ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2004年

 

* 秦テルヲのどんな絵が好きだろうと、引き抜いて選んでみた。まず、二十数点。
2004 1・2 28

* ジリジリと秦テルヲ論が、本道に乗りかけてきた。息を詰めて根気よく向き合うしかない。幸い彼の周囲には実に豊かに藝術家が、知識人が実在した。それら彼等の栄養をテルヲが吸収して変容を重ねていったというのは、しかし、或る面でサカサマだというのが私の思いである。ことに、国画創作協会の創立メンバーたちは揃いも揃っておそろしく優れた画家たちであったし、彼等の多くがいつも秦テルヲを支援していた事実も動かない、けれども、テルヲが彼等を意識して学んだという面を忘れがたくはあるものの、その実、晩花も、また紫峰も、波光も、また村上華岳も、みな秦テルヲの存在と製作に意識して、あたかもかれテルヲを彼等「嚢中の針」かのように感じていただろう、それが精神的・経済的支援や後援の推力になったのだろうとすら、わたしは観るのである。なぜか、を考えてゆく。
たしか、華岳立ちを書いた私の長編「墨牡丹」のどこかにちらりと秦テルヲが顔を出したはずだと思う。どういうふうにか忘れているのを、ちと探してみよう。
2004 1・3 28

* いま、しきりにわたしを呼ぶのは、上野の東洋館。いとほしく潤んで深い色の、青磁の小盞。唐三彩の武将像。宋の白磁。めをとぢてこの深きやみに沈透 (しづ)くなり。いま、わたしは、真実、何を愛しているのだろう。同じ問いを十年まえ学生達に突きつけていた。それが彼等との出逢いであった。
2004 1・4 28

* 秦テルヲのことを、考えている。考えている。じいッと考えて、ときどき書いている。
京都へ行くということも想い描いている。今度も、行ったら帰ってくる。行きの列車内時間も役立てねばならんほど今回は切羽詰まっていて、せめて帰りの車中ぐらい、となり座席にいい人が並んでくれるといいなあ、などとラチもない空想で時間をとってしまう。今回は珍しく行きも帰りもまだ切符は用意していない。正月あけだし、なんとでもなるであろう。あけて月曜が病院と電子文藝館の会議。これでは向こうで遊んでいるヒマがない、いつものことだが。京都では、ぜひ何処へ行きたい、何を食べてきたいということは、かえって、ない。行ったつもり、食べたつもりが利く。それがわたしの、京都。
2004 1・12 28

* ようやく「京都」に曙光が見え、ほうっと今、たった今、一息ついている。力は尽くした。今夜から明日には、ホームベースに滑り込めるだろう。木曜には散髪して、すこしマシになって出掛けられる、かも知れない。

* 文藝館も着々掲載されて行く。「出版・編集」特別室も、短期間によくと思うほど充実してきた。これから校正する新潮社創業の佐藤義亮の「出版おもいで話」に興味津々でいる。
2004 1・13 28

* 思い通りにスライド画像の操作をしてもらえるかどうか、分からないが、それは出たとこ勝負として、やっと明日一日の余裕ができて、ほぼ万端気持の用意は出来た。ここまでやれば、アトの成功も失敗も気にならない。けっこう追い込まれた歳末年始だったけれど、ここまで来れて、「秦テルヲ」はかなり手に入った。
2004 1・14 28

* 散髪して、万端、落ち着いた。車内でする湖の本の校正もなく、機械は持たない旅なので、明日の列車は京都まで寝て行ける。文庫本の「捜査官ケイト」はいまぶんあまり乗らないから。帰りも寝て帰れる。会場には知った顔が現れませんように。心行くまで秦テルヲと向き合いたい。それにしても美術館はどっち。岡崎の、市立、国立。そんなことも頭に入っていないのだから、ノンキな講師。
2004 1・15 28

* 大阪日経と明日夕刻前に京都の美術館で打ち合わせると、電話で決めた。さ、荷物と着てゆく物との用意。

* 異様な気圧変動でここ数日天候の動揺ははげしかったが、すうっと今夜あたりから冷静にかえるらしい。今鳴いた烏のようでおかしいほどである。カンと音がしそうに夜気がこわばってきた。見えない物まで見えてくる。
冬の水一枝の影も欺かず  草田男
風をひかぬように行ってこよう。
2004 1・15 28

* 朝いちばんに、京都の臼井史朗老人の電話。「秦恒平の供養で秦テルヲもみごと成仏できましたな」と。笑ってしまった。この人は、当代の出版編集者として出色の大きな存在の一人であり、ペンの会員。出稿をつよく奨めてきた、そのちょっとした相談の電話。昨日、国際美術館が撤収して、大阪へ移転の閉館式があった。それをサボってわたしの講演会場に足を運んで貰ったのだ、恐れ入ります。

* それにしても此の開放感。仕事は少しも減らないが、約束の日時が済むまで終わらない講演だのテレビだのという仕事は、ほんとうにイヤだ。
会場で、秦テルオ血縁者の夫人で同志社女子大名誉教授という秦芳江さんの挨拶も受けた。この大学では、昔、いちどわたしをスタッフに招こうかという話が出ていたらしい。これはしかし、必ずお断りしたと思う。大学の先生になって京都へ帰るぐらいなら、東京へ出て行かずに、大学院にいすわっていた。
2004 1・18 28

* 朝一番に、京都の星野画廊から、秦テルヲの絵が届いた。湖の本のあとがきゲラも来た。
2004 1・28 28

* さて美味しいものに手をつけずに楽しんでいたが、いよいよ「秦テルヲ」の絵の荷を開いてこよう。
2004 1・28 28

* 秦テルヲの絵は、小品だけれど、京洛帖や京洛追想画譜の一群であろう。画譜の方に出町橋があり春色を帯びているが、私のもとめてきたのは同じ出町橋の、雪景で、樹木や橋や鴨川の風情はさらにしみじみと、筆は丁寧で魅力に富んでいる。樹木の描き方は京洛帖の花売女のに似ている。画廊にはものの十分といなくて。その間主人に質問していたのだから、この絵に目をとめて買おうと決めたのは、まさに一瞬一瞥のことだった。テルヲと星野画廊との、ふたつともを信用していた。
2004 1・28 28

* 淡交社がくれたカレンダーの一月の写真は、正月の床飾り。軸は懐紙「初春 内大臣実萬」。高くから「結び柳」がしだり尾のながながしく床畳に垂れて、これが正月らしい。曲げ物に寶槌が載っているが、今一つ、冴えていない。何より軸の下で畳み目一つほど左にずれている。こういうのは気になる。真の板に唐物らしい瑞獣ものの尊式の瓶に、追羽根と堅い椿の蕾はわるくない。好きな瓶ではない。
機械部屋のもう一つのカレンダーは山種美術館が毎年呉れる、今年の一月は、土牛の金地に紅白梅。柱には細身の、先日縄手「今昔」で咄嗟の土産に凱クンの呉れた木版の簡素なもの。
深夜にぼおうっと見入っている。東大倫理学の竹内整一教授から「『おのずから』と『みずから』」という著書が贈られてきた。日本思想文化論と帯にある。意図するところは朧に察しられる。目次を観ると、第四章で古学にふれているらしい。仁斎などが語られていそうだが、国学には触れていない。近代の国木田独歩、柳田国男、夏目漱石、森鴎外、正宗白鳥という名前が見えているし清沢満之の名もある。しかし、目次をみるかぎり宣長・篤胤の思想は検討の外らしい、島崎藤村にも触れていないらしい。「神の御心であらうづでござる」という国学の「おのづから」にもぜひ触れて欲しかったなあと「夜明け前」読了の今は説に感じる。竹内さんにはお礼を言い、その辺を伝えておきたい。
2004 1・28 28

