ぜんぶ秦恒平文学の話

知識人の言葉と責任    2002年講演

知識人の言葉と責任 

今、なぜ、芹沢光治良作『死者との対話』が大切か。
 
 

                  秦 恒平
 
 

 お招きにあずかり、恐縮しております。芹沢先生とは、ご生前に、ご縁を得る機会は、一度もございませんでした。むろんお名前も、お写真等でのご風貌も、御作も、存じ上げておりました。もっとも、読者として、そう深いおつき合いをしてきたとも申せません。みなさん方のほうが、遙かに遙かに、なにもかもよくご存じです。私の場合、拝読のつど、いい感じを得ていた、と、そう申し上げるにとどめておきます。

 それで、どうして此処にと、ご不審であろうと思います。
 ご紹介にありましたように、私は、現在、日本ペンクラブの理事をつとめております。ご承知のように芹沢先生は、日本ペンクラブの第五代会長でいらっしゃいました。昭和四十年秋のご就任で、『人間の運命』第2部の第一・二巻が続けて刊行された前後でした。
 私の身の上で申しますと、ひっそりと独り小説を書き始めておりまして、私家版の本を、一冊また一冊と、作っておりました。その四冊目の本が、私の知らぬところで、まわりまわり、中の一作『清経入水』という小説が、第五回太宰治賞候補にあげられまして、受賞しました。選者は、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫という、凛々と鳴り響くような諸先生でした。昭和四十四(1969)年の桜桃忌のことで、やがて、満三十三年になります。それ以来の作家生活ということになります。当時私は、本郷の医学書院という医学研究書の出版社に勤務しておりました。芹沢先生は、その年、たしかノーベル文学賞の推薦委員をなさっていたのでは、なかったでしょうか。

 で、時代はぽーんと飛びまして、昨年の十一月二十六日、日本ペンクラブが昭和十(1935)年に創立されまして以来、満六十六年めの「ペンの日」に、「ペン電子文藝館」が、インターネット上に開館になりました。私の提案によりますもので、昨年七月の理事会で決しまして以来、熱心に開館をめざして、準備に勤しんでおりました。
「ペン電子文藝館」とは、どのようなものか。それは、お手元にお配りしたもので、おおよそご判断いただけると存じます。一つには、ペンの過去・現在の会員作品の「展示場」であり、二つには「ディジタルな(電子化された)読書室」です。現会員が約二千人、物故会員が、まだ正確につかんでいませんが、ざっと五百人以上。その方々の、さし当たり作品一点ずつを、いわば会員の「顔」つまり存在証明として展示公開すると共に、どんな人材により、日本ペンクラブが歴史的に構成されてきたかを、会員本来の「文藝・文筆」により、広く国内外に識っていただこうというのを、当面の目的にしております。
 その際の、先ず魅力の一つとして、歴代十三人の会長作品を、お一人残らず揃えたいというのが、責任者の私の、希望でした。それが成れば、他の会員も進んで作品を出して下さるだろうと。じつは、この「ペン電子文藝館」は原稿料をさしあげられません、ペンの財政はいつも逼迫しております。そのかわり、アクセスされる読者に対しても完全に「無料公開」し、これでペンクラブが稼ごうとは致しておりません。ペンクラブだから出来る「文化事業」としてお役に立てればと考えております。

 お察しいただけると思いますが、こういう事業は、「会議」を重ねていても進行しませんし、「よろしくお願いします」を幾ら繰り返しても、いつまで待っても出来上がることでなく、歴代会長の十三人、ついでに申し上げますと、初代が島崎藤村先生、以下敬称略で、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹、そして現在の梅原猛さんに至りますが、梅原さん、大岡さんのほかは、みなさん、お亡くなりになっています。自然、ご遺族に出稿をお願いしなくては成らないのですが、「お願いします」だけでは、とてもとても、ただ「一作」を選んで戴くのは難しいことと、それはもう、分かり切ったことです。大変なお仕事の山から、一つだけ選んでくださいと、これは、お気の毒すぎる難作業です。
 で、私が、もう独断専行、ただし誠心誠意よく考えました上、どうかこの御作を頂戴できませんでしょうかと、そのように、「候補作品」を具体的に挙げまして、そしてお願いに上がりました。実は現会長の梅原作品も、私が選びまして、「これで行きましょう」と薦め、幸い、「うん、有り難う」と、一発で決まりました。もし此処で躓いていたら「ペン電子文藝館」は未だに「開館」出来てなかったかも知れません。が、幸いに、これが、すべて成功しました。
 芹沢先生の御作では、私は、躊躇なく『死者との対話』をと記念会の方へお願いに出まして、幸いに、ご賛同戴くことが叶いました。そしてその結果として、何故に『死者との対話』を選んだかを、この懇話会に来て話すようにと、ご息女岡玲子さんの再三のご希望がございました。ご辞退しましたがお許しがなく、厚かましく、こうして参ったわけでございます。

