ぜんぶ秦恒平文学の話

湖の本 2009年

 

* 言論表現委員会の、昨日は五十嵐二葉さんから、今日は篠田博之氏から、メールの賀詞が来た。OBとして委員会へも顔を出すようにと。理事の堀武昭さんや松本侑子さんからも。
このところ気が乗らぬままペンの仕事から遠のいているのを、ちょっと咎められている気、する。
さ、正月気分も切り替え、湖の本の発送用意に本格取組みながら、書きかけの作品を前へ前へ押したい。我ながら難しいことをしている。ま、いい。玉砕覚悟でも。
2009 1・2 88

* 湖の本新刊の「あとがき」を書き足して、いま、入稿。もう日付変わって、午前三時。宵に、疲れ寝して体力を戻した。どうしても必要な仕事を無事に頑張って済ませると肩がラクになる。
2009 1・3 88

* 読者への発送の挨拶を書き始めた。ア行だけ。モノを刷って沢山余ってしまった裏白の紙を使わせて貰った、裏白の紙をまとまって使えれば紙のためにも有り難いし、それで読者の皆様への謝意がうすれるとは想わない、一入の気持ちでお一人お一人に感謝を籠めて書いているし、そんな裏白紙の流用を不快に思われたり汚いと思われる人はいないと信じている。
常々から裏表真っ白い紙を用いて、しかも余儀なく細くカットして使ったりしているのが、紙のために可哀想やなあと思ってきた。そのまま使えばいわば原稿にしても文書にしても立派に清書用として使える一枚の紙を、切り刻んで使うのは紙のために申し訳ないと思ってきた。その気でなら、そのように清書用に使う用はたくさんある。その一方で、裏白のまともな紙の儘、メモ紙としても大きくて使いにくく埃をかぶっている紙もまた残念なことについついむ溜まってしまうのである。
昨日書いていた「あとがき」のなかで、日本人が海外で大量に森林を切り倒し紙を得ていること、とりわけてその紙でもの書きは生活してきたこと、その思いがついつい念頭からこぼれ落ちたまま、環境大事の自然愛護のと声明だけは喧しいことにわたしは触れていた。
利用できるモノを利用して、それが失礼になる事例もあろうけれど、この際は許容されるだろうし許可して頂こうと考えた。裏白の上質紙を古紙回収に出しては、新しい紙を買っているのでは、その方が本末転倒だ。裏の白い紙を貴重品のように帳面に創っていた昔をわたしは忘れていない。壁代になって遺された昔人の紙は、裏も表も丹念に使われていた。裏白の紙を手紙に使った例など、むしろ当たり前であった。けちくさい言い訳を言うているのではない。

* さ、日付が動いた。数年前まではもっと遅くまで機械の前から立てなかった。今は立てても立てなくても立つようにしている。
2009 1・4 88

* 発送用意の作業をひたすら続ける。気分転換には、「e-文藝館=湖(umi)」に植林を続けている。校正を捗らせるには戸外へ出て行くしかない。まだ近所への初詣にしか戸外へ出ていない。
2009 1・5 88

* 十日には本紙責了にしたいと思いつつ。
2009 1・6 88

* 新刊の「あとがき」もゲラが届いた。
2009 1・7 88

* 妻が聖路加へ行っている間、発送の挨拶を孜々として書き継ぎながら、衆議院予算委員会の討論に耳を傾け続けた。ことに午後の民主党の質問は、三人とも聴き応えがあった。定額給付金のいいかげんさ、また天下りや渡りに関する官僚の悪巧み、それを黙認したらしい麻生総理のあるまじき態度の暴露。それらをつぶさに聴き、暗澹。

* ムムムと唸りながらも、わたしはわたしの仕事を進めてゆく。
2009 1・8 88

* 昼と夜は発送のための挨拶を書いていた。晩は妻のピアノの時間を利して、机で、主に校正。
昼は、往年の時代劇大スターたちに美空ひばりも加わった、極め付けやくざの喧嘩を、聞いて観ていた。市川右太衛門、片岡智恵蔵、大河内傳次郎、薄田隼人、大友柳太郎から、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らまで。
笹川繁蔵と飯岡助五郎とやらの喧嘩で何一つ同情も共感もないが、このところ妙に時代劇が流行っているのは、現代物の人殺しドラマ、探偵ドラマにつくづく飽きがきたということか。「子づれ狼」ほどのものなら、チャチな現代ドラマよりよほど感じがいい。
2009 1・9 88

* 湖の本通算九十七巻めの本文を校正し終えた。このところのガンバリが歯に来ているのだと思うが。明日からは、ひたすら発送の用意に取り組む。
2009 1・10 88

■ 朝の一服  『愛、はるかに照せ』(秦恒平・湖の本エッセイ40・原題『愛と友情の歌』講談社刊)から。 08.06.27連載開始。

さまざまな愛

☆ 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照せ山の端の月   和泉式部

未生の「暗き」から死後の「暗き」へ、人は生きる。そして死ぬ。後じさりのならない一筋の道である。その道を、成ろうならば来世までも「はるかに照らせ」と祈る。「山の端の月」を、この作者の時代でいえば、摂取不捨の来迎仏そのものと眺めていただろうか。だがそうした思い入れを超えて、この歌のなんとまあ美しいことか。「和歌」時代から一つと限り女の歌を選べと言われれば、私はこの作者の名とともにこの歌を挙げたい。

☆ 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ   柿本 人麻呂

もし「和歌」で男の歌を一つ選べとあれば、好きなのはこの歌と答えよう。「心もしぬに」以下の下句は、心も萎えしぼんで衰えてしまうぐらい…昔がなつかしまれる、の意味。日本語の「死ぬ」の意味は、命が萎えしぼむ、しなびる、から出たという。もっともこの歌でのこの句は、そう深刻に重く取り過ぎることはない。「いにしへ」への愛の思いが、誰にもある。この作者の場合には具体的に古き志賀の都への哀惜があったろう。が、我々は、もっと自在に大きくこの歌の表現や音調に助けられ、わが心の内なる「愛」の旋律を引き出して貰っていいだろう。私は、子供の頃から私専用の「和歌」のためのメロディーを持っていて、ことにこの歌など繰返し機ごとに口遊みつづけてきた。
「淡海」はわが、生みの母の国。いわば、私の詩歌への愛の原点といえるこの美しく懐かしい一首を大尾に挙げて、久しい撰歌と鑑賞の作業を、今こそ終えたい。

原本「愛と友情の歌」あとがき

『日本の抒情』の一冊を分担するよう指名を受けたのは、昭和五七年(一九八二)六月十七日のことであった。まる三年がこの間に経過している。顧みてよく三年でこれだけ読みこれだけ撰べたなと、思わぬでない。近代現代に的は絞って行ったが、近代以前の莫大な作品にも、ともかく納得が行くまで目を通しつづけて来た。今にしてこの三年間が幸せなものであったと、感謝は厚い。
思うままに撰んだ。冠絶した作品を厳撰したのでは、けっして、ない。表現や技巧に不満はあっても、テーマの「愛」に即し、心に触れて「うったえ」て来るものが有れば、つとめて拾った。それが「詩歌=うた」というものだ。むろん出会いに恵まれずじまいの作品が、数限りなく有る。その余儀ない事実に私は終始謙虚でありたかった。今もそう思っている。
また、私の解説や鑑賞が、作品を新鮮に読む喜びを読者から奪うほど過度にわたるまいとも、心がけた。簡単で済むものは済ませて、その分、一つでも作品を多く紹介した。最初に指定された作品数より、だいぶ多くなっている。「愛」にもいろいろ有り、さまざま有るということだ。
作品の読みは「私」のそれに徹した。挨拶だくさんに、なまぬるい話に流れるのを嫌った。私はこう読んだが、あなたはそう読まれて、それもまた佳しとうなずけるものが詩や歌や句には、しばしば、ある。読みを一つに限ってしまう「翻訳」も、私は、当然避けた。サボったのでは、ない。
それにしても、いま初校を遂げながらしみじみ思う、愛ならぬ詩は、ない…と。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難さよ! 努めるしか、ない。
昭和六〇(一九八五)年六月八日  娘・夕日子(仮名)が華燭の日に 秦恒平

そして二十四年が過ぎ、その間に十九歳で孫・やす香をわたしたちは死なせてしまった。娘達のために心こめて編んだ本を、こんどは亡きやす香のため、和泉式部の絶唱にかりて再び、『愛、はるかに照せ』と改題し一昨年春に「湖の本」で再刊したのである。それを此処で、また「mixi」で「朝の一服」と題して少しずつ連載してきた。それを今、終えた。 09.01.10 秦 恒平

* ほぼ半年掛けて『朝の一服(湖の本原題『愛、はるかに照せ』さらに原題『日本の抒情 愛と友情の歌』講談社刊)』連載を終えた。

* この機会に、退会はしないが、「mixi」の作業を、当分(今年中ぐらい)停止する。デスクトップのロゴも削除した。端的に、時間を惜しむため。

* ゆうべもよく眠らなかった。明日からに又そなえて、今夜はやすもう。
2009 1・10 88

* 送り封筒の入ったダンボール箱を隣の棟から、実地に作業するこっち棟へ運ばねばならない、その重い荷物の反復往来で、左腰に激痛が来る。激痛ぐらいで途中でやめていてはラチが明かない。老妻にも手伝ってもらいながら、肉体労働はいちどきにし遂げてしまう方が早い。痛みは、痛みどめをのみ、暫時の休息で押し鎮めてしまう。
封筒に版元住所のハンコや、わたしの氏名ハンコを、必要なだけ捺しつづけねばならぬ。加えて「謹呈」印の必要な分も少なくない。
それら封筒へ、妻の印刷しておいてくれた寄贈先や読者への宛名を貼り込む。さらに日数かけて用意しておいた「挨拶」文や払込み用紙を、宛先ごとに予め封入しておく。本が届いたらそれを本に挟み込み封筒に収める。その方が送り間違いが防げる。
こういう作業へやっと掛かり始めたが、まだ個別の「挨拶書き」が全部は済んでいない。

* 本紙ゲラは「責了」で印刷所に今日送り返したが、まだ跋文と表紙との校了が残っている。

* こういうことを二十数年、百回ちかく繰り返してきた。いまはこういう時機なので、余分の用はあまりしていられない。今回は歳末から心がけて始めていたので、やがて一息付けるようになる。本が届くまでのホンの暫くの間、二日から五日ほど、息継ぎが出来る。
2009 1・11 88

* 二、三日まえには、読者の一人が、このホームページの十余年にわたる厖大な「日記、闇に言い置く私語」の條、條を、二十九類のフォルダに編成し直し送ってきて下さった。胸の内で自身でしたいと切望しながら、とうてい手も足も出せなかったことだ。
まだ全部ではない、全年分の三分の一程度であるけれど、そしてまだ試行錯誤の段階ではあるけれど、それに送られた二十九ファイルのうちち十六項しか、エラーなどあり開ききれなかったけれど、開けた十六項目には、順不同で、 文学観・思想  作家論  読書録  和歌・短歌・俳句・詩  湖の本  e-文藝館=湖(umi)・ペン電子文藝館  文字コード問題  バグワン  音楽  美術  演劇論  歌舞伎  映画・テレビ  仕事関係 女  雑  が、拾い上げてある。さらに重要な項目がいくつか考えられるので、みなの開くのが楽しみであるが、一項一項が、例えば現行の「湖の本」に換算しても各一冊ないし一項目だけで数冊分に達する。
あまり意味のない日ごとの雑記も混じるにせよ、大方は、「所感・意見」であり「随感・随想」であり「論・考察」であり、「述懐」である。出版という流通世界から吾から身をのけぞるように遠ざかった以上、此処に、「わたしの文学世界」はある。
2009 1・11 88

* いつもその用が済むとほおっと太い息をはく、その用をもう日付の変わりかけた今し方、終えた。まだまだ気遣いの多い用が待っているが、一つ一つ片づけて行く。
今日は、幸いに、暮れに観たテレビ映画の橋田壽賀子版『源氏物語』上下の巻をことごとく耳に聴きときに目に観て、そのうちにたいそうな用の山を踏み越えてきた。有り難かった。
橋田壽賀子のドラマをほとんど毛嫌いして観てこなかったが、この橋田源氏の「理解」つまり把握と「表現」には「女」の視座がきちっと築かれていて、もとより原作をおおはばに省いたり変改してあったりしても、その意味はつかみやすく、よく納得させてくれた。要所では、したたか胸に応えて泣けたりしたし、干支一巡ほどの永きに繰り返し繰り返し読んで「源氏読み」を自認してきたわたしをも、シラケさせず、楽しませてくれた。オンパレードの女優陣の労を多としたい。そして片岡孝夫いまの仁左衛門の源氏は、いままで観てきたどんな源氏よりも身に染みた。
2009 1・12 88

* 耳のうしろがヒリヒリ痛む。眼鏡の蔓がふれるだけで、マスクの紐がふれるだけで、ときどきウッと呻くほど痛い。
寝床に逃げ込み、眼鏡なしの裸眼で読書し、寝よう。
おそらく、後数日で発送の用意はひとまず終え、本が出来てくるまでに暫時の余裕が生まれよう。じつは、珍しく依頼原稿を引き受けてしまった。したい仕事も気楽にはさせてくれぬ。そして愉快でないべつごとのプレッシャーはいつも有る。「生き苦しい」といえばその通りであるが、ま、「息」はしている。
2009 1・12 88

* 今日中には此処までと予定し希望したとおり、夜十時には漕ぎつけた。気の重い仕事がまだある。しかし本の出来るのにあと二週間はかかると思う。その間にすこし気分に新たな風を吹き込むことが出来るだろう。ここまでくれば、印刷所まかせでいいこと。
2009 1・13 88

* 昭和十年(1935)師走に生まれ、四十四年(1969)六月の桜桃忌で作家として立った。その歳末までの詳細な「自筆年譜」を読んで行くと、手の施しようのない異様なほどの混乱を自身に対し感じる。
自分のことをわたしは繰り返し「非常識」だと自認してきたけれど、それなりの主張を含む反語性を自負していた。しかし自負もなにもない、わたしはトテツもない脱線人間なのかも知れないと危なく感じるぐらい、ヘンな人だと吾から思われるほど、常識の線を逸れた感じがある。常識的な人なら近寄ってこないのではないかと思われる異なところがヌウッと出ている、年譜全面に。
そもそも国民学校時代の担任の先生方の批評が凄い。徳義に欠けているかのように書かれて、事実修身の成績は良くなかった。中学になると改まっているけれど、なお「圭角」に富んでいるとみられ、わたしは真珠よりはダイヤがいいなどと嘯いている。「常識人」と「良識人」とをあたりまえにシノニムに思うことはなかった。「常識人は往々にして臆病で卑怯だ」と思っていた。

* ま、あれこれ気に掛けて言い出したらとめどないほど、この年譜はヘンテコであるかもしれない。気が滅入って腹痛がする。
2009 1・17 88

* 半ば醒め半ば泥のように眠り続けることがある。このところ不快に過ぎた夢を見ずに済み、この明け方は、本郷通りのもとの会社近くにあった当時人気の老舗喫茶店の店主父子と歓談していた。店の名も思い出せず、店主父子など識りもしないのだが。何という店だったろう、西洋の画家の名前、或いは「ルオー」といった店があったろうか。店内に比較的佳い繪があったような、コーヒーだけでなく昼にはカレーライスも食べられたような。
あの近所に「青野」という額縁と画具店があり、そこの主人に、製版の版下カットなどを仕事で発注していた。画家ふうのおじさんが注文を受けに仕事場へ出入りした。
いまの此の家には、太宰賞を受けた翌年早々に新築成って引っ越してきた。二階の、二段ベッドを置いた子供部屋にわたしはその「青野」さんで額縁を買い、印刷ものであるがルノワールの青服豊満な女性半身像を娘・夕日子(仮名)のために壁にかけてやった。今もそのまま同じ位置にかかっている。建日子はまだ二歳になって間がなかったろう。
そんな夢を見たり思い出したりするのは、詳細な自筆年譜のその当時の記事を読み直していたからだろう。

* 二十年近く前になるかも知れない、わたしより年配の女性で新宿辺の高層マンションに暮らし、小説を書いて本の一二冊も出していた読者に、池袋に呼び出され、食事したことがある。
どういうわけかその人が、会話の間に何度も「まともな生まれかた」という物言いで自身や一般の人たちのことを云うのにわたしは気づいた。
思うまでもなくわたし自身は、その、「まとも」の範囲内からこぼれ落ちたように此の世に生まれていた。その事実がわたしの創作の原エネルギーで推進力でもあったといえたのだから、それ自体をわたしはかつて一度も恥じて隠してきたことはない。むしろ言い過ぎるほど自分で云い、書きすぎるほど自分で書いて、「秦さんは生まれながらに小説を書くしかなかった人です」と人にも言われてきた。
それにしてもその女性読者の、意識してか無意識にか繰り返す「まとも」という物言いは、あまり気味のいいものではなかった。
いったい何がそもそも人として「まとも」なのかという問の前で、なるほど自分の胸奥に求めている「まとも」と、こういう世間人の謂う「まとも」とは、よほどちがうと思うしかなかった。その人の気持ちでは「まともでない」とは「非常識な」といういうこととシノニムらしかった。わたしの胸にある「非常識」とは、とてもまともとは言い難い「凡庸な常識」のいつも反対語であった。凡庸な常識人というのは、たいがいどこか臆病で卑怯だという価値観をわたしは育ててきたが、そんなところがとてものこと<おまえは「まとも」でないと指弾されてきたし、今もされているのだろう。

* 「生まれ」て七十三年余。「結婚」して、いよいよ「五十年」に手が届いてきた。
わたしの、人の目にはたぶん非常識でまともでない人生は、その七十余年かけて成されてきたが、とりわけそのほぼ前半分を打ち込んで、強い意志でわたしは作家になり、強い意志と愛情とで夫になり父親になっていた。太宰賞というバッヂ付きで文壇にいわば招待された昭和四十四年六月、わたしは二人の子のもう父親であった。娘は満七歳に間近だった。息子は一歳半だった。上京し結婚して十年余が経っていた。
十二月二十一日生まれのわたしは、生まれて満三十四年の歳末までを、一語で、『作家以前』と覚悟している。わたしはわたしを、その三十四年間で、まさししく「まともでなく」「非常識に」形成し、自覚を持ってきた。言い替えれば私に書ける徹底的な「私小説」とは、すなわちその三十四年『作家以前』の「年譜」そのものなのである。
普通の小説にすればいいでないか、それが「作家・小説家」だろうという批評の声は、自身の耳の底ででも聞こえるけれど、首を横に振る。
わたしは『清経入水』を書いたし『畜生塚』『或る雲隠れ考』『慈子』『廬山』も書き、『みごもりの湖』『罪はわが前に』『風の奏で』『冬祭り』『初恋』も書いた。すべて「作家以前」から汲み上げた小説であり、みな私小説かと読みたい人は読んで下さってかまわない。
要は三十四年のことは『年譜』で足りている。その年譜が、とても「まとも」でない。年譜の通念を「非常識」にうち破っている。それ自体が「私」である。それがわたしたち「夫婦」の「五十年」となり、金婚の五十年はそこに根ざしている。一行として曖昧な記憶で書いたものではない、厖大な日記と日々の記録にきっちり基づいている。

* この年譜を「湖の本」一連の一冊分にするのは構わない、が、問題がある。新作の小説二篇を添え、妻もわたしも金婚記念の引き出物に「非売品」として寄贈しようかとも思案しているが、いま話題の定額給付金ではないが、実は簡単でない。費用がたいへんという意味ではない。それもあるが、それより、誰方に差し上げるのかである。
創刊以来満冊の継続読者に限れば、分かりいい。たくさん製本しなくて済む。だが仮に百巻の半分以上を買って下さった方に進呈となると、途方もなくたいへんな調べ作業が要る。二十余年、「湖の本」を通過していった全読者は、創刊以来延べ合計すればむろん万を優に超すだろうが、ただ一冊無いし数冊だけの読者も、ほぼ満冊ちかく読み続けて、高齢や病気等でつい最近中止になった読者もある。
ハテ…、いい知恵が欲しい。
2009 1・20 88

☆ 「松風」と喜多節世と。 1998 10/3 「能」
喜多節世(きたさだよ)が松風をこの日に舞うと知り、ペンの京都大会を失礼することに決めた。節世の能をもう何度観られるか分からない。今日も、立ち居は観ていてつらいほどだった。後見が出て起たせてくれて、ふつうだと、でしゃばるなと云うところだが、今日は目頭がにじんで「ありがとう」と思えた。
節世とのつきあいは長い。彼が再婚の披露をした日、私は祝辞を述べた。よく覚えている、展望に出した『閨秀』を、亡き吉田健一が朝日新聞の文藝時評全面を用いて絶賛してくれたその日だった。披露宴が果てたあとの帰りに、私は浜松町の駅の売店でその時評の出た夕刊を買った。そういえばあの日祝辞を述べたもう一人が、将棋名人の中原誠だった。
すばらしい奥さんだったが、先年亡くなり、追悼の会で話したとき、私は涙で絶句した。
京都へ帰っていて、大徳寺へ出かけていた日、ご夫婦の幸せそうな旅姿に偶然出逢ったこともあった。節世氏は喜多実の愛子にふさわしくたいした美男子で、奥さんはまことに佳人であった。そして節世のその後をめぐる流儀内の不幸と波乱はやまず、彼は健康を損ねているらしい。節世の能を、出来もさりながら、現に舞台の上で観られることに私は自分の人生のなにかしら大事なものをかけている。反問されても困るが友誼とでも言っておく。松風は老いていた。老松にも風はふくものだ。能はところどころで紛れもなく美しかった。粟谷菊生、友枝昭世の仕舞も端正に美しかった。万作万之介の布施無経も彼らの老境に応じてしんみりしていた。先代家元の喜多実を偲ばせる会の趣旨も利いていた。
来年春には節世は「景清」を舞うという。実現してほしい。 「むかしの私」から。

* こんどある人が、数万枚に及ぶ厖大量の「私語」を、「文学観」「歴史観」「食いしん坊」「女」「時事問題・政治」等々三十項ちかくに分類し始めてくれた。その『私語分類』のうち「能」の項目の冒頭に、この記事が拾われている。
なんという懐かしい。懐かしいだけでなく、わたしが過去に能に触れまた能舞台の印象に触れ人に触れて書き記したおよそ全部が、この「項目」内容を追って行くと、記事日付も正確に拾い上げられる。
ちょっとオモシロイので、もう一つ「身内(親類・縁戚)」の項の頭から二つめを引いてみる。

☆ 父  1999 5・7 「身内(親類・縁戚)」
父はラジオ屋としては草分けの一人だった。JOBKの技術検定試験第一回の免状をひっさげて開業した。それまでは装身具の職人だった。珊瑚や翡翠や金銀を細工していた。いろんな材料がはだかで遺っている。そんな父がラジオの技術で喰って行ける時代だと観たのは、たいしたものであった。少なくもテレビが出てくるまでは成功した。
父は「売る」よりも「直す」のが仕事だと思っていた。ラジオなら唸りながらでも直したが、テレビになるとお手上げになり、さりとて売りまくる商売は断然へたであった。自然衰微した。
父は私にハイテクの技術を覚えて欲しかったに違いない。ところが私は美学藝術学を学び、裏千家茶の湯の教授になり、はては京都を出て東京で作家になった。玉木正之の『祇園遁走曲』の主人公は、家業から住処から地域から、この私に違いないと思ってテレビを観ていた京都の知人が、山ほどいたぐらいで、私はまさに遁走したのだった、京都から。祇園から。
六十余年の生涯で私が一番なさけなく辛くみじめであったのは、大学三年か四年の夏休みに、父の厳命で、大阪門真のナショナル工場にテレビ技術の講習を受けにやられた二月足らずであった。なにひとつ私は覚えられなかった。気もなかった。午弁当の出る午前と午後との七時間が地獄の退屈であった。とうとうサボッて、京橋や大阪市内まで入り込み夕方まで時間を過ごしたりしたが、遊ぶはおろか飲み食いの小遣いもなかった。あれには参った。好きな本を読むか歩きまわるかであるが、真夏の暑さにも辟易した。成績の付けようもなかったのだろう、父は私の跡継ぎをあれで根から断念したのに違いない。
父は考え違いをしていたとも言える。テレビを技術的にいじくるよりも、電化製品をどう多く売るかの講習を受けさせた方が時代に向いていた。近隣で成功した電器屋はみな売りに売りまくって、直しは会社にさせた。賢明な対処であった。器械は自力で直せるのがホンマモノと思っていたのだ、父は最後まで。
それはそれで、えらいものだと思っている。 「むかしの私」から

* この項目も分量多く、いまでも既に本の二冊分ほどになっているが、会うことも全く出来なかった娘や孫への情愛は自然当然として、婿から、裁判所へ被告として引き出されるほどのどんなウソも無茶も書いていないし、言及している量も数万枚のうち大海の一滴ほどしかないことも明瞭に分かる。

* さ、これを、分類されたかたちでこのウエブに再編し掲示するか、湖の本に編んで出版して行くかなど、楽しめる思案であるが、なにしろ整理してもらえた現状で、2002年半ばまで。いまでもなお七年分近くが残るのに、分類された中の或る一項目などはすでに原稿用紙八百枚分に成っていて、六百枚、五百枚など、当節の単行本容量で謂うと一項目だけで四冊、三冊、二冊になるほど。そして記事は概ね上に挙げたように題を付ければ一つ一つが一編のエッセイというに近い。
現行の「湖の本エッセイ」なみにすべて本にして行けば、闇に言い置いた日録『私語分類』分だけで、「全百巻」にも簡単になる分量であり、日に日に増えて行く。
わたしの「私語」とはこういうものなのであり、今にして思えばこれらの全部も含めて一夜にして何の断りも確認も無しに、ウエブ『作家秦恒平の文学と生活』の全滅を企図し共謀実施した、わが娘夫妻と「BIGLOBE」当局との無道は、作家活動する者に対してあまりに言語道断な著作権・人権の蹂躙であった。

* さらに謂えば私のウエブには、かつても今も、『e-文藝館=湖(umi)』を擁している。現在でそこには<幕末から平成の今日に到る著名な小説家・評論家、戯曲家、詩人・歌人・俳人、随筆家等々の数百人・数百作品が掲載展示されている。
以前に娘夫妻と「BIGLOBE」が、これらをも一切合切含めて「全滅」させたとき、インターネットから「全消却」したときにも、少なくも二百に及ぼう人と作品とが掲載され国内外に送信されていた。しかも娘夫妻たちのナニモノともナニゴトともそれは無関係な文化活動であった。
そのことを、わたしは、もう一度はっきりさせ、怒りの抗議を此処に云いおく。
2009 1・20 88

☆ お元気ですか。  珪
運動不足と正月太りを解消しようとストレッチ体操を試みましたら、足の筋を違えて左足があがらず往生しています。馴れない動きはするものではありません。
湖の本の発送がそろそろのようですが、力仕事には充分お気をつけてください。新しい小説は怖そうな気がいたしますが、如何?
これから夕食の準備。寒いので粕汁、里芋の煮っ転がし、ブリの照り焼き等々つくる予定。おやつにはおいしい最中を買ってきました。暖かくなさって、お風邪など召されませんように。

* 新しい小説のことにはおいおい触れる機会有ろうが、年譜と噛み合わせようかと思っているものは、わるくないが、怖いものではない。
2009 1・20 88

* 比較的穏やかな夢見から目が覚めた。新刊は明日出来てくるはずだが、今日から忙しい。し残してきた、明日までにしておかねば済まぬ用が溜まっていた。珍しく引き受けた依頼原稿もある。とりあえずかなりの量の本の発送を妻に手伝ってもらい片づけた。なんということか、いつからか、最近は妻に力仕事を手伝って貰っている。重いモノをもつと、たちまち腰に、殴りかかるほどの痛みが来る。幸い、少し休むと痛みは遠のいてくれる。

* 機械の前でうたたねしていた。仕事あとのビールのせいか。

* 着々備えは出来た。まだ満点ではないが。また、「百巻・五十年」記念の原稿も主部分を入稿した。たぶんこれは通巻・非売品にする気でいる。
2009 1・27 88

* 午前中にも、「湖の本」の新刊が運び込まれる予定。それまでに龍胆寺雄や吉行エイスケや邦枝完二の小説を読む。龍胆寺が文壇から追い出されたり、吉行があの淳之介ほかきょうだいたちの父で業半ばに創作の筆を折っていたり、邦枝がはやく戯作者ぶりの文学少年で荷風に認められたことなど、今は知る人も稀になっている。味な、不思議に懐かしい作家達であった。
2009 1・28 88

* 午後いちばんから発送作業に入り、獅子奮迅。もうすぐ日付が変わる。晩の作業では、先日のテレビ映画、田村正和と沢口靖子の『疑惑』をもう一度、耳で観て、楽しんだ。前回は田村に触れては書かなかったが、しゃがれ声が気になる他は、彼の芝居としてもトップクラス、泣かせてくれた。沢口靖子はほんとうによくやっていた。
2009 1・28 88

* 作業中断して聖路加眼科の予約による検査と診察に出かける。検査が午前中、診察は午後と。こういうのは時間ばかりたくさん必要で叶わない。ま、遊びに行くぐらいの気で。今朝も冷える。
2009 1・29 88

* 晩に、或る纏まった分の送本作業を、妻と二人でかたづけた。量としてはさして多くなかったが、他の巻と二冊ずつ荷にしたので力仕事ではあった。
さ、明日ぐらいには読者に届き始めるだろう。今日は、中休みというには早いが、長時間の病院で草臥れた分を、やや気楽に休息した。
2009 1・29 88

* 和辻哲郎の或る偶像崇拝に関する論文を読み直した。
さて今日も発送作業にかかる。原稿の催促を受けたが数日待ってもらう。こういうことは珍しいのだが。

* 発送は峠を越え、残余の作業はもう多寡も知れている。ほっと息をついている。元旦からの「私語」二十日分を読み直し、変換ミスなど直して日付順に「生活と意見」のファイル88に入れた。これはいつもの例の作業で、昔から変わらない。
2009 1・30 88

☆ 湖の本   郁
湖の本 エッセイ46拝受いたしました。有難うございます。何か難しそうだなーとめくっていましたら、絵にも触れた内容に嬉しくなりました。それも私には襟を正さねばと思われる内容のようで、感謝しながら読ませていただきます。有難うございます。
お変わりございませんでしょうか? 御身体のほうは快調でございましょうか? そのように祈っておりますが。
絵のほう、今年も来年もとても忙しくなりそうで、寸暇をおしんで個展のための制作もしています。またどうぞハッパをかけてくださいませ。
ご自愛くださいますように。
2009 1・30 88

* 小山内美江子さん、林郁さん、宇野淑子さんらの、「湖の本エッセイ」新刊への手紙やメールを戴いている。

* 久しぶりに柳博通君の声を電話で聞いた。今日か明日かに子供連れで行きたいがと。あいにくいまは発送の途中で家のうちに迎えるライチがない。残念。
2009 1・31 88

☆ 「いま、中世を再び」が届きました。  晴
「春泉脈動」の言葉もありがたく、今を元気に過ごしています。
ご本の、中世の二人の武人は後にして、「画人たち」を読み始めております。美術展で観た幾つかの絵を思い出しながら読ませていただき豊かな時間を過ごせ感謝です。
奥深い洞察をもって書かれている文を丁寧に読み進めていきたいと思っています。魅力あふれる藝術家たちが浮かび上がってきます。
今は部屋に読みたい本が、読み進めている本が数冊あって満ち足りた気分です。
昨年末ミクシーの「朝の一服」でご紹介されていました前登志夫さんの歌を読んで、その時にコメントしておられた方が「森の時間」のご本と「遊んだ」と書かれていたので、図書館で検索、借り出して、今一篇づつ読んでいます。読み飛ばしていくのが勿体無い気持ちにさせられます。
以前 湖の本で読ませていただいたときには、前氏の詩も、鬼も、頭に残らなく残念でしたが、今回は良い出会いをさせていただきました。
初めて読む前氏の文章にすっかりと魅されてしまいました。生霊が宿っているのでしょうか。今まで読んでいた本からは得られない味わいのある文章でした。
吉野の奥深さ、歴史以前すら思わせれれます。
また今月には「香魚」さんから『高丘親王航海記』の面白さを教えていただき、そちらも興味深く読んでいます。時折親しげに訪問させていただいております。マイミクにご紹介いただいたこと感謝いたします。
ご本発送の重労働後のお疲れが心配です。ご夫妻とも、どうぞごゆっくりとお体お安め下さい。一番のインフルエンザ予防でしょうから。

* あすで、ほぼ終え、郵送分を明後日郵便局に届ければ、今回は終局。
2009 1・31 88

☆ エッセイ46が届きました。  玄
「いま、中世を再び」をお届けいただき有り難う存じます。私にとっては初めて出会う作品であり嬉しい限りです。巻末の私語の刻を読んで感銘を受けました(自分のいい加減さを恥ずかしく思っています)。東京ではインフルエンザの警報が出たと聞きました。ご自愛ください。

☆ 湖の本「いま、中世を再び」を拝受いたしました。 靖
「中世」は混沌として分かりにくい時代だという思いがあります。
収録されている論考が三十数年も前のものであることに驚きました。
2009 2・1 89

☆ こんばんは!  京の従妹
新しい湖のご本届きました。
いつもありがとうございます。
わたしには少し手ごわそうですが、ゆっくりと読ませていただきます。
こちらは、ここ二、三日雨模様のすっきりしないお天気ですが、気温が高めなので動くのが楽です。
明日から明後日にかけて、あちこちの社寺で節分祭が行われます。
父が寝付いた前年の節分に、母と三人で吉田神社にお参りし、父の腕をとって歩いたのが懐かしく浮かんできます。
天神さんの梅もちらほらと咲きだし、受験祈願の絵馬が所狭しとかけられています。
三月にはご結婚五十年になられるとか、これからもご夫婦でお健やかにお過ごしになられますようお祈りしています。
まだまだ寒さ厳しい折から、お風邪などひかれませんように。

☆ 『いま、中世を再び』拝受  俊
昨日、『湖の本 エッセイ46 いま、中世を再び」を拝受致しました。
いつもながらの精力的ご活動に感服いたしております。
さっそく読ませて戴きます。本当にありがとうございます。
追伸
1月24日(土)の日本ペンクラブ・追手門学院共催セミナー「紙の本のゆくえ―文学と図書館の新しい挑戦」は参加者140名(有料参加者118名)を集め、関西での言論表現委員会のイベントとしてまずまずの成功を収めました。
これからも読者に開かれたペンクラブの活動の一翼を担えればと考えております。
今後とも何卒ご教示の程、よろしくお願い申し上げます。
なおセミナーの内容は何らかの形で記録したいと考えております。

☆ 珠です。
こんにちわ。
「湖の本」を送って頂き、ありがとうございました。
ここのところ、社会状況から中世に想いを馳せることが多かったので ご本のタイトルに思わず声が洩れそうになりました。ありがたく、この「湖の本」をたよりに振り返ってゆきます。
私は年末年始来、度々出歩いたせいか初釜を終えて風邪をひいてしまいました。インフルエンザなら仕事も休める、、としきりに検査をしても反応なく、忙しい日々にからだを引きずるようにして過ごしてきました。何とか復調の兆し、、というこの週末です。
友を喪って今日で一年。早いとも、長いとも、感じます。
体調不良で何をする気もしない日々に、病でもしきりに活動していた友を思い出していました。休みたいと想うのは贅沢かもしれないと。。
まだまだ寒さ厳しい折、湖も体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。
お大事に。湖。どうぞ、お元気で。

☆ 御礼  森
秦さん、新しいご本をご恵贈たまわり有難うございます。お元気で何よりうれしく存じます。こちら、えっちらおっちらくねくねやっていますが、たまに一休み、ご本を楽しませていただきます。
2009 2・1 89

* 原稿拝受  雅
秦 恒平先生 本日午前、原稿拝受しました。
秦先生ならではの、懐の深い奥行きのある力作ですね。それぞれの時代に即した「日本語」を、それぞれがそれぞれの方法で創っていくこと。よく分かります。
「のようというのだ」は、我ながら思い当たる節があります。今後気をつけます。
ありがとうございました。校正は、一週間後をメドにお送りします。
「湖の本」拝受。中世特集ですね。読ませていただきます。

* 参議院議長から、「目次を観ても実に興味深いので、はやく読んで見たいと思うことしきりです」と、古代「朝貌」の標本図ハガキで礼状戴く。

☆ 拝啓    鋼
今年も氷や氷柱を目にしないうちに冬が終わってしまいそうですが。
ご高著「いま、中世を再び」のご恵投に与り、ありがとうございました。
D・キーンの「足利義政」にはるかに先んじて現代日本文化の原型としての中世に着目し、こつこつとお仕事をされて来た秦様のご見識に感服するとともに、日本古典に対する深いご造詣に改めて脱帽いたしました。
とくに「中世の画人たち」は、教養というものがいかに人生を豊かにしてくれるかを教えてくれる意味でも貴重なご労作と存じます。

☆ 湖の本届きました。 昴
湖さんへ  こんにちは。湖の本『中世を再び』届きました。ありがとうございます。
連歌師とお伽草子の関係について考えたことがあるので、興味を持って読み進めています。西行や雪舟の流れと定家や世阿弥らの流れ。そのように考えが進められている所、そのように考えて行くものなのかと、お教えをいただいています。
勉強が足りない人間なので、「湖の本」で多くのことを学んで行きたいと思います。
本当に有難うございます。

* 嬉しいことだ。
2009 2・2 89

* 次回「湖の本」は、新作の『小説二編』を添え、『自筆年譜(一) 太宰治賞まで(1935~1969)』と『単行本等・湖の本=全書誌』とを用意していて、年譜は、もう明日にも初校ゲラが出てくる。「湖の本」第52巻(創作とエッセイと通算・第98巻)に当たるが、上京して「五十年」湖の本「百巻」の年を自祝し、販売定価を付けない「非売品」にするつもり。配本の仕方は、考慮中。
2009 2・2 89

* 大久保房男さんから、日本史上、中世には最も興味稀薄でしたがと。ちょっと驚いた。西行、定家、道元、親鸞、一遍、日蓮、世阿弥、一休、兼好、雪舟、利休、永徳、等伯、光悦、宗達らを輩出し、武人にも個性は多かった。皇室や公家を在れども無きが如くにし得ていただけでも時代として大いに愉快な、岡見正雄先生のことばを借りればふくふくとあたたかな陽気な「室町ごころ」の時代であった。
西洋の中世とは大いにちがう。日本の中世は、鎌倉・南北朝時代と室町・戦国時代を含んでいる。今度のわたしの本は南北朝から戦国・安土桃山時代を対象にしていて、社会史的にも文化史的にもじつに多彩に「陽気な」時代なのである。それが、大抵の人は「中世は陰気で暗い」と勘違いしているのはまったく西洋の中世の印象に引きずられている。
能・連歌・茶の湯・俳諧そして一揆・戦争。一味同心、人が寄り合わねばどれも出来ない。人が寄って拠って、「我々」でなにかしようかとなれば、活気と陽気は当然渦巻いてくる。敵愾心も渦巻いてくる。それだけ民・百姓にも力がついてきている。「いま、再び」とわたしが「中世」を一冊にしたのは、「今日只今の現代」こそ「陰気に暗い」のを、陽気渦巻いた中世に一つでも二つでも学びかえしたいからだ。

☆ (前略)  いつものようにまず「私語の刻」を拝読致しました。珠光の「心の師とはなれ、心を師とせざれ」「和漢の境をまぎらかす」への御感慨は非常に底深く教えられましたし、ペンクラブの「政治や国家を『原則』で非難する声明」との御指摘は私自身もそう見做しがちでしたから、大いに共感致しました。全く同世代として「やわらかい花びら」に立ち返ることを心したいとも存じました。どうぞこの三月での金婚式、お二人自から得心されるようなお祝いをされますよう、御期待致しております。併せて呉々も御自愛のほどお祈り致して止みません。   文藝誌編集長

☆ 秦恒平先生   研
いつもお世話になっております。
「湖の本 エッセイ46 いま、中世を再び」、本日、拝受いたしました。
いつも有難うございます。心からお礼申し上げます。
今回は、わたしの仕事とも深くかかわるテーマだけに、すぐに読み終えるのがもったいなく、一ページ一ページ舐めるように精読させていただきます。
(それでも山名宗然の項だけは我慢できずに読み始めてしまいましたが)
少しずつ、仕事に復帰しつつありますが、体力が消耗し、すぐ息切れしてしまいます。夏までに目途をつけなければ・・・。
まずはお礼のみにて失礼します。

☆ 湖さま   箭
先日、『湖の本』をお届けいただきました。
中世についてのお話、とても興味深いです。
中世という時代は、私にとって、興味を持ちつつも、これまで部分的にしか深く知り得なかったものですので、とても嬉しく存じます。
今からゆっくり拝読させていただきますね。
私などにまでお気づかい下さり本当にありがとうございました。まずは取り急ぎ御礼まで。

* 昭和十年から四十四年末まで、年譜が組み上がってきて八ポ二段組みで91頁にもなった。小説二作入れて「単行本・湖の本全書誌」も入れると、想像以上の大冊が出来るかも知れない。
2009 2・3 89

☆ 『湖の本』が届きました  2009年02月04日 13時39分   久
mixiメッセージからごめんくださいませ。
今日になって滅法春めいた光が降り注いでいる、暦通りの、山形からこんにちは。
一昨日『湖の本』が届きました。誠にありがとうございます。とっても嬉しいです。
以前頂戴いたしました徳内の本も、毎晩のように読み込んでは反芻しております。
気に入っている部分は、徳内さんと先生が北海道を旅するシーンです。私は学生時代を北海道で過ごしましたので、景色や雰囲気をイメージしやすく、私もお供している気分で何度も読んでしまいます。
真の国際人としての徳内さんが滲み出る仕上がりを目指しております。出来上がりましたら真っ先に秦先生にDVDをお送りいたしますね。
私事で恐縮ですが…。
私事其の壱としまして、秦先生に触発され(一方的にではありますが) 現在毎日ちょっとずつ小説を書いています。
私事其の弐は、昨年の夏に応募した高畠ワイナリー主催の『映像ソムリエコンテスト』で、審査員特別賞をいただいたことです。
今月15日に催される授賞式に参加する予定です。
どんな形であれ、多少でも他人様に自分の創作したものが認められるというのは嬉しいものですね。
いつか秦先生を唸らせるような作品を作るのが目下の夢です。
それでは、季節の変わり目、十分ご自愛下さいますように。

* 太宰賞受賞の昭和四十四年中の『自筆年譜・作家以前』九十頁強に添える、「小説二題」も入稿した。残るは、「単行本の全書誌」「湖の本の全書誌」。いま妻が整理してくれている。着々。昭和六十一年元旦までの出版物は豪華本『四度の瀧』の巻末に詳細な付録として年譜も書誌も作品初出年表も出来ているが、それ以来の出版がちょっと信じられないほど多くて、妻はだいぶ苦労していたが、さらに『湖の本書誌』もとなると、なにしろ百巻近いのだから、大抵の作業でない。わたしがやって行かねばならない。

* 目のまわる多忙を、深呼吸しながら一つ一つ片づけていった。湖の本だけではない。厄介が持ち込まれれば、それに対応すべく仕事を抱え込むことになる。そういう老境だと諦めて、さばさばとやって行くのである。
なによりも88ファイルに達している「生活と意見 私語」の全部を点検してみた。その結果、只一つのファイルも漏れなく、或る特定の姓名での「検索」は、まず間違いなく完全に不可能な状態にされてあることを確認した。やす香の発病し入院した平成十八年六月(57ファイル)、やす香がついて死んでしまった同年七月(58ファイル)より以前には、同年二月のささやかな「創作」をめぐるイキサツ以外には、そもそもリアルな「問題」が全く起きていない。起きようもない没交渉であった。やす香らが嬉々として密かに祖父母の家に通って来ていた事実も、何ら表だった「問題」にはなってなかった。
2009 2・4 89

* 擂り鉢ひとつに、あれもこれもそれもどれもが投げ込まれたアンバイで、自分の気持ちとからだとをしかと確かにどこかに結びつけておかないと、ただアタフタしてしまう。手の届く限り、軽重をなるべくはかりながら順不同にやって行く。しかも明日は外出しなければ。

* 新しく出した湖の本にもどおっと連絡が来ているし、郵便物も多い。それらにはキチンと目を通したいし。
2009 2・5 89

☆ ありがとうございました  工藝家 北海道
秦恒平 先生 ご無沙汰しております。お元気でしょうか?
もう2月の声を聞き、外は真っ白で至って静かですが、農閑期の我が地区では行事が一杯です。
さてこの度は、『湖の本…いま、中世を再び』をお送りいただきまして、誠にありがとうございます。
中世という時代、その言葉に、とてもロマンを感じます。じっくりとはいきませんが、興味本位に、好きな処を
拝読させていただきます。
今の私は老母の問題で、複雑な想いでいます。想定内のことでしたが、老いていく事の哀しさを感じております。
では、益々のご活躍を! お礼まで。

* いまはことにこういうメールに、ほうっとして落ち着きをとりもどす。今は、どうしても胸の扉を固く閉じ、なにものにも無遠慮に闖入されたくないので、春風のようなこういうおとないが懐かしい。
2009 2・5 89

* 新刊への反応がいい。ここへ来て『いま、中世を再び』という呼びかけは、かなりの重さで時宜に適っていたのかも。そのように思っていた人が少なくないのであろう。とにかく「ごっつい」本になった。その「ごっつい」論考を三十余年前に書いていた。それも見直されているポイントらしい。
わたしは少年時代の「夏休み」同然に自身の「人生」を作ってきた。どういうことか。わたしの夏休みの理想は、七月中にぜんぶの宿題を片づけておく。あます八月の全部を気楽に遊ぶと。
作家としての仕事も、とにもかくにも人生の前半に繰り出し繰り出し人が呆れるほど出版し書きまくり、テレビにもラジオにも講演にも駆けめぐって、地味なりに稼いでおいた。
後半は、完全に遊びのペースで来た。いまは仕事も引き受けず、無収入である。もう残生わずか。計算は旨く合っている。誤算は…。ああ、そんなことは云うまい。
とはいえ、昭和六十一年元旦の豪華版『四度の瀧』までに単行本は六十三冊、そして今回今年までの全書誌をと思って出版本を引っ張り出した、あるわあるわ、百冊には成るだろう。その上にこの後半生に『湖の本』百巻がべつに積み重なる。そこには「湖の本新刊」がたくさんある。
働きものではあるのだ、褒めたことではないが。
2009 2・5 89

* 「くらむ」という倉持正夫の個人雑誌が、この元日の日付で「追悼・倉持正夫」を出した。笠原伸夫氏と倉持夫人の編輯。正夫さんは昨年のうちに亡くなっていた。創刊以来、湖の本の読者として支えて下さった。
そもそも「湖の本」は、一九八五年に「くらむ」が創刊され贈られたのがヒントだった。いつも数十頁たらずの雑誌ながら表紙の手触りが美しく、この大きさで美しい私家版の全集が出せるだろうかと思った。そして翌年六月、「定本・清経入水」で創刊した。
倉持さんにはペンクラブにも入って戴き、「e-文藝館=湖(umi)」にも幾つか作品を戴いた。年譜によると「くらむ」は二◯◯三年秋に一一号出ていた。倉持さんの小説作品だけの個人誌だった。何度か病気や怪我をされていた。一九二九年九月二十日生まれ。わたしより半まわりほど年長だった。二◯◯八年去年の元日に七八歳で亡くなっていた。
訃報のみあいついで賑やかなあの世かな風ゴトゴトと娑婆を揺る間に
2009 2・6 89

* さ、聖路加へ。今日の診察はサンザンになる見込み。ま、いい。待ちながら年譜の校正に精を出してこよう。

* 近くの停留所から九時二十二分のバスで出かけ、帰ってきたのはもう四時過ぎだった。
幸い、惨憺たる結果でなく、これで暖かくなり自転車運動が出来ればまた良くなるでしょうから、現状のままで推移を眺めましょうと。
朝食べずの遅い昼飯なってしまったが、一時半ごろから銀座三笠会館の「榛名」でフレンチのコースをシェリーとワインとビールとで満喫しながら、綿密に年譜校正をジリジリと進めてきた。誕生の十年から四十四年までだが、八ポイントの二段組みで九十二頁ある。校正はもう四十一年になろうとしているが、この先がまだまだ。この校正は、たとえ電車の中ででも家の外でのほうが集中できる。字が小さいのに一字として読み飛ばせない。
家に帰ると、厄介な気のしんどいイヤな仕事が外から来ている。片づけぬワケに行かぬ。そしてさらに「全書誌」という詳細で骨の折れる原稿作りがある。しんどくて吐く息まで捻れてくる。やがて小説の校正が出てくるだろう。
2009 2・6 89

* 漸く、「湖の本」分をのぞく他の「出版書誌」をほぼ仕上げたので入稿する。一、二脱漏があるやも知れない。続いて「湖の本全書誌」を纏めておく。「年譜校正」の初校了を急ぎたい。
むかしは全く忙しかった。いまは後始末にも忙しい。この作業等をさきへさきへ送り出してしまえると、また視野が変わって気持ちのいい仕事に立ち向かえられそうである。

* 全百点の、「単行本等全書誌」を、いま電送入稿した。残すは、「湖の本・湖の本エッセイの全書誌」を作成して入稿しなくてはならぬ。それで、次回「百巻、五十年記念出版」の入稿は予定通りに済む。八ポという小さい字で、組み付けとデータ一字一字に注意しながら原稿を確定していったので、ホトホト疲れて、夕食後二時間余、つぶれたように寝入った。ま、妻にいろいろ協力して貰いながら、漕ぎ着けた。
「記録」という仕事がトテモ大層なことは出版という仕事に早くから編集者として携わっていたし、さらには大勢の文学者達の年譜や書誌や年表に助けられ教わりながら多年仕事をしてきたから、骨身に染みて分かっている。その気で用意はしてきたのだが、イザとなれば細部でモノが見あたらなかったり記載漏れしていたりする。小説「加賀少納言」がロシア語訳されて本になっている現物が見つからず、洩れてしまっている。ほかにも洩れたモノが無いと言い切れない。残念。
2009 2・7 89

* いっぱい、『いま、中世を再び』にお手紙やメモ・コメントを戴いているが、仕事に追い回されていてここへ紹介しお礼を申すヒマもない。ちと残念。それでも土曜・日曜はさすがにメールが少ないので、その分の手はかからない。
2009 2・7 89

* もう日付が変わろうとしている。終日二つの仕事をしていた。一つは「湖の本」創作シリーズ分の「書誌」づくり。わたし自身が後日参照するとき、最大限便利であるように創る。記録はきっちり創った方がいいし、前に見本のある単行本の方は妻に大筋の作成を頼みすでに昨日徹して手を加え入稿したが、「湖の本」は略式より本式にこまかにしたかった。幸い、定形だから判型や装幀などに手を取られない分、内容面で完備したいと願った。やっと四十五冊分作ったが、カンジンの本を押し入れから一々探し出してくるのも難儀であった。そしてまだ「エッセイ」分が四十六冊分必要。こりこりに肩が凝る。
もう一つは、八ポという小活字で二段組みの「年譜」の校正は、昭和四十年代に入り、わたしが勤務と家庭とのほかに創作へ創作へと夢中に励んだころになると、一年間分で十頁以上になる。そして、だんだんわたし自身が興奮してくる。そして四十四年の太宰賞当選の日まできた。このあとは、創り上げている厖大な「単行本・湖の本等 全書誌」がわたしの次の四十年を全証明してくれている。年譜はもう必要がないとすら言い切れる。

☆ (前略)
「私語の刻」はかならずすぐに拝読します。ここには、まるごと秦さんがいきづいておられます。ぶれない倫理感 価値観に敬服し、もう百冊目を目睫にした「湖の本」に持続の力を実感しています。どうぞお身体お大切になさって下さい。 元文藝誌編集長

* 鞭撻にこたえて立つ気力をどうか失いたくないと思う。
こんどの「私語の刻」は、十一頁も書いた。あとがきを読んで下さる方の多いのは実感できるし、少しでも「いま・ここ」の声とことばとを紡いで出したいと願うのである。頂戴する本代に相当するものを時には「あとがき」だけで書きたい、書かねば申し訳ないと思う。

* それにつけて文章のむずかしさをつくづく思う。思うことを思うまま書けばいいのでなく、こまごまと日記のように書いていいのでなく、風通しのきいた、しかも読む人が自身の問題や関心のようにのりだして読んで下さることが大事になる。そのためには、文章が好い意味の音楽でなければならない。

* 二三日前から漱石の「明暗」を妻と奪い合うように読んでいるが、漱石の表現のなんともいえない「かるみ」と「うまみ」と「おかしみ」を絶賛し合いながら楽しんでいるのに気づく。『明暗』なんて御免だとずうっとながいあいだ思ってきたのに、津田やお延夫妻はもとより、岡本や吉川や藤井らよりもこっちは年をとってしまっていて、彼等の心理合戦なんぞも五月蠅いより可笑しいので、ちいっともいらいらしないのである。
そうなると漱石の行文の妙が浮かびに浮かんで<たいへんなご馳走になる。こういうご馳走を食わせてくれる作家に、ほかにどれだけ出会ったろう。むろん料理の仕方がちがう。いやわたしの云いたい云い方だと文章での「作曲の仕方」がみなちがうが、漱石ほど天才的に楽しませてくれる他の作家というと、そう、おおまけにまけて五十人いることにしよう。五十人もいれば、わたしはその人達を読み返していれば、いつもご機嫌でいられる。
2009 2・8 89

* 送り出した今回の本は、歴史家にはともかく、けっしてなまやさしい中味ではない。そのわりには「いま、中世を再び」という題に取り纏めたアピールが、それとなく伝わるか、的確な共感や賛同の声もたくさん届いているのが嬉しい。「私語の刻」もよく読んで下さっている。
2009 2・9 89

* あと、まだ二冊の原本が見つからなくて湖の本の書肆の創作分がすまない。そのかわり「年譜」は初校を終えた。「要再校」で明日には戻せる。
2009 2・9 89

☆ 湖の本ありがとうございます  鷹
秦先生  先日は,湖の本をお送りくださいまして,ありがとうございました.
悪い癖で,せっかく下さったのであるから何か真っ当な感想をお送りせねばと思っておりましたら,風邪をひいてしまい,数日間寝ておりました.
ここ数年,大学の非常勤講師で都内の中堅私立大学と地元の旧帝国大学の工学部とに集中講義に行っておりますが,中堅私立大の学生は何にでも忌憚のない意見をくれるのに対して、旧帝大の学生は無知を恥じて格好をつけすぎる,つまらん,と思っていました.
先生の本の前では小賢くてつまらん学生と全く変わりません.この期に及んで,足利十五代をざっと眺めた上でなきゃいかん,などと..
秦先生の中世,といえば後白河さんについて開眼させていただいた梁塵秘抄の本があったわけですが,当時ストリートミュージックに狂喜した天皇が存在したこと自体に勇気づけられました.
あの本も既に湖の本の一冊とされたようで,さらに今号は後代の話であり,連歌といえば詩人,京都人の萩原健次郎さんのネット連句に参加させていただいたことを思い出しますが,とりとめもなくなって申し訳ありません.
ところで「生活と意見」を,ここ数日更新されておられないのは,先生のご健康に何かあったからというよりも別の事情であることが察せられます.先生の言論を止めることはあってはなりませんです.
第九十七巻は,せっかく先生が下さったものですのでありがたく頂戴いたします.
そこで記念すべき第百巻までの三巻分と思しき金額をお送り致しましたので,是非,今年発刊していただき,拝読させていただけたらと存じます.
先生の単行本はあわせて二十冊ほどは手元にありまして,湖の本との重複をこれまで気にしていましたが,これを機会に順次遡れたらと思いました.
今拝見しますと「書下し」というのが何冊かあり,正直気になりますが,それよりも気になるのは先生のご気力かと思い,まずは今後の出版をお願いいたしました.宜しくお願いいたします.

