ぜんぶ秦恒平文学の話

自作を云う 2021年

* 八時半。ごく フツーの元日を過ごした。「「湖(うみ)の本」151書き下ろしの仕上げへ、腰を入れる。囿 亹 赧 蠹 閔 戄 礮 礟 囮 纔 靚 等々の、ちょっと視線を走らせただけで、こんな、あんまり見ない漢字を機械の底から探し当てて、その読みも振りかなしなくてはならない。秦の道楽だとただ 叱られるかも知れぬ。
2021 1/1 230

 

* 駆逐艦「雪風」での生き残った乗員らの、切実を極めたレイテ、沖縄での日本海軍総惨敗をめぐる生死と覚悟の思い出をつくづくと聴いて、泪に溢れながらこもごもモノを思った。切に思った。それは今の私の書き下ろし稿とも深々と交叉してくるのだ。
2021 1/3 230

* 校正、超絶難航 われから深刻の渦巻に陥ったよう。どう、抜け出すか。緊急事態宣言を自分で自身に。八時過ぎから十時半で苦心惨憺の半頁分の校正、難 漢字、難読語の読みの確認とふりがなとだけに。疲労困憊。石原さとみの佳いドラマを観ていたかったのだが、振り切るように機械へ来た。マイッタ。もう寝床 へ直行したいが、そこにも本の誘いがある。
いま『史記列伝』でも長編の「蘇秦列伝」これが面白いのだ、が、原文と講釈とをよむだけで、はるか上古の別世界になる。合従連衡をいま蘇秦が懸命に説いているところ。

ジャック・ヒギンズの『鷲は舞いおりる』ゾクゾクと鳥肌が立つ。レオン・ブルムの『結婚について』も辛辣なまで、おそ まきのベンキョウになります。トールキンの『指輪物語』二つの塔の「森」に入って救われたようにホオッと息をつく。妙に、「生きいそいで」思われる、われ ながら。コロナ禍は、春過ぎても容易には落ち着かず、菅内閣はオリンピック開催の成り行きにジタバタするだろう。
2021 1/4 230

* いま、読みやすくやすくと苦心惨憺している漢文の筆者は、二十歳前後から、徳川将軍家に読み書きの侍講・侍讀して五百石を食んでいた和漢学秀逸のひと で、今で謂う大学生の年齢で、わたしが大小の漢語・漢字辞書を持ち出しても足らない難漢字を平然つかいまわして、色町での遊興の機微や裏面を楽しそうに気 らくに書いてくれる。太刀打ちがならなくて、呻く。
2021 1/5 230

* 岡井隆撰の『現代百人一首』にとられた私の一首にかかわっての、岡井さんの感想文である。懐かしい昔のことだが。

たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは   秦 恒平

今歌をつくろうとすると、手っとり早いところでは新聞の歌壇投稿であろう。新聞歌壇だけでひとり歌作を楽しむひともいるし、そこから進んで短歌結社に加わるひともあろう。後に小説を書くようになった秦恒平は、そのどちらでもなく、ひとりで歌を書いていたらしい。
ここに挙げた歌が示しているように、恒平の歌に一番近いのは、大正期の写実系の短歌だろう。たとえば島木赤彦、あるいはその弟子の土田耕平や高田浪吉な ど。昭和二十八年、十七歳の時の作品だというが、京都の何処かのお寺か社(やしろ)を思わせる、その静かなたたずまい(=高校に近かった東福寺への通天橋 での歌です。秦)に、若い性欲が突然色彩を変える。そして少年の眼に、うっすらと涙が溜まる。どうしようもない性的な悶え苦しみ、そして浄化への願い。 『カラマーゾフの兄弟』で言えばアリョーシャ的なものへの憧憬。それが実に素直に出ているではないか。「おもひの果てを」の「を」の使い方なども、見事な ものである。こういう歌を読むと、歌に新しい古いなどはないのではないか、と思いたくなる。だがやはり歌に新旧はあるのである。ただ作者にとって新旧など
どうでもよい場合がある。かずかずの歌を読み慣れた眼にも、こうした歌が慰めとして存する場合がある。

わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも

という歌を挙げてもよい。十七歳の時の相聞歌である。リボンという外来語を除けば、まるで万葉の歌の模写に近い。それなのにどこか洒落ていて、初々しい。 黒いリボンを手に巻いて、これから髪をこのリボンで縛るのよ、という、この仕種(しぐさ)は、やはり近代の女のものなのだろう。言葉は古く、風俗は新し い。秦はこのあと十年ほど、寡作ではあるが歌をつくり、のちに歌集『少年』を編んだ。二十六、七歳ごろの作品に、

逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり

がある。女に逢わなければ無論辛いのだが、逢えば逢ったでなおのこと辛いのだという、人間男女の性愛の、千古をつらぬくまことの姿が、民謡調に乗せてうた いあげられている。桃の花の散る道は尽きようとし、それは若いふたりの道の行方でもある。思えば十七歳の時から十年のあいだ、ほとんど歌の調べも歌風も変 わっていない。それなのに十七歳の時の幼い性欲の嘆きと、この桃の花の道の愛の心とは、どこか違っている。

* 歌を「つくり」 それが、小説を「つくる」人生へ自然に流れ込んだ。体験できなくても「創る」のである、創作する。創作者の欲求とはそういうものと想う。それにしても、岡井さんに、懐かしくも心親しく、感謝。
2021 1/6 230

* いま宵の六時。五時まで寝入っていた、目覚めての気分の重苦しさ、異様。今日は日のあるうちの大方を床に就いていたが、腹部に感じる気分のわるさ、ど うにもならない。たった一字二字の超級難漢字の訓みを見つけ出すのに、へとへとに目も気も疲れ果てる。とても何も食べる気がしない。われから招いた仕事、 乗り越えて行くしかないが。
晩も、寝てしまおうと思う。
2021 1/9 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月    松尾 芭蕉

☆ 『奥の細道』に見えている。これも「友」にまがう淡い感情、風流心が見出した「友情」の句というべきだろう。「遊女と我」「萩と月」が対になっていよう。
「萩」には『風土記』このかた一夜豊産の伝説や女の白い「はぎ」など、不思議になまめかしい印象がまつわる。「袖萩祭文」といった「遊び女」の境涯にからんだ藝能も多い。
「月」にはまた、「花龍に月をいれて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な」といった『閑吟集』の小歌に見られるような「男」そのものの印象がある。
辺陬(へんすう)の茅屋(ぼうおく)に旅と漂泊の男女が一夜を明かした。実事があったというのではない。いやこの句じたいが実の句かどうかも問わない。
まさに風雅の心が誘い合った「友」として彼らは在る。美しい佳い句で、忘れがたい。

* 毎朝のために此の稿をここへ、こう置く。云い知れぬこころよさ、自分の書いた文章という安堵感もてつだい、一服の薬湯を口にする心地。いい仕事をしておいたと、昔がなつかしくなる。
2021 1/10 230

* 正午過ぎ。冷える。六時ころ手洗いに立ち、そのあと、安眠していた。安眠できるときは それに任せる。午まえ、「八島」那須語りのヒラキを聴いた。小気味よく、めでたかった。「那須語り」を小口で仕掛かりの作を思い、そこへも顧みたいが手の 着いた仕事の多さに苦笑もする。ま、呼んでくれる声の間近なモノへ身を寄せるということ、これは仕方なくまた理に合っている。
2021 1/11 230

* 維摩詰の「方丈」は無一物と聴いている。私の「方丈」 この六畳間書斎 は、壁へ作りつけの書架や小机だけでなく、呆れるほど雑多な小も ので賑やかに暖かにあふれかえっている。気持ちの静かさや安心をそれらに取り包まれることで得ている按配。どれへ目をむけても、望みさえすればそれらから 「言葉の世界」が近寄ってくる。寂しくないのだ。

* 「私語の刻」が永すぎたなあと思う、私語と謂うより「樂書き」なんです。政権を譏っているより衛生的。やがて正午。朝、口にしたのは、和菓子一切れと熱い煎茶。腹は、空かない。
2021 1/12 230

* いま、私に読書と睡眠と「マ・ア」のほかに娯楽は、何。テレビは今や不快を強いるし、機械でゲームなど一切しない。人と電話で話して楽しむのも、ケイタイまで買って貰ったのに、しない、出来ない。いまだに機械の使い方がのみこめない。メールも昔と違い、めったに貰わない、また書いてもいない。
と、なると、際限のない此の場での此の「私語の刻」を楽しんでいるらしい。殊に、往時渺茫の「あれこれ」を懐かしみ、おかしがり、くやしがり、ふしぎがり、そして、小説に「書きたい」契機(ヒント)をひょいひょいと掴み取ること。
「秦さんは、小説を書くしかない生まれなんだなあ」と、林富士馬さんや笠原伸夫さんに云われたことがある、「でも、幸せなことですよ」とも。
「私語の刻」での「私語」は、即、文章を創るたのしみでもあるから、これで、句読点や助詞のおきかた使い方まで「文体」を推敲する気も持っている。
とはいえ、物忘れも頻繁になってきた。いまも「文体」という言葉がなかなか出てこなかった。「お待ちします」という気分で待つうちに、ふっと「文体」と現れ出てくれる。出て呉れないことも増えてきた。天皇さん126代が、いつまで停頓なく口にのぼせられるかしら。
ひどいのは、和洋の映画俳優の名前、じつによく覚えてたのに、昨日テレビで観た映画でも、イングリット・バーグマンはさすがに忘れてなかったが、顎のと んかったグレゴリー・ペックは容易に思い出せず、「子鹿物語」のとか「ローマの休日」のあれだあれだと、やっとこさ思い出した。
日本の現代男女俳優など、薙ぎ倒されたように大勢の名前を忘れて、原節子と三船敏郎と柳智衆、そして沢口靖子とは別格。それでも好きな女優は、まだ何人 も忘れていない、順不同に、田中絹代、久我美子、杉村春子、三宅邦子、岩下志麻、高峰秀子、美空ひばり、京マチ子、若尾文子、山本富士子、淡島千景、岡田 麻里子、十朱幸代、八千草薫、淡島千景、まだ若いが演技のいい松たか子、田中裕子等々。忘れてはいけない大物女優二人の、顔は目に見えるのに、代表作も覚 えているのに、名前だけが出ない。
こういうアソビも物忘れを励ますクスリかと、眠れない夜中などについつい暗闇で服用している。

* 夕食後も、痛みのある下痢で意気あがらない、要はしつこい眠けに類して、ヘンに胸焼けもしている。愉快ではない、が、こうした「私語」のただ羅列を見 直していると、「贅沢」というではないが、「悠長」に「趣味という味」を棄てずに暮らせているなと思う。えやないか、それで。
2021 1/14 230

☆ メールを頂いていたのに
返信できなくてすみませんでした。早い事、今日(=昨日)は、小正月に成りました。
私は、ほんの少し元気に成りました、タクシーで病院通い程度です。
お弁当を取ったり、日日何とか食べるものを作れる程度です。コロナ騒ぎで買い物も行けずに生協で仕入たりして居ります。ふらふらとしながら、力が入りませんが、ぼつぼつ 頑張れるかな?と 思いながら。    京・北日吉   華  高校時 茶道部

* ホッとした。案じていた。
この人の家から一分とかからない近くに、映画「女の園」のモデルであったろう京都女子大の施設「京都幼稚園」があり、わたしは、昭和十六年度の一年間(十二月八日に太平洋戦争宣戦)、園のバスで送り迎えされ通っていた。
華さんの家のすぐ東には正林寺という閑雅な古寺があり、毎日幼稚園に運ばれる午の弁当をお寺の境内へみなで行って食べる日もあった。この東一帯は、平家の総領平重盛が家門を構えて、京と山科とを塞ぐ要地だった。歌の中山清閑寺にちかく、この界隈をわたしは幾つもの小説に懐かしく描いて親しんできた。
2021 1/16 230

* 湯に浸り、レオン・ブルムを読んでいた。『指輪物語』も。そして夕食してから寝入っていた。八時前。寝たいなら寝た方が良い、風邪を引くよりよほど良 い。だらしなくムダには死にたくない。死ぬなら、きちんと、したいだけはして逝きたい。さしあたって、「「湖(うみ)の本 151」をちゃんと取り纏め、 「152」を入稿したい、手を出せば出来るのだから、すぐにも。
とはいえ、いまも「151」のゲラと取っ組んで校正というより、明治も初年の新聞読み物に、当時の銀座の夜店を書いた記事にふりがなしているのだが、ア タマまの鉢が割れそうに超難漢字の羅列、この頃の新聞の読者はかかる面白くも難しすぎる記事がアハハと読めたのだろうかと私はまさに「お手上げ」なのでし て。われから跳び込んだ以上やり抜くしかないが、その価値は優にあるのだが、降参です。
九時半。もう目も頭も モタない。
2021 1/16 230

☆ お元気ですか、みづうみ。
ご体調不良のご様子、あまり我慢なさらず適切な治療を受けていただきたいと願っています。

『オイノ・セクスアリス』読解の一つの大きなヒントを与えていただきました。「暗闇の下鳥羽の森や湿地や、大河」の象徴する別世界への憧れと は、この作品の中で一番手に負えないと感じた部分でした。選集の巻頭のカラー写真でみたその場所はおそろしい「魔」を感じるには健康的に見えましたし。京 都の土地も歴史も知らなさすぎるので、この作品の「聖地」という根幹に届かないと思っていました。
もし可能なら、東作西成 春作秋成 含めてこの作品にこめた作者の意図についてどんどん書いていただきたいなあと願っています。『オイノ・セクスアリス』は本当に理解の難しい作品の一つです。

暖かくなったり冷えたり、気の晴れるニュースは何もない日々ですが、もう少し辛抱すると花の季節です。
お花見、できますように。  鞠   手鞠唄かなしきことをうつくしく   虚子

* 京都には、魔処 というに当たる場所や地域が、街の真ん中にも、いろいろとある。
ことに桂川・鴨川の合流点へ、うねうねと長々延びた森や畠はもう郊外というべきだが、京都という魔ものの南の尻尾をなし、上古は、ひたひたにむきだしの 葬地だった、都とはいえそういう場所は、大小の川縁りはむろん、街なかにもそのような一画があちこちにあった。山紫水明を誇る東山・北山・西山のほとんど が帝都の奥津城であった。だからこそ大文字の山焼きで鎮魂する。京都とは生者と死者との木暗い同居世界、いまでは死者のほうがはるかに大勢「生きて」在る 都市なのです。そういう「京都」、まだまだあまり的確には書かれ得ていない気がする。川端康成の「古都」はそこへ達していない、谷崎先生の『少将滋幹の 母』や『鍵』や『夢の浮橋』の凄みが美しい。
『祇園の子』『冬祭り』『風の奏で』『初恋 雲居寺跡』『花方』などあるけれど、私は、まだまだ。これから。

* ほとほとしんどい初校をしているけれど、取り上げている明治人の文章のいさぎよい美しさ、面白さには脱帽。はやく読者のお目にかけたいと気はせくが、 なかなか目をまンまるにしての校正、地を這うよう。あせるまい、そして続く「152巻」のこれをという目星ももうつけた、これは、「原稿」にすれば済む。
2021 1/18 230

* なぜか難中の難文のしかも十数行分が欠け抜けていて、補足しつつフリガナするのに四苦八苦した。目を傷めるのも甚だしい。とはいえ、それがまた内容も表現も面白い ので、ガンバッて補った。ちょっと休まねば。
今回のこの校正は、手元にATOKの漢字検索がないと出来ず、機械の傍が離れられない。もう数頁分で通過する一団なのだ が、手をあげ音をあげてあとまわしにしてあるもう十頁ほどと格闘しないと、おさまらない。そして更に本文の「追加」が頭に在る。「「湖(うみ)の本」を始め て、こんなに苦労の一巻はかつて無かった。だけれども、これはし遂げたい意味のある一冊である。
ここで、暫時休息ぎみに「「湖(うみ)の本 152」の段取りにかかる。
2021 1/19 230

* 九時になる。次の「「湖(うみ)の本」の用意に。一冊に入る分量と、すでに用意のある分量との均衡が問題、後者は、前者の少なくも何倍もあるだろう。アタマの痛むほど考えて取りかからないと途中で立ち往生してしまいそう。
用事はイヤになるほど有るのに、仕方なく放置されてある、大方は郵便に類するのだが、今はボストへも局へも行きたくなく、宅急便を預けにも行きたくな い、極力人と顔を合わさず言葉も交わさないようにしている。夫婦二人くらしだと或る程度それが徹底できる。それに退屈と云うことが全然無い。有り難いこと だ。
これで、建日子の顔を見ながら話せるような設備が出来るといいのだが、手が回らない、そんな設えも出来ない。幸いこの書斎は、じつにさまざまに賑やかで心温まる。ときに「マ・ア」が来る。鰹節を用意して、ちょっとずつご機嫌をとる。
2021 1/19 230

* 六頁の難関をなお残してしかし大方を校正した。あと、難関を踏みわたって、そのあと、全一巻を好く整えたい。前後のつきものも作らねば、また口絵をどうするか、付けるか、諦めるか。
とにかく少しく先が見えてきた。つづく「「湖(うみ)の本 152」の原稿づくりにももう手は付け始めている。
2021 1/21 230

* 只一頁に満たない原稿に漢字のヨミをフリガナするのに二時間かかった。なんとする。
2021 1/23 230

* 三時過ぎ。じりじりと仕事のハカを追っている。当面、「湖(うみ)の本 151」の要再校・初校戻しと「152」入稿原稿仕立てと。
2021 1/27 230

* さ、もう少し粘り抜き、せめて一件は仕上げへ先が見えましたというところまで運びたい。五時。

* 十時過ぎ。おう、ついに難中の難作業に当たる仕事を、曲がりなりに終えた。うまくまた再校時に
正したい。
これで「「湖(うみ)の本 152」 の原稿作りと入稿をめざす仕事が前へ出る。そして別口の創作へ姿勢を正対することも。よし。
2021 1/27 230

* 三時半  いくらか検討の余地はのこしたが、追加挿入原稿や 序 など書き、挿入箇所指定を終えれば、初校了 要再校として返送できるまで「「湖(う み)の本 151」 こぎ着けた。まことにご苦労なことであったし、再校段階で、尚お 幾苦労もあろうけれど、遅くも三月半ばには送り出せようか。但しこ れは現場仕事先のコロナ事情でどうなると見通せない。最悪は、桜桃忌の記念という、まる一年目の出版にも成りかねない。それでも、期待に応えるいい一巻に なるようにと手を抜かない。
ま、引き続き分の新規入稿、これは、量は嵩みそうでも、手慣れた作業で進むだろう。
それにしても、何という私の生理的視野の混雑悪化。左眼がひどい。しかし、今は眼科も歯科も、聖路加へも、とうてい動けない。コロナ感染は決して軽視で きない。85老二人の共倒れになる。のは避けねば。建日子も気を遣ってくれて、あえて此処へは帰ってこない。こっちにテレワーク設備があれば顔ぐらいは見 られように。
2021 1/28 230

* 機もよし、次回「湖(うみ)の本 151」のために昨日書いたばかりの「序」を いま、此処へ「予告」として置いてみる。

序  山縣有朋と成島柳北 この二人の明治維新

こと「明治維新」を書いて、語って、「汗牛充棟」はなんら誇張ではない。そこへもう一冊を加えようとは厚顔しいかと遠慮がある。それでもなおと云うには 言い古された陳腐は断然避けねばならない、「元勲・元老」山縣有朋はあまりにも識られた名であり、必ずしも当節なおなお歓迎される名ではない、だが前巻 『山縣有朋の「椿山集」を読む』は、よほど新鮮な感銘を読者に伝え得た。まこと珍らかな家集『椿山集』の、心静かに、なに高ぶらない風趣は、清新な驚きで 受け容れられ、一人として拒絶の読者は出なかった。秦の祖父鶴吉旧蔵の一冊が思いもよらぬ今日に思いもよらず静かに読み返されたのは、山縣有朋になに贔屓 の思いも寄らぬ私にも胸温まることであった。
その、度も過ぎて知名の山縣有朋に衝きあわせるように取り上げる「濹上隠士」成島柳北は、また、今日、忘れられ過ぎた明治「志士」の一人であり、頑なに 民権を忌避の内務卿山縣有朋ら維新の薩長藩閥政権に闘い挑んだ一人の「文豪」であった。有朋に一歳年長の柳北の人生は、あまりに惜しく短かったが、その経 歴は目を瞠る異色に彩られて、しかも江戸から東都へ生き直り稀なほどの風雅の気概に溢れていた。しかも彼自身が受け容れさえすれば、明治の元勲とも新華族 とも晴れやかに肩そびやかすことも出来た、だが成島柳北は幼、來つねに「家國」の安否を慮りながら山縣等の維新政権の「傲」と「妄」とを指弾し続けた。
この一巻は、そんな景況を背に、私なりの大胆な有朋再評価と柳北賛嘆とを、なんとか課題に満ちた対極として略畫したもの、ご批評を願います。
二○二一年 一月 コロナ禍の中で     秦 恒平

