* 「風」の原稿が、ひとまずは編集室におさまってくれた、気が楽になった。これで、わたしは本物の「失業」状態で、今、引き受けている原稿は只の一つもない。有ったのも、気乗りのしないのはみなわざと流してしまった。昭和四十四年に受賞し文壇に迎えられて、三十三年半、原稿依頼の完全に途切れたのは初のことだが、半ば以上は意図して待ちかつ迎え入れたこと、不本意は少しもない。一つの自在状態に入った気持ち。書く仕事は、機械であろうと原稿用紙にペンでであろうと、幾らでも好きに出来る。ま、「湖の本」にかかる出費だけは致し方ない。幸い一冊出せば、次の一冊は作れる。が、頼んでおこうか、「陰ながら、応援」なんて言ってないで、応援してね、と。
2003 1・10 16
* 新しい「湖の本」入稿の用意。もう少し。
2003 1・12 16
* 湖の本も、凸版印刷に入稿したディスクまたはファイル原稿と、少なくも二度三度の校正を経て仕上がった本文では、細部でおびただしく違っている。たとえ句読点一つでもより良くと思うから、ことに初稿ゲラは直しで相当赤くなる。電子版・湖の本に仮に入稿しても、最近のモノは入稿時原稿での控えを入れるので、冊子版でもう出ているモノとはずいぶんちがう。「校正未了」とあるのにも、こういう変異がある。「校了」には重い校正ゲラを手に、直しの一つ一つを確認してゆくので、ずいぶん手がかかる。作品のためには、余計なことだとも言えないのである。
さっきから「能の平家物語」を直していたが、よほど根気よくゆっくりやらなくてはならない。だが、これは読み直していても面白い仕事だ。
2003 1・17 16
* 「湖の本」の初校をやっと終えた。百三十ほどの予定ペイジのものを、勝手に百九十ペイジに組んで初校を出してきたのだもの、今回ばかりはどうかしていると思う。とにかく一度工場へ行って現場さんと話してこなくちゃ。
2003 2・3 17
* 凸版からの打ち合わせ連絡を待っていたが、連絡つかず。一日をフイに。いっそ校正を先に送りだしておけばよかった。
2003 2・4 17
* 明日、志村坂上の凸版印刷の工場へ打ち合わせに行く。むかし「新潮」の出張校正に何度か呼び出されて行ったところだろう。ま、ずいぶんあの頃とは印刷所はサマ変わりした筈、ちょっと見学気分。社内でお昼を一緒になどと誘われている。秋葉原の凸版へも一度二度行ったことがある。
2003 2・5 17
* 志村坂上の凸版印刷で、昼食し、現場と打ち合わせをし、初稿ゲラを手渡して。
あれこれのあと、地下鉄三田線ですうっと日比谷まで乗った。大化改新のあと白雉年の改革進行から孝徳天皇・中大兄皇子の確執と、天皇の死。その辺を読んでいたから、あっという間に日比谷まで。「きく川」で、菊正と鰻。有馬皇子の陽狂と窮死のあたりを読みながら満腹。お酒もまわって、有楽町線できもちよく帰宅。
ときどきぐっと冷え込んだものの天気は晴れてここちよく、ほんとはもうすこし別様に街を楽しみたかったが、菊正の一合に、めずらしく酔いがまわった。
2003 2・6 17
* 湖の本の再校が昨日に出ていた、それを落ち着いて読みたい、家では機械の前にすわると大きな校正ゲラをひろげる場所がない。階下へ行くとテレビが鳴っている。書斎は未整理の書類などが山積みで机の上に余地がない。で、夕食がてら、落ち着いてゲラが拡げられ、静かで、少々尻を据えていられる場所が欲しい。
ちいさい料理が品数出てくれると、時間にゆとりがとれる。和食がいい、酒も飲める。で、二時間近く、再校の半分ほどを丹念に通読できた。美しい人が、忙しい中で美しい笑顔で一度お酌をしに来てくれた。帰りには店頭へ出て見送ってくれた。仕事の邪魔は誰もしない。放っておいてくれる、それが何よりのご馳走で。
今日は寒くもなく、ま、温かい感じであった。
2003 2・14 17
* 今日はたくさんの仕事を前に進めた。さ、「湖の本」の大きなとりまとめ、責了から発送用意にまた掛かってゆく。
2003 2・19 17
* 校正の追い込みに、往きの電車と、電メ研からの帰りとをフルに用いて、かつがつ目的通りにコトを運ぶことが出来た。会議の後途中まで野村敏晴委員と一緒だったので、よほど一緒に夕食をと思ったが、それではどうしても仕事が残ってしまい、明日ゲラを揃えて戻せとの凸版の督促に応えられないので、失礼した。
入校前にディスク作りで一度、初校再校、そして再校の二度目を読み終えてほっとした。あすは責了紙を送り出せる。
食事はしなかった、酒肴三種で銚子三本、ま、三合とは行かない、知れたものである。しごとのしやすい、他の客の邪魔にならない、明るい囲い席へ入れてくれたので、何の気兼ねもなく仕事出来た。美しい人が、三度ほどお酌にきてくれた。四本にすると四度というわけでもなかろうが。客が大勢賑わっていた。和食の店で、すきやき鍋の一団もいて、においにちと閉口したが、仕事のハカはゆき助かった。愛想良く見送られて、九時を回っていた。
2003 2・28 17
* 「青春短歌大学」が「湖の本」で「上巻」だけになっている。平凡社版の「俳句」部分を省いて一巻にした。「下巻」には、その俳句分ももとより、平凡社版に収録した以降の短歌や俳句や詩を、新たに書き起こすつもりでいた。作品の数はかなり多くなる。たんに鑑賞だけなら作品の配列ができればすぐ書けてしまうが、学生達の解を盛り込みながら書く必要がある。その方が遙かに意味があるのはむろんだが、あの時代の資料を整理し参照するだけでも、たいへん手作業の煩雑な仕事になるのも事実。とにかくも、上巻には取り上げていない虫食い作品を、ようやく機械に拾い上げた。大きなファイルに満杯の資料を、二三年分も背後のソファに積み上げた。黒いマゴの休み場を奪ったことになる。
教授期間の後半は、俳句も詩も短歌も、量質とも拮抗するように多数出題し、その余に井上靖の散文詩を毎時間にプリントして配布している。
「書く」こともかなりしてもらったが、こんなに「詩歌」を重く扱っていたのかと、少し我ながらおどろく。おもしろいのも、ある。
* 墓の( )の男の( )にねむりたや 時実 新子
* 川柳であるが、説明抜きに各漢字一字で穴埋めをさせた。なんでもないようで、奇抜な唸らせる感じがいろいろに入って、みなで、笑ってしまった。
2003 3・2 18
*「湖の本」発送用意も七割がた出来てきた。月の前半はいくらか息をつきながらやって行ける。後半は、理事会があり、そして発送があり、京都へも。おまけにウイーンの甥が一時帰国するので泊めてくれないかと電話してきた。狭い我が家では例のないことで、発送のさなかでもあり、すこし、弱る。
2003 3・7 18
* 夕食前からのワインのせいかひどく眠い。今夜ははやくやすみ、明日に備えよう、歯の奥の方から浮き上がってくるような気持ち悪さ。
いま新聞の書評依頼があったが、即座に断った。
* と、言いながら、『青春短歌大学』下巻を書き下ろし始めた。平凡社刊は大方上巻に収めたが、本以降、退官までの出題作品が、上巻分を上回る量残っていた。学生の中で早く纏めてという注文も聞いてきた。放っておくには惜しい材料であり「下巻」を用意しておいたのへ、やっと手をつけた。
短歌だけではない、下巻にはかなりの俳句その他詩や歌謡も加わりバラエティが楽しめる。作品の配列に少し工夫をと思っていたのも、およその方針は立った。なるべく自在に語り継いで行こう。慌てることはない。
2003 3・8 18
* さすがに今日は茫然と疲労している。たぶん来週はめいっぱい発送仕事になる。まだ用意が全部は出来ない。いちばん混雑しているときに甥が来るというのも、ついぞないことで、対応に少し追われそう。今月は、後半がてんやわんやである。
2003 3・10 18
* 終日、名簿を確認しながら封袋に宛名シールを貼り込み、一つ一つ全部に、さらに宛名を確認しながら、本に挟み込みの必要なものを、予備的に差し込んで行くという作業をしていた。本当の発送までに完璧に用意をしておくので、送り出す方がこの頃ではラクになり、幾重もの用意の方に、途方もなく時間と労力をかけている。
2003 3・11 18
* 新しい本の一部抜きが届いた。冊了。届くのが明日明後日ということはないだろう、来週の仕事か。月曜はペンの会議だし、火曜からの仕事かも。今日は街へ出たくもあったが、もう午後三時。やれやれ。発送のための用事が残っている。
2003 3・12 18
* 前触れ無く「湖の本」の通算七十四巻めが出来てきて、慌てて受け入れた。用意がもう少し、いやまだ気を使うかなりが残っているので、実際には明後日からの発送になる。おもしろく読んで貰えるといいが。
2003 3・13 18
たった今、群馬の読者から電話が来て、湖の本の間が開いているが元気にしているのかと。有り難く、恐縮。少し早く送れるかと思ったが、たしかに三ヶ月以上、間があいた。 2003 3・13 18
* 明日から湖の本通算七十四巻めの発送。 2003 3・14 18
* 作業しながらデンゼル・ワシントン、メグ・ライアン、マット・トーマスらの「戦場の勇気」を聴いていた。これぞ指さすように前の湾岸戦争に取材した戦争映画で、一つ間違えるとアメリカ軍のファイトを称えるかのようであるが、兵士は死に、司令部や政治家はかれらの奮闘を栄誉がらみの自己宣伝に供していて、戦争批判の映画とみていいだろう。
米英西三国は何としてでもイラクでの戦争へもちこみ、しかもそれを平和のためにと称したがっている。平和は戦争で購うものだと、あしき平和論者のブッシュや国防長官は、オカルトふうの狂信に、眼を血走らせて、ウズウズしている。オウム真理教のポアやテロとどう違うのか。
* 終日の作業で肩も凝り歯も疼いている。晩には、またシャロン・ストーンのセクシーなミステリーを聴きながら、荷造りを進めた。もうこれまでと打ち切ったとき、ほとほと、疲れていた。家の中にいても花粉を感じ続けた。
2003 3・15 18
* もう、こんなメールを貰っていた。まことに照れくさいほどであるが、こういう声や言葉にも励まされながら生きて行かねば、萎えて行くばかりでも困ると思い、わがための自賛のつもりで書き込んでおく。
むかし「慈子」書き下ろしていたとき、兼好自賛七条から話をほぐしていった。ある注釈書は、自賛は自慢ではないとし、人がほめてくれてよいところを褒めてくれないのでするのが自賛だとあり、苦笑したことがある。褒めて貰っているのを麗々しく書き込む必要は無いのだが、ま、気の弱りそうなときには、嬉しくて、と。
* 本日湖の本エッセイ『東工大「作家」教授の幸福』を頂戴しました。ありがとうございました。昨年末に単行本を購入して読んだ記憶も新しいのですが、早速また面白く読み直しております。私が大学生の頃にオーケストラの活動を通して交流のあった多くの東工大生の、優秀ですこし翳があって、誠実なのに不器用でシャイだったことなど思い出しまして、なつかしく時にほろりとしています。
私はずっと先生の小説世界に心酔してまいりましたが、先生の息づかいや眼差しがよりなまなかたちで感じられるエッセイなどの文章にも魅了されてまいりました。小説も、「私語の刻」の日記のようなエッセイのような文章も、私には貴重な財産で、どちらか一方だけを選ぶということはできません。
先日の私語の刻で、先生は中野重治のことに触れられ、「操觚者」でありうれば幸せと書いていらっしゃいました。私は先生のお仕事の領域の広さ、質の高さにただもう圧倒されておりましたが、エッセイ、評論、ホームページの私語の刻、ペンクラブの電子文藝館の創設など、すべてが先生の渾身の作品なのですね。そしてそのどれもが極上
の文藝作品、藝術作品であることは疑いようもございません。私は秦恒平という文学者にめぐり合えた幸福をこれからも日々かみしめてゆくでしょう。湖の本を積み重ねてゆくたびに、ありがとうこざいますと、先生だけでなく神さまにも感謝しています。
さて、話はかわりまして、お気にかけていただきました地唄舞の発表会ですが、15日に無事終わりました。もともと、最後まで間違えずに踊れればという志の低さで臨みまして、何とか目標達成です。地唄舞の先生が「わからなくなってしまったら武原はんになったつもりで、ポーズとってじっとしてて」と言われたのでそのつもりで踊ったのがよかったのでしょう。意外なことに、家族には他人のふりをされることもなく好評でした。家族に極端に地唄舞を観る目がないのと、お座敷に牡丹色の着物が映えた効果かもしれません。
会のおやつは青山にあります菊屋の、自然薯をすりおろして作った皮にたっぷり餡のつまった大きめのお饅頭をいただき、踊りのあとには料亭の季節のお料理の数々を堪能しました。* * 座のオーナーの方の料亭ですが、デザートに出たお汁粉が小豆の甘味まで感じる繊細な美味しさでした。
しかし、この会の話題は少しも甘くなく、アメリカの戦争と北朝鮮のミサイルのことでした。六十代、七十代の地唄舞を愛する市井の物静かなおばあさま方が、かんかんです。
「アメリカは戦後処理なんて楽天的に考えてるみたいだけど、そんなに都合よくすぐ終わるとは思えない」
「あの大東亜戦争だって日本は一週間でアメリカに勝つつもりではじめたんだから」
「ブッシュさんは自分の子供が戦争に行かないから」など、怒ること怒ること。ブッシュ大統領もよくよく戦争をはじめる愚かしさを考えていただきたいものです。もうどうにもならないのでしょうが……。
世界情勢の混沌にうんざりしつつ、今日はひととき、先生の若い魂への優しさや静かに温かい想いにふれる喜びを味わわせていただきました。発送のお疲れなど出ませんように、ご自愛くださいませ。近いうちに桜も咲きますでしょう。
* 話題がゆったりうねって変わって行く呼吸が楽しく、「武原はんになったつもりで、ポーズとってじっとしてて」は、なんとも面白い。先生の、じつにうまい口説きようである。
それから食べ物の話がうまそうで。わたしが今日元気だからか、なんだかわたしも食べたくなった。
そして「おばあさま方」の戦争にかんかんも頼もしい。
そういえば、今日の理事会に「平和のモカシン」資料を配付して共感を得たいと思ったが、なんと、「これはいいねえ」と共感を示したのは小田実氏がただ一人であったのにはガッカリした。女性作家委員会などが、いち早く反応してくれていいアピールだと思ったのだが。
2003 3・17 18
* 「湖の本」届きました。
秦先生: ご無沙汰いたしておりますが、お変わりございませんか? 私は2月末に質の悪い風邪(お腹にきてしまいました)にかかりましたが、元気にしています。
昨日、手元に「湖の本」が届きました。あの授業の内容ではありませんか! 授業風景を思い出しました。とても懐かしいです。しかも、自分の書いた文章が載っていて、何だか恥ずかしいような…。その文章の中身については、今も考え方は変わらないかな? 多分、これからもずっと変わらないと思います。不思議と。近いうちに送金しますので、お待ち下さい。
先日、弓道の昇段審査を受けて、参段を取得しました。ずっと昇段審査をサボっていた(何と、10年も!)のですが、義父も弓道をやり、しかも私と同じ段位だったので、一緒に受けることにしたのです。結果は、私だけが合格してしまったのですが、義父は「しっかり練習して、次回受けるよ」とやる気満々です。親子3人(義父、主人、私)に加え、主人の親戚の子も昨年から同じ道場に通っているのです。それぞれ、いい刺激になって精進できればいいな、と思います。
まだ寒い日が続きますが、家のすぐ傍でウグイスの鳴く声を耳にしました。春が近付いているのを、肌で感じながら生活しています。暖かくなったら、近所にある多摩川のサイクリングコースを主人とサイクリングしようか、などと考えています。
先生も、どうぞご自愛下さいませ。それでは、また。
* お舅さんとお嫁さんとが弓道の腕前を生き生きと仲良くきそっているなんて、なんと羨ましい。なんと微笑ましい。なんと健康なことだろう。専業主婦ではない、東工大で博士になり大学の先生である。清々しい人であった、むかしから。嬉しい便り。
2003 3・18 18
* さて、おかげで、ほぼ発送は一段落へ漕ぎ着けた。あとはパラパラと補充的な作業で済む。通算七十四巻、なんとか無事に刊行した。
2003 3・18 18
* そよ風が運ぶ
先日、大宇陀町のいい最中にであいました。
昨日、TVで「第三の男」を見ました。
そして、今日、ご本が届きました。
どれも、材料が吟味され、手間も暇もかけた餡が、たっぷりと大きな皮に詰まっていて、あっさりとして、しっかり甘くて、それでいてくどくなくて、後味が良いの。
ペンが、何かとお忙しそう、と案じておりました。ご本嬉しくいただきました。
彼岸というのに、肌寒い日が続きます。お疲れの出ませんよう、ご自愛ください。これからも、いいお仕事ができますこと、心よりお祈りいたします。
2003 3・18 18
* 新しい湖の本が届きました。ありがとうございます。はじめのところを読んでいます。
学生さんたちは、ほぼわたしと同年代でしょう。「東工大『作家』教授の幸福」を手にしているわたしは、学生を終えてからかなり時を経てしまっていますが、今ならこう書く、などと考えながら、秦さんの出題を眺めています。
砂金。まさしくそうですね。「湖の本」からも、パソコンのモニター越しにも、きらきら光る粒を、わたしはいただきました。砂の中の輝きを、見出せる眼を育てていきたいです。
ホームページのエッセイ「青春有情」の、『学生たちの殆どが、内なる思いを発信したくて機会を、聞き手を、渇くように求めている。そういう青春に、「自分の言葉」を見つけさせ、「実感」をせめて書いて表現させ、噴出させてみたかった』という文章に触れて、歓喜したことをおもい出しています。
戦争の足音の、間近にきこえる状況を憂えています。
アメリカの武力行使を、わたしは支持しません。世論調査では、70%以上の日本国民が支持していないようですが、国の代表は、その民意を反映していませんね。北朝鮮の脅威を引き合いに出していますが、もし北朝鮮が何かしら日本に仕掛けてきても、今のアメリカを頼りにしたいとは思いません。「アメリカの武力行使を支持する」と表明して、日本と中東との友好を打ち砕くより、「北朝鮮の砲筒は日本に向けられているけれど、拉致問題を全面的に解決するつもりだから、国民も覚悟してほしい」と言われた方が、どんなによかったか。
ジャッキー・チェンという、わたしの好きな香港の俳優がいます。
彼は「兵器の製造を止めることは、わたしにはできない。けれど、武器を造るのをよそう、武器を持たないようにしようと、意見を言うことはできる」と語っていました。志を持って生きよう、殺し合いのない平和な社会にしよう、自然を尊ぼう、そんなことを、彼は映画の中で臆面なく言ってのけます。監督をするようになってから二十余年、たゆまずそう主張しつづけるジャッキーの単純なまでの姿勢を、わたしは愛しています。
ハリウッドはジャッキーを認めたというけれど、ジャッキーの何を見ていたのでしょう。ハリウッドの撮ってきた戦争をテーマにした映画の数々は、きれいごとだったのでしょうか。
9.11直後、愛国心を煽る政府に、あまりに寄りすぎたと、ワシントンポスト、ニューヨークタイムスほか、主要なメディアの代表たちの反省しているシンポジウムを、NHKで特集していました。ジャーナリズムは行政を監視していかなければならないと、決意を述べていた彼らは、どこへ行ってしまったのでしょう。
政府が言論に圧力をかける今のアメリカは、自由の国には見えません。 群馬県
2003 3・20 18
* イラク攻撃は午前中にも始められて、戦争状態に入った。「世界戦争劇場」かのように各局ともに興奮して喚き合っている。おかげで、「ひばりの時代」の二回目が流されて延期。つまらなくて、機械の前に。『青春短歌大学』下巻を十数枚分書き進めた。授業の資料を読み返しながらの書き進めで、手が煩わしい。しかし、我ながら佳い詩歌を選んでいるので、学生諸君の解答を見直しながら作品に思いを籠めて行くのは楽しい。何よりも心静かである。
2003 3・20 18
* 御本届きました。ありがとうございました。
今日は用事で上野に出かけ、途中「米英、イラク攻撃」の号外を手渡されて、暗い気分で帰ったところ、郵便受けに御本を見つけました。以前新聞で東工大での授業の記事を見て、「こんな授業を受けたいな」と思ったことを想い出しました。明日から楽しみです。
かなり前ですが、平凡社で出された「秦恒平の百人一首」を本屋さんに注文したところ、絶版といわれてそのまま諦めていました。他に方法がありましたらお教えください。
「最後の弁護人」が終わってしまいましたね。とても楽しみました。今風に言うと、私、推理劇オタクなのです。本も好きです。見るだけの側の人間として、創る側の方の才能に感心し、憧れます。
「最後の弁護人」でひとつだけ気になったのはスタッフ・キャストの名前が見にくかったこと、私が親だったら怒りたくなります。