* なんとなく波長が合い好感を覚えた。わたしはマグカップは全く使わないが、京都の陶藝家田代誠さんにもらった湯呑みを、小闇の範囲をアルコールにまで拡げて、ほぼ例外なく常用している。ふっくらと厚手柔らかに焼いた手触りの温かい湯呑みは、わたしが両の掌に包んでも似合う、風格のいい大きさで、タテの長さが長すぎずにおっとりしている。荷をあけて一目惚れして、やはり十数年になろう、手放せない。「常用」ということではこれを便利に使っていて、他にもやはりいろいろと溜まっている。すこし気を励ましたいときは酒器は酒類により好みにするが、ビールだけは例の湯呑みがけっこうである。田代さんのことは、だから一日中思い出せる。
2004 2・1 29

* 松園と想うと、すぐさま生涯の作品がそれこそ走馬燈のように眼裏を流れ出す。それはもう全く類の無いといいたいほど、別次元の世界だ。それが根無し草にならずにしかとリアルに胸に残るのは、松園さんの生きる意志力が毅く、その毅さが現世の生活の中に痛いほど根になり食い入っていたからだ。
2004 2・5 29

* 碌山の彫刻なども観る機会があるだろう。彫刻には彫刻の強い求心力がある。線画の好きな人は彫刻にも惹かれるのではないか、線の持つ精神的・意思的な魅力が彫刻とも呼応している。色彩画の色彩に見とれる人はあまり彫刻的ではない。村上華岳が言い放った「色彩は瞞着」という喝破。分かる気がする。この卒業生、またすこし動いてゆくようだ。
2004 2・17 29

* カレンダーをめくった。
奥村土牛のやッと描きの紅白梅から、石田武の「春宵」に。画面に溢れて大枝垂れ桜の満開を、左うえでおおきな満月が眺めている。花影は京圓山のしだれ桜に似て、ひとしお懐かしい。こういう花をみるまでに、まだ一月半早い。もう十数分で、明ければ明日は弥生あけぼのの春である。
2004 2・29 29

* ときどき、美術骨董を扱っている店から、二三軒あるが、電話が来る。美術品や道具を見せて欲しい、扱わせて欲しいというのである。それにしても電話やハガキで「商売」にかかってくる東京の道具屋は、行儀が悪い。美しいもの、古くから伝来し今に残っているものへの、落ち着いてゆかしい行儀が全然感じられない。酒でも飲んでいるのかと思うようなガサツなメールを寄越したりする。京都の昔に付き合いのあった骨董の家の人達や、また大店、画廊などの人品骨柄はもっともっと静かで、キャリアも感じさせ、風格がある。
今月の末には京都で思文閣の会長と美術対談する。この古美術店が昔から出している図録は、さながらの文化財で、ずうっと貰い続けているが、とても処分しようという気にならない。但し一冊一冊が斤数の高い上質紙で色刷りも多いから、重い。背丈ほども積むと床が落ちないか、ひやひやする。会長も社長もとても勉強家である。今度の対談はこっちの荷が重いが、楽しみにしている。
この人になら安心して道具や骨董を扱わせても安心だという商人に、東京ではまだ出逢えない。がさつな人は困る。
2004 3・7 30

* うっかり忘れ過ごすところだった、玉村咏のきもの染色展、今日が最終日。わたしから、いつ展覧会かと聞いておきながら、あわや失礼してしまうところだった。午後には走るようにして顔を出したい。
2004 4・4 31

* 冷たい手に折りたたみ傘を握りながら、銀座一丁目の名鉄メルサ七階、玉村咏のきもの染色展を見てきた。玉村夫妻とも会えた。技術的な妙や機微はわたしには分からない。好きなのが数点あった。
一階で、目に付いたも佳い服があり、妻に買って帰った。
2004 4・4 31

* はねてから松屋の屋上階でマゴの新しい首輪を買い、ゆっくり店をみまわってから、高輪方面からくる建日子達と待ち合わせた。途中、久しいおつき合いの島田正治メキシコ風景画展に立ち寄り、久闊を叙し、墨の繪を楽しんだ。島田夫妻とはほんとうに久しぶりだが、そんな気は少しもしなかった。
2004 4・5 31

* 正午、ホテル・ニューオータニでロスの池宮夫妻と会い、「なだ萬」でご馳走になった。お酒を最少におさえたが、好きに飲んで良ければ、ひとしおの献立であった、おいしかった。「なだ萬」は今はこのホテル一角に根拠をうつして、此処が本家本元になっている、さすがに最良のスタッフで固めているのだろう、満足し満腹した。あと席に追われることなく、悠々と三時間も腰を据えて和室で話し合った。
わたしはいささか前夜来疲弊ぎみであったけれど、克服できたのは、なにしろ何十年来の仲良い遠来の客であるうえ、炬燵がこいに脚をおろせるラクな和室が落ち着けたし、料理と食器に申し分のないのがわたしを鼓舞した。床がけ「随處樂」の色紙は、さながら池宮夫妻のモットーのようなもの、近藤悠三の広口大きめの花瓶に盛った葉桜の風情も優しかった。
夫妻はその脚で京都へ。
わたしは、銀座松坂屋裏の画廊「宮坂」で、嵯峨厭離庵裏にすむ後輩画家藤原敏行君の個展を見に行った。品格正しい美しい花鳥画家で、こういう一点一点が「なだ萬」「吉兆」などの個室の壁にはまっていたら、どんなに料理の味も深みを増すことだろうなどと想った。欲しくもあつたが、あの格の正しい例えば白椿でも牡丹でも、大きさは丁度良くてもいかにも我が家が事実以上の陋屋になってしまう、繪に家が負けてしまいそうと、少しいじけたほどであった。
和光で時計に電池を入れてもらったが、常は五百円ぐらいなのに今日の時計はよほど特殊なのか二千円もかかり、二十分ほど待たされた。で、待ち時間を利用してとなりの店で、映画「マトッリクス」三部作のDVDを見つけてまとめ買いした。木村屋でロシアパンとやら少し見た目のうまそうなのも買った。よれよれの軽い革鞄をほとんどカラにしていたので役に立った。
銀座一丁目から地下鉄一本で保谷へ帰り、覆うように疲れが戻ってきていたので、家までタクシーをつかった。
2004 4・10 31

* 国立近代工芸館の「アールデコ」展が魅惑的に楽しい春の誘い。ま、世離れた美しさの再来であり、こういうイヤな時代には思わず身内の時を喪い他界に投げ込まれるであろう。
2004 4・23 31

* 四月も往く。中島千波の沸き上がり溢れてなだれ落ちる夜桜を描いたカレンダーも、今日でめくられてしまう。千波の繪をわたしは身にしみて深いものと観たことはないが、加山又造が死んでしまい、するとああいう派手に装飾的なつくり繪のあとを襲うのは彼かも知れない。尊敬はしないが、ひとりぐらいああいう飾り繪の達者がいるのもいいだろう。
2004 4・30 31

