ぜんぶ秦恒平文学の話

歌人として 2003年

 

 

* 春在指頭 微風吹松  二○○三年 元朝

ご多祥と世界平和を祈ります。         秦 恒平

来る春をすこし信じてあきらめてことなく「おめでたう」と我は言ふべし

ありとしもなき抱き柱抱きゐたる永の夢見のさめて今しも   六七歳

日本ペンクラブ電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

作家秦恒平の文学と生活  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/

(電子版・湖の本 e-文庫・湖(umi) 闇に言い置く 私語の刻)

2003 1・1 16

 

 

* 歌の意味がわからない、だから昔から文学なんて嫌いだったと、中学時代の一年後輩がやけくそのような「悪態」をついてきた。笑った。京大の理系を出た「傲慢無礼」が昔からウリの後輩である、東工大生のほうが相当優秀だぞと笑ってやった。

もっとも、二つ目の歌はけっして理解のやさしいうたではない。

ありとしもなき抱き柱抱きゐたる永の夢見のさめて今しも   六七歳

この述懐まで、遠く久しくわたしは歩いてきた。まだ、わたしが間違っているのかもしれない、が、ひょっとして、その辺の、身の回りの大勢の人のとうてい思い至りもしない境地であるかも知れない。

抱き柱として「鰯」を抱かない、「神仏」にも抱きつかない。そんな好都合な抱き柱は有るぞ有るぞと教えられて縋ってきたが、「ありとしもなき」幻影である。その見極めがブッダでありゴッドなのであろう、此の「寒」の極みのような自我の放棄に、どれほど深く入って行けるか、わたしは今はただもう「寒い」なかに佇んでいる、卒塔婆小町のように。

2003 1・1 16

 

 

* 今日のメール中  「ありとしもなき抱き柱・・・・・・・・・・・」

意味が解りません。気が向かれたら教えて下さい。   京都市

 

* 底知れない不安のままに、在るはずのないモノに抱き縋って、ただ救われたいと永い夢を見てきたけれど、夢醒めて、そんな抱き柱などあるわけもなかったと、今しも森々と、あきらめている。たのむモノなど何もない、だから安心なのだ。

2003 1・1 16

 

 

* 雪はかすかに降り、今は強い雨の音。  雨聴いて正月三日今し過ぐ 遠

2003 1・3 16

 

 

* 暮れに、友人阿見拓男氏の奥さんの訃を聴いた。新年、この奥さんの大学以来の親友の詩人(大学の先生でもある。)が、哀悼の詩を書いて送ってこられた。

阿見氏と詩人とにおゆるし戴いたので、その詩を、此処に書き入れたい。

また英文学者であるこの女性は、機械の上にあらわれる言葉の生み出す、いい効果にも、あしき影響にも、研究者として眼をむけてきた人。それは、「e-文庫・湖(umi)」のような試みがこれから増えてくるためにも、また日々の電子メール流行の風俗にも、本質的に大切な視線ある。

 

* 幻影   北田敬子

 

記憶をこねて

形作るのは

あなたの影

思い出を弄んで

紡ぎ出すのは

あなたの幻

 

「偶像を作らないで」

「美談を語らないで」

「本当の私を探して」

 

あなたは身を翻し

遠ざかる

呼んでも

声が出ない

手を振っても

あなたは見ない

ここよここよと

叫び続けたのに

 

夢の奥

微風に髪をなびかせ

透き通るあなたの瞳

ほころぶ唇

むき出しの白い腕

とても若かった頃へ

帰ってゆくあなた

 

「偶像を作らないで」

「美談を語らないで」

「本当の私を探して」

 

何も知らなかった者へ

あなたからの便りが届く

足掻いても覚めない夢は

虚空に砕け散る

 

 

Illusion  by K.Kitada

 

Molding my memory

I form

Your shadow

Handling my knowledge

I weave

A vision of you

 

“Don’t make me an idol”

“Don’t tell a fairy story”

“Look for the truth”

 

You turn and go

Far away from me

I call in vain

In my voiceless voice

I waved my hand

Never to catch your attention

I kept crying

Here am I!

 

In the depth of a dream

Your hair’s waving in breeze

Your eyes transparent

Your lips slightly open

Your bare arms white

You are going back

To where you were very young

 

“Don’t make me an idol”

“Don’t tell a fairy story”

“Look for the truth”

 

To the one who knew nothing of you

Your message arrives

The dream from which I struggle to wake

Shatters in the void                            January 2, 2003

 

* じつは、この詩をこう機械に入れるまでに、技術的な問題が生じて、北田さんとは数回もメールで折衝しながら、問題は未解決のママ、やっと実現した。双方の使用しているOSの差異が生み出している「不思議」かも知れぬと推測されているが、分からない。むずかしいものだ。

2003 1・4 16

 

 

* 神代から今日までの、数百の秀歌をつぶさに調べながら、原稿を書いている。昔に書いたのを調整して書いてしまう道も有るが、それではつまらない。昔から、どこまで考えが動いてきたか進んできたかを確かめるように書いてみたいと、少しずつ少しずつ前へ出ている。いいものになればいいが。

2003 1・6 16

 

 

* 歌人北沢郁子さんに頂戴した『忘れな草の記』(不識書院)は、数十年書きためられた所属歌誌等のエッセイをまとめられた本で、しっとりした佳い境涯が、落ち着いた声音で書き留められてある。自作他作の短歌が金無垢にちりばめてあり、美しい。生涯に打ちつづけられた黄金の釘ひとつひとつの感がある。

2003 1・18 16

 

 

*  大寒過ぎの京  京都の、諸々の風景と会話と散策と、一人飲む「響」の音と言葉と、訃報の悲しさと、日本画の彩を読みました。

幅の広い仕事をされており、繊細で且つ剛毅な筆をとっておられる方にも「寂しい」ひとときがある。青春のこころの「炭火健在」。本で読むのではなく、電磁波で共感する。リアルタイムで瞬時に感動の呼応あり。魔法パソコンが無ければ、紙面でこの紀行文を読み、同じ感動をおぼえるが、それまでに僕の老いが進む。呆けていたら不可能です。昔の一年を一時間で過ごす時代であろうか。現代は「一瞬一生」であろうか。

「さびしい」という言葉に勇気が出てきます。

先生の京都の文学紀行から漱石の木屋町での句を思い出しました。

「春の川を隔てゝ男女哉 」

感謝しながら。バグワンを今日は読もう。

 

* ちる雪のわれも沈透(しづ)いて水のうへ 遠

2003 1・22 16

 

 

* 春日井建氏が序を書いている黒瀬珂瀾第一歌集『黒耀宮』が送られてきた。美少年っぽい。少年と言うには少し青年以上の年齢かも知れない。外国語の人名や名詞や形容詞がふんだんに踊っている。

男権中心主義(ファロンセントリズム)ならねど身にひとつ聳ゆるものをわれは愛しむ

空をゆく銀の女性型精神構造保持(メンタルフィメール)は永遠をまた見つけなほすも

新しい歌を作ろうとすると、こういう自己主張になる。これはもう少しも珍しい傾向ではなく、特別尖鋭なわけでもない。年寄りは共感しないだろうが、大なり小なり歌壇で指導的な地位を謳歌している大勢は、なんとか新味を追うことに一度は成功してきたのだ。そういうものの中からホンモノを見つけたい気持ち、わたしは持っている。

言っておくが、まだ爆発する前の『サラダ記念日』の歌を、NHKの、噺家鶴瓶が司会していた「YOU」とかいった番組で「若者言葉」として早くまだ爆じけていない時に取り上げ、紹介したのは、わたしであった。

歌集になって贈られてきたとき、これはいわゆる発売ゼロ号雑誌のようなもの、創刊号、第二号にこそ期待すると返辞を書いたのを覚えている。

2003 1・31 16

 

 

* 短歌新聞社の石黒清介さんが、わたしの歌集「少年」を復刊してくれるらしい。どうなることか。

2003 2・8 17

 

 

