* 「松風」と「綾鼓」を観た。
喜多節世(きたさだよ)が松風をこの日に舞うと知り、ペンの京都大会を失礼することに決めた。節世の能をもう何度観られるか分からない。今日も、立ち居は観ていてつらいほどだった。後見が出て起たせてくれて、ふつうだと、でしゃばるなと云うところだが、今日は目頭がにじんで「ありがとう」と思えた。
節世とのつきあいは長い。彼が再婚の披露をした日、私は祝辞を述べた。よく覚えている、展望に出した『閨秀』を、亡き吉田健一が朝日新聞の文藝時評全面を用いて絶賛してくれたその日だった。披露宴が果てたあとの帰りに、私は浜松町の駅の売店でその時評の出た夕刊を買った。そういえばあの日祝辞を述べたもう一人が、将棋名人の中原誠だった。
すばらしい奥さんだったが、先年亡くなり、追悼の会で話したとき、私は涙で絶句した。
京都へ帰っていて、大徳寺へ出かけていた日、ご夫婦の幸せそうな旅姿に偶然出逢ったこともあった。節世氏は喜多実の愛子にふさわしくたいした美男子で、奥さんはまことに佳人であった。そして節世のその後をめぐる流儀内の不幸と波乱はやまず、彼は健康を損ねているらしい。節世の能を、出来もさりながら、現に舞台の上で観られることに私は自分の人生のなにかしら大事なものをかけている。反問されても困るが友誼とでも言っておく。松風は老いていた。老松にも風はふくものだ。能はところどころで紛れもなく美しかった。粟谷菊生、友枝昭世の仕舞も端正に美しかった。万作万之介の布施無経も彼らの老境に応じてしんみりしていた。先代家元の喜多実を偲ばせる会の趣旨も利いていた。
来年春には節世は「景清」を舞うという。実現してほしい。
1998 10/3 2
* 栄夫の『実盛』は、良いところと良くないところが出た。謡を噛み潰して謡うので大方気張っているのは分かっても、言葉が聞き取れない。しかし床几に座っての語りになると見所を掴んで放さない。演技はみごとで当代の実盛役者といえる。ほろりと泣かされた。後シテのはまっているのはむろんだが、前シテの出も、遊行上人との幽顕境を異にしての対話もしっかりしていた。去年の『檜垣』は意欲の舞台だった。今年の『実盛』は栄夫のものである。良くも悪しくもそれぐらいの差があった。前シテではすこし寝入った。
狂言が先日の万紀夫の会と演者も同じ万作万之介の『箕被』で、こんなのは珍しい。気分のいい狂言なので佳いが、辛気くさいのを一週間のうちに二度もつき合わせられたら迷惑だ。万作、老いて、しおりあり、先日も今日も好感をもてた。それにくらべると『実盛』のアイの石田幸雄は、まじめな狂言師だが、長丁場に工夫もなにもなく、しっかり退屈させる。
万紀夫の会より、よっぽど客が入っていた。小山弘志さん、堀上謙氏らは先日も一緒、今日はドナルド・キーンさんと挨拶した。栄夫夫人の観世恵美子さんのお顔をみられなかった。いうまでもない谷崎夫人松子さんの娘さん。朝日子がたいへんお世話になった。
1998 12/23 2
* 十五日、小豆雑煮もきちんと祝った。去年のように雪も降らず。梅若研能会の「翁」は、まずまず、めでたかった。奥さんの話では万紀夫は八度ほど熱があったらしい。そのためか、力みがぬけ、しかも謡は豊かにめでたく出来た。不足は何もなかった。萬斎の三番叟は柄がちいさくて、元気は元気だが、めでたいところまでは行かなかった。千歳も面箱も小さかった。つづく「鶴亀」「船弁慶」は失敬。
1999 1・16 3
* 国立能楽堂で友枝昭世の『道成寺』を最良の席、舞台真正面のうしろ補助席で観てきた。ここは最後列より一段高く前列の客の頭に舞台を塞がれることが全くないので、遠くほどよく見える私の最近の眼鏡では、これほどいい席はない。全舞台が一瞥で視野に入り、しかも真中央の正面だった、堪能できた。昭世のことは、以前昭世の会のパンフに「鞘走らぬ名刀」と評したことがある。その昭世の会のもう今度は五回目だった。当節最も脂ののった名手であり、安心して観ていられる。率直に言って今日の『道成寺』のシテは、図太いほど食欲旺盛な、平然とした蛇体であった。それはそれで道成寺の蛇の一つの表現だと思う。昭世はでぶりとしたシテだが、今夜は出から妙にスマートでセクシイだった。烏帽子をつけてから急に太り、蛇になって鐘から出てきたらまた細身で凄かった。柱巻きなど凄かった。宝生閑の間の語りが芝居がかって、毎度狂言方の一本調子のアイを聴かされるのより説明的で歌舞伎的だった。小鼓とのあの緊迫した演技は、さすがに安定し、それが平然と鐘に迫って獲物は逃さぬという凄みになった。哀れな蛇ではなかった。それでよいと思う。
馬場あき子に逢った。きもちよく話してきた。ふとってはだめよと叱られた。このところちょっとうまいものの食べ過ぎである。朝日子の仲人をしてくれた早大の小林保治と並んでみた。直ぐ前に小山弘志、大河内俊輝氏が陣取っていた。少し離れて堀上謙氏がいた。また松永五一氏、大岡信氏も来ていた。満員だった。
山本東次郎の狂言『鱸包丁』もいい狂言だった。閑のワキも山本の狂言も口跡が粘って好きではないのだが、今夜は実力がよく出た。
1999 4・6 3
* 今日は文字通りの土砂降りだった。千駄ヶ谷から国立能楽堂まで傘が役に立たなかった。気の毒に橘香会は客席が随分空いていた。だが万紀夫の『朝長』は、前半は眠かったが、後シテは美しくあわれに凛々しくて、おみごとであった。からだが、しなやかによく使われ、活躍した。平治の乱で敗走し、父義朝の脚手まといになるまいと自害して果てた少年武士の能である。近江の青墓が舞台。近江富士や竜王の山が目に見える。
それにしても前半は眠かった。前夜寝ていなかった、殆ど。メールでの質問にも答えたし、読みかけの本も読み上げた。もっとも、そうでなくても能では寝る。だが寝てはいけなくなった。立川談志のおかげで、客はうかうか寝たりするとつまみ出されて、裁判をしても負けるのである。なんということだろう。
* もともと予定通り一番でだけで能楽堂を出た。すさまじく雨に濡れた。池袋に戻りひさしぶりに天麩羅の船橋屋に入った。若鮎よろしく、笹一の酒また馴染みで、いい気持ちになった。
1999 4・24 3
* 東京へ着くとその足で国立能楽堂へ入り、友枝昭世の『道成寺』を佳い席で、四月公演にひきつづき二度目を観ることができた。昭世師の厚意に感謝する。演能みごとであった。言うことなしで、堪能した。旅の汗でそばの客に迷惑をかけたかも知れない。堀上謙さんと歓談しながら保谷駅までいっしょに帰った。預けた自転車に乗ったところでぱらぱらと雨が来た。疾走して無事だった。
1999 5・26 3
* 松濤の能楽堂で、梅若万紀夫の「江口」を観てきた。八月で見所は閑散としていたが、能はよかった。二時間の能を退屈しなかった。前夜明け方まで起きていたのに、眠りこけもしなかった。後シテの美しかったこと、優しく、品位の高かったこと、うっとりさせる幾つものしどころを、万紀夫は、やりすぎないで、丁寧に気を入れていた。大鼓の亀井忠雄、小鼓の鵜澤速雄のかねあいが立派で、笛は一噌仙幸、わるかろうわけがない。当たり前のようで、じつは三役の息がぴたりということは、なかなか珍しいのである。
かわりに、ワキがややぬるく、間狂言の大蔵弥太郎も聞き苦しくなまった舌たるい語りで、耳を覆いたかった。どれもこれもとは、やはり、行かない。それでもシテと囃子がよければ、とにかく、能が引き立つ。もともと心にしみて好きな能であり、話材である。和歌がよい。観ていて、小説が書きたいなという刺激があった。有り難かった。
1999 8・26 4
* 梅若の橘香会に。二番目梅若万紀夫の「百万」から。
少し面痩せた百万に見えた。万紀夫の集中力がやや低いと感じていたが、一つには地謡がひどかったみたいだ。それでも半ば近くから持ち直し、ことに我が子との再会を果たして烏帽子を脱ぎ、とりものを捨てて以後の母百万は美しく、みごとであった。大鼓の亀井青年が颯爽として、しびれるほど良かった。この青年はわたしの眼には、いま能楽界の輝くスターである。
万紀夫夫人の「お願い」に屈して夫妻子息の紀長君演ずる「安達原」を付き合ってはきたが、これは途中であくびがでるほど低調な鬼女で、げっそり。
* 万紀夫を万三郎にしたい。さらに大化けの望める能役者だと思う。この襲名を阻んでいる流儀内のいくつかの障害を、漏れ聞いて承知しているが、愚にもつかないものばかりである。「梅若万三郎」の名跡を起こすことを「観世流」は流儀の為にも勇断すべきだと思う。
