ぜんぶ秦恒平文学の話

名言集 2003年

 

* もう四十年ちかい昔の「正月」を思い出す。三十になるかならぬ頃である。

 

* 正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。

三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。

正月三日の東福寺大機院では院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年定(き)まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。

高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。    ――『慈子(あつこ)』の書き出し――

2003 1・1 16

 

 

* 昨日と一昨日、ジャック・マイヨールによる「グラン・ブルー」と、リノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ジョアンナ・クロクスの「冒険者たち」を続けてみた。二つとも秀逸の名画。とても寂しかった。「上の世界に戻ってゆく理由がない」と海深くに潜っているジャックのつぶやきの、あの畏れの深さ。そして深海に棲むべき男達はもう帰ってこない、地上の女に忘れ形見をやどさせて。

「冒険者たち」の生のシンボルのような愛おしいレティシアも一瞬に死に、愛し愛された二人の男に見送られ、深海に帰って行く。「海は恋人」ということばを男達は信じた。

あきらかに二つともが「死なれて死なせて」の哀切であり「身内」として一つの島を共有した者たちの底知れぬ幸せを描いている。

身内――。死なれて 死なせて――。ほぼ一切の創作の、物語の、この二つがいつも真の動機になる。それがわたしの、理解である。把握である。

2003 1・4 16

 

 

* ことしこそ心を入れ替えて「T」型人間になりますと、わざわざ言ってきた卒業生がいたが、たぶん勘違いで、ことしこそ「T」型の一本足から、何かしら二本足になろうという宣言でなかったろうか。

仕事の社会にはいると、どうしても仕事に追われて寸暇もなくなる。

事実は、時間は生み出しも創り出しもできるもので、むしろ、言えるのはこういうことだ。たとえ時間を創り出し生み出しても、その時間を生かすに足る「すること」「なすこと」こそが創り出せていないし、生み出せていないだけだ。どうしても「したい」ことがあれば、死にものぐるい大車輪に寸暇なく忙しいと見えていた中からでも、小刻みの十や二十分の見いだせないなんてことは、有るものでない。「何がしたい」か、それが無ければ、一日の大半が暇であろうとも、寸暇無く忙しくしているのと同じほど、時間は消費されている。「時間がありません」ということを「一本足」生活の言い訳にする人がいると、それは、時間が在っても「したい」ことが無いだけではないですかと、腹の中で反問している。

ものごとに深い意欲や関心をもつためには、生き生きと暮らしていなければならない。そうでない状態が即ち「退屈」というものであり、退屈は、ひまな人の専売ではない。じつは大忙しの人も「忙しさに退屈」している例は多い。意欲が基本である。それがあれば時間が創れる。体験して、それは信じている。

2003 1・11 16

 

 

* 住基票がいつのまにか着々と別目的に利用されることで、いやおうなしの定着をはかろうとしている。銀行は本人確認のために使おうとしているという。似たようなことは画策されていて、総務省も公然とではなくとも、後押ししたり黙認したりするだろう、その動きは、住基反対の声の静かになっているに連れて、陰に陽に活溌になっている。

なんと庶民は物忘れが早いのだろう。

2003 2・20 17

 

 

「把握が弱ければ、必ず表現も弱い。把握が深くて強ければ、表現も強い深いものになる」とは、創作者であるわたしの根底の思いであるが、このドラマの作者は、小手先のテクこそ学習しているかも知れないが、創作者として一番大事な「人間」をナメてかかっていないか。もっと謙遜に「人間」を学ぶべきではないか。

2003 2・26 17

 

 

* テレビタックルでも、田原の番組でも、久米宏の番組でも、その向こうで展開される世界情勢は煮詰まって、日本国内では、全くの手詰まり。だが、こういう不条理の蠅たちは、わたしも含めて、透けたガラスの向こうへ飛ぼう飛ぼうと、頭からぶつかり続けガラスにむかい飛び続けているしかない。やめれば落ちる。飛びながらいい思案と活力を生んだ方が勝ちだ。

2003 3・3 18

 

 

