ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2002 ~2003年

* 京都の受賞者美術展が、去年までは府の大きな施設をかりて一堂で一時に展観していたのが、今年から、京都中信の御池ギャラリーで、三受賞者順繰りに開催と、展覧会のかたちが変った。最初に三人と、べつに審査員の石本正、清水九兵衛、三浦景生三氏の賛助出品オープニング展を一週間ほどひらくが、会場は前年までとはうんと狭くなるので、様変わりするだろう。テープカットにわざわざ私まで出てゆかずとも済みそうな按配なので、失礼する。

 2002 1・12 12

 

 

*二十日が美術賞の選考会。京都行きの切符も今日買った。京都は彼岸。花には早いが、墓参ができる。車を雇って、老の坂から篠村へ、亀岡を経て昔の樫田村へ走ってみたい気もする。できれば杉生・田能を越えてずうっと大阪の高槻駅まで抜けてみたい。ま、出来ないだろうが。

 2002 3/8 12

 

 

* 恒平さん(と呼ぶのは二人しかいないそうですが。)

  壁のカレンダーの桜を観ています。京都正法寺とはどこにあるんでしょうかね。別のは香雲亭とあり、これも知らない・・・。

  懐かしい円山公園の枝垂桜、枯死した初代を引き継いだ二代目の、花も咲かせずひょろっと頼りなげな幼木を、毎朝ちらと見ながらあの道から八坂神社の境内に入り、石段下に抜けて弥栄中学に通ったのは、なんと、もう50年以上も昔の話になります。まあ、よく育ったもの、いや、桜も人も・・・という感慨があります。

   住まいに近い平安神宮の枝垂れは、人目に付かない横手の柵をこっそり乗り越えて ”ただ見”、ついでにそこから徒歩5分の動物園も有料入場したことのない、そんな少年時代でしたが。

 こちら何十年ぶりかの暖冬でしてね。これで裏手にあるオンタリオ湖の水位がどんどん上がるようだと、ちょっとえらいことになりますが・・・。

 3月20日の京都美術文化賞選考委員会に出席のため入京されるとか。ということは、19日に東京を出て京都に2泊し、21日に帰られるということになりますか?

  となると、実は私の京都滞在日程と見事にタイミングが合うことになるんですよ。3月18日に関空に着き4月22日迄の滞在です。19日から暫くは旅行の予定もなく家内の実家西大路四条におります。恒平さんの日程と合えば久方ぶり、多分、15年ぐらいをあいだにおいてお会いすることができようかと・・・。

 昼間はどちらも予定でつまってしまうことでしょうが、私の方は19、20、21日といずれも夕方から空けておくことができます。そちらのご都合、行動予定と滞在ホテルをお教えください。  カナダ ナイアガラ発

    ( わたしもギックリ腰、付き合いのええことで。笑えてきまっせ、これは。)

 

* ナイアガラ近くに住む中学以来の友人が、ほとんど、お隣感覚で声をかけてきてくれる。昨晩書いていたわたしの日録を見ていてくれたのだ、風の便りでもなく、郵便の通信でもない。このすばやさが、すごい。NGOのいちばんの武器はまたは利器は電子メールだと聞いている。メーリングリストに十も十五も加わっていて、のべ数千人と意見交換をしているという人もいる。日本ペンクラブも、そういう身の軽さで、たとえば、声明にしても、メールのウエブを組織してゆく打ち込みが欲しい。声明してホームページに載せ、新聞に小さな記事にしてもらい、それで事足れりではつまらない。十人ずつのメルトモを持っているとして、一つの声を十人に伝え、伝えられた人がそれぞれの十人に伝えて、三度も波及してゆけば、大変な数になって行く。それが「広報」というものである。

 

* さて京都で、うまくカナダからの ツトムさんに逢えるかどうか。

 2002 3/9 12

 

 

* 八時に出掛け、午後一時半には京都で、京都美術文化賞の選考会。そのあと墓参。そのあと田中勉君と会う。

 

* 選考会は、多くの時間は掛けずに決まった。日本画と彫刻と陶芸。石本正氏の強く推された日本画候補を、作品も、誰も知らなかった。創画展で受賞していた作があげられていたが、去年の創画展の受賞作で受賞していたなかに一つだけ納得したのがあったが、それが今日授賞と決まった人かどうか、覚えていない。去年の創画展では橋田二朗さんの絵がわたしは佳いと思った。しかし橋田さんを誰も推薦しないのでノミネートされていない。選者は推薦すべきではないとわたしは考えてきた、が、他の選者は推薦しているらしい。それもいい、が、それが過度になると、大勢の推薦依頼人からの推薦よりも、どうしても選者自身の推薦が、中心ないし優位の選考になる。それはどうかと、わたしは賞のために案じる。他の誰もが認識もしていない人に賞が決まるのはどうかという気持ちが否めない。ただ石本さんほどの人が熱心に推されたことと、四年間連続創画展で受賞して「会員」にきまった実績がものを言った。彫刻は清水九兵衛さんの強い推薦があった。それは他の選者も納得して決まった。陶芸は、曖昧なままに決着した印象をわたしはもっている。むかし、いい仕事をしていたのは間違いないが、ここ何年も作品を見ていない、創っているのかという不審のママに選考してしまったのは、少し釈然としない。

 

* 選考会の果てたあと、からすま京都ホテルの喫茶室で、石本正さんと一時間半ほど四方山の話をした。あまり座談会や対談をしない人であり、差し向かいで長時間、絵の創作をめぐるいろいろを聴けたのは、贅沢な有り難いことであったが、さりとて、聞き書きにして書き置くようなこともしたくない。わたし一人の胸に落ちて、いろんな話題のあれこれがきらきら折に触れ光っていてくれればそれでよい。梅原猛氏は石本さんの顔をみると奇人だ奇人だとひやかす。奇人とは思わないが、懐の広い、ふところに「壁」という物を立てていない、開豁な芸術家である。そして、とにかくも楽しんで楽しんで絵を描いてきた画家で、苦学力行といったむりがまるでない。壁にぶち当たるのが創作だと思っている人はいくらもいるが、壁なんて物がないのである。無いと言う人である。わたしは、それが本当ではないかと思っている。

 いま、頭の中は「黒と金との絵のことで一杯なんですよ」と嬉しそうに話される。

 家庭のことも、女性のことも、梅原龍三郎や広田多津や秋野不矩や福井良之助や、またヨーッロッパ中世美術のことや、水がわき出るようによく話された。女の裸を生まれて初めて美しいと身にしみて覚えたのが、どんなときであったかも話し、これは「はじめて人に喋ったなあ」と。

 そして例年のように、「湖の本」に出資してもらった。不徳なれども孤ではないのである。有り難い。

 

* 石本さんを次の会合に送り出すとすぐ、くるまで、出町へ。菩提寺で墓参。おだやかな晴の日で、線香に火をつけるのもらくだった。墓地にはいつも風が舞い、往生することが多いのだが。念仏を百遍ほど申してきた。住職ともすこしだけ玄関で話して別れて、思案の上、加茂大橋を西へ渡った。

 加茂川と高野川とが橋半ばの眼下で溶け合う。糺の森を目前に、大小遠近、幾重にも北山が重なり合い重なり合いして灰色にむせんでいる。まだ川岸に桜は咲いていなかったが、顧みに大橋西南の河原には、一もと二もとの紅しだれなどが色佳う咲き初めていた。

 「ほんやら洞」にちょっと顔を出して甲斐扶佐義氏に声だけかけておいて、西へ歩いた。同志社が卒業式の日であった、花束を抱いた和服の女子学生も三々五々、あちこちで男子学生達もまじって記念撮影していた。栄光館の前から女子部の門内を歩き、陽気に賑わった本学の構内を通り抜けていった。「良心を全身に充満したる丈夫の地にいたらんことを」という校祖碑に目をあててきた。どうも「良心を全身に充満」させた丈夫にはなり損ねているなと苦笑した。

 烏丸今出川から地下鉄でホテルに帰ると、田中勉君がもうロビーで待っていた。すこし痩せて、やはり年を取った。そして、半分外国人の風情が、握手してくる立ち姿などに感じられた。

 

* 日本の京都へ帰ってきているのだし、ホテルの洋食なんぞ食べてもらっても仕方がない。和食の店がたまたま閉鎖していたので、街へ出た。

 祇園まで、えらく雑踏の四条通をゆるゆる歩いて、奮発して「千花」の暖簾をくぐった。歓迎して、二人のために話しやすい場所を店が用意してくれた。京で一ともいわれる「酒店」である、酒の肴を多彩にだしてくれた。老主人も女将も二度三度顔を出してくれて、さ、田中君にはどうであったか、わたしは、酒が旨かった。一重切りに白玉と芽ぐんだ糸柳。一つ一つの器の吟味もよくて、食べ物の味に器の味が加わる。

 勉さんの希望で、露地で写真をとってもらい、老主人に見送られて晩景の四条を祇園東新地の「樅」へ歩いた。二三軒の候補から、田中君が「ちいちゃん」のところと望んだのだ、「樅」のママのことで、われわれのクラスメートだった。

 その「樅」で、精華大にいた画家の佐々木氏と隣り合った。橋田二朗先生の五歳ほど後輩に当たる人で、つまりわれわれより五歳ほど年長の人。先日鼎談した京都芸大の榊原教授にびっくりするほど似たひとであった。この佐々木氏、カラオケが実にうまい。二曲聴いたが、玄人よりうまい。田中君も二曲うたったが、なんでこんな歌を知ってるのかとおもうほど、聴いたこともない演歌を二つ、すこしかすれた声でまずまず唄って聴かせたものだ。わたしは、カラオケなんて真似はできない。気がない。

 

* 客が立て込んできたので、程良く出て、四条河原町で、西院の奥さんの実家へ帰って行く人と別れ、からすま京都ホテルまで戻った。妻に電話して、ベッドのうえで、気を落ち着かせるために少々念仏をとなえ、ストンと寝入ったらしい。夜中に目が覚めたら二時過ぎだった。しばらくテレビをつけていたが、缶のミネラル水を飲み干して、また寝入った。 

 2002 3/20 12

 

 

* ゆっくり起きて、湯に浸かり、軽食してからホテルを出た。午後は雨かという予報もあり、京都でうろつく気がなかったから、まっすぐ駅へ。二時間ほど熟睡のあと、往きに東京駅で買って置いたディクスン・カーのミステリーを読んだ。そしてまたうとうとしているうち東京に着いた。「のぞみ」号が、ひどく空いていた。保谷まで帰ってくると、中国黄砂の巻き添えかのように強烈な風に砂塵が舞い上がり、春一番にせよ珍しいなと音を上げ上げ家路を急いだ。

 

* 旅の機会にもほとんどくつろぐ余裕のない、むしろ東京へ戻るとほっとするそんな生活になってしまっているのに、驚く。もともと帰巣心がつよいのだろうが、こういう安楽な日々がいつまで続けられるだろうという「老いの不安」も無いわけではない。妻も私も一病息災というよりもう少しいろいろと故障を身に抱いている。無理なく安全圏にいて時を送り迎えていようという「傾き」があるのかも知れないが、一つには、したい事が東京に、ないし家に、有るという気持ちがある。もう、あり余っている時間ではないのだから、落ち着いて在るべき場所に坐っていようとするのだろう。

 昨日田中君は「たそがれ世代」というような言葉で、定年退職を余儀なくされて行く友人達の噂をしたが、わたし自身はその意味でなら、したいことが、まだこれから先に有るという実感の方が強い。あと三十年かも知れない老境を、「たそがれ」ている実感は実は少しも無いのである。若い頃のようにムチャクチャには頑張らないが、仕事場は東京にあり家にあると思うので、無用にセンチメンタルに、京都だからとうろうろしている気がしないのが本音のようだ。

 2002 3・21 12

 

 

* 路地   子供が道へ飛び出すのを防ぐため、足の形をしたマークが、当地旧い街のあちこちに、真ッ黄色のペンキで描かれています。こンな細い道を人が通るの? 奥に人が住んでるの? 入る勇気が無いまま。

 秦さんのお作でも、たびたび路地の話が出てきますし、先日、戦前の神田に生まれ育った渡辺文雄さんの文を読みました。

 私には遠い世界です。高度成長期で、路地がなくなったせいもありますが、あれは地元の人のもの。よそものにとっては、見えていても見えない道。出ていきたくない道。今でも通るだけで冷汗が出ます。

 

* こういうものなのかと、路地いっぱいの街で育ったものは驚く。先日も、京の祇園町の路地から路地で遊んだ昔を「ぎをん」というタウン誌に書いた。東京でも路地の生きた町並みは、上野、浅草、佃島などいくらも見られるが、激減し、雰囲気も変わってきているのは確かだろう。路地は「地元の人のもの」か。謂えていると思う。わたしの育った京の家のワキにも抜け路地が通っていた。外から祇園町へ入って行く、祇園町から外へ出る、そういう路地だった。あの路地のある生活感は、体臭のようにわたしの感性にしみついている。その路地をぬけて、先代幸四郎一家は南座の顔見世に出演していた。新門前通の旅館「岩波」に一家はよく泊まっていた。行き帰りに、わたしの父の店で乾電池などを買ってゆくこともあった。今の幸四郎も吉右衛門も小さかった。お父さんにして、まだ市川染五郎であったかも知れない。

 2002 5・3 13

 

 

* さ、明日は京都、朝が早い。昼と晩に会合が二つ。さっと帰ってくるだろう。

 2002 5・27 13

 

 

* 今夜は京都で泊まる。明日には戻ってくる。

 

