ぜんぶ秦恒平文学の話

もらひ子 

一九九六年起稿書下し・ホームページ「秦恒平の文学と生活」掲載
紀元二千年五月 秦恒平・湖の本第四十三巻所収刊行 二OOO円
「幼少時代の一 丹波」は「創作欄 5」に公開しています。

 

  こんな私でした  『客愁』第一部 幼少時代の二

 

                    秦  恒 平

 

身のほどを思ひつづくる夕暮の荻の上葉に風わたるなり  新古今集 秋上

Memento mori (汝は死すべき身なることを忘るる勿れ)

貴族作家がただで自然から取ったものを、雑階級の作家は、青春という代価を
払って買っています。
この青年がどんなふうに一滴一滴自分の体から奴隷の血をしぼり出し、どんな
ふうにある朝ふっと眼ざめて、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、
本当の人間の血だと感じるかを、一つ書いてごらんなさい。    チェーホフ

   もらひ子

   一 身のほど

姥島の家に秀樹のもらわれてきたのが、正確に昭和何年何月のことだったかは、もう、だれも確認できない。私立の京都幼稚園に入ったのが昭和十六年春であり、青銹び色の総の垂れた、烏帽子の頭をへしゃげたような帽子の写真が、二枚残っている。白い前掛けを掛け、頬はそげ、逆三角のちいさな顔をしている。微笑してちょっと嬉しそうでもある。それより以前とわかる姥島での写真も三枚あり、うち二枚は叔母のトミが手をひいていて、幼稚園より一年か、いや二年ほどは遡る。独り立ちの大きめな一枚は、あるいは姥島との見合い写真かも知れない、神社の玉垣の前にいて、びっくりするほどの豊頬である。やや面長にも見える。
幼稚園以前の姥島のことは、だが、記憶しているというより、そんな気がしているだけかも知れない。着物を着た叔母に手をとられ、噴水の前で写真に写っているのが宝塚劇場だったと聞けば、なんだか暗い大勢のなかに座らされ、遠くの方で異様に人が動き甲高くものを言い、音楽もものものしく怖くて、叔母の膝に必死に顔を伏せていた気はする。姥島の家の中に入りたくなく、表で、ショウウインドウの下柱にしがみつき泣いて抗った覚えもある、が、四つだったか五つだったか。六つになっていたか。もう親という親たちは亡くなり誰も証言できない。
姥島家に正式に養子縁組していたのが、戦後の新制中学に入学のぎりぎり間際であったことは戸籍謄本で知れる、が、幼稚園より以前から姥島で育てられたのも事実その通りなのである。その頃から自分が「もらひ子」らしいと知りながら、知らぬ顔をしすまし、大人たちをじっと眺めていた。よその誰でもない育てのわが親たちを、見物人かのように「眺め」つつ、現在の作家「奥野秀樹」は想像や批評ということを身に備えていった。
育ての母のミヨについてのいちばん遠い記憶は、ぼやけているけれど、秀樹が当尾の実父方の屋敷にいた昔に遡る。デ・ジャ・ヴ(既視擬感)に近いともいえる。
養母かと思しき女が、ある日、着飾って(といっても、田舎家にいた幼児の目で感じたことだが、)訪れ、さかんに秀樹にかまった。照れくさくも不気味にも、とにかく自分の為にはなにか「よからぬ」大人の画策がありげに感じられ、裏庭へ逃げ走ったり、こっそり客の様子をうかがったりした。
大庄屋といわれた祖父母の屋敷は、門の外からまっすぐ下りのだらだら坂になり、やがて鍵の手に田畑を抱いて左へ、街道の方へ折れていた。その門から縦坂の中途にしゃがみこみ、地べたを指でいじくっているごく幼な子のわきに、土地の者と思われない着流しの和服ですらっと立った女の見下ろしている写真がある。秀樹の手元にのこっている。かなり低く遠く見下ろした角度で、だれがどこから写したか判じもつかないが、自分と、姥島の母かのように秀樹は認めてきた。もうこの日に当尾の山岡家を出、京都市内に連れて行かれたのか、なお曲折があり写真はただ「お見合い」の日の一情景なのかは、分からない。写真一枚を信じるなら、秀樹と母とのもっとも遠い早い出会いを証しているのは、それだけ、その写真しかなかった。母と同行していない筈のない父の姿は、写真機のうしろに隠れていたのだろうか、分からない。
写真には、それより何より秀樹の実の父、生みの母の姿が無い。存在しない。
当時でもう四十三、四歳だったはずの生母は、その頃大阪で、日本最初の保健婦学校に在学し、ほどない卒業を控えていた。秀樹ははるか後年に自分で歩いて調べてそれと知ったが、実父の所在は知りようがなかった。入営し、軍隊にでもいたものか。
南山城、現在は京都府加茂町の山岡家は実父の実家であったが、そこで父と暮らした記憶は露ほどもない。山岡一族から魔女のように嫌われた生母の姿の在りえようも、むろん、なかった。
あの屋敷には祖父母がいた。伯母が三人か四人あったが、とうに嫁いでいただろう。叔父叔母も二、三人いたらしいのは朧ろに影ほど思い出すことができるが、輪郭は見えてこない。犬がいた、鶏も数羽いたと思う。幻影はどう追いかけても詮なく、現在でこそ山岡がどういう家で一族であるかまるきり知らぬわけではない、交際も無くはないが、あそこに自分の根があるといった実感は湧かない。姥島の両親と叔母とに死なれてからは、前よりも明確と自分の根はやはり京都に、姥島のあの、地上げでもう形をぜんぶ喪ってしまった家のなかに在る、在った、と思われてくる。
根の一筋のように、自分の名前を探っていることに気がつく。「秀樹」という名はたぶん実父と生母とでつけたろう、戸籍謄本どおり京都市右京区西院の辺で産まれていたはずだ。謄本には父母の籍に「入るを得ず」と明記され、直ちに己れ一人の戸籍を樹てている。姓は実父方の「山岡」を以てしていたが、「山岡秀樹」と自覚した幼い記憶は微塵もない。幼稚園ではまちがいなく「姥島太郎」というチューリップの形の黄色い名札を胸につけていた。「ウバシマ太郎は亀に乗り」と先生にさえ囃された。家の近所の人もみな「タロウちゃん」「タロちゃん」「タロさん」と呼んだ。
それより前、ある正月の祝い膳のおりだった、箸紙に「太郎」と姥島の父の書いてくれていたのを独身の叔母が読み聞かせ、二軒西の家に、一つ年下の「一郎」ちゃんがいるのと大袈裟に対比したのを、くきやかに記憶している。幼稚園以前に相違なく、自分の名前は「太郎」と疑いなく思っていた。当尾の山岡家でどんな名を呼ばれていたのかは、奇怪なほど記憶がない。だから国民学校に入学当日、自分の名前が名札に「姥島秀樹」とあって、動転した。「これが本名ぇ」と母に教わっても、なぜ、それまでは仮名でなければならなかったのか合点が行かず、行くわけがなかった。
それだけでなかった。名は戸籍通りに戻したにせよ、姓の「姥島」は戸籍に認めているものとは違った。太郎を秀樹に戻したのはどうにか理屈をつけて納得させても、姓まで突如「山岡」では、動転どころで済むまいと姥島の大人たちはきっと苦慮したのだろう、学校に泣訴し、暫定措置として「姥島」姓で通るよう手を尽くしたのだ。山岡の祖父健太郎は永く京都府視学の職にあり、地区の校長や教頭に押しを利かせたのかも知れない、さもなければ秀樹は「山岡」という意識にない苗字で学校に通うしかなかったし、よほど迷惑な故障が日々生じたに違いない。苦し紛れとはいえ姥島の親の配慮には濃やかなものがあった。
姥島を、では、真実「我が家」と思っていたか。姥島の大人を「肉親」と感じていたか。
思いも、感じも、していなかった。よその家に連れてこられた実感だけが明瞭にあり、大人の物言いや態度に、サービスに、しっくりしないものを子供ごころに感じていた。銭湯へ父や母と行っても、交わされているよその大人との大人同士の会話や、秀樹にかけられる言葉づかいにいつも演戯じみたウソを感じたし、そのうちに「おまえ、もらひ子ゃで」と囁く世間の声をくり返し聞かねばすまなくなった。
痛手をうけたとは思わない、やっぱりかと頷いただけだ。泣きも笑いもせず、ただ、知ってしまったのを親たちに気付かれてはならぬと覚悟した。
血縁のことに触れて育て親に口を利いたのは大学に入って以後で、それまでは指一本も自分からは触らずに過ごした。折檻されようと、願って許されぬことが度び重なろうと、「もらひ子やし」「実の親ゃないのやし」といった僻みは、一度も持たなかった。不如意は、家庭の貧しさなり大人一人一人の性格のほうに理由を求めた。理不尽に苛められたことは無かったし、姥島の生活程度からみれば秀樹は十分可愛がられ手あつい庇護を受けてきた。和気藹々の楽しい家ではなかったが、よしとすべき点も多々あった。
最大の一つが祖父龍吉の蔵書だった。なみでない水準の漢籍や古典類が無造作に箪笥や押入に積まれていた。長持にも入っていた。父には観世流謡曲のかなりな技倆があり、叔母には遠州流系生け花と裏千家流の茶の湯という、生涯を支えた生業があった。叔母の力量もなみでなく、秀樹は求めて父からも叔母からも聴こう習おうとした。月謝不要だった。
いいことは、もっと有った。奈良市に近い当尾の里の山岡家とちがい、姥島の家は京都市内でも東山の八坂神社に近く、鴨川にも間近く、最大の繁華街である四条や河原町へもごく足場がよかった。総本山知恩院の門前町であり祇園社の氏子であり、新門前通も北隣りの古門前通も、西の縄手通にも、新古美術商のいならぶショウ・ウィンドウがそのままいわば「ストリート美術館」を成していた。お前が来ると「ウインド(ゥ)」に鼻のあぶらがついて「カナン」とぼやかれた。それほど見てまわった。埴輪あり屏風あり書もあり、茶道具も、浮世絵・狩野・土佐・琳派も、鏡や刀も、油壺も髪飾りも、薩摩や鍋島も、朝鮮支那の陶磁器も在った。
せせらぐ白川が、家の間近を流れていた――。川ぞいに春は桜が咲いた。柳もまばゆく緑だった。


姥島の家にもらわれるより以前に、父方祖父の山岡家にいた間のこと、さらに以前の出生前後のこと、は、四十代半ばまでまるで知らなかった。知ろうとも実はしなかった。実父母のことは今もよく分かっていないし、もう死んでしまった。
ふあッと夢からさめたようにものごころついた時、もう姥島の家にいた。夢ににた過去の記憶は身に抱いていたが、自然と色あせ、徐々に「もらひ子」の境涯に居着いていった。姥島以前は、夢の涯に沈んで逝った過去完了、乾いた臍の緒のようなものだとしか言いようがない。
ただ、姥島の母にも叔母にも聞かされたことがある。秀樹はちいさい頃、ふっと思い出したように「奈良へ、傷まんモン買いにいこ」と大人にせがんだそうだ。「傷まんモン」とは故障しない玩具なのか、道具なのか、それとも食べ物か。なぜ「ナラ」か、説明できない。奈良から、京都の京阪三条または四条駅へは「奈良電」が走っていて、何度か乗っている。当尾の山岡と京の姥島との紐帯を交通の便でいうなら、「ナラ電」であった。
秀樹の生みの母浅田シヅ、が、たしかに一時期奈良市内に住んでいた。戦後初の統一選挙に、市会議員か県会議員か、あわや共産党の推薦で立候補寸前までいったという実話を、奈良の地元を調べ歩いて、複数の人から秀樹は聞いてきたこともある。四十歳を過ぎて大阪市で日本初設の保健婦学校に入学し、修了後すぐ奈良県下で、実状は分からないがとにかく「看護」や「保健」活動らしいことをしていたと、何人か地元の人の証言を得てきた。映画にもなった『愛染かつら』の看護婦物語を地で行った気かなと、まんざら見当はずれでないかも知れない想像もした。兄などは、どう思ってきたのだろう。
片端は耳にしていた気もするが、昭和九年四月生まれの秀樹の兄正樹は、比較的はやく左京区聖護院の南原という家に預けられていた。翌十年師走も押しつまって生まれた秀樹は、虚弱で、預かり手も貰い手もつかず、短期間ずつ「あっちこっち」を転々とし、あげく南山城の当時相楽郡当尾村、現在加茂町当尾の、かつて大庄屋だった祖父山岡健太郎の家に引き取られた、または転々のあげく舞い戻った、らしい。
「転々」の一、二は見当がついていた。一つは兄の預けられた南原家と同姓の産婆の家で、姥島からものの数分という近所、知恩院下の白川ぞいにあった。もう一軒も、建仁寺南門の前の山村というやはり産婆の家だった。いま大阪府大で外科教授になっている、高校のころの同級生の家だが、山村のことはまるで記憶にない。だが助産婦南原ミキの夫は、秀樹の通った有済国民学校の元教頭先生であり、のちに幾つも校長を歴任した人だ。この南原先生の家を、秀樹は、自分の親類のように思いこまされていた。正月にお年玉を貰いに年賀に行って難渋したことも、おふるの自転車を貰ったことも、ある。自転車のもとの持ち主、年かさの「昭平ちやん」といった少年は、のちに京大の農学部教授になった。だがどう考えても南原と姥島の大人たちとに血縁はなかったし、秀樹と南原がどんな縁にあたるとも子供には知れずじまいだった。知れる道理がなかった。親なしのひよわい稚ない秀樹を姥島へさばく、南原家はその仲介役をしていた。
実父母の仲は、山岡側の強権で生木を裂かれた。山岡の祖父は府の教育界に地位と力をもっていた。昨今の教育長どころではない力があった。
生母シヅはすでに寡婦で一女と三男を抱え、長女の美津は、正樹・秀樹の父になった当時彦根高商の学生山岡誠と年齢がちがわなかった。
母の父、母シヅが慕ってやまなかったらしい正樹・秀樹の母方祖父は、もう死んでいた。この祖父安井修身は滋賀県能登川町の人で、根は、東海道水口宿の本陣鵜飼家にあった。安井家に養子に入ったのであり、東洋紡の創業に関わったという実業の人であった。だが、やや早くに退隠して白峰と号し、晴耕雨読して卒した。自作の七律を端正に書き下した軸一巻を、秀樹は尋ねあてた祖父出自の縁辺から現に借用しているが、なかなかの筆跡なのである。修身は少年の昔、志士として書家として知られた近江水口藩士の巖谷小六、『黄金丸』などの作家小波の父、に可愛がられ、墨すりなどをよく手伝った。母シヅの書いたものにも、父白峰を慕い自身白道と署名した断片が遺っている。
この、当時彦根住まいの母シヅが、亡夫浅田の子四人を置き去りに、娘や長男と年のちがわない下宿させていた学生、自分の年齢の半分しかない山岡誠と恋に落ち、彦根で生んだ男の子一人を抱いて京都へのがれると、太秦辺に隠れ住んで弟の秀樹をまた生んだ。こんな破天荒な母に、実家安井の身内や婚家浅田家の側に味方の一人として無かったのは当然で、教育畑の山岡側は無論のこと、大年増で子沢山の未亡人を希代の「誘惑魔女」と悪罵しつづけた。年齢差からみて無理からぬものはあった、おそらく一族の力をあげて嗣子誠を浅田シヅから引き剥いだのだろう。
実父誠はやがて神戸商大を受験のはずだった。四人の子を抱え彦根へ移転していた寡婦浅田の家がたまたま素人下宿をしていて、そこに寄宿した。そしてこの世ならぬ恋が急に育ってしまった。生みの母とは、父との離縁で生き別れさらに死に別れていた山岡誠は、下宿の女主人にわが母親の面影を見たのだったかも知れない、そこまでは分かる。だが、その先まで深入りしていった理由は掴めない。恋と想うしかないが、それとて同い歳の娘美津の方となら分かる、が、娘の母親とというのが分かり切れない、同年輩の男の子が喜一、浩二、健三と三人も現に一つ家に暮らしていたのだから、ますます分からない。母の気持ちも分からない。男より女の出かたが強かったのだろうが、分かろうとしてもこれはもうどうにもならない。
息子を、力づく、年上の、倍も年上の女の手から奪回したとき、山岡側は、生まれていた稚ない二人のうち、兄の正樹一人を左京区聖護院の南原家に預けることができたが、弟秀樹のほうは処置しきれなかった。あるいは秀樹だけ母の手元に残され、母はひよわな乳呑み子を抱いて父を追い、当尾の近くに、あるいは遠くない奈良市一隅に一時的に住んで、山岡家や恋人誠=実父との妥協点、接点を得ようと懸命に努力したかと想像できる。山岡側の口ぶりだと、母は、当尾村字尻枝の父の実家へ何度も押しかけたそうで、あげく秀樹一人を「置き去り」にしていったとも、かすかに聞いた気がする。ありえたことで、母は正樹と秀樹の認知を山岡家に要求し、戸籍に入れよと粘りづよくまた烈しく押し問答をしたのではないか。そうならば、それは、退けられた。兄については知らない、弟の秀樹は、父母の戸籍に一度も「入ルヲ得ズ」に、単立の戸籍原本を以て「山岡秀樹」と出生を記録されている。その戸籍のままで昭和十四か五年ごろ、満四つか五つごろに京都市東山区の姥島家に引き取られた。産婆の、そして教頭先生の南原夫婦が大いに力を致したことは疑えない。
山岡誠は結果廃嫡されて、合格した大学へも通わず、兵隊に行ったり、姉たちの世話で結婚したり就職したりしたらしいが、詳しい経歴を秀樹は今も殆ど知らない。山岡家は異母弟彬の手にすべて委ねられた。のちに府立木津高校の校長をしていたこの叔父ももう亡くなっている。
秀樹のことを、「もらひ子ナもんかいな。勝手について来たンやがな」と、姥島の母は嫁に語っている。とにもかくにも人なつっこく、もらうとは相談もまだできていないうちから、幼い秀樹は、あたりまえのように姥島の母の袖をつかみ、放しもせず南山城の山岡家から京都市内まで「勝手に、ついて」来たというわけだ。「ご機嫌」だったそうだ、途中どこかの女学生たちが可愛い可愛いともて囃せば秀樹もはしゃいで、「きりがなかった」とか。
分からない。何がなんだか分からない。だが、姥島の二階に長いこと放りあげてあった大きい木製の飛行機は、当尾の里までちいさい秀樹への土産に姥島の父母が持参したものに違いない。にげまわる秀樹を引ッ掴んで家につれこみ、目のまえで組み立てたあんまり無骨すぎる飛行機を、「ホーレ、飛びますぇ、ブーンブーン」と起って波うたせ、飛ぶまねをしてみせたのは、あの声もしぐさも姥島の母に相違なく、甘い小豆色に白いかすりの着物の柄いきも、朧ろにみな思い出せる。
記憶は漠として煙に似ている。筋のように絡まったり、離れたと思うとまた入り交じったり、前後も上下もないが、幼稚園以前と、幼稚園の一年間と、国民学校に入り丹波に疎開するまでとが、やや纏まってそれぞれに色合いの濃さを変えている。


幼稚園より以前に、家の外に出て近所の子と遊びまわった記憶が、ない。
西隣に、路地を隔てて田内という家があり、時子さんと「チイちゃん」という姉妹がいた。目鼻だちのいいまる顔の母親の、やや背をまるめ、むっくりと着重ねた小柄な着物姿も、覚えている。ヒットラーふうの口髭を生やしたハイカラな細面の父親も記憶にある。家中が、北陸の出か、かすかに地方の訛りをもっていたが、みな声質よく、物言いはハキハキしていた。
敗戦後に、美人の時子さんにお婿さんが来た。「トシカズさん」と呼ばれ、男っぽいいい顔をしていた。三条京阪前の派出所巡査の頃から再々出入りしていた、らしい。
ほんの一時期だが時子さんは秀樹の叔母に生け花を習っていた。社中で宝塚劇場へ一緒にいった日の写真にもすらりと若々しく写っている。
もともと何で暮らしていたとも妙にアイマイな田内家だったが、敗戦後、にわかに外人むけの道具屋の店をあけた。英語の看板をあげ、これも一時期のことだが時子さんが黄色や緑のネッカチーフをひらめかし、きゃっきゃと笑って「進駐軍の兵隊さん」に両腕をつるされた恰好で、新門前通を歩くことさえあった。あの頃はそんな思いがけない奥さんや娘さんがあちこちに現われ出て耳目をおどろかせたが、いつか下火になり、時子さんにもハンサムなお婿さんがきた。「トシカズさん」は巡査をやめ、道具屋の助手に転業した。景気も上乗らしかったが、やがて下火になった。
「田内っあん」のショウウィンドウには、いま思えば安い売りものの風景画小品がいつも一二並べてあり、藁屋根の農家の前田に餅のような雪の積んだやや小手先の絵を、それでも秀樹はガラスにおしつけた鼻をすすりながら、飽かず見た。
田内家には、どうしようもなく「チイちゃん」が、いた。正確な年齢は知らない、時子さんの妹にはちがいなかった。ちいさい頃二階から梯子段を転げ落ちた、あれが響いたと母親はいつも不憫がったが、秀樹が隣家の姥島に連れられて来たころには、小学校を終えていた。発育異常というかからだも顔もまるまるとふとり、霜焼けしたリンゴのように頬を赤まだらにテカらせ、息ごんでドモッたけれど大声でよく喋った。だが話はあれもこれもいつもチグハグで、九つ、十、の子供のままでへんにマセた女になっていた。秀樹をつかまえ「あんた、もらひ子ぇ」と、大声で一等最初に宣告したのが「チイちゃん」だった。迷惑したが、咎めにくい相手ではあった。
田内の一軒西ならびに「うどん」の若松屋、外山という子沢山の家があった。男四人、女二人。いちばん上は復員兵といわれ、年齢は読めないが「ドラ」と渾名されて、片方の左の脚がすこし不自由だった。闊達に笑う気のいい青年で、この長兄だけが先妻の子と聞いた。下の女二人も男三人も妙に陰気で、取りようではやや陰険なタチだった。一人ッ子の新参者秀樹には一大敵性集団であった。隣りの「チイちゃん」も、ともするとそっちの味方をするので始末がわるかった。
外山の下の姉が秀樹より一つ歳上、上の弟が一つ歳下だった。もう一人これも脚のやや不自由な弟がいた。将棋をさしてもビー玉をしても独楽をまわしても、秀樹は歳下の外山兄弟にいつも歩がわるかった。学校にいるうちこそ秀樹は勉強のできる方だったが、外山の「一郎ちゃん」も副級長だったし、それに町内に帰れば級長も副級長もなく、メンコが上手とか野球がうまいとかの方が優勢だった。書物を読むのでないかぎり、何をさせても秀樹は「フデキ」だったが、それとて後々のことで、幼稚園までは、若松屋のきょうだいに揉まれて外遊びしたという記憶は残っていない。

仲之町町内会の隣組・第七組は、新門前通に面して、南側東の端に位置していた。東の端のいちばん東に姥島ラヂオ店があり、東隣りからは梅本町だった。その東隣りの家は「奥」さんといい、中京辺で市会か府会議員に出ていた人の別邸らしかった。間口はさほどでないが奥行きの深いお屋敷だった。竹の犬返しの上は白壁の美しい塀で、屋根の上にも竹矢来が小槍のようにきれいに組んであった。どういうわけかこの「奥」さんと姥島ラヂオ店とのあたかも境界線になって、戦後すぐ梅本町側はコンクリートで舗装され、仲之町側は遅くまで土の道路だった。梅本町には有力な骨董屋や美術商が多くて、たぶん金を出し合ってでも舗装をさせたのだ、仲之町はそういうことになると地味な町内だった。
その新門前通仲之町の東の端の隣組で、通りに面していた家は、西から外山、田内、それと抜け路地一本を隔てて姥島ラヂオ店の三軒だけ。隣組の残る五軒は抜け路地の中にあった。路地をはさんで東側に三軒、西側に五軒の都合八軒が細長い長方形の地形におさまっていて、それだけの家作を、大竹という滋賀県に住む大家が店子に貸していた。みな借家住まいだったが、借家群にも「構造」があった。
南の新橋通へ抜けて行く抜け路地の、東側は、大家が表通りに住み、奥に隠居と土蔵が付き、土蔵より奥にもう一棟ちいさな離家が出来ているという仕立てだった。路地内の西側は、東向きに三軒長屋、表通りに面して北向きに二軒長屋が出来ているという仕立てだった。姥島は、どういう回り合わせか全部の母屋然とした一軒を借りていた。とはいえ裏手で行け行けの隠居には、別所帯の薮本という家族が住んでいて、抜け路地へ出入り口を開けていた。「ミッちゃん」満子という同い歳の女の子が一人いた。
薮本より奥にはしっかりした土蔵が一棟建ち、袋をかついだりっぱな大黒さんの棟瓦が上がっていた。蔵だけは大家の管轄で、そのさらに奥の離家は平屋の手狭な造りで、住人はときどき入れ代わっていたようだが、国民学校時分の秀樹には何の関心もない家だった。路地をはさんだその向かい、路地西いちばん奥の家に「村田小梅」さんが、たいがい独りで住んでいた。この人の口利きで姥島の家は丹波椎名村の田布施まで、戦時疎開を決心したのだった。
西に三軒ならびの真ん中には、戦前戦中どんな家族が住んでいたか記憶がない。手前の一軒は宮地といい、主人は色黒の蟹みたいな人だったが、祇園甲部の箱屋「男衆」の一人で、舞子のお披露目のときなど、お茶屋からお茶屋へ前触れの声も世なれて花街を呼び歩いていたりした。お上さんのほうは祇園の廓で名うての、店はもたない出張の「髪結さん」だった。背のいやに高い年かさの娘が二人いて、めったに姿を見なかったが、前を通ると声だけ聞こえたりした。錆びのふいたようなへんな声だと思った。息子に「藤三郎」という私立中学に進学した一種美少年がいたが、両親の仕事柄か祇園町の国民学校に越境通学していたので、めったなことで一緒に遊んだことはなかった。うどんやの外山兄弟らとまた人柄のちがった陰気さが、好きでなかった。やっぱり、ちょっと錆びて気取った声音をしていた。
薮本とは、走り(流し場)から走りへ、裏と裏とで、筒抜けに通れた。よその人には知れないが、家の中では互いに、肥壺まで共用しているほど近い付合いだった。声も筒抜けで、井戸端で行水していると声をかけて裸を覗かれることもあり、そんなとき向こうも鼻の先の便所に入って行く。お互いに恥ずかしがってなどおれなかった。
「もらひ子」のいい遊び相手に、姥島では裏の「ミッちゃん」を初めのうち手をうけて呼び入れ、秀樹も気ままな兄妹のように馴染んだ。まる顔の、はきはきとした気のいい女の子だった。親は和歌山県の御坊というところから出てきた人たちで、男親は戦時徴用で舞鶴の軍港へ出払っていた時期が永かった。小柄で、元気のはちきれそうな母親のほうは朧ろに覚えているが、父親の記憶はかき消えている。「満ッちゃん」にしても、もっと覚えていていいようなものだが、秀樹は遠くの幼稚園に送迎のバスで通ったり、国民学校にあがるようになると、なぜか「ミッちゃん」はよその学校へ通ったせいもあって、家の中ではあんまり距離がなさすぎ、かえって気恥ずかしく疎くなっていったのかも知れない。
表通りで、姥島ラヂオ店のまるで門番のように、やや離れて並んで互いにそっぽを向いた写真が一枚残っている。秀樹はかすりの浴衣を着せられて目を逸らし、満子は可愛らしい花柄の着物に絞りの帯を結び、写真機のほうへ微笑している。だれが撮影したものか分からない、姥島の家に写真機はなかった。


なにをして遊んでいたろう。例の木の飛行機は大きいだけの場ふさぎで、ふりまわすと「はたのモンが危ない」としまい込まれた。惜しくもなかった。
ごく小さい頃は、積み木でひとり遊んだ。西洋風の「家」に積み上げて行くブロック積み木だが、形を造るよりも、ただ高く高く積んだ。ガッチャンと倒れる瞬間まで息をつめて積んだ。飽きてしまうのも早かった。
表に絵、裏にひらがなとカタカナの四角いボードは、文字とものの名を覚えるのに便利だった。これも高く四角く組んで、積み上げた。バッシャンとすぐ潰れた。潰れるのが口惜しいと潰れそうな直前に自分で潰したりした。文字を覚えるのは早かった。どんな玩具遊びより「字を読む」ことに憧れた。字を覚えてしまえばこの玩具も用済みだった。
色をいろいろに塗った、細い棒だの、八方に穴のあいたちいさな球だの、三角や四角のブロックだので、大砲のような形やノッポの人の形や馬の形などの造れる素材玩具もあった。これは片付けが面倒くさく、楽しみように変化がありそうで意外に単調な、センスのない玩具だった。飽きてしまった。
銭湯へ行くときは母の金盥に赤い大きいブリキの金魚が入っていた。あれは妙に気恥ずかしかった。手ぬぐいを膨らませ空気をためて、湯に沈ませてぶくぶく泡を立てている方が面白かった。ちっちゃい両掌に湯をにぎりしめては、母に吹っかけたりかけられたりするのが面白かった。
母とは、叔母とも、よく指相撲をとった。ときどき、まわり将棋をした。「はさみ」という将棋の駒遊びもした。「ぴょん・ぴょん」という陣地替わりを早く競う遊びもした。「本将棋」はちいさい時はできなくて、将棋盤と駒との応用遊びだけを楽しんだ。
トランプは、もっぱら大人が、たいてい独り遊びしていた。花札もあったが、独り遊びできないゲームにはだれも自分から手をださなかった。母と叔母とがぎくしゃくしているときはなおさらだった。秀樹がわけ分からずにやいやいせがむと、やっと大人三人も一つの輪になった。幼稚園までのことだった。
簡便に、父と、また母と、ただジャンケンをした。勝ち負けを覚えた。グー(石)とチョキ(鋏)とパー(紙)の掛け声で「手」を替え勝ちを競う「グッチョッパ」も覚えた。大きな声を出した。父は、機嫌よく長いあいだ相手をしてくれる時もあり、忙しくて相手にされない時もあった。母は手短かに用事に立っていった。きれいな「おじゃみ」お手玉を縫ってくれたけれど、不器用な秀樹には無用のシロモノだった。投げつけてものに当てる方が楽しめた。竹返しはへんに陰気な遊びだった。独楽や凧は国民学校へ入ってからやっと買ってもらったが、からきし下手だった。
好奇心を満たしてくれたのは、大人のもちものだ。中の間の押入の左端を開けると二階にあがる梯子段がついていた。踏込みに紙屑籠があり、わきに古い婦人雑誌が一、二ないし三冊ほど重ねてあった。捨てるためというより、めったに買わない「婦人倶楽部」のそれきりの買い置きで、増えも減りもしないのを、梯子段のくらがりに腰かけ、飽かずページをめくり写真や挿絵に見入った。
幼稚園以前に「読めた」わけはない、先ず表紙を見ていた。婦人雑誌は例外なくきれいなおばさんの顔を大きく描いていた。顔かたちは母とも叔母ともちがい、いかにもつるりと匂うように綺麗だったが、髪形は、母たちも似た頭をしていた。
綺麗なものはいくらも有ったと思うけれど、咲いた花が綺麗などと感じるにはもうすこし年齢が必要だった。幼なごころに綺麗と思って見たのは、まちがいなく雑誌表紙の女の顔の絵が第一等であり、強いて記憶をさぐれば仏壇や神棚にあがった蝋燭や灯芯の火色に目を惹かれた。中の間と奥とを隔てた障子の、化粧硝子の花模様も密かに気に入っていた。どのガラス障子も、単調なただの淡い灰色か素通しで、中の間と、表の店の間との仕切りなど、一枡が五十センチ真四角ほどもある大味な格子だった。ところが奥との中仕切りには、西洋ッぽい趣味の花や葉が華奢にデザインしてあって、指にふれると花びらや葉脈に添ってここちよくザラザラする。その感じも佳く、目をすり寄せて見飽きなかった。
ひらがな、カタカナの文字を覚え、漢字も総ルビを頼みにどんどん覚えて行くと、なにがなんでも字を、文章を、読むぐらい時のたつのを忘れ、ひとりの寂しさや退屈を忘れさせてくれるものは無くなった。幸か不幸か家の内で本を読んでいる大人の姿というのを全く見覚えないほど、本は、雑誌は、活字のものは、新聞以外はほったらかしにされていて、秀樹の手出しをだれも邪魔にする者がいない。
もっと後には、小さい息子があまり「本」に明け暮れるのを見て、父は「極道者」と声を荒げた。読書なんて極道の所業とはいうが、本気で父がそう思っていたとも思わない。少年に勉強せよと熱心に薦めたことでは父も母も、叔母でも、いっしょだった。勉強なんかやめておけとは一人も言いはしなかった。勉強を立身出世に結びつけて発想するには根が貧しい家庭だったけれど、勉強の値打ちは認めていたし、勉強とは「本を読む」ことのように考えた時代の風にも、特に背いた家ではなかったのである。
それどころか、たとえ畳に置いた新聞紙でも、「字」の書いてあるものをうっかり踏んだといって叔母に注意されたことも覚えている。読書への没頭を謗られたのも、熱中のあまり大人の目障りになったり、邪魔になったり、手伝いをサボったりして父も業を煮やしたのだろう。目をわるくするという心配も現実のものとなって、国民学校の一年生を終えた春休みには、もう秀樹は眼鏡を必要とした。眼鏡は高価だったから、父の懐にはこたえたろう。四年生で丹波の田布施に疎開のころから、なんとなく眼鏡は投げ出してしまった。だが、教室の座席をいつも前寄りに特別に貰わねばならなかった。京都に戻った六年生から眼鏡は復活し、中学から以降は片時も放せなかった。
幼稚園まえに講談社の絵本ぐらいは読めた。ただ、家には無い。本の「においのする」方角をみつけ、よその家にもぐりこむしかない。うどんの若松屋は子だくさんでも、本には縁遠かった。もう数軒西に、たしか竹内さんといって、当時姥島が懇意にしていた家があり、その家にあがりこむと、いろんな絵本があった。同い歳ほどの子がいたという記憶は全然ないのに、その家の明るい表の間では、むさぼるように本の読めた舞いあがりそうな嬉しい実感だけが、蒸気にあてられたほどに頬の辺に熱く残っている。時々サーベルを吊った軍人さんの帰ってくる家だった。いつか、引っ越して行った。
絵本では「萬壽姫」「孝女白菊」「阿若丸」を覚えている。この三冊は表紙絵を見るだけでこわくて泣けそうだった。姫が、牢屋に入った母親唐糸を密かにたずねて行く場面や、阿若丸が父の幽閉されている屋敷へ、よじ登った竹のしなうに任せて跳んで忍びこむ場面など、顔色も変わりそうにこわごわ見て、感動した。異郷に不運に足留めされて帰るに帰れぬ「百合若大臣」というのにもどきどきした。
ところが桃太郎や猿蟹合戦や舌切り雀になるとバカにした。おとぎばなしに極めて冷淡だった。漫画にも、親たちの制したせいもあるが、あまり手を出さなかった。リアルに物語のある本が好きだった。
仲之町で秀樹が「本」につられて出入りした家は、「竹内さん」のほか、二つ下の女の子を上に、妹も一人二人いた骨董の「大石っさん」、その東隣にやはり女の子の二人いた内路地の奥に洋館住まいの「杉本さん」、忘れてならないのが新門前橋の東きわに向き合っていた内科小児科の「難波さん」と歯医者の「横山さん」だ。医師の家はアンビバレント(愛憎半ば)な思い出に彩られている。
情緒不穏だったかもしれない、腹痛をよく起こした。歯も痛めた。そこつで、物差しを喉につっこんでしまい、そのまま難波医院へ父に担いで行かれた大騒ぎも忘れられない。いまも左の中指と薬指のさきに、刃物の切れ込んだ痕がぷっくら膨らんで残っているが、包丁の刃を二本の指の腹ですうっと撫でたのだ、そおっと撫でれば大丈夫だろうと思った。あわや指先も落ちんばかりに切れた。
熱をよく出した。医者との付合いは欠かせなかった、注射には泣いて暴れた。舌を箆で押さえて喉を覗かれるだけで泣きわめき暴れた。歯医者でも死に物狂いで暴れた。おかげで乱杭歯のまま還暦過ぎまで来てしまった。水薬も散薬も嫌った。とんでもない患者だった。
ところが医者の待合には本があった。雑誌があった。子供むきのも置いてあった。治療が済んでしまうとけろっとして読み物にとりつき、「居残って帰りたがらない子ォ」と覚えられてしまい、「持っとお帰り」と本を貸して帰されることもあった。
手術ともなると恐怖は天井知らず。常習的な発熱の原因らしい扁桃腺を剔除し、アデノイドもついでに取ってしまおうと医者と親とで申し合わせができていた。「注意散漫」というのが大人や教師たちの幼い秀樹にいつも貼付けたレッテルだったが、張本はアデノイドだろうという診断が下っていた。
その前から、鼻と喉とがよわいようだと、どんな手蔓でか御池通り麸屋町辺まで「浜さん」という耳鼻咽喉科に、かなり長いあいだ通った。口をいやでも大きくあけ、中を道具でいじられる。堪らなかった。とりわけ管を鼻に入れて水を片方から片方の孔へ流されるのが苦しくて辛くて、出口の鼻の孔へ、ピカピカ光る受け皿をあてがわれるのが目に入るだけで怯えた。泣いた。暴れた。付き添いの母がどんな気持ちかなど、考える余裕もなかった。
だが浜医院の待合はハイカラに明るくて清潔で、置いてある本や雑誌がすばらしかった。別世界を覗くようなモダンで洒落た西洋の絵や星や動物の写真本があった。喉にちくちくと甘苦いあかい薬を塗りつけ、鼻の奥にもそんなふうな塗薬だけするようになってからは、道も覚えていたので、ちいさい秀樹でもはるばると川西の街なかまで独りで通院し、けっこう楽しんだ。初の独り旅だった。本に夢中でなかなか帰らない。遅くなると途中まで看護婦に見送られた。その頃の御池通は狭いひっそりとした住宅街で、葭簾を棟高な二階にいちめんに垂れた、ひところの祇園新橋のくらがり道なみにおちついた風情だった。そんなことも幼な心地に気に入っていた。
もう一軒、忘れられない先がある。河原町の高辻辺に父の同業で、たしか辻無線とかいったラヂオ屋があった。父より後れて検定試験で技術者資格をとった、細身の長身に鳥打帽のよく似合う伊達な小父さんだった。洒落たチョッキなど着込んでいた。この辻さんの店に自転車の尻にのせられ連れて行かれると、大概は尻のながい父に泣きたくなるほど退屈してしまうのに、ここでだけは、特に心をうばわれた星座など天体の写真のいっぱい入った雑誌をいつでも貸しあたえられ、飽きることがなかった。辻さんにだけは、行くと聞いただけで、父にせがんで自転車の尻にのせてもらった。星というのはこんなに美しいものかと、ああいうのをうっとりと言わずしてなにを謂うかと思うぐらいいつも夢中になった。


