* 和漢の古典研究の優れた専門誌「汲古」に、根を詰めた研究を連載の浦野都志子さんの新年の挨拶も在った。「黒川春村」という江戸時代の研究家の業績を丹念に精緻に再検討されている。元、東大綜合図書館の司書をされ,「湖の本」にも親しんでもらってきた。なにごとでもそうだが、「研究」と「評論」との烈しいほどの差異を教えられる。「汲古」は一見小冊子だがモーレツな顔ぶれの「研究委員会」の討議を経て、質の高い研究論文が厳選されていて、凄いほど。なぜか私は、汲古書院から毎冊頂戴し続けているが、一冊に七八篇、浦野さん「ご批正」を請うてられるが、なかなか、らくらく読みこなせる物で無い。近現代の「文学研究」誌にかかる水準のせめて一冊でもあってしかるべきだが、おおかた、研究ならぬ、読者水準からの作文的批評どまりが多いのである。残念。
2022 1/1
* ふたり、雑煮を、満ち足りて祝う。美味い。
落ち葉にあふれたテラスに小鳥が蜜柑を食いに降りる。窓越しに親愛に堪えかねて「マ・ア」がおんなじ恰好で眺める。
戴いた「白鶴錦」に、ほろ酔うている。弱視、新聞はマッタク読めなく、手にも取らない。テレビは滅多に心満たしては呉れない。昨日の戴いた年賀状が読み切れてない。それどころか歳末に戴いていた「湖の本 155」へのたくさんなお手紙もフウ処分はまだ読めていない。失礼、ご免あれ。
帰すところ、愛読書をまたまた愛読のみ。
源氏物語「手習」巻がしみじみもののあはれに静まり、生き憩いをとりもどしている浮舟の風情が佳い。
『失楽園』では、アダムとイヴが樂畹を追われ、「人間」苦渋と苦闘と乱脈の「歴史」がはじまる。
『マリー・アントアネット』は、厳重監視下の絶対孤独に耐えて身もだえしつつ、刻々逼る断頭台の真っ黒い影と闘っている。
王后アントアネットを、結果として断頭台の血しぶきに打ち斃す「フランス革命」への道筋を用意し民衆を導いたたに等しいジャン・ジャック・ルソーの大作自伝『告白』はまだまだ青年期のロマンチックなあこがれと沸騰の自意識叙述が満足げに展開している。稀代にとも奇態とも大きな思想家へ起ちあがってゆく自己満足多大の述懐自伝は、おもしろくないかと問われれば大いにおもしろいと答えねばならぬ。
『アベラールとエロイーズ』という、愛に結ばれてある基督教篤信の師弟の、往復とはいえ大方は男アベラールの、精細を極めて進行の日々を細微なまで礼式化し指導し続ける書簡が、重苦しい。基督教の根底にある「イヴ」原始の堕罪以降の「女性」観の強固な傾きに関心を寄せている私には多々学べるアベラールの「指導」ではある、が、おもしろく読める読み物では決して無い。
大部の『法華経』は、ただただ読み通すこと、読み返すこと、読みの指導にただ学ぶことを通して宏大の信仰世界へ身心をを投じる素直さでしか、酬われまいと覚悟している。孰れは『浄土三部経』の再読三讀と、向き合わせ、『失楽園』や『創世記』等々の吟味とも打ち重ねたい。
『カラマゾフの兄弟』そして『イルスの竪琴』は向きは大いに異なっても文学としての根底の確かさゆえに格別におもしろく読み進むうれしさは異様なまで深い。
以上は、今しも、毎日、寝床で愛読し続けている。
* 二階では、もっぱら「創作」と関連の記録や年表や歴史書や詩歌集を読みあさりつつ、機械クンに恭しく付き合って貰っている。
我が家の現状、いたるところに繪や写真が貼りめぐらしてあり、人様が観られれば「ウエッ」と唸られる。しかし仕方が無いので多めに観て欲しい。我が家は概して和風の造り、したがって戸障子・襖の殆どが「紙」です。それをめがけて「マ・ア」兄弟の徹頭徹尾の攻撃、「無残」とは文字通りで。
で、仕方なく、各種美術や大相撲カレンダーの用済み写真や、「沢口靖子」の大小顔写真や、京都市街の大地図などを、なに新釈のいとまも無しに糊ややピンやテープで貼りに貼り回してある。「こういう家なんだ」ともうとうからあきらめて満足している。瀟洒な紙障子が子供の頃からすきだったけれど、いっさいを諦めている。子供達の元気な方が心温かい。
2022 1/2
* 午后、久しぶりに 岸惠子 佐久間良子 吉永小百合 古手川祐子競演の、谷崎松子夫人ことば指導の 映画『細雪』の もののあはれ を堪能・感嘆した。ただ豪華な画面作りなのでは亡い。昭和十三、四年、もう日本の国は間近に迫る太平洋戦争へ、敗戦へと大きな地滑りを予感していた、その時世の崩れゆく家と人と美しさとの避けがたかった「あはれ」に打たれて泣けてしまうのだ。
私は此の映画の制作中から撮影の現場にも立ち会い、俳優、女優そして撮影家たちとも話し合う機会を幾度も持てたし、新潮社からの華麗な写真集に、エッセイ、解説等の原稿も頼まれて書きのこしている。松子夫人もお元気な頃であった。
そして今なお新ためて谷崎先生、ご生涯一の御作は『細雪』と申したい。
『細雪』は私の、敗戦後新制の中学高校のおりに爆発的に名作の誉れを浴びた。かつがつの小遣いでやっと一冊本を手にし、当時 誰よりも大事に、いまでも遠く離れたまま大事に無事健康を祈っている梶川道子と、分け合うようにして読みふけったのだった。後年に、私が谷崎潤一郎論で小説よりもさきに認められ、松子奥さんにお声もかけられ、お亡くなりになるまで家族みなを可愛がっていただけた、その深くて大きな「根」 それが新聞連載で真っ先に驚愕した『少将滋幹の母』であり、さらに胸打たれた『細雪』との出会いであり、岩波文庫の『蘆刈』『春琴抄』であり、後年上京後の『夢の浮橋』であり、それらの自信に満ちた論攷であった。浩瀚な『秦恒平選集』全三三巻のうち、私は谷崎論攷のために第二十巻 第二十一巻を宛てている。その基盤を得たのが懐かしい『細雪』だったと言い切れる。
はしなくも映画をまた観かえって私は思わず「もののあはれ」という古典的な一句に心寄せたのを、それだ、と、懐かしくいま肯っている。
2022 1/9
* 子供の頃、「明治」は遠いむかしに属してみえた、蔚然とした秦の祖父鶴吉は明治二年に生まれていた。そしていま、私の生まれた「昭和」を少年らは遠いむかしに感じまた知識しているだろう。
わたくしは、幼少来「大正」よりはるかに「明治」に関心していた。本を読むなど「極道」と云う父より、口はきかないがたいへんな蔵書家であったその恩恵を、子供心に痛感していたのだ、そして「やそろく」」の翁と成っている今にしてなおである。「明治」に向かう関心はなおなお今もなお深まっていて、それは祖父の蔵書から生まれる。
2022 1/15
* 予想の通りに、夜前のテレビは、フェルゼン伯爵との苦心惨憺秘密を防いだ熱愛の恋文紹介が主で。途中で、寝に立った。
ツワイクの『マリー・アントアネット』はまことに肌寒くもみごとに読ませてくれる。この、皇太子妃から王后へ、独りの恋人へ、繰り返された脱走の失敗、夫帝のギロチン死、皇子に依る窮地、苛烈な孤独と被告席へ、そして。
フランス革命には関心を寄せずにおれない世界史的爆発と捻転がある。ツワイクには、この革命のからくりを好きに回していた『フーシェ』を書いた労作も在り、もうナポレオンも差し迫って立ち現れている。イギリスの革命もアメリカの建国も興味深いけれど、フランス革命の事実上ヒロインの「生きもの」としての興味深さには、樂園を逐われたイヴなみに、心惹かれる。
* いま一つ,心惹かれて読み進んでいるのが、外にも幾つもあるけれど、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、この大の大長編で「三日間」を書いている筆致と筆力と対話の面白さ、確かさ、奔放さ、緻密さにのけぞるほど感嘆している。生き生きした簡単がまだ自身の胸に沸騰しうるのを喜ばずにおれない。
2022 1/21
* 夕食の僅かなワインに酔い、機械の前へ来て、寝入っていた。ソファへ腰を落とし、手近の小さな漢詩選を読んでいた。今今に謂う「詩」は私にはおおかた味わいにくいのに漢詩には時に胸打たれる。
道徳は天訓を承け 盬梅は眞宰に寄す
羞づ監撫の術無きを 安んぞ能く四海に臨まん 大友皇子
天智天皇の悲運の皇子、弘文天皇として叔父天武天皇に巻頭へ逐われたが、天子の「述懐」と謂うに足る。当節の政治家に噛んで含めてやりたい。
2022 1/23
* 岩波文庫の新版、校訂者のお一人今西祐一郎さんから全巻頂戴していた『源氏物語』の、今夕、『夢の浮橋』を恙無く渡り終えた。今回の読みは、新版の精到隈無き註を楽しみ読むことにも心寄せて、読み急ぐことは一切せず、しんみりしんみりと読みまた読んできた。はじめて与謝野昭子の口語訳本に手も目も触れ始めた敗戦後新制中学一年のころ、ついで高校二年生頃から手にした岩波文庫原本、これが旧本ら新本に変わってじつに読みやすくなり、そして此の、今西さんらが校訂校注の『最新版岩波源氏物語』を今日また観終えて、ま、「やそろく翁」少なくも十五度は此の五十四帖をとぎれなく通読しつづけてきた。それほど興趣に尽きない『源氏物語』なのであって、私の「読み、書き、読書の日々、真の中核に『源氏物語』があった。漱石、藤村、潤一郎も、トルストイ、ゲーテ、バルザック、ロレンスなども、その外郭を成したのだった。
そし、いまも、併行し読み継いでいるのが、何度も言う、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 ミルトン『失楽園』 ツワイク『マリー・アントアネット』 『アベラールとエロイーズ』 ルソー『告白』 『法華経』 マルクス・アウレーリウスの『自省録』 そしてパトリシア・マキリップ『イルスの竪琴』で、さらにまた漢文の長尺『史記列伝』もゆっくり読み継いでいる。みなみな、気をいれて愛読している。読書が心底楽しめるとは、なんと幸せなことか。
2022 1/25
* マリー・アントアネットが、皇妃として、屈辱の最期の着替えにも耐え、毅然としギロチンへ向かおうとしている。凜然と。読むのも辛いが、敬意も覚える。凄いとは斯うか、とも。そして、私は別の皇妃とも向き合っているのです、それは深刻に。
2022 1/26
* 八時。もう寝みたい。しかし枕辺の読書では、『マリー・アントワネット』が断首臺へ歩を運び行く。『失楽園』ではアダムとイヴがエデンを逐い放たれる。
* それでも私は、読み上げた他の一冊の代わりに、性懲りも無くまたしても、国民公会の裁判長席でかの王后に死刑判決を言い渡した『ジョセフ・フーシェ』ツワイク著の伝記を引っ張り出してきた。もう一度、『マリー・アントアネット』のさきに読んでおいたのである、なのに、また。私も、しつこい。
2022 1/28
* 体、はなはだ低調。致しようもなし。それでも、書き継いでいる長い作のはじめ二章分を気を入れて読み返し、九時すぎ。大きな画面の大きめの字が霞んでいる。それでも、床に就けば何冊もの本を読み継ぐに決まっている。胸の内に白い煙が揺れているよう。
2022 1/29
* 前にも抄録させてもらったが。
△ ツバイクの『マリー・アントワネット』は大昔に読んだきりです。面白く読みましたが、最後が辛かったので読み返してはいません。いつか再読しなくては……。メリー・スチュアートもそうですが、エリザベス一世、二世からダイアナ妃、わが国含め歴史上も現在も、皇妃が幸福であったためしがないというのが私の実感です。
日本ではマリー・アントワネットはあくまでちょっとおバカなお姫さまという扱いで、革命が起きたのは彼女のせいにしたいのかもしれません。民衆蜂起の歴史の必然は、たとえ異国の話でも封じたい、そんな意図を感じるのは考えすぎとしても。
フランスでのマリー・アントワネットは、政治的視座に欠けてもたしかな美的センスの持ち主として、その時代を代表するファッションアイコンであり、今も根強い人気があります。民衆に処刑されたものの、時代が変わればアイドルという皮肉。
その一例として、マリー・アントワネットという銘の有名な紅茶があります。ベルサイユ宮殿で育てたバラとリンゴの香りが素晴らしく、ピンクのパッケージもおしゃれでフランス土産として重宝します。パリに、マリー・アントワネットが大好きだったケーキを再現して食べさせてくれる店もあります。ピンク色のチョコレートコーティングされた美味しそうなお菓子でいつか試してみたいものですが、マリー・アントワネットがそれを見たら、庶民の商魂にびっくりするでしょう。民は度し難いものだと。
* 海外へ出ていない私には、こういう視野や指摘は羨ましくも、面白くもある。
『マリー・アントアネット』 今しも歩一歩と、立派なほど人として女として母として毅然・凜然と 断頭台へ歩を運ぶ王后を見送って、なかなか読み進めない、まるで一節、一行ずつのように 実は二度目を読んでいる。そして、この辛いほどのわが読書体験、いまいまの私自身の仕事と、異様にも遠くかけ離れていない。
2022 2/1
* 昨夜寝入る前に、ルイ十六世の王后マリー・アントアネットがパリ人環視の中で断頭台におさえこまれ、一瞬に血にまみれた首の落ちたのを読み取った。なんと「野蛮な文明」か。『モンテクリスト伯』でも、同じ斬首が公開の中で愉快げに「見物」の窓まで出来ていたのを、さすがに深いに何度も読んできたが。
内匠頭は庭先とはいえ、しつらえた場で、辞世の歌も書き、家来にも言葉をかけて、自ら切腹の瞬時に、練達介錯の剣が皮一枚のこして首打っていた。謂いようではあるが「文化」が感じられた。あの平安時代は、末期の保元平治の乱に到るまで斬首の刑は三百年余絶えて行われてなかった。武士の世になれば、死はむしろ儀式とさえ化している。平家物語には刑死の血の色はほぼ見られない。
東京裁判での死刑は、斬首でなく絞首刑であった。戦前、戦中には銃殺があった。戦中であったが、軍用の秘密裏に「まるた」と称し捕虜など生きながらの体を用いた細菌戦などのための実験が密かに為されていたのは、ナチでも日本でも、おそらく文明各国では公然の秘密に等しかったと想われる。そういう秘密が、戦後にも関係者の口で語られていた。一医学編集者の耳で私は、医学部教授の口から、事実「茶飲み話」のように聞いている。
コロナが世界的に蔓延のとき、どの国からとなく「第三次世界大戦」といわれていることに、私は遺憾にも、驚かなかった。「文明」の陰部が世界を駈けて行くのだ。
2022 2/2
* 『源氏物語』そして『アベラールとエロイーズ』とを卒讀した。『マリー・アントアネット』は今晩にも読み終える。
日本の古典は、源氏から平家物語という筋はあるが、思い切って、巻之四十八まである和本『参考源平盛衰記』をいっそ通読しようときめている。参考書として諸方読み散らしてきたが通して読みたくなった。古色の機の本箱に入って、これは京都古門前で踊りの「おッ師匠はん」、むかしどおりに謂えば林貞子の骨董商のお父さんから、大学の頃、ある日、唐突に叔母を介して「コヘちゃんに」と貰ったもの。小説『花方』に、互いに高校生だったヒロイン颫由子のワケありげな佳い「おかあさん」から突然にもらい受けている。いつも身の傍に、第一巻だけを置いている。総目次伊賀にも編纂の参考事項に満たされていて日本紀、續日本紀にはじまり薩州禰寝氏家譜、紀州色川氏家譜まで「通計一百四部」もの「引用書」が列挙してあったり、とにかくも「もの凄い」のである、いわゆる平家物語異本、異聞の満載本で、小説のタネもまた満載、ならば、読み通すのが遅すぎたかと「やそろく爺」には悔いもある。漢文と和語との混淆は独特で、いろんなあらたな日本語の勉強も出来るだろう。
『アベラールとエロイーズ』では、中世の基督教ことに修道士、修道女らの修道院生活のくさぐさを徹底的にのぞき見させて貰った。そして別にミルトンの『失楽園』を愛読紙耽読して三度目を読み継いでいるので、旧約聖書の難所とかんじてきた『ヨブ記』にまたしても挑戦しようと書架から枕辺へ運んだ。
これで、毎夜々、手にして欠かさず少しずつ読み進む本は、漢文の『史記外伝』和語の『参考源平盛衰記』聖書から『ヨブ記』関連してミルトンの名著『失楽園』ジャン・ジャック・ルソーの長編自叙傳『告白』ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』マリー・アントアネットを死刑判決した異様異色のフランス革命家『ジョセフ・フーシェ』を伝記作家として卓越のツワイクにより、そして『法華経』 結びの楽しみに、マキリップの『イルスの竪琴』を読み継いで行く。私の「読み・書き・読書」のひびである。生来の好きなことを楽しんでいるだけ、と謂える。これは、気むずかしい機械クンにも大きくは制約されない。
2022 2/2
* 『マリー・アントアネット』再読を終えた。「革命」という元来の中国語には「天命」の意義があった。しかし、いま革命の名目でなされた世界史上のいろんな「革命」を支えてきた人智は、時がたてば経つほど無残に人慾先行の臭みが抜けない。必要な革命はたしかに有ったが、心から同感して湛えたい革命は、一つとして見当たらない。天命抜きの人欲の争闘としてどの「革命」も、血みどろを敢えてしてきた。
2022 2/3
* 我が家の三回目ワクチンは 三月十何日かになると。
もう十時半。しかし、何が、今日、出来たといえるだろう。混乱また混雑また惑乱。こういう時もある。寝入る前の読書へ、階下へ。疲れ切っている。生きている証拠。
2022 2/5
* アレクサンダー大王、秦始皇帝、エジプト王、フビライ、カエサル、ナポレオン、を多面的に検討し優劣を順位で決定していた番組、またたボンペイの考古学的発掘の現場報告など、面白く見入っていた。
世界史的視野をより正しく教わって持つのは、現代人にも必須の勉強と私は考え、努めてもきた。フビライが最高に識者らに評価されていたのも、なるほどと面白かった。
私は、日本のモノは古典、他は西欧と中国の史書か人物像を好んで読んでいる。小説を読むにも、海外モノが多く、日本語の文藝作からはかなり遠のいている。人や時代をつかむスケールにおいて日本の作はちいさいのである、私と手例外で無く忸怩たるものがある。
中国と中国人を知るには、漢文を苦にせず『史記列伝』にあふれかえっている「悪意の算術家」たちが絶好のモデル。そして「詩」が抜群に佳い。
西欧を識り味合うにはには、基督教という視野を下地に培っておきながら、個々の人間像やいろんな国情に歴史感覚で向き合うのが良い。
2022 2/6
* 寝床読みの書目が少し換わって。.『参考源平盛衰記』巻頭の「剣」巻から興味津々、面白い。流布本の『平家物語』に親しみ続けてきたが、語り物、謡い物で在りながら地は和漢混淆の名文だか、和綴じ木版本のこれは、「参考」と冠されているように、異聞異見異説異本のなにもかもといえるほどブチこんであり、説明的でもあって、読みづらい木版文面ながら格別面白い。
「剣」巻は、武家の世の開幕にふさわしく、古来髭切・膝切の二名剣が名を変えつつ源氏の党に伝わって行く運命の程が、説明をいとわず書き込まれていて、ふんふんと、面白い。なにしろ全五十冊近く、読み上げるのは何時になろうか、しかし、投げ出さないだろう、小説が書きたくなるに違いない。
* 読むのは簡単、だが主意を踏み込んで読み取るのがとても容易でないのが、旧約聖書から抜いた『ヨブ記』で、平明な語句ながら、多くが詩句で主意が表わされ、ただ上面を読むだけでは「聖書」なる真意も真義もつかみ取れそうに無い。
よほど以前に一度突っかかって、すぐ突っ返されてしまった。曾野綾子さんがこの巻について書かれていた気がする、教えて戴きたいとまで思っていた。
わたしは学校内での定時や全学年での試験はいつも得意で綜合首位を譲らなかったが、校外での受験経験が殆ど無い。
試験されるような畏怖の思いが『ヨブ記』には在る。どうなりますか。
* 一度面白く読み終えて、そして『マリー・アントアネット』へ転じたのが、同じツワイク伝記の『ジョセフ・フーシェ』だった。このとてつもない陰険で幽霊のような辣腕政治家が、淡々と、簡明をきわめて、何遠慮会釈も無い短時間で「王后マリー・アントアネット」に「死刑」判決を言い渡した「裁判長」であった、もう一度読んでやろうと思った。
* 広大無辺の中国を、始めて全国統一した秦の始皇帝は、謂うまでも無い、紀元前の人。その始皇帝の統一支配が成る以前の長期間、分散し割拠していた多くの小国が在り、それらの国々にむかい、制覇政略や軍略や人事について「説いて」まわる賢しい連中がわいわいと世にあふれ横行していた、そんな彼ら「策士たちの弁論や立ち回り」は文字通り私の言う「悪意の算術」に満ちあふれたの百家争鳴で。
『史記列伝』はその個々の策士らや王家らの有様を簡潔に書き継いでおり、漢文ながら、まことに興味深くもおもしろく、また呆れさせてくれる。「外交」とは「悪意の算術」だという私の理解はこの読書から多く示唆されている。今日の我々が「四文字熟語」として記憶している多くも随所に面白くかつ適切に見付けられる。
中国という国と国民を理解したいなら、『史記』の昔から識るのが「早わかり」と私はいささか乱暴ながら、やや自信を持っている。
* 素晴らしい詩句の名作ミルトンの『失楽園』は、やがて読み終える。エデンの園を逐われるアダムのために、神は、天使ミカエルを遣わされ、アダムとイヴの以後の人間どもの「成り行く様」を前もって聞かせ、また目に見させられる。ノアの方舟ももう終え、バベルの塔の大混乱がアダムの眼前に今しもくりひろげられ、もう少しでこの壮大にして深遠に美しい長編を私は、四度目、読み終える。
『源氏物語』も読み終えた。
『カラマーゾフの兄弟』と、ルソーの『告白』とは、まだまだ先がある。気が急き始めていて、「読んでおきたい」と思うものの多すぎるのに嘆息する。
何度も言うが、自作のせめて小説だけでも読み返したいもの、だが。
2022 2/12
* 『参考源平盛衰記』の氏用地用的な指導理念は「剣」。武家時代の到来を象徴的な源家家重代の名剣「髭切」「膝丸」の運命的な推移と改名変容とで語って行く。明敏な活眼による歴史記述なのだと解る。明らかに読み物であるより歴史認識に指導されつつ関連参考資料が蓄積されて行く。たいしたものだ。
*『カラマーゾフの兄弟』で驚嘆しつつ耳を傾ける強烈な最初は、次兄イワンが末弟アリョーシャに語り継ぐ警抜かつ延々の「ロシア人論」。聞いている私の胸を乱打してくる。この大作の凄みが打ち寄せる津波のように耳に残る。
* 新版岩波文庫九巻の『源氏物語」を読み終えての有り難い編者・校訂もの達からの親切は、各巻末の解説や付属資料の整備だが、最終刊では『文法』に触れてドキドキするほど適切な例示で私に新知見を加えてくれたこと。熱心に読み、教わっている。この新版岩波『源氏物語』文庫は、この世界の名作に関心を持ちつつある人には必携のすばらしい手引き本だと証言しておく。
2022 2/18
* 二日がかりで、撮って置き映画『ベン・ハー』を、最上最良の感涙にむせんで観終えた。私は基督者ではない、が、こういう作品にはこころより感動できる。うらやましいまで共感でき、参加できる。『聖書』にも、『失楽園』『アベラールとエロイーズ』のような本に何の障りもなく浸って行ける。それでいて、立ち居にも、階段の上り下りにも、口癖は「ナムアミダブ」なのだが。要は、神や仏への親昵の思いが心身に根生えているのである、私は。お寺へも、教会へも、行くわけでないが。
2022 2/19
* 父・吉岡恒の長文を読んでいて、心底、おどろいている。派手に言えば一部の隙もまた私に異論も無い。よく斯くも書いたものよと敬服する。久しく久しい實父「おやじ殿」への批判が誤解として蹴散らされそう。敬服している。嬉しいほどの出逢いになろうとしている。
2022 2/19
* 亡実父吉岡恒が昭和三十年の『建国記念日』に書き下ろして時の内閣総理大臣鳩山一郎に為していた「提言」には、仰天した。「あばれ親父のたぶんたわ言」と予期していた、それとても亡き「おやじ殿」の実像理解に遺児の一人として向き合わざるを得まい、ままよと或いは泥濘に踏み込む心地だった。
