ぜんぶ秦恒平文学の話

読書録 2024年

 

○ 拝復  法帖二帖ご恵送賜り誠に有難うございました。
ダンボール箱を開けびっくりし、手にして果して私が頂戴してよいものかと当惑いたしました。
書の力強さ美しさに魅せられましたが、二帖とも折目が切れているので、鑑賞するには、補修が必要かと思われます。
倉卒に調べました所、『晩香堂蘇帖』には末尾に董其昌(一五五五ー一六三六)の跋があり、”崇禎六年脩(喫)日上石臘月既望竣”と年記がありますので、崇禎六年(一六三三)十二月に宋拓を摹刻したものかと存じます。『東京大学総合圖書館漢籍目録』子部、書畫之屬p332/下 に、「晩香堂蘇帖十二巻 宋蘇軾書 崇禎五年至七年刻拓清印本」と十二(帖)の青洲文庫本が著録されていました。題簽に「晩香堂蘇帖 天馬賦」とあるように、蘇帖十二巻の内の「天馬賦」の一帖かと思われます。青洲本の「清印本」が何を根拠に清朝に印した本と判断したのか、いずれ折を見て、青洲本と比校したいと存じます。
『觀海堂蘇帖』の方は、末尾の小字跋「蘇文忠西樓帖詩文二帙(呉)荷屋中丞所蔵宋拓本也余/酷愛之與孔(職)庭太史選其精者重摹詩二十九首刻/成置南海中道光戊戌冬寥(生)記「麁脩(印か)」」から、宋拓本の「蘇文忠西樓帖」詩文に帙から寥(生)が孔(職)庭太史と精なる
詩二十九首を選んで道光十八年(一八三八)に摹刻したものかと思われます。他の目録類や、『書道辞典』等の調査も必要だと思います。それらの結果を考え、東京大学総合図書館か書道博物館かで所蔵されるのが相応しいのではないかと愚考いたします、それまで大切にお預かりいたします。
先は御礼のご挨拶とにわか調査のご報告まで
末筆ながら迪子様ペースメーカーをお入れになった由、どうか寒中くれぐれもお大切になさいましてお二人共お元気でよいお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます
二○二三年大晦日に    かしこ
浦野都志子拝
秦 恒平様 清案下

* 秦の祖父鶴吉遺藏の雑多にしかも傷みのキツい、しかし私が観ても今日貴重ないし入手不可能にちかい文献類を、これまでも学会、大學、お付き合いのある個々の研究者その他へ受け容れて貰ってきた。浦野さんとはいつ頃からか、もう何十年、こうして折にふれモノを教えて戴いてきた.感謝感謝。
それにしても鶴吉お祖父ちゃんの遺蔵本や文献類は、京の町中でもともと「お餅屋さん」だったというが、どんなに和漢の古典・詩史書で多彩に私を刺激し喜ばせて呉れたことか。おまけに大事典,大辭典、地図があった。小学校時期に私はほとんど近代以降の小説本を必要と為ずに済んだ。祖父の息子の父長治郎も叔母ツルも、まったく本など目も手も触れないひとだったから、父母の「もらひ子」とはいえ、私の「本好き」はおおいに「おじいちゃん」を頷かせていた、ほとんど口は利いてくれなかったけれど、幼少来祖父の本にふれることを一言も咎めなかった。
浦野さんを、ご迷惑にもこんなに煩わせたような、大きに破損した本にも、私は棄ててなどしまえない歴史や古典の価値を感じ続けてきた。
季吟の大著『源氏物語湖月抄』や、また『神皇正統記』 真淵の『古今和歌集講義』や 『百人一首一夕話』等等、日ごろ手放せない『唐詩選』『白楽天詩集』など、恩恵は山のよう。有難い「秦」家に育てて戴いた。天恵と謂いたい。

* ゆるされた残年を、創作を含む書き仕事に、ただ、向き合いたい。
2024 1/4

* 讀書は依然として超大作の三冊をよみついでいる、その一つは訳者菱沼さんに頂戴した『主演女優』の真中程。主演の湋秦娥(イチンオー)に密着している。、

* もう一点は全四十八巻の『参考源平盛衰記』鎌倉の頼朝と木曾の義仲との軋轢、どうも私、その大きな政治力は認めながらも頼朝という人物に心酔できない、嫌い。

* さらにもう一点は、文庫本で十巻の『水滸伝』を楽しんでいる。
和観たくて読み継いでいる本は、枕許に少なくも大冊が十冊余、はいつも出番を待っている。『ホメロス』『カラマゾフの兄弟』『藤村集』『秋聲集』『モンテクリスト伯』『明治歴史』『鷗外集』『指輪物語』等々。空気は豊かに暖かい。* それでも体調の違和は致しよう無く、疲労して臥してしまう。
2024 1/4

* 『参考源平盛衰記』「経正竹生島詣」での美しい表現と描写に泣けるほど魅された。言葉を今に新たに訳してみたいと胸打たれた、が、私に,どんな余力が残って居るかしらん。
2024 1/13

 

○ 『湖の本 百六十六巻 蛇行 或る左道變』ご恵送賜り、慎にありがとうございました。「最終の一巻」とあり 驚きました。というりは、ここまでの百六十六巻という質量にきょうたんしていたのですが、何事も終わりは来るのだと、かみしめる思いです。
これまでの長い間、本当にありがとうございました。あらためて御礼申し上げます。近刊の拙著一冊(『熊谷直実』ミネルヴァ書房)ご笑覧賜ることがあれば幸いです。
ご健康とごたこうをお祈り申し上げます。 敬具
二○二四年一月十七日
佐伯真一 青山学院大学名誉教授
秦恒平先生

* 恐れ入ります。深く感謝し、興味深い御著も喜んで拝読します。
2024 1/20

* まだ暗い六時すぎ。雨の音か。床を起つまえ、最新のやや長い自作し『蛇行(だこう) 或る左道變』を拾い読みした。「湖の本」最終166の巻頭にこれが置けたのを少しく自負している。読み返させてくれる一種の「気負ひ」で米壽の人生を結び終えたのを喜んで、さらに此の先へと気負い無く思わせてくれるのが有難い。
2024 1/21

* ブームのように源氏物語ないし紫式部とその時代がテレビで語られる。どれほどの人が受け継ぎ愛し愛読して行くかはわからないが、日本文化の抜け出て輝かしい宝だけに、関心と理解とが深まるといいナと願う。 谷崎源氏あり谿も現代語訳は用意されている。そこから入るのがむしろ至当の順と思う。私は新制中学の一年頃に、叔母の元へ茶の湯を習いに通ってきた、ある根生いの分限家の娘さん、小学校の先輩から「与謝野源氏」の豪華本を何度も何度も借りて読み続け、こうこうせいになって始めて原文に向き合った。それが,好かった。

* 陰気な天気が続いて、陰気負けしたようにダラダラしていた。日本晴れの心地で、実に久々、久々に街へ出てみたい、が。ヘンに寒けがする。『モンテクリスト伯』ソレこそ数えられぬほどじ゛う繰り返し愛読した本を。陰に沈みがちなのを紛らわせたくもあり、シャトー・ディフの深い地下牢でのファリア法師とエドモン・ダンテスの信じがたい奇跡的出会いによろこんで惹きこまれている。
そして『参考源平盛衰記』はいまにも木曾義仲の倶利伽羅谿奇襲を読む。
もう一つは陳彦作の大長編『主演女優』を。
2024 1/21

* ほとんど、機械画面の字が霞んで読めなくなってきている。ピンチ。それにしても、いましも地下牢獄の「ファリア法師」いよいよエドモン・ダンテスに「寶」の話を始めようと。もうとても読み已められない、中学生以降、二十度近くも繰り返し読み返し惹き込まれ続けてきた。それほども読み返した日本の古典は。源氏物語,無論。
2024 1/22

* 寝てばかりいたと想わないが、なにをしていたやら。『参考源平盛衰記』は手に執りやすい軽い和本で、終始漢文ながら読みは捗る。全四十八巻、半ばか過ぎて、今から木曾の源氏義仲の倶利伽羅谷の猛攻。以降「平家」は潸然配送へと転じて行く。

* 木曾義仲は、かしこくはなかったが、精悍で気の優しい面を最期まで匂わせた。女にも愛された。戦前・戦後私の育った、元の、京都市立有済国民学校(小学校の広い校庭の中央、立派だった校舎を背負いコワイほど大起きに丈高い橡の大木を芯に、,公孫樹の大木たちが、家の子郎党然と左右に居並んでいた。橡の大木の根方には木曾義仲と愛妾玉日前の遺跡内史墓石が鎮まっていたのを 昭和十七年四月一年生の入学の当日から、すでに義仲の運命など聞き覚え読み知っていたので、同情もして橡の根方へ添い寄り、見知り覚えたものだ。

* 平家物語は「異本」の多いことでも厄介なほど名高いが。巻末は大概『大原御幸』で結んでいる、らしい。巻頭は、よくよく知られた「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き」と覚えてきたが、なおその前に長大な『剣巻』を据えた完本もある
私の坐右に常置して愛読の四十八巻本『参考源平盛衰記』では「巻之一」より以前に行き届いた「凡例」更に通計一百四部の「引用書」が壮観を呈し、次いで本文「巻之一」から「巻之四十八」までの克明な内容「目次」が居並んで、そして直ぐ引き続きいわゆる「總目」には含まれていない長大な『剣巻』が四十八巻本の巻一余す全部を占め、据え置かれてある。何故に、そうであるのか。どんな「剣」がどんな重みで大長編の巻頭を占めるのか。通読だけでもたいへんな「貫禄」なのである。じつは、私もまだ読み切り読み採れていない、しかしこの『剣」こそが『源平』を必死に闘わせた、まさに「代物」だ。此の『剣』はいわゆる「三種の神器」の一に挙げられ、日本武尊の手で「草薙剣」とも改め謂われるようになった「神剣」、平家は壇ノ浦でこの神剣を海底に沈めた、源氏が後に苦辛して拾い上げたとされている。この「神剣の事変」こそが、まこと武家として『源平の戦い』であったと重く示唆して巻頭におかれてあるのが長編の『剣巻』。流布本の『平家物語』では割愛されがちで、目に触れる機会も私所持の『参考源平盛衰記』によらねば、まず誰も全文は読めていない。早急ぎせず、やはり、第一等の第一番に読みたい、これぞ「源平角逐・盛衰」をものがたるシンボル。読み落としたくない、可能なら「現代語訳して紹介」したいと願うほど。えらい仕事を背負い込みそう。
2024 1/31

* 昼間に「寝入りクセ」の反動で深夜に目覚めて本を読み出す。今は、私一の久しく久しい愛読作デュマの大長編『モンテクリスト伯』。深い地下牢で同獄のファリア法師が亡くなり、若い船乗りエドモン・ダンテスは、魳僧の死骸にかわって敢えて「水葬からの逃亡」を決意している。
昔から私はシャトー・ディフなる堅固な地下牢からの、ファリア魳僧とダンテス脱獄を図るの経緯が好きで。入獄以前のエドモンの不運・不遇・不快にはむしろ目をつむって割愛すらして来たほど。彼の投獄を図ったダングラールというヤツがわたしは嫌いの嫌い、嫌い人のシンボルになっていた。
とにもかくにも、こんな面白い本は無いという信頼、全く裏切られたことがないのです

* 夜中読みのそのまま起きて二階へ来ていた。『参考源平盛衰記』「剣巻」の詮索に耽っていた。
暖房していても、なんという寒さよ。
2024 2/1

* 草臥れてないで、フレッシュに視野と視線を確かめたい。
が…。耄碌の気味は吾からも否めないはよ。身を働かせて活気を呼び戻すことは、ムリ。わたくしにやはり利くのは「讀書」か。幸いに、今、大長編の『参考源平盛衰記』『源氏物語』『モンテクリスト伯』陳彦『主演女優』そして藤村、秋聲、ドストエフスキーに気が向いている。「読んで愉しめる」のは最良のクスリだからなあ。
そして、しきりと美味いもの、事に「肉」が食いたい。下保谷の奥田舎にコロナを懼れ逼塞してもう四年か、美味そうな肉が「生協」へ依頼以外にまるで手に入らない。いやしん坊になってしまっるなあ。
2024 2/1

* 八時半。夕食後も、寝入っていた。作家生涯の早くに出会っていた宗内敦さん文庫版の近著三冊、エッセイ『二言、三言、世迷い言』などを久ひさに戴いていた。
2024 2/2

* 脱獄、荒海へ放たれたエドモン・ダンテスは、もう今にも、運命の、超幸運の孤島「モンテ・クリスト島」へ上がる。険しかった「第一幕」からの飛越が肇まる。とてもの長編なのに、文章表現の隈々までわが脳裏に灼きつくように記憶されているのに愕いている。
2024 2/2

* 目覚めの床のなかで 『参考源平盛衰記』で、倶利伽羅の木曾義仲と官軍平家との肉弾相撃つ激闘の叙事に吸い込まれていた。読めば読むほど今日語に置き換えてみたくなる、が、いま、私の心身にさほどの余裕はあるまいか、もっともっと早く手懸けるべきであった。
2024 2/3

* 嚢詰めで海に投げ込まれたファリア法師の遺骸ならぬ、脱獄へ命を賭けた生けるエドモン・ダンテスは嚢を破って海底から浮かび、懸命に風雨の荒波を泳いだ。
少年来、励まし励まされ、幾度読み返し覚えてきたことか。「モンテクリスト伯」以前の「エドモン・ダンテス」にこそいつも新鮮に刺激され「共生」して掛け替え無く、飽きて忘れたことが無い。

* 同じ事が、「光源氏と女達」にも謂えるなあ。」
2024 2/3

* 漢文の和本で全四十八巻『参考源平盛衰記』の巻之二十九をもう読み終える。このところ、もはら木曾義仲の山武士めく縦横の活躍がめざましい。 この先、まだまだ。岩波文庫『平家物語』上下巻の平淡な叙事に比して、これは同時代全班の取材と証言との重複も辞さない満載で、読み応えは恐ろしいまで。

*『モンテ・クリスト伯』では、荒海への脱獄、地中海で半商半賊の船と海員等に救われたエドモン・ダンテス、慎重に慎重にめざすモンテクリスト島へちかづきつつある。
読む・読み進むことが、即、嬉しくて堪らない。心地よい湯にとっぷり浸かっている懐かしさ、これが此の先 数十倍もつづく。
演劇のシェイクスピア、文學のゲーテ、大衆文藝の大デュマ。そしてロシアには巨大な文華が咲こうとしていた。まさに「大時代・大文化」時代。日本でも近松や西鶴が立派に咲いていた。
ああ 敗戦後日本の文藝世界は、ことに「内向」などと謂われた連中以降の文壇とやらは、「文壇」と固まりながら何をしていたのだか。
2024 2/5

* 視力の低減いちじるしく、「書き用」「読み用」のどちらに大事をとるかと思案せねば。」
2024 2/6

* ,午過ぎから、寝入ろう寝入ろうと。あらがわない。心身を潰してはならない。心神の均衡が砕けている感じ。何を書いているのと吾ながらアヤシい。
こういうときは、「本」を「読む世界」へ駆け込んで、そこで「別の人間」に成ってしまうのがいい。

*『参考源平盛衰記』の長大に巻き込まれ、「源平武士」の夥しい死闘を、克明に、漢文原文のママ読み積んでいる。「武士の戦(いくさ)」とは斯うかと、国土の狭隘・険峻の不思議に美しい魅力にも惹かれ、読み耽っている。岩波文庫での『平家物語』上下巻、上の「盛衰記」の一割に満たない程度で納得していたなど、ウソのよう。

* そして、寝入っている。「仕事」へ、勝って「戻ろう」と今はしていない。尠くも、『モンテクリスト伯』を、ただただ堪能し読み終えて、あのラスト、美しい「エデ」との新たに遙かなエドモンの旅立ちを「見送る」までは。

* それと、大きな残生の「楽しみ方」をわたしは見つけた、『秦恒平 湖(うみ)の本』全166巻を第一巻『清経入水』から、「一読者」のように「読み通そう」と。著作者以外の誰にも出会えない「境遇」に、もぐり込めそう。私の「湖の本」一冊量は、孰れも、世に通行の「単行単著の一冊分」にほぼ相当している。166冊の自著単行本をみな読み返そうと。いま、真似の出来る誰一人も無いだろう。

* などと呟きながら、要するに、ナアンにもしないで知日を休んだ気分。八日の「私語の刻」 すつぽかされている。やれやれ。
2024 2/9

* 夜中、手洗いに起つつど 床へ戻っては『大和物語の人々』を面白く拾い読みしていた、が。眠さもなく、起きて二階へ上がってしまう。何しろ昨日は午過ぎから、断続、耽るように睡っていたのだ。
2024 2/10

* 床のなかでほとんど一睡も、まじろぎすらもせず、天井を見ていたが、起きて二階へ来た。屈託で眠れないのでなく、睡くなくて眼ざめたまま、本も読まなかった、ああ、いや、『参考源平盛衰記』の「実盛の討たれ}に心とられていた。じつに無数に「討たれ」のある源平盛衰の時代だったが、「実盛」のそれは、用意ひときわ美しく粛然と最も心打たれる一つ、読む姿勢もおのずと正される。
この時代の侍の死闘はおおかたが「首を搔く」というのが、結末。想像を絶した手厳しさの最中へ彼らはためらいなく決然と向き合い闘う。勝てば首を搔き、敗れれば首が搔かれる。源平盛衰の極まった美学が其処に、此処に、在る。

* 「実盛被討」は私の今読んでいる全四八簷の「巻之三十」冒頭に在る。しかも此の巻に興味深いのは、「付」けたりに「新豊懸翁事」の含まれてある事、かの「折臂翁」のことかと、読み進むのに胸を鳴らしている。
2024 2/11

* 夜中、『参考源平盛衰記』の「実盛被討」に感嘆感動、また『大和物語』の「南院の今君」の考証を愉しみ、六時前に床をでてきた。あれこれと思い立ちしておきたい「要」が湧いて出る。おおまだ生きて居るなと感じる。
2024 2/12

