ぜんぶ秦恒平文学の話

2002

* 初夢はいやなものではなかったが、ヘンなものであった。なんでも異色異質の二つの世間をうまく橋渡ししているような、ゴツい夢であった。
めざめて気持ちよく洗面などし、居間に田園交響楽を静かに響かせながら、妻と二人きりの雑煮を祝った。東京へ来て夫婦二人の元旦は、初めてではないか。朝日子の生まれるまでは京都へ帰っていたし、生まれてからも京都での正月が多かった。子供が二人揃ってからは帰らない年もあったけれど、こどもたちが欠かさず一緒だった。朝日子が嫁ぎ、そして婚家との往来が不幸に絶えてからも、元日は建日子が一緒だった。
とうどう、夫婦二人になった。静かで和やかに、わるくはないし、初詣も快晴で暖かく、佳い元日である。雑煮を祝っている最中に、はや配達便が、日比幸一氏からの立派な蘭の鉢を贈り届けてくれた。なんと「プリンセス雅子」と名がついている。めでたいし、なぜかひときわ美しい豊かにしゃんとした蘭花であった。迪子はすぐ電話でお礼と年賀の挨拶を入れていた。年賀状も三百枚ほどがもう届いていた。
夕食にはと言っていた建日子から、元日からもう仕事の打ち合わせなど長引いて、食事には間に合わないと。元日から働いている人は、テレビを観ているだけでも、それは大勢いるものだと分かる。テレビ画面に顔を出さない背後で働く人はもっと多い道理で、建日子も今やそういう背後の歯車として動いている一人ということか。

* 天神社への初詣、例年よりうらうらと晴れ、賑わっていた。参拝の列がながくのび、焚き火が白い綿雪のような灰をふきあげ、甘酒が振舞われた。絵に描いたような小さな村社だが、それが佳い。三十余年大事に思ってきた。
2002 1・1 12

* 夕食に、楽しみにしていたシチリア産96年のワインをあけた。断然旨かった。「うまいワインの味をまた一つ覚えたよ」とご機嫌。
じつはすこし体調に違和を感じていたときで、せっかくのお酒をまずく飲んでしまうことになるかと気にしたが、体調まですっきり回復したほどの美味であった。鯛の方は、息子達の遅参で、とんだ「睨み鯛」のままおいておかれ、残念。年を取ると息子達までが「お客様」になってしまうのか。やれやれ。

* 息子達は十時半頃やってきた。仕事をしていたので、簡単に挨拶だけかわして、食べ物と酒の用意をしてやり、また二階に戻った。彼等のテレビが一度ついてしまうと、決定的に趣味が違い、新年早々から、体育系の力比べのような見たくもないものに延々と付き合うのは、気鬱でもあった。日頃逢わない息子とゆっくり諸々話し合うのは望みだが、彼等がわがことのように喜んで見るタレントたちの芸能番組も、彼等には幾らか仕事なのだろうが、たいがい私には何の興味もない。退屈するより、退散する方が賢いのである。ところがわたしが席をはずすと妻が気にして追いかけてくる。「おいおい、お客様かい」と、わらってしまう。

* この大晦日から新年へかけては、例年必ずすることを幾つか、し忘れて、しなかった。締めくくりに属することや、事始めに属すること、今までならとても大事に意識してしていたことを、時間にも追われ、けろりと忘れた。これが「ろくろく体験」であるなら、出来合の約束事をただ置き忘れてゆくだけのこと、むしろ良いこと、である。「元気に老いる」とは、むりやりに努めたり張り切ることではないのだから。できるだけ、好きに好きなことをするので、よい。互いに他を労るのは大切だが、顧みて他を気にかけない、ドンマイ、も、老人には必要な良いこととして数えたい。忘れた言訳ではない。
2002 1・1 12

* おそい夕食の後、建日子たちはまた仕事先から呼び出され、早々に都内へ戻っていった。あっけなく、また家がしんと冴え返り、妻は「蒼氓」の初校などに、わたしは気になるあれこれを手当たり次第に、少しずつ少しずつ前に進めて、階下と二階、夫婦で機械に向かっている。かなり疲れる。今夜は、またワインをのみはやく休もう。
2002 1・2 12

* かくて三が日はすこし風情寂しいほどの静かさで過ぎてゆく。このようにして老夫婦二人の暮らしは少しずつ事そいで簡略に均されて行く。「碌々と積んだ齢を均(な)し崩し」て行くのである。「もとの平らに帰」ってゆくのである。おそろしく寂しいようで、それが、ふかぶかと楽しまれるのもウソではない。ほんとうの「もとの平らに」まで成れるだろうかという、寂しみはそこに在る。焦りとも惑いともいえる。
2002 1・3 12

* 建日子が三十四歳になった。昨夜遅くにメールで、祝う気持を届けて置いた。怪我無く元気に心ゆく仕事をして欲しい。次の仕事は自信ありげだ、楽しみにしよう。
2002 1・8 12

* 身装具の松屋セールで、いろんなものを並べているところを通りすぎ、ふと、珊瑚珠の華奢なネックレスに目がとまり、安くはないが買えない値段でもなく、あわや買いかけて、しかし、少し他のものより値は安いので、何故かと店員に聞いてみた。思った通り、珠が小さいからだと謂う。小さいから上品に華奢な感じなのだと分かっていたが、ま、新年から「小さい」と謂われているものに手は出すまいと、見過ごしてきた。
2002 1・14 12

* 妻に聴いたが、「足の裏」という「からだ言葉」も有るらしい。「からだ言葉」とは、頭痛鉢巻、舌打ち、頭越し、肘鉄、腹芸、尻を割る、足が早いなどを例に挙げれば説明要らない。わたしの命名で、かつて辞典まで作って、「からだ言葉」「こころ言葉」はわたしの一つの登録商標のようなモノだが、「からだ」の部位の中で「掌を返す」はあっても「足の裏」にだけは「からだ言葉」が出来ていない、他は全身至るところに在ると言ってきた。
ところが在ったらしい。節分などに神社が賽銭をどっさり集めることはニュースにも成るほどだが、あの総額を生真面目に税務申告はしない、幾分かは役員関係者で隠然公然と「分け取る」のだそうで、その金、また行為を「足の裏」というらしい。お金が落ちていると、直ぐ拾って懐に入れず、いったん「足の裏」に踏んで様子を見てからにする、それなんだと。
妻の説ではない、見ていたテレビドラマの中で耳学問したと言うから、責任は持てないが、有りそうな話だし、ぴたり「足の裏」が「からだ言葉」に成りきっていて、わたしは、うーんと唸って教わったのである。
2002 2・3 12

* 放心というのでもないが、活溌にアタマが働いている風でない。することがなくてと言うより、ありすぎて、手が、思いが、宙に遊んでしまう。インタネットであちこちサーフィンしているうちに、甥の黒川創が、例の「もどろぎ」で、芥川賞に続き三島由紀夫賞にもノミネートされ、また賞を逸していたことを知り、若い選者達の選評をのぞくはめになった。肯定的な少数の評も、ものすごい悪評も、それらなりにわたしには分かるところがあった。褒めているところも貶しているところも、わたしの思いと同じであった。大きな賞を続けざまに逸するのは、わたしにも覚えがあるが、永く気にかけることはない。根気よく次ぎに又良い仕事を見せてほしい。
畑はちがうけれど、黒川にせよ従弟の秦建日子にせよ、それぞれの仕事をよくやっている。気がかりは健康だけ。大事にして息長くマラソンして欲しい。わたしが稼いでいた時代よりよほど今は環境が厳しいと思うが、それだけに体はやはり資本だ。
2002 2・6 12

* 妻からと、遠く西の方からと、チョコレートが。バレンタイン・メールも幾つか。
2002 2・14 12

* 西東京市というと、わたしの今の住いのある市であるが、たぶんひばりヶ丘団地でらしいニュースに、ショックを受けた。高齢の夫が食卓によりかかったまま死んでいて、一カ月は経過し、七十過ぎた妻はそれと気付かずに食事の世話なども続けていたという。妻の方は老年性痴呆に陥っているというのだ、長女たちは、父は元気だと思いこんでいて訪れていず、母が痴呆などで有るわけがないと言う父の言葉をそのまま信用して何の配慮もしていなかったとか。
これが、やがての我々夫婦の運命かも知れぬと思うと、やはり憂鬱である。
と共に、このような事態はこの老夫妻にとってはとても不幸な最期であったのか、この一月二月の夫婦二人での日々は存外に心優しくも温かい、一種の幸せ状態にあったと謂えるのか、一瞬、わたしは、夢をみてしまった。
こういう親の「死なせ」方をして仕舞った子ども達は、自然に、「死なれ」たという受け身だけで、これを見過ごすのだろうか。京都に三人の父と母と叔母を置いていた時期のわたしの不安と心労とがまざまざと記憶に蘇る。
「ぎりぎりになるまで、これでえやないか」とよく親たちは、わたしのもとへ引き取られるなど、考えるのももの憂がった。自発的にはどうしようもなかったのだ、私は、あの永い期間の心労の果てに、渾身の力で老人三人がまだなんとか元気らしく意志も意識も運動力もある間に、ひっくるめて東京へ引き取った。垣根一重の隣家を買い取って、両親を迎え、叔母は私たちの二階に迎えた。よく出来たものだ。
京都の家は取り払われた空き地の中に孤立して地上げ屋のやくざな揺さぶりに喘いでいたが、東京から何度も駆けつけて、凄んでくる連中を、逆に「書くぞ」と脅し返しながら、交渉に交渉を重ねて、足元を見られていた価格の倍以上に粘り抜いて、無事に売り渡した。バブルの最高潮期だった。当然、隣家も高くついたが、垣根一重の隣というのはウソのような幸運でもあった。
父も母も叔母も九十過ぎて亡くなった。私は大学教授の仕事も加わり、たいへんだった。妻は心臓を病んだまま独り老人達の介護や斡旋に健闘してくれた。息子は浮き身をやつして浮かれた只の少年に過ぎず、娘夫婦ときたらそういう初老の親たちに、生活費の補助や住居の面倒を当然のこととして迫ってくるありさまだった。わたしが、そんなに売れる物書きだとでも思うのかと、苦笑するしかなかった。
申し訳なく、最期の最後には、私たちは、父も叔母も母も、順繰りに養護施設に送り入れねばならなかった、妻を共倒れにはさせられなかった。妻は、それでも、こまめに遠い遠い施設にまで欠かさず見舞いによく通ってくれた。

* 死んでいる夫を死んでいると認めず、一カ月も毎日食事の世話をしていた痴呆の老妻は、何を思っていたろう。死ぬ間際まで妻の痴呆と付き合っていたもっと高齢だった夫は、どういう思いのうちにこときれ、その後一月をどんな思いで妻が用意の食事を受け入れていたろうか、幽明境を異にしたまま。

*限りなく親たちは重かったが、限りなく多くを享けて育ててもらった。放っておこうなどと思ったことは一度もないし、その健康に気を配らなかったことはない、決して。愛で、そうしたかと問われれば、仕方なく首は横に振るだろう、わたしは愛というものを知らないのだ。だが、上の例のように、両親がどんな状態にあるかに気のつかないままの子ではなかった。

* 母がぼけているので、母だけを東京へやるからと父は言ってきた。ぼけているとは私は観ていなかったが、父の言いつけに従った。母と暮らしていると、ぼけているとも謂えるけれど、むしろ夢うつつでいると思われた。そして失禁した。
わたしは確信を持って、母の睡眠薬をすべて取り上げ、棄てた。母は、二三日して、ふっと正気に戻った。わたしは、何でここにいるのかねと、不思議でならぬようにわたしたちを見た。大量に町医師の与え続けていた睡眠薬の作用で、母はいつも寝ているのと同然だったのだ、食事もしたし話もしていたけれど。
母は元気になり、東京へ追いやった父に怒りながら京都へ帰っていった。母は、その後は睡眠薬を使わなかった。最期までボケはせずに、いちばん弱いと思っていたこの母は、父よりも、父の妹で喧嘩相手の叔母よりも一段長生きして九十六まで生きたのだ。この育ての母を愛していたとはよう言わないが、深切にいつも目を向けるようにしていた。

* テレビのニュースを聴いたとたん、怒り心頭に発していた自分を、わたしは切ないと思った。誰に対して怒ったのだろう。
2002 2・14 12

* 建日子が、ふらりと帰って来た。二時間ほどよく話して、隣へ寝に行った。
2002 2・23 12

* この頃、ときどき息子のホームページを覗いてみる。仕事の方のことは見ない、やはり日録のような感想を毎日ではないが書いていて、少し照れくさいけれど覗き読んでいたりする。ひところはバカくさくてかなわなかったが、少し口調と行文に落ち着きの見える日もある。苦労も多そうで、少なければ不思議なくらいだが、ねばり強く、依存心にも走らずに頑張ってもらいたい。
わたしの今の希望というか夢のようなものは、娘朝日子と心おきなく二人だけのメール交信が出来ること、もっと飛躍的に希望をもっていいのなら、そろそろ高校へ上がろうかという上の孫娘の「やす香」から、突如メールの届くことであるが、さめやすき夢でしか、今は、ない。
2002 2・24 12

* 妻が今年の税申告をしてきてくれた。ありがたい。
2002 3/7 12

* 「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて」是非行って来られるといいと思います。
ごぶさたしております。(いつも乍らほぼ毎日ホームページを拝見していると、ぜんぜんそうは思えませんが)人生劇場いろいろありまして、いろいろに時は過ぎて行きます。やっぱり行くのがいいと思います。腰、お大事に。

* メールの日付を読むと、もう十日。目は、ぼうっと瞼から重い。睡魔ではない、花粉の影響だが、睡魔に等しい。目を閉じているのがいちばんラクだが、そうもしていられない。「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて。」いま、わたしの頭の中はほぼこのルートに覆われている。憑かれている。懐かしいが、怖くもある。京都の東山区は故郷であるが、寄留地でもあった。それなら同じ意味と比重とで「丹波」もわたしの故郷である。しかもこの丹波からわたしは自分の文学世界を立たせた。処女作は丹波に生まれ、受賞作も丹波に生まれ、その中間にもうひとつの「丹波」作品があった。それが、いま、わたしを蜘蛛の巣のように捕縛している。
2002 3・10 12

* 昼過ぎて、銀座一丁目の「シェモア」で静かな昼食。新宿区役所に結婚届を出して、四十三年が過ぎた。フランス料理にワイン。旨いし満腹も満足もしたが、濃厚、やや圧倒された。「よしのや」二階で見つけたハンドバッグがとても妻の気に入り、手持ちのを箱に入れてもらって、すぐ新しいそれを持ち、出光美術館まで歩いた。

* 長谷川等伯の国宝「松林図屏風」が出ているのを知っていた。等伯は他に「竹鶴図屏風」など四点、「松林図」といい「竹鶴図」といい、この画家はいわゆる絵描きの目ではない眼で、余人の見知り得ない世界を透視していたとしか謂いようがない。京都智積院の「桜楓図」もすばらしいが、あれは金碧障壁画。これは濃淡ただならぬ神韻縹渺の水墨画。甲乙はつけがたく、等伯が、美術史上の日本画の真の天才であり、変な云い方をするが、たぶん第一人者の一人であることだけを、今日、しみじみと納得してきた。松林図のまえを立ち去りかねた。竹鶴図にも心服した。
もとより尾形光琳の「紅白梅図」や「燕子花図」がある。俵屋宗達「風神雷神図」や「松図」「波濤図」がある。円山応挙の「雪松図」や「藤図」もある。如拙にも雪舟にも永徳にも山楽にも、また溯れば絵巻にも肖像にも仏画にも、すばらしい「第一人者ふう」の画跡はいくらもあるから、等伯一人に「第一人者」を独り占めさせてはおけないのだが、それでも等伯という画家には尊敬の思いを心から持つ、いつも。
参考に出ていたなかの、牧谿「平沙落雁図」にも感嘆を新たにした。吸い込まれるような魅力と敬意を覚え、繰り返し絵の前に立ち戻った。
焼き物では古唐津と箱の蓋に記したたっぷりと大柄な高麗茶碗にリクツ抜きに惹かれ、また銘「奈良」の井戸茶碗にもぐっと惹き寄せられた。いろいろあったけれど、焼き物では茶碗二枚に引きこまれた。もう一点、扇面法華経の下絵に濃厚な彩色男女の物語絵の描かれたのが、十二世紀末であろう、優れて美しいものであった。絵巻を描いていたのがなにかの事情で中断した。それへ写経供養したものであろうか、死なれた者の死んでいった者への思いがしみじみと美しく表現されていた。
もう十日ほど会期がある、この展覧会は、誰にも勧めたい。

* 昼食と買い物と美術展。それに花粉。よほどつかれたものか、美術館の、皇居の見渡せるソファで、ついうたた寝してしまった。もう十分と、地下へおりて有楽町線で保谷へ帰った。警告されていた雨には、あわずに済んだ。
2002 3・14 12

* 甲斐扶佐義氏の送ってきた分厚い「ほんやら洞通信」をあらまし通読した。いろんな人の思い思いのスタイルの原稿を雑多にならべ、ところどころを細字の「カイ日乗」で仕切ってある。
心惹かれたのは、三人ほどの女性のアラッポイ小説だった。女の人だからこう書くのか書けるのかなあと思うほど書き方が手荒くてなかみも凄まじい、が、なにかしらを言い切ろうとはしていて、独特な統一感を保っている。褒める気もないが、どれも読んだのである、短くもない物を。
「ほんやら洞」のような時空間を堪らなく愛している人の少なからぬ事は理解できる、わたし自身は距離を置くけれども。ここは亡兄北澤恒彦がながく深く関わり感化してきた場所である。甲斐氏はかなりの強度で恒彦兄に近接しつつ、存在感を確かにしてきた。日常という名の視線と思想に根付いた、甲斐氏は、極めてユニークな写真家でありパフォーマンスの人である、らしい。
むろん甥北澤恒=黒川創も、幼時から、ここに育ったとすら謂えるらしいが、このところはあまり連絡がないと甲斐氏は苦笑していた。

* わたしも黒川と久しく接していないが、送られてくる「同志社時報」に、彼が、恩師で考古学者の森浩一氏について書いているのを、懐かしく読んだ。巧みに書いてある、すこし巧みすぎているのかなあと、むしろ作文の藝を感じ取りながら、今ひとつ底まで実感はつかみにくかった。「如才なく書きすぎるなよ」と少しだけ呟きながら、健筆は看取し、甥のためにひとり盃をあげた。黒川は、彼のうちなる「ほんやら洞」的なものと幾らかいま葛藤しているかも知れない、わたしの憶測ではあるが。
2002 3・23 12

* 午後、妻に誘われて、近隣を散策しながら桜の満開をあちこちで、惚れ惚れと、はればれと、楽しんだ。
下保谷図書館のわきに、すこし、佳い並木がある。わきに小広い空間があり、花びらも散り敷いてしかも枝たわわに桜花美しくて、大いに満足した。図書館までにも、あちこちと大きな桜樹、小ぶりの桜木が目に立ち、天気は花曇りで歩くに良く、のーんびりした。珍しく二人ともウォーキングのシューズを履いていた。
途中、なじみの寿司屋に寄った。わたしは、鰹、すみいか、しめさば、鯛など切らせ、冷酒。妻は、いつもの、佳いところを一人前。いや、とても美味しいのでと、とろを最後に、亦注文していた。
変電所の方へ歩いてみた。芝生の向こうの旧家に、天を摩す桜の巨樹四株が、さながら一山となり噴き上げるように真っ白に花咲かせていた。見事な満開ぶりで。竹林がそばにあったりして、目の覚める色好さに声をのんでしまう。大回りして、大回りして、そして帰宅。こういう花見も気楽で佳い。保谷は、なーんにもない田舎であるからかえって武蔵野らしい鄙びた野道も遺っている。空の広い場所も遺っている。
2002 3・24 12

* こんな予告が息子のホームページに出ていた。
なにも助けてはやれないので、宣伝に力を藉しておく。この演目は何度か繰り返しているだけに、かなり練り上がっている筈。そして作者の力のよく入った相当な「問題作」であることは身贔屓なく言える。書き換えもあるらしく、安心してお勧めできる。
不安定な水ものの業界で、幕が開くまで関係者は緊張の連続であろうが、無事に開幕し無事に千秋楽と願いたい。
以下は、所属事務所でつくった惹句であろう。八千草薫主演テレビドラマのおまけもついている。はじめて音楽映画「蝶々夫人」で八千草をみて惚れ惚れした大昔が懐かしまれる。このテレビドラマのことは、わたしは何も知らない。
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* 秦建日子プロデュース公演 vol.9「タクラマカン」日程&キャスト 決定!
出演 大谷みつほ 遠野 凪子 他

タクラマカン――月明かりすらない嵐の夜、ぼくらは「あの国」目指して船を出す――
ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティと八面六臂の大活躍を見せている大谷みつほを主演に迎えて贈る、秦建日子1年半ぶり、作・演出公演。

物語は、とある架空の国を舞台にしたファンタジー。
世の中の矛盾や欺瞞と戦い、海の向こうのユートピアを目指す若者たちの青春群像劇。笑いあり、涙あり、アクションありの、王道エンターテイメント。
共演に、NHKの朝の連続テレビ小説「すずらん」のヒロインを演じて一世を風靡した遠野凪子。秦建日子舞台作品で数多く主演をつとめてきた築山万有美。井元工治。倉本聰の新作舞台「屋根」の主演で注目された、納谷真大など。

スタッフ&キャストのスケジュールの都合上、公演はたったの五日間。しかも東京公演のみ。 どうぞお見逃しなく!

