは、じつは「他の心配」に向いていたのではないか。自分が小説を書き出したなどと夫が知ってしまったら、またまた辛いややこしいことになるのがイヤだったのではないか。父親には、黙ってそっと読んで欲しかったのだろう。ところが愚かな父親は感激し驚喜した。娘は「当惑した」というのが、真実ではなかったろうか。
幸か不幸かしかし★★は、舅のホームページ日記など読む男ではなかっただろう。だから、事実は何も知られないままかなりの月日を経過した。娘は緘黙していた。そして自作「葛の葉」をまた書き始めた、それが一昨年の二月一日だった。
ところが父から、「文章がゆるみ始めている、気をつけなさい」と注意され、むくれたか、直ちに作品を捨てた。弟に怒ってきたのもそのときだったろう。あげく娘の小説創作に関しては、娘・息子・父の三者がバラバラに互いにそっぽを向いた。たぶん、★★★は気づいていなかった。

* その間にやす香の病勢はどんどん悪化し、ところが不幸にもやす香の母親は、始めたばかりの自身の「がくえんこらぼ」サイトに熱中し、娘から全く目が離れていた、なんと入院そして「白血病」の告知まで。
そのことは、法廷に提出されている、貧相で見当違いな何の効果も無かった「入院前受診記録」が、悲しくも雄弁にもの語っている。
あげく、やす香は『かくのごとき、死』を死んだ。

* それにしても、自分の妻が、こともあろうに秦「夕日子」という名乗りで、「小説」を書いて舅のホームページに掲載されていた事実を知った夫・★★教授は、妻がパソコンの「対局碁」という「趣味」に没頭するのを嫌った以上に、嫉妬心や、作家・秦恒平への敵愾心に火をつけられ、激昂したのではなかろうかと、推量する。
娘は、はやくに弟に話していた、自分の書いたモノを分かって呉れるのは、「あの人=父」ぐらいねと。もし、こんな科白が夫に知れていたら、やはりタダは済むまい。舅を罵倒した結果が妻に「安寧」を与えたともし本気で考えていたのなら、彼には妻が小説を書くなど、屈辱としか思えなかったことだろう。

* やす香の親友の、上の証言は、とても大きかった。わたしたちは、「ああ、やっぱり」と思った。十数年の平和と安穏が保証されていたなどという★★の妄言は、粉微塵であった。
だが、もう一つ「先」が知りたかった、「先」へ進みたかった。
その「先」を、わたしたちは見付けたのである。

* 娘は、一昨年二月に書き始めてすぐ、筆が緩んでいると父に注意された『葛の葉』という作を、すぐ、捨ててしまった。あああとわたしは慨嘆し、二度ともう娘のそのブログは、覗きに行かなかったのである。
ところが娘は、「葛の葉」断念のほぼ一ヶ月後、平成十八年三月一日から、「新作」を書き出していた。わたしは、息子も、妻も、それにまったく気づかなかった。わたしがその存在を偶然発見したのは、今年(2008)も今年、たった「数日前」のことだった。
インターネット検索でふと思い出し、ある「碁の術語」をうちこんでみた。無数に出てきて、お話しにならなかったが、渋々サーフィンしているうち、よほど深間のなかで、ふと、記憶にある語彙一つを見付けた。
おや、と開いてみると、まさしく、わたしたちの娘のサイトであった。かつて読んだ三つの作品もそっくり残っていたばかりか、一昨年の三月一日から書き出されている「新作」が、其処に、ウソかのように見つかった。我が目を疑った。

* 娘のつける題は、いつも変わっている。
平成十八年三月一日から四月半ばまで、ほぼ毎日続き、そして六月一日に飛んで、ぷつんと終わっている。これで終わっているとも、中絶とも読める。娘はまた怒るか知れないが、このままでは支離滅裂にちかいが、自然そう見えてしまうシュールな幻想的な作柄でもある。
ところがそのなかに、ギョッとするリアルな現実場面が、ねじ込むように中程に混入している。
と言うより、そういうリアルな場面から作品は「書き始め」てある。作の動機が見える。量としては全体の一割程度。しかし、表現は凄まじい。醜く荒れていやみな暴君夫から、「専業主婦のくせに」「稼いでみろ」と生活費を投げ与えられ罵声を浴び、しかも黙々と頭を下げている妻、そして幻想世界へ涙を押し隠して出かけてゆく「梢」忍従の様子がまざまざと書き出されている。

* わたしの妻によるさらなるサイトの探索では、この同じ作品が、平成十二年(2000)三月のカレンダーでも、十五回分ほどが引き出せるという。しかし十八年 (2006)三月一日からは、一応最後まで引き出せる。
もし本当に書きだしたのが、西暦2000年というのが正しいなら、その記述や表現から看て、「夫婦不和の激しさ」はその頃に既に作者である娘を突き動かしていたと十分推察される。作の動機はそこにあったと読める。
もとより幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道であるが、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったという、娘・やす香行幸姉妹を介した、先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。

* そして今しも、とてもとても気になるのは、娘は、父が、サイトの他の小説を読んだと当時十分知っていたこと、そして、「葛の葉」は抹消したが、また重ねて「読まれると覚悟」ないし「むしろ期待」してこの「梢」と名乗るヒロインの物語を連載していたのであるなら、それこそは、娘から我々への「結婚生活は破滅している」というメッセージではなかったのか、ということ。
もしそうとすると、わたしたちは、まんまと二年ないし二年半、その「メッセージ」を知らないで、聞かない、何の手も打たずに過ごしてきたことになる。

* 一昨年の六月一日は、まだやす香の診療が、全く門口にも達しないで、六月十日には、なんと地元の「精神科」で「鬱病」だと診断され「投薬」されているというバカらしさ。入院は六月十九日で、やっと北里病院が容易ならぬ病状と判断し、即日入院に到っている。
その通知の電話で、母親は、娘・やす香からの電話で初めて知らされ、むしろこと決着を安堵したとでもいうことを、「がくえんこらぼ」の七月一日日記に、「初めてやす香に触れて」書いていることは、もう繰り返し言及してきた。
娘は、二月から六月まで、やす香の病状に気づいたり憂慮したりする余裕すらなく、一方では「がくえんこらぼ」に孤独な活動を書きまくっていて、もう一方では、夫婦不和の淋しい泣きの涙もふりこぼれる、不思議な小説を書いていた。
せめて、その時期にわたしがこれを読めていたならと、悔しいのである。

* 小説が、はひょっとして二◯◯◯年二月一日に書き出されたか、やはり二◯◯六年三月一日に書き出されたのか定かでないが、適量の引用範囲内で、最初の出だしだけを引いてみる。しっかり書き初めている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『ざばぶるぐ』 梢 一と二

ノックしても返事がないのはわかっていたが、それでも女はこつこつと戸を叩き、一呼吸おいて、書斎のノブを回した。男は何も気づかぬふうに、コンピューターに向かっている。そのモニターには、お仕着せの初期画面が輝いている。

出かけてきます。

既にコートを着ている女をちらりと見ただけで、男は再びモニターに向かう。そう、何も開いていない初期画面に。

どこに行く。

図書館へ。

男の視線がまたすっと走る。飾りなく束ねた髪、紅さえ引かぬいつもどおりの姿を確かめると、かすかにふんとわらった。

ろくな教育も受けていないくせに、学問の真似事か。

女は身じろぎもしない。

何時に帰る。

申しわけありませんが、きょうは閉館までいたいと思います。

昼飯は。

用意しておきました。

専業主婦のくせに……。

行ってまいります。

男の言葉を遮るように、女は深々と頭を下げた。

春の日射しは、まぶしかった。肺腑の底から空気を絞り出し、梢は歩き始める。ワンブロックも行くと、丈の長いコートは、すでに暑い。だが、仕方ない。夫がモニターの何かを隠すように、わたしもまた、隠さなければならないのだから。久しぶりに履く細いヒールが、突き上げるように梢の背筋を伸ばす。もうどれぐらい、こんなふうに歩かずにいただろう。

柳の青く霞むお堀端を過ぎると、駅が見え、人通りが増える。梢はすうっと息を吐き、萌えいずる昂揚を鎮めて、気配を抑えた。できればだれにも会いたくない。特に、図書館とは反対の、州境を越える列車に乗るところを、だれかに見られたくなかった。太い鉄骨の陰に息をひそめて、ローカル列車を待つ。そして3つ目の駅で特急に乗り換えるまで、梢は緊張を解かなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

* 作品の中程に来る夫婦の場面は、もっと生々しい。或る意味で醜く烈しい。
「小説だ」とも謂える。間違いなく小説である。しかし小説家であるわたしには、その意味は幾重にもいろいろに分かっている。小説を利して書くことも小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
娘は明らかに此処から書き出している。此処に動機がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。

* わたしは迷っている。このままホームページ私語を更新すれば娘は「読む」だろう。夫は自分で読まなくても、周囲から聞く耳はもっているだろう。
娘を、ないし行幸も含めて、より窮地に追い込むことになるのか。
それとも、そんなことはお笑いぐさで、今では夫婦は一枚岩で、裁判劇上演に団結し懸命であるだけなのか。
もしいまも娘がひそかに小説を書いていたらむろん読みたいが、そんなことは念頭にもない、裁判に勝つのが日々の目的だと、★★は知らず、娘も、言うのか言わないのか。
『かくのごとき、死』をはさむ二年半の思わぬ「逸機」がわたしたちの判断を惑わせる。
2008 8・8 83

* マルクス、ダーウィン、フロイト。二十世紀といわれた「現代」の扉をこの三人は、ソクニテスやプラトンやアリストテレスの三人のようでなく、デカルトやスピノザやロックやヒュームのようでもなく、カントやヘーゲルやキルケゴールのようでもなく、哲学を横目で見入れた社会経済学や生物進化学や性心理学で、グイと押し開けた。
彼らについて一人ずつ読むのはよほどしんどいけれど、三人を纏めておいて無責任なほど好き勝手に思想を思想してみるのは、意外にナウくて楽しいというより、妙に嬉しくなる面がある。
三人の中で、わたしがいちばん先に気から離れていったのは、フロイトだった。わたしはあまり心理学という学問を信用しないからである。心理学や脳学で「人間」が早わかりするかのようなブームをわたしは、概して苦々しい安売りだと思ってきた。
その先走りが二言目には「心」「心」とお札かつぎのようにする。この三十年、「心」大事でこの世の中がよくなったという何も見つからない。わるくなる一方だ。

* この「先」について、云いたいというより思っていることが有るけれども、まだ云えばかえって逸れるかも知れない。

* 竹内整一さんは久しい友であるが、竹内さんが近年関わって掘り起こしてられることなどを、大きく眺めれば何と呼べばいいのか軽率に云えないが、「倫理学」という看板にわたしはしっくりこない「現代人」なりの不安と不満がある。「倫理」「倫理学」って、今に生きている言葉なのか知らん。いまに活かすに足る言葉なのかしらん。
わたしなどがバグワンや禅にかすかに触れながら、ほんとうに緊急の願いも込めて欲しいのは「死生学」であり、そうなると、先の三人、マルクスやダーウインやフロイトのあとへ来る人間の実存に根を生やした「思い」をさぐりながら、今日から明日へ生きてゆくための安心の「教え」を手にしたいのである。哲学学はいらない。宗教学や神学も欲しくない。「静かな心」つまり「無心」が懐かしい。

* いまわたしは学問に励む時機ではない。運動に励むこともない。出来れば眼を閉じて自身の内奥を悟りたい。何があるのか。何も無いのか。あって何もなく、無くてすべてある、そんな境涯がどこかに隠れているのか。
2008 8・10 83

* 新しいマイミクさんの日記の末尾に、「罪悪感を無視してみるのも、たまには悪くない。」とあった。
深夜に雨を聴きながら自宅で独りで缶ビールをあけた。お父上の「影響で」自宅では決して飲まなかった、「罪悪感」があった、のに、どうしても飲みたくなった。ま、それはそれ。末尾の述懐も深刻ではないようだが、このフレーズ一つだけを相手にすると、いろんな想いが付いてくる。
かんたんに是認もしにくく、否認もしにくい。人は、こうして新しい曲がり角を曲がって曲がって進んでゆくのだろう。曲がり角の先に深い闇があるか、明るい展望が開けるかは、分からない。たいがいは何でもなく、自然、その罪悪感から遠のいて行く事例が多い。
人の持つ、大小深浅の「罪悪感」とは、何だろう。
2008 8・11 83

* 八月十五日 金 敗戦の日

* 今の天皇さんが即位された第一声が、「日本国憲法を護る」という誓約であったことを、わたしは忘れない。深い敬意と賛同の念をいまも持している。
これと同じ誓約は、総理大臣も国会議長も最高裁裁判長も、以下あらゆる公務員が就任・就職に当たって為し果たすべき「最高の義務」であると考えるが、みなさんはどうお思いであろう。
天皇皇后両陛下は靖国神社には行かれない。憲法を護っておられるのである。小泉純一郎という総理は率先して日本国憲法を足蹴にして恥じない男であったと、わたしは脳裏にしっかり記録している。

* 天皇の誓約と対照的に、東条英機の終戦時日記が明記していた時局認識には、国土と国民への思いが完全に欠けている。それを思う。
アメリカは、広島と長崎で足りなかったら、確実に更に原爆を投下していたに違いない。彼らには戦争を終わらせるためにという、その根底の思想には明らかに容認できないものが混じるにせよ、分かりいい名分をもっていた。今でも彼らの多くが持っている。
だから間違いなく、あの天皇と内閣との決断がなければ、さらに百万もの国民は残虐に殺され、国土は放射能と地獄の炎とに痛めつけられていた。東条英機の判断力はあまりに狭隘な視野の中で、明確に間違っていた。
今日、それを胸に刻んで、二度と東条英機のような地獄行きの指導者をゆるさず、二度と小泉純一郎のような憲法蹂躙の総理を持つまいと心に誓いたい。
2008 8・15 83

* 世間を狭く暮らすという言葉があり、秦さんは好んでかどうかはべつにして、「世間を狭く暮らしたがる」と、たとえ云われなくても自分で自分に云うて聞かせていることがある。たぶん間違いないだろう、世間から隔てられると云うより、自分で、ある種の世間を隔てているのかも知れないと反省することもあるが、ひとことでいえば、いわば世間とは「淡交」でよい、という価値判断が先行してきた。このさきはややこしいから、今は措く。
2008 8・16 83

☆ 音花火   珠 2008年08月16日 21:09
今宵は、我家近くの多摩川花火大会だった。
花火といえば、毎年お盆15日の諏訪湖花火が大好き。でもここ数年、仕事が忙しくてお盆に帰郷出来ず、結果諏訪湖の花火も見られずにいる。今年は久しぶりに帰郷したいとやりくりしたが、はずせない会議に諦めた。
お盆15日、昼間はお坊さんがお経をあげに寄って下さり、夕方から諏訪湖花火へ。遅く帰って、静かな山の夜に、花火の音を耳の奥に聴く。翌日16日はお墓参り。その後早い夕飯を仏様にさし上げて、夕暮れに向かう虫の音を聞きながら、火を点した提灯を道案内にお墓まで仏様を送ってゆく。「秋の彼岸にまたきておくれ」小さな頃から毎年、祖母や叔父と迎え送ってきた。一人で任されるようになったときの、嬉しい緊張感。途中蝋燭の火が消えてしまった時のパニック。蝋燭をお墓にたててほっとした、帰り道。
毎年繰り返される、そのいつものことに、静かな時間をみる。
今年もまた、お盆がおわる。お盆様、叔父が送っていったのだろうか。
この家に引っ越して初めて聞く多摩川の花火の音。
家揺れるかと思うほどの大きな音に、思わず耳を澄ます。
諏訪湖の花火、あの諏訪のお山に響いて還る、音花火。ずんん、、どすんぅぅぅぅん、、、どぉぉぉん、、、耳の奥に、今宵聴こえる。

* 故山夢ニ入ル。 「珠」さんの一文、胸にしみ入る。しきりに『みごもりの湖』を思う。わたしは妊らないが、母なる湖国に身籠もり水隠りたいと切に思う。生きているのは、地獄だ。
2008 8・16 83

* 千葉のe-OLDさんに戴いている「阿弥陀経ノート」を読み、「アイヌの舟(二)」で彼岸に、ゆっくりゆっくり渡る。無念・無想。わたしの座禅・瞑想。
阿弥陀経は般若心経とならんで少年来もっとも多く親しみ、心経のように暗誦はできないが、手にしていればほぼ目をむけなくても「お経読み」でラクに、そして或る程度までこまやかに感受できる。千葉の「兄さん」は、つとに般若心経の現代語訳もされているが、一句一句「表覧」にし現代語訳も添えた此の労作は、もの柔らかな境涯を想わせてじつに有り難い。
ただし「今・此処」のわたしは、自身をむなしく投げ出し捨身飼虎することは、出来ないというより、してはならぬと思っている。
逢花打花、逢月打月。
「無行為」により安心が得られるのではない、「今・此処」に貫通・尽力して真の「捨身飼虎」に至れとバグワンは説く。バグワンに教えられている。バグワンはヒマラヤへ去れとも山林へにげよとも決して言わない。仏陀も云わない。此の地獄の巷にいながら安心せよと。
右し左し大きくローリングしながら静かな「目」を深奥に持し、はげしい嵐のように、台風のように分別を捨てて進めと。花に逢えば、月に逢えば、花を月を即心痛打せよと導く。
私の胸の芯には心経も阿弥陀経も在る。無いのではない。千葉の人が絵解きで示してくれているように、いましもわたしは、妻とであろう彼岸への舟を感謝して静かに漕いでいるのである。
2008 8・17 83

☆ 心身ともに快調ということは難しくても、お体だけは快調と思っております。
お酒もほどほどに、たしなんでいらっしゃるでしょうし。
私は一度脱水症状で、リンゲルを2.5リットル加えてもらって、復活しました。
なんという事も無いと思っていましたが、原因は多分、久しぶりの飲みすぎだろうと、自分で解釈しましたので、以後は謹んで、もっぱらおいしいものを食べ漁っています。
この夏は、随分働きました。いろんなことがありました。
どうかお元気で、沢山あったいろんなことを、お話ができる機会がありますように。
林では、せみの声が次々に変化して、確実に秋が近づいている気配です。
のこり少ない夏をどうかお楽しみなさってください。  安是  常陸

* 「冬子」か。夏休みでメールの無い日もあったが。

* いま、わたしは現実に新作を三つ、旧の大作を一つ、気の動くままに書き継いでいるが、どれが頭一つ二つ抜け出してゆくか、いま、新しい三つが揉み合っている。
一つは平家物語から。一つはわが「女ひと」だが、ながく捨て置いてきた大作と化合するかもしれない。もう一つは、私小説のこしらえを大胆不敵に利用した七十老境、清冽で過激な新世紀の「性」の怪談になり行くだろう。恩返しに谷崎先生のあの『瘋癲老人日記』を超えたい。
さ、どれがどの順番で仕上がるか。「湖の本」はまだやめられない。
もう一つ、「戸棚の中の髑髏」も、こんな好素材、小説家として見送る手はない。だれでもない、冬祭りの「法子」が「お父さん、書くのよ」と奨めている。

☆ 冬祭り  最終章より一部
──法子の調えてきた晩の食事を、もう冬子は口にしなかった。
「法子。ごめんね、いつも一人で寝させて。今夜は三人でならんで寝ましょうね」
「お母さん……お母さん! お母さん……いや、いや、死ぬなんて、いや」
冬子は娘を抱いて泣き伏した。
「お父さん。でも、ほんとにありがとう。よく来てくださったわ」
「法子……お父さん、忘れやしないよ」
「ありがと。……新聞小説、りっぱに書いてね。もしお父さんの小説をちよっとでもわるく言うヤツがいたら、きっとこのあたしが掴み殺してやるわ……」
法子は、じわッと十本の指の爪を烈しく蝮(まむし)に曲げてみせた。
「おばかさんネ……法子は」と冬子は、涙顔のまま微笑んでいた。
十一月二十三日は新しい稲を祝って果ての秋を送り、一夜に立つ魂(たま)祭りの冬を、心温かに待ち迎える日──。冬子は二人に、そっと、それを思いださせた。
「……お父さん。バイカル号楽しかったわ!」
「あたしも。ジェルジンスキィ公園の朝を、忘れないわ」    未完

* あの法子は、きっと掴み殺す。
2008 8・17 83

* 「書く」以外にこの世で幸福になる道のない人間のように決めつけられるのも、しんどい。そうかも知れないし、そうでないとも感じている。たしかに読者のなかには、ひっきりなし作者にこの種激励のプレッシャーを掛けつづけるのを愛情のように思いこんでいる人もいるが、有り難くもあり、気鬱でもある。

* そうはいいつつ、なでしこジャパンのサッカーが気になる。

* もののけのように、胸のうちを不快の早い浅い波がさあっ、さあっと奔り流れる。じいっと見送り、しゃんと立つ。
2008 8・18 83

* 「いかがなものか」という物言いは政治家が流行らせている。ことに麻生自民幹事長と町村官房長官がよく云い、追随するように伊吹とか高村とかいうアイマイモコ派の大臣がよくつかう。
「いかがなものか」とは「どんなもんやろか」「そやろか」「ちがうのとちがうやろか」という京ことばのいやらしい延長線上に生えた黴言葉である。自分の考えは明言せず、言質という責任は取られまいという、決して上等な態度でない、しかも思慮分別を演出したキザな逃げ口上にひとしい。

* わたしが此のサイトでまっすぐ「私語」すると、それを「いかがなものか」と云う人も、広い世間であるから、いるだろう。いると思うが、秦さんそれはいけませんよと直言するのではない、直接云ってくれるのでもない。
「いかがなものか」とは、意見の表明ではない。他の誰かが「右」だと云えば「そうでしょう右でしょう」と付和し、他の誰かが「左」だと云えば「そうでしょう、左だと思いますよ」と雷同する。要は様子や人の顔色や意や言葉を迎えとって、責任ある自分の言葉は用いない。
わたしは、こういうのを嫌う。ひどく嫌う。云わでもがなを言い募るのはただのアホウである。箸にも棒にもかからない。
しかし、云うべきを云わずに責任転嫁するのは、ただの卑怯である。そのために人の世はだんだん悪くなる。「いかがなものか」などと云っているうちに、恥ずかしいほど人の世はひどくなっている。
たしかに制度的に人の世は、時代を追って良くなったりまた悪く戻ったりしている。歴史は繰り返す。
しかし「人間」の質の方はわるくなる一方で、良く戻るということが無い。東京オリンピックから四年刻みに何度オリンピックがあったか、四年ごとに我々日常の精神生活は、豊かに健康になってきたといえるだろうか。「いかがなものか」などと高う澄ましているうちに、政治も経済も環境も国際関係も犯罪性向も、なにより人間関係も、ハッキリ悪く悪くさらに悪化している。
政治家が「責任を取る」という言葉を辞書から破って捨てたものだから、総員右にならう風潮を、誰も確乎として咎められない。「いかがなものか」と云いながら、ながいものに巻かれていれば「損はあるまい」と考えている。ちがうか。
2008 8・19 83

* 八月も残り少なくなってきた。気をつよく取り直して秋を迎える「いま・ここ」を確かにしたい。

* 午後から今まで、少し気に掛けてきた宿題を一応片づけた。
2008 8・20 83

* わたしも幾つかの「組織」に属してきた。その間は「自分なりの働き」を、ま、人一倍きちんとしてきた。
学校では勉強したし、会社ではモーレツに仕事した。大学に勤めても人が呆れるほど工夫していろいろやってきたし、ペンクラブで正式の「委員会」を二つも企画し立ち上げた理事はいなかったはずだ。
とはいえ、わたしは学校で教室を抜け出す常習犯だった。来迎院の縁側で昼寝しながら、こういうところに「好きな人を置いて通いたい」と願うような高校生だったし、大学では院生身分も放棄して、妻と東京へ出てきた。
会社では小説を書いて太宰賞をもらい、東工大では教授会を全欠席しても学生達と仲良く過ごした。
ペンにいても、理事として一心に勤めながらも組織に対して従順なだけの理事ではなかった、ただただ「やかましい」と思われていることだろう。
わたしは組織に拘束されるのが小さい頃から嫌い。組織に抱きついて身の安寧をはかりたいという願望より、寒々と心細くても自由で在りたかった。力をつけて、はやくそうなりたかった。
願いはなかなか叶わないで、存外の誤算に迷惑もしているが、ま、だいたいうまくいっている。二割はいるという働かないアリや蜂の仲間であるとは思わないが、女王などという「王」様に仕えて働くなど、マッピラである。この社会では雇われて働いている限り、経済面の働きがいはほとんど皆、ある種の「王」たちの「手」に収まるだけ。そんな組織や社会は、わたしは好きでない。可能なら、つまるところ権力を争っているような組織からは、外れて生きたい。
2008 8・23 83

