ぜんぶ秦恒平文学の話

自作を云う 2016年

 

* 晩、もう一度、映画「沈黙」を丁寧に観た。

やはり最後の一シーンが理解できなかった。あれでは、ただの破戒に終わるのでは。わたしは、切支丹牢の岡本三右衛門(転んだとされる神父)と日本の武士 岡本三右衛門(転ばなかった武士)の妻との牢内での暮らしを、もっともっと叮嚀に描いた。信仰と人としての真実は、踏み絵を踏もうが、結果的に転んだとし ても、守られうる。神に愛や慈悲があるならそれを信じ抜くことはできるだろう、しかし映画「沈黙」のラストシーンはただの破戒ではないのだろうか。原作、 映画の「題」もよく掴みきれない。

わたしはシドッチとはると長助とを、岡本三右衛門の妻女と牢で結ばれていたパードレとの最期を「御大切」を体し得た人たちと信じて描いた。迷いなく書いた。

2016 1/2 170

 

 

* ――ユニオ・ミスティカ。いま、わたしがほぼ五百頁に及んで書いている、ほぼ書き終えている新作の長編は、「ある寓話」のメインタイトルは、そう成るかと予期している。

それを発表する前に、わたしは、この作に限って、何故書くかを、何故書いたかを、誰より私自身に向かい問いかつ答えて置かねばならない気がしている。も とより面白づくに「エロス」を書くのではない、「セクスアリス」を書くのではない。「猥褻という無意味」を背負うた「性愛」は、真実「人間愛」か「聖なる 愛」かと問うのである。「無」「空」を現じ得た愛かと問うのである。

――ユニオ・ミスティカ。

大きな誤解をただ待つまでの愚行としてその創作を提出するのでは意味がない。

とにもかくにも書き終えたい。瞬時にデジェクトしてしまうだけの徒労になるかもしれない、精衛が海を埋めようとした工合に。書き終えるまでは生きていたい。

2016 1/3 160

 

 

* わたしの選集刊行の仕事を「永久保存の熱意」とみて惹かれると告げてきた先輩作家があったが、わたし自身は「永久」という夢など見ていない。人類の到 らない愚かさが、四十五億年の地球の寿命をもう千年も守れるのか、地球は自身のちからで生き延びるだろうが、それすら永久にではない。まして人間の営み は、謙遜に学ぼうとしないかぎり、ほどなく業火に燃え尽きる。私の営為は、そこはかとない自負と自愛以外の何ごとでもない。そんなはかない覚悟にむけて、 「『湖の本』すばらしいお仕事です」と言って下さる方もあり、また「傘寿をお迎えになって、なお、青年のような勢いでお仕事をなさり、作品を通して、先生 が八十年間たくわえられたものを放出し、読者に与えてくださるのに、ただただ感動しております。」いつも、伴走なさる奥様にも、感謝いっぱいです。お二人 のご体調が良く、穏やかな日々が続きますように 元旦」と手書きして戴いた方、こういう方々と今しも、此処に足をおろして生きていることを、こよなく嬉し く有難く思う。「学び」つづけたい。願いや熱意は「永久」に向けて在るのではない。「いま・ここ」を謙遜に学びながら、かつ自信に満ちて生きたいのだ。

2016 1/4 170

 

 

☆ 明けの春

みづうみ、お元気ですか。

明けましておめでとうございます。

新しい年がみづうみにとりまして晴れやかにお幸せなものでありますようお祈り申し上げます。

元旦からの私語で、ご体調とても心配しております。我慢なさらずに、救急車のお世話になってもよろしいので、どうぞ早め早めに病院にいらしてくださいま すように。みづうみはいつも頑張りすぎますが、そろそろ頑張らないことも大切かと。八日まではおとなしくご自宅にてお過ごしくださいませ。誰でも手術処置 前には気分も滅入るものでございます。お済みになりましたら、またいつものみづうみにお戻りになりますでしょう。

 

みづうみが映画「沈黙」について何度か書かれていらしたので、先日書いたことの補足説明をさせてください。今年は遠藤周作が亡くなって二十年、『沈黙』が書かれてから五十年だそうです。

 

* 晩、もう一度、映画「沈黙」を丁寧に観た。

 

やはり最後の一シーンが理解できなかった。あれでは、ただの破戒に終わるのでは。わたしは、切支丹牢の岡本三右衛門(転んだとされる神父)と日本の武士 岡本三右衛門(転ばなかった武士)の妻との牢内での暮らしを、もっともっと叮嚀に描いた。信仰と人としての真実は、踏み絵を踏もうが、結果的に転んだとし ても、守られうる。神に愛や慈悲があるならそれを信じ抜くことはできるだろう、しかし映画「沈黙」のラストシーンはただの破戒ではないのだろうか。原作、 映画の「題」もよく掴みきれない。

わたしはシドッチとはると長助とを、岡本三右衛門の妻女と牢で結ばれていたパードレとの最期を「御大切」を体し得た人たちと信じて描いた。迷いなく書いた。

 

映画の最後のシーンは原作には一行もない篠田監督のまったくの創作です。推測ですが、篠田監督は信仰や宗教に懐疑的で否定したかったのかもしれません。こ の映画の評判が良くなかったのは、原作をとんでもなく破壊したからだと考えられます。原作をきちんと読んでいたらこのような解釈は絶対に出てこないでしょ うし、もし篠田監督が神父の棄教をこのように描くつもりならそれはそれでかまわなくても、オリジナルの脚本をつくるべきで、原作に『沈黙』を使うべきでは ありませんでした。解釈は自由ですが、作品の根幹を変更するのならそれは原作の悪用になってしまいます。何よりいけないのは、あの当時日本にきた宣教師た ちへの理解や敬愛に欠け、人間の誠を信じていない(と思われる)ところで、私はこの映画を観ようとは今のところ考えないのです。

あの時代に、ヨーロッパからは地の 果てであった日本に布教にきた宣教師たちはやはり見上げた人たちであったと思っています。殉教することを覚悟しての命がけの渡航でした。理解できない言語 や馴れない風土をものともせず福音を伝えにきてくれたのです。ですから棄教せざるを得なかった神父たちのその後の人生を想像するだけでいつも涙を禁じえま せん。

 

私 が『親指のマリア』を愛するのは、たとえ基督教に帰依しなくても、異国の神父たちの魂の気高さを理解し愛する新井白石、叡智も人間愛もある日本人の姿を描 いているところにあります。人種や文化や歴史や宗教や言語、あらゆる障壁を超越し得る「身内」の可能性を新井白石とシドッチ神父の関係に信じることができ るからです。日本は教会が基督教の布教に失敗した国ですが、だから宣教師たちの来日が何の意味もなかったかというと、絶対にそんなことはないでしょう。愛 に破れた人生が無意味でないことと同じです。

 

ヨワン……。

この国へ、よう来てくれた。後の人にもそう思わせる時が、さだめし、有ろうよ……。あのマリアの絵に慰められる者も有ろう……よ。

 

作中にこう描かれてている新井白石の痛哭を二十一世紀の日本人も共有していることは疑いようもないのです。

 

遠藤周作『沈黙』は、棄教せざるを得なかった人間の弱さや絶望と悲嘆の人生に、同じ重さの悲しみを抱いて同伴しているこれまで描かれたことのない新しいイ エス像を描いた記念碑的作品です。遠藤周作の最高傑作は『深い河』だと思いますが、『沈黙』を書かずにここに至ることはなかったと思います。

 

 

ヨブと神との神話は、むしろよほど特異なものであるらしい。わたしの内にも「神」と呼んでいい不思議が生きていないわけでないが、ヨブに対する神のよう な神とは一度も話したことがない。一編のお話しのようにしか迫ってこない。基督教にたいする理解の限界がはっきり感じられている。むしろブッダから会得で きそうな頼もしさをわたしは実感している。仏教と謂っても、大日の阿弥陀の観音のという神話化された教義よりも、端的に、禅という透徹の安心へむかいたい 願いが濃いし強い。

 

みづう みの「ヨブ記」の読書についての感想ですが、遠藤周作も日本人ですから、当然基督教理解の限界を感じ続けて、生涯基督教の受容に格闘し続けてきた作家で しょう。遠藤周作にとってカトリック信仰は母親に与えられたもので、信仰を棄てることは母を棄てることなので決して出来なかった。基督教を自分のものとす るために小説を書き続けたと言ってもよいかもしれません。さぞ苦しいことであったろうと思います。

 

基督教は日本人と人間の在り方がまったく違う異人さんの宗教です。一般的に日本人の家族は夫婦、親子、兄弟姉妹が互いに愛しているとわざわざ言葉にして誓 う必要もなく、静かに言葉少なに寄り添うだけでほのぼのと幸せを感じられるものですが、それは欧米人には想像を絶する人間関係でしょう。彼らはそれほど凄 絶に孤独で、誠心誠意愛を誓い合わないと生きていけないようなのです。日本人には理解し難い神との契約という考え方も、愛しているという誓いの有無が生死 を分けるほどのものだからではないかと、私は想像しているのです。殉教か棄教かを迫られるのは神との契約が存在する宗教にしかないことです。

 

私の甚だ偏向した意見ですが、カトリックは現世の幸福には徹底的に無縁でいてかまわないという宗教です。自分に座標軸を置いてはいけないのです。神に与えられた隣人を座標軸にしなければならない。だから離婚も中絶もいけないのです。

私の知る限りで最もカトリック的な 作品は映画でいえばフェリーニ監督の「道」、小説では島尾敏雄の『死の棘』がそうかもしれません。どちらもふつうの人間には到底愛し難い人間を、主人公は 決して棄てません。どこまで堕ちても同伴者でいつづける人間=キリストの愛を描いています。ロミオとジュリエットのように、愛する価値のある相手、愛され る魅力のある人間どうしが愛し合うのはたやすいことです。ジェルソミーナも「私」も逃げることは可能だったのに、生き地獄の生活のまま、最後は相手にうち 棄てられて野たれ死んだり、一切合切失って相手と共に精神病院に入るわけです。そこに立ち現れる愛の真実には深い感動をおぼえるものですが、その愛を理想 とする信仰は悲しい、悲しすぎるものに思えます。ジイドの『狭き門』はそんなカトリック教会への痛烈な批判でありましょう。しかし、カトリックは全人生を 賭けて批判する価値のある何かではあります。

 

「禅 という透徹の安心」に向かうほうが真実かと迷うことがあります。それでも、わたくしはみづうみのように禅という透徹の安心やバグワンに向かうこともできま せん。誤解かもしれませんが、透徹した安心とは自分のためだけの到達に感じられ、自分のあるべき姿なのかどうかわからないのです。

日本の仏教界は長い間らい病患者た ちを一部例外をのぞいて黙殺してきました。家族にさえ遺棄されていた患者たちに救いの手を差し伸べたのは異国の宣教師たちです。日本で初めてのらい病患者 のための病院を設立したのはフランス人神父です。彼の討ち死にのような死のあとにも次々と外国からの宣教師がきました。彼らは当然自分も感染して死ぬこと を覚悟していました。過労と心労で刀折れ矢尽きるように死んでいきます。らい病は今では完治する病気ですし、もともと感染力の弱いものですが、当時は不治 の伝染病であり、しかも顔はくずれ、気道ができものにふさがれて窒息して絶息という悲惨な死に方をする病気でした。同情や教義への服従だけであれほどの看 病はできません。彼らの崇高さは認めざるを得ません。

 

禅が、このような病人たちの「隣人」「身内」となる積極的な何かをしてきたのか、寄り添ってきたのか。透徹していく安心とは愛することとどう関わるのか、愛とは関係ない理想の世界のことなのか、稚拙な考えしかない私にはわからないのです。

 

遠藤周作があらゆる宗教は人間の言葉で伝えているために不完全であるという意味のことを書いていました。どの信仰でもある一面しか人間を導いてくれませ ん。しかし、その目指す理想はきっとどの宗教でも同じで、神とか無とかサムシンググレートとかいう「何か」であることは信じています。

 

その「何か」を知るために人間は生きていると思うときがあります。ですから言葉にはできない「何か」を大切にしない映画や小説や人間を、私は好きにはなれないでしょう。

 

作家には文藝の力で読ませる谷崎潤一郎や泉鏡花や秦恒平のようなタイプと、遠藤周作や小田実のような人間性で読ませるタイプがあります。後者は、みづうみ も時々指摘しているように文章の魅力という点では前者に及びませんが、人間の力でやはり読ませてしまいます。本日夕方ポストに「沈黙」のDVDを頂戴していました。映画を観ずに篠田監督を批判しておりますので、機会をみて鑑賞し自分の考えをまとめてみたいと思います。ありがとうございました。お心遣い大変嬉しく存じました。

 

 

 

暖かいお正月でしたが、また寒くなるようです。どうぞお大切にお大切にお過ごしくださいませ。  毬  手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子

 

* 感謝に堪えない。型通りのご挨拶でなく、この人は真っ向から全力で直球を投じてくれる。是非の問題はかりに別にしても、自身の言葉でまっすぐ投げ込まれる有り難さ、キャッチャーミットに、ずしっと響く。

 

 

*  『廬山』『華厳』『マウドガリヤーヤナの旅』三作でわたしは仏教に触れた小説を書いた。それから和尚バグワンに親しみ、聴きに聴き、聴きながらわたしの内 に溜まっていたブッダやイエスや老子や達磨や一休らの声や言葉も聴いた。これらの期間を通じて云えるのはわたしが宗門宗派へは、身をもがくほどに近付かな かったということ。法然への敬愛はいまも喪わないが、成ろう限り仏教的にはブッダの源泉を汲みたく、道教ではなく老子に聴きたく、禅は達磨に聴きたかっ た。ま、ピュアに一途な信仰を求めてきたとは云えない、とはいえ知識的に接近したかったのでもない。わたしがかかえた文字どおりの「迷惑」「煩悩」に目を 背けないまま何とか静かな安心が得たかったというに過ぎないし、得られてもいない。『デイアコノス 寒いテラス』という小説の題がはいごに負うている「奉 仕」という愛に関しても、わたしは何の確信を提示し表現することも出来なかった。「毬」さんに指摘されたように、わがことだけでアプアプしていて、他者へ の愛などまるで実現できなかった。指名され指定され求められればわたしは概して懸命に前向きに仕事したが、われから身を寄せて世間や他人社会へ「ボラン ティア」したことの無い、冷え冷えしたエゴ型の人間なのである。分かっているから、どうかしてエゴという我をはなれて空・無への透徹を願うのであるが、と ても叶いそうにない。静かな心になれない。愛を、わたしのいわゆる「世間」へ向けず、「身内」へ向けている限りダメですよと嗤われるのがオチだが、「毬」 さんが謂うようにわたしはそのテの「文藝」作者でありつづけ、いまもある。

漱石は、小説『三四郎』で無意識の偽善を指摘していたが、漱石らしい優しさや愛の、ないし弱さの表現であり、偽善は偽善で無意識(アンコンシアス)など 関わりない。漱石は流石に堅剛で懸命だけれど、誰もがそこを無責任に言い逃れたがるから、なべて世の中が「ウソクサイ」のである、わたしも例外でない。

「われはわが愆(とが)を知る、わが罪はつねにわが前にあり」などと我から言うてはおしまいなのである。

2016 1/5 170

 

 

* この二、三日、小説『墨牡丹』ではないが、村上華岳にふれて書いた自分の旧稿を、懐かしく繙いていた。華岳の生涯と画業を謂いながら、まさしく私自身の小説家としての理想と姿勢と方法を述懐しているようであった。大事に、これを書き留めておく。

2016 1/6 170

 

 

* 浴室で未発表の小説『チャイムが鳴って更級日記』を読んだ。快く最初の一節を読んだ。

2016 1/10 170

 

 

* 三種類の、まるで世界を異にした小説のゲラを持ち歩いて、今日も往き帰りに、また病院の外来でも、たくさん読んだ。

「マウドガリヤーヤナの旅」「チャイムが鳴って更級日記」「お父さん、繪を描いてください」

ま、およそ大違いな世界を小説として書いている、ひとりの私という作家が。それが、私。

2016 1/11 170

 

 

* 湖の本128送り出しの用意にかかっている。未発表小説を二作おさめ、今ひとつ、雑纂ながら楽しんで頂けるであろう一編を加えた。初校中の、つづく湖の本129には未発表小説三作が入ってシリーズの継続読者の皆さんに喜んで頂けるだろうと思う。

2016 1/12 170

 

 

* 奇想の推理編「チャイムが鳴って更級日記」、古典にも史実にも文献や口碑にも拠って、面白く、初校を終えた。今時の若い編集者では、これだけの背景を 把握しながら小説の成り行きに適切な助言をわたしに呉れられる人は、九割九分いないだろう。古典の読める若い人にめったに出会えない。史実や史料を批評的 によめるような編集者には、昔でもなかなか出会えなかった。それでは小説の面白さがはなから大幅に割り引かれてしまう。一流の文藝誌で半年一年時間を掛け ても理解して貰えなかった作が、敬愛する批評家や学者に私家版にして送れば、先方から文学賞候補作にしたいと言われて、結果、「清経入水」は選者満票で当 選受賞した。そういう体験を芥川賞候補になったときも鏡花賞候補にされたときも、わたしはしてきた。日常生活の報告書のような私小説ばかりを読んでいた編 集者の大方は古典や歴史や美術や芸能に取材の創作世界は、よほどみな苦手らしかった。

「チャイムが鳴って更級日記」でも「あやつり春風馬堤曲」でも「秋萩帖」でも「風の奏で」でも、いわゆる文藝誌にもちこんでも手に負えないのだと分かれ ば分かる程、わたしは自身を「湖の本」の世界、騒壇餘人の境涯に身を起こうと心を決めていった。もしも編輯と出版の経済効果論に屈して創作の室と持ち味と を殺していたら、わたしはとうの昔に読み物屋に堕落するか、「作家さよなら」するしかなかったろう。

幸いに、読書の世界、学藝の世界には、わたしの仕事を喜び迎えてくれるありがたい読者が、まちがいなくいて、「騒壇餘人」のわたしを支持しつづけてくださった。支えてくださった。有り難かった。さもなければ、どこの世界の誰に一作家の作だけで、三十年、百三十巻もの私家版「湖の本」が継続刊行出来ただろう。

 

* だが言っておく、上のようなわたしの文学活動も、なんら「生」という「橋」の上に建てる「家」ではない。「生は橋、橋は渡るだけ」、橋の上にどんな家 を建てても始まらない。では、何のための命懸けの仕事か。自分には出来ることを心から楽しむ仕事なのである。橋の向こうまで持って渡る仕事ではない。

2016 1/15 170

 

 

* 科白が粘った餅のよ うだ、地の文もと思い、これではいけないと困っていた。処女作を書いた頃だ。そんなときにシナ研(松竹シナリオ研究所)の募集広告を見つけたのだった、 東大正門前の有斐閣書店、雑誌「シナリオ」に出ていた。即座に買い、何も躊躇わず申し込んだ。何ヶ月通っただろう、つごうのつく限り毎晩、五時退社して築 地の松竹へ講義をうけに行った。有名な監督やシナリオライターや評論家が話してくれたが、正直のところ講義が聴きたいより、「きまり」として、前半期に一作、 後半期に一作、シナリオを提出せよという約束で、それを、気持ち受け容れていた。わたしはそういう「きまり」なら、きまりを守るタチなので、出来栄えはともかく少なくも二作は書きあげるに違いなかった、事実ちゃんと書いて提出したのである、「懸想猿」正・続。

受講者は七十人ほどだったが、おしまいころは十人も残ってなかった。二作、ちゃんと提 出したのはわたしともう一人、二人だけだったと聞いた。

* いい経験をした。

前半の正編は、当時松竹の専務か副社長だった城戸四郎さんが、八十点をつけた上で、あなたは小説を書きなさいと「講評」されていた。続編は評論家のたし か岸松雄さんが、全くおなじ事を言われていた。応募し、通い続け、書いてよかった。あきらかに「背を押された」思いがした。二編のシナリオを一冊の謄写の私家版本につく り、妻が装丁してくれたわが私家版の第一番目である。

 

* これよりさきに書いていた小説の処女作「或る折臂翁」とひのシナリオ「懸想猿」とは、著しく作意の上で重なっている。舞台となる丹波の山村も似通い、その双方の延びていった線 上に「清経入水」が来ている。この作もまた選者「先生方」の目に留まって、太宰賞候補作として銓衡の場へ差し込まれていたのだった。

人生不思議という思いを、しみじみ感じた。

いま選集第十四巻のために、ちょうど「シナリオ懸想猿 正続」を初校している。書いて置いて良かったとしみじみ思う。

2016 1/18 170

 

 

* 二階では機械仕事、目が疲れると階下でやはり目を使いながら、校正。朝昼は元気でも夜分になるとげっそり疲れている。手洗いに入っても、便座で両膝に 両肘をおいてガクッと首を垂れてしまう。抗癌剤でシンドかった頃と変わらないガックリ姿勢になる。からだが、はやく休みたいも寝たいと言うている。

今日は比較的、これでも気楽には過ごしていたのだが。ひとつには自分で書いた渾身のシナリオ世界の辛さに打ちのめされているとも謂える。なんという「こんな私でした」であったか。

そういえばこの第一私家版の出来たとき、同じ課の女子編集者にみせて感想を求めたとき、翌日、本を返され、「怖かった」と一言、聴かされたのをありあり 思い出す。まさに地獄を身に抱いていたのだった、あの時はしかし、それが自覚出来てなかった、はぐらかしはぐらかし抱き込んで反芻していたのだと思う。

2016 1/20 170

 

 

* さ、腹を括って明日以降、湖の本128を送り出す。今回と、続く湖の本129とは、「小説」の巻になり、ことに次巻129は読者の皆さんには喜んで頂けよう。

問題は、創刊三十年記念の第130巻。ほぼ仕上がっている新しい長編小説をと言いたいが、躊躇いがある。せめて短い方の物語『清水坂』が仕上がればと願うのだが、けっこう奇想の物語ゆえ、心ゆくまで手入れもしたい。

楽しみ半分にいろいろ考えていて、ほんとは無心に放心しつつかつはきっちり考え抜いて書き上げるためにも、二、三泊の旅がしたいが乗り物を降りる自信が ない。博多まで乗って、また東京まで乗って帰る、その安楽な窓際の席が確保できたら日帰りができるかな。いやいやバカげている。

大学生のむかし、京都駅始発の各駅停車(鹿児島のさきの)終点指宿行きに乗り込み、36時間かかって熊本駅で音をあげて下車し、水前寺公園の入り口まえ の銭湯に飛びこんだ。湯に漬かると帰心矢の如く、すぐ熊本駅へ走り、こんどは急行京都行きに乗って帰ってきた。あれはへとへとに疲れただけの強行軍だっ た。生涯の愚行であったが、懐かしく無くもない。いまはそんな愚行、体力が許さない。

ナイショにすることでもないが、新潟の村上へはまえから是非行ってみたかった。後白河の皇子の伝奇が伝わっていて、気を惹かれたまま、忘れがたいまま、まことに久しい。ああまた夢をみそうだ。

2016 1/21 170

 

 

* 今度の湖の本128は、かつて例のない編輯になった、未発表で、二編の一編は未完中断のまま創作ノートを付録してある。二編とも、原稿用紙の表題署名 は秦 恒平でなく「菅原万佐」になっている。高校の頃、菅井、原田、万佐子という三人の同級女性徒の氏名から失敬して、校内新聞に投書して以来、筆名に用い、四 册出した私家版本の三册までが「菅原万佐」著となっている。文藝誌「新潮」編集部から突然の電話にひき続いて届いた数通の手紙やハガキはみな秦方「菅原万 佐様」になっているのを最近古い古い荷物の中から見つけて、ちと感慨ものであった。やがて「新潮」編集長と初対面のさいに、即座に「本名にしなさい」と言 われたので、四冊目の私家版小説集『清経入水』は「秦 恒平」著になっている。

今度の湖の本では小説「資時出家」も長編初稿「雲居寺跡」も、原稿に「菅原万佐」と署名している、それほど大昔の処女作時代の勉強ものであり、しかもこ の両作ともに、以降「作家秦 恒平」が創作をかなり豊富に示唆もし刺戟もして幾つもの小説に成っていった。私家版の「湖の本」なればこそ可能な誰にも遠慮のない出版であり、こういう未 公表小説を次の「湖の本129」では三作公表する。三作ともまぎれもない私の創作であり世界である。読者の皆さんに喜んで頂けるとわたし自身が楽しみにし ている。

2016 1/24 170

 

 

* 小説「清経入水」の太宰賞受賞「原稿」を読み終えた。受賞作として選評付きで「展望」に発表された「清経入水」は当選原稿を一夜かけて徹底的に推敲改 作した 作であり、むろん編集部にも選者の先生方にも「より、よくなった」と承認の八月号「展望」だった。原稿と改稿とは、ちがうといえば大きく違っている。その 「私家版本」選者銓衡の当選「原稿」を読んだ読者は、世間にまことに数すくなく、よほど多く見ても百人ほど。 2016 1/25 170

 

 

*  久し振りに、サックリした便りを読んだ。八十か。シャーないか…。キリっとして頭抜けた美少女やったがなあ。

今回湖の本「トウチャコ」第一報。今回本は、ちょっと様子がちがうので向き不向きがあるかも。次回本には「未公表」小説が三作、これは、いろいろに楽しんで貰えるだろう。

もののしたから埃まみれの紙袋に入って、未公表のままの小説や習作原稿が、ゾロゾロ出てくるのら驚かされる。なんで。

わたしの小説や志向・傾向が、とうてい現下の文壇や文藝出版向きでないという体験上のかすかな諦念が、書いてもそのまま仕舞ってしまう方へ向かわせた、 所詮は騒壇余人の意識が強まっていたのだと思う。でなくて、現役作家が、「湖の本」のような舞台を自ら創り出すか。だれも、と言って間違いないだろう、事 実「秦 恒平」のように「文学」世界を自身切り開いて進んだ作家は他にいない。いても、続きはしなかった。「続く」ことが必要なのだ。「湖の本」三十年、わたし は、今も続いている。まだまだ続くだろう。

2016 1/27 170

 

 

* メールで送って戴いた、わたしのホームページ「私語の刻2015」の「全37分類」記事内容を機会に保存した。まったく順不同のまま、一応以下に「分類名目」を挙げておく。

 

スポーツ、 バグワン、 ペンクラブ、 京都、 人物評、 人間関係、 仕事関係、 e-文庫・電子文藝館、 呑み・喰い、 音楽、 電子メティア・コ ンピュータ、 雑、 読書、 詩歌、 茶の湯、 自作を云う①、 自作を云う②、 演劇・舞台、 湖の本、 歴史、 歌舞伎、 時事問題、 映画・テレ ビ、 思想・文学観・述懐等、 家族・血縁、 女、 外出、 問題含み、 名言集、 卒業生・読者・友人等の① ②③、 健康、 作家論、 能・狂言・古典芸能等、 美術。

 

* ホームページに「私語」し始めたのは、前世紀1998年の春。以降2016年の今日まで、病気で入院中以外は、ほぼ一日も欠かさぬほどに語り続け書き 続けてきた。個人のそのようなホームページ日録は、世界的にも稀有であろうと思う、おそらく400字原稿用紙で10万枚も書いてきただろうという実感があ る。

だが「書く」「書き続ける」のは、そんな10万枚もの記事を、各年ごとに数十項目に「分類」すね作業はもっと遙かに大変な労作(ろうさ)であり労作(ろ うさく)であって、その作業に全く自発的に取り組んで、去年度分までを仕上げて下さった方には、どんな感謝も万分一にしかならない。

「日記・日録」のままであれば、10万枚もほとんど利用の仕様がなく、屑山と化しかねない。ところが、上記のような分類がされると、例えば前々回「湖の本 127」として編んだ『有楽帖 舞台・映画・ドラマ』の如きは、ほとんど瞬く間に編輯できて、読者の手へ届けられ、楽しんでももらえる。同様に編輯してす でに何巻の「湖の本」が送り出されたか、『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻、『バグワンと私』上下巻、『歌集光塵・詩歌断想』、『ペンと政治』上中下 巻、『作・作品、批評』、『歴史・人・日常』、『堪え・起ち・生きる』、『九年前の安倍政権と私』、と十三巻を数え、全「湖の本」のきっちり一割に及んで いる。

「湖の本」という舞台を創っていなかったら、他の多くも含めて、かような出版は実現していない、いまの日本の出版事情はあまりにも異様に「品質より利益」 に傾いて倒壊しつつある。とはいえ、繰り返して言いかつ感謝せねばならないのは、多年膨大な私の「私語」の山を、労苦を惜しまずに「分類」して戴いてれば こそ「可能」な編輯であった。ありがたいことに、この「分類」を真摯に活かしつつ編輯すれば、数多くの秦 恒平著作は実現できるし、帯同して、新たな創作にも強い弾みがついてくる。幸せな作家だと言える。

2016 1/28 170

 

 

* 「選集」は第十一巻が二月上旬に出来、第十二巻もとうに責了してあり、第十三巻568頁の大冊も、もういつでも責了できるほどに成っている。第十四巻は初校中。第十五巻を編輯して原稿読みにかかるが、ま、刊は秋成りで宜しく、落ち着いて、創作の方へとりくむ。

 

* と、言いながらこれでけっこう美味い道草も食っている。

まえから試みていた「小倉ざれ歌百首」は、もう残るところ八首になっている。「戯れ=ざれ」てばかりでなく、けっこう苦吟している。あと、八首、固有名 詞で出られるとなかなか難儀。とにかくも第一句はさのまま活かして、第二句の第一音をふんで歌っている。わたしの好みであろう、自然に和歌になって、近代 短歌にはなりにくい。

 

夜をこめてしのびあふみの波まくら月光(つきかげ)さむく雁なきわたる

 

といったふうに。

もう一つの道草は、名付けて「秦教授の自問自答」で。気儘な今今の自問ではない。湖の本の「東工大『作家』教授の幸福」に一覧が出ているが、わたしは講 義の毎時間毎に、講義とは無縁に学生諸君に「挨拶」と称して難問を毎度ふっかけ続けて、それは存外に学生諸君に頑張って受け容れられていた。その出題とい うか難問は、都合二百の余もあったろう、回答されてきた総計は文字数にして三万字を、つまりは単行本の百册分にも剰ったのである。

退任してから、ふと、わたしは、学生諸君に押しつけた質問に「秦教授」も答えて当然であろうと思い至った、が、ま、意地の悪い質問が多くて自分で答えるとなっては難渋、何年もかかって、まだ七割八割しか答案が書けていない。

 

* 「不自然」は活かせるか。無価値か。

 

「不自然」こそ疑問の入り口であり、直接であれ逆説であれ、先の展開や発見から「新たな自然」が生まれ出ることがある。しかし「不自然」への疑念や嫌悪や 警戒や用心は当然にいつも必要であり、不自然の暗い奥へ踏み込むためには優れた直観と勇気を必要とする。まして不自然を無意味に好むのは危険でかつ下品で ある。無価値ではないが、そこから新たに自然な価値を獲得するには、なにより人性の自然と知性と経験がその人に先ず備わっている必要がある。

 

ま、アタマにくるような質問がワーツと並んでいて、教授は自分から問うた難題に自分で答えねばならない罰をいま受けている。

2016 1/29 170

 

 

*   「猿の遠景」という本を出している。中村真一郎さんと最後に会って立ち話の折、というよりも中村さんがわたしを見つけて寄ってこられ、「猿の遠景 よかっ たね、おもしろかった。ああいうのが大事なんだがねえ」と言って下さった。中村さん、その数日後に急逝された。むかし太宰賞授賞式後の二次会にも出て下 さった。痛いほど、懐かしい。

その「猿の遠景」を読みかえした。わたしのたくさんなエッセイのなかで、「能の平家物語」「蘇我殿幻想」などとならんで、いっそ小説なみ、小説として読まれてもいい一仕事になったのではと思っている。

小説「四度の瀧」も読み返している。

2016 1/31 170

 

 

*  「湖の本129」再校が出た。昨日も書いたように、事実上この巻が、六月桜桃忌創刊三十年の、そして三月結婚五十七年の、さらに四月五日、妻も揃って相合 の傘寿を祝える、そんな記念の一巻になる。すこし気を入れた、おそらくは読者のみなさんにも珍しがって頂ける記念の編輯内容にもなっている。六月の「第百 三十巻」は、温厚に、しっとりと楽しんで戴ける一巻を用意し、老境の「ユニオ・ミスティカ」を描くあぶない火傷はひとまず避けておく気でいます。

2016 2/4 171

 

 

☆ 如月に

お正月は、スケジュールが多くて、31日の日曜迄楽しみました。

今月は、早速、今日、建仁寺、東陽坊の月釜に出向きました、ついでに、お菓子をお送りしました。(体力が着くかと葛湯を、小豆が体に良いと仙太郎の最中を)ご賞味下さい。

-親指のマリア- 力を入れて読んでます。

歌舞伎の事、先代の役者等 楽しんで読みました。有難うございました。

今夜は此にて   京・小松谷   華

 

* 建仁寺東陽坊の月釜とは、なんと懐かしいこと。家からは、祇園町をとおり抜ければもう其処に在って、秦の叔母に連れられても独りででも、なんども出向 いた馴染みの月釜。菓舗の「仙太郎」もちかく、いまこの界隈は書き続けている小説「清水坂(仮題)」の舞台そのもので。嬉しい、いい後輩である。呼びかけ てくる声も聞こえる。    2016 2/5 171

 

 

☆ 拝復

立春の候 御清祥のこととお慶び申し上げます。

先生には 御高著 湖の本「資時出家 初稿・雲居寺跡」を御恵与いただき誠にありがとうございました。

小説という「手法」を用いて『平家物語』の成立論を掘り下げる試みは 学問とは異なるアプローチで道を拓くものと存じます。郢曲の家、綾小路家と資時、金仙寺のあたりは特に興味深く存じます。

近年 実践女子大の牧野和夫先生のアプローチと合わせて 次へ 背中を押していただいたように存じます。取材の記録もありがたく拝見致しました。

拙い感想ですが今後ともよろしくお教え下さいませ。 かしこ  清水真澄  中世文学研究家

 

* わたしのアプローチは、いずれも昭和四十六年(一九七一)の創作で、四十五年も昔の仕事。

小説家の試みは、なかなか同時代の研究家の眼にはとまりにくい。それでも幸いに『風の奏で』も『雲居寺跡』も、のちの『秋萩帖』や『あやつり春風馬堤 曲』なども、かなり深切に話題にされた。わたしの応援団めく専門家がかなり広範囲にいて下さるのは、東郷克美さんのいわれる「学匠作家」として仕事してき たからと思うしかない。何のヒキもないわたしに東工大教授の矢がいきなり翔んできたのもそのおかげと、いまごろ思い当たっている。

2016 2/6 171

 

 

☆ 選集ありがとうございました。

早々と、今日夕方、選集11巻届きました、限られた冊数にもかかわらずお送り頂き有難うございました。懐かしい所が沢山出て来る様で楽しみです。

お菓子喜んで頂き嬉しいです、お疲れたまらない様にお気を付けて下さい。

では   京・苦集滅路  華

 

*   「地(ぢ)=祇園・京」の作を揃えてみたので、昔の友だちには読んで貰い易いかなあと。まるまる京ことばでの作が二つもあり、少し冒険でもあったのだけれど。

仙太郎の最中、最中の好きな甘党のわたしにも、とびぬけて思い出のしみこんだ美味い甘みを堪能した。俵屋の葛も、京菓子の粋の粋。感謝、新た。

このところテレビで、京都探索の番組にしばしば出会い、みなそれぞれの魅力を見せていた。わたしにも、わたしの「京都」を見続けた歴史があり、何度も連 載で書いたり本にしたりしてきたが、もっとプライベートに近い、それだけ濃い翳りも匂いももった思い出はまだ沢山ある。「湖の本」編輯のついでのような付 け足しで何度か紹介はしているが、腰を据えて書き置きたい「京」はまだ有る、かも。そんなのは存外に此の「闇に言い置く 私語」にこそ書き散らされている のかも知れないが。ま、ま、…宿題の多いこと。

2016 2/9 171

 

 

☆ 選集を有難う御座いました。

選集を読ませていただいたり、選集の校正をされている秦様のブログを読んでいますと、それぞれに作品の年・歳を思い出します。

お病気もお歳も考えられないご活躍に、一層のご充実の日々をお過ごしくださいますように。

お二人に佳い春が訪れますように。  練馬  晴  妻の親友

 

* 京都の上澄みの文化はたしかに美しく心を和ませてくれるが、京都を書いた物語は、そう気楽なものは実は少ない。今度の一巻にも、殺人が二件も三件も起きている。それだけに、堅い挨拶の遠慮や会釈ぬきに、厳しい読後感が頂けると嬉しい。

 

* 俵屋の葛を晩にも美味しく戴いた。和菓子と庭とは、京都より優れた例はめったに知らない。

「庭」の根は、墓である。奥津城なのであり、そこに庭師の伝統の苦渋も諦観も創意もあらわれる。

「菓子」にも、根源、霊性への馳走・参仕という面があり、ただ味わいだけで済まない、もっと厳しい工夫が活かされ求められてきた。庭も菓子もどうしても「京都」となってくるのは、他府県のその仕事がどうしても上澄みの文化で済まされてしまうからである。

 

* 私の創作のために、宝庫ともいえるのは、多年この「私語」のなかに包蔵されている、「ひとづきあい」の多彩さであって、小説の場面に利用できるじつに 具体的なエッセンスが満杯に溢れている。しかもありがたいことに、そういう内容だけで「分類」されているので、じつにそれだけを読み返しているだけで堪ら なく懐かしくも面白くもあり、しかも往時は渺茫、歳々年々まことに人同じからずであることが、ものあわれでもある。わたしが、どうにももう動けなくなった としても、幸い、「私語」という備忘を読み返せるならば、十二分に愉しむだろうと思う。

2016 2/9 171

 

 

 

* 吸い込まれるように、早い夕食のあと、小説『清水坂(仮題)』を三時間ちかくも読み直し直し手を入れていた。いい気分で宿酔いしているようなアッパラパーの物語であるが、気分の良さが読んで下さる人にも及ばなくては。

がんばってます。

井口哲郎さんの言に便乗するなら、やっぱり「私」を追っているような、いやいや野呂芳男さんの望まれていたヒロインの甦りかもしれない、いやいや、途方もないこれは「平家物語探索」でもあるのだと、ま、しっかり四股を踏んで、気も新たに古典に取り組まなくちゃ。

 

* わたしの学部の卒論は、「美的事態の認識機制」といい、「美しく視えることの研究」という副題がついていた。添えた副論文には「茶の湯点前作法の検 討」とか謂った、なんとも奇妙な仕事だった。そんなのを評価されて大学院へ、もう一人の友人と進んだのだが、わたしは一年で退散して東京へ出て本郷の医学 書院に就職し、新宿区河田町で結婚した。昭和三十四(一九五九)年三月だった。翌年夏に朝日子が生まれた。まことに貧しかった。平気だった。三年後の夏か ら小説「或る折臂翁」を書き出した、が、その以前に、「パパのお話し」ということで『朝日子と夕日子』の話を医学書院の原稿用紙数枚に書いたのが残ってい た。身のすくむようなモノだが、わたしが、小説というモノをどのように書きたがっていたかを僅かに推量させる。

処女作①と認めて後に本にも入れた作「或る折臂翁」には、自信が持てなかった。去年秋に色川大吉さんや群像編集長だった天野敬子さんに「震撼」したとま でいわれ嬉しかったが、とうじ自信を失いかねなくて、思い切って築地の松竹シナリオセンターへ勤務後に通い続けて、課題のシナリオ二篇「懸想猿」正続を書 いた。

審査された松竹専務城戸四郎さんに、八十点をもらい、そのうえに「あなたは、小説をお書きなさい」と奨めていただいた。これには力づけられた。シナリオ ライターになりたい気は全くなかった、小説の「会話」をうまく書きたいなと願ってシナ研へ通ったのだ。そして、「畜生塚」を書いた。しかし文藝誌に投稿な どという知恵は無く、書きためたら自分で本にしたいとばかり思っていた。幸いなことに、わたしは文学とは畑違いといえ、出版社勤めで、活字一本の値段も 知っていたし、出入りの印刷所とも緊密だったし、編輯や校正はお手の物だった。