* 雨はなく、風がものを鳴らしている。家の中には入ってこない。
淡々斎在判、正玄造る銘「一葉」の竹舟花入れを鎖に吊り、紫の鉄線にほの紅いちいさい秋海棠の花と大きい緑の葉をあしらってある。松篁さんの罌粟の花、濃い橙色のと底紫のとが丈を揃えてツンと咲いている。読者でもある当代琳派の鳥山玲さんは、金銀の凝った地に、小花を白く何ともしれず反転させた上へ、はつはつと濃い菖花を咲かせている。どれもみな、カレンダー。
使い切ったパスネット・カードは華岳の「裸婦図」なので、そのままディスプレーの上に真正面に立ててある。スピーカーの上には「阿修羅像」の写真が切り抜いてある。そして、ビタミン愛の澤口靖子が仕事をしているわたしを見ている。谷崎先生もコワイ眼をして見ている。背後のソフアでは黒いマゴがいと静かに、安心しきって朝寝している。
このソフアは三越で衝動買いしたうちの家具では抜群の贅沢品で、息子が盛んに寄越せと狙っている。
2004 5・31 32

* 新幹線で、対談のための資料にやっと目を通した。家を出がけは降りづめで、棄ててもいいビニの小傘で駅まで濡れていったが、名古屋へ着いた頃はみごとな晴天で、日射しもまぶしげ。京都へ着いても、同じで、からっとした湿度のおかげで、ホテルで、ワイシャツにネクタイ姿になって出掛けても、なんとかしのげた。
車で、三条木屋町上ルの画廊へ寄り、美学同窓、妻の友達の出品している鞍馬画会を、ざっとみた。松村さんの絵は外国の風景を描いたモノで、居並んだ沢山の絵の中では落ち着いていたが、その場で腰をすえて描きこんだ印象がうすく、持ち帰ったカラー写真で絵を造っていないかという、どこか突っ込みの薄さを覚えた。本当の意味で絵が仕上がっていない感じ。本阿弥光悦の佳い茶碗にこういう色でかき分けた豪快な名碗があるなあと想いだしながら、岩壁に迫られた何かしらアイマイなものを描いていた。波涛(のようなの)も空も、半途の感じ。全体に成績不調という展覧会であった。

* 三条木屋町から、車で、蹴上の都ホテル(今は名が変わっているが)へ直行。京都美術文化賞の授賞式と祝宴。洋画の加藤明子さん、版画の木田安彦氏、陶藝の林秀行氏。梅原猛さんが選者を代表して選考理由を話し、受賞の三人が挨拶したが、加藤明子さんの挨拶がここ近年の受賞挨拶の中で頭抜けていた。拍手のし甲斐があった。木田氏は、ま、騒がしく両手両脚を振り回して大車輪に仕事をしている体の人で、スランプに落ちるなどと云うことは一度もなかったというぐらい、ま、職人仕事の人。加藤さんとは対照的。
この授賞式、財団母体の京都中央信用金庫から、ま、幹部社員であろう、堅苦しい背広姿の人が大勢参加して、それで「多数来客」を形作っている。その余は、過去の受賞者や理事幹事らが来ているけれども、今一つ取材記者や美術関係の批評家や作家達が寄ってこない。すこしどうにか工夫できると、本当に藝術の祝典らしい雰囲気になるのだろうが、仕事が小さい。やり方一つではもっとダイナミックな企業PRもできるだろうに。型通りに型をこなして記念撮影まで、たんたんと進む。
石本さん、三浦さんが欠席なのが寂しかった。
そのかわり、京都市立美術館の館長に就任した歴史学の村井康彦氏と久々に再会し、四方山の話を二人でながく話し合えたのは楽しかった。村井さんとは茶の湯の方での共通の仕事の場があった。氏は、秦さんによくいじめられた、やられたなど頻りに諧謔を弄していた。なに、学者には其処までは言いづらいであろう処を、自由な立場から突っ込んで発言していたまでのこと、学者と作家との、いわば分業分担なのであった。

* 会が果てるとわたしは、例年の例で、いわばわたしの地元でありぶらぶらと三条通を歩いて帰る。ただ、もの凄く西日の真盛り、のがれようがない。あまりぎらぎらと照り焼きにされるので、思わずも柚之木町の方へ折れ込み、昔の美濃吉、今は竹茂楼の前を通って、佐藤勝彦君や田中勉君の昔の家の前を通ってみたが、やはり西に向けばどぎついまで日はぎらぎら。またも脇の道へ逃げこんだところで、「松原」という表札に出くわした。この辺に「湖の本」の読者でもあり昔のクラスメートでもある松原さんの家があったらしいと思いつき、声を掛けてみたら、その通りであった。路上で数分立ち話してわかれ、神宮道の星野画廊へまたしても立ち寄り、秦テルオや甲斐莊楠音や五姓田英松などの珍しい絵を見せて貰った。
また三条通に出た。神宮広道から少し西の路地に、やはり「湖の本」の読者で、中学高校といっしょだった本田さんの家がある。大怪我をして永く入院していたと聞いていたから、声を掛けて見舞いを云ってきた。
古門前まで柳の美しい白川ぞいを歩き、わざと石の細い細い橋を向こうへ渡ってみたり、また広い石橋を西へ渡り返したりしながら、新門前通りに入った。私の育った家は、いま、きれいな美術骨董の店に変わっていて、数分、中に入って、ああこの辺に大きな竈があった、この辺に仏壇や床の間があった、泉水があった、叔母の稽古場があったなどと、奥行きいっぱいをそれとなく懐かしんできた。
白川を新橋、辰巳橋とわたり継いで、祇園清本町から四条へ出て、車を拾って烏丸のホテルに戻った。着替えようかと思ったが面倒なので、靴下だけさらに履きかえ、今度は五時半からの理事会宴会のために、仏光寺新町下ルの料亭「木乃婦」まで、数分歩いた。清水九兵衛さんと一緒に入った。席も清水さんの隣で、もう片方の隣は先日まで市立美術館長だった顔なじみの上平貢理事。

* 幹事会が先行し、決算や予算が報告され、ついで全く同内容で理事会が、シナリオ通りにいささか可笑しいぐらい堅苦しく儀式めいて進行する。そういうことは、専ら金融機関である財団母体のエライさんたちが進行し、梅原さんや美術作家や小説家のわたしたちは、笑うことも出来ないから黙然と資料をただ眺めている。通過儀礼としてしかしこれは厳格にやっておかねばいけないのであるらしい。とにかくも財団母体のこの金融機関は日本一の信用金庫であり、おそろしく景気がいいらしい。安心して任せておれる。ご同慶の至りである。

* 宴会になると先斗町の芸妓舞子らが来て踊ったり接待してくれる。この店の通り一つ隔てたお向かいは、菅大臣神社、亡き恩師西池先生が宮司さんであった。そういえば理事の橋田二朗先生が欠席されていたのが残念であつた。選者の石本正さんはこの席には元気な顔を出された。
いい料理であった。それから酒も冷酒もビールもうまかったが、佳いワインの赤いのがすてきにうまくて、少々酔った、酔った勢いで梅原さんとも二人向き合っていろいろ話してきた。だが何よりも、清水九兵衛さんと、創作者のスランプということで、かなり体験的に深みのある話を仕合えたのがたいへんな収穫であった。むろん、それは今度の「湖の本」の小説と絡み合っていた。創ることと考えることとの、あまりに深い危険をはらんだ微妙さ。それは清水さんのような透徹した前衛彫刻家なればこそ見えている、いろんな機微に関係していた。清水さんは酒の席であろうとも、そういう話題は決して避けない人であり、今夜の理事会は有益であった。

* 会が果てると、わたしはさっさと歩いてホテルに戻った。次に気が付いたときは、夜中の二時半であった。脱ぐべきはちゃんと脱いでいたが、カーテンもしめず電気もついたままで、寝ていた。
2004 6・1 33