* 堀上謙氏と保谷まで一緒に帰る。奥さんが旅に出ていて、一人の家に帰るのは淋しいとひげ面の小父さんが可愛らしい泣き言を言うので、付き合って、保谷の「いはし」と「数美」とで食い且つ飲み、また食い且つ飲んだ。八時以降は飲み食いしないと決めて励行してきたのを、破った。ま、堀上氏のためなら、いいであろう。
1999 10・17 4
* 梅若万紀夫の「砧」は前後ともにすこぶる上出来で、烈しい感銘はないが、深い哀情を湛え、緊迫した静かさで演じられた。ツレはちと頼もしくなかったが、ワキはワキツレともどもきっちりした格を保ち、萬斎のアイも丁寧だった。亀井忠雄と幸清次郎が佳い囃子で、地謡もよかった。歳末をきりりと締めた「梅若間紀夫・能の会」で、満足して帰ってきた。
もっとも萬斎・万之介の狂言「空腕」は、かつてのわたしのエッセイの題どおり、「冷えた情念」そのもので、退屈だった。うすら寒くなった。風邪を引きたくなく、池袋東武で、仙太郎のおはぎを三種買い、さっさと帰った。仙太郎は京の菓子屋で、叔母のお茶の稽古日にここの最中がよく使われた。お裾分けにあずかるのが大の楽しみだった。縄手の松原まで叔母のおつかいで買いにも行った。それが今は池袋の百貨店で買える。叔母が懐かしい。父や母と冥土で仲良くしているかなあ。
1999 12・12 3
* 幽の会は、能二番、狂言とも優れた舞台で、歳末の大収穫だった。こんなに生彩に富んだ「経正」に、初めて出逢った。観世榮夫は独特の節をもった謡い手であるが、今日はそれが榮夫の声音とは聞こえず、経正その人の哀しみ溢れて絞り出される地声に聞こえた。装束と面と物具とがぴたっと「人間」の姿を輪郭づけ、舞台の上をまさしく「経正」が歩いている、呻いている、泣いている、舞っている、狂っているとしか見えないのが、めったになく生身の迫力で、こういうことを経験した覚えがない。ワキの行慶僧都も地謡も囃子方も遠のいてしまい、凛々として「経正」が、舞台の上で生きて幽霊であった。へんなもの言いだがそんな風に言いたい経正の美しさ凛々しさ悲しさであった。榮夫がわざわざ自身の会にこれを選んだわけは色々あろうが、凄いと思った。立ち居には破綻も見せたが、それさえが経正生身の魅力を増していた。一昨年の「檜垣」もじつによかったが、能「経正」の特異な哀れを、今回、劣らずに演じきったと言える。
つづく狂言「柑子」を、野村万蔵が悠々と名演した。久しぶりに、ああ狂言だと思える舞台を観た。万蔵がそのまま狂言になってきた。すばらしい。一昨日は万蔵甥の萬斎「空腕」を観たが、どうしようもないモノだった。伯父さんにも、よく習い給え。
* さて三川泉は、一昨日の梅若万紀夫とこうも違うかというまったく別の「砧」をみせてくれた。万紀夫のが三十代から四十代の美しい砧の女なら、泉は老女の砧を舞った。五十代であった。同じ宝生閑がワキの夫なので、泉の妻は桿りやや年上の妻に見えてしまうぐらいで。そして、美しさよりも哀しみ方が静かに深く深く、動きも実に静かで、幕を出てからも幕にしがみつくようになかなか橋がかりを動かない。そういう行き方が、しっとりと澄んだ水のしみこんでくるように見所の胸に落ち着ききってくると、じわっと閨怨の哀しみが透き通って膨らんでくる、迫ってくる。見ていて堪らなくなってくる。ことに前シテが充実していたが、後シテも動かなくて盛り上げて行くワザの深さに感嘆した。
万紀夫の美しい哀しみに対し、三川泉のは底知れぬ哀れであった。どっちとも優劣をいう必要はない。こういう二つの「砧」をたった一日おきに観られた幸せを噛みしめている。
* 歌舞伎、新劇、能、狂言。この師走は、恵まれた。今日も見やすい佳い席をもらっていた。そして今夜も一昨日もドナルド・キーン氏と一緒だった。堀上謙氏がいっしょなら、今夜は出版のお礼も言い、帰りに一献傾けたいと思っていたが、珍しく一昨日も今夜も能楽堂に姿がなかった。
1999 12・14 3
* 松濤の梅若研能会初会、「翁」は、三番三が緩くて、さっぱりだった。紀長の翁は頑張って謡っていたけれど、全体にめでたい気分が盛り上がらず、低調な「翁」になったのは残念至極。めでたく狂言の「宝の槌」をと席にいたが、第一声を聴いただけで、まるで素人さん、これは堪らぬとロビーに出て、さて帰ってしまうのはいかにも無念だし、休憩時間もはさんで、万紀夫の「巴」を待った。女人のシテの唯一の修羅能である、これが楽しみで来たのだった。
贔屓の、亀井広忠大鼓である、新年の賜。小鼓の幸正昭も笛の松田弘之も「翁」と掛け持ちで、なかなかの「囃子」であつた。
ただ、最近時々ひどく気になるのだが、ワキの森常好らの謡が、まるで唱歌のようにうわつらで唄っていて、軽い軽い。これは聴きようでは見所をなめた尊大なワキになり、気持ちが悪い。謡は能の基本であり、真剣勝負で謡ってもらいたい。鏡花の『歌行燈』ではないが、素謡ひとつで人の命も飛ぶような藝の怖さが役者に生きていなくて、鼻歌のように気楽にワキに唄われてしまうと、舞台の位も張りも緩みきってしまう。
* そうはいえ万紀夫の「巴」には、ずうっと深く引きずり込まれて、後シテのいまは義仲自害の遺骸に別れて、物具を脱ぎ捨てて行く悲しみの深さには、めったになく思わず声の漏れそうに泣いてしまった。涙が幾筋も頬を伝い、くっと口を掌で押さえていた。理屈も何もない、そのような気持ちにさせ涙を流させてくれる、それで舞台と観客わたしとの帳尻はきっちり合ったのである。足りたのである。幸せなことであったし、涙と感動により「清まはる」ことが、ちゃんと出来たのである。癇癪をおこして帰ってしまわず、懐かしい「巴」が観られて本当に良かった。
* 能楽堂では二松学舎の松田存教授と会えた。珍しく、梅若関係の人をのぞいては松田さんのほか、顔見知りの一人もいない、少し寂しい会であった。
* 能は理解しにくい、難しい、と思いこんでいたが、という趣旨の、以下のようなメールをもらっている。
* 「能」を今までにまったく観たことがないわけではありません。
なぜ、難しいのか? 言葉がわからないからでしょうか。
言葉のわからないロシアやイタリアのオペラは、すぐ理解できます。
わずかな動きの中で仮面をつけて舞い演ずる芸術。
世界にたぐいなき、奥の深い芸術の最高峰、手の届かぬ世界のものと思ってきました。
でも、花伝書を一読したとき、年齢別の項で、「時分の花」「誠の花」「失せざらん花」「誠に得たりし花」などの言葉が、内容が、深く心に沁みました。これなら理解できるかもしれない、と思いました。
オペラはリアリズムの芸術だからわかりやすいのだと思います。
能は抽象化された芸術です。深い心がないと理解しにくい。
でも、7歳の子どもも演じる芸術です。難しいという先入観を取り去る必要があるかもしれません。
* 申し訳ないが、このメールに表された考え方、感じ方には、いかにも性急な理知主義を感じる。「理解」を先ず立てて求めて、それが「知識」を求めるのと同義語のようになっている。『花伝書』が、まんまと得難い或る「知識」の庫と受け取られ、「これなら(能も)理解できるかも」と期待される。あまりにアバウトである。
まず最初は、「わかる」必要など無いのである。無心に「みる」そしてどこかからとりついて「好きになる」ことだ。
山種美術館で、繪を「みる」と「わかる」とについて講演したことがある。繪はわかるために在るのではない、観て好きになるのである。観る。基本は観るという体験に素直であること、すると「涙」もこぼれるし感動もする。わかったから感動するのでは、ない、ように、わたしは感じている。
* 茶の湯の稽古でも、メールの人と同じような、「理解」のための「知識」を求めて入門してくる「知識人」がけっこう数多いが、まず、長続きしない。危ふやな浅い前提、つまりは思い込みのような役に立たない「見当」を、はなから付けてとっかかれば、案に相違したときに、簡単に躓いてしまう。それなら先入見など無しに素直に謙虚に体験し、知識がそのあとから追っかけて来てくれるようにするのが、いい。わたしは、そのようにして能にも茶の湯にも近づき、楽しんで来れた。
2000 1・15 5
NHKの伝統芸能テキストの「能」の項に書いた一文を転載しておく。能に限らない、芸能の淵源に触れた。わたしの読者には耳にたこなのであるが。
* 能の魅力 死生の藝
広くも狭くも「能」という。静御前が白拍子の舞を鎌倉の八幡宝前で舞ったのも、「能」と書かれてある。また「藝能」ともいう。藝「能」人は、今日ではいわば一種の貴族であるが、その「能」の字が「タレント」を意味するとして、本来はどんなタレント=技能・職能を謂ったものか、綺麗に忘れ去られている。