* フィリピンでテロかと。いやだなあ。

街頭で、マイクをむけて「いま、幸せですか」と聞いてまわっていた。思わず笑った。即答を強いれば、自分は不幸ですと応える人は少ない。幸福である事象を「捜し」て応えるからだ。少し、己の闇におりて、独りでしばらく自問し自答しなければ答えは出ないし、また質問は、こう、すべきである。「いま、真実、幸せですか」と。わたしの学生達がぐっと息をつまらせ考え込んだのは、この「真実」の二字にであった。

この問いから、しかし、ほんとうに知らねばならぬコトは、不幸ということぬきに幸福はなく、逆もしかり。したがって幸不幸は表裏してつねに在るという認識と、幸も不幸もそんなものはともに無いという認識との、どちらに行くかを迫られていること。

「かなふはよし。かなひたがるは悪しし」と利休は云った。幸福も不幸も、陥りやすいのは、とかく幸せ「がった」り、不幸せ「がった」りして、とらわれてしまうこと。「捜し」て応えているというのは、それである。それは「心」のなせるわざにすぎず、だが「心」はあまりに強い力をもった「諸悪の根元」であるから、そのような幸福も不幸も瞬時の投影、流れ走る白雲や黒雲をながめているに過ぎない。「有」情の境涯であり、それは、いつまでも変転する。変転しないのは、雲が覆い隠したその奥の、澄んで「無」窮の「空」だけ。

 

* がる、のは何かにつけて悲しい自己満足。かなふはよし。かなひたがるはあしし。

2003 3・5 18

 

 

不思議なモノというか、書きたいメインのものを「攻め」ているうち、それを逸れて副産物がモノになる。そういう創作の不思議を、何度か体験した。「清経入水」も「風の奏で」も「初恋」も、じつは承久の変を書こうとしていたすべて本命・本願を逸れての「副産物」ばかりであった。文字のママの副産物とは言うまいが、太い根から新しい根を別に張っていった。創作の面白さ、である。

だからこそ、わたしは、注文されて「これ」を書けと言われても、単純には従わなかった。まるで別の、しかし必然の緊張から新作が形をなして行くこともあるのを、ビビビと感じるからだ。書きたいモノを書きたいように書きたい、路線を決められるのはイヤだというのが、私の本音で、これでは出版主導の作家にはなれないし、ならない、ということである。損な性格であるが、トクもしている。むりに書かされた作品がわたしには無いのである。

2003 3・13 18

 

 

* 花粉が舞い、こういう日の百貨店は、じつに花粉函である。

2003 3・14 18

 

 

* こんなことばかり書いていないで小説を書きなさいと言われている、のかも知れない。これは、だが「こんなこと」程度の筆記であろうか。分からない。この「闇に言い置く」私語を書き始めて数年、まだ試みたことはないがその全部を収めても、CD一枚に、MO一枚に優に収まるはず、わたしの作品として最も長く最も生き生きとした仕事が其処に在るだろう。百冊に及んでいるわたしの創作やエッセイの、これは作者自身が付けた索引と批評と解説に当たっているだろう。人生行路のこれがアンカーになる。底荷になる。

2003 4・1 19

 

 

* 若い人は試行錯誤を楽しみ日々に努めるがいい。しかし六十すぎた、いや七十に近い大人達は、ましてそれ以上の老人達は、知識への渇望などもう洗いすて、財欲への奔走も脱ぎすて、政治と地位とは若い世代に譲り渡して、ゴントの「ゲド」いやハイタカのように、生死の美しい均衡を胸にしたまま、落ち着いて生きてはどうだろう。

このごろわたしは、ときどき、ああ、こんなにラクでいいのだろうか、これはわたしに許された境涯であろうかと、半ば怖く感じるほど、(そんな風に感じるのはわたしがまだまだ到らぬためだが。)開放されている。したいこと(行為)は沢山あるが、しなくてはならない(行動)殆ど何一つも無くなっている。腹が空けば飯を食う。それは自然な「行為」である。ブレーキをかける必要はない。空腹でもないのに求めて食欲を満たすのは身毒に繋がる「行動」であり、この危険で悪しき行動のことを、即ち「活躍」だと思っている最たる愚者が、今の時代、たぶんブッシュであるのは明白である。政治家や金持ちや坊主達は、また我が世の春のテレビ人間どもは、まさしく「行動」に酔った五体の隅々にまで、目に見えぬ黒いピンをむやみと刺し込み、その痛みに追われて奔走している阿呆な魔物に近い。