まったく違った。戦中戦後そして昭和三十年と限られた時点を顧慮し回顧しつつ見た、読んだ筆者の長文には揺らぎがなく相当に広く永い視野とともに言句の無様など一抹もなく、清心誠意の論旨としても、驚くほど揺らぎも晦渋もないのに、感心という前に仰天した。まことに嬉しいことであった。
2022 2/20
* 父の『宗教界の指導者へ』と題した長文は、批評や要請や提言であるより、「信仰と宗教」を自然科学として理解し直そうとする「長編」の論攷で、意図は理解できる。背後ないし下敷きにある前世紀おそらく中葉来の、世界における在来の宗教学ならぬ「宗教科学」乃至「信仰という自然科学」が、ためらいも致命的な揺れや混乱もなしに円繪と語られている。父吉岡恒の信仰を、ないし基督教への親和や接近をかたるものとは違っている、と思われる。誰にもできる思いつきの議論や主張では亡い、その意味では慎重を欠いてもいない。
何にしても書き写すも苦労な長文で在り、でたらめの言いたい放題とは見えていない。
2022 2/24
* 信仰は科学的に説明が付くか。父吉岡恒による是非は如何。
2022 2/24
* 父 吉岡恒が、次女ひろ子(恒平の年若い異母妹)に最愛を込めてて贈られた堅固に厚い帳面に、父は、長短四篇の述懐ないし論攷を書き入れている。
その最後の最長篇『宗教界の指導者へ』は、まこと驚嘆ないし仰天の、希有かつ強硬独自の論述であり、のけぞってる。筆致は緊迫し形成で、言辞に激越も乱暴もない、ひたすらに指導的立場の宗教権威者がの「信仰指導」の根拠の無さを「科学」的に衝いている。
予感はできていた。父は無数に断片的に 「主」や「神」に訴え頼み伏し従う言句を書き置いているが、私はそれらの浮薄または空語の気味を覚え続けていた。これは「ことば」であっても「こころ」とは受け取りにくいなあと。
上記の長広舌には、父の捨てがたい実感が爆発している、しかもかなり冷静に。
* 父恒の (私からすれば)祖父誠一郎の「基督者ぶり」を軽侮し非難し続けてきた性向が、かかる論の基盤に死灰のように溜まっていたのではと察しられて傷ましい気がする。
2022 2/25
* 昨日、久々に井口哲郎さん(元・石川県大文学館館長・劇作家・県立小松高校等の校長先生)のお便りを頂いた。『湖の本 156』到着とはすれ違いと思われる。石川県往年の作家持澤清造を生涯敬愛し追尋し続けたやはり往年の芥川賞作家西村賢太にかかわる祈念の新聞記事が一緒に入っていた。井口さんは作家へのいわば慈愛の助け手であられた。二人の作家とは私はふれあいがなかった。
○ (前略 コロナでの) 閉じ籠りの糧に『吾輩は猫である』を引張り出して読んでいます巣。それを見たセガレが自分も好きだが娘ーー孫娘の愛読書だというのでちょっと驚きました。セガレは、今、学生時代にアルバイトをして買った「鴎外全集」を読んでいるといい、国語の教科書から、日本の小説が次々と姿を消していく、となげいていました。(セガレも孫娘も国語教師)
「猫」は、角川の日本近代文学大系本なので、松村達雄氏の細い注釈入りですが、私はそれにこだわらず、「ことばあそび」?を楽しんでいます。活字も小さいのであんまり頁は稼げませんが、時間に不足はないので、のんびりと字面を追っているような次第です。
随分長いご無沙汰だったと思いますが、その割に、長さを感じられないのは、机上に『湖の本』があり、本棚に『秦恒平選集』が欄でいるせいかも知れません。
雨水は過ぎても雪は雨に変りません。
世情も荒れ気味、寒さと病害、まだしばらく続きそうです。どうぞお二人には、お体、お心お大事にと願っています。
内容のないお便りです。近況報告まで。
二月二十一日 井口哲郎
秦 恒平様
* 胸に温か、な敦厚の筆致で、いつもながら 拝読 お便り 嬉しくてたまらない。
お大事に、お揃いで、ご養生と共にご老境をお慈しみまたお楽しみいだきますよう。もう、「湖の本」新刊も到着しただろう。
じつは私も漱石のわけても『吾輩は猫である』が一の好きで、読みたい読みたいとこの一年余、思い続けていた。礼の漱石ならではの装幀全集本なので、手に重いのが寝床読みにはしんどいかと、ついためらっていたが、井口先生三世代にならって読み始めましょう。
何とも謂えず 私には夏目漱石が懐かしいのである。受賞時の大きな記者会見で尊敬し好きな先輩は斗質問され間髪入れず「漱石、藤村、潤一郎」と答えて会場がどよめいた瞬間を忘れていない。比較的新しい小説『花方』に宗盛を出していたのも、『猫』の「後架先生」の謡いザマが面白くて好きで印象的だったから。
* 東工大卆の丸山君が長い熱いメールをくれて、加えてご家族の健勝のことも。問いかけの長文、一夜思案して返信しましょう。
2022 2/26
* 私には父方祖父になる吉岡誠一郎が、兄恒彦や私の単立戸籍造作に関わって父恒に与えた自筆の呈書を、長時間、苦心して読み且つ書いた。疲れた。ぞつとしないモノだった。九時半。
2022 3/1
* 作家で写真家の島尾伸三さん、マドレーヌ・スラビックさんのエッセイと共著の『ゴールデン(英字)』という金彩に溢れためずらかに綺麗な写真集を頂く。
2022 3/2
* ミルトン『失楽園』もまたまた読み終えたので、ゲーテ『ファウスト』へまたも差し替え。ルソーの厖大篇『告白』も中巻へ進捗。漱石『吾輩は猫である』も極めて愉快に面白く読み進んでいる。『参考源平盛衰記』『カラマーゾフの兄弟』『史記列伝』『ジョセフ・フーシェ』等々、文字通りの難書『ヨブ記』もただただ読みすすんで、眞実貴重な娯楽には、やはり『イルスの竪琴』を手放さない。本が「読める」 なんと幸せか。
* おお、ダンテの『神曲』三冊を身近へ運んだ。『水滸伝』も十巻。水滸伝は一度通読しているが、神曲は、初見参。読めるかな。失楽園のように乗って行けるといいが。難渋しているのは予期の通りに『ヨブ記』で、ぶ゛んとしては実に平易な独白や対話なのに、何がどう謂いたいのかと。手強い。『フアウスト」はもう三度は通読していて、苦にならないが。
2022 3/9
* さて今日の築地行き。平穏無事に済み少しでも楽しい目も見られるよう、願う。
* 平温でも無事でもなく疲労困憊し、朝の景色ばかりの小食以降、何一つ口に入れることもなく帰ってきた。『参考源平盛衰記』の開巻「剣巻」がまことに興味深く面白く、そしてレーデルルとモルゴンの物語にも慰謝されながら、帰宅。もう聖路加通いはヤメにする。
2022 3/11
* 鳶は春の空に似合うなあ 元気に鳴け
鴉は 次の仕事へもう吶喊しています。次の次も途中待機しています。今朝は、五時半に起きました。早めに寝てはやく起きると静かな午前が永く使えます。
敗戦直後の進駐軍時節に向こうの人のカラーで撮って置いたオキュパイド・ジャパン、京都市街の風俗写真集『戦後京都の「色」はアメリカにあった!』というのを楽しんでいます、なッつかしい !
明日は 結婚して63年目。三度目のワクチン接種で 無事是好日でありたしと願っています。
様々な読書を敢えて自身に強いるほど楽しんでいます。字が、書けないは始まってますが、幸いにまだ古文も漢文も読めています。洋語はきれいサッパリ見捨てています。和紙和字和綴じの、掌に軽い柔らかい五十巻近い『参考源平盛衰記』記事多彩で実に面白く、十巻本『水滸伝』にも浮き浮きしてます。
「京都」という美味が食えなくて、じつに悔しいが、記憶は、頑固なアタマに幸い満杯。
日々とても元気元気と謂えない疲れようですが、それはそれと、まだ切り替えが利きます。
鳶、おめえはまだ若いんだ。がんばりや。 かあかあ 春を待ちつつ
2022 3/13
* 山なす亡父資料をようやくまた大きな風呂敷包み二つに片付けたと思った。と、机に掌に握って収まる小さな、しかし部厚い前頁に様々に書き入れの手帳が残っている、手荒なほど書きッぱなしの筆跡は様々に乱筆ながら独りのもの。それが実父のそれとは全く異なる。実父吉岡宏の筆跡は、こっちが恥じ入るほどのよく整った達筆で、厖大な書き置きの、時に乱文であろうと乱筆は無かった。
なら、誰の手帳か。「松岡洋右全権の帰朝の際發したるステートメントの一節」など書き出した頁もあれば、「ヱホバ言ひ給ふ 人我に見られざる様に密なる處に身を匿し得るか、ヱホバ言ひ給ふ 我は天地に充るにあらずや ヱレミヤ記23-24」などとも。優に戦前へ遡れる大人ないし老人のおおかた走り書きで、しかも基督者めく引用や言辞が混じっている。
「説くよりも見せよ」とか
「變といふ逃げ道 醫者は明けて置く」とか、 皮肉めく見解も無数に混じっているようだ。
ふと開いた頁に、明らかに「當尾村社」なる四文字が見えた。「當尾村」は実父が生まれ育ったの岡本家が大庄屋を務めた南山城の一画で浄瑠璃寺などを抱えている。父の父、私には祖父の吉岡誠一郎の筆記帳を長男恒が手に入れておいたのか、確認は出来ないが、やはりこれも父恒所縁の遺品一冊と謂うて良いように思われる。当分机辺に置いて個人の口吻に馴染んでみよう。古人述懐の和歌なども随所に書き置いてある。なかに自作もあるか知れない。面白いものを亡き「おやじ殿」は私に遺して逝った。目から鱗の落ちるような新発見があるやも知れない。
* 宵の口に入浴、水滸伝、ファウスト、ルソーの告白 読む。晩飯は食べるより呑んで済ませ、宵寝して八時半まで。しかし、もうこのまま寝てしまいたいほど。早寝早起きの日々にしてしまいたい気がある。九時過ぎだが、眠りたい、もう。
2022 3/13
* 寒けして、夕食もそこそこに床につき、『水滸伝』』『参考源平盛衰記』『フアウスト』『神曲』『ヨブ記』など読み進んで、また二階へ。創作の「一作」を前へ前へ押し出せるだけ押して行く、今日も。
体調の違和は痛みに似ている。しかし作に前進力が出てくると、つい打ち込む。精神衛生には悪くないが、体疲労は腐ったように重苦しい。ワクチン接種の後引きは何もない、局部は腫れているのかも知れないが見もしない、平気でいる。
2022 3/15
* 相撲が終え、夕食も終えて横になり、『吾輩は猫である』の愉快に拍手したまま少し寝入って七時半を回っている。もうこのまま寝入ってしまいたい。雨音がなかなかりもの、もう行きには成らない春雨である。
2022 3/18
* 幸い、本は読める。今も床に就いたまま「ジョゼフ・フーシエ」というフランス革命を淫靡に陰険に厚かましくも生きてさまざまな顔を取り替え取り替え誰より長くいろいろに演じ尽くした男の伝記を読み返している。「マリーアントアネット」の伝記を書いた同じツワイクの本。歴史はひどいものをも平然と生む。
2022 3/20
◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄 (神谷美恵子の訳による。)
◎ あらゆることにおいて養父にして先帝アントーヘニーヌス・ピウスを手本にする。理性にかなう行動に対するはりつめた努力、あらゆる場合におけるむらのない心情、敬虔、穏やかな顔、優しさ、むなしい名誉に対する軽蔑、物事を正しく把握しようとする熱意、そして、なにごとをなすにもまずよく検討し、はっきり理解せずにはてをつけず、また自分を不当に非難する相手を非難し返すこと無く忍耐し、何ごとにも慌てず、讒謗に耳を貸さず、人の性質や行動にしかと目を留め、やかましやでもなく、卑怯者でも無く、猜疑家でも無く、詭弁家(ソピステース)でもなかったこと、住居、寝床、衣服食物、等には簡素かつ、同じ指呼とでも必要な限り長く続けられ、友人等には忠実で常に変わらず、公然と反対意見を言われても聴いて堪え、もっとよいことを教えてくれる者や言葉があれば喜んで受け入れ、神を畏れつつも迷信には陥らなかった。よくよく見習い教わり、いつ最期の時が来ようと良心の安らかであるようにしておけ。 (第六章 三○)
* アウレーリウスのこの『自省録』に類した本は古今東西に数あるであろう、が、私はこのアウレーリウスの本を岩波文庫の昭和三十一年十月二十五日一刷本を買い求めて以来、最も敬愛してきた。遠く遙かに及ばないが、疲れ汚れた心を洗い流したいときはこの一冊に帰って眞実休息する。その程度であるのを恥じ痛みながら。
『親指のマリア』でシドッチ神父を書いたとき、彼の「日本」へと目指した、当時として最も危険きわまりない旅立ちに、あえてこの『自省録』を親からの愛の手向けとして持たせている。
2022 3/22
* 三連休(の近年なんて多いことだ。)のあとで郵便は多かった。井口哲郎さん、勝田貞夫さん、岩淵宏子さん、白蓮寺さん、そして白鸚さんの今藤会案内、喜多会の春の能会案内、田島周語君の画展案内などいいお便りがみな封書で。
加えて、久しく尋ね尋ねて現住所が知れなかったのを同志社の田中教授に教えられ、何十年ぶりかに発信できた翻訳家の脇明子さんからも善い便りが返ってきた。お一人一人この場へお便りの儘記録しておきたいが、あまりに量が多い。繰り返し黙読を重ねて感謝するに止める。
脇さんには、私の絶大球愛読書パトリシア・マキリップの『イルスの竪琴』を贈って貰った。当時まだ若い院生ほどの方だったが、その日本語は安定して寬かに波打ち、物語の素晴らしさをこの上なく私の五体に染み渡らせた。この物語、現に今日ただ今も全三巻の最終巻を、みじんの飽きも慣れもなく懐かしく面白くしかも新鮮に感心して読みすすんでいる。何度読み返しているやら、数え切れない希有の本なのである、お礼が言いたくて告げたくて堪らなかった。
ようやく叶った。
脇さんからも嬉しそうなお返事が戻ってきてまたまた有り難かった。生涯にそうそうは出会え無い最良の出逢いの作であった、いや過去形には成るまい、まだ私に寿命があれば繰り返してまたまた読み継ぐだろう、それほど「モルゴンとレーデルル」とのリアルに不思議な物語に、私はストーリイを絶した「身内」の親愛を覚えている。幸せなことだと思う。
2022 3/22
* 『ヨブ記』『神曲』 粛然と読んでいる。『史記列伝』『ジョゼフ・フーシェ』 人間の獰悪に時に身の毛よだつ。 『フアウスト』『水滸伝』『参考源平盛衰記』 人間の抱え込んでいる可笑しみにも危うさにも「劇」の伴うのが納得できる。ルソーの『告白』 未だ中巻、心酔しにくい「人」である。 『カラマーゾフの兄弟』『吾輩は猫である』 『イルスの竪琴』 文学という藝能の神妙に有り難く傾倒する。
2022 3/24
* 昨日も今日もシンドい一日で、コトがすんなり捗り成ったとは謂いにくい。疲ればかりが嵩じた。湯に浸かりながら『水滸伝』ロ・チシンの大酒大暴れを読んでいるときに僅かに寛いでいた。二度目の見参だが、この十巻は先が気楽に楽しめる。
* 水戸藩で完成された和本の『参考源平盛衰記』、これは平家物語の大異本異伝集で、下地に平家物語がしっかり敷けていると、すこぶる付き面白くて珍しい。一冊一冊が和紙綴じの文字通りの柔らかい手軽さで、有り難い。
2022 3/27
○ いかがお過ごしですか。桜の季節楽しまれますように。 尾張の鳶
* 機械の文字通り混乱(半ばは私自身の混乱も)に難渋を極めながら 前半の要再校、後半の新入稿に悪戦苦闘し、へとへとに、へとっへとっに疲労困憊の日々でしたが、今朝、ともに印刷所へ送って、深い吐息の一息のまま、潰れるように寝入って、目覚めたら午后三時でした。ホオーッと安堵して、またすぐ創作の筆へ戻ります。もう体力は涸れ乾いていますが、幸いに気概は残ってるようです。
苦渋・苦闘の極疲労を慰安し激励してくれるのは、再読を始めた「水滸伝」魯智深の大酒・大暴れぶり、苦沙弥センセイの膝の上の「吾が猫」クンの述懐、魔法の塔上でのモルゴン青年と偉大なる者との謎の解けて行く出逢いをかたる「イルスの竪琴」終盤の感動、水戸藩が賢明に達成した「参考源平盛衰記」の多彩な異伝の採集、「史記列伝」を多彩に引っ張る異彩の策士達の唸ってしまう悪意の算術の展開、「フアウスト」の生き生きとした詩性、それに、以前に歌人岡井隆が私の歌を読み解きながら作者をアリョーシャめいて解読してくれてた「カラマゾフの兄弟」等々を、僅かずつ読みに読み継ぐ読書でした。ロベスピエールと「フーシェ」とのギロチンを挟んだ息を呑むような衝突場面もありました。
どうも私は、延々と「告白」するジャン・ジャック・ルソーという人は苦手です。しかし、地獄をへめぐり始めたダンテ「神曲」との初の出逢いは、すばらしいものになりそう、延々とつづくホメロスの「イリアス」にならぶ、いい体験ができそう。「ヨブ記」は、まこと文字通りに難儀ですが。
コロナ東京は相変わらずの日々多数の感染者で、出歩く気概を殺がれています。ここまで堪えて、浅はかに躓きたくなく。やれやれ、と慨嘆のみ。
わたしは、実は、ホメロスやダンテやゲーテやミルトンが楽しめるのに、今日のいわゆる「詩集」が読めない。定型の韻律をいわば強いられた歌集、句集なら性格に「うまい・へた」の良さ不味さが分かるのですが、詩の自在勝手な表現の妙がなかなか掴めない。荷風の『珊瑚集』 藤村 白秋、朔太郎ら、また靖の定型に近い散文詩等々 愛読できた詩人もむろんいますが。
先日京都の年嵩な詩人が、数百頁の本に上下段、自作の詩をちっちゃな活字で、全冊にみっしりと何の余白も無く窮屈に押し並べ組み込んだ「詩集」を送って呉れました。ナチスの虐殺を目の当たりにするようでした。やれやれ。
桜は この、人けのない下保谷の散歩で楽しみます。
* 山田あけみさんが親切にコピーして送って下さった或るシスターさんの「ヨブ記」を語られている長文に、感嘆・感銘、泪に目が濡れた。遠藤周作を語りながらの、それはそれはすばらしい神とヨブへの手引きであった。有り難いと手をあわすほどであった。心恥ずかしくもあった。何かしら大きく私の内深くでひびくようにものが動いた。斯く「読んだ、顔を伏せて感謝し感動した」体験は、永い人生でもかずあったワケでない。フアウストや失楽園の読みへももの静かに道を示された気がする。感謝。
2022 3/28
* なんで『ジョセフ・フーシエ』なんて本を二度も三度も読み返しているのか気が知れない、我が事ながら。『マリー・アントアネット』ならよく分かるけれど。』
ロシアのプーチン大統領をとてつもない陰険高慢な冷血動物と、最初の一目から見切って来た。日本のおバカな安倍総理が、何度プーチンさんと会った話した抱き合ったと有頂天だったときもはっきり軽蔑したのを、今も軽蔑しているのも、忘れるモノか。あのケネディ大統領を殺したヤツは、憎んだなあ忘れないよ。
2022 3/29
* 手指十本の指先ヵ゛じんじん鳴るように痺れている。寝が足りなかったか、一時まで本を読み続け、夜中手洗いに二度おき、六時二十分には床を出た。すくなくも「七時間睡眠」を護らないと疲労が溜まる。その上に働いてくれる歯が上も下も大半無く、食欲払底に輪を掛ける。まさしく看板通りに「読み・書き・読書」だけで生活している。結構なこととも感謝して好いのだが。
2022 3/30
* 令和四年三月尽 午后四時五分 パトリシア・マキリップ三部作の『風の竪琴弾き ③イルスの竪琴』を「最高最上等の泪と感動に満たされて、第十一度、読了」と奥付脇に書き付けた。純良に耀いた私の生命そのものが感動したのである。「幸」とは、かかる感動をこそ謂う。かかる一作との出逢いを「神與」と心より感謝する。
この機会に,辞書にこまごま頼るのは諦めたまま、原作の英語版をただ読んで行こうと思う、以前に一度完遂したことがあの。ほぼ字句の隅々すみずみまで私は脇さんの訳を覚えている。その記憶を頼めば英語も楽しめる。第一巻は、「the riddele master of hed」(情けない、いま,私はアルフォベットを大文字したり太字にしたりが出来ない、仕方を忘れて思い出せない)、そんなにも私はボケて来てるのです。
すこし読み始めてみて、意読より何より、私の「視力」がちっちゃいアルファベットを読み取るにはすでに無茶に草臥れきってると分かった。つまり、一気に沢山量の英文を読むなど目が先にむりで、せいぜい新書版の一頁ずつ程度を「服薬する」よう嚥みこんで上等と。この機械傍で辛抱しごとの気を替えるクスリなみに少量ずつ読めば宜しいと。宜しい宜しい。
で、日本語の方は、これまたまたしてもの極くの愛読本、アーシュラ・ル・グゥイン『ゲド戦記』を書庫からもちだす。
2022 3/31
* わたしは、京も祇園町のまぢかで育ち、祇園町のまんなかの中学生で「先生」無用の茶道部を立ち上げて作法を指導し、高校は泉涌寺の下、東福寺の上の日吉ヶ丘に在り、学校にあった「雲岫」と名付けられた佳い茶室に「根」を生やし、茶道部員に茶の作法を熱心に教えていた。
秦の叔母は生涯、裏千家の茶道(宗陽)、御幸遠州流生け花(玉月)の師匠だった。私は小学校五年三学期からこの叔母に茶の湯をならい、高校を出る出ない内に茶名「宗遠」を受けて、のちのち上京就職結婚まで、叔母の代稽古もつとめ続けた。つまりわたくしはまさしく「女文化」に育っていた。親しい男友達は、指折り数えて大学までにせいぜい十人か。友達とは言わない叔母の社中も含め、わたしが教え、また互いに親しんだ女性、女友達は、今日までに優に百人どころでないだろう。
「女文化」という言葉を発明しながら、京や日本の歴史や自然や慣行をゆるゆると身に帯びてきたのは、必然の、ま、運命の賜物のようなものだった、「好色」「女好き」というのとは、まるで違う。それが、私の「生活」なのであった。
秦の父は,素人ながら京観世の能舞台で地謡にも出る人であったし、日頃、謡曲の美しさ面白さを家の内ででも当たり前に「聴かせ」てくれていた。
祖父鶴吉は、一介市民「お餅屋」さんの家としては、異数に多彩な、老荘韓非子・史記列伝等々の漢籍や「唐詩選」ほか大小の漢詩集、大事典辞書や、また『源氏物語湖月抄』や真淵講の『古今和歌集』『神皇正統記』また『通俗日本外史』『成島柳北全集』『歌舞伎概説』等々の書物を、幼い私の目にも手にも自由気ままに遺していってくれた。
言うては悪いが実父母と生活していても、とてもこんな恵まれた素養教養の環境はあり得なかったろう、じつに秦家へ「もらひ子」された幸福の多大なことに、心の底から驚きそして感謝するのである。
その意味では、私は、作家秦建日子や娘の押村朝日子に、何ほどのかかる教養・素養を環境として与えてやれたかと、忸怩とする。もっとも、当人に「気」が無ければどんなものも宝の持ち腐れなのは謂うまでもない。宝は、だが、その気で求めれば広い世間の実は至る所に在る。しかし、それもまた、ウクライナのようなひどい目に遭ってはお話にならぬ、とすれば、今我が国の「為すべき備え」は 知れてあろうに。
2022 4/2
* 朝一から、たまたま「藤吉郎とねね」の祝言ドラマなどを観ることになった。若い日の西田敏行と佐久間良子とが、懐かしく。そして妙に身にもつまされた。
そういえば前夜は、何というワケもなく独り遅くまで、ヘンリー・フォンダ、リチャート・ウィドマークらの早撃ち西部劇を観終えてから寝た。床に就いてからも、今枕もとの本をみな読んでいった。「ファウスト」「水滸伝」がひときわ、今、私を惹き込む。
2022 4/3
* 昨夜は、『参考源平盛衰記』を読みながら、消え失せるように寝入ったと思う。ぽかっと浮かび出るように七時前に目覚めた。夜中手洗いへは一度だけで済んでいたかも。
2022 4/6
* 私は、現状、コロナに安心していいどんな状況改善があるとも思っていない。世間には油断が瀰漫しているが、考え違いと思っている。老人はことに体力疲弊、命の危険と心得ていた方が良い。
こういうざわざわとイヤな時節では、とても哀韻の「しらべ」の聴けるおりもないが、和漢の古典や詩歌そして歴史へ帰って行けばすぐにもあちこちでしみじみ聴くことができる。.