* 午後二時都ホテルで第十五回京都美術文化賞授賞式。日本画、彫刻、陶芸から受賞者を決めた。選者代表のような梅原猛氏が余儀ない欠席で、小倉忠夫前倉敷美術館長が受賞者紹介と選評を。南禅寺から比叡山、また黒谷や吉田山、その向こうの北山や西山が一望の会場なので、わたしはここへ来るのが楽しみ。日本晴れの美しさに山々の緑がわきたっようであった。珍しく石本正氏が乾杯役。受賞者へのおめでとうをすっかり割愛して、亡くなられた秋野不矩さんの思い出などで、さわやかに乾杯、一つのみものであった。

 記念撮影があって。

 都ホテルが何故かウェステン都ホテルと名乗りを変えていて、ホールなど模様替えがあった。ながく湖の本の読者であった総支配人の八軒敏夫氏もリタイアされていた。

 

* 宿のからすま京都ホテルに戻り、五時半から、新町仏光寺の「木乃婦」で理事会と宴会。梅原さんがいないので、陽気に欠ける。財団母胎の理事長がそのぶん一人で座を持っていた。祇園甲部から藝妓舞子が五人。みな、弥栄校の近辺の人で話題がかみあう。さて舞子の踊りは普通だが、ばあさんと年増藝妓の歌三味線は歌い込みも音もよく、さすがに上手だった。食事も酒もそこそこうまかった。冷酒の聖徳をよく飲んだ。甘口だが純米で、うまかった。

 

* 宿は五分ほどの近く。帰って、家に電話して、テレビを見ているうち寝入ってしまい、真夜中にテレビの声で一度目覚め、寝直して、八時半まで。

 2002 5・28 13

 

 

* 入浴、朝食、どこへもまわらず京都駅へ。のぞみ満席で一台待ち、その間駅前の都ホテルで今度の湖の本を念校した。十時六分、のぞみに乗り込んでからも、あれで横浜まぢかまで、ぶっ続けに校正したり、また持参した幾つかのコピー論文を読んで過ごした。往きは二時間ほど眠っていったが、帰りはいたく勤勉に過ごした。そして寄り道せずに帰宅。

 留守に湖の本追加分の校正が出ていたので、建頁を建て、すぐ跋文を用意した。百五十二頁の大冊になる。やれやれ、出血だ。だがとても気に入った嬉しい一冊になる。

 2002 5・29 13

 

 

* ものを「色で染める」 こんな楽しいことを人間は思いついた。根元の手探りが見つけ得た生活の喜びであったろう。「色」のもつシンボリズムは、執拗に有力だ。たとえば、つい昨日まで「アカ」は厭悪され恐怖されていた。「火色」と呼ばれた赤い装束が繰り返し禁制された九世紀末から十世紀はじめには、怪火が屡々都を迷惑させている。「火色の禁」は「竹取物語」の一難題にも基盤を与えている。源氏物語の不動のおんな主人公は「紫上」であったし、聖徳太子の制定した官位官職はまた服装に定められた色彩と連動していた。赤勝て白勝ての競いには、平家と源氏との葛藤が記憶されている。金閣、銀閣、楽茶碗の黒、緑の日、黄色いハンカチ、灰色高官、白か黒か。限りない。だから「色彩は瞞着だ」と言い切って、線の行者を名乗った村上華岳のような画家も出た。

 染色は、だが色では終わらない。その色を出しその色を布帛や糸や紙や他の生地に「染める」のでなければ意味をなさない。何という面白いことだろう。

 素人の私のこういう興味に専門の染色作家はどういう意識と集中度と技術で真向かっているのかを問いに行くのである、京都まで。  2002 6・11 13

 

 

* 明日は京都で玉村咏氏と対談し、明後日には妻の私的な会合が大阪千里山である。明日は朝早くにいっしょに出て、妻が、わたしの対談中京都を楽しみ、明後日は午後いっぱい、私が京都で楽しむ。新幹線でいっしょに夜遅く帰ってくる。

 2002 6・27 13

 

 

* 早く起きて、『黒髪』に引き入れられながら、校正。やがて京都へ発つ。

 

* 十時二十分の「のぞみ」で昼過ぎに京都へ入り、二時から、染色作家玉村咏氏と「対談」した。済んですぐ、妻と高島屋で逢い、三浦景生さんの染色作品展をみた。独特の物象染めであり、小筥などの陶芸へも。書の佳い老大家であり、いま対談してきた玉村氏とは行き方はずいぶんちがう。ごくユニークな幻想世界が美しい発色をともなって魅力的。

 

* 妻が死ぬほど空腹だとふるえ始めたので、とりあえずその辺のイタメシやに飛び込んだ。それから出町まで墓参に。墓参のアト、常林寺わきのちいさな喫茶店で休息した。地下鉄で四条南座わきまで戻り、大橋を西に越えて、木屋町の「すぎ」に入る。この前来たとき、玉村氏とはここで初めて出会ったのだ。

 天然の、生き鮎を取り寄せて焼いてもらった。うまかった。ぐじの頭の方を焼いてもらったが、食べ方が「へたくそ」だとおすぎに笑われてしまった。汁にしてくれたのが、すこぶるうまかった。鱧のおとしも最良の味わい。妻は賀茂茄子の田楽や貝のぬたも食べていた。「しめはり」の冷酒がうまいうまい。わたしはご飯まで食べてしまった。

 ゆっくりホテルまで歩いて帰った。酔いが発し、あっとうまに寝入ってしまった。

 2002 6・28 13

 

 

* 青もみじの美しい永観堂に行き、ゆっくりと寺内を上へ上へ、奥へ奥へすすんで、見返り阿弥陀を拝んできた。じつに美しく、じつに有り難い。永観堂へは、以前建日子と一緒に上へのぼるまでは、境内しか知らなかった。いまでは、「一つ」と選んで奨めるときは誰にでも永観堂へいらっしゃいと言っている。(曼殊院や随心院や東福寺の普問院も好きだ。)山が間近く、建物に奥行き有り曲折有り、しかも静かで華奢で平安貴族の住まいのようですらある。開創も至って古く、「永観」は年号寺であり、門跡寺でもある。

 この一つで「京都」は足りた。妻は千里山での、幼稚園時代に溯る記念行事へと、四条河原町から阪急に乗った。わたしは体調にかすかな違和を覚えながら、錦などをあるきまわり、結局、河原町六角の映画館で、メル・ギブソン主演の「ワンスエンド フォーエバー」を一人で観た。からだを休めたかった。ものすごいコンバットもので、戦場の悲惨さは言い尽くせないが、夫の戦死をつぎつぎに知らされる妻たちの悲しさも深い。わたしはこういう映画を、身に課するようにときどき観ることにしている。

 

* ホテルに預けた荷物を受け取り、四条烏丸から阪急の特急で、梅田へ。大阪駅から新大阪へ。五時五十三分発、妻は会場で合流した妹と新幹線のホームに現れた。東京までわたしはぐっすり寝て帰り、妹とは東京駅で別れて大急ぎで家に帰った。もうインジュリータイムに入って三対一でトルコに負けていた韓国が、一点を取り返す最後の場面に間に合った。八時半キックオフだと思いこんでいて、三十分ほど観られるぞとせっせと帰宅したが。だが韓国は最後まで健闘、いい幕切れであった。

 2002 6・29 13

 

 

* 弔辞

 西池季昭先生。私の、今、此処に在りますのは、先生にお別れする皆様の哀しみを、代表して、お伝えするためではありません。ただひとえに、私一人の悲しさ寂しさを、申し上げずにおれないからです。

 先生を、弥栄新制中学の教室にはじめてお迎えしたのは、一九四九年、昭和二十四年、「数学」の時間でした。

 つたない印象で申しあげれば、生まれて初めて、ともに生きて行ける、若々しい優れた「大人の人」に出会った! という感嘆でした。五月になると飾る、五月人形の「大将」さんのように、「立派なセンセやなあ」と云う、嬉しい、心のときめきでした。

 次の年には、先生ご担任の三年五組になり、身も心も、ピーンと引き締まって嬉しかったのを、昨日のことのように思い起こします。お若かった。それはそれは、光るようにお若かった。しかも先生は、私どもの思いには、いつも揺るぎなく、確かな大人であられました。落ち着いて、端正で、先生と一緒にいられれば「絶対に安心」という気持ちでした。

 先生は、終始一貫して、人間的に、人間の尊厳を第一に、私たち生徒を、真表てに受け止めて、愛してくださいました。多弁ではなく、黙ったまま、よく一人一人を、クラスだけでなく学年の全部にわたって、見守っていてくださるのが、日頃の言葉のはしばしから窺え知れて、それゆえに私などは、軽率に奔りがちな身を、気持ちを、自身で律する習いを得たように思います。学校でだけでなく、夏にはお家で勉強させてくださいました。初めて解析の初歩を習いました日の、夢中の緊張ぶりが思い出されます。何度も、瀬田川へ泳ぎにも連れて行って下さいましたね。あの頃の仲間達と逢うつど、きっと話題にしては先生のご健勝を願い続けてきましたのに。

 弥栄中学を卒業の時に、先生は、「在学中の活躍を感謝します」と、私の記念帖に書いてくださいました。先生のクラスから立候補して私は生徒会長を務めていましたし、かなり賑やかに日頃大きな顔もしていたことでしょう、きっと。そういう私を、また、先生は、「秦は孤独を愛することも知っているから」と、批評されたことがあります。そういう見方をしてくださった方は、弥栄中学の頃、親友達にすら一人も無かったでしょう、私は、驚きました。私は、ひとり短歌をつくり始め、そしてひそかに人を想っていました。

 卒業の記念帖に、「贈る言葉」として西池先生、あなたは、こう書いて下さいました。記念帖は、今でも、書斎の、すぐ手の届くところに、いつでも見られるように置いてあるのですが。

 先生は私に、こうおっしゃった。二つ、あります。

「知る事と行う事は別のものであつて、決して別のものであつてはならない。」「又、君は馬鹿正直だと云われても、要領のよい男だとは云われないように。」

 先生は決して、「知行合一」といったお定まりの言い方はなさらなかった。「知る事と行う事は別のものであつて、決して別のものであつてはならない。」

 この美しい簡潔な物言いこそ、先生の、「お人」そのものでした。私は、永く永く、今日まで、この戒めに、心底推服して生きて参りました。知るだけでも、行うだけでも、弱い。そうなのですね、先生。

 そして、「君は馬鹿正直だと云われても、要領のよい男だとは云われないように」という、ご教訓は、前のにも増して、以来五十年の、私の人生を、文字通り導き戒めるお教えとなりました。如才なく此の世を生きることを、わたしは、あのときから、捨てにかかったのです。今も尚、捨て続けています。

 それはそれは、いろんなことを試みて生きてきました。先生は、その大方を、昔のままに、ずうっと、ずうっと、ずうっと見守っていてくださいました。それどころか、私の著書を買い続けて下さるなど、惜しみなく、莫大なご援助さえしてくださり、一言も、批評がましいことは口にされないまま、お目にかかれば、あの目で、優しい目で、いつも大きく「ああ」と、声に出して頷いてくださいました。私もたいてい、黙って頭をさげていただけですが。先生。有り難うございました。嬉しゅうございました。

 あなたは、ただ「西池先生」というだけの先生では、なかったのです。まさしく本来の「先生」という二字は、あなたそのものでありました、私たちには。それは、そればかりは、ご来席の多くの皆様の「思い」と、まこと、「一つ」であるに違いない、と、信じられます。

 心より感謝をささげ、やがて、いつかまたの「西池教室」に加えて戴けるのを楽しみに、励みに、私どもは、生ける限りを今一段も二段も努めてまいります、お教え頂いた「人間の誇り」を、大切に、そして、自由に。

 どうぞ、西池季昭先生。今からこそ、おすこやかに、おやすらかに、と、私は、心の底より、先生の永遠のご平安を、お祈り申し上げます。さようなら、と。とんでもない。これからも、いつまでも、ご一緒に私は居ります。どうぞ、見ていてください。じっと見ていてくださいますように。

  平成十四年八月七日 元弥栄中学三年五組 作家  秦恒平  六十六歳

 

* カナダの田中勉君から。

 

* 鎮魂の記

  恒平さん  日課の水泳から帰宅したばかりです。西池季昭先生ご逝去の報に接し、その昔の懐かしい思い出がふつふつと湧き上がってくる思いでおります。父、母、兄、姉、友人 そして師、異国にあって、一人として臨終を看取ることなく、見送りさえ叶わなかった身を悲しく思います。

 自分の人生に大事なかかわりを持つ、今は亡きその人の思い出を語ることは故人への供養にもなるだろうと、以下を書き記します。

 西池先生との出会いは昭和24年4月。丸刈り頭の中学2年坊主が担任教諭として迎えたのは見るからに若々しい新任の先生でした。級友も担任教諭も代わる新学年には新しい期待に胸ふくらむ軽い興奮があるものですが、この年は、畏敬すべき兄貴といったルーキーの先生を迎えて、さあ、これからどんな1年が展開するのだろうかとワクワクするような春だったのを覚えています。クラス仲間にはテルさんこと西村明男や福盛勉がおりました。

 理由の知れない組替えで、2学期になると私は給田緑先生のクラスに入ることになりましたが、その後卒業に至るまで、私は西洞院の菅大臣神社によく出入りしたものです。

 なかなかの読書家とみえて、先生の書庫には古今の名作が並んでおり、その中から立派な布張り装丁の「漱石全集」や石川達三の「日蔭の村」などを借り受け、後生大事にうちへ持ち帰ったりしたものです。

 弥栄中学で過ごした3年間を中心にした戦後の京の青春自伝を自分自身のために書き残しておきたいという突き上げる衝動のようなものはあるのですが、なかなか手に染まず・・・。