* 銘記したいと取り置いた冊子がある、友人奥田杏牛主宰の俳誌「安良多麻」新年号に、彼の師石田波郷のことばを、「賀状にこめ」た一文に書き写している。

「美の想化を止めろ、感覚を捨てろ、説明を捨てろ、素材を追ふな、や、かな、けりを用ひよ、句が非常に長い、こんな間伸びした力のない表現でどうする」と。「お前に余力などあるはずがない、一句に徹せよ、自分を磨け、自分をもっと見詰めよ」とも。

俳句の事だけではない。ことに自身の余力を無自覚にたのんで一期一句(一期一詩、一期一作)に徹しないで二の矢をかかえこむ姿勢を波郷は叱っている。多く垂れ流せばいいというものではない。

2003 2・9 17

 

 

* はや「須磨」の浦を通り過ぎた。「明石」に入る。弥生上巳の海の異変は臨場感豊かに書かれている。

春の海終日のたりのたりかな

蕪村の此の句は、本により、「須磨」の句と詞書き明らかである。三月上巳は、いわゆるひねもす先祖波ののたりのたりと打つ日とされている。古典にくわしい蕪村の念頭に「須磨」巻の海辺の異変が頭になかったはずなく、いわば光源氏の運命のまた大きく動こうとする前兆であった。

ここでいう「上巳」とは三月の最初に来る「巳」の日の意味で、この日には先祖波に打たれて祓をする。禊をする。源氏はそれをしていて、竜王に見こまれた。「みそぎ(身削ぎ)」とはあの脱皮由来に他ならず、「巳」の日の意義が活かされている。「上」の召すのになぜ来ないかと、それとも見えぬモノの影に、光君は夢中威嚇されている、この「上」とは、都の主上ではない、海の底なる竜宮の龍王を謂うのである。この意味は深刻で、のちのちに盛大な「住吉詣」のあるのと繋がってくる。

光は、海神に愛され、その手に自ら身を投じなかったものの、その導きと加護とにより明石へ移り、また都へも戻って行けるのである。明石上がのちの明石中宮を出産できるのにも竜王への願いは関わりあり、根に、明石入道の海王にかけた深い不思議の大願があった、謂わず語らず、そのお礼参りが、住吉詣ということにもなる。

蕪村もそういう意味合いを感じたまま、先祖波の「のたりのたり」の底にひそむ神意を、一句にみせていたものと、わたしは読んで、楽しんできたのである。「のたりのたり」が効いている。

2003 2・11 17

 

 

* 中学で、しばらく英語を習った信ヶ原(当時は木平姓)綾先生の歌集『浮雲』を今朝頂戴した。以前の『鬱金』は隠れた名歌集であった、今度も拝読が楽しみ。前歌集ですでに夫君がいわゆる「惚け」進行中であったが、今回歌集の題字は、その夫君がなにかのおりに夫人の要望にこたえ書かれたという二文字。素養のうかがわれる書体で、家人の嘆きも諦念もがうかがわれ、胸うつ。前登志夫氏に師事されてもう久しい。

そして橋田二朗先生と、今は信ケ原先生と、お二人だけになって、とだえなくわたしの「湖の本」をたすけて下さっている。西池季昭先生は昨年亡くなられた。もう、わたしの学年を担任された五人の先生方のお一人も、ない。

2003 2・20 17

 

 

* 「青春短歌大学」が「湖の本」で「上巻」だけになっている。平凡社版の「俳句」部分を省いて一巻にした。「下巻」には、その俳句分ももとより、平凡社版に収録した以降の短歌や俳句や詩を、新たに書き起こすつもりでいた。作品の数はかなり多くなる。たんに鑑賞だけなら作品の配列ができればすぐ書けてしまうが、学生達の解を盛り込みながら書く必要がある。その方が遙かに意味があるのはむろんだが、あの時代の資料を整理し参照するだけでも、たいへん手作業の煩雑な仕事になるのも事実。とにかくも、上巻には取り上げていない虫食い作品を、ようやく機械に拾い上げた。大きなファイルに満杯の資料を、二三年分も背後のソファに積み上げた。黒いマゴの休み場を奪ったことになる。

教授期間の後半は、俳句も詩も短歌も、量質とも拮抗するように多数出題し、その余に井上靖の散文詩を毎時間にプリントして配布している。

「書く」こともかなりしてもらったが、こんなに「詩歌」を重く扱っていたのかと、少し我ながらおどろく。おもしろいのも、ある。

 

* 墓の(  )の男の(  )にねむりたや  時実 新子

 

* 川柳であるが、説明抜きに各漢字一字で穴埋めをさせた。なんでもないようで、奇抜な唸らせる感じがいろいろに入って、みなで、笑ってしまった。

2003 3・2 18

 

 

* とうとう、戦争が始まってしまいました。

独裁者の存在はゆるされるものではありませんが、われこそ「正義」と思いあがる独善も、他国を戦乱の巷と化して省みない神経の荒さも、これまた、ゆるされるものではありません。

人間ひとりびとり――自国の兵士も含めて――が、ブッシュには見えていないのでしょう。わらったり泣いたり、本を読んだり、お菓子を焼いたり、恋人と抱きあったりしている生きた人間が。

彼の地は、いま、砂嵐の季節とか。砂嵐に天も地も暗い荒野に、わたしも立っている。火薬のにほひ、血のにほひが闇の彼方からただようてくる――。

常に何処かに火のにほひするこの星に水打つごときこほろぎのこゑ  齋藤 史

二〇〇〇年の年頭に発表されたうたです。  筑波

 

* 斎藤史のなんて佳い歌であろう。この下の句をわたしはいつも胸の一点に抱いている。

2003 3・20 18

 

 

* 黒きマゴの我の湯舟で湯を飲めるただそれだけの嬉しさに笑む  遠

2003 3・31 18

 

 

*「青春短歌大学」の原稿づくりも続けていて、こんな出題の詩に出会ったのが、懐かしい。

 

* ばさばさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに(  )る尊厳の放棄

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ     茨木 のり子

 

* あの当時にも「必要」な出題だったが、思いの外に卒業生の「今」を刺激する作品ではなかろうか。そして、この出題の漢字一字は難題に属するが、あの当時の学生諸君は、なんと大教室で七人に一人が原作の茨木さんと表現をともにしたのだ、感激した。

2003 5・6 20

 

 

* 「青春短歌大学」下巻も進んでいる。なによりも優れた詩歌作品を選んであるという自負と安心感とがこの仕事への気分の励みになる。

2003 5・13 20

 

 

* 永く気がかりだった「詩歌の体験 青春短歌大学下」が、ほぼ書き上がった。短歌と俳句と詩とが、概ね網羅され、面白い読み物に成るだろう。東工大を引きずっているのではない、そこから湧き出てくる力強いものを、まだわたしはだいじに根強く所有している。厖大な量の授業記録に眼をむけていると、わずか四年のことなのに、多くの着想にとりつきとりつき、いろんなことを試みていたと分かる。

2003 5・18 20

 

 

* 梅雨の入りになると、芥川龍之介の句、

青蛙お前もペンキぬりたてか

を思い出す。「ペンキ」なんてものの町中にも溢れ出した昔、がさつなハイカラ趣味か安直な簡便主義に対し皮肉屋芥川の口元がゆがんだものか。

だがね、と言いたい。

此の句の「蛙」一字を虫食いにし東工大で思案させたところ、漢字二字の反則(一字が約束)ながら、出ましたよ、「青二才」と。

青二才お前もペンキぬりたてか

芥川をしのぐ秀逸、傑作であった。季語は。四月の入社式あたりがピタリであろう。唸った、おぬし、やるなと。反則だけれど点をはずんだ。「青二才お前もペンキぬりたてか」作者の学生クン、誰だったろう。逢いたいな。

2003 6・17 21

 

 

* 紅書房主の俳人菊池洋子さんが、今は亡き上村占魚さんの厖大な句から、二百を撰して下さった。占魚夫人に私から頼み、撰は菊池さんにとも言い添えたのが実現したのである。ありがたい。