2022 4/6
* カラダに力が無くなり 以前のように永くのうのうと湯に浸かって読書などしてられなくなった。いま、恰好の読み物は『水滸伝』まことに面白い、それも当然いわば一回一回が読み切りの十巻大連続の支那の講談・講釈、つまり語り物。孫悟空らの『西遊記』のようにまるまるフィクションでなく、生身のおもしろい支那人たちが多彩に登場紛糾しながらいわば豪傑たちが様々に活劇を演じつつ歴史を彩って行く大紙芝居のよう。本邦の『八犬伝』のような陰惨ないやみが無い。一席のおしゃべりがほど良う短い。
2022 4/6
* 大河ドラマと銘打った『鎌倉殿の13人』は面白く進んでいるが 鎌倉殿つまり源頼朝ひとりに関われば、平家を滅ぼし義経や平泉をほろぼし、征夷大将軍として守護や地頭の制で全国支配に至るけれど、身は、二度の上洛こそあれ「鎌倉」を出ない生涯だった。その不慮の死にも疑念が絡むが、ようするに頼朝を継ぐ頼家も実朝も、いわば歯は北条政子をも含めて北条氏、要は小四郎義時のはからいに潰され殺されて鎌倉時代はつまり「北条時代」に定まって行く。「鎌倉殿の13人」の義時を覗くほぼ全員が北条に屈し族滅されてしまう、足利と新田とをみのがしたのが、北条氏の末路を用意し、南北朝につぐ足利時代そして群雄割拠時代が開けて行く。まだ私が国民学校の一-三年生の昔、秦の家に通信教育の教科書らしき「日本国史」いっさつがあり、緯編三度の上も裁ち暗誦するほど日本史の推移を覚えた。「鎌倉殿の十三人」とはまことに美味い狙いの的と興深い。昔の教科書に頼朝の女好きなどは書かれてなかったので、政子はじめいろいろへ初見参も愉しい。
2022 4/6
* この一両日、いや数日の仕事上の悪戦苦闘からホッと抜け出た心地の晴れやかな日曜日の朝。のんびりという緩みにはなれないが、少しく息をついている朝です。
それでも昨夜も、読んで置きたい再校ゲラを半冊分も通読して、その余に『水滸伝』『参考源平盛衰記』を楽しみ、灯を消したのが深夜二時だをまわってた。
睡眠時間が短くても、昔のように朝寝しない。かわりに、昼間であれ疲れればすぐ一時間、二時間、三時間ですら横にもならず、キチンででも機械前でも椅子のまま突っ伏して寝入っている。
「爺くさい」「爺むさい」と「京のわる口」は遣いも聴きもしてきたが、いまは私が暮らしざまがそう成ってしまってる。それも健康法という気に成ってしまっている。
* 昼食後、卓にに臥して暫く寝ていたが、機械前へ戻らず、床に就き各種十冊の本を次々に面白く、興深く、ものに感じ思案もしながら読んでいて、午后三時に。
各種各時代の古典的好著名作ばかりなので、一気に大量を読まなくても、それぞれに優に興趣に惹かれ、それぞれに魅入られるのである。
『フアウスト』はたぶん五度目くらいの通読になるが、今回はことに幕開きまた第一部から魅され惹き込まれ劇中に身をけてしまっている。精到な本文採集と編纂・割註とで成った水戸藩がご苦労の『参考源平盛衰記』には、区々として変化変容の逸話や記述が満載で「平家」を書きたがる身には垂涎の誘いが満ちている。『ヨブ記』き肌に粟だつ凄さ、『神曲 地獄編』は胸に穴が開きそう、踏み込む歩一歩が重たい。『史記列伝』には悪意の算術の成否が國と権勢の興亡へもろに繋がっている。『水滸伝』には漢字の美しさ面白さ漢語・詩句の魅惑に載せて奇想天外の講釈が溌剌と聞こえる。
2022 4/10
* 昨夜は。九大今西祐一郎名誉教授から「枕草子」読みに関わり頂いていたお手紙への返信のまに夜更けていた。床に就いて更に『ファウスト』『水滸伝』『参考源平盛衰記』を読み耽って、二時過ぎて寝た。目覚めたら七時。明るい夜明けがすっかり早くなった。食うや食わずの朝食して、自転車でポストへ、そしてローソンへ。
2022 4/11
◎ マルクス・アウレリウスの 『自省録』抄 (神谷美恵子の訳に依りて。)
◎ 自分の内なる理性に集中せよ。理性は本来正しく働き、それによって平安を得るときに自ら足れりとするものである。 (第七章 二八)
* 上の『自省録』は、まだ大学三年生時期の昭和三十一年十月二十五日の第一刷 定価「☆二つ」八十円本を、鉛筆書き「40円」で買っている。半値の古本をいつか、どこかの古本屋で買ったのだが、。院の哲学研究科へ直行を当然のように思っていた頃に出た本であり、買う気になる先入主は持っていたのだろう。
実は、今、この文庫本を手にしていて「初めて」気づいた・見付けた、のだ。本の本編が終えて、裏白。次いで見開き左から「解説」なのだが、その見開き右の「シロ」頁のツマミ(右の端)に、もう全く覚えがの無く、もはやかすれたように淡い鉛筆のさも走り書きで、「安んじて死ぬための本」と私自身の筆跡が残っている。ほう…と息を呑んだ。
2022 4/14
* 書いた筈の記事が残っていない。保存していた気でいるのに。とはいえ、終日、床に就いて寝入っていたに近い。暫くぶりに書庫に入った。混雑していたのが、妻の手で片づいていた、が、微妙に記憶と意図とに逸れたりしていて、困る。書庫は触らないでと注文した。片付いていれば善いわけでない、不用意に必要な位置を見失ってしまう。
2022 4/19
* 読書に、全五巻の『ゲド戦記』を加え、読み始めた。
2022 4/20
* 思いがけず、「撮って置き」で未見の映画『源氏物語』上の巻をさながら「絵巻」に見入る感覚で楽しんだ。かなり機嫌が直ったほど楽しんだ。下巻が楽しみ。
今日は、朝っぱらのトンチンカンで腐ったが、紫式部と光源氏にいたわって貰えた。源氏物語をまた岩波文庫の新版で読み返そうかと思うほど。何度目ほどになるだろう、ごく初期の与謝野晶子現代語訳、中頃の谷崎潤一郎現代語訳を読んだ七八度分を含めれば、二十度をラクに通り過ぎているはず、すみずみまで頭に入っていて、しかもまた新たな感想に浸れるのが再校最良のこの愛読書の親しさであって。ウン。映画源氏絵巻の下巻を愉し死んでから、また原典で読み返そう。
* 上下巻を通してまことに見事に源氏物語が深みの絵物語となっていて満足した。こういうのを観せてくれるとは。有難くも嬉しいことであった。
2022 4/21
* また故障かと疑うほど、外からのメールが無い。いや、朝には一通来ていた。返事も送った。
自転車を楽しみ、湯に浸かり、夕食後に、「頼朝の十三人」を観て、そしてまた寝入っていた。八時半。マコが、機械に向き合う手居る私の腕に抱きつくように伸びあがって来る。
このところ読書で楽しんでいるのは、ル・グゥインの『ゲド戦記』第一巻。浴室へも持ち込んで。もう一冊は『水滸伝』。上等の読み物です。
コロナのあまりに永い逼塞も害になりさまざまな疲れが五体に寄せてくる。寒さがにわかに暑さへも動いて障りになっている。自転車で三十分か小一時間も走れていたのは有難い。脚腰のためにも過剰にならぬ程度に習慣化したい。
と、謂いつつ。眠気が波のように寄せている。
2022 4/25
* 昨夜は早めに床に就き、しかも『ゲド戦記』第一巻「影との闘い」を八、九割がた熱中、惹き込まれ込まれ愛読・耽読、深夜の二時を回った。何度も何度も読んできたル・グゥインの名作、文も物語もくまなく覚えていて、なお読み耽ったのだ。魔法の世界でも在りながら、哲学書とすら受け入れる。物語りようの適確で面白く惹きつけられること抜群の名作。
こういう世界と出会えてきた嬉しさに「やそろく」爺は大喜びできる、幸せではないか。
2022 4/28
* 昨夜は寒いと感じながら寝入った。やはり二時近くまで次々に床脇の本を読み継いでいた。岩波文庫『ヨブ記』の本文を読み終えて今は詳細に解説の行き届いた後注を慎重に味読している。『失楽園』下巻を、もう何度目か、読み継いでいる。二巻本『フアウスト』の上巻をゲーテの詩情にも身を寄せつつやがて下巻へ移る。三巻の大作ルソーの『告白』中巻の後半を読み進んでいる。ま、まことに多才かつ多彩な多面性に告白者のはしゃいでいるが、人づきあいの多難を被害者的に告白しつつ自己肯定の主張と自負へ臆面無く多弁の花さかりに繋いでいる。『ジョセフ・フーシェ』はナポレオンの名大臣を務めながら、無数の先人や同輩を逐い墜としつづけてきて、ついにはナポレオンを歴史的に凌いで見捨てようとしている。おそるべき冷血のやり手。講釈の『水滸伝』はただ面白く聴く一方、遠く遡り奇々怪々の人物論を介して小諸国が「悪意の算術」で葛藤する秦漢統一国家前夜祭めく『史記列伝』の凄み。源氏物語はまたまた通り過ぎて、いまは『参考源平盛衰記』の端倪すベからざる史書根性をこまごまと掻き分け楽しんでいる。『カラマゾフの兄弟』も『ホメロス』も手放せない。ついつい深夜にまで及ぶ夜々。一言に尽くせば、ヤメられない。
2022 4/29
* もう、目もからだも 永く保たんなあと惘れている。それでも 二階の窓際にならべた四百冊近い文庫本専用書架のまえに座り込むと、時と疲れを忘れる。咋日は岩波文庫の『旧唐書倭国日本伝 宋史日本伝 元史日本伝』に捕まり、楽しんだ。
2022 5/10
* ウクライナでのプーチン・ロシアの蛮行・愚行といいコロナ禍の延々継続といい、どうしようも無く地球のこんにちはガタカセタし続けて、人はみな、安泰の歩みも得られない。ほとほと迷惑、まるまるマスクを顔からはずさず、旅はオロカ街歩きもしない二年半になる。あの戦時下でも、幸い京都は空襲も九割九分免れたし、丹波へ疎開しても半年未満で敗戦集結した。列島に空爆を浴び始めて敗戦までと同じ長期間をなんと一感染症に祟られ行動と暮らしを束縛されていて、先はまだ不透明。命を縮めている点で戦争と変わりない。
十連休にも用心を云われていながら、京都など嵯峨嵐山も清水寺も文字通り満杯に人出で溢れていた。その上に外国からの入国を水際で緩めると。
「愚や愚や ナンヂを如何にせん」
* こんな際に岩波文庫で『旧唐書倭国日本伝 宋史日本伝 元史日本伝』を書架から抜いてきて、禍何時をも愉しみ読みながら簡潔をきわめた古史の本文をフンフンと読み始める。興味深く、憂き世離れもして、いっそ風流めく。風流の愉しめる性と才とを、生み・育ての親に感謝する。
2022 5/10
* 気を替え 落ち着いて他へ向き合う。「読み 読み調べ」か「書き 創作や私語執筆」か「読書」か。 現在日々の読書九冊に、またもまたも岩波文庫新版の『源氏物語』を加えた。一気に量を追わない、文章文体と世界とのそれぞれを楽しみ味わう。選りすぐっているので期待外れは無い。
2022 5/11
* なにともなくボーゼンとして「いる」だけの存在めく。書庫へ入れば無数に「読んで」と逼る書物に溢れていて、居座りたくなる、が。「読んで上げる」「読ませて貰う」のが私の務めであり勉めであると逼るモノが在る」が。
いま、こうしていて、目をとぢると、このまま寝入るだろう。
2022 5/12
* そして床に就くと、ル・グゥインの名作ファンタジー『ゲド戦記』の第二巻を、真夜中までに胸を鳴らし読了した。この「やそろく爺」にして、このような中学生でも読むフアンタジーに胸打たれ読み耽るとは、幼稚か。いやいや私は、我が感性に感謝している。
日々読み継いでいるのは、これだけでない。ダンテもゲーテもミルトンもツワイクもドストエフスキーも停頓無く楽しんでいる。源氏物語も参考源平盛衰記も、水滸伝も史記列伝も、日々に、少しずつ少しずつ愛読している。極の疲労をも癒やす「特効薬」で、多彩に気が引き立つ。
2022 5/14
* 書庫で、まえから気に掛け探していた、明治二十六年二月一日初版、三十年四月十八日三版発行、正價 金三拾錢 東京日本橋 博文館發兌の『明治歴史』上下二巻を見付けた。「従二位東久世通譆伯爵題辭」「坪谷善四郎著」で古色蒼然の外見だが、ずしっと重い。二年生まれ秦の祖父の三十歳前の旧蔵だが、「読みたい」と私も久しく身構えていた本であり、明治開創のころの文章へ見参、枕元へ、他の、毎日読み進んでいる他の十冊と並べて置いた。堂々の大著であ。
2022 5/15
* 寝床で10冊もの本を次々読み進み、ツワイク筆誅「ジョセフ・フーシェ」の遂の墜落に及んで、ごく芳しからぬ体調を引き摺り起こし、キッチンへ。で、「六時頃か」と聞くと「まだ一時」と。本の以前にすこし寝入っていたその寝起きの感覚の延長で読書していたか。発熱しているのかも知れない。肌着が濡れている。食欲ったく無し。
ミルトン「失楽園」 神とサタンの宇宙大の戦争にはじまり、そのサタンに「楽園」の妻イーヴがいましも堕とされようと。
「源氏物語」 雨夜の品さだめ。桐壺の巻から、こころよいまで式部の筆が美しく愉しめる。流石。
「フアウスト」 ゲーての、星空のように耀く世界観・世界像が含蓄の詩句に鏤めばめられて。流石。
「参考源平盛衰記」は前半に難儀の「白山」騒動に幾重もの異聞・異文が編み込めてある。
「水滸伝」では温厚な豪傑宋江が遣り手の婆に迷惑、かろうじて遁れたが。
ルソーの「告白」は、どうにも私、気色が悪い。手広い多才は感じ認めるけれど、まことにイヤラシイ男に思われる。台長編のまだ半ばであるか。
「宋史日本伝」 円融天皇頃までの日本と対比して、フムフムと読み進める。
「ゲド戦記」二、魔法使いの大賢人ゲドと、少年王子との、はるかに遙かな「龍」への旅。 ダンテが辿る「神曲 地獄」の遍歴。
精到の註まで読み終えて、もう一度とおもっている「ヨブ記」。きる青鞜の
何の躓きも無く、順は不同、つぎつぎに読んで愉しめる。
講演を含むアンドレ・ジイドの『ドストエーフスキー』に教えられる。
2022 5/21
* 昨夜寝入る前に希代の狡猾冷血『ジョセフ・フーシェ』をツワイクのみごとな筆誅で読み上げた。おなじツワイクの名作『マリー・アントワネット』への筆遣いの鮮やかな差に賛同する。かの華やかな、華やかに過ぎた、けれど理性と知性を静かに回復していった王后は この冷血動物の手で、夫王を追って、同じギロチンに頸を千切られたのである。
フランス革命を、学問としてではないが、流れとして識りたくば岩波文庫の此の二冊に頼んで良い。
2022 5/22
* 本の姿になった本は手にして傷めるに及ばず、各巻に一部抜きをキレイに断裁し整えて閉じてくれたのが毎度三部届いている。読み返しは気ままに、それでする。特に手洗いの便座で、用を足すよりも「湖の本」一部抜きを気ままに捲る。今朝は『オイノ・セクスアリス』上巻を持ち込んでしばらく、気ままに、読み返していた。
この三冊に成る長編が、私ひそかにも気に入っている。語り口、展開、深く迫ってくる新字の懐かしさが仮構されていて。すこうし読者の皆さんに「遠慮」もした遠慮の無い表現や描写や歌が満載もされている。部分的に「露骨」と読む人の有って防ぎようもないので、ま、自分勝手に気に入ってきた、が、あるときに旧友の「テルさん、西村明男君」が、「ハタくんの代表作は、『オイノ・セクスアリス』と冷やかしでもなくキッパリ告げてきて呉れた。中学以来敬愛してきたもと日立の重役君で、わるい冗談を言う人でない、じつに我が意をえて嬉しかった。体験の記憶があってでは全然無いフィクションに徹して書き通しただけに「世界」が身にしみ懐かしいのである。
今朝早くも、気ままに開いたほんの数頁を静かに独り読み返していた。妙な作者と笑われるか。
2022 5/23
* 『ゲド戦記』第三巻を、熱中の気味に惹かれ惹かれよんでいる。わたしが、ファンタジー好きなのは、リアルよりもイデアルに身近であろうとするからか。
2022 5/26
* 『ゲド戦記』第三巻「さいはての島」を読み終えた。ル・グゥインという作者の作とは頭に有りながら、さながら一環の聖書か予言書か親和のように惹き込まれね嘆美と共感とに耐えぬまま読み終えた。世界文学の十指に数えたいほど、その展開にも表現にも思想にも魅了され共感・共鳴した。
* 烈しい雨だった。書庫内の一部絨毯がぐっしょり水に浸された。
2022 5/27
* 『ゲド戦記』第四巻へ。こうも惹かれるとは。
* 西棟から、露伴の随筆 荷風の語録 漱石の文明論 福田恆存の作家論 それにアンドレ・ジイドの短編集をこっち(東)へ持ち込んだ。
2022 5/28
* ざいらい、「桐壺」につづく源氏や頭中将ほか色好み達の「雨夜の品定め」をあまり好まなかったが、今回は、面白いと思って読んでいる。
ダンテ「神曲」の地獄めぐりは、二度さんどと読み重ねればきっと心惹かれて読み耽るのではないかと。
何と謂うてもミルトン「失楽園」は五度目を読んでいて、一行ずつの詩句にぐいぐい惹き込まれる。いままさにイーブに誘われアダムも禁断の木の実を食べて、忽ちの天罰に夫婦は裸形を恥じらい合っている。失楽園の山場である。
「水滸伝」はただただ面白い。「豪傑」という言葉が私こどもの頃には子供達の中で生き生きと尊敬されていて、自身賛嘆贔屓の「豪傑」になりたがった。塙團右衛門だの後藤又兵衛だの岩見重太郎だの今の子供達はかけらも知るまい「豪傑」たちに成り変わっては大声で名乗りながらチャンバラしたものだが、「水滸伝」十巻はそんな「豪傑」輩出また輩出の大長編講釈で、何処ででもいつでも目に読み耳に聴ける。そんな豪傑等の大集合が結果は「反官」に大結束するのだから溜飲もさがる。
世界的に傑出したファンタジー「ゲド戦記」の第四『帰還』では、主人公のゲドにかわり、アチュアン闇のの地下宮をゲドと倶にのがれてきたテナーと、不思議を秘めて力ある大やけどの女児テルーのいわば母子愛物語かのように展開しているが。まことに傑れた作者である、アーシュラ・ル・グゥインは。読み耽らせてくれる。
ゲーテの『ファウスト』第二部を咀嚼しうるには、さらにさらに歯を磨かねばならぬ。
『参考源平盛衰記』は、とてつもない乱雑「話題の宝庫」であるよ。
2022 5/30
* なぜか手近へこぼれ出ていたようなも大昔の雑誌「思想の科学」を手にし、亡兄北澤恒彦のかなりな力編と謂えようか「革命」を語った長い論攷と、この兄が、私恒平の昔の作『畜生塚』のヒロイン「町子」の名を、生まれてきた娘に貰ったよと手紙で告げてきていた北澤「街子」が連載途中のエッセイを、朝飯前にさらっと眺めていた。この「思想の科学」は今は亡い鶴見俊輔さんを中芯に結集した人等の大きな拠点であったようで、兄恒彦はその中核の一人、老いの黒川創もその「編集」等に参与していた、、ま、一種の京都論派の要であるらしかった。京都で盛んにウーマン・リヴを率いて後に東大教授としても活躍した上野千鶴子さんも仲間のようであった。姪の街子はオーストラリアの学校へ遊学していたのを下地のような、長い連載エッセイを書いていた、らしい、健筆のちからを見せている。創や街子の従兄弟にあたる私の息子秦建日子も、いささか八面六臂に杉目ほどの小説作家・演劇映像作家として多忙に過ごしている。
近年にウイーンで「悼ましい死」をとげてしまったと聞く下の甥北澤「猛」が文藝・文章を書き遺していたかどうかは知らない。聞いていない。彼かあとを慕って追った人はよほどの年長であったと聞くから、我々の実父母、彼には実祖父母に当たる間柄に似ていたということか。
私たちの娘で建日子の娘である押村朝日子も、謙虚に謙遜に続ければ、また夫の理解があれば、けっこう達者な物書きへの道へ入ってたろうに、早くに潰えた。心柄と謂うしかないのだが。
とはいえ、こうしてみると「私たち兄と弟」を奇しくも此の世に産み落としていった亡き実の両親は、文藝の子らを、少なくも二た世代は遺して行ったことになる。
「北澤」という家を皆目というほど私は知らないで来た。今も知らない。
私方では、妻の父は句を、母は歌を嗜み、息子は「保富康午」の名で詩集を遺し、テレビの草創期から関わって放送界で創作的に働いていたし、妻の妹は『薔薇の旅人』という自身の詩集を持ち、画境独自の繪も描く。妻迪子も、実はしたたかに巧い絵が描ける。
* たまたま、とも謂うまい、意図して私は「湖の本」新刊の二巻に、恒彦・恒平兄弟実父母の、いわば「根」と「人としての表情」を、ならび紹介し得た。出逢って忽ちに天涯に別れて生きた男女、恒彦と恒平とを世に送りだすためにだけ出逢って忽ち別れた母と父とのため、私の思いのまま、それぞれの墓標を建てたのである。
2022 5/31
* 明治三十年四月に第三版を出している『明治歴史』の著者坪谷善四郎「自叙」に、「何をか徳川氏の祖宗が子孫に胎したる政策にして衰亡の原因を爲せりと云ふか左の諸件是れなり」と斯く列挙している、
一 京都の權を抑ゆ
二 親藩の權を養ふ
三 諸侯の力を弱らす
四 門閥格式の制を嚴にす
五 外国の交渉を避く
六 天下の富を江戸に集む
此の六種の政策は實に徳川氏の祖宗が子孫百世の大計として定められたるものなり鎌倉幕府以来の覇権を保持して皇室の威權を抑え三百諸侯を制御して毫も喙を施政の上に容れしめす天下を挙げて樂しんで太平を謳歌せしめたるは此の政策に由るなり然りと雖ども此の政策を行ひしが爲に後年に至り君民上下の憤怨みを招き遂に滅亡に就くに至れり今其然る所以を略述すべし