* 盆栽は生け花どころか、あれほど人工の極をつくして作り上げる植物は珍しく、思うままの枝振りや幹の太さ細さや花を創作するために、職人達は無残に手を尽くして、自然のママを、超自然の自然さへと変害してゆく。その経緯を一度観たり識ったりしてしまうと、心底愕かされる。それでもなお、それは巧みな技術と息づまる長時間(期間)との「魔法」のようで、仕上がりのすばらしさには、ため息がつかれる。結果を鑑賞すれば盆栽はみごとにすばらしく、経緯に接すれば胸も冷え縮かむほど、すさまじい。「家畜人ヤフー」という小説で、ヤフー=日本人の健康な肉体が、各種のみごとな家具に変造されてゆく無残さを読んだとき、ありありと盆栽の凄さを思い出した。手の込んだ大物の盆栽ほど、凄い。
しかもなお盆栽の美しさには心底惹かれる。
謂えるのは、だが、あれは自然に見せる不自然さの極致、或いは不自然さの極限を愕くべく自然そのものに見せる趣向の所産である、ということ。
2004 6・10 33

* E-OLDの会はつつがなく、和やかに。出光美術館で出光佐三コレクションを観た。遠方から見える三人と待ち合わせるには展示場は都合がいいと急に申し合わせた。
この美術展は、一点一点の質の高さでは文句の付けようもない。もともと「指月布袋画賛」を皮切りに仙厓のコレクションから肇まったのが此の美術館であり、動機はそれに尽き、仙厓蒐集では第一の質を誇っている。双幅の「馬祖・臨済画賛」など辛辣な画境である。
その余は、統一的な志向で蒐集したというより、専家の意見も聡明に聴きながら、最も善きものを惜しみなく集めたと見える。その内容の宜しさと多彩さは驚くべきものがある。
絵画は、牧谿の「平沙落雁図」岩佐又兵衛「四季耕作図屏風」また「桜下弾絃図屏風」小杉放庵の「大伴旅人図」「南枝第一春」その他、浦上玉堂、田能村竹田、ムンク、ルオー等々いろいろある。
書も、古筆手鑑「見努世友=みぬよのとも」は抜群の美しさ貴重さであり、この館に重きを成している。「和漢朗詠集」もある。歌仙切も絵巻もある。仙厓の書は繪に劣らぬ境涯に遊んでいる。
陶磁器では、さすがに桃山期の古唐津に抜群のものがあり、堂々の奧高麗茶碗にも繪唐津茶碗にも風格溢れたが、興味深かったのは近代板谷波山の独特の葆光彩磁をやや纏めて観られたこと。
もとより出光では、豪快で森々たる魅力の上古青銅祭器群が素晴らしいのだが、また仁清も少なくないはずだが、それらは今日は一点ずつぐらいに割愛されていた。
かなりの客の入りであった。わたしも一瞥また一瞥で、駆けるようにして観ては戻り観ては戻りしていたが、ま、それでも満たされて余りあった。
2004 7・10 34

* 遠来の客と、有楽町で昼食し、お茶を飲んで、暫時閑談。時間に追われて名残惜しく。

* そして、もう一度、出光美術館で、出光佐三コレクションを丹念に繰り返し繰り返し観てきた。コレクションとしては仙厓という焦点があって定まるものの、その余、やや興味が分散し、印象も分散する。「伝」モノが多いのは或る程度ヤムを得ないとして、古筆など「見努世乃友」の手鑑はべつとして、決定的なつよさはない。出ていた二点の絵巻は優れていた。休息しながら、やや離れて、じっと眼をあてていた仁清の「芥子花図茶壺」がまこに美しくて吸い取られそうであった。あれは仁清茶壺の中でわたしの一番好きな一つ。繪唐津の大皿、同じく柿の木繪の壺に惹かれた。焼き物は概ね定まっていた。牧谿「平沙落雁図」、岩佐又兵衛「四季耕作図屏風」にはやはり感じ入った。
2004 7・13 34

* 午後、思いがけないきっかけから、思いがけない方角へ足を向けてしまい、と言うのもわたしの気持ちでは国立近代美術館所蔵の日本画展を見に行くつもりであったのに、西洋美術館の場所と勘違いしてしまい、上野へ着いたらそこでは「聖杯」展。あぁあ、インディー・ジョーンズの映画で奇蹟の「聖杯」を追っかけるのを観ていたのが、こっちへの手引きになったのかと、それはそれで面白いじゃないですかと理屈をつけて、入って観た。これはこんな機会でなければこんなにも美しく沢山には観ることがないだろう。満足した。常設展のほうもぐるりと廻り、好きな食堂の「すいれん」でオムレツと赤ワインという取り合わせで。庭木に風が入り爽やかで、オムレツもワインも美味かった。
「聖杯」展だけでは、このトンチンカンが癒せない。博物館で「吉祥天女像」のご開帳と見知っていたので、これは拝礼せざるべからずと浄財を惜しまず。表慶館はなかを暗くして、殆どこの国宝図像ひとつを厨子のうちにみせてもらった。想像以上に小さい法量。そう思うのはいつも図版で観知っていて、堂々と大いさを感じていたわけだ、ポスターなど、実の三倍ほどに大きくしてあり、それでも違和感はなかった。おや、ちいさいんだと思い、しかも二度三度としげしげ拝んでいて、実に大きいのである、感銘が。なんという豊かな色彩の調和だろう、かなりに多彩なのにみごとにひきしめられた渋みのまま艶麗なのである、美しい音楽を聴いているような諧調の美が、魅力が胸を浸してきた。図像と私とが一と一とでただ向き合っている幸福感を覚えた、大変な人だかりなのに。
本館は改装していて、平成館に大きな特別展、そうとう脚が痛んでいたけれど、ここで引っ込むのは申し訳ない。何をしていたか。幕末から明治の頃のパリの世界万博に出展された日本美術や交換された西洋美術などが、莫大に陳列されていたのだ、こりゃもうどうだというほど眼を驚かせる珍しいものばかり。ことに工藝部門の意気込みたるや、なるほど欧米世界を意識に意識しての趣向また趣向の度肝を抜くような珍物が、これでもかこれでもかと並んでいた、うぉうッと声がはじけ出そうに、しかし実のところは息をのんで拝観したものである。
長路の蟹歩きで、老人は、ヘトヘト。都心へ出てそうとう贅沢して帰る気であったのも萎えてしまい、よちよちと鶯谷駅まで戻ると、蕎麦の公望荘に転げ込んで、蕎麦湯割りの焼酎でせいろ一枚をたぐりながら、送られてきていた雑誌「ぎをん」の、京舞四世井上八千代の追悼特集をゆっくり読んだ。
そして池袋さくらやでプリンタのインクを買い込み、四時半頃には家に帰っていた。
2004 8・5 35