* 「實盛被討」を『参考源平盛衰記』から書き写している。何のタメにと我ながらおもわぬではないが、書き写したくて。

* つまりは、何かしらから解放されて好き勝手をし始めていると云う事かも。 *
2024 2/12

*『参考源平盛衰記』の「實盛被討」の文章と表現とを、試みに書き写している。
2024 2/14

* 深夜にも目覚めたまま 『参考源平盛衰記』の「剣巻」や「實盛被討」など、また『大和物語の人々』や「エドモン・ダンテス」の荒海への脱獄など読んでいた。夜昼転倒になっているのは宜しく無いと判ってながら、深夜の「集中感」には捨てがたい魅惑があるのです。
2024 2/15

* 全四十八冊の『参考源平盛衰記』 じつに興深く読み応えがする。ことに心惹かれる第一級「侍」の一人「斎藤別當實盛」に今しも打ち込んでいる。 しかしまあ 寒い朝です。
2024 2/15

* 『實盛の討れ』 徒らに根気よく、原文のまま『参考源平盛衰記』から書き写した。何のアテという事も無く、ただ心惹かれて書き写してみた。数多くの「被討」記事に溢れた源平盛衰記ないし平家物語であるが、そこに、源氏でも平家でもなく、この優秀な名作の本性・本然が在るのだと思う、私は。
2024 2/15

* 睡るまでにも、色んな本を心惹かれ面白くも興深くも教えられもして「読み耽って」いた。『参考源平盛衰記』』の「實盛被討」はじめ源平合戦の様々を読み耽っていたし、『大和物語の人々』も、「忘らるる身をばおもはず」と詠って居た季縄女「右近」などの境遇に好奇心で惹き入れられたり、平安期の人たちへの昔からの親近感が今モ私に生き残ってるのをたしかめていたりした。かと思うと『モンテ・クリスト伯』のダンテス、暴風雨の荒海を泳いで辛うじてとおりかかった船に助けられるのを、日本語訳の日本語の適切に巧みなのも感じ入りながら、嘗めるように愉しみ読んでいた。かと思うと、漢籍をたのしみたいばかりに、予備の支えにと支那の上古史を克明に確かめたりもしていた。「読む」嬉しさが、少年の昔依いらい聊かも衰えてないのを喜びながら。私は西洋語で読む根気は薄いが、『史記列伝』等々の+漢籍を漢字と漢文とで読み次ぎ読み返したい気は昔から途絶えてない。『唐詩選』『莊子』『老子』『十八史略』などなど格好の書物をたくさん遺してくれていた秦鶴吉お祖父ちゃんに深甚の敬意と感謝を喪わない。
2024 2/16

○ 秦さんの真似をして 数冊の本を併読しています。再三読したい本ばかりですので粗筋は覚えているのですが 感興がのってしまうとどうしても一気に読みたくなってしまい、満遍なく読み進める楽しみを まだ味わえていません。影響されやすいのか 今読んでいる本のなかに気になる参考本があるとすぐにそちらに目がいってしまいます。例えばバルザックの「セラフィータ」を読んでいると バシュラールの「空と夢」を読みたくなり、その内スウェーデンボルグの「天界と地獄」を読んだりしてしまいます。
所謂、乱読、雑読です。何かを知りたいと言うより、知っていることを確認したい読書なので、こう言う表現もあるのかと感心させられる文章に牽かれます。
「蛇行 或る左道變」を読んでいると 手持ちの呪術の本を読みふけるような「誘われて」読書ですので 暫くは終わりがありません。 野路秀樹

* 思わず にやにやッとしてしまえた。共感。残年を惜しむのか 好奇心がまだ沸騰するのか、いま読んでいる本が一冊だけなどという「勿体ない」事は 出来ませんなあ。山ほど積ん読本の書架から、今読み本の絶えず十数冊が、身のそばへ出張していて離れません。「ほん」は大切で深切なな「知己」なんですね。
2024 2/16

参考源平盛衰記 巻第三十目録冒頭  實盛被討 附 朱買臣錦袴 幷 新豊縣翁事
常陽水戸府 魯齊今井弘齊將興甫 考訂
著軒内藤將興仲微甫 重校

實盛被討 附 朱買臣錦袴 幷 新豊縣翁事

平家ノ侍武藏國住人長井齊藤別當實盛ハ。我七十有餘ニ年闌タリ。今ハ後榮期スル事ナシ。終ニ遁ヘキ身ニアラス。何國ニテ死ナン命ハ。同事ト思切テ。赤地錦ノ直垂(ひたたれ)ニ。黒絲威(くろいとおどしの)鎧ヲ著(き)。十八差(さし)タル石打ノ征矢(そや)負(おふ)テ。只一人進出テ。死生知ス(しらず)ニゾ戰(たたかひ)ケル。木曾ノ手ニ信濃國住人手塚太郎光盛ト云者アリ。實盛ニ目ヲ懸テ歩(あゆま)セヨル。實盛モ亦手塚ニ目を懸テ進テ懸ク。手塚近寄テ。誰人ソ。只一人残留(とどま)テ軍(いくさ)シ給(ふ)ハ、大將軍カ侍カ。心ニクシ名乗レ。角(斯く)申(す)ハ 信濃國諏訪郡住人手塚太郎金刺(かねさしの)光盛ト云者也。能(よき)敵ゾ名乗給ヘヤ。組給(へ)ト云懸テ。互ニ駒ヲ早メタリ。 以上長門本小異別出干左
Ο長門本云。實盛赤地ノ錦ノ直垂著テ。三百餘騎ニテ押寄タリ。源氏ノ方ヨリ信濃國 住人手塚別當。二百五十騎にて向合(ふ)。互ニ入組(み)戰フ。手塚カ郎等 散々ニ 戰(ひ)ケレハ。實盛ガ勢(せい)殘ナク討(た)レテ落(おち)ニケリ。實盛り思切(り) シカハ(バ)一騎ニナルマテ戰ケリ。手塚實盛ヲ追カケテ申ケルハ。只一人留(ま)リ テ戰(フ)コソ心ニクケレ。名乗ヤ名乗レ。角(斯く)申(マウス)ハ信濃國諏訪郡住 實盛申(し)ケルハ戯呼(戯れ呼び)サル者アリト聞(ク)。思樣(おもふやう)アリ名乗(る)マジ汝ヲ嫌(フ)ニハ非(あら)ズ。只首ヲ取テ源氏ノ見参ニ入(レ)ヨ。能(よき)所領ノ價(あたひ)ナルベシ。徒(いたづら)ニ淵瀬ニ捨(つ)ヘカラス。 (能所領云々長門本無) 木曾殿ハ見知(リ)給ハンスルナリ。思切(ッ)タレハ一人留テ戰(フ)也。敵ハ嫌(フ)マジ。戰ノ習(ヒ)ハ勝負スルコソ面白ケレ。寄合(ヘ)手塚ト云(フ)儘ニ。弓ヲハ捨テ 長門本云 弓ヲ脇ニ狭(はさみ カ)云々 無下(むげ)ニ近ク寄合(は)ス。手塚ガ郎等主ニ組(ま)セジトテ。馬手(めて)ニ並(び)テ中ニ隔(て)タリ。實盛押並(ん)テムスト組(む)。己(おのれ)ハ手塚ガ郎等ニヤ。餘スマシ云(フ)儘ニ。鎧ノ押附ノ板ヲツカマヘ。左ノニテ手綱カイクリ。左右ノ鎧ヲ強ク蹈(フミ)テ引落シ。馬ノ腹ニ引附テ。提(げ)モテ行(く)。足ハ地ヨリ一尺許(バカリ)擧リタリ。手塚是ヲ見テ。郎等ヲ討(た)セジト。 長門本云フ妻手ニ云々 馳並(ビ)テ、敵ノ鎧ノ袖ニ取リ附テ。曳音ヲ出シテ鐙ヲ越(エ)。我先ニソ落タリケル。實盛二人ノ敵ニアヒシラハントセシ程ニ、三人組合テ馬ヨリ下ヘ落タリケリ。實盛手塚ガ郎等押ヘテ、刀ヲ抜(キ)首ヲ搔ク。 此下長門本異別出干下 手塚其間ニ實盛ガ弓手ノ草摺引上テ。柄(つか)モ拳(こぶし)モ透(とおれ)トサシ。軈(やが)テ上ニ乗(リ)得。首ヲ搔(キ)、水モタマラス斬(リ)ニケリ。  諸本異別出干下
○長門本云。手塚其(ノ)紛(まぎれ)ニ。實盛カ弓手ノ草摺(くさずり)ヲ引上テ。腹 刺(し)タリ。刺(ささ)レテ後少(し)ヨハル所ヲ。蹈(ふみ)マロハシテ上ニ乗居 テ申(し)ケルハ。軍(いくさ)ト申(す)ハ敵ノ名乗ヲモ聞(く)。我名ヲモ名乗テ。 敵(かたき)ニ聞セタレハコソ面白ケレ。誰人ソ能(よき)人ナラハ教養(=供養)  ヲモセン。ワロキ首ナラハ取テモ何カセン。堀溝ニモ捨(て)ンズルゾト云(ひ)ケレハ。 實盛り名乗(る)マジキソト。一度イヒケン上ハ名乗(る)マジ。我首ヲバ人見知(ら) ンズルゾ。能(よき)首取(り)ツル者哉。鯫(あやふ)ク捨(つ)ヘカラスト云(ひ) ケレハ。力及バズ首ヲ搔(く)。後馳セニ來リケル郎等ニ物具(もののぐ)剥(ぬが) セ云々。
○印本一本伊藤本八坂本鎌倉本如白本佐野本南都本云フ。實盛ハ存スル旨有ケレハ。赤地 錦直垂ニ萌黄 南都本作黒絲威(くろいとおどし) 鎧着テ。鍬形打(くわがたうっ) タル盔ノ緒ヲシメ。 鍬形云々一本無 金作ノ太刀を帯(び)。二十四差(さい)タル  二十四云々佐野本一本無 截生矢(きりふのや   )負(ひ。重藤(しげとう)ノ 弓ヲ持テ。連錢葦毛ナル馬ニ。金覆輪(きんふくりん) 一本作黄覆輪 鞍ヲ置テ乗タ リケルガ。御方ノ勢ハ皆落行共(おちゆけども) 以上伊藤本八坂本無 唯云フ實盛只 一騎云々 鍬形云々至此南都本無  只返合返合(かへしあひかへしあひ)防戦(防ぎ 戰ふ)。木曾殿ノ方ヨリ手塚太郎進出テ。アナヤサシ。如何ナル人ニテ渡ラセ給ヘバ。 御方ノ御勢ハ皆落行(き)候ニ。只一騎殘給(ひ)タルコソ優ニ覺(へ)候へ。名乗セ 給ヘト詞ヲ懸(け)ケレバ。先(づ)角(=斯く)云フ和殿ハ誰(た)ソ。信濃國住人 手塚太郎金刺(かねさしの)光盛  如白本作小太郎滿盛下倣之 トコソ名乗タレ。實 盛サテハ互ニヨキ敵。但シ和殿ヲ下(さぐ)ルには非ズ。存スル旨ガアレバ名乗ル事ハ 有ルマジイザ  南都本云フ首ヲ取リ見参ニ入レヨ云々 ヨレ組マフ手塚トテ馳セ雙  (ならべ)ル處ニ。手塚ガ郎等主ヲ討セジト中ニ隔テタリ。實盛ニ押雙(ナラビ)テ無 手(むづ)ト組ム。實盛哀レ己(おのれ)ハ日本一ノ剛ノ者ト組ンデ。ウスヨナウレト テ。我乗タリケル鞍ノ前輪ニ押附テ些(いささか)モ働セズ。首搔切(かききっ)テ捨 テテケリ。手塚郎等ガ討タルヽヲ見テ。弓手ニ廻りアヒ、鎧ノ草摺引上ゲテ、二刀(ふ たかたな) 如白本作三刀 刺ス。弱ル所ヲ組テフス。 馳雙(はせならぶ)云々伊藤 八坂本無、唯馬打雙べ組デ落ツ云々蓋シ脱文乎 實盛心ハ猛フ思へ共。軍(イクサ)ニ ハ(馳)シツカレヌ。手ハ負(おひ)ツ。其上老武者テハ有リ。手塚ガ下ニゾ成(り) ニケル。手塚太郎  八坂本二首取テ木曾前ニ行云々 伊藤本云フ郎従ニ物具佩(き) セ首ヲバ太刀ノ先ニ指貫キ木曾ノ前ニ行ク云々 南都本云フ郎等ニ物具ハカセ首取テ  木曾ノ前ニ行ク云々  馳來ル郎等ニ首取ラセ云々。
手塚敵ノ首ヲ郎等ニ持(た)セテ。木曾ノ前ニ持テ行キ申シケルハ。光盛癖者ノ首取テ候。名乗レト申セハ。存スル旨アリ名乗ルマジ。木曾殿ハ御覧シ知(る)ベシ。 木曾殿云々一本如白本南都本伊藤本ハ坂本佐野本鎌倉本無 ト計リニテ名乗ズ。侍カト見レハ錦直垂ヲ服タリ。大將軍カト思ヘバ續ク者ナシ。京家西国の者カトスレハ板東聲也キ・若者カト思ヘバ。面ノ皺七十餘ニ疊メリ。老者カトスレバ鬚鬢黒(ウ)シテ盛リト見ユ。何者ノ首ナルラント申ス。 若者云々諸本無 木曾打チ案ジテ哀レ武藏斎藤別當ニヤ有ラン。但シ其ハ一年 印本一本八坂本鎌倉本如白本佐野本南都本云フ義仲ガ上野ヘ越タリシトキ云々 少目に見シカハ。白髪ノ糟尾ニ生ヒタリシカバ。今ハ 印本一本八坂本如白本云フ七十ニモ余アマり云々鎌倉本云フ六十ニモ餘云々此下七十ニ餘云々齟齬 殊ノ外ニ白髪ニ成リヌランニ鬚鬢ノ黒キハ何ヤラン 此下諸本小異別出干下 面ノ老ヒ樣ハサモヤト覺ユ。實ニ不審也。樋口ハ古同僚見知リタルラントテ召サレタリ。髷ワ取リ引キ仰ケテ一目打見テ。ハラハラト泣ク。アナ無慙ヤ實盛りニテ候ケリト申ス。何ニ鬢鬚ノ黒キハト問ヒ給ヘバ。樋口サレバ其ノ事思ヒ出デラレ侍リ。實盛日ゴロ申シ置キ候ヒシハ。弓矢取ル者ハ老體ニテ軍陣ニ向ハンニハ、髪ニ墨ヲ塗ラント思フ也。其ノ故ハ合戦ナラヌ時ダニモ、若キ人ハ白髪ヲ見テアナツル心アリ。況(いは)ンヤ軍場ニシテ進まマントスレバ。古老氣ナシト悪(にく)ミ。退ク時ハ今ハ分(ぶ)ニ叶ハズト譏(そし)ル。實(げ)ニ若人ト先ヲ諍(いさか)フモ憚リアリ。敵モ甲斐ナキ者ニ思ヘリ。悲シキハ老ヒノ白髪ニ侍ル。サレバ俊成卿 中納言藤俊忠子本名顯廣 述懐ノ歌ニ。
澤ニ生フル若菜ナラネど徒(いたずら)ニ 年ヲツムニモ袖ハヌレケリ
ト讀ミ侍ルトカヤ。人ハ聊(いささ)カノ物語ノ傳へニモ.後ノ形見ニ。言ヲバ殘シ置クベキ事ニ侍ル。云ヒシニ違ハズ墨墨ヲ塗ッテ候ヒケリ。年來内外ナク申シシ事ノ哀レサニ。樋口次郎兼光水ヲ取寄セテ、自ラ是ヲ洗ヒタレバ。白髪尉ニゾ成リニケル。サテコソ一定(いちじょう)實盛トハ知レニケレ。大國(=支那)許由ハ耳ヲ穎川ノ水ニ濯ギテ。名ヲ後代ニ留(とど)ム。我朝(わがてう)ノ實盛ハ髪ヲ戰場ノ墨ニ染メテ。悲シミヲ萬人ニ催セリ。
○平家諸本並ビ云フ、樋口兼光ハ年来馴レ遊ビテ見知リタルラン。樋口召セトテ召サレケリ。 樋口  長門本云フ髻(もとどり)ヲ取引キアヲノケ云々伊藤本注干下  只一目見テ穴無 慙。齊藤別當ニテ候ヒケリトテ涙ヲ流ス。木曾殿其レナランニハ。早ヤ七十ニモ餘リ  早 ヤ七十云々伊藤本八坂本南都本長門本無シ  白髪ニコソ成リヌランニ。鬢鬚ノ黒キハ   伊藤本云フ樋口只一目見テナミダニ咽(むせ)ケレバ木曾如何ニ如何ニト宣ヘバ云々  如 何ト宣ヘバ。良(やや)有ツテ樋口次郎涙ヲ押サヘテ申シケルハ、左(さ)候ヘバ其ノ樣ヲ申 上ゲント仕候ガ。餘(あまり)ニ哀レニ覚エ候ヒテ。先ヅ不覚ノ泪ノコボレ候ヒケルゾヤ。 去レバ弓矢取ハ聊(いささか)ノ所ニテモ。思出ノ言ヲバ兼テツカヒ置クベキ事ニテ候ヒケ ルソヤ。  長門本云フ武藏國ニ常ニ通ヒ候時 實盛ガ許(もと)ヘマカリ候ヒキ 心モ尋 常ニ優ナル者ニテ候ヒシ云々  常ハ兼光ニ逢ヒテ物語シ候ヒシハ。六十ニ餘ツテ  六十 云々如白本無シ唯云フ我老ヒ衰エテ後云々  軍(いくさ)ノ陣ヘ向カハン時ハ。鬢鬚ヲ黒 ク染メテ若ヤカウト思フ也。其ノ故ハ 若殿原ニ争ヒテ先ヲ懸ケンモ長(おとな)ケナシ。 又老武者トテ人ノ慢(あなどら)ンモ口惜シカルヘシト申シ候ヒシカ。誠ニ染テ候ヒケルゾ ヤ。洗ハセテ御覧候ヘト申シケレバ。木曾殿サモ有ラントテ。 如白本伊藤本八坂本云フ加 賀國成合ノ池ニテ云々  洗ハセテ御覧ズレバ.白髪ニコソ成リニケレ。云々。
木曾宣ヒケルハ。親父帯刀先生(たてわき・せんじょう)ヲバ。悪源太楽平ガ討チタリケル時。義仲ハ二歳ニ成リニケルヲ。  案ズルニ義仲ガ年 東鑑(あづまかがみ)異詳 注干本書第三十五巻粟津合戦段  畠山ニ仰セテ尋ネ出ダシ。必ズ失スベシト傳ヘタリケルニ。如何ニ稚者(わかもの)ニ刀ヲ立テントテ。我ハ知ラザル由(よし)ニテ。情深ク此ノ齊藤別當ガ許(もと)ヘ遣(つかわ)シテ 養ヘト云ヒケレバ。請取リ養ハントシケルガ。七箇日置イテ。東国ハ皆源氏ノ家人(ケニン)也。我人ニ憑(タノ)マレテ.此児ヲ養ヒ立テザランモ人ナラズ。育テヲカンモアタリイブセシト案ジナシテ。木曾ヘ遣ハシケル志。偏(ひとへ)ニ實盛ガ恩ニアリ。一樹ノ陰(カゲ)一河ノ流ト云フタメシモ有ンナレバ。實盛モ義仲ガ爲ニハ七箇日ノ養父。危キ敵ノ中ヲ計ラヒ出シケル其ノ志。爭(いかで)カ忘ルベキナレバ。此ノ首ヨク孝養セヨトテ。サメザメと泣キケレバ。兵(ツワモノ)共モ各(みな)袖ヲ絞リケリ。  以上諸本無 按ズルニ本書第廿六巻木曾謀反段 載義仲匿信濃一節與此可併考 抑(そもそ)モ實盛石打ノ征矢(そや)ヲ負ヒ  石打云々諸本無ク下(しも)之ニ倣フ 錦ノ鎧直垂を著ルコトハ。今度北国ヘ下リケル時 内大臣ニ申シケルハ實盛東国ノ討手ニ下向シテ。  按ズルニ養和元年實盛東征 東鑑ニ據レバウタガフベキ者既ニ干本書第二十三巻實盛京上段ニ有リ通考スベシ  矢一ツモ射ずズ蒲原ヨリ帰リ上リシ事。老ノ恥ト存ジ候ヒキ。今度ビ北陸道ニ罷リ下リナバ。年蘭(た)ケ身衰ヘテ侍ヘドモ真先駆ケテ討死勿論也。實盛所  印本鎌倉本佐野本御ニ作ル 領ニ附イテ。近年武藏  印本一本伊藤本鎌倉本八坂本如白本南都本佐野本長井字有リ  ニ住居ナレ共。本ハ越前國住人ニテ。北国ハ舊里也。先祖利仁将軍三人ノ男ヲ生ム。嫡男越前ニアリ齊藤ト云フ。次男加賀ニアリ富樫ト云フ。三男越中ニアリ井口ト云フ。彼等子孫繁盛シテ。國中互ニ相親シム。   按ズルニ、齊藤富樫之先ハ三子ヲ出ダス。齊藤富樫井口ヲ號スルの説系図ヲ見ズ。  サレバ三箇國ノ宗徒ノ者、内戚外戚に附イテ。親類一門ニ非(あらざ)ル者ナシ。實盛討死シテ候ハバ。當國他国ノ者共集ッテ。別當ハ何ヲカ著タル。如何ナル装束ヲカシタルト見沙汰セン事恥カシ。  先祖利仁云々諸本無シ  故郷ヘハ錦ノ袴ヲ着テ帰ルト云フ事ニ侍レバ。今度(こたび)生国(しょうごく)ノ下向ニ錦直垂ニ。石打征矢御免(いしうちそやごめん)ヲ蒙リ候ハン。且ツハ最期ノ御恩ナリト所望申シケレバ。  此ノ下諸本下ニ注。  初メハ免(ゆる)シ給ハザリケルガ。既ニ打立ツ處ニ。實盛思ヒ切ッタル顔ノ気色(けしき)且ツハ軍ヲ勧メンガ爲ニ。内大臣(=平宗盛)ノ我ガ料トテ秘蔵セラレタリケルヲ取出テ下シ給ヘリ實盛畏(かしこ)ミ給ハリテ。千秋萬歳ノ心地シテゾ着タリケル是ヲ聞ケル大名小名。袖ヲ絞ラヌハナカリケリ。  諸本云フ宗盛ヤサシクモ申シタリトテ即御免アリトゾ聞コヘシ云々此ノ下唯長門本有リ  昔大國ニ朱買臣と云フ人有(り)キ。家貧シテ始メテ書ヲ讀ミケレバ其ノ才身ニ餘リツヽ。漢武帝ニ召レテ。侍中(じちゅう)ト云フ臣ニ居テ。大イニ榮ヘ富ミケレバ。住馴レシ會稽ノ故郷ヘ下リシニ、錦ノ袴ヲ著タリケリ。見ル人分匿ノ空シカラザル事ヲ思ヘリ。實盛モ此事ヲ思出ケルニヤ、最期ノ所望モ哀レ也。免(ゆる)シ給フモ情アリ。彼ハ文ヺ以テ著ハシ。是ハ武ヲ以テ給ハル。文武ノ勧賞トリドリナリ。
昔 天寶ニ兵ヲ召シテ。雲南萬里ニ駆セ向フ。彼ノ雲南ニ湯ノ如クナル流レアリ。是ヲ瀘水(ろすい)ト名ツク。軍兵徒(かち)ヨリ渉(わた)時。十人ガ三人ハ死ニケレバ。村南村北ニ哭スル音絶ズ。兒ハ爺嬢(やじょう)ニ別レ。夫ハ妻ニ別レタリ。昔モ今モ蠻ニ征スル者千萬ナレ共、一人モ帰ラザリケレバ。新豊縣ニ男アリ。兵ニ駆ラレテ雲南ニ行キケルガ。彼戰ヲ恐レツツ歳二十四ニテ夜更ケ人定マツテ、自ラ大石ヲ把テ己レガ臂(ヒヂ)を打チ折リ、弓ヲ張リ旗ヲ擧グルニ叶ハネバ、行ク事ヲ免レテ。再ビ故郷ニ帰リケリ。骨砕ケ筋傷ミテ悲シケレ共、六十年ヲ送リケリ。雨降リ風吹キ陰リ。寒夜ハ痛ミテ眠ラザレ共。是ヲ悔シト思ハズ、悦ブ處ハ老ラクノ八十八マデ生クル事ヲ。
是ハ異国ノ事ナレ共、此國(=日本)ノ歌人ヨメルトカ。  以上故事作者和歌ノ爲ニ由ル 所之ヲ引ク 特ニ存ジテ改メズ
一枝(ヒトエダ)ヲ折ラデハイカデ櫻花
八十(ヤソヂ)餘リノ春にアフベキ
新豊縣老翁ハ八十八命ヲ惜ミテ臂ヲ折リ。齊藤別當實盛ハ七十三、名ヲ惜シミテ命ヲ捨ツ。猛キモ賢キモ人ノ心トリドリ也。
2024 2/16

