* もう六時。朝に雑煮を祝い、黒いマゴに輸液以降、ずうっと「選集⑥」と「湖の本123」入稿の用意に没頭していた。「選集⑤ 冬祭り」の責了とともにこの三つの作業が済むと、視野がかなりひろがるという希望がある。ま、ラクになるなんてことは望めないが。
2015 1/3 159
* 新年早々から妻にはややこしいスキャン作業をたくさんして貰っている。新聞紙からの復元はたいへんなのだ。しかし電子化しておくとそうでないとでは、いろんな意味から天地の差がある。スキャンの利かない手書きの資料が、日記や創作ノートなど、また貴重な通信物など、思わず天を仰ぐほど在る。棄てようかと思うが、少しでも健康が保てている間は思い切れない。悪しきサガである。
ITは、或る意味で猛毒害だと信じて疑わないが、感謝に堪えないほどの利器にも相違なく、わたしの場合は作家活動にフルに役立ってもらった。東工大教授として就任していなかったら、作家・秦恒平はとうの昔に息絶えていたかも知れぬ。機械のおかげで、何より嬉しく有難いのは、騒壇余人として、あのドクターX大門未知子なみに、「いたしません」を、かなり貫いて来れたこと。
先輩作家の加賀乙彦さんの年賀状に、「作品を御自分で出版するやり方に すっかり感心しています さすがに工学部の先生だと思います お元気で 御自愛下さい」とあったのには、わたしがいち早く、ワープロ、パソコン、ホームページといった展開につとめたのを観てられたのだろう、が、但し「工学部」とは関係なく、関係が在るとしては、親切な東工大の学生諸君とのお付き合いに恵まれたことを忘れてはならぬ。あの頃の学生君が、此の新年にも心親しい年賀状を、少なくも十数枚、二十枚近くも呉れている。
加賀さんの謂われる、「本にする」という点では、編集出版の仕事のうち「編集」は、あの医学書院から学び得た賜物であり、「出版」となっては、 ① 誰よりも何よりも妻の全面協力無くては到底出来なかったし、② わたしに真摯な創作や執筆意欲と実践・収穫がなかったら、どんなにしたくても全くあり得なかったし、 ③ 「いい読者」からの久しいご支援とご愛読無しには到底ありえなかったし、④ ことに非売限定の美しい「選集」刊行ともなれば、数十年を一心不乱に書いて書いて、それで地道にもそこそこ稼がせてくれた「時代」にも感謝しなければならない。とてもとても、チャチな自己満足では、三十年に手の届いている「湖の本」や、また「選集」出版などは出来る仕事ではない。出来た人を一人もわたしは知らない。
2015 1/3 159
☆ 秦先生 あけまして おめでとうございます。
ずいぶんとご無沙汰しております。
先生のご本のお礼のメールも書いておきながら途中で送りそびれておりましたのを今見つけたくらいです。
申し訳ありません。
昨年は仕事の上で、初恋の人と再会したようなよい年でした。
初心に返るという言葉を身に沁みて感じましたが、この年になってきますと、日々に流される雑事が多く、また、新しいことも次々と広がっていくのですが、それを深める時間と気力を確保するのが難しいことも痛感しています。
HPで鳥獣戯画の修復をされた方との繋がりを書かれていらっしゃいました。
あちらはまさに私が頻々と出入りしている「仕事場」の一つで、「どなたのことかしら」と少し気になっています。お若い方のようですが。
昨年、「初心に返」ったことの一つに京都に、より深くお付き合いするようになったことがあります。
多いときは月に5、6回行くこともありました。
(文化財修復の=)仕事を始めてからずっとお付き合いしてきた土地ですが、向こうの人達とまた一つ深いおつきあいをするようになりました。
その中で、先生にお伺いしたいな、とかねがね思っていたことがあります。
中京の町衆というような、町と文化が根深く醸成されたような文化というのは東京にもあるのでしょうか。
たとえば、大晦日におけら火を祇園さんから頂いてくる、伏見人形丹嘉さんの布袋さんを毎年一つずつ買って揃えていく(不幸があるとお焚き上げにするから揃っていることに価値がある)といった文化はお江戸にもあったはずと思うのですが、身の回りではあまり聞いたことがありません。
私の交際範囲がそういう範囲なだけであって、本当は東京にもそういう文化があるはず、と思うのですが…。
やはり戦争で焼けたことで一度リセットされてしまったのかも、とも。
それとも京都の地層にも似た積み重なった文化は京都独自のものなのでしょうか。
先生の「京のひる寝」をお正月に読み返しながら、そんなことを考えていました。
京都は私の初恋相手で、たぶん一生心が離れることはないのですが、そんな憧れの相手とお付き合いできるようになり、相手のイヤなところの方を先に随分見たり、でもどうしてもやっぱり好きで、…そしてまたもう一歩深くおつきあいできて…というような昨年でした。
今は大雪だそうですが。
昨年も先生の存在を心に置きつつ、いろいろなことを考えておりました。
いつまでもご健勝で。
本年も佳い一年となりますよう。 典 東工大卒業生
* この人は在学中から確乎とした希望と意志とで文化財保護の実際と研究の世界へ飛びこんでいった。結婚していい子たちも。
* ことに京の上層町衆のセンスには、公家の伝統や教養知識が指導的に浸透し醸成されていったという、歴史的に無視できない一面がある。併走してまた、花街の女文化的・質的な繁昌が、また上方藝能の多彩な展開が、様式をも伴った美意識やかぶいた行儀とともに、町衆文化を意識的に強め深めて行った。
但し或る意味では、上方の上層町衆には、中世以来芽生えていた庶民農民の政治的エネルギーを、代償的に武家支配に売り渡すことで得た平安と繁栄という、暗転とも裏切りに近いともとれる繁栄の入手という傾向が強かった。
大なり小なり、江戸の上層町人にも同様の傾向があったことは否定できない。都では公家が果たした役は、御家人クラスの下級武家の趣味や嗜好がかすかにも指導性をもち、乗りかかるように富裕町人等は経済力で江戸前の文化を拡大しかつ満喫していった。江戸ならではの独特な創作が目立ち、文学にも演劇・舞踊・音曲にも、浮世絵にみられる美意識・好みにも、俳諧・狂歌・川柳の繁昌等にも、技工にも、そして無論のこと花街や悪所の女文化をむさぼる「祭り」好きな男意気にも、町人層の江戸っ子がる文化は実質を持った、間違いなく。そして継承もされた。
2015 1・4 159
* 「湖の本」123を入稿した。かっちりした一冊ができると思う。
2015 1・8 159
* コンピューターが激しく動揺し、デスクトップが、背景を見失い、整頓させていたロゴも窮屈に整列してしまい、使いにくくなった。どうすれば、いいのか、頭が働かない。作業はいちじるしく送れてしまう、なにもかも手探りでしか出来ない。あまり雪の金閣寺の写真が綺麗なので使おうとした、その手順が間違ったとみえ、デスクトップ一面に同じ写真がびっしり並んでしまった。それを消去したら、今度は便宜に配列してあったデスクトップのロゴが、硬直したように四角く並んで、配列替えに応じてくれない。困った。
臼からの作業にきつい迷惑が生じてしまった。
もう寝るしかない。
「湖の本」入稿が出来たあとで助かった。この私語がうまく送信できるか心配。デスクトップは、とてもとても大事なのに。
2015 1・8 159
* 気ぜわしく、「選集④」発送の用意「選集⑤」責了の用意、「選集⑥」入稿の用意、選集と湖の本123との図版入稿の用意に一斉に併行ぎみにとり掛かっている。落ち着かないと間違える。
2015 1・10 159
* おおずもう初場所が始まった。白鵬の三十三回優勝を期待する。しかし今場所の桟敷入りは見合わせる。食べる物は食べているのに、なにとなくけだるい疲れが薄雲のようにみうちに漂っている。それだけの仕事をつづけざま片付けて来たのだからムリもない。目前に迫ってきた「選集④」の荷造りと発送とがかなり身に堪えるだろう。湖の本のように宅急便に集荷に来てもらえず、せまい坂道を数重ねて自転車で運ばねばならない。怪我をしてはならない。
2015 1・11 159
* 明後日の選集第四巻搬入を受け容れうる「場所」の用意をした。なによりもこれが大変。一方で、不要と見切って保存保管してあるものの廃棄を考えざるを得ない。さしあたり「湖の本」全巻の「責了紙」を処分すること。
2015 1・14 159
* 明日から郵便局休みの土日を精一杯利して、なんとか火曜の二十日には発送を大方終えたい。二十一日は、早朝から聖路加で三年目の検査を受ける。二十二日は岩崎加根子の「桜の園」を楽しみにしている。その週末か次の週初には「湖の本123」の初校が、おいかけて程なく「選集第六巻」の初校も出てくるだろう。その時分には「第五巻」を責了にしたいし出来るのだけれど、第四巻との間隔が短い。痛し痒し、迷っている。
目を上げると、福田恆存全集、同、飜譯全集の計十五巻と並んで「秦恒平選集」四巻が並んだ。思い立って十四、五ヶ月、よく出来てきた。第七巻まですでに軌道を走っている。第八巻までも今年のうちに可能かと想われる、ただし、元気であれば。元気でありたい。
2015 1・16 159
*明日、骨折り仕事、ほぼ終える。待ったなしに明日には「湖の本」123の初校が組み上がってくると連絡があった。予想通り。もう数日の内には「選集」第六巻も組み上がってくるだろう。受けとめて、慌てない相撲をとりたい。
さしあたっては明後日の検査を無事に受けてこなくては。 2015 1・19 159
* 朝一番に「湖の本」123の組上げ初校が届いた。
「選集④」の作業も予定通り、事終えた、あとは、成り行きまで。二時半、ワインで乾杯。
2015 1・20 159
* 「冬祭り」第二、三章を読み、「湖の本123」を初校し、「或る折臂翁」の原稿読み、「生きたかりしに」の原稿読みを、続けざまに。弛んでやり過ごすなど、わたしにはもう許されていない。「寒ければ寒いと言つて立ち向かふ」だけのこと。おそろしく今日は寒かった。
明日は雨になると。六本木で「櫻の園」を観る。
2015 1・21 159
* 最も衝撃的なのはヤマトが現行のメール便をやめるというニュース。ついに「湖の本」刊行停止を判断しなければならないかも。一つには現在既に出血刊行の上に送料が大幅高で迫ってくる上に、郵便局は刊行物を家まで受け取りに来てくれない。自転車で運ぶなんてことは、途方もない不可能事であり、怪我や事故や健康を悪化させることへ直結する。
ヤマトの変更の実情をいますこし詳しく知る必要がある。
2015 1・23 159
* 明日には、「選集⑥」の初校が出そろってくる。⑤「冬祭り」の責了へ歩を進めねば。「湖の本123」の初校も進めねば。なにごとが起きるかも知れないと思い思い、日々を生き次いでいる。体調、かならずしも、こころよくはない。気の挫けぬようにしっかりしたい。
2015 1・26 159
* 朝一番に「選集⑥」初校が組み上がってきた。さ、また追いまくられる。先ずは「選集⑤」を心おきなく安心して責了へ運びたい。「選集⑦」の原稿読みも着々進んでいる。いまは「湖の本123」初校を絶えず念頭に仕事全体を推し進めねば。むろん、言うまでもない新作の入念に入念な仕上げへも。
2015 1・27 159
* 家中、蟹歩きでなく歩ける場所がいま、一箇所も無い。廊下も階段も、玄関ですら、置いた物、もの、モノで、まともに前向きに歩かれない。
わたしにもその気ならいますこし手広い家が持てたかも知れないが、それをしていれば今、「選集」や「湖の本」の仕事は出来ッこなかったし、歌舞伎や相撲もこれほどは楽しめなかった。どっちがよかったか、問うのもバカらしく、今の方が幸せであるに決まっている。だからボヤクことはしても悄げたりは決してしない。「家」をかついで死んで行くことは出来ない。佳い作、佳い文章を愛読者の胸に届けておければ願ってもない。
* 記憶の薄れるのを案じて下さる人もあるが、老齢の功徳は、もの忘れの可能なことと、いささか能かのように自覚していて、毎日毎日の中で、あまり気にしていない。認識や好奇心や判断や意見の出はすこぶる普通に順調で、この私語にうちちがいの誤記などあらわれても、あまり拘泥していない。寒ければも寒いと言って立ち向かう生気こそ、大切と感じている。胸の火を消さずに。
2015 1・27 159
* 眠りにくくて夜中、二時間ちかく『冬祭り』での「再会」などを楽しみ、リーゼを服してまた寝た。起こされるまで目覚めなかった。
聖路加病院へ。日比谷線築地駅前方の横断歩道から、院内で診察券を使う場所祈念まで、七百歩。ただしわたしの現在の歩幅は、元気な昔の半分以下か。
病院へ、予約時間よりうんと早く行くのは、つまりは「校正」の仕事に没頭し、自然けっこう捗るから。家では機械抜きに「校正」という用がなかなか果たせない。あとまわしになる。選集や湖の本の見開きゲラはかなり横幅がある。頁を繰って行くと倍になり、そんな仕事の出来る平たい場所が、すき間が、欲しくても無い。暴力的にモノを片付けないと、無い。で、待ち時間の長い病院やまた電車のなかは「校正」できる恰好の場所。但しゲラを適量に分割して持ち出している。どれほどは出来そうか、経験で、分かっている。なにしろ大きな紙の束は重いのだ。
車内や外来では、ゲラを二つ折りに小さく持ち、見開き二頁を読み終えるとゲラ束のウシロへ畳み込む。二つ折りにしているから、綴じてないゲラがうっかり辺りへバラ撒かれることはない。こんなことも、だんだん覚えた。
2015 1・28 159
☆ 先生
私もマキルス性胃癌で胃全摘手術をしました。16年が過ぎました(現在66歳)。
まだまだ体調の面でも気持ちの上でも不安定な時期かと思います。ぜひ癌と闘うのではなく、共生する気持ちで頑張って下さい。ご活躍を祈念致します。 群馬県 原澤秀男
* 湖の本は創刊三十年に近づいている。この方はそんな治療のさなかにも「湖の本」を応援し続けて下さり、「選集」創刊以来もすでに二度、十万円も喜捨して下さっている。癌とは「闘うのでなく共生を」と。じつはわたしも本音はそんな気持ちで手術から三年過ごしてきた。ありがとう存じます。
2015 1・30 159
* 「湖の本123」のために、一頁埋め草三点、追加原稿一本もあとがき原稿を、無事電送入稿。これで「湖の本123」は好調に進行する。かくては近日のうちに「選集⑤ 冬祭り」を全紙責了の見通し立ち、併行していよいよ「選集⑥」の初校に集中できる。「選集⑦」の入稿用意もむしろ快調に進んでいる。京都へ帰れないぶんを、丁寧な日々の「仕事」て゜埋め合わせたい。
2015 1・31 159
* 旧年度も各地の入学試験にわたしの文章がいくつも使われていたと翻刻が来ている。新しいのでは「湖の本」エッセイの「歴史・人・日常」から出題されている。「湖の本」 若い人達に読んでもらいたい。
2015 2・3 160
* 選集⑥「糸瓜と木魚」とを思い安らかに楽しんで校正している。「湖の本123」の初校も、ツキモノも好調に進行している。
選集⑤大長編『冬祭り』はこれまでの巻より70頁ほど分厚くなり、製本も製函も、わたしたちにすると発送がよほど手間も費用も大変になる。限定部数プラスの著者造本も少し減らすしかない、が、それでも、この新聞連載小説は、ひとしお愛着深い大きな中仕切りの一冊であり、これこそがわたしの「日本」深層・真相理解を「小説」という方法で決し一作と考えている。出来る限り、こころよりお望みの方にお求めねがいたいしお読み返し願いたい。
2015 2・4 160
* 凸版印刷より、はや、「湖の本123」に追加入稿分も埋め草分もあとがきも出そろってきた。本文の初校もきれいで、前後ツキモノも含め、要再校の全戻しは早いだろう。「選集⑤」の出来と「湖の本123」の出来とが輻輳しないようアタマを使わねばならない。
2015 2・5 160
* もうはや「湖の本123」の全初校を終えそう。明日か明後日には、要再校の戻しが出来てしまいそうだ。
2015 2・5 160
今朝、御前十時には、京都で、「京都府文化賞」の式が行われる。申し訳ないが怪我と体調を慮って欠席させて貰ったが、家で、心静かに妻と二人、加門華子さんに戴いた「祝」古都千年「英勲」醸の純米大吟醸酒で杯を分け合った。岡田昌也さんに戴いた越前の雲丹、このわた。とびきりの美味。酒がひとしお美味い。
「湖の本」123巻はもとより、妻も賛同してくれて「秦恒平選集」もはや第四巻を送り終え、やがて三月早々第五巻も出来てくるという、このような華やいだ老境を夢にも思っていたわけでない。多くの知己善友の支援と飽かぬ努力とで、こういう日々を迎え送ることが出来ている。
2015 2・6 160
* 京都で、ちょうど式が始まっていよう時刻に、静かに杯を干した。
で、もう、明日からはそれも忘れて、また八十路への日々を踏みしめて歩むだけのこと。
ただただ妻の健康と長命を願うばかりである。
ま、今日ばかりは、戴いているいろんなお酒と、珍味を肴に、気楽な管でも巻こうか。
* と云いながら、「湖の本123」全紙を要再校で送り返した。からだをラクにするには仕事を不用意に溜めないことが大事。
2015 2・6 160
* 四時頃、突如、石川県鶴来の醸造元「萬歳樂」会長の小堀甚九郎さんが玄関先へ見え、飛び上がった。なんともはや情けない茶人ではある。お祝い戴いた。まったく何のおかまいも出来なかった。フードピア金澤以来の久しいお付き合いで、湖の本も三十年ちかく全巻支えて戴いている。感激あるのみ。「いいお酒を贈りますよ」と云って帰られた。
2015 2・6 160
* 朝、友枝昭世の「菊慈童」をテレビで観る。昨夜は染五郎弁慶、幸四郎富樫、吉右衛門義経、太刀持ち金太郎の「勧進帳」を楽しんだ。昭世は「鞘ばしらぬ名刀」と評した当代屈指のシテ方、喜多流を背負っている。わたしの湖の本もずうっと応援して貰っている。
高麗屋では、観られるだろうかと待っていた「染五郎」の熊谷、寺子屋の松王丸、そして勧進帳の弁慶まで観ることができた。さ、今度は金太郎君。どこまで観られるか、それを想うと長生きしたい。歌舞伎役者は成長期のむずかしい年頃を克服してゆかねばならない。干支でせめてもう一回り頑張って待たねばならぬか。
2015 2・7 160
* 朝一番に各務原の石井真知子さんから名高い「伊吹蕎麦」などをどっさり頂戴した。わたしは、いまでは、なかなかの蕎麦党で、聖路加病院の帰りには更科蕎麦へ脚をとめることが多い。石井さんは、もう三十年ちかく「湖の本」を三册ずつ欠かさず買って下さる方で、会うことの一度もない方ではあるが親類かのようにいつも感じている。
2015 2・11 160
* 「あやつり春風馬堤曲」がおもしろくて、ずんずん読める。蕪村に{化(な)っているような気分。この小説を、筑摩書房倒産の煽りでなんとなくその辺へ放りっぱなしにしておいたのは惜しかった。湖の本創刊十年記念に初めて活字にしたのだったが。先頃どなたかがこの作がじつは大好きでしたと言ってくれていた。或る大学のこの方面の専門家の先生が、この作を機縁に以降湖の本をずっと購読して下さっている。捨てた物ではなかったのだ。「あやつり」の四文字が想ったよりおもしろく適確に働いている。なにしろ騒壇余人、われぼめもしたい放題とおさまっている。
2015 2・12 160
* 「選集第七巻」本文を入稿した。敢えて処女作短篇「少女」と中編「或る折臂翁」を巻頭に置き、ついで長編「罪はわが前に」を置いた。秦文学ともし言うにたる一連の創作があるならば、此の作は、問題をはらんだいわば創作全容の「原板」に位置づけられるだろう。作者の思いをより有り難く支えて下さった、もうはるか往年の二つの「対談」稿を、敢えて添えさせていただいた。対談しテク多去ったお二方に、記して、深く深く御礼申し上げる。
さらにそのあとへ「丹波」一編を置き添えた。それがどんな意味を持ったかは、読者はたちどころに深く察して下さるだろう。「丹波」はホームページに書き下ろし「湖の本」に入れた。ずっと後に長野の郷土出版社から「京都府文学全集」というのが出来たとき、第六巻に全編掲載された。
* 「あやつり春風馬堤曲」ぐんぐん校正している。
それでも疲れて、正体なく機械を前に寝入っていたりする。
明日は二週間ぶりに歯医者に通う。週半ばから、また飛び石を踏むように病院通いがある。「選集⑤」の送り出しの用意にも手を掛けておいた方がいいし、「湖の本123」の再校ゲラも出来てくる頃だ。
今日は、今夜は、長い小説へのこまかな手入れも進めている。
2015 2・15 160
* 「選集⑥」追加稿を電送し、明日には半量の「要再校」ゲラを送り出す。進行、「選集⑦」はすでに入稿。ここしばらくは、「秋萩帖」初校と新創作進行と、やがて「選集⑤」の発送及び「湖の本123 」再校に追いまくられるだろう。出来ることをひたすら静かに進めること。とはいえ来週は、病院通いに次々に追いまくられる。病院を凌ぐためには、再校ゲラの出てきてくれるのが良い。
2015 2・17 160
* 宅急便で、「選集⑥」前半要再校、一部入替え稿と前付け後付け入稿。「選集⑦」は、本文入稿済み。「選集⑧」を用意する。
ひどい無理をしているとは思っていないが、そのように危ぶんで下さる人も多い。はっきり云って「間に合う」限り間に合いたい。何に。むろん一つは、私の健康、妻の健康。もう一つは、印刷所に事情に変更の生じないうちに。そして、私家版資金のなんとか間に合う内に。この製本製版の立派な選集の一巻一巻の製作費は半端でなく、非売本のこと、回収も考慮していない。正価を設定すれば読者は仰天されるだろう。そして送料。460頁を越すと、ポンと100円以上も送料総量が増す。心用意は一応してあるが、やはり出したい巻数との斡旋で「間に合って」ほしい。余生残年にもし幸い先があれば有るで、老境の生活費は加わってくる。
可能な限り、正確な仕事をして、ピッチは下げたくない、むしろ上げられるなら上げたい。欲も得も無縁の甲斐性であり、おそろしく贅沢な健康法かも知れないので、お叱り下さるな。
むろん、新作も、湖の本も、ホー゜ページ運営や私語の刻も、趣味生活もけっして抛たない。
* わたしの創作の先導原則は、なんども書いている、だれよりもわたし自身が読みたいと願っているような小説を創りたいのである。読みたいような作が人さまの手でどしどし書かれていればわたしはその本を買って読めば済む。ところがその望みはほぼ叶わなくなっている。鴎外、藤村、漱石、鏡花、秋声、荷風、直哉、潤一郎、ま、その辺で、停まったのである。仕方がない、それなら自分で書いて自分で読んで楽しもう。
そんなこと、しかし、出来るかなあ。
出来ていたという確信を、いま「秦恒平選集」でだれよりもわたしが楽しんでいる。だから150册余も造れば足りるのだ。喜んで貰って下さる人はある。是非にと云われば、一巻あたり控えめに製作実費だけ戴いている。わたしは生まれつき創作者だが、本屋さんではない。
2015 2・18 160
* 『最上徳内=北の時代』を読み返し始めた。いかにも読者秦恒平が喜びそうな書き出しで快調だが、「導入」がむずかしい、とっつきにくいと一般には思われかねない。しかし早稲田の小林教授など、思わずこえをあげてこの小説の出だしを類のない面白さと喜んで下さった。出だしだけでない、おいおいに小説は奇想に導かれてマカ不思議に展開して行く。秦恒平の仕掛けなど苦にしないでむしろ喜んで下さる方々が「湖の本の読者」として、創刊から三十年、支えていて下さる。有り難い。
2015 2・19 160
* わたしが胃癌と知って我が家を捜し尋ねて見舞ってくれた京都の田村さん、もと保谷市図書館長だった歩行も会話もむずかしい黒子さん、家族で尋ねてきてくれた東工大卆の柳君一家、四国からお連れと突然玄関先へみえた四国の木村さんたち、同じく玄関へ突然みえた石川県鶴来「万歳楽」会長の小堀さん。
申し訳ないことに、みな狭い玄関内で立ったままの対話でお帰し申し上げた。どうにもこうにも家の中に坐って頂ける余地が全くないのであった。恥じ入るが、事実なのである。不必要ななにも放置はしていない、どうしようもなく夫婦と黒いマゴとがほとんど立ち働いて過ごし、おそらくよそのお人には、家中が人と猫との老臭に沁みているだろう。二階の機械部屋へ上がってパソコンを時に直してくれる東工大卆の林君独りが証言してくれるだろう。建日子でさえ座れる場所が無い。
歎いているのではない。そうなってきた必然を受け容れている、だけ。「湖の本」をはじめたとき、先の黒子さんが、即座に指摘された。在庫本をどこへ置きますかと。そのときは10巻出せるだろうかと思っていたし、編集者は4、5巻が関の山と予言していた。だれ一人、わたしですら123巻めの発送が近づいているなど、夢にも想えなかった。加えて「選集」。辛うじて垣一重の隣家が買えてよかったが、そこも、もう在庫の山で家が傾ぎかけている。へんな小説家。
2015 2・19 160
* 朝一番に、凸版から「湖の本123」再校ゲラが全巻揃って到着。
昨日には、選集⑤『冬祭り』の表紙や刷りだしが出来てきた。
さ、いよいよまた追いまくられる。
来週は、病院。医者通いが隔日に三度。ウーン。
2015 2・21 160
* 「世界」連載の『徳内』さんの滑り出しでは、早稲田大学図書館の遠藤さんに、ずいぶん決定的なお世話になっている。徳内さんの直接の上司でありともに生死のきわにも陥ったことのある幕府普請役青島俊蔵の著「紫奥畧談」を見つけて貰ったり、何より、徳内資料を莫大に所蔵していた山形大学を紹介してもらい、山形まで数日も泊まり込みで資料のコピーや読みに専念できたことなど。あらためて感謝限りない。遠藤さんのご冥福を祈る。
この連載では、連載途中、わたしとしては異例中の異例、見も知らない北海道へ長い旅をし、すくなくも岩手県から津軽海峡越えに函館へ、その先は襟裳岬きはもとより北海道の南岸を正確に縫い取るように根室・ノサップ岬まで、北岸は根室から野付のさきまで進んで、中標津経由釧路港へ戻って、さらに船で、東京まで戻ってきた。独り旅ではなかった、終始一貫して「徳内さん」と二人での道中だった。楽しかった。楽しいことはいろいろ有った。
『冬祭り』では、同時代の日本の作家二人と訪ソ、ソ連では懐かしい通訳エレーナさんの案内で終始楽しい旅が出来た。残念ながら、今日に生きて在るのは、私ただ独りなのである。今度の「選集⑤」は、お三人への追悼本でもある。
『北の時代』では、天明の徳内さんと昭和のわたしとの「ふしぎな連れ旅」だった。得も謂われぬ嬉しさがあった。
* 新作小説の「清水坂」もの(と謂うておくが)の話柄を、どうかして、はるばる瀬戸内海と繋ぎたいと、試行錯誤を重ねている。苦しんでいるより楽しんではいるのだが、……難しい。
もう一つの長編は、構成・構想・叙事ともにほぼ仕上がっていて、推敲、そして小やかだが補充の仕事をのこしている。まだ「総題」へしっかと踏み込めてないのが課題である。いずれにしてもこの「ヰタ・セクスアリス」は簡単には公表できないが。
八百枚の『生きたかりしに』は、いつ本にしてもいいと腹は決まっている。「湖の本」だと、少なくも上中下巻は避けられない。選集の一冊で出してしまうのは、久しく「新作を」と励まして貰ってきた「湖の本」読者に申し訳ない。やはり新作は「湖の本」が先と思いかけている。
「湖の本123」は、全紙、昨日に再校ゲラが届いていて、三月中旬ないし「選集⑤」をほぼ送り出し終えたあとを追いかけ、責了に出来るだろう。「湖の本」の年度第一册が早くて三月中、四月初めの刊行というのは異例の遅れになっている。それだけ「選集」が奔っていたと謂うこと。
2015 2・22 160
* 二時頃築地の病院を解放され、処方薬を手にしてから有楽町帝劇モールまで歩いた。馴染みの「きく川」て鰻と菊正。キャベツの塩もみとと骨も。小竹向原で保谷行きにのりかえ、すこし雨に降られたがタクシーで帰宅。
「秋萩帖」の初校を終え、持参していた「湖の本123」の再校へも歩を進めた。病院へ行くとしっかり待たされる分、校正の仕事はハカが行く。あさってもまた朝早くから築地の病院へ。
「きく川」の鰻、味無くはなく食べられた。菊正の正一合はいつものように美味かった。すこし酔ったが、小竹向原の前で気が付いてちゃんと乗り換え、大泉学園できがついて無事保谷で下車。保谷止まりの電車ではあったが。
月曜日では、美術館が開いてない。忘れていた。
今日は一時半予約で一時半に診察室に呼ばれた。明後日は、十二時予約だが、おそくも一時間半まえに生理検査を受けておかねば、その結果かが出てこなければ、診察して貰えない。よほど早くおそくも十時半までに検査室へ駆け込まねば成らない。よほどうまくすれば、上野へでも回れるかなあ。疲れてしまったらハナシにならないが。
2015 2・23 160
* 処方薬を薬局で受け取り、空腹を何でいやそうかと思案しつつ築地から銀座へまっすぐ歩いている内、食欲はいっこう湧かずに、ふと和風の洋装店が藍染めの作を見せていて、惹かれた。うまく表現できないが、とても気に入った一着をみつけて妻へのみやげに買った。かなり高かったが、三月の結婚56年と四月79歳誕生日のプレゼントということにし、何も食べないで家に帰った。家で小食そしてお酒を一合足らず。あっというまに睡くなり寝てしまった。病院でも電車でも眼をつかって「湖の本123」の校正に集中していたので、眼の休息にもなった。
2015 2・25 160
* 夜になると、やはり疲れる。三月は、容易ならぬ労働月になる。まず重量級の「選集⑤」が出来てきたあと、引き続き月半ば以降には「湖の本123」の発送になりそう。運動不足がいやおうなく解消できるが、本を扱うのはとても散歩どころの労力ではなく、怪我をしないようにと用心肝要。今度の「湖の本123」は読み応えのする一種の文化論攷になった。大学この方接してきた美術・繪畫の問題に絞った。わたしが二十数年も京都美術文化賞の選者をつとめてきた、ま、下地を取り纏めてみたともいえ、この方面の仕事がまだかなり残っている。
2015 2・25 160
* 仕事だけのハナシだが、多事多端、気を入れていないとズルズルと疲れの縁へ沈んで行く。
なによりも、新作の進行。けっして容易でない。
「湖の本123」の責了へ再校ゲラを読み進んでいて、トンマなミスを見つけたりした。とにかくもトンマをカバーできるのは、編集・製作者として多年蓄えたスキルのおかげ。
「選集⑤」が四日後、三月二日朝に出来てくる。刷りだし(一部抜き)は、もう届いている。送り出しの用意を進めつつある。「用意」してあれば、かなり時間が稼げる。
「選集⑥」前半の再校ゲラが届いている。後半の初校は昨日印刷所へ戻した。
「選集⑦」の初校が組み上がって、今朝、ドサッと重い大きい荷で届いた。
「選集⑧」は入稿のための原稿読みがすこしずつ進んでいる。
「湖の本124」の算段も急がねばならない。思い切って長編小説『生きたかりしに』をどかんと一括入稿してみようかととも考え中。とにかくも来週はじめに「湖の本123」を責了にすると、「選集⑤ 冬祭り」を送り出しほぼ送り終えた時分に、追いかけるように「湖の本」新刊が出来てきて発送せねばならない。
有り難いと云うべきか、こんなに忙しく躰を追い使う老境を迎えるとは想像できなかった。誰に手伝ってももらえない、同じ七十九になる妻と二人での活気に富んだ、やや富みすぎた老の坂ではある。ボケているヒマがない、と思うことにしている。
2015 2・26 160
☆ ご無沙汰しております。
年賀状にも書いたかと思いますが、同志社を去り( 契約が満了してしまったので・・) 現在は福祉用具の会社で派遣職員として事務の仕事をしています。
日々、忙しく過ごしておりパソコンの前に座る回数が少し減ってしまっています。
心に余裕がなかなか持てずにいて自分に歯がゆい思いを抱くこともしばしばです。
そんな中で昨秋、選集の三巻を頂戴し、ありがとうございました。
今頃何言うてんのん、ですね。きちんとお礼も言えずにいたことを反省しています。
特別なわけは無いのかもしれませんが、私に三巻を送ってくださった意味を考えていました。あれっ? なんにも言うてないのに知られている感じ・・( いわゆる深読みの妄想ですね)
ふと、今日にメールを書こうと思いついたのは、私語の刻に、田中励儀先生(=国文科教授・鏡花研究の今や泰斗)のお名前を見たからなのです。
私が「湖の本」に出逢ったのは、まさに、田中先生のおかげです。先生が、国文書庫にこのシリーズを配架しようとされなかったら逢えてなかったかも。( いや、でも、縁のある方には出逢うものだと思っているので、時期が違っただけかもしれません。) 先生には私からこの話をしたことはありませんが、感謝しています。
そして今も書庫で並んでいるので、国文学科の学生さんとの出逢いを育んでいればいいなぁと願っています。
なんだかいつも脈絡のないメールになってしまうのですが、本日はこれにて失礼いたします。
おからだご自愛くださいませ。 京山科 長村美樹子
* 孫娘をむざむざ死なせて苦しかったころ、いろいろに励ましてもらったのを忘れていない。御元気でと願っています。
2015 2・26 160
* さ、歯医者さんへ、また通う。
* 宵闇へかけて風強く冷たく。かろうじて帰宅。「湖の本123」を一気に責了できるまで持っていった。
二月はもう一日でニゲて行く。早いなあ。
無事の、陽気な三月でありたい。
2015 2・27 160
* 朝いちばんに「湖の本123」責了紙を送り出す。併せて「選集⑥」の口絵やり直しを依頼。
2015 2・28 160
* おおよその作業を終え、今日はもう先送した大学方面からの「選集⑤」受領の礼状が届き始めている。郵送用の特製の包みが不足してしまい、注文分が届いてから、もう少し、送り足すことになるが、ともあれ一段落にほっと疲れを噛みしめている。
きりりと頭を切り換え、べつの仕事のあれこれを一つ一つ仕上げまた片付けて行く。そのうちに「湖の本123」が出来てきて、またも発送の労作業になる。その用意はほとんど出来ていない。すこし間をあけたいのだが。幸い三月は歯科のほか、病院の予約がない。この十三日の金曜には、「菅原伝授手習鑑」を通しで楽しむ。暫くぶりに仁左衛門。それに染五郎が松王丸で昼夜頑張ってくれる。、
2015 3・4 160
* 「湖の本123」発送の用意にかかった。可能なら、次回または次々回より新作の長編小説を、上中下巻でと思いかけている。
2015 3・5 160
* 十六日朝に、「湖の本123」出来てくる。
2015 3・9 160
* 踏み切って、新長編を「湖の本」たぶん上中下巻として入稿した。読みやすい組とフォント(用字)にした。
2015 3・11 160
* 明日一日で「湖の本123」発送の用意をしっかり進めておいて三月の歌舞伎を楽しみ、十四、十五日で万全に近く発送用意を仕上げたい、ただし、申し訳ないが省ける手数は省かせて頂く。月曜の朝に本が届き、三時過ぎからは夕刻予約の歯科へ行く。妻は翌日にも循環器の診察がある。やすみやすみ発送したいが無事週末までにし終えたいもの、だが。
* 十一時になる。機械から離れる。まだまだたくさん校正ゲラを読まねばならない。
2015 3・11 160
* 煩瑣な発送用意のまる一日に、全身疲れている。三度の食がうまく攝れず、自然、少量の、手の出やすい澱粉・糖分系の間食になる。そんなとき、戴いた鮒寿司は上等の蛋白質でかつ絶好の酒の友になる。お酒は問題なく腹におさまる、が、催眠効果が過ぎると仕事にならない。なかなか難しい。
2015 3・12 160
* 明後日月曜朝からは、「湖の本123」発送。ただしわたしにも妻にも医者通いがはさまるので、事がどう運ぶか見当がつけにくい。湖の本としては、しっかりした一巻が樹って呉れると思う。
発送に添える小さい挨拶紙の狭い余白に手書きの「挨拶文」を入れるのは、もう、とうてい無理と思う。失礼させて頂く。
明日もう一日、やすめる。あくせくしないで、骨休めして来週に備えたい。
2015 3・14 160
* 発送用意のあらましを終えたが二割方の要件を仕残している。
2015 3・14 160
* 昼間、西棟の玄関に山積みのママの選集各巻残部を箱に入れて三巻包みを六包册ずつ、何度もかけて二階へ運び上げた。たいへんな重労働だった。湖の本の六册ではない、選集各巻を十八册ずつだ、凄いほど重い。腕力と腰骨とで階段を運び上げた。きつかった。階段を運び下ろすのは危ない。運び上げる方がまだしも。しかし一度、素手で階下へ降りながら大きくよろめいて、危うく柱に抱きついて転落を免れた。
明日からは、家の廊下を腕車で何十度も「湖の本」を荷造りのために往復する。発送用意は、まずまず、出来ている。夕方には歯医者へ行く。明後日は妻が病院へ通う。
2015 3・15 160
* 「湖の本123」出来、寄贈先から送り始め、夕刻へかけて歯医者へ。次回は四月六日。少し休める。帰路「中華家族」、マオタイと紹興酒で夕食そして「丹波」の校正。杏仁豆腐をサービスしてもらう。小雨の中を帰宅。
2015 3・16 160
* 晩も発送作業。十時で休止。今夜もはやくに休みたい。つまり、寝床で校正し、読書したい。
2015 3・16 160
* 終日発送作業に取り組む。とにかくも、この山を越したい。もう二日で、ほぼカタがつくか。
2015 3・17 160
* 選集第六巻は全部の再校が、「秋萩帖」は三校ゲラも手元に揃っている。「あやつり春風馬堤曲」の再校を終えたら、もういつでも責了できる態勢に入っている。倦まず弛まずこの道を歩む。そのうちに今度は「湖の本124 125 126」新作の一括初校も出そろってくるだろう。活況と謂える。どうか、妻もともども今のまま、今の程度の健康をじいっと保ち続けたい。
2015 3・17 160
* 夕方、ほぼ「湖の本123」送り終えた。アトは追加分だけ。よく働いた。目も手先も利かず、ご挨拶書きを省略させてもらった。
2015 3・18 160
* 一応予定の分、送り出しを完了、若干追加して送り出す。
2015 3・19 160
☆ 秦 恒平先生
「繪とせとら日本」、ありがとうございます。
先ほど帰宅し、お腹がすいたのを忘れて 目次、そして、タイトルを追ってページをめくりました。
実は、私のただいまの関心事が、日本製のソフトパステルなのです。
明治になって西洋化のために洋画を描くことが奨められました。洋画を学ぶために渡欧した画家たちが日本に戻ってきたときに
やはり、国産の絵の具が必要になりました。その時代、明治の終わりから大正にかけて 苦労して、油絵の具や洋画の筆、そしてパステルもつくられました。
その当時から、ソフトパステルを作り続けている工場が京都にあります。今の製造者にいろいろ話を聞いて、伝えられた逸話をまとめています。
今回頂戴した本に、その時代のことがあるようでじっくり拝読できるのが、とても楽しみです。
このような貴重な本を送っていただいておりますのに、せめて、お礼状を書かなくては・・・と思いつつ今回もメールでご無礼いたします。
今、御所は梅や桃が満開です。もう間もなく、桜の便りも届こうかと思います。ご執筆の合間に、お花見なども楽しんでいただきお元気に新作に向かわれますことを心より、お祈りいたしております。 京都府 香
☆ 「絵とらとら日本」拝受しました
秦君 ご本ありがとうございます。
そして京都府文化功労賞の受賞おめでとうございます。
体調不良で授賞式に欠席された由、折角の帰洛の機を逸され残念でしたでしょう。しかし病魔と闘いながら日々のご活躍には感服しております。
国の内外ともに不快な出来事つづきですが、お互いに相応の心構えで立ち向かってまいりましょう。
御身充分労わりながらご活躍のほど念じております。ほんとうにありがとうございました。 洛北 辰
2015 3・19 160
☆ この度も
貴重な御本を御恵贈賜り ありがとうございました
御礼を申し上げないまま日を経てしまい 私どものクッキーが続いてもと思いつつ 私の感謝と御礼の気持はやはりクッキーに託したく思います。
もう少し気が効くことばやお品を考えついたらと面映ゆい思いでおります。
からすのえんどうより小さく精巧な細工もののような雀のえんどうが萌え出して 今年はとても目につきます
私には 春の進み具合を見る山椒の木があります 屋上に 何十年も前に植えた苗木に数年前から花が実がつくようになりました 今は芽が出て 葉一枚 次の日は二枚と鳥の羽のように解れていきます 薬味の木の芽になるのには もう少し日がかかりそうです お忙しい先生に ひどく調わないことばで つまらないことを書きました お許し下さい
どうぞ御身 御大切になさって下さい。 村上開新堂社長
☆ 御著『湖の本』123巻を
拝受いたしました。ありがとうございます。
「私語の刻」を拝読、京都府文化(功労)賞を受賞されたとのこと、遅ればせながら おめでとうございます。
政情への慨嘆負けせず、揺すり続ければ悪政権も必ず崩れる。その通りだと同感します。根気を持って声を上げていきたい、と、あらためて思いました。
どうぞくれぐれも御身大切に。 文藝家協会理事 詠
☆ 拝復
本日は又 御鄭重にも「湖の本123 繪とせとら日本」を御恵送下さいましてマコトニ有難うございました。早速「私語の刻」を拝読致しましたが、この「自作次解」はあまたのそれに比べて非常に独創味の濃いものとして、楽しく読み終えました。
又、私事にわたりますが、私はセザンヌが非常に好きで、私の脇に飾り、毎日眺めておりますので、「セザンヌがむざむざ忘れられて行くのが、日本の、とくに洋画壇の体質衰弱の証しでなければよいが」という御言葉には深く共感しました。
どうぞ呉々も恩体調に留意なされ、 御健筆を併せてお祈り申し上げます。 敬具 元新潮編集長
☆ 本日午後
「湖の本123」拝受いたしました。二、三日前 ふとそろそろ「湖の本」の新しい巻が読めるのではないかという思いが脳裡を掠めましたが、予感が当たりました。
今日の午後、日課である夕食の買物をし、コーヒー一杯を飲むために西国分寺駅までの散歩をしようとマンションを出る際に郵便箱を開けたところ「湖の本」の入った封筒が目につきました。西国分寺駅前のドトールでコーヒーを飲みながら、早速、今巻を拝読いたしました。もちろん、全頁を通読するのではなく。目次を見て、自分にもっとも興味のあるご文章から拝読している次第です。今回は「聖母と地図」から読み始めました。
「シドッチがもたらした所持品のなかに、世に『親指のマリア』として知られる優にやさしい「悲しみのマリア」の繪があり、今も無傷に東京の国立博物館に保存されて比較的容易にみられる」の条りを目にして、何とも嬉しい気持ちになりました。(中略)
この他、淺井忠と子規とのこと、「繪のような」の一文など、愚感を申し上げたいご文章を多く拝読いたしました。
私の方は、このところある研究会のために漱石全集を再読しております。読めば読むほど漱石の偉さが分かってまいります。彼が五十で死んであれだけの仕事を残したと思うと、自分の非才に改めて深い絶望感を抱きます。しかし秦様が八十を目前に新作を書き続けておられることに深い敬意の念を抱くと同時に、勇気を与えられているような気がしております。
末筆ながらますますのご健筆をお祈りいたします。また次巻を愉しみにしております。 草々 鋼 歌人・翻訳家
☆ 我家のさくらも、
心なしか、ふっくら… 春はもう目の前です。
ご無沙汰申しております。
お健やかにお過ごしでしょうか。
今年のいかなご漁も、寒暖順の天候や環境の変化で 不漁つづき、大きさも不揃いで 出来ばえよくありませんが、季節のお便りまで少量ながら 一品に加えて頂ければと存じます。生茎わかめと、塩漬け茎わかめの佃煮 添えておきます。
先生のその後のご容体 如何でございますか。
私も 上京する機会も少なくなりました。
どうぞ ご機嫌よろしく、お目にかかれる時を待ち望みつつ 神戸市 澄 妻の同窓
* これはこれはと、三千盛のとっておきを持ち出し、茎わかめなどをお肴に頂戴した。酒・肴、すこぶる美味。
* 静岡小和田哲男さんからも「湖の本123」へご挨拶があった。
☆ 秦 恒平 様
「湖(うみ)の本 123 繪とせとら日本」を拝受しました。
多年の「繪」についての論考、興味深いですね。
ゆっくり読みます。楽しみです。 練馬 靖 妻の従兄
* こころもち遅く、入浴前に、京の「華」さんから、「辻利」の抹茶と「亀屋良永」のすてきな干菓子が二種、送られてきた。懐かしい。
2015 3・20 160
☆ この度も
貴重な御本を御恵贈賜り ありがとうございました
御礼を申し上げないまま日を経てしまい 私どものクッキーが続いてもと思いつつ 私の感謝と御礼の気持はやはりクッキーに託したく思います。
もう少し気が効くことばやお品を考えついたらと面映ゆい思いでおります。
からすのえんどうより小さく精巧な細工もののような雀のえんどうが萌え出して 今年はとても目につきます
私には 春の進み具合を見る山椒の木があります 屋上に 何十年も前に植えた苗木に数年前から花が実がつくようになりました 今は芽が出て 葉一枚 次の日は二枚と鳥の羽のように解れていきます 薬味の木の芽になるのには もう少し日がかかりそうです お忙しい先生に ひどく調わないことばで つまらないことを書きました お許し下さい
どうぞ御身 御大切になさって下さい。 村上開新堂社長
☆ 御著『湖の本』123巻を
拝受いたしました。ありがとうございます。
「私語の刻」を拝読、京都府文化(功労)賞を受賞されたとのこと、遅ればせながら おめでとうございます。
政情への慨嘆負けせず、揺すり続ければ悪政権も必ず崩れる。その通りだと同感します。根気を持って声を上げていきたい、と、あらためて思いました。
どうぞくれぐれも御身大切に。 文藝家協会理事 詠
☆ 拝復
本日は又 御鄭重にも「湖の本123 繪とせとら日本」を御恵送下さいましてマコトニ有難うございました。早速「私語の刻」を拝読致しましたが、この「自作次解」はあまたのそれに比べて非常に独創味の濃いものとして、楽しく読み終えました。
又、私事にわたりますが、私はセザンヌが非常に好きで、私の脇に飾り、毎日眺めておりますので、「セザンヌがむざむざ忘れられて行くのが、日本の、とくに洋画壇の体質衰弱の証しでなければよいが」という御言葉には深く共感しました。
どうぞ呉々も恩体調に留意なされ、 御健筆を併せてお祈り申し上げます。 敬具 元新潮編集長
☆ 本日午後
「湖の本123」拝受いたしました。二、三日前 ふとそろそろ「湖の本」の新しい巻が読めるのではないかという思いが脳裡を掠めましたが、予感が当たりました。
今日の午後、日課である夕食の買物をし、コーヒー一杯を飲むために西国分寺駅までの散歩をしようとマンションを出る際に郵便箱を開けたところ「湖の本」の入った封筒が目につきました。西国分寺駅前のドトールでコーヒーを飲みながら、早速、今巻を拝読いたしました。もちろん、全頁を通読するのではなく。目次を見て、自分にもっとも興味のあるご文章から拝読している次第です。今回は「聖母と地図」から読み始めました。
「シドッチがもたらした所持品のなかに、世に『親指のマリア』として知られる優にやさしい「悲しみのマリア」の繪があり、今も無傷に東京の国立博物館に保存されて比較的容易にみられる」の条りを目にして、何とも嬉しい気持ちになりました。(中略)
この他、淺井忠と子規とのこと、「繪のような」の一文など、愚感を申し上げたいご文章を多く拝読いたしました。
私の方は、このところある研究会のために漱石全集を再読しております。読めば読むほど漱石の偉さが分かってまいります。彼が五十で死んであれだけの仕事を残したと思うと、自分の非才に改めて深い絶望感を抱きます。しかし秦様が八十を目前に新作を書き続けておられることに深い敬意の念を抱くと同時に、勇気を与えられているような気がしております。
末筆ながらますますのご健筆をお祈りいたします。また次巻を愉しみにしております。 草々 鋼 歌人・翻訳家
2015 3・20 160
* 静岡小和田哲男さんからも「湖の本123」へご挨拶があった。
☆ 秦 恒平 様
「湖(うみ)の本 123 繪とせとら日本」を拝受しました。
多年の「繪」についての論考、興味深いですね。
ゆっくり読みます。楽しみです。 練馬 靖 妻の従兄
2015 3・20 160
* 今度の「繪とせとら日本」は、美術系の高校、大学へは、特に多めに寄贈した。
2015 3・21 160
* 元、中央公論の編集長をされた評論家の粕谷一希さんが、亡くなっておられた。五月末にはもう一周忌と。存じ上げず「湖の本」を贈り続けていたのへ、奥さんから鄭重なお手紙を戴いた。加えて粕谷さんの著になる『内藤湖南への旅』と『鎮魂 吉田満とその時代』を頂戴した。堅実かつ津々と興味をそそる二册である。御礼申し上げ、ご冥福を祈る。
☆ いつしか春
先のメールはいつ書いたのかしらと思うほど、少しご無沙汰しました。
いつもHPを読みながら感心感嘆します。目の症状に苦しまれながらHP、著作の校正、新しい小説の創作、読書すべて欠かさず日々暮らしていらっしゃるのですから。怠けを看板にして暮らしている鳶には眩しいですね。
いつしか春、と言っても昨日今日は寒い天候です。
庭の木々、そして花々、競い合って春を告げています。草木の生長と草取りとスケッチ、追いかけごっこをしています。
湖の本、選集が届いて、いずれもいずれも懐かしく、少しずつ読んでいます。読んでいる時はほぼすべての他のことが世界から消滅します。
第五巻『冬祭り』の巻頭に載せられている写真「清閑寺奥山」にハッとさせられました。さりげなく、そして意味深長に「奥山」とありますが、すぐ南側には幹線道路があり、阿弥陀ケ峰? が手に取るほど近く、しかし一歩踏み込めば全く人の気配なく、怖ささえ感じる処。冬子の奥津城にふさわしい処。いつか再び訪れてみたい処です。
わたしは(京都大学在学の頃=)近くの今熊野に半年ほど住んだことがありますが、京都は何処でも少し入り込めば、やはりさまざまな意味で深い怖い処と思います。それでも心底わたしは京都に暮らしたい人なのですが、叶わぬ夢。
一昨日土曜日、高校の同期会に日帰りとんぼで(静岡へ=)行ってきました。五年以上不参加でした。女子が少なかったので皆気心しれて四方山話でしたが、亡くなった人、アルツハイマーになった人の話もあり、「頑張ろうね」と言い合って、さてそのサヴァイバルゲームの果てのゴールのことは誰しも考えたくないのですから・・笑い話にもなりません!