占魚さんは高浜虚子や斎藤茂吉の薫陶をえた俳人で、俳誌「みそさざい」を久しく主宰された。お宅での月見にも招かれたし、壽町の鮨やで大久保房男氏もご一緒に、ペンの会合の帰りにご馳走になったこともある。「みそさざい」三十三年の記念大会では斎藤茂太氏とともに記念講演まで頼まれた。草野心平さんもあの席には来ておられた。亡くなっての追悼会でも、ぜひ「話す」ようにと主催の門下の人たちに頼まれた。

「みそさざい」に原稿を書くと、きまって占魚さん故郷の球磨から取り寄せた「心月」という、すばらしい味わいの焼酎を半ダース戴くのが常だった。美術学校で漆藝と陶藝を学ばれ、焼き物の肌に漆を施すような個性的な作品もつくられた。そうそう豪快に字を刻した大きくて据わりのいい手掴みも佳い徳利を頂戴して帰ったこともあった。

菊池さんは晩年の門下の一人で、占魚さんの本を何冊も美しく出版されている。わたしも「美の回廊」「猿の遠景」を出して貰っている。

ひさしぶりに占魚句の粋に、懐かしく接し、遠き佳き時代のことを想っている。

2003 6・18 21

 

 

* おさえられると、反撥する。その反撥のエネルギーが創造的に働くか、ネガティヴに歪むか、それは人と環境とで変わるだろうが、この場合の「おさえる」は、今日流行りの無人格的な「管理」「支配」とは意味が違う。人と人との愛憎こもごものぶつかり合いが上から下へ、下から上へと働く。最後は人間である。等間隔に並んでいるわけでない人間の世間では、その不等間隔に発生する「複雑力」を、創造的なエネルギーに変える・変えられる性根と才能の太さが、どうしても必要になる。そんな場合がある。

この辺では、むしろ男子男性はやや臆病に身をまもりがちになり、女の人の元気を自嘲的に羨んでみせたりしがちになるが、それでは、元気はもっと衰えてゆく。男の卒業生からも声が出て欲しい。

忘れゐてそれも安気や梅実生(うめみしょう) 保谷騒人

2003 6・19 21

 

 

* 東工大の教室では、虫食い問題を「短歌」だけで出題したのではなかった。短歌が多かったけれど「俳句」もずいぶん読ませた。「歌謡」や「漢詩」でさえも時には持ち出したが、「近代詩・現代詩」編もひと纏まりに成るほどの量を「虫食い問題」に作って出題していた。その詩編を、今、通して読み直してみた。

虫食いはクイズとして楽しませたのではない、「詩歌」の力に触れて欲しい気持が強かった。当然だ。それら全てを含むわたしの『青春短歌大学』とは、わたしの撰した詞華集なのである。

2003 6・21 21

 

 

* ある詩人の文藝館への出稿があった。あらかじめ読んでいた詩集は、近来出色の一冊に感じていたので、どんな詩編が自選されるだろうと興味を覚えていた。届いたのをみて、わたしが自身ひそかに選んでいた作とはもののみごとに逸れているのに、ビックリもし、そういうものなのかと詩の評価の難しさに今更に驚かされた。

2003 6・25 21

 

 

* 会う人ごとに「お元気そうですね」と云われる。そう見えるのだろう、たぶんに。しかし、わたしは衰えている。

 

* 僕は(  )へてゐる    高見 順

 

僕は( )へてゐる

僕は争へない

僕は僕を主張するため他人を陥れることができない

 

僕は(  )へてゐるが

他人を切つて自分が生きようとする(  )へを

僕は恥ぢよう

 

僕は(  )へてゐる

僕は僕の(  )へを大切にしよう

 

* 教室の諸君には難解な出題であった。

2003 6・25 21

 

 

* 亡くなった、と云ってもだいぶ前だが、筑摩書房におられた詩人吉岡実の遺作が、遺族の許可が出て、長編詩を「ペン電子文藝館」に戴けることになった、新委員小林一郎氏のおかげである。彼は吉岡実研究のホームページを建てている。

中原中也、萩原朔太郎、北原白秋、伊藤静雄らの優れた詩編を選んで行きたいと座右に置いている。それはわたし自身の楽しみである。真に優れた詩は文学の、言語による表現の極北であるが、俳句や短歌は難しい、小説なんて書けない、けれど詩ならわたしにも書けると云い、現に書いてきた・書いている人はやたら多い。しかし言葉の喩と韻律とを真の「詩」にまで磨き抜く、命を削るように磨き抜く詩人は、けっして多くいない、いや、なかなか出逢えない。「生活詩」などという安易な標語に道案内されて道に迷った平凡な表現が、あまりに多い。

しかし詩に懸ける望みは深い、哲学なんぞによりも、遙かに遙かに、である。

2003 7・1 22

 

 

* かささぎの橋    気温が30度くらいでも、湿度が高いと熱中症を起こすそうですね。今朝は、雲が蓋をしたように、蒸し暑い空気が籠り、山の端が滲んで見えるほど。朝から立ちくらみばかりしていました。ようやく風が出て、雲を押し流し、日が射してきたので、空気が乾き始めています。

星が見えるといいのですけれど。

体調はいかがですか。お幸せにおすこやかに七夕をお過ごしください。  伊勢

 

* 七夕に   昨日、大和高田市のおだまき最中を思い出し、外出先から寄り道したのですが、前回訪れた時も、かなり寂れていた商店街が、もう痛々しいほどで、店は見つかりませんでした。

留守の間に、字名(あざな)も懐かしい、故郷の菓子店から、笹団子と粽が届いていました。親戚からのお中元でしたが、束がそのまま、段ボール箱に紙も敷かずに入っています。

うちのほうの粽は、7×12センチほどの二等辺三角形で、味付けをしない餅米を入れて蒸し、食べるときに、砂糖を加えたきなこをつけるのですよ。   和泉

 

* かささぎのはねうちかはし置く橋をわたらめいまはまぼろしなれば  湖

2003 7・7 22

 

 

* 人の心は知られずや 真実 心は知られずや  室町小歌

 

* このうめくほどの「嘆息」は、次に、いったい、どの方角へ身を転じようというのだろう。自棄か断念か暴発か狂気か、放埒か、無頼か。「心」などという、何とかに刃物ほども危ないものを、或いはたわいなくロマンティックに頼み、或いは小ずるく政治的に利用し、或いは偽善のために或いは打算のために或いは虚飾のために担ぎ出す。「心」が良くしてくれた現代とは、何が在るの? むちゃくちゃになった人間達の世間。いやになる、つくづく情けない。何故かなら、私自身無罪でないから。私自身むちゃくちゃだから。けちくさい心にしがみついて、口にする言葉はたちどころにウソになるばかり。

 

* 京の、家の近くの、白川の、狸橋の上から川波に眼を凝らして、少年のわたしはいつも時を忘れた。ちいさくするどくかすかに音たてて、わたしのちいさな視野は躍るように不変だった。不変の川波は、わたしの眼玉のまるで鱗と化し、あれから六十年、わたしは鱗の眼で生きてきた。いやだ。いやだ。だが、どうにもならない。嘆息するのは人の心ではない。わたし自身の心が知れない、あたりまえだ。あたりまえと思えるようになっただけが、終点前の、かすかな希望である。けれど、すごく寂しい。

2003 7・17 22

 

 

* 別離   井上 靖

 

中学時代からヨット・ハーバーという言葉を耳にすると、すぐ眼に浮か

んで来る風景があった。ひっそりした小さい入江、真夏の陽が落ちてい

る静かな海面、マッチの軸で作ったような桟橋、その向うのヨット溜り、

入江の口の向うは荒い外海で、鏃形の岩礁に波が白く砕けているのが

見える。

 

三、四年前、ギリシャの地中海に沿った漁村で、私ははからずも私のヨ

ット・ハーバーを見付けた。ホテルの庭の裏口から磯へ降りて行くと、

崖っぷちを埋めている雑木の間からその入江の碧りの潮が見えた。桟橋、

ヨット溜り、外海の鏃形の巌、──ああ、こんなところに匿されていた

のかと、私は思った。

 