* 途方もない本文校正になお相当時間を要しそう、コロナ禍に作業の仕方も制限を受けている印刷所事情もあり、刊行は…、ハキと予定しきれないが、読者の皆さん、お待ち下さい。
2021 1/29 230

* 米内光政を記念の番組をみた。こみあげるものがあった。戦中少年だった私は、陸軍東条が退き小磯国昭も早々に潰れ、海軍の米内光政が組閣したとき、な にと明瞭に謂えぬまま親愛と期待をもっていた米内という海軍さんの内閣が、陸軍の横紙破り(陸軍大臣辞任)で立ちゆかず総辞職した無残な思いを永く忘れて こなかった。
わたしは軍国主義者ではない「戦争も兵隊も嫌い」な臆病少年だった、それは処女作「或る折臂翁」で表現した。白楽天の厭戦兵役拒否の長詩「新豊折臂翁」を祖父の遺産で読んでひときわ感銘を受けたのは、国民学校三年生以前であった。
勝てない、負けると知れた戦へ国土と国民を引きずった帝国陸軍にわたしは子供心に「あかんわ」と思っていた。海軍のあの山本五十六連合艦隊司令長官がは やく戦死し、米内光政海軍大臣のでる幕出る幕をふさいだ「陸軍」の、昭和十九、二十年にしてなお「本土決戦で勝つ」などと無責任を言い放ち続けていたの が、心より疎ましかった。「負ける戦争」へ国土と国民、昔で謂うと「国体」までも強引に引きずって行く軍人。昭和の日本陸軍とはそういう、無策の組織で あった、らしい。あの山縣有朋は生涯の軍歴を、総理として以上に明快な参謀総長として際だっていて、ゆえにムダな戦争は避けて為さず、國危うくして闘った 大戦争のすべてに完勝した。「負ける戦争はしない、してはならない」姿勢は、幕末、列強の軍艦に痛い目に遭った体験、無謀な征韓論のあげく勝てるわけのな い西南戦争へ落ち込んだ西郷隆盛を、「悼む」思いを抱きつつ国軍参謀長として完全勝ち抜いた体験このかた、山縣有朋の少なくも軍政には、いつも一貫して眼 と智との参謀力が働いていた。昭和天皇が、しみじみと「山縣がいなかった」のも敗戦の因と呻かれたのが、痛いように思い出される。
2021 1/31 230

* テレビで、懐かしいグルジアやアルメニアの豪快にも瀟洒にも変化に富んだ景色を眺めた。グルジアの詩人゛いぎしノネシビリ三のお宅へ招待された楽しかったこと、忘れない。いろんなお土産を頂戴したあれもこれも今も身辺に在る。旅は、当時ソ連の作家同盟の招待だった。
日本へも来られたが、その後に複雑な政変もあって、ノネシビリさんは亡くなった。
各地を深雪きわまりなく案内してもらったエレーナさんも、やはり政変がらみとかで、日本へ来て亡くなったと聞いた。佳い人だった。一緒に招待され同行した団長宮内寒弥さんも同じ京都出の高橋たか子さんもとうに亡くなった。あーあ。
この「ソ連の旅」は新聞三社の連載小説『冬祭り』にはなやかに取り入れた。読み返したくなった。ヒロイン「冬子」は、評家から、「また必ず姿をかえて帰って来る」と予言かつ期待してもらった。果たして、最近作の『花方 異本平家』の「颫由子」となり帰ってきた。
2021 2/2 231

* 昼食後 機械の前で椅子のまま寝入っていた。「湖(うみ)の本」絡みの「機械仕事」は、印刷所側でのコロナ感染などもあり停頓を余儀なくされ、これ以 上前進の必要も解除されているアンバイ、しかれば今こそ手の広がってある「創作」のどれかへ真直ぐ向き合える。全姿勢を切り替える好機。
2021 2/6 231

* 両手の指先が鳴りそうに痺れている。「マ*ア」はもうこの部屋で「削り鰹」を嬉しそうに食べて、階下へ。家族の揃っている宜しさを喜んでいる。
今回の「アコ」喪失一件でしみじみ思うのは私は何ら意志的理性的人間でなく、過剰なまで情、感情、感傷の人間だということ、そんなことはとうの昔から自 覚も承知もしてきたし、それを羞じたり嘆いたりすることは無かった。そう生まれついているなら、それで生き通すと思ってきた。
同時に、だから意志的に生きたい、いきると自身に励ましつづけてきたと思う。
一切の大學受験など放擲して、好成績を利してあっさりと無試験推薦で同志社へ入ったのも、学問的学問をして「教授へ」の道など棄て、家を棄てて、恋人と 東京へ出て極貧の新婚に甘んじ勤めながら一人学びに勉強を積み増しながら念願の「小説家」へ全身で逼りつづけ、私家版本を四冊も作っている内に、突然とし て、四冊目の巻頭作『清経入水』に太宰治文学賞をという有り難い申し出に会った、まさしく文学の世界へ招待してもらった。これら経緯一切は、すんりに意志 的なガンバリであったが、それも内実は情緒的に自身を濡らし濡らしの「夢見がちな時代」だったのだと思われる。
同じ事は、以降、猛烈なほどの原稿を書き、本を出しつづけたあげく、こんどは「秦 恒平・湖(うみ)の本」など思いつくと「騒壇余人」と自称し、突如として國から「東工大教授に」と招聘されて六十定年までつとめ、その後もほぼ文学世間か とは付かず離れず今日にも至っている。自身をある種の「感傷」「情緒」「夢想」に委ねられない人には真似はできないと思う。わたしは、それをやり遂げてき た、作家・文筆家として。百冊の単行本をもち、三十三巻大冊の「特装選集」をもち、とめどもなく「自作自編のシリーズ本」を150巻も世に送り出し続け、 今もとめどない。こういう隙勝手な人は、日本中に一人もいないし、世界のことは知れないが稀有と思う。理性と知性の人たちには不可能な「夢と感傷と情緒」 の所行・所産だったとつくづく自覚する。
だからこそ、猫の「アコ」が二三日失踪失跡しただけで、身も心も折れそうに泣いて嘆けるのである。京都での少年のむかしから、きまって、「変わっとる」「変わってはる」と言われつけてきた。そうかも知れないが、自分では、ただ「情のまま」に歩いてたんやと思う。

* こんな見極めが出来てきたのは、もう残り少ないなという予感であるのかも。
ま、やれるだけは狂気じみた情趣を身に抱き、恰好にも行儀にもなんら構わず、どう笑われながらでも今暫くとぼとぼ歩きつづけたい。
2021 2/7 231

* 朝から三時半まで、つづけて機械作業していた。
新しい仕事も、新しくはないが放っておけない大事な仕事もある。思案に暮れているより、手の着いた仕事は、そのまま進めないと、身が持たない。
算盤玉をはじくなど、子供の昔から出来ない、が、仕事の段取りをつけて仕遂げて行くのは、大小といわず、医学書院の編集者時代に徹底してスポーツのように身につけた。科せられた目標に届かない年など、15年半勤めて、一度も無かった。その間に、小説も書き始めた。
一つには、医学書院編集長が、鴎外研究等々国文学の泰斗長谷川泉さんだった。おっそろしい程な医学看護学全般の専門書や雑誌刊行を統括しながら、その間 にも、狭苦しい一画につっ込んだ小机で学問されていたのを、少なくも私は賛嘆して背後から見ていた。あの人がアア出来るなら、わたしもコウ出来なくては 思っていた。「或る折臂翁」も「畜生塚」も「蝶の皿」も「清経入水」も「慈子」も「秘色」も「みごもりの湖」も、勤務での外出中に、立ったままでも書き継 いでいた小説だった。
幾らかは 今にも同じ血が身内を流れている。器用には立ち回れないが、算盤抜きに飽きない「読み・書き・想像」が、根っから好き、文学は、それが「基本」でなくて、何が。「人間」でしょうね。
2021 2/10 231

* 手順で手放せなかった「湖(うみ)の本 153」の予定稿が、まずは出来上がった、多少の増補や削除はこの先のハナシになる。
印刷所も なかなか容易ならぬ状態らしく、「151」の再校も出てこない。この間に書き下ろしの「152」を入念に仕上げながら、新しい小説のアタマにあるプランを展開しておきたい。
2021 2/14 231

* テルさんが「代表作はこれだ」としかと指さしてくれた『オイノ・セクスアリス』を、懐かしく読み返し終えた。『罪はわが前に』へ帰るか、『花方 平家 異本』の「颫由子」へつながった「冬子」の『冬祭り』やその以前の『風の奏で』などが、読み返してみたくなった。となると、原点は、やはり『清経入水』の 「紀子」になる。『四度の瀧』へも。読み返してるヒマがあるだろうか。次へ次へ、書くが先か。
2021 2/16 231

* 印刷所から「「湖(うみ)の本 151」初校直し・再校出へ、ワルクすると三月になると報せてきた。すりゃ三月刊はとても有るまい、1986年桜桃忌 に「創刊」し、第150巻を34年経て昨2020年桜桃忌に出している。続く151巻刊行までにマル一年かけた今年桜桃忌には間に合うか、コロナ禍の故障 もあったといえ、それよりも赤字訂正の作業にそれほどかかるほど難儀な仕事になったのだということ、さぞご苦労掛けていると想う。掛けある仕上がりにした いものです。購読のみなさま、お待ちください、手が抜けていたのでなく、手の掛かる原稿であるということです、ご容赦下さい。
2021 2/17 231

* コロナ禍は終息に向いているとはまだ言えないようだ。さらに長期の辛抱、文字通りの辛抱が要るよう だ。それならそれで向き合うしかなく、私の場合は、諸事要慎しながら「長期の春休み」と受け容れ、好きなことを好きに、したり、しなかったり、八五老の日 々をむしろ飽きるほど堪能すればよい。この此処の「私語の刻」など、おそらく他の人には無い私に独特の読み書きの遊びでも創作でも日乗文事でもあり、いわ ば存在証明でもある。なにより、飽きることが無い。
2021 2/19 231

* 機械のなかを散策中に、「ひばり」という短編のあるのにぶつかった。アレレと思ったが、『選集 11』に収めていた。口絵をみると、懐かしい、京・新 門前の父がくつろいだかっこうでちっちゃな建日子を膝に抱き、母もそばへしゃがんでいる写真が上段に載っていた、下には幼稚園頃か建日子と私で我が家の門 のまえで撮った写真と、そのわきに、一年生の建日子が「父の日」に教室で書いてきたという、
お父さんへ、

いつでも日の出づる人に
なていて下さい。
建日子
とあるのも 同じ選集11の口絵に遣っていた。嬉しくて、しばし見入っていた。
「ひばり」か。懐かしいなあ。こんな短編をひばりの「唄」と合わせ合わせ十も書いて置きたかったが。美空ひばりもまた わが青春の花であったのだ。
2021 2/20 231

* 機械の奥へ奥へ踏み入って行くと、見当だけ付けて仕置きの発想や着想や書き出しが沢山隠れていて、申し訳なくてアタマを掻く。使い方もよく分からな い、しかし、気の遠くなるほど大量保存の利くらしいモノ(名前も分からないごっつい蓄電池のようなのが在る。うまく遣えると、ありとあるモノが一括して保 存出来るらしい。
なにしろ、「撰集」33巻分、「湖(うみ)の本」152巻分、毎日・毎月・毎年の日乗「私語の刻」が23年280ヶ月分、電子文藝館、何十年もの写真、ものすごい量の来信メール、「歌作、そして数え切れない随想・随筆・試作・書きっぱなしのいろいろ」。
この、草ぼうぼうの大森林にさまよい入れば、すくなくも、私は退屈ということを知らずに彷徨える。
よくもこの古い古い機械くん、それらをみな「飲み込んで」いてくれます、感謝、感謝です。
これらを 傍の、未使用の別機械二台へも「移転」しておこうと思っているが、機械の使い方も、日々に覚束なく、物忘れする。やれやれ。
2021 2/22 231

 

* 聖路加から処方箋の送られた薬局へ、お薬をうけとりに自転車に乗った。かなり疲れると分かった。帰路に白梅の梅林のそばを通って薫りに惹かれた。
匂ひは、光を受けずには起きない。薫りは光なしに闇にも人に届く。それが「源氏物語」宇治十帖二人の貴公子の光源氏との関わりを証言している。
薫は表向き光君の次男とされているが、光の血筋は受けない、光の妻三の宮と柏木藤原氏との道ならぬ道を通って生まれた子。匂宮は歴とした光源氏の娘明石中宮の子息、光君の血を受けた孫である。
薫君と匂宮との通り名の意味をこう読み取った前例は、私の提言まで無かったらしく、当時、慶応の人気教授であった池田弥三郎さんはいちはやく目をとめて下さった。遠い昔のハナシになったが。
2021 2/24 231

* いま、目の前の機械は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」を聴かせてくれている。これは縁の遠いものではない、いま耽読している「失楽園」も 「ファウスト」も、繰り返し手にふれる「創世記」以降の『旧約』世界と想い豊かに触れ合うている。ロシアを旅してトビリシのホテルに宿泊の時、どういう キッカケであったか、ホテルの従業員のような人が、いきなりに『スターバトマーテル』のレコード板一枚を手渡しに呉れた。大事に日本へ持ち帰り、よく聴い た。こういう世界へ触れ合ってゆきたい気持ちが、私にはもともと在る。神仏であれ神であれ、ことに聖母マリアであれ。
この二階廊下の書架には「マリア」に関わる本が数冊の余も積まれてある。そういえば、昔、世界の名作に「マリア」の名で登場する大勢の女性たちをとりあ げ一冊の思索本にと或る出版社と申し合わせたことがあった。私の事情で成らなかったが、おもしろい企劃ではあるまいかと今も思う。世界の名作に、マリアの 名のさまざまな女性が登場して意味を帯びている。トルストイ『戦争と平和』にも佳い「マリア」がいる。小説ではないが映画「ウエストサイド・ストーリー」 の心優しいヒロインも「マリア」と高らかに歌われていた。いい本が書けるはずである、だれか書きませんか。
2021 2/25 231

* おお やっとこさ 「湖(うみ)の本 151」の再校が出そろった。初校の赤字直しに三ヶ月の余もかかったとは稀有 も稀有、一にかかって途方もない 難読・難訓の漢字に溢れたのだから、直しの方もさぞ苦労されたろうと申し訳ない。これで、刊行へのメドが立ったろうか、 まだ先が難儀か。ともあれやっと通常の「仕事」場へ戻れた、もう怠けて休んではおれない。
2021 3/2 232

* 「湖(うみ)の本」151 再校 前半四割り量ほどは快調に、かなり満足もして読めている。ルビを振り加えている程度。この辺は これで良しという気持ち。後半の六割ほどがどう仕上がっているか、少しは心配で楽しみ。
2021 3/2 232

* 一冊の四割り=前半を読み切った。これで良いと思うが、後半六割との有機的な関わりが動的に活躍してくれること、それは、明日から読む。ルビの打ち直 しなどしているとひとしお視力が疲れる。ところがその問題は後半にこそ在る。難漢字の読みを確かめ確かめとなると、時間も視力も倍で足りまい。しかし読ん で行くのが楽しみ。

* はやめに夕食しておいた。思い切って、目といっしょに、身体ももう休めていいのだが、久しぶりの「校正」という作業に気は弾んだ。これを待っていた、が、疲れもした。
私の食欲のために いろいろ手を掛け工夫して、食べさせてもらっている。今夕はちらし寿司と蛤汁だった。獺祭も戴いている。体重を減らす必要はないので、60キロを回復したいと思っている。
一等太り返ってた頃は、肋骨がどこなあるか分からなかった。今は仰向いて寝ていると、胸に肋骨の下辺がはっきりと深く手に触れる。腹部は肋骨の下へしっかりと沈んでいる。これは、佳い。これは維持したい。
2021 3/2 232

* 「マ・ア」が鰹を頂戴と。いま足元で食べている。わたしも、なんとなし機嫌がいい。
わたしは、人中へまじって付き合って、人にも良く思われて…という意図的な暮らしをしてこなかった。「作家」としても、ある時期、「湖(うみ)の本」創 刊の35年ほど以前から「騒壇餘人」と看板をあげ、独りで親しい読者達とだけ向き合い、老境へ向かい向かいながら膨大といえる執筆や創作を重ねてきた。妻 がそばにいてくれる。 そういう一生で終える気だ、それが良い。
2021 3/3 232

* 六時。夕食して、再校仕事を つづけたい。

* 夕食 うまく口に入らず、疲労、そのまま横になり、本を読み、しばらく仮寝していた。
「湖(うみ)の本」再校がいよいよ難所の漢文域に入り、唸りながら、漢字字典 漢語辞典 和辞典などを左見右見、左調べ右調べ 確かめ確かめ読み進む が、それにも躓いては唸る。時間、かかりそう。それにしても「漢字」なる文化に感嘆しつつも、日本人がカタカナ ひらかなを発明してくれた厚恩を痛感す る。コロナに慌てないように、校正も慌てまい、健康でさえあれば仕事はできる。花がほころび始めたら、人のいない保谷の奥の方を散歩してみようと話してい る。花が喜んでくれると佳いが。
2021 3/3 232

* いま、「柳橋」の船宿で、「米櫃」の異名のまま贅をいとわず妓女を侍らせ酒食と好色の極みに遊んでいる。
「剣客商売」のような比較的まっとうな時代劇でも「不二楼」のような船宿が劇の場を貸しており、梶芽以子演じる女将が秋山小兵衛や息子大次郎を取り持っ ているが、彼らがそこで妓女と酒色に耽っている図は無い。しかし、少なくも江戸時代、ほんものの「柳橋」の船宿が「米櫃」さまと歓迎歓待した客は、女連れ ないし藝妓娼妓を席に迎えて贅をつくしかつ連泊(いつづけ)してゆく客であった。
いま、私は、そうした船宿に嵌りきり、遊んでいる。
2021 3/4 231

* 小磯画伯の作は、もしも、私の『慈子(あつこ)』はと人に聞かれたなら、躊躇わず、この少女を指さし示すだろう。イメージがきまってしまっても構わない。

* 高木さんの『浄瑠璃寺夜色』は 実父生母ともにその墓所を知らない私の、いわば心の菩提寺のようにいつも見入っている。胸にしみる「夜色」の美しさ。
2021 3/5 231

* 幸いに再校の難所を苦心しつつ通過した。量は残り多いが、読み進めえよう。
2021 3/5 231

* それにしてもバッハのフーガの美しくも懐かしい静かさ。思わず眼を閉じて聴いている。
そして…まことに難儀は難儀、しかし心入れて「湖(うみ)の本」書き下ろし新稿を校正している。
2021 3/6 231

* 校正は、いまや痛快、乗っている。
2021 3/6 231

* 再校は順調、心ゆく「あとがき」を添えて、もう一校を願わねば成るまい。急ぐ必要は何もない。
今度の書き下ろしは、或る意味で 秦 恒平の老境新生面を放った一冊、前巻と加えて異色の一作となるだろう、名作と誇るのではない、しかし此処へ来たかという感慨はしかと添うて、成るだろう。 老耄の一冊とは思わない。まだ自身に鞭打って励ます余力がある、それを次いで何にむけ鞭打つか、それを思うのも楽しみである。
2021 3/7 231

* 午後の一時か、いま、一通りの「湖(うみ)の本 151」再校を終えた。あとがき と あと付け 表紙を添えて、やはりもう一校を願うとしよう。
私の処女作は、白楽天の長詩「新豊折臂翁」に拠って兵役拒否を主題にした創作だった。
いま、私の新作書き下ろしは、或る意味でこの処女作と真っ向衝突の気味を抱えている。処女作小説に先立つ歌集「少年」を除けば、まる六十余年の創作生活 を経て私は いままた新しい題材と思考とを用いて、是までにない一と仕事を遂げたと思う。一人間の生涯は、それなりに曲直を経てくる。是とも否ともあわて て批判する気もなく、一つには久しい読者の皆さんから受くべきを大事に受け取ろうと思う。「畜生塚」や「慈子」の秦 恒平が 「ここ」へ来たのかと、いくらかは驚かれ るだろう、それはそれ、もう何としても短い残年だけが目前にある。それしか無い。
2021 3/8 231

