ぜんぶ秦恒平文学の話

読書録 2010年

* 仁科理さんの詩がすばらしかった。ペンの同僚会員でわたしも関わっている近代文学研究の学会長。久しいお付き合いになる。おゆるし願って、此処に、尊敬とともに馬渡さんの述懐をそっと置かせて戴く。

☆ 平成二十二年 元旦  馬渡憲三郎 (仁科 理)

いつからだろう
深夜にめざめ
脈絡もなく
石への思いがつのるのは

見られることもなく
寡黙のままで
在ることに
徹したものたち

夜明けの空へ
駆けのぼるのは
聞き落としてはならぬ
その優しさの
声だ
2010 1・3 100

* 寒気、ことに厳しい。事故も怪我もなく、健やかにと誰のためにも祈る。

* 朝いちばんに、岩波文庫三巻本『ゲーテとの対話』を読了。
少年の頃から敬意を払ってきた。落ち着いて、少しずつ読み進んで、あらためて感銘深かった。いろんなかたちで感銘を伝えてきたが、まだまだ。
近代の英知また叡智のひとであった。この人は、神の愛をうけた藝術家として、モーツアルト、シェイクスピア、ラファエロを繰り返し挙げる。この三人への敬愛とともに「神への愛」を語ったゲーテ対話の結語は、人智にあふれて豊か。藝術家として励まされつづけた。
もとより時代も立場もいまのわたしの置かれた場とは大きく異なる。それを弁えて尚、稀有の座右の書である。
2010 1・6 100

* 朝、床の中で、谷崎先生の『初昔 きのふけふ』 『ヨハネ傳』 『総説 新約聖書』を読んでいた。
去年夏に自転車で転倒し二日続けて同じ箇所を傷つけた左膝のすぐ下が、まだ時折爪で掻くようにヒリヒリすることがある。骨折したらよほど危機に陥ると分かっているので、あれ以来遠乗りはもうしないでいる。歩く方へ移したいが、じつは自転車だと腰が痛むこと、全く無い。鞄提げて歩いていると、どうしても腰に痛みが来る。紛らわしようも心得ているが、長くは保たない。
2010 1・7 100

* 猪瀬直樹氏の贈り本、達筆で署名の『ジミーの誕生日』が来ていた。
アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」と、副題も凄い。いくらか察しのつくことがらを承知している、興味津々、すぐ読みたい。
2010 1・8 100

* 今日は俳優小沢昭一さんから、岩波現代文庫『わた史発掘』を頂戴した。お金は無くなる一方だが、戴く本は増えてゆく。お金を払って本を買うなどは年に数冊もないが、頂戴本は増える。無くならない。そして几帳面に読まれている。竹内整一さんの『「かなしみ」の哲学』山折哲雄さんの『いま、こころを育むとは』も戴いている。
2010 1・9 100

* 馬場一雄先生の遺著『花を育てるように』から、「e-文藝館=湖(umi)」の「人と思想」「随感随想」欄に、ご生前のお許しのままに、抄出させて頂いた。
「花を育てるように」とは小児科医である先生の金言であり思想の結晶であった。日本の未熟児学・新生児学・出生前小児医学等の礎を築き上げられた。思慕する人たちは、風貌とお人柄を「百済観音」様と呼んでいた。
馬場先生を思うやたちまちに、次から次へと、卓越した医学者・臨床家が思い出される。賛育会木下正一院長、築地産院竹内繁喜院長が無性に懐かしい。中尾亨先生、寺脇保先生、鈴木榮先生、また高津忠夫先生、産婦人科小林隆先生、さらに内科の北村和夫先生。もう、おおかた向こうへ行って仕舞われた。わたしは社内ではじつにブッキラボウであったが、立派なドクターには公私ともに励まして頂いた。著者を心から敬って大切につとめた。 「濯鱗清流」というわたしの基本の姿勢が培われていたと思う。尊敬すべき人を尊敬する、それほど自分にとって有り難いことはなく、そのかわり尊敬できない人には近寄らずに来たと思う。
そのさい、人か、仕事かと、どうしても分けて考えねばならないなら、わたしは「仕事」を尊敬した。好かない人でもいい仕事をされていれば、頭をさげた。お医者様には限らないことである。
2010 1・10 100

* 今日、ある「変身願望者」の文章を読んでいたら、ひょいとジャン・ジャック・ルソーが登場した。その人はルソーの有名な『告白』(わたしも岩波文庫の三冊本で読了している。)を、生田長江訳『懺悔録』で読んでいるのだが、こんなルソーを書き写している。わたしもつまり別訳で読んで忘れていたわけではない。

☆ ルソーは、好意を寄せるある女性をお母さんと呼び、女に坊やと言われて幸せを感じていた。お母さんが、食べ物の一片を口に入れた時、あっ、髪の毛がくっついている、と叫ぶ。彼女は食べ物を皿に吐き出す。ルソーはいきなりそれを自分の口へ入れる。
青年ルソーは、頭に沸きたつ血を異性への願望でいっぱいにしながら、並木道の奥まった場所で女達に近づいた。そうして、自分の醜い一物を彼女らにさらしたのである。それは誇れるような立派なものではなく、滑稽なものであった。「賢い少女(むすめ)共は見ない風をした。他の者らはくつくつと笑い出した」 (『懺悔録』生田長江訳)
ところが、騒ぎ出す娘もいて、近くの男たちから追いかけられ、ルソーはみなにつかまってしまう。ルソーは、自分は名門の生れだが精神異常の気味があり、監禁されるところを逃げ出して、頭もどうかしていて、とんでもないおかしなことをしでかした、と、必死に許しを乞うのである。これが効を奏し、少しの叱責だけでこの場をのがれることができた。
ルソーは、露出狂なのか、いや、彼はマゾヒストなのである。彼は性的欲望というより、嘲笑されるそのことだけを目的にしたのである。(天野哲夫『禁じられた青春』上巻より)

* カントは、こんなルソーによって哲学の目を開いたといわれる。
『告白』を読み『エミール』を読み、ほんとうはわたしはもっと別の論攷論文をぜひ敬意を払って読みたいのだが、まだ縁をえない。しかしまあ、ルソーという人は、歴史的にたいそう優れた足跡を遺したことは間違いないとして、上のような異様な性癖をかかえていたことも確かだ。
2010 1・10 100

* 今回の猪瀬氏來贈本は、「小説仕立て」が出だしでややもたつき、早く読みたいことが、あれこれの描写や説明で道草くっていて、じれったい。
小沢昭一さんの語りは例の如くなれども例の如く快調いや怪調。藝ともいえ、藝以前の「性(さが)」が力強いのでもあろう。

* 昭和十一年、二・二六事件の連累で死刑された北一輝の『日本改造法案』は、或る意味当時農村の悲境に同情し、つよい関心を寄せた結果といえる。
北の案には、二十五歳以上の男子全員への選挙権、皇室の土地・山林、株券の国庫への還付、貴族院の廃止、大企業や大地主の資産制限、労働者の八時間労働、日曜祝日は有給休暇、少年労働の禁止、婦人労働の制限、労働者の経営参加、年二回のボーナス、六十歳以上の老人や障害者の国家扶養、五歳から十五歳までの教育を受ける権利、刑事被告の適正な扱いと無罪の場合の損害補償などなどが盛られていて、その正当性は際だっていて、蹶起した兵士らをはげしく揺さぶった。
侍従武官長だった本庄繁の『本庄日記』には、二・二六事件にかかわる昭和天皇のことばとして、「将校ら、殊に下士卒に最も近いものが農村の悲境に同情し、関心を持するは止むを得ずとするも」と誌している。だが、「之に趣味をもちすぐる時は、却って害あり」と天皇は憂慮を示し、その憂慮ゆえに北一輝は粛清された。兵らはあくまで「天皇のための日本」を思って立ったであろうが、北は、「日本のための、国家に附随した天皇」を考えていたようだ。昭和天皇がただただ軍の言うままであったなどいうのは、思いすぎである。
2010 1・11 100

* 父親の愚かさは「遺伝しない」と、ゲーテが、エッケルマン相手に愉快そうに力説している。
2010 1・12 100

* 新宿の紀伊國屋サザンシアターで俳優座公演の翻案「どん底」と、ひきつづき、大塚の萬劇場で秦建日子作「月の子供」を観てきた。サザンシアターでは香野百合子さんと出会い、親しく新年の挨拶。
俳優座のあと、新宿高島屋十四階の「庖厨菜館」で中華料理と甕出しの紹興酒を。
さらに建日子芝居の後には、萬劇場の前、銘酒の店で、「浅間山」とおでんとでほこほこ温まってから家に帰った。大塚駅で河出書房の小野寺氏もいっしょの建日子たちとすれちがった。
西武線では『安曇野』第五部の後半に読み耽ってきた。
2010 1・13 100

* 一等わたしを惹きつけたのは、『安曇野』の踏み込んだ「天皇と天皇制」への小説の中での熱い言及であった。
2010 1・13 100

* 聖路加、さすが正月、カラダの数値は想定内でやや悪化していた。なにしろ体重が減らない。

* 好天に誘われ、車で新大橋西詰めへ走り、新大橋をゆっくり東岸に越え、浜町、千歳町を歩いて千歳橋をわたり、本所、回向院前から両国橋を西へ、柳橋をわたり風のない眩しいほどの日向を隅田川ぞいにゆっくり蔵前橋まで行って、西から東へ、東から西へ渡った。思案投げ首のあと、まっすぐタクシーで本郷三丁目までもどって、地下鉄で池袋へ帰ってきた。
西武で鰻。体調か、さほど旨くなく。家の夕食もいまひとつ旨くなく。
電車の中でフローベールの『ボヴァリー夫人』を感銘深く面白く読了。名作、なるほどと合点した。
あいついで『安曇野』の天皇と天皇制への批判を共感、興味津々のうちに読んでいった。昭和天皇と当時の天皇制を語ろうという人には、ぜひ読んでいてほしい好文献である。
ま、ここ五日ほどは気儘にゆっくり出来る。月末の週はなにも拘束されていない。
2010 1・15 100

* 臼井吉見作『安曇野』を全巻読了。大きな読書であった。
2010 1・17 100

* 橋爪文さんの詩集『地に還るもの 天に昇るもの』を頂戴した。すでに「e-文藝館=湖(umi)」にも「ペン電子文藝館」にも『夏の響き』と題した詩篇の数々を戴いているが、それらも含めて橋爪さんの最初の纏まった「原爆詩集」であり、原民喜の原爆小説『夏の花』『廃墟から』に相並ぶ決定的な名篇として古典の域に必ず入るであろうものである。『夏の響き』で既に涙を絞られたが、響く感銘はこの詩集のどの頁からも突き刺す問いかけとともに胸に突き当たってくる。タクサンのタクサンの人が読んでほしい。世界中の人が読んでほしい。
15年余り前から反核・平和海外ひとり行脚を続けている橋爪さんへの、心からの敬意と感謝とを添えて、「表題」になった巻頭の一編をぜひ紹介したい。

☆ 地に還るもの 天に昇るもの  橋爪文 同題『詩集』より 砂子屋書房新刊

その瞬間
鮮烈な閃光に土の粒子が総立ちした
数えきれない生命が塵となって宙へ消え去った

一灯もない広島に夜ごと星が降る
降りそそぐ星たちは
あのとき飛散した土の粒子
瞬時に消えたもろもろの生命だ
あおく あかく
光を放ち 声を発して
地へ還ろうとする 星
愛する人のもとへ
父の 母のもとへ
我が子のもとへ
生まれ育った大地へ

しかしそのとき
降りしきる星の光に洗われながら
今夜もいくつかの魂が昇天して行く

* 目を背けても、忘れてもいけない歴史の醜行がある。ヒロシマもナガサキも、また都市への無差別爆撃も、ゆるしてはならぬ。
2010 1・18 100

☆ 風。 10.01.18 10:10
やや曇天です。
今日の午後は散髪です。
「家畜人ヤプー」が映画になるそうで、原作を読んでみたいなと地元図書館の蔵書を検索したら、ありませんでした。
リクエストを出してみようかな。
風はお元気ですか。
頭痛など、いかがですか。
よくやすんでくださいね。  花

* 『家畜人ヤプー』が映画に。何だって出来る映画だから不可能とは思わない、マンガも出来ているし。しかし本質的には「文学」だと思う。積極的に読み通すには相当な胆力を要する。

* 『ボヴァリー夫人』を読み上げ『安曇野』を読み上げて、何を補充しようかと、ふと戸惑っている。『家畜人ヤプー』の凄みに、いま耐えられるか、少し臆する思いがある。
臼井先生が『安曇野』の終着まえに、大勢出会ってきた文学者の中で、いま思い出深い人はと人に聞かれ、正宗白鳥と志賀直哉を挙げておられたのを思い出す。
わたしは、白鳥をよく知らない。「e-文藝館=湖(umi)」や「ペン電子文藝館」には、それでも初期の短編と晩年の作と壮年期の戯曲を、感心して頂戴した。エッセイの優を選んで加えたい気がしている。
志賀直哉は、今も全集を読み続けている、小説と書簡と並行して。
それにしても直哉に対するほぼ例外というモノの無い識者達の熱い熱い敬愛と畏怖とは、何だろう。わたしも衷心直哉を敬愛する。
そして谷崎愛のわたしは、いま、昭和十七年の特装箱入り本の『きのふけふ・初昔』を読んでいる。

* 日本の古典は『今昔物語』がちょうどいま世俗編に入っていて、刺激的に面白い。宝庫だなと思う。
2010 1・18 100

* 夜前、「ヨハネ傳福音書」を読み終えた。今にいたっての実感では、在来、マタイ、マルコの二つの福音書だけが記憶されていた。「ルカ傳」「ヨハネ傳」を読み通したのは初めてだ。「はぢめに言葉ありき」というヨハネ傳の冒頭だけは濃い印象で、そこで立ち止まっていた。
志賀直哉が、内村鑑三に心酔していた頃、福音書は「ルカ」だけあればよいと日記に書いていた。しかし「ヨハネ傳福音書」の感銘は深かった。心服するほどイエスの言葉に力が顕れていた。惹きつけられた。言葉数も多かった。

* 温かい一夜で、温かさにわたしは五時過ぎて目が覚めた。つごう三時間余りしか寝ていない。
夜前からバグワンに『一休の歌』を加え、学術書である『もののけ』を読み始め、しばらく間の空いていた『ジャン・クリストフ』をまた読み始めた。
やはり十五冊からは減らず、毎夜就寝前にどれもみな味読を楽しんでいる。頭の体操のようにソクラテスの『国家』対話を読み進めている。やがて上巻を通過する。『今昔物語』はまこと佳境。堪えて、一話ずつ読む。一話ずつがやや長編化している。
2010 1・21 100

* 雨月物語は、上田秋成のいわば「青年時代」の優れた結実であった。それに対し春雨物語は彼が「老境」のいわば異様の達成であり、嵯峨としたレータスタイルを成している。異様といい嵯峨とみる説明はとても一言二言では出来ないが、秋成の生涯ないし老境の嶮しさ自体が物語るていの「苦境の所産」と謂える。
秋成は幼少より筆を持つ手指に畸形があった。老境に到っては一時は両眼の明を失しかろうじて半眼のはたらきをとりもどすことで、書字と読書とを続けることが出来た。彼は複雑な背後を負うた、生まれながらの「もらひ子」であった。武家から商家へ。そして「わやく太郎」と自称したほどの青春を経て、大人になったころに家産をうしない流浪に近い苦労もしたと言う。
少しここは先を急がず、しばらく時間をかけて『春雨物語』の世界に没頭したい。幸い高田衛さんのありがたい手引きがある。

* 五部の超大作、臼井吉見『安曇野』から学んだものは計り知れないが、印象に新しく、今後も繰り返し参照するであろうと感銘深かったのは、第五部の「その二一」から「「その二三」に及ぶ百頁ほどで。そこには「戦争と天皇と天皇制」に関して、能う限り落ち着いた筆致で、優れた日本の知性達の、また血迷った知性達の思いや行為が語られている。
血迷った知性達の代表格として、詩人の高村光太郎と歌人の斎藤茂吉とが語られ、二人の微妙に異なったところも比較されている。光太郎戦後の「言いわけ」とも読まれる『暗愚小伝』への批判も、落ち着いて為されている。いずれにしても、光太郎と茂吉との生涯に、「信じがたいほどの恥部」を戦中の仕事が為してしまったことは、否めぬ事実であり蔽いようがない。
しかもなおわたしは、高村光太郎も、斎藤茂吉も、最高級の詩人歌人として「尊敬の念」を喪ったことがない。しかし先の恥部をはげしく嫌い批難する点でもなんら容赦はない。

* わたしが日本ペンクラブの理事の任にありながら、現執行部と現「ペン電子文藝館」に対する批判から、理事会出席を拒絶している理由をもう一度書いておく。
彼等が、(この際、高村光太郎に限って言うが、)詩人に対する「非難と侮蔑」だけを挙げ、「尊敬の念」を事実上放棄したことへの「止みがたい抗議」からである。どう抗議しても、誠意ある回答も反応もなかったからである。

* 彼等は「ペン電子文藝館」の「招待席」に、詩人光太郎の「恥部」にしか当たらぬ戦争讃美の散文や詩を主にとりあげ、麗々しく「批評」かのように公開した。
わたしは、「ペン電子文藝館」の「招待席」は、「優れた先達の優れた作」を、愛と敬意とをもって広く紹介する場所であり、ことさらにその作者の名誉とはならぬ作をすぐって公開するなど、「招待」の名に背いて、詩人をむしろ偽り傷つける愚行である、そんなことは決して「日本ペンクラブ」や「ペン電子文藝館」のすべき事でないと激しく抗議した。
批評好意を否定するのではない。が、そういう「批評」行為なら、臼井さんの『安曇野』に於けるが如く、誰かが「文責」明らかに、独立の批評・評論として「別に起稿し別に発表」すれば宜敷く、「ペン電子文藝館」に言葉は美しく「招待」しておいて、まんまと「恥をかかせる」真似を日本ペンクラブの名において為すなど、言語道断だとわたしは怒った。先人への謙遜な敬愛があってこそ文学の道は直くつづく。文学者の団体である日本ペンクラブが、公然と先人・先達の「恥部」露出に走るなど「恥ずかしい逸脱」だとわたしは考えている。
この一事は他の万事と均衡するほど「大事」だと考えている。日本ペンクラブをわたしは批判しているのではない、これを為して改めない現在の阿刀田高執行部と大原雄「ペン電子文藝館」委員長を批判している。経緯は、このファイルの後方にとりまとめてある。

* バグワンの『黄金の華の秘密』は、これまで繰り返し読んできたどれよりも、翻訳の口調からか、取り付きにくかった。音読せずつぶさに黙読し、さらに読み返している。優れた示唆にしばしば出逢える。箴言に富んでいる。
だがバグワンの場合、ことばを箴言のように受け容れるのがじつは危険なのでないかと危惧する。そこで思索して立ち止まるのでは、よくなかろう、思索を落とさないと罠に落ちたようなことになる。それでもバグワンの言葉は誘惑的にすばらしい。

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
魂の人はつねに危険だ。なぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ。彼を奴隷に貶めることはできない。みずからの内に不死なる魂をもつ人は  人間がつくりあげた社会、文明、文化の構造など気にかけない。これらのものは彼にとっては監獄だ。 彼は群衆の一部ではありえない。彼は個として存在している。
2010 1・22 100

* 終夜眠れず、おきてまた『春雨物語』数編を読み、ことに巻頭の「血かたびら」に心をとられ、高田衛さんの論攷を耽読。おまけにふと手に触れた山本健吉さんの『芭蕉』の頁を繰るとこれがまた面白くて。結局、黒いマゴにもつきあい、六時には床を出て、機械の前で例の「校正」にうちこむ。
就寝前の読書が、どの一冊一冊もなんだかきらきら光るほどに面白くて堪らなかった。『使徒行伝』など初読で、興奮に近いほど。『総説 新約聖書』で関連の研究論文も併せ読んで行くので、やめられない。
直哉の小説と書簡も、旨い具合に時期的に関連して、惹きつける。読む本読む本が、きらきらと透明感のある光り方で迫ってくるなど、珍しい。

* こんなことを続けると、からだはますます傷むだろう。なんとか、セーブしないと。
2010 1・23 100

* あのローマ帝国が基督教を国教にした史実は知っているが、イエス復活と昇天後に、初期キリスト教、初期キリスト教会がどのように広範囲に浸透し普及していったかを知りたかった。『使徒行伝』は、とても興味深い。イスカリオテのユダを除いた十一人の使徒にもう一人を新たに加えた十二使徒にどれほどの信仰の深さ・大いさがあったのかを具体的な「表し」において知りたかったのを、あ、そうかという順次をふんで書き表している。夜前も読み、今朝も読み継いだ。

* 小谷野敦氏のくれた「大学文学部の不幸」を書き綴った一気呵成の書きッぷりを、三度の息継ぎだけで、昨日、通読しおえた。奇書というべきか。
大学文学部から大学院「文学研究科」に入りながら、わたしは、妻との生活のため学問を見捨てて京都から東京へ奔って、サラリーマンになり、小説を書いて太宰賞をもらい、やがて「作家」生活ひとつになった。
後年、誰のどんなはからいがあったか皆目知らぬまま、突然、江藤淳の後任として東京工業大学教授の辞令をうけ、六十歳年度末定年までを、四年半勤めた。

* わたしは東工大の学部の学生達に「文学・学」を教授する気疎さから、つまりムダだという堅い思いから、「作家」ならではというより、わたしならではの独特の「無免許運転」を決行した。学生諸君に、自分の言葉で思索し、書いて表現し、広義の「文学」をよろこばしく自覚に満ちて味わい知ってくれるよう、その訓練に徹底終始した。
四年間に単行本なら百冊分も学生達は書いて、わたしの意図に応えてくれた。それを楽しみとも、好機とさえもしてくれた。
学者としてでなく、徹してわたしは『東工大「作家」教授』を勤め上げたのであり、終始ブレなかった。「文学・学」「概論」のノートなど全くとらせなかった。作品を深く広く面白く「読める」ちからまで急には持てなくても、その可能性を感じて卒業していって欲しかった。

* 大学に専任の地位を求めている文学部卆や文学研究科卒の人が大勢いて、就職に必死であるのを、わたしは自身の読者や若い友人の世間に、それはタクサン見てきた。そういう人たちからすれば、わたしのような大学院を後足で蹴ってきた者が、いきなり名門大学の教授になってしまうことは、割り切れなかったろう。「一種の名人事」だと言うてくれた人たちの中にも、いぶかしい気分でいた人はあったろう、若い人希望者たちの中には「なんで」と怒った人もいただろう、わたしは何一つそういう風評は耳にしなかったけれども。

* 小谷野さんの本は、「凄い」のである。よくこうまで「書けたなあ」とむしろ惘れるほど感嘆した。一気に読んだのだから、読ませる面白さは横溢していたのであるが、おそらく毀誉褒貶の渦に揉まれる本なのであろう。明治から今日までの教授や助教授やそうは成らなかった、成れなかった人たちの名前が莫大に出てきて、何百と。その評価の辛辣さも、辛辣にやられている当人はさぞ苦々しかろうが、外野は手を拍つのかもしれない。索引を見ると、わたしの名まで出ているのでビックリした。ただし「教授」としてでなく、『慈子』を書いた「小説家」として引き合いに出されていた。有り難かった。

* 手近に、平成七年(1995)四月十六日 朝日新聞読書欄に、平凡社から出た『青春短歌大学』の「著者紹介」として、「秦恒平さん(59)」の大きな笑顔と共に出た記事のコピーがあった。むろんインタビューの記者が書いたものである。わたしはわたしの思うままの教授道を「幸福」に歩いていた。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋」という歌が、学生とわたしとのいわば合い言葉になって教室も教授室も働いていた。小谷野さんの案じる「不幸」からは方角違いに逸れていた。学生もそう思っていて呉れたか、その結論は出すのが早かろう。この記事ではとても尽くせていないけれど、『青春短歌大学』はよく売れて、一気に、全国の大学や高校や中学の教室で、また新聞雑誌で、同様の「虫食い詩歌」が教材にされたりクイズにされたりし始めたのも、微笑ものの、思い出。
本は、今は一冊分増補された「湖の本エッセイ」で読めます。

☆ 『青春短歌大学』 著者紹介 秦恒平さん(59) 朝日新聞読書欄
『清経入水】で一九六九年に太宰治賞。以来、独特の文体で王朝文学に通じるような物語を紡いできたが、この三年余、小脱の筆を断っている。「今やっていることに熱中するたちだから」。東京工業大学教授として文学の講座を持つ。「宮仕えは肌に合わない。けれども、これまで疎遠だった理工系の若者たちへの興味にひかれた。そんな大学生活をほうふつさせる長編エッセイだ。
表題の「青春短歌大学」は「学生を退屈させない」試みのひとつ。講義の冒頭、現代短歌を中心に取り上げ、その一部を伏せ字にして、穴埋めをさせる。例えば<ほそぼそと心恃(だの)みに願ふもの地( )などありて時にあはれに-畔上知時>。学生たちは、虫食い部分に適当と考えた漢字一字をあて、注釈をつけなければならない。原作では(位)だが、ほかに所、価、面、道、裁など、いろいろ出る。また、二文字を抜いた<生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ-大島史洋>。原歌では(幸)(福)だが、二兎、卑怯、明日、現在、過去、自分など、「いやはや、多彩」。
本論はむろん、文学の話である。「前期は漱石、後期は谷崎潤一郎。だから、このクイズみたいなのは、つきだし。学生には授業を聴きながら書きなさい、と。一方で私は『こころ』とか『春琴抄』について話す。でも穴埋め問題との関連はあるのです」。
「とにかく純粋テクノロジーの分野の彼らに、自分の言葉を探して培う習慣を持って楽しんでほしかった」という。自分の言葉で自らに問い、答えよ。そのあかしが答案で出席表だ、と。「真剣な自問自答の跡がみえるものは、その瞬間詩人になれていたと思われる回答は、原作とちがっていても、十分に正解。点はあげます」。
一字一語が、短歌の表現を左石する一種の創作体験は歓迎されたようだ。九百九十七人(学年の八割強)が受講を申告した学期もある。一-三年生を対象に講義に臨んだこの三年間に、秦さんの手元には原稿用紙にして二万八千枚もの学生の文章がたまった。文庫本大の一枚一枚の表裏が、米粒みたいな文字で埋まっている。
「【学生が何を考えているのかさっぱり分からない。彼らは自分を語らない】というあきらめの声を教授会で何度も聞いた。私の体験では、それはうそ」。学生の文章に「彼らなりの人生観」を透かし見る。「時に告解を受けてるみたいな印象を持つんです。あるいはディスクジョッキーへの投書かな。たくさんの投書がくる、あれに似てる」 「教師経験なしの私の実り多き無免許運転、小説家のありがたい楽しい道草です」。  (平凡社・一六八〇円)
2010 1・25 100

* 晴。冷える。

* 何処へ行ったかと思っていた兄・恒彦の著『家の別れ』(思想の科学社)一冊が、多分彼処にと思っていた其処で見つかった。
凝ったと謂うところだが、思い入れの濃い兄の作風で、むかし貰ったときも巻末の附録のような「家の別れ」一編だけ通読し、前の九割がたは、はじめのうちは読もうとしたが読みにくくて、以降ざっと頁を繰っただけ。
告白すれば、そしてわたしが言うのも猿の尻嗤いめくが、兄の書字がよみにくいように、兄の作風も文体もよほど馴染みにくかった。また書かれてある内容や世間も、わたしのよく知らない方面でありすぎた。いまなら、例えば高史明さんの名が出ていて、そのことに心惹かれて叙述を辿るのだが、当時はそれも出来なかった。
昨夜に本を発見し、就寝前の読書をみな終えた後で、最初の「ノート」だけを読んだ。ここだけは、北沢家のご両親や親族のこと、また兄自身の青春がすこし具体的なので、ま、読めるのである。
じつは、わたしはこの北沢家の大人たちとかつて会ったことも文通したことも触れあったことも無かった。あるべくもない事情に隔てられていたし、わたしにもまったくその気がなかった。
本は、「ノート」「本編」という二段構えの数編で進行し、最後に「家の別れ」が「あとがき」かのように置かれて、その末尾に突如わたしの名前が、『廬山』を書いた新作家の「弟」として現れる。まだ顔を合わせたことも、名乗りあったことも、ましてわたしたちが「あに・おとうと」かのように遠慮がちに初対面したより、数年も以前のことである。その初見は、雑誌「思想の科学」に掲載されていたもので、送られてきて驚いた。こわいものに触れるようにザッと読んだだけ。その雑誌は今見当たらない。単行本はもっと後年に送られてきた。

* 単行本『家の別れ』を以来数十年ぶりまた手にとって、(単文「家の別れ」は旧臘にプリントコピーで再読していたので、別。)「印象」はむかしのままであった。「小説」仕立てに「述懐」を添えた「論集」という造りで、それじたい手際のいいものとは思わかった、狭い世間での私的な「演説」のようにも見えた。つまりは触れ合いのすくなかったわたしたちらしく、知的理解にも情緒的にも、この本、接点がすくなかった。読みにくかった。

* ただ、旧臘読み耽った兄の書簡中に、「家の別れ」はそれなりに「秦恒平」論でもあるようなことを兄は書いていて、喫驚した。本一冊がそうだというのか、まさかそれはないとして、巻末の単文「家の別れ」がどのように「秦恒平論」なのか咄嗟には目の前へ指で渦を巻かれた心地で、いまも、よくは分からない。本をぜんぶよく読み直せば分かるか知らんと探していたが、手にとって、あらまし眺めてもやはり分からない。
この、「分からない」ところが「問題」だなと思った。この問題だけは、わたしにしか解けない。兄の子たちにもわたしの子たちにも、見当が付くまい。

* この兄が自殺したとき、わたしは「直観」的に葬儀に参列しなかった。「しのぶ会」にも出なかった。
個と個とで。兄はそういう「考え」だった。兄とわたしとは、顔はなかなか合わなかったけれど、幸いかなり文通やメールを通して余人のはかりがたい親愛を分かち合っていた。北沢と秦とではなかった、あまり幸せとも謂えなかった縁うすき親達の子、兄と弟、として終始し、余人をまじえなかった。

* 戸籍はどうなっていたか。兄のそれは知らない、少なくもわたしは、「吉岡恒」「深田ふく」の子であるとは戸籍謄本が記載しているが、吉岡家の戸籍にも深田家の戸籍にも入っていない。どう探索しようと戸籍上わたしに「恒彦」という「兄」は実在していない。恒彦の方でも「恒平」という「弟」は戸籍上実在していないはずで、誰の企んだ事やら、事実はそんな風に按配されている。わたしの謄本には、「父母ノ籍ニ入ルヲ得ズ」独立の戸籍が造られたと明記されている。
兄は、だから戸籍の縁のない「わたしひとりの兄」であり、わたしは「兄ひとりの弟」であり、兄の「世間」をわたしはまったく知らず、わたしの「世間」を兄もまったく知らないまま、「ふたり」の身内を囲い合って僅かな歳月を過ごした。
しかし兄は、自分の子たちとも付き合って遣ってくれと熱心にわたしに言ったし、わたしの子たちにも熱い気持ちと言葉とを、しばしばわたしに伝えてくれた。「小説」には間に合わなかったけれど、建日子の「芝居」はわざわざ劇場へ観にきてくれた。わたしも、甥の二人(恒・猛)とも、姪(街子)とも、愛情をもって兄と以上に頻繁に会っていたし、その仕事にも関心と声援とをいつも送っていた。わたしの妻は、黒川創(恒)が本を出せば近くの本屋からきっと十冊ずつ買ってやっていた。息子の秦建日子にしているのと同じように。

* それでも、兄とわたしとの世界は「ふたりだけ」で閉じられていたことに変わりはない。葬式に出なかったのも「偲ぶ会」を避けたのも、わたしにすればきわめて自然であった。兄の世間は、兄ひとりの世間として在ればよかった。わたしはよその人間であった。

* わたしの実父が死んだとき、記憶の限りただ三度目の顔を「死に顔」として見たのだった。しかもわたしは父の「世間」から、葬儀に出て「弔辞」を読んで欲しいと望まれた。実の子が実の父の霊前で「弔辞」を読む例が常例かありえない異例か、知らない。それは父が死んだ事実以上にわたしには衝撃だった。

* 兄の葬儀や偲ぶ会で、類似の衝撃に遭いたくなかった。兄とわたしとのことは、一時期、兄周辺で恰好の「噂・話題」になっていたと、兄の手紙の中にもあった。「家の別れ」以降、東京ででも、わたしはときどきその話題で、発言や述懐を求められた。つい、わたしの方から持ち出してしまうことも有ったのである。お蔭で、わたしは鶴見俊輔氏や高史明氏や小田実氏や真継伸彦氏との御縁を得たし、『家の別れ』にいきなり登場の桑原武夫氏とも話したことがある。だが好奇心に曝されやすい話題ではあった。わたしは「わたしひとり」の兄の記憶をよぶんな知識で混雑させたくなかったし、「識らなかった兄」を他人の言葉で過剰に押しつけられたくはなかった。

* つい先頃だ、ウイーンにいる甥の猛から、兄の葬儀直後に来ていたわたしへのメールが、「読め」た。完全な化け文字で手の施しようがないまま保存しておいたのを、ああやこうや機械を試みるうち、パッと日本字になってくれた。マカ不思議。
そのメールは、わたしから、ある「解きがたい不審」について尋ねたのへ、猛なりの理解でくれた返事だった。
「我々の家族の事情を知らない人は、兄弟の葬式に出なかった者と叔父さんをなじるかもしれません。しかし、自分にとってはむしろあの席に叔父さんの姿がある方が何か正常でない気がします。今回、葬式の時改めて感じたことですが、父は私が知らない世界を本当に多くもっていた。葬式に現れた殆どの人と私は初対面でした。」
こんなことを、この甥は書いていた。なんとなく分かった。
この数年後には姪から、「おじさんへの連絡はままならず、わたしも胸が痛みます。また、会いにいきたいけれど」と、事情のありげなメールが来ていたが、解しかねた。いまも解せぬままになっている。
2010 1・27 100

* 「畜生塚」という早い早い頃の作で、能「羽衣」にふれて「町子」という若い人が感想を述べている。その個所は読者の胸によく届いたとみえ、それが御縁でいまにも親しくしている方がある。
天女は漁師白龍に羽衣を返してと乞い、若者は天人の舞をみたいという。天女は羽衣が無くてはと言い、漁師は返せばそのまま天上するだろうと疑う。
天女は即座に「疑ひは人間にあり。天にいつはり無きものを」と答えると、漁師白龍は「あら恥ずかし」と即座に羽衣を天女の手に戻すのだった。町子は、それに感動すると宏に告げる。日本橋三越に、あのおおきな天女像ができて、二人はそれを観にきたのだった。

* 夜前の読書で志賀直哉の全集を読んでいると、まさしく上の場面、上の感想と、そっくり同じことを書いて、直哉は「羽衣」能のその場面では、泣きたいほどに感動すると、的確に。原稿用紙なら二枚にも足りない観能の感想であった。
直哉を読んでいると、時折このような共感の記事や叙事に遭遇し、感動する。嬉しくなる。

* 「畜生塚」の町子は、三越の天女像造像に「截金きりがね」の技で参加していた師匠の苦心を観に、昔のクラスメートの宏を誘ったのだった。
この町子と、ほぼ同じ道を歩んで、截金の技で国際的に名を馳せながら、若くして海外に客死したのが、人間国宝江里佐代子だった。
江里さんとはクラスメートでなく、わたしよりだいぶ若い同じ高校の後輩であった。この小説をわたしが「新潮」に発表したとき、江里さんはまだ無名だった。双方でなにも知らなかった。小説のモデルでは全然なかったわけだが、後々になって、両方でびっくりしたほど、小説の截金少女は江里さんに似ていた。
わたしは雑誌「美術京都」に、夫君の仏師江里康慧さんと夫人の二人を招いて鼎談し、その後、佐代子さんは選者のわたしの推薦で京都美術文化賞を受賞した。文化財指定は数年後であった。

* 小説のようなことも、やはり此の世にはある。
2010 1・28 100

* 鏡に映った自分は自分ではない、外の影でしかない、その影に、自分が見られている、眺められいると「思ってみよ」、それを時間にして何分間も、また日にして何日も体験してみよ、とバグワンはいう。
「とても奇妙な空間に入る。活気も得るだろう、とても怖くもなってくるだろう。大きなエネルギーが向こうから向かってくるのを感じるだろう。習慣的にそれを続けると、今まで外にいた自分が、中心に据わっていると実感できてくる」と言う。
たしかに異な体験である。

* バグワンの『一休道歌」にも、直哉の若い日の書簡にも、胸を躍らせる言葉を次々読み取り、すると快く興奮する。
読む本、読む本から、変わらずわたしは今も刺戟され、興奮する。未熟にまだ幼稚なのか、幸いにまだ思い柔らかに若いのか。
けっしてその興奮は不快でなく、嬉しいのである。おおそうかそうかと胸がはずむ。だから読書はいまもわたしの大きな楽しみで、ただし勉強しているなどとはいっこう思わない。それだから、楽しい。読んで、喜べた、刺戟を受けた、それが特別どう何かに役立つのでも何でもない、たんに素直に嬉しいだけ。ときどきここへ「書き出してみる」のは、嬉しさをだれかが分かち持ってくれるかなあと、よけいなことを思うから。ほんと、よけいなことかも。

* 生母ふくの遺品の中に、大阪中央放送局でつくって、短歌ラヂオ放送の「入選」「佳作」者にかぎり配布したものか、リボンで綴じた謄写版刷りの小冊子が在った。選者は前川佐美雄、第一級の昭和の大歌人で広く敬愛された人。わたしも生前に一度お目に掛かりまた文通もあって、母のこともかすかに覚えていて下さった。以下に、「選評」を筆写するが、稀有なほどの称讃を得て、「入選」三作の第一席に置かれている。前川さんほどの歌人に褒めて頂き、どんなに嬉しかったろう。母はこの当時、京都市醍醐の「同和園」に保健婦として勤務していたのである。遺品の中でも、ことに大事そうにこの冊子は厚い二つ折りのボール紙に包まれていた。

☆ 短歌選評   選者 前川佐美雄
大阪中央放送局 昭和二十七年二月二十三日放送

数多い投稿歌の中から 京都市伏見の阿部ふくさんの作を先づ選びました。

北満の曠野の墓碑にさす月を養老院に仰ぐその母

戦死したわが子を思ふ母親の歌です。この母親なる人は現在一人身となつて養老院に住まはれてゐます。 或る静かな晩 中天の月を仰ぎ見て、この月はわが子の墓、北満の曠野で戦死したわが子の墓にも射してゐるだらうと聯想せられたわけです。北満の曠野に果してその墓碑があるかどうか、又 それに月がさしてゐるか どうか、などといふやうなことは問題でありません。作者にとつてはそれがあるやうに見えるのです。ありありと眼に見えて来るのです。そういふ感懐を端的に 至極直接的に 簡潔な語で表現したのは立派です。三句「さす月を」と決定的に言つたのも効果的で 結句を「仰ぐその母」と言ふことによつて、墓碑はわが子の墓碑であることを自然に説明してをりますと共に、ここに品位が出、又餘情がこもつて一層感慨ぶかい歌になつてゐます。月による聯想 又は月に托して歌ふことは、歌を古めかしくしがちですが、この歌にはそれが少しもありません

* これは母がそのように「思い入れて」想像し創作して歌った一首であり、北満の曠野に戦死させた息子を持っていたのではない、あるいはその施設にそういう「母」なる人が身を寄せていて、介護の間に述懐を聴いて「代わりて」詠んだのだと思われる。ただし、戦時中に、次男・英作を若くして病死させた悲痛を母は体験していた。
ちなみにこの歌は、母の遺歌集『わが旅 大和路のうた」では、結語の「母」が「仰ぐその父」と置き換えられている。この歌にわたしは◎を付けていたのを今確かめた。

* 実両親のまるで「洪水」に首まで浸って、わたしは何かにつかまり堪えている。堪えなくてもいいのかも知れないが。
2010 1・30 100

* 志賀直哉は若いとき、大正五年四月のことだ、書簡で、友人の山内英夫(里見弴)に「不満」をぶつけながら書いていた。

☆ 志賀直哉の書簡から
僕は近頃手近なものから地道に実行したいといふ考を持ちだした。
悪魔派的な考を持つた平凡な人程下らない不愉快なものはない。偉い人間が平凡な道徳的行為に忠実なのは感じのいいものだ。

下から堅めていった塔は確かだ。
観念でビホウした行為で生活してゐる位不安な生活はない。一つ一つの行為に観念が必要になる。そしてそれは非常に感じの悪い行為になる。
手近なものから堅められて行つた行為は総ての行為に対し自づから或る正確な感じを持つ。観念的に行ふ必要はない。しかも観念的に行つた行為より遙かに正しく愉快なものになる。
以上は君(山内英夫)に云つてゐるが自分にもいつてゐるつもりだ。

* ここでいう「悪魔派」として、反射的に当時の谷崎潤一郎がありあり思い出され、思わずわたしは首をすくめる。

* 直哉のこういう姿勢を好もしく思う。好きな文学と人はと大学入試の面接で聴かれ、即座にトルストイの『復活』とネフリュードフ、志賀直哉の『暗夜行路』と時任謙作を以て答えた昔を思い出す。「男」が、ここにいる。
2010 1・31 100

* 夜中、京の菩提寺にもらっていた浄土宗の「正信偈」一冊を読んだ。
2010 2・1 101

* 大部の『今昔物語』が最後の一冊まできた。古典の中にこういう貴重な面白い説話収集のあること、感謝を禁じ得ない。


ある僧が師の百丈に尋ねた。
「ブッダとは誰ですか?」
百丈は答えた。
「おまえは誰だ?」

* 端的を極めて深刻。
2010 2・1 101

* 毎夜の読書で、プラトンの、いやソクラテスの語る「最良国家」の、理想の指導者・主導者は「哲学者である政治家」だと、いよいよ大著『国家』は説き始める。
ギリシアほど哲学の重んじられた文化・文明はすくない。ヨーロッパの中世、近世にしてなお伝統は哲学という支柱に負うていたように見受ける。

* 一年ばかり以前であったか、わたしは求めて「哲学史」を読んでいた、繰り返し読んだ。ただし「哲学」を求めたのではない。哲学の有効を疑いかけ、顧みて吟味したかった。
青年の昔、わたしは美学を介して西欧の哲学に近づいていったが、その一方で哲学が、生きる喜びや悲しみや励みに、死との当面に、本当に質的にかかわりうるものかどうかを、漠然と懸念がちに確かめてもいた。
懸念は年と共に疑念にたかまり、むしろ宗教の方へ気持ちを寄せていった。しかし宗門・宗派・教団に対する嫌悪感はつよく、しかし死生への深いおそれが日々の問題に置き換わってきていた。そういう実感があった。
バグワンとの遭遇は、そんな自身の日々に有り難かった。わたしは今もって彼バグワンの実像を、現実の行業を、ほとんど何も知らない。知らないまま彼の著述と向き合い、ひたすら聴いてきた。
理想の国家が「哲学者」により率いられるべきだと、ソクラテスがわたしを説伏するなら、わたしはそれも聴こう。たぶん異存はもつまいが、それはわたしの死生を思う思いとは別ごとだ。死生の問題で、わたしは哲学に頼む気はない。同時に、科学に頼む気もない。まして政治になど。

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
いにしえの寓話によると、世界を創造していた神のもとに四人の天使が近づいてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」と最初の天使が尋ねた。
二番目の天使は「なぜそんなことをなさっているのですか?」と尋ねた。
三番目の天使は「お仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」と尋ねた。
四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」と言った。

最初の問いは科学者のものだ。二番目の問いは哲学者のものであり、三番目の問いは政治家のもの、四番目の申し出は(職業的な宗教人ではなく)宗教的な敬虔な人物のものだ。
科学的な探究は、万物を客観的な目で観察する。客観的であるために科学者は身を引いたままいる。巻き込まれまい為に参加しない。科学者はどんな精密な顕微鏡を用いても論理を用いても、生命や存在の表層を知ることしかできない。科学の手法そのものが妨げになるからだ。
哲学者は憶測するだけ。けっして実験しない。哲学者は「なぜか?」を際限なく問い続ける。どんな答えが与えられても、更に「なぜか?」と問う。哲学を通しては結論に到る見込みがない。結論は下せない。不毛な行為であり、どこにも行き着くところがない。
政治家は世界を手に入れ、わがものにしたがる。暴力も厭わない。政治家が生に示す関心は、生そのものにでなく、自らが握る権力に向けられている。
宗教的な存在の関心は、尽きるところ「私は誰か?」だ。

* 鈍根のわたしは、まだ、なにも分かっていない。
2010 2・2 101

* 高橋英夫氏が、直哉集第二巻の中で、ラコニックな文章の典型的な成果に、『クローディアスの日記』を挙げていたのは賛成だ、この作は、『暗夜行路』や『和解』や『母の死と新しい母』らとならんでみごとな代表作の一つだと感嘆を新たにした。
ラコニアはスパルタの別称。ムダを極度に削ぎ落としてキッパリした文体・文章をラコニックと呼ぶことは知られている。日本語で書く作家で、これを最も徹底して美しく的確に魅力的書く、書ける、志賀直哉とはそういう作家。そうでない作家達のほうが遙かに数多い。
今日から第三巻に入る。全集を買いそろえて以来、二度目の通読中。

* ヘッセの『デミアン』を読み始めている。
ずうっと以前にこの作をどう思いますかと問われ、翻訳者のちがう文庫本を二冊、二人の読者から貰っていたが、なかなか取り付けなかった。気分のいい入り方ではなかった。妻など、気持ちが悪くてはやばや投げ出したと言う。今度はたぶん読み切れるだろう、たいした長さでもない。

* 長いと言えばロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には閉口し辟易していたが、しんぼうよくジリジリと読んでいるうち、「ザビーネ」の章へ来て、とても気持ちよく読め、いまは次ぎの「アーダ」の章に入っている。
ザビーネという子供のある若い未亡人の人と性格が、また彼女とクリストフの恋が、懐かしく悩ましく切迫してよく書けていた。
「変わった」という人の評し方をあまり好まない。「変わってる」と若い時分からひとに言われ付けてきてかなりコビリついている。しかしザビーネは変わっている、しかも静かな魅力がある。クリストフが惹きつけられるのも、ザビーネからも頑なしいクリストフに惹かれて行く気持ちも、よく分かる。恋愛を書いて、出色の懐かしい筆致に、わたしは感心した。

* 『春雨物語』は、「血かたびら」「天津処女」「海賊」「二世の縁」「目ひとつの神」「死首の咲顔」「捨石丸」と読みすすみ、同時に高田衛さんの『春雨物語論』もていねいに読み進んでいて、現代小説に雄に匹敵する新しさと厳しさと面白さとで、興奮の連夜。
どれがと一二の差がつけられないほどシャープに魅力が突出する。わたしは歴史ものが好きなので最初の三編に魅了される。しかしつづく四編の小説としての見事な破調の完成美にも脱帽する。
谷崎・芥川・佐藤春夫らが我を忘れ時を忘れて品評し合ったのもムベなるかな。
若い頃は若い才能の完璧なまでに整った雨月物語に惹かれ、いまはまた秋成のレイタースタイルの強硬な達成のちからに感嘆する。
文学と創作を志しながら「秋成、知りません」と言われたりすると淋しくなる。ぜひこの魅力を賞美してほしい。
2010 2・3 101

☆ 「神にまつわる知識をいくら蓄えつづけても、けっして神を知ることにはならない。」「宗教がひとたび教義(ドグマ)と化し、もはや体験でなくなってしまうと、ひとりでに死に絶える。教団だけが繁昌する。」 バグワン

* 「使徒行伝」を読んでいると初期伝道の支えに、イエスの復活、そしていろんな機会にイエスが使徒の前に姿をあらわし力を授けていること、昇天の後にも聖霊により多くの奇跡がユダヤ人や異邦人の上になされていること、伝道と云うことではペテロや使徒たちともならぶパウロその人も、キリスト自身による回心の奇跡のあったことをはっきり書いている。
これらも宗教の不思議な「体験」なのであろう、か。そしてやはり基督教への初期迫害は、異邦人から、より遙かに広く多く執拗にユダヤ人とユダヤ教から、あったことも証言されている。
基督教の初期教会が使徒と信徒達との熱い一種の共産共同体として結束していた様子も見えてくる。よくこれが広大なローマ帝国に浸透し瀰漫していったものだと、その体験エネルギーに感心する。
2010 2・3 101

* 夜前、いつもの本をみな読んでから、枕元へ父・恒(ひさし)の遺したノートや原稿の、六、七を持ち出し、目を通していった。
確言はまだ控えるが、父は、戦中からか戦後にか、理研の鍛圧工場の工場長をしていたらしい。その勤務上の、大げさに言えば覚悟や学習・勉強に宛てたノートが何冊ものこり、驚くほど生真面目に思索的・反省的で、云い方を新ためれば記述・記載に「現場臭」が殆ど無い。払拭されたように混乱が無く、整然と時には箇条書きに、メモ一つも乱雑ではない。現場の熱や矛盾や混乱や喧噪や殺気のようなものが、あまりにと言いたいほど止揚されてある。
戦後の共産党シンパなどの工場浸入により、激しい労使の混乱があって、結果的に工場は閉鎖され父は職を失い、しかしかなり執拗に回復を諸方へ歎願したり協力を求めたりしていたように感じられる。秦家から「3,ooo─」といった諸記録もことこまかに残されてある。失意の中で奔走にこれ努めていたと思われ、その間にも箇条書きで自分は何をすべきか、何が足らないか、こうありたいといった思索がくり返し書き留めてある。そして、なにらかの別の職をえたのかどうかも含め、まだ確認できないが、ほとんどすべてが結果的には「失意」「失職」さらには不本意で異様な「入院」などに到っている、らしい。

* ノートのほかに原稿用紙に整然と書かれたものも何種類もあり、整然としているのにどこか異様でもある。書かれてある内容はマジメである。勉強の下地もある。しかしこれにも現実と事実レベルにおいて揉み合い、組み合い、闘うといった臭みや熱が感じられない。本気なのかと読み手に思わせる。しかし、かなり本人は熱く本気なのである。でたらめな走り書きでは全くない。
昭和廿八年八月十五日付「終戦記念日」の「公開状」は、「世界平和促進研究会」と父の名とで、「日本共産党 残留幹部諸賢殿」に宛てられている。理路にせまって決してトンチンカンではない質問の数々も、共産党へのそれなりの訴求力と批評とを含んでいるが、どこかリアルでない。新橋駅前のような場所をえらび自分と党代表の一人とで討論しようと呼びかけてもいる。
昭和三十年二月十一日 これは昔の紀元節、戦後は建国記念日を意識したものか、「世界平和促進に関する 鳩山一郎氏に対する提案」とし、父の本籍地をそえた自署で、縷々訴えている。鳩山一郎は当時総理大臣であり、今日の現総理由紀夫の祖父に当たる鳩山一郎総理が、先年来「友愛革命」を提唱し主張していることにも触れ、かなり空しく、雄弁を振るっている。
昔から、真面目な人ほど、遠く力及ばないまま空しい雄弁に心身を鼓して残骸をのこすものであり、嗤うのはやすいが、それこそは猿の尻嗤いにひとしい。
父の場合、底知れぬ憤懣と失意とのはけぐちとして一時期、こういう雄弁を「抱き柱」にし、懸命に自己の足場を支えたかったのだろうと、そぞろ哀れにも感じる。
母ふくもそうであったが、父恒にも、信仰らしきものが、各所に述懐されていて、それも当然のようにフクザツに捻れ捻れ右往左往している。基督教の言葉がしばしば引用されているが、人間と信仰との間にかなり脹れた隙間も感じられる。
そして、方向を転じてどこかへ行くようだが、実態はわたしにはまだ見えない。そういう「抱き柱」がないととても不安定で立っていられなかったのではないかと、同情と共に想われる。