2003 4・2 19

 

 

* 逢いたい人がいつでもいる、というのは豊かな糧である。大切にフォロウしていないと、時間の算術に翻弄されて、永遠にすれ違いもせず、別れて行く。時間は誰にもたっぷりあるようで、ちがう。二人で三人での組み合わせとなると、時間とは貴重な薬剤のように手に入りにくくなる。

2003 4・11 19

 

 

* 水面に浮かび上がろうと藻掻いているのが、いたましくも有るが、この藻掻きの力の中に生まれてくる「道」のあるのを、信じている。藻掻くのは生命力のある証拠。

ひとつだけ、「やるべきことをやる」というこの「べき」に足を取られないといいと思う。そんな「べき」というほどのことは、誰にだってぞろぞろ有るわけがない。とらわれないで。

腹が空いたら飯を食い、渇いたら茶をのむ。腹が立ったら怒り、面白ければ笑う。こういう「行為」は、「べき」ことではない。自然の行為であり、自然に従うのは安らかである。「べき」に拘泥すると不自然な「行動」に出たり走ったり無用に頑張ったりしてしまうが、心身のやや休息と平静を求めているときは、殊にそれは避けた方がいい。その程度のことで坦々と歩いているうち体力も気力も湧いてくるだろう。この人に言うというより、自分自身にわたしは言っている。

2003 4・27 19

 

 

* この「私語」が、私、六十七歳の己れのみの述懐や筆録で一貫していれば、年を重ねて、単調な一本調子の繰り返しに陥るおそれは十分有る、それなりに避ける工夫は凝らすけれども。この「私語」の「闇」が、幸い多彩に或る輝きを帯びるのは、何度も言ってきたが、いろんな年齢や地域や背景を異にした「声々の乱反射」で闇空間を彩ってきたからではないか。諸般の事情を考慮してむろん気を付けて選別し調整もしてのことだが、一つには「声の主」もまた自身の声を闇の彼方で聴き直し、そして思い直し考え直していてくれることもある。問題をかかえた若い人の場合、それも大切だ。「みんな自分がいちばんたいへんだと思っているようですよ」と、それとなく示唆もし刺激もできる。二つには、秦さんの「闇」の中ではという限定が付くにせよ、「ああ、さまざまな人の暮らしや思いがある」ということを、おのずと表して、相対化も重層化もできた「闇」の濃さになってゆける。三つには、そうしてわたしは「不徳なれども孤ではない」という安心や嬉しさも得ている。「闇に言い置く 私語」のいわば社会化が可能になる。

そのためには「闇」を埋めて信頼がひろがっていないとお話にならないのである。

2003 4・30 19

 

 

* それが「会社」ですよ、伸び上がって行くときには必ず有る・ぶつかる、君の存在以上に「必然の壁」です。仕事を仕上げて行くときには「必ず有る堀」です。珍しくもない障碍です、ほんとうは壁でも堀でも障碍でもなく、それが「通り道」なんですよ。「なんだ、通りにくいけど通ってやらあ」と覇気をもつより、しょうがない。

会社員でいるかぎり、一足一足歩き続ける。苦しいときに走ってはいけないし、立ち止まるのも危ない。自分を観察している自分になり、誰かさんではないが、自分で自分に、ドンドコドンドコ太鼓を叩いてあげるんです。

それと「時間」を味方に付けておくこと。そして何百時間かすれば「通り抜けてらい」と、それまでは雨も槍も勝手に降らせておく。

自分で自分を追い込まないこと。潰れる人は、これで潰れています、例外なく。

君にも言おうか。「みんな、自分がいちばん大変なんだと思っていますよ」と。「いまがチャンスだぞ」と、むしろ小さく励まして、君のために盃をあげましょう。

ps 知った顔が講演会場にいると、アガルからね。フフフ。がんばれよ。   湖

2003 5・2 20

 

 