シナリオ二篇は謄写本だったが、二冊目の小説「畜生塚・此の世」は活版の、しかし医学の研究誌と同じ判型のそれは奇妙な本を手作りしたのだった。巻頭には短歌集「少年」を入れていた。表紙や目次の繪などは、みな妻が描いてくれた。

本作りの費用は当時としては仰天モノの高額を、溜め込んでいた学生時代の奨学金などで支払った。娘も育て、貧乏の極で日々暮らしていたが、妻は私家版に 一言も否やを言わず、いろいろ協力してくれた。感謝している、今も。忘れたことがない。おかげで私家版本は四冊もつくり、四冊目の表題作「清経入水」がそ のまま第五回太宰治文学賞に選者満票で当選した。応募していたのではない。いつのまにか、誰か偉い先生へ送っていた私家版本が、「太宰賞」選考委員会の最 終審査へ持ち込まれていたらしかった。処女作から、七年目のことだった。桜桃忌が、二度目の誕生日になった。

2016 2/10 171

 

 

* 「清水坂」 不退転の腹を括って、じりじりと匍匐前進している。

2016 2/11 171

 

 

* じわ…っと、「清水坂」をまた少し上ったが。

2016 2/13 171

 

 

☆ 冠省

選集第十一巻「或る雲隠れ考」他 ご恵贈いただき拝受いたしました。

ありがとうございました。

「余霞楼」は、この建物をモデルにしたのですよと、お話をうかがい乍ら京の街を歩いたのを懐しく思い出します。私も謡曲の手ほどきは鶴亀からでした。

先日 近くに住む友人が、秦先生のエッセイが載っていますよと、資生堂発行の豪華本「香」をとどけてくれました。

女を映して紅く匂い、白く薫る     梅

人の憶いに咲いて匂う         櫻

花の映えに 名の栄えを重ねて    藤

喜びと悲しみを 無垢に彩る      菊

四編のエッセイが 美しい写真を添えて載っています。

思いがけない御作に出会いますと 逢いたかった人に会えたような うれしい気分になります。

眼がまた少し弱ったようで 字がうまく書けません。乱筆 おゆるしください。

まだしばらくは寒い日が続きます。

先生も奥様も どうぞお大切にお過ごし間ください。  和歌山  貞 拝

些少 同封致しました、 お納めください。

 

* 今にして思うのだが、原稿をじつに多く望まれて書いていたのだ、その当座は、イヤなものは書かなかったが、まずははいはいと書いていた。わたし自身は 寡作寡筆のつもりでいたのだが、本にしても秦建日子のようにはとても売れなかったのに、自著市販だけでも百に及び共著を含めればもっともっと多くなり、寡 作では無かった。多い多い方だった。おかげで、いま、かなり平然とあえて無収入の儘、非売品の選集など出せているわけで、いわばその為に懸命に働き続けて きたわけ、のほほんと遊びたいから稼いできたのではない。狭い家で、夫婦で安楽に座れる畳のアキすらなく、車もない、海外はおろか国内の小旅行もしない。 ひたすら、書いて、本にしてきた。それが道楽だと言われれば、左様でと応える。子供の頃から本を読むと言って「極道」と叱られてきた。極道はやまない。幸 せである。

三宅さん ありがとう存じます。

2016 2/14 171

 

 

* 朝、目覚めて、そのまま床に座って小説「チャイムが鳴って更級日記」を再校し終えた。おもしろ小説一作を、幸いにモノの山から掘り出せた、よかった と、胸を撫でた。もうほどなく責了に出来るだろう此の「湖の本129」の三作は、創刊三十年その他を記念の好い小説一巻にまとまったと思う。わたしの精神 衛生も好い。

2016 2/15 171

 

 

* 機械の前でつかれて居眠りし、倚子からずりおちそうに尻が痛かった。眼を覚まして、機械からは横向きに、このごろ見つけたら取り出し紙袋に分けて、書 きかけながら始末を付けていなかった作や、関連の詳細な創作ノートをさまざまに積み上げた書き物の類を、また散逸しないようにとどこかの抽斗へ一括したい と思いつつ興にもひかれて点検していた。

 

* 膨大な私語を分類して下さる読者が、昨年分の仕分けの中へ「自作を語る」という項目を新しく立てておられた。これは、まことに時宜を得た配慮であり、 「選集」編輯・刊行の仕事を始めてこのかたわたしは盛んに「自作」に触れて記憶を確かめたり感想を述べたりしている。それらが纏まって顧みられるのは実に 有り難く、本当なら「私語」でない別の場所でその種の手記を固め書きしておけばいいのだが、とにもかくにも何もかも「私語の刻」にぶちまける習慣から簡単 に抜けられない。

 

* で、今も、幾つもの個人的興味の問題点を発見していた中に、おおっと思った、最近の「選集第九巻」に入れた『月の定家』 これは先に「俊成」と「西 行」とを一編に書いて雑誌「太陽」に載せ、後に「定家」の章を書き足して全体を『月の定家』と題して纏まった一編に創り上げた、と、そう自分で思いこんで きた。一九八七年の「三章一編」での初出と記録されてある。

ところが今、拾い上げていた原稿類の束の中で、信じがたいほど詳細な「俊成」のための創作ノートがある中に、さきの『月の定家』の「さだいへ」の章の書 き起こしと文言・表現そっくりの原稿の書き出し中断の数枚が見つかった。その原稿の最初には明瞭に「67.7.9」起稿の由が記録されていて、いささかの 推敲はされていながらも「初出」書き出しあたりの表現と一致していると分かった。

俊成・西行を書いて定家の章を書き足したそういう作だと思っていたのに、きっちり二十年も昔にすでに「定家」は書かれようとしていた、それがハッキリした。

だが、作者のわたしの根の願いは、定家の思いを通じて父「俊成」の生涯をこそ書きたかったらしく、細々としたさまざまな創作ノートは、どうも藤原俊成に 焦点を定めているように見受けた。だが、「原稿」としては覚え書きや走り書きの域を出ないまま、最近湖の本へ入れた「初稿・雲居寺跡」の方へ気が逸れて いったのかもしれない。

なににしても自愛執心の作であった『月の定家』が書き上がったより二十年も前に書き出されていたと判明した感慨は浅くない。

では、どかな「三位俊成」像とその時代が描かれ得たのか、今からも創作ノートを利して書き起こし書き継げるものかどうか、奇妙に鬱勃とした活気が湧いてくる。

 

* そのような歴史ものだけでなく、なんとしても仕上げたいなあと願わしい現代の怪奇小説も、また女文化めく京風情の書き起こしも、見つかっていて、それ ぞれにかなり書き進んでいる。それらのどれもみな、明らかにわが「作家以前」の意欲に促されて、しかし途中で投げ出してある。作家以前とはそういうもの だ。

 

* 大学生のころに、当時レポート用紙と呼んでいた一冊に、小さな字でぎっしり書ききられた小説、私小説も発掘してしまった。読み返すのも大変だが、これ を書いた動機や展開はかすかに記憶がある。まるまる、当時の生活気分で書いていて、後年の秦 恒平の小説とは、「異物」のように現実的であったように思う。処女作の年度がまた大幅に溯ったようである。

 

* 恥ずかしいが、学部の卒業論文「美的事態の認識機制 美しく視えることの研究」まで見つかった。ゲヘっと唸ってしまう悪文で、その自覚が大学院からわ たしを脱走させたのであった。これは「副論文」として添えた「茶の湯点前作法」の動態論の方がいまでも有効と思うが、それはまだ見当たらない。

2016 2/17 171

 

 

* 「丹波」「もらひ子」「早春」はホームページを利して一気に書き下ろした相当な長編であるが、私のなかに湧くように表現を待っている記憶が沸騰してい て、記憶の渋滞もほとんど無かったのを思い出す。少年來何十年、書いてからも何十年、しかし今でも記憶は鮮明で、懐かしい。

2016 2/18 171

 

 

* 十一時半。懸命に「清水坂」を掘り返していた。たくさんな音楽が作業の奥で堪えず流れ続けていた。

もう休もう。幸い、この二月末はすこしからだを休められる。近年にまれなこと。と言って、動く予定もないが。三月の前半は、十日を境に、前も後も追いまくられるだろう。創作も出版も。

2016 2/18 171

 

 

* 「資時出家」は、「風の奏で」のエスキスそのもので、この長編が語ろうとしていた「平家物語成立」のあれこれに脚を下ろし読めていれば、「資時出家」 のあらがきした筋がそれなりに早や独立し得た作にも成っていたと理解できる。平家研究者の信太周さんは、その点を正確に読んで下さっていて、このエスキス を一編の作と感じ入って下さったのは有り難く嬉しかった。

「初稿・雲居寺跡」は懐かしげに見えながら、やがて騒然ともの恐ろしい乱世の事変へ突っ込んで行く序章で中断している。そして、この「初稿」からすれ ば、後々に書いて発表した「雲居寺跡=初恋」は大きく逸れて別作であり、遙かにむしろ「風の奏で」を誘いだそうとしていた。                              2016 2/20 171

 

 

* 夜前より今朝へ、「マウドガリヤーヤナの旅」を読んでいた。好きな作はと問われたら、きっと数のうちに、それも前の方に加えるだろう。湧いて流れるように想うままに書いた、渋滞もなく。

幼時 地獄の釜の蓋の開く日だと松原の珍皇寺へ連れられ、地獄絵に怯えて泣き、家に帰っても泣きやまず、爾来、死より死後に怯えてよく夜泣きした。大人 になってから、『往生要集』を読んだり、倶生神や閻魔像や多くの仏像仏画にも親しみつつ、小説『廬山』や『華厳』を経てこの『マウドガリヤーナの旅』へ辿 り着いた。説話の空気を生み出すように、しかも一気に奔り流れるように描き上げた。「地獄」は卒業しようと思った。

 

* 「選集第十四巻」は、作者である私の、「とっておき」の一巻になる。

2016 2/26 171

 

 

* さ、こんどは、「とっておき」の本命「四度の瀧」を再校し始める。

2016 2/26 171

 

 

* 嫌いなことば、嫌いな状態や行為や文章に、「なまぬるい」というのが、ある。きもちがわるい。

 

* 先日来読み返しているエッセイの一つに「石版画詩人 織田一磨」がある。昭和五十三年三月の「季刊銀花」に書いた、かなりの長編。このほぼ忘れられている画家を、わたしはさながら自身の思いや願いや覚悟をかたるように打ちこんで書いているのに、今更に吃驚もし納得もした。いわば「私」に強く鋭く触れてくる人や藝術にわたしは賛同し感動してきたんだと、自分の仕事をふり返る。いわゆる我執の「我」とこの「私」とはちがっている。我はむしろ私の敵と謂えよう。

織田一磨の仕事場もすべての作も、主人公がさながらに生きたままのように吉祥寺に遺族の手で保存されていた。何度も通い、生涯の作も見せて貰った。一磨の一生がさながらに心豊かな「作品」であった。長いエッセイはのちに単行本『繪とせとら論叢』に収めた。

 

* 戴いた遠藤さん私家版本の「少年の洛中記」を半分まで、おもしろく読んだ。中京と東山の違いこそあれ、呼吸した京都の空気は、ほぼ全面の同時代。出て くるアレもコレも殆ど全部を共有し享受していたのだから面白くないわけ、と言うより懐かしくないわけが無い。おもわず、にやにやしてしまう。

但し、また半分だから早とちりはしたくないが、遠藤さんの列挙している敗戦直後数年のあれもこれも、ある種の年鑑や事典めく資料には、ほぼ整理されてあ る。そんなものと仮に無縁にしても、アノ少年時代のすこし記憶力のある同時期の連中なら、ほぼおなじ事を思い出せるだろうなと思う。

で、こうも思った。

それらこれらキラキラした時代の顔つきや声音を介して、「こんな私でした」という遠藤少年なりの吐息や歓声や悔いや嬉しさや怒りなどが青春の吐息として 書かれていたら、もっと身に沁み読まされるだろうなあと。しかし、そこへ行くともう、記録を主とした思い出の記でことが済まず、小説や物語になってゆく。 書き方が自然ちがってくる。どっちも在りうるのだと思った。

つづきを、そして他の本もつぎつぎ楽しませて貰おう。

2016 2/29 171

 

 

* 凸版印刷からの予想通り怒濤のゲラ出しに、混乱しないようにしないと。選集第十三巻の念校責了分、湖の本129の念校責了分を、明日、送り返す。

選集第十四巻の再校、第十五巻のゼロ校ももう出てくるだろう。「湖の本130」の初校もあらかた終えて、要再校で送り返す前に、慎重に内容を点検してお きたい。著者であり編集者である仕事を独りで斡旋しなくてはならないが、医学書院では十五年、湖の本では倍の三十年、選集のように平均五百頁、気の張る特 装限定出版すら、もう満二年体験してきている。二年で十二巻もまずまず無事に刊行してきた。人が驚き呆れているのも当然だろう。だがムリに疾走していると いう気は少しも無い。大いに楽しんでいる。ぜいたくをしているという気持ちも、むろん、全然無い。これがわたしの仕事なのだから。

新しい小説「清水坂(仮題)」「ユニオ・ミスティカ(仮題)」「父の子と子の父(仮題)」が先陣を競って(譲り合って?)犇めいており、ほかに、電子化さえ出来れば伸び上がってくるだろう棚上げ小説が手を掛けて呉れよと言うている。うち、五作は処置できている。

人も押しわれも押すなる空(むな)ぐるま

何しに我らかくもやまざる         遠

やれやれ。

2016 3/1 172

 

 

* 「ディアコノス=寒いテラス」一気に読み終えた。これまで、わたしの作を外国語にと奨めてくれた二人がまるで申し合わせたように二人とも、飜訳に適切な作は「ディアコノス=寒いテラス」と。その日本語が飜訳し易いという評価もあったろう、が。

読み終えて胸がきしんだ。的確に書けていると胸も張れるが、表現された内容のきびしさに作者でありながら胸を押されのけぞるようだった。

 

* 「ディアコノス」という表題には作の中でも問題の娘「セツコ」が話しているが、作者のわたしは基督教のイデーにはけっして詳しくないので、念のため読者のお一人に確かめておいた。ひとつには「ディアコノス」でいいのか、「ディアコニス」だったか、確かめたかった。

 

☆ 用事のため昨夜遅く帰宅。今朝パソコンを開きました。早いほうがよいと思いますので現時点での私の考えをお伝えします。

多少カトリックの教育を受けた程度の私に一つだけ申し上げられるのは、「ディアコニス」という言い方はきいたことがないということです。しかし学問的な 正確さの自信はまったくありません。神学部関係者でなければカトリック教会でもあまり使うことのない言い方なのです。すでにお調べになっていらしゃること 以上のことはわかりません。ネットでの検索ですが、次の部分が一つのわかりやすい説明かと。     http://church.ne.jp/tanpopo/pdf/1temote_26.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ26~

 

 

執事もまたこういう人でなければなりません。(8節)

 

パ ウロは「監督」についての審査基準と誰がその職につくことができるのか、ということについて述べたことに続いて、「執事」についての話題に移っていきま す。「監督」という職務が「全体を見る人」という意味であって、日本語の印象とは異なっていたように、「執事」についても、聖書の世界の言葉として、その 意味を捉えなくてはいけません。

 

「執事」その意味と働き

 

こ こで使われる「執事」とは、ギリシャ語で「ディアコノス」と言って「ディアコニア」を行う人のこと。「ディアコニア」は「奉仕」と訳されることのある言葉 ですから、「奉仕者」という意味の方が、言葉のイメージはつかみやすいでしょう。ここで言われている「奉仕者」というのは、教会の中で、食事を作ったり、 会計をしたりということ以上に、教会の福祉的で宣教的な働きに、教会の支援や認定を受けて携わる人たちのことなのです。4章を見ると、テモテも、「奉仕者(ディアコノス)」だったことがわかります。

 

こ のディアコニアは、旧約聖書の中で、理想とされた社会、お互いに助け合い、貧しい人がいなくなる、そういう社会の実現のために、実際に何かをする、そうい うものです。残念ながら、旧約聖書の世界では絵に描いた餅で終わってしまいましたが、イエス様が来られたことにより、この理想が実現し始めました。イエス 様が、この理想社会の実現のためにディアコニアを、身をもって教えられたからです。それは「へりくだって仕える」全人格的な献身、お世話の姿勢です。イエ ス様は、貧しい人、困っている人、弱っている人のところへ出向いて、具体的な必要に奉仕されました。この世界には、誰もやりたがらないような、けれども誰 かがそれをしなくてはいけない、そういう仕事、面倒できつい仕事があります。この世は、そういう仕事を、お金や権力に物を言わせて、弱い立場の者に押し付 け、無理やりにさせることでしょう。けれども、そのような方法では、問題は解決するばかりか、もっと悪くなるものです。

イエス様は、そういう仕事を世の中からなくすのではなくて、愛のゆえに喜んで引き受けるという奉仕の姿勢をこの世界に持ち込まれた。イエス様こそ、本当の「ディアコノス(奉仕者)」でありました。そして教会は、このイエス様にならって歩むのです。

私たちは奉仕というと、教会の中のこと、教会運営に必要な働き手という狭い意味だけで捉えてしまうかもしれません。けれども、聖書が教える「奉仕」は、それを超えて、世の中に働きかけていく、そういうものであります。

今日、制度としての社会福祉は充実 しているかもしれません。けれども、教会は福祉的な働きを、教会の外に任せておいてよいわけではない。大事なのは制度以上に、人です。キリストの愛をもっ て、そのわざに従事する、そういう人を育て、送り出し、あるいは教会として、そのわざに携わることが求められているのです。

 

引き続き 調べ、心掛けてみますが取り急ぎの私の見解です。お役に立たず申し訳ございません。

 

 

* これだけ分かれば、十二分。感謝

 

* わたしの小説世界も、「畜生塚」「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」の昔から、 それは大きく変わってきた。作者は人間であり生活者であり勉強家でもあって、いつもいつも同じ調子の仕事しかしていない、出来ていない作者で在る方がヘン なのである。しかし読者の好みは、どうしても固まってくる。愛読した「あんなのを」と望まれる。わたしはそういう希望に揺すられることは避けてきた。 「今」これをこう書いて自分として当然、必然の題材に真向かって行く方を選んできた。中村光夫先生は小説は老人の藝術であり、老人は自然と私小説を書くも のだという趣旨を語って居られた。わたしも、必然そのように動いて行くだろうと思い、作品を出版社に売る生活をしていると、自由にそれが果たせまいと諦め ていた。「湖の本」三十年の健闘は、そうした転進への意識的な場所づくりであった。

それにしても老境へかかっての私小説は厳しかった。

「迷走 課長達の大春闘(三部作)」は、まだサラリーマンとしての働き盛りであった、が、おいおいにキツクなった、ならざるを得なかった。

明後日に出来てくる「秦 恒平選集」第十二巻『生きたかりしに』はわたしの私小説突端の大作になった。そのあとへ、文字どおり人生の苦境が実に理不尽に襲いかかってきた。だが、一 作家としては、それも書いた。当然だ。第十五巻以降の一、二巻には自身の血を絞るような作が来る。避けては通らない。

2016 3/8 172

 

 

*  八時半、「選集⑫」の納本を待機している。「選集」創刊のとき、この巻『生きたかりしに』は予定に入ってなかったが、この巻の実現のためにこの企画が成ってきたという思いも今は深い。

2016 3/10 172

 

 

 

* 「選集第十二巻 生きたかりしに (参考)阿部鏡短歌抄」送り出しを終えた。作家人生の後半生を画する一作であった。

十二巻を刊行し終え、第五巻「冬祭り」第八巻「最上徳内=北の時代」die十巻「親指のマリア=シドッチ神父と新井白石」第十二巻「生きたかりしに」 と、三分の一を、一巻一作の長編小説で占めている。ほかにも、「みごもりの湖」以下、長編小説といえる作が思いのほか数多かったことに、今さらに気付いて いる。寡作と、少々凹む感じに思ってきたが、そうとうな多産の作家であったよと、他人事のように今頃おどろいている。まだ当分、創作選集が続く。さらにそ れら創作をうわまわるエッセイや論考の仕事がある。

2016 3/12 172

 

 

☆ みづうみ、お元気ですか。

お風邪の具合とても心配しています。発送作業のお疲れのせいかと思いますと、ご本を頂戴するだけのわたくしは本当に申し訳ない気持でいっぱいです。梱包 や運搬などの発送作業、どなたかお手伝い、学生さんのアルバイトなどお頼みすることは無理なのでしょうか。学生さんにとっては良いアルバイトのはずです。 失礼な言い方かもしれませんが、傘寿の方のなさる肉体労働ではありません。「選集」と「湖の本」をお続けになるためにも、お二人の作業の軽減が不可欠と思 うのです。どうかご検討くださいますよう伏してお願い申し上げます。

選集第十二巻『生きたかりしに』 いつものことですけれど、素晴らしい一冊です。亡きお母様はどんなにお喜びでしょう。三浦くに(=阿部ふく)のよう に、才能豊かで烈しく生きる方でなければ、みづうみのような文学者は生まれていません。『生きたかりしに』を読んでそのあとに『わが旅 大和路のうた』を 読みますと、さらに切々と胸に迫ってまいります。歌人安部鏡の歌大好きです。みづうみの作品と一緒に、死なないお仕事になりましょう。

お早いご快復お祈りしております。

末筆ながらご結婚記念日おめでとうございました。 囀  囀をこぼさじと抱く大樹かな  立子

 

* 母ふく(阿部鏡)の短歌抄を喜んでくださり、嬉しい。とにもかくにも文学少女が文学老女のまま辞世の歌まで、わたしへの遺言歌までのこして行った、や はり「短歌」の表現が生涯を引き締めていると思う。むりやりも幾らかはまじるが、抄録してただ歌だけをならべてみて、「佳い」ように、贔屓目かも知れぬが 思っている。母の歌はまさしく歌の原義に密接し、まさに「うった」える言葉と律動とで創られている。うったえるのが「うた」の本来だというわたしの定義に さながら模範の証歌を母はたくさん書きのこしてくれた。母の伝説がすべて消え失せるときにも、「歌」は遺るだろう。

2016 3/15 172

 

 

☆ 選集感謝

第十二巻をお送りいただきありがとうございました

昨日の配達でしたが留守にしており御礼が遅くなりました

函の表題を見たとき

「あ。よかった」

と直ぐに想いました

選集に入ったこと (生母ふくの=)歌も添えられたこと 嬉しく感じます

迪子さん 風邪だそうですが 早く快復されますように

どうぞお大事になさってください

春の佳き日をおふたりお健やかに迎えられますよう お祈りします

ありがとうございました   下関  碧

 

*  本を差し上げている方々もみなさん著者であるわたしの年齢に上も下も近い。もしも、ご不要になったときは、お近くのシッカリした大学図書館なり県立や市立 の中央図書館に揃えて御寄贈してくださいませ。或いは、お眼鏡にかなう若い文学愛好の方に差し上げてくださいませ。

いろんな地方に此の「選集」がなるべく「揃って」遺れば、それはそれなりに私の創作や著作の運命と思っています。ながく愛蔵愛読して頂ければなによりです。

2016 3/15 172

 

 

☆ 昨日

雨の中 ご本が届きました。

見開きの おじい様 お母様の お写真は タイムスリップした様な懐かしさを感じてしまいました

私にまでに立派なご本お送り下さり恐縮致します 先に(湖の本三巻本で=)拝読させて頂き 正直 胸締めつけられる思いもありましたが 今回ご本の最后に 奥様とのこの后を詠まれたお歌に心安らぎました どうかお揃でお健やかな日々であります様に。

拝受 御礼まで  有りがとうございました。 三月十五日   清  生母の姪か従妹か

 

* 生母方の親類から、初めてお便りをもらったねである。感無量。

この母は、平成の初年に九十一、九十三、九十六歳で亡くなった秦の父、叔母、母らより、なお数歳の年長であった。四人の子をなしてから夫に死なれ、その後に時を隔てて私の父と出逢い、兄恒彦と私とを昭和九年春、十年暮れに生んだ。

父のちがう長姉とも長兄、三兄ともそれぞれ只一度ずつ逢うことができた。次兄は戦時中に亡くなっていた。そしていまは優しかった姉もこころよく逢ってく れた二人の兄も、それのみか、両親をともにした兄北澤恒彦も、此の世を遠く去ってしまい、久しい。母の血は、いま、私一人に流れている。

縁戚で出逢えた人は多くはないが、能登川、水口、山科、京都、三重、静岡、横浜、市川などへ話を聴きに出向いた。

母には母代わりの長姉一族が能登川の広壮な本家を手広に嗣ぎ、次姉の嫁いだ三重の婚家とも深い縁を重ね重ね、子弟は各地に広く住み分けている。

さらには伯母や母からは実父、私には祖父である人の生まれが、東海道水口宿本陣であり、ここにもいい知れない遠い歴史が宿っていた。母は自身「白道」と時に称し、この祖父「白峯」を終生恋い慕っていた。

 

* 兄恒彦と私との実父に関しては、私自身の内でほとんど何一つも片づいていない。父の生家は南山城の当尾にあり、私には祖父に当たる人の子女や孫らの拡げている門戸は各方面に途方もなく広い、らしい。

実父との関わりを本気で書いておくか、どうか、まだわたしは腹を括っていない。おそらく、それだけの時間は残されていないだろう。わたしは母を、母の生 前も死後もひさしく受け容れなかった。ようやく桎梏を押し切って「生きたかりしに」を書かせたのは、母の歌であったと思う。母が歌など書く文学少女とも まったく知らなかったまま、わたしは秦の叔母の添い寝の手ほどきで和歌というものを教わり、国民学校の四年生から一人学びの短歌を創り出して今日にいたっ ている。今度の選集本に「参考」として「阿部鏡短歌抄」を私の手でアンで添え得たのは、おそらく最良の供養であり母孝行になったかと胸を撫でている。

実父とは、そういう接点が見つからない。

2016 3/16 172

 

 

* シナリオ「懸想猿」正続を再校し終えた。この苦悶哀慟の根底の処女原作に触れない「秦 恒平論」はありえないだろう。わたしはまだ三十歳に間があった。シナリオになど何の関心も野心もなかった、書き方もしらず、雑誌「しんりお」の見よう見まねだった。

だが半世紀の余も経て読み直して、当時の松竹専務城戸四郎さんや批評家の岸松雄さんが正編続編ともに八十点を下さってともども、むしろ「小説をお書きな さい」と慫慂されたかなり重い意味が今になって合点できる。これを読まされた勤務で同席の人が「こわかった、魘された」と吐き出した声音までが思い出され る。わたしは「地獄」を胸に抱いていた。『生きたかりしに』をとうどう仕上げて選集に収め得た今こそ、この『懸想猿」の凄みが胸に蘇る。「もらひ子」そし て戦時疎開の山村暮らし。肺腑にしみわたった「身の程」の激情。

2016 3/22 172

 

 

☆ 櫻が

少しずつ近づいているようです。

先日、『生きたかりしに』が新潟(=実家)届きました。毎度のお心遣い、ありがとうございます。

何度か訪れた浄瑠璃寺のあたりの気色を思い浮かべながら読んでいました。

私も、両親やそれぞれの生家のルーツをたどってみたいと思っています。

父方の祖父は上越の雪深い山裾の集落の出ですが、実は家内の祖父母も上越高田城の近くが出自です。(戦後、佐世保へ移ったのです!)不思議な縁を感じています。

迪子さんともども、ご自愛ください。  理  奈良

 

* 薬師寺玄奘三蔵院伽藍と薄墨桜の絵葉書に。

この青年の声を聞くたびにわたしは身の内の宿題、新潟も北の方を舞台にして書きたい書きたいと願っていた構想を思い出す。もくもくと思い出す。

わたしは新潟市にいちどだけ「日曜美術館」の仕事で出掛けた。群馬の赤城山の上での「著者を囲む」読書会のあと、脚を延ばしたのだった、仕事は「土田麦僊」の繪と人を語ること。

もうあのときもその小説への作者なりの期待は疼いていたのだが、願いの方面へまで脚は運べなくて東京へ帰った。

「上越」という二字が便りに点綴されていて、恥ずかしながらわたしには的確に「上越」とはと地誌や風景風物が浮かんでこない。かろうじて近年「上越」の 光明寺さんと文通があるが、ご住職とも面識はない。わたしが久しく目を向けているのは新潟市より北よりの「村上市」辺で、たぶん「上」越ではないのだろ う、「上」は同じ越の国でも、より京都へ近い方面を謂うのだろうから。

わたしは主として京都を書いてきた。丹波へも疎開し暮らしてきたし、近江や大和は想像の可能な範囲で、それ以外の異域、たとえばロシアの「冬祭り」も「最上徳内」の北海道も、茨城の「四度の瀧」へも、取材に脚が運べていた。

 

* また、古くて新しい願いが、ぶうと膨れてきた。が、はたして独りで勝手知らぬ・知れぬ秋田へも近い北越へなど出掛けられようか。

2016 3/23 172

 

 

* 必要があって、『死なれて 死なせて』を読み返している。思えば『生きたかりしに』のこれは身代わりのように書き下ろされた或る叢書中の一冊で、わた しの本としては、ま、よく売れたらしい。反響も痛いまで深切であった。もうこれを書いた頃には「生きたかりしに」草稿もほぼ出来上がっていて、だが、だれ がこんなのを読んでくれよう、本にしてくれようと、我から棚上げにしたのだった。

よく覚えている、この新刊が評判を呼んでいたまさにその時にわたしは東工大教授として授業を

はじめたのだった、学生諸君はわたしと出会うまえにいくらかこの新著の評判や内容を知ってくれていて、おかげでよほどトクをした。聴講の学生たちが教室へ殺到した。

この本で生みの母や実の父にふれては、今からして事実上の間違いも含まれているが、それらはホンの些事に過ぎない。このほんこそはわたしのいわば「思想」書なのであった。人は「生まれ」そして「死なれて 死なせて」 「死んでいく」。

いま読み返していて、あーあ、こんなところを通ってきたのだなあと嘆息もし、しかし、この先にはさらに嵯峨として嶮しい難路がわたしを待っていた。

 

* むかし、師表とうたわれている国文学の二人の教授と鼎談したことがある。話し終わったアトで、一人の先生がやおら取り出して見せてくださったのは、巻 物の秘畫であった、その手のものとしては格別に筆が優しく美しかったが、男女の交接をいろいろに描いた絵巻物の春画に相違なかった。もとよりその先生は 「文化・文物」の一端を興趣ゆたかに披露してくださったのである。

どこかの文化資料施設から、むかし「えろ本全集」の広告が送られてきたことがある。フーン、こんなにもあるのかとかなり書目詳細を一覧にし露骨な交接画 もでかでかと印刷されていて、一資料としてその広告は保存されていたが、最近資料棚から現れたのを再見して、もう必要ないとシュレッダーで断裁した。その 種のモノへわたしなりに「分かったよ」という断案が出来ていたから、必要も失せて捨てた。

露骨な春画など、見ていてなにも面白くなく、醜悪で目を背けたいだけ、と、思っているが、そこに描かれてある男女の行為じたいは、貴賎都鄙のわかちな く、洋の東西の別もなく、ほぼまったく同じだという当たり前の認識にわたしは立っている。皇族貴族は排泄すらしないという笑い話は子供の頃から耳にしてい て、だれもがそれを信じてなどいない事実だけが胸に畳まれ、ひいては性の容態・様態もまた同然と、それを本気で疑う人になど独りも出逢ったことがない。

さればこそ、また、わたしは、その厳格な事実性を、愛とか恋とか性欲とかいう人間不可避の営為認識の当然の前提と見てきた。いかなる男女の愛や恋や交情を描くさいでも、その認識を捨てていたことは無い。

アンリ・バルビュスの『地獄』は、露骨に謂えば終始隣室の男女の「覗き」であり、覗きと聴き耳とで、きわめて優れて悲愴な絶望の思想を、優れた文才で描 出している。それこそ、「四畳半襖の下張」めく男女交接をひしひし描いた本は、発禁のおそれをかいくぐって古来けっして少なくはなく、あの戦後となって 「えろ本」が解禁後は、相当に赤裸々にアクドイまで書かれてきたと思う、わたしはまだ少年だったので、実際には読んだことがないと正直に言いきれるが、裁 判になった「チャタレイ夫人」も、誰の作とも断定しきれないで流布した「四畳半襖の下張」も、荷風散人のその手の佳作も大人になってからはちゃんと目にし てきた。いやいや例の「襖の下張り」は、東工大に教授室を並べていた時になんとある日政治学の教授が、「こんなコピーを手に入れましたよも差し上げます よ」と手渡しに呉れたモノだった。むろん、読んだ。ホームページの「電子文藝館」にも入れて、但し転送はしないままに保存してある。

 

* わたしは仕掛かりの創作のためにも、字で書いたものよりも、写真による性の容態をコンピュータから意図的にかなり蒐集までもしてきた。女性の裸の写真 は美しく撮っているので美しいモノが多く、知名の女優さんでもけっこう裸の写真はひとに撮らせている。そしてそんなのは、わたしの創作にはほとんど何の役 にも立たない。わたしはいかなる美女といえども、静止して意図して美しく撮られた裸が美しいのは美術に類するのだからあたりまえ、あまり意味がないと思っ ている。そして、どんな美女でも素っ裸で動き回れば決してそんなに美しいわけがないと思っている。ミロのヴィーナスのように人は佇立して過ごせるわけがな い。乳房がたぷたぷしたり、腹が揺れて皺になったり、それは美しいよりは疎ましいモノのように思われる。男でも同じである。ダビデや考える人のように男は ただ立ったり座ったりはしていない。力士達がまわしを外した恰好で相撲を取ればどんなものか、言うまでもない。ほぼ見苦しいだけである。女性ならもっと見 苦しかろう。

しかも、そんな見苦しいような裸形をからませての男女交接の容態は、人類という種の生存保存に避けるわけに行かなかった。皇帝と后妃であれ、浮浪の貧男 女であれ、すること、せざるを得ないことは、ま、同じである。「えろ本」全集の広告にでかでか出ていた春画のいろいろが、致命的なまでまったく変わり映え しない同じ図様・容態であったことを、苦笑いして思い出す。しかもそんな図を乗り越えての理想は、結局「ユニオ・ミスティカ」であろう、つまりは、それも 人間の営む不可避・不可欠の「文化」となっている。文化ならば、たとえ美しくなくどう見苦しくても、見捨てられはしない。

 

* わたしはわたしの「地獄」をなど書こうとはしていない。どんな作が語られるか、それはナイショだが、しかしバルビュスの「地獄」は、予期した以上に文 学としての美しさと哀れさとをよく備えていて、それを学ぶ・マネぶ気は無いけれど、いましもこの佳い作品を、そろそろ読み終えようとしている。それしかあ るまいという女の声が聞こえてくる。

そういえば戦後直ぐのベストセラーでわたしの感化された二つ西洋人の著していたエッセイがあった。最近の病気で、とっさに書名が出てこない、が、あああの頃からいろんなこと思ってたんだとかすかに納得したりしている。

2016 3/23 172

 

 

* わたしは「小説」等の「創作」だけで五百頁平均の「選集」のほぼ二十巻ちかくを書いてきたと今にして確認できる。

だが、わたしの仕事は「創作」だけでなかった。「創作」にも類するの何作かのエッセイふう「準創作」のほかに、純然とした論考、批評、評論、エッセイ、 講演録、対談・鼎談の類を「創作」分と変わらないほど大量に書きのこしまた本にもしてきた。まだ本にならずにいるその手の原稿がたくさん積まれてあり、 「創作」とそれら「エッセイ」とはわたしの文学のまさしく両翼を成している。それら「エッセイ」の中にはもわたしの少なくも「日本文化」と「日本史」と 「日本の思想・信仰」「日本の藝能」に広範囲に触れた考察や論証や見解や指摘が籠められてある。それらが「創作」を裏打ちもしていたし「表現」を鍛えもし てきた。

「創作」だけの選集に終わるかも知れないと体調を覚悟してきたが、覚悟は覚悟として、わたしの「日本の理解」をわたしの日本語で表現できた内容も、及ぶ 限り「選集化」しておきたいと、いま、凡そは腹を括っている。わたしの「文学」は「創作」と「エッセイ=思想」が両翼を成している。出来れば二つの翼を羽 ばたかせて、終焉へ歩んで行きたい。それ自体が騒壇餘人・有即斎から「日本文学」への「批評」とも成れるようにと。

いま、わたしは『死なれて 死なせて』を読み返している。

2016 3/26 172

 

 

* 「死なれて 死なせて」を四章まで読んだ。一九九二年に弘文堂で書き下ろした。二十四年も以前の、言うまでもなく今八十のわたしがまだ五十半ばの著である。その干支に して二回りも年をとってきた間にわたしの思索思想も成熟とは言わないが変わってきた。思えばこの直後にわたしは東工大教授の辞令を受け、学生諸君に夥しく も難儀な問いをかけつづけ答えを書かせ続けたのだった。

最近になってわたしは学生諸君に強いた問いの一つ一つに「秦教授(はたサン)」として答えないのは卑怯な気がして、長い時間書けて全問に答えてみた。 「死なれて 死なせて」とはくっきりと移り動いてきた思案が現れている。まったく変わっていない思いも色濃く残っている。さ、どう読まれるのやらと、すこ し緊張している。

2016 3/27 172

 

 

* 『死なれて 死なせて』を読み終えた。わたしの本の中でもっとも広く読まれ多くの読者を得て版を重ねた。だれにでも深く厳しく関わってくる主題であり率直な把握である から当然と謂えようか、いま適当な版を得て新刊されても今日にしていよいよ多くの関心や共感を集められるだろうと感じる。

2016 3/29 172

 

 

* 正念場のような「新選集」の仕事を、気を入れて着々進めている。巻頭に、処女作以前の『生まれる日』ついで心を籠めた『死なれて 死なせて』を大切に置くつもり。  2016 3/29 172

 

 

☆ 京の櫻も

見ごろとなってまいりました。

「秦 恒平選集第十巻」ありがとうございました。

一月、二月、三月、講座「イタリアと日本」で、ナポリの大学で教えていらした方と、ギリシア悲劇と能楽の話から いたりあオペラと歌舞伎で、 二つの国について考えてみようと、私は「親指のマリア」と「神曲」を読みながら 頑張りました。

最初の日に観世寿夫「井筒」のDVD映像をみたのですが、御本にも「御座敷のほうで聞える謡が『井筒』らしい、お優しいなどとつぶやいていた」とありました。

今回は、京都新聞や湖の本で気づかなかった間部詮房の魅力を感じることができました。政と祭とがつながってたいた古代的ものと現在をむすぶ力を持ってい た人なのだろうかなどと… またシドッチが手元に置いた二册の一冊がダンテの「神曲」で、なんだか講座の進行を応援してもらっているような気持でした。 「神曲」から想を得たオペラ「ジャンニ・カキッキ」は、喜劇に仕立てられていますし、「平家物語」の義経も「千本桜」では、狐の話になっています。叙事詩 と芸能の関わりも面白いと思いました。 勘三郎さんの忠信のDVD映像で受講生と一緒に、涙しました。

「すべては生来変化し、変形し、消滅すべく出来ている」というアウレリウスの言葉は、「平家物語」の無常観と響きあっているようにかんじました。

「親指のマリア」は、読ませていただく度に、新しい発見に出あいます。 新聞紙上で挿絵に助けられながら、読み続けた昔が懐かしく想い出されます。 (挿絵を描いた=)池田良則さんとお会いする機会があり、話が盛りあがったきおくもございます。

十一巻、十二巻のお礼は、じっくり読ませていただいたあとに申し上げたいと思いますが、「姑」は一気に読んでしまいました。「京の女」が言葉の中から立 ちあがってくる迫力がどこにあるのか まだ、よく分かりませんが、本を読んで眠れなくなるという稀な体験をいたしました。

新潟から出てきた学生時代、夫と会い結婚して大変だった日々がよみがえってきたせいでしょうか。

それとも、小説の中に描き出される人と、それを書く人との間にある共感と反発に文学の根のようなものを発見できたと思ってしまったからでしょうか。

ゆっくり考えてみます。

佳い季節になってまいりましたが、花冷えの日などもございます。先生、奥さま、どうぞ くれぐれもお身体大切におすごし下さいますように。   羽生清   京都芸術短大教授