暖かさにつられてフラフラ、フワフワ浮かれ流れるように歩きたいと思っています。
鴉、どうぞお身体大切に。自転車転ばぬよう気をつけて走ってください。花粉症はいかがですか? 尾張の鳶
* 清閑寺へ、また正法寺へ、冬子、法子の奥津城を、どうかいたわって欲しい。わたしもまた、あの世界に生きている。
☆ みづうみ
お元気ですか。「賢夫人」への皮肉のスパイスのピリリと効いた、京都風の楽しいメールありがとうございました。
湖の本123巻、無事に頂戴しています。『繪とせとら日本』はエッセイ風のやわらかな題名の印象とは違い、内容は繪画をテーマにした深刻な日本文化論であろうと思っています。秦恒平という巨人に挑む思いでもう一度読破したいと思います。
最後の私語の刻の次の一文もしっかり受けとめたいと願っています。
……夢遊病者のように「漂ひ、只酔ひ」ながら、日本人は日から日へ毎日呑気にくらせているのだから、これでイイではないか、世界一平和で安全な國だ、國民だと錯覚している大多数に、わたしは、愛國のためにも、人道的にも、決して与しない。
エライ先生たちの言うことより、世間大多数が正しいと流布することより、藝術家の直感のほうを信頼しています。世の中で優秀とされているエリートさんたちのいけないところは一足す一が二という発想から抜けられないところであろうと思います。人間の底知れぬ愚かさが生みだす怪物を、教科書に枠づけされた優等生たちは想像できないのです。
今回の湖の本は繪についてのものだったので、みづうみが以前画家麻田浩について書いていらした文章を思い出しました。
2007年9月14日の私語の中で、こんなふうに始まっているものです。
おそろしい画境であった。
此の世界をちょっと一皮引っぺがした「向こうの世界」を画家は凝視しているのだが、凄惨というしかない。一切の物音を惨殺した地獄の静寂。……
麻田浩についてはみづうみの書いたものを通しての知識なのですが、日本で安穏に漂う生活のできなかった究極の少数派であったことは明らかございましょう。
充実した公式サイトがあり、初めてそこを訪れたときの衝撃は忘れられません。サイトを開いて最初に出てくる繪が「地、洪水のあと」で、背筋が凍りつきました。福島原子力発電所の爆発現場だと思ったのです。1997年制作なのに、今現在の日本の地獄を描いているとしか思えませんでした。この繪一枚観るだけでも、この画家が自死せざるを得なかったことがわかるのです。
この抽象画はまさか、麻田浩が未来の原発事故を想定して描いたものではないでしょうが、空恐ろしいというほかないほど福島に酷似しています。藝術家の無意識の予見としか言いようがありません。科学や政治より、ほんものの絵描きのほうが、正しく未来を見通す一例と思っています。「世の中に目明き千人」というのはみづうみに教えていただいた言葉だったでしょうか。
今のわたくしに「愉しい催し」などとお訊ねいただくのもきつーい皮肉のようでございます。3・11を境に世界の色が変わりました。「愉しい催し」に逃避することはできても、心から愉しむことなどできますでしょうか。そんな場合ではないと思っています。
発送作業ではご無理なさったことでしょう。力仕事のあとを心配しています。お仕事のあとのご休養充分にお過ごしくださいますよう願っています。 菜 菜めし上手ほかにとりえのなき妻の 占魚
* こういう時節なればこそ、真実「愉しい催し」を自身の奥から起動させるちからが、力になる、のでは。「菜めし上手」それもすばらしい。
2015 3・23 160
☆ 『湖の本123 繪とせとら日本』を
拝受しました。選集と並行しての「湖の本」の着実な刊行に敬服驚嘆しています。私の中では、秦さんと繪は密着しています。ゆっくりと楽しませていただきます。
「私語の刻」にある「松本さん」とは、松本道子さんのことですね。脚腰は弱られましたがいまもお元気な先輩が、秦さんと編集者として関わっていらしたことを知り、なんだか嬉しくなりました。お礼申しあげます。
どうぞお身体、呉々もお大切におすごしい下さいますように。 敬 元講談社出版部長
☆ 「湖の本」繪とせとら日本
有り難く頂戴 御礼申し上げます
球面絵画への綿密なお考え 90年ちかく使い続けた老脳には理解の届かぬ所もありますが 再読を期しております。
今から「明治初年の洋画家たち」を楽しむことにいたします。
体調 いつまでもすこやかでありますよう 心から祈念いたします。 冽 俳人
☆ 庭の山草たちが
葉を伸ばしはじめる季候となりました。
「私語の刻」を拝見すれば、ご健康をほぼ取り戻して七十九歳の御誕生日の夕餉をお楽しみになったとのこと。御健勝を何よりもお慶び申し上げます。
半世紀も前にお書きになられた「球の面に繪が描けるか」のような、挑発的で視点を自由に変えるエッセイをお書きになっておられる。このチャレンジ精神が現在まで引き継がれている。繪の世界に読者を引き込む自由闊達な精神を『繪とせとら日本』はたたえている。ざっと拝見して驚きました。
これらのエッセイを書くために、どれほど多くの本、画集を御覧になったことでしょう。家の中も本で溢れていたでしょう。こまたびもご新著の一冊を御恵贈下さり。まことに忝う存じました。平和を祈り上げます。 浩 国際基督教大学名誉教授
* 瀬戸内寂聴さん、榊弘子さんはじめ、大阪藝大、ノートルダム清心女子大、神奈川文学館、三田文学編集部、お茶の水女子大、東海学園大名古屋。南山大、日本近代文学館から「湖の本123」受領の挨拶が来ている。
☆ 拝啓
春雨の季語はさりながら天候いっこうに定まりません。東京はいかがでしょうか。ご闘病のことうかがい案じておりましたが、以前にかわらず続々のご刊行驚嘆するばかりです。
また、京都府文化功労賞ご受賞の趣 おめでとうございます。うかつに過し お祝い申し上げる機を逸したようで失礼のだんお許しください。
選集第四巻もご恵与たまわりありがとうございます。湖の本で拝読した折の感銘思い起こしながら改めて頁を繰ること楽しみです。湖の本は学生にごほうびに上げたり。回覧したまま返却なしなど笑って許しておりましたが、さすが、すばらしい函・装幀のこの限定版は知人に貸すこともできず、狭量思い知らされております。
櫻の季も間近か、奥様ともどもくれぐれもお大事に。 草々 周 神戸大名誉教授
☆ 冠省
せんせいにはますます御清祥の段 お慶び申し上げます。
「久々に一度逢いたいなあ」とお書きいただき、大変うれしく恐縮に存じます。たしか『湖の本』123の「観る意味」に出てくる山種美術館で偶然お目にかかりまして以来だと思います。三○年前です。有り難いお言葉でございます。私も五○代後半となり、編集部からは離れています。先生の御原稿に携わりましたのは雑誌『文学』八七年の「泉鏡花」特集で「文学のことば゜」に御執筆頂いて以来です。
『湖の本』では井上靖団長の訪中団に参加されたことをはじめて知りました。重要な旅行です。
何卒ご指導ご鞭撻賜わりますよう よろしくお願い申し上げます。
御健勝のほど心よりお祈り致します。 敬具 清 岩波書店
* 「世界」に小説最上徳内を長きに亘り連載したとき、頻々と我が家までお出かけ願っては酒を飲み時事を談じた、なつかしい人。まだ二十代後半だったか、そういえばわたしは五十前であった。
2015 3・23 160
☆ 「湖の本」
まことにありがとうございます。この中で、私がもっとも魅かれたのは「子規と淺井忠」を論じられたところで、大いに共感をおぼえました。私も、二十代のころ、『明治の文化』研究に没頭しており、子規や漱石・鴎外などの全集を片っぱしから読み耽り、また、天心研究のかたわら 淺井忠などに注目しておりました。(拙著『明治の文化』はずっと後、一九七○年の刊行でしたが。)
こんどの論考(繪とせとら日本」)で、ご指摘の子規と浅井とのくだりは眼を開かれました。ありがとうございます。重ねて御礼申し上げます。 色川大吉 思想家 東京経済大名誉教授
* 次の選集⑥では長編小説「糸瓜(子規)と木魚(忠)」が大切に取り入れてある。差し上げられるのが楽しみ。御健勝を祈ります。
☆ 狭庭の
山茱萸の芽花の鮮黄色が眼に沁みるようになりました。本日『湖の本123』拝受、御禮申し上げます。
多彩な御論、未知のテーマについて教えていただくこと多うございましたが、多少勉強していたことでは愉しく読ませていただきました。 昭和40年代半ばから江戸中期以降の佐倉藩の文化に関わる機会があって、淺井忠ら明治にかけての近代に果した役割を考えていたことから(正岡子規と浅井忠=)面白く読みました。
中国についても東北大の法文系教授連8人程で昭和52年1月、四人組逮捕直後の西安、大同、北京を廻りましたので、今よりも本音の部分に触れられて、御文をじっくりと味わうことができました。
退院後まだ歩行困難、不自由な生活をしています。 松野陽一 東北大名誉教授
☆ ようやく
春らしい陽気になりました。湖の本『繪とせとら日本』拝受致しました。ありがとうございます。
早速、「明治初年の洋畫家たち」から読み始めました。とても興味深い美術論です。
選集第五巻の『冬祭り』も毎日少しずつ拝読しています。
どうぞ、お身体を大切にして下さい。 藤原龍一郎 歌人
☆ 謹啓
櫻花の季節となりました。いつも心にかけて頂き嬉しく感謝しています。
「湖の本123」繪とせとら日本、拝受、いつもながら言葉の妙、探求心あふれる作物、感銘いたしております。本当に大切なものを頂きありがとうございます。若き日のよき仕事、ゆっくり読ませて頂きます。
くれぐれもご自愛下さい。 敬具 府中市 杉 作家
☆ 略啓
御壮健の由 大慶に存じます。「湖の本}123巻有難く頂戴致しました。
御文中の 日本画家がすでに線を引けなくなつてゐるとの御指摘は 自分も感を同じくします。故佐多芳郎氏の繪を愛する身としては 残念です。 不備 寺田英視 前文藝春秋専務
* 群馬県渋川市の元図書館長森田比路子さん、懇篤の私信とありがたい御喜捨に添えて、地元の銘菓まで頂戴した。恐れ入ります。
☆ 湖の本123号受け取りました。
秦様 春の足音が聞こえていますのに寒さが行ったり来たりでお身体に応えておられることと案じています。
私などはもう自分の身体の養生だけで精一杯ですのに 秦様には次々とご本の出版に精を出されて感服しています。 123号も先日お届け頂きましたにも拘わらず、「繪とせとら日本」は題名にはなじみがありますのに、難解な文章が多くて中々読みすすめません。お礼が遅くなり申し訳ありません。(中略)
奥様ともどもに、お身体ご自愛くださいますように。
(予告の=)新作長編小説を楽しみに待っています。 練馬 晴
* 『女文化の終焉』『趣向と自然』『顔と首』『美の回廊』『猿の遠景』等々その他にも美術にふれた著作や論考・エッセイは、量も多く内容にも力を入れてきた。ま、いわばそういう勉強を大学でしていたわけで、文学や古典や藝能や歴史も、それに加わっている。しかし「論考」風の学問勉強は大学院の退学というかたちで棚上げにし、むしろそれらを「小説」で書きたい、教授よりも「小説家」になろうと思った。そういう小説がハッキリ多かったことは、選集をわずかに五巻作った現在てすでに明瞭、まして次巻の「糸瓜と木魚」「あやつり春風馬堤曲」「秋萩帖」はそういう行き方の鮮明な作になっている。成りきっていると思っている。しぜん、読み煩う人が少なくなかった、難しすぎると本を壁に投げつけたと告白した読者もいたが、ありがたいことにその読者もいつしかに熱狂的な愛読者に変貌して行かれた。むろんそういう人数は破天荒に増えない。で、「売れない」作家の第一人者のようになっているワケだが、いささかも苦にしていない。文学・文藝としての質的な清明と優美と堅固なことをだけわたしは願い続けてきた。そういう意味でもわたしは「騒壇餘人」として「湖の本」という世界を深めようとしてきた。
* 御自分もかっちりした小説や文藝批評を書かれ、うまつさえもう随分以前に、長い「秦恒平論」を書いて下さった方がおられる。で、最近、その方に、私の文学ないし文学活動に於ける「湖の本」のもつまたは占める意味・意義をどのようにお考え頂いていますかと質問してみた。唐突に過ぎてすこし驚かせてしまったかも知れない。
☆ 秦 恒平 様
・・・「湖の本」の私に於ける「意味」をどうお考えでしょう。
「繪とせとら日本」に添えられたこの問いに、どう答えてよいものか思案しています。そもそもこれは「問い」なのでしょうか。「私」とは、読者であるわたし榛原ではなく、質問主である先生ご自身のことでしょうから、上の文は、123巻まで達した「湖の本」は作家秦恒平にとってどういう意味をもつのか、それを明らかにせよとのことであり、それはまたわたくしに対する優しき叱咤だろうと初めは解釈したのですが、どうも腑に落ちない。なにかが違う。安穏でないものが含まれている、そう感じています。
・・・よほど疲労しています。
この言葉に揺り動かされて過剰な解釈をしてはならないと思いつつ、不安を抑えきれません。どこかで覚悟をきめておられるのではありませんか。
充分かの尺度でいえば、もう十二分に、というより、真似をしたくとも誰にもできない単独行を歩まれて、先生は遙かな高みに達せられました。本棚に収まりきれないほどの著作が、そのひとつひとつが宝物のご本が過去にあり、それらの集大成として、いま、美しき『秦恒平選集』が刊行されています。
ですが、わたしの考えでは、「湖の本」は単に先生の著作の一部であるのではなく、あえて言えば一期一会の出会いの場であると、そうおもっています。
先日、選集第四巻にふれての感想で、「あえて標題化すれば、「能の世界との近似性」、あるいは「詩劇としての能への親和」というような」ものがあると書きましたが、かんがえて、その伏線に「湖の本」があったようにおもいます。「湖の本」は、作・演出・シテそしてワキまでを秦恒平が演ずる能舞台のごときものではないでしょうか。それは一期一会の、かけがえのない場。
「湖の本」を受けとった読者から瞬時に寄せられる私的な、真心溢れる感想の数々が、そのことを証しているようにおもいます。
どうぞ、いつまでもつづけてください。一年に一冊でも、二年に一冊でもいいのです。東京におれば発送のお手伝いぐらいはできるのにと悔やみつつ、そのことをこころよりお願いいたします。 香川県 六 作家
* もしも、いろんなお声がいろいろに聴かれるなら、身の幸と云わねばならない。
2015 3・24 160
* 「選集⑧」に長編を全部入稿。
⑥を一週間ほどで「責了」に、⑦も初校を了えて要再校に。
そのうちに「湖の本」へ新長編がどさっと一括初校出になるだろう。
冷静に、しかし大車輪に「仕事」進める。この花粉では、花見になど行けない。
幸い、今月は、二十八日昭世の能「井筒」へ出かけるだけ。これは楽しみ。
* 今日も選集、湖の本にかかわる来信や頂き物があったが、どうも疲労の気味で、機械の前でやすみやすみ音楽を聴いたり、居眠りしたり。機械に触れていると眼が渇くので、むしろ紙のゲラを読んでいる方がラク。幸い、土曜の能のほかは今月中少しは気楽に過ごせる。そんなときにこそ新しい小説に手をかけたい。
* 十時前だが、もう機械から離れ、からだをラクに、ゲラ校正しながら安定剤リーゼを頼んで、熟睡したい。さっきまで映画「抱擁」を観ていたが、松本清張のつまらないドラマに切り替えられたのでテレビからも退散。
2015 3・25 160
☆ このたびは 京都府文化功労賞
おめでとうございます。遅きに失した感があるとはいえ まさにお仕事にふさわしい賞であると存じました。
「選集」も拝見したいと思いながら お恵みいただいている「湖(うみ)の本」へのお礼もさしあげずにいるものとしては とてもその資格なしと諦めました。
どうか御身おいとい下さいますようお願いいたします。このような端書での失礼お許し下さい。 東郷克美 近代文学研究家
* おそれいります。わたくしこそ失礼をお許し願います。
☆ 「秦恒平選集」(第五巻)と「湖の本123」(繪とせとら日本)
いつものようにお送りいただき、有難うございました。
「明治初年の洋画家たち」読みました。遅ればせながら、いま、(淺井)忠が気になっています。
京都にあったのはわずかに五年ですが、この間に残した足跡について、もっと書き残されていいと思っています。「正岡子規と浅井忠」文中に土井次義先生の名がありました。本当に懐かしく名前を名ぞりました。
先づは御礼まで。 草々 北舟岡 杉田博明 作家 元京都新聞記者
☆ このたびは
「湖の本123 繪とせとら日本」をご恵贈くださり心より御礼申し上げます。
絵画の幅広いお話の中でも 正岡子規と浅井忠の関係 とても興味深く拝読いたしました。
櫻の便りが聞こえはじめ 甲府でも枝垂れ桜が盛りを迎えております
ご健康とますますのご健筆をお祈り申し上げます。 和 山梨県立文学館
* 淺井忠に注目したのは、上村松園を書きだしたころ、村上華岳に没頭したよりよほど早かった。何十年もむかしだ、黒田清輝を知った人はいても淺井忠の名も覚えていない人が多かった。大判の格調を備えていたころの「すばる」誌に先ず藝術家小説「墨牡丹」を一気に発表し、やがて「展望」に松園の「閨秀」も、「すばる」に子規と忠との「糸瓜と木魚」も発表した。その一方では新潮社新鋭書き下ろしシリーズで『みごもりの湖』が出ており、わたしは勤務生活から離れ作家として自立の日々に入っていた。
長編小説『糸瓜と木魚』はわたしが小説家に成って行く一種の精神史的断章でもあり、次の回の選集第六巻ではたぶん愛読して頂けるだろう。
☆ 日本近代における
絵画についての興味深い話、ありがとうございます。
なかなか絵画をみる機会がない私にとって、現代絵画は気になるものです。
秦さんの美術についての見識の深さに感服します。 横須賀市 敏 妻の従弟
☆ 湖の本123『繪とせとら日本』
選集第四巻との絶妙の組み合わせとタイミング、お見事。秦ワールドの芳醇、濃密、そのひみつをまさに今、惜しげもなく。一部読者の狂おしく深みゆく陶酔の渦中には当の作者ご自身も紛れ入っておられることでしょう、もちろん、小生も。
何卒何卒 御身ご大切に。 神戸市 昌 歌人
2015 3・26 160
☆ 国会図書館には、
「湖の本」27号 エッセイは6号以下が欠けているようです。
10年、20年先を考えて 選集も是非と、思います。 新宿 倉 読者
2015 3・26 160
☆ 書かれることが
身を刻む苦しみを伴われるなかで、良書を読むことは至上の楽しみ。目の不調を心底よりお見舞申上げます。ご自愛願います。
御作は殆ど読んで来た積りでしたが、『あやつり春風馬堤曲』は落としています。お手数をおかけすることを、ためらいますが、在庫がありましたらご送付下さい。要用。 藤沢市 澄 読者
* 書き下ろし長編の「あやつり春風馬堤曲」は、筑摩書房破産の騒ぎに巻き込まれ、宙に浮いたまま、嫌気がさし原稿を取り戻して棚上げだか何だかしまい込んで置いた。「湖の本」創刊十年の記念に初めて活字にしたので、単行本がなかった。
これは、めったにない「興味ある」蕪村追究であり、同時に卓抜なヒロインをひとりまた生んでいる。食いついて読んで下さる方には印象にのこる読書になろうとわたしは自負し期待している。
* 皇学館大、藤女子大、立命館大などから「湖の本」への挨拶が届いていた。便宜が無く送れていない大学研究室や、高校図書室、ないしは好学の先生方で、「湖の本」ご希望が有れば、わたくし文学活動の一環として既刊在庫分も贈呈します。お申し出ください。いま心底より希望しているのは、山積の過去資料等の整理や活用に手を貸してくださる若い優れた学徒の方、です。
2015 3・26 160
* 湖の本123、選集⑤ とも凸版印刷へ支払い終える。
* 今日、大きな通知があった。いずれはと覚悟していたが、凸版印刷で四半世紀の余も、親切を尽くして「湖の本」またいまは「選集」もともに担当して下さった古城さんが、とうとうこの四月から引退されることになった。感謝し感謝して仕切れない盟友をうしなうかと思うと不安と寂しさにかられる。丁寧に後任に引き継いで下さると頼みにしているが、何とも、寂しい。
わたしが生き急いでいると心配して下さる方が多かったが、有り体には一巻一冊でも多く古城さんとの仕事を積んでおきたかったのだ。
気挫けなく、辛抱強く新たな段階へも歩を運び続けたい。
古城さん ありがとうございました。
2015 3・27 160
☆ 生きとし生ける
ものの深奥に光を当てる技巧は、私には戸惑いばかりです。
博学多識の先生のますますのご活躍とご健勝を祈念しています。いつも「私語の刻」より拝読して、多数派に「決して与しない」視点と姿勢にこころを震わせています。 京山科 じゅん 詩人
☆ (学長を務めていた=)米沢で
人気の地元のお酒( 九郎左衛門) をお送り申し上げました。お口に合えばと存じまして。
どうぞお大切にお過ごし下さい。 仙台 遠藤恵子
* この「九郎左衛門」の純米大吟醸の二種四合瓶がうまくて、意識して量はセーブに努めていながら、二日で、二本ともしみじみ呑みほしたのには、我ながら驚いた。美味い酒は、美味い。逆らえない。日本酒は、世界中の酒の中で、最も良質で美味に多彩が楽しめる気がしている。かぎりなくいろんな美味い酒に出会う。おどろく。
☆ 段々
ベッドで読書の時間がふえ 御本の届くのが嬉しうございます。
御二方、何卒 御身御大切に 大磯 福田敦江 故福田恆存先生夫人
☆ この冬は
格別お寒さが厳しゅうございましたが、ご病気をかかえながらお仕事に精励される先生に深く敬意を表したく。
一寸先になりますが ことしの新茶を送らせて頂きます。
ご夫妻のご平安をお祈り致します。 福田良子 故東大法学部長福田歓一先生夫人
2015 3・27 160
☆ HPの「選集」の写真の
横のお花はもしかして 喜んでいただけたのならば、本当にうれしいです。(光栄なことと思える程です。)
お世話になった方と京都の姪に読んでもらいたく、「湖の本」5巻と106巻を一冊ずつお願い致します。お体の大丈夫な時で…。送金した金額でぜんぶ足りるでしょうか。 鎌倉 橋本美代子
☆ 仕事に一区切りつけました。
今ならまだお手伝いできそうです。できることがありましたらお申し付け下さい。
アナログ手法でしたら、ですが。 練馬 誠 歌人・編集者
☆ おからだ大切に
平凡社まで周2回顔を出しています。音楽と本を合間に。テレビはニュースと高校野球ぐらい。ほかの番組は、「スゴーイ」「スゲー」が数秒ごとに聞こえて絶息しそうになります。 さいたま市 駒 平凡社役員
* 長崎県立大、國學院大 早稲田大 八戸学院大などから「湖の本123」受領の挨拶あり。
* 九時。もう機械仕事に耐えない、目が。明日、能「井筒」みえるかな。聴く方に気を入れよう。
2015 3・27 160
☆ 「湖の本123」落手
いつもありがとうございます。
沖縄で亡父(=島尾敏雄)の日記の修復作業に立ち会い、
奄美で亡母(=島尾ミホ)の法事をしてまいりました。
益々死者とのつき会いが多くなった近年です。 豪徳寺 島尾伸三
2015 3・29 160
☆ 秦恒平様
3 月下旬というのに冷え込みが厳しい日が続きます。
この度は、『豪華限定版選集第5 巻』をお贈りいただきありがとうございました。大切に読ませていただきます。特に、5 巻の解説で書いていただいたこと、ふと思い当たることも合点がいく言葉もありました。今後に生かせたらいいと思います。
また『湖(うみ)の本』123 巻もお送りいただき、重ねてお礼を申しあげます。作品を書き、出版され続ける強いお気持ちには、心から敬服いたします。比較になりませんが、私もなんとか私なりに書き続けられるよう頑張ります。
京都府文化功労賞の受賞、おめでとうございます。今後もますます作家活動の真価が認められますようお祈り申しあげます。
「秘色」論、2 月にいつもの皇学館大学へ送りました。4 月ごろには何らかの返事があるかと思っています。
ところで、『湖の本』の存在意義について考察する、という件ですが、私は原善さんの「冬祭り」論で論じられている一文しか知りませ
ん。読者と直接の関わりを計る出版・流通面からと、作風から論じられています。テーマをいただき、これからは、その点もつねに念頭に置きながら、作品を読んでいきたいと思っております。
どうかお身体に注意されますようお願い申しあげます。 五條市 永栄啓伸 近代文学研究家
* 四半世紀できかない久しい知友の歌人から、手伝いが出来ますよと連絡があった。「婦人の友」の編集者でもあった人、何が出来るか、何か助けて貰えるといいが。もっともデジタルとかアナログとかのどっちかはよくて、どっちかはできないと。いまわたしのアタマはその意味も精確に読めない。
☆ 櫻の便りも聞かれる頃になりましたが
こちらでは梅の花もやっと綻んできたところです。庭の雪吊りも取り払われ春を迎える準備が調いましたが 今日は又 寒気のぶり返しがあり、私の風邪もすっきりせず、微熱が出たり消えたりしています。
秦様には次々とお仕事をなさっておられるようですが、御目が御不自由になられて大変な御苦労なさっていること 胸が痛みます。私のドライ・アイといわれている症状でさえカスんだり、新聞も読みにくくなって不便を感じていますのに。どうぞ転ばないように御用心なさって下さいませ。
さて一去年の九月の骨折以来お便りができませんでした。簡単にその後のことをご報告いたします。同じような稚拙なおしゃべりで申し訳ありませんが、どうぞお聞き流し下さいませ。
長年勤務しておりました小松高校同窓会では 毎年 還暦を迎える学年が十一月の文化の日前後に、ホーム・カミングディという行事を催していますが、七月の末に、小松高校と、すぐ隣にある名峰高校(ここにも勉めておりました)の校長をしている教え子が揃ってやってきました。「当時の先生方に授業をしていただくことになっておりますが、是非お願いしたいののですが…」という申し出、「先生しかおらんわ」ということでした。小松高校へ赴任して初めて授業を受け持ちした生徒さんたちで、その懐かしさもあり、渋々引き受けました。
さて、テーマはとなると、熱を込めて語れることは能についてしかありません。秦様から頂戴いたしました御本やその他出来るだけ多く読み 予定時間は一時間ということなので、能を気軽に楽しめるようにという方向にしました。「鶴亀」で(レジメの謡・写真を使い)基本的なことを。「竹生島」で表現の面白さ… 能の種類また夢幻能の構造などを 昔 授業でやった伊勢ものん゛たりが本説の「雲林院」や「杜若」で。夜の宴会までに時間があるということんので、結局二時間ほどの話になりました。
能に関するアレコレの中で、「能は何があっても日程の変更もなく、中断もしない」ということには興味を持ったようでした。一年前から予定が決まっているのですものね。「中断」に関しては、「出かかった幽霊が成仏して終わらないことには、能楽堂で幽霊がウロウロすることになり、恐いですね」にはうなづいていました。
これらをまとめることにより、自分がわかってないことばかりまだまだ有り、身体で表現することのお稽古時間がとられ、果てしない時間がかかりそうで… 少しずつわかっていけばよいかと思っていますが……。
「猩々」「草紙洗」中の舞い 「葛城」序の舞 「養老」神舞三段、「巻絹」クセ、「西王母」中之舞、「蝉丸」 「鶴亀」楽 等々、それなりに、お稽古していたつもりですが、ビデオでみると、なんだこの程度だったのかとがっかりすることが度々です。自分の動きについては本当に見えないものです。 お稽古の目的もできて、下手なりにやり甲斐があります。
さて同封の本、奥井隆『昆布と日本人』ですが、著者は、実家のある敦賀の昆布屋さんです。面白かったです。もし昆布に興味をお持ちでしたら、奥様によんでいただけるのではないかと、勝手にお送りしました。本のカバーは、新幹線開通記念としてつけてくれたものです。
これからよい季節になってまいります。秦様のお身体の調子が少しでもよろしいことをお祈りしつつ、長々とおしゃべり 終りにいたします。 小松市 八代啓子 元教育長
* よく見た目もおどろくじつに豊かに大きい昆布を送って下さる。おかげで、我が家の昆布はまさに分不相応に上等なのである。
☆ 庭のイチゲも
やっと春を告げてくれる頃となりました。
御元気でお過ごしの事と存じあげます。
先日はステキな本「繪とせとら日本」をお送りいただき感謝致します。
たのしみに一ページづつ読んでおります。 西京 望月重延 京都美術文化賞 漆藝家
☆ 湖の本123
「私語の刻」 いつもながら、共感、拝読。
眼の御不自由、小生の不便にも照らし、一層のご養生、御健筆を祈念申し上げます。 神戸 蕃 歌人
* 福島県立図書館、選集 湖の本。文教大 湖の本。受領挨拶。
2015 3・29 160
* 選集⑥の全再校を終えた。装幀は責了にしたし、本紙は、もう一度丁寧に点検し終えれば「責了紙」として、早ければ明日にも送れる。四月中に刊行の可能性、小さくない。
第⑥巻は、巻頭の「祇園の子=菊子」がいわば歴史的な所産として評価されている。笠原伸夫さんのすばらしく有り難い論文も相並べて送り出せる。そして「糸瓜(=正岡子規)と木魚(=淺井忠)」は、今し「湖の本123 繪とせとら日本」でも最も注目されている。わたしはふたりを論考の大正でなく小説必至の人間として描いた、藝術家小説として。自信作である。ついで与謝蕪村を追究した「あやつり春風馬堤曲」は、これほど面白い蕪村探索の旅小説はあるまいと思う。癡情可憐のヒロインのかしこさ、やさしさに驚嘆して貰えるだろう。そしてまた平安十、十一世紀の草仮名の国宝「秋萩帖」をめぐる夢幻能さながら、現代と古代とを精微に優美にもののあはれも色濃く描ききっていて、これを読み切れる人は残念ながら少ないでは有ろうが、こんなに美しい小説には、そうそう出逢えないでしょう、たとえ鏡花世界でも谷崎世界でもとわたしは云いきっておく。
2015 3・29 160
* 選集第六巻、責了紙送る。印刷所の方、もう一年は面倒をみてもらえそう。さ、湖の本も選集もどこまでやれるやら。やれる限りやって心残りを残すまいと願う。
* 少しく身辺の雑踏を片付けたり。呑んで居眠ったり。やや休息。ひとつには左腰裏の起ち居の痛みはげしく、そろそろと暮らしている。このところ、選集や湖の本の発送作業で過剰に重い荷を運んだり持ち上げたりしていたのが堪えているのかも。
2015 3・30 160
☆ 気がつけば
櫻の季節になっていました。
先日は、湖の本 お送り下さいまして、ありがとうございました。 過ぎた2册の御礼を申し上げずにきてしまいましたこと、心からお詫び致します。
121巻 122巻を戴きました頃は、伯母の件などで心にゆとりがなく、本を開いた所から、少しずつ読ませていただいておりました。今回の繪にまつわるお話も、繪が好きな私は夢中で読んでいますが、名前を知らない方も多く、繪の世界にも こんなに深い所にいらっしゃることに、改めて驚嘆しております。
先生が不覚さの石峰寺を訪ねられた折の文章に出会った時は、びっくりとうれしさでいっぱいになりました。
私も何年前でしたか、同じような気持ちになりました。7月の午後のことでしたが、庫裡で来訪を告げると、若いお坊さんが、団扇と虫よけスプレーを渡して下さいました。山には私のほかに人はなく、風の音が少し恐いくらいでした。石仏の表情はどれも豊かで、若冲さんのお墓にお参りして帰りました。
長い命をもらったので、直系の家族が一人も無い状態で亡くなった叔母の後始末も この夏頃には収束する所までようやくたどり着きました。
気がつけば櫻の季節です。 今年は上品蓮台寺の櫻が見られると嬉しいのですが。
先生も御病気と共棲、共闘のように記しておられますが、どうか、ゆっくり 御元気でお過ごし下さいませ。 改めて御本の御礼を申し上げます。 ありがとうございました。 大阪淀川区 河野能子 読者
* 愛らしい手描きの犬の顔に添えて、寄金をお添え頂いた。感謝します。河野さんは雑誌「ミマン」での虫食い詩歌に熱心に回答を寄せて下さっていた。思えば、久しいお付き合いである。
2015 3・31 160
☆ 選集第五巻を
どうもありがとうございます。
今は「繪とせとら日本」が面白く、わくわくしながら読んでいます。
手習いを忘れた造形 を読んで乱筆の自身を深く深く反省。
昨日から「親指のマリア」も読み始めました。
選集五巻分、切手代も一緒に振り込みます。 沖縄豊見城 嘉 読者
* 過分のお志に感謝します。
2015 4・1 161
* あす夕方、建日子が来て、隣棟のもちものを整理して持って帰ると。とにかくもホンの置き場がますます不足てくるので、明いた床面積をすこしでも作り出さないといけない。五十年分近い郵便物も、整理し処分しなくては。また湖の本の責了紙なども処分することにした。執筆のためにと溜めてきた材料やノートも処分して行く。
2015 4・1 161
☆ 繪とせとら日本
有難うございました。
「よほど疲労しています」のお言葉に胸を痛めております。
今、母のショートステイの期間しか読書ができませんが、魅力的な目次を追い ゆっくり読ませていただきます。
母は只今、101歳1ヶ月 ですの。 豊玉 裕
☆ 月様
湖の本123 「繪とせとら日本」嬉しく拝受。
くれぐれも おからだを おいとい下さいませ。 徳島 花籠
2015 4・3 161
* 往きも帰りも、大江戸でも、食い入るように「生きたかりしに」を読んでいた。全五章の二章で「湖の本124」上巻になるだろう。どうしても、今の発送契約からすると本を分厚くできなくて、上中下の三巻に造るしかない。読者からは好き・好みの差は受けるだろうが、雑でなく、難しい題材ながら、読みやすく、着々とハナシが運ばれて、ときに目をむいたり唸ったりさせられる。
2015 4・4 161
* 「湖の本124上巻」のあとがきに掛かる。眼がほとんど見えず、宛て推量でキイを敲いていたが、もうダメ。
2015 4・5 161
* 「湖の本124上巻」のあとがきに掛かる。眼がほとんど見えず、宛て推量でキイを敲いていたが、もうダメ。
2015 4・5 161
* 「生きたかりしに」中巻部へも快調に初校すすんでいる。深夜、寝床の上で読み進んでいて、生母が兄恒彦に宛てた長い手紙をよむうち、感極まり独り哭いた。母の発見ーーその探索体験記とも謂える。それが上田秋成探索の希望と表裏している。講談社の大村彦次郎さん、松本道子さんが我が家までみえて書き下ろし「上田秋成」の小説をと依頼があったのは、昭和五十一年(一九七六)五月十七日で、同年十月一日に突然井上靖さんの電話で中国訪問の旅に誘われた。即座に受け、しかも二日後の三日に「秋成」起稿、奈良県御所への取材旅行にも出かけた。日中文化交流協会からの訪中作家代表団の旅立ちは十一月二十九日、井上夫妻を団長に巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信に私の一行だった。四人組追放直後の印象深い中国だった。帰国して直ぐ訪問した大同上華厳寺大壁画に取材の小説「華厳」を書き下ろした。だが中絶していた「秋成」の稿をどうしても継ぐことができず、急角度に路線をまげて、母の発見行へ向きを変えた。一年半近く同居した叔母が元気になって京都へ帰った直後三月十六日から改めて書き始め、十月三十日、初稿九百十六枚が成った。それから先が、長く長くかかった。講談社には諦めてもらった。大きな負荷負担にもなった。作家生活の色合いが、ゆうらりと移っていった。
* 「湖の本124」のあとがき「私語の刻を、すこしたっぷり書いた。
2015 4・6 161
* 黒いマゴが、寝床に半身を起こして校正を始めているわたしに甘えて、手と尾でわたしの腕を抱きかかえ顔をわたしの腕に預けて、グルルグルルと声をもらす。早暁から二時間もそとで遊んできたらしい。元気でおれよ、父さんも母さんもいるからなと云ってやる。
「生きたかりしに」上巻の跋文も書いた。すこし気張って、すこし寛いで、書いた。「私語の刻」をとりあえず読むという読者が多い。ただの「あとがき」に終わらせないように、と。「湖の本124」 ぜんぶ、揃えて初校を「要再校」で戻した。
やがて「選集」七巻の再校も、八巻の初校も出てくるだろう。九巻には何をと思案している。
* 若い頃、多い年には六册も単行本を出版していた。自分では寡作のつもりでいて、ふとそう口にし、同業の人に怒られたこともあるほど、毎年毎年書いた原稿の殆どが本に成っていった。
ところが去年、目の前に八十の来ているわたしが、八、九册も「湖の本」と「選集」とを仕上げている。今年もおよそそんなペースになるだろう。
昔の出版は、出版社に編集担当も製作や製本の担当者もいてくれた。原稿を渡したアトは念のため校正をするだけで足りた。
いま現在わたしの出版は、印刷製本のほかは全部、発送までも、わたしと妻とでやっている。生涯でいちばんとは云わぬまでも、日々多忙を極めている。どうなってんだ、これはと惘れもし、しかし有り難いことである。
はっきり書いて置くが、今その仕事からわたしは「お金」を稼いでいない。」お金はほとんど全面、遣う一方である。幸いそれの出来るのは、若い頃、売れない作家なりに原稿を想った以上にたくさん書いて原稿量を稼いでいた、ということ。みんな遣い果たして行こうよなと、夫婦して笑っている。
* つぎの「選集第七巻」を敢えて出すのには、まこと苦しいモノがある。巻中の長編『生きたかりしに』の初版では、愛してやまない主人公「久慈」三姉妹に、またご家族にまで、言い尽くせないご迷惑をかけた。そのためか長姉は離婚されたかとまで、もう昔に仄聞していた。その後の住まいも神戸のほうとしか識らず、分からず、詫びる機会も今にいたるまで全然なく、まして末の妹には、いつしかに死なれてしまってさえいた。それも風の便りに聞いた。
そんな作を、敢えてまた本にする作者自分自身の気持ち、苦渋に溢れてしかと掴みにくい。それでも、「此の作こそは」と思うまで「選集」には是非入れたいと願ってきた。妻にも、入れていいかと頼んだ。
迷惑をかけた「久慈」三姉妹、またその周囲のだれ一人からも、作者のわたしは、当時もその後も、一言の叱責も恨み言も受けず、今日まで来た。来れた。三姉妹の弟夫妻からは、出し続けている「選集」など、姉にも是非読んでほしいと思っていますと、手紙までもらっている。住所の知れている上の妹には、湖の本もみな送りとどけている。ありがたく、なにか「包まれている」といった感謝にわたしは堪えない。
じつのところ戦後まもない新制中学時代を「久慈」三姉妹と倶にできた期間は、姉とはたった十ヶ月足らず。次の妹とは二年足らず、死なれてしまった愛しい末の妹とは一年。そしてそれぞれその後は、「無いも同然」の僅かな期間に、たまさかの出逢いを分かちあうだけだった。
だが、わたしは、いまも中学時代の思いのままでいる。いられる。それを幸せに思うのは、まさしく血縁や義縁などをすべて超えた「真実の身内」「魂の血族」を信頼しうるからだ。かならずしもわたし独りの独り合点と思ってはこなかったのである。
ふつうなら、わたしはあの出版により「被告席」に立たされても仕方なかったろう。だが、そんな波風は、そよとも伝わらなかった。ただただ堪えてもらえた。
「真の身内」「魂の血族」を、生まれ落ちて以来、求め、捜し、つづけてきたわたしである。いったい、何人出逢えたろうか。
親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから、好きあっているから、だから「身内」だなどという確証の決して安易にはあり得ないこと。
その「真の身内」を見出し見つけることの難しさ、嬉しさ。
わたしは、作家として、ひたむきにそれを書いてきた。「罪はわが前に」は、その証言の一作だった。いましも本に成りつつある新作「生きたかりしに」とともに、真実これを書くことなく、わたしは作家とは名乗れなかったろう。
最近に見直した映画「禁じられた遊び」の少女は、身のそばで容赦なく撃ち殺された両親の死骸から、頑是無く起ちはなれて彷徨い、たまたま触れ合うた「兄」かのような幼少年「ミシェル」を、慕いに慕う。しかもそのミシェルからも、施設へともぎ離され、名を呼び求め求めてやまない、「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」……。わたしもまた、わたしを生んだ親たちを知らず、育てた親たちとも親しまず、ずうっと「ミシェル」との出逢いを待った。わたしは、そういう「こども」だった。八十になる今なお、そういう「こども」のままでいる。成長しなかった…のか。
* 「選集⑥」は、印刷所内の調整で、五月七日に本になって届くと通知があった。四月、すこし寛げる。しかし五月は病院通いも多く、よほどからだを追い使わねばならなくなる。
2015 4・7 161
☆ 待ちわびし
櫻の季節となりました。
先日は「湖の本」をご送付、ありがとうございました。
「老松」より 夏柑糖を「お見舞」に八日 お届けできると思います。お納め下さいませ。 高石市 東野美智子 黄綬褒賞受賞者
* 繪手紙の達者な中学の後輩で、夏柑糖断面を綺麗に描いて、なかに、「お体 お大事に なさって 下さいませ」と。ありがとう。
2015 4・8 161
* 今日は寒かった。部厚なカーディガンを着重ねて暮らした。下半身が冷えた。体調が安定せず、一度、猛烈な苦渋を烈しく吐いたりした。困ったことだ。
そんな中でも『生きたかりしに』を読み始めるととまらず、中巻分の初校ももう半ば過ぎた。探索の旅路がいましも佳境には入ってきた。もう右顧も左眄もしていられない、吶喊して読み続いで行く。さて「湖の本」の読者がどう読んで下さるか。出来得れば、たてつづけに新作の小説を「湖の本」で出し続けて大団円に持ち込みたいが。ほぼ書き上げてある新長編の方は、いっそ最初の仮題のまま、『或る寓話 猥褻という無意味』で行くか。それでも、これを「湖の本」にするにはちと勇気以上のものが要る。
とにもかくにも、書き続けねば、いろいろと。ただただ時間が惜しい。時間が欲しい。 2015 4・8 161
* 往きも帰りも電車ではずっと「生きたかりしに」の校正。人はしらず、書いたわたしは、グイグイ引き込まれて読み直せている。『冬祭り』と同じほどの長編だが、校正の進度はめざましいまで。上巻を「要再校」にしたばかりだが、明日明後日にも中巻も「要再校」で戻せそう。
2015 4・9 161
☆ 高野川畔
松ヶ崎への長い桜並木、淡紅の波が小雨に煙って ほのかに流れます
その後 お体の様子 いかがですか。
先日は湖の本、ご恵与にあずかり ありがとうございました。私語の刻に、随分とお悪いよう、もうびっくり致しました。 なのに こんなに創作活動に邁進、おそろしいくらいです。たおれるまで書くというあなたでしょうが わかるのですが でも あえて体 お大事にと申し上げます
まずはお礼まで 京高野 間宮正子 高校大学同窓 もと市立小学校長
* 和紙のはがきのまんなかに繊細な色で「ちまき」を斜めに自画して、全文毛筆で美しく書かれてある。高校の頃から京展などに書作をならべる達筆だった。わたしは稀に見る悪筆で恥ずかしかった。
2015 4・9 161
* 「選集⑦」の再校ゲラが出そろった。湖の本124・125「生きたかりしに」上中巻分の初校も終えた。両々相俟って「私」を語り全著作のいわば分母を成す自伝と謂うに足る「基盤」が成ったと思う。
2015 4・10 161
☆ ご無沙汰しております
秦先生 ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。今年の異常気候には閉口しましたが、それでも春になったようです。長い冬でした。桜だけは平年より早めに咲いたようで 何かがおかしいような気もいたしますが。
経済面では株価だけが独歩高、これまた不思議な現象です。それでいて政治の分野では隣国の中国、韓国とは連携の機運さえみいだせず、ひたすら軍備強化、すべてが閉塞状態のようです。
私は先週フランスから戻ったのですが、20日にはまたヨーロッパ。今度はスペイン、スロベニアなどで一連のペン会議に出席するためです。今年は国際ペンの会長選挙があるため、次期会長候補をめぐり世界に適任者を求めて走りまわるといった雑用に追いかけられています。
その点先生におかれましては執筆三昧、これまた大変でしょうが、私にとっては羨ましい限りです。いつも貴重な御著をお送りいただき心からお礼申し上げます。
今回も新たにいただいた湖の本「絵とせとら日本」を抱えてうごきまわってきます。
季節の変わり目、くれぐれもご自愛のほど伏してお願い申し上げる次第です。 堀武昭 世界ペンクラブ理事
* まさに世界をまたにかけて、堀さん、活躍されている。湖の本がそんなおりのお供につけるとは嬉しい限り。
2015 4・10 161
* 「湖の本125・126」中巻・下巻の初校を一気に進めた。「中巻」の「私語の刻」も用意し始めた。
2015 4・12 161
* 「生きたかりしに」下巻の初校と、中巻の跋文とに集中。
* 明日は、一時半予約(生理検査の結果が出るのに一時間はかかる)。十一時には検査を終えておきたく、そのあと別館タワー五階の内分泌内科で診察を受ける。長く待つのは「校正」という仕事が有るかぎり、平気。仕事が捗り、いっそ有り難い。月曜なので美術館がダメ。出光美術館へは行ってみたいと妻と話している。
2015 4・12 161
* 十時半には検査を終え。しかし診察を終えて支払いをして三時半、さらに薬局で処方薬が出るのに三十分待ち、糖尿の薬は大袋に二杯。もっともハナから待つ覚悟で、校正刷りをたっぷり持っていて、ずいぶんハカが行った。湖の本の「生きたかりしに」初校は「下巻分」までしっかり読了、また選集⑦巻頭の処女作二作も、再校分を気を入れて読み終えた。
築地は、雨ざんざ。空腹。タクシーで松屋まで行き、八階の天麩羅「つな八」へ久しぶりに。手術後に二度出向いたが二度とも「味」がしなかった。今日は、やっとかなり美味しく食べられた。カウンターで、板さんと酒談義。奈良の酒がなかなか美味いんだよと褒めると、「そのとおり」とばかり店の奥から「赤巴」という奈良の酒をもちだし、コップ一杯、ご馳走してくれた。風味豊かで、ちょっと類のない美味。おかげで天麩羅も久々美味く口に入った。
機嫌良く、銀座一丁目から乗ったが、気が付くと平和台まで乗り越していた。小竹向原まで逆戻りし、保谷では雨中タクシーを待った。
2015 4・13 161
* わたしの「物語 ロマンス」の一起点ないし一基点となった、まだまだ作家以前、青年期の試作、いや中断作である「原稿・雲居寺跡」を、とうどう妻が電子化してくれた。これは湖の本の上中下巻を成す「生きたかりしに」にはほど遠いまさしく試作の中絶作にすぎないが、支離滅裂で投げ出したのではない。このまま長く長く書いて行くのがコワくなってしまったのだ、先へ先へ進むにはよほど勉強を積み重ねねばならず、さりとて、ひそやかに小説なるものに手を染めはじめて、むろん先途はなにもまだ見えていなかった。結局コワくなってビビったのだが、妻が機械の中へ書き入れてくれたものを読み返してみると、たしかに或る可能性ははらんでいた。「清経入水」や「風の奏で」や「雲居寺跡=初恋」などの芽を含んでいた。
学会長の馬渡憲三郎さんは、半端の儘でもいい湖の本へ入れて欲しいと云われている。丁寧に読み返し字句も点検し推敲して、それが可能で有効かを、よく考えたい。
妻の大変な御苦労さんであった長編「生きたかりしに」は、もし電子化して貰えていなかったら紙屑で終わっていたかも知れない。「湖の本」三巻と大化けしたのを克明に慎重に読み直し校正して、わたしの作家生涯にこの作を欠いていたら、いわば半身をもがれたようなものだったと、ゾッとする。あらためて、機械へ電子化のながながご苦労さんに、心から感謝する。有難う。わたしは小説や評論やエッセイを「創作」してきた。妻は作家秦恒平を創作してきた。いま、しみじみそれを思っている。
2015 4・13 161
* 「生きたかりしに」中巻、明日、要再校で戻す。下巻も数日の内に戻せるだろう。
2015 4・14 161
* 湖の本124『生きたかりしに』上巻の再校、あとがき「私語の刻」の初校が出そろった。中巻、下巻の進行も好調で、揃って日の目を見るのも遠くはない。出不精なわたしには信じがたいまで未知で初対面の大勢に進んで出会ってきたが、歳月は速やか、もうおおかたといえるほど人が亡くなった。
京都の秦の親たちが叔母も倶に三人とも亡くなり、主人公である生みの母にはとうのとうの昔に死なれていたし、実の父の葬儀では弔辞を読まされた。母が嫁ぎ先の長女も、長男も三男も亡くなり、次男は戦時中に亡くなっていた。実兄北澤恒彦にまで死なれてしまった。母方の伯母たちもみな亡くなり、本家を嗣いだ従兄も夫人も亡くなった。父方の叔父にも叔母にも、また伯母たちにも死なれている。母方祖父の生家である、東海道水口宿本陣の跡取りも亡くなった。ま、それが歳月だといえば仕方ないが、個性強烈で壮絶な闘いの内に果てていった我が生みの母のためには、心拙いこの末っ子がなんとかして書き継いだ長編小説を、或いは魔物のように母を嫌い、或いは仏のように母を慕った、そういう大勢にぜひ読んでもらいたかった。
* ちなみに父母を倶にした亡き兄北澤恒彦は、生前に瀬戸内寂聴さんとこの母を主題に対談していた。母が臨終の直前までかけて仕上げた詩歌文集『わが旅 大和路のうた』へは、信じがたいほど著名作家等の心のこもった激励や感動の便りが届いていた。富裕な名家にお姫様のように生まれ育ち、兄のことばを借りるならさながら「階級を生き直して」人のため子等のため敢闘苦闘の後半生を生き切った母であった。もっと生きて闘いたい母であった、「生きたかりしに」と辞世歌をのこして病躯を投げ出すようにして逝った。「変わった母」であったと今こそわたしは驚嘆する。
2015 4・15 161
* もっぱらメキシコで墨画を描いてくる京育ちの島田正治さんが、「月皓く」をおもしろく読んだと。
わたしに『風の奏で』を書かせてくれた「歴史文学」を編集していた百瀬明治さんは、病牀からの懸命のハガキに、「繪とせとら日本」への共感を書いてきてくれた。
* ガスレンジを新しくした、今日午后いっぱい取り付けとガス漏れの予防工事。その間にもわたしは、「湖の本」のための仕事で、ほとんど手をとめなかった。
* 明日を楽しみたく、はやめに寝みたい。
22015 4・15 161
* 高城功夫教授、京都橘大学辻本さんから、それぞれ「湖の本123」へ鄭重なご挨拶があった。
2015 4・17 161
* なんとなく、ほっこりと休息気味に、じつは疲れている。なによりも眼が利かないのに、たくさんたくさん読まねば成らず書かねばならない。深い水の底から水面へと両手両脚でもがいている感じ。水面へ出れば息がつける。するとまたもぐるのだ。そんな繰り返しを、その実、求めて楽しんでいるに近いのだからしようがない。いま校正の仕事は「選集⑦」再校 「選集⑧」初校 「湖の本 生きたかりしに」上巻再校 下巻要再校戻しと私語の刻用意。五月の連休明けには「選集⑥」の発送があり、その用意もしている。これらの間に妻の入院手術日が決まるだろう。順調なら二泊三日で退院できる。無事の成功を真実願っている。
* 少し冷えてきた。
2015 4・18 161
* 「生きたかりしに」の下巻末に付録をつけようかどうか、思案し始めた。あまり生々しいかも。
2015 4・18 161
* 気疲れはする、仕事もしている。
あす、聖路加の循環器外科でり妻の検査と診察に同行する。手術の日程なども決まるだろう。外来で、かなりの待機時間があるだろう、校正ゲラを三種類鞄、に入れて行く。
今夜ははやくやすむ、と云いながら寝床に躰起こして、昨日も二時頃まで校正していた。気分転換にはいま「後撰和歌集」の撰歌の四回目。五回選んでみる気。この勅撰集には贈答歌が多くも自然詞書の量も多くて、短篇小説の場面に触れている心地もする。しかし撰歌は結局は歌だけで自立し自律しているものを好んで選び残すつもり。べつにそれで何をする気もないが。「後撰・拾遺・後拾遺」三和歌集の秀歌を自分なりに選んでおいて楽しもうと、それだけ。撰歌は、どんな短時間にも、どんな場所・場合にでも、好きに楽しめて退屈しのぎには最適。
2015 4・19 161
* 京都市藝大、名古屋大、京嵯峨の田村由美子さんから「湖の本」受領の来信。
2015 4・20 161
* 十一時、印刷所で、担当者の引き継ぎを兼ねて、事務上の細部を打ち合わせた。なにしろ現状「選集」は⑥⑦⑧巻が進行中、「湖の本」は124.125.126三巻が併行して進行中で、交通整理だけでも汗をかき、進路が混乱しかねない。わたしの側では、これに先だって創作その他の仕事も優先して進めねばならない。疲れるけれども、吶喊するしかない。より慎重に注意深く在らねばならない、
* どこで道草も食わずに帰宅。疲れた。
2015 4・24 161
* 半世紀むかしに書いていた「原稿・雲居寺跡」は作の重みに作者が負けて中絶していた。電子化した原稿を読み直していて、方法にも意欲にも不足はない。行文は歴然、もうわたしの文体に成っている。湖の本組みでみて80頁ほどあり、「中絶作」として保存しておき、湖の本で息を吹き返させてもみたい。
からだだいじに、眼だいじに。生き急ぐでも死に急ぐでもなく、「いま・ここ」に徹し、「為し成したい」ことをただ「為し成し」たい。I am NOT ABE!」は、確信。その上で、わたしはわたしの「いま・ここ」を作家として為し、成し、つづけたい。
* 夏場所の誘いがきたが、今回は断念した。選集六巻の発送、つづいて湖の本今回上巻の、さらにし中巻下巻の発送も予定しながら、つづいて選集七巻の仕上がりがある。五月は繰り返し病院通いもある。ま、白鵬の優勝新記録は実現したし、にわかに下位力士が大化けして来るとも想いにくい。ま、関脇照の富士が今度の場所で大関の地位を一気に践むならたいしたものだ。
2015 4・25 161
* 『生きたかりしに』上巻を責了した。感慨深い。生みの母への思いが蘇ったなどという実感ではない。苦しい闘いの生涯を闘い抜いた母への鎮魂歌。同時に、不明なことのみ多かった自身の背景をおもに母方を通して見渡せたということ。
実の父へは、まだそこまでの思ひ(火)が燃えていない。だが、子としてでなく作家として関心はもっている。資料も材料もある。母と違つて父は闘うことのできない、インテリジェントな負け犬の生涯だった。気の毒な気持ちはもっているが、身内へ食い入ってくるちからは欠いている。
* 印刷所の内部態勢に移動があって、幾分わたしもハラハラするモノがあるが、落ち着いて協力協和で仕事を続けたい。
2015 4・27 161
* 十時半、もう目が見えない。機械から離れる。寝床に坐って裸眼で校正する。「湖の本」124上巻の責了が決した。これから連休に入って、明けると「選集⑥」が出来てくる。やがて続いて新作『生きたかりしに』の上巻が出来、中巻下巻も間隔をつめて出来てくる。「選集⑦」の『罪はわが前に』も六月から七月のうちに出来る。追いかけて「選集⑧」の『最上徳内』も出来るだろう。「間に合う」ようにむようにと願っている、何にという確かな予感はないのであるが。
2015 4・28 161
* 「生きたかりしに」下巻の再校ゲラが届いた。「選集⑦」のあとがき、後付けも届いている。いま仕掛かりの一山二山を越えて行ければ、幾分、胸がすく。心身すこし寛ぐだろう。薫風の五月、さわやかに迎えたい。
2015 4・29 161
* 今日から連休になるらしい。連休あけには「選集⑥」が出来てくる。どきどきしている。こんどの送りでは、妻を疲れさせるわけに行かず、たとえ100あまりでも、ゆっくりとと。追いかけて新作未発表長編の湖の本が「上中下三巻」つづけて出来てくる。「選集⑦」も併行して出来てくるだろう、どきどきする。元気でいなくては。
2015 5・2 162
* ロシュフコー(今後は、ロ公爵と謂う)は云う、
「47他人に対して抱く信頼の大部分は、己れの内に抱く自信から生まれる」と。また、
「392 運も健康と同じように管理する必要がある。好調なときは充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである」と。
前者は謂い得ている。後者には他の判断もあり得ようか。
わたしの過去にあって、それは好調の不調のという判断でなく、生涯の行く手を決する意欲と覚悟の問題だったが、
① 大学院を見捨て、そこでしか生きられないと人にも謂われていた「京都」という基盤を一気に抛擲して妻と「東京」へ出、就職し結婚したこと。
② 貧の底の暮らしの中で、敢えて高価な支出に絶えて私家版で小説や歌集などを四册もだし、ワケも意味も分からぬママ、志賀直哉や谷崎潤一郎や小林秀雄らに送るという行為に出たこと。
③ 六十余の著書をすでにもちながら、騒壇に背を向け読者と相向かうような「湖の本」創刊に踏み出したこと。
少なくもこの三条は「ロ公」の誡めている「荒療治」に類していたのだとは考えていない。しかも明瞭に成功した。①で良い家庭を得、②で念願の作家の道へ太宰賞という大きなおまけつきでさながらに「招待」された。そして③は独特の文学活動としてもう三十年、百三十巻に及ぶ実績を維持継続し、「騒壇余人」として生き長らえ、「選集」刊行にまで到っている。
自慢でも自賛でもない、決然と行わねばならぬことが「ある」という、それに尽きている。
2015 5・3 162
* 「生きたかりしに」は中巻を責了可能なところまで運んだ。オクリが複雑に出たりし、頁数の精確な読みに夜前は三時頃まで唸った。アタマが悪くなっているので、せめて本の仕事は、イライラしないで時間かけ手間もかけて間違わぬようにしたい。
徳内さんとの蝦夷地の旅へ懐かしい「楊子」が現れ出てきた。校正が、嬉しくなる。
2015 5・4 162
* 一部分「念校」希望を添えて、「湖の本124中巻」「選集第七巻」の「責了」便を送った。
「選集⑧」徳内さんと楊子とのオホーツク寄り蝦夷地の道中は和やかにすすんで、なつかしい尾岱沼「牧場の宿」の一夜も過ぎ、知床へ向かう楊子(ヤンジア)と別れてきた。あれから何年になるだろう。「蝦夷地一件」の旅は、まだまだ半ばである。予想を超えて「北の時代」夢中の旅をつづけている。岩波の「世界」、よう、こうも存分の連載を許容してくれたと今更に深く感謝。こういう仕事が出来たこと、当たり前のようにさせて貰えていたこと、を、今頃になり、しみじみ思う。自分で遠慮して小さく縮かんでいた割りに、今思えば、各社・各誌ともまるで好き放題にわたしに仕事をさせてくれていたと思い至る。その厖大な量の初出原稿が、仕事が、いま、「湖の本」にも「選集」にも成ってくれている、経済をすら伴って。たくさんたくさんのことに、わたしは当時気が付いてすらいなかった。
2015 5・6 162
* 「秦恒平選集」第六巻が無事に出来てきた。今回は、巻頭の短篇「祇園の子=菊子」はさておいても、続く三長篇「糸瓜と木魚(子規と浅井忠)」「あやつり春風馬堤曲(与謝蕪村)」「秋萩帖(後選和歌集の時代)」は、読み物慣れした人にはやや手強く、著者用本の数を減らした。経費負担でご希望の読者も少しずつふえており、各界寄贈を今回はいくらか調整せざるをえない。興味も趣味も有るいい内容なので、減らさねば良かったと、すこし悔いている。