 先生に最後にお目にかかったのは9年前でした。ご自宅にお訪ねし、奥さんにもお会いしました。先生は私同様晩婚でしたから、末っ子さんはまだ学生だったかの記憶があります。

 訪問の目的のひとつはその頃私が手がけていた浜大津市とナイヤガラのある都市との姉妹都市提携に助力をお願いすることでした。当時先生の末弟季節(すえとき)氏は滋賀県教育長の要職にあり、そのコネクションで大津市との縁結びを、というのが私の狙いでした。

 季節氏は53年の昔、まだ堀川高校生でしたが、よくあの琵琶湖瀬田の和船遊びに付き合ってくれた”おにいさん”で、その後京大に進学、野球部でレギュラーのキャッチャーをつとめ関西六大学リーグで鳴らしたスポーツマンでした。

 9年前の西池先生との再会でも、もちろんその頃の話が出ました。舟遊びの帰りに夢中で獲った瀬田の蜆貝にも話が及びました。「ああ、あれなあ・・・もう絶滅してもうたで・・・」 

 浅瀬の湖底にもう蜆貝の姿を見ることはないでしょうが、その昔、青春前期の懐かしい夢を紡いだ琵琶湖の思い出ばかりは今も消えることはないのです。 つとむ

 

* 十時の「のぞみ」に乗り、四時九分の「のぞみ」で帰ってきた。神式の葬儀で、正面の遺影も菅大臣神社名誉宮司の礼装であった。

 

* 橋田二朗先生夫妻や宮崎伸子先生にお目に掛かった。千総の役員から引退の西村肇君や、卒業以来という谷本優君らにも。ご出棺を見送って、その脚で京都駅にかけこみ、帰ってきた。弔辞など、ほんとうに読みたくはない。「がんがん照り光化学スモッグ」の熱暑。行き帰りとも眠りもせず、「湖の本」の校正をしていた。あれやこれや、疲れた。

 池袋パルコの船橋屋でひさしぶりに天麩羅をたくさん食べて「笹一」を二合飲んでから帰宅。左アキレス腱の痛みは差し引きしながら、無くならない。今夜ははやく休みたい。

 2002 8・7 14

 

 

* 夕刻過ぎて最初の発送。その後も「007」を耳に聞きながら、かなり頑張った。切り上げて、幾つものメールを読んだ。胸に残るものも有った。

 それからまた「湘烟日記」の校正を楽しみながら、終えた。楽しむというのは言葉づかいが宜しくない。なにしろ五日後に逝去した、三十九歳の日記である。迫ってくるものがある。筆者自身よりも、こちらの方が筆者の死期を承知している。むろん当人も百も覚悟しているが、正確に何時のこととは分かっていない。絶筆の日記は、こう結ばれてある。

 

 明治三十四年五月廿日 晴

 朝無端(はしなく)出納帳一見せねばならぬ事到着して序手(ついで)に算盤をはぢかねばならず。銀行の切手、役所の入要等二三事を為して、はやくも、ぐんにやりとしてたのしみの部類は何ひとつ為す事なくして、此一日も過せり。

 昨朝美人の投身者ありとて、なかなかの評判なりき。美人の投身(みなげ)は殆ど熟字の如く、未曾(いまだかつて)て醜婦の身なげたる語を聞かぬもおかし。されど、多くは其美といふものが、死の因を為すに似たれば、矢張美人にやあらん醜婦なれば兎角(とかく)天下太平なり。

 わが幼時翠琴といふ十八九の婦人、美濃より京に来り、詩文の先生を訪ひ、われも一家を立てんの心組なり。其(その)號の奇麗なるに似付(につき)もせぬ顔(かんば)せなり。漢学はたしかのものにて、詩も達者なりとの事なれど、何分みにくきが祟(たゝ)りを為して、誰も一臂(いつぴ)の力添へんといふものなきのみならず。文人交際の心得なきものなりなどゝ、難くせ付て遂に京を放逐(はうちく)同様の待遇を為せり。醜美の関する所実に甚哉(はなはだしいかな)。    ──絶筆 五日後に逝去──

 

* 重度の肺結核ですでに呼吸困難に陥っており、しかも夫(中島信行号長城、貴族院議員男爵、第一回衆議院議員にして議長。自由民権の闘士であり、外交官も勤めた。)亡きあとの主婦であり家長であった。

 わたしに息をのませる記事は、数日前、鳴き声を見舞いにと贈られていた京都からの河鹿の噂から、生け簀に静めてある故郷鴨川の「石」を語る言葉であった。湘烟=俊子岸田氏は京都の町中に育った人である。

 

十八日 雨

 昨夜はこゝちあしき程の暖気。此病客さへふらねるのみにて恰(あたか)も(=よし)といふわけなれば、地震にてはあらぬやと気遣ふもありしが、夜間雨声枕に響きしが、朝来(てうらい)風もかはりて、屋後(おくご)の山窓(さんそう)戸に隔りて親しむを得ず。いづれの部屋も暗澹たり。けふは、書齋にゆき給ふとも陰気なれば、筆硯を枕もとにもたらさばやと、品のいふに任かし、終日一室に閉居せり。いき切(ぎれ)はすこしもよき方に向はざれど、熱度は大に減じ、八度に達するは稀れなるに至れり。食も幾分かすゝみ気味なり、唯ものいふ事の次第に苦しくなりゆくを覚ゆ。

 京都よりかじか日々なくやと問ひ来れり。故山(こざん)を離れし為か、主人の変りし為かよくなきしと、聞く程にはなかずやうなりし。されど、其音声の真価は吾十分これを知れり。美音を藏(をさ)めてなかざるも却て趣あり。殊に多弁家のかなりやのあとなれば自(おのづか)ら妙、夜深く人定(さだまつ)て後、七八語わが半眠半醒の耳にいる甚(はなはだ)あしからじ。このかじかに伴ふて来りし三四個の石、鴨川砂清く瀬浅きの辺より得しものなりと聞く。是尋常一般のものなれど、吾にはこの尋常一般のものより涼夜(りやうや)虫を売る柳陰の景より東山三十六峰霞をこむ春の曙(あけぼの)緑竹声絶(たえ)て寒に凝る冬の月、阿翁(あをう)と憩ひ、阿兄(あけい)と遊びし紅梅紫亭のおもかげ等生じ来りて坐(そゞ)ろに今昔の感に勝(た)へぬもおかし。

 

* ただの川底の石といえども、それが「鴨川砂清く瀬浅きの辺より得しものなりと聞」けば、連想と懐旧の情とは、旺然と湧くがごとくであったに違いない。必ず女史は、中の小石を蓐中掌に包んで眼をとじていたことであろう。わたしでも、その期に及べばそのように京都を思うに相違ない。

 2002 9・11 14

 

 

* 秦の母の七回忌が来るので、京都行きの手配をした。新幹線の往きの切符ももう用意した。

 2002 9・17 14

 

 

* あす朝早に、京都へ。その用意ももう少し残っていた。天気はどうか。去年の父の十三年は、台風に襲われて、日本海側から長岡経由で東京へ帰ってきた。さっきから雷が鳴り、雨の音も。好天を祈る

 2002 10・15 15

 

 

* 雨や雷は過ぎていった。今から京都へ行く。四十五年前の今日、妻と初めて大文字山に登った。魔法瓶に飲み物を持っていたのに、行きしなに山道でぶつけて割ってしまった。山の奥は紅葉していた。比叡山が大きく美しくまぢかに見えた。

 2002 10・16 15

 

 

* モンテクリスト伯のおかげで、あっという間に京都へ。一休みのまもなく、菩提寺へ。まず墓参。境内の萩はすっかり刈り取られて、一株だけかすかに白萩が。

 住職が、次男僧に襲職されていて、読経も主役は若い住職、前住職は脇に。阿弥陀経と念仏を唱和。墓地に新しい卒塔婆を立てて、墓前でも念仏。四時過ぎに終わる。

 日は高かったのでどこかへ車で走ろうかと思ったが、やめ、出町の商店街を歩いて「ほんやら洞」で店主の甲斐夫妻に逢い、コーヒー一杯の間を、歓談。夕暮れて行く同志社のキャンパスを、栄光館の前から烏丸通りまでゆっくり通り抜け、地下鉄で宿へ戻った。ホテルのレストラン「グランドール」で、洋食にグラスワイン。元気回復した妻と祇園まで車で走り、「権兵衛」のまえから辰巳橋白川の方へ、そして膳所裏から四条通へと宵の散策。馴染みのクラブ「樅」がしまっていたので、満腹もしお酒も足りていたし、そのまま四条通を烏丸まで歩いて、宿へ戻った。

 朝が早く、新幹線でもずっと本を読んできたので、からだに残ったワインと、部屋でのビールが利いてしまい、すうっと忽ち寝入ってしまった。

 2002 10・16 15

 

 

* ひとり目覚めたのが、五時半。好天。ホテル十二階の窓辺で、東山三十六峰の「あけぼの」をひとり楽しみ、そのままソファでまた「モンテクリスト伯」を読み出して、七時半まで。

 朝食後、協議は一決、個人タクシーを頼み、五条から、桂、大枝、沓掛などを経て、老の坂旧道を昔の丹波篠村へ越えた。亀岡市に入り、矢田の鍬山神社に参り、山上の銀鈴の瀧を拝み、また待たせた車で、山の奥へ奥へ上っていった。

 この前出した湖の本のシナリオ「懸想猿・続懸想猿」の舞台である疎開していた村まで行き、あの頃にお世話になっていた大きな農家に挨拶した。「丹波」にも出てくる当時の田村美智子さんが嫁いできて長沢美智子さんになっている。息子夫婦のいる未亡人になっている。立ち話で、そうは長く話さなかったが、お互いいい年寄りになってしまったなと笑いあった。

 妻と、静かな静かな村のうちを、山上から春日神社までも、懐かしい思いで歩んできた。

 指折り数えて、ここへ疎開してきたのは五十八年ほども昔になる。国民学校の三年生を京都で終えて、まだ雪の凍てて残っていた春休みの最中だ。数えて十五軒とは今でも無いほどこぢんまりとした山間の峡谷。昔は京都府南桑田郡樫田村であったのに、今は大阪府高槻市の奥の奥地に編成替えになっている。高槻からのバスがこの杉生部落でまわれ右して大阪の方へ帰って行くのだ。

 世話になっていた農家は、当時は六人家族であった。お年寄りは三人ともなくなり、いいお姉さんであった娘の二人はよそへ嫁ぎ、末の息子さんが、わたしより四つ五つ年かさの亀岡農学校の生徒であった。この人に同じ部落の中からわたしの同級生が嫁いで男の子が出来たのに、気の毒に夫君の藤次さんは、事故で早くなくなった。息子夫婦も今は余所に暮らし、未亡人が大きな、「本陣」ほど大きな農家をひとりで守っているような様子であった。

 待たせて置いた車で、さらに一山を越えてとなりの田能部落に昔の樫田国民学校を見に行ったが、すっかり鉄筋の新しい建物に変わっていた。廻れ右してきた。

「丹波」に、事実通り記録的に書き、小説では処女作「或る折臂翁」と「懸想猿」に書き、太宰賞の「清経入水」に書き、少しく「四度の瀧」にもとりこんだ、私の文学とは切っても切れない血の通った場所である。

 此処での、敗戦をまたいで一年八ヶ月ほどの日々は、まこと貴重な財産になった。だがあの当時は、はやく京都に帰りたいが一途の、「都会もん」には過酷にシンドイ日々であった。

 好天に恵まれ、静かで静かでひっそりと晴れ渡った村の風情が、満喫できた。妻が喜んでいた。

 亀岡市に下り、JR山陰線の亀岡駅でタクシーを帰した。地元のくるまに乗り換え、「楽々莊」へ。ここで、おちついて昼食した。山陰線の開通に尽力し、後に更にトロッコ電車を保津峡谷に走らせた田中某氏の豪勢な旧邸で、佳い建物と広いはれやかな庭園がある。広い座敷を借り切りの感じにわれわれだけで占めて、松茸や柿・栗を用いた懐石を楽しんだ。濃いうまい酒が出た。ざんぐりと飾らない懐石で、それも一興の、疲れをやすめるにいい静かな昼下がりであった。

 亀岡駅から各駅停車で、保津峡を長い六つのトンネルで縫い取るようにし、嵯峨から円町や丹波口を経て、京都駅に帰った。そのまま手持ちの「のぞみ」切符を二時間早く切り替えて貰って、新幹線に飛び乗った。この二時間の切り上げは、疲労のためには良薬であった。いくらかうとうとしたが、「モンテクリスト伯」をわたしは第七最終巻の真ん中まで読みふけり、妻は小林謙作君の父上が遺された「ソ連市民になった二年間」を読み切った。

 七時のニュースに間に合うように家に着き、黒いマゴは手足を舞わせて喜んでくれた。

 

* とは言え、さすがに、ほっこりと疲労している。今夜は早くやすもうと思いつつ、いろんな用事にかまけて、十二時になろうとしている、明日は骨休めしたいが、なんと、はや次の「湖の本」初校が出そろってきたし、二十二、三日には新刊の『からだ言葉・こころ言葉』が三省堂で出来上がるという。装幀はどんなか知らない、なかみは、ちょっと面白い本になっていると思っている。

 2002 10・17 15

 

 

* 昨日の「丹波」の風景が、明るく静かに、澄み切った輪郭を保って眼に蘇ってくるのが嬉しい。ながいあいだ、わたしはあそこを底知れず陰気にばかりイメージしてきたが、そんな印象をぬぐい取るように、きのう妻と歩んできた村道や山道や古社の境内や石段がわたしは懐かしい。あの美しいかぎりの、静かさ。