姥島の大人は、めいめいに秀樹をつれて銭湯通いをした。医者通いほど苦にしなかったが、顔に石鹸を塗りつけられ、頭から湯をかぶらされるのがイヤだった。冷たい水はもっとイヤだった。石鹸は目に入ると痛くてたまらず、湯水は頭からかぶった瞬間、白い簾が目の前いっぱいに顔をふさぐのが怖かった。二度と簾の外へ出られない気がした。
母は頬であれ股ぐらであれ、ごしごしと、びしょびしょと、痛いほど洗った。父はいつも手ぬぐいを堅く絞って石鹸を塗りつけ、水気をぬいて顔や背中をこすった。父の洗い方のほうがびしょぬれにならず安心だった。そのあとも自分で自由にすすがせてくれた。銭湯へは父と行きたかった。
叔母もたまに連れていってくれたが、洗われた覚えがない。もともと綺麗好きに神経質なタチの叔母ではなかった。そのかわり叔母のはだかの、それはそれは豊満に乳房など凛々と張り切っていたことは。叔母に比べると洗濯板のように薄い母の胸も体躯も哀れをとどめた。めったに母は叔母といっしょには湯の暖簾をくぐらなかった。
父と母とが同じ時刻に同じ銭湯にいて、それが分かっていて、女湯と男湯とのへだての猿戸をくぐってはあっちからこっち、こっちからあっちと往来するのが秀樹は好きで、面白かった。ちいさい時は女湯の方がきれいで、好きだった。女のはだかは幼な心にもまぶしく、妙にいとおしかった。男のはだかは見苦しく、どぎつい入墨のおっさんに浴室に入ってこられると怖かった。尻や内股のきたない人も多く、湯槽へ跨いで入ろうとする姿を見るのがいやだった。湯槽の中から見上げるのはもっといやだった。そのくせ湯の中で三遍ほど、押し黙ったまま放尿したことがある。凄かった。気持ちよくもあった。
鼻歌をうたったり浪花節を唸る大人がよくいた。耳をすまして聴いた。いやではなかった。空いていると自分もやみくもに歌った。「ぼん。うまいな」などと突然冷やかされた。声の湯気にこもって響くのがおもしろく、まだ湯気のこもらない高い天窓のほうへ自分の声のロンロンと響く「一番風呂」の時刻が好きだった。恥ずかしがりで、風呂は空いている昼間が何よりだった。だが、大人と、ことに女親と一緒では仕方なく晩になった。つい浴室でねむくて寝てしまったことも、混んだ中で湯気に当たってひっくりかえったこともあった。時刻が遅いと、見るから湯のよごれているのがいやだ。ものの浮いていたこともあって、飛び出して、その時ばかりは冷たい水を浴び、ごしごし清めた。父は比較的早いめに出かけた方で、それも「お風呂」は父と一緒を願う理由だった。
昭和十年代、自宅に浴室のしつらえをしていた家など、あの近在に、あったろうか。仲之町では一、二軒と無かったと思う。風呂をたてるには人手も焚きものも場所も要ったが、昭和十六年の真珠湾攻撃までにすでに家庭での入浴など、真夏の行水がせいぜいだったろう。だからか、銭湯は昨今よりずっと数有った。いちばん家から近いのが古門前通の「新し湯」だった。祇園乙部の膳所裏に「清水湯」縄手通に「亀湯」祇園甲部の清本町に「松湯」そのすぐ近くに「鷺湯」があった。この五軒を好きに利用した。近所中、そうしていた。四条通りを下(南)へ渡ったお茶屋「一力(万亭)」のまえの辻を西入ったところにも一軒「祇園湯」があり、一度二度近所の子とうち連れ行ってみたことがある。もっと大きくなってから一人で行ったこともある。かわり映えはなかった。街なかの、新京極辺まで行く物好きな大人もいた。たかが銭湯にわざわざ鴨川の橋を西に渡って行くなど、アホかと思った。
銭湯とはいわなかった。間違った呼び方なのだが「お風呂」「風呂屋」といっていた。風呂屋へは大きな二枚暖簾をかきわけて入った。廓では左の入り口が男湯で右が女湯だった。思い込みかもしれない。古門前の「新し湯」は逆だった。父に連れられ母に連れられで、記憶は混雑している。
廓の湯で目立ったのが、お茶屋や芸妓舞子の名を朱で大きく書いた団扇のいっぱい飾ってあったことだ。名披露目だった。宣伝だった。粋なものだった。ひらがなから覚えた秀樹は、おおかた読めた。漢字は聞いて一つ一つ覚えた。そんなものでも字の読めるのが面白かったし、また団扇風情のにじませた風流から学び得た何かも、たしかに有った。秀樹にも首肯ける何かが有った。
母と入ってゆく浴室には、時間によっては、お座敷まえの、高く結った地髪の若い女がぷかぷかと湯槽に浮かんでいた。額に汗を浮かべて澄ましていたり、連れともの柔らかに「へぇ」とか「はぁ」とか「そゃろか」などと喋っていたりした。
入浴しない日常のありえないことからいうと、そして家に設備がないとなると、銭湯へ通うのは、八百屋や魚屋でものを買うのとおなじ、欠かせないことになる。湯銭は公定であったし、そしてほぼ等距離の近隣に何軒も営業していたのだから、どのお風呂に行くかはその日の気分で選べる。ちょっとでも近い湯、なるべくは綺麗な湯、いやな顔と出会わないで済みそうな湯、脱衣場の感じのいい湯、浴室の広い清潔な湯、いつも湯がきれいそうな湯、客のタチのましな湯、洗い桶や腰掛けのきれいで沢山用意してある湯といったぐあいになる。
男湯女湯の隔ての壁や洗い場の壁に絵や鏡の飾りがしてある、それにも好き嫌いがあった。富士山に美保の松原の図など、銭湯でまず覚えた。長い長い渡月橋に嵐山などは洒落ていた。薬湯といわれる別のちいさな浴槽にも、店により、湯の熱さ温さに差があった。
行き帰りの道もだいじで、狸橋を渡って行く古門前の湯よりも、祇園新橋から白川辰巳橋を渡ってゆく「松湯」「鷺湯」への道が好きだった。両方ともこぢんまりと、うすぐらかった。母もこの二つの湯が好きで、「廓」の方がきれいやしと、暗に古門前や膳所裏の湯をけなすことがあった。のちのちに思えば、遊廓にある銭湯を「きれい」というのも奇妙なものであったが、同じ祇園の廓でも「松湯」「鷺湯」は甲部で、「清水湯」は乙部と位取りを見ていたのに違いなく、あの界隈では空気を吸うほどにそれは身についた感覚だった。ことしの都踊りであの人が由良之助の役やと、甲部の、権の高そうな芸妓が家のまえを通ってゆくと、母など指差すほどに噂をした。「ナンじゃい」と子供心に腹の中では思っていたが、主婦風情にも、甲部というと、こころもち腰を引いて見たり言うたりするところが、たしかに有った。「芸妓はん」と尊称していた。乙部にはそうでなかった。乙部ではたてまえは芸妓でも実は娼妓がいたし、そこまでも行かない身売りの「雇女」が大勢いた、らしい。祇園の甲と乙との区別はきついもので、外の者には計り知れないお互い侮蔑と反感とが、大人から子供まで、こみいったかたちで組んずほぐれつしていた。たとえ道路一筋でも廓より外の者はつまり傍観者であったが、事情は分かっていた。中学に通う頃には子供でさえ分かっていた。
だが有済国民学校や幼稚園のころは「甲」も「乙」も念頭になかった。まして幼稚園以前に「祇園」という花街を認識していたわけがない。それでもなお小さな頭脳を素通りして、体に匂いの染むように、「あそこ」には在る「異郷」を、肌身に感じていた。
少なくも南山城を出て新門前の姥島の家に入れば、その日にも母に「お風呂」に連れて行かれただろう。するともうその場で、むきだしの裸にされて行く初顔のちっちゃい秀樹が、脱衣場で、浴室で、もの珍しくひっきりなしに近所の女たちの話題にされたこともありうるわけで、そういう場面を、男湯でも女湯でも演じたことは忘れていない。
だれもかもが「似てはる」という言い方で、強いて秀樹を姥島の父の容貌に結びつけた。そうすることが礼儀かのように、わざとらしく秀樹の顔をのぞきこみながら母に、男湯のときは父に、よその「おばはん」「おっさん」らは「似てはるわ」を連発した。父も母も同様にへへへと笑った。秀樹は渋い顔でよそを向いていたか、うつむいていたか、それともにこにこと愛想をふりまいたか、そこ迄の記憶はない。その「風呂屋」はたいがい古門前の「新し湯」だった。いちばん尋常の生活圏に属した銭湯だった。近所の人が来ていた。いやいや「廓」の風呂が休みの日には、新橋辺の芸妓はお座敷まえに、姥島のわきの抜け路地を利用し、新門前をこえ古門前通の銭湯へ通ってきた。融通はよく利いていた。
母が、「新し湯」よりも廓なかの「松・鷺」の湯を愛用したのは、お風呂で近所の者が秀樹によけいなことを吹き込むのを忌避したせいかも知れない、そう想像していいだろう。現に秀樹の耳に「あんた、もらひ子ぇ」「もらひ子ゃてな、あんた」と吹き込んだ一番手はすぐ西隣の「チイちゃん」雀の「チイちゃん」だった。「新し湯」の常連だった。
「知らん」
それが秀樹のたった一つの台詞であり、人生劇場で演じた最初期の演技の一場面、重要なペルソナ=役であり、仮面の一枚であった。「もらひ子」という言葉が当然好きでなかった。「子」を「もらふ」側の一方的なもの言いであった、自身の立場は決定的に喪っていた。勝手なこと「言わんといて」と、みじめだった。
姥島では、秀樹を本気でもらう気だったろうか、秀樹はいまでも妻とそれを不思議がる。山岡では本気で姥島にやってしまう気だったか。養子縁組ははるか後年、新制中学に入学の直前になって、そそくさと、秀樹に秘密にしたまま実父・生母も加わり大人同士で決めていた。その間十年近く、を、姥島は無条件で秀樹に金をかけて育てていたのか。あッと声も出そうにそこに思い至れば、そんなことの有り得そうにない姥島家だとも言えた。「もらひ子」ではなく実は「里子」で、山岡家からは養育費が出ていたのかも知れない、さぁ…と、秀樹は、いまさらにため息をついた。


秀樹が望んだわけでなく、幼稚園に入れようという時期が来ていた。もう一年待てば小学校だった。
幼稚園は、新門前にほど近い知恩院境内に、総本山の経営であろう、華頂幼稚園があった。その東に華頂会館があった。幼稚園は華頂女学園の付属であったかもしれない。姥島の親たちは、だが、息子をひとりで歩いて通えるこの華頂幼稚園に入れなかった。バスで送り迎えの、遠く南へ離れた馬町の京都女学園付属・京都幼稚園に通わせた。東か西かの本願寺、真宗の経営だった。姥島の宗旨は浄土宗で、知恩院が本山。宗旨の関係で決めたのでなく、だが、さしあたり誰をツテに七条ちかい渋谷坂の幼稚園をえらんだのだか、分からない。経費が安かったとも思われない。
幼稚園に、よく通わせたものだと、驚いていいのだった。見栄をはったとも思わない、推測にすぎないが、父方の山岡家から、秀樹を預けるについて何か「念」を押されていたのかも知れない。幼稚園にしてもそうだが、顧みて、秀樹を当然のように大学に、それも私立の、大学院にまでも進ませてなに不思議ない姥島家ではなかった。ありあまる家計ではなかった。母はそんなことは決して望まなかったと、後々まで口にした。
だが一年間、秀樹は毎日迎えのバスにのって京都幼稚園に通い、送りのバスで帰された。送り迎えの場所は、新門前通を東山線へ出た、かかりの、もとガソリンタンクのあった前で、あの非常時にはガソリンの営業など、考えもできなかった。廃業のままであった。
記憶のかぎり、あそこでバスに乗る連れが、四人いた。一人は姥島の筋向かいの赤木公子で、同い歳だった。名前を「ハム子」と読んで賢がりの秀樹が大笑いをされた。もう二人は、祇園の辰巳橋を渡って「松湯」にちかい、末吉町の角店の「廣松」というお茶屋の姉妹だった。苗字は石川といった。姉のほうと秀樹は同い歳で、妹は、幼稚園が三年保育でなかったのなら一つ下の年子だったのだろう。残る男の子の一人はやはり清本町の、これは花見小路角にあった「福長」という仕出し料理の家の息子だった。むくむくと大柄な子だった。バスの中に他にどんな子が乗っていたか、全く覚えがない。いつも女先生の一人二人は添乗していた筈だが、うすぼんやりしたシルエットほども像にならない。
「福長」とは、習字の教室でもいっしょになった。四条縄手のわずか東に平安時代からある仲源寺、俗に目疾地蔵というお寺が教室を開いていた。草紙などを持参で通った。通えと親に強いられた。習字は嫌い、墨をするのもしんきくさかった。太い筆ででかい字を紙が真っ黒になるまで隙間なく書かされる。要するに早く黒くしてしまえ…なんぞと思ったりした。「福長」とは仲良くもなりきらず、幼稚園仲間という生暖かいものはあったが、ときどき、軽く角突き合わす程度に緊張した。「福長」の筋向かいに、小山光一というやはり同い歳の子が習字に来ていた。三人で帰るのがふつうで、この小山君の色白で整った顔だちには好感をもっていた。一度ぐらい家に入れてもらった気もするが、うすい影絵のようでしかない。声やことばが、まったく残っていない。秀樹の習字も長続きしなかった。手筋はよかったのにと後々も母は惜しがったが、蒙御免であった。
やがて「福長」は四条の下、団栗橋ちかくへお店ごと引っ越してしまい、小山とは戦後の新制中学で再会した。小山の家がお茶屋だったかどうかも覚えずじまいだが、水彩の絵が図抜けて上手だった。口数のすくない少年だったと思う、声もことばも記憶にない。ム…と、呑み込んだほど短く頷いて返す。顔をかすかに傾けている。賢そうな顔をしていた。
秀樹を京都幼稚園にみちびいた縁は、お茶屋の「廣松」ではなかったろうか。かすかな記憶では「ラヂオ屋」姥島のお得意であったようにも思う。月末ちかくなると「電気屋」の父は細々した「請求書」を書いて配り歩いていたし、幼稚園坊主の秀樹にでも配れる先へはお使いに出した。先方へ手渡してさえくればいい。「廣松」へも何度か行った。祇園では今も粋な風情の切り通しが、辰巳橋から末吉町へ通り抜けて行く辰巳小路、その出ばなの角に、黒めの大きな暖簾に小粋に堅い字で「廣松」と白く染め抜いてあった。暖簾うちの堅固に手厚い格子戸も格のある風情だった。同色の、すべて黒めの材で引き締めた構えで、道路に面しても黒い小格子が、版画っぽくかちっと厚手に「嵌って」いた。瓦の小屋根の上はこざっぱりと白い葭簾が深く垂れ、切り通し側は清潔な板張りで、いちばん奥のほうに勝手口があった。ほんとうなら、そこで請求書を渡すのだったろうが、秀樹は表から戸をあけて入った。なんとなくその程度の馴染みは「廣松」の石川家に感じていた。
ふたりの石川姉妹が、いい映像になって蘇ってこない。姉の方はなにかとんがったモノのようで、背があった。妹はちっちゃくて頭の感じがまるかった。姉の顔は逆三角のスペードのクイーンのようで、妹のは猫に似たまるめだった。二人ともおとなしくはなかったが、陽気という印象ものこっていない。会話対話の何一つも記憶になく、要するに秀樹は相手にされず向こう同士で笑ったり喋ったりしていた。それも影が動いていたほどにしか思い出せない。絵本のなかに現れるような、姉妹ともいつもまっさらの洋服を着ていた。ひけめという程でなくても、とにかく一歩ひいた感じで存在を意識していた。仲がわるかったとも思わない。
「廣松」と姥島の父とにどんな関わりがあったか、ただラヂオ店の客筋であったのか、もう少し立ち入った関係、つまり父の方も「廣松」の客筋であったことがあるのか、向こうは甲部の一流のお茶屋、まさかと思うが、「同い歳どすか。幼稚園にやらはるのやったら、うちのは京都幼稚園や、下の子も今年から入りますのえ。おうちも、どうどす。バスで送り迎えありますのやし、安心やし」と、それぐらいなことを、言われたり、聞いたり、できたのではないか。
父は、嫁を迎えてもお茶屋遊びのやめられない男だったと、母は話していた。詳細は知れない、が、父が「極道」な「遊び人」で、顰蹙を買うタチの青年であったことには、遺憾ながら物証がのこっている。ありがちな許容範囲のことか、許されないことか、判定する気になれないが、あかの他人さんから来た痛烈な非難の手紙を、なんで残ったのやら、父も母も死んだあとで、仏壇下の奥戸棚から秀樹が見つけた――。


――赤茶けた安いハトロンの封筒表に「(京都)市内縄手通古門前下ル」「カキ餅商」の宛名が祖父の「姥島龍吉様」とあり、封裏には「大正十年七月廿九日」差出しは「河原町高辻」「沢辺均」とある。消印は「10・7・29」は読めるが局名は読めない。父鶴太郎の二十三歳、秀樹の生まれるより十五年ほど、姥島に貰われてきた時より二十年ほど昔の古い手紙で、まだまだ父が龍吉の息子息子していた年頃のものだけれど、文面はかなり厳しい。

前畧申述候 一昨夜御約束申上候上田氏の意向をただし、
御回答申上候 左に……
既に万事が破壊後の事にて 先方に夫れ丈けの心遣ひが真実有之物
とすれば既に前回のトキで万事が解決致し居る筈にて 必ず又々今回
の事件の夢にだにあり得可き事に御座無く かかる甘言を以て一時を
つくろつて前回通り 朝ねする起さば腹を立て昼休みに二時迄も三時
迄もぐづついて 晩は六時にもなれば遠慮なく終つてしまう 主人の
子供でもがみがみどなり付ける 弟子共は片つぱしからこづき廻す
口きたなくぽんぽんどなりちらす 私用にはどしどしこき使う チヨ
トした些細な事にもづけづけ口答する いやないやな顔をしてふくれ
る リッパの腕を持て来て只働いてやつて居るつて様な顔をして や
れ待遇か気にくはぬの 軍隊教育を受けて立ッぱな大の男が僅かな小
遣いで足りるか やれ除隊の時が何うの仕着せか何うの…… まあ沢
辺君是で主持つ奉公人と言はれ様か 大體彼は何んの目的て自分の処
へ来たんだろう 最初来たトキは何んと云ふて来たろ…… 奉公人が
主人か…… 如何に今日の世の中にせよ かかる厚顔ましい人間が又
と二人あろうか そんなにされて迄もよろこんて奉公人の彼を好遇せ
ねばならん物でせうか……… と云はれて見れば成程 前度御両人し
て小生にちかはれた御言葉は何うなつた事でせう
中介者自分として此際何んと御返事申上げて宜しいでせう そりや
あ貴家に言はしたら色々文句も有るでせう 不満も有るでせう けれ
共誰が何んと云はうと主従であつて見れば 罪は鶴太郎氏に有る 例
へ主人が馬鹿で有ろうと不具者で有ろうと又は女で有ろうと あく迄
主人は主人だ 如何なる賢者でも聖人ても一つや二つの欠点の無い人
は無い 况してや吾々凡人として欠点や失策の五つや六つ何んとあろ
う一但師となり弟となつた以上は主人の欠点失策は主人の行為如何に不拘
是を補力して益々自分の取る可き道を取つて誠心誠意目前の業務に奮
励したら 誰が非難する人が有ろう 幾等解らず屋の主人でも人情と
してつらく出来ませうか よし又有つたとしたら世間がこのまま容し
て置きますか…… 然るに鶴太郎君の行為は是に正反対で前記の有様
誰が是を以て誠意あると認めるでせう 察するに何うしても是は貴家
親子共謀して 飽く迄上田氏に愛想をつかさし出て往けと言はせ様手
段とより思はない 些細の事を色々と誇大的に云ひ立てて大恩ある御
主人に仇を以て報ゐるとは 社会の為め人道の為め 将又貴家等親子
の為め実に実に歎かはしい極みです かかる御人とも知らず是も社会
奉仕の一端ともなり申さんかと 微力乍らも中介の労を取つた自分は
今更慙愧に堪へん次第です
例へ一時の腹立まぎれにせよ よし又親御の無関心にもせよ 些細
の化病に事よせて 血相変いて荷物はさて置き仕事の道具迄も持出す
からには 何れの方面より考察するも 出奔とより受取れぬ仕打ち
九月に成つて病気全快の上必ず返す云々是とても かんじんの本人に
誠意の無い物を如何せん… 斯く言ふたら自分は知らん 主人の使ひ
方が悪るいと申され様が 夫りや口は調法何んとでも申され様
然し今と成つては何事も申上けません進むも退ぞくも御両所の御心
任せになさる可く 面目を失うた自分は一切是にて未知の昔に帰る可
く 先は   草々

事情はただ察するしかないが、沢辺氏を介していわば徒弟奉公に入った先方で、鶴太郎が我が儘放題にふるまい、あまつさえ仕事の道具も持ち出し「仮病」をつかって出勤しないのを、姥島の父子「共謀」し何かを画策しているのではと、詰られているように読める。気になるのは主人側から先に「愛想をつかし出て往けと言はせ様手段」を姥島側で用いているかに言われてあることで、どういうことか分からないけれど「出て往」くについてはこれだけのことを(金銭で)せよと掛け合う構えらしいのが非難されているのだろうか。
どっちみち褒めた話ではない。父が仕放題なだけでなく、うらに祖父龍吉も糸を引いているように言われているのが、読んでいて悩ましい。「社会」の為「人道」の為「姥島父子」の為にも「実に実に歎かはしい」などとあると、身が縮む。まさか祖父も父もと打ち消したいが、どこかにそういう所の無きにしもあらざる人たちだったのを、秀樹は内心知っていた。そうか、やっぱり、こういうことも有ったのかと嘆息してしまうのだ。
秀樹の知るかぎり昭和十三、四年に父はもう「ラヂオ屋」をしていた。その前は貴金属などの細工物をしていた。錺屋だ。技術のいる仕事であり、「鉄久」という店で修業したとも聞き齧ってきたが、鉄久の店は古門前縄手辺にあった。いいおじいさんが間口の狭い店先で仕事をしていた気がするが、思い違いかもしれない。この鉄久の主人に仕事を教わりながら大迷惑をかけたと、ちらと母に聞いた気もするし、それも思い込みかも知れない。鉄久の店のあった縄手の、ごく近く、並びにか向かいにか、とにかく祖父の元の家は「縄手古門前下ル」のその辺にあった。父や叔母はそこで育った。母のいわく、言語に絶する「きたない家やった」そうで、結婚を機に新門前通仲之町へ新たに借家して移り住んだのは、それが縁談の前提になっていたのだろう。新婚の新居のはずのその家へ、すでに小姑の叔母が、やがて舅の祖父も、当然のように割り込んできたというのだ、母が、腹に据えかねたのは無理もない。
手紙では「主人」の姓名も仕事も場所も分からない。職人らしくはある。手紙で憤慨している「沢辺均」という人も秀樹には察しがつかない。縄手の三条寄り西側に「たる源」という木工で名人芸の人がいて、徒弟に沢辺という男のいたのは知っているが、関係は無いだろう。
こんな手紙を、父が保存したとは思えない。母に思惑があり、仏壇の底に秘匿していたのかも知れない。母は、心中ふかく父や父の家に対して容赦ない感情をもっていた。死ぬ日まで棘が立ったように抜けなかった。結婚したあとも、父こそ「極道者」であったと母は決めつける。新婚の初夜から新妻を、母をないがしろにし、茶屋遊びをしたと言う。
「それかて、お客で遊ばはんにゃったら、まだよろしぃえ。台所へ上がりこんで、一日中へたばったはるんゃないか。意地きたないゃ、ないかいな」と母は吐き捨てていた。
佳い図ではない。どれほど卑しいこととも経験がなく判断できないけれど、弁護するわけでなく、父には、不思議と人の懐にすっぽり嵌り込める、妙に人なつっこいところがあった。戦時中、丹波の遠い遠い疎開先まで、田布施まで、ヘタッたタイヤとチューブの自転車を漕いで、山坂越えて京都からはるばる母や秀樹に日用品や土産を運んでくれた父だが、その長い道中の実にここかしこに、いつ知れず父は何軒も知り合いを作っていた。ちゃっかり商売もしていた。商売以上に、父は、そんな具合に人と「懇意になる」「心安ぅなる」「気安ぅできる」ことに、或る種の嬉しさ得意さを感じていた、また長けていたのではないかと猜したことが何度もある。晩年こそ人づきあいのむしろ極端にわるい頑固ジジィになって、「おじいさんはコワいわ」と買物に来てくれた客にもボヤかれていたが、若い時分はずいぶん本人は粋なつもりの、はためには幾らか持てあまされて野暮な、じじむさい遊び極道であったのかも知れない、何とはなしそんな形跡が認められる。「廣松」との縁もその名残であったかも知れない。
「廣松」はよく知られたお茶屋だったが、お茶屋らしい場面に秀樹はむろん一度も踏みこんだ覚えはない。幼稚園仲間のふたりの少女も、単に「石川」姉妹だった。姉が一子だったか名もすっかり忘れ、顔の輪郭ほども蘇ってこない。だが、忘れられないこともある。
幼稚園を出て国民学校に入学までの僅かな間に、三条河原町の朝日会館で、バレエだか舞踊だかお遊戯だかの発表会のようなところへ、まさか一人では行くまいからどっちかの親が一緒だったと思うが、出かけて行った。しろいものがヒラヒラしていた舞台の印象はとりとめがない、絵にならない。それなのに衝撃を受けた。同じバスで幼稚園通いした身近な姉妹が、遠い高いまぶしい舞台で「動い」て、人の観賞に耐え、拍手されている。突き放されて、ずーんと胸の底が重くなった。身の回りが暗く沈んでいた。のちのちの思いでほぼ近い感じをいえば、「かぐやひめ」を月世界へ見送った、地を這うその他大勢な人間の無力感に似ていた。たいして魅力のある姉妹ではなかったのに痛烈に引け目を感じ、憂欝だった。なにかを「自分でして」「見られて」生きてゆく晴れがましさに心をとらわれた、あれが最初だった。
記憶を信じていいのか迷うことも疑うことも多いが、漠とはしていても印象というのは、何かしらを確実に証言している。事実を変改し潤色した印象も多いはずだが、だから実より虚にちかいのかも知れないが、記憶は訂正できても印象はなかなか動かせない。石川姉妹の「朝日会館」はある意味で作家「奥野秀樹」の一原点といっていいが、通園バスの姉妹は只の影絵だった。ほんとうに「廣松」や「福長」の在ったあんな祇園町北側から、わざわざ新門前通の「東山線」までバスを待ちに彼や彼女らは毎朝通っただろうか。送迎バスがどんな通りから通りを走ったか全然覚えていないのである。何人の園児が乗り降りしたかも印象にない、関心がなかったのだ。それにくらべれば「朝日会館」のまぶしかった舞台は不動のもの、秀樹に眠っていた或る意欲を、やむにやまれず揺り起こした。憧れてしまった、「舞台に立つ」ことに。そして石川姉妹の「影」はただの痕跡となり、消え失せた。