そのヨット・ハーバーの磯に降り立った時、丁度一艘のヨットが帆を張

って、外海へ出て行くところだった。ヨットには黒人の娘がひとり乗っ

ていて、私のほうにやたらに手を振っていた。私も夢中になって彼女に

応えて手を振った。私は(  )に(  )ってよかったと思った。ヨットがす

っかり視野から消えてしまっても、私はそこから立ち去りかねていた。

相手の顔かたちすらはっきりしていなかったが、紛ろうべくもない別離

の悲しみだけが私の心にはあった。

 

* 二つの虫食いに漢字を入れるのである。「間」に合って「良」かった、と。それにしても、この詩。なにに向けた「別離の悲しみ」だというのか。わたしの学生諸君はいろいろにこれを読んだものだ。わたしは、どうか。井上先生のなげかけた問いは一つの難題である。間に合いたいのだろうか。間に合うのだろうか。たぶん間に合う…。何に。どうすれば。

2003 7・18 22

 

 

* 啄木の、「なみだのごはず」という歌を、わたしは何と「なみだの・ごはず」と二十年ほど前まで思いこんでそう読み、さて、それはどんな意味かが読み取れなくて閉口していた。あれは、跡見女子大であったか、頼まれた講演に出掛けてゆくまぎわに、突如として、なーんだ「涙拭はず」ではないかと思い至り我ながら恥ずかしくも大笑いをしたことであった。「拭ふ」は「のごふ」と読めるのである。「ごはず」には往生した。涙が「おはじき」か何かのように感じられるのかなどと愚なことを思案していた。思い込みというのは恐い。

 

* 委員の校正室がらみに、一委員からきたメールにそんなバカ話をしていたら、また重ねて質問があったりしたのである。

 

* 詩とは、詩を書く人には何なんだろう。

今朝、「小闇」のことに触れながら荀子の「解蔽」つまり心にかぶせた余計なボロ、それを解つまり脱ぎ捨てて新に自由に無垢にならねば、詩など生まれようもないということを、わたしは思っていた。それなのに、詩を、あたかも化粧品のように、心のお洒落のように、夢語りのようにして身の飾りにしている人もいないではない、いや、そんな自称詩人が多い。そうではない詩人。そうではない詩人。

わたしは驚くのだが、歌人俳人は結社などと称して当たり前にしているが、詩人が今や群れて動くのには驚かされる。孤独の極みからうめきでる言葉の命。それなのに、うちつれて物見遊山に出掛けたりしている。

2003 7・20 22

 

 

* 和御寮 という言葉に出逢ったが、意味が分からないと、五十近いか、過ぎか、詩を書いて詩集ももっている人から、遙々メールで尋ねられて、キョトンとしている。「御寮人」「ごりょんさん」などという言葉もほんとうに識らないのか。

「ご」「ごっさま」「ゴンシャン」など、女御、姉御の昔から糸をひいた、女への、主婦や娘などへの敬辞であり、秀吉も夫人を「五さ」と、つまりは「かあちゃん」とでも呼んでいた。そういう書状がのこっていて、東大のえらいセンセイまで分からなくて、これは「侍女」の名前だなどとトンチンカンを云っていたのを、柳田国男は適切に訂正してやっている。

それなのに、東京国立博物館でのその書状の解説では、あいかわらず「五さ」侍女説の孫引きをつづけていて、呆れたことがある。もう随分昔のこと。

 

* 人は何とも岩間の水候(そろ)よ 和御寮の心だに濁らずは 澄むまでよ  と、閑吟集三○一は歌っている。ここは男から女に、「そなた」「おまへ」と呼びかけている。

 

* 詩人が辞書をひかないのか、こんな解せないことはない。言葉の秘儀者、最も佳い意味でのマジシャンではないか、詩人とは。俳人達は過剰なまでに語彙に通じ文字に長けている。歌人でも、和歌にまで関心の及んでいる人達ほど深切な知識を持っている。フツーの詩人には、よく出来た辞書を食べてしまうほどひいてもらいたい。

2003 7・30 22

 

 

* 藤江もと子さんの「灰色の家」を「e-文庫・湖(umi)」自分史のスケッチに収めた。気の乗っているぶん筆が走ったりもして瑕瑾といえばいえるものの、「春愁に似て非ならずよ老愁も」 一抹の哀情掬すべきあり、と。

2003 8・4 23

 

 

* いろいろな”闇”をみつめれば、いつの自分にもなく、哀しみます。

なぜでしょう。

遠くでわたしを呼び、わたしの影を映さずに、わたしを眠らせ、

水の清さを私の夢にすべりこませてくれる湖が、

どこか、違うところにあるようで、

わたしは、なんども目をつぶらないではいられない。

2003 8・5 23

 

 

* 村上春樹が世界一の小説は「カラマゾフの兄弟」だと云っていた、だから読んでみようと秦建日子は初々しいことを謂う。ま、いい。が、その程度のモチーフからあの長大作が読み切れるのだろうか。基督教への認識を或る程度以上に作品は要求してくるし、ロシアというヨーロッパでありながら世界の僻地でもあった風土の、分厚い世界苦にしみじみ触れるには、内発する自身の動機に強烈に尻を押されないと、取り組むだけでも、難しい。とはいえ、あれほどの作品をたった一度読んでなにか獲ようと云うのは無謀であり、少なくも三度繰り返し読まねば、作品世界の朧な把握すら、容易でない。

しかし、それがよいと思ったら、ためらわずしてみればいい。した方がいい。そして父と話しに来てくれるとよい。

独楽は今軸傾けてまはりをり逆らひてこそ父であること   岡井隆

<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき   中山明

思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき   清水房雄

亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし   井上正一

子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり   甲山幸雄

こんな作品に出会っては東工大の教室で学生達に突きつけていた頃、わたしは、「父」なるものを持たず知らずに育ったことを、いつも、くやしく噛みしめていた。「母」もそうだが。

2003 8・8 23

 

 

* 今日の、いえ、昨日の「闇」に置かれたことばに、なつかしい名がありました。

>>亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし

の作者井上正一でございます。20年ほどのつきあいは、1985年、彼の不幸な死で終ってしまいました。45歳でした。

さびしがりやで毒舌家で。師木俣修に「うたをつくるために生まれて来た男」と言われたひとでした。

一夜、彼と歌仙を巻いたことがありました。こちらが、うんうん苦吟してやっとつけると、すぐつぎの句を投げて寄越す。それがきらきらした句なので、こちらは本当にくるしくなって。ひどい目にあいました。

いつでしたか、先生がお寺でひるねをなさったこと、書いておいででしたね。正一もそうでした。曼殊院でも円通寺でもお廊下にながながと伸びて寝てしまう。どこのお寺でしたか、血天井のあるお寺でも。

「死なれた」とおもいました。

供ふると境内のむくげ手折りつつこゑあげてわらふ泣けさうになりて

あのこゑであのせきこむやうな早口でにくらしいことを言つてよもう一度

君の家より見ゆる川の名森の名を知りたり君を墓に訪ひ来て

亡くなって半年ほどして四国の彼のお墓をたずねました。

久しぶりに正一の歌集を読むことにいたします。  つくば市

 

* 連歌や俳諧でいう匂い附けのように話題がうねってゆく、時に、そのようにこの「闇に言い置く」ことばが、大きな呼吸をしてくれる。わたし一人では紡ぎ出せない「ことば」の連鎖が、思い寄らない場面転換を遂げて行く、それを、わたしはいつも夢見ている。多くの人達のおりおりのメールを精選し、あえてわがもののように此処へ連ねているのは、この「私語の刻」がそのまま歌仙を巻いたりするのと通い合う景色を得たいが為である。

2003 8・9 23

 

 

* 最近送られてきた或る詩誌に、気を惹かれる作が同じ人で二つ載っていて、二つとも佳いのだが、一つは詩句の斡旋にやや贅肉による間延びが感じられ、もう一つは優れているのに、「舳先」が「軸先」、「締めつける」が「諦めつける」と、明らかに誤字が二カ所もあって、惜しかった。散文でもよろしくないが、とくに詩歌の誤植は読んでいて手痛い。作者の杜撰か、同人誌編集室の杜撰な校正なのか分明ではないが、せっかくの表現が片輪になる。詩誌で佳い詩に出会うことなどめったにないだけに惜しかった。