と。この要約で実に多くがたちどころに理解できてくる。もとより、これへ大きく加えてペリーの来航、外交折衝の強要に近い切迫があったこと云うまでも無い。明治はかくて必然多大の苦悶と開明・開花の時機を得たのだった。著者の、上下巻1200頁に逼る大著『明治歴史』は描かれ書かれて行く。私は是を、秦の祖父鶴吉が遺蔵の書物のヤマから抜き取って初めて読もうというのである。予備運動のように私はすでに同じく祖父旧蔵の山縣有朋『椿山集』および『(成島)柳北全集』に学んで二巻の著を成して置いた。明治は四十五年、鎖国を一転して世界の一流國であらんと富国強兵に腐心し奮起してきた。私は遠くなりし「明治」に大きな興味と関心を覚えながらも、通俗の概説教科書をしか読んでこなかった。いよいよ、その「同時代」視野と言葉とで書かれた論著を、何としても読了したいというのである。それをどう生かすというに足る残年も得られなかろうに、である。酔狂と嗤われるだろうか。
2022 5/31
◎ (坪谷善四郎著『明治歴史上巻』第一編 維新前記)
維新の革命は開闢以来の大革新なり (以下 抄出す 秦)
慶應三年十月十四日は實に我日本帝国 歴史上に於て最も重大なる革新を招致せる日なり 徳川幕府が二百七十年間握有せる政権を捧げて之を朝廷に還し奉り久しく虚器を擁して實權を有せさせ給はさりし皇室に於て親から萬機の政務を行はせ給ひ 普天率土王化周ねく施し及す端を發したる日なればなり
* だいたい私は幼来 祖父鶴吉所蔵の旧本に先ず親しんだため おおよそはこういう文体をのみ音読また黙読して幼稚園 小学校 新制中学の頃を過ごした。父は少年の読書を目を痛める極道と厭い、本を買ってくれることの絶えてない人だった。幼稚園で提供された「キンダーブック」が唯一外来の新刊だったが、それを祖父の重たい本の数々よりも愛読したという思いは記憶に淡いのである。
しかし、講談社の絵本の比較的揃っていたご近所の家へ上がり込んで読んだ生々しいまでの繪と物語は、ふしぎなほど私には怖い怕いと思われた。万寿姫も百合若も阿若丸も、一寸法師ですら、なまなましくて怖かった。貸して貰った漫画のたぐいも「のらくろ」は楽しんだが、「長靴三銃士」などは怖かった。そして漫画は好かなくなった。敗戦後の京都へは戦火を避けたり海外から引き揚げてきた家族や少年少女が多くて新鮮な文化革命を実感したのは、彼や彼女らがみたこともない「本」のもちぬしたちであったこと。少年少女小説という分野が有り、菊池寛 川端康成 吉屋信子 佐藤紅緑などの名は何よりそれらで覚えた。しかし、大病が幸いして入院していた町医者の家の敷いた寝床の頭に書棚があって、漱石全集も ああ無情も モンテクリスト伯も そこで手にしていた。甘味に寄る有りのように私は本という本に魅されていった。ご近所のおじさんが呉れた蒟蒻版『一葉全集』すら中学の初年には愛玩していた。いやもう「本」をめぐる想い出には際限が無く、もっと知付いて一度順序立てて書いておきたい。
2022 6/2
■ とうとう六月に入りました。お元気ですか、みづうみ。
素敵なメールをいただき嬉しく、ありがとうございます。昨日はお願いしていた三冊も無事届きました。大切な方にまたプレゼントしたいと思います。御礼申し上げます。
「私は信仰者には成れないようですが」とみづうみの仰言っる意味はよくわかりませんが、「信仰者になれない」と考える人間のほうが、むしろ聖性への感受性が高いのではないかと思います。
戦後八年間のシベリア抑留の深い傷から生涯立ち直れなかった詩人の石原吉郎は、信仰が「危機に即応するようなかたちで人間を救うものではないことを痛切に教えられた場所こそシベリアであった」と書いて「教会は私にとっては、人間を平安にするところではなく、むしろ不安にする場所であった」「だまっている神の沈黙のおそろしさというものが、いわば、ぼくの信仰の内容」と語っていました。神を呪うというかたちも一つの崇高な宗教的人間のありようだと思います。
私をキリスト教に導いてくださった方々は、「神を呪う」「神の沈黙をおそれる」という深い経験と共に、聖なるものを求める信仰者であったように思います。私は自分が、みづうみのお父上に聖書を贈られた「ひろ子」さんのような素直な信仰心は持ち合わせていないなぁと思います。もちろん「ひろ子」さんの信仰のかたちを否定するつもりはまったくないのですが、「信じない」と明言するひとの中にも信仰は存在するかもしれません。神への道のりは本当に人それぞれです。
「何でも 訊いてください」とのお言葉をどう受け止めたらよいか戸惑います。みづうみは、わたくしにとって「神の沈黙」を感じさせます。これまで何かを訊いてお答えいただいたことは、殆どありませんでした。みづうみは「わかる人には言わなくてもわかる」とお考えです。ですから「わかる人」ではないわたくしは、困ったちゃんで、いつもわからないままです。答えを得られないのはたぶん問いが悪いから、力不足だから、それでしかたないと思っています。
「何でも」ではなく、ここまでなら答えますと線引きしていただいたほうが、みづうみにもご不快感を与えないと思います。
作者と同時代に、近くに生きている人間には本人から直接訊ける特典があり、それを活用しない手はないとしても、何かを訊くことは、それも目上の方に訊くことは大変失礼なことです。お怒り、失笑をかうものです。もし記者ならそれでも突き進むべきでしょうが、そこまで厚かましくはなれそうにありません。私は取材は出来ない人間でありましょう。
みづうみの作品を、自伝のような「私語」や大量のメール含めて、誤読して曲解して、みづうみをわからないままに終わると思います。ただ一つわかっているのは、「秦恒平」が生きる甲斐ある「問い」を私個人に与えてくれることだけです。 春は、あけぼの
* 以下に掲げられてあるお尋ねのほとんどは、残念のもうきわどく数えられる今の「やそろく爺」にき、公開に及ばない私的なことではあれ、堪えられないほぼ何もない。別途に、少しずつでも、答えて差し上げようと思っている。
私は、秦家に貰われ育ち始めて、そう間もない頃から「死」という「現実」に畏れかつ怯え、しばしば思い描いて声挙げて泣いたのを、今でもはっきり覚えている。八月十五夜、盆の頃に、親や叔母に連れられ五條松原坂の珍皇寺に、地獄の窯のあく日と教わりながら凄い人出に混じって詣り、大勢で綱を牽いては窯の蓋をあけようと鐘をつき、絶対に見たくない地獄絵をやはり怯えて観て帰ると、その晩は声を放って泣いた。寝間の暗い天井へ吹き上げるように泣いた、忘れていない。
自分を今も仏教徒ともクリスチャンとも到底思えない、のに、思念や想念の下地に執拗なまで神仏をたのみ口ずさむ思いのあることに自身呆れている。読書にもあらわれて、仏典も聖書も、バグワンも、数々の宗教的な書物にほぼ日常的に手を出している。いまも『失楽園』『神曲』『ヨブ記』『法華経』を日々のために身に引き寄せてある。『ゲド戦記』のようなファンタジー」でさえ一種の信仰書のように私は愛読している。が、そのためにお寺、お宮、教会等の人たちに接したい聴きたい記はないのである、一種の傲慢かと感じている。
2022 6/2
* 「ゲド戦記」最終の『アースシーの空』を愛読している、あたかも「信仰書」かのように。
2022 6/3
* ことに漢字・漢語を覚えそのおもしろみに馴染むのが、和語・やまとことばの其れより覚えやすく分かりよくことに幼少時には「得意」であった。いま「湖の本」のなかみにまま漢語を用いているのは、なにもその由来に知識が行き渡ってのことでなく、字面に於いてオモシロイなと自ままに流用している程度である。
そういうところから、老荘の孔孟のは恐れ多くも、ことに漢詩の五絶、七絶また律詩にははやくに惹かれ、祖父鶴吉の蔵書のなかでも唐詩選、ことに白楽天詩集は、むろん解説や語釈つきであるが、まことに早くから親しんだ。ことに「新豊折臂翁」など感動し、感化され、将来小説を書くならこれに就いて書きたいと殆ど決意して、その通りに「或る折説臂翁」を処女作に持った。一九六○年の頃であった。自然(返り点がついてだが)漢文には親しみやすく、高校国語でも「漢文」を選択し、教科書などみなすらすら読めて岩城先生に驚いてもらったりした。同じ教室で返り点の漢文でも苦もなく読める一人もいなかったのを思い出す。但し現中共中国のあんな新体字はだめ。読めない。
* なにより漢字漢語には「熟語」があり、これが親しんで教えられ面白い魅惑の手がかりとなった。祖父は、いわゆる小説の類は蔵してなかったけれど、老子莊子韓非子また四書五経の類、歴史書、詩集に加えて漢字漢語の大冊の事典・辞典を何種も遺してくれていた。今も史記列伝を愛読最中で、四書講義や十八史略もありがたく、書架に場所を塞ぐけれどもな大事にまもって時に教えて貰う。辞典・事典の好きな祖父であったのは実に実に有難かった。
それでいて、いま「湖の本」の書題に借用している四字熟語などもべつに原意や由来にそくしてなどいないで、字面を好き勝手に愛用している程度。
老蚕朔繭 水流不競 哀樂處順、優游卒歳 流雲吐月 濯鱗清流 一筆呈上 虚幻焚身 等々、なにも難しくは考えていず文字面に感興を覚えている程度。和語ではこうは締まらない。
2022 6/4
* 宗教か信仰の書のように打ち込んで愛読し耽読し続けてきたル・グゥインの『ゲド戦記』全五巻を嘆賞の愛読で読了した、何度目になるだろう。世界の名作と敬愛することもう歳久しくて聊かの飽きもないどころか、震え寝ような共感に多くを教訓され続けてもいた。感謝に堪えない。
* 続いてはトールキンの世界に聞こえたこれも名作『ホビットの冒険』を読み始める、もう何度目だろう。
加えて坪谷善四郎の『明治歴史』上巻も、日々「読み・書き」に加わる「読書」の一冊に加えている。『神曲』『失楽園』『フアウスト』ルソーの『告白』『カラマゾフの兄弟』『水滸伝』『宋史日本伝』『史記列伝』またも『源氏物語』『参考源平盛衰記』ジイドの講演『ドストエフスキー』『イザベル』『ホビットの冒険』一日に沢山は読まないが、少しずつでもみな欠かさず読んでいる。 創作のための「調べ読み」数々は、倣平安の暗いような明るいような恐い交期を、上の読書とは別の必要に迫られて、当然興に惹かれること多し。
目がどんどん霞んできたのもあたりまえと云うこと。
「書く」のは此の日録、私語の刻と、何種類かの創作進行のため。読み書きし読書しているから生きのびていられる。これで疲れ果てたらお終いと云うことか。致し方ない。
2022 6/5
* 朝っぱらから「日本霊異記」や周辺を拾い読みしていた。そして疲れ寝したり。
* 吐息して頭が下がってくる。体に生気がない、五感に無い。睡い。
限界へ来てるなら向きを替えねば。明日予約の散髪で気分が変われば、体を動かすことを考えたい。近くの病院へも、歯医者へも、眼科で検眼も眼鏡の新潮も。まさか倒れはしまいが、自転車は避けるか。気晴らしが欲しいのでは無いか。
* 映画を観たり、湯に浸かって「水滸伝」を読んだり、酒にしたり、つまりは少々怠けて過ごした。何かしら力めないと目が開けてられないほど芯が疲れている。薬品で治るというものではない。気が変わることが大事なのかも。
2022 6/9
* 徳川氏の祖宗が子孫に胎した政策にしてまた衰亡の原因を爲したのは、
一 京都の権を抑ゆ
二 親藩の權を養う
三 諸侯の力を弱らす
四 門閥格式の制を嚴にす
五 外国との交渉を避く
六 天下の富を江戸に集む
と断じた『明治歴史』著者坪谷善四郎の冒頭の掲示は、数百枚を擁したであろう「徳川」政治の表面の長、本性の短を洞察し喝破して、十二分なことに驚嘆する。感嘆する。まだたった7頁しか繰っていないのだ。
それはそれ、本の表紙には著者坪谷の氏名に先立って「従二位東久世通譆伯題辭」と麗々しいのは明治の本では「お定まり」のようで、少年以来しばしば目にした。あれで中学の頃、行きつけの古本屋に部厚い『明治大帝』が比較的廉く売っていたのを私は気張って買った。明治天皇にはさしたる興味は無く、その本の大半を占めて明治に華族制が出来て公侯伯子男の爵位者全員の頁大顔写真と行跡が略述されてあるのが「便利」と買ったのだった。公家華族に加えて新華族ができ、明治時代を制覇していた連中の顔と名とを見知っておくのは「歴史好き」には必需の知識だ、と考えたのである。そのために、まことに子とのあれこれに纏わり携わった連中の名を昭和の少年ながら私は多く記憶していた。訳にはたったのである雑知識の人的支えとして。
* 序でに思い出して置くが、家から近い東山線の白川に近い古本やはもっぱら立ち読み、「ボン、もうお帰り」と帳場の小母さんに追い出されるほど長時間読み耽ったが、むろん「買う」金はお年玉の残りぐらいしか無かった。で、かったと記憶しているのは、中高生じだいを通して、三冊。一冊が『明治大帝』もう一冊が斎藤茂吉の自選歌集『朝の蛍』これは立派な感動的な買い物だった。もう一冊は失敗『地学』という教科書だったが、あまりに難しくて投げ出した。
* もう一つ序でながら河原町の新本やで、生まれて初めての岩波文庫シュトルムの「みづうみ」☆一つ(10円)を買い、すぐ☆の値段が一つ15円に上がった中学二年のお年玉で『徒然草』、三年のお年玉で『平家物語』上下巻を買ったのを忘れない。
* 本は人に借りて読むのが一番と思っていた。小学校五年の二学期に大病して懇意な松原通の樋口医院に入院の頃、医家の本棚で漱石全集を見つけたが手に合わず、新潮社の全集ではじめて『モンテクリスト伯』『ああ無情』を手にした。中学時代はかりられる先からは見境無くかりて、バルザックの一冊に魂を抜かれるほど感動した。のに、いまその大が出てこない、が、ヒロインは「モルソーフ夫人」、そうそう『谷間の百合』だった。
2022 6/11
◎ 明治二十六年刊 『明治歴史』上巻 抄 坪谷善四郎著
◎ 抑も井伊直弼は其の施設の政策當時正義の士に憎くまれ天下の怨を買ふて非命に斃ほれたるも其人の才幹機略は幕府の政務を一身に擔ひ斃るヽまでは止まざるの気概を有し頗ぶる政治家として見るべきものあり不幸にして此人斃ほれ幕府又一人の大難の衝に當るに足る者なく益ます天下の望を失へり。
元来幕府の舊制諸侯にして匹夫の爲に首を非命に喪ふが如きあれば其封土を奪ふの例なりしかば彦根藩士は皆主家の滅亡を憂へ大に騒がんとする色ありければ幕府は事の穏便を謀る爲に故らに死去と認めず負傷の届出を爲さしめ數回慰問の使者を送り首級は浪士の手に奪はれたるに尚ほ見舞として鯛の味噌漬氷砂糖等を贈りて以て其の騒擾を制し四月七日に至りて喪を發し其子に本領安堵を命せしかば天下皆其の事の児戯に類するを笑ひ益ます幕府の威信を減じたり (頁78 79)
○ 委曲を尽くして精は精、略また機微に触れて詳しく、名著かなと嘆賞を隠さない。
2022 6/17
* 夜前は低血糖の再来を虞れ、結局、午前二時を回るまで、新たに『イエスの生涯』など、数えれば13冊の文庫本等を読み継いでいた。『フアウスト』やルソー『告白』が如何に成っていったかなど、興趣大。読書には疲れを覚えないとは勝手な不健康と云うべきか。しかも三時間余しか寝ていないで、起きて二時間、「マ・ア」とも付き合ってやりながらここまで書き置いていた。
2022 6/19
* 睡魔に、食われてしまうよう。
* 『参考源平盛衰記』は、歓迎に値する「奇妙」の編集で、一つ事を時に鬱陶しいまでえんえんと伝聞のまま記録してあり、謂うならば「参考」とは、よほど猥雑ではあれ今日各紙の新聞記事を「一つ事」ごとに倦まず積み重ねているよう。
* 『史記列伝』は、先史期戦時に諸国の施政に顔を突っ込んで智恵や策を売り込んで歩くまさしく「策士」連中の成績集、簡潔に要点を捉え那賀に大きな史実・事実の芯をつかみ出している。私に政治外交しは「悪意の算術」と終えてくれた教科書のような文献。
2022 6/23
* 『明治歴史』胸を衝かれてつい詳記してしまうが、能う限り原文ママに執着するとえらく時間をとられる。しかし仮名遣いはもとより。明治人の文体と佳い口気といい、わたしは秦の祖父明治の人鶴吉が多く蔵書の感化を過剰にも受けてきたと頭を搔く。
2022 6/26
* 朝いちばんに、平成十八年ヘまで遡っての「汲古」第50号 浦野都志子さん(元・東大綜合図書館司書)の、「『遊仙窟』と黒河春村」に始まり、第73号、黒河春村『自著目録』と筆頭著録の『万葉集墨水鈔』について」を弱い目を皿にして読んだ。感服し、いろいろに興をそそられた。77号には「黒河春村著『節用集考』を巡って 附説『類字墨水鈔』と『碩鼠漫筆』」が、79号には「黒河春村編『古物語類字鈔』について」が、81号には「黒河春村の『尾張国解文』研究について」か相次いで発表されていて、その精緻に周到簡潔な言及論攷、そぞれにた痛くそそられる。さらに別紙を副えて、『遊仙窟』の読解鑑賞に必需の関連資料、春村の『遊仙窟類標』の「例言」を、コピーして送っていただいた。「因みに幸田露伴の『遊仙窟』は春村「例言」の換骨奪胎と推測しています
ともお手紙の中に添えてあった。痺れる有り難さよ。深謝感謝。「湖の本」で私が『遊仙窟』に好奇心ありと見て取られての、打って返すほどのご厚意であった。ベンキョウします。
* 明治二十六年刊 坪谷善四郎著『明治歴史』上巻の抄記は通読にも大変な労作、抄記していては他の仕事に時間的に障りそうなので、休止。
*『失楽園』を、またまたまた、読み終えた。
2022 6/30
* 『失樂園』は、やはり、すばらしかった。またまた読み進んでいる『ファウスト』も精緻に研究された成立史も参照しながら読んで行くと、ゲーテという偉大な詩人にして超絶の才能に、名のためらいもなく手を牽かれてその世界へ導かれる嬉しさに浸れる。
* 『神曲』は、まだまだ手強い。ダンテの昔の、当時に実在した著名な死者達に触れた知識をほとんど持っていない。ま、どんな本も、ミルトンもゲーテも、もとは手強かったが、胸を開いて繰り返し近づくことで作世界へ馴染んでこれたのだ。
しかし創作ではないシュヴァイツァーの学究『イエスの生涯』となると、基督者で無く、聖書をうわべの知識としてしか読めていない私には、「理解」の手がかりが余りに少ない。私には「時期尚早」と断念しかけている。
その点では史書としての『史記列伝』講釈本としての『水滸伝』夢想の『遊仙窟』など中国古典は、私自身の背に、世界に冠たる「詩」と「漢字」世界への敬愛・傾倒を負うて読んでいるので、大いに親しめる。ただし、私自身の不埒ゆえか、老子、莊子、論語とうとう道學の方面へは手を引っ込めたままでいる。
今、知りたいのは、朝鮮半島の詳細な「全史」が日本語で読めるなら、とびついて勉強したい。ナニ、殊勝なはなしではない、わが家では日本勢のチャチなドラマに飽き飽きしていて、韓国製と思われる大作「い・さん」「とん・い」 いま、とりわけてペク・カンヒョンの「馬醫」などを、それぞれ少なくも二度以上も愛して見ていて、自然とこの國と国土の歴史が識りたいなと願うのである。幸いに「古代史」のよく出来た大綱ほんは持っている。中近世の深切な教科書が手に入らんかなあと。
2022 7/1
* 毎日読みの枕辺図書から、『イエスの生涯』と、読み終えた『失楽園』とを書架へ返し、ルソーの『人間不平等起源論』と『遊仙窟』『大和物語の人々』それに、この「私語の刻」に暫く抄記していた大冊『明治歴史』を持ってきた。大いに楽しめる。本の読めているうちは、老境とて、生動している。
2022 7/2
* 「文士」としての自分の日々を「読み・書き・読書」と要約しているのは、私の場合、ほぼ言い尽くせている。
最初の「読み」とは、現在・未来を分かたず「書くため」の資料文献の調査や検討・研覈・吟味・鑑賞、つまりは、必要な勉強。たがって私の関心や意欲が多彩多般に亘っているときは、余儀なく、多く時間を割いている。勉強と禁欲との釣り合いを見失うと、膨張破裂を招いてしまう。
「書き」とは、事実上の執筆・創作行為。
そして無差別に広範囲の「読書」。
ほんとうは、善き人との「対話」「検討」の加わるのが望ましいが、今の私には人も機会も、望んでも得にくい。
2022 7/3
* 朝一の起き抜けに『遊仙窟』を読み進めると、鏤めた主客の美女美男翻逸の詩に情欲が沸騰しはじめ、男は「終日在皮中」と「小刀」で迫り、女は「空鞘欲如何」と「鞘」で誘う。「おやすくない」と、侍る五嫂がひやかす。「やそろく」老とても熱くなる。
『遊仙窟』を愛読された村上天皇さんとお話がしてみたい。
2022 7/6
○ 今日、湖の本 (158)受け取りました、有り難う、御座いました、ご無沙汰して居ります、長い間、機械を使わずに居りましたので、使い方を忘れてました。やっとです。時候柄、お大事に! 渋谷 華
○ メール有り難う、御座いました。変わらずお忙しそうで!
