ぜんぶ秦恒平文学の話

読書録 2003年

 

* 河村君のスペイン日記から十一月分の最初の一週間を読んだ。とにかく具体的。日々の生活が目に見えるように分かる面白さ。ことに、こんなにも食うかと思うほど、克明に食事その他の飲食が、食べ物飲み物のひとつひとつまで記録してあり、関心のほどがうかがえる。語学学校の授業の内容も、同窓の各国人たちも名前まで正確に書いてあり、これに観察が追々加わってくれば面白さはさらに増すだろう。小さな店の名前まで、通りや広場の名前まで、きちんと書いてある、えらいものだ。「明日」には「トレド」へ小旅行するらしい。またパソコン利用についてもいろいろと興味深い折衝が書けていて、この分だと、河村君の「スペイン暮らし」にどっぷり付き合うことになるだろう。わたしのように海外に出ない者には、これぞ「電子の杖」である。それにしても、よく書いたモノだ、一年あまりを書けばわたしの「湖の本」の八冊ほどにも成りそうだ。適宜に目次と見出しを付けた方が便利だろう。
2003 1・4 16

* 源氏物語は古典全集版の第一冊を読み終え、二冊目の「葵」の巻に入り、今夜にも車争いになる。昨夜、巻頭の、文献学にふれたエッセイを面白く読んだ。
笠間書院から、井上宗雄さんの百人一首の本と雑誌「笠間」が贈られてきた。九州の今井源衛さんの著作集予告広告も、故藤平春男氏の著作集簡潔広告も届いた。錚々たる国文学者である、お二人とも。
新古今歌風の研究で名高い藤平さんにはご生前よくしていただいたし、今も存命なら、娘や孫達と隔てられてある我が家の久しい不幸を、仲人でこそなかったが、うち捨てては置かれなかったろう。
今井さんの学問には今も親しんでいる。亡くなった目崎徳衛さん、そして京都の角田文衛さんととともに、「三衛」先生、何れも心親しい。今井さんは清泉大で鴎外記念館理事長の長谷川泉さんと同輩であったそうな、おもしろいお話を今井さんに聴いたことがある。
木島始さんにも、また、新しいエッセイ集その他を頂戴した。「ペン電子文藝館」の「反戦・反核」室を充実させねばならない。
2003 1・10 16

* 福田(景山)英子の「妾(せふ)の半生涯(はんせいがい)」は長い自伝だが、その中から、英子が二十一歳のとき、大阪未決監獄に収監されていた際の「獄中述懐」を抜き出した。破廉恥罪の容疑ではない、すこし物騒な政治犯、だが、彼女の根には、万人の平等と自由、それに女権拡張の闘いがあった。それも含めての官権による投獄であった。
この一文を、英子自ら「女志士(ぢょしし)」の叫びと言っている。烈々の文面であり、是非にかかわらず、昔の人は(選ばれた少数であるが)若くして立っているなあと感じ入る。この英子を立たせたのが、若き岸田俊子であった。岸田が、禁中のうら若き才媛から牢獄の闘士と転じ、この国土に女権拡張の初の声を放ったとき、二十歳になるやならずであった。
こういう存在を、文壇の人ですら殆どが忘れている。わがペンの女性委員会の委員ですら、あやしい。「女性と戦争」を主題に語りながら、女性作家による反戦・戦争文学の一つも挙げられない人が、理事会へ来て臆面なく発言している。岸田にも福田にも思想家としての時代による限界はあったが、先駆者としての烈気も勉強も図抜けていた。今とちがい、何かというと女でも牢屋に叩き込まれ、寒夜を凌がねばならない悪時節であった。せいぜい平塚雷鳥どまりの、それも浅い知識でものを言っておしゃべりが済んでしまうほど、いまは平和なのだ。あやういことだ。
2003 1・11 16

* 東工大の後任の井口時男氏に以前にもらい、その時にも読んだ、「川嶋至が忘れられている」という感想を、たまたま、今日また読み直した。いい内容で、良く書いてくれたと、改めて感謝した。同じ小冊子で富岡某氏が「文学部的常識」の崩壊現象に触れているのも面白かった。これは初読。
2003 1・12 16

* 東工大の後任の井口時男氏に以前にもらい、その時にも読んだ、「川嶋至が忘れられている」という感想を、たまたま、今日また読み直した。いい内容で、良く書いてくれたと、改めて感謝した。同じ小冊子で富岡某氏が「文学部的常識」の崩壊現象に触れているのも面白かった。これは初読。
2003 1・12 16

* おとといだが、「葵」の巻をよんだあと、床に脚はいれたまま、しばらくものにもたれてぼうっとしていたが、もう少しと思い、目に付いたある編集モノの全集一巻をもってきた。わたしの「秘色(ひそく)」が入っている。
で、巻頭に出ていたある小説を読み始めたが、三十行と読めない。文章がぐさぐさで、ゆるゆるで、お話にならない。わたしの百倍千倍売れる人ではないかと思うが、文学の香りの一と垂らしもない。気分わるくイヤになって、気を変え、自分の旧作をのぞいてみた。「秘色」を書き始めたのは、「清経入水」が太宰賞の最終候補に挙げられています、応募したことにして欲しい、と筑摩書房から通知が来たころ、一九六九年五月ころだ。結果的にこの作品が、雑誌「展望」への事実上の受賞後第一作になった。
読み始めて、先の作者にわるいけれど、雲泥の差とはこれだなと思った。我褒めで気恥ずかしいが、ほんとうに文学の分かる人なら、すぐ分かる。心底、こういう小説が読みたくてたまらないという作品を、他に無いので、自分で書いたという作になっている。先の作との一のちがいは、「文体」だ。そして、構成。絵空事を書いているのに細部のリアルは作品に静かな空気を満たしている。冒頭の一章を読んだだけでわかる。
自作を褒めたいのではない。世にはびこる、有名だの売れっ子だのという作品の、あまりにふやけたものである例の多いのを、ひたすら呆れるのだ。久しい友の馬場あき子が、この作品を発表してしばらく後に、「秦サン、『秘色』は名作だよ」と、あの独特の表情で、一瞬こわいほどの目で言ってくれたのを思い出した。あれは嬉しかった。新潮社の池田雅延氏が、或る大家の「『額田姫王』も顔色なしですね」と真顔だったのにも励まされた。『みごもりの湖』へ強い跳躍板になった。
おとといの夜、琵琶湖の、みごもりの湖の、ながいながい夢をみていた。
2003 1・13 16

* 福田英子の獄中述懐は、本人は十九歳としているが、正しくは明治十八年、二十一歳烈々の発露である。岸田俊子の女権演説に発奮したのが、十八。翌年からは自らも人間平等を説いて演説の場に活躍し始め、板垣退助らの自由党志士たちにちかづき、やがて朝鮮改革運動を計画、自ら爆薬運搬や資金募集等に協力して、渡鮮の直前に逮捕投獄されている。その時の「獄中述懐」を、明治三十七年に出版の、自伝『妾の半生涯』から、前後を稍含めて抄出した。
英子の生涯は、この自伝の後になお多岐を加えてゆくが、ともあれかくもあれ、女性の権利と参政の意向を推進した大きな先達であった。投獄に堪えるどころでなく、政治活動に「一死」を覚悟していた青春であった。
いま、送稿した。
2003 1・13 16

* 出久根達郎氏の直木賞作品で長編の『佃島ふたり書房』から一部を抜粋、スキャンした。どの辺をと思案した。やはり古本屋さんのお商売に興味深くかかわるところがいいだろうと。

* 昨夜は水上勉、井伏鱒二、邦光史郎三氏の小説を少しずつ読んだ。入って行く文章は水上さんのが落ち着いていて惹かれたものの、いつまでたっても浮揚して行かず、地上すれすれを滑走しているようで、捨てた。井伏さんのはラフな書き方なのだが独特の文体は顕著すぎるほど顕著で、ぐいぐいと引きずって行かれる、流石だと思った。邦光さんのは所詮おもしろづくに読み物になってゆく。
「小説はおもしろければいいんですよ、おもしろくないと」とこの間、和歌山の神坂次郎氏が話していたが、何故それが書きたかったかハッキリ分かり、よく書けていて、おもしろいならいいが、ただおもしろづくに読み物に仕立てだけのものなんか、全くつまらない。テレビの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」や「必殺仕置き人」なみの小説なら、そんなもので時間つぶししたくない。テレビドラマで十分だ。映画でいうなら、「羅生門」や「七人の侍」なみの時代小説ならむろんガマンするが。「モンテクリスト伯」ほど図抜けて面白ければまだしも、動機のほとんど感じられない、稼ぐためにだけ書かれた読み物など、「失せろ」と言いたい、全然不用である、わたしは。デュマがエドモン・ダンテスにこめたモティーフは深刻であった。
2003 1・14 16

* あらためて見回してみると、この狭い機械部屋に、八人ものにこやかな沢口靖子がわたしを見ている。真ん中で、六代目扮する河内山宗俊のような谷崎潤一郎がわたしを睨んでいる。八回に一回しか顔を見ない勘定に、ご機嫌斜めなのだろう。いや、チガウか。
もう、そろそろバグワンに耳を傾けに、階下へ。今夜あたり、源氏と若紫の結婚の場面へ達するだろう。源氏物語を声に出して正確に読んでゆくというのが、こんなに美的に優れた体験だとは、予想していたが初の実感。「夢の浮橋」をわたるまでは……。
このところ死について考えない日々はない。
そうそう、札幌の友人が、山折さんとの対談を読んでいて、はじめのうち、噛み合わないのにハラハラした、対談は続くのだろうか心配したと言っていたのが、面白かった。わたしは、対談も座談会もヘタなのである。調子を合わすのは構わないが、そう思っていないことに、妥協して相槌が打てないのだから仕方がない。
2003 1・15 16

* バグワンと「葵」の巻のあと、瀬戸内晴美作「虚鈴」を読んだ。瀬戸内さんの小説で、おしまいまで読み通した最初の作品であるが、ぐいぐいと読み切らせた。かすかに重いし、かすかに俗味もあるが、興趣溢れて軽薄なところが無い。「ペン電子文藝館」に欲しいなあと思った。
2003 1・17 16

* 病院で待たされるのが必定のとき、何を読んで時間を待つかは大事な選択。今日は、中央公論社版の「日本の歴史」第一巻をもっていた。神話から歴史へ。こういうのを読み出すと、どんな小説よりもとは言わないが、大概な読み物よりはるかにひきこまれ、時間などすぐ忘れてしまう。よくよく歴史を読むのが少年時代から好きで、神話から歴史へといった「歴史の方法」の根幹に触れる学問的な追尋には、へんな話だが惚れ惚れしてしまう。
2003 1・17 16

* 昨日は、日本の歴史、映画「シックス センス」そして「葵」の巻。
ことに「葵」では、車争いで六条御息所と葵上との烈しい出会いがあり、生き霊、出産、死、そして、しめじめとした寂しい喪のありさまなど、劇的に展開した後、光は若紫をおどろかして結婚する。惟光がかいがいしく三日夜の餅に心を配る。
「葵」は、緊迫と展開に屈指の妙をもった明暗こもごもの素晴らしい一帖。
祭り見に出掛ける前に、光が手づから「千尋」と言祝いで若紫のながい黒髪を清めてあげる場面など、ことにわたしは好んできた。
床の上に座って小声で読む。たいてい深夜一時半か二時ちかい。桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、そして葵。美しい展開だ。現代の言葉で音読すればこうは行かない、とても原文が音読に適している。いい音楽に載せてゆかれる心地で、一日の終わりにもろもろを忘れて静かな別の世界へ紛れ入る。一つの作品で、こんなに回数を多く繰り返して読んできたものは、ほかに漱石の「こころ」しかない。
2003 1・18 16

* 歌人北沢郁子さんに頂戴した『忘れな草の記』(不識書院)は、数十年書きためられた所属歌誌等のエッセイをまとめられた本で、しっとりした佳い境涯が、落ち着いた声音で書き留められてある。自作他作の短歌が金無垢にちりばめてあり、美しい。生涯に打ちつづけられた黄金の釘ひとつひとつの感がある。
2003 1・18 16

* 平林彪吾の「鶏飼いのコムミュニスト」は、プロレタリア文学の中では型破りな、いや八方破れに破れかぶれの、不羈奔放作品で、ときどき、吹き出してしまう。どきどきもする。こういうのも、あるから面白い。
2003 1・22 16

* 「賢木」の巻。野宮の優艶かつ哀情。そして桐壺院薨去。源氏物語はこの先急ぎ足で光君の失意へ向かう。寝床に腰をおろし、ものに垂直に凭れ、読む。乏しい電灯のかげで、読み終えてじいっと座っている。
ゆうべは、そのあと、「石器時代の日本」を読みふけった。そのあとも、じいっと座っていた。
「日本の神話」をつぶさに科学的に検証してもらったあと、旧石器、新石器、縄文・弥生土器へと、この時代のことを、今度ほど興味深く身を入れて読んだことはない。例の考古学発掘の捏造事件がどれほどこの井上光貞氏の歴史記述に影響しているのか、ときどき気になった。
「日本の神話」の読みには、わたしも幾らか意見のある箇所がある。それにしても、神代記にも微妙なねじれがあり、コノハナサクヤビメやヤマサチヒコの話と、天孫降臨から神武東征の大筋とに乖離のあること興味深く、出雲神話の置かれようにも複雑な感慨がある。
邪馬台国の話まで進むと、その神武東征へ話題が戻る、その時に自分の頭にどれほどの新しい整理が効いてくるか、興味尽きない。
この『日本の歴史』は分厚い文庫本で二十六巻もあり、大方読んでいるが頭から通読したのではない。今度は時間を掛けて通読を楽しみたい。自分のために時間を使っていい時が、もう来ている。
2003 1・23 16

* 夜前は四時半頃まで邪馬台国や神武天皇、崇神天皇の頃を読みふけっていた。
邪馬台国の九州説、大和説の角逐にはこれまで身を遠のけてきた。わたしの気持ちとしては、歴史的に北九州が先行して大陸半島の文化を受け容れたには相違ないし、現実に大和に統一政権ができたことも事実。そして勢力東遷もまずまちがいないところと想っていたので、卑弥呼の身を、大和におくか九州かという議論自体にはさほど関心がなかった。むしろ「ひみ」が朝鮮語でひとつには光明のような、ひとつには蛇のような意義をもっていることに興味があった。そして大和説には九州説よりなにとなく無理のありそうな感想は否めなかった。今も、これはどっちだってよいと関心の外へわざと置いている。
天孫が日向の高千穂峰に降臨した神話など、事実としては、むろん信じていない。稲魂に等しかった天孫は、特定の高千穂に降りたのでなく、「高千穂」の文字が示唆しているような農耕の場なら、何処にでもいつにでも降りたって良い神霊であったろうから。
だが九州には、榊に、玉と鏡と剣をかける祭事なり示威なりが、今に至る皇室の三種神器とまぎれない類縁をもってきたことは、不動の事実。そういうことは頭にある。

* 井上光貞氏の本で、神武天皇が、人皇の初めであるより神話の最後の存在と見定めているのは、学界の定説に近い。つづく綏靖から開化までの八帝が架空の非在天皇であることも、もう常識。
つづく十代崇神、十一代垂仁、十二代景行天皇には実在したと想われる傍証がいろいろに検討されている。半ば以上の常識である。が、つづく十三代成務、十四代仲哀天皇も実在感がかなり合理的に否定されているということを、今回、教わった。
さ、そうなると、次は倭建命と神功皇后のことになる。
さきに、わたしのかねての認識をいうと、倭建命神話は創作された傑作、神功皇后は実在したのではないか、と。井上氏の(学説を公正に援用した主観的な歴史記述であり、記述の姿勢は信頼できる。)本では、倭建命も神功皇后も、どうやら実在しない架空の神話的実存であるらしい。まだ、其処へは読み進んでいない。外へ書いて原稿料をもらった最も早い時期の評論ふうエッセイ、「消えたかタケル」の著者として、興味津々。

* なんとなく、子供の頃の昔に返っているような錯覚を覚える。祖父と叔母とが居た京都新門前の家の二階は、おさない私の上がって行くのはコワイが、不思議な魅惑の他界のようであった。そこには、階下の両親の現世には存在しない「書物」が宝蔵されていた。いや、宝のように感じていたのはわたしだけで、わたしが秦の家に入っていらい、本というモノを読んでいる大人の姿など、タダ一度も見た記憶がない。
いちばんわたしが早くとびついたのは、本ともいえない仮とじに形ばかりの白い表紙の、一冊ずつはかなり分厚い、今想うと通信教育の「教科書」であった。わたしの愛読したのはその中の「日本国史」一冊で、表紙もコグチも、わたしの泥手で色変わりしすり切れるまで耽読した。むろん、国史は神代から語られていた。
読書の下地に、国民学校一年生の三学期、担任の女先生にお年玉かのように戴いた「日本の神話」一冊があった。古事記を読み下したような本で、後年に古本屋で手に入れた次田潤氏の編になる「古事記」か、それと類似の一本であった。
何が何といっても、わたしのお家藝は、先ずは国史の丸覚えであった。いま、井上氏の一巻で始まる「日本の歴史」シリーズを目の前にして、あれあれ、あの頃へ戻るのかとすこしばかり呆れている。去年の元旦に歌った、
ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し
もとの平らに帰る楽しみ     六六郎
を、いままさに味わっている。フーンという気分だ。
2003 1・25 16

* 倭建命と神功皇后が、非在の仮構、神話的創作の人物であるか、つぶさに背景資料とともに解き明かされ、ゆっくり、よく、胸に落ちた。昔に書いた「消えたかタケル」の所感を改める必要の、多分、ないことも教わった。
わたしのなかで、ま、豊かではないが中国の歴史もそれなりに蓄えがある。だが、朝鮮半島の正しい歴史認識のないことを、実は嘆いてきた。少年の昔に、天智のむかし白村江での大敗や、百済新羅とのややこしい折衝や角逐を書いた読み物を胸轟かせて読み、その程度のことは識っていても、他には持ち合わせは乏しい。井上靖の「波濤」や立原正秋の小説以外は、むしろ李朝や井戸など朝鮮の焼物にしか関心がなかった。しかし利休や楽茶碗を理解するためにも、朝鮮のことはもう少しは深く知りたかった。
で、もう二十年も前に朝鮮史の定評ある概論二巻も買い置いてあるのに、ついぞ手を出さずにきた。日本史と併行して、それも読み始めようかなと今思っている。
2003 1・26 16

* 明け方までに、「日本の歴史」第一巻を読了。応神王朝から継体王朝へ切り替わり、三世紀間に渡る日本の朝鮮経営は潰えた。そのかわりに日本に統一王権がほぼ安定した。三世紀もの間、日本は朝鮮半島の出店の経営にてこずりながら、軍事行動を繰り返していた。一時期は任那を拠点に百済国を属国扱いさえしていた。新羅にも高飛車だった。それも潰えた。後発の新羅がつよくなり百済は衰えている。
高句麗までも日本は攻めているが、高句麗はつよかった。高句麗の版図は今の北朝鮮国に相当している。この当時の日本と朝鮮半島との交渉は、軍事関係は、秀吉の頃よりも長くまた執拗で、密接であり、多くを得て多くを喪った。だが、その間に日本は地固まったと謂える。
継体王朝の登場は、劇的で、応神王朝とのあいだに断絶があるのか血縁は繋がったのかは、あまりに微妙。万世一系はかなりあやしいと見られる。しかも継体天皇の三子、安閑、宣化、欽明三天皇の即位事情も複雑を極める。
わたしは、秦の父に、中学の頃いきなり「花筐」という謡曲を教えられたので、登場する後の継体天皇には自然関心があった。越前に、なんでそんな応神五世の孫王がいたのか、どうしてそんな縁遠い皇子が、大和なる天子の位に近づいて即位が出来たのか。日本の経営した任那日本府が最期を迎えたのと、この継体天皇の最期とが、ほぼ同時期であったというのも印象にのこる。

* 十五代応神天皇は「確実に」実在したといえる天皇の最初の人。しかしその前の、崇神、垂仁、景行三代の天皇にも、実在の形跡は、ま、濃いと言える。だが、そのあとの成務、仲哀二代は影が極めて薄く、非在と言える。景行の子とされた倭建命も、仲哀の皇后で応神の母とされる神功皇后も、創作された架空非在の人。この辺で、王朝の大きな交替があった。応神が騎馬民族であったかどうかはともかく、西国から攻め上って崇神王朝にとってかわった事実は、否認できない。応神王朝は、以降、応神、仁徳、履中三大古墳陵をシンボルに、雄略天皇らの「五帝」時代に推移し、中国との密接な関係の中で大和政権を維持しようとした。しかし豪族・姻族間の内紛で王朝は弱体化してゆき、ついに継体王朝に取って代わられている。雄略の頃に取材して、わたしは小説「三輪山」を書いている。

* 継体王朝のときに朝鮮半島の拠点をまったく喪うが、一方では我が国に仏教が伝わってくる。仏教との関連で、葛城、平群、大伴、物部、蘇我氏の諸勢力が、朝廷の周囲で烈しく移動し交替していった。継体王朝の六世紀に、日本の神話や歴史の基盤資料となった帝紀や旧辞などが国家的な意志と意図とで集約され整備されていった。

* 面白くて、読みやめられなかった。一冊が数百頁の文庫本、図版も多く、井上光貞氏の記述は周到で、説得力に富んでいた。第二巻は直木孝次郎氏にバトンタッチし、聖徳太子から大化改新へ、そして近江朝から壬申の乱へ移動する。記事は緻密の度を増してゆくだろう。この時期に取材してわたしは小説「秘色」を書いている。
2003 1・28 16

*「葵」につぐ「賢木」の巻は、劇的な展開をまたおしすすめている。
「葵」では、車争いをめぐる光・葵夫妻と六条御息所との生き霊事件と葵の出産死、その後の寂しい展開にからんで、朧月夜との危うい出逢い。藤壷との暗い秘密、また若紫との結婚物語。みどころ豊かに力感あふれた結構は、大いに読者をひきつけた。
「賢木」はこれに劣らない。伊勢の斎王として下向する若き姫宮と、母御息所との、光をまじえた野宮の別れがあり、桐壺院の崩御と政局の暗転。そして朧月夜尚侍と光の密会露見。光源氏の政治生命は危殆に瀕する。
堂々とした展開で、舌を巻く。

* 森田草平の「煤煙」をどんな昔に読んだことか。長編であった。作者もこれぐらい書くのに苦労した作品は珍しいようだが、新聞だから、何とか休載をはさみながら苦汁を絞られるようにして書きあがった。そうでなければ書けてなかったろう。前半には作者の根の哀しみや苦しみが色濃く投影して、それはそれで小説として成功しているが、後半は師の漱石にも厳しく批評されている。なにしろ、前年に作者はあの「青鞜社」の太陽になる平塚らいてうと塩原に情死行、未遂に終わったその経緯を赤裸々に書いているのだ、新聞の読者もスキャンダルを憶えていたから、森田草平は一躍「有名な小説家」の仲間入りをした。だが、書くのは難渋した。らいてうを書いたという作中の真鍋朋子という女が、容易ならぬ「新しい女」で、漱石は「人工的なパッションをかきたてて」生きかつ書かれた女と喝破しているし、喝破の勢いで「三四郎」の美禰子、アンコンシャス・ヒポクリシーを書いたと言われている。「虞美人草」の藤尾も。
この長い作品を「ペン電子文藝館」にいれることは出来ないが、「金色夜叉」の熱海を抄出したように、思い切って終幕の塩原情死行を引き出してみた。いま、その校正にかかっている。
これがまあ、男も女も、「変わっている」のだ。

* わたしの幼い、また若い頃の京都では、人物評のかなりの例が「変わっとる」「変わったはる」「変わった人」であつた。「あんたて、変わってるなあ」と、どれほどわたしは人に吐きかけられたろう。あまり自覚はなかったのに、判ででついたように「変わってる」そうであった。そのわたしが呆れるぐらい「煤煙」の要吉(草平)と朋子(平塚明子)は変わった一対として、情死しに塩原へ発つ。二人とも舞台を踏んで演技しているかのように奇妙である。自意識の塊のようである。ともあれ、そういう女の一人を成功か失敗かは別にして造形して見せた点で、草平の此の作は、まちがいなく代表作である。

* 森田草平は優れた翻訳者であり、海外の名作をおびただしく紹介してくれた。わたしもドストエフスキー原作の「悪霊」一冊本を大事にもっている。
2003 1・29 16

* 堺利彦といって覚えている人は少なくなったろう。堺枯川といっても同じだろう。日本の社会主義者の本当の草分けの一人であるとともに、その全体を落ち着いたものにする佳い錘の役を果たした人だと評価されてきた。ほんとうなら、というのも変だが社会主義へ行かなくても済んでいた人であったかも知れない、のに、真っ直ぐに、堂々とその世界に歩み入って、重きを成した。ほんものの社会主義者として生涯を全うした。この人がいたので、幸徳秋水らが大逆事件で粛正されてから後も、大杉栄が虐殺されて後にも、日本の社会主義が次の世代へ生き延びたと言われている。温厚で開豁の人であったことは、自ら書いた「堺利彦伝」のおおらかな筆致が多くを語り明かしている。
自伝は、彼が社会主義者になる前で筆をおかれてある。抄出したあたり、堺は、九州の豊津から旧藩主の奨学金を得て上京した一学徒であった。あきらかに或る時代の若き秀才インテリの生活環境が、挫折や哀歓とともに飾り気なく記録されていて、そういうものとして読んでも、面白い。鹿鳴館が流行り、二葉亭の「浮雲」が近代文学の幕をあけた年に堺利彦は東京の高等中学校に入学していた。百十数年の昔である。
2003 1・30 16

* 内田百閒の「漱石先生終焉記」と「花袋追慕」を読んだ。この作者の作では、「掻痒記」で腹をよじって痛くなったことが二度もあり、また読んでみたが、やはり笑い始めると危険なほどなので、途中で気を逸らせた。この人の名の「間」は明らかに誤字なのだが、「閒」の字は、まだ図版貼り付けでなくては安定して送信できないのではないか。困ったことだ。
2003 1・20 16

* 田島征彦・征三兄弟の『往復書簡』(高知新聞社)を戴いた。ジャレあっていて、時にケンカ腰にもなり、おもしろい。ともに画家・版画家で絵本作家。弟はエッセイストでもある。土佐弁をおいしいご馳走につかっている。むろん二人の繪やイラストが入る。何に感動するというのでもないが、仲の良い才能豊かな兄弟が羨ましいという気にはなる。たいした文才である。

* 川本三郎氏の『林芙美子の昭和』が佳い。この人はこの数年優れた仕事を連発されていて、敬服している。この芙美子に関する論考の、とっても読みいい佳い散文なのに、わたしは賛嘆を惜しまない。当今の批評家のなかで、最もこなれた美しい散文で大切なことの書ける書き手。荷風に関して書かれた何冊かも、大正を書いて潤一郎にも及んでいた本も、東京を縦横に語った何冊かも、そして懐かしい映画や映画監督を語った幾つもの仕事も、みな、戴いて私は愛読してきた。
会ったことはない、本の贈答だけでながくおつき合いしてきたが、いちばんよく読んで楽しめる書き手として、ひとまわり近く若いが敬愛するお一人である。

* 三好徹氏の『三国志外伝』は本巻五巻の、ま、面白い付録のようなもの。『ゲバラ』のような力作もあり、三国志もあり、「ペン電子文藝館」に公開された『遠い声』のような出世作もある。ペンの副会長。

* 都立大の安田孝氏から贈られてきた共著の『妊娠するロボット』は注目に値する文学研究の論考集で、「1920年代の科学と幻想」という興味深い副題がついている。名前のない会を結んで、かなり畑の違いそうな気鋭七人の研究者達が熱心な討議を経ながらまとめ上げた一冊は、目次に上がっている芥川、有島、賢治、川端、幹彦、谷崎と拾うだけでも、価値ある意図が見えてくる。普通の版型で普通のフォントだともっと読みよく読者を惹きつけたろう、それでもこういうグループの熱意と企画には感じ入る。応援したくなる。
名前や大義名分ではなく、一人一人の実力が発揮される自在なグループが佳い仕事を積んでくれるのが何よりである。一昔も前に近世学の若き学徒が、年輩の先達をとりまくようにして充実した研究成果を雑誌で出していた。いま地位をえている田中優子といった人がそんな場所で早くに目に付いた。出てくる人が当然のように出てこれる下地づくり、必要なことだと思う。

* 春日井建氏が序を書いている黒瀬珂瀾第一歌集『黒耀宮』が送られてきた。美少年っぽい。少年と言うには少し青年以上の年齢かも知れない。外国語の人名や名詞や形容詞がふんだんに踊っている。
男権中心主義(ファロンセントリズム)ならねど身にひとつ聳ゆるものをわれは愛しむ
空をゆく銀の女性型精神構造保持(メンタルフィメール)は永遠をまた見つけなほすも
新しい歌を作ろうとすると、こういう自己主張になる。これはもう少しも珍しい傾向ではなく、特別尖鋭なわけでもない。年寄りは共感しないだろうが、大なり小なり歌壇で指導的な地位を謳歌している大勢は、なんとか新味を追うことに一度は成功してきたのだ。そういうものの中からホンモノを見つけたい気持ち、わたしは持っている。
言っておくが、まだ爆発する前の『サラダ記念日』の歌を、NHKの、噺家鶴瓶が司会していた「YOU」とかいった番組で「若者言葉」として早くまだ爆じけていない時に取り上げ、紹介したのは、わたしであった。
歌集になって贈られてきたとき、これはいわゆる発売ゼロ号雑誌のようなもの、創刊号、第二号にこそ期待すると返辞を書いたのを覚えている。
2003 1・31 16

* 堺枯川の自伝を校正していると、彼は「嬉しい」「嬉しかった」をそれはもう連発に連発する人なので、はじめビックリしていたが、しまいに楽しくなってきた。彼は学校へ入って数学や理科もみな英語で教わっていた。それが「嬉しくて堪らなかった」と来る。洋食を食べても牛肉を食べても「嬉しい」のである。嬉しいという気持ちがいつまでももてるのはいいなと、感化されてしまった。
2003 2・1 17

* 鈴木三重吉作「千鳥」を電子文藝館の招待席に送り込んだ。ちょっと稀有な味わいの作品で、夏目漱石は一読して「傑作」といい「三重吉君万歳」と激励したばかりか、高浜虚子の「ホトトギス」に推挙し、さらに触発されて自分も名作「草枕」を書いた。三重吉は終始一貫して徹頭徹尾のつくりばなしだと強調しているが、微妙であり、彼の夫人は作中のヒロインと同じ「ふじ」さんであった。ただ夫人は京都の人と聞いている。作品の舞台は瀬戸内海の能美島。
そういうことよりも、此処に書かれている家や家族と語り手との偶然の関係が、不動の「身内」と化して玉成している、そこがわたしには懐かしい。丹波に疎開していた頃に世話になったわたしの長沢家のことなども思い出してしまう。三重吉は病気療養のために能美島に渡っていたことがある。
ともあれ純な物語の書きぶりで、こういう風には他のどんな作家も書けないと漱石が褒めたのは、若者への激励だけとは思われない。空想癖に富んでロマンチックな作者の資質の美しく発露した作品。矢崎嵯峨の舎の「初恋」や伊藤左千夫の「野菊の墓」に劣らない。

* 堺枯川の「堺利彦伝」の抄出分も、うまく纏まったと思う。百年前のいわゆる秀才の変貌と成熟とが、おおらかな筆で率直に書かれている。抄出した限りでは、此処から日本の社会主義者の一人の典型像へ転じてゆく「ゆくたて」が興味深く想像されるが、自伝は惜しくもいよいよその方面へ動いてゆく直前で、中断した。共産党事件で、堺がながく投獄されたからである。
短い抄出分に実に大勢の友人や先輩や時の人の氏名が出てくる。この人が周囲の人間に向けていた眼が常に具体的に働いていたことを示していて、それも個性である。
2003 2・2 17

* 「須磨」まで来た。須磨まで来ると、さしもの源氏読みも前途遼遠で棒折れするというが、その体験はない。「賢木」のあとの「花散る里」の巻がごく短いけれど、品のいい物静かな風情の巻で、一息に読んでしまえると、もう「須磨」になる。
須磨の地へいきなり着くのではない、しばらく、もの寂しく、都での光うつろうさまが描かれる。別れである、いろいろの。藤壺は、さきの巻ですでに髪をおろして仏門にあり、紫上はひとり都にとどまる。六条御息所は遠く伊勢にある。末摘花は忘れられている。
御息所が霊となり心乱れることは、このさきしばらくは無く、御代が変わって帰京後に、後に秋好中宮となる娘をのこし、やがてはかなくなる。生きて霊に、死んで霊に。現を超えてしまうことでかえって物語の中にリアリティーを主張している女性であり、これまでも、源氏物語で女というとよく取り上げられることでは、わたしの語ってきた桐壺や宇治中君などより人気が高かった。わたしは、本筋からこぼれ落ちている人とみて、少年の頃から、とくべつには親しまなかった。わたしは「紫のゆかり」をもとよりとして、明石とか玉鬘とか、しっかりした女性、ないし本筋に意味をもった女達に、多く印象を得てきた。更級日記の著者が憧れたほど、頼りない浮舟にも惹かれたりはしなかった。
2003 2・3 17

* スペースシャトルの空中分解は不慮の事故とは思われない。咄嗟に中止の勇断が出来なかった。

* こんなのに比べると、田島征彦・征三兄弟の「往復書簡」はピュアーで熱い。繪の持ち味も見れば見るほど力あるもので、類例がない。けっして多数派には成らないだろうが境涯の尊いものを感じ、読んでいて気持ちよく心を焙られる。この「往復書簡」なれ合いの生やさしいものではない。二人の血潮が煮えているから佳い。

* 法隆寺の再建非再建論争は長い間のものだが、これが若草伽藍跡の発掘で決着が付いた経緯を、「日本の歴史」で復習した。聖徳太子についても。さ、こうなると、あまり学者筋から重視されないままの梅原さんの聖徳太子論に、もういちど迫ってみるかなという気がしてくる。こう気が多くては道千里だが、なにも急ぐ道ではないのだし。
2003 2・3 17

*「須磨」の巻は、須磨へ発つまでが、うら寂しい。まだ幼い息子の夕霧のいる致仕の大臣のところへ源氏の行くときは、いつも寂しい極み。葵上はもういない。が、舅は心から婿を迎えているし、婿の義理の父母をうやまい愛している姿は、まことに美しい。娘であり妻であった葵上を欠いてしまってから、ひとしお彼らの相想う心映えが美しい。
さ、今夜はそういう別れの最高潮で、源氏は亡き父帝の山陵に詣でる。そして、いよいよ須磨へ。声に出して読みながら、ときどき声のつまることがある。
2003 2・6 17

* 志村坂上の凸版印刷で、昼食し、現場と打ち合わせをし、初稿ゲラを手渡して。
あれこれのあと、地下鉄三田線ですうっと日比谷まで乗った。大化改新のあと白雉年の改革進行から孝徳天皇・中大兄皇子の確執と、天皇の死。その辺を読んでいたから、あっという間に日比谷まで。「きく川」で、菊正と鰻。有馬皇子の陽狂と窮死のあたりを読みながら満腹。お酒もまわって、有楽町線できもちよく帰宅。
ときどきぐっと冷え込んだものの天気は晴れてここちよく、ほんとはもうすこし別様に街を楽しみたかったが、菊正の一合に、めずらしく酔いがまわった。
2003 2・6 17

* 高史明さんにメールをいただき、清沢満之の全集月報に書いた文章を送ってもらった筈なのに、機械中を探索しても見あたらない、どこにも。錯覚なのか。まさか。うっかり削除したのか。時折あることだが。いま、高さんが何を考えておられるかは知りたい。
2003 2・7 17

* 昨夜もバグワンと源氏のあと、日本史を読んでいた。大化改新のあと、功労あった左大臣の阿部が病没する。するとすぐ、中大兄皇子は蘇我日向の讒言を簡単に受け容れて、同じく右大臣蘇我山田石川麻呂を殺してしまう。石川麻呂に謀叛の形跡は何もなかったことがわかり、日向は流される罪に当たる。彼は石川麻呂の弟であった。この男の名はその後現れない。
さて孝徳天皇が難波京で孤独に憤死したあと、その子の有間皇子は甚だ危うい立場にいたが、蘇我赤兄に唆され、中大兄皇太子が執柄する斉明天皇の政権に謀叛を起こそうとする。赤兄は即座に牟呂の温泉にいた天皇・皇太子に訴え、有間を逮捕し、殺してしまう。この蘇我赤兄も石川麻呂(そして日向)の弟であるが、さきの日向とこの赤兄の名は、思料
文献に同時には現れない。日向の時に赤兄の存在は知れず、赤兄のときに日向は現れていない。直木さんの歴史記述では、石川麻呂、日向、赤兄は「三」兄弟としてある。わたしは、日向と赤兄とは名を変えた同一人で中大兄皇子の腹心であり、蘇我赤兄は皇太子が称制しのちに即位した天智天皇の近江王朝でも、大臣として重きを成している。しかも天智の薨去後には継嗣弘文天皇をほぼ裏切って天武天皇の攻勢のもとに死に至らせている。
そればかりか、この赤兄という「蘇我殿」は、じつは千葉県の久留里にまで逃げ延びて此処に朝廷を開いていた弘文天皇を、天武政権の命をうけて追いつめ討ち取ったという伝承が、久留里に遺っている。御陵と称するほかにも弘文天皇や蘇我殿遺跡は数多く、近代に入っても、滋賀と千葉とで御陵の本家争いが有ったほどである。
この顛末と推理から入って現代にも及んだ連載エッセイが、わたしの『蘇我殿幻想』(筑摩書房刊・そして湖の本エッセイ創刊第一冊)であった。雑誌「ミセス」に連載し、各地に取材した。ついてくれたカメラマンが島尾敏雄の子息、作家で写真家の島尾伸三氏であった。
日向と赤兄とは同一人であるという、かつて云われたことのない(筈の)推定を、わたしは、ほぼ確信している。生き方や人を陥れる手口が酷似している。
この推定を追いながら、わたしは、さらに平将門の乱や、更級日記に書かれた竹芝寺縁起にも推理・推測を繋いでいった。エッセイの体で、淡々と、少し寂しやかに昭和まで書いていった。
2003 2・7 17

* さ、階下におりて本を読んで、やすもう。昨夜は、歴史のあとへまだ田島双子兄弟の「往復書簡」を楽しんでいた。こんなに佳い兄弟、知らない。口喧嘩も真剣勝負だが、なにより、藝術に真剣、そして徹底した野党精神。征三氏の日ノ出廃棄物処理場での奮戦は立派だった。
2003 2・7 17

* 前夜読み上げた田島双子兄弟の「往復書簡」は愉快であった。ハッスルということばの一番いい爆発ぶりで、言葉もいいが、ユニークな、お行儀のいい人にはユニークすぎるかも知れない、二人のイラストや繪が、造形が、ふんだんに挿入されていて面白い。二人とも作品が紙枠から大きくはみ出てしまう作風で。それと高知弁。こんなに高知弁に惹かれるとは思わなかった。
もう一度云うがお行儀のいい読者は逃げ出すかも知れない。が、この人達のパッションは純で、世界的で、すこしも狂っていない。斯く生きるのが幸せで大切だと思わせる力に溢れた、書簡と作品の往来に、心から拍手。
2003 2・8 17

* 銘記したいと取り置いた冊子がある、友人奥田杏牛主宰の俳誌「安良多麻」新年号に、彼の師石田波郷のことばを、「賀状にこめ」た一文に書き写している。
「美の想化を止めろ、感覚を捨てろ、説明を捨てろ、素材を追ふな、や、かな、けりを用ひよ、句が非常に長い、こんな間伸びした力のない表現でどうする」と。「お前に余力などあるはずがない、一句に徹せよ、自分を磨け、自分をもっと見詰めよ」とも。
俳句の事だけではない。ことに自身の余力を無自覚にたのんで一期一句(一期一詩、一期一作)に徹しないで二の矢をかかえこむ姿勢を波郷は叱っている。多く垂れ流せばいいというものではない。
2003 2・9 17

* 率直に言うと、長谷川伸の後進を導く「小説・戯曲の作法心得」は低調で、たとえば石川淳の短編小説の覚悟を書いたモノや、その他の優れて藝術的な仕事をしてきた人達の作法や心得にくらべると、むろん頷けることの多いなりに、うわついていた。取材の仕方など、手練れの書き手の用意がみえて敬服もするが、文学の根底をなす文章表現の厳しさにでなく、また作家の動機の深さについてでなく、要するに、蓄えた話材の処理の仕方ばかりが大事そうに語られる。要するに、その作品は、作品の材料は、誰が書いてもかまわないのである。自分はこういう風に料理するという話である。
作家の甲乙丙丁が、甲は甲の、乙は乙のやむにやまれぬ内面をどう作品に迸らせているかの話題では少しもない。手練手管のたぐいになっている。せいぜい手法である。