『死者との対話』は、私は、少なくも両三度読んでおりました。それについて、書いたり話したりしたことこそ無かったけれど、忘れがたいと言うだけでなく、進んで時に立ち戻って行く、そういう御作でありました。感銘を受け、深く物思うところがあったからと、ともあれ、さよう申し上げる以外にありません。「ペン電子文藝館」に何をと、思案よりも前から、芹沢元会長には『死者との対話』をと、だから、迷いなく、腹を決めておりました。
 その際──、この私は今、六十六歳半、つまり日本ペンクラブが誕生した翌月(昭和十年十二月)に私は生まれておりまして、ま、ペンとはちょうど同い歳なわけですが、その私の頭には、ごめんなさいお年寄りではなくて、「若い人」「若い新しい読者」のことがクッキリと有りました。『死者との対話』をぜひ読んでほしいのは、これからを生きて行く、今からの、若い人たちなのだと。 

 作品は、みなさんよくご存じなので細かには繰り返しませんが、この作品には、もともと「唖者の娘」という題も考えられていたのでした。いわば全体のキーワードでもあり、執筆の動機に直結し、また此処が、主題にもなっています。
 しかしこの題は、最終的には『死者との対話』で落ち着きました。
 堅いことをいえば、確かに、小さからぬ問題が、この「唖者の娘」という言い方には含まれます。作者の言わんとする「趣旨」自体が明白であり、深切・誠実であるために、表立った問題にはなりませんが、聴覚と言語機能に負荷を負った女性が、やはり、やや不適切に比喩的に用いられたことは否めないようです。
 なぜなら、作品に現れます大哲学者ベルグソンの娘さんが、事実「唖者」であったのは致し方なく、また、それ故に、発声等に大きな異変を示していたのも、これまた無理からぬことであり、そのことと、彼女の知性や理解力とは、ほんとうは、ま、無関係なのです。ところがウカツに其処のところを読みますと、この際の「唖者の娘」が、即ち「理解力」に乏しい知的に遅れた存在かのように、だからそれ故に、父ベルグソンは、「唖者の娘」の絵の制作に対し、噛んで含めるように平易な言葉を用いてあげねばならなかった、分かりよい批評や感想で懇切に手引きしているのだ、と、こう、作中の「僕」の思いを「誤解」してしまいそうになります。その上に、引いては、さよう理解に遅れた「唖者の娘」なみに、日本の、知識人ならぬ一般の「国民」が比定され、その比定の上で、幾つかの「本質的な意見や疑問や反省」が持ち出されている、と、そのように「誤解・誤読」されてしまいかねない隙間が、たしかにこの作品には、在るといえば、在りますね。じつは誤解なのですが、誤解されかねない気味を剰して書かれています。ちょっと残念な気がします。
 芹沢先生の真のモチーフを受け入れるに際して、ですから、私は、あまり「唖者」「唖者の娘」という所や言葉にはこだわらないで、もっと大事な、根本の主張、芹沢先生が打ち出された真の意図に即して、以降、ものを申し上げて参りたいと思います。

 肝心の所は「言葉」と「知識人」、それも「日本」の運命を左右してきたような「日本の知識人」「日本の知識階級」と「言葉」とが、その「責任」が、『死者との対話』をぜんぶ通じて、厳しく問われています。

   発端は、この作品の主人公でもある、即ち「対話」の相手の、今は「死者」である、「和田稔」という学徒兵──実在した学生でした──の、痛切な疑問の言葉にありました。疑問を突きつけられたのは、即ち「哲学」、具体的には、世界的存在と当時の日本が誇りにした、西田幾太郎博士の哲学、「西田哲学」でありました。
 私は、はじめてその箇所へと読み進みましたときに、大砲で胸を射抜かれたほどの思いがしました。若き和田稔は、出征直前に語り手の宅を訪れて、恩師と膝をつきあわせての対話の中で、真率に、悲痛に、こう語ったと、作品にあります。

「君は戦争に懐疑的であるばかりでなくてまだ死の覚悟ができていないからと、神経質な目ばたきの癖でいった。君は死の覚悟をもつために哲学書、特に西田博士のものを一所懸命に読んだが、なにも得るところがなくて、却(かえ)っていらだつばかりだったと苦笑していた。」
「覚えているかしら、その時君はいった」と、こうも書かれています。
「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があるでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学をしなかったからでしょうか、それとも哲学というのは、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか。」

  和田青年は、やがて出征、「人間魚雷回天」に搭乗して壮絶に戦死してゆく人です。そういう若者の口から、呻くように語られたこの言葉には、千鈞万斤の重みと痛烈な「非難」が感じられます。そしてその時に、先生は、さきの、哲学者ベルグソンとその「唖者の娘」に会った昔を思い出して、答えるともなく、思い出話を彼に聴かせたのでした。
 そこが発端です、が、この発端に呼応して、すでに戦後になり、こういうことが有ったと、「先生」は今は帰らぬ「死者」となっている和田稔に向かい、語りかけるのです。この語りかけによって、「主題」が、ベルグソンや唖者の娘との「大過去」、和田稔との最期の対話という「中過去」、そして一月ほど前の或る「近い過去」の、三重唱になります。そしてそれらが、最後には「現在の思い」へと結び取られてゆく、そういう「構造」をこの作品は持っています。
 その一月ほど前の「近い過去」の事とは、こうでした。

