ぜんぶ秦恒平文学の話

音楽 2000~2003年

* バッハの「フーガの技法」のすてきな盤を友人が贈ってきてくれた。パソコンに入れて、聴きながらキイを打っている。機械では音質はわるいし、時に操作音もまじるのはやむを得ないが、音楽のせいでかえって集中できる。けっこう「ながら族」なのである、わたしも。ヘルベルト・ブルーワの指揮。グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」とこのCD-ROM盤とを交互に機械に入れている。

  2000 5/21 6

 

 

* ビートタケシの選んだ十曲のひばりの名曲を、いろんな歌手が歌っていたが、どうしようもなく美空ひばりの天才には届かない。 2000 7/21 6

 

 

* このところ、また美空ひばり番組が人気で、それも当然、選りすぐりの曲を最高の時期の映像で再現されると引き込まれてしまう。どんな現役の他の歌手が突き当たっても紙屑のように吹っ飛んでしまう。「愛燦々」など、言葉のすみずみまで正確に微妙に美しくイメージを引き出して発声し唱歌している。至芸であり、言葉を読み込む優しい深みは絶妙である。彼女の曲の大方は愚劣なほど歌詞低俗だが、歌唱の表現力は、優に天才の芸術たりえている。

 それをわたしは謂うのである、くだらない芝居でも、いい演技者のいい演技は生きるのだと。「戒老録」という芝居は、何の感動ももたらさない通俗娯楽ものだったが、演技者の演技はそれと関係なくというか、それを超えて、ちゃんとしていたし、だから芝居見物を投げ出しもせず楽しめたのだ。テレビ番組にも映画にもそれはある。下らない中身だがあの俳優はなんて巧いのだと感心していたりする。

  2000 8・1 6

 

 

* チェリストと今宵の「第九」

 秦さん  残暑お見舞い申し上げます。

 札幌の四季は、夏から秋にかけては暦に忠実です。立秋が過ぎたと思ったらもう涼しい風が吹きはじめ、夜温が20度を切るようになりました。

 矢後千恵子さんという方の歌

    チェリストが仁左衛門似であることで今宵の「第九」やや粋である

 面白いですね。

 この歌を目にして遠い記憶がよみがえってきました。

 高校の頃は、年に何回かコンサートを聴きに行きました。一番足繁く通ったのが、横浜の山下公園の向かいにあった県民ホールで、音は良くないものの、5Fのロビーから横浜港が一望できる雰囲気のいいホールでした。

 高校生の私は当然の事ながらお金がなくて、親の懐に頼ってコンサートに行くわけです。ついでに親を誘うと、帰りにどこかで飯を食わせてもらえます。そういう下心でけっこう母や、姉を含めて家族三人で一緒に出かける機会がありました。

 コンサートが終わり、食事をした後は、山下町から桜木町まで、すっかり静かになった横浜の街を歩きました。左手に神奈川県庁、右手に生糸検査所や横浜税関の古い建物をみて、自分の靴音だけを聴きながら歩くのです。音楽を聴いて高揚し、火照った体に海風が心地よかったことをよく覚えています。

 ところが私の母ときたら、

「今日の指揮者はせわしなくて、ゼンマイ仕掛けだったわねぇ」とか、

「いつも一番後ろで弾いている顔色の悪いお兄さんは今日はいなかったけど、風邪でもひいたのかしらん」

「ティンパニのおじさんはこの一年で頭もティンパニみたいになっちゃったわねぇ」

などと、私の高揚した気分に水を差すようなことばかり言うのでした。

 チケットを買ってもらい、飯まで食わせてもらったパトロンですから、口には出しては言いませんでしたが、いつも「いったいこの人はコンサートに音楽を聴きに来てるのだろうか、それともオーケストラを見にきているのだろうか?音楽はもっとマジメに聴かなきゃけしからん!」と憤慨していたように思います。

 それから20年が過ぎました。あいかわらずコンサートにはちょくちょく行きますが、その聴き方は昔とだいぶ変わってきたように思います。学生の時分は体力もあり、一音も逃すまいというようなぴりぴりした気分で音だけを聴いていたのですが、今は仕事を終え職場から会場に滑込むので、そんな緊張感は維持できません。その代わりにずいぶんリラックスして音楽を聴けるようになりました。とても良い演奏だったらもうけもの、はずれたらしょうがないやと言った気分です。こんな風にリラックスして聴いていると、けっこう演奏者の表情や所作が音とは別の情報として多くを語っていることがわかりました。見ながら聴く楽しさといったものでしょうか。

 ようやく最近になって、母も母なりのやり方で音楽を楽しんでいたのだと思い当たりました。「音」を「楽」しむ方法はいろいろあっていいのです。仁左衛門似のチェリストで今宵の音楽がより楽しめる、そういう聴き方もまたいいものです。

 私の大好きなチェリストについて、「第九」について書く時間がなくなりました。また次の機会にします。

 お元気で。泳ぎの方も再開してください。  まおかっと

 

* いいエッセイである。母上が読まれたら、どんなに喜ばれるだろう、わたしだけが読むのでは惜しいと思った。「まおかっと」さんとは、わたしのつけた愛称。朝一番にこういう落ち着いた好文章に触れると嬉しくなる。わたしもまた矢後さんや、「まおかっと」さんの母上のように、音楽を「見」てきた。音楽が時間芸術の最たるものだと教わったとき、空間性の無視できないのも音楽だと直観していた。

  2000 8・15 6

 

 

* 谷めぐみの独唱会は、十六年も続いていて、今夜で、最期。わたしたちは、数年前から誘われ聴きにいっていた。誘ってくれた事務方の芯の人が、また「湖の本」最初からの多部数読者で、多いときは一ダースの継続講読者をとりまとめて貰っていた。その人を以前から知っていたのではない、刊行を始めた最初からの講読申し込みの人であった。鰻の宮川本廛と縁のあるらしい人で、宮川でつかっているという「龍刀」という独特の旨い酒と肴とを、毎年もらい続けてきた。旨いのだ、酒も。諏訪湖の飴煮の肴も。

 

* 谷めぐみは、ハートの温かい、ソフトな佳い歌手である。マドリッドで音楽を学んで、スペインの歌を、「花」のように愛して歌い続けてきた。二時間たらずを、静かに華やいだ興奮の内に過ごした。

 半蔵門、麹町の晩景は、比較的落ち着いていて、なによりも有楽町線の便宜があり、さほど疲れることなく、今宵が楽しめた。

  2000 9・1 6

 

 