* どんなときにも波があります。生きているとは波打っているということのようです。高い低い長い短いは仕方がない。うまく付き合ってゆくことです。そのためには、いまさら流れを溯らないように。流れにしたがいゆったり泳いで下りたい。岸や堤にも目をとめながら。元気回復を祈ります。

追伸 あなたの鬱屈はたいてい対人関係または他者にあるようですね。これは自分で種蒔いてきたことで、ま、自分の影のようなもんですよ。それが自分で分かっているから不快感が旋回する、自分の中で。社会的な地位への執愛もいくらか有るかも知れない、だれにでも有りますがね。それが黒い太い痛いピンでしょうかね。

なんじゃい、こんなもの、と、広々と日の当たりたる心奥の野におりて、ときどき深呼吸するといい。元気出して。

2003 5・9 20

 

 

それにしても歴史とは、人の死んでゆく歴史なのだとつくづく思う。外戚を狙うときぐらいを例外に、どんな人が生まれても歴史はすぐには動かないが、人が死ぬと、忽ち人の世は揺れ動き、時に大いに乱れて、歴史家たちの筆が意気込む。清盛が死んで頼朝が大いに動き、後白河が死んで頼朝は征夷大将軍になる。頼朝が死ぬと機略縦横の源通親は暗躍し始め、実朝と公暁の二重暗殺により北条義時の強い基盤が出来、いずれ北条得宗の独り勝ち天下が出来てゆく。人が死んで行くと歴史が書かれるという真実は、見ようにより辛辣無比と謂える。

2003 6・2 21

 

 

作品を書くなら、心行く物が書きたい。いくら期待されても、過ぎこしの足跡をねぶるような仕事は御免だ。そんななら、いいものを読んで楽しむ方がマシだ。血のにじむような仕事がしたい、綺麗なテクスチュアよりも魂に触れて痛いほどのクウォリティーで。

2003 6・12 21

 

 

* はぐれたように都会の夜をとんでいる鳥、鳥、鳥。ものは追い求めても遠のくばかり。澄んだ一枚の鏡のように、ゆったりと落ち着いて、映るものはくっきりしっかり映し、通り過ぎる者は、追わない。戻ってくれば、また余念無く映して何の他意も無い、鏡。

2003 7・13 22

 

 

わずかに望みをかけたいのは、藝術だ。すばらしい繪や彫刻が生まれて欲しい。すばらしい演劇が興って欲しい。すばらしい映画に感動したい。すばらしい音楽に心神を洗われたい。そして……文学のことには口を噤んでおく。

 

* いま挙げたどのジャンルでも、圧倒的に触れてくる魅力の質とは、一言にして芯の「詩」の魅力だ。美術も映画も演劇も音楽も、根源で詩を奏でたものが勝っている。レオナルドでもセザンヌでもロダンでも。光悦・宗達、華岳・曾太郎でも。来迎図でも百済観音でも。そして「マトリックス1」や「アメリカン・プレジデント」でも、「タイタニック」や「ベン・ハー」でも、「グラン・ブルー」や「冒険者たち」でも。また「橋」でも「グリーンマイル」でも。さらに歌舞伎の「勧進帳」でも能の「羽衣」や「清経」でも、「冬のライオン」でも「野鴨」でも「ワーニャ伯父さん」でも。「アルジャーノンに花束を」でも。そうそう秦建日子の「タクラマカン」ですらも。そしてバッハやモーツアルトやベートーベンに限らず、わたしには美空ひばりの「わたしは街の子」から「愛燦々」「川の流れのように」に到る歌唱も、「夕焼け小焼け」や「この道」なども。

魅力の質は「詩」のファシネーティヴな醇と純に在り、独特の寂しみにおいて心を洗いまた励ます。そして堪え抜く力をくれる。

道に迷っているのではない、わたしは。ただ、しんしんと雪のつもるようにこの時代に生きていることが寂しい。かなり、それを興がっている自分が憎い。だが、まあ、あと十年だと言われるのなら、まあ、なんと今はおもしろおかしい時代であることか。

2003 7・18 22

 

 

しかし、二十二日の委員会のあとは、一ヶ月ほど、断固として「電子文藝館」は夏休みにしたい。さもないと、八月の藤村講演の用意も、新しい湖の本の仕事も停滞してしまう。停滞というのはハッキリしたもので、時間の量の問題である以上に仕事の質に響くからである。