もう一度お礼申し上げます。 市川市
2003 3・21 18
* 本日、湖の本『東工大「文学」教授の幸福』を頂きました。どうも有難う存じます。
早速少し読ませていただいたところですが、小生も*大にて教授をしていますので、大いに関心があります。
実を申せば、だいぶ前、どこかの新聞紙上あるいは文芸誌かで、秦さんが東工大で授業の際、毎回短歌や俳句を一つ、漢字を虫食いにして出し、学生たちに考えさせているという記事を読み、これはいい方法だと、小生もさっそく連句の授業(毎年1年かけて歌仙を巻く授業を持っています)で、「俳句クイズ」と称して真似をさせていただき始め、すでに何年かになります。
いわば無断盗用、家元に御挨拶もせずで、まことに失礼いたしました。おかげで、学生を俳諧に慣れさせる上で役立っており、授業の人気も地味ながら上々、全国でも数少ない年間を通しての連句授業として定着しています。
尤も小生の学生は1年に40人ほどで(ゼミは別にして)、秦さんの4年で5千人なぞとはけたがちがいますが。
残りもこれからゆっくり拝読いたします。まずはお礼まで。 神奈川県
2003 3・21 18
* 冷え込んで。遊びに出掛けたいと思ったが風邪を引きかねないので、断念。払い込みが好調に届き始め、心配したよりも今度の本が親しまれ楽しまれているのに安堵している。なにやら自分も「幸せ」に楽しくという通信欄の書き込みもたくさんあり、また、それと別に、わたしのホームページを日課の一つに組み入れて「必ず読んでいます」という便りの多いのにも驚かされる。機械の故障でカウントが御破算になったのがもう何年も前であるが、あのころ、すでに一日に百から百数十はアクセスがあり、僅かの間に数万になっていたから、引き続いてカウントしていたら、とうに十万どころではないだろうが、そういう数字に左右されるなんてイヤなことと思い、カウント続行の気持は捨てた。建日子が、けっこういろんな人が見ているからと、だから「お手柔らかに」と口にしたとき、ビックリした。彼の社会圏とわたしのとでは、ほとんど触れ合っていないのだから。ま、いい、わたしは「私語」しているだけのこと。
* こんばんは! 本が届きました。どうもありがとうございます。とても嬉しかったです。来週送金させていただきます。
毎日、先生の文章を読ませて頂いていますよ、食事をとるごとく欠かせない大事な日課となっています。
戦争の事で私も心が痛みます。二十一世紀こそ平和でいられると信じていたのに…。控えめではありますが、“行雲流水”で自分なりに主張しています。
ところで、6月から琉球放送で中国語関連の番組を持つことになりました。皆様のお力を借りながら、精いっぱい頑張るつもりでおります。
立春とはいえ、東京は寒い日がまだまだございますことでしょう、くれぐれもお体をお大事になさってくださいませ ! かしこ 沖縄
* 東工大の頃はまだたどたどしかった日本語が、こんなに、流れるように美しくなった。
2003 3・22 18
* 心に残る言葉 2003.03.25 エレベーターから教授室に続く薄暗い廊下を、何度往復しただろう。灯りが点っていたから、その人がいるのは分かっていた。息を潜めて扉に耳を寄せる。胸の前まで上げた拳を扉すれすれに下してみる。その繰り返し。中の人は、その気配を感じてもおかしくはなかった。近づいてくる足音があれば、エレベータ脇のトイレに避難。深呼吸するにはふさわしくない臭いがした。
その日は、そのまま帰った。
ノックしたのは、その2週間後だっただろうか。その人は、私を静かに迎え入れてくれた。朝な夕な、独り語りかけてきた胸の内も、その人を前にすれば何一つ話せなかった。いや、もう話す必要は感じなかった。
私が悩みを抱えてやってきたことは、お分かりだったのだろう。その人は、不意にこう言った。「みんな、自分が一番大変だと思っているのですよ。」
言われ方、言われる人によっては、ひどく憤慨したかもしれなかった。にもかかわらず、その人から発せられたその言葉は、私にとても静かに入ってきた。否定の色も肯定の響きもなかったからだろうか。不思議だった。
あれ以来、苦しいこと辛いことがある度に、この言葉を思い出す。人にはそれぞれ、その人の大変なことがある。自分より下を見て元気づけられるとか、共感を覚えるとか言うのではない。この言葉を思い出すと、不思議に、大変と思っていたことが、それほど大変ではなく見えてくる。 バルセロナ
* この「教授」がわたしであったと、ハキとは言えない。こういう位置にわたしの研究室はあったけれど、大なり小なり広い学内では、あちこちで似たようなものだったろう。ゴマンと教授はいたのである。
ここに書かれていることは、たとえ、どの教授がそう言ったにしても、「言葉そのまま」では通用しない。ものは言いようで、落胆もさせるし険悪にも成る。きわどいところだ。が、「みんな、自分が一番大変だと思っているのですよ」というところは、誰にも有る。悪いのではない、あたりまえで、無理ないとすら言えること。だからこの教授の「物言い」が、時に小さからぬ意味をもつ。卵の殻を、雛は内から親は外からつついてピタッと合うと、無事に殻がカラリと割れる。難漢字が一字有るので書けないが、「ソッ啄同機」の会得である。狙ってできることではない、が、ちいさな親切心があればそれだけでも可能になる。
人が人に親切であるなんて何でも無いようで、あまり、そうではないものだ。道を譲るぐらい出来ても、顔を見てものを言うのに不自然に親切がれば、もうそれでオシマイなのである、容易とは思われない。今はカタロニアの心熱き女よ、えらいことを覚えているなあ。
* 今度の本はわざとつけた題であるが、何とも。中を読んでくれる人は、すぐさまその意味が受け取れるだろう、が、読まずに題だけみてウヘエッと投げ出した人もいたことと思う。「東工大『作家』教授の幸福」と来たもんだ。この幸福は、だが、甘いものではなかったと思う、学生諸君には。生涯でこれほど露骨に訊かれたくないことを聞かれ続けた日々は少ないだろうと思う。冗談にして逃げるわけに行かない聞かれようで、聞かれたままに即座に「書く」というのは、一種の拷問であったろうと思う。上司や親では聞けない。わたしだから聞けたのだと思っている。
*故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 *自身の「名前」について語れ。 *身にこたえて友人から受けた批評の一言を語れ。 *身にしみて学校(大学は除く)の先生に言われた言葉を思い出せ。 *「別れ」体験を語れ。 *「父」へ。 *何なんだ、親子って。 *今、真実、何を愛しているか。 *何を以て、真実、今、自己表現しているか。 *寂しいか。 *今、心の支えは在るか。 *真実、畏れるものは。 *不思議を受け容れるか。 *秘密をもつか。 *なぜ嘘をつくか。 *もう一人の自分へ。 *「位」の熟語一語を挙げて所感を。 *「式」の熟語一語を挙げて所感を。 *仮面を外すとき。 *親に頼るか、子を頼るか。 *結婚と同棲 *死刑・脳死・自殺を重く思う順にし所感を述べよ。 *自由とは。 *(漱石作『こゝろ』の先生に倣って)「恋は( ) ( )である。だが( ) ( )である」 *漠然とした不安について述べよ。 *人間のタイプを強いて一対(例・ハムレットとドンキホーテ)の語で示し、所感を述べよ。 *何が恥かしいか。 *「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 *何に嫉妬するか。 *セックスについて述べよ。 *絶対なものごとを挙げよ。 *家の墓および墓参りについて述べよ。 *わけて逢いたい「 」先生。 *科学分野に「国宝」が在るか。 *清貧への所感を。 *「性」の重み。 *いわゆる「不倫」愛に所感を。 *「参ったなあ」と思ったこと。 *自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 *「挨拶」について。 *今、政治に対し発言せよ。 *東工大の「一般教育」を語れ。 *心に残っている「損と得」を語れ。 *他を責める我を語れ。 *報復したことがあるか。 *仮面をかぶる時は。 *結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 *一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きているか。 *「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 *国を誇りに思う時は。 *嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。 *「心臓」と「頭脳」のどちらI「こころ」とふりがなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 *「心」とは何か。 *何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 *生かされた後悔、生かせていない後悔。 *ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 *話せるヤツ、または、因縁のライバル。 *今「思う」ことを書け。 *いま「気になる」ことを書け。 *疑心暗鬼との闘い方。 *あなたは信頼されているか。 *あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 *自分の「顔」が見えているか。 *なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 *兵役の義務化と私。 *何が楽しみか。 *心残りでいる、もの・こと・人。 *Realityの訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 *「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 *自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 *何があなたには「美しい」か。 *何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 *「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。 *井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。 *「魔」とは何か。 *「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 *「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 *「死後」を問う。 *「絶対」を問う。 *「祈り」を問う。 *生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 *上の短歌に補われた多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 *「劫初より作りいとなむ( )堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その「( )堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 *落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 *「春」「秋」の風情を優劣せよ。 *今、何が、楽しいか。 *「血」について語れ。 *集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 *「事実」とは何か。信じるか。 *「絵空事」は否認するか、容認するか。 *「幸福」は人生の目的になるか。 *「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。何故か。 *毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 *五年後、新世紀の己れを語れ。 *今期言い残したことを書け。 *公園で撃たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 *命は地球より重いか。 *命にかえて守るもの、有るか。 *喪った自信、獲た自信。 *仮面と素顔の関連を語れ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 *目から鱗の落ちたこと。 *「私」とは何か。 *あなたは卑怯か。 *自分が自分であることを、どう確認しているか。 *「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 *「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 *「本」を読む、とはどういうことか。 *漱石の「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて「金は( )、だが( )」である。何故か。 *あなたにとって「大人の判断」とは。 *踏絵を、踏むか。何故か。 *人の「品」とは、どんな価値か。あなたに備わっているか。 *「自立」を語れ。 *むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 *性生活の、生活上健康な程度を、人生(10)に対し、どの水準に設定(予定・願望)したいか。何故か。 *「未清算の過去」があるか、どうするのか。 *「神」は、(人間に)必要か。 *罰は、当たるか。 *あなたの価値観とは、つまり、どういうものか。信頼しているか。 *いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 *二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 *みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 *秦さんに今期言い残したことを書け。 *「死後」は必要か。 *命とは。命は地球より重いか。 *運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ないし「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 *迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 *「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情け無用」のどの情けを重く見ているか。 *「縁」とは。 *「不自然」は活かせるか。無価値か。 *「工」一字を考えよ。 *「花」の熟語を五つと、好ましき「花」を語れ。 *「( )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 *仮想敵を語れ。 *「父」とは。 *虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 *「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 *人生は「旅」であろうか。 *第一原因として「神」を信ずるか。 *証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 *日本のいわゆる「道」を考えよ。 *親は子を育ててきたと言うけれど( )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。 *二十一世紀を語れ。 *最期に、秦さんに言い残したことを。
* 四年間。抜けているのも、年度により重ねて問うたのも多かろう。なんだ、くだらない、答えられるか、と思われては話にならなかった。クソッ、こんなこと聞きやがって、書いてやらあと反撥してでも思ってもらう必要があった。いい挑発。それが教室から失せていては熱は発しないだろう、双方に。
2003 3・27 18
* 小説を待望の声が読者からぱらぱら、ぱらぱらと「湖の本」の読者からも届きだしている。待ちきれないらしい。わたしは慌てない。
2003 3・31 18
* 勝田貞夫さんが、一枚のCD-ROMに、なんと「湖の本エッセイ」の第一巻から第二十巻を全部収録し、まるい表紙の左半に表紙繪、右半に二十巻の目次、中央に本の表紙と同じデザインで色と字体も同じく「秦恒平」「湖の本」と、まことにスッキリと創ってきて下さった。じつは、電子版の湖の本は、わたし自身が入念に校正していない、だからこれが一人歩きされては困るけれど、早く校正し終えて、この形で希望される方に頒布できるといいがとは、以前から思ってきた。校正を完璧にし「定本化」を急いでおかないといけないが、二十冊分は容易でない。私自身が納得できないと校正は終わらない。
1 蘇我殿幻想・消えたかタケル 2 花と風・隠国・翳の庭 3 手さぐり日本 4 茶ノ道廃ルベシ 5 京言葉と女文化・京のわる口 6・7・8 神と玩具との間 – 昭和初年の谷崎潤一郎の三人の妻たち- 上中下・谷崎感想 9・10 洛東巷談 上下 11 歌ッて、何! 12・13・14 中世の美術と美学(女文化の終焉・趣向と自然・他) 上中下 15 谷崎潤一郎を読む 16 死なれて 死なせて 17 漱石「心」の問題 18 中世と中世人上 19 中世と中世人 下(日本史との出会い) 20 死から死へ
これだけが一枚の円盤に悠々と収録されてしまうのだから、何とも言葉がない。湖の本エッセイは、このあとへなお七巻が刊行されている。刊行を待っている紙の本エッセイや紙の本になっていない雑誌等初出原稿のものが、まだ大量に出を待っている。みなわたしの子供達である、捨て育ちでいいとも言えるが、見てやれる面倒は見てやりたい。勝田さん、お心入れを有り難う存じます。
* エッセイでなく小説や創作のシリーズは、すでに湖の本で四十七巻が刊行されていて、校正は出来ていないのが多いが、電子化は全部済んでいる。いずれ新作もなお加わる。
本当は創作もエッセイも全部一枚の円盤に入る。あまりのことに、のけぞってしまうが、そこまで用意出来るのにまだ相当の時間が掛かる。円盤一枚か二枚(二枚目には「闇に言い置く私語」)をそっとその辺の棚に置いて、それならばと此の世に別れて行ければ、どうだろうかな。
現金なものだ、こんな夢想に耽っていた間は咳も静かだ、と気が付いた途端、胸の底から龍でもひくく唸るような木枯音が噴き上げてきた。まいったな。
2003 4・14 19
* 湖の本の次回を入稿した。あちこちの庭に彩り美しく春の花が咲き競っている。雨の跡で白はあくまで白く、赤はいかにも赤い。風も薫って感じられる。季節のゆらりと動いて行くのも感じられる。
2003 4・22 19
* 御高著『湖の本』エッセイ27をありがとうございました。私も社員教育で工学部卒の社員(もちろん東工大卒も大勢います)と接する機会が多いのですが、秦さんの手法には感銘するところがありました。
文学の素養、文字・言葉への関心が少ない社員は大成しないように思います。理学への造詣が深くなればなるほど文字・言葉への関心が高まっていくはずだとも思っています。それは研究論文を書くためという低い次元の話ではなく、社会の一員としての企業という位置付けができるかどうかは、実は文学・文字・言葉というキーワードと密接にからむ話だと思うのです。
その意味でも『東工大「作家」教授の幸福』は私に多くのものを教えてくれました。今後の社員教育、職場の後輩の育成などの中で、いかに相手の心情を吐露してもらえるかを考えていきたいと思っています。 神奈川県
2003 4・27 19
* 大先輩の伊藤桂一さんから葉書が来た。「湖の本」いつも深謝いたします。「東工大『作家』教授の幸福」には感心しました。実にゆきとどいた効果的な指導法ですね。私は昔、女子短大を少々手伝って辟易したことがあるのです。秦さんのやり方、さすがだな、と、教えられた次第です。なにかとご多忙でしょう。ご清栄をお祈りいたします」と。嬉しく。井上靖夫妻等との中国旅行でご一緒した。小説も詩も書かれる。稀覯の詩集を頂戴したこともある。「ペン電子文藝館」には馬を描いて優れた戦場小説「雲と植物の世界」を戴いた。心温かな人と作品である。
* もう新しい「湖の本」の初校が出揃ってきた。