* 「リンゴの唄」の並木路子が亡くなった。たった一曲で「歴史的な歌声」を津津浦浦に響かせた「歴史的な歌手」となった。「感謝」と気持ちを表現するのが一等ふさわしいほど、国中が救い上げられ励まされた。たわいない唄でたわいないメロディであるのに、あんなに突き抜けるように「赤いリンゴ」と「青い空」とが、敗戦に窶れ果てていた精神と肉体を吹き抜けたのだ。ありがとうと言葉を添えて冥福を祈る。

 2001 4・9 9

 

 

* 昨夜のジョギングが響いたか、或いは右囲い風に配置した二台の機械で、とかく右手にある新しい機械へからだや気持ちが向かおうとするからか、右腰にかなりの痛み。いまは、その機械からホロヴィッツの「熱情」が鳴り響いている。教授室にひとりでいたとき、よく時を忘れてこのCDを聴いていた。アシュケナージの「月光」ホロヴィッツの「熱情」「悲愴」の入った愛盤である。それとカセットテープの謡曲「清経」を聴いていた。よくまあ四年間、ご近所の先生方からじかに苦情を聴かずに済んだものだ。社会学者の橋本大三郎さんがすぐ隣室だった。

 2001 5・2 9

 

 

* 「月光」「悲愴」「熱情」に限っては、いま聴いていたグレン・グールドよりも、アシュケナージやホロヴィッツの演奏の方に癒される、いまどきのはやり言葉を借用するなら。グールドは天才だと想うが匠気かと感じさせるさわがしさも蔵している。それがベートーベンのように「何か」在る人の曲の場合にはわるく乗って匠気を前に出してしまう。バッハのように音楽に徹して他に「何も」感じさせずにすむ曲の方が、グールドの音楽を無垢に透明に響かせる。

 2001 5・23 9

 

 

* 夜更けて建日子が五反田へ車で戻っていった。また寂しくなる。いま、グールドのピアノで熱情の第一楽章ほぼ十五分間をじっと聴いていた。このまえ、グールドよりアシュケナージの方が落ち着くといったが、心を傾けて耳を澄まし聴くと、さすがにグールドの天才が心臓の奥底にまでしみじみと響く。すばらしい。わたしにグールドを説いてやまなかったのは画家の細川君であった。

 2001 5・26 9

 

 

* 九段下、日刊工業ホールで、邦楽「自然会」の旗揚げ公演。望月太左衛を芯に、望月太左彰、望月太左寛の三人同人で、太左衛さんの弟で家元の望月太左衛門ら大勢が参加していた。太左衛門とも挨拶、開演前の軽食まで食堂でご馳走になったのは恐縮であった。太左衛公演にはもう何度も何度も顔を出していて、高弟太左彰さんなど建日子の芝居にも来てもらっている。太左寛も笛の望月鏡子ももう藝にはなじみで、今日の演奏は、太左衛のいつものように活気に溢れた藝をはじめ、すべて気合いに満ちてけっこうであった。

 家元出演の幕開き「寿式三番叟」は、後へ行くにつれて音曲じつに面白く、からだが自然に動いてしまうほど。

 次の「東都のひびき」は太左彰がばちを使い分けての太鼓が、とくに細いばちに変わっての祭囃子が小気味よく、その次の「森林木」は太左衛が作曲、笛手附望月鏡子の笛が、いつもながら、じつに美しく、惚れ惚れとした。大鼓三つと大太鼓と笛の簡素ながら工夫のある気のあった演奏で楽しんだ。

 最後の「四季の花里」は杵屋勘五郎作曲の名曲で、はなやかに自然味溢れた唄、三味線、囃子のおおらかな合奏。からだが反応して困るほど曲想のおもしろさに惹かれた。楽しんだ。「楽しんだよ」と太左衛さんに挨拶して会場を出たものの、九段下はあまり慣れていないので、やみくもにタクシーに乗り、日比谷へ。クラブでブラントンと角のステーキをやりながら、国語国文学会シンポジウムのゲラに目を通した。帰りの電車でも仕事を続けて、みな仕上げてしまった。元気に、思い切ってわたしは話していたようだ、これなら、いいだろう。仕事も出来、能率のいい楽しい外出であった。

 2001 6・26 9

 

 

* スキャンしながら日本の歌をたくさん聴いた。なんでこんなにもの悲しい歌が多いのだろう。歌声に昔へ引き込まれるのは、わるい気持ちではないが、すこし警戒したくもある。プラトンが理想の「国家」から音楽を追放しようとした気持ちが、いくらか分かる。音楽によって動揺するものを人は胸の奥に隠している。人は、簡単に動揺する。

 2001 7・31 10

 

 

* いまこの機械ではバックに「七夕さま」の童謡が流れている。この前には「ふじの山」が、そして次は「夏は来ぬ」だ。「一月一日」も「さくら」も「荒城の月」も「水師営の会見」も「鎌倉」も「箱根八里」も「コヒノボリ」も聴いてきた。今はもう「浜辺の歌」に変わっている。一気に子供の昔に帰れる。

 残念なことだが、童謡を懐かしく聴いているときまって早く死にたくなる。

 2001 8・5 10

 

 

* いまこの器械でお気に入りのCDを聴きながら、書いていた。お気に入りなのだが、だが、なんとどの一曲一曲が、もの哀しいメロディであり歌詞であるのかと、少々腹も立ってくる。挙げてみようか、森繁久弥のうたう「城ヶ島の雨」小沢昭一の「美しき天然」美空ひばりの「出船」森繁久弥の「ゴンドラの唄」鮫島有美子の「波浮の港」藤山一郎の「影を慕いて」美空ひばりの「国境の町」高峰三枝子の「湖畔の宿」島倉千代子の「誰か故郷を想わざる」小林旭の「惜別の唄」近江俊郎の「山小舎の灯」伊藤久弥の「あざみの歌」藤山一郎の「長崎の鐘」岡本敦郎の「さくら貝の歌」美空ひばりの「白い花の咲く頃」二葉あき子の「水色のワルツ」と並んだ。

 どれもこれも優秀な歌唱で、時代を超えて代表的な名曲というに近いが、まあ、なんとセンチメンタルなのだろう。わずかに、並木路子のうたいあげた「リンゴの唄」と奈良光枝の「青い山脈」だけが、明るい。そして最後に、いま、美空ひばりの絶唱「川のながれのように」が流れている。これはセンチメンタルではない、しみじみと佳い、が、新たな奮起をもとめて刺激してくる歌ではない。わたしのように、もう店じまいをかなり考えながら日々をあくせくしつつ、一方で生涯を顧みる視野も持っている者の胸には、しみてくる歌であり、歌声であり、歌詞であるというしかない。なんと懐かしい佳い歌だろう、美空ひばりの歌声も。涙が頬を伝い始める。終った、静かに。