本は出来た。おちついてゆっくり送り出せばよい。もっとも追いかけて「湖の本124」も出来てきて、その発送用意をしなくてはならない、この方は上中下巻とかんかくを詰めて送り出さねばならない。そのうちに「選集」第七巻も出来てくる。五月も六月も七月までも、有り難い活気ではあるが、労力も蓄えておかないと。
2015 5・7 162
* 昼すぎには聖路加へ。妻の循環器内科の検査と診察。歩かない方がいいと云われており、築地までタクシーというのもオーバーなので、極力短距離の所もタクシーを利用する。当然、付き添って行く。軽快してるといいのだが。幸い以前の右腕動脈瘤のときの激痛は訴えていないが、緩やかな痛みと広範囲の紫斑は目立つ。
病院の待ち時間は恰好の校正どきで、待つのは苦にならない。
* 幸い事なきを得て、病院から帰宅、七時。帰り、気に入り野の築地「更科蕎麦」で、妻は鴨南蛮、わたしは蜆をたっぷり煮込んだ深川蕎麦で、升酒を二合。
病院でも、電車でも、たっぷり校正出来た。病院通いで時間をロスしたということが全然無く、目先も気も変わって自然歩きもするので、上乗。日比谷のクラブへ寄ろうかと思ったが、ま、あっさりと蕎麦がいいと。
さ、明日明後日の土日を利して、送本作業を終えてしまいたい。十八日には、「湖の本124・生きたかりしに」上巻が出来てくる。その発送用意もしなくては。
なにより、健康。
2015 5・8 162
☆ 秦 恒平 様
大変遅くなりましたが、過日は「秦恒平選集」第四巻および第五巻を頂戴いたし、まことにありがとうございました。
身辺の雑用にまみれ、頂いたご本の中の小説を読み返してから御礼を、と思っておりますうちに、いたづらに時間が打ち過ぎました。
御礼がはなはだ遅くなりましたこと、ご容赦ください。
秋成の『背振翁伝』(茶神の物語)を読み返しているところに、「蝶の皿」や「青井戸」が収録されているご本が到来し、しばし茶の世界に遊んだことでした。
茶は事を酔わせます。
どうぞ、変わらずお元気でご活躍ください。 長島弘明 東大名誉教授
* 長島さんのメールをもらい感慨に耽っている。初対面の日、彼は東大のまだ学生ないしは院生だった、わたしを五月祭に呼び出しにきてくれた。五月祭の会場で東大生たちに何を話したかは全く覚えないが、そのあと長島さんと喫茶店「ルオー」で歓談、その際にわたしからも秋成を書きたい、彼からもぜひ秋成を書いてくださいという話題になった。わたしは彼に宿題を負うたのである。
その後、長島さんは上田秋成研究を大きく成熟させ、その業績は広く深く知られて、なんと、もう東大名誉教授に。ところがわたしは秋成という宿題を果たせなかった。講談社から書き下ろしで秋成をと依頼されたのも、果たせなかった。
とはいえ、わたしは、じつに、わたしの「秋成」を書きはしたのである。書き始め一応書き終えて三十年、ようやく日の目を見るのが、この十八日の上巻出来にはじまる「生きたかりしに」なのである。どうその長編がどうわたしの秋成探索に成っているのか、それは読まれれば分かる。
上田秋成研究に目をみはる一生面を開かれたのは高田衛さんだった。その研究をさらに深めたのが、高田さんには後輩に当たる長島さんであり、秋成を語るとなれば、いまや長島さんの研究に頼らねばならないが、「生きたかりしに」に組み討った頃は、高田さんに学ぶしかない時期だった、そしてわたしは、それを敢えて改めないままに、「生きたかりしに」を仕上げた。長島研究はまだ知らなかった事実をあえて改めなかった。その必要がなかったのである。
誰に読んで欲しいか、誰よりも生みの母の霊を慰めたい名草、が、ついでは高田衛さん長島弘明さんへ宿題として提出したい。そう思っている。願っている。
2015 5・8 162
* 校正も着々進んで、湖の本「生きたかりしに」は下巻までももう責了用意が近づいた。すでに、「選集⑦」の本紙、「湖の本125」中巻本紙も責了になっている。「最上徳内」に集中しながら、「選集」第九巻入稿を考えねばならない、特色有る第九巻をと思案している。
2015 5・9 162
* 「湖の本」などの発送用意も、まずまず、休日の利を逆に活かして、しっかり出来た。
2015 5・9 162
* 「選集⑥」郵送作業終えた。「選集⑦」口絵など責了。「湖の本126下巻」私語の刻以外責了。ほっと息をついている。
「選集⑨」の入稿用意に本格取り組まねば。
2015 5・11 162
☆ ごぶさた致して居ります。
もうずっと以前に「123繪とせとら」受取って居ります。ありがとうございましたた。
前に 美しい選集を頂き恐縮致しております。この御本のお礼は書いたと存じますが 今となってはおぼえがうつろではっきり致しません 改めてお礼申し上げます。
客間のテーブルの上に置いてありますので 時々 少し…学のある人は気付いておどろいてゐます 私は時々少しつ読んだりチラチラと見たりしてゐます。
(中略) やっと今年から収入がぜんぜんないので税金(所得)を払わなくても良いそうです。これで頭痛がなくなりホットしてい居ります。
初釜と、先日思付いて隅炉をして見ました。(写真を)ごらん下さい お蔭様で皆さんも初めてと言ふ人が多くて私は一寸ごきげんでした。お茶をして居る時は 楽しく元気です。
お二方様 千代子 ロサンゼルス
* チョコちゃんは、わたしより四つ五つ上だが、写真、若い隅炉もおもしろく、また前に差し上げた圓能斎筆「四海皆茶人」の一行が堂々と美しい。わたしが死蔵しているより遙かに軸が幸せそう。
* 花巻の医師、照井良彦さんから、「父・照井壮助とその遺作をめぐって ー『天明蝦夷探検始末記』ー」が送られてきた。
☆ 秦恒平様
ご機嫌いかがでしょうか。知・情・意・体力をあまりにも存分に発挿してきたご経歴ゆえに、少し休憩なさった方がよいのかもしれません。現今の対がん療法のレベルは目にみえて向上しつつありますので。
さて、昨秋、地元・花巻の歴史好きの集まり「花巻史談会」から、なにを考えたのか昔の亡父の著作について一文を寄せてくれと依頼されました。当方の賛助会員加入が本当の目的だったようですが、四十年ものあいだ、父の遺作について一文もなしてこなかったことを自省する気持もあって、やや意気込んで書いてみました。
失礼をおそれず恥をしのんで「別刷」を足下に呈しますので、ご叱正くだされば幸甚に存じます。
ところで、当方はこの六月に、五たびめ入院して再々化学療法を受ける予定となっております。主治医団はこちらの現況をどうみたのか、さいわい宿主と鬼っ子癌腫との共存をはかってくれているようで助かります。
といいますのは、目下、西郷隆盛に打ちこんで稿を起こしているところです。
岩倉具視は麿人、大久保利通は役人、西郷は本当の意味での政治家、すなわち創作的行動家であると考えているところです。なにか飛びつきたくなるようなご教唆をいただければ嬉しいのですが……。影書房からは夫の催促です。
貴重なお時間を奪ってしまいました。r ご健勝を祈念しながら結びます。
2015年5 月8 日 照井良彦 花巻市
* 今しも「選集⑧」として初校進行中の『最上徳内=北の時代』を、岩波の「世界」に連載のおり、照井壮助さんの労著にはたいへん教えられること多かった。ご子息、と云うても私より年輩のかたであるが、久しく照井良彦さんにも「湖の本」にお力添えを戴いてきた。「花巻史談」記念特集の抜き刷り、心して拝見する。
2015 5・11 162
* 山梨県立文学館から、「資料と研究」第二十輯が贈られてきた。こまごましい紀要の域を抜群に抜け出て、歌人としての村岡花子資料も豊富なら、とりわけて中村章彦氏による芥川俊清「日記」翻刻と解題(一)は瞠目に値する。「俊清」は芥川龍之介母方の祖父である。刮目して読み進んでいる。裏表紙に、
甲斐の家 はたちの母がえんがはに手まりつきては涙せし家
て詠草の写真を出している。いま「生きたかりしに」三巻をほぼ責了へまで持ち込んだわたしには、身にせまる一首である。
2015 5・12 162
* 「生きたかりしに」上巻発送用意の追い込みに、今日一日ずいぶん頑張った。あと三日。十八日朝には間に合わせる。
2015 5・14 162
* 封筒への宛名貼り込みをはじめて、読者分を終えた。今日、明日にも諸大学・高校や各界人への寄贈分を貼り込み、日曜には今回の『生きたかりしに』関係の縁戚や知友への宛名書きを追加しなくてはならない。沢山の人が、亡くなってしまっていると想われ、無常の感にとらわれるが。
2015 5・15 162
* 幸いに、「生きたかりしに」三巻の一仕事をほぼ終えた。あとは、適宜の間隔で順次の出来を待ち、送り出す。その間に、「罪はわが前に」を主とした「選集⑦」も出来てくる。この二作は、わたしの人生に表裏一体の心棒を、御陰をもって成した一区切りといえる。七月上旬には、皆、まとまる。
実の父のことも書き置くべきか、まだ、踏み出せない。
2015 5・16 162
* なぜか六時に起きてしまった。「下巻 126」跋と後ヅケの責了紙を速達で送った。これで長編『生きたかりしに』の校正作業は終了。よく頑張った。選集⑦もぜんぶ手を離れている。選集⑧の『最上徳内』初校了にもう50頁。選集⑨は、入稿前の原稿読みに集中。おそろしいほど忙しかった今年の前半。慌てているのではない。何に、とは言いにくいが、「間に合い」たい。それだけ。
2015 5・17 162
* 「湖の本124 生きたかりしに・上巻」出来てきた。亡き生みの母が、どんな気持ちで読むだろうか。亡き兄恒彦は。父を異にした亡き姉、亡き三人の兄たちは。
すぐ発送にかかり、破竹の勢いで夕食までに相当量をすでに送り出し、また今日中にさらに送り出せる用意をした。
* 川西市の島津忠夫さん(国文学者)、さいたま市の出田興生さん(元平凡社編集者)から選集⑥への鄭重な挨拶を戴いた、出田さんには、湖の本新作ならびに選集⑥に、多大のご支援を戴いた。
2015 5・18 172
* ものすごい勢いで、今日は夜まで、発送予定の大半を荷にした。
明日は聖路加なので、夕方からあとにしか仕事が出来ない。
明後日は、午后に、レマルク作の芝居を観に出かけるので、せいせい午前中しか仕事が出来ないが、夜には、作業をほぼ終えられるかも。
2015 5・18 162
* 五箇荘の乾徳寺さんから、「選集① みごもりの湖」を悦ぶ手紙が届いた。冷菓をたくさん戴いた。那珂の下司さんからも手紙を戴いた。
* さ、きを取り直して。踏むばらねば。
* 十時半、機械の前へ戻ってきた。疲労して、今日体調非常にわるい。明日、朝に仕事して、午后に劇場へ、帰宅して晩にまた作業を続けねばならない。相当ハードだけれど、弛んでしまうと回復しにくくなる。何を措いても、やすむことにする。
2015 5・19 162
* 午前、頑張る。
2015 5・・20 162
* 昨日も今日も「選集⑥」への佳いお手紙をたくさん戴いているが、今夜は、まだ作業を続けたいので、メールだけを。
☆ みづうみ、お元気ですか。
選集第六巻頂戴しました。こんな光栄なこと、人生でめったに経験できるものではありません。ありがとうございました。今回のご本について、自分の感想をまとめるのに時間がかかってしまいました。
今回の配本の中で、今までその存在すら知らず未読であった笠原伸夫氏の、「秦恒平における美の原質」に感動、興奮してしまいました。わたくしの読みたかったのはこのような「秦恒平論」なのです。優れた文藝評論だけがなし得ることですが、秦恒平について、「祇園の子」についてだけでなく、わたくし、自分自身についても目を開かれた思いです。
「京都的なもの」「血の昏さ」というキーワードを見つけて、ずっと探していた言葉を見つけたと思いました。
みづうみの作品における「魂の血族」とは、「魂のエロス」を「滴らせる」「京都的なもの」の結実する「女人像」という笠原氏の指摘部分(わたくしの解釈ですが)は、わたくしにみづうみの謎をとく鍵の一つを教えてくれたようです。
祇園甲部と乙部の違いは「祇園の子」を読まなければ、わたくしのような江戸っ子は生涯知らずにすませていたことで、最初に読んだときにはなんともむごい実態に衝撃を受けました。悪意がなくても、無知というのは罪深いものです。たとえばハンブルグのレーパーバーンなどと違って、表面の舞妓さんの華やぎに隠されているだけに、祇園の陰湿な商売はやりきれないと思いました。世界中、どこでもどの時代にも存在する性の搾取と差別の構図で、いつ「祇園の子」を読んでもわたくしは涙を禁じ得ません。自分が菊子の立場にいなかったことは偶然の幸運にすぎないのですから。
菊子を書かずにはいられなかったところに、秦恒平の「原点の京都」があると思います。『初恋』のヒロインに対するものと同様に、被差別の側への深い共感、差別する側にいることへの呵責が、秦恒平文学の血の色です。
みづうみが美空ひばりを大好きな理由も「祇園の子」菊子に対するものと根が同じではと感じました。
正直に申し上げると、私は美空ひばりを好みません。天才だと思いますし、テレビやラジオから流れてくるその歌に、うまいなあと思わず聴き惚れるのですが、自分から触れようと思わないのです。どこがどう好きになれないのか説明が難しいのですが、それは「演歌」に対するある種の嫌悪感です。彼女の演歌は、日本のどうしようもない暗部なのです。日本の「血の昏さ」を感じるのです。山口百恵がどうにも苦手だったのも同じ理由によるものでしょう。美空ひばりも山口百恵も、「菊子の系譜にいる女」です。きれいごとの裏側で、被差別の側に生き、泥水を飲んできた女です。
ある高名な仏文学者が、留学から帰国して下船した瞬間、美空ひばりの歌が聴こえてきて、「ああ日本に戻りたくない」と痛切に思ったと述懐していましたが、自分のことのようにわたくしには理解できます。日本人の血にしみこんだ昏さが陰々滅々と美空ひばりの「演歌」に流れているような気がしてなりません。たとえ明るい歌を歌っていてもジャズを歌っていてもそれを感じてしまうのです。美空ひばりが悪いのではなく、美空ひばりにあのように歌わせてしまう「日本的な何か」に、耐えられないものを感じるのです。それは後ろめたさのようなものともいえます。
みづうみの「魂の血族」になる資格のようなものが、もしあるとしたら、菊子や美空ひばりと同類でなければならないと思います。彼女たちの性根のすわった、命がけのさまは、到底ひ弱なインテリ女もどきのわたくしの力の及ぶところではありません。フラメンコやタンゴのほんものの名手を観て、その全身から発せられる強烈な性と生に圧倒される感じと似ています。
みづうみのヒロインの中で、わたくしに一番近しいヒロインは、おこがましくも厚かましくも申し上げれば、『あやつり春風馬堤曲』の「浦島朋子」でしょう。
『秋萩帖』は、秦恒平作品の中で、一番読みこなすのが難しい作品です。わたくしは未だ充分読みこなせていないのです。再挑戦の良い機会で、今度こそ「読める」ようにと願っています。
『生きたかりしに』については是非一度に三冊いただきたいのですが、それはご無理でしょうね。読者のわがままにつきあっていたらみづうみの身がもちません。
昨夜の私語のご様子で、心配しています。どうぞどうぞお大事に。今日も明日も明後日も、毎日をお身体をお楽に、お心を少しでも楽しくお過ごしくださいますように。 漆 花漆こまごまと咲き日にけぶる 上村占魚
* ありがたい、メール。こういうメールは、研究者からもめったには貰えない。いい読者はありがたいし嬉しい。書き手冥利に尽きて、頬を熱くする。
ことに「漆」さんの美空ひばりへの言及は、しっかり胸に届いておのづと「私」をも論じてくれている。こういうひばり観を私はなんら拒絶しないし、先行理解の範囲内であり、「それでも」と踏み込んできた私自身の弱者を思い強者を悪んできた歴史がある。上田秋成の境涯に自身を想い寄せながら、ついについに『生きたかりしに』を書き上げたのもその底意からだ。出来のよろしさも願うは当然ながら、その前か先かに人生苦汁の自問自答があったし、生みの母にも、兄恒彦にもあったに違いない。
今日も妻と往来の車中で話していたのだが、「母」のことは書いてやりたかったし、身近に読んで欲しい人達も、母方、父方に数多い。が、「父」のことは、どうも書きにくい、書きたくもなく書いては父に気の毒という気がある、と。
それにしても、『生きたかりしに』では、私の「秋成葛藤」がどう「小説」として現れているかに自身興味を持って読者の批判を願っている。そもそもは講談社から「秋成」を書き下ろしでという依頼があった。依頼の意図にはおもしろい時代小説をという希望があった、が、私には、それが苦手、というより時代読み物は書きたくなかった。さあ、どう書こうとたゆたっているうち、井上靖さんに誘って戴いた中国旅行がとびこみ、「華厳」のような自負と自愛の作は成ったけれど、「秋成」主役の長編は飛沫をあげて消散した。『生きたかりしに』へ化けていったのである。
* さ、作業が残っている。奮発したい。余のことは、みな、明日以降に。
2015 5・20 162
* 起床9:00 血圧122-63(58) 血糖値92 体重68.2kg
* 朝一番に、銀行から、選集⑥と湖の本124との支払い送金を終えてきた。二つが一気に来て金額が張ったが、張ろうが張るまいが、見返りの収入はゼロなので、出来るだけを出来る間は続けるというだけのハナシ。自然とお金が無くなるか命が無くなるか、うまくバランスしてくれるだけを希望している。
日盛りながら暑くもなく、行きは駅まで市の花バスで。帰りは妻と歩いて帰った。銀行での支払い事務は、用紙への書き込みなどが煩雑で、こっちは数字も見にくい視力なので、妻に付き合ってもらわねば出来ない、情けないが。
2015 5・22 162
☆ 初夏を飛ばして、
真夏になったかのような陽気ですが
先生、体調はいかがでしょうか。
「生きたかりしに」拝受いたしました。
インタビューさせていただいたときに、少し話してくださったお母様のことをお書きになっておられるとのこと、心して読ませていただきます。ありがとうございます。
そして、なにより嬉しいのが「京都で逢いましょう」とお書き添えいただいたことです。
これから暑くはなりますが 京都国立博物館の常設展の建物も快適になりました。ゆっくりご覧いただけるかと思います。
ぜひ、京都にお越しの際は、お声かけいただければ幸いです。
私は、これから 何必館と、細見美術館、鉄斎堂ギャラリーへ行って参ります。
先生のお話を思い浮かべながら、新門前あたりを歩いてきます。
では、季節の変わり目、どうぞご自愛いただきますようにお願い申し上げます。 香 京都府庁
2015 5・23 162
☆ 『湖の本124』拝受
生涯をかけられたともいえる御作を読む幸運を頒ちあたえて下さってありがとうございます。当時の担当者はおそらく**でしょうか、いまは読書もかなわぬ体調ですが、きっと完成を喜ぶことでしょう。かわりに拝読するつもりです。
その前菜に腹の座った食いしん坊ぶりをまずは楽しみました。これぞ<快>を知るひと! <飲むも食うも勝手次第>とはいえ、どうぞどうぞお身体お大切になさって下さい。 敬 講談社元出版部長
☆ このたびは「湖の本」124
ご恵投下さりまことにありがとう存じました。『生きたかりしに』は秦文学のモチーフ「生まれる」に対応するものかと想像しています。
選集本「強っての希望」あらば申出よとありました。 厚顔を承知で手もとにない第二巻と第五巻を「希望」いたします。もとよりご笑殺も可です。 御礼までです。 東郷克美 早大名誉教授
☆ 大患を
幾つもしのぎながらの文学活動 まことに見事で 貧脳をかかえて終末をまつばかりの身にとって大いなるはげましとなっております。
奥さま共々 くれぐれも御身ご大切にご活躍のこと深く祈り上げます。 冽 俳人
☆ 若葉が
風にかがやくよき季節となりました。
選集第六巻 拝掌しながら 雑誌(歌誌)に追われており失礼をしておりました。
体調のこと お案じ申し上げております。 松坂弘 歌人
* 過分のご喜捨にあずかった。毎々、ありがとうございます。
☆ 「湖の本124」
早速拝読いたしております。一章の「名柄の里」を読み了ったところで思い立ち、この寸書を記しております。
秋成の実母と秦様の実母とを重ねての書き出し、まことに興味深く、これから以後が愉しみです。
また「私語の刻」の美食談議 私には羨しい限りです。カルバドス、秦様は「モンテクリスト伯」でその名を記憶されたとのことですが、私はレマルクの「凱旋門」でその名を知り 四半世紀前に 初めてパリを訪れ サンジェルマンデプレの小さなビストロで口にしました。カルヴァドスはワイン同様、ピンからキリまで味の優劣が極端に激しい酒とのことですが、私の飲んだのは中の上程度のものだったようで、さほどうまいとは思いませんでした。
最後にお願いで恐縮ですが、もし可能であれば「湖の本37 38 39 親指のマリア=シドッチ神父と新井白石』いただけませんでしょうか、もちろん代金はお支払い致します。
今後のますますのご健筆、心よりお祈り申し上げます。草々 鋼 歌人・翻訳家
* 回復された瀬戸内寂聴さん、「新潮」元編集長坂本忠雄さん 山梨県立文学館、中京大、法政大、大阪藝大、岐阜聖徳学園大からも、「湖の本124」受領の挨拶を戴いている。上中下巻三册が出来るまでは、感想も出にくかろうと思っている。私も一読者の気持ちで気を入れて読み直している。
☆ 空腹の方がよいと
おっしゃっていますが、やはりもう少し栄養をお取りになれれるといいですね。
体はほっそり、心はふっくらを心がけたいと思っています。
ご本(湖の本)は、残念ながらまだ届いていません。 黍
2015 5・23 162
☆ 帰国
お元気ですか? HPの記載から、鴉が精力的にお仕事を進められて、今は『修羅』を読んでいらっしゃる様子。
留守中に「選集⑥」が届いていました。さらに今朝、湖の本が届きました。
わたしは帰国して、さすがに疲れが溜まっていたのでしょう、ぼんやり過ごしていました。
が、今日は『生きたかりしに』に沈潜していました。秋成に関するあたりはまだ未消化ですが、読み進めるうちにグングン惹きつけられていきました。
中、下と近いうちに読めるとか。人の生きた証を、鴉は勿論の事、お母様、恒彦さんの生涯をこのような形で書き残されたこと。重く響くものが迫ってきます。
石馬寺、能登川、繖山、近江の村々、それぞれにわたし自身も歩いた日を思い起こします。
今日は時間がありませんので長いメールが書けませんが、とりあえず帰国のお知らせまで。
くれぐれもお身体大切に、そして存分に日々を過ごされますように。 尾張の鳶
* 帰ってきましたか。よしよし、無事でなにより。『生きたかりしに』がどう読まれるか、鳶の場合をとても気に掛けています。
2015 5・24 162
☆ 長らく音沙汰なしで申し訳ありません。
<「湖の本」124―生きたかりしに(上)>落掌。ありがとうございます。
選集や「湖の本」を頂戴しながら、御礼のメールすらも途絶え誠に失礼しております。深い意味はありません。拝受のご連絡をしようと、思うのですが、作品や、その度のご業績に圧倒されて、自分のようなものが気軽にメールなどを差し上げていることに臆するうち、こんなことになっている次第です。
(秦と同じ=)大学を出て就職をして、今年4月で丸30年。無駄に重ねた馬齢とはいえ、“いい年”をしたオッサンなのですから、臆すること自体が、
無礼なことだともアタマでは承知していながら、50を越えた男が、二十歳前後の学生が本当の自意識もないのに、自意識過剰になっているような滑稽の極みなのでした。
本日(25日)は朝おきてすぐに、昨日、ポストに届いた「湖の本」を冒頭から拝読しはじめ、ふだん通勤の途中にある場所が出てくるのに興味をそそられ次々にページをめくりました。
途中、「私語の刻」を読ませていただいた次第でして、そこで、「あっ」と本当に声をだしたかもしれないような「言葉」に出会い。
その勢いで、メールを思い立ち、出勤前にPCに向かっております。
その「言葉」とは…。
“どれも、だれも、書いて読ませては呉れなかった、だから自分の読みたい世界を書いたのである。小説家が「小説」を創作し「文学」を表現するとは、本質的にそういうものだと私は心得ている”
という167ページ後ろから4、5行目の一節。
一瞬「自給自足」という文字がアタマをよぎったのですが、全然ちがうことはないとはいえ、少々、僕のピントがずれていますね。
自給自足なら、つくって食べて血肉となり、その他は排泄されるという循環ですが、小説というのは、いくら飲んでも、汲んでも、涸れない井戸のようなものなのだと、あらためて認識した次第です。
もちろん、
消費され、
一時的な満足があり、
毒にも薬にもならず、
排泄されても肥やしにもならない読み物もあることは、
抽象的な例えではなく、実際にあることは想像に難くありませんが、それは小説家が表現した「文学」とはいえないのだなぁ、…と、今更ながらに諒解したような面目ないことです。
添えていただいた“栞”に、
「湖の本」は通算百二十六巻をめざしておられるとあり、「生きたかりしに」が上中下で構成されるということは、この作品が創刊から29年の「湖」の掉尾を飾ることになるのか…と思いつつ、小説家の作品世界全体には、はじめもおわりもないことにも、考えをめぐらせました。
「飲むも食うも勝手次第です」とのことで、何よりです。
まずは取り急ぎ、
またメールをいたします。 秀 関西産経編集長
* 湖の本 まだ終刊は考えていません。小説の新作もじりじり進んでいます。さらに新たに書いておきたいと思うこと、次々に脳裡に浮かんできています。健康でさえ(わたしも妻も)あれば…と本気で思うのです。全掌篇集の『無明』や趣向の短篇集『修羅』を読み返していても、こういう「泥」の吐き方でなら、幾らでも世界は創れるのになあと、欲しいンは時間やなあと呟いています。
2015 5・25 162
* 郵便がたくさん来ていた。
* 国際基督教大学の並木名誉教授 文藝春秋の寺田前専務 逗子のの作家林京子さん、アカハタの北村隆志さん 金沢市の作家金田小夜子さん 各務原市の読者石井真知子さん 長岡市の詩人植木信子さん 川崎市の墨画家島田正治さん、国分寺の佳人持田鋼一郎さん、静岡大小和田教授 京下鴨の澤田文子さん また日本女子大 名櫻大学、立命館大学ノートルダム清心女子大学 東海学園大学等々のお便りを戴いているが、疲れていて今此処に記録は出来ない。
金田さん御喜捨いただいた。石井さん、じつに濃やかに美味い鶏卵を沢山頂戴した。湖の本も創刊このかた三册ずつ買い上げて下さっていて、感謝しきれない。
生母の親族へも古い記録で分かる限り戻り覚悟で「生きたかりしに」たくさん送ったが、予想通り、すでに逝去、また消息不明でバラバラと戻ってきているのは母のためにも残念、ただ一通、千葉県市川市から便りがあった。
☆ 秦 恒平 様
お便りと御著書 有難く拝受致しました。
恒平様は私の母 **(昭和62年80歳で他界)のいとこにあたられますので、私より一つ上のジェネレーションの方、叔父上様です。 ただ、実際の年齢では私が昭和3 年9 月生まれ(=わたくし秦は、昭和十年十二月生まれ)なので、私の方が少し年上です。
子供のころ、能登川(=生母の両親等の実家)へ行きましたが、おじいちやん(**)おばあちやん(**)がとても優しく、可愛がって下さったのをよく覚えています。 川でアユ釣りをしました(釣れませんでしたが)、三井寺などへも連れて行って貰いました。
恒平様はパソコンに詳しく出てきますが、私のは全く出ていませんので一寸自己締介致します。
北大農学部(旧制)卒、日本水産勤務、ペルー、シンガポール勤務各3 年余、ジェトロ手伝い、昭和58年太平洋水産、現在も代表取締役会長として土i 日曜日を除き毎日会社です。冷凍食品を製造していますが、本人は全くの「名ばかり技術者」です。
文学とか藝術については残念ながら文字通りの無学無知無能です。
三重県の関の家(**嫁ぎ先)は「亀山市有形文化財J として7 年j5市に寄贈致しました。 現在「旧**家住宅」として保存されています。
取り急ぎ御礼かたがたご報告まで。 草々 平成27年5 月22日 市川市 稲
* 作中でもわたしはこのぐんと年輩の「甥」の家を訪ねて、母上に当たる従姉弟からハナシを聞いているはずである。なにしろ、母の生家はわたしなどの想像を越えた大家で縁者のひろがりもひろく、わたしは目を回しそうであった。上田秋成ともいい勝負であって、何も知らなかった当初の想いは巻を追うに従い展開していった。父方も輪を掛けて白けてしまいそうに大きく、参ってしまった。
それでいて、甥にしてこの年齢だもの、従兄、従姉も、ましてその親の伯父伯母級の人達は、生きていてと願う方がテンでむり。やはり三十年前にこそ本にしておけば良かったのだ。がっかり。
* 湖の本ではいきなり一冊にまとめるのはムリだったが、できるだけ早めに次を用意したい、間が抜けないように。三冊同時に送って欲しかったというメールも来ていて。
☆ お元気ですか、みづうみ。
長い間ずっと待ち続けていた『生きたかりしに』を頂戴いたしました。ついに読める日がきたことに興奮しています。ありがとうございます。今朝 振込すませてきました。
パソコンに危険信号がでているようで心配です。私のような機械オンチが申し上げることではありませんけれど、外付けのバックアップを使っていらっしゃる場合、その外付けのものもある日突然壊れることがあります。機械は必ず壊れるものです。バックアップも是非二重三重になさり、リスク分散をお願い申し上げます。みづうみの膨大なコンテンツが消えたら、読者も泣きます。メーカーはいつ壊れるか予告を出してくれるパソコンや家電を発明してくれないものでしょうか。
今日の午後の地震如何でしたか。こちらのほうは震度3でしたが、体感的には震度4くらいに感じました。揺れるたびに、薄氷の上の日本列島に住んでいることを思います。
どうぞお疲れのでませんように。 竹 今年竹同じ高さに二本かな 素十
2015 5・25 162
☆ 思い返しますと、
学徒動員の日から今日まで、ご本にあります「生きたかりしに」一念で月日を重ねてきたようです。開きました一節に、「十字架に流したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに」とありますが、道は異なりますが、八月九日に被爆死したクラスメートたちの命の一滴を身に浴びて私も生きて参りました。
ご健康をお祈り申します。 林京子 作家
☆ 昨日
並々ならぬ決意をもって始め、中断し、ようやく筆を収めた『生きたすりしに』の上巻をいただきました。いつも一方的に御恵贈にあずかり、忝のう存じます。
意欲作ゆえ、敬意をもって、昨日、学会発表の準備を差しおいて、一気に読ませていただきました。
引き込む力、いや書き手の気迫に満ちております。叙述対象にべったり取り込まれる通常の「私小説」とは全く違うという印象です。
時系列を乱す手法、すぐれた先人の情念との重ね合い、フラッシュバックの手法、叙述対象との教官と距離設定。才能の継受の宿命へのほのかなおののきと、抑圧しない誇り。
非凡な手法の小説であると、今回の書き物を拝読いたしました。
十数年来の食いしん坊日記は、うらやましくも ほほえましくも読みました。私は美食を知らぬ一学究として人生を閉じるでしょう。 感謝。 平安 並木浩一 東京国際基督教大学名誉教授
☆ 前略
『生きたかりしに』(上) 大変興味深く、一気に読んでしまいました。ずっと避け通してきた母に対し、ついに時満ちて、その人生をたどり直していく迫力と、冷静な距離感のある筆とがあいまってひきこまれました。黒川創さんとは面識があり、(先日も紀伊国屋サザンシアターの隣の席で民芸の芝居を見ました)恒彦さんと鶴見俊輔さんのつきあいも知っているので、私には身近に感じられます。今度の小説は続きが楽しみです。
世の中は安倍の戦争法案で、本当にあぶない方向へと一気に加速しており、「赤旗」と共産党こそがんばらねばと、仕事をしているところです。同人誌では加藤周一論を書きつごうと遅々とした歩みながら、著作集を読み込んだりしています。
あたたかく(暑く)なってきました。ご自愛ください。草々 北村隆志 新聞記者
☆ 立派なご本を
お贈りくださりありがとうございました。
頂いてから随分時間も過ぎましたのに、ページを開いてやっと『祇園の子』を読みました。最初のうちはともかく、後半から最後へ、頭を殴られるような衝撃のまま読み終えました。感動などという言葉では嘘になる、棒で殴られたようなということだけ、あとは何も言えないままです。遠く懐かしい回想だけを心のどこかに置いていたのでしょう。
『たけくらべ』もこうなるのだろうか……。
同学年の女子の暗い顔を思い出していました。学童疎開で信州に居りました。敗戦の日も近いある日、その子は先生の部屋に呼ばれていき、しばらくして、突然、号泣といってよい泣声が聞こえ、私たちは息をひそめてその声を聞いていました。やがて、その子の両親が下町の空襲で亡くなったことを知りました。
それからお祖母さんに引き取られていくまで、その子は何もしゃべらない笑うことのない子になりました。お別れで見送ったその日も何も語らず、かたくなにすべてを拒んでいるように。
戦争が終わつて一度だけ私たちはすれ違いました。私は中学生に、彼女は女学生になっていましたが、瞬間暗い目を交わしたまま視線をそらして過ぎていきました。
脈絡なく、いきなり浮かんできたことです。
今頃おかしな話ですが、後のお作は眼の具合の良いとき読ませていただきます。
遠くを夢見るような気持ちでお作を手にしています。
いつも秒を惜しむようなお仕事ぶりにはらはらしています。
どうぞお大切に。私もしやつきりしなければと思います
五月二十一日 宮下 襄 島崎藤村研究家
今日、『生きたかりしに』頂きました。
いつもいつも、傍らをあっというまに駆け抜けていかれるような。 五月二十三日
* 藤村学会会報に随筆・資料として、「『まからぬや』と『まからずや』」という面白い報告をされている。
☆ 拝復
『秦恒平選集 第六巻』を頂戴し 誠に有難うございました。巻頭の短編小説「祇園の子=菊子」から拝読。甲部・乙部(この呼び方もされなくなりました)の差異が子供の関係にも反映された作品に、複雑な気持で惹かれました。
早く、笠原伸夫氏が、谷崎より鏡花とのつながりを指摘されていたのですね。
「誰も読ませて呉れなかったから、自分の読みたい世界を書いたのである」
読者にとって、嬉しい言葉です。 草々 田中励儀 同志社大学教授 泉鏡花研究家
☆ 雑用に追われたまま もうすぐ定年を迎える身には、充実したお仕事ぶり、羨ましい限りです。 新保邦寛 青山学院大教授
☆ 御高著 湖の本124
『生きたかりしに』(上)巻 拝受致しました。ありがとうございます。
つい先日『秦恒平選集』第六巻をいただいたばかりでしたので、その精力的なお仕事に圧倒されます。
現在選集の「秋萩帖」を読み始めたところです。身がひきしまる読書体験です。 藤原龍一郎 歌人
☆ 前略 ご免下さい。
ご恵投に与りました「生きたかりしに( 上) 」 本日拝読し終えました。
秦様のアイデンティティを探す旅、興味深く存じましたが、まだ様々な伏線をはりめぐらせているという段階で、重要な事実は中、下によって明らかにされるのだろうと憶測しております。
私の父も 大倉喜七郎と芳町の芸者との間に生まれた子で 生後まもなく喜八郎夫人*子の実家**に養子に出されているだけに、今回の御作、まことに身近に感じております。 草々 恋ヶ窪 歌人
* 中巻へ、下巻へ転じていってたしかに驚かれるだろうと想いはする、が、言われている「伏線」とか手持ちのタネを「明かす」というようなことは、この私小説に関しては百パーセント無い。著者である私自身が何の推測も見当も持ち得ずに、ただもう一歩一歩脱線も覚悟で前へ歩いて歩いて見つけたり知ったり聞いたりしたことが、その時々に書き込まれている。時系列を正すことも、仕掛けをすることも、したくても殆ど不可能だった、何一つ出来なかった、であればこそ、私自身の「実感」として「事実は小説より奇」という気配のこの世にあり得ることにただ圧倒されたのだった。ただ、圧倒されっぱなしでなく、かなり冷静に普通の叙述を守った守ろうとしたのである。
* 写真家の島尾伸三氏 詩人の山中以都子さん、エッセイストの榊弘子さん、國學院大、大正大からも挨拶があった。
☆ 秦さま
お疲れは取れましたでしょうか
今回は、中身も量も重くてお疲れになられたのですね。
今はもうお元気に、美味しいものを求めてお出かけでしょうか?
田舎では、植物はすくすく育って、素晴らしい季節になりました。
お疲れが一日も早くとれますようにといのります。 畝 那珂
* 祇園の「辻」さんから、素晴らしい和菓子、京に咲く梅「おうすの里」を送って戴いた。「恋しくば尋ね来てみよかつらきや名柄の里のうらみ葛の葉」というたぶん即興の歌でわたしを名柄の里へ導いて下さった京大N名誉教授とはこの「辻」の止まり木にならんで盃を含んでいた。わたしの純然京ことばで書いた「余霞楼」という小説の題も、N先生の連載されていたエッセイの題からもじって頂戴したのだ。なつかしい、とても。
* 祇園北側の路地なかあちこちの店では、京都へ帰るつど、何人もの、当時既に高名を遂げられていた「先生」がたと止まり木に並んで酒を飲んだ、うまいものを食った。わたしは、これで生来人なつっこいタチで、特別ものおじもしないから、どんなえらい先生とでもすぐ話し合うようになった。わたしのしてきた、している仕事も多少は役に立ってくれた、こと歴史や文学や藝能や古美術に関してならわたしは聞きたい教わりたい質問がいっぱいいつも有ったし、おかしな文士だと笑っても貰えた。いまでも妻が言う、わたしも身に沁みておもうけれども、「いつでも、お年寄りに好かれる」のである。「売れないワケよ」とまでは言われないが、ま、そんなところだ。作家生活の大半をわたしは、太宰賞への招待を筆頭に、大先輩、先輩の作家や批評家や先生方に手をひいて表へ表へ引っ張り出してもらえた。わたしも、恥ずかしからぬ答案を提出する姿勢と気持ちとで手を抜いた仕事はしないで来れた。先生方に恥ずかしい仕事は見せられなかった。
2015 5・26 162
* 井口哲郎さん、「待望の書。選集の方はひとまずおいておいて こちらを先に拝読します。お大切にと、心から」とご挨拶に加えて、お心入れ、万能薬効の蜂蜜大瓶を二つも頂戴した。ありがとう存じます。
* 神戸の木山蕃さんから、みごとな玉を用いた「風」の刻印を頂戴していた。ありがとうございます。
☆ 拝復
選集の「祇園の子=菊子」「糸瓜と木魚」を読み終えたところへ、「湖の本124」をお送りいただきました。
上田秋成は、興味は持ちながら、結局は研究せずにこの年齢になってしまいました。ただ、このところもっぱらかかわっている西山宗因の俳諧を最初に編纂したのが秋成で、二人の詩性あふれるその琴線に触れ合うものがあったのだと思っています。
二度の手術も成功し、今は七割方もとの生活にもどっています。発病以前から引き受けていた「永井陽子という歌人」の講演と展示にに郡上大和に行って来ました。思えば秦さんとおつきあいすることになったのも、(まだ直接おあいしていないのですが)、私の家集の贈呈先について彼女が推薦してくれたのが、きっかけでした。 島津忠夫 国文学者
*
* 故福田歓一氏(元東大法学部長)の奥さんから、「生きたかりしに」にご挨拶があった。一茶研究者で僧侶でもあられる上越の黄色瑞華さんからも、府中市の作家杉本利男さんからもお手紙が来ている。多摩美大、広島経大からも。
元岩波書店の高本邦彦さんからは「緊迫感のある私小説」と、妻の従姉弟の濱敏夫さんからは「益々の文筆のさかんなことに感銘を受けました」と、源吉兆庵の「桃泉果」を頂戴。有難う存じます。妻の妹からは、「今度のはすごそうですね」と。著者のいまの感じで言えば、読後は、つよいシャワーを浴びてのかなりの爽快感がのこるかと。桐生の住吉さん「久しぶりの書き下ろし作品 わくわくしております」と。「お元気で、ご無理なさらないように、願っています」と大阪枚方市の中村冨美子さん。「ご自愛の程、お願い致します、切に。この後の問題作も期待しています。」と藤沢市の永田さん。
* 湖の本へ、どっと。
☆ 先日は、
わがまま申しました。本当にありがとうございました。今回のお作も愉しみに(といっても、つらい中味かと思いながら)お待ちしていました。じっくり読みます。御大切に、どうぞよい日々でありますように。 碧 下関市
☆ 読みたかったです。
どうか御大切にされてください。私もいちばんらくなように がんばっています。敬白 e-OLD 千葉若葉区
2015 5・27 162
☆ 拝復
「秦恒平選集」第六巻 誠に有難うございました。
好きな「秋萩帖」も収められてありまして、楽しく拝読させていただいておりました。
この巻では笠原伸夫氏の評論も読むことができますのも魅力あるものです。こうした新しい作品の編み方がさまざまの全集や編集などでもと、おもったりしております。「私撰」の素晴らしさを感じております。
巻末の、「自分の余みたい世界を書いた」というお言葉に感銘を覚えております。「小説家が『小説』を創作し表現する」ことの意味を、大事なお言葉として心にとまりました。
一昨日、『湖の本』124巻目もいただきました。上、中、下三册の未発表作品というのも嬉しいことです。
ただ「疲労濃く」との文字が気にかかっております。これからも多くの新しい作品を拝読させていただきたいと願っておりますので、どうかくれぐれもぐお身体を御大切にと念じております。
重ねて申し上げますが、どうかどうかお身体を御大切にとお祈り申し上げます。
御礼と御礼遅延のお詫びまで。 敬具 馬渡憲三郎 藝術至上主義文藝学会会頭
* 万葉学者の中西進氏、「金八先生」の小山内美江子さん、 もと早稲田中学高校教頭・歌人の橋本喜典さん、神奈川県知事、親鸞仏教センターの本多弘之氏、二松学舎大からもご挨拶を貰っている。
☆ 前略御免下さいませ
お送り下さったご本 確かに拝受致しました。
残念ながら両親は共に唱和六三年に亡くなり過去の人となっております。 (娘の)瑞穂は海外在住につき、本日(五月二十七日)連絡がとれ開封させて頂いた次第です。着状だけでもお出ししてほしいとの言付けでしたので 葉書で失礼とは存じましたが、お気持ちを汲みつつお礼申し上げます。
ご健勝をお祈り致します。 田中瑞穂 代 横浜市旭区
* 代筆の方がどなたか分からなくて残念だが、瑞穂さんは生母の次姉の孫に当たる人かと想っている。返事がもらえただけでホッとしている。佳い代筆だとこころよく思えた。
☆ 前略ご免下さい。
このたびは御著『親指のマリア』上、中、下、早速ご恵投頂き深く感謝いたしております。
シドッチと新井白石との関係についてはかねてより関心を抱いておりましたが、生来の怠け癖のために、いままで深く勉強しておりませんでした。御著を通じ、江戸時代にあってとびきりの合理的精神の持ち主であった白石と、布教の情熱に燃えて来日し、獄舎につながれたシドッチとの対話について、じっくり考えてみようと存じております。
私は、小学校一年から中学一年まで小石川に住んでおり、小日向台あたりまでよく遊びに行き、キリシタン屋敷の前を何度も通ったことがあります。すでに塀はなく、庭がまる見えで、土か石でこしらえた動物(鳥やキリンだったと思います)が点在していたのを記憶しております。子供心に、この屋敷は何だったのだろうかと疑問を何度も抱きましたが、深く知ることはありませんでした。御著を通じて子供のころに抱き、そのままになった疑問が氷解して行くのを楽しみにしております。
「生きたかりしに」「親指のマリア」をすべて拝読いたしましたら、御礼かたがた一度ご挨拶に伺いたく存じております。(中略)
目下、六月半ばに国際文化会館で開かれる小さな会で「漱石と近代」という話をするために、全集を読み直しております。昔、途中で投げ出して了った賦「文学論」をいま読んでおりますが、漱石の桁違いの英語力と感覚の鋭さに改めて驚いております。論そのものにはいささか強引で無理なところがあるような気がしますが、自然科学的な方法で文学を論じようとした漱石の異様な情熱にひかれるところがあります。
最後になりましたが、秦様のご健康とご健筆、心からお祈り申し上げます。また「生きたかりしな」中、下巻の到着を心待ちにしております。 草々 持田鋼一郎 元筑摩書房編集者
☆ 拝啓
まだ5 月だというのに気温30度とか、また噴火や地震も頻発、なんとなく生活に不安をおぼえる毎日です。お元気でお過ごしで
しょうか。
先日は、『湖の本』124 巻お送り頂きましてありがとうございました。「生きたかりしに(上)」、たいへんに重い私小説のようで、しっかりと読ませていただきます。
また、先日申しておりました「秘色」論、予想以上に早く載せてくれましたので同封させていただきます。的はずれなことを書いているのではないか、と相変わらず心配しております。
どうか今後ともご教示のほどよろしくお願い申しあげます。
くれぐれもお身体大切に。平成27年5 月24日 永栄啓伸 奈良五条市住
2015 5・28 162
* キムタクと大の贔屓の上戸彩とが演じている「アイムホーム」を時折見ている。血縁家族のあいだの微妙な断絶を問題提起の断続の中にあらわしていて、わたしのように複雑に過ぎた幼少期をへて大人になってきたモノには、ややゆるくは有るけれど大方の人には見過ごされている微妙な危機的罅割れを上手くドラマへ持ち出している。
生みの母のことをひとまずは形にした。実の父のことには、手は掛けかけてはいるが、どうなるとも分からない。母の場合は大げさには名誉回復してあげたい気持ちが働いた。それだけ、わたしの内側に愛情ではない敬意が生まれていた。少なくもわたしが懸命に整理し得た母の短歌には、真摯なつよいリズムが息づいていて、強く肯くことにためらいがない。生きる短歌、うったえる「うた」としての短歌を母は死ぬる日まで胸の奥から噴き上げていた。けっして泣き言の歌なんかではなかった。
父の遺している文章や記録は大量にのぼるけれど、終始謂えることは、歎きと逃避と敗北のグチに近い。だれもが穏和で頭のいい坊っちゃんだったと教えてくれるが、敬意はくみ取れなくて、触れて行くのはかえって気の毒という気がしてしまう。
* 今度の上巻では、兄恒彦と息子の建日子を、それぞれに等身大に紹介できていたのではないか。母と兄とは「同志」的に近づいて行けた。わたしは、母を嫌い抜いた、たぶん血の疼きから。わたしは共産党じみはしなかったし火炎瓶とも無縁の少年。青年時代を過ごした。短歌と読書と茶の湯と少年らしい恋と。だから、その後の人生でわたしは闘えた。今でも秦さんは烈しく闘っていると見ている人が少なくない。ナニ、したいことをしたいようにしていて、それが出来るように努めているだけの話。この後のわたしに立ちふさがって来かねない問題は、一つだと思っている、即ち、死、自死。生母はおそらく自死したろう、それは兄恒彦の確信に近い推測でもあった。実の父も、と想われる。そして兄恒彦も自死した。あとを追わねばならぬ理由は何一つ無い。しかし先のことは分からない。
* ま、仕残しているしたい仕事の山登りをせっせと楽しもうと思う。みなさん、くれぐれも自愛せよと誡めて下さる。有り難い、が、したいことが有る、有るという生きる幸せを、大事にし満喫して生涯を終えたい。仕事に終わりはない。
2015 5・28 162
☆ 生きたかりしに ありがとうございます
湖の本、ありがとうございました。
いったん読み始めると寝られなくなりそうで・・この週末に一気にいこうと思っております。
ちょっとがまんできずにパラパラとめくってみましたが引き込まれそうになって慌てて閉じました。
感想や思いを文字にするのは苦手ですので、心の中で反芻することになりそうです。
杉本秀太郎さんが亡くなられました。
我が家とご縁のある方で ( 仲の良い従兄弟の奥さんのお父様です) 数日前に具合が悪いと聞いてはいましたが とても残念です。法事などで幾度かお目にかかりました。穏やかな、そしてはとこたちにとってはとても優しいおじいさんでした。
杉本さんといえば、私にとってはやはり最初に読んだ「湖の本」のあとがきに名前を見つけたときです。なんだか秦さんと自分が縁があるように勝手に思ったことを思い出します。今年の伯牙山は寂しくなりますね。
寿命とは不思議なものだなと思います。
したいお仕事の山登り、どうぞお楽しみくださいませ。
でもご自愛を・・と口をついて出ますが。。
どちらも本当です。 京山科 長村美樹子
* 佳いメール、胸にひびくメールを、ありがとう。
* わたしの読者の第一号は、二人の読み手、杉本秀太郎と新潮社の宮脇氏だった、太宰賞の「清経入水」に同時に手紙が来た。杉本さんは「ジュ スィ キヨツネ」と書いてくれていた。「秘色」を発表したときも展望に投書してくれていた。そのころは京都女子大のただの教授だった。「展望」で、対談したこともある。本は送り続けていた。あんまりたくさん行くので、彼、惘れていたかもしれない。仕事で出かけて泊まっていた烏丸京都ホテルの地下の食堂でひとり食事していたとき、杉本さんが友人らしき人と来て、少し離れた席で食事をはじめた。彼かなと想ったが確信なく、そのまま行き分かれたのが顔を見た最後だった。亡くなったとは、年齢を数えればありえたこととはいえ、いつまででも生きている人のように想っていた。
2015 5・29 162
☆ 薄曇り、外気温25度
メール嬉しく。
選集の第九巻を既に入稿されたとのこと、驚嘆します。快哉!!! 鴉の切ないまでの覚悟と情熱です。( 悲壮、悲愴とは申しません。)
「両の腕に抱っこする孫ちゃん等が日本にはいなくて不服で唸っているのではありませんか」との問いですが、さにあらず。
元気なつもりでも、やはり年齢は意識いたします。もう少し近くに住んで時折会えたらいいのですが、疲れますが面倒を見ることだって十分引き受けますが。
空港で別れる時は悲しかったですよ。
帰国して一週間、やや睡眠障害?でつらく、グズグズ暮らしています。日本に帰ってきても例年より早い夏のような天候で、たじろぎました。
昨日メールをいただいた頃、わたしは久しぶり、多分五、六年振りに映画館にいました。一人では、行っていないでしょう、娘に誘われて出かけました。
『セッション』というジャズのドラマーを目指す若者の映画。ジャズも、ドラムも凄いと再確認、これは極めて単純な感想です。
昨日のHPでは、お母様と恒彦さんが「同志」的に近づいて行けたと指摘されています。それと無縁だったからこそ鴉は後の人生で闘えたとも書かれています。そのようにわたしも納得できます。
安易に歴史的な背景を持ち出したくはありませんが、二十世紀を通して人々の運命を左右した大きな要素は何かと言えば、社会主義と資本主義、帝国主義の衝突だったと改めて思います。その延長の今世紀、現在をも揺り動かしています。
主観として、自分についてもさまざまな要素を( 性的な要素なども無視しがたく) 振り返りますが、世界の流れの中の一人としての姿をみています。それにしてもわたしは闘いが嫌いな人だから・・弱い人間だと思います。
話が逸れましたが、『生きたかりしに』については中、下の部分をまだ読んでいない段階でどこまで読み込めるか・・考えています。
暑さが早くから到来、夏が案じられます。お身体ひたすら甘やかし無理なさらぬよう。
気力充実、闘われますよう。 尾張の鳶
2015 5・29 162
* もう月が変わる。六月十日に『生きたかりしに』中巻が出来てくる。二十二日には「選集」第七巻『罪はわが前に』等が出来てくる。二作の、わたしの実感で謂えば大きな出逢いである。わたしも齢を重ねた、生きてきたという感慨がある。
2015 5・29 162
☆ 湖へ
また御無沙汰してしまいました。「選集」に続き「湖の本」も送って頂きありがとうございます。
私は忙しい毎日ですが、元気にしています。奥様の心臓処置、無事に、ホッとしました。
実は…夏の金澤での茶会に御誘いしたいと… また御連絡させて頂きます。お元気で。 珠
* 「珠」さん、過分に「選集」へ助勢して頂いた。感謝。
2015 5・29 162
☆ 秀樹です。
「湖の本124 」が届きました。ありがとうございます。全冊揃ってから読み始めようと思います。
今は「客愁」第1部3冊と「罪はわが前に」「逆らひてこそ、父」を併読・再読しています。
「罪はわが前に」を読んで自分の誕生日が火曜日だったことを知りました。
「丹波」では私も幼少期に友達からは「デキ」「フデキ」更には「オデキ」などと呼ばれていたことが懐かしく思い出されました。 野川在
* 湯川秀樹博士の盛名を聴いて育ったわたしには、その名は「フデキ」どころでない憧れだった、作の「丹波」の結びでもそれを逆手にとって書いたんです。ご勘弁あれ。
2015 5・30 162
* 『最上徳内』『親指のマリア』という、わたしにとって方法を全く異にした二大長編を思いこめて読み返している。まさしく私自身が心より読みたかった作を、自分自身で書き上げていたの。そういう機会を与えられた岩波書店「世界」と京都新聞社に感謝する。
そして、昭和四一年(一九六六)十一月十一日、それは「清経入水」で太宰賞受賞よりも、作家として文壇に迎え入れられたよりも二年半も以前に起稿し、原稿用紙百五十四枚で断念中絶の『< 原稿> 雲居寺跡』も読み返しているが、かえすがえすも惜しい中絶だった、希望をもち根気よく想像力とともに書き継いでいたなら、少なくも「何か」に、後の『風の奏で』とは異なる長編小説に成っていた。成らずじまいにしておいて良かったのだという納得も実は深いが、この苦悶と残念とがあってこそ、『清経入水』もその後も在りえたには万々相違ない。
この未発表中断作、ぜひ公表して欲しいと馬渡憲三郎さん(藝術至上主義文藝学会会長)に奨めて戴いている。すでに『清経入水』や『風の奏で』を懇切に論じてくれている原善君にもこの原資料である<原稿>を呈上してもいいと思っている。もとより「作家以前」の懸命の、しかも思い入れも過ぎたる試作ではあるけれど、出る「芽」は出始めていたのではないか。
* と胸をつかれるほど『原稿・雲居寺跡』は奇っ怪にものがたりを奥の暗闇へまで進めていた、わたしは皆目記憶していなかった。しかし、いかにもわたしの書き起こしそうな場所へ場所へとはなしは運ばれていた。
心底、いま、驚いている。まだもう少しくは費やした用紙原稿の残りが在る。久しいわたしの読者は、喜んでくださるかも知れない。
* 予期していたよりも踏み込んだところまで「原稿・雲居寺跡」は書けていた。湖の本にいれて中編、優に七十頁ほどはある。あまりにもしどけない中断ではなく、その先が朧にも読み取れなくはない、が、だから書き継ぐということも、作の「気合い」からして自然ではないだろう。あえて謂うなら、總緒の纏まりすらかんじとれるところまで書けていた。なぜアトが継げなかったか、当時の私には荷が重くなったのであろう。
妻が読みにくい原稿から、昔むかしのようにとにかくも電子化してくれて、まことに有り難かった。それなりにこれは大事な一記念作に相違なく、「生きたかりしに」に次いで、大きな儲けものになった。
* こういう仕事が、実を言うと、まだ幾つも、それも作として嵩のある書き置きものがまだ幾つも見つかっている。しかし、原稿用紙へ手書きの儘では、またノートブックへ書き置いた儘ではニッチもサッチも行かない。
* さて。これからは、徳内サンと白石先生・シドッチ神父とのお付き合いが当分続く。ありがたい、間違いのない「身内」である。
2015 5・31 162
☆ 「生きたかりしに」
三巻まとめて拝読いたしたく、楽しみにしています。それにしても、三十余年、考えつめる息の長さに驚嘆するのみです。
十五年前のインシュリン注射しながらの美食行は、小生も、糖尿病などで、朝晩コレステロール、高血糖、高血圧対策に十種類の粒薬に、四種の漢方を服用している身には、痛いほど、甘いもの欲しさを躰が要求していること、わかります。「戦中戦後の飢えた子」は、当方、いまだ、食パンに漉し餡など欠かせずナゲキの80歳です。その他、病状の山盛りです。 徳 松戸市
2015 6・1 163
* とても疲れた。次の歯医者を今日と間違えていて、一週間後とまた覚え違いして、じつは明日の夕方だった。だいぶモーロクしてきた。疲れる。湖の本の発送用封筒に、必要のない「書籍小包」印を全部捺してしまったのもかなりアタマへ来る失策だった。
* ある程度は予想も覚悟もしていたが、生母方の親類の大方が死亡されていて、若い遺族まで行くと、母を知っていたり覚えててくれたりという人が、無いも同然、これも致し方ないこと。
2015 6・1 163
☆ 選集第六巻かたじけなく拝受、
ありがとうございました。
小生先般、秦先生あのご達成を十二分に評しうる人物は もはやこの劣化した國には存在すること難いのではないかと、半ば本気で申し上げましたが、このたび、六巻収録の笠原伸夫氏の一文に接し、それが杞憂であることを知りました。
先生の作品がいかなる代物であり、その作者が如何なる代者(ママ)であるか、ということの本質的な把握がすでに早期に尽くされており、まことに稀有の幸いと安堵した次第です。選集の堂々たる完結の日が、あらためて一層の楽しみとなりました。
もちろん、今回(第六巻)も、収録のどれもこれもが味わい格別で、徳に絵画好き・蕪村好きの小生としては、前巻につづき再読三読。ひねもす のたりのたり、にやりにやり。一字一語一句一行、そして行間に立ちどまり、至藝の襞、その陰翳に遊ぶ至福の時━━いつもいつも先生ってほんまに「けしからんヤツやわ」と誰かさんも言うてはりましたが、これぞほんまの秦(ママ)迷惑! 乱筆乱文不悪 不尽 (つづく)
二伸
と思いきや。にやりにやりの直後に『湖の本』124「生きたかりしに」(上)到着。
それは何と、永らく未公表の長編の始まり。しかもそれは、件の先生が何者であるかに関する根本資料ともなるに違いない大変な代物。それを、笠原氏の一文収録と呼応させるタイミングで公表に踏み切られたご決断は ただごとならず。小生、先程までのにやりにやりはどこへやら、一字一語一句一行、そしてその行間に立ちどまり、一転、身を引き締めて拝読させて頂きました。
上田秋成をからめた先生独特の二重奏、その綾襞の乱れもさひそと思いつつ、(中)(下)の展開を慎んでお待ち申し上げます。
それにつけても、つくづく思うことですが、先生は「けしからんヤツ」であるどころか、大変なお方ですね。笠原氏ほどではありませんが、小生も 早期に先生のお作と出逢い、その特質・本質を直感的に察知して驚ろき喜んだ一人です。しかも、その後のご活躍とともに、あたかも的の真中を射抜いているかのような実感が強まる中で、歓びも一層本格化し、今日に到っております。
失礼ながら、又、先生とは世代も近く、価値観や美意識なども重なるところ少なからず、うれしい限りで、まことに読者冥利に尽きます。
何卒何卒 御身ご大切にと念じ上げます。
末筆乍ら御令室様にも何卒よろしくご鳳声下さい。
原稿電子化のご苦労、さぞやと お察し申し上げます。 不尽 岡田昌也 神戸市
高砂・前濱のアナゴ、ほんの少しのみ、別便にて
お口に合えば幸甚に存じます。
* 恐れ入ります。
2015 6・1 163
* 歯医者の間違い
それでも、事前に気が付かれてよかった。
大切なスケジュールは目につくところに書き置いておくといいかもしれませんね。
(上)を読了。
「筆にかかって存分に書かれてしまえば、現実もはや残滓に過ぎない。」
