* 克明に千載和歌集を読み進んでいる、「読む」という行為が自身の創意や感性からする創作意義を持ってくる。万葉集このかた多くの時代に多くの撰集が編まれた、詞華集が編まれた、今の世にでもそれはある。わたし自身、歌謡の「梁塵秘抄」「閑吟集」から精選し観照してきたし「愛、はるかに照せ」も「青春短歌大学」も撰集になっている。
私なりにというとおこがましいが、平安八代集を私の思いにかなう秀歌だけで選び取り選び直したいという思いを持ってきた、その第一番に、好きな「千載和歌集」を選んだのである。「選ぶ」という批評行為に徹し、不要なその上のお節介は省きたい。さりとて平安和歌の面白さを読んであっさり受け取れる人はすくない。多少の親切は必要だろう。
暮れから、元日、昨日、今日三が日も休まなかった。打ち込んでいる。
2012 1/3 124
* 癌の疑い十分と 医師は写真に指さした。分かつてゐた。 湖
* 今日からを「晩年」とする。数ヶ月か。十年も十五年も有るか。知らぬ。これだけ謂っておく、死のためには粘らない。
2012 1・6 124
* 千載和歌集の全一二八八首から、およそ四百首前後を撰歌し、その大方に適切に寸註を書き加えた。繰り返し繰り返し読んで味解に努めた。予期よりもずっと深入りし、この仕事は自分にとって運命的な物というほど実感を得た。わが七十六年を決算するある種の卒論を試みたほどの実感も得た。それほど千載和歌集は佳い勅撰和歌集であり、古代の花と中世の風とを要約し得た俊成畢生の撰だとも実感した。師走も押し詰まった二十九日に「思い立って」秀歌撰に手を出したと日記に書いているが、撰は、以前に半ば成していた。しかし今回、抜本的に読み直し読み深め、大晦日も元日もなく草稿を決定していった。
はからずも五日の人間ドックの、暫定的ではあれ医師に告げられた「癌病変あり」との診断も、撰の後半の読みに、解に、註に、つよく影響したと思う。
おそらく、いつかこの『千載秀歌・撰註』を読んで下さる方は、これが秦恒平生涯をものがたる必至のいわば創作で、見解( けんげ) で、境涯であったかと、繰り返し味わって下さるだろう。先立った『バグワンと私』上下巻も、それなりに必然であったのだとも。 2012 1・8 124
* 大河ドラマ「 平清盛」の一回目を観た。話はかなりツクッテあるが、あらましは通説に沿っている。白河法皇など、なるほどこういう権柄な人と人に思われているのかと面白かった。もうすこし当たりの柔らかい好色の狸おやじだったようにわたしは想ってきた。いかに院政の御一人であれ、あんまり厳つく権柄なわけ知らずでは肝腎の待賢門院璋子に嫌われ怖がられよう。
白河法皇と孫の鳥羽天皇と皇后璋子との三角関係はだいたいあのようなものであったとされている。皇后の生んだ後の崇徳天皇の父は白河院であると。わたしは小説『絵巻』では、璋子と有仁親王との恋を想像して書いたのであるが。なににせよこの紊乱にややこしい人渦が絡みつき、これから保元の乱へ向かう。
清盛の父も白河院かと、ほぼ肯定されているが、母は明確でない、祇園の女御といわれた女の縁者であろうかと。ドラマでは白拍子風情につくってあった。これもその子が平忠盛に育てられ平太清盛と成って行くのは概ねその通りと。
* 忠盛も清盛も、白河院も鳥羽院も待賢門院も、みな千載和歌集世界の同時代人である。千載和歌集は藤原俊成の撰であり、勅撰の院宣は後白河院から出ている。後白河は、例の問題になる崇徳天皇の同母の弟で、父はいわば戸籍通りの鳥羽天皇。そして千載和歌集に先行していた俊成私撰の「十五代集」といわれる隠れた歌集には、崇徳院が深く関わっていた。崇徳院に勅撰の意志があったとも観て少しも可笑しくない。百人一首にも名高い「瀬をはやみの」一枚札はこの院の秀歌であり、よほど和歌に堪能であった。後白河の方はむしろ歌謡歌手として名人であり『梁塵秘抄』を自ら編んでいる。
千載集には崇徳院の歌はたくさん採られてあり、後白河の御製は、在るが、少ない。清盛のも頼朝のも義経のも、見当たらない。しかし源氏の義家や頼政の歌が採られてあり、平忠度の秀歌も、よみびと知らずとしてだが、一首採られてある。今度の大河ドラマ「平清盛」は、父忠盛ももとも「千載和歌集の時代」にすっぽり含みこまれる。
* わたしは少年の昔から、源平の時代に馴染み、しかも当時大方の贔屓と異なりわたしは赤旗の平家贔屓だった。後白河贔屓でもあった。さてこそ『清経入水』を書き『風の奏で』を書き『梁塵秘抄』や『女文化の終焉』を書いてきた。行き着いたところが、目下の『千載秀歌』撰註であり、小説でもまた平家物語に取材してひそひそと今しも書き継いでいる。
大河ドラマは、観て行くだろう。むかし「源義経」をドラマにした時の義経は尾上菊五郎で、痺れるような美男子だった。義経はすすどい小男であったとものの本にはあるけれど。今度の平清盛は誰が演るのだろう。
2012 1・8 124
* なるべく病変のことは考えないようにと思っても、それはムリで、考えたければ考えたら良かろうと思っている。体内に、繊細な針でチリチリひっ掻くような刺戟を感じる。どうしたのかなと思ってきたのも、今は理由づけしやすくて、またかよ…と苦笑したり。
それよりも思考が、なにかしら過去よりに「記憶を清算」でもしようという風に働いて行くのは鬱陶しいから、なるべく「いま・ここ」の仕事つまり行為に、関心や興味のもてるようでありたい。
さいわい、わたしには興味という趣味感がまだ相当欲深く溜まっていて、文学ないし書く仕事の上でであるが、あれがしたい、これがしたいという目当てにほとんど欠乏したことがない。
わたしが病院に掛かる気が疎かったのは、名の付いた病気になどさせられ、机や機械の前から追い立てられたくないからだった。仕事が栄養であり妙薬だと判っているからだ。
こと、ここに至ればジタバタしても始まらない。しかし、出来る仕事はつづけさせて貰いたい。
* 良い内容でしっかりした一冊が編めるのなら、「いま・ここ」に徹して躊躇うまいと思うが、編輯・編成に、楽しくはあるが苦慮もしている。それだけ、たゆみなく積んできた仕事がある、仕事がしてあるということ。過去に本になりきれぬ儘置かれた「仕事」、読者に本として読んで戴けなかったわるくない原稿にもわたしの手で日の目を見せておいてやりたい。
こういう風に気持ちの動くのが、晩年の気の急ぎなのだろうか。
老妻に、スキャン仕事が頼めるのが、言葉にならぬほど有り難い。
* スキャン校正に没頭しているが、二冊分にもなるのではないかと首をすくめている。今日ぐらいにも入稿し、明日の診察次第では久々に京都へ行きたいとも想っていたけれど、そうはいかない。幸か不幸か待っていた大相撲十二日めの案内が、相撲茶屋の竹蔵君から来ない。来ないままだと、十三日の診察次第では二十七日の大腸内視鏡検査まで、二週間がある。貴重な自由時間であるのかも知れないのだが。ま、校正と編輯とに専念専一に。
ところが本からのスキャン精度が悪い。かなり手が取られる
2012 1・12 124
* 仕事、捗ってはいるが、輪郭の鮮明な編輯案には至らない。「千載秀歌 千載和歌集の基盤と背景」といった構想だと上下巻が必要かも知れぬ。半端に妥協したくないと願っている。
2012 1・12 124
* 人は 、「死なれて・死なせてー生きる」と識り、人生の大半をそう生きてきた。わたしの「生」であった。
そして「老」が近づいてきたとき、わたしはむしろ親しげに老いを受け容れ自覚して拒まなかった。「 湖(うみ)の本」 を念頭に浮かべながら、和歌山の三宅貞雄さんに『四度の瀧』付・年譜の豪華本(昭和六十年 一九八五 元日刊)を作っていただいたとき、わたしは満五十歳にほぼ一年みたなかったが、老境を待ち迎える姿勢がなかったと云えぬ。それかあらぬか福田恆存先生に、遠慮などせず若く生きなさいと窘められた。大江健三郎さんにはまた少しニュアンスの異なる共感の手紙をもらった。
あれから二十五年、今度は「病」が訪れた。癌とは、なみたいていでなく、おそれていなかったわけではない。だが来てしまったのは取り消せない。「生・老・病」を、今後どれほどの間か知らぬが生きて行くことになり、先には、背後にかも知れないが、もう、「死」だけが待っている。
死んで行く「いま・ここ」の我が生きて行く老いも病いも華やいであれ 湖
死を弄ぶ気など毛頭無い。死に弄ばれたくもない。とくべつ華やぐ必要もない、今までのままになるべく永く過ごせるよう、からだは医者にまかせ、気持ちは静かにしかも、少年のようでありたい。 2012 1・14 124
* 帰宅したら、すぐ通算110巻入稿を用意して手渡し、ひきつづき111巻分も送り込めるようにする。第103巻の『私 随筆で書いた私小説』以降、『文学を読む』上下、『京と、はんなり』『バグワンを読む』上下『光塵』と、或る必然の連繋を保って進んできた。まちがいなく続く上下巻は、『光塵』を受け継いで必然著者自身を吐露するだろう。
2012 1・19 124
* 午前十一時すぎ。「西行に擬されたもの」という比較的ながいわたしの往年の論攷を校正して、漸く半ば過ぎたか。一九八六年一月号の「短歌」に書いていたのだから、四半世紀以前。ついでながら、恵遠を書いたわたしの芥川賞候補作「廬山」は一九七一年十二月号の「展望」だから、さらに十五年以前、今から四十年余も昔である。そして「いま・ここ」で、わたしは、千載和歌集から秀歌撰を試み、その時代や背景や底流を観て取ろうとしている。いまがいまの思い立ちでなく、わたしの作家生涯を貫く棒のようにそれは在ったし在り続けた。この論攷は、いや述懐は、「わたし」の遺しうる本音というに近い。
2012 1・22 124
* 七時前から例の「順読」を始めていた。
源氏物語でも栄花物語でも「ジャン・クリストフ」でも、みな、そうだ、物語や歴史や小説が伝えて確実なことは、ずんずん、ずんずん雪の積むように「人は死んで行く」という逃れがたい真理だ。死んで行き方にも、ほんとうに、いろいろある。
* 今朝印象に残ったのは、栄花物語の、道長娘、東宮敦良親王妃嬉子藤原氏の最期。この人、目出度い皇子出産も安らかに済ませ、恵まれた運命の盛りと見えたところで、あ、あ、というまに急の病で亡くなってしまう。「おもしろき櫻の咲きととのほりたるが、にはかに風に残りなく散りぬるにぞ、いとよく似させたまへる」と本文にある。なんという、美しさのはかなさか。
道長の姉、冷泉院の女御超子の、正月の庚申に、「鶏なくまでおはしまして、暁に御脇息におしかからせたまひて、やがてうせさせたまひにけり」と、対照的な静かな死もいわれており、むろん、病みに病み続けてどうしよう無く亡くなった道長娘、小一条院女御寛子の、だれもが落胆も納得もした死も思い出されている。
源氏物語の「橋姫」では、宇治八宮の家庭へ薫中将がひきよせられている。
八宮は光源氏の弟、冷泉院の兄、過去の政変の煽りで逼塞し、仏門に深く入りながら二人の娘ゆえに出家もできないでいる。寂しい世界だ。わたしの脳裏には、光源氏も紫上も藤壺中宮も頭中将も明石入道も葵上も六条御息所も夕顔も、みーんな、生き残っていても、この物語現世には、もういない。
わたしの書いた恵遠法師は、父や母にはじめて説法した日、「この世のことはみな夢まぼろしとおぼせよ」と語っている。千載和歌集の世界にわたしの認めてきた認識も、バグワンに手をひかれてきた足どりも、同じ。「この世のことはみな夢まぼろし」だ。
* 思わず失笑し、すぐ吹き出してしまう言葉もある、『ファウスト』だ。頼りない学僕ヴァーグネルに向かって痛烈だ、わたし自身が言われていると聴くと、笑いも凍り付くが。若い創作者たちにも聴いてもらおうか。
☆ ファウスト博士に聴く ゲーテ著
佐藤通次さんの訳に拠って
いつまでそうやって坐りこんで、膠で接ぎ合わせ、
人のご馳走の寄せ集めでごった煮を拵え、
君自身の灰を掻き寄せた中から
心細い火を吹き起こしていることには、
せいぜい子供や猿を感心させるだけだろう、
それがお好みとあれば致し方ないがーーー
しかし、君の肺腑から出るのでなければ、
人の肺腑に徹することはできないね。
正々堂々の成功を求めたまえ!
鈴ふり鳴らす莫迦者のまねは止すがよい!
もの分かりと、まっとうな気持とさえあれば、
技巧を弄せないでも成功はするねのだ。
真剣に言おうとする何かがあるなら、
なんで言葉を追いまわす要がある?
まったく、君たちの演説ときたら、紙を縮らした
見てくれの造花も同然で、ピカピカと光ってはいるが、
秋に枯葉の間をざわめきわたる
湿った風のように、気持ちがわるいものだ!
* 「真剣に言おうとする何かがあるなら、なんで言葉を追いまわす要がある?」と。
呼応して、ロマン・ロランも、クリストフにかりて「言葉」を痛撃している。
「すべての社会生活は、言語がその原因である大きな誤解の上に立っているような気がした……お前の思想が他のいろいろな思想と理解し合えるとお前は信じているのか? 関係はただ言語だけの関係にすぎないのだ。お前はことばを言い、お前はことばを聴く。ただの一語さえも二人の別々の口から出るとき同じ意味をもっていない。どんなことばも、ただ一つのことばも、人生の中で全く何の意味をも持っていない。ほんとうに体験されたリアリティーから、ことばはずれてしまう。
愛と憎しみ、とお前は言う……愛も、憎しみも、友らも、敵たちも、信念も、情熱も、善も、悪も、ただことばとして在るだけなのだ。在るのはただ、数世紀も前に死滅している星たちから降ってくる冷たい余光だけなのだ……」
* 一瞬も経ず、わたしは感得しなければならないのだーー。
* ああだが、「仕事」を続けよう、「ことば」に幾らかの「信」を寄せて生きるしかないわたしの「いま・ここ」を。
2012 1・22 124
* また一つ捜し物が見付からない。最近にも二度三度目に触れていたのに。「見付からないゴッコ」しているようで、情けない。
いま、「しているようで」とわたしは書いた。
これを、「しているみたいで」と、もし創作原稿に書いて提出すると、「新潮」の編輯者小島喜久江さんは、黙って鉛筆で傍線を引いた。つまり、よくないという意味だろうが、一言の説明もない。初めのうちわたしにはワケが分からなかった。だが、たとえば「我慢できないくらい」と書けば、その「くらい」の脇にもきっと鉛筆の傍線がついた。似たことを繰り返しているうち、わたしの方で勝手に分かって行った。文学の文章を真剣に書く気なら、「みたい」「くらい」の類の俗な口語には気をつけてという注意だと合点した。
むろん擬音にも厳しかった。必然は生かすが、安易に俗な擬音をつかうと、鉛筆の傍線できっと叱られた。有り難いことであった。
* 文は人なりという。過剰に歪めて奉ずるのは困りものだが、それでもやはり文は人でも志でも気稟でもある。自分からそれを汚すことはない。創作はそうでも、他のもの、たとえばメールや日記や手紙なら好きに書き好きに言って好いじゃないかという理窟も成り立つ。それは否定しないが、文章は、一度きたなく持ち崩せばとても直せない。小島さんは黙ってそう注意していてくれたとわたしは今も感謝している。
今夜は、建日子原作の「ダーティママ」三回目が放映される。 2012 1・25 124
* 早朝に「 湖(うみ)の本」 110巻の初校ゲラが届いた。即座に仕事を開始、晩の七時半まで機械の前へも行かず、 階下の大机で真っ先に「千載秀歌」362首を丹念に校正した。一首に添えた「解」「味解」「読み」などの短文が、どの程度に説得力をもつかに神経を集中、これで佳いと納得できたのは、私のためには祝着であった。この分だけは、すぐにも再校を求めて戻せる。
しかし、つづけて「 千載和歌集の背景」として多数のエッセイ、随筆、感想、小論などを編纂したところの分量が多過ぎ、おおむね40頁ほど減らさねばならない。うまく下巻に回せるように按配する作業が残ったが、幸い下巻分は用意出来ているので、按配は、どこへ上巻からの原稿を挿入するかに尽きている。上巻は、話題として興味のある平易な短めの文章を組み立て、下巻はわたしの「女文化論」の基底をかためておける感想をあつめたつもり。
* 平安古代中期から江戸近世前葉までが、わたしのいわば「仕事場」であったことが、何冊もの本で証明できてきた。
* 明日には、思い切った編輯技術で上下巻を按配してしまい、下巻原稿も印刷所に委ねたい。
今日は終日、初校ゲラの重いのととっくみ合って過ごした。家にいる限りインフルエンザもあまり心配せずに済む。とはいえ、せめてこの体躯を維持したままのいでたちで、心おきなく街歩きもしてきたいのだ、本当は。人のいない、静かな場所。湿気の適度にある場所。空いた美術館か博物館か、それともやっぱり大きな河のあるところか。寒くて風邪をひくのはイヤだし。
それよりも、まずは仕事。刀や鑿が使えなくても、絵筆や絵の具が使えなくても、いろいろに「書く」言葉で、わたしは「わたし自身」を彫刻できる。そのとき、わたしは生きている。
2012 1・27 124
* 時間を惜しんで懸命に「仕事」してきた。いつもなら一週間十日も掛けるところを今日一日で、手を抜かずにし遂げた。これが、「遺す仕事の最後」に成るかも知れぬと本気で思うから。安心も希望も十分持っているけれど、万一には備えておかねばならぬ。さ、時間が足るか知らんと。
* 『慈子(あつこ)』 という小説を書いたとき、「慈」の字を、「こころあつい」と読んでいた。「慈」でないと、文学の文章は、人の言葉は、内からふくらまない。「思ひ」という「火」の力が冷えていては、よく伝わらない。
* 寒ければ 寒いと言つて立ち向かふ。
だいじなことは、「寒いと言つて」の「言つて」にある。黙っていて、同じ事を思っているのだといくら思っていても、伝わらない。機微である。
2012 2・8 125
* よくよくの天災地災人災が無いかぎり、たとえ癌と雖も手術で命を危うくすることは、まずあり得ない。だからといって、備えなくていいということにはならず、最も必要な備えは「遺言」である。しかるべき役所に出向きたかったがそれは叶わなかったけれど、数次の話し合いも重ねて、私が自筆の「遺言」は明日にも書いておく。一つには、僅かとはいえ私にも遺産となるものが多少ある。二つには多数にのぼる著書・著作関連、湖の本関連、ホームページ関連の全配慮と保存・保管・運営という観点がある。三つには、それなりに個別に言い残しておきたいことも有る。
及ぶ限り正確に妻と建日子とに托しておきたい。またもや、妻や息子が、醜くて不幸・不道の裁判沙汰に見舞われてはならない。 また、妻として家政上知っておきたいこともあろう。万一に際して答えられる限りは用意してやらねばならない。
2012 2・9 125
* 「 下巻序に代えて」も書いて、いま、ファイルで入稿した。これが本になるのは、幸いわたし自身の手で発送できるにしても、よほど先、四月かなあ。まったく今の気持ちで書いた一文なので、ちょっと此処に置いてみる気になった。
それにしても、今日もむちゃくちゃ忙しかった。さ、明日も。
* 下巻「平安女文化の底流」序に代えて
平成二十四年二月十日、今日、上巻「千載秀歌・撰註」等を全部責了した。聖路加病院へ、十三日に入院する。十五日朝、胃癌による胃全摘と胆嚢切除手術を受ける。今となれば手術そのものを無事に受けたいと願い、焦がれ待ちしていた新橋演舞場での中村勘九郎襲名興行も断念した。一度の昼夜通しは入院中に差し当たって仕方なかったけれど、では入院前にと、もう一度通しで座席を得たものの、手術直前にもしインフルエンザでは話にならぬと、ウーン、また断念した。それが今日のことだ。座席券は大学時代からの友達にあげた。小林桂樹と「黒い画集」を共演した原知佐子だ、喜んでくれた。今頃、もう新勘九郎の「春興鏡獅子」は獅子の座に直り、次で「じいさんばあさん」の幕があくだろう。
まことや、同期の原さんも、われわれ夫婦も文字通りの「じいさんばあさん」を免れない。仲よかった同期の重森ゲーテも大森正一も亡くなった。原さんの夫君も亡くなった。文字通り女文化の歴史物語に相違ない浩瀚な「栄花物語」を読んでいると、まあまあ人の次から次へ死んで行くこと、まるで死者の行列を書くのが「歴史」であり「物語」なんですよと如実に教わるようである。華麗で優美で清艶なわが『平安女文化』の底流には人に死なれ死ぬる歎きの顫動しているのを、しみじみ知らねば済まない。
かなしさをかつは思ひもなぐさめよ誰もつひにはとまるべきかは 大貳三位
* 「思ひ」には「火」ほどの哀傷が謂われてある。誰しも死ぬと下句の突き放す諦念が凄い。
此の「下巻」、散漫なようで各編から編へ匂い付けに、意表に出てかなりポレミック( 争論風・挑発風) にも書かれてある。上下巻『千載和歌集と平安女文化』は「晩年」の一仕事に成ってくれたと思う
2012 2・10 125
* 留守に届いていた手紙や、昨日今日のメールを読んでいた。またドラマの「平清盛」なども楽しんだ。
病院へわたしは源氏物語宇治の「総角」巻、ゲーテの「フアウスト」「ゲド戦記」の第二巻を持ち込み、最良の選択であったが、ほかに自作の幾つかも持ち込んで、ていねいに読んできた。なかの、「絵巻」は、われながら美しいと思えた。ありとある待賢門院を書いた読み物を高く藝術的に超えていると、胸を張って嬉しかった。史実を認識しながら全く想像力を遊ばせてフィクションの美を組み立てている。文字で書いた「絵巻」として完璧であった。そういう思いにもなれた病室暮らしだった。
2012 3・4 126
* 昨日、わたしの待賢門院璋子と源氏物語絵巻の成立を書いた小説「絵巻」に触れて、思い切った自負の言葉を吐いた。これほどの文学的完成度で、現代、誰がこれを書けるかという気概であった。まさしく創作であり作品を湛えもっていた。
ことのついでに、この際、言わせてもらいたい、わたしは瀧井孝作、永井龍男という「リアリズムの二大家」により芥川賞に推された「廬山」も病室に運んでいて、落ち着いて読み返した。リアリズムどころか幻想や想像力の仕事であったが、これまた完璧の「作品」を得た作と思えた。やはり、これほどの文学的完成度で、現代、誰がこれをこれほど美しく書けるかという気概をもった。永井先生は「美しい作品である」の一語で賞賛して下さった。
もう二作、「畜生塚」「初恋」も持って行き、若き日の想像力、それに作を丁寧に一字一句もゆるがせにせず書いて書ききっていることに、誇らかな興奮を覚えた。いろんな同
時代作家に伍して小説というものをいろいろに書いてきたつもりでいたが、「小説家」として生きていたのを、今こそ誇らしく感じる。むかし筑摩の辰巳さんという編集者に、同時代の私小説ふう他作家とよっぽど調子が違うのを、かすかに嘆いたとき、言下に彼は、「秦さんは、ブリリアントです。迷うことも嘆くことも要らない」と言ってくれた。
「ブリリアント――」
他の人でも簡単に書けるような小説は書くまい。それがわたしの何より深い願いだったと思い出す。「蝶の皿」「清経入水」「慈子」「閨秀」「みごもりの湖」「隠水の」「風の奏で」「冬祭り」「最上徳内」「親指のマリア」「四度の瀧」など。
多作はしなかったが、それでよかったと、改めて若い「小説家」として立っていた往時に自信が持てる。井上靖先生に「まじめな仕事をされていますね」と励まされ、中村光夫先生や臼井吉見先生に「あんたのような人が文学のために大事なんだがなあ」と嘆息させたこともあった。
* 肩肘張らず、さ、「晩年」をどんな文学者として生きて行けるか、行くか。
* 病室へまず以て「源氏物語」と「フアウスト」を携えて行ったのは大成功だった。いずれも過去に実に繰り返し読んできたのだ、おもしろづくに筋書きを追う読書でなく、名作の妙味をしぼるように吸う読書だった、こんなにふさわしい二冊はないと確信して、源氏はもはや宇治の物語の「総角」巻をじりじり読みすすみ、ゲーテの詩劇は、正しく詩劇として堪能するように読み進んだ。これまで第一部を筋書きとして軽く読み流してきたのが、今回は、舞台の転変と詩の演劇言語を堪能するように読み、その結果、第一部の終幕時には
寒気だつほども感動した。おそろしい藝術に圧倒的に襲われたという実感だった。
「 源氏物語」からも、わたしは身をゆるがすほどの教唆をうけた。
わたしの人間関係における基本の喜びは、幼來、何であったろうか。それは「なつかしい」という思慕や愛情に他ならなかったと、「総角」を読みながら津波に襲われるほどの実感を持った。
どうしてそういう感情がわたしを支配したか。わたしは実の親をしらず、育ての親にもそれほどの思慕や愛情で纏わった子ではない。よく思えば、新制中学の半ばまえに与謝野晶子の源氏物語を繰り返し耽読し、高校からは原文にしたがって、「若紫」「紫上」をこよないなつかしい人と思慕し愛した体験に、じつにふとい根があったのだ。源氏物語の女達を語れと求められた昔、わたしは躊躇無く「宇治の中君」をと選んだ。紫のなつかしさと匹敵して恋しいほどに思えるのは、わたしには、宇治の中君が最深最良なのであることを、いまさらに改めて「総角」そして「早蕨」とつづく宇治の物語の中で、痛切に再確認したのだった、手術の痛みに堪え、体調の甚だしい違和に悩みながらも、まこと貴重しかもフレツシュなな読書体験であった。
* 三週間ちかい病室の暮らしでわたしを苦痛から誘い出してくれたのは、「 湖(うみ)の本」 110 111の校正の作業・進行だった。『千載和歌集と平安女文化』の前半上巻200頁は病室で責了にした。後半下巻200頁の全紙揃えての三校を請求したのも病室からだった。妻が、印刷所との仲立ちをしてくれた。この仕事への興味が、どんなに病苦の日夜を紛らわせてくれたか、言い尽くせない。
そして、明日朝に、上巻の出来本が届く。どうして発送ができるのか、ゆーっくり、やるしかない。
2012 3・5 126
* 上巻が、少しずつ読者の手元に届いて行く。妻一人が手の着くところから少しずつ少しずつ送りだしてくれている。
千載和歌集からわたしの撰した秀歌たちが、現代の読者に愛誦していただけるといい、作者たちの実感や情理とともに。添えたエッセイは、それぞれに今始まったばかりの大河ドラマ「平清盛」の恰好の背景になりえているのを、気軽に楽しんで頂きながら、下巻でのさらに立ち入った考察等を迎え入れて下さるよう願っている。下巻はすでに全部責了可能になっている。病室で克明に読み返し返し校正してきた。あまり間がつまるのもいろいろご負担かも知れず、四月上旬の送り出しを考えている。「下巻序にかえて」の一文だけをここに先駆けて送りだしておく。
☆ 『千載和歌集と平安女文化』 下巻序に代えて
平成二十四年二月十日、今日、上巻「千載秀歌・撰註」等を全部責了した。聖路加病院へ、十三日に入院する。十五日朝、胃癌による胃全摘と胆嚢切除手術を受ける。今となれば手術そのものを無事に受けたいと願い、焦がれ待ちしていた新橋演舞場での中村勘九郎襲名興行も断念した。一度の昼夜通しは入院中に差し当たって仕方なかったけれど、では入院前にと、もう一度通しで座席を得たものの、手術直前にもしインフルエンザでは話にならぬと、ウーン、また断念した。それが今日のことだ。座席券は大学時代からの友達にあげた。小林桂樹と「黒い画集」を共演した原知佐子だ、喜んでくれた。今頃、もう新勘九郎の「春興鏡獅子」は獅子の座に直り、次で「ぢいさんばあさん」の幕があくだろう。
まことや、同期の原さんも、われわれ夫婦も文字通りの「ぢいさんばあさん」を免れない。仲よかった同期の重森ゲーテも大森正一も亡くなった。原さんの夫君も亡くなった。文字通り女文化の歴史物語に相違ない浩瀚な「栄花物語」を読んでいると、まあまあ人の次から次へ死んで行くこと、まるで死者の行列を書くのが「歴史」であり「物語」なんですよと如実に教わるようである。華麗で優美で清艶なわが『平安女文化』の底流には人に死なれ死ぬる歎きの顫動しているのを、しみじみ知らねば済まない。
かなしさをかつは思ひもなぐさめよ誰もつひにはとまるべきかは 大貳三位
* 「思ひ」には「火」ほどの哀傷が謂われてある。「誰しも死ぬ」と下句の突き放す諦念が凄い。
此の「下巻」、散漫なようで各編から編へ匂い付けに、意表に出てかなりポレミック( 争論風・挑発風) にも書かれてある。上下巻『千載和歌集と平安女文化』は「晩年」の一仕事に成ってくれたと思う。 秦恒平
2012 3・9 126
* 今度の再入院中に、妻が宅急便で届けてくれた中の二百字「秦恒平用箋」百枚ほどに、数十年ぶり手書きで原稿を二つ書いたこと、深夜にも昼間にもヒマをみては書き継いでいたことは、昨日の日録に書いて置いた。
その一つは「古徑の罌粟の繪をよろこぶ」と題して、手ならしに二百字十枚であった。
わたしが手書きの原稿用紙をはなれ、発売されたと同時に買い入れた東芝トスワード第一号機で即日書き始めてもう二度と手書きへ戻らなくなったのは、調べてみれば分かるが、もう何十年も昔のことになる。当時岩波書店「世界」に連載中の長編小説『最上徳内』のどこか途中からであった。妻に何度も何度も清書してもらっては推敲を重ねていたのが、一切機械のうえで出来るようになり、難役から妻を一気に解放してやれたのは最良の機械の恩恵だった。まさにそれ以来の原稿用紙に「手書き」の「仕事」をしてみたのだった、書字にも緊張を覚えた。此の三月二十三日夜十時に脱稿した。