 

* なんという、ありがたい「いい読者」であって下さるかと、深く頭をさげています。まさしく「読んで下さる」方である。有難う存じます。

羽生さんは、まさしく話題の「親指のマリア」京都新聞朝刊連載を終えた直後に、東京の保谷市までわざわざインタビューに来て頂いた。お目に掛かると、そ れより少し前に京都でのあるパーティでお見かけしていて、すてきな人だなと印象につよく残っていたそのご当人であったのにビックリしたのを今もありあり憶 えている。インタビュー記事は「湖の本27 誘惑」のうしろに「きょうのきのう きのうのあす」と題して併載してある。

2016 4/2 173

 

 

☆ シドッチ神父

ご存知かもしれませんが……。

東京新聞にはまだですが、日経新聞本日夕刊に文京区の「切支丹屋敷」跡地の発掘調査で出土した遺骨が最後の宣教師シドッチ神父のものとみられることがわかったという記事がございました。

DNA鑑定でイタリア人の特徴と一致。身長一七〇センチ台と推定。外国人宣教師の遺骨の身元がわかるのは初めてだそうです。

他の二体の遺骨は身の回りの世話をしていた日本人ら(=長助、はるの兄妹か。)と推測されるが特定できなかったと。

人間は死ぬものですけれど、三人の死んだ史実が遺骨というかたちで証明されるのはやはり切々と悲しいです。

この記事を読んで、みづうみの『親指のマリア』の世界が一気に胸に押し寄せてまいりました。

『親指のマリア』を読んだ人間には、真実は、作品に書かれたようであったとしか思えなくて、泣けました。

『親指のマリア』は最高のモウンニングワークであったなあと思います。

シドッチ神父と、シドッチ神父の傍にいて歴史の泡と消えた二人の魂はどんなに慰められたことでしょうか。

取り急ぎご報告。  雉  雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸邨

* まちがいなく、シドッチと長助、はるであろう。彼らの運命を銘記して伝えたのは、新井白石と、私とだけである。私の長編小説『親指のマリア シドッチ神父と新井白石』(「秦 恒平選集第十巻」)を心ある人は読み返して欲しい。

2016 4/6 173

 

 

* シドッチの遺骨が確かめられたという報道には、心底、感動した。しかも日本人二体の遺骨も同じ墓から出たという。驚愕し感動し、静かに五体の震えに堪えている。こんなこともあり、こんなことに出逢うのだ。

むかし上村松園を描いて、推理の創作として祇園井特と松園との画家としての濃いかかわりを書いて発表し、そのすぐあとで、それが、わたしの創作していた 両者の関わりが、まさしくそのままの事実と実証され得たのにも仰天し感動したが、今回のシドッチにも、それは新井白石が「西洋紀聞」で書き置いていた事実 と呼応しているのだが、わたしが「親指のマリア」に書いていた彼らの死生とピタリ合致しているのだもの、震えるほど感動した。

2016 4/6 173

 

 

☆ 又々 シドッチ。

毎日新聞のヤフーニュースには、一体はほぼキリスト教様式にのっとる形で葬られていた、とありますが、西洋のこと解らないのに、埋葬方式解った? 後に改葬した? など思いましたが、キアラが書き残したものに書いてあったのかしら…と想像しています。

三体並んでみつかった、と言うのも不思議です。白石らの温情でしょうか。

それにしても、秦先生の想像力凄いですね。

今になってみれば二人を地下牢で死なせて良かったですね。

藤沢周平氏は今頃しまった! と思っているでしょう。

長助はるを「転ばせて」しまったのですから。  横須賀 檸檬

 

* 長助、はるの兄妹が「転ば」なかったも受洗を申し出たのは、白石が「西洋紀聞」にきちんと証言してくれている。「転ぶ」必要など彼らにはなかった、洗礼を受けキリシタンとして伴に天国へというのが多年の願望であり決意であったに万々相違ない。

わたしは、『親指のマリア』で、無意味な脚色はしていない。白石が「親指のマリア」に寄せた深い関心の背後には、「板三(バンサン)」という洗礼名を 持っていた生母の身よりを意識していたことにも窺われる。「白石」の名のりにも、隠れキリシタンを多く抱き込んでいた「東北」地域の深妙を読み取らねばな らないのだ、中国人にすでにあった「白石」の雅号とは意義がずらしてあった。

2016 4/11 173

 

 

* 「清水坂」にも食いついて放していない。また一度、しみじみあの界隈を歩いてきたい、が。

2016 4/12 173

 

 

☆ 文京区教育委員会に勤めていた

友人のご主人から頂いた、昭和40年の茗台中学の社会科の研究発表の中に、**さんのお庭に

「長助はるの石」があるの記述があり、ノコノコ探して**宅を訪ねました。その時色々教えて下さった**夫人は、10年前に亡くなっていました。

多分いらっしゃらないと思いつつ、4半世紀前のお礼状を出しました。そのご長男からご丁寧なお返事を頂いたのです。

母上のお手紙やお庭の写真のコピー送って頂けないか、とありましたので、今日コピーし、添え状に、私が興味持ったのは30年以上前の芳賀先生のTV講座と秦先生の『親指のマリア』と書きました。

彼がどんな方か、どこに興味持って下さるか解りませんので、明日投函するコピーの着報があるでしょうから、その内容により行動したいと思います。  横須賀  檸檬

 

* 『親指のマリア』必要なら差し上げますよと送ったのへ、の、返事。とにかく具体的に脚を運んで調べる意欲の読者だった。

 

* わたしが創作中に表現しておいたことが、そのまま現実により逆に証明される幾らか奇跡じみたことは前にもあった、妻はすぐ『閨秀』の名を挙げた。あの なかで、松園女史の名作「天保歌妓」と祇園井特の「美人図」の酷似と連携とを小説中の必然と推察して書いて置いたのが、まさに的中して、現実にそのままを 証明する奈良博での祇園聖徳井特「美人図」が見つかり、それはまさしく「天保歌妓」の原画に他ならないことが百パーセント確定できたのだった。

今度のシドッチ遺骨、一対の日本人男女の遺骨が、あたかも一つの島にともに立つかのように見つかったというのも、それに類する衝撃の証言だ。

やはり、興奮もし感動もする。わたしが「親指のマリア」を書いたと前後して新井白石を書いていた作家は、わたしは読んでいないのだが、「長助とはる」は 「転んだ」と書いていたと聞いた。あの二人は「転ぶ」なんてことはありえない、久しくも久しく二人はシドッチの到来を心から待ち望んでいたようなもの、そ の受洗と殉教は疑いようがない。

 

☆ 秦恒平様

シドッチ、長助とはる とおぼしき遺骨が見つかったとのニュースは朝日新聞でも写真入りで報道されていました。あの人々が本当に切支丹屋敷跡に骨を残しているのを知り、感動しました。

「気骨のある」人物といいますが、この方々の気骨が残されたのだと、写真に見入りました。

四月五日に奥様も傘寿をお迎えになった由。慶賀に堪えません。穏やかな余生でありますように、お祈りします。   並木浩一   TCU名誉教授

2016 4/13 173

 

 

☆ 貴重な

「原稿・清経入水」など収載の記念の一巻『湖の本129』を拝受いたしました。ご厚意ありがとうございます。そして、おめでとうございます。

読みくらべは後の楽しみとして、まずは「秋成八景 序の景」を拝読、もし完結稿が出来ていたらと、「私語の刻」にお書きになっているご事情があったにせよ、今更ながらに勿体なく無念な思いが押しよせています。当時(も)編集者は力不足でした。

どうぞお身体お大切になさって下さい。  元「群像」編集長  敬

 

* 「秋成八景 序の景」を手練れの読み手に読んで戴けて、真実、嬉しい。落ち着いて残る「八景」が書けるといいのだが。

 

☆ 秦恒平様

花散らしの風雨に耐えた桜がまだ咲いています。

その後お元気でお過ごしでしょうか、お伺い申しあげます。

この度は、選集第12巻に続き、「湖の本」129冊をお贈りいただきありがとうございました。

「原稿・清経入水」は貴重な資料となりますが、やはり、外枠を取った現行(=推敲の発表作)の方がすっきりしていいように思いました。

先ごろ「閨秀」論を書きました。例のところに送っていますが、また出ましたらお届けさせていただきます。

それにしても自分の勉強不足を思い知らされます。先生の作品はほんとに大変です。今度はどこへむかって行こうか、と思案しているところです。

なんとか健康で乗り切りたいと思っています。

先生もお身体大切にしてくださいますように。  五條市  永

 

* 言われる通り、太宰賞選考会で満票当選と決まった私家版の原作より、一夜を徹して推敲した「展望」誌に受賞作として発表された作の方が何倍も良くなっていると、双方を何度も校正し再読・三読して、わたしもそう思う。「すっきり」そして無用のツクリを排し得ている。

2016 4/15 173

 

 

* 今日は機械の負担を分散させようとデスクトップに群集していたフォルダやファイルをあちこちへ整理しながら、書きかけの小説「清水坂(仮題)」と組み打っていた。面白く書けるはずなのだが、もう幾押しかして作世界に味を浸ませたい。

午前中はまだしも午過ぎると視野が霞んで、ムリにムリに強いて字を読んだり書いたりしなければならない。

2016 4/15 173

 

 

* 一日、いろんなことをしていた。「清水坂」に新たな切れ目を入れてもみた。浴室では校正もした。

2016 4/17 173

 

 

* 一方で漱石原作「こころ」を脚色した戯曲を、もう一方では画家富岡鐵斎を語った講演録を、読み返している。

 

* 書きかけの長編小説のほぼ仕上がっているのを更に更に読み直して推敲している。この仕事はしていてご機嫌になれる。気分の悪さも気色の悪さも幸いに吹っ飛ばせる。

「文学は歌わない音楽」だという確信で、おおきな交響曲を創り上げて行くのがわたしの長編小説。三十代での長編と八十の長編とがおなじ音楽を奏でても仕方 がない。そう思うときいつもアタマに宿るのは秋成の若き日の「雨月」と晩年の「春雨」という二つの物語の差異である。書き手の積んだ歳月の意味は簡単なこ とではない。

2016 4/20 173

 

 

* いま、富岡鐵斎の繪を介して、そぞろ日本文化の性質やある種の原則について思案し続けている。

その一方で、漱石作「こころ」を脚色した戯曲を介して、愛と死との葛藤を思っている。しぜん、それらは日本史を基底にした新しく書き続けて仕上げようとしている複数の小説に関わり合ってくる。

2016 4/21 173

 

 

* 「蘇我殿幻想」を三校した。エッセイでもある小説と読まれてきた。こういう幻想的ないし推理の利いた歴史への肉薄こそ、わたしの一特色のようだと、今 にして納得している。ちいさい子供の頃から、大人の仕舞い込んでいた通信教育の「国史」を表紙もボロボロにするほど耽読して日本史を脳裏にデッサンしつづ けながら、百人一首の和歌に手を引かれながら物語世界を嬉々としてかき分けていった、その嬉しかった余録のようにわたしの小説の多くが生まれたのだった。

さきに初めて発表した小説「チャイムが鳴って更級日記」と「蘇我殿殿幻想」とは一部でつよく膚接しててながら、前者は菅原孝標女の作家的な素質へ目をむ けて今後の展開をなお希望しており、後者は明らかに大和・奈良朝から平安初期へむかう底昏い歴史を「蘇我殿」追及とともに手づかみにしようとしていた。わ たしを「学匠文人」と名指して下さる研究者がおられた。なるほどわたしの歩みはやはり上田秋成の生涯に歩調をそろえているのか…、そうかなと思う。

2016 4/22 173

 

 

* 漱石原作「こころ」も読み始めている。だれもが下巻「先生の遺書」を大事に語ったが、わたしは初めて読んだときから上巻「先生と私」を熱い気持ちで読みに読んだ。

九時半、もう機械向きに目が働かない。

階下でやすもう、寝床に座って明るい照明でゲラや本を裸眼で読むのも慣いになっているが。少し気楽にテレビの録画番組を観てもいい。

2016 4/22 173

 

 

*  晩の十時になって、今日は日記を書き込んでなかったと気が付いた。それほど、いろんな仕事をしていた。戯曲「こころ」を読み、鐵斎を読み、「原稿・畜生 塚」(新潮に公表した同題作の私家版本初出原稿)を読み、「蘇我殿幻想」についでシナリオ「懸想猿」正編を読み、新作の小説を書いてもいた。長編の方、も う仕上がりとしても佳いのだが、少しまだ気にかけている。

そんなこんなで、視力を労りながらも、肩がキツク凝るほど頑張っていた。ま、いいでしょう。

2016 4/23 173

 

 

*  「畜生塚」の原作を読んでいる。ときおり目尻が濡れてくる。

2016 4/24 173

 

 

*  ひどい夢から目覚めることで遁れた。自身の内に巣くった地獄を半世紀の余もむかしにシナリオ「懸想猿」で吐き出した。だが、心奥の地獄は失せずにあるの か。鬱勃としたものがとぐろを巻いていて、夢に現れる。作者としては幸せな道を歩いてきたと思っているが、人としてはどうなのか。わからない。なにが不安 なのか。

仕事に励んで通り抜けて行きたい。存外に、わたしの精神年齢が幼稚というだけのことかも知れない。

2016 4/25 173

 

 

☆ メール

有難うございました。

手元の区内地図はも一つですので、「東山区」の地図を探しに行こうと思っています、少しお待ち下さい。

バームクーヘン(品名)の事、ユーハイム(店名)ですから、間違っていませんよ。

最近はリングの大小ありまして、時期が来るとチョコレートのも有ります。ご希望ならお送りしますよ。

気候不順にご注意下さい。  京・北日吉  華

 

* 地図はいろいろに手元に蓄えてきたが、文字のあまりの小ささで見えない・読めないに苦労して投げ出してしまう。いまは「清水坂」を中心にした案内図、どこにどういう固有名詞の寺社や小祠や墓があるかなどを確かめたくて頼んだが、迷惑をかけてしまいそう、申し訳ない。

行ければ、歩いて来れれば、いちばんいいのだが。

2016 4/25 173

 

 

* 「選集第十三巻」の刷了紙が届いた。「選集第十四巻」本紙の責了用意が出来た。「選集第十五巻」は再校出、「選集第十六巻」が初稿出、「選集第十七巻」は入稿の用意をしている。「湖の本131」も入稿の用意をしている。

新しい創作は、長編・中編とも、じわじわっと仕上がりに向かっている。

かなりの数ある書きっぱなしで埋没・棚上げの原稿は、電子化されていないので手の出しようがない。機械へ入れて行くにはよっぽど時間がかかる。

ま、歌舞伎座と聖路加病院とへ出かけるだけ、文学の「仕事」一辺倒で、気晴らしは「読書と酒」のほかまったく無いとはあんまり「気」の貧しい日々で、宜しくない。

2016 4/27 173

 

 

* いやみな妙な夢を明け方から目覚の前までに、よく見る。がっくり疲れる。

 

* むかし「畜生塚」を書いていた頃は「夢」一字に深く身を寄せていた、らしい。作を読み返していて分かる。

いつごろからか、夢を疎ましく嫌い、いっそ憎むようになった。

 

*  一日中、順序よく、つぎつぎに仕事、休んでは仕事、ときどき、からだが痛むほど半端な姿勢で居眠り。霞んだ視野。力感のうせたからだ感覚。働いているのは 気だけ。いろいろに考えて妻のつくってくれる食べ物なのに、たくさんは食べられない。食欲に覆い被さるように眠気が総身を包んでくる。ゆっくり休んだ方が いいのだと思う。

 

* 「選集第十四巻」の本紙責了。函の表紙のみ、未了。

 

* なんとなく全身、疲れている。戯曲やシナリオ原稿は、科白、ト書き、情景、間などの「表記」に気配りしないと、読みづらい。ていねいに進めると時間も かかり何より視力が痛む。参る。しかし面白くもある。ほんとは戯曲をもう少し書いてみたいのだが、レーゼドラマだけれど。つまり小説を戯曲の形式を借りて 書くのである、かつて大正期の潤一郎のように。

2016 4/28 173

 

 

☆ 秦 恒平様

「湖(うみ)の本 129 原稿・清経入水 チャイムが鳴って更級日記 他」を拝受しま した。

「清経入水」は以前に頂戴した小ぶりの(四六版?)私家版で拝読して以来です。緻密な時代考証、時空を超え て夢幻と現実が入り混じる怪奇性、展開される不思議な世界は今もって小生の頭を混乱させます。当時から小生のアタマは一向に進歩していないようで すね。

パソコンが不調に陥り、四苦八苦したあげく、遂にリカバリーやむなきに至り漸く稼動となりました。御礼が遅くなった言い訳です。ご宥恕ください。  靖  妻の従弟

 

* 錚々たる諸先生の満票を得ての当選当受賞作といえども、ごく一般の読者には仰天ものであったということ。そこにわたしの文学の問 題が露出する。今日では難なくこの怪奇性を自然に読みこなせる人は増えていると思う、時代を超え他界を馳せては現世へもどるぐらいな読み物は昨今むしろ流 行っているのだから。だが、1969年の受賞当時はまことに稀有の作柄で作風であった。読みたいと思ってもそんな作に出逢えなかった。河上徹太郎先生の選 評に「現代の怪奇小説」の一句が殊に挟まれていたのも、時代を示している。

思い出す、同じ太宰賞の先輩吉村昭さんは、あのころ、わたしの顔を眺めるようにして「秦さんのあの作はぼくはよう分からなかった」と述懐された。そうなんだ…と感慨を覚えた。

しかもというか、しかしというか、石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、河上徹太郎、唐木順三、中村光夫の六先生は、声を揃えて受賞作に当選と推して下さった。 これはもえたいへんなお顔ぶれであった。その「何故に満票」をよく問うてみることに、「文学」本質の問題が在ろう。とわたしは思う。当選作と受賞発表作と を、今度くり返し読み返して、右の問題にわたしは自信をもって答えられると思うようになった。選集を思い立たせたそれが推力になった。

 

* 十一時過ぎ。「心」とは、とこの一時間余り、思いと考えつしていた。

階下へ。床について、「ディアコノス=寒いテラス」のあと、水滸伝、サドの「恋の罪」、坂村健さんのグルメのはなし、なと゜読んで寝よう。

2016 4/28 173

 

 

* 日本人の骨相に薩摩顔と長州顔の区別が認められるという「放送大学」での講義、初耳ながら納得できた。やはり放送大学で「問題」処理に関するうまい講義を聴いた。思えば八十年、いろんな「問題」に立ち向かい対処してきた。

大学院を捨て、果断に就職、上京、結婚した「問題処理」は、若さに助けられた。小説を書き始めただけでなく、貧苦の中で敢えて私家版本を四冊も出し続 けた「問題処理」も、果断かつ窮することのない大きな成功をおさめた。二足のわらじを脱いで作家として自立して行く用意の「問題」も、創作と家系との両面 で危なげなく処理して行けた。出版界の状況よりみて、将来という「問題」対応のためあえて「湖の本」へ大きなハンドルを切ったことは、妻と読者とに助けら れて確実に成功した。その戦場に「選集」を用意したのも「問題」の総括としてとにかくも路線に乗っている。

2016 4/29 173

 

 

* 「畜生塚」という旧作にわたしのいわば「物語=ロマン」の原点がある。ヒロイン「讃岐町子」もつづく大勢のヒロインの原像を成していた。ま、その前に 処女作「或る折臂翁」に「弥繪」という従妹妻がより遙かな現像であったかも知れないが。そして「讃岐町子」は長編「斎王譜」の「朱雀慈子」になっていっ た。昭和四十五年二月「新潮」に発表した「畜生塚」も、昭和四十七年四月に書き下ろし作として筑摩書房から出た「慈子」も、ともに私家版本、前者は『畜生 塚・此の世』、後者は同じく『斎王譜』に納まった作からは、ともに飛躍的に推敲されていて、ともに徹底的に原稿の總枚数が絞られている。ムダと見えた箇所 を惜しみなく厳しく省く体に推敲したので、原作と発表作とは、太宰賞の当選作になった「清経入水」私家版原稿と受賞作として「展望」に発表された「清経入 水」の場合と同じく、それぞれに別作かのように手が入っている。

いま、その「畜生塚」「斎王譜=慈子」の原作(私家版作)を丁寧に読み返している。

このまえ「原作・清経入水」を湖の本129にしたとき、畏友で前の石川近代文学館の館長さんだった井口哲郎さんは、原作に「瑞々しさ」を感じたと言って きて下さった。ま「初々しさ」でもあるのだろうか、同様のことをわたしは今、さきの二作の原作(ともに世間へ殆ど出ていない、読んだ人はせいぜい百人ほ ど)に感じている。びっくりするほど、双方とも懐かしく、初々しく書き進んで、わるくいえば情感に溺れている。この二作は、男性にも女性にも「ものすご い」と感じたほど幸いに愛された。極端に言えば、これらを愛読してわたしの名を覚えて下さったような読者が今も湖の本を迎えて読んで下さっているのであ る。

湖の本のやがて130巻以降の何巻かに、新作に準じた扱いでこれらを入れて読者に届けたいと願っている。

2016 4/30 173

 

 

*   今日もう一つうるうると嬉しかったこと、やはり原作「斎王譜=慈子」を読み返し初めての冒頭、そして東福寺大機院の歌会・初釜の場面など、なにかしら美し い柔らかいうすものの絹に包まれるような嬉しさ懐かしさがあった。文学は歌わない音楽であり言葉による表現の藝術である。ナラティヴな筋書きが文学なので はない、ことばによる表現を生かして人間や生活や思想や感懐が浮かび立つのである。

雑な文章、文品に欠けた常套・陳腐な筋書きツクリには嫌悪感しか覚えない。

すくなくとも原作「清経入水」についで原作「畜生塚」と原作「斎王譜」は、親愛なるわが読者の手元へ送り届けておきたい。読んだ人は、ほとんど無いのだから。

2016 5/2 174

 

 

* 「湖の本129」は、桜桃忌に到らぬ創刊三十年には前夜祭のようなものだが、あえて当選の原作「清経入水」を巻頭に選んだので、創刊の受賞作とはきっちり呼応している。

なんといっても、此の「三十年・百三十巻」は、私たち記念碑の嬉しさがこみあげる。五巻ももたないよと嗤った人の声も、もう忘れよう。

百三十巻という数字が問題なのではない、数字はまだまだ増えて行く。わたし自身にとって本当に大事であったのは、それほどに値した質と量との原稿を、作品を、事実山のように書き続けていたこと、それが根本だった。

2016 5/2 174

 

 

* 漱石原作「こころ」戯曲を丁寧に読み返して「選集」原稿を創っている。上演した台本「心 わが愛」よりは長編だが、演じてくれた「先生」加藤 剛や「静」香野百合子や「私」らの声音がそのまま耳に甦ってくれる。初体験の戯曲だった、愛おしい孫娘やす香の誕生記念するような創作になり上演になっ た。大盛況で、好評だった。「静」と「私」との愛と結婚への前奏曲である解釈がたいへんな論議も呼んだ、が、わたしはこの早くから、限定豪華本「四度の 瀧」を五十歳の賀に刊行の折りの後書きにすでに確言していた。確信してもいたし、いまも揺るぎなく確信している。

 

* 「ディアコノス=寒いテラス」「逆らこてこそ、父」の校正は、とても重苦しい。精魂をこめた私小説である、その重みを堪え堪えて読み継いで行く、文学としては遺憾を覚えないが、体験の苦痛がはげしく甦るのに堪え続けねばならない。

 

*  そんな時に、原作原稿の「畜生塚」「斎王譜」の読み返せる嬉しさと安堵とは底知れない。わたしのなかに、まだそれらの世界がちからづよく生き残っていると 知る安心。有り難さ。生きの妙薬である。これあれば、なんとか、目のふさがりそうな大きな重石の私小説送り出しに堪えられる。

 

* 「少年」のむかし、短歌に心を籠めていた。東京へ出て、朝日子が生まれる前後まで歌を詠んでいたが、昭和三十七年夏から小説を書き始めると、ふっつりと短歌から遠のいた。もともと俳句は難しいと手を出さなかった。

建日子が生まれ、ついでかなりの間をおいて朝日子を嫁がせたころにも、ぽろっぽろっと作が残っていたが、比較的尋常にまた短歌づくりに手を出したのは、 二十世紀のごく最期からで、新世紀に入ってからは思いがけず折々に歌よむことが増えた。2011年晩秋には、久々に二冊目の歌集「光塵」を編むことまでし た。数えてもいないが、かなりの数の「句」も含んでいる。

「光塵」を編んで、明けて正月五日に胃癌を診断されて大きな手術を受けた。その頃もその後も、歌や句めくものを随分書き散らし書き置いてきて、潤一郎先 生の述懐にならえばそれは発汗や排泄にも似た吐露といえば吐露、遊びといえば遊び楽しみであった。第三歌集を編むにも苦労がないほどの数も書き散らし書き 溜めた作が、機械に雑然と貯蔵されていたのを、とにかく刷りだしてみた。それらには、「小倉ざれ和歌百首」のようなのも入っている。「ざれ」てはいるけれ ど、むしろ韜晦の気味を歌に「うったえ」たのでもあり、藝はみせている。

「少年」以来の全部を新選集の一巻にしてもよいと思っていたが、むしろ「湖の本」の一冊に先に第三歌集を編むのが順だろうと今は思いかけている。気に入った表題ができるかどうか。

2016 5/3 174

 

 

* もう、あれも、それも、どれも、これもと「仕事」小絶えもなく、手の着いてないのも、手の付けられないのも、やたらにいろいろと在る。いいかげんイラ イラするのは、いつもの本が出来てきて発送の前の不要な緊張ゆえであり、明日と明後日とは、みんな投げ出して、だらりぺたんと休息してやろう、何か好きな ことをして遊んでやろうと思い至っている。九時半。今晩も、もう休もう。

2016 5/3 174

 

 

* 「秦 恒平選集」第十三巻が出来てきた。午前中から、送り出しの作業に入っている。これまでで最も頁数が多く、収録されているのは、長編が二篇。

物語から(私)小説へという流れ は、もともと意識も意図もしてきた。私小説は老境の文学という自覚を早くから持っていた。

2016 5/6 174

 

 

* 高校後輩の、加門さん、頼んでおいた京・東山区の地図を、何種類も送ってきてくれた。ありがたい。京都へなかなか行かれず、創作上の手づまりを打開できないかと地図を頼んだのへ、早速応えてもらえた。ありがとう。地図を見つめていると、それだけで想が湧いてくれる。

2016 5/6 174

 

 

☆ 陽の目を見ずに終る飜訳原稿の山に、心が痛みます。秦先輩の執念(?)の強さには感嘆するばかりです。

くれぐれも御大切に。  府中  布  弥栄中同窓  翻訳家

 

* 心痛まれる厳しい重さがよく分かる。飜訳原稿だけでなく、多くの作家の小説原稿も、批評家の評論原稿も、学者の著述も、今日のこんな出版界ではほとん どが「陽の目」を見ない。質実な仕事ほど「陽の目」を見ない。出版界には与太な「やすもの」ばかりがハビコッテしまっている。

仮にもしもわたしが「湖の本」を持っていなければ、私の作家・批評家の境涯は、はるかの昔に窮屈を究めていただろう、潰されてしまわないまでも。

それが、いまなお、厖大な量の旧稿もはつはつの新稿も、思い立てば悉くが本になり得て世の中へ、ともあれ(つまり、金目にはならないにしても)出回って 行く。さらに進んで非売の特装「選集」まで着々出せている。協力してくれる家族も大事だが、何よりも、出版や書店抜きでも、がっちり支えてもらえた「読者 のおかげ」である。そういう有りがたい「いい読者」を得られる仕事、それこそが書き手の務めなのだ、と、しみじみ思う。

 

* 終日、十三巻の荷造りに励んだが、第一巻とくらべて100頁も多く、荷造りがとても難しく捗らない。しかし、充実のいい本になった。何のこだわりもためらいもなく、作風を新たな方角へ運んで、過去に拘泥していない。マンネリズムは創作者には死活の猛毒になる。

2016 5/6 174

 

 

*  漱石原作「こころ」の戯曲を読み終えた。選集一巻にどう編集・編成するか、一思案を楽しみたい。

 

*  選集十三巻の送り作業、今日も荷造りに奮励。函装の美しい本であるだけに、函や本を傷めたくないのだが、郵便という人任せなので気は揉める。

2016 5/7 174

 

 

* 昨日、加門さんに送って来てもらった京都東山区の三種類の地図、じつに有りがたく、見始めると時の経つのを忘れて千万の思いに惹かれてしまう。この魅力引力にうまく誘われて物語り世界の構成に励みたい。ありがとう。ありがとう。

2016 5/7 174

 

 

* 好きな画家とも「対話」しつづけている。ことに石版画の織田一磨に心惹かれる。

2016 5/7 174

 

 

* 十三巻の「あとがき」を今回はたっぷり書いた。読み返して、感慨がある。かなり長いが、そのまま転載しておく。

 

* 秦 恒平選集 第十一巻刊行に添えて  従前(帰去来印)を入れる

 

「選集」と自称して、「全集」ではないことに、もう一度触れておく。ふつう、個人全集は創作や発表の「時期」に順じているが、私の「選集」は作の「内容」に応じ、一巻の特色や性質を受け取って戴きやすいよう、作者自身が編集的に「選んで」いると御承知戴きたい。

 

『迷走 課長たちの大春闘』の後に

 

少からず喫驚していただくだろう、この連作の三部作には。

小説家は、それ自体が虚構であるから、本当のようにウソを書くし、ウソとしか思われないほどぬけぬけと事実も書いている。それでいて、小説家のウソもま ことも「作風」や「文体」という化け物に守られている。いや身動きを制されている。そうは自由自在に、変化(へんげ)のようには働けない。但し作風や文体 のある作者にだけそれは言えることで、作風など無縁、文体もない「出たら目」は、全然別のはなしである。

この三部作は、小説家秦恒平が、小説家ではいられなかった場所、一人の「編集者」として勤めた職場「医学書院」時代の、正真正銘リアルな「私小説」である。

あの年、一九七四年=昭和四九年は、オイル・ショックの年だった。トイレットペーパーの払底に世間が沸騰した年だった。首相は田中角栄。81単産、六百 万人参加の空前のゼネストが大春闘を盛り上げた。参議院選挙で保革伯仲が実現し、東アジア反日武装戦線なるグループの丸ノ内三菱重工業本社爆破が、無関係 な通行人八人を殺したのもあの年だった。経済は戦後初のマイナス成長を招き、金脈問題を追及された田中は退陣し三木内閣に変わった。

何かが、誰かが、どこかで「やり過ぎた」と思う。結果として決定的に日本の労働運動が底無し沼へ沈滞し始めた。執拗に経済は盛り返して行き、必然、バブ ルの狂奔もちかづいていて、しかも泡は砕けた。中国での四人組追放と紅衛兵退潮も、日本の過激派を窮させ、また労働運動に急ブレーキをかけたのである。

あの年、わたしは、医学専門書の当時最大手、規模において総合出版の岩波書店といろんな面で似ていて「医書の岩波」といわれた医学書院の、中間管理職= 課長の一人だった。東京大学の赤門のならび、本郷三丁目寄りに新築六階のビル社屋をもっていた。いわゆる家庭医学は扱わず、洋書輸入を含む高度の医学研究 書や教科書と、三十種にあまる専門誌とを出していた。看護学の書籍や雑誌も多数種出版していた。

入社したのは、一九五九年、昭和三十四年春だが、まもなく社が出版した本邦初の研究所『脳腫瘍』は、部数五百、定価が一万五千円もした。そういう出版物 の似あう会社で、徹して「ミニプロ・ミニセール」を守っていた。見習い三ケ月間のわたしの給与は九千六百円、借りていた新婚六畳一間の家賃が五千円、初任 給一万二千円で、交通費支給はなかった。社に労働組合が結成されて、やっと五、六年め、社員も少なく社屋も小さく、狭苦しかった。だが社長の金原一郎は達 識の傑物だった。編集長の長谷川泉は、社を一歩出れば森鴎外研究や川端康成研究を事実上リードしてきた碩学だった。この二人に、心ひそかに真向かう気力な くては、小説を創作の生活に私は歩み出せなかっただろう。

入社以来十五年、社員は二百人を超え、「給与は日本一」と、老社長の子息専務が一切を取り仕切って豪語したのも、あながちホラとはいえぬ高水準にあっ た。私はもう二人の子の父であり、働き盛りの編集者でまだ四十歳前であり、私家版をのぞいても十種ちかい小説や批評をすでに出版していた。時代も幸いして いたのであろう、四十年余も昔のとである。

今回三部作、最初の小説「亀裂」では、学術書や学術雑誌に起きがちなある種の「学者の不正」に巻き込まれた編集者の戸惑いを書いている。「凍結」では、 中間管理職の上からも下からもギリギリ締められる悲鳴が、「課長組合」を願望しはじめる悲喜劇を煮つめている。「迷走」では。ああ、それは、もう言うま い。

もはや昨今最近の「労働者諸君」には、書かれていることが信じられまいと思われる。体験者であるわたしが、校正しながら我が目を疑ってしまうほどの「現 場」が、ありありとありのままに、いや、いくらかまだ遠慮が勝ちに書かれている。正真正銘の私小説だといったが、ここには、「小説作家と兼業の医書編集の 課長」はあえて「抹消」してあるのにすぐ気づかれるだろう。焦点を、出版社の編集者ないし管理職に絞るには必要な措置であった。

こういうことも言っておいていいだろう、この本が出版されてすぐ、大きな銀行同士の団体が、箱根だか熱海だかでの管理職研修会でこの本をテキストに情報 交換や討議を進めたという実話を私自身耳にした。有りそうで、こういう本は、小説としても無かった。「やっと現れた作」とも書評されたし、その後にも、気 をつけていた積もりだが、この手の「編集者もの」「管理職もの」はなかなか出てこなかった。

過激派とか民青とかいう色分けが険悪に叫ばれていた。内ゲバの武闘も日常茶飯に近かった。おまけに、医学の畑では激越な、かつ歴史的意義も小さくはない 現場闘争が多く行われていて、仕事がらまともに煽りを受けていた。関心もあった、利害も露骨に生じた。お隣りの東大でも、精神科も脳外科も、また小児科 も、いわゆる「医学紛争」を延々と続けて来たのだった。それが企業へ転じてきた。ステッカーに最もよく見られたスローガンは、中共紅衛兵ゆずりの「造反有 理」であった。最も過激に反応していたのが出版社の労組であったかも知れない。各大学を卒業してきた大学闘争の闘士たちが企業に侵入し、労働組合で各派対 峙し激突しながらも、また一致して「経営」を猛攻した。あわや会社という会社が倒れるかに見えてすらいたのである、あちこちで。だが、倒れたりはしなかっ た。

この後に潰されていったのは、逆に、労働組合の側であった。過激のツケは高くついて、「過ぎたるは及ばず」と高笑いしたのは、わたしのこの本などを参考 にしてでも反攻しようとした側だった。いわゆる「社会党」のその後のみじめな衰亡を見るだけで事態の推移はハッキリしている。保守の腹を決めた長期戦略は 三分の一の社会党を徹底的に潰し、総評と労組とを潰すことにあり、これに、だれでもないテレビで喋りまくる腰弱の知識人たちが、口を極めて野党と働く人達 とを裏切っていった。

この本でぶざまに「迷走」するのは会社側だが、本が出版されたころからは労働組合のほうが走力を喪失していった。何故か、の、この本は歴史的にもぎりぎ りの一証言たりえていることを作者は疑わない。そして今や勝ち誇った側が「やり過ぎ」てまたも泡(パプル)を吹いて働き手の立場を非正規雇用の拡大と支配 とへ強引に歪めている。

わたしのこの小説を書いた今一つの意図は、はっきりしていた。刑事もの、記者ものは、すでにテレビドラマでも人気を得ていたが、「編集者」を話題にした 小説など、殆ど見たことも聞いたことも当時(今でも)なかったからだ。「編集・企画」という仕事が好きで性にあっていて、しかも医学・看護学といった専門 分野の編集に携わっていることを、我ながら奥深いと自覚していた。その気になればかなりの話材も蓄えていた、が、自分の持ち味ではないとも見切っていた。 やっぱり『慈子(あつこ)』『秘色(ひそく)』『みごもりの湖(うみ)』や『風の奏で』『冬祭り』「雲居寺跡(あと)』などが書きたかったのである。

会社で担当した領域は好みの小児科学が主だったが、他の分野に関心をもつ自由も許されていた。免疫学の基礎と臨床、出生前小児医学、老人や母性の保健 学、いわゆる不定愁訴となるサブクリニカルな微症状学、疫学、症候群事典、そして学会成立にも直接寄与したといわれた新生児学研究などなど、とにかく出版 企画の面白さにとり愚かれ、夥しい数を本にして行った。月刊雑誌数册発行の責任を帯びていたときでも、企画して単行本も出した。仕事が少ないのを不満とは しても、仕事が多すぎるとは文句を言わなかった。「猛烈社員」といわれ、「エリートゴン」などと怪物のようにそしる人がいたのも無理なかった。ただ、幸か 不幸か私は社内のエリートとして経営の側に位置しうるタチでなく、昇任人事も断っていたし、第一の願いは何よりも「真の身内」を求めて「小説を書く」こと だった。批評もエッセイもたくさん書きたかった。その時間を確保するため、管理職になってからも、余儀ない会議以外は九時五時勤務をガンとして崩さなかっ た。そして、会社をやめた。会社に深い感謝はあったが、微塵の未練もなかった。

この三部作に書いたちょうどその時期に、私は、新潮社新鋭書き下ろしシリーズの『みごもりの湖』を最後の段階へ仕上げていた。村上華岳を主人公の長編 『墨牡丹』も書き始め書き上げていった。中世美術論『趣向と自然』を連載中だった。テレビ出演で『梁塵秘抄』を話していたし「日曜美術館」にも再々登場、 ラジオでも『中世の源流』を話し続けていた。講演も頼まれた。一つ一つから次が、また次が生まれていった。噴出期であった。だが前にも言うように、意図し て、そういう「私の別の一面」はこの連作では封鎖しておいた。無いことにした。それでよかったと思う、そうでなければこの小説の主題が分散してしまったろ う。

江藤淳さんのあとを継いで東工大教授を勤めときに驚いたのは、学生自治会の無いことだった。大学に学生の自治会がなく、企業に健康な労働組合が機能して いない、それがもはや普通とあっては、なにか日本の国が間違っている。健康に働いて行く基本の人権を自ら放棄しているのと変わりがない。しかも不況の永び くさなか、労働者の連帯を根から腐らせ民衆に泡=バフルを吹かせるのに最も力を致した大銀行・金融の途方もない不始末の後始末に血税は屁理屈づくめに浪費 されていた。ディスクロジャーどころか、情報をなんとかして国民から秘匿するのを目的にしたかのような、贋・情報公開法が麗々しく用意されていった。

じつは、この連作、あまりに時代が隔たってしまったかなとしまい込んできたが、そうではなかった。いろんな意味で、あっちから読まれこっちから読まれて 「時代」を揺すぶる役をさせてみて良い作品であったと、今のいま、わたしは進んで、早く、復刊しようと思うようになったのだ。

この本のような現実から、わたしは、逃避して自分の小説世界を紡いでいたのではない。住み分けていた、切り換えていた。それだけでなく、こういう「現 実」部分から、いろんな創作が進み始めて、「私」の世界へ移動していたのである、受賞作の『清経入水』では広島の学会取材から、『秘色』では出版祝賀会へ の会社出張から、『風の奏で』では春闘のさなか

出張といったふうに、編集者体験はかなり色濃く作品を染めていた。あの時代の小説もエッセイも、どの一つも例外なく超多忙な勤務のあいまに本郷や湯島や御 茶ノ水辺の喫茶店などで書かれていた。家では調べ仕事の読書に時間を使っていた。騒がしい環境で静かな世界を。そう意識して、欠かさず毎日書いていた。 立ったままでも書いていた、取材先の大学や病院の壁にもたれ、原稿を依頼や督促の「先生」を待ちながら、書いていた。