< 公演名 : タクラマカン >

出演  大谷みつほ 築山万有美 井元工治 松下修 納谷真大 白国秀樹 中島一浩 せきよしあき ★遠野 凪子他

作演出プロデュース : 秦 建日子(はたたけひこ)
演出助手 : 加藤綾子  舞台監督 : 中田敦夫  照明 : 新井富子(あかり組) 音響 : 吉田誠 (NATURAL)
殺 陣 : ジャパン・アクション・エンターテイメント

劇 場 : 新宿アイランドホール (新宿駅西口)
日 程 : 2002年6月19日(水)- 23(日)
開 演 : 平日19時。土曜日14時/19時。日曜日13時/18時。全7ステージ。 開場はすべて開演の30分前。
料 金 : 全席指定・前売4000円/当日4500円。
発売日 : 5/19(日)
プレイガイド :チケットぴあ 03-5237-9988  CNプレイガイド 03-5802-9999  ローソンチケット 03-553
7-9999  03-5537-9955  イープラス 03-5749-9911
お問合せ : エム・エー・フィールド 03-3556-1780
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* 秦建日子脚本作品 フジテレビ 金曜エンターテイメント 「城下町サスペンス 姫さま事件帖2」 4/17 夜9時よ
りオンエア! 出演 八千草薫
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* 6月の舞台、キャスト決まりました。
大谷みつほ&遠野凪子とは、いずれも初仕事。(遠野凪子は「編集王」のゲストに出てくれたけれど、残念ながらぼくの脚本の回ではなかった) そして、ふたりとも、小劇場系の舞台も初。
誰だって、初めて新しいジャンルにチャレンジするのは不安じゃないですか。その初仕事にぼくの舞台を選んでもらえて、正直とても嬉しいです。演出家冥利につきますね。
とにかく「圧勝」の舞台を目指して頑張ります。稽古場の様子など、この「ホームページ」で紹介していくつもりです。

* 舞台はうまくすると「圧勝」の可能性がある。二人の女優はよく知らない。
2002 3・25 12

* ひょっとすると今夜にも建日子が来るという。これも嬉しい。朝日子もいっしょなら、どんなに佳いだろう。
2002 3・27 12

* 夕食後、建日子と三人で、いや黒い少年ネコもいっしょに、わたしの大好きなキム・ノヴァク、ジェームス・スチュアートの「媚薬」を観た。一種の喜劇であろうが、リクツは抜きに、キムの美しさ、ジェームスの温かみに、気分が良くなる。せめて、やす香やみゆ希ら、大きくなっているだろう孫娘達ともこのように過ごせる時間が、いつか持てればいいのだが、老耄しないうちに。
2002 3・28 12

夜、息子がすこしだけ「関わった」けれど、だから「脚本」として名前も出るけれど、実際は「ほとんど触っていない」というテレビドラマをみかけた、が、すぐ映画「ダイハード」3に、切り替えた。「お気楽主婦」三人のドタバタぶりは、視聴者もそうだが、女性そのものをバカにしていないかと懼れるほど、例の浅野ゆう子らの薄さ、軽さ。「ダイハード」もこのバージョンは、1や2にくらべるとあまり気乗りしないものと分かっていたので、途中で退散して、それより久間氏の小説を読み継いだ。
2002 3・29 12

* 一日中を費やして、およそ九割八九分まで発送用意が出来た。もう刷り上がって「一部抜き」も届いている。今日は温かい一日だった。明日はまた冷えて雨とか。
先日の保谷野散策時の桜の写真が出来てきた。佳いのが何枚も撮れていて、アルバムに貼られたのを三枚続きで見ると、満開の大樹が白雲の青空へ湧き上がるように花を噴いていた。
2002 3・30 12

* 妻も、わたしの歳に追いついた。中村松江の魁春襲名披露を観に行く。松江との出会いは早い、かなり早い。
2002 4・5 13

* 妻の六十六歳に、中村松江改め二世中村魁春の襲名歌舞伎を観にでかけた。「ち」の真ん中に。

* 先ず「鴛鴦襖恋睦 おしのふすまこひのむつごと」は、例の曾我もの。曾我兄弟の実父河津三郎祐泰(梅玉=魁春の兄、故歌右衛門の長男)と敵役俣野五郎景久(橋之助)が、遊女黄瀬川(福助)を争って、相撲を取る。河津は今にも相撲の手に「河津がけ」があるように、相撲が強かったそうだ。河津は勝ち、俣野は、うわべは綺麗に黄瀬川を譲りながら、計略をもって河津を討とうとし、その手だてと犠牲に、一対の鴛鴦の雄が殺される。雌はあとを追って死ぬ。その鴛鴦の魂魄が、河津と黄瀬川とに化けてあらわれ、俣野を討つ。実の河津・黄瀬川も死んでいるというツクリで、相撲と仇討ちという「曾我」ならびの趣向を凝らした歌舞伎舞踊劇である。
福助がしっかりし、梅玉にも余裕があった。この二人には、ながく或る物足りなさを感じ続けてきたが、この一年のうちに見違えるほど気迫と余裕がにじみ出て、見応えが出来てきた。こうなれば、この二人は、仁左衛門と玉三郎とにならぶ佳い成駒屋コンビを組むだろう。福助はやがては歌右衛門を襲名するだろう。祝言ものの序幕として、幕の引ける間際まで、けっこうであった。

* 次の真山歌舞伎「元禄忠臣蔵」南部坂雪の別れは、吉右衛門の大石内蔵助と鴈治郎の瑤泉院のしんみりと抑えた応酬応対がみどころで、さすがに名優の佳い出会い。これに我当が羽倉斎宮、蘆燕が落合与右衛門、東蔵が腰元おうめで付き合い、友右衛門もひさしぶりに女形ぶりを見せた。真山歌舞伎のある種の臭科白が気にならぬではないが、新解釈で売る才気が娘の真山美保演出にも見えて、これもまた近代の歌舞伎。花の春に雪の南部坂は少しお寒いが、これも趣向か。何と云っても吉と鴈の二人に、平仄のあった調和があり、役者を観るという悦びを感じた。我当は少し神経質に浮き上がっていたか。

* 幕間に「吉兆」で妻の誕生日を祝った。めでたい鯛づくし懐石で、冷酒もとびきり旨く、三十分で食べてしまうのが勿体ないほど。引き出物には、妻の贔屓「勘九郎」富樫のテレフォンカードを売店で買って置いた。

* 三番目が魁春披露目の「忍夜恋曲者=しのびよるこひはくせもの」将門の一幕。云うまでもない三姫の一役将門娘の瀧夜叉姫。対する大宅太郎光圀は市川団十郎。密度の濃い所作事で、姫は妖術で大蝦蟇を遣う。怨みを含んで天下の転覆を狙い、光圀は気付いて姫を討つ。大がかりな荒屋での大立ち回り。新魁春はすこし緊張気味ではあったが、凄みよりも、ある種の濃厚な歌舞伎味をみせ、まず成功した舞台と云っておく。団十郎はゆったりと冴えて若く映え、佳い役者ぶりだった。この芝居は、だれが演じても何度観ても楽しめる。残念ながら、常磐津の芯になった大夫が、どうしたことかひどい歌い方で、興を殺いだのは、イカン。

* 最後は極めつけ玉三郎の「阿古屋」で、梅玉が畠山重忠、これは仁でも団でも観ているが、阿古屋の藝は当節玉三郎しか出来ない。琴を弾じ、三味線を弾き、胡弓を擦る。その至芸を迫るのが、夫景清の行方を白状せよとの重忠流の「拷問」で、つまり嘘発見器として音曲を利用するという趣向。この舞台に悪道化役の赤面岩永を、勘九郎が人形ぶりで演じ大受けに受けていた。人気者の勘九郎らしい演出で、あれは素の役でやると、損。玉三郎の綺麗なことは、やはり女形の花であり、これを魁春の前に出していると、ちと、まずい。四番目にじっくり演じさせて昼の打ち出しとは、たいへんけっこうであった。

* この興行は亡くなった六代目歌右衛門の追善興行でもあり、梅玉、魁春という「歌」の子息たちを盛り上げて、叔父芝翫、従兄福助、橋之助、従妹婿に当たる勘九郎やその子息たちが応援していた。二階ロビーには歌右衛門ゆかりのいろいろが陳列された中に、襲名時に谷崎潤一郎が請われて原稿を書いた、それに添えた墨色豊かな佳い書状が出ていて、二度も読みに行った。

* 四時過ぎにはねて、日比谷線で茅場町に行き、妻に、日本ペンクラブの新しい本拠の建物を見せた。先日はひどい雨の日であったが、今日は好天、建物の中へはまだ引っ越ししていないので入れないが、外回りをくるりとまわって、正一位鳥居稲荷社にも柏手を打ってきた。建物のまわりがまわれる地形で、土地面積はけっして大きくない。個人の家の規模であり、たしかに雫型の妙な形をしていて、外装のタイルは、黒。
坂本小学校をみてから、桜の公園を通り抜け、地下鉄日比谷線茅場町の駅近く、下町らしいいわば居酒屋に入って、大ホッケを焼いて貰い、二合徳利。妻は手巻きの鮨を二本。いい感じの休息が出来て、そこから地下鉄で秋葉原まで行き、JR総武線で、妻は市谷から有楽町線に乗り換えて帰り、わたしはそのまま千駄ヶ谷まで行き、国立能楽堂の友枝昭世の会へ。
2002 4・5 13

* 夜中に建日子が西の棟へ帰っていた。昼頃に起きてきて、しばらく親子三人で話し合った。なかなか世代も違い価値観も違いして、保谷での親たちとの対話は辛いところも多かろう、重かろうと少し可哀想にも感じる。父親が少なからず頑迷に出来上がっているから。
妻の兄は、建日子らの業界では、相当な稼ぎ手であった。ごく若い頃は谷川俊太郎らと仲間で、村野四郎に作品を選ばれたこともあったり、詩人風であった。だが、次第に詩を離れてラジオや、草創期テレビの世界で、徐々にバラエティーや催しの構成作者と成って行き、ドラマの主題歌歌詞なども書いた。最近谷川俊太郎が『風穴をあける』という自著の一節にこの義兄保富庚午をとりあげ、出会いと早い別れとを書いていた。谷川の想い出は義兄に関する限りいろいろに読めるが、ともあれ顔が合うと、テレビ世間の仕事は「ヘンに忙しくてね」と照れる義兄が書かれている。複雑な含羞とでも言おうか。詩は陰に隠れ、歌詞やナレーションづくりへ奔走していた保富を、むろん私は見知っていた。まだわたしが、医学書院に勤めはじめて間もない頃から、財布というものも持たなかったほど貧しかった頃から、だ。
建日子は、この伯父を、名前と噂以外は知らない。だが伯父のしていた「構成」という仕事などのことは、どんなものか我々より遙かによく知っている、当然のように。「稼ぎにはなる」そうだ。
どんな世間で生きるのも、それぞれに難しい。自分の胸の中で自分に向かってもう一人の自分がいろいろ問いかけたり話しかけてきたりする、その声に耳を傾けて、本当にいい声(都合の良い声ではない。)はよく聴き、わるい声は聞き流す。それより仕方がない。外からの声は、たとえ父親の声でも「参考」以上のものではないのだ。
忙しい息子は二時間ほどでまた戦場に帰って行った。
2002 4・10 13

* 庭といえるほどの庭ではないが、横長に二軒続きの細長いところに、もさもさと木や草が生えていて、いちばん大きくなっているのが、西(イリ)の、桃の木。食べた種を放り込んで置いたのが芽を吹いて、どんどん、という程ではないが小屋根より随分上へ行っている。お隣へも枝をはるのが気兼ねである。けっこう、という程でもないが、花をつける。先に育っていた木蓮より大きくなっている。
わたしたちは東の棟に暮らしているが、こっちの細長い庭には細長い書庫が建っていて、庭はその屋上。昔帝国ホテルの総支配人をしていた読者から、よく歳暮にもらっていた盆栽の梅なども、面倒が見続けられないので、日当たりのする此処の土へおろしてしまい、大きくはならないが根付いて、季節には満開の花を咲かせる。
今は色とりどりのチューリツプなどがいっぱい咲いて、雪柳も。金雀児はあまりはびこったので抜いた。狭い幅の細長い屋上庭園で、足元をふさいで危なくもあるので。とにもかくにも半端な庭だが、季節ごとに、ちょっとカメラを持ちたくなることもある。だが、わたしは、たいていそれも忘却している。
2002 4・13 13

* 風が吹き荒れている。あわや「みらくる会」を失念しそうだった。前に一度失念し、高額の会費だけを罰金に支払ったことがある。今晩は神楽坂に。神楽坂の上の方の矢来、新潮社や矢来能楽堂のある辺に花袋作「蒲団」の主人公は暮らしていて、神楽坂辺を歩きながらの妄想が笑わせる。男なら考えそうなあんまり当たり前のような妄念をストレートに書き付けるから、ムズ痒いのである。
神楽坂は、東京へ出てきていちばん早く新婚の気分で覚えた江戸らしい場所だった。河田町に暮らし、妻が僅かな期間勤めに出たのが、神楽坂からも近い、全音楽符出版だった。わたしの勤務先で新入生だけで初めて会合したとき、法政卒の山本誠君が連れて行ってくれたのも、もう矢来の、赤城神社前あたりの「正一合」だった。妻も一緒に誘われた。 2002 4・15 13

* ひどい風が吹いていたが、六義園に行ってみたくなり、タクシーに乗る必要など無いのに、地下鉄駅口の前でタクシーを拾ったら、目の前をすぐ左前方へ折れたら直ぐの所を真っ直ぐ走り抜けてその先で、あるまいことか左へ折れて東洋大、白山経由、本郷通から吉祥寺前を通って行くという悪徳タクシーに乗ってしまった。やれやれ。
しかし六義園はよかった。本郷に勤めていた頃から何回か行っているが、今日が最良。緑が季節がらか柔和に繊細で、気分が落ち着いた。ただ強い風が木々をしきりに鳴らし、烏が夥しく飛び交い鳴き交わし、ヒッチコックの「鳥」なみにスリリングであった。烏は、だが、何のイタズラもしなかった。散策小一時間。なんだか庭園の全容、最近にもすっかり手入れが行き届いたかと思う綺麗な整いようで、以前はいつ来てももさもさしていたものだ。「藤代峠」と名付けた高台の頂上にベンチがあり、並んで腰掛けて、池の面や中之島を見下ろしている心地は爽涼としたもの、ときどき上体を突き倒されそうに強い風がむかって来たりして、それも心地よかった。森の向こうに街の建物の見えるのが、残念なような安心なような。
赤穂浪士の大河ドラマで、柳沢吉保別邸として再々登場の六義園だ。東京では屈指の、一といって二のすぐに思いつかないほど佳い庭園なんだと、今日、再認識できた。

* 駒込駅へ歩いていって、妻がさすがに草臥れたので、目の前のなんだか鄙びた「上海料理」店に入った。トリを半羽焼いて貰った。焼き餃子も春巻きも観たことのない形と味わい。マオタイもコップに大サービス。老酒もコップで出た。中国野菜がとてもうまく、ピータンも独特の濃厚な味で、生姜との相性がなかなか乙であった。最高の料理が「蝦球=シャーキュー」で、好物なのである。そして炒飯。卵と野菜と飯とが等量かと思うほどの、しかも大盛りの中に、蟹が姿のママ揚げてはいっていて、そのまま食べられた。中国人の店のように思われた。なんともはやクラシックに鄙びた、中国の公園などで店を出している小屋がけのようであった。椅子もテーブルも粗末至極だが味はよかった。こういう店に飛び込むととても楽しい。二人で一万円とはしなかった。

* 池袋に戻り、メトロポ(リタンホテル)へ立ち寄り、先日三省堂と打ち合わせたあと、アーケードで見つけて置いた、妻の服を買った。この店のデザインには気をひかれるものが時々有る。上機嫌の妻に、仙太郎の最中一つを買わせて、食べ食べ西武線で保谷へ。「ぺると」へ寄って、モカ。先夜の御礼をしてきた。

* 階下へ息子が来ているらしい。
2002 4・17 13

* 妻が聖路加定期受診の留守番で、終日、いろんな仕事を前に進めた。うしろのソファで黒いマゴが安心して眠っていて、ふと目をさますと二階から書庫の上の庭へ降りてゆく、やがてまた戻ってくる。チューリップも盛りを過ぎた。
ホームページの顔が表情あらたまって、なにか新しいことがしたくなってくる。
2002 4・18 13

* きのうの晩、ちろりとやって来て少し仮眠し、すこし話してから芝居の資金の足しにだとかを百万借りだして、息子は、あたふたと戻っていった。先日、ある連続ドラマの初回分に秦建日子が脚本を書いていたのを、わたしたちは見損ねていた。三人で観た。題は、忘れた、原作もののようだ。長瀬某と、以前「編集王」で主演した某とが、一対で張り合い、植木等がおさえて出る「マネーゲーム」のような、金融や銀行の出てくるドラマであった。タイトルバックなど面白く、二十分ほどはまず好調に感じ、どこかから普通の平凡なドラマのように感じかけたが、まあ持ち直して、初回分を終えた。70点ぐらいかなあ、次ぎも観てみていいが、建日子は初回だけで、オリているらしい。初回分にも特別建日子らしいものは出ていなかった。誰かと二人の名前が「脚本」として出ていた。もうすぐ、八千草薫主演のドラマが有ると聞いている。
2002 4・18 13

* 今時分、テレビで、秦建日子脚本の八千草薫ものをテレビが流しているはずだ。コマーシャルをはさんだテレビドラマは焦れったいので、妻がビデオに撮っておくのをあとで観る。
2002 4・19 13

* 脚本を息子が書いたドラマを、二十分ほど観て、機械の前へ戻ってきた。八千草薫が老いてなお綺麗にすっきりしていた。おはなしは、あまりにスローで、かえって落ち着いた気持ちになれなかった。若い女弟子の匂いに汚れた蒲団の襟に顔をうずめて泣くような花袋の凄まじき作品、宮沢賢治が手帳に書き留めていた祈りの詩、蛞蝓に似た三人の貧しげな男に「守られ」て、廃工場の片隅のような物陰に素っ裸で寝かされ客を迎えている瀕死の「淫売婦」との出会いを、痛々しい怒りと感動とで書いた、葉山嘉樹の小説。そういうのが頭にあった。
「藝」とはなにか。藝のある創作は強い。ものつくりの中にも、「藝術」という言葉を軽侮し軽視し遁走する人達が多いのだが、「藝」と「術」とに分けて想えばまさかに不用とは言えまい。「藝」とは何なのか。辞書をひけば分かる、たいした深みのある字義ではない。習って覚える技、あそびごと、遊芸、そして仕事のやり方。その程度のことを、だが、名人上手や名匠や文豪はだいじに個性的に深く磨いた。多くの藝談のなかで、わたしが感化を受けたのはやはり谷崎潤一郎の「『藝』について」のちに改題しての「藝談」だった。テレビドラマが藝術であるわけないじゃんという人もいる。それなら、小説も繪も藝術であるわけないし、事実、藝も術もなくても小説として売れているし繪の展覧会も出来ている。掃いて捨てるほど有る。心がけの問題であり、そんなのは遁辞の最たるモノに過ぎない。藝術でなくていいとして、だが「藝」と「術」まで無くていいとは逃げ出してほしくない、藝術でないなら余計のこと。  2002 4・20 13

* 路地   子供が道へ飛び出すのを防ぐため、足の形をしたマークが、当地旧い街のあちこちに、真ッ黄色のペンキで描かれています。こンな細い道を人が通るの? 奥に人が住んでるの? 入る勇気が無いまま。
秦さんのお作でも、たびたび路地の話が出てきますし、先日、戦前の神田に生まれ育った渡辺文雄さんの文を読みました。
私には遠い世界です。高度成長期で、路地がなくなったせいもありますが、あれは地元の人のもの。よそものにとっては、見えていても見えない道。出ていきたくない道。今でも通るだけで冷汗が出ます。

* こういうものなのかと、路地いっぱいの街で育ったものは驚く。先日も、京の祇園町の路地から路地で遊んだ昔を「ぎをん」というタウン誌に書いた。東京でも路地の生きた町並みは、上野、浅草、佃島などいくらも見られるが、激減し、雰囲気も変わってきているのは確かだろう。路地は「地元の人のもの」か。謂えていると思う。わたしの育った京の家のワキにも抜け路地が通っていた。外から祇園町へ入って行く、祇園町から外へ出る、そういう路地だった。あの路地のある生活感は、体臭のようにわたしの感性にしみついている。その路地をぬけて、先代幸四郎一家は南座の顔見世に出演していた。新門前通の旅館「岩波」に一家はよく泊まっていた。行き帰りに、わたしの父の店で乾電池などを買ってゆくこともあった。今の幸四郎も吉右衛門も小さかった。お父さんにして、まだ市川染五郎であったかも知れない。
2002 5・3 13

* 滋賀県能登川躰光寺の読者から、わたしの生母・生母の里にかかわるいろいろを、分かりよく教えて貰った。わたしから頼んでいたのである。母の姉が家を継ぎ、その嫁にあたる人阿部一枝さんとは、わたしも一度逢っているが、もう九十歳、入院されているという。母は或る大きな家の分家に嫁ぎ、一女三男の母になってから夫に死なれ、その後に、兄北澤恒彦やわたしの父にあたる吉岡恒と出逢った。彦根高商の生徒であった吉岡は、母からすれば長女と同年齢。下宿させていた書生であった。
母の嫁ぎ先の本家二階建ての母家は、文化財指定を受けていると。それだけを思っても恒彦を産みさらにわたしも産んで、先夫との四人の子を置いたまま京都に趨った母の「立場」のわるさは、推察にあまりがある。これだけを書いて、すでに小説の世界であり、だからわたしは書きたくないのである、そのままは。
まだまだ多くを教わっている中で、長女が、つまりわたしには年かさな姉が、没後の母のために建てた歌碑が、いまもそのままに建っているという。わたしも、その歌碑は二度見ている。能登川から安楽寺へ、かつて朝鮮通信使が道中した古道に沿って、高さ一八三センチ、横七一センチの仙台石に歌一首が刻されている。

此の路やかのみちなりし草笛を吹きて子犬とたわむれし路 鏡子

「鏡子」は筆名であった。裏に「昭和三十六年二月二十二日昇天 阿部鏡子書」と。この歌は、はやく、講談社の「昭和万葉集」が出たおり一文を求められたときに、他の十首ほどとともに遺歌集から選んで紹介した。本巻には採用されていなかったろうから、せめて私の手で、栞の中ででも「昭和万葉集」に仲間入りさせてやりたかった。わたしの歌集「少年」からも何首かが選ばれていた。

* 母達のことを書き出せば、とてもわたしはペンクラブだの文藝館だのをやっていけないだろう。没頭してしまうだろう。わたしは、フィクションのフィクションらしいものが書きたいのかどうか、いつも、母達の強すぎる圧力におされて迷いがある。昔は、親を愛さないことで、書くための抵抗力を持っていた。今は愛しているなどとは言わないが、言葉は品がないが赦してしまっているから、すこししまつがわるい。同じことは秦の親たちにも謂えるが、これは、丹波、もらひ子、早春をあっさり記録してしまうことで「卒業」し、今では位牌の前を通るたびに、可笑しいほど心から感謝のあたまを下げている。
2002 5・5 13

* あ、そろそろ息子がやってくると予告の刻限だが。
2002 5・5 13

* 明治座の「居残り左平次」の前に、三遊亭円生の噺を聴いておいた。うまいものだ。風間杜夫がどう演じるのか、平田満がどんな芝居を見せるのか。
浜町へは久しぶりだ。朝日子のサントリー美術館就職では谷崎松子夫人が動いてくださり、何百人から二人だけの採用に押し込んでもらった。関係者のお礼に接待をと、松子夫人が場所も決めて下さったのが明治座前の料亭で、場なれないわたしと妻とで、ぎごちないお礼の席を勤めた。汗をかいた。
いい職場だとよろこんでいたのが、結婚し、妊娠してのつわりがつらいという口実で、フイと辞めてしまった。「口実」であったろうと、思う。妻=嫁の勤務を、夫も婚家もこころよしとしなかったのだろう。
2002 5・6 13

* 建日子と妻と三人で、近くの保谷武蔵野で、久々の中華料理。四方山の話題で気持ちよく楽しめた。
2002 5・6 13

* 親子して、連休最後の晩をのんびりと、シュワルツネガーのお笑いの大アクション映画で過ごした。映画を見ながら、これだからアメリカはよくないと建日子が繰り返し漏らすのを、耳新しく聴いた。こういう言葉はめったなことで彼からは聴かれなかったものだ。
2002 5・6 13