2003 8・17 23

 

 

* 恒平さん  湖の本、ありがとうございます。

「灰色の家」の余韻がまだ覚めやらぬところ、ちょうど、恒平さんや藤江さんが、そして私の母が、中学、高校を過ごした頃の京都に想いを馳せていました。恒平さんより二学年下の母は、恐らく藤江さんの同期、皆知らぬところで交叉していたのでしょうか。私にはあの頃の京都が、とても懐かしく感じられます。

私が懐かしい、なんておかしな話でしょう。でも、不本意な人生を送ってきた母の唯一の楽しい思い出、繰り返し聞かされた鴨沂高校の思い出ともなれば、それが私の想い出に重なっていっても、おかしくはないのかもしれません。「母の松園」で、また、京時代の母と、その後の母と私の関係を想わずにはいられませんでした。

私の母への愛情は歪んでいる、最近ふとそんなことを感じます。私が、母の反対に逆らって大学院をやめ、スペイン行きを決心できたのも、私が、大学に行かせてくれなかった祖母を恨み続けた母をずっと見てきたからかもしれません。母は、自分の人生を祖母や私のために捧げ、私は私で、母の(喜ぶ)ことが何よりでした。それでも、他人のために生きる、生きられることがどういうことか、少しずつ分かりかけていた頃。あの日、自分のために生きることを選んだ私は、初めて母を「赦し」ていた気がします。27歳の夏、長い道のりでした。

「再会の宴」は、「飛行機の機内食を、、、念押しする。」から最後までが、実は一続きの話です。あの時、母が機内食を無理して食べることは目に見えていたので、予め制したつもりだったのですが、、、

闇に言い置くのも、呪縛を解くように、母との絡み合った感情の縺れを消化したいからかもしれません。

母を想うと、「片想い」や「幸福」の詩が思い出されます。母にも幸福を追って欲しいと。  小闇@バルセロナ

 

 

* 書いてみて、確かめて行く、それをこの人は的確に意義づけてきた。書かずに思っているだけでは、此処まで来るのにもっとはるかな未来を要したかもしれない。呻くように書き、書いて視界を澄ませてきた。意志の毅さがある種の歪みを魔法のように正しかけている。それがこの人の「幸福」を追う意味であった。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」であった。

「片想い」と書いている。それは教室で示した窪田空穂のこんな歌の記憶が、いや記憶ではなく生存が云わせている。

たふとむもあはれむも皆人として(   )思ひすることにあらずやも

今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその(   )おもひ   窪田 空穂

『青春短歌大学』(平凡社版 湖の本エッセイ23)で、この二首について書いたことを以下に再録しておく。(校正はやや足りていないかも知れないが。)この歌の、せめて「片思ひ」という一語だけでいい、時々思い出して欲しい、いやあなたがたは忘れない、と話したのを覚えている。

 

☆ 痛み

 

たふとむもあはれむも皆人として(  )思ひすることにあらずやも

 

今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその(  )おもひ     窪田 空穂

 

虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がない。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。

四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんでもっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。

一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義がある。そんな気がいつもする。

試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三〇字も登場している。

「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。

人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにくい。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。

「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子とのそれかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なのであり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばならない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。

残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外ではなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。

「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。

二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。

そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。

 

たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも

今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ

 

巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。

 

* はるばる呼びかけてきた人よ。お元気でと応えておく。

 

* この『青春短歌大学』下巻(2000円送料共)が刷り上がったと今朝知らせがあった。今回は短歌だけでなく俳句も詩も歌謡も川柳もふくまれて多彩な内容になっている。東工大でのいわゆる「虫食い」創作篇は、ほぼ九割九分これで完了する。卒業生諸君、他のみなさんも、どうぞ読んでください。

詩歌解説の本ではない、人生を、いいや自分自身をふと深く考えてゆく本である。バルセロナの小闇も、東京の小闇も、現にそのように生きている。

生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ  大島 史洋

2003 8・27 23

 

 

* ご無沙汰しましたお元気ですか。9月になってしまいました。

休みを取って、いろんな用をしました。7月の末から暑い盛りのヨーロッパにいましたが。

帰ってきて、本(青春短歌大学下巻)に接して、アノころを懐かしみました。未だに、ライオンは、余計なことを言ったと恥じています。きっと寂しかったのですねアノころ。今は寂しさも、透き通るようなさみしさになったと思います。

今年は、涼しいいいところは東京だったのかもしれません。たくさんお話ができるといいのに、と。

 

* 寂しい人もさみしい人も、少なくない。まして秋へむかえば。

蝉なかず なぜなかないか なかないか。  遠

2003 9・2 24

 

 

* 寺井谷子さんの選した十二句が届いた。その中から、一、二、三席と、わたしにも選べと。まいったね。

 

* 「歌ッて、何?」と、短歌を主にして歌なるモノを論じた一冊が「湖の本エッセイ」31に有る。だが、俳句のことにはあまり手を出さず口も出さずに来た。「沖」「秋」「鷹」「阿羅多麻」「琅かん」等々、句誌もよく見ているが。「俳句ッて、何」と問われて、わたしに何が言えるだろう。十二句、徹底して批評してみよう。

2003 9・10 24

 

 

* NHK俳壇の台本が届いた。文壇すらなくなったという人のいる時代に、国民文学である俳句や短歌を、NHKが率先して狭い「壇」に祭り上げて、ぬるま湯のような番組へ閉じこめている現状は、何という時代遅れだろうかと思う。いまもって月並み俳句や短歌の、遠い昔の句会や歌会と同じやり方で、この句、この歌「いただきます」てな調子で点を入れ合っているなど、これはもうNHKの見識が錆び付いているとしか云いようがない。俳句を作る短歌を作る輪の中の、壇の上の人達だけの、擬似専有感覚に、このゆたかな表現形式を無反省に預けてしまっている。

ちがうだろう。俳句や短歌は、そんなものを作ろうと思ったこともないような広い国民層をもまきこんでゆける表現であり、創作行為なのである。活気をよびこむ工夫が必要である。

わたしのいわば創始した短歌や俳句の虫食い創作は、そういう工夫のなかで既に或る程度の成果をあげた一つだと思う。

秦の父は、日頃は短歌や俳句に何の気のある人でもなかったのに、正月になると、祝い膳の箸紙に、なんだか歌らしき俳句らしきものをひねり出して披露するような洒落気ももっていた。短歌や俳句はそういうものとして国民の文藝たり得てきた。「壇」の専有にするのはもともと発想の向きが逆なのである。

かつて馬場あき子さんに頼まれて「歌壇」に出たときも、同じことを感じていた。今度は寺井谷子さんに請われて「俳壇」に顔を出すけれど、それはそれとして、NHKのこの番組製作のセンスにも態度にも、わたしは、賛成していない。かなり時代錯誤だと思っている。

ま、仕方がない。録画のための心用意にかかろうか。

2003 9・13 24

 

 

* 寺井谷子選 視聴者入選12句 への ゲスト秦恒平の批評(2003.9.17 NHK俳壇収録分)を以下に掲げておく。僅か三十分に、番組内容が盛りだくさんで、結局どれ一つとて十分に話せず半端に終わってしまうのは、ことにこの番組では予想できたので、収録前にメモしておいた。

寺井さんの推薦句と、わたしのそれとが全く触れ合わなかったのは、「俳句」にせよ「短歌」にせよ評価や鑑賞がいかに主観的かの好例を提供している。ほんとうなら、その討議を二人で出来たら、よほど番組として質的に興味深かったろう。寺井さんがご意見を寄せて下さると嬉しいが。

なにしろ批判はおろか、批評も避けて「無理しても褒めてあげて欲しい」というのでは、わたしには向かない。幾らでも褒めたいが、心にもないことは言えない。

今朝放映されていたらしいので、このメモも解禁とする。

 