* 嬉しいことを言って下さる。ありがとう。
2009 2・9 89

* きのうおそくに建日子が帰ってきて、夜中の二時近くにまた戻っていった。語勢元気で、建日子は気力に満ちているのだろう。嬉しいことだ。たまたま年譜のゲラがあったので、彼が母の身に宿った頃から誕生の頃までの記事を顧みた。
きのうには、短編の小説二題も校正が出てきていた。校正を済ませた。
2009 2・11 89

* 「書誌」作りぐらい簡単なもの、とは思っていなかったけれど、湖の本エッセイへ来て、大仕事になった。長編小説一つの載った巻なら早いが、エッセイ集でいろんな作品が満載の時は、やはり何が掲載されているのかまで、原則としてその初出データまで全部記載しての書誌になる。悲鳴を上げて例外的にものによって初出略などとしていても気分はよくない。エッセイ四十六巻のやっと三十一を書き上げ、もう十五巻のこっている。明日中には書き上げて入稿したい。
百頁未満の一冊かなあと気楽に予想していたら、細字二段組みの「自筆年譜・太宰賞まで」だけで九十一頁、小説が二作加わり、やはり二段組みで「単行本等」百冊の書誌と「湖の本」百巻近くの全書誌とが加わると、このところのいつも通りに匹敵する大冊が出来そうだ。うわァ、どうしよう。製本部数を断然減らし、とくにご希望の方にだけしかお送り出来ないかも知れぬ。
2009 2・12 89

* 終日書誌を書いて、一日で二十冊分、やっと業を終えた。へとへとで入浴。そしてメールファイルで入稿。
2009 2・12 89

☆ 「迷走」という企業内小説と労組・社会党  1999 2/1   「湖の本」
* 「迷走」上下巻40・41の発送を終えた。この作品は筑摩書房で出したときも驚かれたが、むしろ今回の方がもっと驚かれるだろうと思う。
一つは私の作風のなかでの特殊感だろうが、これには、すでに、「やはり秦さんのものだと思った」という感想ももらっていて、作者としてもそのように自覚して書いていたのだから、問題ではない。問題ではないというが、「こういうナマナマしいものは書くな」「こういう私ごとめくものは書くな」「真剣に私小説を書け」などと、いろんな注文を聞くのも作者の立場であり、時には「これを書け」となかみまで指示されることすら有る。聞き流すわけではないが、囚われないようにしてきた。
何と言っても、今度の作品では、まる四半世紀を経て「状況」がいかに変わらないか、また、いかに変わって見えるか、「問題」はもっと深刻にそのまま残され、またの大爆発を優に予感させるという点で読者を驚かせるだろうと私は思っている。「労使」「組合」は今では死語かのように気が萎えてしまっている。その一つの象徴が、あの、旧社会党の影すら失せた衰亡の姿に認められる。
この四半世紀の「テレビ人種」が寄ってたかっての「社会党」壊しは、すごいほど執拗だった。それなりの責任が社会党にあったのだが、また労働者の意識の変容変質とも同義語的進行だった。
それもこれも、この「迷走」期の「やりすぎ」の反動のように評価できなくはない。評価はしかるべき人がすればよろしく、私はただ出来るかぎりの証言を残して置いただけで、すこしも小説が古びていないことを作者として驚いている。読者も驚かれるであろうと思う。 「むかしの私」より
2009 2・13 89

* 京都の観光博物館の上平貢館長から、ペンの詩人望月苑巳さんから、またむかし岩波「世界」で最上徳内連載の担当者だった清水克郎さんから、湖の本にいいお手紙を戴いていた。
本に書かれている、「本当に大事で難しいのは、しかし看過できないのは『歴史を書く』ことより『歴史を読む』ことなのである。歴史を読む能力こそ、人間のものであり、人生の、社会の、民族の、人類のための羅針盤を決定することになる」という文章は、「歴史を書く」ことの本当の難しさを知っておられる先生の言葉だけに深さをかんじます。」と清水さんは言ってきてくれた。
2009 2・14 89

* 根のつかれる仕事が続いて、いま、小さな中休みの所まで仕事が進んだ。昨日は暖かに過ぎたほどだったが、今日、昼下がりの二時半、暖かでもない。日ざしは明るいが弱い。
2009 2・15 89

* 「単行本等全書誌」百冊分を校正しおえた。「湖の本全書誌」の初校が出たら組み上げになる。年譜に添えて適切な短編小説二編も、推敲はできている、校正も終えている。
少し寛ぎたくて、英国映画だろうか「眺めのいい部屋」というスケッチ映画と、日本の二線三線の国防映画を観た。海外物は小洒落ていたし、日本のは竹内結子が達者に抑えて出ていたのが新鮮だったが、ま、そんなところ。もう休んで明日に備えたい。日曜はメールもほとんど来ない。
2009 2・15 89

* 「迷走」の大争議が企業内で闘われたのは一九七四の春闘、ティッシュペーパーが無くなると世間が大騒ぎした年だった。わたしは出版社の課長という管理職だったが、この年の秋九月一日を期して退社独立した。二足のわらじを一足に統一した。三十八歳から九歳になろうという年だった。
「むかしの私」がそれを回想しているのがすでに四半世紀後のことだが、それからさらに十年が経ったのだから、歳月は待たずである。
ふしぎなことに、年を取ったというより、湖の本で「迷走」三部作を纏めたときも、それより二十五年以前のあの春闘も、昨日のことのように鮮やかに胸に蘇る。
体力や生理では老耄は免れないが、頭も気持ちもまだピンピンしていて、しすぎているのが困るほど。このピンピンこそが、いわばわたしのビョーキなのかも知れない。
2009 2・15 89

* 詳細な年譜の再校が出たので、それにかかり切っていた。ただし黒澤明の「姿三四郎」を観た。録音も撮影もさすが昭和十八年、戦時中の粗悪さで。藤田進と轟夕紀子にニッコリ。
歯医者がよいの往復には前田愛氏の「一葉論」に没頭、一葉晩年の充実を思うと胸苦しいほど。
2009 2・17 89

* 昨日は「年譜」の再校、今日は「小説」二題の再校とともに「湖の本全書誌」の初校が届いた。再校ゲラの赤字あわせだけともあれ済ませたが、初校がある。再校ゲラを丁寧にまた読まねばいけない。
家では神経質なほど細部に集中した校正のできる場所がない。機械部屋にはゲラの広げて置ける机がない、キッチンではテレビも作業音も仕事を妨げる。あれもあり、これもある。
とにかく「読む」ためにだけでも電車に乗ったり喫茶室に座ったりしてきたい。今日は、その準備・用意をきちっとしておかねば。
2009 2・18 89

* 校正を以て昼前から夕方まで、街に出る。それなりのことあり、帰りがけ足任せに入ったうどん屋で活き〆穴子うどん、鰤刺身などに鳳凰美田という旨い酒で、空きっ腹をやや満たして。
帰ると、さらに新たに単行本等の全書誌再校が届いていた。さ、しゃにむに進める。
2009 2・19 89

* 前へ、ひと突き仕事を押し出して。まだまだ。むかしむかしの編集者時代に大きな雑誌をひとりで下版する直前のようだ。雑用に見える小さな一つ一つが間違うと大事になる。しづしづと前へ前へ押し出してゆく、もれこぼれは無いかと目配りしながら。
2009 2・23 89

* 午後いっぱい、また夕食後も、せっせと仕事。息を抜いていられない。
2009 2・24 89

* 帰宅後もゆるみなく、仕事した。しかし、もうやすみたい。
2009 2・25 89

* 湖の本第五十二巻、エッセイシリーズとの通算九十八巻、の「責了」が見えてきた。発送用意はほぼ出来ている。三月中、いや四月初めになっても構わないが、心用意は出来ている。我ながら、かほどあれこれ細かな襞をかかえた注意を要する難作業を、一気に此処まで持ち込めたのを驚いている。ほとんど、昔の編集者時代に帰っていた感覚。

* しかし昨夜中も血糖値63まで下がり、校正している手が震え始めた。馴れてはいけないが、目覚めてさえいれば症状は自覚でき、対応も出来る。低血糖は怖いのだ。

* 今朝の寒さ、雪になった。

* どんどこどんどこと、ひたすら仕事。うちこんで、仕事。稼ぎ仕事ではない、純然の仕事。しかし今日は高血圧で、起ち上がるつど、よろっとよろけることが何度もあった。
2009 2・27 89

* 「創作者の年譜」づくりは、いわゆる「作家研究の究極」と考えてきた。
講談社版の日本現代文学全集全百余巻から学んだのはむろん作品であるが、匹敵して、作家の年譜を愛読した。年譜だけは読み洩らさず、大なる興味とともに豊かな教訓と刺戟とを得た。
同時にまた、何人もの優れた創作者を小説とし評論として「書く」に際し、たいていの場合手に入る年譜の大まかで簡略に過ぎるのに閉口した。たいした役に立たないと歎いた。
もし創作者自身が念入りに誠実に年譜を書けば、そのままでもっとも綿密な「伝記」ないし「私小説」になる。一生の分はむりだが、大事なある時期、自分なら、生まれて以来太宰賞受賞の年まで、を、いわば作家になるまでを、きちんと書いておきたいと思ってきた。どのような足取りと運命と意志とで作家になっていったか。よくもあしくも秦恒平の根性も歪みも素質もが露骨にあらわれる。そんなものは、誰の役に立つでない吐き出した汚物のような物でしかないけれど、どんな研究者にも書けない天下に唯一人のわたしの記録にはなる。
五十の賀に、和歌山の三宅さんに豪華本『四度の瀧』をつくってもらったとき、それ以前の詳細な年譜と全書誌、全作品年表を付録に添えた。大江健三郎氏はその年譜の「文体」につよい興味をよせられ手紙をもらった。今度わたしは、昭和十年末に生まれて四十四年末まで、太宰賞を受けた歳末までの詳細な自筆年譜をつくった。厖大に保存した手帖や日記や写真記録をもとに三十四年間を再現記録してみたのである。
同時に、わたしは身軽になり、もうたいした今生への執着も未練もなしに、好きに舞い遊んで行ける。過去はおおかたわたしの身から瘡蓋のように落ちるのだ。

* 完全にとは行かなかったが、ともあれ二月中にしておきたい用の大方を済ませた。明日にも責了開始して、本が出来てくるまでにわたしは余のことに集中できる。
2009 2・28 89

* 湖の本通算「九十八」巻を責了に。
2009 3・1 90

* 表紙を責了に。京都美術文化賞の選考日について事務局の問い合わせも来た。有り難い手紙も届いた。差し出しの人は、雑誌「歴史と文学」に、長編『風の奏で』(原題・平家擬記=へいけもどき)を書かせてくれた作家。

☆ 前略  明
凄い文章を拝見しました。  あれほど力があり含蓄に富む文章をかつてみたことがありません。「湖の本」46のとりわけ「中世を読む」 ただ呆然といったところです。何度生まれかわっても、品のない考え方しかできない自分には、とても書けそうにありません。
それと。「寄合」についても、たいへん刺激をうけました。中世と会所ということはこれまでにも時々言及する文を拝見しましたがその根底に寄合の思想が流れており、それが時世の思潮として文化の形成に大きく寄与しているという指摘は ほんとうに眼からうろこでした。
あのお原稿にはほとんどふれられていませんでしたが、中世は宗教にとっても大きな曲がり角になっていると思います。そんな時代を背景にして蓮如が画期的な業績を残しますが、その蓮如が寄合というものを非常に重視します。いままでその意味するところがよく分りませんでしたが、先生のご指摘を受けてだいぶ氷解したような気がします。
いずれにせよ、日本史を学ぼうとすれば、中世は一番のキーポイントなのではないでしょうか。鎌倉や平安はまだナマ煮えの感が強いです。私も病気などで七~八年、リタイアしてきましたが、右のような観点から先生の著作などを参考にあらためて勉強しなおしてみたいと思っています。鎌倉仏教に対する疑問もここのところ膨みつつあります。
文章はとても及びもつきませんが、せめて考え方はできるだけ先生の跡をついていくつもりです。
終りになりましたが、「湖の本」ご恵贈ありがとうございました。 二○○九・二・二十八

* 仕事をしておいてよかったと思う。「いま、望まれる「中世」の再評価」と副題しておいた。三十五年前に「国文学・解釈と教材の研究」に書いたときの原題は『隠者不在』であった。今度「中世を読む」と改めておいた。
副題とともに、わたしの希望は、この労働者受難の、いや無自覚の時代へ檄を送りたかったのである。「いま、中世を再び」と本一巻に題した気持ちが、この時代に少しでも伝わって欲しい。
2009 3・3 90

* 好天。さ、また取り組む。来週には新刊の発送もあるので、時間の余裕はすこしも無い。前後の見境をつけコトの重さを量れば、ものは見える。
2009 3・10 90

* 来週には「湖の本」の新刊が出来る。第九十八巻。すぐ発送する。発送に長く手を取られていては、春は名のみの風の寒さ、厄介な仕事がまだあるわけで。「五十年」の自祝は、前後三日間で終える。月末には京都へも行かねばならぬ。
2009 3・12 90

☆ 秦 恒平様
一筆 書きたいと思いました。
自費出版(=湖の本)をつづけておられる
ことに、今の状況下に
さらに 力を感じます。
ありがとう。
二○○九年三月九日    鶴見俊輔

* 有難う存じます。
2009 3・14 90

* あというまに、五時過ぎている。明日の昼前にはたぶん湖の本「通算九十八巻」が出来てくる。数日発送に追われ、おっかけてまた辛抱仕事がつづく。よしよし。
2009 3・15 90

* 湖の本新刊が届いた。わが家は数日の戦場になる。本はきれいに仕上がっている。

* 朝は十時過ぎから夜十時半まで、やすみなく働いた。なんとかしてまるまる三日間で九分九厘終えたいと、力仕事に打ち込んだ。
妻の手伝いがなければ、どうにもならない。湖の本こそ、夫婦二人で持ち堪えてきた仕事。感謝する。

* 創作とエッセイとの通算九十八巻が、無事に送り出せている。今はじっと、本の出せる有り難さを味わっている。
あすのために、もうやすむ。
2009 3・16 90

* 夜分の八時過ぎ、用の仕事は、大山を越した。あすから、また別の、元の仕事へも戻ってゆく。
2009 3・17 90

* さて、明日辺りから、今回の型破りで、まず類例の無い新刊が読者や知友のもとへ届き始めるだろう。
大空へとびたつロケットは、つぎつぎ使い果たした燃料タンクを中空に切り離すことで、さらに高く遠く往く約束だ。
今度の本、そういう感触でつくり、空へ手放した
2009 3・18 90

* 明珠在掌 という四字が好きだった。濯鱗清流 の四字もなにがなし季節感も追っていて、好きだ。清泉泓泓 とも求められればよく書いてきた。「オウオウ」と読む。一期一会 は大切な四字。
2009 3・18 90

* 本の到着を告げて、一番乗りの祝詞を頂戴した。

☆ 自筆年譜拝受  晴
今日ご本嬉しくいただきました。
金婚に相応しいご本の発刊とお祝い申し上げます。
迪子様とご婚約された頃からのことを読ませていただきながら、50年の長い年月のお二人の輝かしい日々を、ご努力に敬意を表したく思います。
たくさんの尊敬される方々とのご親交にも恵まれられたのは、作品の立派さとご夫妻のご人徳あればのことと存じます。
全書誌を作製された迪子夫人のご努力に感服しています。
私家版の「懸想猿」の装丁も懐かしく思い出しています。
年譜(一)に続いて二‥‥七と楽しみに待っています。
そして湖の本百巻を。
ご夫妻のご健康とともに、ますますのご健闘を祈っております。

* 恐れ入ります。頂戴の名酒「美意延年」文字通り舌鼓うって一滴くもあまさず頂戴しました。お礼申し遅れましたこと、お許し下さい。 湖
2009 3・18 90

☆ 御本頂戴しました。 碧
秦さん
これからもお二人でお健やかに、益々幸せな日々でありますように。
先ほど湖の本が届きました。
これだけな密な年譜を手に出来るとは、なんと幸せな私たちでしょう。
もう今の想いをどうやって表してよいやら 強いて言うなら 「うっとり」 しています。
『蝶の皿』や『絵巻』を読んだ後の気持ちに似て。
これからまたあの時間を持てるのです。
何度申し上げても足りません。
ありがとうございます。感謝。

☆ 湖のご本届きました。  京の従妹
この度はお健やかに金婚をお迎えになられ、心よりお喜び申し上げます。
お祝いのご本、私にまでお送りくださいまして、ありがとうございます。
私も9月には古希を迎えます。
子供の頃は、小児喘息でか弱く、学校もよく休んでいました。
船岡の同じ並びの家の、少し年下のスミ子ちゃんは小学校の時に喘息で亡くなられ、私も長くは生きられないのだろうかと、子供心にも思っていましたが、お陰様で高校の頃にはすっかり健康になりました。
後々に母が、次はミッちゃんやと近所で言われたことがあると、ポツンと言ったことがありました。
母はさぞ辛かっただろうと、胸のうちで詫びていました。
我が家も、後4年で金婚式です。
主人共々元気で頑張らなくちゃ!
京都の桜も今日開花発表がありました。
もう満開のシダレザクラも見られます。
恒平さんも、京都で桜ご覧になれるといいですね。どうぞ、くれぐれもお大切にお過ごしください。 みち

☆ 「湖の本」拝受  東京の妻の従兄
金婚そして湖の本百巻おめでとうございます。
年譜を拝見しますと、恒平は平安京生れを示すとの由、京都を根底においての作家人生、かくも多彩にかつ濃密な営みを続けて来られたものと驚嘆しております。
百巻は通過点、金婚も然り、エメラルド婚、ダイヤモンド婚、プラチナ婚と先はまだまだ続きます。
相携えてご健勝にてさらに佳き人生を歩まれますようお祈り申し上げます。

☆ 御礼  優 作家
秦さん、新しいご本、本日落掌、ご恵贈たまわり有難うございます。
遅ればせながら、金婚のことほぎ、おめでとうございます。
早速開いた頁に、(十五歳)相撲、百米十二秒九、走り高跳び百六十センチ。にやり、パチパチ。その道に進まれていたら楊伝広と張り合ったかしらん。何せ腹っぺらしの昭和二十六年の素材記録ですからね。このご自慢のエピソードは聞き及んでおりましたが、二段組、濃密強記の真正自伝年譜のなかに在れば、また楽しからずや。膂力の鉄人さま、どうぞ後続をまとめあげてすっきりなさって下さい。
時代のキイワードがあふれんばかり、人名地名はもとより索引をつけてみたくなりました(まさか)。並々ならぬ旺盛の生命作家には、ご酒も糖質もお遊びも好奇の刺激もいたって肝心ですね。改めて感服。続編を楽しみにしております。御礼、お祝いに代えて。
どうぞ益々お達者で。春暑し。 拝
2009 3・19 90

* いちはやく、ありがたい、そう言われたら本望とひそかに願っていたメールが届いていた。

☆ 御本頂戴しました。 森
秦先生
本日、御本を頂戴しました。ありがとうございました。
相当量の年譜に圧倒されています。
息子とほぼ同じ6歳の興味を覚えておられることにも驚き、また、今の私より年下の33歳にして、これだけの熱心な毎日を重ねられていたことにも息が詰りました。
これは日記ではなく、全てがつながっています。怖ろしいほどに繋いである。歴史を編まれ、他人の手は一切介在させない、余地を与えない、鬼気を感じます。以前頂いた歌集「少年」の目出度さとは印象がまったく違います。自祝とおっしゃっているけれど。
年譜は、先生の思想を伝える究極形の語り口だと思います。
あくまで、作品。
年譜の末尾はどうなるのか。
完結させようなんて思ってませんよね。
このような御本を頂いてしまうと、私自身を語る言葉はありません。
色々と考えることがあり、勉強をしているところです。家族は健康です。
どうか、ご自愛ください。
奥様も、まだお疲れを残しているのではないでしょうか。春眠にお体を預け、お休みください。お元気で。
(息子は今シーズン二度目のインフルエンザ罹患!流行してます! ご注意ください!)

* さすがに、東工大の教室このかた、不即不離二十年ちかくをそれぞれに生きてきたいわば、戦友。観るところをぜんぶ観てくれている。こうはやばやと真っ直ぐ来るとは。感謝。
もう言うまでもない、これが、「私」を究極の語り口でつかんだブレも潤色もない「私小説」、正確な「あくまで、作品」。
「完結させようなんて思ってませんよね」に、愛情を受け取った。

☆ 雨になりました。  湖雀
桜前線の話題と野球にかまびすしい昨夕、ご本が届きました。
無事金婚式をお迎えの由おめでとうございます。お幸せに心からお祝いを申しあげます。

黄砂も花粉も灰雲と春雨に飲み込まれ流されていき、暖かくなるにつれ明るくなるにつれ、そんな毎日に心はなえくれがちとなり、さらには朝の霜注意報から昼の20度超えという気温差に欝に潜り込み、気をもみながらも、ご連絡も何も囀れず、鴬の初音を耳にする陽気となってまいりました。
空回りか見栄ぼうか、気になりながらもながらくご無音に打ちすぎまして、誠に申し訳ありません。

今年はいのいちばんに、ミホミュージアムの桜見に誘われました。今回の春季展は「新羅」とのこと。先だって敦賀湾を見に行ってまいりました。空も海も、とても北陸の景色とは思えない澄んだ青に明るみ、インドから南洋から大陸から、北から九州から渡ってきた昔話のあれこれを心に思いとめようと、小さく、決心しました。
崖に囲まれ三角の細かな波ばかりの海の面と点在する白い岩を春風になでられ、ゆるゆると眩しく見渡したあと、お水送りが済んだばかりの遠敷に寄り、花折峠から雄琴に降り、夕間暮れの各色灯に目を丸くして帰ってまいりました。春光を吸い込むような放つような湖面にとろりとします。

別の一日、常省先生とその子孫について知りたくなって、藤樹記念館、藤樹神社、生家跡、お墓とめぐり、マキノの松並木から今津の古い町並みを通り抜け、追坂峠で手打ち蕎麦に舌鼓を打ってまいりました。
扇子を手にした平安美人調の「あどかちゃん」から武家の少年「よえもんくん」という新キャラクターに代わり、継体天皇と並ぶ安曇川町のシンボルになっています。
藤樹生家跡の隣に無料休憩所が建てられていたのは昨年が生誕400年だったからでしょうか。雀が訪れたときは中年女性と少し耳の遠いおじいさんがボランティアガイドとしてつめてらっしゃって、おじいさんに、藤樹さんとご子孫また儒教と地域の行事のこと、熱いお茶をいれてくださった女性からは藤樹の母や妻のエピソードをうかがいました。
初めて儒教式の位牌やお墓を目にいたしました。
九才で父母と引き裂かれて祖父母と遠地に暮らし続けた藤樹の、母おもい。武を厭い、農に生き、子と再会することなくふるさとに歿した父が抱いた念。
それ以上に胸をつかれたのは、藤樹が唯一母に逆らった、最初の妻との結婚生活です。 湖雀

* 気温と湿度の乱高下に殊によわい人と察しているが、感性は生き生きと。
懐かしい感じの近江や越前やの空気の色と匂いがつたわります。

☆ 湖の本  郁
ご立派な記念の(湖の本)をご恵送賜わり 誠に有難うございました。 ご結婚50年、誠におめでとうございます。 また湖の本百巻もまぢかくなり、お祝い申し上げます。
ご立派な大事業を果たされますこと、心から敬意をおつたえいたします。
ますますお元気でご活躍されますように。

* 本の顔をどんなにしようかと、この人に知恵を借りてから、まるまる二十三年が経った。感謝。

☆ お礼  貞
「湖の本」98巻、有難うございます。
待ち望んでいた「創作者年譜」です。
作家による「自筆年譜」も、「日記」も比較的容易く読むことはできますが、自作に纏わる詳細な生々しい年譜は他に例がなく、秦恒平「自筆年譜」は、文学史に残る年譜の名作となりましょう。じっくりと読ませていただきます。
取り敢えず、御礼のみ申しあげます。   拝

* 二月末の日記に「創作者の自筆年譜」への思いを書いて置いた。「年譜」の方法論で愕然とするほど感嘆したのは、高田衛さんの名著『上田秋成年譜考』だった。
年譜には助けられたり失望したりを繰り返してきた。作品の発表年表だけでは作家論は書けない。「自筆」でないと書けないところも有る。
2009 9・20 90

* ウン。とにもかくにも、行くところまで仕事は行った。左肩は凝って張って痛むが、少し気が軽くなった。

☆ (前略) 樹 大学教授
私はある書評原稿のための勉強の沼に足をとられておりました。そのさ中にご本を頂戴いたし、救いを求めるかのようにすぐに読みふけり、ただいま読了いたしました。スリップに「自祝・金婚そして湖の本百巻へ」と記しておられる言葉の重みを味わいました。貴氏の御仕事(そして御家庭も)、人の思いを超えて向こうから与えられたもの、とも言えましょうが、しかし不屈の闘志によって切り拓いたものと受けとめて、畏敬の念を深めました。
闘いといえば、「電子文藝館」の「招待席」に光太郎の戦時中の文が載せられたままの由。真に「暗愚」なるは誰ぞ。人を辱しめて恥じぬ者。この件だけは闘って下さい。人の懺悔を聴き容れぬ不寛容はアパシーと言うべく、ペンを執る資格をみずから放棄するように思われます。
御健勝、御健闘を心よりお祈りいたします。ありがとうございました。 平安

* 優れた研究者また教育者で、信仰者でもある知友の激励を、嬉しく聴いた。

☆ (前略)  城 大学教授 国文学
これほど稠密な自筆年譜は見たことがありません。私も若い頃から書きつづけた日記はかなりなヴォリュームでありますが、とても公刊できる内容でなく、もてあましているだけです。おそらく年譜をお書きになる前に取捨選択もなさっておられるはずだと思いますが、その作業を想像しただけで気が遠くなる思いがします。内容にふれる前に以上のようなことに思いをいたし、ただただ感服いたした次第です。ありがとうございました。

* 歴史学の先生から、「このような詳細なものは私には書けないなあ」と思いながら読んでいますとも。

☆ (前略)  荘  詩人
年譜の詳細なことに驚嘆致しました。小生三六年生まれ73歳今年金婚式で手作り本を出す予定ですが、同時代に何をなさっていたかを読み、畏敬を感じております。
それから光太郎文に就きましても同感であります。

☆ (前略)  銑  歌人
それにしても秦様の精力的なお仕事ぶり、年譜を拝読しながら、つくづく感じ入りました。あれだけ精緻で入念なご文体で、よくもこれだけ多くの作品を執筆されたものだと、ただただ感嘆いたしました。とくに医学書院ご勤務のかたわら、次々にご労作を完成させたお姿、筑摩書房時代に酒ばかり飲んでいたわが身と較べ畏敬の念を深くした次第です。
また、秋成についてのご関心、私も学生時代に岩波の本で雨月に読み耽ったことを思い出し、なつかしく、親しい古典のよき理解者としての秦様のオン作品に、新たな関心を唆られました。小林秀雄の「宣長」で、秋成に対して、やや関心が薄らいでいただけに、嬉しくなりました。
二月に上海に行ってきました。
ますますのご健筆、お祈りします。 草々

☆ (前略)  藤
金婚御祝の湖の本うれしく頂戴させていただきました。おめでとうございます。
年譜をひろいよみさせていただきながら、その頃、私も近いところで何やらしていたのだなァと不思議ななつかしさを感じて居ります。
私共も知り合ってからはもう50年を越し金婚も近くなってきました。秦様にあやかって無事にその日を迎えたいと願っています。
これからもおすこやかにお過し下さいませ。
湖の本百巻 たのしみに待っています。

* 詩人で作家の辻井喬さんら、あちこちからどっとお手紙をいただく。

☆ 祝言 滋  作家
自譜は、なにものにもまさる 究極の物語です。
金婚 百巻おめでとうございます。
これからもおふたり手を携えて営為ください。

☆ 御礼 光  能シテ方
この度は記念の御本をいただき、誠に有難うございました。
自筆年譜が凄いですね。自分の日記どころか、演能の記録さえあやふやな自分をかえりみて、少し反省しました。
ただ私自身は過去の色々な事象に無頓着なところが多々あるような気がしています。
これも性格ですね。
健康に気をくばられて、健やかにお過ごし下さい。
百冊目を楽しみにしております。

☆ 湖の本とふわふわニット 光琳
こんばんは。
湖の本、頂戴致しました。
おじい様とおばあ様の歩んだ日々、大切に読ませて頂きます。大切な五十周年の日をご一緒させて頂いた事、とても幸せです。
これからも素敵なお二人でいて下さい!
先日のお礼とご本のメールが一緒になってしまいました。
そろそろ桜が咲く時期です。早く春が来て、頂戴した春色のふわふわニットを着てお出掛けしたいです。
ワンピースの上に重ねて着る予定です。なんだか優しい気分のニットです。

湖の本、以前おばあ様が内緒よと教えて下さった“ひばり”がありました。
楽しみです。
おじい様のご本、私には難しいと感じる事が多いです。
多分それをご存じなのに、いつも湖の本を送り続けて下さってありがとうございます。
人生を重ねてまた手にした時、もっと深く読む事が出来る女性になりたいです。
今回の年譜、おばあ様もお力を合わせ、まさに金婚の作品とおうけいたしました。
まだ未熟な私がおじい様の人生を覗き込む様で、少し緊張いたします。
心して読ませて頂きます。
本当にありがとうございました。    ふわふわニットで幸せ気分の

☆ 湖の本  柑
届いております。今回のご本はひとしおの分身と思われ、眺めているだけで泣けてしまいます。しっかり胸に抱きしめていかなくては。
最初の一篇『花がたみ』読みました。根の哀しみのしみじみと伝わる佳い作品と思いました。見事な文藝でございました。
わが「女ひと」をどうぞ、もう何人も何人も書き続けて一冊のご本にして読ませてださいますように。秦恒平文学の一つの素晴らしい達成になりますでしょう。
今月はまだまだ大きなお仕事を抱えて、心身休まる時もおありにならないでしょうけれど、どうぞお大切になさってください。

* 久間十義さんが新刊の読み物を送ってきてくれた。京都への往復に、いいお連れが出来た。三島由紀夫の『禁色』も文庫本で用意してあるが。さ、どっちを読み耽っての新幹線だろうか。

* 目が霞んできた。七時半、妻がとなりでピアノを鳴らしている。今夜はやすんで、撮り溜めてある映画でも観て寛ごうか。
今日は朝八時から、つい今し方まで、よくやった。まだかなり集中力、在るみたい。
2009 3・21 90

☆ 感謝  英
秦さん  湖の本52巻を贈呈くださり、恐縮です。自筆年譜第1部の素晴らしさに驚嘆しました。
作家として、いや、人間として、生きてきて、これだけの年譜を残す人は、ほとんど居ないと思います。じっくり、拝読します。
35ページから123ページの間に、私は、まだ、秦さんとは、別の人生でした。
単行本の全書誌の方は、ひと桁から、ご縁があります。
湖の本の全書誌は、最初から,ご縁があります。
秦さんとの出逢いは、86(昭和61)年まで、待たなければなりません。第5部でしょうか。
それでも、23年のお付き合いになります。
金婚おめでとうございます。私は,あと、10年かかります。
そして、やがて通過する湖の本、100巻記念も、おめでとうございます。
私家版100冊は、前人未到でしょう。
高村光太郎については、吉本隆明を読み返しました。

☆ 秦 恒平様  櫻  詩人・エッセイスト
湖の本エッセイ46に、春泉脈動 益々お幸せに とお心こもったお励ましを拝し、「いま、中世を再び」ゆっくり拝読したまま、お礼状も致しませず失礼しております。
湖の本52 自筆年譜(一)拝受致しました。
「私語の刻」を泌々拝読し、高村光太郎のことでは心痛みます。昭和十五年、県立**高女三年生の時、副読本として配られた「大詔奉戴」暗誦させられました。戦争讃歌だけでなく島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」などもあり、少女たちは批判精神も抱きつつ過ごしていたのです。
とりあえず御礼まで。
千川通りの桜木の蕾ふくらんでます。

* 石川県の畏友井口哲郎さんから懇篤なメールを頂戴した。

☆ 祝金婚  哲
私も26日が50回めの結婚祈念日になります。ご同慶のいたりです。
それなりに、いろいろなことが、ありましたものの、世間体にみて、順調な50年ではありました。妻は私を ー特に経済観念の貧弱な私によく尽くしてくれました。縁あって田舎教師と結婚して経済生活苦心したはずです。今でも時々その苦労話をもらします。
情けないことですが、文学に対する意欲みたいなものが薄れて、まったく受身の読書生活を送っているこのごろと相成りました。
私は喜寿を迎えました。金婚の記念もかねて、小さな旅でもしようかなどと話し合っています。(思うように書けません。思いとメールがうまく届きますように。) お大切に。

* また加茂の従弟からは、わたしの実父吉岡家の記念の大家族写真なども添え、たくさんなコーヒー豆も添えて、嬉しい手紙を受け取った。
父方のことは少しずつ分かってきたが、母方のことはまだあまり分明には見えてこない。

☆ 御本頂戴しました。  巌  従弟
ありがとうございます。
三十数年前のまさに母の声
いきいきと聴きました。
手もとにあったもの(写真) 今さらとも思いましたが コーヒー豆と共に送ります。  お元気で。
誠一郎(=祖父)とりょう(=祖母)とは死別と聞いております。(謄本を参考に送ります。)
写真は昭和二十年代半ばのものの写しで吉岡家の門の下で。
コピーは恒伯父(=恒彦・恒平実父)の納骨の時のものだと思われます。

* 従弟の親切な配慮から、たくさんなことを漏れ聞いてきた。はるかな往時はとりかえしもならず、とりかえしたいとも願わないが、そこに何かが在ったのだという思いは持つ。そこから歩み出していたのである。

☆ 湖へ 珠です。
「湖の本」98巻をお贈り頂き、ありがとうございました。
自筆年譜と聴いて想うことからあまりに遠く、驚くほどに色鮮やかな日々をそこにみせて頂き、不思議な気分です。日々の出来事に止まらず、折に感じたことまで細やかに、小さな点々として確かにみえてきます。
何か大きく成し遂げた仕事や、自分に影響したことから遡って自分を振り返ることが多いのですが、こうして生きてきた日日を確かな小さな点に刻まれ拝見すると、人として生きることは‘美しい画’なのだと思いました。
私は人の最期を看取る仕事について、人生はプラスマイナス ゼロと感じてきました。
よいことも、わるいことも、ちゃんとやってくると思えばこそ、愉しいことの次には哀しいことがくるような気にもなりました。
今、この美しい光と影の日々を眼にして、人生はそんな足し引き算のように積み重ね量ることではなく、光射す時にはきっちりとそれを捉え、影もまたキリリと描き、離れて見れば奥ゆきのある美しい画を描くようなことだと思えます。自分の持っている色を清ませ、そして光や影を点におき、かけがえのない線にする。
大きなものが見えるようで、愛しくあります。
月末に96歳になる祖母が、あまりよくなくて、その口からしか聴けない色々を少しでも聴けることを有難く思うこの頃です。仕事も「当(まさ)に今」で、慌しく動いています。
「春は脱ぐな」 もう一人の祖母がしきりに言ったことです。
まだまだ冷える日もありますので、お気をつけ下さい。
くれぐれも、お大事に。  珠

* 「自筆年譜」という「自伝」は究極の「私小説」であり、極限の「日記」である。文体にいい伴奏を試みながら、背景や側面の繪が見えるようでありたい。

☆ おめでとう  祥
記念の御本嬉しく頂戴いたしました。有難う御座います。
さっと見て高3からのしばらくの間 私の名もちらちら見つけ 本当に忘れていたことなど思い出させてくださいました。
読ませていただきます。
いつも精力的にお書きになり膨大なもの 時々スクロールしながら斜めに読んでいます。
有難う御座いました。

* 今の歳からは半分に満たない年譜であるが、ただの記憶で書き流した記録ではない。数えていないが数多い人との出会いも書き留めてあり、しかしそれは実際の百分の一にも満たないのはあたりまえである。いま、一人だけ洩らしたと悔いているのは、小説『お父さん、繪を描いてください』のお父さんの名を、新制中学二年生の記事に書きおけなかったこと。

* 風がきつい。家鳴りがするほど。

☆ 感謝  空
「湖の本52」をお届けいただきまことに有り難う存じます。心よりお礼を申し上げます。
詳細を極めた年譜に驚嘆しました。
年譜というよりも自伝と呼ぶにふさわしいかと思いました(まだほんの一部分に目を通したに過ぎませんが)。
金婚の次は喜寿、そして傘寿、さらにダイヤモンド婚へと歩んで行かれますようお祈り申し上げます。

* 勉さん 湖
メールが繋がると佳いのですが。
今度の年譜には勉さんの名前もよくあらわれ、時期的にもご縁の深かったときに当たります。ぜひ一本謹呈したいと住所を調べましたが、カナダでのお住まいが記録からこぼれ落ちていて、困惑。
よろしければ折り返しお教え下さい。
お変わりないことと思います。お元気でと祈ります。
金婚当日は、歌舞伎座で松嶋屋三兄弟の元気に勤める真山歌舞伎「元禄忠臣蔵」を観てきました。ちょうど「三月十四日」というのも面白くて。
われわれ、幸いに無事過ごしおります。
2009 3・22 90

* 背中がガチガチに痛む。頸も痛む。この三週間、本の発送という肉体労働までも含め、働きづめ。神経もすり減らした。深夜の読書三昧もやめなかった。わたしって、何をしているのだろう。
2009 3・22 90

☆ 湖の本52   道
秦先生
湖の本「自筆年譜・全書誌ほか」ご恵送いただきありがとうございます。
金婚おめでとうございます。
一口に五十年、半世紀と言いましても、いろいろなことがおありでしょう。
思えば先生との出会いは、次女の不慮の死がきっかけでした。
双子の妹は今度高校三年生になります。私にとりましてもあっと言う間の年月です。
湖の本は通算98号とのこと、これも100号も通過点に過ぎません。
じっくりと読ませていただきます。ありがとうございます。

☆ 湖拝受  泉
益々お元気で。
2009 3・23 90

* 二日のうちに、沢山な郵便が来ていた。郵便をきちんと始末するのに時間がかかった。東大の上野千鶴子さん、親友で女優の原知佐子からそれぞれ文庫本が届いていた。
上野さんのは女縁新社会を語ったもの、知佐子のは夫君実相寺昭雄氏の『昭和電車少年』。牧南恭子さんからも読み物の文庫を貰っていた。

* たくさんな郵便は、とてもいますぐどうにもならないが、湖の本あとがきの高村光太郎のことでは、触れてくる人は例外なく「ペン電子文藝館」の掲載に、きつい否定や疑問符。
自身創作している人は、もし自分があんなことをされたらと思うと、死者に鞭打つ心ない仕打ちが身に痛すぎるし、光太郎への親愛や敬意を抱いている人は、どうしてわざわざ故人を傷つけて平気なのか、となる。
「ペン電子文藝館」は、文学や作家を「論議し批評する場所ではないでしょうに」となる。
全くその通りだ。その肝腎なことが分かっていない。
2009 3・24 90

* たくさんお祝いの頂戴物をしている。ま、こういう時期なんだと、素直に有り難く頂戴している。ありがとう存じます。お礼のみここで申し上げます。

☆ いつもありがとうございます。  閣  東大教授
「自筆年譜」とは、何やら生涯のまとめの時期にお入りになったような。
お返しにさし上げるものもありませんが、こんな本を出しました。秦さんと同世代の女たちが20年前に何をやってたか、ご興味をもっていただけるかも知れません。
どうぞお元気で。

* 「生涯のまとめ」にならないわけではないが、わたしは、今度の仕事は、天体ロケットが大きな燃えがらを切り離し捨てて行くことで、さらに先へ飛んで行くのと同じことを考えた、と、付記しておきます。 湖

☆ 「湖の本」 誠に有難く拝受いたしました。  望  元文藝誌編集長
「けい子」拝読し、秋成との縁 小説より奇なりといふ思ひで読了しました。
葉書で失礼いたしました。

☆ <人間・作家・秦 恒平>の  珪 元出版部長
まるごとつまった「湖の本」52を賜りありがとうございました。「背き背き」つつブレのない秦さんを信頼し、敬服いたしております。
百巻をこえてのさらなる歩みに随伴いたしたく存じます。
お身体お大切になさって下さい。

☆ 湖の本52 恭く拝受  萬 歌人
御協力、御精励を讃嘆慶祝申しあげます。すばらしい個の御仕事には、常に元気を頂戴いたしております。
存分の御進取、御健勝を祈念申しあげます。 拝

☆ ご恵与 ただ有難く お礼申上げます  冽 俳人
小説への新しい眼を開かせて頂きました 評論により新知見も指示頂きました
このあともよろしくと お願い申上げる次第です
ご健康に充分お気をつけの上 いっそうのご活躍を祈り上げます

☆ 讃岐の櫻  泓 歌人
やっと開花しました
年譜とはかくあるべしと教えられました。
昔風に言えば古稀、がんばらねばと思っています。

☆ 天上に向かって  鳳 詩人
花花が開きはじめております。いい季節になりました。
「湖の本」感謝申上げます。内容の深さに圧倒されます。ありがとうございました。
ますますの御健筆をお祈り致します。

☆ 合掌  薫
たくさんの年譜と御本への心ぞえのついた「湖の本52」 心温まり、ありがたく頂戴いたしました。
「湖の本」の創刊からたくさんの感動を忘れられません。心の糧となって日々を過せます。とうぞお体に気をつけて、御無理なく続けて下さいますようお祈り致します。

☆ 「湖の本」百冊へ  峡 作家
情熱と忍耐に、敬服の思いをこめてお礼申し上げます。
また結婚五十周年でもあるとのこと、おめでとうございます。 私こと、三十年で相方が亡くなりまして、羨ましく存じます。
季節の変わり目 お身お大事に。

☆ 湖の本百巻。金婚のお祝い  福
秦 先生、おめでとうございます。湖の本にご縁があったこと、大変嬉しく思います。
読書会の仲間と、築地近くのホテルで初めておめにかかり、漱石の「こころ」についてお話を伺ったことが「瑚の本」に繋がりました。 また、奥様と金婚の時を迎えられお喜びもひとしおのことでしょう。
頂いたご本、早速読んでいます。自筆年譜、合点したり くすくす笑いながらひきこまれています。有難うございます。 これからもますますご健筆をと願っています。  ご自愛なさいますように。

* 終日、ものを読み続け考え続けていて、まるで鳥目になったように目が霞んでいる。それから頂戴したものを順不同に読ませて頂いていても、限りなく続いて一昨日一日分のまだ半分も減らない。郵便だけ観ていても、メールがあり、さらに払込票にもこまごまと書いて頂いている、そこまではただ拝見するだけになる。
2009 3・25 90

☆ 『湖の本52 自筆年譜(一)全書誌・他』拝受  峻  ペン会員
秦恒平様
「自筆年譜(一)」は圧巻、重要事項が太字になっているところに読者への配慮を感じました。
「昭和44年6月11日、第5回太宰治文学賞に作品「清経入水」当選の電報を午後8時半受く」のところの、「ダザイショウトウセンアスアサデンワコウチクマテンボウ」が鳥肌ものでした。
金婚、そして「湖の本」百巻目前、誠におめでとうございます。
ご自愛の程、よろしくお願い申し上げます。

☆ 心よりお祝い申し上げます。  歌人 ペン会員
奥様もさぞお喜びのことと存じます。
ところで「私語の刻」での「ペン電子文藝館」の高村光太郎の戦時中の詩と詩論あらためて今ネットで読みましたが、やはり何故載せたのか私も異和感を覚えました。特に歌人は茂吉にしても他の歌人も戦時中の公の短歌総合誌などへは戦争賛歌を多く残しています。まぎれもない事実ですが、歌壇であえてその時代の作品をとりあげて代表作とはしないものです。いろいろといまだに疑問の所もあります。良い方向にと願っています。お身をお大切になさって下さい。

☆ 数々のお仕事に圧倒されます。
どうぞ一層の御活躍を祈り上げます。  弘 名大名誉教授

☆ 花便りの聞かれる頃になりました。  鞠 出版人
「湖の本」心より篤く御礼申し上げます。まだ全部は拝読しておりませんが、約三十五年の記述から、先生方ご夫妻の人生そのものが、大いなるドラマ性を孕んでいるとあらためて思わざるをえません。奥様との出会いやご結婚、ご出産のところなど、羨ましいほど感動的です。「新潮」の小島喜久江さんともおつながりがありましたことなど初めて知りました。
ご自愛のほど、お祈り申し上げます。

* ほおっと、一息ついている。湖の本へのお手紙やメールは、もうどうしようもなく山に積まれて、ただただ感謝申し上げるのみ。
2009 3・26 90

☆ 春になりました。 *議院議長
議長公邸の「陽光櫻」は満開で、ひよどりが花をついぱむので、花が房ごとおちてしまいます。
湖の本52をありがとうございました。
よくこれだけ細かくまとめられましたね。感心しています。とりあえずお礼のみ。

☆ 秦 恒平様 迪子様  鶴
このたびの、湖の本52巻(=エッセイと通算88巻)と金婚式というおめでたい事柄にご一緒させていただけることに、感謝しております。ありがとうございます、おめでとうございます。
年譜を読みながら、ぎゅっと、ぎゅっと思いの詰まった50年に感動し、涙しております。
これからも、お二人仲良く、並んで歩まれますように、どうぞ、どうぞご自愛ください。
新潟も米どころですもの、お酒はおいしいのですが、そちらは息子におまかせします。ご飯のお供に、名物をご賞味ください。

* 歳久しく、ご一家で私を支えて下さって。なにが有り難い嬉しいと言って、一度もお目に掛かったことのないこういうご家族や読者に歳久しく恵まれてきたこと。不徳なれども、わたしは孤でない。勇気をもたねば。

* 郵送。一段落。

* 自祝の余録で、まだ家の内・外に花が満ちている。
バルセロナの京の贈ってくれた彼岸櫻は葉桜になり、花と青葉とがなじんで、またひとしおの美しさで玄関をかざってくれている。書庫のカウンターにも茶の間にも位牌壇の上にも下にも、キッチンにも。手洗いにも。
新潟の禅寺の和尚さんから、金澤市の女性作家から、お酒が。神戸の名誉教授から須磨の名品「いかなご」の釘煮が。
兼好法師は「有り難い友達」に医者とならべて「もの呉るるひと」と書いていたのを初めて読んだとき、はっきり言う人やなあと思いつつ頷いていたのを、いまも有り難く思い出す。

☆ ご夫婦のご縁  脩
おめでとうこざいます。ご執筆の格闘の趣うかがい興深く拝読させていただいております。日々省みての日記がご健筆の基と敬服いたします。
以前おとどけしてお口にあった旨うかがっておりますが、須磨の旬の味 僅かばかりですが、お届けいたします。季節感薄れ行くなか、この漁の続くこと願っています。
今後ともよろしくご教導ください。
櫻開花の浮き立つ季、お揃いでお大事に。
惚けたる老いそれなりに業平忌