私は体力減退で ふらっとしてます。
湖の本、有り難う、御座いました。楽しんで読ませて頂いてます。
そろそろお祭り(=祇園会)で賑います。
私は一向に体力減退です。 渋谷 華
* 夫君を喪い寂しいですと嘆いてきていた。「やっとです」に泪が滲んで見える。同じ嘆きを何人に聞いてきたか。
この「華」は、高校生の顔しか 想い浮かばない。茶を点てて、柄杓の構えや扱いのきれいな一年生だった。わたしは三年生。茶道部を指揮して点前作法も諸道具のこともみな教えていた。校舎の一画に「雲岫」と呼ばれた佳い茶席を、校長室から「鍵」も預かって、気ままに、いつも、授業をサボってでも遣っていた。部員は増え、私の青春に男子の影はほとんど無かった。「女文化」ととなえ「身内」と説く「もらひ子」の心根は、京都東山に育って、遙かに遙かに、深い。国民学校で『百人一首』に親しんで短歌を創りはじめ、敗戦後に秦の祖父が旧蔵の小型な『選註 白楽天詩集 全』から七言古詩「新豊折臂翁」を識って愛読し、新制中学一年で与謝野晶子に教わって『源氏物語』を識りはじめ、三年生で、始めてお年玉で岩波文庫の先ず『徒然草』を、すぐ次いで『平家物語』を手に入れ、耽読した。『祇園の子』が短編の処女作となり、白楽天からは妻の励ましで『或る折臂翁』が、徒然草からは「菅原万佐」の名で長編『慈子 (齋王譜)』が、平家物語からは本名で受賞作『清経入水』が成った。ためらいの無い「一本道」だった、どの蔭にも「女子」の影が添っていた。男の影は、祖父(の蔵書)独り。メールを呉れた華さんも懐かしい「影」の一つ、云うまでない。
2022 7/6
* 八時の朝、往年の作を必要あって点検し添削していた。息をやすめたく、『遊仙窟』詩情の交歓を暫くにこにこ、いや、にやにや、愉しんだ。
女が誘う 平生好須弩
得挽即低頭
聞君把提快
更乞五三籌
男が出る 縮幹全不到
擡頭則太過
若令臍下入
百放故籌多
何をか謂わん。
2022 7/7
* 私の方は。心身停滞。エンジンが停まっているという感じ。幸い、何も今は、「ねばならぬ」という急の要も用も無い。たとえこの「機械」の界隈を片付けても、所詮片手間にはどうにもならず、置き場所を交換しているだけの無意味さで終わるなら、休息しての読書が上乗。数えたら毎日読みが十三冊に増えている。しんどいのはダンテの『神曲 地獄編』。むりむりに詩に訳そうとしてあるのが雑にこなれてなく、いっそ素直に普通語でで説明的に翻訳して貰いたかった。ま、これは第一読の通過読みと。『ファウスト』でも『失樂園』でも、もうそれぞれ数度めの読みを楽しんでいるのだ。ともに、ぐいぐいと惹き込まれる。
ルソーの『告白』三巻はやや情調の憾みあれど、また代表作としての史実的な重みは分かっている。『人間不平等起源論』も読み切りたい。るそーの小説『新エロイーズ』を手に入れたいが、なにしろ外出しないのだから、今は、ムリ。
アンドレ・ジイドの『ドストエフスキー論』がさすがの論攷・批評で、『カラマーゾフの兄弟』が引き立ち、はやくまた『悪霊』へ戻り読みをと願っている。ジイドのねま、かろやな『イザベル』も次いで読みしている。
ホメロス『オデュセイア』は読み終えて悲劇『イリオス』をじりじり読み追うている。これはまたゲーテの『ファウスト』第三編とも絡んでいて面白いのだ。
『水滸伝』は文句なしに全十巻をかるがると楽しんでいる。漢文の『史記列伝』の面白さも凄みも半端ではない。そしていまは『元史傳』の日本国情報を確認しいしい納得している
さて、日本の本は、一に、もう数え切れないほど読み続けてきた『源氏物語』の今は「夕顔」が哀れに生霊に取り殺されて荼毘に付されたところ、そして『参考源平盛衰記』はお寺の坊主達のやたらな大騒ぎを半分惘れながら、面白く。
もう一冊はトールキンの世界的名作『ホビットの冒険』を片や撮って置きの映画で楽しみながら大冊をいきいきと、どれもみな、毎日少しずつ必ず読み進んでいる。絶好。
2022 7/9
* 体調、最悪。寝入ることも出来ない。仕方なく、漢字・漢文に惹かれて『十八史略』『史記列伝』『元史日本伝』など読んで。寝られもしない。『史略』は中国草創神話とも謂うべく面白く、『元史日本伝』は元の側でのあの「元寇」事象など読み取れて興味深い。」
2022 7/11
* 食もノドを通らない、あたももたげられないほど疲れていながら、映画だけは愉しんでいる。幾らでも、すてきな、撮って置き佳い映画の板がある、和・洋ともに。映画館へ行ったことも殆ど無いに同じ、行きたい思わないが、家出映画を観るのは「読書」同然に好きである。好きなものが在ると、どう疲れ切っていても、集中できる。『元史日本伝』なんてシナの本でも、私は面白いし読んでいると疲れ忘れている。
2022 7/12
* 何もせず、眠さのママ寝付くとする。夕方入浴して、ジイドの『イザベル』を読み終えただけの一日、それもたいした作でなかったが、わたくしの低調が響いていたのだろう。ジイドというと青春の昔が懐かしい名であります。
2022 7/15
* 無茶に右肩が凝って痛む。なんで、と、思い当たった。夜前の寝入りばなに、ふと、目に付いた重い全集本のうちの『保元物語・平治物語・承久記』を寝床へ運んで、重い本を上へ、右へ、左へと持ち換え持ち替えながら『承久記』を読んで仕舞ったのだ、私の小説『資時出家』や『雲居寺跡』の背後にあった事変であり、史書である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、もう小四郎義時と後鳥羽院と承久の衝突へと立ち至っている。
私は昔から和歌の詠めない後白河院には惚れ、歌は巧いが後鳥羽院は嫌ってきた。軽蔑すらしていた。いまドラマの主役北条小四郎義時は、なかなかの、なかなかな、男なのだ、ドラマよく「表現」している。
承久の変は、初めて関東が京都をブッとばした政変であり、後鳥羽院は隠岐へ押し流される。天皇の配流は崇徳院に讃岐への前例があるが、隠岐の島へとはもの凄い。賢い義時はそれを敢行し、聡い泰時との二代の「執権」政治で「鎌倉・北条時代」を生んだ。時頼を経てあとへつづく北条時宗は、元寇、蒙古襲来を凌いでくれた。
が、此の本、興深く面白くても、寝て、手に捧げ持って読むには、重過ぎた、あまりに。
* 鎌倉殿「二代」頼家の問注所めく取巻きが、三、四人から、我も我も彼もと勢力睨みで「十三人」にも及んでゆく馬鹿らしさだか、京の後鳥羽院が輪を掛けた早とちりのお馬鹿で、一気に京と鎌倉との「ばか比べ」になるが、小四郎義時と御台所政子とが賢くリードし、武力の喧嘩にははるかに秀でた鎌倉方が、腕ぢからも無い京都側を もうまぢか、圧倒して行く。
2022 8/20
* 「湖の本 159」の編成、渋滞していたので無く、工夫を重ねていた。もう一両日ではんなり纏まるやろ。
感染者数、驚くほど急速、かつて無い多数を日々更新している。風邪やインフルエンザと同じと、英国は之を無視している。日本人の私は、まだ十分に慎重でありたい。
おう。もう十一時を過ぎている。
今日、希代のエロスに匂い立つ唐代の張文成作『遊仙窟』を、感嘆、読み終えた。『フアウスト』と『参考源平盛衰記』とが、抜群に、目下、おもしろい。
2022 7/21
* 寝起きの早々に『遊仙窟』に、十娘(じゅうじょう)最期の「おさそひ」に惹かれ魅されているとは。あえて和訳の「わやく」は避けておくが。
素手曾経捉
繊腰又被將
即今輸口子
餘事可平章
2022 7/22
*『遊仙窟』を愉しみに拾い読んで、いま疲れを休めている。どうも近年は、殊に「漢字」の國民と、「漢字」での表現や歴史とにまたひとしお惹かれる。『遊仙窟』だけでなく、いま、少しずつでいいからと手を出すのが『十八史略』と『史記列伝』。
日本の神話はなごやかな童話ふう易しさ懐かしさにも富むが、中国草創の神話と歴史はほとんど怪談のように自然と人間との秘密を教えられる。含蓄や示教の「凄み」よ。
* さ、下へ降りて、もう、寝転んで出来る仕事と読書とを愉しむべし。疲労に氣押され気分は文字どおりの「退屈」に悩むこと無くは無い、が、ヒマをもて余すムダでゼイタクな趣味はもって無い。家に「ま・あ」の元気に駆けていて呉れるのが、良薬。
2022 7/22
* このところの「毎日読書」の数に加わってわたくしを惹きつけている一冊は岩波文庫の高橋貞樹著『被差別部落一千年史』と、元の蘆陵 曽先之の著に、日本の大谷留男が訓点し、明治二十九年十月五日、大阪の岡本偉業館蔵版になる『十八史略(片仮名附)』とで、ともに新古双璧の名著。
* ことに前者は、私より三十年早い一九○五年に生まれ、私が誕生の昭和十年(一九三五年)には亡くなっていた一青年が、それも弱冠「十九歳」でみごと書き上げているまこと瞠目の「一千年史」、全頁くまなく揺るぎない希代の「名著」なのである。
私の生まれ育った京都市には各所に散在して「被差別部落」余部地区が在り、小学校ででも中学高校ででもなんら気疎い事実でなかったが、大人の口から漏れ聴いてきたいわば「耳学問」での「差別」の伝承や実際はただただ凄まじモノに聴いて取れた。
それにしても「十九歳の著者高橋貞樹」のその「歴史的考察」といい「現状と水平運動」の精緻なまでの追求・考察・筆致といい、しかも参考著書論文の渉猟、舌を巻く見事さである。私は此の文庫本一冊を、なにかの関心や問題意識にかられるつど、繰り返し読んできたが、いわば「日本人」ならば誰しも必読必携、岩波文庫の一冊で容易に手に入る名著なのだからと、今も推して憚らない。一千年来の日本人ならば、ひとりとしてこの本の伝える歴史と無縁な人はいない筈。
* 漢土の『太古』 まず「天皇氏」が「木徳」を以て「王」となり「無為にして化」してる。兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「地皇氏」が「火徳」を以て樹った。やはり兄弟が十二人、各「一萬八千歳」。
ついで「人皇氏」は兄弟九人、國を「九州」に分かち、いらい「一百五十世」「四万五千六百年」。
「人皇」以後は「有巣氏」が、構えて「木を巣とし木の実を食と」した。また「燧人氏」が、初めて「燧をきり」人に「火食」を教えた。すべては「書契以前」文字で書き表す事の無かった史実で、年代も国都も解りようが無い、と。
それにしても「木」といい「火」といい人の暮らしように賢く連繋している。
そして「太古」は「三皇」の世へ移るが最初の、「燧人氏」に代わって出た「太昊伏羲氏」が「蛇身人首」と怖いよ。しかし為政は理にあい「書契」に道が付くなど、そして以下続々としてゾクゾクするような「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」らの時代へ展開して行く、こういう中国の神話や歴史からみるとわが『古事記』のつたえる神話は、ままおとぎ話のように温かいお話ではある。
* 『十八史略』はむろん尽く漢文、それも大部。しかし優れて「知的」に感じられて「訓点」の深切に率いられ読み進めるのが頗る楽しみの、歴とした史書である。読み終えるには日時を多くひつようとするが、日々の愛読書に選んだ。謂うまでもない、これも秦の祖父「鶴吉」の旧蔵書の一冊である。「もういいかい」と呼ばれても「まあだだよ」と手は横に振る。
2022 7/25
* あっとうまに、正午まで寝入っていた。一時から、韓国連続ドラマの『花郎(ファラン)』を観ていた。蒙昔と謂えるが買い置いた『韓国古代史』上下巻のなかで「花郎」を説き語っているのを印象的に覚えていた。貴族社会でも見栄えのいい青年達を「花郎」と名づけ國力として組織していた。面白い発想だと思った。日本では出来まい。
2022 7/26
* 同じ京都でそれぞれに美学芸術学をまなんだ、私より一世代近くお若い羽生淸さんからも、お便りや、新潟の画家であられたお父上叔父上の画集などを頂戴した。派不参は、意匠の美学、模様や図案・装飾を語られる著作はそれ自体が美術のようである。
2022 7/26
* 手に触れた『遊仙窟』を明けた頁に,神がかった美女の「十娘」早々のお誘い。
勒腰須巧快 腰を抱くのは手際よく
捺脚更風流 脚をおさえれば、なお粋き
但令細眼合 細めた目と目が逢いさえすれば
人自分輸籌 わたくし 負けたわとあきらめます
恐れ入ります。(意を酌んでおく)
2022 7/28
* 自身を支えていられないほど。心身、よろよろして斃れそう。もう保たないのでは。何をどう始末付けて良いのか。自身、荒れてしまうことで中和するしか起っていられない。
* 幸いにそれでもまだ読書できる。漢字も漢文も読めて、『史記列伝』を愉しんでいた。二千年昔の支那の豪傑達がしのぎを削る、「悪意の算術」を尽くし國の興亡を賭して政略と武略とで奔命する。やるものだ。
2022 7/29
* 疲れたまま、まだ九時過ぎだが、朝が早かった、床に就いてもう休もう、本を読もうと思う。読書は、目こそ疲労するが、私には精気を受け取れる時間なのである。
2022 7/30
* そんな中でかんかんの日照りの夏を妻と定期の内科受診に厚生病院へ。往き帰り、タクシーをつかった。幸いに診察に大きな故障は無く、私などは、先生に気の毒なほどまあまあの健康体とのこと。それは有難いことで有り、ひびの仕事に紀元の善し悪しはついて回ってもとにかくそれをしつづけてられるという事実は感謝しなくては成らない。
しかし、私の仕事には、自身で処置可能のものも、人手を借りて前へ進めねばならぬ事もあり、後者は決して容易ではない。いちどひっかかると、解決がつくのに先方の理解や納得を得なくては成らない、それがお凡て機械的なメール往来でされるので、けっして綺麗に割り切れない。ま、いまのわたしは酷暑にも負けてふらふらの事態なのです。
* 私は前世紀末に東工大教授の研究費で、ともかくも先ずパソコンを買った。使い方など1ミリも識ら無かった。大教室で、盛京のパソコンと、「一太郎」を買ったよと謂うと、笑いが風のように教室に舞った。笑いの意味は識りようもなかったが、どうも機械本体で無く「一太郎」にありけに聞こえたのを記憶している。しかし以來依頼二十数年、私は今も「一太郎 承」とかいう板をインストールしている。何の信不審もない、成り行きに任せてきただけ。
「一太郎」になにか大きな故障の原因があるのだろうか。判らない。
* 「もういいかい」という呼び声が頻りに高い所から聞こえる。
「まあだだよ」と小声で答えているが。
* 茫然自失と謂うか。心身に「元気」が失せている。佳い読書で、躱したい。
2022 8/1
* 父母を倶にした実兄「北澤恒彦」でありながら、一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も私には欠けている。同様に一つ屋根の下で暮らした只半日一日の記憶も欠けている「母」を書き「父」を書いたので、「兄」のこともと思うが、なまじいに同じ世代を似た世間へ名も顔も文章も出して「生き」てきただけに、しかも兄の生涯にたった二度三度しか逢って言葉を交わしたことが無い。兄の著書は尾張の鳶さんの好意と配慮とで、甥の「恒」の編著二冊をふくめて、やっと四種四冊手に入っているが、内容で、「兄弟の触れ合う記載」のありそうな箇所は希有というしかない。ただ、初めて顔を合わす以前にも数通手紙を貰った記憶があり、出逢って以降「兄の自死」までの短期間には、書簡そしてメール往来の記録が、やはり数多く歯無いが幸い残っている。「書く」程のほどの何があり得ようか、識っているのはいわば接点の無い「風聞」なのである。兄の自死後の「想い出を語り合う」らしき会への呼びかけにも私は応じなかった。「なあんにも識らないで」離ればなれに生きてきた兄の、大勢の「他者」の口から聴かされる「想い出」にはとても私は耐え得ると思わなかった。「識らなかった」ことを人の口からでも識りたいか、「ノー」であった。そんなわたくしを「水くさい人」と謗る「甥・姪」を含めて大勢のあったらしいが、「私」の悲痛には無縁のものの心ない軽率の罵声にすぎない。
で、どうするか。私が手持ちの、抑も戸籍謄本にはじまる「内容ある」資料を手もとへ揃えること。すでに妻は兄の晩年の書簡を「清書」朱修してくれているが、兄恒彦の自認の「悪筆」は、これはもう、もの凄いのであるよ。兄が、パソコンに触りはじめ、初牛久メールを暮れ始めたのは、あれは自死以前の半年餘もあったろうか。あの年の六月に江藤淳が衝撃の自死を遂げ、半年後にきた澤恒彦もまた自死して逝った。「湖の本 20 死から死へ」はその慟哭の時機を記録している。「一九九九 平成十一年 七月二十二日」闇に言い置く・私語の刻は、「江藤淳氏自殺の報で夜が明けた」と書き起こしている。そして十一月二十三日 早朝 兄のこと として「兄北澤恒彦が死んだという」と書き起こしている。二十四年の昔ばなしと成っている。
さ。書けるかなあ、そんな「兄」を。毀誉にも褒貶にもモノがない、私の手に。
2022 8/3
* 狂いそうに煩雑な原稿処理と整備の雑用に追われ続けて 体調も低迷・困憊 生きた心地がしなかった。投げ出せば、何もかもが更に行き詰まる。が、つい今しがた、通過できた。まだこんなガマンの利く根気があるのかと、有難いと謂うよりもビックリした。それでいて、日々の読書は手控えてない。「参考源平盛衰記」も「水滸伝」も「フアウスト」も「水滸伝」もみな面白い、むろん源氏の「若紫」巻も。
「もういいかい」としきりに何処かから呼ばれている気がする、が、「まあだだよ」と呟きながら生きのびている。
*「恒彦」の関連本など、 尾張の鳶の親切で手に出来た、感謝。
この「兄」のこと、しかし、私には「理解が届くまい」かと思う。似た、感じがしない。懐かしがるほどの「つきあい」がなかったし、「理解の手づる」がみつけにくい。やってきたことが「互いに違いすぎる」のか。
書いたものを読んでも、文体もそうだけど、呼吸づかいがちがう。私に気をつかい気を配ってくれていたとよくわかっているけれど、呼吸している「世界」がちがう。「感覚」もちがう。知的に理解するのは不可能で無いが、いわば「女文化」の花がまったくこの兄には咲いていない。だから「懐かしさ」が湧いてこない。生母にも実父にも感じ得た「一体感」が湧いてこない。寂しい情緒でなく、淋しい無縁を覚えているのでは、と我が身を抓っている。
* 疲れてか、ボケてか、なにやら茫然と。それでも、今し方階下で読んでいた『明治歴史』幕末の薩長が、尊王攘夷か公武合体かて対抗したり親和したり、勝安房や大久保市藏や西郷吉之助らの顔を出してくる辺り、惹き寄せられた。
「歴史」は、いつも学びたい第一義か。
* 不安な躰違和に辟易し,今日は寝入るために起きていた感じ。もう十時過ぎ。なにをしていたやら、なにかも取り留めない。十数冊の、ごく少量ずつの気を入れた読書をたのしみながら眠りに落ちて行く。機械クンの気分も、私の不器用の故でもあって、決して宜しくない、らしい。
2022 8/6
* コロナ用心、酷暑、夏休み と重なって、印刷所での仕事は捗らない。ガマンして、待つ、待つ、待つ。読書があり、撮って置きの映画が在る。創作の前進を一に努めたい。浩然と努めれば良い。昨日から今日へ観た『ウォーター・ワールド』ケビン・コスナーとデニス・ホッパーがしたたかな女子役と競演して、なかなかに「懐かしい」海洋の映像だった。ノアの方舟も連想させながら現代映画として工夫と技とが利いていた。広大無辺と見える海洋の大いさの果てに「土」の島が見える歓喜は判るよという心地だった。
2022 8/9
* 『十八史略』の「禹」の時代の溌剌として怪奇な面白さ、『史記列伝』知謀の各位が丁々発止「悪意の算術」を闘わす凄さ面白さ、さらには「宋」の世を代表した「講談」文藝の長大代表作『水滸伝』の魂消た面白さ。視野を日本へ転じて『明治歴史』で徳川将軍家茂が大坂城に客死の前後、幕府と長州との軋轢・葛藤・悪意の攻防そして戰闘区々のありよう、まこと刺激的に而も説得十分に興味津々。強力なビタミンを確かと、而も大量に口に含む心地。
いまどき、こういう超然と当今現世を抜けて出ての「読書」を愉しむ人は、ま、めったに居まいなあ、まず、手近にそんな本が、ふつう、無い。みな、秦の祖父旧蔵の本に恵まれる「身の幸」である。いい「家」に「貰われ」「育てられ」て佳かった幸せだったとしみじみ感謝する。
祖父も父も母も叔母も、「秦家」の大人らは、頑強に堅固な、かつ目の前大切の普通の町びとであった。謂わば、微塵も「我から死ぬ」など衝動の無い「健康な」人たちだった。
2022 8/12
* 私は、いま、しかと心する。,此の自死に墜ちた兄や甥の足跡を決して追わない、踏みたくない、と。
私は、はっきりと、京・東山新門前通りの「秦」家が、「ハタラジオ店」が堅固に持して愉しんでいたと思われる「文化と生活」をこそ受け容れ、健常に生きたい。
大量・厖大な和漢の書籍・事典・辞典を秦の祖父鶴吉は孫の私に譲り伝えた。やわい読み物など一冊もなかった。
父長治郎は、女向きのの「錺職」から、一転、日本で初、「第一回ラジオ技術検定試験」に合格し、当時としては最先頭にハイカラな「ラジオ店」を持ち、電気工事技術も身につけ、戦前戦中をむしろ世の先頭で技術者として生き、戦後は、真っ先にテレビジョンで店先を人の山にし、電気掃除機も電気洗濯機も真っ先に商った。しかも観世流の「謡」を美しく私に聴かせ、時に教え、囲碁や麻雀も教えてくれた。一時の浮気や金貸しで母とも揉めたりしたが、私に此の今も暮らす家屋に費用の援助もしてくれた。九十過ぎて、その東京の家で、吾々の看取る前で静かに亡くなった。二軒ならびの西ノ家には今も「秦長治郎」の陶磁の表札が遺してある。
同居の叔母ツルは、若くから九十過ぎて東京で亡くなるまで、裏千家茶の湯、遠州流生け花の師匠として多勢の女社中を育て、少年以來の私のために花やいだ環境や親和親交を恵んでくれた。文字どおりのまさに「女文化」を目に観、耳に聴かせてくれた。.