「つい一ヶ月ばかり前に、東海の或る都市で講演したことがある。僕といっしょに、西田博士を想うという題で、博士の愛弟子の一人が講演した。講演後、山ぞいの古寺の書院で座談会を催したが、集ったのはその都市の高等学校の生徒がおもだった。学生の質問は主として若い哲学者に向けられたが、学生諸君は敗戦後の混乱のなかに、生活の秩序をもとめ生きる希望を得ようとして、みなひたむきに哲学、特に西田哲学を読んでいるといっていた。しかし、その哲学は学生諸君のひたむきな心にはこたえてくれないといって、うったえていた。哲学を理解するのにはそれだけの準備がいるのだろうが、西田哲学の難解はその準備が足りないためではなくて、人生の苦悩の上につくられた哲学でないばかりか、表現も一般人の理解できないものをつみかさねているが、これは、哲学が本質上凡人の縁のない観念的な遊戯であるからだろうかと、次々に若い哲学者に質問した。
『哲学は実生活にすぐ活用できる応用学ではないから──』
『僕たちが哲学にもとめるのも、そんな手近なことではなくて、生死の問題にかかるようなものをもとめるのです』
『それは宗教にもとめるべきだろう──』
『先生(若い西田門下の哲学学者ですが、秦。)はさっき西田哲学は世界に出してはじない哲学だというように話しておられましたが、日本人の僕達が必死に読んでも、読後少しでも生き方を変えるようなものを与えられずに、ただ脳神経のくんれんをしただけの印象を受けるのですが、それでも世界の人を動かし得るのでしょうか』………」

 此処までは、いわば西田哲学ないし哲学、いいえ正しくは「哲学学」が厳しく糾弾されていまして、これには弁解の余地が全くない。生死の瀬戸際に立つ者にとり、そんな「哲学学」は何の役にも立ちはしないのでした。有名な『善の研究』にしても、正直に、あの日本語がすらすら読めた、分かったという日本人がいたらお目にかかりたいぐらいです。
 私も、そのように思いました。まるで成っていない日本語で書かれた哲学や美学の書物・翻訳にほとほと愛想をつかし、大学院の哲学研究科から脱走し、小説家になったという一人です。胸を大砲で射抜かれるほど愕然としたのは、意外なことを聴いたからでなく、あまりにも真率にまともなことが、若い人たちの胸の底から吐露されていることに感動したからでした。そうだ、そのとおりだ、と思いました。この作品を初めて読んだ時は、もう大人でしたが、いま読みました先生方と学生たちとの懇話会の実際に開かれたのは、敗戦直後、まだ戦禍の影響の、物質的にも精神的にもたいそう生々しかった時期のことです。芹沢先生のこの作品の発表が、昭和二十三年の暮れちかくであったことを思い出しましょう。ちなみに、私が、戦後新制中学の一年生二学期を終える頃の、この御作なのです。

 で、芹沢先生の真意をくみ取るためにも、作品に即して話題をおさらいして行くのですが、「ベルグソンの哲学のなかに、独り娘が唖者であるという人間的な不幸が、影をとどめていない筈はなかろう」と、作中の「先生」は、往年のベルグソン体験を反芻します。「ベルグソンの哲学自身難解ではあるが、いろいろ卑俗な日常性のなかに面白い引例をたくさんして、理解させようと努力しているスタイルの平易さは、唖者の娘に話して、.唇を見ているだけで理解されるようにという父性愛からうまれたのではなかろうか」というわけです。
 もっとも、この見解は、それ以上は精査されてはいません、一つの大きな大きな「感想」に留まりますが、本当に言いたかったことは、べつの言葉で、もっと明快に話されています。

「手取早くいえば、日本では、学者にとって大衆は唖の娘であろうが、学者は頭から唖だときめて、唖の娘にも分るように話そうと努力してくれないのだ。そして、学問も結局は唖の娘に理解させ、唖の娘を一人前の娘に育てることであるが、それを忘れて、学問のメカニズムにばかり心を奪われて、それを学問だとしてしまう。それ故、唖の娘はいつまでたっても一人前の娘にならず、不具な娘にとどまってしまうのではなかろうか。
 君(=和田稔)が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。
 しかし戦争がすすむにつれて、僕たちの日常生活も苦しくなったが、僕は君や僕も唖の娘であるとしていたが、実は、西田博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしていたために、唖の娘に復讐されるような不幸な目にあっていることに、おそまきながら気がついたのだ。学者や藝術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背をむけ、凡俗を軽蔑して、自己の狭い専門を尚いこととして英雄的に感情を満足させている間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたわな唖の娘になって、知識人の言葉も通じなくなって、知識人を異邦人扱いするところから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるような不幸にあったのではなかろうか。」

 ここへ来て、批判されていた例えば「西田哲学」はじめ難解な言葉で話すことで、理解の届かない読者たちを「縁無き衆生」と見捨てたような「哲学・学問」への不審や疑念が、どっと拡大され、この「先生」や「学生たち」も含めた、即ち「知識人」全部と、そうではない一般国民との「対立」として、問題が、より大きく、深く、取り上げ直されます。「知識人」としての先生自身の、自らの「反省」が大きく立ち上がってくるわけですね。それも、問題点をいたずらに拡散してしまうまいと、「書く言葉」「語る言葉」つまり「言葉と知識人」の問題に、焦点が結ばれてきます。

 しかし、この辺から、ふっと作中の状況は逸れまして、あの戦時下の困窮や迷惑の話が、K公爵と愛人との話や、過酷な勤労奉仕や、人心のすさみなど、いろいろに語られて行きます。一見するとメインテーマを逸れた話のようでいて、決してそうではない。即ち「起きてしまった戦争」の、悲惨と間違いとが、具体的に、語られていたのでした。
 そして、では何故に不幸な戦争は「起きてしまった」のか、その根が探られながら、もう一度本題へ戻って『死者との対話』が結ばれて行く。