で、わたしは、相次いで次の試みへ向き替わった。あえてその表題は書かないが、以下のように書き始めている。そして書き終えたのは同じ三月二十五日、「明日退院」と決まっていた前日朝の十時三十五分、二百字用箋に四十三枚の脱稿であった。もう手書きということにそう力んでもいなかった。書き始めの二枚近くを此処へ写しておく。
* 題を明かさず、病室で秦恒平が書き始めた。
退院から二週間とない初の通院受診そして即再入院と決した平成二十四年三月十五日の私の容態は誰の目にも「きわどく」「危なかった」と聞いた。外来での点滴やスキャンニングのあと八一二室へ送り込まれた私は、よく謂って人事不省でさえあったとか。本人はさほどに感じていなくて、此の日妻が帰宅する時の私の表情、声音は見違えるほど元気だと、頬に手を添えて喜んで呉れた。
それはそれ私は此の日西東京の自宅からハイヤーで中央区築地の聖路加病院に着いたが、妻も私もまさかに「再入院」「と迄は思い及んでなかった。鞄にはプラトンの『國家』岩波文庫の上巻を入れていた。正月、癌と診断され手術をうけてこのかた、かなり強い動機を私は此の二千数百年むかしの「大作」に寄せていて、「再検討せざるべからず」と考えていたのだ。 後略
* 以下今は「略」の四十枚余のその「検討」は、少なくも私のためには「重い」意味を負うていた。
さらに一層の「再検討」を私はなおざりに出来ないと思っている。
2012 3・27 126
* 映画といえば一昨日に観た「塀の中の中学校」にも泣かされたが、あの映画の中で記憶にクッと引っかかる場面・科白があった。
映画の本筋は、初等教育すら受けて来れなかった受刑者からの、選ばれた数少ない希望入学者のために「塀の中に」正規の中学が設けられているという、実の話。指導の先生は刑務官で、たまたま任命されてきたひとりが、オダギリ・ジョウの演じる実は写真家として立ちたい若い先生。任じられた仕事にまるで熱も情も無い。ひたすら自信に満ちて応募した写真コンクールでの入賞を待ちこがれていた。
ついに結果が出た。四人か五人だったかの最終選考に残っていた彼は、だが、独り、いちはやく落選。後に残った候補作者には彼の後輩でかつては彼の足もとに及ばなかった名前も入っていた。彼は編集部に乗り込み、編集長に落選の理由を尋ねた。編集長は言い渋っていたが、思い直して話してくれた。残された数人の候補者の中で彼は真っ先に選考からハズされたと言うのだ、そして他候補について熱心に選考の議論が闘わされたと。彼は茫然とし、理由を問うた。答えは簡明だった。
「花がない」と。
彼の勤務の日々が、此の只一言の「花がない」を説明していた。いかに技術があろうとも作の世界に「花がない」。決定的な批評だった。それはまたわたしが創作や執筆にあたって心底冀い大切にしてきた真情であり信条でもあり、また大切に思う後輩にもこころから「花がほしい」と助言したり批評したりしてきた。
* バグワンはよく言う。花は、匂わねばならないと。「匂う」という花の命がどんなに価値高いか、貴いか。さきの映画をなかば耳で聴いていながら「花がないんです」との一言に、すべてを理解した。
2012 4・7 127
* 原発関連の報道や情報にほぼ限定し集中して注意を払っている。
なんという狡さか。原発頼関係者達によるデータの改竄や計測方法のごまかしや、つまりはデータの不正ないし隠蔽をはかる組織的な悪辣が目立ち過ぎる。「国土と国民の前途」を目先の利権のために闇から闇へ葬る政治が平然と「政治判断」で強行されている。心ある政治家は大衆運動を組織すべき時機ではないのか。
* 昨夕、梅原猛氏が、心ある連繋の絆だけがあるのでなく、利権の欲などに政治的に渦巻かれてしまった拘束としての絆もあり、いま、日本の原発環境はそういう悪しき絆に平然としている学者や政治家で溢れているのではないかと発言されていた。「絆を断って払いのける」勇気を日本人は持っていないのか。
わたしの「湖(うみ)の本」 も一つの実例だ、出版や文壇という絆を払いのければ何が起きたか。「孤」である。だがわたしは四半世紀の余も堪えてきた。そして今や必ずしも孤ではない。
2012 4・10 127
* 一昨日の外科診察時に、抗ガン剤服用開始を二十三日と決めて同意書の即時の提出を指示された。可能な限りセカンド・オピニオンに類する同じ聖路加病院内のオンコロジイ( 腫瘍内科) の専門医の意見や示唆も求めたいと、同意書提出を急がずオンコロジーの予約を外科主治医に求めた。
二十四日二時半に、腫瘍内科医との面談・ 診察が予約できた。その結果を待つ。
それまでに、仕事の面でも気持ちの面でも「次ぎ」を待つ気構えをつくって置きたい。抗ガン剤の服用が決まれば「一年」を要する。その間に諸検査が挟まって行くか。
一年というと、「 湖(うみ)の本」 が一年に四冊刊行で久しくやってきた。刊行をつづけるという「仕事」 モチベーションに励まされていろんな苦痛を堪えて乗り切って行きたいと願っている。
「 湖(うみ)の本」 四冊を背景に、「小説」の仕上げにも熱をあげて行きたい。服薬それ自体によりわたしの命が即脅かされることは無いはずである。ただラクなものではないらしい。堪える工夫が是非にも必要になると言うこと。可能な限り「仕事」自体に応援してもらいたいと願う。わたしには、今もいつも自分自身の文学の「仕事」があり、何十年も、今も、間断なく打ち込めてきた。また打ち込み続けられる。幸せなことである。差し当たってこの一年も渾身の気概で打ち込み続け、予想される苦痛と闘い抜きたい。
どうか読者・知友のみなさんにも見守って頂きたい。
そのためにも、基礎体力を、一日も早く回復出来る限り回復させておかなくては。差し当たっては「下巻」の作業をきれいに終えてしまいたい。
2012 4・11 127
* つぎの「仕事」へ向きを定めている。わたしが「仕事」と言うときは、志賀直哉の明言にならい、私流「文学・文藝・創作・執筆・勉強」の意味である。
むかし、わたしは罫線のある用紙に工夫して、月単位に日々の依頼仕事を、抜けたり忘れたりしないよう書き入れ、毎日の進行を記録していた。何年も何年もの間、原稿依頼や講演や出演が月に十数もあった。目が回るほど原稿を書き、講演で遠くへも出向いていた。若気の至りであったものの、だから今の生活が成ったのは確か。
生活のためでなく、今度は病気との闘いのために、「仕事」を組み立てたい。
気がかりな気がかりな小説の仕事が二つ有る。
「湖の本」は一年に少なくも四冊ずつ四半世紀余も、送り出してきた。三ヶ月に一冊は、少しも気の抜けない間隔であり、打ち込みたい。
超級の面白い長編小説を読み返そうと思う。『源氏物語』はもう少しで夢の浮橋をわたってしまう。『ゲド戦記』四巻も今月中に読み終えてしまう。
『戦争と平和』『南総里見八犬伝』『水滸伝』『指輪物語』『イルスの竪琴』『モンテクリスト伯』『平家物語』『罪と罰』『従妹ベット・従兄ポンス』『夜明け前』そして、自作なら『みごもりの湖』を久々に読んでみたい。これらを順々にかつ併読して行けば一年が経つだろう、そうそう『千夜一夜物語』もまたまた楽しみたい。
旅行は、わが家ではとてもむりだが、月々の観劇は体力しだいで、大きな楽しみになる。楽しみにも力づけられたい。
* おおよそ、そのようにわたしは、いま、心がけている。
家族にも、また読者や知友にも、素直な気持ちで、「元気」をもらいたい。
* まだ心幼かった頃の娘も息子も、父親が「死」について思惟し述懐するのを嫌い、キザに「死」を弄んでいるとまで非難したのを忘れていない。「死ぬときは死ぬんだよ、何を考える」などと中学生の息子は嘯いた。
その息子が、今は、人の死を真面目な話題に、たくさん読み物や芝居を書いている。「死」は明らかに息子にも重い課題であるらしいし、わが子に死なれた姉娘もしたたかに死についてものを思ったことだろう。
わたしは、ほんとうに小さかった「もらひ子」の昔から、「死ぬ」ことに関して恐怖と厳粛さとで、ものを思いつづけていた。さもなくて『死なれて・死なせて』を書くまでに、たくさんなあんな小説は書かなかった。若い頃は死は歩んで行く道の向こうの方にいると思っていたが、年を取るにつれ若い頃兼好に教えられていたように、いまや死は背後からひたひたと迫ってくると理会している。予感し実感している。
この道はどこへ行く道 ああさうだよ知つてゐるゐる 逆らひはせぬ 11.10.23
昨年十一月末に出した「 湖(うみ)の本」 109の歌集『光塵』はこの歌を結びに置き、わたしは聖路加病院の糖尿病の主治医に人間ドックを紹介してもらった。明けて正月五日のドックの検査は、精査をまつまでもなく明らかなわたしの胃癌を指摘し、掌をさすように予断は確定診断となった。「逆ら」うどころでなかった。いまわたしは明らかに片手に生と片手に死と手をつないで歩んでいる。生と死とが左と右ほどは違わないのだということも感じている。 2012 4・14 127
* 今日、元朝日新聞社の人であった伊藤壮さんから、病気お見舞いのお電話をもらった。恐縮した。
一九八六年五月、伊藤さんに西銀座の朝日ホールで講演を頼まれた。講演録は「色の日本 日本人の色と色好み」として「 湖(うみ)の本」 エッセイ45に収録してあるが、あれは、ちょうど「 湖(うみ)の本」 を創刊する間際であった。わたしの企図を聴いて親切な伊藤さんは、早速会場でも丁寧に紹介して下さり、さらに朝日学藝部の河合記者を紹介して下さった。翌日、わたしは河合さんのインタビューを受け、その大きな記事は盛んな反響を呼んだ。各新聞が記事を書いてくれ、全国から配本希望のたよりが続々集まった。
わたし自身、当時、十巻はせめて続けたいと願っていたのだ、それが今、あれから二十六年、四半世紀を超えて「百十一巻」めを無事配本したのである。
伊藤さんは八十すぎたと言われる。二十六年である、お互いに老いを重ねてきた。それにしてもなんという有り難いことか、伊藤さんは「 湖(うみ)の本」 を、ずうっと自身購読して下さったのである。
「 湖(うみ)の本」 はそのようにして世に出た。当時は、三冊ともつまいとわらう人もいた。「出版への叛逆」だと非難もされた。
だが、今は、わたし以外の誰にも出来なかった、真似も出来なかった「創作・創造的な仕事」と認めてもらっている。まっさきに伊藤さんの有り難いお蔭であった。
2012 4・15 127
* 「塀の中の中学校」という好いドラマの中で、「先生」役の若い刑務官が、その役を嫌いながら実は自信のある「写真家」として世に出たい熱望に悶えていたという話を前にも紹介した。コンクールに出した自信作が、最終銓衡の五人のうちに残りながら、真っ先に彼の作と名とが銓衡から外され、残りの四人で熱心に選者達は議論したという内情を聞き知った彼は、どうにもこうにも合点ゆかず、事務方責任者である編集長に、ま、問詰に出向いた。なかなか答えて貰えなかったが、ついに編集長は只一言彼の作の真っ先に割愛された理由を、「花がないから」と。技術はとにかくも「花がない」からと。
* 陰気・陽気という。陰気はだれにも分かる。難しいのは陽気で、この語彙があまりに普通語に化しているからだろう。「陰の気」に対して「陽の気」とそこへ戻したうえで「陽気」の意義や魅力がとらえられねばならない。陽気とは賑やかにはしゃいだり、あっけらかんと無防備だったりすることではない。しかも「陰気」に咲く花は無い、いかにささやかにものに隠れたように咲いている花でさえ。上の「花がない」という編集長から伝わった選者たちの批判は、いいかえれば創作されるものには必須の「陽の気」が欠けているという真意であったのだろう。
話はとぶが、高校生の昔に幸運に南座の顔見世がみられて、初世吉右衛門はじめ、後の六代目歌右衛門や当時もしほの後の勘三郎、染五郎の幸四郎たちと出会った。ついで、市川壽海や、のちに仁左衛門や三津五郎や延若らに成って行く関西の役者たちとも出会ったのだが、そんな歌舞伎体験のなかでわたしは心幼いながらに「花」「陽気」という言葉の感じを体感した。たとえば「もしほ」今の勘三郎のお父さん、また「我當」今の我當・秀太郎・仁左衛門らのお父さん、そして「延次郎」のちの延若らの芝居を、「花やなあ」「陽気やなあ」と愛したのだった。河豚に中って死んだ「蓑助」のちの三津五郎もそうだった。みな当時の「花形」だった。
花の、陽気の魅力を、実の花や実のお天気よりも、わたしは歌舞伎役者たちから教わっていたのやと、感慨深い。
「花」も「陽気」もけっして大声で話さない。しかし黙っているのでもない。自身をけっして寡黙になど抑え込んでいない。静かに静かにたくさんなことを話しかけていて、しかし押しつけてもこない。静かに匂って明るい。
若い刑務官の「先生」は、不幸にして読み書きも出来ない受刑者を教育する役など不当で不要だと内心に見捨てていた。ただもうレンズを通して技術的に物を再現していた。写されるモノも死んでいた、写す自分も陰気に凍えていたのだ。
* マインド人間は、容易にさわやかに匂わない。陽の気に自身をゆだねられない。分別を重んじすぎ、分別くさく陰気をかかえこみ外へも陰気を滲ませている。マインドという「心」に毒されるのだ。解き放てないモノをかかえこみ、いつしれずそんなものを後生大事な自分の本領かのようにしがみつく。「心無 礙 無 礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想」の「 礙」、これこそが陰気の因となり花の匂うのを抑圧する。
2012 4・19 127
* ゲーテの『イタリア紀行』が、いやゲーテの藝術家生涯にとって「イタリア」が、どれほど貴重な本質的体験であったかは、半ば常識として知っていたけれど、買い置いた三巻の岩波文庫はまだ手にしないで来た。手を出したきっかけは、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』が漸く終巻佳境にはいってきた中で、彼クリストフがこれまで歯牙にもかけてこなかった「イタリア」の文明・文化・藝術に急速に惹かれて行くのが印象深く、「イタリア」を再認識いや初めて、あ、そうなのと認識させてくれたから。
以前に、誰であったかの初期の『ローマ史』をいたく面白く読み、関連して辻邦生さんの『背教者ユリアヌス』も面白く読み、それ以外イタリアやローマのことは断片的な物語や映画からしか知らず、知ろうとしないで来た。『モンテクリスト伯』のお祭り騒ぎの場面などを面白く記憶に残していたが、じつは『神曲』も読めていない。それでいて、もしもう一度海外へ出掛けられるなら、フィレンツェが観たいと思い、ローマにも想いがとび、シシリー島へも渡ってみたいなど、夢のように思うだけであった。
『親指のマリア』で、新井白石と対峙するシドッチ神父はシシリーの出。二人を京都新聞朝刊小説として一年も連載していたときから、亡くなった彫刻家清水九兵衛さんは、わたしの描いているシシリーが「好き」で、「ほんとにあの感じでね」とよく話された。行ったことないんですと言うと、目を丸くされていたのが懐かしい。そんなシシリーも観たいと思うが、もう百に九十五は諦めている。
いまもゲーテの『フアウスト』第二部の第四幕半ばを読んでおり、その前に久々に『ヴェルテル』を読みまた『ヘルマンとドロテア』を読み、そしてよく出来た評伝も読んだし、その前にはエッケルマンの『ゲーテとの対話』全巻も読んでいた。ゲーテは巨大な山巓で、これしきでは余りに片端だけれど、『イタリア紀行』から豊かな刺戟が得たいと願っている。
* こういう読書からすると、娯楽読み物というのは、( タマにわたしの手元へも届いてくるが) じつに詰まらない、くだらない。魂に、なにひとつももたらしては来ない。以前、ペンの理事会で阿刀田高さんに「エンターテイメントではいけませんか」と反問されたとき、『モンテクリスト伯』や『南総里見八犬伝』ならばと答えたのを覚えている。愛読して今もやまない『モンテクリスト伯』ですら、トルストイの『復活』と同時進行で併読していたとき、いかに『復活』の表現や描写が藝術文学として優れているか、それにくらべると『モンテクリスト伯』ですら叙事は筋追いに説明的で、大作ではあるか薄いと実感した。ましてや末輩の読み物・エンターテイメントなど屑のようだと思うしかなかった。
* いま、ほんとうに美味い清水だ、全身で漬かっていたいとまで懐かしい文学は、作品ゆたかな藝術はチェーホフの戯曲だと感じている。「イワーノフ」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」と読み進んできて。底知れず寂しいのに不思議に温かくて世界がリアルに深い。
「得」の内だと自覚しているが、わたしは戯曲を読むのが、苦になるどころか、とても好き。高校の頃、古本屋でイプセンの戯曲集を、あれは新潮社の世界文学全集の一冊だったろうか安く買って愛読したが、それ以前に、谷崎潤一郎の大正の頃の戯曲をおもしろく読んでいた。『無明と愛染』など演出してみたいとノートし始めたことさえあった。
戯曲集と題した古本には手が出る。新潮文庫の一冊に福田恆存その他の代表作が六、七編纏まっていたのも古本で買い、愛読した。福田先生の戯曲はもっぱら「読んで」満喫してきた。沙翁劇もむろんのこと。観劇好きの素地である。能、浄瑠璃、歌舞伎、俳優座・昴らの新劇も商業演劇も。
息子の秦建日子は、小説、劇作・演出、テレビ脚本と多彩に活躍しているが、安いノベライズ本の多産よりも、自身心ゆく「戯曲集」を自分の力で思うままの一冊二冊にしてくれないかと内心願っている。それが後々に残る可能性が有る。そう思う。
2012 4・26 127
* 本が売れないと、まず本屋が泣き言を言った。本を出してくれなくなると、次いで書き手が泣き言を並べた。
泣き言や愚痴をわたしは否認はしない。無意味に強がっても始まらない。が、泣き言のヒマに何か出来ないかと立ち向かうことも大切だ。
わたしは「湖の本」で立ち向かい、二十六年・111巻、続けてきた。躰と気力がもてばまだまだ続く。書き溜めた作も文章も、書きつづけて行く作や文章も、ときに持てあますほど在るし、在りつづける。但し蔵が建つどころか家も切り崩して行かねばなるまい「作家の出版」だ、だが、家には屋根と柱が残ればいい。それより思うさま「仕事」して思うさま志高く「本」が出せて、「いい読者」に恵まれ励まされ、全国の大学・高校また各界の知己・知友に存分にひろびろと寄贈もできる。
「寒ければ 寒いと言つて立ち向かふ」
寒いのに「寒くない」などとやせ我慢はしない。それでも立ち向かふ。言いたいことを言う。裁判があろうが癌になろうが、わたしの晩年、根は静かである。述志の日々。それでいい。
2012 4・27 127
* 文藝家協会から、「長壽会員」となったお祝いの記念品として、上等そうな膝掛けと美味いバウムクーヘンとを贈りとどけて呉れた。いまどき七十六歳で長壽とは気恥ずかしいが、素直に喜んで頂戴する。
* もうよっぽど昔だが、どこからか「男の美学」の題で原稿の依頼があった。この手のはなしは好きでなく、断っても良かったが、思い寄ったままに、以下のような戯文( 文でもないもの) を書き飛ばして送った。調べれば分かるのだが、今すぐには何年の仕事か思い出せない、ま、五十前後か。
その気で読み直してみると、大方は今でも思いに変わりないが、はっきり変わっていて、今ならこうは思わずこうはしないと否定できるところがある。「男の美学なんて要らない」という気持ちも、そうだが。お笑いぐさに、そのまま再掲してみる。題は編集部が付けた。
* 花が好き。死に急がない
男の美学なんか要らない 作家 秦恒平
道に唾をはかない。子供を抱いた女の人には座席を譲る。貧乏も金持ちも好きではない。痩せるために運動などしない。嫌いな人とは会わない。食いたいものを食う。酒はうまい間だけ飲む。美食を趣味にしない。いい女がいい。好きと尊敬とは区別できる。裏の白い紙は捨てない。着るものに奢らない。仕事は大事にする。正当な報酬は請求する。安物買いをしない。わけもなく先生と呼ばない。先生と呼ばれようが秦さんと呼ばれようが、何でもない。猫が好き。蛇がにがて。妻を愛している。隠し藝は売らない。時間は守る。必要な無駄、無用な無駄がある。いい政治というものは、無い。学者にも研究者にもならない。心から祈る。知らない事のほうが遥かに多い。不可能なことが有る。選挙権はかならず行使する。多くは望まない。言葉を信じすぎない。盗んでいいものも有る。物を蒐めない。逢いたい人がいつもいる。貰えば嬉しい。適当に嫉妬する。花が好き。死に急がない。可能性を疑わない。花も実も、無い。まさかという事がある。好奇心は捨てない。新しい機械にいつも興味がある。相対的だから絶対がある。不器用である。据え膳は食う。嘘は適度につく。大儲けも大損もしない。貰った手紙には返事を書く。ゴミも出す、おつかいにも行く。自動車より自転車。ま、いいじゃないか。孫は文句なく可愛い。毎夜死者たちのために本を音読する。きれい好きとは言えない。怒る。家族とは何でもよく話す。読まない本は買わない。自分で考える。寝相はわるい。親切に。魂の色の似た人をいつも捜している。愛は不可能。そんなものさ。一視同仁。簡単にあきらめる。容易にあきらめない。一割ほど高いめに買う。宝石はいらない。経済は大事。こだわらずに筋を通す。カラオケは嫌い。ストレートをダブルで。結婚式も葬式も無用と思う。していい妥協はする。わが子はわが子。繰り返しを厭わない。出版記念会なんてやらない。現代と現在とはちがう。字はへた、絵は描けない。分かる人には言わなくても分かる。分からん人にはいくら言っても分からん。強いてほんとのことを言う必要はない。一度言えば足りる。期待しすぎない。愚痴るだけの人は嫌い。正義は疑わしいものの一つである。念々死去。日の丸はわるくない。君が代は認めない。碁は三番。歴史に学びたい。ボールペンとパソコン。気稟の清質最も尊ぶべし。だましてあげるのも、愛。暖簾より創意。つるんで歩かない。あれば使い無くても構わない。若い人を大切に思う。へんなメモは残さない。あやまるべきは、すぐ、あやまる。強硬に頑張る。時は金よりも貴い。長湯。電話が嫌い。気はくばる。手土産も旅の土産も無し。死ぬまでは生きている。能を見ながら気持ちよく寝る。無用な寄付はしない。保守より革新。革新は幻想だと思う。幻想も現実である。現実は夢である。夢はさめる。男と女しか無い。私は男である。美学は要らない。男の美学なんか要らない。
* 以下は、修正するか、省くか。
手術後は生気の無さが観て分かるのか、いつも座席を譲られる。祈るという習いからは遠くなった。それよりも亡き秦の三人の育て親達に毎朝声をかけている。貰った手紙には返事を書くことも少なくなった、ペンを持たなくなったのだ、メールの使えない人とは余儀ない不如意をかこっている。
可愛い孫の一人は死なせてしまった。生きているもう一人の消息を渇望しているが、知れない。変わりに「黒いマゴ」が文句なく可愛い。
本の音読習慣から遠のいている。声帯を痛めそうだったから。黙読の読書習慣はむしろ度を増している。からだが痛く寝相も気儘に成らぬ。強いときはストレートをダブルで幾らも飲んだが、もうそんなときは来ないだろう。君が代を聴く機会が増えてきたのは或る意味けっこうなような気がしている。一風ある旋律ではないか。なかなか三番も碁を打つ元気も相手もない。もう一人いる孫娘は碁が打ててわたしより強い。へんなメモとは何のことか分からない。
書ける限り「書く」ことは死ぬまでやめないだろう。
2012 4・27 127
* 六月五日、国際フォーラムで、第7回「親鸞仏教センター研究交流サロン」の案内がある。一度も出掛けたことはないが、送って戴く雑誌や会報には目を通している。テーマは、「<自己責任>を問いなおす 他者への温かな関心を取り戻すために」と、ある。
☆ お元気ですか、風。
急に暑くなりましたね。花は半そでで過ごしています。
風のところは、少し涼しいのではないかと想像しています。
花粉をまだ感じますが、例年より軽い症状で助かりました。
冬仕様のいろいろなものを仕舞って、夏物に切り替えはじめています。お布団を干したり、ね。
英語教室は、生徒たちが英和辞典を持っていないのが困りものです。
花は、英語に限らず、学習時には字引を使うものと思っているのですが、今どきの中学校では使わないようで。
生徒に、「辞書持ってる?」と訊いたら、「持ってる」と言うので見せてもらったら、小学校卒業時に貰ったというそれは、何故か「和英」でした。
「お家に英和辞典があるなら、それを」とも訊いてみましたが、無いそうで。
(別の生徒の家には旅用の英和・和英コンパクト辞典があり、それを使ってもらっています。)
花の中学生になったときには、まず英和を誂えたものですが。
現在の教育方針に、何か意図があるのかなあ、と、想像してみるものの、よくわかりません。
ではでは。元気な花より。
* 子供達の英語のことは、分からない。
新潮社の新鋭作家シリーズに『みごもりの湖』書き下ろしを始めたとき、担当編集者は、真っ先に現代語・古語併用の『新潮国語辞典』を呉れた。今も表紙の剥がれなど修繕して愛用している。
辞典や事典や年表は、物書きには絶対的な必備品。いまでもせいぜい手の届くところや捜せばすぐ見付かる場所に、各種の事典・辞典・年表を置いている。百種下らない。
機械の「ことば」検索で間に合うといえば間に合うだろうが、記載が薄く、また前後に積まれた類似語彙との関連や発見が抜けてしまう。詞藻を、正しい理解で肥やすことは、ものを書く者には必須。辞書・事典・年表を読むのが楽しみの一つに成っている。
2012 4・28 127
* 明日から、いよいよ腫瘍内科の指導のもと、制癌剤「ts1」を日に二度ずつ連用しなくてはならない。「仕事」と「読書」の楽しみを高めて喧伝されている「副作用苦」を和らげたい。
ま、どんな卦が出るのか分からないのだが。専門医である「信」先生は自分は制癌剤を服さなかったと明言されている。
ではわたしもと、そうするだけのわたしには何の確たる立場もない。立場はないが、生活はあり生命もある。自身の気概で生活と生命とを支ええられるのなら、ま、聖路加の方針を受け容れようとわたしは決めている。どんな卦が出るのかは分からない
* 気になる内容の健康番組がテレビに登場する、例えば腰痛とか頭痛とか鉢巻きとか。妻はよく観ている。わたしも観ることもあるが、まるで無縁な内容と想われる場合は一瞥もしない。怖いからでない。求めて病気を拾い集める必要などあるものかと思う。それでなくても、何十項目も症状を並べて幾つあれば何病であるなどと。何病であろうと挙げられた症状のどれかに引っかかる。てっきり病気を拾い上げてしまう。そしてよくよするなんて。
とはいえ、わたしは胃癌にかかっていた。人間ドックに行って見付けられてなかったなら、では、わたしは胃癌でなかったのか。そんなところへ行けば病気にされてしまう、行かなければ病気は拾い上げないで済む、などと、本当にそう言い切れるのかとわたしは「体験者」としてドンツキに追い込まれてきた。ドクターの何人もが人間ドックで胃癌が見付かって「良かったですね」「一年遅れていたらひどかった」といっそ胃癌発見を喜んでくれた。
得も言われずややこしい気分であった。
* 「自然死という甘い希望 病気を追いかけたくないが」という四十枚もの感想を書いてはみたけれど、肝腎のわたしのなかで割り切れた話でなく、もてあますだけである。ま。簡単にあきらめる。容易にあきらめない。現実は夢である。夢はさめる。
2012 4・30 127
* 六時起床。聖路加の外科と腫瘍内科とへ。検査も。たぶん、今日から制癌剤服用の処方があろう。
* 保谷も、築地も、どこかしことなく、いま、躑躅をはじめ、いろんな花、花がすばらしく咲き盛って、これぞ生彩、輪郭も艶も照りも色もちからに満ちている。妻と、立ち止まりまた立ち止まり顔をちかづけて嘆声を漏らす。小雨に濡れたあとなど、堪らない。そして新緑の優しさ、つよさ。
* まず、今日で消化器外科の診療を終え、オンコロジー( 腫瘍内科) の診療が始まった。生理検査には異常なく、薬剤師による「制癌剤TS1」の説明と服用上の注意を受け、担当医の処方箋により薬局で一ヶ月分の「TS1」を受け取った。下痢のとき、吐き気のときの頓服分も処方された。今夕食後から服薬を始める。
昼休み前、前副院長で妻が二十年も、わたしも看てもらっていた林田先生と別館で会ってきた。
服薬前いわば最終の夕食を奢ろうと思ったものの、薬局で薬を受け取ったのが三時。夕食には早いので、ニュートーキョーでビールを少し飲んだだけで、有楽町から帰ってきた。
家で夕食。済ませて、七時。抗ガン剤3カプセルを初服用。これから一年間の薬剤を朱とした闘病の日々がつづく。
* 落ち着いて、堪えて、心ゆく「仕事」へますます取り組もうと願っている。
2012 5・1 128
* やっぱり大久保さんの新刊は、巻おく能はざる迫力で。すべて「三田文学」で順々に読んでいるのだが。それでも。