母のタカは、私を連れて独り丹波の奥に戦時疎開生活をしてくれ、私の怪我や病気にも機転の対応で二度、三度大事から救ってくれた。今思えば家事万端に私の妻よりずっと種々に長けていた。弱げでいながら、夫や小姑よりもなお健康に、百に届きそうなほど永生きし、吾々の看取る前で亡くなった。
秦家には「死の誘い」を感じていたような大人は一人も居ず、居たと想われず、それぞれ亡くなる日まで「当たり前」のように頑強に死ぜんんに自身を生きていた。父も母も叔母も、少年の私の目の前で「組討つ」ように躰ごとの大喧嘩をしたこともある、が、誰も、一言も「死ぬ」などと口走ったことは無かった。
* 北澤の兄の書いた、また北澤の兄に触れた都合四冊の本を、私は堅くものの下へ封じた。私は秦の「恒平」であると。敢えて感傷のママに「読む必要は無い」と思い切るのである、少なくも「令和四年真夏」の現在、只今。
* 機械の現状が私には見えない。見通しが利かない。いつもいつも不安。
今、九時。夕飯後、読み読み寝入っていた。いま、何とも左右しかねる不安に掴まっている。気持ちが悪い。そんな気分のママにも『参考源平盛衰記』で、大相國清盛への反逆計画が発起の一人から密告され、掴まった一人、西光法師の、清盛に対する猛烈な反筮を面白く読み返したり、とうとうゲーテ『フアウスト』の第二部も最後まで読み上げたりしていた。この大著、読み試みてきたこと三、四度目だが、今回はじめてこの名作を流れるその意味・意図・志向・展開が見て取れてきたそうな「気」にまでなれた。『フアウスト』はまたまた必ず繰り替えして読むに違いない、ミルトンの『失楽園』に同じく。日本人には書けない。
* ナニだろう、この落ち着きの無い、闇のような不安は。
2022 8/12
* 笛大鼓・小鼓太鼓、鳴物藝の名手、重要無形文化財、藝多大の韻話出て先生にもなった浅草の二世「望月太左衛」さん、ぱちぱちと火花の美しい例年の創り花火(光る音付きカード)も添え、同じく藝大の院も出て博士になった「令和の撫子」鳴物の技も颯爽の娘「安部真結」ちゃんの美しい写真も大きく添えて、例の元気ハツラツ太左衛ブシの女手紙ももちろん、「浅草の色々」を華やかにも清々しい大団扇涼しく、どっさり贈り届けて下さった。むかあし、テレビ番組で「初めてのお使い」を健気に演じてみせたあのちっちゃな「真結」がこんなに美しく立派に育ったかと、よそながら私も嬉しい嬉しい。りっ゜にお母さんの後「継ぐに違いない。
毎年のように永い間浅草の大花火を屋上で見せて貰っていた。ある年は妻も一緒に居間からも見せて貰った。東京で一に懐かしいのは「浅草」と私に強く思わせてくれたのが太佐衛さんだった、その太鼓、大鼓、小鼓、笛の音のみごとに力強いこと、圧倒の美韻としか謂えない。
出逢ったのはほぼ四十年以前の国立劇場でだった。端っこで太鼓をうった小柄な太左衛、二十歳過ぎたかどうか、の「大力量」に素人の私、一瞬で仰天感嘆、その後にすぐ機会に恵まれて、以來最も親しい若々しい敬愛の親友である。
ああ、もう一度浅草へ行きたいが。すきやきも、寿司も、天ぷらも「浅草」だ。泣けそうに懐かしいよ。令和四年日本語版の察し「吉原細見 歴史と文化探究編の」の懐かしさ。この一冊を手にすればあの吉原で何一つ迷わない。懐かしい。国立劇場編の大冊子日本音楽の流れ「打楽器」も多くが細かに目に見えて、実に有難い。
〇 秦先生 ご報告をさせて頂きます。
今年六月、国立劇場主催”打楽器”に出演させて頂きました。偶然ですが、真結も現代邦楽に出演しました。今から40年前、同様の企画があり、一観客としても、一共演者としてもとても感動した公演でした。その公演に時を経て出演でき、うれしかったです。
また今年の一月号として掲載されました「月刊日本橋」の記事をお目通し頂ければ幸いでございます。葭町芸妓のおひろ姐さん藝歴88年の会に関連して取材され本当はおひろ姐さんのページだったのですが、けがをされ、私はピンチヒッターで出ました そしてこの8月号のvoiceに真結が取材されましたので同封致しました。加えて「吉原再見」ですが 2018年に発足した江戸伝統文化推進燈紅塾の活動を続けています中で、地域の小冊子として出来上がりました。
いろいろありますが引き続きファイトで取り組みます。 望月太左衛
* まぎれもない、まさしくファイトの人よ!
* 音も無く ヒソと暮らしているが。回り合わせとも云うか、その人物や筆致・口調にを微かに好まないでいて、『告白』を軸に、ジャン・ジャック・ルソーの著述と何種も関わり合うている。ぐれた哲学者でも思想家でも著述家でもあるのはいうまでもなく、いまは『人間不平等起源論』に触れている。書庫…書架にあるかどうか、『エミール』とはぜひ出逢いたい。
2022 8/16
* 六巻まで興趣に惹かれ読んできた『参考源平盛衰記』の続き、七から十巻を手もとへ出した。目録に、「丹波少将併謀反人被召捕事」から、「内大臣召兵事」此下舊有幽王褒姒烽火事今除之とあるが、除かずにおいて欲しかった。この書、巻之一から巻之世四十八まであり、その「引用書」は日本紀以降「通計一百四部」に及んで、通行本の岩波文庫『平家物語』上下巻の和漢混淆文とさま変わって、無数の異話異伝をはらんで往時の新聞記事かのように面白い。
古門前通りに根生いの骨董商林弥男氏が秦の叔母つるを介して「恒平ちゃんなら読まはりまっしゃろ」と、桐箱入り全冊をポンと呉れたもの。いま踊りの「おっ師匠はん」をしている同年の貞子実父だった。私の嫁にという話も内々にあったとやら、なん十年ものちにその超級の美形「おっ師匠はん」から笑い話として聞いた。如何にも、あったそうなことであった。世の中は、おもしろい。
2022 8/17
* 冊子「日本橋」などを拾い読みながら、枕元の灯を消したのはもう一時前だったろう。なにやら多彩に競い争う感覚で夢見ていたが、もう思い出せない、いろんな人影の交錯する夢であったのに。
2022 8/18
* 性など謂う「こと」からかけ離れ、何十年か。張文成の『遊仙窟』やときに『道教の房忙中』などぱらぱらと見もするが、最近は、葉徳輝の編になる『雙梅景闇叢書』のうちか『素女経』や、殊に白楽天の弟という「唐白行簡賦殘巻」中の『天地陰陽交歓大樂賦』の名文(原漢文)を愉しんでいる。「歓」は「勧」ともあるが、前が正しいだろう。
夫性命者人之本、嗜欲者人之利。本存利資、莫甚乎衣食既足、莫遠乎歓娯楽至精。極乎夫婦之道、合男女之情、情所知、莫甚交接。(交接者、夫婦行陽陰之道)其餘官爵功名、寔人情之衰也。
と、真っ向書き起こされてある。しかも以下の叙事修飾が美しくも情に豊か、想に熱い。白行簡の『大樂賦』じつに心憎い名文の著なのである、本は新しく綺麗で、私が買い求めたと思われるが、いつ手にしたか全然覚えない。白楽天の詩には少年の大昔から、祖父鶴吉の蔵書で久しく「愛読」を重ね重ねてきたので、その「弟」の著作というのに惹かれたのに相違ない。で、この数日前から机右にいつも控えてくれている。「やそろく」翁の気付け薬のようである。
* 午後、寝入ったまま、左鼻孔からかなりな量の、食べ物もかすかに混じった水分を吐いた。全身、骨と皮になって肉付きが無い。体力は払底して、よろめいている。それでもどこへか出かけて、なにかしら肉けのものが食べたい、が、その元気がない。生命力が霞んでいるか。
* それでも、『明治歴史』も『史記列伝』も読めて興を惹かれる。明日には、「湖の本 169」初校が出ると連絡があり。何かに打ち込めれば意気はあがろうか。「読む
という働きはよほど性に合っているか苦痛や不快を忘れて、何冊にでも手が出る。一冊集中という読みを私は近年むしろ避けている。十無いし十数冊を少しずつ読む。一書の絶対化よりも世界と感性の多様に馴染み馴染めるのを喜んでいる。十八史略 史記列伝 水滸伝 大樂賦 ルソーの告白 人間不平等起源論 高橋貞樹の被差別部落一千年史 坪田の明治歴史 参考源平盛衰記 源氏物語 ドストエーフスキーの悪霊 カラマゾフの兄弟 ジイドのドストエーフスキー論 ジンメルの斷想 トールキンのホビットの冒険 等々が苦もない程度の分量、つぎからつぎへ読んでいって惑うよりも、世界の広さ豊かさが嬉しくなる。躰を横にしているので、疲れよりも多様の面白さが流れ寄ってくる。そういう時間を灯に二回ずつぐらい重ねて、これからする疲労は感じない。
2022 8/18
* 日々十数種の本を読んでいて、しかもそれをさの灯しめくくれるのが、結局『源氏物語』だというには、驚く。「末摘花」まきのようにワキの巻を読んでいてさえ、そうなのである。
2022 8/19
* 目がよく見えない。機械では、かなり大きく字を用いているのだが。文庫本の字が読みづらくなつているが、手に重い本はつらいなあ。
2022 8/21
* 昨日 もと専修大教授から戴いた『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を 読み解く』は、まさしく、凄い。新発見の「関東大震災絵巻」に拠っている。こういう本も出来るほど、昔話になったか、いや、ただ昔話であるまいよ。
こういうのを絵入りで見ていると、つい白行簡の『大樂賦』などへ眼を逸らしたくなる。これはもう、なつかしい。優しくも美しい。原文で読んでいれば何の遠慮も無く堪能も耽溺すらもできる。
2022 8/23
* 若返れるとしたら、私は白行簡の説く『大樂賦』のに
ようでこそ、ありたいもの。
* このところ量を読むよりも、寝ている。体調のため はそれが効く。和綴木版の小冊子でつづく『参考源平盛衰記』が手に軽く、中身は興味深く、寝て仰向いて読むに最適、文庫本は字が小さくて。沢山は読まないなら大きな重い本でも字の大きいドストエーフスキーの『悪霊』などが惹き込む。しょっちゅう「調べ読み」の感じで読みあさるには新書版が助かる。『中国の歴史』『諸子百家』など、どうも中国の上古・古代史へ手が出る。明治本は、見た目より軽く字は大きめで、『十八史略』『史記列伝』『明治歴史』にはしょっちゅう手が出る。読み物もこのところ『水滸伝』に集中。周恩来夫人に人民大会堂での接見で「秦先生はお里帰りですね」と笑われたのを想い出すが、あのややっこしく諸国がしのぎを削った時代の「秦」の一段としたたかに「統一」「建国」へ走る時代に私の視線は集まっている。
2022 8/23
* ゆーうっくりなめて味わうほどに「解説」もふくめ「若紫巻」まで読み進んで、前九冊の岩波文庫「源氏物語」は第二巻へ進む。この世界の名作、もう少なくも廿度近くは読み返してきたが、微塵も飽かせないで感嘆させるのは素晴らしい。世界の名著の数々と併読していても、なお傑出して想われる。『十八史略』も『史記列伝』も『明治歴史』もまことに教えられて嬉しい。
2022 8/25
* 夏は、よる。真夏という時期が、真冬と同じに気に入っていた。
中学一年のb¥、武徳会に入会し、京の疏水で、好きに泳ぎ回れた。高い橋から跳び込んだり、潜りたいだけ潜り続けたりしていた。
一度は記録したかと想うが、疏水端のかんかん照りの舗装路を炙られながらてくてく歩いて家に帰ったが、三條通りへつく少し手前の川端に、あれは図書館なのか、公立か私立かの、がちっとした石造の建物が石段を七、八つ上に、シックな重いドアを明けていた。中に入って自由にいろんな書籍が読めた。信じられないほどだ、気に入った本の二冊まで持帰り借用も許されていた。日焼けで真っ赤っか、濡れた褌を袋にさげた中学少年が、厚さ十センチにあまる大冊で立派な『絵本太閤記』を持ち帰りたいと頼むと、何の斟酌もなく許可されたのだ、こっちで驚いた。一人前の大人になった気がしたが、ま、むさぼるように読んだ読んだ、大きめの活字と沢山な刺激的に美しくも怖くもある「繪」の数々に、抱きつくように読み耽った。
私は人に借りた本は、貸してくれた先のたとえ家ででも必ず「最低二度」繰り返し読んで了うまで帰らなかった。それが私の読書常儀だった。抱くのも重いその『絵本太閤記』も、この好機逃せるかと、繰り返し繰り返し座って読み寝腹ばって読んだ。口語ではない和漢混合のナニ会釈もない書き下ろしであったが、それはもう祖父鶴吉旧蔵本の『神皇正統記』などで十分読み慣れていた。親房本もこの太閤記も、純然歴史書であったのだから、じつに多く「言葉・文字/・史実や人名」を覚えた。
京の真夏のかんかん照り、水泳の武徳会通いのあれはもう「偉大な」とおもう好い土産であった。「やそろく」爺が生涯に嬉しかったことの「五十」の内には数える。
2022 8/26
* 夕食後 十九歳高橋貞樹の力編『被差別部落一千年史』岩波文庫を読み、『参考源平盛衰記』で嫡子重盛が父清盛をコンコン諫めることばに聴き入り、暑気の加わるのを感じて冷房を増しておいて寝入った。これが日々の疲労を凌ぐのに一等愉しくもラクな方途と思う。
創作の頁を充たせば「湖の本 160」入稿出来る。
2022 8/27
* 二時過ぎ。午後に、あらためて重い重い大冊の『悪霊』をあたまから読み始めて、森田草平訳の日本語にも親しみを覚えながら惹き込まれ、あまり持ち重くて、寝入った。偉大に重厚にしかし軽快ですらある名作。僅か数頁で心新たに感じ入る。
2022 9/2
* この機械が抱きこんだ文章や記録は、言語道断に多様で大量、重複もあろうを,少しでも整理しようと今朝の早起きいらい、書き進むべきも書き進めつつ、手を付けかけている。視力の衰え、目の痛みも進んでいるが「読み・書き・読書」は斷めも休みもならない、で、休憩に床に横になると、其処には読みさしの本がいつも十数冊。いまほどは、光源氏が父帝の中宮藤壺との秘密の仲になした「皇子」を父帝の抱いて光中将にも見せるのに、藤壺も光君も心中恐懼にたえない『源氏物語』の一場面、ドストエフスキー『悪霊』一組の男女交際の生き生きとした批評的な書き始め、アンドレ・ジイドの警抜で適確なその『ドストエフスキー論』が彼の作家としての特異な性格を暴くように指摘してみせる確かさ、『参考源平盛衰記』で平重盛か父清盛の後白河法皇に対する非礼を懇々として警める、流布の本ならせいぜいに頁と無い経緯をえんえん本の藩札も費やして記録しているのを、また『明治歴史』では最幕末、図らずも同日に、片や薩長への倒幕の密勅と、片や将軍慶喜による大政奉還の奉呈とが交錯する史実の不思議を、またトールキンの、ホビットバビンズやドワーフたちや魔法使ガンダルフの旅の宿り、等々を欣喜の想い出それぞれ読み進んで結句眠りもしなかった。「読む」「読める」嬉しさが「書く」「書ける」励みと一日でも永く好みに添うていて欲しいもの。
2022 9/2
* 相次いで、ルソーの『人間不平等起源論』 高橋貞樹の『被差別部落一千年史』を読み進み、『十八史略』原文を興味津々読み進み、同じく『史記列伝』も読み済み、娯楽の感覚で名だたる講談の『水滸伝』豪傑達の「ド活躍」を一話二話と惹き込まれ、読み進んだ。いま、一段と賛嘆の思い寄せているのは、偉大な作家、「ドストエフスキー」。
2022 9/2
* 一日して、なすことの多くドジに終え、疲れだけ残って、いま九時過ぎ。
* それでもジイドに教えられる「ドストエフスキー」そして『悪霊』には強く惹かれ、また、子の重盛説諭に謝る父清盛のおかしみをくどいほど云い募った『参考源平盛衰記』(巻六)を読み終えた。
2022 9/3
* 疲れました、ほとほと。しか前進したので、いよいよ次の発送という力仕事の用意にも取り組まねば、そして創作の二、三も、じりじりと。今日は早起きだった、午前を永く使って、とても早じまいとは行かぬが、午睡時間が取れるようにと気遣っている。「読書」は楽しみでり、且つアタマの体操の意味合いも。せいぜい映画も観るように。佳いこと好いこと、楽しむことは「クスリ」と。
2022 9/4
* あす、一頁分追加の校正刷りが届いて、問題なければ、「湖の本 159」責了に出来る。
疲れ果てているが、たゆみ無く今日も仕事を進め続けてきた。七時半をまわったところ。もう今晩は本を読んで寝てしまおうか。なにか、テレビにいい映画があるか。ねめに越したことは無いか.読むならば『悪霊』が呼んでいる。なに躊躇いなく惹かれて行く。「源氏物語」はことに惹かれる若紫がめでたい『紅葉賀』の巻に色好みの老典侍が登場する。小説「ある雲隠れ考」を書いた昔が懐かしい。『参考源平盛衰記』は哀れ鹿ヶ谷の謀議で清盛に憎まれた大納言成親が死出の旅路とも気づかず配所へ追いやられて行く。
2022 9/7
* アンドレ・ジイドの『ドストエフスキー論』に多くを教えられて、読了。現在の読書中を指三本で数えるなら、順不同『源氏物語』が朧月夜へ、そして『参考源平盛衰記』が巻七成親卿流罪事から俊寛等移鬼界島事を、そしてドストエフスキーの超大作『悪霊』をジリジリと読み進んでいる。圧倒の面白さ美しさ烈しさ。ドストエフスキーとの出逢いが余りに遅過ぎたと痛く痛く悔いている。『悪霊』についで、『カラマゾフの兄弟』へ。彼が到達の最高度の達成をしかと読み詰めたい、何としても。
他に、もう拾冊余を夫れぞれに楽しんでずんずん読みんでいる。『水滸伝』は桑原さんの訳本だが、『十八史略』『史記列伝』『四書講義』は漢文で。明治十年代に書き下ろしの上下『明治歴史』全二巻は、本格かつ詳細のまさしき幕末維新新明治史。往年の日本語がきびきびしている。
2022 9/14
* ギックリ腰・背骨の交点に音もしたほどの痛み。ロキヒニンを貼ったり吞んだりで和らげているが。どうにも滞って、視野が明るく晴れて弾まない。焦らず、ただ寝入るか。読むか。さっきも『明治歴史』で岩倉具視、三条実美そして薩長の合従、倒幕の密勅の出た奇しくもその同日に十五代将軍慶喜は「大政奉還」の表明という、奇蹟のような一日を読んで確かめて顧みつつ大いに惹かれていた。
惹かれる読み物はいくらもある。それで心身の荷が少しでも軽くなるなら、読書は大昔から私の一の好餌。
『史記列伝』の史機混淆、人材奔走のサマ・ナカで、思い切って「秦」一国の動向を焦点かと目をとめて読み進める面白さも、ナミでは無い。「秦」は歴史の最初に中国中原を統一国家として樹立し得た國だが、強かに腹黒いまで術策縦横の国であった、滅びるのも早かった。
* 一冊二冊と読み終えるつど一冊二冊と新しい本を枕元へ運んでいる。中世王朝物語全集から二冊本の『夢の通ひ路物語』という未讀作を持ち出した。昨夜オードリー・ヘプバーンの映画『尼僧物語』にまずまず納得したので、西欧ものを更に加えたいと思うが、小説物語でなく、『ツアラツストラかく語りき』に衝突してみたくもある。思案して、ニーチェの『この人を見よ』を読み始めた。
* 衝くように胸が灼けて、腹具合が悪い。ギックリ腰の痛みも辛い。目も睡く重たい。ドン詰まりに押し込まれているよう。眠れもしない。
2022 9/15
* 一日の殆どを床での読書のまま寝入っていて、刻限なども忘れていた。今ももう朝かと想って目覚めたら晩の九時いう有様。宜しいとはとても言えない、自堕落に心身を投じて何かに、いわば自分自身にむかい怒ってでも居る感じか。
ニーチエを読み始めて惹き込まれ、また慶応三年十月十四日、期してか、否、期せずして、しかも帰趨の必然、片や和倉具視らへの「倒幕の密勅」片や将軍慶喜による「大政奉還」の同日に為し成されていた歴史偶然の必然を、視野と視線を動かしては読み耽り、源氏物語「花宴」出逢いの微妙を美しさに惹かれて読み、さらには『史記列伝』『水滸伝』の面白さに没頭等々、テレビ寄も本に惹かれていた。
あえて謂わば言いにくいが、肝腎の本務へは手を出さずじまいに、また眠気に身を委ねる気でいる。
* 以下、記事をいろいろ書いた筈なのに、記録保存されて無く、捜索一時間及ばず、十時。ばからし。寝るに如かず。
2022 9/16
* 大相撲半ばから宵寝、ニーチエとルソーとを読んでから。右脚上腿の芯に痛み、冷えて痛む。
2022 9/19
◎ 令和四年(二○二二)九月二十日 火
起床 5-50 血圧 134-71(72) 血糖値 73 体重 54.7kg 朝起き即記録
(血糖値に限り 以降日曜日にのみ、測る。血圧は二度測って低い値を採る。)
2022 9/20
* 右上腿の痛苦に耐えかねて寝入ってしまうより方途無く、温めても火や手も撫でても摩っても、無効。強度の血栓と想われ、妻が処方されているバーファリン一回分を分けて貰った。効くかも知れない。効いて欲しい。腹具合も宜しくなく。食べる意欲払底のまま、体力は落ちるばかり。早朝の体重が54キロ台に落ちていた。すいみんしか脚の痛み忘れれず。寝るべく生きている気がしていた。血栓薬の効がありますようと、朝は小餅一つ、午は一切食べずに床で痛みを堪えていた。これでは、行き詰まりになる。血栓薬が、効いて呉れそうな気がするのだが、何故こんな手痛い血栓が生じたかも分からない。病院へは行きたくない。 午後、二時過ぎ。