能や藝能を、たかだか室町時代や鎌倉・平安末に溯らせて済むわけがなく、人間の在るところ、藝能は歴史よりも遠く溯った。日本の能や藝能に現に携わった人や集団は、遙かな神代にまで深い根ざしを求めていた。能の神様のような観阿弥や世阿弥は、傷ついて天の岩戸に隠れた日の神を、此の世に呼び戻そうと、女神ウヅメに面白おかしく舞い遊ばせた八百萬の神集いを即ち「神楽」と名づけ、「能」の肇めと明言しているが、それは、アマテラスという死者の怒りを鎮め慰め、甦り(黄泉帰り)を願って懸命に歓喜咲楽=えらぎあそんだ「藝能の起源」を謂うているのであった。幸いに、天照大神は甦った。
国譲りの説得を命じられた天使アメワカヒコが、復命を怠って出雲の地にあえなく死んだときも、遺族は互いに色んな「役」を負うて「日八日夜八夜を遊びたりき」と古事記は伝えている。だが甦りは得られなかった。ここでも死者を呼ばわり鎮め慰める藝能が、そのまま「葬儀」として演じられていた。藝能=遊びの本来に、神=死霊の甦りや鎮め慰めが「大役」として期待されていたことを、これらは象徴的に示している。そしていつしか、鎮魂慰霊の「遊び役」を能とした「遊部」も出来ていった。藝能人とは、もともとこういう遊藝の「役人」「役者」であった。各地の鳥居本に遊君・遊女が「お大神」「末社輩」を待ち迎えるようになったいわば遊郭の風儀すら無縁ではなかったのである。
「能」とは、わが国では、死者を鎮め慰める「タレント」なのであった。能楽三百番、その大半は死者をシテとし、その「鎮魂慰霊」を深々と表現している。
だが「能」の藝は、それだけに止まらない。死者を鎮め慰める一方で、生者の現実と将来を、鼓舞し、祝い励ますという「タレント」も、また同じ役人たちの大役であった。能の根源の「翁」は、生きとし生ける者の寿福増長をもって「今日の御祈祷」としている。「言祝ぎ=寿ぐ」祝言の藝こそが藝能であったのだ、死の世界と表裏したままで。
観世、宝生、金春、金剛、また喜多。こういう「めでたい」名乗りには、じつに意義深いものが託されていた。死霊を慰める一方で、また生者を懸命に言祝ぎ寿ぐ。能楽に限らず日本の藝能と藝能人は、役者は、そのタレントを途絶えることなく社会的に期待されて、一つの歴史を、永らく生きてきた。世の人々はその能を見聞きし、笑い楽しみ、また死の世界をも覗き込んで、畏怖の念とともに心身の「清まはる」のを実感してきたのである。
今日では、能は、ひたすら「美」の鑑賞面から愛好され尊敬されている。謡曲が美しい、装束が美しい、能面が美しい、舞が美しい、囃子が美しい。舞台が美しい。美の解説には少しも事欠かない、だが能と藝と役との占めてきた遙かな淵源の覗き込まれることは無くなってしまい、能の表現の負うてきた人間の祈りや怖れや畏みが、おおかた見所の意識から欠け落ちてばかり行くようになっている。死を悼み、生を励ます真意を、能ほど久しく太い根幹とした藝能は、遊藝は、他に無い。それと識って観るのと観ないのとでは、「能の魅力」は、まるで違ってくることに気づきたい。
死生一如のフィロソフィー。死なれ・死なせて生きる者らの、深い愛と哀情。同じ「美」も、そこから「思ひ清まはり」汲み取る嬉しさに、「能の魅力」を求めたい。
2000 4・8 5
* 観世榮夫の「邯鄲」は、邯鄲の舞は、まことに充実していた。この能、年齢が行っての方が、演者自身の「栄華一炊夢」の思いも加わった分、深い理解と詠嘆と諦念とがコンデンスされるのかも知れぬ。今日の榮夫の邯鄲には痛嘆の風情があり、身もだえすら見せたと思う。さばさばとして邯鄲の地を立ち去って行く廬生なら、むしろ若い人に出来る、実感が無く解釈してしまうから。榮夫のキャリアは、年齢は、この「解釈の人」にしてそれによりかかるには人生を覗き込む視線に実感での嘆きや悶えがある。そちらが主軸で舞っている。さればこそ充実の舞台が実現するのだが、原作の、伝説の主人公のようには悟れているわけがないから、まざまざとそこには榮夫が立って舞うしかない。榮夫の邯鄲なのである。わたしはそれに感嘆するのである。
* 万作らの「素袍落」はわるくはなかつたが、よくもなかった。四十五分もかける狂言ではない。万作の「邯鄲」のアイが面白い圧力をみせて、そっちの方に狂言味を覚えた。
それにしても万作の狂言は安心して観ていられる。兄万蔵もいい。和泉姉弟らの、なにかをはきちがえ、怖い顔で深刻がったエセ狂言には、たとえコマーシャルにしてもさても苦々しいことじゃと言いたい。狂言役者はいい顔を創れなければ話にならない。
2000 4・22 5
* 国立能楽堂の橘香会・梅若万紀夫の会に行った。万紀夫の能のほかは興味なく、遅れて行った。独吟も仕舞も低調、狂言はやたらに長いばかりで、その間、廊下のソファに坐っていた。ただ梅若万佐晴の仕舞「弱法師」が彼にしてはめったになく、やや感じがつかめていた。
万紀夫の「高野物狂」は佳い能であり、直面の万紀夫が例の如く後シテで力量を発揮し、物狂の舞を、それはそれは美しく舞った。シテの高師四郎は武士で、主大切の執事格であり、主の子息の幼い春満に仕えて遺憾なき人物。失踪した春満を尋ねてはるばる高野にいたり再会を遂げ、めでたく主従して故国へ帰る。ちょっと変わった筋書で、うしなった子を母が追って物狂いするのとは、様子がちがう。男同士の主従の献身と信頼とにかすかなエロスも感じられなくは、ない、が「松虫」のように匂い立つのではない。そもそも春満は子役が演じるのであり、今日の子役は凛々と謡いあげて好感が持てた。万紀夫は毅然として知的に懐深いかなりの「人物」を、よく表現し得ていた。ゆったり舞い、無骨にならず、柔弱でもなかった。直面で演じられる能役者に立派に成ってきたわけだ、亡き父万三郎に面差しも似てきた。この能一番に大きく満たされて帰った。
2000 5・6 6
* 友枝昭世の「松風」は美しかったけれど、この演者のあまりに健康なためか、松風村雨の姉妹がなかなか幽霊とは映ってこないのが難、大きな難であった。能は大方が幽霊をシテにしている。例外は少ない。その中でも、演者によって得手不得手の幽霊がある。松風村雨のような善意の美しい女人幽霊を昭世が演じると、そのまま現世の肉体美を感じさせてしまう。なるほど、この辺にこの名手の課題があるのだなと思い当たった。
宝生閑のワキが、例のねばっこい謡ながら、深い存在感をみせた。
鼓打ちの行儀がわるく、乾くのか鼓の皮にしきりに唾でシメリを呉れる。緒をいじる。笛も巨漢の初顔で、巨漢でいけないわけはないが、へんに可笑しかった。いつもほっそりした小枝のような一噌仙幸の笛など聴いているものだから。
* 野村萬(万蔵)と与十郎の「富士松」という「連歌もの」狂言が珍しかったが、さして面白くも可笑しくもなかった。ただ、萬の狂言顔には感じ入る。好きな役者である。
* 喜多流の舞台を三十年見続けてきた。その間に、家元の喜多実はじめ後藤得三、佐藤章、友枝悠喜夫、粟谷新太郎らが亡くなった。若かった友枝昭世や塩津哲生らが流儀をひっぱり、家元喜多長世は逼塞し弟節世は病んでいる。喜多流の見所へわたしを誘い入れてくれた馬場あき子は健在で今日も姿を見たし、先日も朝日新聞社のパーティーで逢っている。だが、やはり馬場の縁で識った村上一郎、藤平春男には死なれている。段々寂しくなってきているのだ、だが、新しい知人もまた能楽堂で出来ている。今日も逢った小山弘志氏も、堀上謙氏もそうだ。
喜多の三十年、それは私の作家生活三十年ときっかり重なっている。『清経入水』が取り持って、馬場あき子の方からわざわざ逢いに来てくれたのが全てのきっかけだった。彼女の著名な『鬼の研究』の発端に、わたしの受賞作のなかの「鬼とぞ」が関わっていたらしい、その作中関連論文を読みたいと言ってきたのが出逢いだった。喜多節世師にわたしを逢わせたのも、「昭世の会」に原稿を書かせて佳い縁を作ってくれたのもみな馬場あき子の親切であった。
2000 5・27 6
* 能の原稿を二つ頼まれ、引き受けてしまっているが、能は放心してただ観ているので、いざ原稿といわれると、特別の感想もわいてこず困惑している。
2000 7・7 6
* 能楽ジャーナルの創刊巻頭エッセイ「能と天皇」を、台風の豪雨を聴きながら書き終え、手入れして今朝送った。これは、まず、適切に纏まったと思う。もう一本梅若橘香会のために書かねばならない。
2000 7・8 6