12.馬屋には大型農機鳳仙花

鹿児島県喜入町 永野ちづ子さん  秦 第一席推薦

① なんとなく大柄な俳味を感じさせる句。② 馬屋に馬がいなくて、馬より可愛いげの無い、しかしかなり働き者の、大型農機。 ③ そんな武骨な農家の風情を彩って季節の花の色濃い鳳仙花が、豊穣の秋を思わせる。④ 漢字ばかりだが、「うまやには」の柔らかな発語が生きて、⑤ 「大型農機・鳳仙花」という堅物と美形の取合わせを引き出したのはお手柄ではないか。

 

7.水郷にロケの一隊夕月夜

高槻市 河本利一さん  秦 第二席推薦

① 姿美しい句ではない、が、或る種の唐突感に、ふと「おかしみ=俳味」を覚える。

② 俳諧に根を発した俳句にとって、或いは「季語」以上に大切なのは、この「俳」の字が担い伝えてきた「俳味」の表現。③ 俳句は、三句の「短い詩」であればいいのか。そうではあるまいと思っている。 ④ 蕪村に特に、近代の子規にも、「俳の妙味」が、魅力の芯にある。

⑤ この句「水郷」という舞台が効果的。 ⑥ 夕深まり波きらめくなかで、何を撮影するのか朧ろにそれとも知れにくいけれど、多くの人影が動き、いろんな声も行き交う。⑦ すべて「夕月夜の薄明かり」に、刻一刻とシルエットになりゆき、幻想的ともなって、果ては昔風な狐や狸の「まどい」かのようにも想われて来たりする。⑧ それが現代的な「ロケの一隊」である点に、斬新な、把握と表現とがよく纏まった。 ⑨ ふとおかしく、なかなか美しく、時間の経過が、夕月夜のなかに静かに賑わっているのが、佳い。

 

9.妹の負けず嫌いや鳳仙花

奈良県平群町 谷川安子さん  秦 第三席推薦

① 鳳仙花は、爪紅ともいうように、女の子の遊び草。 ② 爪を赤く染めてみせて、どっちが綺麗と競い合ったろう、幼い日の姉妹。妹は、そんな昔にも、姉に対しなかなか負けていなかった。 ③ その思い出が、今しもまた甦るほど生々しい大人の場面が、ふと姉妹の間に「葛藤の顔」を出しているとも読める。  ④ 「や」という切れ字に、幽かな舌打ちを聴いてみても面白い。 ⑤ 或いは、今は遠くにある(亡くなっているかも知れないし)そんな妹の、昔と今とを面影も愛おしく思い出す姉の目に、今しも鳳仙花が、赤い。 ⑥ 句の姿もわるくなく、かすかに句の調子から、おかしみも、哀れも、受け取れる。 ⑦ ただ、際だって個性的とは見えず、類句を見る「おそれ」もある。

 

11.温和しき孫が来て居る夕月夜

福岡県宗像市 國安啓一さん   秦 佳作推薦

① お祖父さんの、得も云われぬ嬉しさが、雰囲気よく出ている。 ②「居る」という日本語=漢字の本来の意味、謙虚に膝を折ってひかえている意味が、「温和しき」とうまく響き有って、「語感の正しさ」に感心するが、ひらかな表記なら尋常。

 

1.夕月夜一つ残れる砂の城        茅ヶ崎市 平野健夫さん

① 子供の遊びのこした砂浜の「砂の城」に夕月夜。 ② 装置が出来すぎ。頭でつくりあげた「観念の臭い」がする。 ③ 「一つ」というわざとな物言いが、それを感じさせる。 ④ わたしなら、「一つ」と気取らず、気張らず、むしろ「幾つ」というふうに大小・出来不出来、いろいろばらばらに見渡すことで、逆に「幻想感」に現実の基盤を与えてみるが。

 

2.母のよな姉の命日鳳仙花        長野市 丸山祐司さん

①「よな」という、寸足らずの「ような」が、何をどう把握したかが、適切に伝わってこない。 ② 容貌が、性格が、家庭内の立場が、作者への接し方が、「母のよう」だった「姉」としてみて、それら総てを「よな」で代弁させるのは、表現として弱い。 ③ また「母」その人は、句の中でどう働いているのか。 ④ 「命日」とあれば、母も姉も亡くなっていて、現在とはともに間があることになり、句の哀切が、遠々しい。⑤ これが姉眼前の「命終」であるならば、鳳仙花の種が弾け散った感じにつながり、強い哀切感とともに「鳳仙花」が印象鮮やかになるけれど。

 

3.遠き日に触れて弾けし鳳仙花

長野県飯田市 竹下きよ子さん  選者第三席

① 鳳仙花の種のはじけ飛ぶ生態に直接触れている句。 ② それにしても表現が弱い。何を把握しているのか、把握が弱いので表現も弱いのである。 ③ 「遠き日」は、遠い昔の思い出に属する意味とも、遠い日当たりのなかで日光に射られたように赤い鳳仙花がぱっと種を散らしたとも(むりに読めば)読める。 ④「遠き日に触れて」ではいたって意味が弱く、具体的な印象として訴求する力が無い。

 

4.夕月夜帰る漁船の舳に座り   三重県明和町 西口才助さん

① 耳で聴いて「舳 =へ」が、ひ弱い。  ②座り か 座る か。 ③ 座 の主が作者なのか、 夕月夜の帰り船を、よそから遠望しているのか。 ④ 遠望なら、座影は、夕闇を流れるシルエットとなり、座り とよそに眺めてもいい。⑤ 作者が座っているなら、はきと、「座る」と主体化した方が句勢がつよい。帰る・座る と韻も生き、漁=労働のアトの放心ぎみの「安座」感が出る。 ⑥ このママでは句の語調はやや乱雑、⑦ 字配りも無雑作すぎる。 体言=名詞が三つも。ひらかなはたったの四字。見た目の美しさも考慮して欲しい。

 

5.逝きしとは応へなきこと鳳仙花

三重県菰野町 内田あさ子さん  選者第一席

① AとはBである、すると、なぜ 鳳仙花なのか。 ② 鳳仙花を、はかない死= 死別と、どう匂いづけしたのかが、分かりにくく、単にご都合に感じ取れる分、初・二句が「理」に落ちて聞こえ、美しく昇華されない。 ③ 詩歌の魅力に十分は届いていない。

 

6.仲よしの誰も来ぬ日よ鳳仙花      福知山市 植村太加成さん

① 大人から見て我が子の「仲良し」なのか、作者自身の「仲良し」なのか。 ②自分=作者のでは、「仲良し」という甘い表現も、「鳳仙花」との組み合わせも、まして作者が大人の男性なら、すらりとは受けいれにくい。 ③ 鳳仙花で爪など染め合って遊べる女友達が、今日はなかなかやって来なくて、心持ち寂しげな「わが娘」を見ているなら、分かる。 ④「誰も」そして「よ」のところに、句の、ゆるみと甘えが感じられる。 ⑤ 例えば、「や」「ぞ」などとの「推敲」はされたろうか。 ⑥ 把握と表現に、徹したものが、やや欠けている。

 

8.夕月夜届く所に居て会えず

兵庫県明石市 川木明光さん  選者第二席

① 思いあまり舌足らず。「届く所に居て」が不十分。 ② 思慕の哀しみかと想われるが。 ③「居て」と漢字にするのも。 ③ まだしも「近い所にいて」の方が素直か。「手」の届く所のつもりなのだろう、それなら「手が届きそうでいて逢へず」が率直な佳句になる。

 

10.夕月夜瀬戸に真白き警備艇      岡山市 大森哲也さん

① 「背戸」の海にならまだしも、「瀬戸」と書かれると、瀬戸内海があらわれて、かなり俯瞰遠望の印象となり、訴求力が淡くも、弱くも、うすくもなる。 ② 夕月夜の下で、白い舟が白く見えるだろうか、むしろ黒ずみはしないか、これは自信ないが。

 

* NHK「俳壇」拝見しました。お元気そうなお姿もお声も嬉しくて、喜びに溢れております。男前も、変わらず。いえ、一段と輝いてらっしゃる。「うまやには」の響きに、あ、いいな、と私も思っておりました。お仕事すすみますように。お幸せをお祈りいたします。    奈良県