* 入り口に立ったに過ぎない、まだ。虚心に父の書き物を読み進めて行こうと思う。わたし自身の根を掘ったり洗ったりして、わたし自身が立ちゆかなくなる不安も有る。それは、だが、それとして。
2010 2・4 101

* 大正6(1917)年と推定されるが、月日不詳、未投函で宛先不明の志賀直哉筆の手紙下書きがある。よく知られた『和解』等の、父との葛藤を赤裸々に小説書いた頃、人からの手紙に返事するつもりであったらしい、そういう私小説を書くうえでの直哉の心構えをやや指導的に答えている。未投函。

☆ 御手紙どうもありがたう、
康子(=直哉夫人)も大変喜んで拝見したといつてゐました、涙がこぼれさうになつたといつてゐました、康子は和解は未だ見て見てゐません、初めの方を少しと仕舞の方少し見たゞけです、赤児の死ぬ所だの父との不愉快を想ひ出す部分などを見るのを可恐がつてゐます、
伯父の手紙の文句にあるやうに僕も何んだか時節因縁が来て出来た事(=父との和解)のやうな気がしてゐます、不和な関係でゐる人もまだありますが矢張り其時が来るまでは其儘で置くより仕方がないやうに自分でも思つてゐます、
自分が仕事を仕出すと近かい好意を持つてゐる人も仕事を仕出すといゝがといふ感情を切りに持つやうになります、旧い友達では園地も何か書くといゝがといふ気をよく起こしてゐます、
君にも何かいゝ物が出来るといゝが云ふ気を持つてゐます、少し調子がつき出すと次々とよく書けるやうになるかと思ひます、堅くなつて動けないやうな気持は随分閉口な気持です、或る時自由な気分が持てた時に其関を突き破つて小さい事にかまわず、書く所まで書いて了ふといゝ事があると思ひます、堅くなつて動けなくなる名人の僕がこんな事をいふのは少し変ですがそんな気がするので申します、
和解に対する、(作としても、又実際の事としてもの)君の御好意大変嬉しく思ひました、精しい事までは知りませんがお家の方の事も其内に総てがうまく行く日のある事を望みます、
和解出来るものがとうとう生涯和解せずに片方が死んで了ふ事は不愉快な事です、何方にも不愉快な事です、父との事も左うなるかも知れないと思つてゐた事でした。然し和解は無理にする事は出来ない事だから時が来るまでは仕方がないやうに思ひます、時だけにまかせて置けるとは思ひませんが、感情に無理がある間は仕方がない事です、
お家の事に何かいふのは自分でも恥じます、それ程でなくいつたつもりです、
其内お会ひしたいと思ひます、
旅をしたいしたいと思ひながら中々出かけられません、

* いい手紙だ。
2010 2・4 101

* 夜前も、父の遺していった手書き原稿の幾つもを読んでみた。
「サンタン紳士」とでも言わねばならぬほど、気の毒な惨憺とした人生であったが、独特の文体を持った知性でもあった。知性が父自身を苛み続けていた印象。
兄は、こういう父を知らずに死んだ。妹達は、こういう父遺文を読んではいまい、読まずにわたしへ回送したのだろう、それでよかった。読めば、生活を共にしていただけに、どんなにか辛いだろう。
わたしは。ま、わたしはこういう文書を「読む」のも「仕事」の内と思っている。言いようもなく苦しい体験をするが、それも私の人生。

* 厚着して出て、往きは汗ばんだが帰りは寒かった。ゆうべに、余り気味のミルクの冷たいのをたっぷり呑んだのが響いて、出がけから腹の中が不穏だった。西武の五階はきれいな手洗いが空いているのを覚えていて、ゆっくり使った。
街と乗り物で校正。池袋に戻るとあいにく西武線に人身事故があり待たされて、七時半に帰宅。持って出ていた亡父のノート一冊も読んできた。胸に穴の剔れる心地である。

* 母は実に強かった。父は実にひ弱かった。どちらも親類縁者から圧倒的にはねのけられていた。しかし母は狂者のように罵られもしていたが、やり遂げたことは健常で、根気強剛だった。父はかなりの知性であるが、どこかバネが緩んで平衡を失して敗残視野に甘んじていたように思われる。
いまのところ、わたしは母をあはれとは思わない。昂然と生き抜いた。父は相当に気の毒な落伍者だった。世間や周囲にそうさせられた気の毒さもあるが、それに負けて尻尾を巻いたあはれさ。サンタン紳士だ。

* 難儀なことに、兄恒彦もわたしも、この両親の子なのである。兄は死んでしまった、自らの手で。わたしは、どうなるのだろう。
2010 2・5 101

* ゆうべも、二時頃まで。本を読み、父の遺していたノートを読んだり。
冷え込む一夜で、煖房が消せなかった。糖尿のセイらしい、足先が氷の用に冷え切って痛いほどだったり、カッカと熱く火照ったりする。きのうは、右も左もときどき脚が攣って、堪えてはやり過ごしていた。症状のおさめかたをやっと覚え、以前のようには攣るのを懼れていないが、自転車の時は怖い。

* 今晩は、食事をおさえた。校正の仕上げをほぼ果たした。発送用意をあらかじめ早めにしておかないと、ゲラの進行に追いまくられてしまう。
2010 2・6 101

* 夜前、きまりの読書をぜんぶ終えてから、枕元に風呂敷ごと積んだ、父・吉岡恒の大学ノートや原稿用紙記事の全部を、判明の限り垣間見える日付などを頼りに年次等のデータを確認して行き、並べられる限り資料としての順番を付けた。データは昭和二十七、八年から五十二年頃に及んでいたと思う。
職場・職掌・組織や人事にかかわる記事
起業・事業・組織や人事にかかわる記事
基督教を初め宗教にかかわる学習や述懐や苦悩や信仰の記事
生家吉岡家と肉親・親類にかかわる記事
人生の在りよう、覚悟・反省・分析等々にかかわる主観的・概念的・箇条書等々の記事
自身の経歴から得た挫折や苦悩や敗北や後悔や憤怒や私怨等々の記事
共産党や鳩山一郎らへの各種の公開状や権限や非難・批判等々の記事
二度に亘る異様な入院記事
二人の娘姉妹にふれた記事
女の記事
最晩年の恒平とかかわる記事
各種のエッセイ、準論攷的な原稿等
これらを通じて、その九割がたには、曰く言い難い一見整斉、しかしその端然とした言句・言説に籠もる執拗で激越なほどの反省癖には、肌に粟を生じるものがうかがえる。
マインド、マインド、またマインド。分別の度の強度にして執拗なこと、時にはっきり病的である。そうしたものが、私の太宰賞受賞の以降は、がくりと硬さが砕け落ちたようになり、しかし、同時に急速に、うら悲しいほど、分かりやすく謂うと「老い」「諦め」を加えて行く。それでも、其処へ来てやっと読んでいてもホッとする。

* つらいのは、これが明らかに私の父親であるだけでなく、間違いなく娘や建日子や、また北沢の甥二人や姪の祖父であることだ。
兄恒彦は、こういう実父の内面を全く知らぬまま死んでいった。また母の苦闘も、多くは知らぬままだった筈。しかし、知る知らぬに関わらず、血は流れている。私の覚悟して見る限り、ここまで老いた私は別にしても、若い孫達からすれば流れてきた血に負う幾らかは、或る面は、かなり意識してそれと闘わねば済まないだろう負のちからを帯びている。それを私は、やはり重く強くいくらかは懼れる。祖父や祖母を果敢に乗り越え時に克服して生きていってもらいたい。
今は、そういうことを考えている。
2010 2・9 101

* 夕方から晩へ、とても寒くなるという。

* 「クリストフ」の成長軸に巻き付くように何人もの女性との出会いが書かれている。ザビーネで、わたしの胸も波打った。いまはアーダ。
ロマン・ロランの洞察の広がりと深度とに、さすが、感銘を新ためている。ヘッセの『デビアン』は、旧約聖書の底ぐらい波に巻かれて行くよう。
『春雨物語』は、最後の雄篇一つをのこしてみな読み直した。高田衛さんの「論」もとても興深く教えてもらえる、新約の『使徒行伝』に『総説 新約聖書』が必須の道案内であるように。
山本健吉さんの『芭蕉』は、山本さんの風貌や謦咳を懐かしみながら、さすがの筆致と観察とに優しい鞭をいただくように読み進んで行ける。ありがたい。
『今昔物語』世俗編の深処に踏み入っていて、凄みを感じる。
バグワン『一休の道歌』にも鞭撻される。
直哉の第三巻では好きな「好人物の夫婦」に入った。書簡は第二巻。
谷崎の「きのふけふ」は、親交あった中国文人を谷崎ならではの悠々の筆致で語りついでいる。特装の手ざわり柔らかい大判の和本で読むのが気持ちいい。
プラトンの『国家』は下巻に。
『もののけ』という研究書も興味津々で。そして小沢昭一さんの『昭和のわた「史」』にも引き込まれている。
そうそう三好徹さんに戴いた坂本龍馬の文庫本も読み始めています。
2010 2・10 101

* 独居していた実父・吉岡恒の誰にも看取られない死は、昭和五十八年(1983)一月二十五日、午後七時頃であったらしい。妹から電話で告げられたのは翌日であったと年譜は記録している。
わたしの手もとにある限り、父の遺した、日付のある手記で最後のものは、コクヨの原稿用紙にあれこれ断片的に書かれた末の、「昭和五十二年十一月十六日深夜」のもの。
「ついにペンが持てなくなってしまった」とある。その後死去まで五年余が経過するのでその間のことは何とも言えないが、この原稿用紙束の一冊が、事実上の「遺書」を成している。それもよほどの年月に断片的に書き足していたものと見える。
これより以前の原稿用紙束以来連続または断続して父は般若心経をくり返しくり返し筆写し続けていたが、最後の一冊へ来てすぐ、年次不明の「四月一日」には彦根高商卒業後四十数年めの「同窓会」がある、「思案の末出席することにした」と書いている。記事六行に過ぎないが、無視できない述懐が添っている。
そして間隔は不明だが「一九七三・五・二七(日)」の日付を持って、曾野綾子さんの旧約「ヨブ記」に就いての「小論」へ二枚半の感想を述べている。曾野さんがヨブを語られていたのは記憶がある。わたしも「ヨブ記」を読んでみたいとその時思ったことが、『旧約聖書』全部を通読した遠い動機であったろう、しかも文語で書かれた「旧約・新約」の一冊本聖書は、妹を介してわたしへ手渡された、此の父の遺品であった。

* 相次ぐ幾つかの断片的な記事のなかで、父が「現在、齢六十三才である」としてある二枚半は、一九一一年二月十一日生まれ(おお…。気付かなかった、今日こそは亡父誕辰九十九年である!)から一九七四年(昭和四十九年)と察しられる。
さらに月日を、あるいは歳月を経て突如、「暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした」とわたしの名前が出てきてビックリする。一連とも見える記事がきれぎれに断続して、「ついにペンが持てなくなつてしまつた」と書き出された或る日一枚足らずの原稿用紙には、恒平が「会いに来た」とある。
昭和五十二年(1977)七月二十九日、「川崎で父吉岡恒と食事、あと上の妹の家族と会う。父とは、『阿部鏡』の『取材』という意識に固執していた。この頃までに『秋成』五百六十枚ほども『母問い』探訪と同時進行していた」と、わたしの自筆年譜が記録している。
父は最後の最期に「恒平」の名を二度明記したまま、さも「遺書」を結ぶかのように、自身を含む「吉岡家」九姉弟の現在姓名と現在二十三人の子女の名前を明瞭に列挙している。兄北沢恒彦にも、私・秦恒平に対しても、まさしく、おまえたちは吉岡家に属する一員であるぞと言い含めているようだ…。

* おもしろいというか、奇異なというか、この最期の原稿用紙束のいちばん最期には、何故かしら、現在の鳩山由紀夫総理の祖父である鳩山一郎当時総理に宛てたらしき書簡が、半端に、書き残されている。同趣旨の(同じものかも知れない、また実際に投函されたかどうかは不明な)書簡下書きが、「昭和三十年」の正確な日付をもって残されてある。この或いは絶筆かもしれぬ原稿用紙記事、こう書き置かれている。

☆ 昭和三十年二月七日附朝日新聞ロンドン特派員森氏の
日ソ交渉アジアの將来に重大影響
平和共存へ第一歩 日本人の決意次第
の記事を讀んでこの手紙を認める気持になりました。
私は以前東京に在住、終戦以来の閣下の動静に少なからぬ関心を抱いて参りました。
昭和初頭の京大瀧川事件とそれについての明鏡止水という心境の表現も忘れることはできません。しかし何といつても組閣寸前の追放とそれにつゞく不予の病魔に倒れられ(た)二事件でした。追放事件はまだ御健康の時でしたから必ずや内心甚だしい不満と焦慮をもつてその謀略性に痛憤せられたであろうことは拝察に難くはありません。その後追放解除後、吉田前首相の閣下に寄せられた処遇が甚だ予期に反し非友誼的でありました処に、計らざる病魔の襲うところとなられました。まことに痛嘆の極みであつたことでしよう。

* 早くに残されていた原物は相当長編で、目的は何であったか読み通していないが、父は、縷々何事か述べていた。
以来二十余年経て人生の最後の最期に「絶筆」然として、萎え衰えた精神状態で、何故にこんな古証文をまた書き起こそう、或いは書き写そうとしたのかわたしには分からない。いま、孫の由紀夫氏が民主党を率いて国会に圧倒大多数を擁して総理大臣であることを知ったなら、この父は、何をおもうのであろうか。

* 一つ、笑うに笑えないのは、父が壮年期の、上の筆致である。飛躍などものともしなかった生母ふくの筆致は兄恒彦の難読・難解な筆癖に流れていたなら、実父恒の律儀に組み立てて行く反省的な文の性質は、かなりわたしが受け継いできたのかも知れない。
そして感慨を深くするのは、最晩年絶筆時期へ来ての父の文章が、字は相変わらず整然と正しいが、まるで硬い骨が砕けたように或る意味で自然な、或る意味ではぼろぼろと口からものの零れるような平淡・無飾に変わっていること。思いを添えてなだらかに読み取って行きやすいこと、である。

* 最後の原稿用紙束二冊のうち、先の一冊に一度、後の一冊に二度、わたし「恒平」の名とともに書いた記事がある。何故か、兄「恒彦」に触れた記事は、数十点の文書やノートに一度も出ていない、まだ少年の恒彦に宛てた手紙が大昔に一、二あり、「家の別れ」に兄は書き写していたけれども。

* 以下三点、わたし「恒平」に触れて父が書いた記事を、秘して置きたくない。この「闇」に言い置きたい。
一冊めの殆どが、般若心経をペンで書写して埋められているが、ほんのところどころに吐露した苦渋の述懐が含まれている。その中にある。

☆ わが子恒平は「罪はわが前に」と題して、母を喪つた子の物語を書いた。美事に赤子のまゝ力づくでわが両親からもぎとられて、不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた実子である。かくも痛切に母を恋い、実子に恨まれてみると、何だか自分も(自分の=)父を憎んでも不思議でないという気がしてくる。  (後略)

* この一冊中に般若心経は二十回余筆写されていて、最終葉には、こうある。
「一九七四、一二、二八   一文を草する積りが何も書けなかつた。そんなはづはないと思いつゝも事実なにも書けなかった。苦しいことだ。」
また、
「一九七五年一月四日
「この道や行く人もなし歳の暮」
「世間是非憂楽本来空」
「出家遁世の本意は、道のほとり野辺の間に死せんことを期したりしぞかし」
「全托、忍耐、信頼、誠実」
右の四句を今後の信条として生きることにきめたい。」

* 筑摩書房から書き下ろし『罪はわが前に』を出したのは、昭和五十年(1975)九月。これに徴しても、さきに「わが子恒平は」と書き起こした記事は、上の最終葉の二つの述懐より少なくも小一年も以後のものと読み取れる。だがそんなことは、そう問題ではない。それよりも『罪はわが前に」は、父の母のというような血縁よりも、はるかにわたしのいわゆる「真の身内」が自分には大切であったし、
今もそうだという切望の小説であったこと、気の毒に、父は作の動機を当然のように看過していたようだ。
それはそれ、事実父親である人の筆で、「不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた」わたし・恒平であったと証言されているのが凄い。

* 次いで最後の最期の一冊も多くの般若心経で埋められたうち何カ所か記事があり、筆致は、格段に投げ出すように、吐き出すように自然体に変わっている。「恒平の要望」とあるのは、たまたま父からの電話口に出た時に、現在のグチよりも事実有った過去を書きおいて呉れてはどうかとでも押し返したのではないか。

☆ (前略)  現在、齢六十三才である。考へて見ればよく家名をきづゝけた罪人である。一体吉岡家の家名とは何であろうか。どれほど守るに値する宝玉なのだろうか。巨億の価値があるとして、一体どれほど損害を与へたのだろうか。年上の女性に恋をしたことが悪いという。しかし結果において死んでしまつたし、生れた子供は両親の意志を一切無視して、捨て子同然に処分したのだ。そして罪名だけが今も残つている。  (中略)  家名  それは国法にも何の根拠もない空名なのだ。空名のため重大な心理的暴力を加えた方が正しく、受けた方が罪人とは一体どこに根據をおいているのか知りたい。  (後略)

☆ 暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした。何から書いてよいのかいまのところ見当もつかない。自ら誇る何物も持ち合せてもいないし、苦汁に満ちた過去の連続であり、正直のところペンが頗る重い。嘘は書きたくない。すべてを真実で埋めれば一番よくかつ望ましいが、一族縁者、友人知己がいろいろと言うだろうことは推測に難くない。その苦痛を押し切り自ら堪える覚悟がなければ書き綴る意味が失われる。これが一番苦しいところである。   (中略)  一切を投げ出して「内からの働き」に委ねて書くことゝしたい。
一言でいえば、私の生涯は女難の一生であるのかも知れない。  (後略)

☆ 苦しい一生だつた。悲しい生涯だつた。無益な生き方だつた。人間が定めた倫理や道徳に拘束された空しい今生だつた。  (中略)  男女の結合は恐ろしい。すべては偶然の所産であるのに、結果の責任は自己に帰する。これは業、カルマの故であるのか。所詮は空しいの一語につきる。
私には子供が四人いる。恒彦、恒平、*子、**子である。名前が示す通り前の二者は男児、あとの二名は女子である。
男児の母は阿部ふく、女児の母は(妻=)**である。

☆ ついにペンが持てなくなつてしまつた。理由はわれながらよく判らないが、日毎の思いが過去の苦汁に悩まされているためである。
すべてを忘れよと自己鞭撻をするのだが、あまり効果はない。
いく十年も会い見る機会がなかつた、というよりも会うことに苦痛があり避け(て)いたというのが本当だが、向うから理由は判らない、が会いに来たのが恒平である。
最近エディプス・コンプレックスという本が出ているが讀んではいない。恒平も自分も仝じコンプレックスの持主ではないかと思う。

* これが、丁度九十九年昔の今日紀元節に生まれていた父親の(今目にしうる限りの)絶筆であり、私への最初で最後の「批評」である。
ちちのみの父に相見(あひ)しは三度なり
三度めはあはれ死にてゐましき    恒平
昭和五十八年(1983)一月二十五日、逝去。満七十二歳にわずか到らなかった。いまのわたしより、妻よりも若かった。
想えば、母ふくは、強健だった。
父は母との出会いを「恋」と書いているが「偶然」の所産で「不運な失敗」とも書いている。母の方は、肉親の姉から詫びを強いられても、父との出会いは、封建的な時世の強圧をはねかえした人間的な自由の達成であったと、ガンとしてはねのけていた。父の突然の失踪に狂乱した母が生まれて間もない乳呑み子のわたしや兄を抱いて父の実家へかけこんだとき、母にはわたしたちを手放す気はなく、子供を預けてその場から離れたのも、むしろ父を返せとの談判だったに相違ない。

* この二月には、法廷はあるが、これは代理人にお任せ。あとは歯医者へ通うしか予定がない。珍しいほどカレンダーが白い。
2010 2・11 101

☆ 重たそうな空でしたが、とうとう降り出しました。
昨夜も激しく降っていて、雨音が、肩こり頭痛に響きました。
マッサージ棒を使い、せっせと肩と背中をほぐしていますよ。
風、がんばっていますね。次回配本、楽しみです。
その前にも、花の手元には、読みたい本がいっぱい。
『雨月』は、何がいいとか悪いなどという話ではない感じがします。勧善懲悪ではない。
「蛇性の淫」は、溝口健二のとは、ずいぶん違うのですね。「浅茅が宿」と混ぜたのでしょうか。
大蛇でも、美しい人に見えるなら、いいんじゃない、と思いましたよ。
子供の頃、「牡丹燈籠」のテレビドラマを見て、幸せならいいんじゃないの、と思った花です。
さてさて、風ががんばっているのだから、花もがんばらねば。
風はお元気ですか。 花

* この「幸せなら」「いいんじゃない」説は、「美しい人に見えるなら」というのとは違う意味でだけれど、「あはれ」という感じから、じつは、昔からのわたしの「思い」に重なる。
信田の森のうらみ葛の葉の話を知ったときに、「花」さんと似たことを思った。「蛇性の淫」は怖い話だが、かすかに女の気持ちに身を寄せた。清姫の伝説にもわたしは『墨牡丹』はじめ何度も同じ感想を書いてきた。室町時代のものである「狐草子絵巻」を読んだときも、「いいじゃないか」狐でもと思い、小説に書こうと思ったことがある。
『清経入水』もそうだが、そういう思いを最大に結晶させたのが『冬祭り』また『四度の瀧』だった。差別に反対する根底の思いにも、これが相互に感化し合っている。

* 差別といえば、その観点からの小谷野敦さんの新刊『天皇制批判の常識』が贈られてきた。心待ちにしていた本である、これはこの前の『文学研究という不幸』よりも積極的・現代的な提唱になっているだろうと期待している。自身の思いもまた新たにこの本で砥石にかけてみたいと思う。

* 講談社で「群像」編集者や出版部部長をされていた徳島高義さんの『ささやかな証言 忘れえぬ作家たち』も頂戴した。「鬼」と称讃された大久保房男さんの薫陶を受けた方、わたしに「秋成」を書き下ろしの小説にと熱心に言って頂きながら、期待に背いてしまった方である。写真も入っていて、先に読み始めた妻の感想では「とても、おもしろい」そうで。
編集者の作家「証言」が途切れなくつづく気がしている。編集者も御苦労だが、書かれるかも知れない作家の方も首筋が寒いだろう。
2010 2・11 101

* ずいぶんたくさんな枚数のコピーを取っていた。欠かせない通過儀礼。
その間に高田衛さんの「死首の咲顔」の説を読み進み、とてもおもしろく興深くしかも理に適って説得された。愉快だった。この小説は初読いらい胸に染みていたし、「西山物語」でも「ますらを」でも読んで、いわば複線で話を脳裏に引き込んである。五蔵・宗、宗の兄元助に母、五蔵の父五曽次と母。人物も関係も躍動している。五蔵をどう読むか、随分人により差の出ているのに驚くが、五蔵を優柔不断なとは思ったことがない。秋成はそう想われてしまう男を書いて読者を翻弄するヘキがある。
はなからわたしは五蔵に心惹かれていた。宗にも元助にも母親にも。高田さんも言われる、「こんな小説を書ける人が、秋成以外にはたして居るか」と。同感。高田さんにはほんとにいつも嬉しい刺激を受ける。
2010 2・11 101

* 昭和四十三年から五十二年までの「思索」と「試行錯誤」と「苦難・挫折」の父の歴史を、ほぼ順序を追って頭に入れた。ラクな仕事ではなかったが、何も知らない知らないと思い、それでも構わないと思っていた人の晩年を、十六、七点の原稿用紙束や大学ノートなどでほぼ確かめ得た。
強制的に入院させられていた中で、父は読売新聞「時の人」欄を介してわたしの太宰治賞受賞を知っていた。作品への言及はないが、新聞の切り抜きもノートの中に挟まっていた。
たいへん有り難く貴重に感じたのは、末の妹が父に堅固に厚いノートブックを贈り、手紙を添えていあったこと。
「お父さんに捧げます。  エホバに依頼む者はさひはひなり 詩篇34・8」と最終頁の下に小さく横書きされ「1972 1 21」の日付がある。手紙は角封に入り、父は大切そうに後ろの見開きポケットに入れていた。成人したばかりの妹は、じゅんじゅんと父にむかい敬虔で熱心な信仰をすすめていた。
ノートは、父が退院後に用いられ始めた。たとえ人の文章でも共感すれば父はペンをとって、滔々とそれに関して書いている。
時に人の文章か父の文章か迷うことがあるが、やはり父の文章であり、関心は世界平和であり社会問題でありなによりも宗教問題であったと見受ける。定稿に到らない文には「参考」の二字を頭に置いている。下書き・初稿の意味のようだ。この娘が贈った例外的にシッカリした分厚いノートブックにも、先ず、ガンヂー「手つむぎの生活」にかえれの趣旨で「参考」としながら大きなしっかりした字で四頁びっしり書いている。社会問題のいわば「動機」論である。
次いで、「昭和三十年二月十一日 建国記念日」に書かれた「鳩山(=一郎)首相に対する提言」を書き(写)している。自負の文らしきを父は、煩を厭わず何度も書き写している。これは前後ぎっしり十六頁分もある。
さらに「参考」ながら「宗教界の指導者へ」と題し二十一頁にわたってやはりぎっしりと論攷している。論評は、控える。
このノートは、これでほぼ五、六分の一が使用されて、以降は白い頁の儘になってある。そういう例は、他にも少なくない。

* 父は、戦後、理研で、鍛圧の工場長をつとめ戦後の労使問題でよほど苦労したようだ。父の記録類には、そういう企業や現場や組織内での関心や悪戦や慨嘆や仕事の工夫に関連した記事も相当あり、しかしながらこの世界からは、解職・失職・再起の不成功等で挫折の失意へ沈んで行く経過が観て取れる。
重要なことは、それより以前に、幼くして生母に死なれ、父と継母との日々、二腹に生まれた多くの姉妹や弟との生活に容易に親しめなかった体験が下敷きになっていたし、それが、彦根高商時代、兄恒彦や弟・わたしの母との、父から言わせれば「悪運」の出逢いと恋の破滅へ繋がっていた。神戸商大への合格も振り捨て、父には波瀾と出征の時期があって、そして先にいう妹たちの母親との結婚生活。それも苦しく病んだ妻との不幸な事実上の訣別になるなど、私生活も職生活も帯同してかなりサンタンたるなかで、廃嫡・相続放棄も受け容れたようだ。そのことは、わたしが作家生活に入って幼時以来始めて父の生家を訪れた時に、叔父夫婦から先ず話を聞いた。父と娘二人の住居と経済生活とは、よほど辛かったらしいと父の筆は歎きながら、自然に信仰ないしはそれに準じた関心や行動へ傾いていっている。
たしかに信仰や基督教や神秘主義への傾斜が読み取れてくるが、父のそれは、どうしてもこうしても思索・思弁・反省的で、分別で臨んでいるので、言葉・思考にひきずられて、まさしくマインドで思議し続けていた。だから苦しみは増しこそすれ、少しも緩むことなく失意・失望のまま最期にまで到ったように想われる。
その点、妹たちの基督教に深まる真実は一家をあげて熱烈であるようだ、わたしも、ときどき妹に叱られることがある。

* 母の娘、わたしのいちばん年上の姉に貰っていた手紙は、妻が機械に書き写してくれている。かなりの量であるが、妻は姉の文面の親しみ深く心優しい穏やかさに惹き込まれているらしい。姉が存命の内に、機会が有ればまた逢いたいと何度も書かれていたのに機会をみな失したのは、今になれば心から惜しまれる。
2011 2・12 101

* 小谷野敦さんの新刊『天皇制批判の常識』は、例の如くよく調べてあり、けっして怪しげな議論ではない。文章が静かに美しければ、「名著」と珍重されていいほど問題点を網羅している。遺憾ながら、作風でありやむを得ないが、大道藝でまくしたてる調子になるのは、だから読み安くもあるのだけれど、かなり勿体ない。惜しい。しかし、おもしろい。関連の知識が欲しい向きにはうってつけに、観点は網羅されている。
臼井吉見『安曇野』第五部の後ろの方で、重厚にいろんな師表たちの「天皇」にふれた発言が読めた。有り難く読んだ。この最近のことであった。いろいろに、この後も、もはやタブーのようにでなく議論されるだろう。天皇と天皇制とは、似て非であり、非は非としても似た問題を孕む。へんに慎重に皇居のまわりをジョギングするような議論ばかりでなく、本質を直観で裁断するほど説得力のある主張や討論が望まれる。小谷野氏、膂力あり、要望によく応えている。
2010 2・13 101

* 久しくわたしは誤解していたと思う、志賀直哉全集を読み返しながら、例えばながらく気に留めなかった「クローディアスの日記」が直哉作の五指のうちにはいるべき秀作だと気が付いた。また「赤西蠣太」をわたしは軽率に軽く見過ごしてきたが、たいへんな秀作で実におもしろい直哉作風の結晶であることにも気付いた。「氾の犯罪」もそうだったが、「赤西蠣太」の確かさ・面白さには眼の鱗が落ちた。直哉の文体・文章、把握の強靱と表現の的確・適切がみごとなハーモニイを成している。申し訳ないことをしてきたなと思い、気が付いてよかったと思う。
映画で北大路欣哉が主演していたのをおもしろいと思っていた。それに誘い込まれ、しかし読んでいるうちに映画より遙かに文学の方が優秀でおもしろいと判った。収穫。

* 山本健吉さんの『芭蕉』にも最良の食事を喜んでいるときのように惹きき込まれている。美事な句を、より美しい筆致で説いて下さる。広末保さんの『芭蕉』はやや概念的でゴツゴツしたが、句に即した山本さんの鑑賞、さすがに身に染みて懐かしい。
「談林時代」の  此梅に牛も初音を啼つべし  夏の月御油より出て赤坂や  蜘何と音をなにと鳴秋の風
「『虚栗』時代」の  枯枝に烏のとまりたるや秋の風  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉  櫓の聲波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ  髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ  世にふるもさらに宗祇のやどり哉  馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
「『野ざらし紀行』(『冬の日』以前)の  野ざらしを心に風のしむ身哉  猿を聞人捨子に秋の風いかに   までを読んできた。やめられない。

* 小谷野敦さんの呉れた『天皇制批判の常識』は、萬遺漏無くというていに快調で、たくさん教えられる。
これに触れてふと思い出される、土佐の後藤象二郎が名を挙げた大政奉還をすすめる建白書の冒頭に、「天下の大政を議定する全権は朝廷にあり。則ち我皇国の政度法則一切万機、必ず京師の議政所より出づべし」とある、あれがいわば明治にはじまる「天皇制」の、欽定憲法より先立った事実上の起点ないし基点になったのではあるまいか。この建白を、徳川慶喜は時勢に身を潜らせるように遂げたのだった。

* もう一つ、胸を痛めるほどに読み取ったソクラテスの、若い魂を憂え国を憂えた弁論を聴いているのだが、もう少し気持ちが落ち着いてから紹介しよう。
2010 2・18 101

* 春雨物語、おしまいの「樊噲」まで読了。目当ては「樊噲」だった、張り扇の聞こえてきそうな快作であり怪作であり傑作であった。もう一度、晩年の秋成文献をいろいろ読んでみたいもの。

* なんとかしてソクラテスの弁論を通じて、いま日本の大衆なり似而非知性がどのようにひどいミスリードを敢えて自分たちの国にしているかに言い及びたいのだが、まだムリか。
いま岩波文庫のうしろの広告に、「壮大な比較文化史」の仕事としてヴァールブルクという人の『蛇儀礼』の出ているのに気が付いた。そういう仕事がぜひ大切だと、以前にペンのアジア・太平洋の国際会議で演説した。読んでみたい。岩波文庫を置いている本屋がすくない。
2010 2・20 101

* 夜前、三好徹著『誰が龍馬を殺したか』を読み終えたときは、肌に粟を生じていた。想いもよらなかった「深層」「真相」が炙り出されていて、それへ至る用意周到の推量から核心への経緯は、この著者ならではの大胆と細心との筆づかい・資料の駆使で、ついに脱帽した。この種の推理の代表的な傑作ではなかろうか、ふつうはあまりわたしの興味をもたない材料だが、やはり内心深く惜しむ「龍馬と中岡との最期」だけに、ま、読ませてもらおうと読み始めた。
花も実もある嘘八百と「小説」を見極めている著者のてのひらに、すすんで載せられて行って、肌に粟立つ満足を得たのだから、頂戴した三好さんには遙かに敬愛の謝意を捧げる。お元気で、と心より願う。

* 今一つ、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が大きな跳躍点へ到達した。
わかりよくいえば、音楽の天才に恵まれ、かつ真摯な個性と繊細な感性によほど誠実なクリストフ少年が、内にも外にも悩みや喜びにふれ、母に始まり、僅かな友や数人の女人との邂逅から、失望や悲哀や有頂天の喜悦やどん底の苦悩を味わう青年になりゆく。
そしてまたも過酷な失恋の前に、生きの方途を見失った哀れなクリストフと、老い衰えながら行商の境涯にも人間味を蓄えた一人の叔父との、「大きな」対話で、そう、この超長大な小説の、ほぼ前半四分の一が過ぎゆき、更なる次の世界へと物語は跳び超えて行く、らしい。
辛抱よく、じりじりと読んできた。一夜に十行、二十行としか進まぬことも屡々であったが、そういう読み方をするから、ここまで読み通せてきて、有り難いことに大筋の理会に「狂い」「迷い」が出ないのである。

* なにしろ就寝まえに、次から次へ十五冊も十七冊も読み替えて行く。
もし『ジャン・クリストフ』だけの読書であったら、とうの昔に投げ出し断念していたことだろう。
『旧約・新約聖書」ほどの超大大冊にでも、全く同じことが謂える。
『ファウスト』はこの読み方で、たてつづけ三度読み返した。
『日本書紀』もみな読み切った。
『今昔物語』も、もうすぐすべて読了する。
ホメロスや馬琴やトルストイの大作達も、こうして難なく読み通してきた。源氏物語などは音読した。
読書の好きな人には、わたしはこの「多」讀を奨める。雑なようで、じつは密に読めますよ。

* 小谷野敦さんの『天皇制批判の常識』も、わたしは大勢に奨めたい。ここから、自身自らの意見を創られればよいと思う。突貫する筆致は手荒いが、読みやすい。なによりも、それでいて論点の押さえ方は手堅く、広く、たくさんたくさん頷く人が多かろうと思う。
2010 2・24 101

* 生母ふくの手記の中に、戦時中、天理病院で「総婦長」を務めたことがあるという記事があり、「オイオイ」と流石に眉をこすっていぶかしがった。いまの天理病院ではない、もっと小さかった時期の病院とはいえ、「総婦長」とはただごとでない。わたしは勤務の昔に何人もの名だたる総婦長を見てきている。院長・事務長・総婦長が病院管理の三役である。
ところが、まんざら眉唾でなく、今日読んだ岡谷実という当時の「病院長」による「阿部ふくさんの思い出」を綴られた私への手紙では、自分が総婦長職についてもらったと、はっきり書かれていて、びっくりした。
もっともこの院長さんはほどなく天理教との間で意見が分かれ、自ら退いて、そして戦時応召でフィリピンへ。母もほどなく退任したと手記に明かしている。
よほど母も緊張したらしい、無理あるまい。大阪の厚生学院で二年の学習。それだけとわたしは思っていたが、じつはまだ滋賀県に暮らしていた若い時期に、彦根高女を卒業後自発的に志望して看護婦の資格もとってはいたのだった。奈良で過ごすようになるとマッサージ師の資格もとっていた。が、それにしてもいきなり病院総婦長とは驚いた。
岡谷先生の手紙によると、昭和二十二年の地方選挙で、あわや共産党から県会議員に立候補というのも、実現はしなかったが、事実であった。敬虔なクリスチャンと聞いていたので岡谷先生もびっくりされたという。なるほど、わが恒彦兄には「先輩」格でかつ母と兄とは「同志」であったのだ。
岡谷氏から数通の手紙を戴いている。本も読んでもらっている。
2010 2・26 101

* まずこころよく寝ていたためか、六時半ころ目が覚め、床の中で数冊の本を読んだ。
ことに、一昨日から組み入れた、もう以前高田衛さんに戴いた文庫本、『江戸幻想文学誌』が面白く、惹き込まれた。百物語や諸国咄の史性に深く視線をさしこんだ巻頭の「怪談の発生」が、馬琴の「三月十八日」にみた冥府行の夢の話から始まってすこぶる面白く、ついで上田秋成雨月物語の「言語=幻語」の構造を語り始めて、高田さんの本領へ、ますます惹き込まれた。「三月十八日」は、ナミの日付ではないのだ。
源氏の「横笛」の巻に出る「夜かたらずとか女房のつたへに云ふなり」が、はるかに論語の「怪力乱神を語るな」のおしえと脈絡を持っている指摘から、いわば昼の言葉と次元を異にした「夜の言葉」の性質に言及し、しかも「禁忌」を「犯し」て成り立って行った、そういう「近世怪談」の「闇」の論理を教えていた。
「闇」が、いわばわたしの言語表出や文学の素地であることは、このホームページでの日々の語りに、「闇に言い置く 私語」と名付けていることで分かる。「闇の文化史」が優にあり得ることに、批評の人ほど、察しをつけて欲しい。

* 山本健吉さんの新潮文庫「芭蕉」は、ゆっくりゆっくり読み進んで、濃やかな「うま酒」のようにわたしを魅する。いま「冬の日」以前の、「虚栗」より以後の「野ざらし紀行」から、
野ざらしを心に風のしむ身哉
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
道のべの木槿は馬にくはれけり
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
蔦植て竹四五本のあらし哉
秋風や藪も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
まで読んできて、もう一句、
馬をさへながむる雪の朝哉
を今夜読む。芭蕉の句境にひたと身を添えながら、山本さんの鑑賞には山本さんならではの叡智の日本語が繊鋭にはたらきかける。それが魅力。

* 小沢昭一さんの下さった『わた史発掘』はもう終盤へ来て、いっしょにまたまた「昭和」を生き重ねている。だいたい、わたしが国民学校に上がると、小沢さんは旧制の中学生。彼の場合、海軍の学校にいて「敗戦」というのもはさまってくる。しかしまあ少年時代に戦争を見知って体験してきたことでは、厚薄あれど重なり合う。
今もギンシャリの飯に恋いこがれる小沢さんが、「サツマイモはあの時代に、人間一生の摂取量を超過して頂戴いたしました。もうケッコウ。」とあるのがほろ苦い。
白米に麦がまじり、粟が混じり、稗もまじり、豆かすがまじり、南瓜が混じり、混ぜものの量がはるかに米を凌駕し、さらに芋の葉がまじった。国民の誰しも「食べられれば幸い」としなければならなかった。
サツマイモより、わたしの場合ジャガイモが主食であった。いまも、サツマイモはまだ受け容れやすいが、ジャガイモがまるごとで出ると、一瞬たじろぐ。
「モノが大事大切だから、紙切れ一枚折れ釘一本でも大切にしまっておくような、モノに偏執する暮らしになる。 いまでもガラクタをとって秘蔵しておく癖があ」ると小沢さんは語るが、全くわたしも同じ。「女房との間で、捨てなさいよ、捨てない、でモメル」のも、同じ。
裏白の紙を、どうしてもわたしは捨てられない。紙箱でも、まして木箱など、とても捨てられない。有効に何につかっているよと反論できないでそれだから、家を狭く乱雑にすることになる。わかっているけど、やめられない。

* 『デミアン』を読み、ソクラテスの『国家』を読み、そして床を離れて血糖値を計ると、102。けっこうである。
日本の女子選手が三人ずつで競うスピードスケートで、じつにじつに惜しく一位を逆転され、銀メダルを獲得した、その表彰式を観た。
(こう書いて、何十年のちにも、わたしが「観た」のはテレビで観たのだとあたりまえに分かるだろう。テレビのない時代の人が、上のような記述をもし読めば、わたしを魔法使いだと想うだろう。)
2010 2・28 101

* 隣から持ってきた、十五世紀の『サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル(ふらんすデカメロン)』および一九二○とし出版のイーディス・ウォートン作『エイジ・オブ・イノセンス(汚れなき情事)』を、夜の読書に加えることにした。
前者は、ブゥルゴーニュ大公フィリップ善良公以下三十数人による「百話」で、日本の「百物語」が怪談であるのとはちがい、ま、お色気の大脱線艶笑譚である。
後者は、かつてミッシェル・ファイファーで映画化され、珍しく日比谷の映画館で観たことがある。二十世紀初頭には厳存していたニューヨーク貴族社会が液化して崩れゆく中での愛の悲劇。
この女優は、中世の神話劇のような映画でも心をとらええた個性で、出逢うと身を乗り出してしまう。女性作家のウォートンは大衆性も持ちながら巧緻に優美に物語を構成して読者を包み込む藝術派。
これで、いま、西欧の小説・物語を、『ふらんすデカメロン』『ジャン・クリストフ』『デミアン』『エイジ・オブ・イノセンス』の四冊選び読みしていることになる。
新約は『ロマ書』そして『総説・新約聖書』、そしてバグワンの『一休』。
古典はプラトンの『国家』日本の『今昔物語』山本健吉さんの『芭蕉』、高田衛さんの研究書二冊とともに『上田秋成』の原作、日本の現代文学は直哉の全集から、小説と書簡と。谷崎の『きのふけふ』。そして小沢昭一の『わた史』が、もうすぐ終わる。
おしまいに研究書で『もののけ』という難しいのを読んでいる。
早く読んでくれと催促してくる本が何百倍も書庫や家中にわたしを呼んでいる。
眼を大事にしていなくちゃ、と思う。
2010 3・4 102

* 小谷野敦さんの『天皇制批判の常識』を、妻は二度繰り返して読む気でいるから、すばらしい。それほど教わっているらしいから、えらい。わたしも、彼の中公新書『夏目漱石を江戸から読む』を、読み直している。失礼ながらかなりガラのわるい文章家ではあるが、勉強のむきは広くて、且つ浅くない。おもしろい才能で、本人は大学教授という地位に熱い執心をもっているようだが、そんなのには惜しい気がする。
よく読めばわかる、これが正論だ、少なくも正論への道を示しているという雑書を書きまくってもらいたい。猪瀬直樹氏とはまたべつだが、猪瀬贔屓のわたしに、また一人様変わりの贔屓ができかけている。
歯に衣を着せるだけが礼でも義でもない。
2010 3・6 102

* 谷崎潤一郎先生の、戦中特装の帙入り『初昔・きのふけふ』を読了。後者の終幕はひとしおの雅致に魅された。谷崎が他の文人等に触れてものを言うことは比較的少ないが、ここでは、露伴、荷風、花袋、里見、武者小路やさらに中国の文人たち、また国内の雅友にふれて、気持ちいい文章をのこしている。しみじみと嬉しく読んだ。文学の根幹は、小説よりも「随筆」にあると説いていたところもあり、その含意の深さに打たれもした。さすがであった。

* 小沢昭一氏に戴いた『わた史発掘』も読了、戦争を知っている(覚えている)子供たちの証言として、終始独特の話術に多くを聴いた。感謝。いつしれずの御縁で、ずいぶん沢山の本を戴き、それらもみな読み終えてきた。縁は異なもので。有り難い。
2010 3・10 102

* 聖書「ロマ書」と同時に、『サン・ヌーブェル・ヌーヴェル(ふらんすデカメロン)』も読んでいる奇妙さ。一話一話が艶笑の冴えで、深夜、思わずクスクス。
一話一話の面白さでは、だが、『今昔物語』が断然負けていない。
2010 3・13 102

* 入浴中、新たに小松茂美さんに頂いた『利休の死』も読み始めた。読みたい本が増える一方。

* 直哉の書簡に立ち止まる。下村千秋の『私語』という小説への「批評」に終始しているのが、鋭く、佳い。

☆ 志賀直哉書簡  大正十一年十一月十八日 下村千秋宛
「欠点は主観が書きすぎてある事です、」「それが余りにセンチメンタルである事です。描写だけでよして置けば味のある所が、つづいてかゝれた主観で制限され、却つて味を失ひます。」「父の気持をあゝ分解しなくてもいゝ」「主人公は分解したいかも知れないが作者はしなくてもいゝと思ひます。折角感じのある所も作者が余りに味ひすぎると、讀者の味ふ余地がなくなります、読者が自由に味ひたいと思ふと作者が傍から切りと八釜しく説明してくれるので、味ひたくても味はへません、此コツを呑込む事大事と思ひます。」「主人公がセンチメンタルでもいゝが作者がセンチメンタルなのはいけない。」「全体のコンポジション」「かう時間的に一直線に書かずにも出来さうにも思ひました。」「関係の説明で(=話が進んでは)藝術的な気がしません。」

* これこそ、これからわたしが取り組みたい仕事への前もっての警告であり、有り難い助言。一週間ほどおくれて、中戸川吉二に宛て、こうも書いている。
「事実の興味(かういふのは悪い気がしますが)以外に惹込むだけのリズムがあると思ひました」と。
これも自戒し、心得ていなくては。
2010 3・13 102

* またガツンと読者に叱られるだろうが、浴室で、のんびり何冊も本を読む。今晩は、六冊読んでいた。
小谷野敦氏の『夏目漱石を江戸から読む』の三四郎の章。わたしはこの小説、題の「三四郎」は主人公ではなく、狂言回しの舞台番のような存在で、主筋の男女関係としては美禰子と野々宮が対で、『それから』の代助と八千代となり、『門』の宗助とお米になってゆくと読んでいる。三四郎君は、のちに『こころ』の「私」になり、中間的には『門』のあれは名は何と云ったか小助だったか、宗助の弟に矮小化されていたと思ってきた。ま、小説のことであり、どう読んだっていいのだが。
ヘッセの『デミアン』とウォートンの『エイジ・オブ・インノセンス』はいまのところ読み泥んでいる。プラトンの『国家』の方が惹きこまれる。
高田衛さんの『江戸幻想文学誌』は、掛け値なく面白くて読みやめられないから、ちと湯の中では危なかった。同じことが小松茂美さんの『利休の死』にも云えるか。
2010 3・15 102

* 今晩は浴室へ七冊、持ち込んでいた。水滴をはじくカバーの附いた文庫本が読みやすい。
枕元へ中村光夫先生の単行本『老いの微笑』を、機械の傍へ福田恆存先生の語録『日本への遺言』を新たに置いて読んで行く。語録はたくさん紹介したい、私語の中で。
2010 3・18 102

* 「秦」氏の名には自然目に留まるが、『今昔物語』を読んでいて、たまたま左近将曹秦武員という男が登場した。
ある日、高貴の僧たちの用を控えて地下(ぢげ)に侍っているうち、堪えきれず高く放屁した。僧たちは場所柄でもあり事柄でもあって、尾篭と思いつつ素知らぬふりでやり過ごしていたが、この武員、身をもむように顔に手をあて、「死にたい」と呻いたものだから、堪えがたく皆わあっと大笑い、その間にどこかへ姿を消してしまったというのである。
この説話が「問題」にするのは、そういうハメに陥った場合、武員でなければ、どうしていたかと。恥ずかしさのママ固まってしまっていただろう、この武員のように「死んでしまいたい」などと顔を覆い、要するに必然その場を逃げ出すような機転は効かなかっただろうと。「褒めている」ように読み取れたのだが、如何。
2010 3・21 102

* 一昨日から、息子の書いた『SOKKI!』を読んでいる。息子は単行本で、六ないし七冊の小説をもう書下ろしているが、別に確たる議論ではないけれど、わたしは秦建日子作『SOKKI!』が好きであった。
少なくも主要人物がくっきり書き分けてある。かなりイカすヒロインが個性的に登場し、生理・心理的にも納得のゆく情味ある表現を得ている。語りたち手の彼女に寄せる恋心に、文学的に、同感できる。
しかも「速記」という、得も謂いがたい奇妙な「主人公」が、小説を支配している。昭和戦後の、或る際どい「バブル」と「はじけ」との分水嶺のような時期・時代の、有用にしてたいてい無用でもある「存在」の速記術が、シンボリックな批評的意義を得て活躍しているのは、文庫本の解説者も適切に覚知してくれている。「早稲田」のようなマンモス大学のキャンパスを描きながら「速記」同好会とは、くすぐったいほどの「何か」であり得ているから可笑しい。
軽い。文章を読む大方の人が、思うだろう。軽い、には軽薄、軽率もあれば、軽妙もある。
そもそも「軽み」の的確な表現というのは、芭蕉の俳諧を持ち出すまでもなく、あるいは滑稽本や人情本や川柳などの秀作を持ち出すまでもなく、はるかには歌謡や、今昔の説話を持ち出すまでもなく、けっして容易でもなく軽薄・軽率なものでもなくて、成功すれば確かにたいしたものの一つなのである。
幸か不幸か、息子のこういう文学以外に、わたしは当節の若い人の、作の書かれようをよくよく知っているとは云えない。だれもが似たり寄ったりを書いているのかも知れないが、実状は知らない。知らないけれども、若い人ならみな『SOKKI!』なみに軽く、軽みを、持ち前の文章・文体ですくい取って成功するモノとは、全く信じていない。
早稲田の文藝科での、二年間の指導体験からすれば、どう気負って学生達が書いてみても、作の「軽み」という点で成功例は稀有であったし、むしろ「重苦しい文章や乱暴な文章」やストーリーばかりに出会っていた。
「女子学生は猛獣のように書き、男子学生は坊やのように書く」というのが、わたしの、あの二年間出講の実感であったことは、繰り返し書いてきたが、その大勢の中から、優れた均衡をえつつ自身の文学世界を拡大していったのは、現役作家である角田光代一人だった。創作へと、しっかり背中を押し出せた只一人であった、結果的に。
わたしが臨時雇いの「編集長」として角田らと文藝科の教室で出会っていたころ、角田より一年下の息子秦建日子は、同じ早稲田のあの雑踏の中で、「速記」の同好会にいた。その体験がこの小説へフイクションとして結晶しているのだろう、一読軽口を叩き続けている小説のようで、或る「軽み」の達成は、かなり気難しい読者であるわたしにも、そこそこ成功して見えている、納得がいく。
描写も感想も、ときには一行で、十行二十行をまかなう強い表現力をもっていて、下品でなく、軽薄でもない。効果を勘定に入れて書いている。かつてのわたしの感想通りに謂えば、まさしく「坊や」のような柔らかい感性に徹して書いているが、これが「計算」の内なら、したたかである。
幾つも幾つもこんな風に書くことは要るまい。その意味で、この作品は題材と一回限りの必然性とを「活かした作」である。このヒロインは、強烈にとは謂わないが、花のある優しみで読者の胸に一存在として長命するであろう。
2010 3・21 102