* 復刊される「能楽ジャーナル」創刊号の巻頭に贈ったエッセイを校了したので書き込んでおく。
* 能の天皇
天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、思わない人もいるだろう。
能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわたしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。
神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方があっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。
能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。それどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではない。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもののように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足るとしている。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見えないのである。
隠し芸のように、わたしは、歴代天皇を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・綏靖から後亀山・後小松までを繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。観阿弥や世阿弥の能は、この後小
松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらいで、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさすが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた芸術家の幽霊なのである。
歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で芸術家的な視野の優しさにあった、またそういうところへ実は権臣勢家の膂力により位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、天皇の歴史的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。
総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。
2000 8・4 6
* 国立能楽堂の梅若万紀夫の会へ、急行。「卒塔婆小町」を観てきた。今日はめずらしく「器」のほうがシテよりもかっちりと上出来だった。笛・一噌仙幸、小鼓・大倉源次郎、大鼓・亀井忠雄は、当代では最高級の実力で、じつによく音が出ていた。今日の源次郎の鼓の音色はことに美しく深く、ほれぼれした。浅見真州、野村四郎という謡の名手が地頭を占めての地謡も、この難曲をじっくりと謡いあげて騒がしくしなかった。ワキの宝生閑、殿田謙吉もしっかりしていたし後見を泉泰孝が固めていたのも安心だった。へたな間狂言の入らない演出なのもよろしかった。こういうことは、しかし、最近の能では珍しいのである。
その中で万紀夫のシテの、老いし小野小町は、珍しく、可もなく不可もない演能であった。前シテの装束がやや若い感じがした、そして、とときどきそびやかに背丈高い小町になっていた。後シテの装束も、万紀夫の能では稀なことだがしっくりこなかった。むろん万紀夫にソツはない。乱れてものを乞い、人恋しさに狂うあたりしっかり舞っていたけれど、さして哀れも感じさせなかった。「卒塔婆小町」の老いがまだ出し切れないように感じた。見所に空席が目立ち寂しくもあった。
* 続いて萬斎の狂言「千鳥」と、万紀夫の長男紀長の能「葵上」とが予定されていたが、魅力を覚えず、独り失礼して、懐石を食べに行った。美しい人が二度三度出てきて酌をしてくれたり、すこし話して行ったりし、帰りは玄関の外まで一人出てていねいに見送ってくれた。たった三度目の客であるが、とても心もちの佳い出逢いと別れとがある。大きいしっかりした店で、こうしっとりとした情のあるとりなしは、かつて覚えがない。この店、料理も佳いのである。
2000 10・6 7
* 今日は研能会。梅若万紀夫の「清経」を観に行く。
* 明治頃の名人たちは、当時は貧しく、家に帰ると、小さなお店をあけてささやかな商売などしていたものだと。そして能を舞いながら、見所の知った客などを面の内から見つけては、「あの野郎、あくびをしてやがる」とか、そんなことを平気で想いながら、幽玄の美を悠々と演じていたと謂う。能の演技にはこういうところがある。その方がいいところがある。
友枝昭世はこれが出来るタチのシテだが、梅若万紀夫はかなり解釈しながら演技して行くタチのシテかもしれない。そのプラスマイナスが、曲の選び方次第で、両人をみているわたしには面白い。
2000 10・19 7
* 万紀夫の「清経」を良い席で観た。最後に涙を流した。装束の美しいのは、万紀夫の能ならではのサービスであった。よく働いて、先日の「卒塔婆小町」よりよほどシテの出来がよかった。ただツレの妻とのアンサンブルはさほど緊密でなかった。ツレの声質による物かも知れない。それと、息子の紀長あたりが地頭格の地謡がとろくて、いつもレコードで聴いている野村四郎らの「清経」と較べ物にならない。これで万紀夫はだいぶ引き立たない損を負うていたと思う。
ただ、若手で固めた笛、小鼓、大鼓は、当代の若手では元気者の顔が揃い、宮増の小鼓もよく鳴ったし、いつものように亀井の大鼓は熱演だった。笛の一噌隆之には「音取」の演出で笛をせいいっぱい吹かせてみたかった。
妻は、戦死でも病死でもない夫の入水死が納得できない。約束がちがうと承伏せず形見の髪も使いの手に突き返して受け取りたくないとまで言う。夫清経は、幽霊となってあらわれ弁明する。死んだ者と死なれた者との葛藤と取れば、これは夫婦の心理劇のような前半が面白くて、また、辛い。死んだ者よりもつらい死なれて生きて行く者の気持ちを、わたしは、今晩の能では感じていたらしく、そういう夫婦の能として涙を流していたようだ。凡庸な間狂言のない能なのも有り難く、劇的性格のきわだつ名作と合点した。思いがけずこの能は、いや、この公達中将は、我が文壇処女作『清経入水』を生ましめた。深い部分で「身内」も同然の人物なのだ。万紀夫の造形と表現に、幸い、満たされて帰れた。
* 堀上謙氏、小林保治氏につかまった。一緒に帰ったが、二人共に都合があって、結局一緒だったのは電車だけ。もっとも堀上サンとは同じ保谷駅まで。
2000 10・19 7
* 話されていることが、朧ろに分かる。能というのは、どこか、深くこわいものである。いろんなことを連想的にもの思わせるところがある。能をみながら、まるでべつごとを頻りに思い直していることがよくある。こういうことは、メールだから話せることなのかも知れない。
『聖家族』はきついはなしであり、まだ仕上げたという思いをもてない途中の作である。
2000 10・22 7
* あわや明日の、楽しみにしていた友枝会を失念するところだった。昭世の「景清」ももとより、明日は狂言「靭猿」がある。これは、はずしたくない。もう一番「紅葉狩り」が用意されているが、そこまでわたしの気力がもつかどうか。この間の「卒塔婆小町」よりも昭世は「景清」で満足させてくれそうな期待がある。
2000 11・4 7
* 秋葉原を経由で、千駄ヶ谷の国立能楽堂へ。友枝昭世の「景清」に、憔悴感はあまりなかった。あばら家から姿をみせたとき、上の装束の黒い色がつよく鮮やかなので、憔悴した盲目の老い武者というより、毅然とした本質の元気が感じられたのだろう。ツレの娘も従者もへんにうわずって謡がへたであったが、昭世の謡はこれはまた抜群に良かった。一度は偽り答えて娘たちをやりすごしながら、かすかに顔を傾けて見送る風情など、元気を喪失していない人間の純真な愛が生き生きしていて、感動した。昭世は丁寧に気を入れ、工夫を凝らしていた。そう見受けた。演技がとても清潔で乱れなく剛力であった。八島の戦を話してやるから、それを聴いたあとは故郷に帰れよと言い渡してする仕方話にもやりすぎない緊迫があり、見事。