2003 5・1 19
* 『慈子』は、筑摩書房の単行本を持っているのですが、「文藝館」のものはさらに校訂を重ねているとのことなので、今朝、読んでみました。比較するには年月が隔たりすぎていてわかりませんが、新たなものを読んだような感動が残りました。――文章の美しさ。それを一番感じました。やはりすごいですね。力の差を歴然と感じ、それが当たり前と感じられる清々しさでした。ますますのご活躍を! 千葉県 (湖の本9-10)
*「明日の最低気温は、今朝より15度程低く…」と、気象予報士。番組司会の女子アナが「げ!」と素頓狂な声を上げましたが、本当でした。毛布を出しておいて良かった。そちらはいかが。お元気ですか。
奈良、生駒、笠置、山の辺の道…地図と路線図を広げ、あらためて『三輪山』をうんうん呻いて、何回も泣きそうになって読みました。こんなプライベートなこと、入り込んでいいのかしら。でも、秦さんのお作にいつも在る、誘いに乗って進むことの愉しさ、の勝ち。ずしり充実の時。得難さ、嬉しさ。幸せものです。 奈良県 (湖の本3)
* 或る「黒い大きなピン」が抜けた晴れやかな思いで、きのうは短編集『春蚓秋蛇』をバッグに入れ出社しました。「露の世」はメルヘンのようでもあり、「お菊さん」の話は繰り返し読んでみたいと思っています。ああ、久しぶりにこの世界に入れた・・・ という満ち足りた思いでした。きょうも一緒に職場に向います。 川崎市 (湖の本13)
* こういうメールは、素直にいって嬉しい。感謝にたえない。が、耳の右にありがたく聴き、左の耳からすぐに出てもらう。励まされた、いや暗に叱咤されたのだと思えばよい。鏡のように、来るモノは写すし、行くものは追わない。往来するすべては影であり夢である。昔はそうはとても思えなかったが。
何一つ写さない無際涯のただ明るい「鏡」を、しばしば想う。そう成る日がきて、明るく静かに在れたら、いい。明るい闇。成れる予感はとぼしいが、じっと待っている。
2003 5・2 20
* 目をやすめ、一息入れる、ねこの額にも及ばぬわがベランダに、いま、都忘れがいっぱい咲いています。順徳院の故事はともかく、すっきりした気分のよいお花。
著莪も次々、静かな花をひらいてくれています。
ところで、「ねこの額」と申しますけれど、狭くはありませんのに、どうしてでございましょう。わが家のねこたち――木彫り、陶製、ぬいぐるみ、銅製、とりあつめましたら、さあ、何ひきおりましょうか――に、問うても返事をしてくれません。これがねこのねこらしいところでございましょう。
先生のところの黒いマゴ少年でしたら……。
* 黒いマゴも、美青年になった。たまたまざらりとソファに拡げた濃い桃色の毛布と空色の毛布とのはざまに漆黒の細身を横たえて、金に黒瞳をまるくみひらいてわたしの顔をじっとみていると、美しさに息をひく。
五月の花は彩り多く種類も多く、テラスにも物干しにも書庫の屋上の土庭にも、隣棟の広くはない庭にも、青葉を奏でるように花がたくさん咲いている。チューリップのように過ぎて行く花も、著莪などの盛りの花も。都忘れもその辺りに。
* 次の日午すぎ、慈子(あつこ)は嵯峨の二尊院の門の内で待っていた。青葉楓(あおばかえで)に洩れて散るこまかな日の光で足袋が真白だった。やや荒れた土と小石のだらだら坂の正面に白壁がみえ、小倉山の青さが一段高くに晴れだっていた。慈子は待ち待ちこの百米余りの参道を往き来したものであるらしく、心もち肩をすぼめて白い足先に小石を蹴り蹴り向うむきに歩いていた。
慈子――
声は小さかったが慈子は振り向いた。青い影が額から頬へ淡くながれて、慈子は小走りに寄ってきた。一瞬立ちくらんで、思わず両手で慈子を待ち受けた。
茶事の席から私はぬけてきたのだった。稽古を兼ねているので人も多く、山家(やまが)づくりの茶室に鈴生りの感じだった。陽ざかりの表庭に咲き初めていた都忘れがなつかしかった。薄茶の方は失礼させてもらって厭離庵(えんりあん)を出てきた。二尊院へは三、四分だった。
もう遠いことになるが、同じ構内に校舎のあった中学生の慈子とは、放課後に京都御所の前で待ち合わせ、嵯峨へもよくきた。光悦寺から金閣寺まで歩いて、さらに妙心寺、龍安寺までという長道中もあった。夕暮れのかげ濃まやかな広隆寺の松林を歩いたりもした。芝生の上で友だちと昼休みしている慈子を大学と中学を結ぶ木隠道(こがくれみち)からみつけると、慈子もちらと手を振ったりした。妻に逢ってからはそういう慈子との遠出もなくなって、勝手にも、そのことにさえ私は気がつかなかったのである。
二尊院ではその頃拝観料をとらなかった。奥庭へ入って茶を所望(しょもう)すれば定紋(じょうもん)入りの茶碗で抹茶が出されたことも二人は覚えていた。
裏山へ入ると三條西実隆(さねたか)、公条(きんえだ)らの墓がある。ゆかしい限りの小さな石塔のままで寂びれている。有名無名無数のどの墓も仰々しく新儀に贅(ぜい)を凝らしたものがなく、嵯峨の山月に石のいのちを洗い流されたまま却って典雅な永遠の言葉を語るような、そんな小さく古く美しい石のかたちをしている。紅葉の馬場も佳い、宸殿(しんでん)にかかげた亀山天皇宸筆の扁額も佳い、小倉山の姿もとても好きだ。しかしとり分けて心を惹くのはこれら山に隠れたかずかずの墓の美しさだった――。
慈子は私の腕をつかんだまま蒼ざめたほどの横顔をみせ、石にみとれていた。
亀山公園から嵐峡へ抜けてゆく道、ことに途中の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)の桜散る細い石段のあたりは二人とも好きな散歩道だったけれど、思うこともあって落柿舎(らくししゃ)から野宮(ののみや)の方へ戻ってみた。”黒木の鳥居どもはさすがに神々しく見わたされて――” と賢木(さかき)の巻にいうのも今はどうなのであろうか、慈子の手をひきひき寂びしき宮所(みやどころ)を通り過ぎていった。
嵐山の舟着き場の方へ下りてゆくと、戻り舟から一組の男女が岸に上がるところだった。あれが空くだろうと慈子をうながすと、慈子はにこにこした。舟から下りた人の一人が、岩田磬子だと気づいた。
あ、と思うまに船頭が割りこんできて、かげになって往き過ぎてしまうともう私は振り返らなかった。黄色く首まわりの開いた広い衿のワンピースで舟ばたを越えていた人の傍に、背の高い青年がいた。滑ってゆく舟の中で眩しそうにして私は嵐山をみていたが、慈子に呼ばれてすこし朱くなったらしい――。
「あの方、岩田磬子(けいこ)さん――でしたわ」
*「都忘れ」と聞いただけで、たちまち、この場面が蘇り来る。小説ではない。「都」なのだ。
2003 5・4 20
*「青春短歌大学」の原稿づくりも続けていて、こんな出題の詩に出会ったのが、懐かしい。
* ばさばさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに( )る尊厳の放棄
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 茨木 のり子
* あの当時にも「必要」な出題だったが、思いの外に卒業生の「今」を刺激する作品ではなかろうか。そして、この出題の漢字一字は難題に属するが、あの当時の学生諸君は、なんと大教室で七人に一人が原作の茨木さんと表現をともにしたのだ、感激した。
2003 5・6 20
* 湖の本新刊分を「要再校」ツキモノや写真もみな添えて返送した。この仕事は出版のかなり重い関所で、これを通過すると、あとは仕事に追いかけられるほどになる。一冊の本を、何もかも自分で差配し編集・入稿から刊行・発送までもって行くのは、やはり煩雑な大仕事で、誰にでも出来るワザではない。十七年間もぶっづけにやってきたのだ、七十五巻も。そうとう草臥れたとは言わねばならないが、配本を待っていてくれる人達がいるのだから、音は上げない。
それにしても下旬の二度の京都行きは、二度ともダブルヘッダーで、用件が輻輳しており、しかも前後ともにあり、二度ともトンボ返しになる。疲労をうまく調整しないとまた躓きかねない。桜桃忌には第七十五巻を送り出してしまいたいからだ。
2003 5・10 20
* 「青春短歌大学」下巻も進んでいる。なによりも優れた詩歌作品を選んであるという自負と安心感とがこの仕事への気分の励みになる。
2003 5・13 20
* 永く気がかりだった「詩歌の体験 青春短歌大学下」が、ほぼ書き上がった。短歌と俳句と詩とが、概ね網羅され、面白い読み物に成るだろう。東工大を引きずっているのではない、そこから湧き出てくる力強いものを、まだわたしはだいじに根強く所有している。厖大な量の授業記録に眼をむけていると、わずか四年のことなのに、多くの着想にとりつきとりつき、いろんなことを試みていたと分かる。
2003 5・18 20
* あす、東工大の院を卒業した上尾敬彦君が結婚する。華燭の披露宴に招かれている。顔なじみ、音楽仲間の何人もがきっと来るだろう。
この数年にこういうめでたい席に、五度、招かれている。来てわたしになにか話してくれるようにと、声をかけてきた。
男子といわず女子といわず、わたしが、学生たちと就任時も退任後も、またみなが卒業して以後にも、すこぶる親しみあってきたことを、今もそうであるのを、疑う人はいない。
しかしそれは、学生諸君との間に徹底して限定されている。あの東京工業大学の当局は、よほどこういう「先生」は望んでいなかったとみえ、わたしが『青春短歌大学』を出そうが『東工大「作家」教授の幸福』を出そうが、本をどれだけ謹呈しようが、学長も学部長も、私の属していた科でも、笑ってしまうほど「完全に沈黙」のままである。今度の本など、およそ学内へ六十冊ほども「先生」方宛て謹呈しておいたが、ただ一人の葉書一枚の挨拶もなかった。これはまことに興味深き現象であり、それがまた一つの「東工大」の顔というものらしい。
本がつまらないなら仕様がない。じつは、わたしは、全国大学の図書館や文学系の研究室に、湖の本を謹呈寄附しているし、少なくも二百五十程度のそんな大学の半分以上からは、きちんきちんと挨拶がある。挨拶がむしろ段々丁寧になってきている。今度の本など、私的に読んでのわざわざのお褒めも、随分大勢から戴いている。手紙など戴いたことのない藝術院の伊藤桂一さんからもお褒め戴いた。自慢するワケじゃないが、そういう本には出来ているのである。
学生とは深切に大切につきあっても、そのかわり教授会や学内政治には徹底的に「欠席」(むろんその手続きをしてだが、)し「腰をひき」続けたような教授は、仲間として信用が成らなかったということかも知れぬ。それは分かる。
2003 5・23 20
* 湖の本は、明日にも責了に出来るところまで進めてある。むしろ二度の京都行きに煽られ、発送の用意がまだまだ行き届かない。
2003 5・24 20
* 発送用意の中でいちばん時間のかかる一次作業を、ほぼひとまず終えた。明日から二次作業に掛かる。
2003 5・31 20
五月には新しい長編小説を仕上げた。六五○枚ほど、「みごもりの湖」ほどはある。「新」作と謂えるだろう、過去作は真似なかった。相当な歯ごたえで、妥協していないから、まず市販での出版は望み薄だと思っている。そのために奔走しようという気はないが、読める力のある人には読んで欲しいなと思っている。
青春短歌大学の続巻も、ほぼ原稿を書き上げてある。
六月、桜桃忌がまためぐってくる。その日までに、たぶん新刊の「湖の本」通算七十五巻めが出来て送り出せるだろう。創刊して満十七年。そして発送後は、八月の藤村講演の用意に集注したい。
2003 5・31 20
* 一気に作業をすすめたので、「湖の本」新刊は、いつ届いても必要な限りはみな送り出せるようになった。気がらくになった。明日は勘九郎の「夏祭浪花鑑」を楽しんでくる。演出に工夫があると聴いている。渋谷文化村のコクーン劇場、どんな席が取れているか、それも宝くじを買ったような楽しみだ。成駒屋(扇雀丈)がどんな役をするかも知らないでいる。
2003 6・2 21
* 朝一番の宅急便で、湖の本「刷了」の「一部抜き」が届いた。「刷りだし」とも謂う。
こういう業界語をもう沢山は覚えていないが、死語になったろうものも多かろう。「校了」のことを「下版」と印刷所は謂っていた。二階の作業場から「組み版」を階下の機械場へ下ろして刷ろうという意味だった。二階では「文選」「植字」などをしていたが、今は電子化作業がもっぱらで、こういう言葉も使われないのでは。
一部抜きが届く頃には事実上刷了になっている、部数が少なくて気の毒なほどである。あとは製本所に「刷り本」が移動して「折り」「かがり」「裁ち」などの製本作業がのこる。早ければ二三日か四五日のうちには「出来本」が搬入される。この間の一両日が待機の息継ぎどころになる。発送用意はほぼ調っている。こういうことをまる十七年にわたり七十五回も続けてきた。いまとなれば「続けて来れた」という実感と事実とが有り難い。一つには本を買ってくださる読者があったから。もう一つには、そんなにも出し続けられる作品が、著述が、有ったから。また一つには、手伝ってくれる妻の存在。さらに一つは、いい印刷所が零細なこんな仕事を引き受け続けてくれているから。
製本のスタイルから、しばしば「雑誌」と謂われる。どうでもいいことだが、雑誌とは雑多な署名・無署名の記事や写真で成っている。「湖の本」は私自身の小説・創作か、私自身の論考や評論やエッセイか、で成っている。軽装版の作品全集でこそあれ、その意味では「雑誌」ではない。一冊の分量は普通市販の単行本なみである。通算して七十五巻に達したが、環境がゆるせば、出血で血が溢れなければ、百巻でもそれ以上でも可能である。大学の研究室や図書館にも、多くの知識人にも届いている。おおぴらに評判しにくい空気があるらしいが、「湖の本」シリーズの存在を知っている人は、関係の世間では、いまや少なくはない。
島崎藤村は、あの文学史的な「破戒」も「春」も、「緑陰叢書」という自家版で発売した。意図したところをとくべつ調べたわけではないし、成績も知らないが、数巻を数年にわたり刊行したのは歴史的事実である。出版史にあっても作者から読者へ手渡した近代での出版として、画期的であった。
亡くなった渋川驍氏はこの戦後、出版社を興してそこで自作も刊行されていた。「非売品」として似たことをしている書き手のあるのも、むろん知っている。なかには庄司肇さんの「きゃらばん」のように長期にわたり優れてよく纏まった例もあるが、「湖の本」のように全国区の作業であるのかどうか。読者がいなければ、拡がることも、殊に続くことは、難しい。
私にこんなことの出来たのは、一にも二にも勤務時代に自身「本づくり」を覚えていたからである。人手を頼んでいては出来ない。また「企画」「編集」という技術を経験豊富に意識して身につけていたからである。これは大きい。どのように作品を編成しどのような順番で出し続けて単調を避けるかは、編集者の生命線である。一冊を送り出すつど、或る新しさや珍しさで読者を退屈させないことは、こういう仕事では不可欠の工夫になる。
そんなことで「喰って」ゆけるのか。とんでもない。喰ってゆけるワケがない。喰って行くための仕事ではない。譬えは壮大に過ぎるけれど、シュリーマンが実業で稼ぎに稼いだ上で、実業をなげうちそれをつぎ込んでトロイの遺跡を発掘したように、わたしは「湖の本」以前、集中的に単行本の百冊分程度は、いやその倍ほども稼いでおいたから、それで気兼ねなく今は喰っている。湖の本のにじむ出血もほぼ拭き取れている。よく働いておいた蟻であった。喰うに追われていれば「ペン電子文藝館」などに関わっておれたろうか。いろんな意味での「自由」を、わたしは、よく働いた上で手にしている。有り難いことだ。
2003 6・10 21
* あさっての朝には「湖の本」通算第七十五巻めが出来てくる。明日一日が束の間の休暇だ、雨が降っても槍が降ってもどこかへ息抜きに出たいものだが。思い切ってどこかへ新幹線にでも乗ってみようか。ま、子猷訪戴のクチか。
2003 6・12 21
* 好調に作業は進んでいる。ちょっと集中力が切れたので二階へ来て、文藝館の校正往来の処置など。
また階下へ。今回は、製本が全体にきれいに出来てきて能率が良い。昔は製本があんまりひどくて泣いたことが、何度も何度もあった。
ときどき「成政」を、愛用の大きい盃でやり、景気をつけて。前回以上に今度の一升がおいしい。有り難い。
2003 6・15 21
* どうにか、本の発送は概ね終えるところへと、漕ぎ着けた。
2003 6・16 21
* 古文書を読む勉強に通っています近くの大学の中庭に植えられている沙羅が、ほろほろ花をこぼしています。
『平家物語』の初めの「沙羅双樹」とはちがうと知りつつ、そのものはかなげなようすにこころがひかれ、この花が好きだった故人が偲ばれ、半透明の落花を見たり。
たいそう、お忙しいごようす、目の当りにするおもいで。どうぞ、ご無理をあまりお重ねなさいませぬように。
昨日、「湖の本」をいただきました。ありがとうごごいます。
『猿の遠景』は、おさるさんの繪の、愛らしいのや、悲しげなのや、物思いにふけっているようなのや、幾葉もあるご本で拝見しました。もう、何年前になりましょうか。推理小説を読むような、謎解きのおもしろさ、ふつう、見逃してしまうところ、常識として通っているところから、新たな発見をしてゆかれる、そうした、どきどき、わくわくした記憶がございます。
「母の松園」は、「湖の部屋」で拝見しましたが、こうしたご本で読めますのは、やはり、うれしいことでございます。
ご本のお礼、それに、梅雨冷え、梅雨寒と、真夏日といわれる暑い日が交互に来るような日々、おたいせつにと申しあげたくて、メールをさしあげます。 茨城県
* 朝からの雨に、桜桃忌ももう間もなく、バースディ・プレゼントとお思いくださって、銀座西五番街通りのチョコレートやさんで、お好きなものを召し上がっていただけたらうれしいわ、と、メールを打ち始めましたところ。
さきほどご本が届きました。
ピエール・マルコリーニという店は、ご存じかもしれませんわね。
雲になぁれ! 夏椿が空へ差し出すかのように、高い樹の枝先に、真っ白な花を咲かせています。お幸せとご平安のうちにお仕事が伸展しますように。暑さに向かう日々がやってまいります。くれぐれもご自愛のほど。 伊賀
* おことばを添えた「湖の本」本日 手元に届きました。ありがとうございました。明早朝イタリアへ旅立つ娘の荷造りに忙しく、今夜はゆっくり拝見できませんが、本当は画家である彼女に読んでもらいたい本だと思います。取り急ぎ御礼の気持ちをお伝えいたします。 神奈川県
* どうやらもう各地へ本は届いているらしい。
2003 6・16 21
* ごぶさたしてすみません。「私語の刻」を見ては、としをとるほど個人差が大きくなるというのは本当だなぁと、秦さんのお元気なお暮らし振りに感心しております。
『猿の遠景』いいですね。また清盛や後白河法皇に会いたいと思います。
それから電子文藝館の方もおめでとうございます。
石橋忍月:『惟任日向守』気に入っています。こうゆうのはBTRON(超漢字)に移し、縦書きでルビを並列小文字に、背景は薄墨色、文字色は黒でない濃藍で・・などと、ひとりで遊んでいます。それにしても天王山は惜しかったですね。
いい日本語といい日本人を本当にありがとうございます。
梅雨も、ますますのお元気をおいのりしております。 千葉県
* 忝ないこと。
2003 6・17 21
* 明日は桜桃忌。太宰賞を受賞して三十四年になる。すべて亡くなられた選者(井伏鱒二、石川淳、臼井吉見。唐木順三・河上徹太郎・中村光夫)先生方に、いま、わたしは顔向けが出来ているだろうか。瀧井孝作、永井龍男、福田恆存、吉田健一、中村真一郎、藤枝静夫、井上靖、宮川寅雄、立原正秋、和田芳恵、下村寅太郎、森銑三、上村占魚、篠田一士、杉森久英、上田三四二、圓地文子、辻邦生、のような懐かしい先生・先達・先輩がたの面影が髣髴とする。自分で自分に臆病に小心に「無理をしないで」とブレーキをかけずに、いつも厚意を寄せて下さった人達にもっともっと甘えておけばよかったのにと、今にして思うことではある。
*「猿の遠景」は以前より読みたいと思いながら未読でございましたので、早速読みはじめ夢中になりそうです。強烈な作家の眼を通して、より深い絵画の見方をお教えいただきたいと存じます。
何日か前に、映画の「マトリックス」についてお書きになられていましたが、この映画は、七年前の日本のアニメ映画「攻殻機動隊」押井守作の所謂「パクリ」だとご存じでいらっしゃいましたか。私は知りませんでした。このアニメも「マトリックス」も観ていないのでなにも感想を申し上げられませんが、両方観た人によりますとかなり真似ているそうです。しかし、オリジナルとコピーがいつもそうであるように、「攻殻機動隊」の方がよい作品だそうです。アニメながら人間とはなにかという哲学的な問いを持ち、ストーリー運びも「マトリックス」より上だということでした。「マトリックス」の東洋的な雰囲気というのは、ルーツを考えれば当然のことなのでございましょう。