* 先頃の日記を「舟」と題して「mixi」に送っておいたら、「瑛」さんの有り難いコメントが付いてきた。もう一度、此処へ併せて転記し、道元法語、三誦。

*  舟   湖
千葉のe-OLDさんに戴いている「阿弥陀経ノート」を読み、スクリーンの「アイヌの舟(二)」で、彼岸に、ゆっくりゆっくり漕ぎ渡る。無念・無想。わたしの座禅・瞑想のとき。
阿弥陀経は般若心経とならんで少年来もっとも多く親しみ、心経のように暗誦はできないが、手にしていればほぼ目をむけなくても「お経読み」でラクに、そして或る程度までこまやかに感受できる。
千葉の「兄さん」は、つとに般若心経の現代語訳もされているが、一句一句「表覧」にし現代語訳も添えた此の労作は、もの柔らかな境涯を想わせてじつに有り難い。
ただし「今・此処」のわたしは、自身をむなしく投げ出し捨身飼虎することは、出来ないというより、してはならぬと思っている。
逢花打花、逢月打月。
「無行為」により安心が得られるのではない、「今・此処」に貫通・尽力して真の「捨身飼虎」に至れとバグワンは説く。バグワンに教えられている。
バグワンはヒマラヤへ去れとも山林へにげよとも決して言わない。仏陀も云わない。
此の地獄の巷にいながら安心せよと。右し左し大きくローリングしながら静かな「目」を深奥に持し、はげしい嵐のように、台風のように分別を捨てて進めと。
花に逢えば、月に逢えば、花を月を即心痛打せよと導く。
私の胸の芯には心経も阿弥陀経も在る。無いのではない。千葉の人が絵解きで示してくれているように、いましもわたしは、妻とであろう彼岸への「舟」を感謝して静かに漕いでいるのである。

☆ 湖さん   瑛 川崎e-OLD
つい題の『舟』に触発されました。千葉のe-OLDさんの「優しさ」を静かに日記に書かれているように思います。道元の好きな文章をここに書かせてください。

生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひわれかぢをとれり。われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正當恁麼時を功夫參學すべし。この正當恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸もみな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機關なり。盡大地、盡空、ともに舟の機關なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。

座禅もしたことがないのですが、言葉が体を透きとおります。
* 先日、マイミクの「香」さんが、玉葉集の為兼の和歌を挙げておられたので、ちと戯れにカランでみた。あとで思うとちょっとお気の毒した。しかし、こういう「mixi」の楽しみは捨てがたい。こういう仲間なら、幾らでも増えて欲しい。
2008 8・23 83

 

* 「待つこと」の可能なのは若い世代であり、しかも「ただ待っている」若い人は、往々心身痩せてゆく危険にあることも知らねばならない。
わたしのような老境で、しかも眼前に、容易く超えてゆきにくい不条理を、莫大な賠償の負担を押しつけられている精神と肉体には、ひよわに「待っている」余命も無い。生死を、死生を待つことは出来るが、現実問題は待ってやり過ごすには過酷なのである。
「今・此処」に立って生きる、花に逢えば花に打し、月に逢えば月に打すという覚悟に、「待つ」は無い。「在る」だけだ。待つのが穏やかであるという理解もない。「今・此処」は「待たない」。「在る」のである。
2008 8・23 83

* このところ「自然減」という言葉で自身の日々を納得しながら、励ましている。自然減はやむをえないと受け容れて、それでも日々新面目在りたいもの。
外の世間へわざわざ出て行かないから隠居といえば隠居に似ていても、精神的には活火・活火して、したいこと、すべきことの多さにときに吐息も出る。むかしとちがうのは、それらを求めて「金」に替えようとしていないこと。必要を感じない。自然減の限度はロンドン・オリンピックにまた出逢えるかどうかだ。
仕事も、また、たとえば観劇も食事も交際も、せいぜい楽しみたい。
どれもこれも「自然減」で推移するだろう。それでいい。「湖の本」百巻も、あと五冊、ゆだんなく暮らしていれば達成し、通過してゆくだろう。
2008 8・28 83

* 長崎の横手一彦教授のメールをもらった。ユニークでねばり強い探索・研究者とまた一本のパイプが通じた。心強い思いがする。

☆ 秦恒平さま   長崎の横手一彦、です。
メール文を、有り難く、拝読致しました。
当方が身勝手にお送りした小著『敗戦期文学私論』を、丁寧に読んで頂き、本当に、有り難う御座います。確かな読者の方に出合ったことが、小著の何よりの喜びです。
「名著」とは、過分なお言葉です。未だ、努力が足りません。自分の言葉が上擦っていて、きちんと表記するという点において、また誤字なども多く、恥ずかしい限りです。しかし、また、うれしいお言葉でした。
来週から10日間ほど、半ばは研究旅費で、半ばは自腹で、短期渡米調査に出掛けます。
・ ***大学東アジア図書館長****氏の聞き書き調査
――江藤淳がワシントンに短期留学し、プランゲ文庫を調査し、「無条件降服論争」の資料的側面を支える切っ掛けの私信を書き送った司書です。20年前からお会いしたいと思い、この春にようやく連絡をとることが出来ました。
・ ハーバード大学図書館及びコロンビア大学図書館調査
――敗戦期に米軍が接収した資料類が膨大にあり、それは日本の官庁資料や官庁付属施設のもので、そのなかの有用な日本語文献を、米国の10余りの大学が分散して収書しました。そのリストを一つひとつと求め、そこに記載された文学関係書籍を確認することが目的です。そこに旧内務省検閲文献も含まれていると考え、戦前期の伏せ字表現(××など)を、その典拠に基づいて、一つでも、二つでも、復元したいという思いからの発意です。
帰国後に、その成果をきちんとお知らせ出来る出張仕事になるよう努力したいと思っています。そして、このような牛歩のなかに、研究というものが自ずと形付けられるのだろうと思っています。
駄弁を申し上げました。秦さま(本来は秦先生とお呼びするべきかもしれません)の確かな言葉や確かな読みのなかに、その文章を拝読していて、無言のうちに、叱咤されたり、励まされたりしているような感じを頂きました。
追伸 突然にインターネットの一部の機能が通じなくなってしまいました。当方のパソコンが古く、その不具合です。帰国後に、専門医にみてもらいます。

* 「検閲」は、文学の書き手、研究の書き手にとって天敵であり、どれほど多くの摩擦や軋轢で作品や研究や筆者作者が傷つき呻いてきたか知れない。
もとより真実犯罪であるものの検閲もあるであろうが、関係吏僚の悪しき主観や悪しき支配意志の強硬な横槍が、作品や筆者の運命を左右した例は少なくなかった。しかし実態はあまり大量、あまりに権力の闇に紛れていた。
横手さんの働きは、たぶん孤独ななかでの苦労の多い尽力であるだろう。
わたしはこういう働きにいつも感謝を覚える。
2008 8・28 83

* このところ明け方に、信じられない状況で、しかしリアルにまともな、妙に知的な夢をつづけざま観ている。今朝は方丈記みたいな文章を一気呵成に英訳していた。いやいや、わたしは出来ない。

* 秦恒平「未定・未完原稿」というフォルダがあり、「書き出し」の部分が二十ちかく保存してある。ときどき開いて面白いと思うと先へ動かす。いまも、比較的書き進んでいる長いめの作を推敲しながら、面白がっていた。こういう文体・口調で他には書いたことがないなあと思いながら。
2008 8・29 83

* ビルの七階であるマスターが講演していたとき、烈しい地震が来て参会の聴衆は一斉に逃げ出した。恐怖に駆られた幹事役も逃げだそうとしたが、話していた人はモトの席に微動もしないで目を閉じているので、責任上動けず、隣に自分も座ったものの動顛していた。
地震は去っていった。マスターは、誰もいないのに話しやめたところから正確に次をまた話し始めたが、幹事は聴くどころでなく、話をやめてもらい、しかしこう聞かずにおれなかった。「みんな怖くて飛びだして行きました、自分もそうしたかったが。あなたは怖ろしくなかったのですか」と。
マスターは言った、自分も実は逃げ出したんですよと。ただし、あなた達は「外」へ逃げた。自分は自分の「内」なる深みへ逃げ込んだ。「外」へ逃げても地震はどこも地震、危険は同じ。しかし「内」なる奥の静寂は、地震も脅かすことなどできないからね、と。

* 求めてやまないのは、この「内」なる静寂境。そこに立ちたい。そこに居たい。「外」が嵐でも地震でも懼れずに済む。だが、この境地がじつに遠い。
2008 8・29 83

* 書いている人は書いている。書きたい人は、いつも書きたい人。「書きたい」から「書いている」へは、無限の距離。ほんとうに書きたい人は書くしかない。文豪も、未知数も、これは同じ。
2008 8・29 83

* 『モンテクリスト伯』を初めて読んだのは新制中学の内で、もとより人に借りてであった。
わたしは自宅に自分の持ち物としての文学・文藝本を一冊も持たなかった。自分のものとして持っていたのは幼稚園で月に一冊ずつ配られた「キンダーブック」一年分。それしか持てなかった。漫画などゼロ。講談社絵本などもゼロ。
他に、持てていたのは祖父鶴吉の蔵書であるたくさんな漢籍、すこしばかり日本の古典、評釈。祖父のか、父のか分からない中学用の通信教育教科書、そして明治期の事典や随筆、美文典範、浄瑠璃本の類。母や叔母の数冊の婦人雑誌。
特筆すべきは観世流の謡の出来た父の謡曲本。
仕方なくわたしはものごころついてより、それらを片端から順繰りに繰り返し開いていた。国民学校の生徒、小学・新制中学生には、おそろしく偏った書物環境だった。
だから、本を読ませてくれる人、まして一日二日でも貸してくれる人は、神様ほどありがたがった。少々遠くても、よくは知らない親しくもない人の家でも、本を読ませてくれるなら平気で出かけていった。
「お構いなく」で、ひとり読み耽り、読み終わるとくるりと頁を元へ戻し、必ずもう一度読んだ。そして、「おおきに。さいなら」と帰ってきた。
医者の注射が怖くて大嫌いなのに、医者の待合いはものの読める誘惑と魅力のある場所だった。

* 本のうえで忘れがたい恩人は、思い出して、一軒と二人。
死にかけたほど満月ようにむくみ、母の咄嗟の判断で丹波の疎開先から一気に京都の東山松原の樋口寛医院の二階座敷に入院したとき、枕元の戸棚に、漱石全集のうちの数冊、新潮社版世界文学全集の数冊がならんでいた。漱石本のあの装幀といくつかの題を見覚えたが、読もうとした記憶がない。
手を出したのが『レ・ミゼラブル』やダヌンチオの『死の勝利』やモーパッサンの『女の一生』やフローベール『ホヴァリー夫人』などだった。『モンテクリスト伯』はなかったと思う。読んだとは言えない、病気を治して早く家に帰りたかった。
とはいえ、「本」の世界はどうもこの辺に本道がある、ほんとの世界があると敗戦直後の小学校五年生なりに気が付いた。その感化と恩恵とが大きかった。

* 二人の一人は、恩を受けた順に言うと、与謝野晶子訳の『源氏物語』豪華な帙入二冊本を、頼めば惜しみなく家の蔵から持ち出し貸してくれた、古門前の骨董商、林本家の年うえのお嬢さんだった。叔母のもとへ裏千家茶の湯のお稽古に通っていた。
何度も借りた。源氏物語ただ一種とはいえ、わが生涯に恩恵は計り知れない。その時期が、『細雪』で名高かった谷崎潤一郎の新聞小説『少将滋幹の母』を愛読していたのと重なったのも、言いようなく有り難かった。源氏物語と谷崎とは一重ねにわたしの宝物になったのだから。

* 次の一人は、源氏物語と谷崎愛とも、とても無関係であり得ない、が、今その話はしない。新制中学二年生の夏前に初めて出逢った上級生で、わたしはそのひとを「姉さん」と慕った。その姉さんが、どういうことか、泰西の名作本を次から次へ惜しげなく学校へ持ってきては貸し与えてくれた。十八・十九世紀のヨーロッパの代表的な名作は、別れるまでのわずか半年のうちに姉さんが読ませてくれた。なぜそんなことが姉さんに出来たのか詮索のスベはないが、ゲーテもトルストイもバルザックもフローベールも、むろん『赤と黒』も『女の一生』も『椿姫』も、そして『モンテクリスト伯』も、痺れるように感動して読みに読んだ。
そして、最期に、卒業してよそへ去って行く卒業式の日に、姉さんはわたしの手に漱石の春陽堂文庫『こころ』一冊を、形見のように呉れていった、「呈」梶川芳江と署名して。
『こころ』はわたしの文学愛の原点になった。「源氏物語」と谷崎も同じく。
そして読み物をあまり高く見ないわたしの読み物の最愛作として『モンテクリスト伯』もその方面の不動の原点になった。

* いままたわたしは『モンテクリスト伯』を読み始めている、意図してトルストイの『復活』と並行して。この二作に因縁を求めているのではないが、大学入学の面接で愛読書を聞かれて『復活』と『暗夜行路』とカッコをつけたほど、男の小説としてわたしは愛読してきた。『モンテクリスト伯』もやはり「男」の小説ではないか。そして大デュマのは読み物で最高に面白い大長編であり、『復活』はいわば純文学の極北。ちょっと較べ読みしてみたいと思った。
不愉快な日々の多くを忘れさせる力のあることは分かっている。
わたしは高校生の頃から、嫌なことがあると先ず食べた。だめだと、なけなしの金をつかって映画を観た。それでもだめだと大長編小説を読んで、読んでいる間にたいていはカタがついていた。『モンテクリスト伯」か『戦争と平和』か『源氏物語』を選んだ。今なら『南総里見八犬伝』も加える。『ゲド戦記』全巻もすばらしい。

* で、今読み始めて『復活』の出だしにリードされている。
エドモン・ダンテスが、悪人ばらのたくらみで地獄のシャトー・ディフに落ち込むまでは不愉快きわまること、毎度承知。いっそ孤絶の地下牢に入りきってからが希望が持てる。ダンテスが婚約披露の幸福の絶頂を経て逮捕されてしまう辺までのデュマの筆致は、読み物そのもの、快調だが通俗なお喋りでジャンジャン進めてゆく。だがトルストイは軽い筆付きで運びながらも要所をおさえ、あわれな娼婦マースロワ、かつてのうぶな少女カチューシャの淪落と、何の呵責ももたず彼女をそこへ突き落としていて知りもしなかった青年貴族ネフリュードフの、それぞれの道筋を簡潔に語り継ぎ、そして今これから「再会」の場面に入って行く。そこはマースロワを殺人の罪で裁く法廷であり、ネフリュードフは陪審の役を帯びている。彼はまったくカチューシャのことなど忘れている。

* これから大デュマは徹底的に男の復讐を描いて行く。その規模は雄大で華麗で、一抹のあわれもいたみも秘め持っている。ダンテスを陥れたフェルナン=後のモルセール伯爵の妻となったメルセデス。ダンテスが命と愛した婚約者メルセデス。だがモンテクリスト伯となったダンテスは、凄絶な復讐を遂げて行きながら、救いあげた美しい元奴隷王女のエデをひそやかに深く愛して行く。
ロマンチストのわたしは、メルセデスに姉さんの面影を託し、エデに妻を感じたりしてきた。それは源氏物語の場合の藤壺と紫上にも連動しやすかった。おかしな秦サンではあるまいか。
伯爵大トルストイの筆は、ネフリュードフの贖罪と、甦るカチューシャの魂の物語を、遠くシベリア徒刑地の果てまで追って行くだろう。二つの名作を並行して読むことで、わたしは、物語世界をわたし独りの自在な思いで、さらに豊かに自分のものに創り上げたいのである。この歳だ、ゆるされていいだろう。
2008 8・31 83

* 「悪いやつ」とも長い人生にたくさんぶつかって来た。ひとつ言えそうなことは、文学の名作で「悪いやつ」だけを書いたものは少ない。すぐ思い出せない。どうしても「悪いやつ」は懲らしめられている。典型として「悪いやつ」、と子供ごころに脳裏にやきつけたのは、やはり『モンテクリスト伯』のダングラール、フェルナン=モルセール、ヴイルフォール、そしてカドルッスの四人だった。似たり寄たりこういう「悪いやつ」と出会ってきたなあと思う。

* ダングラールは嫉妬深さと出世したさと、尽きるところは金銭欲で、陰険に策を弄して人を陥れたぶん、自分は上へ上へ上がってゆきたいという「悪いやつ」である。究極は金銭欲と物欲。実直で健康な青年エドモン・ダンテスを、卑劣極まる悪知恵で他人を手先に踊らせて地獄へ突き落とし、ダンテスの地位を奪い、善良な主人をだまし討ちにしてゆくような男である。
フェルナンはそんなダングラールの手先につかわれて、恋敵のダンテスを政治犯として訴え地獄の底へ突き落としておいて、女をうばい、小心なくせにきわどいところで後ろ暗い手ひどい悪事をなすことで、思いがけず栄達してゆく卑怯な悪人である。
ヴイルフォールは、栄達と保身の為なら鷺を烏に描きかえても、善良で無実の者を、じつは善良で無実と知りつつも徹底的な地獄に突き落とし、二度と日の目を見せぬ事で身の安全を図り、権勢に媚び諂って地位を高めてゆくような悪いやつである。
カドルッスは、いささかの分別をもちながら身の安全のためには目をつぶり、負い目を酒を浴びてわすれ、目前の欲に目がくらんで悪事の山を築いてゆく陋劣で破産的な悪人である。
デュマという作家は、エドモン・ダンテスの造形以上にこれら「悪いやつ」の典型を栄華や惨憺の巷に活かした作家として凄腕であった。

* わたしは、子供心にこれら悪人像をやきつけたが、これらの亜型・亜流にどれだけ多く出会ってきただろう。会社にも団体にも学校にも大学にも文壇にも、知識人社会にも、うよと蠢いていたのは、これら「悪いやつ」の末流・末裔であったし、だから人の世は混迷の内に滑稽な活況をみせてもいるのである。
彼らにはっきり言えるのは、金、地位、名誉、栄華、偽善、色欲。「抱き柱」に抱きついていない者は一人もいなかったということ。
もう一つ、エドモン・ダンテス=モンテクリスト伯は事実上此の世に存在しない、し得ないとしても、上の、ダングラール、フェルナン、ヴイルフォール、カドルッスなら、うじゃうじゃいるという否定しがたい娑婆の現実。
さらに今一つ。むろんわたしも含めて、人は、己が内なるダングラールやフェルナンや、ヴィルフォールやカドルッスの断片と日々に向き合いながら、堪えて暮らさねばならぬと言うこと。
そこを超えるためにも、人はむやみと「抱き柱」をかついでは、しがみついては、ならない。どう寒くて心細くても「自由」に独りで立たねばと思う。
2008 9・3 84

* ふと三年前の今日の我が「私語」を聴いてみた。ウン、これはその時々にわたしには大事なこころみ(心見)だな。こういうことも機械ではかんたんに出来る。

* 「致します」は丁寧な物言いのように使われ、間違いではないが、「致す」には「だます・ごまかす」また官職を「辞する・辞める」意味もあり、むやみに使わない方へわたしは票を投じている。他者への噂・陰口のように「致しておるナ」などと言うとき、かなり辛辣な悪意が籠もる。
力いっぱい目的に近づく・達する・努力する「致します」も、過剰な卑下もあるので、プラス・マイナス一概に言えないが、わたしは気をつけている。あぶない言葉の一つである。
「居ります」も同じく、もともと地下(ぢげ)の侍が高貴の前に膝を折って侍(さむろ)う=候ふ、卑下し服従する意味であるから、過剰なまでに「居ります」とはいやらしく、言わぬ・書かぬようにしている。自然に出てくる程度に。
2008 9・8 84

☆ 万佐さん、有難う!  郁
ご丁寧に有難うございます。何時までたっても以前のままの私ですね。 ですからきわたった絵がかけないのですね。逃げてばかりですね。
自分を守っているのですね。そうなんですね。 そして言い訳のような言葉を並べてばかり!! います。
逃げている自分がいるのもわかる気がします。打ち込みかたが足りない自分もいます。 大いに反省してまた出直します。この言葉もいままでにどれほど申しているでしょうか? もうあきれ果てておられることでしょう。
自画像は恥ずかしいかぎりです。 沢山描いたのでどれをお送りしたのか?
本当は沢山みていただきたいものが 絵がありますが、どうも思うに任せません。 来秋の個展の折には横浜までおいでくださいますか?
なかなかこれと思う作品がないようですが、人生きっと最後になると思いますので する予定にはしています。
なかなか思うようなことがお伝えできません。悪しからずお許しくださいませ。
10月末には(昔の勤め先=)**の方たち7名で京都 宇治 比叡山などなど 観光してきます。 もう12年つづいています。同じ年齢のかたたちです。懐かしいおもいです。琵琶湖など! ではごきげんよろしく。

* 「万佐さん」などと呼びかける人は、この人ぐらいか。
日吉ヶ丘高校では学内新聞に「菅原万佐」という筆名を使っていた。この名で後に三冊私家版をつくったが、「新潮」編集長に本名が宜しいと言われて捨てた。「菅原万佐」の名で三種類合わせても、もう三百冊ほどもあるまい私家版が世の中に出ている。わたしの本とはもはや気づかれてもいまい。もう一冊の「清経入水」だけが秦恒平の名で出た。四冊合わせて五十万円もしていた時期があったが、わたしの懐とは無縁だった、ハハハ。

* 高校後輩の「人生きっと最後」などという述懐が、もう笑えなくなっている。

若い人に次々にあとを追い越されゆっくりでいい我の花みち

先週末、朝早に病院へと最寄り駅へ歩いていたときも、いつも通り通勤の若い人たちに追い越されて行く。少し早足になってみようとしても敵わない、いやいや、ゆっくりでいいんだと思った。底紅の白い木槿やもう咲き残りか百日紅などの咲く道だ。「今・此処」をゆっくり歩めばいい。そう教えているのはわが内なる友の、「死」であり「生」であるとわたしは気づいている。
2008 9・8 84

* 人間の基本の姿態は、立つ、坐る、臥る、だ。立つと臥るとは、世界中同じだが、座り方は国により民族や種族により、ちがう。その違いを克明に世界地図に描き込んで行くと面白い動態・動勢図が出来るかも知れないとは、三十年も前から言ってきた。正坐などという座法は極めて孤独な方だろう。仏像を観ていてもいろんな座り方をしている。しかし、跪座は稀に見ても正坐の仏像はさらにさらに稀で、見覚えが全くというほど無い。
正坐は極度の謙譲・服従ないし罪人の座り方である。
利休以前、茶の湯がほんとうに正坐で為されていたと考えるのは思いこみの最たる一つであろう。利休の出自には朝鮮半島の気味が濃いと研究家はもうだいぶ前から言い始めているが、朝鮮半島では文字通り正坐は罪人の座り方であり、かの国の人たちはたとえば片膝たてで自在に美しく振る舞う。能舞台で正坐しているのは、今では笛、太鼓、地謡、後見。シテもワキも正坐などしているのを一度も観たことがない。
織田信長や羽柴筑前が正坐して茶室にいる図を想像できない。
2008 9・9 84

* 此処に「客」の一字があり、杜甫の場合は余儀ない漂泊と無縁でないが、ひろく「人」の場合、「此の世は旅先」であり、自身はそういう「旅客・過客」という慨嘆がある。そこから「客愁」というわたしの胸を去らない感慨が湧く。

* 楽しいことばかりではない。耳を洗いたいことが、ある。どこにもある。わたし自身も他人様に耳を洗わせているだろう。
一時間半もどうしようもない電話に付き合っていると、声は嗄れるし、情けないし。しかし冷静に少しでも親切にと、聴き取ったり説得しようとしたりしても、すべて空しいのは分かり切っていて、必要なのは専門医の処置しかない。人間って、こうなんだなあと思うにつけて情けなくて、電話のあと、綺麗なロッサナ・ポデスタの「トロイのヘレン」の続きを観、そのまま眠さに身をあずけて寝てしまった。
人間がイヤになったら、寝てしまうしかない。夢も見ないまま目が覚めなかったら、あっけないがラクなもんだと思ってしまうが、それはヤケというもの。
2008 9・10 84

* まだ初任給の八割を支給されていたほどの新米社員のころか、ちょっとしたお礼を医者を紹介してくれた先輩さんにしなければならなかったとき、お金もなく品を選ぶセンスもなくて、今見ると恥ずかしいほど無骨な鉄骨出来のような小さな写真立てを選んだ、が、あんまりと思ったか、実は気に入っていたのか手元に一つ残っていた。
ものを書き始めた頃、それに、写真ではなく、雑誌から切り抜いた五㎝四方の二つの文を入れて身近に置いていた。座右の銘ほどの気持ちだった。今度、二つの文だけ遺し、外枠は処分した。
文は、こう在る。作家であるに相違ないが何方の文と覚えていない。その作家に感嘆していたかどうかも記憶がない。文に、頭をさげていた。今でも、そうだ。

此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか?