言われる通り関西には「言いたいこと言い」という批評語があるほめた物言いでは、ま、ない。しかし戦前文士の真骨頂はまさに「言いたいこと言い」であり、「言いたいこと」を遠慮無く言うべく生き、「言いたい」ことが言えぬようではグズであったと。そして彼らが言いたいように言う批評とは、すなわち容赦ない悪口であったと。わたしは悪口は言わないが、こと「文学」に関しては悪口と聞こえるほど遠慮無く「言いたいこと言い」でいたいし、そのように生きてきた。そのために、孤立というにひとしいほどの自立と独立の道を自ら選んで、文壇を出た。出たというと正確ではないか、拘泥しなくなった。自由になった。或る意味では、わたしは古い時代の古い文士気質に薫染されて作家になり批評家になった。新しい時代と新しい時代の書き物に、容易に優れた価値をいまだ見出せないのである。
2012 5・3 128
* いろんなものを、取るも取りあえず、ぼろぼろと取り残し捨ておいて歩を先へ先へ運んでいる。そう感じる。「歩」とは譬喩に過ぎぬ。わたし自身は「いま・ここ」を動いていない。取りこぼされ置き去りにされるそれらは、結局不要。
2012 5・9 128
* 五月十三日 日 母の日
宮澤賢治・詩 徳力富吉郎・版
* 神業ほど強弓で畏怖された「鎮西( ちんぜい) 八郎為朝」が主人公の「椿説弓張月」である、題の読みは「ちんせつ」ではなく「ちんぜい」が正しいのではあるまいか。残念ながら馬琴の原作に、久しく焦がれながら接していない。三島さんの脚色に関しても、何一つ予備知識はない。どこかで「ちんぜい・ゆみはりづき」とされているか「ちんせつ」と極まっているのか、知らない。
しかしおそろしい博学のおそろしい趣向家馬琴である、原作者は。あの西国に武勇の名を馳せた鎮西八郎為朝の「ちんぜい」を念頭に置いた表題であったろう、まして弓の為朝を称えた「弓張月」ともある。それならば、当然に「椿説」は「ちんぜい」と読んでいただろう。読んで欲しかったろう。
「鎮西・ちんぜい・椿説」 十分自然である。選挙「遊説」を「ゆうせつ」とは謂わない、「ゆうぜい」である。
多年愛用の手近な新潮国語辞典第四刷(1972.02)に「珍説」はあるが「椿説」は無い。もっと新しい「大辞林」には、「珍説・椿説」が一括りにしてある。「椿」には、「めったにない、珍しい、破天荒な」原意があるので、「椿説」はあり得ておかしくない熟語である、ただ、馬琴ほどの作者がこのようなおそらく初出となるような語彙を創出したとき、読みは、必ずや源為朝の「ちんぜい八郎」をふまえて「椿説=ちんぜい」の読みを趣向していたであろうと、わたしは確信する。三島由紀夫は気付いていたろうか。
2012 5・13 128
* 仕事をして。それから昨日「投稿」されてきた小説ともエッセイともつかぬ長篇を読み終えて筆者に返事した。内容は保元の乱前夜から、徳大寺実定卿薨去のころまでを書いたもので、知識は確かなもので相当深い、が、文学・文藝には程遠い。書かれた時代が時代であり読み通しはしたがみたされるものがなかった、つまり魅力がなかった。少し容赦がなさ過ぎたかも知れぬが、自戒という気味もこめていた。
* さて、相当の長篇でしたが、今し方 読了。
率直に申して、
① 誤記・脱字も、言葉の誤用もいりまじり、推敲ができていません。
② 小説でもなく、エッセイとしては、あまりに筆者の個性味ある独自の表現でなく、歴史年表の表面上を知識だけで舵取りしあだかも滑り台を滑り降りているような、譬えていえば「歴史講釈」のようで、張り扇の音と、講釈師の通俗で陳腐な語り声とがいたずらに響いて、作ないし筆者の親密な、また独特の肉声や文藝が聞こえても見えても来ないのが、なによりの物足りなさです。過剰な「美文」意識が見当を逸れて、声張り上げた型どおりの漢語や強調語が乱舞しています。これでは物知りの「講釈」の域を出ません。文学とも文藝とも表現とも謂えません。
③ 筆者にいかにこの題材上の知識が豊富であるか、それは首肯できます。しかしその開陳だけでは、講釈か解説かで終わり、文学・文藝の把握とも表現ともならないのです。その上に推敲不足では。
大河ドラマの「平清盛」は、苦心して、あの「時代」をかなりリアルに伝えようとしており、「侍」の運命をよほど落ち着いた視野と視線で見つめようとしています。創作ゆえの脚色は当然として、通俗に陥らずに手堅く「侍」社会を掴み取ろうとしています。
あなたは主に「公家」を書こうとされていますが、年表の上を知識で滑って行く浅さは否めません。保元・平治の梗概に終始して、筆者の胸の底から咲き出でるべき文藝の華がみえてこない。一つには語り言葉の落ち着きのなさ、感懐の妙の乏しさ。
おおかた理解されたことと思います。なによりも、自作をもっと厳しくご自身で読み返してみて下さい。
同閏十二月十六日、薨去。享年五十三歳。
時鳥鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
この時鳥の歌は無垢な青春期ではなく、泥まみれな人生にあがき苦しみ、そこを突き抜けて、振り返った晩年に生まれたという。
***さん
この数行に主題がしっかり凝縮しています。ここを焦点とし、「実定卿」の人と境涯を創造的に「生かす」「表現する」のが望ましかった。今のままでは、バラマキ講釈で、雑然としています。
* 実は気がかりなもう一作を、例の手術当日頃に留守宅で預かっていた。退院して読み始めたが読みづらく、また脱水も高熱もひどくて再度の入院を余儀なくされた。また退院して読み返し始めたが、どうしてもうまく乗れなかった。
小説なのかエッセイなのか掴みにくいのは先人の作にも屡々あり、それも文藝の妙が蔽い取ってくれて、読んでいて嬉しくなればそれで済んでしまう。要は「文藝」を藝として発揮しているかどうか、読まされてしまうかどうか、なのだろうが、読みづらいと感じてその感じがさいごまで抜けなかった。そのまま返事もさし上げられず、病気のお見舞いだけを貰いはなしにしてしまっている。弱った。
読みづらさの一つは、文章に身振り手振りの過剰を感じるほど、へんに演説っぽくなっている。ガタンガタンと文章が揺れを刻んで、そういう箇所ほど筆者に昂揚や興奮が感じられるようなので、気分を共有出来ないでいると、つい逸れてしまう。
* 把握と表現の絶妙のバランスが、ときおり瞬間最大風速を生んでその風が花のように匂ってくれると、「文藝」は藝としても品としても引き立つ。美文を書いてはいけない。
2012 5・14 128
☆ 手術をなさり、
もう御退院の事と思っております。手術は、矢張り、おこたえになりましょう。私自身も、通う病院の科がふえ、大忙しです。科目がふえていくものですから、お釈迦様が病体、老体で往生なさった、ということは、凡人にとって、一つのなぐさめです。「生老病死」は、人の、さけられないもの、と思いますので。私の友人は、やはりあちこちの病院に通うので嘆いていましたが、老いと病いは、本当に、忙しい。予後をくれぐれもお大切になさって下さいますように。 評論家 元・文藝誌編輯者
* いまとなれば有りがたい師の一人でもあった人のお見舞いの言葉にかかわって、わたしは、あの二度目の入院時、病室で書いていた苦渋の一文を、どうにも自分自身と折り合いが付かずに抛ってある一文を、思い起こさずにおれない。ああ仕方がない、観ようによれば支離滅裂なのかも知れない一文を此処へさらけ出して、もし言葉や思いを添えて下さる人が有れば、じっと耳澄まして聴き入りたい。胸を張って押し出す一文ではない、半ば以上はお手上げのもの。ただたまたま頂いた上のお便りに、また少し背を小突かれ、敢えて吐き出してしまうのである。ご批判をいただければ嬉しい。
☆ ☆
自然死という甘い希望 病気を追いかけたくない
秦 恒平
今年、平成二十四年正月五日、私はめったになく自発的に聖路加病院の「一日人間ドック」に入り、即日、胃の極上部に癌病変が疑われ、日を改めての検査結果から胃癌に相違ないと診断された。一月十九日、消化器外科はこれを確認し、以降、各種の検査を重ねた後、二月十三日入院、十五日に「胃全摘と胆嚢切除」の八時間に及んだ手術を受けた。後日の病理検査から、胃癌はⅡb型、そしてリンパ一個所に転移が認められた。
三月三日に、退院。
ところが退院から二週間とたたない術後初の通院受診の日、主治医は一も二もなく「緊急再入院」と決した。その三月十五日の私の容態は、医師たち誰の目にも「きわどく」「危なかった」とのちに聞いた。外来での点滴やスキャンニングのあと八一二室へ送り込まれた私は、よく謂って人事不省でさえあったとか。強度の脱水症状に加え、高熱を伴う大腸菌や腸球菌の術後感染が全身を冒していた。だが本人はさほどにも感じてなくて、此の日妻が帰宅する時の私の表情、声音は見違えるほど元気だと、頬に手を添え喜んでくれた。
それはそれ、此の日早朝、私は西東京の自宅からハイヤーで中央区築地の聖路加病院に着いたのだった、妻も私もまさか「再入院」と迄は思いも寄らなかった。外来で待たされる間にと、この日、私はプラトンの『國家』岩波文庫の上巻を鞄に入れていた。正月早々に「癌」と診断され手術を受けてこのかた、私は、かなり強い動機を此の二千数百年むかしの「大作」に寄せていた。「ぜひ読み直さねば」と考えていた。
私は医者にかかろう、病院へ行こうとは容易に思い立たぬ男で、十余年来の糖尿病受診と、関連の眼科検査の他は、家人からも読者からも幾十度懇願されても腰をあげない頑固者だった。人間ドックを私自身で申込んだのは異例も異例だった。だが、そこへ気の煮つまるには、一つは「体違和」への降参の気持ちが、他方には実はプラトン(ソクラテス)の「医術と健康」観への複雑な共感また反撥や関心が、互いにまるで逆向きの何かのように向き合っていたのである。
前者の、今年正月早々人間ドックの「結果」は繰返し言うまでもない。後者のソクラテス(プラトン)の対話編『國家』は、三月十五日再入院以降、病室で、相当気を入れ頭から読み直し続け、肝腎の個所、医術と健康と死生の「対話」にまでしっかり再到達していた。刺激的に気がかりな検討(対話)が、何の躊躇いなくそこに繰り広げられていた。
私が医者にかかりたがらない(たがらなかった)のは、べつだん怖いからでも只面倒だからでもなかった。ごく当たり前な反応として、医者(病院)に行くと、そのときまで本人も知らず気づかずにいた「病気をもらってくる」ことになり易く、病気(健康)の面倒をみてもらう筈が、逆に「病気」を後追いし、次から次へ此方が病気の面倒を見たりお守(も)りしたりして日々を送らねばならなくなる、少なくもそれは或る意味つまらない話ではないか。ま、そんな反感にちかい懸念がいつも働きがちであった。
今日の医療の常識では、私の、上の曰くは嗤うに足るノンセンスであろう、と同時に、私自身が本郷台で医書編集や出版企画の勤務に励んでいた昔に、「医原性疾患」又は「医原病」という観点のあるのを識り、その研究書を専門家に書いてもらってもいた。
病気が病気を連れてくる、悪くすると際限もない病症が現に連鎖して起きぬではない。かりに私のような「もの書き」が、そのようにして、したい仕事にも手が出せず日々懸命に「病気の尻を追いかける」有様となれば、かりにも生き甲斐はどうなるか。「文章を書く」以外に多少の能も喜びももたぬ男が、ただ「病気を追いかける」日々に埋もれて行くのであったりすれば、大袈裟にいえば世のため、人(読者、知友、家族)のため、我がために、それで本物の生き方になるのだろうか。
ま、私は未熟にもおよそそんなことを思って七十六歳まで永く生きてきたのだった。
さて私は「病気を追いかける」と謂う。ところが二千数百年以前のソクラテス(プラトン)は壮大な「理想の國家」論を精微に展開するなかで、「健康と医術」にかかわって発言を重ねながら、私がいましも嘆いたとほぼ同様のことを「病気のお守りをする」と謂いあらわし、あげく、オオッと声の出そうな「対話・議論」を、当時都市国家(ポリス)の市民に向かってと同じに、二十一世紀東京都民の私にも聴かせてくれたのである。
驚いた。首肯もした、が、反撥もつよく動いた。要するに「驚いた」のである。
根が、精緻に精微に「対話」で論考して行くソクラテス(プラトン)なので、只今のまさに関心事「医術と健康」にほぼ限定して、なお、岩波文庫『國家』の第3巻一三から一八迄二十四頁分にわたって縷々対話と討論とを重ねている。言うまでもなく加えてこの対話には、『國家』と題したプラトン最大著作の宏遠な「著述目的」があり、その方法論が基底を支えまた強く規制していて、こと「医術と健康」に関しても例外でない。
その点を簡単に先に述べておくと、このプラトン稀有の大作は、間違いなく、人間にとって「正義」に根ざした「理想の國家」とは如何なる構成で成り立ち、如何なる理念理想に率いられて如何なる指導者(指導階層)に指導され統治されるのが真に幸せで、且つ正義・正しいという「徳」にふさわしいかを、実に実にこと細かに検討し尽くそうとしている。それを忘れて「部分」を好き勝手につまみ食いしても著者・ 対話者の「真意」からは逸れるのである。彼らは、國家の統治支配体制にも僭主制や民主制やその他各種有るそれらを漏らさず、徳、正義、真の幸福の名において追究し尽くそうとしている。此の壮大な検討・検証のいわば一端として彼らは「医術と健康」にも触れていたのである。
それは、文藝(詩、悲喜劇など)や音楽といった「人性を正しく教練すべき徳目」の詳細な批評、ないし國家における良き制度化への断乎とした姿勢決定に、次ぐ、ないし並ぶかたちで為されている。すなわち広義の理想的な「体育=肉体としての優れた生き方」という不可欠な領域が、どのように「良き國家」の法制内に確立されるか、され得るか、どのように適切な位置と内容とを占めるか、占めるべきか、が検討されているのである。
で、さしあたり、最初に私自身の感想、つまり「病気を追いかける(追いかけ回す)」のは好ましからずと、医者にかかりたがらなかったのに「関連」をもたせながら、プラトンの『國家』にあって、ソクラテス(プラトン)が「病気のお守り」をして只生きているのでは秀れた國家の秀れた成員たり得ないし、当人も何のために生きているのか知れないと語っている辺りの、いっそ厳粛とすら謂いたい、しかし即座に頷くにはなにかと躊躇される「断定」の言葉を、以下しばらく、なるべく適切に、この場へ引き出してみたい。
問題の対話編の中でソクラテス(プラトン)は、概ね國家の構成員を、職人層と自由人( 富裕層・金持ち) とに分けており、前者には「他」の多くを求めないものの、靴作りは完璧な靴作りを、大工は完璧な大工仕事をと、一人一職、余人に譲らぬ良い仕事を求めることで彼らを基底の「國家構成要員」と認定している。他方指導者層の名士で富裕な自由人には「知性と徳と」が、受けた教育の成果として期待されているのだが、大方それが「実現していない」のを慊りなく慨嘆し、厳しく批判している。
言うまでもない、此の私自身の上を謂えば、紀元前はるかな一人の良き靴作り、良い大工らと似て、ただし私の仕事ぶりはまことに至らぬ成績であるけれど、「書く仕事」以外の何一つもようしない、まさに「手職人層」の一人なのである。忸怩ともしながら敢えてもちだした「生き甲斐」などという感想は、当たり前にも、其処に発している。
今一つ注目しておくべきは、著作『國家』の、上下を問わず「人間」に求める論調、望ましい「徳」の基調が、複雑よりは「単純・端正」、合成混成の騒がしさよりは「清明な落着き」に在るということ。詩、文藝、音楽にも一貫して清純で静謐なことが、「徳の本質」のように重々しく指摘され、常に期待されている。決して見遁せない「理想國家」のこれが彼らの「徳目」であり「真実」なのである。その真実にもとづいて、従って「何でも有り」の混雑した例えば食事や生活法からは、必ず「放埒」が生じ、また、不自然で無闇な体育的逸脱や強行が、必然、生まずに済む「病気を生む」と直言している。「単純さは、音楽においては魂の内に節度を生み、体育においては身体の内に健康を生む」とソクラテスは明瞭に言いきり、対話者の市民グラウコンも、「完全におっしゃるとおりです」と賛同している。(大勢の市民を聴き手に対話しているソクラテスとグラウコンの直接話法は、岩波文庫藤沢令夫氏の翻訳にそのまま従っている。)
ソクラテスはこうも言い続ける。
「一国に放埒と病気がはびこるときは、数多くの裁判所と医療技術が幅をきかす」と。人々が自分自身を見失い、自身に属した判断や処置を「人任せ」にするしかなくなっているのを慨嘆しているのであり、これに、厖大で多種類の薬剤や、正体もよく知れないサプリメントを加えれば、じつに「薬効、薬効」と刻一刻の薬漬け、今日の日本も文明世界も、文字通り「病気の尻を追い回して」いる有様に繋がってくる。
ソクラテスは言う、「一般の名もない人たちや手職人たちばかりか、自由教育を身につけたと称する人たちまでもが、(放埒や逸脱ゆえに)最高の腕をもつ医者や裁判官を必要としているということ、── 一国における教育が悪しき恥ずべき状態にあることを告げる証拠として、これよりももっと大きなものを何か君 (対話者グラウコン) は見出すことができるかね? そもそも君には自分が用いるべき正義を他の人々(裁判官や医者)から借り入れざるをえず、そういう他人をみずからの主人、判定者となし、自分自身の内には訴えるべき正義も(徳も)何ももたないという状態が、恥ずべきことであり、無教育の大きな証拠だとは思えないかね?」と。
グラウコンも言下に「何よりも恥ずべきこと」ですと首肯いている。
今日の日本でも、自身「自由教育」を受けてきたと胸を張るほどの知識人が、はために些細と謂うも当たらぬことで、身近な友人を名誉毀損で裁判官の被告席に立たせたといった、なんとも恥ずかしい実話も実在すると聞く。まさに自分が自分自身の「主人」として理非の判定も判断もできない、裁判官頼みに曲直を決めてもらうよりないのでは、あんまりも情けない。
ところがソクラテスは、更にもっと恥ずかしいざまを、こう、指摘する。「すなわちそれは、生活の大部分を法廷で訴えたり訴えられたりしながら費すだけでなく、(卑小な人格から出た)低俗な好みのために、まさにそうすること自体を得意がるような考えを(自由教育を受けたと自慢にしながら)植えつけられている場合だ。──それも、些細でまったくつまらない事柄のためにだよ。それというのもほかではない、そういう人は、自分自身の生涯を、居眠りしている裁判官など少しも必要としないようなものにするほうが、どれだけ美しく善いことであるかということを知らないからなのだが」と。
グラウコンも、この方が「先の場合よりも、さらに恥ずべきことです」と言い切り、私もその通りだ、そうだと思うのである。
「では他方、医術を必要とするということは」とソクラテスは、いま我々の関心事へ話頭を振り向ける。こうだ。「傷をしたとか、何か季節の病気にやられたとかいったことのためなら別だが、そうではなくて、怠惰やわれわれが述べたような(乱雑で放埒な)生活法のために、ちょうど沼沢のように水( 体液) の流れと風(ガス)がからだじゅうに充満し、あの気のきいたアスクレピオス派の医者たちをして、『風膨れ』(鼓腸)だとか『たれ流し』(カタル)だとかいった名前を、それらの病気につけざるをえないようにさせるということは、恥ずべきことだと思わないかね?」
さらに、「むかしは、病気に付き添ってお守りをする流儀の今日のような医術は、人々の言うところでは、アスクレピオスの流れをくむ人々の用いるところではなかったのだ。ヘロディコスが現れるまではね。このヘロディコスは体育(教育)の先生だったが、病弱になったので、体育と医術を混ぜ合わせたやり方を編み出して、まず第一に誰よりも当人自身を、さらに彼以後の多くの他の人々を、疲れはてさせることになったのだと」
クラウコンは訊く、「それはいったい、どのようにしてですか?」
「自分のために死を長びかせることによってだ」と、ソクラテス。「というのは、彼(ヘロディコス)は自分の病気につきっきりだったが、いっさいの仕事のための時間を諦めて、ひたすら療養のうちに生涯を送った。なにしろ、決められた日常の生活法をちょっとでも踏みはずすと、苦しい目にあわなければならないのでね。こうして死と闘いながら、彼はその知恵のおかげで老年にまでたどり着くことができたのだ」
「その技術は彼(ヘロディコス)のために立派な褒美をもたらしたのですね」と、グラウコン。「いかにもふさわしい褒美をね」とソクラテスは辛辣に話しつづける、「つまり、そういう褒美を貰うような人は、次のことを知らないのだ。──すなわちアスクレピオスがそういう類いの医術を子孫に教え示さなかったのは、それを知らなかったからでも、経験がなかったからでもなく、すべて( 理想的に) 善き法秩序のもとにある國民にはその國においてぜひともなされねばならぬ定められた仕事がひとりひとりに(一つ)課せられていて、一生病気の治療をしながら過すような暇は誰にもないことを、知っていたからこそなのだということをね。われわれとしておかしく思うのは、職人たちにはそういう(アスクレピオス流の)精神が生きているのが見られるけれども、金持で幸福だと思われている(自称自由人の)連中については、そうではない(まるでヘロディコス流だ)ということだ」
グラウコンは、ソクラテスの言う意味がすぐには掴めなかったらしい。
「たとえば大工ならば」とソクラテスは言う、「病気になると医者に頼んで、薬を飲んで病気を吐き出してしまうなり、あるいは下剤をかけたり焼いたり切ったりしてもらって病気からすっかり解放されることを求める。けれども、もし長期の療養を命じられて、頭に布切れを巻いたり、それに類したことをいろいろされるようなことがあれば、(良い大工の)彼は(一介の文士= わたくしでも)ただちに言うのだ、──自分には病気などしている暇はないし、それに、病気のことに注意を向けて、課せられた(大工の、文士の)仕事をなおざりにしながら生きていても何の甲斐もないのだと。そしてその後は、そのような(病気の尻を追いかけお守りをする)医者には別れを告げて、いつもの生活へ立ちかえり、健康を回復して、自分の仕事を果しながら生きて行く。またもし彼の身体がそれに堪えるだけの力がなければ、死んで面倒から解放されるのだ」
「それというのも」とソクラテスは付け加える、「彼(大工たち)には課せられたひとつの仕事(大工、靴作り、文藝など)があって、それをしなければ(良い國家の成員としても)生きている甲斐がなかったからではないかね?」
「明らかにそうです」とグラウコンは容認し、ソクラテスは言を次いで、「しかるに他方、金持は、──とわれわれは言う──それから遠ざけられなければならない場合には生きる甲斐がないといったような、そういう(意義有り大切な)仕事を何ひとつ課せられてもってはいない」
グラウコンも首肯せざるを得ない、それが当時大方の現実であり事実であったから。
さてこそソクラテスは追究する、「いったい、この徳の修練ということこそは、金持の人が心掛けなければならない仕事であって、それを怠る場合には生きるに値しないというべきではないのか、あるいは、(そんな連中の)病気のお守りを(無際限にあれやこれや)することは、(真面目で熱心な)大工その他の技術 (者たち) にとっては、その仕事への注意集中の妨げになる」、まして金持連中の徳の涵養の大きな大きな妨げになると。
対話者グラウコンも、「それはもう、ゼウスに誓って、およそそれ(病気へのとめどないお守り)よりも大きな(自由人が本来もたねばならぬ國家への義務に対する)妨げはないと」と共鳴し、こうも彼は言い替えている、「しかるべき体育(健康面からの徳の充実や涵養)の範囲を超えた、身体に対するこの過度の気遣い以上にはね。じっさいそれは、(自由民が、つまり金持階級が)家をととのえる仕事のためにも、出征のためにも、國の中の官職で坐ってする仕事のためにも、厄介な邪魔になります」と。
つまり過剰にして事実上無益な医療を「厄介な邪魔」と市民グラウコンは言いきっているのであり、ソクラテスは、さらに容赦がない。
「なかでもいちばん悪いのは次のことだ。すなわち、それはどのような学習、知性の活動、自己自身への修練に対しても、面倒をひき起すということだ。いつもびくびくと何か頭が痛いようだとか、めまいがするようだとか気づかい、それを知的努力(哲学)の結果のせいにすることによってね。そのために、この病気のお守りということがあるかぎり、あらゆる場合に、徳が修められ試されるのを妨げることになるのだ。なにしろそれは、いつも自分が病気(か、その手前)であるように思いこませ、片時も身体についての心労をやめさせないのだから」と。
「いかにもそうでしょうね」と頷くグラウコンに向かい、ソクラテスは一連の対話を引き結ぶかのように、こう言葉を次ぐ、「それでは、われわれは次のように主張すべきではないだろうか?」と。
「──すなわち、アスクレピオスもまた、まさにこれらのことを知っていたからこそ、生まれつき生活法によって健康な身体をもちながら局部的な病気にかかった人々、そういう人々とそういう身体の状態のためには医術を教え示し、薬や切開によってそういう人々から病気を追い出して、市民としての仕事をそこなわないようにと、ふだんと同じ生活法を命じたけれども、しかし他方、内部のすみずみまで完全に病んでいる身体に対しては、養生によって少しずつ排泄させたり注入したりしながら、惨めな人生をいたずらに長びかせようとは試みなかったし、また、きっと同じように病弱に違いない彼らの子供を生ませなかったのである、と。そしてむしろ定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は、当人自身のためにも國のためにも役に立たない者とみなして、治療を施してやる必要はないと考えたのである、と」
ずいぶん國家社会のことに「気をつかう」人物でアスクレピオスはあったのですねと、グラウコンは多少唖然としているが、ソクラテスは、「そうであったことは明らかだ」と言いきる。「ほかでもない、傷を受ける前に健康で秩序ある生き方をしていた人間なら── 施した薬だけでけっこう治ってしまうものだ、という考え方」をアスクレピオスの派の医術は保持していたとし、ソクラテス(プラトン)はつよく肯定するのである。
「けれども、生まれついての病気持ちで不摂生な者は、本人にとっても他の人々にとっても生きるに値しない人間であり、(良き國家の)医療の技術とはそのような(病弱すぎる)人々のためにあるべきでもないし、またそのような人々には、たとえ(富裕で名高い)ミダスよりもっと金持であったとしても、治療を施すべきではないと、かれ(アスクレピオス)は考えていたのだ」というのが、ソクラテス(プラトン)の動かぬ「結論」「見解」だということになる。グラウコンもまた、アスクレピオス風の「医の技術」行使を「大へん賢明です」と称讃しているのである。
以下原著『國家』では今少し議論・討論の展開があるが、この辺で一息ついても、大きな脱落はないと思う。その上で、今日の私達からこれを言い替えれば、ソクラテス(プラトン)が容認しまた慫慂し、またグラウコンも賢明だと称讃した「アスクレピオス風の医の技術行使」とは、しばらく「國家」への奉仕の、徳の達成のといった観点に目をつむるなら、つまりは平均年齢に相応な「自然死」を容認し称讃しているのではないか。我・人ともに過剰な医療で病気のお守りはしなくてよい、個々の人間の健康に即して「自然死」へ導いてよしとしていたのであろう、結果としてそれが「良き國家」の為でもある、と。
同時に、当初から私が「私ごと」として持ち出していた、「医者(病院)へ病気をもらいに行きたくない」「病気を追いかけたくない」という感想も、言い替えるまでもなく、いっそ「自然死」がいいのではないかという、朧ろに甘い希望にほかならない。
と、其処までソクラテス( プラトン) の昔と私たち今日との、病気ないし死に立ち向かういわば「接点」を認めて置いて、しかもなお双方の相違からも目を逸らせてはならない。ソクラテス( プラトン) らの「正義に満たされた良い國家」という理想追求の過程で開陳されてある「医術行使の程度ないし是非」等の見解または主張と、私ごときのぼんやりと「 自然死」を願う甘い感想や物思いとの間には、どう言句、字句の上で似通うた点があろうと、実に跳び超えがたい落差の在るは。瞭然としている。ごちゃまぜにしてはならない。
其の点をしかと踏まえたまま、もう少し、私自身冒頭来の感想から、二十一世紀只今の「健康と死」に関連したラフな感想を語ってみたい。
ソクラテス( プラトン) とわれわれとの間には、二千数百年ないしそれ以上の「歴史の距離」が実在している。さらに閑却ならぬことに、平均寿命の大差が在り、「医術と健康」への考え方や向かう態度の大差を生んでくる。安易な比較はとても成り立たない。
さらに問題そのものなのは、現代の私にも、また私同様の日本国民にも、いや現代世界のほぼ大方の國の人々にも、「理想の國家」といった観念・理念が、あまりに稀薄。そんな観念によって規定・規制される「国民・國の構成員」といった実感も、認識・ 意識も、、今日、ほぼ絶無。意識・無意識のエゴイズムにより現実にわれわれは、よほど「背」國家的に、余りに「私」本位に生活している。
それどころではない、プラトン(ソクラテス)ふうの結論を、史上最悪にどぎつく国策として行使し、人種という「理想」の名目で他民族を大量殺戮したのは、あのヒットラー・ナチスであったといった理解さえ現代の常識になっていて、到底、ソクラテスらの議論・対話と、私ないし今日我々の感想とは、同じ地平で語り合えない。どう頑張ってみても、横並びに、簡単に両者を比較も批評もならない、当たり前だとだれもが笑ってしまう。