* 秦建日子作・演出「タクラマカン」の、最初から数えて第四演目だろうか、力を入れて台本をまた新たにし、新配役で、六月十九日から五日間、七か八ステージかを新宿で公演するという。過去十指にあまる芝居を作・演出している中でも、完成度と迫力とで、もっとも人気のあった舞台の一つ。舞台が終えると、ほんとうに目を真っ赤にした人がいっぱい出てくるのをわたしも見たことがある。師匠のつかこうへい氏にも「ウン」と言ってもらったと聞いている。わたしも、大いに提灯をもってやりたい。
昔は、東工大の学生君たちを大勢わたしが招待してみてもらったが、もう、みなサラリーマンになって、途方もなく忙しいことが遠目に見えているので、遠慮して、直接は声をかけないようにしている。
一つの作品をねばりづよく繰り返し上演している劇や劇団は、珍しくない。今度はどうやるだろうという楽しみもある。
2002 5・9 13

* そうそう。秦建日子作・演出の「タクラマカン」のパンフレットによると、
六月十九日初日午後七時 二十日同 二十一日同 二十二日土曜は二時と七時 最終二十三日日曜は一時と六時 開演。 場所は 新宿アイランドホール(03-5323-2141) 問い合わせは エム・エー・フィールド(03-3556-1780) 前売り4000円 当日4500円 と、ある。 2002 5・10 13

* わたしが今いちばん気に掛けて大事に考えているのは、妻の健康である。それが有っての私の日々である。慎重に、注意深く元気でいて欲しい。こどもたちは「母の日」も忘れていた。子供たちの分もわたしが気をつけている。
2002 5・14 13

* 黒川創の作品が読めていない。妻は読了したらしいが、特に何も言わない。そんなことで、まだ、作品については何も見えていないし言えない。
そうこうするところへ、妻の妹がきれいな本の「詩集」を出して、送ってきた。この義妹は、死んだ自分の兄に熱烈な思いをもっていて、捧げる詩を書いたようだ。義兄は詩人にはならなかったが若い頃に詩を書いていた。その当時の友人谷川俊太郎氏が跋文を呉れている。花神社から出た。大岡信氏らの詩集をよく出している専門の版元だ。お金を掛けた私家版だが、ま、いいところから出せてよかった。わたしは何も手伝っていない。どんな作品だか、まだ見ていない。
なんだか身の回りで、創作活動するのが増えてきた。黒川創の妹の北沢街子も佳い文章が書け、著書もある。独特のセンスを持っている。画家だが文章の方でも生きられそうに思う。わたしの娘の朝日子も、才能はあったが粘りが無く棒を折った。環境に恵まれ努力していれば、何かし遂げえただろうにと惜しい。孫娘たちの「お受験」に奔走するおやすい教授夫人なんかになっていないで欲しいが。
建日子は、必死に頑張っているようだ、連続ドラマをチーフで書き続けている中で、六月の「タクラマカン」に手応えを感じているらしく、妻の話では彼のホームページでもボルテージがあがってきたようだ。わたしの機械が壊れて以来、彼のホームページは見られないままで。佳い舞台を楽しみにしている。  2002 5・19 13

* 妻は、先日池袋のメトロポリタンホテルで買った服を着ていた。例によって、わたしが眼をつけ、あれはいいよと予め選んでおいたもの。妻のために服を選ぶわたしの眼も、自然に高くなっている。

* 佳い舞台だと機嫌もいい。勘違いして青山一丁目に行ってしまったので、大江戸線にのり、途中下車して喫茶店で時間待ちしてから、「八海山」のある、食器の吟味のなかなかいい新宿の店で、うまい和食を食べてから帰宅した。練馬駅の構内で久しぶりにケーキのモンブランを二つ買って帰った。玄関へはいるとさっとマゴが足下で出迎えてくれる。 2002 5・22 13

* 午前中に泉鏡花の小説をスキャンしておいて、午後、妻と柳沢の出田家を訪問した。リフォームしたのでと誘われていて、ながく行けないままになっていたのが実現した。ふっくらと卵色をしたおとなしい猫が居た。秘蔵のテキーラをだしてもらい、ストレートでかなり飲んでしまい申し訳なかった。下の二人などは生まれて以来のつきあいだ、あんなに小さかった娘たち三人が、みな大学を出て、勤めに出ている。上と末とは新聞社に入っている。上は署名記事も書いている。うちの建日子よりほんのちょっと若い。中の子は、人材派遣会社で派遣する側の仕事をしているという。若い人の時代なのだ。テキーラよりも、そのことに酔った。
2002 5・27 13

* 黒川創の作品が時評で好感されているのが、嬉しい。文学に何が結果というようなことはないが、健康に文運を伸ばして行ってほしい。
2002 5・30 13

* 母が居たら百二歳になると妻が言う。叔母なら百三歳に、父なら百五歳。あさっては叔母の命日。じつは、こういう年齢で三人ともに、という、期待とまでは言うまいが想像はしていた。夢であった。隣家の仏壇からこっちの、廊下の奥の棚に持ち出してある三人の位牌に、いつも挨拶している自分が時に可笑しくなり、時に神妙に感じる。位牌は位牌に過ぎないのだが。
2002 6・9 13

* 秦の叔母つる(宗陽・玉月)の命日。平成三年頃であったか、享年は九十何歳かであった。明治三十三年に生まれた。裏千家教授、御幸遠州流師範として斯道約七十年。ユニークな個性であった。ほんとうは、この人こそ京都で死なせてやりたかったが、また天涯孤独の独りきりでは、よう最晩年を過ごさなかったであろう。で、父と母とは垣根一重の隣家を手に入れ、叔母はわたしたちの棟の二階、今まさに機械を使っているこの部屋に暮らしてもらった。悔いの残るほど、叔母に良くしてやれたとは言い難いが、猫のノコを相手に叔母はここで静かに過ごしていた。いくつもの宿痾も抱え持っていて、最期は昭和病院でさながらクラッシュしたように亡くなった。だが、叔母の生涯は独立自尊の藝道師匠として、裕かに終始したといって過言でない。或る意味でたいした女であった。私が無理でも、私の妻を自分の後継にしたい気もあったろう、だが、それには酬いられなかった。私にその気も無かった。よくしてもらいながら、よく酬い得なかった。いろいろ不親切であったと悔いている。冥福を祈る。南無阿弥陀仏。
2002 6・11 13

* 明日の桜桃忌は、早朝八時半から眼科の視野検査と診察、さらに糖尿の定期診察。晩には、秦建日子作・演出「タクラマカン」新宿公演の初日。
2002 6・18 13

* 新宿アイランドホールは、かつて建日子が公演した中で、いちばんリッチな劇場環境だった。贈られていた花束などもいままでとは桁ちがいに多く、派手で、建日子がこの業界でともあれある位置を占めていることは、よく窺えた。それはいささか私を安堵もさせたが、そういうのが虚名に過ぎないのも分かっている。とにかく「付き合い」の社会なのだから。七八つのステージでたとえ満席にしても営業的にはさぞ苦しかろう。だが、芝居公演がやれるとやれないのとでは、使い捨ての消耗品になるか、一つの才能として認められるかの分かれ目にはなるだろう。経済的にはむしろマイナスに近いだろうが、芝居の公演はやった方がいいという以上に、やるべきだろうと私は勝手に観測している。

* 今晩の舞台については、初日のことであり、論評は控える。あまりに平場で、わるいことに目の前に巨大な壁のように大男が席を占め。半分がた舞台は見えなかった。

* 早々に帰宅、萬歳楽「白山」で太宰治賞三十三年を自祝。桜桃のうまさ、格別。
2002 6・19 13

* 今晩は建日子の芝居をパスした。妻だけが出かけた。わたしは街へ出て独りでうまい酒をのみうまい肴を喰った。飲んで喰って「染」の勉強もゆっくりできた。よかった。刺身の鉢が、気のせいかいつもの二倍量も盛られていて、鯛もひらめもマグロもうまかった。ぐじの焼き物も、わらびをあしらった煮物も。酒の量はひかえて、アイスクリームとお茶でさっぱりし、きもちよく見送られて店を出た。
芝居のはねたあとの妻を迎えとって都庁前から帰った。
2002 6・20 13

* 明日は秦建日子の芝居の千秋楽。今回は初日の晩とラクの晩だけの観劇になる。昨日だったか一昨日だったか、出来を気にして携帯電話をかけてきた。すこしだけ話した。
2002 6・22 13

* 夕方六時、新宿アイランドホールでの「タクラマカン」秦建日子作・演出、大谷みつほ・納谷真大主演の、最後の舞台を観てきた。
初日には、わたしは、実は妻もそうだったというが、いたく不満を覚えて帰った。二日目以降、わざわざ出かける気がしなかった。二日目は妻だけが観に行き、私は美しい人の顔を見に飲みに行った。
三日目に、建日子が車中の携帯電話で感想を聞いてきたので、不満の理由を簡単に話した。思い当たるらしき応答であった。そして二度目の今晩、最後のステージを観に行った。
「ずいぶん手を掛けたよ」と、開演前に、ちらと本人に聴いた。今夜も見やすい席ではなかったが、妻が少しでもよく見える方をわたしに譲ってくれ、初日よりは、舞台がとらえやすかった。それだけでなく、舞台の「推敲」が格別にすすんでいて、十のところの九から九半までの完成度は、みごとだった。俳優の出し入れ、動き、情感の乗せかた運びかた、音楽の効果、すべて的確に配役・配置され、舞台の上に、幾度も幾度も動的な佳い画面が創られた。その点では、稽古の途中に建日子からのメールが、「脚本のクオリティとしては、過去最高でしょう。あとは、演技がどこまで追いつけるか。自信はあります。TVと掛け持ちなのがやっかいですが」と言ってきた、「クオリティ」云々が、それなりに謂えていたし、それに近い称賛の感じは、不出来な初日にすらわたしは持っていた。ただ、初日の舞台は「自信」が裏目にでて、ちょうど、ワルく推敲しすぎた文章が味気なくなってしまうように、舞台の肌理がかえってあらくザラついて、上滑って行く感じがあった。しかも、それだけが不満の理由ではなかった。
今晩は、場面の呼吸に深いゆとりが出来、舞台に砂のこぼれたようなザラザラした不満がよく拭い消され、肌理しっとりと、ある種の「あはれ」が、香りの佳い油のように流れていた。今夜こそ「脚本のクオリティ」は、たしかに高くなっていた。
少し皮肉に言い直せば、作者が「クオリティ」を、技術的な「うまい・へた」の意識から口にするときは、かえって危険なのである。やりすぎ触りすぎてザラつき、それに気付かずに満足してしまう。第一、うまいかへたかは、もう少し別の意義の「クオリティ」に奉仕する効果なのだが、作者は、それが「目的」かのように度々勘違いする。その結果が、初日のような、へんに味気ないせっかちな舞台になって出る。わたしの不満はもとより、息子には点の甘い妻ですら、初日は、やや「天を仰いだ」という気味であった。「観てやって下さい」が人様に言いにくかった。
ものの順序として、初日根本の不満を書いて置いていいのだが、それはもう当の作者に電話で伝えたことだし、今晩の舞台でさっき保留しておいた、十のうちの最後の一ないし半のところの、つまり終幕部での不満、ないし不審を書き留めておけば足りる。

* 物語は、不特定なある国の、海にまぢかそうな地域(東京都のように思おうと、地方の町程度に思おうと、もっとべつの国であろうと、かまわない。)に、「浜辺育ち」の「ひとでなし」が、「町育ち」の市民に徹頭徹尾あくどい差別をうけて暮らしている設定になっている。人によればぎょっとするほど刺激的で過激に大胆な図柄だが、リアルな設定ではなく、むしろシュールリアルに、よくもあしくも物語がルーズに組み立てられている。それが味噌になっている。
「ひとでなし」は、四人の青少年と、一人の少女「けい」と、「じじい」が一人。青年のうち一人の「カラス」は、町の女郎屋の親方の用心棒がつとまるほどの腕っ節。そして他の男三人と年取った「じじい」との、喰うにも窮した空腹と貧寒との日々は、知恵と敏捷とで「盗み」の名人である少女「けい」が、かろうじて養っている。字も読めない若い男たちは、いかなる希望も絶対的に叶えられっこない侮蔑と排除の悪環境に閉塞を強いられ、働くこともならず、ただもう「あの国」への渡海をだけ日々に夢見ている。その差別・被差別の徹底は、ものすごい。少なくもそういう建前に舞台は作られる。
私は、そういう差別状況を、京都という都市で、小さい頃から、体験的にも学習においても、人より遙かに関心深く多く、識ってきた。そして、それについて丁寧に語り合うことは、我が家での子供たち教育の一つの柱ですらあった、むろん差別への強い批判である。建日子が今度の舞台を通じて謂う、「この国」の「町育ち」社会と「浜辺育ち」疎外という図式にも、自然とその感化の反映していないわけがない。誤解されてはならない、この「タクラマカン」は、徹頭徹尾「浜辺育ち」を「ひとでなし」と呼び捨てるモノたちへの、お前たちは「ひとでなしで(すら)なし」とする批評と批判を、最も多くの汗をかいて強調している。
その上で、作者のその主張が、舞台の最後の場面には、どう生きていたか、活かされたか。それが問題として残った。
作者は、一人も「町育ち」市民を舞台に出さない。いや例外として、町の女郎屋から逃げ、たまたま「カラス」の貧しいすみかに飛び込んでかろうじて追っ手の暴力を免れる、「はづき」という少女が一人いる。彼女は、今、上に謂った意味ではない、文字通り「ひとでなしでなし」として、「ひとでなし」の身内になりきり、「カラス」との純な相愛を演じ始める。だが、その仕返しに「カラス」は「町育ち」の暴力で、強かった膝を撃ち砕かれ、「あの国」でいつかボクサーになりたい夢も打ち砕かれる。「カラス」を愛し励ます「はづき」もまた「あの国」へと心の底から切望するが、それどころか「カラス」を治療の金すらないのである。
作者は「町育ち」市民社会の「権力的顕現」として、治安の軍隊を舞台に登場させる。その手法に工夫がある。新任の責任者「ツキノ」少尉は、或る動機から、「浜辺育ち」の「ひとでなし」に熱心に接近し、ついには一少年の就職のために町中を説いて奔走する。上官に批判的な根から差別者だった部下二人も、いつか少尉の行動にひきこまれて、大変な苦労の末、「くさいくさい」「さわれば手がくさる」ような「ひとでなし」少年のために就職先をみつけてやる。「浜辺育ちのひとでなし」は、一人も字が読めずろくにものも知らない。余儀なく「ツキノ」と部下は、少しばかりの教育をすら彼に授けてやった。
この就職できた少年は、恋心を抱いた仲間の少女「けい」にスカートを買ってあげたい。そして初の給料をつかんで感動と愛情のあまり駆けつけた先は、以前に「けい」のためにスカートを盗んだその店だった。盗んだスカートなんかいらないと、少女は内心の嬉しさを噛み殺して突き返したのだ、だが、今度は稼いだ金で買うのだと、少年は、その店の中で夢中に愛の言葉を叫ぶ。だが、少年は、駆けつけた官憲に蛇を打つように簡単に撃ち殺されてしまう。公園で撃たれし蛇の無意味さよ 草田男。
少女も仲間も絶望を深める。そんなときに「じじい」が言い出す、多年ひそかに心掛けておいた、死ねば五千ギースおりる生命保険のあることを。「じじい」は愛を失った失意の少女にそれを告げて、自分を殺し、その金で、是が非でも「あの国」へ行けと勧めるのである。少女にナイフを握らせたまま「じじい」は「けい」に向かい挑発に挑発を重ね、激しくも衝動的に少女の刃物を身に深く受ける。「人殺しだ、じじいが殺された」と叫べと教えながら「じじい」は死ぬのだが……。なんと、「浜辺育ち」の者に保険金は支払えないと、死なれ・死なせて残された若い「ひとでなし」たちは、支払いを、乱暴に拒絶されてしまう。
抗議に立つ若者たちの集団演技には迫力がみなぎっていた。
「だれがどろぼうか」「だれが暴力的か」「だれがホンモノのひとでなしか」という問いかけの、電気の走るような訴及力。
あげく「どろぼうなら負けないぞ」と、若者たちは、「ひとでなしのなし」の「はづき」も加わり、「四人」だけで国の銀行を襲い、治安軍の武装兵士に囲まれる。「ツキノ」少尉は、保険金支払いについても「浜辺育ち」の側に立ち、支払い側の不当不正を主張していたが、当局はこれを無視し、銀行に閉じこもった四人に対し「撃て」の命令を「ツキノ」に強いる。苦慮のままの「構え銃」の叫びがむなしく繰り返され、誰かしら別の声が「撃て」と叫ぶ。若い四人は勇戦して潰える…ので、あるらしい。

* ここまでは、いろんな細部の展開をともない、ルーズな構成と設定を利して、かえって緊密に物語が運ばれて行く。今晩の芝居は、そこまでは満足の行く、なかなかの「クオリティ」であった。
だが、このあと、ひとり取り残された少女「けい」が、「ツキノ」の尽力でえられた「じじい」遺産の五千ギースの袋を足許に投げ出され、その金で「あの国」へ行け、「あの国」で教育を受け、「あの国」で歴史を学べ、ウソも学べと説教される。「けい」は、今自分が「生きて在る」この事実が大切だと納得して、「船出」への決意を、直立の姿勢で示す。解任された元少尉「ツキノ」は、「浜辺育ち」に荷担した罪を問われて裁判に掛けられるのである。

* 「タクラマカン」は最初「砂漠」の題で構想され、そんな題は味気ない、いっそ「サハラ」の方が面白いぜと冷やかしたので、「サハラ」で初演された。再演の時から「タクラマカン」に変わった。が、この固有名詞自体に特定の意味はない。いろいろに「読まれる」題として投げ出してある。それはそれで構わない。
だが、以前の舞台では、主役の「けい」ももろともに、総員が銀行襲撃で撃ち果たされ、しかしまだ稚い少年の一人だけが、「ツキノ」の配慮であったろう、「あの国」へのキップを手にした。
その程度なら、むしろ良かった。
今回は、なんと主役の「けい」が、はなから銀行襲撃に加わっていないのである。襲撃や仲間の死をすら知らないらしいまま、「ツキノ」少尉の口から、そして手から、仲間と保険金の顛末を聴き知り、その金で独り「あの国」へ出て行くというのだ。それはないのではないか。
初日、わたしは、前半大半の「クオリティ」なんかにではなく、この終幕部分での大きな後じさりに不満を爆発させた。仲間全員の死と残った「けい」との間に、紐帯が抜け落ちているのである。仲間に対し終始生活力ある指導者としていわば君臨してきた「けい」が、仲間を死なせておいて独り「あの国」に逃れたとして、それでは、息を詰めてきた観客の胸の内からは、むだに空気が漏れてしまう。喜びよりは落胆が、希望よりはみじめで半端な敗北感が、ただ観客にはのこるだけではないか。
「タクラマカン」の「差別」は、リアルな事実事象でなく、作者により構想された観念の所産である。だからこそ、ルーズな設定を利して思い切り徹底したことが言えるし、やれるのである。事実、そういうふうにわりとうまく書かれている。それはそれで少しも構わない。むしろ、それだからこそ徹底的に差別被害のひどさを、観客の胸に叩き込めるのだ。批評や批判の観客への刺し込みが、深く、厳しくなるのだ。観客は解決不能の「絶望」を与えられることで、反発反感の火を胸に抱いたまま劇場をアトにして行く。観客の胸に呻くほど「絶望」の棘を刺し込んで帰すのでなければ、「タクラマカン」上演の意味なんか無いぐらいなものであるのだ。感傷的な「生きる」なんて一言に甘えて、「けい」だけが「じじい」の金で「あの国」へ。やめてくれ、と私はむかついた。
その結末自体は、今晩の舞台でも改めようがなかったけれど、それまでを丁寧に、美しいほどに演じ直していたため、全体の感銘は密度も温度も高めていた。手放しで泣いている人の多いことに驚かされた。最後の暗転の中へ、最初の拍手を送った客は、わたし、であった。わたしの頬も早くから涙にしとど濡れていた。作者は、かろうじて「炒り豆に芽を」出させたと、拍手してやったのである。

* だが、「乱暴」に、もし私があの舞台を作り替えるとしたなら、最後の場面はこうなる。
仲間たちの銀行襲撃を告げられたばかりの健気な指導者「ケイ」は、保険金の五千ギースと銃とを手にした「ツキノ」少尉により、無惨に、額を撃ち抜かれ殺されるだろう。「ツキノ」の行為の一切は、「このようにして、やつら浜辺育ちのひとでなしは、一人残さずこの国から処分する計画であった」と語らせるだろう。「ツキノ」の裁判は、すべて「形式的な決着」のためのものだとうそぶかせるだろう。
それぐらい徹底的に描きだすことで、「カラス」や「はづき」や「じじい」や、その他の心優しい「ひとでなし」の若者たちの、「あの国」へ賭けた切ない切ない脱走願望が、単なる逃亡願望以上の、絶対の選択であったことを、食い込むほどに観客の胸にたたき込む。
それでこそ、あらゆる差別への批判・非難になり得るかもしれない、それは簡単には言えない。この問題は簡単には言えないことを、わたしは、少なくも建日子よりは深く識っている。「タクラマカン」の若い作者、いやもう、三十四歳、わたしがちょうど太宰賞を受けた年齢だ、けっしてもう若くはない彼は、まだ、この問題を甘く半端にしか知らない。船の底荷が軽いのだ。