* むかし、「群像」の鬼といわれた大久保房男編集長が、歴史小説は所詮だめだと喝破した。歴史小説はいい、時代小説はくだらないと、わたしもやはり思う。もっと昔に、近松秋江が谷崎潤一郎の書いた歴史物語を、こういう書き方なら誰にでも幾つでも書けると切り捨てて、谷崎を鼻白ませた。その時、谷崎の盲目物語にせよ武州公秘話にせよ聞書抄にせよ、まして少将滋幹の母にしても、その辺の安手な時代読物と一緒にしては困るよと、寧ろ秋江の言をわたしはそのままは受け容れなかったし、大久保さんのいわくにも、わたしなりの限定をもうけ、苦情すら言ったことがある。鴎外あり藤村あり鏡花もあり谷崎もいる。すべて作品の根底に卓越した動機と文体・文章表現の妙味がある。通俗読物には手あかにまみれた類型表現や字句がうじゃうじゃとぼうふらのように作品の水を濁している。気稟の清質がどだいチガウのである。

* 同じ長谷川伸の「大衆小説の誕生記」というエッセイを読むと、講談社の沿革が語られていて、大衆小説の淵源が、「講談や浪花節の筆記」であったこと、まさしく「ペン電子文藝館」がその近代文藝の流れの最も古いところに三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」を据えたのが正確であった事情を証言している。
時代読物は、最近評判のいい藤沢周平にいたるまで、要するに講釈や人情話の筆記の延長上にあり、それは現代読物の場合でも、素質として全く一緒なのである。大久保さんがダメといい、例えば前の「新潮」編集長の坂本忠雄氏が、繰り返し、優れた文章・文体による動機のつよい作品でなければと説きつづけているのも、それなのだ。
読み物は読み捨てのおもしろづくだから、程度低く読まれて、売れる。それだけのことである。「講談」社の名乗りのもとになった雑誌「講談倶楽部」は、「初め講談落語の速記を載せそれによつて売る雑誌なり」と、実地に関わっていた股旅物の手練れ長谷川伸がハッキリ書いている。いま中里介山の「愛染明王」を校正しているが、この人も関わっていたようだ。
介山の小説は、だが、ただの読物の域を抜けるか、抜けよう、としている。谷崎が「三人法師」や「二人の稚児」などを書いていた感じにちかいとも言えるし、この「愛染明王」に限って謂えば高山樗牛の評判作「袈裟と盛遠」の線上にあるとも見える。校正は中途だが、親密に読み進めている。
直木三十五「南国太平記」五味康祐「喪神」中山義秀「碑」円地文子「なまみこ物語」室生犀星「かげろうの日記遺文」田宮虎彦「落城」芥川龍之介「地獄変」泉鏡花「天守物語」真継伸彦「鮫」辻邦生「安土往還記」など、鳴り響くような時代物秀作はいくらもあり、すべて文学の命を輝かせている。近松秋江も大久保房男も言い過ぎている。が、やはりかなりのところを峻烈に言い得ていたのも確かである。

* これも「言い置い」ていい。意図して、かなり数多い、プロレタリアや社会主義者の抵抗文学や文章を「ペン電子文藝館」に取り上げてきた。彼らの作品や取材、或る意味であらけずりで粗雑・雑駁かもしれないが、股旅物や人情話などのノーテンキな講釈まがいと比べると、生きるか死ぬかの、のるかそるかの、瀬戸際の「生活と人間」を真剣に追及した作品が多く、他をして閑文字と読ませかねないほど、辛い訴求力をもっている、むろん、優れた作の場合は、と即座に断らねばいけないが、である。文学へ向かう姿勢は、純。
2003 2・9 17

* 中里介山の「愛染明王」は、この作者の持ち味であろう、一種の観念小説である。袈裟御前をはさんで、文覚こと・元の遠藤武者盛遠と、渡辺渡と、の有名なドラマに味なクセをつけている。どこか、中世の説話に見える三人法師などの感じでもあるが、谷崎の「無明と愛染」も思い出させるし、文体はまさに介山のもの。ま、話の筋はもともと知れていて、一種の議論を持ち込んでいる。一人で同時に二人を愛せるのは、一人で一人しか愛せないよりも愛が旺盛なのである、などと女の口での議論も飛び出す。おもしろかった。 2003 2・9 17

* 天智天皇という人を、国史に親しんでいちはやく意識した記憶がある。神武、推古、天武、聖武、桓武、後白河、後醍醐。今なら、崇神、応神、継体、また持統、嵯峨、醍醐、一条、白河、後鳥羽なども加わるが、ことに天智天皇には関心があった。母の国の近江に都したことも加わっているだろうが、好きと言うより、無視しがたい重みを感じていた。
小説「秘色」で近江京の崇福寺址に的をさだめ、斉明朝から壬辰の乱を、現代の視点から幻想的に書いたときも、作品世界に、黒い牛のように重きを成して隠れ住んだのは天智天皇であり、その掌の上で、天武も弘文も、また額田姫王も十市皇女も働いた。ことに十市皇女の表現に工夫した。
夜前は、天智の称制と即位、近江遷都、そして壬辰の乱の果てるまでを、またつぶさに「日本の歴史」でおさらえした。このあとへ、「蘇我殿幻想」がつながり、そして暫く間をおいて、恵美押勝の乱をやはり現代の愛の物語から絡めて書きひろげた、ま、代表作の「みごもりの湖」がつづく。
京都に都の成るまえの時代に、「三輪山」「秘色」「蘇我殿幻想」「みごもりの湖」と、けっこう上代を書いてきた自分に改めて気付く。推進力は、「天智」へのいわば懼れまた畏れであったのかも知れない。
いま一つ溯って常陸国風土記の世界を書いて、これも現代の恋から遙かに溯った幻想の神話的物語が、袋田の滝つまり「四度の瀧」である。また現代ロシアから京都へ、千年二千年をはせめぐる恋物語の「冬祭り」の取材は、もっと民族的に根が遠く深い。
さて歴史は、飛鳥浄御原京、そして藤原京、平城京へと転じ、律令時代、奈良七代に入ってゆく。光源氏の時代へ到達するのには、まだ分厚い文庫本を二三冊以上読まねばならぬ。
天智・天武・持統。凄いというに足る時代であった。天皇が自ら「政治」したといえる最も重量感有る三継投が、この、天智・天武・持統。しかし、その陰で、蘇我蝦夷・人鹿、石川麻呂、古人大江皇子、孝徳天皇、有間皇子、弘文天皇、大津皇子と、続々不慮に死んでいった。凄惨。
天武朝のはじめに、竹取物語に出てくる大納言大伴御行の名が見える。蘇我も物部も藤原も、大豪族の凋落の時機に、辛うじて大伴氏だけが細く生き延びている。太政大臣も左右大臣もいない天皇の絶対権力時代の、臣民最高位に大伴氏が生き延びていた。かぐやひめに命じられ、あの南海の龍の頚から珠を取り損ねて戻った、空威張り大納言のモデル、が御行である。

* 三好徹さんにもらった「三国志外伝」も読んでいるが、此処に書かないのは、無数に出てくる魅力的な人物の名を、機械の漢字でとうてい再現できないと分かっているからで。情けない。
2003 2・10 17

* はや「須磨」の浦を通り過ぎた。「明石」に入る。弥生上巳の海の異変は臨場感豊かに書かれている。
春の海終日のたりのたりかな
蕪村の此の句は、本により、「須磨」の句と詞書き明らかである。三月上巳は、いわゆるひねもす先祖波ののたりのたりと打つ日とされている。古典にくわしい蕪村の念頭に「須磨」巻の海辺の異変が頭になかったはずなく、いわば光源氏の運命のまた大きく動こうとする前兆であった。
ここでいう「上巳」とは三月の最初に来る「巳」の日の意味で、この日には先祖波に打たれて祓をする。禊をする。源氏はそれをしていて、竜王に見こまれた。「みそぎ(身削ぎ)」とはあの脱皮由来に他ならず、「巳」の日の意義が活かされている。「上」の召すのになぜ来ないかと、それとも見えぬモノの影に、光君は夢中威嚇されている、この「上」とは、都の主上ではない、海の底なる竜宮の龍王を謂うのである。この意味は深刻で、のちのちに盛大な「住吉詣」のあるのと繋がってくる。
光は、海神に愛され、その手に自ら身を投じなかったものの、その導きと加護とにより明石へ移り、また都へも戻って行けるのである。明石上がのちの明石中宮を出産できるのにも竜王への願いは関わりあり、根に、明石入道の海王にかけた深い不思議の大願があった、謂わず語らず、そのお礼参りが、住吉詣ということにもなる。
蕪村もそういう意味合いを感じたまま、先祖波の「のたりのたり」の底にひそむ神意を、一句にみせていたものと、わたしは読んで、楽しんできたのである。「のたりのたり」が効いている。
2003 2・11 17

* 架空の近江令、未然の飛鳥浄御原令、大宝令、養老律令。法令の解説は面白くもあり、退屈もする。人間くささがとたんに遠のくからだ。「日本の歴史」は第三巻の奈良時代に入った。記述する担当の学者により、読書の感じはずいぶん異なる。第一巻の神話から歴史へは、科学的な、手堅い見渡しと推論であった。第二巻になると、どこか人間味の歴史記述で、むかしの国史の感触に近い気がした。第三巻に来ると、史料と文献の綿密な検討や紹介になってくる。時代もあろうし担当する学者の学風もあるりだろう。
2003 2・12 17

* 光源氏の「明石」の巻は、明るい方へもう動いている。明石との対比で須磨をかえりみると、光がよく須磨で辛抱できたなと感じ入るほど。
なにといっても、明石の暮らしは、親類の家に疎開したようなもの。身分は段違いとはいえ根は一つの、明石一家と源氏である。源氏の母桐壺の亡父はもと大納言であったし、その兄弟に、大臣がいた。明石入道はその大臣の子であるから、光の母桐壺更衣とは紛れない従兄妹同士。つまり源氏がやがて妻の一人にする明石上とは、又従兄妹同士になる。かけはなれた二人ではなくて、そこに運命も働いていたが、さらには、藤原氏ならぬ非藤原氏ないし皇胤・宮筋の「天子」の位へかけた、深い深い意欲の連合があるのだった、此処に。
源氏物語は、源氏と藤原氏の争闘をも書いている。現実の平安時代は藤原氏が圧倒するが、源氏物語では光源氏の血筋が藤原氏を圧倒してゆく。そういうこともこの長編を面白くフクザツにしている。王朝のめめしい恋物語のように想うのは誤解である。これは政治的な物語でもある。根底にあるのは皇位と王権なのである。

* 「ゆったりと、自由に」「ゆったりと、自然に」とバグワンは言う。この「ゆったりと」が大きい。自由ガルのも自然ガルのも、まがいもので、それでは、とても、ゆったりとなんかしない。

* 三好徹さんの「三国志外伝」は、長大な三国志の、一人ないし数人の人物による要約で、むろん本編を通読していた方が分かりよい。本編がおよそ頭にあると、この要約のための短編シリーズが、文字通り要領を得て、人物の個性を浮き立たせているのが分かる。好きな男もいる。苦手な男もいる。曹操、孫権、劉備。魏・呉・蜀。何れとも言えない魅力の持ち主だが、三好さんが曹操贔屓なのは分かる。氏の『興亡三国志』五巻は曹操を芯に展開されていた。魏・呉・蜀の三人とも、人の使い方に「ちから」があった。「差」もあった。能力が有れば盗人でも使いこなす曹操に対して、皇叔劉備はそうはしなかった。関羽・張飛とは義兄弟であったし諸葛孔明とは水魚の仲であった。曹操の知の操作に対して、劉備は情の誠の人であった。
三国志の世界はおもしろく興味深いが、いかに血沸き肉躍ろうとも、好きではない。須磨や明石に流れている文化と情念の美しさの方にわたしは心を惹かれる。
2003 2・15 17

* 直木三十五が三十一の時に初めて創作の筆をとった『仇討十種』から一編「討入」を採って「ペン電子文藝館」のためにスキャンし、校正した。赤穂浪士のほんとうに「討入」だけを書いている。映画や講釈で馴染んでいるのとちょっと違う書き方で、ルポライターのような筆つきをあえてしている。読みながら、なんて忠臣蔵が好きなんだろうと思ってしまう。直木は、云うまでもない直木賞に名を冠している大衆小説の雄である。「ペン電子文藝館」には吉川英治の「べんがら炬燵」も入っている。こちらは討入後の細川藩お預けの浪士達が書かれている。読み比べてみるのも面白いだろう。
2003 2・18 17

* 「日本の歴史」は奈良時代に入って俄然律令の細目がいろいろ説明され、やや、難渋している。同時に元明元正の女帝の頃は、律令の理想が行政によく反映して、国司たちの意欲や熱気も気持ちよく伝わってくる、稀有の時代であったと分かる。われわれが風土記の名で知っているものも、いわば意欲に裏付けされた一種各国からの報告書だと知ってみると、よく頷ける。しかも出雲といい常陸といい豊後や肥前といい、丹波といい、地方を異にすると、書き方も変わっている。
驚かされるのは官吏官人のいわば実入りの格差の、上に行くほどべらぼうに大きいことだ。三位以上大臣級と、四位五位、またそれより下位、富士山と東山と盆景の山ほど、ちがう。それと官吏の法的に受ける処罰の軽いこと、余程でない限り大概、官職をうばわれるだけで、ほとんど実刑がない。こうしてみると、光源氏級のホンモノの貴族の得ていた特権と収入は、やはりあれほどの栄華と華奢を保証してウソではないのだなと驚かされる。

* その光源氏、明石で新しい妻のひとりと出逢い、妊娠させて、そして都に、朝廷にいよいよ復帰する。明石一家とのしばしの別れを経て、今夜にも光源氏が権大納言の位へ返り咲くところへ読み進む。「須磨」の哀れや凄みとうってかわり、明石は印象的にはあかるくロマンチックな気分のいい巻である。もうこれからは、まさしく旭日・昇竜の光輝く源氏絵巻が展開されてゆく。
2003 2・19 17

* 三好副会長から、氏への献辞のついた故山口瞳の著書が送られてきた。「卑怯者の弁」で、「反戦」作品としてどうかと、一昨日話があった。週刊誌にながくながく連載されていたエッセイ『男性自身』シリーズの一冊である。この筆者のものは一度も読んだ覚えがない、いい機会をもらった。
2003 2・19 17

* 中学で、しばらく英語を習った信ヶ原(当時は木平姓)綾先生の歌集『浮雲』を今朝頂戴した。以前の『鬱金』は隠れた名歌集であった、今度も拝読が楽しみ。前歌集ですでに夫君がいわゆる「惚け」進行中であったが、今回歌集の題字は、その夫君がなにかのおりに夫人の要望にこたえ書かれたという二文字。素養のうかがわれる書体で、家人の嘆きも諦念もがうかがわれ、胸うつ。前登志夫氏に師事されてもう久しい。
そして橋田二朗先生と、今は信ケ原先生と、お二人だけになって、とだえなくわたしの「湖の本」をたすけて下さっている。西池季昭先生は昨年亡くなられた。もう、わたしの学年を担任された五人の先生方のお一人も、ない。
2003 2・20 17

* 亡き山口瞳の『卑怯者の弁』から、同題の六、七編を昨深夜に読んだ。清水幾太郎の過ち多き平和論に強く反撥したエッセイである。「男性自身」の題でながくながく連載されていた。その単行本になった一冊の中の数編分である。
エッセイとしては珠玉の文藝とはいいがたい、かなり行文は雑駁だけれど、書かれていることと気持ちとはたいへんよく分かり、共感した。当然だと感じた。三好徹さんもそう思ったのだろう、彼にそうと語った人もいたのだろう。
清水幾太郎という名前は、それこそ中学の頃から喧伝されていた。戦後「平和論」の旗手のようであった。わたしは袖の一触れもしてこなかったが。
2003 2・20 17

* 三好徹作「三国志外伝」を読了。これで氏の「興亡三国志」五巻とあわせて六部の大作をぜんぶ読んだことになる。吉川英治の「三国志」は蜀の劉備を軸にしていた。三好さんは、さもあろう魏の曹操贔屓に思われる。終始曹操に光を当てていた。卑弥呼のころを伝えてくれた「魏志倭人伝」という史料が、まさにその曹操にひらかれ漢室を次いだ魏国正史の一部であることはいうまでもない。曹操、劉備、孫権らの鼎立は日本のまだ蒙昧としていた卑弥呼の頃よりもまだずっと遠い昔の角逐であった。この時節の魅力は、中国の歴史記述の魅力ともなっている、本紀に次いでの多彩な「列伝」のおもしろさにある。三好さんが本編五巻に重ねてさらに「外伝」を書いた、書きたかった、それが理由であろうと思う。
残念ながら、魅力あふれる勇将知将謀将たちのことを此処で書きたくても、多くの名前が、カクにしてもジュンイクにしてもホウトクにしても、その他大勢が機械上の難漢字で、再現できない。くやしいことである。

* ついでに山口瞳の「卑怯者の弁」もざっと読み通した。遺憾にも何より文の「藝」としては質が低い。わたしのこの「私語」もいったんは書きっ放し、ひどい変換ミスも残したままだが、暫くしてすべて最小限の推敲を経て別ファィルに「日付順」に保存している。まして公衆としての読者の眼に触れる単行本なら、今少し読みよい文章や組み立てを考えていいだろうにと、雑駁な印象と書かれてあることの宜しさとの齟齬を惜しむ気持ちがあった。
2003 2・21 17

*  昨夜はわざわざ枕元へ運んでおいた、瀧井孝作先生の自選短編集『山茶花』巻頭の「父」に魅了され、あとが寝にくいほどであった。大正九年か十年頃の作で、目の覚める純文学=私小説の力作で。まあ云わば悪文の見本かのようにコブコブしゴツゴツしているのだが、妥協のない切れ味の刀で鋭く深く彫り込んだ表現には、感嘆の余り時に鳥肌がたった。隅から隅まで「文学」の文体であり表現であり、どこからみても志賀直哉派の筆頭株であり、また俳句で鍛え抜いた芸術家である。花袋や泡鳴や独歩ら自然主義作家よりも作品の味わいは硬質で、素朴であり、むしろプロレタリア文学や私小説で苦労した作家達と通有の容赦ない魂を光らせている。瀧井先生の父上は飛弾の木匠であったが、先生の文の彫琢には、第一にその根の感化が感じられる。
この本をわたしは瀧井先生のお宅で、その場で太い万年筆で彫り込むように署名されたのを頂戴した。「秦恒平様」と書いてくださった。云うまでもない、先生は永井龍男先生と二人して、わたしの「廬山」を芥川賞にそれぞれ単独推薦して下さった方である。お二人と作風に隔たりのあるのを人は幾らか不思議に感じたようだが、何を評価して下さったか、わたしには、ハッキリ感じとるところが有る。
瀧井先生の作では、初期の長編「無限抱擁」が、近代十作のうちにかぞえられてよい名作であるとわたしは信じてきた。短編では中期の「結婚まで」が名作だと思ってきた。昨日読んだ「父」には、腹を撃ち抜かれたほど愕いた。
今夜も股一つ読みたい。生涯の十編を自選されているのである。ほんものは全くすばらしい、やはり、おもしろづくのヤワイ読み物と文学作品とは天と地ほど香気も品位もちがう。
そうはいえ、西洋の文学のものさしからすれば、エッセイと読まれることだろう。志賀直哉の短編の多くも、そういうことになるだろう。エッセイもまた文学の最たる一つであることを、志賀直哉や瀧井孝作や永井龍男は痛烈に示している。小説や物語だけが文学ではない。森鴎外の多くもまた同じであるだろう。
2003 2・22 17

* バグワン、「澪標」の巻、日本史、そしてまた瀧井先生の短編集から「弾力(はずみ)のある気持」「結婚まで」の二編を読んだ。『山茶花』は、それ以前の文学生涯を連鎖するように選ばれてある。「父」が若い彷徨期の記録とすると、「弾力のある気持」には、『無限抱擁』で書かれた最初の夫人の死と葬儀の前後が簡潔に書かれている。屡々妻の死に自身涙しながら、それから立ち直ってゆこうと決意した男っぽい気概が、「弾力」という意想外な一語をバネに書き起こされる。「結婚まで」では『無限抱擁』が現に雑誌に書き次がれていて、もう短編集も二冊あり作者は「作家」生活にある。
瀧井先生は、ある時期、ほとんど志賀直哉家と行を倶にし、奈良にも京都にも住まわれた。近くに止住しほとんど家族のように志賀家に出入りされていた。直哉の全集を読むとよく分かるが志賀家はお子達が多く、その子達の発病やまた夫人のお産や病臥もかなり多い。そのつどの波風や余波がたくさんな短編に書かれているが、練達の助産婦で看護・介護の出来る若い人が、いつもそんな志賀家に同居していた時期もあったのである。最初の夫人に死なれた瀧井先生は、時を経て、そういう派遣ナースの「笹島さん」に恋を感じ、向こうもそれを感じ取って…、という経緯が「結婚まで」に結晶する。わたしは直哉の『暗夜行路』で謙作と直子の結婚までを書いたところが好きで、小林秀雄がこの辺にも触れてこの作が立派な「恋愛小説」だと言い切った大胆な享受に喜んで賛同した読者であるが、瀧井先生の「結婚まで」は、直哉作にも優る率直な発露と表現力で、もし近代短編十作というならこれまた外せないと思うぐらいの名品に仕上がっている。
ああ欲しいなあと思わずに居れない、むろん「ペン電子文藝館」にである。素朴にして的確、豊潤にして清明。何度読んでも頭が下がる。
2003 2・23 17

* 瀧井孝作「暑い日」「欲呆け」二編を読んで寝たのが四時。前者は女に狂った叔父の家庭にかかわり、後者は八十になり金鉱山の権利に呆けた老父とのかかわりを、トツトツと書いてある。行者の行のようである。瀧井先生は、筑摩書房で出したわたしの書下ろし長編『罪はわが前に』を谷崎潤一郎賞に推されていたということを、谷崎松子夫人に聞いた記憶がある。そのとき、嬉しいよりも、何故かなとふと思い、その何故は持ち続けていたが、「父」「暑い日」「欲呆け」と読んでくると、うーん、そうだったのかと目先の晴れる気がした。わたしの作品もまた家族・家庭の混乱にふれて書いている。『罪はわが前に』には、瀧井先生のような評価もあれば、「清経入水」や「慈子」の作者がこういう傾向の作品は書くなと窘める編集者もいた。読者の間でも是非と好悪の別れたにちがいない転機の作であった。
2003 2・24 17

* 菊村到の芥川賞受賞作「硫黄島」は、意想外の角度から玉砕の島硫黄等で生き延び故国に帰った一兵士の、謎めく死を追及して感銘深い。「これが反戦の文学か」と反問されれば、わたしは、その優れた一つであると頷く。校正が苦にならないほど惹き入れられた。階下にメインの仕事をもちながら、なにかというとつい二階の機械の前に来て、校正の続きが読みたくなった。コレまでに芥川賞作品は第一回石川達三「蒼氓」をはじめ、遠藤周作「白い人」や木崎さと子さんの「青桐」を頂戴しているが、菊村さんの力作をまた加え得たことを喜ぶ。
2003 2・27 17

* 日本史は、長屋王が藤原氏の陰謀の前に潰えた辺を読んでいる。律令初政時の税制、兵制なども細部まで読んできた。
和同開珎が出来たとき、流通を策して何事からはじまったか。貨幣も初めて鋳造して、いきなり民間にまで流通するわけがない。通貨という感覚が元々無いのだから、物々交換より便利などと簡単に受け容れられる道理がない。政府の肝いりのなにかしら「お宝」かも知れないにしても、得体は知れない、有り難みもいっこう分からない。
政府は、貴族豪族物持ちたちに、物で、稲や布やあれこれで「貨幣を買わせた」のである。逆さまである。そうしておいて大量の貨幣をもって官位官職をいわば売りに出したのだ。貨幣の高で一位一階を加えてやった。官位を上げたい連中から先ず貨幣をとにかく有り難がらせたのである。「なるほど」という高等な、巧妙な、狡猾な手をつかった。
歴史は、いろいろ面白いことをしでかしてきた。知識として記憶したい気持はもう無いけれど、自然と膝を打ったり微笑んだりすることが、たくさん有る。
奈良時代は、もとからそう感じていたが、なかなか天平の「盛期」とばかりは簡明に把握しきれない、どすぐろい渦を幾重にも幾つも巻いていた、ややこしい時代であった。よくもあしくも藤原氏が時代を盛んにこね回した。不比等の四人の子息が南・北・式・京四家にわかれ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂らが王族との間で綱引きしていたが、まだしも彼らが存命の間は、長屋王が殺されるぐらいのことで済んだが、そのさきは国家的に紛糾を重ねてゆく。面白いと云うよりも、重苦しい時代に流れ込む。
仲麻呂・道鏡と、孝謙=称徳女帝との爛熟時代。それはそのまま、わたしの現代=歴史小説「みごもりの湖」のドラマへと変じてゆく。
2003 2・27 17

* 上野千鶴子さんの『学校化社会、さよなら』とかいった題の本は、シャープな批評と論点背後の探索の広さとで感心した。印象いまも新たである。
「学校化社会」というこの五字だけで、著者の云いたい大方がわかるほど、この一語の爆破力は大きかった。いま就職試験でどこの大学を出たかなどは問題にもしない、東大を出てきたなど云うのもむしろマイナス要件ですよ、などと関係の識者が明言していても、そう簡単に信じも、愕きもしない。
それよりも、至る所に「学校化社会」型の判断や評価基準が残存しまだまだ跋扈していることに、感心し慨嘆してしまう始末。学校時代の成績をあらゆる場面にもちこんで平気な社会。むろん、それをやるのはいわゆる優等生に多いのだが、裏返しにすると、学校生活の苦手だった者からも、反動で「学校化社会」の陰画が氾濫してくる。みーんな、そこでの価値観を無反省に世の中へ持ち込んでいる。つまり真の意味で「卒業」出来ないでいるのだ、人間たちの世間は。
わたしは大いばりできるほどの優等生ではなかったが、そこそこ大学を出るまでカッコウは付けていた。だが東大でも東工大でもなかった。同志社だった。事情こそあったものの、選んだ勤め先も、ちいさな出版社だった。文化人として知られていた一人の重役は、入社早々の新人や先輩達を前に、「どうせ一流のヤツは入ってこない会社だ」と口にした。そこがオカシイが、新入りのわたしは即座に抗議したのである、人間の「資質」に関わることを軽々しく云って欲しくない、編集長の発言には根拠がない、と。そして、一日も早くこの会社を「出て行ける」ようになりたいと、秘かに腹を決め、切望した。いい意味の人生予定表が胸の内に置かれたわけだ、当然予定を満たすには順序というものがある。順序を踏んでゆこうという気が出来た。努力し粘った。それは、幸せなことであった。
東大出のその上役の曰くが、「学校化社会」にどっぷりつかっての発言であったか、その辺の見極めは、わたしにはどうでもよかった。わたしは自分を信じていたけれど、「学校化社会」のものさしなんかで計られたなら、ひとたまりもない程度と分かっていた。だから東工大教授に指名されたときも、お国の方で「間違えよった」とわらいながら引き受けた。学生達の理数の能力を想うと、自分はその真っ逆さま人間であることに、素直に戦いたものだ。わたしは、算数や理科が大のきらいであったし、「学校化社会」で絶対の秀才として進むには、どうにもぐあいのわるい不足な能力であった。早くに断念し、断念のママに東工大を引き受けたのだから、ま、はじめからわたしは「お国に対し甚だ横着」であると同時に、学生には謙遜であった。
俺の知らんことばっかり知ってて「出来る」ヤツらとは、太刀打ちしてもはじまらん。
その気持が、結果としてあの大学でわたしが「幸福」に過ごせた下地であった。そのうえで、そんなわたしから何が手渡せるだろうと、思い、思い、工夫して楽しんだのである、学生達との日々を。
お国はやっぱり人選を「間違えた」のであろうが、わたしの方は、間違えなかった。学生達はたしかに勉強家だし優れていたが、それとはまた異なる優れたモノも持っているだろうと、辛抱よく付き合う気持を、わたしは持っていた。間違えなかったのは、其処であったと思う。
2003 2・28 17

* 瀧井先生の『山茶花』は、「積雪」「父祖の形見」「伐禿げ山」と読んできた。父上の葬儀、父と祖父と曾祖父の形見の品々を通しての家系の展望、一転して秋川の上流での精悍な山女魚釣り。小刀で鉛筆を削るとプーンと木の香がした思い出。まるで、そんなふうな、瀧井孝作の文学。
2003 2・28 17

* 痛いほど冷える。西の棟に建日子が朝早やに来て、今まだ寝入っている。正午をとうに過ぎている。
わたしも夜前は若い衆の「朝まで生テレビ」を、三時頃まで仕事しながら聴いていた。だが早くに凸版からの宅配に起こされ、責了の用意。そのあと二階で、直木賞の結城昌治作『軍旗はためく下に』のなかの一編「司令官逃避」を校正している。フィリピンの日本敗兵の話で、克明に書かれている。書き方に趣向がある。凄惨・悲惨な中に読ませる力があり、読み始めるとやめられない。つまり仕事が捗ってしまう感じ。残りはこれだけかなどと、続きの量を惜しげに確かめながら校正している。

* 昨日の会議の折、事務局に届いていた会員岡本勝人氏の長大な「詩」作品を預かってきた。十一章ある。ディスクなので、校正出来ているならすぐ入稿してもいいのだが、そんなに長い長い、プリント原稿で数十枚もの「一編」の詩というのが、読んでみたく。「召兵」かと思うところが「招兵」とあったり少し気になるが、とにかく読んでみたい。
2003 3・1 18

* 源氏物語の音読は、「蓬生」も「関屋」も通り過ぎた。明石から都に戻り、いわば未精算の過去に光源氏は結びをつけてゆく。冷泉天皇を即位させ藤壷は安堵した。御代があらたまり伊勢から娘斎宮とともに都還りした六条御息所を光は見舞い遺言を受けて、前斎宮の後見をする。朧月夜尚侍ともそれなりの結論が出ている。花散る里、末摘花、そして尼になった空蝉も光の庇護で此の後を生きて行くだろう。そして明石では後の后がねの大事な宝物のような娘が生まれている。明石母子を都に迎え取る日も近づこうとしている。
これからはいよいよ光の好敵手は、亡き妻葵上の兄であるかつての藤中将になってゆく。冷泉帝の後宮から、争いは始まる。皇家と藤家の葛藤、そのシンボルは「絵合」だ。

* 歴史は、大仏開眼と遣唐使を、事細かに教えられている。これが済むと、いよいよ「みごもりの湖」に書いた孝謙女帝と恵美押勝の、いや、史上に謎めいて活動した「東子」といわれた不思議な美少女の時節が来る。
2003 3・6 18

* 山口瞳の「卑怯者の弁」を校正し入稿した。おそろしく時宜にかなった掲載になる。ピタリだというのでなく、エッセイの書かれた時機が昭和五十五年、イラ・イラ戦争の頃であり、いましも平成十五年、二十余年を経て、世界情勢は、西に米英のイラク撃滅攻撃が一触即発、「反戦」の日増しに声高く、東では、北朝鮮の「核」脅威に揺れて「有事」の思いに日本は困惑もし怯えてもいる。まさかでは済まなくなり、対岸の火事では全くなくなっている。
もう若い人は知るまい、清水幾太郎という、はではでしい「平和論」者の声高に日本中をアジッテいた時機が永かった。
平和論ならけっこうではないか、と。ところが彼の国家平和論は、明瞭な再軍備・軍事依存の均衡平和論なのであった。一言で言えば、平和とは戦争していない状態、その状態は各国軍事力の均衡・緊張で辛うじて保たれている状態の意味であり、国家を愛するなら、平和のために力で備えねば成らず、国民はそれに意欲的に挺身すべきだというのである。
この清水の論に反対する声は、敗戦から年数を経ないうちは、なおさら、いとも燃えやすく沸き立った。山口瞳の「反戦」の、論も、情も、じつによく分かる。情味に優って訴えてくる。心ある者は、みな、こういう山口の論調で反戦を訴え続けてきて、実はいましも少しも変わらないのである。
では清水は完敗かというと、悩ましいことに、彼は平和を「有事」の緊張・均衡状態ととらえて、「反戦」であるよりも「有事の平和」を論策していたと言える。少なくも清水が現在も存命であったなら、見たことかと大声で政府与党を煽っていたかも知れない。
そんな必要もなく、先日の朝まで生テレビに登場していた、まさに清水が山口たち戦前・戦中派を切って棄てて大いに期待した、戦後派のうるさ型論者たちは、こぞって清水の期待にまさに応えて喋っていた。
「反戦」の真情なら、断然山口瞳に票が寄るだろう。「有事」の議論となると、むしろあの頃よりも現状にあって清水は公然と胸を張るのではないか。
山口瞳は大岡昇平の『俘虜記』にならって、自分はまたもし戦争ともなるなら、「撃つ側でなく断然撃たれる側に立つ」と明言している。さて、撃たれるとは鉄砲に撃たれるだけではない、占領され支配され、もっと危うい目もみるということである。
具体的にいま北朝鮮の核攻撃と侵攻と占領支配を前提にし、日本人の何人が「撃たれる側に立つ」「敵を撃たない」という「平和・反戦」に手を挙げるか。四半世紀前と違い、そういう事態が、あながち仮定・架空の空想ではなく、眼前に迫っている。
山口と清水の論は、あの時と少しも変わりなく「反戦」と「有事」との衝突を分母にして、分子に「平和」の二字を据えている。少し乱暴に要約したけれど、まず、間違いはあるまい。「有事に堪えて反戦」可能な「平和」論が、新たに強力にどう起きうるか。
校正していて、何度も何度も立ち止まり、唸った。「闇」の向こうへ問いかけたい。あなたは、自分の心中をどう読みますかと。
2003 3・7 18

* 国史で、正倉院の珍宝や建築について学んだ。大仏開眼、遣唐使、正倉院。天平の華ではある。正倉院から逸失したもののなかで、王羲之・王献之父子の真跡が惜しまれる。それにしても厖大な量の史料であり珍宝であり文物である。聖武天皇の崩御を悼んで光明皇后や孝謙天皇が数次にわたり施入された聖武天皇居合いの遺品というから驚く。渡来の珍しいモノに混じり、てっきり渡来と見えて精巧に日本で真似て出来た逸品の多いことにも驚く。
日唐往来でいえば鑑真和上の渡来は、特筆の文化的な大事件であったが、その実現に、硬骨の気概をみせて秘かに自船に和上達をかくまいのせた大伴古麻呂は、また唐朝廷での外国使節席次をめぐって、新羅の下位にたつを嫌って面をおかして抗議し入れ替わったという。新羅は日本への朝貢国であったが、日本か新羅の下位にあったことは事実無かったからである。
渤海という満州辺に位置した国があり、日本は渤海との国交にかなり意を用いて使節の往来もやや頻繁であった。これは、新羅をはさんで中国流の遠交近攻の外交をしていたとも読めるらしい。同じ意味から日本は、新羅を跳び越えて高句麗つまり今の北朝鮮との間に親交をはかった時期もあったのである。新羅はとかく唐とよくくっついたし、唐の力をかりて新羅は百済と日本に勝ち、半島に覇を唱え得た。
じりじりと読み進んでいる、欠かさずに。

* だがわたしを本当につかんではなさない真の魅力は、バグワン・シュリ・ラジニーシである。
2003 3・8 18

* 睡眠障害で新幹線の運転手が寝入ったのにはビックリしたが、わたしも一頃睡眠中に息を止めてしまうと、妻を困らせたことがあった。今はそういうことは無いらしいが。家にいて、仕事なかばや食事のあとに睡魔に襲われることが増えている。十分睡眠していない反動に違いなく、昨夜も小林保治氏より贈られてきた平安期の説話ぬきがきのような、それもエッチな話題ばかりえらんだ「仰天」ものの本を、かるく呆れながら読んでいて、夜が更けた。
著者に、随分昔に、説話からの「本」ならお書きになれるでしょうと勧めたことがある。その実現にしても、温厚な著者が売らんかなの編集者にうまく乗せられた気味があり、著者のために心から惜しみたい。
碩学の研究余滴のような本は、ほんの一例だが、原田憲雄にも本間久雄にも春名好重にも目崎徳衛にも今井源衛にも角田文衛にも高田衛にも中西進にも、ある。小松茂美にも萩谷朴にも、ある。もっともっと、ある。わたしはそれらの心からの愛読者である。

* 同じ昨日に、信州の加島祥造氏から漢詩とその翻訳詩と著者の文人画との、渾然一体の一冊を頂戴した。著者は英文学者であるが、老子の未読者としても知られ、さきの小林保治氏とおなじ早稲田の先生であったが、今は信州伊那谷に独居しながら時折山を下りてきていろんな世俗にも関わっておられる。この本は、なかみこそまるで異なるが、さきの田島征三・征彦兄弟の絵入り往復書簡と対峙しうる、風興美しい一冊になっている。たのしみに読もうとこれも枕元にある。

* 川本三郎『郊外の文学誌』は、いま本当に脂ののった著者のしごとで、先にも贈られた『林芙美子の昭和』につぐ気持ちの佳い本である。この人は評論家というより文章の佳い文学者である。
栗田勇氏からは『生きる知恵を学ぶ』と題した、一遍、最澄、世阿弥、白隠、良寛、利休、芭蕉といった人達を論じた本が贈られてきている。ちょっと題がおもく、この老境にいて少しシンドイが、世阿弥、利休、芭蕉という中世観にかかわる三人のことは読んでおこうと思う。
いま宗教者には気が向かない。ブッシュとフセインの対立がいわば邪教戦争のようなものとはハッキリしている。悪しき「抱き柱」に抱きついた見苦しい姿を日々に見せつけられているこの頃、宗派にも宗団にも宗祖にも興味はトンと湧かない。
ま、禅か。

*「鱧と水仙」という、夏と冬にでる歌人達の同人誌を久しく貰っているが、今回の号は歌人と俳人とが一組ずつ対向して、一首の著名歌をめぐり議論している。「歌合」の変形で、ディベートである。行司役を坪内稔典氏が引き受けている。これは面白そう。
2003 3・9 18

* 「日本の歴史」で読んだ正倉院は、なにもかも興味深かった。計り知れぬ文化史の宝庫、よくぞ大過なく今日に生き延びてくれた。天皇や皇后の持ち物だけではない、下層の官僚や民衆レベルのモノまでが莫大に揃っている。注目されるのは、たとえば消耗品であり現に使用されていた履き物のような品物にも、他の時代に比べ、途方もなく細かに美しい手がかかっていて、手を抜いていない、ことだ。誰が造ったかとなれば、内蔵寮などに隷属していた人たちであろうが、現場を拘束していた政治手腕の「凄み」も想像しないと割り切れないほど不思議である。
そして藤原仲麻呂=恵美押勝の恣な台頭・専制そして無残な破滅。ことに彼が勝野の濱から幾程もない湖水のなかで石村石楯(イワレノイワタテ)に斬られて死ぬ哀れは、ここをのがれる一人の美少女とともに、長編「みごもりの湖」の一つのハイライトであった。みぶるいがするほど、なつかしい。京都の博物館でこの男の供養した経と出逢ったのが強烈な創作の動機になった。天与とはアレであった。

* そして、源氏物語はやがて、明石の祖母尼、母、姫の三世代が、祖父入道との生き別れを覚悟して、ようやく、都近く、松風清き嵐山のあたりに移ってくる。
2003 3・11 18

* 日本の歴史が第四巻「平安京」に入った。筆者は北山茂夫。一冊平均が小さい活字での四五○頁ほどある。二十数巻、先は長いが、きっと読み通すだろう。読むのは苦にならない、視力さえ助けてくれるならば。啓蒙書ではあるが、記述は、研究成果をはばひろく汲み取りながら準専門書に近いほど本腰を入れて書かれている。一巻ずつを、名の通った良い学者が自分で書き下ろしてくれているのが宜敷く、各巻競演の体で興深く、力が入る。学風が人柄に溶け合い、記述は個性的である。啓蒙の一般書であるのを利して、部分的に筆者も興にのるべきは乗ってくれている。楽しく、読みやすくなる。
平安京への第一歩から不安な怨念の渦が巻き始める。わたしは、長い間、井上内親王つまり光仁天皇の妻であった皇后の、また皇太子の、異様な最期に関心を抱いてきた。それが作品として実現しないで、別の「みごもりの湖」に成った。根の遠い深いことを、わたしの読者は分かってくださるだろう。
不思議なモノというか、書きたいメインのものを「攻め」ているうち、それを逸れて副産物がモノになる。そういう創作の不思議を、何度か体験した。「清経入水」も「風の奏で」も「初恋」も、じつは承久の変を書こうとしていたすべて本命・本願を逸れての「副産物」ばかりであった。文字のママの副産物とは言うまいが、太い根から新しい根を別に張っていった。創作の面白さ、である。
だからこそ、わたしは、注文されて「これ」を書けと言われても、単純には従わなかった。まるで別の、しかし必然の緊張から新作が形をなして行くこともあるのを、ビビビと感じるからだ。書きたいモノを書きたいように書きたい、路線を決められるのはイヤだというのが、私の本音で、これでは出版主導の作家にはなれないし、ならない、ということである。損な性格であるが、トクもしている。むりに書かされた作品がわたしには無いのである。
2003 3・13 18