笑ったついでに断定すら出来る、歴史は「理想の国家」など只一つも成し得なかった。逆に、医学・医療の精緻な進歩はめざましく、平均寿命の格段の延長が示すように、人はその恩恵にこそあずかってきたと。「現代」の答えているそれが、結論だと。
極少の例外は念頭に置くとしても、もし病気にかかったら、それも重い病にかかったなら、「仕事」による國への奉公献身など夢にも考えず、ひたすら最新最高の医療の力で癒したい癒して欲しい、可能な限り長生きしたいという謂わば「ヘロディコス」流こそが、今日の家族家庭生活の、また保健環境の通念・常識である。多彩な内容で取引される生命保険や傷害保険なども、プラトンらの思いも及ばなかった今日の工夫である。金があれば金を惜しまず、金がなくても治癒と社会復帰へ精一杯努めて、安易に命を見捨てない。命は地球より重く、國や政府にも福祉の手を望んでやまない。
むろん一つの思想または覚悟かのように「自然死」がいいという望みも、広い世間には生まれてくるだろう、が、大方の誰もが、一切の思量を超え、当然至極として医の最新・最高の技術に信頼し、縋りつく。
同じ考えのまた別の現象を、繰り返して言うなら、日々人々の生活に雨霰と降り込んでくるサプリメントや正体知れぬ擬似健康薬物や食品への、さながらの「信仰」も、現に、在る。二十一世紀の現代人は、ソクラテス( プラトン) 流の國家や正義や徳などとおよそ無関係に、また「アスクレピオス」流の医の思想とも無縁に、ひたすら病気すまいと病気の影を追いかけ追いかけ、まさしく「ヘロディコス」流に、病気の先手を日々打ち続けて命長かれと願っている。まちがいなくそう見える。人間にはそれほど健康と長命が大切、病気は予防して当然という確信であり、成り行きの「病死」よりはるかに、至れり尽くせりの「医療と長寿」が、誰彼となく大切なのである。
同じく「医術」という技術であろうと、ソクラテスたちは、厳正すぎるほど強い「國家」的建前で同じ技術の行使を求めている。他方、平成の今日只今の日本国に於ける「医術」や「薬効」への期待や信仰は、それとは呆れるほど別次元の異質なもの。今日の日本人(世界人)は私的には、個人的には、豊富に理想や希望をいろいろ持っているが、自身の「健康」や思うさま医療を受ける「権利」を、プラトンらの「理想國家」の前に放擲する気など微塵持ち合わしていない。行き届いた「健康保険」の制度のもと、國家・政府にむかい健康・長寿への奉仕をこそ要求している。繰り返し言う、それが「常識」なのである。
幸か不幸か入院し手術されに行く私には、ソクラテス( プラトン) 流のシビアでかつ自然を重んじた健康への見解を、かすかとはいえ受け容れようとする素地が出来ていた。だからというか、『國家』を初めて読んで、くだんの個所に至り、思わず声さえ漏らして驚いた。共感もし、同時に反撥も抑えられなかった。折り合いがつかない気持ちだった。
前言に齟齬するようだが、たしか杉田玄白であったかの顰みにならい、 日ごろ、私は自身の体調、体違和を、比較的こまめに観察していた。いつか発病するときの我が日常をどう左右すべきだろうとも思い、一つには私自身に「したい仕事」があって、病気はそれにどう影響するか、影響されたくないと願い、また今一つには妻や息子の憂慮や、知友・読者の心配も和らげねばならぬ気持ちも強かった。
その一方、かりそめにも「日本國の為に」といった観点も自負も私には無かったし、今も無い。『國家』と倶に起とうというソクラテス( プラトン) やギリシアの昔の小規模なポリスに生きる「理想的な市民達」の生き方や思想と、雑踏の大東京で暮らす私のそれとは、半ば恥じ入るほど、互いにかすり合いもしていない。
つまりは私がソクラテス( プラトン) の言説や主張に対し「今日的」に共感して行ける手がかりがあったとすれば、「國」とまでいわない、もっともっと「私的」にだが、人としての徳、知性そして生き方という哲学的共感に落ち着くのだろうか。
いやいやそんな堅い話にもなり難く、要するにアスクレピオス流の「自然死」の方にも甘い希望で心惹かれるというだけではないか。裏返せば、病気のお守りに生涯を費やし、ただもう長命したといういヘロディコス流はちょっと叶わんなあということになる。
こと大病の前で徳の知性のと言ってられるのか。現代人はそう考えるだろう、大方が。それよりも「仕事」を続けたい、「家族」と仲よく楽しく過ごしたい。結婚以来いましも五十三年の私にも、せいぜいそんなところが「生きて在る」日々の支軸だった。そんな思いのその上で私は、胃全摘等の入院手術の日々から、一度は退院しながら、またも此の三月十五日、再度の緊急入院を余儀なくされた。その前夜十四日、医師のためぜひともと奮発し、先の、三月三日の退院以降及ぶ限り自覚し記憶していた強度の脱水、高熱の頻発等の経緯を簡単に書き上げていたのであったが、その日の日記の最終に、私が、もし病症やむなく脳炎等に陥り不幸再起不能と診断されたなら、速やかに「尊厳死を以てせよ」と書き加え、且つ妻にも口頭で伝えておいた。
仕事が出来ず、家人との共有の認識も喪うとなれば、「病気のお守り」をして単に生き存えるなど望ましくないと、その時、決意したのであった。後日に聞いた限りじつに危うい再入院であったと。その上に看護の通院に疲れ果てた妻の、前年につづく二度目の心臓冠動脈拡張手術も加わった。幸い妻は一夜で退院が叶ったけれど、二人とも肝を冷やした。
それはそれ、私たちの今日の生き方には、國家ないし政治のありようへの途方もない嫌気と裏腹に、家族や知友との私生活を楽しもう、その楽しみの為にこそ仕事につき金を手に入れようという姿勢が、ごく当たり前に一般化しているのを誰が否認できるだろう。それで良いのだろうかというかすかな反省すら、見えない。「自然死」ということにそれこそ知的な興味や関心を寄せる人がたとえ有ろうと、それは何らアスクレピオスらの医術を容認し主張していたソクラテス( プラトン) の健康観を受け容れようというわけでは、けっして、ない。ただ単に、こんなにも「病気を追い回し」「病気の先へ先へ廻って」日々刻々にあたかも「健康病」にはまり込んでいるのが鬱陶しくなっているに過ぎない、有り体にいえば私の感想とてそれだけのこと、と決めつけられても抗弁しにくい。ただなるべくは「病気を追いかけたくない」「元気に老い、自然に死にたい」と願っているのである。
幸いに、また、明日、三月二十六日月曜日、息子の迎えの車で私は二度目の退院をゆるされている。感謝、感謝。
平成二十四年三月二十五日 日曜日 午前十時三十五分 稿
追記
三月二十六日に退院帰宅した、その日のことであった、病院から家へ車を運転してくれた息子・秦建日子から、「2012.03.26」付の「SANKEI EXPRESS」 紙を見せて貰った。小説家で脚本家でもある彼へのインタビュー記事が、大きな顔写真と一緒に出ていた。
その記事を見て、次いでその見開き頁にも同様宮城県知事への訪問記事があるのに気付いた。さらに訪問記事の下欄に「新刊本紹介」の記事もあるのに気付いて、ン、と目をとめた。冒頭に、本文より二三段大きな字でこう書かれていた、『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ』「中村仁一著」と。相当なベストセラーらしく、紹介記事の文責者( 溝上健良氏) の結びの言葉は、こうあった、「著者は特別養護老人ホームの常勤医師で、がん患者を含めて多くの老人が安らかに自然死するのをみとってきた。その経験から、医療がかえって穏やかな死を妨げている現状を紹介し、『年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」こと』と提言する。」と。
おやおやと思って記事を読んだその次か次の日に、今度は、同じこの著者中村仁一氏がテレビに紹介され、上と同様の趣旨を穏やかに説かれているのに、たまたま出会った。伝えられ、また話されている内容は、わかりよく、かつ時好に投じた所説であるとも読み、かつ聴いた。上の紹介記事を今少し引用させてもらい、中村氏の論拠を分かりよくしておきたい。即ち「2008年の厚生労働省の調査によると、『延命治療を中止して、自然に死期を迎える』ことを希望する人は全体の約3割で、10年前の2倍に増えているという」。
この場合、 調査への回答者が、自分自身について答えているのか、家族の高齢病者を念頭に置いているのかは判然としないが、 漠然と両方が入り混じっているのか。また「余命わずかとなった患者であっても、病院では精いっぱいの治療が施される。それは本当に本人のためなのか。そうした疑問を持つ人が増えている」とある、この「疑問を持つ人」というのも、誰彼ない一般の見解なのか、「余命わずかとなった患者」の家族や縁戚の思いなのかが、はっきりしない。中村氏の著書に心惹かれている読者層も、「自分の死や、高齢となった親の死が気になってくる50歳以上」と、混在ぎみに読めもするが、概しては、どうも、先のない病者を抱えている人たちの関心から此の本が読まれていると看て取れる。
また、この本の企画ないし編集者の感想も、患者本人の強い希望や関心というのでなく、むしろ「死んでいく人に対して最期まで治療をすることに矛盾を感じていた人が、」中村氏の著書で、「そうしなくていいとわかった、よかった」と大勢が受け容れた、と証言している。この限りでは「自然死」がいいと思いかけている大方は、当の本人であるよりも、患者の介護者や近縁であると看て取れ、その是非はともあれ、それなりに「実状」がむしろ察しられる。さらに著者自身もこう語っていると、紹介記事に明記されてある。
即ち、「日本人は医者にかかりやすいとはいえ、あまりにホイホイと病院に行きすぎる…本来、病院は”いのちがけ”で行くところ」「穏やかな”自然死”コースにのせてやるのが本当に思いやりのある、いい”看取り”のはず」「辛くても”死ぬべき時期”にきちんと死なせてやるのが”家族の愛情”」など、と。
これでみて、 この限りでハッキリするのは、一人一人が人間尊厳の自覚をもって「自身の自然死」を願っているという認識ではなく、「現に生きて在る家族」の病者に対して取る態度や方針として、「自然死」に、というより「治療打ち切り」に同調したいというそんな気持ちが支持されているようだ。記事の文責者はこれらの言説に向けて、「適度に毒」がちりばめられていて、幸い「暗く」はなく、と批評しているのである。
以上よりして此の中村氏の『自然死のすすめ』とは、死んで行こうとしている人への深い愛とか尊厳の尊重とかでは、むしろ、なく、死んで行こうとする人たちの周辺生活者に向かい、そこそこの時期に「見切れ」という奨めに、むしろ、他ならないと見えてくる。私は、こういう「指針」の与え方には共感しにくい。これは、語の本来の「自然死」でも「自然死のすすめ」でも、ない。
言うまでもなく二千数百年も以前に、いわば文明史の一課題かのように、プラトン(ソクラテスら)が思索し対話していた「自然死」の思想とも、まるでこの著書は交叉していないと想える。本書を読んでいないので断言はしないが、察するところ、 紹介記事にもテレビでの談話にも、プラトンともソクラテスともアスクレピオスともヘロディコスとも、ちらとも出てこなかった。
つまり中村氏はそういう文明史には関心なしに、親世代の介護や医療に苦労している今日人に向かい、「自然死」という美名をちらつかせ、「”死ぬべき時期”にきちんと死なせてやるのが”家族の愛情”」といった本を売っているに過ぎないのではないか。それかあらぬか紹介記事の記者は、中村氏の著を「この手の本」という、敬服したとは受け取りにくい微妙な呼び方もしているのである。
見過ごしておけないと思い、敢えて「追記」しておく。
私の思い願う「自然死」とは、家族同士といえど「他者」が当面の課題でも問題でもない。だれより「本人自身」の覚悟であり選択でなければならない。 平成二十四年四月七日 稿
2012 5・18 128
* いい天気で、暖かいも通り越した陽気だとか。腹部の重苦しさを抱いて仕事にかかりつづけるうちに少しマシになっていそうな。それなら、歩くか、乗って走るか、また落合か黒目川かのほとりで校正もしてこようか。
そう思う一方で、湧くように喉もとまで来ているいろんな感想を書き留めておきたい気持ちもある。抽出しが百もある整理棚には、見て行くと電子化しておきたい資料や原稿やノートが至る所で堆積したままになっている。「捨ててしまえ」とはなかなか我から我に命令できない。惜しいのではない、見ていると保存した当時の気持ちのママに「面白い」のである。参る。
* 昨日、プラトン『国家』のなかの医療観に絡まったややこしい一文を投げ出すように此処へ掲示したが、チェーホフの戯曲『森の主(=『ワーニャ伯父さん』の原案)の第二幕に、やや関連した科白が出ていたのを記録しておく。フョードルという地主の息子がヴォイニーツキイ(=ワーニ」ャ伯父さんに相当)相手に病気と不平の巣のような、どうしようもない「退職教授」セレブリャーコフ(=『ワーニャ伯父さん』でも同名)の陰口を叩いて、
「ああいう人間は、僕には理解できない。古代ギリシア人は病弱な子供をモンブラン(=正しくは「タルベーヤの崖」)の絶頂から谷底へ投げ捨てたという話だが、あの先生みたいなのは、一そ投げ捨てるべきですね!」
と吐き出しているのだ。ソクラテスの、ないしそれに先立つアスクレピオス派の医療観と同類の風習またはその存在を示唆または暗示しているのかも知れない。
こういうところは、箸にも棒にもかからない「セレブリャーコフ」はともかくとしても、「病弱な子供」一般を目してはとても今日の医療観や慣習と合致しない。たとえば今回の福島原発危害のなかで多くの親、母親や教師達が将来に、さほど遠からぬ将来に放射能の体内被曝等にもとづく子供達が出生ないし成長してきたとき、とてもとても「タルベーヤの崖」から投げ捨てるような真似は決してしない。それよりも、一方では医術の及ぶ限りの治療をくわえ、他方では放射能危害の前に真摯に多くを反省しつつ、より良いより正しい人間尊重の政治と、より誠実で人間への愛と責任とを第一にした科学の努力や進展とを、 政治家や学者・研究者に、また企業人にも強く強く求めるだろう、そう無ければならないはずだ。
もし不幸にして障害児や奇形児や難病児がかりに疫学的には少人数であれ生まれ出てきたとき、(その不安は無いなどとはとても言えまいが、)それぐらい何が悪いなどとはまともなセンスの持ち主なら決して思わないし、絶対に思ってはならないだろろう。そんな不幸をすこしでも防ごうとするのが大人の義務だろう。
しかしながら、その義務は、その時に立ち至ってから果たそうとしても遅いのである。福島原発のあらゆる意味での手落ちから推しても、福島県や近県の、いやもつと広範囲の日本人が、外国人も、どれほど悲惨で気の毒な生活を現に強いられ続けて自殺者も増え続けている現実をみればわかる。三月十一日の地震と津波だけが引き起こした天災などでは断じて、ない。溯る何十年もの関係者や国民の無思慮や迂闊が後年の、つまり今日の不幸を招いたのである。
2012 5・19 128
* 盲腸をとったのは大学へ入ってすぐの今時分であった。移動盲腸で、手術に時間がかかり、術後の痛みに泣いた。術創はいまでも十センチ余もあり、多年に及んで時にヒリヒリした。
いま胃全摘の術創は、まさしく鳩尾からまっすぐ縦にまっすぐ下腹部に及んでいる。ワイシャツの前合わせのようであり、釦がわりに、楔を打ったように小さく横に切り口が綴じてある、ようだ。まだ、まじまじとは直視していないが、こういうのを「ものすごい」と謂いたい。
昨日、おお美人だと感じ入った愛らしい若い人が、何の目当てでかお寺さんに出入りし、住職としきりに対話している番組をちらちら観た。この若い綺麗な女性、本尊の仏壇をみても、床の間の繪や書をみても「すごーい」「すごーい」の連発で、ばからしくなった。仏様を目して「凄惨」「悽愴」はないだろう。「すごい」の国を挙げての乱発、もう歯止めがない。情けない。
2012 5・20 128
* ふと、なぜか痛切にいま思い出した、徒然草の一段だ、わたしの徒然草理解の大事な鍵の一つにもなった段だ。
雪のおもしろうふりたりし朝、人のがりいふべきことありて、文をやるとて、雪のことなにともいはざりし返りごとに、「この雪いかがみると、一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからむ人のおほせらるること、ききいるべきかは 返すがへす、口をしき御こころなり」といひたりしこそ、をかしかりしか。
今はなき人なれば、かばかりのこともわすれがたし。 第三十一段
「ひがひがしからむ人」とは、この場合、ふる雪に目もくれず、その場に花やぎをよう添えない陰気くさい相手という意味になる。さすがに兼好は一本参られて、今は亡きその人を「をかしかりしか」と懐かしんでいる。「をかし」とは枕草子の最良の批評語であり、「はんなり 花あり」と兼好は受けとめている。ひとつの理想が生きている。
* あすは雨と。外出しようととても楽しみにしていたが。
2012 5・21 128
* チェーホフ六大劇の一冊を読み通した。「イワーノフ」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「櫻の園」「森の主」。中の四つは舞台も観てきた、繰り返して。二十数冊ある全集の一冊ではあるが、チェーホフの偉さと魅力とを凝縮して余りある。すばらしい寶もののようなご馳走をしみじみ戴いた。ありがたい。
* 少し先だってゲーテの『フアウスト』三度目を読み終え、いまもなお反芻しつづけている。悲壮詩劇であることをしっかり念頭に、舞台を観るように各場面を読み進んだ。そのために前二度の読書から、格段に場面場面具体的に観賞を深め得た気がする。大津波にのまれたような被圧倒感を味解したかのような、 興奮。
それだけでなく、胸に食い入ってくる生きた言葉・科白の迫力、それが無数に働いている。「名言集」が独自に編まれるのが、当たり前だと思われる。
まだ「開幕前」の「劇場での前戯」からして津々の興味と刺戟に溢れている。劇場の「座主」と、作者をしめしている「詩人」と、俳優達を代表したような「道化役」との、いわば本音の討論だ、これが、敢えて謂う、「凄い」バトルトークなのだ。この部分だけは森 外の訳で「 e-文藝館= 湖(umi)」に掲載している、「秦組」 座長で作・ 演出家でもある秦建日子など、必読の場面である。たとえば、彼らはこんなことを喋っている。(佐藤通次訳)
○ 連中(= 客)は、べつに最上の物を見慣れているわけではない、だが恐ろしくたくさん読んで(知って= )いるのですな。〔座長〕
○ 上光りするものは、ただ瞬間のために生まれ、真正のものだけが、後の世まで残るのです。〔詩人〕
○ 大勢をこなすには、嵩でゆくほかはない、そうすれは(客は= )銘々が、けっきょく何かしらを捜し出します。〔座長〕
○ 数を多く出してやれは、(客は= )選り取り見取りというわけです。〔座長〕
○ すでに完成した人間には、何をしても気に入らないが、生成の途上にある人間は、いつも有り難がってくれるものです。〔道化役〕
○ 言葉のやりとりはもうたくさんだ、この上は実行を見せてもらいましょう!〔座長〕
○ 今日やらぬ事は明日だってできはしない。〔座長〕
* ゲーテが、主役である「フアウスト」や悪魔の「メフィストーフェレス」あるいは「主である神」らを通してさまざまに深い洞察や警告や認識には、読みかつ聴きながら胸を連打される。ごくごく始めの方の、悪魔と神との対話が凄い。
○ (人間共は= )どの掃溜にもすぐと鼻を突っ込むのですよ。〔メフィスト〕
○ 人間は努力するかぎりは迷うものだ。〔主〕
○ 善い人間は、よしや暗い衝動に促されても、正しい道をしかと心得ているものだ。〔主〕
* ゲーテの大きさが、浸透し発露した言葉だ。
こういう共感や心服のときのわたしは、まるで少年、青年のよう。嗤う人もあろうが、わたしは今も少年でありたく青年でありたい。
2012 5・22 128
* 念のため、十六日のわたしの記事を再掲しておく。
* わたしは、いま、こう思い、こう考えている。
① 福島第一原発の第四号機の壊滅危険状況の推移や対策や、最悪事態へのシミュレーション等が、まるで臭い物に蓋のように取り上げられていない。とんでもない。
② 電力企業の「発・送電分離」を含む企業体改革の動きはどうなっているのか。
③ 原発再稼働の条件に、前もって各種利権と現金という悪意の毒を無際限にばらまいておいて、「最狭小地元の賛同」を以て優先させるのは、ほとんど「贈収賄」行為に類同している。国土の狭さからも気象上のほぼ等状況からも安易に取捨できない、いわば日本列島は挙げて「原発総地元」と観るのが当然である。
④ 「もんじゅ」はほんとうに必要なのか。
⑤ 核の最終処理に関して、國も原発企業も、ほとんどお手上げのまま国民に開かれた説明をしていない。国土と海とを汚さずにどう最終処理するのか、出来るのか。
⑥ 放射能の危害は無色無臭のうちに多年にわたり環境と人体に浸潤する。まるで「今・今」の問題糊塗にあくせくしている現状だが、心配なのは、三年、五年、十年さきに幼児等にどのような疫学的な侵害拡大があるかへの国家的対策が出来ているのか、そこへ思慮は働いているのか、だ。どうなのか。
⑦ 「原発は絶対安全である」という画策された捏造神話は、現実に無意味化したと国民の大勢が実感している。原発を国是として推進してきた國と政府とが、今、率先して「原発に安全は無い」との認識を、国民にまた世界に公式表明する責任があると考える。
⑧ 「原発は国是」の政策にその学識をあげて誠実に賛同し推進してきた専門の学者たちと、同様に誠実に反対し批判・非難してきた専門の学者たちとの、隔意無い公開討論会を、内閣は公共放送の場に実現して欲しい。
⑨ 野田内閣では、原発に起因したこれら「歴史的な国難」への姿勢があまりに弛緩していて、いたずらに政権への執着と党としての公約違反行為とに、謬った「政治生命」を賭けている。「脱原発」と「 消費税」を争点に、国民の、選挙による信を問うのが、真っ先政治の本筋ではないか。
國ないし野田内閣は、上記に、真摯に答える義務がある。
* 上の感想に対し、定性ふう・定量ふう双方からの批判の寄せられることをも、わたしは歓迎する。
* 大学生の頃、「認識」ということばを尊重していた。月給取りになってからは、「判断」ということばを大事がった。小説家になってからは、「批評」ということばをしきりに遣った。それらの共通したベースいわば分母には、「知識」という言葉が鎮座していた。湖の本を創めてからは、「自由」ということばに覚悟した。
いまは、どうだろう。知識の軛をのがれ、認識や判断や批評を解きはなってしまいたい。ほんとうの自由がいい。
2012 5・22 128
* 昨日、大学生の頃、「認識」ということばを尊重していたと書いた。わたしより一世代も先輩の学者と話したとき、しきりに「認識」という言葉を聴いた。
フアウスト博士は喝破していた、「いや、その認識と称するやつが問題なのだ」と。
世の中には「認識」というあやふやな只の言葉が、えらそうに闊歩している。
2012 5・23 128
* 映画の「オールウェイズ」を面白くこころよく観ていたが、茶川龍之介クンが芥川賞候補にきまった辺から、へんな詐欺師が出てきて不愉快になり、テレビの前を離れてきた。『廬山』が芥川賞候補作に挙げられたのは、太宰治賞をもらってから一年半か二年ほど経ったあとのことで、まだ会社づとめしていた。家へはしきりに各社の電話などあったらしいが、そんな雑踏はまっぴら御免で、社を退けてからは、お茶の水の鰻屋で独りゆっくり酒をのんでいた。結果の出たあと時分に家に帰った。
選評では瀧井孝作、永井龍男のお二人が佳い批評で推してくださり、吉行淳之介が自身との作風の違いに触れていた。『廬山』はのちに小学館の文学全集に採られた。
茶川龍之介クンのように、芥川賞を狙うというような心がけで「純文学」を書こうなどという姿勢に、わたしは賛成しない。
2012 5・26 128
☆ 抗がん剤の副作用が
今のところ耐えられないほどでなくて、なによりです。それでなくても、だんだん湿気が多くなってきて気温は上がってくるし、身体
も重くなってくるような季節ですから。だるい季節として、六月はあります。
秦さんの、盲腸の手術は、大学1年生の時と。年表では2年生の時に。どうします? 作家の自筆年表ほど、疑わしいものはない、こともあるでしょうが、ほかの人のつくる年表もつくりものになっている事もある。
音楽、文芸、絵画の実作と、年表をみてみるのが、どうも好きみたいです。
あまりいろいろ想像すると、友人は、推理小説の読みすぎといいます。きっと想像して物語をつくってたのしんでいるのでしょう。
ゴーヤを1本植えました。
樹や草の勢いの圧倒されながら、蚊に刺されながら、緑の中にうまって、少しはと、庭を整えています。 攝津
* 病気へのいたわりも物静かに添えながら、はんなりと、有り難いメール。
自筆年譜のこと。その当時の記録が能う限りこまごまと残してある。盲腸の手術は、この久しい友の言うように、大学二年。数日前の日記は一年分の覚え違い。わたしの記憶は、「年譜」でこそなにより信頼して貰える、筈、と言うておく。とは申せ、「きっと想像して物語をつくってたのしんで」もらえる余地も、知らず知らずたくさん秘め持っているのかも。作家の自筆年譜は、それが有る。いい意味でもそれが有る。
手術後のおぞきひと夜も露ながら白あざみ咲く病室(へや)と知りをり と歌集『少年』昭和三十年十九歳の項に出ている。
わたしも、人の「年譜」を意識的に読みに読んできた。優れた年譜作成は、作家研究の究極の到達。
わたしの「自筆年譜」詳細版は、まだ太宰賞受賞の昭和四十四年( 一九六九) 末までしか出来ていない。おそろしいほど労力が要る。
* この「摂津」の人のメールの妙味は、季節感の匂う、しかもさりげない、最後の一行に。目の前がすうっと明るくなる。
☆ 秦先生、奥様、
ご丁寧なお葉書ありがとうございました。
初夏の風が吹く頃から、「西湖」ならば胃に優しい蓮根のお菓子で喉越しもいいので、お送りしたいと思っておりましたが、なかなか名古屋駅に出る機会が無くて、一日延ばしになっていました。
所用で岐阜へ行った帰りに、名駅のミッドランドスクエアーというビルの「和久傳」に立ち寄った次第です。
杭州「西湖」をテレビで御覧になったばかりだったなんて、先生の食指がちょっと動いていたなんて、ラッキーでした。こんな偶然があるのですね。ささやかでも、サプライズをお届けできて、私も幸せです。
ベランダの鉢に撒いた夕顔の種が双葉を覗かせました。
夕顔のモデルは、後中書王(具平親王)の恋人で頓死した大顔という侍女だったとか、彼は紫式部の恋人だったとか、あれこれ思い出しながら、水まきをしております。 珊
* 夕顔のモデルが大顔であったことは、角田文衛博士が早くに書かれ、わたしも短篇小説「夕顔」(湖の本26)に書いている。具平親王は紫式部の父や伯父らが近侍していた親類筋の親王であり、紫式部も娘時代からその邸宅千種殿に親しんでいた。親王は当時のいわば文豪格の人で、式部が憧れの的であった。
2012 5・29 128
* 「休みなく活動してこそ」「歓びなどは問題でない」とゲーテの創るフアウスト博士は言う。きわめて稀有な才能と意志力がなければ、これは言えない。創作者である深層の歓喜が、大きな自負がこう言わせる。揺り動かされる、わたしは。
* 熱狂的な読者などと謂われることがあり、そんな人がいるものかと思うけれど、いる。わたしにも、一時そういう人がいた。だが熱は冷めるものでもある。もうわたし以上に年老いたその人の、病んで元気のないメールをもらった。年老いるということは、拒みきれるものでない。「元気に老い、自然に死ぬ」と言うはやすいが、とてもとても。それでもものを創り続けられる者は、幸せである。老年がまるまる空洞化しなくて済む、ただし意欲と気力とが強ければ、だが。
2012 5・30 128
* 「大ちがいです! いいですか、その、物の分かるというのが、むしろ虚栄や浅知恵であることが間々あるのですよ」と、フアウストはマルガレーテに言うている。「物の分かる」とは、ものごとを分断しては片方を選んで行く意味であり、文字通り「分別」を謂うている。そして大方の世間で人は「分別」という「マインド=心」をとても大事がるが、心に惑う落とし穴がそこに隠れ潜んでいる。
マインドに凝り固まった学生にフアウスト博士はこうも言うている。
いつまでもそうやって坐りこんで、膠で接ぎ合わせ、
人のご馳走の寄せ集めでごった煮を拵え、
灰を君自身の灰を掻き寄せた中から
心細い火を吹き起こしていることには、
せいぜい子供や猿を感心させるだけだろう、
それがお好みとあれば致し方ないが──
しかし、君の肺腑から出るのでなければ、
人の肺腑に徹することはできないね。
正々堂々の成功を求めたまえ!