* 惚けたる老いそれなりに花やいで 湖

☆ 拝受  李 作家
観世清和の「花筐」をこの二十日松濤で観て来ました。この能の舞台は故郷越前武生=味真野です。今でも「花筐公園」があります。『花がたみ』拝読。『ひばり』拝読。
「自筆年譜」恐ろしいほどの記録。よくぞこれほどまでに……。小説二題の型が年譜の中にびっしり…。昭和四十年辺りの「この頃。……」生き生きしている。七月三十日のくだり…、私なりに理解が及びます。
湖の本百冊……たいへんな業績成果、年譜は中でも最たる一冊、全書誌も心にくいできばえ。「恒平評伝」を書くスキを与えぬ文章の鬼の巻物になっている。年譜の(二)は急がないというのが、妙。(一)の余韻、濃く深し。
2009 3・27 90

☆ 湖の本拝受  範  讃岐
秦 恒平様
配本。お礼が遅くなりました。ありがとうございました。
私と同年生まれですが一足早い「金婚式」おめでとうございます。
「湖の本」98号、記念の出版として「創作自筆年譜」を中心に編まれたこと、さすがだと思いました。単行本や「湖の本」の全書誌も添えられていて読者にとって、こんな有難いことはありません。
秦さんが清水書院から『作家の批評』を出されたとき(1997年)、収録されている「年譜─未踏の沃野」という短文に、年譜作成には「ぜひ『方法』を明かして欲しい」と鋭い指摘をされていたのを覚えています。
その時は、研究者と作者自筆の年譜に本質的違いはないような気がしていたけれど、こうして創造物としてつきつけられると、優れて「文学」のエッセンスであり、作品理解のカギを握っていることは否定できません。特に一定の期間を区切って盛り込む内容を吟味する態度には、読者も腹を据えて対応しなければと思いました。それほど濃密な内容が詰まっているということです。
偶然ですが『作家の批評』上梓の年で終っている女流作家の相当分厚い自筆年譜の本があります。『ふるさとの丘と川 大原富枝年譜』(平成10年・高知県本山町立大原富枝文学館刊)です。
特に最後の1900年から1997年にかけての部分が大変充実しており、作品に直結する作家の日常の一端や背後のふくらみを知ることは有益でした。愛媛県人同士の洲之内徹と敷村寛治の項目(敷村は洲之内の友人であり研究家。私と同じ職種でした)では、ああ、そうだったのかと個人的に納得したりうなずいたりしたものです。大原さんには洲之内を扱った『彼もまた神の愛でし子かー洲之内徹の生涯』があるからです。
大原さんと敷村氏は、愛媛出身の柳瀬正夢や重松鶴之助(洲之内が偏執狂的に愛した画家、共産党員「楽天」の一員)、などに関しての対話を度々行っています。エヒメの「よもだの精神」の面白さに引かれたのでしょうか。
ただ、残念なのは大原全集に出ていない作品のことを詳しく知りたかったのですが、無理でした。
昭和18年の雑誌「改造」新人募集入選作『若い渓間』や、薄幸の天才プロレタリア詩人・槇村浩を扱った『ひとつの青春』(「群像」昭和42年12月号)に関しては項目のみでがっかりしました。
前者は戦局悪化の流れのなかで農村部での「生活改善」をテーマとした時局便乗作品ともとれ、後者は作品の自律とは別に、発表時「盗作問題」で新聞をにぎわした作品だったからです。二つとも作者の死とともに、大原作品に共感する読者として知る権利がある情報が抜け落ちているのが残念でした。大方の事情は察しがついても、それでいいとは言えないコダワリを持つのが愛読者というものです。
なお、御作「年譜ー未踏の沃野」は、個人的に「裁判」という実用にも役立てさせて頂きました。
高松市が市民の税金で出した「菊地寛全集」に戦中の皇国史観、侵略戦争賛美そのものの多くの文章が4巻にわたり無反省に収録されていることへの異議表明の行政訴訟でした。最終的には憲法判断となるのは分かりきっていましたが、最高裁で門前払いとなりました。
でも、高松高裁での判決文では菊池の一部の作品に「侵略戦争賛美」の部分があることを明確に認めています。何よりも、我々支援者にとって「お笑い」以外の何ものでもなかったのが、「年譜」のことです。
当初まったく無かったのが、原告側の指摘で急遽、他人の作成した略年譜をパンフにして挟み込むという、姑息な手段をとったのです。相手が青山学院大学の専門家だというのですから恐れ入った話でした。
長くなり失礼しましたが、目の前に迫った100冊目は私のような自堕落な読者にも震えがくるような出来事になるでしょう。ご健康にお気をつけて。

☆ ご恵送に与り誠に恐縮 御礼申し上げます。 謙 学会会長 詩人 ペン会員
「私語の刻」を拝読して「金婚」の文字が目に入りました、心よりお祝い申し上げます。「湖の本」も「九十八巻」とあり、もうそんなになるのかと思いかえしました。あらためてその歳月を思いました。読者からは「湖の本」の刊行は読みたい本が読めるということでありがたいことでしたが、刊行されるご努力には頭が下がる思いでした。
今号の「私語の刻」で高村光太郎のこと、「晒し台」とのお言葉、その通りだと思っております。「ペン電子文藝館」の存在意味とは何かを考えさせられました。「招待席」は「言論表現自由を問題にする場」でなく、「故人になられた文学者の遺業や偉業を顕彰」し、「優れた作品」を「招待し公開する場」ということが、何故まもられないのかを考えさせられました。「貫く棒のような」「定見と見識」が、その運営においてはひつようであることを実感させられた次第です。
「自筆年譜(一)」を拝読しながら、最後の「ノート十に」に至って、ここの年譜の完成されるまでの日々の記録のことを想像しておりました。 「凡例」の「三」でのようなお考えが多くの創作者年譜」として拡がっていくことを夢みています。これからの研究においてもこのことはだいじにしなくてはならないことと思っています。そういう思い出拝読させていただいております。
「私語の刻」といい、「自筆年譜(一)」といい、とても心に深く残りました。ありがとうございました。
寒暖急変のこの頃です どうぞくれぐれもご自愛下さいますようお願い申し上げます。 敬具

☆ 御著書を誠にありがとうございます。 工藝家 北海道
先生の生い立ちが……
大変興味深く、読み入りました。
桜の開花時期に寒さがぶり返し、今日は吹雪模様。
麦畑の緑が、また真っ白になっています。
「地球温暖化現象は、どうなってるのでしょう!」 って、春が遠いことを腹立たしく感じます。
お元気で。
2009 3・28 90

☆ 拝受  叡 名誉教授
「花がたみ けい子」を読み、私の秋成小堀係累説に秦さんが特別な思いを持っておられ、何度も御所市の名柄や増を訪ねておられることを知って、感銘しました。ありがとうございます。
折しも今年は秋成の没後二百年です。何か新しい開拓ができないかと考えています。ありがとうございました。

☆ 金婚・湖の本百巻  明  作家
おめでとうございます。
自筆年譜ご恵送賜りありがとうございます。
自らの背きの生を見つづけてこられた緻密なる記録、興味津々の文学作品に敬服、感服の極みです。
重ねておめでとうございます。そしてありがとうございます。
毎日のように、「闇に言い置く」読ませていただき、励まされています。「湖の本」共々、いつまでもお願い致します。
朝起きると西側に面したガラス戸を開けます。観音寺山の四季折々のすがたに大きく深呼吸。勤めに出る毎日です。乱暴な生き方をしてきたから、このざまたれやなあ、と苦笑しながらあと四五年と元気です。その期来たらば、思う様、晴耕雨読書の日々をと手ぐすね引いている次第です。
隣家の大きな家屋敷がすっかりと取り払われ、何でも駐車場になるということです。村もそれぞれドラマを展開しながら様変わりしていくようです。我が家むこれからの季節、雑草との闘いみたいなものです。休日は草むしりの日々、因みに鎌や剪定鋏はすべて京都の刃物屋さんで別跳えの切れ物です。これには村の友人たちも呆れ顔に、でも「面白いなあ」と、そして「よくやる」と変な褒め方で励ましてくれます。
何とか元気です。
奥様共々、どうか無理をなさらずお健やかに。
追伸
岡山の「籠もよ」よりほんのお祝いのしるしに和菓子送らせていただきました。それから、湖東地方の小さな地方紙に近江の鳥と題して月一度拙文を書いています。延々と続きそうなのですが別便にて送りますのでご笑読、ご批判くださいませ。

☆ 「自筆年譜」隅々まで拝読  彩  僧 大学教授
十一年生まれの私は大いに元気づけられ、生への夢を頂戴いたしました。研究生活への意欲を呼び戻すことになりました。ありがとうございました。不尽

☆ 開花が待たれる今日この頃です。  尊 大学教授
久しくお目にかからせていただく機会がなく残念ですが。
湖の本 間もなく百巻とか 健筆バイタリティー 恐れ入ります。じっくり読ませていただきます。

☆ 年譜の中に「とっぷ」を発見!!  青
五十年。奥様への愛と感謝のお気持が溢れ出ていて感動致しました。
良い思い出をありがとうございます。
2009 3・29 90

* 明日は三月尽
「乱菊」は面白いでしょう、大好きでした。吉川英治とは文学の質的なレベルがちがうと、そういうことも覚えて少年は感嘆しました。母モノなんですね、とても惹かれました。「盲目物語」「蘆刈」へきちっと繋がります。
「乱菊」が中途になったのは、例の細君譲渡事件があったからです。 風

☆ もう百巻になるのですね。 邦 富山
おめでとうございます。最近は文学を前にするとすぐに睡くなり、新刊を買って読むことも殆どなくなりました。時間をかけて何とか読み通しているのが「湖の本」です。昭和一桁生まれの私には、先生のお書きになるものに、共感するところが多いということでしょう。余事ですが私どもも今年金婚になります。ご健勝でご活躍なさることをお祈りします。敬具

☆ おめでとうございます。  輝 京都
作家が自らの作品を100冊も自ら出版したというのはギネスものではないでしょうか。ますますのご活躍をお祈り致します。
2009 3・30 90

☆ 二年前  治  画家
長年のメキシコ生活、滞在に疲れが出てきたようで、現在は日本で休んでいます。それで湖の本、最近のはよく読んでおります。今回は自筆年譜のところから見ています。京都生まれ、東京在は共通するところです。
このあいだたまたま高村光太郎の昭和16年刊の『美について』を読んでいました。秦さんと同感でありました。

☆ 冠省  哲 文学者
金婚と湖の本百巻まぢかのご上梓おめて゜゛とうございます。私は入院中でベッドの中でこのハガキを書いています。
先生も御身ご大切に。 右御礼まで。

☆ この度は  礼 西東京
「湖の本」有難うございました。 あらためて棚にありますこれまでの「湖の本」を、百冊にもなるのかと見ておりました。
大へんなお仕事、どうかこれからも益々御盛んにお続けになられますようにと 心より お祈り申し上げます。

☆ ご本をいただいた折り   慶 近江
とてもうれしくなりました。27日に今年最後の搾り締めが湖南市のみの予約販売され、お贈りしたいと思いました。
主人は梅干しをよくお酒のアテにしていましたので、少しですが入れさせていただきました。
本当におめでとうございます。いつまでもお二人でお幸せにお過ごし下さいませ。

☆ 自筆年譜 全書誌 ありがとうございます  駿  大学教授
詳細な年譜を拝見し 医学書院に入社される直前に 小生出身校洛東高校に立ち寄っておられるのを発見しました。何かご縁を感じました。
「ペン電子文藝館」の光太郎の一文に触れての、ペンクラブの精神、全く同感です。

☆ 櫻の花だよりを聴きながら  光 弥栄
湖の本百巻目前、そして金婚式おめでとうございます。
才能と努力の賜、よくがんばって来られたと尊敬いたしております。また御礼申し上げます。
中学時代の秦さんの国語の文法がめっぽう強かったことを思い出しました。友達の中に私も加えていただいてよろこんで居ります。
数年前の同窓会の時に糖尿病だと云っておられましたが大丈夫ですか ご自愛下さい。
これからもますますのご活躍をお祈り申しあ上げます。

☆ 皆様、お元気のことと…  知 映画女優
記録をする 物書き なんですかね。ダンナ(映画監督)の記録魔に いろいろな整理をしながら、オット これはどうしようと云うのが沢山あって。困っていたりするのです。
秦さんも 何でもかでも書きとめておくタイプではないかと ふと思って了いました。田原知佐子も出て来る年譜をみていて大変に光栄に。
原知佐子、日活だけ出ていないので面白かったです。東映、大映、松竹、東宝、新東宝、全部出ていますがねえ。
で、これ(実相寺昭雄著『昭和電車少年』)送ります。鉄道オタクのものです。御笑納下さい。
未亡人似合はない メリーウィドーが似合うと、10月、今の年だから出来る芝居やります。御案内します。

* これは脱帽。間違いないようにと思う年譜に、よりによって親友の経歴をまちがえていたか。教室を飛び出して、ニューフェイスの日活女優女優に成ったとばかり思いこんで五十五年か。申し訳ないなあ。

☆ 自筆年譜 全書誌 ありがとうございました。 征 絵本作家
エッセイ44「京味津々」を読み終えました。非常に興味深かったです。京で暮して40年 いろいろ考えさせられました。深く深く感謝。

☆ 篤く御礼  箭  文学研究家
自筆年譜、全書誌、くりかえしページを繰って居ります。
ほんとうに、ありがとうございました。
結城の小冊子、御笑覧いただければ幸甚に存じます。
どうぞ日々御大切に。

* 弥生尽 四月を迎える。
2009 3・31 90

☆ ウィーンより帰国   鷹
御本が届いておりました.ありがとうございました.
その学会では,ハイドン没後200年に当地で講演できて嬉しい,というお話をしました.
「けい子」では,秋成と秦さんとを二つ焦点にゆっくりと楕円を描いていかれるのを追いながら,次第に、秋に生まれる予定の子供についていろいろ考えはじめたのですが,何はともあれ,生まれるということは善いことなのだという気持ちがわき起こってきました.父親ほどの先生に対して失礼な,と思いつつも,今号では特にご自身がヴィヴィッドなのであるから,などと思いました.
今後とも奥様とのご健勝をお祈りいたします.
2009 4・3 91

* 今回の湖の本ばかりは、いまなお多くの方からお便りをいただく。
今日は封書の手紙などたくさん届いた、有り難い。作家、研究者、文春の役員、編集者、読者。いろんな角度から本を見ていてくださる。

* 誰しも生きて行くには、「もの」「こと」「ひと」とともに在る。我独りで生きていられる人はいない。たとえヒマラヤのテッペンに独り退避して暮らそうと、そこにも「もの」「こと」はあり、記憶や眼裏に「ひと」が住んでいる。年譜というこころみでは、自分がその時その時どんな「もの」「こと」「ひと」と生きながら自身をどう在らしめていたかを表現したかった。そういう意味でわたしの年譜は「私小説」なのである。そういう原料に圧縮した「私小説」形がある。「自伝」の形がある。「日記」の極端がある。十日や二十日や一年や二年ではつかみとれないものが、三十数年もかければ浮き彫りされる。
文学のエッセンスのように「自筆年譜」はあり得る。そのトライをしたのである。

* 人はとかく自分の意志で生きている、たとえば「もの」「こと」「ひと」をまるで自分が恣まに選択しながら日々過ごしている気でいやすいが、事実誤認もはなはだしい。自分の詳細な年譜を追えば追うほど、「もの」「こと」「ひと」は向こうから来ている。或る意味ではよそから与えられている。出逢いとはそういう意味だ。それでいて出逢いように自ずと、可笑しいように「我」がにじみ出る。やはり「もの」も「こと」も「ひと」も何処かで選んではいるのである。それもあえていえば、そのように「選ばせられている」というのが正しいか。

* 文学を志して太宰賞に行き当たるまでに、生活者として余儀ない職業をわたしも持っていた。選んだ職のつもりでいたが、長い目で観ると、それもそのように「向こうから来て与えられていた」と謂うのが当たっている。
わたしの年譜の「医学書院」時代に、特徴的に女性の名と人数とが多いのをすこしにやにやとあれこれ思う人も在るだろう、面と向かってお世辞かのように「もてましたね」などと云う人もある。もてはしない、が、女の人は好きであり、心惹かれるタチではある。しかし、会社時代の仕事の半ばは「看護関係の書籍や雑誌」を任されていた。出会うのは自然に各主要病院の幹部級看護婦さんや助産婦さんや保健婦さんたちであったし、わたしの編輯職としての大きな方法が、いかに著者・執筆者を「連繋プレー」のなかへ誘い込んで企画や取材の助けを多面的に得るかにあった以上、たんに一本二本の原稿の受け渡しで単発に仕事を積むような間抜けなことはしなかった。
著者・筆者・モニターと編集者とは、はなはだ特異で独自の人間関係だとわたしは確信していたから、自然、接触は頻繁にと努めていた。
医学研究の方に全面に傾いていたら、あの時期のわたしの年譜にそうは女性たちの名前も出ようがなかった。「もの」「こと」「ひと」のみなが、向こうから来て与えられていたと同時に、そのなかでわたしもまた「作用」的に生きて選んでいた。
生きるとは、そういうことであるだろう。人は「生きてきた」「生きて行く」といつも簡単に口にするが、簡単なことであり簡単なことではない。今度の自筆年譜のようなトライをあえてしなかったら、わたしは「生きてきた」実質や性質や機会性についてほとんど正しくは理解し得ていなかったろう。

* 「もの」「こと」の多くは「ひと」が持ち運んでくる例が多い。「ひと」にはたいい「もの」「こと」がくっついている。裏返して謂うこともできる。「もの」「こと」が新しい「ひと」をくっつけて運んでくるとも謂える。回転寿司のように、さてどの「もの」「こと」「ひと」と自分とがぶち当たるようにして「選ぶ」「選ばれる」のか、それはもう、運命。出逢いもあり、別れもある道理である。
2009 4・4 91

☆ 冠省  僊  作家
御礼の遅れた無躾をますお詫び致します。
それにしても、もうすぐ百冊、他には例のない偉業です、また、自筆年譜を拝読して想ったことですが、文学に対する大兄の性根の座り方が、実にすばらしいと感銘を受けた次第です。それに、中村光夫さんらの世代の人は、後輩や新人に対して、実にやさしいですね。むろん中村さんのような人は多くはなくて、むしろ志の低い人の方が多いかもしれません。イエスマンばかり身辺に配置し、筋を通す論をいう人をケムたがる傾向は情けない限りです。
高村光太郎の一件も、お説の通りですね。
もし彼に、戦争中だからといえども、あれは良くないよ、といえる文筆家がいるとすれば、あの詩や文の十年前に築地警察で拷問死した小林多喜二か、その遺体を清めた宮本百合子と佐多稲子くらいでしょう。
小生は築地署の署長だった男が退職してから開業した築地のSというすき焼きの店では絶体に食事をしませんが、そういうのはいまどき、不思議がられる感じです。
それと大兄が碁を打つことを知りました。もっと早くに知っていたら、お手合せをお願いしたところです。
以上、略儀ながら御礼まで。また、健康にどうかご留意下さい。 不備

☆ 省啓  邁  出版社役員
御健勝大慶に存じます。「湖の本」52頂戴しました。
いよいよ百巻が近づいて来ましたね。その持続する志に感服してをります。
ますますの御壮健を念じをります。 不備

☆ 拝啓  嘉  紀伊
「湖の本」記念号嬉しく拝受いたしました。有難うございます。いよいよ100号、大変な道のりを歩んできたものだと驚きを禁じえません。この20余年、振り返ると読者としましても感慨も一入です。ご苦労をただただ感謝申し上げます。
それにしましても、時代の変化というものにはすさまじいものがありますね。書店には色鮮やかな装丁を施した多くの新刊書が次々に並び、いつの間にか消えていってしまい、それらの新刊書の背中を眺めているだけで目がくらんできます。多くの文学賞がこれまた次々に新人の作品を送り出し、読まれているのかいないのか、売らんかなの商業精神には絢爛たるものがあります。しかし、自分を振り返ってみますと、この数年、いいえこの一年、何冊文学書を購入したかを考えると、まったくといってよいほど購入していないこと
に気がつきます。値段の問題もありますが、昨今の小説そのものに食指が動いていないのです。無論もうすぐ60歳という年齢もあるでしょうが、本当はこの年齢ぐらいになると小説が読みたくなるものだと思います。ところが、現実派はその反対。次から次へと出版される新刊の小説にいささか辟易してしまっています。
なるほど読んで見ればそれなりに読ませてくれるのですが、なんら響いてきません。かろうじて何人かの寡作な作家がいるだけで、その他の作家の作品を追いかけるなどということはほとんどありません。単に年齢のせいだけであればよいのですが、そうとばかり
は言っていられないような感じがします。
──ま、それはそれでよいのですが、この空洞化のようなものは何なのだろうと思います。
そんな中で、積み上げられてきた「湖の本」、ただただ感動です。けしてよい読者ではありませんでしたが、多くの良い読者の驥尾に連なれたこと、幸せに思います。心から御礼を申し上げます。
今年は私にとりましても一つの節目。新たなステップヘの年でもあります。頭の中はいまだに20代のまま止まってしまっていますが、いわゆる人生の仕上げにかからないと間に合いません。もう一度はじめて「秘色」に出合ったときの感動、「慈子」「みごもりの湖」に出合った時の心の震えを思い出したいと思います。
神戸の古書店で「慈子」の旧版を見つけながらその値段の高さに手が出せなかったときのせつなさ、忘れられません。その後「秘色」も旧版を入手しましたが、好きな作家の好きな作品に囲まれて暮らせる幸せは最高の喜びです。やっぱり本でなければその実感、満足感は味わえないように思ったりします。どんなに簡素なつくりであろうとやっぱり私には本なのです。「湖の本」はまさにそのような本です。
言葉足らずの変な手紙になってしまいましたが、記念の「湖の本」ご送付の御礼とさせていただきたく思いパソコンに向かわせていただきました。本来ならペンを執るべきところですが、下手な字は読みづらいし、何より疲れます。事務的な手紙になってしまいました
が、どうぞお許しください。本当に有難うございました。読者冥利に尽きる記念の年譜、書誌です。
これからもますますお元気で、ご活躍いただけますようお祈りいたします。 敬具
平成21年4月1日
家内の55歳の誕生日に。   (ペン署名)
秦 恒平 様   (ペン書き)
追伸
和歌山では山桜が満開です。あの道成寺のしだれ桜も満開で、連日観光バスが押し寄せています。多くの歌舞伎役者もこられたようです。
梅原猛さんの「海人と天皇」以来、御坊市ではひたすら宮子姫を売ろうと懸命です。田辺市の弁慶と同じで早いもの勝ちなのでしょうが、藤原宮子を郷土の誇りにでも思っているのでしょうか。よく分からない感覚です。もっとも観光というのはそのようなものかもしれませんが。時間ができましたら少し藤原宮子や有馬皇子を調べてみたいとも思ったりもしています。近くに有馬皇子の古墳があるのです。多分海南の藤白ではなく、岩代で亡くなったのではないかとかんがえているからです。切目(きりめ)という地名が岩代の隣りにありますが、殺部(きりべ)が本来の呼び名とか。あのあたり、が熊野との結界であったようなことも聞きます。暖かくなってきましたので、休日にでも愛車の原付で熊野古道を走ってみたいと思います。
お体ご自愛ください。
お嬢様の件、胸痛む思いです。
黒川創さん、建日子様のご活躍、嬉しいですね。
2009 4・4 91

☆ 御礼  仁
秦 恒平 先生 金婚おめでとうございます。こころよりお祝い申しあげます。
また過日は『湖の本52 自筆年譜』をご恵贈賜りありがとうございました。
1986年、広島の単身赴任先で湖の本の発刊を知り購読申し込みをさせていただきました。
『清経入水』に今まで読んだどの小説にもない鮮烈な印象を受けたことを、23年経過後もはっきりと覚えております。
その後埼玉、大阪、東京と転勤の行く先々に送本いただき楽しませていただきました。
間もなく百巻、これは偉業ですね。
引っ越し続きで分散して本棚に並んでいた『湖の本』をこの度全巻並べ直しました。
壮観です。
これからまだ積ん読のままだった本たちを頑張って読むことにします。
ところが、改めて見直すとエッセイ21巻『日本語にっぽん事情』が欠けています。納戸の奥に積み重ねた箱の中に有るだろうと考えておりますが、これを取り出すのは大仕事です。
ということで、エッセイ21巻『日本語にっぽん事情』をあらためて講読させていただきたいと存じますが、代金は2,000円でよろしいでしょうか。
気候の変わり目、お身体おいといくださいますようお祈り申しあげます。

☆ お慶び申し上げます。 啓
とりわけ今回は、ご結婚50年、ご上京から50年、という区切りの年とのことで、こころからお祝い申し上げます。加えて「湖の本」も通巻100冊に近づいておられ、詳細な自筆年譜はたいへんな楽しみになってまいりました。
先生は、すべて自己完結されようとされているように見受けられます。その一途なエネルギーは比類のないもので、ただ感服するばかりです。
どうかお元気でますますご活躍されますようお祈り申し上げます。
2009 4・5 91

* 満十四年の湖の本の頃は、いまにくらべだいぶ維持がラクだった。いまは、おまけに百年に一度の恐慌。愛してくださる人があればこそほそぼそと血のにじむ繃帯を巻きながら堪えているが、此処まで来ると、もう楽しむしかない境地。こんなところで楽しめるなんて、なんて有り難いとやせ我慢もたいていなものだが、事実、楽しくはあるのである。あと二巻で百巻。それも「通過点」ですからね、ますますガンバッテと言って下さる。どうがんばるか、何かの趣向が利くかしらん。名案、募集。
ホントを言うと、下のマゴ娘が中学にでも入る頃からは、娘に発行元を譲ろうとアテにしていたのだが、とんでもないことだった。
2009 4・8 91

☆ 御礼 仁
湖の本エッセイ21『日本語にっぽん事情』を早速にご送付いただきありがとうございました。
これで全98冊が見事に一堂に会しました。
こころを入れかえて一冊ずつ読み進むことにします。
『日本語にっぽん事情』の私語の刻の「思えばわたしは幸せに今日まで過ごしてきた。」の言葉を感動を持って読みました。
この言葉はなかなか出てこない言葉であると思います。
私もためらいなくこう言えるように改めてつとめなければと考えております。
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』エウダイモニアの読み方をこの観点から考察する方法もあるかと示唆を得ました。
2009 4・9 91

☆ どういたしまして。  郁
あのようなささやかなお祝いで失礼いたしております。
頂戴いたしましたご本の年譜を拝見しておりますと、なぜか不思議な感覚におそわれます。タイムスリップなどとはちがいまして、自分でも不思議な時間がすぎます。 どうしてでしょうか? 折にふれ拝見いたしております。有難うございます。
私の個展もとうとう今年秋になりました。3年前に申し込みをいたしましたのに、あれよあれよというまに今秋となりました。はやーいです。 毎日追われることばかりでほっとする間もなくすぎています。
水彩画と油絵画とを平行しながら そしてストレスをためながらの毎日です。
まだまだ個展の準備や制作などはできません。ご案内はさせていただくつもりですが期待などなさらないでくいださいませ。お願いもうします。
ごきげんよろしく。
2009 4・12 91

* 福田恆存先生の奥さんの、ありがたいお手紙を戴いていた。藤田理史君の「元気」横溢の嬉しい手紙も貰っていた。あの『迷走』のような小説がいま理史君をいくらかでも励ましているとは、書いて置いて良かったなと嬉しい。願わくはよき恋をして、いちだんと基盤を厚く大きくしてくだい。
創刊以来の読者のお一人からも封書の忝ないお手紙を戴いた。

☆ 拝啓  周
この度は「湖の本」52を御恵投賜りありか゜たく拝受致しました。(中略)
間もなく百巻に到達の「湖の本」、出来ます事なら専門の方にルリユールをお願いして美しくまとめたいと何度か考へたものでした。
しかし年金生活の身でありますればそれも叶いませず、狭い我家ではあちこち分散して置かざるを得ない状態で、家の中を見廻しては、ルリユールされた「湖の本」が並ぶ書棚を思い描く事も度々です。
この度頂戴致しました「自筆年譜」(一)の中で特に昭和四十一年後半に興味を持ちました。何故ならば先生の御昨の中で私は「蝶の皿」に最も惹かれるのです。例へば谷崎的とか、鏡花的とか、そう思へばそうかも知れませんが、物語の筋立て趣向などのみならず、京都が秘めて持つ不思議な力を感じるのです。特に生れも育ちも東国の私にとりましては。その所為でしょうか、年に一、二度ですが京都に参ります時には、殆ど欠かさず法然院界隈を歩きますのも、「蝶の皿」の舞台をつきとめ様とする訳ではありませんが、せめて雰囲気なりと感じたいと思うからかも知れません。
私の散策の道は、時には疏水に沿い、時には一端バス通りに出て南に向い右手の小さい階段を辿り真如堂にお参りし、再びバス通りを南にとり、永観堂から二条通り岡崎の突き当り辺迄足をのばします。その辺りには通り過ぎる事の出来ない、ふと立ち寄ってみたくなる様な、置くには何かありそうな引き込まれる様な不思議な感じの小路や門構えがあるのです。この家にはどんな人が住んでいるのだろうと思います。
疏水の櫻もそろそろ過ぎましょう。疏水の花筏が眼に浮びます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。  敬具

* 索漠とした低俗世間から甦る心地で、このような声や言葉に立ち返れるのを身の幸と感謝せずにおれない。

☆ 雨が  花
ときどき激しく降っています。
いま、湖の本エッセイと、
『出生の秘密』
『若い読者のための短編小説案内』
『母性社会日本の病理』
『<盗作>の文学史』
『売買春と日本文学』
などを読んでいます。
『若い読者のための短編小説案内』は村上春樹著で、三浦雅士の評論集『出生の秘密』に、江藤淳の『成熟と喪失─”母”の崩壊』と比較してとり上げられていたので興味を持ちました。
海外の小説を主に読んで育ち、日本の小説はあまり知らないと言う村上春樹は、『若い読者のための短編小説案内』で、第三の新人たちの短編を語り、江藤淳も、『成熟と喪失─”母”の崩壊』で、第三の新人たちを批評してい、共に北米体験を持っているところが似ています。
河合隼雄著の『母性社会日本の病理』も、『出生の秘密』で触れられていました。臨床心理の観点から、とてもわかりやすく述べられてい、おもしろいです。
『<盗作>の文学史』は、主に明治以来の文壇と出版における著作権認識、剽窃と引用と転載の違いの認識と変遷を、事件・出来事別に順を追って解説してあるものです。よく調べてあり、別の角度からの文学史として、興味深いです。
最後の『売買春と日本文学』は、これまで話しましたかどうか、ずっと、日本の性風俗・性産業の起源やあり方に関心があり、読んでいます。
売買春は、世界最古の職業である、というのは、全世界の共通認識かと思われます。
売買春の問題は、女性を下に見る考え方と人権問題に関わってくるのみならず、明治以降の日本の公娼制は、軍隊との関わりを考慮に入れるべきであるし、すると、第二次大戦で日本軍の犯した大きな過ちである従軍慰安婦まで行き着きます。
買う人がいるから売る人がいる、と、単純に説明するだけでなく、今日、自ら進んで性風俗を仕事として選ぼうという女性もいる中、「NO」と言うには、どんな理論を打ち立てればいいのか、ずっと考えています。
とても複雑な問題で、いろんな人の意見を読みましたが、眼から鱗が落ちるように納得できたものはまだありません。
一葉の「にごりえ」「たけくらべ」「十三夜」「やみ夜」を読みました。
明治二十年代の、苦界の女性のありのままの苦悩、また、女性として生きる困難さが、「女性の手で」書かれたことの大切さを想いました。青踏の人たちでさえ、娼妓たちは堕落した女だと見做していた時代に。
一葉の作品は、荷風ら男の視点で書いたものとも違う、すぐれて先駆的で希少だと思います。
長々と書いてしまいました。
お元気ですか、風。

* 課題や問題意識を持って、見せかけでない勉強をし思索している人は、いつか酬われるだろう。

* いちばん文学を勉強せず思索もせず、しかも文学のプロかのような顔をして安易に世渡りしているのは、自称「作家」人種かも知れない。「作家」という名乗りにしても、だれが評価し試験しているわけでなく、だれが名乗っても詐称ではないのだから。安直なモンだ。

* 繪で、よく言った。
繪になってない繪
繪につくった繪
繪になった繪
なった繪に瞬間風速の吹いている繪
瞬間風速という言葉でわたしは感動を、魂の戦ぎを謂うのである。
文学でも同じ。容易に瞬間風速は飛ばせないのである。
事実問題、それは飛ばす・飛ばせるものでなく、つまり飛ぶのである。神の息吹をもらうのである。いくらおもしろ可笑しくても、エンターテイメントにそんなものは無い。
2009 4・14 91

☆ 秦 恒平 様   大学教授
ようよう待たれた桜も散り収めとなり、代わって新緑の季節となりました。
このたびは 『湖の本  自筆年譜(一) 全書誌・他』をご恵贈いただきこころから感謝申し上げます。
秦恒平自筆年譜(一)は、秦文学のルーツをたどる上で我々研究者には誠にありがたいものでした。それに、『花がたみ』で犀星の「女ひと』にまつわるような川端の『住吉』三部作がひらけるようなせ界に、 ご父母の御事が形象化されているとは。
ゆくりなく太宰治文学賞『清経入水』を読んだ折の不思議な陶酔を思いおこしました次第です。その後の『みごもりの湖』 『冬まつ り』……
全書誌もありがたく、「湖の本」を購読してきた巡り合わせを思い出しました。故長谷川泉先生がうれしそうに秦恒平を語ってくれた面影も。
新学期に紛れて、ご返事遅くなってしまいましたことお詫び申し上げます。 草々

* おかげでこの記念本もおさまるところへ無事におさまってくれた。読者の大勢のあつい応援と過分のご好意とで、出版も援けて頂いた。心よりお礼申し上げます。

* 「湖の本」創刊この方、無数のお手紙に加え、いわゆる払込票に書き込まれたいわば「お便り」「感想」「ご声援」また「お叱り」等が残っている。それらはもう私と妻とのたんなる所有でなく、四半世紀、百巻もの一作家の「出版事業」の精神的経済的基盤を保証してきた根幹の文学資料、文学史資料である。生半可に勝手に処分してはならないであろうと思っている。いずれは信頼できる研究者なり研究施設に一括委託したいが。
2009 4・16 91

☆ 「迷走」「少年」届きました。 理
秦さん 昨日、「湖の本」受け取りました。ありがとうございました。
中をあけて、驚きました、「少年」も入っている!
「少年」・・・学生の頃から、読むたびに、どれほど励まされ、教わったことでしょう。贈られた人も、むしろ「少年」のほうに先に親しんでくれるかもしれません。
濯鱗清流、とご署名も添えていただいて。まっすぐな、すがすがしい人です。この言葉、似合うなあと、嬉しくなりました。
購買の仕事を選んで入ってきて、(私たちの会社は部門を選んで採用試験を受けます)自分は何をしたいだろう、何をできるようになりたいだろう。「迷走」を読み返して、自分に問い直しました。
「したかったこと」「できるようになりたかったこと」を、成果として、実感しています。
ゴールデン・ウィークは長い休みになります。
連休のはじめに高知を旅してみます。四国ははじめてです。
父母の顔も見てきます。
父にとって、勤める「最後の一年」になりました。無事に、元気に、それだけを願っています。
この度は、お忙しい中、ありがとうございました。
迪子さんともども、どうぞお体お大切になさってください。
2009 4・19 91

* 読書は少々(十冊ぐらいなら)重ねてでも同時に読み進められるが、書く方は、小説だと何作・何種類も同時併行はわたしは出来ない。しないことにしてきた、が、まずいことにいま、しかかりが輻輳して参っている。そこへ湖の本の九十九巻を何にするかも現実の課題になってきている。
どうなるか分からない、なにやかやと今は物事の取り纏まろうとするときのようで、それも簡単には纏まらず、へたに自分の手でかきまぜるるワケにも行かない。眠気がくるならむしろ眠気に任せていた方がいいようだ。

* 喝
2009 4・20 91

* 亡くなった「鷹」主宰藤田湘子さんの『全句集』とその「季語索引・初句索引」を、「鷹俳句会」と遺族関係者から贈っていただいた。有難う存じます。
淡い交わりであったが、ご縁はまだわたしが医学書院の編輯者勤めであったころ、しょっちゅう取材に出かけていた日大小児科で、医局のある先生に声を掛けられ、「鷹」にエッセイを一つ書きませんかと頼まれた。わたしはまだ世に出た作家でも何でもなかったのである、あるいは一、二私家版でも出していたかどうか。その若い小児科の先生が俳句をなさることすら知らなかった、驚いた。
だが、わたしは書いた。昭和四十一年「鷹」二月号の「石と利休の茶」で、題と本文に誤植各一ありと年譜にある。題が「利久」になっていた。ま、頼まれて書いた原稿のこれが第一作で、主宰藤田さんとの直接の縁ではなかったけれども、忘れがたい。
爾来、亡くなるまで、ときどき顔があった。雑誌はずうっと戴いていたし、著書や「湖の本」も贈っていた。
俳人では、のちに湘子さんとご縁が濃いらしい能村登四郎さんと知り合ったが、お目にかからぬうちに亡くなった。岸田稚魚さんも亡くなった。亡くなった人を数えているともう際限がない。

* 俳句に魅せられることは深いが、それだけに手を出しかねてきた。それでも、ときどき書き留めるようになっている。サマにもモノにもなっていないが、短歌とはちがった感触がある。
藤田さんのこの大きな遺著、ことに別巻の季語索引はこれからお世話になりそうだ。十一集ある最期の句集の『てんてん』という題が好きだ。最期の五句を噛みしめる。

月細し隣近所の春のこゑ
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ
億万年声は出さねど春の土
われのゐぬ所ところへ地虫出づ
草川の水の音頭も春祭
2009 4・21 91

☆ 前略   文藝誌元編集長
先日は又御鄭重にも「湖の本52」を御恵贈にあずかりましたのに、御礼が甚だしく遅くなりまして誠に申訳ありません。このところ集中的に頼まれ事が殺到し、本日やっと一段落致しましたところで「小説二題」を拝読致しました。
「花がたみ  けい子」は御出生にまつわる係累を綿密に辿られつつ「けい子」叔母を浮き彫りされていて練達の手法で「正確さ」をめざされていく、揺るぎない姿勢に、一方「ひばり」の方は柔かいタッチで「色の黒い雀」の歌声のみを聞かれつづけていく陶酔感の描出に、衰えを見せられない作家魂に感銘致しました。『自筆年譜一』の実に綿密な記述にも驚嘆致しました。読書体験などに共通したものがあるのには同世代を意識しましたが、この前人未踏の「年譜」の御完成も心から期待致しております。不一

☆ 爽やかな若葉のなか  作家
「湖の本52 自筆年譜(一)・他」を拝受いたしました。「自筆年譜」は「自伝小説」の趣あるものとして興味不覚拝読いたしました。豊かな年月が感じられるものでした。「全書誌」の厖大な業績に驚嘆するばかりです。さらにたゆまずに先へ先へと歩まれる意欲と情熱に敬意を表します。

* お尻をぴしゃぴしゃ叩いてくださる有り難さをいつも痛感している。
有り難い読者のみなさまのおかげである。なぜかなら、わたしの「湖の本」はただ読者の皆様にお買いあげ頂いているだけではない。それに「助けて」頂いて、わたしは「湖の本」を、これぞと思う北海道から沖縄まで全国の大学や研究室や、また各界の優れた読み手の方々に寄贈出来ている。それがそのまま作家・秦恒平の「文学活動」ともなっている。「湖の本」の刊行そのものは、この時世あたりまえであろうが赤字である、が、まだ続けていられる。読者の皆様の手厚い支援があればこそで、わたしはそれ自体を稀有の文学史的事実だと感謝している。
2009 4・22 91

* 次の湖の本通算九十九巻もおよそメドが立ってきた。
2009 4・23 91

* 陰気に雨の降る土曜であった。冷え冷えして戸外へ踏み出す気もしない。いいしおに、終日「湖の本」新刊の原稿作りに勤しんでいた。
昨日の朝、起きがけに、もう少し寝ていようかなと想った尻から、そんなに時間は残されていないよと内心の声に励まされた。やれることはやっておく。

* いまだに祝って下さる人があり、恐縮する。資金的に「湖の本」を助けて下さる人も多い。京の南座横、松葉屋の見るからうまそうな鰊蕎麦のセットも京都の友人たちから届いた。鳥取の図書館長さんから「日置櫻」という純米吟醸も戴いた。これがじつに旨い。
みなさんに、心より感謝。
2009 4・25 91

* 前夜の疲れで熟睡。そして自転車走もやめて、ひたすら原稿作りに勤しむ。もう日付はとうに過ぎた。
2009 4・28 91

* 夜の九時。ずうっと原稿作り。つくるとは、書いているのでなく、丁寧に読んでいる。いい本にしたいから。大も決めて、一両日で入稿できそう。
2009 4・30 91

* たいへんな三月、四月だった。陳述書、自筆年譜など刊行、九九・百巻の入稿用意。とにかくも歩んでいる。
2009 4・30 91

* 帰ってからはひたすら原稿づくり。十一時半にとうどういい線まで用意が出来た。連休の間に、通算九十九、百巻の分まで、入稿できる。
2009 5・1 92

* 私は、「湖(うみ)の本」の、通算して第九九、百巻を合わせ入稿した。桜桃忌を期して、いい記念号が出来ると思う。

* 大きな仕事を越えたので、心おきなくというにはイヤな感じも避けがたい日々ながら、或る突破口のほの見えてきた「小説」を書く方へ立ち向かいたい。目に見えぬターゲットは、平家物語と芥川龍之介と永井荷風、か。
2009 5・2 92

* 京都の知己、松本章男さんに頂戴した評伝の大作『歌帝 後鳥羽院』を読んで行く。もう久しいお人である。「『けい子』身にあたる涙をおぼえました」と。感謝。ご自身も、あのなかの「闇に言い置く」で洩らしていたと「同じ道をたどっています」とも。感慨深い。
2009 5・7 92

* 奈良あやめ池の伊藤さんからお祝いいただいた。日吉ヶ丘の茶道部の二年下にいて、その頃の笑顔の少女しか思い出せない。つまり大人になり結婚して西川さんになった後日をまったく知らない。ただもう湖の本のご縁がながく続いてきた。この人の兄の一雄君が高校で同期、すばらしい秀才だった。その上にお姉さんがあり、そのお姉さんも湖の本を読んで下さっている。こういうご縁がたくさん生きていて支えられてきた。深い感謝を新たにする。
2009 5・11 92

* むかし「新潮」におられ、手を取るようにまだ作家以前からの私を導いて下さった、文壇でも知らぬ人のなかった編集者・小島喜久江さんから、「湖の本」新刊へ祝いと激励の葉書を頂戴した。
「百巻に到達とは驚きで、大変な御努力と思いますが、昨今、出版社がすぐ絶版にする時代ですから、全部、あとに残るというのは、たいした事と存じます。年譜もくわしく、書誌も、一冊も洩らさず、ということで、その綿密さにびっくりです。まだまだお仕事を続けられ、業績を積み上げられる事と存じますが、御健康面でも、どうぞ盤石の構えでいらっしゃれますよう、お祈り申上げます。御礼のみにて、かしこ」
饒舌な「弁慶」さんではなかった。未熟な「牛若丸」を追いかけ回すのにもいとも静かで、提出した作の原稿用紙に、あるかないかほどの鉛筆ですーぅ、すーぅと傍線がひかれているだけ。その説明も無かった、もう一度手入れをと。わたしは、ただただその傍線の前後をにらんで沈思し黙考して改稿にこれつとめた。
「蝶の皿」「畜生塚」「青井戸」は、何の問題なくすいと通してもらえた。
2009 5・11 92

* 糖尿病で診察を受け即断のインシュリン注射を言い渡されて、私語を振り返ると、今年で九年。
あのとき、こんなままでいると「あと十年」と医師に申し渡された。じつのところこの九年、思慮も苦慮もなしに「こんなまま」の生活を根から改めてはこなかった。酒は好きなだけ飲んでいるし、食べたい限りを好きに喰っている。毎度の診察で、まあまあ、少し良かったり少し悪かったり、「このまま様子を見ましょうかね」と診察室から解放してもらっているが、自覚的にはいいワケがない。五体、石のように硬くなっていて、以前に出来たことが九割九分できなくなっている。自転車にだけ乗れるのがふしぎなぐらい。ほかは半分以上石地蔵のように成ってしまっている。
「あと一年か」と、冗談でなく呟いている。そうかそうか。今年一年は、金婚といい湖の本百巻といい、ほんとうになにやかや取り纏めて、被告席の裁判以外は、締まりがついたし、また、ついて行くだろう。
みんな通過点に過ぎぬと思っているけれど、医者の「十年」予言も、わたしは夢うつつとは軽く聴いていない。ありうることだ。逢花打花、逢月打月。「いま・ここ」の生を尽くすだけの毎日だ。願わくはしかかりの作に「完」と書きたいが、どうなるか。
昨日帝国ホテルの写真館で受け取ってきた夫婦の記念写真二組は、さすが無難に撮ってもらえていた。こんなものはノコされても子供達はもてあますに決まっている、夫婦それぞれの柩に一つずつ容れてくれれば宜しい。
いましも、湖の本の通算九九巻・百巻の初校ゲラを送ったと連絡があった。
恥じ入るばかりの未熟さを晒すだけだが、そこまでしか出来無かったのは身のいたづらで、仕方ない。
2009 5・13 92

* 湖の本通算99巻めの校正が出てきた。明日には100巻めも届くと連絡あり。落ち着いて校正したい。
2009 5・14 92

* 通算99・100巻の校正刷りが出そろった。さしづめ上巻刊行を桜桃忌過ぎと目指している。校正は順調にすすむだろう。
2009 5・15 92

* 垂れる雨雲の下を、歯医者へ。葵先生丁寧に診てくださる。口中スッキリ。どこへも寄らずに帰って、ひたすら校正。九十九巻分の初校を終えてしまう。
2009 5・16 92

* 九時から映画「ダヴインチ・コード」がある。観るかな。どうしょうかな。

* 映画は観かけていたが、やはり機械へ戻って、「上巻」分の校正を仕上げてしまった。明日送り返すと、伴って、万事忙しくなる。
2009 5・16 92

* 上巻の校正を、もう送り返してきた。下巻を読んでいる。
2009 5・17 92

* 久しい読者の浅井敏郎さんの『菊を作る人 私の文章修行』を読んだ。若い頃味の素に入られ、新日本コンマースの社長を経てJTインターナショナルの常務、常勤監査役を経て一九九七年に退社、わたしより一回りお年上で、矍鑠とされており、時折、武蔵境駅近くのすてきなフレンチをご馳走になった。お嬢さんは国際的に経歴豊かなピアニスト浅井奈穂子さん。リサイタルにも何度もお招き戴いている。

* 拝復
御労著『菊を作る人 私の文章修行』 頂戴以来 日かずを経ましたが、少しずつ拝読の日を重ねて、読み終えました。静かに頷いて、感銘を噛みしめています。
よくなさいましたね、奥様へのいわば mourningwork=悲哀の仕事として、久しく行を倶にされてきた人生の回顧を、幽明境を異にしながら心ゆくまで共有なさったものとも感じ入り、寂しさのなかに、ご心境の清明また平静を読み取らせて頂きました。有難う存じます。ことに奥様の句集を共に成されましたこと、有り難く、懐かしく拝読・再読いたしました。
文章への御思い入れの深くまた久しいことにも敬意を覚えます。熟達かつ簡古の筆致に失礼ながら新鮮な驚きを加えました。有難う存じます。
わたくしは、時折、半ば冗談でない本気で、「のようというのだ」をぜひ文中多用しないこと、また改行段落のアタマに無用の接続(つなぎ)の言葉をおかず、端的に新段落の文章をはじめること、一人称をむやみに多用しないこと、句読点を適切的確にうつこと、推敲をけっして怠らないこと、など心がけております。それでもなかなか文章上手にはならず、なさけないことです。
但し文章に拘泥する以上に 自身の体臭ないし指紋のような独特の「文体」の発見と精練を望んでいます。文章に拘泥し、型どおりの推敲に拘泥し過ぎますと、没個性の乾いた作文に陥る危険を覚えます。そんなことを、いつも感じつつ自身の文章文体創作に勤しんでおります。
おかげさまで、桜桃忌の頃にも「湖の本」通算「第九九・百巻」を相次いでお届けできる段取りでおります。
題して『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻となります。一つの中仕切りとして、漸く此処へたどり着くかと、日頃のお力添えに、心より感謝申し上げます。
ますますご健勝に、清やかにご長命あられますよう祈ります。
お嬢様もお変わりなく御活躍と存じます。お揃いにて、お大切に、お大切に。    秦 恒平
平成二十一年五月十八日
私、自転車でよくご近所までも駆け回っています。多摩川から稲城市までも、荒川からさいたま市までも、所沢の向こうまでも、運動代わりに。以前はただの自転車でしたが、今は電動自転車を買って貰い、坂もらくらく。長いときは四時間も駆け回っています。
2009 5・18 92

* 外へ出て校正をと思ったが、どうしても越えねばならない発送用意の堰があり、昨日・今日とそれを先ず片づけた。

* 「秦 恒平・湖(うみ)の本」第100巻を送り出すにあたり、以下の前書きを、「扉」の前に置くことにした。

* 闇に言い置く  『濯鱗清流 秦 恒平の文学作法』上下
(「湖の本エッセイ」第47・48巻)

平成十年(一九九八)三月下旬から書き始めました。日々の「私語」を録して、宛名のない手紙とも、癇癪の落としどころとも、備忘とも謂えましょうか。いわゆる日記でなく、遠い遙かな、あるいは足下に沈んだ「闇」に言い置く忌憚ない述懐です。
濯鱗清流 「清流」とは、私の、心より思慕し敬愛してきた文学・文藝・人生の先達にほかなりません。

今回、二十世紀の最期三年間から、「文学作法」と謂える記事を抄録しました。未練未熟を恥じますが、「作法」とは、方法・手法というより「思い」「批評」「交際」「文学との日々」とでも読み取っていただければ幸いです。私、六十二歳四ヶ月から満六十四歳まで、今からちょうど「一昔前」の率直な生活と意見です。

「秦 恒平・湖(うみ)の本」は此の上・下巻で、創作とエッセイを通算した「第九十九巻・第百巻」に当たります。微意、お汲みくださいますよう。
通過点ではありますが、この中仕切りにあたり、四半世紀の久しいご厚意に心より御礼申し上げます。
平成二十一年(二○○九)  桜桃忌を期して  作家・日本ペンクラブ理事  秦 恒平