この連作を書いたとき、イメージを壊すから、こういう生々しいものは書かないで欲しいと、何人かの読者に叱られた。霞を食って半ば他界で暮らしている、 稼ぐ心配のない美しい世界のもの書きだと思っていた人が多かった。現実の私はそんな人ではなかった。実の親を知らず、貧しく育ち、貧しい中でひっそり結婚 し、親になり、やがて小説を書き出した。読みたい本もなかなか買えず、汚れて傷んだ一冊十円二十円の岩波文庫の古本を探していた。講談社版新刊の日本文学 全集を、食うものも食わず節約して、配本を楽しみに一冊一冊買い溜め読み耽り、近代現代の文学と作家たちに身を寄せて暮らした、書きたい、書きたいと六畳 一間のアパートでも憧れながら。

重森君という大学の友人が、私の「書きたい」に聞き飽きて、たった今、例えば「新潮」から、読んでやる、作品をと言われたらどうする気だと一喝した。 はっとした。ただ「書きたい」のゼロ地点から、「書いた」一作までの距たりは、無限に遠い。一作から二作、三作へは一目盛りずつだ。そうかと目から鱗を落 として、昭和三七年七月二十九日から三十日へかけ、上京三年余にして私は小説を、処女作『或る折臂翁』を「書き始め」た。以来、太宰賞の日まで一日として 書かぬ日はなかった、盆も正月も病気の時も。書き続けてこそと思い、励んだ。一方で、むろん私は編集者であった。仕事を投げ出したりはしなかった。

医学書院十五年半の、最初の一年間、生産管理部で雑誌製作の仕事をした。製版や原稿割付けや版下注文・校正往来などの基本的な作業を覚えた。翌年春から 退社の夏まで、編集部・出版部の編集者ないし管理職を続けた。雑誌を担当したり書籍を担当したり、また看護部門をやったり医学部門をやったり、十四年半の あいだには、企画・編集取材・製作刊行まで、いろんな仕事を自分の手で体験した。それゆえに今、技術的に何の故障なく「湖の本」が出せているのである。 「手に職がある」と昔からいうが、企画・編集・出版は知能的な手仕事に類している。手仕事と無数の雑用とを根をつめて出来る人でないとこの仕事は向かな い。「手に職」をつけてくれただけでも医学書院時代には感謝しなければならない、もっとも、「藝は身をたすける、身の不幸」とも昔から言うが。

勤務時代の仕事が、文句なく好きだった。医学者・医者また看護婦さんたちが、あまりに自分とは別世界の人であるだけに、かえって興味深かった。理系のそ ういう専門家を素直に尊敬する気質があり、その辺が、東工人で学生たちと仲よくできた理由なのだろうと本気で思っている。学生や院生たちが、教授室へ来 て、今こんな研究をしていますと、分かり良く教えて来てくれるのが私は嬉しいし楽しかった。わけても兼好法師が友にしたい一に「医師(看護師)」と挙げて いて、首肯して来た。同僚に親しむよりも、私は優れたお医者さん看護師さんたちと退社後もながく親しくしていただいた。そもそも、いい医師との出会いを求 めて医学書院を就職先にえらび、不安のあった妻の出産を、二度とも無事に助けてもらえたのである。文学に関しても実に大勢のドクターやナースの皆さんに励 まされて来た。

小説を書き始め、太宰治賞までに七年間あった。受賞から退社までに五年間あった。初出勤したその日から、いつこの会社をやめて出て行けるだろうと考えて いた。大学に残って教授になりたいとも、会社に残って社長になりたいとも思ったことはなく、四十歳までに、一作でいい、書いた小説で原稿料が欲しいと願っ ていた。七年ほど早く願いが叶った、向こうからの文学賞付き「招待」で。今度の小説『迷走』三部作の書かれた時期は、二足の草鮭を履いて五年めだった。曲 がりなりに「新鋭」作家になっていた。

読み返していると、それでも、課員や組合から比較的温和に私は扱われていたのに気付く。何故とは正しくは思い当たらないが、それはそれとして、あの当時 から私は、効率管理一辺倒で過大な前年同期比増収増益を無理強いする企業の論理を、生理的に嫌っていた。過激な当時の組合にお世辞にも親愛感は持てなかっ たけれど、基本的には働かせるよりも働く側に身も心も寄せていた。私は「編集者」ではあれ、「管理職」にはなりきれない半端者だった。

 

 

『お父さん、繪を描いてください』の後に

 

書下し長編、いわゆる「藝術家小説」をお届けする。とはいえ、以前に村上華岳や上村松園や浅井忠を書いた、いわば称讃や傾倒のそれではない。今度の主題 は苦痛に満ち、過酷である。「創作者」なら、(この作品では画家を書いたが)、彫刻家であれ小説家であれ作曲家であれ詩人であれ、同じ脅威にいつ襲われて もおかしくない「人生」の難所と蹉跌と打開への苦悶・懊悩を「告白的」に書いた。藝術家の執拗に抱き込んで吐き出せない「内景」を、具体的に抉り出すよう に書いてみた。むろん「小説」として書いた。だが、小説らしからぬ書き方を敢えて採用し、ごつごつ、コブコプとエッセイのタッチで書いてみた。人の秘密を のぞきこむように、同情ももち意地悪くもなって、遠慮なく書いた。この話、「ホントのことですか」と聞く人が有れば、即座に「そうです」と答え、「フィク ションでしょ」と云う人が有れば、笑って「あたりまえです」と答えて、読み手の好きに任せたい。

もともと、書簡体や日記体にわたしは興味津々。それらを書き起こし組み立て、地の文で繋いで行くと、主観と客観との立体交差が作をあたかも「論述的」に も「構築的」にも「ファシネート」にもし得るか、という「夢」の課題を持ってきた。小説っぼい小説ではない、だが、小説でしかない小説、が書いてみたかっ た。エッセイのように、ノートのように書かれる波瀾の小説。ホームページにそう予告して書き起こしたのは少なくも平成十年より以前だ、十分時間をかけた。

この小説は、綿密な取材やインタビュー抜きには、わたし一人の頭脳では書けない小説と見えるであろう、否定しない。肯定もしない。大学の専攻は「美学藝術学」であった。卒論には「美的事態の認識機制」を書き、「美しく視える」事態を追究した。ウソではない。

ああ頭が痛そうだと怖じ気づかれる方には、大急ぎで手を横に振り、云っておく。わたしの書いてきた小説の中で、この作品は、或いは一等読みやすく、けっ こう波瀾があり、心理的に荒くれた筋道を興味深く辿るはずで、お行儀の良い、お澄ましで趣味的な物語とはわけがちがう。上下巻を読み終える頃には肌に粟を たて唸る現実の「創作者」も少なくあるまい、と、いくらか作者は期待している。

情緒的な美的・浪漫的な作品、ではない。一つ間違えば、あなた自身が巻き込まれてきたか知れない生活の渦が、幾重にも巻いている。主に「手紙」でものを 言い続ける主人公の「画家」と、地の文で勝手な論評や時に酷評を加えている無頼な語り手の「小説家」と。どうしようもない偽善者だと読まれるかもしれない が、彼等も、彼等をこう書いた作者も寂しい。寂しくても、こう書いたのである。

もともと『寂しくても』と題していた。棄てがたい題であったが、どう「寂しくても」苦しんで、あきらめて、呻いて生きて行かねばならぬ事では、何も創作 者・藝術家には限らないと思い、引っ込めた。引っ込めはしたけれど、藝術家の生きる寂しさがひとしおのものであることは、わたし自身も身に刻んだ実感であ る。そのつらい実感が書かせた。脱稿までに、わたしは、一度死んだような気持でいた。

無惨なほど、さながらに主人公の「藝術」がひび割れて行く。その寂しみを突き抜き貫いて行くいったい「何」が先に待っているのやら、作者もまた凝然と「創作」という闇への闘いにしばしば棒立ちになった。画家であれレ小説家であれ実作者からの痛烈な批判を獲たいと願う。

 

平成二十七年(二○一五)十二月二十一日 傘壽の日に    秦 恒平

 

 

*  宇治にお住まいの佐々木(水谷)葉子先生がお電話を下さった。八十九歳、あの戦直後の学校の先生にはお若い方が多かった。数学の牛田先生は佐々木先生よ りまだ一つお若かった。いまもお元気という他の先生方の消息はお一人も先生から聞けなかった。元気なお声で、昔と同じように感じた。わたしの方が労って頂 いたりした。入学したのは昭和二十三年(一九四八)四月。六十八年昔だが、まったくそんな感じはなく、あの当時のままの感覚でお声を聞き記憶を甦らせても 昔を今に成しきって話し合えた。わたしは生徒だから同窓の同期の友を覚えていて不思議はないが、先生はあの後もそれは大勢の生徒と接してこられたろうに、 團彦太郎も田中勉も西村明男、西村肇も、藤江孝夫も福盛勉も桑山嘉三も、女性徒たちもよく覚えていて下さり感激した。あの弥栄中のころの諸先生のこともよ く記憶されていて、話題は尽きなかった。幾久しく御大切にと願わずにおれない、幸いご主人とお二人の日々だと。

 

* じつを云うと…、ああ、云うまい。ただただ内奥の不快に、呻き、堪えている。

 

* 恒彦兄がいてくれたらなと、口惜しい。

いい本に、没頭したい。気分のやすまるモノを読みたい。少年の昔の、「モンテクリスト伯」へ帰ろうか。

しばらく「選集」「湖の本」を休息して、書きかけの新しい創作へ没頭するのがいい。そうしよう。幸い、「繪を描いてください」の「お父さん」とちがい、今のわたしは「書ける」のだ。不快な呻きをぶっつとばす怪作を書けばいい、書き上げればいい。

2016 5/10 174

 

 

* 昭和六一年九月に、脚色依頼を受けた俳優座の漱石原作『心 わが愛』公演は始まった。戯曲は書き上げてあり、しかし舞台での上演には時間という制限が ある、自然、上演のための台本も作らねばならなかった。レーゼドラマとして読む戯曲と、舞台で演じる台本は、いろんな点で用意が異なってくる。その台本 も、極力舞台上演の儘に活字化して置きたいが、なかなかの難事ではあり、意欲の湧く仕事でもある。かかる手間は想像を超える。しかし、面白くもある。

 

* よく人に「文学の才能とは」と聞かれ、本心で応えてきた答えは、すべての創作には「表現」の才能が大切だが、文学の場合のその「才能」は、「推敲・添削」の的確さに露わに現れる、と。直せば直すほど好いとも云えない、的確にとはその機微を謂うている。

このところ、ごく初期創作や中断作の「原稿・初稿」を持ち出しているのは、その機微例を我なりに追認しておきたいからで。まことに推敲は、容易でない。 この「私語」では概してズボラに書きっ放しを厭わずにいるが、本作では、一稿、二稿、三稿はあたりまえで、十度を越す推敲改稿も体験してきた。大事な事だ といまも思う。

2016 5/16 174

 

 

* 仕事は、ひろげた手のまま、どれもみな少しずつきっちり進んでいる。それでいい。

 

* 浴室で一時間、校正。一時間経つと充電ライトが点滅しはじめる。読んでいるのは「死なれて 死なせて」 これは或る意味、わたしという人間と秦 恒平の仕事をうまく代表する好い一面をもっている。政治的現実には全く触れていないが、わたしがわたしを語り抜いてほぼ極めを打っている。小説でこそない が、小説以外で何か一冊をと求められれば、これを挙げたい。

2016 5/17 174

 

 

* 戯曲、漱石原作『こころ』のほかに、当然にも、原作を脚色した加藤剛さんら俳優座劇団が希望の舞台台本『心 わが愛』も、用意しなくてはならなかっ た、いやいや、この方が本来の「注文」であり、戯曲の方はわたしが是非に書き置きたかった。上演時間などに、また出演の劇団員などにとらわれずにわたしは 漱石の小説「こころ」の解釈・理解、その表現に取り組みたかった。ふつう新劇の舞台は、よほど長くても二幕構成で三時間未満であり、わたしの書いた戯曲は 倍近くもの分量と場面を持っていた。

台本の方も、稽古が始まると、演出や俳優からの希望で、新たな場面を加えたり、また省いたりかなり日に日に動的に変容して行くのはあたりまえのことで、 だからたいへんとも、おもしろいとも云えた。ウームと唸ってしまうような追加や削除や変更希望にも付き合わねば済まない、それが演劇の現場だ。

いま、戯曲も文字に組み上げ、台本も現場感を生かしたまま決定稿にちかく落ち着けようとしている作業、懐かしくも、たいへんでもあって、面白く新たな刺戟を受ける。

今では、息子の秦建日子の方がすっかりこういう方面のプロになっているのだが、俳優座で『心 わが愛』の幕が開いたときは、まだ早稲田の一年生であった が、彼ももう目前に五十というトシを迎えかけていて、指折り数えるまでもなく、わたしが戯曲を書いたり台本を作ったりしていた五十歳に近寄っている。思え ばわたしも長生きしてきたんだと、すこし呆れる。そうそう戯曲『こころ』はわが「湖の本」創刊の年の創刊『清経入水』につぐ第二巻めの刊行だったのだ、ま さに俳優座の幕があがるその時の仕事だった。つまり「満三十年」昔のことだ。長生きしたなあ、わたしも「湖の本」も。

2016 5/20 174

 

 

 

* 国会図書館と、京都の詩人あきとし・じゅんさんから選集⑬受領の挨拶があった。あきとしさん、「迷走」の時期を、「牧歌的時代だったかも」と。これ、分かる。分かる気がする。

2016 5/23 174

 

 

* 昨日もらった池田良則さん(池田遙邨画伯の孫、京都新聞連載『親指のマリア』挿絵)の手紙は、いろいろに懐かしくも面白くも興深くてくり返し読んだ。 東京新聞等に連載した『冬祭り』の挿絵を頼んだ、元近所(抜け路地をぬけた新橋通り)の中学後輩の画家堀泰明君とは遠縁というのにも奇遇というほど驚いた し、父の商売仲間であった縄手玉木の息子でスポーツ評論家の玉木正之氏の名も出て来た。彼は、むかしどうみても此の私をモデルかとみられたラヂオ屋の息子 の青春逸話を連続ドラマに書き、京都ではかなりひやかされた事がある。なにしろ主人公の家がわたしの育った家と同じようなところにあって新門前通りを実写 していたのだから。旅館「新門莊」という名も出ており、あれやこれやなかなか懐かしい。『お父さん、繪を描いてください』の主人公は、むろん仮名にしてあ り、実名は大画家須田国太郎、黒田重太郎というお二人だけ、パトロンであった有名な安宅さんも仮名にしてある。池田さんは金沢で画学された人であり、「山 名君」の実像をかなり推理しようと興味をもたれているが、分からないと。

何にしても画家として世に立つ難しさ苦しさにも触れておられ、胸を打たれた。

言うまでもない作中の「山名君」は実在した天才少年であった。その片鱗は三枚の此の私の「肖像」で示しておいた。池田さんも「達者なデッサン」と言われ、他にも感嘆してこられた画家、美術家は何人もあった。

わたしの希望は、どうにかして、彼のせめて個展なり画集なり、実現に手を貸してくれないかなあという事。何必館とか星野画廊とか、ほんとうに目のある主人に観て貰いたいなあと心中に願い続けている。

2016 5/26 174

 

 

 

* 俳優座公演『心 わが愛』台本を復刻している。書き下ろした戯曲『こころ』は明確に私独りの作であるが、台本は、表紙に、「原作・夏目漱石」「脚色・ 秦 恒平」とはあっても、稽古期間中、演出や演技の方から日々に手が入ったり、加わったり削られたり変えられたりと、変身してゆく。あくまで脚色者として提言 したり同意したり難色を示したりしなければならない。「戯曲」と「脚色・台本」との間には微妙な綱渡りの綱が張られて行き、はらはらしたものだ、関心もし たりとんでもないと思ったり。しかも最終的には私の「作ないし脚色」なのであった。

読み返していて、舞台演劇の舞台での成立過程は、まことに微妙な遊動性に揺すられ続けるのだと納得させられる。

書き換え、書き加え、かき消し等々、そして演出者や俳優へ注文もつけていた、つけられてもいた。そういうメモも残っていた。

2016 5/26 174

 

 

* いま、仕事のほかに、バルビュスの『砲火』と『クラルテ』、そして『モンテクリスト伯』とバーネットの『抱擁』 さらにサフォンの伝奇ものを読んでいるが、どれも惹きいれてくれる。

 

* 大デュマの傑作など、ほとんど一行一行、人物の一言一句までもう覚え込んでいるので、読書と言うよりみごとな映像を酔うように追っている感じ。この前 に読んだときはトルストイの『復活』と併行して読んでいたのも思い出す。そしてトルストイの表現のまことにしっとりと美しいのにも改めて感嘆したのを覚え ている。

大デュマは、演劇作家として大いに鳴らした作者でもあった。その力量が小説に面白くて大きな構成を生み出させる。極めの入った大衆小説作家でありなが ら、凡百のつくりものを超えて出た世界大を、戯曲的展開に支えられ、ナポレオン時代の欧州世界の厚みとともに、美しいまでの速度感で描き出す。息子の小 デュマの佳作『椿姫』とくらべてみて、分厚さがよく分かる。大デュマは、はっきりと敬愛を献げてあのゲーテに、そしてシェイクスピアに真摯に学んだ作家で あった。しかも大衆作家であることに終始した。

 

* しかしもわたしが今、自身「小説家」としてつよく意識しているのは、再読を進めている『抱擁』である。これは、あらためて、論考とまでは行かなくてもわたし自身の「小説」作法の検討のためにも、大事に意識し意図して思い深めねばならない。その力を沸き立たせねば。

 

* 六月は、生半可な迎え方では潰れかねない忙しい日々になる。六月一日から、オンコロジイ(腫瘍内科)の検査が来る。三日に、ついに「湖の本」三十年目の第百三十巻が出来てくる。十九日には桜桃忌、いつもに増して心嬉しい日になる。翌日には、三部制の遠し狂言、幸四郎、染五郎、猿之助らの「義 経千本桜」を歌舞伎座で終日楽しみ、すぐ追いかけて、ま、とっておきの「選集第十四巻」が出来てくる。追いかけて、秦建日子が演出の藤原竜也らの芝居があ り、東工大の卒業生と久し振りに会食の申し入れも承けている。それらの間に、「湖の本131」の入稿、「選集⑮」の責了、「選集⑯」の再校、さらに「選集 ⑰」の新入稿がついてまわる。

言うまでもなく、新作小説のすかっとした仕上げへの道のりもまだ続いている。

ま、いずれも、負担なのでなく、気張った楽しみだと云える。同じなら、元気に楽しみたい。楽しみは一つでも二つでも出て来て欲しい。

2016 5/27 174

 

 

* 何といえばいいか、端的に苦境といえば分かるか、とにかくも気の重苦しくてシンドイこの頃ではある。仕事に行き詰まっているとか、健康の悪し き兆しとかいったことではない、どうあっても担いで通り越してゆかねばならない気分の悪い荷を背に負うてこのごろを過ごしている。そんな荷は払い捨ててし まえばいいという考えようも有るが、それはしないと決めている。それだけのこと。

あはれともあはれともいふ我やあるべき

あるはずがなし われは父なり

と歌ったのを思い出す。

なにをしに生きてある身の無意味さを

ふとはき捨ててしごとにむかふ

とも歌っていた。

生きてあるかぎりは 堪えねばならぬか。

 

* 「K」も「先生」も、いはば弱い人であった。誰でもない自分自身に負けた人であった。漱石作「こころ」の主人公は、生きて行く若い「奥さん」と「私」 であった。わたしはいま、英訳された「KOKORO」を辞書など手にせず遮二無二読み進んでいる。ヘンな私ではないかと笑いながら。

2016 5/30 174

 

 

☆ 梅雨近い日々となりましたが、

先生ご夫妻には如何おすごしでしょうか。 街、先日は選集台十三巻拝受拝誦、まことらありがたく、かたじけなく存じました。

此度もは又、あの第十二巻の高峰からがらり一転の二大長編。そして。これらもまさしく正真正銘の秦ワールドに外ならず。とりわけ『お父さん、繪を描いてください』の感動、感銘は、再読にも拘わらず、むしろ一層の深みを帯びて圧倒的でした。

そして、二編をこめてのかかる感動は、おそらく、一読者に過ぎぬ小生が、失礼乍ら 先生とほぼ同世代の日本人に属し、ほぼ同時代の空気を呼吸し、そして 今、このくやしい現代を、ほぼ同じくやしさを噛みしめながら生きている ということと無関係ではない由縁と共に、永く胸中にとどまるにちがいありません。

二編を以って一集とされた先生のお心を思いつつ――。

末筆乍ら 先生ご夫妻のご健勝を切にお祈り申し上げます。 不尽  神戸 昌  名誉教授・歌人

 

* 「編輯」とは、思想と意志と批評の表明であり、汲んで戴けて有難う存じます。「これしかない」という意識の煮つめ方ができたとき、編集者は頷ける。選 集や湖の本にむかうときのわたしは作者・著者でありながら編集者としていい本をと願っている。ほとんど創作と謂えるのである、編輯は。

2016 6/2 175

 

 

 

* さてさて、明日には、作家生活四十七年、湖の本創刊三十年を記念する第百三十巻が、読者のみなさんにヒョイと肩すかしをくわせるような可笑しな一巻になって出来てくる。夫婦とも疲れ気味なので、慌てずに、ゆるりと数日かけて送り出したい。

東工大卒の諸君には縁の濃い特輯なので、あたう限り謹呈したいと思うが、二十年も経ち、住所の確認がきかない、関わりのある卒業生は連絡あれ。また当時友人の住所の分かる人は、教えて欲しい。

2016 6/2 175

 

 

* 晩にも、明日発送のための作業をつづけた。

昨日今日と、多いときは六十册が各郵袋に入った箱を何度も何度も作業場のキッチンから送り出しの玄関へまで運んだ。八十爺がよく持てると我ながら感心す るが、持ち上げるとき腰骨がめり込みそうに感じて、むろん痛い。幸いに痛みはしつこくは続かないでくれる、が、腰は少しずつ前かがみになって行きそう、や れやれ。

こんなことを三十年、百三十回も続けてきたのだ、妻と二人だけで。子供達が手伝ってくれたことは只の一度もなかった。人手を頼んだことも一度も無かった。

思えば、今月の桜桃忌が、「湖の本」の「三十年」とばかり意識していたが、「太宰治賞」からの「満四十七年」、つまりは「作家」生活も「満四十七年」をむかえるのだった。

それなら、せめても「作家五十年」の桜桃忌まで、新創作も、ホームページの私語その他の充実も、むろん「湖の本」も、可能なら「秦 恒平選集」も可能な限り続けてみたい気が、油然と湧いてくる、むろん妻と二人で、である。三年経てば二人とも八十三歳、東京オリンピックにもまだ一年前 だ、丁寧に用心深く生きれば不可能でないかもしれない。

いい歳をして騒がしい男だと笑う人が多かろう、悠々自適できないのかと。お生憎である、わたしの悠々自適は「創り出す日々」にある。現象的には「読み・書き・思う」ことにある。今もこう書き表している「私語」が、畢生の表現となるだろう。

 

* ともあれ、「湖の本」刊行の当面の目標は無事に遂げた。早ければ今日にも送り先へ届きはじめていただろう。

月曜には、ふうっと息をついて、独り乾杯の散策にでられるといいが。       2016 6/4 175

 

 

*  送り出し、明朝の、郵便局経由便をのこし、宅配便は、一応了。

今回記念の湖の本130『秦教授(はたサン)の自問自答』は、わたしの、まるハダカもの。かなり恥ずかしいが、ま、書き置きのようなモノと思って貰おう。

乾杯。食べようと思っても沢山はとても食べられない。食べるのが概して苦痛とは困ったもの。

2016 6/5 175

 

 

* 「湖の本」創刊三十年記念の第百三十巻におさめた「秦教授(はたサン)の自問自答」は、少なくも今日現在で私がほぼ「マルはだか」に語っている自画像のようなもの。ご希望があれば、若干在庫のこしてあり、善悪共にご異見あらば教えて下さい、

下記は、その前置きと内容です。

 

☆  以下は、私(秦 恒平)が、江藤淳さんの後任教授として東京工業大学工学部(文学)教授に在任の全期間に、学部生、院生との毎時間、講義の以外に欠かさず提示し必ず「筆答」を提出させた、謂わば「挨拶(強く押し込んだ問いかけ)」の一覧であります。

問いかけは意地悪いほど難犠でしたが、東工大の学生諸君は、むしろ踏み込んで、いつも、よく答えてくれました。筆答分は400字原稿用紙に換算すれば三万枚、本の百册分にも及んだのです。

 

学生諸君にだけ答えさせて私はそしらぬ顔もいかがかと、退任後も気にして、とうどう私も回答を書こうと決心し、とにもかくにも書いて答えたのが、以下「秦教授の自問自答」であります。

お気が進めば、試みに、みなさんもお答えになってみられたらと思い、「挨拶」を仕掛けた全部の「問いかけ」を、順不同、何の整理もせず列挙しておきます。どうか首を捻ってでもご思案ご批判くださらば幸いです。

曾ての教室の諸君、以来二十年、今なら、どう答えてくれるのかなあ。

 

* まず、東工大学生諸君が書いて答えた「挨拶(問いかけ)」を、順不同に並べます。

 

 

* 故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 * 自身の「名前」について語れ。 * 身にこたえて友人から受けた批評の一言を語 れ。 * 身にしみて学校(大学は除く)の先生に言われた言葉を思い出せ。 * 「別れ」体験を語れ。 * 「父」へ。 * 何なんだ、親子って。 *  今、真実、何を愛しているか。 * 何を以て、真実、今、自己表現しているか。 * 寂しいか。 * 今、心の支えは在るか。 * 真実、畏れるものは。  * 不思議を受け容れるか。 * 秘密をもつか。 * なぜ嘘をつくか。 * 信仰とは * もう一人の自分へ。 * 「位」の熟語一語を挙げて所感 を。 * 「式」の熟語一語を挙げて所感を。 * 仮面を外すとき。 * 親に頼るか、子を頼るか。 * 結婚と同棲 * 死刑・脳死・自殺を重く思う順 にし所感を述べよ。 * 誇れる国とは。 * 今、思うことを述べよ。 * 自由とは。 * (漱石作『こゝろ』の先生に倣って)「恋は( )( )である。」 * 漠然とした不安について述べよ。 * 人間のタイプを強いて一対(例・ハムレットとドンキホーテ)の語で示し、所感を述べよ。 * 何 が恥かしいか。 * 「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 * なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 * セックスについて述べよ。 * 絶対なも のごとを挙げよ。 * 家の墓および墓参りについて述べよ。 * わけて逢いたい「  」先生。 * 科学分野に「国宝」が在るか。 * 清貧への所感 を。 * 「性」の重み。 * いわゆる「不倫」愛に所感を。 * 「参ったなあ」と思ったこと。 * 自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 * 「挨拶」について。 * 今、政治に対し発言せよ。  * 東工大の「一般教育」を語れ。 * 心に残っている「損と得」を語れ。 * 他を責める我を語れ。 * 報復したことがあるか。  * 仮面をかぶる時は。 * 結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 * 一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きている か。 * 「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 * 国を誇りに思う時は。 * 嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。 * 「心臓」と「頭脳」のどちらに「こころ」とふりがかなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 * 「心」とは何か。 *  何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 * 生かされた後悔、生かせていない後悔。 * ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 * 話せ るヤツ、または、因縁のライバル。 * 今「思う」ことを書け。 * いま「気になる」ことを書け。 * 疑心暗鬼との闘い方。 * あなたは信頼されて いるか。 * あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 * 自分の「顔」が見えているか。  * 兵役の義務化と私。 * 何が楽しみか。 * 心残りで いる、もの・こと・人。 * Realityの訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 * 「童貞」「処女」なる観念の重みを評 価せよ。 * 自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 * 何があなたには「美しい」か。 * 何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *  あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 * 「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。 * 井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。* 漠然とした不安、あるか。 * 「魔」とは何か。 *  「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 * 「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 * 「死後」を問う。 * 「絶対」を問う。 * 「祈り」を問う。 *  生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 * 上の短歌に補われた 多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 * 「劫初より作りいとなむ( )堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その 「( )堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 * 落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 * 「春」「秋」の風情を優劣せよ。  * 今、何が、楽しいか。 * 「血」について語れ。 * 集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 * 「事実」とは何 か。信じるか。 * 「絵空事」は否認するか、容認するか。 * 「幸福」は人生の目的になるか。 * 「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。 何故か。 * 毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 * 五年後、新世紀の己れを語れ。 * 今期言い残したことを書け。 * 公園で撃 たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 * 命は地球より重いか。 * 命にかえて守るもの、有るか。 * 喪った自信、 獲た自信。 * 仮面と素顔の関連を語れ。 * 漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 * 漱石作『こゝろ』で「先 生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 * 目から鱗の落ちたこと。 * 「私」とは何か。 * あなたは卑怯か。  * 自分が自分であることを、どう確認しているか。 * 「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。  * 「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 * 「本」を読む、とはどういうことか。 * 先生曰く「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて 「金は(  )、だが(  )」である。何故か。 * あなたにとって「大人の判断」とは。 * 踏絵を、踏むか。何故か。 * 人の「品」とは、どんな 価値か。あなたに備わっているか。 * 「自立」を語れ。  * むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 * 性生活の、生活上健康な程度を、人生(100)に対し、どの水準に設定(予定・願望)したいか。何故 か。  * 「未清算の過去」があるか、どうするのか。 * 「神」は、(人間に)必要か。 * 罰は、当たるか。 * あなたの価値観とは、つまり、どういうも のか。信頼しているか。 * いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 * 二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 * みじかびのきゃ ぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 * 秦さんに今期言い残したことを書け。  * 「死後」は必要か。 * 命とは。命は地球より重いか。 * 運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ない し「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 * 迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 * 「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情 け無用」のどの情けを重く見ているか。 * 「縁」とは。 * 「不自然」は活かせるか。無価値か。 * 「工」一字を考えよ。 * 「花」の熟語を五つ と、好ましき「花」を語れ。 * 「(  )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 * 仮想敵を語れ。 * 「父」とは。 * 虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・ 卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 * 「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。  * 人生は「旅」であろうか。 * 第一原因として「神」を信ずるか。 * 証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *  直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 * 日本のいわゆる「道」を考えよ。 * 親は子を育ててきたと言うけれど (  )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。  * 二十一世紀を語れ。 * 最期に、秦さんに言い残したことを。 2016 6/6 175

 

 

* 漱石作『こころ』をめぐる諸側面を、戯曲・台本と共に一巻に纏める工夫がつき、全体像をほぼ創り上げた。

受賞の記者会見で、感化を受けた、敬愛する作家はときかれ、「漱石・藤村・潤一郎」と躊躇いなく答えたのを今今のように思い出す。藤村にふれてもう少し勉強のあとを残しておけば良かったが。

2016 6/7 175

 

 

 

* 午には「湖の本131」が組み上がってきた。そろそろ「選集⑮」の再校も追いかけてくるだろうし、「選集⑯」の初校戻しももう出来るところへ来ている。

 

* とはいえ、今日戴いた高城由美子さんからの長文のお手紙一通は、さきに送り出した「初校・雲居寺跡」の内容や進行と俄然緊密に関わった、じつに八百年 昔からの家系の表白で、興味津々。機械に入れて保存したいと思うのだが、今夜はちょっと、無理。じつはもあの「初稿・雲居寺跡」はあのまま中断なのが惜し くて、思案の創作メモもたくさんあり、「承久記」を読み返して、今一段サマにしたいと願っていた。高城さんのお手紙はじつに刺激的に有り難い内容で、くり 返し読んで頭に入れておきたい。感謝します。

 

* 京都の木谷妙子さんからは、京・二條若狭屋の竹筒の水羊羹やいろいろの宇治福寿園の銘茶などたくさんに添えて、これまた懐かしい興味深いお手紙を戴いた。

この方は、本を送った先、 藝術至上主義文藝学会の会員で同志社の国文に籍のある研究者の、母上で、生粋の京のご婦人。俳優やドラマへの京言葉指導もされているという。なるほど、ウマ の合いそうな方である。

2016 6/10 175

 

 

* 視野がくらく滲んで、気が晴れない。それでいて、ああもしたい、こうもしてみたいという気は絶えず湧いてくる。むかしからある「千字文」を読んで何か 問題をみつけたいとか、抱えてきた幾つかの主題から選んで纏まった論考もしてみたいとか。気楽に別に書き始めている小説もあり、描きかけの小説の隘路をど う吶喊するかも。

結局出不精になっている。まして出かけて行く「先」を思案する根気が無い。

さ、黒いマゴに輸液して、エドモン・ダンテスのいよいよ始まる復讐の、まずはイタリアでの展開を楽しもうか。

2016 6/10 175

 

 

* 石山寺、国分山の幻住庵、粟津の義仲寺を訪れて芭蕉俳諧の妙趣を美しくあじわう放送大学島内さんの講義を嬉しく聴いた。なんという句境の花と静謐。

他国の侵略を受ければ、まっさきにこういう文化遺産からまっさきに見たかとばかり破壊される。古来それが征服の何たるかであった。命を失うよりも日本の文化遺産の破滅が怖い。争わずに、闘わずに、国の安寧をはかるのが政治であろう。

安倍といい舛添といい、自民といい公明といい、真の愛国をおろかに見失っている。群小野党とて例外と見えない。寒々と「日本」が心細い。

 

* 「誇れる国」とは。

 

日本の敗戦後を体験してきて、政治家達の人間的貧困と強慾、経済人達の人間的醜悪と強慾、社会人としての理非曲直を理解して意思・意志・義務・貢献とし て完遂できず、付和雷同をもって只われ独りの利権・特権を願ってやまない、現に原発問題に対して示されている、政財・行政・私民・国民の精神的脆弱ぶりを わたしは、嫌う。

「誇れる国」とは。

平和憲法への忠誠のもと、国民の最大幸福、最小不幸に向かい政治と生産と国民が、平等に懸命に奉仕する、日本。

政治家が謙遜な公僕として、私民・国民から仮に一時的に預けられた権能行使に、誠実無比で、陰険な悪徳へけっして堕落しない、日本。

すぐれた藝術・文化・教育・家庭生活・社会生活・国際生活が、憲法の基本的人権のもとに、いささかも捩じ曲げられることのない、日本。

国家と国民の危機が、国内的にも(例えば原発)国際的(例えば侵略・侵攻・テロ)にも、国家と国民との強烈な協同・強力が支えた、断乎たる決意と方法とにより適切に力強く克服できる、日本。

 

* 今、真実、何を愛しているか。

「真実」とあるのが難しいと学生諸君も悩んだ。確かに。ここは現実の「人」などを問い返す所ではない。妻も息子も「真実」愛しているがそんなことを答えても問いの真意とは逸れている。

茫漠としてもわたしは「日本」と「日本の歴史」を好悪ともに、真実、愛している。いや、心から愛している、と言ってみたい。その上で、もっと的を絞るなら、日本の文化史を愛し、その中でも日本の古典文学史、美術史、藝能史を心から誇らかに愛している。

 

古事記、萬葉集、古今集、竹取物語、伊勢物語、古今和歌集以下の勅撰和歌集、土佐日記、蜻蛉日記、落窪物語、枕草子、源氏物語、紫式部日記、紫式部集、 和漢朗詠集、和泉式部集、和泉式部日記、大鏡、夜の寝覚、更級日記、栄花物語、今昔物語、讃岐典侍日記、西行和歌、俊成和歌、定家和歌、建礼門院右京大夫 集、とりかへばや、平家物語、問はずがたり、増鏡、太平記、謡曲、十訓抄、風姿花伝、徒然草、好色一代男、好色一代女、芭蕉俳諧 奥の細道 蕪村俳諧 春 風馬堤曲、南総里見八犬伝、雨月物語、春雨物語等々、順不同ながら、尾崎紅葉・幸田露伴・森鴎外・樋口一葉・泉鏡花・島崎藤村・夏目漱石・永井荷風・徳田 秋声・志賀直哉・谷崎潤一郎・川端康成らに至る日本文学の歴史は世界文学に比しても詞藻・文章・表現・思想等においてむしろ卓越している。愛さずにいられ ない。

また、とても言い尽くせないが、縄文式火炎土器や弥生式土器の名品、須恵器・土師器の名品、出雲大社、伊勢の内宮外宮、熊野社・那智滝、河内の応神・仁 徳前方後円墳、大和の箸墓、法隆寺の伽藍・壁画・百済観音等の諸仏、太秦寺の思惟観音像、薬師寺の三尊像・日光月光仏・裳粧三重塔、唐招提寺の伽藍・鑑真 和上像、東大寺の大仏・大仏殿・二月堂の修二会・諸仏、春日大社、大三輪神社、興福寺の阿修羅像、飛鳥寺、馬子の墓、京洛西の蛇塚、嵯峨の天竜寺庭園・渡 月橋・厭離庵、大覚寺の襖絵、仁和寺の五十塔・襖絵、妙心寺の瓢捻図、知恩院の早来迎図・三門・大釣鐘、清水寺の舞台・絵馬、八坂神社境内・西楼門、建仁 寺の風神雷神図、南禅寺三門・永観寺の寝殿・見返り阿弥陀・来迎図、山崎妙喜庵の茶室待庵、黒谷墓地の三重塔、泉涌寺境内・来迎院庭園・山陵群、東福寺三 門楼上・僧堂・通天橋・普問院庭園・奥庫裏庭園・扁額「方丈」、智積院の庭園・等伯画桜紅葉図屏風、三十三間堂・千体仏、法住寺三門・後白河院御陵、青蓮 院・好文庵茶室・庭園、養源院の宗達「松」図屏風・宗達画板戸、清閑寺・御陵、平安神宮・庭園・大鳥居、円山公園、下鴨神社・糺森、上賀茂神社、京都御 所、同志社大学のチャペル・栄光館、光悦寺境内、光悦宗達書画巻、六波羅蜜寺の清盛像・空也像、瓢亭庭園、楽代々の名品、表千家・裏千家・藪内家の茶室と 露地、大徳寺真珠庵等の庭園・茶室・狩野永徳等狩野派襖絵の名品、金閣、銀閣・等求堂書院、法然院境内・狩野の襖絵・作家谷崎・画家の墓、白川道、祇園 町、三條大橋、東寺境内・五重塔・金堂講堂の諸仏等々、今は言い尽くせない。

藝能では、能、歌舞伎、茶の湯、生け花、聞香、祇園会等々の祭礼・行列、また花街祇園・島原・上七軒・先斗町・宮川町等の遊藝・接客・歌舞・音曲、また さまざまな料亭・割烹・製菓・製茶・扇子団扇・竹藝。陶藝、金工・錺また紙芝居・ちんどん屋等の大道藝、物売りの藝など、万般にわたってわたしを魅了し引 き寄せられてきた。

これらが有っての「日本文化」であり、そういう我々の文化をわたしは、真実・愛している。

 

付け加えれば、現在共生の愛猫黒いマゴ、またわが狭庭に葬った亡きネコとノコの親子を、妻と倶に真実愛している。わたしの奥津城は彼らのそれて同じでありたい。

2016 6/11 175

 

 

* このところ半世紀余もむかしの私家版で「畜生塚・此の世」「斎王譜」を読み返している。いずれも徹底推敲して後に「新潮」に発表したり文庫本になった りしている、が、推敲以前の原稿にもそれなりの動機が籠もっているのを確かめて置きたいから。この「読み」が、このところ選集での重い気分をすこぶる慰め 励ましてくれる。推敲すれば作品は良くなるが、原稿には、言いしれぬ作への動機が息づいていて、無意味ではないのだ。「清経入水」でもそれを確認できた。

 

* 「作」と「作品」とは意味がちがうと言ってきた。

いざ、読みかけてみると、堪らない俗な臭みに顔を背けるように頁を閉じてしまう本がある。よくある。ひとごとながら情けなくなる。そこが文学と読み物と の決定的なわかれだ、近代の文学全集がガンとして通俗読み物を入れなかった矜持を大事に思う。角川の「昭和文学全集」は、京都の昔に、高校から大学への昔 に小遣いで買い集めた初の文学全集だったが、中に吉川英治の「親鸞」一冊が入っていた。読めば読み物なりに面白かった、だが、藤村や漱石や直哉や潤一郎の 文章とは、太宰治の文章とも、歴然と「作品」が違っていた、文学の「品」位を決定的に欠いていて、その落差のはげしさに、わたしは、莫大にモノを教えられ た。文学作品の香気を教えられた。直木三十五の「南国太平記」も、読み物としてオモシロイは面白かったが、そこで文章や表現がトマッテしまって痩せた貧し さは蔽えなかった。