* 化政期の文化を読みながら有楽町へ。
東京古美術EXPO2004。
東京国際フォーラム広い地下会場いっぱいに百に余るほどの古美術・骨董の店が展示。あまりに多彩でみんな見切れない。値段が総じてむやみと高価。しかし大いにわたしには楽しい見物だが、一緒の卒業生にはすこし可哀想かなあと、できるだけ一つ一つを等方向の視線で観て感想を分かち合うようにした。なにしろ、見た目は高級の夜店なみに見えても、値札は碗一枚に三千万円もの価格がついていたりする。二、三百万円ならざらにごろごろ出品されているのだから、丁寧に観て行くと眼の法楽。むろんかなりの雑器も出ているけれど、それらは直ぐ見分けがついて立ち止まらせる力は無い。陶磁器、調度、漆工藝、金工藝、木竹工藝、硝子工藝、装身具、照明具、家具、刀剣、絵画、版画、書から盆栽や絨毯や、茶道具は山ほども。
掘り出すも何もない、値段的には佳い物はまるで手が出ないし、手の出そうな値段では買う気もしない。それで、何の欲も得もなしに楽しんでみて行けたのだから、ま、言うことはないのだつた。京都から昭和初期の版画等を出展していた伊藤隆信さん家族とも挨拶して、およそ三分の二も観たかどうかで、会場内の広やかに天井の高い高い休憩場で、二人でビールを呑み、この前逢ったのはいつだっけなどと、のーんびり楽しく話し込んだ。
もう七年八年にもなるだろうか、銀座の和食「金扇」で食べ、さらに好きだったビヤホール「ピルゼン」で呑んだ気がする。気が置けない、文字通り生彩に富んでぐずつかないし、よく笑うしよく話してくれる。酒も飲める。仕事の話も恋人の話も家庭のことも、話がなにも停滞しないので、とても気が明るい。屈託は有るだろうが、屈託までが普通のことのように伝わる。爽やかな瀬を水がはしるように話題がひらけて行く。十三日の金曜日もへちまもまるで無い。

* ブリジストン美術館も、今日は時間延長なので、行きたいです、ではと、タクシーで直ぐついてしまう京橋のブリジストン美術館へ行った。
ここはもう西洋美術ほぼ初めてという出逢いの人には最良の企画。マネ、モネ、ルノワールから20世紀へ「巨匠たちのまなざし」展。馴染みのわたしには常設と大差ないのだが、IBMの女性エンジニアには、予期したとおり、それ以上に楽しんで貰えた。レンブラントやアングルの時代では、どうしても絵画の背後に神話や信仰や伝承がからんでそれは初心の視線を妨げがちになるが、コローやミレーへくるとそういう拘束がゆるく、ないし失せてくる。印象派へ入って行くと、繪はわかりよく見やすくなる。そんななかで、このお連れはルノワールやモネには関心をほとんど示さなかった。ゴッホやセザンヌに目が向き、マティス、ピカソことにジョルジュ・ルオーにいちばん強い共感と賛嘆の眼を注いでいた。そういう感受性であることに、わたしは、ああ連れてきてよかったと嬉しかった。アンリ・ルソー、デュフィー、ジャコメッティー、ザッキン、関根正二、中村彝(ツネ)、のような画家や彫刻家に立ち止まる。館が客寄せにパンフに写真を大きく出しているどの繪にも、わたしの連れはたいした関心をついに示さなかった。これは、初心の人と美術館に何度も来たなかで、特異な体験だ。まぎれもない美術への鋭角の個性が感じられ、そして当人は何よりもこの美術館へ来てよかったと展示全体に心から満足していることも、そばにいてよく看て取れた。とても気分よく、甲斐があった。
もともと、学生のころ、数人づれで五島美術館に連れて行ったときも、この人は、衛視がもう時間ですと再三言うのも聞こえないように、気に入った物に見入っていたのをよく覚えていたし、あのただ一度の体験で、以降やきものなどへ目をむけるようになりましたと、「出逢い」を喜んでいた人だ。
先生といっしょに、また「うつくしいものがみたい」というのが、今回のデート希望の主眼であった。美しい佳いものを実に半日かけて山のように観た。多すぎて消化不良になってはいないかと、むしろわたしはそれを心配するのである。

* ブリジストン美術館からそのまま銀座へ歩いて、あっさりもいいけれど、今日は「こってりも好きです」というので、一丁目のフランス料理「シェ・モア」に入って晩飯にした。この店はグルメの西村京太郎が一押しだったわたしも繰り返し顔なじみの名店、すばらしい岩牡蠣の特別セールもしていたので、それも加えて貰って(連れの彼女は牡蠣だけはダメというので、わたしだけ。)、まず、シェリー、それと佳い赤ワインで「こってり」と美味いコース料理をなんと九時半までかけて食べかつ話した。今日はもうその気で出て来ていたので、「シェ・モア」を出ると散歩がてら日比谷へ歩いて、「クラブ」に入り、レミ・マルタンをブランデー・グラスで静かに呼吸するように一二杯。もう十時半ちかくになっていたので長居せず、有楽町駅に送り届けて、わたしは都合よく地下鉄直行、保谷まで帰った。車中、ずうっと蕃社の獄など、江戸洋学の受難のながれに読みふけっていた。あやうく午前様にはならなかった。
2004 8・13 35

* 国立近代美術館から来ていた「RINPA」展の特別内覧の招きを失念していた。もっとも内覧会はかえってがさつに人が混み静かには見られない。少し面白い趣向なので落ち着いて出かけたい。足場のわるさを無意識に気にするのか、つい近美と上野の西洋美術館とをとりちがえる。そして億劫になる。
2004 8・26 35

* 琳派展へのお誘いであるが。繪の見える人は、独りで観るのが所詮最良、連れをそぞろ気にしながらはシンドイものである。先日の卒業生とのように、絵画と出逢うことそのものの尠い連れだと、横並びに視線をそろえて観ることに意味もあるが。映画と美術展は、ま、妻は例外としてもだいたい独りがいいと想う。
2004 9・10 36

* 気分にはずみをつけるのに、新しいおもちゃがわりに何かツールを買ってみたいなあと思うことがある。大学へ入って間なしに、河原町さくらやのショウケースに見つけたライカマウントのニッカの一眼レフが格好よくて欲しくて欲しくて堪らず、日参するように覗きに行った。昭和二十八、九年で五万円余りした。わたしの就職した初任給が一万二千円であった。叔母を手伝って茶の湯の「代稽古」などを引き受けることで叔母が出してくれた。その機械は今も持っている。
そしてこの頃キャノンがデジタル一眼レフの新機を大きく広告していて、いたく気を惹かれている。しかし考えてみると、いまどきわたしがポカポカ写真を撮り歩いてどうなることか。むしろテレビとDVD再生機のようなのを断然新装した方が気が弾むかも知れない、しかし、ますます運動不足を来して、家に居続けるだろう。
建日子は携帯電話カメラのようなものを便利がり、来るたびに新しく買い換えているみたいだが、わたしは携帯電話に縛られるのは御免蒙りたい。だけど写真機能付きで「軽い」「小さい」というのは魅力を覚える。欲しいと思うキャノンのデジタルカメラは何といつても重いだろう。重いのは苦手なのだ、よれよれの穢い革鞄を持ち歩いてテンとして恥じないのもベラボーに軽いのに心底惹かれるのである。重いのはよくないという価値観である。わが体重は明らかに悪しき重さではあるが。
国立近代美術館の工芸館で新しい展覧会が今日から始まるが、ふれこみは、「軽い」工芸品の開発であると。
ずいぶん以前の「工藝」巻頭言に、今の工藝の欠点は何より重量が重く、加えて印象までが陰気に重いこと、それが作家個人の孤立した藝術意欲に寄りすぎているためで、工藝の魅力は「たくみ=手組み」つまり人手の合わせ技にあったはずと嘆いたことがある。少なくも今回、工藝作品を「軽く」という意向から展覧会に選り抜きの十数人が作品を並べているというのだ、見に行きたい。
2004 9・18 36

* 清水九兵衛さんから有楽町での彫刻展、楽吉左衛門さんから茨城の筑波辺での展覧会の招きが来ている、行きたい。ことに筑波辺はわたしの知らない世間であるが、こういう機に行ってみたいなあと思う。それもこれもしかし健康が前提。バテていてはならない。昨夜は日付がかわって、三四本を少しずつ読み、寝入ったのはたぶん一時前か。一度中断されたが引きずるように夢にも悩みながら十時半まで寝てしまった。有り難いことに頭痛は消えている。仕事は山積している。
2004 9・21 36