* 「秦 恒平・湖(うみ)の本」 全100巻  一覧

湖の本 創作シリーズ

1  清経入水             2000円送料別
2  こゝろ                     2000円
3  秘色・三輪山                2000円
4  糸瓜と木魚                 2000円
5  蝶の皿・青井戸・隠沼           1300円
6  廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅  1300円
7  墨牡丹(上)                 1300円
8  墨牡丹(下)          1300円
9  慈子(上)                  1300円
10 慈子(下)                  1300円
11 畜生塚・初恋                1300円
12 閨秀・絵巻                  1300円
13 春蚓秋蛇                  1300円
14 みごもりの湖(上)             1300円
15 みごもりの湖(中)             1300円
16 みごもりの湖(下)・此の世・少女    1300円
17 加賀少納言・或る雲隠れ考・源氏物語の本質  1300円
18 風の奏で(上)                1300円
19 風の奏で(下)                1300円
20 隠水の・祇園の子・余霞楼・松と豆本  1300円
21 四度の瀧・鷺                1300円
22 冬祭り(上)                  1800円
23 冬祭り(中)                  1800円
24 冬祭り(下)                  1800円
25 秋萩帖(上)                 1500円
26 秋萩帖(下)・夕顔・月の定家・虚像と実像   1500円
27 誘惑                      1500円
28 罪はわが前に(上)             1500円
29 罪はわが前に(中)             1500円
30 罪はわが前に(下)・或る折臂翁     1500円
31 少年・母と「少年」と              1500円
32 北の時代=最上徳内(上)         1900円
33 北の時代=最上徳内(中)         1900円
34 北の時代=最上徳内(下)         1900円
35 あやつり春風馬堤曲            1900円
36 修羅・七曜                  1900円
37 親指のマリア(上)              1900円
38 親指のマリア(中)              1900円
39 親指のマリア(下)              1900円
40 迷走(上)                   1900円
41 迷走(下)                   1900円
42 丹波・姑・蛇(客愁一の一)         1900円
43 もらひ子(客愁一の二)           1900円
44 早春(客愁一の三)             1900円
45 無明・ディアコノス=寒いテラス      1900円
46 懸想猿・続懸想猿              1900円
47 なよたけのかぐやひめ他          1900円
48 お父さん、繪を描いてください(上)    1900円
49 お父さん、繪を描いてください(下)    1900円
50 逆らひてこそ、父 (上)            2300円
51 逆らひてこそ、父 (下=華燭)      2300円
52 自筆年譜(一) 全書誌 小説二題  2300円

湖の本エッセイシリーズ

1  蘇我殿幻想・消えたかタケル       1300円 送料別
2  花と風・隠国・翳の庭            1900円
3  手さぐり日本                 1900円
4  茶ノ道廃ルベシ               1900円
5  京言葉と女文化・京のわる口       1900円
6  神と玩具との間(上)            1900円
7  神と玩具との間(中)            1900円
8  神と玩具との間(下)・谷崎感想11篇  1900円
9  洛東巷談(上)                1900円
10 洛東巷談(下)・京都私情          1900円
11 歌って、何!                 1900円
12 中世の美術と美学(上)           1900円
13 中世の美術と美学(中)           1900円
14 中世の美術と美学(下)           1900円
15 谷崎潤一郎を読む              1900円
16 死なれて・死なせて             1900円
17 漱石「心」の問題               1900円
18 中世と中世人(一)              1900円
19 中世と中世人(二)              1900円
20 死から死へ                   1900円
21 日本語にっぽん事情             1900円
22 能の平家物語・能16篇           1900円
23 青春短歌大学(上)              1900円
24 おもしろや焼物・やきもの九州を論ず   1900円
25 私の私・知識人の言葉と責任 講演集   1900円
26 春は、あけぼの・桐壺と中君        1900円
27 東工大「作家」教授の幸福         1900円
28 猿の遠景・母の松園             1900円
29 青春短歌大学(下)              1900円
30 古典愛読(上)・古典独歩(一)       1900円
31 古典愛読(下)・古典独歩(二)       1900円
32 死なれることと生きること 対談集     1900円
33 谷崎潤一郎の文学              1900円
34 日本を読む(上)               1900円
35 日本を読む(下)               1900円
36 花鳥風月・好き嫌い百人一首       1900円
37 からだ言葉の日本              1900円
38 こころ言葉の日本               1900円
39 かくのごとき、死                2300円
40 愛、はるかに照せ 詞華集          2300円
41 閑吟集                     2300円
42 梁塵秘抄・「島」の思想            2300円
43 酒が好き・花が好き              2300円
44 きのう京あした・京味津津①         2300円
45 色の日本・蛇の世界 文学講演集     2300円
46 いま、中世を再び 2300円
47 濯鱗清流 秦恒平の文学作法 (上)  通九九巻 2300円
48 濯鱗清流 秦恒平の文学作法 (下)  通 百 巻 2300円

* この先は、新作の小説がゆっくり増えてゆき、未刊未編のエッセイも、なお数十巻の用意がある。
2009 5・19 92

* 『文学作法』下巻の初校も終えた。明日には上巻の再校分が届くと連絡が来た。下巻は初校ゲラを整えてツキモノも添えて送り込んだら、当分は忘れている。上巻に集中して桜桃忌の来た頃には発送できるようにしたいが、それは少し時間的にムリかも知れない。ま、やれるようにやってみる。あと三十日で桜桃忌。今日、筑摩書房と三鷹市とから太宰賞のパーティへ招待状が来ていた。
2009 5・20 92

☆ 「湖の本」百巻達成おめでとうございます。
読ませていただくのを楽しみにしております。
第一巻が送られてまいりましたときの興奮・ドキドキを思い出します。
それ以前に読ませていただいていた「清経入水」でしたのに逸り立つ気持ちを抑えられない気分でした。
以降、難しい小説に難渋したり、思わず感涙したりもしながら、九十八巻まで読み続けさせていただけた事、幸せに感じております。
おっしゃるとおりの「中仕切り以降」のご本の発刊を楽しみにしております。数十巻の本の誕生のためにも御健康にご留意くださいますように。   ウキフネ

* 深く、感謝。
2009 5・20 92

☆ 夏河を越すうれしさよ手に草履   ゆめ
あのア―トで意味深な蕪村にして、この手放し無邪気な喜びよう!
西舞鶴で北近畿丹後鉄道に乗換え、たった今、由良川にかかる鉄橋を渡りました。もうすぐ「丹後由良」に到着します。山椒太夫や蕪村、そして『あやつり春風馬堤曲』の足跡を尋ねて、とうとうきました! ヒロイン浦島朋子さんに成り代わって…。
あの作品、先生らしくユニークで大胆な仮説、少しミステリアスで、好きでした。
蕪村の生母の里とされる、与謝・加悦谷までは今回のニ泊三日の旅ではちょっと無理? 蕪村の母の出身は、加悦谷の散所(門付けの藝能集団?)という説、私も納得・同意です。東京に戻りましたら、またご報告しようと思います。

☆ 元気で旅を続けています。由良の海を臨む絶好のロケーションの丘の上で、ひとけのないのを幸い、「山椒太夫」のひとふし朗読してみました。
2009 5・21 92

* 『濯鱗清流』上巻の再校が届いた。さ、追い立てられるだろう。下巻から手を放しておこうと思う。
2009 5・21 92

* 身近なこの辺その辺から片づけて行かねば発送の作業にも差し支える。朝から汗を流して、湖の本既刊分の責了紙、一部抜き、表紙などを隣棟へ移転すべく、山のような荷物と組み合って選別していた。これらのおかげで六畳間一つが占領されていた。増刷さえしないなら棄ててもいいのだが、棄てると「版」自体の記録が失せてしまう。なんとか、大方片づけた。片づけた荷物を隣家に運ぶのはまた後日。
2009 5・22 92

☆ 祝百巻:
“「秦 恒平・湖(うみ)の本」全100巻”おめでとうございます。
これは、すごい! です。凄いことです。ホームページの「桜の中の秦さん」とずらーっと並んだ「湖の本」たちを眺めながら、重ねて心よりお祝い申し上げます。
田んぼの苗がぐんぐん育っています。益々のお元気をお祈りします。
e-OLD千葉 勝田

* つつがなく進めば、桜桃忌ごろにまず九九巻めをお届けできるでしょう、百巻めも併せ進行しています。お便りを戴いていながら勝田さんにはつい甘えて、まともにご返事もさしあげず失礼を重ねています。御宥恕を。ゆっくり勝田さんと会って話せる日をいつも胸のうちに待ち望んでいます。これも甘えですね。
2009 5・23 92

* さて、下巻要再校の措置を済ませた。上巻責了へまっすぐ進む。発送用意に入る。うまくすると桜桃忌に上巻が用意できるかも知れない。
2009 5・24 92

* 下巻の初校を済ませ、上巻の再校も好調にすすんでいる。発送用意の方が大きく出遅れの形だが、ゲラの方の進行が快調だった。上下巻で単行本の三冊量ほどあるが、至極読みやすいということに助けられた。読みやすいのは、わたしの気が乗っているからで、読者の皆さんにどうかは、この先の話である。
2009 5・25 92

* うまい昼食をして、帰宅。
さて、少し自転車で走ろうかと思ったが、段取り悪く、愚図ついて。
運動は諦め、目の前の仕事に踏み込んでいた。
食事していた頃、堪らなく憂鬱の塊が胸に溜まっていた。東京という街に暮らすのが限りなく不愉快に感じられたが、では京都か。
そうでもない。分かりよく謂うとこれは漱石病のようなものか。昨日たまたまテレビを触っている内に偶然にわたしの脚色したNHK劇場の漱石原作、俳優座公演の『心 わが愛』をひらいてしまい、そのまま第一幕を観てしまった、あれが響いたか。人が信じられないだけでなく自分で自分も信じられないと呻く「先生」、静かな心がどうしても持てないと杖を地に突き立てて呻く「先生」が気の毒になって、その気分が乗り移ってきた。
『行人』で一郎を狂わせ『心』で先生を自殺させた漱石。だが漱石自身は、狂ってはいたが自殺はしなかった。
* 自殺した江藤淳は漱石論でデビューし、漱石の『心』を愛読したと言っていた。そして自殺した。
『心』の「奥さん」は「私」にむかい、もし自分が先に死んでしまったら「先生」はきっと悲しむでしょう、生きていられないかも知れませんよと話していた。江藤淳は夫人に死なれて後を追うように自殺した。わたしは烈しいショックを受けた。三ヶ月ほど後、わたしはまた、実兄に自殺された。「悲哀の仕事」としてわたしは『死から死へ』を編んだ。その一部を今度の本でも、あえて繰り返しとりこんでいる。

* さ、さらりと忘れよう。
2009 5・26 92

* 今朝は念校をさらにつづけ、上巻あとがきの初校出を手に慎重に校正し、アトヅケ四頁の原稿、表紙原稿の入稿とともに、あとがき要再校で印刷所に送り返した。上巻も下巻も各二百頁になる。頒価では赤字必至だが、気にしていない。
何をいま、大事に意識しているか。

*  十六 敦盛  (写真割愛) この美しい能面が少年であるとは信じられないだろう。この面、真正面から尋常に見ればむしろややふっくらした普通の顔つきにしか見えない。カメラマンと一緒に長い時間探りに探り、ついにこの角度のこの表情を見つけた。膝下に公達敦盛を組み敷き真上から覗いた「熊谷直実の男の目」で撮影したのである。こんな美しいこんな優しい少年をわたしは知らない。短編集『修羅』の函を飾った。湖の本エッセイ27『能の平家物語』の口絵にもした。
2009 5・28 92

* 通算第百巻本紙の再校ゲラも届いた。押せ押せで進行しているが、発送用意が大幅に遅れている。桜桃忌頃までにどうにかなるか、ならないか。慌てないでいいと思っている。

* さ、遮二無二発送用意へ吶喊。
2009 5・29 92

* あれこれ気ぜわしいのを、統御もせずウロウロもせず、「いま・ここ」で眺めている。仕事も用事も、一つずつしか片づかないものだ。

* とにかく一歩一歩、用を前へ運んでいる。クリスティン・スコット・トーマスとハリソン・フォードの映画『ランダム ハーツ』がとびきり佳い映画で、助かることに耳で日本語の会話が聞ける。発送のための手作業がうんとはかどった。見さしだった娯楽作の「トゥルーライズ」も、シュワルツネッガーのというより、細君役のジェレミー・リー・カーティスが可笑しくて、笑いながら超大アクションを「耳」で観ていた。スリルがおもしろいというだけならこの映画は第一級。クリスティンとハリソンとの作品はぬきさしならない心理劇が思いのほかの真率な愛を育んでいく。クリスティンの清潔でセクシーな魅力、ハリソンの頑固なほどの一本気。観たいとこのところ思ってきたのを、ビデオテープで観られた。仕事の進行にも幸いした。
2009 5・30 92

* 映画「黒い雨」は厳しかった。創られた劇映画ではなく、リアルなドキュメンタリータッチ。黒白のしっかりした映像で、日本の田舎と田舎の日本人とが描き出され、しかも原爆恐怖の余波がじんじんと神経を叩いて鳴り響く。
田中好子を芯に、文学座のバイプレイヤー達が強烈なアンサンブルで日本の悲劇を彫琢する。映画に惹きつけられると机を離れられず、仕事がかえってはかどる。今は、いつもの例にたがわず、そのようにして細かな辛抱仕事をつづける時なので。
2009 5・31 92

* 校正を持って出ていた。柳通の、気に入りのレストランへ、車で。
スープと鱸が旨かった。デザートも。ワインの赤も。夏至まで日が長い。機嫌良く家に帰って七時半。
2009 6・2 93

* 上巻(通算99巻)ツキモノも責了に。発送用意があるのみ。いや、まだ表紙の校正が残っている。
2009 6・3 93

* 上巻の表紙も責了にし、あとは十五日と告げられている本の出来を待って、発送用意に専心するばかり。今日一日でかなり捗った。下巻も追っかけて進め、今年のそのあとは、暫く、沈思黙考ということにする。
2009 6・4 93

* すこしウロが来ているのか気持ちが発送の用意に集中しない。上巻だけで送るべき人があり、同じなら上下巻揃えて送れる人もいる。作業は繁雑で狭い家で処理が利くかも心配。
なのに、少しぼんやり手を拱いてやすんでいる気分。まッいいかと。やすみたいならやすみやすみやれば好いので。
2009 6・7 93

* 玄関に積んだ重い片づけものの書類等を隣棟に担ぎ込み、隣棟の玄関を塞いでいた重い片づけものも、なんとか片づけた。東の玄関も西の玄関も明けておかないと、新刊が届いたときの発送作業を塞いでしまう。腰が痛かった。ぐっしょり絞れるほど汗を掻いた。いつもは明快に作業手順が見通せて用意にも穴があかないで済むのに、今回は見通しが利かなくて、何をしなくてはいけないのか、そのためには何をしなくてはいけないのかといった順序がなかなか把捉できない。まだらボケもいいところだ。
2009 6・9 93

* 来週は上巻本を発送する。下巻と一緒に送る人もあり、下巻の進行次第で、ひきつづき忙しくなる。
2009 6・11 93

* 堀切菖蒲園の記事を朝刊で見て、懐かしかった。高速道路が目に入ったりして殺風景にも迫られながら、とりどりの菖蒲は美しくて、妻と、見飽きなかった。駅近くの中華料理もよかった。その足で柴又へ行った。平成十八年六月五日だった。

あの日は、まだ。
わずか後、六月二十二日に、十九の孫・やす香の「白血病」が、「mixi」で広く告知された。仰天した。この日から、やす香を歎き悲しむ『かくのごとき、死』(湖の本エッセイ39)の「呻く日々」が始まった。
あれから三年経って。
いま、わたしは上記の著書ゆえに、娘夫妻(やす香の両親)から名誉毀損訴訟の被告席に立っている。父の書いたことが、両親の生活に具体的損害を与えたから千数百万円を二人に対し弁償せよと云う。
その、六月二十二日から、やす香死四日後の七月末日に到るわたしの日々の日記記事を読んでもらいたい。大学教授であり自治体の主任児童委員である夫妻の「曰く」は、理解に窮する。訴えるぞと威してきた三年前の八月このかた、夫妻の云うことは、くるくるくると余りにめまぐるしく変わっている。
2009 6・13 93

* 郵便函に、『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上巻の刷り出し。週明け明後日には、いよいよ「湖の本通算第九九巻」の発送が始まる。今日と明日と、ゆっくり息をついておく。
中村屋一党での、七月、コクーン歌舞伎『櫻姫』のベンチ券が、成駒屋のお世話で、届いていた。
また歌舞伎座七月の、玉三郎、海老蔵、我當らが揃う鏡花劇などの昼夜座席券も、松嶋屋から届いていた。
ふたつとも、とても楽しみ。
六月歌舞伎座は、もうすぐ、昼夜楽しむ。
仁左衛門のまず絶対的好演の期待できる「油地獄」、高麗屋三代に吉右衛門ら大勢が花を添えてのめでたい四代目金太郎初舞台が、「門出祝壽連獅子」。楽しみ楽しみ。
六月中には、加えて俳優座と劇団昴の新劇も観る。不愉快を吹き飛ばす、七十三老の、最良のお薬です。
八月の歌舞伎座三部制は、第二部が、案内だとふたつとも勘三郎の出勤。福助がやる「累」の怖い怖い怪談と、中村屋の「船弁慶」知盛。これだけが観たいなあと。
2009 6・13 93

* わたしの仕事の、つまり「文学と生活」との主要な軸は、当然一に創作、次いで「湖の本」刊行、さらに「e-文藝館=湖(umi)」の責任編輯、そして「闇に言い置く 私語」のいわば「宗遠日乗」である。

* 日本ペンクラブの理事の仕事は、理事会という制度的な場に足を取られず、むしろ文筆の場で世の中へじかに訴えたり問いかけたり述懐することで果たす気でいる。
六期七期務めて、理事会でなにを真剣に発言しても煮え切らない、その傾向が阿刀田執行体制に入って度がすぎてきたことをイヤほど感じており、よく思えば、職分は、理事会に出席してだけ果たせる物でないことに気づいた。
理事会が、執行部下部機関に成り下がっているという批判を、わたしは何度も他の理事から聴いたことがあるし、その感を阿刀田一期で痛感して以来、わたしは今のようなイエスマン運営では「不信任」と、公然発言してきた。

* 必要が在れば、文書で、あるいはメールで、事務局宛伝達するし、阿刀田会長、浅田次郎専務理事に必ず伝えて貰いたいと事務局長にすでに伝えてある。
それより何より、会長、専務理事に人を介せずメールでものが具申出来ない、メールアドレスを彼等が持っていないのかも知れぬという現状にわたしは困惑する。時代後れに、惘れる。そんなことで、どう「執行」するのか。

* という次第。
さて、『濯鱗清流』下巻の本紙、表紙を責了にし、遅れていた「あとがき」を書き始めた。明日、上巻が出来てくる。
2009 6・14 93

* 京都から、江戸ではない、東京へ出てきて、満五十年。
望んだ通りに、此の十九日桜桃忌をまえに、「湖の本」新刊の上巻、通算九九巻めを、今日から送り出せる。太宰治賞受賞から四十年、創刊して二十三年。百巻も、今月中に出来る予定。その跋文、いま電送した。
さ、もう上巻が玄関へ届く頃だ。

* 午後二時、まだ待っている。命に関わることでなく、いっそのんびりと他の仕事をしている。かなり機械の前が暑い。

* 搬入が十七日午前に延びた。二日儲けたようなもの。ゆっくりする。
2009 6・15 93

* 予定の変更から二日遅れたが。今朝の内に「湖の本エッセイ47」通算九九巻めが出来てくる。
発送用意は不十分だが、やや遅れて出来てくる百巻と併せて送りたい人たちも多いからで。遅れたとはいえ、もともと明後日の桜桃忌を期していて、内心間に合うまいと思いながら校了したのを、印刷・製本、悠々間に合わせてくれたのは有り難い。感謝。
やはり心嬉しいか繰り返してしまうが、題して『濯鱗清流 秦 恒平の文学作法』上下巻である。その上巻が出来てくるので、やや早起きした。
2009 6・17 93

* 無事に通算九九巻が出来てきて、夕食まで夢中で作業し、宅配便の最初の発送を終えた。冷たいビールでカレーライスを食べた。
晩もかなりの作業で用を前へ進めた。

* 上巻は、200頁。かっちりできた。下巻も、200頁。いまどきの単行本なら、上下巻で優に三冊になる。
明日は、すこし休息しないとからだが参りそうなほど、今日がんばった。
2009 6・17 93

☆ 毎日のご様子、  瀧 埼玉
時々ではありますが、ホームページを開いて、拝読しております。お仕事、御健康のこと等、懸念、心配、共感等々、いろいろ心を動かされております。
また、過日は、「湖の本」NO,52(自筆年譜一)をお送りいただき、感動、恐縮いたしました。かねてより予告がありましたので心待ちにしておりましたが、現実に手にいたしますと、想像以上のものがありました。
年譜は好きで、その人のところどころの年齢と、自分の年齢を重ねて、追想や後悔に惹き入れられますが、作家ご自身が、詳細に作成された年譜を拝読させていただくのは、今回が初めての経験ではないかと思います。
作品から知らず知らずのうちに組み立てていた作家像と、年譜の重なりは、さらに濃密な想像へと誘われるものがありました。御作が、虚構性の高い作品でありながら、しっかり人生に根差した着想であったことが、理解され、人生を多層的に、輪廻的に、時空の外にいて、全ったき新しい時間と空間に生きる、そのような独自の世界観が、より一層深く、確かなものと感じられました。
また、自筆ならではなのでしょうが、ところどころに挿入された、多くの謎のような、感想や嘆息は、これから作家論をものしたいと思
う論者には、必要な論拠として、また資料として、決して無視し得ない言葉になるのではないかと思いました。私も、何度も立ち止まりました。そして、自筆年譜が、まるで『モンテクリスト伯』を読むようにも惹き入れられ、動揺させられる、この好奇心を刺激するホルモンの攪拌は、いかなる人間機械の構造なのかと、反省をこめて追想するところでした。
この、自筆年譜により、より本格的な作家論が、必ずや書かれるであろうことを、確信し、期待しております。本当に、ありがとうございました。
年譜を読み終えてから、今、改めて『清経入水』『畜生塚・初恋』『秘色・三輪山』『蝶の皿・青井戸・隠沼』を読み返しております。今まで読み切れていなかったところが多々あり、新しい発見に楽しませていただいております。
梅雨に入り、湿潤な天候が続きます。秦先生、奥様お二人の、いついつまでものご憲章をお祈り申し上げます。それでは「湖の本」の良い御作品をさらに期待し、お待ち申し上げております。
2009 6・18 93

 

* また「湖の本新刊」通算九九巻発送の作業にかかって、大凡予定の分を送り出した。もう少し別口の発送用意が必要になる。
2009 6・19 93

☆ 桜桃忌、湖の本「濯鱗清流」頂戴しました。  瀧
ありがとうございました。
さきほど、教育テレビで「走れメロスの津軽版」を「視点、論点」でやっておりました。メロスが賊に襲われた後、自らを鼓舞して、再び走ろうと決意する、その心理描写を津軽弁に翻訳して語っておりましたが、無駄のない、迫真の表現が、津軽弁により一層深いリアリティとなって、胸に迫りました。良い文章には、芯にゆるぎないもの(思惟)がある、と思いました。
末尾ですが、ご自愛、ご健勝のほど、お祈り申し上げます。 敬具

☆ 風、お元気ですか。
よい天気です。今日は外出の用事があるのですが、うう、暑くなりそう。
花のところには、風の新刊はまだ届いていません。
はてさて、いつごろ届くのでしょうか。
横光利一論について、思うところありました。評論と併行して、小説の方も読んでみます。
ではでは。
風は今日も肉体労働かしらん。お元気で。花

☆ お礼
ご恵贈の新刊、有り難く頂戴しました。ちょうど我が身に重ね、旬年ひとむかしを振り返るに、此はしめたと。読みたいときが旨いとき、読みたいように読むのも旨いとき。
日ごろのご高配有難うございます。
お体おいとい下さい。梅雨晴れ薄暑夏至まぢか。 優 e-OLD

☆ 新しい湖の本、「濯鱗清流」(上)届きました。 京ののばら
いつもありがとうございます。
「第九十九巻・第百巻」達成おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。これからも益々ご活躍くださいますよう、願っています。
京都は梅雨入りの発表から後、晴れの暑い毎日です。
「eー文藝館=湖umi」の毎日の「推奨・紹介」をメモしておいて、読ませて頂いています。当てずっぽうに読むより、わかりやすくて、いろいろと参考になり、楽しみにしています。
いつもの倍もの発送作業でお疲れのことでしょう。
くれぐれもご自愛くださいますよう。

☆ 新刊の御本本日受け取りました。 光
有難うございます。
身辺些事
七月十二日に大濠能楽堂で「**流普及公演」があり、公演に先立って私に「源氏物語と能」というテーマで話をせよ、という注文が来まして… 何十年かぶりで源氏を読んでいます。昔は何か義務のように感じてとりあえず読んでおこうか、という取り組みだったので、今はひたすらというか、単純に源氏物語の面白さを堪能しています。
五月の連休に家族で久しぶりに奈良へ行きました。
秋篠寺の帰りに、初めて松伯美術館へ寄りましたら「能と松園」ということで、金剛さんからの装束や面などが一緒に展示してあり、珍しい写真、「序ノ舞」の下絵など貴重な物を見る事が出来ました。

* そろそろ届いているようで、本当の一息をついている。
2009 6・20 93

☆ 湖の本
湖の本エッセイ47を拝受いたしました。有難うございました。なかなか面白い編集で、つぎつぎと読めそうです。私でも。
よくもよくもこれだけのお仕事をされますお力に敬意をお伝えいたします。立派なことです。中々出来ないことです。
ますますお元気でいらしてくださいませ。
明日から母の見舞いもかねて温泉旅行へいきますので、送金、すこし遅れること申し訳ございません。ご容赦くださいませ。
お身体のほうはいかがでございますか? 先日**さんと電話でながながとお話いたしました。秦恒平さまのことが話題となりました。
彼女も体調が余りよくないらしく、もうすこし元気になったらお会いしたいと話されていました。
私もしかりで最近は体調不良なときもあり無理ができないのです。絵のほうも休みやすみ無理のないようにやっています。
年齢には勝てません。致し方ないのでしょうね。いつかまた作品をみてくださいませ。
神奈川一水会展に出品しました60号の作品はすこし変化がでてきていい方向ではないですか! と評価していただきました。
これから真夏にむかって大きな制作をせねばなりません。だんだんきびしくなってきました。
ではこのへんで失礼いたします。ごきげんよろしく。  彧
2009 6・21 93

☆ 十九日に届いていながら  湖雀
お祝いとお礼と感謝とよろこびをお伝えするのがおそくなりましたことお詫びいたします。
落ち着いてあらためて後日メールします。
あじさい、くちなし、栗の花。ところが雨は夕立みたい。いまも轟く雷鳴と稲光がして大粒の雨が降ってきました。車軸を下すたとえを口にする雨も、しょっちゅうです。
調整の要る時節でもあり、お疲れの残りませんようどうか一層お大切に。 雀

* 大雨の降りしきるのを譬えて「車軸のごとし」と謂い、また車軸を「くだす」「流す」「ふらす」とも謂う。たんに「車軸す」で大雨が降る意味につかう。

☆ 秦 恒平先生  秀
この度は御高著『湖の本 エッセイ47 濯鱗清流』(上)』をお送りいただき、誠にありがとうございました。毎回ご丁寧にお送りいただきながら、なかなか御礼も申し上げられず、恐縮するばかりです。
それにしても『湖の本』は創刊満23年、次巻で通算100巻を迎えられるとのこと、この間のご努力と絶え間ない思索の深さを思うと、いささか呆然とし、心より敬意を表するばかりです。
今回のご労作は “「思い」「批評」「交際」「文学との日々」とでも読み取るべき「文学作法」” とのことですが、拝読したところ、「文学作法」などという
枠ははるかに飛び越え、貴重な文壇史、文学批評となっていることに深い感銘を受けました。次巻を今から楽しみにいたしております。
6月も下旬となり、鬱陶しい天候が続いております。夏風邪などお召しにならぬよう、くれぐれもご自愛ください。
またお目にかかる日を心より楽しみにいたしております。
取り急ぎ御礼まで。

☆ お元気ですか、みづうみ。
色々疲れていたせいか、風邪をひいて(幸いインフルエンザではなく)寝込んでいました。先週末に湖の本頂戴していましたのに、ご連絡遅れましたことお許しください。まだ激しく咳き込むこともありますが、やっと外出できるようになりましたので、本日振込も済ませました。
『濯鱗清流』を手にして、まったく新鮮なご本を読む気持です。
まだ頁をめくっているだけですが、おそろしく重たい作品であることにぞくっとします。畏怖、畏敬の念のようなものに鳥肌が立ちます。文学者の孤独と渾身の歳月の重さが頁をめくる指先から伝わってまいります。
覚悟を決めて、重さと格闘しつつ読む作品ですから、軽々に感想は申し上げられませんが、少し読み始めただけで「太字」の多用に目を瞠ります。太字の部分、怖いくらい効果的な表現になっています。 あぢさい
2009 6・22 93

☆ 湖へ  珠
お元気ですか。ご無沙汰しました。
心身共にきつい春を過ごし、ようやく一息ついています。
澱のように積もった疲れもゆっくりですが日々に流し、我が身の感覚を取り戻しています。文字を読むゆとりの戻り始めた頃に、記念なる「湖の本」第九九巻をお送り頂き、大変嬉しくページをめくり始めました。
七月最初、施餓鬼供養で帰郷して、あとは、三年前と同じように、泉鏡花の二作品を愉しみに、鏡花を読んで過ごす月になる予定です。
この縁の糸、爪弾いてみたい。
雨に風、めまぐるしく変わる天候にはくれぐれも気をつけて。お大事に。
ご本の御礼まで。

* 雨中郭公といへる心をよみ侍りける  按察使資賢 (千載集)
をちかへり濡るとも来なけほとゝぎすいまいくかかはさみだれの空

☆ 秦先生   森
おはようございます。
99巻目をお送りいただきありがとうございました。
ついに100巻も姿を現してきたようで、おめでとうございます。
自筆年譜の続きはさらにその向こうなのですね。楽しみにしております。
うっとうしい長雨ですが、ちょうど紫陽花も見ごろですね。
外歩きなどなさりお元気でお過ごしください。(我が家では日に日に蝸牛が増えていきます。)
では。
2009 6・23 93

* 下北澤へ出かける直前に初めての人から「e-文藝館=湖(umi)」へ「投稿」があった。少し時間を貰ったが、こんな返信をすぐにした。

* 秦 恒平です。 朝食して、いまから所用で出ます。作は、帰宅後に読みます。
いまちょうど「秦恒平・湖の本」通算九九巻の発送中なので、さらにひきつづき記念の第百巻も送り始めますので、しばらく時間をもらいます。
ひとつだけ。
わたしがまだ「菅原万佐」という筆名で私家版を作っていたころ、その一冊が誰の手を経てか新潮社の編輯重役に、さらに「新潮」編集長に廻されていて、突如としてある日、その酒井健次郎編集長から呼び出しが来ました。どんなに仰天し興奮したか、お分かりになるでしょう。
酒井さんはわたしを観るなり、「本名で書きなさい」と断定しました。わたしも即座に覚悟をきめました。何一つ他に言葉の交換はありませんでした。
あなたにも同じことを言います。では。後日。
わたしの新刊『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上巻を送ります。送り先を知らせて置いて下さい。

* 筆名というペルソナ(仮面)の、いくらか利点もあるだろうが利点に甘えたとき、「書く」覚悟は不徹底になる。

☆ 『濯鱗清流』上巻有難うございます。  弘
私語の刻からひらき、丁度古巣から先日持ってきた資料に新井白石のこと、『親指のマリア』とのかかわり、川口市の長徳寺ほかキリシタンの墓を訪ね歩いた日々のことなつかしく思い返しています。岩槻もさいたま市に合併されましたが、+(クルス)マークの刻まれた浄国寺ほかかくれ切支丹研究をかなりノートした日も遠くなりました。
今日は六月十九日、県立青森高校(旧制中学と女学校合併)の大先輩の命日。安らかにと。三鷹(禅林寺)には、そっと一人で行き、先ず、森鴎外の墓を拝みます。

* 大島渚夫人、青山学院大清水名誉教授、静岡大学小和田教授ほか各大学より懇篤の来書あり。

☆ 秦先生   駿
音沙汰なしで誠に申し訳ございません。
**新聞(大阪)の***です。
「湖の本 エッセイ47」拝受。ありがとうございます。
創刊23年。「文学作法」の下巻で「湖の本」が百巻を迎えられるとのこと。
これはもうニュースですね。
小生が文化部に在籍中でしたら、取材させていただくのですが、今は編集局から異動しておりまして、隔靴掻痒の感(という言葉が正しいような正しくないような)。
何か、考えます。
それにしても、出版社にお勤めになっていた時代や東工大で教壇に立ってらっしゃったときの、年収のことなどは、いい意味で生々しくて、「文字」を書いて生きていくことの苦労や矜持が慮られ、感じ入りました。
一応、新聞記者の端くれのさらに端くれとして、背筋を伸ばしました。
また、
泉鏡花の「五百人」の固定読者と、「ホームページ」が“リンク”する現在性に、眼から鱗の思いです。
そんな感慨につられるように先に頂戴しておりました「湖の本」の「自筆年譜(一)」のことを思い出しました。
昭和29年(小生が生まれる*年前です!)に先生が同志社に入学されたくだり…。
「金田民夫助教授」「中川勝正助手」先輩の「郡定也」先生のお名前が出てきますが、お三方とも小生が入学した時は「教授」でいらっしゃいました。
中川先生は小生のゼミの指導教授でして、先だって直木賞を受けた山本兼一さん、アウトドアライターの天野礼子さん、劇作家のマキノノゾミさんは、
「中川ゼミ」の先輩です。
ちなみに、
小生は現在、デジタルメディア担当として、新聞社の新しいビジネスモデルを探っております。
新聞記者のような仕事や、広告マンのような動き、営業マンのような思考が必要で、なかなか楽しいです。
というか、
新聞社は構造不況業種としてかなり厳しい局面に向っておりますが、小生としては、かなり充実した日々を送っております。入社してから最も自分に合った “場所”を見つけた思いですので、なかなか大変ですが、カラ元気ではなく正真正銘、元気です。
先生のお知恵も拝借できれば、と思っております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。
ちなみに、
病気(重症筋無力症)で入院したこときっかけに始めたトロンボーンはまだ続いています。
もう初めて3年目になるのに、さっぱり上達しないのは、哀しいのですけど。
きょうは先日土曜日に出勤した代休でして、トロンボーンが入ったジャズを聴きながら、エリック・ホッファーの「自伝」を読みました。

* ありがとう。働きがいのある日々を過ごしている若い友の心はずんだ言辞に触れる嬉しさは、格別。とても頼りに感じている。
2009 6・23 93

* 今日はずっと外出中も、自分の「新刊」を読み返していた。ちょうど十年一昔前のはりつめた「文学との」日々。
十年たって、よほど爺になってしまったが、気の張りや思いは変わっていないと自覚する。こう生きるために生まれてきたんだなと。「濯鱗清流」という題にこめた、優れたモノ・コト・ヒトへの感謝が、自分を支えてきたと思う。
2009 6・23 93

☆ 『濯鱗清流』に御礼  maokat
hatakさん  札幌のmaokatです。
先週から昨日まで所用で上海へ行っておりました。留守中に湖の本が届いておりました。手にずっしりと重みを感じます。継続している十年の歳の重みでもあります。
何故か帰る前の日にお腹をこわし、帰国後二日目の今日も下ったままです(発熱はありませんのでインフルエンザではないようです)。三年前のシリア、去年のイタリア・ドイツ、どちらも体調を崩して帰国しました。同じようなことが三度続くと、さすがに海外の水に身体がついていけなくなってしまったのかと悲しくなります。そういえば、昨年ごっそり体重を落として帰国した後から、健康のために週に二回はプールへ行って泳ごうと思っていたのですが、いつしかそれも忘れていました。またプール通いを復活させようと思っています。
十年以上前のことですが、レンタカーを借り、一人で沖縄本島南部の田舎を調査に廻ったことがありました。静かな村の今は人が住んでいない廃屋、崩れかけた赤瓦とサンゴ石垣の小さな家でしたが、草ぼうぼうの庭に白い月桃の花が揺れていて、真夏の青空に映えとても美しかったことを今でも憶えています。
海勢頭豊(うみせどゆたか)という人の『月桃』という歌を知ったのがいったいいつだったのか思い出せませんが、この歌は絵空事ではなく現実を歌ったものだと、あの時の体験が教えてくれました。今日はそういう事を一人静かに思う日でした。

月桃 白い花のかんざし
村のはずれの 石垣に
手にとる人も 今はいない ふるさとの夏

六月二十三日待たず
月桃の花 散りました
長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

香れよ香れ 月桃の花
永遠に咲く身の 花ごころ
変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏
2009 6・23 93

☆ 「湖の本」百冊記念企画は 嬉しい贈物でした。
秦さんのぶれない倫理観・美意識・そして文学者としての覚悟が、折々の思いのうちに「文藝」として表現されていて、まとめて拝見すると一層感銘深く感じます。まずは中仕切りへの到達をお祝い申し上げます。百冊目も待たれます。  元出版部長

☆ 前略   頁を繰っておりまして 江藤(淳)さんの自殺の翌日の御述懐には深く感銘致しました。「『ちがう人』という気持」を率直に記されながら、「涙が流れて困った」一日の様々な御感懐は私の心の最深部に届きました。(今年は歿後十年に当りますね。)改めて最初から通読させていただきますが、同世代者として多彩な感想が浮かぶことと存じます。
本日は取急ぎの勝手な御礼をしたためてしまいましたが、どうぞ呉々も御体調に留意され、さらなる御健筆御多幸を心からお祈り申し上げます。草々不一   元編集長

☆ 「濯鱗清流」ありがとうございました。
身辺ミクロと周辺、いえ、日本、世界のマクロがせめぎ流れるグローバル、様々な意味で勉強になります。
この上巻をあと一冊、下巻を二冊、お送り下さいませんでしょうか。
ますますのご活躍を祈念しおります。  作家

☆ 前略  次から次へと創作なさっている秦様のパワーにたじたじです。 梅雨の入りも近く、御自愛のほどを。 脚本家

* 画家の松尾敏男さんからも懇篤のお手紙があり。有り難く、皆さんに励まして頂く。

☆ お元気ですか  鳶
届いた『濯鱗清流』上巻の記述は1998年から2000年にかけて二年間のもの。あれからほぼ十年、歳月を感慨深く振り返りました。二千年から現在に至るまでの文学作法を編めば、それもまたさらに膨大なものになります。改めて凝縮した形に纏めるとしても、それも大変な作業になる・・。
覚悟して、健康に留意されて、頑張ってと、切に思います。
先日の俊成女の話から『無名草子』を取り出して,やっと読み終えました。久しぶりの古典でした。
少し梅雨らしい空模様になり、一昨日など夕方強い雨が降ったとき折悪しく自転車で走っていて、ずぶ濡れになりました。濡れ鴉ならぬ濡れ鳶。目を開けていられない降りでしたが雨宿りするような軒先もなく、周囲は田畑で、ずぶ濡れになるのが気持ちよかったとはやせ我慢も半分ですが、潔かったです。
夏になるといっそう行動は鈍りそうで、今から暑さを嘆きます。
イラン、アフガニスタン、パキスタン、いずれもいずれも現在不穏な情勢にあります。イラクも再び自爆テロが起きています。思い入れ深く、日々重大な関心をもって過ごしています。
以前少し書いたことがありますが、紹介されて神戸の詩の集まりに数回出かけました。
真正面から詩作に向き合ってこなかった、と痛感させられることもありました。現在の詩人たちの作品も動向もほとんど知らなかったことも、思い知らされました。長い時間、文学にまともに関わってきた人たちの博学も自信も尊敬します。同時に不遜に近いかもしれませんが、わたしはわたし以上にはなれないのだとも打ちのめされました。真率向かい合う気持ちはあります。が、詩に命を賭ける覚悟如何、と問われれば、弱いわたしには答えようがありません。また、わたしが書くものが果たして詩の形なのかどうかも疑問だとも指摘されました。
改めて書いたものを読み直して、この二日ほど、全否定したいほどの気持ちに襲われています。
どうしたらよいものやら。わたし以外にはなれない思いと全否定したいほどの痛さとの相反したものを抱えて無力感に陥っている鳶です。

* 鳶は、どこかで甘えていますね。決めるべきは自分で決めるのです。
詩のために仲間で集まっている人たちの共同幻想に怯えることも気にすることもありません。一人で沈潜すればいいものを、仲間で浮かれて詩境を平均化させてしまうか、わるく興奮して脱線してしまうか、いわゆる「詩誌」で読む詩にたいしたたモノの無いのが相場です。わたしはたくさん詩誌を貰いますし目を通していますが。
むしろ孤独に詩と向きあって、うまずたゆまず沈潜し鍛錬している人の詩語の美しさに打たれることが、ママあります。短歌も俳句も同じですね。
鳶は、自分を全否定どころか、自信を持って一度自分の詩を「全肯定」したところから敢然と立ち、そこで厳しく孤独に自己批評の刃を磨くべきなのです。全詩集のようなコトを考えるならなおさらです。
しかし、美意識に磨き抜かれた美しく凝縮された「主題のある詩集」を何冊かつくるのが、出来れば同時につくるのが、いい気がしますけれど。
しかしそれは自分で血を流すほど考えて決めて下さい。誰にも口を出させないという覚悟で、悔いなく爆発を。噴火を。 鴉
2009 6・24 93

* 山本周五郎について書かれた本をもらい、かなり一気に読んできて、たとえばどんな文学賞も要らないなど、敬服できる逸人の風がある。
ただ、こと文学、こと作品に添って感じ取れることは、何としても「読み物」作家であるという事。苦心工夫の作といわれるモノも、あらすじや部分的に表現を読んでいても、要するに巧みなつくりごとであり、切れ味鋭い文学の意気や意気地ではない。志賀直哉風の観点からすれば、客をしっかり寄せている講釈師の藝のよさ、で止まっている。以前にすこし読みかけたこともあったが、ついて行きにくかった、頼りなくて。評判のよさが理解は出来て、たとえば藤沢周平の作などと同じだが、所詮は読み物の味が抜けていない。

* じつは私、まだ新米のピカピカだったころ、何かの雑誌、新潮社の「波」あたりからこれはと感じて切り出していた「ことば」があった。
たしか、それが山本周五郎の「ことば」だった。
わたしはそれを五糎四方ほどに切り出し、いかにも少年ぽく、といってももう結婚しものも書いていたのだが、貧しいツールに入れ、始終身の傍に置いていた。読んでいた。
二○○○年の元旦、息子に新年の賀詞をメールで送ったなかに、その周五郎の言葉を入れていたのが、今度の「上巻」に出ている。

* 歳末に片づけ仕事の中で、古い、幼稚な、やすい、鉄の写真立てのようなものを見つけました。雑誌から切り抜いたらしい、「言葉」が二つ入っていました。小説を書き始めた若き日々に机に立てていたものです。だれの「言葉」だったか、山本周五郎か、それは忘れていますが、「言葉」には信服していました。その通りと信じていました。
二千年の年頭に、此処に置きます。

此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか ?

水を流そうと思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より深く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。

五センチ四方にちぎった、色変わりのした粗末な紙に、9ポイントの字で印刷してあります。
あとの「言葉」の三行目は、わたしの言葉に変えました。原文では「水の在る場所より低く」とある。「低く」掘るのは間違いだと思う。心して「深く」掘りたい。
きみの悔いなき健闘を祈っています。 父  二○○○・一・一

* この、「水を流そうと思うなら 流そうと思う方を 水の在る場所より低く 掘らねばならぬ」とあった原文が、いかにも読み物の人の、読者の意を迎えた言葉だとわたしは感じた。今度もその本を読みながら何度も感じた、「そうなんだ」と。
わたしは、「深く 掘らねばならぬ」と思っている。直哉でも潤一郎でも荷風でも漱石でもきっと「深く」と自覚していただろう。

* 山本周五郎と例えば私とで、いや私と限らずよく聞くフレーズがある。
「文学に純文学も通俗文学も無い、あるのは良い作品と好くない作品とがあるだけだ」と。言葉の上では、それが正しいであろう。
しかし、その上であえていえば、通俗読み物を贔屓の人たちの「良い」と、たとえば漱石や鴎外や直哉や秋声や谷崎や川端らの作が良いという人たちとの。同じことばではあっても「良い」の質や水準が往々にしてちがう、其処に大問題がある。「良い」のなかみが違っていては、上のテーゼは意味を成さなくなる。
同じく「面白い」でも、読み物が面白いのと漱石や三島が面白いのとではちがっていて、そこにクリティクが無ければ、問題がもとの木阿弥に立ち返ってしまう。説明的なお話が上出来に面白いのと、表現豊かに文体の美しく優れた文藝モノの面白いのとでは、まったく同じ物差しでは測れない。良い小説とは「面白いお話だ読み物だ」というのと、良い小説とは「優れた文体が人生や人間の秘密を深くから汲み出し表現している作のことだ」というのとでは、物差しの目盛りがちがっている。
2009 6・24 93

☆ 拝啓 「湖の本」エッセイ47 誠に有難く拝受、御説に首肯を続けながら、たのしく読了いたしました。たゞ少数の人物についてだけは、あの方はそんな方ではありませんと思ふこともありました。
編集者は文士の裏も表も知つてしまふ因果な商売ですが、それを絶対口外しないといふ掟もあつて、それを破ると、文士は、いつ寝首をかかれるかもしれんと、編集者を信頼しなくなるからです。
しかし政界、官界、財界と比べたら、こんな清潔な社会は地球上にあるまいと思ひます。御著書を拝読してゐて、自分はいい社会で仕事をして来て幸だつたといふ思ひを深めました。
葉書で略儀ながら取急ぎ御礼ま迄、不一  元編集長

* 「たのしく読了」というのが嬉しい、有り難い。
「あの方はそんな方ではありませんと思ふことも」とあるのに、頷きながら、わたしが称賛し感謝した「方」なのか、わたしが強く批判した「方」であるのか、は一応分からない、が、たぶん前者であろうなあと幾分見当もつく。
それにしても、この方の活躍された、開拓されたころの文壇は、はるかな昔。
わたしはその「幸」を若造ながら少し自ら実感が出来ていたからこそ「濯鱗清流」とけれんもなしに謂えた。今日も読み返していて、素晴らしい「方々」のいた文壇だったと自然にあたまがさがる。
今は、とてもそうは行かない、なによりも表へ出て大手を振っている人たちに「文学者」としての気稟の清質が欠けている。
その一端が、故人高村光太郎の詩と文学とを公然貶めて平気の平左、みずから責任者の立場にいて「好ましいことではないと思った」と言いながら、批判を真っ向に浴びてなお「うやむや」に臭い物に蓋しているような所に、露呈されている。

* ひとことでいえば、上の元編集長氏の頃の先導的な「文士」たちは、「リッチ」でなかったが、みな、真に「フェイマス」だった。譬えて謂えば、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫などと並んだ日本ペンクラブの歴代会長の時代、ホンモノの文士たちはみな「フェイマス」であった。鏡花、秋声、潤一郎も、伊藤整も高見順も太宰治も、みな「フェイマス」な作家であり文士であった。
いまでは、「リッチ」志向が大勢をなし、若い人も文学を真剣に志すよりも、かつては文学の数に数えられなかった読み物の書き手をめざして「リッチ」の夢を追おうとしている。気稟の清流はかなり汚れてしまっている。「いい社会で仕事をして来て幸だつた」というこの歴然の「過去形」を見落としては、「幸」の有り難さがアイマイになる。
2009 6・25 93

☆ 秦 恒平様
『濯鱗清流』を拝読しました。「湖の本」の歴史もよく分かりました。妙な話と思われるかもしれませんが、元気が出ました。
頂いた元気の勢いで、小著(=『論集・中野重治』龍書房)を送らせて頂きます。あまりご興味がないかと遠慮しておりました。
本格的な梅雨となりました。ご自愛下さい。  誠

* 興味が無いどころか。中野重治はもっとも大事な、尊敬する「フェイマス」な作家の一人です。唐木順三先生のご葬儀の日、わたしは中野重治さんの雄偉の後頭をみながらまうしろの席で唐木先生を悼んでいた。中野さんと唐木先生とは肝胆照らす仲であった。

* 歌人の大島史洋氏からは新刊の歌集『センサーの影』を頂いた。甲府の山梨県立文学館からは「太宰治展」の完備した図録を貰った。
2009 6・25 93

* 二○○三年の分の「私語分類」が、沢山の項目に分かって、どうっと送られてきた。分類して頂いて、なお気の遠くなるほどの量がある。
今度の上下巻は、一九九八年から二○○○年末までを編輯した。三年分全量の半分ほどを用いたのではなかろうか。
アトヘ行くほど量的に増えこそすれ減りはしないから、分類の済んだ二○○一年から三年までの三年分で、今回程の本なら五巻分はすぐ編輯出来るだろう。

* さて、腹をくくって、とりあえずは目の前の通算「第百巻」を、落ち着いて発送しよう、慌てまい。
幸せなことに、法廷からわたしへの宿題が今は何もなく、このまま九月半ばまで忘れていられるのが有り難い。
今日妻と歩いてきた両国、柳橋、浅草橋あたりの風情を、もっと足まめにひとりで楽しみたいもの。
2009 6・25 93

* 出張してきた関西からの人と東京駅で会い、簡単なイタリアンとワインとで四方山、歓談。いろいろと現下の政情世情を歎きあうことと、不如意がちの健康問題とが、つい双方の愚痴になるのはなさけないが、それでも、人語をかわし、耀く目の色やはずむ思いをかわし合えるのはいいことだ。話題を懐旧にながさず、互いに今の仕事に絞られて行くのもいい。限られた時間で目一杯を話し、楽しんだ。この先に、今度の新刊のことなどでいい話題が生まれてくるといいが。ま、とりとめないといえば、とりとめないのだが。

* さよならしてからは、わたしの街歩き。久保田淳さんに本を戴いたし、昨日は両国橋、柳橋を渡ったし。先ずは川面と橋とを見覚えたいと、浅草の方へ方へ足が向かう。慣れないので確かな見当を持っては歩けないが。そして最後は食べるところへ落ち着く。駒形橋畔の「むぎとろ」で健康食の、薬膳。これは気取りすぎたかも。酒は「黒帯」の冷酒。米久のすき焼きへ行けば良かったかなあ。
終始、往復の電車では自分の本を読み返していた。

* さ、あすからは、上巻の発送追加と、下巻発送の用意にまた、うちこむ。
2009 6・26 93

* 割り切った気分で、ともあれ{下巻}の出来てくるのを待ちながら、さてといって脇道に逸れた仕事に励む気合いでも今はない。こつこつと、やや単調でも、どうしても必要なだけの作業に励んでおかねばならぬ。編輯とは、「雑用」の意味深い集積である。
2009 6・27 93

☆  冠省 湖の本100巻  作家
真に偉大な文業だと思います。絶後かどうかはわかりませんが、空前です。100以上の本を出版した人は小生を含めて沢山おります。でも、そのうち何冊がいつでも入手できる状態かといえば、むろん否です。小生の作品で、初版を出してから今でも書店で手にはいるのは『****』だけです。文庫本になっている本も、10年先のことはわかりません。それを考えると、貴兄の「文業」には驚嘆かつ羨望の念を禁じ得ません。
余談ですが、江藤淳についての感想に同感するところがありました。(略)
PENも含めて、最近は政府から勲章をもらって喜んでいる人が出てきて呆れています。最初から、その種の褒美を目標だといっていた人が貰うことに、小生は何も不快な思いはありませんが、その逆のことを公言していたのに喜んで貰うコメントには、もはや軽蔑しかありません。
PENも、どうやら、トップのいうことに何一つ疑問を呈さず反対もしない人を揃えたようで、議論のぶつかり合いのない羊の集団では、存在の価値なしですね。
お礼のつもりが、どうも憤懣調にになってきて恐縮です。
どうか貴兄も健康にはご留意ください。「原稿も健康も大切にしましょう」。乱筆ご容赦。