「……こんな(戦時下)経験をなぜ君にくどくど語ったのか。僕達のなめた不幸が戦争から生ずる不幸であるよりも、僕達日本人の人間としての低さから生じた不幸であったことを、君にいいたいばかりだ。
 みんなで避けようとすれば避けられる不幸だった。それに苦しめられながら、僕はあの唖の娘のことを思いつづけた。西田博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであったと、最後に君にあった日に憤ったのだった。
 しかし、僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない。」

 もう一度、大事の点を繰り返しますが、「日本には多くの善意を持つ偉い学者や藝術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであった。」「僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない」と言うのです。
「仲間同志にしか通用しない言葉」でしか話さない、いいえ、話せないような「知識人」が、結果的に日本を裏切ったから、「戦争が起きてしまった」と先生は語気をつよめ指弾しています。これも弁解の余地のない事実、日本の近代史を歪めてしまった大きな事実だと、私も考えます。
「先生」は「死者」へ、さらにこう語りかけています。

「同じ言葉を使わないことは、いつか思想を同じくしないことになって、外国人同志のような滑稽な悲劇が起きる原因になる。そうだ、君に極東裁判の法廷を見せたいと思う。日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近者の言葉といふ風に、めいめいちがった言葉を使っていて、他の者を唖の娘扱いしていたので、お互に意思が疎通しなかった滑稽を暴露している。
 誰も戦争をしたくはないが、その意思がお互に通じあう言葉がないから、肚(はら)をさぐりあっているうちに無謀な戦争に突入して、戦争になってみんなあわてたが責任がどこにあるのか、分らないといいたい様子だ。おかしなことだ。国民はもちろん太平洋戦争のころには戦争に飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない。
 敗戦後、僕達はその過失に氣付いた筈だ」と。 
「敗戦後、民主主義ということが流行しているが、すべての唖の娘が口をきき出して、しかも同じ言葉をどの方面に向っても話すということでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだろうと、僕は心配している」とも。

 言うまでもないことですが、誤解を避けるために、即座に此処で申し上げておきたいのは、「日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない」とは、例えば中国人のいわゆる国を挙げて「一言堂」などといった思想統一のファッショ志向とは全く逆の人間理解、自由を基盤にした相互性を求めた発言であるということです。「同じ言葉」とは、互いに理解の届き合う「垣根のない言葉」の意味であることを申し添えます。

 で、この辺で「先生」は、先生らしく「文学」にふれて行きます。以上のような「考え」から引き出されてくる、文学上での「いい仕事」とは何か、先生の考えでは、「唖の娘にもわかるように努力して唖の娘の言葉で書きながら、なお藝術的な作品であると理解している」と、「死者」からの末期の「励まし」に対し先生は応じているのです。だが、戦後に発表されつつある若い人たちの多くの文学作品は、まだまだというか、またもやと言うか、「みいちゃんはあちゃん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ仲間の言葉でしか物を書いていないようだ」と慨嘆しているのです。「唖の娘を対手にしたからとて立派な仕事ができない筈はない」とも言い切りながら、です。芹沢光治良という世界的な作家の文学的信念が、此処に特徴的に露われていると申して宜しいかと、私は信じています。
  それかあらぬか、ここまで、手も加えず、ただもう原作のママに引いて読み上げました、要所要所の言葉・文章・発言の全部が、まったく説明を要しない、誰の耳にも目にも思いにもそのまま等条件で正確に届く、というふうに、芹沢先生は書いておいでになる。その物の言いようは、ま、先生のいわゆる「唖者」にも、また「知識人」にも、共通して正確に伝わる話し方・書き方、が、されています。

 むろん、一種の「解釈」をさしはさんでみたい表現もあります。問題が提起されて、その理解を、その思索を、読者側に預けたままにしてある箇所も、じつは有ると私は感じています。
 この一編の小説──私は作品『死者との対話』を、エッセイだとは思いません。小説として受け入れておりますが──この小説は、こう結ばれています。

「それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
 君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。」