石川にくらべ、「赤木公子」のことはもっと現実味をおびて記憶にある。同じバスで通ったとは到底信じられないほど石川と赤木とはお互い別々の世界から生えて出た、かけ離れた女の子たちだった。ただ一言でも彼女らが言葉を交わしていたかと想像するだけで、「そんなアホな」と打ち消したくなる。ありえない気がする。
赤木の「キミちゃん」とは、高校を出るまでの同窓生であったが、親密だったのは幼稚園から国民学校に進んでせいぜい一、二年のうちだった。
「キミちゃん」の家も、どことなくヘンだった。父親という人が、秀樹の父にくらべ、もっとウンとおじいさんだった。いつも家にいる人でもなかった。有済学区を束ねる民間団体なのか、警防団のような国防会のようなよく分からない会の「副会長」だと聞いていた。小柄で髪にしろいものの見える、和服にステッキの、枯れたようななまぐさいような、子供の目には得体の知れない爺ぃだった。公子が姉で常子が妹だった。娘二人の母親は髪のやつれた俯きがちな、笑うときでも髪を傾けたかげでかすかに唇をまげているような、おとなしい人だった。秀樹の母や叔母より年齢は若かったろうが、陰気に老けていた。赤木老人のほんとの家族はよそにいて、二号はんゃという噂だった。実否は知らない、秀樹は「二号はん」というこの物言いがいやだった。「妾」のことを父は「テカケ」といい、呼び捨ての感じだった。「おテカケはんやないかいな」などと言ったが、これも不快だった。
東の町内で、指折りの美術商が、たしか「鷲見さん」と秀樹も知っていたが、和服姿をビロウドの黒いマントに包み、雪駄にステッキで、俯きかげんに家の横の抜け路地を抜けて行くのをよく見かけた。
「二号ンとこぃ行きよんのゃが」と大人の噂を小耳にはさみ、品のいい顔の老人を複雑な思いで見やる癖がついた。あの時代は「めかけ」「二号」「三号」の噂にこと欠かなかった。姥島の裏の路地なかにも、知るかぎり二人三人とそれらしい女所帯へ男がいついたり離れたりしていた…らしい、のである。
記憶が霞んでいておぼろに不審の念をもっているのだが、赤木という秀樹の家から西に筋向かいの家は、いつから「赤木」だったろう、なんだか突然ある日から「赤木」になり、しかも前々からの住人であったように赤木の娘たちは、ことに「キミちゃん」はかなり乱暴に秀樹の世界へも出ばってきた。なんとも、乱暴な娘だった。突如、暴れた。突如、怒り狂った。引っ掻かれたり打たれたりした。秀樹がまた腕力にうったえて喧嘩のできる男でなかった。
「キミちゃん」は美人だったろうか。瓜実の、ふっくらと張った顔だちに醜いものは無かった。だが目は時としてキツく光り、次ぎの瞬間の爆発を本気で恐れさせた。大柄だった。声はかすかにひび割れて、大きかった。一度そうしたいとなるとそう宣言し、手も脚もからだごと踏み込んでくる物騒な娘だった。気に入らないとすッ裸で泣きわめいて表へ出てくる。すッ裸で道の真ん中で地団太を踏む。親も困ったろうがこっちもドキドキした。秀樹など、親に外へ放り出され戸に鍵をかけられれば、戸にすがりついて泣くだけだった。近所のだれかが親に謝ってくれ救済してくれた。情けない…。「キミちゃん」のやり方はそんなのに比べれば爆発だった。爆発する女は、見ていられない。
新門前通にあるたくさんな家の中にいちいち上がったわけでなく、一律に比較はできないが赤木と姥島の間取りはよく似ていた。階下は表・中・奥の間だった、奥の間の奥にすこし木の植わった狭い坪があり、赤木の家も、抜け路地ではないが路地が東側にあって、坪庭から路地へ出入りの木戸があった。
家の中は奥へ入るほど暗くなる。遊びに行くのは表の間で、うろ覚えだが中の間より一段低めに造られていて、畳の上に汚れよけの籘の上敷がべたに敷いてあった。姥島でいえば父の仕事場で店でもあるところが、赤木では子供の遊び場になっていた。三、四十センチも普通の部屋より低く作ってあるのが子供心に面白く、一時期、そこへ近所中の子、といってもつまり若松屋の子と秀樹とが常連であって、めったに西の杉本とか大石とか、その向かいの川上とかの子は仲間に入らなかったのは、赤木という家や赤木の過激な娘を毛嫌いする家庭が多かったのだろう。そんなことは構わず、あわせて五六人でひっきりなしに遊んだ。お遊戯会の真似もしたし、「せっせっせ」や「グッチョッパ」のような手遊びもしたが、順番を競い合って前へ出ては歌をうたうのを、エキサイトして楽しんだ。秀樹と「キミちゃん」が奪い合って真ッ先に唄いたがったのが、「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ」という唱歌に決まっていた。他にどんな歌をうたったのかよく覚えていないのに、「桜井駅訣別の歌」に熱狂したことだけは鮮明に記憶にある。
幼稚園がいっしょだったから、たしかに一時期は「キミちゃん」と遊んだ。筋向かい同士だから出入りは簡単だった。だが、なにとなく姥島の母も叔母も、「キミちゃん」と限らず秀樹が「よその子」と、まして女の子と遊ぶのを歓迎しない気味があった。一つ布団の中でグツグツ笑い合ったこともある裏の薮本「満っちゃん」すら、そういつまでも上がりこんでこなかった。姥島家の「風」といっていいのだろう、秀樹が「他家さん」へ上がるのを、暗に、ときには露骨にイヤがった。「いらんこと」を吹き込まれても覚えてきても困ると言う。「いらんこと」の最たるものは、「もらひ子」という事実をあまりはっきりとよそで聞かされてきては可哀相で迷惑でもあったのだ。秀樹は秀樹で、よその生活水準をうちのと子供心に比較するようになるのを、親は、いやがっていると察していた。それもあった。
「キミちゃん」とは学校をともにした期間の長いわりに、敗戦後に丹波から復帰以来は縁がなかった。つよい言葉でいえば嫌っていたし、向こうもフンという感じだった。鮫肌を「しなべ」(萎びるからか。ザラつく意味だが)と公子はみなに囃され、それでも頑固に我慢の過ぎたところが不評で、よく苛められていた。いくら苛められてもフンという強いところが有った。秀樹は、触らぬ神に祟りなしと近寄らず、苛めもしなかった。妹の「ツネちゃん」は妙にねばった性格の子で、姉よりも苦手だった。
いつのまにと、事情もなにも知らぬほど迂闊に過ごしていたが、「キミちゃん」は、中学のうちからピアノを弾いた。高校でも弾いていた。公子のピアノのかげに、何故だか知らないが弥栄中学の英語の担当だった近藤一馬先生が或る役割を帯びていたらしい、後に、二人は結婚した。ピアノのとりもった縁かどうか知れないが、近藤先生は若手の先生方のなかでは軟派なダンディで、お洒落などむりな時世だったが身のこなしから物言いから気取った感じがし、生徒にも、ことに元気いっぱいの体育系めく若手の先生方には不人気だった。ねとっとしたお調子者のようで秀樹もあまり好かなかったが、近藤先生と赤木公子の組合せには、唐突で驚いたけれど似合っているとも感じた。縁は異なものと思った。
近藤先生はのちに瀬戸内のどこかで税関長を勤められ、ほんの一時期秀樹もこの夫婦と文通があったが、いつ知れず別居の噂を聞いた。同期会などに近藤先生はウイスキーの瓶をいくつも持参で参加され福引の賞品になったが、税関の「没収品ゃで」と囁くやつもいるなど、昔のままにあまり重く見られない。先生の方も昔のままに平気の平左で、腰を低くして作家「奥野秀樹」にも軽い世辞をつかったりするが、奥さんの「キミちゃん」のこととなるとへへへと笑って話をそらしてしまうのである。


バスで送り迎えの京都幼稚園は、馬町坂(渋谷)の土橋の辺から右へ折れたところに、いま思うと通用門だったろう、階段をのぼって出入口があった。あった、と思う。私立京都女子学園だか女学園だかに付属していた。「浅井先生」が組の主任だった。「アザイ」先生と濁って読んだ。三条通の白川橋よりすこし西辺に小さな店を張った乾物などを商う家の人だった。横にひろがったような大顔の、あかい縞の着物の、恰幅のいい女先生で、目が怖かった。あれで二十代のやっと後半ぐらいだったろうか。「一花先生」という人もおられたと思う、浅井先生より上席の先生らしかった。幼稚園の近所に住まわれていた。浅井先生といっしょに面倒をみてくれたもう一人、気の優しいふっくらした若い女先生もいたのだが、名前を忘れた。松崎先生…か。浅井先生には叱られ、松崎先生にはよく抱きかかえられ、なだめたりすかしたりされた気がする。
浅井先生にこっぴどく叱られたのも、大方が印象に過ぎず記憶はみな曖昧だけれど、一つ忘れられない事がある。
秀樹は教室で我から口をひらき、率先して皆の前でものを言う子ではなかった。幼稚園頃はそうだった。それなのにその記憶では、秀樹は座席から先生の方へ向いて、起って夢中で喋っていた。一心に顔も体も動かして喋っていた。母といっしょに参加した町内会からの遠足ーー鞍馬山だか三笠山だか、宇治川だか、とにかく春、秋にはそういう催しが必ずあったーーの経験を喋っていたのかも知れない。椅子から立ち上がり喋っていた体感のようなものが、今も蘇ってくるぐらいだ、そのお喋りがズバッと制された。浅井先生はこう言った、
「男の子が、そんな、お母さんと同じ喋り方を、するもんやない!」
意表をつかれ秀樹は呆然と我に帰った。あの「おかあちゃん」と「同じ喋り方」をしてたんゃて…。そういえば母は寡黙なようでいて、時としてずいぶん「ヤギッて」話すことがあり、今の自分の喋り方が「血の繋がってへん」母に似ていたと指摘されれば、まさしくその通りだった。秀樹は真っ赤になり、恥じ入り、消炭のように沈黙した。みな笑っていたが浅井先生は何故だかひどく硬い顔つきをしていた。それが堪らなくイヤだった。
幼稚園はいっこう楽しくなかった。一つの大きな理由に、給食のおかずの好き嫌いがあり、皆の楽しみにしている昼御飯の時間が、何を食べさせられるか、苦の種だった。怖いほどだった。茄子が一番だめ、カボチャもキュウリも大根も唐辛子も蓮も芋も豆も白菜もトマトも、みな嫌いだった。煮た魚も臭がった。月の八日は「大詔奉戴日」で「日の丸」弁当とやら、白い飯に梅干だけの日は、ホッとした。
食べずに済ますことを浅井先生は断乎許してくれなかった。食べるまで運動場へも出してくれなかった。近所のお寺などへ弁当を持ち出し、花や紅葉の境内で思い思いに昼食するような時も、秀樹は嫌いな食べ物にてこずり、女先生につきっきりにせっつかれて嚥み下すように目を白黒させて、泣き泣き食べねばならなかった。赤木の「キミちゃん」など、らっきょうのような嫌いな物は平然とポケットに隠して家まで持って帰っていたのに、それほどの才覚がなかった。頭の回転がよくなかった。
米は家から、袋に入れ、定まって持参していた。弁当の仕出しを幼稚園で注文していたのだろう、時間になるとおおきな木箱に二三十ずつ入れて持ち込まれる。むせるような食べ物のにおいがして、空腹でいながら、何が出てくるかといやぁな気分がした。
運動会もあったと思う。お遊戯会もあったと思う。卒園まえの三月には雛祭りのあったのを遠い絵のように覚えているが、心親しく参加した気分はなに一つ残っていない。体操も、遊戯も、道具を使って遊ぶのもうまくなかった。親しい友達というものを只の一人ももたなかった。
雨がふれば、外へ出てお遊戯などをせずに済むだけでなく、先生が大きな掛図を持ち出し、絵解きのおはなしをしてくれる。掛図には神話もあり地図もあり乗り物もあり、何でもいい木や草でも、魚や獣でも、絵を見ながらそのお話を聴くのがいちばん嬉しかった。備え付けの好きな絵本を読んでいていい臨時の時間もあり、大歓迎だった。
幼稚園時代の一の楽しみは月に一度「キンダーブック」が配本になることで、宝物のように大事にし大事に読んだ。捜せばまだ在るはずだがと、秀樹はときどき妻に見つからないかねと声をかけていた。
総じて幼稚園をけっこうな所とは思えなかった。だが、馬町まで通園した一年間の体験は、その界隈への親しみを植えつけ、年齢が行くにつれ、渋谷、小松谷、歌の中山清閑寺、花山、日吉町、博物館、妙法院、智積院など、さらに東山線より西の鐘鋳町、薬罐町などの職人町から方広寺、正面辺までもわが町の気分で歩けたし、小説の舞台に何度も利用した。幼い日々に、家のまわりのほんの狭い地元だけでない辺にまで視野をひろげられ、幸いだった。
「馬町」と言いなれてきた、その馬町通は、西は伏見街道(大和大路)本町二丁目より東行し、東山線(東大路)を横切り渋谷街道をへて清閑寺に至るだらだら坂をいう。むかしには「苦集滅道」と呼び、山科をへて大津にいたる間道だった。平氏は六波羅や西八条に館し、別邸をこの坂の小松谷にも設けていたことは、あの平重盛を小松殿と呼んでいたことでも知れる。東国へ往返の道として「人馬絡繹」「極めて繁昌の地」だったというが、その後は「大に衰頽」した。東山線から東へ土橋までを常盤町といい、今は橋ともみえないこの橋を右へそれた辺に京都幼稚園はあった。土橋は常盤町と下馬町の境に架かっていて長さ五間、幅二間、阿弥陀ヶ峰より流れくだる小川が音羽川へ注いでいた。この橋のそでに昔はお茶所があり、花山の焼き場までは行かない人たちがここで休息して故人の骨と化するのを待っていたそうだが、今は霊柩車が一気に火葬場まで登って行く。
馬町通から幼稚園のまえを南へ抜けて行くとその阿弥陀ヶ峰、秀吉を葬った豊国廟を山頂に抱いた孤峰への参道に出る。途中に新日吉神社があり、さらに上ると左一帯に「女の園」でしられた京都女子学園があって、その一面が太閤坦と呼ばれている。清水寺へかけて借景のまことにみごとな、月釜もかかる、茶人仲間では評判の「桐蔭」という名席も、ある。
馬町に戻って幼稚園のお隣というほどの、やや東に小松谷正林寺があり、その昔平重盛の念仏堂があった、後には摂政藤原兼実の別荘の地でもあった、らしい。
上馬町まで行くと三島神社があり、後白河の愛妃が摂津三島社に祈念して後の高倉天皇を出産したといわれ、その縁でここへ勧請されたらしい。界隈からは古い陶器の破片がよく見つかり、京焼の遠い起源があるのかも知れない。一帯、蔚然として鳥辺の山墓地を背後に負うている。高倉天皇の御陵も奥の清閑寺のわきに鎮まっている。天皇の愛された小督局の塚も在る。秀樹の通った幼稚園は、こういう世界の臍の辺に位置していた。
この臍へめがけて、後に、アメリカの爆撃機が爆弾を落とした。幼稚園の庭に大きな穴があいた。戦争中に京都市に落ちた爆弾のごく例外の、不発の一発であった。あれは真夜中だった。秀樹も母も疎開先の丹波からたまたま京都に帰っていて、爆弾の落ちたと同じその瞬間に地震の揺ったことも忘れていない。父がすぐさまラヂオ班の任務で松原警察署へ呼ばれ出掛けていったのも忘れていない。
京都幼稚園へは、卒園いらい一度も足を向けていない。

   二 有 済

昭和十六年(一九四一)十二月八日が、宣戦布告の「大詔奉戴日」となった。太平洋戦争勃発、日本軍による空と海とから真珠湾奇襲の敢行された日である。その後は月々の八日八日を「大詔奉戴日」とし、聖戦の意気を新たにせよと指導された。秀樹は東山区上馬町の京都幼稚園にいた。
意外な戦争が始まった、大変だ…とは思ってなかった。外国との戦争は、近くは支那事変とか満州事変とか上海事変とか、それ以前からも日清・日露の戦役以来、なにかしら日本という国に戦争はつきもので、戦争はすれば勝つものという常識すらもっていた。秀樹がもっていたとは言えないが、大人の話や新聞の報道からも深刻な思いはしなかった。
年を越え、大本営発表は連戦連勝を告げていた。狂喜するほど関心はなく、秀樹は昭和十七年四月から、新制度での「有済国民学校」なる小学校に入学した。そして仰天した。
姥島「太郎」だと思い込んでいた自分の名前が「秀樹」と変わっていたのだ、貰った名札にもそうあり、先生もそう呼んだ。入学式には母がついていたが、今日からあんたは「秀樹」いう名になったんぇと母も言う。元服して名を改めるようなものかと思った。驚いた。動揺した。自分が姥島の「もらひ子」である事実をひそかに受け入れていたから、それと関わりの改名なのだろう…と、ひっそり合点した。「たろう」サンが急に「ひでき」ちゃんに変わり、変わり切れずに、丹波へ疎開するまで三年間は、家の者でもまごついていた。祖父は「タロべぃ」と呼び、叔母も「たろサン」と呼び、近所では「たろうサン」と呼ばれ、学校へ行くと「姥島秀樹」クンになった。平生はだれも「秀樹」と呼ばず、丹波の村へいって初めて、だれからも「ヒデキ」とか「フデキ」とか呼ばれた。
敗戦し、京都へ帰ってまた同じ有済「小学校」に戻ってからも、両親は「秀樹」と呼んだけれど、相変わらず祖父は「タロべぃ」で叔母は「たろサン」だった。
その叔母のことは、最初から(だと思うが)いつも「アバ」と呼んだ。三十以上の既婚の女をいう京ことばと辞典は教えているけれど、叔母は中年ではあれ、終生独身だった。いまは廃れている呼び方だが、昔は耳にした。よその人なら「アバさん」で、身内は「アバ」だった。阿母つまり母親に準じた呼び名と思ってもよく、町の大人はみなそのようにして子供に接していた。温かい風儀であった。「アバ」の叔母の、お花やお茶の社中にも、「秀樹ちゃん」派と「たろサン」派とが永いあいだ共存した。
入学式の日の印象は、運動場が「広いなぁ」というに尽きた。広大無辺に見えた。桜の花が運動場の南がわに紅い雲のように咲いていた。古門前通から高い石の柱を立てた校門を入って行くと、正面に「実務女学校」の木造校舎があり、そこまでは四十メートルほど石畳の道の、西にも東にもはんなりと桜が咲いていた。有済警防団の建物には屋根の高くに異形の火の見櫓が建っていた。昔からの貴重な遺構と聞かされた。
運動場の真東、砂場の左手に奉安殿があり、御真影と教育勅語とが安置してあると聞いた。たいそうなこっちゃな…と思った。
幼稚園から国民学校へ上がったこの昭和十七年春の、国語教科書最初の頁は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変わっていた。「サイタ サイタ サクラガ サイタ」から変わっていた。
ピカピカの「教科書」が配られた嬉しさといったら、なかった。音楽も算数も、そして修身の教科書もあった。みな読むに苦労のない程度だった。すこし物足りなくさえあった。戦時色はすでに加味されていたのだろうが、十七年春の満で六歳半の新入生には、戦争はまだ肌身に触れてこなかった。むしろ世間の緊張感が、湯上がりの明るい身の火照りににた清潔感すら漂わせていた。ピリっとしていた。「大本営発表」の景気はやけによく、新聞にも轟沈、撃沈、占領、翻る日章旗といった大きな活字が踊った。「違うのと違うやろか」とは、さすがに、まだ考えなかった。”神軍”は進軍しつつあるかに見え、兵隊さんに任せといてえぇ気がした。戦争とは、微妙に逸れていた、それほど小さかった。
初めて一年黄組の教室に入り、座席を与えられたときの不安と興奮は、胸のドキドキまで覚えている。くるくると前後左右の席をみまわさずにおれなかった。教壇に向かって左の、運動場寄り二列めの前から三、四人の席に座っていた。おばさんというより、こころもちおばあさんに近い吉村先生という和服の女先生は、髪をひっつめ黒っぽい袴をはいていた。幼稚園の浅井先生や一花先生と変わりない恰好だが、国民学校だけに威厳があってこわそうゃと思った。大きい出席簿で順に名前を呼ばれ始めると興奮も不安も極に達して、秀樹のキョロキョロははげしくなる一方だった。叫び出さないのがふしぎなほどで、逃げて帰りたかった。そんなやさき、仰天する事件が起きた。
名前もしっかり覚えている「ウエハラ・タマキ」という女の子の名を、どういうことであったか吉村先生が男子ふうに「君」とでも呼ばれた、らしい。「センセイ」と手をあげ、その女の子は席から起って、自分は「女子」の「ウエハラ・タマキ」ですと自から申告、訂正したのだ、秀樹のすぐ左手、窓から一列めにその女生徒の座席はあった。心臓がひっくり返るほど秀樹はびっくりした、「ウエハラ・タマキ」なる子の凛々しさと勇敢さとに。敬服した。感嘆した。そのまえに仰天した。シャックリの止まらないとき人に背中を思いきりどやしてもらったのと、シャックリがそれで止まったのと、同じ特効を奏した。不安と興奮とがかき消え、ああいうふうにこれからは過ごして行かねば恥ずかしいと奮起した。上原環の二人ほどあとで「姥島秀樹クン」と吉村先生に最初の点呼を受けたときは、「ハイ」と手を挙げて返事した。先生はちらと目で秀樹を認めておいて次ぎの生徒の名へ移っていかれた。
すばらしい満足だった。やって行けるぞと思った。
「アカンタレ」がいっぺんに立派に変身したとは、だが、言えなかった。
学校へ行きたがる生徒でなく、軽い発熱でも休みたがった。休ませてくれる姥島家ではなく、朝のうちいっとき様子をみていても、大丈夫とふむと親は二時間め、三時間めでも学校へ行けと奨励し強制し、脅迫した。遅れて教室に入って行くがいやさに口実をつかっても、母は、泣きわめく秀樹の手をひっぱって教室まで連れていった。新門前通から切り通し、仕出し京料理の「菱岩」の角を折れ、古門前の古美術「森」の角をまた西に折れる辺まで、たいがい恥ずかしげもなく秀樹は道を引き摺られて、よく泣いた。一年一学期にはこれが、ままあった。「泣き虫」「甘え太」「しがんだ」「アカンタレ」で通っていた。教室ではとにかくキョロキョロした。「注意散漫」が、大きく貼られた秀樹のレッテルだった。親は本気で、どうにかならんもんかと心配し始めた。
あれは、ほんとに秀樹だけがそうなので叱られたのか、「ヒイキ」というと普通は褒められ過ぎをいうのだけれど、秀樹の場合はヒイキで叱られ過ぎかと友達も勘ぐったほど、例えば朝会や講堂へ集合のおり、全校生の集まった中でいきなり指揮台や講壇の上から「ウバシマぁ」と、名指しで「注意散漫」を注意された。辟易した。
「なんも、してへんやんか」と不服な時もあり、不貞腐れた。
学校が好きになれず、なにかというと校庭へ「全校生集合」を強いられるのが嫌いも嫌いだった。集団でなにかをするのが嫌いも嫌いだった。列にまっすぐ並べないといって叱られた。右向け右といわれ、あまりにもよく左を向いた。右と左とがどうにも覚えられなかった。回れ右も、左回りして怒鳴られた。体操の時間は気もそぞろに右と左とに悩んだ。全員でする徒手体操は恐怖の苦行だった。それでいて是非に覚えようともしなかった。しょっちゅう、皆の前で注意される生徒なので、だれも尊敬してくれるわけがなかった。それどころか「ヒイキ」されていると言われた。もしそうなら「ヒイキ」の引き倒しではないか。くやしかった。姥島の父が、なんとなし学校の職員室へよく出入りし、ときどき教頭の三宅先生が家を覗きに来たりした。三宅先生は秀樹の叱り役に任じていたかのように、「ウバシマぁ」「ウバシマぁ」と皆の前で叱るばかりの、お話にならない先生だった。元「視学」山岡健太郎祖父の干渉か感化かがなにかしら現場の教頭格に及んでいたのだろうか。
学校が、教室が、授業が、どんなふうであったか朧ろにも思い出せない、一年生の頃は。
吉村先生はヒイキもない、こわいけれど理不尽も感じられない、木の根っこみたいにごっつい存在感のある、尊敬せざるをえない先生だった。一井先生という若いきれいな女先生がおられ憧れていたけれど、担任の先生以外は、三宅教頭をのぞけば遠い疎い存在だった。一年生にもう一と組もあったのはたしかなのに何も覚えていないし、あの「ウエハラ・タマキ」の他にどんな連中と一緒の黄組だったか赤組だったかも記憶がない。徹底した記憶喪失で、記憶に値するなにも教室の中でもたない消炭みたいな一年生だったことになる。座席のすぐ目の前に小さいオルガンのある教室だった。あの吉村先生が弾いて唱歌を習ったのに違いないのに、印象は、稀薄というより、残存しない。
鮮やかな記憶は、「我が家」の方にのこっている。
ある日ーー学校からそそくさと家に帰った。昼まえだったか、午後だったか。夏休みもまぢかい、壮快な、むし暑くなく雨でもなく気分のさっぱりした日であった。学校にもだいぶ慣れて、「自信」というのもおこがましいがやや自律可能な意識もできかけていた。家に帰っても、何ということもない昨日につづく今日で、明日も今日のつづきだと感じていたような、あれは、そんな普通の一日であった。なのに…、家の大人たちの表情に、かすかな挑発、気のいい挑発…を、やがて感じとった。
ん…。
まだ気ぃつかへんのかいな。親たちの顔付きがそう言っている。で…、視線を八方へ飛ばし…て、見つけた。奥の、障子を明けはなった敷居ぎわに、机…!
勉強机が、そこに、在る! 在る! 声を嚥んで棒になった。棒立ちになった。次ぎの瞬間、机の前に座っていた。引き出しが、在る! 二つも在る。感動した。
「ぼくの机…ゃ、ね! ウワァ…ッ」
それなのに、その後、机を家中のどこに常々置いて勉強していたのか、覚えがない。奥の六畳にいつも置いておくには寝床が敷けない。中の間の、表との境あたりの、神棚の下、厚板の下がり壁に掛けた電話器の下、に置いていたことが、ある。それは覚えている。だが昼間なら、中の間より明るい奥の縁側に持ち運んで、金魚のいる泉水を見ながら勉強したのにきまっている。泳ぐ金魚を絵日記にうまく描けなくて癇癪を起こした覚えがある。
では勉強が好きであったか。好きで勉強する気は一年生のうちは稀薄だった。国語の教科書なら、読んでしまうのがもったいないと思いつつ辛抱できずに、もらってすぐ最後まで読んでしまった。修身のもそうだ。算数は、出来る限りはさっささっさと先に進んで問題も解いてあった。浮かした時間を怠けたかったからで、勉強に心ひかれていたとは言えない。
図画と工作には、ほとほと困った。ものが形に造れない。しんぼうよく絵に描けない。工作の道具も材料もまるで使いこなせない。なにをさせても仕上がらない。器用な父が最後には手を出して格好をつけてくれた。父は絵も細工もできた。根が職人だった。秀樹は手でする仕事ははなから断念していた。嫌い。はっきりしていた。それではいけない、損だという気もあった。見るのは好きやけど…という方へ口実をつけながら、一切の造形から意識して撤退した。そんな時分に習字の稽古にやられても、いやで堪らない。
「あんた、手は、悪るない思うのにな」
手習いを渋る秀樹を母はいくらか恨めしげにきっと睨んだりした。
母ミヨは、京都御所の東、衣棚の辺で生まれ育った。福田という古美術・骨董を商った家の、本家の娘だった。子沢山の末娘だった。もとは裕福な豪家であったのが、酒のみ養子の父親の代にすっかり零落し、麩屋町の分家が、うってかわって繁栄した。そういう家の運悪く末娘では哀れをとどめ、学校が好き成績も良かった母が、尋常科を卒業してしまうと、その上へ進学させてもらえなかった。自分より不出来だった近所の女の子らが、家の前を連れて高等科だか女学校だかに通学するのが、「けなりィて、けなりィて…」羨ましくて見てられなかった。その刻限になると家の奥に隠れて泣いたそうだ。
母から何度も聞いていたが、いちばん頻々と聞いたのは母の亡くなる前だった。目は片方だけが鍵穴ほどしか見えず、耳は全然聞こえなくなった母は、上の学校に進めなかったこのこと一つを、寝床にいて泣き叫び、言いつづけた。九十五、六という歳に似合わぬカン高い母の哀愬は、だれの聞く耳も痛ましさで凍らせた。母は、上の学校へあがりいつか小学校の先生になりたかった。子供にかまうのが好きだった母は、きっと、少々こわいけれどもまた優しい賢い先生になって才能を花咲かせえただろう。見果てぬその夢は母の生涯を寂しく苦しめた。いかなる他の何よりもその悔しさが母を苦しめぬいた。
母の目の前で、秀樹は幼稚園に通い、国民学校に上がり、徐々に頭角をあらわして戦後の小学校でも新制中学でも成績一番で卒業式に送辞を読み、また答辞も読み、優等生で高校へ進み、けっこうな私立大学へ無試験で入り、あまつさえ大学院にも進学した。あげく大学出の女の子を家に連れてきて結婚すると宣言し、商売も継がず、院も中退し、駆け落ちのように東京へ就職して出て行ったのだ。
母はよく言った、「なまじ成績がよかったもンで…。そゃなかったら、すんなり電器屋してたやろし、そこそこのお嫁さんもぅてて、よかったんやし」と。学校の好きだった母は、息子の成績優等をむろん喜んでいた。その方面では親に恥をかかせなかった。が、ほんとうは口に出して言いたかったろうに、「大学に行かんかてよろし」とも、「うちのお商売継いでぇな」とも、母は秀樹に、言い出せずじまいだった。父もそうだった。少年秀樹は、大学へ行くなど自明のことと疑いもしなかった。
初等科第一学年の通知簿は、戸籍とちがう「姥島秀樹」と記名してある。母は、几帳面に高校を卒業までの通知簿を、一つ残らず、死ぬまで手箪笥に蔵っていた。卒業証書はむろんいろんな賞状もきちんと蔵ってくれていた。


国民学校へは男班長、女副班長の引率で、男が前、女は後に整列して通学した。仲之町は小さな町内で、生徒数も多くなかった。班長は一色「カツオちゃん」で、筋向かいの路地の一番奥の家に母親と二人で住んでいた。父親は出征軍人であったのかも知れない。出は四国の方とうろ覚えだが、「カツオちゃん」は背丈のあるきりっとした少年で、優等生だった。同い歳の沢木「マコトちゃん」という少年もいた。秀樹が入学の年にこの二人は五年生だったか六年生であったのか、記憶が薄れている。金山という、後に姥島の父との間で激しい揉めごとの起きた家に、「タケオ」という見るから引っ込んだ感じの、そうかと言って温和というのでなく、陰気に捩じれたふうな少年がいた。父親は在日朝鮮人、酒癖がわるく、見境なくよく人に喧嘩を吹っかけた。トランクや革鞄などの店を出していた。「タケオ」は三年生ぐらい、妹の「ヒサコ」は秀樹と同じ学年だった。見ようではちょっと可愛く、見ようでは平たい顔をして、兄と同じに陰気にひねくれた子だった。ちょっと気をひかれたり、嫌いになったりした。蔭へまわっていけずをするタチだった。金山家は、父親は町内で嫌われ者の乱暴者だったが、比較的裕福に暮らしていた。
三年生に、遠藤「センタロちゃん」という大柄で鷹揚な優等生がいた。妹に「ケイコちゃん」がいて、兄によく肖ていた。頬のぴんと張った美人で勉強もそこそこ出来ておとなしく、走れば牝鹿のように早くてなかなか何でもやる子だったのに、顔つきが澄ましているといわれ、わりに苛められた。優等生の兄「センタロちゃん」も、からだは大きいのに苛められた。苛めるのは、沢木「キヨちゃん」だった。鼠のようにはしこい腕白者で小意地がわるかった。三年生だった。「キヨちゃん」の片棒を担ぐのが岡野の「ヒデちゃん」で、今はテレビの器用な役者になっていて、何をさせても巧く、図に乗るタチだった。
沢木という家が三軒もあって、どういう関係か分からないが大工の沢木にも、「キヨちゃん」の家にも、西の路地奥の沢木にも、秀樹と学年の同じ女の子がいた。「トヨちゃん」「スミちゃん」もう一人の名は忘れた。さらにもう一人小沢「カズエ」という活発を絵に描いたいつもお河童の女の子も、同じ一年生だった。幼稚園で一緒の赤木公子もいたから、町内に同い歳の女の子が七人もいっしょに入学したのだった、そして家の裏には薮本の「ミッちゃん」もいた。男子は秀樹がただ一人の新入生だった。「女のなかに男がひとり」とよく囃された。
上級生の女の子は、うどんの若松屋、外山の家に、四年生「ヤエちゃん」二年生「ケイちゃん」の姉妹があり、大工の沢木にも四年生の「マッちゃん」がいた。思い出せるかぎりこれだけが町内の学校仲間だった。次年度には外山から一郎ちゃんが一人入学し、その次の年にはやはり外山から義男、岡野から「アキオ」、金山から「タダオ」、そして丸顔の大石照子、面長な川上陽子という五人が、いやもう一人、ものの陰のような赤木常子も、入学した。一色「カツオちゃん」は、一年ぐらいして府立の中学に入り、引っ越して、どこかへ行ってしまった。あとはみな、ながい付き合いだった。
みなで整列して通学し、声を揃えて歌もうたった。校門に近くなると班長の「歩調とれッ」の号令で膝を高く真四角にあげ、歩調をとって校門に入った。うんざりした。国防服の先生が門番に立ち、お互いに敬礼した。大まじめにそういうことがやれることに、なんとも納得しにくいものがあった。敬礼を忘れるのも姥島秀樹の「病気」の一つだった。
非常時に備えてか「町内別に校庭に集合」という指令が実によく出た。よその町内とは、同じ「有済学区」でもなにとなしよそよそしく、触れ合わない。それでいて教室では、こいつの家は何町…だから…と、意識していた。そういう感じにいつしか差別感情が培われやすく、ひっそりと静かな新門前通の「者には、者」の地元自慢の気があった。「新」より「古」門前は古くさく、縄手はこうるさく、三条界隈はがさつで物騒といった気があった。
「有済」校という名は空気ほどに呼吸してきたが、八坂神社石段下の隣校「弥栄」校ほど分かりよい名ではない。京都市の小学校制は日本中で一二に早く完備したものであり、学校の名も、先発校ほど意味ありげな佳名が多い。銅駝、立誠、格致など。有済校も設立は早い。だが「有済」がどういう意味か、父や叔母ほど古い卒業生に聞いても知らない分からないという。先生方も答えてくれない、秀樹にも長いあいだ分からなかったし、調べてみようという気もなかった。校歌には何か謂われていたのだろう、だが、ふしぎなほど校歌斉唱の記憶がない。
一つ、どうにも実感のわかない、何故だか分からない、のに教室のうしろの廊下寄りに、妙にそこだけが暗い穴になり穴に落ち込んだように口もきかない女の子が、二人三人、いつも指定席めいて座っていたのを、そう思えば、思い出せる。名前も知らなかった、口もきいたことがなかった。おとなしい子というより、暗い穴に身を隠したような子たちだった。二人か、三人、なぜかいつも女の子だったように思い出される。
大人になり東京に住み、そして休暇で帰ったある夏休み中に、ふとした気紛れで母校の門を入り、ぶらぶらと門内西側の植え込みなど見て歩いて行くと、とある夏草の一叢かげにさほど大きくない表の平たい古石が見えた。昔から在った石だと思い出した。字が刻んである、句碑ででもあるのだろうかとよくよく目を近づけ、読んでみた。ひらかなが多く、「たへて忍べば なすありと」と読めた。
これか…と合点した。
「堪へて忍べば済す有りと」である。「成す」でなく「済す」というところに然るべき出典もあるのだろう、意義はおおよそ察しがつく。「済す」「済む」「済ます」「皆済」「決済」などと思って見れば分かる。ただ、「堪へて忍べば」とあるのに、引っ掛かった。思い過ぎであろうが、思ってみずに済まないもの…が…。
「有済か…」