 2002 10・18 15

 

 

* 加藤周一氏が筑紫哲也の番組で筑紫氏と京都の円通寺で対談していた。京都が毀れると。そして日本語も、と。

 日本の政府は、近代以降、日本を改築改装することに無神経に奔走してきた。景観を保存する、尊重する政策は時代遅れだと思いこみ、ほとんど持たなかった。自然も家屋も古いものは、はやばやぶっ壊して、道路でぶち抜く。好き勝手な建築のためにも、じつにイージィに型どおりに建築許可を出す。京都でもそうであった。

 京都のまちなかは、ほんとうに無惨に毀れつつある。伝統的には、毀れても焼けてもすぐ建て直るという安易な条件が、かつては確かに有った。むしろその無常のさまを自然と見たし、その復興の様も自然と見ていた。

 平安時代から江戸時代まで、日本建築は、概して右肩上がりに豊かに良くなっていたので、建てかわって無惨と言うこともあまりなかった。木や石の材料もあった。

 ところが明治以降、建築様式に雑多な外来要素が加わり、かつ人の生業にも、会社組織や工場が加わり、その便宜のために、伝統的な木の建物では、作業のハカが行かなくなった。さらに人口が増え、都市の景観は密集をもって特色としだした。木は足りなくなり、木では建設しにくい状況が出来ている。京都は伝統の街、進歩や便宜の例外ですとは、暮らしている市民にすれば、言ってられなかった。

 京都の人は我が強く、よそはよそ、うちはうちと、「ごりょうし=ゴリ押し」に我を張るから、街通りの景観に寛大に優先権を与えたりしない。「うっとこ= 我が家」のトクに差し支えない限り、大義名分と雖も従わない。街の有様のひどくなる一方なのは、もともとの市民性にもよるし、行政には高度な定見が、見識が、街への愛情が、てんと無い。法律通りに形式が揃えば、たとえ円通寺の借景の中に、醜い高いビルがヌーッと割り込んで建つのも平気の平左で、それももう目前のことである。

 失礼だが、加藤さんのはなしはピンとこない、ごたいそうな観念論であった。筑紫氏も例のとろけたバターのように役立たずに曖昧模糊としていた。あんなことで、京都という町は、街モノは変わりはしない、「勝手に言うとい」「好きに言うとい」である。こうすればこんなに「おうち」がトクでっせと持って行ける理屈や対策を立てないでは、誰もが個別にそっぽを向く。面従腹背は京都人の悪しき聡明の一つなのである。 

 2002 12・4 15

 

 

 

 

* 明日は、京都美術文化賞の受賞者展テープカットがある。心用意している。

 2003 1・20 16

 

 

* 二十日の往きの車中から、眠くて眠くて、よく寝た。京都に入っても眠気はすこしも抜けず、よほどからだが睡眠を要求しているようだった。

 夕暮れ前に、店内新装の本店イノダで、コーヒー。さすがに京は底冷えて、ことに夜分は。食べ物も、うまくからだに馴染まなかった。

 鉄斎堂の国画創作協会展が、小品ながらさすがに。

 

* 留守宅への電話で、藤間由子さんの死を、それも急死を、告げられた。娘の抄子ちゃんから報せてきたと。つい前日まで踊っていたというのに。よほど、わたしに、通夜にも葬儀にも来てほしそうだったわと聴くと、由子さんとも本当に久しかったと思う。「新潮」に書いた「或る雲隠れ考」の頃からだ。ご馳走になったり歌舞伎を何度もみせて貰ったりした。先代の成駒屋の藤十郎で祇園のお梶を踊った新橋演舞場での会が、華やかであった。

 わたしに詞を書かせ、荻江寿友の曲と出演で、「細雪松の段」を国立小劇場で舞ってくれたのも懐かしい。わたしより、どれほどの年上であったか訊かなかったが、最近も電話で「湖の本」を注文してきてくれたり、まさかに亡くなるとは思えなかった。ハイカラでセンスのいいちゃきちゃきの抄子ちゃんが、いきなり新橋で芸者になり、演舞場の温習会であでやかに鳴物で活躍したときも、おっかさんは是非にとわたしを招待してくれて、わたしは桟敷で酒をのみながら見ていたが、面倒見のいい人だった。

 勘三郎と玉三郎とで、夕霧伊左衛門をやった日は、歌舞伎座の一番前の真ん中に席が取れていて、わけて中村屋とは縁があるらしかった由子さんは、わたしに、そういう席から役者と目の合うような感激の楽しさを仕込んでくれていたのだろう。

 寂しい夜一人の京都になり、疲れていたが、おそくにホテルのバーへゆき、とびきりうまいウイスキーを、ダブルのストレートで、二種類。一つは「響」の 12年もの、もう一つはジョニーウォーカーの樽詰めしない原酒というのを。一人っきり、照明をおさえた廣いカウンターで、ほんのすこしブルーチーズを小皿にもらい、しんしんとした気分で、一時間ほど、黙って酒を友にしていた。寂しいが、佳い、独り酒であった。高価なこともトビキリだったが。

 ひとりは寒いほど寂しいが、寒さが佳しとも感じる。

 夜中にも目が覚め、日本の歴史、神話から歴史への「神話」の所を、ペンを片手に、明け方まで読みふけっていた。こういう時間も好きだ。

 

* インシュリンは打ったが、朝食ははぶいて、寺町のお池まで、ゆっくり歩いた。荷物はホテルに預けて置いた。シンと京の朝は冴えて。幸い天候は好転し、きれいな青空。

 

* 中信ギャラリーでの第十五回京都美術文化賞受賞者展で、岩本和夫(日本画)、栗木達介(陶芸)、小林陸一郎(彫刻)氏ら三人の受賞者と、梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生氏ら選者といっしょに、テープカット。石本さんが熱心に推薦し、わたしは知らない人で心配していた、岩本和夫氏の日本画が、ダントツの佳いもので、日本画の概念を撃ち抜いたような秀作が、大作が、少なくも二点あった。日本画として、過去十五回の展覧会中、秋野不矩や竹内浩一にも勝るとも劣らない佳い作品で、嬉しかった。石本さんも満足そうであった。

 展覧会は、まず三人の受賞者と石本(日本画)、清水(彫刻)、三浦(染織)三氏の賛助作品でオープンし、その後に、受賞者一人ずつの展覧会を三つつづける企画になっている。このギャラリーが出来てからそうなった。前は、京都文化博物館の広い会場を使っていたが。

 梅原さんに声を掛けられたが、さして話しているひまがなかった。あ、と挨拶をしただけ。

 

* で、終わって市役所の前に出て。一思案もおかず河原町でタクシーに乗り、一路「三宅八幡宮」に。運転手が「ヘッ」と声を出したのがおかしかった。高野川をさかのぼり、山端の「平八」の前を通り抜けて。一度来たかった。なにとなく寂しいところと想っていた、子供の頃から。ま、今は民家も連なり何の寂しいわけもないが、境内には人っこひとりの影もなく、ひたすらに冴えかえっていた。

 八幡さんである、例の鳩が二羽向き合って「八」の字になっている。「鳩信社」といった講中もあるらしい。推古天皇の昔、小野妹子が随に赴くときに九州で病み、宇佐八幡に祈って事なきをえた。帰国後に勧請したのが三宅八幡だと社伝は伝える。この一帯は岩倉また小野郷である。

 規模は大きくないが拝殿も、本殿も神々しい。二礼し二拍し一礼。わたしはこういう場所では、心を虚しくして作法に従う。比叡山の鵜の谷から流れ来ると伝えた清水で、手を口をすすいだ。鳥居のそとに、噴水と、ちいさな滝をもった庭が開放されている。滝のそばには南天が紅い実を輝かせていた。池の奥に、古い古い水車がかけてあった。なかほど稲妻形に組んだ石橋にたつと、噴水のしぶきも滝の音も身にしみる。昔の幽邃はもう想うべくもない町中であるが、時間がゆるせばこの界隈は逍遙するに足る。

 

* 待たせて置いたタクシーで、宝ヶ池を瞥見して深泥が池へ。案じたほど変形されていなかった。浮島の真菰の原に北山の冬の風が吹いていた。じゅんさいの生育はどうであろう。しばらく、眼をとじていた。

 

* 円通寺へ、いや大徳寺に、と思案したが「今宮」へ久々に。名物あぶり餅は食べなかったけれど、本殿の鈴を高く鳴らし、またいくつもの摂社の一つ一つに二礼し二拍し一礼してきた。「やすらひ」の花祭りを、わたしは知らない。しかし、今宮というと、不思議に思いなごむ。魂の故郷のような親しみを感じる。ここからはまぢかい大徳寺には、やや権威めくくさみがあるが、今宮には、ものみな風化してさびさびとした寒さの中にも、えも言われぬ花の柔らかみがある。白い翁の面を自分もつけたような気持ちになる。三蓋松の紋もおもしろい。

 

* さ、次は、「千本釈迦堂」へというと、また運転手が「ヘッ」と言った。大報恩寺である。千本という地名が、林立していたという卒塔婆の景気であるように、この辺は東の鳥部野にならぶ西の三昧、蓮台野。そのなかでこの釈迦堂は、承久の乱の頃の本堂が奇跡的に遺っていて、もうそれだけのお寺ではあるが、いかに京都が古都とはいえ、十三世紀の初葉にまでさかのぼれる建造物の遺例は、稀有。寝殿造と伝える此の堂々と堅固な本堂は、まちがいなく歴史的に最古例の「国宝」である。東福寺の三門も古いが、龍吟庵も古いが、後鳥羽院が隠岐に流されたころの建物なんか、ほかにはない。

 いやもう、この境内にも運転手が呆れたように、人っこ一人の影もない。宝物館にはいったが、番をしている人もなく、ひとり重い奥の網戸をあけて素足で入ると、とびあがりそうに床が冷えていて、広ーい室内に、快慶の十二弟子像や、いろいろの観音像や、欝然とした古文書や古材や什物が、ぞくぞくする感じで、保存されてある。寒くて少し畏くて、あまり長居して居れなかったが、いならぶ快慶の観音像の容貌の「女にてみまほしき」美しさにも異様に驚かされた。

 本堂へもあがった。実在感の豊かな、黒の色に統制された持ち重りのする空気が、しみじみと、内陣にも外陣にも籠もっていた。よく応仁の乱にも燃え落ちなかったものよと、有り難しと、掌をなにかに合わせる気持ちであった。

 本堂の外に、いまいまの観音様だが「ボケない」ようにというお祈りのさまが、うかがえた。わたしも、思わず合掌したものの、観音の御手に結ばれて、リアルな爺、婆の小さな像までくっついているのには背筋を寒くした。

 千本釈迦堂の縁起には、少し注目できる物語がある。その余波で、境内には「おかめ塚」が築かれ、巨大にリアルなおかめ女像の建ってあるのも、初めて見ると、ギョッとする。だが「縁起」はわるくない。少し感動できる。

 

* 三条河原町まで戻って車を降り、ぶらぶら河原町を南行、つまり京の物言いではサガってゆき、「たん熊北店」に声を掛けた。昼ご飯が食べられそうで、二階の小座敷にあがり、縁高を頼んだ。

 とても静か。この店は、任せて置いて間違いない旨い京料理を食べさせてくれる。とびきりである。愛想のいいねえさんに心付けもはずみ、気分良く瓢箪なりの徳利で、それもその辺のケチくさい小さいのでなく、猪口も干支の「未」をあしらった、紛れもない京焼の上品。刺身と、白味噌仕立ての(舌もとろけそうに旨い芥子味)碗もの。他は縁高、分かりよく言えば酒の肴主体の弁当風。

 ああ、やっぱり味噌田楽だけは、口に含んでから酒で流し込んだものの、わたしが茄子ににすら間違って箸をつけたほどの、佳い料理であった。

 酒はやはりお代わり、ぜひ。しかも、満腹。これには驚いた。こういう店の物はお値段に換えがたい色気がある。魅力である。

 

* 冴え返って静かなわたしだけの京都だった。よかった。

 

* 思い残すなにもなくて、ホテルに預けた荷物を受けとり、京都駅。

 幸い、相客のない悠々くつろぎの「のぞみ」三人席が取れ、窓辺をさけて真ん中に。ほとんど、東京まで、うつらうつらと快く居眠りつづけて五時、定刻通りに東京駅へ。山手線に人身事故でとまっていると知り、地下鉄丸の内線で池袋へ。この頃になり、どうもはや青空に粉雪の舞ったような京都で、早くも花粉ももらってきたか、嚔くしゃみに襲われた。驚いた。

 

* これで当分はまた、東京の生活。週末には久々の電子メディア委員会。少し大事な議案で、この委員会にも一つの区切りを迎えたいと思っている。留守の間に、つまり二日間に二十八本のメールが入っていた。中にはしつこいウイルス性の妨害モノが混じっている。妨害モノの中には、なんと亡き兄「kitazawa」の勤務大学でのアドレスのままという手の込んだのも混じっている。メールは、すべていきなり受信はしないようにしてあるので、撃退可能だが、無防備に受信設定にしていれば悪質のメールで機械は壊されてしまうだろう。

 すべてメールの始末もつけた。仕事の用が多かった。心待ちのも有った。

 2003 1・21 16

 

 

* 歩き回ってきたためか、不快ではないが疲れている。しかし、外苑のあの大きな銀杏並木の夕暮れは、東京の町中にしてはわるくない。今日一人でとことこと遠回りに青山通りから信濃町駅まで歩いた道は、初めての道だった。未知だった。四十数年東京にいて東京をまだよく知らない。