 2001 9・23 10

 

 

* 午後、原知佐子らの芝居を見に行くことになった。楽しめると佳いが。湖の本の入稿が出来る。ディスクで渡すから、あっというまに初校が届く、と、またこの作業が被さってくる。日々が寄せる波の中で揺れに揺れているが、揺れていなければ心静かとも言いきれないものである。船はまっすぐには進まない、ローリングがあるから進む。器械に向かっている間、昨日は、繰り返し、むかしの歌をディスクで聴くとなく聴いて、時には小声で和していた。「故郷」「いなかの四季」「早春賦」「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「鯉のぼり」「茶摘」「青葉の笛」「海」「牧場の朝」「われは海の子」「村祭」「村の鍛冶屋」「紅葉」「雪」「冬の夜」「冬景色」「四季の雨」「あおげば尊し」と。これだけで、どれほどの時間であるか、二回三回繰り返して聴きながら仕事の進むのを確認して、一休みする。懐かしい歌ばかりで、感傷的にもならず、佳い選曲になっている。つまらない、好きでなかった歌も入っているが、上手に美しい声で唄われると、あらためて佳いなと思い直したりする。無邪気。それが憩わせる最良のものと気付いている。世界は今、邪気にあふれ混乱を極めている。

 2001 10・27 11

 

 

* いま書きながら耳に聴いていた「海は広いな大きいな」の歌詞の中の、「行ってみたいなよその国」に、またしても耳がとまった。海外への旅をおもう、そんな歌詞では、あの、わたしが国民学校でこの歌を習った頃は、ちがったのである。そこには南洋の島々がありアジアの国々があり、世界があり、日本から外へ外へ領土や政治支配を拡大したい政策の要請がはっき有っての歌詞であった。そのように仕向けられていた。そういう仕向けが空気のように身のまわりをとり包んでいた。いま聴くような無邪気な憧れとは質が違っていた。そういう子ども向けの唱歌や歌謡が数少なくなかった。

 たしかにメロディは純然と懐かしさを誘いはするねが、忘れられない批判や批評は体内に生きている。わたしは「行ってみたいなよその国」とはたいして思ってなかった。「何しに行くのン」と思っていた、世界地図の上に日章旗がピンで刺され続ける日々にも。

 

* 日本は狭い島国である。海外に領土を発展させねばならぬと、たとえば本多利明のような開明的な江戸時代の経済学者は真剣に論策した。その影響下で蝦夷地探検などが発起され、最上徳内のような民間から出た優れて先見的な探検家が活躍しはじめた。徳内が大きな成績を積み上げ、幕政の北拓展開に寄与したのは、近藤重蔵や間宮林蔵らの活躍より遙かに先行していた。徳内は本多利明の最も優れた門弟であった。重蔵も林蔵も徳内のいわば後輩であり、徳内の先導や指導により、徳内の耕し拓いておいた道を辿って活動していたのである。日本全図をつくった伊能忠敬のような人達も、そういう意味では最上徳内の、また本多利明の、さらに謂えばさらに先駆して世界をしっかり見ていた新井白石の、後輩達なのである。こういう江戸時代の系譜を思うべきであろう。と同時に、彼らに働いていた「行ってみたいなよその国」の思いの延長上に、近代日本の拡大政策が出来ていった事実も忘れるわけに行かない。日本は狭い島国なのであった。今もそうだ。その事で最も早く苦労し若い命をすり削り果てたのが、北条時宗であった。時宗のつらさを知っていた戦国大名や天下布武の織田信長や豊臣秀吉は、部下に対して切り取り御免という領土拡大政策であたり、その結果が、秀吉の朝鮮はおろか大明国までもという出征を思い立たせた。元寇の逆を行こうとした。それ以外にもう日本列島に恩賞の土地が無くなっていたのである。「行ってみたいなよその国」とは、思えば、そら恐ろしい意図も託された無邪気そうな唱歌であったことを、海に囲まれた狭い日本の国民は、忘れきれないであろう。  2001 10・28 11

 

 

* 「頭を雲の上に出し 四方の山をみおろして 雷様を下にきく 富士は日本一の山」と、いま、無邪気に唄っているのが機械の中から聞えるが、この歌なども無条件には好きになれなかった。べつの意図が隠されてあると気付いていたとは言わないが、すなおな自然賛美の歌とは思えぬ擬人化が察しられて、イヤな心地がした。独り勝ちを望む国は、人は、こういう表現が好きだろう。

 2001 10・28 11

 

 

* 昨日路上で拾ったパチンコ玉の一粒を、廊下にころがしてやると黒いマゴが大喜びに興奮し、失踪して追いかける。可愛い。

 いま「荒城の月」を男性歌手が歌っている。哀切なのは作柄であり曲調であるから当然にしても、なんと日本の名歌・名曲はみなこうなのだ、今日から明日へわたしを励まそうとはしない、顧みよ、振り向けとばかり言う。「水師営の会見」など、ほぼ実状を歌ったではあろうが、二将軍のかげに、支えて死にに死んでいった兵達の死骸がぬぐい去ったように見えてこないのが物足りない。

 記憶しているわたし自身の歌い方とレコードの歌手の歌い方がすみずみで少し違っていたりする。むろん私の方がでたらめに歌ってきたのだが、むずかしいものだなと、歌唱には閉口する。

 2001 10・28 11

 

 

* 紀尾井町小ホールで、望月太左衛の会、「神楽囃子」に「式弓」の舞のついた演奏と、今は古典の坪内逍遙作詞「新曲浦島」を聴いてきた。明日の朝が早いので少し気は重かったが、妻に聴きたい気があり、わたしもせっかくの鳴り物だからと、寒いけれど四谷駅から歩いて会場に入った。昼間は風の吹きすさんでいたのが、むしろ晩にかけて弱まり、それにこのホールは清潔で心地よく、ぼんやりと夢心地に、古典の音曲の妙趣にひたってきた。もう一番太左衛の新曲が用意されていたが、わるいけれど遠慮して帰宅し、入浴。入浴中にウイーンの甥から電話があった。風呂の中で吉川英治の短編一つを読んだ。

 2001 12・11 11

 

 

* 荻江の家元壽友氏の久しぶりの手紙が来ていた。わたしの作詞の「細雪 松の段」をNHKが録画することになったと。これまでに藤間由子が弟子と舞い、今井敬子が一人で舞い、京都先斗町の芸妓が舞っている。こんどは誰が舞うのか、荻江の新作では曲の佳い作品だと思っている、楽しみだ。

 2001 12・17 11

 

 