水を流そう思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より低く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。
2008 9・10 84

* 三十一文字の言葉優しい譬喩にのせ、知解のバっチリ利くリクツをうたいあげるのが「秀歌の遊び」の最たる成績であった。本気でそうであった時期が、古今和歌集のいわば前半期を占めていた。そのくさみを、歌のうまさでなんとか脱却の道筋をつけたのがいわゆる六歌仙たち。彼らを批判も半分こめて称揚した紀貫之ら選者たちにして、なおその弊は免れていない。だが、すこしずつ後撰集の時期へ迫って行くにつれ脱臭できて行く。うまいリクツをうまい譬喩やなぞらえで打ち上げるのは単騎の勝負だが、後撰集時代は和歌が社交の具となり、相聞ないし唱和ないし応酬の快に供される。妙なただのリクツ遊びよりも、情味を解して相手の胸にうったえる歌にした方が、恋もえやすく、気持ちも伝えやすい。和歌の成熟はそこで成っていったのであり、わたしの理解では「和歌」は、やまとうたの意味でも女うたの意味であるよりも、はるかに「和する歌」として機能していった。歌物語の歌は、たとえ単独の述懐歌と見えていても、心根に「和してくれる存在」へのあこがれやしたしみやうらみやかなしみが籠もっている。十から十一世紀ほぼいっぱいの和歌とは、およそそんなものであって、わたしは愛読してきた。
だんだん、和する心から、ひとり歌う、うったえる歌に自立して行くようになり、千載・新古今のいわば獨詠・藝術和歌と鍛錬されていった。過去の優れた和歌は本歌として咀嚼され、獨詠歌のいい肥やしになった。
古代和歌への、わたしのおよその理解はそうである。
2008 9・14 84

* 久しぶりに、実に久しぶりに「ペン電子文藝館」を開いてみた。作品を読みたかったのではない、展観の「道案内」立て札を館長の筆で立てていたが、その後、どんな立て札が増えているか観たかった。
ところが、ただの一本も増えていない。しかも、わたしの機械画面ではその案内文は、蟻の頭ほどの紙魚のような字で、全然読めない。唖然とした。
どんなことを書いていたか。何故書いていたか。六百五十ほどの作品をわたしが主幹・館長時代に展観していて、単独単位でアクセスするのだから、出来れば文学史的に関連してくる話題を「立て札」に立てて、読者の道案内にしたかった。
どんな風にわたしが書いていたか、そのまま、ここに自身の「著作物」として転記しておく。こういうものが必要で有効であると、何方も思われるだろう。

* 「ペン電子文藝館」展観の「道案内」集 電子文藝館委員会  05.8.1設営

(今後、新しく書き加えた「立て札」を、上へ上へ積み上げて行きます。)

☆ 孤高の雄峰

いつしかに歴史の波に洗われ、今も屹立して孤高を保っている記念碑のような文学があるものです。もはや発表当時の時流や主張や思想をすら問題にせず、作品自体の魅力ゆえに、読めばきっと感銘を受けるといった性質の、まぎれもない作品たちです。それでも烈しい時勢はともするとそれらを置き去りにしようとします。「「ペン電子文藝館」の「招待席」「物故会員」室は、心してそういう秀作に心をとめてきました、これからも、そうありたいと思います。
岩野泡鳴「醜婦」 上司小剣「鱧の皮」 近松秋江「黒髪」 鈴木三重吉「千鳥」 白柳秀湖「駅夫日記」 宮地嘉六「煤煙の臭ひ」 加能作次郎「乳の匂ひ」 宮嶋資夫「坑夫」 吉田絃二郎「島の秋」 長田幹彦「零落」 水上瀧太郎「山の手の子」 前田河廣一郎「三等船客」 葉山嘉樹「淫売婦」 牧野信一「西瓜喰ふ人」等々、近代の半ば以前で拾おうとしても、追いつかないほどです。
世間の「有名」だけが優れた文学の基準ではありません。 (秦、05.9.25)

☆ 純文学と私小説

よく使われることばですが、文学史的に狭義には、いわゆる「私小説」こそ純文学であるとされてきた久しい経緯があり、それから押しひろげて、藝術的な文学と通俗読み物とを区別した際の、前者を広義に「純文学」とつかうこともあり、無意識にこの使い方がむしろ一般化していると言えるかも知れません。
私小説にも難しい議論が繰り返されてきましたし、それを此処でおさらいすることはしませんが、私小説に自ずから或る両面の表われの観られることも現実です。議論抜きに、例えば、瀧井孝作「結婚まで」と、嘉村礒多「七月二十二日の夜」や牧野信一「父を売る子」を読んで、あなたの感想を育んでください。 (秦、 05.9.25)

☆ 兵隊文学

こんな呼称が文学史的に在ったかどうかは別として、明治から昭和の敗戦まで「兵役」がありました。出征、兵舎、戦地、戦闘、傷病、戦死、帰還、銃後、遺族、また階級や服命服務や武器や、さらに天皇制とも関わって、巨大な圧力に堪えた国民の体験でした。
「電子文藝館」には、そういう兵隊文学の傑作・秀作が既に幾つも展観されています。
与謝野晶子の有名な「あゝをとうとよ戦ひに」と歌った詩もそうでしたが、より直接に兵隊の日々や姿を書いて優れた、新井紀一「怒れる高村軍曹」細田民樹「多忙な初年兵」黒島傳治「渦巻ける烏の群」伊藤桂一「雲と植物の世界」阿川弘之「年年歳歳」菊村到「硫黄島」結城昌治「軍旗はためく下に」五味川純平「不帰の暦」三原誠「たたかい」小田実「玉砕」神坂次郎「今日われ生きてあり」など、すべて胸に迫る文学です。異色の、これも銃後の断章、崎村裕「マリの出征」もあります。
火野葦平「麦と兵隊」野間宏「真空地帯」大岡昇平「野火」梅崎春生「桜島」その他、当館にぜひ展観し、心新たに広く読まれたい兵隊文学の名作・力作は、まだ数多くあります。
兵隊なんて、過ぎし昔のこと? いいえ。「イラク派兵」等にみられるように、歴史は、今しも危うく繰り返されようとしています。 (秦、 05.8.29)

☆ 優れた文学か、悪意の算術か

小泉八雲の文学から、よく思案して最初の展観にわたしの選んだのが、東京帝国大学に赴任して初回の「文学」講義録です。題して「文学と世論」。多くの外交努力よりも真に優れた文学が「国」のイメージを一新し、外国世論の尊敬を一時にかちえた例に、八雲先生は「ロシア」を挙げています。プーシキンにはじまり、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ等々世界文学の至宝となった作品が出るまでのロシアは、ヨーロッパの眼にはただの野蛮国だったと謂うのです。
ロシアが本当の敬意と称讃をえたのは、戦争や外交によってでなく「文学」の力であった。日本からも、そういう「文学」「文学者」出でよという気持ちで自分は講義を始めると、八雲は静かに講壇で語り始めたのでした。「悪意の算術」は「戦争」や「外交」を諷した当座わたくしの造語で、八雲がそう謂ったのではありません、念のため。 (秦、05.8.29)

☆ 演説の名人

弁論・雄弁・講演は近代知識人の得意技でしたが、とびぬけて聴衆をとらえた一人が、小説家徳冨蘆花でした。彼が日露戦争のあとに、満場水をうって感銘を与えたのが「勝(利)の悲哀」でした。日露戦争に名目上勝ったのは日本でしたが、内情は薄氷をふむ危うさ。戦後の講和に時の外務大臣小村壽太郎は身を削る思いをし、国民は弱腰に憤激し暴動も起こしました。
蘆花はそんなさなかに渾身の叫びをもって演説したのでした。
また「大逆事件」に大勢の死刑判決がでたとき、蘆花は迸る言葉で、明治天皇その人にうったえたのが「謀叛論」として名高い演説でした。二つともその記録が当館に展観されています。
夏目漱石もまた数々の文化講演により、近代日本を批評し、創作に匹敵する感銘を与えました。「私の個人主義」は代表的な優れた一つとして有名です。 (秦、 05.8.29)

☆ 三代の小説家

美術工藝や藝能には狩野派、土佐派、或いは成田屋、中村屋、音羽屋などと世襲家系がしられていますが、文学・文藝ではなかなか「三代」と続いた家はなかったものです。そこに文学・文藝の或る意味で「才能」の難しさが感じられますが、近年は「二代」に及ぶ作家の家も増え、珍しくなくなっています。読みたい人より書きたい人の方が多いと揶揄される世情と関わりがあるのでしょうか。
坪内逍遙より二歳若い廣津柳浪(一八六一生)の名や作品は、もうよほど遠く感じられる昨今ですが、「黒蜥蜴」のような日清戦争ごろの深刻な秀作を遺し、子に廣津和郎、孫に廣津桃子と続きました。柳浪より六歳若い幸田露伴(観画談など、一八六七) にも、娘幸田文、孫幸田玉青があります。それ以外には容易に見つかりません。 (秦、05.8.26)

☆ 初恋

初恋を書いた作品は数多くあります。ところが「初恋」と題した日本の小説は意外に見当たりません。幕末生まれ嵯峨の屋御室(一八六三生)の「初恋」は、近代初の初恋小説の秀作で、二葉亭四迷(あひゞきなど、一八六四) の「浮雲」と並んで、明治文学の幕開きを立派に飾っています。伊藤左千夫(左千夫短歌抄、一八六四)の有名な「野菊の墓」に先立ち、情のあつい優れて清潔な筆に、力が感じられます。以来、秦恒平(清経入水など、一九三五)が昭和五十三年に発表した作以前に、同じ「初恋」題の小説が思い出せずにいます。不思議な気がします。 (秦、05.8.26)

☆ 歴史小説の筆頭

歴史小説というとむろん文豪森鴎外(身上話など、一八六二生)の「阿部一族」などを思い浮かべますが、当館に展観した目下筆頭の歴史物は、石橋忍月が明智光秀を高らかに歌い上げた渾身の叙事詩「惟任日向守」でしょう。山田美妙(一八六八)の言文一致をこころがけた「胡蝶」も時代に先駆けた顕著な記念作ですが、忍月作には主君信長を筆誅し逆臣光秀を歎いて一種言うべからざる志気と哀情が迸ります。優れた文藝批評家山本健吉は忍月の子息です。 (秦、05.8.26)

☆ 文藝批評の先駆

斎藤緑雨(一八六七生)は、時に鴎外や紅葉や露伴らと並び称され、辛口の批評家として大きな存在感で時代に臨んだ文士でした。樋口一葉の才能に早くも目を向けた一人でした。当館が展観している緑雨作品は、しかし、批評そのものではない。「わたし舟」という一場の歌舞伎舞台を髣髴させる短編で、舟の客となるただ一人の母親の凄惨な造型に、口説に、読者は思わず息をのみます。添えました「小唄」数編は、縹渺濛々の川面を流れる、人生わたし舟の深い哀れを、さも聴かせるかのようです。これとても、緑雨が人間に向けたつよい「批評」かと思われます。 (秦。05.8.26)

☆ 好一対

「ならび称する」という物言いは、人麿・赤人や清少納言・紫式部の昔から、好奇心や関心をひきよせるうまい物言いでした。近代文学史にも、優れた例が幾つもあり当館にも展観されています。あまりに常識的ですがまた大きな指標の如くに、森鴎外(安井夫人など)と夏目漱石(吾輩は猫であるなど)、幸田露伴(幻談など)と尾崎紅葉(金色夜叉など)、北村透谷(各人心宮内の秘宮など)と島崎藤村(藤村愛誦詩選など、)志賀直哉(好人物の夫婦など)と谷崎潤一郎(夢の浮橋など)、菊池寛(父帰る)と芥川龍之介(一塊の土など)、横光利一(マルクスの審判など)と川端康成(片腕など)などは大勢の記憶に刻まれた大きな名前です。対照的といえる一対も優れた同行者といえる一対もあり、もう古典といえましょうか。読み比べるとお互いの個性や作風がまざまざと見てとれます。
そんななかで際立った対照の妙を光らせているのが、例えば徳田秋聲(或賣笑婦の話など)と泉鏡花(海神別荘など)とです。二人とも金沢市出身、尾崎紅葉の同門として出発し、秋聲は師を離れて自然主義散文の絶巓と頌えられ、鏡花は師の薫陶のもとに日本語の魔術的天才と称讃され、お互いに極北の地位を競ってきました。
だいじなことは、常識の「好一対」「好敵手」のほかに、自身の読書体験から自分でまたいろいろな作家の、また作品の組み合わせを創り出すのも創造的読書といえるでしょう。数百もの作品を選んで読みに読んで展観してきた私の実感です。例えば明治に生まれ明治のうちに死んでいた夭折の天才に、樋口一葉(わかれ道など)と石川啄木(文学論二題など)があった、などと。生没年を確かめてみてちょっとビックリして下さい。 (秦 05.8.24)

☆ 健在最高齢

最近、優れた「読み手」としても知られた一詩人に声を掛けられ、「電子文藝館」の或る女歌人自選歌のすばらしさに目をみはった、この気持ちを作者に伝えてくれないかと頼まれました。「招待席」の 石久保豊さん「兜」八十八首への讃嘆の弁でした。石久保さんは一九◯七年六月三十日に東京都文京区に生まれた、電子文藝館展観作者の健在最高齢、来年は白壽。病を養いながら、短い小説や随筆を老人たちの仲間誌に書き継いできた全く在野の人ですが、「毅く、確かで、人生の生気が真実だけの持つ迫力で迫ってくる」という詩人の思いを裏切らない生彩に満ちています。
この歌人と同年に、高見順、中原中也、井上靖が生まれ、二年後に中島敦、太宰治が生まれています。一冊の歌集ものこさず、プロの文藝家ではない女性でしたが、電子文藝館は、真に優れた創作者への目配りも欠かすまいと努めています。
現会員出稿者で現在最高齢者は、やはり共に歌人である、菊地良江さん(鼓打つ・一九一五元旦生。)加藤克巳氏(ひとりのわれは・同年六月生)です。二年若く伊藤桂一氏の秀作「雲と植物の世界」が展観されています。  (秦 05.8.24)

☆ 作者の生年

「生年順展観作者一覧」を、「分野別展観作者(生年順)一覧」とならべて電子文藝館は常に用意しています。近代文学の流れに目をむけるとき、これは限りなく有用で興味深いものです。「長幼」は、幾分の問題もはらみつつ日本人の生活意識に力を持って働きかける指標ですし、時にそれが不思議な眩暈を起こさせます。
二葉亭四迷(あひびきなど)が有名な「浮雲」を書くときに坪内逍遙(小説三派)の助言を得ていたのも、逍遙が五歳年上だったと知ると納得できたり、しかし正岡子規(万葉集巻十六)を熱烈に敬愛し師事した伊藤左千夫(伊藤左千夫短歌抄)が師より三歳年長、並び称された子規門の歌人長塚節(鍼の如く・全)とは十五歳も年長と分かると、思わず声が出たりするのも文学愛読のひとつの景気といえるかも知れません。作者の生年を知っていることは作品の理解を深める上で、十分ではないが極めて必要な条件であると思います。「一覧表」を時にはそれだけで楽しんでください。またちなみに出身地の東西南北ないし海外を確かめておくのも、不思議なほど文学鑑賞に役立つのです。 (秦 05.8.24)

☆ 一葉だけ? とんでもない。

明治時代に主に活躍した女流文学者は、樋口一葉(十三夜など・一八七二生まれ)ひとりではありません。少女の身で皇后に進講し転じて女権運動に挺身し教育者としても閨秀作家としても活躍した中島湘烟=岸田俊子(終焉日記など・一八六三)も、「小公子」などを紹介した優れた翻訳家若松賤子(いなッく、あーでん物語、一八六四)も、岸田俊子に触発されて現れた熱烈な革命家福田英子(獄中述懐、一八六五)も、みな幕末に生まれています。小説家として活躍した清水紫琴(したゆく水、一八六八)の生まれ年が明治維新。同年に樋口一葉を作家へと大いに刺戟した人気の売れっ子先輩三宅花圃(藪の鴬、一八六八)も生まれており、一葉と同歳の先輩木村曙(操くらべ、一八七二)の活躍もめざましかったのです。
そして一葉誕生の翌年に、女性ジャーナリストの嚆矢で教育者羽仁もと子(半生を語る、一八七三)が続き、ずっと遅れて歌人与謝野晶子(あゝをとうとよ戦ひになど、一八七八)や思想家平塚らいてう(元始女性は太陽であつたなど、一八八六)らが続くのです。電子文藝館は、記憶から埋もれかけていた明治大正の優れた女性作家たちを、もう何人も再発掘しています。水野仙子の「神楽阪の半襟」や伊藤英子の「凍った唇」など、忘れがたい異色を放っています。 (秦 05.8.24)

☆ 近代に先駆けた読み物

今まで電子文藝館に展観されてきたいちばん最高齢の文学者は誰でしょう。
歌舞伎作者の河竹黙阿弥(1816.2.3 – 1893.1.22)です。今年(2005)数え年百九十歳になります。ザンギリ(散髪)ものといわれる明治新風俗の名作舞台「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ) 序幕」台本が本館で読めます。
続いて戯作者假名垣魯文(1829.1.6 – 1894.11.8)の「安愚楽鍋(あぐらなべ)初編が、どうしてバカにならない気概を感じさせるしたたかの作で、美味いんです。
さらに噺家の名人三遊亭圓朝(1839.4.1 – 1900.8.11)の代表作「牡丹燈籠 第壱編壱貳回」があります。二葉亭四迷が言文一致嚆矢の「浮雲」を書くに当たり学んだといわれる未曾有の名演でした。
新聞記者岡本勘造(1853. – 1882.7.20)の「夜嵐阿衣花廼仇夢 (よあらしおきぬはなのあだゆめ)」は、いわゆる「キワモノ」隆盛期の毒婦もの講釈・講談のようなものです。
歌舞伎・戯作・人情噺・キワモノ。こういう文藝読み物を経て、ようやく近代文学者の大先輩坪内逍遙(1859.5.22 – 1935.2.28)らが明治の世に登場し、紅葉、露伴、鴎外や漱石、子規や一葉、鏡花らの時代に繋がります。日本の近代文学は佳い意味でも通俗の中から生まれ出たのでした。今日でも一二をあらそう出版社の社名が「講談社」である遠い歴史的背景が「電子文藝館」で眺望できます。 (秦 05.8.16)

☆ 近代に先駆けた論説・エッセイ

近代小説や詩歌の本格の作は明治二十年頃まで待たねばならなかったのに比べ、明治維新の前後に、すでに優れた論説・エッセイが続出しています。それらの多くが、いわゆる近代初発・初代の「知識人」たちにより書かれました。明治維新は、或る意味こういう知識人たちの参与で支えられたのです。
電子文藝館での最高齢論者は、洋学と外交に働いた栗本鋤雲(1822.3月 – 1897.3.6)で、今だと百八十四歳ほどになります。「岩瀬肥後守の事歴」は、彼等明治の知識人の優れた一先達の生きた幕末波瀾の経緯と意義とを、角度鋭く照射しています。
優れた啓蒙家西周(1829.2.3 – 1897.1.31)からは、多くの哲学用語等の翻訳の恩恵を享けてきました。「百一新論・抄」はおもしろい議論です。
時代をリードした知識人の一人中村敬宇(1832.5.26 – 1891.6.7)の「人民ノ性質ヲ改造する説」や慶應義塾の創始者福澤諭吉(1835.1.10 – 1901.2.3)の高名な「学問のすすめ・初編」さらに優れた教育者で基督者新島襄(1843.1.14 – 1890.1.23)の「同志社設立の始末」らが続き、一段と政治思想的に前進した中江兆民 (1848.11.1 – 1901.12.13)の「君民共治之説」が唸らせます。
ラフカディォ・ハーンこと小泉八雲(1850.6.27 – 1904.9.26)の「文学と世論」は、東京帝国大学での就任初の講義だったのです。これが示唆に富んでみごとなものです。そして要約に論説が「文学」の話題に及んできています。ちなみに小泉八雲は、英文学者夏目漱石の帝大前任者でした。
文語文もまじりますが、苦手な人も、極力読みやすく起稿してありますので、どうか目をむけて近代の黎明をみあげてください。 (秦 05.8.16)

☆ 山口瞳の「卑怯者の弁」

「反戦反核」特別に招待してあります。日本ペンクラブは一昨年(平成十五年=2003)に編著『それでも私は戦争に反対します』(平凡社)という本を出しました。ペンらしい好企画でよく読まれました。私も中に「電子文藝館」の「反戦反核」室のことを書きました。特にその中の山口瞳のエッセイに読者の注目を促しました。
エッセイの書かれたのが昭和五十五年(1980)、イラ・イラ戦争の頃でした。二十余年を経て、すでに西に米英のイラク撃滅があり、東は北朝鮮の「核」脅威に揺れ、「有事」はまさかで済まなくなり、対岸の火事では全くなくなっています。
戦後といえどもう昔、清水幾太郎という「平和論」者が声高に日本中をアジっていた時機がありました。彼の国家平和論は、明瞭な再軍備・軍事依存の均衡平和論なのでした。手短に言えば、平和とは戦争していない状態、その状態は各国軍事力の均衡・緊張で辛うじて保たれている状態の意味であり、国家を愛するなら、平和のために力で備えねばならず、国民は意欲的に挺身すべきだ、というのでした。
清水の論に反対する声は、敗戦から年数を経ないうちは、なおさら、いとも燃えやすく沸きました。山口瞳の「反戦」の、論も、情も、よく分かり情味に優って訴えてきました。心ある者は、みな、こういう山口の論調で「反戦」を訴え続け、実はいまも変わらないのです。
では清水は完敗かというと、悩ましいことに、彼は平和を「有事」の緊張・均衡状態ととらえて、「反戦」であるよりも「有事の平和」を論策していたと言えるのです。少なくも清水が現在も存命であったなら、見たことかと大声で政府与党を煽っていたかも知れない。その必要すらなく、先頃の或るテレビ討論に登場していた、まさに清水が期待していたかのような戦後派うるさ型の若い論者たちは、こぞって清水の論調に呼応するように喋っていました。「反戦」の真情なら、断然山口瞳に票が寄るでしょう。「有事」の議論となると、むしろあの頃よりも現状にあって、清水は、公然と胸を張るのではないかと思わせるようでした。
山口瞳は大岡昇平の『俘虜記』にならって、自分はまたもし戦争ともなるなら、「撃つ側でなく断然撃たれる側に立つ」と明言しています。さて、撃たれるとは鉄砲に撃たれるだけではない、占領され支配され、もっと危うい目もみるということです。具体的にいま北朝鮮の核攻撃と侵攻と占領支配を前提にし、日本人の何人が「撃たれる側に立つ」「敵を撃たない」という「平和・反戦」に手を挙げるか。四半世紀前と違い、そういう事態が、あながち仮定・架空の空想ではなく、眼前に迫っています。
山口と清水の論は、あの時と少しも変わりなく「反戦」と「有事」との衝突を分母にして、分子に「平和」の二字を据えていました。少し乱暴に要約したけれど、まず、間違いはありません。
「有事に堪えて反戦・拒戦」可能な「平和」論が、新たに強力にどう起きうるか。山口稿を校正していて、何度も何度も立ち止まり、唸りました。あらためて問いかけたくなるのです、あなたは、自分の心中をどう読みますかと。 (秦 05.8.10)