昭世の今日のよさの証拠は、長い橋がかりを静かに静かに幕に消えて、客の心ない拍手という騒音を、ぴたりと抑えきったところに出ていた。ひそとも手をうつ者がいなかったのは、稀有であり、すばらしかった。客も気を入れて観てきたのだ。よかった。娘のからだに手をかけて見送ったのは「感傷的」のようで、優れた場面になっていた。感傷をただはねつけてしまわない人物こそが上等である。感傷に心をぬらすことを拒んで、どう胸を張ってみても、それが何だろう。人間の下等を証するだけのはなしだ。毅然とした景清の優しさに昭世の能は成功していた。自然に泣かされた。
* 馬場あき子さん夫婦もいた。夫君の岩田正氏と立ち話した。小山弘志さんとも穏やかに日頃の話を交わした。堀上謙さんもむろんいたし、わたしのすぐ前に、久しぶりに見る大河内俊輝さんがいた。例の如く大阪からはもと創元社の中村裕子さんも来ているのが見えていた。昭世の集客力はすばらしい。能評の連中も大方ちかくに並んでいた。いま、こんなに活気のある見所を現出させる能役者は、そうはいないのである。友枝昭世が喜多流などということも忘れてしまっている。「友枝昭世」の人気なのであるから、おどろく。「鞘走らぬ名刀」とわたしの評した、その通りの今日の「景清」は、気持ちよかった。頭の中で和泉奏平の繪とみごとに均衡していた。幸せであった。
* 野村萬と野村与十郎らの狂言「靱猿」は、べたつかずに、さらりと演じてくれて気持よかった。猿の野村虎之介も可愛らしくうまく演じていた。ことに与十郎の大名が気のいいヘタウマで、味わいよくしてくれた。猿牽きの藝などもともと好きになれないが、そのいやみやくさみがなかった。萬は、父名人の万藏のようにまるくふっくらとは行かないが、当代の名手らしく大名と猿とをうまく引き立てていたのがさすがであった。
* おまけのように、ちいさいちいさい友枝雄太郎の仕舞「七騎落」が、役者の子は役者の無心に敢闘の藝で、珍しかった。せいぜい三つではないか。もう一つおまけの能「紅葉狩」は失礼した。
2000 11・5 7
* 日曜には、梅若万紀夫の翁と野村万作の三番叟を、こんどは能舞台で観る。去年は萬斎の三番叟が、よさそうで、さほどでなく、案外だった。今年は父親の名手万作だ、期待している。すかあっと清まはりたい。
2001 1・11 8
* 松濤の観世能楽堂へ一時前に入った。此処まで来ると静かだ。
渋谷の日曜はたいへんな雑踏、広い路上を利してパフォーマンスの若者グループが盛んに藝を披露している。人だかりがしている。わたしには、食べるにせよ観るにせよ休息するにせよ、もうとても的の絞りにくい喧しい街になってしまっている、渋谷は。手も足も出ぬ間に草臥れてしまう、騒がしくて。
* 万紀夫と万作の「翁」三番叟は、期待以上の立派な舞台で心豊かに満足した。翁は、直面の出から位高く穏やかに美しくて、万紀夫の充実感が溢れていた。謡も朗々とよろしく、面をつけてからの「今日のご祈祷なり」もめでたく嬉しく、まさに清まはる気持ちよさにひたった。万作の三番叟は、期待感と彼の高齢との持ち合いが気がかりであったが、熱演で、揉みの段も「黒い尉殿」になっての鈴の段の舞も小気味よく、また、確かな気合いと安定とで、しみじみ見入っておれた。万作の舞台ともほんとうに久しいが、元気に気分のよく出た狂言舞を今なお見せてくれる。おもわず、ほろっと目頭へ来そうになるほどここちよい三番叟であった。伊藤嘉章の千歳も凛々しくかった。ただ面箱の少年が、掌の指をおしろげて箱を捧げ持って出てきたのが行儀悪くみえ、厳粛さに欠ける気がしたが、如何。
それにしても、なんと「能」とは畏しい藝であろう。能の「翁」からみれば、歌舞伎の「寿式三番叟」ほど整って行儀正しい舞台ですら、見せ物の楽しさに溢れているのだと思えてしまう。能の「翁」は、そういう見せ物では微塵もなく、まさしく寿祝であり祈祷であり、自然の息吹をふきかけられる神秘の有り難さを感じる。だから鈴をふって丁寧に大気を、大地を清める仕草に、種まきのもどきであるといったあまり露骨な解釈はしない方がいい。鈴をふる、鈴がすずしく鳴る、そうする一瞬一瞬に、ものみなが祝われ清められ、天下太平と国土安穏という、寿福増長と皆楽成就という、万歳楽という、祈願が籠められる。それが肝心の要だ。
神能の番数も多いが、それらは「脇」能ともいわれる。「翁」の脇に神々が配された世界なのである、能の世界は。日本の自然はと言い替えてもいい。
* 気持ちがよかったので、その脇能の「高砂」が次に続いていたけれど、失礼し、能楽堂を辞してきた。新世紀、正月のなかばに、ほぼ例年「翁」の舞台へ招いてくれる梅若家に感謝している。婦人の修子さんにも挨拶してきた。お正月らしく、かなりの入りで賑わっていた。東工大出の若い夫婦にも券をあげてあったが、来ていたのかどうか、分からなかった。能は、知った人と隣り合ってはみないものである。窮屈に気にしあっては気楽に居眠りもできない。好きに好きな場所で夫婦で見て下さいと言って置いた。今日の「翁」ならば、観て置いて欲しかったが。
2001 1・14 8
* 明日は、その日を待っていた観世榮夫の「定家」である、体力に障り無く榮夫さんの真骨頂を舞台に確認したいものだ。知り合いが大勢集まるだろう。友枝昭世でも梅若万紀夫でもない、俳優観世榮夫でもあり能役者の骨髄をもったシテでもある。恵美子夫人にも久々にお目に掛かれるだろうか、折しもこの日ごろ、谷崎戯曲を読み進んでいる。恵美子さんに谷崎の血は流れていないはずだが、何となくわたしは、母上の松子さんよりも谷崎潤一郎をいつも恵美子さんに感じるのだ、シャイなところかな。
二時間の大曲、演じるシテもたいへんなら、見所のわたしも容易ではない。明日は、ちょっとした勝負になるだろう。
2001 2・3 8
* 観世榮夫の能「定家」のまえに、山本東次郎の狂言「鬼瓦」があった。短い狂言で、わるくない。ほのぼのと楽しめる。東次郎は温和で品のいい狂言役者。難儀な公事に満足のゆく結果も得て、故国へも帰れるという、そんな晴れやかな気分での太郎冠者を供に連れた参詣で、屋根の鬼瓦をみあげ、はしなくも故郷の妻の顔をなつかしく思いだして、泣き、かつ大笑する。総じて良かったが、ただ東次郎の、舞台の位置がはなはだ不親切で、つねのワキ定座よりまだややうしろに下がって演じるため、見所によりワキ柱にあたってしまう。舞台に太郎冠者とただふたりで向き合ってする演技に、なぜ、ああまで退がらねばならぬか納得できなかった。
* 能はたいした力演で、破綻なく二時間。シテは、ごく特異な風情で、定家卿愛執の蔦葛に巻き締められて苦しむ式子内親王を演じきった。前シテの出など、へんに小さく見栄えしない感じで始まったが、すぐその理由を理解し納得した。能の様式によりかからず、榮夫はこの女を、能舞台という「舞台」で、能のシテである内親王役を「配役された俳優」のように、謡い、かつ演舞していたのである。様式美とはほんの半間をはずした「姿勢」を榮夫は敢えてとる。脚を意図的にわずかにひらいて立つので、からだは、美しく立つというより、そういう装束の女がありのままそこに立っているように見える。目の前のそこへ、なみの女が肉身を備えて現れ出で、自然に普通に動いているように見える、むろん能の約束を壊すことなく。
「能舞台」には、ふしぎに、能の人物たちを、すこし空気=空間に埋没気味に、やや空気の海に沈めはめ込んだ感じに見せてしまう「支配力」があるものだ。人物たちは、能舞台の空気=海中に描かれた「繪」のように浮遊感もって動いたり舞ったりするのが普通である。
榮夫は、それからすると、ちょっと異質の演技をした。能舞台をさように特殊化せず、ただ「舞台という背景=素地」に位置付け、素地の上で立体的に俳優が「役」を演じているように「能」を舞った。空気を支配していたのは能舞台でなく、シテ役の俳優の体と動きだった。当たり前のようで、そういう能舞台は、じつは、めったに見たことがない。榮夫の能はその意味で、能らしく自然な能でなくなり、能の場で能を活かして式子内親王の心理劇・運命劇が独自に演じられていた。
成功していて、見応えがあった。後シテになってからも、榮夫の演技は深くこまやかで、充実し、微細な動きにも、能面の表情にも説得力があり、十分見所の視線を奪いさって、最後に塚のうちで崩れ落ちるまで、ほとんどわたしを睡魔にさらわせたりしなかった。眠らせなかった。寝入っている客は、つねよりずっと少なかったのである。