* 酒が呑めている決して大量にでは亡いが。酔い崩れる事が無い寝入れる。それでいいと思っている.視力を労ってやりたいが。これが一等難しい、とにもかくにも「読む」のだから。「読めない」となれば生きた心地は失せるだろう。一
2024 2/17

* 何故 如何 寝覚めたか判らない、夢よりも、何かと思案してたらしいが。「盛衰記」は、もう在京の平家は東国出征の先々で様々にボロ負けし京都へ遁げ帰っている辺まで読んで来た。
2024 2/18

* 一時間ごとの尿意との引き合いで睡りはズタズタ、そのつど「大和物語の人々や」「参考源平盛衰記」の「剣巻」や義仲に京を逐われる平家を読み、一転 地中海の密輸入船の船団に働きながら、念願の無人モンテ・クリスト島へ上陸の幸便を得て行くエドモン・ダンテス等を愉しんで拾い読みし続けていた。『中国』超古代三帝五皇伝説の歴史にも分け入り始め樹上に暮らし火を燧りはじめめた人類にも出会い始めている。
ただ睡眠はズタズタに千切れるが。
2024 2/21

* いま夜の九時半。一日中、寝はいっていたのが実態。幾らでも寝入れる。心身が明らかにそれを望んでいる。抗う必要は、何も無い。心神を酷使してきたとは思わないが、趙岐によたって疲労の蓄積は否認できない。
無理なガンバリを、幸いい今要求されていない。『休む』という息のつ付き方を覺えていい山坂へ来ている。わたくしの「やすむ」の大きな比重は、幸いにも一に好きな「讀書」に在る。今も、これ以上無いと謂いたいほどの書目を身近間近に確保して読んでいる。飲・食の比重は後退している、それでも、久しぶり、一度街へ出てみたい。池袋メトロポリタンホテル地階で、最良の焼肉を200グラム、最良のワインで。

* 認知力の一層の低下なのだろう、「パソコン」関連の、複写や印刷の手順や、またカメラ使用法などが混乱状態。当惑しながら、もう幾らか諦めている。
大事にしたいのは「読み・書き・創る」意欲。在る、残って居ると信じている。
2024 2/21

* 終夜 半睲半睡のようで、一時間強の割合で床を起っていたし、ときおりはモノを読んでいた。『大和物語の人々』がふしぎなほど懐かしまれる。では、百人一首のうちに『難波潟みぢかき葦の」と詠っていた「伊勢」の表情など想ひ浮かぶ。かし思うと『参考源平盛衰記』「剣巻」に読み耽って、一転『十八史略』冒頭の太古、人面蛇身の樹上に棲み、また「火」を燧り出した肇めの時期などを読んでいた。「読んで」識るには限界はある、が、「読める」有り難さには頭が下がる。が、睡眠が淡くうすれ勝ちにななる、宜しくは無い。

* 目を見ひらいているのが鬱陶しいのでは、視野の無い日々になる。困惑。「生きる」「生きている」事に拘泥するのを已めてはどうか。ソレよりも「秦恒平」に拘泥するのを先に已めるが適切か、それが出来るのか。
2024 2/22

* まだ九時半ではあるが両眼のまわりから黒い疲労が沁み入っててくる。ともあれもう床に就きたい、床に就けば、また「参考源平盛衰記」「大和物語の人々」そしてエドモン・ダンテスの返信へ惹き容れられるだろう。これはもう私の「病気」というしかないか。 2024 2/23

* 「泣き崩れる」とは謂うが「寝崩れる」とは謂うまい、知らない、が、そういう体調で。床に就いてもそうそう寝入ってもしまえず、『参考源平盛衰記』では平家総崩れの都落ち、『大和物語の人々』でも宮廷男女達の原稿や和歌を勉強している、が、ぐたッとしんどい。ジクジクしてないで本当に寝入った方が良い。それにしても流石に古今集直後頃の宮廷人の和歌の巧みな事よ。
明日は妻の歯科通い、気を替えるためにも,雨でも雪でも同行しようかと思っているけれど家で寝ているベきか。
2024 2/25

* 「光るの君へ」は紫式部を介して「道長」時代への道案内をしてる。いわゆる藤原摂関家の軋轢に辻廷内と判り難い。紫式部と道長とには曰わく謂いがたい接触があり古典文藝と摂関聖政権とのつかず離れずか、ある。摂関家の動向に通じていないと,判り難くなる。道長は摂政兼家三子の三男で,長兄に道隆、次兄に道兼がいた。この二人を超え越して行かねばならない道長は、それに成功して「「わが世とぞおもふ望月」の大権勢を確保し、その予行すら帯びて紫式部の源氏物語は「世界理古典」へと成長仕上がっていった。
これだけを承知していれば「光るの君へ」は判り良く、より面白くなる。この西紀千年のほぼ直前に位置した「藤・紫の物語」に親しむ事で私は「平安盛期」の日本史をとにもかくにも手に摑んでいったと,思っている、高校生の頃から。和歌、短歌へむしゃぶりつくほどの関心と興味と賞嘆とが 役に立った。私自身が「小説家」によりも世ほど早く先に「歌人」という自覚と作とを積んでいたのだ,高校生の頃から。
2024 2/27

* 国民学校(さきの大東亜戦争ごく初期・昭和十七年(一九四二)四月七日に入学 前年十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲・開戦)の一年生を終えて直ぐ、一年担任だったたぶん四十代中頃の吉村女先生は、私に、一冊の「本」を手渡しに下さった。いまも現に、此処に、手の内に,在る。

文部省藏版(日本思想叢書第五編)
文学博士 次 田 潤 校訂解説

古  事  記

大日本教化圖書株式会社發行
昭和十三年十二月一日五版發恒行 定價金八拾錢く送料十錢)

* 巻頭に「口語譯」が挙げてあり、國生みに肇まり、難なく読めた。こんなに心惹かれて「興味深く面白かった本」は生涯に何冊とは無かった、暗誦するほど読みに読んだ。私の読書傾向と読書歴とをまさしく「決定」したこれが第一冊「私史の寶」なのである。「恩師」とは一にまさしく「吉村先生」であった、そして「もう一つ」挙げれば歌歌留多の『「小倉百人一首』に、私は『古事記』の「日本」にならぶ、もう一面の「日本」を学びかつ覺えた。感謝に堪えない。    朝 七時
2024 2/28

* 夕食時分、また、今度はトム・クルーズ主演のお色気も濃厚なサスペンス映画『{ファーム 法律事務所』を愉しんだ。
録画しながらと謂うコトも多いが、すでに録画して板になった和洋の映画が背の高い抽出棚に、優に二百枚は貯蔵してある。いつでも映画の愉しめる用意がしてある。
書庫の書架には、むしろ小説本より、他の、勉強のための研究書や歴史書や美術書や地理書、そして大事典や大辞典の方が数多い。全集・選集以外の小説本はほとんどが原著者からの献辞や署名入りの戴き本であります。
2024 2/28

* 床のまま、『参考源平盛衰記』平家総崩れの都落ちのなか、ミヤコに止まった「池」大納言の一党と源頼朝と久しい因縁話を読んで、『中国の歴史』の伝説的な太古の「伝え」などを読んで、床を起った。
2024 3/5

* あるまま、為るままで、いる。本は読める。幸いに『参考源平盛衰記』と『源氏物語』は双璧にこころ惹いて已まないし、『モンテ・クリスト伯』は面白さで聳え立っている。『大和物語の人々』『中国の歴史』そして『十八史略』。寸分の弛みもない。
そして寝たいなら寝ていれば済む。私に、幸い、いま逼られる所要は無い。ありがたいこと、人の匂いが失せていてすこし寂しいけれど
2024 3/5

* 寝起きの儘、床にいて『参考源平盛衰記』は平家が都落ちし,源氏が近江から比叡山へのぼり、後白河法皇は資時独りを連れて鞍馬へと、の辺を読んだ。『資時出家』『花方』などいう作で私はこの辺を何度も創作上往返してきた。
『「大和物語」の人々』は手堅い「論攷・研究論文」の面白さに魅されて清和陽成ないし宇多宮廷の昔を読んでいる。
何というても『中国の歴史』は比べものもなく広漠、かつ歴史の底深さに満ち満ちている。わたくしは「秦恒平 チン・ハンピン」と歴とした中国姓氏を名乗っている日本人の私は、殊に太古上古來「秦」に至る「中国」に惹かれる,今も毎日またまた新たにその辺に想い惹かれて読んでいる。

* そして、特製のの船に途方も無い金銀宝玉通過を通貨を積載、また別の孤島「モンテクリスト島」の堅固な秘所に隠匿秘蔵したエドモン・ダンテス、いまや「モンテ・クリスト伯」のべらぼうな「復讐へ」の人生を読み継いでいる。

* どんな不快や停頓があっても、こういう「讀書」は抜本的に豊饒な魅力である
2024 3/10

* 夕方 五時前。朝の讀書後、朝昼の短時間、小食のほかは、ほぼ熟睡していた、生きているスベを忘れたように。夕食後は、どうか。大相撲大阪で?の春場所か、さてと熱くは誘われない。しぶとく健闘の横綱「照ノ富士」にしか関心も贔屓も、無い。つまらん四股名のつまらん相撲取りに落ちぶれた「遠藤」などに、がっかり。四股名にこそ大相撲の美学があると謂うに。

* つまりは「寝よう」と、潰れている。床に就いて、「読んで」寝入るという成り行きを、全面受け容れている。
2024 3/10

* 目覚めた床のママ数冊に手を出して読み、カンタンに食べてすぐマタ寝入り、午近くに起きてまた少し食べただけで、寝てしまいそうと想いつつ、フッと、『瓦解』という言葉と文字とがアタマへ来た、
「瓦解…」  今の私は、それだ。ソレのようだ。崩れ始めたのだ。体に苦痛はない、が「力」も「根」も「精気」も無い。
これは「抵抗」してどうなるとも想われない。「瓦解」は行くところまで崩れ毀れるしかない。最も無難なのは、「寝ている」ことか。食欲も特に「飲」欲も無い。「活気」が全然、乾ききったように、無い。いま、午後一時二十分。渡しの内側で纔かに可能なのは「讀書」、そして佳い「映画」にテレビで出会う事。
病気に罹っているとは感じない、が、風邪けでもなく、始終細い「水ッ洟」をを咬んでいる。

* 「瓦解」に委せようと思いかけて
2024 3/11

* フッと目覚めるとそのま床にいて、キマリの本を赤と黒とのペンを手に読み継ぐ。
『大和物語の人々』に清和・陽成頃の些細な宮廷の人脈を辿りながら、「紫・清」盛期に至る直前の「平安時代」を胸に納めている。
『参考源平盛衰記』では平家瓦解のミヤコ落ちを尻目に、木曾義仲・多田行家「源氏」のまだミヤコにも宮廷にももの馴れないのを見定めながらの叙勲・叙爵を「餌」した公家の尊大などが描かれるのを、愉快でなく読んでいた。
『中国の歴史』では太古
・上古のロンシャン文化文明がヤンショウ文化/文明へ隔ダイ充実して行く推移を骨考古学や土器考古学のじっせきとともに、読み継いでいた。
小説は、ながらく読み継いできた陳彦『主演女優』大デュマ『モンテ・クリスト伯』に耽溺の儘。
加えて、仏壇から持ち出しの経文集から、こころひかれる一巻を音読し黙読し、暗誦したいなと思っていたり。孰れも頗る心惹いて覺としたそれぞれの世界を展開してくれる。