* 「湖(うみ)の本 151」を 要三校お願いで印刷所へ送った。三校出まで暫時の手明きをうまく利して幾つか仕事を向こうへ押し出したい。

* 機械に、膨大に書きためたさまざまな原稿を調べていると、オッと声の出る「書き物」がぞろぞろと見つかる。そのまま、添削すら必要のないフィクションになった「書きっ放し」もあり、可哀想にと、小声で謝ったりしている。
日々の「私語」も、二十年余も昔の、それも何故か或る一と月分が引き抜いてあったりするのを読み返すと、時勢の変容が今にして明瞭かつ相変わらずの困った世の中の顔立ちや表情をみせ、面白くもあり情けなくもある。
ホームページに書き込んできた「闇に言い置く 私語の刻」だけでも、24年X12ヶ月分=288ヶ月分。事件や世上はもとより、登場の人、人らの顔ぶれも、現代人、現在人さまざま、おやおや、おやおやと、私なりに勝手な感想も批評も、また感想も読書録も、読み飽かない。
とは云え 大事なのは今、そして明日、明後日。残り少なくなってきているのだ、では、どうする。
ていねいに楽しみたい。創り出すのも、楽しむのも。
2021 3/12 231

* 寅さんとリリイを暫く観ていた。すこしほろっと来た。 柴又へもまた行きたい。どこかで菖蒲をたくさんみて、中華料理を食べて、そして帝釈天へ詣ったなあ。
わたしにはまんざら無縁の地ではない、長編といえるだろうか「チャイムが鳴って更級日記」とは縁の濃いところ。また行きたい。コロナ 早く、失せよ。
2021 3/13 231

☆ 范睢(はんすい)は魏の人也。字(あざな)は叔。諸侯に遊説して。魏の王に事(つか)へんと欲(ほっ)すも。家貧しく。以て自ら資する無く。乃ち先づ魏の中大夫の須買(しゅばい)に事(つか)ふ。須買、魏の昭王の為に齊に使ひす。范睢従ふ。數月留まって。未だ報(使としての効果)を得ず。
ときに齊の襄王、睢(すい)の辯口を聞いて。乃ち人をして睢に金十斤、及び牛酒を賜ふも。睢は辭謝して。敢て受けず。
須買之を知りて。大いに怒り。睢が持てる魏國の陰事を齊の為に告ぐるを以て。此の饋(賜金・賜酒食)を得しと。令睢をして受けし其の牛酒、其の金を還さしむ。
既に歸國の後も。(上使須買は)睢に怒る心あり。以て魏の相に告ぐ。魏相は。魏之諸公子(王族)にして名を魏齊と曰へり。魏齊大いに怒り。使舎人(家来)をして睢を笞撃たしめ。脅(肋骨)を折り摺齒を摺(けず)らしむ。睢、佯(いつは)り死せり。即、(死体を)簀を以て巻き。厠(かわや・便所)の中に置く。(公子魏齊の)賓客飲者ら酔ふて。更に睢に溺(でき=吐き且つ排尿便)せしむ。故(ことさら)に蓚辱(しうぢょく=汚し辱め)して以て懲しめ。此の後に匽言者(=隠し事為す者)無からしめんと。
睢(すい)は簀中より。守者に謂ひてう曰く。公(きみ)能く我を出せ。我必ず厚く公に謝礼せむと。守者乃ち請ふて簀中の「死人」を出して弃(棄て)たいと。(公子)魏齊は酔ひて曰へり。可焉(よし)と。范睢得出るを得たり。後に魏齊悔ひ。復た守者に之(范睢)を求(=探)させた。魏の人鄭安平が之を聞き。乃ち范睢は遂に見失ったとし。伏し匿し。姓名も更えて張祿と曰わせた。

* 二千数百年も昔、春秋戦国の世の中国には、かかる辯口を以て諸侯諸国に遊説して、あわよくは迎えられて「相」や「公」に成り上がっていった大 勢が働き歩いていた。それにしても、命がけであったし、身分高い「公子」と雖も云うこと為すことの激越も何ら稀有のことでは無かった。互いに騙し騙されて いた。
私が、いわゆる外交(交渉・折衝・協定)を指して「悪意の算術」と名付けてきたのは、良しも悪しもなくまことにその通りとしか云えぬ事、二千数百年後の 今日世界の「外交」も、斯く為し行われている。現に現代中国習近平外交は、それに極まっている。はて。今日の日本政府「外交」や如何と危ぶみ問わずにおれ ない。

* 上の「汚穢」漬けから辛うじてのがれた范睢(はんすい)は、以後も、延々とその辯口を以て奔命し続ける。
いや中国は、何もかも「凄い」のだ。

* 私の多年謂うてきた、國の「外交」とは 「悪意の算術」との認識を、前回の「湖(うみ)の本151」でとりあげた山縣有朋は風雅な家集『椿山集』の和歌のなかで、いしくも斯く強かに、冷静に歌っていた。

戦(たたかひ)のことな忘れそ我國は朝日のとけく年のたてとも
天地(あめつち)をくつかへしける戦のとよみはいつの世にか絶ゆべき
ひらけたる國と國とのましはりは空こと多きものとしらずや
友人の欧米に赴きけるに
かはりゆく世のありさまをつはらかに裏おもてより見てかへらなむ   元帥 山縣有朋

* 「喋り語り云う」だけの「平和」はたやすい、が、「護り備える平和」は、叡智の限りを尽くさねば、ただの空語となる。
2021 3/15 231

* 大學で英文学教授を務めていた大叔父の吉岡義睦と学生の頃ただ一度偶々出会い、三条河原町辺の店でごちそうになったとき、「音楽も聴くように」と云われたのだけを長く記憶していて、今では私の日々にクラシックの器楽曲、ことにピアノは欠かせなくなっている。
美術品と出会には身をはたらかせて出歩かねば済まないが、音楽のための機械はまことに重宝、ありがたい。なによりも、仕事に障らないのが有り難い。音楽 ゆえに書きちがえることはない。ときに眼をとじていても音楽は聞こえている。良い音と ことばを紡ぐのとは、邪魔をし合わない。
いやいや、騒音のなかでさえ、言葉へはいい感じに集注がきいて、たとえ喫茶店での他のおしゃべりがどうあろうと気にならなかった。わたしの初期作品は、ほとんど全部、勤務時間中の喫茶店で書かれていた。
勤めた医学書院で、わたしらの編集長、社の外では国文学研究の碩学であった長谷川泉教授は常々曰く、「編集者は24時間勤務」、どこでどう時間を使って も生かしても「仕事」が成るなら良い、構わないと。わたしは、有り難く拳々服膺して、いたるところの街なかで小説も書いていた。騒音が邪魔などと感じたこ ともない、ときには喫茶店でや昼食の店で人と話しながらでも書いていた。文章が「雑」になるなど、全然なかった。昭和三十七年七月末に「或る折臂翁」を書 き始め、昭和四十九年八月末に退社したが、それまでに脱稿し、九月早々には新潮社から「みごもりの湖」、集英社「すばる」で長編「墨牡丹」が一挙掲載されたまで、みな「原稿用紙に手書き」の全作、家でよりほとんど街なかで書いた全作が、それを証している。
むろん、さらさら書き放しでなく、用紙がまっくろになり、自分でも読みづらいほど徹底推敲していた。街なかでしていた。そして、妻が、全作、新しい原稿用紙に清書してくれた。出版社は、私の書き文字でなく、たいてい妻の文字原稿を読んでいたのだった。
私は思っている。作家の才能とは 「推敲の根気と力」にあると。書き損じ用紙をまるめて捨てたりせず、即、そのまま推敲した。必要なら同じ原稿で何度も重ねてした。
コンピュータは、文学の味(こく)を機械的な走り書きで薄めてきたのではないかと感じている。
2021 3/23 231

* 心覚えに紙切れに無数にメモを走り書いて、そのまま山になっているのを整理した。記録していない短歌なども十ほど救いとれた。メモとはいえ、今にも大事な内容のも遺っていて、背を押される気がした。
今日は、不要不急といえばそれに近いが、片づければそれだけの意味のある用事を、階下でも二階でも機械の前でもしつづけた。新作の「三校」は半ばまで。体違和は午以降やまない。どうしようもない。もう機械から離れるが、疲労感の重さ、気分悪い。
2021 3/23 231

☆ ご機嫌 如何
秦様 最近、湖の本が届かないので、何かあったのではないかと心配いたしております。もしお体の具合が悪いようでしたら、くれぐれもお大事になさってください。
一日でも早くまた秦様の御文章を楽しめる日が来ることを祈っております。 鋼 拝  歌人 翻訳家
* 多くの方にご心配懸けていると思うが、「湖(うみ)の本」の刊行に間が開いているのは 一に掛かってその内容、その引用の史料に難漢字、難訓漢字が溢れるように多くて、原稿を創るにも、校正をするにも、呻くほどの手間と時間を要したのが原因 で、ま、このコロナ籠居による体調・体力の衰えもあるにしても、それが理由で時間をかけているのではありません。ご心配頂き、有り難うございます。 もう やがて責了、そして遅くも四月半ばまでにはお送り致します。
2021 3/25 231

* ようやく、「湖(うみ)の本 151」 後半を通読念校すれば「責了」出来る。
2021 3/25 231

☆ 「今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」と、二千年前の皇帝マルクス・アウレリウスは云うていた。

* とにかくも「湖(うみ)の本 151」 三校し、かなり紙面に朱は残っているが、印刷所に後事を預け託そうと思う。明日が日曜なので、「責了紙」を宅急便に託せるのは月曜になるか。
記録によると本文を入稿したのは、旧臘十二月九日だったとある。漢文の訓みと、難漢字の難訓とに苦心惨憺したが、苦労のし甲斐の私には興趣の仕事であった。
本の出来るのは 四月中旬かと思われる。ついに「湖(うみ)の本」で秦も音を上げているかとご心配も掛けている、が、印刷所でもかなりの数の「作字」を 要して校閲に苦労されたらしく、本の図体こそいつもと変わりないが、制作費はかなり上増しになるだろう、それは気にしていない。怪我無く、無事送りだせる といいが。発送の用意は、思いの外に多岐にわたるのへ、すぐ取り組みたい。封筒へのハンコ捺しは私がすませ、封筒へ、読者のみなさん、図書館・研究施設・ 大学院・大學・高校への宛名貼りは妻が終えてくれている。残るのは、各界への謹呈先を今回はよく私が選んで、宛名は手書きするしかない。「難しい」「読め ない」という声は 或る程度必然と覚悟して製作した一冊であり、「湖(うみ)の本 150」と緊密に連携独立の一巻になっている。
2021 3/27 231

* 午後一時。ほぼ「湖(うみ)の本 151」を責了の作業を仕収めた。

*  三時前、三校了。 自転車で、責了便を郵送、すこし櫻の満開もみてきた。ごく近まなのに、疲れた。坂がすこしきつくなってきた。二階の靖子ロードに置い た脚踏み機械、すこし重い目に設定はしてあるが、以前は200回踏めたのが、いまは100回が稍やきつい。それでも踏み続けていた方がいい。背筋をも守れ そう。
2021 3/28 231

* 幼少を秦家に養われてガンとして生母と実父を忌むほどに遠のけて成人した。兄とすら、四十五十近くまで受け容れなかったが、自ら最期をはやめた兄の晩年とは、沢山な文通ちちもに懐かしく結ばれたのは嬉しいことだった。
私の境涯を一語にこめれば、「もらひ子」だった。それを真に救い上げた鍵は、「身内・真の身内」一語に尽きた。私の生涯最高の不動の創作は、「真の身内」だった。
母にははやく死なれていたが、母のあしあとを追って、その「生きたかりしに」と呻いて歌った辞世歌を慕うように長編『生きたかりしに』を書きあげた。そ していま実父の苦渋と失意に充ち満ちたような「遺筆また遺筆」のうず高い山に「子の思い」で私も登りかけている。そのためにももう少しく命を賜れよと天を 仰いでいるが。
2021 3/30 231

* いつ可っていたやら、書庫に『京に田舎あり」という昭和十七年五月五日「京都三条広道東」の晃文社発行の一冊があった。大東亜戦争が始まってまだ戦果 の報道されていた、私はといえば幼稚園で真珠湾奇襲を聞いて年を越した春四月、国民学校一年生として「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と習い始めて間も ないお節句の日付だ。装幀もいかにも京に田舎の風情よろしく、榊原紫峰の
序に始まり当時京都にゆかりの名士が五十人のきままな随感随想の随筆集に なっている。当時一年生とはいえ、戦前往年の「京にも田舎」風情がおもしろく懐かしく書き込まれてある。装幀挿画もゆかしく吉井勇の自筆短歌 向井久万、 池田遥邨、廣田多津の挿絵も嬉しい。ご縁をいえば、後年、廣田多津さんとはNHK日曜美術館で対談していたし、池田遥邨さんの子息には京都新聞朝刊に一年 連載した『親指のマリア 白石とシドッチ』の挿絵をお願いしたし、今もお付き合いが出来ている。
まこと、京には田舎が存している。そこに得も云われない風情が生き残っていて懐かしい。
こういう本は いまや私のようなものしか有り難がるまい古本だが、よう買って置いたと思う。
2021 3/31 231

* 愉快に嬉しい夢には容易に出会わないもの。しようがない。夢覚めて、そのまま、よかったこと、うれしかったことを暗闇のままあれこれ思い出し気分を直す。それは存外に出来ることで、よかった、うれしかったことは想像以上に蓄えられているということ。

* 『オイノ・セクスアリス』三部を終える前に、妻と、西院の寺、わたくし吉野東作孤りの本籍が創られたという松院で、実父と生母が「倶會一處」の墓に手 を合わせたあと、南へ一路の川沿いを車で走り、桂川近くでたまゆら独り車から出たところで妻も、車にも消え失せて仕舞われる。
しかたなく暮れて行く上鳥羽から下鳥羽、おおむかしの佐比の暗闇へ疲れた足をはこびつづけ、あげく桂川と鴨川の合流する浪間へ沈んで行きそうになる。
大昔からの、うち捨ての死者の墓場、賽(佐比)の河原だったが、そのあとの夢うつつとなく夢ならではの「世自在王佛」にみまもられてつづく場面が、私に は身に沁み、繰り返し思い出し思い出し、不思議の世へ心身をあずける。広らかな久我の水閣にしつらえた釣殿で 姉と妻と妹と四人でそれぞれの思いあまった 歌を詠みかわす。
2021 4/1 232

* いま、それを思うのは不適切かもしれないが、1984年8月末までのか なり詳細な、だが自筆「略」年譜が出来ている。朝日子が結婚の一年前まで、その後に私の作家・創作生活は前世紀末に16年 今世紀に20年強続いている。 「年譜」を確認しておくなら、もう最期の機会かと思われる。それだけに没頭は出来ない、日々新たな歩みがある、が、放っておけばもう私の足取りを辿ってお くことは曖昧模糊かつ不可能に近くなる。ばらばらではあるが個々の「記録」は、手帳もカレンダーも残してある、とはいえ、個々のそれぞれに付着した私の 「記憶」「感慨」は日々に喪われて行く。老人性の耄碌は確実に始まっていると見て覚悟している。関連の資料は可能な限り「積み上げた」が、それらから記事 をつくって行く作業には、没頭しても少なくも一年かかるだろう。
えらいことを思い附いてしまったと、かなり慌てている。
区切って、前世紀2000年(平成12年・65歳)までを念頭に、二度懸け で造るか。
なんで、こう、次々に仕事を造ってしまうのだろう、とてもとても体調堅固など謂えず、ヘバリながら。ヘバッテいればこそなのか。
2021 4/3 232

* 美味しく、筍を若布と煮て、また甘皮を鰹と和えて、頂いた。主食には精白の好きな絹漉し豆腐を。酒が旨かった。
今日は「湖(うみ)の本 152」の初校に精出していた。「151」の送り出しがいつ頃になるか、まだ分かっていない。その所要はまだ残っている。
コロナはちょうど去年の今頃にもう火の手をあげていた。安倍内閣は途方に暮れたように末路を辿っていた。
2021 4/4 232

* 七時半になる。初校を一段落させたい。
2021 4/4 232

* 「湖(うみ)の本 152」 初校を終えた。「湖(うみ)の本 151」 責了にはしてあるが、難漢字のヨミなどにふりがななどのアカが多く、難航しているらしい。一つには、コロナ等々の関わりでも業務の停頓などありげに思われる。「湖(うみ)の本 151」 の刊行は、更に遅れが出るかも。
ま、成りゆきに任せるしかない、それでよい。
「湖(うみ)の本 152」には、表題脇にこんな字句を添えた。

我無官守、我無言責。則吾進退、綽綽餘裕。  <孟子>

私自身が病み頽れないこと、それが大事と戒めている。

* 夕刻五時半 「湖(うみ)の本 152」 要再校ゲラを郵送した。
2021 4/5 232

* 深夜二時、二階。どうしてもと思い立ち、掌に重いほど私の「選集16巻」本で、長編 『父の陳述 かくの如き、死』 を読んでいる。どうあっても読み返したくなり、まだ、五分の一。自作を語るのはじつは容易でないのだが、「法廷」へ提出という此の「陳述書」形式 まこと内容は多年・多岐にわたりながら、ま、「簡かつ要」の構成と文体で相応に「表現」できていた、か、と、ほぼ納得できそう。

* 誰方であったか、過ぎし「平成」文学の一画に、私近年の長編『オイノ・セクスアリス』を挙げてくれた人がいたようで、ま、有り難い、が、だが、的を絞って 散漫を避け、主意を執拗に追いかつ煮つめる「かたり」としては、この『父の陳述 かくの如き、死』の方が、という欲目も、笑止にも、なんだか持てそう な。

* 但し、この作、避けえない手痛い弱身を持っている。表題にも露わな、「陳述者」つまりは「法廷の被告」その人が、数ある著作で賞も受け国立大の教授も務めた「父」親 で。そんな初老の父を、愛されて育った実の「娘」と陰湿に嫌みなその「婿」先生とが、「夫婦連名」で、実父・岳父を「名誉毀損」「賠償金1500萬を支払え」と訴 訟していて、何とも不快、不可解なのである、が。そんな、法廷へ提出の「陳述書」なる「語り口」を、私は、「文藝」としてぜひ「編み上げ」てみたかったのだ。驚くべ し、しかも当訴訟の「正体」がじつは「実話」、取材するのもおどろおどろしい実話であったが、ま、何とか研覈も推敲も遂げて「書き下ろした」のが「此の作」であった。

* で、歳月を経て、読み返しまして、サマになっていたか、それはまだ確言できませんが、なにしろ人も話も不快も不愉快、その苦々しさを「生(き)」のまま嘗 めてみようと、私は書き下ろしを「思い立っ」た、私の別著『死なれて 死なせて』の話体に並走の「小説篇」に成るかなあ、とも。それで副題めかして 「かくの如き、 死」と主題に添みた。え、誰か、死んだのか。
ハイ、それこそが主題。老父被告には愛おしい「孫娘」が、原告夫婦には二人娘の「長女」が、成人の誕生日 を目前に、しかも母親の誕生日と同日に、難も難の医学もお手上げな「劇症」に、みるみる奪われたのであった。

* 暁けの、五時になった。

* 小一時間もソファで眠ったか、また、読み継いだ。が、この作を他の短編、中編とで編んだ『秦 恒平選集 第十六巻』の「あとがき」も読んで、私の「文学」への思いの割合はっきり書けているのに気づいた。かなりの量になるが、目下の思いと齟齬なしと 見て、重ねて今此処に心して添えたい。。 (もう八時になる。)

☆ 秦 恒平選集 第十六巻刊行に添えて
(『父の陳述 かくの如き、死』に添えた部分。)

創作とは「実験」なのである。
ことに小説の場合一作一作が「方法の実験」でありたいとわたしは願ってきた。同じ方法でどれも似た作品を積むマナリズムをわたしは恥ずかしいと思い、一 冊の創作集を編むとき、題材が変わるという意味ではない、一つ一つの作がべつの作者の手で書かれたかと見えそうに異色の「方法」を試み、試みた。昭和五十 二年『誘惑』の場合の「誘惑」「華厳」「絵巻」「猿」がそうだった。そう批評されたし、しかも間違いなく秦恒平の文体、秦恒平の創作だと言われた。嬉しい 批評だった。
わたしの作品史で、太宰賞の「清経入水」以来、「蝶の皿」「秘色」「慈子」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「みごもりの湖」「迷走」「罪はわが前に」「初 恋」「風の奏で」「余霞楼」「北の時代」「冬祭り」「親指のマリア」「四度の瀧」「秋萩帖」「加賀少納言」「月の定家」「あやつり春風馬堤曲」「鷺」 「ディアコノス=寒いテラス」「修羅」「掌説集」「お父さん、繪を描いてください」「逆らひてこそ、父」等々、試みた「方法」は一つとして同じでない。一 つ一つが思い切り意図的に「異なる方法」の実験になっている。今回『父の供述 かくの如き、死」の場合も、(「湖(うみ)の本101版 『凶器』でも同 じ」)出来不出来は作者の口にするところでないが、方法の実験という点では期した以上に容易でなかった。