* わたしの国史は、いま最澄と空海に到っている。この偉大な二人が、仏教者として開発した創造性や新展開ではむしろ貧弱であったこと、しかし、その理解と展開、その事業的な大発展力という点では卓抜であったこと。北山茂夫氏のこの指摘は、かねてのわたしの感想と、しっかり重なる。仏教文化を背負った平安初期の「政客」ですらあったように感じる。桓武天皇の政治には、坂上田村麻呂と、この最澄空海の登場がどんなに大きかったかを思う。

* そして明石で生まれた姫君が、紫上のてもとにひきとられたところを、夜前というより今暁に、こころよく音読した。巻は「薄雲」のはじめ。そして、やがて藤壺尼中宮の死が光を悲嘆に誘う。源氏物語の悲喜こもごもを運んで行く立体的な叙述の妙は素晴らしいというのほか無い。
2003 3・20 18

* 光仁・桓武・平城の三代、嵯峨・淳和・仁明の三代。一続きでありながら、前者は政治的に天皇親政=平安王政を引き締めて力があったし、後者はその基盤に文化の花をもたらし、やがての平安王朝へと道筋をのべた。しかもこの六代の特徴はまだ和風ではない、明白な唐風。和歌でなく漢詩。連綿のひらがなへはまだ遠く、三筆の真名=漢字文化であった。万葉集以降、古今以下の八代集和歌には親しんでも、この時代嵯峨天皇の好尚に応じて花咲いた文華秀麗集などの勅撰漢詩集のことは忘れがちである。著しい唐風の模倣とはいえ、もう血肉と化し、美しい落ち着いた表現も多々見られて、今読み直してもとても懐かしい。嵯峨天皇はもとより、小野岑守、菅原清公、また有智子内親王など。その周辺に大きな蔭をなして存在感のあった、空海。すべて古今和歌集以前の盛事であった。経国の大業であった。
「日本の歴史」を面白く、身を入れて読み進んでいる。思えば秦の祖父か父のか、蔵書の中にあった質素なつくりの「日本国史」を、綴じ糸がバラバラになるまでわたしは愛読し耽読した。国民学校のまだ丹波への疎開以前だ、懐かしい。いままた、日本史に惹き込まれている。
2003 3・21 18

* 朝早く起きて、今日の分のバグワンと源氏物語を、読んだ。光源氏と冷泉天皇とが実の父子であることが、藤壺女院の死にあいついで、ひそかに帝に明かされる。告げるのは夜居の僧都。このことを知っているのは他には王命婦だけ。「薄雲」の巻は、小説としての結構を巧みに備え、物語世界の大切な一つの結節を成している。そして面白い。この物語がいかに卓抜なわざと思いに支えられているか、いつまでたっても新鮮な輝きをむしろ増し続けるのは、叙述にゆるみといやしさが無いからである。
手垢の付いたきまり文句は、からだ言葉やこころ言葉のようで、頼りすぎると文章が其処から腐蝕し始める。それはお相撲で謂う「引く」「引いてしまう」「引いて勝とうとする」悪習に似ている。通俗読み物はこの悪習に無反省であることで、程度の低さに媚びてしまう。引いて勝っても相撲は賞賛されないではないか。

* 今朝のバグワンも、目の覚めるほど胸にしみることを語っていた。真実はメタファー(隠喩)でしか語れない。「のような」「かのように」と。其処で誤解しては成らない。バラのようなと語られていても薔薇そのものではない。隠喩とは「月をさす指」なのだと。指は月ではない。月は指ではない。宗教は詩にちかく、詩は宗教のように歌い出される、メタファーとして。世上のたいていの詩はそうでなく、ただ説明しているかただ誤魔化している。それは「引いて」勝ち逃げしたがる相撲のようだ。
2003 3・25 18

もう東京へ帰る伊吹さんと別れ、三四十分、喫茶室でたっぷりコーヒーを飲みながら「平安京」のなかの一章を読んだ。律令制が崩れをはやめ、さながら過酷な徴税吏と化した国司たち、それに対向して郡司や土豪達は、都の権門勢家に土地を寄進し臣従し隷属すらして税をのがれようとし、院宮家をはじめ権門勢家はここぞと挙って不輸(無税)の荘園を増やして行く。そういう難儀な崩壊現象のなかで、わずかな良二千石と讃えられた良吏も皆無ではない。典型的な一人の藤原保則、また菅原道真を、参議に抜擢して宇多天皇は関白基経死後の天皇親政に立つ。この天皇は藤原氏を外戚には持たずに一旦は臣下の列にいて登臨した天皇であった。だが、政局の前途は険しい。この天皇、根は好色の遊び人であった。
2003 3・26 18

* 電子メディア委員会、今日で最後とした。五時の会議に三時半に家を出て、七時まで。少し疲労する。昨日帰宅したら、アーシュラ・ル・グゥインの『ゲド戦記』新たな第五巻が届いていたのを鞄に入れていた。
最愛の本の一つで、わたしに西欧のこの手の本の扉をひらいてくれた。この本の第一巻を手にした頃、建日子がまだ小学生ではなかったか。彼は生まれて初めてか二番目ぐらいに、原稿と原稿料体験で「ゲド戦記」の感想を書いている。掲載されたのは「思想の科学」であった。
ゲドに久しぶりに早く逢いたくて、大判の本を持って出た。会議の後、ひとり、和食の店に入り、ゆっくり読み始めて、堂々とした押し出しの発端に、わくわくしている。「アースシー」の世界がなにやら不気味に、底というか、芯というか、内奥から脅かされている。もう魔力を持たない大賢人ゲドが、どのように働くのだろう。
今夜の店には美しい人もおらず、料理も少し量が味に勝っていて、胃にもたれたものの、店が静かで、本を読むのに明るく、むだに構われないのが有り難かった。
あすは、わたしが聖路加の番で、昼過ぎの診察。もし大過がなければ、花とも思うものの、兜町界隈の今日は、僅か一分咲き程度。風ばかりしたたかに吹いた。暖かかった。
2003 3・27 18

* 聖路加は、体重をつとめて減らして下さい、血圧の高まり気味は様子をみましょう、他は問題なしと、簡単に解放して貰った。
明石町の桜並木は、木により一分ともいえず、三分ぐらい咲いたのもあり。昨日ほど風もなく、けれど花粉は徐々に攻勢を加えてきた。
有楽町の「きく川」で遅いというより、満を持した昼食、ゆっくり。例の如く鰻とキャベツと菊正。そして昨夜から『ゲド戦記』第五巻に夢中。これがあれば外来で待たされようが電車が長かろうが問題とせず。不思議のフィロソフィカル(メタフィジックではなく)世界に、すぐさま没頭出来る。嬉しい嬉しい読書の可能な作品。本の残り量の減り行くのをいつでも惜しそうに見る。
2003 3・28 18

* で、お寺の境内を退散。タクシーで東大赤門まで戻り、もとの会社の前を歩いて本郷三丁目で地下鉄に乗ると、すぐ「ゲド」の物語に入り込み、後楽園を通過したあたりではもう「此の世」のことは忘却していた。なんという強力な文学世界であることか、ル・グゥインの作品は。とりわけて『ゲド戦記』はわたしはノーベル賞に値すると思っている。それほど魅力が深く、分厚い。そして清明で静謐である。
2003 3・28 18

* 『ゲド戦記』第五巻をまた読み始めたが、やはり再読は必要なことだし、清水をのどに引き込むようにすてきに心地よくよく分かって読み取れる。
むかしむかし、本を買ってなどもらえず人に借りてしか読書出来なかったおかげで、一度読み終えると、直ちにくるりと最初に戻ってもう一度読み返した習慣、これで本の内容が身内に刻まれたのである。「読書」と謂うに値するのは、少なくも「再読」以降というわたしの持論は動かない。二度目を読むのが嬉しくて堪らないような本にこそ出逢いたいし、そう読まれるものを書きたいのだ。
2003 3・31 18

* 国史は、いましも平新皇将門の、あっというまの壊滅を読み終えた。東の将門、西の純友。
京の都を震撼した政治的な危機現象であったけれど、ひとり将門純友の「個性」に由来した反乱では決して無かった。実に久しく積み上がった律令制度の危殆のなかで、暴虐暴戻を事とし、公と私の財を奪って豪富を成していた「国司」層の権勢に対する、在地の郡司・土豪・殷富百姓たちの烈しい抵抗。その顕著な衝突と爆発から、後者の側に立って将門は動き、純友にも同様の動機が働いていた。彼等は、現在の国司ではないが国司の土着した後裔であるというところに、複雑な綱引きが働いている。
反乱自体は抑え込まれたが、それは都からの征討将軍によってでなく、同類の藤原秀郷や平貞盛らによってであった。また小野好古らによってであった。これが結局は伴類や郎党を結集した「武門」の棟梁の生まれ出る契機とはなった。
幸か不幸か将門には、新皇を名乗る「権威」の思いはありながら、政治の力量は皆無に等しかった。都の公家達にも政治の意欲はなかったけれど、天皇制の権威は生きていて、たとえば官位を「懸賞」に同じ武門同士に相闘わせることで、危機を乗り切る狡さもや抜け目なさは強かに持っていた。時の摂政は藤原忠平、これは兄時平とはちがい何もしないのを政治と心得た「寛厚」の人、あの「小倉山峰の紅葉葉こころあらば今ひとたびの行幸待たなむ」と歌った貞信公である。天皇をあやつり公家をあやつり、怨霊まであやつって兄時平一族を死なせ続け、政権をわが一族一統に集中した。祖父で初の人臣摂政、藤原良房にじつに似ている。悪辣を秘めた寛厚の大臣。
平将門はこの忠平を奉侍していた根は一田舎武士に過ぎなかったのだ、結果として。
だが北関東には将門を祀る祠が数多い。彼が反乱の底意と、支持した民衆の深い願望とには、通底する「公家政治への叛意」が生き続けていた。反体制のその人気が「明神」将門に凝っており、「天神」道真の幽霊も、じつは将門の乱に一指を添えて蠢いたのであった。
2003 3・31 18

* 夜前、梅原猛氏に贈られた「京都発見」を読み始めた。豪奢の感にたえない前書きでのプランで、その一つ一つの目論見にわたしはわたしなりのイメージが有る。梅原さんもすばらしいが、それほどの探索心を惹き起こしてなお余りある「京都」の底知れぬ文化的埋蔵量に、いまさらに感嘆する。
法然の「一枚起請文」にかかわる問題点を、「謎」として整理した一文を真っ先に読んだ。へんな過信から離れてその成り立った日付などを読み取れば、当然の疑点が当然取り上げられている。もう朦朧としていた遷化直前の法然により書かれたか、もっともっと早い時期に書かれたか、問題にされ始めた時期から推して後生の偽作か。
そういう事も事として、しかし「一枚起請文」は法然の念仏の精髄を絞った金無垢の一滴であることは間違いないと、わたしは信じている。それを法然が書いたり言ったりしていなくても構わない、まぎれもない法然の到達であり、日本の浄土教の簡潔な頂点である。わたしはこれ在るが故に法然を慕い感謝する。これ在れば長大な「選択念仏集」の難解をも要しない、いやそれが更に宜敷要約されてあると信じている。この「一枚起請文」の前には、知恩院をはじめとする大法城はなにやら空しくも思われる。お寺さんのしきりに薦めてくれる旧態依然の宗団的儀式や事業には少しも心動かない。ほとんどムダごとのように思うこともある。
2003 4・1 19

* 生死をもって人と人とがあの世とこの世とに別れる、それを「自然(じねん)のこと」と日本人は考えてきた。日本人は、とも限るまい。その永久の別れの「別れ方」を知らない人達が存在するのではないか、と、「ゲド戦記」のなかで、ある魔法使いの長(おさ)がつぶやき、大賢人のゲドもそれを認めている、そういう人達がいるかも知れぬ、生死の境よりも、愛し惹き合う力の方の強い同士が事実いるのだ、と。
ハンノキという妻に死なれた夫と、ユリというあの世に去った妻とが、生死の境を遮る石垣を隔てて、夢で、ありうべくもない、信じがたい、許されたタメシのない「唇でのキス」を交わしたところから、ある重大な「問題」が、この世界に起きているらしいと聡き者達の胸には悟られる。『ゲド戦記』第五巻の大きな、途方もなく大きな主題が露出してくる。
この作品は児童書と分類されているが、七十の坂をのぼっているわたしのような大人でも、渾身の思いで踏み込まねばならない叡智の書、ほとんど宗教的な述作である。
2003 4・1 19

* 梅原猛氏の『京都発見』は、ほかでもない京都であり、この巻はほかでもない法然や知恩院のことであれば、わたしにとり親しめて興深くこそあれ、読み煩うような何ものも無い。残念なことに、だが、記述は概念的でひたすら解説的、佳いモノを読んでいる嬉しさ、ファシネーションの喜びは得られない。深い叡智の探索がなく、かき集められた知識と手早な推理が畳み込まれて行くばかり。雑駁でザラついた、事務的な文章だが、書き慣れた達意の説明文としては要領宜敷く、つぎからつぎへと事実や見聞が教科書のように並んで行く。梅原さんの肩書きである「哲学」ではついぞなく、やはり「評論風の随感随想」に過ぎないから、一種高等な「旅」の案内本にすら近い。胸の芯に届いて不思議の感興を弾き鳴らしてくれる文藝の魔力は無い。この哲学者の特色であり限界であろうか。

* ル・グゥインの創作には、絹を打って輝かせたような静かな叡智と哲学が感じられ、清水真砂子の翻訳で言うことだから割り引いてくれてよいが、表現の美しさと清さとには、えもいわれぬ「読む」嬉しさが湛えられている。哲学にもし価値があるならば、いや哲学にはわたしは左様の価値を認めていないから、「詩」にはと言おう、真の詩=文学には、まことこの作品のように「メタファー=隠喩」による真理への誘いが在って、だから魅力的なのだ。だから文藝なのだ。百千万の知識も、一編の真の詩の誘引には克てないのである、感動において。

* バグワンを、わたしは、繰り返し繰り返し何冊も読んできた。多くを求めず、同じ数冊の本を繰り返し音読し続けてきた。死ぬまでやめないであろう。もし中でも一冊をと言われれば、どれを座右から放さないだろう。いつも「今」読んでいる一冊が、最も真新しくて懐かしく思われる。
いまは、バグワンの原点かなあと感じる『存在の詩』を、半ばまで読んでいる。五度か六度めになるだろう。屡々、胸の鼓動のおさえがたい感銘を受ける。だが、概念的な摂取にしないために、言葉としてはなるべく忘れ去り、胸の鼓動だけを嬉しく覚えている。「ブッダフッド」と「禅」とに最も「詩」的に深くふれながら、バグワンは語りかけてくれる。

* いま、『ゲド戦記』の五巻で、ゲドは故郷のゴント島に帰り住んでいる。「大賢人」として、国の王レバンネンからもローク島の偉大な魔法使い達からも絶大の敬愛を得ているが、真の名を「ゲド」といい通称はただのこのハイタカは、今では龍に乗って空を馳せたり天智根源の言葉の語れるような偉大な魔法使いでも何でもない。そんな偉大な魔法の力はことごとく喪失し、一人のただの老人になっている。今なおその気になればアースシーの世界で最高の栄誉の得られる身でありながら、世界のはずれのゴント島の山の上でその日暮らしをし、「栄誉なんか」と真実顧みない。老妻テナーを愛し、満ち足りて、平和に貧しく過ごしている。世界を脅かす根の兆候に対し、さりげない示唆を王らに与え道を示し得ても、ハブナーの宮廷からどう丁重に迎えがあろうとも、ゴントの島山から出て行く気は全くない。
ゲドの到りついている理想的な在りようと、バグワンの詩的な言葉の指し示してやまないブッダフッドとは、みごと一つに重なって感じられる。
人間の「理想」が、権勢豊富なブッシュやフセインや、また現世の寵辱・貧富に翻弄され日々にアクセクと「活躍」している者達とは、全く別に「在る」ということを、そっと、彼等は真の叡智で指し示している。
2003 4・2 19

* 源氏物語は「朝顔」まで音読を終えた。全六冊の二冊を読み終えたのである。光源氏の物語の半分がもう過ぎた。雲隠れのあとと宇治十帖とで二冊ある。先を急ぐわけでなく、一夜で多くて数頁。
だが、こんなにも読みやすいかと驚くほど、声に出して読んでいることの嬉しさ面白さ、満喫。ファシネーションということをわたしはことに大切に思うが、それが源氏物語には溢れていて、音読はそれを何倍にも増して感じさせてくれる。和歌のよろしさ。声に出して読めばこそそれが分かる。時として歌を詠むと声が潤んだり詰まったりする。感情移入しやすくなる。
そして日本の歴史は村上天皇の天暦の治。源氏物語は、先帝が宇多天皇に、桐壺帝が醍醐天皇の延喜に、そして朱雀帝は朱雀天皇に、実は光源氏の子の冷泉帝がこの村上天皇の治世に相当するかのように書かれている。そういう準拠になっている。
いまわたしの読み進んできた「薄雲」「朝顔」の辺は、此の冷泉帝の治世に当たっている。源氏物語世界にしみじみと遊びつつも、わたしの頭の中には、将門や純友のことも、上辺は寛厚蔭では陰険な辣腕の貞信公忠平や、その子の小野宮実頼や九条師輔らの政治=非政治が蠢いている。
2003 4・5 19

* 群馬大学の先生から、学生による漱石「こころ」論一編が送られてきた。この人は水村美苗の『続明暗』にならい、自身「こころ・その後」を書いてみたい気があるのだろうか。
先生は妻にだけは自分の遺書を見せてくれるなと言って死んだ、だから遺書は奥さんの目に触れていないと此の筆者は書いている。「妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたい」からだと先生は遺書の中身を妻にだけ秘密にしておくように頼んでいる。
「記憶の純白」が、漠然と「過去」でなく、先生とKとお嬢さん=奥さんたちの「過去」に限定されるのは、小説の力学や美学からして当然で、恣に過去一般に拡げはできない。が、そうなると、そもそも、先生の妻の頭は「純白な過去」だといえるかどうかを問うべきだろう。お嬢さんの母親、母子家庭・軍人遺族の母親である「奥さん」は、早くから「先生」の人柄と財産と係累を捨てた天涯孤独と帝大生の身分に着目し、先生を優遇し身内扱いしている。娘一人の母親がそういう姿勢の時に、思春期に進んでいるお嬢さんと母親とが、一つ屋根の下にいる婿がねの青年の噂一つしないなどという禁欲的な母娘が、世間にいるものではない。ことこの件に関して女達は最初から「純白」ではありえない心理に自身を追いやり容認している。
だからこそ、先生が、Kを自分の賄いで同じ家に連れ込んだときに、奥さんは(お嬢さんも後に「奥さん」と呼ばれる意味で、一心同体が作意されていると読んでよい。)躍起になって制止し「よくないことが起きる」と予言している。すでに事件の核心は女達により予期されていて、先生よりもよほど賢いのである。
そしてKは、案の定自殺という変死問題を起こし、この時も奥さんはテキパキと処理した。なぜ事件は起きたか。奥さんにとって、つまりお嬢さんにとっても、問題はかなり明白で、その限りにおいて如何に先生が事情を知られたく無かろうとも、世知に長けまた聡明な奥さん達母娘は、すべて察したまま、だから、かえって先生との結婚をさっさと急いだのである。
そこまでは、どうしてどうして女達の過去を悟っていること、察知していること、「純白」だなどと信じたがっていたのは、先生の独りよがりに過ぎない。彼もまたそんなことのあり得ないことは知っていただろう。遺書を渡した「私」に対する先の勿体らしい制止は、およそ「私」への型どおりのアイサツに過ぎない。
だから、先生の奥さんが、遺書を実際に読む読まぬに関わらず、私が遺書の存在を告げれば、奥さんは「なかみは、みなわかっているわよ」と十分に言いうるのである。
つまり奥さんに隠しておく意味が何も無くなり、いっそう奥さんと私との「一体感」を強める物証にすら此の「遺書」はなるのである。
奥さんに遠慮して奥さんには隠したまま公開するような不自然な必要は、「私」には無かった。奥さんの頭が「純白」であると決めつける方が、不自然なのである。わたしは生き残った若い二人には「遺書公開の自然な合意」があり、先生の制止は意義を失っていると読んでいる。其処にこの二人の強い新しい立場が出来ていると。

* この学生の論考を送ってくれた大学の先生は、作中の先生自殺後、奥さんの生存は容認しつつ、「死に準ずるような境遇の変化(例えば、尼になる、あるいは狂気に陥るといった)があったのではないか」と解釈されているそうだが、これは作品の力学や美学に対して、恣な逸脱が過ぎる。そういうことがあれば、私は礼儀としてもそれを巧みにほのめかすであろうが、そのような内証は具体的に小説本文中に一カ所として指摘できない。
作品論は、行間や紙背を読むにせよ、あくまでも本文に即してその力学や美学を放恣に逸脱することはゆるされない。「お嬢さん=奥さん」の作中の造形は、どう見ても尼になるの発狂するのという兆候とはほど遠い、現実的な力ある生活者に書かれている。あの母親である「奥さん」の世馴れて沈着な性質が受け継がれている。Kの自殺に際していかにこの奥さんが冷静であったかを読むべきだろう。
第一、そんな出家の発狂のと心配のある限り、先生は愛する奥さんをおいて自殺はしない。性格的にも、私のいる状況からも、先生は安心して死ねるからやっと死んだのである。自殺出来たのである。

* ほんのトバ口のところで、送られてきた「論」はすでに立論の基盤が崩れている。しかし、もう少し続きも読んで行きたい。
わたしの「こころ」論は、先生の死後、奥さんと私の愛は結婚や妊娠(出産)にも及び、先生はそのことをむしろ自殺に際し二人に期待していた、という思い切ったものであるが、それは本文の表現に即して正確に論証でき、事実論証したのである。
いま、「こころ」はおおかたこの私の読みにちかづけて読まれていると、自信をもっている。容認論は有っても、論破された論には一つもわたしはまだ出逢っていない。
2003 4・6 19

* 延喜の聖代とか天暦の治とかを、かたはら痛く、仰ぎ思うことなどわたしには無かった。延喜の醍醐も宇多上皇も菅原道真を見殺しにし、時平の政治力はなかなかであったけれど、長くは続かなかった。律令は朽ち崩れ、諸国の剣呑と崩壊は目立っていた。それが村上天皇天暦の治世となると、中央の政治は無いに等しく、天皇も后妃も権門も文事と宴遊に興じ、しかも内裏深くにも盗賊の襲うことしばしばで、その内裏も焼亡した。強盗群盗偸盗は都を跋扈し、放火とみられる権門社寺の火災は日常化し、西京の低湿地には水が引かずに疫病は頻発、人はひたすら異神を祭り御霊会に群集し、地方では国司が苛斂誅求をきわめれば、土着した前司たちも武士集団化しつつ、抗争にあけくれ、警察力はこれらと結託して、民衆はひたすら踏んだり蹴ったりの目に遭っていた。それが「聖代」と謳われてきた村上天皇の時代、つまりは源氏物語ではその御代に擬せられている「冷泉帝の治世」なのである。
光源氏はいまや大殿であり、帝はその光と藤壺の罪の子である。盛大な繪合があり、やがて此の世の極楽のような六条院の建造と、光妻妾たちの集合がはじまるであろう。世は挙げて帝と光大臣の善政に、優雅に豊かに華やいで光り溢れている。
源氏物語には、村上の治世の大きな特色であった放火も火災も一切書かれていない。暴力による殺人も書かれていない。都や河原に散乱した死骸も一切書かれない。野分は吹いても、疫病に斃死する者は書かれていない。リアリズムをもって成果のめざましい源氏物語ではあるが、表現されているのはかくも目出度く理想的な公家世界のフィクションなのである。わたしは、これを忘れていない。

* 『平安京』を一種の熱気ある批評とともに語り終え論じ終えた北山茂夫氏の一冊は、氏の力点や褒貶の率直において、たいそう刺激的に感銘を受けた。光仁と桓武の改革、嵯峨経国の文事、行基最澄空海への批評、良房を批判し基経・時平を評価し、宇多・醍醐・村上の治世に濃い疑問符を書き込み、忠平・実頼・師輔を批判し、将門や純友の乱の必然に見事に道を付けて解き明かし、そして空也の登場に注目した、そういう一連の記述を通底する歴史批評にわたしはほぼ悉く賛同できた。
さて、次は曲がりなりにも天皇親政の「王政」から、摂関政治定着の平安「王朝」というけったいな家門の時代、第五巻『王朝の貴族』へ日本の歴史はすすむ。記述担当は土田直鎮氏。井上光貞・直木孝次郎・青木和夫・北山茂夫氏の「歴史」観に学んできたが、次巻は或る意味では京育ち・源氏物語好きなわたしには「よく分かる」時代かも知れぬ。紫式部や清少納言の活躍した藤原道長の時代ともいえる。どんな政治がなされ、どのように古代が果てていくのか。
2003 4・7 19

* 加島祥造さんに戴いた『漢詩』の後半は、案の定、あの「袁枚」訳詩のダイジェストだったが、昨夜も読んでいるうち、いわゆる学校の教授や博士達のお人のつまらなさをうたっている、面白い詩があった。
教授や博士にも、まこと碩学といえ人格高いすばらしい人のいるのは何人も識っている。敬愛している。
が、じつにツマラナイ人の多いのもその通りで、当然ながら、学問のとんと出来ない人、大学内の政治や力関係に卑屈で如才ない人に、甚だしい。二言目に忙しがる人も、つまらない。「忙しい」が名誉のような人をみていると、途方もない考え違いの軽薄さにびっくりしてしまう。たいしたことは、何もしていないのだ。
それと、「大学教授」なる地位を、天狗の鼻のように心得ているのが、男にもちろん、女の先生にも、いる。何のエラクも忝なくもない人が、けっこう平然と教授になると途端に傲岸なお山の大将に成り上がったりする。顔を見て声を聴いて、へろっとした足許をみて、クツクツ笑えてしまうことがある。
肩書きなんてものは、風に吹かれて寄ってきた時たまの紙くずに等しいのに。わたしには太宰賞も東工大教授もペン理事も、みんなそんなものであった。望んで手に入れたものは一つもない、ただ舞い込んできた。だから、その摂理のようなモノの手前も、きちんと心して辱めないよう付き合ってきたのである、自然と思うままに。
2003 4・7 19

* 世界文学史に冠たる源氏物語であるのは、身贔屓なしに万人の認めうる事実だが、その「源氏物語」なる、文字も言葉も証言も、同時代の男達が書いた数多い漢文日記に、只の一度として記載また証言されたことが無いという事実も、凄いではないか。
公家の日記は宮廷を中心にした男社会表通りを、いろんな意味で支える証言集であり有職故実の基盤であったが、そこに源氏物語の置かれる余地はなかった。今の子供たちの物言いを借りれば、知っていてもシカトされていた。
新しい『王朝の貴族』の巻でいきなり著述者の土田直鎮氏に教わった。多年史料編纂所におられて、物証や史料にもとづく厳密な記述で知られた人の指摘である、こういうことはアテ推量ですらわたし達には言えないことだ。
2003 4・8 19

* 『ゲド戦記』第五巻はおそろしい問題を突きつけている。
ハンノキというまじない師が、ゴント島に住む往年の大賢人ハイタカ=ゲドをはるばる大魔法使い達の島ロークから訪ねてくる。彼は最愛の妻ユリと幸せに暮らしていたが、出産の失敗で死なれてしまった。それからのちにハンノキは夢に魘され始める。暗い斜面に石垣がのびている。ハンノキは夢にその石垣のまぢかに立っている。石垣の向こうはくらい不毛の地のようであるが、ハンノキはその石垣のそばまで寄ってきた亡きユリをみつけ、言葉を交わし、手と手をふれ、さらに唇と唇とを触れ合う。だがお互いに石垣を越えられない。くらい陰のようなユリは、ハンノキに「おねがい助けて、わたしを自由にして」と懇願して見えなくなる。
それからというもの、ハンノキは夢にいつも石垣のこちらに立ち、すると彼をめがけて無数の陰のような死者たちが犇めき寄ってきて「自由にしてくれ」と泣く声を聴かねばならなくなった。彼等の魂は「真実の名」の力でもつなぎ止められない。夢の恐ろしさに彼はロークの魔法使い達の助力を求め、ロークの人はハンノキを、ゴントのハイタカ=大賢人のもとへ送ってきたのだった。
生死を分かつ「石垣」をはさんで、生者と死者とが互いに手をふれるなど、まして唇と唇でふれあうことなど、絶対にあり得ぬこととされてきた。それが起きた。
一人の聡明な魔法使いも、またハイタカも、ハンノキとユリとは生死を隔てた「別れ方がわからない」のだと指摘している。「おまえさん方ご夫婦の絆はきっと生死を分かつ境界よりも強いんだよ」と。
それにしても石垣に犇めき来て死者たちが「自由にしてくれ」と嘆くのはなぜか。途方もないアンバランスが起きてきている。ハイタカは、そう憂慮してハンノキをハブナーの宮廷に送り出すのである。
物語の中段に、「ヴェダーナン」という言葉があらわれる。結果的には選択というほどのことか、「もしもぜったいに死にもしなければ、生まれ変わりもしなくていいというなら、魔術の使い方を教えてやる」といわれてそれを選択した者達は、「みんな生きて、呪われた魔術を使うことはできるけど、死ぬことはできない」人達になった、「肉体だけは死ぬけど、ほかは暗いところにずっといて、生まれ変わるということがない」と。
石垣の向こうにいるのは、肉体の滅んだ魂が、幻影の肉体や衣服をまとっている人達で、しかも共同生活は全く出来ない、生前に如何に愛し合っていた者達も、互いにそれと意識して付き合うことも忘却しきって、けっして触れ合うことがない、そういう浮游的な、縁というものの失せ果てた世界だと。なのにハンノキとユリは手を触れ接吻もした。
ギリシァやローマ神話の「冥府=ハーデス」を思わせる死後世界だが、なにかしら「根元的な変化」が其処に起きてきているとゲドは憂慮し、ハンノキをハブナーの宮廷に送り出した。そこにはハイタカの妻テナー、彼等の娘でありじつは龍の娘であるテハヌーが、王レバンネンのたっての懇請でゴントから既に行っていた。
ハブナーはすでにして頻々と龍の加害に脅かされていた。この不気味な危機に対処するのに、王は彼女たちの叡智と威力を借りずには済まなかったのであり、ハイタカはハンノキの持ち込んできたことも、これと不可分のものと察知したのである。
生死を分かつ境界よりも強い愛という主題と、死後の世界で死ぬ自由を本来奪われた者達の悲嘆と苦痛という主題が、かなり烈しく交叉する。自由そして火と風に生きた龍の世界、冨と欲望そして水と大地に生きた人間世界。その双方がいまや互いを羨んで軋轢を起こしてもいる。
二度目を読み進めて、やがてクライマックスにさしかかる。レバンネン王の船には、龍の娘であるテハヌーとアイリアンが人の姿で同船し、テハヌーの母であるテナーが、またレバンノンの王妃になるであろうカルガド国の皇女セセラクも乗っている。ハンノキも魔法使いや船長達も乗っている。船は大魔法使い達の学院のある島ロークへ向かっている。幽顕処を分けた石垣をはさんで、底知れぬ恐怖と愛との決断が果たされるであろう。
死んでも死にきれない。よく用いられる物言いであるが、「死ぬ」ことよりも「死ねぬ」ことの方がおそろしい。
2003 4・12 19

* 無数の死者たちが、「自由」を求めてついに破られた境界の「石垣」をこえて此方の世界に入る、と、その瞬間に彼等はきらきら光るチリや灰のように明るい空へ舞いたって行く。生まれ変わったのでなく、やっとまことに死ぬる自由を得たのである。肉体は死んでも魂は死にもならず生きるよろこびとも無縁に冷たい暗いかげのように永遠の孤立に閉ざされてさまよい続ける、それが「魂の不死」ということなら、それは死の自由をえない永遠のとらわれではないか。魂たちは「自由にして」とハンノキに夢で訴え続けた。ハンノキと死んだ妻ユリの稀有の強い夫婦愛が、石垣というある「賢しら」に罅を入れたのだ。「ヴェダーナン=ヴェル・ダナン=分割」という不自然が、全きものとして回復されねばならなかった。そのために人と王と皇女と魔法使いと龍たちが力を尽くしたのである。ゲドはそのコンダクターであった。
『ゲド戦記』第五巻「アースシーの風」は二度読んで一度目に数倍するちからでわたしを幸福にした。いよいよ、また第一巻から読み直してみようと思う。

* 源氏物語は「少女」の巻。夕霧と雲井の雁との幼な恋、大貴族の子女教育めくおはなしになっている。一途に上り詰めてきた光源氏の世界が藤原氏の世界と関わり合い、葛藤を深めて行く。源氏物語「昼」時代に入っている。此処までは源氏物語「朝」時代であった。朝露のキラキラ光る巻巻であったが、これからはうっとりともの憂くもある春昼のような巻巻が「若菜上下」までつづく。
2003 4・13 19

* 清少納言や紫式部ら「女文化」の旗手たちを「受領層」という出自で括ろうとするのは間違いであろうと、土田直鎮氏はいう。受領(国司)や前司(前受領)たちの民衆に対する暴戻と苛斂誅求そして蓄富。それに対する郡司・土豪・百姓の抵抗。北山茂夫氏の歴史記述では、平将門・藤原純友の大乱を象徴的な事件として、もっぱら受領層の問題が語られていた。それは説得力のある歴史であった。
だが、その一方で、清少納言や紫式部の親たちは、受領でありそれにもあぶれるような、むしろ文人であり学者であったのは明らか。北山氏の力を入れて取り上げていた受領たちとはかなり様子が違う。式部の父藤原為時など、平安朝を通じての超級の詩人であり文士であった。越前守という受領に就任したのも、彼の詩に一条天皇が感動し藤原道長も同情したから実現したようなことであった。清少納言は百人一首の歌人であり、父は梨壺の五人といわれた後撰和歌集の選者の一人であり、その父か祖父かの清原深養父も歌人。百人一首に、小さい一家系で三人もならんでいる例は他にない。こういう文化系の女性達を「受領層」の女達と括るのは、たしかに土田氏の言われるように、へんである。
受領層が一つの代表的な政治的集団と目されるようになるのは、もっと後々の院政期以降だと土田氏は言う。その辺の吟味は要するだろうが、道長時代の受領層は、必ずしも摂関家などと桁違いな落差に在ったわけではない。道長の正妻二人、倫子も明子も受領の女であった。後一条天皇の外祖母となった倫子は、従一位にも叙せられている。摂関家と受領層とに格差が手の届かぬほど開き、それによって「層」的な個性を感じさせるに到るのは、確かにせめてもう少し後代だといえるだろう。それは何も北山氏の指摘される「受領」の問題性を無みすることとはならず、おのずと別の問題なのである。
2003 4・15 19

* 前半、三百三十枚ほどを読み直した。ほっこりと、それで息をついている。十一時。もう、やすもう。
『ゲド戦記』第一巻を読み始めている。ある人の自伝も大方読んだが、文藝としては物足りない。源氏は「少女」の巻にいる。日本史は、枕・源氏から、更級・夜の寝覚の時期に滑り出て行く。だが、眼をとざして寝よう。メールももう今夜は開かない。
2003 4・15 19

* 真の力は「闇」にしかないのではないか。「ゲド戦記」第一巻『影との闘い』の末尾に近く、そう書かれてある。
ゴント島に育った少年ハイタカは、生来の強い力を大魔法使いオジオンに育てられ、真の名「ゲド」を得て、さらに大きく成るように魔法の長たちの学院があるローク島に送られる。研鑽著しいゲドは、しかし学友からの烈しい挑発に負けて、太古の死者を呼び出す術に力を振り絞ったあまり、閉ざされてあるべき隙間から己が「死の影」を解きはなってしまう。この「影」との険しく危険な執拗な闘いが繰り広げられて、ゲドの己を全うする道はついにただ一つという瀬戸際へ追い込まれて行く。多島海(アーキベラゴ)の海から海へ孤独で危うい孤舟の旅を重ねる戦士ゲドの決闘は感銘深い。

* 少年時代、怖いものの筆頭は「闇」であった。くらいところに一人いるのが怖かった。光が在ればどんなもののけの影像も、怖さは霧消しそうに思われた。闇の意味をわたしはこども心に思いつづけ、闇に親しむ気持がもてないと、怯えて生きねばならぬ時間が長いと覚悟した。闇の中でこそ安全だという逆説をわたしは自身に育てていった。育ての親の一つは、笑い話のようであるが戦時の厳しい灯火管制であった。
空襲警報が鳴り響くと街の中に一点の光も消え失せた。空襲からの安全を守る闇。まこと、星明かりもない闇の中では我が鼻先においた自分の指先も見えなかった。
七つ八つまで闇に怯えて泣いたわたしが、十になれば空襲警報下に体験する真如の闇に「自由自在」な不思議な解放感を覚えるようになっていた。電灯の明かりの下では尋常な国民学校の生徒が、闇に溶けいると、「可能性」そのものかのような大きな意識を感じた。丹波の山奥に疎開すると、警報など発令されなくても「闇」は夜にさえなればじつに容易に得られた。闇色の美しく深いことに魅されたのは、丹波体験のなかでも大きかった。

* 割符というものがある。たとえば三関を固める朝廷の使節は、「木契」という割符を持って不破や鈴鹿の関へ走った。割符は割られぬ前の或る「全きもの」の実存を示唆する仮幻の物証である。電灯の下の一生徒は割符の一片であった。闇に溶け込んだ意識のなかに全体(トータル)を感じた。
わたしは、闇の奥に溶けている自身のもう半分の割符を此の世に引きずり出す魔法は持てなかったが、またそういうことが人間にゆるされているのかどうか分からないが、ゲドは少なくも、過って、ないし少年らしい傲慢の故に、それを犯してしまい、我と我が死の影に、生ける己を、喰い殺されようとする。そういう「闘い」の記として『ゲド戦記』は幕を開けている。またゲドがどう打ち克ったかが大事である。われわれは、所詮割符の半片として生きているのだ。その通りだと私は思う。バグワンが、全体(トータル)というときにもこれが無関係ではない。
アーシュラ・ル・グインのこの作品に出逢ったのは、娘朝日子が高校から大学への頃のこと、そう遠い昔ではない。しかしこの連作の世界は、もうグインの作品なんかではなく、わたし自身の原故郷として、実在している。アースシーの広大な多島海地図が頭に入っていて、わたしはゲドの行く先々に同行できる。
そういう感覚で、わたしはまたわたしの「闇」との間柄を育ててきた。コンピュータのウエブとして目に見える「闇」もまたその派生であった。
これは、だが、一度で語りきれることでない。
2003 4・16 19

* ゲド戦記第二巻『こわれた腕輪』を一気に読んでしまった。読み出せばやめられないと、分かっていた。読んでいる間は咳・痰から気持の上でのがれられるとも。原題「アチュアンのリング」は、たしか原文の一冊もどこかにある。対訳で読もうかと思っていたが、そっちが見つかりそうになく、読み出せば抵抗できずに、しまいまで。他巻とちがいこれはほぼ全編が漆黒の地下の「闇」の物語で、「影との戦い」が海の果ての果てまで追いつめて行く決闘の物語だったのと大いに異なる。それはゲドの己自身の達成の物語だったとすると、第二巻は世界中の平和の祈願を底意に秘めた、ゲドとテナーとの信頼の発見の物語である。
テナーは、巨大な「闇」に幼く健康な心身を「喰らわれた」巫女であるが、尽き果てていなかった一点の生の光を輝かせて、アチュアンの地下迷宮から、忍び込んでいた大魔法使いゲドとともに、信頼の世界へ脱出し、再生する。生と死がトータルに成ることとあわせて、此処では男と女とがまたべつの真のトータルを遂げて行く物語とも成っている。二つに割れて行方を失っていたエレスアクベの腕輪に刻まれた神聖文字のなかで、文字字体が半分に割れていた一字は、「和」であった。これがもとの一つに成らねば世界は静かにならない。ゲドとテナーとは、闇の底からそれを回復する。これは、全編が「闇」なる根源の哲学をなし、しかも叙述は生き生きとして細部のリアリティーも構成のリアリティーも保って、五巻のなかでも傑出した文学を成している。