書くこと、書かれることの幸と厳しさを改めて思っています。
53頁「紹介したいた」の他、誤植は140 頁「見晴らしなると」、154頁「して、、」くらいでしょうか。『京のひる寝』では誤植が目立ってちょっと心配もしていたので、ほっとしました。(偉そうな物言いに聞こえたらすみません。)
今日も暑くなりそうです。どうぞ気を付けてお出かけ下さい。 黍
* 誤植を教えて戴けるのが、有り難い。目を皿にしている気が、猪口ほどに視力も視野も縮んでいて、独りのちからだけで誤植をゼロにするのは容易でない。明らかな間違いと見えて、しかも大意や真意を見失うような誤植がこわい。いくらか、お察しいただくという気味も動きがちになるのは、よろしくない。三校する元気が無く、入稿まえに原稿を読み、初校でルビを入れるなどし、再校ゲラで責了へ持ち込んでいる。誤植には、ひやひやする。しっかりした出版社には「校正職」のプロが少なくも一度は見てくれているが、わたしの「選集」にも「湖の本」にもそんな手助けは無い。目の酷使、避けたくも避けられない。また自分で繰り返し読めばこそ、たとえ句読点の一つでもより良い作へと直すことも可能になる。作者以外の人にそれをやられては困る。
* このところ、意識も意図もして「自作」に触れて相当多くかつ繰り返し書いている。有り難い読者のお一人が久しくこの「私語」を数十種の主題に分類してきて下さり、それあればこそ、容易に過去の、たとえば「食いしん坊」にせよ「文学を読む」にせよ容易に引き出せる。出来うれば少なくも「選集」創刊の作業にかかった頃(平成二十六年年初)からの「私語」分類に「自作を云う」一類を立てておけると、いくらか論者や評者の批判・批評に役立てて貰えるかも知れない。
* うへっ。もう「選集第九巻」の初校が出てくると。第八巻の再校が順調に進んでおり、第十巻入稿前の原稿読みも捗っている。
ともあれ六月十日には「生きたかりしに」中巻が、二十二日には「選集第七巻」が出来てくる。七月の初週頃には「生きたかりしに」が完結する。仕事がわたしをムダにウロウロはさせておかない。
* 東大名誉教授上野千鶴子さんから、『思想をかたちにする』と難しい題の「対談集」が届いた。
「いつも『湖の本』ありがとうございます。たゆまぬお仕事ぶりに感嘆しております。拙著一冊お納め下さい。三浦(=佑之。立正大教授)さんとの対談(「古事記はなぜ生きのこったか」)だけでもごらんいただけると幸いです。」と。
ま、エネルギッシュな上の三に感嘆してもらうなんて、えらいこっちゃ。
☆ 前文おゆるし下さいませ。
何時もご本をありがとうございます。
私は今年の十二月八日には満九十四歳になります。七十八歳の時には名古屋能楽堂で能「巻絹」を演じました。人ごとのようにそのビデオを見ていると とても癒されます。
扨て、長兄俊吉一枝の一人息子力(チカラ)は能登川の家(=本家)を処分して東京の家族のもとに移り住んだ直後 平成十八年 疲労も一入だったのでしょう すぐ亡くなりした。
津島によく立ち寄ってくれましたので その苦労を思いやり可哀想でたまりません。 力には息子と娘が居りますが 息子は中国人と結婚 娘はピアニストでアメリカ人と結婚、アメリカに居ります。
三番目の兄の娘に 今朝電話であなた様のことを話しましたが、もう気力はないようです。甥も姪も年をとりました。
阿部の親族という事ですが 代が変わり 年をとっても繪に夢中になっているのやら飜訳で稼いでいるりやらおりますが、皆それぞれ一生懸命に生きてをります。
私はもう間もなく無の世界に行くでしょう。
最后に ご本のお礼が云いたくて一筆したためました。何のお礼もせずお許し下さい。
あなた様もご夫婦お揃ひでいつまでも
お健やかにとお祈り申しあげます。 かしこ 富永 豊 生母の姪 津島市
☆ ながらの里
名柄郵便局だった木造の建物が改修され、郵便や歴史関係の資料展示スペースをもつカフェになったと つい先ごろニュースで知り、名柄もずいぶん歩いていないなぁと思っていたところでしたから、さっそく近鉄に乗って御所(ごせ)駅へ向かいました。
御所駅に入っている市の観光案内所では、見るからに働き者といった顔だちの日に焼けた男性がきびきびと説明をしてくださいました。
南郷の極楽寺ヒビキ遺跡について訊ねたところ、発掘調査当時、農地関係の仕事をしていたもので覚えてます、焼けた建物だ、書いてあった通りだと話題になりましてねぇ など当時の話をしてくださいました。
観光地図をいただいて、まずは長柄神社にお参りです。
以前の印象よりよほどからりと明るくなりました。境内の巨木が何本も伐採されていたからです。
郵便局は残念なことに休業日でした。持ち主の池田さんが市に無償貸与して、お隣がご実家である堺屋太一さんのご寄付などで成ったそうです。
大庄屋をつとめていた末吉家、代官屋敷だった中村家、大宇陀の久保本家から明治に分家した久保家「葛城酒造」、太神宮ときざまれた石灯篭と地図通りに見て歩き、久保家の脇を西へ曲がり 坂をのぼって増(まし)地区へ入り、移転した郵便局を見て坂をさらにのぼると、土の塀があり、一枚板の門をもつお屋敷がありました。
増からとっとっとっと下って、室宮山古墳の石室を覗きに行き、バスで御所駅へ戻り、タクシーで、櫛羅から猿目橋、梅室、山口、寺口と山裾を葛城山麓公園(葛城市寺口忍海古墳群)へと走り 忍海駅で近鉄に乗りました。
葛城市歴史博物館で開催中の展覧会が この寺口忍海古墳群に関する内容で、千賀久館長が30年余り前の発掘調査に参加されたことから、先月、講演会があったのです。
竹は皮を脱ぎ、柿はちいさな実をつけ始めていて、梅の実が葉陰で育っています。栗の花が咲いていました。
葛城の山々は青く潤み、畝傍山と耳成山が重なって見え、龍王山、三輪山、音羽山。
千賀館長が、タイトスケジュールでつらいこともあったけれど、景色に見とれてカメラをぶら下げたまま立っていたことを思い出したとおっしゃったのがわかります。 名張の囀雀
* 景色が目に蘇って心ひろやかに懐かしい。上田秋成の目にも景色はしみ入ったであろう。
2015 6・2 163
* さ、これからは、さしあたり十日に出来てくる「生きたかりしに」中巻の発送用意。そして、大事に時間をさし繰りしながら新しい仕事へ落ち着いて手を掛けている。八日の歯科まで外出予定なく、つづく「選集⑦」の発送荷造りも視野に、間違いや滞りのないように用意したい。
☆ 拝啓
今年もはや六月に入りました。さきに選集」六巻をお送りいただき、また続いて 「湖の本」をお送りいただきました。
「祇園の子=菊子」 「糸瓜と木魚」 を読んだところで、「生きたかりしに」を読みかけると、おもしろくて一気に読みました。新門前通りというのは、たしか昔ふうの旅館があって、岩波の仕事か何かで、一度泊まったことがあり、あのへんかなと思いながら読んでゆきました。N氏は、野間先生ですね。先生もその旅館をよく使っておられました。
「祇園東新地一帯が、江州膳所藩主本多守膳正六万石のもと屋敷だった」とあることも、いま本多氏のことをちょっと考えていることもありまして、ありがたい手掛かりでした。
岡見正雄先生の名前が今度はそのまま出て来て、「おいと」もよく連れて行ってもらったな、と思い出しています。
同封の「連歌俳諧研究」は何のお役にも立ちませんでしょうが、能登川のことが問題になっているので、お送りします。
いま能登川は、金子金治郎氏が宗祇が伊庭の出だと言われたということで、大騒ぎをしています。この資料の閲覧のために出向いた時も、この地の人が何人も待っていて、その説を肯定してほしいとばかりの話でした。私は肯定も否定もできないと思っているので、その点では苦労しました。この論考を送った時も、宗祇自筆といっていただいたことはありがたい、と言いながら金子説が学会で諸手をあげて承認されるのを待っていると書き添えられていました。 島津忠夫 京都女子大名誉教授
* 能登川は今の東近江市のうちで、同範囲内に「伊庭」があり、小学生だった息子の建日子と旅したとき「伊庭」にも寄っていた。伊庭があの宗祇の生地とは、新説確認は経ていないが、ほほうという気はする。
2015 6・3 163
☆ 「生きたかりしに」
拝読しいたしました。「書かずにすますわけに行かない」お仕事として(p.146 )受け取りました。
p.161.1 行目「優しいね」と建日子が私の耳に囁く。から、 佳い旅だったと父と子は言い合い、荷物をベンチに置いて相撲の真似もした。このページが好きです。
p.177 (うまいものを の会へ)エレベーターの前で先生をお迎えしたこと、お帰りの際、ごあいさつして下さったこと。
懐かしいです。 宮本裕子 練馬区
☆ 拝啓
まだ5 月だというのに気温30度とか、また噴火や地震も頻発、なんとなく生活に不安をおぼえる毎日です。お元気でお過ごしで
しょうか。
先日は、『湖の本』124 お送り頂きましてありがとうございました。
「生きたかりしに(上)」、たいへんに重い私小説のようで、しっかりと読ませていただきます。
また、先日申しておりました「秘色」論、予想以上に早く載せてくれましたので同封させていただきます。的はずれなことを書いているのではないか、と相変わらず心配しております・。
どうか今後ともご教示のほどよろしくお願い申しあげます。
くれぐれもお身体大切に。 永栄啓伸 奈良県 現代文学研究者
☆ いつも
大変に貴重な「湖の本」いただき乍ら ご無沙汰のみ 申し訳ございません。
今回は特に感動的なお作品で、批判などとてもできません。
やはり このような形で作品化なさったのが、一番よかったのでは、と、思っております。あと二回の出来が待たれます。
ご健康とますますの御健筆を祈りつつ 風邪をこじらせ苦しい日々を過ごしております。
とり急ぎ御礼のみにて。 つかだ みちこ 作家 杉並区
2015 6・3 163
* 紙袋に押し込んであるのを取り出してみたら、表題に「資時出家」とある19枚の原稿がある。十三世紀へかかてゆく時代のことこまかな年表や着想メモや原稿の試みなどが種々束につかねてある。明らかに俊成・定家に視線をあつめた年表や原稿の試みも、同じ束になって括られてある。
すでに電子化した「原稿・雲居寺跡」への併走原稿も状況把握の年表や系図や人間関係もたくさんメモされている、そのいわば「資時出家」「平曲秘聞」の一方で、あきらかに別途に「藤原定家」を意図した小説も懸命に思案していたらしいと窺える。そういう「書き物」「書き留め」が溜まっている。
* さらに別に、脱稿にもっとも苦心惨憺し、しかも満足せずに、後日に「誘惑」と改題して仕上げた原稿、即ち「鱗の眼」144枚が妻の清書原稿のまま残っていた。表紙表題の欄外に、(保谷市泉町二の23)とあり、原稿も浄書も医学書院の社宅で成っていたこと、「清経入水」の太宰賞受賞より以前の仕事と分かる。「作家以前」の詳細「年譜」を繰れば、苦闘の経緯は見えるはず、わたしが推敲に一等苦心惨憺したのは「或る雲隠れ考」とこの「鱗の眼」だった。前者はのちに「新潮」に出せて、時評でもまたその後若い研究者の論考も得ていたが、後者はいったん断念し、日数を経てのちに新たな「誘惑」へ変貌した。此の作はたしかお茶の水の谷口准教授の手でていねいに解剖・論考されたりした。読み返してみないとはっきり言えないが此の妻が清書の読みやすい原稿「鱗の眼」 この題意がいくらかおそろしげに酌めるようなら、「湖の本」に出しておくべきかと思っている。手書き自筆原稿のままもう「誘惑」へ転じているらしいp.266からp.318 「完」までの原稿も残っていた。その巻末頁には、
一稿脱稿 76.6.27 2:30am
二稿脱稿 76.6.29 5:45pm とある。
「原稿・鱗の眼」からのちの「誘惑」までに、すくなくも受賞・作家をはさんで少なくも八、九年が経っている。妻の負担になって了うが電子化しておくべきか。
* じつは、もう一作、わたしにも何をどう書いたのか皆目記憶に蘇ってこないけっこうな量の小説らしきが見つかっていて、妻はもう機械に入れかけている。
そのほかになお「創作物 重要」と表に書いた大きな紙袋に. 「書きかけ」小説が十数種も突っ込まれてある。書き継げばいいのにと惜しい物も入っているが、要するに、そういう一見屑のようなたくさんな書き物を肥やしにしつつ作家生活してきたのだと思うまでのこと。その昔、自分は「寡作」と口にしたとたん人に怒られたことがあった。いま、半世紀を顧みて小説とエッセイと、寡作ではなかったと納得する。
2015 6・4 163
* 建日子との旅、いきいきと思い優しく書けている。もし一人旅であのように母の過去を聴きもし尋ねもしていたのなら、叙述は重苦しく成りかねなかった。雑誌取材の旅と父子での旅とを兼ねたのは、謀ったわけでなく天与のはからいだった。いまもその辺を読み返しながら、なんとなし涙ぐみもした。
祇園・四条の夜色にもじっと目をあてていると、まばゆいほど町の灯が明るく、目にしみ胸にしみてむかしむかしの「京都」が想われる。
* さ、やろう。いろんなことを、もっともっと、やろう。歳末には八十なんて信じられない。わたしの心は恥ずかしいほど少年のようにまだまだ未熟に幼い。長い夏休みには、宿題ではない、べつの何か「自由研究」にとりくみたくてウズウズした小学校から中学への昔を
身のうちに思い起こす。
2015 6・5 163
☆ 『生きたかりしに』第1 巻を
一気に読みました。
作品の中にかつて訪ねたことのある地名がつぎつぎに出てくるので、いろいろ想いながら読みました。
第2 ,3 巻を楽しみにしています。
ほんの少しですがマスカットをお届けします。 吉備の人
*恐れ入ります。有難う存じます。
2015 6・5 163
☆ 生きたかりしに(上)を
送っていただき、ずいぶんの日が経ってしまいました。
お礼が遅くなりました。ありがとうございました。
ご本が届きました頃には、5月の連休中にと図書館より借り込んだたくさんの本を読了していなくて、そちらを先にと、湖の本を横目で見ていました。
口実にして、実は怖かったのです。
いよいよお母様の事を書かれたと、読むのが辛く胸がつぶれる思いになって、静かに読み通せないのではないかと。
ここ数日読み始めました。やはり胸が騒ぎます。痛いのです。
秋成の方へ気持ちを持って。と息を継いでいます。
二章 大和路 へと読みすすめました。
葛城山の岩橋伝説。
謡や仕舞いの「葛城」を稽古した折 その地を訪ね 役の行者のたどった道を歩きながら頂上に登り 彼方の山を眺めました。
一言主神社にもお詣りをしました。
みにくいお顔を恥じ、夜しか橋を架けることができなかったとまでしか、思いは至りませんでした。
神様の恋
相模や和泉式部などのたくさんの歌人たちに詠まれていた、架けられなかった橋。
恋だったのですね。
秋成も詠んだ、その地で詠まれた歌を味わう。気持ちに入り込んで。
と今は違った気持ちで読み進んでいます。
2巻3巻と刊行していただき、静かな気持ちで読んでいきたいと楽しみに待っています。
未発表のいろいろの原稿などを刊行されるのに、ご夫妻で文字通り必死のお仕事をされておられるご様子。
ぜひ読ませていただきたい気持ちと、お身体を労わってほしい気持ち両方相まっています。
何のお手伝いもできないこと心苦しく思いながら、たくさんの作品が日の目を見ますようにと祈っています。
妻の親友 持田 晴美 練馬区
* よく勉強されていて、感心する。秋成がはるばる尋ねていった名柄の里の「いとこ」を、女性であり得るとわたしは読み、彼の「岩橋の記」に意味を持たせたのは、秋成学の学者からは認められないかも知れないが、秋成には、養家上田家にもともと年上の姉と呼んだ女性が居た。恐らくは秋成と娶せる気持ちが親にはあったろうに、この姉は家をはなれて他の男性へはしり、いわば勘当にあっていたのを、懸命に秋成が仲に立って親の怒りを静めたのだった。その姉が、或いはあるいは名柄のほうで家庭を持っていなかったでもあるまいと想ったりした。秋成その人を主人公に小説にしていたら、この養家に家付き姉なる人は大きな役を帯びたであろうが、主人公はわたしの「母」に成った。
2015 6・5 163
☆ お母様もまた、
書かずにおれない火の魂を抱いていた方だったのだと、胸に迫る歌を読みながら思いました。 黍
* 母の歌には敵わない。本からわたしが好き勝手に抄録し「裸形の旅」と題していたのを機械の中で見つけたが、途中で跡絶えている。もういちど、丁寧に全編を読み直しておきたい。なにしろ死にまぢかい身動き成らないまま編まれた本であり、短歌にも、表現や文法や用字に不充分もまま見られて、おなじ歌人であるわたしにはそれが辛くも有るのだが。拙いは拙いなりの「裸形の旅」を苦闘した母であった事実を尊重したい。その裂帛の語気語勢は、とうてい少年私の及びがたい境涯であった。
* 「うた」って、何? 「うったえ」であろう。母の歌は「うったえ」であり「さけび」であった。母の歌には、敵わない。
2015 6・6 163
☆ 前略 ごめん下さいませ。
湖の本124を拝受、「生きたかりしに」(上)を一気に読了いたしました。全編を通じて知的な母上様のお姿が立ち上り、秦先生の母上様との向き合いかたには、詩的な感動をおぼえました。三十余年を要しての御発表、まさに、女の子が生れた時に仕込んで、嫁入りの時に人にふるまう紹興酒のまろやかさを味う心持ちで拝読いたしました。ありがとうございました。
井上靖団長室での酒宴、何といっても圧巻は「紹興の一夜」ですね。あの、骨をさす寒さと、汾酒の力で夜を明かした秦先生のお姿をなつかしく思い出します。
それにしても、皆さん(=井上夫妻、巌谷大四、清岡卓行、辻邦生 白戸吾夫さんら)、居なくなりましたね。私も(日中文化交流)協会を退いて五年、編物、繕いもの、布ぞうり編みなどの手仕事に励んでおります。
暑さに向かいます。奥様ともどもお健やかに。 お祝のみにて。 純 元訪中作家代表団 協会専務理事
* 突然として井上靖先生の電話がきた。「いっしょに中国へ行きませんか」「行きます」と、あまり返事の早さに笑い出されたのを忘れない。作家代表団のうちわたしが佐藤純子さんと同じ当時最年少。いまでは伊藤桂一さん、大岡信さんしかおられない。
四人組逮捕直後、周恩來総理逝去直後の北京に入り、周総理夫人(副総理)との会見をの席では「秦先生、お里帰りですね」と笑いの一場面も経て、大同へ。大同から北京へ戻り、やがて杭州へ飛び、紹興、蘇州、上海を経て帰国した。帰国後、大同での見聞をもとに、すぐ、小説「華厳」(選集四巻所収)を書き下ろし発表したが、長旅の感興に揺り動かされて、手をかけ始めていた上田秋成の書き下ろしが難航、「生きたかりしに」へ大きく行く手を替えた。
挫折といえばそうでもある、が、生涯の必然を迎え取ったのでもある。悔いはない。
2015 6・7 163
☆ 拝啓
今年は、爽やかな五月の頃をひとっ飛びして、初夏の暑さを思わせる日々が続いていますが、そんな中にも、そろそろあのジメジメした梅雨が到来しようとしているこの頃です。
過日は、また立派なご本をご恵贈賜りながら、拝受のご報告もそのままに、時ばかりが過ぎてしまい失礼を致しており申し訳ございません。誠に遅ればせながら、
ありがとうございました。
先生には、奥様ともどもご病身にムチ打ち乍らも、益々精力的にお仕事をなされていらっしゃるようで、アタマの下がる思いでいっぱいです。
選集は、今までの先生の創作分野の全容が披露され、巻毎の構成も、先生の頭の中と心の思いが顕然化され乍ら、一つ一つの作品を飛び越えて、新しい世界を作り上げています。その思いをカッチリと受けとめて、拝読させて頂かなくては、と思っております。
ご体調には堪える時節となります。
くれぐれ、お二人には、ご無理なさいませぬよう、ご自愛くださいませ。 かしこ 鏡 編集者
* 明後日、中巻出来への発送用意がほぼ出来ていて、ほっこりと息をついている。上巻は読んだ。中巻がどう展開していたのか、憶えていない。いっそ楽しみにしている。
* 私のホームページが、記録容量上、厖大な所蔵可能に創られていることは、前世紀末いらい、かなり広くに知られている。おそらく、これほど大量の記事を擁している私的な一個人のホームページはめったには実在していない。日記ひとつにしても、書き始めて間もなく中断し抛たれている例は数限りなく、それが一般である。私のように日記・日録・日乗として、ホームページ開創の1998年いらい、ほとんど一日も欠かさず記事を満載してきた他例は、聞いたこともない。しかも私のホームページは日記だけでなく、湖の本の全部(現在126巻)の悉くを収録しているし、多彩な電子文藝館も内蔵している。凄い量の「フォルダ・欄」が多くの「頁・ファイル」を擁していろいろに利用できる。そのために明けてある欄は数十できかない。
公開のためにでなく、思い切った私用のために、例えば無数の書留めや書置きを字にしておいたり、和歌集の撰なども、一々公開しないで書き置いて吟味し感想を書き添えたりできる場として活用しようと、いま、ポツポツといろいろに為し始めている。「私用」の「私語」を自在の物にしておきたくなった。「遺言」ものこしておく。愛しみも憎しみも尊敬も軽蔑も遠なしに書いておく。
2015 6・8 163
* 朝、「生きたかりしに」中巻が出来てきた。すぐ、今回は先ず読者のみなさんへの発送に取り組み、夕方まで、頑張った。
夕食してから、また、続きを。
2015 6・10 163
* 九時半、黒猫やまとに今日の分、渡した。明日配送敗走とはゆかぬそうだが、一両日で届き始めるだろう。
一種の重労働で、八十前の夫婦、疲れましたが頑張りました。
2015 6・10 163
* 根気がどんなに大事な気力かを永年かけて覚えてきた。退屈しないことの底を支えるのが根気だ。この年齢で、余儀ない間違いや仕違いをする。大事な要を忘れる。半ばは仕方ないとして、いらだってくる気持ちを静めるのが根気だ。立ち直るのだ。グチや泣き言すらときには必要だが、要するに根気で立ち直りまた立ち向かうのだ。
* 六時前。中巻発送おおかたの作業を、強行して終えた。あとは、後始末の程度で済む。さすがに疲れた。妻に気の毒したと謝っている。
* 「選集⑥」の発送に始まった「湖の本上下巻」をふくむ一連の大仕事は、次いで「選集⑦」の出来と発送、さらに「下巻」の出来と発送で一段落する。ふうーっと、肩で息をしている。
2015 6・11 163
☆ 青葉の美しさが
心からうれしい毎日です。
いつも御本御送付有がたく存じます。
大動脈解離で大手術 やっと退院して来ました。いつ何がおこるかーということ。
毎日たのしくおいしくすごして下さい。好物(仙太郎=)最中を送りました。 京・今熊野 孝・明 陶藝家夫妻 同窓
☆ 秦先生
梅雨のひととき
奥様とお茶のお伴に (虎屋涼菓=)ご笑味下さいませ。 鏡 梁塵秘抄・閑吟集編集者
☆ 秦恒平様 (小倉遊亀の絵葉書二枚に)
お元気でおすごしのことと存じます。
「生きたかりしに」上巻を読みました。p.127末、施設の子と産みの子を「同じ不本意な『孤児』として両手に抱きたかった」に、お母様が描かれている、と思います。
「不本意な」由縁のひとつに時代があるでしょう。世間の目を気にせずにいられない旧家だった不幸も。子にとっては「不本意」かどうかなど、どうでもいいこと。
でも、お母様の気持ちの深さの分だけ秦さんの思いも深いーーそのことがわかる小説です。
2 3 4巻をゆっくりですが読ませていただきました。その上に、厚かましいのですが、第6巻を可能なら、(また第5巻も)お送りいただけないでしょうか。読みたいです。湖の本読者に数册ずつという本だと思うのですが。
実は、私も10年前から糖尿病です。身長157cm 体重**kg。(中略) やせると目に見えてHb Alcが減る病気です。(中略)
秦さんの胃をなくしたので、糖尿病が治った(=治っている)という悲しい笑い話。ーー笑えませんでした。
どうぞ お体大切に。
発行人「秦宏一」にも 心動かされました。 京・大原野 則 高校教員
☆ 湖の本(中巻)、有り難うございました。
いやな栗花落の候、お元気な様子で何より結構な事です。
新築に関しての面倒な役所手続きを8 割方済ませて気分がラクになった昨今です。
そうなると足腰の動く間に、久しくご無沙汰の劇場等に足を運びたい気分に駆られます。 小平市 泉 同窓
☆ 有難うございました。
湖の本 125届きました、体調悪い中大変だったろうと察しています、有難うございました。
次々に急ピッチですね、ひやひやしています、無理なきよう 奥様共々お気をつけて下さい。
二便
写真送りますがく紫陽花、もくげ- ぎをん守り- 時計草我が家で咲きました。
紫陽花は今年の花です。 京・北日吉 華 同窓
2015 6・13 163
*次は、選集第七巻が、二十二日に出来てくる。この送り出しを済ませれば、七月になると湖の本版「生きたかりしに」下巻で完了する。幸い、遅ればせであったが、目下は温かく迎えられていて、誰よりも「生みの母」のために喜んでいる。なによりも懸命に生きて生きぬいた母であった、わたしの他にそれを証言してあげられる一人もいなかった。「間に合って」よかった。
だからといって、いま、この生母への愛や感謝に溢れているか、それは、無い。感謝ならば、秦の両親や叔母にこそ感じている。三人の位牌を家の身近に置き、「ありがとうございました」「ありがとうございます」そして心から「ごめんなさい」と欠かさず頭を下げるのはこの三人に向かってである。
2015 6・13 163
☆ 秦兄 ご本ありがとう
お変わりなく、ご活躍のご様子で何よりです。
若いつもりでおりますが、九月がくれば八十歳と節目の年を迎えました。闘病生活の十代後半から二十代後半までの11年間分は、他の人たちよりも長く生きなければと努力目標を百歳に設定して、半世紀。耳目に不便は感じつつも、肺以外は異常はなく、365 日休肝日なしで、塩辛やサバやイワシのへしこを肴に、戦争ボケと平和ボケの衆愚政治をぼやきながら、専ら度の強い蒸留酒を手酌で愉しんでいます。
今年も10月15日( 木) に銀座の「むらき」でクラス会開催の案内が届き、クラシックから懐メロまで、幅広い好みの出席者にひとり一曲は満足感をと、五目飯的CDの選曲をしはじめました。盤は出来しだいお送りいたします。
首都圏に住まいの箕中、藤江、団、西村明男君らから、上京の折は連絡をと言われているのですが、二次会・三次会で、いつも失礼しています。
自然界も人間界も不穏つづきですが、まずは御身お大切にご活躍ください。
いつもながら、ほんとうに有り難うございました。 京・岩倉 辰 同窓
☆ 秦 恒平先生
「生きたかりしに(中)」、拝受いたしました。
上巻をいただいてから、まだ20日ほどかと思います。ご執筆にお力を注いでおられること、大変嬉しく存じます。なにか、陣中見舞い致したいです。
まず、私語の刻を最初に読みました。
そのとおりでございます!!
安倍総理に、まともな注進が出来る方はどなたもおられないのでしょうか。「殿、ご乱心」の影響は、昔のように藩中ではおさまらないのですから・・・
そして、続く美味しいお話に つい、いそいそと、私も出かけてみたくなりました。
さて、6 月6 日は、鑑真和上のご命日でした。
知り合いから声をかけてもらい 初めて唐招提寺での法要に参列させていただきました。まるで、中世の絵巻物を見ているような
前田青邨や安田鞍彦、菱田春草らの描いた絵が動き出したような感じでした。
京都とはまた趣の異なった奈良、西の京
先生の御執筆がスムーズに進んでいきますことをお祈りいたしました。
梅雨の季節、気候不順の折ですので 一段と、ご自愛くださいますように
とにもかくにも、御礼まで 失礼いたしました。 京都府 香
* やはり食はうまく進まない。美味いと感じることがなく、健康配慮で強いて食べようと努めているだけ。ワインを干し、ルに手を出し、虎の子のようにだいじにしてきたシャンペンの口も切った。なるべく蛋白質をと心がけるのだが、肉へも生魚へも手が出ない。回復してきた健康をまた壊してはならないと、とにもかくにも要心はしている、が。
2015 6・14 163
☆ 秦 恒平 様
「湖(うみ)の本 125 生きたかりしに(中)」を拝受しました。
ただ黙々と読み継ぎます。 拝 2015/06/15 練馬 靖 妻の従兄
☆ お元気ですか、みづうみ。
本日『生きたかりしに』の続き頂戴いたしました。
お母さまのお歌には胸を鷲掴みされます。みづうみの生みのお母さまは堂々たる歌人であられました。そして、みづうみが『生きたかりしに』を書いたことこそ、歌人としてのお母さまへの、最高のかたちの親孝行でご供養であることを確信しています。お母さまは、ご自身を「書かせる」ために、みづうみをお生みになったとすら思います。
恒彦ちゃん(=お兄さん)、母さんは何か書きたいの。いつも何か言ひたいの。でも何もかけない。何も言ひきれない。
みづうみはお母さまのこの悲願を達成すべき息子でした。
今、あちらで、どんなに喜んでいらっしゃることでしょう。 清水 絶壁の巌をしぼる清水かな 子規
追伸 私語に掲載の「あけぼの」と名づけられた朝日の写真、佳いお写真ですね。
* 三十年前に、ほぼ、「生きたかりしに」は書けていた。だが、酒をうまくするために三十年を蔵で寝かせた。それが必要だった。あの頃、講談社がムリムリにも書き下ろし作として出版してくれていても、わたしの中でまだあの母な味わいうすかっただろう。母もわたしの中で熟さねば成らず、わたしも三十年の生を一歩一歩経ていなければならなかった。「清水」さんの指摘に、感謝する。
☆ 秦様
「生きたかりしに」(中)を送っていただきありがとうございました。
上巻からの気持ちを持ったまま、続いて、惹きこまれるように読ませていただきました。
ご本が届きました日、ちょうどよみうりホールで「歴史の歩き方」の講座を聞きに出かけていました。
「花に殉じる」歌に生きた西行の詩情と信仰がテーマ―でした。西行・ご本の中の秋成と惹きこまれ、あれこれと繋がりを求めてしまいます。
数年前、ミクシーで、秦様のご友人のtamae さんをしり、西行の話から、前利登志夫の「存在の秋」の本も教えていただきました。
その本の帯には「わが歌よ、死者の打つ木魂のように空を走れ」と。吉野や大和の地の持つ力の大きさのようなことを感じます。
惜しくも亡くなられているTamae さんの事を思い出し乍ら本を読みなおしています。
下巻もすぐにとのこと。楽しみに待っていますが、ご本の発送などくれぐれもご無理のないように。
まずは秦様と迪子様のご健康をと祈っています。
そして、搬送日のお天気の良いことを。 練馬 晴 妻の親友
* 母の生涯も活動も、わたしの本によって、一躍褒め称えられる、といった何モノでもない。ありえない。ただ、悪名の方へ方へ過剰に傾いていたのを、いくらかまともに持ち直してあげたいと、ひたすら歩き回って、多くの人の声やことばを聴いたのだ。それだけの甲斐はあったし、肩の荷をおろした気がする。
☆ 梅雨空には
山梔子と泰山木の白い花が似合います。
この度は「湖の本」一二こ五号をご恵投頂き、有難うございまL た。
いつもながら流麗な筆致に感嘆、声もごぎいません。
また銀座の「シュモア」とは懐かしい名前で、往時に思いを馳せました。
「鉢巻き岡田」の近くに、「**・***」という店がございます。ソムリエという職種が無い時代から三笠会館でボーイさんをやっていたご老人の店です。お気に召すのではないかと存じます。小生の名前を出L てください。
ますますのご健筆とご健勝を念じております。取り急ぎお礼まで。草々 敦 エッセイスト
* 銀座に、楽しみができた。鮓の「きよ田」なく、ビヤホールの「ピルゼン」なく、フレンチの「シェモア」なく、ながらく落胆し続けていた。「敦」さんは朝日の記者時代から、その後も、名にし追う「食通」。ちょっと教えてと頼んだのである。おっと、ヨシヨシ。
2015 6・15 163
☆ 『湖の本125 生きたかりしに(中)』
拝受いたしました。貴重な作品は上中下を一気に拝読したいという不埒な企みを理由に怠けているのですが、「食いしんぼうの記」はすぐに楽しく、己れの十五年前にも思いを馳せながら拝読しました。人生を味わいつくした人からしか、本当によい作品は生まれないと信じています。
いつもながらのご厚意に深謝いたします。
うっとうしい季節となりました。どうぞ御身お大切になさって下さい。 敬 講談社元出版部長
☆ 前略
昨日は又御鄭重にも「湖の本」125を御恵送下さいまして、誠に有難うございました。
「私語の刻」で、『生きたかりしに』を、「文字どおりに徹した「私」小説である。登場者の実氏名を配慮して取り換えた以外は「仮構、一切無。」とありますが、今度の「三 岩橋」の「九」から「十江」を拝読致しまして、「仮構、一切無い」の手応えが十分伝わってきました。「今回書き下ろされた長編の御健筆をこころからお祈り申し上げます。
右、甚だ取り急ぎの御礼まで一筆啓上致しました。
併せて、呉々も御体調に御留意されますよう、こころからお祈り申し上げます。 草々不一 忠 元「新潮」編集長
☆ 秦先生
いつも『湖の本』をありがとうございます。
ご案内の映画「日本と原発」 是非見ていただきたい映画です。 長田渚左 スポーツネットワークジャパン理事長
☆ 『生きたかりしに』中巻のお届け
有難う存じます。
お餅が好きと書いてありましたので、少し送ってみます。
町村合併の流れに逆らった県北の小さな村、新庄村特産の「ひめのもち」です。 吉備の人
☆ 湖の本は、昨日拝受。
「半天朱霞」(の挨拶文)は、前々回の、新作発表前の文面のままだったのは、やはりどうなさったのかとむしろ心配になります。( 他の方はあなたの体調に遠慮しておっしゃらないかとも思いますので、敢えて申し上げますが)
今日は「私語の刻」だけ読了。156 ページに誤植「。、」あり。
本文にはそうした見落としなければと思います。 黍
* 挨拶文は、用意した枚数が作業の終わり近くに不足したので、以前の残りを使った。「半天朱霞」は季節外れなのだが、ま、急場、本をお届けの用件が伝わればよく、繁忙と疲労のなかで手間を節約した。みんな、わたしの大変さは、よく分かって下さっていると感謝している。
誤植は、無いに越したことなく、しかし、校正職の目とおし無く、わたし独りですること、読者が、察して正しく読みとれるなら、それはそれで幾らかはヤムを得ずと。ハッキリと、決定的に意味を違えた誤植だけは出したくないと努めている。
気を入れて、作意を汲んで、本文を深切によく読んで下さる読者の多いのは、作者冥利。それが励み、それが感謝である。
2015 6・16 163
☆ 相変わらずの御精進
感心しています。
私も 九十をすぎ、一日、一日を楽しんでいます。 梅原猛
☆ 『生きたかりしに』中巻
有り難く頂戴いたしました。
小生にもなつかしい光景が登場します そして 古典も。
秦文学の完成品として楽しませて頂き居ます。御礼申しあげます。 山下宏明 名大名誉教授
☆ 御著『湖の本』第一二五巻
ありがとうございました。いつもいつも頂くばかりで申し訳ありません。
毎巻 楽しみに拝読させて頂くのは「私語の刻」です。
ジョン・ダワー教授の談話について、小生も、つくづく安倍政権のあやまちにあきれています。この國は、どうなって行くのか、なんとか阻止したいと思っています。
ともあれ、そのためにもお元気で。 不一 森詠 作家・文藝家協会理事
* The sky of Minamisoma is fine と付記して美しく描かれた空のもとのトンボの繪。去年の七月三日の日付。森さんの繪かな。南相馬の心土産かな。
☆ 今年は皐月を
心から楽しむこともなく梅雨に入りました。
その後 お体のご様子いかがですか。
先回、生きたかりしに(上)につづき、(中)頂戴しありがとうございました。いつも思うこと 乍ら 病いをおしての出版、強固な意志以外の何ものでもない と 感嘆しております。
くれぐれもお大事に。 まずは御礼まで。 京・下鴨 正 同窓
☆ 親指のマリア(湖の本上中下)を読み
新井白石のことをもっと知りたく、他の本も読んでいます。琉球との関わりがあったことを知り、今の政府に白石がいたら、沖縄の基地問題にどのように取り組んだかと想像しています。
選集⑥巻へ送金します。
梅雨明けの沖縄は、南風が気持ちいい毎日です。 豊見城市 嘉 読者
* 「親指のマリア」 選集⑧巻 全一冊として初秋にはお届けします。いま、鋭意再校中です。感謝。
☆ 『冬祭り』(選集⑤)
再読。「生きたかりしに」につなげて 秦文学の趣向を楽しんでいます。 石川・能美 哲 文学者
☆ 『生きたかりしに』を「作品」に
して下さったこと、嬉しいと想いながら読みました。
明日から上巻に戻って、もう一度読みます。ありがとうございます。
おふたりの「重労働」にも感謝。 どうぞお大事に。 下関 碧 読者
☆ ことしは
ホトトギスがよく鳴きます。
どうかお大事になさってくださいませ。 滋賀・五個荘 民 作家
☆ 上巻に続き
中巻も あっという間に、読み終わりました。
先生の作品は気合いを入れて接しないと、見落してしまう場面がありますので、良い緊張感がたまらないです。
下巻が届くのが うれしいような もったいないような複雑な気分です。 群馬・桐生 住 読者
☆ 『かくのごとき、死』『凶器』と
読み続けてから、待ちきれずに『生きたかりしに』(上)を読み出しました。ほっとひと息つけました。 狛江市 秀 読者
☆ 「私語の刻」で
15年前の食道楽ぶり、楽しく拝見いたしました。こだわりをもって、楽しくすごせることができるのは素晴らしいことです。
「生きたかりしに」下巻を楽しみにしつつ。皆様、御健勝にてお過ごし下さい。 横須賀市 敏 科学者・妻の従弟
☆ お暑うございます。
梅雨はどうしたのやら、夏が来てしまいました。
37年間 世話をしていた義姉が亡くなり ポッカリと穴があいたような日々です。
「湖の本」下巻を楽しみに、届いたら一気に読みます!
お元気でお過ごしを… 新潟市 鶴 読者
☆ 驚異的なお仕事に
励まされております。
内だけでなく 外へのきっちりとした目くばりにも。 世田谷 米 読者
* 城西大水田記念図書館、親鸞仏教センター所長本多弘之氏、東海大文学科研究室、文教大国語研究室、日本近代文学館、山梨県立文学館、作家杉本利男氏らからも受領の挨拶あり。
* 「吉備の人」有元さん、美味しそうなお餅を送って下さった。お餅は「二つ」も食べれば他にたいして食べなくても十分「一食」に足りる。体重を67キロ台に保つことを健康体の基本に置いている。もう少し減らしてもいいが、体力を落としてもならず。
しかし、なによりも「歩く」を初めとして「からだを使う」こと。出不精になり、家に居座って「読み書き」仕事ばかりでは弱る一方。誘って貰ってでも出歩かねば。
明後日の桜桃忌は、木挽町へ出て歌舞伎を楽しみます。
2015 6・17 163
* 高史明さん岡百合子さんご夫妻、元中央公論粕谷編集長の奥さん、基督教大並木教授、俳人清沢冽太さん、歌人持田鋼一郎さん、読者小滝英史さん、また諸大学から便りがあるが、今日は疲れがひどく、あちこちで居眠り、便座の侭でも熟睡してしまっていた。そして、目が見えない。どうもいけない、が。 日から日へ、成るようになって行く。
2015 6・18 163
* 週明け早々、「選集」第七巻が出来てくる。これは約束事の発送ではないので、日数をゆっくりかけても、少しずつ送り出せばよい。「湖の本」で刊行半ばの生母を捜しもとめた『生きたかりしに』とは文字どおり表裏した、青春のまた生涯の「身内」を求めた愛の私小説を含んでいる。処女作2篇をも含んでいる。緊張を覚えている。
2015 6・19 163
* 明後日からの「選集第七巻」送り出しの用意、つい今し方までつまにも手伝ってもらって、ほぼ全部にちかく用意が出来た。本が来れば、記番ないし印形を押し、一冊一冊慎重に荷造りして、腕車をつかって少しずつ何回にも郵便局へわたしが運ぶ。この運搬がかなりシンドイが、送り出せるのは有り難い。湖の本のように数はないし、非売品なので急ぐ必要はないが、特製特装本に怪我させたくはなく、丁寧に荷造りしなければならない分、気疲れは大きい。雨が降れば郵便局へも運べない。急ぐことはないと、落ち着いて作業するだけのこと。
そして、これが済めば追いかけるように『生きたかりしに』下巻が出来てくるはず、いつだったっけ。
* なににしても明日の日曜は、ふらり、小雨ぐらいなら第八巻の校正ゲラをもち、電車で遠出でもしようか。
2015 6・20 163
☆ 只今 京都に
来ております。無くなった真宗の学者**先生の選集刊行の記念の会に夫が短かいお話を頼まれたので付き添いということで来ているのですがーー、(中略)
豪華な選集を次々に頂きどのようにお祝いをと考えていたおりに、「湖の本」で 生きたかりしにを頂きました。まさに私小説の珠玉で、わたくしは選集の第四巻をしみじみ読んでいたのですが それを中断して こちらの方を拝読させて頂いています。**恒彦さん(=実兄)のことか出て来てとてもなつかしいです。そう何回もお会いしたわけではありませんが、京都の素敵な所に皆案内して頂きました。私一人でも会いたくて修学旅行の引率中 一人で「ほんやら洞」に行ったこともあります。
只今の御体調では毒をさし上げることになるのではと思いながら京都のお菓子を少しお送りしました。 大磯 岡 高史明夫人
☆ 湖の本125
早速に、食い入るように活字を追い、第二日目の夕刻に読了致しました。
知的、情熱的でおのが生を貫びっくりしました。プロテスタントの牧師は「司祭し」ではなく「牧会し」です。**牧師は「物語」として
類型化して事態をとらえたようですが、誠実でしたね。病床の祈りはすばらしい。下巻を待ち望みます。
体調が保たれますように。感謝。 並木浩一 国際基督教大学教授
☆ 拝啓
雨期ととなりましたが、これ迄雨不足でダムの水が不足気味になっているそうなので我慢するしかないのかも知れません。
「湖の本」生きたかりしに中巻 興味深く拝読致しました。まことに有難うございました。
作中の「高津氏」は、妻の親戚の**謄写版の経営者に ご家族の一員が嫁いだ「**さん」ではないかと思っています。
その内ささやかな御礼の品を贈らせて頂く所存です、その節は御笑納頂ければ幸いです。敬具 邦 元岩波「世界」編集者
☆ 急に梅雨空が
つづくようになりました。
「生きたかりしに」中巻 頁をめくっているうち、佐多稲子さんの御手紙に遭遇、佐多らしい優しい心配りの文面を拝見しました。
純の純たる「私」小説 次巻完結が待たれます。
「私語の刻」の十五年前の、インシュリンうちながらの、食事とお酒と甘味への行動のタクましさにひかれる自分がいます。池袋東武の「仙太郎」が今回も登場。先日新宿伊勢丹でも店名に気付かず、月一回は買っていることに気付きました。
とにかくご自愛を祈るばかりです。 徳 講談社元出版部長
☆ 前略失礼申し上げます
「湖の本125」をお送り下さいまして有難うございます 只今 私の手許に123 124 125と三册揃ってございます。粕谷(=元中央公論編集長)の一周忌(五月三十日)を終えましたのちゆっくり拝読させて頂くつもりでございました。
以前よりこの様な形で御自分の人生の流れとその速度に合わせながら御自分を書き残していらっしゃる技法に感動させて頂いております。
まだ全巻拝読致しておりませんが 拝読はじめますと 卓越したやさしい文章の肌触りの心地よさに魅了され豊かな気分にさせて頂きました。
自分史と申すものはとかく熱いか 自分に向ける目が必要以上に冷静で退屈なことがございます 素人の私が申し上げる失礼をお許し頂くことに致しまして 私小説を越えた面白さが時には良質な純文学を読み続ける喜びを感じさせて頂きました。
出て参ります場所・お店・人物・映画・芝居など、その都度嬉しくて嬉しくて思わず ああ粕谷が傍にいてくれたら鉄砲玉の様な私のお喋りを聞いて貰えたのにと口惜しくてなりませんでした。(中略) 私事ばかり申し上げてしまいました。ご容赦下さいませ。
粕谷が亡くなりましたあと メッセージや記事、追悼文などを厚め藤原書店が本にして下さいました。一部お届け申し上げます。
致し方なしとは解っておりますが、梅雨の頃の体調は言葉では表現しかねるほどの厄介な状態でございます。どうぞくれぐれも御身お大切にお過ごし下さいませ。乱文乱筆お許し下さいませ かしこ 粕谷夫人
☆ 「湖の本」ご恵与頂き
有難く お礼申し上げます。
京都 なつかしく偲びながらじっくりと深く拝読しております。
ゆたかな学識に多くを得 今朝は白川の螢など思っていたところでした。
京見峠にもう一度立ってみたい切なる望みもありましたが、ひたすら今は心の底にたのしんでおります。
梅雨に入りました どうか体調を崩されませんませんよう
祈っております 江戸川区 冽 俳人・思想家
☆ 湖の本125
感謝しつつはいどくしております。
拝読しつつ思うことは 秦様が、 公衆衛生のために猛烈なエネルギーを発揮して生き抜かれた実の御母堂様の血を色濃く受継がれているということでございます。秦様の文学生活に注ぐエネルギーは、常人のとても及ばぬものがあると常々考えておりましたが、「生きたかりしに」を拝読しつつ、大いに納得するところがありました。
ますますの御健筆、心からお祈りいたしております。 国分寺市 鋼 歌人
☆ 今年は例年になく
庭のあじさいが見事に、色濃く、大きく、数え切れない程の花数に。 独りで 愛でてやりました。
五月に「生きたかりしに」上 またこの度 中巻を続けてお送り頂き、誠に有難うございました。
何よりもご健康を案じておりましただけに 作家魂に驚き、喜び、そのお幸せを感じた事でした。
「私語の刻」はご近況を知る上でも、また 奥さんの登場が度々 身近かに なつかしく感じて いつも先に読ませて頂きます。
食いしん坊のはなし、楽しいです。 仙太郎の最中や、シーバスリーガー等々……私でも馴染みのものが記されて…。シーバスリーガーは亡夫とよく飲み歩いた昔を思い出させてくれました。
過日、テレビでご子息様がクイズ番組に出てられるのを観て これ又 うれしく思いつつ見入っていました。 また先週「うた」のレッスンで、「大きな古時計」を久々に唱って、保富庚午さん(=妻の亡き実兄)のことも とてもなつかしく思った事です。
七月には京都へ参ります。相国寺で恩師の墓参、その後同志社の友人達と食事、おそらく憲法九条ーー安倍総理へと話が盛り上がることでしょう。
「生きたかりしに」 ゆっくり読ませて頂きます。ありがとうございました。
くれぐれもご無理のございませんように。お二人方のご健康を念じつつ。 神戸市 澄 妻の親友
☆ 「生きたかりしに」
有難うございました。上巻読了いたしました。
「みごもりの湖」「閨秀」に流れる秦文学の構想力を認識しました、
秦さんは、このように書き、このように作品をよみたいのだろうなと強く思いました。 八潮市 瀧 読者
2015 6・20 163
* お宝鑑定団を見ていた。伊万里も竹田も、ダメなのはすぐわかった。ガレなど、マットウなのもすぐ分かった。
所蔵のもの、選集や湖の本の相当な費用に充てるため、確実な逸品からさきに、実は次々「処分」している。私存命のうちに、のちのち禍のタネに成りかねない品ほど、惜しみなく処分しておこうと決めたのである。残り物に福など、何一つ無くして置く。
とはいえ、実はそれらと取り換えても欲しいと思っている物がある。名作の、短剣か懐剣。むかし、敗戦直後に秦の母が丹波の疎開先で、箪笥の底からとりだして占領軍に差し出してしまった大小二振の日本刀が、今頃になって惜しまれる。人を斬ろうなどと夢にも思わないが、わが煩悩の雑念は斬って伏せたい。日本刀はほんとうに美しい。清い。
2015 6・21 163
* 二時半、雨もさほどでないのに、出て行く気は逸れた。機械の中の「親指のマリア」二つの章を読み終えた。この新聞小説は、時代読み物ではない、時代小説といわれる物をわたしはまったく書きたくなかった。講談社依頼で「秋成」を書き下ろしでと謂われたときも、結局はいま湖の本で発表している「生きたかりしに」が出来、熟成を待って三十年、じっと寝かしておいた甲斐があった。大方の読み手から「文学作品」としての感想が寄せられている。文藝春秋から「蕪村」の書き下ろしをと頼まれたときも、わたしは敢えてあの「あやつり春風馬堤曲」をしか書かなかった。読み物なら他に書く人はいる。他の人に書ける作を自分も書きたいか。そんな気は無かったのだ。
「親指のマリア」のように新井白石やシドッチを書くといえば、どの社も編集者も受け容れなかったに違いない。吉川英治の「宮本武蔵」のようにはわたしは書けないし書きたくなかった。よい文章でよい文学を創りたかった。幸い京都新聞が朝刊連載を依頼してくれた。任せますと。それでも連載が始まってからはびっくりしていたのではないか。挿絵の池田良則さんはえんえんと牢屋の中のシドッチを描いてくれた。新井白石も、とても宮本武蔵ではない。
しかし、いままた読み返していて、これでこそとわたしは「作品」を喜んでいる。敬愛してきた白石の人間を、シドッチ神父と向き合わせて「一生の奇会」との喜びや弾みと倶に精一杯描いた、書いた。ヨワン(シドッチ)と勘解由(白石)とを交替に一章ずつ各三章書いた。相当な長編であり、新聞社はよく許してくれた。それよりも読者がよく辛抱ないし見遁して下さった。新聞小説の通行とはまるでちがう遠慮のない文章表現を貫いた。また、それしかわたしは出来ない、する気がなかった。
「選集第八巻」 文学を愛し求めておいでの読者は、ご期待下さい。
2015 6・21 163
☆ いつも
ご本を お送り下さいまして ありがとうございます。
秦さんの選集(第四巻)は とても興味深く 又 美しく 簡潔な文章を味わい乍ら かたつむりのような速度ですが じっくり読ませていただいています。 が、さすがに もうすぐ読破(!)します。 繪を描く者の端くれながら、希代の画家達の 繪を描く心 苦悩に触れて とても勉強させていただいています。 それにしても 秦さんて ほんとうにすごい方だと 今更のように思っています。 闘病中のお身体とは とうてい信じられないエネルギーにも驚きます。 でもどうかお身体 ますますご自愛下さいますように。
今日は 主人の新作 玉葱 を少しばかりお送りさせていただきます。ご笑味いただければ嬉しいです。
又 ゆっくり お便りさせていただきます。 草々 明 妻の従妹
* こういう来信を披露しているのを嗤っている人、多いと思う。それは構わない。なぜ、これを忙しい中でもつとめて励行しているか。
わたしは趣味で文学をしていない。一生の本業として文学を仕事にしており、その文学生涯半ばから始めた「湖の本」は今では一巻2500円も頂いて、百三十巻・創刊三十年ももう目前。しかも「騒壇餘人」をはっきり公称し、文学の世界にいながら、あえて文壇や出版とはほぼ全面離れ遠のいたままで、創作や著述は当然、本の製作も出版も配本も、みな一人で、妻と二人で、続けてきた。親しい知己、有り難い知己、いい読者だけが、わたしの誇らしい財産なのである。
この、近代文学史に類のない、純文学作家の文学活動・出版活の実績がいかなるものであるか、ありうるかは、これまたわたし自身が記録し証言しておかねばならない「文学史上の義務」がある。そして、わたしの「文学」が何であり得て何であり得ないかを、わたし以外の人の言葉で(たとえどう偏っていようとも)知れる限り相応に証ししておきたい。もののかげで、ひそひそと自己満足だけで趣味か道楽のようなことはしていられないのである。批判は幾らでも受けるが、浮かれてしていることでは、毛頭無い。
* 問題は、目が見えなくなってきていること。
* この機械もかなり怪しくなってきた。物騒な何か、寿命・時勢・頭の弱りなどとあだかも競走しているような按配。どこまで行けるか全く分からないが、走るよりは歩いて歩いて、元気に老いたい、生きたい。静かに自然に死にたい。
2015 6・21 163
☆ 「生きたかりしに」
どこへ辿りつくのかとーー緊張して拝読しています。
「母」としては「かなわん」かもしれませんが、一人の女性としては、不器用な、一途な、精一杯な生き方に 痛ましさだけではない、「思い」をよせています。
国会包囲の一人として参加してきました。 横浜市 孝 読者・編集者
* 作家、当時は「婦人公論」編集者だった梅原稜子さんと二人して、「新潮」に出したわたしの「蝶の皿」愛読いらい、46年もの久しいお付き合い。こう言ってもらえて、わが亡き母は嬉しいだろう。わたしからもお礼を申したい。
* わたしは谷崎愛の作家、母と「母」とを混同しない。物語にどんなに「母」を慕わしく美しく書いても、現実の母とは切れている。わたしには親は(秦の叔母もふくめて)五人いたが、「身内」とは思えなかった。深い感謝や謝罪の思いこそ切に持っていても、である。「そういう、わたし」であったと今も思っている。思いながら日々頭をさげている。
2015 6・23 163
☆ 『生きたかりしに』は、
確実に秦文学の核にになる作品と思います。
御作・御活動の資料保存・研究にたずさわりうる人として 小生のもっとも信頼している同志社大学の田中励儀教授(ないし氏の門下生)にぜひ委嘱なさればと考えます。
「食いしんぼうの記」 田舎者の小生も大いに刺激を受けました(糖の気 私もあるのですが)。 不乙 御礼まで 東郷克美 早大名誉教授
* ありがたいご示唆を頂いた。田中さんとは鏡花や母校や京都を中に、久しいご縁がある。日記や創作ノートや原稿、未発表原稿、初出誌などの資料をお預けできると本当にありがたいのだが。
☆ 『湖の本125』を賜り
ありがとうございます。
この歳になると、親戚、兄弟、友人たちとの間で解決を要するような出来事も多く、ひどく疲れるこのごろ、折々ご本を手にとれば心も安らぎます。御礼まで。 倉田茂 詩人
☆ 『生きたかりしに』のなかで、
石馬寺から**家を御訪問なされた件りを読ませていただき 登場人物が全てよく分かりますので懐かしい思いで読ませて頂きました。
それにしても私の父や家内の事を短い言葉でズバリと表現していただいていることに驚き、作家の方の繊細な観察と適切な表現に改めて感じ入っております。
当時県立高校の教員に成った許りでありました私も定年退職いたしまして既に六年になります。御陰様で地元の教育委員会に世話になり忙しく過ごしております。息子が当時の私の年齢位になり、間もなく当寺への晋山式を行い、正式に跡取りとなるようになりました。
こちらへお越しの節には、**民親氏と共に歓迎申し上げますのでお知らせ頂くと幸いです。
向暑の砌、御自愛いただき、益々御活躍いただきますようお願い申し上げます。頓首敬白 乾徳寺住職 合掌
* 何とも何とも 懐かしい五個荘。乾徳寺さんにはたいへんなお世話になった。ちいさかった建日子との旅だった、よく書いておいたと思う。
2015 6・23 163
☆ 先生と奥様の
毎日のご努力 尊敬申し上げております。
心を元気に保てますよう、先生の御本と亡母の日記を読んでおります。
お体お大切に過ごされますようお祈り申し上げております。 渋川市 路 元図書館長
☆ 生みの母と
人生後半になりかかわりをもつことになった自身と重ねて、「生きたかりしに」興味深く読ませて頂いております。 葛飾 典 読者
☆ 「生きたかりしに」中
今ここに存在することの重さを痛感しています。太古のころより累々と綿々と連なって今に至ることの奇跡が「歴史」ということばでくくられるのでしょうか。
秦先生ごふさいに心からエールを送ります。
☆ 文藝資料や
未発表原稿等、次世代への伝承・保存をお考えなのですか。
同志社大学が小回りが利けば良いのですが……。 田中励儀 同志社大教授
* 早稲田の東郷名誉教授から一足早くお声が届いていたのか。容易ならぬことと思うが、誰にもせよ単独の研究者に任せるより、大学等の施設に預けたほうが安定感はあろう、が、活きるかどうかは運のようなもの。
* 山形大学の図書館が山のように大量の「最上徳内資料」を保管されていて、読ませて貰えたことは限りない幸運だった。あんなに北の時代そのものを証言して価値ある寄託内容をわたしが揃えうるわけではないが、もう一度も二度も三度も精選してみたい。
* 単行著書、共著本、初出紙誌、連載紙誌 初出新聞、全湖の本、全秦恒平選集、電子化データ、自筆原稿、清書原稿、校正原稿、刷りだしなどは、当たり前の資料。講演録、対談録、テレビ出演の記録等もある。
「湖の本」三十年また「選集」刊行に伴う詳細な記録やデータ、また収支にかかわる記録等もほぼ散逸していない。
大小の帳面に自筆の、高校以降コンピュータ使用に到る間の全日記、コンピュータ使用以降今日に到る「私語の刻」その他多彩な全電子化データ。また全交信メールのデータ。大学ノート等に書いた創作ノート等書き置きの全部。
また年譜資料となった大量のこまかな記載をもった手帳も数十册あり、自写他写を問わず多年大量の写真がアルバムとしても機械内データとしても保存されている、
生涯に亘る厖大量の来信書簡から、せめても文学・文藝・創作にかかわる各界文化人・知名人や編集者・読者や知己親友読者らの内容あるものを精選するなり全部なりも、ほぼ散逸せず保管されている。
2015 6・24 163
☆ 夏至過ぎて
「わたしは趣味で文学をしていない。一生の本業として文学を仕事にしており・・・」
そして「問題は、目が見えなくなってきていること。」「・・歩いて歩いて、元気に老いたい、生きたい。静かに自然に死にたい。」
21日に書かれている件りの、その強さ激しさ、同時にその自然さ静謐さを受け止めました。
15日の、信仰や神についての記述も従来通り、納得いくものでした。おそらく日本人の多くも同じような感懐ではないかと思うのですが、どうでしょう。
かなり前のことになりますが、和泉式部の歌、「あらざらんこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」
この二首に歌の精髄が表出されているという記述を読みました。
命の火迸るままに、周囲を気にせず、ある意味究極の愛を貫いて生きる、その真実を詠んでこその歌。その式部の写しかの如く生涯を生きた女人の姿を、お母様に見出します。同時に平安の同じ時間を生きて対照的に述べられること多い、赤染衛門にも思いを致します。
紫式部などは衛門を断然支持していて、世間一般はやはり衛門的生き方を肯定しました。そして現在とて、女性の生き方が変化しつつあると言っても、基本的には誰しも和泉式部のようには生きられない。
どちらの生き方に共感するか、それは問わず、さまざまな生き方をわたしは受け入れます。わたし自身もまた・・両方の要素をもち、そのような行動パターンを生きている、と。
できることなら自分にとっての真実のまま思い切り人生を貫きたい、と鴉が、『生きたかりしに』の感想で、鳶に特に聞きたいと思うことは奈辺にあるか、わたしは分かっているつもりなのですが、その故に、まだ書くことができません。
HPから読み取っている事柄をまず書いてしまいました。
一か月ぶり? のメールですので些かとりとめなくて済みません。
通っている日本画教室の展覧会が今開かれていて、明日は一日会場で受付の用事があります。今月はそのような機会が二度重なり、搬出入、展示などやはり少し気忙しく過ぎています。
歯肉炎で歯医者に通っています。医者は無理してはいけません、治りませんよと言いますが。さて姑のことやらあるとしても、肝臓に問題はあっても近々の検査は胆嚢、すい臓などパスしていますし。それほど無理はしていないのです。