一年生一学期の通知簿の中身は、褒められたものではなかった。
国語、算数、理科、図画、工作が「優」で、修身、体操、音楽が「良上」になっている。「良下」も「可」もなかったけれど、絶対評価の時代だし、「ひいき」もあったろうし、図画工作などは、父が描いて作ってもらった成績だったと言うしかない。「全優」に程遠く、「全優」というのが一種至上命令のように頭上のどこかで鳴っていた。そういう時代で、そういう大人の多かった時代だ。正直のところ「鳴かず飛ばず」の自覚を強いられた。
「ま、しゃないわな」と、自分でも内心そんな評価を下して納得するしかなかった。吉村玉野先生の「概評」には「タエズ他見ヲシテヰル。発表力ハ良好デアル」とあった。驚いたことに、一学期、一度の欠席も記録されていない。「発表力ハ良好」か…。何のことかと思ってしまう、通知簿を閉じてしまえば、なさけない泣虫小虫の「覇気のない」一年坊主に相違なかった。
親たちは「タエズ他見」の息子を注意散漫のせいだと確信しはじめ、浜耳鼻咽喉科通いを断乎継続せしめた。諸悪の根源、アデノイドを取ってしまおう。そう大人たちは取決めていた。近視もある、眼鏡もやむをえまい。大人は、秀樹の先へ先へ腹をきめていたのだ。 通知簿の裏には、こんな「お願ひ」が印刷してあった。
「所持品には必ず姓名をつけさせて下さい。」「ハンカチ、鼻紙は毎日必ず持たせて下さい。」「お子達の事に就ては随時口頭又は手紙で御知らせ下さい。特に次の場合は必ず御通知下さい。」その内容は、「欠席させられるとき(遠足の場合も)」「家庭に伝染病の発生した時」「住所のかはつた時」「保護者又は児童の身上に異動ある時」「児童がわけなく遅く帰つた時」「児童が不相応な金銭物品を要求した時」「児童の身体及び行儀等について著しく変つた事のあつた時」と。そして「退学の場合は保護者自ら御来校の上手続をして下さい。」
最初の夏休みは嬉しかった。宿題があり、「自由研究」というのも、課題では無かったが課題の気分で、漸う「なにか一丁」やる気だった。やる気が出て分かった、秀樹は決められたこと以外に、決められていない何かを好きに仕出すのが存外に好きなタチだった。その性質は、いつまでも続いた。サラリーマンになっても大学教授になっても続いた。今も、そうだ。何をするか、何か興味あることを考え出すのが好きだった。
七月二十日ごろから八月いっぱいの夏休み。胸いっぱいの開放感を満喫するには、義務はさっさと済ませよう、宿題は七月中になにがなんでも片付けてしまおう癖が、一年生の最初からついた。八月の三十一日分をまるまる好きに私有し所有したい一念だった。根は怠け者なのだろう。
自由研究に何を工夫したか、たわいないモノだったと想う…けれど、記憶は戻らない。押し花と押し葉とで「かたち」を造ってみた気がするが、それなら得意わざでなく、きっと母が知恵をつけたのだ。
あの頃を印象でいえば、ぱっと明け広げて、夏の陽射しが狭いながら庭に、金魚のいる泉水に落ちて、風もさわやか、空も青々、障紙は風通しのいい葭にとり替えられ、この季節にかぎって夕飯を奥の縁側に卓袱台を持ち出してするのが、すこぶる気分がかわって嬉しかった。母も叔母も浴衣になり、秀樹も行水のあと新調の浴衣になった。扇風機がまわり、団扇も動き、日は長い。外が暗くなると祖父や父は、時には母も叔母も団扇を手に、まちまちの椅子を表に持ち出して涼んだ。どこの家も大人は外涼みをした。蜜柑箱に座っている家もあった。道路がずらりと只の道路でなくなり、いかにもみんなの「ご町内」という風情だった。
自動車は影もなかった。牛に肥車をひかせ、下肥を買いに、きまった人がきまった頃に訪れて来る時代だった。たまに馬もものを牽いて通った。馬でゆく軍人も、めったにはないが、見た。飯櫃をかぶったような虚無僧も、建仁寺からの托鉢僧も、手甲脚絆で、頭に載せた花や番茶売りも、小さな木車を押した蜆売りも、飯台をかついだ魚売りも、自転車での豆腐売りも、甲高い拍子木の紙芝居も、路上で鞴をふかす鋳掛屋も、乞食も、物貰いもきた。自転車に乗る人がまだ少なかった。
京都の夏はとびきり暑い。畳をのたうち転げ回って、すこしでも肌を冷やしたのは嘘でない。扇風機の風がなまぬるい温風になる。あたり続けていると気が遠くなりそうだった、それでも口をあけ、そんな風をあわわわと吸い込んでいた。
扇風機の「掃除」が、父の、季節の商売の大きな一つだった。場所をとるので、奥の部屋に茣蓙をひろげて扇風機を部品に分解し、においのする油と布とをつかって、一つ一つきれいに拭いて行く。父の仕事をしているのを、側で見ているのは好きだった。早く済んでほしい気持ちもあり、仕事に精出している父の、口をかるくとんがらかした俯き加減の横顔を見ているのがいやでないのも確かだった。
部品の一部にメタルを使っている、それが擦り減るのを交換しないと、ガリガリと音がする。モーターのコイルを焼き切るほど使ってから修繕にもってくる客もあった。なにがなにやら見ていても分からない手仕事を、うんうん唸って父はこなしていた。そういう時代が父にはあった。少年秀樹の記憶するかぎり、当時の父はむしろ篤実な働き人であった。信頼できた。仕事がうまくいかないと癇癪も起きた。だが、そばの誰にもどうにも手伝いようのない、知恵も手も貸せない「電気の技術」の仕事だった。たいしたことだと思った。よう頑張らはるわと感心した。えらいわと思っていた。父のような商売の家は、近在に一軒もなかった。とてもハイカラだった。
当然だが、電器屋――というのはもっと後のこと、「姥島ラヂオ店」と開業の最初から看板をあげていたように、ラヂオ屋だった――だから、あれも在るこれも在るという程ではないが幾種類も商品があった。子供ごころに図体の大きい商品ほど値打ちありげで、ラヂオ、扇風機、電蓄(電器蓄音機)が目立った。テレビ、電気冷蔵庫、クーラーなどはまだ想像もできない時代だった。電気炊飯器も電気掃除機も無かった。ラヂオが売れた、扇風機が売れたというのは姥島の商売ではたいへんな慶事だった。たいがいは電球、ソケット、電池。電器スタンドでさえむしろ戦後の、モダンな商品だった。
電球は「ワット」と「燭」の二本立てで、5ワット、10、15、20、30、40、60、そして百ワットがあり、べつに五燭だの二十燭だのがあった…と、思う。ひょっとしてワット=燭であったかも知れへんなと今ごろ想わないでもないが、やはり二本立てで「燭」の方がこころもち「ワット」より暗かった気がする。よほどでないと家では60ワットも使わなかった。中の間も奥も40ワット、店だけが60ワット。百ワットなど眩しくて目が痛いと感じた。戦時の灯火管制も厳しくなる一方だったが、ランプの時代を経てきた大人たちには、30、40ワットで十分明るくて贅沢だったようだ。蛍光灯がまだ無かった。電球には刷りガラスのと中の発光体が見える透明電球とがあり、姥島では走り(炊事場)や井戸端にだけこの裸の球を使っていた。暗いところでタングステンの灼けて光るのを見ると、眼の芯まで痛んで、周りの闇がひとしお深くなった。闇の高いところを鼠が伝い走った。  電池は、太い重い単一と細い軽い単三としか置いてなかった。単一が主で、懐中電灯は戦時中の絶対の必需品だった。豆球もいつもたくさん置いてあった。
あの時分の特色ある電器製品は、ソケットだった。いろいろ種類があった。二股でも、電球が大小つけられるのと、電球ひとつ、さしこみ一つのとあった。三つ又もあった。豆球は捩じ込みの部分がふつうの電球より細い。三つ又にはこの豆球用が一つを占めていた。紐で引いて切り替えの利くのも、利かないのもあった。指で捩じるスウィッチのソケットは電灯の暮らしに欠かせなくて、ソケットの売り上げがバカにならなかった。母が、種類の多い電球やソケットの値段を覚えずにいちいち父に聞くので、よく父は癇癪を起こした。母は商売むきの人ではなかった。
父と母とが結婚のために借りた家が、それ以前どんなふうに住まわれていたのか知らない。父は陸軍を除隊後、かざり職でやっていたが、一念発起、ラヂオ技術検定試験を受け、合格して転職した。たいした転進だったと思う、が、店舗をラヂオ屋らしく造り替えることはとうとう一生しなかった。
ショウウインドウも畳敷きで、前職の簪や櫛や帯留などを飾って似合うものだった。そこへ小型ラヂオやソケット類を並べるのだから、そぐわない。その飾り窓と謂ったほうが似合う設えも、路地へ入るきわのところに三角形に外尖りに出たもの、表戸の東へ一間と半間に仕切った出窓造りのもの、の都合三つで、大きな商品は置けなかった。太平洋戦争の間はともあれ、敗戦後のテレビや冷蔵庫時代になっては、せいぜい店の内のせまい土間にしかディスプレイできなかった。ウインドウが出窓式で、その下へ潜り込んだり通り抜けで遊んだりできたのが、スペースがもったいなくもあり、「ラヂオ屋」に似合わなかった。
むろん家でも話題になった。だが父も母も、秀樹も、秀樹にアトをとらせる・とるという見込みが薄いのでは、金をかけて店構えを替える気になれなかった、そうだったのだ。


店へも家へも出入りは素通しの表のガラス戸一枚だった。締め切った柱との際に爪で引っ掛ける小さい金属錠がつけてあった。戸尻にも、柱へ捩じこみの錠がついていた。心張棒もうしろを支っていた。腰は板、上は大きな一枚ガラスで、敷居の上を引くので重い。夜は分厚いカーテンを引いた。
戸の外へはショウウインドウが、左右に八の字に開いていた。踏み出しに矩形の御影石を平に埋め、表の溝まで一メートル余をゆるい傾斜のコンクリートできれいに固めていた。
西のウインドウ脇は抜け路地の出入り口で、上に、姥島と隣家田口家の間にさし嵌めて、ちっちゃな瓦屋根が葺いてあった。長屋が西から姥島へややもたれ気味で、路地の入り口を飾るだけのそんな屋根が、姥島の家屋のために、家をまもる得な存在か家を押される損な存在かは、よく家で議論の種になった。姥島の東側は「奥」さんの屋敷に密着していたし、どちらかといえば、あれで西から凭れた田口と外山の長屋を押し返しているのなら、やはりこの小屋根、外さない方がいいのではと、幼い秀樹でもそんなことは考えた。
路地を出たすぐの田口寄り路上に、電柱が立っていた。見ようでは邪魔だが、永年付き合っていると只の目印としても、なにげない目隠しとしても、「つかまえ」遊びの安全地帯としても、退屈でしょうのない時にえいえいと押したり突っ張ったりする相手としても、拳で叩いたり、のちにはバットで素振りのアテにも、いろいろに役に立った。あそこに電信柱のない「新門前の我が家」など考えられない。
出入りのガラス戸を入ると、「店」「表」のどっちかで呼んでいた、三和土の土間で。土間は西三分の一だけで、東側半分以上は、畳二枚の奥に一間の押入のついた父の仕事場だった。上り框をまぎわで塞ぐように、机ほどの高さ、横幅が一メートルほど、外向きと天とが木枠にガラス張りの、細長いショウケースが置いて在った。「お家」の側、父が座る膝もとには引き出しの上にちいさな横開きの二枚戸が造ってあり、そこからケースの中へ品物をならべる。高さも奥行もせいぜい三十センチほどだから、電池や豆球やソケットやヒューズなどを置くのに向いていた、と言うよりそれしか入れられない、もともとは帯飾りや髪飾りや鼈甲の珠だのを置いていた「錺屋」の昔からのショウケースだったのだろう、ラヂオ・電器屋というにはもう一つ迫力の欠けた雅なシロモノだった。上がり框の余った半間ほどが土間からの上がり口であり、尻のながい客には座布団を出して座ってもらう、人一人ぶんのライ地であった。寒い季節には客のために、ショウケースの前土間に、灰青の色したむっくりと柔らかい、径八寸ほどの背の高い手焙り火鉢を置いていたが、いつからか無くなった。炭の高価な時代で、ツキのわるい練炭や豆炭を常用していた。練炭の小さな幾つもの穴から鬼火のように青い赤い焔が舌を吐くのをじっと見つめているうち、気分がわるくなったりした。
父はショウケースを置いた内側に座布団を敷き、仕事の席にしていた。ケースの天ガラスをそのまま机代わりに、帳簿をつけたり請求書を書いたり、時には肘をついて戸外を見ていた。人通りのある道ではなかったが、父はよくそうしていた。
同じ席で父が九十度右へ向くと、膝前に高さ二十センチ、八十センチ四方大の木製の仕事台が据わっていた。只の台でなく大きな奥の深い平抽出しにもなっていた。台の木目が浮いてよく使い込まれ、その奥寄りには、急な斜面にいっぱい丸い小さい穴のあいた、立上がり五、六十センチもの青っぽい衝立様の「試験台」が立ててあった。駆使されていた記憶は蘇ってこないが、真空管という当時のラヂオには絶対必需品の死活や能力を測定する設備のようであった。赤や緑の紐のさきに細い棒のついたのを穴にさしこんでは、父は何かをしていた。真空管をじかにさし込み、赤や青の豆ランプをちかちかさせていた気もする。その壁状の試験台の右腹に、一つ、さしこみのソケットが取り付けてあり、それは電球を買いにきた客の前で一度つけてみて、不良品でないことをお互い確認しあう装置だった。これは頻々と活用されていた。その下に、木の台に造りつけて五つ口ほどのテーブルタップがあった。
父はこの一角でたいがいの仕事をこなしていた。木の平台にラヂオから器械部分を裸にして取りだし、裏向けたり表向けたり、ハンダをこてで灼いては線をくっつけたり離したり、信じがたいような難儀な作業に熱中し、ときどき怒気を発して唸ったり愚痴ったりわめいたりした。台の上で間に合わないと、くるりと後ろ向きに茣蓙を畳にひろげてそこで「電器直し」をした。電器を売る以上に電器の直し仕事が多く、父の、ラヂオ技術者としての自負と面目のあらわれる場であった。どうにもならないと、父は晩になっても中の間の卓袱台をつかい、秀樹に見当もつかない奇妙な「算数」の式や数字を書いては思案し、思案しては唸っていた。そういう父だった。扇風機も蓄音機も電気行火もそんなふうにして直していた。夏は、奥の間に仕事をひろげることもあったが、たいがい「表」で片付けた。父が「表」にいるかぎり、御飯時は来なかった。
店の間の畳の部分、父の仕事の席は、道路むきに上げ床のショウウインドウと、上がり框と、真っ黒い棧戸の押入と、中の間と隔てのガラス障子に囲われていた。ショウウインドウの内側は化粧硝子の開き戸四枚であけたてが出来た。上げ床の下に、恰好の隙間ができていて、売り電池のストックや道具袋など、いろんな小物を父は置いていた。狭い場所をやや広めに使えるいい隙間であった。
押入には、なにかしら好奇心をそそる浅い引出しの沢山な大木棚や、ハンコなど入った小物棚、小引出し、その他の商売道具や道具箱やバラした電蓄などが入っていた。天井までに余裕のあるゆったりした押入だった。真空管や電球や商品のストックも、二階を使うようになるまではこの押入に入っていた。押入の前、畳との間に、三十センチ幅の板敷きができていた。それも畳二畳の部屋を広くしていた。押入の北外れに踏み込みをやや余して、奥に、いちばん東寄り、中棚なしのショウウインドウが半間幅で付いていた。ここへは扇風機などの背丈のある商品が置けた。
中の間からガラス戸をあけた足元、押入れ前の板敷き分をうまく角のへこみに利用して、
各種の電球を小出しにしておく棚箱があった。ガラス戸の上の壁長押には、父の誇りの第一回NHKラヂオ技術者認定試験合格証が額に入れて飾ってあった。(父の棺に入れた。日付を控え忘れたが、試験は大阪JOBKで受けていた。)額の脇に時計はなかったろう、思い出せない。普通なら時計のありそうな土間の長押には大きな鼈甲亀を、頭を上にして飾っていた。美しい艶の、たいした亀で、目のある人はよく頒けてほしいと言ってきた。父は、結局この家を去るまでは手放さなかった。ラヂオ店よりも、これも昔の「錺」の店にふさわしい、名残の鼈甲亀にちがいなかった。
土間といっても、お家の半幅をのこしただけで、西側に、たぶん下を水洗いしていいように、畳一枚ほどの木の台が商品の置き場にしてあった。秀樹は上がり框からその台へ跳びうつりまた跳んで戻るのを遊びにし、危い危いと叱られたが怪我はしなかった。土間には自転車を入れるので晩は狭かった。家の中の履物でも盗まれる時世だった。自転車を戸外に出しておくなどは出来ない相談だった。
店土間の奥正面は、中の走りへ通り抜ける仕切りのガラス戸だった。下は板、上半分が一枚ガラスなのだが、これは刷り硝子でも透明でもなく、奇妙に蟻のような人形のようなちいさい形を無数に凹凸させた不透明な化粧硝子で、中は透けて覗けない。秀樹は、指先につぶつぶするこの硝子の形をなぞったり眺めたりして飽きず遊んだ。一種の小宇宙かのようにいろんなことを空想した。
土間の仕切戸を奥に入ると、左の東側が三畳の中の間・居間だった。一畳半の間口にガラス戸が立っていて、戸の外側、上がり框ふう縁側ふうに、上げ蓋で炭などの物入れが作り付けてあった。黒塗りの木の物入れで、何枚かの蓋の端には指をさしこんで持ち上げやすいよう、むくりとした半月様の穴が明いていた。ビー玉など、穴から炭や豆炭や練炭の下積みへ転げ落ちた。難儀だった。馬鈴薯や玉葱も母は容れていたかも知れない。
中仕切りの硝子戸より内の通路を「走り」と呼んでいた。たぶん通路も竈も炊事場もふくめて台所を「走り」といい、炊事場や洗濯場は「流し」といっていたように思う、その走り(道)――と言っても姥島のは縦に畳三、四枚ほどの短いものだったか――へ踏み込んだすぐ右の西側には、大きな横長の戸棚がおいてあり、上には棚も造って何枚もの餅船や井籠(蒸籠)が積んであった。姥島の祖父が、縄手の時代に南座などへ卸すかきもちを焼いていた名残で、井籠も餅船もかつての商売道具だった。だから大きかった。
自転車を、日によってこの棚の前まで入れていた。狭苦しかった。上がり框と、向き合った戸棚との間は店と同じに三和土にしてあった。戸棚の脇に木の冷蔵庫が置いてあり、夏は氷を一貫目二貫目ずつ買い、食べ物を冷やした。腐るものはそれでも腐った。西瓜やトマトや瓜は「流し」の水槽に、また大きな金盥にも井戸水をはって冷やしたり、じかに井戸へ紐と網とで沈めていた。あんまり暑いと冷蔵庫の氷で「かちわり」をつくってもらい、ファッファと口を動かしながら頬張った。
冷蔵庫の脇に漬物のこぶりの樽があり、よく漬けていた。大根、水菜、きゅうり、茄子、蕪。裏の「流し」にももっと大きな糠床ができていて、浅漬、沢庵、菜漬などはみな家でまかなえた。梅干も家で漬けた。漬物樽のまた脇に醤油樽があり、注ぎ口の下に煉瓦を枡に積んで、茶色い陶の片口がのっていた。小出しに醤油が溜めてあり、暑い季節は表に白い黴が盛り上がるように生えた。片口を傾けると下から綺麗な醤油がとくとくと流れ出る。母も叔母も、父も、黴など平気だった。
その辺から奥がほんとの走り土間だった。通路はやや右へねじれて狭まった。狭くなった分、東側の高い壁に、大きな、ちょっと大きすぎるほどの竈がデンと造りつけてあった。バケツで何杯も何杯も汲み入れねば満杯にならないほどの大釜が掛かっていた。隣には二升の米のらくに炊ける大飯釜の竈も出来ていた。二つの竈は一体に造られ、焚口はべつだった。これらもいわば餅は餅屋の商売ものの規模だった。暮れに餅つきをするときは、威力を発揮した。餅米を蒸し上げるのに大井籠を何枚も一度に積んだ。向う三軒の餅も一緒についた年の暮れを何回か秀樹は覚えている。
夏の行水にもこの竈が活躍した。大釜に水を張るのが力仕事だった。水道水はもったいないと、わざわざ井戸水をバケツに汲み出して運んだから、二重の労働だ。冷えた井戸水を焚きものを費やして沸かす方がもったいない気がした。竈の向かい側には木梯子や脚立などがむき出しの荒壁に立てかけてあり、古い物干竿や国旗の竿も立っていた。浅い汚らしい下駄箱も置いてあった。下駄箱の蓋の蝶番はほとんど片方が壊れ、傾いていた。なまじ蓋の付いてあるのがだらしなかった。だが誰も修繕しない。秀樹もしなかった。
竈のならびに、古びたガス焜炉が一つ。五十センチとない炊事場の横に、同じほどの洗い場と水溜めと。粗末に棚など吊って、数少ない鍋釜や金盥やしゃもじなどが置いてあった、鼠の通路だったが。ちゃちな布巾掛けの布巾が醤油で煮染めたほどになっても使われていた、水屋の引出しに新しい布巾がいくらでも仕舞われてあったのに。「走り」「流し」の照明は、裸の二十燭ていどの電球ひとつで、立っていても腰は痛み、足元は冷えこみ、母の気の毒さは言語道断だった。ここへこそ六十ワットでも百ワットでもつければいい。一家の台所がこんな場所で賄われているなんて、考えられへんと、秀樹はなによりも貧相なこの「流し場」の有体に非難の思いを禁じえなかった。
叔母は母をほとんど手伝っていなかった。二人も大人が立てば身動きのできない貧しいスペースだった。大屋根なりに傾斜してむきだしの天井の、高いところ、やや低くなったところ、二ヶ所に小さな天窓があいていた。真昼こそ明りがそこからとれていたとはいえ、そんなものは只そんなものでしかなく、母が若いうちから料理に情熱をもてなかったのも咎められないほど、ひどい台所=走り=流しであった。
似た家の多かったであろうことを、今は、察している。家屋の基本構造と全体の狭さから見れば、女の場所など形ほどあればよいという思想、「堪へて忍べば済すあり」の思想が出来上がっていた。裕福に、自由な感覚で、家の中を暮らし易く易くという思想でアレンジした家が、そうそう在り得ようわけがなかった。時代の常識だった。女は気の毒という考えが、よかれあしかれ秀樹に芽生えていた。
狭い内流しからまた一段と粗末なガラスの桟戸を奥へあけると、戸外ではない、瓦屋根を葺いてもっと奥への通路になるのだから、ま、外流しといっておくが、そこに井戸と井戸端があった。井戸は深くに鈍い銀色の水鏡をうかべ、水は豊かで冷え冷えと澄んでいた。太い縄のついた釣瓶でギイギイと汲み上げた。井戸べりは高く、秀樹も危険なくかすかに中が覗けた。ワウワウと声の底籠るのを聴き聴き井戸を覗くのが好きだった。別の世界が手の届かぬうすくらがりに沈んで自律している感じがした。幻覚を、むしろ誘おう誘おうと井戸を覗いていた。
井戸の東側がじかに板塀だった。塀の上から笹が覗いていた。山茶花のひょろとした頭も覗いていた。向うは奥の間の縁側、泉水のある坪庭だった。井戸側を鍵の手にまわった塀の角に庭に出入りの木戸があり、泉水の水をさらえて新鮮な井戸水にすっかり汲み替えるのが、やがては秀樹の仕事になった。井戸水をこの木戸から運びこんだ。
内流しから戸をあけて出たすぐ右に、水道の長めの蛇口が壁から一つ突き出ていた。下に四つ脚の簡単な木の台があり銅の金盥が載っていた。蛇口のわきに歯磨や歯ぶらしの置ける棚が付き、そこが、むき出しの壁に真向かったつまり洗面所だった。壁の足元には幅十五センチほどの溝が切れていて、戸柱のすぐわきへごぼっと水はけの穴があけてあった。穴は、外の路地下を通った排水溝に通じていたのだろう、拳大にごぼっと沈んだ穴だった。思い出すと妙にこわい昏い穴だった。鼠も蛇もこの穴を出入りしていた。
三和土で鍵の手に井戸側を囲んだ通路の、西の壁ぎわにも、南の、薮本家との隔ての板壁にも、ガラクタがあれやこれや雑然と立て掛けたり、吊った棚に載っていたりした。網を張った大小の「とおし」が二つ三つ、みんな古ぼけた灰色をしていた。どんな好奇心もひっこんでしまう場所で、好きな井戸といえどもうかうか覗いてられなかった。背中の辺から何が動いて出るかも知れない。だが、真夏に行水の場所は、この井戸端であった。大きな、なかなか立派な木の盥が夏場は棚から下ろしてあった。
井戸端の鍵の手を、木戸でなくそのまま右奥へ踏み込むと、薮本家の領分だった。薮本の母娘が出たあとへ、後に、姥島の叔母が移り住んだ――。
薮本の領分に入ってすぐ東向きが、薮本用のむきだしの男便所で、半開きの朝顔が壁にくっついていた。前はレンガ積みの踏み台で、小便は肥壺へ落ちていたのだろう。男便所からくるりと振り向くと、西の壁際に畳半分の幅もない「流し」がついていた。左が壁、右が、姥島の井戸端を奥で仕切った板張りの裏側になっていた。ほとんど人一人分の幅しかなかった。あれでも炊事場にちがいなかったが、狭かった。みすぼらしく汚かった。炊事場に立った尻の辺に半間の引き戸があり、その奥が、つまり薮本「ミッちゃん」らの住まいだった。
さきの男便所で左に向くと、身幅より広めに雨ざらしに一間ほど、突き当たりの通路があり、左板塀の裏が姥島の泉水だった。ドン突きに木の戸がしまっていて、姥島の小便所へ上がれた。右にもまた別の戸があり、戸をあけて一段上がると、そこが薮本の大便所だった。その大便所と姥島の大便所とは、板一枚の隔てで向き合っていた。肥壺は共用だったかも知れぬ。板の向うでも人のしゃがんでいる気配は何度も何度も覚えがある。しゃがんだまま、「ミッちゃん」と普通に喋っていたことさえある。
こういう家に迎えとられて秀樹は幼稚園に通い、一年生に上がり、最初の夏休みを意外にからりと明るく楽しんでいた。夏休みが嬉しくてかなわなかった。


梅雨も明け、京都の夏に祇園会のやってくる賑わいは、子供ごころにも陽気だった。真っ白な簾を一瞬に天からなげ掛けたような小気味よい夕立あとの、涼しさ。盥行水のさなかにそんな夕立がくると、浅い湯につかっている肌から汗がひき、ものに当たってはねかえる雨のしぶきが冷たい。「ちめたぁい」と声をあげているまに、もう夕立は過ぎて行ってしまう。
井戸釣瓶、木の大きな盥に澄んだ熱い湯。焼板の黒い塀越しに、笹の緑。にわかにかき曇ったかと見るまに大粒の驟雨が来て、そしてまた青空。便所のかすかな臭気や、走りで立ち働いている母の気配。やがて夕飯だ。
そんな夕方の食膳は奥の縁側にもちだされることが多かった。夏だけだ、だから新鮮だった。仏壇が開いている。ちょっとしたお供えのものと一緒に、「熱御飯」を炊いたときは、きまって「お仏飯」と「お水」とを上げる。上げる役は秀樹がした。チーンと鉦を打った。
あの時分の母は、きびきびと、よく立ち働いた。仕事の先を先を走るように用意をし片付けをし夜なべの針仕事をしていた。そういう叔母は見たことがない。嫁とはこういうものかと、いやおうなく見覚え、それが当たり前とは秀樹は思わなかった。もっとも叔母に比較してそう感じていたので、そうでなかったらどう感じていたか分からない。「女の仕事」と気にもかけなかったか。
母の働きを見たり感じたりしていると、それが、年中行事というと大概そうだが、ま、盆や暮れなどそういった節季と連動していることに、自然気づいた。
夏の盆は京都では八月十五日だ。姥島は、けっして信心深い家庭ではなかったが、それでも母の仕事は目立ってふえた。障子の張り替えや、仏壇のこまごました仏具をぴかぴかに拭ったり、お精霊さんの「おもりもの」を飾ったり供えたり、それが数日にわたる。坊さんがお経をあげにまわって来る。来ないこともある。毛のない黒い頭にもっと黒いしみのぽつぽつ出た小柄な坊さんで、なにか小動物が化けて茶色い衣を着ているように見えた。ちっちゃな目で秀樹を見てにやっと笑ったりした。姥島の家ではめったにあることでない、お茶が出て、たまに小さな菓子が出て、うすい包み金が盆にのって出た。呆れるほど小額で、お印しの程度を出なかった。それでよいと父はきめていた。仏壇に向って手を合わせるのは形ばかりに母と叔母と秀樹とで、父の、祖父のそういう姿は記憶にない。
盆が過ぎると、地蔵盆。
京の夏を、京の子供たちの残り少ない夏休みを飾る最高に(こんな拙い形容詞をあえて使いたいほど)楽しい嬉しい行事であり、風情も雰囲気も町内各自の趣向で創作されてゆくのだが、だが、まだ学校の一年生時分はやっと顔を出すといった程度で、それまでは親に背中を押され、しぶしぶ、おずおず、せいぜい福引を引きに行っていた。常とは変わってぜんぶ親掛かりの舞台桟敷まで用意されて、子供らがそこへ集まり、レコードの音楽に囃されるようにしていっしょに遊ぶ、大人も取り巻いている――というのが気恥ずかしかった。奥の間の畳に寝転がって、畳の目をかぞえながら空想しているほうが勝手でよかった。ちょっぴり行って加わってみたく、だがめんどくさい、てれくさい。人と寄合うのを楽しいとばかりは受け入れにくい性質だったと思うしかない。
父は、「アンプ=」拡声器のことかと思うが、町内の地蔵盆にはこれを蓄音機とセットで貸し出していた。この季節になると前もって父はしまいこんだ器械をひっぱり出し、器械に予行演習をさせた。我が家にも「レコード」なる円盤が所有されていた、たった一枚だが。歌詞もメロディーもほぼまちがいなく覚え込んだ。すすり泣く、なんと大阪「道頓堀」の演歌だった。作詞家にも歌手にも関心がなく、覚えていない。