☆ 小栗風葉の「寝白粉」

風葉は尾崎紅葉の愛弟子で人気作家の一人でした。力も有りました。「寝白粉」は一代の傑作の一つともいえましょう。電子文藝館にこの作品を載せようかどうかと迷いました。文学表現としては優れていますが、小説は或る兄妹を主人公に、露骨な「人間差別」を書いていて、後の藤村による「破戒」ほども問題意識なく、小説のための手法として差別自体を利用したかの苦い読後感ものこしているのでした。
委員会で討議しましたが、委員のなかに、あるまじき人間差別を、差別されてきた人達の身になり理解しようとする知識や姿勢を欠いていることがハッキリし、文学的に優れているのなら問題ないであろうという声が多数でした。一任された館長秦は、この作品を展観しないと結論しました。小栗風葉には他にも作品がありますし、人権問題では闘おうという姿勢の日本ペンクラブが、人が人を人外に差別している小説を「電子文藝館」に「招待する」ことはないと考えたからです。だから、この「立て札」には該当する作品が存在しません。 (秦 05.8.10)

☆ 原爆の広島

戦後の原爆情報はGHQ(占領軍)により厳しく管理され、関連文書の日本人による公表も難しかったのですが、そんな中で、今思えば奇跡的に原民喜の凄絶な被爆体験「夏の花」「廃墟」が「三田文学」昭和二十二年 (1947)六月十二月に掲載されていました。原爆の惨害を描いて歴史的な証言の名作です。それよりなお早く「世界」昭和二十一年(1946)九月には阿川弘之氏の「年年歳歳」も発表されています。原爆直後の広島へ戦地から帰った体験が一種美しい静謐を湛えて書かれています。これまた歴史的な復員の一面を語るみごとな文学作品でした。
今年も広島・長崎の日を迎え送りました。原爆の悲惨をうたいつづける橋爪文さんの「夏の響き」その英訳である井上章子さんの「SUMMER REVERB」も忘れがたいものです。いずれも「反戦反核」特別室に展観されています。 (秦 05.8.9)

☆「ゲド戦記」の作者の詩

大人にも子供にも深い感銘とともに世界的に愛読されている「ゲド戦記」等の著者アーシュラ・ル・グゥイン女史の「アメリカ」を叱る心打つ詩「American Wars」が「反戦反核」特別室に招待されているのに気が付いてられますか。高橋茅香子さんの訳「戦争に戦争を重ねるアメリカ」とともにお読み下さい。  (秦 05.8.9)

☆ 「大逆事件」を知っていますか。

大逆とは天皇へ叛意の陰謀や実行をいいますが、「神聖にして侵すべからず」とされた明治天皇への大逆事件は、秘密裁判で大勢を死刑執行し、明治末期を震撼させました。事件の実態は、多くが思想弾圧のための國権による「フレームアップ=でっちあげ」であったことが今では明らかになっています。ちょっとした車座でなんでもなく話題にしていた批評や会話の端々が、途方もなく過大に扱われて極刑が科されました。経緯は「主権在民史料」室に展観されている隅谷三喜男『大逆事件明治の終焉』で読むことが出来ます。そんな時代はもうとうに過ぎた事と思われない、「共謀法」のような新法案の成立が、この二十一世紀にまたも目論まれたりしているのです。
電子文藝館は、大逆事件にかかわる更に四つの優れた作品を展示しています。どれも死刑執行の前後に書かれ、作者・筆者は、四人ともこの事件や裁判の内実に痛切な関心を寄せていましたし、作品はみなじつに優れています。
小説 平出  修 「逆徒」 作者はこの事件の弁護人でもありました。
詩  与謝野鉄幹 「誠之助の死」 大石誠之助は死刑でした。
評論 石川 啄木 「時代閉塞の現状」 洞察するどい考察です。
講演 徳冨 蘆花 「謀叛論」 満場に響いて大感銘を与えました。
隅谷氏の歴史記述とあわせ、お読み取り下さい。  (秦 05.8.8)

☆ 創業出版人のタイプ

「出版・編集」特別室には、著名な出版社を創業した人達の言葉がもう何人も収録されています。現在までにまだ、 岩波書店・岩波茂雄  新潮社・佐藤義亮  平凡社・下中弥三郎  講談社・野間清治  中央公論社・嶋中雄作  改造社・山本実彦  第一書房・長谷川巳之吉 等々ですが、一人一人の業績や解雇の言葉等から窺われる「出版」の理想や目的が、それぞれに微妙に異なるところを読みとってみるのも無意味でないでしょう。ひたむきに良い本を。売らんかなより多く。この二極を揺れて動くしかない近代の出版が見えてきますが、それでも、この創業者たちの時代はまだ「創意・創作=creation」を十分重んじ、作品の「製作・生産=production」へ雪崩れをうつことはなかったようです。「紙の本」文化の智者・勇者たちの、出自に目を向けてみるのも大事な見どころです。 (秦 05.8.8)

☆ なぜ「主権在民」か

「象徴天皇」と共に在る立憲民主主義日本として敗戦日本は再生への道を歩み出し、六十年を経てきました。しかし、われわれはそれへ到達する更に以前の、近代日本の苦闘に満ちた長い足取りを、とかく忘却しています。突如として六十年前に「戦争放棄の平和主義」や「基本的人権を認めた民主主義」がよそから与えられたかのように勘違いします。
そうではない。それへ至る苦闘の「近代日本」を日本人は経てきました。その百数十年の重い重い歴史を、「電子文藝館」のなかで、「あらまし」でも通観できるようにと、電子文藝館は、「主権在民史料」特別室に、一巻の書物のように通読の利く、下記七編を、敬意をこめて筆頭に置いています。折にふれ、戦争を知らぬ世代に、一人でも広く多く読まれて欲しいと願って。
『近代日本 主権在民への荊の道』
井上   清  近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ
色川  大吉  自由民権 請願の波
隅谷 三喜男  大逆事件・明治の終焉
今井 清一  関東大震災
大内 力  ファシズムへの道 準戦時体制へ
林 茂  太平洋戦争 総力戦と国民生活
蝋山 政道  よみがえる日本 占領下の民主化過 (秦  05.8.7)

☆ 「あたらしい憲法のはなし」

憲法が大きな話題になっています。近代以降の日本は、明治の「欽定(天皇が下付した)憲法」と昭和の「新(主権在民)憲法」を経てきました。この二つの憲法は、ともに電子文藝館「主権在民史料」として展観されています。その大きな差をぜひ判読してください。また併せて、明治天皇と昭和天皇の有名な「五箇条の御誓文」「人間宣言」も一続きの大きな「意図」として読まれたいマニフェストです。平成の現天皇即位の第一声が「いまの憲法を守る」であったことも忘れたくありません。
明治にも昭和にも、それぞれの憲法が成立する前には、各界から多くの「憲法案」が熱心に提出されています。自由民権運動の燃えあがった明治期の特色ある幾つかを、本館は紹介しています。
さらに昭和新憲法の、貴重な一史料を展示しています。新憲法成立直後に、当時の「文部省」が広く学校等に配布した政府公式の憲法理解「あたらしい憲法のはなし」です。現憲法の掛け値のない本真のところが日本政府見解として示されていたのです。いずれも「主権在民史料」室に展示されています。 (秦 05.8.7)

☆ 歴代会長

昭和十年(1935)十一月創立以来、平成十七年(2005)現在、日本ペンクラブは十四人の会長を擁してきました。とりまとめ順番に、名前と掲載作品を紹介します。一冊の選集かのように通読するのも近代文学の流れを感じ得て、一興かと。

島崎 藤村   嵐  伸び支度  藤村愛誦詩選
正宗 白鳥   今年の秋(讀賣文学賞)  人生の幸福(戯曲)  口入屋
志賀 直哉   邦子  好人物の夫婦
川端 康成   片腕  新進作家の新傾向解説
芹沢光治良   死者との対話  ブルジヨア
中村 光夫   知識階級
石川 達三   蒼氓(最初の芥川賞)
高橋 健二   ゲーテの言葉(翻訳)
井上  靖   道  北国(詩集)
遠藤 周作   白い人(芥川賞)
大岡  信   原子力潜水艦「ヲナガザメ」の性的な航海と自殺の唄(長詩)
尾崎 秀樹   「惜別」前後─太宰治と魯迅
梅原  猛   闇のパトス(処女作)  王様と恐竜(戯曲)
井上ひさし   金壺親父恋達引  明くる朝の蝉

さらに追々に作品を増して行くつもりです。 (秦 05.8.6)

☆ 物故会員のこと

日本ペンクラブの現会員(2005.8月現在、約二千余名)の内規に適した「出稿」は、「会員」の権利として無審査で掲載されています。言い換えれば内容は「会員」の自己責任になっています。
その外に、昭和十年の創立以来今日までに逝去した元会員を「物故会員」として随時に遺作を遺族・著作権者・関係者にお願いして掲載していますが、現在のところ、「現会員」と「物故会員」とが「検索」上で区別されていないため、一瞥で見分けることが出来ません。遠からず対策して、「検索」でも見分けられるようにしたいと思います。
すでに作品の掲載されている「物故会員」には、歴代会長十四人のうち十一人、他に土井晩翠、与謝野晶子、岡本綺堂、徳田秋声、谷崎潤一郎、長谷川時雨、瀧井孝作、吉川英治、江戸川乱歩、前田河廣一郎、横光利一、林芙美子、岡本かの子、三木清、伊藤整、高見順、福田恆存、吉田健一等々、錚々たる文学者の名と作品とが見当たるはずです。こういう人達も会員だったんだと思い当たりながら、「物故会員」作品に行き逢ってください。 (秦 05.8.6)

☆ 「ペン電子文藝館」の開館

「電子文藝館」は、電子メディア委員会(委員長・秦恒平理事)が提案、平成十三年(2001)十一月二十六日「ペンの日」を期して島崎藤村以降(当時) 十三人の歴代会長作品等を揃えて開館(初代館長=梅原猛当時会長)しました。平成十五年(2003)四月総会(井上ひさし新会長)より電子文藝館委員会 (委員長・館長=秦恒平理事)として独立し、今日に至ります。平成十七年(2005)春、開館三年半で、河竹黙阿弥・福沢諭吉らに始まり平成の作家・詩人らに至る約六百作をすでに展観しています。平成十七年五月総会を経て、現在、秦恒平館長・理事、城塚朋和委員長、委員二十余名(担当役員・米原万里常務理事)で運営されています。 (秦 05.8.4)

☆ 「ペン電子文藝館」の構成

検索ロゴが示しますように、大別して「本館」及び「ジャンル別展示室=小説・評論・詩・短詩形・戯曲・随筆・和洋翻訳・ノンフイクション・児童文学」「招待席」「特別三室=反戦反核室・出版編集室・主権在民史料室」「会員広場」「読者の庭」「展観道案内」および「(ペンクラブ)広報」で構成されています。以下に概略を説明します。 (秦 05.8.4)

「本館」 梅原初代館長の「開館宣言」(和英)以下、電子文藝館の諸資料=館蔵作品の作者生年順リストやジャンル別リスト等各種の記録等を揃えています。多方面にわたりますので、なお不十分ですが整備に努めています。

「ジャンル別展示室」 区分も類別もなお微妙で、この先に試行錯誤が必要ですが。現在は此処に、現会員・物故会員(往時、昭和十年創立以来のペンクラブに在籍し名簿に名を残している諸先輩)の作品を、いっしょに展示しています。

「招待席」 昭和十年(1935)十一月二十六日の日本ペンクラブ創立以前に亡くなっている近代の文学者・編輯者等、及び創立後も会員にはならなかった優れた文筆家たちに敬意を表して、その秀作力作・異色作・問題作等を招待し、時代の推移に湮滅させてはならない優れた名と作品をも心して集めようとしています。それにより、近代百数十年の日本文学の大きな流れが観てとれることをも期待しています。

「特別三室」 開館以来一年を刻むごとに記念の特別室を提案しせっちしてきました。
「反戦反核」特別室  平和を願う国際ペン憲章にもとづいて発足した日本ペンクラブとして、当然の意図として原民喜「夏の花」はじめとする作品を集め始めています。戦争文学でなく、反戦・反核の願いを籠めます。
「出版編集」特別室  日本ペンクラブの会員には多くの出版編集人が加わっています。文藝活動の大きな一端を担った人たちの、また異色の活動を経てきた人達の言説をとりあげます。
「主権在民史料」特別室  電子文藝館は、戦争に反対し平和と基本的人権の安全を守ろうとする思想団体でもあり、文藝の基盤をなしてきた近代百数十年の歴史の動向にも深い関心を払わずにおれません。折柄憲法問題一つでも時代は烈しい波に揉まれています。自由民権・主権在民を願った明治維新以来の歴史のあらましを、この特別室は冒頭の七篇「主権在民への荊の道」で示したいと考えました。多くの史料を有意義に此処へ収載し、のちのちへ申し継ぎたいと願います。

「会員広場」 二千人の会員が、自由に発言できる広場です。活用されますように。

「読者の庭」 館と読者の「絆」として設けました。展観作品や作者に触れて、「論考・批評・鑑賞・感想」等を投稿していただく広場です。「創作」は扱いません。掲載料不要・原稿料も出ません。投稿は委員会で十分審査して採否を決めますが、採否への異議や質疑は受け付けません。優れて新しい批評家の誕生を此処で待望します。

「展観道案内」 いま読まれているような案内の立て札を、展示館蔵作品について、いろんな角度や工夫で、より興味深くアクセスし読んで頂けるように努めます。委員たちで随時に書き加えて行きます。それぞれの末尾に「文責」と「日付」を姓で示します。

「広報」 日本ペンクラブ広報室の記事へ連絡しています。 以上 (秦 05.8.4)

* 現在七百もの作品がばらばらに展観されているので、上のようなある種の「読める」話題で「館ぜんたいの道案内」がないと、読者も「とっかかり」を持ちにくいのは知れた話である。新しい委員長の新しい委員会でその「案内」の努力がまるで放棄されているのには驚いた。
とはいえ、正直の所、こういう案内が適切に出来るには、近代文学全分野に対する「読みと理解と慣れ」とが必須である。誰にでも出来ることではなく、しかし館はペンクラブの中でも、唯一常に「外向き」、社会へ顔を向けて存立している。現執行部、現委員会は、そういう方面への適切な配慮・認識に欠けていた。作品もあまり数増えていないし、こういう「読者」との最接点であるようなところに、神経も親切も配られていないのは、企画創立者として、とても残念だ。

* 仕方がない。意図した「電子文藝館」そのもので以て「近代文学の流れ」を緩やかにでも把握し表現したいという意向は、「ペン電子文藝館」のモデルとして先立って出発させていた我が「e-文藝館=湖(umi)」が、改めて受け取って行く。上の、全部の「道案内」も、そのまま筆者の手元へ返してもらい、「e-文藝館=湖(umi)」で追々に用いたい。
2008 9・17 84

 

* 作品を外国語に翻訳することを真剣に考えてみませんかと、何度も忠告されてきた。今度は、気が動いて、ここにもそれを書き、助言・助力が頂ければ有り難いと。
早速に、遙かな海外から、未知で面識もない方だが何度もの文通によりかねがね親愛し信頼してきた方の親切なメールを頂戴した。
具体的なことがちゃん書かれていて、とにかくも候補作品を選ぶことが第一着手になると。それなしには、当然だ、動き出せない。
かねて翻訳を奨めてくれてきた人は、手始めには『ディアコノス 寒いテラス』と『畜生塚』をと挙げている。『親指のマリア』はどうかという意見ももらっていて、魅力的だが、長編だ。
手持ちの「掌説」全部はどうかと身近な声も出ている。
暫く熟考したい。成る成らぬではない、わたしの本気の問題だ。放っておかない。
助言を下さっている方々に深くお礼申し上げる。また久しい読者のみなさんにさらにお声を給わりたい。
2008 9・18 84

* 今日も突発にびっくりする事件があった。八月末の朝日新聞の文化欄に、兼好の「隠されていた恋」を洗い出したという本が出たと紹介されていて、これまで「誰も気づかなかった」とあるそうで、知人が、切り抜きを送ってくれた。
半世紀前にわたしは「徒然草執筆動機に隠れた恋愛」があったと論文を書き、それに基づいて小説『慈子』を書き下ろして、これは廣く読まれた。さらにのちに旺文社のために『兼好の思い妻』を書いて、徒然草論を纏めているし、単行本『春は、あけぼの』に収録している。みな昭和の仕事である。紹介された新聞記事では簡略すぎるが、それが要旨だとすると、全面的にわたしの仕事が先行している。
著者は日文研の准教授としてある。学者の仕事がそんなに行儀がわるくなったのかなあ。小説家ナミであるなあ。断っておくが、わたしが学んだ先達の学者研究者にも、兼好の恋らしきことに触れた人は何人もいたので、「誰も気づかなかったこと」なんかでは無かったのである。
わたしの『慈子(原題・斎王譜)』は、此のウエブの中で電子版・湖の本⑨⑩として簡単に読んで貰える。また四半世紀も前の旺文社の大きな叢書「日本歴史展望」第五巻に書いた『兼好の思い妻』も、いま充実中の「e-文藝館=湖(umi)」「論考」室におさめてある。すぐにも読んでいただける。
2008 9・18 84

* 驚くことは有るものだ。一枚のコピーが、日本の近代文学研究者で、久しいわたしの読者である人から送られてきた。
「どこかで見たような話ですが、ご存じの人ですか」と、さりげない。コピーは、つい最近、八月三十日土曜日の朝日新聞「文化」欄記事であるらしい。
わたくしの、お馴染みの読者の方々にも、ことに、『慈子』を愛読して下さった方には、改めて此処でもこの記事を読んで頂こう。紹介されている話題は、光田和伸氏の近著『恋の隠し方』(青草書房)のことである。なかなかそそる題であるが、記事を再掲させて貰う。

★ 光田和伸さん著「恋の隠し方」 朝日新聞 2008年(平成20年)8月30日 土曜日「文化」欄

徒然草に秘めた恋? (大見出し)

愛した女性と進展できず、やがて死別…(中見出し)
徒然草に吉田兼好は恋の思い出を隠した? そんな大胆な説を国際日本文化研究センター(日文研)の光田和伸・准教授(57)が著書『恋の隠し方』(青草善房)で発表した。
光田さんの専門は和歌、俳諧を中心とした日本古典文学。244段からなる徒然草を徹底的に読み込んだ結果、29、30、31、32、36、37、 104、105段に、兼好自らの恋を描いたことが判明したという。女性と恋に落ちたものの、うまく進展せず、そのうちに女性が重い病となり、永の別れとなる。そんな様子が浮かび上がると説く。第32段には「九月二十日の頃、ある人に誘はれたてまつりて明くるまで月見ありく」とある。新暦の11月末ごろの冷え込む京都で夜が明けるまで月を眺めて歩くほど恋に苦しみ、寝られない兼好の姿が分かるという。
なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか。光田さんは「徒然草は隠者の無常観の文学だ、という教科書的解釈の思い込みがあまりに強かった。それに、伝統的に関東の学界など、東びとの心で解釈されてきた影響ではないか」とみる。

「8つの段に兼好自らの経験」
「兼好は他人の恋の歌や恋文の代筆をしました。恋の味わいを解さぬ男は話が通じず、特上の杯に底がないようなものだとも書いています。しかし、武家文化の影響が強い東びとによる解釈は、上方のようには色事に好意的、許容的でなかった」
では、兼好がその恋を文章の中に隠したのはなぜなのだろうか。「平安以来、女性は恋した人との思い出を書いても良かったのです。『蜻蛉日紀』『和泉式部日記』のように、相手の男性のことを洗いざらい書いて発表することもできた。しかし、世間体のある男性にはそれは許されなかったからでしょう」
秋には俳人松尾芭蕉が「隠密」だったという説を紹介する著書を発表する予定だ。   (大村治郎)

* その本を「読んでいない」ので、或いは、わたしの過去の幾つかの仕事を「参照・引用」が明示して有るのかも知れず、それなら、問題無い。
しかし徒然草に「なぜ兼好の恋愛の思い出が織り込まれていると、これまで気づかれなかったのか」とある。これは困る。
半世紀近くも前に同じ内容をわたしは論文にしている。よく読まれた小説にも書いている。またわたしが勉強した先行の研究者にも、そのようなことを指摘していた学者は何人もいたのである。

* 此処に光田氏の挙げている「各段」を、すでに全てきちんと指摘し、「兼好の秘めた恋」を「徒然草の執筆動機」の大きな一つとしてわたしが論じたのは、はるか以前、まだ作家以前の昭和三十年代後半のことである。医学書院に編集者勤めの傍ら、東大文学部の研究室書庫に入れてもらい、徒然草文献を集中して読み、『徒然草の執筆動機について』論文を書き、母校の紀要「同志社美学」に送り、二回に分けて掲載されている。趣旨はまったく光田氏新刊の通りなのである。
しかし、それだけでは、光田氏の博捜にも漏れたのであろう。しかし、わたしのこの徒然草・兼好論は、最初の書下し小説となった『斎王譜』(昭和四十年)、のちには『慈子(あつこ)』(昭和四十六年)と改題して筑摩書房から書下し長編小説として二度版を変え、刷りも重ねていて、さらには集英社文庫にも収録された中に大きな範囲で相当詳細に使用されている。現代の愛の小説であると同時に「兼好」論とも読まれて、わたしの作品中もっとも廣く愛読されてきた一作なのである。刊行時より、注目してくれた研究者もいた。
わたしの徒然草ないし兼好の隠れた恋に関する執筆内容は、上に簡略に紹介されている光田氏の新説なるものに、ほぼ全面的に先駆しているだろうとは、紹介からでも、優に察しがつく。だからこそ、不審を覚えたべつの研究者は、朝日新聞のコピーをわざわざ届けて下さったと思う。

* さらにいえば、小説にまで目は配れないという点もあるかも知れぬ。
ところが、例えば旺文社から、瀬野精一郎氏の責任編集で刊行された大部の「日本歴史展望 第五巻」、南北朝を分担した『分裂と動乱の世紀』(昭和五十六年刊)という大版の准専門叢書の一冊に、乞われて、『兼好の思い妻』と題したかなり長い原稿を寄せている。この一文は、まさしく兼好の「隠した恋の伝記的事実を各方面から証明した論考であり、かように、光田氏のとりあげている徒然草各段の全部を検討しながら、わたしは、半世紀も昔から繰り返しモノにも書き、出版もしてきて、とにかくも「周知」と主張して問題ないのである。これを知らずに自身の新説とされるなら学者として杜撰であり、知って新説とされるなら剽窃のおそれがある。繰り返すが本を取り寄せて読み、問題ない場合はわたしはこの不審を撤回するに吝かでない。
むしろ問題を追試し確認されて大いに喜ぶ。まことこれまで「誰も気づかなかった」、的を射た真に新説であるならば、同好の一人としても愉快である。が、その様子が上の記事だけではうかがい知れない。