* 「湖の本」のことはともかく、ペンのことなど、ほぼ、云われているとおりに思われ、頷かざるを得ないのが情け無い。

☆ 梅雨時らしく   元出版部長
雨空やら旱の強い時やらです。
御著『湖の本47・濯鱗清流』を御恵贈賜り、有難うございました。文壇には荷風や吉行淳之介のような作家が「地を払った」ことへの寂しさを訴えていますが、同感です。
一九九八ーー二千年は、小生、現場を離れていましたが、江藤淳のことやら、様々な「文壇」の一つの姿と、真正直な秦さんの対応姿勢がうかがえて、改めて、自分を顧みました。第百巻が待たれますが、いつも深謝いたします。

* 青山学院大学からも、他の全国の大学からも続々礼状が届いている。

☆ 湖の本  波
昨日イタリアから帰ってきました。上の娘が元気な女児を出産、手伝いに行ってきました。
帰りましたら湖の本が届いていました。ありがとうございます。
10年前の「私語の刻」ひときわ感慨深く拝読しています。
日々お元気にお過ごしくださいますよう。
2009 6・29 93

* 第百巻の抜き刷りも届いた。三四日もせぬうちに本が出来てくるだろう。用意も何もかも今回は異例ながら、要するに落ち着いて作業して行けば成るように成って済むだろう。「上巻」入金の推移に従い、しばらくは「下巻」発送作業の尾の細長くつづくのは仕方がない。
八日に聖路加の視野検査がある。二週間後に診察。
十四日は平成中村座。そのあとへ糖尿病の診察日が来る。鏡花の歌舞伎もある。
2009 6・30 93

* 七月三日に第百巻(下巻)が届くと、通知があった。成るように成る。綺麗に本が出来ていますように。
2009 6・30 93

☆ 『湖の本エッセイ47』 ご恵贈賜りまして、  評論家
こう申し上げるのはどうかと思いながらですが、痛快なほど面白くて他のことを放って拝読いたしております。沢山のことを教えられてもいます。感謝に堪えません。ご健勝をお祈り申し上げます。有難うございました。

* 「一気に拝読致しました」と、新たに三冊注文して下さった歌人も。感謝。

* 本の出来てくるどんヅマリへ来て、今日は奮発、たくさん作業をした。明日もう一日フンバルと、まあまあメドは一通り立つ。
一つには、今日は、何度も何度も観てきたサンドラ・ブロックの映画『インターネット』を二度耳で観ながら作業に精を出した。面白い映画だ、昨日観たアレック・ボールドウインとキム・ベイシンガーの『ゲッタウエイ』よりサスペンスの味に自然な画品と急迫とが生きている。機械に馴染んで暮らしているから、もう何度目か、新しく観るつど機械の怖さも真に迫る。見飽きない映画の一つ。
2009 7・1 94

* 妻が聖路加へ受診中の留守を利して、集中力を発揮し、発送のための予備作業をし続けた。あらましの用は足りてきた。
2009 7・2 94

* 今日から「秦恒平・湖(うみ)の本」の通算して第百巻を送り出す。創刊満二十三年を過ぎて、この日がくるとはあの昔は予想だにしなかった。感無量というしかない。『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』下巻、つつがなくお手元に届きますように。読者の皆さん、励まし続けて下さった大勢の方々、そして妻に、感謝します。

☆ 梅雨の空のもとで、  京大名誉教授
スカッとさわやかな玉稿『湖の本エッセイ47 濯鱗清流 秦恒平の文学作法 上』が届きました。毎回戴いてよいものかと恥ずかしさがこみ上げます。清純な文藝作家の生き方がどんな身近かな話題にも周辺の様々な題材にもキラリと耀いて、短い文体の中で感じ入って拝読しています。先日の授賞式の席でお目に掛かりませんでしたが、何卒御自愛の程念じ上げます。

* 京都美術文化賞の母体財団理事會等でよくご一緒するだけでなく、想えば学生時代にもときたまお目に掛かっていた。

☆  お元気ですか、みづうみ  夕立
今日からいよいよ「百巻」の発送作業をお始めでしょうか。「百巻」という大きな区切り、偉大な達成に、私でさえ胸に迫るような感動をおぼえてしまいます。みづうみご自身の目に映る、百巻という頂上からの眺めはどのような晴れやかさでしょう。心よりお慶び申し上げます。
一つお訊ねしたいことができました。みづうみは以前に「長女論」というものをお書きになったことがおありですか。もしそのご本がおありなら、是非読ませていただきたいと思います。強い関心があります。それとも何かの誤解かしら。みづうみのお書きになったものなら全部、日記から手紙から、裁判所への陳述書すら読みたいと思っているあきれた「みづうみ中毒」なので、お教えいただければ幸いです。
湿度の高い時期は消耗いたしますので、どうぞ発送にご無理なさらずお元気にお過ごしくださいますように。ご本、楽しみにしています。
2009 7・3 94

* 絵本作家の田島征彦さん、湖の本表紙の城景都さんらの個展案内が届いていて 心そそられるが、京都や刈谷での開催で。
2009 7・3 94

* 奮励努力、通算「第百巻」の第一便をいましがた送り出した。いい汗を流した。明日はまた歯医者へちょっとの間出かけ、急いで帰ってまた荷造り。
想えば、いろんなことをしてきた。
本の製作や編集・企画を経験してこなかったら、とても「湖の本」は実践できない。「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」もできなかった。ホームページにしても、やはり企画・編輯のセンスと下地が無ければできない。医学書院の十五年半をムダにしないでこれた、よかった。
ベストセラー作家達のリッチな日々とは無縁に過ごしてきたが、おかげで、というのも変だが、強い自由な精神で社会や世間からあまり拘束されないで来れたのが、無上の喜び、誇りと言ってもいい。
店じまいを急ぐ気はないが、ゆっくりと、これから熟成を味わいたい。
2009 7・3 94

* 晩も、ほぼいっぱい使って、作業を前へ前へ運んでおいた。明日は約束の歯医者に通うぶん少し停滞するが、ほとんど問題ない。もう今夜はやすみたい。妻にも随分手伝ってもらった。明日のからだの負担になりませんように。
2009 7・3 94

* 早起きして、歯医者ゆきまでの時間を、送り出しの作業で埋めた。杜撰はいけないが、サッサとやる。それがラクへの道。

* 午後もよく頑張り、夕方には昨日に次いで二度目を送り出した。今はとにかく集中。晩も精一杯、作業。
2009 7・4 94

* 福田恆存先生とのご縁は、『墨牡丹』を書いたとき、村上華岳にふれて親切なお手紙を戴いたのが最初だった。のちに三百人劇場で「ハムレット」を訳・演出なさったときに、劇場で初めておめにかかった。ご挨拶すると、「ああ、想っていたとおりのお人でした」とにこやかに云われた。おりにふれ、たいへん印象的な言葉をもちいては、いろいろに激励して下さった。五十歳記念に『四度の瀧』を創ったときも、ひっこまずに頑張るように、まだ若いんだからと励まされ、「湖の本」を始めると、ずうっとお買いあげ頂いたばかりか、何人もの読者をご紹介いただいた。文春からの全集、翻訳全集が出始めると買った。第八巻の全戯曲集は頂戴した。
亡くなったとき寂しい思いをした。その後も夫人はずうっと湖の本を今も買って下さるばかりか、出るつど、二冊三冊と買い足してさえ下さるのである。
福田先生の戯曲は、早くに新潮文庫で他の劇作家達のと一緒に一作読んでいて、とてつもなく面白く、印象に焼き付いていた。『龍を撫でた男』だった。目を開かれた。
「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴できた『堅塁奪取』は劇団「昴」の舞台を観て感嘆した。『億萬長者夫人』にも舌を巻いた。
2009 7・5 94

☆ この十年、  敦
など思ひながら、拝読し、ふと 蘇我殿幻想に手を伸ばし遠い昔歩きました市経、藤白、牟婁の湯など 思ひ出して居りましたところでございます。
御本 その都度 何かと考へたり楽しんだりさせて頂いて居ります 有難う存じます。
お暑さきびしくなつて参りました
御二方 呉々も御身御大切に。 御礼まで

☆ 祝百巻  泉
偉業を達成されて心より感服のメールを送ります。
昔々、出版社から百冊の刊本を出したいと聴いたのを思い出しますが、それも達成され、加えてこの「湖の本」はあらゆる作業をご夫婦でこなしての百巻です。
関西に比べれば、気温も低めで過ごしよい梅雨半ばです。
子供達や孫達絡みで、日々多用に過ごしています。変わらず程ほどに運動も楽しみ、元気にしています。
今日は止むを得ない所用で、十年振りに吉祥寺へ行き、噂通りの大人波に呑まれて、慄きました。
お元気でお過ごしください。

* 予定の発送を終え、これからは、追加寄贈先を選んで上下巻とも送り出して行くのと、上巻分未納読者へ入金次第下巻も発送して行く作業だけが残って、一段落している。
2009 7・5 94

* 中元と重なる時期で、本の届きがやや遅れ気味かと案じたが、そろそろ届いているらしい。

☆ 届きました。  鳶
百巻に達した画期的な本が届きました。
発送が一段落はまずまず。本当に長い長い道のりでした。本に差し挟まれている「しおり」にはいつも必ず、読者の名前と、季節の言葉、そしてお元気ですかと書かれて。これだけでも延べにしたら気が遠くなる膨大な作業です。
とにかく此処まで文字通り頑張られた、頑張ったのです。そしてこれからも淡々と着実に続けられるでしょう!
HPでは浅草へのお誘いを断ったことが書かれてあり体調が心配です。いかがですか。梅雨で本格的な夏の到来はまだこれから、無理しませんよう願っています。

☆ 湖の本   梔
昨日『濯鱗清流』が、本日『花と風』が届きました。お忙しい中、お仕事の早いみづうみらしいことで、ほんとうにありがとうございます。「長女論」面白く読み、長女ながらコワイ女になりそこなったと思いました。
下巻の「私語の刻」も読ませていただきました。
あらためて申し上げる必要もないことですが、湖の本の百巻は、稀有の藝術的達成です。心からの感謝と賛嘆の気持をお伝えしたいと思います。溢れるように幸福です。

☆ 湖のご本「濯鱗清流」下巻届きました。  のばら
いつもありがとうございます。
百巻達成おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。
上巻は読み終えました。
幅広く何事に対しても、真摯な態度で向き合われていて、教えられることばかりです。
下巻も楽しみに読ませていただきます。
お疲れが早く癒えますよう願っています。
奥様共々、くれぐれもお大切に。  京の従妹

☆ 雨がしとしと  花
お元気ですか、風。
ご本、届きました。ありがとうございました。
そして、おめでとうございます。
そして、きのうは静岡県知事選でした。
ウインブルドン・テニスと並べて開票速報を見ていましたが、ずっと自公推薦の人がトップを走っていたので、ハラハラしました。
なんとか最後で民主推薦の人が巻き返し、ほっとしましたが、僅差での勝利でした。
さてさて、もうすぐ東京都議会選もあるのですよね。大勢の人が投票するといいですね。
ではでは、風、つつがなくお過ごしください。

☆ おめでとうございます。 郁
湖の本 100巻ご出版誠におめでとうございます。 拝受いたしました。 こんなにも早く完成され驚いております。 敬意をお伝えする言葉も見つかりません。
しっかりと読ませていただきます。 重ね重ね おめでとうございます。
日吉が丘の同窓会のお知らせが届いていますね。
京都は懐かしいかぎりなのですが欠席いたします。会場、なにか三十三間堂のちかくですね。
どうぞご機嫌よろしく。
2009 7・6 94

☆ おめでとうございます。 秀  編集者
秦恒平先生
『湖の本』百巻のご刊行、おめでとうございます。長い年月をかけての思索とご執筆に心より敬意を表します。
『濯鱗清流 秦恒平の文学作法上』と同様、「下巻」も、これは貴重な文壇史だなあと感嘆しつつ、また随所に描かれている編集者についての記述に我が身を反省しながら、拝読いたしております。今後もお変わりなくご健筆を揮われますよう、心よりお祈り致しております。
暑さが本格的になって参りました。どうぞご自愛下さい。

☆ 湖の本百巻、おめでとうございます。  藤
秦 恒平様  湖の本第百巻、うれしく拝受致しました。
思えば私と秦様の縁をつないでくれたのは「湖の本」であり、「闇に言い置く」であります。
同窓のよしみで夫のところに湖の本の発刊をお知らせいらだきその輪に加わって、送られてきたご本を夫が読まないので(ごめんなさい)私がせっせと読むようになり、受け取りや簡単な感想を私が秦様に直接送り始めた頃から、ペンフレンドとなり、それが進化してメル友になり、「闇に言い置く」にも加えていただき、果ては拙い私の文章を読んでいただくまでに発展いたしました。
その経過を通して、理系学生でレポート以外文章を書かなかった私が、身辺のこと大切な思い出を書き留めることに目覚め、秦様の「闇に言い置く」の中の言葉から少しずつ文章を書く術も学ばせて頂いたのでした。
そのお陰で書き置いたものに、ありがたいご批評までも賜り、それを「e-Literary magazine e-文藝館=湖(umi)」に加えていただくまでの展開となったことは、私の人生後半の”予想もしなかった事件”であり、喜びでございます。
本当にいろいろありがとうございました。
こんなに長く文を交わし、電車に乗ればすぐの近くのところに住んでいて、私は未だ秦様にお目にかかっておりません。
秦様のお姿はテレビで拝見しているので、公平ではないのですが、ここまでくると、こういう関係がいっそ素敵に思えます。
この上は奥様ともどもお身お大切に、「湖の本」を更に更にお続け下さいませ。
私たち夫婦もまだまだ元気に暮らしたいものと願っています。
去年の朝顔の種を播いた鉢に、このところ馴染みのブルーの花が咲き始めました。
小学生が絵日記を描くように毎朝写生をするのですが、これがむつかしい。
毎年、毎朝、苦心すれどもみずみずしい花の色がどうにも思うように写せません。
「なんと美しい青(紫)か」と改めて感嘆!これもまた大きな楽しみなのですが。
2009年7月7日

* 夫君は原子力発電等の重職にあり、夫人とともに京大で学んだ。夫人も京都の人、「e-文藝館=湖(umi)」の「自分史のスケッチ」室に掲示の五作は、云われているとおりのご縁で生まれた秀作力作たちである。強靱な自律の精神と、絵を描く懐かしい術を大切にもち、素晴らしいお母さんでありボランティアとしての活動も力強い。「いい読者」であり、有り難い。

* 「月刊京都」を取り仕切っている山岡祐子さんからも「お祝い」を戴いた。岩波書店時代に「世界」に最上徳内を連載させて下さった高本邦彦さんからも「御発言の一言一句を重く受けとめつつ」と激励頂いた。青山学院大学清水英夫名誉教授からも「心からご健筆をお祝い申し上げます」と。やがて『表現の自由と第三者機関』(小学館新書)を下さるとも。

* 久しいお付き合いの歌人からは、上の述懐歌「『天の川を越えて』に立ち止つてをります。お辛い文月……」と。この葉書の写真で「團十郎」と名づけられた新種の朝顔をみせてもらった。
2009 7・7 94

☆ 山の向こう  湖雀
日野川上流は近江屈指の石材産地だそうです。
山岳修験の綿向山から東の線上に雨乞岳と御在所山がそびえ、南西に水無山、北西には多武峰を遷したという雨乞いの山、竜王山があり、勧請された金峯神社や熊野神社が鎮座し、熊野の滝もあります。
川の源というのはどこも先へ先へと誘いかける魔力をもっているものですが、日野熊野の山気と空の半分をふさぐような山容は、美女のうしろからマダムがあらわれたかのように雀に強い印象を与え、地元の方からヒダリマキガヤの木を教わってその実をたなごころに乗せてお話をうかがうあいだ、山向こうへ行ってみたくてしかたありませんでした。
それから何年でしょう。若葉雨の合間を縫って、その、“向こう側”を訪ねました。もう二ヵ月も前のことです。
東海道の松並木、宿場町と本陣跡、斎王頓宮跡、田村麻呂の神社に鈴鹿の化け蟹、茶畑といった観光が宣伝されている土山はダムが3基もつくられている川の多いところで、山と谿、それらの隈、川にさざなみ、山に桜と、水と山のけしきがとても豊かで、河合ごとにお社が森に守られてまつられているのも穏やかで思い和ぐ風景です。
日野川に流れ込む平子川をさかのぼると平子峠に至り、今度は野洲川の支流があらわれます。
訪ねた神社はちょうど祭礼の準備中でした。御在所山から流れ出す野洲川に綿向山と雨乞岳をそれぞれ源とする川が合流する位置で、綿向山の真南にあたる、若宮神社です。
割烹着姿の女性が大鍋を手に社務所に駆け付けたかと思うと、中から裃袴姿の男性が和傘をひろげながらばらばらっと四人、宮地に流れる川の上と下にわかれて走り去ってゆきました。
雨にけぶる鈴鹿の山並。若芽と常緑が交じる鎮守の杜。時を経た社殿。檜皮葺きの屋根と照りむくりの破風。雨をたっぷり含んだ苔。小さな草の芽。そびえる巨樹のかずかず。からみつく藤の古木。かすかな風に残んの八重桜から花びらが散り落ち、そのなかを鍛えた背中に麻上下をつけ、白足袋に桐の下駄を履き、和傘を差して走り去る男たちのすがたは、下駄の音が霞を呼んで幻を見せているかのようでした。
と、ここまで仕上げてさて送信というところに、ご本が届きました。続けざまで心が騒ぎます。おん身ご案じ申しあげております。
大丈夫金の脇差‥‥と呵呵大笑なさってらっしゃいますかしら。
今年はひさしぶりに茅の輪くぐりをしました。 湖雀

* 「雀」さんのこういう清涼剤を服することで、わたしは、かろうじて俗塵をいささか洗い落として、ハ、と我に返る。だが雀のそばへ遁げ込むワケには行かぬ。わたしが生きているのは余儀なくも何であろうとも「いま、ここ」なので。
2009 7・7 94

☆ 湖の本100号出版おめでとう存じます。  玄
引き続いてのお仕事を楽しみにしています。
都議選と衆院選の投票に当たって選挙民が賢い選択をすることを願っています。
岡山のニューピオーネとマスカットを少々お届けします。御賞味ください。

* 良い政治への良い環境を、選挙民挙って創りたいと願っています。ご機嫌よう。湖

☆ おめでとうございます。  建日子
百巻、いただきました。
おめでとうございます。
気の遠くなるような数字ですね。。。
今ちょっとバタバタしていますが、今月後半にでも、ささやかなお祝いの宴でもいかがでしょうか。計画して、またメールします。
なるべく早く、また保谷に行きたいと思います。
お体、お気をつけて。

* ありがとう。心ゆく仕事を一つ一つ遂げてください。

* 今日は視野検査のためだけに聖路加へ行く。雨が降らなければ、少し歩いてこよう。

☆ お元気ですか、みづうみ。  夕顔
発送のお疲れもごさいましょう、お礼を申し上げたいのはわたくしのほうです。百巻のささやかなお祝いをさせていただきたいと思っていたのです。
イライラしたり疲れたりする時、みづうみの作品だけが静かに充たしてくれます。読んでさえいれば、しあわせなのです。お礼を申し上げたいのはわたくしです。
視野検査が良い結果であることをお祈りしています。
2009 7・8 94

* 詩人の布川さん、「考えさせていただけます。ますますの御健筆をお祈り申し上げます」と。京都文化博物館の上平館長、「多年にわたる文学の旅路に深く敬意を表します。そして尊い人生に拍手を送ります」と毛筆で。
脚本家の小山内美江子さん、「追いつけません」と。静岡大学の歴史学小和田教授からは「ご笑覧下さい。恐々謹言」と、新著『北政所と淀殿』が贈られてきた。
市民活動家の吉川勇一さん、病牀からていねいなご挨拶有り。名古屋大の鈴木名誉教授も、九十のご高齢でご丁寧に。

* 「湖の本」の「ファン」という笠間書院の橋本編集長、『色の日本』に「ひかれて読んでいる内に(これはいつものことです。)」色彩学研究の大家である伊原昭さんの名を見つけ、伊原さんとも連絡の上、千四百頁もの大著『日本文学色彩用語集成・近世』を贈ってきて下さった。このお仕事は上代から古代、中世を経て完結した画期的な大事業で、京都賞や朝日賞に推しうるものと思っている。伊原さんからは大著を戴くばかり。感謝。

☆ こんばんは、 「琳」です。
記念すべき百巻、頂戴致しました。
ありがとうございます。
おめでとうございます、と言うよりも私にとっては感謝のありがとうございます、です。
この素晴しい同じ時間を共有する事が出来た事に、ひたすら感謝です。
おじい様から大きな勇気を頂戴しています。
おばあ様の陰の大きな力を強く感じます。
すてきです!!!
すてきなご夫妻です。
私の理想です。
昨日は七夕様でした。
今頃天の川を超えて、やす香のもとにも百巻が届いている事でしょう。
ささのはさ~らさら~・・・二番が思い出せません。
今度教えて下さい。
不愉快な気候が続きますが、どうぞお身体ご自愛下さいませ。

* 五色の短冊 わたしが書いた
お星様きらきら 空から見てる だったかな
2009 7・8 94

* 多年湖の本を支えて頂いた浅井敏郎さんが、九十にも間近くして文集『菊を作る人 私の文章修行』を出版された。巻末に、平成二十年三月に亡くなった夫人の俳句集を二百句ほど付されていた。御夫妻淳良の思い出がこめられており感銘を受け、浅井さんにお許しを得て五十五句を選ばせて頂いた。わたしが題して『菊師』とし、「e-文藝館=湖(umi)」に招待する。いま、浅井さんに夫人の生年など問い合わせている。
浅井さん自身の文章修行も立派で、この方はご自身に何編かを自選して欲しいと頼んである。
『菊師』を選し、最後に通して読みかえすうちに何度となく目頭を熱くした。先日は俳人奥田杏牛さんの亡き夫人の遺句集『さくら』を「e-文藝館=湖 (umi)」に戴いた。あの時も何度も胸をつまらせた。
2009 7・9 94

☆ 「秦 恒平・湖の本」第百巻  「新潮」元編集長
誠に有難うございました。満二十三年にわたっての御発行は、自らの編集者生活を振返ってみましても、並外れた御精進と、言い知れぬ感銘を覚えております。(これはむろん奥様の御協力がなければお出来になれなかったろうと、同時に思いますが。)心からお慶び申し上げます。「濯鱗清流 秦恒平の文学作法」 (下)も志賀直哉と谷崎潤一郎との関係の御言及に、冒頭から大いに示唆を得ております。楽しみに通読させていただきます。夏到来も間近となって参りましたが、呉々も御体調に留意され、新たなる御健筆と御多幸をお祈り致してやみません。敬具

☆ 「湖の本エッセイ48」  「群像」元編集長
誠に有り難く拝受 おもしろく拝読しました。志賀と谷崎についての論、梅原猛氏や石原慎太郎批判など大変おもしろく拝見いたしました。近頃、戦後文学が大正文学を越えられなかつたのではないかといふ気がして来て、戦後文藝雑誌の編集に携って来て一体何をして来たんだとふと思ふことがあります。葉書で失礼いたしました。 不一

☆ 今年、いつもより遅れて  ドナルド・キーン
東京の我家に帰ると御本数冊が届いていました。又、本日も一冊落掌しました。ありがとうございました。これからの楽しみにしています。私は相変わらず忙しくやっていますが、元気です。八十七歳になりました!

☆ 「湖の本エッセイ48 濯鱗清流」下巻  歌人
ありがとうございました。「立川流」のところ、興味深く拝読いたしました。性と信仰は切っても切り離せない関係にあるとずっと考えてまいりました。G・バタイユでしたか、「エロティシズムとは死に至るまでの生の恍惚」といっていたことを記憶しております。また喜多流の節世氏とは吉祥寺の飲み屋でよく一緒に飲みました。梅原猛氏の文章、中野重治が『地獄の思想」を読んで、「土俵で四股を踏んでいるような文章」と言っておりました。乱文、乱筆、お許し下さい。草々  七夕

☆ 秦 恒平先生  大学教授
『湖の本』には、いつも教えられます。自分の拙さ、至らなさ、をです。その文学や文学表現への慈しみには、無言のままに、叱咤されているような思いです。その片隅にでも、小文の場が与えられるのであれば、うれしい限りです。作品も、研究も、やはり、読者というしっかりとした存在によって成り立つのだと実感致します。ありがとうございます。

☆ 拝啓  元京都市立美術館長
『湖の本』 いつもお送りいただきありがとうございます。 「濯鱗清流」 の上をようやくあらあら読み終え、お礼を書こうと思っているところへ、 「濯鱗清流」 の下をいただきました。
この二冊のエッセイは折々のさまざまな感想が面白く。まったく私などは知らない分野のものも多いのですが、多少かかわりのある分野では、いかにもと感じることがしばしばです。
たとえば、上の一二六頁 (一九九九・十・ニ七) に見える 「短歌21世紀」 編集後記を引いて、言われていることは、まさしくその通りだと思います。いわゆる短歌の世界だけでなく広い視野から見られている、ことに私は重要な見解だと思います。今度、ある短歌
結社での夏の大会に講演を頼まれているので、その中で、この雑誌の名前、大河原氏の名は伏せてでも引用させていただこうと思ったりしています。短歌史を歌壇だけから見ないで捉える必要性のためです。
私も歌舞伎は大好きで若い頃から、八十歳を過ぎる今までずっと見ていますが、もっぱら関西で見ており、東京での興行は見ていないので、その作品と、役者と、批評を読みながら、想像しています。国立劇場の 「本朝二十四孝」 などはぜひ見たかったですね。進之介への苦言、いかにもと思います。愛之助はもちろん、孝太郎が姫役でなければかなり見られるようになってきた今日、進之介にもう少し成長してほしいと思います。
『細雪』の「雪子」について書かれているのも、いかにもと思います。谷崎が、戦中に「細雪」をひそかに書き上げて、重子さんに贈った時の手紙の、一番にあなたにさしあげなければならない本です。あなたなら思い当たるところがいくらもあるはずです。とあったことを私は思い起こしています。
下はまだほんの拾い読みですが、今書いておかねば、また期を逸してしまいそうですから、書き添えておきます。
河野裕子さんに関するご見解、私もコスモスに所属していた頃の方がよいということをずっと思っていました。ただ、一番最近の歌集は、よかったと思います。この人若い頃の出産とか、最近の病気とか体験派だとつくづく思います。それに『私の会った人々』 という本をおもしろく読みました。NHK歌壇の出演を断られたこと、いかにもと納得しました。私も最初は馬場さんから電話で頼まれ、その後も、付き合いの深い人からの依頼で何度か出ましたが、もう少し、方法があろうかと思います。大体最近のテレビの教育番組が、視聴率とかを気にしてつまらなくなっているように思います。
今井源衛氏の名が何度かでてくるのもなつかしい次第です。私が佐賀大学にいた頃から、何かにつけて親しくさせていただきましたが、著作集を計画されたところで、病気になられ,ついに完成を見ずに逝かれたのは残念です。『大和物語」の評釈は、名著だと思います。
日本古典文学大系を担当されて、当時の岩波の方針に従って書かれ、この大系が途中から研究者向きに楫を切ってきたので、残念だと言われ、「国文学」に書き続けられていましたが、それをこの本で見事に完成されたものでした。ただ、私が『大和物語』を書いた時には間に合わなかったので、私の著作集に入れる時に、部分的にしか参照できませんでした。
喜多流の能をずっと見続けられ、それも馬場あき子さんの縁とのこと。馬場さんから喜多流の能のことを聞いたのも、もうずいぶん昔のことになったなあと思い返しています。
政治の話、共産党は名前を替えて、昔の社会党に代わる党に脱皮すべきだというのも、驚きました。言われてみればその通りだと思います。しかし、おそらくそうはならないでしょう。今回の選挙はこのままで、次に大きく政界が変わる時には、民主党の中でくすぶ
っている旧社会党系の人々と社民党が一つになって、せめて公明党 (この党は困ります)ぐらいの勢力にはなってほしいものだと思います。
エッセイというのは、このように広い視野で、思ったままのことを書いて、しかも読者を飽きさせないものをいうのだとつくづくと思い知らされました。
ほんとうに、ありがとうございました。  平成二十一年七月七日

* みなみな有り難いお便りで。嬉しい。

☆ お祝い   華
遠 様
暑さピークに入りました。 祇園祭も鉾建てが近くなって来ました。
湖の本百巻、と、金婚をお祝い申し上げます。
送られるままに読んで居りましたのも、沢山にたまりました。
また、今までの年月勉強させて頂きました。
体力も続き、此処までよく頑張れました事を、また、良き方にめぐり逢って来られたのを、心から祝しております。
いつか同窓会で、西川絹ちゃん(伊藤さん)とやさしくて良さそうな方で、よかったなあーと、話しておりました。
送って頂いた下巻ゆっくり読んでおります。
暑い中 ご自愛ください。

* 高校茶道部の生徒達。わたしも高校生であったが、指導の先生がなく、創部のその日からずっと点前作法など教えていた。その生徒達の何人もがいまも湖の本を支え続けてくれている。感謝、感謝。
2009 7・9 94

☆ 前略  東京大学出版会編集局  英
何気なくひもどいてゆきましたところ、本書のあり方そのものが、あるいは著者の表現をあり方そのものが、現今の出版をめぐる状況、あるいは現今の表現をめぐる状況に対して、強い異和と鋭い批評・批判になっていることに気づきました。
出版と表現にたずさわっている一人の人間として、心の痛みを伴いつつ共感を抱いた次第であります。
秦様の試みには全く遠く及ばぬものではありますが、出版と表現をめぐる状況の浮力に抗う努力を続けていきたいと存じます。
心より御礼申しあげます。
「湖の本」は、文化であり、闘いなんです。
という言葉を肝に銘じつつ、 敬具

* 感謝します。

☆ 拝啓  日本共産党中央委員会学術・文化委員会  恒
創刊以来二十三年、通算百巻とは、驚きを禁じえません。世に売らんかなの商業ベースでの出版があふれるなかで、このような本の刊行を四半世紀近くにわたって継続されることは、なみの努力ではできません。心から敬服するとともにお祝い申し上げます。
まだ拾い読みを出ませんが、『早春』でお書きになった思い出など、自分の同じような体験をなつかしく想起させられました。
なお、日本共産党の党名については、永い視野で歴史の審判を待ちたいとおもいます。 敬具

* 恐れ入ります。
2009 7・10 94

* 妻は歯医者に行き、わたしは留守番をして生協からの配達を受け取ったり、冷凍庫にしまったりしていた。まだ、少しずつ寄贈の送り出しをしたり、上巻入金者への下巻発送などを続けている。
2009 7・10 94

☆ 「湖の本」第九十九、百両巻の御刊行、  阿川弘之
御恵与に対し、読んで御祝と御礼を申し上げます。
私にとつては師にあたる志賀直哉に関する御言及が多々あるのを、いづれも興味深く拝見してをります。
ありがたうございました。  不一

* じつはお目に掛かったことがない、が、昔から懐かしい人に思ってきた。一つには、貧しい日々の中で講談社版の日本文学全集を一冊また一冊と買い溜めてゆきながら文学への思いを涵養された、そのいわば最終巻には、当時新進気鋭の作家を数十人えらんだ巻が配本され、その巻頭に阿川弘之『年年歳歳』とあったのへ、とびつくようにして読んだ嬉しさが心身から抜けないのである。いい作品だなあと嬉しく感嘆し、感嘆を忘れることがなかった。
阿川さんが志賀直哉の最も若いお弟子さんであることも知り、のちのちに瀧井孝作先生とのご縁など出来てからはよけい遠縁とはいえ親類のような親しみをいつももっていた。御本を頂いたこともあり、「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」のためにお願いしたときも、「秦さんのすることだからおまかせしますよ」と許しても頂いた。
ご健勝を祈ります。

■  年年歳歳  阿川弘之  招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
あがわ ひろゆき 小説家 1920.12.24 広島市に生まれる。日本藝術院会員。昭和二十七年(1952)最初の長編『春の城』により讀賣文学賞。掲載作は、「世界」昭和二十一年(1946)九月号初出の文壇処女作で、原爆被害の生地広島へ復員帰還した作者の、美しいまで初々しい筆致に、生きる喜びが自然にあふれている。当時の作者に反戦や反核を訴える気負いはたとえ無かったにせよ、歳月を隔てて読み返す読者の深い共感に、自ずと戦争や核爆弾へ辛い思いの添うのは抑えがたい。掲載をお任せ頂いたご好意に感謝します。  (秦 恒平)
http://umi-no-hon.officeblue.jp
(目次のe-literary magazineとある英字の上をクリックして下さい。

* 作家の津村節子さん、島尾伸三さん、僧の黄色瑞華さん、元岩波書店の高本邦彦さんから有り難いお手紙を頂戴した。
2009 7・11 94

☆ 「百巻」お目出とうごさいます。  高史明
そして有難うございます、言葉に表わせない偉業と思いつつ。
心からの感謝とおよろこびの言を申し上げます。

* コ・サミョンさんには、夫人もともどもに、湖の本創刊このかたずうっと筆紙につくせぬ応援を戴いてきた。どんなに励まされ助けられてきたことか。有難うございました。
2009 7・12 94

☆  ご著書御礼  麗 札幌
秦様 暑中お見舞い申し上げます。メールでの返信をお許し下さい。
ご著書,まことに有難うございました。厚く御礼申し上げます。
(下巻跋での)「怨み」についての部分を興味深く読ませていただきました。以前の,秦様とのやり取り(その節は有難うございました)を経て以来,この感情に対し,いささか異なる見方をするようになってきました。
この感情に対して,中国や韓国など,他のアジア人は,我々よりポジティブに捉えている印象を受けます。「中国人は日本に怨みを持っています」などと面と向かって言われた時は驚きましたが,彼らはその思いを持ち続け,自らの活力に昇華して行動しています。時として,反日行動になることもありますが。
翻って,日本人はどうでしょうか。
何かに対して悪感情を持ち続けるのは,実は結構しんどいことです。「許す」という美徳は,実は,このしんどさに耐えきれなくなった自分との「妥協」なのかもしれません。日本人は,この妥協に流されやすいのかな,とも思われます。しかし,「許す」気持ちも,永劫に続く保証はないのです。加えて,妥協した自分自身を許せない,という新たな葛藤も起こってきます。日本人は,「許さない」を敵視しすぎてきたようにも思われます。その思想の背景まではわかりませんが。
今,幾人かの顔が浮かんでもきました。やはり,許せないものは許せない,のです。
その事実を受け入れ,関係ない人には,できるだけ不快・迷惑を与えないように,前向きに思考・行動するしかない。
このようなことを思いつつ,読ませていただきました。
続きも楽しみに読ませていただきます。
会う人ごとに秦様のサイトを薦めていますが,なかなか目当てのページに行き着けないとか,パソコンの画面で読む文章に違和感
を覚えるとか,高齢者を中心に言われることがあります。そんな方々に薦めてみようと思います。この巻を読めば,パソコンに向かう意欲もまた湧いてくるでしょう。
そちらは梅雨明け間近の蒸し暑さのただ中かと存じます。こちらは夏日だったかと思うとその翌日は最高気温でも20度以下などと,落ち着かない天候です。ご自愛ください。
最後に重ねて御礼申し上げます。

* この札幌からのお便りを機に、そろそろ『濯鱗清流』上下巻の「跋」文を此処へ書き出しておこうかなとも思いかけている。

* この「私語の刻」第一頁に限ってなら、(それだけで、最新月の日々の「私語」だけは読み出せる。)

http://umi-no-hon.blueoffice.jp/iken.htm

とお気に入りに保存されれれば、直接にアクセス出来る。

☆ この素晴らしい偉業  京都宇治 隆
本当におめでとうございます。秦さんなればこそと尊敬しております。
秦さんは京都のお人ゆえ京都から京都の事を世界に発信して頂けたらと、変わりなくずうっと願っておりま
す。
何があるわけではありませんが私も京都生まれの京都育ちであり今は宇治に住んでおりますが、終の棲家として一応京都に戻ってきております。
小さな家と倉庫そしてできるだけ好きな事をして暮らしていければ十分です。もう一つ欲を言うならば表現の場所があればよりベターではあるけれども動けるうちは動けばよしです。
色々な事何も知らないに等しい私ですが、京都の空気が一番じぶんには優しいような気がしております。
秦さんの表現なさっている中で、大文字の送り火の事。京ことばの事。広い意味での身内意識。美のこころ。色々な事が常に印象に残っております。
京都の永遠性こそが京都の素晴らしさであると感じます。

ここからはバーチャルの独り言です。

「秦さんが京都に帰ってきはった。帰って来はったで。」
「ほんまや。おかえりやす。秦さんは何にもせんでも京都に帰ってきはっただけでよう似合うてはりますわ。やっぱり根っからの京都のお人どすなあ。」
「何にもせんとおれ言われても無理や。」
「やれる事だけやらはったらよろしいですやん。そんなきばらはらんでも。理屈抜きでよろしいやん。」
「やっと静かに一杯お誘いできそうですね。そやけど僕は酒癖悪いかも。もし悪さしてしもたらえらいこっちゃしな。そやけどやっぱりおいしい一品とおいしいお酒飲みたいなあ。
ほんまはべっぴんさんと飲んだ方がええのやけど。秦さんもそうやろけど。そやけど秦さんとは別や。少年の友情のような、お兄さんのような、広義な身内的なものを感じる故、年と性別は関係無しや。」

そんな日が来るかどうか楽しみです。
それではお元気で、ごむりなさらず頑張ってください。
2009 7・12 94

* 福田恆存先生夫人、作家の神坂次郎氏、宮尾登美子さん、医学書院の金原優社長の手紙を戴く。
2009 7・13 94

* 今日でやや落ち着きました、やっと。これからは、「作業」でなく「仕事」の日々にして行きたい。
2009 7・13 94

saku094

宗遠日乗

闇に言い置く 私語の刻

平成二十一年(2009)七月一日より七月末日まで。

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宗遠日乗  「九十三」

 

述懐 平成二十一年七月

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ  前田夕暮

夜の向日葵踊り果てたるごとく立つ   宮津昭彦

天の川を越ゑてやす香のケイタイに文月の文を書きおくらばや   遠

花火かな いづれは死ぬる身なれども      湖

 

鮎 徳力冨吉郎・画

■ 政権交代をつよく望む。 政治も民心も一新を得たい。
一度ここで、現在の「野党」に国民の願いを托したい。大きな危険をわたしは感じない。
あまりに永く、あまりに政治が一党の傲慢に「私」され過ぎた。われわれ国民の「私」の利も理想も安定も、そんな自民党与党の、目に余る我が儘に足蹴にされてきた。
政権の交代をわたしは、今、つよく望む。「野党」の一心不乱をつよく望む。
賛同者の多かれと希望する。    作家・日本ペンクラブ理事 秦 恒平

 

* 平成二十一年(2009)七月一日 水

* 七月になった。愛しい孫娘を、こともあろうに娘の誕生日に肉腫で死なせてしまった三年前の「七月」から、まだまだ、わたしたち一家は「自由」が得られない。自分のカレンダーからは、「七月」という一ヶ月を割愛してしまいたいほどだ。

* さて、七月最初の「e-文藝館=湖(umi)」推奨作に、日付こそちがうが、忘れがたい、わすれてもならない小林多喜二の優れた一作を挙げたい。

■  一九二八年三月十五日  小林多喜二 招待席
「e-文藝館=湖(umi)」 小説室
こばやしたきじ  小説家  1903.10.13- 1933.2.20 秋田県に生まれる。小樽高商卒。幼児期に一家で北海道小樽に移住。大正から昭和初めの社会的・思想的な転換期に、共産主義思想に共鳴しつつ、志賀直哉のリアリズム精神に影響を受ける。労働運動に関与しながら小説を書き、日本プロレタリア作家同盟中央委員になり、「蟹工船」「不在地主」「党生活者」などの作品を発表。共産党入党後、潜行して政治活動をしていたが、昭和8年、街頭連絡の際、捕らえられ、東京築地警察署で特高の拷問を受け、虐殺された。掲載作は、多喜二短編の最も優れた証言性の濃い緊迫の具体作として今も高く評価される。 (秦 恒平)
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* 漫画や舞台の『蟹工船』が思いがけぬ脚光をあびて最現代に甦ったのは、一種珍現象・奇現象ではあったけれど謂われないことでなかったろろうと、今時労働の現場崩壊などを思うにつれナットクできたことであった。「小林多喜二」という名前はわたしたちの世代までは紛れない一象徴であった。その感覚を、戦後に「樺美智子」という名がひきついだがあえなく風化してしまった。多喜二やカンバという遺骸をあたかも踏み台にして多くの闘う前衛達が、反転、バブル繁栄に奉仕の戦士として自民党政治の口舌の盾と化していった。そのまた爛熟と崩壊のときを告げるかのように、ポッと多喜二の『蟹工船』がマンガで現れたという、原作も盛んに売れ始めたというのが、珍奇に、読みにくい現象となっている。答えは急いで求めまい、むしろこの厳粛な短編を腰を据え読み直したい。

* 由起しげ子の『本の話』は「名作です」と「mixi」での推奨に一声掛かっていた。「e-文藝館=湖(umi)」へ、愛読者達の濃い渦が幾重にも及んでくると嬉しい。これも「仕事」と思っている。

☆ 『湖の本エッセイ47』 ご恵贈賜りまして、  評論家
こう申し上げるのはどうかと思いながらですが、痛快なほど面白くて他のことを放って拝読いたしております。沢山のことを教えられてもいます。感謝に堪えません。ご健勝をお祈り申し上げます。有難うございました。

* 「一気に拝読致しました」と、新たに三冊注文して下さった歌人も。感謝。

* 本の出来てくるどんヅマリへ来て、今日は奮発、たくさん作業をした。明日もう一日フンバルと、まあまあメドは一通り立つ。
一つには、今日は、何度も何度も観てきたサンドラ・ブロックの映画『インターネット』を二度耳で観ながら作業に精を出した。面白い映画だ、昨日観たアレック・ボールドウインとキム・ベイシンガーの『ゲッタウエイ』よりサスペンスの味に自然な画品と急迫とが生きている。機械に馴染んで暮らしているから、もう何度目か、新しく観るつど機械の怖さも真に迫る。見飽きない映画の一つ。

* 今ひとつ、こんな娯楽映画の後塵を拝して情け無いが、麻生総理の末期の息切れが甚だしい。小泉郵政選挙の余沢を食いつぶして安倍内閣がつぶれ福田内閣が投げ出し、まさか麻生は意地でも「解散したい」だろうが、その決断力も尽きて断末魔の形相を見せ、やるとすればヤケクソ解散しかないテイタラク。
宮崎県の東国原知事も、今少し楠正成の英知があれば戦に成ったろうに、末路の鎌倉余勢に媚びを打ってすり寄る按配が、自民にも麻生内閣にもフラレ、これでたとえ自民の比例代表で拾われても、政権が交代すれば野党の一陣笠で冷遇されるのは目に見えている。俺が出れば選挙で自民は勝つと断言していたが、その豪語空疎に甘い。もう一人のあたら野垂れ死にが政界の端っこで転がるかと想うと、情けない。そのまんま東で終わるのか。

* 七月二日 木

* いまどき鉦と太鼓で探し求めても見つからないのが、「労働者」文学だろう、ほとんど何の評判も聞かない。しかし日本の近代文学史には、まぎれもなく「労働者」を労働者として描いた、しかも必ずしも政党のイデオロギーに下支えを求めぬまま、ガッキと屹立した労働者の精神と自我と汗みづくを描いた優れた作品が、相当の伝統を保って長続きした。戦後のわれわれは、単にそれを忘れるかわざと顔を背けてきたのである。
夏目漱石に、かつて『坑夫』という異色の作があった。その漱石が亡くなる年、大正五年に、宮嶋資夫という無名の人が、同じ『坑夫』という強烈な秀作を世に問うた。自費出版であった。鳴り響いて建つ記念碑的な力作であったが、即刻発禁処分されている。大隈首相の暗殺未遂があり、元老を排斥して政党政治を確立しようと原敬や犬養毅らが動いた年。そして一つの文学史が頭をもたげたのである。

■ 坑夫  宮嶋資夫  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 小説室
みやじますけお 小説家・批評家 1886.8.1 – 1951.2.19 東京市四谷伝馬町に生まれる。七歳で家を喪い十三歳から砂糖問屋の小僧、歯科医の書生、牧夫、職工、土方、火夫、新聞記者等々を転々、放浪のすえ大杉栄等の感化でアナーキストとして目覚め、古本屋のかたわら書いた処女作『坑夫』を大正五年(1916)一月近代思想社より自費出版したが、直ちに発禁に遭った。
共産党系のプロレタリア文学には常に反撥し、個人的心情の過激な爆発や妄執を描き続け、昭和五年(1930)には京都天龍寺に入って求法の境涯に身を置いた。
掲載作は、まさに労働文学の「成立」を証言する画期的秀作であり、生彩豊かに主人公を彫琢する筆つきは、きびきびと情深く呼吸して、的確。いい意味で凄みに富み、  (秦 恒平)
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* わたしが文藝館活動で密かにかつ大きく意図したのは、こういう骨太な、「働く人たちの文学史」の再発掘でもあった。湮滅させてはいけないと堅く願っていた。

☆ 三日から  花
また発送ですね。
本だけでなく、レコードや映画の世界でも、インディペンデントで製作する試みはありますが、長くつづいたものは、そうは思い当たりません。
明日からが涼しいといいけれど。がんばってください。
湖の本エッセイ14『谷崎潤一郎を読む』の「夢の浮橋」を読みました。
ああ、ここにすべて書いてあった、と、括弧つきの「母」が腑に落ちるまで頭をひねってきた長い時間がうらめしくなりました。以前に読んでいるのですが、自分に問題意識のないときは、ひっかからないのでしょう。
自分でもいろいろと考えたあとで、読み直してみると、細かいところまでよく理解できます。
それにしても、谷崎のように、藝術的理想を追い求めることが創作そのものであった小説家ばかりではないように見えます。
小説家は、カタルシスに流れるばかりではなく、確固とした形而上のモチーフを持っているべきである、と、これは自分に言っているのです。
ではでは、風、お元気に。花も元気に勉強します。

* 妻が聖路加へ受診中の留守を利して、集中力を発揮し、発送のための予備作業をし続けた。あらましの用は足りてきた。

* 今日届いたペンの理事会記録をみていると、電子文藝館を起点になんだか、弁護士を依頼して「告発」といった言葉も記録されている。「贋文藝館」というような言葉が使われていて、理事会に出ていない、記録もあまり読んでいない私には、もうだいぶ前から取り沙汰ないし用意されているらしい「法的措置」の具体的な対象も、紛争に及ぼうという経緯や理由も根拠もなにも知らないが、かつてペンに起きたことも起こしたこともない出方らしいのに驚いている。だれを被告に、そういう場合、ペンのだれが原告になるのだろう。いぶかしい話である。

* 勲三等の勲章をもらわれた小児科医馬場一雄先生の新著を戴いた。多年に亘り、公私ともに数え切れないほどわたしも家族もお世話になってきた。馬場先生の紹介状をいただいて東大国文学の書庫へ入れてもらい、そこでの勉強で『慈子(=斎王譜)が書けた。馬場先生のお力を借りて東大小児科と産科との共同総合の『新生児研究』が成り、これを契機に「日本新生児学会」が生まれた。馬場先生を主幹に名古屋の鈴木榮教授、札幌の中尾享教授、鹿児島の寺脇保教授を編集委員に綜説雑誌『小児医学』を創刊した。馬場先生とのコンビで刊行した研究書は叢書もふくめて何十冊にも及んだ。建日子の誕生に当たっても終始お世話になった。
馬場先生とも鈴木先生とも、いまもこのように懇意にしていただき、鈴木榮教授の日本語に翻訳された女性ノーベル賞作家ラーゲルレーブの短編小説『軽気球』も「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴し、むろん「ペン電子文藝館」にも「招待」した。

* 七月三日 金

* 今日から「秦恒平・湖(うみ)の本」の通算して第百巻を送り出す。創刊満二十三年を過ぎて、この日がくるとはあの昔は予想だにしなかった。感無量というしかない。『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』下巻、つつがなくお手元に届きますように。読者の皆さん、励まし続けて下さった大勢の方々、そして妻に、感謝します。

☆ 梅雨の空のもとで、  京大名誉教授
スカッとさわやかな玉稿『湖の本エッセイ47 濯鱗清流 秦恒平の文学作法 上』が届きました。毎回戴いてよいものかと恥ずかしさがこみ上げます。清純な文藝作家の生き方がどんな身近かな話題にも周辺の様々な題材にもキラリと耀いて、短い文体の中で感じ入って拝読しています。先日の授賞式の席でお目に掛かりませんでしたが、何卒御自愛の程念じ上げます。

* 京都美術文化賞の母体財団理事會等でよくご一緒するだけでなく、想えば学生時代にもときたまお目に掛かっていた。

☆  お元気ですか、みづうみ  夕立
今日からいよいよ「百巻」の発送作業をお始めでしょうか。「百巻」という大きな区切り、偉大な達成に、私でさえ胸に迫るような感動をおぼえてしまいます。みづうみご自身の目に映る、百巻という頂上からの眺めはどのような晴れやかさでしょう。心よりお慶び申し上げます。
一つお訊ねしたいことができました。みづうみは以前に「長女論」というものをお書きになったことがおありですか。もしそのご本がおありなら、是非読ませていただきたいと思います。強い関心があります。それとも何かの誤解かしら。みづうみのお書きになったものなら全部、日記から手紙から、裁判所への陳述書すら読みたいと思っているあきれた「みづうみ中毒」なので、お教えいただければ幸いです。
湿度の高い時期は消耗いたしますので、どうぞ発送にご無理なさらずお元気にお過ごしくださいますように。ご本、楽しみにしています。

* 世界的な「京都賞」の思想・藝術部門候補の推薦依頼が来た。以前、画家のリヒターを推したが、惜しくもコンピュータ映像の東洋人が受賞した。だいぶケタの大きい賞なので、慎重に首をひねらねばならぬ。

* 絵本作家の田島征彦さん、湖の本表紙の城景都さんらの個展案内が届いていて 心そそられるが、京都や刈谷での開催で。

* 季節としてはいいのかな、『文豪てのひら怪談』という企画にわたしの掌説一編の寄稿が求められている。和漢の古典も、露伴や漱石や綺堂や直哉や白秋や鏡花や春夫や乱歩や芥川や太宰から、私の同世代まで百数十編が選んである。一冊呉れるらしい、承諾する。

* 今日推奨したいのは、これまた骨太の堂々とした力作である。まだ少年時代に古本屋で表紙の赤く焦げたような新興藝術派の全集の端本一冊をやすく買った。なんともいえず買いたくなったので、小遣いをほとんどもたないわたしには珍しいことだった。それが、この前田川の代表作だった、およそ京都でのわが日常をはるか離れた別世界が書かれていたけれど、重量感のこころよさに作者のなみなみでない力を感じ取り、読後、わたしは何か一つ開眼したここちさえ得ていた。わたしの「e-文藝館=湖(umi)」にこの作を取り入れたい気持ちはハナから決まっていた。読み直してみて、何の躊躇いもなかった。

■ 三等船客  前田河廣一郎  招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」小説室
まえだがわこういちろう  小説家 1888.11.13 – 1957.12.4 宮城県仙台市に生まれる。徳冨蘆花を慕いその後援を得て明治四十年(1907)渡米、つぶさにアメリカを体験し大正九年(1920)帰国すると直ぐ、大正十年(1921)八月「中外」第三号に初期プロレタリア作品の記念碑的名作とされる此の掲載作を発表、一躍文壇の注目を浴びた。爾来、骨太に大きな、しかも緻密な組立てと観察・描写を持った此の名作この作家は、「プロレタリア派」の名をはみ出て、例えば新感覚派の川端康成らからも稀に見る優れた「純文学的感覚」を称讃され、「新興藝術」を真に担う人であり作品であると目された。青野季吉は、日本の文学環境の、前田河の大才を迎え入れるには小さすぎたことを、没後に深く悼んでいる。 (秦 恒平)
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* これは、いわば日本への帰り船。反対にはるか遠く南米まで移民の出船を書いたのが、第一回芥川賞に当選した石川達三の『蒼氓』だった。力作であった。「e-文藝館=湖(umi)」へは、その第一部を載せ、「ペン電子文藝館」へも歴代会長作として載せた。『蒼氓』もさすが読むに値する小説である。