(湖の本では「凶器」ともした表題の意味は作品に語らせて此処で言わないが、)この小説、普通にいわゆる「小説の文章」で書くに書けない、自然描写・心 理描写やリアルな会話などを受け付けない、即ち裁判所に提出の「被告陳述書」そのものであり、陳述という目的と効果のためには、よく煮つめた、しかも攻撃 と主張を孕んだ「批評」であらねばならないそういう「小説」なのである。攻撃や主張のためには場面場面で重複も反復もあえて冒しながら、議論上も法廷を説 得し相手方を批判していなければ役に立たない。喧嘩腰が喧嘩と見えぬように、判事の心証を冒さぬようしかも際どく窺狙いながら、弱腰のゆるされない闘い、 いやな闘い、不愉快極まる闘いをとにかく一本槍に「表現」しなければ済まない「小説」なのである。
一本槍は、曲がない、まして読む小説としては。作者は、更に一思案を迫られる。
で、此の、「陳述」という曲のない「小説」を、そっくり別の「額縁」に嵌め込んで、「もう一つ」の「べつの小説」にしみようと「実験」した。
説明までもないが、つまり、この長い小説を、一人の、露骨でがんこな、しかし真剣で率直な「父親・清家次郎」のただ陳述書でなく、優にあり得ること、今 や「亡き父」の「長き苦しみ」を表す「遺稿」に変身させた。ガチガチに戦闘的な文書を、当の「父」からでなく「息子」の手で、「法廷」にでなく「世の中」 へ「提出」させてみた。法廷にでも弁護士にでもなく、実の父を訴え出た実の娘夫婦にでもなくて、「世の中」という名の「裁判員」に「父・清家次郎」は訴え たかったはずと、父と同じ創作者である「息子・清家松夫」はこれを、「遺書」でもある提案・主張と読み取り、そういう「小説」に、全然「仕立て直した」の である、儚い、憐れな、しかし父への供養として。

もとよりこの小説、「名誉毀損」とは、或いは憲法が重く認めた「言論表現・思想信条の自由」とは、「親子・家族・親族」とは、「人間の愛憎」とは、或い は「インターネット」とは、「裁判」とはとも烈しく問うており、それらの表題でべつの方法を実験されてもいい「提議」ではあった。
父と母との二つの陳述書の「前・後」に置かれたいわば額縁には、そういう小説家・秦恒平の苦くて深い惑いと思いとが提議として摺り込まれている、と、そ う読まれれば有り難いが、だが、それも作者が読者に強いることであってはならぬ。ただ、わたしは此の長編を、(わたしは此の『凶器』を)、まこと「私小 説」かのように書いた。正直書きにくい「実験」になった、(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な衆議院選挙とも繋がる命脈を、希望を、感 じながら書いた)とだけを書き置く。(半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ、そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」を、わたしは、可能という以上に欲しい、必要だ、試みたい書きたい)と思ってきた。)

以下、述懐としても方法論としても、この巻のためにも「私小説」という「実験」に触れて、ぜひ此処に書いておきたい。

「蜻蛉日記」「とはずがたり」以来、花袋、泡鳴らを経て、秋聲も秋江も、直哉も善蔵も、高見順も太宰治も、安岡章太郎も吉行淳之介も、無数の私小説をわ たしは読んできた。私小説論もたくさん読んできた。「谷崎愛」で谷崎文学ばかりを読んできたのではない。その谷崎にも私小説ふうの作は数多い。
かねて、貰っていながら、手に触れる余裕のなかなか無かった小谷野敦氏の『私小説のすすめ』(平凡社新書)も読み始め、読み終えた。感想は、肯定的か、否定的か。肯定的…。
小谷野氏の論調はことさら破壊的な乱暴を含んで厳しいのだが、状況や背景は博捜し、あざといアテズッポウは言っていない。言わずもがなの言い過ぎはこの 人の得意技で持ち味であるから、不愉快には目をつむってとばし読みをしても義理を欠くことはないが、著者の包丁はかなり肯綮に当たっていて、面白い論策と いうより、裏の取れてある興味ある放言なみの新説である。奇説とも読める。
しかしながら小谷野氏「定義」の、およそ「女にフラレ男達」の情けない自虐的な告白「私小説」だけでは、「二十一世紀の私小説」は言い尽くせまいと思 う。わたし自身は、今も、これからも、私小説も非・私小説も書く気でいるが、「私小説」の場合小谷野敦氏定義ふうには、決して書かないだろう。
手もとへ、「私小説の問題、きっと、以前から秦さんは『ネットの介在』をおっしゃってきたと思います。やっと、それが自分にも考えられるようになってき ました。ひとりひとりの権利意識とも絡んで、難しい問題だと思います」と、読者・批評家の反応メールが届いている。いまの批評家達も作者達も、たしかにま だ其処へまで、視点も視野も届いていない。方法としての足場もできていない。そして難儀なネット上の「問題」だけが起き、行儀わるく独り歩きして行く。
現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、ま さに、それを「わたし」自身体験している。文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「旧文学時代」「新文学時代」と「分類」されて ゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という「箱」のなかに蔵われるだろう。
このわたしの予言、賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。

事実インターネットの時代である。優れた新才能が現れてくるとき、「私小説」の相貌は小谷野氏ふうのそんな情けない脆弱な厚かましい動機を越えて、自爆 的なほど良質にも悪質にも強い問題を社会に投げかける「私小説」が現れうる。サイバーテロや情報操作の私小説も、多彩なオーガニゼーションの私小説も、新 手(あらて)の恋愛・性愛・人間関係の小説も、グローバルに展開する私小説もきっと現れる。それらは当分は、概して「社会への批評・不満・不平」を孕んで 戦闘的に働くであろう。
ともあれ、徐々に「私小説」も書こう、書きたいとわたしは意識してきた。意識の外側から事情に強いられる気味もあったとはいえ、老境に入れば私小説が好 かろうと若い時から覚悟していたし、人生未熟な若いうちに「発見のある私小説」はムリと思っていたのだから、七十四老、いわゆる後期高齢、時機はとうに来 ている。

このところ、実は、亡き川嶋至の遺著『文学の虚実』(論創社)も読んでいた。
巻頭の、安岡章太郎作『月は東に』を論じた「歪曲された事実の傷痕」からして、衝撃に満ちた弾劾の批評であり、この一編に限って云えば、かつて東工大での同僚川嶋教授の筆鋒は、問題の核心を刺し貫き、それなりに批評本来の役を完璧と見えるまで果たしている。
『月は東に』作者のモデルに対する悪意と自己弁護は、かなり醜い。侮辱されたモデルの苦痛は計り知れない。その一方、この小説は文壇では高く顕彰され、 また、ここが微妙であるが九割九分九厘の一般読者にはそのようなモデル問題など見えようがなかった、見えてなかった、だろう。
こういう傾向と手法の私小説しか書けない「書き手」で安岡氏があることは、多く氏自身の述懐やエッセイを通して推量できたし、書かずにおれなかったから 書かれたとしてそれは作家の負う宿業といえる。言えるけれど、だからといってモデルがこの表現を憎悪し赦せないことも火より明らか。そういうことに関連し ては、もう十余年前、柳美里の小説に触れて「作者は、覚悟を決めよ」とわたしはわたしの考えをサンケイ新聞に書いている。(「湖の本エッセイ47 濯鱗清 流・秦恒平の文学作法上巻」76頁)
川嶋さんはこの評論集ゆえに文壇で多大の顰蹙・排撃を買い、逼塞をさえ強いられたと仄聞してきたが、そういう文壇であるのをわたしは嫌った。その辺のこ とは、更にオイオイにべつの場で別に書く人も出るだろう、ひとまずこの話題を離れて「私小説」への関心に戻りたいが、それでも、実もって、川嶋さんが面貌 の皮をひんめくった、上の安岡作のような私小説なら、わたしは書かない。現に書いていない。

むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々の「情け無い恥」「うしろめたさ」を、敢えて忍んで「そのまま書く(掻 く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として、作品は「純文学」「藝術」といわれ、作者は「藝術家」という名誉を手に 入れてきたと。書き手たちは、けっこうその積もりでいた。
わたしの考えている「私小説」は、ちがう。どうちがうかを、わたしは書いて実現して行かねばならないが、一言でいえば、「いま・ここ」に在る人間の 「私」自身を書き、「私」自身の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」「方法」として「私小説」を書く。「日記」を書く。「年譜」を編 む。そういう気である。
わたしは「男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々」ゆえの「情け無い恥」という観念や概念にほとんど毒されていない。ほ とんど実感が無い。鉄面皮なエゴイズムと叩かれかねないが、わたしにはそれらが何故に「恥」なのか、ピンとこない。生きていてその日その日に遭遇する体験 の集積は、ただに自己責任ないし自己実現と謂うに過ぎないし、まして「生い立ち」など、どうあろうと、わたしの「知ったことではない」。
高見順は「私生児」に恥じて拘泥しつつ私小説を書いたが、自身が私生児として恥じてきたはずの「私生児」を、生涯に二人も(一人らしいが、作家自身はある期間二人と自覚していた。)妻でないべつの女たちに産ませていた。それを「私小説」に書いていた。
芥川龍之介は生い立ちへのこだわりを事実の説明としては書かなかった、書けなかったのである、どうしても。しかも深く深く拘泥して恥じていた。太宰治はどうであったか。
わたし自身は、自身私生児であった生い立ちを、それと知った子供の頃から恥じたりしなかった。「私の知ったことではございません」からである。終始一貫、ほとんどあっけらかんと「自由」だった。
むろん「恥じ入り、恥ずべく、恥ずかしい」ことは他に山のように有る。みな、生きものとしての人間なら、どうしようもないこと、ま、少しでもそんなもの 少なくありたいと願うし、わたしの場合、むしろその恥ずかしさを、儒教その他の道徳律でなんとか正そうとか制しようなどというコトのほうを、「あえて避 け」てきた。
不自由は、イヤだ。自分の問題だ、ただ目を逸らすまいと見つめてきた。わたしの生きてきたエネルギーは、「自由」でいたい欲求と、ほんのちょっぴりであ るが、漱石のように「私怨は忘れない」という熱だろう。その足場に立ってわたしは「わたしの私小説」を書きたい。自然それは書き手の「いま・ここ」に在る 思想や感想を背負って、自身を確かめ確かめ、世の中へ厚かましく主張し提言し表現する「私小説」になる。「花に逢へば花に打(た)し、月に逢へば月に打 す」。告白ではない。ただ心境の表現でもない。まして高みの見物のモデル小説でもない。優越でも、愚痴や泣き言でもない。『蒲団』でも『新生』でも『和 解』でも『生命の樹』でも『月は東に』でも『宴のあと』でも、ない。
わたしの場所は、過去にも未来にもない、「いま・ここ」にある。「いま・ここ」でどう生きているか、そこに自分の花であり月である思想や感想が産まれて いるなら、それをしっかり書きたい。そういう「私小説」が書きたい。わざわざ自分の筆でわざわざ「恥」が書き(掻き)たいのではない。
恥は掻こうが掻くまいが、たんに恥の「ようなモノ」に過ぎない。それを書(掻)けば、なんで「藝術家」や「藝術」が自動的に保証されるものか、問題が違う。
もう一度、言う。
わたしはこの長編を、「私小説」かのように(5字傍点)書いた。正直書きにくい「実験」であった。(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な 衆議院選挙とも繋がる命脈と希望を感じながら書いた。半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ。
そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」こそ、可能という以上に、欲しい、必要だ、書きたい試みたいと思ってきた。その気持ちをかきた てるほど、わたしを励ました近刊に、かつてペン言論表現の同僚委員であった清水英夫氏の『表現の自由と第三者機関』(小学館新書)があった。)

顧みて気が付く、溢れる喜びで妻とともに「娘」を此の世に得て以来、沢山な小説の中に「娘」を登場させてきた。『慈子(あつこ)』『罪はわが前に』をは じめ『ディアコノス=寒いテラス』『逆らひてこそ、父』『華燭』そして日録『かくのごとき、死』に、小説『父の陳述』に、と。運命であったし、運命ならば 運命として見遁すのでなく、「書き表す」のがわたしの「仕事」と思う。従来の情けない告白型の「私小説」としてでなく、時代へ社会へ繋がって、批評のあ る、主張のある、凹まない「私小説」かのように実現したかった。一つの文字通り本作原題であった「凶器=言葉」ともなるだろうが、怖れまい。新世紀「純文 学」の道はそこへ、その先へ続くだろう。
奇妙なことだが、こう書いていてわたしのアタマに今ある一つ「印象的な私小説」は、あの沼正三作『家畜人ヤプー』を此の世に導いた人、天野哲夫氏の大作 『禁じられた青春』(葦書房)なのである。ごった煮の雑炊のようで見た目も上出来でない、が、濃厚に旨い味はあり、けっして「味気無い」「情け無い」告白 本ではない、生涯「いま・ここ」を凄みの表情で生きた人の、警醒・震撼、おそろしく凸出した主張作だった。強い人だった。但しインターネットの世界からい えば、「旧人」の一世界だった。

そのネット社会に接しながら仕事をする、ものを書く者として、「陳述」中にも特記し強調してあるが、今一度念を入れておく。すなわち「文責者」の姓名や 立場の明示されていないネット上の発言・言及は、原則、取り合うに及ばないということ。まっとうな主張や批評や批判であればあるほど「文責」を明らかにす るという社会慣習が築かれねば、公衆便所の落書きなみに、言論の自由と責任とが汚穢にまみれて了うのを私は懼れる、と。必要ならネット上で討論・論争すれ ばいいと。

さて、おまえの本来は、しみ一つ無い青空のような一枚の鏡なんだよと、バグワンに言われ言われてきた。無影で無垢の鏡、それがおまえの本来「静かな心、 無心」なんだが、真澄の空を雲や雨や雪が去来すると同じく、おまえの鏡はおまえのマインド=心=思考=分別という無数のもの影で曇っている。マインドと は、おまえが眠りこけて見ている「夢」なんだよ。夢から覚めて気づきなさい。バグワンはそう言う。
幸いにわたしの鏡は、あれを映そうこれを消そうと動き回らない。青空をくもらせる雲や雨が来れば映し、去れば去らせ、求めて呼びも、追い縋りもしない。 年々歳々花は相似て見え、歳々年々人は同じでない。無数に影は去来するが、在ると思えばいつしか在り、無いと思えばいつしか無い。ただうっすらと、俺は 「夢」を見ているんだと分かってきている。それでいて、せっせせっせといろんな影を鏡に映している、まるで生き甲斐かのように。
わらってしまう。わらいながら、年を取る。     秦 恒平 平成二十八(二○一六)年十月

* 心肉を抉る苦しみや憎しみが毒箭のようにさし迫って、耐え難い日々に襲われることがある。だれかに分かち持ってと理不尽に心に願ってしまう事があり、そんな時、こんなふうに、つい遁れたがるのです。

たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき
2021 4/6 232

「私小説」の書き手は、昔は文士の殆どがそうであり、そんな中でラコニックな文体の志賀直哉はやはり文章が傑出していた。瀧井孝作の悪文かと読みまがう独 特の習字にも文藝が光っていた。そして概して私は私小説よりも創作された世界の妙味を好んでいた。事実レベルを饒舌に書き垂れただけのものは読まなかっ た。「現代の怪奇小説(河上徹太郎評)」と受け容れられた『清経入水』の道を歩き続けてきた。一つには私 は「物語」の「語り口」という創造に関心があった。どう「語るか」それも出たとこ勝負のだらだらな語りは「イヤ」だった。主人公ないし語り手にどんな語り 方を生み出して貰うか、それが書き出すまでの思案だった。比較的近来の創作では「黒谷」「オイノ・セクスアリス」「花方」など、語り口の私なりの新しい出 かたを(成功・失敗に関わりなく)苦心した。いつも避けたかったのは、「垂れ流しのような饒舌」で 「事」 を吐きつづけること、それは、あえて遣るなら  それなりに「藝」のあるやり方でないとつまらぬと思っていた。咄家にも名人といわれた園生、志ん生、馬琴、小さん、ないし三平等々、みな独特の話藝だっ た。甲乙を付けても無意味だった。ただ彼らはどの話もヽ語り口だったが、小説家は、たとえ話に過ぎないが、時に園生風 時に志ん生風など、自身の藝として の語り口の変妙を作に応じて「発明」できないなら作家としては無価値な存在と謂えるのではないか。
2021 4/9 232

* なにもかも、と謂うてもいいほど私は生来の「閑吟集」派に自身を育ててきた気がする。「NHKブックス」の此の私の一冊は「私」を解説の一冊にさえ成っている。
2021 4/10 232

☆ たのしみは「したい」仕事の「すべき」よりもほどよく我を誘(いざな)ひ呉れる

* 「湖(うみ)の本」35年 150巻 いつも本が出来てくる間際の息苦しさを堪え続けてきた。届いてしまうと、ほっと開放された。決して泰然剛毅な人では私は無い。
今日、夕方近く、歌集「少年前」の編まれていたノート三冊の最初の方を機械に入れ始めていて、敗戦後の新制中学三年での「修学旅行」をうたって四十首近く。そのうち、明晩には京都駅から東向きにみなで汽車に乗る、そして駅に集合し、いよいよ汽車が出る、そこまでに十首のみんなが、何とも「旅行」に感傷的に気弱でうじうじ気が進んでいない。呆れて、つくづく書き写し「読み返し」ながら、少年前の私の、或る意味呆れるほど本性脆弱な「あかんたれ」が露呈いや暴露されているのだと、その歴然に八五老ガクッと来た。

* 幼稚園でも、国民学校でも、丹波の戦時疎開さきの山暮らしでも、戦後も一年余に病気で京都へ帰ってからも、わたしは、目立ったあだ名で友達に呼ばれて なかった。近所では幼児のママ「ヒロカズさん」と呼ばれ、学校では「コウヘイ」「はたクン」「はたサン」だった。それでいて戦後京都の小学校では率先生徒 会を率いて生徒会長をしていた。中学へ入ってからも生徒会でガンバリ、三年生で生徒会長に選挙で当選し、当時の吉田茂総理のあだ名だった「ワンマン」と同 じく秦の「ワンマン」と呼ばれていた。運動場でも講堂でも、いつも演壇に立って号令していたし、教室では、先生に代わって教壇で国語や社会の授業を進めた り、ま、活躍目覚ましい校内でのまさに主将だった。
それなのに 今日久々に、つまり七十年ぶりに読み返した修学旅行前夜の短歌の「めそめそ」したひ弱さは、自身で否認がしにくい自己露呈に相違なかったのだ、どっちが本当なのか。
ひ弱いのが「ホンマ」で、目覚ましい活躍は「ガンバリ」であったと謂わざるを得ない。
そんなことを七十年後の老耄に自認させてしまう幼く拙い「短歌ひと」として歩み出していたのだった。マイッタ。が、性根から出るモノが滲み出ていたの だ、そんな歌集『少年前』が、三冊のノートを719首と拙い詞書とで満たしていた。「文藝」としての価値はないからその多くを、ほとんどを、うち捨てて、 そしてあの処女歌集『少年』を世に送り出したのだった、幸いかなりに好評を得て、「昭和百人一首」にも選ばれ、「国語」教科書にも紹介された。今にして余 分なそれ以前の習作を持ち出すことは無いのだが、私独りには、やはり無視しきれない「根」がそこに在った、暴露していた、と謂うしかない。短編「祇園の子」などの紙背にまさしくこれら幼稚の短歌たちは貼り付いていたのだと思う。思わざるを得ない。
「あんたが そのまま小説なんですな、小説を書くか、小説になるか、それしか生きようのない人ですな」と、詩人の林富士馬さんら何人かに謂われ、笑われてきた。このあまりに幼稚な三冊は、その意味では、資料いや肥料にはなっていたのだろう。
2021 4/10 232

* 仕事の向きや量が多岐にわたってくると、混乱して、手の舞い足の踏むところを見失い、停頓する。「当面要処理作業」を、順位をつけデスクトップに「常 置」してしかも「書きあらため」続けていないと 手ひどい「ど壺」に嵌ってしまう。「仕事」の「できる・できない」の岐れに成る。
物置から、医学書院時代の諸記録の大きな包みを持ち出して置いた。
その中には、毎週一度の、社長または専務が司会し許可決済する「書籍企画会議」へ「提出」しつづけた私の「企画書」が、少なくも「おそらく」百数十点の余も、重いほど分厚く束ねて、残っていた。
一年に50週ほど。そして或る年は、ハッキリ意識し目標にして、毎週欠かさず少なくも一点ないし以上の「企画書」をわたしはその会議に提出し続けていた。「やってみよう」とまるで競技のように決めてかかったのである。