こちらは梅雨と言っても九州や関東で報じられている集中豪雨などなく、から梅雨に近い毎日です。庭の梔子、紫陽花、木槿、沙羅双樹、みな季節を楽しむかのように咲き続けています。スケッチとなると追いかけられる感があります。
最後になってしまいましたが、安保法案に関連して国会は会期95日延長とか。さまざま恐ろしいことです。本当は書き連ねたいのですが、それはHPで鴉が既に丹念に書かれていることですから・・。
くれぐれもお身体大切に 夏を乗り切る体力をつけ無理なさらぬように。 尾張の鳶
* 作の感想をとなると、まず聞きたい知りたいと思う人である。ま、また聞かせてくれるだろう。詩も読ませて欲しい。
☆ : 発送作業、お疲れ様でした。
「生きたかりしに」と相まって、(選集⑦の「罪はわが前に」など)殊に重い意味を持つ巻ですね。今日届きました。有り難う存じます。
今は「生きたかりしに」の方を読み進めます。
ゆっくりお休みになって、お疲れを癒して下さい。
少年のままの魂を抱いた団子さんへ 黍
* 桃太郎で「黍団子」と、名は覚えたが、形も味も想像がつかない。
2015 6・24 163
☆ 梅雨空のもと
紫陽花が美しく咲いております。お元気でお過しのコトと思います。
先日は湖の本をありがとうございました。
昨年 百一歳の天寿を全うした母を思いだしながら読ませていただいております。
いつもながら ありがとうございます。 京・大枝 望月重延 漆藝家
* 「活きたかりしに」の下巻は、七月六日に届ける予定と凸版印刷株式会社から連絡が入った。この完結と発送終えれば、しばらく、ふうっと息がつけるだろう。仕事は次々に続くけれど。
* 疲れ切っている。眼も見えない。字も読めない、本も読めない。九時。寝入るか。
2015 6・25 163
☆ 拝啓
七月にもならないのに、暑中お見舞いを差し上げたくなるような日々ですが、お変りございませんでしょうか。
長年にわたって構想なされたという長編「活きたかりしな」を上、中 相次いで賜り、目を見張りました。
冒頭、京大の「N先生」の登場に、思わず引き込まれて拝読しております。
ありがとうございました。 今西祐一郎 元九大教授 国文学研究資料館館長
* 「 N 先生」は今西さんらの大先生であった、野間先生である着流しで止まり木に粋に腰掛けて気さくによく話して下さった。祇園の飲み屋ではほかにも偉い懐かしい先生方とよく一緒になり、ご機嫌でよく飲んだしよく話した。有り難かった。わたしはお年寄りにはとてもウケがよく可愛がられたのである。
☆ 拝啓
梅雨明けが待ち遠しい今日この頃ですが、先生にはいかがお過ごしでしょうか。
先日は「湖の本」124 125「生きたかりしに」上中をお送りいただきまして まことにありがとうございました。味わい楽しませていただく所存でございます。
御礼にはまったくなりませんが、最近友人と創刊いたしました研究雑誌(「近代文学資料研究・1」)を同封させていただきます。この雑誌は資料を楽しもうという性格のもで、五冊まで刊行する予定です。
中に小生も一本、萩原朔太郎関係で執筆いたしました。実は「研究ノート」のつもりで書いたものだったのですが、意外にも論文扱いになってしまい、やや恥ずかしい気持ちのものでございます。
ご笑覧いただければ幸いに存じます。
本格的な夏をひかえ、一層ご自愛くださいますようお願い申し上げます。 敬具 野呂芳信 東洋大学准教授
* ことに親しくして頂いた野呂先生のご子息であろうかと想っている。ご親交を願いたい。
2015 6・26 163
☆ 「生きたかりしに」中 拝読致しました。
P265「性根に末っ子の人なつかしさのようなもののあるのが、無意識に・・・」と、p367姉上のお手紙、「姉の文章には渋滞したものがなかった」とを結ぶプロセス が 印象的でした。
上巻、父と息子に、今は姉と弟の交信(心)に救われています。
そしてP120(290)5行からP291(291)2行の7行をお読みになった、姉上は天国で静かに微笑まれていらっしゃることでしょう。 練馬 裕
2015 6・26 163
☆ 加賀は梅雨に入りましたが、
今日は晴れて暑いです。きのう病院(月に一回の診察)から帰りましたら「第七巻」が届けられていました。ちょうと「生きたかりしに(中)」を読み終えたばかりなので、さっそくこの巻で「罪はわがせ前に」を読ませていただきます。
「罪はーー」の単行本は、神田の古書店で見つけて(ずっと前です、いつか忘れたくらい)、カバーがヤケていたのを気にしながら買って読みました。
林( 富士馬) 氏との対談を先に読んで、今さらながらこれまで秦さんのお作をいかに上っ面だけをなぞったような読みかたしかできていなかったことーーと想っています。それでいて ファンレターを書くほど感激した(それがご縁で今までご親交をいただいています)のです。これからは、別の読み方になると思います。
先日 庭を掃いていたら 竜のヒゲの中から一米近いシマヘビが走り出ました。粟生では蛇はめずらしくありません。以前風呂をリホームした時、古い風呂場の下に白に近い蛇が塒を巻いていました。工事の人が貰っていいかといって持ち帰りました。 散歩の途中で田ンぼの畦や用水の中に時々見つけます。ほとんどシマヘビのようです。
秦さんのお作を読むようになってから、蛇はただ見過すことがなくなっています。
先日 小林輝冶さんがなくなりました。私と同年です。小林さんは福井から金澤に来て、石川の文学者の研究を巾広くなされ、大きな業績を残していかれました。クリスチャンのお葬式に初めて参列しました。
ハチミツ お気にいってくださったようで何よりです。 レッテルに写真のある先代からのヒイキで、購入に行くと 広い入口の板の間で、長々とハチミツの効能を説かれました。 私も軽いゼンソクで、ずっと愛用しています。また機会を見てお送りします。
重いブレゼントをいただく気の重さをそらそうと、筆が外への走りました。字の乱れもお許しください。
奥様ともどもお大切にと願っています。 井口哲郎 元石川近代文学館館長
* この心温まるやさしい筆致のお手紙は、谷崎松子夫人に多年頂戴していた美しいお手紙と一対のわたしの宝物である。手紙とはこのように書かれて嬉しいもの、最良の消息とはこうなのである。にがてな蛇が書かれていても、井口さんがいわれると、しぜんと「清経入水」や「三輪山」や「みごもりの湖」や「冬祭り」や今回選集に入れた「丹波」などなどが懐かしく胸の内に浮かびあがってくる。
小林輝冶さんのこと、残り惜しい。この方も湖の本の最初から三十年近く変わりなく応援して下さった。ご冥福を祈る。
2015 6・27 163
☆ 前略
すっかり御無沙汰いたしております。京都府文化功労賞表彰式の日、お目にかかれるのを楽しみにしておりましたがーー。
御労作を次々とお贈り頂き、御礼の申しようもありません。封を開けてすぐに「私語の刻」を読む楽しみは格別です。
それにしても一連の御仕事ぶりは、私にはもう驚愕としか言いようがありません。すべての読者が実感しているところでしょう。(もっとも私の方は、その都度、自分は何をしているのだろう、と反省させられ、落ち込んでしまうのですがーー)。
本日、御礼の(ごくごく)一端として、故郷である山口県岩国市でつくられている、話題の日本酒「獺祭」を、知人を介して入手いたしましたので、一瓶、しかも小瓶ですが、お送り申し上げました。(不細工なつめ方ですみません。)御賞味いただければ幸甚です。
天候不順の折柄、御自愛下さいますよう。
先ずは御礼まで。 村井康彦 京都市文化芸術協会理事長・滋賀県立大学名誉教授
☆ 初夏の
さわやかさを楽しめる日も殆どないうちに梅雨の季節となりました。
ご高著「生きたかりしに」 本当にありがとうございます。
自分のことを書いて恐縮でございますが、今の日本の政治的社会的状況に対するつよい関心もさることながら、八十六年この世に生きてきて、人がどんな家族環境に生まれ育ち、どう人格形成がなされたかについて深く考えるようになりました。
先生とご生母との関係をこのご本を通して初めて知りました また先生と同じく私の両親も京都育ちということもあって、時には古い京都の地図を見たりして 興味深く読ませて頂いております。ご厚情にこころからお礼申し上げます。不安定な季候の中、どうぞおからだをお大切になさいまして お仕事をお進めになられますようお祈り申し上げます。 かしこ 元東大法学部長福田歓一氏夫人
2015 6・27 163
☆ いつも
すてきな御本をありがとう存じます。
好きなむくげ一輪咲きはじめました。どうかお大事に。 五個荘 民 作家
* お志し、いつも過分に有難う存じます。
☆ 冠省
選集第七巻 ご恵贈いただき有り難く拝受致しました。「罪はわが前に」は単行本で拝読しました。私小説とは、こうまで赤裸裸で辛いものなのだと存じました。
「生きたかりしに」中巻 近江路水口宿での辻元きよさんの話には、ほっとさせられました。「中肉中背の、見るからに品の佳い丈高い人で、当時としては、ハイカラを繪に描いたような美しい顔と良い服装だったから、ただ遠目にぼうっと憧れていた」と くにさんのことを語っています。宝塚スターを彷彿とさせるような方だったのかと感じました。
梅雨のうっとおしい時季です。先生も奥様もどうぞお大切にお過ごしください。
ありがとうございました。
些少同封致しました。お納めください。 和歌山・貴志川 朱心書肆主人
* ありがとう存じます。
三姉妹にも心から、五人の親たちにも、また、そっとあたまをさげています。が、書くべきを心籠めて書いた気持ちに変わり有りません。文学が藝術になるか、紙屑同然になるかは、籠めた心と文章から品が匂い立つかどうかで決まるのです。
2015 6・27 163
☆ 秦恒平撰集第七巻
頂戴いたしました。
京都での授賞式への出席も見合わせられたというご体調の中での、次々の出版、本当に感銘御尊敬申し上げております。
以前一度お金では失礼? がしらとお酒をお送りしたことがありました。お菓子だとかお酒だとか、只今の御体調を把握しないまま何かモノを差し上げるのはやはり失礼だと思い、こちらも失礼と云えば失礼なのですが、奥様に、秦さんの御体調に合ったものを調達して戴こうと思い、心ばかり同封いたしました。
こういう偉業を成し遂げていらっしゃる中での奥様や御子息のご苦労ご協力がどのように大変なことであるか、よくわかるような気がします。でも同時にご一家が全力を挙げて取り組んでいらっしゃることに、とても暖かい羨ましいものを感じます。
私は、前にもうしあげましたように、今は(=新刊の)「湖の本」の方に夢中ですが、次は(=第七巻の) 「罪はわが前に」拝読しようと楽しみにしています。
八十の坂を登るのは大変だと前々から医者の兄に聞かされていましたが、そしてその本人も八十六才になりエレベーターのない古いマンションでフウフウ言いながら暮らしていますが(長兄は昨年八十八歳で旅立ちました)本当にそのようで八十三才と八十四才の老人夫婦 ヨロヨロと暮らしています。京都にはやっと行って参りましたが、その後は一週間位、疲れから来る色々の症状に対対峙しなければなりません。
本願寺の岡 別院という所で会がありその隣の平安の森ホテルという処で或る方の撰集刊行完成の祝賀会があり、そのホテルで(=夫君高史明さん)は話したのですが、(ホテルの)すぐ隣に岡崎神社という何やら由緒ありげな神社があり、帰ってから若い人にスマホで調べてもらったら、祭神はスサノオノミコト・クシナダヒメで、平安京の東のかための神社とか。大磯の中心の六所神社もクシナダヒメなので、どちらも新羅系、何か因縁を感じました。もう京都も見納めと思い、東本願寺だけお参りして帰りました。
さてもうひとつ同封のものは、北沢恒彦氏のお手紙です。
わが家の息子の自死などもあり、大変たくさんのお手紙をいただいていましたが、小平から大磯に越した十四年前、大方は整理しました。でもどうしても捨てられない手紙があり、ダンボール二箱位残して持って来ました。でもやはりそろそろ死に支度で、もう一片付けしなければと日々丁寧に読んでは始末するということをはじめました。
先月、その中で北沢さんのお手紙を見つけました。はじめてお会いしたのが息子が死んで半年後ぐらいの頃、京都のほんやら洞という反戦喫茶店で、その時もその後も何回か京都を案内して頂いたり、一度は小平のわが家にいらして下さったりしましたが、お会いしたのも十回に満たない位の数でしたし、お手紙を頂いたことは忘れていました。
でも改めて読みますと、あの北沢さんの表面は厳しいのに心の底の何とも云えぬ優しさがよみがえって参ります。本当に優しい方だった。そしてそれは底知れぬさびしさに裏打ちされた優しさだったと、今思い当たりました。殆ど交渉がなかったとおっしゃっておられましたが、やはり濃い血のつながり、秦恒平さんにそっくりだったと強く思います。
(筆が走って失礼なことを申し上げました)
大事な手紙と写真は私共が死ぬまではとっておこうと思っていますが、今回、北沢さんのお手紙は秦さんにお送りしようと思いました。私共には子どもがいませんので、死んだら皆ゴミとなって捨てられてしまう、それならそちらに差し上げた方が──と夫と相談して決めた次第です。失礼でなどないようにと心から願っていますが。
撰集と湖の本 秦さんご一家には只今一分一秒でも大切な時と思います。つたない私共の便りを受けとったという御連絡などお気使い下さいませんように、私共に本を頂くこと、それを読むことが一番大事ですので。
前から上手くはありませんでしたが、最近ますます字が汚くなっております。読み辛いと色々な人から叱られますが、パソコンが使えないので手書きになります。御迷惑もかけて申し訳ありません。又、夫は私以上に判読不能な字を書き、従って筆無精になっておりますのでいつも失礼しております。でも二人共、秦さんのお仕事を尊敬し、それが成し遂げられることを心から念じております。
くれぐれもお体お大事に 御夫妻のご健康を念じあげます。
舌足らずの手紙で失礼いたしました。 合掌 岡百合子 エッセイスト、作家高史明詩夫人
* 嬉しいお手紙を、いつもいつも、本当にうれしく頂戴している、そのうえに、もう久しくも久しく、亡き兄恒彦に代わってのように、ひとしお心温かな応援をして下さる。身の幸せを底知れず感じて感謝している。
* 兄恒彦の高夫妻へ宛てた手紙を、いましも読んでいる。恒彦の書字は、これはもう特級の判じ物のようで、きちっと読み取るのに心血を注がねばならない。懐かしい。とても恋しい。
☆ 拝啓
御健勝 大慶に存じます 続々御著頂戴有り難く存じます。今 小説を読む楽しみを存分に味わつてをります。
梅雨が明けましたら 一度お目にかかりたく存じております。 不備 寺田英視 前文藝春秋専務
2015 6・29 163
☆ おはようございます
今年も早いもので折り返し点に来てしまいましたね~ ご無沙汰ばかりで申し訳ございません。 ご体調は如何ですか? 気に掛かっていましたら 先日思いがけず立派なご本をご恵贈頂きびっくりしております。 有り難うございました。本当に私の様な者に頂いても良いのでしょうか。
ご本を読みながら、子供の頃の自分に返って懐かしい思いに浸っています。 新門前の梅本町に小学校の恩師が住んでおられて遊びに行ったりしていました。 同じ京都に住み同じ地域の中で子供時代を過ごしていたからでしょうか本当に懐かしい何かに引き寄せられながら読ませて頂いています。 有り難うございました。
私も先月肺炎になって入院していましたが、昨日退院後の検診で無事との許可をもらって ホッとしています。
これからご夫妻共にご無理をなさいません様にくれぐれもお大切にお過ごし下さいませ。
追伸 過日お見舞いにと予約でお送りしたのですが、和菓子でなくてごめんなさい。 奈良市 絹
* 「華」さんも「絹」さんも高校茶道部でわたしから茶の湯を手ほどきされた後輩で、二人は仲良しだった。はからずもメールを同時にもらって、ほおーっと昔を偲んでいる。二人とも、湖の本をずうっと応援してくれている。
我が家の一軒東からが新門前の梅本町だった。そうか…うちの前を通って先生のお宅へ遊びに行ってたのか。むかしの家なみが思い出される。ありがとう。
* 以前は郵便配達は午前も早い内だったが、この頃は夕刻になっている。
2015 6・30 163
☆ 秦恒平 先生
この度は「秦恒平選集第七巻」を御恵贈賜りまことにありがとうございました。貴重な著者私家蔵本を頂戴し御芳情のほど厚く御礼申し上げます。思いがけないいプレゼントに驚きうれしく、本を撫でさすりました。
「湖の本」127冊のとなりにどっしりとところを得ております。
『生きたかりしに』中巻を一所懸命読んでおります。
著者が誰か、創作の背景などまったく情報がないまま読んだとすると,時にmysteriousで、また事実探索の手掛こふと森鴎外が脳裏こ浮かんだり ノーヴェルとして楽しめます。
さりながら、「わが八十の生涯を、思想および生活の両面から相重なり合うて裏打ちした作であること、…わが身の程を明かす臍の緒であった」との言葉を眼にしたのちは、リビングルームのテーブルに乗せた足を下ろし、背筋を伸ばして拝読しておはす。
上田秋成が通奏低音として響くなかで展開していく場面を、様々に思考を巡らしながら読んでおります。
さいわい、私は東京と大阪を振り子の如く三回も転勤を重ね、京の街をそして湖西・湖北の山々、沢を歩き回ったことでかなり土地
勘があることから、別の楽しみも読み解くことができています。
この八年ほどは、専らギリシア哲学とくにプラトンを古典ギリシア語で読む道楽こ耽っており、日本文学までなかなか手が回らない
日々が続いておりますが、この機会に未読の「湖の本J のページを繰らせて頂きたいと考えております。
「視野視力の動揺おさまらず…」との由、案じております。御無理をなさらず、どうかお体おいといください。
先ずは御礼まで申しあげます。 敬具 鎌ケ崎市 篠崎仁 読者
* 我が家での いわゆる「全巻読者」で、お付き合いは三十年に近い。感謝に堪えない。
☆ 秦恒平選集第七巻
ありがとうございました。もう第七巻とは目を見張る勢いですね。
二十六日 二十七日とバスツアーで能登半島を一周してきました。お天気が良ければ絵葉書のように美しいだろうと グレーの空と海が少しうらめしかったです。
輪島の朝市から少し干物を送ります。
お風邪などひかれませんように。 各務原市 真 読者
* 創刊いらい三册ずつ三十年ちかく買って下さってきた。何かの度にいろいろと送ってきて下さる。感謝。
2015 6・30 163
* さ。六日に出来てくる「生きたかりしに」下巻完結のための発送用意に取り組まねば。
① 封筒を注文する。代金を上中下すでに頂いている読者への挨拶、今回分をお願いする挨拶、これまでに未納のある読者へのお願い、各界人・大学・高校・文学館・図書館等への寄贈の挨拶を、それぞれに書いて ② 印刷し ③ さらに一つ一つにカッターで分割する。 ④ 買い入れた封筒に、湖の本の印、謹呈・贈呈の印などを全て捺す。 ⑤ 払い込み用紙に版元等の必要な登録印を捺す。 ⑥ 用意されている全ての送り先宛名住所を印刷し、一枚一枚封筒に貼っておく。
すくなくもこれだけの作業は本が出来てくる前日までに終えておかねばならない。これを、もう三十年近く、現在までに126巻ぶん、妻と共に励行してきた。
編輯、入稿用意から校正・責了までの間にも手抜きの利かない慎重な作業や判断が幾重にも必要になる。編輯・制作体験を積んでいなかったら、これは到底できることでない。たくさんな作家達がいまではわたしの「湖の本」と同じような作家の出版を希望もし憧れてさえいることをよく承知しているが、① 出すに足る作品と量 ② 編輯力 ③ 愛読者・知己の多さ ④ 家族の献身的な協力 ⑤ 健康と気概 ⑥ それなりの資金用意 が無ければ、誰にも真似も出来ない。人を雇って機械的に事を進められるような仕事ではない。知る限り、追随例を一つも知らない。「騒壇余人」に徹する覚悟も、むろん容易ではないだろう。
* いまの私たちには、さらに「秦恒平選集」の刊行という大仕事がある。一巻一巻の一期一会、気概の繰り返しにじっと耐えて行く、資金の続く限り。命の続く限り。
2015 7・1 164
☆ 秦恒平選集第七巻
ありがとうございます。
非常に早いペースでのご発刊、しかも「湖の本」との同時進行。さまざまなご苦労がおありでしょうにーー。ただただ驚き入っております。
「生きたかりしに」上、仲 作品への強い想いをもち、重く受けとめつつ、読了したところです。
最後に、お体 くれぐれもご自愛下さい。 愛媛・今治市 木村年孝 元図書館長 2015 7・1 164
* サッカーなでしこジャパンがイングランドに勝ち、決勝戦でアメリカと戦うことに。前回ワールドカツプ決勝戦の再現。健闘を!
ゲームを見ながら、入金事情を点検しながら宛名の貼り込みを終えた。妻にさらに再点検してもらっている。このごろ、わたしが、ちょくちょくイージィミスをしでかす。上中下巻、間隔をつめて送り出してきただけに「未入金者」は現状かなりの数になる。
非売の選集はもとより経費は総額支出が当然で、ごく少数の熱心な希望讀者には一冊経費相当をご支援願っているのだが、「湖の本」は買って頂いている、しかし、現状は大幅赤字になっていて、三十年近く、百三十巻に近いのだもの、収益のことは半ば最早度外視している。何冊も未入金の人には、もう送本しなければよいと割り切り、ただただ久しいお付き合いの今後も続く方々に、深甚感謝している。「文学活動」としては、各界の知己、大学、短大、高校、研究施設、図書館等への寄贈を大事に考えているが、幸い、九割九部がた喜んで受け容れられていて嬉しい。眼が届かずに洩れている学校があれば、お声を掛けて頂きたい。とにかくも無用の出血負担を減らすためには、製本部数をむりなく漸減することも当然考えている。幸い、掲載原稿はまだまだ有り余っている。書き下ろし小説の新作も何作か用意しているし、未刊行エッセイはわたしも驚くほど大量待機していて、百五十巻はらくに越えて行く。
とはいえ、わたしたちの健康からも、賢い潮時は考えつつ「選集」の良い形での増刊を平静に心がけ続けねばならない。
* ともあれ「生きたかりしに」下巻、来週月曜受け入れの発送用意は間に合う。土曜か日曜には、すこし気散じに外出できるだろう、か。
この二三日のわたしの主食は、カステラ、コーンフレーク、味好い饂飩、さらに和菓子、開新堂さんに戴いたクッキーなど。幸い三千盛や獺祭など美味い酒が半主食になってくれて、酒の肴は豊富にある。ただ、たくさんはとても食べられない、満腹すると苦痛に呻くようなこともある。すこしずつをしきりに食べ、すこしずつをしきりに飲んでいる。幸いに、暑さのおかげかこれまで一缶飲めなかったビールが喉をおいしく通ってくれている。赤いワインは相変わらず、お薬と思って日に一度は少量口に含んでいる。
2015 7・2 164
☆ 秦 恒平様
謹 啓
「秦恒平選集」第七巻、いただきました。私のような者が、御恵贈いただいて本当に良いのだろうかと、頬を抓る思いで受け取りました。有難く幾重にも御礼申し上げます。
可笑しな話しですが、丁度コルタサルの短編「続いている公園」を数日前に読み返したばかりで、先生が24日(水)のHPで「朝、照りつける坂道を重い腕車のバランスに難儀しながら郵便局へ。」と記されており、「ああ、さぞ、大変な思いをされておられることだろうな」と思っておりました、そのやさき(私は、あいにく田舎に行っており、不在通知が入っており、29日(月)に再配達いただきました)「秦恒平選集」が届いていたのですから、まるで先生が腕車に積み上げ、難儀されて運ばれた「選集」がタイムトンネルを通って、そのまま我が家のポストに真っ直ぐ届いたような、不思議な錯覚にとらわれました。正直、夢を見ているような気持でした。
「秦恒平選集」は、本当に持つべきに相応しい人が持ち、日本文学の成果(金字塔)として、確実に後世に伝え、研究資料となすべき、貴重なご出版なのだと思い、陰ながらご進捗を見守らせていただいておりました。高夫人(=岡百合子さん)の礼状にもありましたが、私も今の齢ですと、大切なご著書を保存的に遺していくことが出来ないだろうな、という思いが迫り残念でなりません。
御出版がもう10年前だったら、ご無理を申し上げても、全巻前払いしてでも、予約させていただいたろうと思います。苦心して集めた「鏡花小説・戯曲選」や「谷崎潤一郎全集」とともに、ガラスケースの書棚に「秦恒平選集」がずらっと背表紙を揃えて並んだら、どんなにか壮観で、嬉しい(気持ち良い)ことだろうとも思ったこともありました。
しかし、「湖の本があるじゃないか」 私は、自分にそう言い聞かせました。「選集」に、編まれた先生の意向を汲み上げるように、「湖の本」で読めば良い。私は、自分に、そう納得させました。
HPで紹介される、礼状の数々を読みながら、r 選集」がそれぞれに相応しい方々の手に納まっていくのを、「選集」のために祝すべきことと感じております。
私は、お贈りいただいたことを重く受け止めます。それは、しっかり読み込むことだと肝に銘じました。重ねて御礼申し上げます。
「罪はわが前に」は、1976~7 年頃、北区の王子図書館で読みました。
いろいろ思い出します。当時は半ば失業状態でしたので、新刊本は購入できず、バスで5 分ほどのところにあった王子図書館に毎日曜日、家内と通いました。
岡本かの子全集やドストエフスキー全集本は、そこで全部読みました。正直言って現役の作家で読んだのは先生の本だけでした。「みごもりの湖」「迷走」三部作、「誘惑」「慈子J 「罪はわが前に」等々、を借りて読みました。小説で初めて買った単行本は「冬祭り」ですから、以後の本はたいがい買っていますので、間違いないと思います。生意気なようですが、硬質な文章と、歴史とひと続きに現代を捉え、時空を超えて人間(日本人)を造形していく描き方が好きでした。これが日本文学のあるべき姿とも思いました。
髷と一緒に歴史を捨てきって、フランス人やアメリカ人のふりをして、どこに日本人がいるというのでしょう。トーマス・マンはこれぞドイツ人というドイツ人を、ゴンチャロフはこれぞロシア人というロシア人を意織的・意図的に書きます。そしてドイツ人とはなにか、ロシア人とはなにかを哲学します。日本文学というとき、そこに明明として平安、安土桃山、鎌倉、江戸を生きてきた日本人が描かれていなければならない、と思います。私は秦文学に、真の日本人を描く日本文学のあるべき姿を見てきたように思います。
「選集J 第七巻をいただいて、「少女」と「或る折臂翁」はすぐ読みました。
「少女」は「湖の本」で、「或る折臂翁」は「廬山」で既読でしたが、こうして「選集」で再読した印象は、まったく違って浸みこんできました。いったいお前は、いままで、なにを読んできたのだ、と忸怩たる思いで、惹きこまれるように、たちまち読み終えました。
「少女」は志賀文学の原点「母の死と新しい母」ともいうべき、秦文学の原点と感じました。ここにいたり「生きたかりしに」を読み進めていなければ、理解の及ばないものでした。秦さんは「生きたかりしに」を書いて漸くに生母と本当に和解された、と私は感じています。HPに載せられた歌
「生母(はは)といふ他人(ひと)を厭ひて遁げてきし
六十余年 すべもすべなき 恒平」
と他二首に、それを私は感じました。
しかし無意識の和解は作品「少女」にすでにあったと読みました。どこか養女らしい、あるいは再婚の連れ子らしいところの少女に抱く「私」の感想 「孤独な突き放された魂」、この言葉に私は、ハッとしました。秦文学のキーワードをみた思いがしました。
「私」は「少女」であり、「少女」は「私」であり、「少女」の意を図り、半ば強いるように食事を饗したのち、
「わあっと大声が出かけて、それこそ一目散に私は駆け出した。たちまち眼鏡が曇り、街の灯ばかりが冷たくきらめいた。」
と作者が描かれた、その「私」こそ、秘かに我が子に会いに来た生母(はは)であり、プレゼントを養家に届ける生母、「私」が逃げ回り、会うことを拒み続けた生母だったのですから。
「私」はr 少女」を生母(はは)が幼い頃の「私」を見るように見ていた。
そして生母が幼い頃の「私」にしてあげたいと切望して成し得なかった、共にする食事、慈愛の抱擁が、「私」の「少女」に対する行為に重なって見えた。
この時「私」は生母の心を理解し、生母の体温と一体になっていた。それで「私」は泣いた。と、私は読みました。
「少女」から「生きたかりしに」にいたる闇夜行路、ここに秦文学を読み解く重要なキーがあると改めて思わせていただきました。
また「或る折骨翁」は、なんと現在的な小説でしょう。50年の歳月を超えて、現在こそ、多くの人に読まれなければなりません。
「新憲法には初樹も関心をもっていた。日本人の生まれかわろうとする理想を赤ん坊ほどにも無邪気にむきだしに提唱していた。どことなく時代錯誤じみてもいた。意法が悲願や理想をかかげるものなら新憲法はこの上なく立派だが、その新憲法を空文化していく世界情勢が遠からずくる、国内でもわき起こることは想像しなければならないことだった。」
現安倍政権の出現の必然性がすでに予見されている、と読みました。新憲法発布の経緯や当時の社会情勢を知らない私には、このような洞見があったのかと、改めて襟を正す思いで読みました。
反戦の同志? として結ばれた、初樹と弥絵の身を潜めるようなつつましやかで平和な山暮らしに、イヤゴーのような狷介な康岡が介入してくる。
康岡は「非国民」という差別音を使って正義を威圧し、歪め、押し潰す無知蒙昧な「世間・民衆」であり、安倍政権のような朝三暮四に等しい言葉の詐術をつかって国民を言いくるめ、隠然と、まるでヒトラーのように強権を振い、国民の自由を簒奪し、武力による強盗集団を作って、他国を侵略することも辞さない戦前の軍部体制への移行がもたらす状況、それを体現している人物で、弥絵(良織・国民)に誅殺されて当然です。
命を賭けなければ一度出来上がってしまった社会を変えることは出来ない。
弥絵は、康岡に草刈鎌を振り下ろし、自らも命を絶つ。革命です。しかし革命で理想の社会が出来ないことは歴史が証明しています。支配者が替わるだけで、状況は何一つ変わらない。初樹の置かれた状況は何も変わらず、康岡は死んだが、愛する弥絵にも死なれてしまった。むしろ弥絵の死と、どす黒く成長した猜疑心がいよいよ重く、酷く初樹を責め苛むでしょう。初樹に救いは決して来ない。なんと酷い結末でしょう。
この後、それでも初樹が生き延び得たとしたら、初樹はオイディプス王のように自らの眼を抉り取るのではないでしょうか。もうこれから先は、読者には哲学があるのみです。
弥絵の最後の言葉 「おとうさま御免なさい」、の「おとうさま」は平蔵か、あるいは自分の父かと思うところですが、ここは私には父なる神、永遠の父性に詫びたように思われました。
重い重い小説です。不条理の小説です。漱石の「心」のように読者に哲学を強いる思想小説です。
「或る折臂翁」は秦文学を読み解く重要な作品として、必ずや研究される運命にある作品であると思いました。
それから「罪はわが前に」が、「未完」と、あるのに衝撃を受けました。「未完」だったんですね。この「未完」を「完」にするのは「生きたかりしに」なのでしょうか。
よくよく読み込まなければ、秦文学は理解できない、せいぜい理解したつもりで終わってしまうだろう。と、いよいよ我が身の非才を
身に滲みて思い到るばかりです。
「選集」第七巻はとてもとても重要な巻と感じました。
勉強させていただきます。ありがとうございました。 八潮市 小滝英史 作家
* 著者冥利とは、これぞと。わたしの文字どおり「処女作」二作をこうもしみじみと読み切ってもらえた身の幸は、ことばに替えるスベがない。「いい読者」に自分は恵まれていると思い続け言い続けてきた喜びを、新ためてしみじみ味わっている。
「清経入水」いらいたくさんな評論や書評をもらってきた。小滝さんのこの一文をわたしは忘れまい。「いい読者」とは自分に単に好意的な読者を謂うのではない。あつい「おもひ」で作品を燃え上がらせて下さる人を「いい読者」と読んでわたしは頭を垂れる。
* 都立中央図書館からも天理大学図書館からも選集受領の挨拶があった。
* 京・洛北のバー「樅」の横井千恵子さんから、美味い佃煮が届いた。酒もいよいよ美味くなります。
* もう七八十人分、宛名を書かねばならない、この両三日のうちに。問題なくできる。それで用意は満了。
眼は霞んでしかもギトギト、キラキラ。ほとんど字が読めない。アテズッポーでキーを敲いている。もう休むしかない。
* 「げに 兵は凶器なるかな。」 馬琴の一句がみみに鳴っている。
2015 7・2 164
* 皇居の周囲を取材した案内番組のなかで、皇室の御用達、いつもきっちりした缶詰めでたっぷりと特製クッキーを戴く村上開新堂の紹介があった。維新の折、京都から江戸・東京へ移ってきて創業した老舗である。番組の知らせは社長母娘さんからもらっていた。創業以来の歴史を綴った好い書籍ももらっていて、優れてユニークな経営に徹した名匠の風格ある洋菓子屋さんである。社主とのご縁は久しく、「湖の本」創刊いらい途切れなく手厚く応援して戴いている。創刊と購読依頼や配本時のわたしの挨拶に意気を感じてもらうたのが三十年のご縁であった。
一切配達しないお店として知られている。いつもいつも郵送してご馳走して下さり、有りがたい。
皇居のへん、あらためて歩いてみたくなった。本丸跡、北の丸公園、将門塚など。よく行く国立劇場からの帰りに、濠ぞいに帝国ホテルまで妻と歩いたことも何度か。ジョギングの元気はないが、気の晴れる空の明るさがある。
2015 7・3 164
* 今では笑い話であるけれど、初めて週刊誌大の私家版第一册以降四册を創り続けたとき、なにしろ文学仲間も先生も無い一切独り合点の思い立ちであったので、百、百五十と造ってみても届ける先がほとんどなかった。
で、たまたま好いダイヤリーを手に入れたので、志賀直哉、谷崎潤一郎、中勘助、歌人の窪田空穂、詩人の三木露風、さらには批評の神様小林秀雄といった天上に光り輝いていたような名宛てに、当然そうすべきもののように本を送った。その結果がまわりまわってどうなったかは物語のようでもあり、今はかなり広く知られているので繰り返さないが、とにかくも「いい読者」と出逢う大切さを心から思い願うわたしは、文壇とかぎらず、各界に知己を得ては、ていねいにお付き合いをこころがけまた重ねてきた。国文学、歴史学、美術史学、民俗学、宗教学等々の研究者や大学教授がた。医学書院勤めをしていたので、医学部の大先生達も編集者としてだけでなく、文学の書き手としてもお付き合いが出来た。
ひところの東大医学部教授はじつにおそろしいまで怖い丈高い存在で、そんな人達に迫って研究書出版や論文執筆をお願いするのは容易なことでなかった。名前すら呼んで貰えなかった、「本屋の人」などとも呼ばれた。ところが、小説の私家版をつくって、ときにおそるおそる先生不在の教授室の机に献呈してきたりすると、仰天したことに、だれよりも畏れ多いむかった教授からデスクへ電話が来て、「こういうものを書かれる人とも知らず想わず、これまでは失礼しました」と挨拶され、天井まで飛び上がりそうに驚愕した。そんな経験もあって、まして受賞もしてからは医学編集者務めが、ほんとうにラクになった。教授室で話し込めるようになり、さまざまな親切を戴いた。順天堂内科の先生には、まだ受賞前に、当時受診されていた大先輩の円地文子さんを教授室でご紹介戴き、このご縁はよほどいい地下水のようにわたしを「新潮社・新潮」へまで誘い出されたらしかった。
、わたしは、子供のむかしから、お年寄りに愛されるタチであったが、太宰賞以降、どれほど多くの諸先生、諸先輩のお引き立てを蒙ってきたか、数え切れない。しかしまたお年寄りは早くに亡くなって行かれる。「湖の本」へ意気を振り向け、しだいに「騒壇余人」の境涯へ歩んでいったのは、もうわたしの理解者は「いい読者」と尊敬し敬愛できる各界の知己と思い詰めたからでもあった、それはじつに豊かなわたしの心の財産であった。
2015 7・3 164
☆ 貴選集第七巻
拝受しました。
「湖の本」には秦様の読者への配慮を、『選集』には自作品への愛情を、しみじみ感しさせていただきながら、開披しております。ありがとうございました。取り敢えず御礼申し上げます 草々 神戸市 蕃 歌人・民俗研究家
☆ 「秦恒平選集」第七巻
ありがとうございました。長年愛読してきた秦文学総仕上げの感ありです。
秦文学はとにかく一読ではほとんど理解不可、最低二回読みが原則と心得、無初期の単行本時代から湖の本シリーズに至ってもほとんどの作品を最低二度読み、中には三度読み(糸瓜と木魚 墨牡丹 蝶の皿 青井戸、等々)してようやく味がわかり、じっくりかみしめるという読み方を楽しんできました。まことコクのある料理を味わう醍醐味。本当に数十年、これが小説だと心の中で喜び続けてきました。
日吉ヶ丘時代、上衣のポケットに両手をつっ込んで歩いていたあなたの姿が思い浮かびます。あの頃聞かされた短歌や古典文学の話など、当時の私には全く別世界の如く、はるか空の上の事とかのように聞こえました。また岡見正雄先生(=古文 太平記研究などの当時既に大家であられた。) の古典文学に対する話など、いったいいつになったら、どうしたらあの世界に近づけるかと空遠く聞いていた記憶があります。あの時、岡見先生の一言「文語文法を知らずに古典へ能美とはないよ」が頭に残り、二年生の冬休みに問題の文語文法(特に助詞・助動詞)を必死に勉強し、マスターしたのが、後々古典文学へ入り込む第一歩でした。
元々私は中学二年まで鹿児島県の小さな離島(もちろん無医村)で育ち、突然姉の嫁ぎ先であった京都東山・下馬町に居候でころがり込み、洛東中学三年に転入しました。それまで学業とか勉強とか、まして小説とか全く無関係の田舎ッぺで、最初の半年は途方にくれた状態でした。幸い後半なんとかにわか勉強で日吉ヶ丘に入学できたのが人生の一大転換への第一歩でした。あのド田舎ッぺがとにかく人並みにコース(大阪大学)へスタートできたのも、日吉ヶ丘の三年間のおかげです。まことあの三年間は我が人生の最も充実した時でした。
日吉ヶ丘第五期の我々(=たぶん洛東中)同期は結束固く、今も毎年秋に定例の同期会を続けています。草*(*田)さんともその都度会い、語り、あなたのこともよく話しています。元気で活き活きとした毎日のようです。私も生来無病で元気を誇りにしてきましたが、今春、急に心臓の動脈がツマり、ステンドパイブ挿入で命拾いしました。あなたも大病、大手術で大変でしたが、夫婦そろっての活躍で大仕事を続けておられますますと、おどろき感心しています。お体大切にしながら、これからも楽しみを与え続けて下さい。
古典文学について。
仕事の合間に現役時代もずっと続けてきました。小学館の「日本古典文学全集」は全册読了、中には二讀三讀のものもあり、特に源氏物語は全五十四帖を通読六回、別途 谷崎・円地・瀬戸内各氏の現代語訳も数回くり返し読みました
。今も毎日、たとえ数頁でも、何らかの古典に目を通すのを日課にしています。
本当に体にきをつけて、これからも御活躍を祈っています。ありがとうございました。 高槻市 昇 高校同窓
* 小学館の古典全集百巻余をわたしも家に置いているが、あれを全巻、しかも繰り返してとは! すばらしい。
☆ 十日間ほどの
北海道旅行をおえ、帰宅すると、郵便物が 山積みになっていました。二つ小包みが重ねてあり、その一つが 先生からの「書」と、私は直観しました。涙がでるほど 感謝の気持「湖の本 125 」と、この度の「第七巻」を非常に速く、とにかく 一生懸命読ませていただき、筆を走らせております。
先生のように 自分の思うように 感じるがまま これまで生きてこられたこと、 これは奥さまの支えとともに実現した と 痛感いたしました。( 中略)
そして すべて、過去が あって 今があるのだなあーーとかんじます。
お体をかなり酷使なさっているのが 心配でございます。
どうか 奥さまとともに 一日でも長く お幸せな日々を…と、お祈り申し上げます。
夏に向います折柄 ちょっと京好みのいいお品をお届けしたく思っています。
お待ち下さいませ。 大阪・高石市 東 弥栄中学後輩
* この人に弥栄中学暮色の校舎がどう見えたかし分からないが、人一倍しみじみと思い起こすものがあったろう。甲部の子ではあったが、まぎれもない又一人の「祇園の子」であった。そりから以降、国の褒章をうけるまでの敢闘は、可能なら彼女自身が書けばいいものになるだろう。
☆ おはようございます。
梅雨本番になり、よく降りますね。朝、鳥が鳴いていたので、雨は上がるのかな? と思いましたけれど、また降ってきて。近くに自然林があって、先ごろまで朝夕カッコウの声が聞こえていました。
朗読、語りのレッスンと外国人のための日本語学習読本CD吹き込みボランティアも継続して続けています。明日は定例レッスンの後、「招き猫」( 豪徳寺由来など) を読むので、いま下読みと猫の鳴き声の練習をしていました( 笑) 。
先生もどうぞ梅雨冷えにはお気を付けて! 弓
☆ お電話ありがとうございました
秦さん、こんにちは。ごぶさたしております。
お電話を頂戴したと夫から聞き、お懐かしくなりメールいたします。
いつもご本を頂戴し、ありがとうございます。
お体の具合はいかがでしょうか。お大事にお過ごしください。
精力的に本をつくっておられるご様子に、背中を押されています。
秦さんの文字を目にするたび、必ず東工大の校舎、教室、教授室のあの感じを思い出します。
秦さんに恩返ししたいなあ…とも思います。といっても、恩返し、というのが何か明確ではないのですけれども(笑)、
私自身が幸せに暮らすこと、いただいた精神的支えを周囲に(社会に)返していくことかな、と漠然と考えれば、すこしずつできているかもしれません。
最近は、主に自宅での校正の仕事のほか、音楽ボランティア、貧困問題の研究会やシンポジウムに時折参加
といった生活を送っています。
それでも、これまで生きてきたなかで一番幸せですし、どんどん望む自分になっている実感があります。
以前ちらりと、夫が作家デビューしたお話をしました。書いているのはミステリです。先ほどお電話いただいて、かなりあたふたしたようです(笑)。失礼いたしました。最近の出版不況のあおりで、エンターテイメントも本当に厳しいです。それでも、好きなことを続けられるありがたみをかみしめて、二人三脚で頑張っています。
最近、作曲遊びにはまっています。照れくさいですけれどもご紹介しますね。↓
https://www.youtube.com/channel/UCCP9hZlmEtA6cmZVe2XIV0w
なんだか最近、学生時代のことをよく思い出します。若い自分をいろいろな方が支えて導いてくださった、という感謝の気持ちとともに。
秦さん、もしよかったら、池袋あたりでお食事などいかがでしょうか。上尾くんなどにも声をかけてみますので。もしお体の具合が許すようでしたら、ご一緒させてください。 涼 東工大卒業生
* 湖の本発送の宛名書きをしながら、懐かしくなりふっと電話してみたら夫さんが出てくれて初めて話した。夫さんともゆっくり話してみたい。
メールの人は、教授室時代、もっとも「文学的」な学生の一人だった、一緒に井上靖詩集「北国」の詳細な語彙目録を創ったりした。 楽器の演奏にも堪能だった。深くよく考え、ときに考えすぎて苦しそうでもあったが、卒業後はフリーの編集者としても好い仕事をしていた。もう一人、「文学的な」女子学生がいて、その人はわたしに短歌などを詠ませてくれた。卒業後、その人も編集者をしながら、いつかエンタテイメントの作家になりたいと話していたが、元気にしてるかなあ。
* 当時六十で定年退官してもう十九年、わたしの東工大もそろそろ「卒業」かなあと思ったりしてたが、食事しようなんて声がかかるとは嬉しい事だ。湖の本にきちんきちんと送金してくれる卒業生がまだ十人いる。
それにしても、ミステリを書いている作家の夫さんとも一緒に会いたいなあ。
* 元岩波「世界」の高本邦彦さんから立派な夕張メロンを二顆頂戴した。金澤の金田小夜子さんからも豪快な北国の名酒「北の誉」一升瓶を頂戴した。
2015 7・3 164
* さ、明日から数日、「生きたかりしに」完結の下巻(126巻)発送作業に入る。無事終わればすぐに選集⑧「最上徳内=北の時代」の仕上げに入る。選集⑨の掌篇・短篇集の初校も進んでいるし、選集⑩「親指のマリア」入稿用意も三分の二巻まで進んでいる。仕事に途切れなく、ただ立ち向かうまでのこと。
2015 7・5 164
* 「湖の本 126 生きたかりしに・下巻」出来てきて、発送作業に終始した。作業しながら、なでしこジャパンの準優勝に終わった健闘も楽しんだし、超美貌の澤口靖子「科捜研の女」や颯爽としたデーモン未知子の「ドクターX」なども楽しめた。しっかり頑張ったので今回の完結巻発送は、うまくすると明日で作業を終えられそう。
2015 7・6 164
* 季節外れを犯してまで、湖の本発送の途中でもあるのにこな和歌軸をひもといたり、昨日、一昨日と「私語」を通さなかったのも、言うに堪えないある私ごとの「にくしみ」を心に抑えがたく、縷々激越で不快な私語を書いて了っていたのを洩らすまいと耐え忍んでいたからである。
この歳になっても、なお、さような煩悩にわたしは襲われ、怒りのママにものを書いてしまう。ウソ偽りを書くのでは全く無い、事実をあったまま踏まえて書くのではうるが、その不快、身を焦がすほど炎を上げる。静かな心になりきれないどころか、遙かに遠い。その恥ずかしさ故に「私語」を送り出すことを懸命に抑えていた。
いまその箇所を他所へ移した。これまでも、何度もそんな愚かしいことを重ねてきた。
* さて幸いにも、「生きたかりしに」完結編の発送は今日にも終えてしまえる。もう少し、午后に作業をつづける。
あまの川 つきのみふねの追風も
さこそすずしき雲のころも手 雅章
* なにとなくあのかぐやひめの舟あそびのようにも想像される。
2015 7・7 164
☆ 秦さん、こんにちは。
上尾くんの予定を聞いてみました。
以前歓送会をしていただいたとき夫婦でお会いしたので、また夫婦でご一緒できたら、ということでした。息子さんがキャンプに行く機会があり、その間だと夫婦で来られるとのことです。
それが、8月2日(日中)と、8月3日(夜)です。
もし8月2日(日中)でよろしければ、池袋辺りでお店を探してみたいと思いますが、いかがでしょうか。
帝国ホテルも、すごく魅力的で心傾くのですけれども、今回は、私たちに秦さんをおもてなしさせてください。
上尾くん単独参加であれば、26日や、平日であれば30、31日も大丈夫ということです。
平日の場合は、19時くらいになるそうです。
以上ご都合のよい日をご指定いただければ嬉しいです。
いちおう(京都の)菜々子さんにも声をかけてみたのですが、夏に帰省予定がないとのことで、今回は残念ながら見送りです。でもとてもお会いしたい様子でした。 川崎 涼 東工大卒業生
* たのしみだね。まだまだ秦さんがご馳走するよ。
東工大教授としての給料と賞与等、その後の年金等の一銭にも手を付けないで来た。それが今、非売本「秦恒平選集」を可能にし「湖の本」刊行の赤字分を補ってくれている。最良の費用になってくれている。
* 今回「湖の本」完結発送、了。あとは、手渡し分が残っているだけ。妻が、よく頑張ってくれた。
2015 7・7 164
* 選集⑦についで、「生きたかりしに」完結本ももう届き始めるだろう。八月に選集⑧を送り出せたら、少し大きく息をつこう。
2015 7・8 164
☆ 拝復
「湖の本126」を御恵送下さいまして、誠に有難うございました。『生きたかりしに』を御完結され、お慶び申上げます。「私語の刻」の御文にも襟を正させられました。
そらに頁を繰っていきますと、私と家内が登場していたのに驚きました。淺井さんの演奏への御感想には同感致しました。私もあのCDを持っていますが、久しぶりにモーツアルトの「デュポールのメヌエッ」を聴きたくなりました。今回の「音楽のある日々」を拝読していますと、私も聴いてきた曲が続々と出てまして、やはり同世代者なんだとしみじみ思いました。本日は取り敢えず御礼まで一筆啓上致しましたが、気候不順の折、呉々も御自愛りほどお祈り申し上げます。敬具 忠 元「新潮」編集長
☆ みづうみ、お元気ですか。
こちらのパソコントラブルはやっとやっと解決いたしました。メールも大丈夫ですので、みづうみのつぶやきなどたまにお聞かせいただければ幸いです。
ネット不調のためお礼をお伝えできず気に病んでおりましたが、選集第七巻無事手にして、とても幸せです。ありがとうございました。
『少女』『或る折臂翁』について言及されている方が多いようですが、この二作を読むと、みづうみは、谷崎や泉鏡花の系譜だけでなく、上田秋成の系譜にもつながる作家であると感じられます。
以前から、みづうみの掌編などに、上田秋成と大変近しいものを感じていました。私はこの『少女』『或る折臂翁』を、秦恒平の「雨月物語」として読みたくなります。読みながら、悪夢の中にいる感覚におそわれます。なんて凄まじく怖い小説でしょう。藝術家は言いかえれば、悪夢をみる人たちのことではないかと思います。
それにしましても、二十代の処女作の、この恐るべき完成度にはため息しかありません。処女作からこうでなければ、ほんものの文学者にはなれないのだなあと。
まだ梅雨が続いています。昨年は雨が多すぎて、ツバメの巣が脆かったようで崩落してしまいました。人間たちがあわてて急ごしらえした巣では四羽のヒナたちは餌をもらえませんでした。ヒナの周辺を餌をくわえて必死に飛び回る親鳥と、飲まず食わずで耐えているヒナがかわいそうでなりませんでした。自分で育てようかと色々調べ、渡り鳥の飼育はとても難しいことがわかりました。ヒナのために一日中昆虫採集して生きたまま与えることは不可能だし、市販の餌では成長しても渡り鳥として生きられないし、ペットにするにはあまりに短い寿命でさよならが待っています。人間の手をかけることを断念しました。最後の一羽のヒナが息絶えるまでの、ヒナたちのいのちの闘いを見つめながらの三日間はほんとうに辛いものでした。奇跡を祈りながら眠れないくらいで、バカみたいでしたが。
最後の日には親鳥も来なくなりました。人間の赤ん坊でも三日もガンバレただろうかと思い、生きたいと闘い続けたヒナにいい子ねえらかったわね、と何度も何度も褒めてあげて花を供えて葬りました。
ヒナのがんばりに涙した昨年の二の舞にならないように、今年は巣が落ちても大丈夫なように補強してあります。今年のヒナには元気に巣立ってほしいと祈願しております。周囲にあきれられているのはいつものことです。
さきほど、湖の本『生きたかりしに』下巻が無事届きました。
心してお母さまの旅路をご一緒したいと思います。 蒜 にんにくを噛みつつ粥の熱き吸ふ 長谷川素逝
* 「読者」には、なにを言うてもよい権利がある。
☆ 湖の本
届きました。有り難うございました。体力的にも大変でしょうに前向きの姿勢にただただ感心しています。
今度の我が家は、庭といえる空間がほとんど無くて、木は一本も植えず、辛うじて三カ所の箱庭のような土の部分に気持ちばかりの花を植えました。ほどもなく八十へ手の届く老いの私の体力を見据えての「はからい」です。それでも家の周辺には沢山の樹木があるので、秋には、吹き溜まりの落ち葉掃除に今年も追われる事でしょう。 花小金井 泉
☆ 湖の本を
ありがとうございます。心ばかりの品 送りました。
京都新聞の戦後七十年特集で、北澤(= 恒彦兄)さんといっしょに活動されていた関谷さんさんのお話が掲載されたりし、また反戦平和への思いを強くしております。
先生にはくれぐれもお身体ご自愛くださいますようお願い申し上げます。 京・岩倉 廣瀬ちづる 往時の兄の同僚
2015 7・10 164
☆ 暑さお見舞い
京都では、みこし洗いの頃になると、暑さが一段と激しく成ります。
暑さの中 頑張って湖の本126 を有難うございました。
鉾立ても無事に終わった様です。
私は、昨日の暑さから少し体調がおかしく成りました。が、何とか無理せずと過ごしているところです、暑さ此れからですもの、お互い無理せずに!
巻、目下読書中 華
☆ 待望の
『生きたかりしに(下)』を拝受いたしました。今、机上に三册そろえてスタンバイ、というか数日前から読み始めていたところでした。
筋をただ追う早読みなど出来ない御著を、大切に拝読いたします。
とりいそぎ、まずはお礼申しあげます。
はっきりしない空模様が続きます。どうぞお身お大切になさって下さいませ。 敬 元「群像」編集長
☆ 昨日、
『生きたかりしに』下をいただきました。忝く存じます。目下の仕事を退けて早速に読み耽り、夜に読み終えました。圧倒されました。
文章、微妙に揺れる感情表現の妙に心打たれることはもちろんですが、何と言っても、たぐり寄せられて明るみに出される人々の、ご自分の、不思議な関わりと存在の重さに晒されます。
全巻を通して、御母堂が自分に正直に、限界内で力一杯に、存分に、しかし 最後は心残りの(「生きたかりしに!」)人生を生き貫かれ、歌人としても秀れた才能を発揮されたことに、また不如意に手離さざるを得なかった幼い息子たちへの母心に、深い感銘を受けました。
ところどころのやや冷たい筆には、御母堂はただ頬笑むばかりでしょう。
ありがとうございました。 浩 国際基督教大学名誉教授
☆ はは恋ふて ははとこしなへ 縷紅草 杏牛
「生きたかりしに」感動の名作完結 お目出度うございます。
小生、昨年の手術以降静かに予後を過ごしております。
先生には、くれぐれもお大事になさいましてご健筆祈っております 匆々 小金井 俳人
☆ 前略ご免下さいませ
瑞穂へのご著書のご送付(三册)確かに拝受致しました、有りがとうございました。 本人は年に一度の帰国 今年は十月頃の予定にしているようです、ので それまで私の所に預っております。
能登川のお家も今はなく 母達の時代が段々幻の様になってしまいました、が、ご著書はきっと思いの深いものとご推察致します。
梅雨が明けて蒸し暑い夏がやってきます どうかご自愛下さいませ。 横浜 田中瑞穂 代
* 書いてもらっているこの代筆者は、おそらくはわたしのすぐ上の姉、三重県へ嫁いだと聞いているわたしの母方伯母の娘あるいは嫁にあたる人ではないかと想っている。瑞穂さんはその妹か娘か。なぜこういう送付に成ったかは、じつは私にも分からないが、よほど近い母方血縁のように想われる。わたしなどには想像もつかなかった大きな一門親類であったのが、いまでは本元の能登川の家屋敷も手放されたとか。
ま、『生きたかりしに』はかつがつかすかに間に合ったような間に合わなかったような。しかし、三十年を原稿のまま発酵させたのは、作のためには良かったと想う。
☆ ごぶさた致しております 草加市 関本 佳 雅
いつもお送りいただく湖の本で、奥様とお二人のご様子が知れて、とてもなつかしく、色々と思い出して、妹と折にふれ話題にしております。二人ともそこそこ毎日の生活を楽しめる位は元気で、毎年アメリカ、ヨーロッパと旅を重ねています。
五月には大好きなブルターニュの以前に行き残した最北端のカンペール、ポンタベンに行ってきました。以前にサンマロから回って、ノルマンジーをエトルタまで列車バスを乗り継いで、何日かかけて旅をしましたが、ノルマンジー半島の戦争の跡には、自分の生きてきたことをふり返るよい機会だったと思いました。
パリに戻って、迷っていたジヴェルニーのモネの庭園にも行き、ああこんな所だったのだと思いました。
お二人の上を祈りつつ、湖の本を読む機会を与えて下さいましたこと、感謝いたしております。 佳
湖の本で、秦さんの御病気の御様子がわかり、心配していますが、姉 静が亡くなり四年がたちますが、突然の死の訪れがある事を思い、毎日を大切に生きています。
最近、明治時代の助勢の生き方に興味があり、大山捨松、新島八重の本を読み、二年前には大山捨松が卒業したヴァッサーカレッジへも行ってきました。新しい面白い本を読んだり、湖の本から昔をなつかしく思い出したり、大好きなMLBの試合をテレビで見て、姉と二人で草加での生活を楽しんでいます。
どうぞ お体を大切になさって下さいませ。
奥様、御家族の皆様の御多幸をお祈り致します。 雅
* この姉妹は、もとは三人姉妹で、わたしが本郷の医学書院に編集者勤務しながら小説を書いていた頃に、本郷三丁目のすぐ近くの広辻の奥で、「とっぷ」というバーを持っていた。昼にはまことに小味な工夫のいい昼食を食べさせて人気があり、晩からバーになった。店の奥がちいさな二階席になっていて、私は時間外にも姉妹からその席を借りて、ひしひしと小説を書き継ぎ書きためて、そして思いもうけぬ太宰賞の招待受賞となったのだった。その後も、文債に追われると勤務の方を失敬して独りこの「トップ」に机を借りてはひしひしと原稿を書いていた。
つまりは無名時代からの、好む店とこの姉妹とは「作家・秦恒平の産みの親」にあたる三人なのであった。じつに、よく親切に親切に便宜をはかってくれる人達だった。心新たに感謝を捧げたい。
姉妹のお母さんが、じつに品の佳いしかも貫禄のママさんであった、この方からのご縁でわたしは劇作家木下順二さんと文通したり本のやりとりを永くつづけたのだった。
そうそう、三島由紀夫の事件が起きた日、わたしはその頃「春秋」にエッセイ「花と風」とを連載中であったが、三島自決に衝撃をうけたまま「とっぷ」に居坐り、当時「春秋」編集長だった山折哲雄さん(後年には二人で対談『元気に老い 自然に死ぬ』を出版した。)へ興奮の電話をかけたのも覚えている。
もう一つ、太宰賞のお祝いに何かをと三姉妹に言われたとき、おみせに掛けてあった「問一問」三字の扁額をねだり、よろこんでと贈られた。「問一問」の三字にわたしは深く教えられ続けた。筆者は、姉妹のお兄さんかのように聞いたが、とても心惹かれる三字であって、むろんいまも愛蔵している。
☆ 「私語の刻」の
初めだけを読んで、今から振込に出かけます。早く読みたいのを、どきどきしながら、おさえて。
今日は台風のせいか急に蒸し暑く、夏らしくなりました。
どうぞ お大事にお過ごしください。 ありがとうございました。 下関 碧
☆ 湖の本
久しぶりの梅雨の晴れ間、ですが、名古屋はかなり湿度が高く、少々息が詰まる思い。
先生の体調は如何でしょうか。心配です。
でも午前中、初蝉の鳴き声を聞きました。あと一週間ほどで梅雨が明けるかしらと思いながら空を見あげていました。
昨日「生きたかりしに」下巻が届きました。楽しみです。有り難うございました。
どうぞ御身大切に。 珊
* 日本近代文学館、法政大学文学部、元米沢短大学長の遠藤恵子さん、お茶の水大準教授の谷口幸代さんらからも受領の挨拶來。
2015 7・11 164
* 元朝日の記者で「湖の本」創刊に親切で強い後押しをして下さった伊藤壮さんから、大きな桃の実を九顆も頂戴した。また作家の津田崇さんからも、小田原の美味そうな立派な干物をたくさん頂戴した。久々の長編新作の書き下ろし出版をよろこんで下さっている。感謝に堪えない。
☆ 湖の本126 、拝受いたしました。
秦先生
梅雨の晴れ間の太陽が、容赦なく蒸し暑さを連れてきます.