 とはいえ、京都なら、新門前の我が家から白川沿いに菊屋橋へ出、柳の糸にいろどられた石の太鼓橋を東へ渡って、華頂会館の前から、翠の東山に目をあてたまままっすぐ瓜生石を通り過ぎて知恩院の広壮な境内にあがり、もとおり歩んで釣鐘わきから、左阿弥を経て、真葛ヶ原、圓山公園へ降りて往き、池の前で枝垂れ桜をみあげておいて、八坂神社に滑り入り、拝殿で手をうったあと、西の楼門から四条通の賑わいへ、ゆっくり石段を下りてゆく、そんな足慣れた散歩コースの方が、やはり懐かしく何層倍もの風情に富んでいる。このコースだと、タイヤのきしむ音のうるさい自動車を、ほとんど見ず聴かずに済む。

 

* とはいえ、と、もう一度云おう、京都にはもう逢いたい人の多くが、兄も、姉も、妹も、多くの先生がたも、友も、いない。東京での方が、いましも懐かしい逢いたいと思う人がいる。何人も、いる。わたしはもうすっかり東京人になっているのだ、東京を、京都のようには知らないのに。

 2003 2・21 17

 

 

* 美しいものに触れたいと思う。京都、華岳、桜、そればかりではない、有り難いことに美しいものもひとも、まだ世の中に溢れている。なぜ眼や気持をそちらに向けないか。飯の種ではないからか。見えないからか。

 2003 3・16 18

 

 

* 春の雨。圓山の花は、咲き初めているだろうか。

 

* 京都まで、過去に例もないほどぐっすり眠っている内に、到着。

 京都も、傘のいるようないらぬ程度の春雨で、桜はどこもまだふくらんだ蕾を仄かに色づかせながら、開花はしていない。東山はしっとり濡れていた。

 京都駅の建物をわたしは新幹線のホームから眺める程度で、殆ど知らなかった。で、地下鉄で、少し中を歩きに行ってみた。かなり変わった建物であるが、昔は京都駅というとそちらから入った七条口がたいへん立派に出来ていて、駅としては東京の八重洲口駅よりはるかに堂々と美しい。中は広すぎて歩きまわる気を萎えさせた。佳いモノが出来たら、新しい物好きな京都市民が自慢にして訪れるだろうと思っていたように、旅人だけでなく京言葉の人も大勢歩いていた。デパートもホテルもある。

 雨が止んでいたので、東本願寺の前を歩いて烏丸京都ホテルまで帰り、ちょっとうまい焼きそばで紹興酒を飲んで、入浴、眠くなったのでさっさと寝てしまった。夜中に二度ふっと醒めた。此処はどこだと寝惚けていた。

 2003 3・25 18

 

 

* 七時過ぎに起きて新聞を二紙しっかり読み、朝食。鞄はホテルに預けておいて出た。

 タクシーで神泉苑に。歴史で「平安京」を読み進んでいて、何となく行ってみたくなったものの、平安初期には朝廷の行事を一手に引き受けるほどの広い大苑池も、今は猫の額ほどにこぢんまりしている、それは知っていた。むかし、あれは「墨牡丹」を書いていた頃にちょっとのぞきに行った。荒れていた、凄いほど。

 今日は、総じて手入れ宜敷く見違えるほどこざっぱりと佳い園内であっ。家主然として料亭「平八」が寄り添うように諸事面倒を見ているらしい、けっこうなことだ。朱に高く反った神橋も新しく、龍頭鷁首ふうの、なかで会食できる船まで池に浮かんでいた。

 神橋のほとりに恵方を向いて祈ると願いの叶うと託宣の小祠があり、また願いを堅くして此の橋を渡ると叶うとも書いてあった。抱き柱を抱かないわたしも、こういうところで意地は張らない、妻を元気に娘や孫娘に逢わせてやりたいと願いながら、朱の反り橋を渡ってきた。

 広大だったという、その広大さは、二条城が大方を持って行ったといえば分かるだろう。二条城の濠や庭園等の美しさには、どこかしら神泉苑のよろしさが生いのびているのである。タクシーを降りた二条通側から神泉苑を望むと背景に二条城の大きな樹木が波打ち見えて、さながらに往昔の神泉苑の景観を想像させるに足る。

 近くの二条陣屋をのぞいたが、「本日休業」と。此処は建造物として優に一見の価値があると思うが、専門の諸君の眼にはどうなのだろう。

 

* さて次はと思い、このまま西へむけば山陰線の二条駅だからと、ゆっくり歩いて、昔とはまるで面影の変わった新駅から、山陰線に乗って亀岡まで行ってみた。トンネルが六つ、ちらちらと保津峡をのぞきこみ、さて亀岡駅を外へ出てみても、ちょっと疎開していた杉生までは時間的に無理と思われる。

 そのまま、また京都向きに電車に乗り直した。愛宕山寄りの低い山並みが敷妙えて幾重にも遠くながく霞みつつ、大空には雲がはるか高く立っていた。長閑な田舎である。

 またも、六つのトンネルを抜けるつど濃い碧潭や岩を噛む清流をのぞきこみ、今度は嵯峨嵐山駅で下車。足任せに歩いて長慶天皇陵に参った。後醍醐、後村上、長慶、後亀山、後小松とつづく南北朝時代の南朝の天皇さんである。この人だけが、このあたり歴代で、名乗りが桓武や文徳ふうに重々しいのはのは、その理由もあることで。

 この界隈、出版健保の佳い保養所や国立学校の佳い宿泊施設がある。桂川の土手にとんとぶつかるところへ出て、やや右へ行くと国立学校のための施設「花の家」があり、此処は庭の内をそぞろ歩いてもなかなかの設えに出来ている。臨川寺に入りたいと思ったのが、そんな結構そうな保養施設であった。

 渡月橋へ戻り、人力車のうるさい勧めをふりはらい、暫く橋にもたれて下流の桂川と上流の保津川とをぼうやりと気の遠くなる気分で眺めていた。臨川寺は門を堅く閉ざしていた。

 琴聴橋にも立ち、「美空ひばり館」は遠慮し、銘菓の老舗「鼓月」の出店で京ぜんざいを食べた。よりによって昼飯代わりにぜんざいというのがわたしの病気であるが、餅も小豆も甘みもキワだって良かった。満足して、天龍寺や嵯峨野には失礼し、ひなびた嵐電で太秦へ戻り、ひさびさに広隆寺を訪れた。

 清潔で簡素ないい境内で、いきなり講堂で平安初期の国宝阿弥陀如来と左右の脇侍を拝むことが出来た。念仏数十回、心地よくなる。向かって右脇侍のお地蔵様がすばらしい。暖かい像である。

 本堂にもあがり、さらに霊宝殿へ入る。

 ま、此処ほど贅沢に平安初期の造像になる仏様や守護神の多数居並ぶ宝物館は少ない。本尊千手大観音を真ん中に素晴らしく丈高い立像の十一面千手観音、不空羂索観音がまず圧倒的に有り難い。その向かい奥の正面には、太秦広隆寺の象徴である清楚きわまりない弥勒菩薩像、また泣き弥勒像を中央に安置して、左右へ、鍵の手にずらりとならぶ御仏達のどの一つを拝んでも、まことに古代感覚豊かな造像ばかりで、贅沢という二字のいちばん良い意味で酔い心地になる。

 その中でも、秦河勝夫妻神像が佳い。すばらしい。森厳として、小像なのに深く大きい。座像の膝先がともに失せ落ちていてなお、欠損感がない。神像としてみても肖像としてみても揺るぎない内面の把握が出来ていて、有り難い有り難いと感じた。

 十六歳の聖徳太子孝養像も充実し、桂宮院本尊の貫目を優に備えている。さらには定朝の弟子長勢作と伝える十二神將群像の、まぎれもない国宝の、渋い、力満ちた輝き。

 さすがに秦氏の氏寺、太秦と尊称された古寺の貫禄であった。もう一度講堂の阿弥陀や地蔵に拝礼し念仏申してから、面影町の蛇塚は敬遠して、電車に飛び乗り、四条大宮まで戻った。

 

* 大宮から、綾小路をぶらりぶらり東行、うって変わった晴天の暖気にうだりながら、荷物を預けた烏丸のホテルまで歩いた。ゆっくり手洗いをつかい、ロビーに出て、ぱたりと車椅子の伊吹和子さん(エッセイスト。むかし谷崎担当の中央公論社の編集者)に出逢った。京都で源氏物語の教室を開いているとは聴いていた。転んで怪我してもう二ヶ月とか。そういえば、今から逢う清水九兵衛さんも転んで足を痛めたあとと聴いていた。

 もう東京へ帰る伊吹さんと別れ、三四十分、喫茶室でたっぷりコーヒーを飲みながら「平安京」のなかの一章を読んだ。律令制が崩れをはやめ、さながら過酷な徴税吏と化した国司たち、それに対向して郡司や土豪達は、都の権門勢家に土地を寄進し臣従し隷属すらして税をのがれようとし、院宮家をはじめ権門勢家はここぞと挙って不輸(無税)の荘園を増やして行く。そういう難儀な崩壊現象のなかで、わずかな良二千石と讃えられた良吏も皆無ではない。典型的な一人の藤原保則、また菅原道真を、参議に抜擢して宇多天皇は関白基経死後の天皇親政に立つ。この天皇は藤原氏を外戚には持たずに一旦は臣下の列にいて登臨した天皇であった。だが、政局の前途は険しい。この天皇、根は好色の遊び人であった。

 

* 二時前に京都中信本社に入り、例年の京都美術文化賞の選考会。洋画ではわたしの推薦者に授賞ときまり、彫刻と染織からも一人ずつ。日本画はやや今年は希薄な感じがした。そこが面白いと言えるが、京都であるから「伝統」本位というわけでなく、かなり選考は「前衛」的に行く。彫刻という分野の名前ではあるが、一般市民の感覚や常識からすると、これが彫刻なのというほど「抽象的な造形」がだいたい選ばれる。陶芸でも染織でも、前へぐっと踏み出していないとあまり問題にされないのは、わたしは良いことだと思っている。中村宗哲のように、さながら京都の伝統のスポークスマンふうに活躍している人でも、それはそれ、それだけではねと落ち着く。

 今年の彫刻は、メビウスの帯をさまざまに作り続けてきた人だと九兵衛さんの推薦。さ、それが、ただのヴァラエテイであるか一つ一つの創造的作品か。展覧会がみものだ。

 

* 石本さんが例の奇妙な猥談風をはじめ、梅原さんがよろこんで唆し、みなで笑い合って、そして別れてきた。そのまま京都駅へ向かい、すぐのぞみに乗った。「美術京都」にピンチヒッターで渡した原稿が、はや校正刷りになっていたのを受けとってきた。車中で読み直し、校正を終えた。雑誌論考の執筆依頼が停滞していて、そのうちに責任者が新任と交替した。下についている担当者が泣きついてきたので、すぐさまに、適当な書き置き原稿の五十枚ほどの物を、テキストにして機械で送って置いたのが、たちまちゲラに成っていたのである。コンピュータは仕事が速い。

 2003 3・26 18

 

 

* 息子たちの来たとき、京の「おたべ」を土産にくれた。いわゆる銘菓「八つ橋」のヴァリエーションで好物である、が。妻の話だと、うちの息子は、もともとのかりっと焼いた菓子「八つ橋」を、「そんなの有るのか、知らなかった」そうだ。

 柔らかくて餡入りの「おたべ」がもっぱら今は人気らしく、しかし、あの歯ごたえのする堅い「八つ橋」も、噛むにつれて佳い味わいなのだ、が。堅い「八つ橋」がだんだん柔らかい「生八つ橋」に移行し、今では餡の「おたべ」に。飯よりお粥という好みに似ている。

 妻は息子に、業平東下りの「八橋」あの板橋、を、持ち出して銘菓の由来を教えたという。この頃は、たしかに包み紙などに杜若と八橋の繪が色刷りしてある。しかしもともとの、あのまるく背を盛り上げて焼いた、堅い「八つ橋」の形は、箏曲八橋検校に由来の「琴」の形を模したと、わたしは子供の頃から覚えてきた。

 ひょっとして今では「板橋」形の平たいのと、「琴」の形に盛り上げたのと、さらに「生」のがあり、「餡」のもある、ということか。時・世を経てモノは、質も形も移り変わるということか。

 2003 3・31 18

 

 

* 夜前、梅原猛氏に贈られた「京都発見」を読み始めた。豪奢の感にたえない前書きでのプランで、その一つ一つの目論見にわたしはわたしなりのイメージが有る。梅原さんもすばらしいが、それほどの探索心を惹き起こしてなお余りある「京都」の底知れぬ文化的埋蔵量に、いまさらに感嘆する。

 法然の「一枚起請文」にかかわる問題点を、「謎」として整理した一文を真っ先に読んだ。へんな過信から離れてその成り立った日付などを読み取れば、当然の疑点が当然取り上げられている。もう朦朧としていた遷化直前の法然により書かれたか、もっともっと早い時期に書かれたか、問題にされ始めた時期から推して後生の偽作か。

 そういう事も事として、しかし「一枚起請文」は法然の念仏の精髄を絞った金無垢の一滴であることは間違いないと、わたしは信じている。それを法然が書いたり言ったりしていなくても構わない、まぎれもない法然の到達であり、日本の浄土教の簡潔な頂点である。わたしはこれ在るが故に法然を慕い感謝する。これ在れば長大な「選択念仏集」の難解をも要しない、いやそれが更に宜敷要約されてあると信じている。この「一枚起請文」の前には、知恩院をはじめとする大法城はなにやら空しくも思われる。お寺さんのしきりに薦めてくれる旧態依然の宗団的儀式や事業には少しも心動かない。ほとんどムダごとのように思うこともある。

 2003 4・1 19

 

 