* 体、は堅調ら戻ったのか。全然ダメ。上の讀書などはその面白さや賢さが私のために「クスリ」となり不調をフト擦れさせてくれる、だけのこと。 しんどい、ぐたっと。
2024 3/13

* モノを処分し捨てたいと手懸けても、ただ容易でないとばかりが判る。なにが,比較して他よりマシか。「読書」に尽きてくる。読んでいるうちは、古典でも、論著でも、読み物でも、疲労困憊から身も心も避け得ているかナ、と。錯覚かもしれぬが、其処へはなんとか、逃げ込める。
エドモン・ダンテスは、はや,「最初の復讐」に手をそめ、木賃宿を夫婦で営んでいるいじましい旧知カドルッスを、司祭の姿で「エドモンの遺言」を伝えると偽りながら。
行一行、言一言もアタマに入って生き残っているりのだから、この大長編は「凄」い。「結婚」して六五年「記念」の再会に「エドモン・ダンテス」が相応しいかどうか、問わない、身に添うて久しいい「知友の手に」疲れ果てた心身を預ける心地よ。幸いに、よく応えて呉れる懐かしい読み物であるよ。
2024 3/13

* 一日は,まだ床にいて日課のようにキマリの三、四冊を少しずつ「読んで」始まる。
中国の太古、日本の古今・後撰集の頃『大和物語の人々』、そして十二世紀の激越な四十八冊『参考源平盛衰記』、加えて魅惑の『モンテ・クリスト伯』。
日本の現代の文学・文藝が無い。識らないのだ。
歴史は、堂々浩瀚の長編上下、詳細を究めた『明治歴史』がいつでも手の出せるところに用意してある。日本の上古、古代、中世史は、おおかた頭に入っている。
更には文庫本で読み継ぎの『源氏物語』と『水滸伝』 わくわくする。生ける甲斐あり、絶好と思う。
2024 3/15

* 「謹呈 秦恒平様」「猪瀬直樹」と献辞は入りの単行書『三島由紀夫と石原慎太郎』を手にしてみた、が、何とも私の踏み込む世間ではなく、失礼した 。
2024 3/17

* このごろ,朝の寝覚めの、まだ床にいての習いは、相変わり無く『参考源平盛衰記』いまや平家は陪都の福原も捨てて四国へ落ち行き、望郷(懷京)の悲嘆におちている。
『中国の歴史』は、太古のヤンシャオ文化からロンシャン文化へと。青銅器文化がじりりと進展しつつ在り。
そして『大和物語の人々』は今しもテレビの大河ドラマ『光るの君へ』背景の宮廷人達への認知を克明に誘ってくれている。
そして『モンテ・クリスト伯』というご馳走を、食欲にまかせている。
2024 3/18

* 激して人なかで弁じ、叫んで夢さめた。

* そのまま床で、枕もとの本に手を出した。
『参考源平盛衰記』は平家の「福原京」をも棄てて去る前の、幼帝を抱いて一門の華麗かつ悲愴の「歌舞・管弦」の遊びにたっぷり筆が用いられていて、涙ぐましいかぎり。こういう場面は東国から蹶起の源氏ではみられない。
平家はまさしくもう公卿・公家・宮廷の風に成りきっていたと判る。
どうも私は平家に情を寄せていて、このさきの平家滅亡までは、さぞやつらい思いに揺れ沈む事だろう。
少年の昔は、何が何でも義経や弁慶の源氏白旗ひいきであったけれど、老残の今日、赤旗の平家がひびかせる管弦や舞踏や哀情の人事描写に魂をふるわせてしまう。
2024 3/29

* 午に成ろうとしている。何も出来てない、しようともしてない。

* 晩になっても、同じく。心惹くのは『モンテ・クリスト伯』ばかり。
2024 3/19

* 機械が 手に負えず 困惑 なにもかも故障かと。そして私の体調も アタマの働きも グチャグチャです。此のメールが送れるのかドーカも判らないで居ます。元気でいて下さい。 今は、それだけを願います。 ボヤーッとしています、なにもかも。けれど、生きていますから、それは安心して下さい。 読めるかどうか、読めたら 読めたとだけでも返信しておいて下さい。

* なにもかも おハナシにならず「衰弱の気味」。それでいて「着手」したいあれこれの「仕事」に心惹かれている。
『参考源平盛衰記』巻初の『剣巻』は「読むに値い」の力編、清明に訓み下してみたい、とか。「平家」の、副都「福原」を西国へ陥ち行く前夜の、一問を挙げての管絃舞踏の宴もまことに美しく、この、全四十八冊もの「盛衰記」は広く読まれたいとしみじみ思うているが。もっと早く元気なうちに敢然「全訳」に手を染めたかった。まさに残念。

* メール機能を機械から見失い、なんとも、淋しい。
2024 3/20

* 床わきに、本が揃っている。私の生きてある利点の最も大きい一つは「讀書」の愉しめる事。
今は、大冊の読み物に、ドストエフスキーの『悪霊』 大デュマの『モンテ・クリスト伯』 陳彦の『主演女優』が揃い、そして研究書『大和物語の人々』 大部四十八冊の古典『参考源平盛衰記』 教科書『中国の上古史』が揃っている。どの一冊にも惹かれる。本の、快く、面白く、惹き込まれて読めるのをなにより自身のために喜ぶ。

* それにしても、寒い。そして、体にちからが無い。蛋白質・脂肪、ともに不足か。炭水化物も、尠いと謂えば足りないか。日本酒をついつい、すこしずつだがクチにしている。街へ出たい出たいと謂いながら、思えば三年「出かけて」いないのだ。「食」「美食」の機会が無い。
メールが利かない。郵便も無い。なるほど。「讀書」しか無いのだ。テレビも、相撲ぐらいしか観ない。心惹く優れた「映画」が観たいけれど、出会わない。

* いま此のパソコンのデスクトップは、私の昔に撮っておいた、大きな、京都祇園「八坂神社の朱の正門」が、四条大通りへ大きく開いている。実に実に美しく、此の機械をあけるつど叫びたいほどに懐かしく魅了される。大自慢のデスクトップである。
2024 3/21

* 床のうちで夜中、つぎつぎに「読んで」いた.選び抜いてあり、研究書も教科書も古典も小説も、どれも面白く興深く読める。陳彦の『主演女優』も超大作だが、主役の「イ・チンオー」が、みごとなまで心を惹く。ドストエフスキーの『悪霊』デュマの『モンテ・クリスト伯』それに古典の大冊『参考源平盛衰記』 みな堪らない面白さ。地震・雷・火事こそ御免蒙るが、余の大概な難儀なら「讀書」で凌げます。
2024 3/22

* 両眼が重苦しく痛んで、体調の違和が去らない。それでも惹かれて読みたい「本」は、読みつづけたい。
2024 3/22

* けれど。ぐったりと力なし。「本」の世界へ遁れるしかないか。デュマ、ドストエフスキー、陳彦、それに『参考源平盛衰記』 いささかも飽きない。 加えて、中国の上古史、詳細な研究の『大和物語の人々』
2024 3/23

* 『モンテ・クリスト伯』が、大好きで飽きないご馳走のように嬉しく、また、中国「現代」の大長編、陳彦作『主演女優』菱沼彬晁譯の引きずり込むお話し上手の面白さ、縦横に満点の読み物です。お薦めできる。
だが、今、それ以上に改めて和手櫛をワクワクさせる一冊は、大判で千頁もあるドストエフスキーの大作『悪霊』で。一行一行 嘗めるように嬉しく 読み進んでいる。
ま、どれもこれも読み終えるに相当な日数をかぞえるだろうが、「買いものに出る財布」にお金が詰まっているような乗り気で読める。
実を謂うと、いましも、テレビでは『光る君へ』かという、紫式部と藤原道長とのナイスなロマンスを展開しており、加えて手もとに保存の映画で、多彩に女優たちを起用の市川雷蔵『新源氏物語』が観られる。それなら、いっそ、物語原典を「いづれのおほんときにか」と首巻「桐壺」から結語「夢の浮橋」までまたまた読み返そうかなあ。なんと豪華に豊かな読書環境である事か、大概な不興や不快や退屈は「吹き飛ばせ」る。
2024 3/25

* 床のまま『参考源平盛衰記』の義仲、行家叙勲から、京のほうおうから連れ去られ持ち去られた幼い主上や三種神器の返還交渉あたりを読んでいた。この辺の史実は、私の創作『花方』の頃、念入りに取材した。
『中国の歴史』では、殷から周への展開と難儀のほどを汲み且つ読んだ。『「大和物語」の人々』では、文徳・清和天皇の頃の皇胤源氏と藤原氏の凌ぎを削りつつある宮廷の人たちを「眺め」読んでいた。
だいたい、此の、うえの三冊はいつも「起き抜け」のときに取り纏め次々に少しずつ読み進む事にしている。
2024 3/28

* 明朝、いちばんに厚生病院で予定予約の血液検査と診察を受ける。妻も一緒。病院というところ、実にたっぷりと待たされる。『モンテ・クリスト伯』上半卷,読みあげて来るだろう。
2024 3/31

* 春、温かと感じて朝を迎えている。「四月馬鹿 エイプリルフール」とか謂うようだがタクシには判らない。ただ、温順な一日を願いながら、今朝は九時に、ま、近いと謂えば近い、タクシーなら初乗りで着く病院の受付へ,妻と。病院とはひたすら「待つ」修業の場でもある。重い荷になっても「読む本」は欠かせない。エドモン・ダンテスという佳い連れがある。
2024 4/1

* 全四八冊の半ば、『参考源平盛衰記』 都落ちの「平家」は、はるか九州で、在地勢力の迎撃に藻掻いている。
道長や紫式部のやや前代に當っている『大和物語の人々』は、多大の興趣と新知識を得て,読了。
ドストエフスキーの『悪霊』 陳彦の現代作『主演女優』 そして大デュマの『モンテ・クリスト伯』 孰れも超大作。愉しんでいる。
『中国の上古史』 殷から周へ漢へ。併せて、半ば読みさしの厖大篇『史記列伝』へ気が動いている。

*『デイリーコンサイス英和 和英 辞典』(三省堂)をまぢかに持ってきた、私は『辞典』を惹くだけでなく読んでもいる。いい読者とは,一つには大小の字書辞典を愛用する・できる人の意味でもある。

* 日本史は、現在は平安時代最盛期に関心を集めて、軈て又廿度目に前後している『源氏物語』通読へ側面から備えている。これぞ世界に屈指の「世界文學」と、敬愛しつづけてきた。
2024 4/2

* 午後も、晩も、おおかた寝入っていた、それでも、枕して本も読んでいた。ドッカーンと大きな四冊、ドストエフスキー『悪霊(草野心平譯)』陳彦『主演女優(菱沼譯)』『モンテ・クリスト伯(山内豊雄譯)』そして水戸で編まれた全四八冊の『参考源平盛衰記』第三十冊目、らの途轍もな興趣も豪勢な内容・文章の個性豊か面白さには、思わず笑えて降参し嘆賞しとている。「讀書の徳」はひろく深くさまざまに斯うありたい。

* にしても、このぐったりと「重たい疲弊」の嵩高さよ。
2024 4/4

* いま夜の十一時前。ほぼ終日、床に就いていた。本を読んでは寝入っていた。いまも妻に起こされ、奇態にニイヤな夢から覚めた。私は、まこと、生きているのか。本は変わりなくドストエフスキーの『悪霊』 陳彦の『主演女優』 大デュマの『ンテ・クリスト伯』 そして全四八冊『参考源平盛衰記』の三一冊め、平家は九州まで落ち、源氏は図に乗った木曾義仲の一党が京都で暴れ出す。
どれもみな揺るがず面白く、全五十巻『日本の歴史』の「平安朝」へも読み進んで、ドラマ『光る君へ』への下地を確かめ確かめ歴史を復習していた。みんな親しい読み物で何の苦もない。『中国のの歴史』の殷周時代も通り抜けながら、春秋戦国時代を歩み歩みしている。
讀書は私の濃い「栄養」。日常の食欲は、はなはだ薄い。下保谷は甚だの田舎、肉や魚を買うにも、そんな店までに相当歩かねばならない。歩けない。いきおい「生協」頼みになる。
2024 4/5

* 手洗いに起ったまま、寝床に坐り込み、手近な引出し棚や枕もとの本や辞書たちの検分や整頓を始め、そのまま起きてしまった。一等手近には『悪霊』や、順不同、読み継ぎの『参考源平盛衰記』ほか大冊三,四点や文庫本の源氏物語,水滸伝、浄土三部経などがある。どれにも始終手を出している。今今の暮らしではナマな人付き合いは、ゼロ。医者の他、出かけもしてない。食べる店など近くには、ゼロ。ご近所もシーンとして静かなもの。

* 昭和の昔に買った岩波文庫の『源氏物語』と『大鏡』とを書架からはこんで読み始めると、ウソのように何の躓きも無く気分良く読み進められるのにビックリした。それだけの年数を付き合ってきたのだ。
此の二冊は、現在テレビで出愉しんでいる『光る君へ』にひたと重なる。
加えて、主人公の一人藤原道長の家系を、父「兼家の頃」からお浚いするためにも、中公文庫『日本の歴史』の平安初期二冊を手もとに置いている。
道長は兼家正系の三男、異母兄に道綱が居り、この「大納言道綱母」がすぐれた「日本語」の古典『蜻蛉日記』の著者で,百人一首にも名を連ねた屈指の歌人。
此の,兼家から道長のころが平安朝文化・文藝・摂関政治のの天井を成していて、どれほど繰り返し読んでも汲みきれない魅力に溢れている。『大鏡』は、そを証言している一冊と謂える。
2024 4/6

* 書くのは「小説」「私語の刻」
他はひたすら「読書」を愉しむ,枕許に、ほぼ何時も、十二、三冊の大小本を選んで置いている。 小説は大作を。『悪霊』『主演女優』『モンテ・クリスト伯』『源氏物語』 歴史書は『参考源平盛衰記』『中国上古史』『平安朝 上下』『大鏡』など。当 當今の書物は、概して「戴き本」のみを。
2024 4/6

* 名も懐かしい草野心平の慥かな日本語で訳された、ドストエフスキーの大作『悪霊』一冊本に魅入られている。トルストイへの傾倒から、いつしかにドストエフキーへ展開し、いま,何度目か『悪霊』に、ガチッと、嬉しいほどに掴まえられている。いやいやアチコチから私を捕まえてくれる名作や古典が競り寄ってくる。生ける甲斐ありと心弾んで嬉しい。

* 午後一時二十分、泥のように睡っていた。うしろ腰の痛み、和らいでいてホッとしている。それにしても,ろくに生きた心地なく寝入っているとは。メール,送りも受けもなく。気分を変える工夫が要る、「讀書」の他に。外へ出るには”電話」で車を呼び、保谷駅まで出ねば。いっそ車の儘で吉祥寺やひばりヶ丘へとも想う、が、何も何も何も億劫になている。結局はテレビよりも「讀書」がいい。当て外れということがない。
2024 4/8

*  * 床ぎわの「本」は、手出しの順を想い、手近、向う,奥と、大凡に分けてある。いま、手近には大小12冊が立ち並んでいる。ドストエフスキーの『悪霊』 陳彦『主演女優』 大デュマ『モンテ・クリスト伯』 それぞれにたいした大冊だが 全四八冊の『参考源平盛衰記』は、云うまでもない『源氏物語』とともに大長編の、いま第三一冊、哀れを極めた平家九國への都落ち、そしてわたくし太宰治賞作となった「清経入水」の件りまで読み進んできた。ただの「史述」本ではない、素晴らしい内容が見事に文學作として述懐されている。文庫本の上下二冊程度で「平家物語」源平盛衰の始終を卒業した気では片端に過ぎない。
大作では、『水滸伝』で視野を替えながら、新書版『中国の歴史』上古、まだ殷周、春秋戦国の辺をゆっくり歩んでいる。
「日本の歴史」では、いま『平安朝』初期の史述二冊と『大鏡』とで、テレビドラマ「光る君へ」繫いで、昔から不思議と気になる「藤原道長の時代」を読み返している。
向きが大きく変わるが、いつも身のそばを離さない秦家宗旨の『浄土勤行式』と、時にしみじみと懐かしくなる内藤湖南の『(内藤)鳴雪俳話』を読み返し読み返ししている。
こところ始終肌身に間近な愛読十二冊を上に記録しておく。
2024 4/9

* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9

* 以下に書き入れていた十日の感想・私語が、失せている。何と謂うことか。とり戻せる道もあるかと想うが、所詮,手に負えない。が。
ドストエフスキーの草野心平譯『悪霊』筆致ともの語りクチに魅されている事、と、『参考源平盛衰記』第三一冊、平家が安徳幼帝を奉じたまま、北九州在地の豪族に逐われ今しも西海に浮かんで遁れようか、哀れひとしおの辺を読んでいたのに触れていた、はず。
2024 4/10

* 機械(パソコン)には好転・改善の気配無し。思い直すまでもなく、切羽詰まった要務など無い。読書し、寝入れば、来い来いと誘ってくる「本」は、いま寝床わきに十二冊。「悪霊」「モンテ・クリスト伯」「参考源平盛衰記」「日本の歴史 平安朝・前・後」「中国の歴史」「源氏物語」「大鏡」「鳴雪俳話」「浄土勤行式」「藤村」「秋声」等々恵まれている。書き進めたい小説も、信じられない話だが「待って」いて呉れる。
だが、体調のドン底よ。ただもう寝入っていたい。