* 奮励努力、通算「第百巻」の第一便をいましがた送り出した。いい汗を流した。明日はまた歯医者へちょっとの間出かけ、急いで帰ってまた荷造り。
想えば、いろんなことをしてきた。
本の製作や編集・企画を経験してこなかったら、とても「湖の本」は実践できない。「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」もできなかった。ホームページにしても、やはり企画・編輯のセンスと下地が無ければできない。医学書院の十五年半をムダにしないでこれた、よかった。
ベストセラー作家達のリッチな日々とは無縁に過ごしてきたが、おかげで、というのも変だが、強い自由な精神で社会や世間からあまり拘束されないで来れたのが、無上の喜び、誇りと言ってもいい。
店じまいを急ぐ気はないが、ゆっくりと、これから熟成を味わいたい。

☆ こんにちわ、風。  花
毎晩たくさん読んでいますねえ。なかなか眠れそうにありませんねえ。
お元気ですか、風。
今日のところは、なんとかお天気が持ちまして、ご近所さんと約束していた住宅展示場見物を果たしてきました。半年前に建て替えたばかりで、新築のにおいのする、きれいでセンスのいい建物を堪能してきました。テンション上がりましたよ。楽しかった!
さてさて、そんなあいだに、風はお仕事なさっているのですよね。
頑張ってくださいね。楽しみにしていますから。あ、でも、慌てずにね。
今日は、花の勉強部屋も、エアコン解禁です。機械が熱を持って、暖房かけているみたいになりますからね。
ではでは。

* 晩も、ほぼいっぱい使って、作業を前へ前へ運んでおいた。明日は約束の歯医者に通うぶん少し停滞するが、ほとんど問題ない。もう今夜はやすみたい。妻にも随分手伝ってもらった。明日のからだの負担になりませんように。

* 七月四日 土

* 与謝野晶子の人気は、いまも現代の女流の大勢を圧倒している。その人気を支える基盤は、現代の、老若を超えた女性自身であるように見受ける。
わたしが晶子の歌にふれたのは高校の教科書より以前に、書店で立ち読みの『乱れ髪』であった。そのころもうわたしは歌をつくるのに熱心だった。晶子の短歌には惹かれなかった。つよく惹かれたのは若山牧水であり、斎藤茂吉であり、北原白秋であった。茂吉自選歌集『朝の蛍』はわたしが古本屋の立ち読みから、あえてお金を支払って買った「宝物」であった。
それでもわたしは与謝野晶子の大いさを閑却したのではない。なによりも晶子訳の源氏物語はわたしの文学生涯の扉をひらいた巨きな動機を成した。
成人してからも晶子をわたしは閑却しなかった。後期の晶子短歌をわたしは愛唱した。
だが、ここではあえて晶子自選の三千首から、とくに明治期の自選歌にしぼり、さらにわたしの好みで抄した歌集を、自信を持って推奨したい。

■ 自選・与謝野晶子明治期短歌集  招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 詞華集
よさの あきこ。 歌人。1878?1942。大阪府堺市に生まれる。生涯の作歌は、『乱れ髪』(明治34年刊行)以降五万首をこえている。ここに取り上げる『与謝野晶子歌集』は、昭和九年までの「全歌集」から晶子の自撰した約三千首で成っていて、昭和十三年(1938)年に刊行された。あえて其処から「明治期自撰短歌」をとりあげ、編輯者がさらに選抄した。  (秦 恒平)
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* 早起きして、歯医者ゆきまでの時間を、送り出しの作業で埋めた。杜撰はいけないが、サッサとやる。それがラクへの道。

* 午後もよく頑張り、夕方には昨日に次いで二度目を送り出した。今はとにかく集中。晩も精一杯、作業。

* 浅草の見番で、鳴り物の会を「明日」するが、いかがと望月太左衛さんのお誘い。江戸の芝居小屋の風情をのこした空間ですよと聞くと、そそられる。済めばその足で「高勢」の鮨もあるし。さ、どうしようと。作業半ばだが、べつに誰に急かれているわけでも、ない。これはという先へは、みな、もう送りだせている。

* 久保田淳さんに頂いた『隅田川の文学』を、とても懐かしい気分で読み進んでいる。だいたいが情緒的に隅田川を歌いあげている中で、高村光太郎の、口語で、きっぱりと冬をうたう高い調子が佳い。いいものを正確に選び出すことを知らずに大詩人や大作家の作を「抄」したりしては恥ずかしい。

* 作曲家船村徹の時間に、ひばりの「哀愁波止場」と「みだれ髪」をたっぷり聴いて感動した。圧巻。渾身の藝力。

* 七月五日 日

* 福田恆存先生とのご縁は、『墨牡丹』を書いたとき、村上華岳にふれて親切なお手紙を戴いたのが最初だった。のちに三百人劇場で「ハムレット」を訳・演出なさったときに、劇場で初めておめにかかった。ご挨拶すると、「ああ、想っていたとおりのお人でした」とにこやかに云われた。おりにふれ、たいへん印象的な言葉をもちいては、いろいろに激励して下さった。五十歳記念に『四度の瀧』を創ったときも、ひっこまずに頑張るように、まだ若いんだからと励まされ、「湖の本」を始めると、ずうっとお買いあげ頂いたばかりか、何人もの読者をご紹介いただいた。文春からの全集、翻訳全集が出始めると買った。第八巻の全戯曲集は頂戴した。
亡くなったとき寂しい思いをした。その後も夫人はずうっと湖の本を今も買って下さるばかりか、出るつど、二冊三冊と買い足してさえ下さるのである。
福田先生の戯曲は、早くに新潮文庫で他の劇作家達のと一緒に一作読んでいて、とてつもなく面白く、印象に焼き付いていた。『龍を撫でた男』だった。目を開かれた。
「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴できた『堅塁奪取』は劇団「昴」の舞台を観て感嘆した。『億萬長者夫人』にも舌を巻いた。

■ 堅壘奪取 (喜劇一幕) 福田 恆存 招待席
「e-文藝館=湖(umi)」 戯曲室
ふくだつねあり  劇作家・批評家  1912.8.25 -1994.11.20 東京府に生まれる。 日本藝術院賞。 秀抜の人間把握を劇的感動にとりこんだ多くの劇作・演出は、太い逞しい根を実存の深淵におろして現代の不安や恐怖を鋭く指さし示した。
夫人のおゆるしを得た此の掲載作は、文藝春秋刊『福田恆存全集』第八巻所収 「劇作」昭和二十五年(1950)二月号初出の傑作。また福田は数多くの批評・評論活動により現代社会や政治の矛盾・撞着・不備を的確に指さし、日本と日本人に精神の革新を終生迫り続けた。(秦恒平)
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* 今は、目近に架蔵の全集から文学史論、作品論、作家論を、つぎつきに耽読して教えられ続けている。今日も、夫人の優しいお手紙を戴いている。嗣子福田逸さんの率いられる劇団昴の舞台は、拠点の三百人劇場があったあいだはいつも妻と出かけていた。新劇の面白さをありがたく、うんと仕込まれてきた。
福田さんの戯曲は、舞台で当然、じつは活字で読んでも、すこぶる面白くて、しかも難題を容赦なくつきつけられる。

☆ この十年、  敦
など思ひながら、拝読し、ふと 蘇我殿幻想に手を伸ばし遠い昔歩きました市経、藤白、牟婁の湯など 思ひ出して居りましたところでございます。
御本 その都度 何かと考へたり楽しんだりさせて頂いて居ります 有難う存じます。
お暑さきびしくなつて参りました
御二方 呉々も御身御大切に。 御礼まで

☆ 祝百巻  泉
偉業を達成されて心より感服のメールを送ります。
昔々、出版社から百冊の刊本を出したいと聴いたのを思い出しますが、それも達成され、加えてこの「湖の本」はあらゆる作業をご夫婦でこなしての百巻です。
関西に比べれば、気温も低めで過ごしよい梅雨半ばです。
子供達や孫達絡みで、日々多用に過ごしています。変わらず程ほどに運動も楽しみ、元気にしています。
今日は止むを得ない所用で、十年振りに吉祥寺へ行き、噂通りの大人波に呑まれて、慄きました。
お元気でお過ごしください。

* 予定の発送を終え、これからは、追加寄贈先を選んで上下巻とも送り出して行くのと、上巻分未納読者へ入金次第下巻も発送して行く作業だけが残って、一段落している。

* 余裕で浅草まで行きたかったし行けたのに、なにかしら朝の起き抜けから軽いフラツキがあり、軽微とはいえ肌寒い悪寒のようなものが抜けず、昼前に、太左衛さんにメールで謝って、家で休憩した。大方回復していると思うけれど、大事を取っている。
久保田淳さんの『隅田川の文学』にはまっている。橋という橋をみな渡ってみたくなっている。

* 七月六日 月

* 「天才」というまぶしい物言いで飾られる人がときどき現れる。久坂葉子もそんな一人であったと仄聞しているが、「贋・久坂葉子伝」とか云った本の出たのも聞いている。関西で老舗株の同人雑誌に属して、年寄りの同人達がはやし立てたのかもしれない。芥川賞候補になった「e-文藝館=湖(umi)」の推奨する『ドミノのお告げ』は、なにかしらの鋭い片鱗を光らせ、一種独特の空気を作中に揺らしている。一読をお奨めしたい。作者が自殺した年、わたしは高校二年生だった。

■ ドミノのお告げ 久坂葉子 招待席 「e -文藝館=湖(umi)」 小説室
くさかようこ 小説家 1931.3.27-1952.12.31 兵庫県神戸市生まれ。島尾敏雄の紹介で、昭和二十四年、同人誌「VIKING」に参加、富士正晴らの刺戟の元に精力的に書きつづけ、掲載作が昭和二十五年の芥川賞候補作となる。詩、戯曲へも活動を広げながら、「幾度目かの最期」を書き上げた後、昭和二十七年の大晦日に鉄道自殺。「ドミノのお告げ」は「VAIKING」に「落ちていく世界」のタイトルで発表、少しの改訂で標題に改まり、「作品」(昭和二十五年六月春夏号)に掲載された。(秦 恒平)
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浮世絵 両国橋図 割愛

* 隅田川の橋を「歩いて」渡ったのは、以前聖路加の帰りに、妻と「佃大橋」を月島の方へ渡って・戻ったのと、先月、本所回向院のそばで俳優座の芝居のあと、やはり妻と「両国橋」を渡った、たった二度しかない。河の東に西に別れたたくさんな水路や運河の橋も、意識して渡ったのは両国橋のあと柳の葉色した鉄の「柳橋」と、あの「日本橋」ぐらいしかない。
しかも、久保田淳さんの本に煽られて、大げさに云うと隅田川と大小の橋をみな渡ってみたいということばかり頭に渦巻いている。同時に、そう、鏡花の『芍薬の歌』などが痛切に読み返したくなっている。初讀のむかしには頭に隅田川なんてものはなかった。それだけでもずいぶんトンチキな読みをしていたに違いないと分かって身を細うする。

☆ 秦先生、メールをありがとうございます。  太左衛
久しぶり、5年ぶりの自主公演で、行き届かないことばかりで、先生へのお知らせも大変遅くなりまして、申し訳ございません。
おかげさまで無事終えることができました。
今月の浅草は、朝顔市、ほうずき市、そしてみちびきまつり、また花火もあります。
ぜひお出かけください。
お目にかかれる日を楽しみに、お待ちいたしております。

* 中元と重なる時期で、本の届きがやや遅れ気味かと案じたが、そろそろ届いているらしい。

☆ 届きました。  鳶
百巻に達した画期的な本が届きました。
発送が一段落はまずまず。本当に長い長い道のりでした。本に差し挟まれている「しおり」にはいつも必ず、読者の名前と、季節の言葉、そしてお元気ですかと書かれて。これだけでも延べにしたら気が遠くなる膨大な作業です。
とにかく此処まで文字通り頑張られた、頑張ったのです。そしてこれからも淡々と着実に続けられるでしょう!
HPでは浅草へのお誘いを断ったことが書かれてあり体調が心配です。いかがですか。梅雨で本格的な夏の到来はまだこれから、無理しませんよう願っています。

☆ 湖の本   梔
昨日『濯鱗清流』が、本日『花と風』が届きました。お忙しい中、お仕事の早いみづうみらしいことで、ほんとうにありがとうございます。「長女論」面白く読み、長女ながらコワイ女になりそこなったと思いました。
下巻の「私語の刻」も読ませていただきました。
あらためて申し上げる必要もないことですが、湖の本の百巻は、稀有の藝術的達成です。心からの感謝と賛嘆の気持をお伝えしたいと思います。溢れるように幸福です。

☆ 湖のご本「濯鱗清流」下巻届きました。  のばら
いつもありがとうございます。
百巻達成おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。
上巻は読み終えました。
幅広く何事に対しても、真摯な態度で向き合われていて、教えられることばかりです。
下巻も楽しみに読ませていただきます。
お疲れが早く癒えますよう願っています。
奥様共々、くれぐれもお大切に。  京の従妹

☆ 雨がしとしと  花
お元気ですか、風。
ご本、届きました。ありがとうございました。
そして、おめでとうございます。
そして、きのうは静岡県知事選でした。
ウインブルドン・テニスと並べて開票速報を見ていましたが、ずっと自公推薦の人がトップを走っていたので、ハラハラしました。
なんとか最後で民主推薦の人が巻き返し、ほっとしましたが、僅差での勝利でした。
さてさて、もうすぐ東京都議会選もあるのですよね。大勢の人が投票するといいですね。
ではでは、風、つつがなくお過ごしください。

☆ おめでとうございます。 郁
湖の本 100巻ご出版誠におめでとうございます。 拝受いたしました。 こんなにも早く完成され驚いております。 敬意をお伝えする言葉も見つかりません。
しっかりと読ませていただきます。 重ね重ね おめでとうございます。
日吉が丘の同窓会のお知らせが届いていますね。
京都は懐かしいかぎりなのですが欠席いたします。会場、なにか三十三間堂のちかくですね。
どうぞご機嫌よろしく。

* 小金井の浅井さんから電話で、八月末に海外の優れた歌手を招いて歌劇「トスカ」を歌ってもらうので、おいでをとお誘い頂いた。感謝。

* 七月七日 火 七夕

* 舟(牛車)洗いの雨もあがった。
懐紙の題に「星河秋興」と読める。軸装されている。七夕は、昔の暦では初秋。正二位雅章に、達筆ながら後生の藤原と書き添えたのが読める。調べたことがあり判明しているが忘れた。
上の句は「あまの川つきのみふねの追風も」であろう。「***すゞしき雲のころも手」か。三字やや読みにくく。
手洗いで、「笹の葉さぁらさら軒端に揺れる」と口ずさみ、ちゃんと二番まで歌えたのにびっくりした。この頃はあっというまに物忘れして名前など思い出せないのに。

「星河秋興」懐紙 割愛

☆ おめでとうございます。 秀  編集者
秦恒平先生
『湖の本』百巻のご刊行、おめでとうございます。長い年月をかけての思索とご執筆に心より敬意を表します。
『濯鱗清流 秦恒平の文学作法上』と同様、「下巻」も、これは貴重な文壇史だなあと感嘆しつつ、また随所に描かれている編集者についての記述に我が身を反省しながら、拝読いたしております。今後もお変わりなくご健筆を揮われますよう、心よりお祈り致しております。
暑さが本格的になって参りました。どうぞご自愛下さい。

☆ 湖の本百巻、おめでとうございます。  藤
秦 恒平様  湖の本第百巻、うれしく拝受致しました。
思えば私と秦様の縁をつないでくれたのは「湖の本」であり、「闇に言い置く」であります。
同窓のよしみで夫のところに湖の本の発刊をお知らせいらだきその輪に加わって、送られてきたご本を夫が読まないので(ごめんなさい)私がせっせと読むようになり、受け取りや簡単な感想を私が秦様に直接送り始めた頃から、ペンフレンドとなり、それが進化してメル友になり、「闇に言い置く」にも加えていただき、果ては拙い私の文章を読んでいただくまでに発展いたしました。
その経過を通して、理系学生でレポート以外文章を書かなかった私が、身辺のこと大切な思い出を書き留めることに目覚め、秦様の「闇に言い置く」の中の言葉から少しずつ文章を書く術も学ばせて頂いたのでした。
そのお陰で書き置いたものに、ありがたいご批評までも賜り、それを「e-Literary magazine e-文藝館=湖(umi)」に加えていただくまでの展開となったことは、私の人生後半の”予想もしなかった事件”であり、喜びでございます。
本当にいろいろありがとうございました。
こんなに長く文を交わし、電車に乗ればすぐの近くのところに住んでいて、私は未だ秦様にお目にかかっておりません。
秦様のお姿はテレビで拝見しているので、公平ではないのですが、ここまでくると、こういう関係がいっそ素敵に思えます。
この上は奥様ともどもお身お大切に、「湖の本」を更に更にお続け下さいませ。
私たち夫婦もまだまだ元気に暮らしたいものと願っています。
去年の朝顔の種を播いた鉢に、このところ馴染みのブルーの花が咲き始めました。
小学生が絵日記を描くように毎朝写生をするのですが、これがむつかしい。
毎年、毎朝、苦心すれどもみずみずしい花の色がどうにも思うように写せません。
「なんと美しい青(紫)か」と改めて感嘆!これもまた大きな楽しみなのですが。
2009年7月7日

* 夫君は原子力発電等の重職にあり、夫人とともに京大で学んだ。夫人も京都の人、「e-文藝館=湖(umi)」の「自分史のスケッチ」室に掲示の五作は、云われているとおりのご縁で生まれた秀作力作たちである。強靱な自律の精神と、絵を描く懐かしい術を大切にもち、素晴らしいお母さんでありボランティアとしての活動も力強い。「いい読者」であり、有り難い。

* 「月刊京都」を取り仕切っている山岡祐子さんからも「お祝い」を戴いた。岩波書店時代に「世界」に最上徳内を連載させて下さった高本邦彦さんからも「御発言の一言一句を重く受けとめつつ」と激励頂いた。青山学院大学清水英夫名誉教授からも「心からご健筆をお祝い申し上げます」と。やがて『表現の自由と第三者機関』(小学館新書)を下さるとも。

* 久しいお付き合いの歌人からは、上の述懐歌「『天の川を越えて』に立ち止つてをります。お辛い文月……」と。この葉書の写真で「團十郎」と名づけられた新種の朝顔をみせてもらった。

* もしわたしが短歌や和歌を日頃も読まない、まして善さが分からないなら、わたしが短歌選や和歌選をしたりすれば僭越になる。失礼になる。幸い、わたしは現代短歌も古代和歌も好んで読む。たくさん読む。幼時から小倉百人一首を、かるた遊びのツールとしてでなく、読んで意味をさぐり面白がって読んだ。国民学校の四年生から短歌を作った。高校時代は生真面目に熱中し、その頃の歌が歌集『少年』に結実し、岡井隆さんはその歌集から選んで、二度も、『昭和百人一首』に選して下さっている。
朝日新聞の短歌欄に、外部から「時評」を依頼されたわたしは、トップバッターであった。短歌に関する講演も座談会も何度もしている。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』など鑑賞の詞華集はヒットした。わたしの短歌選は、それなりに信用してもらえると思っている。今日推奨する、伊藤左千夫の短歌選抄も、一心こめてした。
もとより「選」や「抄」の問題を超えて、伊藤左千夫は優れた歌人であった。子規門で長塚節と並び称することが多いが、わたしは「人間」としても左千夫が好き、彼の小説も大好きである。自分より年若い子規子の前に敬虔に心服し、生涯姿勢を変えなかった。無骨な人となりの内心は熱く燃え、ときにめめしいまで情愛にもろくもあった。

■ 伊藤左千夫短歌抄  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集
いとうさちお  歌人・小説家  1864.8.18 – 1913.7.30 千葉県成東町殿台に生まれる。 年少の師正岡子規に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師の命脈をしかと手渡した。「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。  掲載作は、生涯の歌作から前半をまばらに、晩年を密に、秦恒平 (前・ペン電子文藝館長)が撰抄した。 (秦 恒平)
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* 「ムネオハウス」などで政界が揺れた頃、外務大臣の席を逐われた田中真紀子を、わたしはずいぶん声援した。
あの頃、外務省に佐藤優という主任分析官がいて、はなはだ奇怪な存在として外相の追い落としにも寄与していたことは記憶にまだ新しい。
ところが、その外務省の佐藤氏のその後が注目に値する素顔の露出で、その氏は、昨日の東京新聞コラム「放射線」で、あの当時の田中真紀子外務大臣が「伏魔殿」外務省の清拭に躍起であったことの、「実は甚だ真っ当で正しかった」ことを、悔いと陳謝の意もこめ力説していたのが目に付いた。
外交は「対話」ではない、「交渉・討議」でなければ意味はないとテレビで語っていたこともある元外務省の佐藤氏は、このところ注目に値する「優れた正論」を吐き続けている。

* 田中真紀子は、小泉元総理の手に利用され廃棄された。以来、鳴かず飛ばずにくすぶっているが、外務省「伏魔殿」摘発で、とにかくも発揮した持ち前の勘と論理で、また大きな働きをわたしは今も期待している。
民主党政権が生まれたなら、田中真紀子をもう一度外務大臣にとわたしは期待したい。

☆ きぬがさの丘   湖雀
インターネット、新聞、ラジオ、雑誌、スカパー…エトセトラ。視聴購読していない雀にときたま主人が会社から新聞の切り抜きを持って帰ります。
春日局と海北友松と妙心寺麟祥院のかかわりを知ったのは恒例の京都文化財特別公開の記事。乾隆帝、ルイ15世、ピット首相、7代徳川家継、9代徳川家重が同世代で、乾隆帝が1799に90才で崩御し、1800に李朝の正祖が暗殺され、ヨーロッパにはナポレオン戦
争が勃発して小ピットが敗戦により病没、日本は文化・文政時代と「時代合わせ」をしたのは、京都の書店が「平定西域戦図」を複製刊行するという記事。
紅葉シーズンに石庭をライトアップしている教林坊のご住職を存じ違いしていたことを知ったのもそんな小さなコラムからでした。
白洲正子さんが「芸術新潮」1969.5月号の「かくれ里―〈石の寺〉」でお書きになって満40年。ゆきしな八日市市から五個荘町まで愛知川沿いの社寺に立ち寄り、五個荘の旧い道を通って老蘇の森に向かう経路で、晋山されて14年という教林坊を訪ねました。
案内板を辿ってゆくと駐車場に軽トラが1台停まっています。
庫裏に高級外車が3台並んでいるお寺を奈良で一度見ましたが、年来、雀の行動範囲には軽自1台もしくは軽トラというお寺が断然多いですねぇ。
第1、第2、さらにバス用の駐車場が整えられ、拝観受付用の小屋もつくられています。紅葉シーズンは2ヵ月あまり連日門を開き、5時からはライトアップを行なうとか。
洛中の輻輳に、洛北、洛西、丹波へ、また、比叡から湖東三山へと紅葉狩の客を散らしてきて、このところ湖南や湖北が売り込みにやっきになっています。鵜の目鷹の目の観光関係者やカメラ関係がここを放っておかないのでしょうね。
もともとあった石段は通行禁止になっていて、薬医門に杖が用意されていました。観音正寺や桑實寺や石馬寺の記憶がよみがえり、ちょっと、覚悟。
竹藪の細い坂道をじぐざぐに進む道がなだらかな敷石道にかわると門が見えてきました。
お寺にはご住職ただおひとり。
薬医門、表門、書院、経蔵、庭園、本堂。さらには駐車場や境内の参詣道をすべてご住職が整備されたというのですから感服します。
書院は屋根裏まで登れるようにしてあって、琵琶湖のヨシで葺き直したという屋根をすぐ間近に裏側から眺めることができます。新樹の瑠璃光浄土のなか、東求堂さながら庭を掛け軸にしつらえた建具から庭を眺め、庭へ降りて本堂へと歩き、水琴窟に耳を澄ませ、書院や本堂のあちこちに掛けられたふるい墨跡を見て歩く‥それだけでも楽しいもの。
石棺の巨石が苔むして石庭の一要素と化しているありさまには息を呑みましたが、鳥のさえずりとかじか蛙の鳴き声、ときどき池の鯉が水音を立てて和し、小刻みに
風がゆり動かす木末のさやぎと竹の葉の音しか聞こえない静寂につろくして、却って落ち着きます。ヨシ葺きの本堂や書院も庭にうつってよい風情です。
「お化け寺」と呼ばれていた荒れ寺をこれだけ復興させたご住職のお人柄や、携わった地域の方々の世離れたやすらかさ、かけた時間、さらにはキヌガサヤマと石とササキの或る安堵感が加わって、境内の気味が苔清水のように膚からしみて、あんばいのよい
お寺でした。
ところで五個荘驛はこたえられない駅舎ですね! 計画したきりの〈近江鉄道一日旅〉をぼちぼち実行しなくッちゃ。 湖雀

* 気ぜわしい東京暮らしをしていると「雀」さんの囀りは天来の清音に聞こえる。挙げてある白州正子のエッセイが、わたしに『みごもりの湖』を書かせる起爆点になった。雀は、それもちゃんと知っていて書き込んでいる。

☆ 山の向こう  湖雀
日野川上流は近江屈指の石材産地だそうです。
山岳修験の綿向山から東の線上に雨乞岳と御在所山がそびえ、南西に水無山、北西には多武峰を遷したという雨乞いの山、竜王山があり、勧請された金峯神社や熊野神社が鎮座し、熊野の滝もあります。
川の源というのはどこも先へ先へと誘いかける魔力をもっているものですが、日野熊野の山気と空の半分をふさぐような山容は、美女のうしろからマダムがあらわれたかのように雀に強い印象を与え、地元の方からヒダリマキガヤの木を教わってその実をたなごころに乗せてお話をうかがうあいだ、山向こうへ行ってみたくてしかたありませんでした。
それから何年でしょう。若葉雨の合間を縫って、その、“向こう側”を訪ねました。もう二ヵ月も前のことです。
東海道の松並木、宿場町と本陣跡、斎王頓宮跡、田村麻呂の神社に鈴鹿の化け蟹、茶畑といった観光が宣伝されている土山はダムが3基もつくられている川の多いところで、山と谿、それらの隈、川にさざなみ、山に桜と、水と山のけしきがとても豊かで、河合ごとにお社が森に守られてまつられているのも穏やかで思い和ぐ風景です。
日野川に流れ込む平子川をさかのぼると平子峠に至り、今度は野洲川の支流があらわれます。
訪ねた神社はちょうど祭礼の準備中でした。御在所山から流れ出す野洲川に綿向山と雨乞岳をそれぞれ源とする川が合流する位置で、綿向山の真南にあたる、若宮神社です。
割烹着姿の女性が大鍋を手に社務所に駆け付けたかと思うと、中から裃袴姿の男性が和傘をひろげながらばらばらっと四人、宮地に流れる川の上と下にわかれて走り去ってゆきました。
雨にけぶる鈴鹿の山並。若芽と常緑が交じる鎮守の杜。時を経た社殿。檜皮葺きの屋根と照りむくりの破風。雨をたっぷり含んだ苔。小さな草の芽。そびえる巨樹のかずかず。からみつく藤の古木。かすかな風に残んの八重桜から花びらが散り落ち、そのなかを鍛えた背中に麻上下をつけ、白足袋に桐の下駄を履き、和傘を差して走り去る男たちのすがたは、下駄の音が霞を呼んで幻を見せているかのようでした。
と、ここまで仕上げてさて送信というところに、ご本が届きました。続けざまで心が騒ぎます。おん身ご案じ申しあげております。
大丈夫金の脇差‥‥と呵呵大笑なさってらっしゃいますかしら。
今年はひさしぶりに茅の輪くぐりをしました。 湖雀

* 「雀」さんのこういう清涼剤を服することで、わたしは、かろうじて俗塵をいささか洗い落として、ハ、と我に返る。だが雀のそばへ遁げ込むワケには行かぬ。わたしが生きているのは余儀なくも何であろうとも「いま、ここ」なので。

* 「中国」といういま最も用心の要る国について、テレビで啓蒙番組のあるのを、作業しながら耳で聴いていた。おおかた識ったことでも、たくみに整理整頓して要領よく具体的な数字などとともに話していたのが見つけモノの好番組だった。
また北朝鮮に拉致され幸いに帰国した蓮池さんが、拉致現場に立ちながらの述懐や覚悟の程も、胸に届いていい話だった。
東国原宮崎県知事の動勢はこのところマスコミ絶好のターゲットのようだが、この人にどういう胸算用が出来ているのか、効率は高いか低いかなどもう少し様子を見るしかない。いい意味で国のために働いてくれるなら思い切ったパフォーマンスも大目に見ながら応援したいが、ただの権力志向で自民党にすり寄って利用しようという程度であるなら、竹篦返しの自壊が早いだろう。
このところ失笑モノであったのは、後楽園ドームにつくられた「裕次郎寺」の大騒ぎ。日本の寺院仏閣とは、いまやあのようなお祭り騒ぎに利用されるだけの「空疎な建物」になりきったか。「裕次郎神社」でなくてまだしも。

* 京都美術文化賞を一九九四年(平成六年)に授賞した中野嘉之さんが、昨日、「墨・和紙の協奏」と題し、池崎義男氏と協力の写真集を贈ってきてくれた。中野さんの「墨」に托した造形美が息を呑むみごとな勢いで、感嘆。「濤」「流光」「揺れる幻映」「白い風」「波の音」「漂う風」「流れる音」 疾風怒濤をさながらに、まだ人間の生まれる以前はるかな太古のまさに物凄い水の世界を髣髴とさせて深い。烈しい。美しい。
ああ、美術展を見遁して惜しかったと悔いた。

* 七月八日 水

☆ 湖の本100号出版おめでとう存じます。  玄
引き続いてのお仕事を楽しみにしています。
都議選と衆院選の投票に当たって選挙民が賢い選択をすることを願っています。
岡山のニューピオーネとマスカットを少々お届けします。御賞味ください。

* 良い政治への良い環境を、選挙民挙って創りたいと願っています。ご機嫌よう。湖

☆ おめでとうございます。  建日子
百巻、いただきました。
おめでとうございます。
気の遠くなるような数字ですね。。。
今ちょっとバタバタしていますが、今月後半にでも、ささやかなお祝いの宴でもいかがでしょうか。計画して、またメールします。
なるべく早く、また保谷に行きたいと思います。
お体、お気をつけて。

* ありがとう。心ゆく仕事を一つ一つ遂げてください。

* 今日は視野検査のためだけに聖路加へ行く。雨が降らなければ、少し歩いてこよう。

☆ お元気ですか、みづうみ。  夕顔
発送のお疲れもごさいましょう、お礼を申し上げたいのはわたくしのほうです。百巻のささやかなお祝いをさせていただきたいと思っていたのです。
イライラしたり疲れたりする時、みづうみの作品だけが静かに充たしてくれます。読んでさえいれば、しあわせなのです。お礼を申し上げたいのはわたくしです。
視野検査が良い結果であることをお祈りしています。

* 視野検査は、なんだか新式であった。いつもよりいろんな光点でしらべられた。いつもは暗闇の光なのに今日はおおかた薄明のなかで光の点の点滅を把捉させられた。検査士は親切であったが、時間もいつもより長く掛かり草臥れた。ただし予約より一時間早く検査室につき、幸い検査を早めてもらえたので、終えて解放されたときはちょうど予約時間の三時半だった。ただしわたしの時計がアテにならないことがあとで分かった。
病院を出て、有楽町線の新富町から家へは逆方向に乗り、月島、豊洲を通り越して辰巳駅で降りてみた。なぜ辰巳で降りたかは問題外に願いたい。
地下から路上に出ると小雨に強い風。辰巳小学校の前からの眺望は、かつてわたしの東京暮らしで観たこともない高層ビルの林立、広い運河、閘門、群だつ灰雲の空。自分が、さて東京都何区の何処に立っているとも分からない。
結果として、吹き飛ばされるほどの風雨でなく、多少の濡れも厭わず傘をおさめて歩いた。辰巳から運河越えに東雲の高層また高層の住宅街を通り抜け、東雲橋を渡って、深川五中まえから豊洲駅まで。荷風先生の「か」の字も感じ得られるなにも無かった、超開発の成果らしいまさにイマイマの集団住宅街であって、それはそれなりに河有り運河有り大きな閘門も船の行き交いもあり、水辺の風情、有るといえば豊富にあり、しかしあまりに今日の淡泊とも雑駁ともいえる殺風景ではあった。予期していなかったのではなく、予期からすれば街は相応に小綺麗であった、いや小綺麗すぎるのが期待はずれであった。

* いちばん期待はずれなのは、粋な風情など滴もないこと、それにつれてそれらしい飲み食いの店がテンと見当たらない。憮然として歩いていたら、深川校のすぐさきに、よく見過ごさなかったと思う、なんと「京都紫野」の売り言葉を看板にした「おおもりや」という割烹の店をわたしは見つけた。覗いてみると店内も落ち着いて小綺麗。ただ時間は早い。主人に聴くと五時にあけると。わたしの時計はあと二十分で五時。で、地下鉄の豊洲駅ちかくをぶらぶらして佳い喫茶店を見つけた。キリマンジャロを四百五十円、お変わりは半額と。目の前で若い娘さんが一心に珈琲をたてていた。カウンターで本を読みながら、おかわりもして二杯のキリマンジャロを美味しく飲んだ。
始めて来た辰巳、東雲、豊洲で、せめて佳い店でおいしく飲んで食って帰りたい。
で、五時過ぎたと見て、また「おおもりや」へ。ところが五時どころか、まだ四時半だと云われた。わたしの時計がどうもおかしかった。ま、入って下さいと云われ、カウンターに落ち着き、「おおもり月の桂」という純米吟醸の酒から始めた。
若い店員が男女とも気散じな人たちで、気持ちよく落ち着けたので、次々に美味く煮た鰊、冬瓜となにかの柔らかい肉、椎茸や鶏肉や蓮などの煮染め、鯛の薄造りなどを頼んだ。酒が旨くて食べ物もよかった。もう少し飲みたかったが、ぐっと引き締めて、とにかくも佳い店を見つけたのを何よりの満足に引き上げてきた。よかった。
清瀬まで直通の電車に豊洲駅で座れて、保谷駅までずうっと本を読んだまま帰ってきた。駅からの車からおりて玄関へきっちり七時だった。

* さて今日、自分の脚で何という橋を幾つ渡ってきたのだろう。「東雲橋」というのだけ覚えている。便利な良い地図を買わねばならぬ。多摩地区とはまるでちがう景色がある。雨も風もたいしたことなくて良かった。気は晴れた。

* 今日は小栗風葉作『寝白粉』を紹介しよう。この作品をわたしは「ペン電子文藝館」の委員長、館長の時代を通じて、電子化までの用意は尽くしながら、あえて発信を見合わせ続けた。人権委員会を内部にもつペンクラブの機関が、あらわに人間差別を、少しの否認認識もなく書き表した微妙作を掲載するのは、正しい姿勢とは考えなかったからである。委員会委員では掲載に賛成の声もあり、理事会の意見を聴いても問題なしとの声が強かった、だが、わたしは敢えて避けた。いかに秀作であろうとも「ペン電子文藝館」だからこそ掲載すべきでないと判断した。事実これが風葉一代の秀作に部類できることはわたし自身が認めている。そしてもう今の時代にはこれを読んで作の根に横たわった差別のはげしさを感得出来ない読者も幸いに多いのかもしれないのだが、筋は通さねばならぬと、「ペン電子文藝館」では掲載へ事を運ばなかった。しかし「e-文藝館=湖(umi)」には掲載した。人間差別には絶対反対だが、優れた文藝作品を埋もれさせるにも忍びない。こういうところに「e-文藝館=湖(umi)」と「ペン電子文藝館」との性質のちがいを、双方を差配する責任者として認めていた。
風葉は尾崎紅葉門下の高足であった。巧みな書き手であった、が、多くはもはや確かに古びている。鏡花や秋声のようには時代を飛び越えて行けなかった。
だがこの『寝白粉』には凄みがあり、作者は気づいているのかいないのか、濃い哀れが沈澱している。わたしの生まれ育った京都は貴賤都鄙の集約された千年の町で、少年の頃からかなり多くを感じさせられたし、人間差別にはことに心を騒がせた体験がある。おのずとそれがわたしの文学の大きな主題にすら育てられた。

■ 寝白粉  小栗風葉  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 小説室
おぐりふうよう  明治の小説家  尾崎紅葉の愛弟子  此の掲載作は作者の力量を示す一代の代表作の一と謂いうるとともに、その題材の扱いや表現に、今日の認識よりして異様に不穏当な遺憾極まるもののあることは覆いがたい。編輯者はこれをつよく憎むと同時に、此の作に見せている作者文藝の才に愕き惜しむ思いも深い。読者は心してコレを取捨されたい。作者の意識認識は愚劣である。しかも文藝の結晶度はすぐれて堅い。 (秦 恒平)
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* 詩人の布川さん、「考えさせていただけます。ますますの御健筆をお祈り申し上げます」と。京都文化博物館の上平館長、「多年にわたる文学の旅路に深く敬意を表します。そして尊い人生に拍手を送ります」と毛筆で。
脚本家の小山内美江子さん、「追いつけません」と。静岡大学の歴史学小和田教授からは「ご笑覧下さい。恐々謹言」と、新著『北政所と淀殿』が贈られてきた。
市民活動家の吉川勇一さん、病牀からていねいなご挨拶有り。名古屋大の鈴木名誉教授も、九十のご高齢でご丁寧に。

* 「湖の本」の「ファン」という笠間書院の橋本編集長、『色の日本』に「ひかれて読んでいる内に(これはいつものことです。)」色彩学研究の大家である伊原昭さんの名を見つけ、伊原さんとも連絡の上、千四百頁もの大著『日本文学色彩用語集成・近世』を贈ってきて下さった。このお仕事は上代から古代、中世を経て完結した画期的な大事業で、京都賞や朝日賞に推しうるものと思っている。伊原さんからは大著を戴くばかり。感謝。

☆ こんばんは、 「琳」です。
記念すべき百巻、頂戴致しました。
ありがとうございます。
おめでとうございます、と言うよりも私にとっては感謝のありがとうございます、です。
この素晴しい同じ時間を共有する事が出来た事に、ひたすら感謝です。
おじい様から大きな勇気を頂戴しています。
おばあ様の陰の大きな力を強く感じます。
すてきです!!!
すてきなご夫妻です。
私の理想です。
昨日は七夕様でした。
今頃天の川を超えて、やす香のもとにも百巻が届いている事でしょう。
ささのはさ~らさら~・・・二番が思い出せません。
今度教えて下さい。
不愉快な気候が続きますが、どうぞお身体ご自愛下さいませ。

* 五色の短冊 わたしが書いた
お星様きらきら 空から見てる だったかな

* 七月九日 木

* 多年湖の本を支えて頂いた浅井敏郎さんが、九十にも間近くして文集『菊を作る人 私の文章修行』を出版された。巻末に、平成二十年三月に亡くなった夫人の俳句集を二百句ほど付されていた。御夫妻淳良の思い出がこめられており感銘を受け、浅井さんにお許しを得て五十五句を選ばせて頂いた。わたしが題して『菊師』とし、「e-文藝館=湖(umi)」に招待する。いま、浅井さんに夫人の生年など問い合わせている。
浅井さん自身の文章修行も立派で、この方はご自身に何編かを自選して欲しいと頼んである。
『菊師』を選し、最後に通して読みかえすうちに何度となく目頭を熱くした。先日は俳人奥田杏牛さんの亡き夫人の遺句集『さくら』を「e-文藝館=湖 (umi)」に戴いた。あの時も何度も胸をつまらせた。

* 今夏も、高麗屋がお見立ての浴衣地を頂戴した。感謝。金太郎クン初舞台も恙なく終え、よかった。幸四郎、染五郎連名のご挨拶があった。

* 岩波文庫の『ゲーテとの対話』上巻、『法華経』中巻を読了。「対話」の方は、ついに頁ごとにバラバラにほぐれてしまった。昭和二十六年九月三十日の第八刷で、その頃、高校一年生。
ゲーテの大きな姿勢は「平衡」。ブレない「高貴」と「知性」。つねに自足して称讃と非難とに無関心でいられる人。「一事を確実に処理できる人は、他のさまざまなことができるものだ」ともエッケルマンとの出逢いの頃に話している。事実ゲーテがそういう人であったことは多くの事実が示している。
ひとつだけ。ゲーテは多大の実験と自負とで「色彩」「光」について研究し、当時ニュートンの説と対抗していたが、これだけはどうもその後の歴史はゲーテに分のないことを証してきた。わたしには分からないが。もっと知りたい。

* 昨日の辰巳での雨と風に、ひごろも喘息気味の咳込みが増している。わたしの咳込みはしつこくて、夜、夜中には近所迷惑なほど、年がら年中。

* 機会の部屋の蒸し暑いこと。背中から真方に冷房すると、いつか咳込み始める。

* この作には、あえて深く触れない。乱歩の名前を知らない読書人は少ない。そして幾らかの先入見を持たれている。この作品は、たぶんその先入主を突き崩すかもしれないと思う。秀作。

■ 押絵と旅する男  江戸川乱歩 招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
えどがわらんぽ 小説家 1894 – 1965 三重県に生まれる。 海外の推理小説の研究や紹介につとめ、また谷崎潤一郎の推理作「途上」等に刺激されて、我が国にいわゆる「探偵小説」という推理の新ジャンルを確立。『江戸川乱歩推理文庫』は全六十五巻に及ぶ。筆名がエドガー・アラン・ポーに依るように、乱歩の作にはどこか耽美の憂愁がつきまとい、大正から昭和初年の時代の雰囲気をも微妙に写し取っている。 掲載作は、「新青年」昭和四年(1929)六月号初出、探偵物でも推理作でもない文学作品として、乱歩の一名作たるに恥じない代表作である。 (秦 恒平)
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☆ 「秦 恒平・湖の本」第百巻  「新潮」元編集長
誠に有難うございました。満二十三年にわたっての御発行は、自らの編集者生活を振返ってみましても、並外れた御精進と、言い知れぬ感銘を覚えております。(これはむろん奥様の御協力がなければお出来になれなかったろうと、同時に思いますが。)心からお慶び申し上げます。「濯鱗清流 秦恒平の文学作法」 (下)も志賀直哉と谷崎潤一郎との関係の御言及に、冒頭から大いに示唆を得ております。楽しみに通読させていただきます。夏到来も間近となって参りましたが、呉々も御体調に留意され、新たなる御健筆と御多幸をお祈り致してやみません。敬具

☆ 「湖の本エッセイ48」  「群像」元編集長
誠に有り難く拝受 おもしろく拝読しました。志賀と谷崎についての論、梅原猛氏や石原慎太郎批判など大変おもしろく拝見いたしました。近頃、戦後文学が大正文学を越えられなかつたのではないかといふ気がして来て、戦後文藝雑誌の編集に携って来て一体何をして来たんだとふと思ふことがあります。葉書で失礼いたしました。 不一

☆ 今年、いつもより遅れて  ドナルド・キーン
東京の我家に帰ると御本数冊が届いていました。又、本日も一冊落掌しました。ありがとうございました。これからの楽しみにしています。私は相変わらず忙しくやっていますが、元気です。八十七歳になりました!

☆ 「湖の本エッセイ48 濯鱗清流」下巻  歌人
ありがとうございました。「立川流」のところ、興味深く拝読いたしました。性と信仰は切っても切り離せない関係にあるとずっと考えてまいりました。G・バタイユでしたか、「エロティシズムとは死に至るまでの生の恍惚」といっていたことを記憶しております。また喜多流の節世氏とは吉祥寺の飲み屋でよく一緒に飲みました。梅原猛氏の文章、中野重治が『地獄の思想」を読んで、「土俵で四股を踏んでいるような文章」と言っておりました。乱文、乱筆、お許し下さい。草々  七夕

☆ 秦 恒平先生  大学教授
『湖の本』には、いつも教えられます。自分の拙さ、至らなさ、をです。その文学や文学表現への慈しみには、無言のままに、叱咤されているような思いです。その片隅にでも、小文の場が与えられるのであれば、うれしい限りです。作品も、研究も、やはり、読者というしっかりとした存在によって成り立つのだと実感致します。ありがとうございます。

☆ 拝啓  元京都市立美術館長
『湖の本』 いつもお送りいただきありがとうございます。 「濯鱗清流」 の上をようやくあらあら読み終え、お礼を書こうと思っているところへ、 「濯鱗清流」 の下をいただきました。
この二冊のエッセイは折々のさまざまな感想が面白く。まったく私などは知らない分野のものも多いのですが、多少かかわりのある分野では、いかにもと感じることがしばしばです。
たとえば、上の一二六頁 (一九九九・十・ニ七) に見える 「短歌21世紀」 編集後記を引いて、言われていることは、まさしくその通りだと思います。いわゆる短歌の世界だけでなく広い視野から見られている、ことに私は重要な見解だと思います。今度、ある短歌
結社での夏の大会に講演を頼まれているので、その中で、この雑誌の名前、大河原氏の名は伏せてでも引用させていただこうと思ったりしています。短歌史を歌壇だけから見ないで捉える必要性のためです。
私も歌舞伎は大好きで若い頃から、八十歳を過ぎる今までずっと見ていますが、もっぱら関西で見ており、東京での興行は見ていないので、その作品と、役者と、批評を読みながら、想像しています。国立劇場の 「本朝二十四孝」 などはぜひ見たかったですね。進之介への苦言、いかにもと思います。愛之助はもちろん、孝太郎が姫役でなければかなり見られるようになってきた今日、進之介にもう少し成長してほしいと思います。
『細雪』の「雪子」について書かれているのも、いかにもと思います。谷崎が、戦中に「細雪」をひそかに書き上げて、重子さんに贈った時の手紙の、一番にあなたにさしあげなければならない本です。あなたなら思い当たるところがいくらもあるはずです。とあったことを私は思い起こしています。
下はまだほんの拾い読みですが、今書いておかねば、また期を逸してしまいそうですから、書き添えておきます。
河野裕子さんに関するご見解、私もコスモスに所属していた頃の方がよいということをずっと思っていました。ただ、一番最近の歌集は、よかったと思います。この人若い頃の出産とか、最近の病気とか体験派だとつくづく思います。それに『私の会った人々』 という本をおもしろく読みました。NHK歌壇の出演を断られたこと、いかにもと納得しました。私も最初は馬場さんから電話で頼まれ、その後も、付き合いの深い人からの依頼で何度か出ましたが、もう少し、方法があろうかと思います。大体最近のテレビの教育番組が、視聴率とかを気にしてつまらなくなっているように思います。
今井源衛氏の名が何度かでてくるのもなつかしい次第です。私が佐賀大学にいた頃から、何かにつけて親しくさせていただきましたが、著作集を計画されたところで、病気になられ,ついに完成を見ずに逝かれたのは残念です。『大和物語」の評釈は、名著だと思います。
日本古典文学大系を担当されて、当時の岩波の方針に従って書かれ、この大系が途中から研究者向きに楫を切ってきたので、残念だと言われ、「国文学」に書き続けられていましたが、それをこの本で見事に完成されたものでした。ただ、私が『大和物語』を書いた時には間に合わなかったので、私の著作集に入れる時に、部分的にしか参照できませんでした。
喜多流の能をずっと見続けられ、それも馬場あき子さんの縁とのこと。馬場さんから喜多流の能のことを聞いたのも、もうずいぶん昔のことになったなあと思い返しています。
政治の話、共産党は名前を替えて、昔の社会党に代わる党に脱皮すべきだというのも、驚きました。言われてみればその通りだと思います。しかし、おそらくそうはならないでしょう。今回の選挙はこのままで、次に大きく政界が変わる時には、民主党の中でくすぶ
っている旧社会党系の人々と社民党が一つになって、せめて公明党 (この党は困ります)ぐらいの勢力にはなってほしいものだと思います。
エッセイというのは、このように広い視野で、思ったままのことを書いて、しかも読者を飽きさせないものをいうのだとつくづくと思い知らされました。
ほんとうに、ありがとうございました。  平成二十一年七月七日

* みなみな有り難いお便りで。嬉しい。

☆ お祝い   華
遠 様
暑さピークに入りました。 祇園祭も鉾建てが近くなって来ました。
湖の本百巻、と、金婚をお祝い申し上げます。
送られるままに読んで居りましたのも、沢山にたまりました。
また、今までの年月勉強させて頂きました。
体力も続き、此処までよく頑張れました事を、また、良き方にめぐり逢って来られたのを、心から祝しております。
いつか同窓会で、西川絹ちゃん(伊藤さん)とやさしくて良さそうな方で、よかったなあーと、話しておりました。
送って頂いた下巻ゆっくり読んでおります。
暑い中 ご自愛ください。

* 高校茶道部の生徒達。わたしも高校生であったが、指導の先生がなく、創部のその日からずっと点前作法など教えていた。その生徒達の何人もがいまも湖の本を支え続けてくれている。感謝、感謝。

* 引き続き笠間書院編集部から、中世王朝物語全集の最新配本『夜寝覚物語』を頂戴した。これはわたしが源氏物語に次いで、いや並んでと言いたいほど好きな原作「夜の寝覚」の中世の改作物語で、まえまえかからこれも読みたい読みたいと思いつつ手に入らなかった本文で、最新の研究成果とともに本文と脚注等が完備した新本、垂涎もので、嬉しい限り。今度の「湖の本」に盛んに原作の寝覚めへの傾倒を書いていたので、この出来本を超特急で贈っていただいたと見える。こころより感謝、今夜から読み物の中へ加えて完読したい。

* 岡山の有元さんから、アレキサンドリアとピオーネとの熟れて大きな二房ずつをお贈りいただいた。観るから美しく、花も褒めそやすが果物の美しさにはひときわの豊かさが耀いていて、嬉しい。有難う存じます。

* 七月十日 金

* 「名品」という言葉が小説にも使えるなら、今日「e-文藝館=湖(umi)」が推奨するのは、掛け値無しの「名品」である。
ついでだから持説を言うておくが、おおかた創作されたモノは即ち「作」であるが、「作品」の有無はおのずから別の「評価」である。「人」と「人品」とが自ずから別であるように。
この作に、作品と称するに足る「品」があるかどうかを問うのが作品批評であり、作品論。「作」はその手の鑑賞や品評以前の生のママの存在自体を謂うのである。
幸田露伴には人品があり、作の多くは優れて作品に富んでいたが、今日推奨する『幻談』は文字通り「名品」ですとわたしは躊躇なくお奨めする。文豪としての生涯であった。国会が国葬を議したような作家は他になかったが、そういうことから言うのではない。作品の味わいを謂うのである。「文学」の「品」がここに在る。