今日坂道を歩いておりましたら、くちなしの花の匂いに気づきました。娘が母の日にプレゼントしてくれました小さな香水が、雨上がりのくちなしの花に似た悩ましい香りですので、ふっと立ちどまって眺めてしまいました。近くには満開のアジサイも。
梅雨のこもったような気配のなかで、風情のある花々です。
お忙しい毎日でいらっしゃいますが、どうかお大切にお過ごしくださいますように。 都内港区
* 「今日坂道を」以下が、季節の香りがして心地よい。
さてアニメ映画というのには縁がないので悩ましいが、見られたら観たいな。ま、映画に触発されてわたしの頭のなかに出来ている「思い」の方が大切なのではあるけれど。劇画ででもあれば、これも縁はないけれど、誰か好き者に頼めば探してくれるだろう、が、映画では「どもならん」か。
2003 6・18 21
* 深夜に、こんばんは。梅雨でも 少しは晴れ間が欲しいこの頃です。おまけに台風まで近づいているようです。
「私語の刻」を毎日のように拝見させていただいてます。
昨日は「猿の遠景・・・」のご本を頂きました。私には難しいかしら? と思いながらも バッグに入れて出かけました。カバーをかけなくても、さほど痛まないことに安心。この頃はそのままバッグの中。持ち歩くにも 読むにも 丁度よい厚さと大きさです。お茶の稽古の片道30分の電車の中で 興味深く読み始めました。
まだほんの触りだけ この先が楽しみです。
先日 送って頂きましたご著書:清経入水・罪はわが前に・他、夢中で読み進んでいきました。
正直なところ難しくて(わたしに)なかなか読めないこともあり落ち込みながらも、ページを行きつ戻りつ ゆっくりゆっくり進みます。
あるとき 書評に「秦先生の小説は楕円形の如し」と言うようなことが書いてありました。<目からうろこ>でした。
楕円形:AP+PB=一定 焦点AとB 軌跡点P上から焦点を眺めながら、読み進む。
時にはAに近く あるときはBに近づいて 限りなく円に近かったり。。。
とても楽になりました。
それまで ロンド形式・カノン・古典と現在の同時進行形・などと私なりに勝手に決めて ご本によっては <難しい>と苦労もしていました。(力不足でごめんなさい。)
お話変わって「知識人の言葉と責任」の中を読み進むうちに、<和田 稔>という名前。ここまで読み進んで記憶のずーっと奥の方にある名前。メモをしておいた筈、と、すぐ見つけました。
和田 稔:「回転特攻隊生の手記」:西原若菜(末妹) とだけのメモ。目を真っ赤にしてTVを見ていたこと。18才の若い青年の手記の気高さ。いつか本屋さんで「手記」を探そうと思ってメモしてそのまま。
メモは 平成3~4年頃のこと。平成2年は45才の妹に僅か3週間の闘病で死なれてしまったこと。(4月7日 桜満開のとき。)次の年 義母を3ヶ月の寝たきりの孤軍奮闘 自宅介護のあとの見送り。あれやこれやで 「和田 稔」というメモはそのままになっていました。
秦先生の講演の記録:「知識人の言葉と責任」の中でめぐり合えるなど、驚きと感動です。芹沢光治良『死者との対話』も「ペン電子文藝館」で読ませていただきました。
私は<本を読む>ことから遠い距離にいたのですが、「秦恒平・湖(うみ)の本」シリーズに出会ってから 不思議なほど楽しませていただいてます。なぜなのか。魅力なのです。引き込まれます。次からつぎへと。静かなのです。どれも。興味の広がりを導いてくださいます。
長くなりましたが 感謝の気持ちをお伝えいたしたく。次のご本を今日も申し込みさせて戴きましたのでどうぞ宜しくお願いいたします。
お体をおいといくださいますように。 愛知県
* 記念の日に、日が変わってはやばやと、嬉しい励ましの贈り物を下さることは。
2003 6・19 21
* 桜桃忌の朝一番に山形県の読者から、例年のように輝く桜桃が二キロも贈られてきた。みごとに甘くおいしく、それでもこらえて、五顆だけを朝の食事がわりに嬉しく戴いた。身の幸である。
2003 6・19 21
* 御本届きました。ありがとうございました。
“東工大「作家」教授の幸福”をお送りいただいたときに、こんな授業を受けたいと思ったことがある、と書きましたが、読み進むうちに、講義を 「聴き」ながら「考え」て「書く」なんてことは自分にはとてもできないことだと気づき、軽はずみなことを言ったと恥ずかしくなりました。仰るように、さすがの学生さんあってこその授業でしたね。
今回も楽しみです。
蒸し暑い夏が苦手の私はもう秋を心待ちにしています。どうぞお体お大切に。 市川市
* あれれという間に、もう午後に入っている。
* 結局どこへも出ないで、一葉の「十三夜」などを読んでいるうち、夕方になり、晩になり、九時。すこし体重の調節もしたくて食べもせず、成政もとうに飲み干した。フーテンの寅さんに付き合いに階下へ降りてもいいが、湯につかるのが暢気かも知れない。猪瀬著作集から作品を選んでみるのもいいか。
瀬戸内寂聴くさん、福田歓一さん、馬場一雄先生、西島大さん、また大久保房男さん、坂本忠雄さん、天野敬子さんらから「湖の本」の新刊に挨拶を戴いている。大学、図書館からも、たくさん。
2003 6・19 21
* 新刊「猿の遠景・母の松園ほか」に続々反響が来る。徳川義宣さん、佐伯彰一さん、松尾敏男さん、大樋長左右衛門さん、森詠さんらのお手紙も来ていたし、中学時代の恩師で歌人の信ヶ原綾先生からは、上村松園の声価を絶頂に高めた名作「夕暮」についての、めったに聞けない秘話を伝えて頂いた。また飯島耕一氏は今回の「湖の本」に寄せて小説『平賀源内』を賜った。
*「湖」はたしかに、いよいよ深さを増している。しかし、このような険しい不況の波も確実にかぶっていて、最高時に比して三割近くは売り部数がへり、かわりに大学・図書館等への寄贈部数をふやしている。つまり経費増になっている。印刷・製本所に世話になっているので、作ってもらう部数はあまり減らしていない。減らしにくい。この時節では苦心惨憺、趣旨送本してみても依頼送本してみても、なかなかである。おおかたそのママ無償配布になってしまう。入金がないまま何冊ももって行かれてしまった例は数え切れない。だが有り難いことに、それでも途絶えなく出して行ける程度に出血は僅かで済んでいる。基盤に固い支持数があり、めったには無い文学環境が形成出来ているのは感謝に堪えない。
2003 6・21 21
*「猿の遠景」「母の松園」(湖の本エッセイ48)ともに、好評で、読者その他から佳い反響の多いことに驚き喜んでいる。洛陽の紙価は高めないけれど、いわば新編成の新刊が、出せばこうして喜んでもらえるという私に固有の文学環境「湖の本」が、いまでは暗に同業の人達にも羨ましがられているのが、思えば不思議な成り行きだと思う。
2003 6・28 21
* 七月七日 月
* 七月七日「月」と書いて、ちがう、「星」と書きたいなと、ふと子供のように思っている。雨もよいに曇って、涼しい。梅雨はまだ上がっていないらしい。
* こんなメールが東工大卒業生男子から届く。ほほう…と、思わず頬がゆるむ。
湖の本新刊『猿の遠景・母の松園』に触れて書いてあるからではない。教室で別れて優に十年、院を卒業し就職して以降に彼のこういう側面の拓けて行くのを知ったが、此処まで展開してきた、それが嬉しいのである。
十余年前から教授室へ現れる常連の一人であったけれど、毛筋ほどもこういう方面の好みは見られなかった。わたしの湖の本を卒業後からずうっと続けて購読してくれることすら、思いなし申し訳ないような気の毒なような気持を暫くもっていたものだ。何と云っても東工大生の主なる関心と、わたしの著作世界とには、かなりの距離がある。「学生さん達がみな読者になってくれるでしょう」と云う人がいるが、それは甘い見当違いである。
それでも今、数えてみれば三十人近くが「継続」して送金してくれている。応援しつづけてくれている。心から感謝している。
* こんばんは、千葉の**です。
繪についてお話を送って頂きましてありがとうございました。
『繪』について、興味を持ち始めたところだったので、ちょうど良かったです。
前半の猿についての話は、驚きました。皇太子(現在の明仁天皇)の一言からこんなにも深い話に広がっていくのですね。証拠も残っていない過去のことを、時代考証をふまえて『答え』の見当をつけていくのが興味深く、一気に読んでしまいました。私も此の「猿」の繪を見に行きたいと思うようになりました。
それよりもびっくりしたのは、鏑木清方さんの話です。
テレビ東京の『美の巨人たち』という番組で、ついこのまえ鏑木清方さんと一葉女史の墓について放映されていました。はっ、とするような美人画で、そのうちに鎌倉へ行きたいと思っていたところでした。
上村松園さんは不覚にも知りませんでしたが、機会を見つけて見に行きたいです。
なかなか、周りに美術を好む人がいないこともあり、こういった話を紹介していただけるのはありがたいです。繪以外でもお勧めの美術、藝術などありましたら、またご紹介下さい。 それでは、失礼します。
*「母の松園」は、わたしの松園論の大きな纏めのように成っているが、全体を、家へ遊びに来た東工大の卒業生に話しかける体裁にしてある。彼は飛行機製作に昔から志を持っていた学生で、その思いを現に遂げて、今はブラジルに渡り、熱心に飛行機作りに従事している。ブラジルへ行きますと告げて家に来た日に、そのように「松園」にふれて話したのも本当のことで、飛行機青年はまた「松園」の繪の好きな東工大生でも、事実、あったのである。
彼が教授室に来ると、教室でとは逆にわたしが質問ぜめにあい汗をかいたが、質問の多くが「哲学」がらみであった。いろんな学生クン達がいたのである。
* 今朝のメールの君も、たしかにいかにも東工大生ではある一方で熱心なクラシック・ピアニストであった。だが「繪」の話はし合った記憶がない。あの「猿の遠景」を「一気に読んでしまいました」とは。わたしのものとしては読みやすく書けているにしても、展開は歴史や民俗や海外にも及んでいる。嬉しい。なにより伝毛松「猿図」が観てみたいと云っている。こういう気持になるのが嬉しい。東京国立博物館でときどきは展示するからぜひ機会を捉えて欲しい。
そして鏑木清方のあの美しい世界に既にふれて心を動かしていたこと、観たいと思っていて、それが松園へも及んでいると云うこと。ほんとうに嬉しい。
「上村松園さんは不覚にも知りませんでしたが」に、わたしの久しい読者ならビックリされるだろう、しかし東工大の教室ではそういうものであった。いつも鉄棒をひきずって赤鬼青鬼のように大家然とのしのし歩いている現代作家や批評家でも、ほとんど名前すら知られていなかったからわたしは当初仰天したが、思えば当然でもあった。梅原猛でもほとんど知らなかった。井伏鱒二は知っていても唐木順三や河上徹太郎は誰も知らなかった。そういう世間も有るのだから、一概なジコチュウは云えないのである。
現に逆に彼等学生諸君の世界での大科学者や研究者のことを、わたしたちは全然知らないのである。だからこそ、わたしは学生に教わる気で何でも喜んで話を聴いたし、私からも彼等の気付かない世間のことを、出来るだけ伝えていた。そして接点を探っていた。教室も教授室も、あれは一種文化交流の場であった。
2003 7・7 22
* 心嬉しいメールがもう二つ届いていた。一つは新作を内々に読んでくれた編集者から。
* さて、
辛い──それはそれは辛いお話なのに、
引きずられるように一気に読んでしまいました。
……「辛い」というよりは「怖い」物語。
とくに、病んで、「お父さん、繪を描いてよ」と言う妻がおそろしかった。
この修羅の妻こそ「描けない画家」の哀しさを一身に背負ってきたのではないか
──辛い、哀しい、怖い夫婦の数十年を凝縮した、凄い言葉ですよね。
呆然としつつ、とりいそぎ思うまま書き送ってしまいました。御寛恕くださいませ。
* 有り難い。これで作者としては満たされる。本に成る成らぬは二の次でよい。
2003 7・7 22
* お元気ですか。はっきりしない天気が続いていますが、盛夏より過ごしやすくていいと思っています。
今回の湖の本、「猿の遠景」は、猿の繪の謎を追いながら、話は自然と平家や、神話や、寺や、京や、貴族などに及んで、秦さんダナ、と思いました。一つ一つ事実を検証してゆく過程から、作者の楽しさが伝わって来るような気もいたしました(実際は骨の折れる作業でしょうが)。
「母の松園」は、ホームページにあったのを前に読んでいましたが、今回また読んで、上村松園の繪をとても見たくなりました。図書館に画集があるか、早速捜してみます。
高校生の頃、「序の舞」という映画を、テレビで見ました。あの主人公は、松園をモデルにしていたのではなかったでしょうか。映画の中に、どんな繪が用いられていたか、まったく憶えていなくて、機会があったら、また見てみようかと思いました。
ペン電子文藝館で、井上ひさしさんの「あくる朝の蝉」を読みました。じんと、感動しました。
正宗白鳥の二作目も楽しみです。遠藤周作は、正宗白鳥の「誰にも言わないことがある。家族にだって知られようものなら、死んだほうがまし」という旨の言葉を、「至言である」とよく引用していました。
いただいた「粘り強く書き抜いて」という一言、とても励みになります。
秦さんは、多忙のご様子。どうかご無理をなさらないでくださいね。 群馬県
* 「猿の遠景」は、嬉しいことに好評で、留守中には国立京都博物館の館長からも有り難い嬉しい手紙が届いていた。京都へ来たらぜひ立ち寄って欲しいとも。上のメールのように、また先日の卒業生のメールのように、若い人達が吸い込まれるように読んで原作の絵画等に接したいと思ってくれる、それが何よりも嬉しいこと。
2003 7・9 22
* 昨日は珍しく東工大の同僚で、東大に転勤していった美術史の小佐野重利氏から「猿の遠景」に共感の手紙が届いていた。同志社大の河野仁昭氏からも、京都芸大の先生からも。
2003 7・11 22
* 新しい湖の本が組み上がってきた。すぐさま単行本の一冊分、校正にかかる。
来年は作家生活(太宰治賞以来)三十五年になる。「秦恒平・湖の本」は来年の桜桃忌には創刊して満十八年になる。来年の内に創作五十巻、エッセイ三十巻にまで到達したい。
厳しい厳しい環境と条件の中で、まだ落城をかつがつ免れている。鎌倉武士達の包囲と攻勢は険悪になっているが、「悪党」の戦、けっこうしぶとかった。成るように成る。思えば鎌倉幕府をゆすぶる「湖の本」が赤坂城で、ひょっとして「電子文藝館の仕事」は、私個人にとってはだが、一つの千早城の籠城と敢闘とに相当しているのかも知れない。望むままに佳い夢を見ている。
2003 7・12 22
* 千葉の勝田貞夫さんのお力添えで、電子版・湖の本46に処女作・シナリオ「懸想猿・続懸想猿」を未点検ながら掲載できた。また連続講演部分はまだ用意できないが電子版・湖の本47に「なよたけのかぐやひめ」等を掲載出来た。どういうわけか、第36巻短編集の「修羅」本文が未掲載のままになっている。入稿から校了までに少なくも二度との校正の手が入るが、それを原版に組み入れて訂正してからと思っていると、途方もなく時間がかかり、つい放置されていたらしい。しかしこの短編集は自愛の集。なんとかしなくては。
2003 7・19 22
* 筑摩の中川美智子さんからも今日便りがあった。この人にも新作の長いのを読んでもらおう、それ以上は、中川さんためにも、強くは望まないけれど。
2003 7・19 22
* 思うままに「湖の日」と思い、自祝しよう。こんな祝日があるとは意識したことなく、いつ出来てしまったのやら。「秦恒平・湖(うみ)の本」は1986 年の桜桃忌に創刊した。おのづと、その日を大切にしてきた。太宰治賞作家と「湖の本」との誕生日として。そして「うみの日」か。ま、気分の好い方へ好い方へモノは思っていた方がいい。いやなことの多い人の世だ。
どうか、今日一日は人のためにも吾が為にも好い日でありますように。
2003 7・21 22
* 中西進さんから、メールの人のことを、「優秀な人です」と以前に聞いた。氏の教室を聴講していたことでも有ったのだろう。
『繪巻』とは、ま、懐かしいような恥ずかしいような旧作を持ち出してくれて…。待賢門院は史上の醜聞に染め上げられたまさに「美しい人」であった。崇徳・後白河という相闘った兄弟の母であるが、この兄弟の父は一人の鳥羽天皇ではなかったらしい。崇徳院の父は、鳥羽天皇には実の祖父の白河院であったと、史上隠れもなく取りざたされていた。確かなことか、それは言えない。
「美しい人」の醜聞は、わたし一人の思いであれ雪いでみたいと、一連十作ほどの短編を繋いで言葉での「繪巻」にしてみた。豪華本にも造られた。
わたしにそういう動機を与えたのは、一枚の歌留多の繪であった、待賢門院堀川の。仕えた女房であり屈指の歌人であり、西行と親しかった。たしか兵衛という妹もいた。堀川の歌は百人一首に入っていてわたしは子供のころから愛していた。
ながからむこころもしらず黒髪のみだれてけさはものをこそおもへ
その愛していた歌留多の堀川は、見事な立ち姿で瀧のような黒髪をみせて向こうを向いていた。顔は見えなかったが、だからこそそれが女房堀川でありながら待賢門院その人の姿かのように眼にやきつけられた。こんなに「美しい人」を醜聞にまみれさせておいて好いわけがない。で、『繪巻』は書いた。竹西寛子さんとの対談でもこの作品がまず話題になったのを懐かしく記憶している。
「繪巻」の題は源氏物語繪巻にもかかわっている。いま至上の国宝として名の高いあの源氏物語繪巻の誕生に待賢門院はあきらかに深く深く関わっていたと謂えるからであり、おのずとこの小説は、源氏物語繪巻の成立秘話としても書かれている。物思い多い少年の日からもちこしてきた、それは一つのわが執念であり願望であった。
2003 7・21 22
* 湖の本の初校を終え、追加の稿を五頁分ほど書いて備え、長めの跋文も書き上げて、拍子や後付(アトヅケ)も添えて、初校戻し・要再校へ漕ぎ着けた。これは毎回肩の凝る手のかかる作業で、ここをキチンとして置くと置かないでは、後の捗りがちがってくる。一山越した気分でぼんやりしている。
明日は病院だが、校正の用事もないし、すると持ち物は軽いから、気軽にどこかをうろついて楽しんでこれる。前から「マトリックス2」を観たいのだが、映画館がわからない。こんなとき気軽に人を誘い出しても好いのだろうが、どうもそういうことは誘われた方が面倒であろうと、しないことにしている。
しばらくぶり、銀座の「シェモア」で、旨いワインで濃厚なフランス料理もいいし、銀座から浅草へ歩きに行くのもいいかも知れない。病院は築地だから人形町へ地下鉄で三つ目ぐらいだ、昼の「玉ひで」で名物の親子丼なんかもどうだろう。
岡本かの子の「食魔」の主人公は、寂しい育ちの京都の寺の子で、貧しくても喰い意地豊かな母親譲りかして、食味の天才肌に出来ている。わたしも貧しかったのは同様だけれど、作品の鼈四郎のようなグルメではない。戦中戦後の欠食児童のいじましさが抜けていないから、食べたい欲はおかしいほどある。「ちがいがわかる」というが、そんなものは「わからなくて」平気な方である。
2003 7・24 22
* 湖の本は、校正の進行としては問題なく、難所も昨日のうちに処理した、今日それを「要念校」として郵送しておけば、校了までは機械的な作業と進行とで足る。あとは発送の用意で、いつもながら容易でない作業量になるが、日日(ひにち)をかけて少しずつ進めて行くという常道がいちばん良い。講演の旅に出る前に校了してしまえる可能性が見えた。
これでその余のいろいろにも安心して手がつく。楽しめる時間や機会も、ある、か。
2003 8・3 23
* 凸版印刷の電話に起こされた。北斎の「富岳」を逐一解説と共に眺めていて、やはり三時半を過ぎていた。そのまえに、音読も済んでから、リノ・バンチュラとアラン・ドゥロンの名画「冒険者たち」の頭を、静かに楽しんでいた。この二人のハンサムに愛されたジョアンナ・シムカス演じる「レティシア」に、またわたしも逢いたかったのだ。愛すべきヒロインたちは無数だが、そのなかでも印象に深く沈んで生きている。レティシアも夢、しかし此の現実もじつは夢であるなら、レティシアやその他の夢の方が「より確か」そうにすら思われるのは、断念と虚無の深さであるのだろうか。
そんなことも云っていられない、凸版は早く校了にして欲しいと、夏休みがあるので、と。予期して、勘定に入れていたことが起きたまで。間に合わせられると思っているが、さて、他へ皺もきつく寄る。
2003 8・5 23