2003 7・19 22

 

 

わたしが、若い人ほど電子メディアを恐れて欲しいと願うのは、電子メディアを安易に使いこなしている内に、いつも己れに対し、ただの「影を演じさせ」てしまうのに狎れるからだ。それではあまりに若い「時」が惜しまれる、二度とは戻って来ないのに。

「電子の杖」は、むしろ「e-OLD」に有益だ。それなりに年寄りはながく言葉とも世間とも付き合ってきているから。硬い殻に押し込められていたかも知れない言葉と生彩とを、年配の人が取り戻して行ける。その佳い証跡にはいくらも出逢っている気がする。わたしも、その気持ちで「私語」を紡いでいる。

だが、それだけで生きてはいないのである、それが肝心だ。

私語は真実の会話へと繋がってゆかねば意味を半減するのである。

2003 7・20 22

 

 

* 田原総一朗の番組がかなり燃えていた。警察が辻元清美に取引を申し出た、その一つが、「総選挙に出ない」なら逮捕はしない、と。田原はそれを確実な情報、常識ともなっている情報と断言して、われわれに伝えた。こういう「敵」と、われわれ私民はほぼ素手で向き合っている。

こういうときにこそ、電子メディアを私民たちよ、若者達よ、駆使せよと言いたい。批判の監視の抗議の抵抗の網の目を率先押しひろげよと言いたい。

そのような闘いの有力な手段となりうる、私民の、個人の「電子メディア」の力をこそ政府与党は最もおそれ、総力で潰すか奪うかしたいがために、前総理、現内閣、澄ました顔で、ここ数年、いろんな曖昧模糊として悪辣な立法行為を積み重ねてきた。あなたのパソコン情報、個人情報の羽をもぐのを、秘めた狙いにねらい打ちし続けてきたのであることを、どうか、眼をみひらいて識りたい。

人よ、もう政治的不正との戦いの武器は、あなたの自由そうな機械の中にしか無くなりかけている、しかも自由なんかではもう無くなりかけている。そこを深く弁えて必死に押し返さないと、民主主義の、主権在民の、基本的人権の「自分の力」がもう大切に守れなくなる。たとえば住基カードのことも、今や問題点も忘れようとすらしているが、とんでもない未来支配へのきつい権力のプランであることを、洞察し想像したい。あなたの情報を満載した機械のハードディスクは、簡単に官憲に持ち去られる時代がすぐそこへ来ていると想う力が、力になる。

2003 7・20 22

 

 

絵空事こそ真実だと確信するには、莫大に人間的なエネルギーが必要になる。そういう力を獲得するのに、「架空の夢」なんか役に立たない。「現実という根底の夢」と対決していないから、最初から退避だから。

2003 7・22 22

 

 

出来そうで出来ないのは、「毎日」ということ。「続ける」ことの苦しさや難しさを、わたしもやはりこの人の今の年頃に、噛みしめるように日々堪えていた。

続けることは容易でない。一年も、纏まって体を成した短文を書き続けるのは、よほどの人でもなかなかできっこない。見返りの何もない無償の行為なのである、だが、酬われてはいると思う。この人も今は気付くまいが、いつか気付くだろう。よくやった。

2003 8・2 23

 

 

* あけの四時近くに寝て、八時半には宅急便に起こされて、そのまま終日いろんなことをやっていた御陰で、少しは目に見えて用が又前へ進んだ。一つ事に集中するのも集中だが、わたしの得意技はいっぱい有るあれこれを、皿回しのように皿を落とさずに廻し続けていつか終点に入っているやり口だ。これは云うまでもなく大物のテクではない、だんだんボケのひどくなるタイプのガンバリ方だ。ただこの頃はそれを気にしないで、つらくなれば、いっそそいつを楽しもうとしている。自分で自分を騙しているようなもので、健康でないのかも知れないが、そうでなくては身が持たないのである。

2003 8・2 23

 

 

* 豪雨、台風。「野分」ということばが好き、源氏物語の巻のなかでも殊に好きな一つだが、モロに来られると剣呑である。「おそれ」という語彙には、「お逸れ」願いたいという気味すらありそうに感じられる。