■ 幻談  幸田露伴 招待席 「e-文藝館 =湖(umi)」 小説室
こうだろはん  小説家  1867.7.23(又は、7.26) – 1947.5.30 江戸下谷三枚橋横町に生まれる。 昭和十二年(1937 )第一回文化勲章 創設帝国藝術院会員。 昭和二十二年の死に際し政府に国葬の議あり。内閣総理大臣以下葬儀に列席。 掲載作は昭和十三年(1938)九月「日本評論」に初出。(秦 恒平)
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☆ 前略  東京大学出版会編集局  英
何気なくひもどいてゆきましたところ、本書のあり方そのものが、あるいは著者の表現をあり方そのものが、現今の出版をめぐる状況、あるいは現今の表現をめぐる状況に対して、強い異和と鋭い批評・批判になっていることに気づきました。
出版と表現にたずさわっている一人の人間として、心の痛みを伴いつつ共感を抱いた次第であります。
秦様の試みには全く遠く及ばぬものではありますが、出版と表現をめぐる状況の浮力に抗う努力を続けていきたいと存じます。
心より御礼申しあげます。
「湖の本」は、文化であり、闘いなんです。
という言葉を肝に銘じつつ、 敬具

* 感謝します。

☆ 拝啓  日本共産党中央委員会学術・文化委員会  恒
創刊以来二十三年、通算百巻とは、驚きを禁じえません。世に売らんかなの商業ベースでの出版があふれるなかで、このような本の刊行を四半世紀近くにわたって継続されることは、なみの努力ではできません。心から敬服するとともにお祝い申し上げます。
まだ拾い読みを出ませんが、『早春』でお書きになった思い出など、自分の同じような体験をなつかしく想起させられました。
なお、日本共産党の党名については、永い視野で歴史の審判を待ちたいとおもいます。 敬具

* 恐れ入ります。

☆ お元気ですか  鳶
7.8
先日「お叱り」と「励まし」をいただいてから、早や半月も過ぎてしまいました。
視力検査のついでに雨の東京を歩いていらっしゃる頃でしょうか?
昨日は七夕でしたが、ほぼ日本全国曇り空で七夕様の出逢いは叶いましたものやら。わ
たしは夕方買い物に出た僅かの時間に雨に降られて、他所の家のガレージで少し雨宿り
したのですが、再び濡れ鳶になりました。哀しい七夕でした。
年齢ということもありますが、少しずつ姑の体調に問題も生じており、今週末も出かけます。お盆の供養も兼ねてです。
7.10
街歩きを楽しまれた様子、美味しいものにたどり着けたのはよかったです。街歩きでも旅でも、美味しいものに出会えないと、本当に味気ないですから!
今日は用事で出かけたいのですが、前線の通過で強い雨が降っています。それにバスが午あたりまでありません。
そちらは都議会選挙。日本も問題山積、この政治屋世間の混迷にはまったくうんざりします。
ウルムチの暴動にも大いに関心があります。二十年前のウルムチ、数年前のウルムチ、二回訪れましたが、いずれも深い印象があり、問題の在り処も実感しました。
このメール、テレビの『ビザンチン帝国 3』というのを聞きながら書いています。春に訪れたギリシアのミストラが出てきて大感激です。

* 妻は歯医者に行き、わたしは留守番をして生協からの配達を受け取ったり、冷凍庫にしまったりしていた。まだ、少しずつ寄贈の送り出しをしたり、上巻入金者への下巻発送などを続けている。

* 読者である浅井敏郎さんの夫人豊子さんの遺句集から五十余句を選んで、「e-文藝館=湖(umi)」に招待した。三百ほどの中から夫君が二百ほど採ってご自身の文集に収めておられた中から、さらに厳選し「菊師」と題した。

* 七月十一日 土

☆ 「湖の本」第九十九、百両巻の御刊行、  阿川弘之
御恵与に対し、読んで御祝と御礼を申し上げます。
私にとつては師にあたる志賀直哉に関する御言及が多々あるのを、いづれも興味深く拝見してをります。
ありがたうございました。  不一

* じつはお目に掛かったことがない、が、昔から懐かしい人に思ってきた。一つには、貧しい日々の中で講談社版の日本文学全集を一冊また一冊と買い溜めてゆきながら文学への思いを涵養された、そのいわば最終巻には、当時新進気鋭の作家を数十人えらんだ巻が配本され、その巻頭に阿川弘之『年年歳歳』とあったのへ、とびつくようにして読んだ嬉しさが心身から抜けないのである。いい作品だなあと嬉しく感嘆し、感嘆を忘れることがなかった。
阿川さんが志賀直哉の最も若いお弟子さんであることも知り、のちのちに瀧井孝作先生とのご縁など出来てからはよけい遠縁とはいえ親類のような親しみをいつももっていた。御本を頂いたこともあり、「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」のためにお願いしたときも、「秦さんのすることだからおまかせしますよ」と許しても頂いた。
ご健勝を祈ります。

■  年年歳歳  阿川弘之  招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
あがわ ひろゆき 小説家 1920.12.24 広島市に生まれる。日本藝術院会員。昭和二十七年(1952)最初の長編『春の城』により讀賣文学賞。掲載作は、「世界」昭和二十一年(1946)九月号初出の文壇処女作で、原爆被害の生地広島へ復員帰還した作者の、美しいまで初々しい筆致に、生きる喜びが自然にあふれている。当時の作者に反戦や反核を訴える気負いはたとえ無かったにせよ、歳月を隔てて読み返す読者の深い共感に、自ずと戦争や核爆弾へ辛い思いの添うのは抑えがたい。掲載をお任せ頂いたご好意に感謝します。  (秦 恒平)
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* 作家の津村節子さん、島尾伸三さん、僧の黄色瑞華さん、元岩波書店の高本邦彦さんから有り難いお手紙を頂戴した。

* いま手もとに、立教大学(名誉教授)平山城児さんに戴いた論文の抜き刷りがある。「国文学踏査」第二十一号、論題は『万葉調短歌と鴎外の「うた日記」』で、今年の三月刊。
鴎外の「うた日記」は知る人はよく知っていて有名だが、明治四十年九月春陽堂から出版された。日露戦争に従軍の時、勤務のヒマに束の間浮かんだ俳句や短歌や新体詩をメモして日記風に書き留めた。
わたしが平山さんの論文に強い感銘と共感を得たのは、直接鴎外の「うた日記」にではない、強いて謂えば平山さんが強調しておられるように、鴎外は日記の作をなしつづけながら、ついに片鱗も戦争讃美や戦意高揚をこととしていなかった真実に目をとめる。
是に対比して、平山さんは、近代の大作家、大詩人、大歌人達の何人もが「万葉調の字句言句を駆使し、どんなにトクトクと戦意高揚、戦争讃美の作をなしていたかの実例を苦々しく拾っておられる。
一例をあげておく、斎藤茂吉は、「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ」の類を戦時無数に歌っていた。『赤光』や『朝の蛍』で短歌開眼をさそってくれた敬愛する茂吉である、わたしは堅く眼をつむってこれらを茂吉の戦争短歌たちを無視してきた。
平山さんが近代現代で名前を挙げておられるのは、歌人の浅利良道、川田淳、佐佐木信綱、小説家の佐藤春夫も「皇国紀元二千六百年の賦」以降、「特別攻撃隊の頌」以下続々愛国讃歌を公表していた。
ついで平山さんは、詩人高村光太郎の名をあげ、具体的な作も挙げている。但しこう加えられている、「戦後、光太郎はみずからの戦争詩を悔いて、東北花巻の山林の中で七年間も隠栖した。そのことがせめてもの救いである」と。
その通りなのである、「せめても」それを「救い」と感じ、加えて「近代的自我意識を追求した、あの『道程』を書き、妻の死後、絶唱とまで慕われる『智恵子抄』を書いた高村光太郎であったがゆえに、わたしたちは、光太郎の「悔い」をあだかも「我々自身の悔い」としても受け容れ、いわばともに「戦争という魔」を憎んだのである。

* 「ペン電子文藝館」(阿刀田高館長、大原雄委員長)は、だが、こともあろうに「招待席」に掲載する『高村光太郎作品・抄』において、文字通り光太郎を戦争讃美・戦意高揚の詩人であると烙印を押したに異ならない、露骨な作品選で貧寒とした「抄」を強行公開してしまい、わたしがどう抗議しても改めようとしない。考えられない非情の強行としか云いようがない。

* 平山論文は詳細な議論であるが、一つの明快な結論は、鴎外は従軍の『うた日記』のなかで、巧みに万葉調の言辞・字句を駆使しながらも、ただ一作といえども戦争讃美や戦意高揚の作は為していないことへの称賛である。

* 新刊の「三田文学」夏季号に大久保房男さんが、「言論の自由について 戦前の文士と戦後の文士 2」を書かれていて昨夜全編音読、妻と大いに聴き、また大いに快笑した。
「文士とはいついかなる場合においても、言いたいことの言える立場に身を置こうとする人たちのことだとわかって来た」のが、大久保さんが「終戦から一年半」で「編集者になって(から)五、六年たった頃」だと、冒頭にある。
氏は戦前から仕事をしてきた文士たちともっぱら付き合われ、おいおいに「戦後の文士」たちとも応接された。
わたしは実は大久保さんとは不幸にして一度も仕事でふれ合えなかったが、いろいろお話をうかがうようになってからももう久しい。ことに此の上の「文士の定義」は、まさしく私自身がほぼ作家生涯の全部をかけて望んで遂げてきた「立場」そのままなのに大いに頷くのである。
いま「濯鱗清流」二冊を手にして多少でも読んで頂いた方は、それを納得して下さるだろう。

* だが、大久保さんは戦前戦後の作家を通じてそうだとは言われていない。それどころか戦後の作家達は「そうではない」と断言されているに近いのであり、わたしの見た限りでも、紳士のような戦後作家達は、むしろ大久保さんのいわゆる「言いたいこと言い」は非紳士的な非常識の所業であるぞと、言わず語らず振る舞っている人が断然多い。

* 降りそうになかったので、暫くぶりに自転車で、二時間半、走って来た。いつもの道が工事で迂回を強いられ、そのはずみで足任せにかつて見知らぬ道をズンズン走っているうちに、練馬区の高松六丁目にまで来ていた。高松といえば妻の親友の家がたしかある方面であり、光が丘団地にももう近いらしく、どうしてこんな所へ迄来たのか分からなかった。
谷原へ出て、そのまま下石神井などの住宅地をかけまわって新青梅街道に出たので、これを西へ西へ田無まで走り、田無からひばりヶ丘へ北行して馴染みのビストロに新刊の湖の本上下を置いて、家に戻った。
絶えず痛む腰なのに、自転車を走らせている間はいつも全く痛まない。

* 明日は都議選。よい結果を掴みとりたい。

* 七月十一日 つづき

* こんな交信をしていたらしい。

☆ 天の川  琳さん  7月のばあば
天の川を 越えてやす香のケイタイに 文月の文を書きおくらばや 湖
たちまち胸がぎゅ!!となり・・・
秦(=おじいやん)はさらさらと 苦もなくこう歌に出来・・
それはとても羨ましい。 嫉妬にちかい気持ちです。

 

平成十七年一月二十二日 新宿小田急で買い物

☆ 胸ギュ!!!  琳
こんばんは。
天の川を 越ゑてやす香のケイタイに 文月の文を書きおくらばや
私もおばあ様と同じ、胸ギュ!!!です。
おじい様の歌はやす香へのラブレターみたいです。
おじい様は溢れる想いを言葉に託す達人です。
今回は私たち、分が悪いです。
想いを言葉で表すのがもどかしい時でも、おばあ様には優しい涙があります。
天の川を伝っておばあ様の優しい涙はやす香に届いています。
天の川は、いっぱいの涙で出来ているのかもしれません。
やす香には流れてくるおばあ様の優しい涙が直ぐに分かることでしょう。
きっとあの白く長い指でおばあ様の涙の雫を上手にすくい取り、頬寄せているのかもしれません。
悲しいのではなく、おばあ様の涙で温かさに包まれているのだと思います。
だって、やす香はおじい様とおばあ様に愛された、温かい想い出を持っているから。
やす香がおじい様おばあ様を訪ね、本当に幸せだったこと、私はちゃんと知っていますから。
おじい様おばあ様が私をご存じない頃から、私は知っていました。
やす香を愛で包んでくれる、優しいおじい様おばあ様の存在を。
今年も七月が来ましたね。
明るい笑顔のやす香を思い出します。

* ありがとう。

* 上の写真の日は、四年前、やす香の不幸な発病よりちょうど一年前、平成十七年一月だった、下北沢で、秦建日子の作・演出の芝居を三人で観た。やす香と一緒というのがどんなに嬉しくていそいそ出かけたことか、しかし、どんなにどんなに嬉しくても、買い物などが楽しくても、日記には「若い友達と」としか書けなかった。嬉しさのあまりを書けばやす香の親に知れてしまう。やす香は全てを自分の胸一つに畳んで祖父母との親愛を敢然と復旧していた。
可愛い孫にものを買ってやることも出来て祖父母は嬉しく、やす香も喜色満面、照れ照れになりながら、おっそろしく短いスカートなどを選んで「まみい」に買って貰っていた。雀躍(こおど)りしての喜びようだったのが、悲しくもまた思い出される。

* ああ、そして三年前の今日は、何という悲しい日であったことか。『かくのごとき、死』の七月十一日の日録は、かくも厳しかった。

* 平成十八年七月十一日 つづき

* やす香の状態が、よくない。「mixi」に、やす香が、やす香らしからぬ筆致・文体で永々と書いて告げている。一日も早いうちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何一つ伝わってこない。何も来ない。六月六日「mixi」のやす香は、こんなに無残であったのに。

2006年6月6日13:19  ◎筋肉◎
って使わないと衰える!!

パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために

リハビリだ!!!

って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。

大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ

って自己暗示と共に(笑)

ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて

よし、上り頑張れ自分!

って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りませんΣ( ´・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。

こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね( ^‐ ^;

んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、

ガタン…。

えっ(i―! ゚覆 ゚i―!)

恐る恐る振り返りました。

そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。

滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。

あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●

と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。

よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…

と思い起き上がろうとした瞬間、

うっiI――Ii( `◎ω◎ ´;)iI――Ii

こっ腰が……_| ̄|●))

なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが

よぉぉぉぉぉぉくわかりました。

みんなちゃんと運動しようね(o `艸 ´o)

* 7月11日19:04   みんなへ  やす香
母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそうです。
厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそうです。
余命は誰にもわかりません。
みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。
20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわけでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らしい生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
今日を、明日を生きる。  やす香

* 五臓六腑が動転する。
同時に、いま、やす香の「名」で、これだけの長文をこう書かせている苦い悲しみを想う。これもそう、「白血病」「肉腫」を「告知」した取り澄まして簡潔な行割りの文も、むしろ母親夕日子の筆致にはるかに近いのを、夕日子の文章を多く読んできたわたしは「感じる」。

* 折から堀上謙さんの電話。お宅へのお誘いは受けなかったが、話は聴いてもらった。
「あきらめて投げ出してはいけない、最期の最後まであきらめないで、わらの一すべでも摑まなくては」と。もはや「緩和ケア」に入るというのは、あまりに諦めが早くはないか、と。
わたしもそう願い、建日子を通して伝えたが。母親は完黙して答えない。

* 建日子に。(建日子宛の夕日子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大していました。
やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきではないですか。
そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか分らない。万一していないなら、「今すぐしなさい」と夕日子に伝えて下さい、これ以上の手遅れにならぬうちに。
病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
いまは、父親も母親も、★★家の親族も、挙げて、やす香の救命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
医学書院時代の昔のわたしなら、医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父

* こんな日記を書かずにおれなかったわたしも妻も、絶望に落ち込むまいと必死だった。だがまた手の打ちようもないほど「隔て」られていた。
しかも、これら日記記事が、やす香両親への「名誉毀損」であると、現にわが婿や娘に訴えられ、千数百万もの莫大な損害賠償金を請求されている。どこが名誉毀損なのか理解に苦しむと、わたしも妻も、この三年疲労困憊の中で堪えてきた。いま裁判所も、更に重ねてなにが具体的にどう名誉毀損なのかと原告に対し全面的に問い直してくれている。おかげで、この暑い夏をわたしたちは、心持ち解放されている、有り難い、とても。

* 金婚の百巻のと、わたしは浮かれているのではない。やす香の死からも、無道な婿や娘の裁判沙汰からも、老いた両親は、いろんな事をしてでも懸命に気分のバランスをはからねば転倒してしまう。渾身の力でただ堪えているのである。
* 七月十二日 日

☆ 「百巻」お目出とうごさいます。  高史明
そして有難うございます、言葉に表わせない偉業と思いつつ。
心からの感謝とおよろこびの言を申し上げます。

* コ・サミョンさんには、夫人もともどもに、湖の本創刊このかたずうっと筆紙につくせぬ応援を戴いてきた。どんなに励まされ助けられてきたことか。有難うございました。

* わたしは、駄作であっても西洋の「歴史」映画は努めて観るようにしているが、それ以上に、反戦ないし戦争を批評的に描いた映画は必ず機会を逃さぬようにしている。それが努めであるかのように大事に観る。
似た感覚で、日本文学の反戦・反権力の作品を、いつも機会あれば心して読んでいる。それらの優れた作品に打たれるのを、つらい、くるしい、かなしい作であっても進んで受け容れている。荷風や鏡花や潤一郎を喜ぶのと変わりなく、だから例えば今日推奨する黒島傳治の小説なども、きっちり読む。読んで、良かったと印象に刻む。こういう作品に触れうることを「文学」のために喜ぶのである。

■ 渦巻ける鴉の群  黒島傳治 招待席 「e-文藝館=湖 (umi)」 小説室
くろしま でんじ 小説家 1898.12.12 – 1943.10.17 香川県小豆郡に生まれる。初期プロレタリア文学の最も才能豊かな新人の一人から、長編「武装せる市街」等でスケールの大きい反戦文学作家として藝術的に精彩を放った。昭和八年(1933)のシベリア出兵で病み、筆を断って郷里小豆島に帰り死去。 掲載作は、昭和三年(1928)二月「改造」に初出の黒島反戦代表作の優れた一つ。(秦 恒平)
http://umi-no-hon.officeblue.jp
(目次のe-literary magazineとある英字の上をクリックして下さい。

☆  ご著書御礼  麗 札幌
秦様 暑中お見舞い申し上げます。メールでの返信をお許し下さい。
ご著書,まことに有難うございました。厚く御礼申し上げます。
(下巻跋での)「怨み」についての部分を興味深く読ませていただきました。以前の,秦様とのやり取り(その節は有難うございました)を経て以来,この感情に対し,いささか異なる見方をするようになってきました。
この感情に対して,中国や韓国など,他のアジア人は,我々よりポジティブに捉えている印象を受けます。「中国人は日本に怨みを持っています」などと面と向かって言われた時は驚きましたが,彼らはその思いを持ち続け,自らの活力に昇華して行動しています。時として,反日行動になることもありますが。
翻って,日本人はどうでしょうか。
何かに対して悪感情を持ち続けるのは,実は結構しんどいことです。「許す」という美徳は,実は,このしんどさに耐えきれなくなった自分との「妥協」なのかもしれません。日本人は,この妥協に流されやすいのかな,とも思われます。しかし,「許す」気持ちも,永劫に続く保証はないのです。加えて,妥協した自分自身を許せない,という新たな葛藤も起こってきます。日本人は,「許さない」を敵視しすぎてきたようにも思われます。その思想の背景まではわかりませんが。
今,幾人かの顔が浮かんでもきました。やはり,許せないものは許せない,のです。
その事実を受け入れ,関係ない人には,できるだけ不快・迷惑を与えないように,前向きに思考・行動するしかない。
このようなことを思いつつ,読ませていただきました。
続きも楽しみに読ませていただきます。
会う人ごとに秦様のサイトを薦めていますが,なかなか目当てのページに行き着けないとか,パソコンの画面で読む文章に違和感
を覚えるとか,高齢者を中心に言われることがあります。そんな方々に薦めてみようと思います。この巻を読めば,パソコンに向かう意欲もまた湧いてくるでしょう。
そちらは梅雨明け間近の蒸し暑さのただ中かと存じます。こちらは夏日だったかと思うとその翌日は最高気温でも20度以下などと,落ち着かない天候です。ご自愛ください。
最後に重ねて御礼申し上げます。

* この札幌からのお便りを機に、そろそろ『濯鱗清流』上下巻の「跋」文を此処へ書き出しておこうかなとも思いかけている。

* この「私語の刻」第一頁に限ってなら、(それだけで、最新月の日々の「私語」だけは読み出せる。)

http://umi-no-hon.blueoffice.jp/iken.htm

とお気に入りに保存されれれば、直接にアクセス出来る。

☆ この素晴らしい偉業  京都宇治 隆
本当におめでとうございます。秦さんなればこそと尊敬しております。
秦さんは京都のお人ゆえ京都から京都の事を世界に発信して頂けたらと、変わりなくずうっと願っておりま
す。
何があるわけではありませんが私も京都生まれの京都育ちであり今は宇治に住んでおりますが、終の棲家として一応京都に戻ってきております。
小さな家と倉庫そしてできるだけ好きな事をして暮らしていければ十分です。もう一つ欲を言うならば表現の場所があればよりベターではあるけれども動けるうちは動けばよしです。
色々な事何も知らないに等しい私ですが、京都の空気が一番じぶんには優しいような気がしております。
秦さんの表現なさっている中で、大文字の送り火の事。京ことばの事。広い意味での身内意識。美のこころ。色々な事が常に印象に残っております。
京都の永遠性こそが京都の素晴らしさであると感じます。

ここからはバーチャルの独り言です。

「秦さんが京都に帰ってきはった。帰って来はったで。」
「ほんまや。おかえりやす。秦さんは何にもせんでも京都に帰ってきはっただけでよう似合うてはりますわ。やっぱり根っからの京都のお人どすなあ。」
「何にもせんとおれ言われても無理や。」
「やれる事だけやらはったらよろしいですやん。そんなきばらはらんでも。理屈抜きでよろしいやん。」
「やっと静かに一杯お誘いできそうですね。そやけど僕は酒癖悪いかも。もし悪さしてしもたらえらいこっちゃしな。そやけどやっぱりおいしい一品とおいしいお酒飲みたいなあ。
ほんまはべっぴんさんと飲んだ方がええのやけど。秦さんもそうやろけど。そやけど秦さんとは別や。少年の友情のような、お兄さんのような、広義な身内的なものを感じる故、年と性別は関係無しや。」

そんな日が来るかどうか楽しみです。
それではお元気で、ごむりなさらず頑張ってください。

* 七月十二日 つづき

* 都議会選挙は、予想通り民主党の圧勝で、自公両与党での過半数も危うい。これで麻生総理の解散権も行使不能か。「麻生下ろし」で自民党はすり抜けたいと躍起になるだろう。民主党は、此処は躊躇無く、躊躇してはいけない、すばやく真っ先に「内閣不信任案」を国会に提議すべきである。
参議院では可決確実。衆議院では公明はともかく、自民は不信任決議に賛成は出来まい、与党の建前として。まちがって可決してしまえば、麻生内閣は解散か総辞職の二者択一を強いられる。しかし衆議院で不信任案が否決されれば、自民の「麻生下ろし」は国会決議の手前、出来ない。やれば国会を愚弄したことになる。
せっぱ詰まった野垂れ死に状態に、予想通り、麻生内閣はい込まれてきた。
麻生は去年の組閣直後に解散選挙するのが筋であった。強度の「筋違い」で麻生総理はいま悲鳴をあげている。
言っておく、民主党・野党は間違えてはならない、すばやく、何を措いても不信任案をつきつけること。これを躊躇うととんでもない逆の苦境に落ち込むだろう。民主党は間違えてはいけない。

* 麻生にひきかえ、オバマ米大統領は、よその芝生とはいえ、旗幟鮮明に本筋を間違えず、天晴れサミットでも存在感を見せつけた。
「核兵器の無い世界」は、早急に成らなくても「唱えて当然」の人類の悲願である。これこそは日本の政治家がまっさきに唱えて世界運動の先頭に立たねばウソなのであった。

* わたしの今度の本は、丁度「十年前」のわたしのものの考え、感じ、主張を、率直に各般にわたり語っているが、「核」に関しても、「サイバーテロ」についても、「北朝鮮」についても、「中国」についても、「世襲害」についても、まさに今が今マスコミが語っている通りを、ほぼ的確に「十年も前」にすでに書いたり語ったりしていたのを証している。

* 七月十三日 月

* ついにこの二十一日に衆議院解散、八月三十日選挙と麻生総理発言があった。自民党は昏迷しており、またブレるかも知れぬが言質は獲得した。野党は躊躇無く、不信任・問責の決議案を衆参両院に提出したので最優先議題となる。自民は粛々と否決すると言っており、それ即ち麻生内閣信任の意味になるから、麻生下ろしは矛盾してくる。自民党は自ら首かせを負うことになる。決議に造反が出るかどうか、選挙前ではそれも出まい。国会が機能しない四十日が続く、無事であればよいが。

* 一頃は今にも憲法改正に手をつけん勢いだったが、党利党略に夢中で、昨今は与党からも憲法いじりの声が出ないでいる。そんなときに、落ち着いてもう一度も二度も日本国憲法を読んでみては。

* わたしたちのいわゆる新憲法は、公布後、一度も改訂されていない。だから、公布された直後に「日本国の文部省」が学校向けに配布した『あたらしい憲法のはなし』は、国家としての公の理解を正式に表明した「史料」として、今日も「有効」であるはず。
その文書を「e-文藝館=湖(umi)」は取り上げているので、推奨したい。じつに平易に率直に、落ちなく書かれている。今も、この先も、この通りでありたいと願われる。憲法の条文もきちんと挙げてあるから、どうか、ダウンロードして自身の持ち物・読み物として繰り返し御覧願いたい。

■  あたらしい憲法のはなし ・附・日本國憲法 文部省・著作兼発行
昭和二十二年(1947)八月二日 史料 「e-文藝館=湖(umi)」
掲載史料は、日本國憲法が、昭和二十二年(1947)五月三日に施行された同年八月二日付け、著作兼発行者「文部省」名義で公にした、日本國政府による公式の「新憲法」認識ないし解説であって、学校生徒児童を主対象に広く配布されている。奥付には同日付け「文部省検査済」と極めが打ってある。(この本は浅井清その他の人々の尽力でできました。)と奥付に付記してあるが、新憲法発布にともなう「憲法尊重」のもっとも純真な理解を、明瞭に確認した、公式の文部省刊行物であることに相違はない。
以来六十年近く、いかにその後の日本國政府政権が、恣に「憲法」解釈変義や拡大解釈を重ねてきたかを疑い、また多くの機会に不当に軽視・無視・蹂躙を重ねて「遵守義務」に公然背いてきたかをも疑い、あらためて此所に「憲法」条文の総てを併載して、深く思い致したい。
この機会に此の史料、並びに「憲法」そのものの読み直されることを切望する。 (秦 恒平)
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* 福田恆存先生夫人、作家の神坂次郎氏、宮尾登美子さん、医学書院の金原優社長の手紙を戴く。

* いま   花
強風です。お元気ですか、風。
今日の花は、首筋の凝りと頭痛で目覚めました。
変な恰好で寝てたのかも知れません。痛い痛い。
吉行について、花は風の意見に賛成ですよ。
誰が読んでも同じことを感じるのではないかと思いますが、意外に、賞賛の声が多いのはどうしてでしょうね。アウトローぶっていたけれど、文壇では政治力があったのかな。
上野千鶴子さんらが『男流文学論』で強く批判していますが、冷静な批評とは言いがたい語り口だったのが、満足できないところでした。
昨夜は、都議選の、野党の勝利を胸のすく思いで見ていました。それにしても、公明党は確実に議席を確保しますね。ウーム。
いよいよ夏めいてきて、花はパソコン部屋に冷房を効かせて過ごすのが日課になるでしょう。
ではでは。

☆ 落ち着きましたか  泉
都議選は予想どおりでした。
例年、祇園祭の山鉾巡行の頃は、梅雨が空けるのか、末期症状ギリギリの天候の日が多いのですが、関東地方の梅雨明け宣言はまだないけれど、わたくし気象台は希望的観測で、勝手に明け宣言をしました。
六月ごろに初めて、一挙両得のゴーヤのグリーンカーテンに挑戦しています。もう二階の手すりまで届き、その後何処へ絡もうかと思案中の様子。大きくなった実はまだ一コだけ。、さて御近所さんに配る程収穫出来るかな。肥料食いで、雄花にだけしか実が付かないとか。
今日はのんびりと、フジ子・ヘミングのショパンやリストを聴いて胸を詰まらせています。

* 今日でやや落ち着きました、やっと。これからは、「作業」でなく「仕事」の日々にして行きたい。

* 九月、昼に「時今也桔梗旗揚」、夜に「勧進帳」のある歌舞伎座の案内が来た。高麗屋、播磨屋がこの月も真っ向の競演で、楽しみ。

* 七月十四日 火

* 大事なは腹をくくって、都議選に発揮した民意をグズつかせず衆議院選挙にも確実に持ち込むこと。八月三十日を遠い先のことと思わず、「今日」という「いま、ここ」をしっかり積み重ねて行くこと。
忘れまい、自民党政治の腐れ水をもうこれ以上飲むのは「イヤ」と。

* 鶴彬(つる・あきら)の名をご存じだろうか、記憶されているだろうか。今日は、この「無類の批評家」の声に聴こうと思う。

■ 鶴 彬 川柳選  招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 詞華集
つるあきら 川柳作家 1909.1.1-1938.9.14 石川県生まれ。高等小学校卒業後勤めた機屋の倒産により大阪に出る。プロレタリア川柳論争に出会い、共鳴。故里に帰り全日本無産者藝術連盟(ナップ)支部を結成するが、間もなくプロレタリア川柳会員として検挙される。昭和五年、金沢第七連隊に入営するも赤化事件で軍法会議にかけられ収監、拷問を受ける。刑期一年八ヶ月、二等兵のまま除隊するが常に警察の圧迫を受ける。掲載最終五句は「川柳人」(昭和十二年十一月 二八一号)に掲載された最後の作品だが、掲載と同時に密告告発により治安維持法違反に問われ留置。不潔不衛生で有名な留置場で、赤痢にかかり移送先の病院で死亡(官憲の手により赤痢菌を盛られたという説もある)。二十九歳。ベッドに手錠で括りつけられていたという。「川柳人」を主宰し鶴彬の理解者だった井上信子も同時に検挙されたが高齢のため不拘束となった。掲載作は「鶴彬川柳選」と題し、『鶴彬全集』(たいまつ社 昭和五十二年九月)より抄録。 (秦 恒平)
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* 川柳の本義をいちばん生かした抵抗の詩人であった。

* もう京では、御輿洗いも済み、祇園会に入っている。関東は梅雨明けしたのだろうか。晴れやかに戸外は朝から明るい。

☆ 「湖の本」第百巻  東京経済大学名誉教授
拝読しました。隅から隅まで読み、随処で共感、感銘致しました。
ありがとうございました。「私語」といわれながら、鋭い時代批判や文学批評もあり、たくさん教えられました。梅原猛のことも適確に批判されており、その通りだと思います。(後略) まずはお礼まで。

☆ 梅雨の合間の青空です。 元出版部長
『湖の本』「濯鱗清流」篇を有難うございました。通算百巻、おめでとうございます。
「文学作法」は、元編集者としても、胸に沁みはいること多く、殊に、編集者の中に、(文学)信用回復への気魄や理想が見えず、希望が持ちにくいという二千年四月での御指摘が、今も通用するばかりか、更にひどくなる風に見えるのは、残念至極。中村光夫、伊藤整、平野謙、山本健吉、瀬沼茂樹(名を誌すだけで、懐しく畏敬の念起こりますが)諸氏の節度と藝への共嘆を持つのは、年のせいだけでしょうか。御自愛を。

* 「秦 恒平とは誰か」の問いにわたしはわたしの言葉と思いとで率直に応えたのである。
2009 7・14 94

* わたしたちの今日は、芝居のなかで隅田川(=稲瀬川)にもふれてくる。平成中村座の今回は「櫻姫」。勘三郎を芯に元気な連中が佳い芝居をしてくれますように。

* 暑い暑い渋谷へ。鰻の「松川」で例の昼食。肝焼きも美味かった。

* コクーンのベンチ席、特設舞台から二列目の絶好席。花道代わりの通路間際で役の者たちが再々往来して芝居をする。
勘三郎は清玄、七之助が懸命の櫻姫、権助は橋之助の嵌り役。好色無慚の残月と長浦を弥十郎と扇雀、ほかに片岡亀蔵、例の笹野高史。

* 総じてこぢんまりと演出おもしろくまとめ上げ、ソツもないが爆発する景気のもりあげにくい芝居で、衆道といい破戒といい好色といい、芯のところでお家を危機から回復するという極まりのけれんを、いわば「性」のものあわれとともに演出して行く。
大南北の力作であり骨格は確かなもの、もうわたしは六度はいろんな演出で観てきたが、飽きない。舞台の制限を逆手に取った串田演出には工夫があり、才気は才気、ムリはムリなままに、スケールの大爆発よりは正確な展開を丁寧に役者に働かせていたと思う。七之助は、満場を恍惚の陶酔へひきこむ迫力は(玉三郎などに比べれば)持てないが、美声と美貌とで懸命に板について演じ切れたのは、成功作とすべきだろう。

* 文化村コクーンの下で、「だまし繪展」も観てきたが、好みでなく、むしろ不快感に負けて気分を損ねた。妻がここで体力銷沈し、あわてて上の喫茶室で休息した。水分を入れ、強壮剤をのみ、小食。わたしはコーヒー。
そのままもうどこへも脚を伸ばさず一路渋谷から保谷へ。駅で、いいショートケーキとパンを買ってかえり、とっておきのフランスワインをあけて夕食にした。
金澤の戸水さんからちょうど贈られてきたご馳走の中からからすみを戴き、また讃岐の岡部さんに頂戴したすばらしい桃の冷やしたのを、頬の落ちそうにおいしく戴いた。
これで、上下巻とも恙なく百巻を送り出した内祝いにした。よかった。
2009 7・14 94

☆ なつかしい文字に   早大名誉教授
驚くとあの湖の本でした。もう百巻にもなるのですね。おめでとうございます。それにしても(某誌の)商才云々とは不思議な見方をする人がいるもの。「御宿かわせみ」の澤口靖子評や太宰の「斜陽」論など興味深く拝読。「男は風邪を引くな」にはまいりました。小生早稲田を定年になり週に一日****大学に通っています。御礼まで。

☆ 拝復  清水書院編集長
「湖の本」通算九九・百巻 賜りました。ありがとうございました。長年の御尽力に敬意を表します。
今後もご壮健に継続されんことを申し上げます。

☆ 冠省  元岩波「世界」編集者
先生にはますます御清祥の段お慶び申し上げます。また御健勝のほどお祈り致します。
『湖の本』エッセイ「濯鱗清流」上・下をお送りくださり恐縮に存じております。「上」の一一九頁に「世界」に『最上徳内・北の時代』を連載していた頃の担当編集者のS君とは小生のことと存じますが、先生の「いちばん顕著になってくる難題は」という言葉に対し「教育」などと生意気な口をたたいていたとは。たぶん安江良介編集長の言葉をそのまま言っていたと思います。酒をご馳走になってありがとうございました。懐しい思い出です。

☆ 今年の梅雨は  ペン会員
晴れ間が多く、いくらかしのぎやすいようです。
過日は、また貴重なご著書を、ありがとうございました。
お盆の季節、お寺さんがいらしたり、孫つきで大勢来たりと賑わしい週末で、お礼が遅れてしまいました。
先生のホームページを拝読するようになったのは「ペン電子文藝館」掲載でお世話になったころで、これは、それ以前の集成なんですね。
HPへのたゆまない書き込みもさることながら、『湖の本』の定期的な刊行、日々の読書量も、とても余人の真似できるところではありません、感服するのみです。
最近のペンの文藝館は、力及ばずか、要約かダイジェストのような作品ばかりです。

* ありがたい清流に鱗を濯いながら仕事をさせてもらってきた。ほとほと感謝に堪えない。
親鸞仏教センターの本多所長ほかお手紙を戴き続けている。
2009 7・15 94

☆ 秦 恒平様  裕 作家
お仕事のことはかねて聞き及んでおりました。御新著二冊、御恵投頂き感激いたしました。実は私、小一年前より(中略)
ただただ、御好意に動かされるまま、御礼のみにて失礼いたします。
秦さんの文学への情熱にあらためて深く敬意を表します。

☆ 追伸  則 画家
グループ展の案内状でお礼を書かせて頂いた後 濯鱗清流読ませて頂いておりましたら、「娼婦というものに興味がわいている」と在りました。私は「春画」というものに興味がわいているのですがだからと云って……気持ちは秦さんと同じでしょうか、チャンスがあればいいなという……。非常に近いものを感じました。 御礼迄。モノを詩ウカ、

☆ それにしても  啓 批評家
通巻100巻というのは、とてつもない偉業です。それに要した時間や資金、そして先生の持続への意志も当然のことながら、それだけの作品を書かれていたという事実は並み大抵のことではない。先生のことですから、一つの通過点にすぎないとお考えになって、さらに続行されるかとぞんじますが、心から敬意をこめてお祝い申しあげます。
ぼくも目標をしっかり定めて、もう一度、以前のように生活の気概を取り戻したいと思っています。
2009 7・19 94

* 湖の本通算百巻「濯鱗清流」下巻、予約読者宛の最後便を送り終えた。あとは寄贈送本のもう僅かな残りをあますだけで、お蔭をもって「百」という中仕切りを立て終えた。ささやかに乾盃した。
2009 7・20 94

☆ hatakさん  maokat
昨日まで大荒れの天気が続きました。北海道の夏山、というか自然の恐ろしさは今回の(=報道が告げる)遭難に限ったことではありません。「自然の懐に抱かれて」と油断していると、沖縄の海も北海道の山も牙をむいてきます。自然はやはり恐ろしいものです。
先週は、知床半島の根元、美幌、斜里に行っておりました。大きなでん粉工場があり、たくさんのジャガイモ農家がいます。畑を見て、私の仕事の最終出口はここなのだと思いましたが、研究室と畑の間はやはり遠く、自分が本当に現場に役に立つ仕事をしているのか、正直自信がありませんでした。
一枚目の写真は、今私が取り組んでいるウイルスの病徴です。土の中に潜むやっかいなウイルスで、一度汚染されると土の中で十年以上じっと生きつづけています。北欧のような常発地になってしまう前に、食い止めようと、四年前から取り組んでいるのですが、被害がまだ顕在化していない現在の段階では、行政も農家も、問題を直視してくれません。問題を先送りするということは、蔓延を放置しているだけなのですが。
留守中に、湖の本通算百巻目が届いておりました。十五年ほど前に、石垣島で、蔵書が日に焼けるのを防ぐ目的で、籐の本棚をつくりました。一番上の段に湖の本が一杯に並ぶ日などいつになる事やら想像がつきませんでしたが、なんとその日がやってきたばかりか、五巻は並びきれずに上に積んでおります。日焼けもせずに美しく。今後も続きますことを楽しみにしております。
お茶はあいかわらず、研究室で昼夜に自服で飲むだけ。趣向もなく、一座建立もなく、独坐大雄峯でもなし。それでも日々の楽しみとして残っていてくれるのは、ありがたいことです。
夕食を食べ損ねまもなく十時。まだ仕事は片付きませんが、連休最後はせめて家で何か作って食べることにします。自転車旅行の怪我と暑さにくれぐれもご注意下さい。
2009 7・20 94

* 文藝春秋の寺田さん、電話で、湖の本百巻をしみじみ祝ってくださる。「豊かな文壇史」と何人かの方からも云われたが、こう付き合いの悪いわたしの手で文壇史は可笑しいのだけれど、想像以上に多くの優れた人たちの知己を得、激励を得てきた四十年ではあった。幸せであった。
寺田さんに今の印刷所を紹介してもらえたからこそ「湖の本」は途中挫折を免れたのだった。
涼しくなった九月に夫婦揃って食事に招いて下さるという。恐縮。
2009 7・24 94

* 今日、いろんな手持ちの「繪」をしらべながら、第二期の新たな「湖の本」の構想を始めた。急ぐことはないが、いずれにしても「百」という区切りを機に、久しい継続読者からも脱落が有るだろうとは予想できる。その数があまり多ければ継続は難しいことになるとも覚悟していたが、幸い、「中仕切」というわたしの思いを大方の、いや殆どの継続読者が受け容れて下さっているのに、感謝し、励まされている。
それでも、今まで通りと甘いことを考えて臨むのでなく、出来るかぎり工夫も趣向ももたねばならぬ。
2009 7・25 94

* 城景都さんとのお付き合いは久しく、その間に、たくさん繪を戴いていたのを、取り出しては見入っている。表紙繪を一新するかどうか。城さんの意見も聴いてみたい。百巻までは創作のもエッセイのもわたしが選び出して城さんにもらい受けた比較的静謐温和な繪であったが、むかし、これなどどうですかと戴いていた「べつの繪」もあり、その放胆で艶美なことにたじたじしながら惹かれている。
2009 7・26 94

* 金澤の画家から長大な「藝術」論ふうの手紙と、バッハの無伴奏チェロ組曲全六曲を珍しくサキソフォンで演奏している二枚組CDを貰った。いまそれを聴いている。演奏者はヘンク・ファン・タイラーとでも読むのか。輸入盤で、解説は読めない。それは構わない。
長い手紙はもっぱらこのサキソフォン・バッハの「演奏論」で、かなり入れ込んでいる。ゆっくり拝読する。演奏は聴くに従い身内に溶けいり沁みいり、ぶっきらぼうのようで濃やかに分厚い。すばらしい。
彼。相変わらず、繪は、描かないのかな。

☆ 秦 恒平様  弘
御無沙汰しております。お便りを書きたくてうづうづしながら、実際に書き出すに至らぬまゝ、月日が過ぎておりました。申訳ありません。
「湖の本」いつも嬉しく拝受し、拝読しております。隅々まで読んだとは言えませんが、共感し、涙し、言葉を失い、迂闊に言葉も選べずつまり書き出すこともできないのです。
それにしてもこの厖大な言葉の記録は、思うことの一つ、二つさえ容易に言葉に換え難く難渋する私にはたゞたゞ感嘆し羨望するばかりです。文学とはまことに人の魂の無限律動の記録とでもいうべきで、一個の精神が活溌に震動を続け、信号を発し、文字に変換されるというこの行為は、魂の最も幸福なありかたではないか、と、私は感じます。普段から私は秦さんの生きよう(生き様のことですが、私はイキザマという読みが嫌いなのでついこう書きます)について想いをめぐらしているのですが、何一つ言葉にできないでいるのは、おそらく自分の生きように手間がかゝりすぎているせいで、残念です。
そこであるCDを勝手にお贈りすることを思いつき、ここひとつき余り、そのCDについて書き連ねたことを抜き出してみました。お便りの代役がつとまるかどうかわかりませんが、私の愚鈍な精神活動の報告くらいにはなろうかと考えたのです。そのいきさつは本文に書きました。 以下略

* 音楽を聴きながら、わたしの湖の本49『お父さん、繪を描いてください』下巻288頁のクロッキーを眺めている。ものの二分か三分ももちいずにこれの描ける画家の魂の震動を想うのである。
話はかわるが、この繪を通算101巻から「湖の本」表紙に持ち出そうかという大胆不敵な発想もじつは抱きかけている。それはあんまりだという思いもある。憎まれそうな思いがあって、さすがに首をすくめる。
2009 7・30 94

* 城景都さんと連絡が付いた。わたしの執心している美しい繪を、自由につかってくれて良い、必要があれば自分が新たに手を掛け修正してもいいと。感謝。
2009 8・2 95

* 長編の前半をもち、「読む」ために外出。プリント原稿は読み返しやすい。
昼はキャラメルと水で。夕過ぎて行く頃、居酒屋の焼酎と酒で、炙り鴨、地鶏とにんにくの茎、穴子の一本揚げげなど。炭水化物は食べない、酒の他は。ハハハ、酒は別。
2009 8・3 95

* 湖の本の通算百一巻からの表紙のこと、思案し続けている。
2009 8・5 95

* 新しい本の表紙絵を試みに製版してもらうべく、相談を始めた。
2009 8・8 95

* 新しい表紙絵の試版づくりを今日依頼し、城さんの原画を送った。
2009 8・9 95

* 印刷所から、依頼した表紙繪の試版づくりに、希望の持てる返辞が届いた。
2009 8・10 95

* きのう坂本忠雄さんに頂いた本のどこかで、たしか小林秀雄だったと思う、この人のゲラ訂正の多くは、殆どは、「語尾」の直しだったと。
目の覚める思いがした。
じつは、わたしも、たとえば「濯鱗清流」を校正しているあいだ、もっぱら文章の文末、語尾に意識を集中していた。いつからだろう、この数年だろうと思うが、語尾を大切にするようになっいる。それが、直哉のいう「リズム」とも関係する。そう思う。
2009 8・13 95

* 製版を頼んでおいた試摺りが、届いた。大胆極まるが、美しい。わたしは、満足。励みになる。
2009 8・14 95

* 目論んでいる新しい表紙案が、アタマの鈍いわたしの誤算で、試刷りより天地三センチあまり縮めねばならず、刷り直して貰っている。さ、どうなるか、とても美しいが網目が濃やかなので小さくなるほど黒ずむおそれあり。固唾を呑んで。
2009 8・19 95

* 表紙繪の試刷、満足し責了に。優美なほどの、大胆なものになる。

* なにを百一巻に「選ぶ」か、これが悩ましい。このところまた脳みそがストラッグルしている。無心に空気を吸ってきたい。だが、手をつければ目の前に、機械の中に、あれもこれもわたしが手を付けてくるのを待っている。起ち上がるヒマもない。
ベルリンの世界陸上も終幕まぢかい。今時分は、女子がマラソンレースをしている。決勝のゲームも目白押しに。甲子園でも高校野球がたぶん明日あたり決勝戦か。
いただいた本の何冊にも御礼の手紙を出さねばならぬ。
2009 8・23 95

* 石川能美の井口さんに近況の長いお手紙を戴いている。なさけないほど、わたしはもう手書きで長い手紙が書けない。あの方にこの方にと手紙を書きたい気がしながら、手書きでと思うとためらってしまい、そのままになりがち。井口さんや勝田さんのように幸いこの「私語」を見ていてくださる方は、まだしも、気が休まる。
今井清一さんから、「秘色」「畜生塚」「丹波」を注文する送ってくださいと、百巻を祝ってのお手紙も今日頂戴した。
2009 9・1 96

* わたしの第百一巻も、もう動き出せる。夏は過ぎた。
2009 9・1 96

☆ お元気ですか。
ぼくはほとんど毎日、湖の本を10-15頁づつ読んでいるので、毎日お会いしているように、どころか、ご一緒に生活をさせてもらっているようで、いろいろ勉強させてもらっています。先日も久しぶりに暗夜行路を読み返してみようと本棚や倉庫を捜しまくってくたびれました。まだ見付けていませんが、もう少しで発見できそうです。
2009 9・9 96

* 百巻の中仕切りを払って、通算第百一巻のゲラが、どっかーんと出そろった。また忙しくなります。
2009 9・18 96

* 校正、始める。
2009 9・19 96

* それでも、さてとなると、今は機械の前にいるより階下かどこか大きなゲラをひろげて置ける場所で「校正」しなくては。
どうしてもまた街へ「雑踏の静寂」をさがしに出なくてはなるまいか。似た小机を並べた喫茶店ではゲラが広げられない。あちこちに可能な店が幾つか見付けてある。
2009 9・21 96

* 校正、かなりシンドイ。
ロンドンフィルの「コリオラン」序曲についで「エグモント」序曲聴いている。
2009 9・21 96

* 「仕事」に打ち込んでいる。アタマが、ほかへ働かない。
2009 9・22 96

* 「仕事」

* 合間に、FLANAGANの『HOW TO UNDERSTAND MODERN ART』を、拾い読むのでなく、アタマから読み進む。辞書のご厄介にならなくてもなんとか大意は取って行けて面白い。
一九五一年、わたしが高校へ入った年に出ていた本。カラー図版は一つもないが好きなマチスのデッサンが二点入っていて、久しくお気に入りの洋書。

* 永い連休で、郵便物もメールも無い、少ない。「仕事」ははかどる。
2009 9・23 96

* 家を出る前に、家でしか出来ない仕事を二時間ほど励んでおいて、校正ゲラを持ち、ぜひ早く読みたい本を持って、好天の街へ出かけた。暑いほど照っていた。
日暮里駅の構内にあなご弁当の専門店があるとテレビで言っていたのを確かめに下車した。なるほど日本橋の「玉ゐ」が出張っていて、大箱は香物とお椀がついて三千八百円といい値段だが、美味い。日本橋店はわたしには便利でない、小さい店出したがこの駅なら降りるだけでいい、改札の外へも出なくて済む。
この駅から乗り換えで北の方へ東の方へ好きにいろいろ行ける。「千住大橋」は、将軍江戸を去る最期の橋だった。
押上線へ乗り換えて行くと「押上」からは浅草線に連絡する。要するに空いた電車がけっこう、窓外、空は晴れやかな秋の空だ。

小さな半月をかかげた浅草寺五重塔

* 油濃いなあと我ながら感心したが、淡泊な「高勢」の鮨でなく、浅草ひさご通りの「米久」で、特の肉を二人前食べてきた。
2009 9・25 96

* 新しい表紙にほぼ実感がもてて入稿し、本紙分は初校を送り返した。
2009 9・27 96

* 「湖の本」の第101巻からは、従来の創作シリーズとエッセイシリーズを区別せず、同じ一冊に小説・詩歌も、評論やエッセイも一緒に編成する。
小説だけで一冊にと思うと、相応の長編か、短編が幾つか纏まらねばならない。短編を書いていると、勢い数揃えに時機を待たねばならない。
もとより内容を考え合わせて編輯相応を工夫することは言うまでもない。これもまた新しい行き方と受け容れて戴けよう。
今日もそういう新しい小説を書き継いでいた。
2009 9・28 96

* 永年勤められた早稲田から定年前に東工大の特任教授に転じた高橋世織さんが、『濯鱗清流』をみて懐かしいと、手紙をくれた。東工大にはいまわたしの頃の助教授だった井口時男さんが文学教授、猪瀬直樹氏も特任教授で出張っていて、隣室にいた橋爪大三郎氏も健在というから、なんだか懐かしい。
学内の「世界文明センター」で催しが続くから来ませんかとも、お誘い。花見以外には出かけたことのない東工大。少し気が動く。
2009 9・29 96

* はや『凶器』本紙の再校が出そろった。また忙しくなるが、落ち着いて落ち着いて。とはいえ、再校に没頭。
2009 10・3 97

* 夜前、余儀なく就寝遅れ、読書と校正とでさらに遅れ、今朝の寝覚めも少し遅れた。田原総一朗の番組で、天下りと官僚の問題、聴いていた。元大臣、中川昭一氏の急死を知る。
2009 10・4 97

* ひたすら、校正・校閲。
2009 10・4 97

* 四時半頃に手洗いに立ち、一度床へ戻ったが思い立って二階の機械の前へきた。あたらしい「湖の本」101巻のために「あとがき」を書き起こし、およそ成った。手も思いもさらに加えるが、新しい長編小説のためにぜひ必要な思いを書きとどめたかった。思い立った機に気を入れて書いた。
2009 10・5 97