* 書籍出版企画は容易でない。「主題と書籍名 的確な趣旨説明と、期待ないし予定している監修ないし編者と筆者を、その人達の専攻・業績・地位・現活動 を含めて紹介せねばならない。医学・看護学専門書では、専門学外の例えば編集者の私などが執筆できるワケがない。医学研究は三年経てばもう「古く」なって いる。湯気の立ったような期待の領域へ目を付けねば企画にならない。
私の新人ほやほや「初」の提出企画だった『新生児研究』は、東大の小児科・産婦人科の両主任教授を監修者に両科の助教授、講師、医局員そして麻酔学等の 協力参加筆者ら総勢50人ほどの「先生」を専門項目に応じ「論題」も定めての文旦執筆目次を、企画提出時にすでに用意していた。専門医書では、単独筆者で 書き下される本の方が、共同執筆本より多いとは云えないのである。そして最新専門研究図書、教科書のほか、いわゆる家庭医学書・健康相談書などは一切扱わ ない会社であった。

* 提出企画のねらいは、企画編集者として「可能な限り頭に入れ」ていないと、会議で「趣旨説明」も「討議」も出来ない。会議主宰の社長は自身で「まむし」 と称するおッそろしい人だった。先輩編集者らは怒鳴られ続けていた、こりゃ叶わんと思った。
そんな次第で、社員編集者から企画会議へ持ち出される「企画」 はそうも誰からも毎週出るものでない、まるで企画しない編集者も居て歯痒い思いもした。私の編集部勤務になった年に、おずおずと先輩達の「企画」ぶりを傍 聴するうち、では、と動き出したのが、『新生児研究』企画だった。我が家では妻に無事に赤ちゃんを産んで貰わねばならない、それが推力になり、私は活動し初め た。医学書院初めてと、「編集長」も手助けしてくれたほど大勢の筆者一同の編集会議も実行した。あげく、日本医学會に「新生児学会」が加わることにもなった。
私 のこの企画本が成るまでは、生まれたあかちゃんは産科では「新産児」小児科では「新生児」と呼び、まるで奪い合いだった、それは「困るよ」と若い父親になりか けていた私は、東大両科協力の『新生児研究』を刊行して日本中多くの病院に「新生児科」が建つ契機にしたいと「企画」した。この趣旨が、医師たちにも、社内の「まむ し」以下上司にも受け容れられた。

* それから何年目か。わたしは、毎週の企画会議に、必ず一点以上の「企画書」を提出し続けてやろうとひそかに決心し、事実ま、るまる一年間励行 した。まるで私 のための「企画会議」であった、一点一点に私なりの事前の勉強が必要だったし、医学・看護学の諸「先生」方とのお付き合いは多彩にひろがった。スポーティ に仕事を攻めた。かなりの医学の知識ももった。裁可企画の、その後の取材も大方自身担当し、次々に本にしていった。医学書は、教科書以外はだいたいが「三 年で千部」見当、そして三年もすると 質的・内容的にもう「古い」とされて行く。研究も診療も手技も機械も新しくなってゆく、そう在らねばならないのが医学・看護学というものだ。
そんな、退職まで十余年間の提出企画書が、でっかい山になって束ねられ、うちの物置で埃をかぶっていた。私の歴史には意味をもっても、学問的にはも うほぼ無価値。
表向きそんな社の仕事を熱心に積み重ね続けながら、わたしは、小説も書き続けていて、私家版本も創りつづけ、四冊目の『清経入水』で太宰治文学 賞が舞い込んできた。作家生活へ道がついて、受賞後五年で、退社した。その同じ日に、あの「まむし」社長が相談役へ退かれたのだ、たったの一度も私は怒鳴られな かった。授賞式には、にこにこの笑でで顔で参会して下さった。

* 医学書院時代の仕事に取材した小説を一作も書いてこなかったのは、何故だろうと自身不思議に思う。

* 歌集「少年前」の、高校期以前を再確認し電子化した。昭和二十八年七月四日に跋を書いている。日吉ヶ丘高校三年生夏休み前か。既刊の歌集『少年』とか ぶっている。「少年前」と思しきを容赦なく落としておいて、大學・院、東上・就職・新婚、そして親になったまでで歌集『少年』を編んだのだった。すでに「老蚕」と自認し つつも、第三歌集『光塵』第四歌集『乱声』も本にしているが、八五老の今も、私は、根は未熟な「少年」のままに過ぎない。諦めている。
2021 4/11 232

* 夕方から 食事を 中に宵へ、トールキン『指輪物語』の、最後の八巻にまで読み進んだ。この長大かつ精緻な物語は仮構の粋を究めた作で、われわれの現 世現実とは一抹の関わりも持たない、のに、リアルな感銘と賛嘆の思いで些かの停頓も疑念もなしに共感に溢れつつ愛読、また愛読できて、読中読後に透き通っ て充実の喜びがある。
『フアウスト』にはギリシァ神話が大切に喚起融合されて実感に触れてくる。
『失楽園』はまぎれもない広遠な宇宙に浮かび上がる長大の基督教神話詩篇である。
『指輪物語』は背後に背負った現世のモノを持たない、しかもじつにリアルでクリアな「命」の物語に成りきっている。
この系列に、ル・グゥインの『ゲド戦記』あり、マキリップの『風の竪琴使』があることは、繰り返し確認し続けてきた。
私はこれらの作をあと追って為しうると思えないママに、しかし、「現実の直話」から柔々とはなれた仮構世界の想像と建設とに心惹かれつづけてきた。藤 村、漱石、潤一郎に惹かれあこがれて来ながら、鏡花がアタマに在った。その以前に秋成の雨月・春雨が在った。遙かにもっと重くに平安物語への拭えない親愛 があったと自覚している。
2021 4/12 232

* 思えば、私の書庫に満ち溢れた本、単行または選集の小説本や詩歌本は、尽くというるほど、著者からの戴き本。手に重たい各方面の研究書も、すべて著者からじかに戴いている。
おう、こんなのがと思う、明治この方の大事典、辞典、和漢稀覯の珍冊はみな秦の祖父鶴吉の遺産。
わたしが自身の必要で買ってきたのは、大冊の歴史年表、『名月記』や「玉葉」のような公家日記、そして新編の大辞典・大事典・大地誌・地図のたぐい。そ れと、いつしかに溜まってきた美術の本とたくさんの大きな重い画集。文藝誌は残さない、雑誌は歴史もの、茶の湯もの、美学会誌だけ。
いま、それらを残すのか処分(廃棄)するのか、考えている。
秦建日子の現在の仕事柄からして、彼が欲しがりそうな本はほとんど無い、が、藤村、漱石、潤一郎、鏡花、柳田国男、折口信夫、辻邦生、加賀乙彦等々の全 集・選集その他、著名作家や批評家の業績本もたくさん戴いて在る。幾らかは建日子も欲しいと思うだろうか。朝日子のことは判断がつかず、考慮しない。
むしろ、両親からの血を事実わけもった、甥で、力有る文学作家の北沢恒が、もし必要で、大いに利用できる、手元に欲しい、という各種広範囲の辞典・事典・年表・地誌・古典・史書・漢籍などあれば、車を傭ってなり受け取りに来てくれるなら、現状、私の仕事に差し支えない限り、譲る。
私自身の著書や初出誌は 全書誌に挙げたように単行本だけで百冊を超えている。大冊の「秦 恒平選集」33巻完結、「湖(うみ)の本」はすでに150巻を超えている。初出誌となれば全部保管はしてあるが、呆れるほど膨大量。
私の本を蓄えて下さっている読者の方で、欠本分などご希望が有れば、どの本もいくらかずつ余裕があり(無いのも少しあるが)可能な限り差し上げたい。
これまでもときどき実行してきたが、東工大卒業生らのお子さんが読書年齢へ来ている。読書好きときけば、和洋の文庫本などを選んで上げてきた。ただし少 年少女の場合は、読書の「向き」をまちがうと無意味に近くなる。どんな向きのを読んでいるか親御さんから耳打ちして下されば、選べる。
私が愛読してきた日本の古典全集は大きな二種あがるが、他に、手も触れていない大きな全集に、「二十世紀世界文学全集」何十巻かがある。誰の何作が入っ ているのかも、覚えぬママ書架を埋めている。カフカが第一巻だったような。せめてリストにしておけば、欲しい方に差し上げられるのだが。これも古典全集 も、みな版元からの寄贈だった。自身の費用で買った書物は、書庫の中の5パーセントもあるかどうか。作家生活半世紀のこれもみなありがたい対価・報酬・親 交の賜なのであった。
いまは図書館も、書架に余裕がなくて「寄贈」を必ずしも歓迎ばかりはしない。ま、同じ事は個々の人によっても云える。私としては、現在から此の先々へ役立ててくれる若い世代や、とにもかくにも「読書人」「愛書家」といった友人読者らに委ね手渡せればと願っている。

* 送り出し前の、肩の凝る用意や心がけに疲れている。いっそ早く本が出来てくれれば、などと。堪え性もなくなっているのだろう。
歌集『少年前』を、高校の頃の歌帖を顧みに、機械に書写している。手入れはせず。それでも、ところどころに、現在での覚え書きを添えている。
今日は、いましがた、触れていた、昭和二十六年(一九五一)七月二十五日だと、日づけ鮮明、忽として家の表に立たれ、夏休み中の私を、大和薬師寺、唐招提寺へ連れて行って下さった中学時代の給田緑先生との、嬉しくもビックリもした遠足の短歌を読み返した。
歌は拙い、が、忘れがたい、なにもかも初の美の体験を想い出しほろほろと泣いた。その後の私の行く道が、あの夏の日、「母」とも慕った女先生との、言葉すくなな静かな遠足で、もう見えていたのだろう。
給田先生は、それは静かな、ことば美しい立派な歌人であられた。けれど、歌を、詠めよ創れよなどと決して強いられなかった。あれを読めこれを読めとも言いつけられなかった。いつも優しく観ていて下さった。
* 夕寝していた間に 早や 尾張の鳶さんとお嬢さんのはからいで、トールキンの『ホビットの冒険』が届いていた。早い! びっくり。大感謝。即 お礼のメール 飛んで行ってくれるといいが。
2021 4/13 232

* とはいえ、「湖(うみ)の本 151」の発送作業は必然目の前へ近づいている。十分注意しつつ宅急便に託さねば。早くと急がぬこと、体力を喪わないこと。無事に凌ぎたい。
今度の本は 興味を覚えて下さる人と 読みづらいと難渋される方に分かれそう、それもまた成るままに覚悟きめているが。なるべく、読める範囲だけでも読まれて欲しいなと。
2021 4/14 232

* 歌集『少年前』を機械に清書・整備していて、われから呆れている、七十年昔の「少年前」としても、文字通りに京の「女文化」を呼吸していたこと、現代 ふうの現実や世相には目もくれていない、ひたむきに京の自然、ささやかな花や草木や枝葉や日の光や空ゆく雲や風に親しみの目と思いとを向け、点綴されて、 そこへ、愛した人への思慕や親愛がひかえめに詠われている。「もらひ子」の「ひとり子」という境涯を抱えたまま、「身内に」と願ったのは兄や弟でなく、母 とも頼むほどの(たった一歳ちがいの)姉やその妹たちであった。
「少年」とはそんなものであったか、「野菊のごとき君」などまだ識りもしてなかった、が、堀辰雄の「風たちぬ」には近寄っていたし、芥川龍之介の生い立ちなども識りかけていた。そんな風情は、近年の作「花方」にもにじみ出ていた。
これでは「少年」でなく「少女」やないかと笑われて仕方ないほど、私の「短歌世界」には男めく人くささが無く、感傷に充ち満ちていたと今にして我ながら惘れる。驚く。
叔母の、花や茶の稽古場には男性の弟子など、何十年のうちに一人二人、他は、みな京の女たちだった。わたしは其処で唯一人の男の子、叔母が晩年まで、「コヘちゃん」の呼び名で通っていた。代稽古でその「コヘちゃん」にしぼられるのを、皆、いっそ歓迎してくれた。
国民学校一年生になった昭和十七年、ちいさな町内で、私と同学年は、女の子ばかりが八人だった。「女の中に男が一人」と他町の男の子らに囃された。
新制中学へ進んで三年間、男子の良い友達も何人もでき、田中勉や團彦太郎など競い合って仲良かったし、西村明男や藤江孝彦ら今にも親しい付き合いはつづ いているが、「心情」世界では女ともだちが何人も何人も絶えなかった。それが、拙いながら、「情緒表現」に、或いは障りとも、しかし力ともなった。

(91)何ゆえの舞妓姿と同窓のひとの晴れ着がふと心哀(うらがな)し
昭和二十七年二月十六日

(92)丘に立てば北風いささよはまりぬかなたの岸辺連れて行くあり
二月廿日

(93)水かれて川床むさき高瀬川児らつどひゐて石くれつめる                   二月二十六日

(94)山の道はかよふ風さへなかりけりあふげば蒼き夕やみの空

(95)」むらさきの夕やみせまる清みづの舞台の老婆何の惟ひぞ
二月二十七日

(96)母なくて病む子の泣けば裏町の夜のしづけさに細き雨ふる
二月二十八日

* 一言で言えば 「変わってる」少年で、しょっちゅう「ハタは、変わってる」と謂われていた。「なんも変わってへんよ」と内心反噬していたが、ノートの 歌集『少年前』を機械に逐一書き写していると、我ながら、「こんなであったか」と胸を衝かれる。ハッキリ謂うて、感傷の濃さに呆れる。
2021 4/15 232

* 録画の「剣客商売」で、懐かしい、いまは亡い役者と再会した。「竹取物語」を英・和の朗読劇として書き下ろしたことがあり。日本語版での、「竹取の 翁」を演じてくれた、その、じつに佳い俳優が「剣客商売」に剣客としてではなく、出演していた。剣客ではなかったが、しみじみと佳い芝居だった。名前はド 忘れして咄嗟に出ない。「翁」と対の「媼」は俳優座で突出した大女優の大塚道子が語ってくれた。往時は渺茫、もう録画や録音でしか出会えないが、印象は強 烈だった。
2021 4/15 232

* 機械の最重要機能である homepage を発信の能力が損傷している。直せる手だても器用も無い。発信以外には故障なく、少なくも書き置くことは出来るので、事態を受け容れたまま「書いて」過ごすしかない。「書ける」だけでも有り難いと。

* いま、メール機能も案じている。すくなくも数日、いたずらメールすら一本も入っていない。私からも四月十四五日以降、受信も発信も無い。最期の発信は戻されてはいない。

* 機械は半身不随 書字とその保存以外のインターネット機能は失せているようだ。「書ける」だけでも有り難い。この機械の機能が別に保存できている筈、それを別の使ってない機械へ移動できるか試みたいが、出来るかどうか。人を頼む時節では無いし。
2021 4/18 232

* 昨日仕事最中に 瞬間的にだが機械画面に、「悪質な妨害の危険があります」と出たのを記憶している。無視していた、が。
同様ではないが、送られたメールに返信メールしたのが頑強に届かぬままなのが半月ほど前に一度あった。
今、送信メール欄に二通が頑固に居座っている。そしてメールは今 受発信できていない、らしい。

* これは、何かしら今や 生活の姿勢をあらためよ直せよという示唆やも知れない。印刷所との連携に考慮すれば、余は、通信には郵便も電話もある。「書く」のに、効率的不自由はできても、意欲さえ続けば方法は在る。

* 歌集『少年前』三冊の第一冊を機械に洩れなく書写した。 もう二冊も、写し遂げておきたい。
2021 4/18 232

* 不幸にも 転送発信は出来ない、が、幸いに、こうして独り言として、「書きつづけ」られる。技術者を呼んで頼むということも、今は、決してしない。籠居が、ま、蟄居になったという風情である。
2021 4/18 232

* 機械クン 惨憺たる現状、処方の見当つかず。印刷所には電話で通知、「湖(うみ)の本 151」
は、26日搬入 「152」再校分が明朝届くと。かつてない異様事態。黙々と歩いて行くだけのこと。

* 混乱とはこういう事かと、混乱の極にいる。バカみたい。
2021 4/19 232

* 今朝、少なくもこのHPの「アイサツ」はごく普通に働いてくれる。文字と文章とが「書ける」安堵と嬉しさは底知れない。要するに外の「世間」へ声や言葉や意思・意見は「伝えられなく」なったということ。画面に、気持ちよく自分の書いた言葉が見よく読みよく現れてくれている。感謝感謝。
さ、他の仕事、作業も可能か、臆せず、遣って行く。

* この機械の 可能な限りの他機械へ内容移転を計っている。ほぼどうにかなるだろうが、整理整頓にはものすごいまで手間と時間がかかるだろう。この際、重複分や処分可能なものは捨てる。

* 「湖(うみ)の本 151」は二十六日 月曜に出来てくる。「湖(うみ)の本 152」の再校が出てきた。通読してこれも責了になるだろう。「湖(うみ)の本153」の原稿は用意できていて、読み込んで量的の配慮ができれば入稿できる。時間と体力の余裕を掴んで新創作へ身を傾けたい。

* 「私語の刻」と謂いつつ、やはり「読んで貰える」励みはあり喜びも濃かったのだとしみじみ思い嘆いている。

八時半 もう此処を離れよう。
2021 4/20 232

* コロナ禍猖獗の 少なくも都市世相を映像で見せられていると、日本人の「人間像」がいかに混濁し衰弱し、自負自信を喪失して自律出来なくなっているのに、愕く、自分をも含めて、敢えて云う。

* とは云え 私の日常はまだまだ今日も明日も変わりなく忙しい。拱手傍観していたら混乱の渦に巻かれる。
現状、インターネット機能を喪い、原稿やメールの電送は不可能。加えて、印刷機能が働いていない。
☆ 『当面 機械状況』 四月二一日現在
① 幸いに此の機械のワープロ機能は活きて呉れている。現在、「書く」ことは出来る。
② まだ自信を持って云えないが、この機会の抱擁内容は大方別の「大容量機械」へ移転出来ているかと思う。
③ この機械で、日々に書かれる一々をどう「大機」へこまめに確かに移転できるかの道を確認する必要がある。
④ 「今機」から「大機」へ移しえたと確認可能な内容は、両機とも、この際、「重複ないし不要化しているものの整理と削除」も、機械の負荷を軽くするためにも必要、徐々にそれは実行する。
⑤ 新しい「大機」の使用法が手に入っていない。マニュごアルが無い。慣れて覚えるしかない。
⑥ 適切な時機に「大機」でのネット使用を実現しなくてはならない。
2021 4/21 232

* 歌集『少年前』は、高校時代の「日々」を日付を追いつつ懐かしく反芻できる。これが「自分」なのかと呆れるほどの文学少年。そして少しずつだが着実に歌集『少年』レベルへ逼っている。書写はしんどいが、この思い出は具体の事実で目の前に証言されていて、納得するしか無い。
2021 4/23 232

* 歌集『少年前』の書き入れは「二」の半分以上進んだ。歌だけならもっと早く片づくが、高校の文学少年の口調でけっこう色々にコメントしているのも漏らしていないので。

* なんとか目下は「字」が書けていて有り難いが、かなり機械くん、シンドそうです。 2021 4/24 232

* 機械クンの体調はすこぶる混迷。あせらず、辛抱よく付き合い看護しながら目的へちかづく。ヘタをすると忽ちにしていた作業の全部が消えうせる。昨日は歌集『少年前』書写の四十首分ほどがかき消えた。堪えて、繰り返すしかない。
が、明日からは「湖(うみ)の本 151」発送。その間は機械クンに安静養生して貰う。力仕事になる。慌てず急がず、騒ぐまい。

* 「大機」の仕組みに実務的に慣れ馴染み、よく覚えて、そこで「私語の刻」その他の「書き仕事」が流れて行くように心がけたい。
2021 4/25 232

* 昨日は「前機」と「新・大機」の間をUSBを頼みに往来しつつ「新機」操作のあまりの難しさ煩雑さにほとほと困惑のママ、何が出来てきたとも、気分としては「完敗」のまま切りあげた。
今朝は、五時四十分から「前機」での「私語」 これをいちいち「新機」に移転しておかねばならない、いずれは「前機」クンには休養して貰って「新機」で読み書きしなくてはならない。信じがたいほど士「DELL」の「新機(とはいえ買ってからもう10年になる)」操作は煩雑に難儀で覚えられない。仕方がない、新しく買い換えても、いまの機械はもっとややこしいかと想われる。
2021 4/26 232