* ほかの読書を脇に置いて、秦建日子作『SOKKI!』の後半を読み返した。主なる物語の成り行きには、うまいかへたかと問わせない、しんみりした必然があった。一編としての首尾は、やや形についた気味はあるが、一つの「青春」は書けている。文章は軽く書いているが、田畑、黒田、本多の「此処」に、「人生」の或る時期の断面が写し出されたとは云える。それぞれに、特段無責任な生半可なモノではなかったと云えるだろう。
この作者に『伊豆の踊子』は書けそうにないが、同じように川端康成でも『SOKKI!』は書けない。文学と時代とはそのようにそれぞれにツロクしている。ツロクよろしく「いま・ここ」が適切に書ければ、或いは重々しい、或いは軽妙な物語が生まれてくる。願わくは、そこに「ファシネーション=花」が咲いていて欲しい。
2010 3・22 102

* 顧みて、この一年ほどに読んだ本の中で、忘れがたく強烈に刺戟された本は、天野哲夫の『禁じられた青春』(葦書房)であった。さらに顧みて、作家生活をはじめて四十年ではと思い返すと、それは、沼正三の『家畜人ヤプー』であったなと思い当たる。天野氏は久しく「沼正三・代理人」として知られていたが、沼さんと天野さんとがただならぬ同一人であろうことは察しられたし、今では「事実」と明かされている。
わたしは、あまり書評するというお役目が好きではない、「する」よりも「される」べき立場にあると自覚していたからでもある、が。
そのわたしが、作家生活に入ってたしか二冊目の書評依頼を受けたのが『家畜人ヤプー』であった。一見して、このような本が日本語で書かれることがありうるのかと仰天するようなモノであって、憤激にちかい最初の思いを今もわたしはよく覚えているが、ようし、「しっかり書評」してやると、腹をくくって読み始めたのだった。
その書評、沼さんにたいそう喜ばれたとも漏れ聞いた。事実、以来、『家畜人ヤプー』の刊本は何種類も著者から贈られてきた。わたしは、この前代未聞の奇書を文字通り天才の創作としてしっかり受け容れたのである、わたしの生理的な有り様からは万里も万万里もかけはなれた世界であったけれど、わたしはその世界を、優れて批評的な神話世界と読んだのだ。
大作『禁じられた青春』を著者天野さんは、ルソーの『告白』に擬して書き始められているが、わたしに言わせれば、ルソーのまやかしに近いそれよりも、百倍も苛烈に峻烈に自分人をひん剥いた自伝として、しかも世界史的な視野の刺激的批評の書として高く評価する。こういう視野と視線とから身を避けたまま何を言うても、まやかしに近いとさえわたしは今も天野さんが揺すりたてた刺戟の烈しさに心身を任せたまま、凄い本を読んだものだと呆れるほど思っている。
よけいなことだが、わたしは例の小谷野敦氏に、あなた天野哲夫ないし沼正三を読んでいますかと尋ねたりした。
あのとき、『家畜人ヤプー』の書評を頼まれ、憤慨のままもし断っていたなら、わたしは、自分の世界観にたいへんな欠損を得ていたなあと、しみじみ思う。ひやっとさえする。だがまあ、あれはきつい読書であったし、『禁じられた青春』も物凄い読書であった。
だが、まちがいなく「日本」と「日本人」にかかわる自覚のための基盤を、沼・天野氏は容赦なく提供してくれていた。われわれが耐えて持ち堪えねばならない急所を氏はまっすぐ突き刺して憚らなかった。単に神話でも単に自伝でも無かったのである。簡単に説明できないけれど、心ある人は、堪えて堪えて読破されたい、なまなかの読書では済まないが。
2010 3・23 102

* ウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』が漸く舞台の展開から、芝居の段階に入り、面白くなってきた。今日の憂鬱な病院通いをかなり気分転換させてくれたのは、この小説。時代後れなニューヨーク貴族社会の高慢と虚飾を嫌うエレンスカ伯爵夫人を、映画のつくりはみな忘れているけれど、あの魅惑の精神的女優ミッシェル・ファイファアーで受け止めている。息苦しく型どおりにお上品な「イノセンス」の象徴である許嫁メイの顔かたちも、そんな因習の貴族社会で自由や精神性へ二極に揺れ動くメイの婚約者アーチャーの表情も、具体的にはまだ想い浮かばないが、パリでもローマでもロンドンでもないアメリカ「ニューヨークに根を生やした貴族社会」という「奇妙な頽廃の歌」に惹かれて、これから「小説」世界にはまり込んで行く。

* 流れゆく時の波が、足下の砂のような人生を押し流している。よろめきながら、体勢をかつがつ保ちながら、もうそろそろ好いのではないかと内心の声を聞く。このうえ、此の世でなにが、真実、面白いだろう。現実は、どうか。かなりバカげている。
2010 3・24 102

* 寒いほど冷えている。

* 目が覚めてから、床の中でたくさん本を読み継いだ。なかで、中村光夫『老いの微笑』巻頭辺の数編に惹きこまれていた。ただの随筆でなく、坪内逍遙や高山樗牛などをとらえ、犀利な近代文学論がたいへん判りよくサクサクと展開してある。政治小説のことも。
明治の十年までを、江戸をひきずって処置なく藻掻いていた「戯作」の時代、次の十年、つまり逍遙の「小説神髄」や二葉亭の登場までを政治小説の時代といい、わかりよい把握だ。明治初年の「政治小説」をまるで読んでこなかったが、全集のなかの一冊を開いてみたくなった。
逍遙という人は、文学に関して実に大切な本質に触れた提言をした人で、多彩に後進を刺戟した。しかしその後進たち、鴎外といい、藤村や透谷といい、紅葉といい、また露伴・一葉といい、みんな提言した逍遙とはまるで違う方面へ違う思想で出ていったところに彼逍遙の意義と失意があったと中村先生は指摘されている。しかも、これら大才たちのなかで、自身の創作を完成させたのは樋口一葉一人だと結論してある大胆さに驚いた。藤村は別としても、頷ける。
一葉の苦闘を、だれがその後の女流、嗣いで飛躍させたのかなあと想っている。

* 潤一郎の『きのふけふ』を書庫にしまい込むのが勿体なくて、またあちこち読み返していた。「秦さんなら、任せます」と亡くなった榮夫さんにも恵美子夫人にもゆるしてもらっているので、一部を、「e-文藝館=湖(umi)」にぜひ戴こうと思うが、そして他にもいろんな方の作を戴きたいと機械の傍に候補作が沢山積んであるのだが、スキャンがなかなか出来ないでいる。「e-文藝館=湖(umi)」の名義と実務とを、わたしと一緒に効果的に「責任」編輯・「共同」管理して下さる人がないかなあと願っている。特色有る、内容の濃い電子文藝館にますます育って行くと思う、現に大きな大系をもう持っている。
2010 3・25 102

* 川越という町に、これで四度ほどは出掛けた。喜多院という櫻も咲きまた貴重な「職人尽繪」も持った、徳川家に由緒あるお寺がある。加えて火の見櫓などもある古い町並みを保存していて、しかも和も洋もけっこう旨く食べさせる店や、土産の店もある。土産物には興味はないが、花と職人尽繪と食い物の町並みには親しめる。所沢から行き、また池袋へも戻って行けたが、今は有楽町線の小竹向原駅をつかうと、もっと小回りで往来が効く。電車に乗りでもある。
ぼんやりしながら、ふと思い出しては『エイジ・オブ・イノセント』を読んで行く。エレンスカ伯爵夫人の魅力と個性とが横溢し始めていて、なかなか迫ってくる。魅され惹かれてゆくアーチャーの気持ちにのっかて行けば作中世界をドキドキしながら歩んで行ける。心身の疲れた七十半ばの爺の言うことでは、ない、か。いいじゃないか。
2010 3・26 102

* 猪瀬直樹著『ジミーの誕生日』を読み終えた。「小説づくり」としては、やや浮いて旨くないが、連合国最高司令官マッカーサーが厚木飛行場へパイプをくわえて丸腰でおり立ってから、戦犯逮捕と東京裁判、かたや天皇に退位もさせず訴追もしない意図をもちながら、新平和憲法を、天皇と幣原内閣と日本の国会・国民に鵜呑みにさせたあたりへの話の運びは、鮮やかで、分かり好い。こんなに分かり好いのかとアッケにとられるほど、速やかに鮮やかに要点が語り尽くされて行く。スポーツの最良の技倆を見るようだった。
新憲法制定のことは、かねてもっともっとよく分かりたいとわたしは願っていたし、願ってもない解説をして貰えて満足した。
2010 3・28 102

☆ ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』より
いま、この時代、いたるところに──とデミアンは言うのだ──結託があり、衆愚の形成がある。しかし自由と愛はどこにもない。   現在その辺にある団体なるものは、衆愚の組織にすぎない。人間はたがいに相手がこわいものだから、たがいによりあつまるのさ──   かれらが不安なのは、公然と自己の自由をみとめたことが一度もないからだよ。   びくびくしながら寄りあつまっている人たちは、不安でいっぱいだし、悪意でいっぱいなんだ。だれも他人を信用しないんだね。かれらは、もう存在しなくなった理想に執着して、だれでも新らしい理想をかかげる者があれば、そいつに石をぶつけるんだ。

* その通りだ。
そしてお行儀のいいと思っている「良識」や「慣習」の自縛にさも大人らしく居ずまいを正した気で、さよう、「想像力にたいして心を閉じ、経験にたいして感情を閉じてしまう」のを、さも「イノセント」と信奉したフリをしている。掌には凶暴な排他の礫を隠し持って。
2010 3・29 102

* 朝一番に、伊原昭さんの六百頁におよぶ研究書『増補版 万葉の色』(笠間書院)を頂戴した。女性、梅光学院大学名誉教授、日本の色彩学研究の一人者であられる。はるかに年輩の先達で、お目にかかったことは、かなり遠い昔に一度だけだが、目をみはる大著『日本文学色彩用語集成』通史などを幾たびも幾いろも頂戴し、私も、或る著名な賞候補に推薦させて戴いたりした。
ことにこの論文集『万葉の色 その背景をさぐる』は追究がすこぶる具体的に説得力を帯び、いちいち面白く教われる。「いまは介護付の所に入っておりますような次第で何事も自由にまかせず」とご挨拶が添ってきたが、増補された十篇の論著が、新鮮に魅力的。
有り難いことである。

* 一緒に笠間書院が送ってきてくれたいつもの「リポート笠間」の座談会『「日本」と「文学」を解体する』や伊井春樹さんへ源氏物語がらみのインタビューも、目を通すのが楽しみ。たいていの人に笠間の本は縁がないだろうが、国文学研究でもっとも気をそそってやまない魅力の研究書を、ね津波のように押し出してくる専門出版社。広告誌とはいえ「リポート笠間」は充実が策されてからもう五十巻、いつも読み応えする。感謝している。
2010 3・30 102

* いま、イーディス・ウオートンの『エイジ・オブ・イノセンス』と、小谷野敦の『夏目漱石を江戸から読む』と中村光夫の『老いの微笑』とが刺激的に面白い。腰の痛みを湯に和らげながら耽読していた。
湯には持ち込めないが山本健吉の『芭蕉』をゆっくり味わう嬉しさも。
高田衛『江戸幻想文学誌』も小松茂美の『利休の死』も面白い。
手に取れば手に取った本が吸い寄せるようにわたしを魅する。毎夜、今十八冊を次から次へ読んでゆく。混乱はしないし、少しずつ納得して読み進むので、理解も行き届く。
2010 3・31 102

* ウソをつきたくもつかれたくもなく、午前中、熟睡。

* 手の届く場所に、二冊の本を置いている。夫人に頂戴した歿後の編である『日本への遺言──福田恆存語録』、そして「呈 秦恒平様」「敬愛の気持を込めて─」2004.4.10.24「西宮にて」と献辞署名のある『小田実随論 日本人の精神』。
とにもかくにも、折りごとに手にして「対話」している。

* 福田先生の本の巻頭には、全集未収録の「エピグラフ」(『否定の精神』)が掲げてある。

ある精神の内部には一匹の蛔虫棲んでゐる。それはあらゆる養分を食ひつくすが、なにものも生産はしない。が、このいやらしい虫にも一分の矜(ほこ)りはある。
くやしかつたら、おれが食ひきれぬほどの養分をとつてみるがいゝ。

* 「養分」とは、知識のことではあるまい。意見のことでもあるまい。生命力の意味でありたい。

* 本の裏表紙に用いられた大津皇子辞世の詩碑は福田恆存先生の筆になる。

金烏臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕離家向

 

編者の一人はこれが先生の「戦後日本の精神状況に対する嗟嘆」に通じてはいないかとしている。わたしには「念々死去」と読める。「食ひきれる」なら食ってみよ、と。

* 小田さんの本は、小田さんとの年齢も福田先生との場合より近く、倶もに多くの時代を生きてきたので、強い賛同も幾らかの異論も共にある。下記など、そうであったなと分かり好い。

☆ 平和憲法のこと 小田実 『随論・日本人の精神』八十三より

「終戦」と「平和」はただ日米間だけにかかわる「終戦」と「平和」ではなかった。この「終戦」によっての日米間の戦争が終わるとともに、それを最終戦争として戦争はすべて終わる。もう地球上には戦争は起こらない、戦争はない、「平和」は日米間だけの平和ではない。世界中に戦争のない、それがこれからいつまでもつづく平和だ。日米間を越えて、平和はもっと世界全体に空間的にも時間的にも開かれている。そう私は感じた。それは私だけのことではなかった。日本人の多くが多かれ少なかれそう感じとったにちがいない。

大戦争はたいてい、これが究極、最後の戦争だ、この戦争に勝ちさえすれば恒久平和が来るとの大義名分の下に行なわれるものだが、これまでの世界の歴史のなかで、第二次世界大戦ほどそうした主張が妥当性をもって信じられた戦争はなかったように見える。理由は、まさに逆説的なことだが、戦争があまりにも大きく、ひどいものとしてあったからだ。「第一次世界大戦」についても展開されたこの大義名分が、規模がさらに大きい「世界大戦」としてあった「第二次世界大戦」で展開され、信じられたのは当然のことだ。実際、日本の都市焼きつくし空襲、原爆投下が示すように、あるいはまた、莫大な死者の数が示すように、そこでの殺戮と破壊があまりにもひどかったので、敵味方ともにこれでもう戦争は終わった、日米間の戦争だけでなくありとあらゆる戦争は終わった、いや、終わり
にするべし、と感じ、考え出したとしてもふしぎではない。日米双方にとって、「終戦」はそこまでの意味の広がりをもった「終戦」だった。また「平和」もただの日米間の平和ではなく、その「終戦」認識、願望にじかに結びついた世界全体に拡がる恒久的な、そうあるべき「平和」だった。認識、願望はまとめあげて言えばこうなる──これだけの戦争をやって、やっと終わったのだ、もう戦争はこれで全世界で打ち止め。平和を大事にしたい。いや、しよう。
この日米双方にまたがる「終戦」「平和」認識、願望に基づいてつくられたのが「平和憲法」だった。その意味で、それは「日米合作」の憲法だったと言える。しかし、この「日米合作」の憲法は、「前文」が示すように日米間に限られた憲法ではなかった。もっと世界にむかって開かれた、人間、人類、世界のあるべき未来を示唆し、気迫を込めて主張した憲法だった。その気迫には日本人の気迫もアメリカ人の気迫もあった。私は私自身の気迫とともに、それが誰であれ、アメリカ人の気迫もそこに感じる。

* この小田さんの感想に繋ぐように、最近読んだ猪瀬直樹の『ジミーの誕生日』に明瞭な、「日本」の新憲法生成にかかわった米国のというより明白に「マッカーサー」司令の動機や事情が思い出される。
猪瀬氏の本から見ると、戦後の東久邇内閣の反動的な無思慮など論外としても、その後を引き継いだ幣原内閣による新憲法への姿勢は、マッカーサーたちを呆れさせるに十分なほど、天皇大権の擁護と温存に傾斜し奔命していた。日米「合作」には結果的には違いないが、日本人政府にだけ任されていたなら、間違いなく新憲法は、あの旧時代の悪しき欽定憲法に骨子を得たママであったろう、そこに国民の希望や意思表明は到底及ばなかったと、ほぼ確言できる。猪瀬氏の新刊は、小説としてはお世辞にも上手と言えないが、作の意図は明瞭、記憶に値する場面を多く保っていて貴重である。
2010 4・1 103

* 伊原昭(いはら・あき)さんの大著増補版『万葉の色 その背景をさぐる』の目次23編を見ているだけで、食指はどの論題にも落ちてゆく。人名を帯びた「天武天皇のある一面」「大伴家持の心情の一端」や「”やまとたけるのみこと”垣間見」などへは思わず身も傾いてゆくが、「『佛造る眞朱足らずは』攷」「『白珠は人に知らえず』攷」や「あかねさす」など、詩歌の作にじかに触れた論攷に気が寄って行く。いまさら知識をもとめて心が動くのではない、著者の無雑の精神に触れたいと思う。

* 読書する私にすれば、ふつうの読書法なのではあるが、わたしのあとでその本を読む者達は、随処に朱線の引かれてあるのが叶わないという。寄贈するには、図書館も当然、朱や鉛筆の傍線や書き込みを好まない。しかし、読んで感銘を受けたり、そこが要点だと納得すると、あとあとのためにわたしは線を引いておく。急いで繰り返し読む必要のあるとき、朱線個所だけに注目していておよそ足るようにしてある。
ま、そういう本は「蔵書」として架蔵される。
2010 4・1 103

* 夜通しの春の嵐がまだやまない。暖かい。咲きすすむ花が愕いているだろう。

* 夜前も志賀直哉の書簡を読んでいて、大正十三年八月二十八日、網野菊に宛てた文面に立ち止まった。

☆ 「不幸な少女」面白く拝見しました。矢張り貴女でなければ書けない所がある事を感じ愉快に思ひました、甘つたるいいやな所や強がつたやうな嫌味などが少しもなく、純粋でそのまゝうけ容れられる所大変よく思ひます、何かで濾(こ)しながらでないと読めないものをよく見せられるので此事一層愉快に感じました、  (以下略)。

* 「何かで濾(こ)しながらでないと読めないものをよく見せられる」という批評の厳しさ鋭さ、「感じ」がじつに的確で、感嘆した。主観的なようで、実作者からするとこんなに客観的なことは無い。思わず襟を正す。
先日、人に、「直哉の書簡を、『有り難い助言』と、今尚おっしゃるその初心に、感じ入っています」と云われていたが、七十半ばのわたしが、まだ四十前だった直哉の言葉に胸打たれる様がいささか可笑しいのかも知れない、が、わたしは、少しもそんなこと気にかけない。何と云っても直哉は直哉。年齢など問題でない、歴史上の大方の先達はみな、いまのわたしより若かった。はるかに若い人もいた。

* いま、階下では就寝前に高田衛さんの『江戸幻想文学誌』を愛読し、二階の機械の前では同じ高田さんの大著『春雨物語論』を耽読して、ほぼ読み終えようとしている。
高田さんの秋成理解と読みの深さにほとほと感じ入る。秋成狂蕩。とても他人事でない。
2010 4・2 103

* 市川染五郎丈の、見返しに署名の新著『歌舞伎のチカラ』が贈られてきた。感謝。
「楽屋に入ると、まず浴衣に着替えて、お茶をたてるのが習慣」と。微笑。高麗屋格子の浴衣で座布団にすあしのあぐら、茶筅を使っている写真が真っ先に目に入った。そしてもうほとんど全部読みました。おもしろかった。
ほんとを云うと、もっとほかにも触れて欲しい話題がたくさんある。染五郎だから触れて欲しい。
たとえば、先行藝としての能・狂言、人形浄瑠璃のこと、科白と舞踊のこと、役者とは何の「役」で今はあるのが、本当か。藝能と藝術のこと。歌舞伎と演劇のこと。歌舞伎からつかんできた日本と日本人のこと、そして世界のこと。理屈屋さんになって欲しくはない、が、本質を観ている視線を、年齢相応に独特の言葉と感性で感じ取らせて欲しい、いつか。
2010 4・2 103

* 札幌の矢部玲子さんから、「観賞」に堪えるほどの蟹を頂戴した。矢部さんとは先日、法事で上京された折り、日比谷のクラブで歓談した。昨日は、「mixi」にコメントをもらっていた。今朝、それで手に取った自著のなかの後深草院二条に関する自論を読み返したりした。

* いまの自分はお世辞にも好調・順調といえない。停頓し淀んでいる。天気にまで反映し、明るかったのがすぐ薄暗くなる。インスパイアがなく、気分がややに白濁している。
2010 4・3 103

* 珍しくナイキの運動靴で出掛け、歩行はラクであったのに、やはり疲れかすこし足腰に痛みがきたので、あまり贅沢せず、プリントした姉・川村千代の書簡集に読み耽り、気をかえてまたウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』を読み進みながら帰ってきた。日がだいぶ永くなった。晴れていてよかった。

* 姉の手紙は心温かく、真実心底、慰められる。
2010 4・9 103

* 山本健吉さんの『芭蕉』 じつに読んでいて嬉しい。
小谷野敦氏の『夏目漱石を江戸から読む』も面白く、いま『行人』のところを読んでいる。観念論の批評家は大勢いたが、この人は古今東西を博捜し渉猟してその裏打ちの上で、一見して突飛な、それなのに具体的に頷かせる犀利な批評を読ませる。批評家の一つのタイプの新誕生で、キワモノめいて見えながら本格の追究といわねばならぬ面を確かに持っている。もう少しいろいろ読んでみたいが、なにしろ本屋へ行かないわたしだから、新しい発見がない。
2010 4・10 103

☆ お元気ですか。  播磨の鳶
お家にこもって書いていらっしゃいますか?
桜も散り始めて何やら寂しいのですが、暖かさは嬉しい。庭の白椿やまんさくが盛りと咲いています。
先日は妹の孫がやって来ました。(姉も妹もそれぞれに六人孫がいるのです!)お城は桜の時期、春休み、土日、晴れて、12日から工事で天守閣入場禁止と条件が重なって、門を入るまでに二時間、三時間待ちの人出。駅から城に向かう人々が連なるように歩いていました。様子は知人から聞いていたので、午後四時前に列に並んで間に合いました。わたしは中には入りませんでしたが・・。
その晩は皆が泊まっていって大騒動でした。
男の子には彼が気に入ったマードレデウスのCDと石をおみやげに。石は中に鉱物の輝く結晶のあるもの。
女の子にはハンカチやノート、毛糸玉などを。
いずれもそのために買い求めたものではありません。自分の周囲にいつしか溢れている多くのものが彼らにとってより意味あるものになるならと願いつつ、気前よいおばさんに(おばあちゃんのお姉さんだから大おばあちゃん?!)なっていました。
あとは静かな日々の繰り返しです。
米軍基地のこと、新党結成、タイのデモなど多くのことを耳に留めつつ、授業料無償化から外された朝鮮学校のことが気に懸かっています。三月来、詩の会の人から賛同のメッセージをと言われて基本姿勢は納得しながらも自分の言葉として書けませんでした。
日記や短い文章もかなり長い時間わたしは意識的に書いていませんが、徐々に自分に自然でありたいと感じています。もっとも自然体で何処ぞにふうわり迷い出るほうがより自然ですけれど、読みたい本にやや押し潰されそうな・・。近況報告まで。
どうぞお体くれぐれも大切に。良い季節に戸外も楽しんでお過ごしください。

☆ 「グダグタに傷つけられる。もうやめようかと思う。それでもやめてはならぬと思う。投げ出してのがれるより、踏み越えて先へ出たいと思う。」
率直な気持ちが痛く伝わってきます。その思いは幼い日の記憶のまま現在にいたってしまったものでもありましょう。今もなお鴉をグダグダに傷つける、その深い傷。
どうぞ踏み越えて、緩やかな暖かな道を見出してください。
『本朝水滸伝』とは上田秋成に関連しての関心でしょうか。
インターネットを見ますと
吉川幸次郎・清水茂による百回本全訳(岩波文庫全10冊)( 吉川幸次郎からアマゾンに入ると出てきます。)
駒田信二の百二十回本全訳(全8冊 講談社文庫、新版ちくま文庫) (同様に、駒田信二から)
本朝水滸伝;紀行;三野日記;折々草 (新 日本古典文学大系) (単行本) は楽天、アマゾンで、本朝水滸伝後篇 (1959年) はアマゾンで買えます。『綾足と秋成と』十八世紀国学への批判 佐藤深雪著 名古屋大学出版会 3200円は楽天に出ています。
わたしもまた、思うこと多く。
取り急ぎ 本に関するお知らせを。 鳶

* 高田衛さんの『江戸幻想文学誌』を読んでいて、俄然綾足のとほうもない大作が読んでみたくなった。やはり吉川先生の訳・監修で手に入れたいと思う。さて岩波文庫でそこまで揃っている書店とは、何処へ行けばいいか。

* 疲れた。まだ九時過ぎだが、やすみたい。
2010 4・13 103

☆ 本のこと。  鳶
吉川幸次郎訳の本、こちらから送ります。姫路の書店に在庫があるそうです。

* 甘えて申し訳ない。 鴉
鳶に、感謝。
高田衛サンの『江戸幻想文学誌』にあまり面白そうに検討してあったので焦がれました。
ありがとう。費用は利息付きで拝借しておきます。
高田さんの大冊『春雨物語論』もべらぼうに興趣に富んだ研究で、一行一行に堪能させられる名著です。
とにもかくにも、難しい本を読んで、まだ耽溺に近く受け容れられることに安堵もし、元気づけられます。
小谷野敦という無類の人がいます。しょっちゅう人と喧嘩していますが、どんどん本も書きます。今読んでいる中公新書『夏目漱石を江戸から読む』は端倪すべからざる好著です。ただし「こころ」論を、男色一辺倒で押し切ろうというのはムリですが。
漱石の各作品を滅多切にしながら問題点を新鮮に掘り起こして行く勉強は、出色。新しいタイプの文藝批評家が出てきたかな、かなりキワモノめくのですが、ホンモノと。『文学研究という不幸』というのも、モノスゴイ本でしたよ。
『デミアン』ウーンと唸りながら、惹き寄せられて読了。
『エイジ・オブ・イノセンス』は、通俗っぽいけれど、ニューヨークの貴族・上流社会のきつい批評として巧緻に書けています。
『ジャン・クリストフ』とはひたすら粘り合いで、ジリジリと進みます。

* 「ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができると言ったけれども、それを信じてはいけないのであって、学ぶことは走ることよりも、もっと(老人には)だめだろうからね。むしろ大きな苦労はすべて、若者たちにこそふさわしいのだ」とソクラテス(=プラトン)は『国家』第七巻十五の末で語っている。
その通りだ。
老人はもう「学ぶ」気でなんかいてはいけないんで、若者とはちがった「楽しみ」を満喫すればいい、それはまた若者よりも、はるかに成熟した深さで出来る。
わたしは日々にたくさん読んでいるが、徹してただ楽しんでいる。だから、なにもかもが味の違ったいろんなご馳走のよう。読書だけではない、頭痛がするほどの自分の「仕事」もやっぱりそうだ。
2010 4・14 103

☆ 再び、本のこと  播磨の鳶
吉川幸次郎、駒田信二という名前が気になっています。と言うのも吉川も駒田も中国文学者なので、水滸伝は中国の原本の水滸伝ではないかと。そうでしたら「綾足のとほうもない大作が読んでみたくなった」と言われる鴉の希望とは外れてしまいます! 早とちりだったかもしれません。もし中国の原典の訳でしたら、まあ暇なときに楽しんでくださるよう。
綾足の本朝・・の抜粋でしょうか、本朝水滸伝;紀行;三野日記;折々草は新日本古典文学大系に収められているので、もしかしたらお手元にあるかもしれません。1959年に出た『本朝水滸伝』は後篇だけが入手できそうですが、いかがですか?
ここ数日テレビで『伝統芸能の若き獅子』というシリーズを見ていて清々しい気持ちになりました。尺八の藤原道山、津軽三味線の上妻宏光、歌舞伎の市川亀治郎、みな背負うものの大きさ重さを知り、しかし彼らは才能とひたむきさ柔軟さをもち、伝統からさらに新たな境地に進んでいこうとしています。わたしは全くの傍観者だからこそ、いっそう「凄いな」としか言うしかありません。それにしても若いとはピカピカ。いいですねえ! と嘆くばかり。

* ウーン 中国原作の可能性が高いですね。もしそうでも喜んで読みますから、感謝に変わりなく。
綾足の『本朝水滸伝』がどの程度の長さかも知らないでいます。新日本古典文学全集が岩波のモノなら、その一冊で足りているのかもしれませんね。いま目録を持たないので分かりませんが。岩波の古典全集なら見付かる書店があるだろう思います。尋ねてみます。
綾足のこの本は、いかにも私好みで、『みごもりの湖』の昔の世界を放胆に拡大した「叛逆物語」のようです。これは読んでみたい。
しかし中国の『水滸伝』も実は読んでいませんので、楽しみです。中国文学は詩や詞や説話はまずまず、また長い三国志は読んでいますが、金瓶梅も西遊記も、とにかく大きな小説物語は殆ど読んでいません。ま、敬遠してきた、或いは手がまわらなかったんです。
イーディス・ウォートンの「エイジ・オブ・イノセンス」は、面白く昨夜読了。わがコトの穿鑿や思案に負けて目が冴え眠れないので、読み切ってしまいました。映画で主演した好きなミシェル・ファイファーをイメージしながら、魅力横溢の「女性」を実感しました。
亀治郎というのは、初対面で逸材だと確信した役者です。まだうんと若い頃、猿之助といっしょに「湯屋」の「なめくじ」役でしたが、所作の奇妙な美しさと巧さに驚歎しました。踊れるのです。その後の活躍は、当然です。問題はこれからの「科白」であろうと観ています。
いろいろ気を遣わせまして。ありがとう存じます。ともあれ、よしなに。 保谷の鴉

* やはり中国本作の『水滸伝』岩波文庫十巻が届いた。それはそれで胸の涌く希望であり期待で、有り難い。ヘッセの『デミアン』とウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス』を読み上げたので、今夜からこの『水滸伝』を読んで行く。感謝。
2010 4・15 103

* あんまり寒くて。とても隅田川の川風を浴びる気がせず、鮨の「福音」に入った。八海山で、肴をいろいろ切ってもらい、鮨も六七貫握ってもらった。ぽおっとして機嫌良く店を出ると、直ぐ近くで餅菓子の問屋が特売の旗を出していたので、少しずつ買い、また新富町の駅構内のパン屋で食パンとラスクとを買って帰った。本は吉川幸次郎ら訳の『水滸伝』の文庫第一冊。惹きこまれて行く。
2010 4・16 103

* また生母ふくの短歌を編輯しておいたのを、仔細に読み直していった。母についてかなり多くを知ってきた今は、歌にも素直な読み込みが利いて、一冊の歌集として見なおしても、水準に十分達して個性的な世界になっていると思われた。
糖尿の方、いいですね、このままで行って、但し体重をせめて八十キロまで下げて下さいと毎度のことをまた言われてきたが。

* 建部綾足の『本朝水滸伝』も、鳶さん、手配してくれたとか、これは大嬉しい! じつに読みたい。孝謙=称徳女帝や道鏡らの強力な「表」世界に対し、地下に潜入した大規模な叛逆・反乱の徒が闘いを挑むらしい。その趣向も構想も顔ぶれも、結託の仕方も、破天荒なものらしい。裏社会・裏文化に関心を寄せ続けてきたわたしは、そんな過激なロマンが天保時代にあったと今時分知って小躍りした按配。
それに似た一部を、わたしは同じ其の時代に、女帝と藤原仲麻呂(恵美押勝)のなかに生まれていた天成の美少女東子の母帝への叛逆として書きながら、現代の寂しい静かな恋物語にした。新潮社から出た新鋭書き下ろし作品『みごもりの湖』だった。この本の帯に、著者もまた「謎に満ちた生い立ち」と書かれていた。謎なんか無いと、実の父が憤慨してわたしの妻にもの申してきた。そんなこともあった。
2010 4・16 103

* 中村光夫著の『老いの微笑』を半ば読んだ。そして、『水滸伝』が、どんどん読める。吉川先生の訳、張り扇の音響くようで。
2010 4・19 103

* 息を殺すように、何かへ、じっと気を運び運び過ごしている。

* 高名だけは久しく聞き及んでいたが、「魯智深」氏と、『水滸伝』で初対面。これって、秋成「樊噲」の大蔵に似ている。大蔵はたぶんに孫悟空にも似ているけれど。うまい水を吸うように読み進んでいる。

* 「少なくも温帯の四季の変化のなかで暮す者は、この大きな自然のリズムをすべての生活と思想の基礎とするはずです」と中村光夫さんは書かれている。この繰り返す自然から日本人の生み出した思想の最たる一つこそ、「一期一会」だとわたしは云うてきた。
「一期一会」とは、決して一生涯に一度きりの事や物を謂うのではない。繰り返す日々のそれもこれもを恰も一生に一度の事「かのように」新鮮に受け容れまた果たして行くことだ。清水の舞台から飛び降りるようなことを謂うのでは、けっして無い。

* 「僕らの肉体はたしかに古びて、耐用年限のすぎた車のやうに醜くなり、機能も衰へてきてゐるが、内面には、生命の火が燃えてゐる限り、過去を生かすことも、未来を夢見ることも、欲すれば出来る」という中村さんの思いは、吾が老いの「いま・ここ」に於いて、生き生きと共有できる。
「文学者は内面の永生の言葉による表現に、生きる事の意味を見出すのです」と。わたしもその通りに感じ考え、生きている。
フロオベルは、「心は老いるものでない」と語ったと。その通りだ。創作者は、時代をこえてというより、時をこえて生きる人間として在りたい。
2010 4・20 103

* 追いかけて、また、播磨の「鳶」さんの手配で、書店から、欲しかった建部綾足の『本朝水滸伝』を送ってもらえた。本屋へ行かなくて済むのは言葉に尽くせないほど有り難い。ぜひ、ぜひ読みたかった。アテずっぽうを云うが、天平時代、ありとある裏敗者大連合の、表世界に対抗する怨念と奇想の叛逆物語らしい。
支那本家の『水滸伝』もすてきに面白い。「鳶」さん、手間もお金もかけさせました、有難う。嬉しい借財です。
選りすぐりの本は、わたしの栄養剤。
フロオベルは、心は年をとらないと云ったそうだ。「打てば響く」ということ。響きたい、いつまでも。
2010 4・21 103

* 車内で読み耽る『水滸伝』が面白くて。吉川幸次郎先生等の日本語訳が佳い。随処に詩や詞の挿入されているのが一特色だが、その翻訳がまたおもしろい。詩の原文だけはどこかに掲げて欲しかった、もっと面白く読めただろう。

* 帰宅して五時。ヒドイ雨と寒さだったが、往きはバス、帰りはタクシーの便にピタリ嵌ってくれ、何事もなかった。
2010 4・22 103

* 煖房がとめふあると、寒い明け方であった、脚がしきりに攣った。
夜中の思案は地獄の入り口。引き込まれそうになると電気をつけ、「水滸伝」の第一冊を読み終え、次々にべつの五冊に少しずつ目を通した。
徒然草に、家を建てるなら夏過ごしよいように、「冬は何とでもなる」と書かれていたのに、暫く考え込んだものだが。冷暖房の器具が家庭に普及しこの辺の感覚が分かりにくくなっている。むかしは火鉢。四方から囲んで一家でかき餅を焼いたり、手遊びしたりして冬の団欒とはそんなふうだった。寝るときは火鉢の炭を、蓋附きの部厚な黒い壺にいれて「から消し」にするか、灰で覆って埋み火にし、薬罐や鉄瓶を五徳に掛けておいた。朝には水が湯になっていた。
2010 4・23 103

* 社中『水滸伝』を楽しみながら、腰も痛むしと、例の駅前からタクシーで帰って、またすぐ機械の前へ。
生母の手紙をまた数通、じっくりと読んで、吟味。総身に苦汁が湧く。いますこし作の様子を塩梅しようと考え考えする内、そう空腹ではなかったけれど、もう夕食の時間になっていた。
食事終えて、六時三十五分、トツとして、針金ようの力に胸をきりきり、ぐるぐる巻かれる痛み。これと似て瞬時と謂えるほど一過性の痛みを、この数ヶ月内に三度四度五度は感触していて、それかなと思ったが、今日は痛む程度がひどくしつこくて、苦痛もいといと露骨。幸か不幸かアタマの痛みはないが、心筋梗塞か狭心症かと疑われ、舌下錠を二度ふくんでも痛みはむしろ亢進気味、だが脈はやや早めにしっかり強く在る。
安臥してやり過ごそうと床に臥してみたが、まるで効果ない、それどころか不安が募るので、起きた、かすかな吐き気も感じた。手洗いで、じいっと堪えて坐っている内、胸を巻きつけていた痛みの輪が、じりっと下へ、鳩尾から胃のうえへ降りて行った。
もう一度床へもどり、この間からよく繰り返していた夜中の胃痛とも似通ってきそうなので、例の痛み止め「ロキソニン」をぬるい湯で、含み呑む、と……、どうやら、そのまま七時半頃には寝入ったらしい。
気がつくと十時、感触は腹に残っていても痛みは薄れていて、もう無い、と感じられた。
そのとき気がついた、と云うか自己診断したのが、神経性かもしれぬ「胃痙攣」と。
それなら、実の親達の遺品や書簡類を苦悶も半ば抱いて読み始めた去年十二月一日以降、程度はさまざまにも数重ね繰り返してきた「苦痛」と一連の、かなり程度のヒドかった痛みかと「合点」した。
「独り合点」かも知れないが、自身、諒解した。それで機械の前へ来て、記録している。

* もし狭心症や心筋梗塞の方の苦痛であったのなら、救急車を呼んだ方が適切だったろうが、頭はまず落ち着いて働いていたので、結局凌いで過ごした。

* 日付の変わるまで、母の、これこそと謂える長文二通を繰り返し読んで、嚥下。また胃に痛みが這い寄っている。
床へのがれ、本を読んでやすもうと。
この頃は、「水滸伝」「本朝水滸伝」「江戸幻想文学誌」「春雨物語論」「利休の死」「芭蕉」「今昔物語」「もののけ」「老いの微笑」「歌舞伎のチカラ」「新約聖書 コリント前書」「総説新約聖書」「バグワン 一休道歌」「プラトン 国家」「直哉 小説」「直哉 書簡」「ジャン・クリストフ」「フランスでかめろん」を、気の向かうまま、少しずつでも「全部」読む。それから更に今一番楽しい重くない文庫本の「水滸伝」をもう一度好きなだけ読んで読んで、やっと灯を消す。
しかし、また腹痛が確実に来ているぞ。
2010 4・24 103

* 梅原猛さんに『出雲神話の謎を解く』を、世界ペン国際理事堀武昭さんに『ペンは世界を変える』を、東大大学院教授上野千鶴子さんの、珍しいソフトな随筆集『ひとりの午後に』を、長崎総合科学大学教授横手一彦さんに写真と文、英訳付き『長崎 旧浦上天主堂』を戴いている。みなそれぞれの本の中で、いつも堅焼きの上野さんが三笠焼のように口当たりのいい随筆本なのにビックリ、やっと秦さんに読んで貰えるような本を贈れますと。いやいや上野さん流の堅焼きの本、好きですよ、ちゃんと読んでいるもの。
2010 4・28 103

* 前に、『野ざらし紀行』の『冬の日』以後へ入った辺までの芭蕉句を、嘆美して挙げた。山本健吉さんの、名著と謂うを憚らぬ『芭蕉』により続く名句をただ嬉しくて挙げてみる。

春なれや名もなき山の朝がすみ
我がきぬにふしみの桃の雫せよ
山路来て何やらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
命二ツの中に活たる櫻哉
行駒の麦に慰むやどり哉
貞享時代
木枯やたけにかくれてしづまりぬ
古池や蛙飛こむ水のをと
よく見れば薺花さく垣ねかな
名月や池をめぐりて夜もすがら
初雪や幸ヒ菴ンに罷(まかり)有ル
初雪や水仙の葉のたはむまで
君火をたけよき物見せん雪まろげ
酒のめばいとゞ寐られぬ夜の雪
原中や物にもつかず鳴雲雀
髪はえて容顔蒼し五月雨
昼顔に米つき涼むあはれ也
起あがる菊ほのか也水のあと
痩ながらわりなき菊のつぼみ哉

* 以降『笈の小文』東海道の部に転じて行くが。
なんという、これら、しみじみ佳い句であることか。桃、すみれ草、松、櫻、麦、竹、蛙、名月、初雪、水仙、雪だるま、夜の雪、雲雀、昼顔、菊、菊の莟。これらが、句の中でどんなに豊かに美しくされて在ることか。
三句をと迫られれば、私は、「初雪や水仙の葉のたはむまで」の繊鋭な視覚、「昼顔に米つき涼むあはれ也」の働き人(ど)への優しい視線、「痩ながらわりなき菊のつぼみ哉」の、みのがさない女のひそやかな艶。おそるべき、視力。
さて、みなさんはいかが。話し合ってみたいですね。

* このところ本家の宋の『水滸伝』と『本朝水滸伝』に時を構わず読み耽るのだが、文庫本はもう全十巻の第三巻。ま、これは講釈そのもので、語り物。しかし、日本の講談・講釈ではあまり聴かないが、本家の水滸伝には無数、およそ遠慮会釈なく、所を選んで「詩」ならぬ「祠」といわれる詩句が割り込む。それ自体が筋を表現し描写してなかなかの憎さ・面白さなのである。はじめは五月蠅いかなと感じたがすぐそれが効果に気付くと却って面白さに斜めの読みとばしなどしないで、時に口ずさんでみる。しまいに、よほどの佳句はあとで書き取って置いてもいる。
興亡は脆き柳の如く
身世は虚しき舟に類(に)る
とか、太山を語って
根は地の角に盤(わだか)まり、
頂は天の心(まなか)に接せり。
とか、フムフムと頷いている。
2010 4・29 103

* 三十代だった唐木順三先生、中村光夫先生が二人して島崎藤村を大磯の家に尋ねられたときの、中村先生の印象記がとても印象的に興味深かった。
「色白の小柄な老人で、ひどく女性的な感じでした。お爺さんといふよりお婆さんに見え、麻の着物の襟をきちんと合せたところは尼さんのようでした。」「女性的でありながら、どこか動物的なエネルギーが感じられる美貌は、ときには化猫のやうな薄気味悪い印象もあたへられ、彼のどの作品より感銘ふかく、彼のどの作品の性格もよく説明してくれる生きものでした。」
これはもうこれだけで凄みの「批評」そのもの。そしてまた、作と作者とは切り離しておいていいのだという考え方もある。しかし、こういう視覚や批評から作品の読みを再度彫琢し直せるというのは有り難い。私が、中村さんの感想を前もって感触していなかったかといえば、それは無い。およそ作品を通じてそんな感じは受けとめていたが、色白とも小柄ともお婆さんとも尼さんとも、まして化猫とも想っていなかった。ことに「生きもの」という中村さんの表現に突き動かされた。
中村先生は、ほかにも大勢の作家たちを書いてこられたが、その一瞥した風貌をたいへん率直に鋭く書き込まれることが多い。批評家の業のような視覚であるなと感じ入る。「麻の着物の襟をきちんと合せた」など、いまいまの批評家は目も届くまい。

* この藤村を介して「老いの微笑」を語った中村先生のエッセイを、おゆるし頂いて「e-文藝館=湖(umi)」に頂戴する。ぜひ、老境のかたがた、中村光夫の「老い」の把握の確かさに驚いて頂きたい。
2010 4・29 103

* 夜前も日付変わってのちに、十七冊をすこしずつみな読み、そしてまた「水滸伝」三冊目の先を読んで行くや、興に惹かれ引かれて読みやめられない。
からだは疲れ、頭は先へ走り、手はどんどん頁を繰ってしまう。折りから講釈は、様がわりして行き、片や、武松という大虎を手取りに殴り殺すほどの豪傑弟、片や武大という身の丈四尺の大人しい饅頭売りの兄。この兄さんのとんでもない細君が、美貌で若い色気むんむんの性悪、攀金蓮。この金蓮に横恋慕の顔役西門慶が金づく絡みつく。幸か不幸か二人の色と欲とを手玉に仲を取りもち、ついには人のいい武大を毒殺へとたらしこむ、超達者も達者な王悪婆の数々の悪智慧。ひとわたり読み終えて更に次の場面へまで深く嵌っていったが、夜はほの白くあけて行く。
おまけに、もう今日が四月尽きる日だ、あれれ、何時も月ずえになると決まって励行している、今月「私語」の整理と保管、これが全く出来ていないと気がついた。えいと、起った。六時半二時間も寝たか。
2010 4・30 103

* 上野千鶴子さんとメールのやりとりがあり、気が弾みました。京都でも、東大教授になられてからも、一度も会ったことのない知己の一人です。いま、京ことばに集注して心遣いしている折りで。一ついい話題をもらいました。

* 『長崎 旧浦上天主堂』は今は解体撤去されてしまった被爆遺産だが、数多くの「未公開写真」によって一冊の美しい、意味深い本になって甦った。長崎総合科学大学の横手一彦さんがいい文を書き添えられ、英訳もついているのを、しゃんとした気持ちと姿勢とで読み通した。もとの建築のたぐいまれな美しさと精神性とが、多大の時間をふみこえて感動豊かに甦っていて、襟を正した。
たんなる写真集とはとても思われない、大事な声・ことばに耳を傾けた心地である。手元から離せないそういう一冊だ。
横手さん、いつもながら、ありがとう。
2010 5・1 104

* プラトンの『国家』は佳境を進展し、ソクラテスの対話が要点を自在に剔って、いま「寡頭制国家」の不適切であることが、柔軟なバネの利いた弁論術のうねりのなかで、巧みにかつウムも言わせず論証されている。現在の中国や、自民党日本の頃の国家としての病理が容赦なく炙り出されている。
棒を折るか知らんと危惧していなかった段でないこの大著、読み上げられそうである、しかも興味津々の内に。
2010 5・1 104

* 高田衛さんの研究書はいつも底知れない遠くからわたしを刺戟し、未知の方面へ夢をみさせる。
このところ、一茶の、「よのなかは地獄のうへの花見かな」という凄い句を道しるべに山東京傳の読み本『曙草紙』などを説き進められていた。
江戸時代の文学は、なにしろいまごろ山本健吉さんに手をひいて戴いて『芭蕉』を味わっている按配で、蕪村や秋成の周辺以外は、テンと手があまり届いていない。やっと鳶さんの有難い手助けが得られて綾足の『本朝水滸伝』にとりついたばかり。
とはいえ、歌舞伎狂言や落語から得てきた「江戸」の層は部厚に熟していて、わたしは南北の『櫻姫東文章』を筆頭に、濃い関心や興味から、江戸時代の暗部や悪所や人外の世界、周縁の文化や習俗のもつ辛辣な批評性に昔から目を向けてきてはいた。それでいて、いわゆる読物の類は、馬琴を八犬伝や美少年録など幾らか読んだに過ぎず、京傳にはまだ一瞥も及んでいなかった。ぜひ読んでみたい。
八犬伝も、高田さんの手引きを頼みながら、もう一度読み重ねたい。

* ご本家の『水滸伝』に毎夜嵌っているが、一読読み取れるのはこれが、女色を意図的にはずしたいわば少年愛の世界であること、それで、壮絶に血なまぐさいまで殺戮が描かれていても、奇妙に印象がさっぱりしているのだということ。『八犬伝』にもいえることだが、この方はまだしも、と云うか、男女の執念が愛欲とも憎悪とも思慕とも成り合うていて、ねばっこい。

* 他方、このところ多大に惹かれているのがプラトンの『国家』の進行。なんとかうまく胸中にえた感銘を表現したいのだが、相手が壮大かつ緻密な論理を伴っていて、ちょっこらとはどうも為りかねる。それほど興味に富んで胸を打ってくる。

* 『今昔物語』も世俗編の終幕へちかづきつつあり、今は「怪談」を日々読み継いでいて、時に肌に粟立つ。染五郎君は自著のうしろにいろんな歌舞伎への着想をノートしているけれど、それなら今昔物語を愛読本の最たる一つに抱え込んではどうかと奨めたい。芝居になる種も酵母もここにはくさるほど有る。
その染五郎著『歌舞伎のチカラ』を再読していて、これは予想より何倍も著者の好青年ぶりを表した、快い、親切で適切な歌舞伎手引きだということ。安心して広くお奨めできる。語り口の明るさが面白い藝になっている。そういえば、今日からか、歌舞伎座に替わる新橋演舞場が開幕ではなかったか。

* 隣棟の書斎に入って座り込むと、際限なく読みたい本が目の前にある。ゲーテの『イタリア紀行』上下やハイネの『歌の本』上下やカポーテイの『冷血』など、よほどこっちへ持ってこようかと思ったがガマンした。とにかく今の十七八冊を減らしてから、と。
2010 5・4 104

* 昨夜は、おそくから黒いマゴが遊びに出て真夜中まで帰らず、気がかりなまま本を読んでいてすっかり寝そびれたのには参った。
中村光夫著『老いの微笑』を一気に読み上げた。初めに近代文学史風の批評と文明論、ついで、老いの微笑の随筆、そして家庭生活や家族の回顧、そして巻末に小説三編が。
読み終えて、あらためて気がついた。中村先生の少なくもここに載った小説三編は、すこしも上手でないし名文でも可笑しくもない。老いの侘びしさを追求してあるが小説を読む妙味は無い。
それに比べれば、それより前の随筆は、じつに興趣にも示唆にも富んで共感をさそわれながら、なおかつ読んでいて面白い。とても面白く、文藝の妙を満載していた。そして、それらの通読が、中村光夫という文藝家のそのまま佳い「私」小説を読んだ一種馥郁とした効果を挙げていた。
わたしは今度、随筆で書いた「私」小説という結構のなかで、難しい問題を読者の目の前へ突き出すやり方を、余儀なくというより敢えて取ってみたが、そういう実験と方法とをゆるすものが「随筆」という文学の形式には内包されていることに確信が持てた。
* 随筆のように書き始められた小説の名作として、たとえばわたしは人生のとっぱなのところで谷崎の『吉野葛』『蘆刈』に出逢い心酔した。『春琴抄』もそうだった。わたしがはじめた読んだ谷崎作品は毎日新聞に連載され始めた『少将滋幹の母』で、小倉遊亀の挿絵とともに、中学生が毎朝新聞を待ちかねるようにして読んだのである。これもまた随筆を読み始めるかのように物語り世界へいつか引き込まれていた。そして言うまでもない、谷崎の「母」恋いものの絶妙の名作になった。それだからこそ、わたしは読み耽って倦まず、ことのついでに不浄観のようなことも覚えた。新制中学二年生から三年生への頃だ。
もし覚えていて下さる読者があれば、この述懐をぽちりと念頭に残して下さいますように、わたしは、この頃与謝野晶子の源氏物語訳も繰り返し耽読する機会に恵まれていて、わたしの理解だとこの物語は、いと幼くして生みの母・桐壺を喪っていた光源氏が、母によく肖たといわれる「母」藤壺を愛し、またその「母」によく肖た人を妻紫上として愛し生涯を過ごした物語なのだと。
この受け入れは、わたしのなかほぼ不動に生き続けた。
現実のわたしは、一片の記憶もなく生みの母を喪っていたので、求めるのは肖る肖ないに関わらず理念としての「母」そしてその「母」に代わりうる妻であった。わたしの括弧つき特殊な理念である「身内」という考えは、願いは、そのように芽生えていた。理念ではない現実の生みの母、括弧の中に入らない実の母は、わたしには存在の理由すら無かった。
だが、その実の母は、わたしが中学生になる直前、わたしの全く気付かなかった、知らなかった理由と必要とがあって、わたしの極身近で、そう、闘い続けていたのだった。だが、その経緯一切がわたしには、秘されていた。わたしにはそれは無であった。その「無」を抱いたままわたしは、源氏物語を愛読し、谷崎の新聞小説『少将滋幹の母』を読み、☆一つの安さに惹かれて岩波文庫の『吉野葛・蘆刈』を耽読していた。わたしは現実の母に関心も愛もなかった、滋幹の母のような、お遊さんのような括弧付きの「母」を文藝を介して胸に膨らませ続けていた。