* 多大の期待をもってNHK芸術劇場の歌劇「トラヴィアータ」を観た、聴いた。生放送で、こうまで望めるかと思うほど見事に美しいオペラのドラマチックな再現だった。音楽そのものが楽しめ、ドラマには泣かされた。

 椿姫という小デュマの小説を読んだのは、中学二年生の三学期に、人に借りてであった。大人になってからも岩波文庫で二度三度読んでいるが、お話としては純熟しておもしろく書けているが、面白すぎるという気がして、同じ面白さでもバルザックの「谷間の百合」やスタンダールの「パルムの僧院」やフローベールの「ボヴァリー夫人」などに比べると読み物だという感想を持っていた。オペラとしてはさわりの部分は何度も見聞きしてきたし、有名なアリアにも馴染んできたが、今夜のように、固定した舞台から解放されて、豊かにリアリティーのある演出で全曲全場面をくまなくりあるスペースで見聞きできたなんて、はじめてことだ。満足した。シェイクスピアの芝居の、リアルスペースでの忠実なテレビ再現も有り難く、好んでよく観たが、こんなふうにオペラを生放送の緊張感とともにまたみせてくれるなら、テレビを、もっと有り難いと思うだろう。いいジェラールですばらしいヴィオレッタだった。ビデオにも撮りながら妻と二人で観た。ビデオは躊躇なく保存版になる。

 この物語が好きかと云われれば、ノーと答える。それでも音楽も登場人物の演技にも歌唱にも満足した。それだけは書いておきたい。

 2002 1・20 12

 

 

* 妙なもので、昨日は、終日「松の段」の節がかすかに、しかし絶え間なくあたまの芯のところで鳴っていた。身びいきではなく荻江壽友のつけた曲は力に満ちていて佳いのだ、わたしは、観世流の野村四郎が謡う「清経」と、壽友の唄う「松の段」のテープを愛していて、大学の頃も教授室でひとりよく聴いていた。

 2002 2・17 12

 

 

* それも幸い片づけて、今、送稿した。鏡を見ると山賊のようだ。それでも鼓舞すべくわたしの機械は昨夜から人間国宝若山胤雄社中演奏の「江戸祭囃子」「江戸祭囃子秘曲」「神楽囃子組曲」を繰り返し鳴らしている。望月太左衛が安倍久恵の名で演奏に加わっているから、彼女のくれたCDにちがいない、貴重に楽しい名盤で、十四種も入っている。全曲聴くと一時間以上らくにかかる。鳴っているあいだ、まさしく鼓舞されて仕事に集中できる。その前に、巧者橋本敏江演奏の「平曲」も聴いていたが、これは仕事の伴奏には向かない。

 2002 2・27 12

 

 

* 次の「湖の本」刊行に力点が動いてゆく。三月には京都で美術賞選考もある。神楽囃子最後の「仁羽(にんば)」が軽快に、いま、果てて、全曲終えた。鳴り物入りというが、ほんと、景気がいい。

 2002 2・27 12

 

 

 

 

* あたまが明日の鈴木宗男証人喚問を待つほうへ向いている。なんだか今日が、余分に挟まった一日みたいな気分では「今日」に対し気の毒で申し訳ない。江戸の祭囃子を聴いている。篠笛の佳い音色と締太鼓の軽やかなリズム。嬉しく嬉しくなってくる。「打込」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「玉打(先玉、後玉)」「屋台」とつづく。このあとへ「江戸祭囃子秘曲など」がつづく。知識は少しも欲しくないので、ただもう聴いている。聴きながらあれこれしている。

 2002 3/10 12

 

 

* 仕事をしながら、ビクトリア・ムローヴァのヴァイオリンを、小沢征爾らの指揮で聴いていた。チャイコフスキー、シベリウス、パガニーニ、ヴュータンという魅力のディスクである。バックに聴きこみながら、ここ二時間ほどは枕草子を読んでいた。なかなか双方が良かった。

 2002 10・8 15

 

 

* 少しのんびりできた。ビクトリア・ムローヴァのパガニーニとヴュータンを繰り返し聴いていた。パガニーニはヴァイオリン協奏曲第一番、ヴュータンは同じく第五番。指揮は、サー・ネヴィル・マリナー。近年は聴くと云えばピアノがもっぱらであったが、久しぶりにヴァイオリンが聴きたくなった。ムローヴァのらくらくとパガニーニをこなす技巧の冴えと確かな音楽の構築は、音を大きくもっぱら聴いていても、小さく仕事のあいだに聞き流していても、美しい。

 2002 10・14 15

 

 

* 「ニキータ」を語って、「海の上のピアニスト」を忘れてはならない。似ても似つかぬ二つの映像作品だが、佳いものは佳いと思う。

 ティム・ロスの切なく演じた、名匠ジュゼッペ・トルナトーレ脚本・監督の「海の上のピアニスト」は、そう、感動の質から謂うと、「グランブルー」に似ている。ともに海の映画だ、だがこれは、深く海にとらえられ、生まれてから死ぬる日までを巨大な客船の底で生き、どうしても陸地を踏もうとしなかった、まさに天資天才奇跡のピアニストにささげた映画だ。その設定の妙が、盛り上がるように批評の冴えになって行く。廃船になり爆破をひかえた巨船の奥底で、ダニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッドは、弾くべきピアノもなく、うずくまっている、目に見えないピアノを自在に弾きながら。澄んだ瞳で。

 かつて船内の楽団で演奏をともにしたトランペットの親友マックスが、とうとう彼を見つけだし、陸へ出ようと誘う。だが彼は静かに静かに友に語って、わらって、おどけさえして、しかし船とともに果てる人生をえらぶ。マックスも頷いて永久の別れをつげ、抱擁する。

 1900はいう、ものごとには終わりがなければいけないのに、あの陸の上にはそれが無いとみえるほど、ありとあらゆるものが氾濫し延長し際限がないようだ、あそこでは生きられない、あんなところでは生きたくない。終わりを選ぶことで生きることを全うしたい、と。

 やがて、海上の大爆発。1900の静かな声と思いが胸に残る。そして数々の奇跡を聴くようなピアノの音色・旋律のいろいろ。いま、この銀座で買ってきたビデオのなかに付録で付いていた小さなドーナツ盤で、演奏されたピアノを聴いている。びっくりするほど美しい音色だ。深海から届いた宝石のように。「グランブルー」や「タイタニック」が想い出される。

 

* この映画を少しずつ少しずつ本を読み継ぐように楽しんで見終えた日、盲目の日本の少年が、それは美しくみごとにチャイコフスキーとショパンとをオーケストラと共演するのを聴いて、わたしも妻も泣いた。嬉しくて、感動してである。「神います」思いがつよくした。「同感」と妻も頷いた。