文字変換はスローだが、出来ている。ホームページとしての体裁ももとのまま美しく保っている。
すべてすべて此の機械クン多年の尽力に感謝して、保存しておきたい。「NEC LaVie」という機械クンです。今までも かくも膨大なコンテンツを抱いたまま日々の私語や創作や資料やメールなどを受け容れてくれたのは、機械通の「眼」にも「奇跡」だそうであった。いま失せた機能は、インターネットでの受発信が出来なくなった、それだけ。それだけで機械にはやはり細部での働きに遅鈍は生じているけれど、モノが消えうせたのでは無い、らしい。幸いに大型の外付け機能に助けられて、この機械クンの全書斎を、少なくも大方、ほぼ残りなく傍に永年待機していた大型の「新機械」クンに受け容れてもらった、ものと思っている。さすればこの機械クンの抱えたものから、適宜に割愛して膂力の消費量をどんどん減らしてあげることで、機械としての残年をさらに永く温存できるかも知れない。もうこの機械クンにネット社会での一線の活躍を望むのは酷というものであった。ありがとう。永く永くご苦労かけました。このホームページの「秦恒平 闇に言い置く 私語の刻」だけは記念して「保存」しておきたい。この色美しい画面に永くまたたくさんたくさん助けられ励まされてきました。感謝。
2021 4/28 232

* 「湖(うみ)の本 152」の再校を終え、「あとがき」を書き終え、妻の機械から、入稿。これの出てきたゲラの校正を終えれば、一気に「責了」へ持って行ける。「湖(うみ)の本 153」の入稿原稿は、用意できていて、もう一度の通読で足る。「湖(うみ)の本 151」の送り出しは、ともあれ一応は終えた。次へ次へ、思いと手とを送って行く。目先は晴れている。
2021 4/29 232

* 軽微の食にも胃があれば「胃もたれ」と謂うたろう不快感に負けて寝入った。八時前、おかげでラクになり二階へ来た。もう、テレビのコロナ談義も「胃もたれ」するだけ。結句、読書へ嵌って行く。「荘子」雑篇 「史記列伝」 「中国史」 そして「失楽園」を深い感動と倶にもう読み上げるが、詳細な註も読む気。帯同して、岩波新書の「キリスト教」古代中世史に興味深く教わっている。
私はいわゆるクリスチャンでは全くないが、西欧世界の歴史を批判的に反芻する上で基督教批判ないし批評はとても欠かせないし、根底にあるつよい「女性蔑視」また失楽園神話絡みに今日にも尾をひいた「蛇」社会史・人間史、女性史からもとうてい眼が反らせないで居る。
トールキンの名作『ホビットの冒険』『指輪物語』も旺盛に読み進んで心惹かれている。
「湖(うみ)の本 151」として送りだしたばかりの『山縣有朋と成島柳北 この二人の明治維新』も著者なりの思いで読み返しておきたい、次へ次へ向かう為にも。
2021 4/30 232

* 夢をみたかどうかも覚えず、六時に床を起った。幸い安眠したのだろう。計測値も尋常。
さて問題は、昨夜の仕事分を無事に機械クン見せて呉れますか、ドキドキ。

* やはり歌集『少年前』書写の確かに書いた末尾分の数頁が消えうせていた。保存のなにかしら手違いを犯したか。
くさらずに、七時に起きてすぐの機械仕事三時間で書き直し、先へ進めた。十六歳高校少年歌人の熱心で懸命な詠作が、ポトナム同人であられた国語の先生から「開眼、進歩」と初めて褒めて頂けた。以降、果然 「少年前」少年が歌集『少年』歌人へと作を積み上げて行く。京都市か京都府かの主宰で各校から一人の選抜文藝作をコンクール募集した時、日吉ヶ丘高校からは私が選ばれて小説でも評論でも随筆でもなく よく選んだ短歌集を提出、最優秀賞を貰ったこともあった。あきらかに私は太宰治賞作家より遙か前、おそくも「高二の十七歳」からは、自慢ではない、自覚として『少年』歌人なのであった。

* 『少年前』歌ノートが三冊あって、しかし三冊目は前二冊の改編だった。三冊目は無視して、一、二冊だけを書写する。文庫本『少年』のちょうど33頁まで、90首足らずが『少年前』ノート二冊の700首ほどから選ばれている。「少年前」から「少年」は発射されていた。少年前とはおもしろい時代だったんだと、苦笑もし感動もする。
2021 5/2 233

* 正六時半に起きた。妻は寝入っていた。「マ・ア」に多めに「削り鰹」をわけてやった。この地域のある代議士の「読める」ちらしを、海外での烈しい危険な戦争に戦いた「体験」談を 読んだ。

* 戦争のおそろしさ、非人間的苛酷さは、「直接」の戦闘・戦場「体験者だけ」の共有では、ない。女子供たちの「銃後」の生活にもそれは「深刻」だったのだ、まして「敗戦後」の同朋すべてにその「惨禍はおよぶ」、むろん女子供にまで洩れなく及ぶ。
戦争反対の「直接体験者の談」には、時として「私は、われわれは」「あのとき」「あの場所」でという「特定と限局」とが強まる、が、「戦闘・戦争」だけでなく、「いわゆる戦後」の「敗戦国民」という「戦争体験の深刻さ」を棚上げに、「べつ事のように」「そっちのけ」に「忘れて」はならないのを、「日本と日本人」はよくよく知っている筈だ、忘れられかけ、ているが。
国と国との「戦争」は断乎いけない、「戦争をしては」いけない、さらには「仕掛けた・仕掛けられた」戦争に「負けた」「敗れた」苛酷さを「忘れ果てて」いてはいけない。
個々個別の直接戦争体験だけでなく、「国家・国土・国民」として「敗戦」し「他国の支配に絶対服従」の憂き目を「こそ」見てはならない、「戦争反対」とは「それ」でなければ、「個々人の思い出話」の域にとどまってしまいかねない。

* 私は「九歳半」で敗戦国児童となり、少年・青年・成年しつつ、「戦争に負けた」という「さまざま」を覚えた、ごく狭い範囲の一生活者、一人の男としてだが。
ことに敗戦直後の、占領軍に溢れ、兵士達が日本の女性を抱えて街通りにも、町なかにも、くらい路地うちにもイヤほどいたのを、「少年」の目を蔽うようにし日々「目に」していた。「敗戦の弁償」は女のからだと色香が引き受けるのかと子供心に情けなく思い至り、「こんな女にだれがした」の哀歌絶唱がちいさな肉身にしみついた。
「戦争」は、なにより、「してはならない。」
しかし「仕掛けられて負けては」悲惨なことになるとはよくよく心得ての「戦争反対」でなければ、反対の意味は半減ないし無意味に化してしまう。ただ観念での反対に陥ってゆく。
「戦火を浴びた体験、直接体験」を、忘れてはならない。
それとともに、それ以上に、「戦争に負け」て、国土と国民を他国と他国民に「支配される」という「敗戦体験とその意味」をこそしかと下敷きにした「戦争反対」でなければならぬ。上滑りのした「戦争反対」では観念論に流れて行く。
戦争に「勝てばいい」のでは断じて無い。断じて「負けてはならない」のであり、必要で大切なのは「あらゆる意味で」の「負けない備え」でなければならぬ。
少なくも、私の謂う「悪意の算術」たる「聡明で機敏の外交」に、國も国民も精力と決意と頭脳とを日頃傾けねばならぬ。
ああ、あのアレ・アキレた安倍といい、ズズ黒いガスで目づまりしたような菅政府といい、「金勘定という算術」にばかりバカ騒ぎしてきた。
今日只今からの菅政府ないし国会の「外交」が「悪意の算術」にシカと長けて、世界に通用してくれないと、もうほどなく吾が日本國と国民とは、有史來二度目の、一度目よりはるかに苛酷な敗戦国と陥り他国民の支配に地を這わねば済むまい。

* 最新刊「湖(うみ)の本 151」の 『山縣有朋と成島柳北 この二人の明治維新』には、こういう私の思いも添えて書きおろした作である。
2021 5/3 233

* この数日、悪戦苦闘した秦 恒平歌集『少年前』を全部「書写」し終えた、と思う。機械クンが受け容れてくれましたなら。
短歌の凄み、それは一首一首の成った日の時・所・状況・景観、そして心境等の全部がそれは鮮やかに手に取るように「想い起こせる」ということ。散文とちがい、表現のママアタマの芯に記憶されている。であるから、書写という作業そのものは少しも苦になるどころか、場面場面が懐かしくてまるまる七十年昔の少年、いや少年前に帰れていた。それにしても、妙な少年であったよ。
機械の不具合ともも取っ組み合った。他の仕事だったら投げ出してたろう、諦めて棄てたろう、が、わが文藝史の冒頭を証言している「証言」の集であり、喪失させたくなかった。もう絶望かとみうしなった原稿を、タマネギの皮を剥ぐように剥ぐようにして機械クンの深い懐へ必死に手を突っ込んで掴みだした、何度も。坂村教授に教わった、世界へひろがり重ねた蜘蛛の巣ですから、通路は底知れぬ数あります、簡単には無くならない仕掛けなんですと。私は教わったそれを信じたかった。

* 心遣いと謂う。昨今のこの心遣いの難しさ切なさ。辛抱という言葉の重みを千鈞万鈞痛感しながら、それでも機械クンに協力してもらえた。ありがとうよ。きみはまだまだ働ける余力を複雑不可思議なほど蓄えもっていると想う。わたしも見習いたい。ありがとうよ。きみの抱えている沢山を外付けの容器に容れさせてもらった。すこしても身軽にさせてげたい。もの凄いと謂うしかない大量を抱え込ませていたからね。済まなかった

* 連休も終わるが、わたしたちの「世の仲」はこの先にも親しみ続けて行けますように。
2021 5/5 233

* 京の井上八千代さん、葉山の森詠さん、町田の浦城いくよさん、北海道の山本司さん、高輪の山田さん、それぞれに来信あり、また、「三田文学」 松山大學 早稲田大学 水田記念図書館からも「湖(うみ)の本 151」受領の来信。
今回の『山縣有朋と成島柳北の明治維新』は必ずしも容易な読み物ではないが、片端でもひろく意が伝わってくれると有り難い。「湖(うみ)の本 150」の『山縣有朋の「椿山集」を読む』と揃えて、私・八五老として一の晩年作に成ってくれたように、力になってくれた秦の祖父「鶴吉」蔵書の有り難かったことを、重ねて特に記録しておきたい。
2021 5/8 233

* 気持ちを切り替えるためにも、今日は終日、入れ込むように一つ仕事に熱中していた。無事に遂げて行けますように。すくなくも私ひとりの為には、生涯を飾りうる力作になるだろう、風変わりな。
2021 5/10 233

* 朝から もう 八時半まで 一つの 新仕事にうちこんでいた。機械クンとのはらはらの協同であり、うまく行ってるとも混線してるとも、確信していないが。ま、やれることを やれるままに やりつづけるまで。
2021 5/11 233

* 歌集『少年前』稿は纏まった、ただ、満足して書き置いた「序」文が紛失して、これがまこと悔しいが懸命に機械クンの胸の内、腹の中を捜索すれど出てこない。此の仕事は、幼少を介して文学者としての人生がかなり象徴的に大づかみ出来、少なくも私自身で描くおもしろい肖像畫が浮かび出ると期待している。 序文、自身で消去するワケが無く、現れ出てくれますように。
2021 5/12 233

* しばらく間があったので「湖(うみ)の本」新刊へのお便りや、大學・高校、研究施設、図書館からの受領来信も、また本代払い込みも足早に多い。感謝。この「私語の刻」にお一人一人のお便りを転載させて頂く体と時間のゆとりのないのが残念。なによりひろく発信できないのが、残念。

* 例年のことだが、転勤の季節で、転居される方が多く、「転居先不明」で送りだした本が帰ってくる数も増えるのが、習いで。宛先を変えて送り直すということも自然多くなる。そのうちに、「湖(うみ)の本 152」責了となって、また「送り」用意に多々手を掛けねば。「八五老」作家で こんなに多彩に毎日忙しい人、どれほどおいでやろ。

* 秦河勝の時代を書いて欲しいと、具体的なご希望が届いていて、ウーンと唸っている、気がないのでなく、用意があるので。
書きたい小説の内案は、さっきも電話で元の文春専務さんと電話で話していた。夜中に、暗闇の底でこれ、それ、あれと思案している数は、今日モノ、歴史モノ、女モノ、怪奇なモノ、少なくない。元気と寿命が欲しいが、何よりも家族の健康が必要不可欠。怪我すまいと願う。
2021 5/12 233

* 明日には「湖(うみ)の本 152」責了への最終校正ゲラが届く、「湖(うみ)の本 153」はもう入稿してある。「湖(うみ)の本 154」の原稿も、もう、ほぼ完璧に「書き下ろし」の体に用意出来てある。それら進行の間に、新しい創作へ着手して行く。健康でさえあれば、仕事の方で手招きしてくれる。
2021 5/14 233

* ポストへ走ったり、「湖(うみ)の本 152」を全部責了紙で送ったりした。奇妙に前後不覚に眠たかったりするので、昼食後、二時間ほど寝入っていた。
送り用意は、郵封筒に宛名印刷文を貼れば、大方、コト足り、追加の宛名分を手書きすれば済む。そのうちに「湖(うみ)の本 153」の初校が来るだろう。追いかけて「湖(うみ)の本 154」に序を書き添え入稿すればよろしく、その間にも、真作の小説を書き進めたい。
2021 5/17 233

* 韓國ドラマ「い・さん」にしたたか泣かされ、日本ドラマ「ドクターX」の来月からの予告と一部再映、そして照之富士の強い相撲を観たほかは、終日歌集『少年前』前半の入念な「読み」にかかっていた。打ち込めて佳い仕事だった。無事に「湖(うみ)の本 154」へ持って行きたい。或る意味で、この『少年前』と「閇門」とで、八十五年はしめくくり、余生のある限り、新しい小説を書き継ぎたい、成ろうなら、長編小説を。
2021 5/20 233

* 機械クンのご機嫌に関しては何一つ賢しらは言えない、運を天に任すあるのみ。今日も神妙にお付き合いを願うあるのみ。
それにしても この画面の 漆黒の名筆「方丈」が緑彩に映えて浮かび立ち、以下、会心のその美しさに私は没頭心服し感謝し、心より親愛している。この「私語」日録へ到るまでが遠いのではと妻は云う、が、それはいつでもそこそこに改訂の利くところ。なによりも、背後の翠に黒い文字の浮かび立つ親しみを心よりひとり愛している。それは、機械クンを取り囲んだこの書斎への自愛信愛と一対、「私・秦恒平」はまちがいなく此処に、この「方丈」に安座して暮らしてきた、多彩な俗情と真情とのままに。
さて、今日一日の無事、または無事にちかいのを祈願しながら、昨日の仕事を継いで行く。

* 夜、九時前。終日かけて歌集『少年前』を、入念に、原本にしたがひ構成・校訂した。これは、ぜひにもしかと仕上げておかねばならぬ仕事だった。間に合ってよかった。老蠶のすさびに同じい『閇門』の方は ゆっくり取りまとめ、ただ副えれば済む。

* あすからは「湖(うみ)の本 152」の出来本送り出しにそなえて、挨拶のことばを一つ一つにカットしておくこと、謹呈先の追加の封筒に宛先・宛名を書き込んでおく欠かせないない作業をし遂げておく。余は、さほど緊急に追い立てられること、無いはず。急かず慌てず「送り」の用意万端を。
2021 5/21 233

* しばらく シナの古代史、乱戟にあけくれた西晋の五十年を過ぎ、私も一等心寄せてきた 江南東晋の世の、虎渓三笑をはじめ懐かしい人たちの事績を読み返していた。昨日話していた『女史箴図』等で世界畫史に傑出した顧愷之もその一人だが、長大な支那の歴史でオアシスとも喩えたいのが、この時期。
私は、シナに取材の小説を、二作ないし四作持っていて、一つは、この、東晋の頃の恵遠法師を書いて芥川賞候補作となった『廬山』。また、作家代表として招かれ訪れて、明末の北僻大同大華厳寺壁画を物語った『華厳』、これは訪中の旅から帰ると即、書いて発表し、同行した井上靖さん、辻邦生さん、大岡信さんらを驚かせた。
もう二作は、『蝶の皿』と『青井戸』と、ともにシナの美しいやきものを小説にし、「美しい限り」と評された。「青井戸」の方は、私の生涯に出会った編集者のなかで最も厳しく優れていた「新潮」小島喜久江さんに、「も少し長ければ 芥川賞に推したかった」と云われ嬉しかったし、「蝶の皿」も、一字一句直しの注文なくあの手厳しい「新潮」にスイと載った最初作だった。

* 何が云いたいのか。
支那・シナというお国から、私は、日本史に受けてきたに匹敵の、大きな大きな感化や贈与を得てきたということ。決して、この国と、心底争いたくはないのである。
日本の外交は、アメリカにあまりに偏重していて、いつのまにか、アメリカの「対・中国」戦略の、いつしか日本が真っ先切り込み海兵隊なみの位置に据えられ動きのとれないことになるのでは、もうはや、着々そうされているのではないかとあやぶむのであ。アメリカのバイデン大統領は、日本の自称政治家と比較にならない「悪意の算術=外交」に長けている。中国の「外交・折衝」がいかに「悪井の算術」に長けているかは、謂うまでもない、この私の造語『外交は。悪意の算術』というのも、支那の歴史を重ね重ね学んできて「謂い得た」確信なのである。
日本の政治家よ。もっともっともっと、「深く考え、瞬時に徹到」せよ。悠長なヒマは無いのだ。
2021 5/22 233

* 京・古門前の「おッ師匠(しょ)はん」 縄手の「お茶漬鰻」と 甘泉堂の甘味「おちょぼ」とを送ってきて呉れた。
「おおきに ありがとさん」
わたしが 妻と東京へ出てきたのが一九五九年で、そのころまでは彼女は茶や花の稽古場へ通ってきていたかも。そしてその後もう六十余年、顔を合わせたことがない。宝塚へ入ったり出たり、日本舞踊に打ち込んで、いつか「おッ師匠(しょ)はん」になってたり、噂は叔母を介して聞こえていたが、いま以て再会していない。が、小説の主人公には優になりうるいつも「噂の子」で、私は『或る雲隠れ考』を書いた。むろんフィクションであるが、書き込み甲斐のある主人公であった。本人は知るはずもない。
そして 数年まえになろうか、突如として手紙を呉れた。以来、ときどき電話で話す。わたしからは何も遣るモノがないが、「おッ師匠(しょ)はん」は、ときどき上のようなご馳走や京らしい甘味を送ってきてくれる。既婚者であった(お相手は亡くなった)が、いまいまで謂う真っ向本気の同性婚だったとは叔母の方から聞いていた。私に親しみを持ち続けてくれていたのは、たぶんに従兄妹ほどの気楽さなのだろう、私もそう思っている。ひとつには、私が秦の「もらひ子」だったように、彼女も今少しフクザツな立ち位置で古門前の名だたる旧家へ、婿入りした実父と一緒に入籍していて、そんな「ややこしさ」を背負いあっているという親近感がどっちにも有ったのだ、いまでも、有る。たいへんな美女だったが、私の「男」などは遠い関心外にあった。

* 小説の種は、おもいのほか無造作に人の世には転がっている。いつ、どう、掴むか、だ。

* 手がけてきた 歌の仕事は もういつ何時でも「入稿可能」までの原稿作りが出来た。「湖(うみ)の本 154」と予定しており、「153」はもう入稿してある。さきざき、すこしからだがラクになってくれるかも。何とかして インターネット を復活したいが 目下は 打つ手がない。
2021 5/22 233

* へとへとよろよろと駅から歩いて帰ったら、弥栄・日吉ヶ丘の友達團彦太郎君の昔懐かしいいい手紙がとどいていて、まことに嬉しかった。
ロサンゼルスの池宮さんからもやっぱり懐かしい心親しい佳い手紙が夫婦宛てに届いていて、「湖(うみ)の本」に送金まであって、恐縮もし嬉しくもあり、疲れが取れた。昔昔の友達の元気そうな頼りを貰うほどいま嬉しいことはほかに無いのでは無かろうか。奮い立つまではゆかなくても、気がシャンとする。それが嬉しい。

* 團君というと、忘れられないのが、私には受賞作「清経入水」と列んで出世作にも数えられた短編「祇園の子」だ、はなはし昨日のように想い出せる、六三新制で新設の市立弥栄中学ホカホカ湯気の立ったような一年生としてわれわれは新入学し、團は一組、私は二組で、演劇大会で激突した。全校全三年での優勝を競う大会であったから、弥栄中学新設ほかほかの一年生、事実上の弥栄一回生として上級生に負けまい気構えが強かった、「三回生」と謂われていたが、二年生三年生は大なり小なり先立つ他所の学校から転じてきた人らで、三年生には兵役復員の人たちも混じっていたような時節だった。
結局、私が演出に奮闘した一年二組の演劇が優勝し、團の一組が二位だった。それはもう気分が盛り上がって、そしてその果ても果て、もうみな家へ帰って行こうというときに、一組の演劇でヒロイン役を健闘してた女生徒と私との、電車道横断歩道上でほんの一瞬の詞のやりとり、それだけでその短編小説は成っていたが、「こんな作が十も書けるならたいしたもんです」と文壇の大家に褒められるようなことになった。わたしは。今でもその「祇園の子」と團君とが舞台でのセリフのやりとりのサマもよく覚えていて、彼をおもいだすつど、そのヒロインを想い出さずにいなかった。よく出来る子と評判の学級副委員長だった。團が委員長だった。
往時は渺茫。團君、かれは、そんな七十四年も前を記憶しているかなあ。
そういえば、團彦太郎、みんなダンピコと愛称していたが、かれもまた一人の「祇園の子」旧弥栄小学校の卒業生だったのだ。窮・京都市立弥栄小学校は、元々へ遡れば祇園甲部のお茶屋立と謂うて佳い成り立ちなのであった。