 

* これはもうご贔屓筋の冗句(ジョーク)のようなもの。

幾昔前はテレビに出るとなると気が騒いだが、今は、なるべくそんな機会はパスしたいとしか思わない。

2003 9・27 24

 

 

* 秋の朝NHK俳壇を見て 秦恒平様

朝はつめたき水を汲むような清明に、NHK俳壇の再放送を拝見。冒頭ゲストの紹介で、ご自身の俳句

月皓く死ぬべき虫のいのち哉

を披露されました。忘れていた飯田蛇笏の芥川竜之介哀悼の一句

たましひのたとへば秋のほたる哉

を思い出し、二つの句にある深い闇に、光を感じました。ただこのことを書きたくてご多忙の中へメール致します。

秋、燦々と降り注ぐ朝。   神奈川県

 

* 私の句は、小説「みごもりの湖」の冒頭、清水坂の夕暮れにふと妻とともに骨董の店で買い求めた、姿美しいが「名ばかり丹波」の大徳利に秋の色をさし添え、自作の句の短冊の下にも置こうかと書いたのが初出であり、句は出来ていたのか小説のために即座に作ったのか覚えがない。その後に、小説「月皓く」を書いた。女主人公が、清水への初詣の道行に、おりからの月明かりのまま思い出して私に告げる句として使われている。この初詣は事実あったことで、時代はわたしが大学生のころであるから、もうそのおりに作っていたのか、どうか。

小説に利用した句には、「糸瓜と木魚」に、

あめの日の雨うつくしき秋桜

と書き入れている。作中の誰かの句としてつかったように思う。

菜の花に埋められたる地蔵哉

とは、よほど昔の自作と覚えている。これは類句がありそうで。

高校から大学時代に用いて今も座右にある英和辞典の見返しに、とんでもない斜めにはしった字体で、

死にいそぐ道には多き春の花

という、とほうもなくいやみな句を書いているのが、恥ずかしい。最近に、

コスモスの少し垂れしが美しき   と。

俳句は難しい。うまいへたを云わないなら、短歌は口ずに流れ落ちるように、と謂うと涎のようだが、出来るけれど。秘めて出さないけれど、白状するとわたしは、すっごくセクシイな短歌がジョウズなのです。類似のそんな歌集を出して送ってくる若い人があるけれど、藝もなく、みな下品でただただ汚かった。お話しにならない。

2003 10・1 25

 

 

* どうぞお召し上がりください。よろこんでいただいて嬉しゅうございます。

余裕のないスケジュールで、新幹線の中でだけ、ゆっくりと車窓の秋の風景を眺めながめておりました。

(歌集「少年」)16,7歳であんなに素敵なうたを詠まれるなんて、なんて素晴らしいのでしょう。詠まれた方は生涯のお幸せでいらっしゃいますね。  東京都

 

* 海胆などを戴いた。メールの交換から京都の「泉涌寺」や「東福寺」が話題になったついでに、私の歌集『少年』のことになっていた。高校は二つのお寺の中途の丘の上、日吉ヶ丘に在った。わたしの文学は、まず此処で、短歌のある日々としてスタートしていた。短歌的な抒情はよかれあしかれ永くわたしの表現を律したかも知れず、やっと近年にそこをのがれ出て来たかも知れぬ。そんなに変わらないで欲しいと読者は言うのだが。

 

* この人がプリントして旅先に同行させていた少年の歌は、巻頭の、ちょうど以下の辺りであろう。柩にもし一点入れて旅立つなら、この歌集をどうかと思わぬではない。

 

菊ある道 (昭和廿六・七年 十五・六歳)

 

窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる

 

国ふたつへだててゆきし人をおもひ西へながるる雲に眼をやる

 

まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに

 

朧夜の月に祈るもきみ病むと人のつてにてききし窓べに

 

山頂はかぜすずやかに吹きにけり幼児と町の広きをかたる

 

さみどりはやはらかきもの路深く垂れし小枝をしばし愛(かな)しむ

 

うつくしきまみづの池の辺(へ)にたちてうつらふ雲とひとりむかひぬ

 

みづの面(も)をかすめてとべる蜻蛉(あきつ)あり雲をうかべし山かひの池

 

朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く海棠の紅ほのかにゆらぐ

 

刈りすてし浅茅(あさぢ)の原に霜冷えて境内へ道はただひとすじに

 

樫の葉のしげみまばらにうすら日はひとすぢの道に吾がかげつくる

 

歩みこしこの道になにの惟(おも)ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり

 

山なみのちかくみゆると朝寒き石段をわれは上(のぼ)りつめたり

 

歩みあゆみ惟ひしことも忘れゐて菊ある道にひとを送りぬ

 

 

山上墳墓 (昭和廿八年 十七歳)

 

遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は雪ほろほろとふりつぎにけり

 

あかあかと霜枯草(しもかれぐさ)の山を揺りたふれし塚に雪のこりゐぬ

 

埴土(はにつち)をまろめしままの古塚のまんぢゆうはあはれ雪消えぬかも

 

勲功(いさをし)もいまははかなくさびしらに雪ちりかかるつはものの墓

 

炎口(えんく)のごと日はかくろひて山そはの灌木はたと鎮まれるとき

 

勲功(いさをし)のその墓碑銘のうすれうすれ遠嶺(とほね)はあかき雲かがよひぬ

 

日のくれの山ふところの二つ三つ塚をめぐりてゐし生命(いのち)はも

 

しかすがに寂びしきものを夕やけのそらに向かひて山下(お)りにけり

 

山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化性(けしゃう)はほほと名を呼びかはす

 

うす雪を肩にはらはずくれがたの師走の街にすてばちに立つ

 

三門にかたゐの男尺八を吹きゐたりけり年暮るる頃

 

 

東福寺 (昭和廿八年 十七歳)

 

笹原のゆるがふこゑのしづまりて木(こ)もれ日ひくく渓(たに)にとどけり

 

散りかかる雪八角の堂をめぐり愛染明王(あいぜんみやうわう)わが恋ひてをり

 

古池もありにけむもの蕉翁の句碑さむざむとゆき降りかかる

 

苔のいろに雪きえてゆくたまゆらのいのちさぶしゑ燃えつきむもの

 

雪のまじるつむじすべなみ普門院の庭に一葉が舞ふくるほしさ

 

日だまりの常楽庵に犬をよべばためらひてややに鳴くがうれしも

 

はりひくき通天橋(つうてんけう)の歩一歩(あゆみあゆみ)こころはややも人恋ひにけり

 

たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは

 

日あたりの遠き校舎のかがやきを泣かまほしかり遁(のが)れ来つるに

 

冷えわたるわが脚もとの道はよごれ毘盧宝殿(ひるほうでん)のしづまり高し

 

内陣は日かげあかるしみほとけに心無罣礙(しんむけいげ)の祈願かなしも

 

右ひだりに禅座ありけり此の日ごろ我にも一の公案はあり

 

青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める

 

瞬間(ときのま)のわがうつし身と覚えたり青空へちさき蟲しみてゆく

 

 

拝跪聖陵 (昭和廿八年 十七歳)

 

ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ

 

朝まだき道はぬれつつあしもとの触感のままに歩むたまゆら

 

木のうれの日はうすれつつぬれぬれに楊貴妃観音の寂びしさ憶(おも)ふ

 

道ひくくかたむくときに遠き尾根をよぎらむとする鳶の群みゆ

 

ぬればみて砂利道は堂につづきたりわが前に松のかげのたしかさ

 

をりをりに木立さわげる泉山(せんざん)に菊の御紋の圧迫に耐へず

 

御手洗(みたらひ)はこほりのままにかたはらの松葉がややにふるふしづけさ

 

ひえびえと石みちは弥陀にかよひたりここに来て吾は生(しやう)をおもはず

 

笹はらに露散りはてず朝日子のななめにと.どく渓に来にけり

 

渓ぞひは麦あをみっつ鳥居橋の日だまりに春のせせらぎを聴く

 

水ふたつ寄りあふところあかあかと脳心をよぎる何ものもなし

 

新しき卒塔婆(そとうば)がありて陽のなかにつひの生命(いのち)を寂びしみにけり

 

汚れたる何ものもなき山はらの切株を前に渇きてゐたり

 

羊歯(しだ)しげる観音寺陵にまよひきて不遜のおもひつひに矯(た)めがたし

 

岩はだに蔦生(お)ふところ青竹の葉のちひささを愛(を)しみゐにけり

 

はるかなる起重機(クレーン)の動きのゆるやかさをしじまにありておだやかに見つ

 

目にしみる光うれしも歩みつかれ「拝跪聖陵」の碑によりにけり.