* 前の土曜からもう連休が、飛び石連休が始まっていたのだ、てんと、そんな思いが落ちている。人様のお休みには、わりと家で大人しくしてきた。雑踏のお手伝いもイキじゃないと。こんなとき、京都だと、ゴールデンウィークであれ盆や正月であれ、人っ子ひとりいない佳いところが必ず見つけられた。一人で突っ立って、また座りこんで眼をとじていると何ともいえぬモノの声が聞こえた。ぱーっと行ってぱーっと日帰りしてでもそういう京都に帰りたいが、これまた連休は乗り物も騒がしい。

 東京ではだれも増上寺へ行こう寛永寺へ行こうなどと言わない。何の風情もない。明治神宮、乃木神社、湯島天神、仕方がない。正法寺で冬子法子の母娘と水入らず話してこようか、来迎院でいとおしい慈子と向き合ってこようか、高台寺の裏山で幻の雪子をさがそうかなどという真似が、東京ではできない。比較的、東京で静かになれるのは、本郷東大赤門のなか、三四郎の池のあたりかな。宵闇の底へ底へと手を取って慈子を誘った昔を思い出す。あるいは、いっそ何の思い出もない浅草の雑踏。せいぜいが六義園。東京のどこに美しい静かな闇が漂っているだろう、教えて欲しいものだ。

 2003 4・28 19

 

 

* バルセロナの小闇が、こんな書き出しで。

 

* あれは塩野七生さんの本だったか、面白い話が載っていた。イタリアの小学校の社会の教科書には、日本についての記述が二つだけある。そのたった二つのうちの一つが、「日本の通りには、名前も番号もない。」だとか。

 言われるまで気づきもしなかったが、極く限られた地域を除けば、確かにその通り。ただ、そう言われたところで、なぜそれがイタリアの教科書に取り上げられる程のことなのか、よく分からなかった。

 「日本では住所を教えてもらっても、目的地に辿り着けない。」日本に住む(あるいは住んだ)外国人の驚きは大きいと聞く。確かにその通りだと思う。彼らだけでなく、私たちでさえ辿り着けやしないのだから。「いったい郵便屋さんはどうしているの?」呆れた声に思い浮かぶのは、表札はあっても住所が出ていない家や、表札すらない家々。確かに不思議。

 

* 東京へ出てきた頃、同じことでわたしも「途」惑った。わたしの生まれ育った京都市では、「通り名」だけは克明なほど完備していた。住所としては、区名の次に先ず必ず「新門前通」とか「花見小路」とか「四条通」とか「松原通」とか、次いで町名番地がきた。あの街では住所さえ聞けば家の在る位置まで見当がついた。だから、いきなり「日本では」というように出されると誤解も起きる。東京が「日本」ではないとぐらいに伝えて欲しいものだ、海外にいて日本紹介の筆を用いる著述家たちには、特に。

 厳島や、その他各地の「神祭」「奇祭」を興味深く伝えた番組があった。そこまで不思議をいわないまでも、まこと「東京が日本では、ない」という根幹を忘れないでいたい。「白装束」のキャラバンが延々と行列して山から山へ移動している。ああいうことをして、ほぼ列島をどこへでも、どこまでも行ける、その事実を見せつけられていると、日本は山国なのであるとつくづく思い知らされる。東京が「日本」と思いこむ危険は深い。新聞小説だった『冬祭り』でわたしの言いたかった大きな一つはそれであった。

 2003 5・12 20

 

 

* 六月初めに神戸へゆく用があります。その前か後に京都へ寄って、崇徳院のあとをたずねたいとおもっています。白峰宮にはずっと前に行ったことがありますけれど、はや茫々でございます。

 おっしゃっていた崇徳院廟を訪うてみたく。

 おっとりした大君風のうた、みづみづしいうたを詠んでいたひとが、明治政府をすらおそれさせるほどのふかい恨みをもちつづけるに至ったことわりをかんがえてみたく。

 

* 偶然にも、こんな原稿を書いていたのが、この人のメールと響きあう。

 

* 風の奏で    秦 恒平

  祇園石段下の弥栄中学は、明治二年三月十日、旧町会所を改めて学校とし、初代校長が杉浦治郎右衛門為充氏(祇園一力の当主)であった。その七月二十二日には下京第三十三組小学校として落成、開業式を挙行している。明治五年、八坂校と改称、同十年に弥栄校とさらに改称した。昭和十六四月、京都市弥栄国民学校となり、敗戦後の昭和二十三年三月末で弥栄小学校は廃校、校舎は中学校に転用、翌四月一日より京都市立弥栄中学校として発足したのである。いわゆる六・三・三制の新制中学で、わたしは此の年、一年生として他の小学区域から弥栄校に進んだ。青春の門であった。美しい校舎だった。

 弥栄校は初代校長からもわかるように、祇園町の子女の小学校として出発したといってよい。女の子に運動なんてと、運動場不用の声すらあったとか。祇園町へ、四条表通りからお尻をめりこませるように、奥行きの浅い運動場が、校舎にそい東西に細長い。なにかというと、球技の球やボールは塀をとびこえて、ご近所によく迷惑をかけていた。校庭の西の端には大きな柳が青い。わたしは二年生では二階に、三年生では三階に、ともにその柳の翠に手のふれそうな教室にいた。

 二階ことに三階の教室からは、もう飛び込めそうに祇園町の瓦屋根が美しく波打ち見えて、ながく、やがて古稀の今でも、京の町の美的原体験の一点になっている。東山の山なみとともに、八坂の塔も清水音羽山も、歌舞練場も建仁寺も、窓によればいつも視野にあった。なつかしいおさない恋もうまれて自然であった。

 そんな窓辺から、それとは家蔭になり見えはしないが、運動場の裏門を出てまっすぐ安井よりに、ものの二三分も行くと、保元の乱にやぶれ実弟後白河天皇により讃岐へ流された崇徳天皇廟が、ひそと家並みに隠れて在る。よほど祇園に通じた人でも、それは知りませんでしたと言われる。

 なぜに、此処に。

 そんな思いから、あの「平家物語の最初本」は、どのようにして時代の海へ漕ぎだしたのであろうと、祇園の茶屋や、高台寺や、清水坂や、果ては日野の一言寺にも大原寂光院にまでもおよびつつ、日本の「藝能」が九百年吹き通わせた『風の奏で』を、弥栄校でのおさな恋ともろとも、長編の歴史・現代小説にし、文藝春秋から出したことがある。まちがいなく、みな弥栄中学の教室からの、うっとりとした眺望・遠望に深い根は生まれていた。

 祇園というとお茶屋遊びを勲章のように謂う人が多いが、祇園の置かれて在る歴史的風景の、底知れない久しい不思議や妖しさや優しさにはぐくまれたわたしは、「ぎをん」と聞くと、忽ちにあの母校の窓辺へ帰りたくなる。

 2003 5・20 20

 

 

* この数日甲斐扶佐義氏の写真集を何冊も見ては、クスンクスンと笑いつつ共感している。この人のカメラワークは他の追随をゆるさない、前後左右に人なき独歩の道であると感心する。さて、どうそれを京都ないし京都人を対象とした美や美術の問題に絡めて話し合えるか、引き出し役のわたしの責任は重い。予行演習に、昼飯のあと、写真集に惚れ込んだ妻と、しばらくこの件で意見交換した。だだだと話題が双方から重なり合い出てくる。ウン、これで用意はよしと安心した。

 2003 5・21 20

 

 

* 劇団昴、舞踊の西川瑞扇さん、上野の日本新工芸展、筑摩と三鷹市の太宰治賞パーティ、講談社の吉川英治賞パーティーなど次々と招待が来ていて、うかとすると失念し不義理してしまう。昨日も雨のせいもあったが文藝家協会総会を失念した。しかし明日の京都行きは忘れたら大変。

 昼は甲斐さんに逢い、晩は梅原さんや石本正さん、清水九兵衛さん、橋田二朗先生らに逢えるだろう。西石垣の「ちもと」で。翌日にゆっくり出来ないのは、残念。

 2003 5・21 20

 

 

* あす、三時前後にはもう家に帰っている。天気であるらしい京都の空気をすこし吸ってくる。

 2003 5・22 20

 

 

* のぞみ車中で、繰り返し写真をみておいたのが、話を具体的にしてよかったものの、甲斐扶佐義との対談は、なかなか甲斐さん口が重く、テキパキとは話してもらいにくくて、往生した。速記録の手入れでカバーできるであろうところまで、話題のカードは、だが、撒けていたと思う。

 

* 一度ホテルにもどり、小一時間休息してから西石垣(さいせき)の老舗「ちもと」へ。珍しく美術賞選者の石本さん清水さん三浦さんともお休みで、梅原さん小倉さんと私とだけ。評議員会と理事会との同時開催で、在洛の作家や美術館長たちの顔はたくさん揃った。橋田先生もみえていて、役員会では隣に、宴会では、梅原さんのすぐ脇にわたしの席が作られてあり、話もはずんだ。ペンの理事会でとは全然ちがう、心から高笑いするようなリラックスした梅原さんがいて、心嬉しいことであった。健康を維持され、もっともっと長命されてよい仕事を見せて欲しい。

 ちもとの今夜の料理は、気が入っていてうまかった。祇園から舞子の美しいのが二人、芸妓が三人来ていて、舞を二つみせてくれた。舞子にも芸妓にも知り合いがいて、祇園のちかく、鴨川の真東に南座の見える「ちもと」三階座敷での宴会は、いちばんくつろぐ。

 北野武(ビートタケシ)が描いておかみに贈ってきたという、パステルのすてきに面白い繪をみせてくれた。ちもとの三階の建物をたくさんな窓に仕切って、窓一つごとに戯画が描き込まれている。中には露骨なセックス中の繪があつたりしても、猥雑感なく、すっきりとした色彩と線との戯画が、一枚のパネルにきっちり作りつけられていて、みなで感心した。

 

* 橋田さんに誘われ、二人で祇園の「貝田孝江の店」へ。橋田先生とゆっくりするのも、貝田の店も、ちょっと暫くぶり。さっきまでの「ちもと」に、此処の舞子孝蝶が来ていた。孝江は、弥栄中学でわたしの一つ下の生徒であった。今は祇園でだけでなく、市内に名の通った名妓で、名物女史である。

 

* 甲斐さんとの対談からひきついでものを言うと、甲斐さんの写真世界には撮られない人や場所で、用事をしたり宴会したり酒を飲んできたと思う。甲斐さんが写真に撮りたくはなくて、また甲斐さんに写真など撮ってほしくない人達と、甲斐さんが写真に撮りたく、甲斐さんにこそ写真に撮って欲しい人達とが、同じ京都に、いる。混在していて、比率はどうだろう、五分五分としておこうか。

 甲斐さんは観光京都は撮らない。神社仏閣も、中高年の紳士も撮らない。大きな建物をとっても、塀や隅や物陰や、地べたしか撮らない。都の都たる御所を写しても、その塀の外の地べたに店をあけた骨董の茣蓙店だの、得体しれないゴミ屑の上へハシャイデ寝っころがっている少女だの、仲間同士でまるっこいお尻を見せ合い笑いこけている少年などの光景にしてしまう。山は撮らない、風景自然は撮らない、いくら美しくても、美人は撮るが、花だけでは撮らない。川をとっても河原や橋の下や土手にたむろするただの人や群像を、見事なカメラワークで泰西名画かのように撮る。

 彼の写真に、事件は全然写らない。つねなりをさらけだした町なかの、存在感豊かな老人たち、こどもたち、お商売の人たち、そしてまあいるわいるわ無数の「猫」写真が、批評的にじつにおもしろい。甲斐さんは意識していなかったが、猫を通して京都の「ありのまま人間」をみている。飾った人間に彼はレンズを向けないのである。

 事件を撮らぬことで、歴史というモノを、シンラツに逆に批評している。事件の連続が歴史として記述されるのが普通だが、ほんとはそんなものごとが人間の世間の普通でなんかあるわけのないことを、甲斐写真は告げて押し出してくる。わたしが、彼との対談を熱心に望んだのはそのためだ。

 彼の根城は出町であり、古門前のロージの奥であり、錦ではなく古川町であり、祇園でいえば貝田の店型の祇園甲部でなく、ハチャメチャの乙部の方にシンパシイを感じている。彼が最も尊敬してきた人は哲学者鶴見俊輔氏と、わたしの兄の死んでしまった北澤恒彦だ。彼が経営している喫茶店「ほんやら堂」や居酒屋の「八文字屋」へは自称文化人も寄って行くようだが、いくらか気取りのためにしている人もいるのではないかと、名前を聞くとそう感じる。わたしなどは、わたしが入って行くことでお店にかたくるしい違和感を醸し出しかねないと、遠慮してしまう。そこは恒彦のかつて生きていた世界であり、わたしは物珍しげに覗き込むマネは避けている。だが、しかも甲斐写真の示している批評と同質のものをわたしも身には抱いていて、理解し、共感している。

 似た共感は、絵本の田島征彦にもつよくもっている。甲斐にも話したが、わたしには、甲斐と田島がほとんど身内のように似ていると思い、わたし自身は似ていないと分かっているが、この人たちを通俗な紳士たちや文化人たちよりも遙かに敬愛している。

 

* 貝田の店で十一時近くまでおり、橋田先生の車でホテルまで送ってもらった。すぐ寝た。気が付いたら四時半、次が五時半。六時には床を離れて、七時の朝食まで「日本の歴史」の鎌倉幕府を読んでいた。石井進氏の記述がこれまたとっても面白く興味を惹きつけ、関東武士団のまるで日常生活へタイムスリップしてゆくようなのだ、ほかには読み物をもってなど来なかった。歴史がおもしろい。 2003 5・22 20