* とどのつまり、七十半ばの老境に達してその生みの母に、ついに出逢ってしまった。
2010 5・5 104

* 予想していた何層倍もの牽引力で、小松茂美さんの文庫本『利休の死』がわたしを引っ張る。書、書簡の厖大な蒐集と鑑定と読みとで実証的に事も物も人も読み解かれて行くチカラづよさは、流石。感服すると同時に面白さ、興味深さに打たれ続ける。
同じ論攷でも、国文学者高田衛さんの論究の方法と、書学者小松さんの追究方法とは好一対、ずいぶん異なっていて、しかもなまじの小説なんぞより想像も刺戟し示唆も学藝的で、信頼しながらついて行けるのが有り難い。
2010 5・5 104

* 美しく装幀された句集を戴いた。
最近、目立つ傾向の一つだが、一句に漢字がつまっていて、頁をくる印象が黒々と重い。なかには十七音をすべて漢字だけで表現した句もあり、ひらがなは一つ二つといった句はいくらでもある。
芭蕉の名句に親しんでいる日々には、こういうサーカスの藝のような表現はキツくて不自然で詩情を覚えない。切れ字の妙趣、探し回らねば見付からない。俳句のおもしろさ、かそけき静かさもこまやかな視覚も聴覚も味わえない、元気ジルシの少し空疎な演説でも聴いている心地がする。

* すこし早起きして直哉の『或る男、其姉の死』を読み終えた。『大津順吉』『和解』とこれとは、この主題での聞こえた三作だが、今度読み返して、この作品に前二作とはちがう味わいで小説として惹きこまれた。前に読んだときも、同じだった。
しかし、もっと惹かれたのは、この全集でこの作の次ぎに出ていた『雪の日 我孫子日誌』で、これが小説であるか日記であるか随筆であるか(新聞に四日連載された作である。)を問わず、敬愛おく能わざる名品であった。一字一句がことごとく文体と文学と化して光っていた。感銘からすれば、谷崎の吉野葛にも川端の山の音にも匹敵し、わずか十数枚、二十枚に足りない短編。不思議な気がする。
同時に書簡集も読んでいるが、直哉の佳い手紙はそれもそのまま『雪の日』なみなのだからおどろく。簡潔でハートも人もみごとに表れている。

* バグワンはこのところずうっと『一休道歌』を読んでいて、この十日ばかり、スワミ・アナンド・モンジュ氏の訳に頼みながら、胸を衝かれてただ感嘆し、聴いている。
「少しずつ、少しずつ、あらゆるものが偽物に、人工的に、造りものに、プラスチックになる。」「ものごとをあるがままにあらしめるのだ。それらは完全に美しい。醜悪なものはすべて、おまえがつくりだしている。」
「真実は、どこへ行っても受け容れられない。人々は真実に苛立ちを示す。虚偽の見せかけはいともたやすく受け容れられる。ソクラテスが毒殺されたのはたんなる偶然ではない──彼の唯一の罪は、人々に真実を気づかせようとしたことだ。 彼は、人々がいやおうなく真実を見るように仕向けていた。」「誰であれ、おまえがたに真実を気づかせようとする者は、社会から敵とみなされる。社会は嘘のなかで生きている。社会は嘘を頼みとしている。」
その通りだ、七十四年を生きてきた、これは、遺憾ながら肌身に刻まれた実感だ。逆を観じ得たことは極めて乏しかった。

☆ バグワンに聴く
宗教は、遠くへの願望、遠方への好奇心ではない。それは自分自身の実存の探求だ。仏教がまったく神とかかわりを持たないのはこのためだ。
仏教はおまえのリアリティーを剥きつづける。幾層にも幾層にもわたって、その夢を、幻想を破壊し続ける。究極、ただ「無」だけがおまえに残る。
その「無」が、あらゆるものの源泉だ。その「無」からあらゆるものが生まれ、ゆっくりゆっくりその「無」のなかへ戻って消える。
仏陀以外に今まで「無」をあらゆるものの源泉とあえて呼んだ者は他に誰もいない。ただ現代の物理学が、日ごとにますます仏陀に近づいてくる可能性は充分にある。そうあって当然だ。
仏教は形而上学ではない。仏教は基本的に、純粋に、心理学だ。心(マインド)のリアリティーに、心がどのように機能するかに、何が心を構成するかに仏教は関心を寄せてきた。その関心は心の層のひとつひとつにより深く浸透し続け、最後に、その最深部、その奥底には「無」が存在するという認識に至る。
実在(リアリティー)は、あるがままにある。おまえがそれを好もうが好むまいが、問題ではないのだ。
実在は、そのあるがままに見なければならない。その露わな真実そのままを、その赤裸々な姿を、粉飾されず、覆われず、むきだしのままの実在を見る勇気、おまえに在るか。実在を見ると、すべてはただ消え去り、実在のみがある、その実在と共にあることが解放だ、解脱だ。
偽りの探求者は、初めから何かを証明しようと懸命になる。「私は神を探し求めている」などと云う者は、偽りの探求者だ。「神は存在する」という一つのことを彼ははなから受け容れている、知りもしないで。知っているなら、何故探す? シンの探求者は神を探したりしない。どんな天国も探さない。ひたすら自分自身の存在を探し求めていた。探求は純粋だった。彼らはただ実在(リアリティー)に見入っていた、そこに何があるかを見るために。彼らはどんな先入見にもとらわれていなかったので、無に遭遇した。無を知るに至った。
おまえは、とかく何かの観念にとらわれるだろう、そしてきっと自分の観念の幻想をその無のなかに造り出したがる。真実でない、おまえの想像・妄想にすぎない。それは、だが、おまえを解放しない。しかし信じれば信じるほどますますおまえは観念や妄想にしがみつき、あだな夢の中へ現実(リアリティー)を注ぎ込み続けて、何生にもわたりムダに生き続ける。
憶えておきなさい、これは生で最も重要なことの一つだ。
何の観念も持たずに探求するがいい。特に何かを探すのではなく、ただ見るのだ。目は清く、純粋でなければならない。
2010 5・7 104

* 平山城児さんに頂いていた鴎外論と、もう一つの随筆風論説とを、一気にスキャン校正して、「e-文藝館=湖(umi)」に送り込んだ。
2010 5・7 104

* 夜前、高田衛さんの『近世幻想文学誌』を読み上げた。楽しませてもらったし、この年齢になってたくさん学んだ。江戸への視野も視線もその色合いや風合いも、ずいぶん深められたと喜んでいる。
大冊の『春雨物語論』ももう三十頁余で読み上げる。すばらしい論攷だった。高田世界に堪えがたく引きずり込まれているという実感と共に、いつ頃からそうだったろうと顧みる。
『清経入水』のころ、まだ高田衛さんの仕事を知らなかった。だが上田秋成は識っていた。『雨月物語』を愛読していたから。なにしろ秋成はわたしの育った京都の家のすぐ東、袋町に一時暮らしていたことを、子どもの頃から聞き知っていた。
今しも『水滸伝』『本朝水滸伝』を読み耽っているのも、この高田著に刺戟され、幸い瓢箪から駒が出て本を手にできたお蔭。本家の方は、今夜にも全十冊の第五冊めに入るし、本朝ものは全五十巻のもう二十巻に手が届いている。
2010 5・8 104

* 夜前は、おそくからある人の文章を読み読み、「e-文藝館=湖(umi)」へ組み入れる工夫をしていて、床につくのが遅くなった。それから何冊もの本を手にし、さらに今回作の要所のアタマを検討し思案してから、三時半頃電灯を消した。やや夜寒を感じながら浅い眠りのまま七時に目が覚めた。そのまま起きた。
目次を調整し、序文を書き、これで、三分の二近くは印刷所へ「要再校」で送れる。のこりは落ち着いて読み込まねばならぬ。
2010 5・9 104

* 本家の『水滸伝』をただ読み流すだけでなく、気に入った詩句を別に書き留めている。この大作は根が連続また連続の「講釈」なのであり、「語り」の随処に、しばしば詞や詩が挿入され意外な雅致を帯びる。この一両日にも、こんなのを書き抜いた。

窓外の日光は弾指(またたくま)に過ぎ
席間の花影は坐前に移る
一杯未だ進めざるに笙歌送り
階下の辰牌(とけい)は又た時を報ず         1-80

一輪の月は掛かって銀の如し。
金杯は頻りに酒を勧め 歓笑して昇平を賀す
酩酊して酔醺醺たり 銀漢に露華新たなり。     1-100

時来たって富貴なるも皆命に因り
運去って貧窮なるも亦た由(ゆえ)有り
事は機関(はずみ)に遇わば須らく歩を進むべく
人は得意なるに当たって便ち頭(こうべ)を回らすべし
将軍の戦馬は今何くにか在る
野草と閑花と地に満ちて愁う            1-105

山影将に沈まんとし 柳陰漸く没す
断の霞は水に映じて紅光を散じ
日暮れて転(うた)た収まって碧霧を生ず       1-111

忙中の閑。読み流すのは惜しいと思った。
2010 5・11 104

* 小松茂美さんの『利休の死』力の入った論究であった、とりあげられた書資料の数々に、素人の識別や審議判断はとても力及ばないが、そこは小松茂美という人の力量を信じるまで。
あたかも小説仕立てのようで、小松さんの筆にもそういう気負いが感じられる、が、冷徹に資料の読みと積み上げとが指さすところを表現して、足りていると思う。いずれにしても、「橋立の茶壺」にかかわる書資料は貴重。伊達政宗のことは、主題につよく触れてくるか来ぬかは、やや、逸れた感じ。
もともと、利休木像を大徳寺三門に挙げたこと、利休娘(宗安後家)へ秀吉横恋慕のこと、利休売僧のこと、そして讒言沙汰のことなどは従来云われてきた。
わたしは、上のような事柄のもっと深い根に、秀吉の「土=農民」性、利休の「藝=非農民」性の出自の対立、また利休の「中世」性、秀吉の「近世」性のやみがたく両立しがたい対立・衝突を、歴史の「数」そのものから掴み取る「必要」を考えてきた。
利休を語りかつ論じてきた人は多いが、利休と秀吉との対立・対抗を、上のような史的展望から結論した人は無かったのである。

* 『水滸伝』はや全十冊の半分を読み終えた。寝入る間際に読むので、講釈の調子がいくらか夢見に入ってくる。
2010 5・12 104

* 『水滸伝』では、宋往時の講釈を半ば聴き、半ばは、点綴される多くの詩や詞に目を惹かれ、時に秀句を書き写すのを楽しみにしている。

山影将に沈まんとし 柳陰漸く没す
断霞は水に映じて紅光を散じ
日暮れて転(うた)た収まって碧霧を生ず

男児未だ遂げず平生の志
且(しば)らく楽しむ高歌して酔郷に入るを

雨病雲愁に非ずんば、
定めて是れ憂いを懐き恨みを積めるならん。

粗茶淡飯もて春秋を度(わた)る
好し弥陀の国裡に向って遊ぶに

雲は峯頂を遮り、日は山腰を転(めぐ)る。
岩前の花木は、春風に舞いて暗(ひそ)かに清香を吐き、
洞口の藤羅は、宿雨を披(こうむ)って倒(さかしま)に嫰線を懸く。

一泓の泉水を通じ、四面の煙霞を納(い)る。

玉蕊と金芽は真に絶品
僧家の製造に甚だ工夫あり
兎毫の盞の内に香ぐわしき雲は白く
蟹眼の湯の中に細かき浪は舗(し)く。
睡魔を戦い退けて枕席を離れしめ
清気を増し添えて肌膚に入らしむ
仙茶は自のずから合(まさ)に桃源に種うべし
根を移して帝都に傍(ちかづ)くを許さず

* 舌頭に千転しているうちには、まさしく肌膚に入るだろう。

* 誰かがテレビで云っていた、「政治の話がイヤでしょうがない」と。
「イヤでしょうがない」ことは山のようにある。手放しで喜ぶという物言いがあるが、それとはちがって、なにもかもから「手を放してしまいたい」、我からどこへでも「落ちてよい」気分になろうなろうとするのが甚だ危うい。
こういう時こそ、良いものに触れたい、花のあるものごとに触れたい。手っとり早くは、良書。美しいもの。
2010 5・16 104

* 七時半に起きたが、なんとなくまた寝入って。十時前まで、こまごました夢をみていた。昨夜から、梅原猛さんに戴いた『出雲神話』論を読書の列に加えた。この議論には、いろいろ批評すべきポイントがある。それは以前の『日向神話』のときにも感じたが、その「感じ」を追究気味に読んで行こうと思う。
『新約聖書』も「コリント後書」がもうすぐ終わる。何年掛けたであろう『旧約聖書』の「創世記」から読み初めて、やがて読み通すだろう。『今昔物語』も終盤へ日々向かっている。
この、毎夜少しずつ読み進むという方法での読書は、ほんとうは超大作にこそ向いている。大作は一気に読もうとするとかえって棒折れしてしまう。
日本書紀、万葉集、源氏物語、今昔物語、太平記、西鶴、馬琴、人間の運命などの日本の古典百巻ほど、みなこうして読み上げてきた。オデュッセイ、ファウスト、メリー・スチュアート、モンテクリスト、戦争と平和、復活なども。
いま読んでいるジャン・クリストフなど、普通の読み方をしていたら退屈してとうの昔に擲っているが、毎夜少しずつの読みだと、じりじり進んで行き、有り難いことに通ってきた道筋がきっちり頭に残っている。いずれきっとこの超大作も読み上げる。
2010 5・17 104

* 父遺品のなかで、父が、誰であったか親族の者に、恒平が『廬山』という小説を「展望」に載せたので買ってきた。同じその「展望」のなかに、なだ・いなだ氏が『小さい大人と大きい子供と』という論文を書いている、これを「半ば以上は、自分自身の心境とも述懐とも思って読んでみてくれ」と書き送った手紙の控えがあった。
その「展望」がすぐ手近にあったので、初めて、なだ・いなだサンの論文を読んでみた。驚いた。父の気持ちがたしかに半ば以上よく汲み取れて、もの哀れさに胸の塞がる思いがした。
2010 5・17 104

* 秋成の書いた「樊噲」の大蔵と、『水滸伝』の魯智深花和尚との近似は常識を指さすように容易に云われているが、この関わり一つも、さらに追究すれば奥は深い。ただ甘い推測を羅列すれば、論旨は崩落してしまう。高田衛さんの研究と論攷とが精微に強靱なのは、甘い推測を自己に容認しない誠実さにある。
梅原猛さんの『出雲神話』に関する展開は、その意味では、高田さん学究の誠実さ堅実さに比して、かなり緩解し自己満足的におはなしが進行してゆく。はじめに結論ありき、その結論へ都合のいい話を貼り付けて行くのが、梅原さんの論説を多くの学究がほとんど無視し黙殺してきた大きな理由であったろう、わたしのような門外漢の読者からみても、なにかしら形容はよろしくないが、ユルフン、褌が緩いと感じる。
この感想を、どう修整して梅原説に賛同して行けるかどうか、期待したい。
2010 5・18 104

* 袴垂保輔といえば、平安時代の事情にすこし通じた人なら「大盗」と小耳にはさんでいる。この彼が、時の大赦で、殆ど素裸のまま牢獄から逐い払われた。
彼は素裸のまま路傍に死んだようにノビきっていた。通りかかる人はみな、どこに怪我も手傷もない死人だと嗤い捨てて顧みない。そこへ眷属の二三十人も連れた騎馬の武士が通りかかり、手下の者に観させると、手傷一つない男が死んでいるようですと返事。武士は馬上に弓矢を身構え、保輔から遠のくほどにして通りすぎてゆき、観ていた者はみなこの臆病そうな武士を嗤った。
また、眷属をつれないしかし身なりもよく物の具も身に帯びた騎馬の武士が通りかかり、人にも聞いて、死人にちかづきその様子を検分にかかった、が、やにわに死んだような男が武士の刀に手を掛け、奪いザマ武士を斬り殺してしまった。衣服を剥ぎ、馬も持ち物も奪い取った。そしてまた盗賊団の長となり、近郷近在に跳梁したという。
保輔を褒めた説話ではない、さきの「身構えて遠のくように通り過ぎていった武士」の用意深さ確かさを褒めたのである。
相手を観る。なまなかの者ほど心驕って思わぬ不覚に陥ると、よく聞いてきた。

* 今昔物語は、こういう説話で、人の世を覆い尽くし、厖大に及んでいる。
芥川龍之介はこの説話集に材を得て「羅生門」「鼻」「芋粥」「偸盗」などたくさんな小説をモノにした。なにも、時代小説だけが得られるのではない、換骨奪胎していまいまの今日小説にもなる話材は夥しい。読み物作家の大勢がひそかに、またあからさまにこの古典のお世話になって稼いできた。どういう説話を拾い採って巧みに活かせるか、それも腕というモノだろう。
わたしは、そういう試みも遊びもしたことが、まだ、無い。読んでいて面白いな、放っておくのが惜しいなと思う説話はいっぱい有る。なにしろ一日一話ずつ読んできて何年になるか、「世俗編」つまり日本ダネの説話だけでも、まだ楽しんで読み終えるのに何ヶ月かかかるのである。
難しいコトバではない。難しいと云えば云えるかもしれない、千年近い前のいわば口語なのだから。親切な注と訳のついた小学館の日本古典文学全集を四冊手もとに置けば、おそろしく物知りになること請け合い。
物知りになりたい若い物書きさんたちに、言い古されたことだけど「話の宝庫」としてお奨めする。
2010 5・20 104

* 昨日、志賀直哉全集の第三巻をまた全編読み直し読み終えた。目次では、「城の崎にて」から「真鶴」まで十七編の小説扱い作が並び、うしろへ随感随想や談話が入る。
この巻では「焚火」「雪の日」「十一月三日午後の事」などに感嘆した。
「好人物の夫婦」「赤西蠣太」「和解」「謙作の記憶」「小僧の神様」そして「或る男、其姉の死」など印象深い秀作が多く含まれていた。随筆とよんで少しも差し支えない最初に挙げた二編また三編など、直哉の気品と文章の美しさに真実感嘆。あきらかにそれらは「枕草子」の清冽を汲み上げていた、直哉が枕を読んでいたいないは別にして。最も優れた随筆のじつにみごとな「文学」たる達成がここに在る。安いエンターテイメントや人情話とはまるで次元を異にした高い達成である。

* 一度もここで触れてこなかったが、実は毎夜の読書の一冊に、あれは、法政大学が出している好い叢書中の一冊(上下二冊)の『もののけ』を、少しずつ少しずつ読み進んでいる。著者の名前が覚えられなくて此処で触れそびれたともいえるが、この研究書のグローバルに細緻周到な具体的網羅の実状に気圧され、どう触れて書いてみても見当はずれを云ってしまいそうな危惧を持ち続けてきた。今なお上巻半ばまでしか進んでいない。とても三頁五頁とは気楽に読めないほど、地球上の古今東西南北にわたって聞いたことも見たこともない部族や土地の習俗が緻密且つ具体的に紹介され解釈され続けるのである。
この本、わたしが買ったのでも貰ったのでもなく、妻が生協をでも通して買っておいたのが、あまり詳しくて妻は早々にギヴアップし、わたしは「もののけ」などという題を軽んじて手を出さなかったのだが、触れてみて、その博捜の「実」と「密」に驚歎している。いくら永くかかっても読み上げるつもり。
法政大学出版局の、この叢書には好い本が溢れている。これまで、どれほど多方面に勉強させてもらったか知れない。
2010 5・21 104

* 藝術至上主義文藝学会の会長さんで詩人でもある馬渡憲三郎さんからお手紙を戴き、ずいぶん以前に依頼されていた編纂もの『円地文子事典』の原稿執筆を督促されてしまった。二枚、四枚という短さで、主題は大きな源氏物語では、却って書きづらく放置していた。ま、仕方がないと、即座に二編とも書いて鼎書房へメールで送稿した。
主題と書く長さとがツロクしていないと書きづらい。事典の原稿というのも、厳密なことは学者でないので馴染まない。採用されるかどうか分からない随筆ふうの見当ちがいな原稿になったが、お詫びのつもりで送った。
もう久しく、私は注文の依頼原稿は受けないでいる。書かせて貰えるなら、存分に新たな力の振るえるガツンとした主題に取り組みたい。依頼が無くても、幾らでもわたしは自由にこの機械の中へ書ける。

* その原稿に必要で、書庫に入って本を一冊探してきた。もう通路にも足の踏み場もなく、書架も整頓が出来ぬママ混然と本が並んでいるが、なにもかも投げ出してこの書庫に座り込んで、次から次へ読みたいとつい思ってしまう。そういう本しか手もとに残していないのだ。
高田衛さんの大冊がもうすぐ読み終わるので、次はこれをと、山中裕さん(元東大教授)に戴いていた『源氏物語の史的研究』一冊を機械の傍へ運んできた。観ると、もう各頁にいっぱい傍線がすでに引かれてある。どういう本であるかはもう頭に入っている。それでも、また、読む。いま、今今の人の今日小説よりも、こういうかっちりした研究書の方へ心惹かれる。
2010 5・22 104

* 昨日書いた『もののけ』は、山内昶氏の著。「ものと人間の文化史」122-1をいま読んでいる。人間の中に制度を持った社会と慣習とが出来て行く機微に精細にふれてあり、興味深い。

* これは、バグワン。
「偉大な宗教はすべて冒険者、若者、虐げられた人、犯罪者、罪人たちと共に始まる。そしてどの宗教も、敬意を受けるようになり、聖人が到着し、教会が開かれると、息をひきとる──宗教は死ぬ。」
ものすごい洞察。

* 山中裕さんの『源氏物語の史的研究』は柔らかい土に水のしみこむように胸に流れ込む。面白い。

* 志賀直哉の第四巻は『暗夜行路』 これもまた真清水を吸うように美味しく読み進む。つくりものの小説がもちやすいいやなアクがない。直哉唯一のほんものの長編だが、誘い込まれるように思いの外早く読み終えてしまいそうだ、浮き上がらず心してこの名作を味わいたい。七、八度めになるだろうか。
2010 5・23 104

* 黒いマゴを明け方五時半頃外へ出してやり、そのまま床の中で、ド・クインシーの『阿片常用者の告白』を読み、プラトンの『国家』を読み、山本健吉の『芭蕉』を読み、梅原猛さんの『葬られた王朝 出雲神話』を読み、『水滸伝』を読んだ。すこしまた寝入ったが八時半に起きた。軽い朝食のあと機械のそばへ来て、山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を読み継いだ。どの本もすこぶる面白く、甲乙を付けがたいが、話題にして話したいとすればソクラテスが若い友人たちを相手に理想的な国制を説きに説く「国家」論。
ただ、面白さをうまく書いて伝えるのが難しい。本を丸ごと書き写してしまう方が早いほど、緊密な論理と言葉とで論議が進んで行く。すこし、わたし自身が目前のいろいろから解放され、落ち着いた時分に、ぜひ此処へ紹介したい。
クインシーの文庫本、文藝の古典として声価を得ている作は、後続するもう一冊と共に、もとお茶の水女子大教授だった野島秀勝さんに戴いていた。えもいわれぬ文体の原作を、野島さん、滋味も妙味もある日本語に翻訳されている。
2010 5・24 104

* 『水滸伝』七冊目を読み終えて、ここで豪傑百八人が勢揃えした。小説ではあるが体裁は講釈の仕立てであるのが、大味を大味として許容し得ており、面白く読める。詩や詞の挿入も効果的で、躓くことなく面白くソレも堪能している。

* 盤珪禅師の「うすひき歌」から引いて、上田秋成はこう自身の口調で理解し述懐している。

悪をきらふを善じやとおしやる
嫌ふ心が悪じやもの

これは、まさしく然り。すばらしい。バグワンに帰依してきたおかげで迷い無く受け容れる。同じ盤珪の共感した俚謡に、

思ひ思ふて出る事は出たが 舟の乗場で親恋し

も、深読みがきいて胸を突かれる。
こういうことも高田衛さんの研究書から聴いている。わずかこれだけのことで、本の何十冊に匹敵する体験が得られる。ソレは体験ではない知識を得ただけだろうとは、若い頃なら云われて仕方がないが、この年になると、受け取れる懐に下地の用意がある。
2010 5・25 104

* 『春雨物語論』つぶさに読み上げた。数ある高田衛さんのお仕事の中でも一二に数えたい美事な論攷でした。感謝。
2010 5・27 104

☆ こんな遅くにメール。
風はもうおやすみのことと想います。
『復活』を、読み進めています。
下巻では、為政者に有利な体制を真っ向批判していますね。
当時のロシアでは、かような言論の自由があったのでしょうか。文庫本の解説に、時代背景などの説明があるといいけれど。
それにしても、トルストイは生き難かっただろうなあ、と、想い、けれどそれは、何煩うことなく流されているのより、ずっといいと想われます。
カチューシャの判決を覆そうとするネフリュードフの奔走の後ろに見える社会悪が、現在、風の上に起っている事柄を、思い起こさせもして。
ではでは。
風は京都行きに向け、お荷物など、準備なさるのでしょうね。講演では、ちょっと緊張なさいますか。
お気をつけて行ってらしてください。

* いまどきトルストイの『復活』をどれだけの人が、このように受けとめて真剣に読むだろう、しかしこの小説は、岩波文庫下巻へ入れば殊に、現在の日本で行われているすべての批評よりも、本質的に具体的に人間的に鋭く「問題」を指摘し批判し、魂を揺るがす。またそのような敏感で誠実な魂をもつことが、大切なのだと思い当たる。
「あぶく」のような「ツイッター」ではない。火を噴くほど全身全霊から迸る追究であり抗議であり表現であり、優れた藝術である。トルストイは、いのちがけで書いている。
いま、日本で、いのちがけで『復活』のような仕事をしている物書きが、何人いるであろう。

* 大学に入るとき、面接で尊敬する作と作家とを聞かれ、即座に『復活』と『暗夜行路』と答えたのはウソ偽りでなかった。教授は笑って「なぜ」と問われ、またしても言下にともに「男」が「男」を書いていますと答えた。
男性ということではない。真の「男」が真の「男」をという意味で答えた。
たまたま「花」さんは、『復活』下巻を読んでいると。
たまたまではないが、いまわたしは志賀直哉全集第四巻『暗夜行路』を毎夜読み進んでいて、この名作といわれてきた名作が、たしかに直哉の他の多くの名作名品を打って一丸とした「以上」の名作だと、新ためて舌を巻いている。
妙なことを云うが、いささかも「読みわずらう」ことがない。清水を口に含んで引くように呑む、そういう静かさと確かさと美味さ。何なんだこれは! そんな、あきれるほどの美しさと確かさの世界が、言葉で文章に織りなされ、織り目もみえないほど自然なのである。
そして紛れなく時任謙作という男が存在する、生きている。さらに、作者の志賀直哉も。
こういう若い「男」の国であった、日本は。一人でも二人でも三人でも、こういう「男」に逢いかつ語りたい。
2010 5・28 104

* 車中「水滸伝」 蹴上のウェステイン都ホテルへ入る。

* ホテルで、ひとりでゆっくり夕食、いいメニュ、いいワイン。
このホテルは、ちょっと他にならぶ処のない程、南禅寺のみえる緑美しい東山から比叡山へかけての眺望がすこぶる大きくて好い。静かなレストランで、何人ものウエイトレスに親切にしてもらいながら、景色に目をやりやり、やっぱり「水滸伝」を読んでいた。スープがうまく、鯛の、カリっと焦げ目をつけたメインディッシュもなかなか。デザートもみんな平らげた。

* 食後、ふらりと三条通へ出て、神宮道の星野画廊がもう閉まっていたので、そのまま古川町の店通りひと筋東の細い細い路地道を通り抜け、石橋町から新門前へ。もとのわが家の方へ。もとのわが家はいま美術商のビルになっているのだが、土曜日の晩というのでしまっていて、そのかわり西隣になかなかの喫茶店が店をあけていた。客はなく、入り込んでマスターと小一時話し込んでから、タクシーでホテルへ帰った。
入浴中も「水滸伝」 夜中も「水滸伝」。
2010 5・29 104

* 瑞穂の間、満員。
京都女子大同窓会総会での講演は、一般にも開放。京都の学校友達や、また南山城から父方の親族が老若そろって何人も見えていたりして。
演題は「京ことばと日本と」
時間きっちり、予定していた話題もきっちりみな話し終えて、ま、無事に済んだ。大分笑ってももらったし、ま、これはわたしの話しやすい、また聴衆の九割九分老若のご婦人たちにも、聞きやすくて分かりやすい話題。

* 話し終えて、アトをひくのもちょっと気が重いので、すうっと抜け出るようにホテルを離れて、京都駅前の新都ホテルで一人おそい昼食をとり、予定の一時間早めに新幹線切符を替えてもらって、帰ってきた。
車中、ずうっと「水滸伝」。もう全十冊の第十冊目の半分まで来ていて、残り惜しくて堪らない。
2010 5・30 104

* 『水滸伝』百回本の九十九回まで読み進み、残り惜しく、また痛いほど寂しい。梁山泊百八人の豪傑が、招安後の北方大遼征討では一人の戦死者も出さなかったのに、南方征方臘の戦闘では、文字通り十に八を戦病死させている。そして統領宋江も百回のうちにと想うと、ふと読み進むのを躊躇いさえする。
2010 6・1 105

☆ 結構しんどいです、花粉症。
微熱がつづいています。
くしゃみも、連発。
ムズ痒さのないのが、幸いです。
何の花粉かわからないけれど、はやくおさまってほしいです。
『復活』読了しました。
たくさんの本を読みたいので、速読ができればいいなあ、なんて思っていましたが、『復活』を読んでいるときは、特に下巻では、猛烈な感動を噛み締めながら、ときどき頁から眼を放し、涙を拭いたりしつつ、これでは速読はムリだなあ、と思いました。
すばらしかったです。
二十世紀初頭のロシアを知らなくても、主体的に生きている人なら、我が国、我が町に置き換えることのできる、不朽の名作です。
貴族でありながら特権階級の横着と欺瞞から眼を背けることのできなくなったネフリュードフは、トルストイの分身ですね。
ツァーリズムへの痛烈な批判でした。
『復活』は1899年完成とありまして、ロシア革命が1917年ですから、その間18年あります。トルストイは、『復活』を出版できたのでしょうか。発禁処分みたいなものは、なかったのでしょうか。
それとも、ガス抜きていどに思われ、体制に危険視されなかったのでしょうか。
花の借りた文庫本には、そのあたりの解説がなく、気になります。
ではでは。新刊の発送用意、がんばってくださいね。
お元気ですか、風。  花

* いまどきに、これほど『復活』に共感し感動できる読者のいるのが、嬉しく、感動する。ことに文庫本で上下二冊のこの作の後半が胸を打つ。概念的なようで、じつは素晴らしく表現がしなやかに美しく、しかも追が深い。
2010 6・1 105

* 『水滸伝』百回本を感銘とともに読了、終盤、二度三度胸を熱くし涙脆くなった。
なによりもこの大作は小気味がいい。清明しかも勇猛、百八人の豪傑がみごと活躍して、肉裂け血汐飛び散ることも夥しい或る意味殺戮の絵巻ですらあるのに、しかも生臭くなく明朗でさえある。百八人には女の豪傑も数人加わっているけれど、徹して侠気の男伊達。
反して、イヤラシイのは彼ら豪傑が身命を賭して忠義を捧げた宋の徽宗皇帝の側近。悪辣邪侫の大官が皇帝をあやまり続け、ついに信義の豪傑たちを最期まで苦しめて死なしめて行く情けなさ。
この皇帝は並はずれた藝術的才能の文化人であったけれど、政治的には聡明とは云えず、中国歴代の皇帝の中でも度はずれて悲惨に蒙古の虜囚として死なねばならなかった。そういう大きな史実との対比の中で、梁山泊の豪傑たちの信義を一貫した兄弟愛の戦闘絵巻は美しすぎるほど感動に溢れる。
なかに、詩また宋詞がふんだんに鏤められ、それもとても楽しめた。
播磨の「鳶」さんのご厚意で手もとへ送られてきた岩波文庫十巻。百回本なのに、百日どころか、アアアッという間に勿体なく読み上げてしまった。きつとまた読みたくなる。以前にも『南総里見八犬伝』を「鳶」さんに読ませてもらった。これもまた読み返したい。
2010 6・1 105

* 日本の、昭和十六年夏の「敗戦」を語る猪瀬直樹氏の本を、再読しはじめた。昭和十六年の十二月八日だった、真珠湾奇襲は。その半年も前の「日本の敗戦」が語られるのである。この切り込みの面白さ、猪瀬氏のまぎれもない踏査の才能である。またしばらく、楽しめる。今日も持って出掛ける。
猪瀬直樹作品集を、他の単行本や文庫本も含め大方貰っていて大方読んでいる。都の副知事としての仕事ぶりはわたしには目が届かないが、著述家、ことにノンフイクションの仕事では楽しませてもらってきたし、再読三読に耐える世界であり、もう読んだので図書館へとは行かず、手放せない。
2010 6・4 105

* 東北の人から送られてきた長い小説が、よく書けている。気負い無く、いい材料をいい感度で淡々と物語り続ける内に、感じとしてはあの尾崎一雄の初期小説のようになってきた。楽しみに読んでいる。
2010 6・7 105

* 山中裕さんの「源氏物語の史的研究」で、いましも清少納言の定子皇后に使えていた頃の「枕草子」記事を懐古的に堪能している。目の前にありあり見えるように書く。清少納言のその天才は明らかに「暗夜行路」の志賀直哉へ流れ到っている。
2010 6・8 105

* 二階へ来て、機械に電源を入れると直ぐ、山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を開いて、いつも読み継ぐ。うまい水をぐんぐん吸うように面白く、こんなに面白いんだと驚嘆するほど、どんどん読める。それというのも、以前の「読み跡」が要所に「傍線」で入っていて、それに導かれ更に要点を新しく認めて行くからで、初読のときの数倍の理解力と速さとで頭に入ってくる。面白いと感じるワケである。
第一篇「紫式部の生涯と後宮」を今読み終え、第二篇は「『源氏物語』と時代背景」になる。堅牢で質実な造本、山中さんの学風がモロに出ている。
2010 6・11 105

* で、読書のリストへ、一つマキリップの『イルスの竪琴』第一巻「星をおびし者」を加えて滑り出すように読んでいる。大部の三巻を読み終えるまでは不愉快なことは忘れていていい限り、忘れて過ごそうと。ル・グゥインの『アチュアンの腕輪』も、原作と訳本と揃えて枕元に置いた。
『暗夜行路』が、わたしの日々の動揺に怯えた航海を有り難く安定させてくれる。みごとな、美事などというのでは足りない、的確を極めて「モノ・コト」を明瞭に彫琢し読者の眼に映写してくる「表現」の確かさ、それを可能にしている「視覚の把握」の確かさ。
七十年、万巻を読んできたが、他にかかる完成度は類例がない。そういう存在と向き合う幸福感は「さかしき」を装った数々の欺瞞や卑怯を酸で砕くように失せしめる。嬉しさを胸に残す。

* 隣の棟から、書斎から、カポーティの『冷血』、エート誰だったか、コンラッドの『密偵』を枕元へ運んできた。前者は世界有数の凄惨な犯罪をルポふうに追いつめた著名な文学作品(新潮文庫)、後者は、ある批評家が英国近代文学四天王の一に数えたという作家の文学作品(岩波文庫)。いまの神経でどこまで食いつけるか、ル・グゥインやマキリップとは対照の地平にあるカポーテイやコンラッドへ挑み掛かってみたい。
2010 6・20 105

* 「名前も記憶もないというのは、安らかさの本質であるはずだがね‥‥」と、記憶を失っている相手の顔をみたまま誰かの云っているのに、本のなかで出会った。しばらく、そこから立ち去れなかった。

* いま毎日「愛読」中の本は多すぎるほど、十八冊ほどある。中でも胸の内を吸い取られそうに、ひたと眼をあてて愛読しているのは、山本健吉さんの『芭蕉』で。
昨夜読んだところは、短いが心嬉しかった。ともに味わって下さる人もあれと、紹介させていただく。
生前の山本先生とはふしぎに繰り返し私的に話し込める場を得ていた。わたしが文学批評の本格に触れて心酔した最も早い時期のひとつが、先生の「詩の自覚の歴史」だった。今も座右にあり手に取ると、克明に傍線が引いてある。愛読体験の切なる一つだった。

☆ 五月雨にかくれぬものや瀬田の橋  芭蕉 (曠野)
(新潮文庫山本健吉『芭蕉』上より)

元禄元年(一六八八)大津に滞在中の作。大づかみに掴んだ、瀬田の唐橋の大景である。其角が『雑談集』に、「八景を亡(バウ)ぜし折から、此一橋を見付たる、時と云所といひ、一句に得たる景物のうごかざる場を、いかで及(および)ぬべきや」と言っているのに盡きる。五月雨が湖邊の風景をすべて濛々と降りかくしているなかに、ただ一つ長蛇の如く、瀬田の橋が横たわつているのである。「隠れぬものや」とは、一見概念的な表現であるが、それがかえつて、具象的な描写よりも利いている。大景を描くには、餘計なニュアンスの伴なわない裸形の言葉の方が、効果を發揮することが多い。琵琶湖それ自身が大景であるが、その中にこまごましたものは、一面の煙雨に消されて、橋だけが墨一色の景に浮び上つているのだ。
似たような例に、「五月雨の降りのこしてや光堂」があり、さらに渾然とした表現に達したものに「五月雨を集めて早し最上川」がある。この三句は、中七がやや概念的な表現で大景の中核を掴み、座五に固有名詞を据えている點で、似ている。だが、これらの土地の名は、皆和歌的な情趣を引きずった歌枕ではない。中では「瀬田の橋」が、一番和歌に詠まれてはいるが、ここでは土地の名の持つ歴史的連想よりも、風景的・形態的連想の方が重視される。その點から言つて、この句は寫生的發想の句であつて、芭蕉特有の歴史的意識に伴なうイメーヂの重層化はない。あるいは、芭蕉の意識にあつたとしても、この句にその表現の所を得ていない。この句の平面描写を救つているものは、けつきよく「隠れぬものや」という、概念的であるがゆえに、直接的・断定的でもある、力強い把握である。この七字に、芭蕉のウイットをさえ、見る人は見るであろう。

* つい最近戴いた俳優小沢昭一さんの対談集『日々談笑』の巻頭、噺家の柳家小三治との「佐渡はよいとこ、ふしぎなとこよ」は、なるほど藝のある人の談笑とはかかるものかと、その掛け合いの息づかい、間合い、省略や飛躍や転調そして語彙の妙に、べらぼうに惹き込まれる。お気楽なモンだといささか軽く読み始めて、いえいえ、話藝の神妙に平伏している。

* やすかのお友達が、長い時日をかけて直哉の『暗夜行路』を読み通したとメールをもらっていた。読み通したのがなによりだし、二十歳過ぎのお嬢さんにことに前半、いや終幕に到るまで時任謙作長期間の気持ちがそうそうすんなりしみ通るワケがないのだが、「重い小説でしたが、最後には清々しさを感じました。最後の、謙作が山で自然と一体となる場面は、私も一緒に何か壁を乗り越えたという印象を受けました。謙作がそのまま溶けて消えてしまうのではないかと思いましたが、彼の心の中にあった冷えた部分が消えていく感じは温かかったです。この場面はすんなりと心で理解でき、謙作のこれまでの葛藤を私も少し感じることができました。それまでは謙作の行動を理解するのは難しかったのですが、この場面は謙作の心に少し近づけました。ここが一番好きなところであり、共感できたところです」という感想はたいへん上等である。初読で、ここへたどり着けていたなら、再読の折りはうんと近寄れる。

* じつはわたしも、今朝、『暗夜行路』を読んでいた、しかもコンポジションの中で最重要な、謙作が尾道滞在の中で祖父とインネンの女性と結婚を思い立ち、意志を伝えた手紙に対し、近親から聞くも破天荒な出生の秘密を告げ知らされてしまう個所を読んだ。
直哉は私小説作家であるから稀有の長編小説『暗夜行路』もと即断してしまう人があるかも知れないが、これは実に慎重に構想されたフィクションである、慎重で骨が太くて大胆不敵に巧妙な仮構が幾重にも出来ている。それへの感嘆も名作への接近かしれないが。
しかし読んでいてわたしが感嘆するのは、やはり、じつにクリヤーで強い作者の眼力・視力であり、その把握のゆえに、書かれて行く一行一行がありありと揺れなくわたしの眼に映じてくる表現力の魅力。
ああ文藝だな、文学だな、天才の筆の働きだなとやはり平伏するのである。「莉」さんも、今度読み返す機会にはきっとその辺へも意識が働いて、なみの物書きとは違う人の才能に出逢い直すことだろう。
これは、ただの「おはなし」ではない、人間に駆使しうる「書いて表す」という精神的所業の究極の達成が、みな人が挙ってそのまえに平伏し讃嘆した達成が、此処に実現しているということ。
2010 6・23 105

* 朝八時頃から、寐たまま手の届く本棚から、毎晩お約束のうち、十八冊の大半を、一日のお先に楽しんでしまった。暗夜行路、直哉の書簡、新約聖書のピリピ書、総説新約聖書、今昔物語、ジャン・クリストフ、バグワンの一休道歌、猪瀬直樹の昭和十六年夏の敗戦、ふらんすデカメロン、梅原猛の出雲神話論、本朝水滸伝そして、山内昶氏の「もののけ」。
どれも洩れこぼれ無くおもしろかった。「もののけ」とバグワンと暗夜行路と、出雲神話論とがことに興味深かった。

* 新約の「ピリピ人(びと)への書(ふみ)」は、短いが感銘ふかいパウロのつよい言葉、魂の言葉に溢れている。「何事にもあれ、徒党また虚栄のために為(せ)な」「己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ」「なんぢら呟かず、疑はずして凡ての事をおこなへ」と第二章早々にある。「呟き ツゥィッター」のよからぬ原意が見えている。パウロ自伝ともみえる簡潔で誠実な暑い言葉にも心打たれる。

☆ バグワンに聴く。
「魂の不滅を信じる人たちを観てごらん。彼らはありうるかぎり最大の臆病者たちだ。魂の不滅という彼らの信仰は防禦に他ならない。彼らはただ死を恐れている。だから魂の不滅という観念に縋る。死に逆らってその観念に(抱き柱のように=)抱きつき執着するしか無いのだ。」
「禅のマスターに魂は不滅でしょうかと尋ねても答えない。答えを求めているのはおまえの恐怖であるのをよく知っているから。」「おまえはただ慰めが欲しい。魂は不滅だ、恐れなくていいと権威の力で保証して欲しいだけ、つまり強い父親を求めている。父なる神や神父が欲しいのだ、子供じみている。未熟としか云いようがない。おまえは、つまり、独りで人生をいきることが出来ない。」
「神は存在しないのではない。だが神は父でも母でもない。どんな言葉ででも神を想像することはできない、全き沈黙の中でしか体験され得ない。」「神は信仰体系ではない。たわいもない観念や妄想や無明長夜の夢から、目覚めへの道・導きだ。ご利益を求めてしがみつく抱き柱ではない。」

* 梅原猛さんは『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』で、本居宣長、津田左右吉博士を痛切に非難し批判している。これは猛然批判居士の梅原さんの批判の中で、まこと凱切を極めて端的であり、わたしは全面これを称揚し受容する。
宣長も津田博士もすばらしい一面の底に、堪らない独善を抱いていた。それでわたしは宣長に全面心服することをながく拒絶してきた。梅原さんの言うように宣長の日本観も他国や他国の文化観も悪しく心ねじけている。津田博士の古典の分析力は圧倒的だが、分析以前に巨大な悪しき前提が凝り固まっている。ひろげた扇のような学問の要のところで、学問の結論であるよりも、はなはだ安直な神話否定の主観が癌腫のように鎮座している。
梅原さんのこれらへの批判は簡潔に尽くせて説得の力に満ちている。『隠された十字架』や『水底の歌』での批判や非難の大洪水よりはるかに朝日のように清明で圧倒的だ。それ以上はここに書かない。
梅原さんは、もう一つ、懺悔と共に過去の自説を非難し撤回している。
出雲神話は大和の勢力が仮託した想像の神話だと。出雲など無かったに等しい幻想の所産だと梅原さんはむかし語っていた、『神々の流竄』などで。わたしはこれを嗤っていた、かなりの昔に。
梅原さんは潔くその妄説を撤廃されて、考古学的・学問的基盤に立って出雲神話や風土記や多くの神社の集団記憶を論じ返して、大和に対抗し得ていた出雲王国の存在を、かなりの冒険も含めて力論されている。まだ読み終えないが、概ねとても結構な推論と想像とが著者を活溌に語らせている。

* そして山内昶氏の『もののけ』Ⅰにわたしは惹き込まれている。
「モノノケとは何か」「未開のマナ論」そして今「日本の魔物論」をわたしは読み進んでいるが、それはもう、もう「ヘビ」論なのだ、わたしの主張はこうだった、世界的にもこういう山内氏のような議論や研究が進みかつ広く連繋してくれれば、人間社会の成立と変容と深化と解体現象が見えてくるだろうと。わたしはアジア・太平洋のペンの大会でそう演説したこともある。
山内さんの研究とこの著作は、もし下村寅太郎先生がお達者でおられたら、進んで読まれていただろう。先生はわたしの『一文字日本史 (=日本を読む)』の連載中からの愛読者であったが、戴いたおてがみに、「魔」の追究が日本では遅れていますねと云われていた。
いま、この本はわたしの朱線で真っ赤になっている。印象的に教えられる知識の満載に朱いペンの停まるときが無いのだ。バンザイという気分。嫌いも嫌いな苦手の「ヘビ」の論究を、わたしは少し堅くなりながら読み通している。
2010 6・25 105

* 天童の日比野久枝さんの書き下ろし長編『お寿司お父さん』全編を「e-文藝館=湖(umi)」の「小説」「書き下ろし長編」の二室に、紹介と短評を添えて掲載した。
「ひびの ひさえ  1972年 山形県天童市に生まれる。『ママザメ』http://mamazame.com/の一員として子ども向けにおはなしを作ったりもしている、三人の子の母、主婦。青年海外協力隊の視聴覚教育隊員として、インドネシアに2年赴任。 掲載作は、かなり練達の拘りのない筆づかいで、「インドネシア」体験に健康な根をおろしながら、なかなかおもしろい。書き始めのあたりのやや堅めの物言いを少しホグせば、方言も人間も状況もよく把握し表現されていて、ザクザクしていても粗雑でなく、薄い読み物でもない。ある時期の尾崎一雄文学などのもっていた笑いの味わいにも自然に近づいている。「mixi」のマイミクさんの中から得られた、これはこれ収穫として喜んでいる。さらなる創作を期待する。  (秦 恒平)」

* やはり「mixi」で知り合った柊文乎氏の書き下ろしも、いま手を入れてもらっていて、仕上がりを待っている。
2010 6・25 105

* 朝一番、朝刊と一緒に、猪瀬直樹氏の小学館新書『東京の副知事になってみたら』が、例の元気で達筆の署名と印を添え、さらに「御無沙汰しております」と手紙一紙を添えて贈られていた。
「副知事になって初めて都庁の内幕を書きました。結局、東京が成長戦略を描けばよい、とわかりました。 東京水道の海外展開、メトロと都営地下鉄の一元化、羽田のハブ化と東京港の民営化、高齢者のケア付住まい。 ご参考にしていただければ幸甚です。 猪瀬直樹」と。
抱負であり主張であり政策なのであろうと、声援と共に紹介しておく。

* 二三日前の新聞に猪瀬くん、いま、真剣な意図と実力とで「もう一つの内閣」を組閣すべしと提議していた。昭和十六年、近衛内閣から東条内閣へ移行のあの日米開戦の年、内閣と別に、各省各分野から末は大臣大将も望まれるとびきりの俊英達を集めて総力戦体制に備える研究をさせていた。彼らは、現実の統帥部と内閣とを構造的にそのまま模擬したものを組織して、徹底的に当時の日本の国力と政策とを検討し、あらゆる面の数値推計や認識判断から、日米開戦の絶対的に不可であることを結論し、まだ真夏の内に日本の敗戦を結論していた。猪瀬氏にはその真剣無比な模擬内閣の勉強と苦悩に満ちた討議と結論を生き生きと再現した著書がある。わたしはもう三週間か一月近く前からこの貰っていた本を書庫から持ち出して克明に毎晩読み続けているところなので、氏が新聞に書いている意見がとてもよく呑み込めた。
なにしろペンの理事会、ことに言論表現委員会で彼とわたしは十年近くも同席していた。爆発的に言い合ったことも共鳴し合ったことも数限りないが、彼は次から次へ出す本や全集をいつも丁寧に贈ってくれ、わたしもまたよく読んできた。こんなに猪瀬直樹本を纏めて愛読してきた読者は、多いようで稀だろうと思う。
都政のことはよく知らないでいるが、猪瀬直樹が、破天荒なまで稀有な勉強家、質実を地でゆく類のない取材力の筆者だとは信頼している。犀利な切り口から、いつも新鮮な情感すらがしたたり落ちる。
折角益々の健勝と活躍を願う。

* 「短歌21世紀」をいつも戴いていて、大河原惇行さんの御配慮かと想って感謝している。このところの氏の連載「石川啄木の世界」を愛読している。啄木を語られると、つい引き込まれる。この日々点描のいわば短歌世界への述懐は、一節一節が簡潔に適切に語られていて咀嚼しやすい。有り難い。今月も、「言葉の残滓」「生の表れ」「俗のこと」「常識でない世界」「現実ということ」「意味が多い時代」の六節もが三頁内に収められ、啄木短歌とともに大河原さんの胸奥がゆかしく覗き見られる。おゆるしを願って、引かれている啄木の歌を六つ並べてみる。なつかしい。

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止せ止せ問答

顔とこゑ
それのみ昔と変らざる友にも会ひき
国の果てにて

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家に
かよひ慣れにき

よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり

わが部屋に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日

馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ

大河原さん述懐の小題にこの歌一つ一つを宛て、氏が何を云われているかを想ってみるのもいい。
2010 6・28 105

* パトリシア・マキリップの長編『イルスの竪琴』の第一巻を読み始めて、もう一週間になろうか。繰り返し読んできて、今度で少なくも十度めにもなっているはず、それほどこの緻密に仮構された幻想世界のリアリティと懐かしさとに、わたしは、惹かれる。夜前も読んでいて懐かしさに負け、文庫本を開いたまま眼の上に載せると、闇がわたしを包み隠して、たちまちヘドのモルゴンの旅にわたしも同行していた。そのまま昏々と眠っていった。
もしわたしがフイといなくなっていたら、ヘドのモルゴンとの果てしない旅を重ねていると想ってくれるとよい。底知れぬ大山嶽の、厳寒の森林の奥の奥で、モルゴンとならんで雪をきた一樹と化し、じいっと再生の春を待っているかのように想ってもらえたらよい。
この本は、わたしにはそういう憧れを誘ってやまない「身内」のごときもの。
2010 7・2 106