2003 8・9 23

 

 

* このような感応を、はてもなく豊かに与えてくれる土壌としての、源氏物語。漫画で筋書きだけ知ってみても、とても源氏物語はよんだことにならない。たとえば「きよら」と「きよげ」という二つの語彙が、いかに精微に精妙につかいわけられているか、それは漫画では絶対に感得できない。文学はことばの秘儀である。

2003 8・10 23

 

 

* それぞれの敗戦であった。あの頃は、おおかたが「敗戦」とは謂わなかった、この人もそうだ「終戦」と謂っている。「占領軍」とはだれも謂わなかった、みな、「進駐軍」と謂った。心から敗れ、心から占領されたと身にしみていたら、われわれの「戦後」はいま少し徹したであろうに。これは「死ぬ」意味の同義語を夥しくつくってきた民族性とも関わっている。モノゴトを、ヒタと、直視したがらない。

2003 8・15 23

 

 

* その一人の今川英子さんは、林芙美子の精力的な研究・活動で知られた人だが、ある文学館の館報に「友情」と題した随筆を書いている。

文中に、芙美子の言葉が引いてあり、林芙美子は「私の『作品』を愛してくれる人のなかにこそ本当の友人を求めたい」と語るか書くかしていた、とある。これは、まさにわたし自身の言葉でもあるかのように、痺れた。わたしの、「湖」という語のいわば原義のように感じた。

子供の頃、仏壇の燈明に「美」を初めて感じた。また蓮の葉に野菜など供物の盛られるとき、蓮葉を清めの露をうつと、珠と光る露たちがきれいにころがって忽ち葉の底に「湖」をなす、あの完璧な帰一の美しさに、声も出ないほど感銘をうけた。ひかる露の珠たち。一瞬に凝って湖をなす露の玉たち。「身内」というわたしの渇望の原義でも原点でもあったろう。「湖の本」の読者たちは、わたしには或る意味真の親族・血族にひとしい思いがある。私という鏡に無垢に映じている心親しい人達であり、どのような経緯が有ろうともひとたび鏡の前から立ち去った人は、もう私には何人(なんぴと)でもないと謂えるだろう。

ある人が、「あなたは(特定の人よりも)不特定多数の方を愛する」と暗に非難の声を届けてきたけれど、それはわたしにとっての読者や学生達の意味を、「身内」や友人たちの意味を識らない、識ろうとしない「他人」ないし「世間」からの考えなのである。

2003 9・22 24

 

 

* テンポよく、よく具象的に見ていて軽率な観念に走らない。コラムエッセイとして、藝が利いている。

これだけ書けると、では、小説も書けるか。

それが難しい。小説は、場面をつくる道具立てや背景だけでは始まらない、人と人との葛藤や関係がしっかり魅力をもって動き出さないと、いつまでもエッセイのままに終わる。エッセイから小説へ吶喊して行くのに、何が必要か。

或る意味で「我」を捨てなくては成らないだろう。エッセイは「我」の味であるが、小説は、どれだけ「我を殺して」活かせるかである。「他」としたたかに取り組まねばならない、「我」だけでドラマは生まれないからである。

2003 9・25 24

 

 

* インスパイアということを、ことに大切に考える。鼓吹されない程のことは、何事であれ、つまらない。鼓吹されるためには自分を開いて、或る程度棄てていなくてはならない、難しいけれど。自分は堅くガードしたまま、インスパイアされようなど、ムシのいい話である。自分の身の丈に合ったものばかり求めていてもお話にならない。

2003 10・8 25

 

 

* わたしの酒は、家で、妻と猫を相手の「ひとり酒」が大方、それで良い。それか、気の合った、むりにしゃべらなくていい、白い手先がときどき動く、静かな「おんな酒」。ま、そんな相手は、めったにいるものでない、創りだすものである。

2003 10・9 25

 

 

* なにかというと自分は誤解されていると嘆く人がいる。そんな人には、こう言いたい。

 

* 誤解があたりまえ。    人が人を正解している、どんな実例があるというのですか。誤解し誤解されるのが、正常とは言わないが、通常の人の世ですよ、分かってませんね。