* 雨が落ちている。堤さんの絵、それにマチス。観に行こうかと。
2004 9・26 36

* 妻と、傘をさして、上野へ出かけた。暑くなくて助かる。

* 公園を横切って先に都美術館の一水会展へ。入ってみて、わたしたちは一水会展は初めてではないかと、会場の画作に新鮮に驚き、また総じてとても好感を持った。日本画近年の創画会展よりも、具象画が多くて親しみやすく、みな律儀に堅実に描いていて、冒険や創見の気配こそ稀薄ながら、絵を観ているというふつうの楽しみには親切に迫ってきてくれる。はじめは、めざす堤彧子さんの繪だけでも先に観てと思っていたのに、つい、地階、一階、二階と全部を明らかに楽しんで見通してきた。
堤さんは、今回まで連続十六年入選、今回会友に推挙されていた。繪は、立派に美しかった。柄が大きく、そのために遠見が素晴らしく利いて、遠くから観ると堂々と個性的で、この人の作品でわたしの感想では、初めて「美しい」作品として描けていた。堤さんの好みのモチーフがぐっと画面の奧へうまく隠されながら、効果を上げて、一水会ぜんたいにはなはだ律儀な写実画が溢れているなかで、油絵の大胆さで写生写実に深くは拘泥しない画面構成のおもしろさを企図し成功させていたのは、何か大きくものを掴んだと思われてたいへん頼もしかった。
だいたい、何をどう描きたいのだねと冷やかし半分につい聞きたくなる繪のような繪の多い画描きさんであったのが、今度の出世作は、ちかまではやや雑然と見えながらも、確かな構図と効果強い色彩の配置よろしく、天地左右にむだや隙間のない、安定した室内空間を或る(超えて出た)別乾坤に確定させていたのは、たいへん結構な好成績であった。
繪が、初めて美しくまた面白く描けていた。大作なので、とうてい我が家などには置けないけれど、あれだけ遠見が個性的に利くのだから、大きい施設の大壁面に収まりうるのではなかろうか。

* ともあれ久しい友のためには嬉しい展覧会であった。個性的だというのも、遠見がとても利いて佳い繪だとも、ともに妻の強い感想であった。同感した。

* また公園を横切って国立西洋美術館でマティス展を楽しんだ。妻がバテていなかったら、もう少し時間をかけて幾返りも会場を経巡りたいほど、マティス世界の魅力に溢れていた。タブローの佳いのはむろん、デッサンの、スケッチの、震えがくるほどの美しさ、豊かな確かさに驚嘆かぎりなく、奪ってでも帰りたい作品が次から次へとならんでいた。展示手法も、生成と精錬、端緒から変容へと、今回展はひときわ佳い趣向を判りよく徹底させていたのが嬉しかった。
展覧会前に、「すいれん」でたっぷりおそめの昼食を取っておいたので、妻の体力も、ま、なんとか保てたのであろう。館内で小さな買い物なども妻は楽しみ、そしてもう何も考えずにまた上野駅から一路保谷へ帰っていった。十時半過ぎに出て、家には四時に帰っていた。これぐらいな小外出で、それでも大きな展覧会が二つ観て来れたのだから上等、上等。満足した。もっともこれは芸術至上主義文芸学会の例会を失礼しての美の体験であった。

* まだ竹橋の琳派展、それから泉屋博古館分館の関西邦画展があり、清水九兵衛さんの彫刻展がある。清水さんの会のオープニングレセプションは有楽町で、たしか明日である。明後日には永井路子さんとの対談、これは手が抜けない。出たとこ勝負で勘弁してもらう気でいるけれど。
どれもこれもとは、どう魅力的な催しでもうまく行かないけれど、見落としたくないものも多い。万三郎の能にも十月二日招かれている。京都ペン大会にも行く気でいたけれど、ミスチャンスしそうな気配である。
2004 9・26 36

* 有難うございました。 有難うございました。 ありがとうございました。
お出にくいところを お二人で観ていただけて光栄でございました。 その上に身に余るご感想を賜り、驚いております。天にも昇る心地! 今まで絵を描きつづけてきて 本当に良かったと感動をおぼえた一瞬でした。この感激と感謝の気持ちを次作にぜひ繋げたいです。
今回の作品は、自由奔放に描きたいように描きまくって 色も駆使して それでも楽しく思う存分好きなように発揮できた作品か、とも思いますが。じつは もう一点の作品の方に重きをおいて 8月になってからは殆どの時間をそちらにむけました。 先生から指摘されたところとか デッサンとか等々。力一杯入れ込みました。
フタを開けてびっくり! 自由奔放に自分ひとりで先生にも見ていただかなかった作品の方が入選し、尚びっくり! 先生もすこしがっかりのご様子でした。
私としてはこれでこれからの方向づけが出来てきたように感じ、とても嬉しい爽快な気分でいましたときに。 まさか? 恒平先生にまでお褒めのお言葉をいただくなんて! 思ってもみませんでした。
観て下さるとの感触からチケットをお送りさせていただきましたが。膨大な数の一水会展の殆どに目を通してくだされ、誠に嬉しく感謝で一杯でございます。 もう一度 有難うございました。
奥様にもどうぞよろしくお伝え下さいませ。  堤彧子

* つい、銀座辺でのグループ展や個展でこの人の大方の繪を見てきた。しかも、まずはめったに褒めて上げなかった。ごめんなさい。
褒めなかった理由の一つが、先生の言うままに描くからダメなんですというのだったから、わたしも今回のことには少なからずビックリしている。お絵描き教室の先生などしていたのも、やめた方がイイと言い続けいつもメールでヘキエキさせていた。言うまでもないが、湖の本の表紙装幀はこの人に頼んだ。その頃はまだ一水会との縁もなかったか、そもそも油絵をはじめていたかどうか。遠い昔のことだ。
2004 9・27 36

* 四時に失礼して三田線で日比谷に出、清水九兵衛さんの展覧会を観た。和紙とステンレストクリスタルを使った造型。素材差の「視感触」による構造的な音楽空間とでも謂うべき造型美。上手い具合にご夫妻がおられ、どこかテレビ局の撮影とインタビューの終わったところであった。方形立体の構築だが、球体とのコンビネーションを試みて欲しいと注文。暫く話してから辞去。
2004 9・28 36

* マティスという画家は、我々年輩を全的に魅了する、とてもおいしい毒をもっている。ピカソになると毒気が過ぎて、辛辣な味わいに、へたばるときもある。マティスやヴラマンクをフォーブとかフォービズム(野獣派)などいわれると、贔屓目に少し心外で、魅力の味は「魔」にあるのかもしれない。
2004 9・29 36

* 昨夜遅くの地震には少し愕いた、ディスプレイがぐらぐら揺れた。辛うじて作動をとめて。そのまま階下で日韓若手サッカーをみた。ロスタイムのギリギリ一杯で同点に追いつき、二度目の延長で、韓国が一点加えたところで寝床へ行った。日本は勝てそうにないとろい試合運びだった。気迫が感じられず、実況のアナウンサーの叫びばかりが虚しかった。
今日は普通のお天気。
いま、並木路子と霧島昇の「りんごの唄」を聴いていた。今は田畑義夫が「かへり船」を歌っている。
目の前の大きな日立のディスプレイがあの地震で音立てて揺れたから、ほんとに驚いた。このディスプレイの上に、使い古したパスネットカードが二枚立っている。
一枚は村上華岳の名作「裸婦図」でもう一枚はモジリアニの美しい「ジャンヌ・エピュテルヌの肖像」です。みごとな対照で最良の繪合。ティスプレイの右脇には、切り抜いた興福寺「阿修羅像」のみごとな顔と、卒業生クンの家で生まれたての赤ちゃんの顔とが。たとえ写真でもいつも佳いものに目をとめているのは幸せなこと。目は、いつもこういう美しさで洗っていたい。
「異国の丘」がきこえてきた。少年の昔、息をつめて聴いたものだ。
2004 10・7 37