* 土田直鎮氏の歴史記述は、また他の人達のそれとちがい、とても個性的で一徹で興味深い。この人は東大史料編纂所の(大勢そういう人の棲息するところだが、)巨大なヌシの一人。徹底して史料を読解するところから歴史を確認して行く。わたしたちのような素人は、いかに歴史好きであろうと、よくいって直観と読書でしか歴史は組み立てられない。しかし専門の歴史研究者は、基盤にある史料の原文の読解と解釈とからはじめる。はじめるべきだと土田氏は言う。
ところが、史料を正しく深く厳格に読むというのがどれほど難しいかは、公家の日記の一行を読み込むだけにでも、途方もない力を要する。そうあるべきだとは承知でも、そんなことのキチンと出来る学者がいたらそれはウソだと、土田氏は断言する。みな、自分で読める程度の都合のいいところを拾い読みして、それで論を立て辻褄を合わせている。いわばそのようなゲームの巧拙で歴史学が成り立っているようなもので、厳格な歴史学にはまだほど遠い、と、いうわけである。

* 日本国史は、三代実録で終わり、つまり光孝天皇で終わり、その後は無い。その後の歴史を支えたのは平安時代の多くの「公家日記」であるが、これは今日の我々の私的な日記とは大いに性質を異にする、公的な儀式次第、有職故実の参考書的なもので、具注暦の体を基本にしている。
官製暦=具注暦が、半年に一巻、巻物に作られる。配布される。一行めにその日の暦記事が書かれてあり、次の二行分は空白。この「三行で一日分」の暦の、その空白二行がつまり日記用であり、人それぞれの書き方で全て漢字書き、とはいえ、まともに漢文ともいえない。これ有るがゆえに辛うじて日本の歴史の「一部」が確保できるという。一部とは、京都の、貴族社会の宮廷行事に周辺にほぼ限られるのである。
同時代の夥しい公家日記に、「源氏物語」のことは只一度として現れず、たとえば浩瀚な「小右記」中にたった一カ所、「為時女」と注してある女房の記事により、奇跡のように紫式部らしき女の存在が確認されるといった、男社会に偏りに偏った史料が積み上げられるのである。

* 史料編纂所とは、ただのそれらしい名称の施設ではない。文字通り史料編纂の作業を明治以来延々と続けて、完成にまだ百年はかかろうかという、克明な歴史記述の営為に明け暮れている。八百年間の一日一日を次いで、何が起きていたかの具体的なコトを、すべて史料文書から抜粋し、その原典を確認し記録して行くのである。怖ろしい量の本がすでに数百巻出来ていて、まだ各時代とも百年もかかるだろうと土田氏は言う。
一行の日記の正しい読解も容易でないのに、それを刊行して日本の八百年分を網羅するのである。「歴史」記述とは、想像を絶した基礎作業の上に組み立てられるもの。わたしは、そういうことを本のすこしでも知っているので、ことに歴史学に関しては研究者の仕事を尊重し、学恩の多大さに感謝するのである。
2003 4・17 19

* わたしの症状は、避けがたく、妻に移行している。わたしの方はやや右肩上がりに少しずつ快方へ向かうのかも知れないが、胸に喉に含んだ咳源は、依然ちいさな刺激でも激発しそうな按配。しかし、髪の毛にふれても痛くはない。熱ないし風邪気味は薄れているようだ。
こういう体調で電話口に呼び出されるのが、つらい。もともと電話は、掛けるのも掛かってくるのも好きでない。メールだと、読んでよく考え、こちらのいい時間に相当な返辞が出来る。緊急即決を要する用件はこの限りでないが、メールでいいものは、そう願いたい。
2003 4・17 19

* 昨日、会長を退任の梅原猛氏より『王様と恐竜』という題の「スーパー狂言」なる三編その他収録の一冊を頂戴した。猿之助の「スーパー歌舞伎」に茂山一家の狂言というところか。評判の「噂」のかげ程度は耳にしていたが原作ははじめて見た。舞台はむろん知らない。
もう何十年になるか、「冷えた情念」と題して、現代の狂言への失望落胆を書いたことがある。「コント55号」のなかにむしろ今日の狂言を瞥見しうるのではないか、などとも。狂言ほど、「型」に嵌ってしまえば根底を失う藝はなかろう。歌舞伎は批評を喪失しても、ノンセンスの野放図な拡大によってでもかえってセンス生命は保てる。狂言は風刺という批評行為である以上、現代や今日を忘れれば、ただの型の踏襲という以外には、冷えた笑いを窺うのみ。そこにうまいとへただけが鑑賞されるのでは、ま、考古学資料のようなものだ。
梅原さんの新作狂言はその意味で破天荒に「今日」のグロテスクを衝いている。その是非や成否は舞台をみて判断する以外にない、活字で読む限りは、特別の感興もなく、当然ながら「蕪雑」な印象は否めない。つまり「読んで嬉しい」花いちもんめでは全くない。茂山一家がどんな舞台を創っているかであり、これはその舞台台本である。本来が「本」にして読ませて評価されようとは思うべきでない、台本レベルである。
武者小路でもそうだし、ことに正宗白鳥の戯曲がそうだが、舞台に再現されると水際立つ効果をあげるのに、活字で読んでいると砂を噛む感じがする。面白くも何ともない。戯曲とは文字で読めば本来がそういう物だ。舞台を想像できる力のある人にはかろうじて面白さが読み取れる。
ところが「読む戯曲」の書き手の台本は、読んでいれば小説のように面白いが、そのまま舞台に置くと冗漫も甚だしい。谷崎は戯曲を一時期多作していたが、このギャップに悩みつつ、逆手に取り、「レーゼドラマ」と「台本」とを書き分けてゆくようになった。だが概して「読む戯曲」「戯曲の体裁の小説読み物」を谷崎は書いていた。
梅原さんのこれらの台本は、「読む戯曲」としてははなはだザッパクで感興というものの殆ど一滴もないが、仰々しく舞台化すると笑わせることだろう。その段階で成功すれば佳いのである。こういう仕事を遮二無二世の中へぶち込んで行ける「地位」を梅原さんは獲得してきた。地位の力を生かして時代の前線を切り開かれるのは立派なことであり、地位が出来ると権力へ転じたがる有力者たちの方が多いのである。敬服する。
2003 4・18 19

* 八時まで疲れ寝した。少し食事を摂った。気分が悪いわけではない。ちょうど十日ほど経つが、わたしに限り今回の病状で、頭が朦朧としたことはあまり無かった。咳も洟も痰もラクではなかったが、その一方で本は幾らでも読めた。幾種でも読めた。頭の中では本の内容がいつもイニシァティヴをもち、わたしの中では、いつでもゲドや、夕霧や、歴史記述やバグワンが働いていた。テレビは、新聞は、あまりわたしを誘惑しない。それよりも書き上げたばかりの作品が新鮮だった。病気のことは、少し外側から、なるべくよそ事のように「ながめ」ていようとしたし、今回はそれが可能で、有効だった。わたしのなかに、病気で気分の冴えないわたしもう一人いる、といった感じ方であった。なにもかも、病院以外の約束をキャンセルした気軽さも、負担を取り除いた。
2003 4・18 19

* 『ゲド戦記』第三巻を読んでしまった。主題は「均衡」か。生と死にも、光と闇にも、もろもろに世界は均衡を得ながら安定をはかる。だが人間は、「もっと」「もっと」と思いつつ均衡に穴を開け隙間をつくり、こじあけて、己の欲望を都合よく拡大させようとする。そのために世界は病んでゆく。
此の巻はあだかもブッシュやフセインや金正日をかためて何倍もの力に傲った魔法使いによる「均衡」やぶりへの、過酷な、ゲドと青年アレンと龍との協働の「闘い」を描いている。それだけではあまりにお話めくようだが、フィロソフィーは透徹し、むしろ聖書のような相貌で作品は光っている。
最終の五巻めを二度読んで、一巻から三巻まで来て、確信は深まってきたが、アーシュラ・ル・グゥインは、どこかでバグワン・シュリ・ラジニーシないし近縁の聖者との間に思想的な接点接線を持っているに違いない。作品論として追ってゆくと証跡はきっと掴めるだろう。
わたしは、バグワンについてもグゥインについても、実像の探索はしてきていない。書かれ語られたものにピュアーに参入するだけで足りるし、その方が良いという判断であった。その姿勢に変更はないので、現実レベルでの調べを始めたいとは思わない。わたし一人の思いで、好き勝手に確信にちかいものをさらに吟味してみたい気持が強くなっているのは事実。
ともあれ、第四巻を読んでみる。じつは、この巻が問題なのである。ゲドは渾身のちからで世界の病原となっていた均衡の隙間を回復し、そして一切の力を失い昏倒した。アレンはゲドを死の世界からはこびだし、太古の龍カレシンは彼等を無事の故国・故郷に運び返してやる。
ゲドは魔法を使い果たして、もはや魔法使いではなくなっている。第四巻のゲドはもう大魔法使いではないゴントの山に住む羊飼いの中年男にすぎない。だが大賢人として生きた無量の智慧はある。
第四巻はゲドの魔法が出ないだけ、何となく物足りないと読者は感じてしまう。おそらく、そこに、この間の作意の生きるところがあり、フィロソフィーは静かに絹のように波打つであろう。題して「帰還」である。

* 土田直鎮氏は、幾重にもわれわれの「あしき常識」を引っぺがしてゆく。たとえば摂関体制における天皇の存在が、無残に棚上げされていたなどと思うのが誤解であること。摂関や大臣家の私邸内でもっぱら政所政治がなされていたとするなど、とほうもない誤解であること。またたとえば公家政治は遊興を事とし政治は放ったらかしであったなどというのもとんでもない誤解であること。彼等は今日の内閣のように施政方針を公表してそれに従うような政治でこそなかったが、そしてたしかに超スローモーに行われていたが、「上卿」といい「外記政」といい「陣定」といい、日々の「定」の専門的に細やかであったことは事実が証ししている。有能でなければとうてい成しがたい議事と処理とは成され続けていたのである、と。
おもしろい。また当然そうであったろうと思う。物語の場面からだけ時代を読んでいてはお話にならない。あたりまえだ。むろん、だからとて政治力の過大評価は無理だし、土田氏もその辺は点が辛い。あたりまえだ。
2003 4・19 19

* 『ゲド戦記』第四巻「帰還」を読み終えた。王となる若いレバンネンと二人、死の世界の奥の果てで、世界の「違和」の原因となっていた或る悪意と魔法による裂け目を、ゲドは渾身の力で閉ざしてきた。世界は病源からかろうじて救われたが、大賢人で大魔法使いのゲドは、自身の力の悉くをつぎこんでしまい、もうどんな力も持たない人に戻っていた。レバンネンは死んだようなゲドをかろうじて死の世界から運び出し、龍のカレシンがあらわれて二人をのせ、レバンネンをローク島に、ゲドははるばる故郷のゴント島に運び去る。それが前巻「さいはての島」の収束であった。
第四巻は、そのようにしてゲドの戻ってくるゴント島での、あのアチュアンのテナーと、彼女の育てている、テルーという顔の半面を火傷でうしなった少女の物語になっている。
帰ってきたゲドは、一切の不思議の行力を喪失した男に戻っている。不思議の力など持たない普通人の普通に生きて行く危険や喜びや愛や怒りや恐怖が坦々と綴られて行く物語には、静かな静かな魅力がある。そして、まぎれなく、次巻の到来を予告もしていたのだ、それに気が付かなかった。もうこれで終わりかとすこし落胆していた。だが、この坦々として見える「普通の生活」物語が、じつはとてつもない展開へ跳躍するための、強固な踏切板であったことに、今は合点が行く。テナーという魅力溢れるヒロインの造形は確かで、第二巻のあとの名残惜しさを吹き飛ばしてくれる。『ゲド戦記』五巻のうち、テナーは第二、四、五巻を覆い、ゲドは各巻にむろん登場するけれど、第一、二、三巻で魔法使いとしての活躍は終えている。これは「ゲドとテナーとの物語」なのだ。
もう一度、収束の第五巻を読みたい。そして、時間がゆるせば、この名作とバグワンの教えとの臍帯を探ってみたい。さらに進んで念願の「静」の研究を。
2003 4・21 19

* 岩波から「座談会」で『明治文学史』『大正文学史』が出ていた、今も手にはいるかどうか。名著とか名企画とかいうのは数有るにしても、この「座談会」企画はそんな中でも抜群であった。こんなに深度深く、こんなに水準の高い研究成果と洞察(瞬間風速)に満ちた業績はザラにはない。その量も厖大なら、間延びしないみごとな論議と追究の緻密さや執拗さにも驚く。何十年か前に買ってひたすら愛読し、どんなに自分を豊かにされたか知れない。
ふつう座談会は、どうしても読み物に堕しやすく、かなりの漫談もまじって、その場限りでおわるものだが、これは、学術と批評の粋であり精華であり、宝物のような名著に仕上がっている。近代文学を語るほどの人で、此処を通過していないようではモグリだと謂われても仕方有るまい。
その魅力の核をなしていたのが、勝本清一郎の該博な探求と精微な引用と大胆な洞察で、目くるめくほど。この人は、座談会ごとに座右に莫大に参考書や資料を積み上げ、遅滞なく必要なところを指し示しつつ議論を深め引き締めていささかも緩むところ無かったと言われる。
いったいに、小林秀雄を識っている人は多いが、勝本清一郎という名前を認識している人は、今日なら、ことに少ない、無いほどだろう。が、批評を学術として深め得た近代最高の存在の一人と謂える。フラットな評論は知らず、真に研究と探索の名に恥じない批評は、勝本を以て第一人者と目したいほどである。明治大正、数十回を重ねた「座談会」は、この勝本の探索や追究を引き出す体に、柳田泉、猪野謙二という二人があり、これまた明治・大正文学の碩学であり老巧の批評家であった。この三人をレギュラーに、毎回ゲストを一人ないし二人迎えての座談会であった。

* 藤村講演を用意するにあたり、もう一度根本から土壌づくりをしたいと思い、昨夜来、これを書庫から引っ張り出して、まず「北村透谷」から読み始めた。全体を再読するには、厖大なので。そして、のっけから勝本の精緻な土俵ツクリを聴き、ひさびさに興奮した。どうも藤村がお留守に成りはしないかと心配されてしまうほど。
いずれにしても藤村の基盤に、透谷の偉大で新鮮な近代的自我の洞察を、あらましでも確認しておかないと。

* ゲドの最終巻を、三度び、読み進んでいる。自分自身の内側から透明になってゆくような作品・読書に出逢うのは、そう有ることでない。漫然と読んでいるのでなく、一行、一頁とすすむことで自分が「生きている、今・此処に」と実感させてくれる。出逢いとは、こういうこと。

* 積んでみたら十数冊もいろんな方から新刊を戴いている。即日礼状を書いた習いも、この頃は、怠りがち。機械の近くに手紙などの手書きできるスペースがとれず、別の場所へ移動しなくてはならない、これが簡単でない。
2003 4・22 19

* 透谷、一葉、藤村。明治の女子教育の土壌からいくつかの雑誌が芽生えて「文学界」に辿り着いた。この雑誌自体はめざましい成果をあげながら、経済難で廃誌となったものの、上の三人がこの順番で大活躍し、不滅の名をのこした。和田芳恵氏をゲストに「文学界」の成立から藤村まで、さらには「明星」の与謝野晶子まで、克明な討議がつづいて、明け方四時半まで読んでいて、終えなかった。おっそろしく、おもしろいのだから、やめられないのである。
藤村が、陸羯南を介してらしい正岡子規の「日本」に記者として使ってくれと面接に行き、子規に断られている話など、興味深い。一葉の実像点検の微細に渡って緻密なことにも驚かされる。汲めど尽きぬ津々たる興味の泉は、ほんとに至る所に湧き出ている。

* 土田直鎮氏は、世に謂う「十二単」という称呼ほどでたらめで実態のないものはない、ダメだと。これは、さもあろうと思う。源氏や枕の時代にそんな言葉はただの一度も見つけたことがない。

* もう九時だ。一度ぐらい九時十時に寝てみたらどうだろう。それとも「成政」を飲みに階下へ降りようかなあ。
2003 4・23 19

* 昨夜は国木田独歩と島崎藤村の討議を読んだ。そのあと、高校の頃に奮発して買った筑摩大系の第一回配本「島崎藤村集」をあけ、思い立って巻頭の詩集「若菜集」を全編通読した。
拾い読みはしても気を入れて通読したのは初めて。「まだあげ初めし前髪の」とうたい出される有名な「初恋」は、やはり此の一巻の白眉であった。大方が「文学界」に発表されている。いまの文藝春秋の「文学界」ではない、明治の昔に「女学雑誌」からわかれて文藝誌として編集された。しかし発行元自体が明治女学院であった。書き手も読み手も女性や女学生が多く、しかし、文壇につよくアピールした雑誌であった。
おんなの名を題にした詩がかなりある。おんなになりかわっての詠嘆詩もおおい。姉と妹との対話風の詩編も幾つかある。そして「春」の詩。うら若い青春の詩。
藤村という人は、「人物画」と見立てた「詩」から、「風景画」と見立てた「散文」へ転じていった。この見立てが、独特である。藤村は洗礼をうけている。ミッションスクールに身を置いていた。明治の知識人には例はいくらもある。しかし藤村をキリスト教の感化だけで語るなど、出来るはなしではない。魂魄に譬えていえば、天上する清明な魂であるよりも、はるかに地に肉につなぎとめられた重い魄霊の人であり、それを認識しつつ浄化を考え続けた人だ。あまりにも葛藤を身に抱いて離れ得なかった。
藤村を筆誅した文学者は少なくない。志賀直哉も芥川龍之介もそうだ。谷崎さんも、具体的でないが、よくは言わなかったと、松子夫人にうかがったことがある。直哉や龍之介の非難は、わたしの思いでは藤村に少し気の毒である。平野謙の峻烈な「新生論」にも勝本清一郎は片手落ちの嫌いがあると座談会で抗議していた。この辺にも問題はある。
2003 4・24 19

* 新刊の第五巻を一度読み二度読み、第一巻から順に第四巻まで読み返して、また『ゲド戦記』第五巻「アースシーの風」の三度目を、夜中に読み終えた。ずっと鉛筆を片手に、読みおとしなく、より正確に読み味わえるよう、おさおさ怠らず集中して読んだ。この五巻の、世界構造の問題と、問題の超克を、読み当てたように思う。しばらく頭の中で蒸らしておきたい。
死んでも死にきれない魂の不死という凄惨。肉体だけを死なせておいて、魂は永遠に生き延びたい願望が、悪しき「分割」の結果として実現していたための、死者の孤絶な苦しみと不自由。
見回せば、人間だけが孤立した幻のように互いにまったく触れ合うこともなく右往左往している世界に、草木も生えず動物たちもいない。不死の永生をあしく願った人間だけがいて、そこには風もふかず水も流れない。瞬きもしない運行もしない小さい星だけが天に凍り付いて、死者たちの、死ぬに死ねない魂たちの、灰色の塵で満たされた袋小路世界。
それに対し、そうでない死、肉体も魂も死ねば土に帰し、風にのり、花に獣に石に草木に自然に生物に入って行く死を選択した人間達もいた。
浅くは今は謂うまい。死とは、生とは、全き命とは。ひたひたと近寄ってくる絶対の機会のまえで、それらは一つの作品内の問題ではない。自分の根本のいわば「願い」である。
それにしても終幕の美しい盛り上がりのまえに、わたしは、三度読み三度感動を新たにし、涙を堪えられなかった。また必要に迫られて読み返すであろう、繰り返し。宗教の教典や経典は、もう二度とこういう感動では読まないだろう。

* 土田直鎮氏の「王朝の貴族」は浄土教の章で閉じられた。空也(市聖)、寂心(慶滋氏)、源信(恵心)、そして往生伝。夢中で「往生要集」を読んで、浄土教の感化は小説を書き始めてからもわたしから離れなかった。法然に、親鸞に、また一遍に、のちのちの妙好人たちにまで思いはひろがり行き、浄土三部経を繰り返し繰り返し翻読し読誦し、そういう中で法然の「一枚起請文」に尽きてゆき、親鸞の「還相廻向」に気が付き、そして、私自身の看破である「抱き柱は要らない」というところへ到達してきた。バグワンに、そして不立文字の禅に、いまのわたしは深く傾斜し、自分の課題を眺めている。
座談会文学史で夏目漱石も島崎藤村も最終的に「禅」へ歩み始めて、その到達には差があった。谷崎潤一郎は宗教的な回心の何ものも語らなかった人だが、生前に作った夫妻の墓石には「空」と彫り「寂」と彫らせている。文字の趣味に過ぎないのかも知れず、深い思いがさせたことかも知れない。
漱石は偽善とエゴイズムをにくみ、藤村は偽善者、エゴイストと罵られたこともある。漱石は露悪を指弾しながらそこに「現代」を見出し、藤村は露悪の浄化にかなしみを湛えて家の根を思い、国土の根を思って歴史に眼を返していた。漱石は肉を書かずにかわし、藤村は肉におちて肉を隠そうとした。潤一郎は、『瘋癲老人日記』の最後まで肉を以て肉に立たせ、一種の歓喜経を書きながら亡くなった。
2003 4・26 19

* 昨日読んでいたある文章に、「ギョーカイ」の彼彼女たちという表現があった。休日の夜道の閑散、開いた店も少ないが、近くにテレビの局もあるらしい辺り。わたしは、賑やかな勤め先を退けてきたキャピキャピした若い人達の群れを想いながら読んでいた。
そのあと或る文庫本の解説を、親しい某社の女性編集者が書いているのをおやおやと思いよんでいると、そこにも「ギョーカイ」という言葉が出て、これは昨今の隠語の一つで「レズビアン」たちを謂うのだとしてあり、そんなことは、およそ思いつきもしないことであった。で、もう一度さきの文章を読んでみて、そうかなあ、そうかも知れないし、というぐらいでわたしには分からない。言葉というものの、恣に生きて変貌し変容し跳梁するものだという当然な認識を、また新たにしただけ。
2003 4・27 19

* 藤村の大作『新生』をまた読み始めた。買ってきたばかりの藤村集のクンクンとインキの匂いのするまっさらの新刊を抱くようにして、生憎とひどい胃の痛みが起きていたのに、ガマンしガマンし、徹夜してこの作品を読んだのが、高校生の時であった、感銘と衝撃を、昨夜のことのように思い出す。二度目はもう大人になっていた。今回は三度目。
藤村作品は長編が記念碑的にずらりと並んで行く。晩年の『夜明け前』は超大作、『新生』は堂々の大作、完成度としても自然主義作品と観ても最高傑作の『家』も長編であり、近代文学史の初期の金字塔である『破戒』もみごとな長編である。ほかにも『春』「桜の実の熟するとき』なども長編である。『破戒』のほかは広い意味で自伝的と謂って、大きな間違いはない。藤村は生涯作の殆どを自伝的に書いた。それらの中で『新生』は衝撃の事件を書き込んだ、動機と意図の複雑さにおいて類のない創作、名作である。どんな新たな感想がもてるか、楽しみに読んで行く。

* 日本史は竹内理三氏の担当で、鎌倉幕府成立に到るまでの「武士の台頭」である。
「侍」とは貴人貴族の前に地に跪き頭をさげて命に従う者達の「坐」法そのもの。それが侍と謂われた武士のもともとの地位と作法であった。台頭とは、その垂れた頭をあげ、跪いた足を伸ばして立ち上がる謂いである。まさしくその様にして武士達は公家の前に立ちふさがって、ついに屈服せしめた。平清盛による平政権はその最初の達成だが、彼等はまだまだ公家風であった。自らが公家に成り上がることで都の政権を取った。半端物であった。だが、とりあえずは平家が勝ち上がったのである。
この巻は其処までが語られるであろう。「王朝の貴族」たちとは打って変わって土臭い世界が目に見えてくる。
2003 4・27 19

* まだ本調子でない。卒業生のお誘いを連休過ぎにと、大事をとった。本を読みに階下へ降りる。昨夜も四時就寝。しかしこの読書三昧のときがわたしの休息なのだ。
2003 4・27 19

* いま武士のことが、とても面白い。「兵=つはもの」は、もともとは武器を謂った。それが武藝に長けた者の意味になり、兵制の変転に連れて専業の兵が出来てくる。かなりこまかに兵には自弁の武具や携帯具の規定があり、その用にたえるには殷富の百性、つまり土豪級のものしかなれなかった。この武具等の指定のこまかいこと、それだけでも古代の戦の模様が髣髴する。
侍者という言葉も古くからあり、貴人に仕え地下にさぶらふ者ではあるが、だれもが侍に成れたわけでなく、かなりの兵の首領級が、貴人に近侍していた。後々で謂えば忠平に平将門、道長に源義家のような存在が「侍」であり、武士であった。その武士・侍が伴類・郎党・家来を率いていた。後世の侍や兵とはえらくちがうのである。
そんなことも昔なら「知識」として喜んで溜め込んだろうが、いまはそんな欲はまったくなく、ただただ面白がっている。なにを知ってもなにを覚えても、おもしろいばかりで、それをどうにか利用しようという気はまるで無い。此処に書いて楽しんでいるだけ、これは、ラクである。「知識のマルだし」ではつまらないのである。歴史年譜をひらたく文章に書き起こしただけで本にたような本をもらうこともある。そういう本が、存外に売れたり、しきりに本になったりする。ツマラン。
2003 4・29 19

* 年度の締めくくりの仕事に、井上ひさし氏の昭和四十八年の小説「あしたの朝の蝉」を校了し、入稿した。
秀作である。淡々としていて、クオリティーは光っている。話材は素朴かつ哀情にあふれたものだが、砧を打った静かさと美しさをもち、感動がある。校正してみて改めてこの作品をえらんだことに自信をもった。井上さんも即座に頷いてくれた。
また梅原猛氏のつよい希望で、新作の狂言台本「王様と恐龍」を、本からコピーし、スキャンしはじめた。半分は明日に残した。
この二人の二作が掲載されると、梅原前会長と井上現会長の作品が、一つは若き日の優れた論考と少年時代を書いた秀作小説の一対に、もう一つは狂言台本と義太夫節台本の一対になり、ともに喜劇。なんだか「作品合せ」のようなことになった。読者が楽しんで自ら深切に「判」読されるかもしれないと思うと、楽しい。
2003 4・30 19

* 梅原さんの狂言台本、堀辰雄の懐かしい「ルウベンスの偽画」を、スキャン原稿から妻が起稿・初校してきてくれた。読みます。 2003 5・2 20

* 新しい仕事の書き継ぎも、着々前進している。また、島崎藤村の作品や関連の論考の「読み」も連夜二時間ずつぐらい進めてきて、ようやく、だいぶ藤村世界を取り戻してきた。講演のことなど忘れて、楽しんでいる。
源氏物語の音読もしかり、今は、「玉鬘」の巻で、筑紫の監太夫求婚から逃れて、夕顔の遺児が都に逃げ帰るきわどさといい、光源氏に使えるかつての侍女右近に見出されるであろう予感といい、劇的な展開を美しい古語で毎深夜に音読し続ける嬉しさは、なみのものではない。玉鬘「並びの巻」がいよいよ展開して行く。わくわくする。
そして武士社会の形成に教えられる「民衆の地力」の蓄えられ行く頼もしさ。
すべて、拘泥はしないで、鏡の前の往来にまかせて楽しんでいる。バグワンがすべての分母になっていることも変わりがない。
2003 5・2 20

* 木島始さんから、アーシュラ・ル・グゥインが、例のサム・ハミルの「戦争に反対する詩人たち」のサイトに、「詩を寄せていましたよ」と、知らせて下さった。読みたいな。
2003 5・2 20

* 梅原猛作狂言「王様と恐竜」を起稿校正して入稿した。快作である。表現はザッパクだけれど、それの似合うおおらかな象徴味があり、柄の大きい作品。ふっ切ってハチャメチャにやっつけているのが、いわばカブキの味わいで、わたしはハッキリ成功作だと、あらためて敬意を覚え、推賞する。
作者はぜひアメリカで上演したい、必ず機会があろうと漏らしておられたが、一日も早く実現しますようにと願う。日本でよりも、はるかにアメリカでこそ爆ける作品になっている。戦争反対をこれほど明快に本筋をとおして徹底表現した志は、高い。ペンクラブ会長で文化勲章だから書けた、出版も出来たのは事実だろうが、それを生かしてこういうふうに「反戦・反核」の大声をあげてもらうことは、大事だ。少なからずお高く取り澄ました大江健三郎よりも、泥臭いほど縄文人の梅原の方が「社会性」に生き得ている。
2003 5・2 20

* 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」を校正する。堀の書いたほぼ最初の小説作品ともいえるだろう、定稿で発表した時ですら二十七歳であった。だからこの短編作家の撰集が『風立ちぬ』と表題されようが『菜穂子』や『美しい村』や『聖家族』であろうが、籤とらずにこの「ルウベンスの偽画」は巻頭に出され、堀辰雄との出逢いを記念してしまう。わたしの場合もそうであった。
高校一年生のまだ一学期のうちに、わたしはこの作家の撰集を人に借りて読んだ。智積院の奥に京都美大(今は藝大)があり、わたしたちの高校はその一部に借家住まいしていた。次の年に日吉ヶ丘新校舎に移った。
堀辰雄を貸してくれたのは、この小説の、また「風立ちぬ」の、ヒロインのような同級生の少女であった。この少女は、どこかで、わたしの書いてきたヒロインたちの、少なくも一部で印象が重なっている。
窓によりて書(ふみ)よむきみがまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
この人、高校を卒業するまでは学校にいなかった、気がする。わたしが東京に出てきてから、いくら探索しても見つけようがなく、とうに亡くなったようだと知らせてくれた友人もいた。
それはそれとして、堀辰雄には、だからかなりハマっていた時期があり、そして離れてしまってもう久しい。漱石や藤村や潤一郎を敬愛するわたしが、そうはながく堀辰雄にハマっていられなかったのは無理がない。だが、懐かしいという言葉がピタリと当たる。わたしもまた小説を書き始めた同年齢の、堀辰雄のこの短編から、なにが蘇ってくるか、それはもう小説のようである。
2003 5・3 20

* 四時まで、日本史を読んでいた。もともと和歌や物語や説話など通じて、また京育ちもかかわって、都の公家社会の方へ大きく偏って知識を蓄えていたため、武士の台頭を丁寧に跡づけて行く竹内理三氏の実証的な歴史記述には、たいへん刺激を受ける。
荘園の蔓延、その背景になる権勢や大寺院の強欲、国司たちの強欲、それへ対抗の辺境の抵抗・在地勢力の対抗意志が、卍巴とひっからまって、それが、ひょんな成り行きで藤原氏外戚としての掣肘から逃れ出た後三条天皇の即位、そして院政期への移行という大舞台へ変じてくる。
わたしは、高校で歴史を習うよりもっと早くから、この後三条天皇に多大の関心をもっていた。政治らしい政治をした天皇さんは数少ないが、この後三条天皇は、天智・天武・持統また桓武などと並んで明らかに強力に、なかなかの「良い政治」をした稀有な天皇のお一人なのである。荘園記録所設立で藤原摂関家に対しても厳格に立ち向かった、それだけでも、たいした力量であった。そして院政期の幕をあけた。価値評価は別としても、院政とは摂関政治への対抗であり、その力の誇示に武士を活用したことが、源氏の増強、次なる平家の政略的な台頭から、また衰えていた源氏による鎌倉幕府の成立へ、必然直結する。そういう道筋をおさらえするように丁寧に読んで行くと、眠ってなどいられぬほど面白い。
ポップコーンのような野球の興奮などはむろん一過性のもので、繰り返しはないのだし、そう思うからひとしおあの場を大いに楽しんできたのだが、こういう読書(だけではない)の質的な面白さは、最良の鯛料理のように、まったく別の「内面」を永く養ってくれる。親しく身に添ってくる。

* 六時半に目が覚め、もう少しと思いつつ七時半には床を離れ、少し、私の本のための捜し物などしてから、機械の前へ来た。
2003 5・5 20

* いっぱい用事がある。胸の辺でむくむくとそういうのがストラッグルして、出番を待っているのに、わたしは、あまり慌てていない。
今日は、堀辰雄の「ルウベンスの偽画」を入稿し、ついで、藤村の四つの詩集「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」から、愛誦したい佳い詩を十編あまり選んで機械に打ち込み、校正し、略紹介を付して、これも入稿した。
詩だけではない。『藤村詩集』の有名な序を冒頭におさめた。すばらしい。十一月の「ペンの日」など、開会に先だって、だれか朗唱の出来る会員に適宜抄して「読んで」もらい、それから会長挨拶などしてくれると、どんなに気持がキリリっとするだろうにと思う。十年一日「ペンの日」とは即ち「福引の日」とは、それっきりのそれだけとは、なんとも情けなく知恵がない。

*  『藤村詩集』序 ──早春記念──
遂に新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰頽とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實(ぼくじつ)なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき。されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣(くちびる)にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙(つたな)き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。
詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされて、われも身と心とを救ひしなり。
藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然と見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻(若菜集、一葉舟、夏草、落梅集)とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
──明治三十七年(1904)九月──
2003 5・5 20

* 源氏物語は一昨夜から「初音」に進んでいる。「少女」で、玉鬘が劇的に登場し、「初音」は六条院の華やかな初春である。心晴れ晴れとする懐かしい巻。咳き込んで悩み、熱で弱っていたときも、源氏の音読、バグワンの音読という楽しい嬉しいことはとても中断できなかった。
2003 5・11 20

* 源氏物語しか日本が世界に誇れるものは何もないと、瀬戸内寂聴さんが喋っていた。わたしの源氏物語は、もう「胡蝶」の巻に達した。音読していても、きらきらしている。どうしてこう嬉しいのだろうと思う。
日本史の「武士」の巻も、刺激的に面白い。わたしの頭の中でいちばん手薄であった武士の台頭と荘園制の完成から、するりと院政と武家との関連へ移行して行く中で、たくさんなことを教わった。源氏に変わって平氏が台頭してくるカラクリも興味深く、やがて保元の乱に達するだろう。
2003 5・14 20

* 胡蝶の巻。夕顔の遺児玉鬘を六条院にひきとり、親がりながらこの姫をいとおしむ光源氏。「並び」の巻が展開する。
2003 5・18 20

* 西武線などで、今日伊吹和子さんから届いた「谷崎源氏」にかかわる長めのエッセイを読み始めて、あわや保谷で乗り過ごすところだった。まだ全部は読み切れない。
2003 5・19 20

* 夜前も明け方までものを読んでいた中に、伊吹和子さんの「谷崎源氏」観を読んでいた。読後感はあまり気持ちよくなかった。
知る人ぞ知る、伊吹さんは、谷崎の右筆なみに口述筆記にあたり、また刊行も多く担当した中央公論社の編集者であった。裏も表も「われひとり」知るという立場にいた。
そして、この人には、なにがなし、谷崎さん亡く、谷崎松子さんも亡くなられてからの、谷崎ないし谷崎家回顧に、かすかにだがシンラツな針の含まれてある気がしてならない。
一度ならず、伊吹さんの口から「退治る」といいう気負った言葉を聞いたことがある。谷崎ないし谷崎家の伝説を一つひとつ「退治して行く」というふうに聞こえたので、少なからず衝撃を覚えたことがある。
むろん、議論や著述はいろいろになされて良い。ただ、極めて「特殊な立場」にいた事実から出てくる裏付けを欠いたままの言説は、他者からの批議がまったく利かないぶん、論証という形が綿密に取られていない限り、まるでウソかも知れない私的「証言」の域を出ないことになる。万一、故意にいくらか悪意すら含んで過度にモノがいわれていても、いいえ、わたし一人はそれを本当に見ていた聞いていたと言われてしまうと、離れていた者にその是非は絶対に近く不可能になる。こういう特殊な証言だけで終始されては、フェアでないという印象も、ついつい受けてしまう。
世に言う著名作家の「付き添い編集者」たちが、作家の死後に、特殊な位置を利した見聞を書きまくってきた一時期来の風潮に対し、わたしは、いつも、いくらか眉を顰めてきた。それは、フェアなことだろうかという、その作家や家族たちの身になっての違和感が拭えなかったからである。慎みがないというか、一種の、暴露とはいわぬまでも、広義のキワモノに属していはしないかと思うのである。
伊吹さんの川端康成を書いたものでも、やはり、こんなにまで情緒的なほどの賛美でなされる証言だけでは、大きなものごとが脱落しているであろうなと、真っ当なクリアな作家論のために足場をゆめて怪我をさせてしまわないかと、かなり身を引いてしか読めなかったのを思い出す。
わたしは、谷崎と三人の妻を通して「神と玩具との間」で谷崎文学を検証したとき、関係者にはあえて会わなかった。話も聴かなかった。聞いたり会ったりのプラスよりも遠慮から出てくる筆の歪みや縮みの方を怖れたからである。
伊吹さんの「谷崎源氏」観は、暢達に書かれている。論旨も、わたしは、十二分に分かっているつもりだ。だが、やはり谷崎自身の機微に触れたトコロでの証言には、そうでもあろうし、そうであろうか、とも思うトゲトゲがチラホラ感じられ、それ以上に、語り口のうちに含まれた妙な針のチクチクに、ぜひない不快を催すモノの無かったとは、とても言えないのである。源氏物語でいえば、その辺の「わる御達」が少し唇を歪め、上つ方のわるくちともない悪口を、「そやろ、おわかりやっしやろ」と目つきで伝えてくるような、さすが京おんなのしたたかないやらしさを巧みに示し得ていて、これはよく謂えば「藝」であった。田中角栄の秘書が、角栄が死んだとなるといきなり世にはびこって角栄論を吹きまくっていた、あの高慢な能弁に少しくちかい「凄み」を、やや感じたと言っておく。
2003 5・21 20

* 田島征彦さんと吉田敬子さん共著の絵本「ななしのごんべえ」(童心社)を、一度読みすぐ二度読み、田島さんの繪をつくづく眺め返しているうち、何度も目頭が熱く煮えてきた。子供にも機銃掃射してくるような戦闘機や焼夷弾に怯えながら、純真に生きていた全身麻痺の幼い女の子と、友達の双子少年とが、猛烈な爆撃火災に煽られ、母親や祖父を見失ってしまう。男の子二人の押してくれる乳母車のまま、三人は炎と燃える川の流れに呑まれて行く、母を呼びながら。
ことばも堺の方言がいかされて簡潔に鋭く、繪はもう田島征彦流に怒号をあげて熱烈に爆発している。甲斐扶佐義の写真は少しもこんなふうに激越でも悲壮でもないが、視線の向け方は似ている。この作者たちは良い意味で同類である。

* 竹内理三氏の「武士の登場」文庫で五百頁を読み上げて、今度は石井進氏担当第七巻の「鎌倉幕府」へ進んだ。もう三千頁ほどを読んだことになる。いきなり石橋山においつめられる頼朝の登場。
2003 5・21 20

* 貝田の店で十一時近くまでおり、橋田先生の車でホテルまで送ってもらった。すぐ寝た。気が付いたら四時半、次が五時半。六時には床を離れて、七時の朝食まで「日本の歴史」の鎌倉幕府を読んでいた。石井進氏の記述がこれまたとっても面白く興味を惹きつけ、関東武士団のまるで日常生活へタイムスリップしてゆくようなのだ、ほかには読み物をもってなど来なかった。歴史がおもしろい。
2003 5・22 20

* おめでたかった席を離れて、もうそうは食べたくなかったが、すこしくつろいでから帰ろうと思い、「美しい人」のいる店をたずねてみると、やがての団体予約客を待ちながら、店内はまだ静かであった。きまりの肴を三種、お銚子一本、焼酎をストレートでコップにもらい、おめでたの黒服はぬぎ、インシュリンの注射もし、そして日本史を読んだ。「鎌倉殿頼朝」がぐいぐいと力をのばし全国の武士団を傘下に支配して行く歴史を、ボールペン片手に面白く、五十ページほども読んだ。親類や知人に、田所、館、門田、下司、郡司、庄司、別当、税所などの苗字の人がいる。どれもこれも武士たちに関わりの深い名前であった。日本の苗字はつくづく面白い。地名も。
「美しい人」は鉢物を出してくれたりお酒の酌に来てくれたり、めずらしく数回もわたしのところへ来て、にこやかであった。客のたてこんできたところで、帰ってきた。
2003 5・24 20