鈴ふり鳴らす莫迦者のまねは止すがよい!
真剣に言おうとする何かがあるなら、
なんで言葉を追いまわす要がある?
まったく、君たちの演説ときたら、紙を縮らした
見てくれの造花も同然で、ピカピカと光ってはいるが、
秋に枯葉の間をざわめきわたる
湿った風のように、気持がわるいものだ!
宝を掘ろうと貪る手で
蚯蚓を掘り当てて喜んでいるとは!
* わたしもむろん含めて、心あると自負している人の大方が、こうして嗤われている。創作とは、学問もそうだろう、「宝を掘ろうと貪る手で 蚯蚓を掘り当てて喜んでいる」わけに行かない。
2012 5・31 128
* 発送作業のかたわらで、エディ・マーフィの「ビバリーヒルズ・コップ」を、またハリソン・フォード、アン・アーチャーの「パトリオット・ゲーム」を流し、 観ていた。何度も観てきた。わたしは文藝の上の安直な読み物は全然認めないが、映画での娯楽作を娯楽というそれ故に軽んずることはない。文学と映画とは創作の手法がちがう。映画では純の通俗のという区別はつけられず、俳優の演技も含めて映画技術の優れた物は優れており、いかに高等な意図で企画されていても映画技術が拙くてはお話しにならない。同じ事は文藝のうちの純文藝・文学にも、いわねばならない。意図において通俗でなくても下手な小説や戯曲では、やはりお話しにならないのである。
2012 5・31 128
* フアウスト博士の嘆き
ああ、精神の翼に、たやすくは
肉体の翼が伴わぬとは!
しかし、吾々の頭上高く、紺碧の空間に没しながら
雲雀がさえずり歌うとき、
そびえ立つ樅の梢の上空に
鷲が翼をひろげて舞うとき、
また平原や湖水の上を
鶴が故里を慕って翔るとき、
人の感情が、上へ、前へと迫るのは、
だれにも生まれついた本性なのだ。
おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、
その一つが他の一つから離れたがっている。
一つは、たくましい愛欲のうちに、搦みつく
器官でこの世にしがみついている。
他の一つは、無理にもこの塵界を去って
気高い先人の霊域に昇ろうとする。
* 「二つの魂」は『フアウスト』劇の重要思想の一つとみられる。
よくよく思えばわれわれにも、わたしにも、同じ嘆きが在る、明白に。
ゲーテはワイマール公国のいわば宰相でもあったが、突如としてイタリアへの永い旅に事実上失踪する。
イタリア それがそのときゲーテには「上へ、前へ」の衝動であり「無理にもこの塵界を去って 気高い先人の霊域に昇ろうとする」気魄であったろう。『イタリア紀行』はいまようやくヴェニスに着いたところ。生き生きとはずむゲーテの魂のことばが躍動している。わたしはそのゲーテの肩にのせてもらっている。
* その一方ではテレビで、各党の党首が混迷して何も決められない脆弱な政治を語っている。混沌。混迷。吐き気がする。
2012 6・3 129
* サフォン『風の影』は十分に面白い。上巻へぐいぐい惹き込まれている。これだから、「佳い本ほど読書は二回目からが始め」だと思う。
吾々の見慣れたことだが、とかく人間は、
自分の理解せぬことを嘲り。
自分にとって煩わしいとなると、
善や美に対してぶつぶつ言うものだ。
「太初にコトバありき!」
ここで、もうおれはつかえる!
おれはコトバをそう高く評価することができない。 フアウスト博士
* 懸命に書いて語っている者なら、「コトバをそう高く評価すること」に深い躊躇いがある。だからこそ表現しようとする。
2012 6・4 129
* 人間の暮らしが放埒になると、人は病みまた自分で自分が統御できなくなる。医療と裁判とが登場して力をもつ、不当なほどにもつ。医療は精微に発達してたしかに人の命と健康とを支えてくれている。感謝に十分値しているとわたしも躰を委ねている。
もう一方の裁判はどうか。これは医療進歩と横並びには考えられないほど異様に裁判自体が大きな過誤を連発し続けている。わたしも些少の体験を得て、裁判のばからしさをしみじみ実感した。わたしは自分から裁判になど持ち込まない、自分で出来る判断は自分であくまで配慮する。それの能う出来ない者だけが裁判沙汰で、卑小で凡庸な欲望や処罰を実現しようとする。しかもそれが大概成らないか、また裁判関係者がぶざまなほど勝手な過誤を犯して、罪なき者を痛めつけたりする。裁判沙汰にしたい者も裁判する者たちも、所詮は愚にひとしい気がする、例外はあるとしても。
2012 6・8 129
* 二階廊下の窓辺で立ち読みし始めた山折哲雄さんの『「 教行信証」を読む』に、すうっと入り込んでいる。親鸞の主著というに当たる『教行信証』は、難読の大冊で、久しく敬遠していたが、山折さんの水先案内を頼みに船出したような心地。
* とはいえ、わたしは仏教の何に、何処に信頼の拠点を置いているかというと、やはりバグワン、そして禅、であるように感じる。
萬巻の仏典は壮大で華麗なファンタジイ、幻想の文学作とわたしは見切っている。釈迦と同じ次元で、阿弥陀や観音を認知も信仰もしていない。はたしてそれでよいかわるいか。強いて見極めをつけたいのではないが、萬巻の仏典が釈迦逝去の後数世紀にわたって創作されていた意義は意義として理会が不可能なのではない。要するにそれらは無数に用意された吾々衆生のための「抱き柱」である。「抱き柱は抱かない」と心に決めたようなわたしには、ファンタジイはファンダジイとして存在する。おそらくわれわれ凡夫の「抱き柱」として最も勝れて有り難いのは、法然さんの「一枚起請文」である、ただ一声の「南無阿弥陀仏」であるという気持ちに揺らぎはない。同時に法然も親鸞も日本の国で誕生したファンタジイ作家であり、「日本仏教」と謂うが適切なのである。
わたしは、バグワンや老子を介して、二千数百年前に実在した釈迦仏の胸にこそ、じかに手も心も添えたいと思う。
知識として萬巻の仏典に触れたければ触れればよいが、わたしには所詮無理で無用。ファウストは明言している、「いっさいの知識には疾うから嘔吐を催している」と。「物を知りたいという欲から癒やされたこの胸は、今後どのような苦痛に対しても鎖されない」と。
バグワンも明言している、仏教とかぎらず多くの経典は、悟りを得た人にはじつにリアルで理解もたやすく底まで行き渡るが、「enlightenment=悟り・目覚め」を得ていない者には難儀で難解な所詮役立て得ない知識の物語に過ぎないと。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人間梯子の第二段は、精神身体。
フロイト流の精神分析がここで働く。
が、彼は夢より先は一歩も出ない。出られないのだ。
だがおまえは、他人から分析可能な夢なんかじゃない。
毎晩のように夢を見て
昼間は精神分析医に夢を分析してもらいに行くような人は
いつしかあまりにも性的なものにとり憑かれてしまう
精神身体的なリアリテイの領域はセックスだからだ
何もかもセックスという観点から解釈しだす
フメイト派の彼らは泥の中に生きている
彼らは蓮花を信じない
ただの泥だという
「それは汚い泥から出てきたんじゃないのかい?
もし汚い泥から出てきたとしたら
それは汚い泥にきまってる」
あらゆる詩はセックスに還元されてしまう
あらゆる美しいものはみな
セックスと倒錯と抑圧に還元されてしまう
藝術はすべて何らかの性活動に還元されずに済まない
彼らの言い分はこうだ
ミケランジェロにしろゲーテにしろパイロンにしろ
何百万という人々に大変なよろこびをもたらす彼らの偉大な作品のすべては
抑圧されたセックス以外の何ものでもない,と
馬鹿げている
フロイトはトイレの世界のマスターだ
彼はそこに住んでいる
それが彼の寺院なのだ
藝術は病気にさせられる
詩は病気にさせられる
何から何まで倒錯ということにさせられてしまう
こうして,最も偉大なものが最低のものに還元されてしまう
仏陀はフロイトによれは病気だ
気をつけなさい
仏陀は病気じゃない
病気なのはフロイとだ
仏陀の静寂
仏陀のよろこび
仏陀の祝い一
それは病気じゃない
それは健康の完全な開花なのだ
凡庸な心=マインドというのは
偉大なものはすべて引きずりおろそうとする
凡庸な心=マインドというのは
何か自分より大きなものの在るということが受け容れられない
フロイトが何もかもセックスに還元するのと同様に
そして人間梯子の三段目は、心理。
アドラーはすべてを劣等感に還元してしまう
これらは全くの間違いだ
2012 6・18 129
* 三月の再入院からようやく退院できる少し前に病室で書いた怱卒ではあるが実感のまま早書きの短文を、ここに記録しておく。
原稿のまま放ってあったが、「入院時の所感」として電子化しておこうと思った。
* 古径「罌粟図」をよろこぶ 秦恒平
思いがけず聖路加病院の病室から、二月十五日、二十重(はたえ)の高層ビル群を眺めるはめになり、しかも三月三日( 平成二十四年) に退院しながら、三月十五日にまた再入院して今日に到っている。今日は、思い違いでなければ三月二十三日。妻も今日、わが家地元の病院で急遽、心臓冠動脈二度目の拡張手術を受けていた。幸い、無事成功しましたと立会ってくれた息子秦建日子から報せが有った。 心配は尽きなかった。嬉しい安堵は、思わず息子の報せを聴く胸を熱くつまらせた。
胃全摘、胆嚢切除の八時間手術と入院生活、さらに相次いでひどい脱水に加わった術後全身への大腸菌感染など腎や前立腺炎にも及ぶ難儀となり、西東京市から中央区明石町へ一時間半の妻の介護通勤は、荷重苛酷であった。遂に、家を出て、不幸中の幸いであったがまだ近所のうちに、ニトロの頓服を要する急変に遭ってしまった。妻には返す返す気の毒で申訳が無い。幸い緊急の地元病院配慮で、今回二度めの冠動脈拡張手術を受けることが叶い、明朝にも退院可能とは、ともあれ天恵であった。妻にはほかに全身また腰の執拗な痛みがあり、ロキソニンと胃腸薬とを日日薬(ひにちぐすり)にしている有様で、ほとんど謂うに言葉無いきつい現状なのである。
私の方は治療への主力が、消化器外科から古川内科部長らの配慮下に転じて感染病状の徹底退治に抗生物質何種かの点滴が日夜続けられ、幸い奏功し、点滴は此の週末迄、以後は投薬と通院受診が相当と決せられた。今日は金曜、週明け月曜には「退院」とほぼ許可された。消化器外科柵瀬主治医も問題なく退院に賛同して下さっている。この先へのまだ不安は払拭されていないけれど、退院の「潮どき」を迎えたといわれる以上、新たな覚悟で立ち向かう。当然だろう。
此の八階病棟の病室へ、結果私は二度入ったのだが、別部屋である二つのよく似た病室には、医療治療とは無縁に、いやそれも無縁と謂うのではないかも知れない双方ともに似た特徴が有った。先の八四◯室の壁には狩野探幽の「松櫻図」が掛かり、今回の八一二室には小林古径の「罌粟図」が、共に大色紙大の画面をより大きく白地で囲って清潔な額におさまっていた。
聖路加病院はおよそ全館が美術館ふうに夥しい大小の繪を掛けているが、個々の病室にも複製とはいえかかる美しい繪が用意され、日夜屈しがちな心事をこうまで慰めてもらえるとは予想外であった。敬服し感謝した。
殊に八一二室の「罌粟図」( 正しい題を今此処では覚えないが) は、端的につよく美しく私を激励してくれた。
三月二十一日深夜一時二十分、眠り難いまま、森閑と灯の多くを消した窓外の高層ビルたちを視野の外に、窓辺の倚子にいて、なかなかうまくまとまらないこんな一首を何とか、こんなふうに落着けた。
古径描く罌粟額(ぬか)の上に咲く病室(へや)ぞ
そが嬉し 命みなぎる葉むらよ
我ながら拙い物言いで困るけれど、気持ちでは言いたいところへ思いを届かせている。古径の繪、赤と白との花も莟も冴え冴えと、凛々と、美しい。人はおおかた花咲くみごとさに眼を惹かれ、額の辺を清く洗われたほどの感銘感謝とともに繪の前を離れることだろう。それで良い、むろんそれで良い。
ただ私は、病室という特別の場所で大袈裟ではなく日々呻吟してきたし、眠りもとかく浅く跡切れがちに、深夜などは孤独であった。
そうした事情心情から日夜ともすると視線を繪に預けてつい憩うている者の眼に、此の古径画伯の作画は、もう少し容子の、思いの、異なった繪に想われた。想われたは正確でない、私はこの秀でた画家は、罌粟の花より遙かに力づよい動機から、「葉むら」をこそ、真緑に命ましぶき沸き立つ「葉むら」の美しさ逞しさをこそ描こうとした傑作と「観た」のであった。
色紙大に或いはトリミングされている、或いはされていたにせよ、罌粟の花は画面上のほぼ天限を衝くほどに描かれてある。
旺盛な葉むらは、花、花より下方ほぼ全画面の八割がたに溢れて濃艶な緑色をまるでぶちまけている。もとより、粗放な緑いろの塊などでない。葉脈も茎も葉の美しい姿も精微に表わされ、まさしく「罌粟」という生命の沸騰し奔逸し躍動する美しさ強さが適確に描かれてあると、私は、些かの逡巡なく深い共感でそう「観た」のだ。想っただけではない。「そが嬉し……」それが私の感動だった。
花、というよりも花を美しく咲かせる漲る命の活動を画家は表わして呉れている。それに励まされている私自身が嬉しく、愛おしかった。
(平成二十四年三月二十三日 金曜 夜十時稿 聖路加国際病院病室にて)
* 『対談・元気に老い、自然に死ぬ』を読み返していて気が付いた。
たしかに多彩に話題を繰り広げていたが、一つ大きな問題が落ち零れていた。「医療と死」という、このところイヤでも考えざるを得ないでいる大問題が、意図したように、すぽりと抜けていて、山折さんも私も、ほとんど一言も、介護には触れても、「医療」に関して議論がなかった。
あの当時、まだわたしはプラトンの『国家』にアタックしていなかった。していたら必ず「医療と死期」とに関連した論議に飛び込んでいたと思う。わたしは医学書院に十五、六年も、「物凄い」といわれるまで多数の医書・研究書を企画し出版した。そんな編集者経験をもちながら、医者に掛からないで済んでいるのを内心自慢にしていたし、退職して小説家一筋になってからもまず医者には掛からなかった、あの対談の当時も。
で、ケロリと医療と死期とに関して議論するのを忘却というより、念頭に置いてなかったらしい。いま、小さく身を竦めている。
2012 6・23 129
*「第一印象というものは、たとい必ずしも真実ではないにしても、それはそれとして貴重な価値のあるもの」と、ゲーテは言う。
第一印象を徐々に改めていった経験は少なくないが、その際にも第一印象の鮮鋭であったという事実がブラスに働きつつ、見方や考え方が錬磨されて視界を新たにしてゆく。
2012 6・24 129
* 「燕雀いずくんぞ大鵬の志をしらんや」とは、びっくりするほど早く、子供の時に耳にも、 目にも、していた。
秦の祖父の蔵書に博文館の『荘子新釈』三巻の和綴本があり、これは沢庵禅師の『老子講話』より遙かに子供にも接しやすく、沢山の寓話部分を拾い読むだけでも子供心なりに、背丈が伸びるような心地がした。
自分が蝶を夢見たのか、自分を蝶が夢見ているのかという寓話など、おそろしいほどわたしを突き動かし、生涯の「夢」観を子供の頃に朧に持ってしまっていた。かがやく希望を「夢」の一字一語に託して将来の目標視することを、わたしは概してしてこなかった。生きていること、それが夢に過ぎないという方向へわたしは人生観を定めがちであった。定めたなどと威張った口はまだまだ利けないのであるが。
* 高校へはいると躊躇なく「漢文」を選択した。すべてに返り点のしてある原文を読むのに、何不自由もしなかった。日本文を読むのと同じほどすらすら読めた。そんな中で、やはり「荘子」からとられた「朝三暮四」の寓話も忘れがたい。いま『中国古代寓話集』の解説を拝借すれば、それは、「根本の道よりすればそれが結局おなじもの」という道理を導いている。おのずからな均衡の世界に安住する、いわば「天鈞」を受け容れる姿勢、是と非とふたつながら行われて、それでも些かの障碍もない、いわば「両行」の道理を受け容れる世界。猿回しの親方が猿に朝三つ、夕方には四つずつの餌を与えて、猿が不服を唱えると、それなら朝四つ、夕方三つに改めると猿は喜んだという寓話だが、高校の教室で、はじめて深刻に感銘したのを覚えている。「根本の道よりすればそれが結局おなじもの」が此の「天鈞・両行」の此の世には在ると。それを心得ないで一理窟つけた気で喜怒哀楽するのでは、バグワンの謂う「マインドの分別」に陥っているのだ。
「いわゆる知というものが実は不知であるかも知れんし、いわゆる不知が知であるかもしれん」じゃないかと、荘子は謂う。「仁義だの是非だのということにしたって、その限界や区別はごたごたと入りまじっている。なんでそう簡単にそのけじめがつけられようか」と彼の「斉物論篇」に説いている。
わたしは孔子の『論語』にも感嘆はしたが、どちらかといえば老・荘の曰くに柔軟で自由なものを覚えていた。それが素地となりバグワンとの出会いが成りやすかったのかと、頷く。
* 「人間が生を悦ぶことは浅はかな迷いであるかもしれず、死を憎むことは若いころ故郷を離れて他国に住みついた者が帰ることを忘れているようなものであるかもしれぬ」と荘子は語っていた。
「夢を見ているあいだは、それが夢であるとは気がつかず、夢の中でまたその夢の吉凶を卜って楽しんだり悲しんだりしている」が、「ほんとうにしかと悟りに徹してこそ、この人生もひとつの大きな夢にすぎないことがわかるであろう。おろかな人たちは浅はかな迷いのうちにありながらけっこう目が覚めているつもりで、こざかしげに利口顔して、貴賤尊卑のわけへだてをつけたりするが、くだらないことだ」と荘子は言い切る。
現実とは、いい夢かわるい夢か。甲乙をつけてみてもそれが要は夢見心地であるに過ぎぬ。そう分かっていながら、日本の昨日今日の政治をわたしは情けなく思う。
* からだは、しんどい。帰って行く「本来の家」を、こういうとき、無性に懐かしむ。
2012 6・26 129
* 「点鬼簿」という作が芥川龍之介にある。
小説にはしていないが、どれほどの人に死なれてきたかと、わたしの七十六年を顧みた備忘は書き留めてある。漏れ落ちはたくさんあるだろうけれど。いずれはわたしも誰かの点鬼簿に記名されるのだろう。
「虚無の大道をおのがからだの首とし、生をば背とし、死をば尻とし、死生存亡の一体無二なることを悟りきわめている人はだれかしらん。あれば喜んで友だちになりたいものだ」と互いに語り合い、互いににっこり笑って肯き合ったような昔人たちがいた。
そんな一人が見るも無惨な病気にかかって死んで行くときにも、彼はこう平然と語っていた。
「いったい人間がこの世に生まれるのは、その時節が来たからのことであり、死んでいくのは、その順番が来たからのことだ。時節に安んじ順番に従っていれば、生の楽しみも死の哀しみも心につけこむすきはない 人間にせよ事物にせよ、しょせん天道の自然にうち勝てようはずはない。とすればおれだって、病気を恨むことなんかあるもんか」と。
この寓話も『荘子』の「大宗師篇」に在る。旧訳の『ヨブ記』とも違っている。やはりバグワンに繋がっている。
2012 6・26 129
* 昨日、江戸時代女流文学研究をリードしてきた門玲子さんから、二つの活字原稿が送られてきた。できれば一つを「 e-文藝館= 湖(umi)」に載せて欲しいと、お手紙も添っていた。「あごら東海発」に掲載されていた壮絶な「私の高齢期」を戴くと決めた。今回の「 湖の本」を見た上での寄稿かと思われる。感謝。
平和と平等を追求する「あごら」という雑誌をはじめてみたが、この331号には門さんらの寄稿のなかでも、「証言 1枚の写真ーー隠されていた放射能の恐ろしさ」という小田美智子さんの記事が、肌に粟立つほど凄い。これも欲しいと願うが、肝腎の一枚の写真が載せられるか、わたしにそれだけの勇気が出るだろうか。
* 消費税増税どころでない、原発は人類の命運を損なう危険極まるもの。それを、たかが電力企業の寡占慾に便乗して阿諛と欺瞞との「知らぬ顔」政治をわれわれは放置してよいワケがない。
ヒロシマはあれだけ言われたが、いま、緑の木々につつまれて何事もないではないかという声も、わたしは聞いた。途方もない短絡であり、どれだけの人が死に、篤く病み苦しんだか。そして今ヒロシマの災害にふれた被害」 の声が減っているのは、あれから七十年近く、ほとんどが既に亡くなっているからに過ぎない。
緑の木々や草は、見た目にまさに「舒榮」の美しさをわれわれの目に見せている。これは日本列島の自然の恵みであること、少なくも一万年来変わりないのである。放射能は、火や水や毒のようには山川草木を見た目で損なわない。しかし、農作物や魚類にすでに抱え込まれ、それらをわれわれは食することが出来ない。思うに放射能は、最も多くしかも目に見えず日本の国土を覆っている植物と土壌とに隠れ潜んで長生きをするのではないか。結果として土壌や地下水に危害は拡散するであろう。目に見えないから安全とは言えない。
それどころか、いずれは目に見えて放射線・放射能の悪影響があらわれるだろう、五年、十年、二十年。
恐ろしいのは胎児が損なわれ、新生児が成育の中で損なわれて行くかも知れぬ恐怖である。うえに触れた「一枚の写真」のもの凄さはそれを証言している。
山川草木の見た目の美しさ優しさに日本人は久しく久しく見守られきたし、見て愛してきた。しかしその山川草木に、そして大地に、在ってはならなかった放射線が、放射能が蓄積されて行く懼れに適切に気づかねば、それよりも大事な何事があると言うのか。
* 以下の一文は、今年平成二十四年の文章ではない、じつに平成元年(1989)六月一日、まるまる二十四年も昔に、朝日新聞に請われて私が書いた原稿「悪政と藝術」の、書き出し三分の一ほどである、どうか、私の思いと懼れとの久しいものであることを分かって欲しい。
当時原発推進は自民党政権下での「国是」であり、安全神話は瀰漫して、私のような声を発した人も言葉も一つとして新聞紙上などに現れもしなかった。
私は、決して、いまいまに原発を憂慮し始めたのではない。下記の文章は、「安全神話は原子炉爆発を防げるか」と「一人の一般国民」から日本の「原発」に「悪政」の謗りも添えて「反対」異見を突きつけた、おそらく「最古に属する文献」ではなかったろうか。
* 悪政と藝術 抄 秦恒平 1989.6.1 朝日新聞
いま私の時代もののワープロは、「悪政」の二字ならすらりと出して来るが、善政は「ぜんせい」から手間をかけて打ち直さねばならない。この機械に漢字辞書を内蔵させた一人ないし何人かの「日本人」は、政治に「悪政」はあっても、善政など無いも同然と把握していたらしい。いわば「政治性悪説」を表現する機械を、相当な高価で十年も前に私は買ってしまったことになる。だが愛機の示すこの認識に、私自身もほぼ異存がない。
政治社会に「偽」の体系を据えた人
戦後日本の政治を、ひどい悪政だったとは、思わない。日本のと限っていえば、大化改新このかた一千四百年ほどの政治で、多分水準は図抜けて高い方であったろう。図抜けた政治家など不在不要で、事実、そうであった。いったいあの大戦後の首相たちよりすぐれた政治家は過去にいくらもいたけれど、その政治があまねく善政であった実例は皆無に等しい。あまねく善政などいうものの、あると思う方が、歴史を見あやまっている。どう飾りたてようと政治は権力による権利・権益の行使と取得であり、王道も即ち覇道である。政治とは文字通り「偽」つまり「人為」の最たるもので、神の領分に接した眞や善や美にはなじまない。いずれかといえば、「悪」に身を寄せながら「悪らしからず」機能するのが、政権のせめてもの作法なのであり、名君賢君といえども、結果として自分が先に楽しみ、民百姓に先に憂えさせて来た「悪しき」事実は、史実としても動くものでない。
例えば聖徳太子という立派な人がいたではないかと、言われるかも知れない。しかしそんな「徳」などという名乗りも、彼や彼の子孫を悲惨へ追い込んだ背後の「悪」と表裏していたことを知らねばならない。いったい崇徳や安徳や順徳や顕徳(後鳥羽)院らにも顕著なように、そんな「徳」の名を死後に奉られる背後には、いつも「悪徳」ないし「悪政」に揺れた時代の苦渋を察しなければならぬのが、日本の歴史であった。世間虚仮(こけ)というすぐれた理解を体験しつつ、しかも有名無実の憲法をお添えものに、位階や位色(いしき)の差別をたて、政治社会に「偽」の体系を据えてしまった例えば聖徳太子を、文句なしに善政の人などと言おうなら舌がしびれてしまう。
安全神話は原子炉爆発を防げるか
しかし悪なりに、「ひどい悪」と「そこそこの悪」とが、ある。そこそこの悪政に馴らされながら、人は歴史を生きて来た。しかしひどい悪のひどさの度が過ぎれば、民族の生きて行けない危険が迫る。それほどの危険に、たしかに日本中が見舞われた体験が、先の大戦争を筆頭に、歴史的に両三度はあった。
そしてそんな両三度を掛け算したほどのもっと物騒な危険は、いまが今も、日本列島を脅かしている。チェルノブイリ級の原子炉爆発が連鎖して起きれば、風吹き雨も多くて逃げ場のない日本列島の生き物は、決定的に被害を蒙りその回復は保証されないだろう。この悪しき危険には、「そこそこ」という歯留めは、無い。
分かっているのにやめられない。そういう段階へ昨今の政治がトボケ顔で踏み込んで来た以上は、もう戦後政治と並べて均しなみに物は言えない。ひとつ間違えば文化も経済も社会も、自然も、根こそぎ腐れ果てて無に帰するだろう、それで構わぬという立場も選択も、無いはずである。 (後略)
2012 6・27 129
☆ ジャン・クリストフに聴く 片山敏彦氏の翻訳に拠りながら
「どうにもできない制限の中で自分の努力を引き締めることは、藝術のためには善い鍛錬である。この意味において、みじめな生活状態は、単に思想の師であるだけでなく、また藝術的在り方(スチール)の師でもある。それは肉体および精神に節制を教える。時間が制約されており、無益なことをしゃべってはいられないのだから、余計なことを少しも言わず、また本質的なことしか考えないように習慣づけられる。こんなにして、人は生活のための時間を少なく持つことによって却って二倍の生き方をする。
クリストフは貴重な数分間をも、むだな行為や言葉のために浪費しなかった。
できる限り少時間にできる限り多くを表現しなければならない義務的制約の中にその修正を見出した。クリストフの藝術的な、また道徳的な成長にとってこれ以上善い感化を与えたものは何もないーー