 2002 11・1 15

 

 

* 夜はピアノ。モーツアルト、バッハ、ハイドン、ベートーベン。そしてヘンデル。横綱ばかり。はやめに夕食し、保谷駅からタクシーで、まっすぐ三鷹市芸術文化センターへ。清潔な音楽ホールで、浅井敏郎夫妻にまず招待を謝し、浅井奈穂子ピアノリサイタルを妻と聴く。

 ベートーベンの「熱情」はこの人に最もあった曲目で、この演者ほどあのピアノという楽器から巨大な音量の引き出せる人は、まして女性では少ないが、しかも「音楽」が大きい。圧倒的な力感がよく統御され、「音」がしっかり成熟している。バッハのトッカータとフーガの「ブゾーニ」も堂々と美しく速く逞しくて、さながらバッハを爆破し突破してゆく爽快感に溢れた。

 活躍の舞台はモスクワと、武蔵野音楽院。はでには動かない人だが、力量は大きい。 五、六曲を聴いてきたのだが、あっというまに感じたほど充実していた。

 済むとすぐさまセンターの前でタクシーを拾い、真っ直ぐ帰宅。好物のブルーチーズでボジョレーの赤を少し呑んでから、加能作次郎の「乳の匂ひ」を校正し終えて、いましがた業者に送った。佳い作品であった。

 さて明日は午前に「湖の本エッセイ26」が届き、午後は大正大学の会場で、芸術至上主義文芸学会のために講演する。その用意が、もう少し今夜に残っている。

 2002 11・29 15

 

 

* 明夕、橋本敏江さんの「平曲」演奏に招かれている。平曲二百句を通して演じるという大事業に挑戦中の、当代の佳い琵琶演奏家で、湖の本の読者。この師走には、「五節沙汰」「都還」「奈良炎上」まで進んでいる。まだ平家悪行のさなかであるが、源氏も起ち、平家はもう富士川で水鳥の羽音に追われ大敗している。

 演奏の場は西池袋自由学園の明日館。ほんとうの平曲そのもので、世に浮かれている平家琵琶の「まがいもの」とは、ハッキリちがう。

 2002 12・13 15

 

 

* 四時過ぎに、雨中を、飛ぶように秋葉原経由で日比谷線の人形町へ、そして水天宮ちかくの日本橋公会堂=日本橋劇場へ。五回めの「光響会」に、例年変わらずのお招きゆえ、私ひとりで、やはり参会した。

 朝の十時半から幕があいて、延々といろどり華やかに望月太左衛主催の大きな鳴物の会である。趣向の好きで上手な太左衛さんは、全国にわたるお弟子さん達を糾合し、大勢の協賛を得て、こういう大会を、とても楽しく盛り上げる。能が無ければ、今日など、半日は楽に此処に居座っていただろう。残念ながら「風流船揃」と「勧進帳」の二つを聴くだけで今宵は失礼したが。

 ひとつには、空腹で気分が悪くなり。

 先日妻と水天宮にお参りした晩みつけておいた、「ふぐ」店にと思ったが、「ふぐ」ではなんだかあっさりと物足りない気がして、このあいだ美味しかった中華料理の「翠蓮」に、また一人で入った。好きなマオタイがあり、佳い老酒も。持参のものを読みながら、一人では多すぎるほどを温かくたっぷり満腹してから、また日比谷線で銀座へ、そして有楽町線で保谷へ帰った。雪にはならなかったが、ついに雨は上がらず。

 車中でもずうっと読みふけっていた、現会員武井清氏の「ペン電子文藝館」用プリント原稿『武田落人秘話』百五十枚を、終盤へかけてなかなか面白く読み切ったのが、大泉学園のすこし手前だった。

 2002 12・21 15

 

 

* わたしはやや放心気味にのんびりしています。ヴィクトリア・ムローヴァのシベリウスを聴きながら。

 2002 12・26 15

 

 

* 作曲家古賀政男のテレビ一代記のようなものを途中観ていて、「幻の影を慕ひて雨に日に」の曲には、胸のつまるものあり。やぶれかぶれの変な作詞であるが、ソレにも味があり、曲はとにかくうまい。音楽は、ふしぎだ。

 2002 12・29 15

 

 

* 鮫島有美子が「千曲川旅情の歌」を歌っている。今宵はずうっと歌を聴いている。「花」も「椰子の実」も鮫島が歌っている。高峰三枝子の「宵待草」三鷹淳の「坊がつる讃歌」が濃厚に抒情的。鮫島の「遙かな友に」を聴くと、かならず娘・朝日子を思いだし涙が流れる。平安でいるだろうか。

 2003 1・14 16

 

 

* ニューイヤー オペラリサイタルで、トリを歌った、佐藤しのぶの貫禄の歌声にも容姿の美しさにも感心した。

 2003 1・19 16

 

 

* 「ひばりの時代」第二回が「哀愁波止場」を芯に放映され、懐旧の情をも圧倒するひばりの歌の魅力に、胸をつまらせた。歴史的な盛況であった沖縄公演を全身でなつかしむ人達の中で、一人の女性が、インタビューに答えて話し終えた最後に、声にも成らない小声で、おそらく誰も聴き取れなかったろう低い声で、「かわいそうに」と呟いたのにわたしは泣いた。むろん、ひばりの「夭折」とすら謂いたい若い死を嘆じたのであろう、わたしも同じ思いで、彼女にあらぬ薬剤などをすすめた悪しき民間療法を憎むのである。

 今ひとつ、「哀愁波止場」ほか数々のひばりの名曲をつくった作曲家船村徹が、番組のおしまいに、美空ひばりに限っては、彼女の天才が歌唱力に有るは当然としても、その上越す魅力は、「文学的に」言葉を読み込み「独自の世界を幻出させうる」天性の資質だ、天才の最たる秘密はそれだと言い切ったとき、感動した。それは、何十年来わたしの力説し切言してきたひばり理解とピタリと重なっている。そうなのである、その通りなのである。ひばりが「夜の波止場にゃ誰もいない」と歌えば、みごとにその世界が幻となり目の前に現れる。どのような歌、中には実に程度の低い歌詞もいっぱいあるのに、ひばりは「言葉を読み込む」天才で、それを歌に生かしてしまう。

 番組を見ていて、強いてわたしが、かくもあらばと深望みするのは、出てくる証言者たちのどの人もこの人も、いかにもひばり好きのうなづける人達ばかりではあるけれど、実に意外な、意想外な、意表に出たひばり歌謡の心酔者も出てきて、ひばりを大いに語って欲しいのである。じつは、わたしなども、そういう一人では無かろうか。「わたしだって話したい」という思いが、珍しくも、ひばりに限っては思い滾れるのである。