 ここでの「唖の娘」と「僕達」という区別は、どうつけられているのでしょうか。話の続き具合からして、「僕達」の二字には、「我々」仲間内にばかり通じて、「彼等」である他者を無視した「言葉」に酔い溺れてきたために、日本国を、混乱と不幸の戦争に導いてしまった責任有る「知識人」の意味、が預けられているのは確実です。
 それとの対比で、「唖の娘」とは何の譬えなのかと、此処の所を繰り返し読みますと、「日本国民ないし日本国家」は、と含意されてあるようにも受け取れます。あるいは「思索し表現する知識人」たちは置き去りに棚上げにして、「生産する非知識人=国民」を巧妙にまた悪辣に統制・統御して、両者ともに、上から、ガンと支配した、即ち「国家・権力」のことを諷した「唖の娘」とも解釈出来ます。
 そして、その上で、芹沢先生の「懸念・危惧」を、今日ただいまの我が国の政治社会情勢に引きつけて、よくよく眼を瞠いてみますと、市民の安全を口実にした「盗聴法」にはじまり、保護の名目で実は市民のプライバシーまで管理し収奪してゆく「個人情報保護法」、国民のではなくもっぱら政治家の不都合隠しに手を貸す目的の「人権擁護法」、国家有事に際しては、国民の安全よりも国家体制の安全を優先して恣意的に国民の資財や労力を徴発しうる「有事法」等々の、法の「名前」が、決して法の「実体」を表わしていない諸法案の、続々成立やら成立の画策やらが進んでいます今日のていたらくを、芹沢先生は早くも予感され憂慮されていたのかも知れぬと、暗澹たる思いに陥る日々を、今まさに我々日本国民は、私どもは毎日迎え・送りしている現実なんですね。
 この、あんまり正確すぎて怖いほどの『死者との対話』なればこそ、私は何の躊躇もなく、他に名作・傑作の数有るのも承知のうえで、長さが好都合というような小さな配慮は抜きにして、「この一作」を二十一世紀の、インターネット上の読者たちに、もう一度も二度も三度も読み直して貰いたいと思ったのです、願ったのです。それが、今日のこの場へ私を引っ張り出して戴いた岡玲子さんやみなさんへの、まずは、お答えということになります。

 しかし、ついでというわけでなく、せっかく「知識人の言葉」に焦点を結んで戴いたのですから、その方向で、今少しお時間を拝借しようと思います。

 その前に、「死者との対話」で、少しく別方角からの問題箇所が、少なくも二つ、感じられたことは、深入りはしませんが、申し上げておきたい。

 一つには、こういう箇所がありました。和田稔の最後の訪問の、もう別れ際のところです。
「君が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する憤(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」
 此処の「涙」には、たしか、もう一度言及されていましたが、ここでこの先生の、「僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。」が、今も、私にはかなり「気」になっています。この「分らなかった。今も分らない」と二度も強調されているのは、何故なのでしょう。「分らなかった。今も」とは、真実なんでしょうか。どう分かるのが正解なのか。この問題は、皆さんに今日はお預けして帰りたいと思います。

  もう一つが、やはりその時に、和田稔という今まさに死の戦陣へ出で立つ学生が、作家「宇野千代」に是非会って行きたいので紹介状がほしいと言い出します。先生は、作品の中では「うん、書く」と承知されているようですが、事実は、紹介状のことは二人の間で自然に置き去りにされまして、そのまま、その日和田稔は先生宅を辞します。そして二度と帰らぬ「人間魚雷回天」での、爆死を遂げました。
 先生はそれを後に思い起こし、「後悔」されています。芹沢先生は、別の文章「幸福について」のなかでは、彼、和田稔が宇野千代に会いたがるのに対し、「その希望をかなえてやらなかった。(略) 会うのはよせと、私は無情に答えてしまったが、(略) 後悔した」と書かれています。ここでの「宇野千代」なる存在は、作品『死者との対話』をとび超えまして、かなり本質的な「芹沢文学論」の一つの足場、大きな切り口の一つになるであろう、ならざるをえない気持ちを、私は持っております。
 ま、これは大問題であり、今日のところは、これも皆さんにお預けして行くと致しますが、忘れがたい大事の要所かと考えております。

 さて、芹沢先生は、「知識人の責任」と、責任を正しく果たすための「知識人の言葉」とを関わらせ、適切に問題を差し出されたわけです、が、此処でこの「知識人」とは何か。近代日本の激動の歴史にあって、どんな役目を果たしてきたのか、または果たせなかったのか、その辺にも、私どもの「ペン電子文藝館」のコンテンツがらみで、簡単に触れておきたいと思います。
「ペン電子文藝館」で一番に作品を決定したのは、初代島崎藤村会長の「嵐」と、現会長梅原猛さんの「闇のパトス」でした。そして『闇のパトス』に梅原さんのOKが出ると、即座に芹沢先生の『死者との対話』を選ばせて貰いました。
 梅原さんは、言うまでもない「哲学者」であり、西田哲学の感化の濃厚であった京都大学の出身ですが、しかも彼は、西田哲学主流からかなり逸れた、むしろそれに批判的な、つまり「哲学学」的な「哲学学・者」ではありませんでした。「いかに生きるか」に、のたうちまわる青春を生きて、副題通り「不安と絶望」の中から書き上げたのが、二十五歳の『闇のパトス』でした。当時身辺の「哲学学」の師友からはたいへん不評で、これが哲学の論文かと冷評されたそうです。ちょうど「和田稔」の位置にあって、戦時から戦後へと苦悶のうちに生き延びた人でした。在来の「哲学語」に強く飽き足りない不満も持たれていたのでしょう。

 私も、近来とみに、「哲学」と「宗団宗教」に対し、ほとんど期待はもてないと考えている人間の一人でありますが、学生時代、ことに日本語で書かれた「哲学」「美学」の殆どが、あまりに独善難渋、広い世間の眼には、たんに無用の存在と言いたいほどに思っていました。
 で、梅原さんの『闇のパトス』の、青春の身も心ももがくような痛切な日本語の駆使、けっして熟していない、巧くもない日本語での、切々としたねばり強い思索に、世代の近い者としての共感を覚えていたのです。ひょっとして芹沢先生の『死者との対話』から生まれ出てきた梅原さんの『闇のパトス』なのかも知れないほどに私は感じたのです。
 それについては、これ以上は言いません。が、次いで、芹沢先生のあとを継いで第六代日本ペンクラブ会長に就任された、中村光夫先生の、ずばりその題が『知識階級』という、まことに優れた興味深い論考を、奥様のお許しを戴いて「ペン電子文藝館」に掲載させて戴いたです、この論文は、いわば『死者との対話』の主題・訴えをその基盤から、歴史的に解明するていの、みごとな解説でありました。ただ漫然と作品を選んでいたわけではないのです。