ああ、もうやる気でないなあ~
などど思っていたところ、郵便受けに先生の封筒を発見!!
だらだらしている場合じゃないぞ と自分に喝を入れた次第です。
ありがとうございます。
完結編、しっかり拝受いたしました。三冊、きれいに並びました。
心より御礼申します。
私は伊賀上野の出身なので 加茂、木津、笠置...近しいところです。浄瑠璃寺から岩船寺までの石仏の道も小学生のころから幾度となく参りました。
しかしながら、数年前岩船寺を訪れて泣きそうでした。
あの塔が、建築当時の色に復元修復されていました。
法律のとおり復元修復されたのでしょうが、堪忍してほしいなあと思いました。
実は私、見たい展覧会があって昨日、一昨日と東京に行っておりました。
田能村竹田( 出光),江戸のダンディズム( 根津美),前田青邨(山種) そして洋画の鴨井玲(東京駅),ヘレン・シャルフベック(芸大美)を廻りました。
秦先生がおっしゃっておられた本来の意味での「作品」に多く出会えました。
京都は、祇園祭ムードです。
この暑いときは大変ですが、涼風が吹き始めましたらぜひ、お出かけくださいますように。
「生きたかりしに」完結を祝して、僭越ながら乾杯させてください。
では、夏本番を迎えます。
おからだ、くれぐれもご自愛くださいますようお願い申します。 京都府 香
☆ 秦 恒平様
「湖(うみ)の本 126 生きたかりしに(下)」を拝受しました。
引き続きただ黙々と読み継ぎます。 練馬 靖 妻の従姉弟
2015 7・12 164
☆
「罪はわが前に」 源氏物語
「生きたかりしに」 上田秋成 少しオーバーラップ? してきました。いまさらながらですが。
棟方志功版(細川文庫4 全12頁)『夢応の鯉魚』が木箱のスミから見つかりました。何かのエンでしょうか。ただしコピー版でした。棟方好きの私のために だれかが造ってくれたーーようです。 濃尾市 井口哲郎 元石川近代文学館館長
☆ 略啓
御健勝大慶に存じます。「生きたかりしに」有難く頂戴しました。
この出版事業は 秦さんの生涯現役宣言だと改めて認識した次第です。
今度 川越で鰻でも食べませんか。 不備 志木市 寺田英視 前文藝春秋専務
☆ 湖の本126 落手
ありがとうございます。
読むとはなしに読み進んでしまいました。ふらちな読者ですみません。 豪徳寺 島尾伸三 作家・写真家
☆ あまり
解釈しないで作品世界に浸りたいと思います。 八潮市 小滝英史
☆ 生きたかりしに
ご完結 敬服しております。 大和郡山市 鈴木昭一 藤村研究家
☆ 生きたかりしに
重く大きな主題で素晴らしい労作、傑作でした。 神奈川 高城真夫妻
☆ 生きたかりしに は
他の私小説とち違って、つらくなく読めました。久しぶりの浄福感を味わいました。
故人を憶い出すのが「供養」と教わりました。 狛江市 野路秀樹
☆ 昨夜から
読み始め 詠み了りました。下巻もっとも興味深く いつのまにか引き込まれ、一気に通読いたしました。
自我か強く、自己主張が烈しく、自由奔放に生きたご母堂様の一生を執拗に追跡され、過不足なく浮かび上がらせた秦様の情熱に感心するとともに、こういう ご母堂様の血を継いだからこそ小説家秦 恒平は誕生したのだと 改めて考えました。秦様の背負われた「業」はやはり深く重いものだったとも感じました。秦版「女の一生」として多くの読者を得るこ とを願ってやみません。同時に別の視点からの上田秋成も読んでみたいと存じました。
いま「親指のマリア」拝読しておりますが、遠藤周作のキリシタンものとはまた違った内容と奥行きをもつ作品で、じっくり味わいながら読み通そうと存じております。 国分寺市 持田鋼一郎 歌人・翻訳家
2015 7/14 164
☆ 私語の刻の
「書かずにはおれなかった、それだけが、いま、わたしの本音である」というお言葉、大変重く、深い愛を感じました。
くれぐれも御身お大切にと念じております。かしこ
先日 森鴎外記念館へ行って参りました。 堺 郁 歌人
☆ 拝呈
御作「生きたかりしに」三巻 本日読了いたしました。徳に最終章の笠置木津のあたりはかつて学生たちと歩いたこともあって一気に読みました。 さて秋風は吹いておりましたろうか。
このようなこと 作家に向かっていうべきことではありませんが、 ここまで書いていいのだろうかというのが俗人の感想でもありました ご憫察(殺)下さい まずは御礼のみです どうぞお大事に。 八王子市 東郷克美 早大名誉教授
☆ 大病を
なさったのにもかかわらずお元気にご活躍 なによりのこととおよろこび申上げます
梅雨もまだうっとうしさを残しております くれぐれもお大切にと祈念いたします。 七夕の夜半 たまたま雲の切れめに遇いました。 これも天恵の一つでしょうか この世 ありがたいことです。 江戸川区 冽 俳人
2015 7/14 164
☆ 週末に
「湖の本」届きました。
永い永い時を経ての「生きたかりしに」完結、おめでとうございます。
今日、電車で「私語の刻」のみ拝読しました。
「音楽によって動揺するものを人は胸の奥に隠している」という言葉に、深く頷いています。
ここ数日で急に暑くなりましたが、体調を崩さぬようくれぐれもお気をつけて。 黍
2015 7/14 164
☆ 「湖のほん」ありがとうございました。
突然の猛暑になり、びっくり。お二人とも熱中症対策は萬全にお願いします。
「湖のほん」ご発送いただきありがとうございました。
「生きたかりしに」の下巻読ませていただきました。
重い内容に本を伏せたいような、先を読み急ぎたいようでもあり。
親として、自分の子どもを手放さなければならない状況は如何なことがあっても、正常ではいられない気持ちでしょう。
それを思いやられての作品が、書き出されてから今回世に出されるまでの長い年月を必要としたことで図られるような気がします。作品にしていただき、読ませていただけたことありがたく思っています。
ご親戚との関わりが出てくると、ホッとしながらも、秦様だけでなく、迪子さんにも重い日々があったのだろうと推察しながら、支えておられる優しい心情にほっとしたりしました。
私情を離れて読めず、申し訳ないようなお礼状で失礼します。
梅雨もまだ抜けきっていないようですが、後2・3か月お互いに心して暑さを凌いでまいりましょう。
くれぐれもご自愛を。 練馬 持田晴美
2015 7/14 164
☆ 本当に
暑い日になりましたね! さすがに祇園祭の頃の暑さは昔も今も変わりませんねぇ~
ところで 今 丹波の長姉の所に来ています。 秦さんの丹波の思い出をなぞりながら 今朝出掛けて まいりました。
ここは丹波でも 北になる園部です。 近くに園部城があって園部高校がその中にある様ですね!
息子達が小学生の頃には松茸狩りや筍掘り 稲刈りの手伝いなど経験して、楽しい思い出 です。 子供のいない姉夫婦も卒寿と米寿となって二人別々の施設に入っています。 今日は空き家になった自宅の掃除に来ています。 夕方5時になったら奈良へ帰ります。
京都駅は宵山の人出で賑やかなことでしょうね~
ではまた 今日は とり急ぎです。 どうぞお元気でお過ごし下さいませ。 有り難うございました。 絹
* この人も喜寿、わたしより二つ若い。しかし喜寿のこの人はまったく想像も出来ず、高校時代の小柄に温和しかった少女の感じでしか、このメールの便りも読めない。
この人に限ったことではなく、しかし、これって、ちょっと、マイルなあ。マイルけれど、考えようでは、後期高齢の若々しい、初々しいラブレ ターの往来が可能な空気が流れうるとも想えば、ちょっとおもしろい文学のこころみが、創作される老いらくの自然が、フィクションとしてリアルとしても可能 になるのかも知れない。なんだか、とても楽しそうな、かつ、春愁に似て非なる愁いにみちた「老春小説」が、書けそうやないか。
2015 7/15 164
☆ 謹啓
台風十一号が暴れ、国会内外でも逆風が吹き荒れて居ります。学生時代ノンポリで過ごした私でも、新聞ニュースの政治面に無関心ではいられぬ昨今です。(テレビは地デジ移行と同時に解約致しました。)
扨て、「湖の本」 別途第一二七巻以降の継続購読料として一万円也振り込みますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。
更に昨十六日には、『秦 恒平選集』第七巻の貴重本をお贈りいただき、すっかり恐縮に存じて居ります、有り難く拝受致し、心より感謝申し上げます。
私が奉職していた中学校の教え子の母親が、私の入院見舞にと届けてくれたのが「湖の本」初巻でした。その後間もなく、自分で購読するようになり、今に続 いて居ります。御作には古典に題材をとったものが多くあり、私の興味を惹く力も強かったのです。小説では、『秘色』『みごもりの湖』『親指のマリア』等は 多分初版本で読んだ筈です。(「湖の本」は、初巻ー一二六巻、すべて保存してあります。)
この度頂戴致しました「選集第七巻刊行に際して」の文末で、先生が私と同年生まれだということを知り、一層、先生の作品が身近に感じられる気が致します。
先生と私とでは勿論、雲泥の差ですが、中学時代の級友には、自称詩人や一家言を持つ者が多く、クラス内には、手書きの雑誌(同人誌とも言えぬような、今思えば大人のマネ事でしかないような。)を回覧して面白がっていた時期もありました。
大学では、一応文科に進み、故西郷信綱先生のご指導のもと、「源氏物語」を卒論に選びましたが、最終的に文学の道には進まず、中学校の(国語と英語の) 教諭として四十年近く勤め、今は「悠々自適」と言えば聞こえが良いのですが、少しばかりのボランティア活動と趣味の世界(音楽、絵画、短歌、写真、旅 行…)に遊んで居ります。
とりとめのない事を書き連ね、大変失礼を申し上げました。
向酷暑の時節柄、先生も呉々もご健康にご留意され、益々ご清栄にてお過し下さいますよう。
とり敢えず御礼迄。 敬具 横浜 蓑
* ありがとう存じます。
こういう真実「友」だちにわたしは励まされ支えられてきた。尋常ならぬ、文字どおり容易ならぬ作風、そのうえに世渡り頑固なわたくし、しぜん友の数は限られているが、一騎当千という言葉も実感もある。
* 国立国会図書館、東京都立中央図書館、京都府また京都市の中央図書館、その他順不同に、東大大学院 京大 同志社大文化学科 同志社大図書館 早稲田 大図書館 三田文学編集室 近代文学館 山梨文学館 神奈川文学館 京都女子大 名古屋大 大阪大 九州大 東北大 金沢大 お茶の水大図書館 法政大文学部 立命館大図書館 天理大図書館 神 戸松蔭女子学院大 日本女子大 昭和女子大 国立国語研 調布市図書館 福島県立図書館等々へ、選集を収めている。まだ不用意に洩らしている先がありそうに思うが。少部数非売本ですが、勝ってご希望の学校・施設・図書館・また 個人でも、一応お声を掛けて下さい。
差し上げている個人の方々も、もし後々ご処分なさるようなときは、だれよりも、読書力旺盛な若い方々、または堅固な図書館や文系文化を大切にしている大学や研究施設へ、どうぞご寄託下されば有り難いです。
* 神戸の岡田昌也さん、巣のついた蜂蜜を下さる。感謝。満腹せぬように食べ物と量とに気遣っている。蜂蜜は少量づつで元気が貰える。村上開新堂さんの クッキーも美味しくかつ極く少しずつと紅茶とで十分食事になる。甘味は量をじょうずに考えてさえいれば、体力が保てる。体重が安定していれば、少量の麺類 も楽しめる。
と、言いながら、昼食を食べ損じて苦しいほど吐瀉してしまった。食べずに空腹が気分いいのに、ちょくちょくとモノに手を出す。意地汚いのである戦時り欠食貧小僧は、老いても。
2015 7・19 164
☆ 謹啓
台風十一号が暴れ、国会内外でも逆風が吹き荒れて居ります。学生時代ノンポリで過ごした私でも、新聞ニュースの政治面に無関心ではいられぬ昨今です。(テレビは地デジ移行と同時に解約致しました。)
扨て、「湖の本」 別途第一二七巻以降の継続購読料として一万円也振り込みますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。
更に昨十六日には、『秦 恒平選集』第七巻の貴重本をお贈りいただき、すっかり恐縮に存じて居ります、有り難く拝受致し、心より感謝申し上げます。
私が奉職していた中学校の教え子の母親が、私の入院見舞にと届けてくれたのが「湖の本」初巻でした。その後間もなく、自分で購読するようになり、今に続 いて居ります。御作には古典に題材をとったものが多くあり、私の興味を惹く力も強かったのです。小説では、『秘色』『みごもりの湖』『親指のマリア』等は 多分初版本で読んだ筈です。(「湖の本」は、初巻ー一二六巻、すべて保存してあります。)
この度頂戴致しました「選集第七巻刊行に際して」の文末で、先生が私と同年生まれだということを知り、一層、先生の作品が身近に感じられる気が致します。
先生と私とでは勿論、雲泥の差ですが、中学時代の級友には、自称詩人や一家言を持つ者が多く、クラス内には、手書きの雑誌(同人誌とも言えぬような、今思えば大人のマネ事でしかないような。)を回覧して面白がっていた時期もありました。
大学では、一応文科に進み、故西郷信綱先生のご指導のもと、「源氏物語」を卒論に選びましたが、最終的に文学の道には進まず、中学校の(国語と英語の) 教諭として四十年近く勤め、今は「悠々自適」と言えば聞こえが良いのですが、少しばかりのボランティア活動と趣味の世界(音楽、絵画、短歌、写真、旅 行…)に遊んで居ります。
とりとめのない事を書き連ね、大変失礼を申し上げました。
向酷暑の時節柄、先生も呉々もご健康にご留意され、益々ご清栄にてお過し下さいますよう。
とり敢えず御礼迄。 敬具 横浜 蓑
* ありがとう存じます。
こういう真実「友」だちにわたしは励まされ支えられてきた。尋常ならぬ、文字どおり容易ならぬ作風、そのうえに世渡り頑固なわたくし、しぜん友の数は限られているが、一騎当千という言葉も実感もある。
* 国立国会図書館、東京都立中央図書館、京都府また京都市の中央図書館、その他順不同に、東大大学院 京大 同志社大文化学科 同志社大図書館 早稲田 大図書館 三田文学編集室 近代文学館 山梨文学館 神奈川文学館 京都女子大 名古屋大 大阪大 九州大 東北大 金沢大 お茶の水大図書館 法政大文学部 立命館大図書館 天理大図書館 神 戸松蔭女子学院大 日本女子大 昭和女子大 国立国語研 調布市図書館 福島県立図書館等々へ、選集を収めている。まだ不用意に洩らしている先がありそうに思うが。少部数非売本ですが、勝ってご希望の学校・施設・図書館・また 個人でも、一応お声を掛けて下さい。
差し上げている個人の方々も、もし後々ご処分なさるようなときは、だれよりも、読書力旺盛な若い方々、または堅固な図書館や文系文化を大切にしている大学や研究施設へ、どうぞご寄託下されば有り難いです。
2015 7・19 164
☆ 「生きたかりしに」下の続きを読み
やっと405「本陣の娘が大名の」のくだりまで読んだところですが、なんと無惨なと感じると共に、母や兄、甥(そして自身もまた)が革新を願った根として考えていらっしゃるのも納得できました。 神奈川 沢
* このメールには、「なんと無惨な」には、驚かされた。ま、そうもいえなくは無いけれども、 この本来「秋成」を書こうとして始められた小説の、流れ流 れて行きついた、とある流れとしては、( 創作当時の新学説に応じつつ眺めれば)、ここで思いがけず「上田秋成と大名家小堀」との、また、わが母方祖父「阿部周平と九州の大名家」との、びっくり仰 天の相似的奇縁が意味をもってくるのであり、探訪者のわたし自身、ここへ出遭ってまさに仰天もし、また奇遇のように面白かった。「無惨な」など毛筋も思わ なかった。
それに、こんなことが、父周平を深く敬愛していた「娘=わが生母・くに」の「革新」を願う「根」だったなどということは、全くあり得ない失見当だし、「わが兄・恒彦」は、こんな「九州の大名の」ウンヌンなど、雫ほども知ることなくて亡くなっている。
この私にしても、幕末の水口本陣での固く秘匿されていたらしい一件は、母探訪のさなかにあちこちから偶然に聞き込んだのであり、そんな噂ほどのことと、(それが在るとしても)私自身の革新性とになど、何らの関わりも無い。
そもそも祖父に革新性など全くなかったし、母のそれが(在るとして)、それは自分の父となど全然無関係な甚だ性格的なものであり、わが兄のそれは歴然と して生涯りっぱな意嚮と実践であって、祖父との間には雫ほどの関わりもなかった。甥のことは言わないが、彼も彼の父方曾祖父のことなど全く知らないであろ う。
こんな走り読みで文学部のマスターに軽々に「納得」されては、見当違い甚だしいですよと、ひらに謝っておく。びっくりしたなあ、もう。
2015 7・20 164
☆ 拝啓
いつも御本をいただき、何のお返しもできず申しわけなき次第です。
今回は『生きたかりしに』の全部を拝読して阿、『秋成』(未)との関連とは別に、これをふしぎな感覚でふしぎな世界像の聳立を眼前にする思いにかられ感銘しました。(朱筆で)「源氏物語」を読むような感じでした。ありがとうございました。
なお小生儀 体力を毀したまま生きておりますが、私どもに後継の者がなく、家内も体調不備、どちらが先にどうなるか不明で、いろいろと片付けものをしております。
明日より二か月、山梨県清里の山荘で暮します。 高田衛 東京都立大学名誉教授
☆ 秦 恒平様
暑中おみまい申し上げます。いつも本を送っていただきありがとうございます。
ところで、私の父、富*恒*は先月より重い心臓病で入院しております。こちらの病院では、手術が不可能ということで22日に東京ハートセンターに転院す ることになりました。そのため大変申し訳ありませんが、当分の間購読を停止させて頂きたいと思います。元気になりましたらまたご連絡さし上げますのでよろ しくお願い申し上げます。 二女 真柄 山形県酒田市
(はんなり囲って ) なお、父の耳元で私が「湖の本」を朗読すると、おだやかな表情で喜んでくれるのが よくわかります。
* 心よりお父様の御無事とご回復を祈り、多年のご親切に深く感謝申し上げます。
* 娘夫婦に無道な言いがかりと裁判沙汰に苦しめられていた時には、中学生だったお子さんから明快な理解とともに励ましてもらったことも忘れない。まこと、真実身内とは、血縁でも親族でもないのだった。
2015 7・21 164
* 今期 A賞(芥川賞ではなく。)に、思い切った団体を推薦した。銓衡で理解されるといいのだが。推薦への礼状はちゃんと事務局から届いているが。と゜うかな。
* 亡き福田歓一さん(元東大法学部長)の夫人から、また藝術至上主義文藝学会の若い京都の会員からも、「生きたかりしに」三巻へ懇切のお手紙を戴いてい る、が、いずれも長文で。お礼のみ申し上げておく。関西の会員さん、母上の方でさきに夢中に読み進んでいて、いろいろ話題にしてきます、と。許されるな ら、湖の本など、もっと欲しいとも。うへッ。
高松市の読者からは「選集⑦」の、東海大日本文学科からは「生きたかりしに」受領の挨拶もあり。
集英社「すばる」編集室からは上中下巻購入の払い込みがあった。有り難し。
2015 7/22 164
☆ 『生きたかりしに』上・中・下を拝読いたしました。 元「群像」編集長
<「上田秋成」と現代の作家である自分との折り合いに、「母」と、「子」である自分との折り合いを付ける、工夫ーー。>を超えて、大きなうねりともいえる力に 読者である自分も引きこまれて、呆然としています。
私小説を越えた「私」小説、秋成を手離さず 谷崎につらなり、かつ<書く行為を業のように信じている者>のその行為によって、圧縮されていたマグマがのびやかに拡がりだす爽やかな読後感でした。
起稿なさってから三十八年、どのように補筆なさったかは窺い知れませんが、時間がふくよかに熟成させたのでしょうか。
「三浦くに」はなんといっても魅力的です。縦に横にと広がる人と人の結節点にあって異彩を放っています。この母にしてこの作家あり、 <生きたかりしに>と詠んだその心をまっすぐに受けとめてくれた子を、母は喜んでいることでしょう。
秦文学の高峰を読む機会を与えていただいたことを深く感謝申し上げます。
暑い日が続きます。どうぞお身体お大切になさって、秦さんの”業”を全うして下さいますように。 二○一五年七月二十一日
* 身に沁みて有難う存じます。ますます努めます。
☆ お元気ですか。
梅雨明けの酷暑はお身体に障ることと思い、できる限り外出など控えて、とは言ってもさまざまな用事や、そして動くことも大切で。あーあ。とにかくもお お身体愛しみつつ、少しは甘やかして、きつい夏を過ごされますように。
あまりに日々慌ただしく、かつての子育ての頃を再体験しつつ暮らしています。三か月と一歳十一か月の孫二人、そして大人が五人の食事の世話を「大変」と感じるのはやはり「年齢」なんでしょうか。
本を読む時間もほとんどありませんが、先週、数日かけて漸く『生きたかりしに』下を読み終えました。
秋成のことがもう少し書かれているかとも思っていたのですが、作家は終始「自分」を貫いたという実感を強くしました。その姿勢は、読む人によって評価や好き嫌いも現れるところでしょうが、そんなことは作家自身から既に離れた事柄で、鴉は、鴉の手法で。
島崎藤村や志賀直哉の小説と同じトーンが流れているようにも感じましたよ。書かれていることは重く痛い事柄ですが、お母様の死からほぼ半世紀、その永い時間に文章がしっかり晒されて、ご自身にとっても納得いくものに、肯定追認しうるものに変貌したのではないでしょうか。
読む者にとって、時にはお母様の手紙などに「時代」を感じたり、「系図」の類に再確認の必要が出てきたりしますが、それも謎解きのようであり、グングン前に進めて、読みとげました。
お母様の生き方と兄恒彦さんの生き方、「同志」として感じられる手触りのごときもの、時代背景や革新性など諸要素はあるでしょうが、母としての切なさはやはり汲み取ってあげたい。生きるのに不器用で、でも真摯に、傷ついて生きた方です。
下巻を読み終わって数日、今、特に心に響いているのは、五歳のあなたが秦のご両親について行って新門前のお家に入っていった光景です。
どんな気持ちでついていかれたのか、そして、その、恐らく無心の歩みが生涯の選択の第一歩であったことを痛切に想います。
また、その時まで育てていた奈良の祖父母様は、いずれ手放す覚悟であったとはいえ、突然の成り行きにやはり涙されたろうと思うのです。
秦文学との出会いの最初に、本の帯に書かれていた衝撃的な事柄、それを、丹念に丹念に解きほぐしてくださった『生きたかりしに』は、重い意味をもつ作です。
書きたいことはまだまだありますが、三冊を改めて読んでからまた書きたいです。何より今、時間がありません。
それでもそれでも、お父様お母様、ご両親はお二人を突き離し忘れ果てたのではなかった。殊にお母様は苦しみ悶えるほどにお二人を想われた。そのことだけは銘記すべきです。差し出がましく、半ば臆しつつ、敢えて書きます。
先頃送った絵のこと、わたしは恐縮しています。絵も有難いこと、過分のことと恐縮しているでしょう。
マードレデウスは、ポルトガルの、少し雰囲気は違いますが「ファド」に近いものでしょうか。美しい声ですね。
繰り返し返し、どうぞお身大切に、大切に。
読み返す時間がありません。ヘンな箇所があればごめんなさい。 尾張の鳶
* 多忙ななかから、親切な、深切な、メールを有難う。ひび、大事にして下さい。 鴉
* 恋ヶ窪の持田鋼一郎さんからもお手紙と、声援の有難いシャンパンを頂戴した。感謝。さ、どんな機に栓を抜こうか。まだまだ私には、先がある。
2015 7/23 164
* 今日は「鷺」を読み、「孫次郎」を読む。
室町末期、名高い松屋三種というと、徐熈の描いた「鷺」、大名物茶入の「松屋肩衝」、そして「存星寶尽四方盆」と極まっている。とほうもない、名品中の名品であった。
「孫次郎」とは、金剛流に伝わる能面のすこぶる著名な名昨である。
こういう美術工藝の名品名作を在に得てわたしが小説を創り出すのは、簡明に謂って、それらにまつわる美しさや由緒来歴や伝説を私が好むから、古典や能や歌舞伎や古美術や民俗に、趣味ないしそれ以上の愛好を自覚しているから、である。
自分が読みたくて堪らない小説を、人は容易には書いてくれないので自分で書いてきた、という意味の大半は、いまいうような世界への趣味・愛好が、いつも 私自身を刺激し誘惑していたからだと謂える。いまどきの小説家で、そういう古典的趣味を生活の下地からしっかり身に帯びている人は、めったにいない。ほと んどが知らない、ないし趣味を持ち合わせていない。当然にも、だから私が読みたい世界を小説に書いて読ませて貰えるわけがなく、そんなに読みたいなら、自 分で書く、創る、しかない。
「選集第九巻」の私の短編小説の世界は、文字どおりに、そういう「日本の古典的文化世界」なのである。「竹取翁なごりの茶会記」「加賀少納言」「夕顔」 「月の定家」さらに「鷺」「孫次郎」「於菊」など、その通りであり、更に加えて、「修羅」十二篇の短編小説は、みな、古美術と能と現代とのコラボレーショ ン小説になっている。私にすれば、書いても読んでも、面白く楽しく嬉しくて堪らない。
だが、当然ながら、こんな半面も露骨にあらわれる。即ち、そんな美しい趣味世界とは無縁無知識の人には、小説自体が「むずかしい」「分からない」「読み取れない」ということになる。蔵が建つほどの多数読者には、はなから、恵まれるわけがない。
いまごろそれに気づいたのではない、初めからそれと承知で、しかしわたしは、あくまで自分が読んで楽しくて嬉しくて面白い、しんみりと没頭できる界をこ そ「小説」としてに書き続けたかった。「騒壇余人」と名乗り、「湖の本」を創刊して三十年も本を出し続け、しまいには非売品の「秦 恒平選集」まで創っているのは、私家版の昔から今日に到るまで、迷いがないからである。
文学の創作には、こういう依怙地に頑固なところが在って当たり前なのだと思ってきた。
2015 7/23 164
☆ とうとう
「生きたかりしに」全三巻、読み終わりました。
「初原」の地が見えてくる辺りからは、もう、胸の高鳴りがそのまま伝わってくるようで、どんどん加速度もついてきて。
こまぎれの時間を利用しての初読。落ち着いたら再読したいと思います。
今はただ、「恋しくば」の遠い呼びかけに促されての永い遥かな旅をした「私」が、「ただ情欲を満たしただけの結果」なんかではなくて「此の世へ歩み出」 し、慈しまれていたと確かめた後に、<母>でもあり<姉>でもありうるような「愛(い)と子」との再会を当尾で果たし得たこと、 母の歌声を耳に作が完結しましたことを、心からお喜びいたします。
吹きやまぬ風は、今どこに向かっているのでしょうか。
どうぞお元気で。 黍
* 「目次」構成に、わたしは或る意味の「策」を構えて、「秋成」と「私」とのつかずはなれずの重ね繪が読者にもなんとなく予想できるよう に創っておいた。「母」かたにはあまく、「父」かたにはからいと見えてくるもののバランスをはかってみる創作意識・作意をはたらかせていた。予想したより も多く重く、読者はこの母方へと父方へとのバランスめく作意を実意として「よかった」とうけとって下さった。
もし事実然様であるなら、私小説に底敷きしたバランスの作意が、ま、いい方へ受け取られたことになる。
もしも、作者であり子である私自身の実感から「母 三浦くに」への気持ちをいうなら、異父長兄「聡一」の母親観に、書いても読んでも終始一貫してほとん ど「同じ」であったと紛れなく気付いている。およそ聞き書きの他に方法を得られなかったなかで、わたしは「母」のあまりに偏りすぎて捩れた像を、ままその ままに近いまで修正してやりたかった。冷静に言えば「それだけ」のモチーフだった。まして「真の身内」が確認できたなどというハナシではなく、その限りに おいて「三浦くに」は小説の主人公たり得る多彩な光源を内蔵していたと信じていい喜びは、しかと掴んだ。
父方方面へは、どう作が作として収束されて行こうと、いようと、作者としても父の子としても、ごく冷静いや冷淡であった。心情的にみて良く言って「不分 明で未解決で」あり、聊かの感傷も感じていない。「父」「父方」も、じつは既に書きかけてもいて、これまた難儀にも複雑な、あまりに嬉しくない実情が展開 して行くだろう。
よく母を書いた谷崎は、しかし、リアルの母とイメージの「母」との別をきっちり私に教えてくれた。鏡花もそうだ。そて谷崎や鏡花の愛はどっちへ向かって深かったのか。
わたしはたくさんな小説で「母」に熱く恋・愛してきたが、今回、リアルな母は「母」ではないことを「生きたかりしに」で実は冷静に冷徹に再確認したので ある。ましてやリアルの父は。いやいやリアルな父は、或る意味で母よりももっと痛切な苦汁をなめつづけた気の毒な敗者であったのを、今の私は識っている。 母の「生きたかりしに」はじつに分かる、よく分かる。父は、それに比して、何と我とわが心に問い続けながら死んでいったか。書き遂げられるかどうか、この 小説は、母の小説よりももっと険しい道を辿ると想われる。
* 母と父とから、わたしは何を承けたか。享けたか。身体髪膚、それは動きない事実。深い思いとしては、何を。言うまでもない、血縁や親縁はなんら「真実の身内」を保証しない、「身内」は人が人として生きながら見つけ出し創り上げてゆくしかない、と。この私根底の思想からすれば、実の父も、生みの母もあまりに正確な「反面教師」であった。わたしはわたしの「身内」を探し求めずいられなかった。
父母に感謝はしないのかと問われるだろう。「しない」とも「している」とも言うまい。それならば遙かに多く豊かに「秦」の親たちにわたしは感謝してい る。いまでもわたしは朝起きて真っ先に、「秦」の「おじいちゃん おばあちゃん」「あば」に呼びかけてありがとうございました、ありがとうございます、そ して、こころから「ごめんなさい」と不孝のかぎりを詫びている。
2015 7・24 164
☆ 暑中お見舞い申し上げます。
先日は 又々 立派なご本 第七巻と湖の本とを ありがとうございました。
四巻 ようやく 読了… でももう一度「廬山」を読んでいます。 美しく 淡々とした文章は なぜか「ハックルべりー・フィンの冒険」を
想い出させてくれます。 ハックの冒険は徳に好きな本で ミシシッピは私の子供の頃からの憧れの河。カナダ在住の時、長年の思いかなって ミシシッピに沿って旅行しましたが 初めて河に対面した時には 思わず涙ぐんでしまいました。
余計な話になりましたが 七巻も 興味深く とりかかるのが楽しみです。
それにしても秦さんの博識には驚嘆させられます (失礼ながら…)。一日に15册も本を手にされるという事を想い出して その原動力と蓄積を 納得の気がします。 ほんとうに物を知らない私まで 楽しませて下さいまして ありがとうございます。
梅雨も明けましたが これから酷い暑さの日々も来ると思います。どうか くれぐれも お身体をお大切に。乱筆乱文 お許し下さい。
p.s ① 少しばかりの玉ねぎを喜んでいただいて嬉しいです。秦さんが玉ねぎ好きだとは全く知りませんでしたが、それをお送りしたというのは 全く ヒット!? ホームラン!? or ストライク! ですね! 来年もお送り出来るといいですが 何しろ素人なもので…。
② それから 「閨秀」の松爺の砂繪の描写はすばらしいですね。秦さんは実際にごらんになった事がおありなのでしょうか。(見てみたいです…) 秦野市 明 画家 妻の従姉妹
* 文は人なりと謂う、そのいい意味の、なつかしく匂うような手紙だ。まるで無関係だが 小松の井口哲郎さんのお手紙を想い起こす。手紙に味わい有ってじょうずな人に、内なる痩せを想わせる人はいない。逆は、ある。
☆ 拝啓
蝉の声に暑さを覚える今日此の頃 先生にはますますご活躍のこととお喜び申し上げます。
さて、この度は、秦先生の『湖の本』三巻をお送りいただき 誠にありがとうございます。お礼申しおくれ大変失礼いたしました。
私はまだ未熟者で、漸くこの度博士課程を卒業(九月ですが)できることになりました。一歩一歩がんばって阿いきたいと思います。
「湖の本」「拝読いたしました。「生みの母」を求め歩みを進める姿に引き込まれ一騎に読んでしまいました。ありがとうございます。
それでは 暑さ厳しき折柄 くれぐれもご自愛下さい。 蔀屋 檜
* 国文学研究資料館今西館長 鳴門教育大 などからもご挨拶を受けている。
2015 7・25 164
☆ 秦 恒平様
謹 啓 「生きたかりしに」読了いたしました。「湖の本」を購読し続けていて良かったと、先ず思いました。ここにいたって秦文学の大宇宙が、秋の夜空を見るように、澄み切った姿ではっきりを捉えることができた、と感じることが出来ました。
「第五章 当尾の里」の二十四、泣けました。大海の孤島に、しっかり真の身内は、待っていたのですね。混沌をかき混ぜて、天の沼矛から滴り落ちた一滴が 成った孤島、たどり着けば、聖母や神のような七度の七十度も許す、大悲の身内が大きく両手を広げて待っていた。ここでは全てが「思無邪」、純粋な自分であ ることが出来る。氷に結ぼれていた小川が春を迎え、穏やかな流れをとりもどし、川面には梅花藻が咲き初め、岸辺には野草が、とりどりの花を咲き競って生命 を輝かし、揺雲雀は歓呼するように大空に囀っている。すべての結ぼれが解けて、摩訶価討般若波蜜多の大宇宙に包まれている。そしてこの摩訶般若波羅蜜多の 大宇宙では、上田秋成も阿部鏡子も砥部恒之も作者も、等しく「命」の「光」であり、永遠なる超越であるのです。人間の命は、運命とか宿命とか性とか、その ような低次の世界ではなく、もっと高次の「絶対」であり「永遠」という命の大河、その流れに運ばれて生きている、そして生き続ける定めにある、と、この作 品は言っていると、私は惟いました。私は、自分もまた、その人間の一人であることを惟い涙しました。
当尾の砥部邸を再訪した作者の感慨には、まさに「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」の思いがあったのではないでしょうか。そして矢絣 を着た生母と撮った写真を砥部邸の松に重ねるとき、「命二つの中に生きたる櫻(松の木)哉」の思いが作者の胸中を満たしていたと感じました。
阿部鏡子(三浦くに)さんに美濃正子さんがおられたことは、岡本かの子に一平がいたように、必然なことであり、幸せなことであったと感じました。もし砥 部恒之氏が一平なりせば、阿部鏡子さんは、女流として一家をなすことも可能だったかも知れません。お手紙の論理力と文章の力強さは、並の知力ではないと感 じさせます。それを認めればこそ、美濃正子さんは歌集の出版に無私の尽力を図られたのだと思います。「年々に我が悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなり けり」を生きたかの子と重なるところを感じさせる阿部鏡子(三浦くに)さんの半ば不本意な生々流転は、無理解な世間・俗界に押しつぶされた結果の迷いだっ たと感じられます。俗人には理解できない聖性一高貴な心性の人、まさに昭和二十二年発布の新憲法を持つに値する女性であり、其の尊厳に生きる個人主義を生 き得た女性であり、現に生き抜かれた方と感じました。
最後に至っての「芳江叔母」との再会は、私には衝撃的でした。丁度いただいた「選集七巻」で「罪はわが前に」を読みすすめていたところでしたので、「芳江叔母」が、わたしには「久慈芳江」に重なってしまったのです。複雑な感動を味わいました。
桐壷更衣も紫上も公的名、二人には身内だけが呼び合う私的名前があったのではないでしょうか。光源氏は、紫上と二人のときには、きっと私的名前で互いに 呼び合っていたのではないか、と、ふと思いました。そうでなかったらただ似ているだけ、あるいは血縁というだけでは感情を同化できないと思います。
妻を亡母と同じ名前-「芳江Jと呼んでこそ、源氏の思いは亡母と同化し、満たされるのだと思います。名前は単なる記号ではなく、魂であることも、今回再 認執したことのひとつでもありました。中巻(近江路 十三)の石塚鏡子さんの登場に、ふと心を揺さぶられるものを感じました。
断片的ですが、r生きたかりしに」を読んで心に刻まれた思いの一部を、出で湧くまま縷々、書かせていただきました。失礼の段、ご宥恕ください。
今日は、益子町の関東三大奇条「御神酒頂戴」を見る為、友人に案内していただきました。
「選集第七巻」の御礼と、「生きたかりしに」の完成を祝させていただきたく、評判の良い地酒をお送りいたします。地元の酒造元からお送りするよう手配させ ていただきました。近日届くと思います。御賞味いただければ幸甚に存じます。暑さ厳しき折り、御身体を大切に、この暑さを乗り切っていただきたく、ご自愛 のほどお祈り申し上げとます。 敬具 八潮 小滝英史
* 笠間の清酒、純米大吟醸「郷之誉」一升瓶に添えられ頂戴したこのお手紙、このまま、母阿部ふく(三浦くに)の霊前に献じておく。読者は、みなさん、ほんとうに心優しい。母の返礼が読めるといいのだが。
2015 7・26 164
* 「選集第八巻」は八月十七日に出来てくる。
「選集第九巻」の跋文を入稿し、「選集第十一巻」の本文も入稿した。「選集第十二巻」本文はすでにゲラになっていて、今日から校正し始めた。
「九」の再校、「十」のゼロ校が出てくるまでに、「湖の本127」のことも考えたい。在庫をより広範囲の高校へも送り出したい。それよりも新しい小説にねっちりと取り組みたい。したい仕事、有りすぎて困るほど。目は、わるくなる一方。
2015 7・30 164
* 頑張ったには頑張ったなりのご褒美が出るのか、ほおっと息がつけている。一年に四巻平均 の湖の本を半年余で四巻送りだし、その上に秦 恒平選集という大冊を第四、五、六、七巻も出版し、八月半ばには第八巻が出来てくる。専業でかかりきりの編集者・製作者でもこんなことは出来ない、まして 作家や批評家。詩歌人にも絶対に出来ない。自身の作物と編輯の技術とセンスと判断をもたないかぎり身動き一つならない。医学書院で十五年のモーレツ編輯・ 製作体験がしっかり財産になっていて、加えて妻がたすけてくれた。人を雇う必要がなかった。
ま、もうムリは出来ない、命があってこその創作であり出版であり、生きて行く気概もはたらく。
とにかくも、いま、息をついている。
2015 7・31 164
* 『生きたかりしに』の上巻「名柄の里」「近江路」を、丁寧に読み直した。
2015 8・4 165
* 「選集⑩」初校が出て来た。「⑪」も追いかけてくるはず。「⑨」は再校中。「⑧」はやがて本が出来てくる。
「湖の本」は、しばらく休憩。
2015 8/8 265
* 昼には、二人がかりで、「湖の本」の一部を、百五十校ほどの高校へ送り出した。
2015 8/14 165
* 終日 思い立った「湖の本127」編輯の作業で、視力酷使、もう画面の字が見えていない。
2015 8/16 165
* 朝一番、夜来の雨中に「選集第八巻 最上徳内=北の時代」出来てきた。力仕事の一番手、玄関に受け容れ積み上げた。しかし雨脚に蹴られながら 大切な本を郵便局へは運べない。荷造りにとどめ。時間を、今日は「湖の本127」編輯にあて、概ね用意が進んだ。ただしひどく目を使ってしまった。
2015 8/17 165
* 起床8:00 血 圧144-68(54) 血糖値104 体重68.4kg
* 疲れないようにゆるゆると作業し、また機械原稿を根気よくつくっている。食はなるべく細く、水分はたっぷり摂っている。
* 気温やや穏やかとはいえ、郵便局へたどり着くとへたってしまう。昨日は、腕車の一度目、途中、荷の重みが掛紐を前方へ延ばして俯いてしまい、暫くはニッチもサッチで行かず閉口した。
明日もう一回運んでとに書くも終えるだろう。
前巻の折りは一日に三度運べた日もあったが、今回は昨日の二度が限度。一つには荷造りの妻も疲れる。雨も降ったし、で、日数を掛けてよしと腹を決めた。 前巻時の倍の日を使うことになる。だが、そのぶん、機械仕事にも随分励めた。「湖の本127」に多分間に合うのではと楽しみにしている。
2015 8/20 165
☆ 朝夕
涼風も立ちましたがまだまだ残暑が厳しいです。お元気で夏を越されますよう 心より祈念しております。
さてようやく『生きたかりしに』を読了できました。
何という遠く長い道のりでしたことか! 私まで先生の心に添いながら歩き続けたような感慨を持ちました。ありがとうございました。
近日中に「ルビーロマン」お届けしますね。
(竹久夢二画 都会の巻 から 黒猫の絵葉書に添えて=) 黒いマゴはお元気ですか。これを手にして思い出し ご長寿をと祈っています。 金澤 金田小夜子 作家
* 黒いマゴにまでご挨拶痛み入ります。毎日の輸液も一年数ヶ月、(選集刊行以来!) 幸い愛らしくも元気に老いを嬉しげに生きております。
2015 8/25 165
☆ 拝啓
盆以後 少し過し易い日々が続いております。先生には益々ご清栄にて御活躍の事と拝察申し上げます。
先生が全力を挙げて執筆されました貴重な出版物を拝受し感謝申し上げます。
私どものような浅い読み方しか出来ない読者にも、先生が生涯をかけて追求しておられるテーマやその追求への執念ともいうべき熱意などを感じることが出来 るように思っております。そのような大切な作品の一コマに私どもの寺の様子を描いていただいている事を感謝申し上げます。
湖の本124「生きたかりしに」冒頭の「知恩院下」の件りは私の母の幼い時代の思い出の一コマが残る場所であり親しみを感じさせて頂きました。 又、川 *民*氏の奥様の実家が江戸時代寺子屋を開いておりましたが、その寺子屋の師匠が若い頃お家流の修行をしたのが「狸橋」付近に住んでいた勝見主殿という書 家の家でした、近年その寺子屋の事を少し調べておりまして「狸橋」の所在を歩いて訪ねたことがあり、先生の作品と併せこの地域の文化水準、人々の生活の息 吹を少し理解できたように思います。
同封の粗菓 誠にお口汚しと存じますが御笑納いただければ幸いに存じます。
残暑は相変らず厳しゅうございます どうか御自愛専一に願い上げます。 頓首敬白 近江乾徳寺 中野正堂 合掌
2015 8/25 165
* 久しい読者でもある岩手八幡平市の歌人伊藤幸子さんの『口ずさむとき』と題した一冊は、一頁に一人一首をあげて都合416首416篇のエッセイが綴られている。
私の、歌集「少年」の一首が、はやくも第九番に挙げてある。「『少年』の心」と題され、こんなふうに書いて下さっている。
☆ 「少年」の心 伊藤幸子
たちざまにけふのさむさと床に咲く水仙にふと手をのべゐたり 秦 恒平
「旧臘古稀を迎え、文庫本歌集『少年』出版を以て自祝。京都で、また東京で、二百三十一年ぶりの坂田藤十郎襲名狂言を楽しんだ。妻もこの四月には古稀。 けわしい新世紀の老境とはいえ、逃げ腰ではとても…と、夫婦してもうしばらく怯まず過ごして行きたい。美しいものや楽しいことと、せいぜい仲良くして行き たい」。
作家秦恒平先生の06年「湖の本」に寄せられた「私語」である。
私は昨年の今ごろ、生まれ日の祝いにさる方より『少年』初版限定本を頂いた。それは表が濃紺、内側が黄色の帙に包まれて、桜色の表紙、限定ナンバーが附され先生の署名落款入り、昭和49年10月刊行の特装本である。この歌は昭和30年、作者19歳の時の作品という。
はるかな時を経て、先生は昨年この歌集を短歌新聞社から文庫本として出され、古希のお祝いとされたということである。
京都生まれの作者の少年時代、叔母上に裏千家の茶道を学ばれ、中学生ですでに代稽古までしておられた由。
余寒の床の間の水仙にふと手をのばしたのは、ほんのりと上気した女生徒であろうか。上句に硬質な感性が揺らぎ、茶室の静寂をふと揺らした空気の層が見える。
また二十歳のころの作品「逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃の花ちる道きはまれり」は、岡井隆撰「昭和百人一首」に採られている。
幼少期、百人一首はすべてそらんじておられたという文雅の冴えがゆき渡り、節調、聴こえの良さに口ずさむ楽しみが倍加する。
すでに百冊を超える著書を出しておられる先生はまた、こうも語られる。
「古稀を迎え送り、人生の一、二学期を終えたと思っている。8という数字で譬えれば、もう一つの0がどうまた結べるか気負いはなく、ゆっくり三学期を歩い てゆくだけのことーー」。そして「七十路(ななそぢ)に踏ン込んでサテ何もなし有るはずがなし夢の通ひ路」と詠まれた(ちなみに短歌作品は『少年』の み)。
「人生はすべて、創作も生活も人間関係も夢の通ひ路にうかぶ幻影にすぎない」と観じておられる作家の『少年』の心をうけとりたくて、この季節 私はまたこの本に遊んでいる。
* 恐縮です。
生涯で二番目の歌集は、この後、『光塵』と表題して、「秦 恒平・湖の本109=2011-11」に出版している。晩年三番目の歌集も心づもりしている。
2015 8/26 165
* 昨日、国文学資料館の今西館長から『生きたかりしに』へ熱い言葉を戴いていた。
さらに昨夜遅く、一読者のメールが届いた。『生きたかりしに』を読んでの、原稿用紙でなら50枚を上越すいわば評論であり、就寝をあえて延ばし衰えた視 力をあえてして読ませてもらった。そして、深く頭を垂れた。感謝した。褒められているからではない、作者として願えるかぎりを親切かつ深切に、よく読み 取ってもらえていたから、だ。文学の批評家でも学者でも研究家でもない、ただ久しい「いい読者」のお一人としてわたしの作によく馴染んでもらってきた。 『生きたかりしに』はやがて『選集第十二巻』として纏める予定だが、およそこのまま併載してみたいほどに感じている。
以下に、作にかかわる一記念のつもりで、長文ながら掲示しておく。但し、この原稿はおおよそ前後に分かれ、後半にはこの筆者に障りになりかねない記述が交じるのを、若干按配させて貰う。
☆ 『生きたかりしに』を読んで 山瀬ひとみ
「わたしの文学的な産物は、短歌にはじまり小説へ転じ、双翼のていに比較的広範囲な論考・エッセイも書いてきた。同じ小説でも、物語もあり、そうでないのもあり、私小説もある」と秦恒平の書いているように、この作家の文学世界は多岐にわたって奥深い。
今回の湖の本『生きたかりしに』が秦恒平の私小説群に加わったことを、私は心から喜びたいと思う。『逆らひてこそ、父』や『凶器』の、家族という悪夢にうなされる私小説に比べ、この『生きたかりしに』は読み終えて、読者が幸福な気持ちにつつまれる。
私はこの作品を大きな救済の物語として読みたいと思う。『生きたかりしに』では、作者本人をはじめ主な登場人物にそれぞれの救済が遂げられている。
『生きたかりしに』は、一言でいえば作者が死なれた母を見出す物語になる。この作品を書き上げることで、秦恒平の願いのように、まず何より母三浦くにの女の一生は救済される。もし霊というものがあるなら、あちらの世界で三浦くには息子の小説に得意満面であろうか。
しかし、作品が完成するまでの道のりは長い。何しろ秦恒平は「四十年間」実母を拒否してきたし、この上中下巻、原稿用紙九百余枚の長い小説は一度書き上げてから寝かされ、今回湖の本として発表されるまでになんと三十年もの年月を要している。
* 三十年前に、ほぼ、「生きたかりしに」は書けていた。だが、酒をうまくするために三十年を蔵で 寝かせた。それが必要だった。あの頃、講談社がムリムリにも書き下ろし作として出版してくれていても、わたしの中でまだあの母は味わいうすかっただろう。 母もわたしの中で熟さねば成らず、わたしも三十年の生を一歩一歩経ていなければならなかった。(2015 6・16)
自分はどこから来たかという「根」の問題は、この作家の中でそれほどの時間を積み重ねても解決のつかない、つけてはならないものだった。秦恒平は母親のことを書こうとした経緯について、あとがきでこのように書かれている。
……わたしは実父生母を、生前にも死後にも固く拒絶し続けた。イヤな人というなら、世の中で最もイヤな人達として、永く、感覚的に顧みなかった。
父に関しては、今も多くを改めていない。生前の行実も多くは知らない。
しかし、生みの母には、遺歌集を読んだのを契機に、急速に近づいて行った。わたしにそうさせる強烈な モノを此の母は生涯発散しつづけ、事実は小説よりも奇でも真摯でも放埓でもあった。「生きたかりしに」と最期の呻きを漏らしながら、わたしへ呼びかけて止 まなかったのである。
書かずにおれなかった。それだけが、いま、わたしの本音である。心底ほっとしている。
また、こうも書いている。
* 母の生涯も活動も、わたしの本によって、一躍褒め称えられる、といった何モノでもな い。ありえない。ただ、悪名の方へ方へ過剰に傾いていたのを、いくらかまともに持ち直してあげたいと、ひたすら歩き回って、多くの人の声やことばを聴いた のだ。それだけの甲斐はあったし、肩の荷をおろした気がする。 2015 6・16
四人の子持ちの寡婦が、下宿していた自分の息子のように若い学生と「道ならぬ恋」をして二 人の子ども、恒彦、恒平を生んだ。家制度に支配されていた時代、それは許されない「醜聞」であり、三浦くには子どもたちを奪われ、それまで住んでいた世界 からも放逐される。乳母日傘の少女時代から一転して孤独で過酷な後半生と自死までが、多くの関係者の言葉をあつめて感傷を抑えた筆致で描かれる。しかし、 秦恒平であるから、ふつうの女の一代記にはならない。
そこには上田秋成と秦恒平自身の「生まれた」哀しみが通奏低音となって流れているし、三浦くにこと歌人阿部鏡の数々の歌の力を、自身も優れた歌人でもある息子秦恒平がよみがえらせている。
阿部鏡の歌への共感がなければそもそも秦恒平は母の肖像を描こうとはしなかったろう。この 遺書ともいうべき歌集を「なんとか推量し表現し、そのようにして私は私自身を救い上げるしかすべなかった。子が母をわかってやるしかすべなかった」のだ。 それは生前の母を拒絶しつくした子から亡き母への愛と呼んでもいいものに違いない。歌人でもある秦恒平はこう書いている。
* 「うた」って、何? 「うったえ」であろう。母の歌は「うったえ」であり「さけび」であった。母の歌には、敵わない。 2015 6・6
『生きたかりしに』の中でとりあげられている阿部鏡には、胸を衝かれる歌が色々あるが私が一読してギョっとした歌と秦恒平の述懐を引用する。
子守うた三口唄いてわが声に恐怖を感ず人形と寝て
狂気と紙一重の危うさに独り生きていた母。人一倍情念の昂ぶった女暮らしの底昏さ。生まれた、死なれ た、と自分の受け身だけを重々しく意識してきた私の十数年が身動(みじろ)ぐように色を変えかけていた。道ならぬ子を生まねばおられなかった。そして二人 も生んでしまった母を、たやすく赦す気はない。が、母にはこんな、子の知らぬ「恐怖」の日々があった。嘘ではあるまい。…… P103
そして題名にもなっている歌
十字架に流したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに
については、このように書いている。
この「生きたかりしに」とはじめて読んだ瞬間、貫かれたような感動があった。生前のあらゆる醜いまでも辛い部分を母は末期の一句で浄化した。「生きたかりしに」はけっして未練なのでなく、恒彦でも恒平でもない「人間への愛」の無私の表白だ。 P221
戦前の封建的な家制度の下で、一途に恋を貫いた「女の一生」に私は圧倒されてしまう。三浦 くにの本当の人生は砥部恒之と出逢ってから始まった。臆病な女に恋はできない。そしてほんものであるほど恋の結果はむごい。すべてを喪ったあとも三浦くに は猛然と闘った。苦学し保健婦となって、兄恒彦の『家の別れ』の記述のように「階級を生きなおした」。恋と同じに、後半生も生きることになんと懸命だった ことだろう。
自分を棄てた男への恨みつらみなく、三浦くには自分の恋の落とし前をつけて堂々と生き抜 き、最後は自分で自分の身を処断していった。子どもの立場にすれば理解しがたい母で、迷惑千万であったろうけれど、読者の立場だと、彼女は作者や周囲の人 間たちの思っていたより好もしいヒロインであり、長所も短所も含めて、書かれるに値する生きる気迫にあふれていた。秦恒平が自死であったと確信する最期で すら、それが三浦くにの、より自分らしく生きるための選択に思えて唸ってしまう。
平成に生きる私のような読者にとっては、三浦くにという女性は、柳原白蓮とか、岡本かの子 とか、あるいは瀬戸内晴美などの系譜の女にみえる。三浦くには恋をして真っ正直で命がけだった。文名をあげるまでには至らなかったけれど、才能があった。 環境が許せば、あるいは第二の与謝野晶子となれたかもしれない。彼女にはどうしても家庭の主婦におさまれない過剰な生命力があった。女が抑圧された時代 に、自由に生きようともがき続けた。三浦くにのような女たちの生命力と無残な敗北の上に、あの時代の岡本かの子たちのような才能の花が開いたと、言い換え てもいい。
他人からは狂人と囃されもし(君乞食と称《よ》ばれたまひそわれ狂女と囃されて来し道ひとすじに)、恋人恒之の親族から「魔女」「非常識な人でした」と冷たく言い放たれた母を次の一文において、息子は救いあげている。
……それならば歌集一巻は母の虚妄に過ぎないのか。
少なくともそれは母の「創作」だった。事実を潤色することも母の意のままだった。場合によれば敢えて人生を演出し演技しても母は創作のために場面や状況を創っただろう。……(中略)
私は、著名な作家たちのお世辞とも見えない手紙を何通も読んだ。丹羽文雄氏や佐多稲子さんに、見知ら ぬ阿部鏡を励ます義理は少しもなかった。何かが、何かの力がああいう手紙を母の病床に送らせた、のなら、何かとは母の実人生ではなく、母の創作力だった。 その力が母の実像ゆえに割り引かれねばならないのなら藝術の自律に保証はなくなる。またたとえどんな虚構も作家の実像をどこか正しく反映しないわけがな い。筆名「阿部鏡」をあやつった実在の「三浦くに」にも、なにがしか歌集の内に自律している創作世界の値(あたい)を分け持つ権利はある。丹羽先生や佐多 先生に励まされた母。それもまた紛れない自分の母くにだと私は思った。 P321
阿部鏡の歌集は、彼女が息子へ遺すことのできた最高最良の宝であり、それを読み尽くしたとき息子はつ いに母の魂を抱きとめた、息子と母は和解できたのだと私は思いたい。阿部鏡の「並外れた文筆好き」の歌人としての才能と、はからずも秦恒平に与えざるを得 なかった「もらひ子」という負の環境がなかったら、今の作家秦恒平は存在しなかったろう。
勿論、たとえ母との和解が成されたとしてもそれが秦恒平の物心ついて以来ずっと感じ続けて きた「血の昏さ」「根の哀しみ」「負い目」と「身の程と恥」をかき消すものではない。しかし、秦恒平が喪われた母なるものに折り合いをつけ、自己救済され る一つのきっかけにはなったであろう。
心から安心して寄って立つ場所を持てない幼子、父母の愛に満たされなかった天涯孤独の少年 は、「書くこと」「創作」することで自分で自分を励ます道に進み、なるべくして作家となった。秦恒平文学の足場は自分が「醜聞の子」であったことにあり、 秦恒平が一生をかけて追求するものは親子や兄弟という俗世の血縁を超えた、今世をも超える真実の「身内」「魂の血族」を探すことであったと言い切っても過 言ではないと思う。
母の足跡を訪ねる長い永い旅は、これまで決して近づこうとしてこなかった異父姉兄はじめ多くの血縁に初めて出会うことでもあった。彼らも母親の道ならぬ恋に人生を翻弄された子どもたちである。
母くにに家事一切を押し付けられていた被害者であったはずの姉の幸子は「歌集も歌碑も、 今、あなたの愛情の眼で見ていただけて母はどんなに喜んでいるかと思います。あなたのために残していったような気がします。」「母は純粋でこの上もなく優 しい心の持ち主でした。あなたが、いつかこの母のことを書いて下さったらどんなに嬉しいでしょう。母もはじめて幸福になれると思います」と手紙に書くやさ しい姉であったし、「私の前で母を語って歯に衣をきせなかったただ一人の人物」、実父恒之とほぼ同い年の長兄聡一は、母くにを罵倒しつつも、その的確な批 判には憎しみがなく思わず笑ってしまう。私は岡本太郎がかの子について書いていた文章╶─寝かせていた自分の赤ん坊にしょっちゅう躓いて「またやった」と 言っていたとんでもない母親だったという内容╶─を思い出した。
同じくにの子どもである彼らの、恒平に接する態度の中に、世間でいう親戚、血縁のふつうの 親しみや温かさが感じられて私はなんとなく安堵したのである。一家離散となり、ふつうの家庭でいられなかった兄弟たちが、それでもしっかり普通を取り戻し て生き直していることを尊いと私は思う。
秦恒平は多くの人間から母への言葉を引き出し続けるが、この作品の最も感動的な場面は作者が当尾の里で父方の叔父叔母に再会する最終の場面であろう。
「可愛らしいて、だれにかてそら可愛がられてたんですよ。それで何ぞ気に喰わんことがあると、もうどこでかて仰向けに手ェ振って足振って暴れはるのが、それがまた可愛いてね。……」 P463
……正月ごとに、永いこと祖父は「恒彦」と「恒平」の名で祝儀の陰膳を祖母に銘じてつくらせたいたという話は胸にこたえた。 P464
……時代が時代で…。しかしあとから考えて、あなたやお兄さん、恒彦さんでしたか、あなた方のために最良のやり方やったかどうか。いやもう一生許してもらえんやろ思て、ただ遠くから、活躍したはる噂だけ聴いてましたんや P467
登場する血縁の彼らは秦恒平のいう文学的意味での「身内」ではない。しかし、彼らとの出逢いの中で作 者は自分の存在が決して忌避されていたのではなく、それどころか多くの温かいまなざしを注がれていた事実に突き当たる。そして、喪われた自分の子ども時代 を初めて懐かしく受け入れることができた。「肩先が軽く」なり「根の哀しみ」が薄らいだのである。
さらにこの小説の救済には仕掛けがある。秦恒平と同じく父母を知らずに育った「醜聞の子」、その生い立ちゆえに幸せになりきれなかった上田秋成も救済されているのだ。
『生きたかりしに』を最初に読み進めていた時、私はこの小説を上田秋成ぬきで、秦恒平の死な れた母三浦くにの物語として独立させてもよかったのではないかと感じていた。上田秋成の出生の秘密を探りあてる別の小説として書いてもよいのに、なぜこの 作品の中に上田秋成を取り込む必要があったのか。その理由について作者はこのように書かれている。
もともと『秋成』を心がけた遠い以前から、あくまで私自身を書くよすがであっ た。『秋成』を書く機会ならこの先幾度もある。それに筋を通し時期を追って母の生涯を再現することもいつか可能だ。が、今が今ただ手探りにつかんだ断片を 継ぎ接いで母の像を造り上げて行く感覚は二度と味わうことはできない。その思い入れが『秋成』を書きたかった動機に重なった。日に日に一重ねになって行っ た。秋成が生涯露わに書かず語らなかったものを、俺は俺の身の上で声をいっぱいに叫ぼう、それが俺の『秋成』そのものになったと言えば、心待ちに催促を欠 かさぬ編集者がどう落胆するか、怒るかと想うとがったりと気は重いが、私は余すところない高田氏の『年譜考説』にふれた充実感のまま、やはりこれで行こう と意を強くした。 P336
そして秦恒平は上田秋成が小堀遠州の直系であるという核心に迫るのだが、秦恒平自身も先祖 に小堀遠州の流れをくむらしいことがわかってきてしまう。事実は小説よりも奇なりではないが、書き始めた作者自身も予期せぬ展開になる。読者は上田秋成と 秦恒平に文学的だけでない血の繋がりのあることを想像するだけでわくわくしてくる。上田秋成と秦恒平は作者が意図していた以上に益々重なってきてしまうの だ。
そして結末を読んだとき読者はこの作品『生きたかりしに』の構造的美観に気づく。上田秋成と作者秦恒平のいとこ、姉さんとの再会の悦びがぴったり重なるのである。
たとえば『岩橋の記』という大和吉野へ遊んだ紀行文に、秋成は、旅の目的の一つ として、「大和の國なるゆかりの人々をも問はめ、問へ、と云ひしいとこなる者の契(ちぎり)をもむくはんとて(奈良県に住む親類の者で、訪ねて行くよ、訪 ねてくれよと言っていたいとことの約束を果たそうと思って)」と書いている、…… P7
秋成は「里長」なる「いとこ」を久しく尋ねて来れなかった不本意だったという。そしていとこと対面早々に「岩橋の中や絶えんのひと言は、けふをかけしよ葛木の神」と詠む。詠んで即座にこの長い紀行文の「筆を収め」ている。書き上げている。時に五十五歳。P76
* ……秋成がはるばる尋ねていった名柄の里の「いとこ」を、女性であり得る とわたしは読み、彼の「岩橋の記」に意味を持たせたのは、秋成学の学者からは認められないかも知れないが、秋成には、養家上田家にもともと年上の姉と呼ん だ女性が居た。恐らくは秋成と娶せる気持ちが親にはあったろうに、この姉は家をはなれて他の男性へはしり、いわば勘当にあっていたのを、懸命に秋成が仲に 立って親の怒りを静めたのだった。その姉が、或いはあるいは名柄のほうで家庭を持っていなかったでもあるまいと想ったりした。秋成その人を主人公に小説に していたら、この養家に家付き姉なる人は大きな役を帯びたであろうが、主人公はわたしの「母」に成った。(2015 6・5)
上田秋成がこの「いとこ」に逢いに「長柄の里」に出向いたことと、秦恒平の当尾の砥部家訪問が重ねられている。
芳江叔母の家へも寄った。玄関へかけて出て「まあ、恒平ちゃん」と呼んだなり叔母は一瞬突っ立っていた。
「可愛かったのよ。ほんとに可愛らしいかわいらしかったのよ」
一生もう逢えないかと思っていた、とも言った。叔母の悦びが二重になり三重になって身内に渦をひろげた。岩橋の╶─とおもった。仲や絶えんの一言はけふをかけしよ葛木(かつらぎ)の神╶─。逢えた……。 P 470
ここで秦恒平は上田秋成にも自分自身と同じような肉親との幸せな再会があったこと、あるいは自分も上 田秋成と同じ逢いたいひと(女)に逢えた悦びのあったことを語っている。叔母の名前が「芳江」とされていることは意味をもつ。少年時代秦恒平の「姉さん」 と慕ってやまなかった特別な存在、文学者秦恒平の身内観をつくった実在のヒロイン久慈芳江のイメージが重ねられているのだ。
秦恒平は永い旅路の最後に芳江「姉さん」と再会を果たした。そして秦恒平も上田秋成『岩橋の記』のように、この長い小説の筆を収めるのである。
また、この小説の中にはもう一人父と母を知らない子どもがいる。くにの父、恒平の祖父三浦周平である。
母くにの生涯ももの哀れだが、その母が恋い慕った父周平、私には祖父、の生い立ちももの 寂しい。母の歌集から、また姉幸子の手紙からぼんやり推察できた祖父晩年の姿は、必ずしも事業に躓いた人の淋しさだけで説明し切れない、もっと根の深い出 生の負い目を負っていたからだとすれば、三浦周平という近江で有数の実業家のかげの部分に、もう名前も行方も忘れ去られた周平の生母や実父を想ってみるし かない。大名の手がついてしまった本陣の娘、そんな男と女を他でもない自分が母方の曾祖父母として持っていた事実に、私はひとりホテルの殺風景な部屋の中 でどう応じていいものか、ぶくぶくと泡でも吹きそうなていたらくだった。 P397
本陣の娘が参勤交代の大名の夜伽ぎを強いられ、その結果祖父周平が生まれたかもしれぬ事実も、乗り越えねばすま ない一つの時代の顔だった。周平もそれを思い知っていた、だから寂しい、だから黙々と生涯を生き抜いた、秋成と同じだ。母くにも、おそらくはそれを識って いた。だから烈しかった。階級を生き直してまで突進した。兄恒彦は祖父や母の寂しみに無意識に触れていたのだろう。だから革新を願い、今も願って日夜働き つづけている。 P405
秦恒平は『生きたかりしに』を書くことで、この母方祖父の、自分や上田秋成に似た境涯にふれて当然、祖父の霊前を慰めたい気持ちをもっただろうと推察する。
秦恒平の親族との再会は、だからこそ二重三重に救済が示唆されている。『生きたかりしに』に、他の秦恒平作品と異色の、ものごとがあるべき場所に調和的に収まるという安心と幸福感を読者が感じる理由である。
『生きたかりしに』は、生前に母と息子として一度も交わることのなかった母くに に捧げる渾身の喪の仕事(モウンニングワーク)として秦恒平の記念すべき一つの仕事となった。だが、秦恒平がこの作品を三十年も眠らせていた理由は、この ふつうの幸福感を描いてしまったことにあると私には思える。秦恒平の中には、母と子に甘い解決を赦してはならない強い想いがあったのかもしれない。