今はたまさか逢ひもせぬ
春の踊りの君いづこ
憧れてゐたあの頃の
道頓堀がなつかしい

心も身をもささげしを
ほいなく別れた夷橋
ジャズもつかれて泣きじやくる
道頓堀の灯がうるむ

雨よふれふれ濡れてやろ
日本橋の糸柳
今宵もたれか待つてゐる
道頓堀の夜はながい

書いてみると頼りない。たしか三番までと思った誰の作と知るよしない歌詞が、あれこれ錯綜してくる。しとどの雨の身にしみこむように、だが、このメロディを何年も何年も聴き、この歌詞を何年も何年も聴いた。戦時中から戦後へ、いちばん継続して姥島の家で鳴りつづけたこれがもし音楽的基調というものであるのなら、作家「奥野秀樹」には演歌がしみついていて、生涯の美空ひばり好きへ繋がった、むろん、ひばりの影のまださしてはいない戦時下であったが。
蓄音機にちがいなかった、が、父の所蔵品はむきだしの器械部分ばかり。嵩ばるのを嫌ったのだろう、父なら片手で持てるモーターそのものを大事に手入れしていた。外函など無いも同然で、レコード盤ののる緑の円台も色褪めてちびていた。なんとも経済的なしろものだったが、それがまた妙に今でいう「プロフェショナル」な感じがして、納得して父の器械を扱うのを眺めていた。「今はたまさか逢ひもせぬ」などというやるせない演歌がのんびりと静かな新門前通に漏れて流れて、表を通って行く人の下駄の音が相いの手のように聞こえた。いい新門前通だった。
盆から地蔵盆のころは、家で仏壇のはなやぐ季節だ。さほど大きくなかったが、黒塗りの、観音びらきの扉も二つ折りだか三つ折りだかの仏壇に、お位牌が二つ入っていた。一つには観室妙音信、のあとが「士」か「女」かふと曖昧だが、そんな戒名が二つ並んでいた。祖父の両親だと聞いた。もう一つは片方があいていて戒名が一行であった。父や叔母の幼い時分に亡くなった母親ので、空いたところへはいずれ今目の前に座っている祖父龍吉の戒名が入ると聞いた。堪らない…気が、した。「お灯明」がたつと仏壇の奥がたちまち他界にみえ、線香がほそい煙をあげる。見入っていると吸い込まれそうだった。いちばん高いところに仏さんの黄金色が見えていた。宗旨は浄土宗。ご本尊は阿弥陀如来。だが「仏像」にはまだなにも感じてなかった。それよりふり仮名のついた「般若心経」をこの小僧は声をあげて誦したものだ、ま、道化のうちだった。むしろ吊ってある灯籠や仏壇の扉のこまかな細工に感じ入っていた。リーンと鳴らす鉦、カンカンと打つ鉦、ぽくぽくと叩く木魚、紫色した綿の厚い木魚台の手ざわり、数珠、ぶぁッとひろがる折り畳みの過去帳、仏壇下の地袋。引手。なにを見てもただ珍しかった。ふだんの姥島の家を支配していた空気とは、異質な「文化」の気配があった。
大きな蓮の葉に野菜や果物を盛った。ときには小茶碗で丸く抜いた白飯も盛った。蓮の葉の濃くつややかな緑を美しいと思ったし、露の珠がはじけて転んで、たちまち湖になるおもしろさ、堪らなかった。おなじ「たまらない」という気持ちにもいろいろある。そういうことも意識するようになった。
夏は野菜の季節。これが難儀で、楽しい夏ののがれえぬ苦役だった。
茄子。なんといういい形、いい色だろう。キュキュッと音をさせて握っていると、奇妙な気分になる。わるい気分ではないのに、すこし恥ずかしい。そんな恰好のいい茄子が、煮ると、どうしてあんないやな気味のわるい色になり、ぐにゃぐちゃっとしたものに化けてしまうか。種ぶつぶつの、いやな舌ざわり。泣いてもわめいても食べたくなく、泣こうがわめこうが母は一口二口は口に押し込まずに済ませなかった。
次ぎが南瓜。あのゴブゴブと豪快な堅さの重み。太いへたの豪気さ。両掌によいしょと載せたときの多彩なほどの感触。大きさへの感動。だが、煮つけたヤツのなんという食べにくいいやな味。参った。煮かたがあまいとべちょついて口中を汚くよごす。茄子よりはほんのすこしましだが、参った。
胡瓜も真瓜もトマトも遠慮したかった。青い菜っ葉もいやだった。玉葱を卵でとじたの、キャベツを「お揚げ」で煮たの、だけを食べた。煮た魚が生臭くて嫌いだった。
「食べるもん、あらへゃないか」
母は怒った。もっともだ。だが白飯に醤油をかけて食うぐらいで十分だった。飯は好き、梅干も好きだった。油で揚げたもの、汁が好きだった。汁飯をかきこむ方だった。「貧しい」という言葉を精神的に用いていうなら、秀樹の食生活はじつに貧しかった。親のせいではなかった。
食べものとしての野菜は大方嫌いなのに、茄子をはじめどんな野菜も果物も、なんといい形なんだろう、いい色なんだろうと、土によごれたじゃがいもでも掌にのせて握ったり見入ったりするのだった。咲いている花の萎れやすいのより、葉のかたちのいろいろなのに先ず目をひかれた。押花にはたいがい失敗したが、押葉はなんとか恰好をつけて、二学期の始業式の日には意気揚々と持参した。そんな成果が吉村玉野先生の口から教室で話題にされ、少しずつ「発表力良好」の姥島秀樹は国民学校の日々に馴染んで行き、また自信ももちはじめ、それでもやっぱり右と左に戸惑ったり、朝会の運動場で、遠くの台の上から三宅教頭に名指しで文句をつけられたりした。近くで、「ひいき、ひいき」と囁きわらう生徒がいた。「勝手に、せ」と思えるほどにはなっていた。
だが、あんまり情けなかった一つのことに触れておく。
運動会であったのか、体操の時間であったか。人がざわざわと大勢だった記憶があるから、運動会。それなら、秋。そうとも言えない、あの頃「大運動会」「小運動会」と二つ運動会があったから、小運動会なら一学期中のことになる。そう思う。気が進まなくても、むろん参加しなければならなかった。
運動神経は鈍く、棒のぼりも鉄棒も大の苦手だった。要するに怖くて、だが、出来ないのも恥ずかしかった。
練習の気持ちで、家で、柱によじのぼりのぼりするのを習慣にした。たいした柱ではない。奥の障子をあけると間口いっぱいに浅い縁側があり、鍵の手に、左、東寄りに半間幅で廊下が便所へ伸びていた。そこの鍵の手の角に、屋根を支え、柱が一本、梁まで立っていた。大人ならちょっと背伸びすれば梁に手の届く高さだが、少年には恰好の、やや太めの登り棒だった。盛んに登り出した。梁までのぼると、眼下は泉水、金魚やちいさい鯉も泳いでいる。「絶景かな」ぐらいの台詞も言えた。ご機嫌だったが、学校へ行っての登り棒は勝手がちがい、ゆらゆら揺れた。登れなかった。そのうち家での柱稽古が祟り、股関節が脹れて整形外科に通うはめになった。柱登りは即座に禁じられた。相変わらず体操の時間はいつも臍を噬むばかりで、恥ずかしかった。
そういう秀樹の初の「小運動会」に、なにを思ったのか、母は、息子にラクダ色の「コンビネーション」というものを着せて学校に出した。両手両足首まで胴体部と一着に繋がっていて、だから「コンビネーション」なのだろう、胸もとから股のところまでが縦に割れている、それを前ボタンで止める。かぶりもののないまるで縫いぐるみで、体のうしろ側は背から尻や足までのっぺらぼうに繋がっていた。
母がなにをどう考えたか分からない、が、風に当たらず温かいとでも思ったか。
それにしても、下にパンツもなく、この恰好で徒競走「よーい」の一線に並んだ秀樹の落ちつかなさは無かった。異様な恰好だった。そして走り出せばたちまちに前ボタンははずれた。なんともかとも収拾つかないていたらく、これで泣き出したのは我ながら無理もなく、ただただ身の不運が恨めしかった。みじめだった。悪夢だった。かけらも懐かしい思い出ではない。


とくべつ「二学期」の頃はと蘇ってくる記憶は乏しい。
秋の「大運動会」の予行練習が何度もあった。音楽の伴奏で、運動場に中央整列の状態から、幾重にも渦巻くようにして、紅白組に分かれ、学年学級べつにトラックをとり巻いた所定の位置につく稽古を、繰り返し、した。
全校生徒が一度に集まる、集まって動く、そういうことが重苦しく邪魔くさく、好きになれなかった。なにかというと、あの時代、分列行進をした。校内だけでなく、八坂の護国神社参拝に全校生徒で町の中を行進した。近所の人に芝居がかった整列をして歩調をとって歩く恰好をみられるのが、不自然でいやだった。歩くのがそもそも嫌いなのに、行った先の山の中腹の拝殿前で、砂利を踏んで静粛と整列を強いられ黙祷をささげる。黙祷はいいが、一斉になにかして皆の動きに同調するというのが上手くなかった。そしてまた同じ道を同じように行進して学校へ帰るのだ、うんざりだった。
毎月八日は、大詔奉戴日。早朝の校庭に左右に整列した間を、フロックコート姿の校長先生が、厳かに運動場東端の奉安殿の扉をあけ、天皇陛下御真影をささげもって西の端の講堂に入り、写真を壇上にお飾りする。そして「君が代」を歌ったり教育勅語を聴いたり、訓話を聴いたり、最後に「海ゆかば」を斉唱する。ずっと立ちづめだ。一人か二人がきっと倒れた。秀樹は一度も倒れなかったが、苦痛だった。儀式の権化のような「ちょび髭」の校長に親しい気持ちは一度ももたなかった。
「君が代」の曲が最初から気にくわなかった。「きィみィがァァよォォわァ」と母音がだらしなく伸び、「が」の音が汚くて、歌いにくい。紀元節の歌の「雲に聳ゆる高千穂の」の詞や節のほうが百倍も好きだった。「海ゆかば」では、「水ィ漬ゥくかァばァねェ」もいやなら、「大君の」で音の低まるところが苦しく、「屁ェにこそ死なァめ」と聞こえる歌詞がおかしかった。だれに聞いても「傍にこそ」とは思いもよらない、「屁にこそ」と歌っていた。そんな歌詞を何故書くのかと疑った。
あの時代、唱歌は国策として奨励されていたのか、「式」のたびに儀式歌のほかにいろんな歌を、余分に歌わせられた。式の予行演習もやたらやった。教室にもオルガンが常時あって、吉村女先生もオルガンを弾かれた。「お月さまえらいな、お日さまのきゃうだいで、はるなつあきふゆ、日本中をてらす」だの、「うみはひろいな大きいな、月はのぼるし日がしづむ」だのと大声で歌うのは照れくさかった。月が「えら」くて、「日が沈む」などなんだか時節柄もへんに感じてひっかかった。だが、大概の授業のことはきれいに忘れはて、片端も蘇ってこない。
校舎には印象が濃い。生まれて初めて関わりをもった鉄筋コンクリートの、長大な三階建てビルだった。「すッごいわあ」と思った入学の日最初の賛嘆は、親しむにつれ深まって、自慢したい嬉しい共感は卒業の日まで衰えなかった。はででもなく、泥臭いところは少しもなく、堅固で、端麗で、白い汽船のように照った校舎だった。運動場の広さも誇らしかった。「ほんまに広いわあ」と思った、とくに一、二年生、いや卒業するまでそう思っていた。こまかなきれいな敷砂が、白く、いつもうすく光っていた。南側は塀越しに古門前元町の民家の二階裏が見えた。塀ぎわに桜や棕櫚の木が植えてあり、数メートル離れて、登り棒や雲梯や低い鉄棒が東の方へ一線に並んでいた。向うに体育具などの収納小屋があり、その前、運動場の南東に位置して高い鉄棒と砂場とがあった。砂場へは休日にもときどき遊びに行った。相撲もとった。もっと後には放課後跳び箱や幅跳びなどもしたが、ついに鉄棒にはまともにぶらさがれなかった。
砂場の北隣にはちいさな築山が添って、石造り二枚扉の厳重な奉安殿が建っていた。北側にもあいまいに木などぼそぼそ植わっていた。その辺から、運動場が漏斗の細い筒のように東の端へ、校舎の北側へ変に延びて回って、なぜだか高い金網で囲われていた。金網へ嵌めたように、誰が通るのか、ごく狭い出入りの木戸が造ってあった。
いま思うと、奉安殿の裏手、運動場の真東側が高い塀であったのか、金網であったのか、うろ覚えで、はっきりしない。東山がいつも青々と見えていたのは間違いないが、塀だとして塀の向うはちょうど若松・若竹町の辺にあたるのだろうが、南側とちがい、そっちの家並が表にせよ裏手にせよ見えていたという記憶は皆無だから、塀であったろう。二階ぐらい見えたはずなのに、記憶に無い。幻かも知れず、砂場や奉安殿の向うは金網越しになんどりと陽射しに照った静かな菜畑だった影像がときどき蘇る。そんなわけは無かろうに、である。
有済校の校庭は東西に長い、南北の短い長方形をしていた。東の奉安殿と真向かいに、西に広い間口の堂々とした講堂があった。奥行は間口よりなお深く、体操場をかねて大きかった。天井も高かった。式も学芸会も、雨の日の体操や遊びもここでした。講堂の前は三和土の、低い庇屋根のある通路になっていて、体操の時間を休んで「見学」する時は、その辺に座らされていた。屋根を支える細い柱が何本かあって、それを抱くようにして運動場を見ていると、東の端がずいぶん遠く見えた。視線をあげると緑濃い東山が見え、緑に埋もれて知恩院さんの大きな甍が見えた。
北側は、敷地の長さいっぱいに校舎が伸びていた。運動場だけでなく講堂の奥行きの分も校舎が平行していた。校舎への昇降口は西と東とに二箇所あり、便所は長い校舎の中ほどをやや窪ませた内側に在った。外の、窪みのところに、巨大な椋の木がすてきに枝を繁らせていた。三階の校舎よりまだ高い。すこし離れて幹太く真っ直ぐ伸びた銀杏の巨木も二本立っていたが、枝ぶりの立派さで椋の大樹はさながら長者に見えた。入学早々の一年坊主は、みずみずしい若葉をふきあげた大きな大きな「ムクの木」に格別畏敬の念をおぼえていた。
それだけでは、なかった。
根まわり子どもが手をつないで八、九人分はある椋の木のすぐ右脇に、雨洗い風磨くていに膚も寂びてしおらしい五輪の石塔が、相応に敬意を払われて囲ってあった。「山吹御前の墓」と標した小さな石柱も立ててあった。木曽義仲愛妾の一人と以上に秀樹には山吹御前がどこの誰やら分からない。同じこの有済校を何十年もむかしに卒業した父も叔母も知らない。先生に聞いても知らない。たぶん薄幸の美女にちがいない。巴や板額とは人柄を異にした、凛々しく優しい京の女人の、実のある話の一つだに伝わらない奥ゆかしい鎮魂塚の一つらしい。椋の実は熟れると黒くちいさく数かぎりなく落ち、生徒らは競ってその甘さを拾い求めたが、この誰とも知れぬ山吹御前の遺髪を埋めたという墓の上には、年々歳々ひときわ沢山な木の実が降るように落ちていた。腕白な男生徒もこの塚の、この五輪の塔にはようわるさをしなかったのは、久しく育まれてきた「京おんな」への敬意だったか、甘い木の実を恵んでくれる椋への感謝からだったか。
だが、この明らかに「ムクの木」の左横にこれも何が何としたやら、「榎明神」の三字を刻した石碑が建っていた。今も立っている。由緒来歴は一切分からない。が、榎とあれば多少は怪談がらみの印象もあり、その気になれば登るに恰好の碑の高さ細さであったのに、いたずらに取りつく者もなく怪我した者もなかった。いわば大樹の蔭は、生徒の目にも侵しがたい聖域であった。
全校集会のつど秀樹は「堪へて忍んで」好きな椋の木を見上げ、「済す有る」の早きを念じて三宅先生の説法を聞いた、いや聞き流していた。「注意散漫」も至れり、そういう根性を打って堪え忍ばせる工夫の一つか、先生方は、日向にいならぶ全校生に対し「ぴりっとも動かない競争」と称する直立不動、堪忍の行を毎朝のように強い始めた。気をつけの姿勢で、ぴりっとでも動くと、動いた者から教室へ罵声もろともに追い返されるのだが、当初は、終いまで居残るのが全校の名誉であり、一年から六年まで誰もが気張って彫像よろしく凝り固まって精神一到直立していたものの、やがて人より早く教室へ帰って行けて校庭のしんきくさい緊張を遠目に、のんびりと遊んだり喋ったりの方がらくと分かると、よほどの者以外は遠慮なくぴりぴり動いて、難行苦行の憂き目をさばさばと免れたものであった。
さてどっちの手合いが「済す有る」今日を過ごしていることやら、今は老い痩せながらも青々とまだ葉を繁らせたあの椋の巨木をなつかしく思い浮かべる時、決まって秀樹は戦時下教育の物哀しいような苛立ちに就ても考えずにおれない。


有済学区は京都市東山区に属しているが、設立の頃、この界隈は下京区の一角をなしていたという。姥島の家のある新門前通を南限に、三条通を渡って孫橋辺を北限に、西は縄手(大和大路)、東はおよそは東大路(東山線)でほぼ四角く区切られていた。
学校は、古門前通の西端にちかく北側に位置して、校門を、古門前元町へ開いている。およそ学童数が当時で六百、六年生まで各二組のこぢんまりした学校で、秀樹の学年は一教室に五十五人前後が入った。戦時中、敗戦後も、同じく、各学年が二組制に変わりなかった。
学区域より南側は祇園の廓になり、弥栄小学区。東は粟田小学区、西は疏水と鴨川が隔て、北はもう左京区になる。「有済」は「粟田」学区とともに東山区のちょうど北の端を占めているのだ、現在も。おおよそ正方形の学区だが、三条大橋の、東二と三丁目という町内が大通りより北側へ瘤を出しており、東山線の南寄りでは松原町と石橋町とが大通りの東側へやはり瘤を膨らませていた。逆に北寄りでは東の粟田学区がごく一部分東山線より西側へ越境していた。いずれ地域に浸み入った過去の事情があってであろう。
学区というのは小学生時代の小国土を成していて、さらに幾町内にも分かれている。町内からべつの町内へ跨いで行くのでさえいくらか「他郷」を意識したぐらいだから、よその学区域へ踏み込んで行くのは、なまじ隣り合う場合ほど緊張があった。子供同士でもなんだか人種がちがうぐらいに感じた。「われわれ」と「かれら」との、「内」と「外」との感覚はあんなふうにして子供の時分に培われてしまい、大人になってでも「うちら」と「よそさん」という挨拶の違いになっている。
そんなことは有済学区に限ったことではないのだ、だがこの学区は、別に、言うに言われぬ歴史を抱えてきた。そのことを見過ごして、見て見ぬふりをして通り抜けてしまうわけには行かない。だが、胸のうちでいろいろに思ったり感じたりできても、手でふれにくく言葉でもふれにくい。
では、触れずに通り過ぎればいいか。いやいやここを無かったことと見捨てて通っては、作家「奥野秀樹」の、少年姥島秀樹の「根」が語れない。「幹」も「花」も「実」も語れず、わけの分からないことになってしまう。それほど、この問題に秀樹という「樹」は意識して関わってきた。どう真向かうか、悩ましい難所だった。
例えばいま歴史的な古地図があり、当時の「有済学区」が眼下に眺められるとしよう、「新門前」「古門前」「縄手」「三条」などと地名の記載がある。そうした中で、およそ正方形の北側半分余を大きな長方形に「三条川東」として括ってある区域の、東寄りに、地図・地誌により一部「あまへ(アマヘ)」「余辺」「余部」などと記入されてある。近世前からの表記であり、行政では「天部村」とある。
「川東」地区を長方形というのは実は謬りで、現在でこそそうなのであるが、昔は、いま在る東大路通というのが、なかった。存在しなかった。明治末から大正初めへかけ、「東山線」といわれた市電の軌道敷設にともない大通りが強制的に開通した。祇園の八坂神社石段下から北向きの道路は、浄土宗の総本山知恩院下の松原町、石橋町から、白川沿いに旧三条通りへ細々と昔は繋がっていた。現在の東大路といった新道はさように近代のもので、祇園石段下から「コッポリ」といわれた小堀遠州ゆかりの古道は、古門前通の東末、知恩院へ入る大きな石橋の前で弓なりに北東へ曲がっていた。菊屋橋を渡り白川ぞいへ逸れていた。その道はいまもある。白川にいくつも石の細い橋を渡して柳の並木が東西の川べりを彩り、遥かに比叡山が遠霞んで眺められる。アメリカの映画俳優マーロン・ブランドが、日本でいちばん印象的に美しい眺めだと帰国後に褒めていたといわれている。
白川の西には、民家のかげに古川町商店街が、向かいの店と店で手の届きそうな細い道だが、軒を連ねて三条通まで、商売繁昌で賑わう。そこは粟田学区なのである。
古地図での「アマベ」「余部」つまり天部村は、現在では東大路と変わって開けてしまっている辺までを占めていたようだ、「南北九六間余、東西七六間余」(『京都市の地名』平凡社)と記録されており、東三条社とも称した大将軍神社が在る。延暦の昔、平安遷都にあたって皇城の四方に大将軍を祭ったうちの一つというが、相殿や末社に藤原兼家や道長の祭られているところからみると、藤原氏の本拠であった東三条殿との関連も考えられる。ただ、東三条殿の場所はここではなかったが。
主観に流されまい、平凡社刊『日本歴史地名大系』他の専門書を座右に、概略を理解しておきたい。
鴨川の東、京都市の現在「東山区」に相当の山麓地に夥しく実在した寺社建造物は、南北朝の動乱、応仁の大乱などを経て、荒廃と再興を繰り返しながら徐々に耕地化していた。近世に入るとこれが急速に市街化してゆく。三条、五条、伏見街道など主な幹線沿いはほぼ近世初頭には町並になっていった。十八世紀ともなれば東山区の平坦地は、ほぼ尽く町家地になり、広大な「洛外町続き町」を形成していたのである。
東山区が示している際立ったこの特色を、江戸時代の行政単位からみてみよう、それは地名事典の「東山区」目次にもはっきリ反映している。「三条川東」「天部村」「知恩院門前」「四条河原」「祇園村(町)」「祇園廻り」「建仁寺門前」「清水寺門前」「大仏廻り」「東福寺門前」「泉涌寺門前」「新熊野村」「清閑寺村」「粟田口村」ほかとしてあるが、近世支配だとこれに「柳原村(庄)」も加わっている。東福寺門前だけが山城国の旧紀伊郡に属し、他は旧愛宕郡に属している。一目瞭然、さながらに大寺社領の観がある。祇園は八坂神社、大仏は豊国社・方広寺、新熊野もむろん神社の名であり、粟田口も京の七口の一つで粟田神社や幾つもの古寺を広い地域の芯にしている。このうち「洛外町続き町」を成さないのは、新熊野、清閑寺と、柳原、天部との四村だけであった。
いま一つ特色として挙げるなら、この四村以外、町家になっていった地域の多くは、つまり「遊興地」「歓楽街」に転じていった。もともと「遊び」は、歴史的にも「寺」「社」ひいては「仏」「神」ないし「死者=霊魂」と縁が濃かった。むろん風光明媚の景勝地であることも人を寄せる誘因であった。祇園という花街がいまもあり、宮川町も廓として営業している。初代の「音羽屋」尾上菊五郎が出たのは遊所の宮川町辺だった、歌舞伎発祥の地である。五条、七条へかけても「歓楽地」は鴨川ぞいにつづき、遠く伏見・中書島や江口・神崎といった水駅の歴史につながっている。
そればかりではない、祇園下河原も、清水下も、粟田口から蹴上辺も、建仁寺の東も、縄手も、みな遊客を待つ色里でなくはなかった。それに応じていろんな店ができ、職人も働いた。「四条河原」には、かつては能が、近世には歌舞伎踊りが繁昌したのもごく自然必然、みな、寺社の周囲にたちこめている神仏・死霊を慰め鎮めるための「遊び」から育ってきた。東山区の大半が、平安京の昔には鳥辺野・鳥辺山とかぎらず、鴨の河原から東の山原へかけ、いたるところ壮大な死者たちの青山=他界を成していた。うち重ねて寺社が建ち、貴族の別業地としても栄えた。
京都では「お寺さん」「お宮さん」と敬って謂う。信仰して言うというより、信じられぬほど多くの生産や販売や芸能や歓楽の仕事が、つまり「お商売」が、大寺社という名の貴族的領主の需要から生まれ、その洗練が「京風」を誇り得てきたからだ。寺社あって立ち行く稼業が、あまりに多く生活を支えてきた。そんな京都市民が大なり小なり寺社に奉仕の気持ちを培われてきたのは、よしあしは別にして、歴史の名において説明できる。
「奉仕」にもいろいろ有った。経済的に寺社支配を満足させれば済む、持ちつ持たれつの奉仕もあった。だが、さながら、隷属しての奉仕もあった。神があり仏があり「死」の世界に隣接し、しかも貴族の権勢のあるところ、どの時代にも余儀ない隷属を強いられた人たちがいた。
有済学区は、「三条川東」に「天部村」の加わった北三分の二の長方形と、「知恩院門前」といわれた古門前通、新門前通から成る南三分の一の短冊形とに分かれていた。浄土宗総本山知恩院の明らかな門前町である二つの通りは、東山線から縄手通まで東西に、途中ごく小さく一とくねりするが、ほぼ真っ直ぐに道が通っている。二十一世紀ちかい今も十八世紀の昔も同じで、上知恩院丁、下知恩院丁と呼ばれていた昔は共に参詣者のための宿屋町であったらしい。
北三分の二の区域には、こういう東西に貫通した道らしい道がなかったと思う。南北にも現在の花見小路ほど広い道路は貫き抜いていなかった。祇園の廓は新橋通でがしっと家並に塞がれ、北へは、二本の細い抜け路地が東と西に在るのを通り抜けるよりなかったが、川東地区から南へも大同小異、南向きに古門前通へは、やはり東と西に細い辻が二つ口を開いていただけで、中にどんな通路がどんなふうに通っていたか、秀樹は、知らなかった。
京都の町は碁盤の目というが、時代が下るにつれ市街の構成が「町=区画」単位でなく、通や筋を挟んだいわゆる両側町で出来ていった。道路のこっちと向こうとは「別の町内」というより「同じ町内」を成してきた例が多い。だから三条通も縄手も東山線にも、一部道路の向かい側へ同じ学区が跨っている。同じ鴨川の東にも三条大通りに面した大橋町、東二丁目、三丁目があり、縄手筋にも大黒町、五軒町、新五軒町などの両側町があった。三条通に面した町内や、縄手に面した町内は、古くは東海道をはるばる来た旅人を迎える宿屋や茶店・食べ物屋で多くを占め、にぎやかな表店通り、旅籠町を成していた。例えば茶懐石で知られた「辻留」の本拠も三条通にある。料理旅館だった「美濃吉」現・竹茂楼ももと三条縄手にあった。
そしてその余に、ちょうど三条大橋東詰めに、縄手に西面していた大黒町の四軒寺――北から西願寺、三縁寺、養福寺、高樹院――の、その真東の裏側に、例の平凡社版『地名大系』に町名の見当たらない、だが町地化した一画があって、聖なる臍のように木曽義仲の愛妾山吹御前の墓と伝えた古い墓がのこっている。この墓をまさに運動場の北中央、校舎の腹部をあえて窪ませて現にそのまま祭っているのが、京都市立有済小学校、秀樹の入学した昭和十七年四月には、有済国民学校であった。
学校の正門は古門前の元町へ開いている、が、校舎の北裏にも一つ小さな小さな木戸が、また校舎東北の隅にもなにやら外と出入りの出来るような出来ないような通用口があった。外に出れば「若竹・若松」の二町内。この二町内からは例年、祇園会の神輿渡御にさいして八角、六角、四角の三基あるうち、一等重量のある四角い御神輿をかつぐ男らを奉仕に出していた、いまも出している。
もう一つ、映画や歌舞伎の興行で知られた松竹という会社、あれを起こした白井松次郎・大谷竹次郎の双生児の兄弟が有済学区の出身だったと聞いて来た。父は京都相撲興行の売店を経営していた大谷栄吉。兄の松次郎は夷谷座に売店をもっていた白井亀吉の養子になって、いつしかに弟竹次郎と力をあわせ、京都の、やがて関西の、さらに東京での劇場経営に飛躍を遂げていった。祇園会という天下に聞こえた祭礼に奉仕する人らの町内であるとともに、死んだ父も叔母も自慢にしていた、日本の芸能・興行の歴史に輝く一頁を書き込んだ大業界人、文化勲章の佩帯者を出した地区なのだ。「祭り」と「遊び」――この二つは共通の基盤をもっていた。神そして死者の霊魂への畏怖と慰安であった。
太平洋戦争の戦況が逼迫し本土爆撃ものがれようなく予想されてくると、京都市も、市街地の疎開に本腰を入れはじめた。民家を破壊し疎開拡幅し、顕著な例では十倍大にも道を拡げた。いま京都市でいちばん幅のある大道路は四条大路でも三条大路でもなく、戦時中に拡幅を強行した五条、堀川、御池通などであるが、姥島の近所でも、祇園花見小路と白川ぞいの疎開が画期的な戦争の遺産となっている。とくに花見小路を四条から三条まで強硬に、民家をうち壊して広々と突き抜いた影響は言い尽くせないほど大きかった。
歴史的にみて、祇園の廓と三条川東とを隔てて、江戸時代初めから二た筋の知恩院門前町が通っていた。新門前は祇園寄りに南に、古門前は北に位置して、南からも北からも通い路は塞がれていたも同然、「抜け路地」や「辻」ほどのかすかなものだった。この三すくみを、容赦なく戦況悪化の強風が吹き貫いて広道を通してしまった。花見小路どころか殺風景なむきだしの裸道ができ、壊しそびれた土蔵が一つ、新門前通のわきに永く残っていた。秀樹は蔵の壁をキャッチャー役に、独りでピッチャーの真似をしてずいぶん投げ込んだ。整地されるまではガラクタが疎開跡にごたごたと残っていた。「破壊」という方が実感にちかいこの猛烈な疎開――市民がかり出され、一軒一軒綱などかけて引き倒して行った、掛け声かけて。無残だった。
花見小路の疎開拡幅には、思えば政策の匂いがした。別件逮捕のようなものだ、戦況悪化を口実に互いに仕切られた町なかに風穴を通して、乾かしたのだ。両門前通は胴中をブチ抜かれた。祇園町(四条通の)北側は、同じ「祇園」といえども東新地つまり乙部と、西の甲部とが、細い細い花見小路で隔てられていたが、戦中はほんとに真っ暗闇の細道だったものが、一気に何倍にも広げられ、「甲」と「乙」とは見た目も截然と東西に区別し、仕分けられた。
花見「大路」――と秀樹は呼んでいる。本来の花見小路は四条より下、手を付けられなかった祇園町甲部にだけ残った。――の影響は大きい。抜け路地どころか三条から四条へ広々と直通になり、言い尽せぬほど北から南へ進出が可能になった。遊びにだけでなく店を出しに進出できた。乙部東新地は廓というより、戦後風俗の大歓楽街に変身した。
たった四条・三条間の道をあけ拡げて、戦災の防げる効果など何ほども期待できない、役に立ちそうにない疎開だった。門前通り二た筋で隔ててあったもともと「一つ卵」の黄身と白身とをどさくさに掻き混ぜた、そういう役を、戦時疎開という都市破壊は演じていたに過ぎない、これぞ政策だった。影響ははかり知れなかった。秀樹の育った姥島の家屋はなくなり、やすい飲み屋のテナントビルに化けた。老人は三人とも、鶴太郎もミヨも、トミも――信じられない――東京郊外の病院や施設で死んでしまった。花見小路のあの疎開拡幅が無ければ…、どうなっていたか知れない…と秀樹は思う。
なに一つも、あんな丹波への戦時疎開前は、まだ意識も理解もしていなかった。丹波から、敗戦後時間をおいて京都へ帰って来て、敗戦体験を経てはじめて姥島秀樹は、難しい、地元の、京都の、日本の”歴史”の問題にめざめていった。そうだった。


国民学校には、むろん遠足という行事があったに違いない、のに、何の印象も残していない。
母のつくってくれる弁当は、卵と牛肉とのそぼろが、二色かきわけに白い飯の上に置いてあり、弁当箱の片方に寄せて筑前煮ふうに牛肉と刻んだ蓮と糸蒟蒻とが炊き合わせてあった。飯には梅干が一つ埋めてあった。だいたい、どの年の遠足でも運動会でも母のつくる弁当はそれだった。けっこう旨かった。
父は酒が呑めず、また大の苦手が梅干で、食べたのをついに見たことがない。秀樹は梅干は好きな方で、ことに紫蘇の梅酢に漬かったのが大好き、熱いお茶に入れて、紫蘇と梅の味でなら何杯でも飲みたかった。大人になってからも、梅干しを多いときはたてつづけ七つも八つも食べた。大酒も呑んだ。
醤油もソースも好きな味で、へんなおかずで食べさせられるぐらいなら、ソースか醤油を白飯にかけるだけで済ませたかった。生卵を一つ割って醤油の味で熱い御飯にかけて食べるなど、願ってもないご馳走だった、秀樹には。よくよく箸で溶いて、すこしずつ飯にかけて、三膳もお替わりできれば大満足、他になにも要らなかった。白菜はいやだが、キャベツの刻んだのにソースがあれば、熱御飯ならそれで十分。よけいな嫌いなものを強いて食べさせられるぐらいなら、いっそ食べないでいたかった。だが腹はいつも空かせていた。こんにゃく、たけのこ、沢庵、うす揚げ、豆腐、高野豆腐、味噌汁、麦こがし、葛湯、てんぷら、すきやき、カレーライス、ハヤシライス、かやく御飯などが好きだった。
すきやき、カレー、ハヤシなどの時は父が味付けをした。母は油物を苦手にし、肉も好まず、魚と果物が好きだった。秀樹とは逆だった。
秀樹の視力の不足がだんだんと目立ってきた。あいかわらず注意散漫だと叱られていた。
あまり人間に興味がなかったか、友達をつくろうとしなかった。ただ、本を読ませてくれる可能性さえあれば、どんなに遠い同級生の家へも尋ねていった。本にしか興味のない来訪者がいつもいつも歓迎されるわけはなかった。
古門前に永田君――純治という名のとおりに純な少年がいて、この一族は婦人ものの呉服屋で有名だった。兄と、妹が二人、いた。科学ものの写真雑誌や少年の冒険読物などが家に行くと有った。おそろしいほど見事な虎一匹の毛皮が玄関わきの部屋に敷いてあり、圧倒された。その脇で肩をすぼめて借りた本を読んだ。再々は出入りしにくかった。
三条大橋東町に、鈴木和明君がいて、家は大きな秤屋だった。各種の計量器械が、一階の、天井の高い広い店いっぱいに置いてあったが、これには興味がもてなかった。二階か三階か、なんでも上の上の方の鈴木の部屋に入ると、『心に太陽を』とか『人魚姫』とか小川未明のものとか、これまた秀樹の身辺にそれまで見たことのない少年用読物セットが揃っていた。どの表紙も分厚く堅くて、もひとつ親しみにくい本が多かった。
永田の家でも鈴木の家でも、本や雑誌を借りて帰るのは遠慮だった。するともう、そばに誰がいようと読み耽り、最後まで読むとくるりと最初へ戻して、どうにでもして同じものを二回繰返し読んだ。時間はたち、帰るときっと叱られた。だが叱る姥島の大人よりも、永田君や鈴木君の家族の方が、尻のながい息子の友達に困っていただろうなと今ごろ気がつくのだ。難儀な少年だった。視力は落ちる一方だった。一つには、本を読むのにうつ伏せになる悪い習慣が最初からあった。胸の病気を大人は心配し、口やかましく「座ってお読み」と叱りつづけたが、胸は病まなかったが目によくなかった。
一年生二学期を終える頃には、眼鏡をかけよということになった。発熱くせのある扁桃腺を、それにアデノイドもついでに剔除してしまおうという相談も、親は医者としていたらしいが、秀樹はつんぼ桟敷にいたから、ただもう冬がきて正月がきて、やがて二年生だと待機していた。開戦記念日からまる一年めが過ぎて行った。
二学期から音楽が優になったかわり、図画は良上に下がった。新しく加わった習字も良上。優が五つに良上が四つ。「算数ノ考ヘ方ガ疎略デアル。筆記モ乱暴デ結果がヨクナイ」という「概評」だった。何の異存もない、こんなものだった。九月に一八日、十一月に一日、病気欠席している。
一年生十一月の体力検査によれば、身長112・8センチ、体重19・5キロ、胸囲57・3センチ、坐高63・3センチ、栄養は可の肩に小さい丸がふってある。円背で、疾病は「ナシ」胸廓にも異常ナシ。「鼻カタル」の他に「下肢の膿庖疹」が記録されている。秀樹だけでなく、慢性に栄養失調気味な時代の小児病だったが、秀樹はほんとうに永い間「くさでき八幡」と母に嘆かれながら包帯が欠かせなかった。つらかった。だが健診概評は「可」となっている。
太平洋戦争のともかくも一年めの戦況は、そう悪いものどころか、大本営発表は壮大に勝ち戦ばかりを謳いあげていたし、疑う理由は七つ八つの秀樹らにはなかった。つまり戦争の行方などそうは考えていなかった。あれほど活字好きでありながら、毎日の新聞に丹念に目を通そうとしないのが奇妙だったが、文字の小ささが近視の募っていた目に辛かったのだろう。新聞というものを根は殺風景に感じるタチでもあった。家では朝日新聞か毎日新聞をときどき入れ替え、それと都新聞夕刊を取っていた。紙不足で夕刊はいつか出なくなった。
人間一般に対し、あまり親和的でなく関心もうすかったことと、情緒的に「女」を眺めていたこととは、矛盾するのかどうか。
家の中に年齢で一つちがいの母と叔母がいた。どっちに親しんだかは、簡単に言えない。一緒にいる時間は母との方が自然長い。母は養育に無責任な人ではなかった。叱られたり強いられたり、あげく抓られたり打たれたりしたのは母の方で、「あば」は、そういうぐあいには秀樹に接しなかった。それで済む立場だった。
ふたりの女に葛藤や確執のあったことは、具体的にどうこうと知る由なくとも、十分察しられた。叔母は、のちのちまでも秀樹を身に引き寄せることに、そうして嫂を牽制することに意識して熱心だった。家では、むろん祖父と父とが君臨していたが、家の嫁に対する家付きの娘の位取りはきつかった。そういう二人を見つつ秀樹は、人間に男と女とある、その「女」の方を意識しはじめた。
裏に住む薮本満子には、情緒的なものはほとんど感じなかった。乾いた沢庵をしがむような味に似ていた、「満ッちゃん」という存在は。まずくなかったが、食べなくても済み、食べなければ容易に忘れえた。国民学校へ上がってからは、あっけないほど薮本は疎遠な家になった。むしろお向かいの赤木公子のほうが手荒に割り込んできた。ところが公子も妹の常子も、どっちかといえば疎ましい、好きになれない少女だった。嫌いだった。それでも幼稚園以来の縁で、うどんの若松屋の男の子らとよりは、公子の家の方でよく遊んだ。
学校へ上がると、新門前仲之町の「同期の桜」は揃いも揃って女が八人もいた。中では、苛められ役の遠藤慶子ちゃんが「上品でえぇな」と思っていた。
だが断然秀樹の胸のうちを占めて切なかったのは、最初の教室で、先生に「クン」で呼ばれて敢然と起って「サン」と正したあの上原環の、色白に冴えた表情だった。秀樹は熱を出して一日二日と学校を休むと、講堂の前の細い柱に背をもたれて、上原環がつまらなさそうにがらんとした運動場に視線を浮かばせている姿を幻想した。ぼくのことを心配しててくれるンやと幻想した。幻想にすぎなかったが、とかく幻想好きな己れを秀樹は警戒することがなかった。
「好きやん」という言葉が、一年生の教室でも口にされた。男の子の、好きな女の子をいう言葉だった。「おまえの好きやんは」などとひやかした。「わしの好きやんは」と大胆に吹聴する豪傑もいた。有済校の男子一人称は「わし」派が多く、「おれ」もいたが「ぼく」は少なかった。女子は「うち」がほとんどで「わたし」はごく少なかった。秀樹はひそかに上原環を「ぼくの好きやん」と想っていた。想っていただけで、顔もまともに向き合わせたりしなかった、いろんな妄想はしたが。
環と秀樹とは小学校を出てしまうまで、いや中学、高校のあいだも、ついに口もろくにきいたことがなかった。珍しいことだった。環が、きれいな冴えた顔はしていたが、さほど学業の伸びない子で、いつしかに普通の少女になっていたということも、ある。もっと心を騒がせたべつの女の子が、次々に現れたことも、ある。環が初恋の人かと聞かれれば、首は横にふるだろう。
叔母の生け花の稽古場にあらわれる女人たちも、国民学校の一年生には、みな年を取っていて男の子らしい興味のもちようがなかった。それでも慕わしい人と何でもない人とは見分けていた。
春にも秋にもさほど記憶はない、のに、夏休みにならんで師走と正月、冬休みは心をいつも惹いた。父を手伝う母を手伝うという年齢ではなかったので、純然と楽しめた。例えば餅搗き。暮れの二十九日、「く」を搗くと嫌うはずが、姥島では決まってこの日に餅を搗いた。朝の四時五時。眠い目をこすりながら、賑わいにだんだん興奮してきて、まだまっくらな戸外に駆けて出て、東を見西を見、寒気に胴震いしてまた家に駆けこんでは、大井籠を三段四段に組み上げた、餅飯の蒸しあがる真っ白い湯気の勢いにくるくると目をむいたりした。
杵は父がひとりで持ち、あの頃は祖父も臼取りをすることがあった。母はもっぱら「走り」に立ち働き、叔母は中の間で、餅のつきあがるのを待っていた。叔母は餅をかたちに造り上げる専門家だった。
「お鏡さん」の他に、神棚の分、仏壇の分、それは「星月さん」といって丸い小餅の上にぽちりともう一つ指さきほどの餅の載ったのをつくった。のし餅も、丸餅もつくった。元の商売柄、姥島の大人たちはさすが手慣れていた。きびきびと仕事をした。あの頃はまだ二斗も二斗五升も餅が搗けた。頼まれれば近所の分も搗いていた。まだ熱い熱いやわらかい餅を大根おろしと醤油で食べた。餅はうまかった。大好きだ。大根おろしも、よかった。煮た大根など顔も口もしかめていやがるのに、醤油を垂らすからか、ふしぎなほど秀樹は大根おろしを好んだ。それで御飯のお替わりが何膳もできるなら大満足した。
大晦日となると、店がかたづき緋毛氈が敷かれ、金屏風が立ち、叔母が正月花を飾った。生け花の出稽古や家稽古のある叔母の暮れは、てんてこ舞いの稼ぎどきだった。