* 上の記事に、第32段がことに引いてあるが、わたしの半世紀前の論考でも、此処から大事に先ず問題点を引き出していて、井伊直弼の『一期一会』とも絡め、論文でも小説でも「眼目」を成している。ところでこの段は、紹介記事にあるように兼好自身が恋をして歩いていた内容ではない。主人筋の恋の探訪に「従者」として同行していたことは、本文により明らか。
そこから、わたしは主筋の堀川具守と兼好と延政門院一条との三角関係らしきも引きだし、「思い妻」なる「隠し妻」をあぶり出していったのである。それにすら先達の学者は何人も言及していたことで、「誰も気づかなかった」ことでは無い。いったい誰をどう指さして、「誰も気づかなかった」兼好の恋人とされているのか、注文した光田氏の本を早く読んでみたい。

* どうして、こういう本が、今になって「新説かの如く」持ち出されるのだろう。むろんその本を読んでいない現段階ではあるが、日文研といい青草書房といい、わたしのそういう著作を記憶されている何人ものセンセイ方が関与されている。ま、そんなことは知ったことでないのだろう、わたしもそれ以上は言わない。
ああ、ビックリしたとだけ特筆しておく。
不審の方は、わたしの湖の本⑨⑩『慈子(あつこ)』および旺文社の上記の『日本歴史展望第五巻』所収の論考「兼好の思い妻」を読んで頂きたい。
さらに博捜される向きは、半世紀前の「同志社美学」の第六・七巻あたりをお探し願いたい。「徒然草の執筆動機について」上下として、若書きのつたない論文を二回にわけて掲載している。「論文の目的」は、執筆動機の背景にある兼好の「隠れた恋」に他ならず、光田氏の謂われるとおりのモノである。以来ずうっと言い続け書き続けてきたのであり、「誰も気づかなかった」ことでは無い。

* 正直に言うと、わたしは光田氏の本に出会うのが「楽しみで、嬉しい」のである。
わたしは、自説のオリジナリテイなどを頑固に主張する気はさらさらない。学説も新説もパブリックドメインだと思っている。その上へ、先へ、研鑽が伸びてゆけばいいのである。わたしが少年以来の、「徒然草は隠れた恋ゆえに書き始められたのではないか」という不審が、新しい学徒のちからでさらに見事に前進し展開したのなら、それを喜びたい。

* ただ、学者の論説には学者だからふむ手順がある。わたしのような小説家はその辺はガサツで不行儀であり、好いことではないが。学問研究の場合は、先行の説にはしっかり配慮された方がいいと云うことをわたしは言っておきたいのである。

* 幸い『兼好の思い妻』一編は、「e-文藝館=湖(umi)」の「論考」室に掲載済みで、今すぐにも読んで頂ける。『慈子』も、このウエブサイトのなかに、「電子版・湖の本」第九・十巻としてすぐ取り出して読んでもらえる。
2008 9・18 84

* 十一時前。いま青草書房から光田和伸著『恋の隠し方』が届いた。

* この本、①わたしの仕事にも名前にも触れていないこと、②恋の相手をわたしの論考と同じく「延政門院一条」と挙げていること、扱っている徒然草の各段もほとんど全てわたしが、半世紀近く以前に、論証に用いたのと同じであること、が分かった。
一冊の単行本であるから、わたしの扱わなかった範囲に筆の及んでいるのは当然で、それはわたしの問題ではない。
朝日新聞文化欄が「売り」として扱った限り、「兼好の恋」を本の題としている限りに於いて、著者光田氏は、先行の兼好論に博捜の学者的義務と義理を欠いていたのは確実と言える。論旨の剽窃かという疑いをかけることも、事実が示している限り、暴論暴言にならないだろう。また「これれまで気づかれなかった」と主張しているのだから、参照・引用されている他の各氏の仕事からも、光田氏主張は「隠した恋」に関しては、何も汲み取っていないということになる。しかし遙か早くに「ほぼ結論の同じ論策」が実在して、その後にも繰り返し敷衍し公刊されていたことを、氏は、知らない、調べない、ままに新説を豪語していると謂うに等しい。
朝日新聞に紹介を書いた大村治郎氏をわたしは知らないが、感想を聞きたい。
青草書房編集室の意見を聞きたい。
私の個人的な歴史から謂うと、文壇処女作「清経入水」に、誰より早く第一番にフアンレターをくれた杉本秀太郎氏は、青草書房の創立に関わっておられるように仄聞するが、氏の見解も聞いてみたい。
日文研には私的にも親しくしてきた何人もの方が、光田准教授の上席に並んでおられる。機会あれば、感想を伺いたい。

* 一時  青草書房の、また問題の本の刊行責任者らしき民輪めぐみさんに電話、事情を告げて、論考「兼好の思い妻」をファイルで送ることを約束。そして送る。受け取ったと返辞があり、報告に、少し時間が欲しいと。
2008 9・19 84

☆ 私語も読みまして、ネットで検索しましたら、すぐ出てきました、著者の名が。
七月に出た本なので、検索にひっかかりやすいのでしょう。
朝日新聞を読んでいませんので、文化欄ももちろん知りませんでした。
兼好の恋が隠されていたのが新発見とうたうのは、誇大な宣伝文句なのかなあ、と思うのは、楽観でしょうか。著者のプロフィールを見ると、それなりに学んだ人のように感じられますが、勉強が足りてないのかなあ。編集者も、同様に、勉強が足りないのかしらん。
もしほんとうに新発見と思っているなら、ご本を見てもらった方がいいと思いますね。
お手許に『恋の隠し方』はあるのですか。
剽窃だとなると、問題です。
今、あるコミックが、星新一の新潮文庫『ボッコちゃん』収録作品「生活維持省」と酷似していることが話題になっています。
遺族に指摘されたコミック作者も版元も、「星新一の『ボッコちゃん』は読んだことがないので、偶然だ」と言い張っているらしいですが、編集者までもが「読んだことない」と言い張っているところが、怪しいといえば怪しい。
だって、売り上げ240万部、わたしでさえ読んだことのある『ボッコちゃん』ですよ。 しかも、「生活維持省」は、最近NHKがショートアニメ化して放送してましたし。剽窃だといわれているコミックを原作とした映画が、今月にも公開されるというから、問題は大きくなることでしょう。
遺族の方は、版元と争うつもりはなく、読者の判断に任せる姿勢を示しています。大手出版社と映画会社 対 一遺族という構図では、一遺族の立場は弱いけれど、大勢いる読者が見識を示すことはできると思います。
風はどうなさるおつもりですか。
花は、『恋の隠し方』に眼を通した上で、新発見だとうたっている『恋の隠し方』の著者と出版社に、新発見ではないよということを伝えてあげて、相手側の反応を見た方がいいと思います。
花は風を応援しています。

* 耳に馴染まない奇妙な言い訳をさえされなければ、何度も言うように、自説が追試され確認されてゆく過程のようなモノなんだから、喜びこそすれ、荒立てる気はすこしもない。学者の仕事にこういうことがなるべく無いようであってもらいたい。誰にでも起こりうることである。
そもそもこの程度のことは、専門外の若い日のわたしにすらもたどりつけた結論なのだ、しかもわたしは先立った学者達からも十分結論を示唆されていた。研究の場合、原作本文を徹底して読む大切さのほかに、先学の追究にも目を配らなければ、お話しにならない結果を招く。
なるほど、本の帯を読んで「誇大な宣伝文句」に新聞社が乗せられたのかも知れない。そもそも兼好の凄さやすばらしさは、「恋の隠し方」などには無いのである。
秋には、芭蕉が「隠密」だったということを売り物に、同じ筆者の本が出るそうだが、そんな噂はまえまえから繰り返し聞いてきた話だがナアと、心許ない。
2008 9・19 84

 

* 新刊『恋の隠し方 兼好と徒然草』のこと、学者の著書としては通俗で、もうわたしは、物言う気も失せている。それよりもわたしは言いたい、「徒然草」という本はほんとうに素晴らしいので、どうか原作を読んで欲しいと。
ただし徒然草の古語は必ずしも初学の人に読みやすくない。この本は岩波文庫でむかし☆一つのいちばん安価な一冊だったから、新制中学の頃、国語の先生のすすめで真っ先に買い、しかしこれは容易でなかった。後追いした「平家物語」上下巻のほうがらくらくと読めた。よい参考書があった方がいいだろうが、読み味わいは自前がいい。徒然草は「恋の隠し方」を手引きした本とはまったくちがう。誤解がないといいが。
2008 9・20 84

 

急に風向きをかえましたね。
実を言うと、風は、吉行作品をほとんど読んでいません。芥川賞の「驟雨」一作だけ、やきつくように印象にあり、心底感嘆しましたが、そのご読む機会が全然ありませんでした。だから大久保さんの言われる、吉行さんの「自己の体験を核として、私小説とはちがった文学世界を創りだす」意味をよく理解しているわけではありません。
と言うより、「自己の体験を核として、私小説とはちがった文学世界を創りだす」のは、わたしもむろんそのつもりで小説を書いてきたのですが、作者と作品の半分以上は、いえもっと数多くがそうではないか。文学で、それ以外に出来る道があるなら、ほんとうに優れたオリジナル(ゲーテのフアウスト、シェイクスピア、嵐ヶ丘、ゲド戦記など)か、それとも通俗な読み物だけと言えそうです。
2008 9・23 84

☆ 翻訳するなら  京
「親指のマリア」、と思いました。時間はかかりそうですけれど。
「ディアコノス=寒いテラス 」には、私もとても驚かされましたが、案外悪いアイデアではないかもしれません。できるなら第一作目にするよりも二作目以降の方がよい気はするのですが。「冬祭り」もよいかと思います。
あいにく私は、適当な日本語-スペイン語の翻訳者を知りません。スペイン人の協力を得て、私が翻訳できたらよいのになあ、と夢見がちに思ったこともありますが、ちょっと現実味に欠けていますか。
それよりか、日本語で自分が書いたら、と、燻る思いも戻ってきていて、昨日見た韓国映画のテーマのせいか、ますます気持ちは動いています。
昨夜、バルセロナ市の祭りの打ち上げ花火を家の窓から眺めていたら、無性に日本の夏の花火が見たくなりました。
京は元気です。

* ハズバンドと協力して貰えると、古典や歴史がらみでなければ、可能ではないかなあと思う。日本語がよくわかってスペイン語で暮らしている奥さん。そしてスペイン人のハズバンドは、言語表現と縁の濃いお仕事であったと覚えている。
掌説を、コントのようでなくあくまで文学である短い小説としてスペイン語に定着できたらありがたいが。「畜生塚」や「隠水の」あるいは「誘惑」のような現代小説も。夢が動く。
イタリア語で「親指のマリア」が出来たらいいなとは何度も夢見てきた、が、「勘解由=白石」の江戸時代のパートが難しいかも。それに九百枚は長い。
「京」が肩の力を抜いて、自然にさらさらと書き始めるのには賛成。
2008 9・26 84

* 書いて外へ出してきた初出原稿は、コピーし、カードにもデータを記録して掲載原本ともども保存してきたけれど、コピーの類が、劣化して読み取りにくくなってきた。今のうちにスキャンして機械に入れてしまわないと難儀なことになるが、あまりに厖大な量で、茫然としている。パソコンで書いたかなりの量は機械にのこっているが、ワープロ段階の昔のものは、さてディスクすら見付けるのが容易でない。
いまも『北の時代』を岩波「世界」に連載していたちょうどその頃新聞に書いたコラム原稿をさがしたけれど、機械とはいえ「ワープロ」時代のことで、もはや簡単に探し出せない。せめてコピーを見付けたいのに三十余年も前で、整理もわるく、見つからない。

* 何を探していたか。当時岩波「世界」の若い編集者氏が毎月のように原稿を受け取りに家まで来ていた。原稿が無くてもよく話しに来て楽しい酒にもなった。妻はそういう来客達の接待にいつも追われていた。
そんなある日、わたしは「世界」君に、いまの日本、近未来の日本で難儀な負担になる問題は何でしょうねと尋ね、編集者氏は言下に「教育」と言い、わたしは即座に「世襲」と言った。わたしの挙げた二字一語に「人類の歴史」の重なっていたこと、ことに日本史における世襲の「重負担」が意味されていたこと言うまでもない。
以来三十年、「世襲」はいまや、わたしの憂慮していたとおり、例えば政治世界でもっともイヤな有毒瓦斯に成り、腐臭だけでない実害をもたらしている。麻生新内閣の閣僚の大半が世襲議員である。そしてそれが日本の政治の強い力どころか、どうしようもない空疎・脆弱・特権化の害毒に結びついている。小泉・安倍・福田、麻生。彼らの世襲の血はすこしも国民のタメにならない。

* 三十余年まえ、あのころまだ生まれてまもなかつたろう、ボストンの「雄」君が、いま、同じことを沈痛に話題にしている。

☆ サラブレッド 2008年10月03日09:31   ボストン 雄
・ 昨日の昼,DさんとランチにLE’sへ.フォーを食べ,店を出ようとすると雨が降って来た.急いでハーバードのCOOP書籍部に行き,本を物色する.
もう止んだかなと思って外に出てみたが,雨は却って激しく降っていた.諦めて裏口から抜け,向かいにあるハーバード関係のグッズの置いてある店舗へ.そこで僕もDさんも,「ハーバードカラー」の臙脂色の傘を選んだ.せっかく来たついでに,あれこれ見ていたが,その間にも同じことを考えてか,次々と人が入ってきては傘を購入していた.
レジに向かうと,僕の前に年老いた女性が,ひとり、買った傘の支払いをしようと、手に、白と臙脂のストライプの折り畳を握っていた.だがレジ係の初老の男性は,その人の選んだ傘には値札がついていないからダメという.同じタイプのならここにあるよと別の傘を見せるのだが,「それは臙脂色だけでしょ.私は,このストライプが気に入ったのよ.この白が入っているのじゃなくちゃ嫌よ」と主張する.渋々,レジ係はレジを離れ,傘置き場に商品を探しに行った.
やがてレジ係は所望のストライプの傘を持って戻ってきたのだが,いざ老婦人のクレジットカードを通すと,「あれ? これはダメみたいだよ」と.
「ああ,今月は病院に行ったりあれこれ使ったからだわ」と婦人は絶句.現金の持ち合わせも,他のカードも持っていないということで,傘を置いてそのまますうっと店を出ていった.
正直言って,あまりに待たされイライラしていた.しかし,いくら今月病院に行ったからといって,傘一本買えないとは...背中を小さく丸め,髪もまばらな後ろ姿を見て,なんだか気の毒で悲しくなってしまった.
言うまでもなく,アメリカは格差社会だ.この傾向はきっと永く変わらないだろうし,最近の金融破綻によるアメリカ経済の悪化は,貧困層を一層追い詰めることだろう.
・ 小泉政権が「自民党をぶっ壊す」といってあれこれやったが,結局壊れたのは弱者の生活基盤だけだった.そんな格差社会を,日本人は望んでいただろうか? 病院に行っただけで,雨が降っても傘一本買えない社会を,望んでいる人などいるだろうか?
そんな弱者に向かい,「人生いろいろ」などと無責任な言葉を吐き,自分は息子に地盤を譲ってさっさと引退する政治家を,何故高く評価している日本人が未だに多いのか.
先日,研究者交流会で後半に話していた某東大教授は,「日本はこのまま黄昏を迎えるのか,それとも痛みを伴った改革を受け入れるのか」と話していた.しかし,黄昏を迎えようと,痛みを伴った改革を進めようと,つねに痛みに晒されるのは弱者だ.そのことに,あの演者は気づいていない.いや,気づいて分かっているのかもしれないが,自分は高みの見物を決め込んでいた.
・ 昨日の深夜,日本の情報番組を観ていた.長渕剛と志穂美悦子の娘である長渕文音が今度映画デビューするそうで,その映画「三本木農業高校・馬術部」の宣伝を兼ねた特集だった.あの二人にそんな大きな子供がいたことも知らなかったし,たいそう美人だったのにも驚いたが,そんなことよりも,この映画の原作となったドキュメンタリー映像に深い感動を覚えた.長渕自身,インタビューで,
「果たしてこのドキュメンタリーを越える映画が作れただろうかと思ってしまい,役作りに悩んだ」と答えていた程だった.
(以下,内容について書いているので,映画を観る方は読まない方が良いかもしれません)
この映画は青森県の十和田市にある三本木農業高校の馬術部にいた湊香苗さんという高校生と,盲目のサラブレッド「タカラコスモス」との間の交流についてのドキュメンタリー映像を元に作られている.
タカラコスモスは中央競馬に17回出場した牝馬だが,1勝も挙げられずに中央競馬を去った.しかし,その後,乗馬として大学馬術部に引き取られ,そこで才能を開花させ,この大学を全国大会で優勝に導くほどだった.
ところが,程なくして,タカラコスモスの目に異常が現れ始める.治療を試みるも回復せず,以前からこの馬に興味を持っていた三本木農業高校の教諭により引き取られ,さらに治療に専念するが,ついに完全に失明してしまう.
湊さんは,この盲目のサラブレッドの世話を担当させられた.視力を失ったタカラコスモスは不安と苛立ちで全く人を寄せ付けなくなり,身体を拭かせることさえ拒んだ.しかし,湊さんが世話をするうちに,次第に湊さんに心を開くようになっていく.
なんとかタカラコスモスに活躍の場をと考えた顧問教師が,タカラコスモスを繁殖牝馬として北海道に2ヶ月間送り,奇跡的に子供を授かり出産する(「奇跡的」だったのは,人間では70歳にも相当する高齢であり,しかも初産だったため).湊さんは,この子供に,タカラコスモスと自分の名前「香苗」の一部をとって「モスカ」と名づけた.
盲目のタカラコスモスが誤ってモスカを踏みつけないように,モスカの首には大きな鈴が下げられていた.鈴の音が少しでも自分から離れると,タカラコスモスは狂ったように啼いて辺りを探す.
盲目のタカラコスモスの世話で,ただでさえ手一杯なのに,その上小さなモスカの世話まで加わって,湊さんは大変そうだった.「一度でいいから遊びに行って見たい」と湊さんは語っていた.
「デートなんかしないの?」とのインタビュアーの問いに顔を赤らめながら,「彼氏なんていない」と答える湊さん.本当に朝から晩まで,この二頭の親子の馬の世話に明け暮れていたのだろう.
しかし,やがてモスカが別の厩舎に引き取られる.サラブレッドは小さい頃に親と引き離さないと,その後の調教が困難になるかららしい.
引き渡しの日は、朝から親子を引き離すことになっているらしいが,モスカは柵を越えて再びタカラコスモスの居る厩舎に戻ってしまう.しかし,夜にはとうとう引き離され,悲しげな啼き声を上げながら,モスカは去っていった.湊さんは号泣しながら「モスカはわがままだから,きっと向こうでも迷惑かけるに違いない」などといいながら,タカラコスモスのいる厩舎に行き,「モスカ,行っちゃった」と言うのが精一杯のようだった.
タカラコスモスは目が見えないので,大会には出場できない.湊さんは,大会に参加する際には常に他の学生が世話をしている馬を借りて出場していたが,やはり息が合わないのか,落馬することも多かったようだ.そんな湊さんを後輩達は「下手くそ」といって哂ったらしいが,湊さんは笑ってやり過ごしていたという.
偉いなあ,と思った.
「目の見えない馬の世話をさせられて嫌じゃなかった?」とのインタビュアーの問いに,「なんで私だけ,という気持ちはあった.でも,もし目が見えていたら,タカラコスモスと私は会えなかった」と湊さん.
一番胸を打たれたのは,湊さんの高校生活最後の馬術大会のシーン.それまでタカラコスモスとの出場は許されなかったが,最後の大会だけ,タカラコスモスと出場することを認められる.この大会は,速さや障害物などで競うものでなく,馬術の技術を競うものであったので認められたのだろう.
ただし,当日の朝になって,タカラコスモスは前右脚を捻挫してしまう.直前まで冷やしたり痛み止めを注射して,なんとか大会には出場できたが,演技を始めてすぐにタカラコスモスは脚を引きずり始めた.さらに,目が見えないので,枠にぶつかったりもした.しかし,その中でもタカラコスモスは最後まで演技をやめず,湊さんの手綱捌きにあわせて停まったり後退したりと演技をこなした.湊さんとタカラコスモスの息は本当にぴったりと合っていた.
「普通の馬だったら,あんなことは絶対にできない.かつて「女王」と言われた馬の意地であり,湊さんとの絆の深さゆえだろう」と顧問教師は語っていた.
湊さんの高校卒業で,タカラコスモスとの生活は終わる.卒業式を終えてまっすぐに厩舎に行き,タカラコスモスに卒業を報告すると,この日のために縫ったというタカラコスモスのための防寒着を着せ,厩舎を後にするところでドキュメンタリー映像は終わる.
・ 失明し,絶望の中で奇跡的に授かった子供さえ奪われてしまうとは,惨い話だ.しかし,それが「サラブレッド」ゆえの宿命なのかもしれない.サラブレッドは文字通りthoroughbredだから,徹底的に品種改良された血統の馬なのだろう.
しかし,血筋が良いからといってそれに甘んじたのでは真の競走馬は得られない.幼い頃に親に引き離され,しかるべく教育を施されてきたのだろう.おそらくタカラコスモス自身も,そうした経験をしているに違いない.
・ 最近,麻生太郎だの,小泉ジュニアだのの話題で頻繁にサラブレッドという文字を目にする.別に僕は子供が親の職業を継ぐのが悪いことだとは思わない.親の背中を見て育つうちに,次第に同じ職業を選ぶ人もいるだろう.歌舞伎の世界など,未だに世襲がほとんどだろうし,それでいて名優を生み続けている.しかし,それは幼い頃からの厳しいトレーニングがあってのこと.
政治の世界に果たして「サラブレッド」は必要なのか? あまり好きな言葉ではないが,「昼の光に,夜の闇の深さが分かるものか」.医者に行っただけで傘も買えなくなるような人の気持ちが理解できるのか? もしサラブレッドが政界に必要なのだとしたら,それは真のサラブレッドであって欲しい.
もし本当に政治家として育てるのならば,幼い頃からそれなりの教育が必要であるし,せめて自分の地盤を譲るなどということはすべきでないと思う.
麻生太郎は「ずっとほうっておかれたので,生まれは良いが育ちは悪い」などと自ら言っているし,小泉だって離婚して息子の面倒など殆ど見ていなかったのではないか? 地盤を譲られただけで簡単に政治家になれるようで,果たして良いのか? 職業選択の自由があるから,政治家の子息が政治家になることを阻むことはできないだろうが,せめて同じ地盤から出馬することは禁止してはどうか.
安易に「サラブレッド」などという言葉を,「政治家には使って欲しくない」.