* 雨もよいと猛暑にはばまれ、余儀なく機械部屋のソファで頭の上にクーラーを作動、半日掛けて、幸い手元にある全編を通読・再校しおえた。戻してある僅かとツキモノとを揃えれば凸版印刷へ責了に出来る。それはすばやくてケッコウなのだが、一方の発送用意はまだ緒についたかつかぬかであるから、本がもし早めに届いても家に山積みのママで、すぐには送り出せなくなってしまう。そういうピンチは、有りそうで従来一度もなかった。はじめてそういう事態に遭遇するか。木曽への旅が前後二三日か三四日影響するだろう。どうなるだろう。
とはいえ、結果的に、ここでどっとこの仕事が前へ運ばれて行くことは、わるいことでない。旅までに半月ある。集中すれば、はかどるだろう。
こんどの本は、また、面白い一冊に纏まってくれたと思う。自信とよろこびをもって送り出せる。
2003 8・5 23
* いや、まったく。と云いながら、凸版との打ち合わせで、明日が一つ山場とほぼきまったので、それならばと今日午後は、もう一度念校用のゲラ一束を鞄に入れて涼しそうな所へ出かけ、読める限りを読んできた。そして日比谷で、鮨を食ってきた。「福助」が時分どきで待ち人多く、少し品下がるもう一軒の鮨やで食べた。むかしなら「きよ田」が近くて贅沢したところだが。あの主人は、病癒えて元気になったろうか。「きよ田」も「こつるぎ」も主人の病気で廃業した。二軒ともとびきりいい鮨を食べさせたのに。
さて明日のたぶん昼過ぎには、凸版印刷の営業さんと、池袋か巣鴨かで校了紙手渡しのデートになる。だいたい校了時点では、読者へ手書きの挨拶がすくなくもサ行まで済んでいるのに、今回は展開が早くなり、全く出来ていない。いつもなら用意万端調ったところへ本が出来てくるのに、今度は、本が来ても発送用意は大いに滞っているにちがいなく、暑苦しい長丁場になりそうだ。ま、成るようになる。いつもではあるが、今度の本も、出来るのが楽しみ。
2003 8・7 23
* 朝一番に宅急便、待っていた念校分のゲラ。すぐ処理し、凸版に電話し、十時半に西武池袋地下改札外で出会って、ゲラを点検確認手渡して「責了」とする。こういうことも初めてだが、これで営業サン、明日からの夏休みをゆっくり休んでもらえるし、わたしの仕事もどっと前へ流れていった。手みやげに、一本残しておいた清酒「獺祭」をあげる。
街で遊んでいたりせず、くるりと振り向いて、帰宅。昨日、冷房に負けたのか強烈なこむら返りをまたやり、その激痛の痕跡が、攣った左だけでなく右こむらにも石のような塊感があり、保谷駅まで早足に歩くのがきつかった。帰りは何の急ぎもなかったけれど、駅からタクシーを使った。
2003 8・8 23
* 明日からは、渾身、発送用意に取り組む、納涼歌舞伎までに相当のメドを得たい。さし当たっては今夜は杉本苑子さんの読み物「今昔物語ふぁんたじあ抄」を五篇、校正し、入稿した。スキャンを待っている予定作品はたくさん有るが、八月は「ペン電子文藝館」の夏休みにしたい。ゆっくり成り行きに任せる。
2003 8・8 23
* 豪雨、台風。「野分」ということばが好き、源氏物語の巻のなかでも殊に好きな一つだが、モロに来られると剣呑である。「おそれ」という語彙には、「お逸れ」願いたいという気味すらありそうに感じられる。
* 野分 死なれ・死なせた者たちの源氏物語 秦 恒平
『源氏物語』五十四帖のなかに「野分」の巻があり、いま、ふと、とても懐かしい。七十に手のとどく歳になっても記憶にある、京都の小学校に通っていた時分、台風の後というか、まッ最中ではなく雨もあがった後など、妙に心の開放される爽やかな、賑やかな、しかも寂しやかに荒れてふしぎな感銘を受けたものだ。人は秩序よりも混乱のさなかに何かしら希望の予感をもつのであろう。
「野分」の巻は、この「嵐」の風情も予感も、いかにも、よく書いている。ちょうど嵐のまッ最中に、光源氏の息子の夕霧が、まだ少年といっていい青年だが、父光の君を六条院に見舞って、そのとき、初めて、彼は義理の母にあたる紫の上を見かける。当時は、親子の間柄といえど、女はめったに顔を見せなかったし、まして光源氏が掌中の珠のように理想的な妻として大事にしていた紫の上であるから、我が子といえども決して顔など見せない、声も聞かせはしなかった。それほど箱入りの奥方であったが、嵐のおかげで簾や几帳のあれた隙間から、野分のさまに心惹かれていたか、やや端近に出ていた紫の上を夕霧は見てしまう。季節こそ違え、咲き盛りの樺桜のような、みごとな紅梅のようなと紫の上は褒められる美女であり、匂い立つ麗しい美しいその姿に、夕霧君は震えあがってしまう。
「見て逢はぬ恋」という。夕霧の父光は「見て逢ふ恋」を藤壷中宮という義理の母宮との間で遂げ、後に冷泉院といわれる天子を産ませている。その底ぐらい物語を念頭に「野分」の場面を見ると、夕霧が、いかに美しい義母紫の上に心惹かれたかがよくわかる。夕霧はなかなか律儀な息子で、几帳面で、まじめ青年であるが、魂がとろけたように茫然として、しかし見ているところを見られては気の毒と思い、怖いものから飛び退くように去って行く。しかし彼の心に一度刻まれた紫の上の優艶な姿というものは、後々までも非常に大事な深い秘密にされ、生きていたのである。
おそらくはそれと似た気持ちを、あの『竹取物語』で「かぐや姫」を見た「帝」が見せている。はじめて竹取の翁の屋敷へ強引に出かけていき、力ずくで姫を連れていこうとする、と、光は影とうすれて姫の姿も失せてしまう。その神秘に畏れて帝は一度は恋ごころを断念し、乞い願うようにして姿を見せてくれと姫に頼んでいる。また、かぐや姫は姿をあらわす。恋は断念し、帝はすごすごと宮廷へ帰っていくが、あの変幻のときの何とも手の届かない恋の悲しさ切なさ。それと似た気持ちを、おそらく「野分」の巻の夕霧はあまりにも美しい義理の母に感じたであろうと、わたしは思っている。
ところが紫の上は、後に、夫光君の此の世の極楽である六条院のすまいから、これは意味深いことだが、わざわざ二条院というゆかりの家、新婚の頃の家に帰り、「御法」の巻で、光源氏にみとられ先に亡くなってしまう。夫の光の悲しむのはもうむろんだが、義理の息子の夕霧の悲嘆もたいへん印象的に物語には書かれていて、「さもありなむ」と思わせるみごとな筆づかい。
人にとって「死なれる」という取り返しのつかない絶対状況の、猛烈な絶望と悲しみが、なまじ夫である光源氏よりも、義理の息子、そしてたった一度しか見なかった、見られなかった義理の母の死を悲しむ夕霧の描写によって、逆に読者に大きな感銘を与えている。それが、ふと、いま、とても懐かしい。
* 湖の本エッセイの、『春は、あけぼの・桐壺更衣と宇治中君』に収録してある数年前に書いたエッセイだが、ふと、ここへもう一度置きたくなった。野分がなぜ懐かしいかを書いている。
2003 8・9 23
* なにはさておいても、しなければならず、時間のかかるのは一人一人の読者に宛名して、購読感謝の「ことば」を書くこと。ア行からワ行まで、その八割までが創刊以来の読者で、九割以上は継続の購読者である。人数には限度はあるけれど、有り難い。だからそれは欠かしたことがない。読者のフルネームや住所や電話番号までことごとく知っている現役の作者なんて、少なくも現代にわたし以外に一人も有ろう筈がない。だからどうであろうと、わたしの作法は変えない。
2003 8・9 23
* 朝一番のメールに驚いた。追試してみると、なるほど、「ぱんきょう」とキイを叩くと「般教=(一般教育)」と、即、出てくる。機械の内蔵した辞書の、変換の、奇怪な機械性。
* 製「パン協」会ならいいのにな 夏という季節だからか、「東工大『作家』教授の幸福」に、春ほど欝の感を抱かず、それでもちょっと、学生さんや秦教授の、智と熱に当てられ(うら病んでるンです。イヤな雀)、ひるみ、一度に二、三篇ずつ読んでいます。
「パンキョウ」という、卑しく下劣な物言いに、ノックダウン。さらに、「釣瓶」は出ず、簡単に「鶴瓶」と変換する雀の携帯電話が、たった一度で「般教」と変換したことで、ノックアウト。
* 「うら病んでる」という囀雀サンの表記に、注目したい。わたしは、時に、試みる、とは書かず、心見る、と書いたりする。原意を摂ろうとして。「うら病む」は「羨む」と表記する以上にこの言葉の原意・本意を表現し得ている。「うら悲しい」「うら寂しい」「うらむ=うらめしい」などで分かるように「うら」はもともと心意・心情・魂めくモノゴトを指さしている。「もの悲しい」「ものものしい」「もの凄い」などの「もの」と同じであろう。羨むとは、そういう意味で、気分がわびしく病んでいる状態に似ている、というよりも、それその通りなのであろう。
わたしの東工大にかかわる本は『青春短歌大学』『東工大「作家」教授の幸福』『こころと春琴抄』など、他にも関連の著作があるが、きまって、この「羨ましい」が感想として伝えられてきた。ほんとうに、そうなら、わたしは嬉しく受け容れたいが。
2003 8・13 23
* この陽気の異変で体調を損じている人も多かろう。
さて八割がた作業はすすんで、ともあれ本か゜出来てきても即応できるところへ漕ぎ着けた。「湖の本」もまた世間の不況を露骨に反映し、苦しい谷間へ沈みかけている。そんなことは、むしろ自然の成り行きで、わたしの仕事だけが超然と世俗の浪をかぶらずにいるわけには行かない。余儀ない。
そんなことよりも、だれが送ってくれたのであったか、最近の郵便物の中に、奈良興福寺のあの「阿修羅」像の佳い写真が入っていて、いま、機械のわきに立ててある。このすばらしい表情に見入っていると、ああ生きていたいと思う。
さ、また階下へおりて今日一日の作業を全うしてこよう。今日やっておけば明日がすこしラクになる。明日のことはおいても、今日は今日のために。
2003 8・17 23
* 湖の本の刷りだしはまだ届いていない。趣旨送本したり依頼送本したり新寄贈したりの宛名書きがのこっているけれども。
さ、本が運び込まれるまでに何日有るか、それまでは、すこしそわそわするものの夏休み気分の日々になる。何のアテもない、が、暫く街へ出ていない、漫々的に出歩いてみようと思ったり。
この頃、いわゆる郵便物に目を通すのが遅れがちになる。ものが積み上がるからだが、つい電子メールが捌きやすく読みやすく返事もしやすくて、そういう面からも余儀なくディジタルデバイドは起きている。
2003 8・24 23
* 書いてみて、確かめて行く、それをこの人は的確に意義づけてきた。書かずに思っているだけでは、此処まで来るのにもっとはるかな未来を要したかもしれない。呻くように書き、書いて視界を澄ませてきた。意志の毅さがある種の歪みを魔法のように正しかけている。それがこの人の「幸福」を追う意味であった。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」であった。
「片想い」と書いている。それは教室で示した窪田空穂のこんな歌の記憶が、いや記憶ではなく生存が云わせている。
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
『青春短歌大学』(平凡社版 湖の本エッセイ23)で、この二首について書いたことを以下に再録しておく。(校正はやや足りていないかも知れないが。)この歌の、せめて「片思ひ」という一語だけでいい、時々思い出して欲しい、いやあなたがたは忘れない、と話したのを覚えている。
☆ 痛み
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がない。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんでもっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義がある。そんな気がいつもする。
試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにくい。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子とのそれかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なのであり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばならない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。
残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外ではなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。
* はるばる呼びかけてきた人よ。お元気でと応えておく。
* この『青春短歌大学』下巻(2000円送料共)が刷り上がったと今朝知らせがあった。今回は短歌だけでなく俳句も詩も歌謡も川柳もふくまれて多彩な内容になっている。東工大でのいわゆる「虫食い」創作篇は、ほぼ九割九分これで完了する。卒業生諸君、他のみなさんも、どうぞ読んでください。
詩歌解説の本ではない、人生を、いいや自分自身をふと深く考えてゆく本である。バルセロナの小闇も、東京の小闇も、現にそのように生きている。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島 史洋
2003 8・27 23
* さ、明日午前中には通算七十六巻め「湖の本」の新刊が出来て来る。即座に発送作業に入る。九月三日中にほぼ片づけば、四日は、久しぶりに我當の舞台が楽しめる。
なぜだか、ふつッとメールの途切れる人がある。ああ、また機械のトラブルかと同情する。機械の故障にだけは勝てない。物騒な一団から目を逸らし頭をさげるような按配で、ひたすら低姿勢に、機械の「お気持ち」に逆らうまいとつとめている。なるほど「お機械様に使われ始めている」らしいぞ、要心、要心。
2003 8・28 23
* 午後二時ちかく、湖の本エッセイ29 通算七十六巻めが届き、直ちに発送作業に入る。息をつめるように、六時まで集中して当初目的分を発送し、その後も十一時まで作業し、ずいぶんはかどった。晩は、エディ・マーフィーの刑事物二番煎じのような軽い映画を横目でみながら。
予告していた来週か再来週の、メル・ギブソンとエレン・ハートのお色気お笑い物が待たれる。二人ともアカデミー俳優のはずだ。メル・ギブソンは今いちばんお気に入りの男優の一人である。歴史物でも戦争物でも喜劇的なドタバタ活劇でも、「マッド・マック」のような深刻な近未来物でも、しっかり演じ分ける。重量感には欠けるが、マイルドなコーヒーの旨さか。バーボンか。
2003 8・29 23
*「ペン電子文藝館」の校正もすすめ、何作も本館掲載へもちこんだ。歯車は適当に動いている。わたしも元気にしている。さ、深夜の作業にまた階下へ。
2003 8・29 23
* さてまた本日の作業、順調に捗りヤマは越した。ケーリー・グラントとデボラ・カーの「めぐりあい」は、典型的なメロドラマであるが、古典映画の域にランクもされているらしい。これを下敷きにしたメグ・ライアンとトム・ハンクスのめろめろの「めぐりあうまで」ビデオを、そばで流していた。メグ・ライアンは可愛らしい。しかしこの映画、子役が利いている。
2003 8・30 23
* あす一日、もう一踏ん張りすればて、昨日今日昼夜兼行の作業はゴールに近い。落ち着きたい。そして新しい仕事へ視野をひろげたい。
2003 8・30 23
* 目覚めが午後三時とは、記録的な寝坊。世界陸上のアトも『帰らざる故国』を読んでいたために。少し発送作業に目算違いが生じた、が、今晩、女子マラソンを見ながら、概ね遂げることになろう。
2003 8・31 23
* 銀座百点」誌の、堀文子さんと吉行あぐりさんの対談がよかったです。
「お書きになったんじゃないですよ、書かされたの」と笑っておっしゃるあぐりさんのご本に、私(あぐり)の場合はただ着せて、ただ食べさせただけ。一所懸命働きはしましたが、子どもたちは「勝手に」大きくなってくれました…、とあるそうですね。
この「勝手」でしたら大いに首肯けます。
* これの「勝手」のはなしは、たぶん俵万智の短歌をとらえているのだろう。「湖の本エッセイ」27(東工大「作家」教授の幸福)にも収録した少し昔の私の文章を、此処に再録しておく。たぶん、このメールの人、これを読んでいたと思われる。
* 上手に赤い畑のトマト
俵万智の作ったこんな短歌がある。そのうちの一字分を、虫食いにして書いてみる。
親は子を育ててきたと言うけれど( )手に赤い畑のトマト 俵万智
さて、原作も原作者の意図もこの際忘れて、あなたなら、どんな一字をもって一首の短歌を表現されるか。歌集『サラダ記念日』は売れに売れたから、とうに原作を知っている方も多いだろうが、そういう事情はこの際やはり忘れて、我が事として思案をしていただく。そこに、あなたなりの親子観があらわれるのを、ま、読み取らせてもらおうという段取りである。だが段取りは段取りどまり、この紙面ではこれ以上には進められない。以下は筆者の勝手で、書いて、考えて、興がってみようと思う。
お察しのむきもあろう、これは、この三月末まで在職していた東京工業大学で、もう定年でお別れまぎわに学生諸君に呈した、おきまりの出題歌であった。これぐらい平易な、つまり点数の稼ぎいい出題もあるまいと、はなからサービスのつもりだった。解答の漢字一字よりも、もう一つの出題、「この一首にもとづき原作者の親子観を批評せよ」にどんな理解が出てくるか、その方が読みたかった。
じつはこの歌をこの虫食いのまま、たとえば学長にも呈しておいた。学長は「両手に赤い畑のトマト」と読んだうえで、これぞカンニングなのであるが、作者の俵万智に電話をして尋ねた。俵さんの弟がうちの学生でもあることは、当人がそう告げてくれていたので、わたしも知っていた。学長、ずるい! むろん作者は「勝手に赤い」ですと教えていた。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト
ま、これしか無いという表現であり、またこう言われてみると、ちょっと痛快な、だが待てしばし……ほんとかな……ほんとに「勝手に赤い」のかな……という気、しないでもない。
それにしても「両手に赤い」とはどういう意味じゃ。そんなこと、もともと原作を知っている筆者にすれば想像もしていなかった。ところが学生たちの回答でも、木村孟学長と同じに、断然「両手」が多かった。のけぞった。「両手」のほかにも、「片手」「右手」「左手」「傷手」「軍手」まで、ある。「握手」では、いただけない。だが、みな、それぞれに、まんざらふざけたわけでない解釈や説明が書かれていて、だが一応は、まず読むまえにこっちはこっちで理由づけしてみたいと思ったが、むずかしい。
なかに「上手に赤い畑のトマト」とあるのだけが、ひょっとして、原作の断定的かつ挑発的な表現よりも、子育て、または親離れ、という真実味をよく自覚している気がして面白かった。親には好きに言わせておきます、逆らわない。けれど、自分を親任せにもして来なかった。折り合いよく親にも満足してもらい、こっちも「上手に」赤くて旨そうな健康な「トマト」に育ったつもりですよ、といった味わいがある。なにもかも「育てられました」というほど受身でなく、さりとて「勝手に育ったんだい」とふんぞり返るような子供(ガキ)でも、もう、ない。なかなか「上手に赤い」には、大人の落ち着きが生きていて、なるほどと日頃から思える学生の名前が、そういう答えには、ちゃんとくっついていた。
びっくりしたのは、「両手」説「片手(右手・左手・利手を含む)」説に、まるで「親」を恨んだ感じも籠められていたことだ。「育てた・手塩にかけた」と親は口で言うけれど、「両手」には、また「片手」には、「畑のトマト(いろんな生活)」が抱えられている。全面的にいつも子供の方を見ていてくれてたわけじゃない、と。
心底、おどろいた。おもわず、大声が出た。おいおい、おい……冗談じゃないぜ。
親は、子も育て、日々の糧も働いて得ている。そんな親の手に支えられながら、「勝手に赤い畑のトマト」とは、子供もいい気なもの、賛成しかねるという意見が、それでも断然多かった。分かる。わたしも、一読これに近い印象を得ていた。それで出題した。
「トマト」というのは強いて「育て」る必要のない、育てようなどとしない方がおいしく生(な)る野菜です。「勝手に赤い」とはそういう意味でしょうという理解もあり、大事なのは「畑」の一字だと思う、いい親は「子(トマト)」のために、いい「畑」を用意していてくれるものです、それに気付かないで「勝手に赤い」とは、子供が真に成人して行く土台の意味に、まだ気付いていないんだという鋭い批評もあった。
俵さんの意見も聴きたい。 ──月刊「ずいひつ」一九九六年七月号──
* ご本 届きました。勘がありましたのよ。今日だって。
主人が受け取ったのが癪でしたわ!