   三 新 門 前

だれにも読書の歴史がある。個人史を彩る一風景を成している。ことにいちばん最初の「読書」の感銘は忘れがたく、作家「奥野秀樹」にもそれは有った。
国民学校一年生の正月休み、まだ松の内に、何の用事があったものか、用事などは無く新年のご挨拶のつもりだったのか、まさかとは思うが、父は秀樹を奈良電に乗せ、はるばると木津川ぞい、山田川という駅で下車して担任の吉村玉野先生の家を訪ねていった。気の晴れる訪問ではなかった。玄関をあがったすぐの小部屋で先生に迎えられたが、大人同士の話はなにひとつ覚えていない。先生がやはり和服だったこと以外、どんな顔つきでどんな声音で父と話しておられたか、忘れ果てている。それにもかかわらず、この訪問は感激の最終場面を用意していた。
思いがけず先生は秀樹へのお年玉に、一冊の本を下さった。『日本の神話』だった。なかみは『古事記』そのものだった、それは確かだ。古典の言葉そのままではなく「小国民のため」に現代語に書下ろしてあった。いくらか話も整理されてはいただろうが、そんな詮索は少年には無用。先生から本を、それも活字ばかり、大人の本とすこしも違わない本を戴いた。お手持ちの本をそのまま戴いたのであり、いわば手沢本、つまりは古本だった。袖珍版の紙表紙で、三百頁ちかかった、退屈しきっていた秀樹は、現金に、飛び上がって喜んだ。教室では愛想もなにもない、へたをすると噛みつかれそうなお年よりの吉村先生なのに、この日は、寡黙なりに落ち着いて物柔らかな女先生だった。帰りぎわには秀樹の頭に手をおいて励ましてもらった。それさえ上の空、父がなんと言おうと、帰りの電車がまっくらな木津川ぞいを走りだすと、くらい車内燈を頼りに、待ちかねて読み始めた。
日本の神話を、土が水を吸い込むように、たちまちに諳んじた。神祇の系譜もことごとく覚えて、イザナギ、イザナミから、神武天皇の橿原即位まで、漏れなくいつでもどこでも話せるようになった。
「だれか前にでて、お話のできる人」と教室で先生がみんなに聞くと、真っ先に手をあげて出て、神々の物語を滞りなくとうとうと教室のみんなに向かって話すことができた。話せることが嬉しくてならなかった。真似のできる一人の生徒もなかった。ほかの子にできる日々の身辺の「お話」とは全くちがう、ほんものの物語だった。秀樹には、我が事で人に話したい「お話」など無かった。無いも同然で、有ったにしても「日本の神話」ほど輝かしくは思えなかった。
はじめて自信がもてた。仲間に負けない自分の領分を持ち、その限りでは人前でもの怖じしないで済むようになった。秀樹の中に新しい「歴史」がまた飛び込んだ。神話は歴史ではない、が、歴史として神話を遇した時代であった。「紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る」と現に国中で歌っていた。まだ西暦を知らなかった。たんに「昭和十八年」で足りていた。
まだまだ、だが、えらそうな顔はできなかった。
吉村先生とも相談があってのことか、一年生の三学期から、試験的に秀樹は眼鏡をかけることになった。黒い枠のトンボ眼鏡だ。丸太町の鴨川東に、「勉強」してくれる眼鏡屋を父が知っていた。一つの眼鏡をつくるのに、なんと長い時間がかかるもんやというのが実感だった。いくらお金がかかったかなど、知ろう気もなかった。かけ始めのうちは眼鏡が珍しかった。世間がきれいに見えた。
そのうちになんとなく邪魔にした。使わない日もあった。叔母などは露骨に「この年で可哀相に」と口にした。母へのあてこすりだった。それもいやで、眼鏡は、せいぜい二年生のうちに廃物にした。かわりに教室の座席を前寄りにいつも貰った。字を読む量は、格別に増えていたが、その程度で済んだ。
怖い関所が、だが次ぎに待っていた。聞くもおぞましい「手術」だ。
当日、耳鼻咽喉科の治療台の上で、悶絶せんばかりに暴れて泣いた、それは、気恥ずかしく朧ろに記憶している。有済国民学校の一年生を終え、春休み中にと、かねて大人の間では「予定」の手術だった。「発熱」源らしい扁桃腺を取り、ついでに「注意散漫」の原因かもしれぬと、アデノイドも取った。言語道断の「被害」におののき、泣いて大暴れした。ブァッと喉の奥から赤い血をねばっこく噴き上げたとき、秀樹は海老のように細いちいさいからだを反っくり返った。そんな背から腰への感じが、まだ、意識の遠くにのこっている。
手術した効果は、上がったのだろうか。本人は考えたこともない。親の口から、よかった、やっぱりよかったという声も聞いた覚えがない。それより、医者に金をつかうのをひどく嫌った姥島の家で、あのころ医療費の大方はたぶん秀樹がつかっていた、その事実に、得もいわれぬ感慨がある。有り難いと思う。ごく普通の言葉をもちいたとしても、つまり秀樹は「大事に」されていたのだ、確かだった。
叔母は、いつも身近に秀樹を引きつけておこうおこうとした。母は家の外に出なかった、出してももらえなかった、が、叔母は生け花にもお茶の稽古にも自由に外出した。花の御諚遠州流は、大きな遠州流の枝別れしたこぢんまりした流儀だったらしく、山科に家元の家があった。叔母はそこへもときどき秀樹の手をひいて連れて行った。流儀では叔母は若いなりにもういい顔になっていたとみえ、家元がなくなり未亡人の代になると、秀樹の目にも叔母は、花名「姥島玉月」は、かなり威張っていた。
山科について行くと、あれは落雁や型物の干菓子だったと思うが、姥島ではお目にかからないお菓子で苦いお茶がでた。それも魅力なら、行き帰りの京阪電車もわるくなかった、ただ、叔母の先方で尻の長いのには退屈を極めた。門の外へ遊びにでて、迷子になりかけたこともあった。
叔母と母との角逐は、いちど間違うと、すさまじい乱闘にさえなった。どっちの手が早いとも見えぬまに、四十の女同士が髪をつかんで引き倒し引き倒し、組んづほぐれつ上に下に家のなかを転げまわった。そういう場面は大きくなるまでに六、七回見てきた。大人の女同士が、家でゃと、こうも暴れて喧嘩をするもンか…と、よその家でもそうなンか…と不思議だった。いちども制めに入ったことも秀樹はなく、父がちからづく引き分けるのを奇妙に冷淡に、けれど胸はどきどきさせて見ていた。「傍観者」だった。祖父も知らん顔をしていた。
母ミヨが、姥島の父鶴太郎に嫁いだそもそものきっかけは、それもめぐり合わせか、父の妹、母には難儀な小姑の叔母トミから出たらしい。話の経路は知れない。聞いておけばよかったが、いつでも聞けると思って結局聞きもらした知りたいことが、今となって、やたらと有る。もどかしい限りだが、たいていのことは、かようにして現世の記憶から削除されて行く。そこで宛て推量をうまくすれば「伝説」に変わる。伝説もわるくないが、忘れ去られてしまうことがたくさん有るのも、いいと思う。強いて合わせた辻褄は見苦しい痕ばかりをのこす。あの叔母が、あの母を、あの父に、姥島の家にもたらしたらしい…と、それだけでも十分だ。母が義妹の斡旋だか尽力だかを少しも喜んでいなかったのは事実だし、そんな母に父の妹が、叔母が、寛容でなかったのも確かだ。一つ年下の嫂と小姑との関係は、祖父の生きていた間は義妹が優位にいて、底意地わるくいつも嫂をこづいた。それも確かなことで、聞き及ぶ中でもいちばん紛糾し母の癒しがたい恨みを買ったのが、婦人科診察事件であった。
母は自分の子が欲しかった。産みたかった、が、どうしても出来そうになかった。
思いあぐねた母は、どこの医者だか見当もつかないが、姥島のだれにも、夫にも、内緒にして診察を受けた、らしい。家の近くに医者は何軒もあった。町内に難波医師があり、東町に大塚という医院、古門前通には東に磯田、西に日下という内科医院があった。そのうち産婦人科をどこが兼ねていたか覚えない、が、いちはやくそれと叔母は聞き知って、家で、「問題」にした。祖父が怒り、父まで怒ったというのがよく分からないが、どうせ体面が言われたのだろう、何がどう体面に関わったのかそれも分からない。診察も治療もつまりうやむやに中絶しただけが実状だった。母は妊娠せず、ついに、父と母とはちいさい秀樹を、独立戸籍の「吉岡秀樹」を、はるか南山城の当尾の里から、山岡家から、引き取った。母の痛嘆は骨身にしみ、死ぬまぎわまで叫ばせた。秀樹も妻も哀傷に堪えてじっと聴きながら、むなしく母を死なせた。
母は、父の死をまず見送り、叔母の死も見送ってからは、ついにわが夫との記憶を強硬に抹消、頭脳の働きから徹底削除してしまった。写真を見せても、知らないと言った。父の多年用い慣れた持ち物を九十過ぎた母に見せても、それは自分の兄のものだと言い張った。父親がわりだった長兄を母は頼りにしていたのかも知れない。「兄さん」とは呼ばなかった、いつも「清サン」「清サン」と清之助という名で噂をした。顔が合うと「あんた」とか「おうち」とか言うていた。伯父は穏やかな人で、柔和な京ことばを美しく話した。作家「奥野秀樹」は、この伯父の話し言葉をどんなにいろいろと耳にとめて記憶し、それで原稿料を稼いだかしれないのだった。
秀樹の思いには、母は姥島へなど嫁いで来べきではなかった。はやい話、家の文化が違い過ぎた。衰えて行く家の最期のちいさな匂いうすき花びらのように、母は、姥島の嫁の座でひからびた。母を愛したかと聞かれれば返事に苦しむが、気の毒に感じつづけ、だが、そこまでどまりの親子で過ごしてきた。母は秀樹もその嫁のこともともかく最期まで認識していてくれたが、むしろ同じく血縁を欠いた同士でも息子より最後は嫁の迪子のいたわりに心をゆるしていただろうなと、秀樹は思っている。


死にまぢかく老いつづけてゆく母が、激して、それは自分の兄である「清サン」の持ち物だと言い張ってきかなかった一つに、父の、姥島鶴太郎の「奉公袋」がある。
「奉公袋」と袋の表に謹格に縦に大きく楷書してある。左脇、下のほうに「氏名」の囲みがあり、父の名がきっちり判で押したように書いてある。父の手蹟ではない、おそらく入営兵ないし退役兵のために給付すべく、軍で用意した物ではないか。袋の裏には、大きく枠で囲って「収容品」が箇条で書いてある。字はみな印刷のように見える。
一、軍隊手牒、勲章、記章
二、適任證書、軍隊ニ於ケル特業教育に関する證書
三、招集及点呼ノ令状
四、其ノ他貯金通帳等応召準備及応召ノ為必要ト認ムルモノ
これだけを見ても、軍に入る時に受けたのか軍を出た時に受けたのか、分からない。たぶん入る時に携帯し出る時にも所持したのだろう。袋は、何色というのだろう、あの頃の軍服色のようにも思え、よごれたような茶色、カーキ色、ないしは茶渋で燻べたような色をしていて、長い紐で上を引き絞って蝶々に結んである。その紐で絞ったちょうど麓のところが、表だけ、ふとい黒い折れ線で、かっきりと三角山が三つ並べてある。なかなか武断で、印象にのこる。
父の応召は、母との結婚よりはるかに前で、母は、父のそんな持ち物をそれがそれの意味をもっていた現時点で見ていたわけではない。むしろ嫁ぐ以前に実家で、兄清之助の入営や除隊の際の同じ「奉公袋」を見覚えていたのだろう。卒寿も過ぎ、夫の記憶を強いて削除完了したような母の暗い眼には、袋の表に明記された夫の氏名など何ものとも映っていなかったのだ。
仕方がない。それは仕方がない。それよりも「奉公袋」の中を探ってみたい。
上ッ縁に茶色いしみの出た白紙一枚にくるくる巻き込んだ二十五センチほどの紙筒がある。一、二、三枚。真っ先に目についたのが「善行證書」だ。京都府歩兵第三十八聯隊陸軍歩兵一等卒の姥島鶴太郎に与えられている。「右現役中品行方正勤務勉勵學術技藝ニ熟達ス因テ此證ヲ附與ス」とあり、大正九年十一月二十三日の日付になっている。「従五位勲三等功五級」の「聯隊長歩兵大佐平野秋夫」の名の下に四角い朱印がおしてある。
「善行」とは大袈裟だが、本旨は了解できる。今もときどき妻と言い合う、
「おじいちゃんは、軍隊ではぜったいに優等生やった思うよ」
「あたしも思うわ」
こういう一面が、兵隊の社会でいっそう発揮されたのを大いに頷かせる素地を父はもっていた。この後、人に先がけてラヂオ技術や電気工事の資格を得ていったのにも証左を読むことができる。小さい頃に秀樹が父を大いに敬愛し、母によりも父に「ひっついて」いたがった理由もここにあり、幼い子供の目には篤実な勉強家に映っていた。まちがってもよその大人から激した非難の手紙をもらうような人物とは思わなかった。知らなかった。まだ母も父のことを、まして幼少の秀樹に対して諷するなど、するわけもなかった。
次ぎに「賞状」がある。「中隊特別射撃優秀之證」と大書され、「歩兵第三十八聯隊第五中隊長代理陸軍歩兵中尉正七位福本萬次郎」の名で、大正九年九月八日に与えられている。父が「射撃」で賞されていたなんて、妻も秀樹も一度も聞いていない。なぜだかあの父もそんな話はここから先も口にしたことがなかった。
三枚めは、「陸軍下士適任證書」である。大きな字で「銃工長適任ノ者ト認定ス」と書かれ、平野聯隊長名で「善行證書」同様大正九年十一月二十三日付けになっている。いずれも日章旗と聯隊旗、また菊の御紋や陸軍の星などで飾られてある。確認できないがこれが除隊の日であったものか、證書は兵隊に対し軍隊としての公の技能認定なり人物考査を与えて、今後の世渡りにいくぶんの証明をしてやったといったところか。あずかり知ることのなかった父の一時期をそれなりに知ることができ、ふうん、へえっ…という声も自然に出た。いくぶん前のめりに「奉公袋」が玉手箱のように興味をひいた。
細長い、昔は「かぶせ」といったがキャップのついた十センチほどの鉛筆が一本。細い小さい歯ブラシの柄に、セルロイドで、たぶん舌苔でもしごかせたのではないかと思うへらのくっついたのが、一本。緑色と茶色とがないまぜの紐をきちんと繭玉のように束ねたのが一つ。それぞれ無造作に袋の底に落としこんであった。また皺くちゃの油紙に雑にくるんで、数枚の荷札(無記入)のようなもの、上に穴をあけた一枚の板の名札(無記入)様のものに、白い布の紐が入っていた。兵営での生活がかすかに想像できるかどうかといった物だ。


一冊の、新書版を半分にしたほどの小冊子が入っている。一三四頁。紙カバー。「最新式」の『在郷軍人須知』で「附」として、帝国在郷軍人会規約、同禮式規定、諸願屆書式、勤務演習召集年次表、簡略點呼場略圖という文字が表紙に刷り込んである。中に目次がないのは、これがその代わりをしているものか。「大正九年九月改定増補」とある。武揚社発行と背にある。裏表紙はいわゆる「ヘソ」に、拙な絵で、桜の花や葉にささえられた陸軍の星が描かれ、星の中に「武」一字が慎んで書いてある。そのわきの父の署名は、なつかしい父の癖のみえた自筆だ。奥付によればこの冊子は、京都市外師団前にあった和田武揚社の編輯部が「著作者」になっている。定価は「金貮拾銭」で、大阪信濃橋西詰の藤谷崇文館が印刷し発行している。
拾い読んでいると、興味深い「時代」と「社会」があたかも証言されていて引き込まれる。が、さしあたりこれは当時の兵一般のすべからく心得べき読み物ではあれ、父個人を語る資料ではない。それより「奉公袋」の中から取り出したもう一つの、「軍隊手牒」を開けてみた方がいい、名前からしていささかは個人の記録に相違ないのだから。秀樹の胸は、ちょっとドキドキした。
やや大判の手帳という大きさだが、布張りに表表紙が裏へ包むようにのび、爪で裏表紙に差し込みになっている。表紙ではなく、帙のつくりで、表をめくると中身をくるんで上から下から舌をのばしたように裏表紙が中へ折れ込んで、足袋のこはぜに似た爪を、糸にひっかけるように造ってある。中は薄い和紙の袋綴じで二十六丁、前半の十一丁分は朱字で印刷し、後半は墨。前半は「勅諭」編らしく、いくつかの勅諭がつづく。十丁めのあとに十の一として紙一枚表裏の勅諭が挿入補充されてもいる。
後半は「讀法」から始まり「誓文」が続く。「今般御讀聞相成候讀法之條々堅ク相守り誓テ違背仕間敷候事 右宣誓如件」とある。次ぎに「軍隊手牒ニ係ル心得」が七箇条、先ず「軍隊手牒ハ勅諭讀法誓文各自ノ履歴等凡ソ軍人常ニ服膺スヘキ事項ヲ掲載シ且転隊派遣等ニ際シ金銭物品ノ受授ヲ證スルモノナレバ最モ丁寧ニ所持シ破損紛失セサル様細心注意スヘキ事」としてある。
以下に父が記入しているのを見ると、「所管」は第十六師団、「部隊號」は歩兵第三十八聯隊、「兵科」は歩兵、「官等級」は最初二等卒と書いているのを朱の二本線で消し、右にゴム印で「歩兵一等卒」と直してある。父は一階級昇進している。「本貫族籍」は京都府、「氏名」の右肩には戸主龍吉次男と添えてある。
「帽」は五號、「衣袴」も「外套」も五號、「靴」は十文三分、比較的小さい足をしていたのを覚えている。今の言い方だと、24半か25ぐらいか。「誕生」は明治参拾壹年六月八日生で、「身長」五尺三寸七分というのは、およそ一六三、四センチ程度か。秀樹が一六八ぐらいで、心持ち息子より低かった。「特業」に銃工とある。これは分からない。「住所」が、京都府京都市下京区古門前通大和大路東入元町四拾貮番戸となっている。これが本籍地表示なのか現住所なのか分からないが、父の家は縄手に面していたものと思い込んできたけれど、縄手より「東入」元町だというと、もう目の前に有済校の門があった。あの上原環の家は門の真ん前の路地の奥にあった。目を引くのは、まだこの頃、父の住所は現在の東山区でなく下京区に所属していたことで、いわばこの界隈、とくに新古両門前通がはやくから洛内からみた町続き町として見られていた名残のように思われる。町屋への展開が歴史的に早かったということだろう。
次頁では「兵役」が現役と記入してある。「服役年期」は三年で、大正七年十二月一日より大正十年十一月三十日に至るものと記載してある。「實役」の欄には「自大正七年十二月一日」とだけ記入して「至」欄は記載がない。以下に同じ欄がならぶが何の記載もない。こうしてみると「善行證書」などは兵役中に受けたものだと分かる。
次ぎに「卒業列叙」という項目がある。「大正八年十月二十日銃工術卒業人員四十四名中第一番」と、えらく名誉な記載がある。細い筆か黒インクのペンか。父の手とは見えない。「出身前履歴」には、「大正三年高等小学校卒業後 職徒弟ニ従事ス」としてある。十六歳で高等小学校を出ている。この頃の学制を調べねばなるまいが、尋常小学校だけで終わっていないことだけが理解できる。入隊は二十歳、二十三歳で除隊になった。こういうことも「軍隊手牒」が残ってなかったら、容易に知ることは出来ないことだった。
父は「精勤章」を大正八年十二月八日と翌年六月七日の二度「附與」され、さきの通り「善行證書」も貰っている。ここでは大正九年十一月二十二日の「附與」になっている。同日「銃工長適任證書」も貰っている。こういう一種の激励かともとれる、また娑婆に戻っての世渡りをいくらか側面から保証しているともとれる、こういう褒章を受けるのが簡単だったのか大変だったのかは判じもならない、昔の人に聞いてみたこともないが、やっぱりそう易々と貰うことは出来なかったのではないか。「四十四名中第一番」というのはやはり父の努力ないし精励の結果であったろう、秀樹も妻もいつもそう思いそう話し合っていたように、父に軍隊の生活は向いていたのではないか。
へらへらと如才なく「服役」したとは思えない、逆に極めて謹厳に努めたのだと思う。もうすこし言えば、軍隊で生きるよりも娑婆で生きる方をむしろ性質として苦手にするところが父にはあったと思われてならない。
「履歴」という欄がある。軍隊内の履歴である。
「大正七年十二月一日一年志願兵トシテ歩兵第三十八聯隊第二中隊ニ入隊」として朱の小丸がおしてあり、下に「第一期卒業」とゴム印をおし、また朱の小丸がおしてある。項を新ためる意味らしい。なぜか記載中「一年志願」の四字が朱線で見せ消ちにしてある。
次ぎに「大正八年四月二十二日*洲駐剳ノ為大阪港出発」「同年同月二十七日旅順港上陸」と朱筆で、そして「銃工術卒業」と墨で書いてある。
「大正八年十一月二日天津派遣第二大隊要員トシテ大連港出発 同年十一月三日天津上陸」と朱筆のあと即日「第五中隊ニ編入」され、同じ十一月の「二十三日一等卒」に上げられている。墨で記入してある。順当に二年兵としての普通の進級なのか抜擢なのか、分からない。そして「大正九年十一月五日内地帰還ノ為天津出発」「同年同月大阪港帰著」と朱筆してある。お勤めを終えたようだ。以下墨で、「同年同月十一月二十三日陸軍々人服役令第六十絛第一項ニ依リ帰休」「大正九年十一月二十三日上等兵」となっている。三年の兵役で二階級進級している。古参兵の域に近付いたということか、だがこの以後は在郷軍人会に所属して時々の呼びだしでも受けたものか、「履歴」の最終記載は「大正十年簡閲點呼済」に続いて大正十二年、十四年、昭和二年と二年おきに同じことがまさに判をおして記載され、「昭和三年九月二日勤務演習ノ為歩兵第九聯隊第五中隊ニ入隊」「同月十六日召集解除」されている。そののちは翌「昭和四年簡閲點呼済」の押印があって終わっている。
一連の記載で、最初の「駐剳」地が一字分潰れていて三ズイ扁しか読めない。この頃天津で何が起きていたのか、秀樹は疎い。調べてみてもよいが、それほどの気が起きない。それでいて父の出征に絡んでは忘れられないことが、異様な思い出が、一つある。
父が写真機に入念な趣味をもっていたとは思わない。家の中で写真機をみたこともない。ふだん写真を撮るということは全くなく、数少ない幼少の写真もみな人が撮ったので父ではなかった。そう、思ってきた。それなのに古びたなにかの、紙箱に、名刺大の古写真が三十枚ほども無造作に蔵ってあった。秀樹が見ていたりすると、父だったか母だったか「そんなもん、見んとき」と、そのつどちょっと見付けにくい場所へ蔵い替えられた。だが、また見付けて見ていた。
はっきり言うが、とくに驚嘆も驚愕もしなかった。同時に異様な感に襲われていた。叫ぶとか呻くとか、そういう反応を制していっそ沈黙を強い目を吸いつけて放さない写真が、何枚もあった。「支那」にちがいなく、路上に延々と人が後ろ手にしばられ、跪いて並んでいた。べつの一枚は、並んでいた人たちのすべて首が無くなっていた。落ちた首の転がっているのもあった。穴が一つ一つ掘ってあった。その穴も掘らせておいて縛り上げ首を斬ったのかも知れない。柳のような並木に沿っていた。無残な処刑だった。「支那人」たちに違いなく、当時の秀樹は、つるつるした紙をこすっているような気分で、その異様なおそれに表現を与えることが出来なかった。絵本をみたり天井や壁のしみを見ても恐怖に泣いた秀樹が、それらの写真にはどう反応していいのか麻痺して、ただ見ていた。
なんでこんな写真が家にあンのやろ…。明らかにスナップ写真で、上手でもなくて、ろくに引き伸ばしたものでもなかった。反り返っていた。
戦後に思いだしてそれとなく家中を探したが、夢だったかのように写真は無くなっていた。見付けられなかったし、父たちになにげない顔で尋ねても返事はなかった。「処分」したな、と思った。そうすることを「必要」と思わせる体験ないし見聞を父は秘めていたのだろうか。
昭和十七八年の写真、第二次大戦時の写真ではなかった、それは確認しておかねばならない。父の天津駐剳は大正八年から九年。秀樹がそんな写真をはじめて見付けた頃より四半世紀以前のことだ。もっともそれらの写真が何時頃の撮影かと確かめたわけではない。サーベルをさげた日本軍人の姿は写真のそこここに見えていた。だが必ずしも日本軍による支那人の処刑ではなかったかも知れない。支那人による支那人の処刑だったのかも知れない、それを父の周辺で写真に撮ったのを父がもらって帰ったのかも知れない。いやいや、勝手な推測をするより事実だけを受け入れた方がいい。斬首の光景を、それも街路に整列させての処刑の現場を写真に撮ったのが、まさかに観光や見物気分であったとは思われない。いやいやこれも推量。写真が有った、秀樹は見た、覚えている、それが無くなっていた、戦後に…ということだ。
「軍隊手牒」の「缺勤」欄にも記載がある。「大正八年二月十五日ヨリ同年同月二十日迄二等症ニテ京都衛戍病院入院」とある。二等兵なみの軽症であったのか、「二等症」といった表現に普通の社会でない物言いが感じられる。
「履歴」最後の空欄に、「大正九年六月一日従卒ヲ命ス」「大正九年十月三十日従卒ヲ免ス」の二行が記入してある。「従卒」というからは上官に直属の勤務をしたものか、秀樹の妻は「おじいちゃん」に聞いた話として、中隊長だか誰だかの靴をピカピカに磨いたり、チキンライスやオムライスを作ったりしたのだそうだ、そういう所へ上げられたのも父の「働き」だったかと思うとふと言葉をうしなう。
「給與通知事項」という頁がある。これが読みにくい。「大正八年七月第三旬分迄ノ俸給臨時手當並本勤加俸其他臨時増給支給済」の最後の字の読みはあやしい。「歩兵第三十八聯隊分仕官」「陸軍歩兵曹長池田稔」とあり朱印がおしてある。
記載記入のある頁はこれでおしまいで、ただ帙の底のポケットに別紙二枚が折って入れてあった。一枚は印刷物で、「一、兵卒ハ身心ヲ鍛練シ正直ヲ旨トシ元気ニシテ且ツ能ク上官ノ教訓ヲ守リ以テ良兵タルノ實ヲ発揮スベシ」と総ルビで書き、「大正八年一月四日」の日付と「歩兵第三十八聯隊長平野秋夫」と、これも活字。正月の訓示なのだろうか。
もう一枚は「第二中隊姥島鶴太郎」の「身體検査票」で、表は「月次」「体量」を十二月から始まり、翌年、そして翌々年九月まで月々にペンで記入し「検印」してある。単位は貫目で、最初の十二月に一四貫一五0だったものが、次ぎの一月には一五貫二00に一気に増えている。五月には一六貫二00にまでなり、あとはだいたい一五貫台だが、一四貫台のときもあり、記入最後の九月には一四貫四00と、その前月より一貫一00も減っている。
目の留まるのは二年めの八月九月には斜線だけで数値なく、「事故」欄に、「柳樹屯派遣否検」とうすい青インクで記載してある。父は大正九年のこの時期に二か月ほど「柳樹屯」とやらへ出向していたと見えるが、中国内のどの辺りかは少なくも今は分からない、知らない。
「軍隊手牒」前半にいろいろと活字の勅諭が並んでいるのはこの際割愛するとしても、もう一つ興味深いのは、一枚のハガキよりやや大きい和紙を六つに畳み、頁に貼りつけてある。「被服ニ係ル心得」と表題して、こうある。
一、退營者用被服トシテ帽衣袴足袋一揃ヲ支給ス
二、退營者用被服ハ簡閲點呼及應召ノ際ハ勿論其ノ他軍人ノ身分ヲ表彰スヘキ場合ニ ハ止ムヲ得サル時ノ外之ヲ著用スルモノトス 但シ足袋ハ他ノモノヲ以テ代用スルヲ得
三、退營者用被服ハ将来再ビ支給セラレサルヲ以テ大切ニ之ヲ保存シ亡失 毀捐 賣却 讓渡及質入等ヲ為ササル様注意スヘシ
こういうことまで軍は面倒をみていたのか、そういえば、そういう袴も軍服軍帽も父は持っていた。着て写真にも撮ってある。この「軍隊手牒」なるもの、貴重な遺品だなぁとひとしお秀樹は感じ入った。