* 医学書院に勤めておそろしく多忙な編集者・書籍企画者でありながら、寸暇をぬすんで必死に書いて書いて創作にも打ち込んでいた頃のわたしが、結果的に見て、このクリストフの場合に近似していた。いまのわたしは、あの当時の十倍の時間を自由に使いながら、成績を挙げていない。病気だからと言う言い訳はきかないと恥じている。
2012 6・27 129
* 伯楽は馬を仕込む名人として自他共に知られ、陶工は土をいじるのが上手く大工は木材の扱いが上手とほめそやされる。だが荘子は賛成しない、「これらの連中は、 仁義禮楽で人間の本性を矯め正して天下を治めることの上手とうぬぼれている明君賢士とご同様の過ちをおかしている」と。人も馬も粘土や木も、そんな形に嵌められたいとは願っていない、と。
「聖人の道というものは、世の中を利することが少なく、害することの方が多い」と。
2012 6・28 129
* 夕食は西瓜が主食になり、ほかは、なかなか食べられなかった。食べ物をむりに口に運ぶにつれシンドクなる。それでもクスリは飲んだ。
そのあと、二階の機械の前か、横になるか、と階段の下で思案し、負けたように横になりに行った。横になっていると、ラク。寝入ることもあるが、さもなければ読書を楽しむ。減らすはずの本がいまや十六七冊に増えている。片端から読んでゆく。
ところが、堯が、関所役人に軽蔑されたように、斉の桓公が車大工に、手ひどくやられている。バカにされている。
桓公は御殿で余念無く本を読んでいたのだ。縁先に車大工が車輪削りのしごとをしていたが、彼は王様に読んでいなさる本には何が書いてあるかと聞く。王様は「もう亡くなっている聖人(= 偉い人)の言葉が書いてある」と答えたので、すぐさま車大工は「つまり昔の人の糟粕( かす) を嘗めているわけですね」と嘲笑した。
王は怒ったが、大工は平然とこう話したと荘子の天道編は謂うのである。後藤基巳さんの翻訳で聴こう。
「いや、あっしはじぶんの仕事の上で申しあげますがね。木を削って輪を仕組むのに、あまりゆっくりやりすぎると、甘くなってガタガタですし、急いでやりすぎると、堅くなってうまくはまりこみません。ゆっくりすぎもせず急ぎすぎもせぬようにするのは、手でやりながら
勘をはたらかせるんで、口じゃぁなかなか言い表わせません。そこんところのコツときちゃぁ、あっしが伜(せがれ)に教えてやることも、伜があっしから受けつぐこともできゃしませんやね。だからこそ、あっしはもう七十になるおいぼれですが、いまだにこうやってじぶんで木を削ってまさぁ。してみりゃ、昔の聖人っていうかたも、死んでしまえばその心の術が伝わろうはずがねえ。だから殿様の読んでござらっしゃるご本なんてえものは、昔の人の心術の糟粕( かす) にすぎなかろうと申しあげたんでさぁ」
* 読書を楽しみ、時に先人の書き置いた言葉や思想の注目したいものをわたしは、このところ、ひとしお、つとめて此処に書き写している。じつは書き写しながらも、この「車大工」の弁を内心に気にしていないではない。上に書き写した荘子の寓話も、まさにそれに当たるが、果たして「糟粕を嘗めて」いるに過ぎぬのか、そうとは言い切れぬのか。忸怩たる実感もないでなく、しかし、それは結局は読み手の覚悟や読み方、感銘という働きに左右されるものと感じている。
2012 6・28 129
☆ 人生の最も貴重な特徴ーー年を老っても決して変らず、来る日来る日の朝ごとによみがえる好奇心の新鮮さ。ジャン・クリストフのこの天分は才能のある多くの人々から羨しがられて然るべきものだった! 大多数の人々は二十歳または三十歳で既に死んだのと同然である。
彼らの人生の残りは、彼らが存在した時期に、言ったり、したり、考えたりしたことどもを、日ごとにますます機械的でいびつな形での繰り返しによって反復し模倣することで過ごされる。 ロマン・ロラン
* この厳しい指摘を聴かねばならぬ、 創作者は。誰でも。そう、 誰でも。
2012 6・30 129
* 「自然に死ぬ」には、葬式もしぜん関わってくる。
荘子のまさに死なんとしたとき、弟子達は手厚い葬式を考えていたが、 荘子はこう言ったと『荘子』の列禦寇篇にある。弟子達は粗末に葬ると先生が鴉や鳶に食べられてしまうと心配していた。荘子は、地下に入ってもどうせ螻蛄や蟻の餌食になるのさと構わなかった。
☆ 天地を棺桶とし、日月を対の璧とし、星辰を珠飾りとし、万物を齋物(お餞別)だと考えれば、わしの葬式道具に何ひとつ欠けるものはありゃせんじゃないか。この上いったい何をつけ加えようというのだ。
不公平な標準で物を公平にしようとすれば、その平は真の平ではない。また無心の感応によらず、さかしらの人為を弄して物に応じようとすれば、その応は真の応ではない。とかく明知を誇る人は、 自分の知(=マインド・分別)を働かすので、かえって物に働かされるが、神知の人は無心で物に感応随順していく。
愚かな人間どもはじぶんの知識見解をたのんで人為におちこむから、その功業はは外に馳せて内なる精神には何の益もない。かなしいことではないか。 荘子
* 「功業は外に馳せて内なる精神には何の益もない。」実例は世に蔓延こっている。
* 敬愛する画家村上華岳は名を震一といったが、父は彼をいつも「シンチ」と呼んでいた。華岳はこれを「神知」と受けとめて雅号の一つに用いていた。「神知の人は無心で物に感応随順していく。」村上華岳の仏や牡丹花や山の繪にわたしが打たれるのは、それだ。
2012 7・5 130
☆ 『ジャン・クリストフ』のなかで、作家ロマン・ロランは言う。
愛とは、信仰を絶えず新しくする行為である。神が存在しているにせよ、いないにせよ、それはあまり問題にならない。人は信仰を持つゆえに信仰を持つ。愛するゆえに愛する。そのための理由は不要である……
春に花咲く樹のように生と愛との重さを持たず、自己の豊饒を感じない魂は不幸だ! そんな魂に、たとえ世の中が名声と幸福とを山ほど与えるとしても、そのばあい世の中は、一個の死骸の頭に冠をかぶせているのだ。
それぞれの民族、それぞれの藝術がそれぞれの偽善を持っている。世界は、僅かの真理と多くの虚偽とで養われている。
敢えて不正当な態度を取るだけの勇気をもたなければならないような、そして、あらゆる讃美の心や、教え込まれたあらゆる崇拝心を振り捨てることを敢えてし、自分みずからほんとうだと思えないことの一切合財をーー虚偽をも真理をもーー敢えて否定しなければならないような、そんな一時期が人生にはある。
一人の健全な人間であることを欲する青年の義務は、一切を吐き出してしまうことである。
人は悟性(= マインド・・理知・分別心)によって創造するのではない。人は必然性によって創造する。
2012 7・6 130
☆ 『ジャン・クリストフ』のなかで、作家ロマン・ロランは言う。
生きることだ! 過剰にまで生きることだ! ……自分の衷にこんな力の酔い心地を、こんな生の歓呼をーー少しも感じない人は藝術家ではない。藝術家であるかないかの試金石はこれであ。まことの偉大さは、喜びと苦悩との中で歓呼し得るその力において認められる。
男たちは自惚れと抱負とに媚びられるとやすやすと心を昏まされる。そして藝術家は想像力がつよいだけに人一倍、その点で迷わされやすい。
美しいものを引きずりおとしてだいなしにすることを私は承認できない。
「諸君はみずから好むままの者であるがいい。だが何でもいいからとにかく真実であれ! たとえそのために藝術家たちと藝術とが悩まされることになろうとも、真実であれ! もしも藝術と真実とが共に生きることができないなら、藝術の方が消えうせるがいい! 真実は生であり、虚偽は死である」 クリストフ
クリストフは自分では気づかずにゲーテの偉大な言葉を注釈していたのだが、しかしクリストフはゲーテの高い清澄さ(セレニテ)にまだ到達していなかったーー
「民衆は崇高なものをおもちゃにする。もしも民衆が崇高なものの真相を見るとしたら、民衆は、崇高なものの有様を見るに耐えるだけの力をもたないだろう」 ゲーテ
* わたしはこれらの言葉を七十六歳の一人としてと同時に、一人の少年の心で受け容れる。わたしは今も少年であれることを悦ぶ。 2012 7・7 130
* 『元気に老い、自然に死ぬ』を、わたし自身も毎日少しずつ読み返している。
老いの死のということは、もっと先の先のことと先々へ追いやって生きていた時代が当然あった。じつは、この正月早々に胃癌と診断されるまで、老いも死もじつのところまだ先のことと思っていたのだろう、わたしは。したがって十二年も昔の山折さんとの対談は、たぶん山折さんも、むろんわたしも、まだ先々を遠望しながらの老いと死との予行演習に過ぎなかった。またそれだけに、問題や視野をひろげて総ざらえに論じ合っていたと思う。抜けた大きな問題にも気づいているのだが、ともあれかなり論点は網羅的に並べ立てていた。老いにも死にも、無関心ではこれだけさらけ出すことはやはりムリだったろう。
いまもう一度対談すれば、すくなくもわたしは、死にふれて深刻に話さざるをえまいが、そんなわたしの背を支えてバグワンの言葉が力になっているに相違ない。
☆ 元気に老い、自然に死ぬ
秦さま 湖の本112 お届けいただき、ありがとうございます。
目次を開いただけで、「老い」と「死」の文字が溢れ、ちょっとたじろいでしまいましたが、読み始めるとおもしろく引き込まれて読了しました。
幼い頃から、死が恐ろしくてなりませんでした。自分が無くなってしまうという考えに怯え、かといって、死ぬのが恐いとは誰にも言えず、お腹が苦しい、気持ちが悪いと母に訴えて、お腹をさすってもらいました。その手が体に触れているあいだだけ、少し苦しさが和らぐ気がして、もう少し、もう少しとせがんだことを思い出します。
人肌との接触が、死の恐怖のいちばんの妙薬かもしれないと思います。
山折さんのおっしゃる、若い異性の看取りは死の恐怖に対しては効果があるでしょうが、確かに若い命の側にとっては、嫌悪を起こさせるものでしかないでしょうね。空想社会主義者のフーリエがそれを好もしいものに感じさせる社会制度を創設しようと知恵を絞ったのでしたが、やっぱり無理がありますね。
わたしは現在63歳になります。子どもの頃には、自分がそんな年まで生きていようとは思いもかけなかった年齢になりました。こんなに長く生きてきたのに、少しも賢くならず、子どもの頃と同じで、何も知らず、何の覚悟もできていないことに驚き、でも容赦なく死が近づいていることに怖れ慄いています。
子どもの頃の居ても立ってもいられない苦しさを遠ざけておくことは少しできるようになりましたが、死が現実的になってくるにつれ、現実的な心配が加わってきました。
病院で死にたいとは思いません。一人暮らしの私は、結局死後何日もたって発見されることになるでしょう。
それはいいのです。でも、私の飼っている猫はどうなるでしょう。
前の猫が死んだときに、いつまで世話できるかしれないのに、もう生き物は飼うまいと決心したのですが、昨年1月末、寒さで死にかかっていた子猫を家へ連れ帰ってきてしまいました。
他人に馴れない猫なので、この猫より先には死ねないと思ったりします。
窓を通して聞こえてくるバグワンの言葉に耳を傾けます。
探求をやめてごらん。何もせず、静かに座っていると、春が来て草はひとりでに萌え出ている。
ほんとうにそうだといいと、かすかな希望をいただいています。
苦しい服薬に加えて、眼の手術もなさるのですね。
お大事にと祈るばかりです。 大阪・まつおより
* こういう人が、心の友になる。そしてしばらく老いを忘れ、死に親しむ。この人にはわたしは智慧も借り約束もした負債がある。小説を書きますと。その小説がじつに難しく隘路に迷い続けていて。迷うことをどうやらわたしは楽しんでいる、苦しんでもいるが。 2012 7・9 130
☆ (音楽家ジャン・クリストフは言う=)ほんの少数の、良い人々から愛され理解されることの方が、無数の白痴に作品を聴いてもらって、あら探しをされたりお世辞を言われたりしているよりも遙かに良く、遙かに楽しいではないか? ……栄誉を求め名声を誇る悪い根性には僕はもうつかまれない。
音楽の領域と文学の領域とは互いに無縁な、そして密かに敵意を持ち合っている二つの「国家」であるらしいが、僕には、シェイクスピアは、ベートーヴェンと同じく無尽蔵の生の源泉だ。
僕は、藝術上の離れ業を嫌う、自然を歪めるすべてを憎む。女は女であり、男は男であるのを僕は好む。
* 文学は音楽を根にし、絵画の花を咲かせる。
2012 7・13 130
* バグワンはいわゆる聖人や宗教教団に名をはせた宗教者・聖職者には厳しく当たるが、仏陀はもとよりイエスやソクラテスや老子らとは篤い一体感、称讃の純粋な共感を何度も何度も語っていて、それにもわたしは信頼を寄せ同感している。ひととおり旧約も新約も聖書は全通読してきたが、聖書を、また仏典などを「読む」という行為自体には、バグワンの言うとおり、たいした意味は感じていない。むしろ囚われてはならぬと思っている。奇跡にも、まして奇跡という「言葉」にも囚われていない。関わる気がない。奇跡は有っても無くてもわたしの手も思いも及びはしない。それどころか、へたをするととんでもなくエゴをこねまわすことになる。
☆ ロマン・ロランが言う
悪意をふくんでいる批評に対する最良の返答は、決して返答せずにどしどし自分自身の創造的な仕事をつづけることである。藝術上の不当な攻撃をいちいち相手にして必ずそれに返答するという悪い習慣に染まってはならぬ。
☆ ジャン・クリストフが言う
私はあなた(=大公)の奴隷ではありません。私は言いたいことを言うでしょう。書きたいことを書くでしょう。
* 息子の秦建日子にも甥の黒川創にも、これを伝えたい。
2012 7・15 130
* ものごとには終わりが来る、そして作家には初めが来る、「書く」と謂う「初め・始め」が。
2012 7・16 130
* 「以心伝心」と言うが、それは達人の域の人らの話で、凡人は言葉に頼らねばどうしようもない。言葉を蔑視している内にとても大切な宝を掌からこぼしてしまうことが有る。わたしも永い人生の中で一度ならずそういう悔いは遺してきた。
「わたしの気持ちはわかっているはず」という思い込みを「特別視」する人が世間にはとても多いように思うが、大概それは我独りの自慢に属している。凡人同士は、結局の所、言葉にして言わねば伝えねば、なんら伝わったりしない。言葉は不束なツールだけれど、度量もなく「沈黙は金」などと胸を張ってみても、たいていは言葉の伝達力に遠く及ばない。
2012 7・16 130
* 何年もの間にいろいろ手がけてきた小説に、新たに手をかけ始めた。今日手がけた作は、ドライに、パリパリに乾いた構成で組み立てて行きたい。
2012 7・16 130
* 「備忘・未定・未完原稿」と名付けたフォルダが、在る、わたしに。そこへ入れば、数多い創作への出だしや構想や試行錯誤がたくさん溜まっている。ここへも入れてない断片や、或る程度纏まった随筆などは、ホームページからこぼれ落ちそうに在る。うかっとそこへ紛れ込むと、読み直し初めてキリがない。手を掛けて仕上げてやらねば可哀想なほどの草稿も在る。だがわたしは慌てない。
2012 7・17 130
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
デンマークの哲学者キェルケコ゜ールは、「無」は恐怖を生むと答えている。
無というのは事実上の体験なのだ
おまえはそれを深い瞑想の中で
さもなければ死が訪れるときに体験することができる
死と瞑想とがそれを体験する二つの可能性だ
そう
ときには愛の中でもまたそれを体験することができる
もしおまえが,深い愛の中で誰かの中に溶け去ったなら
おまえ一種の無を体験することができる
人々が性愛をこわがるのはそのためだ
彼らはほどほどのところまでしか行こうとしない
そこまで行くとパニックが起こる
そこまで行くと彼らは怯えてしまうのだ
ずっとオーガズム的な状態にいられる人がほんのひと握りしかいないのはそのためだ
なぜならば
オーガズムというのはおまえに無の体験を与えてくれるからだ
おまえはその中で消え失せる
おまえは何か自分でもわからないものの中に溶けてゆく
おまえは定義され得ざるもの中にはいってゆく
おまえは社会的なものを乗り越え
分離というものが効力を持たない,自我(エゴ)というものが存在しない
ある〈統一〉の中にはいってゆく
そして,それは恐ろしいものだ
なぜならば,それは死のようなものなのだから-
だから,ひとつには愛‥‥‥
しかし、人々はそれを避けることを学んでしまった
数えきれないほどの人たちが愛にあこがれながら
しかも,無の恐怖のために
そのあらゆる可能性をぶち壊してばかりいる
ひたすら愛し、そして瞑想した人間だけが
意識的に死ねるだろう
そして一度意識的に死んだら
もうおまおは帰ってくる必要がない
それが涅槃(ニルヴァーナ)だ
* バグワンの説くなかで、ときどきにこの愛と死とがあらわれ、わたしは、これを体験として理解している。わたしが死を予感的に体験したのは、病気などではなかった、真実の性愛において、若い頃にそれを悟り信じた。怖くはなかった。それはよくわたしの言う「一瞬の好機」にほかならない感覚の絶頂が感じられた。
2012 8・1 131
* いま、スキャナもプリンタも使えなくなっていて難渋だが。だから大きな引用はムリだが、バグワン『般若心経』を読んでいる内、こういうのに、また出会った。
ほかの何かに依存する心・マインドはまがいものの自己だ
自我・エゴーー
自我・エゴというのはつっかい棒なしでは存在できない
それはつっかい棒を欲しがる
何かがそれを支えなければならない
一度あらゆるつっかい棒が取り除かれてしまったら
自我・エゴは地面に崩れ落ちて消え失せる
そして、自我・エゴが地面に崩れ落ちたときはじめて
おまえの中に、永遠であり
時を超えた
不死の意識が湧き上がる
そこで仏陀は言う
「隠れみのなどというものは何もない、シャーリプトラよ
惑いの治療法などというものは何もない、シャーリプトラよ
何ひとつありはしないし、どこにも行くべきところなどない
おまえはもうすでに其処にいるのだ」、と。
* 先日再刊した山折哲雄さんとの長い長い対談、湖の本112『元気に生き 自然に死ぬ』のわたしのあとがきは、「抱き柱はいらない」と題されている。この対談は二〇〇〇年(平成十二年)八月、九月、十一月に成ったものだが、「抱き柱(=つっかい棒)はいらない」というわたしの思いに、どれほどバグワンが感化していたかは分からない。
バグワンを知る以前から、わたしは、人間がいかに雑多な「抱き柱」にしがみついて不自由に生きているかに気づいていた。有難い法然一枚起請文の「南無阿弥陀仏」一念すらも、与えられたみごとな「抱き柱」の一本と見定めていた。
「抱き柱はいらない」という無謀なほどの発語がどれほど私に確立しているかは覚束ないが、「おまえはもうすでに其処にいるのだ」という仏陀の言葉が、大きな慈悲でまた公案でなくて、何であるか。
2012 8・13 131
* 今晩の音楽会、太鼓が各種活躍し、太鼓は太鼓であり元気なのは佳い。
だが音楽とは「音」「音色」表現の妙趣であり美味であるとすれば、ひたすらな「騒」楽では困る。本人達がそれが佳いのだと本質で勘違いしていると、ことに困る。
わたしの日頃の思いで強いて例をあげれば、津軽三味線など、得てして、ただただ叩き三味線の大音響でしか音楽の味わいが出せないと思いこんでいるのでは、と、あまりに訝して、あれでは「藝」として失格してしまう。
文楽や歌舞伎やその他の舞台藝・座敷藝の名手の三味線に少年の昔から真実魅了されてきたわたしには、もともと門付け藝として出発していた北国や雪国での或意味必要ですらあったろう大音響を、それが「いい」のだとばかり打楽器並みに叩きに叩いて叩きつけていればそれが「迫力」だという演奏では、あまりに工夫も藝もない。騒々しければいいのでは音楽の演奏を楽しむ側は迷惑だ。
打楽器にもいろいろ在る。歌唱にもいろいろある。それにしてもわたしは藝術・藝能の表現の芯は「静か」で「清い」ことだと今も信じている。この静か・清いは、音響・音量が小さければよい意味では、全くない。音の妙味が聴くひとの胸にあはれ・美しいと届く意味である。日本の美学では、静かと清いは、美しいと同義語であった。どんなに大音響でも、それが清くて靜かな美しさを表現し得ているなら鑑賞できる。その辺の勉強の足りないただただ力任せの興行では、藝が無い。
誤解されては困る、これはわたしの好きな、藝の立派な太左衛さんらの会とは関係ない。
外食が全くダメのまま抗癌剤を服したりで、よろめくほど疲労した。だが、楽しくなかったのではない。
2012 8。13 131
* 「内裏にて作文の折、高倉院御秀句の事」とある『古今著聞集』の一事に、その秀句「あに忘れんや一字の金に勝れる徳を」とあるのを、文士として大事に感銘した。
また『丹後の宮津』という思いがけず愛読しつづけている本に、「弓の木城址」の由来を述べながら、足利時代二百四十年間の丹後守護としての一色氏の最期が略述されているのが興ふかく嬉しく、加えて「野田川」がかつての「倉梯川」であること、川の南に「倉梯山」のあったことを、古事記にさかのぼり哀惜されているのにも心惹かれた。此処には古代の悲恋物語の一場面が刻印されていたのである。
昔ならたちまちに「小説に」と勇んだろう、今はそんな娑婆っ気はない。「想像して楽しむ」という「独り道」が在る。捨てがたい好い道である。
☆ ゲーテ『イタリア紀行」より
一七八七年一月二日
文書や口頭による伝達に対していかに有利な弁護がなされようとも、結局それはごく少数の場合のほかは大てい不完全なものである。何かあるものの真の本質を伝達しようというのはそもそもできない相談であり、精神的な事柄においてさえそうである。しかし人がひとたびしっかりと実物を見ておきさえすれば、読書をしても、また人から話を聞いても奥が深い。それは活きた印象と結びつくからであって、そこで初めてわれわれは思考したり判断したりすることができる。
私が鉱物や植物や動物をある確固たる見地から特別の愛著をもって観察していたとき、諸君はよく私を嘲笑し、それから私の手を引かせようとした。しかし、今や私は(=ローマに在り) 私の注意を建築師、彫刻家、画家に向けて、そしてここにおいてもまた自己を発見することを学ぼうと思っている。
* 「一字」に「金」に勝る徳を見ながら、しかも言葉の、書字の、不安定をわたしは感じ続けてきた。ゲーテの剛強で精緻な「人間」に心惹かれてやまないことを、わたしのためにいつも嬉しく思う。
* そしてヤルタのチェーホフの、モスクワの藝術座女優で妻オリガ・クニッペルに送っている、送り続けている愛すべき同情するに足る、書簡。
「いくら君に手紙を出しても、僕はぜんぜん満足できない。僕らが一緒に体験したことのあとでは、手紙じゃ足りない、もっと一緒に暮さないなんて、僕たちは罪ふかいことだ ! 僕は君を祝福しますよ、僕のドイツちゃん、僕は君が楽しくしていてくれるのを喜んでいます。固く、固く君をキスします。 君のAntonio 」
* わたしは、今日日本の政情等々に苦痛を覚えながら、「優れた世界」に限りなく愛されている。「ラ・マンチチャの男」も出光美術館で観てきた「東洋の白磁」たちも、わたしが愛してきた以上に、じつはわたしが愛されてきたのである。
2012 8・19 131
* 谷崎潤一郎は、中国の文人に同感して、また吉川幸次郎の説にも共感して、文学の粋は「随筆」としている。谷崎の随筆は創作にも並んでじつに素晴らしいと、若くより、活字からうま味を吸うように愛読してきた。たまたま「雪」など繙き、ついでに全集のその巻を読み始めれば、どうしようもなく呼び込まれ、遁れがたい。
佳いものは、佳いのだ、ジャンルによらないのである。
2012 8・21 131
* 朝寝の床の中でうとうとと、「ゆるやかな着地」という言葉に取り巻かれていた。人生の、こと多くで、結局もなにもなく殆どは「ゆるやかな着地」に始終していた気がする。はっきりと、決然決断し行為したのは、京都と大学をすてて上京し結婚したこと、私家版をつくったこと、井上靖先生に電話で中国訪問を誘われ即座に受けたこと、そして湖の本創刊。それほどしか思い出せない。
他の全部に近くが「ゆるやかな着地」に終始していたと思う。さほど劇的な人生ではなかったか。
2012 8・22 131
* 作家としてパソコンを、メールを使い始めたのは、ホームページを田中孝介君に作って貰ったより以前、前世紀、ひょっとしてまだ東工大の教授室にいたころだったかも知れない。文壇的にもよほど早かったから関連の原稿もよく頼まれた。婦人雑誌に、メールは半ばは「恋文」ほどの気持ちで書かないと、せっかくの友人と喧嘩になる心配もありますよと警告したこともある。機械での言葉は思いの外にキツク響くから。
その頃から、わたしはミステークは別として、不良メールもむろん別として、受けたメール、後には出したメール、一つ残らず保存してきて、厖大に過ぎ、機械にも負担を与えている。廃棄していいものは棄ててゆこうとしているが、とうてい廃棄したくないのも、もの凄いまで数多く、少しずつ読み直していると、しみじみした気分になる。いずれにしても、それらをどうするかは考えねばならない。まとめてその人に返してあげるのも、その人の人生に何かを添えるかも知れない。
こういうことも、ある。盛んに送られてきた人のメールが、いつしかに少なくなること。
事故があったのではないか、病気しているのではないか、不慮の死だつてあると心配するが、機械のある生活へのある種の反省や退屈が働くと謂うこともある。わたしもホームページの日録・私語に委ねて、ほとんどメールを書かなくなっている。勝手なもので、書かないくせにメールは貰うとほっと胸に灯がともる。
溜め込んだメールから、思い切ったフィクションが書けるのではないかと気持ちの熱くなるときもある。
2012 8・30 131
* 九十半ばの老歌人清水房雄さんの歌集「汲々不及吟」をおもしろく通読して爪印をつけ、さらに読み直して丸印をつけ、また更に読み直して二重丸をつけた。書き出して作者に送り、「e-文藝館・湖」に招待したいのだが、書き出す時間がないのに閉口している。同じような閉口が多すぎてなさけない。