この「定家」という能は、僧の供養により有り難く解脱して救われるだけの終え方ではなく、救われを感謝しつつも愛欲無残の苦渋にさらに身を任せ続けようともとの墓塚にうずくまってしまう、複雑な心理を描いている。榮夫が、なんで二時間にもなる大曲を敢えてしたかの動機も、この謡曲のそういう現代文学に通う切実な味わいにあったろう。俳優の心をとらえる作なのである。ただ様式的に舞われるだけではにじみ出てこない「つらさ」が、底によどんだ能なのだから。
大倉源次郎の小鼓がじつに美しくよく鳴った。亀井の大鼓も仙幸の笛も申し分なく、宝生閑のワキにも気が入っていた。地謡も後見も間然するところなかった、というより、それらがすべて榮夫の演技に吸い取られたように、妙に際だたなくて済んでいた。主張のつよいシテであった、観世榮夫では、ま、あたりまえで、能役者に加えて、もう一本べつの根性の通った演劇人である。その根性をやはり楽しみに行くのであり、彼の存在価値も理由も結局はそこにある。
* 橋がかりをひいてゆくとき、息をのんで、じいっと堪えていた。だが、ばらばらと拍手がわいてしまい、ことにわたしの隣席の若い女性が、まるでスタンディング何とやらでもしたげに、ひときわの拍手をしてくれたために、気分は無残に壊され、白けた。シテに気の毒だった。
能のはてたときに、拍手などぴりっともしないで終始するのは、見所から演者たちへの、最上の褒美なのだ。ぜひそう心得てもらいたい。以前、友枝昭世の能が、水を打った静けさでことごとく終えた、あの時の感動の深さ、あの嬉しさ。能の始まるまぎわまで、とくとくと連れとしゃべり続け、まだ橋がかりを帰って行くシテに、聴けよとばかり高々と柏手を打たれては堪ったものでない。それが当然の禮と心得違いの客が、まだ、多すぎる。
2001 2・4 8
* 本の整理など、肉体労働をして汗をかいた。ぐったり疲労した。
疲労などしておれない、明日は友枝昭世の能「鸚鵡小町」と狂言一番。「雲の上はありし昔に変らねど見し玉だれの内やゆかしき」という帝よりの御製に対し、ただ「ぞ」の一字で百の老婆となっている小野小町は返歌する。「内やゆかしき」の問いかけに「内ぞゆかしき」と鸚鵡返しにこたえた小町。「関寺小町」にならぶ老女の能である。
週明けには関西へ。帰ってきて数日なく、シンポジウム。
2001 5・25 9
* 友枝昭世の能「鸚鵡小町」は初演。しかし初演とは思われない印象のつよい佳い舞台になった。真中央の、視線をいささかも遮られない、見渡しのいい好席を用意して貰っていた。最良の環境であった。
はじめのうちはやや渋滞する。シテの出がこの能は遅いので。亀井忠雄の大鼓、北村治の小鼓はいいコンビなのだが、妙にはじめのうち湿っていた。出てきたワキが、わるいワキではないのだが、まだ、新大納言の勅使とは見えず、仕丁のように貫禄がない。あんなのが、後段に業平の法楽の舞を持ち出したりするのはそぐわない。が、まあ瑕瑾であった。
昭世の百歳の小町は生きていた。位も品もあはれもあった。ことに鸚鵡返しの「ぞ」一字で返歌する前後の能面に表情深く豊かで、オペラグラスで凝視していたけれど、能の面とは見えずまさしく老女の気位と嘆息とが見え聞こえて感動した。業平の法楽の舞をまねび舞うのもあわれに華やいで、しかも寂しい老境。小町老女モノの中で「卒塔婆小町」よりも劇的によくできていて退屈させないし、美しい。つらいことはつらい、かなしいことはかなしい、が、美しい。ああ、小町の「人」の、これほど自然に懐かしく美しく出ている能は、草紙洗いの才覚にも深草少将をいたぶる驕慢にも、卒塔婆小町にも無かったなと納得する。昭世は、もって生まれた健康なまっすぐなところをねこの悲しい九十九髪の小町の知性に、情感に、うまく乗せて、見せた。出はしんどかったが、橋がかりを帰ってゆく小町は懐かしかった。声をかけて呼び戻したかった。幕の向こうに消え去るまで拍手がなくてよかった。しかし今日は拍手を送りたい気分であった。
* 狂言の「柑子」は野村万作があっさり演じ、萬斎は物言いが粘って野暮であった。狂言のせりふは、うまく焼けた魚の白身がさくりさくりと曲線豊かにほぐれて箸にとれる、あの小気味よさが必要で、父の万作はその方では代表選手。息子の萬斎は声はいいが、狂言の味でない喋りようで、いろんな芝居を「外」でしてきたことがプラスになっていない。俊寛の物語に泣き出すのなども、とってつけたようで、下手であった。「柑子」のいいのは、やたら長くない狂言なことで。
* いま喜多流が面白いというか。昭世を盛り立てて、塩津哲生、香川靖嗣、それに粟谷一族がある。他にも十分一本立ちの職分がかたまっている。家元追放という不思議な共和制の流儀であるが、責任感というか活力というか、職分の力量がしっかりしていることで、観世流のように大きな流儀ではないぶん、理想的にまとまっている。家元六平太の能を久しく見ないが不都合をとくに感じないほど、友枝昭世は、能界一二の集客力である。
* いきなり馬場あき子に逢い、「うわぁ元気そう、よかった、よかった」と喜んでくれた。たぶん、今のわたしは一頃よりよっぽど元気そうに見えるのだろう。細くなっている、少しだけれど。
小山弘志、大河内俊輝、堀上謙氏らに逢う。小林保治氏の姿は無かった。
昭世夫人に、いい能でしたと礼をいい、だれにもつかまらないうちに能楽堂を出た。千駄ヶ谷の駅でだれかに出逢うかなと思ったが、それはなく、新宿でひとり夕食、車をかえ練馬経由で保谷へ。「ペルト」で深入りのコーヒーを一杯、マスターと暫時歓談してから、帰宅。建日子の仕事が上がっていた。まずは、よかった。
2001 5・26 9
* 梅若万三郎を、とうどう万紀夫が襲名すると挨拶状が来た。これで、わたしの万紀夫応援も庶幾の目的を遂げた。どれほどあちこちで、万紀夫は万三郎を襲うべきだ、また大化けしてくれるだろうと、書きまた話してきたか。楽屋で他人の鬘帯に手を出すという不祥事一つで、思わぬ遠い遠い回り道をしてきた梅若万紀夫だが、その上を越す、藝の展開をここ十数年楽しませてくれたと思う。声援してやってほしい応援してやってほしいと、囁くように頼まれて以来もう久しく久しい。義理堅くわたしは、応援し声援してきた。それに値する能役者だと思っていたからだ。ここのところ、ときどきぬるい舞台をみていても、忙しすぎるのだろうと案じていた。襲名が実現すれば大きくなるだろう。どっちにしても、わたしは、肩の荷を下ろさせてもらう気分である。
2001 8・25 10
* 観世栄夫の新作能を観に行く。韓国での公演の前公演のようである。強制連行の悲劇に取材しているという。栄夫さんの意気ごみをじっと観てこよう。
2001 9・29 10
* 多田富雄作、観世栄夫主演の新作能「望恨歌」は、栄夫の名演で光った舞台になった。いわば老女ものであるが、栄夫さんは、このところ「檜垣」など老女を力充ちて演じてきた、延長上で、この哀しい朝鮮の老女をみごとに演じられた。
新婚の愛妻をのこして九州に強制連行され、過酷な炭坑で死んでいた朝鮮人李東人の、愛妻に宛てた手紙が、同様に多く死んでいた人達の遺品の中からみつかり、彼らを供養の一寺を建立していた日本僧は、その手紙を、今も存命と伝え聞いた李東人の妻のもとへ海を越えて届けるのである。七十余、今も悲しみに堪えて夫を忘れがたい老女は、夫の自分に宛てた手紙をみて泣き伏す。そして、請われて恨(ハン)の舞を舞うのである。
栄夫さんの老女は、みごとというほかない名演であった。彼と仲間たちはこの能を韓国で演じたいという望みを抱いている。ぜひ成功して欲しい。
老女は、最後に、この恨み忘れまじと呻く。日本の僧はこの思い忘れまじと応える。思わず泣かせた。帰ってゆく僧を老女は袖を振って見送り、またもとの陋屋に沈み込む。佳い能であった。
こういう真実は、たとえば小泉総理の脳裏には生きているだろうかと強く強く疑わざるをえない。彼の、いろいろなこの度の反応や行為には、この李東人や、死なれて老いて夫を今も愛し日本を恨んでいる老女らの、この哀切な愛の照り返しが、まったく感じられない。彼小泉純一郎は、個人・私人としての、人を、身内を、切実にかつて愛した経験のまるで無い男なのではなかろうかと、疑っている。家庭を持ち得ない男、息子たちとでもあのようにしか、パフォーマンスの相手としてしかつきあえない、奇態に不具的精神の持ち主。