 知識階級──。なるほど、こういう呼び方をされて、それなりに妥当適当な人たちが、近代以降と限りましても、かつていたこと、今もいること、は、確実なようです。それは資本家と労働者といった今や古典的な階層とは、意味がちがいます。門閥と庶民というのとも、違います。
 幕末から明治初年にかけ、日本の「新・知識階級」を名乗り得たのは、かつて武士身分の中でも、むしろ「門閥制度は親の敵」とすら考えていた、下層の武士出身者でした。福沢諭吉、森有礼、西周、津田真道、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥ら「明六社」という同人を成していた知識人、同じく菊池大麓、中村正直、外山正一などという「知識人=洋学者=西欧渡航経験者」らは、みなそうでした。新島襄も、いわばそんな一人でした。彼等と同類の下層武士出身者たちで作られた「明治新政府」に、かつての対立関係なども忘れて、彼等が惜しみなく「讃辞」を送って熱心に肩入れしたのは、政府が彼等の知識を必要としていたのですから、これは自然なことでした。この人たちを、近代日本の第一次知識階級と呼ぶことは、大きな間違いではないでしょう。彼等に共通した特色は、その得たる新知識の力で、「国家」「日本」の行くべき道を示唆・指示し、自分たちで操縦できる、舵が取れると自負していた、その強烈な自信でした。国家・政府・時代もそれを期待し、尊敬の念を惜しみませんでした。彼等の背後には、「西洋」という「世界」が(その実質はともあれ)背負われていて、嘗ての上層支配者たちでは、そんな広い「世界」に伍して「国の行方」を誤らないで済む能力は全くなかったのです。
 明治政府の推進者であった例えば伊藤博文も、彼等と同じ程度に西欧を体験してきた新知識階級の一人でした。「末は博士か大臣か」と謳われた相互呼応の蜜月関係が現にありえました。大臣だけでなく、博士も、たいした重みを持ち得ていたのです。いま「博士」を表に掲げるのは町の開業医さんぐらいなものでしょう。福沢諭吉ら第一次知識階級たちこそ、そう呼ぶ呼ばないは別として時代の「博士」でした。それも実践的な処方の書ける博士でした。
 幕府の頃の蕃書調所から、開成校になり、明治十年には東京帝国大学になっていった「大学」等の教育機関の道筋が、此処へ積極的に開けてゆきました。鴎外は十四年に、坪内逍遙は十六年に、それぞれ帝大医学部、文学部を卒業しています。
 第二次の知識階級は、この「大学に学ぶ」という、さらには「西洋へ洋行・留学する」という経路を経て、なお、相当の重きを日本国の広い分野で成しえたのでした。森鴎外・夏目漱石ら文学者の名が典型的に思い出されます。「博士」の称号は光り輝いていました、「博士」の代表者の一人が坪内逍遙でした。シェイクスピアを初めとする西洋の学藝の紹介と祖述、また演劇等での実践で、尊敬を集め、博士といえば大きな「紋所」でした。だからこそ夏目金之助・漱石が文部省授与の「文学博士」を辞退し退けたことが、大きな話題になり得ました。
 しかし漱石は「文学博士」をガンとして拒み通し、公よりは「私=個人」の心の掟や誠に従った、人間的な文学世界を築き上げますし、医学博士森鴎外は、作品「舞姫」では恋と官途の板挟みに悩んで官途に従い、専門の知識を持って帰国し、終生国に奉仕しますが、しかもその遺書では、政府による死後の栄誉のすべてを辞し、「岩見人森林太郎」としてのみ死んで行くと言い切ります。知識階級のうちに、国ではなく、少なくも国優先だけではなく、吾、己れ、人間として生きるための、意識の変容が、深いところで進んでいたと思われます。しかしなお、明治二十年代、そういう知識人は世の表には現れにくく、ごく少数派でした。
 では第一次の福沢や森有礼たちの頃と同じであり得たか。そうは、あり得なかったのです。
 明治は、ご承知のように四十五年続きました。明治十年に起きた西南戦争は、西郷隆盛による政治的な内乱でした。此処までは、明治政府による維新の建設と、社会的・文化的にはいろいろにまだ混乱がありましたものの、国は、玉石混淆、西洋人を大勢お雇い教師に採用もしつつ、挙げて、和魂洋才による文明開化と富国強兵を模索追求し、いわば新国家の草創期でしたから、少数の優れた洋学者・先覚者たち「新知識階級」には、発言と活躍の場が、有り余るほどにありました。福沢諭吉に代表される彼等知識人は、身に付いた武士道と儒学漢学の基盤を生き方の底に抱きながら、西洋舶来の新知見をもって、「無学」な政治的上位者たちの「政府・政策」を実質的に動かしてゆく、リードする、自信満々の勢いと活気とを持っていました。
 中村光夫先生の観察を待つまでもなく、たとえば旧藩主等の支配層と、福沢や森有礼らとを比べれば、西洋風の学藝や知識において、前者の「無学」は、歴然としていました。だがまた、福沢諭吉たち明六社同人を初めとする知識階級の「西洋学の程度」はといえば、まだまだ専門学の実質を著しく欠いた、いわば彼等自身も実は「無学」に等しかったのです。鴎外や漱石のように、専門学を西洋で学習してこれたわけでは無かったのですから。外遊の時期・年限や、学習術の未熟・不備からも、それは、さもありましょう。