『生きたかりしに』を書き上げ公表することで、「母」について清算してしまうこと、自分の「暗い血の渦」を抱えながら哀しみを生きてきた歳月と妥協してしまうことを、作者は求めなかったと推測している。
「書く」とは何かを消してしまうことと承知している。消されるものの呼び名に拘泥ることは ない、捉われが消えて作が残り、それがましな作品(もの)なら満足しよう。そう思って私は小説を書き、書けば一つらくになり、しかし新しいまた一つの荷を 負った。一つらくになるうちに三つも四つもの新しい重い荷を背負ってきた。 P34
思いも寄らない成行きでこうまで知ってきた全部の過程から、何を自分が獲たのか喪ったのか、こんなふうに俺の中で「母なるもの」も清算され償却されて行く、という思いが湧いて来ると苦笑もされ、侘びしかった。 P 382
七十九歳を迎えて、秦恒平はもう荷を下ろしてもいい、充分闘い尽くしたのでそろそろこの作品を公開してよいと決めたのであろうか。
これは作者が書き上げて心から良かった作品であり、読者が読んで心から良かった作品である。
長く秦恒平作品を読み続けてきた私は、亡き母に捧げる私小説『生きたかりしに』がついに日の目を見て、この救済の物語に出逢えた幸福感に感謝するばかりである。
以上、国語の課題を提出したようなものであるけれど、今の私の『生きたかりしに』についての読みである。
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最後に、こちらは非公開希望のごく個人的な「感想」を書かせていただきたい。
作中に「母を拒んできた俺の四十年が他人にはよく分からないように、突如母亡き跡を訪ね歩き出した俺の思いもずいぶんと訝しかろう」という一文がある。
秦恒平自身も自覚しているが、秦恒平が生前の実母と正式なただ一度の対面もな かったことを、理解できない読者は多いと思う。実際に同じ境遇であった兄恒彦は病床の母親を見舞いにいくまでしている。読者からの感想に「母親に厳しい」 というものもあったが、そう思う読者は少なくないはずだ。秦恒平の母親への拒絶は不可解にみえる。
(中略)
映画監督オ・ミポがインタビューでこんなことを言っていた。
「じゃあ、普通って突き詰めると何か。幸せのことだと思うんです。ごくごく当たり前だけど、その人にとってごく貴いものが身近にある状態。例えば当たり前のように家族がいることとか。」
普通の家庭に生まれ育つことが、それだけで幸せであるという指摘に、私は月並みだけれど目から鱗が落ちる思いがした。そこそこの長所と許される程度の欠点を抱えた平凡な夫婦の間に、普通に生まれ育つ凡人であることは奇跡のような幸運なのだ。
(中略)
子どもにとって終生受け入れられない親もいる事実は認めるしかないのだと今は思っている。 極限の飢えを知らない人間が、飢えに追いつめられた状況を理解できるだろうか。共感できなくても、秦恒平の母親の拒絶はこの作家にとって必然の結果であ り、読者は読んで共に歩むしかない。だから、死なれた母の一生を何とかわかってやりたいと願う『生きたかりしに』を秦恒平が書いてくれたことは、一読者と しても、本当に慰められることだ。
(中略)
そもそも醜聞の子が存在してしまう最大の理由は日本の戸籍制度にあるのではないかと思う。私はかねてより日本の戸籍という制度は改善する必要があると考 えている。いわゆる「戸籍」があるのは日本、韓国、台湾の三国だけで、世界的にも特殊な登録方法である。日本の戸籍は旧民法の家制度の名残なので、離婚家 庭や婚外子には、不当な不利益をもたらすものだ。戸籍の筆頭者が誰であるかによって不愉快な差別を受ける構造となって久しい。
秦恒平が実父の家の戸籍に「入ルヲ得ズ」とされ、一人の戸籍を立てられたという話を読んだ ときの衝撃は忘れない。存在してはいけない赤ん坊がいるような法的措置である。子どもに何の罪があろう。旧民法を支えた思想は個人の幸せには貢献しない。 そこまでして守るべき「家」とは何か、「戸籍」を汚すわけにはいかないという考え方に一体どんな意味があるのか。「戸籍」ではなく最初から「個籍」であれ ば、何の問題もないことである。もしあのような戸籍記載がなければ、秦恒平は、もう少し明るい世渡りができたであろうと思うと、私は同情を禁じ得ないし残 念に思うのだ。家あっての個人という思想が、国家あっての国民という思想の元であり、日本をあの無残な敗戦に導いたといっても過言ではなかろう。
『生きたかりしに』の中で、秦恒平が入社試験の面接のときに戸籍謄本に眼を通した老社長に 「ボクはこういうことに頓着はしないからネ」と言われる場面がある。これは裏返せば、問題にする職場であれば就職できなかった現実を物語る。この戸籍提出 は少なくとも秦恒平の娘世代の私よりさらに十歳年下くらいまでは存在していたらしい。知り合いの彼女は奨学金で国立大学を卒業した有能な人材だと思うのだ が、婚外子という戸籍の問題を説明しにくくて、戸籍を求めない外資企業に就職せざるを得なかったと教えてくれた。
あの時代に妻を失った男が、娘のような年齢の女との間に子どもを二人つくっても、三浦くに ほどの悪評にまみれる転落はせずにすんだだろう。三浦くにが子どもを理不尽にとりあげられてしまった時代から、日本がどの程度女の権利が認められるように なってきたかというと、それは旧民法より格段に改善されてはいる。民主主義と憲法のお蔭でありがたいことだと思う。家のために気の進まない結婚をさせられ ることはなくなったし、母親の意志に反して子どもをとりあげることは犯罪ですらある。
しかし、これからの日本の流れはどうだろうか。婚外子にも嫡出子と同じ相続権が認められた のですら最近のことであるから、日本には家制度の思想が残存する。未だに世間では醜聞の母のみ責められ、醜聞の根本原因の父親が責められることは少ない。 男が婚外子をつくることは「甲斐性」で女のそれは「不身持」である。
世間一般の日本人の意識はまだ多分に家制度をひきずっているし、家制度を温存したい政治勢 力が強い。現在の某女性大臣(名誉男性ともいわれている)は離婚禁止法を検討しているともきく。少子化対策の一環らしいが、まともに考えればこれは少子化 促進にこそ劇的に役立つ法案であろう。日本は女の自由を制限する方向に動いているので、私は今後の男女平等にあまり希望はもてない。戸籍制度の改善など夢 のまた夢だろう。
日本は世界でも稀にみる便利で住み心地のよい国である。しかし、個人の恋愛の自由という点ではまったく後進国だ。
結婚の半分近くが離婚に終わり、第一子の四割もが婚外子というアメリカで、日本の戸籍制度 を適用したら収拾のつかない大混乱になろう。現在のフランスはどうか。女どうしで、それも棺桶寸前のおばあちゃんどうしでも法的に結婚出来るし、それはス キャンダルではないふつうのことだ。息子のような年齢の若い男と恋をする中年女など珍しくもなんともない。婚外子を生んでもふつうのことだ。法的には嫡出 子とまったく同じ扱いであるし、そのような出生の事情はいかなる場合も誰も問題にしない。差別的な扱いを子どもに強いる事態にはならない。セーフティー ネットがしっかりしているから、生活に困った未婚の母でも子どもを育てて食べてはいける。(そのおかげで働かずにいる人間が増えて困っていることもたしか な社会だが)そもそも結婚してもしなくても女側の姓は変わらない社会だから、三浦くにが額田くにになる必要も最初からない。三浦くにが現在の欧米に生きて いたら、ずっと幸せな一生であったことは間違いない。婚外子であった秦恒平は、何の負い目も感じずのびのびと別の文学世界を築くことが可能だった。
将来海外で『生きたかりしに』が紹介されたら、日本に存在する女性差別の歴史的証言の記録として読まれる可能性だってあり得るだろう。
日本は男尊女卑が基本にある。そして母親が恋する女であることには、息子ですら厳しい目を向ける。自分のセックスの相手でない限り、女はすべて良き母であるべきなのだ。
日本では避妊用の低用量ピルが長い間認可されず女たちは困っていたが、バイアグラだけは驚 くべき早さで認可された。女側に避妊の主導権があることは許さないけれど、男の性的問題はすぐに治療したい社会。お産は特別に希望しない限りすべて無痛分 娩のフランスと、無痛分娩で女が少しでもらくに子どもを産むことを好まない社会。日本はこれからも男の意のままであろうし、子どもの数は増えないだろう。 男と平等に、女の自由が実現しなければそうなるしかない。子どもを増やすことより男や家が優位であることが重要なのだ。将来の国力のために何が必要か、世 界の潮流を考える大人の男がいない。フランスが少子化を脱したのは、カトリック大国にもかかわらず思い切って従来の家族の枠をとりはずしたからだ。婚外子 が醜聞にならなくなる日がくることが、日本の少子化への有効な対策であることになぜ気づかないのか。それは婚外子差別が存在するほうが、男による女の支配 に都合がいいからに他ならない。
三浦くにはつくづくお嬢さん育ちだったのだなと思う。お嬢さん育ちは苦労した経験がないから、本当の 世間の怖さ、冷たさがわからない。だから、底辺の女のしたたかな損得計算はできない。世の中では、たいていお嬢さんのほうが無鉄砲であり世間体を無視する 大胆なことをする。柳原白蓮も岡本かの子も宮本百合子だって恵まれた育ち方をしていた。
怕さを識った人間だけがものの奥へ視線を透かせる。「おくに」さんは怕いという直観があまり働かない人ではなかったか。その辺があの人の至らないところ、などと私は今さら批評めいて思い、…… P455
怖いもの知らずでなければ、恋をして婚外子を二人もつくることはできなかったろう。現在の女性たち は、あの男女差別の時代に、猪突猛進闘ってくれた三浦くにのような女たちに感謝して敢闘賞を送らなければならないと思う。日本が真の意味で男女同権にな り、大人の男が増えるためには、三浦くにのような強い女が増えることは必要なことだ。平成の女性の得ている権利は、明治時代から続く女たちの血と涙の闘い の結果なのだから、今後も闘う女が続かなければならない。
私は世の中には三種類の女がいると思っている。
息子を恋人にする女、息子を恋人にしない女、息子を恋人にできない女。息子を恋人にできない女というのは、娘しかいない女や子どものいない女のことである。
三浦くにのような母親が息子にとって迷惑であったことは疑いないが、一番ダメで悪い母親 は、母性愛の名のもとに息子を恋人にする母親である。息子を恋人にする母親は不倫する母親より悪質である。日本には夫に大切に扱われない女が多くて、しか もその女が自分の色香に望みがなくモテない場合や、不倫より安全安心という理由で、自分を裏切らない息子を恋人にしてしまう。日本社会の劣化の一因は、息 子を恋人にする女が増えたことだろう。もちろん妻を顧みない夫側の責任もある。その結果、日本から精神的乳離れのできない大人の男が増えてしまっているの だ。
小学生の息子の洗濯物のシャツやパンツや靴下にアイロンをかけている時間が無上の幸せという母親がいた。大学生の息子とカップルのように海外旅行している母親もたくさん見かける。その母と息子カプセルはとても気持ち悪い。
息子とセックス抜きの濃厚な恋愛ごっこするくらいなら、息子のような若い男と醜聞の恋愛す るほうが遥かに健全ではないか。(私の意見は過激であろうか?)少なくともそのほうが息子はまともな大人になれる。不貞の母を拒絶して自由になることは簡 単だが、疑似恋人の母親からは生涯逃れられない。
世界で一番やさしい母親は、息子の人生を砂糖菓子で縛り続けて台無しにする。男の性的不能の原因には必ず母親との関係がある。
秦恒平の母親三浦くには、つまり息子たちにとっては最悪の母親ではなかったことも私は最後に付け加えたい。
文中の失礼の段はどうかお許しください。長文お読みいただき感謝申し上げます。 了
* 後段にもとても大事な見解が盛られていて割愛に忍びず、紹介した。筆者の山瀬さん(筆名)にお詫びしておく。
2015 8/27 165
* 「湖の本127」を入稿した。
2015 8/27 165
* 湖の本127 早や初校が出そろった。
2015 8/30 165
☆ 「生きたかりしに」
恒平さん
一気に読みました。
この小説は、決して晴れやかにも感傷的にも終わるとは思っていませんでしたから、読み終えて、自分が明るい気持ちにあることに驚かされました。幸子さん、守之叔父さん、芳江叔母さん…恒平さんの探訪の旅によって、たとえそこに恒平さんの意図はなくても、胸の痞えの下りた人、楽になった人がいる。それが、私の気持ちに反映されたのかもしれません。
母親の存在(不在)は、どうしてこうも人を揺するのでしょう。私の場合、母の私に与えた影響は健全さを超えるほど強く、今ここで「ありがたい」と思えるこ とでも、私がもし現在幸せでなかったら、それは「憎しみ」という形で表れていたかもしれない、と思うことがあります。母は母で、自身の母親を恨んで生きて きましたし・・・幸子さんの、お母さまについて綴られた言葉の静かで落ち着いていること。感銘を覚えます。
パソコンの前で遅々として進まない日本語のメールと向き合っていると、夫に笑われます。
スペイン語の方が、書くの早いよね。
-うん。スペイン語は、単刀直入な言い方しか知らないから。
いつもご無沙汰してしまい、ごめんなさい。 次の週末は日本。今年は二人で、十和田、奥入瀬、白神を歩いてきます。 バルセロナ 京 東工大院卒
2015 8/30 165
☆ 秦 恒平様
謹 啓
このたびは「秦恒平選集」第八巻をご恵贈いただき、有難く御礼申し上げます。重ねてのお心遣い、もったいなきことと深く感謝申し上げます。御選集の御上 梓に尽力される先生ご夫妻のご苦労を思いますとき、なんと御礼を申し上げてよいものか、言葉もありません。ただただお二人ともご息災、お幸せでありますよ うにと、お祈り申し上げるばかりです。本当にありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。
『最上徳内=北の時代』 いただいてすぐカバーをかけ読み始めました。序章・二章・三章と読み進めながら、私の脳裏に浮かんだ観念は、江藤淳氏が漱石論 で「心」の「私」を「あたかも探偵のように主人公の秘癖をかぎあてようとする」人物といい「漱石は本格的に探偵小説を書けば書ける人であった。」といった 言葉でした。「最上徳内」には低次の犯人暴露などではなく、まさに「知ることを欲する」「知」を愛するフィロソフィの躍動する探究心が通底しており、秦さ んは「本格的に探偵(推理)小説を書けば書ける人(作家)」ではないか、と感じたことでした。
読みは未だ端緒ですが、源内、東作、南畝等々、多彩な人物が活躍した、謂わばルネッサンス期にあった江戸後期の文化的・政治的活況が行間にあふれ出、作 者の生きる現代と微妙に絡まりあいながら、問題の本質に分け入っていく、息を継ぐ間もない展開に惹きいれられております。
「湖の本」で読みましたときには、青島俊蔵の性格が妙に気になり、印象に残りましたが、今回はもっと腰を入れて、日本史年表を片手に、最上徳内と徳内が生きた時代、徳内がなしたことを、再認識するこころ積もりで学びたいと思います。
徳川300年の鎖国政策が日本人に失わせしめたもの、得させたものが、今日の政治、外交、国民性を醸成したことを思いますとき、ご著書「最上徳内」は日 本人の心性を知る上で、欠かせない文献ともなるものではないかと、個人的な期待ですが、これを機に是非読み込んでみたいと思います。
『罪はわが前に』読了いたしました。最後のクライマックス、感動いたしました。玄関の内灯を背に宵闇の中に立たれた芳江姉さんと「思無邪」駆け寄ってき た少女のシンボリックな対比。「姉さん-」の呻くような発語に、物語の全内容が収斂され、一気に爆発いたしました。感極まる一瞬でした。天上の愛は、これ でよかったのだと、自然胸をなでおろしておりました。
失って確かになる「愛」ではなく、永遠につづく「愛」は、堀辰雄の「風立ちぬ」にも、ありますが、死して永遠となる「愛」ではなく、生きて、共に現在を 生きながら、永遠である「愛」、エゴを超越した「愛」は、『罪はわが前に』をもって嚆矢とされるのではないかと思いました。この小鋭が「未完」であるわけ も、最後まで読んで深く納得できました。この小説は「未完」の言葉の後に「-完-」と記されて、初めて一巻を閉じる、小説であり、「未完」の言葉を単純に 未完として続きを期待してはいけない小説なのだと。この「未完」はすなわち「永遠」を意味しているのではないか……、わたしはそのように読みました。
未熟な読後感です。失礼の段、ご宥恕ください。
真夏から秋へと、いささか季節は性急に移ろい、身体も心も準備の間もなく、たじろぐ心地です。政治的状況といい、季節といい、すべてが不順です。等し並 みに愚に横並びして、賢を無視し、尊敬する向上心を失った日本人は、あらゆる権威を回転寿司なみに低廉化し、企業が営利で偽造する空虚な莫迦笑いに沈ん で、やがてこの国土を失うという愚挙にまでつき進むのでしょうか。尊敬するものが無いというのは理想がないということではないでしょうか。理想を育まない 国に、未来はない。
非常に暗い気分ですが、昨今の空模様のように、何もかもに暗澹としております。
御礼の手紙のつもりが愚痴めいてきました。お許しください。
HPを拝見しております。新作を書き進めておられるとのこと、是非「湖の本」で発表していただきたく切望いたします。
この天候不順はまだしばらく続くようです。どうぞお体を御大切にご自愛のほどお祈り申し上げます。
御著書大切にいたします。 敬 具 平成27年8月31日 八潮市 小滝英史 作家
☆ 拝啓
きびしい暑さもようやく収まり、秋の気配が立ってまいりました。
この度は、『秦 恒平選集第八巻 最上徳内=北の時代』を賜りまして、まことにありがとうございました。いつもの「湖の本」に重ねこのすぐれた選集を頂戴しまして、大変恐縮しております。
主題もスケールもまことに大きな御作品、ゆっくり拝読させていただきます。
秦様の、ますますのご健勝を心より願っております。
謹んで御礼申し上げます。敬具 横浜 梅原稜子 平林たい子賞作家
* 有り難いお手紙を、戴きました。小滝さんの「罪はわが前に」へのご理解、有り難く思った。
* 湖の本127の初校、ずんずん進む。浴室でもたっぷり読み、また選集「親指のマリア」、第一章でのテベレ橋の別れまでも読み遂げた。しみじみとした。 新聞で、この辺が書き切れて行けて、ずいぶん力を得た。勢いをもらった。「畜生塚」「みごもりの湖」「清経入水」「罪はわが前に」「風の奏で」「冬祭り」 「雲居寺跡」そして「最上徳内」「親指のマリア」と、わたしの内なる世界は一貫したドラマを追っている。それがこの長編でよく自得できる。
* 「ある寓話」 もう最終のトラックへ駆け込み、ゴールのテープがまだやや遠目ながら見えている。ここで転んでは困る。本当はその前に書き上げたかった「ものがたり」が、蜘蛛の巣の糸の風に吹き切れそうに揺れに揺れている。
実の父についても、こつこつと書き継いでいる。
九月になった。
明日には私なりに選んだ「第九巻」掌・短篇小説集を、口絵をのこし、本文すべて責了にできる。
2015 9/1 166
☆ 少しすずしく
なってまいりました。今年の夏は本当に暑かったですね。
『秦 恒平選集第八巻』
ありがとうございました。もったいなくて 大事に大事にします。
先日 岩合光昭さんの写真展に孫と行ってきました。(写真葉書)私は見ているだけで幸せ気分!
ところで、
又、飛騨桃の季節になりました。別便にて送らせていただきます。お口に合えば幸いです。 各務原市 石井真知子 読者
* 湖の本創刊以来 三册ずつを買って支えて戴いている。有り難い。岩合さんの猫テレビは我が家でも人気。一抹の不快感もなく掛け値ない「人気」ではこの岩合さんのと、日野正平のふるさとへ自転車で の番組。
2015 9/4 166
* 湖の本の都立高校等に宛て発送用意を、一日、テレビなど見ながら難なく終えた。 2015 9/8 166
* 湖の本127の初校を印刷所へ戻した。
2015 9/10 166
☆ 秦 恒平 先生
立派な御本をお贈りいただきまして、ありがとうございました。
その前にも、湖の本をお送り頂いており、恐縮です。
お身体、その後いかがでしょう?
御本が届くとき「ご活躍中なのだなぁ~」と感銘しております。
どうぞ益々のご活躍を期待しております。 北海道 中山 あや 漆藝作家
* お元気でお過ごしあれ。
わたしはまだ ゆらゆらしていますが、八十傘壽を目前に仕事をつづけています。あまり食が進まず、それでも胃全摘の後もなお<20キロやせてなお、68キロあります。脚と目とが弱りました。
あなたはどんな日々のお仕事ですか、美しい作が続いていますように。
わたしの今度の「最上徳内」は、シーボルト曰く「最良の日本人」として、北海道でいっとう早くごくマトモに立派に活躍した人です、有名な間宮林蔵らよりうんと早く、より大きな心よい仕事をし、日本に「北の時代」のドアを明けたひとです。
機会とご縁とがもしあれば、さきざきにでも、然るべき人なり施設なりに献本して下さいましてけっこうです。
湖の本の「生きたかりしに」は幸い晩年の一記念作となり好評でした。生みの母と、ようやく出逢いました。
お幸せにと願っています。
2015 9/11 166
* 階段を二階へ上がってくると道路側に小さい窓を幾つか開いた短い廊下が、妻の部屋とわたしの今いる機械部屋へ導いている。その廊下の窓の下に、文庫・ 新書本用の書架が三つ四つならんでいる。通るつど、書架の上へも溢れ、窓枠へも溢れた本をつい手にしてしまう。北向きの窓が明るくて、目を惹く懐かしい本 につい掴まってしまうのだ。今も、ごく早い時期の角川文庫「般若心経講義」をつい手にした。高校のはじめに熱愛した一冊で、ちぎれた表紙が何度もガムテー プで抑えてある。宗教また哲学に接した初度体験本とも謂えて、平易な講義よりも詳細な注記に目を皿にした覚えも懐かしい。あのころ我が家は剣呑に大揺れし ていた、『罪はわが前に』にも触れている。「空」とか「無」という文字に目を剥いていた。
もう一冊、近藤稲子さんの訳された英語での漱石作「こころ」本にも手が出て、拾い読みしていた。『こころ』は中学二年末いらい日々にわたしの「バイブ ル」であった。こんな英訳本をいつ買っただろう。はるか後年には奇しくも俳優座のために戯曲『心 わが愛』を書き、加藤剛の主演で何次もの公演はいつも階 段に小座布団が出るほど満員だった。その戯曲は「湖の本」を創刊して第二巻に入った。いまは第百二十七巻の初校を終えている。往時は渺茫とはるかに遠い。
2015 9/11 166
* 一作の短い、風変わりな小説を、今日、新しく仕上げた。このようにして、遠からぬ湖の本の新刊に、幾つかの新小説を特集できるかも知れない。われながら、ちょっと嬉しい期待である。
2015 9/17 166
* ひょっとして、次々回の「湖の本」新刊には、すこし異様できあるが新作の小説集が編 めるかもしれない。その気で、つとめたい。少なくも遠からず実現の気運をつかみかけている。 国会など、いやみな変な一日だったけれ ど、仕事は着実に動いてくれた。しかし頭と手先だけ動いていて体はちっとも運動していない。体重の増が気になる。
2015 9/17 166
* 湖の本127の再校が出た。選集⑨の前付け、口絵、函表紙など責了にした。
2015 9/19 166
* 今日は朝から眼がよく見えず、なんとなく呆然と睡魔のおとずれに身をまかせがちで。ついつい純米「澤の鶴」の一升瓶を傾けながら、選集⑨の送り出し用 意になどに、ゆっくり、かかっている。湯に漬かって目を温めながら、選集⑩の校正をするか。今は、なによりこの初校を終え、印刷所に戻すこと。選集⑪も⑫ も初校が出来ているのだ。
湖の本127の再校も出そろっている。願わくは湖の本128は新しい小説集で出したいと願っていて、そのためには緊張し集中して原稿を創り上げねばならない。
2015 9/20 166
☆ こんばんは!
秋の気配が濃くなってきました。ご体調はいかがですか。
今日もよく晴れてまだ日傘がいるような一日でした。
お寺(=秦の菩提寺)の萩も満開で、すすきや彼岸花も目を楽しませてくれました。
シルバーウィークとやらで、我が家の近辺は人と車で大混雑です。
主人の撮ってくれました写真送ります。明日が誕生日で76才になります。
主人は11月に傘寿を迎えます。恒平さんと同い年ですね。
東京にいる娘も、孫娘の通勤の便宜のためとかで、大泉学園から高円寺の方へ引っ越しました。
東京も何年か行っていませんが、機会がありましたら、ちょっとだけでもお目にかかれたらと願っています。
それでは、どうぞお大切にお過ごしください。 みち 秦方の従妹
* お寺へ、もう何年もご無沙汰のままになっている。わたしの知るかぎり、住職は代わり代わり、五人目で、四人目と五人目とには会えてもいない。四人目に 代わったと聞いてまもなく、すぐ五人目が嗣いだと報せてきた。そんな気がしている。わたしたちもボンヤリしている。そしてお寺という存在が生活に関わって くる意味をいまさらに考えこみ、ひいては墓という意味も考えこむ。妻も、今はわたしも、一人で京都へ行けない。五十ちかい息子がまったく寺の墓のというこ とに無関心で無知識で、秦家の墓を護るなどということは多忙に流されて想ってもみない。
墓というのは息子が新しく造るものだとわたしは五十くらいの頃に秦の父にいわれ、そうなのかと思って京都へ何度か通って墓を新しくした。お寺とのかかわ りは妻が気遣いして曲がりなりにも跡絶えてはいなかった。わたしは、息子にまた新しい墓をなどと望みもしないが、この家にせめて寺とのかかわりを行儀良く 取り仕切ってくれる嫁か孫かが欲しかったなと痛切に思う。この分だと、わたしを育ててくれた菩提寺との縁が不行儀に切れてしまう。
いま、わたしが死んだら、どうなるのだろう。
埋葬や納骨でなく、縁故の地への散骨散灰を願う人の多くなっているのを、当然だと思う。若い世代に「家」まして遠地にある「家の寺」「親の墓」「自分の 墓」という認識も責任感も行儀も失せている。そんな時代なのだ。「家」はもう、かなりに実質崩壊し、親子孫といった血縁も実態をほぼ喪っている。仕方ない ことだ。わたしにしても、「秦の親たち」に不孝を重ね続けたのだ。毎朝、父と母と叔母との位牌に、妻子にしらせず、「ありがとうございました。」「ごめん なさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と、ただ語りかけ頭を下げつづけているだけだ。
* わたしが、骨と灰と化したなら、どこよりも、だれよりも、こころから愛した「ネコ」と「ノコ」との墓へ一部をともに葬り、他は、指定しておく幾つかの 場所へ、それとなく散じてほしい。それだけは、せめて、息子秦建日子に頼んでおく。葬儀など、要らない。したくもない墓参など、無用にしておいてやりた い。
わたしの墓は、墓碑は、それ自体はいずれ灰と化そうとも、言うまでもない「紙碑」であり「紙の墓」である『秦 恒平選集』と「秦 恒平・湖の本」と、それだけで十分、他に必要ない。
妻が近未来の死後をどう具体的に希望しているかは、せめて息子建日子が、母からじかに聞いて置いて欲しい。わたし自身は、しみじみとそれを妻の口から何も聴いていない。
とにもかくにも、妻の傘寿(明年四月)までは夫婦二人とも慎重に堅実に生き延びたい。その後は、ほんとうの「余生」をなるべく自然に楽しみたい。ま、わたしは文学の仕事一途にがんばってしまうのだろうが。
2015 9/21 166
* 目のことで、まだかすかに希望も持ち現に機械の前以外の場所で大量の「初校」「再校」「責了」の仕事が出来ているのは、結構な照明そして裸眼視がまだ しも効いてくれるんらで。これが出来なくなったら「選集」も「湖の本」も断念廃業しなくてはならない。無理が招いた視覚消耗とはいえず、抗癌剤一年連用が よほど堪えたのだが、わたし自身が強く求めて服用したのであり、その点は自分の腹に収めている、愚痴は言わない。胃癌の場合にはふつうに抗癌剤というと 「ts1」が用いられる。むかし「胃と腸」の編集主任として専門の研究医臨床医二十数人と毎度編集会議をもち定日発行を守り続けていたが、その折りの先生 のお一人が、わざわざお手紙を下さって抗癌剤はおやめなさいと忠告して下さったのを、感謝しつつ押して自分蟹服用を望んでしまったのだ。前車の轍ともなれ ばいいが。 2015 9/22 166
* 夜前、「或る雲隠れ考」初校終え、「湖の本127」再校をし始め、「韓国古代史」の隋による、また唐による執拗な高句麗攻撃、また新羅の唐へ救援を求めての接近等々を読み進んで、消灯二時半に及んだ。
すこし瞼が重い。
* 「チャイムが鳴って更級日記」は、纏まり始めてきた。「初稿・雲居寺跡」は承久の変前夜の闇を歩み続けている。
「選集⑩」のあとがきを書きかけている。「湖の本127」の再校ゲラを読んでいる。
「選集⑪」の初稿が順調に進んでいる。この巻は、いわば私の「戦後」篇とでも謂えようか。収録のいずれにも気が入っていて懐かしい。
2015 9/26 166
☆ 湖の本124,125,126号,お送り下さい。
秦 恒平 様 お元気ですか。
こちら、持病の心臓病よろしきに、帯状疱疹なる病ならぬ病でびっくりするような苦しみを味わいました。が、それを乗り越え、「琅」29号の編集ようやく 終わり、次なる作業への見通しも持つことができるようになりました。これからゆっくり、そしてしっかり、頂戴致しました秦・人生録を完読してみようと思い ます。
つきましては、これから物書きにもなり得るやもしれぬ愛弟子にも読ませ、刺激し、様々洞察をも得させるべく、「生きたかりしに」上記3冊お送り頂きたく、お願い致します。なお、代金支払いの振込用紙を同封して頂ければ幸甚です。
視力衰え、このような大きな文字でなければ、ワープロ・パソコンも使用できなくなりました。都度に苦笑するところですが、それぞれ個人の健康の重点,置き所も様々、くれぐれもお身体お大切になさって下さい。 敦 作家
* 恐れ入ります。有難う存じます。
2015 9/28 166
* 「選集第十巻」の再校ゲラが届き、「第十一巻」の要再校ゲラを戻した。ぎりぎりと忙しくなる。「湖の本127」百頁再校する。
2015 10/3 167
* 「湖の本117」のあとがき「私語の刻」を入稿した。
2015 10/4 167
* 「湖の本」127巻本文を責了、託送した。十一月までに出来るだろう。
そして「選集」第十巻を師走中旬に送り出せれば今年の目標は遂げたことになる。仕事は、もう来年へと進んでいる。鬼が嗤うが、来年の今頃は、「選集小 説」編をしめくくって終局とするか、「論考・エッセイ」編へも歩を運ぶかを考えているだろう、が、今は、そんな先でなく「今・此処」に打ち込んで新しい仕 事をし続けたい。さとあたり「親指のマリア」全六章の長編を丁寧に再校し遂げたく、その一方で、次の「湖の本128」を小説集として創れるかをよくよく思 案したい。
2015 10/5 167
* 「青い雛」という小説を書いている、読み返している、が、怖い夢である。未発表の作。近いうちに「湖の本」に出せるかも知れない。
2015 10/12 167
* 映画「奇跡」を静かに深い共感とともに見終えた。十数年前に感銘をうけて日記に書いていたのを今度の「有楽帖」で読み返していた。信仰の真摯を描いてピュアに胸へ来る映画は、有りそうで少ない。
2015 10/12 167
* 照井良彦さんへ選集第四巻を送り、岡田昌也さんへ礼状を送り、ついでロキソニン一錠を服しておいて西棟玄関を塞いでいる選集第八巻を十五冊ずつ三度、二階 へ運び上げた。腰骨が折れそうに重いが、頑張ってしまう。あいついで配本の希望があり、予備の私蔵本にも気配りしている。九巻の出来まで、用意日はもう明 日しかない。明後日は義妹と三人で幸四郎の「ラ・マンチャの男」を楽しむ。このミャージカルの初体験は十数年前の帝劇からの招待だったらしい、今度の「有 楽帖」に永い記事がある。以来、四、五回も観てきたろうか。ヒロインは松たか子のことが多かったが、今年は初めて会う女優で、それも一つの期待と楽しみ。 2015 10/13 167
* あさっての選集第九巻受け容れ用意は、ほぼ確実に出来ている。
第十巻責了への用意も着々。第十一巻のために口絵の按配を思案中。
さすがに本の出来てくる前々日、前日はわたしもかなり緊張している。一つには妻にもわたしにもたしかに重労働なのである。湖の本のほうは宅急便が集荷し てくれるので、数は多くて緊張は緊張阿でも選集への緊張とはちがう。郵便局への運び入れ幾往復もは正直きつい。運動になるとくらいに思ってやっているが。
あいにく妻が数日前から咳いている。明日妹との観劇も咳き込まないかと心配らしい。ま、ガンバルしかない。
2015 10/14 167
* 「秋成八景 序の景」と題した短篇が仕上がった形で見つかった。講談社から書き下ろしで「秋成」を買い手と頼まれ、こういう構想で最初の「序の景」 だけを書いて、亡き井上靖さんに誘われ、日本作家代表団の一人として四人組追放直後の中国政府に招かれて行った。その昂奮と収穫とは必至に尽くせず、わた しは帰国早々に「選集第四巻」に載せた小説「華厳」を書き下ろし、「文芸展望」に発表した。煽りで、「秋成」への踏み込みは崩れてしまい、講談社にはつい に違約した。違約というのも当たらないか、書くは書いたのである、が、「秋成」を終始念頭にしつつわが生母の生涯を追いに追いかけた長編「生きたかりし に」800枚を書いた。やはり違約であり、わたしは書いた「生きたかりしに」を生きたまま棚に上げて三十余年も埃をかぶらせ、はからずも、此の春から夏へ 三巻の「湖の本」として公刊した。幸いに好評で、人によっては秦文学老境の「代表作」が生まれたと褒めて下さった。来春には、「秦 恒平選集第十二巻」と成って、わたしと妻との「傘寿」を、結婚五十七年を記念してくれるだろうと心待ちにしている。
で、くだんの「秋成八景」の序の景であるが、それなりの一篇・一景には成っている。あと七景が「書ける」か「書けない」か、それは不明で不定である。
* 岩波の「世界」に「最上徳内」を長く連載していた途中から、東芝のワープロ第一号機トスワード①を買って、その日からもう原稿の手書きは一切しなく なった。数十年の昔である。このトスワードでは「京都新聞」朝刊小説「親指のマリア」全編も書き下ろした。その他、もろもろ書きこんだ。そんな中に先の 「青い雛」も「秋成八景 序の景」も入っていて、他にも断片のていに、可能なら小説になるべきふうの書き出しがたくさん混在していたのを、不自由なトス ワードを遣い已めるさいに、みな、プリントアウトしておいたもその一束が見つかった。読み返し返し、フーン、フーンと呆れたり、笑ったりしている。 2015 10/14 167
* 「秋成八景 序の景」を半ば読んで、しんみりと雰囲気よろしく書けているのに安心している。「二の景」「三の景」と、しみじみ書き継いでみたくなるほどだと佳いが。
じつのところ、今や「湖の本」は出せば出すほど出血が増す。しかし、創作もエッセイもこの形でこそ、読者の手にも、各界の知己や支援者の手へも送り出せ る。こういう形で文学活動を絶え間なくつづけられる純文学の作家は、書き手は、世間にたったの一人もいないのである。その上に、そもそも私の「選集」な ど、アタマから非売本で、流れ出るように惜しまず費用をかけている。収入の必要はなく、「文学」活動が続けられたらよいと思っている。余命はもう限られて いて、生きのびて生活できている限りは、無収入のママでと覚悟している。とはいえ、「湖の本」は可能な限り一巻でも多く永く送り出しつづけたい。せめて湖 の本での「未発表」「新作」小説に限っては、少し赤字を助けて戴こうかなとも思案しかけているのだが。ま、それよりも、「書く」「創る」ことだ、あたりまえだ。
2015 10/20 167
* 起床9:00 血 圧146-66(64) 血糖値94 体重67.9kg
* 「湖の本127」発送の用意に、何としても西棟から東へ、東棟から西へと、重い本包みや郵袋包みを運び替えないと作業が進まない。二棟あって 広いようで、実は西棟は本の山で歩くのも不自由なほど、それをやりくりやりくりしている。東棟は住まいだが、階下も二階も、まともに歩けないし座れない。 昔は毎日のように編集者や記者や読者や東工大の学生を迎えて飲み食いしながら歓談にあけくれたが、今は、わたしと妻とで座れる場所がやっと。たまに息子が 帰ってきても座らせる場所を明けるのが、難儀。
そんなわけで本の発送時は、家は修羅場となり、そのなかで八十の夫婦が奮戦する。
奮戦のための用意がすでに重労働で、それを、今朝は二人して、なんとか実行した。して置かないと、万事停頓してしまうのだから、仕方がない。どう疲れて いても、約束の日には本が出来てくる。狭い玄関に山積みの本を抱いて寝るわけに行かず、可及的速やかに送り出したいが、そのためには家中を使っての「用 意」が、種々ある。
宛名印刷して封筒に貼る、その封筒に住所印や謹呈印を捺す。
送り状を少なくも三、四種類も書き分けて、印刷しカットして用意して置かねばならない。
払い込み用紙も郵便局から手に入れて、ハンコを捺しておかねばならない。
ガムテープやビニール袋も買っておかなくてはならない。
今朝の東西交互の運搬には、まえもって痛み止めのロキソニンを服しておかないと、腰の激痛で潰れてしまう。潰れて転んだりすれば、命に関わる。
観ようによれば秦の「妄執」に見えるだろう。どう見られようと、涼しいものである。わたしは敢えて踏み出した「騒壇余人」でありかつ小説家でありエッセ イストであり、歌集「少年」の昔から文学を生き続けてきた。歩み已める気はさらさら無い。近代文学史に稀有どころか絶無の「秦 恒平・湖の本」現在127巻、継続三十年で、なおなお続くなど、そんな「作家の出版」は世界中に例がない。趣味や道楽で出来ることでなく、なによりも読者 に受け容れられる「作」が「質的に創造」されねば成り立つわけがない。妄執で出来るような簡単なことでない。妻を巻き添えにはしたくないが、わたしはこの 「戦場」で戦死できればその上の望みは無い。
2015 10/25 167
* 大学はもとよりとしても、全国の有力高校への「湖の本」寄贈にちから入れている。相次いで、次の贈呈発送に「からた言葉の日本」「こころ言葉の日本」を送れるように、用意をした。
* 「迷走」三部作を読み終えた。まざまざと、あの激越だった「造反有理」の大春闘の渦中に身を置きなおし、息を呑んだ。
正確に書いていると思うが、語り手の一課長の「私」を私・秦 恒平であると読むわけにはいかない、あの74年大春闘のとき、わたし自身はもう五年前から「作家」としても暮らしていたし、もう何冊も出版社から本が出て いた。テレビにも出ていたし、ラジオでも話していたし、講演にも出向いていた。烈しい闘争のさなか、原稿の〆切だの放送局との約束だのを調整するのもたい へんだった。だが、この三部作の中で「私」はそんな現実とはまったく無縁の一末端管理職課長としてのみ組合の攻撃を真面に受けていた。作家でもある生活 を、意図してきれいに抹消してこの小説の中で「私」は右往左往していた。その限りにおいて叙事は正確でウソを書いていない。
出版の労使紛争は、むろん珍しくもなかったが、本郷台での医学書院の労使闘争の烈しかったことは、近隣に鳴り響いていた。著者も読者も全国の医学研究 者、臨床医、大学・病院勤務医であり看護婦らであった。して事実我が社の給与は日本一高いとすら労使共に自覚していた。それでいて、それゆえでもあったろ う、労使の、いや組合の激しさも図抜けていた。わたしも組合員であったし、そこから末端管理職に含まれて行き、その間に太宰賞作家としても仕事をしてい た。
じょうだんではない、この作は、いまいまの会社管理職も、社員も、組合運動家も、心して読み返されるといい。事実、あのころこの本を教科書風に参照して いた会社も組合もあったと聞いている、が、じつは、今こそ、これを読んで「モノ」を思ってみることが必要ではないかと思う。これは果たして過去完了闘争な のか、未来に復活しかねない労使の闘い、末端管理職の悲喜劇なのか。
ともあれ、わたしにはこういう仕事があった。かかる大春闘のさなかに、わたしは「みごもりの湖」を仕上げ、「墨牡丹」を書き下ろしていた。あの労使大騒 ぎの真っ直中で書かれていたあれらの小説が、微塵の騒がしさももっていないこと、それが、わたしのまさしく「創作」であった。よみくらべていただきたい。 2015 10/25 167
* 「お父さん、繪を描いてください」を快調に読んでいる。なつかしい。
これを書いていた頃は、書き手として苦しかったときだ。いつも「小説を書いてください」という呼び声や叱咤を奥底に聞いていた。じいっと堪えていた。堪 えたままこれを書いていった。「湖の本」に入れたとき作家でもあり、ペンクラブでもお付き合いのあった東大教授の西垣通さんが、こんな小説を書かれていた んですね、敬服しますとお便りを戴き、大きな息をしたのを昨日のことのように覚えている。「小説を書く」ことの重さにわたしは堪え堪えたままいろんな「仕 事」を続けていた。ポキッと折れていたらお終いであったろう。
2015 10/27 167
* 湖の本127は十一月十日の搬入と決定。
午后には、選集第九巻の支払いに銀行へ。こまごまとした用紙への書き込みが出来ないので、妻と散歩かたがた駅前へ。糖尿の薬を受けとりに薬局へも寄る。
2015 10/28 167
* 発送の郵袋にはんこ捺しをはじめた。苦手な仕事。二日ほどで出来るか。
明日は、できればフラッと出歩きたいが、体力があれば。
2015 10/28 167
* 今日も「山名武史」の苦悩に密着して過ごした。
「湖の本127」発送の宛名貼りも。「湖の本128」に有効の用意も。
2015 11/4 168
* 「湖の本128」新刊分の入稿用意がほぼ出来た。
2015 11/4 168
* 「湖の本」新刊128を入稿した。
2015 11/5 168
* 「湖の本」127 有楽帖 刷りだし一部抜きが届いた。発送用意はほぼ出来ている。今回は、作業量がいつもより二、三割がた増える。
2015 11/6 168
* 歯医者に出かけた途中から凄いほど喉が渇いていた。「リオン」で水もたくさん飲んだ。何時間もたつのにまだ喉がひりひり乾いている。やれやれ。
明日明後日をやすんで、月曜はまた聖路加、火曜には「湖の本127」が出来てくる。一週間後にはやはり聖路加で胸のCT検査。発送作業を、あまり急ぐまいと思う。
2015 11/6 168
* 「選集第十三巻」を入稿した。一の大冊になりそう。
* 「湖の本127」発送用意は、一応遂げた。
* 明日は、聖路加の感染症内科を受診する。手術直後このかた何の問題も見つかっていないが、安心を買いたく、欠かさず受診してきた。いつもより予約時刻おそく、三時。遅くなれば、すこし骨休めして帰り、明後日の新刊「湖の本」到着に備える。ガツガツと発送を急がない。
2015 11/8 168
* 野呂芳信さんから「選集⑨」への丁寧な礼状が来ていた。この若い野呂さんとは面識がない、が、「慈子」や「冬祭り」に有り難い書評を戴くなど、プライ ベートな畏友として長くお付き合いした神学者、立教大の野呂名誉教授の御子息であるのかも知れない、確かめていないが。「参与」に名を連ねている藝術至上 主義文藝学会の会員名簿でみつけた。大学の先生である。
* さ、明日は「湖の本127」新刊が出来てくる。128は、もう入稿出来ていて、一月には刊行できるだろう。うまくすると、来年の桜桃忌には刊行30年記念の第130巻が出せる見込み。新作の小説が出来るといいが。
進行中二つの一つの方へ、久保田淳さんに戴いた「源平盛衰記」がいい刺戟になってくれそうで、頑張ってぜひ押し進めたい。作の題は、云えない。
2015 11/9 168
* 朝一番、「湖の本127」搬入に起こされる。おかげで午前中いっぱい発送に利用でき、夕過ぎまでにハカが行った。集荷してくれるので助かる。妻が、よく手伝ってくれる。
* 各務原の石井さん手配の「鮎や」の鮎が届いた。一尾のなにもかもが柔らかに美味しく戴けるという。この二十日ほどで、四升の佳い日本酒を飲み干したばかり、この鮎はとっておきのワインでご馳走になろう、湖の本がみなお手元に届く頃に、楽しみに。
2015 11/10 168
☆ この度は
ご観劇(心中天網島)頂きまして、ご感想も有り難く、演出の篠本さんも大変感謝していらっしゃいました。
また、先日は重厚な装丁の御本をお贈り頂きまして有難うございます。非売本とか…。貴重な御本を有難うございます。
扉絵はお母様でいらっしゃいますか。優しいお人柄を思わせて下さいます。それでいて慎ましやかな情熱を感じます。これからじっくりと秦恒平先生の世界に浸りたいと思っております。そして、音読に挑戦、先ずは夫に聞いて貰おうかな~と思います。
奥様に呉々も宜しくお伝え下さいませ。
実は…本番中、奥様が私を御覧になって、秦先生の左腕をつついたのが見受けられました。私は御夫妻が微笑ましく、そしてお二人と会話出来たような幸せな気持ちで舞台を勤める事が出来ました。
「お二人でようこそ来て下さいました。有難うございます。じっくり御覧になって下さいね~」って心の中で感謝しながら。 早野ゆかり拝
* 早野ゆかり様
あの挿絵を描いたのは、私をつついた、同じくやがて八十の老妻です。私がいねむりしてはいけないとつついた、早とちりの女房です。私、いねむりなどしてませんでしたよ。
「秦 恒平・湖(うみ)の本」127 『有楽帖 舞台・映画・ドラマ』 今日送り出しました。一両日で届くでしょう。
二十*日は俳優座公演へ。
眼の調子、いいといいがと願っています。もう数十年の例で、家内といっしょに参ります。前回は体調悪くて行けませんでした。
お元気で。 秦 恒平
* 切ない、佳い小春だった。篠本さんの構成と演出がとても面白かった。あの手をうまく展開できれば、わたしの掌篇小説を たてつづけに十ほど、上手な朗読とパントマイムとで幻影の舞台が生まれるのではと思ったりした。
2015 11/10 168
* 今日の歌舞伎座は夜の部なので、出かけるまで発送の仕事をしてもよかったが、昨日奮励の疲れがしっかり遺っているので、「本日休日」ときめている。眠気がのこっている。
2015 11/11 168
* 明日も、がつがつ慌てないで、残り「湖の本」を送り出す。遅くも明後日で終えているだろう。
* よく寝みたい。
2015 11/11 168
* 昨日中断した「湖の本127」発送の仕事始める。
* 今日の作業は、単純に本を封筒に入れるだけで済まず、昨日の半分にも足らぬ分に時間を掛けた。夕食後、近くへ酒を買いに行き、鮎の甘露煮を賞味。気分良く、あと、一時間余り機械の前で居眠り。夜も、つづく作業へ。
京都の従妹から、本が届いたとメールが来ていた。花小金井からも。
☆ 湖の本
届きました。有り難うございます。
この気力に、改めて感心しています。
私は目下、空いた時間は、人生八十年の歴史たる山積の写真の取捨選択に費やしています。
単純で肩も凝りますが、懐かしい写真に出会える楽しみもありです。
益々お元気で! 泉 同窓
* 湖の本創刊を推し出していただいた恩人、元朝日新聞社の伊藤壮さんから、お電話いただいた。よもやま、お話しできた。伊藤さんはわたしより五つ年上だが、お声は若く、出歩いても居られて羨ましい。
あれはたしか有楽町の広い朝日ホールで、「色」をめぐる講演会がありわたしも一役振られていた。まずまず話せた。丁度その時に、「湖の本」創刊の「清経 入水」がいま出来るというので、ちょっと伊藤さんに洩らしたら、即座に満員の会衆へむけて紹介して下さり、翌日には朝日の記者がインタビューしてくれた。 ついで大きな新聞がぞくぞく紹介してくれたので読者は予想を超えてふえ、急いで二度も増刷した。あれから、はや三十年。わたしの愛読者は年輩の方が多く、 大勢の愛読者が亡くなって行かれた。
いつしかに読者に買っても戴きながら、それ以上に全国の大学、高校、図書館や研究施設へ、また各界知名の方々へ、文学活動として「寄贈」を大事に考え、 出費を厭わず実行し続けてきた。いまや、本づくり自体はまったくの赤字発行であるが、「湖の本」の知名度は、私の願ってきた以上にひろがってくれている。 わたしたちは、まるまる贅沢には暮らしてこなかった。自動車ももたない、広い家ももてない海外旅行はもとより国内の旅行もほとんどしないし飛行機にも乗ら ない。コツコツ稼いだ全部を本気で「文学」のために使い果たし、死ぬ気でいる。他に、なにを遺す必要もない。
それにしても、三十年、ご支援し続けて下さっている身内も同然の読者が、いまも(人数は愕然とするほど減っているけれど)いて下さるのは、何よりも心嬉しい。
* 十三日の金曜を気にしたことはない。多くの高校へ、あす、送り出せば、創刊以来二十九年半の「湖の本」第百二十七巻発送作業は一段落。年内には「秦 恒平選集」めでたく一区切りの「第十巻」を送りだして、暮れの二十一日には満八十の傘壽が迎えられる。いまどき八十は若い若いと言われそうなほどもっと高 齢の先達先輩が多い。年寄りがることはないのだ。
2015 11/12 168
* 「湖の本127 有楽帖=舞台・映画・ドラマ」を送り出し終えた。
さっそくに「湖の本128」の未発表「小説」二篇の初校ゲラが届いた。
☆ ご本ありがとう。
秦 兄 その後体調はいかがですか。「湖の本」vol.127を拝受しました。いつも気にかけて頂きほんとうに有り難うございます。
当方も変わりなく、と云いたいところですが、10/15に早大のクラス会で上京のおり鯨飲して転倒し、右手首骨折、腰部打撲で全治二か月の重傷を負い目 下治療中の体たらくです。右手はギプスで固定されている上に腰を痛めたので寝起きもままならず、リクライニング椅子での生活が続きましたが四・五日前から ようやくフトンで寝ることができるようになりました。
どこで転倒したかは勿論10/16早朝自宅で酔いが覚めるまでの記憶がまったくないほどの泥酔でした。
15日の午後6時すぎ、会の世話役から女房あてに「森下が怪我をしたので取りあえず今夜は東京に泊まれと言ったが本人は一人で帰れると言い張るので、い ま東京駅から新幹線に乗せたから帰宅したら電話がほしい」と電話が入っており、午後10時前に女房が帰宅した旨、電話を入れた由。
焼酎をストレートで7合ほど飲んでいるのでふらついてはいたが、喋り口もしっかりしていたので、本人の言う通りに帰したと云うことですが、当のご本人は 新幹線に乗せられたことも京都駅に着いたことも全く記憶になく、気が付けば自宅で寝ていたのですが、4時間足らずで帰宅しているところをみれば新大阪まで 行かず京都駅で降りて地下鉄かタクシーで自宅にたどり着いたのは間違いなさそうです。
とんだハプニングのためご本のお礼代わりの「戦後日本流行歌史」第3集のCDはしばらく作成できませんが、ギプスが取れたら直に送らせていただきます。
年甲斐もなくお恥ずかしいメールで恐縮ですが、酒の上の不始末と聞いた医者が肝臓を心配してくれるので、30年以上していなかった成人病検査をこの際全 部受けました。一昨日結果を聞きに行ったら、医者が、どの臓器の検査結果も平均値の範囲内だと驚いていました。肝機能はAST(GOT) 20 ALT(GPT) 13 コリンエステラーゼ262 LD(LDH) 195 CK(CPK) 72 総タンパク7.0 etcとか。
しかし、いくら数値を自慢しても骨折や打撲をしているようでは洒落にもなりませんよね。「憲法を守って国を滅ぼすのか」という戯けた政治家と同一視され るのも片腹痛しですが。何はともあれ、闘病術にかけてはベテランの域、あとは「日にち薬」と、しばらくは女房の厄介になるつもりです。
有り難うございました。 京・岩倉 辰 中学高校の同窓
* よく無事に帰れたもの。クワバラ。早く良くなりますように。
☆ 選集
お心づかい ありがとうございました。
書きつづけられますこと 切にお願いいたします。
晴れわたる空 MRJ 初飛行の日に。 栗林 糸川剛司
* 全既刊分に相当の喜捨を戴いた。湖の本へも過分のご支援を早くから、いつも頂いている。感謝に堪えない。
2015 11/13 168
* 中央公論編集長だった故粕谷一希さんの奥さんから、「湖の本」へお手紙を戴いた。
「三田文学」「昭和女子大」「大東文化大」からも。暁会の今野博子さんからも。
2015 11/13 168
* 身辺整理となると、わたしの場合、順序を無視して、①多方面の蔵書、②骨董・美術、③書簡、④写真、⑤私の自著・共著および初出書・紙・誌、⑥ホームページ、⑦用紙原稿、⑧電子化原稿・資料、⑨親族・家族資料、⑩私日記・創作ノート等の年譜資料 ⑪画集その他史料などとなろうか。
気が遠くなる。
自著だけで、湖の本130巻を除いても100種余に及んで、各複数現在保存している。これはもう、久しい、親しい愛読者で、欠けている本のある方には、署名もし喜んで差し上げることも考慮したい、ただし数の切れているものも少なくなっているのもあるが。
また蔵書の多くは、研究書も小説、随筆の類も頂戴本で、著者の献辞署名入りが多く、貴重なものも多い。よほど愛蔵して下さる方でないと、粗忽には扱えない。
息子の建日子が、学匠文人とあだ名されている父とは行方のちがう作者で、文学・古典・歴史・美術等にかかわる事典や辞書や高度の研究書や史料を遺して やっても荷厄介にされるだけ。これは情けない。熱心な若い学徒で、欲しい本が買えないという方がもしご希望なら、差し上げていいとも思っている。そのため にもリストを公表できるようにしたいのだが、これまた大変な作業になってしまう。参る。
2015 11/14 168
* 今日は一日の大半を小説新作のためにつかっていた。史料も参照していたので、もう眼ぢからはさんさざんに消耗し、痛みすら湧いている。もう機械を離れたい。十時半。階下で、「選集⑫」と「湖の本128のゲラを読むか、ボンヤリとテレビでも眺めてみるか。
2015 11/14 168
☆ 秦先生 湖の本127 拝受
“栞”にメッセージまで頂戴し、お心遣いに恐縮です。ありがとうございます。サイトの「日記」にも僕のご挨拶の葉書のことをお書きくださり、感謝して拝読していました。
(転職、今後も=)頑張ります。
「127」は僕にとって驚きと発見が多い巻でした。
1998年の段階で道頓堀も心斎橋も御堂筋もはじめて、お歩きになったのですね。
京都で生まれ育ち、東京で社会人生活を送られた方は、やはりそうなのかも。考えてみれば、敢えて京都から大阪に足を運ぶ必要なんてあまりないですもんね。大阪から上洛する理由はたくさんありますけど…。
はじめて「細雪」を通読されたのが「子どもの頃」というのも感じ入りました。僕は20代の後半になったときでした。そのときに、僕がそれまでに読んだ日 本の小説の中での一番になったのですが、もし10代のときに読んでいたら、最後まで読み通せていたかどうかも自信がありません。やはり小説家になる方とい うのは違うと納得しました。
それから、広末涼子についての「好きになれないのに気になる女優」という表現。
僕k持っていた、女に対してなんとなく抱いていた印象を言葉にすれば、まさにそうだ! と膝を打ちました。僕は漠然と彼女から“ズルさ”のようなものを感じていただけでした。
それからそれから…と書けばきりがないのでこれくらいにします。
パリの連続テロは今後の国際社会への影響は大きく、日本も無関係ではいられな空気のなか、世界情勢の岐路である現在をさらに痛切に感じます。
「IS」を生んだ背景について西側諸国の責任を強調する日本の「知識人」が、「IS」が「十字軍とその関連国」と「良いイスラム」との二項対立を鮮明に して、自分の側への支持のうねりを作りだそうとしている…と警告しながら、「IS」などの過激派と一般のムスリムとの境界がほとんど「ない」ような印象を 与える発言をして危機感を煽ることに、とても違和感を覚えています。
「保守」が「安倍一強」で歪な状況になっているうえ、「革新」も「55年体制」のなかで当事の冷戦構造と相似形で対立したときの「公式」そのままに思考停止して発言する情況…。
もしかしたら戦後の日本は、何も自分でものを考えていなかったのかも…と暗澹とした心持ちになります。
拙い素人の私見をいっきに書いてしまいました。すみません。
いずれにせよ、これまでの“枠組み”とは違った思考・行動をとりたくて、かなり前から準備していたうえでの今回の(新聞社からの転職=)選択です。
まぁ大したことをやるつもりもないのですが、後悔のないようにしようと考えております。
お体何卒ご大切に。
新聞社は離れましたが、今後とも何卒よろしくお願いいたします。 大阪 俊拝 同窓
2015 11/15 168
* ゆらゆら歩いて、三笠会館中二階のイタリアンに寄り、「スペシャルメニュー」でキールロワイヤル二杯とイタリアビール一本を飲んだ。キールとデザート が美味かった。折角黒毛和牛の調理にいまいちの親切が不足と感じた。前菜の青菜や根菜も、野菜のスープも、苦手。酒を賞味しつつ、校正ゲラをしっかり、た くさん読んだ。
酔いは残っていたが、丸ノ内線でも西武線でも座れて、その間ずっと校正していた。校正しているとからだもシャンとしてくる。保谷駅からはいつものように車をつかった。六時ちょうど頃の帰宅だった。
* どっと「湖の本127」へ読者の払い込みや、瀬戸内寂聴さん、島津忠夫さん、井口哲郎さん、小和田哲男さん、島尾伸三さん、天野敬子さん、有元毅さ ん、新保邦寛さん、間宮正子さん、大成繁さんら、また法政大や広島経大等々から佳い手紙が届いていた。堀上謙さんからは長い電話を妻が受けていた。
瀬戸内さんは「愉しんで拝読しています」と。お城学の静岡大小和田教授は「映画、テレビ、芝居を、よく観ておられるのにびっくり」と。青山の新保教授は 「秦さんの生活史の一端が窺えておもしろく拝読」と。写真家で作家の島尾伸三さんは「湖の本、ありがとうございます。奄美大島での『島尾敏雄忌30周年』 から帰ったところです」と。同窓の元校長先生間宮さんは、「過ぎた日々のことなつかしく思っておられる様子、手にとるようです」と。
☆ 「湖の本」127
お送りいただきありがとうございます。いま入院中にて娘が病院に持って来てくれて 楽しく一気に読みました。実にいろいろなものを観ておられるのに感心しました。
私も まだ若いころ、長野嘗一氏が「学者評判記」ということで訪ねて来られ 「能、狂言、歌舞伎、文楽、新派、新劇から宝塚まで好きだ」と言ったら、宝塚だけ強調し、アトは捨象されて閉口したことを思いだしています。
能は 昔に野口兼資、桜間弓川ほか名人の能を観てしまったことと、少し謡、仕舞を習っていたこともあって批評に手を出せないでいますが、歌舞伎は観るた びに感想をノートに書き記していて 「戦後の関西歌舞伎」を書いたこともありました。三津五郎の襲名披露は(大阪=)松竹座で観て、「喜撰」ばかりでなく 空念仏を踊りぬいたことに感心しました。「喜撰」は何といっても七代目が逸品でした。「猩々」は、八代目、もちろん簑助時代ですか、あくの強い踊りなが ら それなりに感心したのを思い出しています。 所沢市 島津忠夫 大阪大学名誉教授
* いかにも、入院の日々の中で思い出を愉しんでおられるのがわかり、嬉しくなる。期線由美河本ねるてにてめるきて
☆ 『湖の本127 有楽帖」を
拝受致しました。 <文化の現在>の 種々相を追体験できる楽しさはもちろんですか、建日子さんへのにじみでる親の情やら、澤口靖子びいきやら、世にときめく人への苛立ちやら、はたまた<藝> への親炙やら、秦さんという方の根っこがのぞけるようで、楽しんで拝読しています。そして秦文学の懐の深さ広さを実感もしています。ありがとうございまし た。
寒さに向かいます。
どうぞ御身 呉々もお大切になさって下さい。 天野敬子 元「群像」編集長
☆ 冬至の日
金澤萬の会で 初世萬の「栗焼」を見てきました。雨の中 ホッコリした気分でバス停まで歩きました。
万蔵時代の名著『狂言伝承の技むと心』を持参しましたら、サインに添えて 「狂言はたゞ大竹の如くにて直ぐに清くて節少なかれ」という歌をいただきました。
久々の動きでした。
お大切に。 井口哲郎 元石川近代文学館館長
* うてば、ひびく 嬉しさ。
* こういう本になって送り出せる記事が、前世紀末このかた、わたしのホームページ中の「作家・秦 恒平の文学と生活 闇に言い置く 私語の刻」に満載されていて、総量は原稿用紙にして十万枚を越しているかも知れない。そこから、主題をえらんで何冊も、 十何册も、「湖の本」として送り出してきた。「湖の本」という「器」があればこそ、そして有り難い佳い読者に恵まれていればこそ、そういうことは、可能な のであった。手書きの日記や記録では、こういう持ち出し方は容易でない、ま、出来ない。
だが、ことば通りのもの凄い大量の日記・日録からすぐさまこういう本は創れない。信じがたいほどの厚意と実意と愛情とで、厖大な日録の全部を三十余種も に部類を立てて分類して下さった読者があったればこそ、今度のこういう本が、手慣れた編集者作家の手に掛かれば簡単に組み立てられる。部類や分類がもし無 ければ、とてもとても成し得ることでない。感謝に堪え無いどころではないのである。
その気になれば、今回の『有楽帖』など同じ「舞台・映画・ドラマ」の内容で、相次いで四冊も五冊も編める。文学の話題となればもっともっと創れる。読書 も批評も、音楽も美術も、旅も、詩歌や古典も、際限なくしかも気の入ったものが創れる。有り難い、有り難い、ことである。部類・分類も然り、それと同じく 作家・秦 恒平に「湖の本」という「器」があって、三十年、百三十巻もの実績がこうした文学・出版の活動を可能にして来ている。
☆ 秦様
「湖の本」127 今朝がた届きました。折からの小春日和。背中に暖かい日を浴びて夢中で読みました。まさに「有楽」のひとときです。
特に観能の箇所は興味深く、またポストイットを付けました。何度も読み返したいと思います。
ちょうど私が謡や仕舞のお稽古を初めました頃の平成10年からです。
観たたことのある能、お稽古をしたことのある曲などと。
読み返しながら、演者は違ってももう一度味わえたような気がしています。
ありがとうございます。
能を観ますのも、お稽古をしますのにも想像力が働かなく道は遠いですが楽しみです。
最近は歌舞伎も新劇もその分はと観能の方へ時間を割いていますので、歌舞伎やお芝居をご覧になった感想など、日ごとホームページの「私語の刻」を楽しみにしています。
気温が不安定で、風邪も流行りだしているようですので、迪子様ともにお身体にご留意くださいまして、良い12月をお迎えくださいますように。 練馬 持田晴美 妻の同窓
2015 11/16 168
* 國學院大、東海学園大、中京大、お茶の水女子大、多摩美大、山梨県立文学館等から、また、元東大法学部長福田歓一夫人、もと「新潮」編集長、もと「世界」編集部の高本邦彦さん、俳人清沢冽太さん、歌人堀江玲子さんらの懇切な来信があった。
疲れが出て書写の視力無く、失礼する。視野が水に浮かんだように濡れて揺らめいている。機械からのギラギラをシャットアウトできれば眼疲れが減るだろう か。裸眼での校正だと、機械疲れより明るく運んでいるのだが、創作の仕事はみな機械ですすめざるを得ない。瞑目して視力を休ませていると、つい寝入ってし まう。
☆ 深まる秋
昨日、湖の本が届きました。
映画やテレビドラマは地方でも同じように享受できる環境がありますが、歌舞伎や能、コンサートや劇団の芝居となると、さすが東京と、嘆息交じりに大いに羨ましい。
(国内でも海外へも=)旅行しないのだから、この楽しみ当然だよと鴉に言われれば、その通り・・と。
楽しみ、そして感想批評を欠かさず記していった、その成果。
伝統の最たる能や歌舞伎について、再びまとまったものを書いてほしいというのは勝手な思いでありますが、ただ楽しむのも貴重な純粋な鑑賞方法であり、中世や近世を述べたものの中で既に既に書くべきは書いた、と思われるでしょうか。
それに、中心にある「小説(=の創作)が最優先ですもの!