* 能楽堂で、珍しく取り巻きの一人もいない馬場あき子と会い、開演前のしばらくを談笑できた。めずらしいことであった。たいがい、いろんな人が彼女を取り囲んでいるのだが。
栄夫夫人の恵美子さんとも久しぶりに、すこし時間をとって挨拶が出来た。さすがに、すこし老けられたが、昔のままのシャイな、また丁寧なお人であった。懐かしかった。谷崎松子さんのことも、胸の痛むほど懐かしく思い出された。
* 和食の店を訪れて、日本酒と、ワインと、今日新着の無一物という焼酎とを、少しずつ堪能した。刺身と土瓶蒸しと焼き物は、いつものわたしの好物で。幸せなひとときであった。ここで「方丈記」を読み終えた。梅原猛さんと八代目清水六兵衛氏との対談も読んだ。「望恨歌」の謡曲台本も静かな気持ちでもう一度読み返した。
2001 9・29 10
* 友枝昭世の「三井寺」は、前シテ幕入りまでは少々索然としていたが、後段鐘の前へ出てから実在感のあるシテとなり、ちからづよく我が子を再び我が懐に入れて舞台から去る、その気合いがよかった。ただ、与十郎の狂言は、もっと上手くやればこの場が活躍するのにと思わせる通りいっぺんで、鐘突に、実景も実感も見て取れなかった。宝生閑のワキも今日は終始妙にセカセカしていた。例によって鼓方が、北村治だったか、が、右に傾いた半端な姿勢のまま、しきりに鼓の裏皮をつばで湿らせるのが、度が過ぎ、イヤ。今一つ純熟の舞台にならなかった。
* 萬の「文荷」は、萬の狂言顔、狂言腰、狂言間が生き生きしていてよかったが、ま、あんなものか。
* もう一番の能は失敬して一人能楽堂を出、途中でちょっと飲んで帰った。体調が調わない。
2001 11・4 11
* 友枝昭世の「三井寺」は、前シテ幕入りまでは少々索然としていたが、後段鐘の前へ出てから実在感のあるシテとなり、ちからづよく我が子を再び我が懐に入れて舞台から去る、その気合いがよかった。ただ、与十郎の狂言は、もっと上手くやればこの場が活躍するのにと思わせる通りいっぺんで、鐘突に、実景も実感も見て取れなかった。宝生閑のワキも今日は終始妙にセカセカしていた。例によって鼓方が、北村治だったか、が、右に傾いた半端な姿勢のまま、しきりに鼓の裏皮をつばで湿らせるのが、度が過ぎ、イヤ。今一つ純熟の舞台にならなかった。
* 萬の「文荷」は、萬の狂言顔、狂言腰、狂言間が生き生きしていてよかったが、ま、あんなものか。
* もう一番の能は失敬して一人能楽堂を出、途中でちょっと飲んで帰った。体調が調わない。
2001 11・4 11
* 萬斎と父万作の狂言「八句連歌」がひどい出来で、しんきくさいこと、しんきくさいこと。これでひどく気が殺がれてしまった。昭世は「忠度」を舞って、後シテは上乗、ことに討たれるまぎわの哀れな緊迫は一流のものの映えであったが、この能の前シテはどうもしんきくさい。おまけに、アイ狂言の長たらしいことと云えば、前シテ分に匹敵するかと思うほどいつまでも喋っている。だらだらだらだら、しまりのない語りでいやになった。囃子も、笛の一噌仙幸はいいが、大小の鼓が出来の悪いこと、一方はやたらカンカン叩くし、小鼓はよく鳴らなくて、例の如く鼓の革を唾で湿し舌で嘗め、行儀の悪いこと甚だしい。
で、昭世はやはりたいしたシテだけれど、会の全体の印象は、少なからず索漠感をのこしたのが残念だった。小山弘志さんと握手してきた。馬場あき子、堀上謙、それに高橋睦郎も来ていた。済んだらさっさと一人で帰ってきた。
池袋駅で、評判のポテトアップルパイの最後の一つを買った。保谷駅について、つい欲しくなって生ビールを一杯のみ、売店でブルーチーズも買って帰った。
もう新しい湖の本の払い込みが届き始めていた。
2002 4/5 13
* 狂言師和泉元弥が、「時宗」の好演をフイにしてしまいそうな愚行の連発で、自称「宗家」を告発されている、らしい。早くに、早くから、「新・能楽ジャーナル」の堀上謙氏らが先頭に立って批判・非難を言い続けていた。わたしは、元弥よりずっと以前から姉の和泉淳子のコマーシャルに疑問を感じ、何度か発言したり書いたりしていた。だがあれは狂言の「演じよう」の問題だった。元弥のは「宗家」とは何かの問題である。家元と宗家とはちがう、または違っていてよい、という説がある。家元は藝の頂点、宗家は免許等の権利の世襲と。それが往々にして一人一家に世襲されているので、元弥のような、わたしなどから見ても藝のはなはだ不出来で未熟な「宗家」に、藝の頂点顔をされては堪らないと弟子筋からも仲間内からも苦情か出てしまうことになる。謙虚に稽古でも励めばいいのに、考え違いの母親や姉たちがよってたかって若者をスポイルし、本人にも何より肝心な「離見の見」が無い。世阿弥の教えの中でもすぐれて大切な「離見の見」つまり、自分を客観視できる視覚が無いのだから、はた迷惑な、裸の王様である。免許状や謡本などの発行権だけをもつ宗家でもいいのである、歌舞伎でいう昔の座元のようなものである。藝も出来るなら舞台に立てばいいが、いまのあのていたらくで、自分の藝は一番などといっていてはみじめを極める。中村勘三郎も守田勘弥も、中村座、守田座の座元の名前だが、名優の名前にもなっている。和泉流の宗家でありかつ家元たるの狂言師として大成するには、ここは母や姉からはなれ、謙遜に同門の名人野村萬に膝を折ってみっちり教えを請うべきだろう。たかが野村萬斎ていどと張り合って、嫉妬半分で自分の方が上だ上だは、見苦しい。聞き苦しい。萬斎は普通である。関西には狂言若手にかなりの大敵が伸び上がってきているし、萬の息子たちも勉強熱心である。稽古もろくにしないで「宗家」を登録商標したり、やることが和泉元弥の一家、見当違いも甚だしい。もう、イヤになってきた。 2002 5・6 13
* 観世栄夫さんが、「卒塔婆小町」を舞うので観に来るようにと、今日招待券が届いた。有り難い。御大の野村萬が、子方と共演の狂言も楽しみ。
これに少し先立って、十一月三日には、当代一の人気役者、実力もなみなみならぬ友枝昭世の「羽衣」があり、この会では子息が「道成寺」を披くというオマケもある。これも昭世さんからいつものように招かれている。氏は、おまけに「湖の本」も支援してくれている。忝ない。
堀上謙氏らのやっている「新・能楽ジャーナル」に、もう能は「観るだけでよい」能に関してとやかく「書く」のはヤーメたと書いたのが、暫く前だ。和泉元弥らの事件で、なんだかの会が、なんだか彼に対し「退会命令」を決議したとか、今日報じられた。退会命令とはものものしくややこしい。除名なら分かりやすいが、能・狂言の役者が、いつのまにかエライことをやり合うモノだと、そんなこんなで、つくづくイヤになった。
観世栄夫と友枝昭世と梅若万三郎、選り抜きのこれだけの人から、念に一度二度観においでと呼んでもらえるなら、十分、十分。なんで、それ以上の欲があるものか、十分有り難い。
* もともとわたしには、縁故とかヒキとかいうものはない。京の新門前の小さな電器屋の息子に、名士も顔役も縁は無かった。いま、わたしに声を掛けて下さる大勢の人の有るのは、有り難い事であるが、一つにはわたしのいわば「はたらき」の内であり、それ無くてはあり得ない。だから、べつだん厚かましいとも思わず、知己の厚意や厚情を心から感謝しつつ喜んで悠々と受け容れている。気持ちよく頂戴している。卑しくてしているのではない、嬉しく戴いているのである。
2002 10・21 15
* 明日は、友枝昭世の会に招かれている。名手昭世の「羽衣」を観、子息であろうか「道成寺」の披きを観る。野村萬の狂言も楽しみ。来月、わたしの誕生日には観世栄夫の「卒塔婆小町」を観せて貰う。余儀ない差し支えがあり、このまえの梅若万三郎は能の好きな人に観てもらった。一年のうち、この三人に間をおいて出逢えるなら、こんな贅沢なことはなく大満足、有り難いことである。
2002 11・2 15
* 友枝会。当主の友枝昭世が、「羽衣」を、舞込の小書で舞ったのが、ちょっと他に記憶の無いほど美しくて、感動のあまり涙がこぼれた。羽衣で涙するなど覚えがない。
ワキの宝生閑とワキツレ二人が出てきての出だしは、謡がうまく揃わなくて騒がしく、ちょっと前途を危ぶんだ。もともと漁師白龍に「ツレ」がつくなど気の利かない話で、白龍と天女との、他を交えない対決であり対話であったほうが、より神話的に晴朗で清潔単純である。舞台正面に松を置いて羽衣をかけておくのは辛抱できるが、ワキツレの二人は邪魔で、ましてその謡が下手と来てはかなわない。まいったなと思ったが、さすが昭世の天女がそんな不満をふきちらし、「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」「あら恥づかし、さらばとて」羽衣を返す白龍とのいさぎよい問答のよろしさ、こういう場面は、余人を交える必要、毫も無いと思うが。