* 脚痛 ゆるんで欲しい。痛みを堪えて素直な言葉を生むのは容易でない。終始、眠気が兆している。寝れるなら今のうちに眠りたいが。もうやがて、「湖の本 160」初校が来るか、「湖の本 159」がで基本で納品されよう、すると送本という力仕事になる。乗り切るのは相当苦痛になろう。わが働き盛りは今も私の背を押しているが。
* 寝入りたくも眠れない執拗な脚の痛みに下痢も加わり、消耗の度を増して、何も出来ない、読書も出来ない。もう二も投げ出す気でやすむしかない。六時半を過ぎている。
2022 9/20
* さすがに、空腹。すべて、宜しく無い。
* そんな中でもこのところ殊に愛読しているのは、一に、ドストエフスキー『悪霊』 祭り見の車争いから六条御息所の生き霊が、出産に悩む光君正妻「葵上」を取り殺す『源氏物語』の巻、巻 坪谷善四郎周到の大力作『明治歴史』上巻 幕末も幕末、慶喜大政奉還前後の激動のさま、 加えて『水滸伝』と『ホビットの冒険』 どんなに日々の動揺を慰めてくれることか。
* それにしてもロシアの小説の人名、ああもフルネームで書き続けられ、読む舌がもつれ、誰と誰とがどんな「関わり」と覚えきれぬまま、やたら登場者が數多いのに閉口する。今回この大作の読みは二度目、それでも、舌が縺れる。開巻いきなり紳士ステパーン・トラフィモービーチ・ヴェルホーヴェンスキイ登場、語り手だけはほぼいつも「私(わたし)」だが、この人もいざとなると長長しい本名で呼ばれも書かれもしている。津い゛この紳士に思い影響力ないし支配力を持ったワ゛ルワ゛ーラ・ペトローウ゛ナ・スタフローギンという上流夫人が本作にあだかも君臨の体で現れ出る。
この二人と「私」とくらいで話が運べば読むにらくだが、このごにゾクゾクと彼や彼女らの縁類や関係男女らが立ち現れ、銘々に長長しい名前のまま右往し左往するので、その親か夫婦か敵か味方か息子か娘か、正気で健常か病気持ちで異様かなどなど、恐れ入ってヤヤコシイのをとにかく記憶して読み進めないと物語が混雑してしまう。人名全部を上げてやろうかともおもったが、とてもとても。
それでいてドストエフスキーの文学と世界とは底知れぬほど深くしかも奇妙に興味津々なのである。それだけを書きとめておけば、済む、としておく。
2022 9/23
* 私は、重量感に富んだ凄みと厚みの映像ないしは創作を心から愛する。文學と映像との「重み」は墓って比べられるものでない、が、いまも読んでいるドストエフスキー『悪霊』や紫式部『源氏物語』 また西鶴、近松、鴎外、露伴や藤村『夜明け前』や直哉『暗夜行路』や潤一郎『細雪』や康成の『雪国』や三島の最期作等々、映像とそのまま比較は出来ないが魅力の「重み」を湛えていた。佳い物は佳いし、佳い創造が願わしい。残年の乏しさを思うと、むねが痛くなる。
2022 9/23
* 近年最悪の体調、容易に健やかに晴れそうに無い。気も滅入っている。それでも横になりーったまま、「湖の本 160」初校したり、『悪霊』や「源氏物語」や『ホビットの冒険』や『水滸伝』をよみついで、その間は息苦しい体調からやや遁れられている。 2022 9/26
* 気分も体調もまともでないまま、読んだり寝入ったり、午前も果てて。右脚上腿の痛みは、いま、一点に集まって感じられる。経過からみて、局所の帯状疱疹かも知れないが病院へは行く気も元気も無くこのまま耐えきって回復を待つ気、ハテ如何ぞや。とにもかくにも、心行くことは無く。映画『戦争と平和』に惹かれるまま、切れ切れに観継いでいたり、『参考源平盛衰記』巻六を読み終えかけていたり、ふらふらと二階へ来たり。
2022 9/28
* 『ラ・ロシュフコー箴言集』はふらんす革命の頃の高級貴族で軍人で文章家、その謂うところの「箴言」はかなり辛くね時にヘキエキする、が、「よう謂うよ」と脱帽もする。ローマ皇帝マルクス・アウレリゥスの『自省録』は、時代はるかに先立っているが傾聴、愛読してきた。
私の読書は、おもしろい小説、物語ならいい、というものでは、ない。いま、枕元に常備の{文庫本}5冊のうち、物語は『源氏物語』五四帖、全九冊、これはむしろ選ぶと謂うより殆ど手放したことがない。もう一つ『水滸伝』全十巻は、小説でも物語でも無い、中国での、日本で謂う「講談・講釈」なのである。豪傑の豪腕勢揃いでまことに面白く、『源氏物語』とは比較を絶したべつものであるかが、ともに愛読に値して古典に属する。
もう三冊の文庫本は、順序なく、ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 十九歳高橋貞樹の超絶の名著『被差別部落一千年史』 そしてニーチエのまこと狂気の真言といえよう『この人を見よ』 しみじみと愛読・耽読している。
他に小型版でと謂うなら和本、和字・和綴じの『史籍集覧 参考源平盛衰記』全五十冊の第八冊、清盛に嫌われ絶海の小島へ流された丹波康頼、少将成経、俊寛僧都らの悲嘆のサマを読み耽っている。この本は、異本異文集でもあり、同じ事績の様々をその場その場で聴かせてくれる。なにとも言えぬ貴重な本なのである。ポンと、仮名箱入りの全冊を、「コヘちゃんに上げまひょ、お読みやす」と、大学生の頃、ご近所の小父さんから頂戴したのである。手放さずに読み継いでとめど無い。
* 枕元へ今揃えて読んでいる単行小説の大冊は、なによりもドストエフスキー『悪霊』がどっしりと手にも重い。
他は、凡てが、秦の祖父鶴吉の遺して呉れた有難い明治期旧蔵本の中から、
東京博文館蔵版・従二位東久世通譆伯題辭・坪谷善四郎著『明治歴史』上下巻、維新前の日本史から表裏を尽くし活写し論究していて実に優れている。
併せて愛読中が、
大阪偉業館蔵版の漢文全書、梅崖山本憲講述『四書講義』上下巻
東京博文館蔵版の支那文学全書中の『史記列伝講義』上中下巻
大阪岡本偉業館蔵版 元 廬陵曽先之編次 日本 大谷留男先生訓點『十八史略』片仮名附 加えて
中世物語全集から 17巻『夢の通ひ路物語』上下巻
トールキン作『ホビットの冒険』
以上が、現今、毎日夜に少しずつ読み継ぎ愛読して已まない私の いわば日常。読んでいる間は病苦も疲労もやや忘れていられる、そしてアタマが混乱など決してしない。読み終えれば次からまた次へ、幸せなことに私の書庫には、多くを処分してまだ数百冊、文庫本も千冊に及んで、東と西の棟で出番を待ち受けてくれている。コロナの逼塞籠居にも耐えて来れているのは、「読む本」「読みたい本」が家に溢れているお蔭である、まちがいなく。
建日子は此の系の読み手では無い。私が居なくなれば、ま、文庫本のいくらかの他は「場所ふさぎ」棄てて了われるだろう。鶴吉「祖父」に「孫」恒平のあったような、そんな「孫」という存在に、ついに私は恵まれなかった、生涯の残念である。
2022 9/29
* 寝転んで読むにはドストエフスキーの『悪霊』は大冊過ぎて重い。それでも心惹かれてつい長い時間、持って捧げて読んでいる。『戰争と平和』では決して感じない別世界が『悪霊』には、ある。凄い。
2022 10/1
* 二時間ほども寝入っていたか。体調 とても平穏と謂えないけれど、焦ることなしに時の流れに穏和に身を寄せていたい。遅くも此の七日には本包みの持ち運びという力仕事から解放されているだろう。その先は、「読み・書き・読書」と創作に集中出来る。師走冬至、一年で一番日の短かな「八十七歳」誕生日を、心静かに穏やかに迎えたい、妻と二人して。
* 目が泪にしみて痛いほど。疲労の徴と体験的に知れている。と云うてすぐ寝入れるものでもない。五体に不穏な不快感が往き来する。本を読み疲れて寝入るのが賢いか。
『悪霊』への挑戦はまだ半途に届いていない。これを終えたら本格に、ドストエフスキー絶筆の名作とされる巨峰『カラマゾフの兄弟』を登りつめたい。
『源氏物語』は、「葵」の巻をすべり出て、「須磨・明石」の方へ重い脚を光源氏と倶に運んで行く。与謝野晶子現代語訳の豪華大冊を古門前の大家林さんに借り受け、夢中で読んだ、返すのが惜しくて繰り返し三疊の勉強部屋で読みに読み、またまたせがんで借りては読み耽った中学生高校生の昔が懐かしい、はや、七十年も過ぎたか。高校二年から岩波文庫での原文に転じ、『源氏物語』こそ世界の古典の筆頭かのように私の心身から離れなかった。なんという幸せであったか。
2022 10/2
*坪谷善四郎の力作『明治歴史』の上巻は、井伊直弼やペリー来航の昔から、明治維新前夜の国情を実につまびらかに且つようりょうをおさえて丁寧に懇切に多くの文献や記録を引用しつつ詳細に解き明かして行く、じつに見事な論攷で有り史実の展開と彫琢を為し得ていてほとほと感じ入るが、維新の大業なり明治早々の五個条ご誓文にいたるまでの草創期国家大成の組上げ組立て職制と人材の配置等々の詳細をつぶさに明記していて呉れる。是までの明治維新への知識など、その詳細の①割にも遠く達していなかったと分かってほとほと「降参」の思いがしている。そして、うろ覚えながら私少年以来の感心にとどめていた人材の詳細を究めた政権への配置を見届けて、のけぞるほどに感じ入っている。ことに「大久保利通の遷都論の意義」の大いさなど、何ほども知らず関心もしてなかった事実の疎さに恥じ入ってしまう。
まだ上巻の半ば。下巻までを通して「明治」の意義を強かに、したたたかに、私は初めて教わることになる、胸が鳴るとは、これ。八十七歳になろうとして、私ほど「歴史」に重きを認め続けてきた読書人にして、かかる莫大に新鮮な知育にあずかるとは。まこと、最敬礼するほど祖父鶴吉「おじいちゃん」の知的遺産はすばらしい。感謝に堪えません。
2022 10/3
* しかし、今晩はもう寝たい。読書したい。いまは坪谷善四郎の『明治歴史』に圧倒され、面白く出仕方ない。気安くには、『水滸伝』が、恰好。気を静めるには「源氏物語」の「賢木」の巻、懐かしい野宮の風情など、心の故郷、家に、帰ったよう。
2022 10/4
そんな夕食を挟んで、夕寝、晩寝して、十時に床を起った。すこし疲れからもちなおしたろうか。
寝入る前の読書は先ず、『悪霊』しかしまあなんと掴みづらいおはなしであることか、ただただ独り人の人柄や言葉や行為や、場面の対話や事変転変の謂うなら「ロシア」っぽさをに驚嘆しているばかり。それらはみな異様にしつこい執着力と此処の性格で書かれている、が、ハナシの流れはどんよりおもくるしくて、何を謂いたいかは無条件の共感でうけいれるしか無い、あらがえば、世界からはじき出されるだけ、か。
もう一冊、進んで手にとり読み耽るのが琉他に善四郎著の明治に書かれている詳細に徹底した、しかも筆致は確実に高揚した『明治歴史』の、幕末、維新前夜の波瀾万丈を越え来ての、まさに明治維新の新政体の具体的に精緻な証言、胸の鳴るほどの興趣と共感と感銘。こんなにも惹かれる書物とも思わずに書庫から持ち出したが、いま、一.二のまに「愛読」書。残念なことに、数百頁の「上巻」だが、古書と手、製本が崩れきて、頁を繰るごとに本がほどけて行く。ま、それもそれほどの古書故といとおしみ大事に読んでいる。まだ「上巻の半ば。いまから「下巻」にも期待が湧いて軽く興奮気味。日本の「歴史書」には『古事記』『日本書紀』このかた数々、じつに数々読んできたが此の『明治歴史』の充実感と精緻に正確なことには驚嘆している.鶴吉祖父の旧蔵。おじいちゃん、ありがとう。もう八十七歳になろうというこの孫は、そもわが子や孫に何が遺してやれるのかとおもうと、「貧寒」ただ恥じ入る。
2022 10/5
* 四書五経 いまや顧みる人は少ない、無いに同じいかも知れぬ、が、今日の高校生が目指す大方派「大學」ではないか、『大學』は「四書」の筆頭であり、その概要に当たる字句を昨日、こに掲げておいた。其の旨は、何一つ古びるどころがこの二十一世紀に唱えられて毫も古びていない、古び於呂得て無自覚なのはいわゆる現代人と自称の実はたんなる「今日人」に過ぎない。
* 「ちゅうよう」という言葉を今日人もおもいのほか日常にしたり顔に用いているが、程ほどに中を採っておこうぐらいな意味を謂うている。が、始原の語は「四書・大學」の次なる「中庸」であるなど、もはや誰も意識も記憶すらもしていないと見える。
* 「天の命(めい)」之を「性」と謂う。「命」とは「本然」ほどに受け取っていいか。れはまた「本性」であり、今日の人の好きな「セックス」とは大きく超えたすべて「モノ・コト・ヒト」の本質をいうのであろう、それならは首肯定できる。
その「性」に「率(したが)」うて歩み生きる率土や本徒をすなわち「道」と『中庸』の教えは指さす。その「道」へ導き体得する、それが「教」という指導で在り会得に他ならないと。「道」は瞬時とても逸れていもので無く、逸れるはを即ち「非道」と。
現題のわれわれも「非道」ともちいており、より便宜には「ひどい」ヒト・もの、ことを指さしている。ひどくてはならぬ、と、それが「中庸」の教えのまさしく肝要なのである。そのどこにも古くさくていまや無意味・無価値と擲っていい物は無い。
今や当たり前のように「古くさい」代表のように忘れられた、これら「大學」「中庸』は実に孔子が「初」の発言・発語であった。覚えていて佳いではないか。
2022 10/6
〇 秦 兄 湖の本第159号ありがとう。同年生としてこころから敬意と感謝を表します。何事にもキリがあるので、半端な数字でなく200号を「必達」目標とまでは言いませんが、せめて努力目標にして健筆ねがいます。
同年生が何人、その「達成記念号」の読者として生き残っているか分かりませんが、その一人として精進・節制したいとおもいます。
趣味の音楽も他事にかまけて愉しむ時間がなく、「戦後流行歌史」の作成も数枚のCDで中断のままですが、BGMとしては聴いています。
当時の歌は、名の通り、引揚げ兵の「かえり船」にはじまり、菊池章子の絶唱「星の流れに」など世相を映し人を歌ったものを聴きながら当時をあれこれ思い出しています。
多感な敗戦後新制中学生の頃、ほんとうになつかしい。
(筆者が当時思いを寄せていた)石塚公子のピアノを聴いてみたいが、どこかで元気でいるだろうか。兄の今回の号に石塚をモデルにした短編とあるが、ぜひ読んでみたいものだ。
その石塚から最初にもらった本が シュトルムの短編「みずうみ」だった。いまから思えば石塚が結婚した「コンニャク」こと理科の伊藤先生からのプレゼントだったのでは、と思われてほろ苦い気持ちだが、その時は舞い上がって、この短編を原語のドイツ語で読もうと丸善で買った「対訳本」はボロボロながら未練がましく手もとに残っている。
この齢になって、世直しのために背中が丸くなるまでパソコンの前に四六時中すわっているので家人に嗤われているが、これも一種の呆け予防と心得ています。
お互いに体を労わり人生を全うしましょう。いつもありがとう。 森下辰男
* 佳いメールですねえ、しみじみと「旧友」という温かい熱い実感に包まれている。そして、なんと面白いことも読ませて貰ったなあ、あの「石塚公子」に「貰った本」の目の前最初が、シュトルムの『みづうみ』とは、こりゃどうじゃ。
同じ馬町の京都幼稚園へ毎日バスで通い合った石塚公子とは、吾が「ハタラジオ店」の目の前、幅七メートルも無かった道路のお向かい、長屋を二軒西へ、奥の深い屋根路地門の西真脇の家に育っていた。私からいえばずぶずぶの同い歳、恰好の幼な馴染みだった。対抗心のつよい女の子で、罵詈雑言でケンカもしたし、大声で覚えてる限りの歌など唱い合うて飽きない仲良しでもあった。ただ、あの家にピアノは無かった、のに、同じ弥栄中學に進んでの、他に人のいない大講堂で、独りグランドピアノを、ただ鳴らすのでなく、確かに曲らしく弾いていたのにはビックリ仰天した。
シュトルムの『みつうみ』にも、ま、仰天した、何故かなら私が自分のお金を財布から出し、本を、「岩波文庫」という本を河原町の大きな書店で、二、三度も通い何時間も掛けて「選んで」買ったのが、シュトルム作『みづうみ』であったから。一つにはあの当時「岩波文庫」に独特、背表紙に ☆ が入ってて ☆一つ の本は即ち、当時「十円」を意味していたのである、同じ年の内であっかも知れず間もなくに「十五円」に値上げされたのもよく覚えている、つまり、私・秦恒平は、金「十円也」の岩波文庫一冊を「生まれて初めて」中学生で、自分のお金で、買いました。、「書物を買う」という、生涯初の「ド大変な経験」をしたのだ、忘れもしない、しかもその『みづうみ』の縹渺としたロマンチックにも嬉しく心惹かれた、大いに満足したのだ。むろん記念に値する ☆ ひとつ「十円也」の昔々の岩波文庫『みづうみ』は、現在「やそろく」歳の私の文庫専用書架に保存されて在る。そして、無論とと云うていい、此の『みづうみ』なる、外国人『シュトルム』の筆で書かれた「岩波文庫」という「小説本」を、お向かい同い歳の石塚公子に吹聴し見せびらかしたのも当たり前であった。
その同じシュトルム作『みづうみ』を、京都在の友森下君は石塚公子に「貰っ」て、いまも懐かしく所蔵していると今日のメールに明記されある、何時にとも、状況も知れないけれど、これは「佳いハナシだよ」と驚嘆、「おもしろい」とも感じ入った。「書ける」なと、大いに頷けた、ま、「書きはしない」だろうが。
石塚公子を私が「小説に書いている」とも森下君は触れていた、覚えはあった、が、ハテとすぐは大もなかみも思い出せなかった、が、私の『選集』第十一巻に入ってた『羲(よ)っ子ちゃん』がそれで、これはもう現実の石塚公子とはかけ離れ、放埒なほどのフィクション作であった、ちょっと気をよくしたほど面白くは書けてましたけど。
石塚公子は、森下君のメールにある、当時「(糸)こんにゃく」とあだ名の、若い男先生同士でも生徒にもあまり買われてなかった理科の伊藤先生と「結婚」してたとは、よほど後々に漏れ聞いた、あり得そうな仲じゃわいと思い、それも忘れていた。伊藤先生はのちにどこかの「税関」とやらにお務めともかすかに聞いた、が,何も知らない。
2022 10/9
* 昨日「尾張の鳶」が京都泉涌寺の来迎院から送ってくれた院の正門や建物や茶室やお部屋や回遊の前庭や 等々、スライド展開で一つ筆に食い入るように見入っている。もうあの庭先の縁に腰掛けて静かに静かに夢を観られないのか。先生の提案で、慈子のお手前で月明の茶会を楽しんだ昔昔があまりに懐かしくて、つらくなるほど。
* そうだなあ……。日々にあくせくして、なおまだ「此の先」へ何かをと喘ぐよりも、もういいではないか、それより、思い切り心地を解放して全善三十三巻もの『選集』作を静かに読み返し味わうがいい…と深い内心の要望が疼くようになってきた。心弱っているからか、天来の「もよおし」か。なにはあれ、もう一度「尾張の鳶」に、有難うと。
2022 10/10
* 書庫に入って座り込み、かなりな時間、本を並べ替えていた。読んで欲しいという声が鳴り響くよう。ごめんごめん。そんな中から坪谷善四郎著『明治歴史』下巻を手に持って,出た。文久二年(1862)生まれ。東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に学びながら博文館に入社、編集局長を経て、取締役、著名な雑誌「太陽」を創刊初代の主筆,編集主幹、世辞かとして東京市会議員7期、東京市立図書館(現・日比谷図書館)を建設に尽くし、日本図書館協会会長という「実力」の人の主著のひとつが、この大著上下巻の『明治歴史』で、私はかなりに歴史書には触れてきたが此の博文館蔵版坪谷善四郎の『明治歴史』は、感嘆、第一級の名著にして充実と謂わねばならぬ。祖父鶴吉旧蔵遺産のなかでもこの書に出会えたのは、まことに有難かった。著者にも祖父にも敬意を惜しまない。
2022 10/12
* なかなか仕事は捗らず、疲れて横になり、源氏の藤壺にしのび逼る悩ましい「賢木」巻、とらえどころの無い茫漠の『悪霊』の半ばを、『参考源平盛衰記』では、法皇の三井園城寺で灌頂をとの仰せに逆らい、比叡山の悪僧ばら、三井寺一山を焼き滅ぼすと。平家物語世界では、くそ坊主ばらの悪行、実もって甚だしい。どうしても武侠へ親しんで近寄れないのは平家物語時代に一人の名僧も顕れないから。
2022 10/13
* ラ・ロシュフコー公爵フランソア六世(一六一三 – 八〇)の、岩波文庫の訳・解説者二宮フサによれば「愛され親しまれる古典というよりも」「あくの強い刺激的な古典」と、あのジャン・ジャック・ルソーからサルトルにいたるまで,後生、高名な読者に「反撥、怒り、苛立ちを感じさせ」た相当に嵩の高い古典と、暫く付き合ってきた。「私語の刻」の此処へ先だって潜は登場の上古ローマ皇帝マルクス・アウレリウスや近代にさきがけた哲学者ジンメルの「ことば・述懐」とは多く異なった、が、あきらかに聴き捨ての成らない「箴言』週には相違なしと私は承服したのだった。
さ、次なる登場者は。楽しみに、いま、思案している。
2022 10/14
* 疲れは疲れ、気、意識が淡む感じだが横になれば本が読める。読書に惑いは全く無いのが嬉しい。九時。もう目が開いていない。