 ひばりちゃんは、わたしの「命」ですねと静かに言い切っている女性の声と表情に、わたしもまたほぼ同感していた。少なくもひばりと同じ時期を生きていた巨人の長島にも映画の裕次郎にも、とてもそんな思いは持てない。そういうことの言えるのは、家族をおけば、美空ひばりと源氏物語だけではなかろうか、そして京都か。

 2003 3・21 18

 

 

* 美空ひばり番組「繁栄のなかの悲しい酒」で、ひばりの名曲を反復聴き、涙で眼が煮えた。この歌、スローにスローに引っ張ってひばりは歌う。きまって涙も流す。けれども歌はビクとも揺るがない。どんな他の歌手でもあの真似が出来ない。藝である。

 2003 3・24 18

 

 

* 夕方から晩へ、オペラ「トラヴィアータ椿姫」原曲を聊かも殺さずに映画化したビデオを、音量豊かに聴きながら、手作業を続けていた。エチェリ・グヴァザーバのソプラノ、ホセ・クーラのテノール。終始一貫して最良の映像とともに堪能させ、感動させた。

 2003 5・31 20

 

 

* 歌を聴きながら仕事をしていた。花、千曲川旅情の歌(小諸なる古城のほとり)、宵待草、平城山、時計台の鐘、椰子の実、花の街、夏の思い出、雪の降る街を、七里ヶ浜の哀歌、北帰行、人を恋うる歌、嗚呼玉杯に花うけて、紅萌ゆる丘の花、坊がつる讃歌、琵琶湖周遊の歌、遙かな友に、雪山讃歌、篠懸の径 と盛り沢山な盤ではあるが、やや詠唱がどれも感傷的に流れて感じられる。編曲したり編集したりしているダークダックスの一人の好みが出ているのかも知れない。鮫島有美子や三鷹淳、川田正子にまじり美空ひばり(人を恋うる歌)も歌い、森繁久弥も都はるみも昔の校歌を熱唱している。高峰三枝子も小林旭も歌っている。みんな美声すぎる。

 わたしが、あまりな時代の落差に、動揺を禁じ得ないのかも知れない。どの歌も、今日のぎすぎすした風俗や荒廃との間に異様なほど他界感を感じさせる。

 どちらかといえば、何としてもわたしは「今・此処」を生きるしかない。さはさりながら、「濁れる海にただよへる わがくにたみを救はんと」と昔の学徒が高歌した歌詞を都はるみの歌声で聴く内に、なんだかなんだかあんまり今の世が情けなくて、口惜し涙が溢れてきた。だれを責められよう、わたしにも責任がある。

 2003 7・11 22

 

 

* 浅井奈穂子さんの秋のピアノリサイタルに、また、夫婦で来るようにと父君よりお招きがあった。サントリーホール。ドビュッシーやシューベルト、そしてベートーベンも演目に。モスクワで活躍をつづけてきたベテランのピアニストで、この人ほどピアノを「鳴らせる」人はそうそうはいない。聴いていて全身が音楽に化けてしまう。

 2003 7・14 22

 

 

* 今日一によかったのは、たまたまビデオを出して聴いた「わたしの美空ひばり物語」という特集。わたしの好きな歌をみな歌ってくれて、「一本の鉛筆」のような特級のサービスもあった。反核の、佳い歌であり、もっともっと広く歌われていい。大切なシンボルとして歌われてもいい。

 新劇女優奈良岡朋子の「旅行鞄」を話題にした静かに美しい「語り」にも、あらためて胸打たれた。ひばりと二人して海外へ「素顔」の旅をしよう、したいしたいと、ひばりは、奈良岡にいわれたとおり、小さな自分で持てる程度のスーツケースを買い込み、そのまま病に倒れた。

「眼が見なくなれば心も離れる」という外国のことわざを引きながら、奈良岡は、あのひばりだけはちがう、死なれてからも心から全く離れない、と。

 わたしは、ふたつほど年下のひばりを、育った家の近くで、中学一年か二年の頃にまぢかに見ている。そのためか、ひばりの幼い頃に歌っていた「東京キッド」や「わたしは街の子」が好きで、その二曲とも今日のビデオはおさめていた。やっぱり、ひばりを見て・聴くと、懐かしさに涙が溢れる。そして、先に行ってしまった人だと思い、いつしかに近づいてくるものの足音に、つい耳を傾けている。

 人生とは可愛いものだろうか、川の流れのようだろうか。

 東京ドームで最後に歌い上げた歌は、初めて聴いたときはその「歌詞」に顔をしかめたが、ひばりが亡くなってから聴くと、ああ、あれがひばりの心をいちばん捉えていた確信の辞世歌なんだと聞こえ、わたしは、自分の逝く日のことを、ふっと思ってしまう。

 2003 8・11 23

 

 

* 杉山寧の「朝顔」がカレンダーに咲いている。淡い青と、濃い紫。すこしはずかしいような莟のかたちも見えている。上から右へ鍵の手に空間をあまして、構図されてある。朝顔の花ほど、わたしをたちどころに国民学校前半の京都の家に運んで帰すよすがは、他にない。そしてまた海など知らなかったのに、わたしは今だに「われは海の子しらなみの」という唱歌が好きだ。身のうちを回流するかのように、六十余年の記憶がゆっくりとうねっている、これは何なのだろう。そういう歳だといわれれば、一ぺんにカタはつくが。

 2003 8・20 23

 

 

* 阿川弘之作「年年歳歳」をスキャンし、校正中。また木村曙作「操くらべ」若松賤子「おもひで」も、水野仙子「神楽阪の半襟」も伊東英子「凍った唇」もスキャンした。その間にヴィクトリア・ムローヴァのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲ニ長調、シベリウスの同じくニ短調を聴きに聴いていた。いま最も愛している名盤の一つで、二枚あり、もう一枚は、パガニーニの第一番ニ短調と、ヴュータンの第五番イ短調。これが鳴っている内は単調なスキャン作業が苦にならない。いつのまにか済んでしまう。

 2003 9・5 24

 

 

* チャイコフスキーに、バイオリン協奏曲はたしか一作しかない。ニ長調35だ。スイスのクラレンスで療養中に一月ほどで作曲されたスラヴ情緒の濃い、かつ華麗な技巧の傑作とされている。ヴィクトリア・ムローヴァがこれをダイナミックに演奏すると、わたしのからだ中が「音楽」になってしまう。単調な繰り返し作業になるスキャンのときは、これが魔術的にわたしを虜にしてくれるので、作業の退屈はけしとんでいる。五十頁もある戯曲をいつのまにかスキャンし終えていた。