 

 

* 朝飯をしっかり食い、一思案の末、京都駅へ。持っていたキップを一時間早めて九時六分ののぞみに乗った。三十分の余裕で、巨大な時空間である「京都駅」の中を散策。

 三人席の通路側で真ん中に客のない絶好位置を利して、湖の本の再校。明日の心用意。あれこれしているうちに東京に着いた。

 2003 5・23 20

 

 

* 池袋駅で、ぶつつけでキップを買い、昼前に東京駅発。いつからか東海道は「のぞみ」にしか乗らなくなっているが、速い。妻といっしょで退屈しないと、いっそう速い。からだも、うんとラク。

 おのぼりさんよろしく、京都駅をゆっくり見物し、いちばん高いところのレストラン街「田ごと」の蕎麦で軽く、おそめの昼飯にした。高い高いところからエスカレーターで一階におりた。

 ホテルで、すこし休息してから、妻の希望で、行ったことのないという稲荷大社へ。

 好天というもおろかな日盛りの参道であったけれど、人影まばらに、輪奐は神さびあきらかに美しく、静か。ことに社の背後の御山はむくむくと湧くように翠濃まやかで、いちばん佳い季節のようにすら思われた。妻の体力からして、いずれ奥山たかくまで鳥居を潜ってゆけるわけもなく、奥の院までのそれでも無数の朱の鳥居を潜って、おもかる石の前では持ち上げるのは、遠慮。そのまままた本殿まで戻った。

 わたしは、どうもあの鳥居潜りは苦手で、以前に一人来たときも、同じ辺りから引き返した。なんだかゾクゾクした。今日も鳥居潜りのトバ口で、わかい二人連れの女性の方が「こわいい」と悲鳴をあげて地べたに座り込み、結局男女二人とも、あとしさりに引き帰していったのが印象にのこる。お稲荷さん、は、奥深い。

 参道茶屋に涼んですこし息をいれ、冷たい甘酒で、わらび餅をおいしく食べた。

 先日の「ちもと」の帰りに、スポンサーがタクシー券を呉れていた。「遠く遠くまで乗れまっせ」と云われて渡されたが、あの晩は橋田先生と同車で、途中で下ろして貰ったから、そのタクシー券が手元に残っていた。せっかくの好意である、使わせて貰おうかと、稲荷大社で乗り、では何を観に走ったか。

 鴨川と桂川の合流点を観に走らせた。かなりの南にはなるが、乗せた初老の運転手の走らせ方に腑に落ちないものがあり、ずいぶん右往左往しムダをした。鴨川の東岸に単純に沿ってしまえばいいのに、竹田街道を相当南下してから戻って行き、昔に、わたし一人で「冬祭り」の取材のために走ったときは簡単に観られた合流点へなかなか近づけず、結局、両河の三角州にタクシーごと深く入り込んで、州の突端まで行った。これはこれで、天空あくまで広く、運動場や畑地が続いて、しかも桂の流れは滔々と美しく、大きくて、私も妻も珍しい風光を、空を仰ぎ、草間に目を遊ばせて、ひとしきり楽しんだ。近くには羽束仕神社があるのだが、この運転手では堪らないとそちらは諦め、大橋を西へ渡って、桂川西岸をゆったり溯り、しみじみと美しい桂の大河の認識を新たにした。鴨川の上流が美しいように、桂の下流は水勢豊かに碧濃く、樹木も岸辺も自然で魅力満点であった。さもあろう桂離宮があった。

 桂駅で、既定の金額をやや超えたのでタクシーを離れ、阪急で烏丸まで戻った。昔は四条大宮に特急が止まったのに、今は桂駅でとまる。嵐山への足の便が出来て乗降客が多いのだと聞いた。

 結局は、ありがたいドライブを十分に楽しませて貰った。

 

* 比較的に元気な妻を誘って宵の四条へ出、今度は京料理の、午と同じ「田ごと」に入った。四条の表通りからひそと内露地を入ると、風情の佳い店がある。日本酒で懐石を楽しんだ。煮物に鯛の大きなあら炊きが出て、これはわれわれの好物、もくもくと旨い味付けの魚肉を貪った。しんじょうの吸い物も思ったよりずっと旨かった。店の女の子に妻は着たものを褒めてもらい、照れていた。

 あれで、もう少し店を飾った日本画が佳いといいのだが。

 宵の街歩きで、甲斐扶佐義がやっている八文字屋という飲み屋をかなり熱心に探したけれど見つからず、疲れた妻をつれてホテルに帰ると、そのまま二人でバー「アンカー」に入って、女性スタッフばかり三人のカウンターで、妻はカクテルをつくってもらい、私は57.4度というスコッチの珍しい銘柄のを、ダブルで。むろん、ストレート。これが、じつにケッコウで、もうそれだけで満足した。わたしは酒の名前など覚え込む趣味は少しもなく、みな任せてしまう。だから、何を飲まされたのかは知らないが、お値段はたいしたものであった。妻のカクテルは趣向の美味であったが、千円。わたしは贅沢をした。

 

* 源氏もバグワンも朝の出掛けに読んできた。酒の勢いで、わたしはくうっと寝てしまい、すっきり目が覚めると、まだ十二時に数分前だった。妻は寝ていた。わたしはテレビで一つ洋画を観て、それから、おそくまで持参の「日本の歴史」を読み、また佐高信氏にもらった新刊「面面授受」を、二三章も読んでから、寝に就いた。

 2003 5・28 20

 

 

* 八時、妻に起こされ、朝食。九時半には宿を出て、加茂大橋東の菩提寺へ。

 叔母の十三回忌に、晋山式を済ませて間もない新住職と前住職とわれわれ夫婦とで、一時間ほどお経を誦し、父や母の分もいっしょに卒塔婆を立ててお墓参りした。親類もない。叔母は九十二でなくなり、父も母も九十余歳で、三人とも妻の世話を受けて東京でなくなった。大した何もして上げられなかったのは恥じ入るばかり申し訳ないが、百日、一年、三年、七年、十三年と、欠かさずにお参りした。もう、母の十三回忌をのこすだけになった。

 奥の庭も前庭も草木美しく緑に映え、もう夏萩のしろいのが咲いていた。墓地では、風に卒塔婆の鳴るのを聴いた。上乗の好天であった。鴨川も比叡や東山も、申し分のない京都五月の華やぎであった。

 

* 木屋町三条下ルの画廊で、鞍馬画会。妻の同期、わたしには一つ下の安川(松村)美沙さんがひとりで当番に来ていた。昨日のうちにそうと画廊で確かめておいた。

 懐かしい久しぶりのお互い様であった。安川さんの油繪はわるくなかった。戯れにあれやこれや注文を付けたりして、話し合った。

 お互いに年齢はしっかり加えているのだから、大学のころの記憶通りではないにしても、そうそう人は変わるわけで無い。

 ゆっくりしていられないのがお互いに惜しかったが、妻と三条大橋を東へ渡り、川端のまだ私たちは馴染みの薄い新道を行って、「今昔」裏口から闖入し、店主の凱チャンとやあやあやあ、それだけで縄手へ通り抜け、鮨の重兵衛で昼飯にした。久しぶりにビールを飲んだ。

 タクシーで古門前通りから白川に沿い、蹴上の旧「都ホテル」へつけた。今はなんだか覚えられない名前に変わっているが、わたしには、おそらく何時までも「都ホテル」のままであろう。

 

* 第十六回京都美術文化賞の授賞式が二時から。初めて妻を連れて行った。梅原猛さんをはじめ選者の皆さんや、受賞された三人の、洋画、彫刻、染織作家にも挨拶した。授賞式場の、東山や黒谷や北山西山を見入れた眺望は絶佳、これを妻にお相伴させてやりたかったのだ。しんから歎声をあげていた。驚いていた、驚いて不思議のない佳い眺めでありお天気も絶好であった。妻は梅原さんとも清水九兵衛さんとも楽しそうに話していた。

 

* 受賞者を囲んだ選者や過去の受賞者たちとの記念撮影が済むと、クルマは辞退して、二人で神宮道の星野画廊に立ち寄り、星野夫妻の歓迎で珍しい繪をたくさんたくさん見せて貰った。明治初年頃、鴨川西岸の伏見宮さんあたりから遠望したとみえる横長な額繪があつた。わが家の菩提寺も対岸にはっきりそれと描き込まれてある。河東のひろびろとした河原遊びの光景や、比叡鞍馬や東山の山なみみごとな横長の風景画は、それは珍かによく描けていた。たいへんな掘り出し物で、ちょっと言葉もうしなうほど感銘をうけた。

 あれもこれも、次々に繰り返し繰り返し観ていて、はっと気が付くと新幹線の時間が迫っていた。急いで、平安神宮の朱の大鳥居を背の方に眺めながら、広い道で、タクシーを拾った。青蓮院、知恩院三門、そして新橋から東山通りを走って、難なく京都駅へ。

 乗ってしまえば、なにごともなく、揖斐、長良、木曽の大河を超えて名古屋からは寝るよと妻に告げ寝てしまった。ふと目覚めると、夕ぐれの空にくっきりと影富士が見えた。妻が急いでデジカメに収めていた。

 何処へも寄らず、家に帰った。なかなの二日間であった。

 

* そんな中で痛切な印象を刻んだのは、実は、昨日の夜中にひとり起きてみていた、テレビ「京都チャンネル」での「修学院離宮」の克明な案内であった。

 その美しさ、こまやかな趣向、おおらかな趣向、それらの自然さの抱き込んでいる底知れない力強さと、寛永の都人の自負の大いさ。ささやかに澄んだだせせらぎの音や色にも、目に見えるか見えぬかの細かな木の葉、小枝ののそよぎにも、それは、したたかに感じ取れて、それそのもののじつに「文化」である真の意味が、うめくほどの感動と共感とで伝えられたこと、それにわたしは打たれていた。

 ああ、この映像をしみじみひとり観るために京都へ来たようなものだと思った。しばらくぶりに「京都」の魅力・迫力にしんからまた打たれた。

 2003 5・29 20

 

 

* 『みごもりの湖』で作中の女子大生の二人が、祇園会さなかの祇園縄手「蛇の目」寿司に入り、涼しい庭の見える小座敷で真っ白な鱧を食べる、あの活気を書いたときの作者は、幸せだった。若い女性がそんな店で贅沢なといわれたときも、わたしはぐっと胸を高くはる気持だった。たかが食べ物ではないか、位負けして食べるのは滑稽だが、わたしのヒロインたちに何のそんな臆病があるものか、と。

 祇園会の頃は、気持も凛々とした。此処は都だ、京都だと思っていた。

 少し嫌われても、わたしは、そういう京都をどんなに貧しく育とうとも子供の頃から持っていた。それがないと頽れてしまってしかたないほど、現実は厳しくも侘びしくもなりがちであった。いつでも、だれにでも、おまえ元気やなあと思われるようにしていた、疎開先の丹波から京都へ帰ってきてからは。今でも、だ。

 つらくなると、どうしても京都を想うが、元気なときも京都の方へおもわず視線を送る。京生まれ、あの烈々の湘烟女史が臨終にほどないころ、日記に、珍しい食べ物の土産などいらない、鴨川の瀬に洗われた石ころを掌に握っていたいと床の中から書いている。あれを読んだとき、胸が苦しいほど熱くなった。

 2003 7・19 22

 

 

*  庭

 細見の展覧会を見て、美術館の茶室で一服したのが一時近く。いつもなら東へ向かうところですが、連休で混んでいると聞いて、近くの蕎麦店で昼食を摂りながら、地図を広げました。

 「そうだ、妙心寺へ行こう」。

 着いたら、ちょうど法堂の見学時刻で、あれあれと、流れるままに。そのあと、退蔵院の庭を歩き、腰かけて水音を聞きながらしばらく過ごしました。半夏生 (はんげしょう)の白が眩しい等持院で、また、同様に。

 蓮が見頃と教えられた法金剛院へ着いたときは、とうに拝観時刻を過ぎていました。

 先月の「日曜美術館」で、細見美術館を紹介していたのを、じつは、見ていませんでした。でも予備知識なしでも、選ばれたひとつひとつは、強い力で訴えてきます。さらに、年表や解説を読みながら、最初からもう一度見ていくうちに、コレクターの人となりや心の動きが感じられ、対話しているような、悦びと愉しさが加わりました。

 地図を持っていても迷い、辞書で単語の読みも意味も分かったのに、わからなくて、何度もご本を読む私ですが、知識は「体験に付き添うようにして、ややうしろから、深切に伴走して来」てくれる実感でした。 

 

* 羅列された固有名詞は、おおかたの人には印象や記憶を喚起されるモノではないが、ありがたいことに、この親切な読者があたかも私に代わって尋ねまわり巡り歩いてくれる先々が、わたしには目に見えてくる、ありありと。美しく。「そうだ、妙心寺へ行こう」と書いてあると、瞬発、わたしの深い望みが実現したような気がする。

   落葉はく音ききてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり

   繪筆とる児らにもの問へば甃のうへに松の葉落つる妙心寺みち

   下しめり落葉のみちを仁和寺へ踏めばほろほろ山どりの鳴く

 こんな歌をつくりながら西山をあるいていたわたしは、十七歳であった。まさに半世紀が流れ去っていて、しかも眼前にある。「うちのお寺やし、いきましょ」と、退蔵院にもちかい或る塔頭のひとつへ誘われたことも、はるかな昔に、あった。禅寺の庭のあの命の溶けてゆくような深い清寂といったら。

 京のかけねなく誇っていい時空は、「自然な趣向」「趣向の自然」を完成した多くの庭、庭園。そして老舗の和菓子。

 