* 手にとって次々にカタを付けなくてはいけないことが、蜘蛛の巣を破ったように、ぐちゃぐちやになっている。モノの片づかない身の回りや卓や部屋や廊下や。輪を掛けて、わたしを困惑させる。狭いからだけではない、狭く狭く混雑させて暮らしているのだ、自ら。フル回転にあたまをつかって、これでも片づけてはものごとを進めようとしている。あはれや、だが、モノ・コトが多すぎる。落として棄ててしまえるモノも有るには有るが、いまのいま、とてもそうは行かぬ事が多すぎる。しかも究極
、自分独りで片づけて行くしかない。独りで、だ。当然だろう。生まれてきたのも独りで。死んで逝くのも独りで。当然だ。だが、まだ死ぬことは出来ぬ。

* いま、「ヘドのモルゴン」と旅するときが安らぎだ。
2010 7・2 106

* 蘆刈のものがたり、平仲の滑稽ものがたりなど、心懐かしい説話が、もう終幕近い『今昔物語』に満載されている。胸打つのも胸鬱ぐのも息とどろくのも。
多くの近代作家達が見遁してこなかった。寶箱の、今昔物語。

* 信じがたいのはロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、なんでこう、なんでもかでもくどくど、くどくど書いてあるのだろう。じりじりと読み進んでいるが、退屈きわまりない個所では、一夜に数行読むのも苦痛になる。それでも、いつか突き抜けて行くだろうと投げ出していない。まだ全巻の四分の一に行かない。
旧約・新約聖書はもうほどなく全巻読み終えるというのに。

* 小説は長くなければいけないと云って、長さを競っていたような日本の作家達もいたけれど、長くなればなるほど粗雑にはなったが、その輝き、潤一郎や直哉らの一顆の珠玉に及ばなかった。あるいは、トルストイの感銘豊かなおもしろい長さに及ばなかった。

* 「鳶」さんの好意で手に出来た建部綾足の『本朝水滸伝』は、この十倍の長さの本家『忠義水滸伝』に遠く遙かに文藝として及ばない。かなり落胆。
一つには江戸後期の知識人肌文人の文体文章、砂を噛むような悪懲り、が、どうしても好きになれぬ。荒唐無稽はそれなりに歓迎して受け容れる素質をともあれ自負しているけれど、そういうタチのものはだからこそ、リアリティが必要。それはストーリーの整合性ではまかなえない、荒唐無稽が損なうというのでも無い。書き込む書き手の魂から真摯で一途な光が放たれていなければ。ただのツクリモノではどうにもならない。綾足のペダンチックは、質が低い。代表作の『西山物語』でも、落ちる。
まだしも同時代の「人情物」に秀作がある。馬琴も、「八犬伝」は称揚できるが「美少年説」はおおいにダラける。まだ馬琴の『椿説弓張月』を読み残している。出逢うのを楽しみにしている。
2010 7・3 106

* 「湖山夢に入る」と題したメモのファイルを持っている。昨二十一年年師走二日に、こう書いていた。

七時に起き、生母ふくの手紙を解読しつつ電子化しているが、いま十時、朝から最初の一通がまだ写し切れない。
しかもいろんな事が新たに見えてくる。察していたことばかりだが、あらためて母自身の口からいろいろ慨嘆され哀訴されてみると、そもそもまだごく幼い小さい兄やわたしの「処分」の仕方にどうもその場凌ぎの中途半端があり、そのために幼い兄弟も、兄弟をそれぞれ預けられた北沢家も秦家も、十年にわたりじつに気味のよくない宙ぶらりんの気分に悩まされてきたし、母も、無意味に「我が子」二人を手の届かぬ場所へ隠されていた哀しみを持ち続けていた。「処分」に際し仲に立って半端に暫定の処置だけを施したいわば第三者を、母は「ブローカー」という際どい言葉をつかって、今回(=昭和二十二年から三年)の法的な養子縁組に際してはそういう第三者の好き勝手にはされたくないという意思を強く打ち出している。背景に戦後の新民法があり、母の発言権を後押ししているのも分かる。
およそは察していた。裏付けされてきた。
この頃、小学校五年から六年生へ向かおうとしていた自分の記録は、湖の本44『早春』に残している。

* まだ、手にした資料をどう出来るともわたしは思い到っていなかった、ただもう生母の遺した手紙を機械に書き写していた。「湖の本103」の着想は、毛筋も頭に無かった。

* 午前、午後、夕方まで、気を集注して「一つこと」の理解と整頓に費やした。疲れると一服がわりに山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を読む。元服、加冠、添臥、新枕、三日夜餅、露顕などなどを源氏物語の各所の本文をひき読みながら理解して行く。それからまた「わたし被告」の法廷に立ち戻る。おもしろいでしょう。
2010 7・6 106

* 手持ち飛鳥井家であろう正二位雅章の歌懐紙では、「七夕同詠 星河秋興」と題してある。
天の川つきのみ舟の追風もこゝちすゞしき雲の衣手
七夕は、本来、初秋。いまわが家には新笹がほっそりニョキニョキ生え出ている、涼しい浅みどり色して。

* 不愉快な、しつこい要事の合間に、一服の感じで、いろんな本に手を出す。いまさきも、直哉の『暗夜行路』を読み継いでいた。こんなところへ行き当たった。
この作品の時任謙作は、父の子でなく、父の父、祖父と、父の妻、母との子だと、この年齢になって初めて告げられた、東京から遠い瀬戸内の尾の道にいて。
『暗夜行路』の大きな構想の一つが、これだ。言うまでもない作者直哉の仮構したフィクションである。多くの読者をおどろかせる設定であり、少年であった昔々のわたしも驚いた。

☆ 暗夜行路  前篇・第二 13
そして、彼は何といふ事なし気持の上からも、肉体の上からも弱つて来た。心が妙に淋しくなつて行つた。彼(=時任謙作)が尾の道で自分の出生に就いて信行(=戸籍の上の兄)から手紙を貰つた、其時の驚き、そして参り方は可成りに烈しかつたが、それだけにそれをはね退けよう、起き上らうとする心の緊張は一層強く感じられた。然し其緊張の去つた今になつて、丁度朽ち腐れた土台の木に地面の湿気が自然に浸み込んで行くやうに、変な淋しさが今ジメジメと彼の心へ浸み込んで来るのをどうする事も出来なかつた。理窟ではどうする事も出来ない淋しさだつた。彼は自分のこれからやらねばならぬ仕事──人類全体の幸福に繋りのある仕事──人類の進むべき路へ目標を置いて行く仕事──それが藝術家の仕事であると思つてゐる。──そんな事に殊更頭を向けたが、弾力を失つた彼の心はそれで少しも引き立たうとはしなかつた。只下へ下へ引き込まれて行く。「心の貧しき者は福(さいはひ)なり」貧しきといふ意味が今の自分のやうな気持をいふなら余りに惨酷な言葉だと彼は思つた。今の心の状態が自身これでいいのだ、これが福になるのだとはどうして思へようと彼は考へた。若し今一人の牧師が自分の前へ来て「心の貧しき者は福なり」といつたら自分はいきなり其頬を撲りつけるだらうと考へた。心の貧しい事程、惨めな状態があらうかと思つた。実際彼の場合は淋しいとか苦しいとか、悲しいとかいふのでは足りなかつた。心が只無闇と貧しくなつた──心の貧乏人、心で貧乏する──これ程惨めな事があらうかと彼は考へた。
これは確かに生理的にも来てゐた。尾の道にゐた頃、既に彼はさうなりかけてゐた。其処に自身の出生に就いて知つた。此事は然し一時的に彼の心を緊張させる上に却つて有効な刺激となつた。が、その刺激がなくなり緊張が去ると其処にはり一層悪いものが残された。これなしにさへ弱つて行きつつあつた彼の心はその為め不意に最も悪い状態にまで沈められて了つた。

* 少年の私は、謙作の運命にもかなり驚かされたけれど、ここでは、この状況で牧師が出てきて「心の貧しき者は福なり」などといえばブン撲るという謙作の気持ちに、立ち止まった。わたしは新約聖書「マタイ伝」山上の垂訓をすでに家にあった小型の聖書で識っていた。(ちなみにこの聖書は、叔母が若い日に心惹かれていたという男性から贈られていた。今の話には関係がない。)そして、引っかかっていた。
心豊かなという物言いが称讃の感じで有るのに、正反対の「心の貧しい者は福」は呑み込みにくかった。むりやりにも加齢とともにわたしは理解してきたつもりで今はいるが、あれだけ直哉はキリストの協会に通って牧師先生に傾倒した人だが、いかにも此処は若い謙作らしいと、今でも謙作に共感する。
わたしの出生も、いまやわたしの読者には全面的に知られているように、そうそう尋常ではない。しかし父は独身で母もすでに寡婦であったから、その点に問題は無かった。ただ母には子があり、父は母よりも余程若かったので、周囲のとうてい容れる間柄とは成り得なかった。そしてそんな事実をわたし自身は何も知らずに秦家で育てられたから、『暗夜行路』の謙作のように「参つた」体験は全然といえるほど無かった。
それでも今日何度目か此処を読んで、謙作の気持ちに心身を添わせるのは自然に容易であった。謙作の鬱屈はよく書き示されている。

* 今日、ある遠方の女性造形家からはるばる『私』への礼信があった。その文言に、
「今回の表紙は、一段と官能的ですね。そして、今回のテーマは「私」だったので、官能的私小説…? という印象で、ちょっとドキッとさせられました。
以前にも少し書いていらっしゃいましたが、興味深い生い立ちでいらっしゃいるのですね。」と。

* なるほど、「興味深い生い立ち」かと苦笑した。
むかし、あるアマチュアで小説を書いていた年かさの女性と対話したとき、会話の中にひっきりなしに「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした普通の」という物言いが頻発するのに、いささかげんなりした記憶がある。
今度の作にも書いているが、就職の最終面接の席で社長が、わざわざ、「君は此の戸籍の記事を気にしているかも知れないが、ボクは気にしていないからね」と言われてビックリした。わたしは、むろん自分の原戸籍を読んで知っていたけれど、社長のわざわざの思いやりにビックリしてしまうほど、まるで念頭に無かったのだ、「そういうもんなのか」と初めて学んだ気がした。
「ちゃんとした」にも「興味深い」も、参りはしないけれど、軽く胸をおされる。
時任謙作の参るははるかに深刻であったろう。実の父上とながいあいだ不和でうまく行かなかった直哉の気持ちを思って読んでいた。
2010 7・7 106

* 大きなこともあったのだ、プラトンの『国家』を、読み上げた。
直ぐには感想も言えないほど、そう、ゲーテの『ファウスト』やホメロスを読んだときに匹敵する重力だ、しかも底知れず面白く興味深かった。読みあぐむことが殆ど無かった、すこしの異存を挟むことはあったけれど、すばらしい弁論の妙に頭を垂れた。耳を傾けた。目を見張った。
読み取れたと思う全部に真っ赤に線を引いた、申し訳なかったが。もう一部買って置きたいと思うほどだが、なによりも、間隔をおかずすぐまた最初から読み直そうと思う。『ファウスト』はそうして三度立て続けに読んだのだった。親しんだ。
『饗宴』よりも身に染みて親しめた。『弁明』にも胸を打たれたけれど。
大学院で机を並べた只一人の学友だった大森正一君がプラトン専攻だった。つい先頃、死なれてしまった。そのあとで、七十五になろうというわたしは初めて大著『国家』という雄峰に登りつめたが、まだ目がくらんで景色を眺める余裕がない。一度下山して、また上ろうと思う。張り合いがある。
その前に、これこそ「解説」を一度、丁寧に読もう。文庫本の☆一つ分ほどある。これも楽しみ。
2010 7・7 106

* 夜前、腹痛があり、ひどくはならなかったが寝苦しく、モルゴンの旅に同行して思い慰めた。
彼の「偉大なる者」の王国には、魅力的な幾つかの国と魅力的な領国支配者たちがいる。昨夜から今朝へ、最も魅力的な一人、オスターランドの狼王ハールとヘドのモルゴンの初対面を喜んだ。こんなに繰り返し読んでいるのに、まだまだ気づけないでいた精微な大作の意図や伏線がないし複線が見えてくる。それほどの大作でもあり、それほどの巧緻な組み立てと進行とを、作者マキリップは悠々と実現している。いやいや作者などという存在をわたしは感触しない。世界そのものを腹中へ呑み込んで、ともに生きている。じつは、この世界は深刻な深刻な危機に臨んでいるのに、モルゴンはそれとの対決をいわば頑固な思想として拒絶しているのだ、今は。
この世界へわたしは溶けて入りたい、どんなに危険であっても。なにが魅力か。自然の底深さであろう、か。人間の叡智か。平和の難しさが露わになるにつれ、て人間はなにを自身に課して歩んで行くか。
2010 7・8 106

* 足の攣りで七時前にめざめた。ゆうべが遅く、疲労が失せなくて血糖値、やや高い。早めに病院へ向かう。

* 病院での成績はわるくなかった。どこへも寄らず一時過ぎには家に帰っていた。病院でも、往復の乗り物でも、夢中で『星を帯びし者』を読んでいた。ヘドのモルゴンの旅は益々遙かなものになり、死の危険はひっきりなしに身に迫っている。狼王ダナンのもとで、ヴェスタ(大鹿)への変身を習い、いまはまたハールのもとで、三つの星の秘密に導かれながら、深刻をきわめた世界の崩壊の危険と懼れとでモルゴンはいっそうの飛躍を強いられている。

* 家に帰ると、すぐ不愉快な要事に埋没を強いられる。もう八時だ、汗を流してまた更に。

* がまんならない。眠い。
2010 7・9 106

* 『イルスの竪琴』の第1部を読み終えた。翻訳は脇明子さん、もうずいぶん昔だが脇さんが泉鏡花の著書を出された頃に文通があり、一度座談会で一緒になったりもした。その脇さんがこの訳本三部を下さったのは天与というべく、不動の愛読書になった。脇さんならと、翻訳の美しい安定にも信頼をもってきた。あれから久しく今はどうされているか知らない。お母さんが歌人で、『愛と友情の歌』のために一首をもらった。母子ともお元気か。
2010 7・10 106

* マキリップの第二部を読み進んで、二時に寝て、七時半、すっきり起床。機械を使う。人事は尽くした。
建日子も来て、裁判所へ送ってくれる。迪子もさぞ疲れているだろう、終始懸命にいろいろ手伝い心遣いしてくれた。ありがとう。
水戸からも愛知からも有り難い声が届いている。言うことは、ない。

* 妻の入れた手洗いに「もじずり」が、直く高く40糎ほども淡紅の花を、細い茎に巻き巻き登らせている。美しい。

もじずりのひたすら直く桃いろに   湖
2010 7・13 106

* 猪瀬直樹氏にもらっていた『昭和十六年夏の敗戦』は、うら悲しくも痛烈に興味をそそる本で、一行一行が堪らなく往年の日本の顔と体臭とを見せつける。身内の深い歎きをともに歎きながら、ああそうなのか、そうだったのかと謎解きのように「総力戦体制」の貧寒と混乱の日本が愛おしくも情け無くなる。この本、どれぐらい読まれたのか知らないが、広く深く読まれていい本だ。

* 梅原猛さんの「出雲神話」論も飽きたりしないで、じりじりと前向きに読み進んでいる。批評的に読んでいる。鋭い認識と甘い推定とが交錯するのが、まだ覚え書きか草稿段階の「非小説」のように興深い。
2010 7・16 106

* マキリップの第二部は、レーデルル、ライラ、トリスタンの生死不明のモルゴンを追う旅が続いている。
2010 7・17 106

* 河出から貰ったままのその建日子の新刊『ダーティ・ママ』を読み出そう。雪平夏見に次ぐ、また女刑事物とか。クリント・イーストウッド主演の面白かった映画シリーズの「ダーティ・ハリー」を思い出す。新作ごとに共演女優が交替した。ソンドラ・ロックやルネ・ロッソのが優れていたと覚えている。はなから映像化期待の小説というのはわたしは決して書かないが、いまでは言語作品の映像化け刃は流行で常態になっている。面白く読めればありがたいとする。
2010 7・18 106

* メガネをかけた鼻梁に紙を小さく一つかみ捻って挟むと視野がとてもクリアになる。右目にすこし白内障が進んでいるのではと自覚しているので、目薬も欠かさないが、読書の量を減らそうとしている。階下と二階とでどうしても一日二十冊ほどに目を、たとえ少しずつでも通しているのを、半分に減らした方がいいだろう。わたししの生命線が目ぢからにあることは明白。
2010 7・20 106

* マキリップの三部作『イルスの竪琴』は第二部の「海と炎の娘」を読み終え、第三部「風の竪琴弾き」に入った。モルゴンの旅、レーデルル・ライラ・トリスタンの旅に同行してわたしは現世の不快を忘れていることが出来た。モルゴンとレーデルルとの世界は激しい苦闘の渦に必死に巻かれて行く。従軍者としてでなく、自分の闘いとしてわたしも最期までついて行く。

* いま十七、八冊を読み進んでいて、猪瀬直樹の『昭和十六年夏の敗戦』がきわみなく興深く、歴史書としての誠実な執筆ぶりにも感銘を覚えつづけている。もう一つ「今昔物語」の巻三十の美事な短・掌編小説集ぶりに圧巻の面白さを日夜感じ続けている。さらには、言うまでもないが『暗夜行路』後編へ入っての美しいかぎりの進行に感嘆している。
2010 7・21 106

* 六本木から丸ビルへ。髪の薄くなったアタマの焦げてくるのをおそれて、帽子を買った。
学童や学生の昔を除いてわたしが帽子をかぶったのは二度ほどのごく短い期間だつた、だれもが吹き出すほど似合わない。似合わないとみなが笑う、いや嗤う。
で、どうせ嗤われるならチンケなやつをわざと選ぼうと。店員の薦めてくれた柔らかい藁を編んだようなのは妻に譲った。妻の方にはるかに似合った。わたしは、どうしようもない赤や緑など色とりどりパッチワークのような妙なやつを買った。
帽子がないとこの炎暑の下を、物騒で歩けないのだから仕方がない。そして東京駅のスタンドで鮨を食ってから、帰った。電車の中では息子の『ダーティ・ママ』を読んでいた。まるでマンガのようなカバーが恥ずかしかった。湖の本の満ち足りたヌードの方がずっと美しい。
2010 7・21 106

* 夜来、雨が通ったか、こころもち涼しいと感じた。晴れやかに日は澄んでいる。

* 「早春」の出だしを読んで、ビックリした。忘れていた。

* 電車のなかは涼しい。座席が選べれば直射日光も避けられる。山の方へ向かうのが賢いだろう。わたししの電車乗りのお気に入り、というではないが、乗りでのあるコースは、西武線で秩父へ、秩父鉄道で熊谷経由、JRで大宮経由で池袋へ帰る。これはたっぷり乗れるし空いている。秩父鉄道からの景色はちっとも良くないが、本はたっぷり読める。熱暑名所の熊谷で食い物の店にとびこんでも来れる。

* で、『ダーティ・ママ』を読む日だった。だが、宜しくなかった。きついことを言う。

* 『ダーティ・ママ』の宜しくないのは、又も、斜めに読んでしまえること、それは説明の文ばかり多いからで、加えて、俗な慣用句も平気で使われ、通俗読み物の悪弊を平気でふりまわしている。いくら今日の文壇を通俗読み物作者達が占拠しているからと言って、真似ることはない。残念ながら、必然、この作者にはある、ピカッとしした「表現」味が全編に薄い。
ヒロインと出逢ったトタン、一歳の子のシングルマザーだというのにKIKI KIRINを感じてしまって、印象がどうしても抜けないのにメイワクした。どうかして例えば篠原涼子に読もうとしても、だ。こうなったら篠原涼子主演で印象を改めてもらいたい。
身びいきで読んでいるから相応に面白くも読みすすめたけれど、ま、作者がよその人なら、指一本触れない。俳優座の稽古場で「ブレーメンの自由」ほど身に迫る、人間の自由と絶望、俗世の愚と偽善に嶮しくふれたあとでは、いやいや同じ俳優座の本舞台で同じ秦建日子が作・演出の舞台で見せた「らん」の、思わず呻かせたせつなさのあとでは、安い紙芝居を拍子木に誘われみせてもらったようだ。
どうやら「小説」の世界では、此の作者、根源の自身のモチーフのためでなく、売らんかな人形作者を演じてみせている。「小説」というジャンルの真摯な輝きと、真面に向き合って欲しい。きみの先師は、舞台の傑作だけでなく、小説でも血のにじみ出る秀作をのこされた。子連れ狼やダーティー・ハリーの二番煎じと見られてしまうのも、手軽い感じを倍加する。
二部めの、どうしようもない夫をもった香水にくわしい奥さんのようないい女も作者は書いている。
どうか概念だけで造作されたボール紙のような人間でない人間の「活躍」を見せて欲しい。推理小説でも刑事小説でも犯罪小説でも構わないのです、その主人公がネフリュードフでも時任謙作でも立派にそれは書けるのだ。わたしは最近、1970年生まれのジョシュバゼルが書いた『死神を葬れ』というじつに手荒いメディカルスリラーを読んだ。ベストセラーだ。好みではなかったけれど、主人公はがっちり書けていた。概念で書かれたヤツでは無かった。この男を使ってならかちっとしたまるで別の純文学が書けると感じた。
ちなみに、戯曲「ブレーメンの自由」を書いたファスビンダーは、映画「マリア・ブラウンの結婚」「リリー・マルレーン」などでニュー・ジャーマン・シネマの旗手とうたわれ、40本以上の優れた映画、18本の意欲の戯曲を残し、フルスピードの37歳で此の世を駆け抜けていった。
やれば出来るだろう! 体躯ではない。体躯の底から、内から、芯から、大きくなれる。小山の大将でなく、なれる。
2010 7・23 106

* 六時半に目が覚め、もう少し横になっていようとしたが雑念に騒がされるのもイヤで、まくらもとの電気で、『暗夜行路』後編のつづきを追っていった。八節から九節を得も謂われぬクリアな文章の魅力に導かれ、澄んだ朝日を身に浴びるように楽しんだ。心はずむ謙作の結婚が人の尽力や厚意もあってもう実ろうとしている。一方で怪しげな昔の朋輩の口車に乗るようにして海外へ出稼ぎに行こうというお栄を京都にいて見送ろうという謙作は、数日のヒマに伊勢や亀山へ旅に出る。旅の表現の的確で美事なこと、寸分の揺れも歪みもなく澄んだ水にモノの姿を映したように書かれて行く。

* ああと思わず声の出たのは亀山の城跡で、この地で生まれた自分の生母──祖父との間に謙作を生んでしまった生母──のことを人に尋ねながら、あまりに関連した何もかもを知らずにきた自身に惘れ、謙作は、だが、こう述懐していた。
「然しそれでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ」と。

* ああ、忘れていたが、わたしも幾十百度「それ」を自身に言い聞かせてきただろう。そしてそれは、間違いなく時任謙作のこの声を、この言葉を聴いていたのだ。
わたしは高校生であった。それがあってわたしは大学に入る直前の教授面接に答え、時任謙作の『暗夜行路』を、ネフリュードフの『復活』と並べて二冊挙げ、「男」が主人公だからですと言った。
忘れていただけで、読み返してゆくにつれ想像以上にわたしが『暗夜行路』の謙作に自身のかなしみや頼りなさをうち重ね重ね励まされていたことに思い当たる。びっくりする。
「それでいいのだ。その方がいいのだ。総ては自分から始まる。俺が先祖だ。」
なんという励ましであったことか。
2010 7・24 106

* 興膳宏さんの岩波新書『漢語日暦』をもらう。今日七月二十四日は「游泳」とあげて、毛沢東の水泳好きが紹介してある。六十四歳で、三日続けて長江中流の漢口・漢陽と対岸の武昌の間を泳いで横断したそうだ。千六百メートルの武漢大橋が建設中、その下をくぐって泳いだ。静かな庭を散歩するのに優ると話していたという。
2010 7・24 106

* 猪瀬直樹の『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』を読み終えた。この十年の読書の中で最も刺激的で持つとも興深かった十冊の一冊に数えたいほどのめり込んで読んだ。感謝する。

☆ 志賀直哉「暗夜行路」後編十六より
二月、三月、四月、──四月に入ると花が咲くやうに京都の町々全体が咲き賑はつた。祇園の夜桜、嵯峨の桜、その次に御室(おむろ)の八重桜が咲いた。そして、やがて都踊、島原の道中、壬生狂言の興行、さう云ふ年中行事も一卜通り済み、祇園に繋ぎ団子の赤い提灯が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した楠の若葉がもくりもくり八坂の塔や清水の塔の後ろに浮き上がつて眺められる頃になると、流石に京都の町々も遊び疲れた後の落ちつきを見せて来る。
実際謙作達も、もう遊び疲れて居た。そして、謙作は其頃になつて直子が妊娠した事を知つた。
六月、七月、それから八月に入ると、よく云はれる如く京都の暑さは可成り厳しかつた。身重の直子にはそれがこたへた。肉附のよかつた頬にも何所か疲れの跡が見られ、ぼんやりと淋しい顔をして居る事などがよくあつた。

* これだけで京の春から夏が満喫できた。作の運びに利された型どおりの概念めいた描写と見えて、隙がない。 「年中行事も一卜通り済み、祇園に繋ぎ団子の赤い提灯が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した楠の若葉がもくりもくり八坂の塔や清水の塔の後ろに浮き上がつて眺められる頃になると、流石に京都の町々も遊び疲れた後の落ちつきを見せて来る。」この景色と季感とのまんなかで育ってきたわたしは、読んでいて肌に粟立ってくる実感にとらえられ、直哉ならではの簡潔と的確にアタマを下げる。

* ほかに、直哉書簡集の昭和十二年、総説新約聖書と聖書との「テモテ前書」、今昔物語、ジャン・クリストフ、本朝水滸伝の巻三十八、もののけ上巻、フランスでかめろん、山本健吉の芭蕉を読んでいってから、身を起こし、秦の親達に挨拶し、血糖値105をキツチンで確かめた。七時時十分。妻と朝食。そして機械の前へ来た。入院する人をメールで激励。
さ、今日も、スキャンという根気の仕事を躊躇いなく進めよう、先ずは。
2010 7・30 106

*よほど今日は「米久」のすきやきが希望であったけれど、断念。
池袋西武の上の「築地植むら」で懐石と酒。読み物は、ずうっとマキリップ充実の第三部『風の竪琴師』に引きこまれつづけていた。
2010 8・3 107

* 色川大吉さんより、岩波からの新刊『昭和へのレクイエム』が贈られてきた。自署で「謹呈 色川大吉」とある。有難う御座います。「自分史最終篇」ともある。「自分史」という今では聞き慣れたことばは色川先生の発明で、ことにわたしはシリーズの中で『若者が主役だったころ わが60年代』一冊を夢中で読んだ。
1959年にわたしたちは京都から東京に出てきた。家庭生活の開幕だった。
1969年に第五回太宰治賞を受けた。創作者生活の開幕。
わたしにとっても、まさに「わが60年代」であった。
色川先生の「昭和へのレクイエム」がどのように奏でられているか、心して読みたい。「昭和」は六十四年(1989)の早々に平成元年と相貌をかえ、以来もうはや二十二年。先生が平成のどの時点から昭和への鎮魂歌を歌われているか。心して読みたい。

* 林郁さんからは『山の神さん』を戴いた。母上を書かれた。「八歳で敗戦を体験した私は戦中の苦しさを記憶し、戦後教育を受け、忍従大嫌いな女に育ちました。失敗もし、必要な忍耐もし、快適な日々と平和をしんそこ希っています」とあとがきにある。「忍従大嫌いな」一年歳わかいお人と、ペンの委員会等でわたしは何度も話している。上梓をお祝いする。
2010 8・4 107

* 夜前、おそくまでかけてマキリップの『イルスの竪琴』第三部を深い気持ちで読み終えた。
もう何度も何度も読んできて今までで一番こころを入れて感動して読み切った。一字一句、一行も疎かにしないで作世界の創造性に心身を投げ入れるようにして読んだ。一字一句に籠められた精微で生き生きしたすばらしい想像力。大地が、風が、光が、物音が、石が、草が、生きものの全てが、人と心を通わせておおきなものを成している。こういう人と自然との真摯な他界が在る。深く励まされる。仏陀の世界でも天国でもない。
大長編といっていいが、原書で、とにもかくにも一度読み通してきたという覚えが、ひときわ、今度の読みでは親しみも深みも加えてくれた。そのじつははげしい闘いへ導かれる物語であるのに、わたしはしんからこの世界でやすらぐ。源氏物語よりもやすらぐ。「たのむにたる他界」がここには実在するからだ。

* 今日も終日、読んで読んで読んで過ごした。
2010 8・5 107

* 『水滸伝』『イルスの竪琴』そして猪野瀬直樹『昭和十六年八月の敗戦』など、たてつづけ惹き込まれていた本をみな読み上げてしまい、かわりになるべきカポーテイやロマン・ロランになかなか乗りきれず、戸外へも持ち歩けるいい読み物に窮している。『暗夜行路』は断然佳いのだが、また色川さんの『レクイエム」
も。だが本が重く持ち歩くには適さない。これも持ち歩きにくいが、一冊、長崎の横手一彦教授からとてもいい本を戴いている。
2010 8・8 107

* 長崎の横手一彦教授からいい本を戴いている。

* 『長崎・そのときの被爆少女 六五年目の石田雅子著「雅子斃れず」』で。時事通信社から出た。
今の姓で柳川雅子さんは、女学生の時、長崎原爆爆心地近くの工場で魚雷製造に従事し、被爆。『雅子斃れず』は病牀で書かれた。被爆体験記はそのつど東京に住む兄へ送られ、兄は、家族や親族の回覧紙「石田新聞」に上の題をつけ連載した。結果として原爆投下から「最も早い時期に記録された」のだが、連合軍最高司令官総司令部(GHQなど)の検閲や干渉を受けていたのを、今回、元々の回覧紙版に基づいて復元された。雅子さんは十四歳であった。
この本は六五年ぶりに復元された文章を中軸に、「原爆投下、そのときの長崎」や「『雅子斃れず』の周辺」などが横手さん等の尽力でしっかり傍証されていて、さきに同じ横手さんに戴いた被爆崩壊した『浦上天主堂』の写真集とともに、たいそう貴重な出版となった。嬉しいことに、爆心のごくまぢかで被爆しながら、奇跡というしかない石田雅子さんは、のちに柳川雅子さんとなり健在なのである。なんという有り難いことだろう。
1945年8月9日、長崎原爆投下。その日から65年目になる。
横手教授のこうした活動には、敗戦後の占領軍による「検閲」研究というひと筋が強靱なバネをなしている。敬服する。
2010 8・9 107

* 色川大吉さんの『レクイエム』 昭和天皇終焉の頃と天皇制についてのキチッとした考え方を、頷いて読了。
一種の点鬼簿が最後にあり、私にも懐かしい名前の幾人かに感慨を添えて読んだ。
このところ何冊もいろいろ本を戴いている、昨日は小松英雄さんの『伊勢物語』の独自読みの本を戴いた。
2010 8・14 107

* この数日の視力の酷使はすさまじく、夜の床に就く時分はメガネの儘でも視野は霞みきっている。それからの裸眼の読書は、出来なくはないが、半量ほどに減らし、かわりに、東工大で買った複合機能のラジを持ち出し、三遊亭圓生の「圓生百席」を当分耳で聴くことにした。昨日は入浴しながら「文七元結」を聴き、今朝は起床前に「山崎屋」を聴いた。たっぷりと長枕を圓生は置いてくれる。これでわたしはどんなにたくさん勉強したか知れない。それに前にもサゲのあとにも、悠々と美しい音曲を、それはもういろいろ聴かせてくれる。
圓生は爆笑させる名人ではなくじっくりと噺して聴かせる「噺し」の名人。わたしはそれを心ゆくまで楽しむ。この十数年は妻も私も歌舞伎座に奉公していたようなものだから、ひとしお圓生の噺がしみじみと面白く分かる。視力をいたわるために、圓生百席の偉業・遺業にまた触れるというのは嬉しい名案ではないか。

* 本は直哉の『暗夜行路』がいましも謙作が伯耆大山に滞在し始めた。妻のしくじりの痛みから、謙作は大山へ来た。その経緯の叙事は筆も美事に早く的確で、惚れ惚れする藝術の魅惑であるが、仏教や禅への親和の思いにはわたしも心からうち頷く。
いま宗教書といえる本はキリスト教のバイブルを、もう二三年はかけて旧約から新約へ、それも今は「ヘブル書」にまで来てもう少しで全編を読み終える。
もう一つはバグワン・シュリ・ラジニーシの『一休道歌』上巻をやがて読み終えようとしている。

* バグワンは、「ゴータマ・ブッダつまり釈迦の出現は、人間意識のもっとも並はずれた出来事のひとつだった」と云う。その炎は、禅の人々が時代を経て伝えてきたと云う。禅の人は「持ち出せる哲学」があって語るのではない、彼らは何かを見たから語る。彼らは思想家ではなく、「見者」として語るとバグワンは云う。わたしはそれを感じる。

☆ バグワンに聴く。
仏陀は宗教の質そのものを変容させた。彼以前、それは神学だった。彼以後、それは人間学となった。彼は言う、必要なものはすべて人間意識の内に隠されている。天を見上げる必要はない。恩寵を求める必要はない。人は自らの光にならねばならない、と。
そうだ、光はそこにある、それはおまえの生の中核そのものだ。おまえはそれを本来持っていて 無くしたのではなく、忘れているだけだ。思い出せ。これが仏陀のアプローチのまさに基本なのだ。
生とは、忘却と想起。それが、すべて。
人は無明の眠りに落ち、千とひとつの夢を見つづけている。だが──朝が来て、目を覚ます、夢はみな消え失せている。生もまたそうだ。内なる実存に対して眠りに落ちて落ちている。おまえは自分が誰なのか忘れ果てている、それゆえの世界が娑婆だ。それは万物の世界を意味している。おまえはひとつのものから別のものへ駆け込みつづけて行く──自己を探し求めて。おまえは自己との接触を失ったがゆえに、堪えずそれを探し求めている。人間の苦悶とはそれだ、探しているものが見付からない、そして尋ねてまわる「私は誰なのでしょう」と。夢はまだ深く、道は遠い。いや、そうとは限らないぞ。気付けばよい。夢は覚める。

* ああ、何度も何度も何度もバグワンに聴いてきた。ああ、なにもわたしは願わない。身構えて待ったりしない。ただただバグワンに聴いている。
2010 8・15 107

* わたしは「楽しめる」という得な特技をもっている。いまわたしが頸まで漬かっている裁判沙汰など不愉快の限りであるが、幸いその気になればすぐそんなドツボを離れて、いろいろ楽しみがある。前言を翻すが、圓生も聴きながら、なぜかゲーテの『ヘルマンとドロテア』が読みたくて堪らない。隣棟に行って書架から持ち出してきた。こっちにもあっちにも、本は溢れている。眼を大事に大事にしなくてはと思う、痛切に。

* 昨夜倉本聡の書いた敗戦ドラマで、びーとたけしや八千草薫の出ているのを、後半だけ観た。今日は敗戦前後の証言をいろいろ聴いた。お定まりのようであった映画「日本のいちばん長い日」を今年はやらなかった。やらなくてもよい。今年は猪瀬直樹の『ジミーの誕生日』や『昭和十六年八月の敗戦』などを読んでいて、かなり敗戦が腹に据わっていた。
2010 8・15 107

* H氏賞詩人の岩佐なを氏に「生き事」六号を貰った。数人の詩人たちの雑誌で今号も岩佐さんの「銅版画苦楽部」の10篇が巻頭に。みごとな銅版画10点とそれぞれ詩が見開きに置いてあり、どっちも楽しいし、ほろ苦いし、ほんもの。
なんだか、わたしもこんな詩人たちの仲間入りして掌説を書いてみたくなる。カナブンブンに描かれた沢山な人の顔繪表紙もケッサク。
岩佐さんも、はじめからの「湖の本」の人。「湖の本」の読者には門さん岩佐さんのような一人当千の優れた創作者や学者が今も大勢いて下さるのが嬉しいし、有り難い。
2010 8・17 107

* 世界がどうあるか、が不思議なのではない、と、二十世紀オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインは言った、「世界がある、ということが不思議なのだ」と。
彼は古代ギリシャから、デカルト、カント、ヘーゲルといった哲学巨人の思索をすべて否定した。「間違っているのではない。無意味なのだ」と。森本哲郎さんに教わるより以前から、ヴィトゲンュタインのこの小気味よい全否定を知っていて、眼から鱗を落とした。人が生きる日々のために哲学は何の役にも立たず、人をまどわし続ける。生死の大事について何一つ教えてくれない。無意味なのだ。バグワンは、それをよく知ってわたしを力づけてくれる。哲学の傍に立っても安心はまるまる得られない。

* もう一度二階へ来たのは、続きのバグワンをもう少し書き写してみたかったから。訳者さん、めるくまーる社さん、聴(ゆる)して。

☆ バグワンに聴く

「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(あなたの心に)湧き上がってくる。その恐怖は、あなたの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとあなたは「生」から逃げ出すことになる。どこであれそこに「生」があると、あなたは逃げ出してしまう。
なぜならば、どこであれ「生」があるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。
あまりにも死を恐れている人たちというのは、けっして「人間」に「恋」をしない。彼らは「物」と恋に落ちる。物というのはけっして死なない。それは一度として生きてもいなかったからだ。
物ならいつまでもいつまでも「持って」いられる。しかも、そればかりでなく、それらは交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、それはきっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。しかし「人間」は埋め合わせられない。
もしあなたの奥さんが死んでしまったら、彼女は永久に死んでしまうのだ。別の奥さんをもらうことはできる。が、ほかのどんな女の人にも、彼女を埋め合わせることなどできるものじゃない。良きにつけ悪しきにつけ、ほかのどんな女の人も同じ女性ではあり得ない。

もしあなたの子供が死んでしまったら、養子をもらうことはできる。が、どんなもらい子でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。その傷は残る。それは癒やされ得ない。

あまりにも死を恐れる人たちというのは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インドの通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。
ルピーはけっして死なない。それはほとんど不滅だと言ってもいい。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。造花ならあなたは安心できる。それは不滅性という感覚(錯覚)を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこに咲いていられる。

本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。夜までに、それは終わりだ。花びらは地面に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれはやって来て、しばらくの間花開き、そして、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、それは静かにふたたび大地に戻り、一滴の涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。
花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるだろうか? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。

「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜならば、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、けっして「恋」には落ちまい。
結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこにあるかもしれない。それはそこにないかもしれない。しかし、あなたはそれについて確信は持てない。それは何ひとつ法的な不滅性など持ってはいない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。それには証明書がついている。裁判所が後に控えている。その背後には警察や社長の圧力がかかつている。そして、もし何かがおかしくなったりすれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。

ところが愛に関しては……。

バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。パラの花には身を守ることなどできないのだ。
愛は・来てはまた去ってゆく。結婚はただただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。

人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いことだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしまっている。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出している。何もかも「安全で、安定」している。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。
だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えるものじゃない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。

「意識」というのは、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るからだ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。
最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。
二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。
最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。
二番目の姿勢は無思考のマインド、〈無心=ノーマインド〉から来る。
意識は、思考にまでおとしめられてしまうこともできる。反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることもできる。

ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。
意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考」=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさんの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心)の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。

* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみたとき、バグワンは全否定ではないかと案じられた。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは想わない。

「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者は、その手の質問に対してみな「沈黙」で応えたとバグワンは云う。そもそもそのような問いにこそ意味はないか、誰にも答えられないと云うより答えるべきではないとバグワンはそこまで云う。そんなことで分別したり錯乱したりするのは無意味だと。今・此処に生きていることを大切に、そして大切な大切なことがある、それに気付くのだ、目覚めて知るのだと云う。
死を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として生を慈しみ生きよと。
そういうバグワンをわたしは全否定の人とは想いにくい。何が大事か。バグワンはそれを語り続けている。目覚めてしまえば大事なものなど、何もない。が、目覚めて気付く迄には何が大事かは在る。大事なのは「目覚めて気付く」ことだ。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない。だが、はっと目覚め気付いた瞬間から聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバグワンは云う。

どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論をバグワンは語っているだろうが、わたしはそのような「方法」を覚えたいとは今は想わないのである。ひたすら「聴く」だけでいる。聴いて待っている。

「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大事で大切なことが、少なくも自分に在るとは思っていない。わたしの腹心にいて一度も立ち去らなかった友である「死」に、わたしは静かに手を執らせていたい。現実にあれやこれや熱心にしている、つまり仕事も用事もいろんな営為はみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。それだけのもの、と、云うしかないからだ。
2005 1/1  湖・秦 恒平

* この翌年にわたしたちは愛する孫・やす香を肉腫という凶悪なガンに奪われた。
2010 8・18 107

* 直哉の書簡を昭和十三年の暮れまで読んだ。今度は日記を読もう。
『暗夜行路』はすばらしい大団円を遂げようとしている。大山の頂上をめざしながら、中途で参ってしまい夜の山道にひとりのこってうとうとし、夢かうつつに白む朝を迎えている描写の素晴らしさ。息を呑む。もったいなくてあと十頁近くをわざとのこして深呼吸して本を伏せた。
なんという作品だろう。
かく謂う「作品」とは自説どおりに説明すると、普通作品と謂われると一篇の「作」を謂っているが、正しくはそれは「作」「作物」であり、それに人品、気品、品位の真に現れているさまを「作品」である、「作品がある」と、謂うのである。「作品」にはそうそうお目に掛からない。『暗夜行路』が小説作品の最高峰という各位の評価は正しい。私は心から同感する。中間小説やエンターテイメントや大衆読み物にはめったに「作品」は覚えない。「作品」を覚えるような作なら、それは売らんかなの中間小説やエンターテイメントや大衆読み物ではないのである。
読書で「作品を満喫」したいといつもいつも願っている。
2010 8・19 107

* 門玲子さんの復刊『江馬細香』が予告通り贈られてきて、手に取り感嘆している。
この人のことは、このホームページにある「e-文藝館=湖(umi)」の、門玲子「江戸女流文学に魅せられて」が分かりよい。
今回巻頭に収められた亡き吉川幸次郎の著者に宛てた絶賛書簡は「随筆」の秀でた一嶺。東の中野好夫、京の野間幸辰も吉川さんを枕頭に見舞い、三大家が寄り寄り「尊著礼讃の集い」になったと書いている。一高生の谷崎が荷風の絶賛を浴び一朝に文壇の寵児となったのに負けないありさまで、門さんはいまや江戸女流文藝研究の一人者。私より四つ年上で、創刊来の「湖の本」の読者。
この人の成功のポイントは、一つはご主人の理解と支援、一つは意欲的な勉強の展開、一つは興味の質を自身で深めて行ったことと思う。金沢大学文学部を出ていても、此の道でいわゆる先生も、ヒキも、もともと無かった。才質と努力。
吉川さんの絶賛の一つは、文章の確実さ。女流には珍しく、しかも女流でなければ書けぬあらゆる対象に対する「あたたかき同情」の筆。私に言わせれば、これが、「作」を、「作品ある」もの、にしている。

* 門さんとは何の関係もなく、創作志望の人にと、ふと頭に浮かんだことなので此処へ書いておくのは、。
「創作者」であると自覚しているときは、同じ道で仕事をしている人に嫉妬して、払いのけたり逃げたりしてはいけないと言うこと。嫉妬心というものは大切な熱源ではあるのだけれども。
森鴎外は夏目漱石が『三四郎』を書いたとき、「技癢」を覚えたと告白している、あげく『青年』を書いている。むずむずするような対抗心、一種の嫉妬心であるが、なあにおれもという気持ちだ。
この「技癢心」をこそビタミンにして、好き嫌い以上に、かちとり、くみとり、まなびとるべきものに素直にとわたしは望む。
同時に、創作者としてあるときは、たとえ一般の知人や見知らぬ人に対しても、たとえば研究者が物質に探求的に向かうときのように冷静に立ち向かい、嫉妬心や好き嫌いを捨ててしまう修練が必要だ。そうでないと創作者・批評家として見るべきモノを見遁し見落とし続けて、頑なな観測に凝り固まってしまう。怖いモノ、苦手なモノ、いやなモノを持って自分に目隠ししていては、モノから力や魅力が引き出せない。これは、茄子が嫌い、蛇がこわいなんぞということを言うているのではない。問題があれば、どんな不快なコト、モノ、ヒトも凝然とブレなく観測できること。
2010 8・21 107

* 寝る前、もう二時半過ぎていたが直哉集の新しい巻、巻頭の『偶感』をとても興味深く親しい気持ちで読んだ。美術を語って『萬暦赤繪』よりいいと感じた。室町時代の相阿弥をたかく買って共感しているなど、私のあの時代での相阿弥評価とひたと重なっていたり、曼殊院の伝毛松『猿図』も直哉は観ていて、これにも手厳しい批判なくパスしていたり、なんとなく嬉しくてにこにこした。志賀さんの(と、ふっと親しく口にしたくなるほど)美と美術への親炙の深みが伝わってくる。この人はなかなか「美しい」という言葉はつかわない。ヒト、モノ、コトの何に向かっても一般の「直哉語」で美術も批評している。人品を見定める好き嫌いとほぼ同様に美術に直面している。

* 読み始めているゲーテの叙事詩『ヘルマンとドロテア』に魅されている。恥ずかしいほどだ、初読なのである。高橋健二の訳のぬるいのが不満、だれかもっとすばらしい訳をしていないかなあ。
ちょっとどころでなく、今更半世紀昔のドイツ語ではムリだ。院にいたとき園頼三先生に「ずいぶん読めるね」と背中を叩いてもらったが、すっかりお返ししてしまった。さすがに英語ほど我々の世間でドイツ語にはお目に掛からない。
ゲーテの気品、作品の芳醇なこと、善意に満ちていること。その保守性を嫌う人ももの足りぬと想う人もあろうが、私は、こういう偉大な人は人間の歴史を崩さない「束ね」のように想って、信愛する。
2010 8・22 107

* 松江での独り暮らしを書いた直哉の『濠端の住まひ』は、有名な『城の崎にて』を凌いで、一字一句が正しい美しい、短編の名品、一読襟を正しながら気稟の清質に心を洗われた。

* 直哉は若い頃、昔風にいえば吉原角海老の花魁ととてもいい仲で、相思相愛といつてもよかった。日記にはしきりに「峯」という名で現れる。この人がのちの『暗夜行路』で「お栄」というむかし祖父の妾であった女性の原型となって表現されたという。時任謙作はこのお栄とながく同居していて、一度は結婚したいとすら打ち明けて断られている。直哉は日記に、微妙な仲らいで長くつづいている峯のことを、直哉流に愉快だったり不愉快だったりしながらも「尊敬する」とまで書いている。明治四十三年の四月十九日には、
「自分は峯に物足らぬものがあるので二三ヶ月或は半年の間来ないといつた。何故かといふ。それを話した。峯はそれは自分には出来ませんと断言した、さうして、貴方の其感情は峯といふ特種な女に対する感情ではないといふ。尚若し私が貴方に惚れたらキツト貴方は逃げるといつた。自分は今の新しい文学に接しもせず、実際の経験からこれだけの事を知り得る女を尊敬しないワケに行かぬ。」と、書いている。直哉が何を話し、峯が何が「出来ません」と答えたかは想像するしかないが、ここにも直哉の文学の素質がきらっと見える。
直哉の日記には、無数にこういうキラリが光るのでそそくさとは読み流せない。直哉の作品を読むのと変わらない。

* バグワンに聴きながら、何と言っても難所は自身の内奥に入って行くこと。忘れ果てている物に気がつくということ。言葉は簡単だが凡俗には容易でない。
いつもいつも通っている道で、おまえはその其処にある木や草や花やものの色や匂いをもはや無視しきって忘れ果てている。人が大切な物を忘れて最早二度と気がつかないとは、大概そういうものだとバグワンは笑う。おまえの妻に、おまえの夫に、はじめて逢ったときめきを今や皆目忘れて互いに在れども無きに等しく日々を過ごしている、そのようにおまえは本来のおまえを自身の内奥に置き去りにしている、それだけのことだ。それだけのことを思い出し気づき直すことができたなら、あらゆる現世の不安も悩みも夢と消え失せて、思わずまたもとのように天真の歌声をとりもどす。それだけのことだが、誰にもそれが出来なくて、うろうろと生きている、と。

* 真実だと信じている。のに……
2010 8・26 107

* 丘灯至夫という作詞家の名をかすかに覚えている。この人の「編」になる『歌に見る近代世相史』という一冊、傷んでいるが大事にしている。旺文社刊で「12月号別冊附録」とある。たぶん昭和六十年のように推測できる。末尾に明治大正昭和三代の年表もついているなど旺文社のものらしい。粗末な紙で製本だけれど、ふんだんに風俗の写真が入って目を惹き、頁の上に歌詞を、下段には世相史が全頁に語り継がれている。こういう附録は懐かしくも大事なモノになると意識して保存した。「急速に進む文明開化」「帝国憲法の発布」から語りおこされていて、唄のトップバッターは土佐の高知の「よさこい節」で、次が「ノーエ節(農兵節)」、川上音二郎作詞の「オッペケペー節」と続く。
権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい
オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー
かたい裃かど取れて、マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の真理が判らない
心に自由の種をまけ
オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー
それからやっと「蛍の光」「あおげば尊し」「庭の千草」なんてのが顔を出す。真珠湾奇襲の昭和戦争期になると、「月月火水木金金」「加藤隼部隊歌」「轟沈」「お山の杉の子」「海軍小唄」などが並び、敗戦。「りんごの歌」で全編がししめくくってある。150近い歌詞がならんでいる。歌える歌が多いがてんで歌えないのもある。明治大正昭和歌謡集。それなりにモノゴトはきちっと伝えてくれる。ときどき手に取り歌っている。これが好きなどと選べないほど、いろいろある。
与謝野寛に「人を恋うる歌」があり、歌詞の四番目に、「ああわれコレッジの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石をいだきて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばす」とあるのが、鐵幹らしくて破顔一笑。山本健吉さんの『芭蕉』下巻へ読み進んでいるところなので、「芭蕉のさびをよろこばず」にトンと小胸をつかれた。これも明治か。
2010 8・27 107

* 笠間書院の重光さんから中世王朝物語全集の最新配本『我が身にたどる姫君』の下巻を頂戴した。人間関係の輻輳した、輻輳しすぎたほどの物語で、やや筋を追うに急だがおもしろい話。上下の揃うのを厚かましく待っていた。揃ったので心新たに通して読み始められる。
もう少しで大作『今昔物語』全四巻を読み通せる。そのあとの楽しみが出来た。感謝。
岩波書店からは山折哲雄さんの新書版『教行信証を読む』を贈ってもらった。昨日は親鸞仏教センターの会報が届いていた。
いまかならずしもわたしは浄土教のほうに傾倒も傾斜もしていない。よほど禅のほうに寄っている。広大無辺な仏教三千大千世界にもむかしのように感嘆はしていない。おとぎ話か物語に類して思われる。そういう姿勢で居るが、法然や親鸞を思い捨てているというのでもない。その教えから何がえられるのか、も少し確かめたい。
そこに、ブッダの人間道がリアリティ確かに実在するのかどうか。
2010 8・28 107