* 新刊が届き始めたようだ。受けとられたご主人にも感謝します。
2003 8・31 23
* 郵便局が月曜の今朝からあくので、最後の発送分を運び込む。それでなんとか終了。なんでこんな苦労をするかと思うが、おかげで新しい仕事も、本の形で読者に読んでもらえる。藤村に学んだわが「緑陰叢書」のようなものである。このことをハッキリ言えたのは有り難かった。
2003 9・1 24
* 湖の本「青春短歌大学下」ありがとうございます。読書尚友、忘れかけている楽しみも戻していただいております。いま能弁を求めず、短詩の一字穴埋めは、沈思のすえの回答、沈黙の心地よさをいざないます。バーの片隅での独酌に似た。多謝。老年短歌大学生。
* 遅くも明日には、届くべき(湖の本エッセイ29)はみな届いていると思う。一つ、また通過した。
2003 9・2 24
* ありがとうございました。また楽しみが増えました。
数年前に図書館で本を探していて、偶然『青春短歌大学』(平凡社)を見つけ、面白くて、そのまま読んでしまいました。今度はゆっくり楽しめます。
ご無沙汰していますが、元気です。ホームページを読むと秦さんとお話ししたような気分になってしまいます。以前の印象のままに今もエネルギッシュでいらっしゃるようにお見受けします。私は相変わらずその正反対で、何事にもまずは後込みして輪の外から眺めているという気質はなかなか変えることができません。
先日「満州」という文字が目にとまりました。実は私、満州生まれの引揚者なのです。当時三歳だった私には何の記憶も残っていませんが、他の人よりは多少複雑な思いのあるところです。
この夏の天候では紅葉はどうでしょうか。さわやかな風が待ち遠しいです。
奥様によろしくお伝えくださいませ。 千葉県
* このメールの人の名前だけは、久しく記憶にあるのに、住所録にもむかしから有るのに、じつは何も思い出せずに、ただ懐かしい気持がしている。メールをかわしはじめて、この人のメールはいつもわたしを静かな気分にするのだが、どうしてもいつの頃に出逢っていたかが思い出せない。会社の頃の同僚かしらんとも思うが、わたしはだいたい会社勤めのころの同僚とはつねに距離をおいていた。小説が書きたくて、時間が、金の粒のように大事だったから。満州はおろか、「以前の印象」も「奥様に」というのも見当もつかない。読者とは、このようにわたしには懐かしい身内である。こういう人達といっしょにこの歳まで歩いてきた。わたしは、そういう作家だ。
2003 9・3 24
* 朝一番に開いた次のメールは、照れてしまいそうなお褒めの言葉であったけれど、わたしの不十分な意図をよく汲んでも下さっている。感謝にたえない。
* 青春短歌大学 昨日湖の本エッセイ『青春短歌大学』下巻を頂戴しました。ゆっくり学生さんの解答と比べながら読もうと思っておりましたのに、読みはじめたらやめられなくて一気に読み終えてしまいました。
夜も更けておりましたが、身体の奥からふつふつと底力が湧いてくるような感動をおぼえました。読書の興奮で、とても寝つけそうにありませんでしたので、少しばかりお酒を呑んでから休みました。何に感動したのか布団の中で転々としながら考えて、夢もたくさん見ました。
私が心打たれましたのは、おそらく先生の中に熱く燃える文藝への愛であり、若い世代への希望の眼差しであったように思います。『青春短歌大学』はこれからの若い世代がずっと読みついでいく必読の書にちがいございません。
まずこれだけの素晴らしい詩、短歌、俳句が集められていることが驚きです。膨大な作品の中から若者向けの美酒を選びぬくという厳しい表現行為に私は圧倒されてしまいました。しかもその困難な作業を先生は心から愛されただろうと想像しました。
選ばれたものは私の知っているような有名な歌句から、触れると血が噴き出すもの、心和むものまでじつに多彩な佳い作品の数々です。注意深く吟味され、しかも先生の鑑賞の手引きが鮮やかでみごとなのです。
目にあでやかに静かである(大初日海はなれんとして揺らぐ 上村占魚)
知的な趣向とみえて、よく生きた人の最期をしずかに頌えた秀逸(「畢」、猶「華」の面影宿すかな 吉野弘)
戦死という殉死の意義が痛烈に問われた、世界でも最も短い反戦詩といえる(遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男)
少し例をあげましても、いかに優れて簡潔な批評か明らかですし、詩歌のように美しい日本語表現になっています。私は秦先生に導かれて、日本の優れた詩歌の旅人となり、この、世にも美しい旅に酔うことができました。
先生が『青春短歌大学』でなさろうとしたことは、日本の詩歌を、若者のみずみずしい心に直接届けること、そして彼等の人生に新しい色を加えることだったのでございましょう。先生の「学生諸君の内奥を、真実挑発し刺激する」ことはきっと成功なさいました。
工学部のキャンパスは私の知る限りにおいてどこか実験室の索漠とした雰囲気が漂います。先生の授業を受けた生徒さんたちは灰色の映像の世界から生き生きした彩色の世界に飛び込んだような衝撃を受けたであろうと思われてなりません。先生は多くの学生さんの視野をさっと拡げてしまわれました。
さらに、『青春短歌大学』は私のような中年読者の胸をも疼かせ滾らせてくれました。この中の詩歌は十代、二十代の新鮮な感性で触れるだけではあまりに勿体ないものです。私も大学生の頃にこんな授業が受けられたらよかったのにと羨ましくなりましたが、当時の私には理解も実感もできなかったろう多くの歌句と先生の解釈は「猫に小判」であったにちがいありません。
私が二十代であったら、切々と胸に迫ることはなかったであろうという歌句はたとえば次のようなものです。
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男
捨てかねる人をも身をもえにしだの茂み地に付しなほ花咲くに 斉藤史
東工大で先生の授業を受けられた学生さんには、この本を是非繰り返し読んでほしいと思いました。学生さんたちが、先生の本当の大きさ凄さをわかるのはこれから四十代、五十代、六十代になってからだろうと推察しつつ、私も先生の『青春短歌大学』などのご本とともに少しでも成長してゆけたらと願っております。
「彼や彼女たちの未来が楽しみなために、一年でもわたしは長生きがしたい」というお言葉にある先生の身にしみる人間愛に、私は胸が熱くなりました。「教えるということは希望をともに語ること」という言葉のように、先生は若い魂と希望をともに語ることのできる数少ないかたです。
『青春短歌大学』は久しぶりの感動的な読書となりました。ありがとうございました。
あとがきにペンクラブ電子文藝館の事業を、「良い樹を一本一本植えて行く」仕事と表現されていますが、この荒れ地に一つ一つ希望を植えて行く地道な営為を「知の巨人」の仕事と言わずして何と言えばよろしいのでしょう。
「知の巨人」というのは立花隆さんによく使われる形容ですが、本当の知性というのは立花隆さんのような難しいことを理解し説明する能力のことでしょうか。先生のように、明日を担う世代を励まし希望を与えることこそ真の知性だと私は捉えています。ですから、私は秦先生のような方こそ「知の巨人」と言う表現にふさわしいと思うのです。(きっと先生はそんなことはないとご謙遜なさいますでしょうが。)
相変わらず長いメールになってしまい申しわけございません。どのような「知の巨人」にも大切なのはお身体でございます。どうか奥様ともども水分などしっかり摂られて、血流よく血圧をコントロールされてお過ごしくださいませ。先生のお住まいでは雷雨の影響はございましたでしょうか? 品川
* ことばを強められているぶんを謙虚になだめれば、私の思いによく触れてもらっている。嬉しいと思う。この嬉しさを友に、今日は妻と歌舞伎座の昼の部へ。クラスメートの片岡我當を声援してやりたくて。
2003 9・4 24
* 川柳の名手時実新子さんからも葉書が来ていた。「( )入れも楽しみつつ、おもしろくて、秋近き夜長を短く過ごし、本日、いささか寝不足です」と。それだけではない、「尾崎喜八の『妻に』は、キライです。虫くいの”徳”も埋められませなんだ。こんな妻にだけはなりたくないと、一気に眠りました」と。
破顔一笑。喜八の詩は四聯にわたって長く、どうかなと首をひねりながら、井上靖の詩とならべて読ませたものだが、東工大の男子学生たちにこの「妻に」は、ヤケに評判良かった。但し、「こういう妻になりたくないわけではないが、こういう妻を求めている男とは、結婚したくない」という女子学生の声の有ったのも、わたしの本は忘れず書き添えている。時実さんの「キライです」は端的だが、この学生のコメントにもわたしは感じ入った。興味の湧く人は、ぜひ尾崎喜八の詩を読んでください。
* 昔「群像」の鬼編集長大久保房男さんは、「早速埋めてみましたが正解率極めて悪く、知つてゐる作者のはどうにか当りました。今年没後五十年のわが師迢空先生のがあればもつと率がよかつたのにと口惜しくて考へました。才能がないのがよくわかりました」と、慨嘆の体でご挨拶下さった。
中西進さんも「おもしろくて次々とやってみました。小学生に万葉を教えており、( )形式です。効果抜群」とも。中西さんが「なるほど」と頷いた短歌の一つに、島田修三作のこんなのがある。
清き( )女なんぞと歌ふ一首ありさういふモノがゐることはゐる
これにただ一人も「少」女と虫食いを補う学生が無かった。大方が「美女」で、それに迫って「処女」が多かった。ウーム。原作は「乙女」で、これまたごく少数派であった。
講談社出版部長であった天野敬子さんも、ハガキを下さり、「詩歌的想像力を刺激されながら楽しく読みました。学生諸君の想像力には端倪すべからざるものあり、『上』に引き続き堪能しました」と。嬉しい。
長い封書の手紙等でも、また払込用紙の通信欄にも、作品をだすつど沢山な便りが届く。それがわたしの有り難い「追い風」になり、覆いがちな目の前の雲や霧を払ってくれる。
* hatakさん 湖の本札幌へ届きました。早速読んで、「フムフム」と楽しんでいます。
「私は秦先生に導かれて、日本の優れた詩歌の旅人となり、この、世にも美しい旅に酔うことができました。」に、私も強く共感します。「導かれる旅」に。
高校生の時、たまたま開いた「朝日ジャーナル」の『洛東巷談』で秦さんに出会わなかったら、私の人生も彩りに欠けていただろうなと思うからです。先月は『ゲド戦記』を夢中で読みました。こんな本に出会えると、「十牛図」の牛になって、文学の世界を牽かれて歩いている気がしてきます。いやいや牛は私ではなく、あるいは秦さんが、『湖の本』という布を角に引きかけて善光寺へ導く観音の牛か。
「先生の授業を受けた生徒さんたちは灰色の映像の世界から生き生きした彩色の世界に飛び込んだような衝撃を受けたであろうと思われてなりません。」
理系の学生さんならずともきっと衝撃を受け、後々(の人生で)それがジワジワと効いてくると、実感します。むしろ、索漠とした実験室内の金属片や遺伝子断片に、色鮮やかな可能性を見ることができる東工大生だから、なおさら感受性が高いのではないかと。
札幌は空気が澄んで、夕方、街は欧州色に染まります。
残暑くれぐれもお大切に。 maokat
* わたしなど、やっとこさ「牛の足跡」らしきを見つけたかと半信半疑の頼りない段階にいる。だから、どうしても、ダボラをふいて暮らしている気持になるし、イヤにもなる。だが、だからどうすればいいのか。「今・此処」にいて、奈落へ脚を踏み出し踏み出しして進以外に道はない。道とは未知のことであろうから。
2003 9・4 24
* 糧
「言ってた本、あったから買ってきたよ」。主人が差し出す本に、ぎょっ。
「そうよね。福音館書店だものねぇ」。
茨木のり子、大岡信、川崎洋、岸田衿子、谷川俊太郎の5人が編者。福音館書店。それだけで購入を決めた「おーいぽぽんた」は、ケースに入った、立派過ぎるほど固い装幀でした。弱ったなァ…。
湖の本は、いつもテーブルの上に何冊か乗っていて、つまみ食いのチョコレートやビスケットと同じ扱いを受けています。出かけるときには、必ず鞄に入れます。ハンカチや、飴玉と同じように。日用の、たべものですもの。
但し、その分、背はやけています。ふりがなを書き、線を引き、書き込みも、ドッグイヤーもあって、あまり綺麗ではありません。鞄の取り出しやすい位置に、ぽいと無造作に入れられ、雨に遇ったりもします。吊り革を掴んだまま、片手でめくって読んだり、結構、無茶もやるので、傷んでいます。
「これ、読んでみて」と、出かけた先で気軽にプレゼントして、貰った方も気兼せずに済みます。
読みやすく、書き込みやすく、折りやすい(ゴメンナサイ)大きさ、重さ、紙質。本当によく考えられています。有り難いこと。感謝しています。
* こちらこそ感謝しています。
* 本ですか、雑誌ですかと聞かれる。雑誌という編集でないのは、見れば分かる。本ですかという問いにはいつもこんな簡素なつくりでという疑問符ないし軽侮がこもっている。少しでも安く、少しでも軽く、少しでも多くの内容がこめられるように慎重に決定した版型なのに。
どんな鞄にもすうっと滑り込ませられるように、と。外装で人の値踏みをして憚らない世間を歩かせるには、瀟洒に過ぎるのかと、多少憂わしいのはいつものこと。だから、こういうメールにはしんから励まされる。国際的な彫刻家清水九兵衛さんも、軽くて薄くて旅の友に最適といわれる。そうあって欲しいと願っている。分かって欲しいのはこういうことだ。それはわたしの、命の部分に触れている。
2003 9・5 24
* 故福田恆存先生の夫人から、「青春短歌大学」上下各五冊送って欲しいと注文があった。このようにして、いつも支援して頂く。有難いことである。
2003 9・6 24
* お久しぶりです 今晩わ。
実は6月9日に、お姑さんが亡くなられました。初盆も過ぎ、納骨も無事済ませました。
で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、西池先生、秦さん(ホームページ)の近況など・・・話が盛り上がり、残暑も忘れ楽しい終日でした。
* 戦後の新制中学のクラスメート。数年前からパソコンをはじめたらしく、ときおり、写真のフアイルなど届く。まだなかなか他の友達はインターネットにも手がとどかないでいるらしい。この人をキイ局にして、わたしのホームページが故郷でときには話題にされているということか、電子の杖の余徳である。女の人で、われわれの歳になりお姑さんを見送るというのが、どんな感慨のものか、わたしの妻には「姑」という作品がある。妻は舅、義理ある叔母、姑と、いずれも九十過ぎた老親を三人も見送った。その感慨が凝って一つの作品になったのが、「e-文庫・湖(umi)」におさめてある「姑」で。
「で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、」など、感じが伝わってくる。平安を祈りたい。
2003 9・8 24
* 能登の羽咋にある釋迢空のお墓にお詣りしてきました。以前、お詣りしたときは、松林の中、という感じでしたが、松は枯れたのでしょうか、なくなっていました。垣ひとつ結われていず、壇が築いてあるわけでもないお墓です。迢空のたましひのさびしさが、そのまま、お墓にあらわれているようなお墓です。
墓石の脇に並んで、石の高さまで身体をかがめますと、砂丘の上にほそく日本海がながめられます。このたびは、曇っていて、さだかにはみえませんでしたが、以前、まいりましたときは、ブルーブラックのリボンのような海が見えて、ふいI悲しくなり泣けてしまいました。このお墓にねむっているおふたりは、この海を見ながら、何を思い、何を語ろうておいでかと、思ったりいたしました。
羽咋から、八尾に行き、風の盆を見、金沢へもどって縁者のところへ行ったりなどして、今、帰ってきました。
留守の間に「湖の本」が届けられていました。ありがとうございます。
また、中西進先生の「海の彼方」を「ペン電子文藝館」にとりあげたというメールも拝見しました。『漂泊』は、以前、読んだことがございます。再読、いえ、再々読になりますか。
『青春短歌大学』下巻を横目でちらちら見ながらキイを打っております。
* 南島に戦死した春洋さんと「ふたり」の折口信夫の墓がそんなであると知り、うたた心寒くも、いやその方が「ふたり」には寧ろ睦まじくていいのだとも、想われる。「海の彼方」を語らってられるかも知れぬ。
* 「湖の本」をお送りいただき、ありがとうございました。
すごく面白いですね。こういう授業もあるのか、と思います。「誠之助の死」などは別にして、試みればほとんどペケで、改めて自分の文学音痴を思い知らされました。 朝日新聞社
2003 9・8 24
* その一人の今川英子さんは、林芙美子の精力的な研究・活動で知られた人だが、ある文学館の館報に「友情」と題した随筆を書いている。
文中に、芙美子の言葉が引いてあり、林芙美子は「私の『作品』を愛してくれる人のなかにこそ本当の友人を求めたい」と語るか書くかしていた、とある。これは、まさにわたし自身の言葉でもあるかのように、痺れた。わたしの、「湖」という語のいわば原義のように感じた。