* もう一人、ほかの人の批評も此処に書き込ませて貰い、間接に秦建日子へ伝えておきたい。ますます耳が痛いであろうが、良薬である。

* お久し振りです。
HPを時折見させていただいていますが、実際お会いしたのはもう半年以上になってしまいますね。最近疲れがたまっているようにHPに書いておられますが、身体には充分気をつけてくださいね。と、私が言う以上に、身体のことはわかっておられるとは思いますが。
昨日、建日子さんの「タクラマカン」を見て来ました。再演でしたが、内容をほとんど覚えておらず、芝居が進むに連れ思い出し、こういうものだったな、と思い出しながらみていました。正確に以前の演出を覚えていませんので、間違いがあったらお許しください。
学生時代に見たときには、建日子さんの芝居は「状況提示」のみで、そこでの解決法や何をすべきかということに対して、投げ出したままであるような気がする、というような感想をもった覚えがあります。それはみているものにその問題を投げかけるという形式をもった芝居であったのかな、と、今は思うことができますが、そのときはもどかしい感じがしました。
それが、今回は、よりメッセージ性が強いといいますか、芝居の中で使われる「前向き」というものを前面に押し出す演出になっていたのではないかと思いました。現在の状況を提示し、その状況に対して「前向き」に対峙することが、その状況を変えることのできる唯一の方法だと、はっきりと宣言しているのです。
これは時代性の問題かもしれません。
私が学生の頃は世紀末(これが本当に関係していたかはわかりませんが)でもあったし、今以上の閉塞感が感じられる状況だったのかな、と思うからです。しかし、エンディングなどは、まったく逆の終わり方をしているのですから、この2-3年の変化というより、演出すべき世界が変わったことが大事だと思います。また、そのような「前向き」なメッセージ性を語る自信が建日子さんについたということなのでしょうか。
つまり、私はこの芝居を見て、わかりやすさの向上と、強いメッセージ性を強く感じたのでした。
しかし、もう一方で、前回以上の歯がゆさを感じてもいました。それは表現されていた社会と個人の関係についてです。
一方ではより明確に「前向き」というメッセージを掲げていながら、
浜辺<まち<あの国
という構図、もしくは
個人<警察=国家
という構図によって社会を捉え、さらにそれを「固定されたもの」として描いているのは、この枠組みを打破することに対する「前向き」な姿勢の表現という意味では、「わかりやすく」よいのですが、その境界を「越境する」ことによってしか「現状は打破できないむと語るのは、「わかりやすすぎ」ではないか、本当にそれは「前向き」なんだろうか、と感じてしまうのです。
というのは、実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組みは、非常に流動的であり、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じているからです。確かに、社会がその枠組みを作り、保持しているのは確かです。しかし、その枠組みに対して、無抵抗になるのは「個人」の選択ではないか、と感じるからです。無抵抗だからこそ、「あの国」であればどうにかなる、という別の世界への憧れという形をとるのではないか。
実は、枠組み自体を動かそう、と、ほんの普通に頑張ること、頑張っている人って、いっぱいあるんじゃないかと思うんです。そういう「もがきやあがき」を真正面から描いても良いんじゃないか、そういう中に表現されていない何かがまだうずもれているんじゃないか、と思うのです。そういう何かを見せてほしいな、と思いました。
以前の「タクラマカン」は、その「何か」を見つけられないもどかしさがそのまま出ていたのではないかと、芝居の後に感じました。だから、状況提示で終わっていたのです。状況を、そのまま、どうしようもないものとして提示していたのです。それによって作る者と観る者とがそのもどかしさに、一緒にのたうちまわっていたのではないか。それが本気で「物足りない」と思わせていたように思います。
今回はそのもどかしさはなく、わかりやすい「前向き」というエネルギーのようなものに全てを託していることによって、逆に物語(状況)との距離をとっており、「歯がゆく」感じたのではないか、と思います。
私も、普段の生活でこの枠組み自体をほんの少しでも良いから、動かしたい、と感じています。
今やっていることが、なにか、どんなことでも良いから「作る」ということを変えられたらいいな、と。つまり「あの国」なんてものはなく、「この国」で「前向き」でいたいと、常に思っているということではないか、と思っています。
だから、簡単に「越境」を語ってほしくないと感じたのだと思います。
独り善がりの感想になってしまいましたが、今の自分がやらなければいけないこととダブっているような気がしたので、秦先生にお伝えしました。
今度は直接お会いして、「今、作る」ということに関して、お話できたらよいなぁ、と思っています。

* この感想が、どういう「的」を正しく射ていて、どういう「的」は大きく逸らしているか、それは建日子が考えねばならない。
だが、わたしも一言は書き添えておこう。
実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組みは、非常に流動的であり、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じていると書かれているが、たぶん、それは同じ「町育ち」同士の中での流動や個人のように思われるからである。
「あの国」へ行きたい。
それは、譬えば、「真の難民の絶対の苦境」から出ている呻きであり、そんなのは単に越境であり、逃亡であり、努力無き敗北であると言えるのは、そういう難民状況に立たされたことのない、意識するとせぬとにかかわらず「浜辺育ち」を「ひとでなし」として当然な「この国」の「町育ち」普通の市民同士の、痛みのない立場から、なのである。「タクラマカン」は、あまりに痛切なテーマを書きながら、これほど好意的に深切な観客の胸にも、けいやカラスやはづきたちの「あの国」願望を、ただの、努力無き「逃亡」ではないか「越境」にすぎぬではないか、と、物足りなく感じさせる程度に「不徹底で甘かった」のである。それがまた、わたしの、創作者であるわたしの、今回「タクラマカン」への根本の批評である。非難ですらある。
それでも、もう一度言って置かねばならない。この「浜辺育ちのひとでなし」状況を、現在の日本は、現に、まだ、確かに抱え持っていると。これは放恣な作り事でも夢の設定でもない。もしかして「あの国」があるなら、必死に「あの国」へ行きたいほど絶望に心萎えた人など、「この国」にはいないなどと思っていては、少し、のんきすぎる。「とりわけて歴史を学べ」と作中の一人が言っていた。そんなことは真実心でも言えるし虚偽と瞞着心からも言えるので要注意であるが、それでも、「この国」の「市民同士の意識」だけではお話に成らないほど、えげつなく「人外」を隔てた険しい垣根は、歴史的にも現実現在にも、実在している。その認識上で、だれが、「本当のひとでなし」かと、「タクラマカン」の作者が、ねばりづよく声を挙げ続けることを、「この国」の一人として、あの「はづき」の友の一人として、わたしは希望する。

* 芝居のあと、ホールの地下の和食の店で、千秋楽を祝って「めで鯛」の刺身と小懐石で「上善如水」を飲んだ。さらに一階のカフェレストランで、妻はお茶とケーキを頼み、わたしは、壁の宣伝写真に惹かれて「ビーフシチュー」とパンをまた食べた。コーヒーも飲んだ。
帰ろうと街路に出たところへ「カラス」を演じた納谷真大君が飛び出してきて、挨拶してくれた。上でわたしたちも彼を探していたのだ、一言感謝したくて。彼はこの役は二度目であろう、特に今夜の「カラス」はまことに傑出していた。秦建日子が創りだしたもう大勢の人物たちのうち、「タクラマカン」の「カラス」は図抜けてよく書けている一人であり、それは納谷君の力に多く負うている。声を掛けてきてくれて嬉しかった。同じように建日子の盟友である「じじい」の井元工治君にもホールで声をかけてもらった。この力量在る脇役の存在に建日子の舞台は繰り返し幾度も助けられてきた。そして「じじい」も「カラス」も、初日より今夜はまたさらに佳い芝居をしてくれた。大阪弁のうまかった白国秀樹君、「地図」いらいお馴染みの中島一浩君、同じくうまくなったせきよしあき君とも話せた。女優の三人いや四人とは出逢わなかった。「けい」の大谷みつほは可愛らしく健気であったが、最後に労られたように一人船出していったのは、作者作意の齟齬。同じなら彼女一人の壮絶なガンバリと犠牲のうえに他の仲間全員が「あの国」へ行けていたら、まだしも納得しやすかったかも知れぬ。そういうリーダーであった、同じ役を「サハラ」で演じた生方さんの「けい」は。あれは名演だった。

* 芝居より前に、林丈雄君とこれもまた久しぶりに会い、おそめの昼食をともにし歓談した。

* 初日以来書かずにいたことを、さて書くとなって、もう二十四日の午前五時十分、徹夜だった。おやおや、である。ま、その程度に快く昂奮させてくれたのだと息子に感謝しよう。ただし鼻なんか高くして欲しくない。 2002 6・23 13

* 公演パンフレットとして秦建日子が「挨拶」している文章を読んだ。さらりと書けていた。スキャンして、ここへ紹介したいと思っている。
2002 6・24 13

* これは、「タクラマカン」を作・演出した秦建日子が、配役の役者たちに触れた、劇場で当日配布の「ごあいさつ」で、じつは、徹夜明けの今朝に初めて読んだ。こういうこと、であるらしい。「闇に言い置く 私語」のなかに混ぜておきたい。

* ごあいさつ  秦建日子
23歳の夏。ぼくは、カード会社の営業マンだった。月々新規開拓*件というノルマのために、ぼくは新宿のとあるマンションの扉を叩いた。偶然、部屋の主はいた。偶然、彼はその時暇であった。偶然、彼は社会人半年のひよっこと雑談をしてもいい気分だった。雑談の中で、彼はふと、ぼくに尋ねた。
「面白いホン書く若いやつ、知らんか?」
カード会社の営業マンに、そんな知り合いがいるわけない。が、単に「知りません」じゃ会話が終わってしまう。そこでぼくはこう答えた。
「シナリオライターですか。格好いいなあ。いっそぼくが書きたいくらいです」
彼は一瞬きょとんとし、それから急に、電話をかけはじめた。
彼「あ一、**だ。この前のドラマの話……あれをな、(急にぼくに)おまえ、名前なんていう? はた? (電話の相手に)はた! はたってやつに書かせることにしたから。うん。よろしく(切る)」
ぼく「……」
彼「(ぼくに)内容はこれだ。三日で書いて来い」
ぼく「あの……」
彼「早く帰って書け」
ぼくは、訳がわからぬまま、三日でホンを書き、それは、そのまま関西テレビの深夜ドラマとしてオンエアされた。
これが、師・つかこうへいとの出逢いである。
脚色は一切していない。

つかこうへい事務所に出入りするようになり、25歳の時に、初めて舞台の作・演出をした。
最初のうちは、「記念受験」くらいの気分だったが、一度やると欲が出てきた。サラリーマン人生には早くも飽きがきていた。おれも、プロの物書きになれないかなあ……などと、タクラマカンのセージのように、甘ったれた想像ばかりしていた。
そんな時に、井元工治と出会った。
その頃ぼくは旅行会社の広報部門に所属していて、パンフレットの印刷をどこの会社にするかを任されていた。いくつもの印刷会社が、是非うちともお付き合いをと営業に来た。その中に、井元の会社もあった。井元は、ブリキの自発団、劇団3○○、パラノイア百貨店といくつもの劇団を練り歩き、芽が出ず、30歳にして役者を断念し結婚して子供を作って平和な生活を送り始めたばかりであった。
「井元さんがおれの芝居作りに協力してくれるなら、うちの仕事、おたくに回してもいいっスよ」
ぼくは傲慢に言い放った。その会社は、井元を人身御供として差し出し、その年、1千万円近くの売上げをぼくの会社から上げた。ひどい話である。

27歳。ぼくは、井元からのアドバイスをもとに、見よう見まねで一本の芝居を作った。
「地図~朝焼けに君をつれて~」
そのキャストの中に、せきよしあきがいた。いや、最初からいたわけではない。友達に誘われて稽古場に遊びに来たら、話の流れで、その場で出演が決まってしまったのである。この、せきが客にバカ受け! 大塚のジェルスという100人入れば超満員という小さなところでやったのだが、口コミであっというまに客が膨れ上がり、最終日には150人以上の客が入った。ぼくは、「当たる」という感覚に酔い痴れ、後先考えずに会社を辞めた。

これからどうしょう……
つかこうへい事務所の中にいて、つかこうへい風の脚本を書き、つかこうへいの真似をして無理に口立ての演出をつけ、つかこうへい事務所の役者とばかり付き合う毎日では、未来は開けない気がして仕方が無かった。つかこうへい事務所で偉大なのは、あくまでつかこうへいだだひとりである。
そんな時に、大学時代の友人の紹介で、築山万有美と納谷真大という、富良野塾出身の役者と出逢った。納谷の紹介で、中島一浩とも出会った。三人とも、やたらとわがままで気難しく、何でも自分が一番じゃないと嫌という連中だった。ダメだしには露骨に嫌な顔をした。でも、芝居だけはチャーミングだった。彼らと作った「サハラ」という舞台は、いろんな意味で、ぼくをタフにし、フリーにした。
ぼくはつかこうへい事務所を離れ、TVドラマを本格的に書き始めた。

その後、44歳にしてパラサイトシングルのゴクツブシという松下修という役者と知り合い、ぼくの人生観はますますラクになった。
六本木で飲み屋を経営してその金で芝居やってる豪傑・白国秀樹とも出会った。
人生は何でもアリである。なら、楽しく生きよう。書きたいものを書こう。もっともっとわがままに、やりたいやつとだけ仕事をしよう。
そして、大谷みつほを見つけた。
初めて会って10秒で、「大谷主役の芝居を書きたい」と思った。稽古初日、あまりのド下手ぶりにクラクラした。いまは、持ち前の根性で、普通の下手にまで上達した。公演初日には、まだ一週間ある。もしかしたら、奇跡を起こすかもしれない。いや、きっと起こすだろう。起こせ。ぼくは、大谷を信じている。(親バカ)

人生は結局、誰と出逢うか、だとぼくは思う。いいことも悪いことも、すべて「人」からやってくる。
舞台稽古が始まってから、いろんな事情で女優さんがひとり降板した。既にチラシを5万枚印刷し、プレス関係にも写真を渡していた。大ビンチ! でも、結果として、ぼくは、矢部美穂という女優と新たに出逢えた。彼女が、急なオファーを快諾してくれなかったら、この舞台は実現しなかったと思う。当日パンフレットで、出演者に感謝するというのも妙な話だが、書いてしまおう。ありがとうやべっち。

「タクラマカン」を通じて、ぼくはまたいろんな役者と出会い、スタッフと出会い、そして、観客の皆さんと出逢えた。
その昔、初対面同然のぼくにむかって「どうして生きてるんですか?」と聞いたキミ! ぼくは思う。
生きることって、悪くない。

本日はようこそいらっしゃいました。
最後までごゆっくりお楽しみください。

* 「書きたいものを書こう。もっともっとわがままに、やりたいやつとだけ仕事をしよう」とは、口でこそ言え、容易なことでないのは、特にテレビドラマの仕事で、吐き気のするほど思い知らされているようだ。だが、芝居の方はどうやらその一筋に頑固を貫いてきたらしいが、見ようでは、頑固過ぎるかも知れない。思いつきの小劇場作品は書けても、例えば、原作ものの脚色など注文されたときに、どれほどホンと時代と人間が「読める」のか、そういう蓄えや備えも要るのではないか。他人の創作劇を演出してみる機会も有った方がいい。だが、今のところは気が動いていないらしい。
2002 6・24 13

* 心はずむ日で、いろいろ対応しているうちに、もう一時になった。
はじめて、近江能登川の甥にあたる、とはいえもう五十過ぎた、姉の子息芳治氏のメールをもらった。
生母の長女の千代姉は、もうずいぶん以前に亡くなったが、生前に一度だけ、能登川を訪れて逢った。母の感化か、歌をつくる人で、亡くなるまで繁くわたしたちは文通した。作品もたくさん読んだ。この甥とはまだ逢ったことがない。『なよたけのかぐやひめ』を贈ったのである。

* かぐやひめの話は、小さい頃、母親に何度もしてもらったことを、うっすらと覚えています。私も今年で55歳になるわけですから、もう50年近く昔のことになりますが。
でも、小さい頃のことは、結構よく覚えているものですね。今回本をいただいたということにより、話をしてもらったなということを、思い出すのですから。
ご活躍のご様子、いろいろと伺っております。どうぞお体に気を付けて、引き続いてご活躍下さい。
2002 6・25 13

* 寝に行こうと思って念のためもう一度確かめたら、卒業生君のこれまたとても嬉しいメールが来ていた。みな同じ学年で同じ教室にいて同じように教授室で話し合ってきた、専攻はちがえども。

* こんばんは! 秦さん、お久しぶりです!湖の本ありがとうございました。「なよたけ」ゆっくりと声に出して読みたいと思います。
なんだか暑くなったり寒くなったりですね。
このところ、ご多分に漏れず、サッカー漬けの毎日です。今日は韓国負けてしまって残念!!
恥ずかしながらこれまで、韓国にそれ程興味を持っていなかったのですが、あの気迫あふれるプレーに、にわかに興味が出てきました。
考えてみれば、日本人は、アメリカやヨーロッパの事情には詳しいくせに、お隣さんにはあまり目が向いていない気がしますね。逆にアメリカやヨーロッパの人たちは、日本のことなど、実はほとんど知らないみたいで、韓国の人たちは、良かれ悪しかれ、日本のことは気になって仕方ないように見えるのに・・
建日子さんの「タクラマカン」、土曜日昼に観てきました。
あの設定のような状況を、実感としては知りません。両親が京都育ちということもあってか、話には何度か聞き、読みもしますが、「あの国」にすべてを託すしかないような、そんな悶えるような絶望的な心境を、想像や推測や知識以上のものとすることは、今の私には、無理そうです。
思い浮かんだのは、このところ報道されている、北朝鮮からの亡命者たちのことです。
でも彼らはまだ救いのある状況なのでしょう。中国に逃れることが出来ていたのですから。真に思いを致すべきは、彼らの背後にいる、国から出ることも出来ない、数知れない人々でしょうね。
望まずして世界から孤立し、未来への展望もない閉塞した社会。
多くの貧困の極にある人々と、少ない富を独占する一握りの人々からなる社会。
そこで貧にあえぐ人々は、豊かな生活を享受する同国民を、外の世界の国々を、一体どんな気持ちで眺め、受け止めて生きているのか。想像を絶します。そこには、「浜辺育ち」と「町育ち」の関係と、どこか共通するものがありそうです。
一番共感できる登場人物は、「ツキノ」でした。「町育ち」でありながら、忌み嫌われる「浜辺育ち」の中に入り、向けられる猜疑の眼差しを、ほんの少しずつ少しずつ、溶かしてゆく。命をかけて救ってくれた人を前に、触られて「体が腐る」と泣くしかなかった、「人の心の分からない」「ひとでなし」だった自分。その自らの姿を、鋭く身中の棘として、おそらくは、真の「ひとでなし」とはなんなのかを問い続け、行動し続けたのでしょう。
しかし厳としてある、「この国」の硬い現実は、そうしたツキノの想いとは関係なく、彼女と彼女の関わる人々を、容赦なく押し流していってしまいます。
必死にかけずり回った末に、ようやく就職させたハルキは、初の給料で恋する女性へのプレゼントを買おうとし、訪れた店先で、あっけないほど軽々しく、撃ち殺されてしまう。「彼女の船になりたい!」と叫びながら。
そして最後には、ほかの四人さえも、自身の部隊で葬ることになってしまう。
・・なんという不条理でしょう。
最後に「ケイ」だけが銀行襲撃に加わらず、ひとり「あの国」へと旅立ってゆく展開には、正直とまどいと、どこかに何か引っかかる感覚がありました。
ハルキやカラスたちの死は、図らずも全て、ケイが起点となってしまっています。ケイを想う気持ちゆえにハルキは職につき、結果命を落とし、それが引き金となって、ジジイはケイを挑発して保険金を残そうとし、保険金が出ない怒りにかられた末に、カラスたちはツキノの部隊の前に散ります。
仲間たちの死に、「死なせた」との思いを、ケイは生涯痛烈に抱き続けるでしょう。
そのケイだけが、ジジイの保険金とともに、あの国へ旅立ってゆくなんて。・・一体彼女は、どうやって生き抜いてゆくというのでしょうか。
ツキノはそのケイに、「私には、何が足りなかったのか」との言葉をかけて送り出します。それが「この国」の法律では、重大な犯罪に当たることを承知の上で。
ケイの旅立ちは、容易には変わらないであろう「この国」の未来への、力およばなかったツキノの想いの実現への、一条の光のようにも思えます。
ですがそこにあるのは、確かな勝算などではあるわけもなく、空気のひと揺れで消えてしまいそうな、幻のような光。ただただ、信じること祈ることしかできない、宗教にも似た飛躍です。
「人間を信じてみようかと思います」と言って、ツキノは裁判に臨んでいきます。とことん行動の人だったツキノの口から、ただ「信じる」との言葉。
ケイの旅立ちは、ツキノの、そして作者の祈りなのかもしれないと受け止めました。
長くなってしまいました。
またお時間のある時にでもお会いしたいです。それでは、お体くれぐれも大切になさって下さいね!

* 的確に観てくれている。これほどのことを二時間の中で受け取ってくれている、正確な言葉と文とで。作・演出家は、謙遜な思いで感謝していいだろう。
ツキノをこう評価した観客は珍しいのかも知れない。アンケートではどうなのだろう。わたしは根性が曲がっているのか、ツキノの真情を好感を持って察したことはあまりなかった。ウサンくさい気がしていた。「なるほど」そう見るか。胸を少し突かれた。
この人の感想がより広い範囲へ敷衍されてゆく確かさにもわたしは希望をもつ。有り難うと言いたい。そして相変わらずしっかりと健康な声音を聴くおもいを楽しんだ。
2002 6・25 13

* タクラマカンの事。 例えば東京育ちの人には、これを実感としては理解出来ない筈。根強い差別の実態、そしてそのツケを。現に、以前長男にこれを話題にした時、頭ごなしに母親が叱られた事があります。そんな事が念頭にあるのも時代錯誤だと。けれど狭い私の交友の中ででも、これまでどれだけ多くリアルに話題に乗りましたか。
その状況に強く立ち向かう講演を聞いて強く感動し、更に彼女が中学時代の当時目立たなかった同級生だと気がついた話、永年その調停の仕事に携わり、夜昼なくの呼び出しで、神経をめためたに病んだご主人の事、私達の卒業後の中学での手に負えないツケの話、聞き合わせに雲を掴むように出向いた話、婚約が解消の話等々。
先が見えない程、遠く遠く、それでも、少しずつ好転して行くのは確かな気がします。

* タクラマカンは、必ずしもわれわれの知っているソノことと限定無く、一般に、人間社会の、日本のといわなくても、根強い人間の差別本能、たえず自分ではない被差別者をつくりだすことで自己満足しようとする不当な「位取り社会」への批判を表現しているのだと思います。だからナニを思い浮かべてもよく、領事館に駆け込む人を思い浮かべてもよく、極限に追い込まれた広義の「難民」のやむにやまれぬ渇望を描きたかったのだろうと思います。
人間が人間でいる限りは続くであろう業病です、なにかにつけて他を差別し、自己の優位を護りたいあくどい執念は。これは「時代」だけの問題ではない、「人間」の愚かな傲慢と本能の問題です。
本質的には、深い好転の望みにくいものだと思う。
イスラエルのあのエゴイスティックな暴虐も、裏返せば、歴史的な罰にはまりこんでいます。イスラエルもパレスチナも。アメリカも。
不幸にして「この国」に、近い国々との間で一度深刻な深刻な事変が起きれば、日本中が「あの国」を渇望するようなことになりかねない、とは、思いませんか。

* 作者のテーマはそうかも知れません。広義のものかもしれません。
世界の歴史は人間のエゴで始まり、人類が滅亡するまでエンドレスです。だからこそ、桃源郷を求めるのは人間の永遠のテーマであり、そして叶わず臨終が来ます。
こんなことを言える歳です。
本能の傲慢と欲望、多かれ少なかれ、私もあなたも、そしてあの人もこの人も、それを持ち合わせた愚か者です。世捨てを装っている人にも見え見えです。反面、その状況から多くの文化が産まれます。つまりは批判の対象として。
広義の被差別ではなく、ソノことと絞って考えた方が余程観客には分かりいいかと思うのですが、これは無理ですね。少なくとも、私の場合、他は考えませんでした。差別行為と、そのツケがまわってきた状況を、近辺で余程見てきたからでしょう。
今回は残念ながら舞台を観ていませんが、幕が下りた時、若い観客の何人が、あなたの言う、人間の「世界」にまつわる差別・被差別を想い描いたか、と思うのです。

* 芝居を見ている殆どの東京人が、歴史的なコトを知りません。実感している人は伏せています。
私の所へ届く若い人のメールを読んでいると、北朝鮮やカンボジアやケルトやパレスチナや、ナチの時代のユダヤ人や、日本の統治下朝鮮の、比喩的表現とみているようです。それでもよかろうと思います。
2002 6・27 13