* 東大の長島弘明教授に戴いている『秋成研究』を読もうと決めて読み始めた。京都博物館での展覧会に行けなかったのを惜しんで。
長島さんとの出逢いは久しい。彼は未だ東大の学生だった。五月祭の実行委員をしていて講演を頼みに見えた。記憶に残るような話は出来なかったが、長島さんとの出逢いは永く記憶に残って、久しいといえば最も久しい東京での知友である。ことに彼は上田秋成研究をめざましく推進し、先達の高田衛さんの研究を大いに補足しかつ前進させた。わたしは秋成小説を書ききれず未だに落第生であるが、高田さん、長島さんの知遇をたいへん大きな宝のように感謝している。長島さんには「湖の本」も最初からずうっと購読して頂き感謝に堪えない。
先に高田さんの大著『春雨物語論』を読了したが、長島さんの此の大著にもまた心新たに向かいたい。

* 読み出すとやめられない。赤いペンを片手に要点に傍線を入れながら。なにししろ秋成の伝記では高田さんにしっかり知恵をいただき、自分でも考えたり書いたりしてきたので、その何倍も精微な長島さんの追究にも、乗り出すように読み進められる。出不精な私が、まだ勤務を持っていたかも知れぬ昔に、金剛・葛城の麓の名柄や増(まし)へ、たしか二度は足を運んで庄屋の末吉家を訪れていた。あの界隈を元気にまかせ、かなりこまごまと歩き回りもしたのが懐かしい。
どうしても秋成というと他人に思われない。この人は父を知らず、母には四歳で別れ、辛うじて死に顔を看取っている。秋成のために大阪や郊外をこれでかなり歩き回りもして、みな、よう役に立てることが出来なかった。長島さんの『研究』の最初の章の補注の最初に私の名前が出ていたりして、頸をすくめた。
じつにおもしろい。徹して精緻な「研究」成果で、実に安心してして読めるのも嬉しい。
2010 8・31 107

* 一度木更津からアクアラインを車で川崎の方へ走ってみたいと思いつつ、ちょっと時間的に足りなくて。千葉を過ぎてせいぜい曽我の辺まで行ってまた戻るしかなく終わっている。曽我という辺には昔からいくらか古代史の興味があり、それはそれでいいのだが。
『秋成研究』をおもしろくずんずん読み進み、途中駅の本屋で「仏教」の文庫本と「遊女と非人」の文庫本とを買った。出がけはベラボウに暑かったが夕方はずいぶんおさまっていてくれ、助かった。しかし西武線帰りの満員でまた汗みずく。
2010 9・3 108

* 『今昔物語』を小学館版日本古典文学全集で全四冊、巻第三十一の第三十七「近江の国栗太郡の大柞の語」 最後の最後まで今日読み通した。
前半は仏教ものだが、後半世俗篇に移ると俄然面白く、面白すぎるほどで、怖いのも妙なのもとりどりに、人間の営みの、超人間的な不思議の、いかに複雑に多岐に展開したこの世かと、感嘆もし不気味にもなる。じつに興味津々、『千夜一夜物語』とちがい、さすがに日本の大説話集で、話の一つ一つにじぶんの臍の緒が繋がれてあることを否応なく教えられる。凄いという評語をあえて用いたくなる。
もう通読することは有るまいが、事に触れて思いだして読み返すことはしばしば有り、それが必要になるだろうと予感される。今にもあの話もう一度読んで確かめておきたいと思うのが、あれこれ幾つも思い浮かぶ。だが、一度はまた書架にしまいましょう。なに、古典全集はわが家の玄関番をしてくれていて、いつでも間近にまた抜き出せる。
全読了に、はて、何年掛けたことだろう。もうやがて、今度は、「旧・新約聖書全」読み通すだろう。いつから読み始めたか思い出すことも出来ない。日本の歴史、世界の歴史、千夜一夜物語、源氏物語、フアウストなども、みな、こうして次から次へ読み上げてきた。ゆっくり読んできたから、印象は濃くずっしり身内に残っている。

* 明治四十四年に入って直哉二十八歳の日記が、前年までと書き方が変わってきた。
前年の師走には軍隊に入営して、泣かんばかりに参っていた。「一日でも早く出たい」「待遠で待遠で」と何か除隊のための画策に祈らんばかり。吉報が「来ました」といふ、「飛び上つた」と書いていたのが十二月八日。九日に「退営、とうとう帰つてきた とうとう帰つて来た」「異国の長い長い旅から帰つた日のやうな喜びと疲労を感じた」と書いている。
どんな手を用いたのか、特権階層の特権行使があったとしか思われぬ。十二月一日に入営して十日と経たない九日には家に帰っているのだ、「いや」は、分かる、が、逃れようもなかった兵士たちもいたのである。

* 明治四十三年十二月二十二日の記事に、「夜伊吾(=里見弴)と鴻の巣に行き吉井勇と谷崎に会ふ」とあるのが、直哉と潤一郎の出合いを記した最初ではなかったか。
谷崎はすでに前年「新思潮」でデビューし永井荷風の絶賛を得て果然知名度を上げていた。そしてこの年直哉等は雑誌「白樺を起して世間にデビューした年である、」と大晦日に直哉は書いている。
他にも「女といふ者が、ノーマルな状態で自分のライフに入つて来た年である。有島(壬生馬)の帰朝と共に繪に対する、テーストの進むだ年である。多年苦心してゐた兵役の義務を逃れた年である 父に和解した年である。」
そして「自己といふものゝ明らかになつた年である、来年といふ年は今年の結果を充分に表はさねばならぬ年である。」と。
直哉は十一月九日には、「来年は思つた事 考へた事、感じた事 知つた事の日記をつけやう、など思ふ、仕た事ばかり書いても仕方がない。」とも。これが翌年の日記のややサマ変わりした起点であり、直哉は二十七歳であった。ちなみにわたしが小説を書き始めて、以来たゆまなかった年齢である。
2010 9・5 108

* 今日も一日、ものを読んで暮らしていた。もう少しガンバルしかない。
2010 9・5 108

* 仕事の綴じ目に、直哉の日記をズンズン読んで、面白いと。七十五になろうという爺が、二十八の青年の日記を読んで何が面白いかと人は惘れるかも。志賀直哉の日記だから。ああそうか、ああそうなんだと、刺激がある。
2010 9・6 108

* この数日もうちこんで仕事のハカを行かせ続け、かなり草臥れている。『わが身にたどる姫君』の中世物語、おもしろく読んでいるし、秋成の浮世草子の論攷にもたくさん教わっている。辛辣と皮肉を極め、無徳なほどの秋成のモデル扱いを、長島教授、ことこまかに論じ極められ、たいへん参考になる。こんどは浦島伝説を秋成がどう使い込んでいるかを読ませてもらう。
新約聖書には四福音書だけでなく、使徒行伝その他の書簡群がいっぱい正典として編纂されている。パウロの書簡、パウロ風の書簡、公同書簡などなど。今は「ヤコブ書」といわれる異色の書を読み進んでいる。『総説 新約聖書』の手引きを十分頼りにしていて、おかげで読み取りやすい。
2010 9・7 108

* 上田秋成の浦島伝説観に電気に撃たれたように教えられた。
なんという、ことだ。林晃平氏の大作『浦島伝説の研究』にも或いは書かれていないかも知れぬことを、秋成は電光で射抜くように語っていて、文字通り仰天した。

* ボオッとしていていいのに、びっくりするようなことがまだまだ身の回りからつぎつぎに掘り出せてしまう。堪らない刺激。
2010 9・8 108

* 発送用意のかたわら、圓生の「三軒長屋」を聴いていた。
直哉の『痴情』も、日記もおもしろかった。人の日記をこんなに楽しむなんて。
『江馬細香』も楽しんでいる。次からつぎへ読んでいる内、思いの外に夜ふけていた。
2010 9・9 108

☆ 閑かさや石にしみいる蝉の声  芭蕉

* 山本健吉さんが奥の細道の最良の吟といわれ、こまやかに鑑賞されているのを嬉しく読んだ。詩論としてもみごとであった。
人により、句の石はこんな石だ、イヤ別の石だと議論があったり、こんな蝉だ、イヤ別の蝉だと議論があったり、蝉は一尾だいやたくさんだと議論があったりするが、詩の前には無用の現実論である。山本さんの透徹した詩の理解が嬉しかった。
* 手近に、上村占魚さんの編まれた『吟行歳時記』と、琅玕撰集『萩月』があり、時々開いている。「秋に入る」の題に、
司法官の風呂敷包み秋に入る 塚口理
の句が「萩月」にとってあるのが、むずかしい。
それにしても厚労省の村木元局長が当然の無罪となったのはめでたく、検察の取り調べ調書の強圧無道には怒り禁じがたい。「司法官」に対する世の不信は増すばかり。
2010 9・10 108

* 七時前に起き、圓生の「江戸の夢」についで「鹿政談」を聴きながら、発送用意を少し。 一度床へ戻って、本を八冊続けて読んで。少し睡い。                        2010 9・13 108

* 志賀直哉の明治四四年二月の作に「老人」がある。読み直してちょっと期待に逸れたけれど、有る創作の足場の一つを見つけた気持ち。だらりと溶けそうな暑さ負けの中で、直哉の小説二つ、日記、門さんの「細香」、ゲーテの「ヘルマンとドロテア」、ロランの「シジャン・クリストフ」、バグワン、新約の「ペテロ前書」、『総説新約聖書』、綾足の『本朝水滸伝』、研究書の『もののけ』、長島さんの『秋成研究』、室町物語の『我が身にたどる姫君』そして山本健吉『芭蕉』下巻をそれぞれに面白く読み進んだ。
2010 9・13 108

* 亡き上村占魚随筆集『瓢箪から駒』を夫人より頂戴。西穂梓さんの『光源氏になった皇子たち』も来贈。
2010 9・14 108

* 懐かしい占魚さんの『瓢箪から駒』を機械の傍で愛読している。高濱虚子や桑原武夫を語った「『鮎』あとさき」、會津八一先生におしえられた「独自の歩みを」、白井晟一の設計になる「一火山房雑抄」など掬すべき滋味に溢れて、しみじみ懐かしい。懐かしい人はいくらでも。責了した今日の本では、谷崎松子夫人、瀧井孝作先生。出逢えたことそのものが宝だ。

* それにしても今日は涼しい。風邪引いてはならぬ。
2010 9・16 108

* 仕事に掛かろうかと思いつつ、と、手を出した直哉の日記、明治四十五年から大正元年へかけて一年半分ほど読み耽ってしまった。荷風の日乗はいずれの読者を期して書かれている。潤一郎の「日記」と冠したものは大方発表のための随筆である。
直哉のは快も不快も即座の存問であり述懐であり、「いま・ここ」の感懐である。人に読まれるとは思っていない。

* わたしの此処に書いている「私語」は、荷風のように何れか後年の読者を待ってなどいない。何処かへ作物として出すための文章でもない。直哉のそれに近く、しかし大きく異なるのは「秘した私記」でなく、「闇に言い置く」よう
に書きながら即座に実は世界へ公開された述懐である。ホームページやブログの日記は、昔の文人たちのそれと多きにタチがちがう。わたしは荷風のようには書いていない、潤一郎のようにも書いていない、直哉のように率直に書いている。しかも書いて直に表している。文責は明記されてある。ウソを書けばすぐさま顕れる、そのことに堪えられるように書いている。

* いま、わたしはこの場に即座の述懐・日乗を書き、「mixi」には、七年八年十年前の日記を、やや内容的に取り纏めて公開している。その何年間かの間隔に大きなブレはないようだ。芯棒は徹っていると自身感覚している。
所詮は、すべて「即今の遺書」である。これらに書かれた一行一行が「在りし日々の私の真意」であると、もし機械技術がこの先も安定して伝わるなら伝わるであろう。他方、こんなものも、どんなものも、人間の営為の悉くが壊滅するであろう時機を、かすかにわたしは実感し、幾らか期待すらしていて、なにかしらモノが「残る」「伝わる」などという期待自体「をはかない夢、バカげた」話と嗤ってもいる。要するにあれもこれも愚かしい演戯に過ぎない。
ま、そんな演戯のなかで、例えば直哉の若い日々の日記を読んでいて受け取れるモノを、わたしは小気味よい、シャンとしたモノの一つとして快く愛している。
そこには「男」が生きているし、優れた「人間」が生きている。
男として腐り、人間として見下げ果てたヤツと汚く袖擦り合うて過ごす歳月も、また余儀ない今生であるならば、せめてスカッとした人生の夢を先達・先人と共有していたい。濯麟清流。それだ。  2010 9・19 108

* 直哉日記の第二巻大正二年までを読み切ってしまった。興味深くて、無数に朱線を入れた。
二年十一月十八日、「マダムブォワ゛リーを見た、藝術品である」と。
「見た」は直哉の場合「読んだ」意味である。直哉が他の作を評して「藝術品」と讃えた此処までで唯一例であったと想う。他に在ったにしても記憶を洩れたほど少ない。十五日、耳の手術が必要と診断され、尾道暮らしを切り上げ急遽帰京の車中からボバリーを読み始めている。
二日にはモーパッサンの『女の一生』の終盤に「惹き込まれて」て読んだとある。
十月三十日には「蜂の死と鼠の竹クシをさゝれて川へなげ込まれた話を書きかけてやめた」とある。有名な「城の崎にて」に書かれる逸話だが、この日の日記では「これは長篇の尾道に入れるつもりにした」と書いている。長篇とは『暗夜行路』のこと。
この城崎温泉へ来たのは、八月十五日、「山の手線の電車に後ろから衝突され、頭をきり背を打った。伊吾(=里見弴)が、どうかかうか東京病院へ連れていつてくれた」その重傷から退院してのこと。「頭のきづは一寸四分、骨まで達してゐたといふ事」だった。退院は八月二十七日だった。
奇跡的に大事を免れたのだが、八月二十九日には、もう「殆ど一ト月目に女に接した」とある。この二三年、直哉の遊蕩は相当なモノであった。

* いま書き抜いたようなことも興味はあるが、もっと直哉内面の思いや創作上の感懐に触れるのが、もっと興味深い。じつに独特、じつに率直なのである。
2010 9・19 108

* 直哉日記の第二巻大正二年までを読み切ってしまった。興味深くて、無数に朱線を入れた。
二年十一月十八日、「マダムブォワ゛リーを見た、藝術品である」と。
「見た」は直哉の場合「読んだ」意味である。直哉が他の作を評して「藝術品」と讃えた此処までで唯一例であったと想う。他に在ったにしても記憶を洩れたほど少ない。十五日、耳の手術が必要と診断され、尾道暮らしを切り上げ急遽帰京の車中からボバリーを読み始めている。
二日にはモーパッサンの『女の一生』の終盤に「惹き込まれて」て読んだとある。
十月三十日には「蜂の死と鼠の竹クシをさゝれて川へなげ込まれた話を書きかけてやめた」とある。有名な「城の崎にて」に書かれる逸話だが、この日の日記では「これは長篇の尾道に入れるつもりにした」と書いている。長篇とは『暗夜行路』のこと。
この城崎温泉へ来たのは、八月十五日、「山の手線の電車に後ろから衝突され、頭をきり背を打った。伊吾(=里見弴)が、どうかかうか東京病院へ連れていつてくれた」その重傷から退院してのこと。「頭のきづは一寸四分、骨まで達してゐたといふ事」だった。退院は八月二十七日だった。
奇跡的に大事を免れたのだが、八月二十九日には、もう「殆ど一ト月目に女に接した」とある。この二三年、直哉の遊蕩は相当なモノであった。

* いま書き抜いたようなことも興味はあるが、もっと直哉内面の思いや創作上の感懐に触れるのが、もっと興味深い。じつに独特、じつに率直なのである。
2010 9・19 108

*直哉は元日には祖父と亡母の墓参りを欠かさない。十三日にもまた参っている。「いい気持だった、墓参りは好きだ、祖父とも母とも色々話す事が出来る」と。
父と直哉の関係は、生得かのようによくなかった、直哉の仕事にも日記にも、明治四十三年(1910)頃、しきりに父との不和が話題になる。
しかし、直哉は父を憎んではいないし、美しいまで敬意をうしなわない。日記に書く言葉づかいも謙遜でじつに正しい。自身をむやみに崩さない・崩せないだけで、直哉は常に父の心理や健康を尊重し、優しい心遣いを絶やさない。
実は父のほうでもそうであった。感じ入る。見上げたもの。そして名作『和解』に到る。

* 同じこの頃の直哉日記には、無数に女が登場し始めるが、横綱格は、直哉より五つか六つ年嵩の、吉原角海老の花魁で、本名は峯。この峯とは、人格の対偶を想わせる関わりが長く続いて、『暗夜行路』で謙作が結婚をさえ考える「お榮」の原型になって行く。明治四十三年元日から逢っている。一月九日にも、「急に峯に会ひたくなる 早速電話をかけて行く 近頃峯の事が頭について苦しみが段々強くなるやう感ぜられた、本統の恋かしらと疑っても見た。自分は此苦痛は無益な事と思ふ。此苦痛から脱する為めには例のセルフ、マネージメントで他の女に心を奪はれるやうに作らうかとも思つた、峯にその事をいつた、峯は『それ御らんなさい』といつてイヤな顔をした、結局ズルズルベツタリになつた。」とある。
吉原の花魁というと歌舞伎の舞台などを介してイメージが固定している。むろん江戸末と明治末とでは比較も成らないのだろうが、二十七歳の「白樺」以前の青年直哉と花魁花巻とのこういう心理的な関わりは、或る意味、眼の鱗を落とすほどのことである。「セルフ、マネージメント」とは、察しはつくが、「注」を頼っても英語の訳しかつけてない。
「作らうか」の「作」は、作為の作。故意に仕組んでする意味だろう。「随処作主=随処に主となれば」の作より此処はわざとらしい。創作、作、作物には双方の「為」がはたらき、芯に「作品」が生まれるのは、むろん「作主」なればこそである。

* 当分、このようにして此処で「直哉日記」に付き合ってみたい。
2010 9・20 108

* 用事を前へ前へ押し出しながら、映画「真空地帯」にも観入っていた。野間宏の原作は高校の内に読み、胴なかを大砲でぶち抜かれたような気がした。日本の軍隊小説では一に指を折ったまま、久しく触れてこなかった。映画、山本薩夫と木村功の代表作であろうか。仕事の手をとめて、眼が離せなかった。こういう映画をこそ若い人に観て欲しい。
2010 9・20 108

* いきなり頁を開くと大正元年九月二十一日の直哉日記、里見トンの持ってきた書きかけの小説に、
「突つ込んでゐないのに下品を恐れず何んでも書いてあるのが第一にイヤだつた。道徳との関係も突破つて上へ出て自由になるのでなく、逃げて呑気になるのだからイヤだつた」
とある。いい批評だ、里見の作は知らないが、直哉の批評は的確。

* 折口信夫、瀧井孝作、川端康成、小林秀雄、唐木順三、山本健吉、井上靖と。こう、なまえを生年順に並べていて、ながく歩んだ人生をどんなに励まされてきたことかと、しみじみする。その人たちの優れた「作品」に触れてきた。ただの作、作物ではないまさしく「作品」に励まされた。今日も夢中で読んで、読み返していた。
2010 9・21 108

* 直哉日記をパッと開く。明治四十五年二月、直哉は二十九歳。

☆ 志賀直哉の日記から
二月一日 木  前夜、三田文学の万太郎。省三(=水上瀧太郎)。荷風等の小説を見る。いづれも駄目。新小説の小山内(=薫)三流小説。花袋 此男の頭を少しも信じないから何とも思はない。
二月三日 土  ○ 物を出来るだけ立体に見なければ駄目である。「厚味から見てかゝる、」自分がそれを只ながめて写してゐるやうなユー長な事ではいけない。鋭くて力のある感能を養つてそれの受ける印象を正しく、明らかに再現しなければいけない。
○ センチメンタルな筆は出来るだけ脱したい。インティームといふ事すら、なるべく脱したい。
二月六日 火  長与(=善郎)の「負傷」を見る。感情にデリカシーのあるのと同時に、太さ、強み、のある点が、今の自分の行きたい道にかなつてゐるので羨しかつた。 デリカシーだけでは弱々しくなる、力が一方になければ駄目である。
二月七日 水  「長篇」は事実を順序に書く事は無益であると思つた。掴むべきところを掴み。抽き出して来て、寧ろアレンヂして考へねばならぬ。骨から考へて行き、肉を考へそれから皮膚の色、そのハダざわりまで及ばねばいけないと思ふ。兎も角「罪と罰」を読んで考へて見やう。
「長篇」が六ヶしい気がして来たら少し心細い気がして来た。事実から得たヒントによつて作らうと思つた。

* まさしく『暗夜行路』前篇への時期か。そのまだ前か。ドストエフスキーの『罪と罰』が出ているのに心惹かれる。この作がドストエフスキーの最良作のようにわたしは永く思ってきた。今も変わらない。明治文士のたいそう多くがこれに魅されていた。また読み返したくなった。
2010 9・22 108

* またいきなり、直哉日記。

☆ 明治四十四年五月二十七日 土 直哉二十八歳
○ 自然の美の方面を段々と深く理解して行くのが藝術の使命である。
○ かうもいへる、藝術心(人間)を以つて、段々自然を美しく見て行くのも使命である。
○ だから、普通の人の見るに止まる自然を再現した所でそれは藝術にはならない。
○ 自然を深く深く理解しなければいけない。
○ 然し人間は段々に自然を忘れて、藝術だけの藝術を作らうとする。
○ その時に自然に帰れと叫ぶ人が出て来る。
○ 自然といふ事を忘れてゐる藝術は、藝術の堕落である。
○ 自分は 華族様の表情のない美人の御姫様の顔が 此堕落した藝術と同じだと思ふ。

* 第二、第三項など、その通り。わたしも、歌と別れ、いよいよ小説を懸命に熱心に手さぐりで書き始めた頃だ、二十八というと。正月でアレ、病気でアレ、一日といえど書き休まないと決めていた。高熱の時は、原稿用紙のつづきに、匍い出ていってただひらがなと句読点とをうつだけでも、昨日につづけ、明日につないだ。太宰賞が向こうからやって来るまでにもう五年はかかった。四十歳まではわき目もふらぬ覚悟をしていた。
2010 9・23 108

☆ バグワンに聴く。
生はたしかに悲惨だ、生は苦悶だ。それを回避する安易な方法は、抽象概念のなかに逃げ込むこと、どこか夢の国へ入って行くこと。さて、それが何の役に立つことか。
わたしは、おまえが悲惨で苦悶の生に遭遇することを望む。なぜなら、その遭遇を通して超越への可能性が掴めるからだ。ところが、おまえは生に直面したがらない。お前は恐れている。怯えている。奥深いところでおまえは生が不安なのを知っている。そんな生に直面すれば不安に陥り心を乱されると知っている。生きられないだろうと恐れている。そうしておまえは生の前で立ちすくむ、恐怖で立ちすくむ、死をおそれて立ちすくむのだ、なぜなら、生とは死以外の何物でもないとおまえは感じているからだよ。

あらゆるものが瞬間ごとに死につつある。念々死去。だがあらゆるものが瞬間ごとに生まれている。念々新生。
仏教は、抽象概念に逃げ込んでも何の役にも立たないよと教えている。それよりも生の細目に進んで入ってゆき触れて行くことが真の助けになると。それは辛い。骨が折れる。勇気(ガッツ)が要る。だがね、それが生に直面する唯一の方法なんだからね。
仏教は言う、『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』のことなど忘れるが好いと。気に掛けなくて好いと。自分自身の「生」にこわがらず入って
ゆけばことは足りると。読まれるべき唯一の聖典は「生」という書物だ。よく読んで聡明になるがいい、おまえ。  『一休道歌』より
2010 9・26 108

* 以下の直哉の言葉をわたしは、わたし自身にはむろんであるけれど、だれよりも創作に打ち込んでいる若い知友のもとへも届けたい。この抄記した幾箇条の多くは、これらに出会う以前からわたしのなかでも確信として育まれていた。しかしまた心新たに鞭打たれた箇条もある。有り難いと思う。

☆ 志賀直哉に聴く。   『革文函』 より抄させて頂いた。

腐つた材料で苦心するのは、腐つた魚でうまい料理を作らうとするやうなものだ。
創作に強引は禁物だ。

雑談で済む話は雑談で済ませるがよい。雑談では現せないものがあつて初めてそれは創作になるのだ。雑談で尽せる話をそのまま書いて創作顔をしてゐるのはよくない。

頭ですつかり出来上つた話は書いて面白くない。流れるのではなく、強引でものにするからだ。

一つのきまつた手法で仕事をするのは便利な事だ。一つのきまつた物尺で物をはかるやうなものだ。材料さへあれば幾らでも仕事は出来る。(=そんなものはダメだ。)
そして読者はそれを喜ぶらしい。読むのに苦労が要らないから。(=そんな読者なら要らない。)

然し作者はそれでは面白くない。一つの事を現すのに一つの言葉きりないと云ふやうに、一つの材料に対しては一つの手法、一つの気分、一つの態度を見出す事が必要だ。それを見出すのが容易でない。
書き出しに手こずる事のあるのはその為めである。

作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい。

創作家の経験は普通、経験が多いと云つて、ほこつてゐる人間のやうな経験の仕方では仕方がない。経験そのものが希有な事だつたと云ふ事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に藝術品である」といふやうな文句があるが、そんな事を自分で思つてゐるから、尚藝術品にならないのだと思つた。

材料を征服する気でかからねば駄目だ。
材料をかついで、よろけて居ては仕方がない。
よろけながら悲鳴をあげても、その悲鳴が藝術にはならない。

色々な経験を手軽に恐れずにやる事を勇しいとは考へない。
恐れてゐる位で、経験した時本統に味へるのだ。

* 「赤旗」編集局の北村隆志氏に戴いた新著『反貧困の文学』がよく出来ていて、興味ぶかい。わたしが「ペン電子文藝館」で作を選んでいた頃の思いとしっかり重なってもいる。潤一郎や直哉や太宰や三島も好いが、この本に取り上げてあるような作もぜひ見捨てないで欲しいと思う。『蟹工船』はブームを呼んだが、漱石の『坑夫』や葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』や徳永直の『太陽のない街』や井上ひさしの『組曲虐殺』なども、ぜひ読まれてほしい。北村さんのこういう意図が嬉しい。
2010 9・27 108

* ずうっと、このところ門玲子さんの『江馬細香』を読んでいるが、これこそは「作品」の精華である。気稟の清質最も尊ぶべしという奥の細道に見える芭蕉最上の批評を、おしみなくこの人の此の仕事に贈る、わたしは。さながらに奇蹟の文品。
こういう仕事を、ごく普通の一主婦の境涯から、勉強に勉強を積んで築かれたこと。それにも感じ入るし、しかも漢詩漢学の勉強からだけでは生まれてこない「文学の言語」の美しさ静かさにも、嬉しく嬉しく愕くのである。この作品、論攷ではない、ただの伝記でもない、しいていえばじつに美しい小説なのである。奇蹟のように思われる。
2010 9・30 108

* かすかな腹痛に、六時、枕頭灯をともし、沢山の本を読んだ。「ヨハネ黙示録」「総説新約聖書」「江馬細香」「我が身にたどる姫君」直哉の「日記」直哉の「短章」「ふらんすデカメロン」「本朝水滸伝」「芭蕉」「秋成研究」そしてバグワンの「一休道歌」。
相当の量になるがそれぞれとても面白く読んだ。そのまま七時半に起床。食後も腹痛はかすかにのこっている。
少し胸に閊えていた溜飲をさげた。これは、いい。

☆ 直哉の日記から  大正十五年一月 四十三歳 (秦建日子よりすこし年上)

一月二十三日  午后シュミット・ボンのハインとグレーテを見る 感服せず 美しかるべき話であつて下品な感じす (アンドレ・)ジッドなどの比に非ず
二十五日  アンドレ・ジッドの「田園交響楽」を少し見て大いに感服、静かで深く入つてゐる 純粋にして上品なり これを見て自分の作品を見る、子供のやうなものだ シュミット・ボンなど見て高慢な気持を持つ事よろしからず ジッドなど見て謙遜になる時却つて
製作慾たかまる 興奮した。
ジッドは実にいゝ、然し今のガサガサした生活の読者には直ぐには味はへないものかも知れない 本格小説とか大衆文学とか通俗小説とかかういふものが好まれて来た傾向は読者の生活気分に落ちつきを失つて来た事を意味する 深く潜入して書かれたものはそれを読む者の態度も深く潜入して行かなければ理解出来ない、今の読者にはそれが出来なくなつた、なんでもパッパとした余り頭を使はず分かるものが歓迎される、これは此時代として自然な所もあるが作家としてその立場で仕事をするのはいやだ。気軽な左ういふものも時にはいゝが、本統に沈潜したジッドの態度のやうなものを書くに非ざれば心満足出来ない。沈潜して書いたものを沈潜して味はふ時心の奥までそれが響いて来る、この喜びこそ本当に藝術の難有味だ
瀧井(孝作)のものなど今の世で不遇なのは当然だ この事自覚して益々沈潜して行くべきだ、然しもう少し自由に元気よくなつてもいゝ、自由に元気よくしかも沈潜して行くべきだ

* 下品、上品、自分の作品などの語に直哉の「作品」感が顕れている。直哉はふつう製作されたモノは、「作」「作物」と謂っている。

* 直哉には作品のある「藝術品」が確信されていて、「大衆小説」「通俗小説」が区別されているのは当然としても「本格小説」をも区別しているのに注目したい。これは筋書きと面白み本位に「小説らしく作った小説」の意味なのである。
この区別の意識に直哉の場と主張とがある。谷崎と直哉とがしばしば並び称されるとき、人は例えば「細雪」と「暗夜行路」の対比を見ようとする。

* バグワンのこともぜひ書きたかったが、深追いはよそう。
2010 10・4 109

* 昨日の帰りに読み切ってきた久間さんの小説『刑事たちの聖戦(ジハード)』、彼の小説としては出来イマイチであったけれど、なかに深く頷いたいわば「思索・思想」が見え、思わず朱線を入れた。作中人物の思い入れとして書かれていたが、こういうのが自然に出てくるところにわたしの此の著者への信頼がある。
わたくしも同じことを、「錯覚する能力こそが幸せの実体なのだ」と思い、かつ覚悟している、いつも。

☆ それまで幸せな微睡(まどろ)みの中にあった自分自身の存在が、実は一種の錯覚の産物だったと思い知ったのだ。そしてさらに言えば、実は幸せが錯覚に由来するのではなく、錯覚する能力こそが幸せの実体なのだと思い至ったのだ。  久間十義

* ほかにも、その通りだと思うこういうフレーズが出ていた。小説とは無関係にわたしは深く頷いたので披露しておく。

☆ 「おまえが何を思おうが何を悩もうが、決まったことは決まったことだし、おまえが配慮して配慮しきれないことについて、配慮するのは思い上がりというものだ」
一にも二にも、配慮しきれるものと配慮しきれないものを峻別して、自分が出来ることに集中することだ。
出来ることと出来ないこととを峻別して、出来ることをする。そして結果をあらかじめ憂いなどしない。

* 注をつけるが、これは大研究や大冒険のはなしではなく、いわゆる私民レベルの普通の日常感覚や場面でのことと聴いたほうが間違いない。
たとえば、わたしが今置かれている程度の裁判騒ぎなどで、過剰に反応してみてもはじまらないということだ。配慮できることをきちんとして、異常で異様で良識や常識を超えたむちゃには、まともに関わり合わない方がいいのだ。つまり、

☆ 何かの要素が足りないために”解”に至らない不完全な設問

* になど、強いては答えようとしないことだ。

☆ ご都合主義的な観測は最初っから捨て去れ。
対処すべきは最悪の事態であって、希望的な事態については人は何ら対処する必要はない。
すべては最悪の事態を考慮して行動せよ。

* こう来ると、これは敗戦直後の世界的な大ベストセラー、カーネギーの『道は開ける』などから、当時新制中学生だったわたしが真っ先に学び、爾来金科玉条のように人生を律してきた、「真っ先に、最悪の事態を見抜いて、最悪の事態から発想し行為・実践せよ」というのと、ちっとも変わらないので思わず笑った。若い心親しい久間十義さんと「会話」しているような気がした。気も、また、軽くなった。
2010 10・6 109

* 生方孝子さんとも、受賞以来の久しい厚誼を願っている。作家梅原稜子さんの友人で、この二人、温泉につかり、浮かべた徳利の酒を傾けながら、「秦さんの『蝶の皿』を絶賛し合ったんです」と出会って聴いたのが最初だった。二人とも、あれ以来ずうっと応援して下さる。生方さんは優れた編集・出版者。それも女性問題に強い照準を合わせた批評家でもあり、今度も新しくオーラル・ヒストリーの労作『橋浦家の女性たち』が一冊の本になった。贈って下さった。柳田国男の「民間伝承」の編集をしていた民俗学者で日本画家でもあった橋浦泰雄の娘泰子や姉妹たちから、五年掛けての「ききがき」。
さきに北村隆志氏の『反貧困の文学』をもらって、ここでも褒めて紹介した。志は、北村氏も生方さんも同じ方向を得ている。有り難いことだ。北村氏の本、出版記念会をするので出て欲しいと著者にも云われているが、そういう席はふつう遠慮している。

* まるまる読み物を下さる人も、ありつづける。
そういえば、昔の、おそい東海道線に乗っていた頃は、専ら源氏鶏太を車中で読み、もう読み残しは無いのかなと思うほど読んだ。その手の読み方をしたのはペリー・メイスン。アガサ・クリスティ。暇つぶしの愛読だったが、愛読の暇つぶしに耐えるほどの作すら、昨今じつは稀なようだ。

* 視力をいたわるため、本を読む量を日により減らし、圓生の噺を楽しみ続けている。一函の三十数本を聴き終え、二函目に入っている。いま、「二十四孝」の半面を過ぎたところまで。咄しの旨さに惚れ惚れする。古今亭志ん生のいいのは納得だが、噺のなかみ、重みはすかすかと風が抜ける。圓生の充実した軽みは本格で、志ん生の軽みは別格。
2010 10・8 109

* やはり東大教授の上野千鶴子さんからも「御礼」のメモに添えて、新しい本が贈られてきた。なんと『女ぎらい』と来たモンだ、副題が「ニッポンのミソジニー」。「『性格悪い』系の本です(笑)」と。男の「女ぎらい」と女の「生きづらさ」を解剖したとある。「女ぎらい」は和らげた表現で、「ミソジニー」とは「蔑視」の意味でもある。これはまた上野さん、きついぞと身構えて頂戴した。
2010 10・9 109

* 石本隆一さん評論集の第十巻『続・短歌随感』は、最終巻。石本さん、かなり重いご病気の由、いろんな意味からもご負担であったろう、夫人の名で「謹呈」して戴いている。ご平安を祈る。
2010 10・9 109

* 「三田文学」をいつも贈ってもらっている。このごろの楽しみは大久保房男さんの連載「戦前の文士と戦後の文士」で、氏の肉声を聴くように読んでいる。いまも、今回分を読み終えたところ。

* 宮下襄さんから「石川三四郎と藤村」の載った「島崎藤村研究」題38号を戴いた。むかし学研にいてわたしの「泉鏡花」を担当して貰った。その後藤村に関連の研究を始められたので、ちょうど「島崎藤村学会」で講演してご縁が出来ていたので、宮下さんにこの学会に投稿されてはと奨めたように覚えている。その後は何度も研究を同誌に発表されつづけて、喜んでいる。
石川三四郎と言っても今知る人は少ないが、きわめて優れた、とびぬけて優れたアナーキストであった。臼井吉見先生の『安曇野』では石川三四郎の面目躍如としてチャーミングだった。宮下さんの新しい論攷を読んでみる。この人も「湖の本」をずうっと応援して下さる。
2010 10・9 109

* 上野さんの『ニッポンのミソジニー 女ぎらい』読み始めているが、たしかに「性格悪い」系の刺激のキツイ「上野社会学」である。こう特定してくくるのは、共感と反撥とがこんぐらかりながら、かなりこの本には「批評が利く」という予感があるから ひょっとすると、これはある「根無し草のように漂流可能な足場の上でだけ構築された堡塁」のようにも想われるから。広範囲に可動のフィールドワークには慣れているが、人間の、あるいは日本人の「不幸」ばかりから観測された「幸福不具」の視線がやたらピカピカ光っているのかも知れぬ、そういう、はなはだ半面または一面にのみ立脚した、視野狭窄きみの日本批評かも知れぬとも受け取れそうだから。
こういう視点や視野が従来まったく「ニッポン」に欠けていたとは思わない。こうではない、別の価値的一面や半面と共存していたと見受けてきた。
どっちかの一面だけがやたら攻撃的にトンガッテも、物好きすぎる「ひんがらめ」にならないかとも案じるが、それはもっとよく全編を読み終えてから考えれば済む。
2010 10・12 109

* 夜前零時半ごろ、直哉の『邦子』など色々読んでいる手先などへ、違和感が匍い寄って来て、血糖値が71にさがっていた。80から110辺が正常優の値とされているので、そのまま辛抱してもいい値であったかも知れないが、好きな果物ジュースを湯呑みにたっぷり呑むだけで床へももどったが、なかなか寝入れず、本を読み続けた。
それでも睡くならないのでキッチンで「下巻」の校正をすすめ、四時半ごろになった。
八時過ぎに起き、そのまま下巻の再校を終えてしまった。神戸へ往復時の「仕事」にと思っていたが。
下巻発送の用意などまだ何一つ出来ていない。ま、念のためもういちど車中で読むか、大きなゲラ一冊分は重いので置いて行くか。
不愉快な要事の読み物もあるが、おめでたい席へ行くのにあんなものを読み返すのは、いかにも、つまらない。それなら折口信夫から阿部昭まで四十篇を読み直す方がはるかに心嬉しい。懐かしい。
いま、アレを読みたいという面白い文庫本を思いつかないが、ツヴァイクの伝記ものでも読み直すか。

* 『邦子』はたしか「ペン電子文藝館」に入れたはず。読み直して、かなりの迫力。
いわゆる単なる山科もの系のフィクションというのでなく、停頓して書けなくなっている作家の膠着や焦慮と、家族この際は妻の気持ちとの葛藤に、つまりは作家の陥りやすい悩みに照準がきついほど合っている。そこが面白い。『沓掛にて』で自殺した芥川の思い出を書いた直哉は、書けない芥川がしきりに書けなかった時期の直哉の心事を聞きたがったというのが思い合わされる。

* 短い、一頁分しかない寸篇ながら、「山鳥」という直哉作は、じつにイヤだった。こういうのを読むと、この人、異様である。
* こころよくわたしを静めてくれるのは、日本の中世の物語『我が身にたどる姫君』で、ま、とんでもない我が侭な文章で読みづらい極みながら、それを、注と校訂者の現代語訳とを頼みに、原文をジリジリ読み進める内には気持ちが清々しているから妙だ。建部綾足の『本朝水滸伝』の途方もない悪文・悪趣向とくらべれば、この物語に備わった不思議に幼稚な「作品」は珍重に値する。
『本朝水滸伝』に次いで『ふらんすデカメロン』ももう一話か二話で読み上げる。なんとも途方もないけしからん読み物であったが、中世の公同キリスト教者たちの頽廃と乱行がくすくす笑いのうちに豊富に証言されていて、これは承知していてよい世界であったと頷いている。猥褻ならでは夜のあけぬ世界が近世夜明け前の西欧の、上流にも下流にも、瀰漫していたのである。

* 旧訳・新約の厖大量の聖書も、いま最期の最後の「ヨハネ黙示録」の残り十数頁まで来ている。この読書はまことわたしのためには「一と時代」であったと、読み始めた大昔がいつ頃であったかもほとほと思い出せない。
2010 10・14 109

* 朝、直哉の「鳥取」「雪の遠足」を読んだ。ことに前者に、名品の風情を覚えた。小説を書きに旅に出て結局書けずに帰宅してから「書けなかったことを書いた」作と作者は書き置いているが、その簡潔で明瞭で印象や行文に揺れも歪みも微塵無い澄明な描写・表現、おどろくべきもの。
これってほんとに小説なの、と云う人はあろう、小説とは何か、随筆とは何かと詮議するヒマはないので、躊躇いなくこれが「文学」これが「作品」と云っておく。

* おなじ驚嘆、讃嘆は門玲子の『江馬細香』に捧げたい。行文の優美に端正なこと、静かに、しかも女心のはげしく揺れて身をもむ美しさ。細香自作、頼山陽批詩の述懐詩が適切に点綴されていて、ほとんど奇蹟かのように「文学」が立ち薫って思われる。作家をなぞ夢にも目指していなかった家庭の一主婦が、一人の閨秀詩画の人を研鑽と勉強で追尋し、賞賛・共感して初めて構想叙述した文章が、表現が、予想もしがたかった高雅な「文学」「作品」を達成しているのだから。
碩学吉川幸次郎先生、野間幸辰先生等がこぞって賞賛されたのは当然の評価であった。藤原書店が聞いてきたとき、こういうのを「名作」というと、わたしは答えている。
2010 10・19 109

* 夜前夜中、それでもわたしは直哉の「萬暦赤繪」をおもしろく読んだ。「お宝なんでも鑑定団」でならあのひげ男が声をはって「ほんものなら何億」などとやる中国の超の字が幾つもつく名品類をね直哉は自身の確とした美意識や価値観からいとも簡潔簡単に興味もない、つまらない、関心がないと蹴飛ばしている。
わたしは、直哉のいうのが本当だと共感する。自分に何も分からないのに、世評だけにしたがい、何億にひたすら頭を下げているなど、バカげているのだ。精到くまなき精磁といえども、それだけのことである。自身の気持ちがそこへ熱く奔ってゆかないものを只の名前だけで平伏するなど、まともな人間のすることではないのである。

* 昨日、『サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル=ふらんすデカメロン』を、百話、ぜんぶ読み終えた。
2010 10・21 109

* 天気優れず、気持ちも晴れない。奄美の大雨。気の毒。
リズムの無い成行きにばかり出くわす。うんざり。

☆ リズム   志賀直哉   昭和六年より抄

偉れた人間の仕事──する事、いふ事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。かうしてはゐられないと思ふ。仕事に対する意志を自身はつきり(或ひは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい繪でも、いい小説でも本当にいいものは必ずさういふ作用を人に起す。一体何が響いて来るのだらう。
自分はリズムだと思ふ。響くといふ聯想でいふわけではないがリズムだと思ふ。
此リズムが弱いものは幾ら「うまく」出来てゐても、幾ら偉らさうな内容を持つたものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではつきり分る。作者の仕事をしてゐる時の精神のリズムの強弱──問題はそれだけだ。

マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返してゐれば段々「うまく」なるから、いい筈だが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなつて了ふからだ。「うまい」が「つまらない」と云ふ作物は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
中央公論正月号の文藝時評で廣津(和郎)君が「……うまい文学を書く以外に、文学に何の意味があらうといふ気持で進んでくれる方が……望むところである」とかいてゐる。他の諸君は知らないが、自分は「うまい文学」の「うまい」といふ意味が一寸気にかかるので、仮りに過去の仕事がその範囲を出ず、これからもある期間は、それを出られないとしても、(自分だけは=)少くとも「うまい文学」以上に目標を置いて努力精進しなければ仕方がないと思つてゐる事を明かにしたい。……廣津君のいふやうに自分が「うまい」小説家かどうか分らないが、所謂「うまい」といふ事は小説家の目標にはならない。うまくなれば幾らでもうまい小説が書けるだらう。幾らでも書ければ作者自身にとつて「うまい」といふ事は何の魅力もない・自身に魅力のない仕事を続けるといふ事、即ち行きづまりだ。既成作家の行きづまつたといふ中にはうまくなり過ぎ、しかもリズムが衰へて来たといふ意味があるだらう。

* 直哉のいう「リズム」ほど、創作で大切なものはない。この言葉は直哉の精神や文学ともよく相談して理解した方がいい、へらへらした音楽のリズムとは異なっている。すぐれて謙虚に体験していれば分かる。
本当に人を尊敬したり敬慕したり感銘を受けたりしたことのない人間にはこの「リズム」は分かりにくい。
2010 10・22 109

* 山中裕さんの『源氏物語の史的研究』をほぼ三分の二まで丁寧に再読し、これから「玉鬘十帖」「若菜巻」の研究へ読み進める。高田衛さんの『春雨物語論』についでいま長島弘明さんの『上田秋成研究』を読み進んでいるが、こういう本格の研究書も気力のあるいまのうちにたくさん読んでおきたい。もうそれらを何かに役立てよう使おうという気も残り時間もないが、無慾ゆえにより面白い興味深いという有り難みもある。書庫に専門家のこういう研究の大冊がどれほどあるか、原典の他に百五十巻は下るまい。皆貴重な頂き物だ、感謝して読んでおきたい。だが楽しみとはいえ、たいへんな力業になる。
2010 10・23 109

* 何年掛けてきたことか、よほど幸運に出会えば昔の「私語」から読み初めの日が見付かるだろうが。もう三四日で「ヨハネ黙示録」を読み終え、旧約・新約を通読したことになる。
旧約を一度であたまに容れるのは難しいが、多くの多くの印象は得ている。もう通読までは二度と無いにしても、部分的に読み返してみたいところが幾つもある。「ヨブ記」など。
新約聖書は、四福音書の外へ踏み出して読んだのは初めてで、多くの書簡の意味合いにはかなり親しんだ、そういうことかと、使徒行伝も含めて新約の世界がかなり見渡せた。
旧約も新約も、聖書それだけを通読しても通読に終わると思い、『総説 旧約聖書』『総説 新約聖書』で、いわば研究成果と解説とに手を引いて貰った。これなくして旧約世界など「世界」として朧ろにも全容が見えてこなかったろう。聖書研究は最も精微博大の伝統をもつと聞いている。さもあろうと思う。
わたしが読み切ろうとしている旧約・新約聖書の一冊「合本」は柔らかい革表紙の文語訳本であった。実父が亡くなったときに、異母妹二人から形見分けのように貰ったのが、随分永く隣の棟の書斎の机に置いてあった。此の父は、遺品の中に文庫本大の新約聖書を一冊持っていて、それもわたしの手にある。それは現代語訳で、それで「ヨハネ黙示録」を読んでみると、文語文の訳よりよほど読みやすい。文語文で読んでいるとかなり威される。

* それだけ長期間、聖書を読み続けていたのだから、キリスト教に惹かれたか。
福音書には流石に心惹かれること多かった。
だが、一方でわたしはバグワンに傾倒して聴いている。聖典や教典を読んでなにかが分かるには、わたしはまだまだ間があると理解している。そして聖典を「知識」を求めるように読む愚はよく分かっている。ひたすら、水を潜るようにしてわたしは読んできた。何を得たとも高言できない。それでいいし、読んできたのは良かったなと思う。

* いま、楽しみの深いのは意外にも中世物語の『わが身にたどる姫君』上巻で、読みづらい表現であるが、ごく限られた血縁内での愛憎劇が、可笑しいほど優美に面白い。帝をなかに皇后と中宮がいて、皇后をなかに帝と関白がいて、帝の皇子や皇女が当然皇后にも中宮にも産まれている。ところが皇后と関白の間にも隠し子が産まれていて「わが身にたどる姫君」である。関白にも北の方達との仲に子があり、男子はいましも権中納言に大将をかけた貴公子。女子は当代の帝の尚侍として後宮にある。「わが身にたどる姫君」のほうは、父関白のもとから東宮妃となろうとしている。
ところで先の帝には、皇后との間に女三宮、中宮との間に女四宮があり、さきの中納言大将は叔母(関白の妹)中宮に強いられ、女四宮と強引に結婚させられた。だが、彼は女三宮を愛して身も世もない。帝は譲のまぎわにその愛嬢女三宮を、こともあろうに大将の父関白の手に「妻」として預けたのである。父と息子との一つの関白邸に、女三宮は父の妻として降嫁し、息子はこの義母へ、父よりも早くからの恋に身を灼いている。

* ところで、この物語の希有なのは、大将の妻女四宮の盛大な
「やきもち」の焼きぶりで、これほどのは、わたし、物語世界で読んだことが無い。而もこの宮はなかなかはんなりと愛嬌ゆたかで、噛まれたり抓られたりしながら、大将はまんざらイヤではない。

* こんな話がまだまだ長く続くのだが、古文の徳であるか、品がいいのである。ついつい箱入りの本に手が出て読まされている。

* 網野善彦の『中世の非人と遊女』というよく書けた文庫本を持っていて、これが今日のわたしを終始魅了、立って読み座って読み、ときどき歩きながら。
少年青年の昔はほんとうによく雑踏の繁華街をでも早足で歩きながら、本を貪り読んでいたなあと思い出す。
知識が欲しいのではない。そうだろう、そうだろうと頷いているのが精神のくつろぎになり、嬉しいのだ。

*結局流れ寄るように久しぶりに柳通のレストラン「香味屋」へ。この店は、グラスワインをかなり盛大にサービスしてくれる。それもなかなか佳いワインを。鱸も、ヒレ肉も、デザートもうまかった。但し小雨の下を此の店から歩いてJR鶯谷駅へ戻るのがしんどかった。腰が痛くなり閉口した。幸い電車はみな坐れたので、たくさん本が読めた。
2010 10・25 109

* ポカンとしていられる幸せ。

☆ バグワンに聴く。  『一休道歌』より

生の神秘をいかに無くすか。それが<知識>の何たるかだ。知識は統制使用とする努力だ。知識は権力だ。あらゆる好奇心、知識へのあらゆる渇望は権力への欲望だ。
だが、知識なしで生きることのできるほど、喜んで生きることができるほどに、くつろいで、成熟した人がいる。彼は知ることを気に掛けない。彼は知や知識で生きることを条件づけたりしない。即ち──、わたしは先ず知ってから生きるつもりだ、知らなくてどうして生きられよう。愛さねばならないなら、先ず愛がどのようなモノであるかを知らねば。そうして初めてわたしは愛情深くなれる。楽しまねばならないなら、先ず楽しみとは何か知らねば。そうして初めてわたしは楽しめる──と。
愛が何かだと。そんなことを知らなくても現におまえは愛しているではないか。知識で愛しているのではない。そんな知識など持てばおまえは結局愛することができない。紙が愛を完全な神秘にしたのは幸いだ。生、存在、神、あるいは何と呼ぼうと、それは基本的に未知というだけでなく、知られ得ざるもの、知ろうとする努力全体が虚しい。だからそれは生であり存在であり神なのだ。
くつろいだ人は生きる。ただ、在る。くつろげない人は考える、いかに生きるべきか、いかに愛すべきか、いかに在るべきか、と。真にくつろいだ人は、知る事になど気を取られないので、もっと深く知る。それは知識ではない。体験だ。知ろう知ろうとするものは、決して知るに到らない。その努力自体が浅いエゴだ。
* 知識を与えようとする本は、本の半数にあたるだろう。それを咎めてはならない。読む側が、どう向き合って読んでいるかだ。

* 直哉は『青臭帖』の冒頭に、「その人と会ひ、話したあとで、その人の文章を見ると、文章の調子が話と全く同じである事を感ずる」と。直哉の傍へは物書き達が蝟集していた。白樺派の友達、盟友と謂える人達、讃美者たち。その体験が言わせているのだろう、わたしにはこれは分からない。
直ぐ次ぎに、こうあるのは肯ける。