 それでもなお、むしろ、それが幸いしてとも謂えるのですが、彼ら新知識階級は、確かに、政権の内側でも、外からでも、たとえ猪突猛進であれ、明瞭に「国家」の前途を視野に入れた、とにかくも「大きな」ことがやれたのです。
 その意味では彼等は幕末以来のあの「志士」の変身したもので、嘗ての身分は総じて低く、それが希望と力とになり得まして、国を新しく変えてゆく上で、これはいい、これは大事と思うことなら、何でも、どのようにでも、その方向へ「蛮勇」をもって「邁進」する気概やモラル、武士道的な儒学的な秩序への奉仕意識を、意識の下に隠したまま「理想への意欲」だけは、溢れるほど持っていたというわけです。また、それが、時代からも、権勢の側からも、期待されていたのですね。知識階級の、もっとも幸福な環境、活躍出来る環境が在った、存在した、そういう時節でした。つまり真に変革期でありました。
 知識階級のこのように幸福な、得意な時節は、むろんのこと、国家建設が進み、秩序化・支配体制が整うに連れて、無惨なほど速やかに崩れてゆきます。明治二十年までに、つまり西南戦争からの十年のうちに、西洋の学藝や藝術に学ぶ人は、何よりも、人数の上で増えてゆきました。
 学問して偉くなろう、出世しよう、出世できるのだという希望を抱いて郷関を出てきた人が、大都市に集中し、永井荷風その他海外にまで学びに出た人も幾らもいました。各分野での専門教育が進み、大学やそれに準じた学校が、増えてきます。「書生・学生」が、維新の初期に比べ、比較にならぬほど増えていました。
 すると、当然にも、逆に「知識・才能の希少価値」は相対的に下落します。能力が求め迎えられるどころか、相応の「地位」を官途に獲得することにも、彼等遅れてきた知識階級は、無惨な奔命を強いられ始めています。しかも迎えられ方が、明治初期とはまるで違い、国や政府は、専門の知識を持って唯々諾々ということを聞く、道具に等しい単に技術者としてしか彼等を用いなくなっていました、なまじ意見や主張や理想のある知識階級などは、もうむしろ五月蠅い無用の存在でした。知識階級は、黙々と車を牽く車夫同然の存在に甘んじて職を得て出世を狙うか、その路線から転落しいたずらに零落するかの選択に早くも迫られていました。車を牽くのはそれなりの技術であり力ですが、それに乗るのはもっと力のある他人であり、何処へ走ってゆくかも車夫の自由ではなく、車上の主人がきめることでした。福沢諭吉は、このような辛辣な譬えで、第二次の知識階級の余儀ない変貌を描写しています。福沢だけでなく、知識階級の一角から、先駆的な文学者がこういう苦渋の知識人を造形し始めます。
 その最初の典型が、明治二十年、二葉亭四迷作『浮雲』の主人公内海文三でした、彼は、上長の求めるままに従順な車夫に成りきれない存在として、落ちぶれて前途も見えない敗北者に成ってゆく。その一方で、如才ないあたかも上の自由になりきった道具のような本田昇は出世への街道を軽やかに歩み、文三の許嫁の女も奪い取ります。十年後、明治三十年の尾崎紅葉作『金色夜叉』で、あの熱海の海岸で、宮さんを争った、間貫一と富山唯継のような按配です。もうこの十年のうちに、知識階級の多くは、殆どは、上の言いなりに長いものに巻かれて生きるしかない存在になり、その気のない者は落ちこぼれるしか無くなっていました。
 日本の知識階級の特色の一つは、昔も今も「貧乏」なこと、と中村先生は、ためらい無く指摘されています。門閥や資産などに恵まれない経済的な下層から、学問し知識を持ち出世したいと這い上がってくるのが普通の形でした。そういう階層の青年たちが、学歴は得たけれど職が得られない、政官界もそんなに多くの書生・学生を受け入れられない、と言うよりも、都合良く使える者しか使おうとしなくなっていました。当然のように実業界も又同じでした。得意の絶頂にいた知識階級は、急速に失意の集合を成しまして、すると、知識や学藝に培われた彼等の内なる人間が、個性が、うめき声と共に適切な出口を求めて悶え悩み始めます。、あの鴎外でも漱石でも二葉亭でも、まさに誠実に呻いていたのでした。
 知識階級は、だんだんに、学校を出たあとは、いわゆる先生になるか宗教家になるか、大概二つに一つという時代に、遭遇・当面したんだと、国木田独歩は、自分が何故「小説家になりしか」というエッセイで、はっきり知識階級にとって打つて変わり果てた時代を、概括し、総括しています。そのエツセイも「ペン電子文藝館」は拾い上げています。
 知識階級のうめきのはけ口のように、詩歌や文学が、藝術が、俄然として彼等に意識され始めます。心ある知識人ほど、もう「国」「国家」「公」よりも、自分自身の内側へ目を向け、いわば魂の表現に向かう方が、人間的に生きる方が、意義深いこととして意識されてきます。鴎外も漱石もそうしてきたわけです。尾崎紅葉を中心にした泉鏡花らの我楽多文庫派の文学者たちも、北村透谷や島崎藤村ら文学界の若き魂も、正岡子規から流れ出た俳句や短歌の人たちも、みな、次の明治三十年という次の画期へ向けて、活動を始めよう、いいえ活動し始めています。その丁度明治三十年に、芹沢先生は生まれておいでです。先生ご自身が知識階級に身を置かれるまでには、もう四半世紀が必要でした、少なくとも。