和泉式部集にもそのような撰歌をはじめて、まだ半ば。爪印にしたがって、やがて「和泉式部集全釈」の解を読み合わせられる日を楽しみに待望している。これらもみなわたしの「仕事」である。したい「仕事」がいっぱい。わたしの最も早い時代の「仕事」に『花と風』が在った。中頃には『蘇我殿幻想』が在った。いま満を持してあれらに類する「随筆」を悠々書き継ぎたい思いに襲われている。
2012 9・2 132
* 『丹後の宮津』という案内本を読み継いでいる。要領の良い親切な本で、少しずつ丹念に読んでいる。曽遊の地である懐かしさもあるが、与謝蕪村への関心がのいていない。加悦に古跡を尋ね、宮津の見性寺や実性寺など訪ね歩いた。天橋立よりそっちが主眼のふらり独り旅だった、まだ会社勤めのころだ。蕪村のことは『あやつり春風馬堤曲』という奇妙な小説を「湖の本35」として書き下ろし出版している。そのままの続編に山椒大夫を書き、第三部で浦島太郎を書くと「予告」しておきながら、とりまぎれている。忘れたことはない。書けるだろうか。わからない。「丹後」という地へのふしぎな夢がある。
『なよたけのかぐやひめ』(湖の本47)も「丹後」に触れあう一つ。
たとえ書けなくてもそういう夢のような世界は、わたしの内側で光るように生き続けている。冥利というべし。
2012 9・3 132
* 和歌をわたしはもう昔から、倭歌という以上に「和する歌」と受けとって理会してきた。そういう意見はあまり聞かない、今日では。しかし『古今著聞集』の「和歌」巻第五は多くの「和する歌」で編まれていて、その神妙・玄妙に拍手なされている。古今集に継いで編まれた「後撰和歌集」 を今日も二階廊下の窓に凭りかかり拾い読みしていたが、特徴的に和する歌を主に編まれてあると従来の感想を改めて新たにした。さきごろ千載和歌集を撰歌して読者に届けたが、前々から気に懸けてきた今度は後撰和歌集を撰歌し鑑賞してみたくなってきた。
後撰集世界は小説『秋萩帖』(湖の本25 26 )に書いている。生やさしい作でないが、平安博物館の館長であられた生前の角田文衛先生が、京都からわざわざ電話をくださり「よく調べられましたね」と褒めてくださった。後撰和歌集に、伊勢についで多く歌を採られていた或る女人、大輔の誤り伝えられてきた出自を、小野道風との恋とともに追いかけた「現代」恋愛小説だった。そのときから後撰集はおもしろいなと思っていた。「著聞集」を毎日読み継いでいてむかしの興味をふと蘇らせた。
2012 9・4 132
* 『イタリア紀行』のゲーテは聳え立っている。
最もすぐれているものは二度も三度も眺めているが、そうすると、いくらか順序がついてくる。主要なものがそれぞれ適当な場所に座を占めると、より価値の少ないものはそれらの間に(ほどほどに=)収まってしまう。 私(=ゲーテ)の心は落ち着きのある興味を感じつつ、より偉大なもの、最も純真なものへと惹かれてゆく。
よいもの、よりよいものを明らかに見て知ることができるということは、まったく特別の作用である。ところがわれわれがそれを自分のものにしようとすると、それはいわば掌の中で消え失せてしまう。それでわれわれは正しい(善い=)ものを掴まないで、捕え慣れているもの(ばかり=)を掴むということになる。
物事を立派に仕上げるためには、一生を通じての練習が必要である。われわれは自らを、他と比較すべきでなくして、むしろ独自の方法によって行動すべきである。
* 「主要なものがそれぞれ適当な場所に座を占めると、より価値の少ないものはそれらの間に(ほどほどに=)収まってしまう」という言葉はあまりに厳しいと、創作者ならだれしも心に歎くだろう。だが歎くことではなにも変わらない。「その通りだ、だが、時間の力の前で、そうは簡単に収まりはせぬ」と、わたしも、常に、「私の心は落ち着きのある興味を感じつつ、より偉大なもの、最も純真なものへと惹かれてゆく。よいもの、よりよいものを明らかに見て知ることができるということは、まったく特別の作用である」からだ。「自らを、他と比較すべきでなくして、むしろ独自の方法によって行動すべきである」と信じているからだ。
2012 9・4 132
* いま東北に関心が集中しているときに、下記の谷崎随想(内の一部)は刺激がつよいが、食い物の好みから関連した昭和八年当時谷崎の「東京」に対する、また「東北」を念頭にした剴切な「批評」は、必ずしも今日の日本と遊離していない。
☆ 谷崎潤一郎「東京をおもふ」より 一部分 昭和九年「中央公論」一月号ー四月号連載 今日の漢字を此処では用います。
ところで、此の東京人の衣食住に纏はる変な淋しさは何処から来るのかと思つてみるのに、結局それは、東北人の影響ではないのか。私はそれについて青森の男が話したことを思ひ出すのだが、東京の人は仙台と云ふ所を東北の玄関のやうに考へてゐるけれども、青森からみると、彼処は東京の玄関としか考へられないと云ふのである。なるほど、東京と青森の間では仙台の位置がさう云ふ風になるであらうが、もし青森と京都の間、或は下関の間では如何。東京の人は政治の中心に住んでゐるから、そこを地理的にも人文的にも日本の中心だと考へ易いが、しかしたまたま関西から出かけてみると、何となく東京が東北の玄関のやうに見え、此処から東北が始まるのだと云ふ感が深い。さうして事実、京阪地方に四国や中国の人間が多いやうに、東京には近い所で栃木、茨城、あれからずつと、会津、米沢、仙台、南部、青森、秋田、あの辺の人間が非常に多い。(谷崎の親友で当時鶴見在、国際的な映画俳優でもあった多能多才な上山=)草人なども仙台から出て来て名を成した一人であるが、震災後は純粋の江戸つ児が次第に何処かへ影を潜めて、東北人の入り込む数がますます殖えて行くらしい。その証拠には、昔に比べて東北訛の東京弁が非常に多くなつたのに気がつく。恐らく自動車の運転手などは東北人が大部分であらう。運転手と云へぼ、いつぞや小石川の目白坂を流してゐるのを拾つて乗つたのが、此奴が一寸モダーン味のあるイナセな兄哥(あにい)で、茅場町まで乗せて行く途々、落語家のやうな垢抜けた口調でいろいろと運転手稼業の辛いことを剽軽(へうきん)に語り出すのであつたが、だんだん尋ねると、色物の寄席が大好きでときどき聴きに行くと云ふ。だが此の兄哥のしやべる言葉が、よく聞いてゐるとやつぱり何処かに野州辺のあの尻上りのアクセントがあるのだ。いかさま、現代の東京のイキとかイナセとか云ふ奴は皆これなんだとつくづくその時も思つたことだが、運転手はいゝとして待合の女将なんかにズウズウが多いのには全く驚く。それも渋谷や五反田ではない、新橋赤坂下谷と云ふやうな所に案外それがあるのである。私は経済上のことはよく知らないが、自分に最も縁の近い出版業者の話を聞くと、雑誌でも単行本でも関東よりは関西の方が遙かに多く売れる、京都から西には大阪があり、広島があり、福岡があり、朝鮮満洲の殖民地があつて、孰れも相当の読者層を有してゐるが、関東の方は、たゞ東京が全国的に第一位を占め断然群を抜いてゐる外には、仙台や札幌などは大したことはないと云ふ。此の一事を以て推論すると、東北と云ふ所は東京と云ふ恐ろしく立派な玄関を持つてゐるだけで、いや、或は玄関にばかり費用をかけ過ぎたために、西部日本に比べると財力も文化も劣つてゐるのだ。さうして東京はその貧しい東北のたつた一つの大都会 なのだ。斯く東京を「東北地方に属するもの」として見る時、昔は「鳥が啼く東(あづま)」と云つた夷(えびす)が住んでゐた荒蕪の土地が権現様の御入府に依つて政治的に、と云ふのはつまり人為的に、繁華な町にさせられたものであると見る時、始めて今戸の煎餅や千住の鮒の雀焼や浅草海苔やタヽミイワシが名物であると云ふ理由が分る。(関東大)震災前の東京市は市でなくて村だと云はれたが、震災後の今も、或る意味に於いて田舎なのだ。米沢や会津や秋田や仙台の延長なのだ。私は嘗て東北に遊んで、モヤシのヌタや、鰰(はたはた)の味噌漬や、ナメコの三杯酢に舌鼓を打つたことがあり、今でも折々たべてみたくなるけれども、あの地酒のまづさを想ひ、それらの食物の東北らしい淋しい色合ひを想ふと、背筋が寒くなつて来て、再び彼の地へ行つてみようと云ふ気にはなれない。が、東京の所謂「オツなもの」を並べた食膳の色彩も、それと幾ばくの差があるかと云ひたい。
* 今日の東北や東京を語っているのでは無い。八十年の余も以前の感想であるから、どうか癇癪を起こさないで欲しい。そしてその上で今、福島原発の惨状からもつらつら思んみれば、福島と東京はなにも遠隔地ではなく、放射能はかんたんに東京全域をいまも侵し続けている。目に見えないから気に懸けない人が多いだけの話、現実に福島原発の「地元」とは、原発近在の市町村ないし福島一県に限る道理なく、東北はむろん茨城、千葉、埼玉、東京という関東地区も、こと原発の危害、放射線による人体内部被曝の危険からすれば、全く同じ「地元」同士なのである。
はからずもそういうことへも視野をひろげて警戒せねばと思った。たしかに東京は東北への大玄関なのだ。「上野発の夜行列車降りたときから青森駅は雪の中」と歌手は歌ってきた。それならそれで東京の政治は、東京人は、東北の、福島の、宮城の、茨城の人たちの今が今の原発や震災・津波ゆえの苦しみにもっと親身であって当然だ。
2012 9・5 132
* 大久保房男さんが「三田文学」に連載されている「戦前の文士と戦後の文士」をずっと読んでいる。今年の夏期号の、ごく頭に、
「他人からの干渉を出来得る限り排除し、自分の生きたいように生きようとしたのが日本の文士だと私は思っている。」「書きたくないことは書かぬばかりか、書きたいことはどんな障碍があっても書こうとしたのが昔(=近代の戦前)の文士だったのだ。」と書かれている。
大久保さんの口や筆から、繰り返し聴いてきた。わたしが、これに共感しないわけがない、大久保さんに聴く以前から多くの戦前作家達の仕事ぶりを通して全く同じ事を察知し共感し、自分もと憧れるほど願っていた。
不十分かも知れないが、私の現在は大久保さんの書かれている通りを、かなり厳格に為しているつもりだ。異様なことをしている気は無い、あたりまえのことと思っている。
* ところで、大久保さんの今回夏期号の表題は「書く文章・打つ文章・口述の文章」とある。何が言いたいか、題だけであらまし分かる。戦前の文士達にワープロもパソコンも無かった。彼らの前にもしそれが登場していたら、経済がゆるすならけっこう当時の人も機械で打ち出した文章で傑作も書いたろうと想っている。無かっ
た物を念頭に、昔の作家達は手書きしていたと頑張るのは、少し滑稽である。明治になり、鉛筆や万年筆が出てきたとき、毛筆に拘泥した作家は、わたしは多くなかったと想像している。漱石をはじめ海外体験のあった人と必ずしも限らず、ペンや万年筆を愛用して書いていた人は多く有り、タイプライターに興味を寄せた人もあった。もし時勢の必然として文章の書ける機械が現れていたなら、好奇心から、興味から、便利からとびついた人は、われわれの時代が実現していったと少しも変わらず気も手も働かした文士は必ずいたと考える。作家達の誰ならば手を出していたろうと推測してみるのもなかなか面白い。多作の可能であった人、多作と速成を余儀なく求められた人たち、腱鞘炎などの人は、いやでも気が動いたに違いない、なにも戦前人間と戦後人間に生理的・心理的決定差は無いのであり、状況が自然に促せば、昔の人も今の人も同じ事である。違いを証明することの方が難しい。
ばかばかしいと思うのは、もうよほど前になるが、「書家で、文芸家ではないけれど、石川九楊氏がワープロで書いた小説は認めない」と言っていたなど、小説書きの何がわかって言うかと滑稽だった。大久保さんはこう引用している、「石川氏は筆触ではなく、筆蝕という独自の言葉を使っているのだが、思念が筆蝕へと変り、筆蝕から点画ができ、点画から部首ができ、部首が集って文字ができ、文字から文学ができるのだが、ワープロは筆蝕から部首までのプロセスを無意味としたと言っている。」
こんなfoolish な説は世にふたつとあるまい。わたしは、東芝製のワープロ第一号機を買い、ほとんど即日実用し始めて岩波の「世界」に連載中の『最上徳内』を途中からワープロ書きに換えたのだが、石川氏はこの小説のどの箇所までは手書き、どの箇所からワープロ書きと見分けられるか、試みて欲しい。当時も今までも、誰一人からもそれを指摘されたことは無い。「文体」という固有の指紋のようなものを持った作家なら、手であろうが機械であろうが、藝術性を損なうような差異は出さない。石川氏が、我田引水の珍説で畑違いの小説論をはじめたとき、ほぼ即座にわたしは反論しておいた。大久保さんも石川氏の「この説は漢字文化圏のもので、表音文字で書く文章には関係ない」ものとされている。
「書く文章と打つ文章」に差を出してしまうのは「文体」を持たない・持てない物書きにはあるやもしれないが、まともな作家には、意図して差を創作してみたい場合以外には、ありえない。
「口述の文章」には経験が無いので触れないが、文学といえども根は口承に始まっている。それを併せ思って欲しい。大久保さんの恩師である折口信夫の文学論は根に、口承やそれ以前の原初の藝能論を置いている。「口述の文章」は意外に興趣ある文学論を生み出すだろう。
2012 9・12 132
* 推理小説、推理ドラマというと、ただもう殺人事件で無くてはいけない有様に嘆息する。
秦さん、推理小説が書けますねと何度も編集者に言われた。殺しの話を書けというのではなかった、わたしの歴史に取材した作などに、多くその要素があるという批評だった。むろんわたしはあざとい殺し小説など書かなかった、「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「秋萩帖」「「あやつり春風馬堤曲」「四度の滝」など、推理の要素を作の組み立て自体にはらんでいる。
谷崎の「春琴抄」夢のき橋」「芦刈」などさながらに読者の推理を誘っていることにわたしは着目して論じた。漱石の「心」もそうだった。
文学にはもともと殺し話で無くても、推理を深めながら読者を謎解きに面白く誘い込む要素があるのだ。
* 批評というのは、するのもされるのも、なかなか難しい。批評されて気に入らないと、怒る人がいても、ま、仕方ないが、怒る人と受け入れて踏ん張れる人との「落差」は大きい。目の前が真っ白になるほどの罵倒に等しい批評を編集者から受けた経験がある。何を言うかと思いながら、自身の道を思い直し考え直し工夫を重ねて奥へ入って行くのが、ときに痛快だった。編集者が万能ということはありえない。作家が万能と言うこともない。しかし書くのは作家である。
わたしはいつも自分を五条の橋の牛若丸だと思うようにしていた。編集者は七つ道具であの手この手で攻めかかる弁慶だと思っていた。弁慶のいない牛若丸はいない、そして最後には勝たせてくれるのも弁慶だ。
きつい批評をわたしも若い書き手のために惜しんでこなかった。作の世界に「花が無い」といわれ、ムクレていたのでは、前進はないなあと嘆息してしまう。
だれが心からの批評など、助言など、してくれるだろう。つよいつよい弁慶はそうは世間にいないのである。牛若が義経に育ちたいなら、強い弁慶を嫌ったり憎んだりしてはいけない。文学の問題であり人間の問題だ。何度も何度も思い直して起たねば、志した人生をひ弱く見喪う。
2012 9・13 132
* プーシキンの『大尉の娘』は、歴史眼と家庭を見据えた、不思議な渾然一体に妙味ある秀作。
プーシキンが在ってロシア語のロシア文学は偉大な出発を遂げた。ペテルスブルグ、当時はレニングラードのホテルの前の公園にプーシキンの銅像が丈高く立っていた。彼の原作をバレーにしたのも劇場で観てきた。作家同盟の招待の旅だった。グルジアのトビリシまで飛行機で飛んだ。モスクワにも何泊かした。
ロシアの旅は、なんとなく楽しかった。窮屈で無かった。旅みやげともなった、新聞連載小説の『冬祭り』も書けた。
* 谷崎潤一郎の「東京をおもふ」は、徹底した近代東京への批判の底に故郷への愛もひそんでいて、批評家で作家で随筆家の本領がみごとに現れていた。しきりに肯き頷き愛読した。
次いで「春琴抄後語」を読み始めて、ここでもすぐさまとても大事なことを聴いた。
「どう云ふものかわれわれ日本の創作家は年を取るとだんだん會話を書くことが億劫になるらしく、小説よりは物語風の形式を擇ぶやうになり、しまひには地の文さへも簡略にして、場面を描き出す面倒を厭ひ、物語風から一層枯淡な随筆風の書き方をさへ好むやうになる」と。
これこそ、いま、小説を創りながらいちばんひっかかっている課題であり選択なのである、わたしの。谷崎先生の云われる通りの道を行き悩んでいる。枯淡かどうかは別にして、「随筆風」に、つい心を牽かれるが、まだ物語風を惜しむきもちもある。この選択は、生やさしいものでは無いのだ。
2012 9・18 132
* 国の情けなさに不快をかみ殺したくなると、藝術や文学を思う。
* ちょっと引用が長いが、深切に身にこたえて響くので、心して聴いておきたい。
わたしがここへいろいろ引用する「文学」関連のことばは、一つには、今しもわたしの視野のもとで小説を書いている若い書き手にも心して読んでいてほしいのである。
もっとも下記の谷崎の言説には、若い人は拘泥してはならない。一つの流れの必然が云われていると記憶だけしておけばよい。
☆ 谷崎潤一郎「春琴抄後語」より
私は最早現在ではそんな幼稚な馬鹿らしい考を捨てゝしまつたけれども、而も猶「今日はから始まつて左様ならまで書く書き方」に一種のあこがれを持ってゐることは否み難く、たまたまさう云ふ作品の傑れたものに接すると、(近松=)秋江氏と同じやうな羨望の念を覚えることもあり、自分も書いてみたいと云ふ野心が急にムラムラと湧くこともある。又、久しくさう云ふ作品を書かずにゐることに不安を感じ、自分はいつかさう云ふものが書けなくなつてゐるのではないか、自分が書かないのは書けないのでなく、それに適した題材が浮かばないからであるが、しかし浮かばないと云ふのが年齢のせゐではないか、などゝ云ふ疑念が起つて凍て、矢張何としても淋しいのである
〇
作家も年の若い時分には、會話のイキだとか、心理の解剖だとか、場面の描寫だとかに巧緻を競ひ、さう云ふことに夢中になつてゐるけれども、それでも折々、「一體己はこんな事をしてゐていゝのか、これが何の足しになるのか、これが藝術と云ふものなのか」と云ふやうな疑念が、ふと執筆の最中に脳裡をかすめることがある。私は往年芥川龍之介に此れを語り、「君はさう云ふ経験がないか」と尋ねたことがあつたが、芥川は「いや、大いにある」と言下に答へた。そして、「シエンキウイツチも失張それを云つてゐるが、さう云ふ疑念が萌した時は悪魔に取り憑かれたと思つて、勿々に沸ひ除けるやうに警めてゐるね」と云ふのであつた。事實、大概の作家が、そんな場合には慌てゝ左様な忌むべき不安を追つ祓う払ふやうに努め、ひたすらそれに眼を閉じてしまふのであるが、現在の私は、それを「悪魔と思へ」といふシエンキウイツチの説には賛成し難くなつてゐる。私は一方に於いて、「年を取ると、短い詩形程好もしくなる、三十一字の和歌の形式でもまだ長過ぎると思ふやうになる」と云つた北原白秋の言葉を想起する。これとシエンキウイツチの言と、必ずしも矛盾してはゐないであらうが、何にしてもわれわれ日本人の作家の多くは、老齢に及ぶに従つて本格的な書き方を面倒臭がるやうになり、場面の描寫や會話の遣り取りなどに苦心するのを、無駄な仕事のやうに感じ出すのである。さうしてそれが、一時の疑念や不安でなく、われわれの體質の深い所に根を据ゑてゐるらしいので、さう簡単には迫追つ払ふ譯に行かなくなる。此のことは、讀者の側に廻つてみてもさうであつて、若いうちこそ小説的な作品でないと物足りないが、老人になると、さつぱりさう云ふ書き方に興味がなくなる。どんなに巧く書いてあつても、巧さの底が知れてゐる、讀まないぅちから分つてゐると云ふ氣がして來る。現に私なぞがめつたに雜誌の創作欄に眼を通さないのも、叙事文にすれば半枚か一枚で済むところを、事も細かな段取りを踏んでゐるのが、たどたどしい、煩はしいものに見えるからである
〇
一體、讀者に實感を起させる點から云へぼ、素朴な叙事的記載程その目的に添ふ譯で、小説の形式を用ひたのでは、巧ければ巧いほどウソらしくなる。私ほ永井荷風氏の「榎物語」を正宗(=白鳥)氏が推称する程には買つてゐないが、しかしあの作品が正宗氏を感動させたのは、主としてあの中に含まれてゐる實感のせゐであらうと思ふ。さうしてそれは、一にあの簡略な、荒筋だけを述べてゐる書き方に由来するのである。
* 若い書き手にこれを拳々服膺せよなどとわたしは云わない。これは若い人でなく、いまわたしの年齢の者こそが真剣に向き合って自身で乗り越えねばならない難所なのである。
芭蕉俳諧における大成後のとも謂える「軽み」の境涯は、同伴者たちにも大きな誤解を与えた。それと谷崎の晩年老成の文学とは一つことに入れ混ぜて読んでは成らないけれど、問題のむつかしさにおいて、なかなかの重さである。わたしは、正直、それに悩んでいる。
2012 9・19 132
* 真澄の鏡の上を流れる雲や雨のように、物・事・人は流れ来て流れ去る。来る者は来させ、去る者は去らせ、呼び求めず、呼び追わず。来べきは必ず来る、帰るべきは必ず帰ってくる。命の今の根かぎりは、真澄の鏡のように涯てない青空とともに在りたい
2012 9・20 132
* 夜前の読書で、とうとう『イルスの竪琴』全三巻を、またまた読み終えてしまった。残り惜しくて最後の盛り上がりのあたり一字一行を愛しむように読んだ。三巻の最後巻を今回はほんとうに入念に愛読した。訳者の脇明子さんに貰ってから、何度も何度も愛読した。さすが泉鏡花の研究者でもある脇さんの訳は美しい。この原作の複雑で精微な表現を日本語に置き換えるのは大変だったろう。 日本文学は別として、もし愛読書はと聞かれれば、躊躇無くマキリップの『イルスの竪琴』とル・グゥインの『ゲド戦記』と答えたい。この二作は、なぜかわたしの「故国」のように想われる。この地球世界とは完全な他界であることを懐かしく愛しているのだ。『イルスの竪琴』は、尾張の「鳶」さんに貰った英語本三巻も、まがりなりに通読している。また英語でも読みたくなっている。
さて今度は代わりにゲーテの『親和力』を初めて読んでみようと枕元の書架へ新たに入れた。ゲーテは『ファウスト』を耽読の後、いまは『イタリア紀行』の第二巻を楽しんでいる。ゲーテ、プーシキン、チェーホフ、トールキンと、精選されている。ホーガンのSF『星を継ぐもの』も楽しんでいる。
2012 9・25 132
* 谷崎の『文章讀本』を愛読中。いろんな人の文章講座を読んできたが、谷崎のものがさすがに鷹揚にかつ緻密に精彩に富み、谷崎の筆力の最も充実していた時期の執筆と頷ける。
読み返していて、いかに私が此の谷崎の導きに懸命に忠実であったかが、涙ぐましいまで実感でき、今も膝を折り襟を正して読みたいほどだが、寝床の中の横寝で重い全集本を読み継いでいる。
どういうところがと紹介したいが、本一冊の多くを書き写さねば用をなさないだろう。文学は音楽であると同時に用いる漢字・かなの配合から見栄えのする文字づかいも大事と。久しく肝に銘じている。
2012 9・29 132
* 梅原猛さんの『能の恋』を興深く読み始めて、最初の「井筒」に関する論考を読んだところで、一つ、典拠とされてきた伊勢物語についての梅原さんの理会に、疑問がある。
伊勢物語は、在原業平を書いているという理会は昔から伝わっているが、厳密に言われてきたとは思わない。そのようにも思わせてあるこれは本来、事實物語ではなく、明らかなフィクションなのである。同時代の大和物語が厳密を問わない限り実名もあげての事実物語であるのと比べ読めばすぐ分かる。
事実物語でなくフィクションである事実にこそ目をとめ、その意識をもてば、後世の人が盛んにいろんな説をたてて怪異なほど荒唐無稽の、または優れた想像と創作とを加味した「別次元のはなし」を組み立てることは、事実世阿弥が「井筒」を書き上げていたように、評論であれ創作であれ、それ自体はなんら異とするに足りない。世阿弥に限っていえば「井筒」の本説は伊勢物語が主格でありはすれ、彼が伊勢物語を事実物語と受け入れていたとは思われない。事実物語では無ければこそ、自身の創作に人間の真実を打ち立てることが可能と世阿弥は考えていたろうし、こと創作に真剣に立ち向かう誰しもがそう考えるとわたしは思う。
梅原さんがもし伊勢物語を業平の「事実」次元で意識しながら「井筒」を批評し鑑賞され論考され、また後生の評論・論攷などを批判されているのであれば、それはどうかと思う。伊勢物語は、在原業平という実在を意識下にあえて秘めたまま架空の物語も段々に満載した根の性格はフィクションなのである。そうと理会すれば、「井筒」の問題は、世阿弥の想像力、理会力、創作力の評価と鑑賞とに尽きる。他の寄り道はむしろ事をことごとしくしてみせるに終わるのである。
2011 10・1 133
* さすがに今日は、いろいろに、疲れた。「死なれた」人たちの歎きにふれ、「病んだ」「いま病んでいる」人たちの苦渋にもふれてきた。妻の叔母の死に顔にもふれてきた。通夜や葬式に意識して遠のいてきたわたしが、なにを思って妻の叔母の死と火葬とを見送り、また大勢の親戚達にも顔を見せに出かけたのか、じつのところ自分で分からない。死者と、生者の多くに会いに行ったのだ、その五体にひびいた振動は、やはり、しんどかった。疲れた。
だが、わたしは、いくら疲れてしんどくても、そういう人なかへ出るのを、むしろこれからも敢えてしてみようとすら思っている。久々にペンの例会や、ゆるされるなら委員会のゲストとしても顔を出してみたいなと。一方ではいたずらに幽霊のように痩せて皺だらけの己れを人に見せに出て行くのは、悪い冗談かとも遠慮する思いもある。
2011 10・1 133
* 今日、平凡社ライブラリー『京のわる口』がきれいに仕上がって送られてきた。「喜壽の自祝」としよう。
一般の大手出版社からは久しぶり。市販著書百巻を超えた。そしてべつに、湖の本が百十三巻。一心に歩んできた。
2012 10・3 133
* ゲーテの『親和力』はまだ四分一しか読んでないが、面白い。そのなかで、今夜、印象的な箴言を聴いた。