☆ 「文筆報国を志し作家の大同団結」今日の新聞にこんな記事があった。「文筆報国」とは何の事か、上方の言葉でいへば「そんなじやらじやらした事があるか、呑気至極なものだと思つた。

☆ 批評家が作家を並べて号令をかける、
「バルザックへ還れ」
皆腰に掌をつけて駈足でバルザックへ還つて行く。
これはたわいのない夢だ。

☆ 私が一生懸命に団子を作つている所へ来て、
「シチューを呉れ、シチューを」
他人はこんな事をいふ。
「お生憎様」

* こういう直哉とも親愛な顔を合わせている。
2010 10・26 109

* 網野本が面白くて、浴室でも、圓生のかわりに『中世の非人と遊女』をむさぼり読んでいた。
2010 10・26 109

* 赤坂見附から銀座へ。有楽町のビッグカメラで消耗品を補充し、生憎と不味い中華料理を酒で流し込むように食べて帰ってきた。やはり網野善彦『中世の非人と遊女』の圧倒的な面白さに、満員の電車を立ちづめも気にせず保谷まで。
冷えていた。建日子に貰ったもうジャンパーを着て出て荷物にもならなかった。
2010 10・27 109

* 圓生の「真田小僧」で笑ってから、長時間、二時頃まで「悲田院」の歴史を興深く読みつぎ、直哉の「創作余談」などを沢山読み、「ヨハネ黙示録」を読み、おしまいに『我が身にたどる姫君』をすこし読み進んでから、寝入った。夢にも雨のどうどうと降りつぐのを聴いていた。
なんだか少し滑稽味もあるいろんな夢を紙芝居のように見つづけ、安心したままぐっすり寝坊した。
冷え込んでいる。寒いとさえ思う。
2010 10・30 109

*  一時三十五分、『舊新約聖書 引照附』読了。日本聖書協会1964刊行。中形 9ポ活字 文語聖書。旧約1593頁 新約536頁。読み始めたのがいつであったか、少なくも五年は掛けて読んだのだと思う。実父吉岡恒の逝去後に、異母妹二人から形見分けのように受け取ったと思う。聖書世界があたまに宿ったと自覚している。それには、併読してきた『総説旧約聖書』『総説新約聖書』に大いに助けられた。聖書の正典(カノン)がいかに定まってきたかを今、後者に教えられている。

* 夜前の読書では、新たに読み始めた角田文衛博士の『日本の女性名(上)』が面白かった。T博士(『風の奏で』に登場して頂いたときの呼び名)に直に頂戴した昔に読んでいるが、読み返し初めて実に新鮮に興味津々。
一つには、戦後もかなりしての風であるが、女子の銘々に「花子」「松子」「道子」風の接尾「子」名が激減して殆ど出会わないかとさえ思われることにわたし自身が驚いていた。

* わたしたちの娘の「朝日子」の「子」は、接尾「子」ではなく「朝日子」そのものが「朝の光」を意味した名詞であるが、それとても朝日に「子」を添えた歴史的な一種の美称ないし愛称であった。
はるかに昔から、女子の接尾「子」名は、貴族さらには皇女らに占有されたとすらいえる命名であった。それを徐々に庶民も倣い始めてはいたろうが極く稀、或る元禄時代の夥しい女子名調査で、接尾「子」名は、絶無。
ところが明治の頃から庶民平民の女子にも接尾「子」名が慕い倣われはじめ、或る調査では、明治十六年の公立都第二高女と日本女子大の卒業生名簿に接尾「子」名はゼロに近かったが、十年後では17%、二十年後では37%に増え、大正二年には75%、昭和八年には83%、昭和十八年には実に85%に接尾「子」名の女子が増えていた。わたしは昭和十年生まれであり、此の最後の数値の正に示している同時代女子とともに人生を歩んできた。いまでも、女の子の名としては接尾「子」名をこころよく感じる習いを捨てきれない。澤口靖子、田中裕子、松たか子などの名が贔屓されてしまう。それも漢字一字「子」のほうが二字「子」より、なんとなく良いように思われていたと覚えている。それでも娘に「朝日子」命名の迷いはなかった。

* もっとも、中学頃に、姉として心から慕った上級生の名は、芳江だった。勝手なモノで、とても新鮮に感じた。その妹二人は道子、貞子であった。
面白いのは、やはり調査された結果であるが、芳江、静江などの接尾「江」名が、和歌山県にはじまり同県に殊に多かったということ。また別地方では浦野、吉野のように接尾「野」名が多かったというのも面白い。わたしが戦時疎開した丹波山村の部落では小春、小糸のように接頭「小」名の小母さん達が多かった。
年寄りの女性ほど接尾「子」のない、秦の母のたか、叔母のつる、実母のふくなどが多い。古い戸籍謄本をみていると、若い者ほど接尾「子」名が増えて行くが、この戦後ではそれが激減しているように想われる。
* 角田博士の本を引っ張り出してきたのは、だが、もう少し別方向の調べをしたいからで。
2010 10・31 109

* 「美しい人」とは普通の名詞であるが、内容は雑多で、万・万人に即時に通用する物言いのようでいながら、人それぞれの好みが先立ってくる。漢語では美人かならずしも婦人に限らなかったようだが、今日「美人コンクール」は「ミス」に限り、「ミスター」が審査されている例はめったにない。その代わりに長島選手が「ミスター」と呼ばれていた按配に、いろいろ特定の社会で男性は「親分」「テンノー」「兄貴」などとして、やはり限定付きで顕彰されている。「ミス・ワールド」でも「ミス東京」でも同じ限定はついていて、やはり万・万人が一致承認しているわけではない。
妙な人を引き合いに出すが、志賀直哉は「ミス」コンクールの推薦者か選考者になったことがあり、体験をふんで「美しい人」論をかなり熱心にぶち挙げていたことがある。直哉の名を引っ張り出すのに、たいそうな枕を置いたものだから、あとをつづける元気が少し失せてしまった。
2010 11・4 110

* やはり直哉の「美しい女性」論を、半端に置いておけない。
直哉には、若い頃、キリスト教から離れてのちに、性欲のままに巷の女とからで触れてくる機会を、多い少ないは云いにくいが、むしろ平然と習いのようにさえしていた時期がある。吉原の大店の花魁と深い仲を続けていたこともあり、その体験から『暗夜行路』の「お榮」という人物を書いたともいえると自身証言している。性病にもかかり、長い間、真面目なほど病院と医者の厄介になっていたことが若い頃の『日記』に繰り返し垣間見えている。結婚前にも後にも、女中や祇園の女などと折衝があったことは作品に何度も書かれている。直哉は「健康な強い性欲」を人類的に肯定する、大事にする人で、その意味では通俗な道徳から「心」を軽薄に謂うより、まっとうな「体」に根源の関心を喪わなかった人だと断定的に謂っていいかもしれぬ。共感している。
志賀直哉は、しかし、盟友の武者小路実篤のようには「恋愛小説」を書かなかったし、そもそも恋愛経験のむしろ無かったほどの男性ともいえる。
ただし小林秀雄や河上徹太郎らが『暗夜行路』は恋愛小説だと批評したのを、珍しがり喜んで受け容れていた。小林や河上がどれほど真面目に本気でそう言ったかは割引も必要だが、同時に鋭いうまい批評の緒ぐちは付けてくれたのである。殆ど行きずりに買った女をひざにのせて乳房を揺すりながら「豊年だ豊年だ」と口にする「前編」しめくくりの時任謙作の述懐などを、的確に、しかし大胆すぎる感じにとらえての「恋愛小説」の指摘であった。

* そういう志賀直哉の女性に対する観察や思索は、多情仏心、優情派の親友里見弴のそれなどとはかなり異なっている。

* 「瞬間その女の老年を観る」という、永く手帳のなかに秘匿されていた昭和三年の短章に、驚かされたことがある。

☆ 瞬間その女の老年を観る   志賀直哉
或る友の家で晩さんの后、数人の友達と雑談の花を咲かしてゐる時だつた。
主人の友の細君は美しいそして自分でも多分器量自慢の細君であつたが、偶々(たまたま)話が細君に何の興味もない話題に入つて行つた時、私は何気なし不図(ふと)その細君の顔を見ると常に美しいそして表情の多いその顔が如何にもぼんやりとした風で眼がたるみ頬がたるみ、急に二十歳程それが年寄つて見えた。その女の人が五十五六歳になつた場合の顔を私は余りにはつきり想見する事が出来た。
これはそれだけの話であるが、かういふ場合私はそれがあたり前の事であつて其所(そこ)にはかなさを感じるとか幻滅を感じるとかいふ事はしない方である。

* じつに目の前のことのようによく分かる。直哉の目の、人と向かいようの、怕いような働きである。及ばずともわたしも、別に意地悪くではないがこういうふうに「女の人」を観ている自覚がある。直哉はただに「女」でなく、心理でもなく、「人間」を観ていた人だ。
さてその直哉の、昭和六年の「ミス・ニッポン審査員の言葉(一)」が、わたしには立派な「人間美学」と読める。傍線を引いていてスキャンがうまく行かないので、すこし校正に時間がかかるが。そしてわたしがどの辺の直哉の言葉に共感・同感していたかをハッキリさせたく、その個所を太字にしてみるのを、わたしの著者への厚い敬意の故とおゆるしねがう。

☆ ミス・ニッポン審査員の言葉(一)   志賀直哉

女が如何なる時代に一番美しいかといふことは考へやうで一様にはいはれない。かつてアンナ・バヴロヴァ一座を見て、多くの踊子の中で一番年寄のパヴロヴァを美しいと感じたことがある。藝の魅力もあつたらうが、舞台以外で彼女等を見るとしても恐らくパヴロヴァを一番美しいと感ずるに違ひないと思つた。活動写真の女優でいへばナヂモヴァとかスワンスンなどにもさういふ美しさがある。これは若い女にない美しさだ。女として内面的に完成された美しさだ。往来や乗物や芝居などでも極く稀にさういふ人を見かけるが、その美しさは何となく落つきがあつていいものだ。私は同じ人が二十歳前後に如何に美しかつたらうと想像するよりも此人はその時代になかつた美しさを今は持つてゐると考へる方だ。
世阿弥が花伝書といふ本で藝の「花」といふ事を切(しき)りに力説してゐる。これは藝の上の話であるが、同じことが女の美しさにもいへるやうに思ふ。即ち美しさの「花」──かういふものを本統に握つた人だけが何時までも美しく感ぜられるのではないかと。そして花伝書にはたとへ「花」を獲得した人といへども現在伸びる盛りの若手の勢ひには往々圧倒されることがある。しかも、さういふ場合にもこの「花」だけは依然光つて見えるものだといふやうなことを書いてゐる。美しい若い人と美しい中年の人との間でも同じことがいはれると思ふ。そこで、いひかへれば観る者が今を盛りの若い勢ひを賞するか、女として完成されたその美しさの「花」を賞するかで自(おのづか)ら女の美しさに対する標準が変つて来る理(わけ)である。

以上はこの雑誌の今度の計画からいへぼ当嵌まらぬことだが、考へたので書いた。

それから一人の美しい人を選ぶといふことは厳密にいへば選ぶ者がさういふ人を一人創造することだと思ふ。例へばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の如き。あの肖像画がダ・ヴィンチの傑作であるのは勿論だが、ダ・ヴィンチはあれを描かざる以前に既に人間モナ・リザの美しさを創造して了つたといへる。
美人としての色々な条件をそなへてゐるといふ事は消極的な事である。本統に美しい人は条件を忘れて美しいと感じさせるやうなものを持つてゐなければならぬ。モナ・リザは美人の条件に当嵌めて作られた美人ではなく、ダ・ヴィンチ個人によつて創造された積極的な美人である。かういふ意味では今度の計画のやうに十人の選者で選ぶことは完全の如くにして実は甚だ不完全な選択だといへるだらう。十人の合作であつて、積極的な美しさを発見するといふことは出来ないだらう。尤もこれも今度の計画からいへぼ当嵌まらぬことだといふことを知つてゐる。それよりも、今度の計画では一寸見て、誰でもが直ぐ美しいと感ずるやうな人を選べばいいわけで、恐らく甘い感じのものになるだらう。モナ・リザを選んだつもりで「これがどうして美しい」などいはれるやうではいけないに違ひない。またそんな美人もないかも知れない。
自分の美人に対する好尚を簡単にいへば普通いふ美しいといふよりも立派といふ方を取る。立派とは見た眼に一と限ではつきり来る豊かな美しさだ。仔細に見て難のないなどいふのは面白くない。それから、新鮮な感じ、弾力のある感じ、共に必要だ。容貌と職業と結びついてゐる人は一切とらぬといふのはさういふ意味で賛成だ。普段の心掛けがその人の顔に反射すること、これも写真で或る程度までは分るに違ひない。
それから実際に美しい人は盛装でない方が却つてその美しさを発揮すると思ふ。
吃驚する程美しいといふ様な人はさうゐるものではなささうだ。一人の人が一生を通じてもし十人見る事が出来たら仕合者といつていいだらう。今年は幸運にも私はさういふ人を二人見た。尤も或る距離で見た瞬間の印象だけに非常に確かだとはいへないが、瞬間の印象からいへば二人共吃驚するほど美しかつた。一人ほ此春、神宮球場のスタンドで、もう一人は正月北平の往来で馬車で行くのを見かけた。黒塗の軽さうな馬車で、両側のランプも窓硝子もよく拭き込んであつた。大官の第何夫人とでもいふのだらう、真黒な髪、真黒な服で、上体を真直ぐに背の倚りかかりから離して行儀よく腰かけ、その前の小さなテーブルには銀縁の円い鏡が只一つたててあつた。

* わかりいいだけでなく、深い共感を呼び起こされる。わたしも、こういうふうに「美しい人」をいたるところで見つけたいと願う方だ。
戸外でも、旅中でも、またテレビや映画でも、「美しい人」を通じてしょっちゅう審美という意義と行為を思い勝つ実践している。だから比較的生きることに積極的になれる。たんに一人を見ようとしない、容赦なく比較する。
いまは、たとえば同じ「涼子」の「篠原」会計検査員と「米倉」税務査察員を視線で刺すように比較し検討し、その方がやすいドラマそのものよりも面白いほどだ。きのうは篠原涼子を見、今夜は米倉涼子を見た。志賀直哉先生に学べば、歳の差の魅力差がどう出るかだ。いまのところ同じヤンキーの凄みようの中にも愛嬌のふくらみを表情の決め、見得に光らせる篠原に、分が出ている。米倉にはもうすこしふっくらして欲しい。
すなわち「美しい人」合せである。見られる頻度からすると女子アナの「品さだめ」がいちばん楽しめるし、わたしの点数は甘くない。直哉流に謂えばそうしてわたし自身が「美しい人」を創造しているのである。
2010 11・4 110

* 『玉葉』という公家日記がある。
平安末・鎌倉初の藤原氏の長者で、法然に帰依した九条兼実の大部の日記で、定家卿の有名な日記『名月記』にならびたつ、それ以上にも歴史的な、根本史料。もう昔に、背伸びして買っておき、文字通り書庫に『名月記』と並び立っている。
その『玉葉』で、たった今し方、探し求めてきたというと言い過ぎだが、探し当ててみると少し震えの来る有り難い記事に行き当たり、雀躍りしている。一寸中身は此処に書けない。が、買って置いてよかった。
さ、どう活かせるか。

* 書庫にはいると、なかなか出られない。手に取る手に取る全部がわたしを誘惑する。通路にも積み上がっていて、奥へ通るのに本を踏むまいとすると、大股を何度も使わないといけない。とても生きている内に百に一つも読み切れたものでない、どれだけ読めるだろうと思うと、躊躇なく少しもはやくほんとうに隠居したいと思う。
今度の『秦恒平が「文学」を読む」上下巻の目次に名の出ているような人達の全集や頂戴本がいっぱいある。学者研究者からの頂戴本もたくさん有る。上の『玉葉』や『名月記』のような歴史資料や古典全集が、ある。多彩な辞典・事典だけで二百は下らない。どうしても最後に惜しんでしまうのは「本」かと思うと、煩悩やなあと嘆息もでる。わたしの息子は、とてもわたしの蔵書とは向きがちがいすぎて置いておく意味がない。図書館へ、少しずつ少しずつ我々に荷造りできる嵩から寄附しているが、出るより増える方が多いのである、まだ。
小説、随筆、批評、詩歌、研究書、古典原典、そして専門雑誌。全集。夥しい画集や図録や美術書。選りすぐって残しているのでみんな愛着がある。愛着・愛執つまり煩悩の塊やなあと長嘆息しながら、手に取り手に取り嬉しがっているのでは、ハナシにならない。つまりは眼を大事に長生きすることで、入院などしてしまえばみんなムダになる。家人は始末に困ってわたしの愛蔵本たちを呪いかねない。
2010 11・5 110

☆ 直哉の「青臭帖」から
一つの考といふものは正しいか正しくないかだけでは評価できない。正しい考であつて、しかも一顧の価さへないものもあるし、間違つてゐても、価値を認めないわけに行かぬ考といふものがある。さういふ考は間違つてゐても、兎に角人間はさう考へて見る必要のある考へ方なのだ。それ故に価値があるのだ。

財布の底をはたき切つた、といふ感じの藝術品がある。好意は感じられるが、物足らぬ気がする。

心に好きな人が出来ると、何だか涼しいやうな気持ちがする。
2010 11・5 110

* 直哉の全集で、直哉のまだ年若い娘さん達がたまに手紙などで父直哉にふれてものを云う時の、びっくりするほど美しい正しい敬語がやすやすと話され書かれていることに驚嘆する。家庭教育のよろしさか、人間味の豊かさのゆえか、敬服する。
2010 11・6 110

* 滑るように日が経つ。
身に纏うた、荀子の所謂「蔽=ボロっきれ」の重さに喘ぐ気分。黙々と作業。済ませるべきはやはり早く済ませたい。

* アイズビリの颯爽とした線体美にアテられ、一入萎縮しているようで情け無い。

* それでいて、横になり手の届く限り本を読み廻しているときは、惹き込まれている。
2010 11・7 110

* この「小さん」という名、先ずは漱石の作の中で覚えたが、じつはじつはこの名、日本人の「実名」として淵源はるかに上古に溯りうる名と、角田先生の本に教わっている。ついでながら「あぐり」という今日にも散見する名も、「余」という字の朝鮮半島での、恐らく百済での上古訓みが、渡来人とともに日本に伝わったのだそうだ。
2010 11・8 110

* じりじりと済ますべき用事を済ましている。息抜きに本を読み、テレビの映画を「聴いて」いる。機械の前での休息には『源氏物語の史的研究』を楽しんでいる。「玉鬘十帖」の検討を経てひとしお重い「若菜巻」の検討に入る。たくさんたくさん原文が引かれているので、要所を繋いで本文を読み進んでいるようなのも楽しめる。
2010 11・8 110

* 夜前は、歌舞伎界の便利帳のような本を買ってきたのを、読み耽っていた。夜中の読書は血糖値を下げるのか、三時頃ふと違和を覚え計ってみると、67。調整して、寝た。
2010 11・10 110

* 上野の街をしばらく歩いて。御徒町から帰路につく。網野善彦『中世の非人と遊女』、そして自著の下巻を読み読みする内に、うかと豊島園まで乗り逸れて、帰りが三十分ほど遅くなった。
清々しくお天気に恵まれて「秋」半日の行楽は穏やかに終えた。
留守の内に、岡山の有元毅さんお心づくしの「鮒寿司」を頂戴していた。有り難し。
2011 11・10 110

* 「福音」ですっかり嬉しくなってしまい、もうどこへ遠乗りする気もなく、近くに、見知った甘味材料の卸屋へ寄り、手当たり次第に美味そうなのをいろいろ買いこみ、新富町から一路保谷へ。車中では今気に入りの角田博士の『日本の女性名』と、もう一冊は網野さんの『中世の非人と遊女』とを読み耽ってきた。保谷駅でもうすこし買い物しようと、パンのうまそうなのを何種類も仕入れ、車で帰宅。まだ二時過ぎという早さで、大得をした気持ち。
2010 11・12 110

* 快晴。秋冷。

* 角田先生の『日本の女性名』上、鎌倉時代までを読み終えた。地道な基礎研究の成果で、歴史の推移がまた別角度から如実に読み深められ、欣快の読書となった。しかもなお、角田先生にして、なお、この中世初頭の一人の、特異でかつ隠れもない名前に触れられなかったか、と、残念無念。ただし先生の意識や穿鑿から洩れている理由もじつは分かっている、察しがついている。さてこそ、わたしは自身の仕事を、小説をと謂うもよし、何と謂うても構わないのだが、前へ、進めねばならない。湖の本の今年の発送も終えたと云うてよく、気を入れて幾つも用意の「仕事」に向かう下旬。そうありたい。
2010 11・16 110

* 寝床のすぐそばにそこそこの書架を置いている。東京へ来て、比較的早くに買った愛着の書架で、それへ、すぐ手をのばして取り出せる本が選んである。強い地震が来たら本と心中してしまう。
たまたま今はそこから潤一郎のなまなましい『痴人の愛』と直哉の「随筆のような作品」とを、読み比べるともなくいつも併読している。直哉のは珍しく長篇の『早春の旅』に行き着いていて、両者の差異の計り知れない大きさが面白い。
2010 11・18 110

* 確実に、寒さへ滑り落ちて行く。季の佳句をもとめて手近の歳時記をくってみても出会わない。
向きを変えて、短歌で笑おう。

「あの人」と娘に呼ばれしあのひとは一般的には父といいます   松本宏一

わたしより八、九年若い人だ。

ばさばさに乾いてゆく心を / ひとのせいにはするな /
みずから水やりを怠っておいて   茨木のり子

わたしより八、九歳年上の人だ。
2010 11・19 110

* 西鶴をわたしは不勉強だが、『好色一代男』『好色一代女』は立派な作品だと感嘆した覚えがある。「五人女」は歌舞伎の舞台などで馴染んでいる。印象に近松らの味わいが加わっている。

* 直哉は、自身初期の愛読体験を四期にわけている。一期は漣山人の「こがね丸」など。わたしには、読んだ時期が遅くて幼稚だった。直哉は比較的早くに西鶴にふれているが、本当に愛読し感嘆したのはもっと遅くのことだと云うている。同感する。『黴』だの『爛』だの凄まじい題を嫌って秋声作を『縮図』まで丸で読まなかったというのが面白い。代わりに泉鏡花に熱中し『風流線』あたりまでの全作を早くに読んでいたと。紅葉の『多情多恨』もやはり西鶴なみ、後々になって真に感嘆したと。また『アンナカレーニナ』を立派だと。多くの点で、やはり、強く共感。

* 潤一郎の『痴人の愛』は、わたしが早くに『谷崎の源氏物語体験』として特筆した作であるが、じりじりとナオミに翻弄され始めるジョージの複雑な挫折感と幸福感とを読む一方で、山中先生の『源氏物語の史的研究』を読んでいると、えもいわれず共鳴してくる世界の親和に不思議に不思議に魅される。若紫と源氏とを、反転させて、ナオミとジョージに振り当てた谷崎先生ウルトラCの趣向の勢いは、ハイ、すばらしいです。
2010 11・19 110

* ゲーテの『ヘルマンとドロテーア』を読み終えた。理想化された健康な愛の叙事詩。前後して潤一郎の『痴人の愛』を読んで行くと、フクザツな思いに襲われる。
2010 11・21 110

* 雨。このところ日替わりのような天気。これも、秋か。

* 林晃平氏の『浦島伝説の研究』に、また、取り組んでみようと思う。
浦島は竜宮で公家殿上人のように乙姫との歓楽の日々を送りながら、地上の父母を恋しく思うようになり、すぐ帰ってくる、しばしの暇をと願う。姫は、そんな浦島に四季四門を次々に開いてこの上ない景色を見せるが、浦島の故山を想う情はかきたてられるばかり、仕方なく姫は浦島に、明けてはならぬと小箱をもたせ帰してやる。
この「四季四門」の人間浦島に持った意味はなにであったか。それ一つにも、限りなく思案を迫られるものがある。
大判の五百頁。「研究」とはどのような営為であるかと林さんの本は問いかけてくる。いま寝室では長島弘明氏の『秋成研究』に没頭している。『浦島研究』は機械の傍で読み継ごうと思う。長島さんにも林さんにも久しく「湖の本」を応援して頂いている。上の二著も頂戴した貴重な大著である。

* 五大昔話が、桃太郎、花咲爺、舌切雀、かちかち山、猿蟹合戦と数えられてもいいし、ぶんぶく茶釜や金太郎が加わってもいいが、これらと少しタチのちがう伝説に、浦島伝説とかぐやひめの噺がある。源氏物語は、花咲爺や猿蟹合戦にはふれないが、竹取の翁とも浦島とも有縁である。どっちにもいたく気を惹かれてきた、わたしは。
ついでながら、今まで本格には立ち向かったことのない、秋成の『諸道聴耳世間狙』『世間妾気質』にとりかかるか、西鶴の好色ものではない短編集に初挑戦してみるか。
2010 11・22 110

* 網野善彦の『中世の非人と遊女』とが、痺れるほどの刺激で面白い。優れた研究者だった。長命して欲しかったのに。
2010 11・23 110

* 夜前も網野さんの研究論文に読み耽り、興奮して眠れなかった。本は傍線で真っ赤。もう一冊買っておかないとと思う。
林晃平さんの『浦島伝説の研究』もじつに面白い。
もう一つ。これは中世王朝物語の極めて異色異彩の長篇『我が身にたどる姫君』物語が途方もなく面白い。
原文と、優れて精緻な本文研究の成果である現代語とを、突き合わせ突き合わせ読んでいるが、これはそうしないとどうにもならないほど実は無責任なその場限りの悪文だからで、だから箸にも棒にもかからない、捨ててかかればいいかというと、とんでもない。 もし中世物語で一冊をと問われればこの一作を多くの研究者は挙げるだろう。それほど物語も無数の登場人物達も個性的で生彩に富むのである。
前にも書いたが、猛烈なヤキモチを妬く皇女であった北の方がいる。かと思えば、政治的にも女としても妻としてもすばらしい女帝が君臨する。かと思えばモーレツな同性愛に狂奔する前齋宮も登場する。女の話が実に面白く魅惑に富み、男はみな月並みに近い。いやもう、二十冊近くならべた枕辺から、ついつい一番に、あるいはおしまいに、この中世物語にわたしは手を出す。夜更かしをしてしまう。
2010 11・24 110

* 早大名誉教授の中村明さんから、湖の本への礼状に加えて、岩波書店新刊の1200頁ちかい『日本語 語感の辞典』を頂戴した。じつに面白い。「ことば」のエッセイ集かのようにも手当たり次第に読んで楽しめもする。ふつうの語彙辞典とは、趣も意図もちがう。単語というより、物言いがかもしだす雰囲気の意味が読み出してある。労作である。
眉村卓さんからは文庫本になった『ボクと妻の1778話』を頂戴した。
2010 11・25 110

* 古典は
ひたすら「読む」しかありません。付いておれば研究者による「解説」も。訳に頼るのもいい。しかし、やはり原文の「感じ」を汲み取りながら、が、妙味です。
古事記。これは訳でもいい。原文も読み取りやすく、苦労しない。
物語は、一つなら源氏物語。古事記や万葉集を除いて、日本古典文学全ての基本です。和歌の文化も此処で十分掴めます。物語の中の和歌や引き歌が「面白い」と実感できてきたら、ホンモノです。先ず優れた現代語訳を繰り返し読んで、「面白いな」と納得してから、訳を参照しつつ原文の花(ファシネーション) を味わう。身を寄せて読む。注も読む。
他に必読モノは、平家物語。読みやすい。
徒然草。読みいいとは言えないが、日本人の思想が溶け込んでいて実に面白く、深く汲み取ること。
とはずがたり。最上流貴女が遊女の境涯を生きた赤裸々な私小説。糜爛した宮廷の、また中世日本の被差別と遍歴の旅の、現実味が、奇蹟ほど濃厚に溶け込んでいる。古典日本の「女」を独り全身全霊で体現した後深草院二条。
江戸時代では、西鶴の好色一代女、山本健吉の新潮文庫「芭蕉」上下、そして秋成の雨月物語、春雨物語。可能なら、馬琴の八犬伝。
できれば、佳い能舞台と人形浄瑠璃とを、すこしでも。また、近松もの、南北ものの舞台。そして、民俗学。
2010 11・27 110

* とにかく寝入る前に古今亭志ん生に笑わせてもらう、それで夢見が穏和に。ただし落語のあといろいろ本を読んで興奮すると、寝入りにくい。

* 古典の伝統に「烏滸はなし」というのがある。エクセントリックなのである。源氏物語だと、源典侍とか近江君の登場がそれにあたるが、『我が身にたどる姫君』の巻六をしめる前齋宮の烏滸(おこ)ぶりは相当なモノで、あとにもさきにも出会ったことがない。
この「烏滸はなし」に次いで、門玲子さんの『江馬細香』を読み継いで行くと、どうしてこもう典雅な文体と叙述とで、いわば家庭の主婦の処女創作が書けたかと、奇跡に逢うような敬意と嘆賞を覚える。このあとへ潤一郎『痴人の愛』で、河合穣治がナオミに強いて誘われ、亡命ロシアの伯爵夫人からダンスを習い出すあたりの「白」人崇拝ぶりを読み出すと、この谷崎画期の秀作すら通俗に感じられたりするのだから、驚く。
「湖の本」の前巻で谷崎を多く語った中に、谷崎文学の「色」にふれて、黒と白とをためらいなく挙げていたその「白」にかかわる適例を此処にも見ることが出来る。谷崎の「白」耽溺の根は、祖父が信仰し祭祀していたロシア正教の聖母の肌色にあった。爾来、彼の「白」は女の肌色に極まり続ける。ジョージがナオミに溺れるのもその色白が西洋人に近いからだが、そのジョージが伯爵夫人に出逢ってふるえ戦くほどほんものの白い肌の魅力に降参している。ナオミも遠く及ばないと言い切っている。面白い。

* で、ついで志賀直哉の『早春の旅』に思いを移すと、ちょうど村上華岳の百点もの繪を人の家へみせてもらいに行くくだりになる。直哉が日本の同時代画家で心底敬意を寄せたのは、洋画では梅原龍三郎であり、日本画では村上華岳と榊原紫峰である。
日本画の二人とも国画創作協会の親しい友同士であり、また小説家のわたしにも、華岳を頂点に、国画創作協会の紫峰、波光、麦僊、竹喬、晩花らは渾身の作『墨牡丹』に書いた最も心親しい大切な画家達である。この人達との出会いがなければわたしの文学世界は大きな一部を喪っていただろう。直哉が「紫峰君」や「華岳君」を語ってくれるとき、わたしもまた深い敬意でうち震えるのである。ことに華岳を語る直哉の敬意と愛惜の深さ、そして批評の鋭さはみごとな高みにあり、頭の下がる生きた言葉で深切に語っていて、そのような直哉をわたしは惜しみなく讃嘆する。
直哉は、自身の徹した愛と編集とで、途方もなく豪華な美術写真集「座右寶」を刊行していた人である。日本の文化界に武者小路らとともにロダンや、セザンヌやマネ、モネやゴッホなどを輸入し根付かせた人である。古都の奈良や古寺古仏を愛した文人は多いが、奈良に十余年も住んだ直哉はそうした愛好と尊敬にじつに大きな先鞭をつけた一人であった。また『萬暦赤繪』のような作品があるように、柳宗悦との生涯の親交もあり、陶藝にも独特の鑑識と偏愛とを惜しまぬ文士であった。
さらに言えば志賀直哉はわかい青年の昔から寄席藝人たちの藝に、執着といえるほどの贔屓心をもっていたし、歌舞伎も耽溺にちかいほど劇場をわが家のように渡り歩いていた。そういうことの、なに不自由なくできた、まただからであろう、それらに拘泥して脚をとられてしまう不格好からも平然と遠い人であった。わたしはそんな直哉の創作集と日記とをほぼ時季も打ち重ねていまも毎夜読み耽っている。ちょうど昭和十四、五年ころに当たる。

* それからバグワンの『一休道歌』下巻や、新約聖書の「正典」が確定して行く頃の歴史や、『若きヴェルテルの悩み』や山本健吉さんの『芭蕉』下巻等々を次々に読んで、けっこう興奮して寝に就く。ゆうべも、やはりそうであった。
2010 11・28 110

* 好天。例によって網野さんの本に食いつきながら、西武デパートで遠足まえの例の小憩。
今日は、やっぱり千住大橋を渡りたいと決め、地図ももたないし、ままよと、駅前にタクシーのあるのを承知で鶯谷駅前を発、一気に南千住から「大橋」南詰めまで走った。運転手に少々北千住寄りの地理をならって置いて、下車。いきなり陸軍大将林銑十郎書の「八紘一宇」と大字の石碑に出会い、面食らう。
大橋は、貫禄の青いモダンな鉄橋で、真山歌舞伎「将軍江戸を去る」の木造橋とは、あたりまえだが、丸で様子が違った。案の定将軍慶喜ではなく、家康でもなく、もっぱら松尾芭蕉「奥の細道」の旅の起点である千住風情であった。併走して橋架の建造物があり隅田川の一望が難しいが、狭い眼下を漲り走る川浪は力強い。
もう一つ当地は、農産物等の集散地、賑わいの「やっちゃ場」の名残り著しく、旧街道ぞいに、昔のいろいろ商家の屋号や商標商品名などを手厚い木の札に書いて家の表に出してあるのが、一つ一つ興味深い。大橋の西際に古社があったり、旧街道に沿い軒高い浄土宗の寺があったりし、紅葉も、黄葉も、葉の落ちた大樹なども、如何にも晩秋だった。青空も白い雲も清らかで、めざした「大橋」だけがヤケに堂々と現代だった。
北千住らしい何か食べ物店がないかと捜したが見当たらず、「新富」といういい屋号の鮨店をみつけ、腰を据えることにした。築地の寿司のようには行かない、それならと、菊正二合で刺身と少し握ってもらったあと、大きな蟹一杯を、蟹酢で食べやすいよう包丁を入れてもらい、酒からビールに替え、ゆっくりゆっくり蟹に手を掛け手を掛け、罰当たりなほど貪食した。それでも脚までは食べられず、親方が保冷剤で親切に手土産にしてくれた。感謝。
それなら、もう帰ろうと、川浪うねる隅田川上流を歩くのはおやめにし、北千住駅から、JR線で日暮里経由、池袋へ。また本に読みふけって西武線ひばりヶ丘まで一駅乗り越した。
2010 11・30 110

* 「貝新」の貝、「大藤」の千枚漬を、川崎市から、京の北区から、頂戴。純米吟醸の「西東京」で、仕事を中断、夕方の一餐と願おう。と、いいながら手をのばし、林晃平さんの『浦島伝説の研究』を読み耽っていた。本には誘惑される。
2010 12・2 111

☆ お元気ですか。  播磨の鳶
敦盛・称名の面(=この私語頁冒頭の述懐に添えた能面)に圧倒されます。
お体のことが心配です。このところ腹痛という記載がやや遠のいていましたが、とにかく最大限の配慮で過ごされますように。
東京はもう雨があがったでしょうか? 昨日午後から日本全体が低気圧の前線通過の影響を受けているとか。この雨で庭の柿、藤の葉などが落ちています。
電子レンジで熱くしすぎたコーヒーを脇に置いて機械を立ち上げました。
もう十二月になってしまったとは、そのあまりの何気なさにいっそ驚きます。

天皇制の問題、海老蔵の事件、から実に核心に迫った考えを書いてくださっているのに目を見張りました。(テレビで普通の役者はこんな甘いことをしたらたちどころに終わりだと強い口調で述べていたのは、(役者の=)梅沢富美男でした。多くの人は諂いやらさまざまな処世訓を意識しながらものを言っているように思われました。)
強い共感があります。書かれていることはすべて紛れもなく長い長い間一貫して書かれ主張されてきた事柄です。HPの場から、さらに多くの人の目に触れるところでこの文章が読まれたらと思うのは、わたし一人だけではないでしょう。

容易ならぬことが容易に良い方向に進展できるように遠くから祈ります。様態の変わる月日を早く見定められたらと祈ります。

門玲子氏の『江馬細香』は図書館から借りて現在読んでいます。
つくづく思うのは引用されている細香の漢詩を読者がどこまで理解できるか、ということです。わたし(=中国史・京大卒)は比較的漢文に慣れているほうですが・・それでも彼女(=細香)の詩をわが身のものとして感じとることが、時にもどかしく難しい。江戸、あるいは明治のかなりの時期まで当然の素養としてあった漢文が、もはや遠い遠いものになってしまっています。この本とは別に『江馬細香
詩集』が出版されているようですが、そのいくらかでもこの本の中に「翻訳・解釈」されたものが入れられたなら、読者は彼女を理解できるでしょう。頼山陽はたとえば平田玉薀などとも交情あり、一度は彼から結婚の話も父親にあったという江馬細香は遂に誰とも結婚することなく生涯を終えるなど、深い事情も出来事も思いもそこにはあったでしょう。その痛切を超えて彼女の詩があるでしょう・・。そこにいっそう近づくためにも、読み下し文以上のものを求めてしまう、これは邪道でしょうか?
繰り返し くれぐれもお体大切に大切に。

* 鳶さんはかならずわたしの藝能観などに反応してくれると思っていた。

* 門玲子さんの『江馬細香』は、初版本のあと、最近藤原書店から読みやすい佳い新刊本が出ていて、こちらでも、点綴されている細香の詩作には、せいぜい読みくだしと簡単な語釈がついている。ま、わたしはそれで足りて、情趣はほぼ懐かしく汲んでいる。
門さんの作には、漢詩も働いている、が、この作品の妙趣は、地の文章の比類無い落ち着きと、温かみと、雅に美しいこと、表現のディテールに現実感と想像とがよく行き届いて、通俗でないこと、か。
漢詩として細香詩を見るときは、師の頼山陽らの当時江戸時代漢詩と同様同列に、どうしても脱色・脱臭しきれない語の斡旋上の和様・和臭を斟酌せざるを得ない。
わたしたちは、日本人の作る漢詩によりも、先に、ほんものの漢詩、それも陶潜ら以降、李白・杜甫また白居易以降等々の頭抜けた詩の妙味に先に親しんでいて、それからすると、弘文天皇や菅原道真、和漢朗詠集の倭詩や、下って中世の五山詩や、近世の新井白石の辺まではまだしも、江戸末期の山陽以降志士慷慨の漢詩などは、一寸は食してみても、はやばや「ご馳走さま」と言ってしまいたくなる。
細香苦心の詩句の斡旋にすらも、どうしても唐詩選等に親しみ学んできた者には、重苦しく粘った措辞がまま見受けられる。門さんの本に、はじめのうちどうしても目を向ける気がされなかったという吉川幸次郎先生らの感触にも、山陽詩等への異物感と辟易が先立っていたに相違ないのである。
その上でなおかつ、わたしは門玲子の筆に調理された、創作上の江馬細香女の味に触れて愛読している。
2010 12・3 111

* 隣棟の書斎で本棚の前に座り込むと、ぼうっとして動けなくなった。体調ではない、例の、洋の東西をとわず手当たり次第に頁を繰っているのである。そんな中から、北京外文出版社刊、1968年発行、毛沢東の『延安文学・藝術座談会における講話(1942年 5月 2日)』と題した小冊子(定価50円)を、この機械の前へ持ってきた。1953年 5月に北京人民出版社から出版された『毛沢東撰集』第三巻の中の原文にもとづいて翻訳されている。
いつ、どうして手に入れたか分からないが、隣棟に住んでいた北京詰めの永かった著名な新聞記者・柴田穂さんの遺品として、引っ越しの時に残されていったもののように思われる。いまでは歴史的な文献だと思う。
一度は通読しておきたいと思いつつ忘れていた。許されるなら「e-文藝館=湖(umi)」に取り入れてみたいが。
2010 12・3 111

* 暫く前から秋成初期の浮世草子本を読み出しているが、「前説」を終えて「諸道聴耳世間猿」の本文へ入ったのが、すこぶる面白い。ていねいに読んで行けば、補注は周到で解説も深切、これはとてつもなく惹き込まれそうで嬉しい。
2010 12・3 111

* 志賀直哉が小林多喜二に、「主人持ちの文学はいや」と話したことは今は広く知られている。この場合の「主人」とは早い話、共産主義とか、属する共産党とかにあたるだろう。
それも念頭の記憶としながら、いま始めて毛沢東の『延安の文学・藝術座談会における講話』(今後、講話という。)を読むと、直哉とはまったく別世界の思想が語られている。
「まえおき」ですぐさま「他の革命活動にたいする革命的文学・藝術のよりよい協力」が、さよう「協力」が、「民族の敵を打倒し、民族解放の任務を完遂するため」に必要だと提言されている。「われわれが敵にうち勝つには、まず銃を手にした軍隊にちよらなければならない。しかし、」「われわれにはさらに文化の軍隊が必要であって、これは、味方を団結させ、敵にうち勝つために欠くことのできない軍隊である」と。
平安末の源平が相闘った頃に、公家歌人の藤原定家が「紅旗征戎わが事にあらず」と日記に書いた気持ちは、ま、直哉とちかい文学者の気持ちをもらしたと謂える。
だが毛沢東は、民族の敵を見ている。具体的には日本帝国主義がまっさきに有った。敵をはねのけるためには軍事の力と文化、この場合文学・藝術の力がともに必要だと力説している。そこから毛沢東は説き始めている。
簡単にとんでもないこととは言い捨ててしまえぬ「思想」と「時代」とが諄々と語られて行く。読み進むに随い、懐古的に毛思想を顧みておこうと思う。
直哉が「主人持ちの文学」はイヤだとはねつけたとき、では「主人」を持たない文学とは正確に何を謂いたかったのだろう。即座に直哉を是認した人が、わたしも含めて多いはずだが、ではその大勢は、「文学」の何であるかを胸懐としたか。簡単な問題ではない。
2010 12・5 111

☆ 毛沢東は延安で文学・藝術座談会を開いた「目的」を話している。
それは、「人民を団結させ、人民を教育し、敵に打撃をあたえ、敵を消滅する有力な武器として、文学・藝術を革命という機械全体の一構成部分にふさわしいものにするためであり、これによって、人民が一心同体になって敵とたたかえるようにたすけるのである。」と。

* 今、日本の共産党はどう考えているのだろう。現在ただいまの中国の作家・藝術家はどうか分からない、知らないが、毛沢東が亡くなり、周恩来が亡くなったすぐあとの中国を、日本の作家代表団として訪れたとき、明らかにこの毛沢東の言うがままの小説や演劇や美術が目に付き、広大な中国のいたるところ、壁という壁をうずめ尽くして大字報が氾濫していた。それでもその中国に「変化」は起きかけていた。毛沢東を信奉して文化大革命を強行指導した「四人組」が逮捕された直後でもあった。
わたしは、めぐりあわせというか、ロシアが「ソ連」であった昔に、やはり向こうの作家同盟に招待され、モスクワ、レニングラード、トビリシなどへ旅している。あの頃のソ連の文学がどうであったかも知らなかったが、グルジアの主都トビリシでは、日本の古典文学の「全事典」出版が具体的に進行していて、研究者達とたくさん話し合う機会があった。また同じような機会が、ソ連首都のモスクワでももてた。ソ連が、やがてロシアへ変容して行く下地がなにとなく用意されていたのか。
中国では、孔子が排撃されていた。古典への批評も厳しかった。わたしは聞いた、中国語での「批評」とは、上位の者が下位の者達へ非難の意味をもって指導することなんですと。
だが、毛沢東の「講話」は、歴史的な文献としては読むに堪え、深く興味をかきたてる。
2010 12・6 111

☆ 毛沢東は一九四二年五月、これは太平洋戦争が日本の敗色へカーブを切り始めた昭和十七年のことだが、延安で「文学・藝術座談会」を主宰し、先だって「講話」した。
座談会の「目的」は、昨日の日録で紹介したが、彼は次いでこの「目的」のためには、「どういう問題を解決すべきか」と自問し、こう自答していた。
すなわち、「文学・藝術活動家の立場の問題」「態度の問題」「活動対象の問題」「活動の問題」「学習の問題」が「あると思う」と毛沢東は指摘。
以下に一つ一つ述べているのも、順次読んで行きたい。おそろしく時代後れのようであるが、あらゆる時代を超えて或る面でいっこう古びない本質に触れているとわたしは見ているから。
わたしはこういう提言からも聴くに値すれば聴こうという気持ちでいる。二十世紀の十人、でなければ二十人の内に指折られていい革命家、という以上に思想家であったと思うからだ。
2010 12・7 111

☆ 毛沢東は、革命に従事する文学・藝術活動家の「立場の問題」をこう仕切る。
「われわれはプロレタリア階級の立場、人民大衆の立場に立つものである」と。
「共産党員についていえば、とりもなおさず、党の立場に立つ」「党性および党の政策の立場にたつのである」と。
「認識の正しくないか、はっきりしていないものがいるとおもう、多くの同志はしばしば自分の正しい立場をうしなっている」とも。
つまりこの立場こそが、志賀直哉が小林多喜二にむかい忌避して切り捨てた「主人もちの文学」の「主人」にあたる。わたしもこんな「主人持ち」のまま文学は創れない、創らない。
だがその一方で毛講話の趣意は明瞭に理解できる。闘いに勝つ意志を離れては何物も存在できないのだ。文学・藝術も例外ではありえないと毛思想は徹している。
まだ先を読まないから安易に謂えないが、尋ねたいのは、「民族と人民大衆の闘い」が勝利に終わった段階でもこうなのかと。
もう一つ、疑問がある。
中国の人民大衆は毛思想のこの闘いにほんとうに勝ったのか。勝ったのは「政権だけ」ではないのかと。
人民大衆の人権はむしろ政権の都合で蹂躙されているのではないのか、と。
人民の意思の名で政権の勝手な都合が演出され操作されているということは無いのか、今の中国は、数千年の中国歴史と基本的に変わりなく。

☆ 次いで毛沢東は「態度の問題」として、「讃美するか、暴露するか」のどちらも必要だと云う。どういう人々に対してか、が問題だ。「三種類の人達」がいる。「敵と同盟者と味方」だ。
「敵、すなわち日本帝国主義とすべての人民の敵にたいして革命的文学・藝術活動家の任務は、敵の残虐さと欺瞞を暴露するとともに、敵の失敗が必至であることを指摘し、軍隊と人民が一心同体になって、断固として敵を打倒するよう、はげますこと」だと毛沢東は云う。また統一戦線内のさまざまな異なった「同盟者」に対しては、連合の成果があれば称讃する、交戦に積極的でなければ批判すべきである。
そして「味方」がいる。この「味方」の人々が即ち「人民大衆とその前衛である。」毛沢東の論鋒はかなりに明快である。
2010 12・8 111

* 寒くなると聞いていてしっかり用意して出たが、ナイキの運動靴をはいて、セーターの上にダウンでは暑いほどだった。普通の厚着の他に、薄いタイツの上に分厚い膝サポーターをつけ、腰もサポーターでがつちり締め、そのうえ腹の冷えをかばって小さいタオル二枚を金太郎さんの腹掛けのようにしているのだから。ま、それだから風邪もひきそうにな
く。もう終盤に近づいた隅田川の橋尽くしも上流では、白髯橋、中流で永代橋、下流では相生橋が残っているだけ。で、浅草裏、ひさご通りの例のすき焼き「米久」で「特」の肉を二人前平らげてきた。此処の酒は「櫻正宗」。肉の旨さは、云うまでもない。今日の本は、やはり文庫本の『中世の非人と遊女』で無数の朱線の上を三読めの今は黒いペンでさらに上から。まさしく「読み潰し」ているようなもの、とことん頭に入れてしまおうと、このところの読書では例になく熱中の度が我ながら凄い。

* で、帰ってきたら、またも、避けがたい要事が待ったなしで待っていた。即座に機械の前にすわり、三時間、ぶっ通しで「半分」を処理した。もう半分は、明日に。
2010 12・9 111

* 故網野善彦の『中世の非人と遊女』は徹底的に再読三読を遂げて、いよいよ先へ進める。腹を締め括って立ち向かう。

* 永く参照し読み続けてきた『総説 新約聖書』も、第一章から始め、第十章「新約正典成立史」から最後の年表等まで500頁余を相当熱心に読了した。以降は、手元にも二、三種ある聖書を折に触れ読み返して行こうが、そのまえに『旧約聖書』の「ヨブ記」を今度は岩波文庫版で読み返してみたい。すでに読み終えてある『総説 旧約聖書』をもう一度参看しつつ聖書本文に沈潜してみたい。
実父がこの「ヨブ」の巻を読むようにと姉に勧められていたことが、残った書簡や手記に見えている。曾野綾子さんの「ヨブ記」に触れられた文章にも父は関心をみせていた。
旧約は無かったが、文語の新約聖書は秦の家にもあり、どうやら叔母が傾倒していた或る男性から贈られていたもののように想われる。その人は日本をはなれ渡米していったとか、母にチラと聞いたことがある。叔母の聖書を手にした図は見たことなく、少年時代からわたしの「もちもの」と化していた。「マタイ伝」冒頭の系図や山上の垂訓など、よく声に出して読んでいた。
しかし教会などに心を惹かれることなく、わたしは小さい頃から家の宗旨どおり浄土経の雰囲気に自然になじんでいた。仏壇に灯がはいるとよく折り本の般若心経を声に出して読んでいた。灯明のゆらゆる美しさに心惹かれる子であった。

* 長篇古典物語の『我が身にたどる姫君』上下巻ともとても面白く読み終えた。希有な体験だった。物語のなかの系図がうまく作られていて、全八巻、系図と首っ引きで読み上げた。
2010 12・12 111

* このところわたしの心性を彩り誘っているのは、歴史的な「旅」、それも「女の旅」の可能性やむずかしさ、のようだ。手がけて願っている「仕事」とも当然結びついている。後深草院二条らを含む川村学園今関敏子さんの『旅する女たち』という架蔵の本にも目を向けてきた。角田先生の『日本の女性名』上巻や、網野さんの耽読した本もふくめ、それに林晃平さんの『浦島伝説の研究』すらもふくめ、わたしは今、わたしを、ある種のカオスの靄に置いている。がまんづよく、と云うよりも深く楽しみながら、自分の「仕事」へ辛抱のいい眼を見開いているということ。取り組める時間、取り組める心的状況が欲しい。いまは、ムリか。
2010 12・13 111

* 直哉の、昭和二十二年に、異色の代表作または問題作に『蝕まれた友情』がある。よく書いたなあと驚かされもするし、ご本人ものちに「今なら書かない」と述懐されているが、直哉にしか書けない、厳しくも真っ直ぐなところが書けていて、襟を正しつつ心から共感する。少年時代には「同性愛」ほどの愛情とすこしの年長への敬意とをもって、最も互いに信愛した旧友への、じつに厳しい批判と、訣別を余儀なくされていった人生の重みとを、容赦なく書いている。
わたしの婿や娘が、いましも岳父であり実父であるわたしを、わるく書かれた「名誉毀損」だとして被告席に置いているのと遙かに比べものにならない、本質的に相手の人格にキツク触れた批評非難が書かれていて、直哉はこの旧友をいわば「似而非の藝術家」といいきっている。だが訴えられはしなかった。直哉はこの作を単行本ともしているし、繰り返し刊行していて、割愛ならない生涯の問題作なのである。
なにが友情をかくも蝕んだのか。
向こうが「藝術家として」生きていなければ、何の問題もなくそういう「人」として友情を捨てはしなかったと、直哉は言い切っている。藝術への姿勢の差が、落差が、質差が、この作の主眼なのである。それこそが志賀直哉なのである。
要所をすこし書き抜き、心得としたい。この画家である直哉旧友が誰であるかわたしは知っているが、必要がないので書かない。直哉には珍しい相当に長い「連載」ものだが、わたしに食い込んできた辺を掘り起こすように引いてみる。