姥島に迎えられる以前の父や母や叔母のことを、ほとんど何も知らなかったのは、いっそ自然当然で、その後も特別関心を向けることはなかった。自分はこの家とは、この家の血筋とは別の者でそれが自分の運命だと、姥島に入って半年もせぬ間に、昭和十四年頃、満で三つから四つの頃にはもう覚悟していた。大人の言ったりしたり争ったりする嫌なことはみな自分とは関係ないことと思い、いいこと楽しいことだけ喜んで受け入れていた。弱虫で泣き虫の秀樹のなかで、要するに冷めた「傍観者」として、選択してものごとを捨てたり受け入れたりする「批評家」が育ちかけていた。
やがて昭和十八年四月、進級、国民学校の二年生になった。一年三学期には習字が優に上げられ、だが「修身実践ガ出来ナイデドウシテモ悪イ、図画ハモツトシツカリ」と芳しくなかった。
新学年、嫌でしようのない春の遠足後の綴方が、思いがけず教室で先生に読み上げられる事件が起きた。日本の神話が「お話し」できた秀樹は、「書く」こともできるらしい自分を、先生に示唆された。
その一方で、連合艦隊司令長官元帥山本五十六は四月十八日、ソロモン上空で戦死していた。敗戦へ、最初の大きな犠牲だった。秀樹でさえ暗澹とした気持ちで新聞の大きな活字を眺め、ラヂオ放送を聴いた。戦争に負けるのではないかと予期する気持ちがどっと胸に膨らんだ。戦果また大戦果に明け暮れていた頃、職員室の廊下には世界地図が貼られ、南の海や島のあちらにもこちらにも勝利を告げる赤い日の丸が針の尖で突っ立っていた。それを見ながら、赤い色の狭い日本列島と広大に緑色のアメリカ国土とを単純に比較して、
「ほんまに勝てんのやろか。勝てたら不思議やわ」と、横にいた友達のだれかに口にした、とたんに秀樹は、カーキ色の詰め襟の男先生に、思い切り廊下の壁にぶちあたるほど張り飛ばされたことがあった。たしかに幾らかは先生の行為を仕方ないとゆるす気持ちもあったけれど、理不尽だとも感じた。そういうことは腹のなかで黙って思っているのがいいらしいと覚えた。こういうことは秀樹のその後に、何度も起きた。思っていることを黙っていると腹が膨れると昔の人に教わった時、その通りだと思った。


二年生秀樹の日々の「遊び」に、幼い勝負ごとが混じってきた。家の中で「ルード」という単純なサイコロのゲームが流行った。賽の目を数えてはコマを前進させて陣へ送り込む。四人で競う。三人でも二人でもできる。相手がいなければ一人で四人分サイコロをふることもできる。
父は、根が勝負ごとの好きな人だった。負けると機嫌がわるく、本気でぼやいた。叔母もまじって四人で盤を囲む時、秀樹は、大人の一人一人が口にする、わけの分からない、くだらない口癖に耳をとめた。掛け声をかけてサイコロをふる、その掛け声が一人ずつちがう。面白いと思った。顔を見ていれば色白に品のよげな母が、「一」しか出ないと「いろはかるた」風に「イン(犬)ノクソ」と叫んで笑った。「勝手に、サラセ」などとわざと言った。(この二た言は母が死のまぎわまで、いくらかご機嫌よく看護婦や看護士に向かってなげかけるブラック・ユーモアだった。罵声ではなかったが、刺激はキツかった。)叔母は思いの目を振り出すと「ホイホイ」と言った。妙に遠慮がちで、まるっこい平たい顔つきが可愛く、いつもの叔母とは逆に声はへんにおとなしい。母の方が、根は「ヤギリ」だった。「イチビッタ」声を高く上げた。父は「ボヤキ」だった。すぐ「おかしいな」「これは、おかしぃで」「なんでやね。おかしゃないか」と立て続けに、それも本気で泣きごとを言った。旗色がいいと「どうじゃ」「おまえらアカンな」と、気のわるいことを平気で言うのだ。「ちょっと待ちゃんせ、こちの人」だの「あなたまかせの身の上なれど」だのと芝居がかるのは、いつも母だった。サイコロの振りようは父が分厚い指先から揉み出すように、母はチャリチャリした掛け声で、叔母は妙に几帳面だった。三人とも、だが、秀樹の機嫌をとってくれていたのであり、秀樹が飽きてしまえばゲームもおしまいだった。
家の外ではメンコが始まった。父も母も秀樹が家の外で勝負ごとを競ってくるのには反対で、メンコを買ってもらうなど論外だった。「貸して」という約束ごとが、子供の世界にもあった。が、借りて負けると返しようがない。うっかり借りられない。最初の一枚をどう手に入れたろう。思い出すにはあまりに遠い昔だが、たぶん、汚れてチビた古メンコの一枚を、「やるわ」と言われて「おおきに」有り難いと思ったのではなかったか。
メンコは勝負ごとのただの道具とも思われなかった。長方形の角メンは軽く扱われた。紙質がうすい。印刷も淡い。十二枚ほどが一枚の大きな用紙に刷り込んであり、挟みを入れて切って一枚一枚にするなど、安い感じがした。地面に打ってバシッパシッと強く鳴る勢いがない。本格にいいのは丸メンで、紙が厚い。一枚一枚の絵が色あざやかに面白く、こう言って差支えがなければ「美しい」のだ。子供の目は、いいメンコは美的鑑賞に堪えるものと、だから気に入った絵のを大事にし、自慢にし、秘蔵した。
丸メンには小メンと大メンとがあった。大メンでのメンコ勝負はちょっと大味になるが迫力はあった。子供達にはいい絵の大メンは宝物だった。気に入った大メンが手に入るとぞくぞくするほど嬉しかった。だが勝負は小メンでバシパシ打ち合う。めくりあう。吹き飛ばされて裏返ったら負けだ。わずかな地面とのすきまに見当をつけてパシッと風を吹き込みうまく裏返す。力まかせでもいけなかった。かと思うと、小メンの輪郭にきっちり合わせて上からさも吸い付かせるようにポンとはずみで引っくり返すことも出来た。ちからなど要らなかった、一瞬二枚が一枚になり魔法のように下のメンコを引っくり返す。これはメンコが新しく堅く分厚いうちにやったりやられたりしやすかった。これをされまい為に、メンコをむしろ薄く、しかも地面に密着するように工夫をした。油を引いたりした。油ひきが過ぎたり、やつれてぺらぽらして来ると、惜しくなくなる。いっそそんな汚いのが邪魔になる。「やるわ」となる。「おおきに」と頭をさげて、その一枚二枚をもとでに秀樹は勝負を体験し始めたのだ、そうに違いない。
大兜の武者の大首があった。タンク・タンクローの漫画やノラクロの漫画もあった。肉弾三勇士や旗艦三笠もあった。自雷也も丹下左膳の絵もあった。なんでもあった。いわば子供用の浮世絵だった。メンコへの愛情にはそういう一面があった。メンコが欲しかった。一枚一枚勝って増やすしかなかった。
その頃、子供らが人気のコレクションに相撲の力士絵もあった。縦長の四角いモノクロ写真で、ポーズも両手両足をかるく開いた立ち姿と決まっていた。双葉山の五十九だか六十九連勝だかのあったあとぐらいに当たっていて、叔母か母かの婦人雑誌で、連勝を阻んだ安藝乃海のか、阻まれた双葉山のか、たぶん双方へ力を入れた読み物の載っていたのを秀樹はむさぼり読んでいた。この二人が贔屓で、羽黒山もしこ名がいいと思い、好きだった。照国や前田山といった名前はしっくりこなかった。もっともラヂオの実況を聞くだけでテレビの無い時代だった。取組の実感に程遠く、知識もなく、さして大相撲に熱中したわけではなかった。京都では、一度吉田神社辺で場所がひらかれ父に連れられて見に行ったが、なんだか侘しい囲い内の遠くの方で仕切り直しばかりながく、すこしも楽しめなかった。それなのに力士の写真が人並みに欲しかった。
メンコのように勝負するわけではなし、父にせがみ母にせがんで空しく、あげく新橋通の東山線の角に玩具と駄菓子の店があり、そこで店の目をぬすんでケースから六人ほどの力士を印刷したシートを一枚失敬して帰った。たちまち母に見つかり、手を引っ掴まれ引きづられて店へ金を払いに行き、頭を店先にこすりつけられて謝り、帰ってからは家の外に放り出された。
一度ではなかった、わきの路地を新橋通に抜けて出たすぐにも、間口の狭い、正月には羽子板や羽根も売る店があり、メンコを何枚かぬすんだ。結果は同じだった。銭湯へするりと只で入ってきて湯銭をにぎっていて、やはり謝りに行ったことが二度ほどあった。国民学校二年生の早くのことだった。その後、そういうことはしていない。
腰さげという、子供版の根付けのようなものが女の子の人気を得ていたが、そういう趣味はなかった。凧はへたで揚げたくても揚がらない。上手な子はいくらでも空高く揚げているので羨ましくてならなかった。独楽も、かろうじて掌にのせられたが手際はよろしくなく、始めはセルロイドの下敷きにやっと載せて、屁っぴり腰で、つかまえ=鬼ごっこに仲間入りしていた。独楽をひょいと肩からさげた紐に引っ掛けたり、両手に渡した紐で軽業のようにシナよく受けたりするなどは、人知れず何百遍も稽古をしてやっと三度に一度ぐらい出来るようになった。独楽は、失敗するつど地面にはねて遠くまですっ跳んでいった。いちいち拾いに走るのが癪だった。
そうはいえ国民学校二年生の一年は、秀樹には転換期だった。成長期だった。成績は尻上がりで自信がついてきた。年度末には修身と体操のほか、みな優になった。相変わりない弱虫のあやうい自信で頼りなかったけれど、二学期には担任の女先生から級長に指名された。願い下げて副級長に格下げしてもらった。散々家の大人たちに惜しがられたけれど、惜しくなかった。級長とはなにかにつけて号令をかける役だ、右向けと左向けに相変わらず確信のもてない秀樹は、みすみす恥もかきたくなかった。
「概評」は手厳しかった。一学期は「少シ注意散漫ニシテ成績ニ正確サヲ欠ク」と来た。二学期には「努力家ナレド、注意散漫ナリ」とされ、年度末にも「勉強ハヨクワカツテヰマスガ、作業粗雑デス」と、いかにも「フデキ」だった。驚くべきは皆勤賞を貰っていた。鼻も皮膚も「異常ナシ」で、体重が22キロに増えた。担任は「上野寿美子」先生だったと通知簿にあるが、暗闇で鼻をつままれたように、記憶が失せている。
和歌と俳句の「かたち」を、叔母が添い寝の語りぐさに教わったのが、この年だった。俳句には季節のことばが必要とまでは教えてくれた。いくらか例句や例歌も聞いたのだろうが記憶にない。いつごろであったか、少なくも、じゃがいも畑に蝶の舞う以前と分かる。叔母の生け花の会を「南風会」といった。南風会の春の遠足に数人、六七人で、西山の長岡天神のほうへ出掛けており、「フデキ」な処女作を秀樹はものした。
長岡や じゃがいも畑 蝶の舞ふ
それらしき場所で地べたに敷物をしき弁当をひろげての、見たままの景色だった。「長岡や」という初句のもって来かたにも、叔母がどんな教え方をしたか見当がつく。「や」「かな」の俳句、「なり」「けり」「らむ」の和歌。そんな発語や結句にすてきに新鮮な「文化」を感じた。『百人一首一夕話』上下を祖父の蔵書にみつけ、また歌留多もいつしかに家の中でみつけた。
歌留多は、読札に絵もない簡素なものだったがルビがついていた。十分だった。大声で読みに読み、本も読んで作者たちへのいろんな印象をもった。『一夕話』には一人一人の逸話が出ていて、歌意の理解へ急ぐ気はなくて、逸話を愛読した。歌は覚えきらないのに、たとえば朝忠という中納言は大食漢で太りかえっていたこと、医者にご馳走ぬきの減食をすすめられると、承知したと言って、大鉢に盛った飯を湯漬け水漬けで、朝瓜を菜に、たちどころに四五椀も食べた、医者は呆れかえったなどとあるのを興味深く頭に入れた。
絵のある歌留多もあった。新聞社のおまけらしく、紙は、腰はあっても薄いものだったが、じつに一枚一枚、一人一人面白い絵だった。立ったのあり、しどけなく坐ったのもあり、天子さんも女帝も官女も坊主も、衣裳といい表情姿態といい、奔放なほど多彩だった。名のある昔の画家の逸品を新聞販売の景品に仕立てたらしい、絵もいいが字も崩し字、つまり行草の乱れ書きで、読札も取札もそうだった。簡素な普及版の歌留多で人と歌とを覚えては、色美しい絵のある崩し字の札を、一枚一枚誰のどの歌と読み当ててゆく面白さ、これが恰好の一人遊びになった。
例の中納言朝忠は、たしかに瓜のように太っていた。俊成は火桶を抱いて呻吟していた。後に俊成平生の逸話と照合して、絵がなかなかよく人を知って描かれていると分かり、ひとしお愛着した。歌を好む以前に、絵に美しく描かれた作者から印象的に頭に入れていった。待賢門院堀川の滝津瀬のような丈なす黒髪の後ろ姿など、顔は見えないが「乱れてけさは」の歌と絵の感じがぴったりで、大いに贔屓した。女の絵がどれも好きだったが、在原業平の憂愁をおびて武官姿で蹲踞しているのなどもいいと思った。業平が終生武官であったこと、美男子でありながら相撲にもつよい快男子でもあったことなど、そんな絵姿ひとつから、知識の来る以前にもう感じとっていたように思う。
雑知識は『実用家庭大宝典』でむやみと吸い取った。長いトンネル、高い山、長い川、県庁所在地と人口、陸軍と海軍、歴代天皇、系図。それどころか、男女の生理や生殖の知識すらこっそり息をのんで読んだ。古事記の序文で「とつぎ」の様態も識っていたが、「陰毛と陰毛とがこすれあうと快感を覚える」といったこともその『宝典』には書いてあった。息を呑んだ。
『日本鉄道』という一冊横長の帳面のような本も手放さなかった。ところどころに「弥次喜多」道中記の抄録してある頁を喜んで読んだ。
祖父の蔵書を、祖父ももう手にとってはいなかった。父も母も叔母もそんなものに手もふれなかった。家中で興味を示し興奮もして、読めもせぬ重い漢籍の頁をむやみと繰っていたのは秀樹一人だった。みな黙って好きにさせてくれた。『韓非子講義』という本など、堅牢な、まるで兜虫の革のような色した造本で、膝にのせると膝ごとめりこみそうに重かった。いたく尊敬した。漢和大辞典や故事成語大辞典も堂々と重かった。漢字という文字の重々しさを敬愛していった。読めもしないで親しんだ。
一等「愛読」したのは『日本国史』という通信教育の教科書だった、粗末な製本で改まった表紙もなく、共紙に簡略に大きな活字で日本国史とあった。糸綴じの糸も、切れこそしなかったが紙の頁がちぎれて行くほど手垢で黒ずませ、何度も読んだ。ラヂオ技術者検定試験用にあの父が頑張ったのかとも思えるが、奥付はたいてい明治だったと思うから父のにしてももっと若い時分のものかと思う。理科も算数もあったが手を出さなかった、もっぱら国史の教科書ばかり読んだ。日本の神話に継続して日本史を秀樹はあらかた頭に入れ、だから家に北畠親房の『神皇正統記』が在ったり、頼山陽の通俗版『日本外史』が在ったりするのを本の題よりも著者の名前からおよそどんな本と察しもつけた。日本外史は読み下だしてあり、漢字には全部ふりがながしてあったので、大声で朗読できた。漢文調の心地好さは、まるで歌をうたう快感とかわらない楽しさだった。くらい梯子段の上で、飽きもせず声を張り上げていた。「うるさいがな」とも言われなかった
父は観世流の謡がうたえた。大江(又三郎)能楽堂の舞台で地謡に出演できるほどの稽古を積んでいた。師匠溝口啓三が古門前上ル高畠町に住んでいた。だが父はいわゆる「歌」は歌わなかった、「きらい」だった。たまに秀樹のために父が歌ったのは、どれも冗談のようなへんな歌だった。

おじいさん おじいさん
あなたの眼鏡でもの見ると
ものが大きく見えますね
そんならカステラ切るときは
眼鏡はずしてくださいな

「おばあさん」版もあった。妙な節だった、節もよく覚えている。雀の学校のような歌で、けれど「チイチイパッパ チイパッパ 雀の学校の先生は」というのとはちがう、なんともリズム感のつよい早口言葉のような歌も父は秀樹に歌ってくれた。「宮さん宮さん おンマの前に ひらひらするのは ナンじゃいな あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ ないかいな トコトンヤレ トンヤレナ」などと聴かせたのも父だった。
いや、それだけでもなかった。アメリカ十三州独立の歌や、広瀬中佐の「杉野はいづこ」の歌や「煙も見えず雲もなく」の黄海の歌も「乃木大将と会見の」水師営の歌も父は歌ってくれた。では父の「嫌」ったのは流行歌だったのか。いやいや「おれは川原の枯れすすき」も、とくに「逢ひたさ見たさに こはさを忘れ」の籠の鳥の歌も家では父が歌っていた、父は歌が嫌いと言い切っては間違いのようだ。逆だった。ただテレビ時代になっての、歌謡曲番組の氾濫を父はうるさがり、そっぽを向いただけだ。

ヨイサッサヨイサッサ これから八丁 十八丁
八丁目の潜りは 潜りにくい潜りで
頭のてっぺんすりむいて 一貫膏薬 二貫膏薬
それで直らにゃ 一生の病いじゃーぃ

こんな歌はむしろ父のお得意だった。母も数え唄を歌った。

いちじく にんじん さんしょに しいたけ ごぼう
むかご ななくさ 「    」 くねんぼ とンがらし

「八」のところだけ忘れた。「はじかみ」だったか、「はっさく」かも知れない。


叔母こそは、生涯、まともに歌は歌わなかった。母に、一度くらい「音痴」とからかわれたのかも知れない。後年、歌謡曲ならぬ謡曲を習いだし、「あつかましい」ほど臆面なく初釜の時などに社中のまえで謡ったが、音痴としか言いようがなかった。聴かされる方が恥ずかしかった。最晩年には秀樹らの若い家族と同居し、家のだれも気付かぬうちに、東京郊外の老人クラブで民謡踊りに参加している「証拠写真」を人に見せられ、びっくりした。いつのまにか、老人の大勢から「京都」で大看板のお茶お花の「先生」と立てられていた。「位取り」にたけた、フクザツなものを多く内蔵していた叔母だった。
母は、おさえきれず「歌」が好きだった。祖父の元気な間はめったに大声で歌ったりしなかったが、古い昔からの歌よりも、「今々の」流行歌や唱歌に惹かれる素質を抱いていたのは母だけだった。秀樹が、還暦すぎても、昔の唱歌の多くを本さえみれば調子はずれにでも大方歌えるのは、いつしれず母の口ずさみに習ったにちがいなく、人前で、たとえば音楽室でみなの前で歌わされるのは堪え難かったのに、人がいないと、浴室でも寝床のなかでも、路上ででも、よく歌を歌うのは今も同じだ。「心に太陽をもて 唇に歌をもて」と、あれは秤屋の鈴木君の部屋で読んだ本に感化されたわけではなかったが、中年にさしかかるまでは、ラヂオ、次いでテレビの歌番組と、けっこう付き合っていた。母は、父にケンツクをくいながらそんな番組を、好んでいつも選んでいた。
母には、新聞雑誌やテレビに出てくる「有名人」への好奇心もあった。「人」の噂を奇妙なほど蓄えていて、人の名前もゴシップやスキャンダルがらみで記憶していた。皇室や宮家についても比較的知った口を利いた。閨閥に、家中ではいちばん関心をもっていた。三笠(宮)さんとか秩父さんといった言い方をした。照宮さんとか義宮さんとか呼んだ。「宮さん宮さんおンマの前に」という歌もあるように、京都では「様」という敬称をあまり使わない。「貴様」といったいいかたは廓の女が客への手紙につかう敬称で、それが薩長の侍仲間の二人称に転用されていったという説があるが、当たらずとも実情に近かったのではないか。とにかく「天子さん」「天皇さん」で通じた。それぐらいには親近感をもっていた。母は京都御所にまぢかく生まれ育っていたので誰よりも皇室の噂に耳も目もとめていたらしい。
その気で聞いていると、意外なほど母は耳学問を蓄えていた。母が作品を読んでいたとは全く思わないが、小説家の名前や作品の題はよく知っていた。夏目漱石、島崎藤村、谷崎潤一郎などみな知っていた。画家では上村松園なども知っていた。みな、大なり小なりゴシップやスキャンダルがらみで知っていたらしい。秀樹は、母の口から小説家の大きな名前を幾つも仕入れた、が、作品のなかみとは関係がなかった。無くても、なんとなく秀樹の憧れをそそるものはあった。雅号、筆名というものに最初憧れた。漱石、鴎外、鏡花、一葉、露伴、花袋、独歩などと、聞くだけでいいものだと思った。『不如帰』の蘆花、『金色夜叉』の紅葉から、『己が罪』の菊池幽芳、『父帰る』の菊池寛、『愛染かつら』の川口松太郎らに至るまで、母は、父や叔母とは表情を異にした「文化」の匂いをやや遠慮がちに姥島の家庭にただよわせていた。母は文学の本が手に入るものなら、喜んでいくらでも読んだにちがいない人だった、息子の著作ならなおさら。
叔母は本など、まず読まなかった。必要があれば裏千家の出している雑誌や、茶の湯の指導書も見ていたけれど、それは師範としての必要に出ていたので、実際はあまり読んでいなかった。雑誌「淡交」を社中に仲介してリベートを得ていたけれど、自身の分はたいてい惜しげなく秀樹の好きにさせていた。東京に出てしまってからも、「淡交」は欠かさず東京へ転送してくれたし、おかげで秀樹はそこから何編も作品を生んだ。
秀樹は「京の昼寝」ということを半ば以上も信じてきた。地方で刻苦精励して覚えることを京都のものは「昼寝」しながらでも識っているというのだ、「京都」は有り難かった。秀樹にはことに有り難かった。
「本」を読む(読み過ぎる)など「極道」だと息子に言うほどだから、父が、本を読んでいる姿などまず一度として記憶に残っていない。父は新聞しか読まなかった。新聞も「読むとこあらへん」と言い、取るのをよくもったいながった。そのくせ秀樹の子供の頃から、姥島は全国紙を時に朝日、時に毎日と、そして地元新聞を一時は夕刊だけ、後には朝刊も、都合二種購読していた。
連載小説を秀樹が読みはじめたのは敗戦後からで、石川達三の『風にそよぐ葦』が早かったろう。挿絵には、新聞とかぎらず雑誌でも子供の読み物でも、秀樹はじっと目をとめていた。紙芝居や絵本の絵に怯えたり、地獄変相図に極度に怯えたり、紙芝居の絵にさえ震えたりしたのも、絵画への一種の感受性があったということか、一貫して絵をみるのは好きであったが、描けなかった。
そんな父だから、本はなかなか買ってくれなかった。母は自由になるお金を全然といっていいほど持たない人だった。本を、自発的に親が手渡してくれたのは二度記憶があり、たぶんどっちも秀樹が熱などだし、医者の往診もたのみ、寝床にいたときだった、一度は薄紅い表紙の数十頁ともいえない冊子の『花は桜木人は武士』とかいう、子供ごころにももうちょっとナンとかならんのかと舌打ちの出そうな本だった。その次ぎはもう少し尋常な子供むきの大判の本で、絵本ともいえ読み物ともいえ、絵はモノクロで淡泊なごく生活的なもの、お話もごくきまじめな教訓的なものだった。題も覚えない、ちっとも面白くない本だった。
二年生になってもよく腹痛や下痢や発熱で医者の往診を受けた。最初は町内の難波医師を頼り、一人で通うときは近在の医院のどれかへその時しだいで足を向けた。東の梅本町に大塚という医院があり、チョビ髭で、髭のぶん難波さんより覚えている。古門前の日下先生は校医で、こわそうな目をして白髪の、背の高い人だった。
ここで思い出しておくのがいい、大塚医院と西の早瀬という日本舞踊の稽古場との間に、路地というより行き止まりの広めの辻が南へへこんでいて、奥の西側に「佐竹さん」という家があった。何がどんなきっかけになったのか記憶はないが、「本」のある家だというので何回か通って家に上げてもらい、読ませてもらった。姥島のに似た梯子段を上がった辺で、梯子段にこしかけ、うすぐらさに悩みながら取るものも取りあえずといった体で読み耽り、いつもの伝でもったいないので必ず二度ずつ読んだ。すっかりまわりも外も暗くなることがあった。
佐竹さんでいちばん印象的だったのが、『長靴三銃士』という三匹の、長靴を帽子にした猫の冒険漫画だった。話がどうのというより、猫たちの絵、ことに長靴帽の下の猫の顔が不気味で、ひとしお引き込まれた。漫画はノラクロなどほんわかとした作風にひかれていたので、『長靴三銃士』は好きで夢中になったわけでなく、馴染み薄い家のうすぐらい二階で読んでいて、怖くて、かえって忘れ難い読み物になったのだ。
どういう事情か、だんだん、医者というと、遠い清水坂下、松原通を電車道の東山線から西に入った、樋口寛というゆったりした大人風の先生に往診してもらい、また通院もした。家から花見小路を南へまっすぐ突き当たると、臨済宗の大本山建仁寺。この人少なに寂しい建仁寺境内をぬけ、ロクロ町を松原の坂にでて、坂道を百メートルほど登ると、盆には地獄の釜の蓋があく珍皇寺の門前を通り過ぎて、すぐ北側に樋口医師の医院があった。どこの医者よりも秀樹は樋口先生が好きで、慕わしかった。与謝野晶子に似た奥さんや家じゅうの方に、きれいなお姉さんにも、親切にしてもらったが、なぜあんなにと前後の事情を想像してみても、わけは全く分からない。(このお姉さんも後年医家をつがれ、ひょんなことで秀樹の妻が診察してもらっている。)
二年生半ばからは成績ものび、先生にも激励されていたはずなのに、その担任の名さえ「通知簿」で眺め直しても、「上野寿美子」先生に記憶がない。これにはびっくりしてしまう。一年の吉村玉野先生はたしか転校して行かれたと思うので、ひょっとして二年生の二学期ごろから、だれか男先生、まちがいなく三年生のときの担任だった寺元慶二先生が担任だったかと思い込んでいた。この先生なら有済校の教頭で、三宅先生の転出にともなう新任だった。この寺元先生がまた秀樹の面倒見にかなり熱心だった。あきらかに贔屓されている気がした。贔屓の仕方はつまり過剰に文句をつけられ叱られるのであるけれど、それでも仲間は「贔屓、贔屓」と不服げであった。
いやなことを思い出した。吉村先生の転出を講堂で見送った日、惜別の辞を述べよと事前に命じられていた。心用意があったにもかかわらず、その場でアガッてしまい、しどろもどろに赤恥をかいた。アガルことのまずそれ以後は一度もなかった秀樹の、思い出すのがつらい経験だった。
二年生になっても男女が別組ではなかった。女の子と机をならべていた。少年の胸をときめかせる美少女もいた。上原環はもう前ほど心ひく存在ではなく、活発だがどことなく窪んだ印象に転じていた。その窪みのくらさに逆に引き立てられ、上原と同じ町内ですこし東の表通りに家のあった尾上久美子ががぜん光って見えた。尾上の席は秀樹の席の真隣だ。愛くるしい、笑窪のきれいな利発な少女で、日に日に心をひかれた。「好きやん」はこの子と秀樹は心にきめた。きめただけで、何ごとが起きたわけではなかった。ずうっと、そのまま、六十年たってもそのままだと秀樹は苦笑まじりに懐かしく思い出す。
尾上久美子とは、だが袖もすり合わなかったというのではなかった。
あれは三年生になっていたのだろうか、学芸会で、久美子は兎に、秀樹は亀になり、お伽話メドレーのような担任の寺元先生即興の創作劇に共演した。たくさんなお伽話をごちゃまぜに、とりとめないが兎と亀のかけっこにはじまり、浦島太郎もかちかち山も猿蟹合戦も桃太郎も入り交じって(記憶は、ほとんど霞んであとはかもないが、)場面場面を即席に面白くつくった芝居であった。役は、亀なら亀の絵を前立ての鉢巻で示した。秀樹は配役の亀の絵が描けなくて父に描いてもらった。近くで見るとよく描けていたが、鉢巻にしてみると地味で晴れ晴れしない亀であった。そんなことは、どうでもよかった、兎さんの尾上久美子との共演に秀樹は舞い上がった。台詞も覚えられず、稽古でも叱られてばかりいた。恥ずかしいと思うとよけいとちった。「頼りないヤッちゃと思われてるやろな」と、尾上の屈託なげなさらっとした表情をぬすみ見ながら、秀樹は幸福なのか不幸なのかの判断がつかなかった。当日、講堂の広い舞台に幕があくと、いきなり兎の久美子と二、三メートルを隔てて、二人で、二人だけで照明をあびていたあの現実。一瞬くらっとした感覚は、かすかに体の奥に今も残っている。
学芸会はたいてい三学期にあった。三年生の三学期は、さし迫った集団疎開に全校があたふたしていたのだし、あの兎と亀の舞台ではさほどまだ胸騒ぎに怯えた感じはなかったから、やはり二年生だったと思いたいが、あの劇が寺元先生の作であったことに記憶違いはない。先生がいきなり教頭で有済校に来られたのか、その後昇格されたのかそこまでは覚えないけれど、秀樹の中学進学にまるで付き添うように今度は弥栄中学の先生になって移られ、ここでも一、二年後に教頭先生になられた。ご縁はながく続いた。


有済国民学校の教室では、「男」が目立ちはじめていた。腕力を頼みに人をこづく男生徒だ。秀樹の組には三人いた。田山定男、児島民夫、児島三郎。三人とも三条東二丁目辺の生徒だった。
田山はすこしニヒルにふだんは温和な口を利き、秀樹ともやや距離をおいた当たらず触らずの態度だった。やんわりと凄味をきかす生徒だったが、いくらか秀樹らに近づいてくる気合いももっていた。機嫌を損ねなければやりやすいが腕力つよく、首絞めで喘がせられたことも一度ならずあった。やや面長に苦みばしった男前だった。
児島民夫は荒っぽかった。物言いもドスをきかせてわざとなほど乱暴だった。角ばった大きな顔で、脅したり、体当たりしたり、腕を捩じ上げたりした。が、その程度だった。児島三郎はきゃんきゃん吠えて毒づく男で、すぐ目を怒らせ、声を荒らげて食ってかかるが、手は出さなかった。乱暴も暴言も歯止めがきかず、とにかく煩い男だった。「サブ」は「定男」に頭があがらず「民夫」には盾ついていた。児島という姓が同じで親類かと思った。そうではなかった。
三人の力の凌ぎ合いはかなりの間つづき、民夫は定男を押さえよう押さえようと手荒に突き当たっていたが、受けて立つ定男はそうさせなかった。民夫が一で、定男とサブとで拮抗していると見えていたが、ある日爆発して、教室のうしろの方で定男と民夫の一騎打ちとなり、廊下へも転がり出そうな組討ちと殴り合いのあげく、二人とも泣いていたけれど、定男が民夫を圧倒したことは取り巻いていた皆が認めた。ごたごたした腕力抗争は、定男一、民夫二、サブの三どまりで秩序が立った。顔色を読む必要が無くなり、定男もとくべつに威を振るって君臨することもしなかった。国は挙げて非常時であった。学業の出来不出来も当時はものを言った、教室の中では。秀樹らからすり寄らなくても定男の方から口を利いてきた。そんな時に機嫌を逆撫でさえしなければよかった。
男同士でぶつかり合い、位取りを腕力できめてしまうやり方を、秀樹ははじめて目のあたりにした。爆発は、定男がしつこい民夫の挑発に堪忍袋の緒を切ったのだ、あり得ること、あってもいいことだと秀樹は思った。定男の爆発には理があった。民夫の潰されたのが小気味よかった。
教室の中で、もう一つはっきり気のついたことがある。
廊下側の一列、うしろの出入り口に近い最後尾の席二つが、籤とらずでいつも同じ女生徒二人に決められていた。ときどき席替えがあったのに、そこだけ指定席だった。暗い穴のように感じ、二人の名前も覚えなかった。顔も見なかった。言葉をかわしたことも一度もなく、その子たちも黙りこくっていた。先生に名を呼ばれていただろうか、出欠は、見れば分かった。教室中、だれも、女生徒たちもその二人に無関心だった。存在しない物のように無視していた。
悪意すら持っていなかった、そんな態度こそが悪意のかたまりだった、と思い当たる。心から、ごめんなさいと言いたい。差別とはああいうことであった。思い出せば、あれも、またあれもそうだった…のだ。女の子二人はごく小柄だった、身なりは地味でも、みすぼらしくはなかった。ただ田螺のように殻に押し込まれ、さらにちっちゃく身をかがめていた。いわれない、また心ないことであった。
定男の天下にも、かげりが早く来た。沢山という少年がある日から教室に加わった。顔の中心へ面高にぐうっと盛り上がって、写楽斎描く大首のように目が怖かった。ぬうッと攻撃的で、背丈も胸まわりもひとまわり皆より大きい。定男らが束になってかかっても弾きとばす威力迫力が、確かめる必要などなにもなく、分かった。定男らも沢山の存在はまえから承知し評価していたようで、ともあれ教室の男生徒は新入りの沢山のまえにこそっとも音をさせず頭を低くしていた。沢山も乱暴に腕力をふるったりしなかった。言葉数すくなく、低声で、ときどき威嚇した。凄かった。その沢山も、三年生になるまでにまた教室から姿を消し、二度と有済校には登校してこなかった。
国民学校二年年の教室で、今ひとつ忘れ難いことが起きた。偶然に起きた。
女先生だったからずっと吉村先生だと思い込んできたが、記憶にない上野寿美子先生の教室だったことになる、あの日、なにか家庭との連絡事項でもあって、紙挟みにはさんだ書類を見ながら一人一人から確認をとってられた、が、急に必要あって職員室へ戻られるあいだ、秀樹に、前へ出て何でもいいから「お話」をしていなさいと命令がおりた。そんなことを言われても困惑するだけだったが、とにかく教壇まで出ていった。先生は書類を伏せても行かれなかったので、見るともなくすぐ自分の名前を、他の級友の名前とならんで見つけた。他にどんな欄があったか覚えないが、名前に添えて、他の生徒には「長男」「次女」などと記入した欄に、秀樹のだけ、単に「男」とあった。……、ぎっと胸に来た。胸の奥がきしった。
「知らんの。教せたげよか。あんた、もらひ子ぇ」と何度も隣の「チイちゃん」に囁かれていた。人同士の耳打ちをそれと感じて盗み見ていたこともある、が、そうかも知れないと思いつつ、まだどこかで、極く微弱であったがそうでないかも知れない気持ちも残していた。単に「男」としかないその記載は、「もらひ子の境涯」を実感させ信じさせるに足りた第一号証拠として、稲妻のように閃いた。
家で、どんな顔しょ……。
ぽかんとして教壇の端に佇み、秀樹は、まっしろに霞んだ運動場のほうを見ていた。教室のがやがやしたのも、先生の戻ってみえたのも覚えなかった。