* 能登川の甥から、わたしの生母の、最期に近かった頃のベッドにいる写真があるが観ますかと聞いてきてくれた。母の写真は一枚ぐらいは観ているかも知れないが、若い、少なくも元気な頃のもの。衰えきった母をいまさらに瞳に残すこともなく、辞退した。甥の夫人も、それはよした方がいいのではという意見だったそうだ。
2002 6・30 13

* 会議に兜町のペン新館へ出向く直前だが。
今夜のフジテレビ十時十五分(以降は毎週十時始まり)で、秦建日子が単独担当の脚本を書く連続ドラマ「天体観測」がスタートする。昨日人に読者のメールで教わり、今日さきほどテレビの予告で、他の新スタート二本とならんで内容を紹介された。失礼ながら他の二本は、ちらと場面をみただけで願い下げのクチだが、「天体観測」には小雪という若い女優が出てきて話してくれた内容、また写真の何枚かをみたかぎり落ち着いた「空気」が感じられ、ウンこれなら建日子らしいな、建日子らしい題材のようであるなと好感をもった。原作モノであるのかどうかも知らないが、彼の思いが素直に出せる設定のようであり、わるくフザケないで落ち着いた若い生活を感じ考えさせるドラマになればいいと期待をかけて、ここに触れておく。
2002 7・2 14

* 六時に終えて、今日も和食で酒を楽しんできた。建日子の「天体観測」を宣伝すると、店の美しい人が、すばらしい、すばらしいと感激して、家に電話してビデオを頼んでおきますなどと言う。うまくスタートしてくれるといいなと思いつつ、帰宅。
2002 7・2 14

* フジテレビの連続ドラマ「天体観測」の初回は、期待を裏切らず落ち着いて静かに展開した。騒がしくないのがいい。「生きた空気」がドラマを終始流れていた。当然そうあるべきでいて、こういうことは、めったに無い。ことさらに品下がる「騒ぎ演技」を客が喜ぶものと決めてかかった、フザケ芝居がたいていだ。わたしは殊にそれが、嫌い。
ドラマが、質的な自然さと、濃度を持った「空気」とともに推移していれば、見ていられる。そうでないと、ただ軽薄なツクリモノだ。
青春と青春後期を描こうとしている。大学一年生たちの思いつきで始めた「天体観測」サークルに寄った七人の仲間たちが、卒業して数年後に再開する。あたりまえに皆が幾重にも折り重なる記憶とその後の歩み・環境をもっている。設定は、普通のもので、特異さは特にないが、それが成功していて、あまり無理がない。しかも今日ただいまの現在進行形であるのも見やすい。ことに私からすれば、東工大の学生諸君の中でも一番ながい付き合いは、新任の年に入学してきた人たちで、そういう諸君の顔も思い浮かべる。今夜も、ぜひ逢いたいとメールをくれた丸山君、柳君たちの学年だ。建日子のドラマは、ほぼ今の柳君や丸山君の時点を書いているのであるから、私としては、馴染みの深い群像だということになる。一作家教授なりに、彼等のことはかなり知っている、外も内側も。興味深いのである、建日子が自分より半世代あまり若いその辺の青春や青春後期をどう描くか。
建日子は、早大在学の学生としては、学業や学問的には問題にもならない怠け者のようであったが、そのかわり、かなりワルク遊び回っていたのがこのドラマに役に立ってくるだろう。そういうのの生かせる、つまり「実感」のもてる・だせる題材を書いたらどうかね、と、よく苦言を呈してきた。人殺しドラマなんて、実感では書けないし、書くだけの腕は出来ていない。それにおよそ意味がない。わたしの目からは悉く失敗か不出来かなのも無理ない。
だが今度の題材は、いかにも建日子にふさわしい。ふっくらとした彼の美点が、すこしあわれに甘くでてくるのではないか。息子はわたしのようなワルではない。心優しいストーリーが展開するのではないか、それも、今回は適していると思う。大まじめに書いてみればいいと思う。
初めて、いろいろな意味で「安心」できて、悦んでいる。親バカであるが。
2002 7・2 14

* 「天体観測」は、昔の「夏物語」風のドタバタの軽いドラマ(これがさんまと大竹しのぶを結びました)でなく、(私は観ていませんが)むしろ評判のよかった長瀬智也主演の「白線流し」の系統で、建日子さんの脚本がしっかりしていて、これからが楽しみです。
テレビ局とは企業であるだけに恐ろしい処で、視聴率が低いと、ストーリーを変えて、予定より少ないクール数に打ち切るケースも間々あるらしい。尤も視聴率を稼いだ折には、スポンサーからハワイ旅行のご褒美が末端の裏方にまであったのを聴いています。不景気な昨今ではどうですか。
日曜日のNHKで放映の、お好きなミポリン(実は私も、昔から歌手でなく女優としてのフアンです)が、ベストセラー小説「アルケミスト」の世界を追体験して、スペイン、モロッコ、エジプトへと旅する番組がありますよ。
2002 7・5 14

* 建日子が隣へ帰ってきて一心に「書いて」いるらしい。まだ顔も見ていないが、プロデューサーの顔色をうかがいうかがい、大変なプレッシャーらしい。

* 建日子と一時間半ほど歓談。また仕事に戻っていった。遅くまでやる気か。スケジュールと進度とを聞いていると、余裕をもって書き続けるのは容易でないだろう。身体を労って、ねばりづよくやって欲しい。保谷に帰ると安心するのか、つい寝てしまうようだ。 2002 7・8 14

* チャットや掲示板はわたしには縁のないインターネット・ゾーンだが、どんな按配であるかは知っている。また秦建日子のホームページ掲示板では幾らか投書を読んでいる。それにしても彼等投書者は、なんであんなに、ひらひら、ヘラヘラした照れたような浮かれたようなハシャギそこねたような物言いが好きなのだろう。あんな言葉づかいでは、自分自身を相当手ひどく裏切っている自覚や意識に、内心で傷つくのではないかと心配するほど、チョー軽薄だ。そんな中にも、極めて稀に篤実な冷静な日本語でしっかりした意見が、感想が、書き込まれているのを見ると、その落差が、何から生まれているのだろうと考えてしまう。そして建日子の仕事が、軽い軽い浮いた声援にこそささえられているのだと、もし、したら、ウーンと唸ってしまう。それでいいのか、それでは困るのか。わたしの問題ではないからよけいなお節介は無用だが、日本語と表現の未来を考えるときは、気になる。大いになる。
2002 7・9 14

* 建日子のドラマの二回目を一緒に見た。無難であったが、二回目なりの求心的な一つの「劇」が、輪郭濃く、ほしいところだと思った。たださえ七人、八人にひろがるのであるから、身内感覚とともに求心的な核になって爆発する印象的な事件。今回も上司のセクハラにともなう一つの事件はあったのであるが、もう一突き深く痛く刺し込まれた疼く劇性があってよかったか。さもないと仲良しが感傷的に仲良しがっているという風に「閉じこもり印象」がでてしまう。独りしか乗れない船に七人で乗ってきたような身内感覚は、現代の渇望であるから訴える力はある。それだけに散漫なこまぎれにだけは陥らぬように。一回ごとのたたき込む主題性をもつといい。建日子にモーパッサンの凄い苦みを求めにくいとしても、菊池寛の短編がかかえているような明確な主題性、訴えを、一回一回持ってみてもいいか。散漫なままテンポを失したら全部瓦解する。
2002 7・9 14

* 秦建日子脚本の「天体観測」三回目を見た。よくも、あしくも、マイルド。連続ものとはいえ、一時間の読み切りとして、魅力的な主題が、芯の人物に焦点を結んで活発に活動しなくてはいけない。胸にしみるいい台詞や、人間的にいい思いや動きは概念として伝わってくるものの、一人一人の主要登場人物の頭を、まんべんなく平均的に順々に撫でて廻っているようでは、挨拶ばかり多くて劇的にダイナミックな勢いは出ない。「劇的」とはどういうことか、福田恆存さんや木下順二さんら演劇界の大作者に優れた論著がある、すこしは勉強もしたがよかろうと思う。無駄な、なくてもいいカットが多すぎるのは演出家のせいとも謂えるが、やはり脚本で削ぎ取って置かねば。ま、わるくはないが、よくもない。三回目ともなれば、全体の筋の発動に手に汗握らせる工夫が必要だろう。
小説は、原則として一人で書くが、脚本なんかは苦しいときは人に喋りまくって人の発想も頂戴してゆかねば。三回目をみてハッキリわかるのは、時間に追われて余裕がないので、場面を人間でたらい回しにして繋いでいること。そのために全体がフラットになる。いいセリフもあるので終盤に少し救われたものの、力感不足。一回一回に、作品に焦げ付き焼き付けたような強烈な印象の主題を持って欲しい。
2002 7・16 14

* 六時、寝覚めのいい朝、久しぶりだ。
三十分ほど黒いマゴと顔を合わせて話していた。ロシアン・ブルーという猫は小顔で尾が長く、気品あり、闘争心もつよいと、妻はテレビの解説で知り、マゴはピッタリだという。その系統だろうという。黒一色だから表情の全部が、小さい顔の眼に、瞳に、集約されている。しなやかに細身で、大きく太くは成ってゆかない。手や指を噛ませてやると柔らかく噛んで満足するのか、とても穏やかに馴染む。妻にはことに、わたしにも、親愛感・信頼感をみせ、しばしばアイサツにくる。幾つかのわれわれの言葉を覚え、こまかに反応するし、外で遊ぼうと呼びに来る。妻など、ご近所をいっしょに散歩してやっている。後になり先になり、ものかげに隠れ、そして疾駆して追いつき追い越してゆく。小鳥をよく捕まえて見せに来るのは、得意なのだろうか。
2002 7・21 14

* 今夜が、これまでではいちばん「劇」性をもって筋が運ばれ、場面により厳しい呼吸も優しい台詞も聴き取れた。およそ一人物に事件の焦点をしぼりながら、他の人物たちがまずまず自然に揺れ動き続けたので、四十分ぐらい経過した頃に、おやまだ二十分も残ってると、満足感があった。先日来たときに、建日子はこの家の隣棟で、今回分の為にウンウン唸っていた。一緒に三回目をみて、こんなふうに七人八人の役者の頭を順に「いい子いい子」して撫でて廻ってては、フラットになるだけでヤバイぜと、少し酷評した。それが少し利いたのなら嬉しいが。現に今夜のは、手法的に著しく改善されていたと思う。最後の方の、女のナレーションだけは、今回の女性脚本協力者の書いた詞のような気がした、が。
建日子の書いた台本で、殺しドラマでないもので、はじめて「言葉」のしっかりした或る意味「曲者」が登場した。これは初めてとすら謂える。そして、そのためにドラマに渋味が出た。これも初めてではないか。
2002 7・23 14

* 建日子の「天体観測」が新聞のドラマ時評の大きい欄で、他の一作とならべて取り上げられていた。まじめな行き方が、相応に評価されていると読めた。ドラマは、脚本だけではない。演出も演技も撮影も。だから、良くても「俺の力」とは言えない、当然だ。だが、全体の行き方が、ワルノリや軽いノリに流されずにいるうちに評価、少なくもまともに評判され始めているのは、脚本の手柄であろう、けっこうなことだ。このドラマなら、この叔父さんの仕事を、姪のやす香には、せめて見せてやってくれるといいが。
2002 7・27 14

* 秦建日子脚本の五回目の「天体観測」を見た。やはり、出演者を順繰りに転がしながら前へ送る書き方だったが、人物に馴染んできているので、引き込まれた。三十分ごろからあとへ、十分時間的に濃度をもっていた。少しずつ主になる駒を置き換え組み替えてゆく気らしい、そこに太い筋があらわれれば、いい。甘くしないで、真面目にもの思わせる路線でいい、視聴率は飛躍しないかも知れないが、観る人の胸にモチーフが記憶されるような作品に成ってゆくといいなと思う。ちょっと親父の点、甘い嫌いはあるが。

* 彼の世間では火曜サスペンスが横綱級だという。何かの代名詞のように言われてきたのは知っている。その「火サス」をいきなり書かせてもらったことで彼は幸運を得たが、火曜サスペンスを自分の気持ちで離れたことでも、転機をつかんだ。転機が幸運に傾くのか不運に傾くのか結論はまだまだ出まいが。「天体観測」へ突き当たったのはよかったなと思う。真面目で、前向きなのは、佳いではないか、ワルノリやコロシよりも。あまり時代の流行りではない、苦しい道ではあるが。だが、それならそれで、ナミの何倍も他に侵されないモノを蓄え続けねば。
2002 7・30 14

* 深夜に建日子が帰って来るという。花籠さんの牛肉を明日のお昼に三人で戴こう。
2002 8・3 14

* 前夜の内に隣に来ていた建日子と、昼と晩と、一緒に食事した。戴いた牛肉がそれはいい肉で、いたく満足した。建日子は車もあるせいかあまり飲まないが、日比谷のザ・クラブで呉れた赤いワインをあけた。
2002 8・4 14

* 夕過ぎて、卒業生の一人と約束して逢い、涼しいいい店で、心地よい、親切の行き届いた和食を食べた。ゆっくりと、いろいろ、歓談してきた。冷酒の「天狗舞」を四度も替え、美しい店の人にも何度も何度もお酌してもらい、ご機嫌であった。上尾君も勤めて五年だという。責任という二字をもう重く背負ってゆくときだ、大人だ。そのように見受けられた。同じ東工大で勉強した人も、一人一人に会ったり話したりすると、進路はじつにバラエティーに富み、さすがにと思うほど堅実に歩んでいる。
今日便りを貰った人は二人めの赤ちゃんを七月三十日に出産したと、いかにも幸せにおっとりと心優しく暮らしている。そういう人もいるけれど、大方は社会に出て、それぞれの地歩を男女の別なく占めている。老境へゆっくり身を沈めてゆく者にも、それはとても良い刺激であり希望である。
昨日は一日息子が家で仕事していた。連ドラは、好調に好評を得て、新聞などもむしろ成功例に取り上げている。真面目にやってマットウに評価されだしているのだとすれば、いいことだ。
若い人達にきもちよく席を明け渡しながら、じじむさくならずに、楽しんで過ごしてゆきたいなと思い思い帰宅した。
2002 8・5 14

* ああ、フツーのドラマにしちゃいけない、テンポ上げて。その場その場で酔わないで。そんなことを思いながら「天体観測」の五回目だか六回目だかを観た。田畑智子がひまわりの絵をもらう場面は、少し外されて、不覚にも涙を流した。ま、先の展開も読めてきているし、それなりに、わるいとは思わなかったが、スローに暗めないで。フツーのドラマに希釈されてゆくと、つらいものがある。
写真がいいように思った。
どの俳優もわるくない、女がいい。しかし、ドラマの中で自殺未遂しそうな心を病んでいる役の女優が、始まる少し前のコマーシャルだか何かで、アッケラカンとご機嫌の笑顔でおしゃれについて話していたのは興ざめした。芯にいる三人の女優は、佳い。好感をもっている。
2002 8・6 14

* 建日子の「天体観測」の今夜分は、よく動いた。批評させるヒマを与えず、批評を力で引きずって走るだけの勢いがあった。それでいて安く妥協したシーンはつくらなかった。よしよし。
2002 8・13 14

* インタネットで、妻の兄の保富庚午を検索したら、八件出てきたが、ほぼ全部が彼の訳詩「大きな古時計」関連で、熱心に褒めている記事が二つあり、妻は喜んでいた。兄の生前にはいろいろとあった兄妹であるが、もう記憶は薄れていて、そして訳詩という作品が生き延びている。作品というのはそういうものだ。小説には、歌のようなポピュラリティーはないが、やはり作品の方が長生きをしてくれるといいなと思う。ほんのすこしだけ。そして、なにもかもが埋没するのだ。
2002 8・13 14

* お盆。我が家ではなにもしない。位牌棚の前を往来のつど、心持ち丁寧に会釈している。
2002 8・14 14

* ペンの阿部政雄氏から、伝えられている米国のイラク強襲の動向に批判の声と理由とが長文で届いている。氏は中東に詳しい人のようである。言われていることは、一々頷ける。要点だけでも書き込んでおきたい、転載歓迎とある。

* アメリカのイラク攻撃をみんなの力で阻止しよう。 アラブ問題の阿部政雄です。
今、アメリカは、鳴り物入りで、イラク攻撃を叫んでいます。しかし、この大義名分のない対イラク軍事行動は国際的に支持されていません。
いかにアメリカの軍需産業と巨大石油資本の営業部を務めるブッシュ政権が焦りに焦っても、軍事行動に踏み切れるかどうか、大いに疑問です。犯罪的に他国の内政に干渉するアメリカの自己中心主義に(ユニラテリズム)は、諸国民の力で、何としてでも止めさせなければなりません。
何としてでも、何とか日本を引きずりこもうというのが「有事法制の大きな狙い」である以上、このイラクへの軍事行動に日本が参戦することは、日本の将来を破滅に導くことになると力説したい。
アメリカは、今度こそ、小泉首相が「アメリカに全面協力」を表明しているのをもっけの幸いに、イラク攻撃の経費もしこたま上納させ、また今度こそ、日本の自衛隊(正確には他衛隊)を何かの形で参加させ、日本もやはり帝国主義国家に過ぎないという実証を、中東アラブ諸国民の前にさらけ出させようとしてしているのです。
アメリカの戦略は、イラク攻撃への日本の参加により、「手の汚れていなかった日本」を「アラブの血で汚れた国」としてアラブの歴史に記録させ、これまでの親日感情を反日感情に切り替えさせ、伝統的に欧米諸国の市場であったこの地域から、日本を追い出してしまおうという、どす黒い戦略がイラク攻撃の中にセットされていることを知るべきです。
結論として言いたいのは、アメリカのイラク攻撃には、日本の経済的破滅、アメリカへの従属化促進が込められており、この意味から、決して海の彼方の問題ではなく、日本人の命運がかかっているのです。 この意味からも大義なきイラク攻撃は阻止しなければなりません。阻止に成功することは平和と民衆勢力の大きな跳躍台になることでしょう。
他国に干渉し大量殺戮兵器を降り注いでぼろもうけをし、破壊し尽くされた国土の復旧や犠牲者の手当は、日本などアメリカ衛星国に任せるという、得手勝手なアメリカの政策を糾弾しましょう。 私たちも、世界支配を目論む勢力に対抗しうる平和のための戦略を構築しましょう。(転載大歓迎・阿部政雄)

* およそこういうことだろうとは、日本国民の多くがすでに察しているが、動いているわけではない。

* 動く、とは、どういうことだろう。長崎の高校生達が、核への抗議の「一万人署名」に立ち上がり、数次にわたり活動して、着々と成果をあげ、活動を後輩に引き継ぎ、国連にもちこんでいた。テレビレポートを、最近見た。卒業した生徒は大学生となり、めいめいの大学に運動をおし拡げていた。熱いもののこみあげるのを感じた。
動く。その原動力は「学生」こそが持ちうる。そう思う。あの高校生たちに有るエネルギーが、大学や社会に浸透してゆかねば、いかにものの見えた老人たちが声をふりしぼっても、老人力の組織されていない今日では、たんに横町のご隠居政談にとどまるだろう。
「一万人」ぐらいの署名で何が動くかと冷笑している若者や大人もいた。だが実際は、もう遙かにそんな数字を越えている。そして問題は数字だけでは、ない。「百万人」「千万人」に成ってゆきうる、国際的にもなって行きうる最初の「一万人」いや「百人」「千人」だったと信じられるし、その一つ一つの数字が帯びる「意志」に意義がある。これは、太平洋の水をスプーンですくって干す徒労行為とは、ちがう。少年多聞丸のあの楠木正成が、村の大人や子ども達に教えたという、大きな釣り鐘を小指一本でも必ず動かせるという、そっちの動きである。炒り豆からも芽が出るという動きである。だが「動き」は、若い力が核に成らねば続かない。
秦建日子の描く青春ドラマ「天体観測」の友情は、七人八人の「身内」感情の純化と発現から、どこかへ「動いて」ゆこうというのだろう。が、まだまだ彼等のエネルギーが、政治的なそれへふくらんでゆく意図や可能性など、ちっとも感じさせない。自分と自分たちとの「関係」のなかで、擬似家庭・擬似家族ふうにお互いに身をまもり、心を養おうとはしている。それは或る爆発力を秘めた本質志向の一発現ではあるが、だが、今のところ彼等は、すこしも、まだ、悪しき「公」と対峙し「私」の生気を、それへ向けて打ち放つ意識も気概も責任感も示していない。その意味で、やはりこれはある種の擬似「ホームドラマ」擬似「私小説」の域を出ていない。一隅を照らして懸命であり誠実ではあるが、時代が「動く」という意味では、非生産的で純情そうな「友情ゴッコ」の域にある。その域内のモノとしては、よくやっている。好感が持てる。
だが、このままで、何か強い「批評」に成りうるのだろうか。
高校生で出来たことが、大学ではうすれ去り、社会人になるともうそれどころでなく日々に奔命を強いられ、フツーに慣れて小さく人間もしぼみかねない。ここが大事だが、実は、そうさせ、そう仕向けている「力」「黒い力」が現存しているのに、それへ鋭い視線と意識が届かないのである、若い人達の多くがそうする気持ちを放棄してしまっている。すぐ諦める。棄権する。その状況こそが、ともすれば鈴木宗男などの暗躍を恣にゆるす、うまい汁の土壌となっている。「天体観測」の若者たちは、気付いているか。作者はどうか。
2002 8・14 14

* 炎天下を隣のひばりヶ丘駅まで用足しに、二人で出た。銀行の用は簡単にすみ、ちかくの「ビストロ」でランチを食べてきた。それが目当てであったし、ステーキもポテトサラダも旨かった。自家製のよもぎパンもママレードも。妻のとったソーセージをすこしへつったが、これが旨いので、すこしヒガンだほど。小さい小さい瓶の赤いワインを二人で分けた。いや、大方をわたしが呑んだ。最後がホットコーヒーだとよかったのに。
茄子のスープには閉口したが。夏はどの店でもやたら茄子をつかう。心知った馴染みの店だと茄子ははずしてくれるけれど。「茄子はダメ」というと、きっと誰にでも何処ででもわらわれる。しようがない。少年時代をひきずっているのだ、茄子は煮たのは論外、焼いたのも、味噌のも、揚げたのも、全然受け付けない。漬け物だけは食べられる。他のたいていのものは、ピーマンでも唐辛子でもカボチャでもニンジンでもまあまあ食べられるようになったが、茄子は金輪際いや。
2002 8・15 14