* 書いた筈の記事が画面に見当たらない、ウンザリだ。
2024 4/11

* 目ざめてしまった床に胡座で、ドストエフスキーの大作『悪霊』を、極く最初からまたまた読み返し始めて、今回、際だって一語一行ずつが新鮮に面白く読み始められ、喜んでいた。原作はむろんロシア語のはず、だが訳(草野心平)された日本語飄逸の筆致に心惹かれ不思議と懐かしいので。
2024 4/12

* 手紙を呉れた新大学生の丸山葵ちゃんが「三島由紀夫」のなを書いていて、幾昔も以前の感懐を呼び覚まされたが、私の、ま、不勉強と云うておくが、「三島由紀夫より以降」の、いや「第三の新人など」といわれた人たち(私自身は、時世は大江健三郎らと同じくしていたけれど、しかも全くの孤立作家であったけれど)より「以降」の新人作家を、ほとんど、作も名前も覚えぬままとは、我ながら惘れてしまう。ま、どうでもいいことだけれど。
2024 4/12

* 「書く」より「読む」おもしろさへ、つい、惹かれている。読んで面白い本は大冊も文庫本も、和も,洋も、支那のも書架に溢れていて、選び惑う。久しぶりに、ヒギンズの「読み物」一冊を手に執った、心身の窮屈をくつろげたいと。ぞわぞわと,心身を、執濃い「疲れ」に容赦なく突つかれている。
空ら手のまま、夢もみず寝込みたいが,「夢」は,私の「持病か」と思われる。やれやれ。
2024 4/12

* 床のまま、「桐壺」巻 「源平盛衰記」を読んで,そして二階の機械前へ来た。どんな今日になるとも判じがたい、が、成るべく成ればと。
2024 4/13

* もう、晩の九時前。昼間は、寝入っていたり、イーストウッドが雪のアイガーを這い登って行く映画や、紫式部と道長らのドラマ『光る君へ』などを、テレビで観、また横になって、丁度長父「兼家」兄「道隆」頃の歴史、『蜻蛉日記』背景の頃の歴史を読んで人の名など確かめたり、一転してドストエフスーの『悪霊』 陳彦の『主演女優』 ヒギンズのサスペンスなど読み散らしていた。
ふと、郵便局のポストに用の妻に連れ立って、静寂そのものの下保谷奥の、もう盛りはすぎて行く「櫻」を観に散策したりしていた。
私には、もう、義務のようにして果たさねば済まぬ何事も「無い」のです、なんという境涯を八八年通り過ぎて来れたことか。有難いと思う。

* メールは一切送れず受け取れず、インターネットは不能の儘。もう諦めてしまっている、「讀書」の誘いは無数に豊かに在るのだ、退屈しない、視力は労らねばならないが。

* 小さな家に暮らしていて、それでも此の家の内にいて,ビックリするような「美しい見物などを発見し,妻と、喜んでていたりする。怪我はすまいよと言い合うている。

* オウ。十時半だ。いろいろと本を読み継ぎながら寝入ろう、テレビより佳い。
2024 4/13

* 宵に利尿剤を一錠咽むと夜中の手洗いが増える.夜を徹しての安眠はならず、なにとなく目覚めて、そのまま暫く本を読んだりしてしまう。読んで惹かれる本が枕許に並んでるのだから、ツイという仕儀になる。起きて仕舞いもする。

* 十一時過ぎ。遊びの楽しみにも似て、ドストエフスキー『悪霊』 陳彦『主演女優』 『鳴雪俳話』『源平盛衰記』日本の「十世紀末の歴史」、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』などを読み続けていた。映画では『ウインストン・チャーチル』(ゲイリー・オールドマン)に感動の涙すら漏らして觀入った。西洋区の映画では、いまぶん此の『チャーチル』とあの放射能による人類終焉を静かに描ききった『渚にて』そして『ヘン・ハー』(チャールトン・ヘストン)ないし『戦場ノピアニスト』を挙げげたいと感じている。
2024 4/14

* 郵便と電話とを、あまり臆せず用いるしか無い、メール機能は、だか「出来る人」に「手」を借りて復旧の他は無いのだから。トは云え、想う程の咲きも大方は私ナミの高齢、遠慮が在る。「お付き合い」は書中のお人と「結んで」足らせるのが結局無難か。
と,概して、今ぶん日本人では、平安和歌集や日記の、源氏物語の、大鏡の、源平盛衰記等の古代人たちが多く、そして漢詩人や史上のひとばかり、近現代文学や近現代人とのお付き合いは尠い。海外の人や文学も同然で、大作『主演女優』の作者陳彦など真っ向同世代の人とのお付き合いははなはだ尠い。宜しくはない。

* と,気づくと、ボーゼンとしている。

* 疲れを慰めて面白く本を読む、と、目が疲れる。悪循環。これを逸れ遁れたければだ「死んだように」寝入るしか無い。が、残年は目に見え、寝入ってだけでは残り惜しい。

* 癇癪玉を潰すことが、ある。辛抱が利かないのだ。情けない。幸いにいくらかは歩けるのだから、むしろ進んで四年も間の抜けている「街歩き」を気ままにしてくれば良いのだ。「人」謂うと「妻」としかクチを悔いていない生活に落ちている。「生・活」とは謂えないのだ。

* ヒギンズの『鷲は舞い降りた』などいう通俗読み物に引っ張られるなど、いかにも残念。
2024 4/17

* 夕刻六時過ぎて 体調弛み視野霞んで 元気無し。横になり気に入った本に想いよせたまま寝入るほか、安身の途みつからない。寝入りたい。まだ、目は覚めてほしいが。

* JUST BE MYSELF  謂うは易いが。
2024 4/19

* いま朝の九時。はやく目覚めて、『主演女優』『悪霊』『モンテ・クリスト伯』の未だ前期。そして『日本の歴史』十一世紀初、『中国の歴史』上古初を読み継ぎ、そして床を起った。目の疲れをひどくして行くと自覚できていながら。目が見えなく成ったら、死を願う事になろうと判ってながら。読んで途中の本、読みたい本、読んでくれとせがまれている本が、家中にまだまだ無数に在る。生きよと、か。
西洋語には「語感」が乏しく蔵書も乏しいが、漢籍は、、日本の古典や史書も、秦の祖父鶴吉以来の家蔵本が多く、少年時代から好き勝手に手に触れていた.。当時、祖父はもう本に「見向き」もしないで、それらの全部を幼い私の「好き勝手」にさせていた。読み教えるなど、一切しなかった。『春曙抄』『湖月抄』『神皇正統記』等の完本は研究施設へ寄贈もした。『老子』『莊子』『孟子』『史記列伝』『唐詩選』等は今モ愛翫している。
優れた「本」がもし無かつたら、どんなにか世界がつまらなかったろう。

* 私の仕事ヘヤはヘヤは二階に六畳、私の大きな選集三十三巻はじめ、特大の事典・辞典・選集等々が百五十巻近くは収蔵の西壁に作り付け書架は別としても六枚の疊のに充満して本やモノが犇めき群れている。書も繪も写真も大小惘れるほど多彩に、かすかにも置ける限り荘れる限り餌も「場」を塞いでいて「鳴り」わたっている、つまりである、古來閑雅を、良し嘉し佳とした『書斎』の観念像をコナゴナに爆発させたように窓前と一瞥雑を極めている。当然に妻と建日子とは余儀ない例外に入ってこない、が、「機械の不機嫌など」あると万万仕方なく鬚髯の技の利く人には、何度か、東工大の卒業生学生くん何人かに入って貰わねば済まなかった、さぞ惘れたろう。趣味でそうなっているのではない。仕事暮らしに余儀ないモノの氾濫が収まりつかないということ。仕事とは、機械やモノを「片付ける」用事では無い、私の場合、どう散らかろうが毎日の「読み・書き・読書そして創作」が仕事。乱雑を整頓するのは年に一度二度で済ますしか無い。此の六ぢょうの書斎は、誠に温かい、暖かくも在る。くつろいで時には仕事の倚子や片隅のちいさなソファで寝入る事もある。全くの「私室」である。
2024 4/20

* 陳彦の作『主演女優』の、一冊でも大長編なのに三冊も在って、いま二冊目の三分の二ほど読み進んでいるが、此の完璧に今日現在「同時代」中国小説の面白さ。悠然と、しかも多彩に流れる大河、謂わば揚子江や黄河に悠々、優遊身をまかせたような快適。横光利一や三島由紀夫や井上靖や加賀乙彦が、束になっても叶わない。訳して下さった、贈っても下さった、  さんに感謝。
2024 4/20

* 勝田貞夫様
ご健勝をせつに願っています。
このメールが、届いてましょうか。パソコンの現状すら理解出来ないで 混乱に、うめくばかりです。「ラジオ屋育ちの機械バカ」を、まんまと此の歳まで背負っています。せめて 日々の愚痴・述懐なりとお目に入れ得れば、少しは安堵できますが。
目が霞んできています。私にはコレが恐怖です。杖をもてば、まだ歩けます。耳も、聞こえていますツモリです。が、心身 粥のようにグタグタ、ヘトヘトの毎日です。

ご一緒に またまた 墨田や上野の春を、六義苑などを そぞろ歩きたいなあと夢見ています。夢、になりましたねえ。

ドストエフスキーの『悪霊』 現今の中國小説『主演女優』 大デュマの『モンテ・クリスト伯』 水戸で編纂された大部の『参考源平盛衰記』 ナチスによる英首相チャーチル「誘拐」を書いた『鷲は舞い降りた』 そして相変わらず『源氏物語』など、どれも長大作を、日々愉しんでいます。
本が読めなくなると「最期」です、私は。

勝田さん  ご一緒に美味い、旨いモノが食べたいです。  お大事にお元気でいて下さいませ。

* 他記事など 行方不明
2024 4/21

* あれこれと手出ししつつもう十一時になる。ガクッと崩れそうに肩も背も痛む。
それでも床に就いたら就いたで、枕ワキの小説へ次々手を出す、間違いなく。手の出る本が幾つも幾つも絶えないとは、幸せな事。
2024 4/22

* 『信じられない事だけど』小説を書き継ぎたい、が、グタと寝入っても仕舞いたい。やれやれ。なにか新鮮に目先を変えてみたいが。ときどき「俳句」という馴染んでこなかった世界が想われる、
内藤鳴雪の『鳴雪俳話』、ことに芭蕉と蕪村句の「引例」に惹かれている。小説で、熱心に蕪村を採り入れてた事があった、何を書いてたかなあ。
また、りまとめて芭蕉と蕪村とを「読んで」みよう、本は、いろいろ揃っていることだ。
2024 4/26

* ドストエフスキー『悪霊』の怖いような「文藝」に感嘆しつつ。陳彦『主演女優』は綿密にしかと「読ませ」る。ヒギンズの『鷲は舞い降りた』にも惹き込まれて居る。
2024 4/27

* 三時半。機械不調、いやいや私の運転が拙いか。烏衣にほしい画面が安定しない。
ま、それはそれ。『日本の歴史 4』の「十世紀末」を丹念に勉強した。次いで十一世紀初、紫式部や清少納言や藤原道長の時代、いま大河ドラマ『光るの君へ』に関わって、一つの好機に平安朝文藝・文華の最高潮をとくと游いでみたいのだ。日本史に幾つも在られるお山の最も美しい雅びな山と謂える。ちょうど今しも全四八冊長『参考源平盛衰記』を読んでいるが、それとはまったく対照のかがやきをもっていたの゛十一世紀初の文華、そして施政、と謂える。
2024 4/28

* 左眼が視野を喪いかけている。(上田)秋成先生の「あと」を追うてはならない。謂い知れぬピンチに立っている。要心しか無いか。「讀書」できなくなっては生きてられまい、それなら、讀書の量と中身と場所とに「要心」のほか無い。
わたく識り『私語の刻』とは「機械に書く時」を謂うている。視覚無くてはあり得ない。目を労るしか無い。と、謂い云い要らぬ事ヲ「書いて」いるよ。
2024 5/1

* 横になり、寝入ってもしまえなくて、『悪霊』『モンテ・クリスト伯』を愉しんでいた。玄関の倚子での、『近世説美少年錄』馬琴の長大作も読み進めるとなれば、私、「本を読む」のがホント好きなんだ。危ないのは「眼」です、「視力」の消耗。要心が利かない。
2024 5/2

* 読んでいる本の中で、作家の目と思いとで感嘆するのはドストエフスキー。トルストイやプーシキンにも感じたことのない、彫刻刀で彫り刻むほど鋭角に正確に、人間の用いる「ことば」という資金を、硬貨は硬貨なりに、紙幣は紙幣なりに、千円は千円なり、十円は十円なりに、行き届いた感情と勘定とで遣ってくる。物語のなかみより遙かにそれが魅力で、光る。ま、『悪霊』㋷場合、詩的作家の草野心平による、日本語へ翻訳表現の不思議なほどの魅力と達意もよく働いているのだが。大概な翻訳者の日本語には、国籍不明な安請け合いが横行する。飜訳また文藝という自覚や意識がとかく無神経に欠けている。

* 晩の八時半。目の奥が重苦しい。
2024 5/3

* :玄関には、横長に下足筺が棚をなしていて小学館版、百巻に余る「日本古典文学大全集」や、私の「秦恒平選集」三十三巻らが壇をなして「前後」列にさらに「上下」積み為されて在る。それらの上、ライトに照らされ、「秦恒平さんへ」と自身献辞のある美貌の女優沢口靖子の顔写真が飾ってある。

* 玄関正面奥の壁には、亡き親友、画家の堤彧子が遺してくれた、そう大きくはないが美しい「盛り花」や、別の画家に貰った華麗な「番い鳥」の小さな額繪を架け、真下真ん中の床には、品格気高い、展覧会で最優秀文部大臣賞を受けた「備前の大壺」を置いている。

* 私は、此の本棚と大壺とのあわい、背を壁ぎわに倚子一脚を今度常置し、時に腰掛け、日本の古典文学を好き勝手に読もうと。ちょうど今は、曲亭馬琴の大作、上中下三巻の『近世説美少年錄』に手を出したところ。
土間ともに広からず「小部屋めく玄関」が、そのまま恰好の『読書場』を成し呉れている。倚子を座に、安静感をとても気に入っている。
2024 5/4

* 玄關の「倚子」で、『近世説美少年錄』を読み継ぎはじめ、老母の拾うた大きな卵から産まれた、眉目うるわしい「玉五郎」少年が、奮発阿蘇山へ登らんと出立つまでを。
この「説錄」は『源氏物語』に匹敵の大長編、文字通りの波瀾万畳、私は以前に、永い日子を用い、一度だけ通読している。平安朝の源氏物語は美しい五十四帖が「物語」を継いで行くが、此の「近世」の「美少年録」は、あだかも「乱脈」と見え、実はそうでもないが「凄まじいまでに破裂」の講談。「筋」に囚われていると強かに迷い子に落ちる。
さ、今は皐月の上旬、いつ頃に読み切れるか。

* 何故となく、短編や中編に眼を呉れず、大長編小説にばかり向きあっている。 源氏物語 参考源平盛衰記 近世説美少年錄(馬琴) 悪霊(ドストエフスキー) 主演女優(陳彦) モンテ・クリスト伯(大デュマ) ホビット・指輪物語(ケイン)。 フアウスト(ゲーテ)を、またもや加えたい気でいる。ひそやかにも、いわば「長命薬」のように想うているのかも。いろんな「大長編」なら、まだまだ書庫・書架に蓄えてあるからなあ。呵呵。
2024 5/5

* 広くはない内玄関を「小部屋」と見立てて。小学館版の、『日本古典文学大全集』を、そんな玄関の下駄箱うえ上に整列し、上がり框、右奥の隅に倚子を置いて、そこで百巻に優に剰る歴代古典から、三巻本の『近世説美少年錄』上巻を読み進んでいる。宝井馬琴の 途方もない面白づくの「大読み物」で、初読時破天荒の印象と記憶では、はちゃめちゃに物語が破裂爆発して行く。玄関の隅に巧い具合に「場」を得て、ほくほくと久々の再読を愉しみ始めたところ。
2024 5/6

* 大河ドラマとやら、道長や紫式部の頃(一条天皇の頃)の宮廷社会を『光る君へ』が、テレビで描き続けている。ちょうどこの十一世紀玄初頃の歴史は、幼少の昔から多大の興味と関心で読み耽ってきたので、公家貴族宮女たちの入り組んだ系図的関わりも氏名もほぼアタマに入っていて、それでこそ「歴史」もろともに鑑賞できて、頗る有難くも面白い。
現代人の予期をうわまわって、この頃の「女たち」の存在意義も価値も活躍ぶりも、識って観ると観ないでは「歴史の読みや味わい」が天地ほど動く。一例、藤原兼家の女(むすめ)で、一条天皇皇后、以降三帝の母で、藤原道長ら歴代摂関藤原兄弟の姉妹に当たる「安子」の実在感の大いさなど、知ると知らぬとで「歴史を見守る視野」は大きく質的に変わる。
どんな本にも、だから、関連「系図」は繰り返し掲載され、これを諳記している・いないの落差は歴史の読みに大きく深いのである。「系図」はしかと見覚えるのが、実に有効、私は幼少來そう確信し勤めて記憶してきた。
2024 5/6

* 広い家ではない、玄関をまで小部屋のように工夫して用い、いっそそれを愉しんでもいる。わたしは生来、散らかすよりは綺麗に片付けたいタチで。玄関に次いで六畳の茶の間も、此の家のセンターとして、よほど工夫して、せめてサマ良くしてみた。猫たちの幼少時の暴れほうぬ大で障子は処置無く破られ、家中の襖も惨状を覆う餘地ももうその気も無いが、わたしは、やはりコツコツと独り手入れ・手加減・手直しをやめない。

* それもこれも、「玄関」で機嫌気持ちよく宝井馬琴のクソ面白い『近世説美少年録』大冊三冊を嬉しく読み上げたい衝動からで。本は、やはりこころよい席で落ち着いて読むに越した事はない。ちいさな家の内で、「玄関」という場を発見し発明したのは今度の手柄であって、歯どうして家の阿智事ヲ静かに片付けてもいる。
2024 5/7