2016 6/12 175

 

 

* このまえ、久しく棚上げにされていた「チャイムが鳴って更級日記」をとにかくも形をつけて「湖の本」におさめた。「初稿・雲居寺跡」は中断の儘で「湖 の本本」に入れた。この中断作を仕上げたい気が動いている。なんとか、やってみようと思う。やれるという気が兆している。二宮のご夫妻高城真・由美子さん から戴いた長文のお手紙に刺戟を受けた。すこししつこく小説の形をおいかけてみたくなった。新しく書き継いでいる「仮題・清水坂(本題は秘しておきた い)」そして「ユニオ・ミスティカ」があり、「初稿・雲居寺跡」も新たな表題と主題とをもってすこし強引にでも新しい顔の歴史語りに創りあげたい、と願っ ている。

2016 6/16 175

 

 

* 「追想のほんやら洞」から、京大の依田高典教授の経済学者森嶋通夫教授と兄北澤恒彦との交情に触れた一文を、機械へ取り込んだ。「北沢氏の生涯は、編集グ ループSURE・編『北沢恒彦とは何者だったか?』に詳し」いと書かれてあるが、甥の北沢恒(作家・黒川創)や姪の北沢街子らが関わっていたそのSURE で編んだ兄恒彦を語る冊子に、わたしは一瞥の機会も得ていない。つまり、わたしは兄が「何者だったか?」実のところ何も知らない。兄にもらった少しの著 書、多年に亘りもらっていた手紙、最期(依田さんの文にも書かれているように、兄恒彦は自殺していた。)にちかい時期に交換していたのメールなどでしか、 兄が分からない。生前の兄は、彼自身の属していたらしい社会とはまるで無関係に、ただ弟で作家であるわたしやわたしの家族に向き合ってくれていた。も生ま れながらバラバラに人手で育った兄と弟としての再会感覚と親しみとだけで、懇談の機会すらせいぜい一二度、その余の出逢いはいつも立ち話程度で行き分かれ ていた。甥も姪も「秦さんには必要ないだろう」とでも思い、送ってくれなかったのだと思われる。

依田さんのその一冊子によって書かれてある、われわれ兄弟の生母や母方祖父の事情には、無理もないが、その辺は長編『生きたんりしに』を書いたわたしほどの正確に近い情報量は有る筈も無く、明らかな事実違いも認められる。それは致し方もない。

 

* 母を書いた。母方の祖父や親族に関しても、身を働かせて多くを知り極力慎重に知れた事から母方世界をわたしは書いた。父方世界へも踏み込んで書いた。

兄恒彦については、彼自身の著書や発表しわたしへも送ってくれた文章はともかくとして、青春期の兄の像は、多く生母のことばや母から兄に宛てていた手紙からしかわたしは知るすべなかった。甥や姪達に聞くという真似は意識してほとんどしなかった。

江藤淳が自死し、半年もせず北澤恒彦も自死した年に、わたしは『死から死へ』を湖の本に入れたけれど、それは「死」の問題にしか触れ得ていない。で、も う一度、兄について別な確度と視野からあくまで「弟の作家から」という視線で書いておきたいなあと、思い至っている。誰のためにでもない、北沢の家族に向 かってでもない。「わたしの兄・恒彦」を思い起こしたいのだ、そのよ手だて・材料には、甥や姪の生まれる以前から、わたしに宛てて書かれいつのまにか溜 まっているはずの恒彦書簡を、少なくも独りで読み返してみたいなあと思っている。そして書くなら、小説世界を創りたいのだが。じつは、まえまえから秘かに 抱いてきた着想もあるのだ、が。

しかし、それだけの時間がわたしに残っているのかなあ。

ともあれ、半世紀余の全来信(一応一年ごとに分類してある)から、手紙や葉書を取り集めねばならない。ま、そのついでに今は不要と考えていい来信ものを処分して家の内にすこしでも空き地を作っておかねば。

 

* 九時半。もう眼が、ダメ。

2016 6/17 175

 

 

* 最期になるかどうかは措いて 「光塵」以後の新しい歌集の、永く惑っていた「表題」を、昨夜定めた。

 

亂聲  らんじやう

 

残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。

亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。

 

* 催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など華やかに賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲(らんじょう)」と謂う。

今日、編輯始める。

2016 6/19 175

 

 

* 今月はこのあと、月末に、師匠の「つか芝居」を建日子が初演出の舞台がある。

そして七月一日からは、選集第十四巻の送り出しになる。この巻はバラエテイのそれなりに面白い一巻になっている。

2016 6/19 175

 

 

☆ 秦 恒平様

「湖の本」創刊満三十年、

通巻百三十巻のご刊行を

お祝い申しあげます。

 

今号も、秦教授(はたサン)の自在に乗って

存分に楽しみ、考えました。

 

ご厚誼をいただきつづけたこと、

改めて感謝いたします。

 

二○一六年六月十九日   敬   講談社 元「群像」編集長出版部長

 

* 晴れやかに赤く粧われた「お祝 CELEBRATION」の厚手折紙に挿んで詩のように書いて頂いていた。知己の芳情、謹んで頂戴した。ちなみに謂う が、わたしは雑誌「群像」とは、ほとんど縁無くすごしてきた。単行本は「初恋」「茶ノ道廃ルベシ」「愛と友情の歌」を出して貰っている。もう騒壇余人を自 称の後に亡き「群像」の鬼編集長大久保房男さんや、大久保さんの後輩、徳島高義さん天野啓子さんの知己を得てきた。こういう人生があるのだなあと思う。

文藝春秋専務だった寺田英視さんの手厚い紹介があってこそ「湖の本」を、また「秦 恒平選集」を凸版印刷株式会社には三十年、渋い顔ひとつみせず応援してもらえた。

新潮社の前の「新潮」編集長坂本忠雄さんの毎々欠かされぬ声援も、どんなにわたしの励みに力添えて頂いたことか。

「湖の本」は、そもそも朝日新聞社の伊藤壮さんの親切懇篤な応援があって一気に軌道に乗ったのだった、その前に福田恆存先生のまだ若い、もっと書きなさ いという激励を戴き、騒壇余人の「湖の本」を敢行したのだった、すぐさま永井龍男先生からの励ましと、大勢の購読者紹介があった。福田先生も読者をご紹介 下さり、いまもなお奥さんは湖の本を購読していたくださる。

なにごとも独りで我のみでは成らないのである。そのためには、仕事の質と真面目とで信頼を得、応援して頂くしかない。

 

* 太宰賞選者の中村光夫先生は、ある音楽会のはじまる前のロビーで、「あなたのような人がもっといなくてはいけないんですが」と、励ましてくださった。 臼井吉見先生は篠田一士さんとの対談でわたしの秦の名前を出され、お二人で「いまも、この後にもとても大事なひとになります」と話されていた。唐木順三先 生は機会をとらえてはわたしにふれて書いて下さり、著書の書評にはしばしばわたしを希望して下さった。「わたしなりの道をゆきます」と授賞式の日に広言し て「そんな道あるのかい」と一瞬に私をして頓悟せしめられた河上徹太郎先生は、その後も蔭なららのお励ましを何度もくだった。

小林秀雄先生は大著「本居宣長」を出されるとすぐお名刺に「謹呈秦恒平様」と書き入れて勤め先へ人を介し贈り届けて下さった。井上靖先生はご自身で電話 を下さり、中国へいっしょに行きましょうと誘って下さった。江藤淳さんは東工大自身の後任教授にわたしを指名されていた。

 

* もくもくと、ひたすらに仕事してきて、顧みれば、びっくりするほどの知己の励ましにわたしは恵まれ続けてきた。望みが先なのではない、仕事が先を歩ん で行く。眼のある人はわたしを観ていない、仕事を観ている。そしてそんな仕事をしていたわたしにも気がついてくれるのだ。

2016 6/20 175

 

 

* 機嫌の悪い体不調ではあるが、思い切って、というより、ふと思いつき思い至って、新作中の小説のために「勉強」を始めたのが、なんだかズンズン面白く 嬉しくなって、あたまの中へ相当な栄養分を蓄えたと思う。どんなとか何をとかはナイショだが、大岐に役立ちそう、役に立てたいと腹を括っている。これで、 今日一日、ムダにならなかった。ホクホクしている。このさきは、わたし自身のノーミソをつかうだけ。真夜中、めが覚めてしまっても、暗闇を睨んで思案の種 はいくらでも有る。

九時半。

今日はくろいマゴを医者にみせ、輸液も投薬もされていて、このまま床について好きなだけ本を読んでもいい。テレビも、滅多には面白い番組無く、やたら現れる安倍の顔など、見たくもない。

2016 6/27 175

 

 

☆ 切れ切れに

読んだ「湖の本130」に続いて「12」9を一気に読了、エッセイ1「蘇我殿幻想」へ戻り…と、久しぶりの「読書」を楽しんでいます。

「亂聲」と新しい歌集の名をうかがって最初に浮かんだのは、「夢幻の如くなり」でした。「敦盛」中の言葉でしょうか。

三十年の節目の桜桃忌を迎えて紡がれる「歌」が華やかで、艶やかでありますよう、「歌集」が成りますよう願っています。  岡山  九

 

* 偶然の一致かたまたまわたしは今夜「敦盛」と向き合っていた。ただし、心がけている「亂聲」が華やかで艶やかにまとまるかどうか、かなり「みだりがわしく」チンドンヤの鳴り物めいて乱雑かもしれませんよ。

 

* 作家以前というと、習作時代のようであり、事実そうに違いないが、その頃の仕事が、のちのちにいろいろに仕上がっていった。「或る折臂翁」を初めと し、「懸想猿」「畜生塚」「或る雲隠れ考」「斎王譜=慈子」「蝶の皿」そして「清経入水」など、みな「作家(受賞)以前」におおむね仕上がっていた。

そんななかでも最も手を掛け手を掛け手を掛け続けて苦辛を嘗めたのが、「或る雲隠れ考」であったのを思い出す。そのおかげで「選集」に収めたときも、なにとなくとても心嬉しかった。

ところが、その「或る雲隠れ考」の発想構想から推敲推敲の苦辛工夫を具体的に掴める「思案書き」がガバッとモノの中から現れた。ひょっとして手書き原稿も、一種と限らず家の中に隠れている気がする。

 

* 明日は建日子演出の芝居を見に行くが、一日、保谷へ顔を出そうかと電話呉れた。一日朝から、選集の送り出しで、家中のどこにも座ってもらえる場所がない。今回は、パスとあきらめた。

 

*  掻いた作が出回りだした頃、云われ云われて決まり文句だったのは「秦さんのはムズカシイ」と。なんで?と解しかねていた。

だんだんに分かったのは、漢字が読めないのだと。

それで、ルビを振った。ルビ不要の読み手が多いとは分かっていたから、ルビを嫌われると思いはしたがなるほど読めない人には読んでもらいたいと、ルビを 優先した。今此処で書いている文章ならなにも難しくはあるまいが、なるほどわたしの小説で、ふつうの読者が読めないといわれる語彙や熟語はやたら有る。

「点前」は、茶の湯では「てまえ」だが、茶の湯に縁のない誰でも読めるとは云いきれない。茶の湯、能、古典、歴史、古美術、工芸、そして人名など、ルビ なしでは読めない、ムズカシイと云われれば、せめてルビをふっておくしかない。別の言い方で置き換えると行った真似は、表現や文学の音楽からも安易に、軽 率に、は為しかねる。

ルビは、とにかくも漢字を発音として読めればいいとし、ルビのかなづかいなどムリには気にしていない。「秋色」は「しゅうしき」と二字漢字からハミださ せず、「しうしき」で良いとしている。ルビは漢字を読む方便として用いている。「阿若丸」なら「くまわかまる」でいいが、「西行」ならあえて「さいぎょ う」でなく、「さいげう」としてルビ長で字間が弛むのを避けている。

2016 6/29 175

 

 

☆ 今年初の猛暑日

発送作業の追い込みに難渋なさったことでしょう。

午前中の幾分か涼しいうちに週末の家事を気ぜわしく片付け、昨夜から読み始めた「お父さん、繪を描いてください」を息を詰めるような心持ちで一気に読了しました。

同時代を生きた二人の芸術家の内奥に踏み込み、抉りだしていく「私小説」(事実如何は問題でなく)。

「湖の本」で拝見した時は、同時期に日大芸術科から藝大を出て銀座のデパートで個展も開いた画家の義父(当時は存命でした)の姿も重ねて読んだように思 いますが、いつの間にか「上」を失い、自身も五十の坂を越えての十数年ぶりの再読は、まるで初読のようで、「把握が強ければ表現も強くなる」、「私生活の 微妙さに煽られない芸術の創作はありえない」、「言葉なんて。」…幾つもの箇所で立ち止まり、また先を急ぐようにして読みました。

「寂しみ(闇)を抱いた」阿波野千繪(三輪京子)や「妻」が、幸田や山名にとって結句、どういう存在であったか、ありえるのかも、前回以上に気になりました。

夏バテなさらぬよう、お気をつけください。   小日向  九

 

* 最後の「気」がかりは、処女作とも云える「畜生塚」このかた作者がひたすら引っ張ってきた懸案。この「気」がかりは、幸田や山名が、千繪(京子)や妻にとって結句、どういう存在であったか、ありえるのか、という問いと、一対をなしていなくてはならないのだが。

とほうもなく難しいのである。自問自答は、作者に科された罰なのかも知れない。

2016 7/3 176

 

 

☆ 『秦 恒平選集』第十四巻を拝受いたしました。

各巻ごとの編集の妙に、またそれに相応しい内実の蓄積に感嘆しているのですが、本巻も驚嘆です。存分に楽しませていただきます。

前巻掲載の「迷走」(三部作)遅ればせながら拝読。秦さんが、このような”人間臭い現実”を作品化されていたことに驚きました。労働組合が不思議な力を 持っていた時代、私は幸か不幸か闘争に深くかかわったことはなかったのですが、同時代にすぐ傍にいたものとしてリアリティ以上のものが押しよせてきまし た。

これもまた秦文学の世界なのですね。

今夏は格別の暑さになりそうです。どうぞ呉々もご自愛下さいますように。

いつもながらのご厚意に御礼申しあげます。  敬  講談社役員

 

* まだまだ騒壇人で働いていた頃、講談社からは、単行本『初恋』『冬祭り』『愛と友情のうた』『茶ノ道廃ルベシ』など出して貰い、秋成の書き下ろしは書けずに迷惑をかけたりしていた。

しかし、なによりかより講談社とのご縁で感謝に堪えなかったのは百十巻前後の「日本文学全集」の配本だった、最初の配本は谷崎潤一郎集の一、わたしたち が上京し就職し結婚してまだ間もない頃であった、貧の極、大学院での奨学金の残りで敢然と購読し始め、その月々の一巻一巻がわたしの文学教室となった。読 みに読んだ、作品はもとより各作家詩歌人批評家らの「年譜」まで目を更にして読んだ。あの出会いがなかったら、わたしの文学人生ははるかにやせこけてとて も半世紀など保たなかったろう。

俳誌「みそさざい」主宰の上村占魚さんの丁寧な紹介があってかつて「群像」の鬼編集長といわれた大久保房男さんにも親しくして戴いて、もう「騒壇余人」 になっていた身でずいぶん心強い文学のちからを戴いていた。徳島さんや天野さんともペンの理事会や会合で出会った。このお三人からはあの「日本文学全集」 編纂に立ち会われたであろう文学の香気がいつまでも感じ取れてそれが有り難かった。

2016 7/9 176

 

 

* 明日は参議院選挙。この國の  いや、書くまい。源氏物語を読み、「砲火」を読み、自分の小説を読む。詩を読み和歌を読み、芭蕉や蕪村を読む。そして小説を書く。   2016 7/9 176

 

 

* 『斎王譜』を読んでいる。「慈子」と在る、最も幸せな読書。このヒロインを世に出してわたしは男性の読者を多くつかみ、女性の読者を手放したとまで編 集者に観測された。こんなに佳いヒロインを書いては女性は離れるんですと笑われた。まさかと思うが。わたしは、最上徳内や新井白石を書きはしたが、圧倒的 に多く、すてきに佳い女ばかりを絵空事の主人公に書いてきた。なかばわたしはその世界に住んでいた。

2016 7/13 176

 

 

* 今日は、三つ、小説に手を掛けていた。息をつめている。そして「選集⑰」の校正。 2016 7/17 176

 

 

* 「HP コンテンツ備要」を印刷、項目だけで 42頁に及んだ。それも、内容の分かっている「日録」先月までの176ファイル分は外してある。好きな言葉でないが、モノスゴイと我ながら驚く。

ネット操作から離れたワープロ機能での原稿と文書の貯蔵は、重複も含めて、さらに莫大なフォルダとファイルの満載で。

2016 7/20 176

 

 

* 『慈子』の原作「斎王譜」を読んでいる。わたしの魂のかけがえない「故郷」が、この作には在る。この作に取り組もうとしたとき、「世にも美しいかぎりの小説を書く」とわが声に出し、書き始めたのを昨日のことのように記憶している。明らかに「畜生塚」を承け、そして「或る雲隠れ考」へ。この三作がが三部作としての糸を紡いでいるとは、まだ指摘した人がいない。

2016 7/20 176

 

 

* 「清水坂(仮題)」と「ユニオ・ミスティカ」とに手を入れて行く。後者は仕上がりに近いのだが、密封しておくべきか。

2016 7/24 176

 

 

* 「ユニオ・ミスティカ」 現在、450枚ほどでほぼ出来ている。が、三部構成の、めいめいにガランゴロン、ガランとまるで違う音響で鳴っているような放埒に、作者自身が戸惑って遠慮して縮んでいる感じ。

「清水坂(仮題)」も、展開が手の舞い足の踏むところない暴れようで、なだめ静めるのに苦労している。これは、手を掛けている割りに量的には長いという作ではない。アッとおどろくタメゴローのような題材化している。わたしがいちばん今、ガマンしている。楽しんでもいる。

2016 7/27 176

 

 

* 漱石は、岩波から「心」を出版のさい、いわば広告文を自ら書いていた。自作を「作物」と呼び「作品」とは謂っていない。漢学にも造詣の深かった漱石 は、創った「小説や文章=作物」を自ら「作品」とは謂わなかった。「作・作物」に「品・作品」が備わっているか否か、自作については自ら云うを避けていた のである。創作という行為は、ヘホ゛にも達人にも可能であるが、それが「作品」を備えて立派に美しいかどうかは、まったくの別ごとである。わたしも、迂闊 に自作を「作品」と自称していた時期が長かった、が、間違っていた。しかし、気持ちは、常に作品の備わった創作を都願ってきた。云うまでもない処女作いら いのことである。通俗読み物を書かず、下品・雑駁に文をやることは慎みつづけてきた。「選集」を自選し始め読み返しはじめて、確信がもてた。それだけでも 選集に踏み切った甲斐があったとおもう。

いくら調べに調べての労作であれ、才走った意欲作であれ、下品ななぐりがきの文章からは、文学・文藝は決して生まれず、「作品」は成らない。鏡花ははじ め例えば馬琴を好んでいたが、いつしか、あのねちねちの書き込みを厭うようになり、むしろ一九の膝栗毛に作品を覚えていた。わたしはそこまで膝栗毛を味読 し切れていないが、馬琴に関しては鏡花の厭悪を実感として受け容れる。

著作は、才弾けた人ならだれでも出来る。しかし、作品が認められ愛読されるには、謙遜な自覚と独自の文体が必要である。漱石の「作物」は、少なくも私にとって敬愛のほかない「作品」を備えている。

2016 7/29 176

 

 

* 鎌倉の橋本ご夫妻から、銀座千疋屋のジュース二種を頂戴した。

 

☆ 選集第14巻

有り難く頂戴いたしました。

お礼が遅くなってごめんなさい。

私達夫婦は、良い読者でいること以外に

お礼の致しようがないほどです。

少しでも体によいものを、

と思いジュースを送らせていただきます。

ご夫婦そろって、

この夏を乗り切ってくださいますように。

本当に有難うございました。

静  美

 

* 美しいお便りを。ありがとう存じます。

橋本さんには、まえに、「初稿・雲居寺跡」へ深くかかわる鎌倉武士家の今日へも到る系譜で長文のご教示のお手紙をいただいている。時間を得、集中力をかきたてて、あの作をより良い作にまで漕ぎ寄せたいと願っている。

2016 7/30 176

 

 

* ソシアルネットが、わたしからは開けないいろんな人の書き込みを報せてきて、ホンのすこしは何がいわれているか分かるが、身に沁みて全部読みたいと思 うモノは無い。息子もしょっちゅう呟いたり写真を加えたりしているらしいが、全然見えも読めもしない。願わくは、じっと胸に溜めた思索や苦渋や奮起の思い は「私語」の闇に秘かに書きためて後日に託した方がいいのにと思ったりする。

 

* 息子ではない、もう六十すぎた男性が、近年の発起で短歌に心を寄せ、或る大きな歌誌に加わったのはいいが、いきなり「賞」を狙って応募したりしてい る。それも励みになるのだろうが、「賞」のために創作される短歌とはどんなものかなあと、シラジラとしてしまう。創作には必然とまた得も言われぬ自然とが 力になる。賞狙いなど、そのどちらでもなく、よそごとだが、気色が悪い。

 

* 小説のために京都市東山区地図を長時間、見えない眼で見続けていて疲れたけれど、いろいろ仕事をし続けてもいた。無理が多いかなあ。

2016 7/30 176

 

 

* 心身障害で施設入所の老若を大勢殺した、世界でもまれに異様な犯罪が日本で起きてしまった。問題の根も深く、ひろがりにも容易ならぬ毒の蔓延が想われる。

それにつけて、私にも、今、思うことが在る。次回刊行の選集「第十五巻」二作の、とりわけ最初の「ディアコノス=寒いテラス」。

これまで、秦 恒平作で、世界に、世界の言葉で直ぐにも持ちだせるのは、これですねと二度、べつの人から言われた。一言二言では言いきれない、しかし、紛れなく心障の少 女と健常の少女の葛藤であり、背後に、善意の教師と母とが向き合っているが、善意の質はきしみ合うほどズレている。

「愛は可能なのか」と問うた作だったが、「愛」の問題だけで済まない、国・社会・人々の過酷な空気も問題になり、現に世界を騒がしている難民や差別の問 題へ真っ向衝突してくる。「反差別」と「反戦」は処女作いらい作者の一貫した主題であるが、なかでも今日的な難所をいち早く指摘し表現した作になってい る。品隲をお願いしたい。

 

* 昼過ぎに建日子帰ってきて、母と、投票に。しばらく寛ぎ話してから、次の池袋での用事に出かけて行った。

いくらか降ったけれど、それよりも濃厚に負担のかかる暑さで参る。三人とも、ふらついた。もう五時過ぎて、なおぎらぎらと障子窓の外が西日に熱している。

原作『斎王譜』で今日は「お利根さんの話」を聴いている。この作の中に、すでに「蘇我殿幻想」や「チャイムが鳴って更級日記」も芽生えていたと分かる。 「美しいかぎりの小説を書く」とひそかに口にも出し力んでとりくんだ作であった。大勢の「いい読者」らといっとう早くに出逢えた「慈子」の原作である。昭 和四十年(一九六五)四月三十日に稿を起こし、四十一年五月二日に一応仕上げていたと、私家版巻末に記してある。半世紀前、ちょうど三十歳、むろんはるか に「作家以前」の作だ。

 

* 「お利根さんの話(一)」を逐一言葉を追い押さえて、読み終えた。保谷でも、平成でも、都知事選でも、乱れ騒ぐ世界でも、リオの五輪でもない、そんな類をものの見事に消失させてしまうまったくの静謐・清明な別世界に今日はひたっていた。

それが、文学・文藝として良いことなのか、宜しくないことなのか――。そんなにも静かに現実世界から世離れていて、そんな小説世界はお遊びにすぎないのかどうか。

むろんわたしは、今でも「斎王譜」の描いた来迎院の日々、慈子との、朱雀先生やお利根さんとの世界を、深く深く慕い続けている。わたしの「生きる」の少 なくも一半は其処にこそ厳格に実在していて揺るがない。幸せという言葉で自身人生を思うとき、来迎院ははかりしれない深さと重さとでいまも私を魅する。 ま、笑われ嗤われるだろう、だからわたしは「騒壇餘人」であり、むしろ先に挙げた現実世界のあれこれを「ウソクサイ」とじつは嫌うのである。しかしいくら 厭おうとも「あの世」へ帰るまで私はこの現実を生きる。懸命に生きるしかないではないか。

2016 7/31 176

 

 

* 「来迎院」の静かさ、懐かしさが、天与の甘露に感じられる。

そして……、久し振りに「梁塵秘抄・閑吟集」世界へ帰って行こうと、旅支度している。

2016 8/1 177

 

 

*  朝から原作「斎王譜」を叮嚀に読み返していた。疲れると階下へ降り、デッキチェアでうたた寝したり、横になって読書したり。

2016 8/2 177

 

 

* 柏叟筆「閑事」の軸を掛けた。いま、この二字にどうかして沈潜したいと、ついつい強く願っている。

今少しわがことに寄って願わくは、「来迎院」を胸の内へ今一度迎えとりたい。思いたい。

2016 8/4 177

 

 

* 「斎王譜」を大昔の私家版を参照して原稿を作っているが、絃歩の版面が薄れてきていて、霞んだ眼ではなかなか読み取れなくて弱り弱り、それでももう30頁ほどで済む。その30頁ほどがしかし大変で、読了まで一週間かかるかも。

2016 8/4 177

 

 

* 「亂聲」編纂に手を染めた。

2016 8/6 177

 

 

* 「斎王譜」をもう少しで読み遂げる。じつに、読んでいてわたし自身が息苦しく、おそろしい。おなじ事が「畜生塚」にも言える。

 

* さ。明日は炎暑に燃え上がらないよう気をつけて聖路加へ出向く。月曜で美術館は休み、他のどこへ寄ってくる元気もあるまい。校正ゲラを多めに持ちながら、せいぜい早く帰路につこう。家には手をかけたい仕事がどっさりある。

 

* 色んな仕事をした一日。黒いマゴに輸液して早く寝る。明日は朝の出が早い。

2016 8/7 177

 

 

* 「畜生塚」と「斎王譜=慈子」とに、男の作者として崩折れるほどしんどい、つらい目を見ている。私家版の「あとがき」にも明記されているように、わた しはこういう小説を書こうとした最初から、「いやな、わるい男」を結果造形しようとしていたらしい。男は、よくない、わるいという、斬りつけられたような 先入主には、おそらく、実の父と生みの母の問題へ、ろくにモノも知らず分からずに先入主を積み立てていたのだろう、か。処女作の「或る折臂翁」にすでに明 らかにあまりに可哀想な「弥繪」が書かれる。シナリオ「懸想猿」も露骨にそうだ。「畜生塚」「斎王譜」「或る雲隠れ考」「清経入水」「みごもりの湖」「廬 山」そして「風の奏で」も「冬祭り」も「あやつり春風馬堤曲」や「秋萩帖」も、みな「いやな男」にいい女が苦いからい目に遭っている。もとよりわたしは実 話など書かない、が、わたし自身に相当する男の語り手をとても「いい人」には結局書けないで来たらしい。わたしをも含めてわたしは男が嫌いなのだ。信じ切 れないのだ。

秦 恒平論を書いてくれている人は、そんなことも読み取っているのだろうか。

 

* 長編の原作「斎王譜」を読み終えた。おもわず顔を伏せている。

 

* 明日、選集第十五巻が刷り上がってくる。本の納品は二十二日。

2016 8/8 177

 

 

* 「湖の本132」を入稿し、「選集⑱」の入稿用意も進んでいる。

わたしは小説家である。しかし批評家として、言論人としても仕事をし続けてきた。それらを下支えて分母となってきたのは、大学で文化学科に所属していた「文化学」「日本文化学」であったと、今にして、シカと思い当たる。それをさせてくれるもう一つ「底=其処」の思いは、「閑事」にほかならぬ「一期一会」である。

2016 8/9 177

 

 

☆ 鞆の浦から敷名の浜へ。

内海大橋を渡って田島、横島まで行ってきました。

真白な大橋の袂には、高倉上皇が厳島詣の帰りに大納言隆季に歌を詠ませた〝千年藤″にちなんだ藤棚。ゆるやかにカーブを描く八百メートル余の橋からは、 鞆の浦に上陸した平家方・能登守教経らが陣取った能登原(能登原・平家谷では、討死した通盛も入水自殺した小宰相局も影武者だったと長く言い伝えられたそ うですね)も、源氏方・与一らが陣した田島も一望。

海岸線に沿って走った鄙びた島には、強い日射しも厭わず釣り糸を垂れる人がぽつりぽつり。沖行く小舟ものんびりと。かつて激しい合戦が繰り広げられた海とは思えぬからっとした明るさでした。

春に読んだ「資時出家」「初・雲居寺跡」に継いで、『風の奏で』を再読したところです。

「嘘も本当にしてしまう力さえあれば」とは、死なれ、死なせた者達の大いなるモウンニング・ ワークたる「平家物語」の、『風の奏で』の基本姿勢でもありましょう。

昨日は父の里の墓参りの帰りに美星町(井原市)の天の川祭に寄りました。

願いごとを書いた無数の灯籠を道に置き、一つ一つに火を灯して天の川に見立て、祭りの最後に願い事が成就するよう祈願し、一つの炎として天に届けるというお祭りです。

車の進入も禁じた灯のない街に揺らめく火は少し幻想的でもありましたが、井原市では今月下旬に与一祭も行われます。

合戦での功績から地頭職を賜わった荏原庄(井原)には、与一が屋島の合戦で弓を引く際に破り捨てた片袖を祀ったという袖神稲荷、那須氏の菩薩寺の永祥寺や与一の供養墓など縁の史蹟があり、与一を偲んで古典芸能祭や西日本弓道大会も開かれるそうです。

今日は街で買い物のついで、地酒をお送りしました。

「一番自信を持って贈れる地元のお酒を」とお店の人に言って出してもらった品です。お口に合えばと思います。

早ければ明日の午後、お盆なので明後日以降になる場合もあるとのことです。

元気にお過ごし下さい。   桃

 

* これは羨ましい。敷名は、今も苦しんでいる小説中に役だって欲しいと心用意してものの本では調べていた瀬戸内の要地、残念ながら行けていない。今日へ も瀬戸内へも、今は出向けない。詳細な地図など四国の木村さんに戴いて始終眺めており、関連の映像が見られそうなときはテレビに張り付いたりしているのだ が、分厚い実感が欲しい。

2016 8/14 177

 

 

* 大きな決断をした。

私の「選集」 現在十八巻まで入稿してあるが、当初、第一期分を「十七巻」でと予定し刊行を始めた。このまま続けるには造本材料の纏めての用意が必要に なるが、今後、どれほど巻数を出しますかと、印刷所に聞いてこられた。からだが保つかという心配無くもないが、この老境を、清閑でもありたししかし精悍に も生き抜いてみたくあり、思い切って「全三十三巻」での締めくくりをと思い決めた。私家版このかた、所詮は文学ひと筋を生き通してきた。妻とふたりで、さ さやかにも力を分け持って、行けるところまで行きたいと決心した。息子は両親の「破産」を心配しているらしいが、心配してくれるとは有り難い。

そもそも、いつまで掛かるだろうと肇めた刊行だが、創刊から二年半で十七巻までは確実に出来る。

東京オリンピックまでに、まるまる四年あり、少なくも四年後それを楽しんでからあの世へと思っている。四年、もう十六巻分の刊行に、いままでのテンポな ら、東京五輪会場などの竣工よりよっぽど早く「秦 恒平選集」全三十三巻は仕上がってしまうだろう。湖の本も、つづくだろう。

なにもかも百パーセントの出費覚悟ですすめている仕事、息子にも誰にも借銭せず、それが出来るためにも此の「売れない」作家は、五十年、通俗を排しつづけ、ありがたい読者や知友に励まされつづけてまさに頑張ってきた。

気を入れて、夫婦共々、ただ「蘇民将来」を願おう。

2016 8/15 177

 

 

* 『死なれて死なせて』を書き下ろしたのは、ちょうど東工大教授の文部省辞令を学長を経て受け取った頃であった。

せめて死なせまいと願いながら、日々黒いマゴが、ほそぼそと、しかし健気に生きてくれているのを、心から嬉しく喜んでいる、決して泣いて哀しんだりしてはならない。

 

* 長い創作一編の第二稿を得た。さらにより宜しく仕上げたい、「遺作」に終わっても構わない。

2016 8/16 177

 

 

* バルビュス『砲火』の収束部をながながとスキャンし校正していた。それ以前の、生彩にあふれた凄惨な戦闘場面の連続から、雨と雪と泥と洪水に ひたされたままの、兵士達の懸命の戦争論議が続いた。なんとしても言葉での舌足らずの論議は観念・概念にも空想にも激情にも流されやすいが、兵士達が云お うとしている意味もも意義も、分かる。大事なことは、筆者のバルビュス自身がこれら惨憺たる塹壕兵士の中に「僕」として加わっていて、けっして想像や作り 話はしていないという一点を見落とすまい。

 

『砲火』は、戦争の企画指導者や利益享受の上の階層、国支配の階層からは、甚だしく憎まれ嫌悪され排撃されたけれど、敵味方の別なく圧倒的多数の世界中の 「最前線兵士達」バルビュスのいわく「「戦闘の無数のあわれな労働者たち」の共感と感謝と気勢とを受けて文学としての高い評価と顕彰とに輝いたのだった。 「戦闘労働者」おお、なんという的確な定義であろうか、兵士とはそんな存在に他ならない証拠の文章や映像は、ナポレオンの近代戦争このかた、第一次第二次 大戦ばかりでなく、世界各地でのさまざまの戦闘現地で実証されている。「兵隊さんよありがとう」という戦時戦後の浮ついた唱歌が、わたしは嫌いだった、大 嫌いだった、なんというウソくさいイヤらしさ、と。

けっして恵まれること無い「戦闘労働者」 前線の兵士とはそれに尽きている。戦争を企画し決行し統率する指導層はぜったいと謂えるほど弾幕の中での「戦 闘労働」には従事しない。義経には共感しても頼朝をどうしても好きにならなかったわたしは、戦争で損だけを請け負う戦闘労働者と、戦争で名誉や勲章や得な 利益しか請け負わない指導層・支配層との、けわしい対立を、どのような理が働こうとも、納得はしない。あきらかにわたしの人生の第一章の門柱にはかの白居 易作詩「新豊の折臂翁」が掛かっていた。

 

* バルビュスの『砲火』二册と大冊『クラルテ』を、読みたいなと日記に漏らすとすぐ買いととのえて送ってくれた「尾張の鳶」の友情に嬉しく感謝してい る。この人からは、どれだけ多くの本を貰ってきたことか、しかも本の吟味はいつも行き届いていて、わたしの文学への姿勢や好みや作風をより以上に刺戟する 体に選んでくれてあるのが常であった。たとえば、今も綿密な再読を楽しんでいるA.S バイアットの『POSSESSION:A ROMANCE  抱 擁』など、わたし自身深く深く驚いているほどわたしの「文学」「創作」をかなりの相似性において刺戟してやまない。「いい読者」は分かっていて、好刺戟を 優しく厳しく送ってきてくれる。感謝している。

2016 8/17 177

 

 

* 「ユニオ・ミスティカ」の冒頭を読み返していった。無頼な語り口だが、語っているのが爺いなんだしと、ま、かってな言い訳にしておいて。

なんだか、あれこれ書き付けてみたくなったが、もう九時半、というのを引き留め役にし、今夜はなにも書かない。終日、いろんな仕事に励んでは疲れ寝で休 息、じつはからだがガチガチに硬く、食べていないのに、呑んでもいないのに腹具合もよくない。瞼は重い。視野は暗い。正直の、ウソにもわたくし元気ですと はなかなか云いにくい。自信がない。ひとつにはからだを働かせる活気がない。思えばわたしのこの数年、遊びの楽しみなんてものは、観劇ぐらいなもの、何に も無い。無いことはないが、それは「仕事」なのである。小さい頃からわたしは独り遊びの工夫にはたけていて、ひどいれいになると、畳の目に眼をすりつけな がら畳み目ひとつに世界大の空想を楽しんだりしていた。そういえば、わたしの一人遊びには「数える」という遊戯が色濃い。百人一首に副えて和歌をつくった り、歴代天皇を唱えながら、十、十一に当たる天皇二人づつの名前で当時の歴史を反芻したり、四十七士の名を数えたり、俳優女優の名を五十人ずつあげようと して、時にはウンウン唸っている。数えようと思えばいくらでもある。元素記号などもう増えすぎてカンベン願っているが、「数える」遊びは座り込んでいても 歩いていても自在に出来る。

あ、いけない。もう、やめて休まねば。

2016 8/20 177

 

 

* 連載エッセイの処女作「花 と風」を読んでいて、或る箇所で、ググッときた。泣けてきた。おやおやと思い、つづく行文に目をやると、「私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと 胸を熱くする」とある。それを書いたのは昭和四十五年の「春秋」十一月号であり、いまからまるまる46年も昔なのだ、半世紀もまえのわたしの感動の感触は すこしも変わらずまだ生きていた。ちょっとその辺をそのまま書き写してみる、と、谷崎の「細雪」にふれて書き進んでいたのだ。

その桜に逢った悦びのまま平安神宮の庭に繰展げた蒔岡姉妹の振舞いを、私は前に物狂いと言って置いた。「花のもとにて春死なむ」と願った西行の確信にも、同じこの物狂いがあったと想われる。

この、物狂いとは何か。

源氏物語「葵」の巻で、帝が代って新たに賀茂に斎院が入られ、その御禊の儀に光源氏が特に供奉として加わる場面。こういう特別な場合の特別の貴人には臨 時の随身が与えられるのが慣わしであり、この時は六位蔵人将監が誇らかに源氏の馬の口をとった。何しろ都大路を光りかがやくばかり美々しく進み行く源氏の ことだから、この六位の晴れがましさも大変なものであった。

が、場面が変って「須磨」の巻へ来ると、光源氏は朝廷の咎めをおそれて官位を捨て、今愛人たちにも別れ都を西へ落ちる間際に、父桐壺院の御陵へ参る条りがある。

この時、極く僅かの供の中にかの六位もいて、これも官を奪われ、落莫の源氏に随って都をすてる覚悟を決めているのだが、一行が下賀茂神社まで来た時、さ すがにこの若者は晴れがましかった日の誇らしい記憶に惹かれて、思わずわが馬を下り、光源氏の馬の口をとって昂然と歩んで見せるのである。

私は毎度この物語を読むたびにここへ来てふっと胸を熱くする。六位の気もちは想像するに難くなく、私はこれをも「繰返し」の催すみごとな物狂いだと思っている。

物狂いというのは、日本人の心情の特性を解く一つの鍵ことばであって、ある特別な美的状態をすすんで選択するちから、その状態へみずから嵌って行こうと する一種の美的能力なのである。一つの行為を殊さら繰返して見せるというこの自己呪縛の物狂いの中で、六位は、負の像でではあるがこの場合幸福という絵空 事を、我にも人にも強烈に構えてみせたのである、と私は思う。

おおっと感じたのは、わたしがまだ二十台から三十台のころ、源氏物語のここへくると必ず泣けた心情が、いまも、ここへ来て昔の儘に甦って一瞬も外さな かったこと。いい物語やいい作品から受ける感銘とはまことこのように涸れない泉のようなのである。むろんそういう作品に出会うのは容易でないが、一度出逢 えば宝石のような光は消え失せないのだ、こっちが八十の爺になっていようと、である。作品のちからであるが、わたしも老いぼれていない、まだと嬉しくなっ た。

 

* 谷崎が言っていて、若い若い日のわたしがつよく共感した一つに、年を取ったらもう他人の書いた物でなく、自分の書いてきた生涯の作を静かに身を入れて読み返したいと願っていたことがある。

あたりまえだなあとわたしは羨ましく共感した。わが谷崎愛の一例である。

いま谷崎潤一郎の年齢を超えて、わたしは、谷崎の述懐にも倣いたく、しかし加えて、日本の作家の作品ではただもう谷崎の、漱石の、藤村の作品を、そして源氏物語と和歌と、もうそれだけで好い心ゆくまで読み返しながら老いを重ねたいと願うのである。

 

* 今日も、いろいろと仕事をした。

2016 8/21 177

 

 

* わたしはもうずっと先を歩いている。

明日には「選集⑱」の初校が出てくるし、昨日も今日もよたしは「選集⑲」入稿のために、日本の永遠を念いながら文字どおりのエッセイを叮嚀に読み返している。

今日「湖の本132」の初校も届いている。美しいかぎりの物語を仮構ときめて書き上げた作であった。エッセイの方も同じ。小説が書けてエッセイが書け、エッセイが書けて小説が書けた。ずうっとそうだった。

2016 8/26 177

 

 

*  「花と風」などというと、風情の綺麗ごとに思われそうだが、わたしの処女作に当たるこのエッセイは、その後に莫大につづいた各種のエッセイ、論攷、批評 等を束ねて締めくくるような、もっとも根底の哲学を抱え込んでいる。いままでわたしの小説を論じてくれた人も論文も少なくないが、この「花と風」の趣意す るところを深く酌みながら賞味された例は少ない、と謂うよりてっきりパスされていたように思う。すこし胸を張って大層にいわせてもらうなら、わたしの「花 と風」ことに「風」の思いは、谷崎文学に対する、かの「陰翳礼賛」の大事さに類して、さらに徹底の層が厚くもあり深くもある。

 

* 今日も、むろん必要に迫られて三つ四つ五つと仕事を追って過ごして、ふと、煙草の代わりではないが目の真ん前の書架へ手を伸ばし、春陽堂版、天金仕立 ての「鏡花全集」から手当たり次第に「巻八」を引き出してみた。この全集は岩波版よりもぐっと以前に贅を尽くして造られた版で、当然にも全十四巻、いずれ も千頁ちかい大冊だけれど、鏡花生涯の文学の半ばをも収め取れていない。それはそれでいい、それで取り出した「巻八」のなかみはと、函から出し、目次を見 た。おおッ、「婦系図前編」「後編」が真っ先に。以下になお十一編のなかには「草迷宮」「沼夫人」「星女郎」「海の使者」「吉祥果」そりに「神鑿」など が、ぞくぞくッとしそうなのが並んでいる。黙ってもとの棚へ戻すにもどしづらくて「婦系図前編」をいきなり読み出した、ら、やめられない。おいおいおい、 困るぜととめにかかろうにももう鏡花にとっつかまっては勝ち味がない。本一冊がべらぼうに分厚くて重いのが何だが美麗本で心地は好い。仕方がない、仕事の 方を少し切りつめてでもこの巻の何編かでも読みましょう。「婦系図」もじつに久し振りだ。

源氏は今、「花宴」で、朧月夜との懐かしく棟の疼く出逢いがあった。けしからん場面と叱る人は読まなければ宜しい、わたしは、好き。

「抱擁」も佳境を分厚く進んでおり、バルビュスもサホンも乗ってきている。小鶴女史の詩文や書簡にも心惹かれていて、さらに加えて英訳の漱石「心」もとにかくもどんどん通読している。

そこへ鏡花の割り込み、なにかワクワクしてきた。こんな読書にも「花と風」は地下水のように意味を持っているなあと思いつつ、もう眼が見えなくなってきた。

2016 8/27 177

 

 

* 昨日、近江五個荘の川島民親さんから頂戴した、少壮気鋭の学者と滋賀県とのコラボになる一冊『近江の商いと暮らし』を、夜前、おそくまでかけて読んで いた。なるほどこういう各論研究の集積が郷土史の着実な開明へ、また展開への機縁に成り得るのだと、とても新鮮な意欲を感じ取れた。作家でもある川島さん が最年長の辺に位置して、同じ五個荘のなかでの「枝郷」の史的問題を独特の熱意と動機とから腑分けしている。「枝郷」とは何かと思うなら対蹠のものとして 「本郷」の二文字を想ってみればよい。他は、はるかに若い、しかも各大学や研究施設の教授や准教授達が各自関心の主題へ組み付いている。わたしがもっと若 くて健康な意欲に満ちていれば、この一冊本のなかからまた新たな『みごもりの湖』が生まれ得たろうにと、少しく残念な気もした。

こういう各論的な探究地誌が積み上がれば、郷土への理解が層を成して分厚くも具体的にもなる。在地の出版社の応援も欲しいし行政の積極的な支えも望まれる。

2016 8/28 177

 

 

 

☆ 残暑 お見舞い申し上げます。

今年の夏は天候不順なようですけれども、お変わりなくお過ごしでしょうか。

明後日にかけて大型台風が近づいているとか、どうかご用心ください。

我が家の南面はちょっとした林になっているので、夏はセミの大合唱です。けれどもう夏の盛りも過ぎて、朝ベランダへ出ると蝉の亡骸が2つ3つと落ちてい る毎日です。長い間土の中で眠り、やっと表の世界に出て来たと思ったら短い夏をなき通して一生を終わる、そんな生き物もあるのですね。

そして先週は「秦選集 第十五巻」ありがとうございました。立派な厚い本で内容も濃く深く、なかなかするすると読み進むことができません…。少しずつゆっくり読ませて戴きます。

そして「逆らひてこそ、父」 完結おめでとうございます。そして大変お疲れ様でした!