* 「世襲」には、トクだから世襲したい、ソンだから世襲させておくという、過酷な二面がある。
両方を合わせて言えることは、つまり「手分け」の「手直し」をしないのである。人間根源のエゴのつくる、「つよい我欲」と「よわい立場」とを、「世襲」の二字は本質として体している。
「世襲」こそ日本を悪くしてきた。そう言い切れる過去が、伝統藝能伝習の一部を除いて、日本史の総体を成してきた。藤原や源・平という世襲もあれば、人外を強い強いられる世襲もあった。表裏一体、つまり人間の世界に固定した「手分け」を全然「手直ししない」エゴが、強烈に絶対的にモノを言い続けてきた。
もし今日只今のまま悪しき世襲慣例を看過し続けると、大きな「トク」にしがみつく者等の対極に、またもやおおきな「ソン」を過酷に世襲させられる生まれながら不幸不運な階層が固定して行くだろう。反省のない安易で強欲な世襲は、格差の極端な不幸をなによりも「日本」という国に与えてしまうのである。
深く深く懼れねばならない。聡明に手直しを急がねばならない。 2008 10・3 85

* 新制中学の修学旅行のまえ、父に富士山は「どれぐらい高いか」と尋ねたことがある。父は、ナミの山ならこれぐらいと、かすかに眉をあげ、「富士山はなあ」と、ぐいっと頤を高く上げた。ものの説明であれほど適切だった例をあまり知らない。
秦の父に習ったこと、教わったことをときどきそういう風に思い出す。「秦」は「はた」ではない「はだ」が古い読みだとも正確に教えてくれた。祖父も蔵書に筆で「hada」とローマ字書きしていた。
祖父から口頭で教わったことはないが、想像を超えた大量で良質の漢籍や辞典や古典の蔵書で以て、信じがたいほどわたしを裨益した。
父は、読書は極道やと嫌いつつ、なによりも自ら謡曲という美しい伝統藝を少年わたくしの耳に聴かせ、また大江の能舞台へ、また南座の顔見世歌舞伎へ行かせてくれた。
叔母は茶の湯と生け花をたっぷり体験させてくれた。短歌や俳句という創作へクイと尻を押してくれたのも間違いなくあの叔母であった。
わたしは、新門前のハタラジオ店に「もらひ子」されて、数え切れないトクを貰っていたのである。親孝行をしなかったのが今になって恥ずかしくてならぬ。
2008 10・6 85

* 人は、時として、とても曲がりにくい曲がり角に当面したり、袋小路に似た隘路に首を突っ込んで途方に暮れるもの。わたしは、そんなときに、ま、藻掻いたり喘いだりと同じ意味ではあろうが、何かしら工夫して曲がり角で転ばないように、袋小路を抜け出すように、妙なことを始めたりする。「e-文藝館=湖 (umi)」の拡充もそうなら、「闇に言い置く私語の刻」にいろんな趣向を置いてみたりする。「気」が唾液のように湧いてくると、その「気」に羽をあたえて空を飛んでみたいと空想もする。
わたしはもともと躁よりは鬱に沈みやすい素質とみているが、それをかわして行く工夫そのものを、七十年、けっこう楽しんできた気もする。
2008 10・14 85

☆ 科学の話ではありませんが。 京 バルセロナ
恒平さん
視点の異なる人たちの意見が二つ三つ加わるだけで、どんどん話が面白くなってきますね。どんな反応が聞こえてくるか、毎日興味津々「闇」を開きました。他人に期待しておきながら自分はだんまりを決め込んでいる、いつもの「mixi」の無愛想さでは、ちょっと済まされないものを感じますが、自分の考えが口を突いてくるほど纏まらないのも正直なところです。相変わらず、一度に入ってくる情報があまりに多いのですよ、「仁」さんの話には。
東工大は出たけれど、科学や研究者の話になると途方に暮れます。バイト以外の私の就いた職は、バイクのサスペンションを製造する日系企業の即席通訳と、現在の事務職。仕事が人生の中心なら、私の七年半の大学生活は、まるまる「無駄」と言えるかもしれませんし、大学の学問を最重要視するなら、私は人生の挫折者と言えるかもしれません。が、私はそのどちらとも思っていない。
私にも、東工大を出て例えば証券会社に勤める人に、東工大を出た意味を問うた時期があり、「工業大学は出たけれど・・・」と自らを嘲笑する時期もありましたが、三年前受けた企業の面接で、学歴と職歴の不協和音を指摘された時、いつの間にか、東工大を出て証券会社に勤めたっていいんじゃないか、と考えている自分に気がつきました。「無駄」を許容できるようになったんですね。
「仁」さんも昔は、根底では「無駄」な雑学の推進者でありながら、常に人生への悲観を口にしている学生でしたから、若手研究者が《不思議なくらい自分の人生設計を考えることに絶望している》のは、それだけ余裕がないからではないでしょうか。みんなどこかで「無駄だって必要」と思っているに違いないのです。それを確信もって公言できるのは、無駄も報われることを知っている、自分の「今」を肯定できる人なのかもしれません。

「国家国民のための研究」

以前これについて書かれていた「司」さんには申し訳ないのですが、これを聞いて私が連想したのは、「軍国国家の秘密研究機関で生物兵器を開発している研究者たち」でした。「国家国民のため」という言葉は、分かりやすいようですが、とても分かりにくい。みんなそれぞれ様々な方向を向いて生きているのに、この言葉によって、突然一括りにされ一方向に向かって前進しているような錯覚を覚えさせられるのです。
その実、どの方向に向かっているか分からない。友人を見て、同僚を見て、家族を見て、自分の周りを見回して、果たして私たち、そんなに同じ方向を仰いでいるでしょうか。自分のためになることが妻のためにならなかったり、同僚の利益が自分に不利益を生んだり、良かれと思ったことが相手を怒らせたり、世の中そんなことだらけだと思うのですが。
この言い様にひっかかる理由は、もう一つ、私の仕事上の経験が関わっているからかもしれません。今は裏方の仕事に移りましたが、 4年前まで、海外で盗難にあった人や、お金の足りなくなってしまった人をアテンドする職にいました。呆然として日本の住所も思い出せない人、憮然としたまま一点を見つめている人、わなわな震えて泣き出す人、やり場のない怒りをぶつけてくる人、色々な人がいました。その中に数は少ないのですが、威張り散らす人がいました。自分は被害者だから、困っているから、何から何までお膳立てしてくれて、出費も代りに被ってくれるのが当たり前と思う人。自分のやるべきことはむろんやらずに、何でも他人に責任を押しつける準備があるのです。そういう人の決まって口にする言葉が、「日本国民が困っているのに」でした。
この言葉、実際言われてみるまで気づかなかったのですが、会話の途中で突然言われると、本当にびっくりするものです。そして面白いことに、私は今でも覚えているのですが、「日本国民が困っているのに」というセリフのもとにお金を借りに来た4人のうち、4人全員が、二年経っても三年経ってもその返済をしていない。彼らの借りたお金こそ「日本国民」の税金なのに。
「司」さんは恐らく、私の見た人たちとまた対極にいる人々を見て、「国家国民のため」という言葉が口を突いてきたのだと思います。ただ「国家国民のため」という言葉は、もっともらしく聞こえて、実は責任や目的を明らかにしたくない人たちに利用されやすい言葉でもあることを、意識していたい。
自分のやっていることが税金で賄われていることに気付くことは、とても大事なことです。その上で、基礎研究など「国家国民」に囚われずに研究してもよいのではないか、ボストンの「雄」さんのような研究者に任せてもよいのではないか、と私は思っています。  「雄」さんの《しかし、その価値判断は、傲慢とも取れるだろうが、どうか研究者にお任せいただきたい。》に、私は彼の研究に対する強い覚悟と責任を感じるのです。

科学や研究とは随分反れた話になってしまいました。
毎晩時間切れで、気が急いたりもして、もう一つ書きたいこともあったのですけれど、今回はこの辺で。
金木犀や吾亦紅の話を聞くと、日本がとりわけ懐かしくなります。先週は母から「秋刀魚一匹78円」の話など聞き、遠くの秋をますます感じています。恒平さん、迪子さん、どうかくれぐれもお大事にお過ごしください。 京

* 「笠」さんや「京」さんの声で、話題が少し広く寛いだ場へ動いた感じがする。科学とも研究とも自分はいまのところ関わっていないと感じる人も、畑ちがいと感じる人も、「国民」「税金」ということになるととても無縁でない。そしてまた思いが湧くかも知れない。
この六月五日付け「司」くんの一文にわたしはあえて意見を付さなかった。「これは、注目する人があるだろう」とだけで。容認にも否認にもいろんな手がかりを含んでいると思い、しかも門外漢のわたしがモノをいうより、もっと適切な発言者がわたしの近くには大勢いると感じていた。

☆ ちょっと一休み 2008年06月05日20:10  司
最近、自民党の無駄遣いプロジェクトチームなるところが無駄遣いをなくそうとばかりに、色々な資料を要求してきている。
その中の一つに、様々な公的研究機関に対して、本当に国の研究機関として必要なのか、民間に任せられないのか、というのがある。
以前、研究機関の企画部門にいたこともあるが、私も、組織全てとは言わないけれど、「本当に必要なの?」と思う事が、とても多くあった。
研究機関と言えども、国民の税金を使って仕事をしている以上、自分の研究ではなく、国家国民のための研究をすべきであって、そこに異論を挟む余地は、ほとんど無い・・・はず。
「国家国民のための研究」というのが何なのかという論点があるけれど、「これは国家国民のための研究ではない」というのであれば、そのことを、きちんと骨を折って説明をするのも研究者の仕事のはず。
これを言うと、「それは研究職の仕事ではない」と堂々と言う研究者の多いこと。
もちろん、そんな研究者ばかりでは無いことも事実だけれど、研究者には税金を使って飯を食わせてもらっている感覚の薄い人が多いなぁというのが、私の感想でした。

* 「司」くんがいいかげんを口走る人でないことを、わたしはあの大学の頃から、よく理解している。ことに心して行政の要所に身を置いている現在、いわゆる放言はしない人である。

* ここで、一つの語彙問題としてとりあげておいた方がいいのは、「国家」のことは措くが、「国民」ということば。
じつはこの一語は、中世まで、いや古代へまでも溯って、いろんな内包が有った。そんなややこしいことは措いても、なお、わたしがよく謂う「私の私」の「私」にこれが関わってくる。当然、「公」とのかかわりゆえに、ややこしい座標が浮かんでくる。
わたしは「国民」とか「市民」とかいう物言いとべつに、「私民」という言葉が、ないし理解や概念がもっと用いられていいと腐心してきた。その理由の一つに、「国民」と謂ってしまうとき、それが「国家」と対の「公民」性と、もっとプライベートな「私民」性とがごちゃまぜになってしまい、我が田に水をひくだけのために「国民」の一語がいろいろに濫用されてしまう不安が有ると考えてきた。

* 「司」くんの発言にある「国家国民」という四文字の、「国家」の方はともあれ、「国民」というのは、「私の私」でいえば、先の私なのか後の私なのか、公民なのか私民なのかが、しかとは分別されていない。そこへやみくもにとりついて「国民のため」論が始まると、水掛け論がはじまるだけで容易に収束しないのではないかという心配を、わたしは持ってきたのである。いまも持っている。
「国民のために」という名の下に国家権力が侵してきた「国の犯罪」は、すべての「私民犯罪」とつりあうか凌駕していないかという不安をも、わたしはいつも歴史的視野において持ってきた。大げさか、な。
そしてこういう問題意識に論点が推移して行くと、今日の「京」の提起は、さらなる整理を促し促されるだろうなという期待になる。
幸か不幸か、「司」くんも「雄」くんもまだ発言を控えている。
2008 10・18 85

* 夜前、岩波文庫全七冊の『モンテクリスト伯』最後を、一気に読み終えた。少なくも中学高校以来七度八度は読んできたが、今回は原作者の「構想」に身を寄せ、小説家としての関心からもことに丁寧に読んだ。
出逢いが早かったこともあり、わたしには、読み物というかエンターテイメントとしては、真っ先に指を折る記念の作である。『風とともに去りぬ』とか『大地』とか『椿姫』とか、だいたい同じ頃に人に借りて耽読したけれども、大デュマのこの作ほど「おもしろい」と思ってその印象の全く変わらない、いや今回などさらにおもしろさに磨きがかかった、そんな読み物は他に例がない。大長編であるなかで、しかも、十度ほど、十箇所ほどでわたしは感極まって胸を熱くし、しばし息を調えねばならなかったりしている。
一人の青年が、極限状況を経て神の如き超人と化し、凄惨な復讐を遂げて行きながらも「人間」に立ち帰って行く物語であり、「待て、しかして希望せよ」という思想としての結語にも十分「力」がある。「幸福」がある。
この大長編を、生まれ変わって行くエドモン・ダンテスとエデとの恋愛小説として読み切れて行くようになると、作品の輝きは一層深まる。まことに巧緻な大胆な組み立てであることにも感嘆するが、「喩」に傾くのをむしろハッキリ避けた「直叙」の話法、読み物としての潔さが、これだけ壮大な物語を、いささかの混乱無しに遂げるのに役立っている。そのことへの、わたしなりの「確認」は一収穫であった。

* 牢獄はこのエドモン物語の最初の魅力ある「語り場」であるが、併行して読んでいたトルストイ『復活』の牢獄のとらえ方書き方とのめざましいほど手法の違いは、多くを教えてくれた。
もうこれで読むのは最期か知らんと思いつつ取っついた『モンテクリスト伯』であったけれど、そうは思われぬ。かならずまた無限の懐かしさで書庫から持ち出すに違いない。ほんとうは数ヶ月も掛けて読み上げる気でいたのに、こころよく追いまくられてしまった。それも読書の幸福。
さてはたして日本の近代に、これほど面白く、微塵の停滞や退屈ものこさない絶大の読み物があるのだろうか。近世馬琴の『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』がふと思われるが、確信は持てない。吉川英治の『宮本武蔵』にしても大デュマの鉄腕からみれば、ほんの小味である。
エンターテイメントということを何か独自なもののように謂う人もいるけれど、デュマがこの作品に傾注した精神の高邁さは、エンターテイメントといったまやかしではない。堂々とギリシア神話や叙事詩、シェイクスピアの大建築と伍して何憚りもしないという藝術家の自負自信が読み取れる。
2008 10・22 85

* 文学の「鬼」といわれた昔「群像」編集長の大久保房男さんは、「色の日本」から読み出してとても楽しんだ、折口信夫先生の講義で「色」について聴いてびっくりした昔も思い出されて嬉しかった、と。
そのあとへこんな話も。むかし芹沢光治良会長の頃に、会員の会費の納入が思わしくないと理事たちに愚痴がでたとき、伊藤整が、「文士が、いそいそと会費を払って滞らせないようでは、文学はオシマイだ」と言い放ったことがありました、と。この話は誰かにも聞いていて、わたしは、その含蓄に耳を傾けて忘れたことがなかった。
わたし自身は滞納はしないけれども、伊藤整と同じような感慨や批評を喪ったことがない。文士達の団体の理事会が、おおむね金の話でアクセクしやすいのをつまらないことだと。金は必要である。わたしは金に関してもシビアである。しかし文士の第一義たる話題ではあるまい。伊藤整の「批評」は深くて辛辣であるといつも胸に抱いている。
2008 10・23 85

☆ 病むことと,生きることと 2008年10月23日18:54   麗
最近,病む人の話を何度か聞いた。
自分で自分が制御できない。妄想が起こる。幻聴が聞こえる,気力が萎える,疎外感や不安から他罰的になる。家族や友人などが攻撃対象となる場合も多い。
関わる側も,「まとも」に戻ってほしい一心で,治療を勧める。あくまでも,病む人に「良かれ」と思って。
これが,病む人にとっては大変な苦痛,らしい。太宰の『人間失格』では,家族にだまされて精神科に連れていかれ,いたくプライドを傷つけられた,絶対許せない,という描写がある。これは,太宰自身の経験に基づく。病む自分が受け入れられないと,良かれと思う周囲のかかわりも,恨みや憎しみのの原因にされ,攻撃の理由とされるのだ。
家族や友人知人が病んでいる人は,その関わりに自分自身も疲れきってしまう。
他を攻撃しても解決にならない。関わってくれる人もどんどん減っていく,気がつけば,まったく孤立した自分がいる。この段階で病む人は,自分自身を罰し始める。全世界が許せなくなったということは,自分自身も許せなくなったのだ。自らの存在を自らの手で消し去る場合もある。
聞けば聞くほど辛くなってくる。そんな話を何度か聞いた。
今朝,武田鉄矢のネットラジオ番組で,北海道は浦河にある『ベてるの家』について語っていた。病む自分を受け入れ,治ることよりそのまま生きることを重視する,という生き方。この施設の理念は次の通り。
—*—
・三度の飯よりミーティング

・安心してサボれる職場づくり

・自分でつけよう自分の病気

・手を動かすより口を動かせ

・偏見差別大歓迎

・幻聴から幻聴さんへ

・場の力を信じる

・弱さを絆に

・べてるに染まれば商売繁盛

・弱さの情報公開

・公私混同大歓迎

・べてるに来れば病気が出る

・利益のないところを大切に

・勝手に治すな自分の病気

・そのまんまがいいみたい

・昇る人生から降りる人生へ

・苦労を取り戻す

・それで順調
——–
病む人も関わる人も,病むことを受け入れ,病むままに生きる。それこそが,病むことと正しく関わる,ただひとつの方途だろうか。その難しさを,あまりの難しさを,改めて知る,上の理念。

浦河ベてるの家
http://www18.ocn.ne.jp/~bethel/index.html

* つくづく同じことを思う。他人事(ひとごと)としてだけではない、我が事としても。わたしが、よそめにムヤミヤタラあれもしこれもして気ぜわしく見えるとしたら、自分で自分の「今・此処」を創りだして堪えているのである。ボウとしていては、「不快」に屈して「鬱」になって仕舞いかねない。さいわいにしてわたしは不徳であるが孤ではない。孤に陥るおそれは生来持っていると分かっている、だから、だから、自分で自分の「今・此処」を創りだして堪えるのである。
2008 10・23 85

* 日々続々いただく新刊湖の本へのお手紙、払い込みでのご挨拶など、とても日記には書ききれないが、「文学講演集」と添えて表紙に『色と日本・蛇と世界他』と題を出しておいたのが訴求果あったか。目次をそのまま掲げてくお。

目 次 文学講演集 (湖umiの本エッセイ45)

色の日本 ─日本人の色と色好み─(有楽町朝日ホール)
蛇と世界 ─アジア太平洋ペン会議・差別と文学分科会・演説─(京王ホテルプラザ)
蛇と鏡花 ─水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ─(石川県文教会館)
藤村『破戒』の背後 ─悩ましい実感の意味するもの─(明治学院大学)
島崎藤村文学と私 ─ペンクラブ、緑陰叢書、そして『嵐』─(馬籠藤村記念館)
川端康成の深い音 ─体覚の音楽─(近代文学館)
わたくしの谷崎愛 ─いま、谷崎文学を本気で読むために─(日大藝術学部)
お静かに ─漱石そして日本人の久しく美しき自覚─(ワタリウム美術館)
私語の刻  この時代に…私の絶望と希望…

* エッセイ25でもやはり講演集『私の私、知識人の言葉と責任他』を出している。他の巻にも分散してかなりの数の講演録が湖の本には含まれているし、平家物語等の古典や美術を語ったものなど多々まだ手元に残っている。
わたしは講演が好きなのではない。「話しかける」という仕方で「考え」を取り纏め一仕事として置くのが、好き。だから講演そのものはしなくて済めば有り難い、けれど、そういう訳にもゆかぬ。
先頃も或る若い国文学者の研究原稿をもらったとき、だれにとはなく、「語りかけるように書かれているとずいぶん興趣ある内容なのに惜しい」と申し上げたことがある。
2008 10・24 85

* 昨夜、棟方志功を「劇団ひとり」(一人の未知の俳優の「藝名」であった)が演じた、いまどき極めて珍しい真っ当の「藝術家ドラマ」を観せてもらった。
棟方志功は稀に見るほんものの藝術を独創した人。志功夫人の眼と思いと立場から志功の人と藝術を観察していたが、仁左衛門が演じた民藝運動と思想の巨魁柳宗悦の批評と誘導・激励をも大事に描いていた。
こんな魂のやせ衰えて貧しい時代に、よくぞこういう一心不乱の藝術家を本気で描いてくれたと感謝した。彼の作品は要所は観てきたつもりだが、私生活や伝記的背後をよく識っていたわけでない。ドラマをその面で正確に批評も批判も出来ないが、描かれている限りにおいて頷かせる場面や科白は豊富で、素直に感動した。

こういう藝術家魂の躍動した時代があった、あの戦時中でも戦後ですらも。わたしなど棟方志功というと谷崎潤一郎の晩年の傑作本を美しく装幀してくれた人としても殊に懐かしい。いまも宝物のように『夢の浮橋』や『鍵』などを書庫に置いている。優れた人が優れた人を敬愛し合った成果が如実に遺っている。
棟方志功の美しい烈しさ、大いなるものへの真実深い帰依に、いまの、なみなみでしかない創作世間では容易に出逢えない。大多数の常識を軸にしてその人気という空疎な利得ばかりを綿飴のように巻き取っている。とほうもないと見える「非常識の真実」になど見向きもしないで、ゲーノー人なみに小手先の記号をだけあやつって作家も画家も安いモノを売りまくっている。大いにケッコウである、この世はまさに膿みツブレ行く金融時代。

* このところ、幸いわたしは黒澤明の『生きる』『七人の侍』『天国と地獄』などの呵責なき表現、徹底した豊かさ美しさ厳しさに、嬉しく触れてきた。柳宗悦が志功に示した、烈しいだけではない、深く迫って静かな美しさをという教えに共通する、まさに「凄い」追究が黒澤の映画にも、志功の「板行」にも見受けられる。人気タレントの尻を追って、心にもなくこびへつらうように如才ない世渡りで食えている映像作家や、最大多数の常識に身を寄せることで作品を売りたいばかりの画家たちの話を聴いているのが、ほんとにイヤだ。
いまどき、こんな棟方志功をぶきっちょに熱演してくれた「劇団ひとり」氏ほかの誠実に、わたしは感謝する。
2008 10・26 85

* むかし『最上徳内』連載を担当してくれた岩波の清水克郎氏が、久しぶりに「保谷のお宅が懐かしい」と手紙を。
あの頃顔を見ると酒になった。「思えばあのときに初めてワープロの原稿を経験したように思います」と書いている。「もう二五年の前になりますが」とも。
この連載の途中からわたしは妻に清書の負担をやわらげたいと東芝が売り出したトスワードの第一号機を買い、買ったその日からもう使い始めたのだった。打ち出せる画面は「二行」だった。六十万円台であった。
日本の国にこれから何がネックになってくるかという話題で、清水さんは「教育」といいわたしは「世襲」といって、議論したのも懐かしい。
2008 10・28 85

* いまトルストイの『復活』を読み進んでいるが、トルストイは、この「悠」さんのような観察と表現とで小説を書いて行く。『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』も同じである。わたしもつくづく思うことがある、こういう風に小説の場面を書いて行きたいと。
2008 10・29 85

* 文化の日と、いま気づいた。
文化とは何か、「文で化かす」ことかと諧謔を弄したことがあるが、諧謔ではなくそれが事実であろう。「文」とは質実との対照で、わるくいえばハデハデしいものごと、よくいえば「はんなり」した宜しさである。こむずかしく謂えば人間の生活がつくりだしたシステムとものごとの全部が「文化」である。人の立ち居振舞いも文化なのであり、民俗の性癖が産んでいる慣習も文化なのである。したがってギャルたちの渋谷語も文化、男女関係も性生活も文化に成っている。そうして化かし合っている、よかれあしかれ。むろん、これは英語のカルチュアを意識しないで言うている。
2008 11・3 86