秋の薔薇がひっそりと咲いて、今年沢山の蕾をつけた椿が早や見事に咲き始めました。
近くの坂道のイタヤ楓の燃える赤、そこから東には猿投の山々が、少し高い処からは西には遠く伊吹山に連なる岐阜の山々が見られます。
来週早々、娘と孫二人が(海外から=)帰ってきて正月まで滞在の予定です。
今から大変、てんやわんやになると覚悟はしているのですが、どうなるでしょう。
パリのテロの事態を憂慮。
同時にシリアでは、あるいは中近東の国々では何年も何年もの悲惨な緊張状態が続いてきたということを見落としてはいけないと思います。
用事ができてしまいました。改めて書きます。
どうぞ、くれぐれもお身体大切に。
CT検査の時、造影剤を入れた瞬間に体中が熱くなったのを思い出します。CT検査の結果が良いことを願っています。 尾張の鳶
* 読みでもあり、実も情も言葉も優しいこういうメールには、疲れを癒されて嬉しい。心豊かに詩も繪もかき文章も書きながら、青空に羽をうたせるピーヒョロロの鳶でありつづけますように。
* たしかに造影剤が入ってくると胸がかあっと熱くなった。「恋をしなくても胸の熱くなることがあるんだね」と検査技師のお嬢さんに感想を述べて笑われた。
2015 11/17 168
☆ みづうみ、お元気ですか。
湖の本がポストに無事届きました。
「有楽帖」という題名と「遊びながら」という序に、楽しんで読む内容を想像すると良い意味で裏切られる一冊でしょう。みづうみの「佳い悪い、面白い面白くない、好き嫌い」がこれほどよく見えてくるご本はなかなかありません。作家の美意識を知る上でも重要なものです。
以前から、みづうみの観劇、映画評は、秦恒平の藝術論であり優れた文藝の仕事であると考えていましたので、今回の配本(続編創ってください!)を心から喜んでいます。
と、ここまで書きつつ、実はみづうみの「有楽帖」を支えていた安全で自由な観劇が、これからの世界で成立するかどうか、それが危機にさらされていること を痛感しています。歌舞伎だろうとミュージカルだろうと映画だろうと、集中して安心して鑑賞できるような「平和」は終わりつつある……かもしれないのです。
十三日に起きたフランスパリの同時多発テロは、世界に起きている現実に無関心だった多くの人間にも、衝撃を与えました。歴史の転換点にあることを世界に知らしめた事件であったと思います。
その前にもテロはたくさんあり、予兆はいくつもありました。つい先日のトルコの爆弾テロでも百人以上の犠牲者がでていましたし、シリアではもっとひどい惨劇が毎日繰り返されているというのに、世界は無策でした。パリで起きたテロだから騒がれている側面は否めません。
今回のテロは、パリ市民なら誰でも行くごくふつうの場所で、カラシニコフが乱射されたという、警官などでは歯が立たない、軍隊出動の市街戦に他ならなかったのです。
これは第二次大戦がそうであったように、大衆の自覚のない中でいつの間にか第三次世界大戦が始まっているのが「現実」ということではないでしょうか。後の歴史家は9・11のテロが第三次世界大戦の事実上の始まりだったと書くような気がします。
小田実さんが、戦争はある日突然始まったわけではなく、ふつうの生活の延長で始まった、という意味のことを書いていらしたことを最近よく考えます。
みづうみの書いていらした「国民最大不幸」の迫っている現実に、今が戦時中である現実に、日本人はもっと危機感を抱くべきだと、歯がゆく思っている日々です。
今回の『有楽帖』77頁に「ラ・マンチャの男」についてこういう記述があります。
セルバンテスからすれば、当時の教会や司祭たちへの批評が強かったのだろう、が昨日今日の私たちからみれば、よくしたり顔に謂う「現実的な現実路線」に対 する侮蔑に満ちた否認がものを言ってくる。現実第一人間のしたり顔に生きて幅を利かしている「現実」ほど、真実を逸れた醜いものはないと言い切るラ・マン チャの男の態度に、底深くから共感できるのである。
これを今の世界に当てはめれば、戦争に巻き込まれることは、現実にはあり得ないという詭弁で安保法を推し進めた勢力ほど「真実から逸れた醜いものはない」ということになりましょう。日本は着実に、第三次世界大戦に歩を進めています。
東大話法を書いて話題になった安冨歩さんの『満洲暴走 隠された構造』を読むと、今世界で起きている「現実」と真実について視界が開かれる思いです。みづうみの読書記録に書かれていないので、多分お読みになっていないと思いますので少し引用させてください。
リデル=ハート(一八九五~一九七〇)というイギリスの軍略家がいました。「電撃戦」を発明した一人で、天才的な軍略家なのですが、彼は一九四五年、広島に原子爆弾が投下された後に、
「これで総力戦、古いタイプの戦争はもう終わりだ。これからまともな戦争は起きない。ゲリラとテロの時代になる」
と予言していました。なぜかといえば、核兵器を持っている相手に正面から戦争を仕掛けるバカはいないからです。戦争はすべて「隠蔽された戦争」になるはずだ、と予言しました。( リデル=ハート『戦略論』原書房 二〇一〇年)そして、現にそうなりました。
ですから「総力戦」の時代は一九一四年から四五年までの三〇年間と少し。それ以降、現代に至るまでは「核兵器を背景としたゲリラ・テロの時代」だと私は理解しています。P114
安冨先生は「基本的に正規軍はゲリラに負ける」と次のように書いています。
先進国のような組織化、正規化された集団は、戦争になると強いのです。
そして、攻撃を受けてある程度の被 害が出ますと、国家が崩壊することなく、秩序を維持したままで敗北できるのです。アジア太平洋戦争の日本がいい例です。日本軍は戦っている間は間抜けで愚 かで無謀で乱暴でしたが、負けるとなると、世界史上稀に見るほど立派になり、潔く武器を捨てました。戦後日本の復興は、まさにこの立派な敗北から始まった のです。これは日本国民の誇りとすべきことです。
ところが、ネットワーク的で分散的な社会は、攻撃力は弱いのですが、どんなに攻撃されて犠牲が出ても崩壊しないので、負けません。というより敗北できないのです。いつまでたっても戦い続けますから、そのうち正規軍が音を上げて撤退します。
その間、猛烈な悲劇が繰り返され、国土とインフラと人心が破壊され尽くされますが、何も解決しないのです。毛沢東やホーチミンのような強烈な指導者を中軸 とした組織が出現して秩序が回復することもありますが、アフガンやイラクのように、秩序そのものが決定的に崩壊してしまえば、戦争状態を解消することがで きなくなり、果てしない悲劇が続いてしまいます。戦争から混乱へと事態が変化して、収拾がつかなくなります。「イスラム国」のような魔物はこのような状況 の中で出現したのです。 P70
アメリカはベトナムで失敗し、アフガニスタンでもイラクでも泥沼になっていますが、戦争のかたちが変わった現実を理解しないで、第二次大戦のような古いかたちの「まともな戦争」をして失敗しているのです。これではどこまで続けてもモグラ叩きです。
日本が今までゲリラとテロの大きな被害をあまり受けずにすんできたのは、ひたすら中東紛争に「関わらない」できた結果でしょう。これは憲法九条のお蔭であり、それをうまく利用できた歴代政権の数少ない取り柄です。
「集団的自衛権」は、このゲリラと テロの新しい形の「隠蔽された戦争」に、これからは日本も喜んで参戦するぞという宣戦布告でしょう。関わらないという以外に、この新しい形の戦争の悪循環 から逃れるすべはなかったのに、わざわざ売られてもいない喧嘩を買うのですから、これを愚かと言わずして何と表現すべきかわかりません。日本を守ることと 正反対の結果になるのは火を見るより明らかです。
いずれ日本の劇場も歌舞伎座もコン サートホールも東京ドームも新幹線も初詣もみんなテロの標的になるでしょう。「ラ・マンチャの男」のように妄想すれば、近いうちに日本でテロが起きるこ と、それも大規模であればあるほど改憲勢力は「ウェルカム」だということです。メディアを巧妙に操り、市民の怒りと悲しみをどんどん煽り日本を守るために 改憲やむなしという流れをつくるでしょう。
とくに 多くの識者が危険としている「緊急事態に内閣に大権」を持たせるという改憲勢力の目指す緊急事態条項は、国会より内閣が上にくるのですから、独裁政権の誕 生となります。これで戦争の可能な国が出来上がる。戦時中のような拷問も可能になる。日本は世界初の民主主義をわざわざ棄てる国家になります。テロの犠牲 すら悪用されかねない現実です。
九・一一の後に、アメリカは超監視 国家になり民主主義国家というのは名ばかりになってしまいましたし、今回のテロでヨーロッパでの極右の台頭は避けがたいでしょう。ゲリラとテロに怯え、強 権国家によって私民の自由が奪われていくといういつか来た道へ、歴史の流れが動き始めていると感じています。
このような私の「第三次世界大戦勃発」説は「現実路線」をいく人には、「妄想」に類する笑い話ですが、私はリデル=ハートの予言の正しさを、ただただ追認しているだけなのです。
今回の『有楽帖』が、願わくば、こういう観劇三昧の楽しみの許された平和な時代の産物と、読者がため息をつく時代の来ないことを祈るのみです。もしそうなることがあったとしたら、この本は、なおさら貴重な「文化」遺産となるでしょうけれど。
あの暗澹とした時代にも『細雪』という名作が育まれていたのですから、今の日本で、みづうみによって同じように不壊の値の世界が描かれつつあることも確信できます。かなうなら、誰よりも早く新作を読ませていただきたいものと、ひそかに願っているのです。
(中略)
お元気に、晴れやかにいらしてください。
雁 かりがねや手足つめたきままねむる 桂信子
* この中略箇所は、公開を控えよと有るのに従うが、論旨には肯いている。
* ずうっと考えてきた、これからの戦争では桁違いな蛮勇と暴挙でしか核兵器、ましてや原爆や水爆は使いようがなく、トルストイの描いたあんな戦争は、「誰 がために鐘が鳴る」の頃から半ば過去の遺物、今日では究極テロリズムとの、有効な方法も戦法も容易に役立たない無辜の悲劇の積み重ねにしかならないだろう と。安倍晋三がいかに眼が見えていないか、嘆かわしいでは済まない国民の最大不孝をこの列島にも呼び込むだけだと。
おそらく、米英仏露そして中国も日本も、いかに口先一つ無内容な「テロはゆるさない」と叫びつつも、「手」は無いに等しい現実で、劇場もレストランも美 術館も、新幹線も飛行機も船も、冗談でなくたいへんに厄介な怖い場所にされてしまいつつある。パリの同時多発テロを聴いた瞬間、「雁」さんが言うように、 全く新種の世界戦争へ世界は首をつっこんだと感じた。
日本の近未来をほとんど恐怖の憂慮でわたしは九年前の安倍政権から予測していた、二度目の安倍政権が成った即日にわたしは「迫る国民の最大不幸」と大声で「私語」した。
* どうする。わたしは、書き続ける。小説だけではなく。
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* 明治学院大の粂川光樹名誉教授、「金八先生」の小山内美江子さん、近代文学研究家の永栄啓伸さん、黄綬褒章の東野美智子さ ん、愛知知多の久米則夫さん、千葉の勝田貞夫さん、桐生の住吉一江さん、狛江の野路秀樹さん、鎌倉の橋本美代子さん、横須賀の濱敏夫さん、徳島市の藤野千 江さん、さいたま市の松井由紀子さん茅ヶ崎の吉川幹男さんらから「湖の本127」へ深切な佳いご感想を戴いた。払い込みの通知も。また成蹊大、明治学院 大、立命館大、神奈川近代文学館からは受領の挨拶が来ていた。
有り難いいろんな文面をも引いておきたいのだが、疲れが深く、上にとどめる。
東大名誉教授の上野千鶴子さんから「おひとりさまの最期」を、三島賞作家の久間十義さんにも立派な新刊ミステリーを頂戴した。上野さんのは妻が踏み込んで愛読し始め、久間さんの作は今夜からわたしが愛読する。感謝。
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☆ 「作品」の優れた批評家は
推理小説の優れた探偵に似ている。「生きたかりしに」名探偵秦さんに、読者は後追いしながら、探り当てた「母」の豊饒なキャラクターに圧倒されました。 方法として江藤淳「一族再会」を想起しましたが、そこにはこの「私小説」の「母」がいません。(「生きたかりしに」=)読んだことのない、忘れられない 「作品」と断じました。 藤沢市 永田澄雄
* 「作」と「作品」とはちがうもの、作品は作の品位を謂うというわたしの論に拠って下さりながらのお便りと、感謝申しあげる。
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* 国文学研究資料館の今西館長のお手紙も戴いた。
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* 元俳優座のベテラン女優野村昭子さんからの電話で妻が延々と楽しそうに話し合っていた。野村さんは岩崎可根子と同期、優れた演出家の増見利清さんの夫 人、増見さんいらい久しい「湖の本」多大のご支援を頂いている。野村さんとは劇場で一度だけ出逢って話したことがある。妻も一緒だった。
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* たくさんな払い込み通知や国立近代文学館の受領あいさつのほかに、神奈川・二宮町の高城由美子さんから「湖の本」へ長文の鄭重なお手紙を頂戴した。い つもご主人と連名でお支払い頂いてきたが、うかがえばいろいろとご縁のある方で、医学書院の故金原一郎社長の名や京都のいろいろに触れられてあり、驚いた り喜んだりした。
それにしてもお便りを戴く方の多くが七十後半からすでに八十、九十になっておられ、長嘆息を禁じがたい。ま、まだまだ若い方なんだぞと自身を叱咤し激励している。
* それにしても思うこと、筋(事柄)を文字で追いかけるのが低俗の読み物、筋(事柄)を言葉で表現するのが文学。
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* 二種類の初校と再校と、そして新しい小説の進行と。しかし視力の混雑と低下のたびに休息せねばならない。
テレビは二メートル半ほどのせきから見てきたが、一メートル以内へ席をすすめねば成らなくなっている。
目疲れが原因か、全身の体調違和があってか、活気がない。宅急便へゲラなど送り出しに二分とかからないところへ自転車で走るか、黒いマゴの輸液を獣医院へ買いに行くか、郵便局へ、以外にまったく歩いて外出していないし、その気にもならない。
目さえ利いていれば仕事はいくらでもしたい。いま書いている小説は、二つとも、いや三つとも、それぞれにわたしには面白く運んでいるのだが、メいっぱいうちこんでられなくて、とかく時間がコマギレになってしまうのがつらい。
すこしやすめ、ピッチを落とせと天命なのかもしれず、ま、やすみやすみ、むしろアタマの方を使っていたい。家で妻と以外に、人と顔を見合って話とあうということが、ゼロに近い。酒もつい一人酒になっている。
* 仮題だが、かりに「清水坂」といっておく、と、「或る寓話」と、を今日も読み返しつつ少し書いた。前者もすすんでいるが、もう一山は少なくも越えねば ならない、後者はほぼ仕上がっていて長く、どう公表するかに迷っている。新しい小説を書き継ぎつつ、資料も整理しながら、湖の本も選集も出し続けねば。な んだか時間と競走しているようで。
十時半。もう機械の前は限界。
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☆ ありがとうございます。
日頃のご無沙汰を心からお詫びいたします。
「選集第9巻」「湖の本127」 お送りいただきまして、ありがとうございました。
「掌篇」の世界に久々迷い込ませていただき、独特な味わいに浸りました。
お元気でいらっしゃいますか?
活動を続けていらっしゃることに頭の下がる思いです。紅葉の錦鮮やかながら、寒さに向かいますおり、お体に十分お気を付け下さいますよう。 川崎 慈
* 「紅葉の錦あざやか」とはこの「私語」冒頭の紅葉の写真へのご挨拶と思われる。そういう心遣いのこまやかなペンの人であった。
* 数十年の作家生活で「慈子」という本名の読者に二人出会った。一人ははやくに無縁になっていたが、お一人とはペンクラブで知り合って、久しい。ご縁は小 説「慈子」であったが、遠慮されて手紙やメールには「やす子」と書かれていた。それがこの方の本来の読み名であり、もう一人は「しげ子」さんだった。ま だ、「あつ子」と読む「慈子」さんとは、出会ったことがない。わたしが勝手に「慈」の一字を「こころあつし」と読んだのである。
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* 群馬佐波郡の都澤しづ子さん、幼稚園の園長さん、から今回湖の本127の「私語」に触れ、私たちのやがての傘寿を祝って下さるお手紙を戴き、添えて、 群馬県人なら「誰でも知っている」という「上毛かるた」を戴いた。「ツル舞う形の群馬県」の読み札からはじまるこのカルタは、60年以上も前、終戦後のこ どもたちに夢と希望をとねがう大人達の強い思いで、公募でカルタつくりが始まったという。GHQの検閲もあったという。
毎年この季節には練習が始まり一月にはカルタ取りの「県大会」があると。
「平和の使い新島襄」「心の灯台内村鑑三」といった読み札も混じり、こどもたちは自然と郷土の偉人や特色にめざめなずら視野を養って行くと。「老農船津伝 次平」となるとわたしらには知れないが、毎年秋には「船津伝次平賞」が農業関係者達で選ばれているとお手紙にある。国定忠治や萩原朔太郎は「選ばれません でした」とある、あえて選ばなかったということか。「上毛」という自覚の歴史的にはるかな意義は他府県人にはなじみが薄いだろうが、カルタは自然にその辺 への手引きもしていると想われる。
2015 11/23 168
* 押し入れの隅から、そんな場所に在るべきでない二册を見つけた。国漢文叢書第四、五編、あの北村季吟による『和漢朗詠集 註』上下巻で、自分で買って手にした本でなく、明らかに秦の祖父鶴吉の旧蔵書。明治四十三年六月七日の初版本であり、表紙の傷みをともあれ手当てしたのは わたし、記憶がある。袖珍本で手にし易く、平安時代原著の和漢の詩歌の版組が大きく、(註は細字だが、ま、読めねば読めなくても差し支えなく、)ありがた い。楽しみたいのは採られた詩歌であり、原著者藤原公任の秀才を堪能するには、重くて大きい古典文学全集を手にするよりはるかに有り難い、ま、文庫本をや や幅広にした、しかも上下二册本であって、ポケットにも入れて歩ける。
季吟の本では帙二つに十巻余の源氏物語註釈、名高い『湖月抄』もあって少年のころから名前一つでいたく尊崇していたが、木活字変体仮名で源氏の原文は及 びもつかぬ私蔵というより死蔵していたのを、近年、国文学研究資料館へ寄付した。幸い今度の本は読むに苦労のない本で、また拾いモノをした気持ちで朝か ら、頁をしきりに繰っている。
季吟の漢文自著の冒頭に「朗詠」の語義というより意義に端的に触れてある。
朗詠者厥風起於催馬楽風俗之後、而我邦中世以降。上自朝廷。下達於郷党。歌謡之者也。
「朗詠」とは、詩歌を読んで鑑賞するのてなく、催馬楽や風俗など歌謡・郢曲の史的流れを承けて、しかも貴賎都鄙のべつなく謳歌したものだと。この意味を汲 めば、あやまりなく「朗詠」のアトへ来るのは「今様」であり、今様謡いの大衆味をくみながら平家語りの「平曲」も生まれてきたに違いない、其処の処へわた しは足場をおいて梁塵秘抄や平家物型を、後白河院や、正佛資時や、慈円や行長らを想像し創作してきたのだった。
今日われわれに朗詠集和漢の詩歌を謳歌歌謡するすべなく、ついつい「読む」本にしてしまっていて余儀なくはあるが、詩歌という文学の畑の花である前に、歌謡という藝の花であったことは忘れない方がよい。
春 立春
遂吹潜開不待芳菲之候。
迎春乍変将希雨露之恩。 紀淑望
年のうちに春は來にけり一年を
こぞとや云はん今年とやいはん 在原元方
漢詩も和歌も、まさしく声を発してこれを謡った。読んだのではない。むろん漢詩の方は先ず日本語に読みほどいておいてそれを謡ったので、読替えの、つま り飜訳の、その機微に面白みがあって、物語りの多くもそれを引いて興趣を盛り上げていた。公任の飜訳はそれとして、自分ならどう読み替えてせめて朗唱する かと思案するのも楽しいのである。
* 今日の眼の酷使はまたは不調は限度へ来ていて、今も、キイの字はほぼ見えないままで書いている。
「清水坂」の先へ展望がひらけ、そして、晩には、必要も感じて急に思い立ち、わが三十二歳時の「創作ノート」を手書きの大学ノートから写し始めた、が、 大変も大変、たった数行を読み且つ書き写すのに、一つには視力無くて手書きの字が読めない上に、機械上の画面もほぼ見えなくて、宛て推量で見えないキーを 叩くのだから、ま、時間がかかって絶望的になった。たまたま用があって部屋へきた妻が、見かねて横でノートを読み上げてくれ、辛うじてわたしはキイを打っ ていった。正しい字が出ているかどうかも妻が背後から確かめ確かめしてくれて、やっと一頁半ほどを機械に書き写した。優に小一時間はかかっていたが、独り で読んで書き読んで書きしていたら、小一時間では頁の三分の一も進まなかったろう。心がけているのは、割愛しても、大学ノートのビッシリ書きで二十数頁あ る。しかし、是が非でもその作業を活かしたいのである。「湖の本129」は一月半ばにもと予定していたが、かなり遅れるかもしれない。作者でもあり、しか し編集者でもあるわたしは、遅れても、その方が良いと判断している。機械用に距離を測ってつくった眼鏡がまるで役立たないとは、どういうことなのか。怪談 である。青山までも、ツクリ慣れた「保谷眼鏡」まで出かけなければ仕方ないのか、遠いのでなあ。
* 九時だが、もうとても何も出来ない。少なくも機械からは立ち去らねば。
2015 11/24 168
* 昨日の払い込みメッセージのなかに、我が家でも 澤口靖子 キムタク が贔屓ですというのが在った。くすっと笑えた。今回「湖の本」の有楽帖は、舞 台・映画・ドラマというので、共感を伝えてくれる読者が多かった。自分で読み返していても、けっこう読める。とりあげた時期をミレニアムを挟んだ数年に 限った、分量的に限るしかなかった、のも適当な距離感で。あまり昨日今日では差し障りが大きいと遠慮した。とにかくも、誇張なく無邪気なほど率直に書いて いる。喜多流の友枝昭世氏に手紙をもらったり俳優座で岩崎加根子と同期の野村昭子さんから電話を貰ったり、いつもとちがう反響があってわたし自身も楽しめ た。
* 下関の大庭緑さんから、すこぶる美味い雲丹二瓶を頂戴した。いながらにご馳走にあずかり、恐縮かつ感謝に堪えません。
2015 11/25 168
* 日比谷へまわって、クラブで飲みかつ食事しながら、舞台を反芻していた。「生きたかりしに」を湖の本にしたばかり、その主題とも状況ともグイッと重な り合う主題があり、驚いたことに若い主役の名は「コーヘイ」君であり、彼は生母を知らずに生母を捜し求め、母なる人は母と名乗らずに「コーヘイ」君に手を 取られ抱かれて尊厳死していた。わたしが退屈などして、舌打ちなどして、平気に見ておれるような舞台の推移では無かったのだ、わたしも、横の席の妻も、泣 いていた。
* ま、「演劇」ということの意義や意味は、これからも考え続け楽しみ続けたい。
* じつは劇場へ出かける前に、生母の遺した歌文集からわたし自身が心して編んだ「短歌抄」の校正刷りが届いていて、行きも帰りもずっと電車の中で読みかつ校正して、幸いに全部を一読できた。
母の短歌は小説「生きたかりしに」でも大勢の方の有り難い評価と称讃を得ていたが、あらためてしみじみ通読してみて、短歌の質じたいわたしは母に「敵わ ない」という実感さえ得て、正直、ふくざつな気分であった。表現の藝としては知らず、短歌へ籠めた生活的実感のきびしさ、それに堪えて歌おうとした母の気 概は烈しくて熱い。
ああ、よかった…と、真実思っている。「少年」の昔はともあれ、年たけてのわたしの短歌など、谷崎がいわく「汗のような」排泄で終わっている、
それでも、わたしはたったの一度も一首も母とは交叉し合えなかったけれど、短歌、和歌が好きである。
2015 11/26 168
* 俳優野村昭子さんからの電話に妻は楽しそうに延々と話し込んでいた。「選集」に過分に支援して戴いた。
☆ 『湖の本』127を拝受
ありがとうございます、いつもいつも毎回いただき本当にありがとうございます。頭が下がります。
今回の有楽帖も拝読しながら、文学者秦さんの好奇心の多様さ、遊びながらの心意気に触れ、小生も少しはす見ならわねばと思っております。
ますますの御健筆をお祈りします。 不一 葉山 森詠 作家・文藝家協会理事
☆ 湖の本をどうもありがとうございます。
真によき物・事との出逢いを求めていきたいと思います。
「秋萩帖」を読みはじめています。
(大河ドラマ)「平清盛」は、私もとてもおもしろかったと思います。「デスノート」という映画以来、松山ケンイチは、大好きな俳優の一人です。視聴率が低いという報道に「こんなにおもしろいのに何故?」と思っていました。
お体お大切に。 沖縄・豊見城 嘉
2015 11/28 168
* 例の「創作ノート」を読み返し電子化している。いわば建物の設計図のように思案を重ね重ね本文を前へ押し出していたのだと分かる。
すでに書き進んでかつ中断しているのだが、中断後に関しても具体的にしかも錯綜した人間関係についても書いていて、わたし自身が面白がっている。そして 先々では、関心や意図が藤原定家へ移動していたり、さらには当時別に書いていた作、「或る雲隠れ考」などへもノートが推移している。「初稿・雲居寺跡」に 関するかぎり、いわば壮大すぎたり錯綜していたりのために、未熟の作者がだんだんに手放してしまったのであるらしい。
とにかく、ノートの整理を続けて、作のアトへ付け加えたい。ちょっとサマ変わりのした面白い「湖の本128」になりそうだ。
2015 11/30 168
* わたしにと、生母の写真を送ってきてくれた(異父)長姉の優しい心遣いは、「生きたかりしに」でもしみじみと存在感を示し、ある意味では一等感銘を与えた人であった。筆の走りのかのように一瞬わたしは「この人が母であっていい」とまで書いていた。
上に出してみたわが生みの母は、そのまだ一つか二つかという稚い姉を抱いて写っているが、それは此処では出し控えた。母の方は、二十一、二歳とされてい る。何とも…感想も述べがたい。自分が生まれてより、母の死後もながく、わたしはこの「母」なる人を拒み続けて大の大人になっていた。そのあげく、とうと うこのほとんど何も知らずにきた母の生涯と出逢うべく、母の遺した歌集などを頼みに探索しはじめ書き上げたのが、長編小説『生きたかりしに』だった。じつ はそれすらも三十年、原稿用紙のまま埃をかぶらせていたが、七十九の今年ようやく「湖の本」三巻に収めて公表した。幸いに、広範囲に好評を頂戴し、秦の後 半生を代表するであろう作とまで謂ってもらえた。感慨ふかい。
姉は、母の生まれたときは「姫」誕生ほどに華やかで「乳母日傘」で育ったと手紙に書いていた、それが、亡きわたしの実兄の表現では、後半生、つまり兄や わたしを生んだあと、母は、さながら「階級を生き直した」ように弱い弱い立場の人たちの保健活動に邁進し艇身しつくし、あげく奇禍に遭って苦痛の病床に釘 付けのまま「十字架に流したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに」と歌い、亡くなっていた。それでも遺歌集「わが旅 大和路のうた」を出版にこぎ つけ、遺書を用意し、わたしへの挨拶すらも代筆を頼んで送り寄越していた。
兄恒彦はさながらにこの母の「同志」として「ベ平連」等の市民活動の生涯に果て、わたしは母が歌詠み、ペンの人だったとも全く知らぬまま歌人とも小説家ともペンに生きる道を歩いてきた。
姉は母の故郷に母のためにりっぱな歌碑を建てて呉れている。
上の、うら若い母のその頃は、まだわたしたち兄弟の誕生とは全く無縁の時代だった。
2015 12/1 169
* 「初稿・雲居寺跡」に限って「創作ノート」を書き写し終えた。書き納めの時期は、妻が建日子を妊娠して悪阻に悩み、わたしは会社で課長職にあり、同時 に小説「或る雲隠れ考」を仕上げようとしていた、昭和四十二年(一九六七)七月上旬であった。ほぼ二年後に「清経入水」で第五回太宰治賞を受けた。
この創作ノートは詳細で、「承久の変」勃発と平家物語の産声とに関心を絞りつつ、複雑な人間関係を幾重にも想定している。次回の「湖の本」128「初 稿・雲居寺跡=中断」のうしろへ付録として編成しようと思っている、そのために、よほど目も酷使して半世紀ちかく昔の大学ノートをことこまかに書き写し た。さまざまな面で、この創作の仕事はわたしの後々の諸作への前衛的意味をもってくれたと思う。
ノート自体には、さらに引き続いて、定家卿や建礼門院右京大夫などへの勉強が綿々と続いている。中間管理職として激化の一途を辿っていた労組の闘争にいやおうもなく対峙を強いられながら、懸命にわたしの文学とも組み合う日々であった。それで良かったのだ。
* ちょうどその頃に、わたしは秦の親たちにもたすけられ、現在も暮らしている現住所の土地を買い登記を終えていた。社宅住まいを続けていては、退社したくても出来ない、社宅が足枷にならないようにと明らかに願っていた。
建日子が翌年正月に無事に生まれ、翌々年桜桃忌の受賞で、会社勤務と作家生活との二足草鞋が以降五年続いた。大きな転機へわたしたちの家族は歩んでいた。
2015 12/2 169
* 仕事。ジリジリ進めている。「創作ノート」を入稿して、「湖の本128」に、ちょっと形が付いた。肝腎なのは、選集収録までに今一段と「作」としてのかたちを創ってやりたい。
2015 12/3 169
* 残存手書き諸原稿の中に、「誘惑」の収束部自筆推敲原稿(200字用紙 P.266-318)が、妻が清書の「罪はわが前に」原稿の用紙裏(200字用紙 P.495-565)を利して書き残っていた。わたしは妻の清書原稿が版元から戻ってくると、その白い裏を用いて新しい作のために使い慣れていた。上のこの一束が、版元へ渡した妻の清書原稿、しかし表題と署名は自筆の「誘惑」第一頁400字原稿用紙に畳み込まれていた。
これにより「誘惑」という小説が、「一稿 脱稿 1976 06 27 2:30AM 二稿 脱稿 1976 06 29 5:45PM」と確認できた。
それだけでなく、医学書院原稿用紙を借用し、妻に清書を頼んだ「鱗の眼」と題した400字用紙で144枚の小説一編が一つに綴じられそっくり残ってい た。この原稿には起筆や脱稿の記録は添えてなく、(保谷市泉町五丁目二の23)と当時の現住所が書き入れてある。医学書院の社宅があった所で、われわれが 社宅に暮らしていたのは1961半ば以降1971頃まで。この「鱗の眼」にはよっぽど苦労したことは自筆年譜にも露わにされていたと思う。結局は、未発表 原稿として抱え込んでいたのであり、実を言うと、先の「誘惑」は、少なくも五年以上の間隔をおいて成った「鱗の眼」の改稿新作なのであった。「鱗の眼」か らは、べつに「底冷え」という短篇も派生した。ついでに書いておくと、中学高校での一先輩が、後年、わたしの作で豪華限定本をぜひ作りたいと言い、何をと いう段取りになり、結局は「三輪山」という実に美しい贅沢な本が出来たが、その際、もう一つ執心された作がこの「底冷え」だった。この先輩はなかなかの人 で眼も利いた。「底冷え」にも執着さたのは内心嬉しかった。
「底冷え」も「誘惑」も相重なる気味を共有しながら、とうに「湖の本」に入っているし「誘惑」は「選集③」に入っており「底冷え」はやがて「選集⑪」に 入る。いわば「(初稿)誘惑・底冷え」に相当している「鱗の眼」がどんな按配に書かれていたか、どう発表作へと変わっていったか、今すぐは思い出せないで いる。
2015 12/5 169
☆ 秦 恒平 様
謹啓 初冬の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたびは、「湖の本 有楽帖」をお送りいただきまして、ありがとうございます。
「楽しみは、真によき物・事の素質と謂えましょう。この素質に恵まれて藝術は生まれます。」
私も共感します。
「楽しみ」という素質に恵まれて生まれた藝術だからこそ、美しく、人々を魅了するのではないかと思います。
年の瀬も間近になってまいりまLた。滋賀では、日に日に寒さ厳しくなり、先日、伊吹山で初冠雪を迎えました。
時節柄、くれぐれのご自愛とますますのご活躍をお祈り申し上げます。 謹白
滋賀県知事 三日月大造
* 京・山科の詩人あきとし・じゅんさん、鶴屋の柚餅と羊羹とを下さった。図書館学の馬場俊明教授であったころからのお付き合いである。図書館への売り物書きからのヘンな攻勢、また奇妙に商売本位の図書館営業など、わたしは昔から疑問に感じている。きちっとした図書館認識が文化的にも行政的にもより堅固に確立してほしい。
2015 12/5 169
* 寒い、今朝は。
* やっと三歳の愛らしいやす香像と、死の前年十九のやす香の写真とを機械の左右に向き合って眺めている。
新しい本が出来てくるまでに、今日をふくめて三日。この辺が、湖の本でも選集でもいちばん緊張もしソワソワもする。楽しみというより、どうか無事でと待つ気持ち。第十巻は大冊で、持ち運びも重い。 2015 12/6 169
* 朝、早々に竹西寛子さん、上越の光明寺さん、京都の杉田博明さん、石神井の高本邦彦さん、また河野能子さんから、湖の本等々へ、丁寧なご挨拶を戴いた。
* 「湖の本128」の要再校ゲラを取り纏め、あとがきを除く表紙、つきものとともに印刷所へ送っておいて、妻と、銀座へ出た。
めざした店が同窓会とやらで貸し切り、しかたなく、「せりな」の懐石をワインで。今日ある事を願って以来五十八年、旅の思い出など話ながら乾杯して祝った。
有楽町で、ブリンタのインクを買いそろえ、出光美術館で「ルオー展」を観てから、保谷へ帰った。
* 晩は、追いかけて「選集⑩」の荷造り。
* 読者から選集、湖の本へ、過分の御喜捨を戴いていた。感謝。
2015 12/10 169
* 今日は休息。映画「秋日和」をまたみて、女物語を縦糸にした橋田壽賀子の忠臣蔵外伝を楽しんだ。香川京子、大原麗子、斎藤綾子、小川知子ら憶えきれない橋田組の女優たちが賢明に競演して、かなりの見応えであった。
* その間にも先ずは選集⑬の初校戻しを念頭に、ゲラに手入れをしていた。そのあと、選集⑫を責了するための用意、おさおさ怠らぬようにしたい。
同時に選集⑭の入稿用意も気が抜けない。さらに湖の本129をどう入稿するか。新作の小説を念頭に置いていて、適切に進行してくれないと困る。慌てず焦 らずに。
2015 12/13 169
* 湖の本128の再校が出た。
2015 12/16 169
* 選集第十一巻はすでに責了、一月末ないし二月初に出版予定。第十二巻が口絵等もすべて出そろい、すぐにも、おそくもこの年内にも責了に出来る。第十三 巻本文の再校が今朝出そろい、これから読んで行く。一番の大冊になる。第十四巻の編輯もでき、いま入稿前原稿として読んでいる。総じておよそ二千頁分の仕 事がすすんでいる。
湖の本128巻も、再校を読み終えれば責了出来る。選集第十一巻との刊行日の調整が必要。湖の本129巻の「未発表小説」二作という編輯見通しが立ってきた。桜桃忌を目した創刊三十年、第百三十巻がどうなるか、我ながら少し痺れている。
2015 12/18 169
* 湖の本128のあとがきを今、電送した。いま、それを此処にひらくのは先走っているけれど、日付の意味も私なりに重いので述懐・私語の意味で転写しておく。
☆ 私語の刻 湖の本128
今巻の主な編輯意図や経緯については、巻頭に十分述べておいた。後段には気儘に或る一年の「京都散策」を添えた。四方八方から大もての「京都」のこと、なにを加え得てもいまいが、秦にこんな「京都」がと思って下されば有り難い。
このあとがきを、実を言うと平成二十七年(去年)の師走に書いている。明日二十一日には、傘壽、満八十歳の誕生日を迎える。
明けての春四月には、妻も傘壽を迎える。つつがなく互いに達者に暮らしたい。
傘かりて老いの余りを相合ひにゆきゆく年の瀬は冴えわたる
しんしんとさびしきときはなにをおもふおもひもえざるいのちなりけり
幸い「秦 恒平選集」も、この師走半ばに、第十巻、長編『親指のマリア=シドッチ神父と新井白石』を無事出版できたし、「秦 恒平・湖の本」も、此の今回本が第一二八巻、年明けて六月桜桃忌までには、第百三十巻まで用意の編輯も出来ていて、じつに「創刊・満三十年」を迎える。
同じ一人の著者の創作とエッセイとを、騒壇余人、著者自身の手一つで、順調に「三十年、百三十巻」もを、趣味や道楽でなく国内外の読者の方々、各界、各 大学高校研究施設等へ送り続けられた、かような「文学・出版活動」が近代以降の日本国内で達成された前例をわたしは知らない。体力と気力との続く限りは 「書き」つづけ、「出版」しつづける気でいる。
胃癌と診断されて胃の全部と胆嚢を手術で喪って、満四年がちかい。手術後にも、癌の転移がなお認められ、一年の抗癌剤服用に堪えた。その後さいわい癌の 再発は認められていないが、眼も歯もひどくなり、食はすすまず、聖路加病院だけで腫瘍内科、感染症内科、内分泌内科、眼科、泌尿器科、そして今度は循環器 科での検査のために新年早々に四度目の入院が待ち受けている。この四年、一度も京都へ帰れず、今年(昨年)二月の京都府文化功労賞の受賞式にも欠席した。 ほんの小旅行すら一度も出来なかった。いつも全身疲れていてしんどいのである。
しかし、文学・文藝の、がオーバーなら「書いて」「本にする」仕事は、むしろ壮年期にもまして渋滞も停頓もなく、信じられないほど多彩に多忙に元気いっ ぱいに次から次へ積み重ねて、送り出している。それで、わたしはいいのである、どんなに疲れてしんどかろうとも元気に満ちている。
次の「湖の本」も、また一癖有る珍しい小説の出版になるはずだし、創刊三十年を記念の作には、ごく恣まな長編の「珍」新作を提出できようかと頑張っています。ムチャクチャ叱られそうだけれど、ガマンして下さい。 秦 恒平
2015 12/20 169
* 歳末最後の故紙回収に大わらわで荷に括った故紙を道路へ運び出した。毎度のこと沢山になるが、荷造りは妻が、運び出すのはわたしが、する。選集の校了 まえのゲラなど、そのまま読めるので惜しむ気もあるが、さて積んでおくと床が抜けそうに重く溜まる。湖の本の責了紙ももはや保存しても仕方在るまいと目を つむって故紙として提供することに。これが隣の棟に山のように残っている。処分すれば、すこしでも床面積が回復する。
2015 12/23 169
☆ 秦 恒平選集
第十巻ありがとうございました。
また 十二月二十一日に傘壽を迎へられ 誠におめでとうございます。
店頭に並ぶのを待ちに待っていた美濃加茂市名産蜂屋柿がようやく手に入りました。奥様と仲よく召し上がって下さいネ
よいお年をお迎へ下さいませ。 各務原市 石井真知子
* 心配りこまやかにいつもいろいろに頂戴し、さらに湖の本も毎回三册ずつ購入して頂いている。三十年、四百册ちかくも買い上げて頂いている。有り難いことだ。
* 湖の本129 入稿した。128の責了へ迫りたい。
2015 12/24 169
* 六時前の築地から銀座へ歩いて、わたしは二十一日のかわりに妻とご馳走を大いに楽しんでかえりたかったのだが、どこもクリスマス景気、二人とも草臥れ て銀座一丁目から一路保谷行きで帰ってきた。保谷で、近くの洋食屋へ寄ったが、妻は美味しいと言い、わたしは口に余り合わずに、駅でショートケーキだけ 買ってタクシーで帰宅。往きと帰りの電車で、「湖の本」128を責了の直前まで読み込んできたのは、収穫。 2015 12/25 169
* 湖の本128(小説二作ほか)を責了した。ことしの外向きの仕事のこれが打ち上げになる。「選集」の⑪⑫そして湖の本128がもう印刷製本の手に渡っている、「湖の本」129(小説三作)と「選集」⑭は入稿済み、「選集」⑬は再校中。
交通整理を適切にして、発送作業に圧し潰されないようにしなくては。
* これで、暮れ正月は新作の小説に集中できる。
2015 12/26 169
* 京の清水焼のいわば本家の清水六兵衛さんから、ていねいなお手紙を添えて、来年干支の「申」の佳い置物を頂戴した。
☆ 拝啓
寒冷のみぎり、先生におかれましては 益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
いつも「湖の本」をお送りいただきましてありがとうございます。また、この度は「秦 恒平選集 親指のマリア シドッチ神父と新井白石」をお送りくださいまして 誠にありがとうございました。父(=先代六兵衛 彫刻家清水九兵衛)が感銘を 受けた作品ということで、楽しみに読ませて頂きます。いつもお心遣いいただき 恐縮しております。
来年の干支の置物を送らせていただきました。どこかにでも飾っていただければ うれしく思います。
今後共 どうぞよろしくお願い申し上げます。 敬具 清水六兵衛 陶藝家
2015 12/28 169