* マティス展記念の美しいパスネットカードを見つけたので、ついでにプレゼントしますと藤江夫人がおくってくれた。ディスプレイの上に華岳とモジリアニの使い古したカードを立てていると「私語」したのが聞こえていた。ありがとう。定期入れには上村松園の「砧」が入っている。本棚には歌麿の「風俗美人時計」の一枚がやはりメトロカードで。何と云っても買う必要が生じると美術ものを捜すけれど、なかなか出会わない。それでも捜せばセザンヌの「自画像」も思い出せる。カードの材質のせいで、汚れないし立てやすい。近間に置くとけっこう五月蠅くなく美しいので、仕事の合間に視線を送っている。
2004 10・8 37

* 銀座「笹や」へ寄ってきた。「山名」の風景画が観たかった。絵を観ながら、「生うに、赤貝」それに「鰈の焼き物」で酒二合。山名の絵をこの店に飾らせたという山名の旧友美谷氏夫妻と偶然出会わせて。おどろいた。

* 帰宅、即刻、本の発送作業にかかった。
2004 10・15 37

明日は月曜日だが上野の都美術館はあいているはず。石本さん、橋田さんらの創画展に行ってきたいが。湖の本をもう数十冊、追加で送り出しても置きたい。美学藝術学会の研究発表を聴きに京都へ行くよりも、足の便はいいのかわるいのか分からないが、笠間の「楽吉左衛門展」を観に、西でなく北の方へ出掛けてみたい。先ずは新劇「チェーホフ的気分」を観て、太左衛の「鼓楽」を聴いて。
北へ行けば、いくらか紅葉しかけているかも知れない。
2004 10・24 37

* 夕方へかけて妻と家を出た。まず上野の創画展。これはもうサンザンの展覧会で、いまどきこんなヒドイ会派もあるのかと「解散」を勧告したいようなハッキリ言って醜い、騒がしい、デタラメな画展であった。受賞作もことごとく納得が行かない。これが日本画の現状かとほとんど自制のきかない無政府主義に状態に呆れた。審査が出来ているのか。
ムリもない、上村松篁さん、秋野不矩さん、加山又三さんその他有力な人達がぞくぞくと亡くなってしまい、今では石本正氏を筆頭に、他にはこれぞという実力者がいない。上村淳司とか橋田二朗とか。その石本さんの絵に緊張感がなく橋田さんの絵も力よわく、上村さんの作品は見当たらなかった。緊張感が感じられず、汚い繪はいっぱいだが、凛然として美しい繪や感動の繪に出逢えない。参った。貰った券があり図録を渡されたけれど、重いだけなので返してきた。かなしい気持ちだ。
2004 10・28 37

* 天気あまりにわるく、最新の天気予報でもこのさき水戸地方雨つよまり気温も下降と。東京でも朝から降り続いてときどき強くなっている。せっかくなら晴れ晴れとした笠間を楽しみたく、今回断念。ご縁がないなどとたいそうに考えず、たんにお天気に恵まれなかったと思っている。展覧会は十一月確か二十三日頃まで。近い時期の笠間行きを考えておこう。宿など予約していなくてよかった。機械にむかう膝下が冷えている。いま温風器をオンに。
2004 10・30 37

* 萬と、急死した万蔵の弟で近く万蔵を襲名する、次男与十郎との狂言「水汲」も見てよかったのだが、根津美術館の「宋元の美」展が今日で終わるので、思い切って表参道へ移動し、地下鉄駅から歩いて、美術館へ。
漆藝が主で地味な展覧会なのは無理もないが、堆黒の精緻な大作・名品が多く、満足した。それに宋・元の墨跡も茶碗もたくさん出ていて、これらが、なかなか。常設二階奧の、仏頭の中で、北斉の、砂岩で出来た仏頭の一つが、いつもながら温顔で豊かに大きく大らか、胸に眼に静かに沁みて、今日も一等の感銘であった。
根津美術館の、森の庭には降りて行かなかったが、秋とは想われない瑞々しい翠が湧くように夕せまるなかに綺麗であった。

* また表参道にもどり銀座線で銀座へ戻り、日本画の鳥頭尾精展へ行ったつもりが、ニュー・メルサなのにメルサへ行ってしまい、展示会場見当たらず、断念して道の向かいの、近藤富枝さん主宰の「継ぎ紙」展を見てきた。近藤さんに会い、「ペン電子文藝館」へ出稿を依頼し、お土産まで貰った。

* いい感じに空腹であった。地下の中華第一楼へ久しぶりに入り、うまい紹興酒二合で売り出しのセツト料理を食べた。美味かった。
もう足下が有楽町線で、ホームへ降りて行くと目の前へ保谷へ直通の電車が来て、すんなりと帰宅した。
2004 11・7 38

* 銀座で二つの小さな個展を覗いてきた。
一つは、まだ三十前後かほぼ素人女性の画展で、もう一つは京都芸大の名誉教授の画展。
その足で銀座から有楽町へぶらりと歩いて、こぢんまりとシックなビヤホールで休息し、明治の歴史を読みながら、とびきり辛いカレーライスでこの店自慢の生ビールを一杯飲んできた。カレーにはコーヒーもついていて、気持ち落ち着いた。本に疲れると、ぼんやりいろんなことを思っていた。
有楽町線はまぢかい。クラブに行って少しうまい酒を飲んで行こうかなと思ったが、やはり帰ることにした。
2004 11・12 38

* 明日は顔見世興行。「と」の、花道にいちばん近い通路際という最高の席が昼夜取れている。演(だ)し物もわれわれには有り難い。鴈治郎の前評判がことによく、松嶋屋三兄弟も揃っている。おっとりと楽しんできたい。
その翌日辺りから一二泊の小旅行もしたいが、東京でふわふわと遊んでいたくもある。二十五日の眼科検査、二十六日の「ペンの日」までカレンダーは白いまま。展覧会は、笠間まで出掛けなくても東京でいくつか見たいのが揃っている。泉屋博古館分館の佳い日本画展が二十八日で終わる。日展は的を絞らないと疲れるだけ。
眼はあいているが、「眼」以外の五体が溶けて流れて無いような錯覚にときどき落ちる。機械のキーも眼で叩いているようで、人にわたしの姿は見えていのではないかなんて想う。わが世たれそ常ならむ。われもひとも「まこと」なき世ぞ、情けなし。
2004 11・15 38

* 昼過ぎに、「ER」なみに気に入っていた「CSI」の再放映があり、いい休息になろうとしている。この時間帯には「ニキータ」とか「ハワイアン・アイ」など小味な外国物の連続ドラマがときどき来る。「CSI」は小味どころではない、科捜研ものでは日本のちゃちなものの足下にも寄れない佳いテンポの秀作で。
で、それからふらりと外出した。昨日の今日では笠間までは大儀、だが、いいお天気の空のしたには、秋の誘いがあった。日展。あの厖大な量の美術の暴力にはとても気が乗らない。美しいものなら他にもいくらもある。晩景へ流されることなく、さらりと夕刻には帰宅した。明日も出来れば歩いてみたい。
2004 11・17 38