例えばあなたが、どうして此のわたしを誤解せずにおれるのですか。一人一人の人間は、みな「他者からの誤解の固まり」として生きているのですよ。そのかわり自分も他者をむちゃくちゃ誤解している。そもそも自分はその人あの人を誤解していない、正解し正しく理解していますなんて、どうすれば確認できるのですか。

だから、わたしは、人に誤解されるのが普通のことだと思い、少しも嘆かないし、人を誤解しているかも知れぬことを当然の余儀ない仕儀と思って、とくべつ悪い悪いとも思わないのです。

他者に誤解されたくなかったら、ひとりヒマラヤの洞窟にでも棲めばいいのですよ。しかしその方が不健康です。誤解の海の中でひるまずに泳いでいるのが、ほんとうの健康なんですよ。誤解をおそれ嫌うのは通俗で、誤解が普通と断念してずんずん生きるのが超俗的とわたしは考えている。どうぞ、遠慮無く、いっぱいわたしを誤解して下さい。

いちばん驚くのは、人から、自分はあなたをよく理解しているつもりです、あなたのことが分かる、などと言われる時です。バカモンと口の中で言い、あまりそういう人とは真面目に付き合う気がしない。

「人に理解されたい病」というのがあります。これは重病・難病に属します。「人に理解されない病」の方がはるかに軽症で、むしろそれが普通です。

2003 10・12 25

 

 

* 夏といえどもプールの水はつめたい。意を決してすうっと水に入ってゆく。胸のあたりまで沈めてゆくとひたひたと身内に鼓動する興奮とも悲哀ともつかぬ奇妙な覚悟があった。何と無く、ああいう気分を思い出している。

2003 10・29 25

 

 

わたしは静かに深い「闇」とは親しみたいが、胸をかき乱すだけのような「夢」はいらない。夢を見ずに眠りたいなあと毎夜のようにわたしは夢を憎んでいる。子供の頃から夢とは概して相性が悪い。夢のある人生、おお、いやだ。そんなものに人生を託せるだろうか。人生そのものがすでに夢・幻であるというのに。

2003 11・5 26

 

 

物語というのは完結しないまま転々とつづくもの、先のことは分からない。

2003 11・7 26

 

 

* しかし、いくら頼みにならぬ「夢」であれ、楽しむ気ならそれは楽しめる。生き甲斐などを求める人なら、夢と知りつつ覚めざらましをと、「生きる演戯」が楽しめるのである、現実感も伴って。元気に。

浮き世は夢よただ狂へ、と、昔の人は狂ったが、狂わなくても楽しめる。その気になればいいだけだ。だからわたしは文学も歴史も美術・演劇も、床屋政談も、飲食も好色も、家庭生活も楽しんでいる。「夢」のような「影」に戯れていると思っている。希望しないし絶望もしていない。よくよくウンザリはしているが、それも楽しめる。だから選挙に行く、政談もやる、源氏物語も読む。

ニヒルを気取っているのではない。はてしもない一枚の澄んだ鏡のように、落ち着いて、写ってくる何の影も拒まずに和み楽しみ、去って行った何の影も追わないで、愛だけは感じていたい。

そのうち、涯しない真澄の空のほか何一つ映さない「鏡」になりきりたい。そうなんだ、そんな「希望」を楽しんでいるのだ、わたしは「今・此処」に生きて。

2003 11・15 26

 

 

歳歳年年人は同じからずで、じつにうまいぐあいに人は山をのぼり、山を下りて行く。山の高さは人それぞれであるが、高いから貴いのではない、山には山のそれぞれの味わいがあるのだ、それはその山に抱き込まれてみて分かる。佳い山は佳い山なのである。人は片道の登り坂だけを登るものではない。

2003 11・16 26

 

 

* そんな中でも、明治の思想家達のものを読んで、中村敬宇「人民ノ性質ヲ改造スル説」田口鼎軒「日本之情交論」陸羯南「『日本』創刊の趣旨」「『日本』と云ふ表題」志賀重昂「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」を選んで、一気にスキャンした。黒岩涙香の萬朝報「発刊の辞」「満十五年」それにもう一編ほども選びたい。山路愛山からも田岡嶺雲からもとりたい。