* それはそうとして、秦建日子に聞いてみたいが、「天体観測」の彼等は、総選挙には投票してきたのかしらん。11桁の番号を背負って、ブライバシーもお上に管理されるだろうことなどに、めいめいの意見をもっているのかしらん。読んだ本や観てきた映画や芝居について、また国際社会やテロや戦争の危険について、まるで蔭でも語り合われている印象がない。気配もない。誰と誰とがもっとといったメロドラマ次元でばかりでなく、ほんの少し、ほんのもう少しでも、短い短いセリフからでも、彼等の知性や思想にふれた片鱗をみせてくれると、作品は、より豊かにしっかりしてくる気がしているが、どんなものか。
ばかにするわけではないが、尊敬もしないが、テレビ関係のホームページなどに入っている「天体観測」むけの投書を少し覗いてみると、まるで「金色夜叉」の昔このかた、新聞や雑誌の投書欄に満載されていたという、(わたしは、国民学校の三年生まで母や叔母の婦人倶楽部などで、そういう実例を、子ども心に呆れながら、覚えこむほど読んでいたのだが、)誰様と誰様の運命はいかに成り行くのでございましょう、誰様と誰様とをぜひぜひ結び合わせて下さいまし、私は心底あの邪悪な方を憎みます、誰子様を苦境からお救い下さるよう茶断ちして祈っておりますの、作者の先生様、どうぞお聞き届け下さいませ、なんどという類の「現代版」ばっかりなのに、驚嘆また呆嘆してしまう。「そんなことをやっているのですよ、我々は」と、ま、関係者は口では平然と笑い飛ばすであろうし、それはそれで「商い」ではあるだろう。
心配なのは、作り手のことではない。こういう投書ヤングたちの選挙権行使や基本的人権意識のことである。こういう若者達の、投書までして熱しているこのエネルギーは、一体どのような性質の社会的なちからになるのだろう。
それとても、「若山牧水の二十六歳と同じさ」と言えるのかどうか。言える気もするし、言えない気もする。すくなくも、用い得ている日本語の「質」がまるでちがっている。「天体観測」の若者達の年齢は、今日逢って話し合ってきた東工大卒業生と追っつかっつであるが、作者はかなりよくこの年齢に迫ってはいる。だが、この欄の最初に書いたような不審を、わたしは、捨てきれない。まして、夭折した詩人立原道造の「詩」の美しさや優しさや深さを思い返すと、なぜか、息をのむ。「たちはら みちぞう 詩人 1914.7.30 – 1939.3.29 東京日本橋に生まれる。 室生犀星、堀辰雄に師事し十八歳頃から本格的に詩作を始め、東京帝大建築科に進んで三年連続辰野金吾(建築)賞を受けた。ソネット形式の作を多く試み、昭和十二年(1937)卒業後の五月と十二月に二つの詩集を刊行、美しい遺作となる。 中原中也賞。 享年二十四歳。」
こういう天才と比較してくれるなと普通は言うであろう、が、青春の真の誇りは、じつはそう思っていても、そんな風には口にしないで、踏ん張るのである。ドラマの人物に自分を一体化させ一喜一憂している、そんなヒマの本当はまるで無いのが「青春」であった。そう、わたしは思っている。
2002 8・17 14

* わたしの場合はあまり適例ではない、たいてい独りの世界を経営していたいたから。学校時代で心身に刻みの深いのは中学三年間くらいで、たとえば大学は、同じ専攻の妻と四十何年も暮らしているのだから、その余はごく普通につきあっているだけで、友人達とも容易に逢えるわけではない。過去のよりも、いつも今の知り合いや出逢いを大事にしてきたから、それもわたしはあまりべったりとは付き合わないから、ま、さらさらとしている。冷淡ですらある。「天体観測」の七人のように、同じ大学で四年を過ごし、卒業しても奇跡的に近くに暮らし、ひっきりなしに携帯電話を鳴らし、職場や私室にまで訪ねあいという、あんな「奇跡」的な相互熱愛には、、だから愕く。ま、ドラマの勝手にすぎない、そういう設定が都合がいいということだろう、それでも構わない。
だが、「どちらかと言えば(政権や法律から)永くリスクを背負う若い人(大学生等)が積極的に立ち上がらなければならないのに、幼児化、政治離れした大半の若者は、ヤワで、念頭に何もありません。これがどうしようもない日本の現実です」という母親からの慨嘆を、彼等はどう聞くか。聞く耳は無用か。大人達は多くそこに若い人の選択を見たい気がある。
色気になにより価値を置きたい年代であるのは、百も千もわたしは承知し、生身で覚えている。男はとくにそうかと思う。だが、七人、八人の全部がそうでなくても、会話や態度の片鱗に、日々色気ざかりの価値観を相対化する「おや」と目の光り耳のそばだつものが、現れ出ても佳いだろう。そもそも彼等の年頃、自分の行く末を思って、今の今を自己批評するのにわたしは精一杯だった。すでに家庭を持ち、小説が書きたかった。国会へのデモにも参加し組合運動にも仕事にも不熱心ではなかった。
ドラマの一人の青年は、この危機の時世の零細企業との付き合いに若きコンサルタントとして辛苦している。いい表現だと思う。後輩一人との協働にかすかな責任も帯びて働いている。また犯罪社会と紙一重のうしろ暗い蠢動があり、ひとりの青年は自らその蟻地獄に身を投じて、友人の苦境を救っている。それもいい、リアリティーはある。だからそれでいいじゃないか、それで上等だよという気があるから、新聞でも幾分かは好評である。だが、そうかなあと思っている大人の批判の投書も新聞には出てくる。まじめに友情しているけれど、視野狭窄はないかと。彼等は果たして選挙に行くのだろうかと、少なくもその一点にわたしは確信が持てない。選挙なんか、とは、だが言われたくないのである。
2002 8・19 14

* 霧が降るように気持ちが冷え込む。
何をしに毎朝起きてくるのだろうと、ほとほと苦笑いされることがある。
今朝は痛烈な右足ふくらはぎ攣縮に大声で悲鳴をあげて目覚めた。とっさに足指を反るのか曲げるのか分からず、第一手が足指へ届かない。妻を呼び立てたが、うろうろして、ふくらはぎを撫でさすってくれたが、撫でてさすって軽快するようなこむら返りではない。声を放ち、脂汗をかいた。あんな痛い思いをするなら、寝入ったまま目が覚めない方がいい。
一瞬の好機にすうっとこの世から消えてしまえるなら、どんなにいいだろうと思う。
もう昔だが、本を読んでいたら、あるえらい坊さんの失敗譚が出ていた。坊さん、崖の下に庵を結んで行い澄ましていたが、天災で崖崩れし瞬時に庵もろとも生き埋めにされた。坊さんは、かつがつ救い出されたが浮かぬ顔して喜ばない。弟子達が聞くと、あのとき自分は南無観世音と祈った、それで現世利益の観音様は救い出して下さった。あの瞬時に南無阿弥陀仏と唱えていれば西方浄土に迎えられたであろうにと不服顔だったというのである。
これを読んだとき、面白い話だと思った。死は一瞬の好機、坊さんはそれを逃した。だが助かったのなら素直に喜べばよかろうと、今のわたしは、思う。へんな坊主だなと思う。
それにしても、この坊さんは、そういう瞬時に自身の無理なはからいでなく出会えたのだから、ほんとうは無類の幸運に接していたのだ。自分から走る電車の下に飛びこんだり、ひどい薬を飲んだり、どこかにぶら下がったりは、好機でも何でもない。ただの負けである。負けでも構わないから、と、思うときがいちばん、人間、危ない。
自殺した兄は、昔に死んでいた母が、つまりわたしの生母であるが、自殺であったと死ぬ日まで考えていたようだ。そういうことを彼は人から聞いていた。われわれは三人とも、まるでばらばらに生きていて、お互いの日々とは甚だ疎遠であった。だからよく事情は分からないが、母の最期の時期を知っていた若い同志社の神学生、のちに牧師になった人は、「自殺だなんて」とわたしに顔色をあらためて話してくれた。聞きように由れば、だが、母の自殺を否定したのか、キリスト者として否認した物言いなのか、今にしてちょっと分かりにくい。兄の方が確信していた、わたしは、どっちでも仕方ないと思ってきた。「十字架に流したまひし血しぶきの一滴となりて生きたかりしに」というのが母の辞世歌であった。母は、身動きのならない大怪我以来の重症であったように聞いている。死ぬ少し前に友人の助力を得て、一冊の歌と文の本をかろうじて出版にこぎ着けた。覚悟していたのだろう。
それにしても自殺には、いたましい無理が感じられる。母にも兄にも、妻の父親にも、それを感じる。自分の気持ちに冷たい霧が降ってくるとき、わたしは、心して、そこから身をもぎ放して逃れようとする。もっと放埒に、もっと無頼に生きたいと願うことにしている。バグワンに多く深く聴き続けているのが、わたしを救い出してくれる。
2002 8・19 14

* 汗を流して隣家の書庫で、重い本を山のように動かし整頓してきた。玄関に運び込まれたままの未整理本が邪魔になってきたので。ついでに、息子にも貸している書斎を、わたしもいつでも使えるように、息子のもちこんで積み上げた、雑然たるダンボールや紙袋の一山二山を息子の部屋へ移動した。五反田のマンションから遠慮会釈なくこっちへ持ち込んだまま、整頓も処分もしないものだから、置いたら置きっぱなしなものだから、おまけに同居人の衣類まで持ち込んであるのだから、堪ったものではない。たださえものに塞がれて狭く、気持ちの落ち着ける場所が家のどこにもない上へ、我が家を都合のいい物置かのようにして、自分たちの不要品を運び込んでくるものだから、共用を承知した書斎が、まるでゴミ捨て場と化している。すぐとなりにはもともと息子の、余裕のある自室があるのに。
おかげで、少し運動したことになる。
2002 8・20 14

* 昨日小林秀雄について、安岡章太郎氏と粟津則雄氏との対談を読んでいた。読み終えていないが、興味深かった。粟津さんが京大生の頃に、小林さんに来てもらい小人数で話を聴いた。熱心に聴いた。酒になってまた話を聴いた。一晩では残り惜しくて堪らず、もう一晩飲みたいとせがんだら、いいよと、もう一晩飲んで話を聴いた。そういうことも話されていた。
心に飢えを抱いた若者達は、機会をえれば縋り付くように偉い人の、尊敬する人の、話を聴こうとした。そして質問した。された方もよく答えた。
芹沢光治良の「死者との対話」もそうだ。やがて人間魚雷「回天」に搭乗し自爆の決死行に出撃してゆくような学徒兵らは、必死の願いをこめて「哲学」に安心を求めたが、世界に誇るという我が国の哲学者の日本語は、何一つ生死の悩みに答えてくれない、チンプンカンプン以外のなにものでもなかった。彼等は悔し泣きしながら、時代に追い立てられて戦場へ散っていった。戦後の青年達も、同じことを訴えて、哲学「学」の先生に迫って、かの西田(幾多郎)哲学の弟子に迫って、哲学言語の効果のなさに対し鋭く非難した。彼等は死ぬか生きるかの瀬戸際で「問い」かけ、答えは哲学からも宗教からも得られなかった。だが彼等は「問いたい」思いに駆られていた。
粟津さん達もその世代であった。わたしよりも半世代ほど先輩になるか。
息子の書いているドラマを観ていると、そこに小林秀雄や芹沢光治良のような大人はまったく影もささない。先輩すら一人も出てこない。なにもかも仲間内で処置しようとしている。
わたしの息子は早大法科の四年間に出逢った、只一人の尊敬し敬愛し感化された教師などいなかった、いない、と断言する。彼等の氏名すらほとんど記憶にないという。事実彼の口から早稲田で教わった先生の良くも悪しくも「評判」を、一度としてきいたことがない。称賛も批判も一切一度もない。一つには息子自身の至らぬところも有る。が、彼にも、尊敬ないし敬愛した作家や音楽家や劇作家や脚本家達はいる。それは聞いている、それとなく。つかこうへいなど、終生の恩人・恩師であるだろう。
だが、例えば早稲田は天下に聞こえた演劇博物館のある大学だが、彼は、一度としてそんな場所に足を向けたことすらないのではないか。彼は、能にも歌舞伎にも人形にも、近松や南北や黙阿弥にも、いや井上ひさし以前の劇作家達の誰にもほとんど関心がない。知識もない。必要ないとすら云い、それで、やっている、やっていけると、そう思っている。彼等は「問わない」のではないが、「問うに足る」大人達がいない、少ないとは思っているのだろう。
若い人達の生き方が、昔のママではない如実なこういう表れに、わたしは、ただもう、じいっと目を向けているだけだ。

*「天体観測」のつづきを見た。ま、ほぼ予想通りの筋書きで事が推移している。そこは三十数年人一倍観てきた親だから、作の手の内など、いろいろ想像したり推定したりできるのが、人とはちがう面白さ。例えば知也といったか、彼の部屋の天井に星がきらめいている。あんなにどでかい星ではないが、現にいまわたしのキーを叩いている部屋の天井一面に、ちいさな銀色の星たちが、なかなか巧みに配置し貼り付けてある。中学の頃か、高校に進んでいたろうか、いやこの部屋を建日子が占領していたのなら大学生であったかも知れないが、留守番をさせて親が留守しているうちに、ガールフレンドと二人で貼った「作品」だ、新しいうちは電灯を消すと一面に発光した。
あっちこっちに微笑ましく想いあたるあれやこれやが、作者なりの思い入れであろう、適切に使われている。想えば息子は多彩な生活をしていたといえるらしい、そしてそれを今しも必死に役立てている。
2002 8・20 14

* 黒川創と妹街子が、亡き父親北沢恒彦(わたしの実兄)の遺業の一部を、本にして出すらしい。そういうことには、表向きも裏向きもわたしは関わっていない。創ら子ども達が、力合わせてすればいいと思うから。兄の表の生活とわたしはほんとうに無縁だった。なにも知らないと同じで、今になれば何が知りたいとも、もう思わない。記憶の中にある兄、それで十分。出た本が、彼を敬愛していた人達の手にやすらかに伝わるのを望んでいる。『家の別れ』一冊と他に何冊か兄に貰った著述が手元にあり、かなりの手紙も蔵われてある。それでわたしは足りている。

* ほんとうは、兄の書いた文章を、たとえ私宛の、私に語りかけた手紙だけでもいい、「e-文庫・湖」の第一頁に、少しでもいい入れたかった。この「文庫」は兄追悼の気持ちで立ち上げた。だが、間際になって、息子の黒川創(北沢恒)から、「著作権」が絡むのでと断られてしまった。わたしに宛てられた兄の手紙も、著作権は未亡人と遺児三人にあるという。いちいち断るのはあまり面倒なので断念し、肝心の兄の文章は「e-文庫・湖」に何一つ載せ得ていない。湖の本20の『死から死へ』に、兄からの最期の時期のメールを編修して掲げたのが、創に断られるより以前のことで、まかり通っている。ずっと以前に単行本の中で往復文書に仕立てたものもあるが。
で、余儀なく、兄について書かれた文章を、代わりに、よそから戴いてある。兄の自決は1999年もう晩秋であった。前世紀の人で終わった。死んだ人は生き返らないんだ、と、つくづく思う。
2002 8・22 14

* 秦建日子脚本の「天体観測」もう九回目を観た。演出のせいかどうか、前半の六割程度がいくらかテンポ崩れで、ギクシャクと流れがわるかった。おいおい、間が延びてるよと声を掛けたかった。しかし、内縁関係の妊娠出産問題が、恭一の母とユリとに二重に出て、さらに突然出現の実父との対面という、ま、此のわたしには覚えのある場面が出てきたりして、後半の三割四割の所は引き込まれた。
タケシの会社でのサイバー犯罪めく動きにも興味をもたずにおれない、どういう陥穽がタケシに仕掛けられ、どう這い上がれるのか、七人八人の中でいちばん陰翳もあり興味を持って観ているのはこのタケシ君なので、電子メディア問題にどんな切り口を作者がみせてくれられるものか、残り少ない先が楽しみだ。
アンマリドマザーについては、実を云うと「秦サンには隠し子がいるのじゃないですか」と本気で人に言わしめようとばかり、不思議な小説を幾つか書いてきた覚えがあるので、むろん関心はあるが、体験的にはやはり実の親たち、生母と実父とのことで、ちいさい頃からわたしは揉まれてきた。生母の出現を厭悪してガンとして受け入れない少年・青年時代をもち、あげく、死なれていた。そして小説では「母」ものも書いた。だが「母」なる観念は愛したが、生母を愛したとは到底言えなかった。実父の如きは徹底して拒み続けた。会いたいという働きかけは母からも父からも執拗なほど続いたが、わたしにその必要はなかった。
母はさきに死に、父はわたしの書く「母」ものを読んでいた。二人の親を共にしていた兄とも、わたしは四十半ばまで、いくら会おうと云ってきても会わなかった。必要がなかった。「必要」が生じてからは、兄とは交際したが、兄の子の恒=黒川創と顔を合わせていた方が遙かに数多い。それでも、やはりわたしの方に「必要」が出来て実父とも会った。妻子を除いたあらゆる肉親の中で、いちばん最後に、一度だけ父と川崎の小さな寿司屋で寿司を食い、異母妹夫婦のマンションに連れられた。
あの日の記憶はくっきり隈なくとは言えないが、印象は鮮明に残っている。今日の恭一クンのように、あんな簡単なものではなかった。わたしの父は父親がって、少しカサにかかってきそうなのを、終始冷淡なほど気持ち突き放し気味に、最後まで「あなた」はという風にしか喋らなかった。懐かしくも嬉しくも有り難くもなかった。行儀はわるくしなかったが、それが他人行儀ということなのは承知していた。父を喜ばせたい気持ちは湧いてこなかった。まして「おとうさん」などと云いはしないで別れた。次にあったときは父は死に顔であった。死なれてみれば取り返しは附かないが、何を取り返したいのか、そういう実体は無かったようだ。感傷はあったが、生母の時と同じく急速に過ぎていった。あんなに親しまなかった秦の親たちの方へ、今は思いははるかに濃いし、深い。それが自然だと思っている。

* 恭一クンに皮肉をいうわけではないが、あの父親役は、正装した紳士の顔であらわれて、他人行儀であった。それを節度というか演技というかは別として、もしも彼がホームレスのようでいても、あんなふうに受け容れて来たろうか。第一、あの段階で恭一を煩わしてまで遠くへ呼びつけて逢いたがる父親の心理が、読み切れない。彼には、あの恰好であの「顔」の利く現状なら、恭一と同年齢に近い異母きょうだい達との「家庭」もあるはずだが、それが捨象されたままの出会いなど、嘘くさい。親子だからこそ感じる激しい生理的反感──子供の頃にわたしは養家へ押し掛けてくる生母にも、また実父にも、どうしようもない生理的な厭悪を禁じがたかった。どうだっていいじゃないか、そんなもの、居ても居なくてもたいした問題じゃない。わたしの「身内」思想はそうして生まれ、そうして小説を書かずに済まなくなった。

* あと三回で終わるとき、わたしたちは、わたしも妻もの意味だが、息子の初の渾身作・力作との別れを寂しく感じるだろう。ともあれ、建日子が頑張ったという思いを嬉しく思えるのは、なんだかとても矛盾し撞着した父親の感想のようだが、これまた実感だ。高名の木登りは、木から下りるまぎわになって気を付けよと子方に注意するそうだが、わたしは、そういう人ではない。いつ最期を迎えるか知れない命であるから、いつも、現在只今の「言葉」を遺しておく。そしてやがて現在只今の「沈黙」でコトが足りる親子になれるかどうか、それは分からないが、そうありたいと願っている。
2002 8・27 14

* 秦の父がなくなって、まる十三年になる。昨日のことのように思われる。
2002 8・29 14

* 歯医者から新宿へ出て濁り酒を二合呑み、八海山を少し呑み、焼酎の無一物を呑み、保谷の駅でビールを呑んだ、明日は診察日なのに。べつに何という理由はなかった、ま、父の命日だという思いがあり、酒の飲めなかった秦の父にかわって呑んだというような理由にも成らないことを書き留める以外にない。夕食も食べずにぐっすり寝た。目覚めて入浴。寅さんの映画は敬遠し、小林秀雄の戦時中の講演録を読んだ。小林さんに、名刺に「謹呈秦恒平様」と自筆の添ったのを挟んで大著『本居宣長』を頂戴した。ふしぎなことだ、今頃、わたしは小林秀雄を読んでいる。
2002 8・29 14

* 魯庵、当時は不知庵主人と名乗っていたが、彼と同世代、むしろ一つ二つ年長世代の若者達の「天体観測」十回目を、いま観た。美冬の動きに少し過剰なギクシャクを感じていた。トモヤ君のきわどい演説にも、とくべつ動かされるものはなかった。あの「反則」演説はわたしにはバカバカしかった。
わたしも、あのようにして、一日のうちに突如「時の人」になり、各新聞に出、受賞発表の桜桃忌には七時のニュースにさえ名前を読まれていたそうだ。はでな記者会見もあった。だがあの受賞にも、強いて云えば反則に近いことがあった。わたしは応募して候補に挙げられていたのではない。知らないうちに知らない人達の意向で作品が最終候補に差し込まれていた。わたし自身の反則でも異例の行為でもなかったが、何にせよ、わたしはそんなことには毫も斟酌しなかった。人生は面白いなと思ったし、それまでの自分の意志と希望とはきっちり生かされていたからだ。
トモヤの反則記録とて、あの深海での苦しい間際での朦朧とした逸脱行為であり、そんな反則自体も彼の体験としてはよく生きた。それでよろしい、マスコミが勝手にもてはやしたのは、マスコミの意志でしかない。何を抗弁しても引っ込むようなマスコミではない。
ことニュースになるものなら、是であれ非であれ、それはそれで食い物にして歓迎するのがマスコミというものだ。話し方次第とわたしが言うのは、そこである。その話し方にこそ、トモヤ君は「個性」を発揮すべきであった。あれでは人物が小さい。ハイヤーに乗せられて運ばれるトモヤが、既にして囚人かのようであった。あれこそ自分の責任である。溌剌とした劇的展開とは言えない。
それよりもタケシ君たちのペアに、心を惹かれる。ああいう詐欺がらみの犯罪蟻地獄は一つ間違えば「普通の市民」を手ひどくまきこむ。能力があればなおさら利用されて物騒だ。タケシとユリが、どう力強く乗り切って闘うかは、脚本家の腕の見せどころではないか。気になるといえば、そこだ。とんだ悲劇が来るのではないか。何にしても安易にして欲しくない。
恭一の前の上司、恭一の前の後輩、サトブーの夫。タケシたちを脅しに掛かる男。ああいう人達の心の内にこそ「天体観測」を支えるリアリティーの巣がある。
あの上司は恭一を意図して絞っていた。わたしでもああして部下を絞ったし、また絞られる立場にいた頃は、ガンとして頑張った。
あの後輩のような薄いヤツは、どの社会にもいて、本人だけが気付かずに自分自身をじつは痛めつけている。ああいうのも、いる。そして、ああいうのと、どう汚染されないよう距離をあけつつ必要に応じて付き合うかは、サラリーマンなら身につけるしかないテクニックである。
ああいう夫は、いたるところにいる。じつはああいう妻もいたるところにいる。結婚とは、水を満杯にした器を二人で持ち上げて、幾山河をも越えて歩き続けることだ。そのうちに余儀なく水はこぼれて減る。からにする夫婦もいる。ひどいのは、片方が手を放している。両方で放してしまっているのも、いる。
サトブーの夫婦は、夫の方は、はじめから水盤を持とうともしていない、妻一人でウンウン言って運んできたようなものだ。ああいう夫はじつにリアリティーがある。むしろああいう妻の方が、かなり無理している。
タケシを追い回して使ってきたあの男には、ドラマの最初から心惹かれていた。役者もいいが、ああいう存在はさながら「現代」である。善意を装った凶悪な悪意。そのシステムがフルに活動したときの怖さ。「天体観測」が伝えている現代像のあれは最たるもので、比較すれば、若者達のいささかデレデレとしたドラマは甘く、展望にも乏しく、無理に求心的に求心的にと仲間に仕立てられている。友人というのは、激しい遠心力で離れてゆくエネルギーも持ち合わねばならないのに。
ただ、ま、生真面目にやっているので救われる。それは裏返すと、観ていて「疲れる」ことでもある。疲れてもいいから、真面目にゴールを突き抜いて走って貰いたい。「2002年9月」という再現実の時点を麗々しく示していたと思うが、それならば、彼等の関心に首相の訪北朝鮮、田中康夫の長野県知事圧勝などの影も差さない、差しようもないことが、ま、いいけれど、気にはなる。こういうこと、おまえたち「何、考えてんだ」と。躍起になって考え考えしているようでいて、意外にそれがよく見えてこないドラマだ。