* 朝起き一番に、玄関の「座」で「当然」のように馬琴大力作『近世説美少年録』を読み継いだ。反抗の菊池攻めに九州阿蘇をを襲った幕府方の、伝承恐ろしき白蛇穴の無残な焼き討ち、大白蛇者の昇天、巨大な骸骨等々を滔滔活写して目覚ましい曲亭馬琴の正に「モノ」語りを読んできた。
これはもう、源氏物語は別格、夜の、いかに面白づくの飜訳モノなどは蹴散らされてしまう馬琴の覇気に、興趣津津、紫式部のようにお上品でないが、想像力と筆力とはハチャメチャに語彙を駆使して、限りなく凄いことは、かつて一度は通読していてわく承知。これはまあ、正かに英仏独ごへ飜訳は不可能では無いか、もう試みた実例があるのだろうか。
2024 5/8

* 玄関座での『近世説美少年録』とてつもない誘惑で、読みに読ませてくれる。和漢混淆、途方も無い日本語表現の「専横」にちかい「暴虐無人」が「物語の破天荒」をいやましに面白く囃したてる。苦手な蛇がハナからうじゃうじゃと天地を跳ね回る。再読という体験がいささか身を守ってくれるが、すごいのだ。和漢混淆の日本語表現のおうぼうなほど乱暴が、途轍もなく効果的にド読者誘惑して已まない。ままよ。読み進むにしくは無いと、玄関の馬琴作に身も心も沈めている。
2024 5/8

* たまたまテレビが映画『ハイジ』を見せる、と。懐かしさに喜んで観た。大いに懐かしかった。「少年」の冒険小説は苦手であった。少女「ハイジ」には大いに共感した。そういう少年であったよ、私は。ましも読んでいる読本(よみほん)『近世説美少年錄』は、『ハイジ』の淸純に比しては、世界が不気味に混濁し、ジョロジョロと白い、青い大小の蛇がのたうち出てくる。が、もう読み出してしまった、読み已められまい。『南総里見八犬伝』よりも、なお、よほど物騒に気味悪く混雑してくると知っている。怖いよ。  2024 5/9

* 書庫に入ると、時の経つを忘れ、出て行くのを忘れる。書庫に、ひとの本を積み起てて、自分自身の百冊に剰る各出版社からの単行本も刊本も、「湖の本」166卷もすらも容れてない、収容してない、というトンチカンに気づいた。数多く、しかも「本は重たい」ので、隣り棟から「運んで」くるのは重労働に過ぎる。参るよ。
2024 5/9

* 玄関を讀書の小部屋めかし、居並ぶ大冊の全集・選集に寄り添うような倚子の座で、やや照明に不足はあれど、ランプで補足しながら、小学館版古典全集から三巻本の『近世説美少年録』上巻を抱きかかえ、もう、半ば近くまで黙読を愉しんでいる。近世の「読み本」は多彩に炎上するような漢字・漢語の「読み・訓み」に、途轍もない特色が有り、それをも面白がれるなら、小説の奇抜が更に魅力を増してくる。「もの語り」の名手「曲亭馬琴」の三巻を満たした 豪腕には、素直に「抱かれて」しまうのが「コツ」であるよ。
かつてはわたくしは近世江戸時代の、こういう「読本」の煩雑としか想われなかった読まされ方に、親しまなかったが、今は、ウハウハと愉しめる。日本語が面白くて溜らなくなってくる。
2024 5/10

* 馬琴も読み進んだが、総じて、グタッと寝入っていた一日。「健常を持して元気」とは謂えぬまま、晩も、今まで寝入っていた。
テレビは、新幸四郎クンの新『鬼平犯科帳』が始まり、紫式部の『光る君へ』が順調に伸びている。
高麗屋の舞台は、今度の新幸四郎クンまで三代、かならずというほど観てきたが、コロナ禍に禍され、歌舞伎座へもほぼ四年出かけていない。新染五郎君の元気な豚テモ観たいし、久々幸四郎夫人の御顔も観たい。健康でありたい。
2024 5/11

* 「玄関座」での讀書、曲亭馬琴の『近世説美少年録』三冊中、一冊の半ばまで惹かれ牽かれて読み継いでいる。ちなみに『源氏物語』は同じ古典大全集で、「六巻」。馬琴の さらに長大で名高い『南総里見八犬伝』も、また読み返したい。本が読めているうちは生きて在るでしょう。
2024 5/12

* 昨晩の『光る君へ』はことに関心と興味によく応えて呉れ呉れた。平安朝歴代の天皇・上皇で、矢を射かけられたのは花山院と小どの頃から知っていた.その場面が昨晩のお終いに現れた。道長はコレを利し咎めて政敵を逐うだろう。
秦の家の内で見つけた、「日本歴史」という「通信教育」用の質素に部厚い造本の教科書が、国民学校の三年生頃から私の最愛の本で、読みに読み、更に繰り替えし読み諳記するほどに愛読した。「歴史」に親しみ「念頭」にいつでも働いて呉れる知識、これが私を育てた。幸いに更に早くに「神代」と「神話」が諳記暗誦されていた。谷代えがたい私の財産であった。紫式部はともかくとして、藤原道長には最も早くに多大の関心と親愛感すら抱いていた。
「この世をば我が世とぞおもふ 望月の ×地付きのかけたることの無しとおもへば」などというアホラシイ歌とともに常に平然と語られる「摂政関白」を私は面白いと感じていた。紫式部との縁は、モッと後々になるまで識るわけもなかったが。

* 何しろ日本の歴史が覚えやすくもあり、識れば知るほどトクが大きかった。
2024 5/13

* 寝床わきに、『紫式部日記』『大鏡』『栄華物語』そして『平安朝史』が持ち出されている。ドラマ『光る君へ』は妻も気を入れて観つづけていて、出会いを喜び愉しんでいる。
2024 5/14

* 千も贈っていた「湖の本」を、もうコレまでと卆えたからは、親しいお人づきあいは、自然当然と減ってゆく。日の寂しさを慰めるのも、やはり「読み・書き・讀書と創作」こそ必至。自然通俗の娯楽本は割愛して、読んで置きたい名著好著を手探りにも拾いあて当て「老いの坂」を登りつ下りつするまでの事。
2024 5/14

* 玄関座で『近世説美少年錄』を読み進む他はさしたる何もせず。呆然と疲労感を抱きかかえたまま、十一時。何をしていたとも覚えない。不安心や苦労や難儀は何も無い。平穏な老境に恵まれて在る。戸締まりは慎重に、掛くべきチェーンも怠ってない。戸締まりの尻には、不用意な開閉を妨げる用意も守って、夜分など二階書斎にも、階下、玄関にも寝室にも茶の間にも、外からは固く、入れなくしている。職人もほめてくれるほど、木造ながら家は堅固に造られている。
書庫の外、家の内にも当然のように藏書、雑誌 そして「湖の本」が充満.そんな中で「書・画」の類にも五月蠅からぬ程に、處を得させてある。
2024 5/15

* 今日も、文字通りに散策少しく。好天。
しかしその余は潰れるように寝入っていて。食欲も無く。
玄関座で『美少年録』を見えない眼、了肩に思い疲れの儘、多くて二、三頁読み継ぐ、だけ。
2024 5/16

* 眼(視力)が危ない。読み已められない。ドストエフスキー『悪霊』は五、六分一の程度で、まだ味読に至らないが「会話」の多いはなしで、森田草平訳の「日本語」にここちよく贔屓かれている。漱石の一のお弟子で、新聞小説の初連載で評判を取った人。懐かしい。
2024 5/17

* 朝寒むの木は日増しに和らいで、好天、快晴。空腹を覚え、左眼に疲れの痛みあり、独り玄関座に曲亭馬琴を続き読む。やむない義務の何もない、さも散歩に出てみよう。両の脚、強く張っている。ゆるゆるとでも「歩ける」ことを大事にしたい。ゆるゆると杖を引いてでも一時間近くは歩けるのを大事に絶やすまいと思う。
2024 5/18

* 疲労感に負けて散歩もせず。床や寝椅子で寝入ってしまいがちに、『鷲は舞い降りた』などという、ナチスの「英首相チャーチル」を「誘拐」戰略のサスペンス読み始めていたりした。「読む本」は、身近間近に和漢洋、超大作も短編も詞華集も出揃っていて、気の向き手の出たまま、あれこれ構わず読み進んで行く。
2024 5/18

* かなりに気を入れて、尠くも階下、玄関、廊下、ことに狭いながら茶の間から、テラスへ、書庫へ 何とはなしに「我が家」という感触で落着きが楽しめるようになっている。ああ、皷の家で一生、人生を終えて行くんやなあと、しんみり実感しかけている。
書庫に入ると、いろんな「本の方」から「も一度 読んでいって呉れよ」と声がかかる。ハイハイと肯いている、が。
2024 5/18

* 受信メールの発信者や配着順などが混雑して仕舞っている。どうにもナランので、今晩はもうダメのまま店仕舞いする。

* と謂いながら、機械の混雑に煽られて、何を遣っているやら 老耄の時間を雑に空費しつつけていた。晩の八時。やれやれ。戴いていたメールまで紛失。やれやれ。「チャーチルの誘拐」に行くか。『紫式部日記』か曲亭馬琴の『美少年錄』を読み継ぐか。酒を飲むか。
2024 5/18

* 夜前遅くまで、今朝も早くから、床でんを読んでいた。殊に、十世紀最末頃、僧形の花山院が女に通って矢を射かけれる草堂など失笑もののていたらくに至る前後を、当時隠しの系図をしかと参照しつつ、なかば惘れ気味に、読み進んだり。人聲が聞こえてくる気さえする。平安京や東山北山の稜線がそらに浮かぶの眺めるだけで、京都へ帰っているように、心やすまる。

* 今朝は、『参考源平盛衰記』で、都へ、平家を逐いなだれ込んだ木曾の「山男」義仲の。宮廷儀礼を識らない珍妙を嘲笑し尽くしていた、可哀想に。わたしは昔から義仲には贔屓し居る。彼が起って平家に勝って、頼朝の先は開けたと謂えよう。同じ源氏で勝跡著し前途を広げた義仲・義経に酷であつた頼朝が昔から、私、好きでなかった。「守護地頭」を制度化して、狭苦しい日本の国土を、政権と武力とで抱え込んだ巧みに過ぎたやり口も憎らしかった。
2024 5/19

* 三時半から独り床を起ったまま、乱雑にモノの混雑し乱雑な儘の私の身の周りを整頓し始めて、ちょっとの朝食もふくめ、午前八時半までも片付け仕事。書庫にしきりに出入りしつつ、サテ、何がどう片付いたとも謂えぬまま、二階の此処・機械の前に、八時半過ぎてやっと落ち着いた。やれやれ、何が片付いたのやら。朝から、ただ疲れた。

* 所蔵の古書は、全て祖父秦鶴吉のもちものだった。ラジオの販売と修繕・電気工事もという、昭和も早く時代に先駆けた新規の技術職へと、花街祇園の女性たち相手の貴金属や装飾品の売り手から鮮やかに身していたわが養父の秦長治郎は、ラジオ等の技術教科書以外、古書籍になど一切見向かなかった。明治二年生まれの祖父は「明治」の人、明治三十一年生まれの父は「明治」を置き去りにして行った人、だった。
四つか五つ頃にこの「秦」家へ「もらはれ子」の私「秦恒平」(戸籍の姓は、吉岡)は、明瞭に、祖父秦鶴吉遺贈・舊所蔵の古書・新書に育てられたのである。源氏物語を与謝野晶子の訳や井波文庫で余始めるより遙かはやくから、北村季吟著の注釈『湖月抄』三巻の美装本で幼かった私はもう『源氏物語』の何であるかを知識し、近世の国学者賀茂真淵の名も『古今和歌集』注解本も手にしていた。賴山陽による『神皇正統記』注釈本や『日本外史』通俗通祖急く本も本も、声を上げて読みまくっていた。
有難い事に、史や詩の漢籍も巨大な辞典・事典・年表までも、今なお、今朝のわが書庫になお居並んでいて、私はそれらに手寝触れず放って措く子ではなかった。秦の祖父には今モ感謝しきれない。
何が謂いたいか。祖父秦鶴吉はまさしく「明治の」人だったいうこと。私はその空気の悪阻諏訪家に預かっていたのだ「明治は遠くなりにけり」どころか、私を鼓舞したのは「明治」であったのだ。

* 何を、いま、私は、云いたいか。昨今の「日本近代文学」研究者と自認している人たちの論攷に「明治」の息や空気や匂いが抜けて居て、抜けかけていて、その調子のまま、平然と藤村や鷗外や漱石や、直哉や潤一郎や、芥川や川端康成らが語られろんじられていそうな危うさを憂慮するのでる。これら近代の文豪らは、明らかに根の呼吸を「明治」に学び承けている。しかも、論者らが「明治」など棚上げに「今日」の視野とじゅよとだけでろんじているのでは、それは勝手が過ぎていよう。それを私は、いま、改めて、云いたい、求めたい。
2024 5/25

* ところで、都。病院で長い廊下の「待ち時間」にと、これも秦の祖父譲り、このところ愛読のの『鳴雪俳話』を持参、芭蕉や蕪村のしみじみと懐かしく美しく面白い秀句を愉しませて貰った。和歌短歌はもう他人様の作を頼みにしないが俳句とのご縁は、まだ淡い。そして面白く読めてきつつある。面白く作ってもみたいナと、待合のベンチせきで妻を横に座らせたまま、思いかけていた。
2024 5/27

* 大河ドラマの『光る君へ』にのみ親しんでいる。作の進行も、配役の優れて適切なのにも心許して向き合えている。 眼がつらく、細かい字の、印刷のうすい本が、読みづらい。「読んで居過ぎ」を控えよと、体に、望まれている。
2024 5/28

* 二階廊下の文庫・新書棚には約900冊が入った。買い置きの新刊は無い。すべて既読の既刊本か<古本。棚の前に坐り込むと居座ってしまう。

* 湯で、陳彦の超大作『主演女優』全三巻の第二巻を、ほぼ読み終えた。少しもダレない超長編に感じって,少しもダレずに愛読している。
同じく永く読み継いでいる善四十八冊の『参考源平盛衰記』は海に平家、東国に頼朝の、自身は中国筋に苦闘している木曾義仲の戦を読み継いでいる。このシリーズの筆述の勁さ精しさ慥かさには嘆賞のほか無い。通有本の文庫で二冊の『平家物語』など,比べれば「教科書並みの要約本」に過ぎなく思われるほど,精細なまでの、合戦や戰闘や生死の分かれを描き抜いた筆技の逞しさ烈しさは「筆技の極みか」と思われるほど。
2024 5/30

* 歌人で,ペンクラブのメンバー、山陽小野田市の高崎さん、墨書で達筆、「淳子」と落款も付しての七言詩(らしき)を送ってみえた。落ち着いて、読む。
以前にも、同筆かも知れない
五湖霜気清   の五字を戴いたことがある。
毛筆の書、こころよい。私は、書けない。らくに読めるとも謂いにくいが。
2024 5/30

* 小一時間の散歩ならさほど苦になら無いが。
しかし宵ともなると痛むほど疲弊が自覚できる。瞼が重く腫れてくる。トシであるナ、と,観念して、それでも本を読みながら今晩は寝入ってしまおうと。どれへ先に手を出すか。和本の『参考源平盛衰記』が手に軽く、字が大きく。ほとんどが漢字の漢文だけれど、それは苦にしない、アタマの体操。ただ、頻出かつ詳細な「注記箇所」の文字が小さいのがキツい。

* 手に重い重い大冊の馬琴の読み本『近世説美少年録』三巻の初巻も、毎朝、玄関の倚子をキマリの席に、初巻をもうすぐ読み卆える。近世掌説はも漢語への「和風のフリガナ」がとくべつ面白い、煩わしくもあり、眼は痛むが。
2024 6/4

* 床のママに『参考源平盛衰記』 都に雪崩は入った不行儀な田舎山侍らの木曾義仲軍団乱暴狼藉に繭顰め惘れながら「巻三十一」を読み終えた。なお十八・九冊つづく。
2024 6/6

* 文藝家協会の尻押しで、同じ作家の(**さんと,今書きかけていた)名前が、トロンと、消えたように出て来ない。コレだよ、もうわが輩は。

* その作家とロシアへ謂ったとき、モスクワでかサントペテルスブルグ(=レニングラード)でか向こうの文藝家らと歓談のおりに貰ったみやげがある、。5×7センチ程の部厚い小さな本で、表紙に『百人一首』 中葉格歌人の肖像と對で書かれた和・露語でのまさしくあの「百人一首』日本では観た事も無い珍本だった。ロシア語は読めない。久しくもう何十年か私の書庫の書棚に遺してあったが、さて何方に贈れば喜ばれるかしらん。ロシア語が出来て百人一首にも趣味のある方。ねうちのある嫁ぎ先だか婿入り先、無いかなあ。

* プーチン・ロシアに不快感は募るが、旅して親しんだロシアは、グルジアも含めて切に心親しく懐かしい。いろんなお土産を貰って帰ったよなあ。
同行した作家の高橋たか子サンは、とうの昔に亡くなって了われた,私とほぼ同年齢であったのに。
2024 6/7

* 床を出たとも未だともいう胡座でドストエフスキーの『悪霊』を読み継いでいた。此の作をアタマからくりかえしよみだしたの二,三度めと思うのに、これほど自在に作世界へ入って行きにくい、「これは小説」とすら想いにくい本、あたかも幼少の耳で大人達が呟くように議論ともなくシャベリ合うて居るのを聞きかじっているような本、には、そうそう出逢った事はない。
同じドストエフスキーでも、もっとおはなしの聞こえて判る本は何冊もある。『悪霊』に抽象も観念も耄碌も無い、ごく不通の会話対話がきこえてくるのに、それらの連繋にシカとした繋ぎの慥かさが感じにくく、それで佇んでしまう。たまたま行きがかりのとおりがかりに、ひとの話し合う手居るのをわけ判らず聴き流して通り過ぎて行くような「世界」が呈されている。つまりは私にしかと聴いて理会する耳が、片方か,虜恵方ともないかのように甚だ心外なほど頼りない、つかみ所に窮したまま引きずられている。
これも耄碌なんかなあ。
▲ 鴉啼くあつかましさや グチグチと
2024 6/8