いろいろの人がいた。その時にあたって活躍し、時世を動かした。もう多くは忘れ果てられているが、忘れてもいいから忘れられるのはいいが、そうでもない人のことは大切にとりあげたい。「ペン電子文藝館」は絶好の場である。識りたい人だけが胸をたたいて聴けばいい。その気になればその言葉や思いがいつでも聴けるということが大切である。知識ではない。もうその人達から得られる者は知識ではない。意気である。

2003 11・16 26

 

 

* 電子文藝館は 美術展で謂えば、いわば 今今ごった煮の日展でなく、近代「記念」「証言」展であり 文藝「記録」館でもあります。「出版・編集」の歴史的な流れも「証言」しようとするとき、明治の思想家達の大きな足跡に触れないワケには行きません。

「カビ臭い」というのは、個々人の趣味判断能力の問題で、何が本当に「カビ臭い」かの判断は容易でないし、それは読者にまかせておいていいのです。読みたい人は読み、通り過ぎる人は通り過ぎる。それでいいのです。博物館のようなものです。しかし揃えて然るべきは「揃える」というのが記念館の性格です。

なにが「かび臭く」なにが「かび臭くない」か。それはたいへん難儀な問題ですが、作者の生きた時代の古い新しいで判定するのでは、コッケイな間違いを犯します。極端な云い方をすれば、源氏物語を超えた現代の作品は無いといわれるように。質的な水準を無視し軽視して良いとは思われませんし、そこから行くと、誰の眼にも今今の寄稿だけでは懸念されるものがあり、そこから発展して「招待席」が生まれたのでした。それ在って電子文藝館は一気に存在の意義をひろげ、存在理由を強めていると思います。

博物館というのは、そうそう誰にも「親しめる」ところではないが、敬意は持たれています。また利用価値も高い。今のあの日展では、褒める人はいない、と断言できるほどですが。

本質の価値高さを保存して行きたい、やすい貸本屋のようにはしたくない、またそれでは意義は薄いし、クレバーな読者の失笑も買うでしょう。むろん結果として玉石混淆はさけられないとしても、それをカバーするのは「意図」という芯の糸の太さ強さではないかと思います。

だいじなのは、「招待席」にヒケをとらない優れた現代作品がもっと増えることです。その手だてを焦れずに考えて行くのが先です。「カビ臭い」とあわせて「親しみやすい」とはどういうことで、どうすれば「親しみやすくなる」のかも具体的な「方法」として、提案して欲しいと思います。

ともあれ、出版・編集に関しても、現代の人を主に実現し出稿して頂ければ幸いです。

さらに議論を重ねましょう。

2003 11・18 26

 

 

わたしは半ばジョウダンに、「論文は正しくて面白いのが宜しく、評論は面白くて正しいのがよろしい」と云ってきた。正しいの内実も面白いの内実も微妙で、角田博士の論文や伊藤整の評論はそれに当たるだろう。

少し厚かましいが、こんな風にいわれたことがある。「失礼を顧みず申しあげるのですけれど、秦さんの書かれた数々は、評論というには詩の香気がたちのぼり、犀利であるかとおもえば、ふっくらにおいやかであったり。エッセイというには、綿密で、あいまいなところが微塵もなくて……」と。それはわたしの「願う」ところをうまく代弁してもらえて、なかなかそこには達しないのであるが、念頭には、模範として例えば少年来愛読した岡倉天心の「茶の本」や潤一郎の「陰翳礼讃」などが在ってのこと、間違いがない。つまり文学・文藝の名に値するエッセイとして例えば谷崎や漱石や日本文化が語りたかった。そういうものを書いて世に出せる道としては「小説家の道」を先に掴むのが有利と観ていた。だから小説を書き受賞し、エッセイ発表の場を獲得していった。

2003 11・20 26

 

 

* 有り難いことに障子窓の外が、はればれと今日は明るい。日の光に恵まれる嬉しさ。そして目の前であの阿修羅像が息をつめて合掌している。ああ、どうしたらそうっと静かに死ねるだろう。

2003 12・8 27

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