* その人の「母港」ともまた航海の良き「底荷」とも読める、追憶と述懐の長文を読み終えた。ながいものであったが、すらすら、ずんずん、引き込まれて読んで、こころよく終えた。まさに「自分史のスケッチ」であり、細部の具体をしっとりと描写して場面を豊かに再現していたら、文藝感は増したであろうが、そういうことをして立ち止まるより、ともあれ一気に吐きだしておきたい動機が強かったのだろう。この先で、いろいろに筆を加えてより豊かにしたいと思うだろうが、それはまたべつのモチヴェーションということになる。
出来不出来とかかわりなく、こういうスケッチは、記録ないし記憶の保存は、いったん筆をおいてみると、不思議な安堵に満たされるものだ、ああよかった、「間に合って」よかったと。
藤江もと子さんの「新宮川町五条」もそのような良いモノだった。すこし別物だが妻の、秦迪子の「姑」もそういうものであった。この人のこの「根」と題されたものも、本当は人目に触れてその良さと思いとをつたえ、そしてもう一度も二度も自分で読み直すべきもののように、わたしは受けとめている。
こういうふうに、書ける過去と書きたい思いを持った人は少なくない。これは、自分で自分につきつける「挨拶」なのだ。問いかけなのだ。それなら、この人達の場合、それへの自答がまだ先に残されてある。人生の弁証法のまず一揺れを起こしたようなものだ、人としての誇り高く。

* 関西は暑い日だとか。ま、そろりと参ろう。
2003 5・27 20

* 就寝前の楽しみに一つ加わったのが、揃物の浮世絵をじっくり眺めて、解説もゆっくり読んで、数葉から、一揃いほどずつ見惚れること。いまは第一巻の鈴木「春信集」にはまっている。かつては春信描く女の肢体の風に靡く柳の葉のようにほっそりしたのが薄弱に感じられ好まなかったのに、今では、その豊かに確かな線と、色と、趣向の自然とに魅了されている。どぎつい色を一つもつかわないのが静かな音楽のような効果をあげていて、それを生かしているのが、優美で清潔な刻線のみごとさ。
歌麿たちのような大首ものはなく、王朝以来の和歌的な好尚をたくみに換骨奪胎して、情景の把握には的確な知性すら感じられる。こんなに見事な物であったのかと、揃物の世界にまんまと捕らえられてしまった。この歳になっての嬉しい初体験である。
こういうところへ少しずつ進んできた契機は、やはり歌麿の線や色の美しさからであったと、今にして自覚する。
大安売りの八万円。しかし全十二巻あり、春信の巻を卒業するのに、まだ当分はかかるだろう。嬉しい買い物をした。佳い底荷を仕入れた。
2003 6・1 21

* さて、「鎌倉幕府」では、頼朝が死に頼家が殺され時政も死に実朝が殺されて公暁も殺された。源氏は絶えて、北条政子と義時がのこった。北条義時は源頼朝をしのぐほどの優れた政治家であったとわたしは昔から思っている。彼の前には後鳥羽院も鎌倉の有力なご家人たちも甘いものであった。義時、泰時という親子政治家は、天智・持統、光仁・桓武、また基経・時平、家康・秀忠・家光らの例に優に匹敵する底力と徹した遺志を持っていた。京都は、この二人に完膚無きまでやられた。
それにしても歴史とは、人の死んでゆく歴史なのだとつくづく思う。外戚を狙うときぐらいを例外に、どんな人が生まれても歴史はすぐには動かないが、人が死ぬと、忽ち人の世は揺れ動き、時に大いに乱れて、歴史家たちの筆が意気込む。清盛が死んで頼朝が大いに動き、後白河が死んで頼朝は征夷大将軍になる。頼朝が死ぬと機略縦横の源通親は暗躍し始め、実朝と公暁の二重暗殺により北条義時の強い基盤が出来、いずれ北条得宗の独り勝ち天下が出来てゆく。人が死んで行くと歴史が書かれるという真実は、見ようにより辛辣無比と謂える。

* 源氏物語読みは「常夏」近江君の笑いにくい笑いの場面へ今、夜はさしかかる。古典の「音読」がこんなに楽しく惹き込まれてゆくものだとは、迂闊にも久しく体験してこなかった。「須磨帰り」などわたしには覚えがないけれど、全編を音読できるかどうかは、はじめ、少し見通しの立たぬ気がしていた。だが初めて見ると、黙読よりもずっとおもしろくて楽しい。
2003 6・2 21

* 六時前に起きた。夜前は、承久の乱。京方が鎌倉の怒濤の寄り身に完敗するまでを、その歴史的な意義や評価を、つぶさに読み終えてから寝た。
そもそも、わたしが本気で小説を書こうとし始めたときの題材は、承久の変後の平家物語が世に懐胎され育って行こうかという波瀾の物語だった。それを「昭和の青年」自身の物語として書き出すことであった。保元の乱から承久の乱までが、いわばわが創作のホームグラウンドであった気がする。数多くは書かなかったが、小説では「清経入水」「風の奏で」「初恋」「絵巻」「月の定家」など、その結果・結実であった。
さて此処から先になると、南北朝頃まではややわたしは暗いし疎々しかった一時期に入る。なぜかなら、この時期では農村の構造、つまり荘園経済の現地・現場に密着しないとモノが正しく掴めないと感じているからだ。そこはわたしは手薄だった。だからこそ、今回、そこへ深く読み進んで行くのが、楽しみ。

* コクーン歌舞伎の大判の冊子も深夜に見直していた。いずれにしても法界坊は江戸の、夏祭浪花鑑は上方の、制外を生きた男だ、その世界だ。途拍子もない、侠客でもない、今の時代で云えばパトカーに追い立てられる暴走族のようなあぶれた暴れ者たちであった。もっとも団七も徳兵衛も、あの法界坊ほどの悪ではない、清々しい性根をもったあはれを生きていた。此の舞台では、そうだ。
中村勘九郎が、次ぎにコクーンであばれ芝居をみせるときは、もう「中村勘三郎」を立派に襲名していることだろう。この数年のうちに、扇雀丈の父君も「坂田藤十郎」という歌舞伎劇創生期の大名跡を嗣ぐ予定であり、大きな襲名が次々に期待できる。わくわくする。

* で、あまり長くは眠らなかった。
2003 6・4 21

* テハヌー(ゲドの妻)の、「アースシーの風」322ページのことば、「死んだら、あたし、あたしを生かしてきてくれた息を吐いて戻すことができるんじゃないかなあ。しなかったことも、みんなこの世にお返しできるんじゃないかって気がする。なりえたかもしれないのに、実際にはなれなかったもの、選べるのに選ばなかったものもね。それから、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものも、みんなこの世界にもどせるんじゃないかなあ。まだ生きている途中の生命に。それが、生きてきた生命を、愛してきた愛を、してきた息を与えてくれたこの世界へのせめてものお礼だって気がする。」
そのように心底から思えたら、わたしも完結できる。深く感じ考えさせられます。                           兵庫県

* このテハヌーの述懐はよく記憶している。けれど、少しことばのアヤかのように、やや、わたしはゆるく感じ取った。死ぬという推移だか転帰だか新生だかわからないが、いずれにしても「お礼」といった表現にも少し甘やかな情感の先行を感じた気がする。「……たら」「完結できる」というのもマインドの分別心に感じられる。「完結」とは何事を云われているのだろう。つまり「死んでもいい」という意味か。死ぬのは死ぬのであり、「死んで」いいもわるいも無いように思われるが。
2003 6・4 21

*「青鞜」創刊号で、鴎外夫人森しげの「死の家」と国木田治子の「猫の蚤」そして荒木郁子の戯曲「陽神の戯れ」を読んでみた。どれもさしたるものではない。しかししげ女のも国木田のも、こんな人ではないかなあとかねがね予想していた、そのままの文品で、可笑しいほどだった。森しげの文章は、お話や、お話の仕様はともかく、推敲の利いたまことに「鴎外」風なのに思わず頬笑んだ。この「美術品」のような愛妻のために鴎外は添削や推敲の筆を惜しまなかったと聞いている。国木田の作は強いてというほど執心しないが、森しげの作品はこれも一風として電子文藝館「招待席」に持ち込んでいいだろうと思う。
荒木郁子の戯曲は、或る程度の時代の好みを表しているとも言える。あまり巧みではないが幻想劇ふう。他で秀作がえられるならともかく、女性の戯曲作品がそう多く採れるとは思えないので、得ておきたいと思う。
田村俊子の「生血」は、青鞜の創刊号作品ということも加味して、やはり断然優れていると思う。これは無条件で「招き」たい。
2003 6・4 21

* 中島敦「幸福」を入稿。この作品はわたしは初めて読んだが、同工異曲の掌説を、わたしも偶然だがはっきり一度か二度か書いている。
2003 6・5 21

* 昨夜で「鎌倉幕府」一冊をとうどう読み終えた。小さい字の文庫本の五百頁はなかなかの分量である。この一巻には重量感のある人物が何人も登場した。頼朝、政子、義時、泰時、時頼。法然、親鸞、道元、慈円。後白河院、後鳥羽院、兼実、通親。西行、定家、長明。運慶、快慶。すべてが死んでいって、時代は次なる「蒙古襲来の時代」にかかる。これは単に外敵が日本を襲ったという事件ではない。一つには日本の内政が思想的にも世界地理的にも実務的にも根底から動揺して、ついには鎌倉幕府を滅ぼした事件であった。執権北条時宗は国難を防ぎ得たものの、戦によって寸土をも得なかった。ご家人に恩賞をほどこす術を容易に持てなかった。貨幣経済でなく、土地という所領本位の封建制を求めた武家は、痛い目をみて、そこにまたも公家や非御家人による建武親政がつけいる隙を与えた。鎌倉幕府による「封建制確立の意図」は蒙古の二度の襲来により大頓挫したと謂えるだろう、それを鎌倉幕府の崩壊にまで持って行ったのは、決して後醍醐天皇や公家たちだけの力量なんかではなかった。
ま、その辺は、これから第八巻「蒙古襲来」をじっくり読んで納得して行く。おっそろしく面白くて、これに対抗できる小説なんて、「源氏物語」くらいのものだと、つくづく思ってしまう。源氏物語は「篝火」も過ぎて「野分」へ。
2003 6・6 21

* 鴎外夫妻の小説と、田村俊子の小説を一気にスキャンし、森しげ女の「死の家」を校正した。その前には梶井基次郎の小説を校正し入稿した。梶井の「のんきな患者」は、二三ヶ月後には亡くなる前の、現世に足を置いたいわば臨死体験のような作品。そう思えば「のんきな」という表題が冴え冴えとした意義を放つ。
この作品を吉田健一は高く評価していたが、この梶井作品の最期にあらわれた独特の饒舌体あるいは綿々体は、明らかに吉田の文体に乗りうつっているとわかり、興味津々。
森しげの作品は「青鞜」第一巻第一号に掲載された。鴎外夫人は与謝野晶子等とともに青鞜の賛助員であった。作品はたいしたものではないが、筆致に鴎外の香りが載っていると言える。こういう人であろうなあと想像していたのを、あまり裏切らない作品であった。招待するに足りている。
2003 6・7 21

* 森鴎外の「安井夫人」を校正し始めたが、時間の経つのも忘れ、吸い込まれるように一字一句を追っていて、嬉しい。うまく説明しきれないが、こういう嬉しさは何から来るだろう。筋書きではない、やはりこの題材を薬籠中のものにした作者の「行文の呼吸」に吸い取られてしまう嬉しさと安堵・安心・信頼なのだろう。鴎外の史伝のなかでもこの作品はいかにも平淡温厚で、露伴晩年の自在な語り口ともさすがに共通する魅力に溢れる。漢学にも親しんだ漱石は、ついにこういう散文は書くことなく、漢詩だけをのこした。鴎外は漢詩を嗜んだということはなく、むしろ時に和歌を詠んだ。滋味掬すべき文学の静かな魅惑。こういう作品がまた世にあらわれることは有るのだろうか。二本とも入稿。

* 芹沢光治良作「ブルジヨア」の、妻が初校してくれたのを、わたしがまた読み始めた。芹沢が三十四歳の小説処女作であり、正宗白鳥と三木清が激賞した。初めて読んだとき、手応えの厚いしっかりした作品だと感じた。その後に幾つかを読んだが、この作品はよほど手堅くまた美しさに底光りするものがあるという思いを、更に強くしたのを覚えている。「死者との対話」を躊躇なく最初に採ったものの、次は此の処女作をと願っていた。
2003 6・8 21

* 元寇といわれた二度の蒙古襲来の始終を、夜前は三時半まで起きて夢中で読んでいた。さまざまなことが頭を去来した。
日蓮の法華とは何だろう。二度も元の使者を斬った時宗の禅とは何だろう。軍備による防備をアトにしても、神社仏閣への祈祷を第一とした朝廷や幕府を、包み込んでいたあの呪術的な「中世」心理とは何だろう。
昨今の「有事」問題とも絡み合わせて思うと、やたらややこしくなる。
小泉首相が北朝鮮との間での平和的交渉を英国首相に説いた際、英国首相ブレアは、けっこうですね、ですが平和的に「何を・どう」交渉するのですかと皮肉に反問され、ただ絶句してきたと聞いている。「口で言うのは簡単だが」というフレーズを乱発して、事は先延ばしにする観念タイプの小泉の弱点が露出した。それが、実は、今の日本外交の欺瞞であり弱点なのだが。
2003 6・9 21

* 朝一番の宅急便で、在外秘宝の「肉筆浮世絵」が巨きな一巻本で帙に入って贈られてきた。送り主は同僚委員の森秀樹さん、深く感謝。
ゆうべも揃い物の春信集にずいぶん遅くまで見入っていた。これは十二巻有るその第一巻であるが、到来以後まだ春信に堪能している。浮世絵はむろん江戸の錦絵にはじまるものでなく、京都や上方にも優れた作者は先行していた。刷り物で江戸錦絵として売り出した最初の天才的な画家が鈴木春信であったということ、それ以前の肉筆浮世絵をも得て、おおかたの首尾も尽くせるのである。豪勢なプレゼントに感激し恐縮しているが、嬉しいと、一言に、やはり落ち着く。

* わたしは大体が身近派で、なんでも手に届くところに置いておこうとするから、およそ畳半畳ほどの座席をあまして手の届く限りのところへものが積んである。穴熊のようである。本なども、きちんと飾るように置いておくというそんな余地もすくなく、読みかけの本が寝る枕元にも今で二十冊は大小積んである。本は読むためにあり、読まない本は無用だとすら思っているから、どうしてもこうなる。書庫には棚はおろか通路にも山積みで奥へ通るのが運動になるほど。こんなにしておいても、わたしがいなくなれば倅には寶のもちぐされで処分されてしまうのかと覚悟しているが、晩年の要件の一つは蔵書をさらにさらに精選しておくことかなあと。
戦時中に育っているのでモノが捨てられない。捨てて良いようなモノはあまり残していないつもりであり、それでも、捨てるか処分するかの作業を頑張って実行すれば、もう少し家のうちにスキマができるだろうか。
2003 6・11 21

*「この一編を御遺族の皆様に捧ぐ」と言寄せて、京都市防衛部軍事課が、「京都市」が刊行した『遺族讀本』なる一冊を森秀樹さんに戴いた。本扉には「昭和十六年出版」『轉迷開悟』「友松圓諦」「京都市版」としてある。文末に「昭和十六年九月二十一日」脱稿のことが見えるので、真珠湾攻撃の二月半ほど前の著述である。印刷は「昭和十六年十二月二十日」で刊行は「廿五日」、真珠湾奇襲と米英への宣戦布告に遅れること四日ないし旬日である。わたしはこの時、馬町にある京都幼稚園の園児であった。翌年には国民学校に進んだ。
京都市独自の出版か、各市町村で同じこれを刊行したのか、知らない。そして実はまだほんの一章をさっと読んだに過ぎない。必然戦死して行くであろう兵士たちの遺族や関係者のために、「死なれて死なせて」の静かな覚悟の有り様を著者は諄々と言葉柔らかに語り継いでいるモノのように察しられる。
こんなものをこの時期に、すばやくも製作していたのかと感慨深い。或いは時局のことは超え、仏教学者として「轉迷開悟」を静かに説かれていた文章を、時局に相応したものとして当局が転用した「遺族讀本」であったのか、識らない。読んでみたい。
2003 6・11 21

* 田村俊子の「生血」は秀作の多いこの女流の雄には代表作の一つとは言えないかも知れないが、粘りづよくしかも停滞しないで弾んだ肉のように書き進めて行く肉声が、よく響いたある種凄みのある短編である。青鞜創刊号を飾って評判を呼んだ点では一つの問題作と言える。「女」の肉身の声が、浅草ちかい町を男にくっついてへめぐり歩く。女は男に「蹂躙」されてきたのである。暑苦しく切なくて息をのむ筆致とも。田村俊子を最も学ばれた一人が瀬戸内寂聴さんかと。ともあれ起稿し校正し、いましがた入稿した。
2003 6・11 21

* 昨日戴いた「在外秘宝」の『肉筆浮世絵』は一度に目を通すのが惜しくて、昔風の物言いをすれば「たまひたまひ」観ている。素晴らしい。図版の縮尺の度合いは肉筆画では大きくならざるを得ないのが残念だが、工藝要素の濃い版刷の画質とはちがう。
嬉しいのは、室町中末期以来の職人尽繪ふうの画態から、花下遊楽図や洛中洛外図や風俗画図等々の歴史的な流行作・標準作の逸品が、かなり揃って収録されていて、安土桃山期を経て江戸初期に流れ込む風俗画の流れが、克明に推知できることだ。
まだ冒頭の五分の一も眺めていないけれど、この編集と収録の態度なら、間違いなくわたしの手に入れた「春信」や「清長」らの揃物へも「浮世絵美術史」として連携するであろうと期待が持てる。その辺が確認できたら、いつか読もうと買ってある岩波文庫の「浮世絵類考」もやっと読めるだろう。ずいぶん以前、古本で手に入れておいた。浮世絵を閑却してはなるまいと考え始めていたからだ。
なににしても持ち上げて五キロできくまい豪勢な本を頂戴し、嬉しいも嬉しいが恐縮はそれ以上である。が、やっぱり嬉しい。
2003 6・12 21

* 出掛けるどころか蒸し暑さにも負けて、夕過ぎるまでの二時間半ばかりを寝て過ごした。不可解な夢を見ていたらしいが覚えない。夕食後、いよいよ中世の藝能にふれた歴史へ読み進んで、いまさらに「時衆の徒」の存在意義を納得した。
2003 6・13 21

* このところ揃物浮世絵は「鳥居清長」を楽しんでいる。「鈴木春信」が柳の葉のそよぐような美人画なら、清長は超八頭身の「群像」に大きな魅力がある。海外へ優秀作の殆ど、全部に近く、流出したと言われる理由は、そのすらすらっと高く延びた人物の丈高さに有るかも知れない。
それだけではない、何と云おうか、刷絵のことであるおおかた原寸大の小画面に、数人、時にそれ以上の美女や美男を豊かに描き込んで、いささかの混雑もないみごとな構図の妙才に、感嘆を禁じ得ない。色彩はどぎつくなく目にしみる柔らかな美しい配色で、情景に、生活感と背馳しないしかも俗に流れない雅な趣向があって、浮世絵にはむしろ通有の不自然さがあまり無い。安永天明以降の江戸錦絵のなかで、他に譲らない確乎とした地歩を保ち、見飽かせない魅力、ファシネートな力感に満ちている。
寝床で、重い大判の本を、両腕高くさしあげまるで腕力を鍛えるようにして、三十分ほどに、数枚から十枚足らずの浮世絵を、図解の文と合わせて楽しむのである。これまでのわたしのなかにやや希薄であった世界が、ここちよく流れ込むように移動してくる。浮世絵に関してなにの欲もないので、ただ楽しめる。

* 鎌倉末期から南北朝にかけて農民の力が、村の、「惣」の力が増してくることは、歴史の通念として心得ていたけれど、水田での稲作主体で来た農村、その大方というより全部が、錯綜する力関係・支配関係で「荘園」化され収奪・支配されてきたのだから、有力農民だけでなく貧しい一般の農民までが歴史的に或る自立の力をもてるには、よほど水田耕作以外の要因が必要だろうにとは朧に感じながら、そこでただ立ち止まっていた。
水田でなく、従来軽視され支配のやや埒外に置かれていた「畑」「畑作物」それが下層農民にも少しずつ現金(銅銭)収入を得させていたこと、それが市の展開や、商人、工人の展開と協働関係にあり得たことなどを、具体的にいま「日本の歴史」第八巻に教えられている。
こういう農村の構造的な歴史は、はでな政治の表面史にくらべ、ついつい興味や関心から漏れ落ちるところだが、村や惣に入り込んでその構造を理解しない限り、たとえば藝能の展開にしてもつかみ取れるものではない。
おもしろく読み進めていて、やがて後醍醐による「天皇御謀叛」が迫り来る。

* 光源氏は愛恋の思いを押し殺して、いつわりの娘、じつは養いの娘である玉鬘(夕顔の遺児)を、実父藤原氏(往年の頭中将)にそろそろ引き合わせようと心づもりしている。六条院物語が、けだるいほど満たされた栄華のかがやきのなかでゆっくり進んでゆく。音読は続いている。
2003 6・16 21

* 今日、ドオンと大きい宅急便が来た。なんとなんと完結した猪瀬直樹著作集全十二巻が、まるまる贈られてきた。理事会のあとの例会に珍しく暫く残っていた彼と、ちょっと愉快に話し合った序でに、「ペン電子文藝館」の二作目を頼むよと言うと、「いいの、また出しても」と。そして此の大部の著作集が。
読みたいと思っていた「ミカドの肖像」も、感心した「天皇の影法師」もみんな揃っている。「日本の歴史」が終えたら全部読んでみようかなあ。梅原猛著作集もむかしに全巻貰っていて、ぼちぼちと読んできたが。猪瀬氏のは、なにはともあれ一つ選び出さねばならん。本人はいま日本中でいちばん忙しい男の一人であるから、仕方あるまい。

* 鏡花をはじめ近代文学を研究している同僚委員の真有澄香さんからは、明治の閨秀清水紫琴の「したゆく水」「こわれ指環」が送られてきた。紫琴は才能のある女流であったから、ぜひ招待席にと願っていた。ただ女学雑誌に初出の作品など、むかしはそうであったが総ルビで、スキャンするのがとても難しい。だが、なんとかしたい。
真有さん自身の「毒婦」といわれた島津お政にかかわる「教育」論考も、うまく改稿して貰い掲載したい。仕上がりが楽しみだ。
2003 6・18 21

*「湖の本」の久しい読者でもある東洋学園大教授の北田敬子さんから、同僚教授神田由美子さんの著書を贈られた。英京倫敦膝栗毛『二十一世紀ロンドン幻視行』とある。神田さんは漱石学者である。と書くと作品「倫敦塔」などと結びつけてあらましを推察してしまう人もあろうが、この本のユニークなのは、全部が、彼の地から北田さんらへ送られつづけた「メール」で編まれてあること。横組みの、メールそのままに仕上がっていて、そしてそこに著者の才気や知性のもたらすまこと「趣向と自然」が結実している。読んで楽しく、大いに啓発もされる。倫敦のことでも漱石のことでも、著者自身のことでも。
こういう「メール文藝書」が必ず成るであろうと予測してきた。一つ一つ書き下ろされたエッセイ・随筆と、メールとは、言うまでもなく性質がちがう。そのメールならではの性質が文藝書としての新しいジャンルを(紙の書簡文藝とはまた別に)成りたち得ることを予感しつつ、わたしは、この「私語」にも、意図していろんな方たちのメールを厚かましくも再録させてもらいつづけた。名張在住の「囀雀」さんの短いメールを莫大にわたしは保存しているが、また一つの文藝をなすであろうがなと見てきたのである。
神田さんの本は、一つのとても優れて佳い先魁である。こういうものが、また次々に生まれくるとき、わたしは、また新しい別の角度から推薦される「ペンクラブ会員」たちの可能を想うのである。神田さんにも北田さんにもわたしは日本ペンクラブに入って欲しいと願っている。北田さん等はかねてパソコンによる言説表現の問題を学問的に追究してきた学問的な実績もある。大きな刺激を与えて欲しいし、示唆もほしい。アップ・トゥー・デートな学者である。
2003 6・18 21

* 『蒙古襲来』第八巻は、両統迭立、元弘の変、建武親政、楠木合戦、六波羅探題崩壊、鎌倉幕府滅亡で、巻を終えた。これらはもう子供の頃からお気に入りの歴史劇であり、ことに人の名は多く諳んじて、血を沸かせた。
楠木正成が、いかに正体不明の日本一著名な忠臣であったかも、この巻担当の黒田俊雄氏は克明に教えてくれる。
だが、この巻の眼目は、なにゆえに北条得宗独裁の鎌倉幕府が、脆くも全滅に到ったか、だ。担当の記述者はそれを根底の社会基盤からつぶさに解説してあまさなかった。御家人制度を幕府存立の柱と立てていながら、それを徹底的に脆弱化することで独走し得た得宗専権政治の撞着、根のあやまり。それをまた地蟻のように執拗に食いつぶしていった「悪党」跋扈の全国的情況。黒田氏は十分な説得力をもって、個性的な肉声も多々交えながら解き明かして行く。とても面白く興味深い一巻であった。あの大部な『太平記』をまた通読してみたくなった。おお、おお。読みたいものがイッパイだ。永い寿命を願わねばなるまいか。
さ、次はその『南北朝の動乱』まさに「太平記」の時代に入る。持明院統の京都、大覚寺統の吉野の対立。そして足利尊氏・直義・高師直らに対する護良親王、新田義貞、楠木正成、高畠親房・顕家らの死闘の世紀。源平盛衰記の昔と太平記の時代とは、わたしを夢中の歴史好きにした二つの原点であった。そして、古事記の世界。
2003 6・21 21

* 立教大学名誉教授の平山城児さんから、川端康成にカンする本を頂戴した。こまかにいろいろ触れて、読みやすくも興味深くもある研文書院刊の、佳い本だ。谷崎の「細雪」が「山の音」執筆への動機になっていたかというような興味深い指摘があったり、総会屋として知られた人物と川端家との縁は、菊池寛を介していること、それがまた川端晩年の選挙応援等へ乗り出した機微にも推測が利くことなど、とりあえず読み出したところが、みな面白かった。すいすいと読めて嬉しい。
数日前には、小林保治氏の「唐物語」が文庫本になったのを頂戴した。単行書でも以前に戴いてある。おもしろい説話集になっている。研究書というよりも注釈・評釈で、むろんそれが本当の「研究」成果ではある。グループの協働の成果ではなかったか。
2003 6・22 21

* 源氏物語は「藤袴」巻に入り、夕霧の禁じられた幼な恋がそろそろ動いて行くだろう。実父内大臣に引き合わされた新尚侍玉鬘の運命も大きく変化して行くだろう。六条院物語は底ぐらい深みに流れ込んで行く。
そして「日本の歴史」は建武新政の後醍醐失政の根底が、暴かれつづけている。子供の頃に南北朝の激動を耽読したときは、むろん南朝贔屓(というよりあの頃は吉野朝廷であったけれど、)でいながら心の芯のところでは、絶対専政志向の後醍醐にも、新田義貞にも、北畠顕家にも、護良親王にも、楠木正成の最期にすらも、「あかんやっちゃなあ」という嘆息を禁じがたかったのを覚えている。足利尊氏や直義に好意をもつことはこれまたむろん無かったのだけれど、尊氏側の取り回しの確かさや素早さには、後醍醐等のそれと比べて、やはり頷くしかないものは感じていた。尊氏否認というほどの思いにはむしろ成れなかったし、尊氏を「容認」したというだけで爵位も大臣の地位も棒に振ったあれは中島久万吉であったろうか、の話などにもイヤな気分であった。
例の日野資朝らの「無礼講」にはじまる正中の変のころから、後醍醐は宋学や宋の政治に真似ようという姿勢が露骨であったが、いかにも宋國事情と日本國の現状とを無思慮に混同した真似事であり、失敗は火をみるより明らかであった。南朝贔屓でありながらわたしの同情は終始楠木正成の遺児たちの、菊池武時の遺児たちの、吉野の遺臣たちの北への執拗な抵抗戦の方に傾けられていたと思う。判官贔屓のようなものであった。尊氏の、また孫義満の存在は大きく感じていた。今度の読書でわたしは足利直義の実力にも認識をあらためることだろう。
昭和にも及んだしつこい南北正閏論のいわば天裁にも、一抹の不審をわたしは感じないではなかった。北朝筋の天皇のもとで、南朝の歴代を認めた。美しい話というよりも、やはり反動的な国体政治に利されただけという印象が濃いからだ。わたしたちにすれば、歴代の通し方など関わりのないことだ。歴史は歴史である。
建武親政がいかに無残に潰えるしかなかったか、この理解は、のちのちの推移のためにもたいへんに大事なカンどころだと分かっていつつ、妙に苦々しい。平家物語は繰り返し読んで涙するのに、太平記は(浩瀚なせいもあるが)読み返そうという根気が生じない。

*「鳥居清長」の巻を堪能した。春信も清長も、十分楽しませた。いよいよ次は喜多川歌麿の二冊の初巻に入る。

* 疲れて衰えがちな気根を潤してくれるのは、これらの読書のさらに根の所で、毎日毎日胸に響いてくる「和尚」バグワンの声と言葉である。これほど透徹したものを伝えてくれた人はいない。もうわたしにはあらゆる聖典が事実問題として無用である。なぜなら聖典を読みとる力など、今のわたしに有るべくもないから。enlightened=悟りを得た人にだけ聖典は微笑とともにうなずき読まれ得るもの、そうでない者には却って読めば読むほど自身のエゴを助長し、いわば抱き柱に固執させるだけだとバグワンは云い、ティロパも云う。その通りだとわたしも今は思っている。聖典に読みよりかかる人達の切実さを否認しないから「およしなさい」とは決して云わないが、聖典を読めば救われるなどということは誰が保証しうることだろう。
わたし自身、例えばバグワンの言葉に耳を傾けていたら「悟れる」などと、つゆ思っていない。わたしはわたし自身に目覚めて行き着く以外に、どうにもならないだろう。バグワンはわたしを静かにはしてくれる、が、それで至り着くのでもなく、そもそも至り着くべき目的地などが遠くに存在しているわけがない。目的地が在るとすれば、それは既に「わたし」のうちに在る。だが、それが──まだまだ。
2003 6・25 21

* 中島俊子の「女學雑誌」明治廿四年一月一日号の「社説」と所感を、総ルビ原稿からスキャンし校正し、入稿した。疲れた。俊子が、ある時期まで婦人の褒められていた時代があったのは、男が内心婦人を小児扱いして軽侮心を持っていたからで、婦人にも自覚と地位が生まれ初め、女学生も励んでいる今、むしろ逆にたえず非難されて行くような時代に入るだろう。それだけに「女学生」は心して努めたいもの、未来に必ず光輝ある婦人の前進時代は来ると期待している、と明言しているのが、いかにも明治初年の湘烟女史らしく興味深く読んだ。入稿して委員校正中の樋口一葉「十三夜」は明治二十八年の作、俊子の所感の頃一葉はまだ小説家に成ろうかどうかも漠とした、そんな早い時代のことである。「女學雑誌」を抜きにして日本の近代文学曙光期を語ることは出来ない。北村透谷も島崎藤村も此処で活躍し始めて「文學界」創刊へ到達していった。中島俊子はこの雑誌刊行社員の、女性筆頭の大株であった。
2003 6・26 21

* 夜前から二巻有る「歌麿」の初巻をひろげているが、俄然大首の世界であり、それはまた緻密に美しい衣裳表現の魅力世界でもあり、春信や清長よりも大胆な女体表現の世界でもあり、ドキッとする楽しさに溢れている。ゆっくりゆっくり楽しみたい、毎晩寝入る前のお楽しみである。
「日本の歴史」第八巻は、後醍醐天皇崩御。稀有の博学天子でもあった。自信に溢れた失敗家であった。吉野での崩御は、いまなおずしりと胸に重い悲痛をのこすから、凄いというべきか。
2003 6・26 21

* 由起しげ子の「本の話」は嬉しくなるほど秀作で、読み進んで行くのがとても嬉しい。かなりの長編であるが、ぜひこの秀作、文藝館に欲しい。波瀾に富むのでもない地味に運ばれていく一人称の語り物であるけれど、小説の滋味に十分富んでいて、ほうっほうっと息をつくように頁から頁へのうねりように嘆賞の息が漏れる。わたしはこの芥川賞作家の作品を読むのは初めてで、その力に触れるのも初めて。とても嬉しい賞与でももらったような気持がする。
校正は、紹介者である牧南委員とうちの妻とがそれぞれにしてくれていたので、わたしは通読し常識校正しているわけだが、読まされてしまいそっちの方はかえって不安なくらい。
まだ、中途であるが、この作品は文学好きには、期待して貰っていい。
2003 6・28 21

* 由起シゲ子「本の話」を読了し、すでに内諾は得てある著作権者に、正式に依頼の手紙を用意しておいて、入稿した。
だいたい物書きは殊にそうだが、根に反社会的な強い我執をもっている。日本の近代文学を動かした力は、社会によって酬われない知識人の、貧苦や不満や焦燥や無頼や怠惰の中から多くの傑作が書かれた事例が多い。鴎外にすらそれがあり、漱石も鏡花も啄木も、大なる不平家であった。「不平」というものの無くなることを懼れた短歌を啄木の友であった歌人はのこしている。少なくも戦前までの作家は、体制や社会には背をむけることをエネルギーにしていたとみていいだろう。戦後でも、大きくは改まらなかった。
ところが、戦後すぐに神近市子らの後押しから小説家に成っていった由起しげ子は、まことに普通の健康な「私民感覚」のまま創作した。稀有のことであった。昭和二十四年に芥川賞を受けた「本の話」も、そうである。佳い小説である。
ところで最近は、まるきりサラリーマン重役のような文壇の「大家」ぶった人が増えてきている。それでも大方の物書きは「野党」である、と思いたい、が、じつは、なかなかそうでもなくなっているから、ややこしい。与党感覚の物書きの方がはるかに多いような気がするから、ときどき怖くなる。
それは普通の「私民感覚」なんかではなくて、要するに政治の意識の麻痺した一種の「」文士貴族主義」のようなものなのだ。この頃では政治家になり行政の首長になっている物書きも出来ている。組織に馴染んでいる。そして二言目には「金」を稼ぎたいと来る。質より量の時代だ、貧乏の話はみな嫌いなようだ。
由起しげ子はあくまで普通の私民作家であった。しかも、どことなくおっとりとしていた。そして真っ当に普通であった。
2003 6・29 21

* 夜は夜で、ハンサムなケビン・コスナー投手の「完全試合」を、手に汗して観たが、これもヒロインの品のいい美貌に心惹かれるから、ひとしお映画も緊迫したのである。こんなぐらいで、ストレスなんか飛んでゆくのだからラクなもんだ、有り難いことだ。おまけに妻が差し入れの日本酒のそばには、頂戴したすこぶる上等の笹蒲鉾がある。
それでも、きちんきちんと機械の前に戻っては仕事、仕事。もう深夜である。
これから、バグワンと源氏物語のそばへ行き、寝床へ入ってからは「南北朝」と「歌麿」とを楽しむ。
2003 6・29 21

* 正宗白鳥の戯曲「人生の幸福」をわたしは初めて読んでいる。科白の一句一句を起稿して行きながら。どんなことが書かれているのだろう、兄と弟と腹違いの妹がいる。妹はまだ姿を見せないが、兄と暮らしている。その兄が弟を早朝の戸外に迎えて、あの妹は生きていない方が幸せではないのかと弟に話しかけている。妹は十九、美しくて病気でもない。
どうなるのだろう。著作権者から、またお許しが出るかどうかは分からないが、起稿したいし、読みたいのだ。
2003 7・1 22

* 玉鬘は、髭黒大将にもって行かれた。実父内大臣は政略的には、娘玉鬘の宮仕えよりも、またみやびおの蛍宮のものになるよりも、まして光源氏の曖昧な愛人にされてしまうよりもこの方が良いと考えている。光源氏はなんとかガマンして清い間柄でいたものの、こともあろうに髭の大将に攫われるとはと、未練にたえない。
玉鬘本人は、いちばんひどい籤を強いられた気がしている。いまさらに、匿まい養ってくれた親、亡き母の恋人であった光源氏のすばらしさに、目も眩むような悔いを噛みしめている。尚侍として宮仕えしていれば、源氏と瓜二つ、彼の秘め子である帝の愛を受け容れることも可能だった。風流心にとんだ蛍の宮にもじつは心を惹かれていたのに。まして髭の大将には心の乱れた正妻があり、紫の上の異母姉ではなかったか。
ドラマティックな佳境に入っていて、やがて本題は夕霧と雲井雁の恋遂げるところへ流れゆくだろう。
音読のよろこばしさを深夜にひとり、楽しんでいる。せいぜい多くても数頁、ふつう二三頁ずつ読んできて、今は「真木柱」の巻。母は心乱れ、髭の父にも見捨てられる可憐な少女がもうすぐ姿をみせる。

* 連夜、歌麿の繪を数点ずつじっくり眺めている。解説もしっかり読みながら。同じような顔ばかりに見えていて、なかなかそうではない、見過ごしがたい描き分けの妙味が伝わる。歌麿の魅力は、女の「顔」をひきたてる衣裳と髪との表現、その精緻・精微・適切に的確なことを楽しむだけで、小一時間に数点。それ以上は満腹する。ただの美人画でなく、歌麿は女達の生活の場を、時空間をいろいろに広く懐かしく、よく見ている。それと子供をみごとに良く描いて女達をたしかに引き立てている。一枚一枚に大いさと謂いたいほどの深みの迫力があり、流石にと感嘆久しゅうしている。
2003 7・3 22

* 六時前に日比谷にもどり、一人で「福助」に入って白鷹二合徳利、石垣貝、鳥貝に、白身のコチを。そしてお任せで握って貰いながら、カウンターであったけれど、おもしろく自作の「猿の遠景」を読み進んだ。「蘇我殿幻想」をミセスに連載したときも、やすやすと書いたが、あの場合はそれでも毎月のようにアチコチへ取材の旅をした。「猿の遠景」は一度東博へ繪を見せて貰いに行った以外は、まるまる、いながらにして書いた。なにを新たに調べたのでもなかった。ああいう著述の快味には独特の柔らかみがある。
さ、帰ろうかと思いつつ、目の前なので、やはりホテルのクラブにあがり、今晩は「山崎」ばかりを結局たっぷり三杯。エスカルゴとパンを少し。送られてきた或る読み物大家の短編を二つ三つと読んでみた。これは泣きたい気分であった。
今から思えば、濃いコーヒーも飲みたかった、が、思いつかなかった。
帰りの地下鉄では、室町初期の農村の変貌、武士団の一揆、農民の一味神水、守護領国制の浸透拡大などを、南朝の余燼などを、どんどん読んだ。この方が遙かにリアルに興味深い。
2003 7・3 22

* 露伴の文中に惹き込まれている。豪雨の中、山深い仙郷ふうな古寺に少し年かさな書生が一人たどり着いて、雨の中で瀧の音に気付いている。鏡花の「高野聖」や「龍潭譚」や「沼夫人」や「夜叉が池」などを思い出すが、そこは露伴世界のこと、趣は変わってくるだろう。「幻談」よりは口調がはずんで、若い感じ。何が現れるのか、題が「観畫談」とわたしの好みゆえ、やはりちょっと他のことは措いても先へ進みたくなる。このスキャンはよく取れていて大いに校正がラク。
2003 7・7 22

* 第九巻「南北朝」読了、いやいや、この巻はほんとうに麻の如く乱れた世の有様に終始し、主上御謀叛あり、悪党あり、倭寇の跳梁あり、南朝の衰運と後南朝の抵抗あり、そして尊氏死に、三代義満による南北合体と北朝の誓約違反があり、義満の皇位簒奪・対明屈従があり、てんやわんやの降参、帰参、裏切り、反逆の連続の中で、確実に農民が商・職人の要素もとりこみつつ、力をつけて行く。絵の具のかき乱れたパレットを眺めているようであったが、いろいろに頭の中で整理されたところもあった。継いで「下剋上の時代」の巻は、ますますやたら厄介になり、守護の力が困惑のなかで突き崩されて行くだろう。
2003 7・8 22