* ひたすら「仕事」 それでも夕食前の三時間ほど、寝た。
2009 10・5 97

* 晩、湖の本101の跋文をファイルで入稿。
2009 10・6 97

* 留守中に、湖の本101の末尾部分をひとまず要三校で印刷所へ送っておいてもらった。
2009 10・9 97

* 跋の校正が出てきて、熟考。

* なにとなく、しかし、なにとなくではなく、一日過ごす。
2009 10・10 97

* 深夜まで校正読み続けていた。八時半に起きた。

* もう、本の発送に漕ぎ着けていく用意が始まった。じりじりと忙しさが増す。成るように成っていく。それでよい。
2009 10・12 97

* 残り蝉が樹に貼り付いているように、じっと校正ゲラに貼り付いている。
2009 10・13 97

* 「片鱗」という語を、なにかの片端、切れ端のように誤解している例が、ときに見受けられる。才能や価値あるものごとの片鱗なので、うっかり誤用すると恥ずかしい。「濯鱗清流」とわたしがものの本に題するとき、「鱗を濯う」とは、精神的ななかみや、研かねばならぬ才能を意味している。むろん「清流」とは、自分より遙かに何もかも優れた大先達への敬愛や信頼を謂うている。
今日もゲェテを読んでいると、わたしの永く胸に畳んで思ってきたのと同じことを若いエッケルマンに奨めている言葉がならんでいた。
2009 10・13 97

* 長い作品の校正は気骨が折れる。しかし校正は一面推敲でもあり、いまなら一字一句にも心を配れる。印刷されてしまえば万事休す。爪で字をひっかいても何ともならぬ。
2009 10・14 97

* 慎重を期して「三校」をとることに。慌て急ぐことはない。
2009 10・15 97

* いま十一時過ぎ、京都の奥谷智彦君の電話で、弥栄中学同級の三好閏三君の訃報を受けた。仰天。
祇園縄手で、鰻と京懐石の老舗「梅の井」を嗣ぎ、京の旦那衆のなかでも、ひときわ粋な茶人であった。遊びを愛し雅びを身に帯びていた。歌舞伎「助六」にも出演する君だった。雑誌「美術京都」の巻頭対談に引っ張り出し、いい話いい道具を披露してくれたのが、つい先年であった。「湖の本」も丁寧に読んでくれる有り難い読者であった。こころより生前の厚誼に感謝し、思いがけない逝去を悲しみ哀悼の思いを送る。
2009 10・15 97

* 少し疲れている。大量で気の抜けない校正漬けの連日だったから。
三好君の急逝にも、心身おどろいている。心身をやすませておかないと、やがて出来本『凶器』の発送に、いつもの倍の体力・気力が要るだろう。
2009 10・16 97

* 劇場前に、ともだちと逢う妻を置いて、わたしは新橋から「横浜そごう」へ直行。
朝、届いた一部再校・三校ゲラを読みながら。
で、デパート九階へ五時に着いて、そこで、その場で、めざす個展オープンの日付をわたしが「一ヶ月読み間違えていた」のに気づいた。そればかりか、十一月「十八日」オープンなのに、今日は十月「十七日」だった。二重の阿呆な思い違いに思わず笑ってしまった。
十階にあがり「すし萬」で、初物の土瓶蒸しを添えて佳い鮨を食ってきた。冷えたビールがうまく、酒も。
昨日が休肝日だった。ゆっくり居座ってゲラを慎重に読んだ。六時過ぎにまた各駅停車の電車で上野経由、池袋へ。暑くて汗を掻いた。

* 秦建日子新刊、河出書房版の女刑事物の本が届いていた。『殺してもいい命』だって。何という題だろう。やがて父親は『凶器』という本を出すのだ、何という父子だろう。恐縮。
2009 10・17 97

* 夕食のあと、じつは潰れたように寝入って八時に目が覚め、入浴したが、かすかに湯の中で温まりきらない感触が背中などにあった。印刷所からの連絡で、明日から週明けまで、いや日曜日まで、一気にめちゃくちゃ忙しいことになるらしい。違和をつよめてはならず、今晩は早く休む。
2009 10・21 97

* 今日はひたすら三校出を待ち、責了へ向けてゲラを読みに読むまで。発送の用意は、まだ、まるで出来ていない。十一月は、かなりきつい一ヶ月になるだろう。
2009 10・22 97

* 三校が出そろい、朱字あわせのあと、読み始めた。今日中に二百頁まで読めるかどうか。

* 読みに読んで、半分。もう少し今晩読む。
2009 10・22 97

* さて、今日の内にも「責了便」を送り出したい。そして家のうちをすこし片づけながら、新発送の用意に段取りをつけ、一度ふかぶかと息を吐き出してから集中して作業、作業を捗らせたい。そう、バグワンに聴いたとおり、つねづね時分でも思うとおり、「いま・ここ」に真向かって何事とも拘泥なくなすべきを成し遂げて行きながら、気持ちはシンとして静かでいたいと思う。

* 「mixi」の連載も今は拘泥しない。出来るときは出来る。出来ないことはしない。

* 責了紙を一括送り出してから、隣棟に、新刊受け入れの畾地をつくるという力仕事をしに行った。湖の本新刊を受け容れるとは、発送後に在庫を置くということでもあり、百巻も出版してくると、隣棟の一階は満杯状態。少しでも隙間を、つまり畾地・余地をあけ、玄関に積んだ発送後残部を仕舞わねばならない。かなりの力仕事で、腰が砕けそうになる。妻となんとか力を合わせて、ま、これで今回分は受け取れるところまで用意する。
本格に発送用意に取りかかる。
2009 10・24 97

* 予定したよりやや多く作業を進めた。
その間に、幸田文の原作、市川崑監督の「おとうと」を聴いて見ていた。川口浩の弟、岸恵子の姉、森雅之の父、田中絹代の継母。画面の色調に一風は感じたが、物語はさほども変化無く。室生犀星の原作で、森雅之と京マチ子の「兄いもうと」の方がおもしろく観られた。韓国のドラマ「イ・サン」はもうただの俗流ドラマになっている。
2009 10・25 97

* よく昨日のうちに責了紙を届けておいた。
発送の用意をわきへのけて、代理人作成の文書を読んでいる。昨年の五月頃に始まった本訴は、もうそろそろ結着かと思った頃に裁判官が交代して、フリダシに戻った感じとなった。新裁判官が、原告「名誉毀損」等の申しようが要領を得ないので、すべて新しく書き直すよう指示されたのが、今年の四月。八月末に原告が提出したのは半分だけであった。その半分に被告代理人が「意見」を出そうという書類が届いたので、わたしはそれを読んで所感を代理人に提出しなければならない。ま、予期していた作業であるが、楽しい用事ではない。
2009 10・26 97

* 法律事務所からの大量文書、昨夜に全部プリントしておいたのを読んだ。事務所へも、返辞をした。
疲れて、夕食前、倚子でうたた寝した。夜分は予定の用事をこつこつと。この用事の時には、日本語の映画をそばで流しておくのがいちばん効率がいい。今晩は渡辺謙がいい仕事をしている「硫黄島からの手紙」を。切なかった。

* 体力をかばいかばい、いまは余計なことは何もしない。
2009 10・27 97

* 佐伯さんは、いましも『日本の「私」について』のなかで、漱石の『こころ』に触れておられるが、一昔も二昔もむかしの本だからしようがないとはいえ、作の読みは大昔の通説をなぞっていて、いただけない。
この作品は「死」が圧倒的な強さで支配していると、死の数々を佐伯さんは数えている。「K」と「先生」とだけの小説と読む「小宮豊隆以来の読み」に従順に随っている。
「K」と「先生」を死なせたあとの、「静」に子が生まれているか生まれようとしていて、「私」との間に愛ないし夫婦愛が育っている「現在の重み」を、佐伯さんも読み落としておられる。それでは作品『こころ』が死を克服して新しい生の物語に進んで行く漱石本来の思いがまるで汲まれえない。
『こころ』の「私」は、死のではなく、死生のドラマの担い手であり推進力であり、ともに自死した「K」「先生」の、「静」「私」らの現世に托した「生きる希望」の意味がまるで読めていない。本文が丁寧に読まれていない。
この「先生」は、明治天皇の三人も五人もなくなったところで自死する動機は持っていない。「静」を「私」に托してもう大丈夫という思いが、「K」のもとへと「先生」を死なしめたのである。
小宮豊隆以来、佐伯さんもふくめて『こころ』は片端だけの観念で読まれてきた。本文を丁寧に読めば陥るはずのない大きな「事実」「現在」がちゃんと書き込まれてあるのに。それを読めば、この作品がただ「先生の遺書」だけで成っているのでなく、「先生と私」「両親と私」の全三章が有機的に関わり合って死の向こうへ生の物語を、あたかも幾何学証明の補助線のように延ばしていることに気づいたであろうに。
主題は死ではない、「静かな心」を自身の所有として保ちかねた「K」「先生」の死が、新しい命により鋭く批評され克服された「生」の物語なのである。
わたしの『漱石「心」の問題』(湖の本エッセイ17)や戯曲『こころ』(湖の本2)を、よく読んで欲しい。
2009 10・31 97

* 発送用意の作業を、朝から。今は、コレを、一に。好調に進んでいる。夜までに、よほど進めたつもり。野球の日本シリーズは日本ハムが九回裏の攻撃で、今一つ、巨人に追いつけなかった。
2009 10・31 97

* 今日に残してあった発送用意の作業は、留守に妻がみなして置いてくれた。ありがとサン。

* 天王寺屋、八十になる中村富十郎と十歳の子息鷹之資との『勧進帳』弁慶と義経の成ってゆく矢車会風景をつぶさにテレビで観せてもらった。濯鱗清流、みごとな無垢の意欲と精進に頭が下がった。富十郎はことに好きな役者であるが、老いた彼が幼い息子にそそぐ愛と祈願とを、飛沫くようにひしと感じる。これより前の時間に、権力政治のために醜悪な政局に明け暮れた永田町二十年前をやはりテレビで見聞きしていたが、何という穢い危うい日本の政党政治であったことかと、いまさらに憤激の遣りどころもなかった。今度の本のあとがきにわたしは、この八月三十日の衆議院選挙を、久しい「怨み」のすえにやっと手にした快挙だったと書いている。
* 潔いものごとばかりでこの世間は出来ていないと、重々承知しているが。
2009 11・1 98

* 日程が煮つまって、「101」発送用意にメドがついた。気をらくにし、対応できる。
2009 11・2 98

* ダラリンとしている。発送前のアキ時間はいつもこうだ。
2009 11・5 98

* 会社での昔は、刷り上がって、念のために担当者に届けられる、その段階ではまだ仕直しが辛うじて利く、それを「一部抜き」と呼んでいた。「刷りだし」とも謂う。大方の場合、ここで刷り直しが出てしまうことはめったにないが、有ることもある。これを訂正できてなければ本が意味を成さない、それほどの訂正ミスのみつかることもある。狎れてしまって「一部抜き」をただの通過儀礼のように担当者が扱うのは、大怪我を招く。その「一部抜き」点検も終えた。
2009 11・6 98

☆ 黒いピン なんじゃい 静かな心  湖
* むずかしい、夢を見ていた。
神さまから、としておこう。人生の早い時期に、意味もなく、一つの小さなピンを貰った。八ミリ四方ほどの黒いつまみの画鋲のようだったが、それを服のどこかに刺してくれた。わたしは、ほとんど意識もしなかったし、身につけているとも忘れ果ててながく生きてきた。
わたしの夢中の人生は、多彩で、波乱にも内容にも運不運にも恵まれていた。その意味ではけっこう結構な歳月ではなかったか。しかも、その結構さに、わたしは好都合より不都合感を、清明よりは混濁を、宥和よりは窮屈を、静かさよりは騒がしさをどうやら感じ始めていた。
何なんだ、これは。
そしてわたしは、初めて自分が身に帯びている黒いピンに目をとめ、それを抜いてみた。すると、日々の暮らしが、多彩も波乱も運不運も落とし喪い、なんだが、ゆたゆたと有るとも無いともはっきりしないが、冴えないなりに晴れやかな、ものに追われないゆるやかに静かな時間空間にのんびりしていることに気がついた。いくらか物足りなかった。
で、黒いピンを刺し戻してみると、また、ものごとが忙しく回転し始めた。ワッサワッサと生きている自分へ戻っていた。が、どうも、そんな騒がしさの底を流れている気分は、イイものではないのだった。いやな毒が感じられた。ピンをはずすと、みーんな忘れたように、ゆったり暮らしていた。

* 「黒いピン」の夢だ。わたしは、まだ、黒いピンを捨ててしまえていない。ときどき抜いたりまた刺したりしている。恥ずかしいことに思われる。黒いピンを抜き捨て去ってわたしは死ねるのだろうか。刺したまま死ぬまで生きるのだろうか。

* 中学の頃に、一学年下の女友達が、こう述懐した。複雑な家庭環境にいた子であり、それだけに、その言葉は忘れがたく、今にしてますます鮮明に甦る。
「あれもそれも、これもどれも、もう、むちゃくちゃにいろいろあるやろ。わかってくれるやろ。そゃけど、ある瞬間に、『それがなんじゃい』と思うときが有んのぇ。すとんと一段沈んでしまうの、ごちゃごちゃから。いっぺん『なんじゃい』と思てしもたら、もう、なんでもないのん。あほらしぃほど、なにもかも、なんでものうなるのぇ」と。
わたしは後年、この「なんじゃい」を「風景」にしたのが、高花虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」ではあるまいかと思い当たった。以来、わたしの中にも、「なんじゃい」という名の「他界」が、広やかに明るく静かに定着したのである。遠山に日のあたりたる枯野へ、いちど「すとん」と身を沈めれば、ハイジャックもテロも、ましてやウイルスもくそも余計な幻影に過ぎない。要するにそれらは悪意の攻撃なのであり、されるままに「それが、なんじゃい」という「本質的な反撃」がありうるのである。ペンクラブの、電子文藝館の、文字コードの、また湖の本だの、創作だの読書だの酒だの飯だの、ああだのこうだのとわたしが頗る打ち込んでいられるのは、根底に、「なんじゃい」という「気づき」を身に抱いているからである。

* その「湖の本」新刊の発送用意も、よく頑張って、九割がた出来ている。本が届いても、メインの作業は出来る。
カミュの「シジフォスの神話=不条理の哲学」を高校三年生の頃手にして、不条理の喩えに、シジフォスが巨石を坂の上にはこぶと、すぐさま神により転がし落とされてしまい、また押し上げてはまたまた転がし落とされ、その果てない繰り返しのさまの挙げてあるのを、読んだ。
また、向こうへ飛ぼうとしている蠅だか虫だかが、透明なガラスに阻まれ、ガラスに突き当たったまま飛び続けようとしている、飛びやめれば落ちてしまう、のにも譬えられていたと思う。
わたしたちのしていることは、大概これだが、「湖の本」など、可笑しいほどの好例である。へとへとになって飛び続けている、と謂うしかないが、それが「なんじゃい」と思っている。この「なんじゃい」は意地でも負け惜しみでもまったく無い。

* 遠山に日のあたりたる枯野かな という高浜虚子の句のことを書いた。黒いピンを抜いて、ときおりわたしは現世の塵労からこの「枯野」に降りていって、ひとり、佇んだり寝そべったり遠山に視線を送ったりして過ごす、と、書いた。
塵労の一つ一つは、それなりに日々の暮らしに意義の重いものばかりで、くだらないとは言いにくいけれど、奔命奔走であることには違いなく、刺された黒いピンのあまりな痛さに、ただ走りに走ってのがれようと、あれをやりこれをやり、もっともっとと果てしないのだと謂うことは、じつに明瞭なこと。
そういう自分が、その塵労を「なんじゃい」と、すとんと落としてしまい、胸奥の「枯野」に憩うというのは、ある人からそれと指摘され、「秦さんに似合わない」「暗い」「もっと明るい気持ちを持たなくては」「枯野などと口にしない方がいい」と忠告されたような、本当にそれは此のわたしの「鬱」のシンボルなのであろうか。にわかに、直に応える気はない。
ただ、この野の景色は、暗くない。ひろびろとした野の枯れ色は、草蒸してまばゆく照った真夏の青草原とはちがった、懐かしいほどの温かみと柔らかさとを持っている。けむった遙かな遠山なみには柔らかに日があたっている。風あってよし、鳥がとんでもよし、野なかに一条の川波が光っていてもよい。どこにも暗いものはなく、騒がしいものもない、清い静寂。胸の芯にゆるぎない一点の「静」は、優れた宗教家なら一人の例外もなくそこに人間存在の真実と本質を見定めてきた。仏陀も老子もイエスも、また荀子や荘子や、道元や一休も。暗いものも重苦しいものも騒がしいものも無い真実の風景。虚子がなにを見てなにを思って書いた句であるかは知らない、が、此の句に出会ったときわたしは真実嬉しかった。あの瞬間には、たしかにわたしは、身に刺された黒いピンの果て知らぬ唆しからまぬがれていたと思う。
わたしを「鬱」かと心配するその人は、「楽しみを自分で見つける努力をしています。生活にメリハリを付けたいのです。よく出かけるのもその一つです。なるべくストレスを溜めない生活を求めて」とメールに書いている。甚だ、良い。が、それもまた「黒いピン」に追い立てられた塵労のたぐいであるかも知れぬ。いわば虚子の、またわたしの謂う「枯野」ではない、現世の「荒野」「荒原」の営みと一つものであるかも知れぬ。クリエーションとリクリエーションと、対照して質的にもべつもののようにどう認めたがっても、所詮は同じ次元の場面の違い、痛みに脅かされ外向きに外向きにはねまわっている、「もっと」「もっと」の欲望というものに過ぎない。「いいえ楽しみはちがう」と言われるだろうが、それも見ていると慣性化し、いつか義務のように繰り返して、やめるのが不安でやめられないだけの例は、少なくない。そういう営為のいかに苦痛であるか、虚しいかは、体験的にわたしも知っている。例えば「祈る」という、長い長いあいだ一日も欠かさなかった行為を、わたしがピタッやめたのは、繰り返し続けること自体に自由を奪われかけていると感じたからだ、そんな祈りに何の意味があろう。
「静かな心」でいたい。それは、外向きにどんなに走り回っても得られはしない。自分の内側の深い芯のところにひろがっている「遠山に日のあたりたる枯野」のようなところでしか出逢えないのではないか、「静かな心」には。
そういうことを思うのが、つまり「鬱」なのだと言われるなら、否みようないが。

* 黒いピンが身に疼くように痛む。今は、だが、抜けない。

* 平成二十一年のいま十一月、わたしの「湖の本」の通算101巻を発送すべく九割がた用意は出来、明後日から送り出す。「*」より上の記事と事情符合していて、わたしの今の心境ともかけ離れていない。だが、上の記事はみな、二十世紀が二十一世紀に大きく動いた年の日記「私語」である。つい昨日一昨日に、九・一一のニューヨーク・テロがあったし、小泉総理は全面的にブッシュ米大統領の報復戦争に賛同し協力すると言挙げしていた。二○○一年のはなしだ。
情け無いと言うべきか当然のことか、世の中はグローバルに変化し続けてきたのに、わたしは、いまも同じように感じ、思い、「いま・ここ」にいる。
2009 11・8 98

* 髪をかきまぜても痛みはないから、風邪とも思わない。なんにもしないで、日を送り迎えている。かなり長いと思える映画「ドクトル・ジバゴ」を、深い関心をよせて、半ばほど観た。昨日はマギー・マクナマラにウイリアム・ホールデンとデビッド・ニーブンという色男二人が絡みつく、シンプルな会話劇を観た。台本が手もとに在ればいい英会話の練習になりそうだった。
明後日に始まる今度の発送は、常に倍する重労働と分かっている。いまアクセクしても始まらない。
2009 11・8 98

* 明日から、湖の本新刊発送の、筋肉にこたえる労働が数日つづく。いや、明後日は国立劇場で團十郎の「外郎売」や藤十郎の五変化「大津繪道成寺」が楽しめる。
成田屋の浮世又平、山城屋の又平女房おとくで極める「傾城反魂香」も、さぞ大柄で惚れ惚れする舞台になるであろう。一休み、楽しみたい。
2009 11・9 98

* 九時過ぎ、本が届いた。受け容れるだけで腰が曲がった。バファリン二錠で和らげる。すぐ作業を開始する。

* 夕方までの分、送り出した。十の六を妻に手伝って貰った。感謝。
百巻という中仕切りは、ある面で今後の「湖の本維持」をより厳しく難しくするだろうと予期していた。「百巻も、よくお付き合い下さった」と感謝申し上げる。
作品として、もう百巻出せるかと言われて、首を横には振らないが、なにより体力、ついで採算で、いずれ行き詰まるだろう。わたしとしてはまだ赤坂城を護っている気持ち、千早城への移転がいつになるか、そろそろ考える。
疲れたのでごく近所のレストランへ、サンダルとラフな服で食べに行く。やす香や妹も連れて食べにきた。学生クンらとも。
佳いメニュで、満腹を怖れずにおいしく食べた。鱸の欧風の調理も、豊富な前菜もよかった。清潔に仕立てた生牡蠣がよかった。デザートもあまさず食べてきた。
出来たばかりの新刊を点検したり。さ、この思い切ったる表紙繪は、とにかくも受け容れてもらえるかしらん。
帰り、三仁酒店でビールを半ダース買った。雨も降り出さず。
帰宅後、さらに、郵便局から送るしかない分の荷造りをみなし終えた。
2009 11・10 98

* 疲労したか、カッパと三時間ほど宵寝してしまい、目覚めて、少し仕事した。
明日から本格にまた発送をつづける。たくさん送り出すとたくさんお金が来るのではない。この文学事業は、各界そして広範囲の大学、短大、高校への新刊寄贈でもある。製作費にかつがつ届くか、届かなくても赤字がなるべく少なく済めばありがたい。しかし今回のように倍大の大冊を出せば、とても。それでも支えて下さる読者のあるのをわたしは作家冥利と感謝している。二十三年半。この間の日本の経済がどう動いてきたかを想起すれば、湖の本の刊行がどんな現状へ追われてきている察してもらうのは容易い。それでも、そんなことにそうそう屈しない気力は、備えは、幸いまだのこっている。
幸い息子の方はわたしのこの細い脛をもう囓らなくて済んでいる。助かる。
2009 11・11 98

* 傾き気味の体調を、揺り戻し戻し発送作業を続けて、山を越した。
2009 11・12 98

☆ 湖の本101 発刊おめでとうございます。 晴
城景都様の表紙の絵。斬新な美しさ。
秦様の若々しさを思はせられ、次なる100巻を期待して充分と嬉しくなりました。第1号を送っていただいたときの喜ばしい驚愕を思い出してしまいました。
ずっしりと手に重いご本に、封を切るのももどかしく、玄関から立ち読みしかねない有様でした。内容もずっしりと重く、読み止まれないのですが、先ずは、お祝いとお礼をとメール致します。
中仕切りと仰っておられます101号
次号からのためにもどうぞご夫妻のお身体お大切を第一にとお過ごし下さい。
追伸
余分なことかもしれませんが、本の表紙が上の方少し折れていました。新しい絵でしたので、チョッピリと悲しい気分でした。しっかりと折り目がついて折れていたのではないのです。表紙と次の緑の頁が袋にひっかかって出来たのでしょうか。初めてのことです。一冊だけであります様に。

* 感謝。 案じていた表紙の折れが出ていたこと、申し訳なく、残念。費用を掛けて封筒を新しいモノで送ったが、封なかのテボテボにわるく引っかからないかと、封入の折から気がかりだった。ご免なさい。「若々しさを思はせられ」にも、恐縮。

☆ 京都ののばらです! 従妹
こんばんは!
ずっしりと手応えのある新しい湖の本、
『凶器』届きました。
いつもありがとうございます。
「第百一巻」のご出版おめでとうございます。
早速に封を切って、美しい表紙絵にドキッ、 表題の『凶器』にドキッ、でした。
素敵な表紙絵ですね。
力強い若さと美しさの魅力に溢れていて、気持ちが引き締まるように感じます。
これからも回を重ねてご活躍されますよう応援しています。
こちらは少し気温も下がってきて、紅葉も見ごろになってきました。
また東京へ出向きました折りにでも、お目にかかる機会がありますよう願っています。
発送のお疲れなど出ませんよう、インフルエンザにもお気をつけて、どうぞお大切にお過ごしください。
2009 11・12 98

* 悟り=光明 =enlightenment は、どう来るか。どのようにして起こるのか。探し求めることをやめた探求者に起こると、バグワンは言う。

☆ もてる力をすべてふり絞って探究したが、しくじった者、完璧にしくじった者にそれは起こる。救いようのない絶望感にひたっているとき、光明のことはすべて忘れようと諦めているとき、探求がやんで、光明が得たいという欲望さえもなくなってしまったとき、突然それが訪れる…そしてそれで何もかも片づいてしまう。それは、いつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた--懸命に働きかけてきた。思うに、あれだけ激しく働きかけた者は他にいないだろう。彼は命じられたことはすべて、できると耳にしたことはすべて、どこかで拾い集めることができたものはすべて、やりつくしてしまった。彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、実に厳しい修行を重ね、誠実に、真面目に取り組んだ。だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、働きかければ働きかけるほど「私=我執」が強くなって行くということに気づいた。
そしてその日、彼は寛いで、探し求めることを完全に落とした。仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、はじめてぐっすりと眠った。まさにその夜、満月の夜だった、仏陀は仏陀となった。満月と光明。
何かを探し求めているとき、どうして眠ることができるだろう? 眠りのなかでも探求はつづき、欲望は夢を紡ぎだしつづけている。光明に入る前の仏陀もそうだった。何もかもが失敗に終わってしまった。彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係の喜びや苦しみを、肉体と心の苦悩や歓喜を見てきた。続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、たくさんの道に従い、その虚しいこともまた見てしまった。かれはいわゆる世間も出世間も味わったが、いずれも失敗に終わった。もうどこにも行くところはない、これ以上は一寸たりとも動けない。欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、どうして欲望を抱くことができるだろう? 欲望とは希望のことだ。欲望とは、まだ何かすることができるということだ。
その夜、仏陀は為しうる何もない、一切無いと知った。その要点を見るがいい。そこにとほうもない美しさがある……為しうることは何もない、いっさい何もない。彼はくつろいだ。彼の身体はゆったりとくつろいでいた。彼のこころ(=ハート)はゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかった。この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、彼は深い眠りについた。そして、朝が来て、目覚めたとき、彼は通常の眠りから覚めただけではなく、私たちみなが生きている形而上的な眠りからも覚めていた。彼は覚めた。光明を得ていた。
彼は弟子たちによくこう言った。「私は懸命に働きかけたが、成就することができなかった。そして働きかけるという考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私バグワンが自分の仕事(ワーク)を「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
おまえは矛盾した立場に立たざるをえない。それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。おまえは働きかければ何かが起こるかのように妙に深刻な姿勢で取り組んでいるが、それは、働きかけることを通しては絶対に起こらない。それは働きかけることがやみ、遊び心に満ちた気分が生まれ、くつろいだ気分になったときに、初めて、起こる……。
「何をやっても『私』をますます強めるだけだ、何をやっても自我エゴをますます膨らませるだけだ。自我は障壁」と見抜くと、行為はかき消えるう。行為が消えればその影である行為の主体も消えて行く。

* バグワンの「みちびき」の繰り返される核心である。
バグワンは、だから何もするなと言うのではない。こういう仏陀の脱落は、してきた果ての覚知であり、してはならぬという禁止ではない。した人が、する空しさに真に思いあたって脱落にいたる大事さを、バグワンは言う。すくなくもそれを何年も何年もわたしは聴いている。することなすことを、遊びとして一心にする、念々一新の遊びとして。文学という「凶器」をふるうのも、そうだ。そのようにして私を落として行く。
2009 11・12 98

☆ まだ降っていませんが、
いつ降りだしてもおかしくない空と気温です。
お元気ですか、風。
ご本、ずっしりと、届きました。
ありがとうございました。
さぞ重かったでしょう、内容共に。
花、元気ですよ。ではでは。

* 夜の十時半。雨音はげしく降りついでいる。

☆ 馬籠から妻籠へ遊山しての帰宅です。不折装丁の初版本を見られたことだけで感激でした。
取り急ぎご本拝受お知らせまで。雨で冷え込んできました。どうかご自愛のほどお願いいたします。  湖雀
2009 11・13 98

* ずしりと重いものを届けたのへ、反響も届き始めている。

☆ 新刊 拝受しました。
表紙に、どっきり。加山又造の絵に金属の月が貼り付けてあったのを見たときのやうに。
読みました。「凶器」・・キヨウキ・・「狂気」。文学の力をかんじます。やはり稀有の作家であると。おげんきで。 嵯
2009 11・14 98

☆ これまでにない重い本、お疲れ様。 泉
上野公園道筋に設置された華灯路、広重の「名所江戸百景」の行灯の一つです。面白く観てきました。
吾妻橋、言問橋、夕景の勝どき橋を渡りました。
2009 11・14 98

* 「松」クンの「mixi」日記を貰った。彼はいまや「ホフマン」を読んでいる。彼が音楽を愛してやまないことは東工大の昔からよくよく承知。そこからついにドイツ文学へ手が届いてきた。べつに彼は夙に美術も愛し始めている。そして「山」もある。大学生、院生のころから扇をひろげるように生活を美しく豊かにしてきた、いまではむしろ珍しい一人になった。
わたしは音楽がすきだが、百人が百人なみの凡常の愛好に過ぎない。ホフマンの方は音楽によりも今少し身をまぢかに寄せてきた。『黄金寶壺』のような愛読書ももっている。

☆ ホフマンの『クライスレリアーナ』を読んで   松
ドイツロマン派全集No.13 ホフマンⅡ ㈱国書刊行会所収 クライスレリアーナ(クライスラー楽長) 伊狩裕訳 青柳いづみこさんの本を読んでいたらクライスレリアーナの話が出ていたので、久々に図書館で読み直した。
クライスレリアーナは、架空の楽長クライスラーの、音楽に関する覚書や手紙から構成されている。小説の形を借りた、作者の音楽論と言っても良いと思う。
楽長クライスラーは『音楽至上主義者』である。ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンを讃え、音楽を理解しない人を罵り、音楽の素晴らしさを語る。文章は飽くまでロマンチックであり、精神的な高みにある者こそが真の音楽を奏でることができる、というような話が続く。
小説としてはあまりに突拍子も無い話だが、シューマンやブラームスが模範とした音楽観を知るためには面白い本だと思う。私自身も音楽で心の内を表現したい、と思っている方なので、面白く読むことができた。
このクライスレリアーナは音楽用語が飛び交う本だが、訳者は読みやすい日本語にしている。音楽の専門家の助けを借りているのだろうか。おかげで熱病にうなされて書いたような文章を分かりやすく読むことができる。
クライスレリアーナを基にして、シューマンが同名の素晴らしい曲を書いている。
第一曲目からして、異常な世界。絶望と、慟哭と、狂気すれすれの音楽が展開される。憧れに満ちた2曲目が終わると、悲劇的な3曲目になる。4、5、6曲目はひたすら内向的な曲。自分の内面の闇の世界に沈み込んだような曲だ。情熱的な7曲目は嵐のように過ぎ去る。最終8曲目は理想のために闘い、敗れ、失意のうちに死んでいくクライスラーの姿が描かれているように感じる。ホフマンの狂気の世界を可能な限り音として表現している名曲だと思う。
青柳いづみこさんは、『シューマンのクライスレリアーナを聞いても、所詮ホフマンの異常な世界は音には移せない。』と書いている。おそらく理性が強く、文学を愛する青柳さんだからこう書いているのだろうが、彼女はシューマンの曲以上の、狂気の世界を文章から読み取っているのだろうか。

* ホフマンを「狂気」と感じているのが面白い。存外に「凶器」であるのかも。

* 気がかりの追加便の用意も、順調にすすめた。明日もう一日がんばって、骨やすめの中休みがしたい。
2009 11・14 98

* 朝一番に、或る著名な男性俳優氏から、『凶器』への礼と感想とを告げる佳いメールを戴いた。
2009 11・15 98

☆ 湖の本ありがとうございました。 郁
装い新たに 湖の本101号を拝受いたしました。有難うございました。 なんと!ドキッとするような、それでいて手にしたくなるような すこし恥ずかしいながら見つめていたいような すばらしい表紙でございます。さすが! レイアウトもすばらしく。
内容も今までの小説ではなく ドキュメンタリーな内容に身に迫ってくる気持ちになります。あらためて驚きを覚えます。
申しおくれましたがお元気なのでしょうね!! ご健勝をひたすら祈っています。

* 奮励、夕方には、とにかくも一段落して、あとは数日掛けて補充的に送ってゆく。いつもの倍の労働量で、しかも少し弱っていたので、妻にいつもの倍も助けてもらった。感謝。
夕食後、疲れて二人とも寝入ってしまった。数日、ゆっくりしたい。気分をかえにからだを優しく動かしたい。

☆ ご本届きました。 波
湖様  波です。ご無沙汰しております。 101号 「凶器」をお送りいただきありがとうございました。
まず、その厚みと表紙に驚きました。 表紙、なんと美しく官能的なことでしょう。
今日は暖かく雲ひとつないよい日でした。黒いピンをすっかり抜いて洗濯物をしたり、クリスマスローズの苗を植えたりして半日を過ごしました。午後は仕事が1件。そのあと母たちの所に寄ってきました。休日ももう少しで終わります。
どうぞお体に気をつけてご活躍くださいますようお祈りいたします。

* 誤記一箇所を見付けて頂いた。ウーン…。感謝。
2009 11・15 98

☆ 『湖の本』第一○一巻拝受、新たなる第一歩が長編「わたしの私小説」の書き下ろしとは!  秦さんらしい正々堂々たるご出発ですね。お身体お大切に、いつまでも、命ある限り歩みつづけて下さい。  元大手出版部長

* 清水英夫さんからは「今回の御作品は私にも関係深い小説だと存じますので、楽しみに拝読させていただきます」と。感謝。

☆ 記念すべき101号に弊社代表 城景都の作品を引き続き、ご利用いただき大変感謝しております。
以前、ご相談のメールをいただきまして、折れ山の件など、心配しておりましたが、とても美しく掲載していただき、安心いたしました。
代表も早速、嬉々として来客の方々にお見せしております。
今回の、表紙が一新された「湖の本」を弊社のホームページのトピックスとして紹介させていただきたいと考えております。毎回、お願いばかりして申し訳ございません。
掲載内容は表紙の画像と「湖の本」のご紹介を予定しております、是非ともお許しをいただければと願っておりますが、もし支障がありましたら、掲載はいたしませんので何なりとお申し付けくださいませ。
どうぞご検討のほど、お願いいたします。
今後ともJ.K版画工房を、宜しくお願いいたします。
2009 11・16 98

☆ 朝夕の冷え込みも厳しくなってきました。
昨日は主人と黒谷さんから真如堂、法然院、銀閣寺と歩いてきました。
真如堂はお十夜法要結願の日で賑わっていました。
紅葉は来週あたりが最高の見ごろかと思いますが、連休なので身動き出来ない程の混雑になることでしょう。
娘は東大泉に居ります。来年の春に行く予定です、その折には連絡させていただきます。お目にかかれるのを楽しみにしています。
いつもにも増しての気力、体力をお使いのご出版と存じます。奥様共々お疲れが早く癒えますよう願っています。
ご本は折り目も付かずきれいに届きました。
それでは、お風邪など引かれませんようお元気でお過ごしください。 従妹
2009 11・16 98

☆ 湖の本 ありがとうございました。
昨日読み終えました。
すぐに読み始めたのは、「今・此処」でこの大冊を出版なさいました意味を重く受け止めたからです。「遺書」として読ませていただきました。途中ずいぶん泣いてしまったので、読むのに時間がかかりました。
感想は山ほどございますが、文学作品(フィクション)への感想なのか、書かれてある事柄への感想なのか今はまだ区別をつけられません。以前『かくのごとき、死』にぜひ続編がほしいと申しましたが、単なる続編ではありませんでした。父と、父の才能を濃厚に受け継ぐ娘とが、文学という、言葉という凶器をもって刺し違えていくさまに、ただもう読みながら呻いていました。凄まじいと思いました。
あとがきに書かれてあります現代文学とインターネットの問題についての洞察は、後々の指針となる優れたもので、感嘆いたしました。
この一冊を成し遂げられましたこと、深刻な内容、重たい発送作業でいらしたこと、どれほどお身体に障りましたことかと、色々ご案じ申し上げています。どうか、ごゆっくり休養なさることができますように。
表紙はとても気に入りました。難点は、電車に乗りながら読むにはちょっと周囲の視線が気になるかと。お笑いください。おやすみなさいませ。  霖雨

* 「いま・ここ」にソレがあり、書くべしと催すちからを感じて、書いた。それだけ。
方法としては、第一義が「伝達」という難しい枠組みであった。伝達には概念が有効だが、概念的になるのは文学ではモットモ忌むべきでありながら、概念を多用するのが前提の文書という制限は動かせない。とすると、制限内で、どれほど率直に「モノ・コト・ヒト」を造形し表現できるか。なにかの「続編」という感覚でなく、最も非文学的な制約を前提に「文学する」難しさに立ち向かうこと、それが今度の「実験」であった。

☆ お元気ですか。
ひさしぶりにHPを読みました。湖の本は先週届いていたようで、これから読み始めます。
表紙が新しくなって、いささかドキッとしました。官能的じゃなくて官能そのもの、と思いました。カバーをして読みます!
急に寒くなって十二月末あたりの気温とか、一日中雨で暗い室内です。
大きな蕪を買ったので、我流で千枚漬けを作ります。そして蕪蒸しなども。一緒に炊くものはその時のあり合わせですけれど。
くれぐれも風邪など引きませんよう。足腰大事になさって歩いてください。 鳶

☆ 今日は冷えましたね   花
お元気ですか。
朝からずっと冷たい雨です。
でも、用事があるから出かけました。買ったばかりのレインシューズを履いて。
さてさて、今度の表紙は、ちょっとドキッとしましたよ。
ああいう絵があったのですね。城景都さんのHPを見てみました。
とてもおもしろいと思いました。
風は発送作業にひと段落ついたのでしょうか。お体、いたわってください。
ではでは。

* 今度の「湖の本101」倍大書き下ろし長編小説『凶器』の美しい表紙絵は、むかぁし、城景都氏にもらって秘蔵していた繪を宛てたのだが、むろん、「湖」底の女と想いさだめていた。想い描かせる掌説をわたしは新聞三社連載の『冬祭り』のなかで、七曜の、「水」と題して書いている。サービスに、ちょっと掲げておく。

☆  水   秦 恒平

男はあむけに寝ていた。空はきれいに晴れていた。ちぎったような雲が大波にみえ、刷いたような雲は小波にみえた。
高いところを速い大きな鳥が翔んで行った。たくさんの鳩も、一度、二度輪を描いて翔んで行った。魚みたいだと男は想った。
雲が波で、鳥が魚で──、すると、あの真っ蒼な天ははるかな水面だ。男は波を乗せてゆっくり流れる水面を、気が遠くむなりそうにじっとあおむいたまま見あげていた。
男はまた想った。あのきれいに蒼い遠くが水面なら、自分は深い深い水の底に横たわっているのか。そうだと男は自分で自分に返事した。
男は愉快だった気分に、すこし不安なかげが落ちかかるのを感じた。あの遥かな高いところから、どうしてこう深々と沈んでしまったのか。男はしだいに息苦しかった。起った。地を蹴っては腕をあげ、物狂おしく揺った。天は高く高く、眼にしみる蒼さではればれと照っていた。
女が来た。
女は男の話を聴き、うす笑いを浮かべて、面白いじゃない、と言った。男はすこし青い顔になって女をにらんだ。
女は山へ遊びに行きましょうよと男を誘った。山には鏡のように澄んだ深い池がある。池には魚もいる。泳ぐこともできる。女は上機嫌で、笑談らしく言った、水の底がどんなか、あたし魔法を使って、あんたを小石にしてその池に沈めてあげる。
女と男は、それから、山へ出かけた。鏡のような池は、山ふところに蒼空を浮かべて、ひっそり崖のしたに沈んでいた。あれは空を翔ぶ鳥か、水を泳ぐ魚かと、きらきら光るかすかな影を男は指さして女に問うた。女もうしろから覗きこみ、自分でたしかめて来るといいわと笑い声ともども、男を池につき落とした。男は黒い一つの石ころとなって池の芯をまっすぐ沈んだ。
池の水はそれは澄んでいた。遠い水面が明るく蒼く輝いていた。雲か波か。魚か鳥か。石になった男はやはり分別をつけかねて、じっと、潤んで光る一枚の鏡を見あげた。その鏡を、女の顔が笑ってのぞいているのを、男は遠い想い出のようにつくづく見た。男は女を愛していた。
突如、白く燃えたかげが宙を飛んで、鏡はこなごなに割れた。だが無数の破片はやがてもとの一枚の鏡にみるみるもどる、と、さながら蒼空を舞う天女のように、裸形の女が悠々と、欣然と游ぐ姿をうつしだした。
身に水垢を生じながら、石になった男は池の底からまじろぎもせず、女のまぶしい姿態に見惚れていた。
水の底も住めば天国でしょう。
女は朗らかに笑った。男は女の声を聞いていなかった。
ああ、なんと美しい乳房の、水にさからいつむつむと盛りあげたあの、まるいはずみ。
大粒の真珠を見え隠れに光らせ、しなやかに屈伸する二本の脚のあわいに一条の翳を沈めて、なだらかにふくらんだ双つの丘。
だが──美しいその裸形に、へそがない。
男のくらい沈黙に気づくと、女は深く水をくぐって池の底から石の男をすくいあげ、そっと地上へなげ返した。
へそなんか、無くてもいいさ。
男は、池の芯へ大声で叫んだが女の姿ははやかき消え、一枚の、天上とも池底とも知れぬ澄んだ鏡が、刻々とひび割れて行った。

* こういう「掌説」が六十編以上ある。城景都氏の繪と競作の展覧会がいつか出来れば嬉しいが。誰か、スポンサーはいないかな。

☆ (前略) 七十五歳に近い方のお仕事とは思えません。私もその年齢まで仕事ができればと願っています。  歴史学者

* こういう感想もあるのだと、ふと仕事を見なおす目をもった。元気でなければ出来ないか、あるいはバカでなくては出来ないか、おそろしく緻密な力業であることはまちがいなく、ひょっとしてまだ気力があるのか、バカになってきたのかと、とまどう。
巻頭にかかげた清水房雄さんの短歌「思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき」という歌にかけてか、こんな感想も届いている。

☆ (前略)肉親とは   歌人
まったく厄介なものだと存じます。私は不惑を過ぎたころから、ようやく父親のことを理解できるようになりました。父は私の十九のときに亡くなりましたが、父に失望させてばかりおりました。現在の私を見たら、父は卒倒して了うのではないかと存じております。出来が悪いのは私の責任が半分、小谷野責任が半分と自ら慰めております。幸か不幸か子供はおりませんが、これも運命と、思い定めております。御著によっていろいろ考えさせられました。草々
2009 11・17 98

* 梅原猛さんから湖の本101への礼状が届いてビックリした。神坂次郎さんからも。大学の研究室等からも二十校ほどもう受領の礼信が。
読者の払込票も好調に。二倍大の大冊におどろき、「凶器」という題におどろき、そして城景都の、ある人によれば官能的というより「官能そのもの」の裸婦像にも、内々案じていたより、「ひょう!」と声を発しながら「美しい」「すてき」と目下好評で、ほっとしている。
心身健康でャンとしていなかったらとても書けない創作・フィクションと読んで下さっている。ありがたい。「新出発」とも認定されている。ありがたい。表紙製版もふくめて制作費の請求書もガーンと倍大であるが、読者のみなさんからも応援を戴いている。ありがたい。そして励まされる。

☆ 近頃、お目にかかりませんがお変わりなくお暮らしかしらと思っておりましたが、本日、『湖(うみ)の本』が届きました。ずしりとした手ごたえのご本に仕上がっていて、「ああ、障り無い日々をお暮らしだったんだ。お出ましにならなかったのは、このご本に心血注いでおいでだったんだ」と安堵しています。
今月から来月にかけて、担当の「ペンの日」懇親会や講演会がありバタバタと落ち着かぬ日々でございます。
いつもお心にかけてくださりありがとうございます。
まずは、メールにて御礼を申し上げます。  ペン事務局

* 読者のみなさんの共感と激励、降るように来る。
2009 11・18 98

☆ 「湖の本」第101巻『凶器』 誠にありがとうございます。 女子大学長 作家
旺盛な御文業に敬服するばかりです。言論表現・思想信条の自由のために益々御尽力下さることと、心づよく存じております。

☆ 冠省 開封して、どきっとする作品名に   作家
度肝をぬかれました。それにしても六ヶ月でかかる大作を完成した大兄の筆力に敬意を表します。 私小説に非ざる私小説ではないか、と想像しているこの大作をゆっくり拝読します。

☆ 秦恒平様   ドイツ文学者  文藝批評家
分厚い《湖の本》『凶器』が送られてきました。
《湖の本》がいつか100巻を超えたことを、まずお喜び申し上げます。営々たるお仕事ぶり、またその早さ、量の膨大さに、怠け者
の小生など、茫然とするばかりです。しかも、それらの多くが、東工大当時に学生から教わったというパソコンでなされているという
こと、『濯鱗清流』によれば大兄のパソコンには無慮数万枚がまだあるとのこと。
ご覧のように小生もパソコンを使ってはいますが、それは翻訳とわずかな原稿と手紙に使うのみで、とても日録をパソコンに入れるなどということはできない。第一、小生には 「日記」をつけるという勤勉さがないのであります。ただ手帖に、ゲーテを読んだ日には 「ゲーテを読む」 と書くだけ。大兄の多産な筆力、想像力豊かな《文学作法》にはつくづくと頭が下がります。
《湖の本》というかたちでみずからの著作全集をつくり、また読者とじかに交渉をもつという大兄の《文学的生き方》は、文壇でもまったく独自なもの。すばらしいですね。
当方はますますドイツ文学者になってゆきます。たまに日本文学に関連してなにかを書いたり、話したりすることはあるけれど。
「私語の刻」 によると糖尿病がだいぶお悪いとか、大兄の文学魂がそれを抑えつけているのでしょうが、どうぞお大事に。
冬になります。風邪など引かぬように。  十一月十六日

* 東大教授の上野千鶴子さんにも手紙を戴いた。おなじ国文学の学会でお互いに参与に名を連ねている方からは、わざわざ電話で励まして頂いた。異色で緻密な作であり、ある新聞社に書評で取り上げるように薦めましたとも。恐縮。感謝。
2009 11・20 98

☆ 冠省  エッセイスト
このたびはご高著、湖の本『凶器』をご恵投いただき有難うございました。ウエブ時代のあたらしい「日記文学」と実験的私小説の可能性に挑戦された画期的作品と拝察しました。いつもながら、旺盛な執筆意欲に感服しております。

* 払込票での反応がすこぶる良い。
まだ追加で送りたい先がある。ほとほと宛名を書くのが気重いが、ゆっくりゆっくり根気よく。
2009 11・21 98

* 発送の作業を終えた。あとはもうばらばらと序でを得て。
2009 11・22 98

☆ 裸婦   藤
心構えが出来ていないうちに冬になったようなこのところの寒さでしたが、今日の雨が上がった後はやっと暖かさが戻り、ほっとしました。元気です。夫は今月は二度も海外に出かけることになり、さすがに”ほっこり”しているようです。
新装なった101号をいただき、御礼のおたよりをと思いつつ、御作品のテーマの重さになんと申そうかと—–日が過ぎてしまいました。
で、そちらは置いておいて、以下は新しい表紙への感想です。
表紙を変えるとおっしゃったときの秦様の口振りから、なんとなく、今度は裸婦だろうと予感していました。
城景都さんはこのような素晴らしい裸婦をお描きになるのですね。
私も昔絵を習っていた頃に、一度だけ裸婦を描きました。
今思えば可笑しいほどのおくての女子中学生だったから、石膏像が生身になったくらいの感覚で描いていたものです。だからその美しさ(モデルさんは若い細身の方でしたが)に感動するよりも人体として見つめていたようで、帰りの市電の中ではまわりの人の裸体が衣服を通して透けて見えるように感じました。
裸婦を今ならもっと違った視点で描ける気がする、描きたい気持はあります(残念ながら機会が無いのですけれど)。
人体は美しい、いくつになっても裸婦を美しいと感じる感性を保ちたい。
みなさまの感想の中に、電車ではカバーして読むとあって、ふむふむ。
通信教育を受けていたとき、先生のデモ作品の裸婦のデッサンが抽選で当たりました。かなりの大きさがあり、とても気に入っているのですが玄関や居間にははばかられて、私のアトリエとも言えぬような汚い部屋にひっそり、こっそり置いて眺めています。
そうそう、モリジアニ展で買った裸婦を印刷したTシャツも、色も絵柄もお気に入りなんだけれど(自分に似合うと思うのだけれど)、客観的に見て、70過ぎたバアさんが着た姿をイメージすると気後れし、結局箪笥に眠っています。裸婦ってなかなか悩ましい。
どうかお身お大切にお過ごし下さいませ。

* こう観ていただけて、心を安くした。万々無いと思ったが、もし「不潔」と眺める人がいては困ると。健康で、まっこうケレン味のない充実した裸形とわたしは好感をもった。人魚ではない、しかし「湖底の女」像としてイメージにかなった。城景都氏のちからも若くみなぎって、過剰なものが無い。いまもそう思っている。
原画の背景はややダークにしてあるが、製版上の費用を節約したくて、思い切って真っ白に抜いてもらった。

* ためらいなく、こんな話題にも思うままを告げてきてくださるのが心づよく、すばらしい。カバーをして読んでいると言われると、いくらか笑って予期していたことなので構わないが、その人も繪の描ける人だっただけに、やはり、ふむふむと感じた。

* 広島の理史くんと電話で話した。元気な、シッカリした大人の声とことばとで、頼もしく嬉しかった。いつもお酒をよく選んで送ってくれるので、あなたもよく呑むのかと聞いたりした。それならばと、ちょっと思うこともあった。
2009 11・25 98

* さて、例のわたしの「湖の本」新刊であるが。

* 非情なほど特異な「形式」を用いて書かれた、詳細で徹底した「創作」に驚いているというのが、いまのところ識者大方の反響のようである。それでいい、ありがたいと思っている。
小説世界の未来は容易に推知の利かないことで、どんな書き方が現れるか分からない。吉田健一さんが昭和三十二年に『日本について』をいろいろ書かれた中に、「二十年後の日本文学」が入っている。わたしは昭和三十七年夏から小説の習作を始め、吉田さんの示唆されている昭和四十二、三年にはまだ受賞していないが、歌集『少年』は編まれていたし、『畜生塚』『斎王譜 のちに慈子と改題』『祇園の子』『掌説』などの私家版三冊が出来ていた。『清経入水』で受賞したのは四十四年六月だった。
さ、吉田さんは、この、わたしがデビューの頃の「日本文学」を、どう予想しどう期待されていたか、これはわたしにしても見もの、必読の一文である。ここへその結果を書いてしまうのはつまらない、人と分かつためにも、スキャンも校正もタイヘンだが、「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴しようと思う。
2009 11・26 98

* 「これまでの御著書で知悉しているテーマでしたので一気に拝読しました。ノンフィクションとしてとても素晴らしい作品だと存じます。理路整然とした筆致に感服致しました」と、わたしに『北の時代 最上徳内』の長期連載へ道を拓いて下さったベテラン編集者の手紙をいただいた。「ギリシャ悲劇の唱える運命というものの存在を否定し得ないのかな、という思いにかられ」るほど痛ましくも読みました、とも。
書いて、出して、こう読んでもらえて、不条理の渇きはいかんともしがたいなりに、作家としてたじろがなかったことを是と思うのみである。
2009 11・27 98

* 劇作家の山田太一さんから、敬意の籠もった懇篤のお手紙を戴き、あまつさえ『谷崎潤一郎を読む』『漱石「心」の問題』『いま、中世を再び』を注文してくださり、嬉しく恐縮し感謝申し上げる。今回はじめて『凶器』をお送りしたのへ、低調にご挨拶戴いた。これも「仕事」をしてきたおかげと思う。
2009 11・28 98

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