2022 10/14
* 源氏物語を「日に一帖」などと息巻くように若い頃は奮励して読んだ。それは、ま、それなりに私の「源氏物語体験」として生きもし役立ったけれど、本来は先を急く読み方は邪道におもわれる。今は、むしろ十行二十行のしみじみと奥深く静かな物語りよう、物言いの妙味にこもる「時・空」「人がら」の美しさ、視野のやさしさをしみじみと堪能するよう、聲・言葉にして読み耽っている。素晴らしい美味妙味であるよ。
さきを急ぐなど、私にはもう全く要がなく、たとえ数行であれ、その音楽美、感想の眞味妙味に誘われゆく嬉しさで接している。
ここまで、ようやくこれたなあと嬉しがりながら。
* 坪谷善四郎の大著『明治歴史』の上巻・
第一編「維新前期 従米艦来航至政権返上」ほぼ300頁
維新の革命は開闢以来の大革新なり
維新革命の原因
我国の革命を促したる外国の形勢
嘉永癸丑米国使節の來朝
幕府外交談判の失擧
修交条約の締結、米使登営
養君治定並に井伊直弼の性行
安静戊午の大獄
井伊直弼の横死並に水戸烈公の性行
安藤對馬守の施政
薩長両藩の動静
勅使東下の始末
勅使再度の東下将軍上洛
長藩攘夷の開始並に英艦鹿児嶋襲撃
廟議變更七卿西竄始末
将軍再度の上洛
長藩の陳情
水戸藩の内訌
長藩士禁闕に砲撃す
四国連合軍下ノ關砲撃
長州征伐
外国軍艦兵庫入津、将軍辭表を呈す
薩長の秘密同盟
長藩處分長人梗命
長州再征討幕軍敗刔将軍薨去
幕吏郡縣制施行を謀り英佛二國日本を賭せんとす
一橋慶喜將軍宣下並に主上崩御
將軍慶喜の施政
倒幕密勅始末
三條岩倉兩公の合躰
大政返上始末
政権返上後關東に於ける諸藩の意見
* 第一編に、是だけの目次が出てある。これら本文は、もう読み終えて莫大に学んだ。
、
第二編「維新實記 従維新大號令発布 至外国公使始朝見」
王政維新の大號令
長藩兵士上京始末
徳川内府下阪の事情
徳川内府辭官納地の始末
幕府江戸の薩摩藩邸を襲撃す
伏見鳥羽戰争始末
大に政躰を更革す
維新當初の財政始末
諸外國公使の参朝並に癸丑以來の外交始末
維新に伴ふ宗教の變革
* ほぼ150頁、上の第二編を読み終えたところ。以下「上巻」の第参編「維新後記 」ほぼ120頁ほどへ読み継いで行く。
第二編「維新實記 従王師東征至廃藩置県」
王師東征、江戸城の軍議
徳川慶喜恭順罪を待つ
王師江戸城を攻む
上の戰争始末
東北戰争始末
箱館戦争始末
版籍奉還始末
諸藩石高並知事家禄表
廃藩置県始末
* 実に精緻に正確な記録・文書を収攬しつつ卓越の見識は「説得」の力と妙とに富んで,頗る歴史が面白く、かつ詳細に亘っていて興味津々尽きない。
さらにこれへ『下巻』が続いて、總千百頁を超えている。得も謂われない感動と教訓とに充ち満ちている。もっとも識りたい一つの「明治・前半史」が此処にある。祖父「鶴吉」遺産旧蔵諸本の中に実在している。感謝感謝。
2022 10/16
* フローベールの『紋切型辞典』は、西欧世間の感覚に偏しているとみて、断念する。岩波文庫『王朝秀歌選』樋口芳麻呂校訂の「歌合」を私なりに批評し鑑賞することに。これは楽しめよう。
* 『四書』「中庸」にこんな句が。「凡そ天下国家を爲すに九經有るも、之を行ふ所以のものは一也」と、そして此の「一」に「豫(あらかじめ)」の「一字」を以てしている。「凡そ、事、豫すれば則ち立ち、豫せざれば則ち廢す。(言ひて)前に豫め定まれば則ち躓かず、則ち困(くるしま)ず、則ち疚(やま)しからず、則ち窮せず」と。
* 「豫」一字一語の含蓄、まことに深く思い当たる。私は少年、学習の昔から「豫定」の必要と大事さとを、いつも「期末試験」をメドに、忘れなかった。
今でも「当面の必要と豫定」と名づけた「備忘」メモを恒に機械の中に置いている。
2022 10/20
* いま、いっとう代表的な読書はと謂うと、源氏物語とドストエフスキーの『悪霊』 これが面白いほど、場亂張らんとして気ままな、しかも逸れないブレない語り口に於いて至極似通うて思われる。紫式部とドストエフスキーとの「物語り」ように親縁を感じるなんて、読書の恵みで或る。
「手」の出るままの漢籍、ことにいわゆる『四書』の面白さにも只今「イカレて」いる。
◎ 天の「命」 これを「性」といふ。性に率(したが)ふ、これを「道」といふ。道を「脩」むる、これを「教」といふ。
なるほど、斯く『中庸』の一節を読んで 「性質」また「脩養」の本意に触れる心地する。「天」と謂う眞意に思い致すことの浅かったナと、今にして、ふと気づく
2022 10/22
* 深澤さん 初の単著『川端康成 新資料による探究』出来を祝う。
2022 10/29
* 坪谷善四郎の『明治歴史』は若い明治天皇が即位し改元の日まで読み進んできたが、その直前の、江戸城開城の以降、東北、北陸、奥州、北海道での征討官軍と幕府方対抗余勢との激闘、死闘、征服、戦後措置等々に斯くも精微なまで識りうるとは思わなかった。興奮もした。これらを尽く識ってはじめて「明治維新」の四文字にまともに向き合える。「明治維新」はただの標語でも表札でもなく熾烈なまでのさまざまな対抗の詳細そのもので成った本状最も巨大な政変史そのもの、其処には文化大革新密着していた。
さて、いよいよこれから表題の「明治歴史」がなお七、八百頁に亘り展開する。この晩年、「最大級の新たな読書」となる。
2022 11/2
* 晩八時過ぎ、今日はかなり長時間根を詰めていたので、もう休息する。本を読みながら寝入りたい。ドストエフスキーの「悪霊」源氏物語は「花散里」そして坪谷善四郎『明治歴史』に力点。「参考源平盛衰記」「水滸伝」を気晴らしに。
ルソー「人間不平等起源論」 「被差別部落一千年史」 ニーチェ「この人を見よ」。
そして、「ホビットの冒険」 さらに『史記列伝』と『十八史略』に親しんでいる。
2022 11/2
* 前夜はドストエフスキー『悪霊』のみ暫く読み継いで寝入ったらしく、比較的長時間睡眠が取れているので、目覚めて躊躇わず床を起った。
2022 11/3
〇 お元気ですか。紅葉が進み 秋が深まっています。風邪ひかぬよう。お大事に。
花筐のこと、最初に上村松園の絵と能の花筐を思いました。寒くなります。 尾張の鳶
◎ 花筺 すこし長めの創作が進行中なのですよ。
疲労困憊という感覚と体調は抜け去ってくれません、無視して、すべき・したいをしています。すっかりお婆ちゃんと化しているかと想像しています。
コロナの感染者数が減るどころか増え続けてます。出歩けない間に脚が萎えてしまいそう。
宿を取らねばならない京都というのは、「ウソ」のようで。新幹線に乗れば済むというワケでなく、遠くなったなあと。
円通寺の縁側に腰掛け 比叡山がみたいなと想う。仏様の御顔と あちこちで再会したいなあと思う。保津川に雪の季節が来るなあとも。戦時疎開した旧南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)(いまは大阪府高槻市内とか。)の蛍と蛙の声に溢れた夏の夜、懐かしいかぎり。
坪谷善四郎という著者の千頁を越す『明治歴史』とドストエフスキー『悪霊』熱愛中。四書のうちの『中庸』そして『史記列伝』『水滸伝』も。「金瓶梅」読みたいと心がけています。
処方されている利尿剤のせいか、よろよろします。自転車には乗れなくなり、家の中で数回転倒転落、幸い異常は無いです。
「撮って置き」の映画を頻頻と観ています。昨日の『ドクトル・ジバゴ』が凄かった。ドラマでは『ドック』そしてやはり『鎌倉殿の13人』に注目しています。
文化勲章の松本白鸚に、幕末の秋石畫、見事に丈高い松の秀にちいさく鶴が降りて、空高く高くに小さな旭日という長軸を謹呈しました。京都の「ハタラジオ店」の昔に出逢っているのです。お父さん(初代白鸚)と一緒に「電池」などを買ってくれました。彼は少年でした。
ロダンの地獄の門を遠目に、上野の美術館前庭に ゆっくり腰掛けたいなとねがうのですが。 お元気で。 鴉 勘三郎
2022 11/4
* また一冊、秦埜祖父鶴吉遺贈の『漢文学講義 第二 詩経講義』 東京 興文社蔵版明治三十年十一月五日発行 林英吉講義 を手に執っている。「詩」一時の中国の原義に触れることになろう。「詩」一字一語が久しく私は苦手だった、明瞭に字義を理会し侘びてきた。有難い。いま手に触れてやはり祖父蔵書であった『四書講義 上巻』 また坪谷善四郎著の『明治歴史 上巻』が在る。日々に「必要」の重いと傾倒とで読み進めている。
我からは口もきけない沈黙がちにこわい「お祖父ちゃん」であったが、数えれば百に余るほどの貴重な「明治本」や大事典 大辞典 それに唐詩撰、漢詩撰の何種類もをあたかも倭宅のために遺して呉れたのだ、ご恩莫大と謂うにも過ぎている。感謝感謝。
2022 11/5
* 何ヶ月というより、全回の受診以来か、髭剃りに往生した。鏡も見ないので髭の有様など念頭に無く、剃り落とすのが厄介だった。先の受診以来の外出か。タクシーに来て貰う。もうやがて出掛ける。待ち時間は永い。文庫本の『アンナ・カレーニナ』を持って行く。
世界の文豪と謂えば何人ものなかで、私はやはりトルストイの三大作に傾倒する、なかでも『アンナ・カレーニナ』 心楽しい作では無いが「書き出し」の絶妙に始まりその円熟周到具象の筆力は異様なまで完璧。ドストエフスキーも偉大だが、そして秀作の数もトルストイを凌ぐほどだが、それでも…と思いながら『アンナ・カレーニナ』持参で病院へ。
2022 11/7
* 夕飯後、また七時半まで床にいた。大長編の「悪霊」をよほど読み進み、そして目覚めてから光源氏の「須磨」へ落ちていった辺を、もの哀れにまた読み進んだ。優に対立し得ていた。
ドストエフスキーの「把握」とトルストイの「叙述」の、大いなる差異にあらためて愕く。
それにしても、この疲労の重さ。早起きが過ぎていたか。
2022 11/8
〇 喜怒哀楽の未だ発せざる、これを「中」と謂ひ、発してみな節に中(あた)る、これを「和」と謂ふ。「中」は、天下の「大本」なり。「和」は、天下の「達道」なり。
「中和」を致(きわ)めて天地位するなり、萬物、育するなり。 中庸
* 以前にも「感じ」て、引いてたかも知れない、四書のうち『中庸』の一至言と読む。
この『四書講義』上巻は大阪偉業館蔵版、明治廿六年二月十日の刊、三十壱年四月廿八日再版本で、秦の祖父鶴吉は三十歳、父長治郎誕生直前の本。それを令和四年の私が手にし眼にしている。本の綴じは、手にするつど端から崩れて行く、百数十年むかしの一冊、読み崩すまいか、読みたいか。読みたい。
「四書五經」と謂う。『中庸』は「四書」のうち。
今、もう一冊手に持っている『詩經講義』は「五經講義第二」本に当たっていて、私の久しく苦手として、どうも判らないで来た「詩」なる一字の大義が、学び識れるかと期待している。
すでに巻頭「凡例」の一に、
「詩」ニ六羲アリ 曰ク「風」 曰ク「賦」 曰ク「比」
曰ク「興」 曰ク「雅」 曰ク「頌」 是レ也
これ、 門外漢なりに、「短歌」を詠作し「俳句」を鑑賞する一人として、体験的・具象的に理会も納得も出来そうに思われる。「詩」とはと訊ねて、どの昨今の「詩人」らもこうは答えてくれなかった。
わたしは日本文化を早くから「花と風」に託して、説きかつ主張してきた。上の「六羲」と噛み合うている。そう思う。
東京山手の懐かしい庭園に「六義園」がある、忠臣蔵に絡んだかの将軍家御用人柳沢吉保の旧邸だ、名園の少ない東京では筆頭格の好環境、かつてはe-0ld勝田貞夫さんと夕暮れる迄しみじみ逍遥散策を楽しんだことがある。
また久々に行ってみたいなあ。勝田さんとも会いたいなあ。せめてもう一度。
2022 11/10
* 『悪霊』を読み継ぎ、『明治歴史 前巻』のほとんどを読んで寝入り、三時。
2022 11/10
* 夕飯前後の体苦痛と不快とは尋常で無かった、這い入るように睡眠へ逃げ込んで、、七時半。覚めたまま、やはり『悪霊』そして『明治歴史 前巻』を今にも読み終えるところまで。「緯編三度び絶つ」というが、私の初読だけで、明治前期の刊本は、読み進むに従い頁が崩れ落ちてくる。だからなお読んで「あげたい」と思う。大政奉還から版籍奉還への決定的な明治初頭の足取りによく働いた元勲達の、当節の政治家と懸隔を絶した高い見識と深い聡明と果敢な判断力に感嘆し、かつ今もなお感謝する。
2022 11/10
* 明治二十六年二月の発兌、三十年四月「三版」の坪谷善四郎著『明治歴史』上巻580頁を読了。井伊直弼の討たれ、ペリーの来航等々を経て、慶応三年將軍慶喜の「大政奉還」、明けて明治二年の「版籍奉還」、四年七月十四日全国の「廃藩置県」で、明治維新の差し詰めの大改革は、かくて成った。
字義通りに、莫大に教わった。有難い大著で有難い學恩であった。
すぐ下巻に転じる。秦の祖父鶴吉おじいちゃん、良い本をたさん、ありがとう、心より、。
2022 11/11
* 坪谷善四郎著『明治歴史』下巻、惹き込まれている。『悪霊』もいよいよ最終の一章に向かうまで。この大作は一筋縄で括りかねる「ややこしさ」謂いようでは「不自然さ」に満ちあふれている、ただ流石というか森田草平訳の「日本語」の生き生きと活躍しているのに感嘆し敬礼している。
2022 11/15
* ゆうべは、九時半か十時にはもう床に就き、校正したり本を読んだりもしたが寝付きは早かった、か、就寝前に、利尿薬、そのうえ「むくみ」除りも服したので、一時間ごとに尿意に起こされた。昨晩はよほど両脚が浮腫んでいたのも今朝は退き、体重も最低水準。一度、右膝下へ久しぶりきつい攣縮がた来たが、抑えながら用意の水分をたっぷり含んで、すぐ失せた。体に、水分多寡調節の大事さが、判る。
また、目に見え手脚が細くなった。視力の落ちが日増しにすすみ、明治版の「四書五経」や「史記」等の講義本は、本章と講義箇所との文字の大小が極端で、どうしても裸眼をさらに凝らして読まねばならない。文庫本もいつも今古の十数種は手近に備えて読んでいるが、文字は小さく、行間の狭いのにもまま悩む。それでも優れた古典籍や小説の名品からは遠のいて居れない。
しかし、強かに私自身の歳久しい誤解や了見違いで「漢字・漢語」誤用ないし他用してきたことの少なからぬにも「閉口」する。漢倭、遠く海を隔て遙かに時を歴史を異にしていて安易に思い直すのも覚え直すのも学び直すのも難しいが、謙遜して差異の程をあらため識るのを拒んでは成らない。私の久しく重んじ続けてきた「風」一字、これを『詩経』発端から読み直してみたいと思っている、先日も拾い挙げておいた「詩に六義有り」と。「一ニ曰ク風」とある。続いて「賦・比・興・雅・頌」と。此処には「比興」と、日本でも慣用されて熟語化した二字も目に付く。「コトをモノに託して面白がること」と国語辞典には出ている。『詩經』では、どうか。
「風雅頌ノ三ツハ實ノ詩ノ作リヤウナリ 賦比興ノ三ツハ風雅頌ノ内ニコモルト云フ コレハ文句ノ異同ヲ分ケタルナリ 風ハ國風ナリ 風ハ詩ノツクリ様體裁ヲ以テ云フ 文句ドコトナクアサハカニテ 婦人ノ作或ハ賤しキ者ノ作ナドニテ 眼前ノササイナルコトヲ作ルヲ風ト云フ タトヒ王公貴人ノ作ナリトモ其詩ノ體裁然レバ皆風ト云フ」と。斯くみると「詩」六羲の筆頭「風」はむしろ軽率な女人風に即して落ち着き無く観られている。私の『花』と対偶の『風』とはほど異なってみえるけれど、それとて深く押して入れば、重なる寓意が生きてくるかも知れない.漢語も和語も軽率に読んでは、言葉から生命観も消耗させてしまう。わたしは用心している。
* ただ「私語」と謂うには、和歌に、漢籍に、創作に、と。少し気張り過ぎかなあ。目も、身も、思いも重いナ。十時前か。時計の文字も針もシカと見えないが。
2022 11/16
* 遂についに、ドストエフスキーの大作・大長編小説『悪霊』を森田草平訳で読み終えた。とてもとても一度の初読で「味読」とも何か「理会」したとも謂えない大森林のような作で、少なくももう一度はそれも早めに再度挑戦せねばならない.「感想」は幾らか在ろうとも、此の大作の「理解」とはほど遠い。ただただ、とうとうね「読んだ」というだけの達成。「実感むとして、この『悪霊』を読み終えるまでに、トルストイの『戰争と平和』なら「二度、通読」出来ただろうと。それほど、だった。魅力。それはもえ独特の濃厚感で逼ってくる。一行としてトバシ読みできない、させない。
2022 11/20
* 昨日、あの文字通りにもの凄い『悪霊』初の通読を果たしたが、とうてい「読んだ」とは胸の張れ読書に至っていない。山巓へヘリコプターで降りた程度の「形ばかり」。孰れ再読を果たしたい。
引き続いて直ぐの大作への目は、やはりドストエフスキー最高の到達、名作と知られた『カラマーゾフの兄弟』と、併読の挑戦で在来半ばで休息してしまった「ホメロス」の高嶺へ登山する。『オデュッセイ』は一度読み終えているが、新ためてもう一度。そして途中で山を降りてしまっていたたいさく『イリアス』を読み上げたい、ぜひ。
『カラマーゾフの兄弟』『オデュッセイ』『イリアス』の全部では優に『悪霊』一作の三倍領を凌駕の気の遠くなる「長途の旅」になる、敢えてそれをと願うのは、その「長途」で様々な観光や寄り道の慰安に足を止めたい、と。つまり務め努めて「生きよう」と。
欲が深いか。浅ましいか。見苦しいか。 そんな批評は人任せとしておく。
現在も手にし続けている大作は、謂うまでも無い『源氏物語』の飽くなき繰り返し返しの旅の脚がいま、また「須磨」に。そして五十巻ちかい『参考源平盛衰記』を読み継いでいて飽きない。欠かせない漢籍は、『水滸伝』十巻のほか座右を放さないのが『史記列伝』『十八史略』そして『四書講読』。別格に、トールキン『ホビットの冒険』さして数冊のその時々の岩波文庫など。
目が見えて読める間は、私には「読書」がしんから楽しめる、これは天与の性質、或いは資質かと感謝している。
2022 11/21
* 今日の女優として、技量も人も、掛け値無く「一」と愛している「松たか子」との愉快に楽しい談笑の夢からめ、早朝には過ぎたが、そのまま起きて二階へ。そしていつもの秀逸「和歌」に接した。
今日、平安和歌の秀逸といえどもわたくしほどに愛読し鑑賞している、研究者は別としても、「読者」は「いない」に近かろうか。もったいないナと思っている。いうまでもない、私が生まれて初めて接し愛読し暗誦もしたのは「小倉百人一首」であり、同様の人が数少ないとは思われないのだが。
2022 12/5
* 凄いほどの低血糖で、失神しかけた。自身で低血糖と気づかず、妻が気づいてくれ、直ぐ測った。50台の低さ。仰天。一、二時間も寝入ったか。食欲無し。何が有ったか、爲たかなど、自身、茫然。四時起きシテの仕事連続は無理強いであった。
ツアラトゥストラを読んでいた。
早く寝てしまうことに。いま八時半を過ぎている。階下へ。バーグマンノ続きを。
2022 12.23
* 昨夜は九時台、おそくも十時までに床に就いた。あの低血糖の戦慄は恐怖して、繰り替えしては鳴らない。危なかった。いま、早暁の五時四十五分、さっきに日記を開いた。
このところの「ツアラトゥストラ」に聴く毎朝を深切に迎えている。とても「読めない」と思ってきたが、滲入できる予感を喜んでいる。
2022 12/24
* トルストイの映画『戰争と平和』 ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』
比較を絶した大作家。シェイクスピアだけだろう、並びうるのは。
2022 12/27
* 『ツアラトゥストラ かく語りき』を、わたくしはまだ何も理解できていない。呼び掛けてくる「声」に惹かれてただその「言うこと」聴いている、いつか何かが「来る」かと冀いながら。すくなくも、聴いて応じている自分の動悸を自覚して居る。
2022 12/28
* 『参考源平盛衰記』は、巻十以来、今巻十一も、延々丹波少将成經、判官康頼そして「僧都俊寛」島流し説話が続いている。どんなに大事件として胸をうち心騒がせたかが分かる。若くて、体力と余すじかんがあれば、現代語訳に努めたくなっていたろうと想う。流布本の『平家物語』で手の届いていない「痒いところ」へ興深く多彩に触れてくれている。「ほぼ五十巻」ものろうさくであり、わたしは今しも「巻十一」へ来ている。前途遙か。しかと生き続けたい。
2022 12/29
* ニーチチエは、あたまから敬遠してきた。『この人を見よ』にとりついたのも何と「やそろく翁」としてで、やっとこさ『ツアラトゥストラ』へ、いま、抱きついた次第。関心か。好奇心か。ただに読書欲か。読んでみたくなった、と謂うことだろうが。だが惛い深層から立ち上ってくる煙か霧かのように、いま、わたしは手招きされている、ツアラトゥストラに。天の人らには「まあだだよ」と返事し続けねばならない。
2022 12/29
* 大晦日。「ツアラトゥストラ」に聴いて、歳を送る。
2022 12/31