☆ 昭和二十二年、志賀直哉の『蝕まれた友情』より

自身藝術家でありながら、藝術に反感を持つてゐるといふ種類の人間がある。藝術を軽蔑する事で自身、秘かに安心を得、しかも藝術の分らない人に対しては一トかどの藝術家面をしてゐるといふ連中が相当にゐるのではないかと思ふ。
「水楢(=白樺)」流の一見幼稚な感激を片腹痛く思ふのは差支へないが、それでその藝術そのものをまで嗤ふ気持ちになるのは危険な事で、それで、その人の進歩は止り、段々退歩し出した実例を僕は此三十何年間に沢山見てゐる。これを客観的にいふと「水楢」流の藝術に対する感激性は、その事自身は幼稚でも、その事の働きは案外大きく、馬鹿に出来ない。嗤はれた者と嗤つた者との間は段々隔たつて来る。
(有島武郎、武者小路実篤、里見弴、長与善郎、柳宗悦ら「白樺」の盟友を直哉は念頭に話しているだろう。 秦)

此間、広瀬勝夫が来て、今度の僕の(此の=)小説に就いて、六十越してそんな事をむきになつて書いたり出来るのは小説家以外にないだらうといつて、肩を小さく揺つて笑つてゐた。成程他の事を仕てゐる者には、ない事かもしれない。僕は一寸嗤はれたやうな気がしたが、後で憶ひ出した事だが、広瀬自身、絶交状態にあつた葛西善蔵の危篤の知らせを受け、我慢ならず、その枕元に行つて、肚にある不快をすつかり、ぶちまけて帰つて来る小説を二三年前に書いてゐた。今、死なうとしてゐる人間の枕元でその人に対する不快をぶちまけて来るといふ事は、これも正直な小説家以外にはない事かも知れない。広瀬のこの小説は世間からは誤解されさうに思はれたが、僕は好感をもつて読んだ。

僕も世間並にいへばもう老人だ。日常生活では実際年寄染みた所も大分出て来たが、物を書くとなると、さう年寄染みてもゐられず、青年染みた所もつい出てくる。

僕が坐骨神経痛で苦しんでゐる時、君は高価な羽根蒲団の包を抱へ、わざわざ我孫子まで見舞に来てくれた。その後、今度は僕の方から鎌倉極楽寺の君の別荘を訪ね、一ト晩泊つて来た事もある。君との気不味い関係はこれで、形の上では兎に角一段落ついたわけだが、肚の底からは溶け合へなかつた。君と僕とはもう住んでゐる世界が、異つてゐる感じがした。君が所謂社交的で、僕が所謂非社交的だと云ふだけの簡単な意味でもさうであつたが、それはもつと根本的に別の世界の住人といふ感じがした。

ある事は僕の誤解もあるかも知れない。この手紙を書きつつ、気づいた事は、(久しかった洋行から君が帰ったとき=)国府津での君の(僕らに示した=)態度も、若しかしたら、あれはもつと簡単に考へていいものだつたかも知れないと思つた。
このいい機会に自分が(=たまたま同車してきた)樺山さんと親しくしてゐる様子を僕達に見せびらかさうといふ、それだけの事だつ
たのではなかつたかと思つた。そし君は腕組をして反りかへり、僕に「どうだい」といつたが、あれは「どんなもんだい」と云ふところだつたと思ふと、非常に滑稽な感じがして来るが、然しその後の君を見てゐると、この滑稽な事を滑稽とせずに、それを実生活に取上げ役立たせようと仕たところに段々色々な事が間違つて来たのだと思ふ。それの通用する人間もゐるが、通用しない人間も沢山ゐる。その見境が君にはなく、それの通用しない人達から段々君は尊敬されなくなつたのだ。

奈良にゐた頃、久しぶりで訪ねてくれた。自動車の中で僕は四十九だから、未だ四十代、君はもう五十代だといつた事を覚えてゐるから、十六年前だ。上高畑の新築の家に就いて、君は「これでもう、君も安心だね」といつた。僕は嘗て、誰れからもそんな事を云はれた事がないから、一寸分らなかつた。然し、分ると、「いやな事を云ふ奴だ」と思ひ、「さう何時までも奈良にはゐないよ。そのうち又何所かへ引越すよ」と云つた。粒々辛苦、金を蓄めて、漸く死に場所の家を建てたとでもいふやうな云ひ方だ。ところで、君は実際、そのつもりで云つてゐるのだ。しかも君はそれで、僕を馬鹿にしたつもりは少しもないのだから、僕はかういふ事が始終では、これは一寸かなはないと其時思つた。

度々、同じ事を書くが、君に対し未だに旧い感情を持ちながら、僕が積極的に元の関係に還りたいと思はないのは、それが長続きしさうに思へないからだ。

僕は病気が少しよくなつた時、その礼に君の家に出かけて行った。改築をしてから初めてで大分様子が変つてゐた。その時、僕はアトリヱも見せて貰ひたいと思つたが、君は僕をアトリエへ入れなかつた。僕に見られたくない描きかけの仕事があるのだと思ひ、強ひて頼まなかつたが、かういふ事は、君ともつと近くなつた場合、どうなるのかと僕は思つてゐる。君がアトリヱを見せることを拒んだ理由が全く別なものならば兎に角、若し僕の推察のやうなものであれば、君と僕とは不完全な形でしか交はれない事になる。
アトリヱを見る、見ないは何れでもいいがいが、一番大事なことに就いて君と話す場合、僕は常にある注意を払ひつつでなければ話せないのではないかと思つた。一番触れたい所がタブーになるといふのは不自由な事だ。君と僕とは一本脚のとれた卓に肘をついて話すわけだ。憶ひ出話、世問話、家庭の話などはいいが、一番大事な話をしようとすると、其所の支へがなく、卓は不意に傾く。その角には肘をつかぬやう常に注意をしてゐなけばならぬといふのでは不自由な事だ。

神を信じない宗教家といふものがあるとすれば、君は藝術の世界でのさういふ人だと思つてゐる。君がいつそ商人であるとか、政治家であれば、そのままの君で交はる事が出来ると思ふが、藝術を信じないで藝術家といふ額縁にをさまつてゐる事が困るのだ。君は金持ちといふ額縁にをさまつてゐれば一番似合ふ人だ。此額縁に入つた君を考へると、それは少しの不調和もない。夢二好きで、その蒐集をしてゐるとでも云へぼ却つて好感が持てる位である。

君が竹久夢二の絵を大変高く認めてゐるといふ話を聞いて、一体それはどういふ事かと諒解に苦しんだ。先年榛名山へ行つた時、湖畔に建つてゐる夢二の歌碑を見、興ざめた気特になつたが、君もそれに関係してゐたのではないかと伊作のいふのを聞き、事毎にかういふ食違ひがあつてはさぞ話が仕にくい事であらうと思つた事がある。
七年前、今ゐる世田谷新町の家へ移つてから、君は二度訪ねてくれた。最初の時、僕は君がそれをなつかしく思ふかも知れないと思ひ、初めて白馬会に出した例の(僕が優れていると大好きな=)伊香保の絵を出して来て見せた。余り掛けては置かなかつたが、麻布の父の家にゐた頃から、我孫子、京都、奈良、そして又東京と、何所へでも持ち歩いたもので、四十年間、兎に角、身辺にあつたものゆゑ、僕としては、捨て難い親しみを持つてゐたものだ。僕が一寸席をほづした時、パキンパキンといふやうな音が聞えたので、行って見ると、君が濡縁でその板片(いたつぺら)の絵を足で踏み、幾つにも割つてゐた。僕はそれを見て一寸いやな気がしたが、直ぐ「どうでもいい」と思つた。然し君のこの行動は何か自然でないやうな気がして苦笑された。「代りを何か持つて来るよ」と君も笑ひながら云つたが、僕は返事をしなかつた。

僕はこんな小説は初めて書いたが、今後、再びかういふ小説を書きたいとは思はない。そして、この小説を書いた結果、君と僕との関係がどういふ事になるのか、それは成行きに任せるより他はない。嘸(さ)ぞ君は、不愉快を感じた事だらう。ある所では僕は君の顔を平手で打つてゐるかも知れない。どうか其程度で君も僕の顔を打返して呉れ玉へ。僕は我慢出来るだけは我慢するつもりだ。

鉄斎でもルノワールでも老境に入つて益々光り輝いた画家だ。文学では年をとる程、よくなると云ふ事は困難だが、精進する画家にとつては、それは可能といふ以上、寧ろ自然な事だと思ふ。君にこの事を望むのは余りに空々しい事だらうか。君と僕との関係を若し完全な形にしようといふには、それ以外ないやうな気がする。僕は画家ではないから年と共にその仕事が光りを増すといふわけには行かないが、藝術に対する信心は却々変へさうもない。君が君の持つてゐるよきものを発揮し、再び画業に精進するやうな事でもあれば、どんなに嬉しい事か。さういふ奇蹟は起らぬものだらうか。

* 高邁な藝術家精神をふりすてて、画境を精進開拓の精神を忘れた画家への、志賀直哉流の侮蔑があらわにされている。
直哉は、ここで具体的には富岡鐵齋とルノワールの晩年を称讃し、その友の竹久夢二への愛好を、「理解しがたい」と振り切っている。直哉は、白樺の時代に、武者小路らとともに印象派、後期印象派の繪やロダンの彫刻などを日本に輸入紹介した人であり、日本の古美術に傾倒のあまり、自分の愛した仏像や美術を「座右寶」と謂う豪華な大型の出版物を最高級の写真と印刷とで自家出版した人であり、近代洋画では梅原龍三郎や安井曾太郎を推し、日本画では村上華岳や榊原紫峰らを敬愛した人であった。
文学者としては云うまでもない「神様」とまで称えられた。
その人が、ひそかに少年愛を燃やしたほどの友情を、生涯かけて「蝕ませ」た告白の一冊だ。やはりあだおろそかには措けない一編であった。この画家もわたしは知っている。けっして小さくはない存在であった。だからこそ直哉のこの一編の衝撃は重い。激しい。
2010 12・13 111

* 浦島伝説の研究を読んでいて、そのつど思い癒されていることに気が付く。「水江浦島子」の神仙譚めく伝承が、時代降って行くと「浦島太郎」のおとぎ話に変貌して行く。亀と玉手箱は浦島につきものだが、亀の方は伝説・伝承のむかしとおとぎ話とでは役割がちがう。竜宮も欠かせぬもののようで、蓬莱山と竜宮が微妙に混淆している。
亀が連れて行くとそこに乙姫がいてと覚えた竜宮のお伽噺が、溯ると、亀が女になり浦島を海宮へ連れて行く。ま、千変万化のいろんな本文が伝わっている。一気に一定化したの、は明治の巌谷漣のお伽噺や唱歌や教科書から。それはそれとしても、あの玉手箱を持ち帰って故郷を失い、玉手箱をあけて老人となってしまうことも含めて、男には「浦島」を決して忌避しない本性が備わっているのではないか、奇妙に懐かしいのである。わたしだけかも知れないが。
菅総理は仮免からそろそろ本免許の総理にと喋ったそうな、愚の骨頂。総理大臣を何と心得ているのか、仮免総理などゼツタイに国民は許可していない。
こういう愚物と付き合わされていると、生きる本拠を喪失していたのかなと、むりにも玉手箱を開けてしまいたくなる。浦島は玉手箱をあけて老いかつ殆どすぐに死んでいた。通りかかった聖人により火葬され、神と祀られた。そういう伝説も多い。神にならなくてもいいが、おろかしい現世で老い衰えたまま長命するのでは叶わない。
2010 12・14 111

* 志賀直哉の「随想」というエッセイを読んだ。こういう作品にことさらに此処で触れるのは、一にはわたしの感銘を記録するのだが、一つには「書いている」「書きたい」若い人たちへ伝えたいという余計と知りながら真面目なお節介が働いている。甥の黒川創にも息子の秦建日子にも、もしまだ書きたい気があるのなら娘の朝日子にも、またいまも書いているであろう知り人らへ伝えたい。
部分的に抜粋して強調した方がいいが、そう長くはないので、全部を引用させてもらおうと思う。志賀先生は、自分の書いた者が誰にでも利用されるならそれでいい、自分の名前など二の次だと書かれていたと記憶する。わたしにはいつもそれに甘えたい気持ちがある。
昭和二十一年四月刊の「新日本文学」に発表された。「新日本文学」は中野重治、宮本百合子らの創刊した左翼思想のものだが直哉は賛助員として名を連ねていたのも注目される。

☆ 随想   志賀直哉

画描きの友達が、梅原竜三郎の絵に就いて、別に丸味を出さうとしないでも、描く人には丸味がちやんと見えてゐるから、自然に立体感が出てゐるといつた。
私も「アンナ・カレニーナ」を読んでゐる時、同じやうな事を考へた。なんでもない場面に、なんでもない人物、──百姓とか下僕とか、小説として重要でない人物が出て来る場合にも、トルストイが頭にはつきりそれらを浮べつつ書いてゐる事が感ぜられ、それ程書いてなくても、その場、その人が此方の頭に浮んで来る。絵でいへば立体感とかトーンが出るのである。
此事は法隆寺の壁画に就いても云へる。脇侍の腕は線だけで完全に丸味を出してゐる。画描(ゑかき)でないから、さういふ事がどれ程六ヶしい事か、或ひはそれ程でない事か、はつきりは云へないが、法隆寺の脇侍の腕の肉づきは何時でも空(くう)ではつきり浮べる事が出来るところを見ると、矢張り稀有な事なのだらう。
若い人に原稿を見せられ、感ずる不満は矢張りこの立体感とかトーンの出方の足りない点だ。日本の作家でも永年書いてゐる人のものには自然にそれが出てゐる。
自分の経験を云へば急いで書いたものにはそれが足りない。頭にはつきり浮べずに書いて了ふからだ。さういふものは暫く手元に置いて、何度も見直すと、段々はつきり浮んで来るので、書加へる事も出来るし、余計なものは消す事も出来る。余計なものは消す方が、却つて浮び出して来る。材料が実際の経験だと、想像で書く時よりも色々なものがはつきりしてゐて、意識的でなく、要、不要が自然に取捨出来る。
兎に角はつきり頭に浮べて書く事は大切だ。

二番目の娘が近頃、俳句を始め、未だものにはなつてゐないが、その俳句仲間から聴いたといふ話に、句が出来た場合、書いて懐中し、時々見て、一週間程しても厭(あ)きなければ、それは句になつてゐるのだと云はれたと云つてゐた。木下利玄も和歌が出来ると小さな手帖に書留め、持つてゐて、時々直してゐた。グレーが墓畔の詩を却々(なかなか)発表しないで、自分の部屋の壁に張つて置いて、一年とか二年とか眺めては直してゐたといふ逸話もあるが、小説でも手元に置いて、十日二十日してから読み直し、書いた時には漠然としか感じてゐなかつた欠点を案外、容易に見出す事がある。さういふ意味では日本の所謂ジャーナリズムは時に過酷で、もつとよくなる作品を生煮に終らす事があるわけだ。
さうかと思ふと、〆切日が来ても、書けず、一日延ばして貰ひ、一ト晩で書上げて渡したもので、それ程、不満に感じないやうな場合もある。印刷されると、自分の手を離れた感じで、さう思ふのかも知れないが、原稿の間は何時までも直したくなる。これは私が文章に不器用だといふ事にも因ると思ふ。日本のジャーナリズムに就いては、私のやうな怠けものはうるさく催促される為めに書いて、却つてよかつたと思ふ事もたまにはある。然しもう少し、作家が落着いて仕事の出来るやうにした方がいい。
「アンナ・カレニーナ」の終りの方で、トルストイはレーヴヰンで、宗教の問題、農民の問題を書いてゐるが、時代が離れ過ぎた為めか、読んでゐて退屈した。作品の中に思想を盛らうといふ、さういふ成心が藝術の神様に嫌はれるのだといふ気がした。藝術が思想の手段に成りさがるのがいけないのだと思ふ。何となく全体から、其所だけが分離する。知らず知らずの内に溶けてゐる思想はいいが、生ではいけない。生な思想は成心といつていい。漱石の「則天去私」はさういふ意味で本統だと思ふ。
作品を手段として、作者が自分で働く気になるのは本統でない。作者は謙虚な気持で一生懸命いに書く。そして働くのはその出来た作品が、勝手に働いてくれるといふ方がいい。働きからいつても、その方が遥かによき働きをしてくれる。

* わたしの感想も「引用」に添えておく。

☆  「小説として重要でない人物が出て来る場合にも、トルストイが頭にはつきりそれらを浮べつつ書いてゐる事が感ぜられ、それ程書いてなくても、その場、その人が此方の頭に浮んで来る。絵でいへば立体感とかトーンが出るのである。
此事は法隆寺の壁画に就いても云へる。脇侍の腕は線だけで完全に丸味を出してゐる。」
法隆寺壁画の脇侍の腕の線が語られると、わたしは感嘆した。自分のかねての思いをくっきりと代弁して頂いている。
「若い人に原稿を見せられ、感ずる不満は矢張りこの立体感とかトーンの出方の足りない点だ。」「余計なものは消す方が、却つて浮び出して来る。」「兎に角はつきり頭に浮べて書く事は大切だ。」
直哉に傾倒された瀧井孝作先生もわたしにこういうことを話して下さった。
この直哉、あの直哉自らが「わたしが文章に不器用と」と話されている。そして「原稿の間は何時までも直したくなる」と。推敲こそが文才、才能なのだとわたしは思い沁みている。

☆ 「作品の中に思想を盛らうといふ、さういふ成心が藝術の神様に嫌はれるのだ」「藝術が思想の手段に成りさがるのがいけない」「知らず知らずの内に溶けてゐる思想はいいが、生ではいけない。生な思想は成心といつていい。」
鞭打たれる心地がする。そして何よりも深いのは、「作品を手段として、作者が自分で働く気になるのは本統でない」と。功名心に駆られて気負った作者はついこれをやる。「作者は謙虚な気持で一生懸命いに書く。そして働くのはその出来た作品が、勝手に働いてくれるといふ方がいい。」これこそが創作の真実だ。作者が働くのではない、謙虚に一心に書いた、書かれた作自身が存分に働いてくれるのだ。「その方が遥かによき働きをしてくれる」とは真実だ、こういう実感に充ち満ちたときこそ作品が生まれ作品が魅力を放つ。作者の苦心惨憺はその瞬間に酬われ、作者の幸福はその瞬間に光る。
2010 12・14 111

* 『江馬細香』の師であり思慕の人である頼山陽が没した。父、江馬蘭齋も卆寿に近くして逝去。胸に迫った。

* 網野善彦も惜しみて余りある歴史家であったが、網野が高い評価を与えていた同学の横井清の『花橘をうゑてこそ』という「京・隠喩息づく都」と副題のあるエッセイ集も読み始めている。本当はこの人の場合、中世研究論文が読みたいのだが。この人は少年時代北野のちかくに暮らしたという。わたしと同年である。折りが有れば論文と出逢いたい。
2010 12ー14 111

* 昨日の直哉読みの中で、もう一つ、とても胸に落ち着いたことがあった。物忘れのひどさを書いて「耄碌」とさえ自嘲の最後に、ことに親しい梅原龍三郎に、そのような、「忘れて了う」んだというあれこれを話すと、この画家がこう言だ、それに感嘆した。
これが「老人力」というものだ、これでいいのだ。これこそが老いの能力というものだと首肯した。龍三郎の曰く、
「それはいいなあ、忘れてゐないのに忘れたと云ふのはいやなものだが、本統に忘れて了ふのは、そりやあ、いいなあ」

* バグワンは『一休道歌』下巻を読んでいるが、俄然、手きびしく暫し手が届かなくて閉口するが。胸に落ちると深く頷く。

☆  「子供は誕生するとき、これは死だと考える。当然だ。彼はすばらしく生きていたからだ。」「どの子供も、生涯を通じて、母の子宮に戻りたいと思っている。私たちは子宮の代用品を創りだす。」「毎夜の眠りのひとつひとつが子宮の再現だ。それは小さな死だ。朝、起きるのがとてもつらいのはそのためだ。」「誕生は死を生みだす。眠りのひとつひとつが小さな死だ。」「死は虚偽だ、誕生と同じように虚偽だ。おまえは誕生を超えている、死を超えている。おまえには形がない。それは体験して知るしかない。」「なにごともみな偽りの世なりけりしぬるといふもまことならねば」「もし誕生と死の観念を落とすことができたら、すべてのものが落とせる。」
2010 12・15 111

* 小谷野敦氏の新刊『母子寮前』、贈られたその日から妻が読み始めて、やっとわたしへ回ってきた。氏が持論の私小説のけれん味ない真摯な実践で、引き込まれる。
2010 12・15 111

* 巌谷大四さんに戴いていた「懐かしの文士たち」の巻頭、芥川龍之介の一編に胸打たれた。泉鏡花の鏡花ならではの弔辞、菊池寛のいかにも寛という弔辞で泣かされた。
2010 12・16 111

* 寒い日だった。心身とも縮んでいた。心も寒いとき、今も折しも機械のそばに『浦島伝説の研究』があり、煙草代わりというよりも、半ば逃げ込むようにこの本を開いて心を癒している。「浦島子」であれ「浦島太郎」むであれこの噺は、亀でも竜宮でも蓬莱山でも玉手箱でも、ずいぶんいろいろのことを思わせる。
「玉手箱をあける」という浦島の行為はこの伝承ないしお伽噺の行き着くクライマックスであるが、これの受け取りよう一つでこの話が悲しい噺に落ち着いてしまう印象は避けられなかった。竜宮の姫の、立ち去ってゆく男への悪意かのようにすら取れた時もあった。だが、そうなのであろうか。
愛、ないしは根源のいたわりではなかったろうか。故郷故人を悉く喪失した浦島は、それでも若くて力ある男のママさながら異郷に生き延びたかったろうか、と、そんなことも想うのである。
竜宮の女は、愛といたわりとで浦島を「死なせて」やったのではないか。現に幾つもの伝承やお伽噺では浦島はそのまま死に、葬られて神と祀られている例がある。神になるならぬはどうでもいいが、老いて死ねたのは浦島のためには極上の救いではなかったか。
* 浦島子ないし浦島太郎の境涯を、夥しい伝承や文献とともにたどっていると、言語道断な小沢一郎の我が侭勝手な横紙破りも、仮免総理が率いる民主党のなさけない有様も、あるいは海老蔵事件のなさけないカケヒキも、通学バスへ刃物をもって乱入した「死にたい男」の無道なニユースも、借りた金が返せない主婦達を売春の巷に誘い込む業者のあくどさも、そうした事件の背景になっている日本の政治のダメさ加減も、みな、いっときでも忘れていられる。是もまた情け無いことだ。

* さ、こういう日は、はやく寝てしまおうッと。それも出来ぬ人は本当に気の毒だ、が、幸い出来るのならそうしよう。玉手箱を開けて結着がつくぐらいなら、わたしは玉手箱をあけるのを悲劇だと、今は少しも思わない。
2010 12・17 111

* 夜中に目が冴えてしまった。すると、すぐ手の届く直哉全集へ。
断片に近いようなエッセイヤコメントの類に、志賀直哉ならではのエスプリが豊かに汲み取れ、嬉しくなる。戦後のいくつかの発言にも。こういう発言をたとえば谷崎はほとんどしていない。していないところに谷崎潤一郎がいて、普通に呼吸するようにこういう読ませて聴かせる発言も平気でしているのが、志賀直哉。
2010 12・18 111

* 電車でも「リオン」でも、つい読みたくなるのが、持って出た『中世の民衆と藝能』で。前半に序章、中世「民衆」への視点と中世「被差別民」への視点と、十九編の「職能」論攷、後半に筆者達の座談会、「中世被差別民史への視点」という構成、曾てはこういう本がどんなに欲しくても、読みたくても、手に入らず読めなかった。この本は一九八七年一月の三刷本を買っておいて、取って置きに書架に入れていたのを、十数年もして読もうというのだ、つまり次々手にしてきた類書を先に先に読んでいて、最新が網野善彦の『中世の非人と遊女』だった。
十数年の内にこの方面の研究はめざましく進んでいる。今日読み始めた十数年前のこの本は文字通り魁の一冊であるが、それより以前に手にした、法政から出た『河原巻物』なども熟読して多くを学んだ。創作の色々に役だった。もう「役に立てる」という意識は強くないけれど、必然役に立つのだろうと感謝しながら頁を繰っている。早く読みたいという気が沸いている。
ちなみに取り上げられている各論の題目は、「清目」「田楽一」「田楽二」「山水河原者」「千秋万歳」「犬神人」「傀儡」「皮づくり」「猿楽」「葬送」「松囃子」「犬狩」「声聞師」「曲舞」「壁塗」「狩人」「節季候」「陰陽師」「癩者」。錚々たる当時気鋭中堅の歴史学研究者達が筆を振るい熱弁で語っている。恐らく、あっという間に読んでしまうだろう。

* 「女文化」という新しい言葉を用いて「十二世紀」をわたしが語ったのは、一九七三年の、書き下ろし美術論でだった。「裏文化」「裏社会」の存在に目を向けない歴史記述の大きな片手落ちを衝いたのは、六九年に受賞してまもなく、「消えたかタケル」を書いた頃だ。少年達のために『日本史との出会い』を書き、中世の表裏を、裏を、語って、「こういう歴史をこどものころに習うべきであった」と大勢の知識人からも云われたのが、もう幾昔も前になる。ようやくそんな頃から、歴史家たちも本格の民衆史研究へ立ち向かい、歴史学の表情がすっかり変わってきた。「タブー」をむしろ力強く解禁していったのも、現代の民衆だった。上に云う本の編集主体は、「京都部落史研究所」である。そうあるべき時機が来ていた。
この方面への私の関心は、京生まれ京育ち、少年の昔からほとんど揺るがなかった。ことに、この本が帯の背に大きく書いている「今、なぜ芸能か」は、戦後少年の私には目を逸らすことのできない命題の一つだった。長篇『風の奏で』(文藝春秋)『初恋 雲居寺跡』(講談社)などが明かしている。そして。
同じ関心は少しも失せていない。

* 志賀直哉の「シンガポール陥落」は昭和十七年二月十七日にラジオ放送され、よく三月の「文藝」巻頭に同題の谷崎潤一郎の文と並んで掲げられた。編集後記には「両氏の心からの喜びの言葉を得た」とあるが、全集に初めて取り上げられたのは昭和三十一年十月。ぎりぎりいっぱいの一文、是が時代との微妙な交点であった。内村鑑三の精神の弟子である直哉は戦争は大嫌い。終戦に導いた最後の総理『鈴木貫太郎』への一文にも、「終戦」を期待して日々に情報を求めた直哉の日常が露骨なまで現れている。戦争真っ最中の『『嵐ヶ丘」に就いて』(十七年二月 東京日々新聞)、幕末の川路聖を称讃した『わが欲する書』(十九年八月 日本読書新聞)、確信を語って縦横の観ある『美術雑談』(二十年三月 美術)などに、人物志賀直哉の内面世界の健康さと落ち着きと大きさが紛れもない。いささかも時代の乱暴に直面して血迷っていない。見苦しかった文化人達は多かったのに。
特に敗戦直後の二十年十二月十六日に朝日新聞に書かれた『特攻隊再教育』そして翌三月の「改造」に発表された『鈴木貫太郎』は、議論も有ろうけれど、立派な達識と平生心とで揺らぎなく、敬服した。わたしは殊に政府の無思慮を攻めた前者での、青年と未来日本への愛と当然の憂慮とに打たれた。直哉の憂慮は、のちにわたしも共有しつつ、不幸にも時勢を大きく歪ませた真因の一つを衝いている。優秀であったろうあまりに大勢の若い人たちを無謀極まる死なせ方をした。敗戦直後に攻めても打つべき手を打たなかったのは明白に日本政府の咎であった。

* 松本清張の『小説日本藝譚』で例えば世阿弥を読んでいても、遅くも平安末から鎌倉時代を通じての呪師と猿楽者との分け持ってきた伝統やその「きよめ」という藝の性質や、それにともなう差別と賎視の差異や実際などには、ほとんど知識も観察も及んでいない。ただもう藝術と将軍権力いう視点からだけ世阿弥とその徒との運命が語られるに止まっている。歴史に踏み込むことの他の作家より本格であった清張にして、そうであり、味わいは薄い。

* 『中世の民衆と芸能』後半の座談会、頗る面白い。
2010 12・18 111

* 『江馬細香』では、慈母が、恋しい師の山陽が、そして慈父蘭齋が、亡くなった。わたしまで寂しくなった。ことに蘭医蘭齋という人の生涯に堪らないほど魅される。人物にも業績にも、父としても、祖父としても。
「……其の寝(ゐ)ぬるや、呼吸(いき)ありて死し、其の死するや、呼吸なくして寝(ゐ)ぬ……」
寝るのは息をして死んでいるようなもの、死ぬのは息をせずに寝ているのとおなじだ、死んで行く父を「案ずるな」と蘭齋は娘の多保(細香)に終焉まぢかく温容のまま告げている。
これは誰しも一度は口にしたり耳にしたりしたかも知れぬほど「分かっている」つもりだが、なかなか真実の実感でも覚悟でもない。蘭齋ほどの人が、此の著者ほどの筆遣いで書き表し言い表してくれると、目から鱗の落ちたほど底知れぬ安堵と納得とをもたらしてくれる。

☆ 一休道歌
ひとり来てひとり帰るも迷なり
きたらず去らぬ道をおしへん
世の中はくふてくそしてねて起きて
さてそのあとは死ぬるばかりぞ
死にはせぬどこへも行かぬこゝに居る
たづねはするななにもいはぬぞ
なにごともみな偽の世なりけり
しぬるといふもまことならねば
道はたゞせけん世外のことゝもに
慈悲真実の人にたづねよ

* たった五首を引いて書き写して。だがこの文字の塊が、「須弥山」のように振り仰がれ、峰は目がくらんで見えない。冗談じゃないぜ、コレ。
2010 12・22 111

* さてさて、バグワンに聴いて、帰依したいと願う表白に、また、出逢った。『一休道歌』下巻に。
☆ 道はただせけん世外のことゝもに
じひしんじつの人にたづねよ
「だが、どうやってブッダを見つけだす? 二つの徴がある。一休は、真(まこと)と慈悲だと言う。彼の慈愛がおまえにその手がかりを与えるーー。彼の愛、彼のあふれんばかりの愛、まったく何の理由もないのに。」
「いいかね、真は深刻さを意味するのではない。それは深い信頼を言う。それは真正さを謂う。が、その人が真正で、信頼にたるか否かをどうやって判断するね? 憶えておかねばならないことはひとつ、真実は逆説的であるということだけだ。不真実のみが首尾一貫する。もし、ひじょうに首尾一貫した人を見つけたら、彼を避けなさい。なぜなら、それは彼がたんに哲学的に考えているにすぎないことを意味するからだ。彼はまだ何も体験していない。彼は真の人ではない。
真の人は、状況がいかにあれ、端的に言う人のことだーー。そのために自分が矛盾しようが、つじつまが合おうが合うまいが、彼に
とっては何の違いもない。
真実に対する禅の定義を憶えておきなさい。真実とは、その矛盾もまた真実であるということだ。ゆえに、真の人は逆説的であらざるをえない。そして、おまえたちが取り逃がすのはそこだ。逆説(パラドクス)に出くわすと、おまえはこう考える。「こいつは支離滅裂な男だ。彼が真実だなんてとんでもない」
おまえは、真実は首尾一貫したものでなければならないと考えている。それがブツダたちを見出すことを妨げている。そして、おまえは論理家、哲学者、思索家の罠に陥る。」
「ブッダは基本的に、根本的に、暗黙のうちにパラドクスだ。なぜなら、彼は真実を全一(トータル)に見るからだ。そして、(全一性=トータリティ)は逆説的だ。全一性は両方だ、夜と昼、愛と瞑想。全一性は両方だ、これとそれ、目に見えるもの、不可視なるものだ。全一性は誕生と死の両方であり、同時にそのどちらでもない。全一性とは、ものごと全体があまりに入り組んでいるので、それに関して首尾一貫した所説を述べることはできないという意味だ。おまえは自分に矛盾したことを言いつづけなければならない。
もし矛盾した人を見つけることができたら、おまえは了解 (りょうげ)した誰かの近くにいるのかもしれない。真実とは、その人の矛盾もまた真実ということだ。」

「パラドクスを通して真を探すがいい。彼(ブッダ)は誠実なあまり、矛盾することをも辞さない。彼は誠実なあまり、狂人と呼ばれることも辞さない。彼は誠実なあまり、おまえを論理によって説得しようとはしない。彼はセールスマンではない。彼はおまえを説得する気はない。彼は状況がいかにあれ、それを端的に語るーー。おまえが納得するかどうかは、おまえしだいだ。彼はおまえに何かを無理
強いする気は少しもない。彼は強要ではなく、手を貸す用意ができている。」

「そして、慈悲とは何か? それは哀れみではない。ブッダたちはおまえを哀れみはしない。哀れみはエゴから生まれるものだからだ。彼らは慈悲深い、彼らは慈愛に満ちているーー。その違いは大きい。」

「慈愛に満ちた人は結果のほうを見る。彼がどんな方便を用いるかは重要でない。彼はどんな方便でも使う用意があるーー。客観的な結果を見るがいい。慈愛に満ちた人は感傷的ではない、感情的ではない。」

「二種類の愛がある。ひとつは感傷的で感情的なもの。それは役に立たない。もうひとつは客観的な愛だ。それは助けになる。」

「慈悲の人に出会ったら、憶えておくがいい。彼のねらいはすべて、いかにおまえを目覚めさせるかにある。」「感傷的な者たちと、その感傷的なたわごとはいっさい役に立たない。」
「だから、いつであれ真(まこと)の人を、逆説の、真実の人、その全関心が真実に置かれている人を見つけることができたら……、たとえそのために矛盾しているように見えたとしても、彼はたじろがない。彼はたんにつじつまを合わせるためにその真実を変えたりしない。彼の全関心は人々を助けて、注意深く、そして醒めさせることだ。……ときに無慈悲な手法が必要とされても、彼にはそれを使う用意がある。それが「じひしんじつ」の人だ。
2010 12・23 111

* 今朝から、新たなスキャンをはじめているが、これは頁をはぐるごとに機械を操作しなければならず、かなり煩瑣にこまぎれの作業で忍耐を要するが、こまぎれのその合間にも、『浦島伝説の研究』のおもしろさに惹かれて、朱筆で本を汚し続けている。
浦島ともなると本当に大昔から、浦島子から浦島太郎への変遷の中で、莫大な引用関連の文献が生産されていて、林晃平さんの探索はじつに断簡零墨もみのがさず、それらの系譜と類同や異質を精査されて行く。むろん詩句や詞章や絵図へのコメントまで具体的に挙げていられる。それを読んで行くのが興味深く、亀も女も海宮も玉函も七代孫も松も死に方も死後も、それらに関わってきた人も文献も和歌も能や芝居もはてしなく面白い問題を呈している。とほうもない癒しを受ける。
林氏の学風の克明にして明快なのも大いに有り難い。
わたしは、いまのところ百パーセント長閑に楽しいという生活ではない。だが、だからこそこういう楽しみに接するのが不可欠なのだ。その楽しみ楽しさが、実にいくらでも存在するのだから、幸せである。
昨日と一昨日とは、孫やす香の死んで行く二ヶ月を綿々と追探検して泣かされっぱなしであったが、浦島太郎の世界は、ふしぎな薬効でわたしを包んでくれる。
そして、スキャン、またスキャンで新しいまた仕事一つを始めている。
2010 12・25 111

* もう本の処分は考慮外とする。イザとなれば値打ちものは図書館に寄附出来るだろう、何しろ「紙の本」はもう時代後れになってきている。大学ですら、本が多いと迷惑して処分に困っている。希望としては独立の研究者・学徒諸君に差し上げたい。多方面の専門的な事典・辞典と、個人全集と、茶道もの、藝能もの、日本史や美術史の特殊な文献類、地誌等々。文壇や各界の型から戴いている小説・詩集・研究書・佳い限定本などもある。とにかく書庫に溢れてしまっている。こういうのが無いかと若い人から聞いてきて下さると有り難い。むろん、金銭沙汰はまったく考えていない。
2010 12・27 111

* 短い物だから一編全部頂戴したいが、何故此処への意味がボヤけるかなと。やはりわたしの引用で摘録し、翫味したいと思ったが、途中割愛しにくかった。胸にぐっと来たところ、を太字にしてみようか。志賀先生ごめんなさい。

☆ 志賀直哉『若い文学者へ「文学行動」の同人への談話』 昭和二十四年十一月  より

僕達が白樺をやつた経験から云ふと、文学の仕事も一人で孤立してやつてゐるよりも親しい仲間で一緒にやつた方が、何か自然に盛りあがつて来るものがあつて、それが一つの力になつてお互に競り合つて進歩するやうに思ふ。 (略)   然しこれも単に文学上だけの仲間といふのではそれ程効果はないかも知れない。白樺でも仕事(=文学)の話ばかりしてゐたわけではなく、絶えず行き来してよく遊んでゐた。白樺は一つの運動のやうになつたが、一人々々皆別で、旗印を持つた仲間ではなかつた。皆自分自身の満足の出来るやうな仕事をやらうとしてゐた。
時代々々で、色々旗印をかかげた(文学=)運動があつたが、足跡を残したものは少い。矢張り中では自然主義運動などいい方だつた。いい作品が余りなかつたのは、少し淋しいけれど。
最近でも旗印のやうなものをそれぞれかかげてゐるやうだが、中には随分俗な考へを平気でいつてゐるのがある。四等国文学になつて来た。作家などでも俗な考へを臆面なく云ふし、面倒臭いからか、それをやつつけるやうな人もない。
批評家は批評家で色々な色眼鏡を工夫して、何か云つてゐる。藝術品として、その美しさを見ようとしない、全体として、そのままで、その作品を鑑賞しようとしない。作品は批評家の方から出向いて、虚心に見るべきで、作品を自分の方へ持つて来て、手製の物差しで、寸法を計つて、かれこれ云ふのはつまらぬ事だ。さう云ふ物差しも、ときどきの流行で随分変つた。四十年近くそれを見てゐると、自信のない為に、さう云ふもの(=批評)に引ぱられて自分の仕事の上で迷つてゐる人(=創作者)を見ると、まことに気の毒な感じがする。引つぱられずにしつかりしてゐることだ。さう云ふものに対しては頑固にやつて行く事だ。(創作者は=)何所までも自分自身の問題で、ものの考へ方に柔軟性を失はぬやうに心掛けて、自分の要求をどこまでも追求すべきだ。批評家の考へ方に引ぱり廻はされるのは却つて非常な廻り道になる。
それから、自分が創作家か、文筆業者かを明瞭りさして置く必要がある。かうジャーナリズムが盛んになると、その点が曖昧になる。かう云ふものを何枚位書いてくれと云はれて、(ジャーナリズムに注文されて=)無理にひねり出して書くのは文筆業者の仕事だが、僕でも断りにくくて、時に書く事があるが、なるべくやりたくない。そんなものは自分の仕事にならない。しかも専門の文筆業者のやうに手取り早くは書けず、創作する場合と同じ位の労力が要るのだから馬鹿々々しい事だ。
バルザックが親父に文学を仕事にしたいと云つたら、文筆業者になるといふ意味か、マスターになるつもりかと訊かれ、勿論マスターになるつもりだと云つて許されたといふ話がある。また(日本の声楽界の草分け=)柳兼子さんが.、ぺッツォールド夫人に歌うたひになつては駄目だ、藝術家にならなければいけない、と云はれた事があるさうだ。これから創作家をやらうとする人はこの点を矢張り明瞭りわけて考へてゐなければいけない。初めから文筆業者になるつもりなら、そんな事を考へなくともよい。創作家になるとすればジャーナリズムから自分を守る必要がある。金は食つて行けさへすればいい程度に取り、喜びを自分の仕事の中に求めるやうにすべきだと思ふ。いやに御説教になつたが、さう考へてゐる方が間違ひはない。創作で成金になり、贅沢をして、それが人生の幸福だと考へるやうな人があれば、それは藝術とは最も遠い人といっていい。かういふ堅苦しい考へ方をしてゐては食へなくなるかと云ふと、必ずしもさうではない。金は沢山入らないかも知れないが、食ふ事位はどうにかなるものだと思ふ。創作家は自分の仕事を尊敬して大事にする事だ。さうすれば自分の生活もきちんとバランスがとれる。
近頃よくアドルムなどを飲んだりして、滅茶苦茶な生活をしてゐる者もある。外国でもその様な人もある様だが、本統の藝術家は健康を大切にする人が多いのではないか。
詩人と云ふものは感情的で、生活を破壊してゆく傾向がある。ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー等。然し散文家の場合はそれでは駄目だ。此の間も広津君と話したが、同じ文学でも散文家と詩人とでは気質的に随分違ふ。今度の戦争でも詩や歌をやつてゐる人はさういふ意味の気質で引き込まれた人が多かつた。ところが俳句の方はそれが少かつた。詩歌は熱情が原動力のやうな所があり、俳句の方はもつと、客観的な所があり、その点、散文に近いもののやうだ。同じ詩でも散文詩の連中は今度の戦争でも割に冷静だったのではないかと思ふ。
田中英光の「野狐」を読んだが、もつと散文精神を持つてゐれば、あれでも相当な作品になり得たと惜しい気がした。経験してゐる事の中で、自分がキリキリ舞ひをしてゐる。よくは知らないが、詩ならそれでもいいかも知れないが、小説ではそれでは駄目だ。
田中英光には戦争中横浜で一度会つた事があるが、大きな図体をしながら甘つたれた男の印象を受けた。矢張りさうであつたらしい。文学的才能はあつた人だと思ふ。

* 時代後れだと、直哉も、直哉の言葉に人生半ばから聴いてきたわたしも、いまの人達には嗤われるであろう。ところで、わたしが、直哉とちがうのは、「仲間」を知らなかった、持たなかったこか。
喰うことぐらいはどうにかなると見通したときから、わたしは金のための仕事はしなくなった。「湖の本」もむろん儲け仕事には程遠い。余儀ない終刊も、もう遠くはあるまいが、体力があり気力があり飢えないうちは、「寄贈」により傾いた文学活動となっても、「仕事」として続けるだろう。これもまあ、形見分けのようなもす。「元気じゃありませんね」と、心配させるけれども。

* 田中英光は太宰治の墓前で自死した作家。
直哉は自殺を否定しているのではない、むしろ壮齢になるにしたがい自殺を一つの人間力として肯定さえしている。しかし太宰の心中にも、英光の自殺にも嫌悪感をもっていた。志賀直哉は、太宰にも織田作之助にも、きつかった。直哉は不愉快に当って来られると、聞き流さず、反撃も辞さぬ人だった。太宰は川端康成にも志賀直哉にもくってかかった。ま、理のない見苦しい反撥だった、世間はよく見ていたと思う。
直哉の文学的な太宰批判の一つは、「とぼけたやうなポーズが嫌ひ」だった。「弱さの意識から、その弱さを隠さうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではない」と。もう一つは、「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」と。
この二つとも、わたしは太宰治のたしかにネガティヴな一面として、若い頃からイヤだった。直哉も同じ事を考えていたんだと納得できる。

* 自殺についても、直哉の思いを拾っておこう、わたしは自殺しかけたことも一度もないが、自殺を考えたことのない人など、あまりいそうにないと思っていて、この二字は頭の中にいつだって鎮座している。高校から大学へすすむころに、男子友人が二人自殺した。親族にも複数の自殺者がいた。
志賀直哉は『太宰治の死』で、こう書いている。
「自殺といふ事は私は昔は認めないことにしてゐたが、近年はそれを認め、他の動物とちがひ、人間にその能力のある事をありがたい事に思つてゐる。最近の「リーダーズ・ダイジェスト」でユーサネジア(慈悲死)といふ言葉を知つたが、自殺は時分で行ふユーサネジアだといふ意味で私は認めてゐる。」
直哉は芥川の自殺について「沓掛にて」という一文を書いていた。白樺で兄事した有島武郎は心中死した。直哉は「然し、心中といふ事には私は今も嫌悪を感ずる」と断言している。
わたしは、自殺にも心中にも、いくらか直哉と角度の違う所懐をもっていて、いずれにもかなり関心がある。

* ここで前文の、「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」という直哉の批評は、必ずしも太宰に限らず、また太宰のどの作にも一律にいえることでは全然ないことを認めておいて、逆に、一般論として志賀直哉の作物は「「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなもの」ではないのかと、人によれば悪口しかねない。
だが、何の依怙贔屓でもなく、わたしは、そんな悪口は云う人の方のおおかた「力不足」だと断言しておきたい。
直哉の作にはじめて触れてから六十年近いだろう。幾次にもわたって読み返してきた。ちょうど十年ほど前には、最新の岩波版全集を買い調え、すぐ全巻を読んでいる。その余韻の消えたということが無いのに、いま、もう二度目の全巻読みを進めて、創作は十巻あるうちの八巻めを連日楽しみ尽くして読み返している。
そして思うのは、直哉の作物は、片々たる短章ですら、実にきびきびと読み返して惹きこまれるのである。何故かを詳しく云うのはもう「志賀直哉論」になってしまうので控えるが、なるほど、直哉自身が言うように、小説であれ随筆であれ葉書一枚ほどの短文であれ、そんなジャンルの問題でなく、どの文章も直哉には「文学」という「仕事」の所産であり、違いがない。「暗夜行路」が魅力的なら、同じ質のよさで「楽屋見聞」でも「山鳩」でも「菊池寛の印象」でも「太宰治の死」でも「若い文学者へ」でも再読し三読しても読まされてしまう。
谷崎潤一郎も同じである。小説だけの潤一郎ではない。

* つまりのところ「二度読んで、二度目に興味の薄らぐやうなものは書かない方がいい」と直哉のいうのは、金科玉条であり、わたしが、真の読書は「再読から始まる」というのもそれだ。一度読んでおしまいにさせてしまうのでは、作にも作者にも力が無いのだ。
2010 12・28 111

* 『痴人の愛』を久々に読了、谷崎の剛力にやはり感嘆した。谷崎は、ナオミ、お遊さん、春琴、そして細雪のヒロインたちと、生涯に読者の印象に強烈な名前をやきつけた。直哉の時任謙作もしかり、藤村の青山半蔵もしかり、漱石の坊ちゃん、代助らしかり、主人公の名前で記憶されることは名作の強力な条件だ。
ナオミとジョウジのこの破天荒な夫婦生活、人間の把握と表現とは、これをこそ凄いというべし。ここまで書けるという執念の、剛力の証明。しかも追随を許さぬ「作品」が此処にある。谷崎潤一郎の「源氏物語体験」を谷崎論の巻頭に置いたわたしの読解はまちがっていなかった。
2010 12・28 111

* 骨董類の西棟から東棟への移転を終えた。繪がまだ幾らか西にある。

* ことのついでに、久しく西棟に逼塞させていたチェーホフ全集をこっちへ持ってきた。妻もわたしもひさしぶりに少し纏めてチェーホフが読みたくなっていた。妻は朝日子を産むころであったか、少しあとか、とにかく昔、昔に東邦医大の病室で読んでいた。わたしもチエーホフはたいがい読んでいる、戯曲も小説も、『サハリン紀行』も書簡集も。
それでもこの頃の直哉読みで、何度も直哉のチェーホフ好きに出逢っていて、懐かしく思っていた。直哉はロシアでは『アンナカレーニナ』をはじめトルストイの作とならべて、チェーホフを好んでいる。ことにチェーホフと名乗って以降の作を好いている。中央公論社で全集が出はじめた頃から、本も作も、珠玉のように愛しみ思って買いそろえていった、貧乏だったのに。

* 歳末をどんなめでたくはんなりした気分へ導いているか。はんなりと「京都」に触れて書きに書いたたくさんな文章を読み直すことでわたしは往年を「いま・ここ」に反芻して楽しんでいる。京都へ帰っても、いまではごく寂しい。江馬細香は、恋しい師の山陽に死なれて後に京洛の地に旅して、こう、うたっている。
履歯の春泥 歩歩 遅シ
天街の細雨 軽糸ヲ散ズ
~~
依依トシテ我を迎フ 東山ノ面
イハズ 衰年 旧知ヲ減ズト
云うまいとしても「衰年旧知を減ずと」つい思いつい口にしかねない、そういう京都よりは、壮年の筆を振るって欣然嬉々と書いていた昔の京都のよろしさで今をよほど癒すことが出来る。
2010 12・29 111

* 文庫本の松本清張『小説日本藝譚』は、「止利仏師」にはじまり、「運慶」「世阿弥」「雪舟」「千利休」「古田織部」「又兵衛」そしていま「小堀遠州」を読んでいる。もう数人のこっているが。この本は、私が若くて元気ならこの一冊の各編を材料にして大きな一冊の「松本清張論」を企画し書き下ろしただろう。清張はこれらの藝術家を利してかなり濃厚に自身の鬱塊も自負も批評もを書き込んでいる。意気込んで個人を語る風にして自身の存在を主張しまた不満を吐き出し、他を嗤っている。
清張は不遇の人であったと思う。はかりしれぬ憤懣と自愛と才能とをもてあますほど持っていたはずだ。それが、この『小説日本藝譚』に吐瀉されているようにわたしは読み進んでいる。小説としての作品は無い、暗く重く混濁して、もの悲しいほどだ。巧みに巧んでソツのないな作ばかりだ、が、読みながら作詞屋の鬱憤を浴びているように感じる。そして、もの悲しい。
2010 12・30 111

* 朝十時まで床にいて直哉全集の第八巻の後方を気儘に頁を繰って読んでいた。編纂方式で後方はやや雑纂にちかく、さほど順を気に掛けなくて佳い。書く方も気儘に思うままに書いたり話したりしていて、キクすべき滋味と示唆に富んでいる。
昭和二十三年九月前ごろの「大洞台にて」では、「僕は必ずしも私小説は好きでない。「私小説」でも、「人の心を打つものがなければ駄目だ。」直哉の場合「私小説」といっても、「あったことを、その儘、丹念に書くものでもないね」と。「若い人はいろいろ冒険をやって見る方がいい。幾ら飛躍したつもりでも、結局、その人のものなのだから、いろいろやって見る方が、作品にヴァラエティが出来ていいと思う。」
「創作と随筆のちがいは材料よりも書く時の『打込み方』つまり態度で変ると思う。」「通俗小説と純文学のちがいについても同じ事がいえると思う」と。
梅原龍三郎の繪に触れて話しながら、「リアリスティックではないが、リアリティーがある。それは藝術には大事な事だ」とは、殊に大事だと思う。ただこの「リアリティー」という一語の理解に問題が起きる。東工大で、「リアリティ」を「意訳」させてみたら、十字で分けた四つの座標に、真っ向相反するそれぞれ百もの異なった理解が提出された。予期していたが驚いた。決まり文句は分かり切ったように使われるけれど、使っている人の胸の内はあまりに異なっているのが普通らしい。「批評」の難しさは此処にある。決まり文句で批評を事とすたしは警戒する。とまあ…、こんなに寛いで朝起きた大晦日は、過去に覚えがない。
2010 12・31 111

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