* うって変わって暑い。冷房しないでいたら、機械部屋は湯のようになった。
そんな中で門玲子さんの「江戸女流文学に魅せられて」を読み返し、入稿した。
この人が大垣の江馬細香のことを知ったのは、偶然であった。細香は頼山陽との無上の恋で知られる稀有の才媛であり、江戸女流文学の華であるが、門さんは一人の読書好きな主婦として細香のことに心惹かれ、つい近隣の人であったと知ると、故居を尋ねていった。そこには子孫にあたる人の住まいがあり、来意を告げて墓所も教わり、また沢山な遺品も見せてもらえたが、この漢詩人の漢文も消息も少しも読めなくて当惑したというから面白い。四十の、何の経歴もない普通の一主婦であった。だがそこから門さんは奮発した。金沢市の泉鏡花市民文学賞、また毎日出版文化賞にいたる、この未開拓な分野での先駆者的在野の研究生活が始まったのである。
わたしは、ごく早い時期から門さんの仕事の声援者であった。日本ペンクラブにもいち早く推薦した。湖の本は最初から応援して貰ってきた。ご縁は久しいのである。
門さんのような、在野の、またアカデミーの中の、研究者、学者、また著名な作家、詩歌人、エッセイスト、他分野の藝術家たちの、驚くほど大勢に、わたしの「湖の本」は永く支えられている。大きな大きなそれらは支えであり、また誇りでもある。あの人もこの人もと数え上げれば、功なり遂げた人の他にも例えばペンの会員に推薦して当然な人達が数え切れない。そういう人達にわたしの「文学環境」はかなり色濃く染められていて、それに拘泥はしないがそれにひるまない仕事はしなければならない。有り難いことだと思う。
門さんのエッセイに、清々しく目を瞠る興趣を覚えた。また一本の良い樹を植え得たと嬉しい。
2003 7・11 22

* 『猪瀬直樹著作集』全十二巻(小学館)は、力作が揃っていて、著者の勉強の真摯であることをよく証している。一々の出来映えにむろん批判や厳しい批評の在ることも承知しているけれど、凡百の着眼でなく凡百の勉強でないことは認めねばならない。猪瀬は著作に当たって概ね極めて真面目で、包丁さばきも凡でない。
これで文章にもっと詩的なセンスがありよく練れていたら、文藝として映えただろうに、その辺は、どうしても概して「説明的」に論じていて、ノンフィクションの悪しき通例に無意識に準じているのが惜しい。
そのかわり、分かり佳い。かつてペンの前会長梅原猛氏に献じた、優れた「非文学」の評、「猛然文学」の評に、かなり似かよった長と短とであるが、長の値の方がずっと大きいと、わたしは、猪瀬の著作は大方支持している。昨今の政界に潜り込んでのねばり強い主張にも、猪瀬直樹らしさが良く発揮されていて、わたしは喜んで声援している。あれで滑舌が明晰に美しいと、もっと人を説得出来るのに、と、惜しい。
但し政治的なものの考え方では、時として、かなり強く衝突することも無いではない。意見の対立するときは、委員会でも、遠慮なく両方で大声を挙げ合うことにしてきた。それでいいと思っている。
で、(まだ全巻読んではいないので断定しないが、)猪瀬の著作のうち、わたしの殊に愛読し支持してきたのは、第十巻『天皇の影法師』であり、この一冊、わたしにはたいへん好もしい。面白い。再読三読に優に堪えるのである。印象も雑然を免れ、贅肉をためていない。今度その中から「元号に賭ける」の章を、つよく著者に乞うて「ペン電子文藝館」に掲載しようとしたのは、他の章もみなそれ以上の力作揃いであるけれど、量的にも、内容の面白さも申し分ないと見たからである。
今、妻の初校のあと、更にわたしも原稿に照らして校正し通読しているが、著者の息づかいは乱れることなく、たんに「昭和」の問題に止まらない歴史への深い示唆に富んで、興味深い。
ちなみに此の単行本『天皇の影法師』の構成は、プロローグに続いて「天皇崩御の朝に スクープの顛末」「柩をかつぐ 八瀬童子の六百年」「元号に賭ける 鴎外の執着と増蔵の死」「恩赦のいたずら 最後のクーデター」そしてエピローグが付してある。全編一連、しかも各章独立して楽しむことが出来る。通俗な、講釈を書き換えたような読み物よりも、ずっと本格に面白い。
2003 7・13 22

* 猪瀬論考は一気に読み抜いて、入稿した。論考に厚みがありあらためて感銘を受けた。
中に一点。こういう問題がある。猪瀬の文を少し長く引く。

* 吉田増蔵の語るエピソードのなかにこういう話がある。
「先生は平生(へいぜい)身を持(じ)すること極めて質素で、役所に於ける弁当は十銭の焼芋にて、半分は之を給仕に与え残余を自ら食せらるるのであるが、食堂とて至って狭き室にて焼芋を囓じりながら事務官、編修官を相手に色々の話しに花を咲かせるのである。或る時天とかいう問題に触れたので、私は儒学の天という字には自然界の天と宗教的の天と哲学的の天との三種の意義あることを説明した。此の問題に就いて哲学的の天、即ち道徳的の天を主張して、宗教的の天即ち神霊的の天に反対する人があったので、先生は徐(おもむ)ろに僕は矢張り神は有るものにして置きたいと言われた」(前出『文学』)
図書寮の食堂で編修官らといっとき、軽い冗談を挟みながら雑談しているうちに、話題は一挙にシリアスなものに転じた。
「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」
鴎外が思わず呟いたこのひとことは、たぶん本音なのだろう。
『元号考』のため漢籍の山に埋もれながら考証に取り組んでいたときにそういっている。考証の作業は「万世一系」という虚構をつぶさにみつめることになるにもかかわらず、である。

*「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」とは、わたしも鴎外の本音であったと猪瀬の推測に強く同意する。この時鴎外はもはや死期に最接近していた。
これと関連して猪瀬もすぐに取り上げており、わたしも当然それと関わり合わせて考えねばならぬと感じたのが、鴎外まさに五十歳の作品『かのやうに』であった。
作中の若き五条秀麿は海外に学んできた「歴史」学者であり、鴎外の分身である。猪瀬の文により要点に近づきたい。

* 洋行帰りの息子(秀麿)は思う。
「まさかお父う様だつて、草昧(さうまい)の世に一国民の造つた神話を、その儘(まま)歴史だと信じてはゐられまいが、うかと神話が歴史でないと云ふことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入(はい)るやうに物質的思想が這入つて来て、船を沈没させずには置かないと思つてゐられるのではあるまいか」
提出されているのは、神話と歴史、信仰と認識を峻別(しゅんべつ)した上で、なおかつそれらを統合する倫理基盤を築くことは可能か、という問いである。
答は仮に置かれたにすぎない。
「祖先の霊があるかのやうに背後(うしろ)を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。……どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない」
いかなる価値をも絶対化しないにしても、社会が秩序を必要としている以上、伝統的な価値が絶対の真理であるかのように振舞う他はない。

* 鴎外の優れた洞察はいくつかの短い言葉として発せられている。日本は今もいつもいつまでも「普請中」だと謂い、また「歴史そのまま」と謂い、そして殊にこの「かのやうに」とは、おそろしいまでの立言であるが、わたしが、問題視したのは、猪瀬が五十歳の鴎外の「かのやうに」と、瀕死の病躯に鞭打って熱中した『帝諡考』『元号考』の頃の「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」とを、猪瀬直樹は「異なる」ものだと言い切っていて、わたしは、「同じ」思想の線上に置かれた二つの言表だと考えている点である。
今は、ただ指摘して置くにとどめる。「元号に賭ける鴎外の執着と吉田増蔵の死」をつぶさに追究した猪瀬直樹の論考は、ほどなく「ペン電子文藝館」に登場し、屈指の良樹として植えられる。対面して欲しいと思う。
2003 7・13 22

* ちょいちょいとビデオで継ぎ観を楽しんでいるのは、マレーネ・ディートリッヒの「情婦」で、映画史上にのこる名品の一つ。チャールズ・ロートンの弁護士とともに、ほんの十数分ずつに細切れで観継いでいても、こういう作風安定の名画は十二分に楽しめる。おいしいおやつを、惜しみ惜しみ食べた子供の頃を思い出すほど、ながながと観ている。
東工大の頃、秦さんは映画なんか観ないでしょう、面白いモノですよと、いまいま流行の映画を書きだして教えてくれた学生もいたが、なんの、秦さんの映画好きは谷崎潤一郎譲りと言っておこう。
ことのついでにいえば、ポアロものやメイスンものは全て言うに及ばず、フォーサイスその他の海外の「読み物」は、何百冊と目に入っていて、いつ処分してもいいようにダンボールに幾函か詰め込んで積んである。「オイディプス」等からシェイクスピア・ゲーテを経て、「高慢と偏見」から少なくもカフカまで、泰西文学のそれはそれは多くの他に、である。
大学の頃は好んで西欧の哲学史をいろんな記念碑的な仕事を践み渡るようにたくさん読んだ。その感化は浅くはない。そして最後に(と思う)バグワン・シュリ・ラジニーシに出逢った。幸せである。他の聖典の殆どを落として捨てることが出来た。
源氏物語や徒然草だけで生きては来なかった。
2003 7・14 22

* 昨日で「歌麿」の巻を終え、「写楽」に移った。役者絵ばかりといっていい。おもしろい。現代の似顔絵画家はすこし知っているが、写楽のは明らかに似顔絵として愛好者に受けたにちがいない上に、すぐれて造形的で批評的で、揺るぎない勢いある表現になっている。おもしろい。魅力に溢れて見飽きない。女形の顔はあるが、女は描かれていない。描かれたモデルの当人がどう苦笑したか悦んだか怒ったかはしらないが、客のわれわれは、よう描いてくれたと拍手し感謝するばかりだ。
前後して栄里にも芸人や町人の大首でまことに上出来の肖像画もあるが、数は多くない。その他大将格の栄之(大家の武士出身)をはじめとする栄派の浮世絵は、ときに美しい上品なのも交じるにせよ、力はよわい。綺麗事に流れる。
だが、歌麿も写楽もそんな綺麗事とは性根がちがう。格でいえば栄之は、琳派なら抱逸だろうが、歌麿と写楽は、光琳すら超えて宗達なみのスケールである。おそらく北斎となると光悦級になる。
浮世絵それも揃物がこんなに面白い世界だとは、やはり観てみなくてはわからない。本でもこれだ、やはり実物が観たい。そもそも歌麿に眼の鱗を落としたのは、リッカーだったかの浮世絵美術館に気まぐれで迷い込んでからだと思う。衣裳の彫りと刷りと色彩の美しさにぞっとする色気があった。尻の線にあった。ガラス越しに観ていたけれど、瞬時自分が痴漢かのように刺激を受けているのでビックリしたのを覚えている。
歌麿の絵柄は雄大と言いたいほど大きくて、肉体が自然に描けている。胸をはだけて生活している江戸の女達、なにも遊女ばかりでなく市井の品のいい女達も、なにかまうことなくゆつたりと胸乳をあらわしていて、美しい。いまどきのやすいヌード写真なんかよりもはるかに佳い。健康でいい。
浮世絵の背後にいわば春画の陰翳が裏打ちされているのは間違いないにしても、表へ出てきている浮世絵は、総じてたいそう健康であることを理解したい。淫猥感はまるで無い。春信、清長、歌麿、写楽と来て、彼等の表芸についていうなら、健康そのものだ。そして彼等はみなたいした批評家である。
2003 7・17 22

* 正宗白鳥の、大正十三年四月「改造」に発表し、その年の十一月には新劇協会が初演した「人生の幸福」を、やっとのことで校正した。とても好評だったという。白鳥の戯曲は、舞台にかかると活字で読む何倍も面白くなるという、いわば定評がある。
この福福しい題の戯曲は、じつに殺人と狂気の人間批評である。むろん第二代ペン会長のこの作品をわたしは「ペン電子文藝館」に植えたくて、もう何日も何日もかけて校正してきたが、これから著作権継承者の承諾を戴く段取り。承知されなかったら、掛けた労力こそフイにはなるが、一字一句、句読点やト書きにまで注意して校正する仕事は楽しかった、何の損もないのである。
2003 7・20 22

* 今日一番の感激は、詩人木島始さんに送ってきて戴いた、アーシュラ・ル・グゥインの詩稿である。読みたかった。原語につよいわけでないから危ういことは言わないけれど、心にしみた。
だれか訳して下さらないだろうか、もっとも著作権のことがあるので安易にはこういう所へも公表しにくい。しかし個人的には訳を付けてみたい。あの「ゲド戦記」の著者の詩である。胸の鳴るのを禁じ得ない。
そして闘病の日々久しい木島さんのご平安、こころより願っています。
2003 7・23 22

* ああ、もう二時。あれこれに時間をさいていてはいけない。が、階下に降りて、源氏はいまや「梅枝」が、ずうんと進行して、明石の姫が裳着をめでたく済ませ、東宮妃として入内する。好きな巻のひとつで、味わうようにして音読を続けている。
バグワンも、むろん。
それから写楽。
歴史は今は「自検断」にまで発展した室町時代の農村社会に入りつつ、わたしはこの時代を暗黒などと思わず、室町ごころの明るさとともに希望にも火のついていた時代と読み続けている。
2003 7・23 22

* Poets Against the Warとして送られたというル・グゥインの詩「American Wars」が、耳の底に鳴っている。木島さんがお元気なら訳して戴くのだが。それとも、どなたかに大意だけ訳出してもらい、原詩を「反戦室」に戴こうか。
2003 7・24 22

* 昨夜までに「豊春・国貞」「国芳・英泉」らの浮世絵揃物を、たっぷり見終えて、昨夜、ついに「北斎」巻を開いたが、いきなり揃いの「富岳三十六景」には、ごしごしと眼を洗われた。声もない、というより、ウーンウーンと賛嘆と感動のうなり声を上げっぱなしであった。
歌麿と写楽。これは颯爽の巨峰でありそびえ立っている。つづく上記の四人その他も、さすがに面白いけれど、いかにも浮世絵浮世絵して泥味も濃い。ところが北斎の屹立して斬新しかも巨大なことは、歌麿と写楽とをひっくるめて受けて立とうという巨大さ、しかも趣向の自然ただならぬ冴えである。おおっ…と、やがて声をうしない、惜しむように巻をひとたび閉じた。すばらしかった。

* そして源氏物語は、待ちかねたと思うほどの「藤裏葉」の巻へ入って、とうどう、雲居の雁の父内大臣を屈服させて、源氏の長男夕霧は晴れて幼な恋を成就し、今夜にも寝所へ迎え入れられる。わたしは、昔から夕霧という貴公子が贔屓で、久しく仲を隔てられていた雲居の雁との恋に同情してきた。
こういう線をひとすじしっかり物語に混ぜているのも紫式部の妙腕であるが、ここにもまた私の云う皇家と藤家との確執・葛藤の一例がみられるのである。そしてこの巻が晩春のいくらかものうい重みをひきずるように帳をおろす、と、大きな大きな山場がやってくる。上下の二巻にまたがるほとんど独立した長編小説がはじまる。
2003 7・30 22

* ゆうべ、夕霧クンは、酔ったふりをして舅になる人の藤花の宴さなかに休息の部屋を求めていた。内大臣(昔の頭中将)の子息達が背を押すようにして雲居の雁のもとへ送り込む。やるものだ。
2003 7・31 22

* さて、わたしは、何としても持ち出してきた江戸川乱歩が読みたかった。明るい店。やはり「美しい人」のいる店へ、足が向く。そこは一人になれる店である。ことに今晩は、読み物に絶好の席へ店長がみずから誘い入れてくれた。「美しい人」が料理や酒を静かに運んでくれた。邪魔はしない、黙って通りかかるつど、京都の冷酒「松竹梅」の酌をしていってくれる。この酒はうまいね、と云うと、にっこり頷いた。飲めるらしい。
乱歩の「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」「心理試験」をつぎつぎと読み終えた。山尾悠子という作家のSF「遠近法」というのも読んだ。四作合わすと相当な量だ、気が付くと、長時間席を占領していたが。デザートにアイスクリームの出る前に、もう食べ物はみな済んでいたが、佳い焼酎のあるのを知っているので、頼んだ。「よろしいんですの」と少し眉をひそめさせてしまったが、うまかった。わたしのために、少し献立も替えて料理が出ていたらしい、なにしろ喰わず嫌いなモノが多いので。
で、たいへん気分良く電車に乗り、タクシーにも乗らず手をふって大股に歩いて家に帰った。

* 乱歩の小説は、さて、決定的な印象でなく、大正時代のマイルドな味わいに風格は感じられるし、独特の謎解き推理も面白いが、絵解きの図が必要になったりする。「D坂の殺人」には谷崎の「途上」への讃辞が組み込まれていたりして、手も凝んでいる。「心理試験」も面白いが。もう一つ残してある作品に期待をかけている。
筒井康隆氏の小説も楽しみにしている。
山尾さんの作品は、少し特殊すぎる気がした。一つの宇宙の構造的な説明に終始して、そこでの生き物(人間といえるかどうか)のドラマとは読めないので、非常に知的遊戯的凝り性の所産という気がした。会員でない今日の作家なので、これは、このままにしておく。もし入会でもされたときに、また考えれば済む。

* ル・グウィンの詩の決定訳が届いていた。高橋茅香子委員の翻訳作品として、原詩を添えたかたちで入稿した。その原詩に原題を書き忘れてシマッタのは失敗。
木島始さんのおかげである。詩はグウィンのホームページにも出ていて、むしろ多くの人に読まれたい伝えたいものなので、高橋さんの示唆と同意もあり、急いで入稿したのである。
2003 7・31 22

*「藤裏葉」で、めでたく、夕霧ははれて雲居の雁と結ばれた。父源氏の教育方針で蔭位をうけず万人が驚く六位から官途に出発した夕霧は、幼な恋を遂げていた従妹との仲を、その父、今の内大臣の手ですげなく裂かれていた。そのことが源氏(太政大臣)と頭中将(内大臣)の潜行する不和の一因になっていっ。だが夕霧は、ながくよく堪えて、脱線しなかった。律儀なほど一途に(少しだけ脇目もつかったけれど)逢わぬ恋に堪えぬいた夕霧は、ついに内大臣に膝を折らせて、恋人を妻として手に入れた。官位は同輩にぬきんでて宰相中将、やがて中納言に昇るであろう。
この仲良し夫婦は、雲居の雁がいい意味での愛らしい古女房になってゆき、その頃になってお堅い夕霧が、亡き友柏木未亡人の落葉宮に狂い歩く時が来る、が、それも相応に治まっては行く。
夕霧の胸にいちばん深く差し込まれた懊悩は、「野分」の日にのぞきみた紫上、父源氏の理想の妻、生母なき夕霧には母にもあたる人の、朝日をあびた女神かのような瞬時の影向(ようごう)であったろう、と、わたしは読んでいる。

* 源氏物語とバグワンとを静かに音読して床についたのが三時半、しばらく北斎をみて、眠りに落ちた。その前に、出口孤城さんから贈られてきた清冽の名酒「獺祭」二本に思いがのこるので、一本あけ、コップに半分足らずを、世も寝静まった深夜にひとり、ぐうっと飲み干した。云いようもなくうまかった。
2003 8・1 23

* 数日かけて大判の重い「北斎」をひろげては「富岳三十六景」に堪能してきた。三役といわれる「波裏富士」「凱風快晴」「山下白雨」の素晴らしい出来はもとより、気に入った贔屓の作がたくさんあり、この富岳の揃物そのものが、日本美術史上の大きな存在であることを疑わない。清爽の気に満ち、甘くない。気概に満ち、冴え渡っている。意欲が前へ前へ溢れ出ている。先がある。
そういえば、ずいぶん以前、長野県に北斎館をたずねて日曜美術館で放映した。わたしは信州新町美術館で大下藤治郎らの水彩畫についてカメラの前でかたり、翌日は、小布施町の「北斎館」で北斎を語っていた。あの美術館めぐりのシリーズは本にもなった。すっかり忘れかけていた。

* 源氏物語は「藤裏葉」を今夜で読み上げ、全集の第三冊が終わる。半分読んだことになる。夕霧はめでたく三条院に新婚の暮らしをはじめた。雲居の雁との幼な恋を堪え忍び会った家であり、夕霧には亡き母葵上の実家でもある。この二人とも、今は亡き祖母大宮の手で愛育されたのだ、従兄妹同士になる。
夕霧も中納言になり、源氏は院に準ずる待遇を受け、来年は四十の賀を受ける歳である。若いと思うものの、四十からは「老」と、自他ともに認め合った時代。江戸時代の芭蕉でも、小鳥の四十雀によせて「四十から」の老いを句にしていた。
2003 8・6 23

* 吉川英治記念館事務長であった同僚委員の城塚朋和氏を煩わして選んで貰った杉本苑子作「今昔物語ふぁんたじあ」から、五編を戴き、今、三編を校正した。「怪力」「猫をこわがる男」「蘆刈りの唄」である。もう二篇「釜の湯地蔵譚」「かぶら太郎」をまとめて一編にする。
おなじ城塚さんに選んで貰った江戸川乱歩の数編からは、「押絵と旅する男」が抜群にいいと私も妻も思い、これで著作権者に許可願いを出したい。
同じく同僚委員の和泉鮎子さんからは、郡虎彦の戯曲数編を送って頂いた。みななかなかの力作で、頭の所をそれぞれ少しずつ読んでみても演劇言語に成っている。大きに期待している。
2003 8・7 23

* 源氏物語はついに「若菜」上の巻に入った。この上と下とが、光源氏の物語の、いや源氏物語全体のけわしく重々しいいわば頂上になる。この二巻だけで岩波文庫の昔ふうにいえば「星」一つか一つ半ほどの量がある。そしてそのあと、ひたすら物語は寂しく悲しくなる。「御法」「幻」など、まともに音読できるだろうか、声がつまって湿って、めためたになってしまうだろう。
「若菜」というと思い出す。
一九六九年、アレは五月に入っていたろう、突如として、何も知らない間にわたしの「清経入水」は第五回太宰治文学賞の「最終候補」に差し込まれていた。筑摩書房から、応募したことにして欲しいと内々に電話が来たのである、晴天の霹靂であった。事情はまったく知れなかった。しかし、お断りする何の理由もなかった。
だが最終候補に入っているといえど、受賞と同義語でないのも明白ななので、これは悩ましい。で、わたしは決然と、源氏物語を毎日「一帖以上」読んでゆくことを自身に命じた。つまり五十四帖読み終えるまでは太宰賞のことなど忘れていようと。それまでには決着がついているはずと。
楽な課題ではない。そのころ私の持っていた岩波文庫「源氏物語」は、現在の読みやすい玉井幸助注でなく、それとくらべると原始的な印象すらある島津久基注の本だった。とても読み煩う本だった。
長い巻に当たると、一日の相当量をこれに掛けなくてはならなかったし、やはりゲンをかついでいたからサボル勇気はなかった。行者のように烈しく読み進んで行き、むろん休まなかった。時には一日に二帖以上も読んでいった。
五月六月の医学書院は、当時、本郷台をゆるがすほど恒例の激越な春闘に引き続いて、夏のボーナス闘争の真っ盛り。管理職会議は連日で、社内に半ば身柄を拘束されていた。それでも仕事の合間に合間に、わたしは源氏物語をちからずく引き寄せるように読み進んでいた。
あの日も、夜遅くまで管理職は全員居残り。何とはなく会議室で何かを待機していた。源氏物語はなんと「若菜」にさしかかって、この一帖を一日で、上下を二日で乗り越えるのは、さながら富士山にスリッパで登山するほどきつかったのである。わたしは余のなにものも犠牲にするぐらい、夢中で長い長い「若菜」に没頭していた、夜の会社で。そして読み終えたのは、深夜に近づく帰りの西武線ではなかったろうか。
社宅のわたしたち三階の部屋に階段を上がって行き、すると玄関の鉄のドアをあけて、出迎えた妻がひとこと云った「おめでとう」と。
翌日からは、別世界に移り住んだようなアンバイであった。小説家になろう。わたしは、七年間の孤独な望みを幸運に恵まれ、遂げていたのだった、二度目の誕生であった。「若菜」とは、光源氏の「賀の祝い」の巻であった。
むろん、その後も、「夢の浮橋」まできちんと一日一帖以上を読んでいった。読み始めたからは、当たり前だった。

*「日本の歴史」は、戦国時代直前の、まさに中世社会のことこまかな腑分けの巻を読み進んでいて、ここらは、もう「人」の事跡でなく、「社会」構造そのものの激流激変であるから、興味本位にどんどん読み進むという景観ではない。土中に顔を埋めながら土の味をこまかに嘗めて行くような読書である。渋滞する。
2003 8・8 23

*『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』を、小沢さんから戴いている。この人が肉声をのせて話している番組など、さぞ面白かろうと想像がつく。だが、活字の文章としてそういう「語り」「話し」「しゃべくり」を、手もなく書き写したようなことでは、狙いははずれ、シラケてしまうのを、著者も編集者もなぜ気付かないのだろう。笑いを取ろうとして自分が舞台の上で笑って見せているような、まずい演戯にこれは似ていて、とてもノッて読んで行けない。シラケて前へ進めない。話藝を文章で伝えるには、微妙な抑制と推敲とが必要、そういう本を何冊も「書いた」体験からも分かっている。この本だけは、せっかくながら、イタダケナイ。
2003 8・9 23

* このような感応を、はてもなく豊かに与えてくれる土壌としての、源氏物語。漫画で筋書きだけ知ってみても、とても源氏物語はよんだことにならない。たとえば「きよら」と「きよげ」という二つの語彙が、いかに精微に精妙につかいわけられているか、それは漫画では絶対に感得できない。文学はことばの秘儀である。
2003 8・10 23

*「北斎」の二巻をしまい、安藤「広重」の三巻揃物へ入ってゆく。全十二巻、楽しませてもらえる、たっぷりと。これが済んだら頂戴した肉筆浮世絵の集成本が待っている。これを一層の楽しみにしている。
2003 8・12 23

* 同僚委員牧南恭子さんの大作『喪われた故国(くに)』上巻を読み進んでいる。牧南さんの他の短編作品も幾つか読んだが、この書名に察しられるように、動機の強さは根が生えていて確かなように、(まだ何ほどの量を読んだわけでないが)想われる。おそらく千数百枚もの満州物語だと謂ってよろしかろうか、わたしの最も手薄な遠い世界を書いてあるだけに興味も惹かれる。
郡虎彦の戯曲も読み進めたい、これは「道成寺」ひとつをみてもかなりオソロシイのである。

* だが、今夜はもうやすもう。バグワンも読んできた。とても深く動かされた。「若菜」上の巻では、いとけない女三宮をおもんぱかって父朱雀院が心乱して行く末を案じておられる。それも声に出して静かに読んできた。
2003 8・12 23

* 俳優の浜畑賢吉さんからちょっと面白い本が贈られてきた。この人は才人で、いつもすこし角度の面白い本を出版する。舞台も、帝劇その他で見ているが、書いたものの方での、もう、ながい付き合いである。「マイフェアレディ」の教授や、「坊ちゃん」での作者漱石役や、印象に残る役が幾つもある。
2003 8・13 23

* 浜畑賢吉氏に戴いた「戦場の天使」は、題はべつに工夫もあったろうが、よく書けていて、終盤胸に迫るものあり、達者な筆致で感心した。中国の戦線でたまたま兵士達が養いまた慰められることになった一頭の「豹の一生」を書いてある。こんなことってあるのかと愕く、懐かしくまた哀傷に彩られた物語であった。村上豊の絵がうまく本に似合って惹きこまれる。この筆者の他の著書からも、佳い趣味と関心や好奇心を受けとっていて、舞台とともに人柄を感じる。
同志社大田中励儀教授に戴いた論考「泉鏡花『神鑿』の周辺  小島烏水との関係を中心に」も、いつもの此の研究者らしい力ある推論が手堅く纏められていて、この面白い原作に新たな角度で光彩を加えられた。この人にはたくさんなことを教わり続けてきた。
2003 8・18 23

* いろんな夏休みがあったのだ。わたしも、だいたいツルんで何かを一声にやるのは大の苦手で、嫌いで、ラジオ体操など結局覚えきれなくて、余儀ないときもマゴマゴして先生によく怒鳴られた。そんなザマでは級長をやれと先生に指名されても、いいえ副級長でケッコウですと辞退して帰るありさまだった。前へ出てクラスメートに号令をかける、その「右向け」「左向け」の右とひだりの覚束ない少年だった。ラジオ体操などやれば、かならず港サカサマに動いたりして目立った。目立ちたかったのではない。
日銭を稼ぐ店売りの我が家も、あたりまえのように夏休みだからどこへ遊びに休みに行くなどいうことは、決して無かった。自分一人でアレコレしていた。此の小闇の胸の痛みとは、時代は隔ててもチクリと寂しく呼応するモノをわたしは忘れていない。それとても、いろんな夏休みが誰の上にも有ったのだといえば、済むことか。どうだか。
* わたしを育ててくれた秦家は、いま思えば、すこし風変わりな家であった。裕福。とんでもない。貧寒。と云うほどではなかった、が、極めて節約の家庭だった。父も尋常高等まで進んだかどうか、母も同居の叔母も小学校どまりだつた。だが、祖父の蔵書は信じられないほど高級で、高価な充実した漢籍が、老子、荘子、韓非子から唐詩選、古文真宝、また史書の注釈から大辞典等まで三十冊は下らなかったし、和書も、秋成の古今和歌集注や神皇正統記、俳諧全集、謡曲本など、信じられないほど佳い物のすべてに秦鶴吉蔵書の書き入れがあった。「おじいさんは学者や」と父は云っていた。その父も通信教育の教科書を何冊もわたしの愛読書に残してくれていた。しかしこの父はわたしの読書好きを「極道」だときめつける人でもあったから、本を買って貰った覚えは三度となく、その本は何とも魅力に乏しい教訓的なものばかりであった。
我が家にあった雑誌は、母か叔母かの「婦人之友」「婦人倶楽部」のあわせて三冊か四冊がくらい階段の隅に捨てるともなく積んであっただけ。新聞すら、夕刊は不要としていたような家庭であった。だが嫁いできた母は、近代作家の名前とゴシップのようなものだけは何故かよく口にした。近代現代の小説単行本として読めるものは、ほとんど一冊も記憶になく、菊池寛の「真珠夫人」をどうして読めたろうかと不思議な気がする。まして雑誌なんて、医師の待合にしか無いものと思い切っていた。
そんな按配であったから、わたしは、本とは人に借りて読むもの、また人の家に出掛けて行って読ませて貰うもの、としか考えたことがない。少年向きに、ましてや少女向きにどんな雑誌があるかなど、夢にも思ったことはなかった。縁なき衆生であった。
古本屋での立ち読みは、わたしにとっては戦後生活の多大の恩恵であった。わたしは、小学校六年生頃から、東山線菊屋橋畔の古本屋で、店番のおばさんやおじさんを悩ませながら立ち読みの毎日だった。そんな時にも雑誌などめったに手を出さなかった。藤江さんのように定期雑誌を楽しめる育ちではなかった。
だが、バスで送り迎えの幼稚園時代があり、京都幼稚園では毎月「キンダーブック」が一人一人に与えられて、あれほど楽しみに楽しみにした読書体験は少ない。あの胸のときめく嬉しさは忘れようがない。そういう幼稚園にやってくれていた秦家であることは忘れてはならないのである。

* そんな次第であるから、藤江さんの「イチャモン」には、さもあろうと納得する以上の反論など、ない。わたしに耳打ちしてくれた研究者も、他の用事のついでに軽い気持でて書き添えてくれたに過ぎまい、何かの結論とは無関係な、話柄の一つであった。ただ、ホホウそうなのかと面白くその指摘に反応してはいたのである。
2003 8・20 23

* 寝入ったのは午前四時半か五時近かった。作業を今日に残したくなかったので、みな片づけてから寝た。
寝る前になお、同僚委員の牧南恭子さんの大作「故国」を読み進んでいた。小活字で二段組み二冊の千枚は遙かに超す大作であり、本が重い。加速度がついてきて、やがて上巻を終える。幾つか読んだ短編よりも、この大作に、作者の人と力量とを感じる。満州はわたしには無縁に近い異国であったが、そこを「故国」として育った人達には懐かしくも心しおれるであろう風土と歴史。文学・文藝の感銘というのでは必ずしもないのであるが、随所に作者の思索や感性や素養がにじみ出ていて、新鮮なおどろきとともに面白く読んでいる。この場合は作者を存じ上げていることが、親しめる理由になっている、幸いに。
2003 8・23 23

* 世界陸上という伏兵に襲われ、深夜というより明け方近い女子一万メートル決勝まで見てしまい、あげく、「喪われた故国」上巻を読み切ってしまうなどしたため、目覚めたときは正午によほど近かった。あれこれ一仕事して、なにげなく階下に降りると黒いマゴが悠然とからだをのばして昼寝している、そのよこへごろり。そのまま五時まで寝入ってしまう。
この調子で一週間あまりもつづくと、わたしの仕事は潰れてしまう。
2003 8・24 23

* 中原中也の詩はたっぷり選んでいる。江戸川乱歩の「押絵と旅する男」は、大正期の谷崎潤一郎をつい連想してしまうほど作柄が似ている。
2003 8・24 23

* その「谷崎潤一郎」をMEで検索すると、意想外に記事が少ないのにショックを覚えた。信じられない。その中に『秘本谷崎潤一郎』という谷崎夫人をはじめとする聞書を五巻に纏めた稲沢秀男氏の著書があるのを知った。松子夫人が亡くなり、谷崎学者たちに大きな存在もあらわれず、素晴らしい全集も出来て行かない現状がなさけなくて、谷崎について論じたり語ったりするのがついもの憂くなっているのに気が付く。一人の谷崎愛読者として、もう一度全集を通読してみたいと思うばかり。
2003 8・24 23

* 江戸川乱歩は我が国に探偵小説という新ジャンルを確立した人で、推理作品が六十五巻にも及ぶ大家であるが、今日校閲し終えて入稿した「押絵と旅する男」は、探偵物でも推理作でもない文学作品としての乱歩の一名作たるに恥じない代表作である。独特の憂愁味を帯びた昭和初年の雰囲気も、漂う匂いのように妙に懐かしい、面白い小説である。谷崎潤一郎の大正期小説につよく刺激されて作家生活を満たしていった乱歩の風情が、たいへん懐かしやかに表現されている。「ペン電子文藝館」は魅力的な作品にまた一つ恵まれた。
2003 8・25 23

* 夜前は、世界陸上を見るつもりで降りたテレビの前で、ふと映画「A ファイル」に出会ってしまい、緊迫感のある運びについつられ、競技はほどほどに映画の方を観てしまった。それだけのことはあって、面白かった。
それから「若菜」上をひらいたが、光六条院が兄朱雀院の出家後に、ふるき因縁の朧月夜に忍び逢うというきわどい場面。一区切りがはなはだ長く、十頁近くも音読。そしてバグワンも。
この読書は習慣的な日課ではなく、日の最後に取って置きのおいしい楽しみなので、深夜であろうと明け方であろうと。
2003 8・26 23

* 郡虎彦の「タマルの死」は、短い戯曲ではあるが、その官能の匂い、陰惨の空気、それを藝術的に造形する力、総ての点で虎彦戯曲の原点的な凄みを帯びている。虎彦は「白樺」最年少の同人であり、「タマルの死」も同誌に発表した、それは東京帝大に入学した二十二歳の作であった。その後「世界の文人たるべく」日本をすてて渡欧し、日本人の多くには忘れられても西欧の文壇に盛名をはせて、多くの作品を遺し、ついに帰国せずスイスのサナトリウムで病没した。世界の舞台で活躍した日本の文学者の先駆者であった。絵画の藤田嗣治に似ている。
「タマルの死」を起稿・校閲し解説を書き添えて、つい今し方入稿した。この三日間で五人の五本を入稿、「植林」は進んでいる。なんとか多彩な「美林」にしたいもの。
2003 8・26 23

* 朝「嵐」を読みました。正確にいえば、三分の二ほどに目を通したというところでしょうか。父ひとりとなって四人の子どもの一人一人の個性と付き合っていく姿、手狭になってきたけれども住み慣れた「家」を住み替えることをめぐっての想い、などが時を越えて伝わってきました。家の外も中も嵐。
ああ、私もいくつかの嵐の中をくぐりぬけてきたつもりですが、現実の姿は間抜けで頼りない風情。くるくると周りの人間関係に振り回されて、今も風の中の木の葉のよう。  神奈川県

* この人も藤村のことはほとんど何も知らなくて、木曽講演の演題から「ペン電子文藝館」の『嵐』をダウンロードしたらしい。たしかに「嵐」では家の外も内も嵐だという藤村その人の述懐が芯に生きているけれど、そういう述懐から書き起こされていったこの作品は、彼の久しい「おぞき苦闘」からの、辛うじての脱却・新生・再生・甦生の兆しに落ち着いている。文体は平談するに似て卑俗でなく、静かなのである。わたしはこの作品を「破戒」から「家」から「新生」からの「到達点」として読み、そこに真の新生・再生・甦生と同時に、後期の静かな文体の出発点をも見ているのである。
正直のところ少なくも「家」「新生」の二作を通らずに読む「嵐」では、上のメールの人のような、アバウトな把握で終わらざるを得ない。藤村の場合は、一つの作品に入る前に、また前駆した作品が切実にものを云っている。
「家」を読んでから「嵐」に、「新生」を読んでから「嵐」に、さらには「破戒」がどのようにして未曾有の「緑陰叢書」なる自費自家出版として成ったかも知った上で、「嵐」「分配」等の名作に至ると、おどろくべき世界がそこから自分の魂に吹き流れてくるのを悟るだろう。
作家の作家自身の手になる出版の先駆は、島崎藤村の「緑陰叢書」に在り、その後続がわたしの「秦恒平・湖(うみ)の本」なのである、出版史・文学史的にみて。「ご縁」をもとにわたしが木曽で話した大きなポイントは、そこに在った。
2003 8・26 23

* 宅急便に起こされる。発送用のケースを、前もって届けてくれた。一ケースに七十冊ほど入る。
昨夜は二時半ごろ、男子二百の準決勝もあきらめて、寝た。もっとも、わたしはそれから牧南委員の雄編『帰らざる故国』を読み進めたが。
舞台は今は敗戦後の奉天。恥ずかしい話だが旧満州のことはあまり知らない。が、奉天入城とかなんとか、奉天とかチチハルとか新京といった地名は覚えている。とにかくも満州という国はウサンくさいと子供心に感じていて、その話題には少年の昔以来あまり身を寄せてゆかなかったのはたしかだ。
今氾濫している北朝鮮話題の気の重ーい印象も、此処ヘかぶってくる。
今、長編を読んでいて、著者からこれを書いたいきさつや取材の裏話などを聞いてみたいという、一読者としての好奇心に駆られている。幸い月に一度は委員会で顔が合うし、メールも使える。
2003 8・29 23

* 目覚めが午後三時とは、記録的な寝坊。世界陸上のアトも『帰らざる故国』を読んでいたために。少し発送作業に目算違いが生じた、が、今晩、女子マラソンを見ながら、概ね遂げることになろう。
2003 8・31 23

* 神坂次郎氏の『元禄御畳奉行の日記』から、初章と三章との抄録を、著者に許可して貰い、校正している。軽い書きぶりだけに読みやすく、原資料のおもしろさがよく生きている。
2003 8・31 23

* 男子リレーは、四百も千六百もあっさり負けて、世界陸上は終わった。いやもう終わってくれて良かった、眠いのも通り越した。牧南恭子作『帰らざる故国』の続きを読み進んで、さ、寝ようと思い、いやいや「源氏物語」とバグワンはやはり読みたいと思い、台所で読んだ。明石の尼君、明石の上、出産の明石女御、それに遙かな明石入道もふくめての深い遠い因果譚が始まるところで、一段落が長い。物語的に面白く、しかも重視せざるをえないところ。ことにわたしのように、源氏物語にも「水」神の深い先導や誘導があると読んでいるものには、住吉を祭っている明石の一族が絡んだ物語の展開には、注目してしまう。
バグワンは、『存在の詩』がやがて終えてゆく。この一冊は、ことにバグワンの基本の基本を語ろうとする姿勢がうかがわれ、それは受けとるこっちの勝手読みとはいえ、有り難い。
2003 9・1 24

* 夜前、牧南恭子作『帰らざる故国』上下二巻の大作を読み終えた。電子文藝館の同僚委員である。その分量に胸をおされ、また出だしにもやや脚の重さを感じていたので、はじめのうち読みなずみ時間がかかった、が、いつしかに引きこまれた。下巻も半ば過ぎて残り頁の少ないのを心惜しむ気にすらなった。