 

 

光かげ (昭和廿八年 十七歳才)

 

なにに怯え街燈まれに夜のみちを走つてゐるぞわれは病めるに

 

ぬめりある赤土道(はにぢ)を来つつ山つぬに光(ひ)のまぶしさを恋ひやまずけり

 

アドバルンあなはるけかり吾がこころいつしかに泣かむ泣かむとするも

 

黄の色に陽はかたむきて電車道の果て山なみは瞑(く)れてゆくかも

 

つねになき懐(おも)ひなどあるにほろほろと斜陽は街に消えのこりたり

 

鉄(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐えてゐにけり

 

別れこし人を愛(は)しきと遠山の夕やけ雲の目にしみにけり

 

舗装路はとほくひかりてタやみになべて生命(いのち)のかげうつくしき

 

ほろびゆく日のひかりかもあかあかと人の子は街をゆきかひにけり

 

山の際(ま)はひととき朱し人を恋ふる我のこころをいとほしみけり

 

そむきゆく背にかげ朱したまゆらのわが哀歓を追はむともせず

 

遁れ来て哀しみは我にきはまると埴丘(はにをか)に陽はしみとほりけり

 

夢あしき眼ざめのままに臥(こや)りゐて朝のひかりに身を退(の)きにけり

 

閉(た)てし部屋に朝寝(あさい)してをり針のごと日はするどくて枕にとどく

 

うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり

 

生々しき悔恨のこころ我にありてみじろぎもならぬ仰臥(ぎやうぐわ)の姿勢

 

散らかれる書物の幻影とくらき部屋のしひたげごころ我にかなしも

 

誰まつと乱れごころに黄の蝶の陽なかに舞ふをみつめてゐたり

 

偽りて死にゐる蟲のつきつめた虚偽が螢光灯にしらじらしい

 

生きんとてかくて死にゐる蟲をみつつ殺さないから早くうごけと念じ

 

擬死ほども尊きてだて我はもたぬ昨日今日もそれゆゑの虚飾

 

灯の下にいつはり死ねる小蟲ほども生きやうとしたか少くも俺は

 

うすれゆくかげろふを目に追ふてをればうつつなきかも吾が傷心は

 

つもりつもるよからぬ想ひ宵よりの雨にまぎるることなくて更けぬ

 

馬鹿ものと言はれたことはないなどと小やみなき雨の深夜に呆(はう)けてゐたり

 

まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情

 

 

夕雲 (昭和廿八年 十七歳)

 

朱(あか)らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり

 

わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも

 

なにに舞ふ蝶ともしらず立つ秋をめぐくや君がそでかへすらむ

 

ひそり葉の柿の下かげよのつねのこころもしぬに人恋へるかも

 

いしのうへを蟻の群れては吾がごとくもの思へかも友求(ま)ぎかねて

 

君の目はなにを寂ぶしゑ面(おも)なみに笑みてもあれば髪のみだるる

 

窓によればもの恋ほしきにむらさきの帛紗(ふくさ)のきみが茶を點(た)てにけり

りんどうを愛(は)しきときみが立てにける花は床のへに咲きにけらずや

 

わくら葉のかげひく路に面(おも)がくり去(い)ななといふに涙ぐましも

 

柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては

またも逢はなとちぎりしままに一人病みてむらさきもどき花咲きにけり

 

目に触るるなべてはあかしあかあかとこころのうちに揺れてうごくもの

 

踏みしむる土のかたさの歩一歩(あゆみあゆみ)この遙けさがくるしかりけり

 

うす月の窓にうごかぬ黄の蝶の幾日(いくひ)か生きむいのちひそめて

 

草づたひ吾がゆくみちは真日(まひ)あかく蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ

 

のぼり路(ぢ)は落葉にほそり蹴あてたる小石をふとも愛(を)しみゐにけり

 

秋の日は丈高うしてコスモスの咲きゐたるかな丘の上の校庭(には)に

 

ひむがしの窓を斜めの日射し朱く我に恋慕の心つのりく

 

しのびよる翳ともなしに日のいろや吾が眼に染みて暝れむとすらむ

 

言に出でていはねばけふも柿の木の下にもとほり恋ひやまぬかも

 

以下・略

2003 10・6 25

 

 

* 祝  光あれ真澄の天(そら)と海と人 遠

 

* 厚くお礼申しあげます。  退院時に黄疸が強く出ていると、二日間箱に入り光をあてられていましたが、他の女の赤ちゃん達は大人しく寝ているのに、この子だけが何時見ても大泣きで新生児とは思えない程、位置が横になる程の大暴れで、目を保護しているテープが剥がれた形跡もあり、目の見える二ヶ月までは気がかりで、密かにただひたすら祈っていました。我々の頃には未熟児の箱に入れられた赤ちゃんに事故が多くあったのが記憶に生々しかったからです。娘も同じ思いだったと後に聴きました。

幸いしっかりとした視力を持ち、両親譲りの黒目がちで二重の大きい目で、睫毛はこちらに欲しい程長く、色白で、髪の毛がまだ非常に薄いせいか、一見白人の子風。決して孫自慢ではありませんが、つい贈られた句にお礼の意味を篭めて書いてしまいました。有難うございました。

今朝は珍しく七時まで朝寝坊をしました。やるべき家事に大童で今やっと落ち着き、ご飯が炊けたようです。  京都市

2003 10・10 25

 

 

* ほんとうにボケてしもたらその辺に棄てていいと言ふ 妻、笑諾す   遠

どうも、その気味があり、よろしくない。物忘れ、間違え。やれやれ。そんなことも言ってられない、湖の本新刊の初校が出揃ってきた。

2003 10・18 25

 

 

* ときどき人とちがうことを言う。「好異学」と自嘲し、ときには少し得意がる。「解釈」「読み」で、ちょくちょくそれをやる。また始まったと人は思っているだろう、ないし無視しているだろう。

愛する閑吟集に、  よのなかは ちろりに過ぐる ちろりちろり   というたいへん有名な小歌がある。有名な割りに研究者の注釈本では、ちっとも面白みのない読み、むしろ間違っているに違いない読みばかりを読んだ。世の中のことは無常迅速、ちらっちらっと過ぎて行く、などと。抹香臭い。

閑吟集の主体はたいがいが遊女である。そんなくすんだ歌をうたうものか。 くすむものはみられぬ  と人のうつつ顔を笑いに嗤うのが彼女らの常ではないか。

でもまあ、こんな夜中にこんな小歌の詮索をしてみても、あまりに、きわどい。やめて、寝よう。いい夢をみよう。では、おやすみ。湖の底でかなしばりに遭いませんように。 2003 10・21 25

 

 

* なにげなく田植草紙をひらいたら、ふと目に触れた。調子がいいので書いてみる。

 

昨日から今日まで吹くは何風

恋風ならばしなやかに

靡けや靡かで風にもまれな

落とさじ桔梗の空の露をば

しなやかに吹く恋風が身にしむ

 

* 身にしむものは風と。源氏物語このかたの日本の風情。田植え歌である、農業の歌である。田舎で戦時戦後の二年足らずを暮らしたが、田植えも二度眺めたが田植え歌などは聞こえもしなかった。こんな粋に優しい田歌があり、また田楽のような藝能もあった。

2003 10・22 25

 

 

* この若いパパ(とママ)の朗報は、もう是非とも喜びをわかち持ちたく。おめでとう!!

 

良夜かな 子生まれ親も生まれける   遠

2003 10・29 25

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