 日清戦争、そして日露戦争、さらには大逆事件と、明治時代は奥深く進むにつれて、もう知識階級は政治的な経世家であるよりも、優秀な人ほど、思想家的な相貌を己のものにしてゆきます。批評は出来る。しかし、社会や政策を動かす実践的な力には容易になれない、半失業者的な存在として、かなり貧しく苦しく生きることを意味します。三文文士の通り名どおりに、「借金」は常のことでした。貧困ゆえに一葉も啄木も窮死し、藤村は妻子を次々に死なせました。日露戦争後は、機械的人間たりえない、道具としては生きたくない知識階級の逼塞は深刻度を増しました。官界・実業・芸術、どこでもそうでした。

 あげく、得意であれ失意であれ、深く、そして狭く、「知識階級」は己の専門たる教養をそう理解したかのように、広く世に受け容れられようなどと思わず、一つは傲慢から、一つは断念から、「我々」という垣根の中で、垣根の仲間にしか通用しない「言葉」を平気で、それが当然の思いで用い始めたのだ、と、そう言えるでしょう。
 ついにと言いましょうか、芹沢先生が『死者との対話』で、鋭く表に出された「知識人・知識階級の自己閉塞」が、そう進行して来たのです、石川啄木の言う「時代閉塞の現状」に押しひしがれるようにして。この「閉塞」は、初期知識階級とは逆に、国に対し、体制に対し、背を向けて道具扱いの、車夫扱いの協力は「もうご免だ」という意思表示で示されてきました。啄木は「もうご免だ」を、繰り返し、書いています。
 この有名な啄木の論文は、明治四十三年八月、大逆事件が報じられて、社会が大きく揺れだした最中に書かれたものです。若き日本の「知識階級」は、未だ真の「敵」を認識してこなかったという意味深長な言い方の中で、明治初年とは逆さまに、むしろ国体や体制と闘うべく立たねばならない知識階級の前途を洞察しつつも、時代は絶望的に閉塞していると嘆いて、知識人たちの自己閉塞ぶりに檄をとばしたのですが、現実はどうにもならずに、明治は果て、大正の擬似的なデモクラシーを経過し、関東大震災を体験します。
 そのあと、「ぼんやりとした不安」から芥川龍之介は自殺し、めくるめく早さで、「公」は容赦なく「私」を弾圧的に押さえつけたまま、あの大きな不幸な戦争へ日本国を追い落としていったのです。知識階級はむしろ国家の余計物でした。

 中村光夫先生もこう断言されています。
「国家(支配者と民衆)に無関係の地点で、自分等だけの思想や感情を理解しようとしたので、自然主義以来の文学が文壇の文学者同士を相手に書かれたといわれるのは、こういう知識階級や気質の現れの一端なのです」と。落ちたプライドの裏返しに、自分とは他の「彼等」なんぞにまるで通じなくてもいいかのように、「我々仲間内」だけの言葉を平気で誰もが話し始めて、狭く固まってしまっていた「知識階級」の、数知れない各集団は、全く無力に、結果として「大政翼賛の協力者」を演じたあげく、芹沢先生のいわゆる「裏切人」に成りはてていたあげく、哲学も宗教も科学も、藝術や文学すらも、日本国ないし日本国民を、「唖者の娘」なみに「暴走」させただけで終わったのでした。

 適切な把握であるかどうか、みなさんが個々にご判断なさるでしょうが、こういうことを念頭にして、私は、私の発案し実現を推進してきた「ペン電子文藝館」に、大きな期待をもって、あの芹沢光治良作『死者との対話』を、ぜひ掲載しなくては成らぬと考えました。
 折しも、新聞テレビ等は、日本の現在のかなり危うい後ろ向きのありようを、日々に、イヤになるほど報道し続けています。永田町の言葉は永田町でしか通じない。野党の言葉と与党政権の言葉とは、同じ日本語かと思うほど引き裂かれています。そしてこの国の真の主人公であると認め合った「国民」が、日増しにまた「唖者の娘」かのように政治的支配のもとで、外側で、不安と不自由を強いられつつあり、国民の多くがなかなかそれにも気がつかずにおります。
 ほんとうに必要な「対話」が、共通の言葉によってよく成されていれば生じないであろう「危険の予兆」が、ひしひしと身に迫ってきているのではありませんか、と……。

 以上を以ちまして、岡さんからのお尋ねへ、「今、なぜ『死者との対話』が大切か」の、私の、お返事とさせていただきます。
 甚だ堅苦しいお話に終始しましたことを、みなさんに、お詫び申し上げます。

       平成十四年(2002)六月九日 於・芹沢光治良旧居マグノリアホール
 

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