 2003 9・7 24

 

 

* 颱風。雨は降っていたが風はまだ。暑くも寒くもない陽気にきちんとした服装が出来たのはむしろ幸いと、サントリー小ホールの浅井奈穂子ピアノリサイタルに、妻と出かけた。時間早くに家を出、駒込経由の南北線で溜池山王まで。

 全日空ホテル三階の「乾山」で、夕食は寿司。少し値は高いが、器は店の名前だけあって、まさか乾山ではないけれど佳いやきものを、どっしりした見映えで出してくれる。タネも、値段だけあって文句ないものをうまく組み合わせて出してくれる。鯛も大とろも海老もアナゴもけっこう、巻物のセンスもいい。

 銀座で気楽な「福助」とくらべるとえらく贅沢な店の空気のようで、ところが、そうでもない。店の女たちの和服がしっくり着付け出来てなくて、化けの皮丸見え。

 わたしの好きな「美しい人」など、数年前の初対面からこちら、店で揃いの和服姿しかわたしは知らないが、いつも清潔にきちっと着物を着ていて、質素なのに美しさの花になっている。和食の店の女性の和服がギクシャクしていては、とんだ艶消しで、自然、物の出し入れの行儀も行き届かない。食器の卓へ置き方一つでも、その店の「位」はすぐ分かってしまう。

 しかし「乾山」の寿司は腹も空いていて、うまかった。酒も酒の燗も酒器もよかった。一人前六千円は量多くなくてケッコウであるが、椀に、蜆の赤だしでは品がない。池袋「ほり川」ではもっと気の入った吸い物が出てくる。

 

* 小ホールでピアニスト父君の浅井敏郎氏夫妻に、招待を感謝しお祝いを申し上げる。もと新潮編集長坂本忠雄氏も夫妻で見えていた。この浅井リサイタルでは必ずのように出逢う。

 招待席は五列目の真中央、演奏者のまっすぐに見える絶好席。なにしろ雨で風のこと、ほどほどの軽装で出掛けていた、ま、そんなことは気にしないが。

 シューベルトの即興曲が二つ。ベートーベンの「熱情」。後半はムソルグスキーの「展覧会の絵」全曲。

 浅井さんはイタリアで音楽教授の学位をえたあと、モスクワで研鑽を積み、大きな地位と称号を得ている人だ。その音量の大きいというか、音のつよく深いことは、ピアノが豊かに鳴り響くことは、最大の長でありまた時には驚かされてしまう。その意味ではこの人の「熱情」や「悲愴」やまた「月光」の第三楽章などは似合っている。だが、今夜の「展覧会の絵」では、あの序曲は、画家の展覧会場へ入っていくムソルグスキー氏のいわば自画像音楽である筈だが、そしてわたしはムソルグスキーの風貌や体格を知らないけれども、鳴り響いた時には、元横綱曙太郎氏が登場したようにビックリした。

「月光」の出だしなども、巧みだが例えていえば「太字で書いた」月光曲に思われた。

 だが誰の曲か知らない、アンコールの小曲の、繊細にやわらかな美しい演奏には、魅惑された。うっとりさせてくれた。

 

* 演奏の始まる直前と、帰りに地下鉄銀座線に乗ってすぐ、二度も、妻の体調がぐっと下降し心配したが幸い持ち直し、無事帰宅できた。保谷駅前で雨中すぐにタクシーに乗れたのも幸運だった。

 帰ると玄関に黒いマゴが嬉しそうに正座して出迎えた。しばらく彼は興奮して家中を縦横に疾風のように走っていた。

 2003 9・21 24

 

 

* で、機械の前へ来て、昨夜買って帰った浅井奈穂子の去年のリサイタルCDを聴いている。モーツアルトの、「デュボールのメヌエットによる九つの変奏曲」から入り、これがすこぶる美しく、機嫌がなおった。バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」がつづき、今はハイドンの「皇帝賛歌の主題による変奏曲」が美しく鳴っている。

 このあとへ、ベートーベンの「熱情」そしてアンコール曲としてバッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」が。

 さ、「熱情」がはじまった。ホロヴィッツの、またグレン・グールドの「熱情」を何十度聴いてきたことか。だが浅井はこの曲をまた一つの個性的な「熱情」に弾ききる才能である。快調……。

 2003 9・22 24

 

 

* 六時半にスポッと目覚め、そのまま起きて、午前中をスキャンという根気仕事に掛けた。アシュケナージの「月光」ホロヴィッツの「熱情」「悲愴」が繰り返し鳴り続いた。昨日は浅井奈穂子の「熱情」を三度聴いた。ホロヴィッツの名匠ぶりがいかにもと納得できる。午後にはグレン・グールドの「熱情」で作業を続けよう。

 2003 9。23 24

 

 

* 御陰で今日わたしの機械部屋ではベートベンの三大ピアノコンチェルトが四壁にしみいるほど鳴り続けていた。月光・熱情・悲愴は、それほど聴いていても、飽きない。名曲はすばらしい。グレン・グールドで聴き、ホロヴィッツで聴き、アシュケナージで聴き、浅井奈穂子で聴き続けた。これが同じ曲かと思うほど演奏者により印象が変わるのにも、今更に、おどろく。

 スキャン作業は全く機械的な作業なのだが、途切れ目なく流れ続けてちっとも手の抜けない作業であり、手順を間違えるとたいへん難儀なやり直しを強いられる。四十回から五十回繰り返すのが限度で、少し中休みして手を止めないと、疲れて集中力を欠きミスが出かねない。一度ミスすると厄介千万。積み重ねた作業分の全部をうっかり消去して泣いたことも何度もある。懲りてずいぶん慎重になったが、疲労には勝てない。

 いま私の手元でスキャンの必要な作業が、なお十件ほど溜まっている。苛立つとそれが負担になるので、なるべく軽く忘れている。肩凝り。バンザイすると骨がきしんで、鳴る。

 2003 9・23 24

 

 

* 今日は仕事の間中、ワーグナアの歌をペーター・ホーフマンで聴いていた。六つのオペラから八曲。一々中身を詮索していないで、ただ音声美として。ひとつずつ日本語にしてある解説の歌詞を読んで聴けばいいのだろうが、そういう聴き方はしていない。そして井上靖の「北国」を校正している。もう眼が限界のようで。階下におりる。 

 2003 10・5 25

 

 

* 国立小劇場に移動した。永田町からの途中レストランで、海老のスープ、鴨のソテー、そしてハウスワインで夕食した。小劇場では望月太左衛「鼓楽」の旗揚げ公演。永くつづけていた「夢舞台」からの展開である。