* しかし、よほど疲労したとみえ、掌も、あしの裏も、棒でも差し込んだように捻れて痛い。目は霞みきっている。それでも「T」博士(角田文衛先生に私の作へご登場願う時には、こうお呼びしていた。目崎徳衛先生は「M」教授と。)の本は面白すぎるほど面白く、しかも碩学、そこに意図したウソにど全くないと信頼できるので安心仕切って乗っていけるのが有り難い。先生の本を持ってなかったら、わたしは途中の何処かでへたばり、失神して居かねなかった。
2021 5/24 233

* 想っていたことではあったが、しかと思い立ち、久々に、じつに久々に、かつて歌集『少年』をすてきな新書版で世に送りだしてくれた不識書院主の中静さんに電話した。唐突だが、この春に手がけて編みあげた歌集『少年前』そして八五老蠶の走り書き『閇門』を、『少年』のご縁に「読んでみてくれませんか」但し、決して本にして出版して欲しいのではない、それは『湖(うみ)の本』にすれば想うままに済むこと、ただただ、あのひろく好評を得た『少年』にはうち捨てて採らなかった小・中・高校生の頃の「わが短歌」習作の数々を、歌集というものを無数に出版してきた編集者中静さんの眼で読んでもらいたかったのだ。
中静さん、ご迷惑だったろうが『少年』歌人の「少年前」というご縁ひとつで承諾してもらえた。
週明けの月曜にお店に届くよう送り届けたい。有り難い。嬉しい。

* コンピュータの故障は依然険しいままだが、久しぶりに印刷機は働いてくれた、じつは『少年前』と『閇門』とを、祈る思いで「刷れて呉れよ」と機械に送り込んだ、A4紙で60余頁がきれいに刷れたのだ、吉日とまでは言えないが大きな半吉事に恵まれ、胸を撫でている。撫でているうち、これを不識書院主に久しぶりに読んで貰おうと思い立って、手早くすぐ電話したのだった。そして我勝手な文字遣いの漢字に小さく朱で「よみ」を振っておいた。数百首あるのだ、よく手早くつぎつぎ頑張った。
九時になって行く。もう休んで佳いだろう。
2021 5/28 233

* 中静勇氏に歌集『少年前』『閇門』の原稿を送った。
2021 5/29 233

* 機械が復元可能となった時は、この「私語の刻」を四月十三日以降、旧態のまま読み継げるようにと按配した。もう四時半。五月が行く。機械の故障からはや一月半をもよほど超えている。なかなか、綽綽有裕 どころでないなあ。
2021 5/30 233

* 明日で五月を送る。明後日は、六月。この機械クン何処へも送信してはくれず、まさしく「私語」が続くならば、とても気に入っている巻頭の写真なども取り替えないで、「述懐」のみあらため、総じてこのまま「私語」し「書き継いで」行く。
2021 5/30 233

* どういう五ヶ月だったのか、どういう一年だったのかと思う。私には、『山縣有朋の「椿山集」を読む』『山縣有朋と成島柳北』を成し、いまわが作家生涯を「前」でとり結ぶことになる歌集『少年前』の原稿を仕上げ得た。このあとは小説を書きたい、籠居の日々に腐ってしまわないで。

* 「ことば」で「創る」という習いを国民学校の早くに覚えた。同時に百人一首を愛誦し始めていた。前半は叔母の口授だった。後半は祖父の蔵書『百人一首一夕話』の拾い読みに感化された。この二つ、短詩型古典への親炙が早かった。それが小説を書き始めるまで「少年前」「少年」期を幼いながらの創作早期にしてくれた。「読む」だけでない「創る」日々があった。それは一種の「自立」だった。束縛されず群れをもとめず権威に諂わず、自分の世界を培い続けた。多くの「旅」がその世界に内蔵されていた。それをより豊かにすれば有難いのであった。
2021 5/31 233

* 私家版時代 太宰治賞に行き当たるまで、私にもいろいろな ガンバリ があった。ネットといった仕組みの無い、全くの 「本」と「創作原稿」とだけの時代だった、私は自分で「本」にして、えらい先生方に失礼ながら送りつけた。谷崎潤一郎 志賀直哉 中勘助 そして歌人、詩人に最初のB5版私家版を送ったのを覚えていて、谷崎先生のほか四人の方からはお葉書で受け取りを戴いた。のちのちには小林秀雄先生や円地文子先生に送り、小林先生から中村光夫先生(太宰治賞選者のお一人)へ、円地先生からは雑誌「新潮」へのご縁ができた。絵に描いたような幸運だった。私はあくまで「文学」を願っていた、「読み物」は眼中になかった。いかに著名でも『宮本武蔵』は読み物だった。『こころ』は文学だった。吉川英治は「読み物の作者」であり夏目漱石は「文學の作家」だった。
2021 6/2 234

* 体調悪しく、寝入りたくも、眠れず、重苦しく疲れている。ヤケを起こしていい時機でなく、文字通りに凝然(ジッ)としてるしかない。さしあたり、初校ゲラを懸命に慎重に「読む」よりない。

* と云いつつ、いまいまこころ惹かれている一の仕事、またや「異本平家」に繋がる題材と関連の文献を手にしていた。、元神戸大学教授の太周さんに、一九九一ないし二年頃戴いていた「国語年誌」掲載の論考を読み始め、あ、これは外れかと落胆しかけてたのが、ぐっとわが関心事に触れ合うてきて、ホイホイと声が出た。あとは、心して新ためて読むことに。五時になる。
2021 6/4 234

* もう夕刻五時すぎ。「湖(うみ)の本153」の初校を終えた。建頁を読んで、あとがき「私語の刻」と「あとづけ」を用意できれば、「要再校」で返送できる。それが出来れば「「湖(うみ)の本 152」の納品を待って読者へ送り出せる。「「湖(うみ)の本 154」の入稿意も出来ているのだ、うまく繋いで、そして心身を楽にして創作へ「おもひ」を集注したい。
2021 6/5 234

* 夜十時、湯上がりで寝入っていて、風邪でも引きかけたか。かすかに頭痛。
明朝、「湖(うみ)の本 152」納品としらせがあり、幸いその前に「「湖(うみ)の本 153」を「要再校」で、「湖(うみ)の本 154」を入稿、済ませておいた。肩の荷を下ろしておいての発送となる。今回より定価販売は一切やめ、すべて「無料 呈上」と切り替えた。「湖(うみ)の本」の歴史を新ためたのである。
もう今夜は、やすむ。
2021 6/8 234

* さ、もう一日ガンバッて、送りだしてしまおう。今回の「湖(うみ)の本152 153」は、話題を選んで揃える従来の「濯鱗清流」や「流雲吐月」らと替えて、令和二年、365日の「私語」を通してみた、見直してみてこれが存外に興趣のいい感じの散展になり、私も、時世も、顧みやすい。抜き刷りを手に気ままに読み返すのが、煙草一服(その宜しさは識らないのだが)ふうの、いい休憩になる。
2021 6/11 234

* 今度出来てきた、「湖(うみ)の本 152 綽綽有裕」 気に入っている。そうか、こんな風に暮らしてきたかと分かりがいい。どのペイジをあけても私の「言葉」が弾んでいる。
2021 6/11 234

* 今日は創作へ手をかけ、想ひという火矢をやたら八方へ飛ばしていた。体調を崩すわけに行かない、もう階下へ降りた方が無難なようだ。
2021 6/12 234

* 明けの六時前に目覚め、も少しはと亦寝したら九時になっていた。今分の気がかりは無い、新しい創作への脚の出の順調、そして機械のネット対策。幾ら考えても、こうして文章は書けるし他に異常はない、ホンのすこしのひかり通信設定のゆるみのようなことではないのかと想っている。分かる人にはアッケなく解決できるのではないか。
それにしても、書字、行文、写真等その他に異常はなく、老齢の機械クンは若々しく働いてくれている。有り難い。
さて「信じられない話だが」かき分けかき分け茫々の草野・木山へ踏み入らねば。
2021 6/13 234

* 今回から「湖(うみ)の本」定頒価を廃して、一律皆々さんへ「贈呈」と決心した。北九州市の俳人寺井谷子さん、「お心づかいに感謝申し上げつゝ、御大切の御著書御寄贈いたゞくと身が縮みます。ご放念下さいますよう、切に。」「益々の御清硯をお祈り申し上げます」と、前回までのままご送金がが有った。心底恐れ入ります。本をお送り続けられるだけで命励まされています。
2021 6/14 234

* 長島さんには、没後200年記念 日本近世文学会編の「上田秋成」を戴いた。秋成の数々に多彩な側面でももっとも手がかりのない一角へ、私は宿題を抱えている。指先ほどもそれへ視野がひらけないか、目を見開いてこの冊子をすぐにも読みたい。
2021 6/15 234

* 寿司の和加奈へ、大とろ 中トロ 海老 海栗 に限って、刺身で届けて貰った。歯に触らず、栄養価もありことに好きなモノだけ。酒の「英君」も美味かった。風にそよぐ枯れた藁のような躰が、やや起って目覚めた気がする。
そのまま寝入らず、楽しんで読んだ。『赤と黒』と『悪霊』とが悠然拮抗している。ヘドのモルゴンが竪琴弾きのデスと、船に乗った。永い旅がはじまる。ホビットのビルボ・バギンズとドワーフの御難つづきの旅は、ワインの空樽に助けられて窮地を急流のはてへころげ落ちて行く。
今度の「湖(うみ)の本 綽綽有悠・コロナ禍と悪意の算術」は、文字通りのエッセイ集になってくれた気がする。
そして『新約聖書』の基督教がムズカシい。禅宗や浄土宗の経や般若心経ならなんとか掴まってついてゆけそうに思えるのに、神と神の子イエスに依るパウロの信仰者達への教えの手紙が難しい。
2021 6/16 234

* かねて手掛かりの小説二つをどうどっちを先に押そうかとまさぐっている。道がどっちへどう広がっても、なま易しくはないが、進むしかないない道と分かっている。
何よりも健康な、健康と謂うに近い体調で行かないと力負けしてしまう。
2021 6/17 234

* 京都の画家池田良則さん、京の四季を絵と文とでスケッチの四冊に添えて宇治の煎茶を贈ってきて下さった。池田遙邨画伯のご子息、私の新聞小説『親指のマリア』に挿絵を゛連載して頂いた。もう久しいことになる、懐かしい知己のお一人である。

* 私は、もともと、小学校の昔から親友といった相手を滅多にもたない、もてないタチだった。友達よりも真の身内に飢えていた。そしてほぼ七十年、わたしは、心許し合えるいい友や知己に豊かに恵まれている。懸命の仕事が近づけ有ってくれた知己である。わたしは、根が非情・薄情には生きて行けないタチであった。挙げろと云われれば四十や五十の大切に思い思い合う人を、すぐさま挙げられる。創作と出版の営みが迎えとってくれた親しい人たちが、いつも身近に感じられる。

* 私には、京都・故山故水という不動の世界があり、それは歴史へ遡り行ける不動の道になっている。豊かな栄養がとめどなくえられる。ただの知識ではない、血の通った人たちとの関わりで真実親しめる世界、それは過去でなく現在なのである、未来ですら有る。この歳である仕方なく身内にも知己にも死なれるが、だから無に帰するなどと云うものでない。生死にも逢う逢わぬにも関係なしに知己は私に生き続けてナニ変わりもない。
2021 6/18 234

* 今回「湖(うみ)の本」は『綽綽有裕 コロナ禍と悪意の算術(上)』として去年の元日から六月末まで半年間毎日の「私語の刻」記事をとりまとめた。自然次回は『優游卒歳 コロナ禍と悪意の算術(下)』で去年後半の「私語」だけで纏まる。私が、本来別途の「創作や論述等々」の他に、日々の「読み・書き・読書」をこう続けて途絶えない「暮らし」を「形」で証したのである。こんなことを前世紀末からもう四半世紀、日々、欠かしていない。「毎日毎日 文章が書けるとは、驚いた」人もあったが、「創作的な物書き」を職とも人生ともするなら、当たり前のことと私は思っている。そして、存外にそれが「読め」て、我が身にもおもしろくハネ帰ってくるのに今度自分で気付いた。
「私語の刻」とは我ながら名付けたなと笑える。

* 京都から東京へ出てきて、作家以前に私がどう暮らしていたかは、創作やエッセイに直にはあまり書かれていない、その医学書院編集者時代が、この「私語の刻」で時折り私語されているのが、私自身のためにも有り難い。中身のうんと詰まった十五年だった。金原一郎社長 『鴎外學』の権威、碩学の長谷川泉編集長と出会えたことは、じつにじつに有難かった。いま医学書院の編集長は私の課で、新入社員として指導された七尾清君だと。理事の頃、ペンクラブへ誘って推薦した向山肇夫君も、新入社員で私の部下として絞られていた。遠い遠い昔話になった、医学書院の十五年。
2021 6/18 234

* 桜桃忌。 太宰治文学賞により「作家」として立つを得て52年になる。縦横に手足を働かせてほぼ悔いなく働いて来れたし、まだまだ先は有る。桜桃は手に入らなかったが、建日子の祝ってくれたレミ・マルタンで乾杯、とにもかくにみコロナ禍の日々とも戦い克って行きたい。宮沢明子の澄んだピアノがガルッピのソナタを綺麗に弾いてくれている。
2021 6/19 234

* 尻を打つように、「湖(うみ)の本 153」の再校が出てきた。読み始めたが、感傷にせまられるほど古典の歌や句のよみが懐かしい。こんなふうにほぼいつも往時を生きてきたいい「ことば」に振れ続けわたしも生きてきた、来れた。幸せだ。
わたしは感傷という二字を生来うけいれつづけてきた。やがて、生涯の文藝を一と括りにするように歌集『少年前』を刊行するが、「感傷と観照」と副題した。そして老来最近の歌くずをただ拾って束ねて『閇門』と題しておいた。「ともん」とは、門をしめ、とざすのである。
2021 6/19 234

*どうかしてコロナに退散してもらいたい。思うまでもなく、一年猶予の完全な逼塞籠居に甘んじてきた。心身の衰えは無残の体に到っている。幸いに、読み・書き・読書そして「秦恒平選集」「湖(うみ)の本」の刊行という仕事もあったし家で酒も飲めた。食欲は激減した。おまけに外世間との窓である機械のネット機能が墜ちた。この情態はもう永くは耐え得まい。
幸いにお便りやお見舞いはつぎつぎに途絶えず頂いている、有り難いことだ。歌や音楽もいろいろに聴ける。だが、心身の活気は日々によわまり、よほど気を励まし続けねば危ない。ほとんどこれは泣き言である。警戒警報や空襲警報に怯えた頃のわたくしは幼い子供だった。有り難いことに生活に不安はない今の私たちはよほどの高齢で、健康の維持は精一杯、気の衰えにはなにとしても克たねば。来月下旬には一度目のワクチンが打てる。それを待ち、しかし同時に五輪不安の東京都に逼塞していなくてはならぬ。
私は、それでも、ものを作り出せる能をまだいくらか持ちこたえている。歌でよし句でよし文章も好きに書ける。いささかなり別世界へいながら飛翔できる。これを力にしたいと願う。幸か不幸か食欲もなく性欲ももとより無い。しかし想像力はまだあましている。こんなときこそ、また春蚓秋蛇の昔にかえり老境の掌説を書いてはどうか。
2021 6/23 234

* 「湖(うみ)の本 153」を「責了」する前に、次の、私期待の「154」初校ゲラが届くだろう。その次には、ぜひ、新創作を用意したい。
しかし、何より機械にネット機能を取り戻したい。
2021 6/26 234

* さて週明けの月曜、今週は仕事の場面ががらっと転開する、はず。
まずは「湖(うみ)の本 153」を 「責了」で印刷所へ返送。
入れ替わりにやがて待望の「湖(うみ)の本 154」初校出が届くだろう。新刊分の滞りない発送用意も九割がた出来ていて、そこで次巻新初校の入念な点検と校正。そして新創作進行。
2021 6/29 234

* 気をいれて読み直してきた『閑吟集  孤心と恋愛の歌謡』も、今日明日でちょうど読み終える。気を入れたこういう「毎朝仕事」が、私の「日々」をそれなりに形作って呉れる。
2021 6/29 234

* 「湖(うみ)の本 154」の初校が届いた。丁寧な初校に没頭したい。或る意味、私の文藝のほんとうの発端を為しており、それが、わが人生ひとつの懐かしい結び目ともなる。
2021 7/2 235

* 夕食後、歌集『少年前』初校、途中でやすみ、『ホビットの冒険』をもう終える辺まで読みすすんだまま、九時過ぎまで寝入っていた。
終日、雨。機械の不調はそのままどうにもならず、なにもなにもじっとガマンしつつ出来る仕事をしたいだけして過ごす。そういう日々が、すくなくももう半年はかかるだろう。
2021 7/2 235

* せっかくの余裕のとき、いまは強いて手をひろげるより、心身をやすませる。この機械クンのワープロ機能には幸いもっか異常がない。インターネットのことは、今はしいて考えない、世間様との機械を会してのお付き合いは、ま、この際は断念して済まそうと。

* 書いておきたい小説が幾つかあって、むろん、小説はいろいろの方法と展開する世界を異にする、当然にそう在るべき物なので、「どれ」を先に書き継いで仕上げるかの決心が懸命の課題になっている。
2021 7/6 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は
雪ほろほろとふりつぎにけりに

あかあかと霜枯草の山を揺り
たふれし塚に雪のこりゐぬ

埴土(はにつち)をまろめしままの古塚の
まんぢゆうはあはれ雪消えぬかも

* 高校の在った日吉ヶ丘の東の崖、泉涌寺本山の南寄りに古刹の雲龍院があり その門前を西へ延びた崖上へ、戦士らの墓標のままみえる寂しげな小墓地が延びていた。私は、高校生時代、平気で授業中の教室を脱け出ては、東へ山寄りの泉涌寺や泉山陵、また南へ丘下の東福寺などへ、もっとの時は京都市内の寺社や博物館などへサボっていた。そのおかげで後に小説『慈子』や『畜生塚』などが書けた。大学受験のためのいわゆる受験勉強がイヤで、古典を読み角川からの「昭和文学全集」を買って全巻、各作家の作はむろん「年譜」までも、熱中愛読した。「京都という市街や四辺の郊外」にはどんな受験参考書より豊富に魅力溢れていた。それらから学ばない手はないと確信していた。京大、東大を受けて大學教授を目ざすり、無試験推薦入学で済ませ、「京都の作家」に成りたかった。泉涌寺来迎院や「山上墳墓」や東福寺境内で詠っていた時も、もう、そう思っていた。
「京都」は、どこをどう歩いても、ほんとうに有り難い懐かしい豊富な街だった。
2021 7/7 235

* 人さまの作でなく、遠い昔の自作も読み返したくなる。もう喪った時間が、まだそこでは呼吸している。
2021 7/7 235

* 終日 或る難儀な資料(私料)の点検と整理にかまけていた、昨日から始めた。根をつめても数日はかかりそう。
2021 7/16 235

* 昨夜、久しぶりも久しぶりに「NHK藝術劇場」放映の夏目漱石原作「心」を 「秦恒平脚本」「俳優座劇団」「加藤剛・香野百合子主演」で観た。「湖(うみ)の本」第二巻に戯曲『こころ』を入れている。35年ほども昔のことだが、ありありと想い出せる。懸命に脚本にし、また戯曲としても大きく創っておいた。妻も懸命に応援してくれたことが、場面のあちこち、科白のあちこちで懐かしいまで想い出せる。弥栄中学を一年さきに卒業していった上級生、「姉さん」と慕い生涯の「身内」と慕いつづけた今は亡き人が、「記念」にと、自身の卒業式の日に「贈」と署名し私に手渡して呉れたのが、漱石作『心』の春陽文庫本だった。『心』は私の聖書のようであった、どんなにも心を暑くして読み続け読み返したことか。
当時第一等の人気俳優加藤剛が、「心 わが愛」として脚本を書いて欲しいと言ってきたとき、私は胸の内で「姉さん」の名を呼んだ。「やろう、書こう、創ろう」と決心した。

* 先だっては高校国語の先生が玄関までみえて、私の『こころ』の読みに最大級の賛辞を呈して帰られた。コロナ禍をおそれて長く対話もならなかったのは申し訳なかった。

* 久しぶりに舞台から映像として按配した放映の劇に、ただただ見入った。あれはわが作家生涯のあちこちに遺してきたなかでも胸にしみたハイライトの一灯であったなあ。
2021 7/17 235

* 冷房に強い方でなく、半袖でいると腕から冷え気分が悪くなりやすい。八時から十一時半に及ぶ予定の五輪開会式を観るよりも、寝床で本を読みたい気がしている。『悪霊』と、『イルスの竪琴』と『マリー・アントワネット』とに惹かれている。
そろそろ、自分の「選集」全33巻、せめても小説等「創作」の20巻を読み返したいな、とも心誘われている。が。ま、開会式を観よう。
2021 7/23 235.