昭和十九年四月に、有済国民学校の三年生に進んだ。大東亜戦争の戦況の日増しに暗いことはもう察していた。
内閣を率いるのはまだ、東条英機大将だった。陸軍大臣を兼ねていた。二月からは陸軍参謀総長も兼ねた。嶋田海軍大臣も海軍軍令部総長を兼ねていた。なにほどの逼迫を示していたのか知りようもなかったが、アッツ島、マキン・タラワ島など、「全滅」でなくて「玉砕」と表現はされていても、つまりそういう「敗戦」が次々に報道され始めた。「戦果」の報道が格段に減っていた。敗退した筈の米軍が、逆にマーシャル群島に「上陸」してきたようなニュースも届いたし、しきりに「決戦」の二字が新聞に躍っても、「玉砕」へ直結していそうな悲壮感は免れない。
二月に、クェゼリン・ルオット島の日本守備隊が全滅していた。六月には米軍がサイパン島に上陸、北九州に米機の来襲が報じられた。「本土」へ、敵の手が確実に掛かってきた。日本軍は中国本土で長沙を占領していたが、マリアナ沖海戦では航空母艦の大半を失った。七月、正月以来のインパール作戦の失敗を認めた大本営は、作戦中止を指令、直後にサイパン島守備隊が全滅・玉砕して、銃後の気勢を一気に深く殺いだ。東条内閣は潰えた。
小磯國昭内閣があとを継ぎ、米軍はグァム島に上陸した。日本は台湾での徴兵を強行の一方で、外交ルートを通じて和平の道をまさぐりはじめたが、どこの道も塞がっていた。九月末、グァム・テニアンの日本軍が全滅した。十月十日、米機動部隊は沖縄攻撃に火蓋を切り、十八日、日本は満十八歳以上の兵役編入を実施、翌日には神風特別攻撃隊を編成した。その翌日には米軍はレイテ島に上陸し激しいフィリッピン沖海戦があった。日本軍はもう持ち堪えられず、十一月末には初めて米機B29が東京の空に襲いかかった。
世界地図を眺めながら、「この小さい日本」が「こんな大きいアメリカ」とまともに戦争して「勝てるわけ、無いゃん」と呟いたのが、現実になってきた。学校にはサーベルをさげた軍人サンが「教練」のためだか「監督」のためだか、いつも軍服で常駐した。あいかわらず御真影を大詔奉戴日ごとに厳かに拝礼していた。分列行進を繰り返し、銃剣術の練習もはじまった。薙刀をつかっている女子上級生の姿も見た。「竹槍」という言葉が現実の響きをもち、歴史好きの秀樹は、竹槍など土民がものかげから敗軍の将を突き殺すものと思っていたから、「こら、あかんわ」と内心でドキドキした。「負ける」とはどういうことになるものか、実感に程遠いのも事実だが、「疎開」「集団疎開」ということが声高に言われだしていた。疎開の二字が他のなによりも、現実に重く暗くのしかかり「小国民」を怯えさせた。
三年生になると、学業だけなら秀樹はもう優位を譲らなかった。懸案の修身が二学期から優に転じた。体操まで三学期は優をもらい、良上は工作が一つ、図画も一年間を通じて優だった。視力は右02と左03と低いが健康は「可」とされている。いわゆる「概評」欄は通知簿から消えている。自信満々の優等生では、だが、なかった。見た目にも覇気がなく、「シガンダ」だった。後年に近所の大人から、「むかしの、アンタは」とあらためて笑われた。獅噛んで吐きすてたもののようだったそうだ、どこをどうとっても「アホボンチャン」としか見えなかった。担任は一学期が寺元慶二先生で、教頭になられてからは杉原繁先生だったと通知票にある。ふっと煙のように名前に思い当たる程度しか記憶がない。
三年生までは、誰が教室でよく出来るとされていただろう。二た組しかないどっちの学級にも級長と副級長とが先生によって指名されていた。任命書までもらった。
一年生の頃から、少なくも二人の男子生徒の名が記憶にある。三田啓三、勝田良彦。二人とも縄手通に住んでいた。三田の家は煙草屋、勝田は、三条京阪駅前に四軒寺が甍をならべた中の、三縁寺の息子だった。
三田はほっそりと背が高く、整った細面のきりっと眉も目もあがったハンサムだが、かまきりのように口をとんがらせて人につっかかる、「痩せて」強張った少年だった。秀樹に対しなんとなく敵愾心を感じているようだった。弱虫だとバカにしていたかも知れない。勝田は僧侶になる運命に甘んじていた。三田よりからだも幅があり、妙に傾いた歩きかたをして、物言いは大人びているとも鈍いとも、もったいぶっているとも取れた。もどかしいところがあった。
「ふうん、あんなンが賢いわけか」と冷淡に眺めていたが、二年生になり三年生になるにつれ、思ったほどでなかった。幼稚園からいっしょだった鈴木和明も出来たほう、永田純治もそんな感じだったが抜群にとは言えなかった。「秀才」を競いあう、あれも時代の風であった。良くできる生徒は学年を問わず、しぜんに知られていた。卒業式や終了式になると賞状授与で確認できた。
秀樹が入学した頃の全校での秀才は、家の筋向かいの路地の奥、白川のせせらぎを窓の下に聴くことのできた一色さんの「カツオちゃん」だった。背丈のある凛々しいお兄さんで下卑たところがなかった。次ぎの学年ではやはり仲之町の西寄りの、遠藤「センタロちゃん」だった。ふっくらと大柄な、大将サンのように整った顔だちをして、含んだ声の鷹揚な美少年だった。妹の「ケイコちゃん」も兄によく肖ていた。
のちに秀樹のために与謝野晶子の源氏物語を何度も貸してくれた森美穂さんも、卒業式総代の答辞を読んだ。古門前三吉町にあった古美術・茶道具の豪商「森」の分家のお嬢さんだった。色白で、すずしい声音で、あの時節に襞のスカートがすてきに似合って、秀樹はいつも遠くから眺め、憧れていた。秀樹より一年上に新門前西之町の、仕出しや弁当で名高い「菱岩」の娘の川村良子さんがやはり答辞を読んだ。川村さんと競っていたのが狸橋のそばの餅つき屋の服部優子さんだった、みな、しっとりとした京美人だった。
一つ上の学年で、男では西之町の瓦屋の田中巌、のちに肋膜を病んで秀樹らの学年に降りてきた、古門前元町のラムネ工場の尾上芳樹「ヨウちゃん」も、秀才だと評判だった。この「ヨウちゃん」の従兄妹が、秀樹のひそかに「好きやん」と目していた尾上久美子「クゥちゃん」だった。そして、ふしぎにも、「クゥちゃん」も、「菱岩」の良子さん、賃餅の服部さん、それに森美穂さんらが、みな、終戦後になって秀樹の叔母の稽古場に姿を見せ始め、お茶にお花に熱心で優秀だった。秀樹が叔母のほうへつい引き寄せられたのは当然であった。
戦時中に優等生の行く学校は、男子だと京都二中から三高がコースだった。私立だか公立だったか他に京中や京都一商、二商があった。同志社、立命館もあった。平安は野球学校といわれていた。同じ野球なら全国大会の第一回を優勝した京都二中に憧れた。当然のように秀樹は二中に進む気でいた。女子では府一とか府二といわれた女学校が最高とされ、私立では京都女学校と同志社とが名も通り、近所の華頂とか家政とかは程度が低いと見ていた。京女は、秀樹の通った幼稚園の親校だった。
秀樹の国民学校三年生は、見ようでは格別な成長期だったし、べつの見方ではさほどはっきりした記憶の呼び戻せない、ざわざわと不安な一年間だった。
前年の昭和十八年はまだ戦況も競り合っていたのだろう、空襲警報に怯えたこともなかった。四年生の昭和二十年春には、雪の残った丹波の山奥に母と祖父とで疎開した。山暮らしは義理にも快適とは言えなかったが、非常時の非常の措置に堪え、あれもこれも致し方なしという断念があった。新門前や有済校の空気とまるでちがう空気が南桑田郡椎名村字田布施の谷間には満ちていたが、明らかに別種の「文化」体験であったのだ、それに目を塞いでただ京都へ帰りたい一心の秀樹ではなかった。秀樹が初めて書いた小説は、この山村の生活がなければサマにならなかったろう。新人賞を受賞し文壇に招じ入れられた小説でも、レアルに、そしてイデアールにも「丹波の疎開生活」が重く関わった。
とは言え、三年生。戦時下最後のあの「京都」の一年を空白のまま通過することは、出来ない。
一億一心、銃後の護り、欲しがりません勝つまでは、大東亜共栄圏、そして鬼畜米英。そんなことを国を挙げて言っていた。赤紙の招集を受けた若い、いや若いとも限らない兵士の出征を見送る儀式は、各町内で頻々と行われていた。「わが大君に召されたる」とか、「勝って来るぞと勇ましく」とか、「父よあなたは強かった」とか、「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍」とか、「あぁあ、あの顔で、あの声で、手柄たてよと妻や子が」とか、「海の男の艦隊勤務 月月火水木金金」とか、しょっちゅう聞いていた、歌っていた。勇ましいのは軍艦マーチぐらいで、軍歌はどれもこれも柩を挽く歌のようであった。いっそ海軍小唄のもの哀れさを秀樹は耳に聴いた。

汽車の窓から手をにぎり
送つてくれた人よりも
ホームのかげで泣いてゐた
かァわいあの娘が忘られぬ

「トコ、ズンドコ、ズンドコ」と囃した気もするがべつの歌だったかも知れない。この小唄で「手をにぎり送つてくれた」のは親や親族であろう、のに、秀樹は「妻」ととった。「ホームのかげで泣いていた」べつの「娘」と妻との対比で海軍さんの感傷を「鑑賞」していた。「婦人倶楽部」だったか「婦人の友」だったか、川口松太郎や竹田敏彦の恋愛小説や家庭小説を断片的にでも秀樹は読んでいた。だれがどう持ち込んだか知らないが単行本の『真珠夫人』という菊池寛の小説も、大人の目をぬすんで読んでしまった。題のほかなにも覚えていない、が、とにかく「ホームのかげで泣いてゐ」る娘の側、弱い側にふと身をよせて行く傾向を秀樹は例えば『愛染かつら』や『新妻鏡』に養われた。出会いだった。
あの時節、歌を聞いて涙ぐむなど褒められた話でなかったが、唱歌の「叱られて」や「浜千鳥」にはしおれた。口ぐせにして口ずさんだ。姥島の家に仮寝の夢を結び、「青い月夜の浜辺」で「親をさがしてなく」浜千鳥かのように自分を想った。だから、しおれ、だが、そこから実は希望や勇気も得ていた。生みの親を知らないということは、どんな親の子でもありえた。だれをでも自分の親にできた。想像の翔をどこまで広げようと気ままだった。
腹這いに寝るくせが秀樹にはあった。「胸」の病気ほどこわいものの無い時代だった、一葉や啄木を持ち出さないまでも、「浪さん」「武男さん」の『不如帰』このかた肺病ほどこわい病気はなかったが、腹這って胸をおさえて俯くのは良くない、行儀がわるいと言われ言われながら、そうやって本の読みたい少年だった。本が読めなければ、畳に眼をすりつけるようにして畳の目を読んだ。
目数を数えたのではない。畳の目の、際から際まで、およそ一センチもない目の幅を一気に地球規模に拡大し幻想して、その莫大な距離の間に生起し消滅し交替するもろもろの人や事や物のことを想像した。広大な砂漠も、大都市も、果て知れぬ大洋もその畳目一つの幅に想像した。巨大にひろがる景色だけを見たのではなかった。くすんで小さな街角にうずくまる人の姿も、せせらぐ小川のさざなみに煙るような花の色も秀樹はそこに認めた。遊びともいえない一種恍惚としたそんな幻想の瞬時を幾重にも組み立て組み崩しながら、秀樹は時の経つのを忘れた。
なぜあんな遊びに耽ったのだろう。畳目の一幅はおろか藺草一筋分にも秀樹は太平洋やサハラ砂漠ほどの広がりが想像できた。同時に日にきらめく波頭の一つ一つ、風に波打つ流沙の縞の一つ一つまでも幻想できた。特異なこと難しいこととも思われない、想像力がよく働けば可能だった。想像の不思議に身をゆだねゆだね秀樹は、不思議を下支えているものへ信仰心をむけていった。
秀樹は、つい近年まで、日々に祈りを絶やさなかった。なかみはとんだご利益ねだりだが、それでいいと思い、自己確認かのように、健康を、気力と体力を、さらに集中力と想像力とを授かりたいと願ってきた。誠実に、平静に、人に優しく己に厳しく生き得ますよう、お守りお導き願いたいと祈っていた。勝手な言いぐさだと重々承知で黙想するのだ、だが文運は祈らない。いい作品を書かせてほしいとも祈らない。それは自分で努めるしかないが、努力してもどうにもならないものが、ある――、妻子の平安も世界の平和も。秀樹はそんな祈りを、いつか、すすんで、すっかりやめた。


昭和十九年中に近畿地区が空襲を受けたことは、あったろうか、まだ、無かったのではないか。だが訓練警報のサイレンはしきりに鳴った。各地区の学校で鳴った。警戒警報だと長く鳴り、空襲警報は二三秒に区切って反復して鳴る。京都市内はめったに空襲されなかったが、秋深まって十一月末の東京初空襲以後は、関西へも敵機飛来はもう間近だった。「警戒警報発令」「発令」と呼ばわって大人は走りまわった。
防空壕を、どの家にもーー。いまも秀樹は涙が出そうに笑ってしまう。姥島でも、中の間の畳をあげ、根太板を外した床下に防空壕を掘らねば済まなかった。車座になって大人四人と子どもが一人で言葉ずくなだった。
「しゃないゃないかいな」
父がシャベルを持ち、狭苦しい床下に降りた。膝から上はお家の上にあった。窮屈そうに右向き左向き父は掘った。掘り返した土を置く場所もなかったし、白川砂の下流域で、いくら掘っても端からさらさら崩れた。ほんの七、八十センチも掘りさげて、祖父と秀樹とが右総代で穴に降りてみてもう満員だった、どう首をすくめても頭の鉢は地面より高く、それで「爆風」を防ごうとは虫が良かった。爆弾以上にあのころ焼痍弾をおそれたが、あんな乾いた木造家屋の下にもぐって、火がくればどうぞ焼いてくれ墓穴は掘ってありますと言わんばかりだ。時代がまるごと病気だった、ドジなことばかり国をあげて大人たちは思案に明け暮れていた。
消火訓練、バケツリレーは学校でも町内でもやった。火を叩き消そうと棒の先に巨大な濡れ雑巾をつけて振り回したり…、信じられない真似を真剣にくりかえした。参加しなければ「非国民」にされた。隣組の寄合いもあり、父は第七班の班長をいつも勤めていた。隣組には回覧板と常会とがつきものだった。「配給」というのも大人にはよほどの大事らしかったが、秀樹に重みは知れなかった。物価にも具体的な関心は生まれていなかった。押しつけられた隣組など、大人も鬱陶しがっていた。

トントントンカラリンと隣組
格子をあければ顔なじみ
回して頂戴回覧板
知らせられたり知らせたり

トントントンカラリンと隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
ご飯の炊き方 垣根ごし
教えられたり教えたり

こんな歌は嫌いだった。根がよその内証は覗き込みたし、我が懐は隠して見せないのが「京の奥ゆかしさ」ではないか、この歌のようなウソくさい浮いた近所づきあいの有りそうも無いのが京都だった。歌詞もメロディーも軽くて薄くて恥ずかしかった。
父鶴太郎は、戦況の行方をさほど憂慮も痛嘆もしていないふうだった。勝つとも思っているようでなく、負けるとも、負けたならどんな事になるとも思い患う様子でない。むしろ父は長かった生涯のなかで、目立ってきびきびした中年時代を演じていた。松原署管内ラヂオ班長としてお上のお役に立っている気概であったか。
非常時の躾もあったが、まだ幼くもあって、二年三年生ぐらいで近くの知恩院や八坂神社や円山公園へ、建仁寺や平安神宮の方へ気ままに遊びに行った記憶は、一度も無い。
あの頃の秀樹には、町内から外へ出るのすらかるい緊張があった。銭湯に通ったり医者に通ったり、当然よその町内へも出かけていたけれど、用もなしにそんなことはしない、家のすぐ東隣の梅本町へすらよその町内やと思い、深入りしないか、していてもその意識はいつも捨てていなかった。
まして「隣国」なみの弥栄学区へなどめったに踏み込まず、それでいて当時いちばん興奮した遊びは、町内の子が二た派に分かれ、追いつ追われつの「探偵ごっこ」裏返せば「泥棒ごっこ」だった。この遊びにかぎって追いかけ逃げまわる「範囲」が、新門前通だけでなく祇園乙部から西の甲部にまで、弥栄校の範囲まで拡がる。切り通しがあり抜け路地があり、「パッチ路地」といって、入り口は二つに、深い八の字になって路地の奥では一つに繋がったおもしろい伏線もあり、十分興奮できた。興奮は、追いかける「探偵」側よりも逃げ隠れる側に濃く深くて、皆が「泥棒」になりたがった。そしてその際、北の古門前通へは追うも逃げるもまるで触らぬ神のように「範囲」外にした。なにとはなし祇園町のほうが古門前よりこころ親しい気を新門前の者はもっていた。「新」のほうが「古」よりも…という気も子供らはもっていた、妙な心理と言うしかないが。
友達と遊ぶのは、むろん楽しかった、が、仲間に「入れて」と近寄っていって、すんなり希望の果たせない時も、たまに、あった。人数が足りていたり一人加わると半端になったりする。兄弟の垣の内に割り込みにくい時もあった。それで仕方なくというのでもなかったが、畳目をいついつまでも睨んでいたり、逝く川波を橋の上でじっと目をこらして時を忘れるのが秀樹は好きだった。川なら白川が家の近くを流れていた。すぐ東の横丁を三、四十メートル上=北へ折れると、狸橋。近所の橋では町内の西の境に新門前橋があったし、下の通りには新橋と辰巳橋とが鍵の手に折れてゆく白川にこれも鍵の手なりに架かっていた。だが狸橋から見下ろす白川がいちばん水量ゆたかに目近に波打っていたし、瀬も手に取るようだった。
狸橋は、どこかしこ分厚に手をかけて飾った、石造りの、さほど長くない、がっしりした橋だった。近年は傷んですっかりボロ橋になっているが、秀樹の子供のころは近在の橋では一等堅固に、いっぱし贅沢感さえある風格だった。ひそかに自慢にしていた。
橋の上で、橋にもたれこんで眼下に川波の走るのをみつめながら、何を得ていたか。うまく言いおおせないが、そして平凡だが、鴨長明の観察よりはいま少し好戦的に、「時間の顔」の、それが素顔なのか仮面であるのかを見分けようとし、分かりはしなかったが身に染みてなにかを感じた。すごく寂しく、それなのにしっかり励まされるものを波のかたちと瀬のはしる音に聴いた。およそのことを、ごくつまらなく言い替えて示せば、はじめて芭蕉の言葉として知った不易と流行を、秀樹は一気に、国民学校二、三年生の頃に見飽きなかった狸橋からのあの白川の瀬音を想起し、理解した。秀樹の方法は、川の流れを「線」に延長させず、あたう限り眼直下の「点」において把握することにあった。凝視し瞑目し、また凝視し瞑目して、秀樹は自身川となり静止した時間の底を矢のように疾走した。のちに「西天一箭過グ」と臨済録に見出でたとき、あの静止した疾走の意味にごくまぢかに立ち返った気がしたものだ。
まっすぐ深く覗く。秀樹は、だから、井戸を覗くのも大好きだった、飽きなかった。ほの暗い遠くの底のそこに、ほの白い水鏡が深々と見え隠れしているのを覗きこみ、呼びかけてみる、と、まぎれもなく呼び返してくる声が聞こえる。他界。それもごく親しい他界。どうかしてあの他界にまぎれ入る道はないものか。まぎれ入って帰ってこられないなら、それでもいい。自在に往来できればどんなにいいだろう、どんなに励みになるだろう。そう思った。そういう願望を国民学校の三年生までに確実に秀樹は胸深く畳みこんでいた。


町内にも、心をひかれる家があり、心をひかれる人がいた。逆もあった。時節がら出征して行く人は何人も見送ったが、近在で共産主義者「アカ」の騒ぎは一度もなかった。別世界のことであった。
秀樹はまずしい「家屋」で育った、だから豊かな家大きな家を羨んだ…というのでは、なかった。家の構えや場所柄に風情をおぼえ、想像が動いてくる、そういう順序で心を惹かれる家があった。
南山城の実父山岡の生家など、街道からの見た目は大きな長い高いL字の石垣のうえで、堂々と大きく見えた。幼児、いやほとんど乳児期からのおぼろな印象だから、大人の尺度とは比較にならない。事実中年過ぎて初めて山岡の家を「取材」におとずれた時、遠目の家屋敷の大きさと、門を入り家にあがってみた案外な家屋の規模との、微妙に肩すかしをくった実感を忘れていない。それでも近隣の大庄屋をつとめたという山岡家は姥島の市中の家とちがって、揺るぎなかった。大きな景色の中にあった。
そうはいえ姥島家とて、その一画、仲之町隣組第七班の全部にあたる借家長屋を率い、母屋の体格は備えていた。二た間の隠居があり、巨きな大黒を大屋根にあげたけっこうな土蔵もついていた。蔵の奥にもう一棟の離家まで付属した造りだった。全体の奥行きは、だから、新門前から新橋に通う抜け路地の真半分を占め、鰻の寝床状をしていた。構えは小さくも狭くもなく、住まい方しだいで相当まともな家屋敷と見れば見られた。
だが隠居には他の家族が住み、便所は共用に等しかった。土蔵は姥島のもちものでなく、奥の離家もよその他人が借りて住んでいた。大家は他県に住んでいた。
姥島の大人には、家の中をきれいに片づけて住むという気がなかった。センスもなかった。母だけが貧しいなりにボロを隠したくてそこそこに工夫したが、商売用の電器会社のポスターを貼りつける程度だった。金をかけて家の中をきれいにすることなどもともと母に許された話でなく、父も祖父も、お花やお茶の先生である叔母ですらが、家の中なればこそ綺麗にしなくて済む、金や手をかけなくて済むという「思想」だった。「貧しい」と秀樹が感じたのは抜きがたいその思想であった。そしてその気で見ていると、家の表を通るだけで奥ゆかしい家、心をひかれる家が、同じ町内にも無くはなかった。
東隣の「奥」さんや「浅井」さん「清水」さんのような豪邸のことをいう気はなかった、仲之町にも松木さんという間口だけでよその何倍もの家もあった。そんな屋敷はほとんど秀樹を無感覚にさせた。想像力も鈍るほどそういう豪邸は頑固に門戸をとじていて、少年の柔らかい視線にごく素気なかった。
姥島の家の西路地、新橋通へ南北に通った抜け路地は、中途で西に二、三メートル一折れしたのが異色だった。もう一本の、西之町の切り通しを突き当たった抜け路地も、やはり途中で二、三メートル東に折れてから新橋通りへ突き抜いていた。見通しをわざと嫌ったこういう道路の作りは、ことに知恩院下の町通りには他にも例があった。古門前、新門前、新橋、末吉町、富永町、どの通りも東大路=東山線から西の縄手=大和大路まで、みな、どこかで必ず一と折れ見通しが妨げてあった。門前町であり、また徳川の息のかかった巨大な法城知恩院のつまりは城下町らしく、市街戦にも備えた町であった。
仲之町に、下=南むきに通った抜け路地は姥島のわきの一本しかなかった。上=北むきには白川に狸橋の架かった切り通しが一筋あった。切り通し両側のうち東側は梅本町だった。梅本町も仲之町も北側の背を白川に区切られていた。
京都は、路地の街といっていいほど、どの町内にも何本もほそい路地がある。家路地、内路地、それに長屋路地。仲之町にパッチ路地はなかった。ドン突きのある一本路地ばかりで、通りの南側に三本、北側に四本あった。
南の三本のうち姥島に近い二本は、高城さんと元持さんというそれぞれ一軒家に属した家路地で、私有地だった。高城にも元持にも、上級学校に通っていた年嵩な兄と、秀樹と同い歳の妹がいた。兄同士が仲良しだったのか、ボランティアのように二人協力して八月地蔵盆の余興に、町内の小学生を集め劇を上演したことが、戦後に、二年つづいた。秀樹も二年とも参加し出演した。そしてその一つ『山すそ』という児童劇を、新制中学に進んだ年の学級対抗演劇コンクールで演出し、一年二組を全校優勝へ導いた。
高城家のことは何も知らない。顔立ちの整ったおとなしい妹も戦時中は有済校にいなかった。終戦前にもあの家に住んでいたのかどうか記憶がなく、ただ、その路地の奥の家はまちがいなく「高城さん」としてずうっと承知していた。元持さんの方は、辰巳橋から末吉町へ抜けてゆく祇園切り通し途中の「お茶屋」の、いわば「住まい」のようだった。お兄さんだけはずっと新門前住まいだったらしく、妹の「サッちゃん」幸子は、辰巳橋の方にたいがいいて、弥栄校の生徒だった。中学、高校が秀樹といっしょで、現在は築山と姓をあらため東京青山に「湖月」という上等の料理屋を切り盛りしている。ときどき食べに行く。「湖月」の女将は「奥野秀樹」の書くものも見てくれている。
何軒もの寄合い路地が町内のずっと西寄りに、もう一本あった。もうその辺ですら姥島秀樹からはよその世間のようにほぼ没交渉の場所だった。記憶もあまりない。印象もない。さらにもう少し西、横山歯科の東隣にひっそりとした内路地の家があり、一時期そこに映画監督の大島渚が夫人の女優小山明子と住んでいたそうだ、秀樹はもう東京に出てしまっていた。
通りの向い側、北側、町内の東寄り、西寄り、その真ん中辺の三本の路地には、どれも何所帯かが寄り合っていた。
ずっと西、難波医院東隣にあった路地のことはよく覚えていない。奥に入って行くと、土けの黄色く乾いたむきだしの壁があった、あれは古い土蔵だったかしらん。なんだかぽかんと青空も見えたような奇妙に奥深い路地で、家の様子も、何所帯ぐらい住んでいたかも記憶にない。家庭といったものの匂いが思い出せない。それなのに、その路地に、戦後、女の同級生が一人どこかから移り住んで来ていたような気がする。佐々木「ヨシ子」といわなかったか、だが、実感は残っていない、むしろ喪失感のようなものがある。
いったい仲之町の現在花見小路よりも西、難波医院より東のならびは、疎開前にどういう家が建っていたのか、思い出せない。取り潰された現在の道路部分も、南側は高い塀うちが木深い前庭の大きな金光教教会だったと覚えているのに、真向かいの北側のことは完全に忘れている。
町内の中ほどにあった北向きの路地は、奥でTの字に道が開き、奥側に四、五軒が並んでいたが、表通りから入って行く縦軸の通路へ表戸をあけた家はなかった。脇二軒分のいわば横腹が挟んだ合間が路地になり、奥で横開きの青天井の路に突き当たっていた。
どういう二階の構造かは分からないが、縦路地の頭上は、低い、黒ずんだ板天井になっていた。上に表長屋の二階が繋がり、階下を路地が奥へ通っていたのだ、表の二軒も、奥に横ならび五軒も、大きくかためて借家長屋になっていた。そしてこの一画の東隣に、古び切っていたけれど間口も広く奥行きも白川にまで及ぶ、「川田さん」という大きな家があった、あの一団の大家さんだったのかも知れない。
この路地辺の子たちとは、だいたい気が合わなかった。妙なもので、たった三、四十メートルほどしか離れていないのに、同じ町内でも別区域かのようにお互いやや「はだはだ」に付き合っていた。
子供心に心ひかれる「家」そして「人」は、姥島の近所に少なくも二軒あり、四人いた。
二軒とも、住人は大人、そして兄妹だった。矢倉さんは、筋向かいの路地を入った西の間際に住んでいた。兄は道具屋はんで、唐草の風呂敷にくるんで軸物などを持ち歩いていた。時節がら詰襟の国防服をいつも着ていた。どんな素性の人か経歴などなにも知らない、父や母たちも知ったような口は利かなかった。背の高い、なぜだか九州の武将の菊池武時を想いだす男らしい風貌で、磊落、温和だった。秀樹は好感を持っていた。家では「矢倉さん」「矢倉はん」と呼んでいた。軽くは見ない呼び方で、余所のたいていは呼び捨てだった。矢倉さんは父よりこころもち若い感じだった。
妹という人も背が高かった。いつもきちんとした、どこか娘っぽい感じにあかみの矢絣の着物など着て、髪形も見るからに温和しかった、洋服姿は見たこともなかった。町内の遠足には兄妹そろって参加していたが、妹さんの口を利いたのを聞いたこともない。無愛想というのでは、だが、なかった。
ひっそりと兄と妹とだけで、路地内の平屋ずまいという境地を、秀樹はときどき清々しくも、不思議にも想像した。いい人たちだと思っていた。
この路地には、むかし奥の川沿いに先輩「カツオちゃん」の一色さんが暮らしていた以外に、どんな別の住人がいたのだろう。矢倉さんの一つ奥のならび西側にももう一軒、いや二軒あったかも知れない。思い出せない。のちにその一軒に、飯台の魚を自転車で売り歩く、陽気な蛙のような、ボテフリの魚屋が住んだ。父はちょくちょくその「おっさん」に鰆の二切れほどを美味しく焼かせていた。そういう商売をする魚屋だった。もっと後にはうどんの若松屋から長男の「ドラ」さんがこの路地へ一人で移り住み、そしてお嫁さんができたとか。
路地内の東側にそういう家は無く、切り通しの八百喜が家の裏木戸を路地へ明けていただけだ。この八百屋は、狸橋へかかる横ん丁、切り通しへ向いてけっこうな間口で商売繁盛していた。大晦日にはきまって父は八百喜で正月用の蜜柑を一箱買った。年に一度の贅沢であった。
路地に入る間際は、やはり表長屋の二階がふさいでいた。路幅も狭く、暗かったが、奥に入るにつれ、やや膨らんでいた。朝顔の鉢植など見た覚えがあるし、矢倉さんの表は竹で結った浅い張りだし縁になっていた。縁の内側がガラスの桟戸でカーテンがかかり、いい感じだった。一色さん以外はどこも平屋だった。だから空は明るかった。一色さんの家があの一団のいわば母屋格であったろうか。
もう一軒の気になる家は、八百喜の向こう、ちょうど狸橋の西南詰にあった津島さんだ。
この家族も二人きりの兄と妹だった。お兄さんは、女形に見立てたいほどほっそりと優形の、年はもう若くはなくて、やはり矢倉さんと同じほど、姥島の父よりいくらか若い程度に見えた。ごくたまにはやや色うすめな詰め襟の国防服に兵隊帽で現れることもあったけれど、常はしっとりと和服の着流しで、よく似合った。寡黙な人で声音などまったく思い出せない。妹さんは、微笑とはこうかと思う笑みも物静かな、だが陰気とは見えないじつに大人しやかな婦人だった。いつも和服で、言葉こそ聞けなかったけれど秀樹にも笑みかけてくれたことは何度もあった。
津島さんの家業がなにであったか、知らない。分からない。家でひっそりと手仕事をしていたようで、それも表具とか和綴じの製本とか、そんなものかも知れなかった、それとも矢倉さんと同じに道具屋だったかも知れない。分からない。
京都では、店を出して客を迎える骨董商のほかに、店などもたずに顧客の家に道具や古美術・骨董をもちまわる商いの、いわば遊軍が大勢生活している。矢倉さんがそうだったし、津島さんもそうであったかも知れない。矢倉氏が闊達な人だというなら津島さんはどことなく優美な男性だった。二人の妹さんがまた静かという美質を十二分すぎるほど寡黙に持ちあわせていて、妙なことに、類をもって集まるというかこの二人の中年、ないし中年すぎた独身婦人たちは、はためにも仲がよかった。二人で立ち話しているのも見たし、そんな時の二人の笑顔はごく自然に親しげで、見ていて心地いいものだった。時には一緒にどこか街なかへでも出かけて行くらしかった。二人は、たとえば姥島の母や叔母らとは、人種がちがうかと思うほどの別世界をつくっていた。町内でもまこと麗しくも孤立した感じで、それがまた幸せそうに見えていた。母たちもめったに噂もしなかった。黙殺しておくという風だった。
兄同士も仲善かったかどうか、商売柄なのかわるいわけもなく、何となく両家はどこかしら奥ゆかしく通じ合って見えた。子供ながら秀樹はすこぶる興味深く眺めていた。自分はあの女性二人から、よその子たちとはちがった或る関心を、好意をすら、持たれているという思い込みを、時に、わざと、したりして自身を励ましていた。
津島さんの家は、狸橋のへりに、道路からかるく一段降りた感じにガラスの表戸を明け、小さな張り出しの飾り窓もあった。小壺とか、刷毛目の浅い三島の茶碗とかが目立たない小帛紗に載っていて、飾り窓の内には小障子がしまっていた。下はごくせまい三和土になり川べりに臨めた。裸足になり、そこから何回かこわごわ白川に降りたこともあった。流れは早く、太ももの高くまで漬かった。川べりにも張り出しの手摺り窓が出て、縦木の枠がついていた。手摺りにもたれて手をのばせば川波にさわれそうな、古びていたけれど粋な造りの家だった。閑静で、かすかに雅で、憧れた。
もの静かな想像を幾重にもかきたてた、矢倉さん津島さん、二た組の兄妹と家とは、いつまでも忘れなかった。
もう一軒をいえば、狸橋から来てまっすぐ新門前通に突き当たったところに、白壁の土蔵をもった、浅井さんという元京都の植物園長だった人の家屋敷と老夫人とにも心をひかれていた。この人が津島さんの妹さんと道なかでときどき立ち話などしていた。浅井さんは梅本町の家だった。秀樹もいくらか関わりを持ったがそれは戦後のこと。そして後に、小説にも書いた、フィクションで。
矢倉、津島両家の兄妹のことは、まだ書かない。

 『客愁』第一部 幼少時代の二

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