子供の頃、仏壇の燈明に「美」を初めて感じた。また蓮の葉に野菜など供物の盛られるとき、蓮葉を清めの露をうつと、珠と光る露たちがきれいにころがって忽ち葉の底に「湖」をなす、あの完璧な帰一の美しさに、声も出ないほど感銘をうけた。ひかる露の珠たち。一瞬に凝って湖をなす露の玉たち。「身内」というわたしの渇望の原義でも原点でもあったろう。「湖の本」の読者たちは、わたしには或る意味真の親族・血族にひとしい思いがある。私という鏡に無垢に映じている心親しい人達であり、どのような経緯が有ろうともひとたび鏡の前から立ち去った人は、もう私には何人(なんぴと)でもないと謂えるだろう。
ある人が、「あなたは(特定の人よりも)不特定多数の方を愛する」と暗に非難の声を届けてきたけれど、それはわたしにとっての読者や学生達の意味を、「身内」や友人たちの意味を識らない、識ろうとしない「他人」ないし「世間」からの考えなのである。
2003 9・22 24
*「湖の本」の新たな次巻の用意もはじめている。またひとふし変化をみせながら、読みやすい興味深いものを送り出せるだろう。手入れに二週間ほどかかるかも知れない。
2003 9・24 24
* 米原万里さんが「青春短歌大学」下巻に、手紙を。長編小説を何十冊も読んだほど快いエネルギーをつかったと。働き盛りに忙しい人の時間を奪ったかと、お気の毒、かつ感謝。
もう久しい昔、モスクワの、トルストイ伯旧邸でもあるソ連作家同盟の食堂で初対面の頃と、この人、変わりなく健康で元気な美女である。はちきれている。最近大宅壮一賞をもらったという、その本と、もう一冊を贈ってもらった。
2003 9・30 24
* 新しい湖の本の入稿用意も進めなければならぬ。
2003 10・5 25
* ほんとうにボケてしもたらその辺に棄てていいと言ふ 妻、笑諾す 遠
どうも、その気味があり、よろしくない。物忘れ、間違え。やれやれ。そんなことも言ってられない、湖の本新刊の初校が出揃ってきた。
2003 10・18 25
* 日本史は、ついに織田や松平が表へ出てきた。「近世」がもう顔を見せようとしている。「中世」はむずかしい時代であった。
* ひと頃のわが現代日本は、さかんに「中世」を語って倦まず、その頃は、まだしも民衆のエネルギーが炎をあげていた。国会議事堂を揺るがすことも出来た。いま、中世のエネルギーを口にするような知識人は、一人も見られなくなった、そのことに誰が気付いているだろう。中世精神に殉じ得たような知識人は、払底した。
今、象徴的に世の中で、名と顔との現れているのは、間違いなく対立する猪瀬直樹と藤井治芳であるが、藤井が保守で猪瀬が革新などとは、とても言えない。藤井のことは言語道断でお話にもならないが、道路民営化にしても郵政民営化にしても、本質はただの「手直し」であり、その根底が、いずれにしても甚だ保守的な、いわば「近世支配」的なものであることは、火を見るより明白である。民営などという美しい言葉が瞞着の意図を秘めていて、個人情報を保護するといって侵害管理し、人権擁護といって守られるのは悪い政治家や官僚であったりするのと同じく、つまり発想の根が、幸福と平安を願う民衆のエネルギーにまっすぐ結ばれてはいないのである。最後は政・官の気儘な肥大尊大へ行こうとしている。
あの猪瀬直樹といえども、なんら革新派ではない。優れて能力に富んだ批評家ではあるが。田原総一朗にしても筑紫哲也にしても猪瀬と同じであり、彼等もまた問題点という「餅タネ」を、マスコミの杵であっちへ搗きこっちへ搗き返ししているだけの「手直し=日和見」論者を一歩も出ない。それで飯を食っているのだから、当然だ。飯のタネが搗き=尽き果ててしまえば、喰いはぐれるだろう。
それどころか、彼等こそ、現代日本の「中世」感覚や意欲を「目の敵」にして押し殺した、いわば官・公寄り下手人達である。
中世は今の日本では死んでいる。そのシンボルが、学生の無気力に見られる。今の日本の学生は、國の運命に身を挺して闘う民主主義のエネルギーをもたない、今は、だれも。大きなものに巻かれ飼われようと、そのための勉強をしている。そういう國は、ふつう、潰れてゆくのである。
なんのことはない、今の日本は、明治初年の富国強兵をしっかり引きずって、とち狂っていると見える。見えないのは、政治家も知識人も、われわれ民衆も、強度の欺瞞的白内障患者であるか、そのフリを演じているからだ。
2003 10・19 25
* 深み お作はどれもそうですけれど、読む毎、光の角度が変わって、とっとっと渡っていた所が深くなったり、別のところが見えたりします。いま、「あやつり春風馬堤曲」の深みに、足を取られ、取られ、一段進むのにえらい難儀。うぶ、いえ、おにぶで、‘読んで’いませんでしたわ。
頭を抱え、コーヒーブレイク。
配達に来た人が、小さなリーフレットをくれました。「浦島太郎の故郷は、丹後半島の与謝郡伊根町」…て、これはやはりご縁と、再びご本に戻ります。
あさってから、池田の逸翁美術館で「蕪村展」です。 奈良
* 短大の元の「作家」先生が、大学へ転入した女子大生の「蕪村の卒論」をあやつり(指導してやり)ながら誘惑して行く。小説である、ずいぶん昔の。小説の中で展開される蕪村論には自信があり、それを言おうための趣向の小説であった。おおむかし、作家生活に入ったとたんに余儀ない仕儀で、一年だけ心すすまぬ短大の講師をひきうけたことがある。むろん何の関係もないけれど、蕪村の春風馬堤曲は、朔太郎などのいうような漫々的なのどかなおはなしでなく、蕪村のあやしいうめきに彩られているのを、きちんと読み込んで考証小説を書いたのである。かなり手応えも歯応えもある、湖の本ならではの「書き下ろし」出版であった。
2003 10・22 25
*「魂の色が似ている」から、とは、わたしの娘の、結婚前の啖呵であったが。むげに否認は出来ない、ありそうなことで。人それぞれの根というものがある。根を認めあえるかどうかは、人間関係として大事といわずにおれず、もしも譬えばなしとして、あなたは好きだけれど「湖の本=文学・文藝」はきらいですという人がいたなら、(いないワケは無いけれど、)息子の口癖ではないが、心からの「お友達にはならない」だろう。できるだけ深い佳い色を分かち合えそうな人に親しむだろう。どんなにそれが少数であっても構わないのである。人間としての、それは必ずしも強さではない、弱さであろうけれども、自然なことだ。
2003 10・22 25
* 「湖の本」次巻のさらに先の一巻分をも編成した。
2003 10・22 25
* 『罪はわが前に』は書き下ろした昔よりも、むしろ今より先へ行くにしたがい、私の作品史のなかで無視出来ないものになるだろう。読みやすいが、なまやさしい作品ではなかった。
2003 10・26 25
* あすは定時の診察日。一冊分の校正も出ていて、手をつけているがハカは行ってない。外へ出た序でに、また病院の外来で待たされる間に、はかどらせたい。
2003 10・26 25
* いつもなら さくらの葉っぱの紅葉も楽しめる頃なのに この暖かさが残念です。
ご体調はいかがでしょうか? くれぐれもおだいじになさってください。
九月末 大徳寺(瑞峯院・大慈院)の月釜に出かけてきました。さるホームページのお仲間で、総勢十人、みなさん和服で集合。遠くは千葉・茨城から。お茶の経験も年令もいろいろ。京都の方にスケジュールを組んでいただき 大寄せのお茶会を楽しんできました。次回は来春の<明治村茶会>へ集合する予定です。
再び『罪はわが前に』『風の奏で』を読ませていただきました。
『風の奏で』は今回もやはりむずかしく 読みながら人間関係の図式を書いて見たりしました。笑われそうですが 時間をおいてまた読み直したいです。
わたしの中には、<宏>という名前が大きく存在。全く関係が無いのにもかかわらず、今でもキュンとなるのです。
ひとりの<宏>: 学生時代の、夢中になっていたほろ苦い思い出。
もう一人の<宏>: 小学四年生からずっーとおおきな存在感あり。学部こそ違え同じ大学だったことも含めて、どれほどうれしかったことか。こちらは<永遠の宏>
会うことがあっても一度もそれらしいことを伝えたこともなく。勝手にじぶんの中で育てていた宝物。この先「じつは。。。」とお話することがあるか? なしか? 大切だからそっとしまっておこう。
ここまでおしゃべりをして お終い!
そして『罪はわが前に』の三人目の<宏>の存在。 ふしぎです。 愛知県
* 『風の奏で』というと、笑って思い出すことがある。或る読者がはじめて文藝春秋の単行本を手にしたとき、あまりに難しい、読みにくいと腹立ちまぎれに壁に叩きつけた、そうだ。それにもかかわらず、いつしかこの作に結局は夢中で引き込まれ、熱い愛読作の一つになっていた、そうだ。さもあろう、この作品は容易ではない。平家物語の最初本成立の機微を歴史的に問いながら、東京に暮らす一人の医学書編集者が、現代の京都や仙台での恋物語を介して、いわゆる日本の「藝能」の吹き流れてきた筋道を偲び辿ってゆくのである。こう書いてみるだけでも、たいていの読者は、察しもつかないだろう。これが私の文学の組み立てだと言ってしまったら、気弱な読者はみなますます遠のいて行くだろう。
同じ保谷に安田武さんという、鶴見俊輔さんらとお仲間の手だれの「読み手」がおられた。もう亡くなってしまったが、生前、いろんな機会に私の仕事を推奨して下さったが、そもそものはじめは、とても「ついて行きにくかった」と言われていた。「それが文体に馴染んでくると、まるでアヘンだね」とも笑って、最良の読者の一人になって下さった。あの笑い話の折りにも、此の『風の奏で』が話題ではなかったか。
* 「宏」という作中の自称は(というのも変だが、)小説を書き始めてから十年余はよく使っていた。私は幼名というか、むしろ育て親たちが便宜に付けた変名を「宏一(ひろかず)」といった。幼稚園までは宏一サンだった。叔母の社中でも年嵩な人はみな永らくわたしを「ヒロさん」と読んでいた。「恒平」という本名にわたしが初めて衝突したのは、何度も書いたが、国民学校へ入学した当日の、胸に赤い名札に書かれていた二字であり、とても自分の名前という自覚がもてなかった、「しょがないわ。こういうメにあう運命なんや」と、既に「もらひ子」であることを察していたわたしは諦めた。小説を書き始めてしばらくして、「宏」を使おうと決めた。姓の方は「当尾(とうの)」とした。実父の実家が、山城の国、相楽郡当尾村の大庄屋であった、から。そこに数えか満かで四つ五つまで祖父母のもとで育てられていた、から。その家に、父も、母も、姿はなかった。その家でわたしが変名の「宏一」と呼ばれていたのか「恒平」であったのかは全く覚えがない。
わたしの「宏」は、上の読者の「宏」さんとは縁が無い。が、このメール、遠い「宏」に伝えるさりげない恋文のようなものかもしれない、物語というのは完結しないまま転々とつづくもの、先のことは分からない。
2003 11・7 26
* 歯科の処置を受け、痛み止めとたぶん化膿止めとを貰ってきた。奧の歯の噛み合わせが気味悪く軽い痛みが残っている。しかし食事は気をつけつけ出来るようになった。帰り久しぶり「ぺると」へ寄り、コーヒーを呑みながらマスターとゆるゆるお喋りしてきた。
もう湖の本の再校が出揃ってきた。これから発送の用意で断然忙しくなる。師走をらくにするには、十二月早々の発送がいい。しかし月末の二十六日水曜からは、「ペンの日」を皮切りに三日間に四つの観劇が予定してある。「ペンの日」までに用意が出来ていると、この観劇が感激になり、そして発送に繋げるのだが。その為には集中しないといけない。明日は六本木で「三人姉妹」の舞台が待っている。本格の新劇にはそれなりの気力をもって出向かないといけない。劇場を出る頃はもう街は宵灯りで溢れているだろう。
2003 11・13 26
* 終日、あれやらこれやらと作業を進めながら、いくらかボンヤリとしても過ごした。「湖の本」校了のタイミングを、うまく掴みたい。もう少し、もう少しと、右を見、左を見ながら仕事している。
2003 11・17 26
* 発送用意の作業がビデオ映画の御陰で進む。本文とアトヅケとは責了にした。月末は難しくても、師走初めには送り出せるだろう。
2003 11・19 26
* 湖の本の通算七十七巻めを「跋文」まですべて責了紙郵送し、その足で沼袋の歯科医に。歯を抜くといわれて、今回は勘弁願った。痛む歯でも歯を残した方がいいなどという見解でもない。暮れに向かって鬱陶しく、面倒に感じた。ま、痛みはかなり緩和している。それでもまた来週も行く。
2003 11・21 26
* 大幅に予定していた作業時間が食い込まれたが、ガンバッテ追い込んだ。もうホンの少しで何とか追いつく。昼から夜へかけて超大作「風と共に去りぬ」のビデオ映画を流していた。ヒビアン・リーのスカーレット・オハラ、クラーク・ゲーブルのレット・バトラーは、もうこれ以外に思いつきようのない適役で、スカーレットはじつに美しくまた好演。ゲーブルの魅力も、「荒馬と女」なみに魅力横溢。なによりメラニーを演じたオリビア・デ・ハビランドの聖母を思わせる愛ある淑女ぶりは、効果的な映画の底荷になった。そこへ行くとメラニーの夫になりスカーレットにも陰に陽に慕われ続ける男も、演じる俳優も、とても贔屓にはしかねた。
原作は少年時代に人に借りて読んだ。パール・バックの「大地」と、このマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」とは、面白い小説だとは感じていながら、たとえばゲーテの「若きヴェルテルの悩み」ほどには、あるいは「嵐が丘」ほどには敬意を持たなかった。だが映画で見る限り、やはり壮大な歴史絵巻の魅力は十分備えていて、仕事の邪魔になるほど画面に惹き込まれがちであった。スカーレットのような女は現実にはかなわないが、映画とはいえ、小説とはいえ、こういう女も神様は造られたと思う気持ちには感謝もまじる。
2003 11・21 26
* 明日は「ペンの日」の理事会と懇親会がある。明後日は昼前に歯医者。金曜は昼の「冬物語」に引き続いて晩には平家読劇。土曜は「マクベス」を観て、それが済むと今年四冊目の「湖の本」を送り出す。通算七十七巻めのわたしより、一足も二足もはやい喜寿である。わたしは師走二十一日の終い弘法で、六十八歳になる。
* 柳君が湖の本へ先払いも含めて一万円払い込んできてくれた。ありがとう。ボーナスをもらったようにひとしお嬉しい。
2003 11・25 26
*「ペン電子文藝館」の校正が四本輻輳、それぞれに手配を終えた。明日が過ぎれば、新しい「湖の本」の発送にいつからでも臨める。歯の痛みもかるく残っているけれど、落ち着いている。
2003 11・28 26
* 湖の本の通算七十七巻が午前中に届く。いつもながら、作業をひかえ、かるい期待と緊張がある。この巻には以下、こんな跋文「私語の刻」を書いた。
* 一戸建ての家屋を垣一重で二軒連ね、夫婦二人で暮らしていて「狭い」とは、日頃の怠慢を白状しているようなものだが、恥ずかしいほど狭苦しく暮らしている。お客を迎える余裕もなく、夫婦二人がゆったりやすむ儡地(らいち)もない。妻は内心何と思っているか知らないが、わたしが、それでも何とか黙って暮らしているのは、大方がわたしのための「本と資料」のなせるわざだからで、ま、今分、やむをえない。
門を入り、住まいの表戸をあけると、いきなり小学館版の日本古典文学全集が「棚」に上下二段、ずらり勢揃えしているのに出迎えられる。この百巻にちかい全集本に守られるようにして美人女優沢口靖子さんが、自らの額に入れて贈って呉れた麗しい写真姿で、宅急便配達のお兄さん達を歓迎する。玄関正面には、宮川寅雄先生に頂戴した会津八一書「学規」の額が掲げてある。曰く「一、深くこの生を愛すべし 一、省て己を知るべし 一、学藝を以て性を養ふべし 一、日々新面目あるべし」と。二と四、ことに二が難しい。たいがいのお兄さんが美女にも本にも、八一先生の庭訓(ていきん)にも敬礼してくれる。圧巻、ではあるまいか。
しかし白状すればさきに「棚」と称したは、実は長い下駄箱の天板であって、二段にと謂うも、余儀なく函入本が上下に重ねてあるに過ぎない。ま、我が家では晴の玄関ではあり、ほかに置き場所がもうなかったのだ、申し訳がない。
それでも、心くつろぐときわたしはよく此処へきて、好きに古典の巻を抽きぬいて暫く読みふける。煙草もお茶もない、それがわたしの一服なのである。時にはごく小声で音読を楽しむ。
音読といえば昨年(二○○二)あれで夏頃からであろうか。わたしは、初めて源氏物語全巻を通して毎就寝前に少しずつ音読しようと思い立った。敗戦後の新制中学のむかし、与謝野晶子の『源氏物語』二巻帙入りの豪華本を、繰り返し耽読した。叔母の茶室にお稽古に通う近くに根生いの分限者(ぶげんじゃ)の娘さんに、毎度お蔵から持ち出してきてもらった。以来本を替えて源語五十四帖、二十度ほどは読みに読んで楽しんできたが、音読で通したことは一度もなかった。出来るかなと危ぶみつつ、つと始めたのが以来一夜として欠かすことなく、夜前も「夕霧」の巻半ばを通り過ぎた。「横笛・鈴虫」を経て師走前には「夕霧」の落葉宮に惑う恋が深まってゆく。刻露清秀の秋極まる日々にまことにふさわしい風情で、これは、決して日課という習慣ですることでなく、「読む」それそのことが、楽しくて嬉しくて身にしみいる体験である。源氏物語本文を「声」に出して読んでゆくただそれだけが、こんなに嬉しいこととは予想しなかった。迂闊であった。