羽衣をつけてからの、昭世の天女のまばゆい可愛いらしさ、おおらかさ。見事な衣裳がまみどりの正面の松を右に左に出入りする、あでやかにして清潔なすがたかたち、こんなに官能的でかつ純潔な羽衣に出逢うとは、予期以上であった。
昭世は小柄ではない。横にも幅がない方ではない。なのに、そういう恰幅をかき消すように華奢に昇華し、舞いに舞う。まさに「清まはる」嬉しさ、すこぶる満足した。かすかにかすかに上半身を右傾して立つときもあったけれど、それさえ含めて、生き生きとした天人ぶり、美しさに自然に惚れた。
ことに「舞込」で、橋がかりを、富士より高いなかぞらに見立てて、雲をふみ下界をみおろす風情でかろやかに幕に入っていったのは佳い演出、流石の昭世で、出から入りまで宙をふむかろやかさを難なく見せた。天女が地を踏んでは仕方がない。
* 「羽衣」は、はじめて京の大江能楽堂で、観世元正のを観て感激している。その印象が十年ほど後、小説「畜生塚」に生かされた。秦の父が近所の娘さんに謡を教えていたときも、「鶴亀」のつぎには「羽衣」を謡っていたし、父は、よく一人ででも謡っていた。父の謡は大江の舞台で地謡に呼び出されるほどで、素人離れしていた。溝川桂三とかいった先生に習っていた。
そんなわけで、わたしは自分では歌えないが詞はおおかた耳に記憶しており、昭世の舞台でも謡は終始よく耳に入り、ことばの懐かしさにも涙ぐんだ。
視線にまっすぐの、正面も真中央というすばらしい席を貰っていた。最高の見栄えがしたのも当然。昭世さん、有り難う。
* 野村萬、万之丞ほかの狂言「泣尼」は、道具立ての出るたいそうな狂言だが、要するに狂言であり、たいして期待もしなかったが、ま、あんなところというしかない。萬の味は佳い、好きである、が、狂言というものが、今日、情念として冷えてしまっている。つづく一調は、「班女」を粟谷菊生だったか一族の長老格が謡ったが、鼓役がえらく攻撃的にというか挑発的に、すばらしい鳴りで緩急はげしく打ちに打ち込むので、謡い手の息があとの方続かなくなったような気がした。
* 隣席に劇評の藤田洋氏が、その向こうに保谷の堀上謙氏が、氏の前に小山弘志先生がというふうに能楽堂での知人多く、少し離れて馬場あき子がいていつものようにやあやあと握手し、彼女が紹介するすると連れて行った先が、東大の久保田淳さんと歌人の岡野弘彦さんで、お二人とも本のやりとりあり、また旧知の間。ただわたしは、あまり日頃顔を合わせる付き合いをしないので、久保田さんと言葉をかわしたのは初めてだった。
馬場さんに、「いい顔してる、ほっそりしたわね、エライエライ」と褒められた。こういうアイサツは、何十年来聞いたことはなかったのである。
藤田洋氏に日本ペンに入るよう奨め、入りたい、と。隣り合ったご縁である、この人の劇評活動はよく識っている。歌舞伎座でも三百人劇場でも俳優座劇場でもよく顔を見合ってきた。
* 昭世さん子息雄人クンの「道成寺」の披きは、いろんな面で退屈しなかった。お世辞にもうまい謡でない。鐘からあらわれて、下半身を露わにしたときのまるで運動会に出た少年のような、素朴で、身構えも何もない感じなど、修業の未達成は歴然としていて、出てきてからしばらくは気が気でなかったが、小鼓との対決になってからは、かなり気の強いシテかもしれない落ち着きを、取り戻しつつ、頑強に頑張る。小鼓が又さきの一調の打ち手で、若いシテをいたぶるように長大に間をとり、激しくかけ声で威嚇する。シテは、かすかに上半身や下半身を揺らしながらも、屈せずにねばり強く演技し、何と、五時に終了の予定が五時半に成っていた。
鐘入りは颯爽と成功させた。鐘からの鬼面の出も、不思議に小さく可愛らしく、しかしこの鬼は「女」なのだからそれでよいのである。そして調伏される段になっての、おやおやこんなふうにやるものかなと感心し驚いたほど、アクロバチックに身軽に、フクザツな身ごなしをして、哀れ調伏された女の苦悶を、はでに美しく見せてくれた。
幕へ追い込まれ逃げ込んで、えらい音がした。鬼サン、ぶっ倒れたのではないか、あれほど小鼓に責められたのを過度なまでに堪えきったのだから、卒倒したかも知れない。とにかく、ウーンと「道成寺」を楽しんだ。
ワキが三人、これがまたこどもっぽくて、調伏のために数珠を押し揉む姿が、まるで高校の文化祭みたいだった。道成寺のワキは行力多大の修験僧でなければならないのに、少年団のよう。全体に「羽衣」の厚みにくらべると「少年道成寺」であったが、だから退屈というのではなかった。シテは、総合的にはよくがんばったと言っておく。
* 食事はひとりする気で、すうっと抜けてきた。一時間あまり、お銚子を三本もらい、本を読みながら。美しい人が三度四度、静かに来てお酌してくれた。ありがとう、としか口は利かない。店に入ったときはわたしひとりだったが、帰るときは満員だった。淑やかに見送ってもらった。
2002 11・3 15
* 今年最期の梅若万紀夫が、しあさっての日曜に。「六浦(むつら)」は比較的珍しい。都の坊さんが、相模六浦の寺に立ち寄ると、いまを盛りの紅葉なのに、一樹の楓だけは一葉も紅くない。不審に思うところへ女があらわれ、わけを語って聴かせる。昔鎌倉の中納言為相(ためすけ)が、紅葉を観にこの寺を訪れたとき、満山いまだしの中で、この樹一本だけあでやかに早や紅葉していた。よろこんで歌一首を詠じたところ、楓は名誉に感じ、その後は身をひくように常磐木の緑のママになった、と。女は消え失せ、やがて女体の楓の精が出て美しい舞を見せ、夜明けとともにまた失せてゆくのである。
今年は、紅葉の盛りに逢わないで終わってしまい、年の瀬になり、常磐木の緑の楓に逢うとは因縁ごとのようであるが、草木国土悉皆成仏の仏徳をたたえる舞、やはり紅葉の幻影に、さぞや清まはることであろう。
* あすは歌舞伎座の夜を観る。あさっての誕生日は、うって変わり千駄ヶ谷で「卒塔婆小町」のあと、人形町の望月太佐衛率いる「光響会」に馳せ付ける。佳い歳末。
2002 12・19 15
* ひどい雨で寒いが、ひとりで出掛けた。出掛けて、よかった。
* 国立能楽堂の「卒塔婆小町」(観世栄夫)が、それはもう立派であった。百歳の小野小町役を、「能」形式で「演技」しているかと思うほど、迫真の気品と知性とあはれに満たされ、老女の面がじつに精微に活かされていた。漠然と諒解していたこの能の「小町」の真相が、ありありと人間の基盤から生えてでたような、リアルな迫力で表現されていた。若い日の小町の美貌のはるかに及ばない「百歳の女」の底光りする美しさと毅さ。ゾウッとする魅力の底にはりついた性の深層。人生の無残と克服。
ことに小町の「出」から橋がかりの、衰えきった歩みというよりも、森々として動かぬ歩みに、わたしは逆になぎ倒されそうに感動した。小町の歩みには行く先がない。先を必要とすらしていない。百万力をもってしても動かせないほどに、小町の己れの足を置いた「いま、ここ」だけが、彼女の全世界。小町の世界は足の底から深く垂直に大地の芯に結ばれていて、地上のほだしを一切もう持とうとしていないかに見えた。その徹した歩一歩が、ふと羨ましかった。
背をみせるときは、観世栄夫の生身にかわる瞬間が何度かあったものの、こんなによく演じられた「卒塔婆小町」に出逢った覚え、かつて無い。以前の「檜垣」にも感じ入ったが、あそこには苦しい激情が走った。今日の小町は一瞬深草の少将の霊になやみながら、しかし旅の僧の教化を翻弄して突き返すつよさといい自得のふかさといい、小町の美がすくなからず「知性の寂光」で照らし返されているのは、心嬉しい発見であった。亀井忠雄の大鼓、大倉源次郎の小鼓、一噌隆之の笛、それに地頭山本順之の地謡も、力一杯の仕事だった。こころよかった。
* それほどの能を、シテがまだ橋掛かりのうちに拍手する客が居たのは無念であった。いい能ほど、能のはての軽率な拍手は「やめて」もらいたい。客の心得も悪いし、よくそのことを広く知らせない能楽境界も怠慢である。
2002 12・21 15
* あすは、もう一つの能「六浦」(梅若万紀夫)を観に行きたいと思っているが。お天気しだいになる。少し仕事も溜まっている。 2002 12・21 15