* 遠く過ぎし昔の自作小説『隠水の』を読み返した。文藝春秋「文学界」の編集者で後に専務取締役を務められた寺田英視さんとの久しい親交はこの作が仲人を務めてくれた。寺田さんがわざわざ本郷の私勤め先まで褒めにきて下さった。懐かしい。
似たことは、平凡社の出田興生さんとも有った、出田さんは上村松園を書いた『閨秀』を読むと、ほぼ即座に、平凡社刊の縮刷『大辞典』上下巻をお土産に背負うようにして本郷へ出向いて見えた。嬉しかった。寺田サントも出田さんとも今もごく親しくお付き合い、というよりいつも応援して頂いている。

* 五輪競技も 幾らかは 楽しんで応援し 幾らかは 退屈し 特段の思いはない一日だった、八時半、もう睡い。
明後日には、新しい「湖(うみ)の本」が納品される。ゆっくり送り出すとしたい。五輪競技が、作業中の息抜きになってくれようか。
2021 7/24 235

* 「湖(うみ)の本 153」発送のための作業は凡て終えた。宅急便が持ち帰って呉れれば、今回は、もう、上がり。順調の運びであった。そして、次のステップを踏む。
八五老にして、「超」処女作を、わが文学生涯に「初めて」置く。
2021 7/28 235

* とはいえ、仕事のほかは、寝入っているか、レーデルル、ライラ、アストリンのモルゴンを尋ね行くはるばるな旅に同行していた。
かすかな寒気を背に感じ、終日、体調に落ち着きがない。
神奈川の高城由美子さん、山梨県立文学館長および中野和子さん、そしてお城学の小和田哲男さん、作家・エッセイストの稲垣真美さんのおくったばかりの「湖(うみ)の本 153」への有り難いお便りを戴いた。高城さんからは香りも甘い桃も頂戴した。

* これぞと希望を持った仕事からは手を放していない、楽しんで…と気を励ましながら。
2021 7/30 235

* そして今、私は八十五老にして、すでに確定したいわゆる「処女作」本になお先立つ「少年前」の一冊に形を与えつつある。それれがただの遊びや自己満足でないことをおおよそ信じつつ、である。
2021 8/1 236

* 「湖(うみ)の本 154」後半へ 40頁ほどの「私語」ないし「私語の弁」を、フロッピイで追加入稿し終えたた。 これで、当面の大きな段取りがつき、何を急ぐこともなく、五輪競技もわきへ措いて、ゆっくり息を継ぎ、もう掛かっている新作を先へ進める。
2021 8/2 236

* 歌集『少年前』を しみじみと校正している、かなづかひに用心しながら。七十年ちかい昔が私に甦る。
2021 8/3 236

* 仙台の遠藤恵子さん、都の中野区宮川木末さん、川越の平山城児さん、都の世田谷の島尾伸三さん、国分寺市の河幹夫さん、早稲田大学図書館、上智大学図書館から「湖(うみ)の本」新刊へお手紙を戴いた。
目黒区佐高信さんの新刊書を受け取った。
高麗屋シアターナインスから、十月、吉田羊、松本紀保ら女性だけで演じる沙翁劇「ジュリアス・シーザー」の案内をもらった。大いに触手うごくが、コロナは収まってはいまい。
懐かしい亡き宮川寅雄先生のお嬢さん木末さんのお手紙が、今巻心して組み入れた多く詩歌の「撰と鑑賞」に触れ、ていねいに共感を寄せて戴いたのを喜んでいる。平山さんからも。
現今多くの作者達はとても大きな手抜きをしながら気が付いていないのだが、詩歌は、自作を創り為すだけが能でない。すぐれた多謝の詩歌作を見いだしてよく味わえるのでなければ、半端なのである。自分は斯くも創っているから当然に歌人だ俳人だ詩人だというのは、片端にすぎない。

* 辞典での仮名遣いの確認などが極く難儀になってきた。それでもわたしは辞典を決して手放さない。いい書き手の、いい読み手のそれは必須のこころがけだから。
2021 8/3 236

* 入念に処女前歌集『少年前』を再校している。
2021 8/4 236

 

福の名に背かない。五輪でアスリートの活躍が盛んに持てはやされて、異存はない。が、人は、若いは、さらに魅惑に照り輝く「文学」という芸術にもしかと触れて欲しい。私が自負を謂うのではない、ドストエフスキーやジイドやツワイクやバルザックや、またル・グゥインやマキリップやトールキンのことを謂うのである。出逢えてよかったと、心底感謝している。そしてまた私のような平凡な作者は、自作を否認し否認し否認し続けて境地を見いだし創りだすしか、手は無い。
2021 8/8 236

* コロナ事情は悪化を辿っている。逼塞の籠居に、たしかに「退屈」の不味さを味わっているのだが、幸いに私は「読書」できる。楽しめる。なにを読み返せばときを忘れて打ち込めるかを知っているし、そういう本が読み切れぬほど手許にある。幸せだと思う。感謝している。いまは「書く」のはこんな「私語の刻」に半ば以上委ねたまま、一つ一つ打ちこむように「読み」続けている。そして、やがて、「湖(うみ)の本 154」『歌集「少年前」「閇門(ともん)」そして「私語の刻」』の刊行と発送へ手が届く。これが実に楽しみなのだ。この一巻こそが「文学少年」の最処女出版物となり、「老蚕」秦恒平の呟きと成るもの。その後はもうただただ文学生涯最後の喜怒哀楽と成る。
2021 8/10 236

* 「湖(うみ)の本 153」に幼少を幸せに愛育された京都市東山区新門前通仲之町の、東遷のため取り払われる直前の、秦の旧家屋写真と、現在八五老の近影を「口絵」にしておきたいと思い至った。
2021 8/11 236

* 「湖(うみ)の本 154」の三校が出てきたのを読み返している。私にはこれもまた「記念」に値する一巻になる。よくよく読み尽くし、「責了」にしたい。併行して、もう具体的に発行後の発送用意を落ちなくしておかねば。おちついて、しかと手を尽くし佳い一巻に仕立てて送り出したい。が、つい疲れ休んでいる。
2021 8/17 236

* 京都の羽生清さんからつるやの銘菓もそえてお手紙を貰った。

☆ 「湖(うみ)の本 綽綽有裕・優游卒歳」 ありがとうございました。
「油断なく國を護る覚めた気概」が私にあるだろうかと考えている打ちに、時が経ってしまいました。敗戦から七十六年、今年も戦争に関していろいろ聞いたり読んだりいたしました。
にんには、 満州に進出した日本の根柢にあったのは、一八九○年に、山縣有朋が唱えた「主権線」「利益線」という考え方であったなどという朝日新聞記事もありました。
「世界平和」とは久しい人類史の寝言のように破れ続けた夢であったとしても、カントが語り、先生のお名前に生きている恒久平和に私は憧れます。
これからの戦争は軍備などハードより情報などソフトが要になるように感じます。
相手国の個人情報すべてを集積操作して、政治を思い通りに動かす……そんなことが可能になってきているような気がしてなりません。
それなのに日本のリーダーは情報、言語の意味を理解していないのではないかと心配してしまいます。先生のお言葉「麻生。安倍、菅とならんだ総理の日本語の安っぽい貧しさは、これほど今日の『日本』のなさけなさを象徴するものはない」に同感です。「悪意の算術」以前、者の数え方さえ、あやふやではないでしょうか。
ドイツやニュージーランド。台湾の女性リーダーが使う言葉には 生命が感じられるのですか…。

まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂  東淳子

芥川賞台湾作家李琴峰の「彼岸花咲く島」は 女たちが政を行なう話でした。島では 三つの言語「ニホン語」「女語」「ひのもとことば」が存在し、「女語」が歴史を継承するという設定になっておりました。
「日本」の地域状況だけでモノを謂うていても、 背後の複雑怪奇が計り知れない時、「機械禍」「コロナ禍」の今、医学書院での体験に根ざした先生の小説 批評を読んでみとうございます。
なにかと大変な夏、
先生
奥様
どうぞ くれぐれもお身体大切に
おすごし下さいますように      羽生清

* 「政治」は女性達に委ね、男性は「働けば」よいのではと、まえまえから私は家で話している、ただ笑い話ではなく。

* 上の朝日新聞記事とやらは、さきに「湖(うみ)の本 150 151」『山縣有朋の「椿山集」を読む』『山縣有朋と成島柳北』の所見を承けたものかと思う。
2021 8/19 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

わくら葉の朱(あけ)にこぼれて木もれ日に
うつつともなし山の音きく

生き死にのおもひせつなく山かげの
蝶を追ひつつ日なかに出でぬ

* ふと身のそばの岡井隆『現代百人一首』で、私の歌の稿を読み直した。この撰、第一首に釈迢空、第百首に斎藤茂吉が選んであり、岡井さん自身は第九九首目に能舞台の後見役のように置いてある。「意識」的な撰と配列なのは明らかであ面白い。わたくしの一首は第六十首めに置かれてある。各十首で十頁分が目次「見開き」で一覧でき、各十首めには、大西民子、大橋巨泉、平井弘、俵万智、佐々木幸綱、秦恒平、清水房雄、斎藤史、佐伯裕子とつづいて斎藤茂吉で締めくくってある。超級の歌人、堅実な歌人、新人、巨泉や私のようなど素人の変わり種、思わず破顔の利く顔と名前で、こうと決めた岡井さんの鼻息が聞こえそう。秦 恒平を「撰」の一文を感謝して読み返す。

☆ たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは
秦 恒平
今歌をつくろうとすると、手っとり早いところでは新聞の歌壇投稿であろう。新聞歌壇だけでひとり歌作を楽しむひともいるし、そこから進んで短歌結社に加わるひともあろう。後に小説を書くようになった秦恒平は、そのどちらでもなく、ひとりで歌を書いていたらしい。ここに挙げた歌が示Lているように、恒平の歌に一番近いのは、大正期の写実系の短歌だろう。たとえば島木赤彦、あるいはその弟子の土田耕平や高田浪吉など。昭和二十八年、十七歳の時の作品だというが、京都の何処かのお寺か社を思わせる、その静かなたたずまいに、若い性欲が突然色彩を変える。そして少年の眼に、うっすらと涙が溜まる。どうしようもない性的な悶え苦Lみ、そして浄化への願い。『カラマーゾフの兄弟』で言えばアリョーシャ的なものへの憧憬。それが実に素直に出ているではないか。「おもひの果てを」の「を」の使い方なども、見事なものである。こういう歌を読むと、歌に新しい古いなどはないのではないか、と思いたくなる。だがやはり歌に新旧はあるのである。ただ作者にとって新旧などどうでもよい場合がある。かずかずの歌を読み慣れた眼にも、こうした歌が慰めとして存在する場合がある。

わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも

という歌を挙げてもよい。十七歳の時の相聞歌である。リボンという外来語を除けば、まるで万葉の歌の模写に近い。それなのにどこか洒落ていて、初々しい。黒いリボンを手に巻いて、これから髪をこのリボンで縛るのよ、という、この仕種は、やはり近代の女のものなのだろう。言葉は古く、風俗は新しい。秦はこのあと十年ほど、寡作ではあるが歌をつくり、のちに歌集『少年』を編んだ。二十六、七歳ごろの作品に、
逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり

がある。女に逢わなければ無論辛いのだが、逢えば逢ったでなおのこと辛いのだという、人間男女の性愛の、千古をつらぬくまことの姿が、民謡調に乗せてうたいあげられている。桃の花の散る道は尽きようとし、それは若いふたりの道の行方でもある。思えば十七歳の時から十年のあいだ、ほとんど歌の調べも歌風も変わっていない。それなのに十七歳の時の幼い性欲の嘆きと、この桃の花の道の愛の心とは、どこか違っている。
(撰と文 岡井隆 歌人  一九九六年一月 朝日新聞社刊)

* 一九六九年、三十余歳に小説『清経入水』で太宰治文学賞をうけ「作家」として歩み出すよりよほど若くに私は少年「歌人」であった。その以前に「少年前」があったことを、近日に予定の次巻「湖(うみ)の本 154」が明かす。もう残るは、老耄懸命の文業のみ。

* 岡井さんの感想に、少年の幼い「性的なもだえ」「性愛」「性欲」といった言葉を用いてある、が、わたしにそんな強い性欲も性愛も無い、ただ問題・課題として「性」にはつよい関心があり、国民学校一年生から熱中愛読した『古事記』このかた、およそ生涯をつうじて考え続けてきた、重んじてきたとは謂えるだろう。
2021 8/25 236

* 此の機械には、じつに想像を絶して大量各種の私語と原稿、書き出しの原稿、創作の試筆稿が埋蔵されている。うかとそれらに目を向けたりすると、あっというまに半日一日、二日でも三日でも時を奪われてしまうが、またさほどまで書いた当人の私も興を惹かれてしまう。触りだしたら飛んで舞うほど時間を費消する。止められなくなる。まちがいなく私は晩年を歩んでいるのだ、そんなことで時日を費やしてはおれないのに、取り憑かれると振り切りにくい。そこから形を成してモノ・コトがめでたく誕生してくれると有り難いが。
2021 8/26 236

* 今日は、とうに亡い実父について「書きさし」てあったモノを、読み返してもいた。生みの母についてはともあれ『生きたかりしに』と題して選集の一巻を満たす長篇を書き置いてあるが、実の父親のことは、なんども試みながら手に余る生涯の簡明な異様とフクザツにいつも突き戻されてきた。
やはり書いておかねばならぬと思っている、その思いを今日もつよく刺激されたが、私はこの父の生前に前後三度しか顔を合わせていない。口を利きあったのは一度、三度目は死に顔であった。だが、この人は、異様なまでおおくの生きていた情報を断片でたくさん遺していった。母のちがう妹二人は、父葬儀のあと、それらを大きな風呂敷包みふたつに括って、ポンと私に委ねた。量はあるが理解にはくるしむ断片の集積なのである、が、当惑しているまに私は父の寿命より永く生き残ってもう残りは尽きようとしている。参る。

* 試筆めく書きかけてある小説へのこころみが、大小を問わねば少なくも一ダースほどあるのにも、どうしてくれると躙り寄られている。参る。

* 「物書き・作者」としてケッコウではないかという考え方はある。考えていても書けないよと謂う当惑もあるのですよ。
もう一度、陶淵明に聴いておく。

窮居して人用 寡く、
時に四運の周(めぐ)るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已(すで)に秋を知る。

今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不(いな)やを知らんや。
2021 8/27 236

* 「湖(うみ)の本 154」三校が出てきた。今回は口絵も入稿してあるが、やがて届くだろう。『少年前」の心稚かった日々へ帰る旅を楽しんでおく。

* 思えば私の八十五年に、あのころが「抜け」ていたナという時期は無い。けっして人づきあいが良い広いなど謂えそうにない私だが、じつは八十五年を通じてびっしりと「人」(先輩・先達・知友・男女とりどり)」への思い・親しみ・馴染みが途切れなく連続している。「女文化」の京都、それも祇園のまぢかで育ったおかげで、心親しんだ女性の名も面影も、びっくりするほど数多い。思い出に空白という時期が無い。
2021 8/28 236

* 頭の芯に、物語りはじめている「物語」がいくつか打ち重ね渦巻いていて、糸(意図)の先を心地よく落着いて引きずり出したいのだが、それには、目先、手先に「湖(うみ)の本 154」当今発送の用向きが多すぎる。手前を物静かに寛げ広げておいて取り組みたい。  正午
2021 9/4 237

* オリンピックという行事は過ぎ逝き、菅内閣の命運も事実上果てた。新型コロナ・ウイルス感染症の蔓延は、昨年来、まるまる一年半を経過してなお日々の数字に翻弄されるばかり、歩みを弱めている気配が無い。老躰には覿面コタエている、目も脚も背も、アタマも日々に退屈、弱ってきた。逼塞の日々はさりながら、幸いヒマで困ることは無いが、気組みに力の抜けやすく、全身から活力の洩れ零れるのが宜しくない。
次の「湖(うみ)の本」は、締め括りではなく、そのさかさま、文学生涯『少年前』最初の一歩を刻印した。過ぎし昔をもうとかく思う必要はなくなる、これのやがて仕上がるのを心待ちにしている、その先はみな「これから」の、文字どおり「老蚕作繭」の日々になる。

* 幸いに、脈は日々しっかり打ち血圧、血糖値とも安定している。歯は大方落ち、視力は乱れている、が、かろうじて文庫本の字がまだ読めている。さきの保証はできない。衰えを現に危ぶむのは脚・腰。自転車はやめ、歩く方へ力点をと思いかけている。そう思い、ポストへのついでに近隣の散歩をと妻と小一時間ゆるゆる出歩いてきた。
根が機械に弱く、機械クンとの付き合いにますます閉口する日々だが、何とか、少なくも「電送機能」を一日もはやく取り戻したい、が。
2021 9/6 237

* なにげなく、旧刊の「湖(うみ)の本 118 歴史・人・日常」を別の場所に置いて、気ままに読み返して行くと、これが我ながら豊かに面白いのにビックリした。こういう編集本のなかに私の人間的エッセンスが端的に表れていると気付くことができた。なにしろ読みやすい。「湖(うみ)の本」読者の皆さんに、数多い巻・巻のなかのこの手の編纂ものへ時折は立ち帰って頂けると嬉しい。
2021 9/9 237

* もう、要心はしいしいコロナも忘れていたい。自民党のバカ騒ぎなど見聞きしたくもない。
長年にわたり蛸の脚のように延ばしてある数多「中途仕事」のそれぞれ先々を継ぎつぎ、私の新作へこころよく突貫して行きたいと、それへも日々手を下している。
2021 9/9 237

* 機械の無かった昔にやたら走り書きした小説の眼のような原稿用紙が幾つも幾つも見つかる。それでも書き放しでなく散々に推敲の手がかかり、眼が舞いそうにあっちこちへ線で繋がっていたり。それをいま機械にさらに推敲しつつ書き写すとなると原稿用紙一枚に一時間で足りない。それでも作の寿命を繋いでやる、それはそれで楽しめる仕事になる。三十枚も書けていれば、その書写には日に十時間(とてもそんなに懸かってられない)としても一ヶ月かかる。是非にという仕事なら一と月が二た月でも掛けねばナランのが作家の本職なのだから仕方ない。『資時出家』『初稿・雲居寺跡』『チャイムが鳴って更級日記』『秋成 序の景』『黒谷』など、みな、その手で甦っていった。早くしてくれという書きっ放し古原稿の中途原稿の苦情が、このところ頻りに聞こえてくる。いやはや。二度の訪中国旅行記、旧ソ連・グルジア旅行記も大學ノートのまま。それをいえば高校大学就職勤務の昔の日記はびっしり大學ノートで二十数冊積まれてある。「読み・書き・読書」と自分の生活を要約しているが「書いた」モノの量には我ながら呆れる。
ま、可能な限り、心入れて一つ一つ一つと向き合うしかない、その間にも日々新たな書き物が増えるが、前世紀末このかたの大方は機械で書けている、つまり機械に保存してある。
2021 9/9 237

* 歌集『少年前』に 「観照 ー 感傷」 とあえて副題していた。人事や生活を謳おうという気をもともとあまり持たない歌詠みだった。
2021 9/10 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部に就職・結婚)

そのそこに光り添ふるや朝日子の
はしくも白き菊咲けるかも

あはとみる雪消(やきげ)の朝のしらぎくの
葉は立ち枯れて咲きしづまれり

* 歌集『少年』はこのさきにもう少し作がつづくが、「少年」としては、こう夫となり父となり親となったところで一仕舞い「了」としておく。日々なつかしく書き出しながら、私の短歌は、畢竟、感傷そして観照ではじまって過ぎてきたのを納得する。当今「現在」短歌の奇智と奇異とをゴロタ石の道を踏むように歩くには、所詮違和と不快を覚える、そこは、みなさん好きずきということで、構う気はない。 (朝に。)
2021 9/13 237

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