古典全集の二た種類は書庫にすでにあるが、小学館の厚意で前後期を通じて贈られた大判の先の新刊は、装幀も本文もいかにもうつくしく読みいいので、わたしはしいて書庫に蔵わず、手にも目にもふれやすいまるで玄関番をして貰っているが、愛読にはなるべく手近に置くのが良い。毎月の配本で一冊ずつ増えてゆくのが目に見えて嬉しかったし、その夥しい量と質との大方をわたしはいとおしんで読んできた。こんなに熱心な読者がほかにいただろうかと思ってしまう。研究者ではない一愛読者であるから、虫が花の蜜をあさるように自在にどの巻にも手が出せる。連想型の愛読をわるい心がけとは少しも思わないのである。われわれ素人にはそれが許されている。
今年の夏、木曽馬籠の記念館で島崎藤村を語ってきた。東京へ帰ってくると、馬籠の風光が眼にあるうちにと、また長大な『夜明け前』を読み始め、毎日少しずつの黙読が楽しくてしようがない。ほぼ半ば近くを通りすぎて、今や幕末の動静は不穏をきわめ、木曽の宿村にも小さからぬ余波が来ているところだが、わたしは、主人公青山半蔵の底に横たわる平田篤胤の国学に、この機にぜひ触れてみたくて、書庫から、古本で買い置いた岩波文庫『古史徴開題記』の傷み本を深夜の枕元に持ち出し、読み始めて、これがまたすこぶる興深い。おもしろい。篤胤というと、喰わず嫌いに敬遠がちだったが、彼の学問のいわばヘーゲルなみに壮大でしかも堅実な手法や認識に支えられているのをコト細かに知ってゆくのは、思わず胸を撫でるように嬉しいことなのである。またさもなくて青山半蔵の衷心に触れてゆくことは出来ないだろう。わたしの謂う「愛読」とはそういうことである。思想はそのようにしても形作られてゆく。そういう読書のあとが自ずと一つの自伝を成しても行く。
当然ながら、人はただ楽しむだけでなく、広い意味の「知識」をもとめて「本」というものを読み慣れた。わたしも例外ではない。
それでも六十の坂をもう七十に手の届こうという近年のわが読書に、知識欲は殆ど混じっていない。碌々と年をとってきて理会した一つの結論は、「知識」が人間を小さく偏らせるのだという苦笑まじりの実感である。この実感に触れて語るのは此の場の役でなく、この三、四年、日夜「闇に言い置」いたわたしのウエブサイト「私語の刻」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/home.htm )に譲っておく。
今は、「ただ楽しみたさ」に、古典はもとより広範囲に本を読んでいる。就寝前の枕元には常に十指にあまる本が積まれて妻に咎められるが、例えば「ペン電子文藝館」編輯の仕事にわたしが人目憚らず打ち込めているのも、それは「楽しいから」だと説明する以外にあるまい。近年のわたしの日常を律しているのは「今・此処」を「楽しむ」以外にない。怒りや憎しみをすら癇癪を爆発させつつ楽しんでいるし、楽しくないことは何もしたくないし、残された時間は短いと医師は言う。少しもヤケにはならない、心行くまで静かに書きまた書き、好きな本を好きに愛読し、好きな芝居や美術を好きに楽しみ、うまい酒を少しずつ絶やすことなく、妻と一月でも仲良く長生きしながら、残り火の人恋しさをさえ虚実とりまぜ静かに楽しみたい。
湖の本エッセイも、いつのまにか三十巻に達した。創作シリーズと併せると、わたし自身より十も年嵩な、七十七巻・喜寿をもう迎えた。作家の出版活動としては最長最多の不倒記録と謂っておこう、夫婦の心身疲労をのぞけば、低空飛行ならばもう少し翔び続けられるだろう。
今のわたしには、そのうちスパッとやめてしまう三つの仕事が有る。一つは日本ペンクラブの理事であり、自動的に「電子文藝館」を運営の責任である。二つは、「秦恒平・湖(うみ)の本」の出版である。三つは、ホームページ等のウエブサイトの公開である。「書く」ことも「読む」ことなども、此のうえ此の世界に好んで提示などせず、一私民として気儘に楽しめる時間を、せめて五年から十年、余しておきたい。凡人の常で、どれもむしろ言うほどは容易でないだろうが、その葛藤もまた楽しみのうちと思っている。
至精は形なく、至大は囲むべからずと謂う。だからこそ百福是れ荷う気で、皆様とともに温和な歳末を、また新年を迎えたい。
穣々満家。心よりご平安を祈ります。年賀状の欠礼をおゆるし下さい。
2003 12・5 27
* 朝から夕過ぎまで集中して作業、「湖の本」大方を送り出した。リチャード・ギアとローラ・リニー、それに迫真の演技でうならせるエドワード・ノートンの「真実の行方」に、いつもながら唸った。こわい映画である。「目撃」のローラ・リニーもこの映画の、出来る検事役のローラ・リニーも、品良く、丈高くて、なかなか佳い。
2003 12・6 27
* 発送のヤマは越えた。早いほうの人はそろそろ届き始めているだろう。師走はなにもかも輻輳するとき。無事に届いて欲しい。予定通り、まず明日の内にほとんど了となろう。
今回は中公新書「古典愛読」を芯に、古典についての短い読みやすいエッセイ集を添えた。古典にふれたエッセイを、たくさん書いてきた。その中で、すこしでも私なりのオリジナルを出し得ているものをえらぼうとした、名付けて「古典独歩」か、つまり独り歩きで読んできたのだ。わたしは国文学科で学んでいない。子供の頃からのまるで独り学び独り歩きで来た。大学では少し逸れた学問を専攻していた。だが、いまおつき合い願っている研究者には、国文学者が断然多い。
2003 12・7 27
* もう「古典独歩」二を選んで、読み返している。原稿依頼があって、編集室指定の意向にうまく馴染めず、気乗りしないまま自分の思うままに書いておいた原稿が、掲載されたその当時われながらイヤな気分であったのに、二昔になるほど歳月を経て読んでみると、当時の特集としては脱線もいいところであった原稿が、実に率直に自分自身を証言してくれていたと分かり、よく書いて置いたなあと思わず手を拍ってしまったりする。あくまでわたしは創作者で小説家であったので、どんなときも研究論文を書こうなど考えたことがない。書きたいのは実感であり、実感を支えた体験であった。私生活からの体験もあり、読書などを通じて得た体験もあったが、エッセイとはそういうものと思う。
2003 12・8 27
* 湖の本『古典愛読上・古典独歩一』落手。ありがたく、あそび心もて堪能いたします。
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独り居の母から返却を頼まれていた白秋『水の構図』がようやく書庫隅から出てきた。昭和17年、白秋五十日祭記念にいただいた思い出の写真集。表紙見返しには、父のみたま鎮めの言の葉に父が撮影した師の写真が添えてある。父母と兄は葬儀に参列したが、私はまだ生まれていなかった。郵送する前に久しぶりに頁をめくった。なぜか懐かしい、まるで、まだ一度も嗅ぎえぬ平安時代の香紙のような。冒頭の「帰去来の辞」を何度も音読した。はしがきの詞書に「夜ふけに人定まって、遺書にも似たこのはしがきを書く。、、、、、、。さるにしても何を嘆き、何を希はうとするこの私であらうか。」とあった。
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今宵は、秦さんの朝の独白「どうしたらそっと静かに死ねるだろう」と、白秋のこの「人定まって」が、なかなか頭を離れそうにありません。でも、たぶん、明日はまたやってくるでしょう。お休みなさい。
* 気の毒なことを書いてしまった。明日は、終日歌舞伎を観る。
2003 12・8 27
* ご本「古典愛読」、拝受。面白くて、半分まで一気に読み進めてしまい、いやいやそんなに急いで読み終わってしまうのはもったい、と。思わず惹き込まれた自分を引き止めてしまいました。何度も再読するのに可笑しいですね。(笑)
昨夜はテレビ・宮沢りえさん主演の「初蕾」をぼろぼろ泣きながら観ていました。
いよいよ冬到来と実感させられる気温に身震いしています。
この冬はインフルエンザが流行りそうだと。でも病院には予防接種用の薬は底をついて無いらしいですの。体力をつけて、自分の体に予防させるしかないようです。どうぞ、ご無理なさいませぬよう、御身くれぐれもご自愛くださいませ。 徳島県
2003 12・9 27
* 下記のような「読者」の手紙を「闇」に言い置いては、漏れ聞く人の大いにわたしを嗤うことでもあろう、が、過褒であればあったで、今わたしは、すなおに喜ぼうと思う、自慢はしない。褒めてくれるから佳い読者だとも思わない。読んでもらえて、また繰り返し読んでもらえる、それが有り難く、また嬉しい。そういう人の言葉であるから、わたしは謙遜な気持で言葉通りに聴き、そして此処に言い置くのである。
* 湖の本を頂戴しました。師走の日々に大掃除そっちのけの魅惑の一冊でございます。
今回のご本は古典に関するものではないかと予感がございましたので、『古典愛読、古典独歩』の題名を拝見し、読みはじめてわくわくしています。
先月、先生の書かれた閑吟集、梁塵秘抄についての本を読み直していましたが、先生のご著書なしには、私がこのように古典を味わえる幸福に恵まれたとは思えません。
『春は、あけぼの』の「枕草子」の成立など、私の視界がさっと開かれたように新鮮な感動でした。日本の、教科書中心の古典教育は間違っていまして、試験勉強の現代語訳や解説のぱさぱさと味気なかったことったらありませんでした。
私のような情けない理解力しかもたない者でも、先生の語り口にのせられてしまいますと、いつの間にか古典の世界に浸りきってしまう、その悦びはたとえようもありません。先生は類まれな導き手でいらっしゃいます。ただの学問的理解だけでは到底先生のように自由自在に古典の世界を泳ぐことはできないでしょう。先生の文学者としての力量が古典の書き手と角逐するものであるからこそ、初めて成し得ることだと痛感いたします。すぐれた文藝批評というのはレベルが同じものどうしでないと成立しません。(実は以前、『慈子』は恋愛小説としてではなく藝術家小説の名作として読みたいという試論を書いたことがあるのです。しかし、途中でそのあまりの不出来につくづく嘆かわしくなりました。知性、教養、才能とすべてにわたって桁がちがいすぎて玉砕です。まったく身の程知らずな暴挙でございました。)
「守本奴」というお言葉は面白いまでに実感があり、とても気に入りました。私にかぎらず、先生の愛読者は湖の本の守本奴でございましょう。湖の本は読み尽くしていてもまだ謎を見抜くことのできぬ、何度も繰り返し戻ってゆくお気に入りの、いつも手元に置きたい本です。冬の長い夜、ゆっくり楽しませていただきます。ありがとうございました。 2003 12・9 27
* 明るく静かな朝です。先の八日、太平洋戦争開戦の日のHPの記述に、日の光に恵まれる嬉しさを書かれていましたね。そのあと阿修羅像に見入りながら、どうしたらそうっと静かに死ねるだろうと・・。
決して多くの死をみてきたわけではありませんが、死ぬとは何と大変なことだろうと、何とエネルギーがいる業だろうと思わずにいられません。同時にいとも簡単に無残に人の命が失われている世界だとも・・。
でも、日の光の静けさからただちに思い至る、静かな死の願いがあなたの今の心境と思いたくはありません。先日も書いていらっしゃいました、まだ五年、十年安らかに生きたいと。どうぞその気持ちを大切になさってください。死に対してどうしたら静かに死ねるだろうと危惧や不安があっても・・誰しも例外ではありません・・。僭越は承知で書いてしまいました。わたしも母の手術やらさまざま身にしみること多い毎日です。
一昨日、本が届きました。新書で何度も繰り返し読んでいますが、懐かしくまた再読しています。 関西
* 御鄭重にも「湖の本エッセイ30」御恵贈にあづかりました、誠に有難うございました。私が常々敬服致して居ります「少年このかた古典に親炙」の実質を、今回拝読できますことを大変嬉しく存じて居ります。「私語の刻」で「音読」を愉しんでいられる御境地も私なりに感知できるように存じました。「ただ楽しみたさ」の読書といふものは私も今や最も望むところですが、是非とも後に続かせていただきたく存じました。何れに致しましても「湖の本」が七十七巻の喜寿を迎えられましたこと、改めて感嘆致しております。呉々も御体調に留意され、さらなる「飛行」を心からお願ひ申上げます。右取り急ぎの御礼まで。敬具 編集者
* 湖の本『古典愛読上・古典独歩一』拝読いたしました。古典渉猟に止まらず、血肉化した古典知識に基く秦史観の展開を堪能しました。古典独歩のエッセイ、刺激的ですね。加賀少納言=紫式部説にはあっと、ありうるかも知れぬ推論に驚きましたし、薫と匂に本編以来の皇家と藤氏の競い合い重ねて見ることには蒙を啓かれました。「ただ楽しみたさ」に読んでの短感です。 編集者
* いつも乍ら有難うございます。秦さんの御本はふしぎにあとを引くのですね。内容の充実度からいえばふしぎでなく当然のことでしょうが次が読みたくなるという思いをいつも感じさせて下さいます。 ペン理事
* 大学高校入試問題や模擬試験問題に、ずいぶん文章を使われてきた。「古典愛読」もその有力な一冊であっけれど、しかもこの中公新書版の、あまりに早く市場から姿を消されたことにも、仰天したものだ。出版の表世間ではわたしはよほどの鬼子扱いであるらしい。しかしまた、裏世間ではべつなんだよ。 2003 12・10 27
* 朝明けるのが、遅くなりました。師走の時間の密度が増すように感じます。思いがけない「湖の本エッセイ30」が届きました。
初めて目にする瀟洒な装丁と僕の好みの内容。何処にでも鞄に入れていけるぐらいの手ざわりと重さ。年甲斐もなく「学生になった気分」で愛読するつもりです。還暦をとっくに過ぎて段々年が若返ることの嬉しさを感じております。
お礼の手紙の投函とご送金をするつもりでございます。有り難うございました。 川崎市
* お誕生日には早いのですけれど、湖の本の喜寿と、お疲れ様の意味も込めまして、少しばかりのお肉をお送りさせていただきました。今日の午後には着くと思います。
今朝も鉛色の雲が空を覆っています。寒くなるのでしょうね。寒暖の差が本当にめまぐるしい昨今です。どうぞ、どうぞ、ご自愛を。 徳島
* 感謝。
2003 12・11 27
* ご本届きました。ありがとうございました。お礼が遅くなりました。
3日ほど孫の子守に通っていました。夫婦とも働いているのでこどもが熱を出したりして保育園に預けられないときは、私にお呼びがかかるのです。子守自体は楽しいのですが、朝6時半に出て帰宅が夜8時になりますので、我が家のこと、放りっぱなしです。
「私語」やご本を読む度に、若いときにもっとお話ししたかったと思います、が、でも出逢えた不思議と幸せを感じます。
年の瀬の何とはない賑わいも好きですが、今年はそんな気分にも重苦しさがつきまといます。個人の生活上も、年金が減り、所得税が増え、さらに消費税が上がるとなっては、いくら先が短いとはいえ心細くなります。それより何より子や孫の世代の日本社会がどうなるのか心配でなりません。
本の送料が振込額では不足なのではありませんか。前回から気になっています。
お礼を、のつもりが長くなってしまいました。
お体お大切に。 下総
2003 12・13 27
* 湖の本エッセイ「下巻」を、そろえて入稿した。上巻や既刊分注文に応え、十数冊送り出した。
2003 12・15 27
* 昔、女一宮であった照宮内親王の、幼い頃からの学友そして宮仕えをつとめ、中世和歌研究の、また「女房」学の教授生活に転じられた、岩佐美代子さんから、新しい「湖の本」へのお手紙や「藤袴」の巻の対談などを戴いた。前にも文通があった。また国文学研究の今西祐一郎九大教授から、また在野の著名な研究者である由良琢郎氏から、また京都で盛んに文筆活動をされている河野仁昭氏からも忝ないお手紙や著書を頂戴した。「湖の本」の存続は容易でない中に、優れた多くの人との交際の輪をつくる大きな役をしてくれている。
いつの日にかスパットやめてしまうであろう「三つ」として、日本ペンクラブ理事および「ペン電子文藝館」の責任者、そしてホームページ上での「e-文庫・湖(umi)」や「私語」など、さらには「湖の本」刊行ということを、今度の跋文に書いたのへ、思いがけず反響が多く、苦しいであろうけれど「湖の本」は文学活動そのものであり、いろんな意義も絡んでいるので、長く続けて欲しいというご意見がことに多かった。有り難いことである。
そこへ行くと電子文藝館はとにかくも、理事や委員生活は、やっていて、ま、心が綺麗に成ると云うことの決してない地位に過ぎない。選挙されて地位に有る限りは努めるのがわたしの習いでありやり方であるけれど、ほとんど心は楽しまない。会議の後、大急ぎでどこかへ場所を換えて、静かな酒を飲み本を読んで心身を洗ってから帰るようなことに、つい、なってしまう。「ペン電子文藝館」は、視力や眼科所見により、とてももう長くは続けられまい。
機械のことは、まだ機械に触れない人の方が多いので、わたしの読者でも大方はホームページの存在に目を触れていない。これは、わたしと外とを結ぶ窓口・出入り口だから、わたし一人のこころがけで、出入りのハバを狭くすることは出来るに違いない。
今はもうわたしの「本」を出そうと思うような出版社は、無い、から、機械や湖の本はたしかに貴重なメディアなのである。幸いに収入をそこから得なくては立ちゆかぬということが無い。本は、もう出したいだけは沢山出して貰ったので、とくべつ気も動かない。成るように成ってゆくと考えている。
いい、親しい読者と、優れた知己に多く恵まれていて、不徳ながら孤独ではない。おろかな名誉欲に取り憑かれないで居れば、生々として清々とした日々が得られる。老境は何としても危うい。支え合ってゆくより無いのである。
2003 12・17 27