* 昨明け方にとうどう読み終えました。この際は、作者を存じ上げていることが、終始プラスに働きました。あなたを思い浮かべ思い浮かべ、いろんな表現や語法や認識や判断に対して、具体的に、フーン、こうなんだ、ふーんこう考えるんだ、ふーんこう調べてこうなんだなどと興趣を覚えました。のめりこんで細部にまで想像力が働いていて、それが均衡を得ていることに感心しました。
危機的な状況が繰り返しあらわれ、そこで筆が浮つかずに事柄と場面に密着してよくものを見て(想像して)書かれてあることに力量を覚えました。
題は、 『満州 帰らざる故国』と端的に出された方が文献として記憶されやすいのではありませんか。
徹底的に推敲しておかれると、あとあとへ遺せる最良の代表作になるでしょう。
ありがとうございました。敬意を表します。 秦生
2003 9・2 24

* フラナガンという人の「モダン・アート」(原書)は学生の頃からの愛読書だった、図版多く記述は具体的であった。中にマチスのデッサンがあり、大好きだった。袖無しのブラウス姿で安楽椅子に身を傾けてこっちを見ている女性であった、二の腕、スカートのお尻のまるみ、そして瞳。魅惑の線の味わい。豊麗の印象は、また清潔でもあった。
全くの白地に黒い線で描かれているので複写は簡単だった。だが、やはり本の中でいちばん綺麗な線が出ていた。昔の「写真」版だから、大きくコピーすると写真版独特の線があらわれ印象を濁す。
スキャナーで再現した写真で、時に再現が出来なくなってしまうものがあり、今まで諦めていたが、「自在眼フライト」というソフトで扱うと写真が現れてくれる。気が付かなかった。一つずつ覚えて行くものだなあと思う。わたしなど、パソコン教室風のところへ行ってみても、一日と辛抱できないだろう。
むかしむかし父に強制されて夏休みいっぱい大阪門真のナショナル(松下)工場へ出掛けテレビジョンの講習を受けたが、徹底して何も頭に入らなかった。ひたすら苦行であった。
2003 9・2 24

* 藤村作『夜明け前』を読み始めた。たとえ一日二日でも木曽へ行った思いののこっているうちに、この大作に、敬愛を添え、慌てず騒がず読み親しみたいと思い立った。その前に馬籠の記念館でもらって帰った冊子にすべて眼を通した。
2003 9・3 24

* ペンクラブの会員でもある宮田智恵子さんの小説本を贈られて、その巻頭作「橋のむこうに」を読んだ。隣家の兄弟と姉妹。少年から中年過ぎるまでのほのかな慕情の交錯がたくみに書けていた。さ、もう一押し、それが何であるだろうと思いつつ読み終えた。好感をもった。ここまでは書ける。小説になっている。しかし、その上をさらに吹き募っていく魅力の瞬間風速も欲しい。
2003 9・3 24

* 藤村の「夜明け前」着々前進、いまがわたしにして「読み頃」だと思う。ゆっくりと来年の春までかけて読もうと思う。「日本の歴史」もゆっくりだが進んでいる。源氏物語は明石の一家に光源氏も身をよせて、不思議の縁が確認されている。とても気分の深まるところだ。
バグワンは「存在の詩」がもうすぐ終わる。音読と黙読とを別の本で同時に続けたい気持に抗しかねている。
2003 9・5 24

* 阿川弘之さんの「年年歳歳」を校正し入稿した。昭和二十一年九月「世界」に初出の文壇処女作として知られる。海軍の副官から敗戦復員、原爆に壊滅した故郷広島に、帰る家も大切な親や親族もすべて世にあるまいと覚悟して下車する作者その人の、美しいまでに初々しい、胸にしみる佳作で、はじめて読んだ昔に感嘆した。好題でもあり、忘れかね、ながく胸に置いていた。阿川さんに戴くならこの作品と思っていた。あらわな反戦でも反核でもない、しかし今の読者もこの作品に触れたときには、おのづと戦争の痛みや核爆弾の無残さを思わずにはおれない。声高に言うだけが反戦でも反核でもない、土に水のしみいるように静かに自然に温かく書かれたこの作品のような訴求力もあるのである。何度も目頭を熱くぬらしながら再読、幸せな読書であった。

* 水野仙子の「神楽阪の半襟」はまことに可憐な秀作、感じ入った。小栗風葉に見出された地方の文学少女で、田山花袋に師事し、しかし師に結婚に反対されて離れ、貧窮の巷に愛ある夫婦生活を送る。その一端をしみじみと書き起こして惹きつける短編には、自然主義的な作風から、人間心理を読みこむほうへ作風も動いて、いつしれず有島武郎の文学に深く嵌っていこうとした作者の志向がよくうかがえる。この作者、三十二歳にして、貧と病と妻の座の重きに屈するように惜しくも死んだ。「神楽阪」と書いてある神楽坂風景には、わたしたち夫婦も、甘い新婚のむかしの貧しい記憶を懐かしく重ねることができる。「青鞜」社員でもあった水野のすがやかな秀作である。これも入稿。
2003 9・6 24

* 六時半に起きてしまった。又寝すると、昼になりかねない。
夢にしきりに「夜明け前」馬籠宿の風景がみえたり人の物言いが聞こえてきたりした。少しずつしか読まないが、作品の文体が夢に入ってくる。そういう体験はこれまで、露伴や鴎外の作品でも味わった。

* 起きてすぐ、伊東英子作「凍った唇」を校正しはじめ、校正し終えた。この人は、作家ともいえないのかも。島崎藤村の個人誌「処女地」にのみ僅かの小説と随筆類をのこした、いわば寄稿家にとどまり、没年も知られていない。だが、あえて取り上げた此の小説は、ながく記念に値するすぐれた筆力と表現とで、身内のぞくぞくする感銘をもたらす。肉身の自在を喪い廃人状態のまま高座にあがったという、実在の噺家柳屋小せんをモデルに、その衰亡の末期を、みごと文学的に捉えて行く。小せん死後の心もち蛇足めくのは惜しいが、死に至るまでの描写や表現のみごとな彫り込みに、しばしば嘆声をもらした。もはやわずかな篤学に記憶されるほかは湮滅作家としか謂いよう無いこういう書き手の、今に見る新鮮でたしかな文学的資質。
これに比べて、今日いわゆる通俗読物大家たちの筆致の、浮薄なほどのあらけなさ、安易さはどうだろう。伊東英子のようなこういう隠れた書き手たちの実力を、はかなく忘れ去ってしまいたくない。

* 早起きのついでに、泉鏡花の戯曲「海神別荘」をスキャンした。総ルビのため、スキャンはかなり混乱しているが、念のためあたまのところを校正し始めると、もうはや海底世界に引き込まれて行く。文学の言葉の魔力的な誘いが風のように奔ってくる。

* 思いがけずこの歳になって「文学」漬けの毎日だわと妻はわらう。わたしひとりの校正では目が行き届かないと思うとき、妻に手伝って貰っている。何の稼ぎもなく、日々、「ペン電子文藝館」のボランティアで送り迎えている。こういう生活になるとは予想しないで来たが、妻にはともあれ、わたしにはこんな贅沢な思うままの暮らしは無かったのかもしれない。
2003 9・7 24

* 立原正秋作『冬のかたみに』の第一章「幼年時代」を朝飯前にスキャンした。四時間ほど寝て六時前にパチリと眼があき、そのまま起床。アシュケナージの「月光」ホロヴィッツの「熱情」「悲愴」を聴きながら、この三曲の間に、きっちり一章分のスキャンを終えた。
校正にも少し手を付けてみたが、初めて読んだ日々の感銘が、胸に清水の盛り上がってくるように甦り湧いてくる。立原さんはいろんな作品を数多く書いた流行作家、読み物作家の最たる一人であったけれど、根に、純文学の清冽を抱いていた。ことに『冬のかたみに』は、底知れぬ湖水の深さを思わせて哀情を湛えた作品であり、この名品を、「ペン電子文藝館」に「どうぞ」とご遺族より戴けたのが喜ばしい。嬉しい。少しく作業は苦労だけれど、全三章とも掲載させていただこうと思う。

* 立原の『冬のかたみに』が私を揺り動かすのは、立原正秋が渾身のフィクションを「私小説の極北」かのように精神と美の問題として書こうとしている、その「本気」の、清明かつ深刻なところ。だから、わたしはこの作品を、立原正秋のあえて「私小説」として読むことで、彼と同じ「島」に立ちたい。この作品こそ彼の優れた文学精神の光彩美しい結晶だと思っている。彼の虚構したかも知れない年譜などとは無関係に、立派なこれは「文学作品」なのである、表現も把握も。
2003 9・13 24

* 立原幹さんの書き下ろし長編『空花乱墜(くうげらんつい)』を読み終えた。題は禅偈の一句である。懐かしいほどに立原正秋を思い起こさせる。しかも正秋にまさる静かな落ち着きと哀情にあふれている。かつてこのような文学にはあまり触れてきた記憶がない。この人にだけ描けたかと思われるオリジナルが感じられ、読後の印象は寂び寂ととした佳いものであった。他の作があるなら読んでみたいと感じた。
一つには父上の『冬のかたみに』を一字一句追って校正している真っ最中、併行して読んだという稀有の情況も読書を律したかしれないが、とても気持いいものに触れたという淡泊ながら深い思いはいまも胸にあり、有り難い。
2003 9・17 24

*『冬のかたみに』第一章の、ほぼ三分の二を校正した。一字一句一行と文章を追っていて、こんなに幸せな思いに浸れるというのは、何であろうか。哀切、清明。美しい作品である。この世界は韓国、大邱に近い、無量寺。つい最近北朝鮮の美女軍団とやらがもてはやされたユニバーシヤード開催地の近くである。いま北朝鮮がらみに朝鮮半島に対しては必ずしも親和的とばかり言えないムードが日本にはあるが、朝鮮文化の高尚かつ幽邃なことはまた格別のものがあり、その方面への視野も塞がれてしまうのは惜しいことである。立原さんのこの小説は、おそらく韓国文化の深部に体験的な視線をよく刺し込んだモノと思われる。高貴な印象が惜しみなく書かれてある。
2003 9・17 24

*『日本の歴史』が、蓮如から山城の国一気へ来て俄然興奮度が高まってくる。この辺こそ「中世」そのものと思いたい。
2003 9・19 24

* 少しみなに遅れてペンを出た。久しぶり、夏の間はつい遠のいていたが「美しい人」の顔を見に行った。冷酒、京都の「松竹梅」で小懐石。朱ペンを手に、ずうっと『日本の歴史』を読み進み、読む合間に食事していた。店が明るくて眼の負担にならず、客も少なくて静かだったから、だれに遠慮もなく文字通り耽読した。

* 親鸞から数代あとの蓮如は、いろんな大きな点で異なった宗教人であり、その大きな差異を乗り越えた太い共通点が又蓮如の、また本願寺派の魅力になる。同じ浄土真宗とはいいながら、親鸞以降の異端化ははげしく、高田派や仏光寺派の真宗は、寺も教団ももたず、弟子ではなく総てを同朋として受け容れて上下の隔てなくひたすら民衆の救済に当たった親鸞の信仰からすれば、すさまじいまで異端の度がすすみ、むしろそれにより旧仏教勢力との妥協もなり信徒の受けもよくて、親鸞直系の本願寺派=無碍光派は零細と衰弱を極めていた。蓮如は、決然異端と闘い、また旧仏教からの弾圧にも抵抗し、みごとな中世的組織者の天性を発揮する。近江の堅田に、越前の吉崎に、大阪に、京都の山科にと根拠地を移動させつつ、親鸞等には考えられなかった、本山・末寺・道場=講、寄合を組織することで、教線を広大に伸張していった。異端とも闘ったが守護勢力や國人達とも武力的に闘った。その一方で親鸞以来の庶民救済に徹した信仰の本質を、蓮如ならではといわれるユニークな現実認識のもとで、守りきった。
むろんこんなことでは、とても言い足りていない。彼は途方もない巨人でありカリスマでありながら、謙遜な善意に溢れた指導者であり組織者であり信仰者であった。王道為本といった、スローガンをも戦略的にすらりとかかげながら、中世乱妨の世界を堅剛にいきぬいて、譲らなかった。
だが、門徒たちは、そんな蓮如をなお超えて、時代の気運と共に強硬に成育した。一向一揆化した。真宗の教えは念仏であり、傷ましいまで圧迫されてきた庶民農民に死後の安寧を確保し確信させたからは、その安心の信仰を現実に圧迫し脅迫するあらゆる勢力の前に、死もおそれず抵抗したのは当然の帰結であった。蓮如もそれを抑えられなかったのである。

* 本願寺王国の樹立も一向一揆も奥深く甚だ中世的であるが、それ以上にまた興味津々、眼をむいて立ち向かわねば済まないのは、多くの土一揆・徳政一揆の域をはるかに質的にも超えた「山城国一揆」であった。ただの抵抗や経済闘争ではない。守護勢力はおろか幕府勢力からも断然独立し、徴税権も警察・裁判権もをいわば国民会議により運営し、他からの侵入も容喙も断然許さない「独立国」形成の意欲が、実現していったことには、しんそこ驚かずにおれない。
2003 9・19 24

* 明石入道の数々の願を知り感銘をうけた光六条院は、妻子とともに住吉詣でしている。「若菜」下の巻。物語の音読は、少しもやすむことなく、漸々のうちに大きな大きな山場へさしかかっている。「読む」よろこびは深い。
バグワンは、また「般若心経」を読み進んでいる。何度繰り返しても、日々に新鮮。それはわたし自身が日々に動いているから、だろう。
藤村の『夜明け前』は、過去の読書を一新したように、情景・光景・風景のすみずみにまであの馬籠宿や近在の記憶が働いてくれ、一行一行の藤村の表現が、生彩と実感に満たされ、おもしろい。ずいぶん渋々出掛けたのに、大きなお土産を貰っていたと気が付き、今更に感謝している。
そして「日本の歴史」は、いよいよ「戦国大名」たちの時代に流れ込む。
この四つの読書を軸にして、わたしの読書は「ペン電子文藝館」のおかげでますます多彩になっている。さしあたり昨日の委員会で預かってきた桐生悠々、夢野久作の候補作品に目を通さねばならぬ。
一樹また一樹の植林。わたしを今いちばん喜ばせるのは、それだ。
2003 9・20 24

* 立原正秋畢生の代表作といえる『冬のかたみに』から、先ず第一章「幼年時代」を入稿した。創作であり精神の自伝(に準じたもの)ともいえる、生まれずに置かなかった立原渾身の秀作である。ことに第一章がそうであろうと感じている。ご遺族のご厚意で「ペン電子文藝館」に収録できるのは、感謝かぎりない。
わたしは、立原さんの厖大な作品群にこの一作が入っていなければ、『日本の庭』のような精神の美学的な述作以外にそう心を奪われる作品をもっていないかも知れぬ。ごく初期の「海」「海へ」などが好きであったが、芥川賞候補であった「薪能」「剣ケ崎」などですら、どこかに濁りが感じられ、愛読はしなかった。『日本の庭』はよろこんで書評したし立原さんも喜んで下さったようだが、書きたくないと、書評を断った短編集もある。そういう失礼も立原さんはよく許してくださった。そして「小説を書きなさい」と叱咤激励して下さった。谷崎論『神と玩具との間』がよかったと、大和路の旅先からわざわざ言ってきて下さったこともある。
なにしろ立原正秋さんが「畜生塚」を褒めてましたよと聞いたのが、最初の遠い触れあいで、直接は、「墨牡丹」だった、氏は村上華岳の絵が好きだった。華岳を書いたことで、わたしは立原さんと、福田恆存先生という二人の大きな知己を得たのだった。
立原さんの著書は以来ずうっと頂戴していたが、そんな中には先に謂う書評を断ったりしたのも有ったけれど、『冬のかたみに』に、その前の『幼年時代』に出逢えたのは幸せであった。なによりそれは文学魂の硬質な結晶であった。とくに「幼年時代」は、凛々として、しかも立原さんらしい身振りの大きさが美しく似合っていたと思う。四季自然や環境の表現の具象的に明晰な把握。感心して読んだが、一字一句をまた校正して読んで歎美の念を惜しまなかった。
2003 9・22 24

* 井上靖八代会長の第二作に、小説「猟銃」とも思ったが、何処ででも手に入る。第一詩集「北国」とそのあとがき、に、好きな拾遺詩編から二つほどを選んでみようと思っている。
桐生悠々の言説は、正直のところどれほど現代を刺激するか、歴史的な遺品的発言に終わっているようで、評価が難しい。思ったより文章に魅力うすく、硬い。どう選ぼうか、迷っている。
夢野久作の小説二編とも、凝っているが才気の産物を出ていない。江戸川乱歩のほんわかとした品のいい文体と構想にくらべ、才気そのものがすこしトゲトゲしい。これはもう選んである。
2003 9・22 24

* 妻の手元から鏡花の戯曲が校正途中で戻ってきた。いや、スキャンの成績が悪すぎて、全面新たに書き起こしているに等しい。書き直すなら書き直す気でスキャンの結果を諦めて棄ててしまった方が早そうな按配だが。
それでも、原作の面白さには引き込まれてしまう。
わだつみのいろこの宮に颯爽たる公子がいて、陸の美女を見初めている。女の父親は海の宝を身の代に寄越すなら娘を海に沈めようと欲望し、海底の公子は難なく応ずる。夥しい漁獲や宝玉、珊瑚の類が、津浪のように陸に打ち上げられるが、海の世界からは「しずく」ほどのもの。彼等からすれば、糸一筋の針さきに「釣」ということをしたり、海月の傘ほどな「網打ち」している人間達のけちくささは、問題外なのだ。

* この前、中西進氏の「海の彼方」を語る論説を読んでいて、海の國の時間が陸のそれの三百分の一のちいささと説かれていたのに対し、わたしは、妻もそうであったが、海の時間は陸の三百倍と読みたいものと、そんなことを「私語」したのもこの辺にかかわった感想であった。これは、また考えることがあるだろう。

* で、娘の父は、美しい娘を財宝の身の代・人身御供に、海に沈めたのである。今日はその人間の娘である美しい花嫁が、いよいよ海宮に到着する日だ、公子も侍女達も海の僧都も待ちかねている。花嫁の行列は厳めしくもはなやかに、いましも波をわけ海つ道(じ)をわけて近づいてくる。
鏡花は「海」の、「水」の作家である。そのことが鏡花論者たちにまだまだ徹底していない。その意味では鏡花の戯曲、「天守物語」でも「夜叉が池」でもその他でもじつに多くを示唆しているが、ことにこの「海神別荘」に盛り込まれた鏡花の思想は注目に値し、また面白い傑作なのである。
2003 9。24 24

* 或る時代小説を読んだ、が、中に、平気で「ライバル」だの「サロン」だの何だのと英語をつかって叙事されているのに、驚き呆れた。あまりに無雑作過ぎないかと思う。
「群像」の名編集長であった大久保房男氏がかつて歴史小説を全否定されていが、それが「時代小説=よみもの」の意味でなら、わたしも全面的に賛成である。全部とは言わない、歴史文学としては鴎外や露伴の例もある。わたしにも「加賀少納言」や「親指のマリア」があり、大いに書き手に依るけれども、おおかた、時代小説となると九割九分があまり安直でひどすぎる。テレビドラマの「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「必殺仕置き人」といったものと変わらない、やっつけ仕事があまりに多すぎる。
2003 9・24 24

* 夢野久作の「悪魔祈祷書」を入稿。面白く引っ張って行くのだが、結び方は今ひとつ締まりなく、切れ味に乏しい。物足りない。が、これまた江戸川乱歩が惹かれたという谷崎作の推理探偵もの「途上」の手法にちかく、なにとなく珍しいタチの小説ではあり、植林したい一つの樹相をしている。濃厚な味わいからすると乱歩の「押絵と旅する男」の方がずっと佳い。ま、久作もわるくない。
しかし、同じ珍しい世界へ踏み込むとなれば、鏡花の世界はケタちがいに奥深く想像力は天才の名にいかにもふさわしい。戯曲「海神別荘」のスキャンからの起稿、だが、容易なことでない。
2003 9・27 24

* 大河ドラマ「武蔵」の一の山場である巌流島での決闘を、ビデオで見た。ま、あんなところであろう。日生劇場の「海神別荘」で海の公子を玉三郎の美女とともに颯爽と演じた市川新之助が、いつ知れずそこそこ佳い武蔵に成人していた。勝負が呆気ないのは仕方がない、その前後は一応の緊迫を演出し得ていたのではないか。
この決闘はやや時代がおくれて江戸時代に入っていたが、わたしの「日本の歴史」は、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、そして戦国大名へのし上がっていった先代伊達政宗より以前の五代などを読み進んできて、予備知識あり、俄然読んで面白いところへ雪崩を打っている。やがて織田、松平(徳川)の登場になる。
第百代天皇が南朝の後小松天皇なのは知られていて、足利義満の頃にあたる。後小松帝は一休の父かともいわれている。後小松のあと、後土御門、後花園、後奈良、後柏原、正親町、後陽成、後水尾ときて、室町時代の中世はいつか近世に入る。
室町の前半は守護大名の時代で、応仁文明の乱のあと、太田道灌を皮切りに北条早雲の登場から世は戦国大名の時代に移動する。天下布武の織田、天下統一の豊臣秀吉も潰え死に、関ヶ原合戦の頃にやっと野心を鎮めた宮本武蔵の画業が世にのこり、稀有の著述の『五輪書』が書かれる。
2003 9・27 24

* 思いがけずこの十日ほど、「古典」なるものの、おさらえ勉強をしている。「古典」というと辟易する人は多いが、古事記から蕪村や秋成まで、優に明治以降の近代現代文学に匹敵していて、古典を見失うということは、日本文学史の半ばないしそれ以上を、はなから欠していることになる。
なるほど、言葉も文法もかなづかいも異なっていて、容易でないといえば言える、が、じつは、そんなではないのである。そして一度馴染んでくると魅力横溢、読書のよろこびが何倍にも増してくる。
外国語ではない、同じ日本語であり、その時代時代の息吹は、いまも自分の口にし書いていることばや、また生活習慣や嘱目のうちに生きていて、そう縁遠いことばかりではない。
和歌や俳句の現代語訳なんてまがいものに頼ってはいけないが、散文は、もし優れた現代語訳があると分かれば、そこから入って良いのである。わたしのことをいえば、百人一首の現代語訳などという愚なものとは付き合わなかったが、源氏物語は、与謝野晶子の優れた意訳から入って、谷崎源氏も愛して、本当によかったと思う。
いま崇徳院の話題があった。院の、あの、落語にもなっている「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はんとぞおもふ」など、どんなに現代語を駆使して訳しても、和歌に隠され畳み込まれた妙味はついにとらえきれはない。その歌の「うた」たる調べに惹き込まれ、好きになるかどうかから、コトは、すべて始まるのである。そして舌頭に千転万遍、意義をこえた妙味に惚れ込めば、知識は、必ずアトから来て、尻を背を優しく押してくれる。
2003 9・28 24

* 同僚委員の京都仏教大の三谷憲正教授から『オンドルと畳の國』という良い著作を頂戴した。いうまでもない韓国と日本。比較文化学的にも「試論」が何章も展開されながら、その基調に、三谷さんの生活実感豊かな体験が生きている。それが強みになり、しかも偏していない。面白い。中の一章が「ペン電子文藝館」に戴けるといいなと、お願いしているが、志賀直哉論を用意して頂いてもいるらしく、どっちでもいい楽しみである。

* 猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』がまた視野の展開に、意表をつく仕掛けがしてあり、一つ一つに驚かされる。
たとえば、皇室専用駅としての原宿駅のことは、ま、知っているけれど、お召し列車がどういう微妙精妙なダイヤ処理により、厳しい制約にもしたがって走るのか、その裏作業などを辛辣に問いつめて行くことで、「みかど」の問題に迫るなど、すこぶる興味深い。敬服に値いする勉強家。独特の説得力に、性格的なある種圧力を加えて、ド機関車のように勢い猛に論述して行くところが、いい。面白い。
2003 9・29 24

* 米原万里さんが「青春短歌大学」下巻に、手紙を。長編小説を何十冊も読んだほど快いエネルギーをつかったと。働き盛りに忙しい人の時間を奪ったかと、お気の毒、かつ感謝。
もう久しい昔、モスクワの、トルストイ伯旧邸でもあるソ連作家同盟の食堂で初対面の頃と、この人、変わりなく健康で元気な美女である。はちきれている。最近大宅壮一賞をもらったという、その本と、もう一冊を贈ってもらった。

* 同じ大宅賞を昔々にとった猪瀬直樹の「ミカドの肖像」が、面白い。その著者が主宰の委員会に久しぶりに出て、今日の会議は賑やかであった。
2003 9・30 24

* それでもうまく六時で会が果てた。日比谷のクラブへ久しぶりに直行した。どうしても、藝術至上主義文藝学会での講演録ゲラを読み通し、早く返送したかった。とはいえ、百分近く話した講演録は、原稿用紙にすれば少なくも六十枚あまりある。纏まった時間に一気に通読するには、テーブルのある静かな場所が欲しく、食べ物より酒のうまいのと、「美しい人」もその辺にちらちらしている方が、気が落ち着く。
が、帝国ホテルのクラブは、残念ながらやや部屋の照明が暗い。小さい字のゲラには厳しい。だが何とも云えず今夜はうまい洋酒がほしかった。エスカルゴと角切りのステーキ。インペリアルと山崎。静かだった。猫を十一匹も飼っているというあどけないほど可愛らしい人が、終始親切に世話をしてくれた。週日の此処でのアルバイトが、今夜で最期とか。
ウイスキーがストレートにうまかった。わたしは洋酒はオンザロックにもしない、必ず生のママのダヴルで飲む。バアで注文するダブルはけちくさくてイヤだ。それで自分のボトルからゆったり注いでもらう。ずいぶん丁寧に「校正」できたと思う。が、読んでいるとこの講演、思い切った本音で喋っている。読む人によっては怒りそうだなと笑いをかみ殺しながら、むろん、そのまま改めない。本音を見失ったらおしまいだ。
「なだ万」の稲庭うどんをとりよせ、腹をこしらえた。そして、コーヒー。立ち寄った甲斐があった。支配人が話しに来て、今日は上半期の最期の晩ですなどと云う。九月三十日。では協力するかと笑って、ウイスキーの二瓶ともだいぶ減っているので、レミー・マルタンを追加し、次に来るときの楽しみに、口を開けずにきた。今度、わたしと此処へ付き合う人は、コニャックが有ります。
帰りの電車の、丸の内線では三谷さんの「オンドルと畳の國」を読み、立ちっぱなしの西武線では「戦国時代」の領国支配の詳細を、おもしろく読み継いできた。冷えてきた、寒い、というほどの声を、ちらほら車内や駅で耳にしたが、それが奇妙に聞こえるほどわたしはうまい酒の元気で、家に着くまでジャケットも着ず、下は半袖シャツだった。ほかほかしていた。なにか鳥のようなものが、遠くから舞い戻ってきた感じ。
2003 9・20 24

* 「街の使い捨て」というメール批評がおもしろかった。厳しい批評である。
人間は莫大な無駄を重ねながら文明らしきものを古びさせつづけてきた。街の使い捨ては、ハコものの立ち枯れ以上に物騒な要素も持っている、が、またその御陰でその街が静かに定着するのだという視野もあろうか。
さて原宿がいま落ち着いているか、エビガデこと恵比寿のビヤガーデン辺りも落ち着いているか、実地検分に行きたいほどではないが。おおがかりな「使い捨て」で以て経済というモノ、景気というモノを起こしたり支えたりしなければならない人為のしまりのなさ、恥ずかしさ、ということをわたしはふと身に痛いほど感じる。

* いま三谷憲正さんの『オンドルと畳の國』が面白い。韓国朝鮮のことを考えていて、根の問題としていつも違和感を覚える第一は、向こうの知識人達の発言だ。強硬に硬直している例にむやみと遭遇する。三谷さんも触れているが、金芝河という日本でも一時むちゃくちゃに持ち上げられた詩人の日本國の理解など、発言など、ただただ首を傾げさせるトンチキなところが、あるいは視野狭窄と思考の固着が著しい。何十年たっても一つ覚えのような「日帝」極悪だけでは、日本の私民は顰蹙する。かすった程度の批評としては当たってもいようが、かすりもしないで見えていない広大なところへは、およそ何の理解も及んでいない。不勉強なものだ。
一時、日本文化の何もかもを、すべて「朝鮮」由来ときめつけたアチラからの議論が大流行し、珍妙で強引な解釈が、とんでもなくトクトクと開陳された。興味深い指摘も中にはあって教わったが、『冬祭り』の作者としては頷けない議論が多過ぎた。
シベリアやオホーツクからの、またダッタンからの北要素が、雨に降られたように日本列島に広く認められる。また稲や蛇の文化を抱いてきた南島づたいの民俗がいかに豊かに日本列島を北上してきたかは計り知れない。渤海や南海経由の中国の文物や言葉も、直に日本を感化し、痕跡も展開もを今に残している。
いったい朝鮮半島の知識人達は何が本当は言いたいのかと戸惑い、やはりそこに「政治」が顔を出す。過去の政治的関係が顔を出す。当然であるが、そこで急激に知識が感情的に揺れ動いて、スローガン化してくる。金芝河氏の言葉はたんに糾弾のための糾弾と化してくる。三谷さんも書いているが、認識自体が固着して、機械的にある一点に縛られた言葉の連発になり、アホの一つ覚えをゼンマイ仕立てのように繰り返してくる。自国の人を煽る効果はあれども、たとえば普通に生きている日本の私民知性にうったえる中身は干からびきっている。

* 藤村の「夜明け前」は文学的に静かに精錬された言葉で、落ち着いて、身の回りと日本とをたいせつに語りつづけている。大人の文学である。韓国や北朝鮮にも、そういう文体の魅力とともに、スローガンに走らない静かなリアリズムの文学があるのだろうと思う、そういうものが佳い感じにもっともっとこっちへ伝わってきて欲しい。
2003 10・3 25

* とうとう柏木衛門督藤原氏が、源氏の正妻女三宮を犯してしまった。六条院中の憂慮が、すべて、二条院に移って重い病を堪えている紫上にかけられ、夫の光源氏=六条院も理想の妻紫上にひたすら寄り添っている、その留守の間のあやうい密通であった。「若菜」下の帖の、それは源氏物語全体の、暗い深い悲劇の絶頂を成している。
去年の初秋であったろうか、源氏物語をすべて毎日音読して読み遂げようと読み始めたのは。翌年の春の花頃には夢の浮橋を渡れるかなどと甘い予想であった。まだ三分の二には間がある。

* 同じ音読もう十年余のバグワンは、今また「般若心経」を読み進んでいる。ゆうべは「知識」への本源的な批評を読んでいた。なにの花ともしらず眺めた花の美しさ、その瞬間には花と人との深い融和と一体感とがある、が、一度びその花がバラである、ナニであると知ったとき、人と花とに「距離」が生じる。この「距離」という精妙に微妙で正確な指摘をわたしは直感的に全面的に受け容れる。そのようにして我々は余儀なく大事な幸せを手放さざるを得ず生きてきたと思う。知識は、まず何より知っているモノゴトと知らずにいるモノゴトとに、分離や分割を強いる。つまり「分別」という一つの距離がいやおうなく現れる。心は、マインドとは、「分別心」そのものであり、これを高く旗印に掲げるが、人の不幸はこの旗印のもつ詐術に気付かず、大事なモノゴトを実は捨て去ったことに気付かずに、もっと大事なモノゴトを手に入れた、獲得したかのように錯覚し評価する。だが、それは底知れぬ「もっと、もっと」という蟻地獄に身を投じて、しかも本質的な関心にはほとんど何の役にも立たない・立たなかったことに、死の間際になるまで気付かないのである。
分別をのみコトとする知識=論理では、人は決して静かな無心には至れない。知識を棄てる非論理や無分別の底のトータルな静謐が大切なのだと思う、わたしも、バグワンとともに。譬えての分母はそれであり、それゆえに分子は自在に多彩に活躍してゆける。分子とは、政治への関心であれ、湖の本や電子文藝館であれ、無数の人間関係であれ、それは夢であり絵空事であり虚仮である。分かっている。分かっているから活躍すればいい。分かっているから楽しめばいい。しかし大切なのは分別や知識ではない、それらが引き裂いてきた夥しい亀裂や分裂のみせている深淵の凄さを、一気に棄て去れることである。人は嘗てに「真っ黒いピン」を我から無数に身に刺し、その痛みに耐えかねて奔走している。ピンはもともと刺されては居なかった。刺したのは自分である、それも分別や知識や打算で。
ピンは抜き去ることが出来る。だが難しい。わたしのこういう言辞もまだ分別くさいと我ながら思う。
2003 10・5 25

* 同僚委員三谷憲正氏の直哉「城の崎にて」試論を深夜に読んだ。
志賀直哉は、或る年、いいわば交通事故に遭い生死も危ぶまれた。その恢復と静養とのために城の崎温泉にでかけた。作品によれば静寂孤独の湯の宿住まいである。事実は友人達もともにほとんど連夜遊びほうけて、どこが療養の人かといぶかしむほどであった。
名作とうたわれ事実素晴らしい作品であり表現である「城の崎にて」は、作者が創作余談にいうがままの「事実そのまま」どころか、巧緻に、神妙至極に組み立てた創作そのものであった。三谷さんは入れた力こぶも見えるほどそのことを書き込みながら、深層を模索している。
この筆者、書く論文のことごとくを(と云いたいほど)一編一編「試論」と題する、慎重で神経の張った人である。あまりどれもこれも「試論」なので、読む側はもう殆どこの二字を「三谷好み」と受け容れて気にしない程になっている。無くて七癖の一つかと。

* 日本史はいま、毛利元就の戦国大名として伸び上がり伸び切ってゆくサマを、仙台伊達などとも共通する貫高制などもともに、読み進んでいる。
思えば律令制の昔から、貴族の荘園支配を経て武家の守護・地頭乱入があり、さらに守護大名の下剋上また上剋下の死闘があり、応仁の乱を経過後の戦国大名による領国ないし家臣支配が続いている。死力と秘策は、つまりは、めんめんと上下・主従の格闘であり葛藤であった。根底は「土地」の支配であった。狭い国土。国土が遙かに遙かに広大であったらまた別様の歴史が営まれたか、それは分からない。いま我が家のこの狭くて窮屈を思うと、やはり同じ因果律は働いているなあと歎息される。

*「若菜」下の巻の紫上には、あの六条御息所の死霊がしゅうねく憑いて、瀕死の境にまで追いつめていた。源氏は青くなって紫上の間近を離れない、その隙に、藤原氏の柏木は源氏正妻の女三宮に迫って強引に情交し、妊娠させてしまう。そのうえに節度をわすれたあらわな文をやり、若気の至りの女三宮は不注意に夫たる光源氏にそれを読まれてしまう。その決定的な場面を、夜前、わたしは音読した。栄華の六条院は暗雲につつまれはじめる。紫式部の構想力と麗筆とにほとほと感嘆する、それも、初めて読んだかのような新鮮な魅力と衝撃の強さとに。
それにしても源氏物語の虚構というか、徹した一つの姿勢……にも、やはり時々は改めて驚いたり注視したりする必要があろう。この物語に書かれている時期、平安京の日々は、放火人災と疫病死骸と偸盗放埒とにそれはどぎつく彩られていた、それが事実の現実社会であった。しかも源氏物語は、一度の火災も一つの街上や河原の死骸も、一度の強盗の働きも書こうとはしない。病死は書いている。物の怪も書いている。不思議も書かなかったわけではない、が、あらわな暴力的な人災のすべてを拭い去るように書いていない。これは、知っていてわるくない作者の巧緻、または狡知ですらある。
2003 10・10 25

* 泉鏡花の「海神別荘」を点検し校正しているか、これはもう文句なく、読んでゆく作業それ自体が楽しい。この途方もない作品に鏡花が込めている意気地と批評とは凄いものである。陸地に「人間」と称して棲む存在への痛切な厭悪が感じられる。
中西進氏のいわれるように、海は陸の三百分の一の短い時間を持っているのではない。海の世界は陸の時間の三百倍どころでない広大無辺の時空間を湛えているというのが、鏡花の「海」の理解である。此処に登場する「公子」こそが鏡花の幻想する理想の己であるのだ。そういう鏡花が、わたしは好きなのである。
2003 10・17 25

* 源氏物語の音読は、いよいよ「若菜」上下の大峰を越えて「柏木」の巻へ入った。このあたり、ひとうねりが波長長くて、全集本で一度に数頁読まねば次へ橋が架からない。読むのは楽しいが、物語は苦痛な悲痛な坂を転げ落ちてゆくと見えているので、つらい。読み堪えるだろうかと心配する。その辺は小刻みに少しずつ読んで、つれなく乗り切ってゆこうと思う。
妻が、もぎとるように持っていって、米原万里の大宅賞作品に読みふけっている。なんだか、いたく感じ入っているのは、その世界が珍しいらしい。ずぶりとかつての共産党ソ連時代にはまりこんだノンフィクション系の作品らしい。持ち歩きに適した本の重さなので、まわってくるのを待っている。
藤村の「夜明け前」は静かに前進している。少しも急がず、二三頁ずつ欠かさず寝る前に読んでいる。そのペースがいい。作中の空気に包まれてしまって、その場面場面に自身も加わっているような心地で読める。これは少なくも馬籠の現地を踏んできた大なる功徳。そろそろ青山半蔵(藤村の父当たる人物)の平田国学が、周囲との摩擦を見せ始めてきた。わたしは此の作品を初めて読んで、これは神と仏との死闘が一つの主題だと感じたものだ。その感じを一応は忘れて読んでいるつもりだが。藤村という大作家必然の道を、たんたんと誘われ行く思いがする。

* 日本史は、ついに織田や松平が表へ出てきた。「近世」がもう顔を見せようとしている。「中世」はむずかしい時代であった。

* ひと頃のわが現代日本は、さかんに「中世」を語って倦まず、その頃は、まだしも民衆のエネルギーが炎をあげていた。国会議事堂を揺るがすことも出来た。いま、中世のエネルギーを口にするような知識人は、一人も見られなくなった、そのことに誰が気付いているだろう。中世精神に殉じ得たような知識人は、払底した。
今、象徴的に世の中で、名と顔との現れているのは、間違いなく対立する猪瀬直樹と藤井治芳であるが、藤井が保守で猪瀬が革新などとは、とても言えない。藤井のことは言語道断でお話にもならないが、道路民営化にしても郵政民営化にしても、本質はただの「手直し」であり、その根底が、いずれにしても甚だ保守的な、いわば「近世支配」的なものであることは、火を見るより明白である。民営などという美しい言葉が瞞着の意図を秘めていて、個人情報を保護するといって侵害管理し、人権擁護といって守られるのは悪い政治家や官僚であったりするのと同じく、つまり発想の根が、幸福と平安を願う民衆のエネルギーにまっすぐ結ばれてはいないのである。最後は政・官の気儘な肥大尊大へ行こうとしている。
あの猪瀬直樹といえども、なんら革新派ではない。優れて能力に富んだ批評家ではあるが。田原総一朗にしても筑紫哲也にしても猪瀬と同じであり、彼等もまた問題点という「餅タネ」を、マスコミの杵であっちへ搗きこっちへ搗き返ししているだけの「手直し=日和見」論者を一歩も出ない。それで飯を食っているのだから、当然だ。飯のタネが搗き=尽き果ててしまえば、喰いはぐれるだろう。
それどころか、彼等こそ、現代日本の「中世」感覚や意欲を「目の敵」にして押し殺した、いわば官・公寄り下手人達である。
中世は今の日本では死んでいる。そのシンボルが、学生の無気力に見られる。今の日本の学生は、國の運命に身を挺して闘う民主主義のエネルギーをもたない、今は、だれも。大きなものに巻かれ飼われようと、そのための勉強をしている。そういう國は、ふつう、潰れてゆくのである。
なんのことはない、今の日本は、明治初年の富国強兵をしっかり引きずって、とち狂っていると見える。見えないのは、政治家も知識人も、われわれ民衆も、強度の欺瞞的白内障患者であるか、そのフリを演じているからだ。
2003 10・19 25

* 日本史は、第十二巻「天下一統」のところへ入った。まだ全巻の半ばに達していない。それでもぎっしり既に六千頁ほども読んできた。この巻は、織豊政権そして徳川幕府成立までであろうか、世に安土桃山時代といわれた、私の理解によれば「黄金の暗転期」である。中世は近世の前に屈服を強いられる。
2003 10・21 25