* なにより興味深く読み上げたのは、今日は新潮文庫、大野晋さんの『日本人の神』であった。江戸時代の国学のもっていた日本文化史上の大きな意味を適切に解説している。日本語の本来を日本の本来と重ねて正しく問おうとすると、契沖が起こした「古学」の方法論が断然有意義になる。有意義を一段と学問的に押し広げた本居宣長の大事さも契沖の方法論あればこそといえる。
宣長はほんとうに大きな存在であった。だが、その宣長にしても日本の「神」の理解では視野が不足していた。
大野さんは日本語としての「神」が、輸入された文化の一つの重要な芯であった理解を、言語学的に引き絞って行く。
日本語というのは、存外にややこしく出来ていて、近隣諸国に言語学上の精微な枠組みからその同類ないし祖形とみていい言語を探し出せない。同類ないし祖形というからには、文化の基盤に相当する分野で滞欧する語彙が数百は見あたらねばならない。それが、じつは容易に近隣諸国の言葉に見付けられないのである。
大野さんはそれをインド南端のタミールの言葉に見付け出したことで有名な学者。先の敗戦後にはレプチャ文化に日本文化の祖形を求めた学者の著が爆発的な大ベストセラーになった。大野さんのタミール説には、それに勝る説得力が備わっている。なぜならば日本の水稲耕作文化に言語学的に「対応」する基本の語彙がずらりと拾い出せるだけでなく、「カミ」にかかわる宗教的な語彙もまたおおきなセットを成して日本語のそれらと緊密に「対応」しているから。
水稲耕作はまさに語意からも「カルチャー」そのものの文化であり、それらが関連する言葉をずらり伴って生活的にも対応して逸れていないことは、押し返しようのない大きな証拠と観られる。そしてそれら文化を支えて祝ったり祭ったり祈ったりする対象の「カミ」に関係する基本の言葉が詳細に一致し対応するのも、否認のしようがないほど、ウムを言わせない。
もとより言語学そのものがまだまだ議論の多い、可塑性に富んだ、つまりは未熟をのこした学問領域であることを無視出来ないから、今後にも曲折あるは不可避だろうが、タミールとの対応を一応棚上げしたにしても、日本の「神」についての大野晋さんの解析は周到で説得力をもっている。それだけでも有り難い。
およそ神仏習合だの本地垂迹だの、太古来「日本に固有の神」のというような「神」観念は、事実に置いて成り立ちはしないのは、大野さんの解説をまつまでもなくほとんど無価値な駄法螺に過ぎなかった。
大野さんのいう「神」に即して言えば、それは水稲耕作が文化として言葉と対になってもたらされた「弥生式文化」に始原を求めることになる。
しかしまたそれに先立つ何万年もの「縄文式文化」の時代にも「かみ」という語彙こそたとえ無かったにしても、神に類する物思いと生活との文化が必ずあったことは否定できない。たとえば、梅原猛さんのように縄文時代の日本学的精神を重んじる人からみれば、弥生時代に発する「神」で「日本の神」を語り終えてしまうのでは物足りないに違いない。
なかなか日本人の神の話は、言葉だけでは解決してしまわない。なぜなら、言葉はむろんあったろうが、それが文字で表記されなかった時代の方が遙かに永いのだから。文字がないから「神」に類する文化的複合が生まれなかったとは、断定できるわけがない。わたしにいわせれば、人や生きものに「命」があり、人にそれを意識する精神が在った以上は、「神」という「存在」を人は文字に頼らなくても必ず発明せずには済まなかったろうからだ。
2008 11・14 86

* 左の背面に鈍痛があり、右の頭に不快痛がある。本からのスキャン作業は見ひらきの歪み補正のため片手を添えていることが多く、姿勢の傾き・偏りが痛みを生むのだろう。機械画面への視力も、すこしまた弱って来ている。
変換ミスも放置したままの「月」の日記を、だいたい、二十日前後から見直しはじめる。十一月分を「一日」から読み直し始めた。やがてまた「iken86.html」に日付順に置き直して行く。「書き直す」のではない、文藝の意識で字句を周旋し誤記を減らして推敲している。繁雑な作業のようでいて、近過去の己が日々を、はるかな以前のようにも、つい昨日のことのようにも「自覚」として反芻するのは、ムダではない。
現在進行形で毎日読みに来てくださる人の数多い「私語」であるが、整頓された一月前の日記を「日付順に」、日記文学を楽しむように読んでいますという方も少なくない。日々備忘のメモでなく、この「闇に言い置く私語」は、フィクションは交えないわたしの文藝・創作行為であること、間違いない。
2008 11・19 86

* 朝から、「私小説」の歴史をスケッチしつづけている。この仕事は、いろんな必要からもしておきたかった。そういう仕事は、気の重いイヤなことをしばし忘れさせる。

* いま、そばに『露伴叢書 全』という1880頁の本がある。優に厚さ10センチ余ある。明治三十五年六月に博文館の出したもので、それより以前すでに幸田露伴の書いた「小説その他」がおさめてある。有名な『五重塔』が入っていないが、数えると、五十五編。それも博文館のために書いた作だけで全一冊にしたものだという、圧倒される。
露伴はこの戦後までも長命した人。『運命』『連環記』その他、史伝にも多く優れたものがあり、「芭蕉の評釈」も大きな仕事であった。随談ふうの作に好きなものがある。
この大きな大きな一冊は、わたしの実父吉岡恒の遺品で。生前に父の手から受け取ったのでなく、歿後に異母妹たちが呉れたように記憶する。装本にも多年の黴が出ているが、酸性紙でないので活字も頁も劣化せず、十センチ余の分厚い本の製本が堅固に崩れていない。近頃の本は粗製もいいところだ、風格が無い。
わたし自身の百冊近い単行本も、豪華限定本は例外としても、初期の本ほど堅牢で趣味もよろしく美しい。

* 『露伴叢書』の中の、じつは一編もわたしはまだ読んでいない。であるのに、興味津々何度も眺めているのは、奥付の後に何頁分も載った博文館刊行の既刊近刊予告の書籍広告で、尽きず面白い。
今は一例をいうにとどめるが、この大なる叢書は奥付の記すように「明治三十五年六月」が動かないから、「予告」の本以外はその時点以前の刊行になる。
そのなかに「田山花袋君著」の『南船北馬』三版『続南船北馬』再版なる二冊の紀行文の広告がある。
正編は、「随処に感興を作り到辺にと想を着するは花袋子の紀行文なり、ことに子は暗勝の景に富みて残山剰水処として至らざるなく、処として探らざるなければ、その紀行文には珍談奇話百出して或は渓村の夕或は深山の夜、或は怒濤岩を噛むの辺、或は山中の湖畔など、他の紀行文には見るべからざるの妙あり、編中志摩巡り熊野紀行の如き其精彩の躍々たる真に一幅の写真図なり。」と褒めちぎられ、「全一冊洋装袖珍五百頁」「正価金四十銭郵税六銭」とある。
続編には目次があり、「雪の函館、浅間横断記、草津嶺を踰るの記、狐島、南洋の遺跡、並木づたひ、陸羽の一匝、瀬戸内海、播磨名所、鎮西の諸勝、一歩一景、箱根影記、雪中の木曽、華厳と霧降と裏見、戦場ヶ原、栗山卿(郷?)、老僧、三ねの松、冬の日光、多摩の水源、富士川を下るの記」と並んでいる。「老僧」というのはわたしには分からない。古刹に名僧を尋ね歩いたのか。
田山花袋その人はまさかに人の記憶から多くは薄れていまいが、かかる紀行本の著者として売れていたとは、わたしにも唐突、ややミスマッチの感はあった、が、名作『田舎教師』に推しても自然描写はことに優れていたのだから、下地に紀行をものする旅の歳月があっても好いのだろう。
ただ、田山花袋といえば近代文学史を『蒲団』一作で動かした画期的な作家として名高い。そういう名高さのさも「余録」のように後に悠々旅を楽しんだかともふと想われるが、『蒲団』の発表は明治四十年という史実が動かない。この『南船北馬』の好評は、それより五年以前の事実なのである。蒲団以前の花袋先生前史にこれらがあったことを、本の後ろ半頁の広告が教えてくれている。昔の本のこういう広告の楽しみようをわたしはいつも珍重している。

* こんな落書きをしていた、この瞬間に、日付が二十日に変わろうとしている。さ、やすもう。
2008 11・19 86

* このところ興味深く勉強しているのは、「かぐやひめ」のこと。竹取物語のかぐやひめが天上に罪を得て人間界に「流謫」され、罪尽きて天に帰って行く物語であるのは、きちんとした順を得ている。
ところが、現行の古典文学『竹取物語』より時代が降って『今昔物語』以下いくつもの文献に散見するいわば「竹取説話」は、『竹取物語』のような「天人流謫譚」の体裁をすべてきちんとは備えていない。この、物語と説話群とのきわどいすれちがいが何故起きているのかを問う声は、以前から上がっている。学者でないわたしは、しかも『竹取物語』成立に強い関心をもってもいる。そんなわたしの興味は、誰も誰とも確認できないでいる「此の物語」作者が、どの程度いわゆる幾種類もの「竹取説話群」を見聞承知していたかにある。
紫式部により「物語出来はじめの祖」とされた竹取物語は、九・十世紀の交には成っていた、遅くも十世紀前半には成っていたと見てよいが、いわゆる「竹取説話」はそれ以前に皆無だったろうか。歌物語の『大和物語』とも接触があったかと記憶している。此の物語作者はどれほどの竹取説話に触れながらあの『竹取物語』を書いたのか。作者の触れえた先行説話群には、天人流謫に関する前提や結末は語られていたのだろうか。
わたしは、あくまで物語作者の立場・時点でそれを考えたい気持ちでいる。わりきっていえば、彼は『今昔物語』や以降の文献の記載している竹取説話内容とは全く無関係でいたか、居れたか、だ。

* わたしの今読んでいる本の著者は、別の学者の意見にも拠りかかり、日本には「天人流謫の伝承は不在」と言い切っている。天と地といった「垂直の世界観」が日本になく水平に平板な世界観だと人の説も挙げて謂っている。つまり『竹取物語』が明瞭に天人流謫の形を備えているのは、中国ないし古代インドの例の「輸入・借り物」であろうと。そういう議論もあらかたわたしは過去に調べてきている。
ただ、「スサノオ」の高天原追放は、天人流謫とは「事情が違う」と言い切れるのかわたしにはまだ理解が届かないし、不定形ながら「アメワカヒコ」のことも問題外で好いのかと思う。また垂直世界観で謂えば、高天原、芦原中津国、黄泉の国または天・地・海という世界観も否定し得ないだろう、それはどうなるのか。他界をはるか海彼のニライカナイにだけ求めたのではなく、海底国への恐れや執着はいろんな場合に露骨に現れている。ヤマサチもウラシマも竜宮に行っている。海没した平家は海底に王国を誇っていたという伝説もある。天と地と海底との三層垂直世界は日本でも無視できないように思われる。

* と、まあ、なにかに手を出すとすぐそこでいろいろ物を感じるから、楽しくはあるが、ヒマにならない。
よく特定の一人の書き手が好きになると、そればかり読むという人がいる。わたしにもその傾向が全然無かったわけでないが、行き着くところ、いつも此処に書いているように、深夜の読書は、東西にも古今にもジャンルもバラバラである。だが、わたしの中ではバラバラではない。徹底した相対化の中で、わたし独りの興味世界をいろいろに機能的に構築してくれる。壁を造る本も、畳になる本も、食べ物になる本もあり、バラバラという印象は全然無い。自分で繋ぎ得て納得できれば、それはそれでよろしいのである。いつまでもそう在りたい。そのために大切にしたいのは「視力」ですが。ウム…
2008 11・20 86

* 歯医者からフランス料理の「リヨン」に戻って昼食したのが長くかかり、俳優座に駆け込んだときは開幕から十五分遅れ。かろうじて夫婦で補助席に入ったが、十分舞台はよく見え、問題なし。

* 学校や職場での「いじめ」を描いた、そのままテレビドラマで通用する舞台で、「演劇」的な冒険も趣向も創作もゼロに近い。よく言って、生真面目につくってあるホームドラマ。ただし見終えて後、何かが「解決」されたとは少しも思われず、みんなが何と無く「決然と明日へ向かい意気込み」はしたものの、ほんものの「明日」からこの人たちどう「いじめ」と立ち向かえるのか、全然見通しが立たない。もっともそうな常識の台詞はいっぱい聴いたが、みな、「識者」たちがテレビで喋ったりしているのと少しも変わらない。テレビのホームドラマと全く同じアングルで、何も解決の付かない、見通しの立たないものを、演劇・新劇の座元である「俳優座」がやってて、どんな「演劇」的新味や前進があるというのだろう。
まことに真面目な舞台、真面目な作物であったし、俳優も真面目そのもの。あれれ、こんな舞台で出逢うんだと逸材の誰彼などの顔を観てちょっと勿体ない気がしたが、どこがマズイというわけではない。ひとり、件の「問題」からは「もう上がり」の「おばあちゃん」役の気炎も体験も胸にきちんと届いて懐かしいほどであったけれど、そして泪も零して観ていたけれど、所詮俳優座がわざわざやる「演劇」とは思わなかった。

* 「いじめ」問題は簡単な思いつきや、現象の上わ撫でで書ききれるものでない。「差別」問題への深刻で厳粛で周到な理解や洞察無しに、「いじめ」を簡単なうわべだけで問題にしても、殆ど何も変わらない。
あるいは、「いじめ」問題は一種の「戦争」抜きには解決しない。

* わたしの育った京都の同じ町内で、戦時の国民学校時代、わたしより二年上の剽悍な少年Aが、同年の温厚で大柄な少年Bをいつも言語道断にいじめ抜いていた。だが、ある日、ついにB少年は決然と立ち、まさに一騎打ち、A少年を腕力ないし暴力で徹底的に復讐し、力関係は掌を返したように覆った。これしかない。わたしは観ていてそう感じた。
丹波の山奥の村の国民学校に疎開転校したとき、わたしよりやはり二年上、或る部落の少年A率いる一団が、別の部落からの高等小学校一年、つまり一つ年上の孤立した少年Bを、日ごと、徹頭徹尾目を覆いたいほどいじめ、痛めつづけていた。ところが、ある日、田舎の学校の運動場を追いつ追われつ、いじめ団の主将A少年と孤独ないじめられ役B少年とが、一対一、一騎打ちの体で猛烈に闘い初め、Bは、Aを、完膚無きまで暴力的に圧倒した。勝負あった。そして、陰湿を極めたいじめはかき消すようになくなり、運動場はB少年の晴れて天下と帰した。これしかなかった。やはりわたしは観ていてそう感じた。
疎開先から京都の敗戦後の小学校に帰ると、教室の中でやはり或るA少年とB少年とが烈しく葛藤していた。そしてこれまた二少年の互いに泣き叫びながらの一騎打ちの乱闘でお山の大将争いの決着が付いた。勝手にやっとれとわたしは思っていた。

* いまのいじめはこんな単純な物でないようだ。弱かった側が、強い側を、腕力で逆転すれば済むような単純な組み立てでほんものの「いじめ」問題は出来ていない。まして精神論では片づかない、が、とかく識者は精神論で批評している。精神でも論理でもない利害と感情とを深い基盤に陰気に隠しているから「いじめ」は複雑怪奇なのである。きれい事では済まない。もっと凄いきれいきたないの思いが絡まっているのだ。どこかでは、凄惨なほどのリベンジが発動されるだろう、それはもうテロリズムになる。それしかない、とは、やはり怖ろしくて言えないからこそ「いじめ」問題は小手先の議論や創作では片づかない。
2008 11・21 86

* 岡山県の笠岡市にある小野竹喬記念美術館から、「金谷朱尾子(かなたににおこ)」という、五年ほど前に亡くなった若い画家の図録が届いて、わたしも、全貌に初めて触れた。
ウーン、いい画家。惜しい。
短い生涯を動かした強いモチーフの一つが、わたしの小説『慈子(あつこ)』だったことが、絵からよく分かった。感銘。筆力も描写力も構想力もすばらしい。
『慈子』は私小説的枠組みと手法とを利した、百パーセントのフイクション。この長編を書いたときわたしははまだ「作家」でなかった。
作品が人を動かすということは、ある。それは小説でも評論でも。美術でも音楽でも。そういう仕事をしたいと、いつも思ってきた。
こういうことを思っていると体調の違和など忘れる。勇気が湧いてくる。
2008 11・28 86

* 思えば。わたしは以前にも書いている、ことに「谷崎愛の人」と亡き水上勉さんに推薦の帯文をもらった『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』の冒頭に書いたことだが、大学に入る際の教授面接で、影響をうけた文学はと問われて言下に、志賀直哉の『暗夜行路』とトルストイの『復活』と応えたこと。
何故。
その返辞が奇妙だった、二つとも「男」が主人公だからとは、ほとんど意味をなしていない。先生方は笑って、不問に付してくださったが、そんなヘンな返辞も、わたしの内ではだいたい根拠があったことと思う。当然「谷崎」と応えるところを対蹠的な「直哉」を持ち出すことで、わたしは両者の文学への深い敬愛を過不足なく自分のために表現したのだと思ったし、『復活』には、追究されればまだうまく表現できなかったろうけれど、やはり「ネフリュードフというトルストイ」への深い尊敬を持っていたのだった。
そして、思えば。七十三歳、いまの今、わたしは直哉全集を熱心に繙いており、『復活』を熟読している。両方について問いの追い打ちを掛けられても、いまなら喜んでいろいろ具体的にも直観的にも感想を述べられるだろう。
2008 11・29 86

* いまの時代、分かりにくい。百年に一度の深刻な金融恐慌は事実だろうが、時世粧はとめどなくバラバラで、流れが読みにくい。

* 「ペン電子文藝館」の委員長・館長を務めていた頃の日常といえば、皆さんご存じのように、献身・没頭そのものであった、そうでなければ、「在って無きがごとき影の薄い」電子文藝館になったであろう。
わたしの、当時、内心に堅く持していた創設と運営「方針」は、不動のものであった。確定していた。

一つは、もしも「現会員作品だけで構成」などしたら、まず作品が集まりもすまいが、たとえ集まったとて、作品の「質の低さ」は世の文学愛好家達の物笑いにしかなるまいと、憂慮し、つよくつよく懸念していたのである。そして事実はその通りであった。
理事作品が加わったとて、極く少数をのぞいて彼らの大方は、此の館のために自発的に、自身の意欲作・秀作を提供してくれる姿勢でも、度量でも、意気でもないのを、よくよく察知していたから、早まって「ペン電子文藝館」をそんな「低調」のまま発足させれば、早晩、大恥だけかいての立ち往生が、目に見えていたのである。

わたしは、館の収載展示の「質を上げる」ためには、また「量を積み上げる」ためには、絶対条件として、先ず「歴代会長」の力作を進んで提供して頂くと同時に、有力で著名な「物故会員」生涯の力作・優作・問題作を、ご遺族の許諾を得て多数収録せねば、到底成り行かぬことを覚悟していた。
さらにそれに止まらず、幕末から昭和に至る、ペンクラブとはたとえ無縁の人たちであろうとも、鄭重に「招待席」をもうけて、諭吉や、紅露逍鴎や漱石や一葉や、鏡花や秋声や、潤一郎や太宰治など、文豪・思想家・大詩人・大学者ら、それのみか、かつては大活躍していた力量ある今は湮滅に近い作家達の、「力作・記念作・秀作・問題作」を、能う限り掘り起こし、事実上「近代日本文学史」の「流れ」を「ペン電子文藝館」は表現・体現せねばならぬ、それ以外に、国内外に公開発信して恥ずかしくない「質水準」は、とうてい確保できないと、じつはこれ、かなり情けないことであるのだが、確信していた。

国民的にも自負できる「大読書室」に育てるには、何よりも収載展示作の一つ一つが、「上質」でなければならぬ。
ところが、遺憾にも「ペンクラブ現会員」に出稿資格を限定してしまえば、その文学・文藝の質は、かなりお恥ずかしくお粗末であることは、そんなに苦労せずとも分かり切ったことであった。
事実、私が委員長・館長として扱った「現会員作品」は、先ず予想通り極めて少数、そして少数の中でもこれはいいな、恥ずかしくないなと感心して読ませてもらった作は、理事作も含めて、贔屓目に見ても、小説で云えば、二千会員中にたった五十人もいただろうか。委員会委員の「常識校正」という群作業を束ねていた観測からも、ペン会員の文学・文藝の「力」がよほど不足していることは、心細くなるほど明瞭な事実だった。提出された一編の小説に、ヒドイ例では百箇所以上も疑問をはらんで、いちいち推敲を掛け合わねばならなかった。

* わたしは、上記の姿勢で「断乎」所定の腹案を推し進め、就任期間内に、五百人以上、六百作を越す会員外収録作品を、自身で読み、選び、提供を依頼し、スキャンし、校正し、そして委員達の校正作業を監督して入稿し、毫も手を抜かなかった。
さらには館内の特別室として「反戦反核」「主権在民」「出版編集人」室を新設し、ペンクラブ憲章の意図に副おうと努めた。

* 昨年、館長職を退き、委員会からも自身退任したわたしが、いまごろ、何でこんなコトを書いておくかというと、つい最近、事務局経由で、「会員原稿」投稿勧告・募集のお知らせが来たのである。
そういう募集は、私も形式的に繰り返ししていたけれど、実は、すこしも熱心でなかった。「優れた会員作品」の寄稿はあまり期待できず、それどころか、きちんとした編集者の眼識や批評を経て来ぬまま、書いて直ぐの未発表・未推敲原稿を、たんに「発表場所」を求めて持ってくる。「ペン電子文藝館」が雑誌なみに安易に「利用」されるという心配な傾向が目に露骨に見えていたからである。
そんな安易なことでは、「作品の質水準」は下がる一方に成りかねぬ。
わたしは厳格に、現会員作品の提出は、必ず「初出」データの確定したものに限るという「歯止め」を付けていた。新しく書き下ろした作品は、しかるべき発表場所に掲載を済ませ、そちらで原稿料をお稼ぎあれと願ったのである。

* 今回の「現会員原稿募集」の背景に、もしも、現委員会に「物故会員」「招待席作家」たちの作品を「読んで・選ぶ能力」が落ちてしまっているのなら、と、率直に危惧している。
「候補作品を選んで読んで良しと評価し、さらに作者の文学史的位置を正確に見極め、適切な短文で紹介する」という、最低それだけのことを「委員会」は励行しなければならぬ。それ無しに、掲載作品数は増えて行くわけがない。勢い、現会員の投稿を手をつかねて待つだけになる。
しかし、大事なのは「数」ではない、掲載される作品の「質」である。
かりに「千」作品を目標にと云っても、駄作・凡作・体を成さない作品を積んでみても、文学的には無意味というしかない。無意味以前に恥ずかしい。
やはり、物故会員や優秀な故人の多数の作の中から、孜々として秀作・有意義作を拾い上げてくる質的努力と能力とが委員会に無ければならないだろう。

* もう一つには、過去の作品の内には、著作権者の許諾を必要とするものが当然混じる。多数混じる。それを依頼するときに、「日本ペンクラブ」として相応の「信頼」をえながら懇請しなくてはならない。
わたしは、館長を退くとき、その意味でも、せめて私以上の「新館長選任」をと執行部につよく勧めたけれど、聴く耳をもたれなかった。そういうことの必要性がまるで理解できなかったらしい。
わたしは、沢山の方に直接、またご遺族に連絡して、自身も名乗り、懇切に作の提供をお願いしてきた。
幸いに秦恒平と名乗れば分かって下さる方が多くて、殆どの方が秦さんにお任せすると快諾して下さった。
「ペン電子文藝館」は、ペンの中でも、唯一といっていいほど組織の外へ開かれた機関である。外向きの責任者・代表者はそれなりに是非必要なのだ、それには広く経歴ある作家や詩人や批評家が就かねば役に立たない。存外というより当然のことに向こう様は気むずかしいのである。

* わたしが、今ひどく恐れているのは、収録作品の「相対的質低下」である。「ペン電子文藝館」は現会員だけのものでなく、ペンクラブ自体の、世界に提示する「文学的な存在理由」である。広く国内外に日本の文学とはと、識ってもらうべき機関である。
会員への安易な作品募集が、なんらか無反省な妥協の行為でないことを願うのである。委員会のさらなる意志強い充実を希望している。

* もう一つ云っておく。
わたしは、「ペン電子文藝館」創設企画の「原点」として、自身の「e-文藝館=湖(umi)」を夙に先行させていた。ペンのため没頭して沢山な仕事をしていたときも、むろん「e-文藝館=湖(umi)」のことが念頭にあり、作品提供をお願いするとき、ほとんど全部の場合「e-文藝館=湖 (umi)」にも併せて提供をお願いし承知して貰っていた。よく選ばれた作品の読書室が、現代、「幾つでも必要」という思いがいつもあった。
自分のための時間の出来てきた、いま、わたしは「e-文藝館=湖(umi)」を、日々新たに充実させている。いずれは、「ペン電子文藝館」を追い抜いてゆくほどの「質」と「新掲載」の充実を願っている。そのために今も多くを「読んで」いる。「スキャン」もしている。校正もしている。そして他の類似館・文庫に無い、ちからある「新人の作品」をも多数、責任編輯者の目と姿勢とで見出したいと心がけている。
2008 12・2 87