* それからすると斎藤緑雨の「わたし舟」は、ごくの短編小説だが、すごい。舞台を観ているように心から失せない。書いたときに著者は、「天体観測」のライター、秦建日子と同じ三十四歳だった。緑雨が文才を示したのは十二歳ごろであった。わたしの息子が初めて「思想の科学」に原稿を寄せたのもそのような年ごろだったろう。緑雨は正直正太夫と名乗り、超絶の辛口批評家であった。「箸は二本、筆は一本」と言った。

* ついでながら今ひとつ加えておく。うら若き政客たりし岸田俊子が、皇后の侍講の地位を去り、決然決起して女性解放・女権拡張を江湖に訴え、演説会の華として大評判であった頃の漢詩である。さきのものは、宮中に満十六歳で入っで二三年、明治の政治に激しい違和を感じた頃のものである。世は堯舜の聖代を言祝ぐかのようでいながら、此の明治の御代のどこに堯舜の政治があり、どこに心楽しき堯舜の民の平安が見られるかと喝破している。二十歳以前の作である。
次のは、前書きの通り。「学術演説会」とはいえ、女性の解放を凛々と説いたのが咎められての投獄であった。この時の詩編は数多いが、最初の一編を意訳した。一八六三年に生まれて、初めて投獄されたのは丁度二十年後であった。

* 宮中読新聞有感 宮中に新聞を読みて感有り
宮中無一事   宮中 一事とて無く
終日笑語頻   終日 笑語頻りなり
錦衣満殿女   錦衣し殿に満てる女
窈窕麗於春 窈窕とし春より麗し
公宮宛仙境 公宮はあだかも仙境
杳々遠世塵 杳々と世塵を遠ざく
幸有日報在 幸いに日報在る在り
世事棋局新 世事も棋局も新たに
一読愁忽至   一読忽ち愁いは至り
再読涙霑巾 再読涙は巾を霑せり
廉士化為盗   廉士化して盗となり
富民変作貧 富民変じて貧となる
貧極還願死   貧極つて死なんとし
臨死又思親 死に臨みて親を思ふ
盛衰雖在命 盛衰は命なりと雖も
誰能不酸辛   誰かよく酸辛せざる
請看明治世   請ふ看よ明治の世は
不譲堯舜仁   堯舜の仁に譲らねど
怪此堯舜政 怪む此の堯舜の政に
未出堯舜民 堯舜の民未だ出ぬを

* 明治十六年十月十二日、学術演説会を滋賀県に開けるに、はしなく警察官吏の拘引するところとなり、留めて監獄中に送らる。斜雨柵に入り寒風骨をきる。此の夕べ母は旅窓にあり、余は思ひ構へて夢見る無く、たまたま詩を賦す。

仮令吾如蠖曲身   たとへ吾れ蠖の如くに身を曲ぐも
胸間何屈此精神 胸間何ぞ此の精神を屈せんものぞ
雨声無是母親涙 雨声は是れ母親の涙には無くして
情殺獄中不寐人 獄中に不寐の吾が意志よ強かれと
2002 9・3 14

* 夜、建日子が来た。書き上げたらしい、それならと取って置きのシチリアのワインを抜いて乾杯した。ソニーの、すてきにカッコいいデスクトップのパソコンを買ってきたのを、見せてくれた。わたしの持ち物のソフトなどをインストールしていたが、一段落のアトの疲労が溜まっている様子。早く、となりへ寝に帰った。

* 仕事は毀誉褒貶が普通。そのことを措いていえば、息子は真面目な仕事をした、なんとか書き上げたという気分の良さでいるのだろう。もう過ぎたことは早く忘れ、また深呼吸して、静かに次へ向かえばよい。前作模倣のマンネリにはならぬように。
2002 9・8 14

* さてドラマ「天体観測」の十一回目は、終わる所で大失敗したと思う。
タケシが、ワルと取引をして警察へ自首するまでは我慢してもいい、が、警察の前まで来て、背後から突如刺されてしまうという安易さには、ガッカリ。警察の前はそれなりに人目も人通りもあるし、そんな路上で人を刺すようなプロの殺し屋はいない。素人の犯行であるが、しかも一刺しで倒しているのも安直だ。
それどころでなくいい加減なのは、医者も半ば見放したほど重篤瀕死の患者が、一夜明けて、かろうじて意識をいくらか取り戻すまでは、ま、あり得たとしようが、その直後の患者の、明晰そうな認識や、信じがたい身体能力や、危険な脱治療行動は、医学的にあまりに信憑性がない。更にそればかりか、大学出のおりこうさんがあれだけ人数揃っていて、一人として、反射的に医師や看護婦を呼び立てないまま、ついに医師も看護婦も影すらあらわさないまま、金切り声に包まれてタケシ絶命なんて成り行きは、あんまりリアリティーに欠けて馬鹿馬鹿しく、三文小説以下のダサイ場面となってしまった。
金切り声の友情や心配は、なにより医療の原状回復に繋がらねばお話に成らない。医者や看護婦を欠いたまま、いくら友情や愛情を籠めて名前を呼んだとて、絶対必要な医療上の処置を速やかに回復しなければ、前夜の医師の下した診断と憂慮とは無意味なムダごとになる。
タケシに自殺の意志がもともとあったのなら、死にぞこねたと知って暴発したとも言えるが、それなら自首には行かず海辺の小屋で死んでいる。生死の境からわずかに意識を取り戻した患者の一時的な錯乱は錯乱としても、それならなおさら、真っ先に「お医者さーん」「看護婦サーン」と金切り声を揃え、誰かが部屋から飛び出すのが緊急の一番適切な行為で、ただもうタケシの名を呼び立てていた彼等は、冷静を欠いて愚かというしかない。幾呼吸か遅れてサトブーが緊急ベルを鳴らしていたようだが、これがまたあの騒ぎで結局一人の看護婦もとんでこない。どんな病院なのだ、これは脚本家も演出家も、どうかしている、あまりにいい加減ではないか。
つまり、こういう仕儀になる。殺人は、刺した犯人によっては「未遂」であった。殺人は身内そのものの友人達によって実現したのである。事実裁判では、刺したのは致命傷ではなかったと判断されるだろう。「友の死」と題していたが、これは明らかに「友達による死ないし殺人」でしかない。何なんだ、これは。

* という次第で、いつのまにか、また何曜サスペンスばりの殺しドラマが、ユニークにも愚かな愛の殺人劇に変じてしまった。熱心に観ている大勢のいい試聴者を、ナメてはいけない。

* タケシとユリとは、演技的にもだいたいずっと良かった。今夜はとくにユリが終始気の入った、気の抜けない芝居をしていた。タケシは前半さほどおもしろからず、後半すこしセンチになって、ベッドでの錯乱がいちばんうまかった。ま、錯乱までは絶対にあり得ないわけでもないから、我慢した。
建日子のハナシではテレビ屋サンは延々と「打ち合わせ」すると言うが、演出家も脚本家もチャランポランをやったのか、もの(治療室のシステム)を知らないのか。むかし、「日本刀」を、刀匠が、まるで包丁か鋏でも打つように、たった一人でトンカチやっているドラマの場面を見せられダアッとなったが、今日の「天体観測」の病室場面のデタラメは、先立つ「ナースのお仕事」のくだらないハチャメチャよりも、真面目なだけ救いが無い。
2002 9・10 14

* 秦の母の七回忌が来るので、京都行きの手配をした。新幹線の往きの切符ももう用意した。
2002 9・17 14

* 秦建日子作「天体観測」がつつがなく終了したことを、心から安堵し喜んでいる。リアリティーに欠けるところも多々ある、ご都合本位の製作ではあったけれど、終始一貫して真面目に、ふざけない仕事であったことは評価してやりたい。不真面目にふざけた仕事の余りに多いテレビ業界であるが、心ある人はそれを肯定はしていない。胸に響く真面目なドラマのまじめな言葉を望んでいる。「天体観測」が何をほんとうは言いたかったのか、もう少し時間をおいて納得したいが、途中降板も打ち切りもなく好評の内に十二回が終え得たこと、ほっとしている。おめでとうと言ってやりたい。
わたしのように独りでやり遂げられる仕事ではない。局の意向があり、大将はプロデューサーである。俳優も演出家もいる。脚本書きの通せる自由は無いにひとしいだろう。そのなかで、とにかくあそこまで持っていったのだから、ご苦労さんであった。少し休んで、またいい仕事へ向き合って欲しい。
オリジナルと、脚色と。それにもつともっと雑学を豊富に身につけて欲しいものだ、世間には物知りは多い。余りに浅はかに嗤われてしまうようなチャランポランは避けないと、やめないと、いけない。
2002 9・18 14

* 機械二台の前に、新しい回転椅子を妻がカタログで捜して買ってくれた。昨日届いたが、これが今までになくがっしりと堅固で坐り心地よく、しかも安定して軽く廻ってくれるので大助かりしている。
2002 9・22 14

* 同居人をつれ、夕過ぎて息子が来た。晩、四人で、「北の国から」最終回二週分を見た。向こうはテレビドラマの体験者で、こっちは物書きであり批評好きの愛好者。ぽつぽつと出る断片的な感想の交換で、ドラマがふくらんだりへこんだりする。
四人とも、涙とはしっかり付き合っていた。息子の同居人は富良野塾にいたのである。事情通らしく、よく、ものが見えるだろう。
わたしなどは、「北の国から」の全体が、いわば古いタイプの幾何学世界、ユークリッドの世界に譬えて、見える。一つの統一的な「結(ゆい)」の思想で、かなりがっちり作り上げられている。前世紀的・伝統的・自然本位の結合社会がガンとして賛美され肯定され「変わらない」世界が、死後にも、夢見られている。そういう「遺言」が書かれてしまうほどだ。
だが、最後の最後に、ぽっちりとただ一点、この変わらない古い世界観を脅かす、非ユークリッド幾何学的異質の異物がまじってくる。携帯電話だけを握りしめて、ひたすらメール交信してきたという「恋人」と、この富良野で「出逢うため」にだけ母親の元へ帰ってきた、ダイスケという少年。「その恋人」を実は見たこともない。名前もハンドルネームだけだろう、むろん住所も年齢も性別も確認できていない。肉声も肉筆も知らない。しかも四六時中携帯電話をにぎりしめ、発信しつづけ、受信をまち、そして「その人」が来るものと信じて待っている、母親とも他の誰とも交感・交流できずに。
これは新世紀の病理とも生理とも謂える、機械化し都市化した乾燥しきった世界の申し子であり、当然に、このドラマの富良野人種には絶対に理解できない。気が狂ったか、非常識か、何を思っているのかが絶対に彼等には分からない。そして仕方なく強引にでもユークリッドの定義でダイスケ君の世界を解釈し訓導しようとするが、非ユークリッドの定理にもはや固着しているダイスケには、そんなのは「ダサイ」のだ、あんたらはなにも「ワカッテイナイ」「時代は変わっているのに」と叫ばせてしまう。
憤激した大人は、ダイスケをぶちのめし、携帯電話を水車のそこへ沈めてしまう。ダイスケは富良野から再び消え失せてゆく、母親にも行く先は告げないで。

* その描き方や演技のできばえは問わないが、作者は、かろうじて僅かに、此処に「北の国から」の二十一年とは異質な、新世紀世界の侵入を予感させている。そういう場面を用意しておいたのである。倉本聡その人の、それは、主題ではないだろう、が、慧敏に、そういう「ケイタイ少年」を最後に挿入しえたことに、わたしは敬意を覚える。
なぜなら、このダイスケのケータイは、無反省に多用に多用されていた「天体観測」での携帯メールとは対照的なまで、底知れず不気味に病的に見えているからである。しかもそういう見方を、作者は、少年に「ダサイ」と言い放たせているのだ。「天体観測」の携帯電話は、まことに安直で無反省な日々のツール以外のなにものでもなく、ツールへの批評も疑いも、その毒性への自覚も微塵も出ていなかったが、倉本聡は少なくも、この便利げな機械の「毒性」に、手の施しようもなく荒れてしまう富良野の大人達を描くことで、瞬間的ではあるが、痛烈な批評を最後に書き込んでおいたと謂えるだろう。
だからわたしは敢えて言う。
わたしの、そのような評価や感想に賛同したかしなかったかは別として、一人のテレビドラマ脚本家であろうとする息子秦建日子に、あの少年を、あのままフォロゥして思わず納得させる新しい別のドラまを創ってみたら、いや、創れるものなら立派に創って見せてくれよ、と。あのダイスケ君は、あのママでどう「ダサクなく」生きて行けるのだろうか。それは、いくらかは「二十一世紀の文明と生活」を予測することになるのではないか。これを倉本聡は自身への新課題として挿入しておいたかも知れないが、むしろ秦建日子ら後進作者への、「やれるならやってみよ」との挑発のようにも思えるのである。
「明日のダイスケ」が、リアリティーをもって描けないようでは、所詮は「北の国から」型の世界=掌から、脱出できはしないだろう。

* 建日子と席をともにし、視線を一つの画面にむけながら、感想や意見を話し合えるのは、彼は迷惑かも知れないが、わたしは楽しい。いちばん楽しいことの一つだと謂える。

* 真夜中の一時半にもなって、やはり忙しい日々らしく、車で戻って行った。私たちには心嬉しい休息であった。
2002 9・28 14

* なにとなく疲れているのは、根の入れすぎでもあろうが、気温と体温とのアンバランスもある。知らないところで風邪にでもやられているのではないか。この二日で難しい原稿を一つ書かねば成らず、医者と理事会をはさんで京都往来に二日。これが気にも荷にもなっている。
だが六年前に死んだ母のために、また父や叔母のために、坊さん父子と妻と四人で、いっしょに仏堂で念仏を高唱してくるのは、わたしや妻のまさに「生きている」あかしなのである。三人のそれぞれ百日、一年、三回忌、七回忌、十三回忌を、少なくもわたしと妻とは京都で欠かさなかったし、まだ来年の叔母の十三回忌、五年後の母の十三回忌がのこっている。最低まだ五年間は元気に京都へ出掛けねばいけない。ま、楽しみとしておこう。
2002 10・12 15

* あす朝早に、京都へ。その用意ももう少し残っていた。天気はどうか。去年の父の十三年は、台風に襲われて、日本海側から長岡経由で東京へ帰ってきた。さっきから雷が鳴り、雨の音も。好天を祈る
2002 10・15 15

* 雨や雷は過ぎていった。今から京都へ行く。四十五年前の今日、妻と初めて大文字山に登った。魔法瓶に飲み物を持っていたのに、行きしなに山道でぶつけて割ってしまった。山の奥は紅葉していた。比叡山が大きく美しくまぢかに見えた。
2002 10・16 15

* 息子が、そう、まだわたしと一緒に風呂に漬かるぐらいな年齢であった。ある日、彼は、浴室で、それはもういろんなことをわたしに向かい喋りだした。
そのなかで急に、唐突に、「お父さん、此の世ってね、墓場に入る待合室なんだからね」と言い放ったものだ、わたしは驚嘆し、幼い息子は上機嫌で笑い飛ばしていた。
たぶん「モンテクリスト伯」に触れて飛び出した警句であった、彼は確かに、その少し前、家にある新潮社全集上下版の「モンテクリスト伯」を読んでいた。だが、わたしはそんな言葉を記憶していなかった、彼の口から出任せではないかと疑い、それにしては気の利いた、と言うより、ものおそろしい警句であるなと呆れたのである。
以来、記憶にこびりついていた。何がさて、「モンテクリスト伯」になら有りそうな警句だと思うのだ、が、その後もしかと見つけられなかった。今回読み始めたときにも思い出し、頭の片隅にずうっと置いていた。
それを、今度こそ見つけた、と思うのである。
文庫本の第五冊190頁の始めで、「やあれやれ!」と、ボーシャンという男が言っている。
「人生そもそもなにものなんだ? たかが死の控え室での、足がかりといったところじゃないか。」
これは、
「お父さん、此の世ってね、墓場に入る待合室なんだからね」の方が、翻訳としても気が利いている。
果たして此の箇所に拠った建日子クンのおしゃべりであったか、いやもうまるで別ごとであったのか、そもそも、本当に息子はそんな風に言った・または言えたのか、なにしろ同じ一つ屋根の下の同じ浴槽につかっていた時なのは確かであり、その幼さとこの言句とには、釣り合ったリアリティーを納得しにくいのだが、わたしの「記憶」は確かなものとして、ずいぶん久しく覚えこまれていた。で、念のため息子に聞いてみると、全く彼は覚えていないと言う、さもあろう。
なににしても、しかし、久しい胸のつかえの一つを下ろした気がする。そしてこの、「死」ないし「「墓場」への「控え室」というよりも「待合室」という、くだけた言葉での「人生」ないし「此の世」解釈は、(残念ながら、デュマによる地の文でも、モンテクリスト伯その人の言葉でなくて、一人の若い皮肉な伊達男の警句ではあるけれど、歳のせいで、あの頃よりもひとしお身にしみ、胸に落ちる。

* さてまあ、その「待合室風景」の一つと言えようか、高校(東京)同窓会というのが、今日慶應プラザの高い高い所であった。だが残念ながらこういう催しに今のわたしは心を惹かれない。
それより先に、橋田先生や、石本正氏から案内されていた、上野での「創画展」を観てきた。上村松篁亡く、秋野不矩も亡い。石本さんの絵はモナリザを意識されたか、または本尊画のようにして、遠い山水を背景に半裸婦が真正面に大きく描かれていた。わるくはないが、いつもの絵でもあった。橋田さんの絵は品格ある草花の絵であるが、去年のよりおとなしく少し力よわい感じを受けた。わずか二、三、目に留まる作品があっただけで、例の如く、凡庸に騒がしい絵ばかりの並んだ雑駁な展覧会であった。
2002 10・19 15

* よく晴れた。

* 秦の母に「折檻」される夢を見た。異様に半身が痛かった。起きて、見ると棚に置いた位牌が歪んでいた。黒いマゴが跳び上がって供えた水を呑むのだ、だが、そんなことのセイにしてはいけないか。日頃、ロクなことをしていないからなあ。
2002 10・22 15

* ADSLの御陰で、インターネットでサーフィンして休息していることもあり、思いがけない発見に恵まれることもある。今夜、一つ、胸のときめく見つけ物をした。もう深夜であったが階下まで妻を呼びに行き、二人で小一時間も或るサイトを見ていた。捜し物をしていた。いとしい捜しものを。
2002 11・1 15

* けさの明け方、娘を目の前で「拉致」される夢を見た。幸せにしているといいが。
2002 11・2 15

* あすは一人。妻は息子と芝居に。わたしは湖の本責了への校正など、も。
2002 11・13 15

* 思えば今年はもみぢを一度もそれらしく眺めていない。今日も、その気なら出て行きやすい日であったのに、終日、湖の本の校了のために机にいた。一人で昼飯もめんどうなので、出入りの寿司屋に出前を頼みついでに酒も運んでもらって、喰いかつ呑んで、仕事をしていた。黒いマゴがそばでお相伴していた。
2002 11・14 15

* 金井美恵子という同業の人がいる。小説は読む機に恵まれないが、何であったかエッセイであろう、「のだ」文章に厳しい感想が書かれていて、自分のことは棚に上げて賛意を覚えた。もうどれほどの昔になることか。
「語尾」はほんとうに難しく、それが日本語の難しさだと思う。日本語は語尾で結局させる言葉で、そこまで聴かないと是か非かも分からない。つまり言葉を濁す、口ごもることに意外に効果を生める。また是か非かを其処へ来て強調もできる。その一つが「のだ」であり、一時期の人は「で、あるのである」などとも云った。なんでもかでも「候べく候」と書くのがはやった時代も、それを筆くせにした人たちもいた。
自分の書くものもむろん含めて、ずいぶんムダな語尾を不用意にムダに付けているのに、気付く。その辺の推敲がきれいにきまると、文章は、さらりと静かになる。
娘の朝日子にはいつも心してこういうことを習わせた、子供の頃の読書感想文などを読みながら。だからと言えよう、大学時代までに、極少ないながら代筆して貰ってもとくに見咎められない文章を書いてくれた。どこかで他の人達と一緒に文庫本に入っている、「李陵」「徽宗」はわたしの名で朝日子が下書きを書いている。こういう学習が今にも役立っているといいのだが。
建日子にも、そういう注意はやはり「思想の科学」に寄稿の少年時代から繰り返したが、これは身に付いたとも付かないとも云いにくい。ホームページのコメントなどときどき覗いているが、文章としても中身も、たわいないなあと苦笑されることが多い。ま、少し気を入れて書く、たとえば「タクラマカン」の開幕前に書いたパンフの挨拶など、気張らずによく書けていた。まだ気を入れた長い散文はみたことがなく、小説と称する小品も、わたしはまともに読んでいない。
2002 11・15 15

* 家から歩いて五分のフランス料理店に。保谷にはすぐれものの店で、しかもボジョレー・ヌーボーが新着早々、750ml フルボトルで、美味い料理を満喫してきた。このあいだから行こう行こうと言いつつ、冷蔵庫のあり合わせ料理で済ませてきたが、一息ついているところで、ふらりと出掛けた。
妻とは話題がいつもいっぱいある。「ペン電子文藝館」の校正を手伝って貰っているので、作品の感想だけでも、話は尽きない。
妻の仕上げたばかりの矢崎嵯峨の舎作「初恋」は、気持ちいい作品で、この作者の経歴もまた興味深い。文久から昭和二十二年まで長命した作家で、戦争だけでも、明治維新、西南戦争、日清・日露戦争、満州事変・支那事変から太平洋戦争、ぜんぶ体験している。こんな名前だから古くさい爺さんだと想いやすいが、露西亜語を学んで二葉亭四迷と相識、ともに露西亜文学の紹介に大きく貢献した。日露戦争の時は大本営幕僚事務取扱に任じられ、その後は出版社を経営した。
「初恋」は、明治二十二年一月の作品で、四迷の「浮雲」が成った時期に当たる。近代文学の他の大きな仕事よりも一時代は早いのであり、しかもその日本語表現のしなやかに新しく美しいこと、眼を見張る。もし二葉亭の仕事がなかったなら、この作品こそが画期的な地位に就いたに違いない。そういう小説が、また、あの伊藤左千夫の「野菊の墓」に、はるかに先立つ可憐な恋物語なのだ。物語るは残年乏しい老翁である。事実そうとしか思われない翁ぶりで書かれているが、書いている作者は二十六・七歳のまさに気鋭。文字通りのこれは創作なのである。