 十世杵屋六左衛門作曲「翁千歳三番叟」を、太左衛はじめ女性が八人、それに三味線杵屋五三郎他、長唄杵屋喜三郎他、笛鳳声晴雄など総勢二十一人で、交響的な合奏。これが大いに盛り上がった。三番叟へ女性が取り付くというのはむしろ禁制破りに近い意欲的なことで、旗揚げにふさわしい敢闘の演奏が成功していた。楽しんだ。

 二番目の「三輪山」を題材にした創作が、一傑作となり、今後も再演に堪えるだろう。太左衛構成・作調で、彼女の鼓に、豪華に宝山左衛門、福原洋子の佳い笛がしみじみと付き合い、効果的な背景の前で、巫女姿の額田姫王が「歌謡」し「物語」る。この「節付け」して演じた櫻井真樹子が、よく平曲等の発声や声調を活かし、上古の楽調を示唆的に実現して見せたのはえらい。わたしは、橋本敏江のすぐれた平曲演奏を思い浮かべつつ、この櫻井の工夫や勉強に好感を覚えた。太左衛の「総合的演出力」は端倪すべからざるものがあり、佳い世界を生み出したと思った。

 三番目は「アムリタ」で、これも太左衛の構成・作曲と、エレクトーンを担当したセリア・ダンケルマンの編曲とが大胆に出会い、さらに深海さとみの箏の演奏が大きく参加、いい三つ巴をなしながら、繊細にまた豪壮にまた優美華麗に音響が展開したのは、意欲満々。音としては、深海の箏曲がパチパチと硬い突き当たった音をさせていたのが全体の円熟と深みとをやや損なっていて、惜しいと感じた。

 

* 三輪山は傑作だよと褒め、太左衛さんの嬉しそうに崩れた笑顔と歓声を目に耳にして、一路帰宅。秦建日子のドラマ「共犯者」がはじまって数分というところへ間に合った。

 2003 10・15 25

 

 

* すこし気も体もダラケている。昨日国立小劇場で買ってきた「笛」の曲を聴いている。かつて藝術祭で大賞をとった福原百之助(現宝山左衛門)作曲の「嵯峨野秋霖」が惻々せまり来て、佳い。

 2003 10・16 25

 

 

* あすのために、もうやすもうと思って、唐突に、妙な歌が思い出された。「江戸東京芸能地図大鑑」という、本だか何だか知れない広告チラシがたまたま傍に来ていたからか。「逢ひたさ見たさに怖さをわすれ」という籠の鳥のメロディと歌詞と、だ。秦の父が、むかしむかし電器修理の仕事などしながら、あれは機嫌がよいとであったか良くなかったときか分からないが、鼻歌にしてよく謳っていた。へんな歌と思って聞いていた。「おれは河原の枯れ薄 同じおまへも枯れ薄」というのも聞いて、あまりいい気持はしなかった。いまとなってみると、前の、歌の方がまだしもとぼけていて感傷的でないのがマシかもしれぬ。

 ところでこの歌、「暗い夜道をただ一人 逢ひにきたのになぜ出て逢はぬ 僕の呼ぶ声わすれたか」とつづき、二番だか三番だか、「あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥」と「題」があらわれる。で、その先が出てこないのだ、記憶してなかったのか。「籠の鳥でも」なんとかの鳥は、と続いたはずだが、なんとかが直ぐ出ない。虫食い題の感覚でいえば「チエ有る鳥は」だろうが、そのアトがまるで思い出せないので話にならない、するとしきりに「恋する鳥は」かも知れないと、暗闇をさぐるけれど手応えがない。

 そのうち、鳥に恋ができるのだろうか、鳥は恋をするかなどと考え出すようになり、あまりの突飛さに我勝手に鼻じらんでいる。へんな話だ。

 しかし本気の所、鳥は恋するのだろうか。鳥は愛するだろうか。犬が恋をしたとか、犬と猿とが恋をしたとか聞いたことがあるような。

 2003 10・19 25

 

 

* 先週の今夜であった、太左衛の「鼓楽」の会で印象深かった「三輪山」朗詠の櫻井真樹子さんから、メールをもらった。やはり天台声明などを研鑽の成果であったらしい。天台座主の慈円が、平家物語濫觴にかかわる信濃(正しくは下野)前司時長や生仏を間近に扶養していたらしいことは、徒然草の兼好が書きのこしている。平家琵琶の語りに天台声明の関わりあったろうことも。

 ちかいうちに橋本敏江の平曲全句演奏のどのあたりか途中の公演があるはずだが、この二人、出会わせてみたい気がする。橋本さんの「全句」演奏はたいへんな壮挙。まだ道半ばであるが着々進んでいる。

 ご主人の転勤に主婦として仙台に住んだのを機に、当地に伝えられた一方流平家の正統を学んで、今は人間国宝級の演奏者。江戸女流文学研究の先駆者となった門玲子さんと同じ、もとは普通の主婦であった。

 2003 10・22 25

 

 

* 福原百之助と徹彦の笛「嵯峨野秋霖」を聴いている。昨日の「野宮」の余韻が身内にある。

 2003 11・3 26

 

 

* すぐ大江戸線で練馬へ、そして大泉学園駅へもどり、「ゆめりあホール」での、語り芝居と琵琶による「平家物語」を待った。このまえ日暮里の正行寺で、原知佐子らと一緒に平家を「語り」の、今日は岡橋和彦の一人舞台。その岡橋の親切な招待があった。

「ゆめりあ」の中をひとまわり歩いた。新しく出来た建物と店舗とで感じが佳い。時間があったので駅北口へ出て、まずまずの風情の蕎麦屋に入った。風に冷えたからだを鍋焼きうどんとビールで温めた。蕎麦は酒の肴になる食べ物、日本酒を置いてないのには失望したが、温かい物は温かくてうまくて、ゆっくり、妻と、芝居やら何やらとぎれなく話しながら、気分良く休息した。

 

* 七時開演。演目は、祇園精舎、足摺、木曽最期、敦盛最期、那須与一、壇ノ浦合戦。そのうち那須与一だけは鶴田流薩摩琵琶の岩佐鶴丈が琵琶で語り、余は、岡橋和彦が語り芝居で美しく演じてくれた。活字で読めば難しい分からないと嘆くかも知れない人も、美しく力ある読み語りに魅入られて聴いていれば、ことごとく理解でき感銘を受ける。木曽最期など、泣かされた。熊谷・敦盛も、壇ノ浦も、流石に名文、心打たれ心しおれた。

 帰りがけ岡橋さんの懇切な挨拶があり恐縮した。私からのおみやげに、「風の奏で」を持参した。

 2003 11・28 26

 

 

 

 

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