* その前に、林屋辰三郎さん担当執筆「天下一統」の巻頭を読んでいた。
日本人の過去の歴史観が、著しく下降先途感を基底にしていたこと、島国での鎖国的情況、仏教の末法観、天皇制という三つに緊縛されて、日本人は、上昇して行く明日の歴史を期待しにくかった、と。
それを突き破り得そうであったのが、戦国時代の末からはっきり意識されてきた「天下」という認識だった、と。
天下という広さで島国の枠は突破されそうであった。天下という深さで仏教的なまた神や儒教も覆い取れそうになった。天下は天皇よりも強力な「天下人」の可能を導いた。織・豊そして徳川家康は「天下」にしたがい時代を動かし革新した。だが、それも寛永の鎖国でまったく頓挫した、というのが林屋教授の論調であり、概説としてたいへん興味深く説得された。
そして種子島銃の渡来とキリシタンの世界観の渡来。
まずは鉄砲に新旧の二種類が日本に、早く、また後れて入ってきたという。たんに「鉄砲」ということばなら元寇の頃に既に、そして不十分な鉄砲というより火砲なら、中国から早めに日本に入って堺で製作されてもいたし、武田や後北条は手に入れ用いもしていた。だが種子島銃ははるかに強力で正確に機能した。武田や北条は、なまじ旧式砲に油断して、織田や松平の新式銃に敗北したとも言えると。これも興味深い解説であった。
2003 10・22 25

* 鏡花の戯曲は総ルビ。これを分厚い単行本から強引にスキャンしたため、惨憺たるものであった。妻が殆ど頭から書き直してくれ、ルビは必要と思うもののみ漢字の後ろにカッコに入れた。それが電子文藝館の約束なので。
しかし科白の読みは絶対で、私が「わたし」か「わたくし」でも無視するわけにいかないから、やはり全面にちかくよみがなが入った。それを、わたしは原本片手に通読して、さらに加えていったが、さすがは鏡花ということか、再現不能の漢字がずいぶん出た上に、校正室へだしてみると適宜にふっていったよみがなの仮名遣いがずいぶん間違っていた。和泉委員に厳密に詳細に訂正してもらい、大助かりした。感謝、感謝。
和泉さんも日生劇場の上演を観たという。読みながら、玉三郎や新之助の声が耳にしばしば蘇り、わたしは楽しかった。三好屋の上村吉弥が佳い役で出ていたなと思い出す。あの舞台には興奮した。今まで観た芝居の中で一番と思った。もっとも、これは、佳いモノに出会うといつもそう思うのだけれど。

* わたしは鏡花の根底には、海=水(の民)への親和が、また神話的な信仰ほどのものが働いていると、昔から考えてきた。そのシンボルとして鏡花は、処女作「蛇くひ」の昔から龍・蛇シンボルを無数に使っているし、生身のモノをも実に烈しく効果的に使った作品が多い。
鏡花には藝道ものがほかに有るという考えもあろうけれど、日本の伝統藝能の根底にもまったくおなじ淵源のひそんでいることは、したがってそれへの懼れの反転として、例えば観世・金春・宝生・金剛・喜多などの祝言藝にも、ふさわしい目出度い名乗りが出てくる。役人=役者は、背後に死ないし死者・死屍をいつも控えていたのである、その鎮魂慰霊こそが、藝能=遊びであった。祝言=寿ぎはその半面の必要であり、彼等のいわば義務であった。死の世界ないし準じた暗闇の世界に蟠るモノとして、人は、海底や水底からくる蛇を、龍を、おそれた。
「海神別荘」で、多大に恵まれた海の財宝の身の代として、強欲な父親により海に沈められた花嫁の娘は、おそろしい海の底にまばゆい理想の宮殿や颯爽として秀麗な公子が夫として待っていたのに驚き、この身の栄耀を一目陸の縁者達に見せてやりたい、自分は死んでいない、こんなに晴れやかに生きて幸せだと報せてやりたい誇りたいと、公子に懇願する。公子は制止するが、聞かない娘は、既に得ている海の國の神通力により故郷へもどる。だが、親も親族も近隣の者達も、津浪をともなうおそろしい蛇体の出現に身の毛をよだててただ逃げまどうのである。
鏡花藝道ものの名作として知られる「歌行燈」は、まさしく能・謡曲・仕舞につよく触れているが、じつはそこで大事に大事に取り上げられている謡曲は、「海士」であるという事実を忘れるわけにいかない。これは海女が地上の愛ゆえに龍宮の龍の珠を奪いに行く必死の能。しかもそれを作中で凛然と舞う娘は、海女女郎の境涯に貶められていた女であり、主人公の落ちぶれ能楽師との「海士」の舞いを介しての出会いにより、清まはり、救い取られて行く。「歌行燈」また海と藝との両面から根源の海の倫理に渾然と帰して行くような物語として構成されている、実に緻密に。

* 在来の鏡花論は観念的な美学にひきずられた高踏な解説が多くて、ほとんどがそうであったが、「鏡花の蛇」というなまなましい観点を初めてわたしがもちこんだ時は、まじめに聞いてくれる人も少なかった。だが、金澤へのりこんで、文学館主催の講演で克明に語り、また「日本の美学」に論考を提示して、また鏡花学者にも応じて展開してくれる人達も現れるようになって、海=水=蛇の世界の鏡花文学という骨子は、藝道ものでも職人ものでも花柳界ものでも怪談でも民俗ものでも、もう動かぬ指標となっているのではないか。この基底を無視して、論じ得られるような作品はめったに無いであろう、それこそ「外科室」とか「夜行巡査」とか、日清戦争前後の風俗に根ざした深刻小説などを除いては。

* 戯曲は、鏡花藝術のかがやく華であるが、「天守物語」「夜叉が池」をはじめ多くが、殆どがいわば「水」ものである。「日本橋」「婦系図」「恋女房」などでも、やはり水商売といわれる花柳界をへてはるかな海底への縁をもの凄く引いている。「海神別荘」はいわばそれらのアレゴリックな「根」を示しているので選んだのである。
2003 10・23 25

* 織田信長のめざましい台頭、徳川家康の辛抱強い奔走、木下藤吉郎知略の活躍とくると、やはり「日本の歴史」は活気づくからコワい。小猿の日吉丸。秀吉の出自と伝説にはだいたいぴたりと比叡山の山王信仰がくっついているのはよく知られていて、林屋教授も触れて居られる。
そのわりに、彼が侍分の娘を妻にして侍分になり藤吉郎秀吉と名乗った際の、「木下」という姓の由来に触れた説明を、わたしはこれまで知らない。これは、山王神主の家が、代々「樹下(じゅげ)」と名乗った家であったことが意識されているのではないか。この前の『猿の遠景』で言及しておいたが、私の説でいいのか、既に言われていることかちょっと気に掛けている。

* 源氏物語の音読は、「柏木」の巻。柏木ははかなく死にゆき、女三宮は突如落飾、それも六条御息所のじつは死霊のなせるワザであった。二人の心の闇に生まれ落ちた薫が、可愛いあまりに光源氏六条院の涙も誘う。夕霧は親友の寂しい死に疑問を抱いている。そんなあたりを読み進んでいる。

* 藤村の「夜明け前」は、こんなに落ち着いた素晴らしい作品であったかと、ただただ舌をまきながら、ゆっくりゆっくり味わうように楽しんでいる。これは異数の大文学である。
2003 10・26 25

*「夜明け前」の、というより主人公青山半蔵の精神的背景が「平田篤胤の国学」であることはよく知られているが、平田の師本居宣長の評価が高いのにくらべると、篤胤の評判は在来、概してむしろ悪い。大山師のように云う人もいたほどだ。しかし、実際は誰も平田の書いた何一つ読んだことも観たこともなく、ただもう風聞風説に従ってきたに過ぎないので、そのような「風説」の根拠には、やはり幕末から維新への廃仏毀釈という運動などが、尊皇攘夷への直情径行的な運動の背後に位置していたことも挙げられるだろう。
わたしは正直なところそういう風聞は耳にしてきたが、事実は何も知らない。知っているとすれば、やはり島崎藤村の父に当たる作中の「青山半蔵」があれほど心酔し尊敬していたということ、その結果というのではないが半蔵はついに発狂し屋敷牢に終生軟禁されたといったことを知っているに過ぎない。
いま「夜明け前」を約四分の一読み進んできて、ついに、書架から平田篤胤の代表作『古史徴開題記』を探し出してきた。いつか読まねばならないだろうと、古い古い岩波文庫のかなり傷んだ古本を買って置いたのである。山田孝雄校訂本である。
山田博士の本でわたしは岩波文庫等の『平家物語』に親炙した。新しい出逢いになるかどうか。明治以来戦前の影響が山田博士にもいくらかあるにはあるが、平田篤胤にはそれが濃くて、例えば日本の神と皇統への深い信仰がある。それが平田学の科学的な骨格を疑わせてしまっていた。学問でなく信仰であり、極端に右傾していると、殊にこの敗戦後は、敗戦後でなくて明治大正昭和の学界ですらも、殆ど毛嫌いされた。無視するにしかずと。
だが山田博士は、時世の進展による余儀ない「訂正」を受けねばならないのは至当としても、篤胤の学問の周到にして堅固なことを、多くの他の学者達の研究と比較して、高く再評価し、不当な無視や軽視がいかに科学者の姿勢に背いているかを、深切に解説されている。わたしは、その解説に基本的に歪みは無いと読んでいる。

* どんな人にも叩けばホコリは舞い立つ。純粋無垢にいい人もわるい人もいるわけがない。両極に対立する物を置いてしかものの考えられないのは、「心=マインド=分別」に拘泥し膠着している人の誤りである。あるがままを対立項によりかからずに受け容れて眺めるなら、しだいによく見えてくるものがあり、片寄り無くそのものだけが見えてくる。
2003 11・3 26

* これが文字どおりの「生・活」というものなら、ずいぶんそれから「遠く離れて」わたしは生きている。そんな気持になる。わたしを捉えているのは、現にいま目の前に「ない」ことが多い。
例えば――織田信長天下布武の生涯が、夜前、本能寺で果てた。読み継いできた「日本の歴史」が、そこまで来た。克明に叙された彼の天下一統の戦歴、秀吉や光秀や勝家らをまさに駆使したその多くの戦歴は、なにかしらみな頭に残っていて往時遊歴の地を再訪するようであった。わずか二百足らずの本能寺を一万数千の兵と鉄砲とで取り巻かれた最期は、信長の言葉通りに「是非なき」ことであった。最期に彼信長は身を清め、身を拭うているところを兵に襲われ、傷つきながら奧に入って割腹したと伝えられている。
「ペン電子文藝館」では、明治期の時代小説で白眉といわれた石橋忍月「惟任日向守」や会員武田清の「武田終焉」をわたしは読んでいる。信長最期への必然を描いた作であったが、安国寺恵瓊の予言もしたたかに確かに在った。信長は、大彗星の光芒のように疾走して果てたが、武将というよりも政治家としての魅力は、秀吉や家康も、掴み込まれて到底離れ得なかったほど、大きかった。その感慨をまた深く持ってから、昨夜も三時半をまわって、やすんだ。
その前には、「夜明け前」を読んだ。二度目の江戸の地を踏んだ半蔵らの眼に映じた、江戸のさびれ、が印象的であった。一橋慶喜のつよい主唱により廃止した大名の参勤交替制は、滅びの前に鼠たちの逃げ出すように、長く人質同然に留め置かれた大名家の妻子や女達の帰国帰郷のラッシュとなり、各街道の宿村に一時の激動をあたえるとともに、また貧窮と出費の種もまいた。「江戸」から「京都」へと時代の軸芯が大きく移り動いていた。それもまた、印象深い史実であり、藤村のような筆の大家がそれをみごとに叙するさまは、歴史学者の歴史記述とは幾味もことなる感銘である。
そして亡き「柏木」衛門督の友たりし大将夕霧は、夫柏木に死なれた妻「落葉宮」を見舞いつつ、徐々に心惹かれて、とめどなくなっている。父六条院はさりげなく諭すが、息子は人のことだと賢しくおっしゃると頬笑んでいる。

* 昔は、夢中になって読書から「知識」を得ようとしたが、「知識」を、いまわたしは少しも欲していない。浅い知識をいくら広く得てみても、それは多く深くのものを見忘れさせ見落とさせ、人間を薄く偏ったものにするしか役に立たない「毒素」のようなものと実感してきた。知識は鏡を曇らせる、霞に、雲に、黒雲に、邪魔者に過ぎない。それあるがゆえに、かえって大切なものを見落としてしまう。たいせつなもの。それは、見えていない真実、静かさ、無心であろうか。さかしらは言わない、ただもう知識のためには読書していない。感じ、眺めているだけだ。それが楽しい内は読みやめないでいるだろうが、そんな必要も失せればわたしは書物を顧みないだろう。早くそうなりたいとまでも今は思っていないけれど。
2003 11・4 26

* 鏡花学者の田中励儀さんから、新版、岩波書店刊の美しい函装泉鏡花集の「京・大阪編」を頂戴した。わたしの好きな「天守物語」や「南地心中」その他が含まれていて、早速今夜寝る前から読み出して全編読んでしまおうと心弾んでいる。有り難いことです。
メールですぐにお礼を言った。
若い同志社大学教授である。はじめて金澤の文学館を介しておつきあいを始めた頃は、ほんとうに若かった。篤実の学究で論文もめざましく多いだけでなく緻密で、いろいろと教わることがおおい。
2003 11・7 26

* 信長の生涯は、殺伐ともしつつ清爽の風気にも満ちていた。横死し早逝した人のトクでもあろうか。秀吉の事蹟は読み進むにしたがい不快を溜めて行く。いま彼は強硬に検地し刀狩りをしている。
2003 11・8 26

* 会員宮田智恵子さんの小説「風の韻き」を校正して入稿した。温和に書かれていた。疑点の確認に二度電話で確かめた。
2003 11・9 26

* 痛みをこらえて、和漢朗詠集と女文化について語ったエッセイを読んでいた。
そういえば、米原万里さんにな貰った本を読み始めて、これが面白い。小説かと思っていたが、米原さん実体験のノンフィクション。才筆である。大宅賞をこの本でとっている。
彼女とはソ連時代のモスクワ、作家同盟の本部食堂でたまたま出逢った昔なじみだが、今はペンの常務理事。井上ひさし会長の何でも、義理の姉上になるらしい。そういうことは何も知らなかった。女傑で、物言いはややガサツだが、気のいい、きちっとした人である。一度に二冊、本を呉れた。今読んでいる一冊の、一部を「ペン電子文藝館」に抄録できないだろうか。
2003 11・11 26

* バファリンを結局倍量服用して寝た。かろうじて痛みの緩和された感覚のママ、ひととおり読書して、寝た。
源氏は「夕霧」巻に入り、バグワンは「下稽古」した生き方を「心=マインド」というエゴの最害として、批判していた。米原万里さんの、旧友リッツアとの再会をはかって探し回り、想像のほかの医者になっている彼女と家庭とに、ついに行き当たる物語がおもしろく、著者の人柄をみせて感動できた。
鏡花を読み、藤村を読んで、もう寝ないと歯痛がヤバイと思った。
明け方まで幸い眠れた。手洗いに立ってもう一度床に入ったが痛みが強くぶり返していて、堪らず起床、八時過ぎ。すぐまたバファリンのお世話になって、今、やや軽快しているが、上と下との歯をわざと浮かしているからで、噛み合わせるとひだりの奧で痛苦が破裂音のようにからだに響く。わるいことに、行きつけの神戸歯科が水曜日は休み。ウーン。
2003 11・12 26

* 歯が痛くて何も食べられず、能が済むと、玄関でお礼を述べてから、まっすぐ帰宅。混んだ電車で立ちながら、いよいよ「日本の歴史」は、第十三巻「江戸開府」を読み始めた。家康秀忠家光三代の幕府政治。この巻が全巻の真ん中にあたる。この先が現代に至るまで、じつに長い。
2003 11・12 26

* 陸羯南の「日本」創刊の辞を「ペン電子文藝館」に送り込んだ。句読点の殆どない原稿だが、明快で、読みわずらうことはない。同僚委員から、句読点がないがと問い合わせが来たが、明治憲法発布より少し以前の文章であり、あの頃は句読点のない原稿は幾らでも公にされていた。そのわりには読みいいと感じながら校正した。
そんなことよりも、明治の思想家の息吹が吹き付けてきて心地よかった。大新聞というのは、今では功より罪の法が目立っているが、つよい志を抱いて新聞が創刊され、論陣を張って同時代を刺激し鼓吹し、そして転身したり消失したりする。それもいいのではないか。明治の知識人の気概がこういう「新聞」に表れた。大学を中退してきた正岡子規を正社員に招いて、以降十年、あの旺盛な文学活動を庇護し続けた人としても、陸羯南は忘れがたい。
2003 11・17 26

* 中村敬宇「人民ノ性質ヲ改造スル説」を入稿した。いま中村敬宇を読む人はおろか思い出せる人は寥々たるものであろう。しかし明治の第一期の知識人として、福沢諭吉や西周らとともに、それも政府や政界の内側から啓蒙的に優れた論説を書き続けたきわめて著名な大きな存在であった。時事新報が各界から選りすぐった「明治の十傑」つまり明治時代の人傑ベストテンの第四位に挙げられたと云えば、察しも利く。この論説は即ち、明治八年二月の演説草稿であったが、言葉こそ明治だが、その趣旨は明快で堅実で、ま、今から見れば常識のようでありながら今にしてなお中村の警告や指摘に我々日本人はまだ至らない遺憾なところを多々のこしている。自由民権の行方を、明治憲法発布より十五年もまえに示唆して揺るがない気合いには敬服する。
2003 11・18 26

* 雨。夜前も四時近くまで読んでいた。藤村「夜明け前」、角田文衛博士の業平と高子との恋、日本史の家康、秦テルオの図録。なぜか執拗に大学時代の教室の夢。
2003 11・20 26

*「出版ニュース」の清田義昭氏から贈られてきた新刊十一月号に、「三田誠広著『図書館への私の提言』への提言」を岡山の田井郁久雄氏が書いている。これを読んでくれということだろう、読む前から書かれていることはおよそ分かっていて、それはわたしの感想とほとんど同じだろうと予想したが、その通りであった。同僚委員であり同じ作家同士で親しくしている三田氏ではあるが、彼の本はあまりに戴けない所説が多すぎる。書くなら腰をすえて、一期一会の覚悟で書かれるべきであった、恥ずかしいほど概してお粗末なのである。彼の立場からすると、日本の作家達がみなこのように考えている、彼は文藝家境界と日本ペンクラブを代表してこの本を書いたように誤解されるかもしれないが、ちがう。わたし個人は「ちがう」と云っておく。先日のシンポジウムで彼自身が弁明していたように「故意にも喧嘩をふっかけよう」としたような動機で書かれている。まともな物書きはそんなことはしないし、してはならないだろう。
2003 11・23 26

* ややくつろいで発送用意の作業から離れ、いま、志賀重昂による「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」を起稿し、校正し、入稿した。名著の誉れ高い『日本風景論』で知られるが、まず今日、重昂の論著を読む人はめったにあるまい。そういう意味ではカビ臭いと譏る人もあろうが、この論文など、一時期文明開化に狂奔しつつその蔭で上流と官学との支配が執拗に計られていた「明治」にあり、やはり誰かが明晰に声をあげて当然な論旨を通しており、説いている「国粋保存」の四字に、落ち着いた視野と意欲とが漲っていて、敬服を誘う。
志賀重昂は日本国内に狭く跼蹐して発言していた人ではない。地理学者として西欧にもよく知られ、足跡は世界に及んでいた。むしろすぐれた西欧文明に学んで説をなしている。「日本人」刊行の第二号初出の「告白」である。出版編集人としてのまた一つの立場と覚悟とが披瀝されていて、おもしろかった。「日本」の陸羯南といい「日本人」の志賀といい、また「萬朝報」の黒岩涙香といい、こういう創始者の名前と意気とが、「時代」の若い活気を体現している。今日のジャーナリズムではあまり聞こえても届いてもこない声と言葉を彼等は用いている。
黒岩の前に、いま、田口鼎軒の「情交論」を起稿校正しはじめている。云うまでもない男女の性的な関わりが、くらい視野のなかへ追いやられ忌避されていていいわけがなかった。だが、黒田清輝の展覧会に出した初のヌード画に、布の被いがかけられた逸話でも察しられるように、封建時代の以前から男女情交はむしろ以ての外の悪事に類して取り扱われた。明治でもそれが当然のようであった中で、田口の、意を決しての議論である。これまた起こらずして済まなかった新時代、明治十九年の勇気の声であった。二葉亭四迷の「浮雲」をはじめとするわが近代文学はこの翌年よりして大いに開花し始めたのである。
「ペン電子文藝館」は、このように時代の進行に歩調を与え得たような、記念の文章、をも長く保存し展示したいと、それが館長としての私のつよい意思である。思えばあの敗戦後の性と性の表現の解放は、めざましいものであったし、良くもまた悪しくも時代を一変した。その遠き淵源が、この田口鼎軒の「情交論」にもあると改めて知るのは感慨深い。
2003 11・24 26

* 午前中に西垣脩の詩編「霧ぬれの歌」を読んで、形を整え入稿し、さらに黒岩涙香の「萬朝報」発刊の辞など論説を校正した。西垣の詩はたいしたものであった、母堂の臨終を見守る詩など、胸に迫った。また黒岩涙香の見識もまた精悍な魅力に富んでいた。また佳い見映えの「植樹」が出来た。
2003 11・26 26

* 夜前深更、島崎藤村「夜明け前」第一部を読了、これから後半に入って行く。第一部では、木曽馬籠本陣を受け継いだ半蔵の気持ちに乗せて、幕末の鈍雲たちこめた動揺・動乱の日本が、よく巨視的に捉えられている。小説としての展開も大きいが、歴史的な興味も湛え、わたしのような歴史好きの読者には有り難い。しかし繰り返し云うがあのそうは大きくない馬籠宿の、あの島崎家本陣跡の記念館や、菩提寺や墓地を、小径を、実地に見て歩いてふれてきた体験がどんなに役に立っているか計り知れない。
こんなに清明に静かに呼吸した佳い文体の大作は珍しい。いかに文壇や出版から精神的に離れて自律していた作者かと、頭が自然にさがる。独座大雄峰。あの宿から仰ぎ見る恵那の山容が眼にうかぶ。
一気に読むなどということはしないで、今日まできた。多くても十頁、少ないときで二頁ずつ咀嚼し賞味する気持で、しかしほぼ一夜と欠かさず読んできたので、没入できている。この名作はそのように読んでこそ楽しくさえあり、むろん興味津々と動いて尽きないのである。

* このところバグワン、源氏物語、江戸開府とあわせて、欠かさず楽しんでいるのは角田文衛博士に頂戴した王朝の女性達を多く論及した大冊。昨夜は高二位成忠の娘高階光子の研究を読み上げた。なまじな小説などの何倍もこういう人物研究は興味深く面白い。業平と齋宮恬子内親王との夢かうつつの密通は余りに有名だし、また良房の女高子と業平の生涯の恋にも惹かれる。こういう人事が、小説としてでなく詳細な文献検討と推測との結論として巨細に叙されると、安心してその成果に乗って行ける。小説家的な想像をさらに自由に放って行ける。書こうとは思わないが、われ一人の楽しみは、これに過ぎるものはそう無いのである。

* さて秀吉の人間的な武将的な魅力は山崎合戦で終えて、あとは不愉快がかなり襲ってくるが、それに輪をかけ、家康への敬意は秀吉に臣従し隠忍するあたりまでで、開府以降の大坂圧迫、京都圧迫になると不快感が泓々と湧くばかり。それは即ち彼等の政治力の勝利して行く時期に合致している。政治支配という欲とは無縁に暮らすわれわれには、そんなものが愉快であるわけがない。
本居宣長は、よく「治者」の理想を人は論じるけれど、治められる自分達にすれば、「被治者」からの理想というものがある、それを人はもっともっと語り考え治者に対して求めるべきであると語っていたのが思い出される。治められる側にはそれなりの理想がある。それが治める者達の強欲や都合の前に見向きもされない、そんな政治の不愉快を、強権者の足下でみなが堪え忍んできたが、今はそうではない、などと思う人がいれば鈍感を羞じたがいい。今もわたしは、不愉快な政治の力の下で怒りを禁じがたい。

* 大江健三郎氏に贈られた小説も読み始めた。この三日四日の多忙でお礼も申し遅れている。
2003 11・29 26

* 高史明さんからNHKライブラリー『現代によみがえる歎異抄』を頂戴した。「e-文庫・湖(umi)」に途中まで掲載し続けていたその文庫本であるようだ。紙の本が読みよいと思われる方はお購めになるといい。
2003 11・29 26

* 栗本鋤雲の「岩瀬肥後守の事歴」は、力強い名文であった。
『夜明け前』を木曽馬籠の朝夕より窺うだに、日本の幕末は、諸外国列強の虎視眈々に囲まれて、想像を絶する国難にあったこと、或いは第二次世界戦争前の日本にも過ぎていたかしれない。この前の戦争では北方千島や樺太南半を奪われ、琉球諸島を奪われ、また台湾や朝鮮を解放するに至ったけれど、あの維新前の動乱では、日本列島はほとんど何物をも喪うことなく明治維新に至っている。しかし、それは、当たり前のことではなかった。よほどの幸運であった。麻のように乱れていた国情をかいくぐるようにして、列国との通商和親を断行した、幕廷の、ほとんど蛮行に類するほどの果断が有ったからである。
その衝にまず敢然として当たろうとしたのが、「監察」に抜擢された岩瀬肥後守であり、不運にして退けられてのち、その意を深くひめて引き継いだのが、井伊大老であった。井伊直弼の専断可決は、当時の「公武」の関係からは、到底考えられない朝廷を無視した暴挙であり、国挙って彼を憎んだし、ついには桜田門外に井伊は無残に果てている。
栗本鋤雲は、岩瀬肥後といわば登試の同期生であった。幕府の近辺にあって総てをよく見聞していた。その鋤雲にして、岩瀬を称賛し井伊を批判する一文の中で、こう書いている。
「大老既に水戸老公始め総て己の見に異なる者を排斥掊撃(ほうげき)し為めに大獄を起し、遺類を芟除(せんじよ)し、諸司百官尽(ことごと)く更新して、門客に斉(ひと)しき者のみを任じたれば、爾時(このとき)赫々の威は殆んと飜山倒海の勢を為し、挙朝屏息足を累(かさ)ねて立つの思を為す程にして、随分恣意跋扈(ばつこ)とも名付く可き人なりしか、
唯余人の成し能はざる一の賞す可きは、外国交際の事に渉(わた)りては、尤も意を鋭(と)くし、敢て天威に懾服(しようふく)せず、各藩の意見の為めに動かず、断然として和親通商を許し、然る後に上奏するに在り、此一事たるや当時に在りては天地も容れざる大罪を犯したる如く評せし者多しと雖(いへど)も、若(も)し此時に当り一歩を謬(あやま)り此(この)断決微(なか)りせば、日本国の形勢は今日抑(そもそ)も如何なる有様に至りしならん、軽く積りても北海道は固(もと)より無論対州まれ壱岐まれ魯亜英佛の為め勝手に断割され、内陸も諸所の埠頭は随意に占断され、其上に全国が脊負ふて立たれぬ重き償金を債(せめ)られ、支那道光の末の如き姿に至り、調摂二十余年を経(ふ)るも、創痍或は本復に至らざる可く、独立の体面は迚(とて)も保たれまじく思へば危き至極にて有りしか、所謂神国の難有さは、祖宗在天の霊其衷(そのうち)に誘(みちび)きしと見へ、人心危疑恟々(きょうきょう)の日に当り、大老断然独任し胆力を以て至険至難を凌ぎたるは、我国にありて無上の大功と云ふ可し、」と。また、
「大老曾(かつ)て云ふ、岩瀬輩軽賎の身を以て柱石たる我々を閣(お)き、恣(ほしいまま)に将軍儲副の議を図る、其罪の悪(にく)む可き大逆無道を以て論ずるに足れり、然るを身首(しんしゆ)所を殊(こと)にするに至らざるを得るは、彼其(かれ、それ)「日本国」の平安を謀る、籌(はかりごと)画図(ぐわと)に中(あた)り鞠躬尽瘁の労没す可らざる有るを以て、非常の寛典を与へられたるなりと、大老の他の政績に就て見れば、此一言は真に別人別腸より出(いで)たるが如し、」とも書いているのである。

* 鋤雲の書いていることは誇張でもなにでもない。日本列島が分け取りにされる危険は大変なもので、例は、近隣の東洋において枚挙にいとまがなかった。このような形勢を凌いできた明治維新であり、明治以降の日本の文明文化であり、文学藝術も例外ではない。こういう第一期日本の知識人・思想家の文章を多く選んで「ペン電子文藝館」の冒頭を意義あらしめたいと強く願う所以である。

* 鋤雲の一文はすべて正字で、濁点は振られていないし、ヨミガナの振られた例は一つもない。句読点も、「。」は一カ所もない。これを、あえて新字有るは総ていちいち新字にかえ、仮名遣いこそ改めないが、必要な濁点とよみがなを、総ていちいちにわたしがつけている。読点をくわえることをしていないのは、語勢を殺さないためである。正しい読みをつけるには、漢和字典をひきづめに引かねばならず、しかし当然の手続きである。ただよみがなの仮名遣いだけは「校正」段階で、くわしい同僚委員の和泉鮎子さんや城塚朋和氏を煩わせる気で、どんどん進めてしまっている。このところの、陸羯南、志賀重昂、黒岩涙香、中村敬宇、田口鼎軒、大西操山らも、みな全く同じ手続きを経て、一つ一つの「植林」を果たしてきた。参考にする底本の活字がちいさく、正字は複雑で読みにくく、長時間の起稿作業を続けていると、目の前が次第に白濁してくる。しかもそれを成さしむる意気と魅力がそれらの文章には漲っており、少なくもわたしは毫もそれを「かびくさい」などと思わない。今日人気だけの読み物の方がよほど「かびくさい」と感じることが多いのは、その文章が早くももう死んでいるからである。

* 同僚委員向山肇夫氏が、池島信平の遺文を選択してくれた。はやく読んでみたい。
2003 12・3 27

* 歯医者はまだかかりそうである。今日も麻酔をかけられ、ほぼ四十分治療。突き抜いた冬晴れの空の下を、上野へ、有楽町へ、そして珍しくビヤホールのニュートーキョーで、牡蠣と帆立と鎌倉ハムとで大きなジョッキを傾けながら。「日本の歴史」は政治家家康の支配意思強硬なことに、うんざりして読んでいる。金地院崇伝だの天海だの、本多正純だの。文治の時期にはいると、いつもこういう狡猾なほど陰険な政治屋が黒子になってうろうろする。愉快でない。
池袋西武で老酒を買って帰った。
2003 12・4 27

* 新しいカレンダーが送られてくる季節になった。新刊もゾクゾクと戴く。角田文衛、大江健三郎、川本三郎、猪瀬直樹、米原万里、三島佑一、朔立木ら各氏の本が、枕元で、枕よりうずたかく積まれ、積んであるだけではない、次々に読まれている。一つ済んだら次へという読み方ではない。ほとんど毎晩併行して頁を追っていく。バグワンや源氏や「夜明け前」はさらに優先する。親鸞研究の雑誌もあれば、文春新書の大胆な、しかしわたしには用のない面白い「房中術」の本ももらっている。
籤とらずの三冊はべつにして、いま最もハカの行っている読書は、角田博士の王朝の女達を論考した一冊で、博士の人選もよろしきを得ているし、検討は文献に則って実証的に遺憾がない。なによりそういう人物論評がわたしは昔から好きであった。廃后高子、齋宮恬子、建春門院、建礼門院などみなわたしは曾読の論文ながら、また読み返して飽きなくて、これから池禅尼に入る。最後には別格の体で、紫式部、清少納言に相当な頁がとってある。
川本さんの東京モノはいろいろ戴いていて、ひそかな愛読書に数えている。とても読み佳い一種の名文で、わたしはこの人の著述に信愛している。
大阪船場出の三島氏のは谷崎と大阪をめぐるエッセイで、このところ氏は大阪の文化的スポークスマンの観がある。よく務められている。
さてさて、だが、何と云ってもいまいま湯気のぽっぽと立っているのは、猪瀬氏の、道路公団問題での大奮闘記。達筆の署名入り本を、詳細な目次を案内に立てて、かなり大冊だが、だあっとほぼ一冊読み通してしまった。いま、「働き盛り」の語はこの人のためにこそ有る、真実敬服する。
2003 12・6 27

* 源氏物語はとうどう、ながい「夕霧」の巻を終えた。源氏物語のなかでわたしの好きな人物はというと、つまりは「紫上」を愛しまた慕った人達ということになる。光源氏そして夕霧、匂宮、また明石中宮と。宇治中君も、いろんな意味で加えたい。
夕霧は、表へ出て主役をはることの少ない人で、唯一この「夕霧」巻までの数帖、亡き友柏木の未亡人落葉の宮に恋着して行く珍しい風情のあたりだけで、表立つ。独立した物語と読んでも、夕霧の物語は、横笛から鈴虫を経てたいへんよく書けている。しかしまた、わたしは、義母紫上をはつかに透き見して魂を奪われたちつくす「野分」の夕霧と、その紫上に死なれて、人も怪しみかねないほど泣き嘆く夕霧が、とても好きだ。いや、幼な恋の雲居の雁をしんぼうよく待って、ついに障碍を克服して結婚する夕霧も好きだ。すこしヤボに真面目な勉強家のまめびと夕霧が、ひょっとして父光源氏より好きかも知れない。

* さて、「御法」「幻」の二帖は、このたび音読を遠慮し、黙って「通過」することにした。源氏物語は、わたしに、『死なれて・死なせて』という深刻な感想を書かせるに至った、最も刺激的な古典文学であったことを、今も、しみじみと想う。この二帖、声に出して読むこと、とても堪え得まい。それがわたしの源氏物語なのだから仕方がない。
2003 12・7 27

*「夜明け前」は、第二部にはいると、維新政府と英米仏等との微妙な交渉史がつづく。藤村の史料の把握と表現が、単簡要を得てしかも描写を心得ていることに感心する、が、いまぶん青山半蔵の影もさしてこない。
明治維新に関心のないわけはないが、偉大な混迷期という気が昔から有り、あまり触れ合ってこなかった。維新前というと新撰組などが表へ出てくるのは、小さい扱いようではないかと、毛嫌いしていた。藤村の歴史推移の把握は落ち着いていて、いちばん肝腎なところ、つまり世界の中での日本の変貌や変容に適切に的を絞っているのがいい。藤村は個人であれ家であれ国であれ、それぞれの歴史性の把握に大きな長があり、漱石は文明にゆすられて生きる人間の内面=心の動揺をとらえてあやまたず、潤一郎は性と美を世界観の基底にすえて人間の運命を構造的に構築した。彼等に無いか足りない視野を、混濁した人間社会の政治的不幸としてとらえたのは松本清張であったろう。川端康成といえ大江健三郎といえ、他は、すべてと謂えるほど、このどれかの亜流であり、出来不出来はあれサンプルの四人を超えて別乾坤を成したと思われる日本の作者はいない。真にそれらを総て綜合し得ていたのは、はるか溯った源氏物語が唯一あるに過ぎない。

* 源氏物語には薫る中将、匂ふ兵部卿がならび登場して、光源氏や紫上の世界は過ぎし懐かしき世界の語りぐさと化している。骨のきしむような寂しみに若い世代の世界がいろどられ、それに堪えつつ貴公子たちが活動し始める。宇治十帖まで、もう暫く、作者は配慮し用意を尽くすだろう。

* その作者紫式部についての角田文衛氏の長い論考を、昨夜読み終えた。これも再読もの。さすがに紫式部となると、そうは簡単に細説できない。角田さんといえども要点や骨子といった調子で、最低限度の記述であった。ただそこが之ほどの学者のものだと、骨子として安心して自分のなかへ取り込んでおける。あとは自分の理会したところで肉付けする根気が必要か。

* 日本史は、家康秀忠二代の強圧に蹂躙され煮え湯を飲まされ続けた、後陽成・後水尾天皇や公家・僧侶たちの、あわれをとどめた情況を、にがにがしい不快感を覚えつつ読み進んでいる。京都の朝廷や大寺社に同情して言うのではない、要するに、政治的に強硬な傲慢というものが憎いだけである。いまのアメリカ、いまの小泉内閣。最悪のハリケーン、最悪のタイフーン。ジャーナリストたちの、誇りを見失った沈滞が、輪をかけて悪政の彼等をのさばらせる。ブッシュの顔は、いまや下卑た悪相にゆがんで、世界の不幸をそのまま体現しているし、小泉の顔はいかに平然と人間はウソをつく見本かのように、醜悪の汚臭をにおわせ始めている。日本の不幸、日々に深まる。
2003 12・12 27

* 師走に入って兎にも角にも郵便物が山のように溜まり、階下の仕事机がまったくものの役に立たないのを、少し片づけた。戴いている著書だけで二十冊ほど積み上がっていた。梅原猛「京都発見」楽吉左衛門「茶碗」松田章一「和菓子屋包匠・他」などのほかに川本三郎、飯島耕一、上野千鶴子、猪瀬直樹、佐高信各氏らの著書。そして歌集や詩集や句集。例の勝田貞夫さんからの「湖の本」ディスクも届いていて、いやもう、失礼の重ね重ねである。ここでご免なさいと謝ってみても仕方ないが。年齢をとるとは、こういう謝り事が増えると云うことか。
2003 12・16 27

* こぬか雨のなかを、聖路加から銀座松屋まで歩き、「宮川」で鰻でも食って帰るかと上へ上がったが、寿司の「福助」が店出ししているのに気付き、おまかせで朝昼兼帯。お酒、むろん。焼き帆立、そして海胆とトロを余分に注文。飯はごく少なくして貰った。食事しながら、読者から送られていた、一つはご主人を亡くされた奥さんの、も一つは奥さんを亡くされたご主人の、まさしく「悲哀の仕事」の手記本を読んだ。こういう場所では不謹慎なようだが、こういう場所ででないと読み切れるものでなかった。
二つは対照的。奥さんの手記は新婚旅行以来の楽しかったことだけに限定した手記。ご主人のは、ほぼ泣きの涙の手記。唸った。ご冥福を祈ります。
2003 12・17 27

* 東山道征討の官軍が馬籠宿へも迫りつつあり、平田国学に心酔し王政復古に理想の実現をねがう本陣青山半蔵の心は、なかば宙を歩んでいる。『夜明け前』は独特の内部震動をすすめている。

* 戴いている本のなかに、楽吉左衛門氏の「父と子展」への思いを綴った美しい図録と文集がある。当代の楽さんは歴代の逸材とみてわたしは早くに京都美術文化賞に率先選考し授賞を決めてきた。茶碗であり、また美の存在としても秀れた造形の出来る人である。

* 岩佐美代子さんに筑波大石埜敬子教授のインタビューした、源氏物語「行幸」「藤袴」あたりに話題を絞った対談コピーを岩佐さんに貰っていた。それを夜前、寝入る前に読んだ。玉鬘十帖のおさまって行き、また夕霧と雲井雁の幼いからの恋にも前途の見えてくるあたりである。おもしろく読んだ。わたしの「音読」はいま紅梅大納言が匂兵部卿にわが娘への接近を唆しているあたり。源氏の終焉から宇治十帖の開幕までに挟まれたこの辺は、作者・筆者にも疑問符のつけられている、微妙なまさに挟雑的な巻々ではあるが、それもこれも光うせたあとの寂しみを堪えているような深い惑いとも読める。落ち着いて読み進んでいる。薫と匂とを主人公として提示しつつ、玉鬘の家庭のその後などもふくめて、やはり物語に整理と新展望を企てている点では、それなりに見捨てることの出来ない巻巻と思う。

* 心の底でわたしが、だが、いちばん疼くように書きたがっているのは。バグワンへの思い。そして谷崎潤一郎や中村光夫先生の思いを承けるほどおおそれたことではないが、「老人の性」をあつかった思い切ったフィクションである。
2003 12・18 27

* どこへと一瞬迷ったが、まっすぐ日比谷のクラブに入った。21年ものの「響」を妻と先日行ったとき、入れておいた、それを飲みたくなった。「インペリアル」とどんな風に味わいが違うか。いや、うまかった、どちらも。何とかの一つ覚えのように角切りのステーキとエスカルゴ。誕生日が日曜なので、クラブはあいていない。それで支配人が気を利かしてシャンパンのグラスで前祝いしてくれた。花森安治の「見よぼくら一銭五厘の旗」を読みながら、うまい酒を飲んでいた。この一銭五厘は、むかしのハガキ一枚の値段。そのハガキ一枚で人を戦地に送りこんでいた時代。馬や牛の方が貴重なんだ、お前等は一銭五厘で幾らでも代わりがあると毒づかれた庶民の嘆きを忘れさせぬ歌である。世が世ならわたしも一銭五厘のくちであった。それをひしひしと実感するから、わたしは私の稼いだお金でささやかに贅沢をするのである。許される贅沢を自分の責任でするのである。撞着だと嗤わないでいただきたい。

* 地下鉄終点の池袋で、人に起こされるまで気持ちよく寝ていた。西武線でも寝てゆこうと思い、乗り越したくないので保谷行きをえらんで乗ってきた。
2003 12・19 27

上部へスクロール