深くはき出されたのだから、きっと今度はその分深く新しい息を吸うことができるはず。ずっと続けている朗読でも「腹式呼吸」は基本中の基本です。深くはき出すからこそ、その分深く息を吸うことができるわけですね。

私も二親とは早く別れ、父とは中学生のときにわかれて以来、最後まで会うことはありませんでした。(正確に言うと小田急線の中で一度見かけたことはあります。)

また私自身も三十代の半ばで小学生だった一人息子を連れて離婚していますので、たくさんの辛苦はありました。

けれどすべて分かれ道において自分自身の決断で決めたことですからまったく後悔していません。

先生の「愛憎」をのぞきみるたびに、本当に情が深いかたなんだなと感じます。お嬢さんへの複雑な想いについても、私などからすれば少しうらやましいほどです。

当たり前の事を申しますが、親子、夫婦といえどもまったく「別人格」ですから、それぞれがそれぞれの自己責任において選び取ってきた結果なのだと思いま す。お嬢さんも悩んだ末、実家を捨てて婚家をとる決断をなさったわけですね。後顧の憂いなく、それぞれの道をきっぱりといくしかないと感じます。

研究者であれ、芸術家であれ、スポーツ選手であれ、名が出るまでに実家の相当の経済支援が必要との話はよく聞きますし、実際そうなのでしょうけれど、やはり人として自分の力一つで世界に対峙すべきだと私も思います。

スヌーピー(漫画の哲学者風の犬)の言葉の中に「配られたカード(トランプの)で勝負するしかない」というセリフがありまして、笑ってしまいました。なかなか意味深で面白いことをいう「犬」なんですよ。

朗読は11月「朗読フェス」では「もっと本も読もう」(長田弘)、10月図書館朗読では「冬の足音」(藤沢周平)を読むことになっています。

「もっと本を読もう」は、詩のなかの言葉を自分の言葉とするために暗唱しました。

どうぞおげんきで!!  田無   ゆめ

 

* 蝉よ汝 前世を啼くな後世(ごせ)を啼くな

いのちの今を根かぎり鳴け    と、聴きも思いもしてきた。

「配られたカードで勝負するしかない」のが当然で、たとえ親でも子でも、ひとの手の内を覗いたり無心したりせず歩んできた、自分(たち)の脚で。しかしまた世の大勢の方々の励ましは、いつもいつも有り難く享けてきた。

耳目をひらいてそれなり気に掛けてきたが、子が父を、舅を、被告席に立たせて「名誉毀損の賠償金」を請求したという実例に、わが実の娘や婿のほか、ただ一例も出遭わない。

では実際に、いったいどんな「名誉」が損なわれたというのか、彼らの訴因は、わたしの的確な反駁をうけるつどくるくる変わり続けて、裁判を経てなお、まるで何の裁判であったのかと、まるで解せない、判らない。良識ではかられる裁判員裁判がぜひ受けたかった。

2016 8/29 177

 

 

☆ 「逆らひてこそ、父」の「上」を再読。

「小説」ではないだろうけれど、或いはそうだからこそ、殊に四通の長いメールからは「父」の真情・信条が率直に伝わってきました。

行きつ戻りつするこの作については、「小説」の枠を離れて話したいようにも思いますが、やはり気になるのは京都行きの11章以降です。まずは続く「下」を読み改めましてから。

(190ページ「ノリコちゃん」と241ページ「越村」は、湖の本もこうでしたけれど、「テルコちゃん」「内村」でしょうか。)

昨日は半袖一枚ではひやりとしましたのに、今日は湿った生暖かい風が吹いています。

明日、勤め先の朝会議が開けるか、台風の動きが心配です。

今日の仕事は終わり、これから入浴します。

湯上がりには、「華燭」を読もうと思います。次第に夜長となりますね。今夜は、何をお読みになりますか。どうぞお元気で。  九

 

* 独り校正で、二回三回読んでも間違いが出る、情けない。「そういう本なんです」と、理由にならない逃げ腰をつかいそうになる。

学匠歌人の定家卿は書き違えると、そのままその場で書き直した。王朝の三蹟歌人らは、間違えてもそのまま書き継いで直さなかった。ムムウ。

2016 8/29 177

 

 

* 処女作エッセイ『花と風』の「補注」を読み返している。文の「補注」などは叮嚀に読まないかやり過ごしてしまう読者がおおいようだが、このエッセイで は、本文に匹敵という以上の重量感溢れた古伝道の髄を以て論旨を立たせている。ちょうど三十歳になる直前の仕事だが、以後にも多く書いた日本の芸術芸能創 作論の根幹を、すでにこの『花と風』はほぼ語り尽くしていて、自然わたし自身の創作の、腸にまでしみ通っている。小説を一つと云われると困るが、エッセイ を一つといわれれば、わたしはたじろがず『花と風』と答える。

2016 8/31 177

 

 

*京の清水の奥、清閑寺というお寺を深く愛したことは、長編『冬祭り』最期の閑居に選んでいることで明らか、文字も音も風を奏でて美しい。「閑」とは。多 くの場合、あの芭蕉の秀句に親しみ「閑(しづ)かさや」岩にしみいる蝉の声を聴く。閑静、閑雅、閑居。みないかにも清らかに静かな風情。

しかし「閑」の字は、もともとは「とざして、いれない」のである。閑静、閑雅、閑居のどの閑にもその原義が生きている。雑念・雑事を静かに、しかしきっ ぱりと拒んでいる。それ自体が生き方になる。即ち、閑事。だが、無為の閑居をいうてもいない。生きてあるからは何事かを為してまた成して生きる。その何事 かをも実はこの二字は端的に問うている。挨拶である。如何と挨(お)しまた拶(お)している。

 

* 裏千家十世 柏叟 認得斎宗室 筆「閑事」の二字を珍重している、筆が豊かに働いている。悠然とかなり厳しく、いささか俗をも見捨てていない。見飽かない。

この裏千家十世の、夫人も優れた茶人で、松平家から娘婿に迎えた十一世の精中・玄々齋宗室をよく薫陶し「中興」を以て樹たしめた。この夫人は京・洛北の旧家「舌(ぜつ)」家から千家に入った人。この家のこと、知りたい。

 

* 玄々齋の月を愛でた一軸を、久しく愛してきた。いずれ、紹介しよう、名月の時季に。

2016 9/1 178

 

 

* 相模原の馬渡憲三郎さん、四国今治の木村年孝さん、奈良五条の永栄啓伸さん、新潟柏崎の藤田理史君、昭和女子大日本文学科から、選集への有り難いご挨拶があった。

今回作は、二、ないし三篇とも、相当読み手の胸に重苦しいものを投げ込んでいて、しんどい思いを強いている。感想もおおかたおつらそうなので、有り難く戴いておこうとしている。

 

* 『花と風』を補注まで全部、文字どおり「日本の永遠について」復習する嬉しさで読み終えた。勉強ということを、全力でできた三十歳の、例え比べようも ない収穫だった。八十八翁の俳人荻原井泉水先生から連載半ばにありがたい「フアンレター」をもらった嬉しさも甦ってきた。

 

 

 

八十八翁 荻原井泉水翁 來贈

 

* また、仕事の手をひとつ先へ伸ばした。十一時半。もう眼が霞みきっている。

2016 9/2 178

 

 

☆ ひたぶるに人を…

『新・罪はわが前に…』と「湖の本」では付されていた、限りなく「私小説と読める創作」を再読し終えたところです。

その何とも言えぬ重苦しさは、「二一」の末、14年半も化石になっていた「ムンクふうの」ラブレターを読み、娘の「片思い」に今更に気付いて流す涙の辺りから後の部分に、ある種の救いの可能性が秘められていたように思います。

(ムンク論を結んでいた「太陽」の詩は、私家版の詩集の序詞として一部表記を改められて既に引用されていた「四」へと戻る仕掛けになっていましたね)

 

殊に好きなのは、入れ子型に組み入れられた(475頁以降)の「萩」の文章と最後の「硯滴」です。

あのような「奥野」が(或いはそうした「奥野」なればこそ)このように艶かしくもたおやかな文を「長かった夏のなごり」に綴り、そしてまたしんみりと胸に沁みる師走の描写で、この「遺書」を閉じることができるのだなぁと、深く深く感じました。

 

この作の後の日々こそが書かれざる我が「私小説」そのもの、「老いの恋」「老いの性」を書きたいとどこかに書かれていた新作は、『罪はわが前に…』三部作の綴じ目とも、「起承転転」の真の「転」にもなろうかと心待ちにしています。   九

 

* 表題に引かれてあるのは、岡野弘彦さんの名歌で、愛誦惜しまぬこの一首。

 

ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく

 

* 有り難い感想であった。

じつにじつに心重い仕事だった、どう静かに一篇を終えるのか、日々に痩せる思いだった。

しかし、わたしは書いた。「書く」ことにいささかの迷いも無かった。渾身の筆を運び続けた。

正直にいえば、このままで「終わり」にしたかった。

出来なかった。

2016 9/3 178

 

 

* 今は機械の前で、(およそ選集の一巻分に剰りそうな)長編新作の最終部の仕上げに唸っていた。頭、禿げそう。

2016 9/4 178

 

 

* 堀上謙さんの訃報に動顛し、想い乱れたまま、宜しくない夢見から身を揉むように目ざめたら、六時前、妻はもうキッチンにいた。そのまま起きてしまった。

 

* 脱水ひどく腎臓、肝臓最悪と警告され輸液を指示されたのが三年前の真夏八月だった、以来、輸液と投薬をほぼ一日も欠かさず、想えば三年ものあいだ、黒 いマゴはわたしたちへの愛情のままに耐え抜いて生き長らえてくれた。何といっても黒いマゴ自身のガンバリは言語に絶していたのだった、しかもついこの夏八 月まで、黒いマゴが苦痛をうったえて啼いたり騒いだりしたことは一度として妻もわたしも、記憶がない。最期の最後まで静かだった、ただいつもいつも視線を 求め視線をひしと合わせて飽くことなくわたしたちの眼をみつめて、庭へ出たい、水をのみたい、砂でおしっこをしたよ、うんこをしたよとそのつど教えに来 た。後ろ脚はまったく脱臼してか使えないのにゆっくり家も庭も歩いて、夜中の便意尿意にも自分で砂場へ行って排泄していた、しようと努めてくれていた。

久しく久しいわたしの希望であった、自転車の前籠へいれていっしょに走り回ることも、八月、九月に入って亡くなる二三日前までじつに静かに、しかも顔を上げてご近所をたしかめ楽しむように一緒の時間をわたしのために創作してくれた。嬉しかった。

 

☆ 九月

悲しみの日々、死なれた者の思い、どうぞ堪えてください。

御身大切に。迪子様大切に。  尾張の鳶

 

* 書きかけの長い小説のなかへ黒い子猫の「存在」を、これまでも触れてきた以上に、もっとしっかり大きく造形してみようかと思い立っている。それあるゆえに「脱稿」しかねていたのかと。

 

* 往年 愛したネコを悼んで

1984.04.15 愛してやまぬ「ネコ」逝けり

ネコ逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕辺になほ匂ひゐる

 

この匂ひ酸しとも甘しとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも

 

線香も残りすくなく窓の下に梅雨まち迎へネコはねむれり

 

* 母ネコはそれ以前、一九七六年春の頃、我が家の近くで娘のノコを生んで、我が家に引き取られてノコを賢く育てて、六年の間、暮らしていた。わたしを、千年の恋人かのようにいつもみつめて、ノコにもだれにも愛情あふれて静かな聡い優しいネコであった。

母ネコが亡くなったとき、テラスの遺骸のそばへ、いったいどこから持ってきたのか太ノコは、太い竹輪を一本銜えてきて、母のすぐ傍へ置いたのには天を仰 いで泣かされた。驚愕した。埋葬の時は、二階の屋根のヘリからじいっと母ネコの葬られるのを見下ろし見送って動かなかった。

 

1995.8.6

鳩啼くや愛娘(ノコ=母ネコの子)十九年を生きぬけり

 

この心優しいネコの子、つまり「ノコ」ちゃんは、十九年我が家に生きて、愛おしい限りのわたしたちの秘蔵っ子だった。不幸にして病魔に遭い壮絶の最期だった。泣きに泣いた。いまでも泣く。

 

黒いマゴは、十七年生きてわたしたちの無二の「身内」になった。

 

99.10.4

このマゴを斯うも愛しては良くないと

深くおそれて頬寄せてゆく

 

09.12.21

黒いマゴの我の湯槽で湯を呑める

ただそれだけが嬉しくて笑ふ

 

この十七年の間に、わたしはいとしい孫娘やす香に死なれ、死なせ、あげく、実の「娘、婿」の連名で、やす香を「死なせた」とは親が「殺した」と謂うの だ、名誉毀損だ損害賠償金を支払えと訴えられ、数年もの被告席裁判苦に、腸も凍えて千切れそうな苦痛と堪忍に堪えねばならなかった。かりにも哲学を学び説 くインテリ夫婦の、かかる実親への仕打ち例が、世の中に有ったりするのか、わたしは曾て知らない。しかも父・秦 恒平に、それよりずっと以前、ベストセラーにもなった志の文化叢書の一巻『死なれて 死なせて』の著のあったこと、それを読めば著者の説く「死なせて」の 意味は誰にもはっきり明確に知れるというのに…。

黒いマゴは、裁判沙汰の間、終始、私を慰め励まして最たる温かい命であった。彼に日々励まされてわたしたち祖父母は仕事にうちこみ、五百頁平均の「秦 恒平選集」を出し始めはや第十五巻、「湖の本」は創刊三十年を迎えて第百三十巻を達成、それらを皆きっちり見届けてから、黒いマゴは静かに静かに、かすか に身を顫わせて、わたしたち二人の眼前で息絶えていった。泣かずにおれない。

十七年のあいだに、わたしは胃癌で胃全摘し、一年間の苦しい抗癌剤にも堪えた。三度入院した。四年半が経った。

 

12.02.24

人の見舞ひ欲しくはなくも黒いマゴの

受話器の闇に鳴くがかなしき されど嬉しき

 

どんな遊具にも見向きもせず、黒いマゴはひたすら私や妻と「遊び」たがった。家中の隠れん坊が大好きだった。

 

12.09月

ちりんと鈴鳴らして在り処(ど)おしえつつ

黒いマゴはわれを隠れんぼの鬼に

12.10月   黒いマゴ 最愛の猫

われが着肌を好んでマゴの敷寝する

汝(な)が夢に かけて悪政などあらじ

 

13.01.19

隠れ蓑の根かたに埋めしネコ・ノコよ

しばし待てよわれもそこが奥津城

 

ネコとノコと黒いマゴもゐてさもこそは

和(おだ)しき後世(ごせ)のわれらの家ぞ

 

13.02.21

三角の帆がけのやうに黒いマゴは

耳だけ上げて熟睡(うまゐ)すらしも

 

三角の帆だけのやうに耳だけで

熟睡の黒いマゴが愛らし

 

13.10.05

黒いマゴの三角の耳の一つだけ

妻と寝ていてまだ六時半

 

16.04.05 妻傘壽

相あひの八十路に匂ふ櫻よと

傘かたむけてあふぐ此の日ぞ

 

黒いマゴと迪子とわれに咲く花の

天晴(あは)れ八十路を生きて行かまし                    2016 9/11 178

 

 

* 六郎さん

まこと永きにわたり、わたしの老耄も手伝い「e-文庫・湖(umi)」への原稿掲載手順(かなりフクザツ)を見失い、どうにもこうにも成らなかったのを、執念の粘りと手探りとで、曲がりなりに機能回復へこぎ着けました。

永くお預かりしていた「『こころ』とはなにか」を無事掲載できました。「秦 恒平論」も載せてあります。まだ紹介などのスタイルなし、原稿のままの掲載ですが、ご確認下さい。お待ちかねで、憤然とされてたろうと、我ながら情けなく、しかし機能回復をとても喜んでいます。

星合さんらにも、作品ゆたかな自信作をどうぞ寄稿して下さるようお伝え下さい。ただし、原稿用紙からスキャンし校正してというのは、視力衰弱でたいへんつらいので、やはり電子化データをぜひ添えてもらって下さい。編集者として遠慮無く改稿や推敲をお願いしますけれど。

疲労でガックリしていますが、選集三十三巻完結させ、そのあと、莫大量の往年手書き日記の電子化にも取り組もうと想っています。

いま取り組んでいる新作小説、難航しながらも楽しんでいます。楽しみすぎているキライも有りますけれど。

では、また。  秦 恒平

2016 9/11 178

 

 

* こんどの「湖の本131」は、創刊三十年記念の内『原作・畜生塚 此の世 付・京の散策(二)』とした。作歌以前の私家版第二冊所収の記念資料作。こんな「あとがき」を私家版には書いた。

 

昭和三十九年十一月私家版 菅原万佐『畜生塚 此の世』あとがき

 

昭和三十七年七月三十日、私はとつぜん小説を書きはじめた。書きはじめてみると、書いてみたいと望んでいた頃とはまるで違った自分がそこにいた。べつに 感嘆した訳ではないが、たしかに自分のことを「ほうっ」という心地で見直したようだ。二年余のうちに七篇の小説と二篇のシナリオを仕上げ、小説を二篇書き かけにしている。四百字の原稿用紙にして千百枚ほど、驚ろくに当らない量であり、出来栄えがいいとは決して思わない。ただ、私なりの考え方があるので烏滸 の沙汰にもけじめをつけておきたい。

妻は結婚当初、藝術家は半ば狂人である、好かないとかなり強い牽制球を投げていた。藝術家きどりの傲慢で横暴な人間が僅かな誇りをも見失って、やがて裸 の王様と化してゆく実例を見知っているからであろう。二年、三年と私は妻の心中のこの負の像と秘かに抗争せねばならなかったが、この経験は良かった。もの を書く以上、妻の眼力というよりは素朴な批判を超えてゆく必要を覚えた。

百万の読者をもつ職業作家と百人にみたぬ知人しかもたぬ者とであっても、創作の第一義は等しく生きている。また賭博そこのけのサーカス的苦行で何かの懸 賞に当選せねば創作者の本義に叶わない訳はない。そういう印可がないとものを書くことに卑屈な恥じらいを覚えねばすまぬのなら、そんな割のわるい苦行はや めた方がいい。僅かの読者に恵まれ、自分の書く文章が自分なりに新天地を拓きつづけてゆくものなら、素人が素人のままいることに卑下することはない。生活 の中で獲た時間をそのためにつかう、それは誇りにもならぬし卑下するにも当らぬことだと私は思う。あってならぬのは努力を惜しんでの自己満足と不用意な妥 協である。文学はそれを許さない。

(編集者=)勤務の性質上、活字の魅力を表裏にわたってかなり承知している。私はむろん貧しいし、たしかに少からぬ金をかけてこの私家版を印刷したこと を、活字の魅力に屈した笑止の振舞と冷笑する人もいるに違いないが、弁解めいたことは言うまい。それどころか、これからも事情が許せば私はつづけて作品を 小部数ずつ印刷する気でいる。幸いにして師友知己の鞭撻がいただければ嬉しいし、未知の人の目に少しでも触れて認められれば、さらに嬉しい。

私小説ふうの拵えにはなっているが、詮索は無用である。作品の批評がほしい。簡単に心覚えを書いておく。

「歌集・少年」のことは後記に書いた。愛着が深く歌として自立できるものを選び、これ以前の作は思い切って割愛した。良かれ悪しかれこれは私の十代を記念するもののようである。

「少女」は最初に書いた百枚余の作の中途で、ふと思い立ってペンを走らせた即興的な作だが、筆づかいの粘っこさなどが、多少私なりに特徴的なので入れた。

「畜生壕」は、先にタイプ印刷したシナリオ「懸想猿(正・続)」の主題を承けている。小説としては五作めになる。情景の転換がいささか唐突だとすれば、 ちょうど(築地の松竹)シナリオ研究所に通っていて「懸想猿(続篇)」のまとめと時期的にだぶった影響があるのだろう。波乱の多い運びではないので、映画 的にカットしたりカットバックさせたりすることが多分に頭にあったと思う。

「此の世」は、筆つきはやや軽いが私らしい仕事だと思っている。軽みについた点など十分でないが、今の私には馴染んでいる。どうしても、このままで放っておかせない所がある。

いずれにせよ、道徳の欠落者という主題にはまだまだ関心がある。業念とか業執という方へ退避しないで積極的に手づかみにしたい。

「桔梗」は(現在四歳の=)娘の誕生日が来るたびに書いてやる童話の一つなのだが、すぐには読んでやれそうにないものになってしまった。

表紙と目次の絵は妻が描いた。原画は可翁と南岳である。

書いて見つける自分、それがうめきたいほど厭な男の像(もちろん、作中人物とか作品とかを意味しない。私自身の心にはねかえって来る或る自意識とでもいうもののことだ。)を結んでいても、顔をそむけのがれることはできない。二年余の私の.感想である。

昭和三十九年(一九六四)霜月    菅原 万佐 (=秦 恒平)

 

補注:此の私家版『畜生塚・此の世』に収録の

歌集「少年」は、出版を重ねたのち「湖の本」31巻に、

短篇「少女」は、「湖の本」16 巻、「秦 恒平選集」7巻に、

中篇「畜生塚」は、大幅に改稿し、「新潮」昭和四十五年二月号に、「湖の本」11巻、「選集」3巻に、

短篇「此の世」は、「湖の本」16巻に、

短篇「桔梗」は「露の世」と改題・改稿して「湖の本」13巻、「選集」9巻に、収録されている。

作者署名の、菅原万佐 は、高校以来当時の筆名。

 

* 本巻(湖の本131)跋「私語の刻」には下記の一文を敢えて記念のために入れた。

 

私語の刻

 

作家「以前」というと習作時代のようであり、私の場合事実そうに違いなかったが、その頃の仕事が、のちのち姿・形・中味を変え、新作同然の小説に仕上 がっていった。「或る折臂翁」を最初に、「懸想猿(シナリオ)」「祇園の子」「畜生塚」「斎王譜=慈子」五十作もの「掌説」たち、また「或る雲隠れ考」 「蝶の皿」そして「清経入水」「秘色」など、どれもみな、「作家(受賞)以前」に概ね仕上がっていた。そんな「原作」に更に手を入れ、「作家」ほやほやの 仕事として、諸誌・各社で活字にも本にもしていった。

作家以前に、師事した人も同人といった仲間も私には無かった。貧の極の新婚時代に、がんばって購読した講談社百余巻の日本文学全集、月々に配本の一冊一 冊が有り難い教科書になった。漱石、藤村、潤一郎そして直哉や川端、諸先達選り抜きの作と年譜とから、限りなく多く学んだ。通俗の読み物や時代小説は書か ないと姿勢を定め、なに迷うこともなかった。文学賞に応募しようの、文藝雑誌へ投稿しようの、そんなことはほとんど考えてなかった。本にしたいなら、自分 ですればいい。読んでくれる人は、自分で捜せばよいと。

昭和三十四年三月に結婚し、翌年七月に娘朝日子が生まれ、三年目の真夏から突如小説を書き始めた。

書けばこそ好機も来よう、書きもせずあだな夢を見ていて何になるか。そう友人に一喝され、すぐ応じた。

どう貧しくとも、ボーナスというものに一切手を付けない家政と家計であったが、私家版本のためにだけ、妻の同意を得て貯金を崩した。総じて五十数万円も かけた、昭和三十末年代ではかなりの経費であった。『懸想猿(正・続)』『畜生塚 此の世』『斎王譜』『清経入水』四册の私家版は、ごくごく少部数、編集 も装幀もまさしく夫婦の手造り本であった。送り出す先もほとんど持ってなかった。知友はすくなく、えらい人としては志賀直哉、谷崎潤一郎、中勘助、窪田空 穂、小林秀雄といった名前しか思い浮かばなかった。

 

ところがある日、突如として雑誌「新潮」の編集長から、「来なさい」と手紙をもらった。世界が波打つように足もとで揺れ、まともに歩けなかった。すでに 「三冊」出来ていた私家版中の何作かが、しかし、すぐに役だってくれたのではない、それどころか「新潮」という大舞台が目の前にありながら、わたしは果敢 に四冊目の私家版『清経入水』を、また自前で造った。表題作にした小説「清経入水」が、どうしても編集部をパスしなかったからだ、エイクソと本にし、美し い平家納経をあしらった色刷りの表紙に函まで造って、小林秀雄や円地文子といった、僅かな、縁りもない先生がたに送った。

 

と、これまた突如、昭和四十四年春すぎた或る日、今度は筑摩書房から家へ電話で、秦さんの「清経入水」という小説を、雑誌「展望」の第五回太宰治賞銓衡 「最終候補作」へ入れたいが、「応募」してくれませんかと言ってきた。「展望」も「太宰賞」も存在すら知らなかった、「どうぞご自由に」と承諾したら、 「新潮」ではあんなに通らなかった「清経入水」が、そのままで石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という鳴り響くような六選者先 生の「満票」で「当選作」に大化けし、「展望」八月号に発表された。いわば賞まで添えて「文壇」の上へ私は引っぱり上げてもらったわけで、家に積んであっ た私家版の「原作」たちがつぎつぎ役立ってくれた。

とりわけ、今回復刻した原作『畜生塚』は、丹念な改作推敲を経て「新潮」翌年の二月号に掲載され、幸いに批評家桶谷秀昭さんが雑誌「文藝」の「一頁批 評」欄で、じつに丁寧に読んで下さり、或る意味、事実上のこれが「処女作」とさえなった。三部作のように長編『慈子』が筑摩書房から書き下ろしの本に、中 編『或る雲隠れ考』が「新潮」にと続いて、いわば秦の作風を「貫く棒」のような役をしたのである。今回本文のみ復刻した「私家版原作」『畜生塚』は、よほ ど多くみても刊行当時数十人の目にしか触れてこなかった。おなじ事は『此の世』にも謂えた。しかも見る人は驚かれるであろう、この私家版は私が勤務先医学 書院で編集製作刊行を担当していた医学雑誌とおなじ、大判での8ポ二段組み、奥付ともで64頁という珍種であった。

 

ま、編輯余話としてはこの辺で措くが、筆名「菅原万佐」のわらい話だけ記録しておこう。京都市立日吉ヶ丘高校のころ、校内新聞に、その年たしか生徒会長 をしていた男子が「男女交際」の行儀について四角四面に寄稿していたのがあまりバカげて読めたので、ひやかしてやろう、それなら女子からの方がおもしろい と、当時仲良しだった三人の女友達の姓や名からとって「菅原万佐」の署名で反駁の投書を入れた。それも載った。

以来、なんとなく女とも男ともつかぬ筆名が気に入って、なんと後年四册中三册の私家版までも「菅原万佐」で通していたのだが、「新潮」に呼ばれておそる おそる出頭そして初対面の編集長第一声が「男かあ」であった。即座に本名にしなさいと。で、紆余曲折あっての私家版第四冊め『清経入水』から作者名「秦 恒平」と、ま、本来へ立ち帰ったことであった。

その後の私家版といえば、創刊いらい三十年、一三一巻にまで達している全集「秦 恒平・湖(うみ)の本」が敢然として私家版、続いて、はや第十七巻まで進行中の特装美本『秦 恒平選集』もまた躊躇いない私家版少数限定の「非売本」として、稔りつづけている。とはいえ、終始「私家版作家」として歩んできたのではない。太宰賞授賞 このかた、筑摩書房、新潮社、講談社、中央公論社、文藝春秋、平凡社、集英社、NHK出版、淡交社、弘文堂等々からとうに百册余の本を出し、新聞連載小説 も、岩波「世界」や「アサヒジャーナル」「学鐙」等々での長編の連載も繰り返し担当してきた。なによりも、お名前はとても挙げきれないが、想えばどれほど 多くの文壇の先達や学界の碩学、藝界の実力者らの薫陶・庇護・鞭撻を戴いてきたか、これを多幸といわずに何を謂うかと、感謝の思いは、まこと、限りない。 決して決して我一人で生きて来れたのではなかった。

最期になるかどうか、『光塵』以後の新歌集の、永く惑っていた「表題」を昨夜定めた。

 

亂聲  らんじやう

残年はしらず、一箭は、すみやかに来るべし。

亂聲、破を調べて、念々死去の空晴れたり。

 

催事や演舞・演奏などの始まる前に、鼓笛など賑やかに拍ち鳴らす。「亂聲」と謂う。

2016 9/14 178

 

 

* 消え入りそうに疲れる。機械をはなれ、床に横にし、明るい近い照明と裸眼とで、ゲラ校正を進めるのがわたしの休息です。今は、 「慈子」の初稿である『斎王譜』の二章を読んでいる。市販の『慈子』よりだいぶ長い。「うつくしいかぎりの小説を書く」と決意して書き始めた日を思い出 す。書き上げたら、あまりに悲しい作に成っていた。

最初に『畜生塚』を書いた。次いで『或る雲隠れ考』(昭和三十九年二月から四十二年末)を書き、さらに『斎王譜』を書いた。昭和四十年四月末から四十一 年五月初まで書いて十月に初稿を私家版で出版したが、太宰賞受賞後筑摩書房から『慈子』と題して出版までに相当量推敲した。『或る雲隠れ考』も「新潮」 に、さらに出版までに、精魂込めて推敲を重ねた。

この三部作が、その後多くの基盤になった。もう一つの反リアルな基盤は受賞・発表作『清経入水』で出来た。

2016 9/16 178

 

 

☆ 今宵(=昨夜)は満月

薄く広がった雲間から時折漏れる月影を、仰ぎ仰ぎ帰宅しました。

創刊満三十年の記念号、「原作・畜生塚」を巻頭に、新歌集の表題を『亂聲』と定めた桜桃忌の「私語の刻」で結ばれているのを、嬉しく拝見しています。

まずは活字の上での「京の散策」を楽しみ、私家版で読ませていただいた「原作・畜生塚」を「湖の本」でも再読・三読したいと思っています。

温め続けられた歌集、艶やかに晴れやかに、花と開きますよう願っています。

どうぞ、御身大切になさってください。  九

 

* 『亂聲』 とは、ま、洗濯機へ汗くさいものをなにもかも投げ込みかき混ぜるような意嚮に過ぎず、優雅でも艶麗でもない、がちゃがちゃとやたら喧しいような一巻になればとの、横着な表題。過剰に期待しないで下さい。

2016 9/18 178

 

 

* 六郎さんの長いエッセイ「『こころ』というもの」を預かって久しく、「e-文庫・湖(umi)」の起動手順を見失ったままモノに埋もれていたのを掲載 し、湖の本新刊に書き添えて報せておいた。以前にはやはり長編の「秦 恒平論」を掲載した。ただしわたしは目下のところ所謂「作品論」は別として「総論」されたような「秦 恒平論」には影響されまい為に目を通さぬ事にしている。山瀬ひとみさんの長編も、だから敢えて読んではいない。これらは、読者の皆さんに批評・批判して頂 きたい。

六郎さんの「こころ」というものへの所感は、論攷と云うより元気な述懐をこめたエッセイまたは感想のように読める。

たまたまわたしの方は『選集⑰』のために自分の「こころ」についての旧稿など読み返していた。わたしは観念的に「こころ」を語って語りきれる者でないと いう見極めから、わたし自身の発見・考察した「からだ言葉」「こころ言葉」を用いながら人間生活の場面場面に生きた「こころ」のはたらきや問題を論じ続け てきた。「言葉」という具体的な働きを介し通して考えてきた。

六郎さんの論にもそういう生活感の裏打ちされた手がかり足がかりがあれば「こころというもの」がさらに目に見えてきただろう。

四国の榛原六郎さんは、「e-文庫・湖(umi)」にべつに何編も小説も送って来られている。長い「志賀直哉論」もあった。もう相当の老境に近いだろう人だが、文学青年の意気がまだ行文に疼いている。

2016 9/18 178

 

 

* 仕事づめの一日だった。「湖の本132」の「私語の刻」も書いた。ツキモノ、表紙などとともに初校をを戻すことが出来る。選集⑱の初校が滞っているのに手が付けられる。選集⑲の入稿原稿ももう数日で用意出来るだろう。

 

* 「ユニオ・ミスティカ」はすでに長編を成しているが、大きな大事な新たな構想を(というと大層だが)できれば、軽妙にしかも厳しく書き加えたいと用意している。

2016 9/20 178

 

 

* 朝一番に、「秦 恒平選集 第十九巻」を、全部入稿した。この一巻は、全巻中の一つの代表作となるだろう。

2016 9/23 178

 

 

☆ 朝夕凌ぎやすい季節になってまいりました。その後 恙なくお暮しでいらっしゃれば嬉しく存じます。

さてこのたび 「e-文庫・湖(umi)」に 私の寄稿をお許しくださるとのこと、ありがたくお受け申します。 とりあえず  未発表の歌稿 まとめて五十首 同封いたしますので どうか よろしくお願い申します。

このたびの「湖の本」私語の刻にて、新歌集ご上梓のこと尻ました。 すばらしい表題も定まり ご上梓が待たれます。まことにおめでとう存じます。

 

余談になりますが、「湖の本」のお作品『生きたかりしに』拝読した折り お母様の昔おすまいになられたとイウ住所が「東城戸町」とあり、そこは今 私のおります「杉ケ町」のすぐ隣町なので驚きました。

小野医院、酒屋の都鶴の看板などみつからないものかと、なんどか足をはこびましたが わかりませんでした。 内科の「奥医院」というのは昔からあり、そのあたりの町の人にたずねても「小野医院」は知らないということでした。

奈良のこのあたりは、昔のままの民家も少々残っておりますが、 この数年 どんどん取り壊され、新しいマンション等が 建ちはじめました。 私には 少々残念な気がいたしおります。

それでは くれぐれもお大切にお励み下さいませ。   東淳子  歌人

 

* 早くから歌人としてもっとも信頼をおいてきた方であり、「e-文庫・湖(umi)」に是非新作をとお願いした。ほかにやはり詩人にもおねがいしてあるのだが。

「e-文庫・湖(umi)」 しっかり充実させたい。

なお「小野医院」は実を憚ったので、本当は内科の「奥医院」です。

2016 9/23 178

 

 

* 梅原猛さんのガンと鳴る「面白し!」一言をはじめとし、幸い「原作・畜生塚」「原作・此の世」が受け入れられている。「新潮」作と比較すれば、原作に は省かれたいろんな言葉や表現がかなりの量混じっている。省いたのだから無駄と言えるし、しかしそこに志をたてた若い書き手の奇妙な熱も意気も残ってい る。作家以前に書かれていた生涯の処女作といえる「畜生塚」「斎王譜=慈子」そして「清経入水」だけは、ほとんど人目に触れていなかった三十年「私家版原 作」を愛読して下さった方々に読んで頂きたかった。次巻の「原作・斎王譜」も、筑摩版単行本や集英社文庫版では相当量省かれた徒然草との分厚い絡み・重ね など、楽しみに待っていただきたい。

それにしても愛するヒロインに対してあまりにむごい男を書いてしまったと、読み返し校正しながらわたしは息苦しい思いをした。しかし、「美しいかぎりの小説を書くのだ」と息ごみ書き始めた大昔が懐かしい。

 