* ボジョレーヌーボーは、フレッシュにさっぱりと甘く美味であった。おかげで一本すっかり呑んでしまった。オードブルからデザートまで気が入っていて、パンも自家製で暖かく美味い。こういう店が家の近くにあるのは有り難い。そして気軽に気楽。
2002 11・21 15

* 夜前、おそくに建日子が来た。起きていたわたしとしばらく話し、母親にお古のデジカメを呉れるという。また京都の清水寺のお守りやチリメンジャコを土産に持ってきた。
一泊のトンボ返しながら、女優田畑智子の招待で、「天体観測」のディレクターだかプロデューサーだかと二人、祇園の老舗「鳥居本」へ行ってきたという。この家はわたしの通った中学のすぐ裏、祇園甲部のまんなかにある。料亭としては老舗中の老舗である。娘の田畑智子が、弥栄中の卒業生か別の私立へ進んでいたかは知らないが、同じ弥栄卒業生だとすると、わたしの遙かな後輩になる。
もともと祇園の子のために出来た弥栄小学校であった。日本で一二に古い小学校としても知られている。それがわたしの入学の年から「市立新制中学」に変わり、わたしは隣学区から弥栄中に進学した。二年生も三年生もいたけれど、事実上の第一期生のようなものだった。昭和二十三年(1948)の入学だった。
田畑智子が祇園の出とは、ながく知らなかった。知るずっと以前に、幸田露伴の孫の役で田中優子と共演していて、名優田中とはひと味違う新鮮な味わいをみせる若手だと、とても感心していた。目を付けていた。菊池桃子と共演の何だかのコマーシャルでも、いいアンサンブルを演じながら、いつしかに可愛らしい姉役の桃子チャンを喰ってゆく生気に、家で、いつも妻と拍手を送っていたのである。あの息子の書いた連続ドラマ「天体観測」に田畑智子もと初めて聴いたとき、ビックリし喜んだ。
2002 11・22 15

* 建日子はあいかわらず、またそそくさと帰っていった。機械は持ってきていても、資料が必要になると、やはり住まいに戻らないでは解決が付かない。忙しく、また正月からの新しい連続ドラマにかかっているらしい。
2002 11・22 15

* 黒いマゴに元気がない。外でなにかしらよほどのプレッシャーを受けてきたらしく、昨夜来、ほとんど身動きもしないでわたしの床の上で寝続けている。息はしているが体温が少し低い。顔を寄せてやると低く啼いて、手をわたしの手に重ねる。猫たちは自力で治してゆく。母猫のネコも娘のノコもそうだった。マゴは男の子だ、元気になるだろう。
2002 11・23 15

* 深くがけの下へ沈んでゆく、このへんの地勢に素直に馴染ませた紅葉の庭園をゆっくり散策してきた。やっと今年の残り紅葉に間に合った、それほど今年の秋は出掛けなかったと見える。
上野毛から二子玉川まで行き、駅の長ぁいホームから多摩川の下流を眺め上流を眺めて、妻も私も気が晴れ晴れした。お天気に恵まれた。昨日は寒いような雨であった。
ホームを換えて、半蔵門線に接続している東急電車にのりこみ、社中で妻は増強のくすりを服し、電車終点の水天宮まで乗っていった。
以前に、京都造形美術大学の東京でのお披露目があり、芳賀学長に呼び出されてこの近くのホテルでの宴会に出たことがある。市川猿之助が副学長だとかで、彼の歌舞伎談義をながなが聴いたあとさっさと抜け出して、水天宮に一人で参った。谷崎文学にもゆかりの地、気分が直ったので神社の床下のような寿司屋に入って、一人で旨い酒と肴をたくさん楽しんだ。その楽しかった記憶があり、電車の便宜を幸いに妻を誘ったのである。
水天宮さんは街より一段高く、まるで二階に浮かんだ風情がおもしろい。ま、安産を誰のために祈る折りではないけれど、お賽銭も入れてきた。
風情もよく珍しい店もちょくちょくの宵街をそぞろ歩いて、翠蓮という地下の中華料理に入った。そんなには食べられないわと言いながら、出てきた料理がみな口に合い、妻もほぼ一人前のコースを食べた。瓶出しの佳い紹興酒もたっぷり飲み、疲労も取れて、さらに人形町の方まで散歩してから、日比谷線で銀座へ、銀座から有楽町線の銀座一丁目まで銀ブラして、地下鉄にもうまく座れたを幸い、保谷まで一本道、ねむりを取りながら帰り着いた。玄関をあけると、黒いマゴが頚の鈴の音もかろやかに、嬉しそうに迎えに出て足許から離れない。
と、ま、久しぶりに、のーんびりとした楽しい遠足であった。観ものは名品、食べ物は旨く、上野毛、二子玉川から水天宮までと、予定もしなかった遠足が、心嬉しかった。
2002 12・5 15

* 六十一年前か、昭和十六年、一九四一年の今日、真珠湾奇襲の戦果とともに米英に対する宣戦布告の詔勅が出た。わたしは事情あって宏一(ひろかず)という仮名で京都幼稚園に通い、明けての春に国民学校に進んだ。この入学式の日に、はじめて自分の名前が「恒平」と名札にあり、仰天したのを痛いように覚えている。
2002 12・8 15

* あの戦争は四年で負けた。三年八ヶ月か。昭和二十年八月十五日敗戦。わたしは、丹波南桑田郡の山深い樫田村に疎開していた、樫田国民学校四年生だった。その間に広島と長崎に原爆が落とされた。翌年秋に京都に帰り、引き揚げ家族の子弟で異色を呈していた母校市立有済小学校五年生に復帰した。二十三年に新制の市立弥栄中学校に入り、梶川三姉妹と出逢った。末の妹貞子はなくなったと聞いている。上の二人とも何十年と逢う折りがない。それでも、もっとも心親しい身内である、私には。
昭和二十六年、市立日吉ヶ丘高校の普通科に入った。京都美大の構内に同居していて、当時日本の高校で唯一の美術科があった。二年生から東福寺上・泉涌寺下に新築の日吉ヶ丘校舎に転じ、茶席「雲岫」に拠って茶道部を興し、部員の指導に当たった。茶の湯は叔母宗陽に習っていた。中学以来の短歌も、ひとり先生方同好の短歌会に加えられてつくっていた。
泉涌寺に来迎院をみつけて、しばしば教室をエスケープしていた。「こんなところに好きな人をおいて通いたい」などと空想した。源氏物語や徒然草がもう頭にあり、それがのちの『慈子=あつこ(齋王譜)』に繋がったのである。
2002 12・8 15

* 夜中に西の棟に建日子が帰ってきていた。いま階下からその声がわたしを昼食に呼んだ。
昼食して、すぐまた「忙しいのです」と帰っていった。
2002 12・8 15

* 心祝いの日。好く晴れて。妻と西銀座へ出た。ニュートーキョーの上のシネマで、トム・ハンクス、ポール・ニューマンの「ロード・トゥ・パーディション」をやっていたので、時間をはかってニュートーキョーでまず軽食し、中ジョッキを一つ飲み干してから、久しぶりに映画館に入った。予想通りの、ガラガラ。こんな題の付け方で日本の客の入るわけがない。建日子に、子連れ狼の翻案だよと聞いていた。絵に描いたような焼き直しで、例は「荒野の七人」など幾つもある中で、とくに良くもとくに悪くもないのは、さすがにトム・ハンクスであり、ポール・ニューマン。二人とも名優といっていいし、他に良い作品をもっている。拝一刀だの大五郎だの柳生烈堂だのの顔をかすかに思い浮かべながら、そこはトム・ハンクスの芝居を見ていた。柄が大きい。父と子とのかかわりもしっとり書けていて、ラストへかけてほろりとさせた。
「モンテ・クリスト伯」というのも、クリント・イーストウッドの捕り物も、みたいもの他にもあったが、地下鉄を出たら目の前でやっていたので引っ張られた。まずまず。

* ぶらぶらと銀座を歩いて、DVDを二つ、カミュ監督の「黒いオルフェ」とマリリン・モンローの「帰らざる河」を買った。黒澤明の「生きる」という映画にはその昔、心臓を掴まれた覚えがあり、見つかれば欲しいとおもったが、いずれ見つかるだろう。
高校から大学の頃、本を買うのといっしょに「勉強」のつもりで、あの頃の日本映画をよくみた。あの頃は断然日本映画がよく、海外映画をバカにしていた。「夜明け前」「足摺岬」「日本の悲劇」「七人の侍」「カルメン故郷に帰る」「浮雲」「偽れる盛装」「祇園の姉妹」「東京物語」「彼岸花」「羅生門」「雨月物語」「近松物語」「切腹」「上意討ち」「野菊の如き君なりき」「二十四の瞳」「煙突のある街」など、たくさんたくさん感銘を受けた日本映画が思い出せるが、西洋ものは、そのあと、テレビで多く見るようになった。
若いときほど映画に多くを期待しなくなったために、無責任に楽しんでいられる西洋映画ににげたのかも知れないが、質的に彼我逆転したのだろうと思っている。たとえば試写会で見た「冤罪」「御法度」「本覚坊遺文」なども、わたしの中で特に佳いモノとしては残っていない。ところが、洋画の方では「グランブルー」でも「海の上のピアノ」でも「ダイハード」でも「エイリアン」でも「ブレイヴハート」でも「フォレスト・ガンプ」でも胸に何かが残っている。繰り返しみたくなる。
近年の日本のものでは、テレビ映画であった「阿部一族」「踊子」や、「北の国から」シリーズなどがやはり印象に濃い。北野たけしのなど、感心した一つもない。

* 銀座「シェ・モア」では、開店後もずっと、借り切りのようにわれわれだけで、じつに静かにゆっくりとうまい食事が出来た。シェリーを食前に、そして赤ワインは濃厚で、ソースのうまいフランス料理によくあっていた。
明治屋でブルーチーズを、そのとなりではパンを買い、有楽町線で保谷まで。冴えて頬のぴりぴりくる冬夜の気配を楽しむように、帰宅。黒いマゴに迎えられて、すこしパンとコーヒー。「お宝鑑定団」で秀詮の佳い虎の絵をみた。
2002 12・10 15

* 小田急で、目に留まったフランスの女時計を買った。むかしモスクワでスイスの女時計をみやげに買ったのを思い出した。ほぼ純銀のベースに黄金を被せたかすかに重量感のあるベルトのデザインにも惚れた。魚眼レンズふうに文字盤のとても見やすくなっている全体の華奢に小さいのにも。

* 風月堂ですこし遅めの昼食。ワインと海老フライ。
2002 12・12 15

* 暑いぐらい暖かで、思いがけず帰路汗をびっしょりかいた。地下鉄銀座へむかう地下アーケードで、一目惚れした織り目の彩り美しい、とてもお洒落なほっそりした服が目に付き、アっと思ったときは衝動買いしていた。よく前を通るが、佳いモノのあったためしがないのに。黒い犀角を繋いだようなベルトも面白かった。妻に少し細すぎたかなと。えらく店のサービスがよく、値段も、痛いと言うほどのことはなかった。
2002 12・16 15

* 秦建日子のホームページによると、彼の脚本で、
「最後の弁護人」 2003年1月15日より、毎週水曜夜10時。日本テレビにてオンエア!
出演  阿部 寛 須藤理彩 今井 翼 金田明夫 松重 豊 ★浅野ゆう子
と。昨日の作者コメントでは、
「脚本、5話に入りました。顔合わせもなごやかに終わり、撮影も、順調にスタート。いよいよ、「新しい祭り」の始まりです。とにかく、撮影したいのにホンがないという状況だけにはならないよう、日々、寝る間も惜しんでパソコンに向かっています。
今回は、野球でたとえると、1話から5話まで、すべて違う球種のドラマです。王道のアウトロー・ストレートもあれば、インハイ高めのビン・ボールもあれば、ワンバウンドになるフォークもあります。なので、もしかして、「あれ、趣味じゃない……」という回があっても、見捨てずに翌週もチェックしてみてください。」と。
司法試験への夢と多額の予備校費を、大学一年生ですでに弊履の如く捨て去った我が息子が、どんな「弁護人」をひねり出すのか、とみに脛の細い親父の顔付きは、はらはらと険しいのであるが。やすいところで甘えてしまわず、一心に、根はまじめな仕事を、してください。
2002 12・18 15

* あすは、とうどう、六十七歳。今日のうちにお祝いのメールをいろいろ貰っていた。昼に、観世栄夫の能「卒塔婆小町」そして夕方から望月の鳴物の会に馳せつける。今年は息子との食事もとりやめ。彼はいまは正月からの連ドラ脚本に追われて、おお忙し。武士の情け。
2002 12・20 15

* おめでとうございます  今日がいつより光に満ちた一日でありますように。
新たなチャレンジに邁進していらっしゃるご様子。
昨夜、まぁるい月がにじんで浮いていた空。雨になりました。それもかなりの。
今ほど、旅サラダというテレビ番組で、しまい弘法の生中継をしていました。秦さんのお仕事が一層実り豊かになりますよう、お幸せでお健やかな日々をお過ごしになれますよう、これから東寺でお祈りして、来迎院へ参ります。

* 戴いたお酒と紅鮭と、赤飯とで、朝、ささやかに夫婦で朝食。村上華岳の「裸婦」図のパスネットを添えて妻にパドャマを貰った。わたしは、この間に買って置いたフランスの腕時計を妻に。今日は雨、そして雪かもと。夜向きへの外出は避けることにし、わたし一人でお招きの「小町」の能を観て帰ってくることにした。夜は、DVDで映画でも観ながら旨いワインを飲むとしよう。年相応にさらりと誕生日をすごしたい、息子の健闘を祈りながら。

* 札幌は今日も零下ですが、陽も射して良い一日です。私は次の論文が大詰めで、北大の先生と相談しながら、研究室で執筆中です。休日の静かな研究室で、世事のことを忘れ、論文に熱中している時間を幸せに感じます。今書いている原稿は、ウイーンの学術誌に投稿するか、もう少しがんばってアメリカの学会誌に投稿するか、どちらかになります。年内に書き上げてしまいたいのですが、どうなりますことやら。
夕方、今日から始まる映画「モンテクリスト伯」を観に行こうかと思っています。 誕生日をお祝いしながら・・・。

* 昨日のアキ時間に映画「モンテクリスト伯」を観たかったが、映画館へ行ったら開始後三十分、で、諦めた。その代わりに買ったDVDが、アカデミー作品賞の「アメリカン・ビューティ」と女優主演賞の「ロリータ」だった。

* 小闇サイトでも、見出しにさりげなく、「お誕生日おめでとうございます」と。わたしへの祝意だと思いこむところが、気のよさか、図々しさか。信じている。
2002 12・21 15

* 四時過ぎに、雨中を、飛ぶように秋葉原経由で日比谷線の人形町へ、そして水天宮ちかくの日本橋公会堂=日本橋劇場へ。五回めの「光響会」に、例年変わらずのお招きゆえ、私ひとりで、やはり参会した。
朝の十時半から幕があいて、延々といろどり華やかに望月太左衛主催の大きな鳴物の会である。趣向の好きで上手な太左衛さんは、全国にわたるお弟子さん達を糾合し、大勢の協賛を得て、こういう大会を、とても楽しく盛り上げる。能が無ければ、今日など、半日は楽に此処に居座っていただろう。残念ながら「風流船揃」と「勧進帳」の二つを聴くだけで今宵は失礼したが。
ひとつには、空腹で気分が悪くなり。
先日妻と水天宮にお参りした晩みつけておいた、「ふぐ」店にと思ったが、「ふぐ」ではなんだかあっさりと物足りない気がして、このあいだ美味しかった中華料理の「翠蓮」に、また一人で入った。好きなマオタイがあり、佳い老酒も。持参のものを読みながら、一人では多すぎるほどを温かくたっぷり満腹してから、また日比谷線で銀座へ、そして有楽町線で保谷へ帰った。雪にはならなかったが、ついに雨は上がらず。
車中でもずうっと読みふけっていた、現会員武井清氏の「ペン電子文藝館」用プリント原稿『武田落人秘話』百五十枚を、終盤へかけてなかなか面白く読み切ったのが、大泉学園のすこし手前だった。

* 誕生日の晩の食事を、自分ひとりで摂ったのは、生まれてこの方、一度も記憶がない。そういう珍しい日になったけれど、それもまた、わるくなかった。六十七になった男が、百歳の小町のすがたにシンとした感銘を受けてきたのは、有り難い嬉しいこと。
また家ではくつろいで、DVDの「ロリータ」を妻と観た。佳い映画作品で、スー・リオンのロリータは、さすが演技賞もので魅力いっぱい。ロリータコンプレックスのハンバートを演じたジェイムス・メイスンの役が珍らかに面白く、さながら「痴人の愛」のジョージそこのけの惑溺。それよりも、ロリータの母親役でハンバートを夫にしてしまうシェリー・ウインタースが、娘をしのぐ名演で妙に愛らしく、いつもどことなくウンザリさせる気の重い女役で活躍する女優なのに、ここでは軽快に軽妙で、やっぱり最後は自殺ぎみの交通事故、頓死。なかなか、やるものだ。そしてピーター・セラーズがハンバートからロリータをさらう、何とも厄介そうな脚本作家を演じていた。ずいぶん贅沢な配役に儲けものの思いをした。映画的にも洒落て快適な撮影であり、非凡、という印象を妻もわたしも分かち持てた。けっこうでした。
2002 12・21 15

* 感謝。秦建日子からも、「誕生日おめでとうございます。昼間に電話をしたのですが、お留守でした。こっちの仕事は、それなりに進んでいます。年末帰ります。風邪などひかれぬよう。建日子 拝
追伸.母さんにローストビーフのお礼を伝えてください」と。そちらも、どうか風邪には用心して。
2002 12・21 15

* 市議選挙に、自転車のウシロへ妻を積んで近くの小学校へ。新しい広い道路が出来たりして、幾叉路にもなりどこが学校だっけと迷うほど。「朝日子が帰ってきても、迷うね、きっと」と言いながら、人けない投票所で投票を済ませた。もう二人乗りの自転車は危ない。スローで走れないのが危ない。そして息が上がり、出掛ける用意をしながら、久しぶりにニトロを舌の下に入れた。両手先がジンジンし、気が霧の消えるように細くなりそう、ともあれ水分を補給し、機械の前にきた。
渋谷の松濤までがとても「遠く」感じられる。万三郎はよほど観たいけれど、此処でノビては堪らないから、あと一時間のうちに体調を見極めたい。休息して家でDVDの方が賢明なようだが、能楽堂というところ、だれかしら懐かしい顔とも出逢う場所だし、能は「六浦」だし、少し心残りにはなる。ナニ、たかが能さ、と思うことにする。いま、眼をつむると、糸をひくように眠気が誘いに来た。すこし階下で寝てこよう。

* 寝もせで、校正に精出ししていた。「白内障」という言葉で警告ともつかない託宣を病院で聞いてきたが、もう年内の眼鏡づくりは間に合わない、新年早々につくりかえに行かないと、文字が霞んでいる。
2002 12・22 15

* さ、階下で、妻と黒いマゴとのそばで、少しだけ、旨い酒を呑んでこよう。山口県の読者から名酒「獺祭」も贈られてきた。新潟の旨い餅、栃木の美しい苺、そしてベルギーのチョコレートも。
2002 12・24 15

* サーフィンしているうちに、懐かしいというか珍しいというか、ふしぎな写真に出くわした。「当尾」で検索しスクロールしているうちに、「松右衛門の柿」という文字があらわれた。当尾の地に柿を地場産業としてもたらしたのは、大庄屋吉岡家のわたしの先祖であったと聞いていたから、あ、と思い、写真を呼び出した。
天をつく喬い柿の大樹が映っていて、その下に別の写真で、目の底に記憶のある石垣の上の邸が写されていた。「Y先生のお宅」と書かれてある。吉岡の祖父は京都府の視学であったし、叔父は木津高校の校長さんであった。いまも縁者の誰かが地元で教職にある可能性はたかい。吉岡側の親族には、大学教授が何人もいる。「Y先生」にはリアリティがあった。瞼の底に焼き付いている、四歳頃まで祖父母に育てられていたその家に相違ない。特色のある、坂道の上に横に長い長屋が塞がっていて、その腹を潜るようにして前庭に入って行くのだ、写真は、今もはっきりその記憶を裏付けている。
私は、この家から、秦の両親に迎えられ京都の新門前へ「もらひ子」になって出ていった。実の父も母も当尾のその家では暮らしていなかったのである。
巨きな柿の木も祖父の家の敷地内にシンボルのように聳えている。なぜ「松右衛門の柿」なのかは知らない。この間妻と丹波の杉生に行ってきた。お世話になった長沢家の遠望がややわたしの育った当尾の吉岡家の遠望に似ているのに、あの時も気が付いた。長沢家をいずまいよく慕うようにしてあの家族に溶け込んだ我が幼き心理に、いくらか当尾の記憶がかぶっていたのかも知れない。
2002 12・27 15

* 黒いマゴにせがまれて部屋の外へだしてやった。二階の物干しにすばらしい日の光。小鳥の声。嬉しい。
2002 12・29 15

* 市内での用事を午前中に済ませた。あす、例の、デパートまで、京の白味噌と蛤を買いに行くのが、わたしの仕事。片づけごとは、成り行きで。
2002 12・30 15

* 歳末恒例の買い物に出掛けたものの、預かった買い物用の金額以外に自分の財布をもって出忘れ、致し方もなし。それでも東武の地下の「寿司岩」で、特上にぎりとビール。この店はわたしの緊急避難の穴場で、とても安く上タネが食べられる。白い京味噌と蛤。年越しの蕎麦のために海老の天麩羅を数本。花も買えなかった。ま、いいであろう。
僅かに余ったお金を念頭に「ぺると」でコーヒーをのみ、店主がとっておきのコーヒーを二百グラム買って帰る。
団十郎の弁慶、仁左衛門の富樫、そして菊五郎の義経で「南座」顔見世の「勧進帳」を妻とテレビで楽しんだ。弁慶といえば今年は若き松緑の弁慶襲名を大いに感動し楽しんだ。あれこれ、佳いこともあった年である。

* 結局、書庫の中をやや片づけただけで、わたしの仕事場は階下も二階も手つかずのまま越年する。事無く、そう事無く、それを幸せとすればよい。
家族といっても妻とわたしと黒いマゴ。娘と孫二人は遠くにあり、息子も都内に暮らして一心に自立しようと創作の日々である。それが生業でやって行けるらしいことを、ただ感謝している。お互いに良い仕事を。そして、だれもだれも健康でと、願うばかり。

平成十四年 二○○二年 満
2002 12・31 15

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