* 午後二時半に近く。何をしてきたか。朝昼食を少しずつ、『悪霊』を数頁,アトは寝入っていた。「元気」という「気」が湧かない。此の暑さで、ときにゾクと寒けがする。
幸いに何事にも追われ襲われては居ない。ゆーぅっくりしていて少しも、もう構わないのだ、が、そういう心境にも状況にも、何十年、慣れてこなかった。人とも、はではでしく出逢う、付き合うことも,ごくごく稀な方だった。妻はべつとすれば、たいがいが、街へも独り出歩いて独り喰って帰ってきた。謂うならそれが「作家・秦恒平」のスタイルであったよ。
2024 6/15

* 老舗「松葉」が念入りの 美味 「鰊蕎麦」 大喜びしています。 カアカア
気張って気張ってと「努める」のですが、さすがに心身疲労は覆いがたく 睡眠を一日の基調に、散策の小一時間を脚力維持のために、と。
本も読みます、気を入れて いろいろと。 ドストエフスキーと 紫式部と 曲亭馬琴と。
「明治」という「近代日本へ強い視線を送りながら、文豪といわれた人らの当時の作を批評的に読み返してもいます。透谷、紅葉、露伴、鴎外、漱石  シカと読めてたかなあと心許ないことです。
尾張の鳶よ  繪と 詩と。忘れないように。戴いた「夜色浄瑠璃寺」 いまも見入っていましたよ。魅入らせて下されよ、さきざきも。  保谷の鴉 カアカアカア
2024 6/16

* 『親指のマリア』上中下三冊 荷づくりできています。日曜なので、明日、郵便局から鳶へ宛て送ります。
カラスは、疲れては居ても、落ち着いています。 書庫に籠もって本に手触れていると、憂き世離れします。『家畜人ヤプー』なんての、また読もうかなど。今は、ドストエフスキーの大作『悪霊』の慥かさに惹かれつづけてます。
朱い細い紐と真っ白い細い紐とを、短く組み合わせ、手製のネクタイにし、真っ白いシャツの襟元に垂らしています。なかなかですよ。呵呵
尾張の鳶よ お元気で在りますように。 カアカア、カア
2024 6/16

* 夕刻四時一五分 わたくしの体調、ひとまず立ち直るか、と。手洗いの便座で、ヒギンズのサスペンスを読み、寝床で『参考源平盛衰記』 都での木曾義仲ら散々の不行儀に迷惑のくだりを読み、朝からの、執拗な吐き気も腹部膨満の不快もやや落ち着いてきて、暫しの安眠も出来た。熱中症ででもあったかと想う。
2024 6/20

* ドストエフスキーの大作『悪霊』の読み方を「發明」した。私自身の「性格」を殺さずに図々しく、ステパン・トラフィモービーチらに仲間入りすればよい。自身の「性格」は殺さないで。語り手の話風に尻込みせず厚かましく聴いては時にチャチャを入れる。それで、がんがん気安く入り込める。
2024 6/21

* もう夕方四時半に成る。なにをして生きのびてたか。本をニ,三冊読み継いでそれぞれに例の心を惹かれていた。順を問わねば.「玄関座」では、曲亭馬琴の超大作『近世説美少年録』で、珠三郞が伯父と巡り逢うていた。
この本では、したたかに近世「読み仮名ふり」が愉しめる。漢字での表現能が百層倍して教えられる。
次いでは手に重い大冊ドストエフスキー『悪霊』いささか行儀悪くダラシない講述と見えつつ、モノスゴイちからで人間共の「性格」が、読み手にを掴みかかる。お話しを興がるのでない、お話しの底を趨る走る人間という生きものの正気と狂気とが組み合ってくるのだ。
ヒギンズのサスペンス『鷲は舞い降りた』ハナチスの英首相チャーチル誘拐を目指して語られる迫力に惹かれる。私は此の手の本も東工大で講義の頃、肛門近い古本屋で拾っては沢山読んだ、保谷から大學へ往き来の電車で。恰好の読み物です。
もう一種は、「常陽水戸府」が編集ゅっぱんしていたわほん、漢字漢文での史籍集覧『参考源平盛衰記』全四十八冊の第参拾参冊、山育ちのただ荒くれ木曾義仲の軍勢が平安の京を暴れ荒らし回っている。
テレビでは『光る君へ』がタントツの意欲作、拍手を惜しまず見入り魅入られている。 配役が、設備が,至極上等。

* 「平安時代」という「平安」はかなりに時事無根で、宮廷の力関係はかなり険呑にみだれあうばかりか、当時の姿勢は都で云えば放火・火災・群盗・偸盗の被害に戦いていた。源氏物語やまくらのそうしだけで「平安時代」を鵜呑みにしては滑稽極まるのである。

* からだは病んで衰えている実感が拭えぬまま、私の参上している世界は、未だそうは汚れ弱っていない、らしい。
2024 6/22

*書庫に掴まってしまうと,開放してくれない。なんと午後一時半も廻っている。書庫での主要事は勉強で無く捜索、しかも結果は忽ちに忘れてしまう。苦笑いにもならず、ただ疲れる。

* 目がイケナイので、どんな良い本でも、字が小さいと読めない。やれやれ。では、済まない。

* 一度床に就いたアト十一時にキチンでテレビを入れると,劇画風に画も面白い「平家物語」のちょうど「クリカラタニ」逆落としの決闘場面を紙芝居か人形芝居のように演っていて,目新しかった。識らなかった。
2024 6/24

* 京都の、,美学の後輩、懐かしい羽生清(きよ)さん、羽生さんならではの、おもしろう源氏物語・枕草子、紫式部と清少納言とを、かき混ぜるように詩的に噛み分け書き分けられて、めずらかに新鮮なエッセイ「新著」を頂戴した。造本それじたいも、すでに羽生エッセイの香気に薫っている。エッセイより、創作のおつもりでもあろうよ。対象を把握しきってなければ書けない表現の妙に、拍手。送呈も不思議に美しく。
2024 6/25

* 「玄関座」で、「手持ち」ライトで「近世説美少年録」「鷲は舞い降りた」を読んで居た。肩が凝り。目は重たく、うるわしい体調とは、とても。
テレビで観ている『光る君へ』がいま一等、て浮世離れして身にも目にも親しい。
都知事選も、両陛下の英国での歓迎の報道も、しとどの雨降りも、ただ気怠い。欲を謂うなら、本もソッチむきで、ぐっすり寝入りたい。疲れて余儀ない時は、そばへ置いた、頂きもの亀屋良永の「御池煎餅」を番茶でハリハリ咬んでいる。
京は、軽いも重いも、とびきり佳い美しい菓子づくりの、名都。安心して手が出る。

* 羽生淸さんに頂戴の新著『紫・清』が、佳い「京舞ひ」のように縦横の論攷論究、美しく。嬉しく、有難し。

* 体調優れないが、「本」は読める。是に増す生き甲斐はもうはや、そうは無い。耳に聴く方は乏しい。「読める」限りは」読み」たいもの。

* 久しぶり。九大名誉教授今西祐一郎さん、一条天皇の源氏物語に関わる発言が、物語の何に、何処に拠っていたかと、「日本紀の局」と呼ばれもした紫式部との接点を論旨自他論文も戴いた。これはもう、簡潔に、ソレしか無い「考」と「結論」で。,その関連では、原著誌の論より、羽生淸さんの舞い遊ぶぶよう創作が愉しめる。
2024 6/26

* メール受発信も、無く。久しく妻とのほか、ひととクチも利いてない。だから読書が譬えようも無い天恵となってくれる。今崎も書庫へ入ってみて、ガシっとした論著や小説や詞華集や、辞典や画集・写真集など随分しょぶんしてなお千数百の立派な著作が犇めくように詰まっている。とてももう是等話全部どころか、一割と読めず仕舞いかと膚に粟が起った。

* いまどきは、書籍などで本を読む人も尠いとか。もったいないような著名な大過の,署名本なども沢山書架に詰まっている。古典始め明治以来の文豪も揃っていれば、稀覯の美本も珍著も。 馴染んだ大學や文学館や、図書館に、寄贈するのがやはり良いかと。作者・著者の名に心酔されて是悲にと請われれば、観て選びに一度いらっしゃいとさえ云いたいほど。
2024 6/27

* 三時になるが、午前から、何をしていたとも憶えず寝付いていたらしい。頚の右側が痛む。体力よりも気力か衰微している。こういう気は、あれをし、これをし、するよりも瀑布に呑まれるようにひたすら「読書」へ遁走しては、と。だが,視力の弱化は防ぎようが無い。
妻に、身のそばで、,達者にいて欲しい。
2024 6/29

* 明治の文が訓級や文学論には、現代文學の発展や展開への意志と視点・視線が、当然に顕著だった。大正になると、今日只今の文学の現代・現実・近未来を問う批評や批判や展開への期待が当然の論点であった。昭和の戦前・戦中は文學自立の危うさと期待が、地下水のように流れていた。
昭和から平成は、新らしい文學区の発行を刺激する面での専攻文学の評価と反省とが重い題目になった。
さて、平成末から令和近年の現代文學研究や批評は、時代の現今ないし先行きを見据えての眞に批評テハ名開発や牽引の力を持っているのだろうか。相も変わらぬ「過去の文豪」の名に凭り掛かっての「受け継ぎ論」が散点するばかりで、新人や新聞学や眞未来を移行し批評した論文・論攷にはめったに行き当たらない。こさに、「明治」錚々の文学気概への評価や研究は萎みきって、「大正ないし昭和」という「近い過去」の一二、ないし二三のもう、やや「黴の生えた文豪」の「名」に凭り掛かっての文学論で「停滞気味」に陥っているのではないか。是は謂わば悪しき派閥気味とも批判され革新さるべき、一首「半断停止」の傾向なのでは無いか。
2024 7/5

* 芯から疲れているが、ふんばる気は在る。憶えてる限りの「童謡」の断片・切れ端だけを、始終口ずさんでいる。「花は咲く花は咲く」「垣根の垣根の」「恋しや」「早も來啼きて」「櫻木を」「とまやこそ」「あるじは名高き」「岸の家」「おーぼろ月」「鐘が鳴ぁある」等々。頓服のクスリなみに。
そして京都の日々を想い、はるかな平安古代を想い、今日の世界の葛藤と汚濁をにくむ。ネタニヤフ、プーチン、を嫌う。
明日の都知事選を想う。蓮舫の新鮮を買うか、投票所までの酷暑を懼れる。

* それでも、ドストエフスキー『悪霊』と『参考源平盛衰記』は手放せない。明日には『光る君へ』の続きが観られる。
2024 7/6

* 今も、大作も大作のドストエフスキー『悪霊』とぶつかるように、全四八冊『参考源平盛衰記』のうち「木曾義仲」が京都に攻め入り平家を西へ追い払っての義仲行状、乱暴の極みを読んで惘れ返っている。巴御前らとの義仲最期にはものの哀れを久しく感じていたが、「盛衰記」にみる義仲一党の京都での暴状は、あまりに、すさまじい。京の鞍馬に育ち、奥州で謹厳に学んできた九郎義経との差は甚だしい、が、それでも義仲という侍には奇妙の花も咲いていたと想われる。想いたい。
2025 7/7

* 昨夜 もう一時頃であったかテレビで劇画っぽい漫画で『平家物語』それも木曾義仲が一党の「平安京での乱暴狼藉」を見せていた。四八冊本『参考源平盛衰記』の三二冊めの辺、まさしく義仲らが乱行の迷惑が、「山出し」を軽蔑・侮蔑の語りと筆致で書き継がれているのを読んでもいた。その「マンガ」 なかなかの出来だった。今夜も観てみよう。
都知事選の煽りで、たのしみの『光る君へ』は、一回分トンだ。

* よほどの疲労か、ともすると寝入りかけている。寝ればよい。この熱暑。散歩は第一の危険。
幸いに読書欲は涸れていない、目さえ労ってやれれば、本は書庫に無数。ひっさ久に漫画で『家畜人ヤプー』なんて、読むか呵呵。
いやいや。『参考源平盛衰記』、ドストエフスキーの『悪霊』、馬琴の『近世説美少年録』も、ジャック・ヒギンズの名作サスペンス、英総理チャーチルを誘拐の『鷲は舞い降りた』もあり、満杯。聊かの退屈も無い。二階の廊下に寝そべれば、文庫本・新書本ばかり、和漢洋の哲学や歴史や古典の堅いのが多いが、近代文学の柔らかいも含め、九百冊ばかりが書架に堅まっている。 貰って呉れる人があれば差し上げます。
2024 7/9

* ゆっくりしたくて、湯に永なが浸かって、ヒギンズのサスペン『鷲は舞い降りた』を読んで居たり、居眠りしてたり。熱暑の真夏はやり過ごすしか手が無い。軈て、また、ハダカのお相撲さんで「七月場所」。わたしは、『信じられない話だが』小説を仕上げて行く。歌集『老蠶作繭』はもう仕上がっているが「本」にき造らない。
2024 7/10

* いま読んでいる中でドストエフスキーの大作『悪霊』は、こと突き抜けて手厳しくも剛力の「文學・文藝」そのものと、舌を巻き、目を剥いて惹き込まれ愛読している。馬琴の『近世説美少年録』どバカケげて長長しくて、要は、近世日本の読本に氾濫していた漢字漢語への「ふりがな・よみがな」だけに感じ入り納得しているばかり。
西鶴、そして、ま、秋成のほか、近世日本では、近松初めの戯曲・芝居が出色。本格に次代で受け継げる小説の無かったことが逆に幸いし、西欧にも学びつつ、明治大正の諸文豪が自力で起った、起てた、のだ。鴎外、漱石、露伴、藤村、秋聲、鏡花ら。直哉、潤一郎、龍之介ら、が。その点では大戦と弾圧に屈した敗戦後日本文学は概して「瘠せて細って」妙に「皺・皺」だった。わづかな例外のほか、創作世界に豊かな照りを欠いた。昨今は識らない。
2024  7/11

* 命あって生きてはいる、慥かに。何ゆえに、何のタメに。それを見失っている。読みかけている本をみな読み終えるために、と、なると、少々では行かないよ。
2024 7/11

* 玄関座の「倚子」では、デッカく重い本の ドストエフスキー『悪霊』と曲亭馬琴『近世説美少年録』三冊の二冊目とを、「補助燈」を片手に読み進んでいる。
寝床では、四八冊本の『参考源平盛衰記』の三三冊目、チャーチル誘拐のサスペンス、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』 大デュマの大作『モンテクリスト伯』 大冊『史記列伝』そして三冊の大冊『栄華物語』を、読み進んでいる。
二階、このパソコン機械では「いわゆる讀書」はしない、調べたり書いたり。 ほとんど手紙・ハガキは書かず、電話もしない。
本居宣長らが持参し推奨した簡素かつ清雅の書斎には、白と黒ほど全く倣わず似つかぬ狭苦しい六畳間は、よくもかくもと、吾ながら惘れる無数のモノや繪や本や棚や筺やソファで、歩くどころか、ちいさな隙間を飛び石のように踏んで動き、人や花や景色の写真や版画や繪ハガキや、書の額や、書籍・辞典等々でギッシリの「壁に作り付けの大きな本棚」なとで、さながらかき混ぜの「交響曲のさ中」のような「仕事場」。真冬でも温かいし冷えない。そのかわりホント本にはさんだモノの場を忘れれば探し出す難儀は破天荒なまで厄介。
2024 7/12

* 玄関座の「倚子」では、デッカく重い本の ドストエフスキー『悪霊』と曲亭馬琴『近世説美少年録』三冊の二冊目とを、「補助燈」を片手に読み進んでいる。
寝床では、四八冊本の『参考源平盛衰記』の三三冊目、チャーチル誘拐のサスペンス、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』 大デュマの大作『モンテクリスト伯』 大冊『史記列伝』そして三冊の大冊『栄華物語』を、読み進んでいる。
二階、このパソコン機械では「いわゆる讀書」はしない、調べたり書いたり。 ほとんど手紙・ハガキは書かず、電話もしない。
本居宣長らが持参し推奨した簡素かつ清雅の書斎には、白と黒ほど全く倣わず似つかぬ狭苦しい六畳間は、よくもかくもと、吾ながら惘れる無数のモノや繪や本や棚や筺やソファで、歩くどころか、ちいさな隙間を飛び石のように踏んで動き、人や花や景色の写真や版画や繪ハガキや、書の額や、書籍・辞典等々でギッシリの「壁に作り付けの大きな本棚」なとで、さながらかき混ぜの「交響曲のさ中」のような「仕事場」。真冬でも温かいし冷えない。そのかわりホント本にはさんだモノの場を忘れれば探し出す難儀は破天荒なまで厄介。
2024 7/13

* いま惹き込まれているヒギンズ作のサスペンス『鷲は舞い降りた』は、ドイツの落下傘部隊による英国首相チャーチルの「誘拐」作戦を書いている。なによりもその「チャーチル」なる存在感の超級のおおきさに遠いはるかな日本人の私が感嘆してしまう。最近観た映画『ウインストン・チャーチル』の魅力にも真っ当に脱帽した。が、あの戦時中に国民学校のかきゅうせいであった私たち少年仲間では、米大統領「ルーズベルト」と英首相「チャーチル」とを悪口雑言で笑いものに敵視するのが「慣習」であったから、なんとも、ややこしい気分だが、むろん日本の少年には何も判ってなどいなかった。ヒットラーも判ってなかった。
安易には モノ、コト は判らない。
2024 7/15

* 文庫本でも相当な厚さの超大作級、英独戰争サスペンス『鷲は舞い降りた』を、もてあますほどの「圧を感じ」ながら、もう数十頁読み上げねばならない。かなり心の負担にもなるギッシリの読み物だった。
敗戦後80年近くなる、幸いにもこのヒギンズ作のような「戰争体験」を日本の私らは知らない、それだけに,最期の一頁まで「険しく重たい讀書」を、もち堪えねば。
2024 7/17

* ジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた』 圧の強い読み心地、満足した。此の手のサスペンスは、東工大教授のころ、校門に近い学生向き古書店の表に、安価に積まれていた中から、「先生ソンナのも読むんですか」と女子学生に笑われながら買って、通勤電車の往き帰りに読んでいた。
『女王陛下のユリシーズ号』を次ぎに詠もうと書架で入れ替えた。
2024 7/17

* 書いたモノが消え、届いたと見たモノも瞬時に消え。手の施しようが無い。勝手にしろと投げ出している。
機械から離れ、読みたい本を面白く惹かれて読んで過ごすが「勝ち」かと。機械クンとは、気持ち、距離を置いて付合う、か。

* 四時二十分。玄関座で寝たり,本を読んだり ま、何をするともなく、老蠶は呆然と。
2024 9/24

* ドストエフスキーの『悪霊』 北極海の苛烈なサスペン
陛下のユリシーズ号』 木曾義仲が末期の死地へ崩れゆく『参
衰記』 そして今の私は命を預ける気で、永遠の過去から膨大
分け入るべく、基督教の『新舊約聖書』を「もう一度」全部読みたい、可能な限り『大無量壽経』『法華経』も、と。

* 安居の「玄関座」も調い、寝入る、読む、茫然も放心も心地よく文字通りに「居座って」られる。
2024 7/24

* いま,「文學の表現・創作」として惹かれている,第一は、森田草平の訳で、ドストエフスキーの『悪霊』。「大きな袋」に包まれたような呼吸と感触のまま、「ゆーったり」と「少し怖く」もあり、こんなふうに書けた日本の近代文学とは出会わなかった。いっそ『源氏物語」と向き合わせて読んで居る木がせぬで無い。
2024 7/24

* 夜、十時五十分。ここに「書いた」と記憶の記事が、またもいろいろ消えている、アリステア・マクリーン希有の傑作サスペンス『女王陛下のユリシーズ号』を,二度三度目、粛然とまた読み始めている簡素なども。ちゃんと「保存」する慣いなのらなあ。老耄の手違いか。索然。

* ああ、ボヤキは明日、明日のことと。寝に降りる。
2024 7/26

* 早起き何やからしていたが、玄関座で『女王陛下のユリシーズ號』そしてドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた。
2024 8/1

* 『光る君へ』に誘われ、『紫基部日記』を読み始めて、書きだし修辞の見事さ,なつかしく、感嘆。

* ヘトヘト。頚廻りの硬い痛みに呻く。それでも,小説は書き継ぎたい。『信じられない咄だが』執拗に手を牽かれる。なのに『悪霊』に惹かれ、『女王陛下のユリシーズ號』なんて凄いサスペンスも読み継いでいる。映画『インディ・ジョーンズ』の続きも観たい。なんたる浮気よ。
2024 8/1

* 9時。床を起って,三時間、何ニをしていたろう。玄関座で居眠りもし、またドストエフスキー『悪霊』(森田草平訳)を読み耽っていたか。掌に大きく、重たい大冊だが字も大きく目の弱った私には読みいい。
いくらかでも、まだ「ソ連」時代のモスクワやレニングラードの町、町を見てきたので、作に書かれた小さな貧しげな「部屋」のいろいろは目に浮かびやすい。ドストエフスキー自身の小家や部屋や代表作(=有名な有名な表題が想い出せないのです)に描かれた部屋や家もただ眺めてきたが、『悪霊』に登場のような「町の人たち」とは会いも咄しもしなかった。できなかった。貴族でもあったトルストイと関わる家や建物や部屋は、豪奢でも華麗でもあったなあ。
2024 8/3

* 本は『悪霊』と、『女王陛下のユリシーズ號』と、『紫式部日記』と、そして『参考源平盛衰記』は宇治川の先陣争いあたりを、皆々、心惹かれ読み進んでいる。
2024 8/3

* 何を読んでいるか。
マクリーン『女王陛下のユリシーズ號』北極海厳冬、雪と氷と極度の寒気に呻き闘う孤独の英巡洋艦。
ドストエフスキー 人が寄れば其処に巣喰う『悪霊』。
水戸学寮編四十八冊詳細を究めた『参考源平盛衰記』。 日本の歴史『道長の時代』
2024 8/6

* いま、もう夕方四時半を過ぎている。何をしていたか。何と謂う何もしてなかった。短かな食前食後のほか、大方寝ていた。むざむざ暑さに負けているよりは。他界他者から働きかける何も無く、何もせず。ああ、「朝日賞」に有る人を郵便で推しておいた。
玄関座(倚子)で、重い本のドストエフスキー『悪霊』を 浴槽で、文庫本500頁のマクリーン作『女王陛下のユリシーズ號』を読んでいた。古典は『紫式部日記』、大河ドラマ『光る君へ』への、つっ支え棒に。
食欲無く、先日セイムスから担いで帰った3㍑大筒の日本酒「蔵之介」を、呑み干した。自慢にならないが。
2024 8/8

* 夜十時を半ば近く過ぎている。五輪競技を見たり、ドラマを覗き見たり。頚廻りの凝りが、きつい。もう、機械相手には何も出来ない。眼には負担でも、読みさしの『女王陛下のユリシーズ號』『参考源平盛衰記』を読み読み寝入るか。
2024 8/10

* いま、私「讀書の芯」は、警抜な人間批評のドストエフスキー『悪霊』と、アリステア・マクリーン比類無い死の北極海厳冬の海戰サスペンス『女王陛下のユリシーズ號』。嫌いな乱発批評語の「ほんと、凄い」が、この二大冊、的確に的を射る。
2024 8/12

* 戸外は、熱暑に「空気がさながら燃え」ている。遁れうるサキは、讀書のみ。アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ號』は、令和日本の炎暑ならぬ、豪雪と氷結と吹きすさぶ北極海厳冬のすさまじい海戦。そしてドストエフスキー『悪霊』の不気味に容赦無い人間と世間との「腑分け」のような冷厳。ともに、つかまってしまえば手離して貰えない。
2024 8/13

* 浅い夢見の夜明けだった。

吾(あ)がいのち 吾が歩み あな幾十歳(いくととせ)
佇むことも 無くして あはれ
ありし人も 亡くて 吾(あ)が名を 呼ぶと聞く
夢にも馳せめ 醒めざらましを
人の世は あまた「座席」に影も無い
空ッぽのままの 雑踏 の夢ぞ
命といふ いと細い一筋しかもたぬ
この「賜り」を 賢(かし)こしといはでや

* 字を大きくし、眼を労るしか、ない。

* わたしは「一年」という目算と覚悟でおり、妻とも、「あと」のとで、段々に「深切」に話し合い初めている。
わりと長く書き継いでいる新作の小説も 先ハ未だ だけど熟してきている。
五輪が静まり、ま、テレヒの前へは『光る君へ』ぐらいしか坐らない。読み継ぐ本は、当分のうち、大変な「長編」作を三作だけに絞らざるを得ない。三作が三作とも かけ替えなく、優秀。満足。
2024 8/14

* 今、十五日盂蘭盆会の朝、七時二十分。床にはいたが寝入らぬまま,全身の痛む箇所 頚まわり、両肩まわり、両脚などへ「ロキソニンEXゲル」を塗りたくっていたり。そして 読みさしの「本」を、寝転んだまま読み次いだり。

* 文庫本の小活字で500頁もの、アリステア・マクリーン『女王陛下のユリシーズ號』 言語を絶した厳冬「北極海」で、大豪雪、大濃霧、「冷酷」そのものの「超大結氷世界」を右往左往の英輸送船団、ユリシーズ號らの英護衛戦艦。それを魚雷等々で的確に攻め立てて来る 独逸Uボートの出没と息もつげない魚雷と艦砲との激戦の応酬等々、
「もの凄い」とは正しくコレと 読んでいて震えの来るほどの、まさしく「大海戦」が精緻を極め描破される。
生死を分かつ激越な「戰闘本」は幾つも読んできたが、舞台が大酷寒の「北極海」海戦とは、じつに険しくて厳しいが、だからこそ 凄みのド迫力で惹き込まれ「読まされ」る。

* 「ヒマやなあ」と笑うなかれ。
私は今や八十八年人生の謂わば「春休み」を生きのびている。
「春休み」とは、三学期修了式をおえ、四月七日頃の進級一学期に入るまでの勉強は「お休み」のことであった。いま私に果たして次の学年へ進級があるのか、休み続けてしまうのかは判りませんが、ジタバタはしないで、本など読み耽ってたり、好きに書いたり調べたりを「趣味の如くしているのです。
2024 8/15

* 前触れの喧しかった暴風雨に遭わずに済んだ。アコやマコも機嫌がいい。わたしは視力の衰えにショボショボしている、が、不機嫌では無い。録画してあるはずの今晩の『光る君へ』を愉しんで、ドストエフスキーか、マクーンかを読み嗣いでから寝入ろう。
2024 8/18

* 今、深夜三時四十五分 何の整頓も成らず、ただ 眼も躰も、痛いほど疲労。

* 今、夕過ぎ 六時前。
一日、何をしていたとも謂えない。せいぜい ドストエフスキーの大作『悪霊』を、更に、少しく読み進んだか、徐々に惹き込まれつつ。多くを教えられつつ。
「自分の」仕事らしきは、何も出来ず、しようとも、してなかった。
烈しかった長雨も通り過ぎたか。
2024 8/30

* さ、秦の、その「おじいさん」「鶴吉さん」となると、これはもう、途方も無く山ほど蔵された「和漢の書籍」で、まさしくわたくし「秦恒平」を文學・文藝の生涯へ推して出すべく「手渡して呉」れたわば「師父」であった。国民学校四年生で丹波の山なかへ母と祖父とで戰時疎開したとき、私は祖父が明治の昔に「通信教育の教科書」に用いた「日本歴史」その他を、むちゅうで読んで「勉強」しはじめていた。父・長治郎も叔母つるも「本」を読まない人だった、だから「おじいちゃん」は、家で揉め事があると口癖に「恒平を連れて出て行く」と脅していた。わたくしが「感じ」を小さい頃から苦にしなかったのは「おじいさん」からの「たまもの」なのであった

* 秦の叔母「つる・裏千家で宗陽 遠州流で玉月」が、九十過ぎまで茶の湯・生け花の先生で多勢の社中を聴いていたのが、どんなに「私の趣味」をそだてたか、謂うまでもない。この叔母は、ちいさかったわたくしに、寝物語に、日本の和歌と俳句の最初歩の手ほどきもしてくれた恩を,決して忘れない。私の「女文化」とい「日本」の認識は、この叔母の膝下でこそ掴み得た。
そうそう、秦の父 長治郎は、観世流謡曲を身につけ「京観世」の能舞台で「地謡」に遣われるような趣味人で、おかげで、謡曲の稽古本は家に悠々二百冊を超し、それが少年私の「日本古典への親炙」に道を拓いてくれたのだ。
父は、また、私に「井目四風鈴」から囲碁も手ほどきしてくれ、後には私、その父に四目置かせるほどになった。
秦の母は、趣味にあてる時間や躰の自由の効かない主婦という嫁であつたが、讀書の出来る人で、私に、漱石や藤村や潤一郎や芥川の名前を聴かせてくれた。後年、敗戦直後に、谷崎の『細雪』や与謝野晶子訳の『源氏物語』などみせると、それは喜んで読み耽り、ことに『細雪』はよくよく良かったようだ。
つまりは私、讀書好きのお蔭で、祖父にも母にも孝行できた。まちがいない「作家」へ歩んで行く最初歩であったよ。

* まだ、早朝六時四十五分。八十年もの「読む想い出」は,豊かに豊かな山のように私の胸に生きている。
2024 8/31

* 今朝の 目覚め前に見ていた「夢」がまざまざと残っていて、懐かしいような 怕いような情動に揺すられていた。
いま、リアルの世界に共感も感銘も薄く、ゆすられるような感銘は 結局「読み」からの刺激に拠る。

* 四十八冊のまこと克明にちからづよい漢文の叙事読みついでいる『参考源平盛衰記」第三十三冊では、専ら「木曾義仲」に関わる生き生きとした筆跡にただよう「もののふ」の「もののあはれ」に しみじみ惹き入られて居る。女ながら凜然と勇猛果敢な「巴」も美しく描きだされ、私は 昔から暴れん坊の儘に寂しみを身に抱いた『義仲』物語を 信愛し親愛てきた。
通った京都市立有済国民学校・小学校の校庭には「義仲愛妃」の一人の墓が、枝を張って長け高い橡の大樹の根方に鎮まっていたののを、昭和十七年四月のの「入学式」のひから見知ってきた。
私は、どっちかと謂えば赤旗の平家贔屓の方、源氏では義家や頼朝よりものの哀れの為朝や義経や義仲が贔屓の少年だった。

* ドラマでは『光る君へ』 本では『参考源平盛衰記』 そしていま、ドストエフスキーの『悪霊』と、悲愴のスペクタクル『女王陛下のユリシーズ號』に ひたと向き合うている。満足している。
2024 9/7

* みづうみは 波静かに すこし 暗いめですが、久しく読み継いできた大長編 『参考源平盛衰記』が、とかく 暴れん坊とばかり読ませてきた「朝日将軍」木曾義仲の、全ての扈従を同じ源氏の義経らに討ち取られ、近江粟津の水田林での壮絶孤独な「最期」を読むにつれて 泪してしまいました。
なぜか,わたしは、わたしの生い立ちを併せ想うてか、木曾義仲への身贔屓が 昔から濃いのです。なんと、はらはらと泪したのは、妻と連れて受診に出向いていた地元 「保谷厚生病院の待合廊下で」でしたよ。嗤って下さるな。
次の病院通いは、十一月十一日と。すこしく、こころのびやかに在りたいモノ、 まる四年も出なかった都心へ、食い気を呑みこみながら出歩いてもみたいなと。
2024 9/9

* わたしは、人前では唱いたくないが、ひとりではショッチュウ何かしら 聲は無くも、くちずさむも、唱ってることが多い。新門前の秦家に「もらはれ」たころ、近所に友だちが出来なくて、それで口ずさみの独り歌に親しんだ。
以下、かなりキザに想われかねないが、本郷の医学書院に就職して直ぐ、労組の簡素な新聞様のモノに、「新入社員は「入社の感想」を書くのだと、高飛車に強いられた。出版社の社員誌に「作文」などしたくない。
で、これだけを書いて「係りサン」に手渡した。「はるは名のみの かぜの寒さや」と。
先輩社員の「係りサン」はふざけるなと怒り、わたしは黙っていた。「たった、そのまま」が私の署名で活字に組まれた。
笑われた、嗤われた、が、当時の「編集長」は、著名な国文学者で詩人の「長谷川泉さん」で、若い管理職社員を怒らせていたわたしの「投稿」を、即座に、「春は名のみの風の寒さや」に続いた「渓の鶯うたはおもへど 時にあらずと声もたてず」まで、識られた「唱歌」の儘に読み摂って下さり、金原一郎社長も「心よい」と喜んで下さった。なつかしく、今も、うれしい。
「歌」が好きである。
親しく願っているエッセイスト宗内敦さんの文庫本『歌は心の帰り船』を手近に置いている。
2024 9/12

* 昨日 丸山クン父娘と,久しぶり書庫に入った。井上靖が読みたいと謂うから、目に付いた三,四冊を葵ちゃんに上げた。
「井上靖」か。久しいなあ。懐かしいなあ。はじめて中国へ連れて行ってもらった。大会堂での謁見で副首相だった周恩来夫人に「秦先生はお里帰りですね」と笑顔で歓迎されたりした。訪中団長の井上靖夫妻、同行の巌谷大四さんや伊藤桂一さん、清岡卓行さん、辻邦生さん,大岡信さんら、もう皆さん亡くなられ私独りになっている。旅の想い出、尽きないが。

* 私、今は、もっぱらに四十八冊本、水戸の編輯になる『参考源平盛衰記』の第三十四冊め ドストエフスキー『悪霊』 アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ號』 陳彦作の中国現代長編『主演女優』 そして『紫式部日記』などを読み次いでいます。 視力が落ち いつも視野がボーとしています。
2024 9/16

* 私、文筆・文藝の徒として、当然に各種大小の辞典・事典を身近にも書庫にも置いている。さっき書庫へ入って、『架空人名辞典』一巻のあるのに破顔、坐右へ持って戻った。これは、もう、「ナミの本」より何倍か面白い。架空とも謂えない、しかしこんな事典でないと心得にくい人物が、無数に収録されている。「中空(なかぞら)」別名・綾洴(あやなぎ)偽名・花郷(はなさと)腰元で「偐紫田舎源氏」光氏の恋人とか、いろいろ、そんな程度までこまごま挙げてある。これが「日本編」というから「世界編」も在るらしい。おそろしい嵩になる。実に多彩に、骨休めに成る。
2024 9/16

* こういう時にメールが嬉しいのだが。いづこも同じ、酷暑の殺到ならん。
北極海の厳冬、敵砲撃に艦を海に落ちれば即死して沈み行く兵達の無数の惨。『女王陛下のユリシーズ號』を読んで膚に粟立てて「冷気」を贖っている。
『参考源平盛衰記』は、京・福原を逐われた平家が一谷にこもり、戦上手の源義経十二分の激戦・奮戦・連勝の場面が「壇ノ浦」海鮮までつづく。かなりに蒸し暑い。
2024 9/17

* 今日一日をどう過ごしたのか、ハキと憶え無い、が。 午前には、アリステア・マクリーン660頁の文庫本が克明に描く、酷寒の北極海、ドイツ潜水艦Uボート群に襲われる英巡洋艦ユリシーズ号の 凄惨な死闘を読み次いでいた。そのあと、ドストエフスキーの大作『悪霊』の悠々としかも不気味に「人間」なるものの真相を抉って嗤うほどの筆技の凄みに分け入っていた。
2024 9/20

* 『光る君へ』の同じ中宮お産の回を,日に三度も観た。平安の京都似生まれ育ち、極く幼くから『百人一首』繪歌留多を翫び和歌も歌人も憶えて、与謝野晶子現代語訳の『源氏物語』へ小学生のうちに辿り着いていた私には、『光る君へ』世界は、幼来馴染んだ「故京・故郷」と謂うに近い。鬱陶しい「こんにち世情」にイヤ気すれば忽ちに還って行けるのである。
2024 9/22

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