* いまこの時機にこのような「原作」を持ち出したのは、一つには「湖の本」三十年を記念しているのだが、今一つには、今まさに現在進行中の「秦 恒平選集」十五・十六巻をさわっている堪らない苦渋の重圧をわたし自身慰めたいからでもある。一生涯を、ただ一色に平穏無事にいきることは出来ない。あり がたいことに、此の三十年に此の肺腑をえぐるような辛かった日々をも私の有り難い佳い読者のみなさんは倶に堪えて下さったのである。

2016 9/24 178

 

 

☆ 阿波の花籠です。

月様  季節の変わり目、どうぞ、どうぞ、お奥様ともにお体をおいといくださいませ

選集第十五巻の『ディアコノス=寒いテラス』。

作中、「妙子ちゃん」に対し、あちらの親御さんの言うように、初期対応で、「節子ちゃん」が、見たことのないような憤怒を眼に燃えたぎらせ、「帰ってちょうだい。逢いたくないの。来ないで」と大喝し、家族全員で強硬に拒絶できていたなら、事態は変わっていたかもしれません。

過去に、2年間知的障害者の世話人として彼らや彼女たちに接して生活の補助をしてきた経験があるから言えることで、それがなければ、作中の家族と同じような対応しか出来なかったでしょう。

 

* 作の提出した「問題」は、やはり、それだけのことではなかったと思っている。定規をあてて線をひくようなアンバイには「妙子ちゃん」を怒鳴りつける真 似はしにくい、できない、という機微もあるとともに、とりまいていた近隣や世間や社会からの対応・是非をも見きわめて見たかった。此の作に於ける「被害」 は微妙すぎるほど表裏し膚接している。あんまり難しくて、書きは書いたがなかなか発表できなかった。亡くなられた神学者の野呂芳男(立教大名誉教授)さん がつよく奨められなかったら活字に成らずじまいにホコリをかぶっていたか知れない。野呂さんの本音を、しかし、わたしは追求して聴かなかったのである。

もしわたしの作が外国語に翻訳されるなら「これ」と、ヨーロッパ住まいだった日本人読者に、また海外への視野のひろい日本人女性に、言われたときに、作者自身も目の鱗が一枚落ちたような教わり方をした。

それにしても、難儀な小説である。つよい反響は概して「妙子ちゃん」に即して経験的に返ってくる。「節子」ないし家族への助言は上の「花籠」さんのに尽きている、が、ウーンと唸ってしまう。

2016 9/26 178

 

 

* 近江の佐々木へわたしの関心の深いことは「みごもりの湖」の沙々貴山君や後に佐々木道誉を書いたり、「初稿・雲居寺跡」にも近江佐々木氏を大事に書き込んでいて歴然としている。「冬祭り」でも佐々木との血縁に触れている。

いま仕掛かっている「仮題「清水坂」でも問題になるのかも知れない、まだハキとしてはいないが、ケリを付けうれば付けたいのが「中断」のままの「初稿・ 雲居寺跡」で、承久の変の成り行きへ踏み渡るのか、ナラティヴにうまい収束を考えつくのか、その際に語り手の「僕」なり「兵衛」なりの身辺で「佐々木」を どう生かすかが、とても気になる。今夜は、見えない眼で大きな重い本の小さな活字に悩みながら、調べ仕事にも手を付けていた。

仕事をしているとアタマもしゃんと働いている。中断して機械から離れて起つと、狭苦しい部屋の中でも二階の細い廊下でも電灯を二つもつけた階段でも、危なくよろよろする。

考えるまでもなく、いまのわたしには幸い仕事の他のしごとは無い。世間へ出ていって理事会の委員会の宴会のという何も無い。稼ぐ仕事も頼まれ仕事も一切 していないのだから、純然自身の興味・関心に応じて励めばいいのだ、これはこの上なく幸せな日々であればこそ、元気でなくてはいけない。元気でさえあれ ば、読んで書いて思案しての仕事を誰よりも先に独りで楽しめる。

いま、だれにも、わたしがあそび半分の道楽をしているとは思われていない。文学のために日々を生きている点では、誰にも負けない気でいるし、努めている。ああ、そのためにも元気でなくてはいけない。元気でいたい。

2016 9/26 178

 

 

* バイアットの「創作」は、わたしがずうっと追いかけ心がけいくらかは実現してきた、異なる時と処と人とを「層」構造に積み上げる行き方とかなり密接 に、より複雑緻密に広範囲にわたって、間近い。その辺を見て、奨めてもらったのだと思う、さもなければとても出会わなかった作と作家であった。バイアツト はたしか、わたしとそう年齢も違わない。「慈子」「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「初恋」「冬祭り」「秋萩帖」「四度の瀧」などを、こ の同世代作者に読んでもらいたくなる。

こういう書き方は、通俗読み物は知らないが、日本の近代文学では、少なくも極めて少数派で、泉鏡花の一部作品にみられるほか、なすぐには思い浮かばない。潤一郎は他界や他次元を書かないし、川端や三島にもこういう「層」を重ねて展開する書き方の例は知らない。

健康さえゆるしてくれるなら、意欲を深めて奇妙世界を作の中に築き上げたい、もっともっと。

* 明日には、選集第十六巻の刷りだし一部抜きがもう届くという。十月七日送り出しの用意に、もう掛からねば。ここを一気に乗り切って、いわば選集第二期へ分け入って行きたい。それ自体がまたわたくし晩年の創作を引っ張って呉れる筈。書くのが先、本は仕上げの形だけ。

2016 9/27 178

 

 

* 昨日は書架から、持った手の痺れるほど重い平凡社版『日本史大事典』六巻のうち二巻を引きずり出し、承久の変、和田合戦と和田義盛、近江の佐々木氏、 関東の渋谷氏などの項を、あまりに小さな活字に泣き嘆きながら、読み耽ったりしていた。「初稿・雲居寺跡」の中断のあとへ何か弾みがつくかと思案している が、サテ。

久しいわたしの読者でご夫婦で愛読してくださる方、奥さんから、すこし以前に長いお手紙を戴いた。ご主人が鎌倉武士「渋谷平氏」の延々とした子孫であ り、知行国の薩摩に久しい由来と多彩な展開とを経てこられた由を、かなり細かに教えて頂いた。東郷平八郎も一族の一人であったとも。

この渋谷氏と近江國由来の「佐々木源氏」とには、かなりこまやかな関わりがあった。佐々木は、和田合戦で北条義時と果敢に闘って壊滅した「和田氏」とも縁の濃いことは、歌舞伎の「盛綱陣屋」を観ても分かる。

あの承久の変前夜に取材していた「初稿・雲居寺跡」は、上のような経緯と微妙に縺れ合っており、それゆえに上のような「渋谷氏」後裔ご夫妻のお手紙も戴いていたのである。

 

* 「初稿・雲居寺跡」で優に半世紀余もむかしに意図もし触れもしていた時代や人物と、関わりないと言えない、ややこしい「現代」「志異」小説をも、今ま さにウンウン唸りながら楽しんで書いているのです。出来映えも大事だけれど、この、楽しむという動機が生きないと、この歳になって小説を書く意味がありま せん。

2016 9/28 178

 

 

☆ 前略

「亂聲」 刻してみました。 新歌集へのご期待です。ただし全く他意はありません。ただのお便りとお見捨てくださってもかまいません。

印字のしまりのなさは 刻者の性の表れでしょうか。隠しようもなく、正直に出てし

印材の同封は ちょっと躊躇しましたが、思い切ってお送りします。(お贈りではありませんのでお取り扱いはご自由に願います。)

奥様ともどものご健勝をお祈りしています。  井口哲郎  前・石川近代文学館館長

 

* 嬉しい贈り物です、有り難く頂戴致します。「新歌集」としての「亂聲」編纂には少し時間を掛ける気でいます、あるいは最期の集に成るとも思われますので。

しかし「亂 聲」は、まさしく私の毎日毎日の仕事が、そのまま体を表していますので、頂戴の印章もその方面からも愛用させて頂きます。なんだか源氏物語っぽい優艶な歌 集を想われている人もあるらしいのですが、元来の語意が文字どおりなので、ジャンジャカ、ゴチャゴチャと、なんでもござれの日々を表現した意嚮と寛容いた だきたいものです。しかし妙に惹かれて好きな言葉です。

2016 9/30 178

 

 

或る詩人の長めの散文詩の書き出しであった。のこる散文の二もこのままの散文分かち書きで終始していた。

感銘の有無や可不可は云わないが、日本の詩人から戴く日本語での詩集の、オーバーにいえば大半、いや、ほとんてどがこれに類している。日本人の現代語詩 はおおかたこういう表現と共通理解されているらしく、それはそれで日本語の口語詩の約束された納得ごとなのであろう。で、もし「詩」とは何なんですかと問 われて、詩人はどんな回答をしてきたか、解答例は詩の雑誌や過去の文献に山のようにあるけれど、かなり、みな、ムズカシい。小説や随筆の文章と詩の表現と のチガイは何ですかとつい口の中で呟いてしまう。このさいの「つぶやく」という日本語にはやや非難めいた口吻がひそんでいる。ぶちまけたはなし、これらが 「詩」に相違ないのなら、わたしの小説や随筆から、ま、たくさんな「詩」が収穫され、わたしは小説家で詩人でもありえそうな気がしてくる。

眼から鱗のおちるような日本語の「詩」論が書かれていたら、どうぞ教えて戴きたい。

 

* わたしにも、「詩」の思いがある。小説をもじつは「詩」として書いている気が無いのではない。「詩情」をよほど大切に重んじてきたし、それは、なにも 言葉の表現に限られてなどいない。絵画にも演劇にも、また自然の景色や人間関係にも、「詩」は在る。「詩情」は横溢する。疑っていない。だから日本の詩人 の詩集もああで佳いんです、と云われると、分かりきれない不可解なうすぐらい余白が拡がるのだ。困惑しています。 2016 10/2 179

 

 

* なんということなく休息かたがた前回「湖の本」131の「京都散策」をばらばらっと読んでいて、いつしかに読み耽っていた。文春専務だった寺田さんの 感想に、京都の人にしか分からない京都、「京都は魔都」と書かれていたのを反芻する気であった。ははーん、こういうところを寺田さんは言われていたんだと 納得してニヤッとした。ここ二度ほど「京の散策」を本文のうしろへ添えて、二度ともえらく好評なのに嬉しいやら照れるやらしていた。なるほどね…ともう一 度ニヤッとした。

なんといっても、わたしの文学は「京都」に太い根をよほど深く下ろしている。

もっともっと書いて置いていいなと思う。

2016 10/7 179

 

 

* おりしも選集は第十六巻、むごくもわれわれの日々を酸蝕した事件を書き表している。ひどくて、不快で、毎日を生きているのが辛かった日々の表現であり、いまもって遁れきれない、死にたいほどの惨憺とした毎日だった。

人間として、人間同士で向きあう不快の極限をわたしは味わった。

それに比しては、黒いマゴは真実われわれの身内としてともに生きてくれた。愛しても愛してもなお愛しあい足りないままに死なれてしまったと、妻は泣き、わたしも泣く。 2016 10/8 179

 

 

* 創刊三十年記念の第三「湖の本132」を全紙責了にした。入れ替わるように「選集第十九巻」の初校が届いた。この巻も、つづく第二十巻も、秦 恒平として代表的な記念の一巻にきっとなると思っている。

2016 10/10 179

 

 

☆ 生きる意味について

 

「湖の本エッセイ20」・『死から死へ』の31頁に、「生きる意味なんてものは無い。」と。

 

まったく同感です。なかなか言い切るには勇気が要ります。

 

我が意を得ました。

 

しばらく前、高校生相手の出前授業を頼まれ3年間ほど出かけていました。

 

与えられたテーマは二つ、①「なぜ仕事をするのか」、②「銀行の仕事について」

 

「なぜ仕事をするのか」の命題は、「仕事の意味」延いては「生きる意味」にも

 

つながります。

 

結局、私自身が信託銀行で「どういう仕事をしてきたか、その中で仕事のやり甲斐、生き甲斐をどう感じてきたか」などについて話し、あとは学生に考えさせることにしました。

 

**大に通い始めて12年目になります。教授に頼まれ、「就活」について時々相談に乗っています。現実的な話がほとんどですが、哲学科の学生相手なので、時に「生きる意味」、「生きる目的」などと言う議論になります。

 

私は18歳の時にヒルティの『眠られぬ夜のために』を読み、「自分がほんとうにめざしている目標はなんであるか」と問われ一所懸命考えていましたが、もちろん答は見つかりませんでした。さいわい深刻には悩みませんでした。

 

秦先生のこのページをこれから学生たちと話をするとき参考にさせていただきます。( “日々をきっちり「生きる」” という生き方は、お釈迦さまの教えに通じるように思いました。)

 

今月16日に入院をすることになりました。

 

 

『湖の本』を一冊携えて参ります。(さて、どれにしましょうか。)  仁

 

 

 

 

* その考えは変わっていないが、言われているエッセイの巻は、江藤淳の「死から」実兄北澤恒彦の「死へ」かけて編んだ日録であったとはっきり覚えていて、抜き出してその辺りを読んでみたら、はからずも黒いマゴが我が家へきた日でもあって、ハタと思い出した、

 

 

* 一九九九年八月四日 水

 

* 親友でもある新潟の高校生クンが手紙をくれた。いつもながら、言うこと無しの佳 い文章文面で、元気と知性とではちきれそうに言葉が生きている。冗長でなく情は熱い。多彩な読書は、ま、高校二年生の頃の自分を思い出せば、なに不思議も ないけれども、昨今の読書嫌いな学生も大人もいっぱいのなかでは、驚かされる。コンピュータ、放送部活動、それに彼は大の競馬好き。そして創作。生彩に富 んだ旺盛な少年の送ってくる友情には励まされる。

 

* 六百グラムの黒い仔猫が舞い込んできた。とても可愛くて、もう手放せそうにな い。軽くて、やわらかくて、ノラ経験が皆無とみえ、全然怯えないで視線を合わしては啼く。初めのうちは弱々しかったのに、慣れるに連れて元気に歩きまわ り、後をついてきて、仕事をしている上に乗ってきたりする。することなすこと、かつての、母「ネコ」仔「ノコ」の思い出につながり、いとおしい。あの母子 猫はしんからの我らが「身内」であった。ノコは十九年も生きてくれた。そのノコの写真に、この仔猫を「置いてやっていいかい」と尋ねている。

むかしのアパート時代から数えると、わたしたちが愛して付き合った猫は、今日の仔で七匹めになる。セブ ンと呼ぼうかと言うと、妻はそれなら「ナナ」が可愛らしいと言う。それでは差し障りが有るといえば、有る。同じ呼び名で、わたしの好きなすてきな女子学生 が以前東工大にいて、輝く星のような人だったから、猫の名前にするのは少なからず抵抗がある。ま、可愛いのだから、可愛がるに決まっているのだからと多少 言い訳も用意はしているが。

ノコに死なれたときは悲しかった。あんな辛い悲しい思いはもうしたくないと言い合ってきたが、明後日 が、その愛しかったノコの満四年の命日なのである。そういうところへ添い寄るようにして訪れてきた仔猫であることに、心を動かされている。ちいさいちいさ い漆黒の猫である。久しぶりの感触に胸の内があたたかい。

 

* 直哉の和解三部作『大津順吉』『或る男、其の姉の死』『和解』を読んだ。『流行 感冒』もここに加えていいのではないか、これと『和解』の二作は、文藝の香気も高く、ともに繰り返し読むに堪える。

直哉全集第三巻へ来て、目白押しに佳作秀作がならんでくる。小説という限定をつけないかぎり、どれもみな佳 い文学・文藝であり、感じ入る。結晶度の高い硬玉を掌中にした心地で、やはり「エッセイ」の最もよろしきものという実感である。小説だけが、物語だけが文 学ではない。この作家にもっと戯曲があればよかったのにと思う。

 

* 『或る男、其の姉の死』のなかに突如として鏡花作品のことが出てくる。わたしの 方は、これから鏡花作品を心して多く読んで、十月の鏡花を語る講演に備えなければならない。

 

* この時季に珍しく、今強い雨の音に家がすっぽり包まれている。涼しくなるだろう か。

 

 

* 同・八月五日 木

 

* 仔猫に一晩啼かれ、眠れずに朝の七時まで相手をしていた。それからやっと眠っ た。眠りたくて眠れない頭や胃がかなり苦しかった。

黒い仔猫はすっかり慣れ、ものも食べ、見違えるほどの元気さで、私や家内のうしろをついて廻って遊び戯 れ、甘えて啼き、お腹を空かして啼き、我々の姿を見失ったと言っては啼いている。仔猫の習性を一日でほとんど思い出してしまった。ひさしぶりの仔猫の柔ら かい軽い感触にしびれる。

正直の所、もう手放せないだろうと思うが、せっかく夫婦で家をあけて外出や旅が出来るようになっていたのにと思うと、ウーンと 唸ってしまう。留守の時は預かるかと、息子を、夫婦して口説きかけているが、向こうはわたしよりも出歩く商売のようだから。さあ困った。

 

* 「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもい つも胸に問うています。就職してから2年半、ずっと問い続けています」とメールの裾に書いてきた。親しい、東工大の元女子学生の若い友人が。

思い切ってこ う返事を送った。

 

* あなたは反芻するように繰り返しこう書いてきました、「人間とは何だろう、生き るとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています」と。

 

「老いる」「死ぬ」のことはすこしワキに置きますが、前半の問いは、じつは「無意味 な問い」であることに気づいています。

少なくも「生きる意味」なんてものは、無い。意味づけするまでもなく「生きている」ことが「生きてい る」意味なのだと。そんな無意味な問いに、どれほど大勢が無駄に悩んできた・無駄に悩んでいることかと呆れています。

「生きる意味」なんて、問うべき問題では無い。「生きる」のに「意味」は無い。「何だろう」と、答えのあ るはずもない問いを重ねているまに、「日々生きる」実質を見失うなんて、なんて無意味なんだろうと。

 

「問う」ことは、ことにより極めて大事ですが、「問い癖」になって、本質を逸れたと ころで、つまり「問うているぞ」という自意識だけが残存し続けて、かんじんの「日々の生き」が荒んで行くのは、はなはだ無残なことです。「意味を問う」の をしばらく落として、やめて、日々をきっちり「生きる」のに精力と誠実を注ぐこと。わたしは、そう考えるようになって、すうっと明るい場所へ浮かび出た気 がしています。もっとも、もともと、そういう「問い」はあまり持たなかったけれども。

あなたを煩わせているのは、つまり「マインド=思考作用=頭脳=心」なのだと思う。こういう心が、「静 か」になれない。そんな心は捨ててしまった方がいい。

他の人になら、こんなに乱暴そうなことは敢えて言わない。あなたは「気づく」のではないかと思い、言い ました。お元気で。

 

*  日記を、義務的にでなく、書きついできた。コンピュータでホームページをもち、そこへ「闇に言い置く 私語の刻」と題して日記を書き初めたのは一九九八年 三月であった。それ以前の日記は大学ノートで数十册、これは読み返すのも大変、電子化しておくのはて、もっともっと大変。しかしホームページ内の日記は以 来二十年ぶん、厖大な量だが、簡単に引き出すことも読むことも出来る。本にも出来て、もう何冊も「湖の本」として編輯してきた。わたしだけでなく、どんな よそのひとでも、自由に読まれて構わないようになっている。「作家・秦 恒平の文学と生活」と總題した厖大なホームページを検索すれば、読める。読まれて困るような何も無い。

2016 10/11 179

 

 

* ダスティン・ホフマンが神を、ミラ・ジョボビッチがジャンヌを演じた映画の秀作「ジャンヌ・ダーク」を気を入れて観た。バーナード・ショウの戯曲の優れていることを納得した。

イングリット・バーグマンの主演映画を新制中学でみた決定的な感化は、わたしの世界から神・仏はともあれ、教会・教団・宗派そして聖職を称するものらをほぼ決定的に掃きだしてしまったこと。

 

*   徹底的に谷崎潤一郎の「源氏物語体験」を論及しつつ、少なくも昭和の谷崎文学を決定的に読み込み得ていたと、しみじみ、幸せに想える。

研究だか批評だかはどうでもいい、作家と作品とを論じるならば、わたしの「夢の浮橋」や漱石の「こゝろ」論の水準になければ価値がない。平野謙の藤村 「新生」論などにわたしは刺激を受けてきたが、谷崎や漱石の「こゝろ」を検討し探究していたのは、平野謙らを知るよりずっと以前であった。論攷になじまな いと想えば、たとえば紫式部を語って「加賀少納言」のような小説を書いた。上村松園を語って「閨秀」のような小説を書いた。

眼光紙背に徹するといわれるほどの論攷・探究でない限り、おおかたの作家論や作品論は石地蔵のあたまを掌で撫でているようでしかない。

2016 10/11 179

 

 

 

* 「夢の浮橋」についで在来「蘆刈」の読みを根底から覆したわたしの読みを発表したのだった。「夢の浮橋」論を大岡信さんは朝日の文藝時評で、また単行 本の帯で「眼光紙背に徹した」読みと例のないほど絶賛された。作品論にせよ作家論にせよ、それが書かれてその作家なり作品なりが面目を一新してしかも一段 と人も作品も豊かに面白く読み取れるように成らねば、ほとんど意味がない。ほとんど意味がないような論や研究が多すぎると、わたしはいつも不満を覚えてい る。

「夢の浮橋」を発表し追いかけるように「蘆刈」論を発表した後、わたしは近代文学の大きな学会から呼ばれて、秦さん自身の口からもういちど「蘆刈」の読み を聴かせて欲しいと頼まれた。感激したのは、谷崎松子夫人もご一緒に学会に出て下さり、話して下さったのである、そのため早稲田大学での会場は廊下にも人 が立つほど超満員だった。わたしは、思いかつ読み取ったままを熱心に話した、じかんもかけ、原作本文もていねいに読み上げながら。

「ウーン、どう聴いても、秦さんの言うようにしか蘆刈は、読めなくなったなあ」とは、会場の最前列で聴いてられた当時学会の大御所のようであった先生が、 大声で、まっさきに感想を述べられたのを、照れくさくも嬉しく覚えている。わたしの「谷崎愛」が、確乎と認められた大きな機会の一つであった。昭和五十一 年(一九七六)秋であったと思う。騒壇餘人を自覚し「湖の本」を創刊した年、三十年前、わたしの四十歳をわずかに過ぎた頃だ。

あの学会を満たしておられた知名の学者、研究者の大方が、ほとんどが、もう居られない。

 

* とうに亡くなっている画家の出岡実さんと対談で「月」を語り合った思い出がよみがえる。

保谷か大泉かに住まわれていて、暮れになると干支を描いたおもしろい短冊をきまって自転車に乗って届けて下さった。美しい限定特装本になった『四度の瀧』を、心籠めて装幀して下さったのも、出岡実さん。

出岡さんも、やはり地元の能楽通堀上謙さんも亡くなられた。

久しい知友の訃報が相次ぐと、胸が冷えて、悲しい。

わたしも八十、もうすぐ一、だもんなあ。

子供の時、とてもそんな歳まで生きるなど、思いも寄らなかった。おかげで仕事も出来た。

2016 10/12 179

 

 

* 朝晩の冷えがほんものになってきた。そろそろ乗り物に煖房が利いてくるかも。

 

* 三十三巻も編輯できるのか。それでも足りないほどに、出来る。しかも仕事を続けているのだから、寿命さえあれば選集は三十三巻、かならずならぶ。質や 程度を落とすことなく、ならぶ。ただし、健康は、からだの健康も、こころの健康も、脳の健康も維持しなければならぬ。分かっている。すくなくも当座、怪我 や事故には遭うまい。

 

* 校正ゲラを持って池袋へ、西武線に乗った、が、めざす和食の店が閉店していて落胆した。

服部珈琲舎へ入った。珈琲の量がたっぷりだったためか、酔った気分に陥り、よぎなく、すぐ帰宅した。陰気な空模様に、気が晴れなかった。残念。「閑吟集」校正は、五十頁分もおもしろく出来たのだけれど。

2016 10/13 179

 

 

☆ 秦恒平様

11日の火曜日に『秦恒平選集第十六巻』をいただきました。いつもながら、忝のう存じます。最初の一編と巻末添え書きのみをまず拝見しましたが、後は昨 夜に読み始め、今日は朝からご著書に取り組んでおりました。「死なれて、死なせて」は『湖の本』で一度読んでおりました。改めて読んで、感銘をより深くし ました。

キリスト者は自己の生と死を、人間が抱えている被造者の制約からの解放、被造物全体の救い、という終末論的観点から考えるので、死別を相対化していま す。他方ではしかし、キリスト者は普通の人々と同じ感情を、生と死について抱きます。いわば二重に規定された人生を生きていますので、愛する者との死別を 重く、かつ軽く、受け止めるでしょう。キリスト者には吉野秀雄のような絶唱は歌えないと感じます。今生の別れをこれほど絶対的なものとして重く受け止めら れませんから。しかし、すごい絶唱だなと感じ入ります。圧倒されます。人間の真実を垣間見ます。私も100% 人間ですから。以前に拝見したときにもそう感じました。

 

愛するお孫さんを急に失われた悲痛事と名誉毀損の被告になられた無念、そして訴えを巡る概略については『湖の本』を通して知っておりました。『父の陳述  かくの如き、死』は初見です。昨日来、この苦渋に満ちた詳細な叙述を読みました。事の次第を書き尽くさねばならないと決意する一人の作家の、人間の真 実、現実に迫ろうとする気迫を真正面から受け止めました。

 

人は理不尽な事柄を語り尽くせば、それがその人には課題設定でもあり、解放でもあるでしょう。他方、娘さんは真実の前に打ちのめされ、たじろぐことが求 められるでしょう。それで人は変わっていきます。その可能性を考えれば、この書は娘さんに対する、お孫さんに対する愛の書です。人はみな、過ちます。赦さ れない過ちはありません。赦し、赦される体験を積み重ねて、人と人との結びつきはかえって深まるでしょう。それを切に祈ります。

 

私は月末の日曜日に横浜のある教会でなさねばならない礼拝説教と午後の講演の原稿作りに苦労しています。どうやら自民党に所属の教会員がいるようで(そ のことが教会の活動を制約しているようですから)、教会の方々にはかなり耳障りな話をしようと決心しています。政教分離はキリスト教の、同時に近代市民社 会のいのちです。現政権は政教分離の原則も、思想・信条の自由も平気で侵し、国家が個人の生き方を決めようとしています。今、戦わねば、時を失すると強く 考え、私は昨夏以来、多少の実践をしてきました。

 

ありがとうございました。平安を祈り上げます。  浩  ICU名誉教授

 

* ありがとうございます。わたくしどもには、巻頭の処女作の題のまま「朝日子」とは生まれた日のママの朝日子です。志賀直哉全集の第一巻の第一作が、と ても初々しいアンデルセンを意識された童話なのである。はるか後年にそれを見知って、わたしが娘満一歳の誕生日に書いておいた「生まれる日=朝日子」を思 い出した。やはりどうみてもわたしの作のようである。

2016 10/15 179

 

 

* 梁塵秘抄と閑吟集とをつぶさに読み返した。「閑吟集」はわたしならではの精彩在るよみに成っていて中世への思いも勉強もいい感じに浸透している。谷崎先生の「蘆刈」の読みも徹底して正鵠を射ている。いいかげんな仕事はしてこなかったと、すこし嬉しくなっている。

初校を戻せるところまで読み切った。

2016 10/15 179

 

 

* 昨夜、ソポクレスの「オイディプス王」を読み切った。底知れぬ恐れに無垢に襲われた。感動とはこれかと思った。ギリシャ悲劇の極致・原点にあり、世界の藝術の原点にありしかも静謐の極致を成している。

「父の陳述」など、生やさしいものだ。まだまだモノが抉り出せていない。

ソヘポクレス、引き続いて「アンチゴネ」を読みはじめている。

2016 10/17 179

 

 

* 「春琴抄」論を気を入れて読み直した。「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」 これを越す谷崎潤一郎論が、谷崎作品論が、読みたい。残念ながら、この昭和と平成に、出会えたことがない。

2016 10/20 179

 

 

☆ 拝復

『秦 恒平選集』第十六巻をご恵送いただき、誠に有難うございました。

秦文学のキーワードといえる『死なれて死なせて』が「核」ですが、

異色作(と言ってよいでしょうか)『父の陳述』は、時代へ社会へつながって批評のある、主張のある、凹まない「私小説」の実作として、関心も持って読ませていただきました。

今年も京都の秋は遅いようです。

まだ紅葉は見られません。 草々   田中励儀 同志社大教授

 

* 「つくり」の難しい小説であった、何故なら裁判所へ提出して相手側と闘う「陳述書」とは、正当で尖鋭な事実と主張(攻撃・反駁)、それらの緻密な時系 列を誤らない具体的な叙述、柔軟な説得力と批評により、でつとめて分かりよく書かれねばならない。小説にはありがちな自然描写やムーディな世話・会話は必 要としない以上に、無用の邪魔になる。普通にはあまり無い「小説」表現になる。しかも田中さんの言われているように、「時代へ社会へつながって批評のあ る、主張のある、凹まない『私小説』の実作」でなければ、つねづねわたしの言いかつ求めてきた「作家として実験に富んだ」創作にならない。

うまいかへたか、は、一応今は論のそとに置いておくが、わたしは、徹底的にうえの通り実験を貫いた。そして「私小説」であると、あるいはこれが一人の作 家であり市民である秦 恒平が抱きかかえて苦しみ闘ってきたモノと読み取られ、何の間違いでもない。前巻に所収の長編『逆らひてこそ、父』も準じて読まれてまったく差し支えな い。以上、一言しておく。

一週間前のこの言葉も大事に再掲しておく。「 今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実を見わけるある種の本能である。 (カール・ヒルティ 1833-1909)」

2016 10/29 179

 

 

* 「選集⑲」の本紙初校を、要再校で送った。この巻が出来てきたらわたしはそれは嬉しがるだろうと想う。

「湖の本132」の刷りだしが届いた。これで「創刊三十年記念」企画の結びとし、以降、平生心でさらに刊行し続ける。発送用意もほぼ仕上がっている。

「湖の本133」の初校をすでに始めている。

「選集」第二十巻の入稿原稿づくりも半ばを過ぎている。この一巻も、秦 恒平のためには重い懐かしい一巻になる。

2016 11/5 180

 

 

☆ 拝啓

朝晩、急に冷え込んでまいりました。お変わりございませんか。

早くに「選集⑯」お贈りいただきながらお返事遅くなりました。申し訳ございません。

「私」小説の、あまりに重い内容に、どうお返事すればいいかわからなくて戸惑っておりました。

以前「湖の本」に発表されたときは、すぐ、娘の結婚、離婚と孫たちの事件を思い出し、とても辛いお気持ちでお書きになったのだろうなと思いました。今回は加えて、作家として書かなければならないという宿命のような覚悟すら感じました。

「糸瓜と木魚」論、初校をすませました。また出ましたらお送りさせていただきます。

どうぞくれぐれも身体大切にお過ごしください。 奈良県  研究者

 

 

*  往年の葛西善蔵、嘉村礒多、また志賀直哉にしても徳田秋声にしても、その他多くの私小説作家の作には、文字どおり凄いのがあった。研究者も批評家も何の こだわりも臆面も無く読んで語っていたと思う。このほどの読者、研究者、温和しすぎるのではないか。本気でわたしに書くなと諫め顔だった若いべつの研究者 を思い出す。

昔の文学者たちの論争の猛烈だったこと、懐かしいほどに思い出す。最近、まっこうパンチをくり出した文学論争など聞いたこともない。文学精神がひよわく 解体しているのだ、まさに「文学」の姿勢が総じて通俗化している。スマフィ作家や批評家や研究者に成り下がろうとしている。

 

 

* 選集⑱の「あとがき」を書いたので、その余ツキモノを用意すれば、先がはかどる。

 

* 2005年の「京の散策」を読んでいて、ほ とんど小説の中での描写や表現に近い精度で気を入れて京の風光を書いているのに、すこしビックリした。あ、このまま小説のなかへ溶け込ませて少しも差し支 えない、と思った。「私語の刻」はいわば日記、それに自然と小説を書くときと同じ密度で描写したり表現したりしている、わたしに、そうさせるものが「京 都」にはあるのだな。十年以上もむかしの記事が、すこぶる懐かしい。文藝として、文学として日記も書いているつもり、それが、往年の京への旅日記に綺麗に 見えていて、かえって少し驚いた。

 

* 京都へ帰りたい。

2016 11/7 180

 

 

* 「湖の本133」を「要再校」で戻した。手元にすき間を造っておかないと仕事が息苦しくなる。明日からの発送前に、「選集⑲」「湖の本133」と再校 待ちで印刷所へ戻せたのは有り難い。「選集⑱」の再校ゲラが出ており、「選集⑳」の入稿用意が半ばへ来ている。年内に「選集⑰」も送り出せる。肩の荷をす こしでも軽く軽くかつ慎重に進めて行くのが編輯という作業の要諦である。およそ半世紀にも近くわたしはこの作業にわたしは手慣れてきた。併行して、無数に 原稿を書いていた。自身は「寡作」と感じて時に口にもしてきたが、今になってみると寡作は自己誤認であったよ。

 

* 文藝誌「新潮」の突然の手紙で呼び出され、筑摩の太宰治賞を受けてほどなく新潮社の新鋭書き下ろしシリーズに加えられて『みごもりの湖』を書いた。そ の創作途中に担当の編集者池田さんから戴いた現代語・古語の入った久松潜一監修『新潮国語辞典』を、四十七年近く文字どおり手近に愛用し続けてきて、つい 先ほども「刺」という字が「名札」を意味し「名刺」の「刺」であることを確かめたばかり、それにしてもさすがに手擦れで、表紙はガムテープで剥がれは防い であるが、気の毒なほど表紙じたい痛んで反り返り裏剥がれたりしている。お世話になったなあと、つくづく。どう見た目は窶れても、版型といい厚さといい、 じつに温かに手慣れて懐かしいのである。

小説の良い読者とは、いい想像力、優れた記憶力、創作性のいいセンス、そして、進んで辞書をひく気性と挙げていた世界的な作家がいた。辞書を座右に愛し うることが優れた読書の基礎の条件だという、わたしは諸手を高く上げて賛成した。今一つ加えれば、「繰り返し読めるちから」「本当の読書とは、再読から始 まる」とわたしは思ってきた。自身そう楽しんできた。上の条件を皆満たしている読者に、再読を誘わない作や本は、足りないのである。

わたしはこれぞという本を一読だけで棚上げしたこと、ほとんど無い。近年読んで、いま強く再読を心誘われているものに、ミルトン『失楽園』がある。宇宙 を飛翔するように我と現実とを忘れうる。詩といえる作の最大規模の最優秀作ではないか、しかもほぼ失明のまま書かれたという。

 

* わたしもほどなく失明に近いことになる、が、限界までは体力を保ち根気を保ち、時間を惜しんで半歩でも一歩でも仕事の前へ出たい。ムダに遊んでられる ヒマはない。わたしの仕事に不二の価値があるの無いのではない。意義は何もない。他のだれにも出来ないこと、というだけの話。笑い話であるが。

 

* 腹具合はよくならない。すこし間違うとまた入院になる、心づかいしてそれは極力避け、よく寝て視力をすこしでも労りたい。元気の少しは残っているうちに、いちどでいい京都へ帰りたいが、叶いそうにない。

 

☆ もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。  (カール・ヒルティ 1833-1909)

 

* これぞ、わたしの信条でもある、心情でも真情でも身上でも、ある。

2016 11/10 180

 

 

* このあとは「梁塵秘抄」「閑吟集」を読んで行く。米国のトランプ騒ぎから、少しく雅にしんみりと、逃避したい。語っているわたしが、生き生きしている。病気など綺麗に忘れてしまう。

 

* 朋あり、遠方より帰り来る、また嬉しからずや、という心地になれる。

2016 11/12 180

 

 

* 昭和初年の谷崎先生に触れ続けていると、あまやかな苦痛すら覚えながら、久々に「吉野葛」を読みたくなる。わたしが日本現代作家の作を最初に岩波文庫 を買って読んだのは、「☆」一つの『吉野葛・蘆刈』だった。その本は、まだ大事に持っている。岩波文庫「☆」一つが十円であった、のが十五円になってから だったか、そこまで覚えていないが大事に大事に読んだ。西洋のものではシュトルムの「みづうみ」でやはり「☆」一つ、古典では同じく、「徒然草」を買っ た。上下本で合わせると「☆」五つの「平家物語」を買ったのは大奮発であった。とはいえ、どの一冊も、後年の作家・秦 恒平の大きな滋養にも助けにもなってくれた。なにしろ「湖の本」とまで名が付いた。「蘆刈・吉野葛」は、一つには谷崎論の要に成ってくれたし、また母もの 谷崎の感化からいつしかに『生きたかりしに』へも導かれたと思う。

「徒然草」は『慈子』に成ってくれた、「平家物語」は『清経入水』『風の奏で』などに化けて出てくれた。まだ今もあわよくば、新作『清水坂(仮題)』へ跳ね返ってくれそうである。

 

* 幼いながらも、文学の優れた名作や秀作に出逢う有り難さは、人生に響いてくる。詰まらない読み物からは、所詮得られない、深い熱い刺戟がある。わたし も「小説を書く」なら、そんな力有る「作品」を生み創りたかった。わたしの作が、人の或る苦しかった時期の「救いでした」と何度か何人かから打ち明けられ てきた。昨日も、「二十年前」を回顧した「救いでした」というメールを、久し振りに貰っていた。なにがどう働くのかは人それぞれであろう。わたしは、ただ 心籠めて書くだけである。「救う」ために書くのではない。

2016 11/13 180

 

 

* 疲れを溜めないためにも、とにかく床に就くように心がけたい。もっとも床についての校正も読書の量もけっして少なくはないが。

 

* クロネコやまとに荷を渡しても、どういう事情でか、発送されていないという。経営に無理が重なっているのか、従業ら問題が出ているのか、分からない。

ま、わたしは、身を休めることを主にしたい。

もうすぐ、待っていた松たか子の芝居を観に行く。先日の姉・松本紀保の『治天ノ君』は秀逸であった、負けない面白い舞台を期待している。

今月半ば以降は、月曜ごとに聖路加の診察がある。月が変われば、五日に「選集⑰」が出来てきて、送り出したあとの師走は、かなり寛げる。思い切り、創作へ重きを置く。一度、遠くないあたりまで新幹線に乗れないものか。

2016 11/13 180

 

 

* さきの「選集」第十六巻は、さしあげた方々にかえって苦渋を強いた虞れもあって恐縮してきたが。

 

☆ 秦 恒平様

謹啓 「秦恒平選集」第十六巻(「生まれる日 または朝日子」「死なれて 死なせて」「父の陳述」)をご恵贈賜り、まことに有難く心より御礼申し上げます。この度も発刊早々に賜りましたこと、重ねてのお心遣い有難く、感謝いたしております。

重い重い作品、三作。軽々には読めないという思いで拝読させていただきました。じっくり読み、どれほどの理解に、また共感に至れたかは、非才忸怩たるところですが、一生懸命読みました。

「生まれる日 または朝日子」は子を生む親 一 我がなした子を世界に送り出す親の、造化の神のごとき覚悟と期待、深切なるイデーを感じました。天上の湖は、さながらノヴァーリスの「青い花」のように、 涼々と「永遠の命」を生み出す命の湖であり、万物の過去・現在・未来をはらみ、天地のすべてを映して超然と存在しています。また両性具有の老人「昨日」 は、預言書を持つ隠者ホーエンツオレルン伯でありますが、預言されたハインリヒの未来をマテイルデの霊的分身ツアーネが可能性としての未来に導いたよう に、夕日子が「昨日」を封印して、朝日子の未来の無限性を拓いたと感じました。因果の小車を断ち切って、全く新鮮な純粋自己となって、朝日子は未来に向 かって生きていくのです。命の顫きを感じます。

私の母や父も、またすべての子の親は、期待を不安に、不安を期待にして、我が子を懸命に育て、この世に送り出してくれたのだろうと思います。しかし、 「昨日」も「夕日子」も、決して消滅してしまって、完全なる無となったわけではなく、朝日子の命のなかに、影の形に添うごとく存在し続けます。眠り姫を導 いた十三番目の魔法使いの預言のように。小車のごとく永遠に回転し続ける輪廻世界に咲いた、一輪の花「命」、それが「運命」ではないかと、神秘的な思いに 打たれました。