* 好天に恵まれた。おまけに朝早くしつこい間違い電話に起こされてしまった。
幸便に、思い切って、念願の茨城県笠間の陶藝美術館へ出掛けていった。水戸まで行くことはなかったのだ、友部まで水戸線で戻ってきて笠間へ入るのだった、土地不案内だと思いよらないことが起きる。
笠間の季節料理の店で、相当に遅い昼飯を食べ地酒を飲んだ。

* 楽の代々展は、第一部に、光悦を別格、初代長次郎から楽別筋の宗慶を含め楽家歴代選り抜きの名碗が、ずらっと並んだ。のんかうこと道入はもとより、一入 (わたしも一碗所持)以下馴染みの名前がずうっと続く。さすがに当代楽吉左衛門が入魂の企画だけあって、その造型、その趣向、その味わいはみなみな見事、文句の付けようがなかった。
ああよかった、とうどう来たが、来られてよかったと、繰り返し繰り返ししみじみと見て見飽きなかった。

* 大きな公園の中に笠間の陶藝を集約した建物が、いろんな企画で存分に眼を楽しませてくれるし、登り窯も展示されてある。
その中でも陶藝美術館はすてきにモダンな佳い建物で、これを楽さんの展覧会は、巧みに三部に分けて活用していた。

* 第二部は当代の亡き父君覚入の展覧であった。この人は太平洋戦争への出征から敗戦復員したときには、指導してくれる先君も先輩もほぼ悉く亡くなっていたという、藝の人としては比類ない苦況から、もちまえの地力と勉強とで新出発した。苦闘と独学と工夫とで生涯を過ごしたエラモノであった。こういう父君を、当代の楽吉左衛門は実に心濃やかに顕彰して已まない孝心の人であり、気持ちが佳い。

* 第三部はむろん当代の作品群。天才的に素晴らしい造型で、歴代の流れを深く汲みながら、突出した現代的な才能を美しく力づよく結晶させている。この人をわたしが何の躊躇もなく率先して京都美術文化賞に推したのは、大きな金星であったことを、またあらためて強く納得した。この才能に確実に出逢ったこと、わたしの秘かな誇りなのである。
実に一つ一つの茶碗がダイナミックに面白い。しかも頓狂に逸脱してケレンの技で度肝を抜くといった騒がしい藝境では、決してない。リアリティは落ち着いて確かで揺るがない。作品が音楽を奏でるように一つ一つ個性的で、しかも偶然の所産ではなく、ぱちっと的を射抜く美しさとあたりを払う存在感とを湛えている。明らかに伝統を担った現代美の誕生にわれわれは立ち会える。

* もうこれだけのモノを見てしまえば、この小旅行のあとは附録に過ぎない。ゆうっくり、晴れ上がって静かに長閑な笠間の焼き物の里を目に収めてきた。

* 水戸という街をむろんわたしはよく知らない。偕楽園へは二度行っている。妻とも行っている。特急に乗れば本当に簡単に行けて簡単に上野へ帰れる。四度の瀧の袋田まで行って泊まるかどうか、よくよく思案したが、日帰りして明日をまた別に使うのが経済と考え、むしろあとは気楽な飲み食いで楽しんでゆこうと思い、その誘惑の一つにボジョレーヌーボーの試飲があった。中華料理の店で一本注文し、しっかり食べて呑んで楽しんだ。
そして帰ってきた。
今夜は、「ER」がある。それもわたしを家へと誘惑した。楽茶碗の魅力で十分足りたというのが大きかった。またいつでも水戸へは来れるなあと思った。四度の瀧の袋田の、「豊年満作」とかいった宿のきれいな温泉が眼には浮かんだけれど、今回は断念した。
とても楽しかった。気が付けば、ほとんどデジカメを使ってもいなかった。秋色は眼にあった。白い雲も青い空も、ほのかな紅葉の自然も、なによりも静かな笠間で、とてもけっこうであった。掌でふれてきた、秋の輪舞曲(ロンド)。
2004 11・20 38

* 久しぶりに加藤紘一が高村元外相と、いまの外務副大臣と三人で、田原総一朗の番組に出ていた。加藤の物静かに譲らないイラク派兵否認の言葉のみが耳に残った。
それにしても、笠間でみてきた楽茶碗たちの美と確かさ。ボジョレーヌーボーの秋を刺し抜く爽快。そして十九世紀の伯爵夫人の深い吐息。それを写す荷風の詩性。そしてそして小泉政治の腐臭や北朝鮮といいアメリカといい吐きけをもよおす覇欲の傲慢。片方だけを選べない現代の悲歎。

* 高島屋で「21世紀の目」展を観た。「湖の本」の読者も含め、中島千波や畠中光享、森田りえ子ら日本画では中堅にさしかかった七、八人。名前を知った、人も知ったグループ展で、力量は揃っているが、さて本気で胸を押してくるほどの表現には行っていない。よくやっている人もいるなという程度か。京都美術文化賞を得ているのは中野嘉之君が一人だけ。小品室の方の「百光・柄長」と題した月と鳥の絵はちょっと欲しかった。百六十万と。端数の方なら手が出ていたかも知れない。他には欲しいほどの作がなかった。

* 特別食堂で帝国ホテルのコースを注文すればボジョレーヌーボーも頼めるかと思ったが「当店」では置いていない。四千二百円のステーキ定食を頼んだら、なんと田境の弁当仕立てでがっかりした。まずくはないが気分は落ちる。佳いグラスワインも頼んだのに、艶消しであった。
それでも満腹、げほっと疲れが増し、竹橋まで地下鉄東西線がちょうど良いとアテにしていたのも諦め、銀座までよたよた歩いた。銀座へはいって間もなく「一穂堂」で藤平伸氏らの作を置いた陶藝の店が目に付き、エレベーターで三階まであがり、愛想のいい若い女の店員と話しながらこぢんまりした店内の沢山なやきものを暫し楽しんだ。なかに、医学書院の頃の部下であった橋本成敏君の茶碗もみつけて、懐かしかった。聖路加の大院長であった寛敏先生(日野原先生より前の名誉院長)の息子だか孫だかにあたる。働きの極端にわるい社員であったけれど、転進して才能を培ったということ。彼の作の大鉢を以前に買上げたこともある。
で、もう疲労は極限、有楽町線と西武線とを乗り継いで帰宅。タクシーがなく、ふらりふらり歩きながら、ずいぶん景色の変わった御幸道を、デジカメにおさめた。
2004 11・25 38

* 書も、画も、人も、ほんとうに美しい物は少しも軽薄でない。人をあつかましく挑発しないで、静かに優しく魅する。いつまでも魅する。ときに魅惑はセクシイなほどつよい。
2004 12・16 39

* やつれた素木の炉縁。見るから大ぶりな一面の霰大釜。釜の下で、あかあかと炭火が照っている。鳴る松籟。カレンダーも、やがてみな替わる。
六閑斉であったか、「閑事」二字の軸。暮れに似合う。冬の花は、山茶花など好き。ことしは驚くほど庭にも表にも家の花が咲く。冬は椿系の花が好きで、赤い色が、濃い緑葉に映えていると嬉しくなる。正月になれば圓能斉の「四海皆茶人」のおおらかな書風を愛でたいもの。
眼をとじてゆっくり闇に沈む。
2004 12・17 39

* さ、日付かわって、一時になる。また、しんきくさい土・日だ。
ゴッホ展が始まるのはいつからだろう。千葉まで「清水六兵衛歴代展」に各駅停車に揺られてごとごと出掛けるのもいいかなあ。階下で少し映画を見て、本を読んで、寝よう。来年、来年。
2004 12・17 39

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