* 日々アクセク働いている、ボランティアしているわたしにとって、さながらわたしに代わって、行くに行けない京や近江や大和をこう歩いてくれる人は、申し訳ないが、真実有り難い。魔法にかけられたようにわたしは甦る。

 2003 7・22 22

 

 

* 盛りの暑さの京都、ふと、懐かしく。何処へ。

 平凡には貴船などと人はいうところだが、たとえば暑い真夏の東寺など、佳い。涼しいとは謂わないが、あの密教仏の森林の気に浴していると、我をうしない心涼しいだろう。三十三間堂より孤独になれるだろう。

 もし可能なら、泉涌寺内の戒光寺のお堂にあがりこみ、稀有の丈六仏のまえの畳に、ごろりと仏様には失礼して昼寝がいい。わたしは男だから、平気でどこでも横になり寝てしまえた。天竜寺のような賑わいの中でも寝てきた。軒の深い大きな仏殿の階段は、どこも恰好の寝床になる、但し人の来ないお寺。真夏なら、真如堂、あるいは山科随心院の奥の庭。

 日野の法界寺で、あの優しい阿弥陀如来と堂守りの婆さんと二人いや三人っきりぼうっと黙っているのもいい。

 食べたければ、黄檗の門前の精進が、食べ物も庭も風情も涼しいが、俗人も多いかも。

 ひとりが恐くない人なら、御陵の気に満たされた清閑寺のちいさなお堂の縁にうたたねも静かで清らかであるが、あまりにも人けなく、女の人には勧めない。

 東寺へ戻って、大師堂にあがっていると、三時間いてもだれも咎めない。懐かしい、慈悲心の生きている心涼しいお堂である。

 嵯峨の常寂光寺にぽつんと坐っていてもいい。

 むろんわたしが「慈子」と出逢った泉涌寺来迎院の静寂と、泉山の御陵は、とびきり。御陵では北山の門徳池を抱いた文徳天皇陵は、心寂しい人にいやが上の寂しみを添える、風清い明浄処である。

 どこをどう歩いても、横には、妻がいるか、一人のときは「慈子」がいる。死んでしまった「冬子」も「雪子」もいる。死んだとも生きて居るとも、娘の「法子」もいる。

 

* 雨降り・・   東京も雨でしょうね。七月も下旬というのに、蒸し暑さは感じるものの、 カッとした夏の暑さが南で足踏み。

  戒光寺、真如堂,日野法界寺・・・みなあまりに懐かしい思い出につまって泣けてしまいます。学生の頃の真如堂、黒谷への道、そしてベビーバギーに子供を乗せて長い午後の時間を毎日「さまよった」日野や醍醐。

 京都に生まれ育った人の、土地への愛着や一歩引いた姿勢とは異なって、「よそ者」に徹して、でもとても強い、執着とさえいえる感情を京都にもちます。故郷以上に 強い牽引力を感じます。ああ、ここが「戻っていく処」だとも。そして日々の現実として、まだ京都は遠い。何故かじっと暮らしております。  兵庫県

 2003 7・23 22

 

 

* 日射しからりと夏本番。バテないうちに、「安倍晴明と陰陽道展」にいってきます。

 龍安寺の蓮が見頃とのこと。

 三宅八幡へも。以前いらしたとおっしゃったので、気になって。蓮華寺、崇導神社も参りました。よかったァ! 全くの独り占め。

 実相院、圓通寺、下鴨神社と考えていたのですが、この時間なら大原がすいてるというので、三千院へ。

 蝉時雨、青葉、夏の風。

 みほとけをあれほど間近にして、動けなくなりました。御陵にお参りして、もうもう、心一杯。北の奥の大原勝林院を横目に、ツウッとはるばる東山七条の博物館へ。

 村上豊さんと天野喜孝さんの絵を見て、あとは端折り、常設展に心入れたのですが、だめ。アタマにもココロにも入る余地がなかったわ。

 

* 怨霊としての菅原道真は、かなり忠平系の流したデマの臭いが濃いが、桓武天皇の皇太弟だった早良親王の怨霊は真実凄いモノだった。おそらくは、同じ父光仁天皇の皇太子が、母井上皇后と共に(桓武を担ぎ出そうとする)藤原氏によって大和五条に幽閉され殺されていた前例も、相乗的に懼れを深めたに違いないが、桓武天皇の後半生はまさにすさまじい怨霊時代であった。そのもつとも恐れられた早良皇太子の憤死後におくられたのが、「崇道天皇」の称であり、京都高野川上流三宅八幡のまだ奥に祭られたおそろしげな山陵が「崇導」神社である。それぁ「独り占め」だろうが、このはしゃぎっぷりではお婆さんではあるまい、物騒なことだ。きくだけで、すこし肌が泡立つ。昏い山気が津々として襲いかかってくる。

 三千院は、苔の内庭にしずまりいます阿弥陀三尊の美しさ、跪坐して本尊につかえる観音勢至の両脇侍が印象にのこる。そして外の石垣と大並木。梅雨の明けた京都の緑はもうむれるように色濃いことだろう。

 2003 8・1 23

 

 

* ところで「京をんな」のイメージはどうなのだろう、よその人目には。同年同年と書いていたが、わたしより一つ二つ若かった(失礼!)藤江もと子さんから、わたしを経由して佐和雪子さんにメールが来ている。「黒体放射」の全十章を一気に読んでしまったらしい。

 

* 再び黒体放射・小闇さんへの便り

 秦恒平様 こんな肌寒いお盆の記憶はありません。例年この時期蓼科で過ごすのですが、明17日に恩ある人の忍ぶ会をする事になっていて、発起人に加わったので、東京に足止めです。だから、暇だから、と言うわけではありませんが、『黒体放射』全10章を読み通すことが出来ました。

 ここから先は、小闇さんへのおたよりです。送り先がわからないから、秦様へのメールを拝借します。

 

* 小闇(佐和さんというより馴染みがある)さんへ

 まじめに読みました。

 でも「あっ、これ私と同じ」と幾度も笑ってしまいました。

 例えば、私も、幼児の時も小学生の時にも、「こわい、にらむ」と、不評でした。最近小学校のクラス会に顔を出すようになって、みんな(特に男子)は、私がマイルドなおばさんに豹変しているので意外なようです。

 中高は女子校だったので女同士では睨み甲斐がなく、専ら相手は先生。でも当時の先生は、「授業中”熱心に”じっとみつめられた」とおっしゃいます。

 大学時代は女はみんなこわい目つきだったので、「女はこわい」で括られていた。

 今も私は相手の顔をじっと見つめてしゃべります。特に男性相手に、真面目な話をするときはそうです。絶対、はずかしそうに目をはずしたり、うつむいてしゃべったり、そんなことするものですか!(年下の男性をぐっと見つめる変なおばさん)

 娘が私に似て”にらむ”子だったのは遺伝かも知れないが、息子の連れ合いも、”こわい女”と言われ続けた人。息子がこわい系に惹かれたのはマザコンだと言う説もあります。会社で、こわいとセクハラまがいに言われていた娘も

やっと結婚して、こわい女とやさしい(ホントかな?)男の三組のカップルが出来ました。正月などは嫁・姑・小姑入り乱れて、意見を述べ合い、怒りまくったりして、男達は口がはさめない。

 男にカウントされたこともありました。

 修士一年目、研究室のみんなと秋の志賀高原に行きました。宿泊した薬師の湯から大沼池へと散策途中、姥捨て向きの河原で、対向グループとすれちがう際に、先輩が、「大沼池まであとどのくらいありますか」と聞きました。相手のパーティの人が「**分くらい」と言ってから私に気付いて、「あっ、女の人居るんですね」

 すかさず先輩は平然と、「ああこの人は”男並み”です」と答えました。それってどういう意味?

 でも、私はそれがなんとなくその時には”褒め言葉”に思えたのです。

 それ以来私はますます男並み化して、猥談も素知らぬ風に聞き流し。だから今でも何故に当時のストリップ事情に詳しいのか、と驚かれる。

 小闇さんを男だと早合点したことは、私からの”褒め言葉”だと許して下さい。

 私が中学生くらいかな、先生が「らしくあれ」というお言葉を下さいました。かちん! ときました。なんで??

 子供らしく、女らしく、受験生らしく、国立大学生らしく、妻らしく、母らしく、極めつけは障害児の親らしく—-らしく、なんてしたくない。

 らしくって、周囲の期待にそうようにしろってことじゃないのかなあ。

 私はいつも「らしくなく」をモットーに生きてきました。私は私。佐和さんの「黒体放射」に惹かれる所以です。

 これから、もう少しふんわりと生きて、良い年をとって下さいね。 2003/8/16  藤江もと子

 

* なにしろ倍以上も年齢がちがうから、お互いの受け方も適当に逸れてくるだろう、が、宜しき出逢いではなかろうか。「小闇さん」への分は、転送。

 わたしは、めったやたらに、「京をんな」たちを、大勢記憶している。ものごころ附いたときは、もう叔母の稽古場に「きれいなおねえちゃん」たちが、稽古日ごとにきれいな花緒の下駄をぬいでいた。人数は増えに増えつつ、わたしが東京へ出て結婚するまでそれが続いた。わが提唱になる「女文化」という質を、肌身に感じて多彩に見聞していたのである、日常的に。国民学校では、一年生ですでに男の子も女の子でも「すきやん」の噂をするような環境であった。オマケにわが町内は、同学年に男はわたし一人で、女の子が八人た。、いつも「女の中に男が一人」と囃されながら整列して登校したのである、わたしの責任ではない。

 それからは、院を一年で遁走し、学部卒業の妻と東京へ出て来るまで、純真無垢の童貞ではあったけれど、「女」をみる深切においては、かなり京風の修行をつんでいた。むろん何度も女の子達に「にらまれ」たけれども、とても優しくも、され慣れていた。

 小闇は根から関東の育ちで、藤江さんとはちがっていて、この二人が出会う図というのは少し想像しにくい。藤江夫人をわたしは顔があうという仕方では知らないからでもあるが。

 2003 8・16 23

 

 

* 京(風)の食品等を宅配するカタログの九月号をパラパラめくっていると、昭和六年のインクラインの写真が目に止まりました。まだ三十石船が台車に乗って動いています。お弁当持ちで見物人が集まったとか。その横をパンタグラフの付いた京津電車が走っています。ここは電車が走ってたんやで、と父からしばしば聴いていたのを、確認出来たわけです。戦前までは、蹴上げからは三条通りを通らずにこのコースで、仁王門に出たとか。瓢亭の塀越しに鬱蒼とした樹木が見えるのは、今も変らない景色でしょう。

 秦さんの処からは少し遠方になりますが、このインクラインは少し足を延ばしたいい遊び場でした。

 ところで、疎水の何処で泳ぎましたか。私など河童連中は、その少し下流、渓流橋との間に架けられた人は通れない鉄橋のアーチのてっぺんから立ちとびをして、向こう岸まで流されながら泳いだり、底まで垂直に潜り琵琶湖から流れてきた蜆を取ったりしていました。大らかでしょう。中学二年頃まで泳いだのかしら。

 「かやくご飯」でしたか、「いろご飯」でしたか。今カタログで見ていて思い出しました、栄養のバランスが取れた「いろご飯」を何倍もお替りをして、生長した気がします。母は多忙だったのか、相当いい加減だったのか、いつも出し雑魚が入ったままでしたが。美味しかった。

 

* 我が家では「かやくご飯」と謂った。やっぱり味取りの出し雑魚がそのまま飯によく残っていた。出汁の出尽くしたような雑魚も、捨てては成らない貴重な栄養源であった時代だったろう。この中学のクラスメートは、女の子ながらあの深い疏水の急流に鉄橋の高いところから飛び込んでいたという。疏水ではときどき学童の水死もあった。

 わたしは、他校区をまだ通り抜けてもそこへ泳ぎに行きたいほど熱心ではなかったが、男友達と数人で、あの平安神宮の朱の大鳥居前の橋の上から飛び込んだりした記憶が二、三回は有る。田中勉君、西村明男君、團彦太郎君らと今も交際が続いている。

 2003 9・4 24

 

 

* 十月四日にはペンの京都大会がある。すこしラクな時であり、行ってみたいなあという気がある。南禅寺畔のあの辺は、わたしには地元といえる近さで、なにもかも眼に映じて思い出せる。「のぞみ」に飛び乗れば直ぐ行けるし、中信に頼めば宿はとれるだろう。久しぶりに奈良あやめ池の松伯美術館、中野美術館、また大和文華館などへ行ってみたいが。妻もいっしょなら躊躇しないのだが。ここのところ、すこし季節のかわりめに疲れぎみのようだ。

 2003 9・23 24

 

 

* 二時前に電気をけし、六時に床を離れた。すこし眠い。

 

* 学生時代に『慈子』を読んだという人と、夜中から今朝へメールが三往復した。泉涌寺や東福寺の秋が静かに胸に蘇る。ひとも、多く、慈子という。わたしも、やはり、そう思う。このヒロインを思うと、つぎからつぎへ他の人にそれが繋がれて行く。

 四日のペン京都大会へは結局行きはしないが、休息するが、いちばん心身をやすめに行きたいとすれば、やはり来迎院や通天橋。清閑寺や正法寺。白河筋であり知恩院、将軍塚、南禅寺であり、平安神宮の神苑であり、永観堂や黒谷や法然院だ。銀閣、曼殊院、そして円通寺。光悦寺、金閣、妙心寺、竜安寺、そして広沢の池の北嵯峨から嵐山。苔寺へも思いははしる。

 行かなくても、いい…。あそこには、過ぎて来たなにもかもが在る。

 東京にも沢山ないろんなものが在る、が、懐かしさはかなりちがっている。

 2003 10・1 25

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