「水底からふくれあがるふしぎなうねりに波の花がやさしくくずれる」湖は、まさに命の根源としての「湖」を観念する秦文学の濫觴、根源的イデーの象徴と感 じさせていただきました。真の処女作ともいうべき「生まれる日 または朝日子」は、直哉の「菜の花と小娘」ではなく、むしろ「母の死と新しい母」に比すべ き作品と感じます。「菜の花と小娘」には小娘のエゴの強さや、小娘の不合理な感情にもてあそばれた菜の花の奴隷的な哀れさに、自然感情を絶対イデーのごと く信じて行動した志賀直哉の心性の一端をみることは出来ると思いますが、後年の諸作品の萌芽の影をみることは出来ないし、処女作としての象徴性がないと私 には思えます。童話的語り口という点では、「生まれる日 または朝日子」も同じラインにあるといえますが、生意気を言うようですが、創作意図も覚悟も、そ の深さに於いてまったく異なるレベルの作品と感じさせていただきました。

「父の陳述 かくの如き、死」は湖の本101号「凶器」(原題)で読み、再読になりますが、またいろいろ考えさせられました。

命、法、親子、他者、狂気、悪意、非情、無関心等々が不合理の裡に渦巻いていますが、少女の消えてゆく命の前に、それら命を除くすべてが、空しく実態も なく薄い紙切れのように舞い去って行く感じがいたしました。問われるは良識であり、法の精神ですが、ここでは、「良識」は一回限りの命の絶対尊厳の上に 立っての「良識」であるのに、問われる「法」は機械的機能的な「法」であって、まったく命の観念すらない無機的な観念の「法」として、対峙していると感じ ました。

狂気は三分の理をもって言いがかりをつけますが、言いがかりを無視し、三分の理を採って狂気を正気かのごとく擬装してしまう「法」は、真に法の精神を活 かしているとは思えません。法が結果として、法を施行する人間の感情や性格に左右されるとしたら、法の正義はどこで保証されるか、と思いました。特措法の 成立に与って違憲を合憲と言い切った法制長官の政権におもねった厚顔、そして無恥を思い出しました。

不合理で理不尽な訴えに、正面から陳述する清家次郎氏の姿には、カフカの「城」の永遠に来ない指令書を待って、迷宮のように寒村をさまよう測量師Kが重 なります。「額」小説的構成で、清家次郎氏の、結局非常識であるところの世間との交渉、若くして、見捨てられたように命はてていく孫娘飽海ふじ乃の悲壮な メール、母親としての自覚が欠如した飽海櫻子の不可解な行為と小説-そこに表現された飽海専太郎の常軌を逸した行為や悪意の発露などが、モザイク模様に展 開されますが、正義の脆さと正義を踏みにじって居直る悪のしたたかさが実に不気味であり、厭悪感に襲われました。

最後に清家次郎氏が亡くなられて、懸命な陳述書が、本当の「遺書」になってしまった結末には、言葉もなく深い悲しみに襲われました。陳述が祈りになり、 祈りとなった陳述は、読者の胸裡に哀しい叫びの木霊となって響きます。そして、その叫びのなかに、従容として死を受け入れ、なにもかも許して天に還ってい った少女一孫娘飽海ふじ乃の清らかな姿が浮かび上がります。

さながら飽海ふじ乃は「生まれる日 または朝日子」の朝日子がこの世にすすんで生れてきたのとは、逆の道をたどり、天上の森深い、しずかな湖で、ふたた び「夕日子」にまみえていると、思えます。ながれる波紋が、「湖の真ん中でぶっかりあって、白い波の花をきれいにさかせ」ている、命の湖のほとり、ふじ乃 と夕日子は二人相並び、岩に腰かけ、月と満天の星々を眺めている。そして、再び、この世に生まれる日を待っているのです。孫娘飽海ふじ乃の天上の救いが、 清家次郎氏の救いとなることを確信し、祈らずにはおれない心になりました。

感傷的な感想になりました。三作の有機的なつながりが、第十六巻を誕生と死、そして背きと許しを雄大な流れにして読ませます。方向のちがった著述が 「私」から流れ出て、「私」に向かって流れていく、あるいは「私」という塔を築いていく、そこに確かな、固有の人生と人格が浮かび上がっていると感じさせ ていただきました。深いところは、とても汲み尽くせませんが、感じ取った限り、未熟、拙劣ですが書かずもがなのことども書かせていただきました。勝手な思 い込み、多々であると思います。どうぞ、失礼の段はご宥恕のほど、お願い申し上げます。

早くも冬季を迎え、日々寒さが募ります。体調の不具合いろいろ出てくる季節かと存じます。どうぞ先生には、奥様ともに、ご健康専一にご自愛くださいますよう、心よりお祈り申し上げます。

まずは、御礼まで。

ご本大切にいたします。本当にありがとうございました。 敬 具

平成28年11月14日    作家 小滝英史

 

* 遙かに遙かな昔の処女作となった、パパのおはなし「生まれる日 朝日子」を心して巻頭に置いた願いとも祈りともいえる短編を、正確にとらえてこの一巻 のうちに意味付けて下さったのを、心底 深々と感謝申し上げる。「本望」とはこういうことかと、掌を堅く熱く握っています。

 

* もう一通、それは今度の選集や湖の本とはちがい、敢えていわばあの「初稿・雲居寺跡」とふれあう鎌倉時代の武将家のことどもお書き頂いたお手紙を、神 奈川二宮の高城夫人から頂戴していて、お手紙と別に、絵本「牛若丸」復刻版から一頁の繪語りを添えて頂いた。これがまた、実は書きかけ書き進んでいる新作 に触れ合ってくるので、感謝し喜んでいる。

高城さんからのお手紙は、以前の一通も今回の一通も、ちょっとこのままはご紹介できない貴重な一歴史証言なのである。高城さんからの刺戟で、じつは、私も鎌倉武家の一二の動態をまさぐっているのです、佐々木氏、河野氏を。

 

* 読者は有り難いのです。まことに、有り難いのです。

2016 11/15 180

 

 

☆ 全体として善い生活をすごしてきた場合でも、それが陥る最も危険な時期は、ときとして、生活がいくぶん退屈になりはじめる頃である。 むしろ苦悩を、新たな種まきの時期として利用するのが良い。  (カール・ヒルティ 1833-1909)

 

* 同感する、そして努めてそのように生きてきた。魂の凍えるほど日の下が苦しく寒かった日にもわたしは「新たな種まき」に励んだ。人によれば作家・秦 恒平後半生の汚点かのように見られかねぬ「逆らひてこそ、父」も「父の陳述 かくの如き、死」も、わたしは決然と書いた。作家なら当然と心決めて書いた。 浅い私憤や逃避のためになどわたしは書かなかった。

 

* もっとも、ヒルティにこう聴いて頷いたわたしは、同時に詩人陶淵明や臨済和尚にも聴いている。彼らはまた別の境地を聴かせてくれてわたしは憧れる。これは矛盾や撞着なのか。たんにわたしがバカであるに過ぎないのか。

 

☆ 陶淵明に聴く

去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)ふべけん

「さっさと隠遁するだけのこと、何をためらうことがあろう。」

世俗は久しく相欺(あひあざむ)けり

悠悠の談を擺(はら)ひ落とし

「世間のよいかげんな取沙汰など払い捨てて」

請ふ 余(わ)が之(ゆ)く所に従はん

「わが道を行けばよいのだ」

 

* 「わが道」も人それぞれであろう。

 

☆ 臨済に聴く

少信根の人、終(つひ)に了日無けん

「信念の欠けた者はいつまでたっても埒のあく日はない。

2016 11/16 180

 

 

* その前に、仕上げ前の「ユニオ・ミスティカ」に新しい着想での書きくわえを試みたい。

2016 11/17 180

 

 

☆ 略啓

御壮健何よりです。「湖の本」有難く頂戴致しました。

小説作法として 井伏鱒二のやうに 版を改める度に大きく手を入れる人と さうでない人がありますが、 今度 秦さんのお考へをおきかせ下さい。

向寒の砌 御自愛を祈ります。 不備  前・文藝春秋専務  寺田英視

2016 11/18 180

 

 

* 「秘色」を書いてから、47年、まだ往時は渺茫とは思っていない。歩けさえすればまたあの寺址まで登ってみたい。創作の秘鑰は「旺盛な想像力」と「文 章」だと、しみじみ思う。個性的な文体を駆使して佳い文章が書けるのは、創作の場合、豊かな想像力があってこそ、である。

2016 11/19 180

 

 

* 血尿を出してもう半月も入院しているという八十五歳、立教大名誉教授の平山城児さんから、ちょいとは書き写せないほど長文の、震え歪んだ字のお手紙を もらったのが、もともと歯に衣きせない方の人のようだが、意表に出て面白かった。「『斎王譜=慈子』を一字のこさずよみおえました。とにかく実におおこし い複雑な話をよくもここまでまとめたものかと感心しました」がお褒めの一行で、すぐ、「実話かと思われる朱雀家にまつわる部分は、二人の自害者(それもほ とんど同じ形での)を生むという悲惨なものがたりで、事実かどうかは別としても、物語としても悲惨すぎて読み進めたくなくなります」とつづくのに、思わず ニタッと笑えた。「実話」かと想われるほどとは有り難いが、「死」を描いて「悲惨」といえば、世界中に、ぞおっと総毛立つほど感銘を得る悲惨にして優れた 物語は、山のようにある。源氏物語にしても雨月物語にしても。漱石の「こころ」にしても。子供の頃に読み耽った「嵐が丘」は、悲惨そのものが美しく激しく 換えがたい糧になった。「ハムレット」も「リア王」も。遠くは「オイディプス王」も、また「クイーン・メアリー」も。

平山さんはさらに追い打ちして、「慈子」の存在こそ「最も欠陥」であり、「大体、あれほどの事件が身近で起きているのに、のん気に”古瓦”の卒業論文を まとめたいなどと言っている人間は人間ではないと思います。私が慈子なら線路にとび込んで自殺してしまいます」と。こういうふうに文学を読む文学教授がい ても構わないのだろうけれど、同じ立教大におられた神学者の野呂芳男名誉教授の「『慈子』を読む」との際立った対照がおもしろい。

平山さんはわたしや作中の人らの「徒然草」観は「おもしろい」と納得されたようだが、小説の構成からみれば「要するに壮大なムダであったと思うのです」 と言い切られていて、これはこれで一つの論かと思われる。わたしが、市販の現『慈子』がありながら、『私家版原作・斎王譜』をもちだした理由のひとつに、 この徒然草考の作に対する適正な配置と量を念頭にしていたからであり、どの程度まで市販の決定版で配慮されているかを見て貰いたかった。但し、この小説に 徒然草がかなり決定的に意図され趣向されていることは、「野宮」という謡曲に触れあいながら「斎王」ないしそれに似た時代を超えた女人の「譜」をモチーフ にしていることで十分明らかで、「壮大なムダ」は言い過ぎか、読解力不足の妄評に思われる。

ほかにも、谷崎や漱石らにかかわって何かしら放言されているが、ニコニコと読ませて頂いた。

こうした「ご挨拶」で終わらない批評は、どう曲がりくねっていても、じつは有り難いのである。わたしは根の素質からするといつも「文学論争」に臨みたい 厄介な「芽」を胸に育んでいる。昔の著名な批評家や作家たちが悪罵にも等しく、思わず読みながら目を剥き耳を覆ったような多く激越な「文学論争」を、わた しは仔細に愛読しつつ、自分自身の「読みぢから」「書きぢから」を育ててきた。「読解」の豊かさや深さは、しかし、最後はその人の「人間力」になってく る。放言ではダメなのである。

 

* ものの下にもぐっていた2006年の文化手帖が、ほとんど使われていないまま現れた。記事としては一月十六日十時半に「聖ルカ 糖尿」 同十九日二時 に「迪 聖ルカ」 三月二十三日十二時に「迪子 聖ルカ」と有るだけ。手帖が何冊かダブルとこういう運命にアブレるのが、まま出来る。

ところがこの手帖の、左欄十一月六日から十二日までの頁の右の白い頁に赤のボールペン字の走り書きで、こんな今様らしきが縦書きされていた。

 

たがいひおきし いましめと

しるもしらぬも かなしけれ

かなはぬこひに みをまかせ

しぬるおもひに みをやけと

 

明らかに今様の曲調であり、走り書きの字の勢いからみて、よそのを書き写してはいない、わたし自身の「うた声」になっている。あたらしい物語りをでも想い描いていたのだろうか。

こんなのが、ひょいひょいと現れるから、ごみのやまのようなモノが捨てきれなくて。困るのです。

思いついて『光塵』をあけてみると、

06.10.26の日付で、

 

あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを

 

みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり

 

と、ある。やがて「七十一老述懐」として

 

あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲

 

あすありとたがたのむなるゆめのよや まなこに沈透(しづ)くやみの湖

 

「歳末述懐」として

 

これやこの一途の道に咲く花のつゆも匂へとまぼろしにみる

 

あらざらんこのよをよそにとめゆかめあかきは椿しろきも椿

 

はんなりと老いの一途を歩みたし来る幾としの数をわすれて

 

大晦日には、「今年 やす香を喪った。死なせてしまった。つらい一年だった。

秦建日子の活躍したのが せめても喜びだった。

私は、迪子も、日一日を精魂こめて迎え、送った。」と前書きして、

 

逝く年の背を見送れば肩越しにやす香は我らに笑みて手を振る

 

* 小説に書きかえる必要なく、いわば、半身を「ものがたりの影」のように生きているらしい、わたしは。へんな人ある。

2016 11/19 180

 

 

☆ 創刊満三十年記念の

第132巻を拝受いたしました。あらためておめでとうございます。

作家は事実上の起点である「処女作」に戻るといいますが、秦さんもまさしくその通りですね。それにしても通算百三十二巻。執念に作家の心意気を感じ頭が下ります。

ますますの御健筆を。  文藝家協会理事

 

* ありがたい激励だけれど、この先わたしは「処女作」を後ろ足で蹴散らそうというのである。その馬力が得たくて「清経入水」「畜生塚」「斎王譜=慈子」 の原作を、なんというか露地の関守石かのように置いたのです。百三十二册ぐらい、べつに執念の所産なんかではなく、要するに秦 恒平流の「仕事」をし続けてきた、積んできたから出来ているという過ぎないのです。

2016 11/21 180

 

 

* 今にして新ためて心血を注ぐほどの思いで読み返しているのが、長編の『神と玩具との間』で、なまじの小説を読むより遙かにしみじみ面白く、谷崎愛をこ めたわたしの打ちこみに、ふと、我と我が拳を握りしめていたりする。「読む」という行為の面白さと難しさと楽しさに満たされている。谷崎先生、松子奥さま のまぢかな佳い写真に手元を見られている。いいかげんなことは出来ない。

 

* もう眼が見えず、手も痺れ、痛いほど攣れてくる。けれど、そんなことには凹まない。目の前にやす香も、可愛かったノコも、いとおしい黒いマゴの静かな 永眠の像も、わたしを見てくれている。「斎王譜」を書いていた頃といまも気持ちちっとも変わっていないのに、成長しないんだと苦笑もされる。

 

* 字がよく見えないのと、古い機械の不調も手伝い、文章が千切れたように飛んで行ってしまったり、ややこしいことだ。妻が読んで、メモで直してくれるで、また機械へ戻って訂正したりしています。

2016 11/21 180

 

 

* 高野山に籠もって谷崎が『武州公秘話』を書いていた頃を『紙と玩具との間』で論じていた辺りを丁寧に読み返しつつ、たまたま妻が録画しておいてくれた 市川崑監督の映画『細雪』を観た。何度目かでありながら、新鮮に面白く観た。胸のつまるほどの感銘も得た。岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子と いう顔ぶれ。目黒の雅叙園で篠山紀信が彼女らの写真を撮ったときにわたしも立ち合い、豪奢な写真集にわたしの細雪の読みを入れた思い出がある。四人の女優 ともその際に出逢って、言葉も交わした。

大きな作品であった『細雪』というのは。なまじいな姿勢でははじき返されてしまう凄みの世界でもある、美しさそのものに凄みが秘められていた。

 

* 幸せというものか、わたしはわが「谷崎愛」の行方の中で、誰よりもこの『細雪』世界の主人公である、二女幸子、即ちというてもよい谷崎松子夫人と親し く識りあうことが出来た。作家水上勉は、秦 恒平は谷崎夫妻の隠し子かと一時期本気で推量していた。それほど、亡くなるまで親しかった、ほんとうに佳くしていただいた。

いま思えば、わたしの谷崎夫人とのおつきあいは、また「谷崎愛」は、あまりに「書く」ことに尽くし過ぎていたかも知れない。ひたすら谷崎を読みかつ書いて夫妻への敬愛を表現しつづけた、つづけ過ぎたとすら云えるほど。

『神と玩具との間』を書き下ろして世に問うたとき、松子夫人は一言もわたしに苦情を云われなかったが、書かれていた内容は、或る意味で「わたし」だから 赦していて下さったかと想える険しいものだった。いましもそれを読み返し進めていて、ありありとそれを思う。わたしは「書く」ことに全身全霊熱中し、熱中 できるようにと、松子夫人をはじめ微妙な関係者の何人にもあえて取材もヒアリングもしなかった。徹底して自身の「読み」を通し、それで良いと確信していた のだった。

 

* いまわたしの目の前直ぐに、谷崎潤一郎自身が最も気に入っていた、またわたしの見る限り最も松子奥様らしい優しい美しい顔写真がわたしを見ている。親 の写真の一枚もないのに、谷崎夫妻の最良の顔写真にわたしは一日中見られている。ときどき、こんなに書いてしまってごめんなさいとあやまっている。

明日からは「第三章」ゑ進む。

2016 11/24 180

 

 

* 「ふりがな」の仮名遣いの「不統一」を注意して下さる読者があったので、ちょっと言い訳しておきたい。わたしは、古典の原文へのふりがなは努めて「旧 かなづかひ」で、その余のふりがなは、なるべく1漢字に2ふりがなを宛て、ふりがな字の多さで組版の乱れるのをむしろ嫌っている。

例えば「永正」という年号二字には「えいしょう」よりも敢えて「えいせう」としている。古典言語にはもとのよみがなを宛てて当然だが、現代語や普通語の場合は「その漢字が読めれば良い」と割り切っている。

また「奨子内親王」の名を「しょうし」と読まれては「困ります」と注文がついて、しかもその方は、内親王のその名を「スケコ?」「ススムコ?」と疑義されている。即ち、正しい読みが分かっていないのであり、そんな際は通例に順って「しょうし」としてある。

角田文衛先生に多くを学んできたわたしは、古典女性の本名は、分かっている限りは「明子アキラケイコ」「高子タカイコ」「北条政子マサコ」「日野富子ト ミコ」のように読むが、遺憾にも、女性本名の正しい読みは「たいてい不明」であり、そんな際は久しい慣例にしたがい「式子内親王ショクシ又はシキシ」と読 んでおくか、読み仮名を振らないことにしている。

 

☆ 秦 恒平 先生

メールをいただきながら失礼をいたしました。

上洛して、長くリウマチを病む妹を見舞い、留守に致しておりました。

お身体の調子が良くないとうかがいましたのに、端々まで気を配って頂き恐縮でございます。

門脇照男先生とは、十年余り「瀬戸内文学」という同人誌でご一緒させてもらい、教えて頂くことがたくさんありました。静かな、胸に落ちる文章を書かれる優れた作家でいらっしゃいました。

秦先生お奨めの作品をあらためて読もうという気持ちが強くなりました。

三原誠氏のお作も(=「e-文庫・湖(umi)」の中で)読んでみたいと思います。

藤江もと子さん(=京大薬学部で、年次が近いかと。)という方も、ご教示いただかなければ知らないままでした。ありがとうございました。

『斎王譜(=慈子)』が送付されてきて、覗いてみて、細やかでゆきとどいた文章に、読みやめられなくなりました。自分の文章がぶっきらぼうなのがよく分かり、どうにかならないか考えたいと、強く

思います。11/24  かしこ   香川  星合美弥子

 

* 永いあいだにたくさんなお付き合いもありまた読書も積んできた、そのなかで、はなばなしく文壇で名前ばかり売っていた人でなく、創作の実力と姿勢とで 感心し続けてきた作家、は、上のメールに出ている門脇照男と三原誠のお二人だった。二人ともとうに亡くなってしまったが、その優れた代表作は「e-文庫・ 湖(umi)」に戴いてある。

星合さんは最近「e-文庫・湖(umi)」に一作「似たひと」を掲載されたばかりだが、同じ四国住まいの方であり、遺作から学ばれていい作家と確信して 「門脇照男」さんを奨めた。ついでに「三原誠」さんも強く奨めた。星合さん、門脇さんとは同人誌仲間であったとか。そして今はやはり「e-文庫・湖 (umi)」に何作も寄稿されている榛原六郎さんらと同人であるとか。

 

* 先頃亡くなった作家葉山修平さんの門下生かのように、ずいぶん沢山な同人誌めく雑誌が出ていて、いつも送られてきていた、が、いまいち、これはと読め た作が乏しかったのは残念だった。本腰の入った、作文の域を抜けた小説を「e-文庫・湖(umi)」にぶつけてきて欲しいが。新人であれ初心・無名であ れ、書こうというかぎりは頭抜けていなくてはお話しにならない。秀作に出逢いたい。

小説に限らない。詩歌でも研究や論攷・批評でもおなじ事。

2016 11/25 180

 

 

☆ 予報をきいても、まさかと思いましたのに雪がふり 庭の紅葉の上につもっています ビックリ…。

選集。湖の本(30年記念)お送りいただきありがとうございます。読ませていただいています。

過日大学のクラスメートにそひわれ奥能登へ旅し、念願の時国家も見学に参りました。幼いとき ヨコハマで近くに「時国さん」というお宅があり、おじさま に可愛がっていただいたことや、それにしても、京からここへ移った平家の人々はさぞや心細かっただろうなど思いを馳せました。  藤

 

* 葉書一面に淡彩で「能登 千枚田」が基子の印とともに描かれてある。繪も文も書ける人である。 触れてある 「時国家」のことも、いま書いている小説へ因縁の糸を垂れている。早く書かなくてはと思いあわててし損じてもイヤと思っている。

2016 11/25 180

 

 

* 世界が確実に動揺し動乱をはらんで今し息を呑んでいる。咎もなくただ平和に生き生きと生きたい人々の願いが踏みにじられて行くと、被害感から責めるこ とはしやすいが、本当に人は、今日を生きる人々はただの被害者の席に拘束されているのだろうか。わたしをむろん含めて人々にもキツイ責任が掛かっている、 その自覚があまりに希薄なのが怖ろしい。『マウドガリヤーヤナの旅』でわたしはさまざまに苛烈な地獄苦を描いていた。そのどの地獄よりも酷い地獄を現代は みずから造りあげてしまう。

トランプ、プーチン、習近平、金正恩、安倍晋三、彼らは自身がすでに鬼面鬼心の政治にのめり込んでいると気付かないのか、気付いているのだ、分かったま まやっており、更にやろうとしているのだ。われわれはそれを唖然とみて仕方ないと呟いているだけ、まさしく「ツウィート」世界にこの世は塗り替えられてい る。鬼にひとしい各種の「機械」が高笑いしてわれわれを飼育しようとしているのが、聞こえていないのだ。わたしも、現に機械に日々追い使われている。

2016 11/27 180

 

 

* 京都の横井千恵子さん、「お父さん、繪を描いてください」の冒頭、中学の音楽室清掃の場面で、とかくサボる男子を追っ払っていた元気な同級生、京のお 漬け物をたっぷりと送ってきてくれた。美空ひばりなみにひばりの歌など上手で、何度も彼女のお店で聴いた。妻もいっしょに聴いた。妻も「愛燦々」など小声 で歌っていた。わたしは、歌わない。

2016 12/2 181

 

 

 

*  とにかくも、終日、孜々として、仕事を前へ前へ押し出している。漸く「選集⑱」も責了へ近づいている。「湖の本133」も。「選集⑲」はこれから再校、「選集⑳」は着々入稿用意が進んでいる。

 

* 新しい小説の吟味も出来つつある。まったく新しい小説も書きたくなっている。

 

* 「湖の本」刊行にともなう出血つづきは、なにしろ読者の方々のご高齢を想えば、詮方ない。しかし値上げは考えていない。ありがたいご支援、ご助勢もい つも頂いている。「湖の本」は刊行が「続いて」行くことにも意味が生じかけている。わたし自身が気弱に投げ出してはならぬと誡めている。

2016 12/3 181

 

 

* 百人一首のなかで一人、一首をとならば、「伊勢」の「難波潟みぢかき蘆のふしのまも逢はでこのよを過ぐしてよとや」を挙げ、思い入れの反歌まで詠んだ と、ここでも書いた覚えがある。しかし伊勢のことはそれ以上多くを識らなかった、ただ勅撰和歌集のいずれにおいても多く名と歌とに触れていたし、その前詞 により華麗な人渦に巻かれていたことは優に察していた。宇多天皇の皇子を生み御息所と呼ばれ、さらにはその宇多上皇の子の敦慶親王との仲で、やはり有数の 歌人中務も生んでいたのは識っていた。小説に書けるヒロインだと目星をつけたまま、ま、有名すぎるかなとそのままになって、『秋萩帖』で、後撰和歌集や大 鏡の「大輔」を穿鑿し推理して書いたのだった。

書庫に二册、伊勢を書いた参考書、エッセイ本を永く蓄えていたが、国文学者の参考書はまことに索漠たる義理か厄介の頼まれ本のようで、見捨てた。未知の女性著者の「伊勢」は身を乗り出すようにはきはきと親切な筆で、いま、寝床わきへもっ来てある。

要するに、「人」への興味で歴史も古典も見てきたと思う。まだ何人か小説家として気にしている「人」を、胸に蔵っているが。

 

* 「湖の本133」の後書きを電送、「選集⑱」の責了用意をほぼ最後まで進め、「選集⑳」の入稿用意も七割方進んだ。

あすからの「選集⑰」の送りがすめば、歳末は「湖の本133」の再校、「選集⑲」の再校「選集⑳」の入稿に集中する。

新作小説への見切りや見通しも、重い仕事になる。その間に、祝い日もあり、八十一の誕生日も迎える。

明日からの作業、無事にし終えたい。急ぐまい。

2016 12/4 181

 

 

* 選集第十七巻 無事出来てきた。

2016 12/5 181

 

 

* 『秦 恒平選集』をと思い立ったとき、十 七巻で小説等の創作は編みとれるかと思ったが、そうは行かなかった。少なくも新作、未刊行作と詩歌の巻に届かないし、わたしの仕事は小説等の創作だけでは 半分にしかならない。三十三巻でもじつは足ると思っていないが、定命をむ甘く見積もるわけにも行かない。道半ばと思って、淡々と、坦々と、歩んで行くだけ のこと。まずは資金が尽きることだろうが、妻の余命を支えるだけはと心している。「歩一歩」と若い日から腹におさめ、「歩み歩み」とこの三字を読んでき た。わたしは走らない。

 

 

* 作業、ゆっくり、捗った。

2016 12/5 181

 

 

* 漱石百年と、少しも意識していなかった。しかし潤一郎を縷々思案していると、自然漱石に思い及ぶ。谷崎先生は若い頃に初の文藝評論、作品論として漱石 の『門』を論じ、のちに漱石の絶筆となった『明暗』を痛撃している。漱石への潤一郎微妙な意識はかなり顕著で、しかも否定には傾き得ていない。松子夫人に 京料理をご馳走になった宵にも、漱石にからんだそのようなお話しを聞いた。私の理解では、谷崎先生は漱石とは重ならない世界を開拓し書き抜こうという意思 を堅持されていたのだと。同じその意味では、これまた松子夫人にお聴きしたことだが谷崎は島崎藤村に対しても独特の対決感のようなものを堅持していたと。

わたしは、まだ谷崎夫人を存じ上げない時期、まさしく第五回太宰治文学賞を受賞その時の記者会見で、誰を敬愛してきたかと聞かれ、言下に漱石、藤村、潤一郎と答えていた。

この三人は、申し合わせたかのように、それぞれにまったく異なる世界を小説によって組み立てていたとわたしは理解し納得し深く敬愛してきたのである。

2016 12/6 181

 

 

* 『選集』第十八巻を責了で送った。この暮れは第十九巻の再校、第二十巻の入稿、そして「湖の本133」の再校、と、自分で裁量の利く仕事をしながら、創作へ手を伸ばせる。

2016 12/7 181

 

 

* 『神と玩具との間  昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』 いよいよ最終章へ。谷崎夫妻のお写真に手元を覗き込まれながら読み続けている。谷崎論が書きたくて「小説家」になりたかった私の、紛れもない一代表作になった。読まれれば、分かる。

2016 12/8 181

 

 

* 漱石歿百年などと、まったく念頭にも記憶にもなかった。偶然に今回の「こころ」作を編んで送り出すことが出来た。「無心」の所為である。

2016 12/9 181

 

 

* 宵のうちに好きな「剣客商売」を画面ににじり寄って観ていたが、今夜のは、乗れなかった。退屈した。なかみが薄いのに一時間、時間をもてあましているのだ。

ふと思い出した。むかし井上靖、巌谷大四、清岡卓行、辻邦生らと中国政府に招かれて旅し、北京、大同や杭州、紹興、蘇州、上海をまわり、帰国後に大同華厳寺壁画に取材した小説「華厳」を書いた。

一緒に旅した伊藤桂一さんが「読みましたよ」と云われ、「ぼくらだと、秦さんのあの小説一編で、三作も四作も書きます」と笑われた。

あ、それがいわゆる「時代・読み物」小説家の「方法」なんだなと悟った。わたしは、そういう薄い仕事はしないと感じた。

伊藤さんも亡くなってしまった。もう同行した人では詩人大岡信さんと日中文化交流協会秘書の佐藤純子さんと私だけになってしまった。

2016 12/11 181

 

 

* 「神と玩具との間」はほとんど凄絶な成り行きであるが、書いている私の筆は、あくまで「谷崎愛」に立地・立脚して微動もせず遠慮もしていない。しては ならないと思い決め、真っ向書き進んでいた。松子夫人もさぞ困惑なされていたと想うけれど、一言も私に向かっては苦情を仰有らなかった。わたしの真意・誠 意がひたむきに「谷崎文学」のより正鵠を射た解明と理解に向かっているのをご理解下さっていた。

あるパーティで三島由紀夫夫人につかまり、松子夫人がお気の毒と叱られたが、わたしはただ黙礼だけして離れた。「気の毒」で書ける世界でなく、しかし 「昭和初年」のあの峨々たる谷崎文学の理解に「三人の妻たち」の意義を究明することは絶対に不可欠であり、それならば気の毒がって遠慮して筆を枉げるなど あってはならないと確信していたのである。

2016 12/13 181

 

 

 

☆ 拝啓

(前略) 今度の巻は漱石の『こころ』をめぐっての御作でしたが、公演台本と戯曲をまず拝読させていただきました。俳優座の好演は観ておりませんが、と ても興味深く思いました。(中略) 読むための「戯曲」と、上演のための「台本」を読みくらべることが出来ましたのは、とても勉強になりました。冒頭近く の「(声声)」の「心」の箇所など新鮮でした。

漱石の「こころ」の読みの要点としてあげていらっしゃる「三点」は、あらためて読みとしやすい(考えおとす)ところと思いました。作品を読むということの困難さを思っています。

読むことは、ことば(表現)との全力をかけての格闘だと思っておりますが、そのことを心に強くした気持でおります。ひょっとしたら、読書は格闘技のような気がしております。

これから他のお作を拝読させていただきます。

今年もいよいよ師走になりましたが、一層のご自愛の上、お過ごし下さいますよう祈念申し上げております。

ありがとうございました。 敬具  憲  前藝術至上主義文藝学会会長

 

* まことに、「読む」とは、文章表現との徹底した格闘にほかならない。観念や概念を弄くっただけの作品論など、批評にも研究にもなりはしない。学者と自称する人の多くが、えてして観念論に足を取られている。

わたしは漱石の「こころ」でも、潤一郎の「夢の浮橋」「蘆刈」「春琴抄」でも、徹底して文章表現に即した読みのうえでの評価に徹した。そうでなければ余人追随できない発見も理解も評価も出来るものではない。

2016 12/13 181

 

☆ 前略

いつも「湖の本」をいただきながら、お礼もせず失礼しています。

先日の「斎王譜」を、ふくよかな古典世界と、ういういしい恋とが一体となった世界に心遊ばせていただき、ありがとうございました。

今回の『選集』「こころ」集成は雑誌「星灯」で小森(陽一)さんに論じてもらったばかりでしたので、いっさう楽しみです。小森さんの住所は、「**」です。草々   隆  アカハタ編集部

 

☆ 早いもので、今年も年の瀬をむかえます。選集第17巻ありがとうございました。湖の本132「斎王譜=慈子」とともに年末年始の楽しみがふえました。じっくりと味わいたいと思います。

先生が、「体力はゼロに近いが、気力と意欲と覚悟とは衰えていない」と、お書きです。ただ、ただ、頭が下がります。

月並みです。お体いつまでもお大切にご自愛下さい。  今治市 木村年孝  元図書館長

 

* 木村さん、ネーブル大のすばらしい新種のお蜜柑を一箱下さった。感謝。この方には、とりわけて新作の約束がある。しまなみ海道を目に観ず、息をつめて堪えている。

2016 12/13 181

 

 

* 午前中 懸命に仕事に励み、昼過ぎ、録画のドラマ「漱石悶々」を楽しんだ。宮沢りえの祇園のお多佳さんというのが嬉しかった。新門前の秦家でも「お多 佳さん」の名は親しく伝わっていた。茶屋「大友」へも近かった。豊沢悦史の漱石もわるくなかったが、宮沢りえの祇園の「おかあさん」役は凛々しく美しく懐 かしかった。

見おえてしみじみ思った。

朝の内、潤一郎と丁未子夫人のものあわれにに付き合っていて、午後は漱石。

もし千人の女性に、潤一郎を読み漱石を観て、どっちがと聞けば、千人が千人とも漱石に好感の手を挙げるだろうな、と思う。だが、その潤一郎からは昭和初 年の「吉野葛」「武州公秘話」「蘆刈」「春琴抄」「猫と庄造と二人のをんな」や「細雪」が生まれた、のちには「少将滋幹の母」や「鍵」「夢の浮橋」が生ま れたが、漱石の晩年からは「道草」「明暗」しか生まれなかった。「猫」や「それから」「門や「こころ」という漱石の文学世界をわたしは深く敬愛している が、谷崎文学の豊饒とはやはりくらべがたい。

むずかしいところだなと、しみじみ思う。

2016 12/14 181

 

 

* じりじりと、仕掛かりの新作「清水坂 仮題」を押している。またまた皆さんに怒られそうな八幡の藪のように入り組んだ物語だが、はて、どこへ辿り着け るのかわたしにもよく掴めていない。できた線路の上を走ってはいない。じつは、この小説、完結できなければ、湖の本で「未完」のまま発表してもいいかなあ という目論見ももっている。そうしたい、気の急く問題点を、いや発見を、抱えているのです。

とにかくもガンガン進みたい。

2016 12/18 181

 

 

* えもいへぬ疲れに負けそうになるが、負けていられない。まだ九時過ぎだが、横になってこよう。エリオットの戯曲「カクテルパーティ」を、サフォンの「天使のゲーム」を読みげたい。「源氏物語」では可哀想な近江の君がわらわれている。そろそろ夕霧に存在感が見え始める。

笠間書院に貰った中世の「石清水物語」 しっかりした長編で、「夜の寝覚め」ほどに読めると嬉しいが。もういちど、平安期の、源氏のほかの物語も読み返 したくなっている。こう昔語りが懐かしいばかりでは困るが、柳田国男の全集にもまた手を出そうとしてるし、満を持して書庫に蓄えた中世の「音頭説経」本を もぜひ読んでおきたい。書庫へはいるのは今は冷え切った寒いけれども、何といっても宝の蔵。いっそ、近代現代の小説、エッセイ本、評論、詩歌また美術の単 行本は、惜しいけれどもうそのまま「処分」し、書棚を開けたくもなっている。つい歴史や古典や史料ものへ手を出したくなる。が、どう処置するにももう体 力・膂力が用に届かない。老いらく、ムリはすまい。

 

* そう云いつつ奇妙な小説世界にまたもぐり込んでいた。なんたる我がサガであるのか。

 

* 三冊目の新歌集「亂聲(らんぜう)』の用意もだいぶ出来てきた。あちこちへ書き散らした歌や句もなるべく拾いとって、まず「湖の本」で出版し、以降拾 遺を取り纏めつつ、「選集」最後の方で既刊の『少年』『光塵』といっしょに纏めたいと願っている。名歌名句など願っていない、好きこそものの上手でなくて も私の心やりとしてカタを付けてやりたい。

2016 12/18 181

 

 

* 「花と風」の再校を終える。

 

* 暮れへ向かい、すこし寛ぎながら、仕事を、可能なかぎり前へ前へすすめている。 2016 12/22 181

 

 

* 読み疲れたまま潰れ寝ていた。夕食というほどの食も摂れぬまま、谷崎潤一郎に触れて論じたり書いたりの夥しい旧稿を読み継ぎ、校訂している。眼疲れし て眼を閉じると背いっぱいに疲労の重みが乗り被って来る。また眼を開いて、その「世界」へ立ち帰り立ち帰りする。立ち止まってはならぬ。

2016 12/23 181

 

 

* 弥栄中学で、同志社で一緒だった松嶋屋惣領の我當君の名が見えなくて、ひとしお寂しい。

秀太郎を或る大きな賞に推してあるのだがなあ。三男仁左衛門の健勝を祈らずにおれない。

それにしても顔見世が南座から逸れたなど、初めてのことか。奇妙に寂しく心もとない。

喜寿を祝いに南座顔見世へ妻と出向いてから、もう十一年も経った。あの祝い年の「京の散策」(三)は、明けて新年に送り出せる「湖の本133」巻に入れ ておいた。あれから京都は「もの凄い」までに変容しているらしい。それでも、来年には一度帰りたいな。帰りそびれていると、もうわたしの余命残年の方が尽 きて了いかねない。

2016 12/24 181

 

 

* 谷崎愛に凝り固まって、読んでいる、自分で書いて書いて書きためてきたものを。

 

* 寝床では沙翁劇と源氏物語を芯に読み耽る。もう年内、さしたる用事はない、雑煮の味噌ももう用意があるというし、なかなか手に入らない蛤のために歳末 の百貨店を右往左往は諦めた。正月が楽しみという気分は失せている。新年つまり来年には何が自分に出来るか、それがたのしみだ。

2016 12/26 181

 

 

*  めんめんと大谷崎の人と文学についた書いた旧稿を、このところ休みなく読み返している。ああこういうことが書きたくて作家になりたかったんだと、少し笑え てしまうが本音であった。学者や研究者や批評家の「仕事」で書いた原稿とはちがう。それらとは劣るのか。ちがう、その人らには所詮書けないところを観て 思って書いている。

2016 12/28 181

 

 

* 馬渡憲三郎さんが「読む」とは格闘技だと言われていたのを思い出す。佳い作品であればあるほど佳く読むのは途方もない力技である。わたしは、好きな作ほど真っ向微塵に作の懐深くへ飛びこんで骨に肉に血に思いをそそぐ。「身内」の愛をそそぐのである。

 

* おりしも、わたしの『慈子』へ吶喊し、作者であるわたしのもっとも深く秘めた創作の扉へまで、大胆に率直にかなり的確に手を掛けてきた長編の「論攷」 を読んだ。震撼した。いまだかつてだれ一人としてそこまで読んでは呉れなかった。感謝している。すこし戦いてもいるが。が、もう少し、もう半歩一歩踏み込 めるのではないか。

 

* 選集二十一巻の入稿用意も大詰め近くなった。第十九、二十、二十一巻の口絵写真を選んでいるが、もう眼は二時間も前から限界を割っている。キイがよく 見えない。機械から離れ、階下仕事に転じる。テレビ画面も、人の顔がよく見えなくてアテズッポーに誰か彼かと確かめている。

2016 12/30 181

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