* 千載集を一首一首熟読して行きながら、勅撰和歌集としての千載集をいまごろに読んでいる自分の手遅れを残念にも申し訳なくも思っている。十二世紀という百年をこの上なく大事に考えて、小説もエッセイも論考もおどろくほど数重ねてきながら、千載和歌集をその分母として前提として読んでいなかった弱みに、改めて気づかされている。崇徳院と俊成と後白河院との、云うに云われぬ至妙の連繋をすべてに先だってわたしは承知していなければいけなかった。反省としてのみ書いておく。
2008 12・4 87

* 文学講演集入稿時ディスクのうち、最初の四つ分、全体の約半分、を初校済みゲラから校正した。かなり労力がかかる。当然のように校正段階で、入稿時原稿にたくさん手が入る。それをディスクの上でも直しておかないと、いい形での「保存」にならない。しかし厖大な手間と時間がかかる。
「色の日本」についても「蛇と世界」についても、自分で今言える程度までは言っていると感じた。藤村の『破戒』についても、難しいことだが最後に「驢馬の話」を持って来れた。
嘲弄してくる「人」の子等へ、微妙なところだが、あの藤村が藤村流に切り返した「オオ、倅共か、今日は」という「驢馬」の挨拶が利いている。『破戒』のあの丑松から此の驢馬までの藤村の沈思黙考には、重い時間がかかっていると思えた。
さて、まだ半分在る。まだまだ、まだまだあるのだ。
それどころか、弁護士事務所から用事が届いている。印刷所は、もうはや次の本の初校が明日には届くと伝えてきている。このわたしが、食欲がないなどと、夕食の箸を途中で置いていてどうなるか。
2008 12・5 87

* 誰の口からも、「労働組合法」の精神に立ち帰れという提言が出ない。雇用の安定化をいうなら、労働者のための憲法ともいうべき、中でも労働組合法がなぜ必要だったかに立ち帰るのが、迷いなき本筋なのに、誰もが唇寒しとばかり口にしない。
人をつかって働かせる人間達の心事に節度も愛もなく、欲得だけが先行しがちなモラル低い時代に、力も金もない働く人たちの共同の、同心の決意がなくて、どう身を、家族を、未来を守れるというのか。
世紀前はるか、ローマの平民、何の権利もなく文字通り「生・殺」与奪を少数の貴族と騎士(資産家・商売人)たちに握られ、不当な不如意不自由不平等を強いられていた平民達は、ついに団結し、聖山(モンテ・サクロ)に立て籠もり、たまたま迫ってきた他国からの国難にも一糸乱れず権利と安全を求めて闘い抜いた。ついに要求を貫徹したうえで、勇んで国難の排除に奮闘し、それにも勝った。
民主主義への世界史的な画期的な一歩であった。
支配者達が、この際に弄したさまざまな嗤うにたる詭弁は、しかし、いま二十一世紀になおわれわれ平民は聴かされている。また意気地なく聴いている。そのため益々ヒドイ結果へ追い込まれている。
百年に一度の危機だ危機だと麻生総理たちは言うけれど、その危機とは、彼ら支配の立場にある保守政治家や貪欲な経営姿勢への危機だという認識に過ぎない。こんな態度は間違っている。正しくは百年に一度の労働者や平民家庭の危機なのである。危機は深刻なのである。そしてその深刻な危機こそが、結果的に国益をさらに損なうのである。
モンタネッリの『ローマの歴史』から、もう一度見てみよう。この「順序正しさ」を確認したい。

☆ 尻に火のついた元老院は、聖山(モンテ・サクロ)へと使者を何度も派遣し、市の防衛のために協力しようと平民に要請した。
だが平民の態度は変らなかった。債務奴隷を解放しその借金を棒引きにせよ、平民を守るための司政官の選出を認めよ、さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。
元老院はついに折れた。借金は棒引き、債務奴隷は解放、そのうえ毎年平民から二人の護民官(トリプヌス)と三人の造営官(アエディリス)を選出することになった。この選出権はローマ無産階級の最初の大収穫であり、その後の闘争に大きく役立った。前四九四年は、ローマと民主主義の歴史の中でひじょうに重要な年となった。 モンタネッリ『ローマの歴史』より

* 「国益」が先だと、支配の声は念仏のように唱えるが、たいていは彼らの私利私益の同義語なのである。そのためには私民・平民の死骸を平気で踏みつける。
ローマの平民達の声を聴くがいい、基本的人権をまず保証せよ、「さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。」
こうでなくては、ならない筈だ。

* わたしはもともと政治的な人間ではない。むしろ政治などに背を向けた人間のようにすら思われてきた。大きくは間違っていなかった。しかし、決して「滅私奉公」といった「公」本位の思想の持ち主ではない。「私の私」を大切にし、「公」とは、そんな「私(私人としての、また私民としての、私)」を誠心誠意守る奉仕機構としてのみ存在を許容している。こっちが主人で、そっちはあくまで「公僕」という考えでいる。
労働者とは、そういう私民・平民の最大多数として存在する、いわば国の主人ではないか、なにを萎縮するかと、そうわたしは給料を貰っていた昔から考えを変えていない。
わたしは、命がけで命のかかった権利を要求して山に籠もったローマの平民の子孫である。王や貴族やブルジョア経営者の子孫ではない。麻生は「私の私」たちの公僕に過ぎない、有効に働かないならわれわれこそ彼を馘首できる。
もうその時が来ている。
2008 12・7 87

* 新井奥邃の父母神・男女一体神の思想の一つ大切なところは、明瞭に男尊女卑へ反対の思想、男女平等・同権の思想であるということ。
男女平等・同権が確立されていない間は、むしろ未来に希望があるのであって、平等同権へ邁進すべきだと彼は断言している。
あまりにも新井奥邃は狭い狭い範囲でしか識られていない。基督教として異端であろうがあるまいが、それはわたしの関心にない。神は自身にかたどって「男女」を創られたと『創世記』が明瞭に言っているのだから、論理の筋としてグノーシスも、シェーカーのアン・リーもまた新井奥邃も、この点は、間違っていないはずだが、それもわたしの議論することではない。
ただ男女は平等で同権だというのは当たり前の話である。

* 「e-文藝館=湖(umi)」に、故永島忠重氏の『新井奥邃略伝』、またご健在の笠原芳光さんによる『新井奥邃の父母神思想』を併せ掲載できたことは、この希有の思想家にして異色の基督者新井奥邃の核心を読者の皆さんにお届けしうるものとして欣快に耐えない。
日本には一体・同体としてでこそないが「夫婦神」は日本神話にも顕在しており、道祖神もまた夫婦神ふうに目に見えている、が、奥邃のいうそれは、男女・父母という神が異体異身でなく、「一而二、二而一」である。正統を唱える基督教でこういう神観は、はっきり異端の最たるものと受け容れていない。カソリックのマリア信仰は、だが、その妥協かのようにも見えなくない。
何度も言うが基督教にわたしは拘る気はない。神というのは父だけでない母だけでない、父にして母、母にして父であればこそ具足の神であり、そこから人間社会の円満な精神土壌があり得るはずという新井奥邃の考えには、合理性が認められると思うのである。笠原さんも言われている、しかし日本の基督者からは誰一人こういう発想は現れていない、奥邃以外には。
紹介するに足ると思った。
2008 12・7 87

* いま、「悠」さんに纏めてもらった、今年一月半ばからの「mixi」日記を、一日のこらず全部読み返している。間違いがないかと読み返すこういう作業はややシンドイものだが、この人の育児日記は、読み返しているそれ自体が不思議に嬉しくて、つい他の仕事がとまってしまうほど。やっと「三月」に入ったところ。
読んでいて感心するのは、このお母さんの表現の簡潔で要を得ているところ。そのために一種懐かしい音楽の聞こえてくる文章になっていること。むだにぞろぞろ書いていない。物書きの鑑のよう。このお母さんがとても忙しい理系の研究者であること、そして人柄の行き届いて優しいことがかかわっていると思う。一番に感じるのは清潔な文体から来る気稟の清質。ラコニックにちかいのである。

* 志賀直哉の文体を特徴づけて、「ラコニック」という。ラコニア即ちスパルタの別名に拠っている。いわゆるスパルタ教育の厳しさと直哉とに関係はないが、その文章の削ぎ落とすべきは徹して削ぎ落とした、文飾のない簡素・簡朴の極みのような表現を「ラコニック」と評するのである。バッハの無伴奏曲のような印象か。無類の音楽美。
これを悟ることが、文学に志す者の、第一のとは言うまいむしろ究極の門であろう。そして不思議にも対蹠の感をもちやすい谷崎文学の流暢な音楽も、漱石文学中期以降の簡潔な音楽も、それぞれにラコニックの空気を擁している。優れた文章はみなそうなのである。
2008 12・10 87

☆ 三井寺展
新羅明神坐像だけ見たらそれでいいと思って行った大阪市立博物館「三井寺展」は、案の定ものすごい人込みで、ヘタヘタのカラカラになってしまいました。
仏像と障壁画は展示の後半でしたから、たいていの人はエネルギーを使ってしまって空気が淡く、人いきれもなくて、さらには仏像好きの人もいることで同士の無言の思いやりでゆうっくり見られてよかったです。
西国三十三所の観音堂本尊〈如意輪観音〉。微妙寺本尊〈十一面観音〉。近松寺本尊〈千手観音〉。それとどこだったかしら、千手観音が出ていて、雀はこれだけで充分。
新羅蕃神堂といっていませんでしたかしら。あの建物があるあたりの空気を思い出して新羅明神像を見あげました。坐像に加え画が二幅出ていて、肥満体の男性坐像で口を開けた憤怒の表情がなんともエキセントリックでした。
白髭明神に天智勅旨の“比良”明神と神号がついているのを、雀は単に比良山の神だからと思っていたのですが、白髭は新羅の訛で、ヒラやシラがつく神にシラギを疑っていいらしいとわかり、へぇっと驚きました。
白い髭を生やした老人で、ここで生まれたとは言わないけれどここに長いこと住んでいると名乗り、釣りをしている老人。
筑紫国の白日別はシラギではないか、白山神社があるところの川の名がむかし比楽川と記録されていることから白山比売神の別名ククリ媛は高句麗の訛じゃないか、枚聞(ヒラサキ)神が航海・漁業の神というのもシラギからの名か、など、ヨモツヒラサカのヒラとシラギのシラが、にこいちになるかしらと考えが入りこんでしまいました。  湖雀

* この「シラ」「ヒラ」問題もコトが大きいのである。直ちに新羅へ結べるかどうか何とも言えないが、わたしは、あの新羅攻めの神功皇后伝説に出てくる醜悪な海神「磯良」のことを、いつもここで思い出す。
上田秋成もこれを「いそら」と訓んでいたが、わたしは「シラ」であろうと半ば確信している。そこから日本中にあらわれる「しら」山や「しら」浜などの意味を想うのである。「白」という字がたんに純白潔白という以外の、或るオソロシサを秘め持つであろうことを「白神」「白姫」などの名乗りに想うのである。
三井寺下の新羅明神はわたしの小説『秘色(ひそく)』をしめくくる秘所であった。懐かしい。
2008 12・13 87

* 小林多喜二の『蟹工船』が返り咲いて読まれているとか。
それなら、わたしが「e-文藝館=湖(umi)」で、渾身の思いで復活させているさらに多くの過去の秀作・力作は、恰好の今日の読書になるだろう。
試みにこのウエブの総目次から「e-文藝館=湖(umi)」を開いて、ジャンル別目次の「小説」を開いてみられるとよい。
『蟹工船』の小林多喜二は『一九二八年三月十五日』を入れている。匹敵する名作もいくつも入っている。
新井紀一『怒れる高村軍曹』木村良夫『嵐に抗して』金史良『光の中に』黒島傳治『豚群』小島勗『地平に現れるもの』佐々木俊郎『熊の出る開墾地』里村欣三『苦力頭の表情』白柳秀湖『駅夫日記』芹沢光治良『死者との対話』田畑修一郎「鳥羽家の子供』徳田秋声『或売笑婦の話』永井荷風『花火』長田幹彦『零落』葉山嘉樹『淫売婦』原民喜『夏の花』『廃墟から』林芙美子『清貧の書』平出修『逆徒』平林彪吾『鶏飼いのコムミュニスト』廣津柳浪『黒蜥蜴』北条民雄『いのちの初夜』細田民樹『多忙な初年兵』前田川廣一郎『三等船客』牧野信一『父を売る子』三原誠『たたかい』宮本百合子『刻々』山内謙吾『三つの棺』山本勝治『十姉妹』魯迅『藤野先生』等々挙げきれないほどの秀作が揃っていて、どの一つも読者の期待を裏切らないだろう。
むろん今挙げたこれは或る傾向に沿って列挙してみたので、また別の或る傾向に沿えば全く異なる作家や作品の名がずらりと並ぶ。ああこんな作品や作家が活躍していたんだなあと、痛いように思い当たられるだろう。
すべてきちんと読み、すべて評価した上で選び抜いた「e-文藝館=湖(umi)」は、そういう意味でも、わたし自身のある種の「創作」活動なのである。いい文学作品を読んで欲しいと願う。
2008 12・14 87

* 今日、なにをして過ごしたろうと思い出せないほど、いろんなことを、ほとんどこだわりなく、していたらしい。小説も書いていた。母の歌集を整理してもいた。「悠」さんの育児日記をよんでもいた。初春歌舞伎座のチラシに見入って嬉しくなっていた。メールも何通も読んだ。寒い階段に座り込んで本の整理もしたような、何も出来なかったような。それなのに家の中では「校正」ができない。校正だけは机が要るが、机のある場所にはテレビがある。人声を聞きながら校正はできない、ただし喫茶店や電車の車内の人声は邪魔にならない、聞こえもしない。
暖かいと外へ出たいのだが、今日は冷え込んだ。天気がいいと寒くても堪えられるが、曇天は好きでない。
2008 12・14 87

* やっぱり妙な夢。親子は一世、夫婦は二世の縁。で、主従は三世ということに怒っていた。
主従、好きでない。忠義という徳を嫌いも貶めもしないが、主になるのも従になるのも願い下げにしたい。
2008 12・16 87

* 昔、まぎれもなく活躍した作家の、時代を超えてなお作品としての文学の質を微塵も風化させていないのに、すでに人目にふれることもない作品を幸い掘り当ててくると、わたしは、災害地で、もののしたなどに被害に遭っている人を無事みつけたような喜びを覚える。やっと助け出したその人と真向かって話してみると、尊敬に値する立派な大人であると自然に頭も下がるし、嬉しくなる。わたしが「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」で実現してきたことは、それなのである。わたしのそういう嬉しさや敬愛の思いが、アクセスして下さる大勢ともまた新たに共有出来ますように。
「ペン電子文藝館」は、おいおいに現会員作を中心にせざるをえず、自然、館の質水準は残念ながら下がりかねないが、逆にわたしは寄稿投稿作品の水準にも注意しながら、ますます「招待席」に優秀作を掘り起こして、まさしくパブリック・ドメイン(公共財)としての優れた読書室・保存館を樹立したい。かつて同僚理事の新井満氏は、わたしのこういう仕事を「いい植林」と評してくれたが、「e-文藝館=湖(umi)」をわたしは全くその気持ちでやっている。
2008 12・16 87

* 「抱き柱は抱かない」と、もう久しく、数年余もまえから、繰り返しわたしは述懐してきた。
子供の頃、わたしの身近な京都では「鬼ごっこ」といわず、「つかまえ」と甚だ端的に呼んでいたが、この遊びで鬼に追いつめられたとき、電柱に触れていると「セーフ」という約束になっていた。いわば「アジール(逃げ場所・駆け込み寺)になっていた。「Sケン」といった遊びにも「島」という逃げ込み場所がつくってあったが。
わたしは、逃げ込んでしがみつくモノを「抱き柱」と、およそ総称しながら、概念としてはボンヤリと融通をきかしていろいろに自分なりに想定してきたのである。
それが、「カミ・ホトケ」を意味していたことも、むろんで、強い調子で「抱き柱は抱かない」というとき、「カミ・ホトケ」を意味していることもしばしばであった。
そうなる以前にわたしは「カミ・ホトケ」をしきりに抱き柱にしていた時代が永かったと思う。それでいいのかという反省があったのは間違いない。またバグワンに聴いて聴いて聴き続けてきたこと、そのバグワンという存在を「抱き柱にしない」ことも、わたしはずいぶん堅く心がけてきたが、心がける事自体が不自由というものであるのを、いくらか承知してきた。
わたしがいま、一等素直に向かい合って話しているのは、秦の両親や叔母の位牌とであろうと思う。話しかけながら、小さい頃のように頼みにしているのである。同じように死なせてしまったやす香とも可愛い写真に目をやって、常日頃、言葉を多く交わしている。

* 話はちがうが、ストア哲学の始祖であるゼノンは、多くの学生達にいつも玄関の柱廊で講話したことが知られている。「ストア」とは柱廊・柱の意味である。
で、その先はゼノンの言葉であるというよりバグワンの理解であろうが、人がゼノンに、どうして立派にある邸宅の中で講話しないで、玄関の柱の前で話されるのかと問うたという。ありそうなことだ。
ゼノンは答えて、自分が話すことは、すべてこれ玄関の柱・扉までのことだと。そしてそこで話されている全ての言葉は、影のようなもの。あなたがたが、そんな話された言葉を超えてシンの静寂の境地に入れば、どうぞ家の中へはいるがいい、そこにはいかなる言葉も教えも在りはしない、必要でないのだと。
バグワンが、老子やイエスを引き合いにわたしに話し続けてくれるのは、これだけのことだ。
言葉にしがみつくな、玄関そとの「柱」になどしがみつくな、抱きつくな、そんなものを後生大事に抱いている限り、実存の静寂境には永遠に達しられないし、達しなければ死生の真はとうてい手にできないだけのこと、と。
おそろしい、ことだ。

* そんなことを思いながら、わたしは目の前の校正をはやく終えたい。
2008 12・19 87

* 好天。それだけで心地よい。

* 亡き小田実の想いは、遺志は、生かされて行くのだろうか。彼がこの百年に一度といわれる世界的金融恐慌と、それに揺さぶられた多くの苦しむ人たちを見たなら、病躯に鞭打ち、どのように働いただろうか。
口惜しいがわたしには躰を働かせて彼の後を追う元気がすでに無い、が、せめても彼のわたしへ直接の遺志をうけて書いたり紹介したりは出来る限りしたいと願う。
託されていた小説『玉砕』を読み返しながら、同時に菊村到の『硫黄島』や結城昌治の『軍旗はためく下に』などがまざまざと胸に蘇る。若い読者達にどうか読んでもらいたいと思う。
2008 12・20 87

* 「日記」「メール」という、書き流し書き飛ばしても構わないという気楽さ、あるいは安易さで書かれる言葉には、長もあるが短が大きい。ことに文学・文藝に気のある人が垂れ流すように日記で満足していてはいけないことを、わたしはよく承知している。
せめて少なくとも、ひとまとまりする「エッセイ作品」の下地を創っているぐらいの気で、下地から、いい「随筆」作品やいい「批評」作品へ仕上げて行くと良い。
2008 12・25 87

* 高麗博物館の歴史担当者から、岡百合子さんを介して問い合わせがあった。さきの「文学講演集」のなかで「蛇と世界」「鏡花と蛇」について語っているところを、更に聴きたいと謂うほどの依頼で。年明けには法廷関係の用も予定されていたりし、また云うべきは大方言い尽くしている気がして、人前へ出ていってもう話すタネがないとお断りした。

* メールを戴きました。
正直に申し上げて、わたくしのあれらの稿には、ありたけを吐き出していまして、あれ以上の余裕は、もう無いのです。
書けるだけ書いてあり、不審や疑点も、モノにより調べて行かれれば、探索なされば、ほとんど突き止められることばかりです。
今一つ、わたしは「蛇」が徹底的に苦手で、これらを「書いて」いるのも大変なガンバリなしには出来ないほど、なんです。
苦手に思う生物的・心理的な理由の根に蟠って、不当な人間差別や社会差別が在るであろうと思う反省を乗り越えたく、あえて「蛇」小説も書き「蛇」論考も書いてきましたが、容易なことではありませんでした。
そんな次第で、真面てに「蛇」について人様と話し合うのは、いつも、叶わない堪らない気持ちです。
ペンでの演説と、鏡花を語っての水神論とで、目下わたくしに可能な全部を吐き出しています。あとの追究などは、どうか皆さんにお任せしたいと存じます。とても大きな、意味深い大事な課題が此処には在ると信じています。
みなさまのご勉強に成果を祈っています。秦 恒平       2008 12・25 87

* 飯島愛という「出演者」を、大概の場合わたしはかなり気に入って観て聴いていた。表情や発語や言葉に、ある種「もののあはれ」と人生とが感じられた。盛大な自由を風船のようにとばしつづけながら、不自由の糸を手元にシッカリ掴んでいる人のように感じて、意識的な生き方にそれはつきものの「あはれ」であるなと眺めていた。
孤独な死が報じられたとき、この人の場合とは質的に大差はあるが、孤独な女性達の、また男性達の自殺がこのさき増えに増えて行くだろうという無惨な予想もしていた。

* 東工大で、「孤独と病気と兵役と貧乏」とを、どの順におそれるかと、千に及ぶ学生達に問うたとき、彼等エリートたちは、兵役はまず考えにくい、貧困は考えていない、と切り捨てていた。
孤独と病気とを恐れる学生が、五対三ほどの差であった。
学生が兵役を恐れないのは、労働者が団結を忘れているのと同じほど鈍感なのだし、未来の貧乏は自分たちに問題じゃないという楽観も、のんきなものだと思わせた。
そのことは、今は措く、が、優秀な頭脳の青年達の大半が「孤独」をひどく恐れていた現実は、予想通りだった。孤独と孤立とは少し違うと規定すれば、学生達のオソレは「孤立」の方に傾いていたのだろう。

* 豊川行平という東大教授がおられた、わたしは当時看護系の雑誌の新米の編集者だったが、或る機会に豊川先生はわたしに訊かれた、「若い看護婦達がいちばん常日頃考えている、望んでいることは何だと思う」と。わたしは言下に答えた、「結婚」でしょうと。先生は暫く黙ってわたしの顔を観ておられ、やがて溜息をつくように「きみ、よく分かっているねえ」と信じられない顔をされた。
わたしは、小さい頃から叔母の茶の湯や生け花の稽古場に入り浸って、年上の、あるいは年頃の社中のにぎやかな会話を聞いていた。どんなに性格や仕事や環境がちがっていても、彼女たちが言わず語らずねちっこいほど堅持している希望が「結婚」であるのを察するのは、そう難しいことでなかった。看護婦だから結婚を無視してほかに特別の希望を持っているとは思わなかったのである。

* だが、女性でも結婚願望が二の次ぎ三の次ぎになってゆく時代が来ていると思うしかない世相の変転を、否定出来なくなった。
煽りで、家庭をもって安心して仕事に向かいたい男性たちの「結婚できない」時代もモロに来た、津波のように。
そして労働者は労働組合を足蹴にし、若い男女は結婚を、したければいつでも可能なことのように幻想しはじめた。フリーターたちが、労働はしたいときにすればよいものと考えたのと、じつによく似ている。
まちがいなく、フリーターたちは路頭に放り出され、まちがいなく結婚して家庭を持てない人たちの孤立と孤独は深まり、不幸な死すら避けがたくなってゆくのではと、わたしは恐れた。
わたしは、お節介だとは思わずに、親しい学生諸君(大方男子)に結婚を本気で求めるようにと勧めた。結婚しさえすればいいのではなく、結婚生活とはとほうもなく奥深く難しいものだが、その難儀を身に抱くと抱かぬとは、また大きな差になる。
失敗する結婚の多いことは知っていた方がいい、が、だから結婚は無価値などとは謂えない。

* 比較的身近なところでも、定年近くまで独身だった、経済的には何の問題もない男性の淋しい自殺を、わたしは聞いている。『こころ』の「K」や「先生」は「淋しくて」自殺した。彼等は、そして作者の漱石はその淋しさを「寒しい」と表記している。身にしみ入る寒さ。その「寒さ」を、若い美しくすらあった女性の孤独死に感じ取り、寒さは強か伝わってきた。
2008 12・26 87

上部へスクロール