「エメラルドがそのすばらしい色で、視覚を楽しませるとすれば、いや、この高等な感覚に、いくらかの浄化力を及ぼすとすれば、人間の美しさというものは、さらにはるかに大きな力を、官能と精神に及ぼす」と。
この場合の人間の美しさをゲーテが外形や容貌の美に限っていたか、そうではあるまいと思う。わたしもまた彼の謂う「人間の美しさ」に常に出逢いたいと焦がれている。いないとは思わない、ゲーテ的に美しい人はいる、何人にも逢ってきたと思っている。それは魂の栄養であり財産である。わたしの屡々いう真の「身内」は、そういう人に近い、いや同じであると思っている。た
やすく「身内崩れ」しない美しい「身内」に逢いたいものと、今でもわたしは願っている。
* 明日もう一日家にいて休める。明後日は歯科。土曜日は日比谷の日生劇場で松たか子再演の「ジェーン・エア」が楽しみ。初演とどれほど新しい演出や演技が働くか。期待している。松たか子も「美しい人」の一人だとわたしは観てきた。
2012 10・8 133
* 「死という地点において知識は破綻する。そして、おまえは存在に開くのだ。」「それはあらゆる時代を通じて仏教の根本体験であり続けてきた」とバグワンは直言する。「知識が破綻するとき 心(マインド)が破綻する。心(マインド)が破綻するとき そのとき<真実>がおまえを貫く可能性が在る」とも。「だが、おまえはそれがわからない」とも。
わたしは今、知性以上に豊かな感性が欲しい。おどろいたり、たのしんだり、真も善も美も自由に素直にうけいれられるような。
2012 10・10 133
* 「もし神が存在しなければ、発明しなければなるまい」とヴォルテールは言ったそうだ、フローベールの『紋切型辞典』によれば。その必要は無いとわたしは言っておく。
「考える」のは「つらいこと。それを強いるような事柄は、ふつうなおざりにされる」と。「考える」だけで事がおさまると考える人は「マインド」に引きすられている。「ハート」が働いていない。
「簡潔 laconisme 」とは、「もはや現代では見られない文体」と。この「現代」はフローベールの生きた十九世紀のこと。「laconisme 」とは口数の少なかった「スパルタ人のような話し方」の意味。われわれの時代では志賀直哉のラコニスムがよく知られている。
「感謝」は「言葉で表現する必要はない」と。どう表現するかはその人人の知性や感性や人間の問題に帰する。
* 一僧が臨済慧照禅師に問うた、「師は誰が家(たがや)の曲をか唱え、宗風阿誰(たれ)にか嗣ぐ」と。「師云く、我黄檗(=黄檗禅師)の処に在って、三度(たび)問いを発して三度打たる」と聞いて、「僧擬儀す」 この師のその師に三度答えて三度とも打たれたと知り、なにか気の利いた思案を加え、ひとこと云おうと仕掛けたが、その途端、「師便(すなわ)ち喝して、後(しりえ)に随って打って云く、虚空裏に向って釘 (ていけつ)し去るべからず」と。「虚空に釘を打つような真似はするな」と大喝一棒を食らわせたのだ。当然だ。
これに比して、この師の上堂(しょうどう=法堂に上り師の座についた、陞座)最初に、「那(なん)ぞ綱宗(こうじゅう)を隠さん。還(は)た作家(さっけ)の戦将の直下(じきげ)に陣を展べ旗を開くもの有りや、衆(しゅ)に対して証拠し看よ」と大衆の発語を求めたに直ぐ応じ一僧が出て問うた、「如何なるか是れ仏法の大意」と。「師便ち喝す。僧礼拝す。」これに就いて「師云く、這箇(しゃこ)の師僧、却って持論するに堪(た)えたり」と。
無用の言葉にたいする徹底した姿勢に禅は賛同している。
わたしなど、遙か遙かの圏外をうろちょろしているだけ。
2012 10・11 133
* お茶の水女子大の教授をされていた三木紀人さんから「日本人のこころの言葉」シリーズに入った創元社刊の『鴨長明』を戴いた。三木さんは、昔も昔はお名前など確かめられなかった。なにしろわたしは東大と何の縁も無かった。文学部の書庫入りを可能にしたのは、仕事でご一緒した当時小児科助教授、のちには日大医学部長、学術会議会員になられた馬場一雄先生で、人物保証の紹介状を書いてくださったのである。の書庫で親切にして下さったのが、わたしと同年の三木さんだった。娘がお茶の水に入学して教授の三木さんを知り。三木さんの口から昔の出会いを告げ知らされたのだ。
御陰で論文も書けたし、後の長編『斎王譜 改題して 慈子』が生まれたのだった。
人は一人で生きてはいないのだ。
* その三木さん、当然ながら一番最初に「方丈記」の書き出しを「こころの言葉」に挙げておられる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と。
記事の表題には「川の流れに無常を感じると。
いまのわたしは、これに「無常」よりも、より深く「常」を覚えている。
また「子を思う心のあわれさよ」と表題して、
「そむくべき憂き世にまどふ心かな子を思ふ道はあはれなりけり」という長明の歌が出してある。「子を思ふ道はあはれ」と解ってもいるが、わたしの場合六十に近い娘や五十になろうという大人も大人のわが子秦建日子を思って「あはれ」という時季は過ぎている。彼女も彼も、胸に恥なき歳月を追うて行くしか無い、わたしの務めは妻の健康と元気を見守るだけだ。
なんとなく、わたしは鴨長明に無用の感傷癖をおぼえるときがある。「方丈記」は名作であるが。
2012 10・11 133
* 「禅」とは、原義「天をまつり、(ついでに)地をまつる」ことで天子一世一代の盛儀であった。堯が舜に、舜が禹に天子の位を譲ったのが「禅譲」で、理想的な帝位継承であった。世がくだるにつれ理想的な禅譲は成らず、武力による「革命」が常のようになった。大義名分のために「革命」にも「天意」を読んで格好をつけた。今日の日本の政局でもときに報道される「禅譲」にはロクなものはなく、悪例ばかり。
わたしの心を預けたい「禅」の意義が中国であらわれたのは、仏教が伝来し、ことに達磨が中国に来て、ようやく「瞑想」を意味したサンスクリットのディヤーナまたはジャンの音訳語としてである。「禅」の原義とはかけはなれて無縁の「禅」「禅定」が生まれたと謂える。「座禅」がその修養・徳目となった。
漱石の「吾輩は猫である」でもかの猫は「座禅」を的確に語っている。漱石はしかし「禅」の落第生であった。
今日の世界的な「禅」は禅僧の只管打坐とはうってかわり、ただ「穏和」「温厚」の意義でむしろ大衆化されている。
及第・落第は別として、私の場合「禅」の語に触れて心を動かしたのは、日吉ヶ丘高校生の昔、ひとつには漱石作「門」や、鈴木大拙の岩波新書「禅と日本文化」ないし熱愛した高神覚昇の「般若心経講義」であった。その頃には、今一方に浄土教、法然や親鸞を書いた小説や戯曲に惹かれてもいて、むしろ七十七年になるわたしの人生のかなり長期間を「念仏の魅力」にわたしは抑えられていた。それでもその途中に「臨済録」や「道元語録」に胸を圧されていた。
そしてそのうちに、あの有難い法然の「一枚起請文」ですら一種の「抱き柱」ではないのかと気づいた。般若心経などを除いて多くの仏典はつまりは「ファンタジイ」なのだと悟り、「禅」の意義に思いを寄せ直してきた。前世紀末の禅にも道にも深いバグワンとの出逢いは実に実にわたしには言語に絶してありがたかった。
* 江古田のブックオフへ比較的新刊の単行本六冊、小一万ほどのものをもっていった。いくらで買ったとおもいますか。しめて「231円」一冊がではない六冊全部で。やはり図書館に寄付する方が気持ちが良い。ブックオフでは「買う」にとどめる。
* 疲れた。
2012 10・15 133
* 古来「臨済の四料揀」といわれる難解な発語に続いての、臨済の曰わくには、胸を押される剛力がある。
☆ 臨済に聴く 「臨済録 示衆」より 訳読に拠って摘録する
なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る。
いまわしがおまえたちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。 おまえたちの駄目な病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もしおまえたちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
外に向って求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏(=即ちおまえたち自身・実存)の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、おまえたち。今・此処で仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。
おまえたち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根(=眼・耳。鼻・舌・身・意)から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはない。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。
* バグワンがいかに同じ意義を滾々と語り聴かせてくれていたかを、ありがたく思う。外は外。内なる自身を刮目して見極め真の自由を得たい。ためらっている場合では無い。
2012 10・21 133
* 今朝も「臨済録」に鞭打されていた。
「死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。おまえたちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。」「おまえたちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。おまえたちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も、説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発しているおまえたちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。」 「ただ想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。」
* まさしくバグワンに聴いていたことだ。「決して外に向けて求めてはならぬ。」「想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。」とバグワンに聴いてわたしは承服してきた、実践はなかなか出来ないが。
「なんぢが一念心上の清浄光は、是れなんぢが屋裏の法身仏なり。なんぢが一念心上の無分別光は、是れなんぢが屋裏の報身仏なり。なんぢが一念心上の無差別光は、是れなんぢが屋裏の化身仏なり。」とある。「清浄」「無分別」「無差別」の三光に照らされたいと思ってきた、願ってきた。「無分別」と謂うと今世では思慮のない意味、不徳と思われがちだが、臨済が説きバグワンが謂うこれは、例えばごみを出すときの「分別(ぶんべつ)」を事としてはならない、あれかこれかと選択に心を弄してはいけない意味である。
2012 10・22 133
* 中国文学者であられた興膳宏さに、送本のついでに失礼ながら、私の「恒平」名二字になにか典拠が有りましょうかとお尋ねした。二度ばかり読書の中でそれらしい何かに行き当たりながら書き留めなかったので忘れ果てていた。興膳さんは、特に見当たらないが、「ただ、清の康煕年間の宮廷雅楽に、「恒平」の曲の存したことが、「清史稿」に見えます。恒久平和の意と思われます」と。これは興膳さんからの謂わば「喜壽」を違和つて下さったものと思い慶んでいる。
なかなか恒久平和とは生きてこれなかった。憤ろしいことも悲しいこともあった。だが嬉しい、晴れやかな、励まされることも多かった、その方が多かった、と顧みて思えるのが有難い。
振り向くな、過去を顧みるなとバグワンに叱られてばかりいるが、心弱るとついそういう気味に陥る。
2012 10・26 133
☆ 臨済に聴く 『臨済録』(入矢義高訳注)に拠って
「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。」そんな「心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」「わしがこのように説く目的」は、「おまえがあれこれ求めまわる心を止めることができずに、古人のつまらぬ仕掛けに取り付いているからだ。」「おまえが、、無限の時間を空じきるまでに達観できておらぬから、そんなつまらぬものにひっかかるのだ。ほんものの修行者なら」「ただその時その時の在りようのままに宿業を消してゆき、なりゆきのままに着物を着て、歩きたければ歩く、坐りたければ坐る。修行の効果への期待はさらさらない。」「あれこれ計らいをして、成仏しようなどしたならば、そういう仏、そういう行業こそは生死輪廻のでっかい悪しい引き金、生死の大悪兆だ。」
* バグワンに再三再四聴いてきたのと、完璧なほど、同じいのに力を得る。
2012 10・28 133
* 美しい佳いものへの感受力は、われわれ凡人ほど相応に人生のいろんな場面で鍛えていないと身に付かない。百万円だと思い込んで五千円のしろものを買い込むのは、低俗な読み物やエンターテイメントがおもしろいと思い込んで純然の藝術文学を知ろうとしない姿勢に、全く同じ。
とはいえ、本物・本作から逸れた「似せ物」にも、思いがけぬ勉強の跡か゜真摯に垣間見える例も、在るのを馬鹿にしてはならない。そういう例を甘んじて発見し愛好することも美の体験には実在する。藝術の創作は、体験や心理のどこかに「模倣」の必要や必然が忍び入っているのがむしろ本来なのである。「藝も美も」体験して身につけるより王道も捷径も無い。
2012 10・28 133
☆ 臨済録に聴く
「おまえたち、時のたつのは惜しい。それだのに、おまえはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて臆測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、おまえ。」「このうえ何を求あようというのだ。自らの光を外へ照らし向けてみよ。古人はここを、『演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止まったら無事安泰』と言っている。おまえよ。まあ当たり前でやっていくことだ。あれこれと格好をつけてはならぬ。世間にはもののけじめもつかぬ悪僧の手合いがいて、何かといえば神がかりをやらかし、右へ左へとくるくる向きを変え、『やあいい日和だ、やあいいお湿りだ』と御託を並べる。こんな輩は、みんな閻魔王の前で焼けた鉄丸を呑んで借りを返させられる日が来るだろう。ところが、しゃんとした生まれのはずの修行者たちが、こんな狐狸の手合いに化かされて、さっそくうろんまことをやらかす。愚か者め。閻魔王に飯代を請求される日がきっと来るぞ。」
演若達多 鏡にうつる自身の美貌を楽しんでいたが、ある日直に顔を見ようとして見られず、顔を失ったと町中を走り回った男。自己を見失った愚かさの喩え。
核心は「要平常、莫作模様 当たり前でやっていくことだ。あれこれと格好をつけてはならぬ。」
生皮を剥がれる心地がする。知識人ほどこれが出来ぬ。
2012 11・2 134
* のびのびした「文章」が書きたい。が、ただの懐旧談ではつまらない。続けて書くならべつの場所がいいだろう。
2012 11・3 134
* 無事是貴人 但莫造作 祇是平常 無事是れ貴人 ただ造作すること莫れ ただ是れ平常なれ
「無事」とはなにごともなしに済ませた通り抜けた意味でもあるが、余計な何事もせず真実悠然無為の意味と思う。「造作」とは建築の意味でなく、あれこれと画策して動き回る意味と思う。「平常」とは、真実ありのままに健常な生き方暮らし方に安心し落着いている意味か。わたしは無心に、すべきことはしたいのだ。
2012 11・5 134
☆ 「仏法は用功の処無し、ただ是れ平常無事。」「古人云く、外に向って工夫を作(な)すは、総べて是れ痴頑の漢なり、と。なんぢしばらく、随処に主と作(な)れば、立処皆真なり。」と、臨済は喝する。
「平常無事」かつ「随処作主」 なかなか、なかなか。
2012 11・7 134
* 八月、九月、十月は、それぞれ月に十三回も通院や外出に費やした、三度の入院生活のあとに、である。堪えられたのは結構であった、ある程度まで肉身を働かせるのはわるいことではなかったろう。「暑い」「汗」の実感の無い炎暑であった、ただひたすら「まばゆさ」が苦であった。抗癌剤は涙、洟水になって襲ってきた。砂や灰を含んだような口の苦さで、ほとんどの飲食がままならなかった。食べられなかった。むりやり飲み込むと誤嚥で吐いた。からだの芯が抜けてしまったような疲労にもしばしば襲われた。はあっはあっと小さな吐息が漏れるとからだは疲労感にたちどまってしまう。昨日も銀座を最寄り駅へと杖でよたよた歩きながら何度か道の真ん中で立ち止まって呆然としていた。
それでもわたしは負けても屈してもいない。身心にめだつほどの苦も痛もなく、執筆も出来、読書も出来、外出も観劇なども出来、少しずつ酒ものめる。寝てしまうことも出来、入浴読書も愉しんでいる。大勢の方の励ましやお見舞いを有難く頂戴している。病勢よりも、こうした生活力がまだ優勢を保っているのが頼もしい。「もう半年ありますよ」と昨日は医師先生に笑顔で捻子を巻かれてきた。
はっきりいって胃全摘のあとも体内に残っていたという癌細胞が、まだ存在し増殖し転移しているか、薬効で逼塞しているか、もう絶滅してるかは、まったく分からない、まだ調べようがない。
そんな心配はしないことにしている。いまここでわたしのしたいこと、しなくてはならぬことは、あらまし承知して対応に努めている。努めといっても義務感からではない、養生というよりも「天養愉快」に身心をまかせている。
このごろときどき夜中に目覚めていることがある、不安からでは無い、なんだか歌が出来て出来て、歌の言葉や表現が満潮のように半ばは夢寐に押し寄せてくる、せっせせっせと歌を作っている。おっそろしくエロティークな歌も自動機械のように出来てくる。また創作の文章をそらんじている。むろん記録などできなくて、朝になると片鱗ほどの記憶しか残っていない。しかし、いやなのではない。からだが望んでそうさせるのだろう、応じてやっていいと放り出したままそんな真夜中を無意味に受け入れている。
2012 11・9 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
当今の学者たちは、まったく法とは無縁だ。(今時学者、總不識法) まるで鼻づらを物にぶっつけたがる羊みたいに、何に出会ってもすぐロに入れてしまう。( 逢著物安在口裏) だから奴隷と主人の区別もつかず、主と客の見分けもつかない。こんな連中は、初めから不純な目的で学ぼうとしたやから(如是之流、邪心入道)で、にぎやかな場所にはすぐ首をつっこむ。これでは真の学者とは言えぬ。まさに根っからの俗人(真俗家人)だ。
いやしくも真に学道の出家とあれば、ふだんのままな正しい見地をものにして、仏を見分け魔を見分け、真を見分け偽を見分け、凡を見分け聖を見分けねばならぬ。こうした力があってこそ、真の学者と言える。魔と仏との見分けもつかぬようなら、それこそ一つの家を出てまた別の家に入ったも同然で、そんなのを<地獄の業を造る衆生>という。とても真の学者・出家者とは呼べぬ。
たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとき真偽・邪正を見分ける気の能力者は乳だけを飲む。しかし真の眼力を具えた学者・修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。(魔仏倶打)
おまえがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦海に浮き沈みすることになろう、(生死海裏浮沈) 今のおまえが、それだ。
* すこしく、わたし個人の気持ちを入れて聴いている。末尾の一句はわたくし、現下の自覚。
とても難しいところが、きちっと謂われている。
2012 11・13 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
問い、「仏と魔とはどんなものですか」
師は言った、「お前に一念の疑いが起これば、それが魔である。(一念も生死を計れば、即ち魔道に落つ。) もしお前が一切のものは生起することなく、(万法唯心、心もまた不可得 存在として心は把得できぬ) 心も幻のように空であり、(一切の諸法は幻化の相) この世界には塵ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。
ところで仏と魔とは、純と不純の相対関係に過ぎぬ。わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人もない。得たものはもともと得ていたのであり、(理法は求めて新たに得るのではなく、本来自己に具わっていることの体認・目覚め・気づきこそ肝要) 時を重ねての所得ではない。もはや修得の要も証明の要もない。(道の修すべきなく、法の証すべきなし。)
* バグワンも常にこう語っていた。「分別心 マインド」が障礙だと。修行苦行して得るもので無い、すでに備え持った仏性に気づいて目覚めよと。まことに、まことに然かあるべし。
2012 11・14 134
* 一つ、小説もエッセイも書くmaokatさんに苦言を。
「初雪が降るころには少し余裕ができるといいのですが。」の一行には「が」の三つも、ま、韻を踏んではいるように読めます。それでも、最初の「初雪が降る」は、「初雪の降る」とお行儀よく。二つ目の「余裕が」も「余裕も」と柔らかに、そして行尻の「が」は、この頃のわたしは、一呼吸いれ、「いいのです、が」などと書きクセになっています。但し最後のこれは、あまりお奨めではありません、が。
2012 11・14 134
* このごろの新聞紙面の見出しに、「出生前」「出生前小児」の文字を何度も見かける。かつてはそうそうは用いられない学術用語であり、れっきとした研究書で真っ先に『出生前小児医学』と題し出版されたのは、編集者わたしの出版企画で、当時日大病院長をされていた馬場一雄教授の監修そして共同研究の成果であった。「出生前小児」と馬場先生の口から題名が提示されたとき、もう十数年も編集者を務めていながら、はっと胸をつかれ、瞬時にその研究意図・出版意義を解した。ためらいなく企画書を書き、企画会議を異論無く通過した。退社した一九七四年の二年ほども前に堂々の大冊を医学界に送り出した。
そういう発想があるのかと驚かれた小児科医も当時少なくなかったし、部数の千部が速やかに捌けたわけでもなかった。だが、わたしの処女企画、一九六○年頃の東大小児科・産婦人科の両教授を口説き落として両科の大規模な共著『新生児研究』を成し遂げたのとともに、わたしの誇らしい編集企画であった。
今日、小児科産科が共同の新生児科は実質的に各病院に常設されているし、新生児学会も医学総会に承認されている。
そして最近になり、わたしの眼にも「出生前小児医学」の大切さが、放射能内部被曝のこともあろう、いろいろに問題視されてきたのは嬉しい限り。医学書院での十五年ちかい編集者生活で、わたしの企画した研究書は『免疫学叢書』『医原性疾患』『血管造影の臨床』『農村保健』また綜説雑誌「小児医学」創刊など、百数十冊にも及んだ。今にして思う、わたしに向いていた職場であったと。 2012 11・14 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
おまえに言う、大丈夫たる者は、今こそ自らが「本来無事の人」であると知るはずだ。残念ながらおまえはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、(念々馳求) 頭を見失って更に頭を探すという「愚」をやめることができない。円頓を達成した菩薩でさえ、あらゆる世界に自由に身を現すことはできても、浄土の中では、凡を嫌い聖を希求(厭凡忻聖)する。こういった手合いはまだ「取捨の念」を払いきれず、「浄・不浄の分別」が残っている。
禅の見地はさようの迷惑とは違っている。ずばり「現在そのまま」だ。なんの手間ひまもかからぬ。(直是現今、更無時節)
わしの説法は、皆その時その時の病に応じた薬で、実体的な法などはない。
もし、このように見究め得たならば、それこそ真実の探求者・出家者で、(俗塵に塗れず無心に=)日に万両の黄金を使いきることもできる。
おまえ。おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、通が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作り(皆是造地獄業)だ。真実の求道者であれば、世人のあやまちなどには目もくれず(不求世間過)、 ひたむきに正しい見地を求めようとする。もし、正しい見地に目覚め得て月のように輝いた(圓明) なら、初めて正覚は成就したことになる。(方始了畢 まさに初めて了畢せん。)
* 知解はしている、それが「いけない」。いけない、いけない。知解で満足してしまうのが、知識人の地獄なのだ。
2012 11・15 134
* 青田吉正さんから、「京ことばの『批評性』に注目」と特筆されている『京のわる口』紹介の新聞記事を送ってもらった。となりに、鶴見俊輔さんの『身ぶりとしての抵抗』という、ま、エッセイ雑纂らしい本の紹介があり、これが、わたしの甥・黒川創の「編」だと。
わたしも生涯一度、『谷崎潤一郎家集』という豪華本の二冊を、松子夫人の序文もろとも克明に「編纂」したことがある。文学史にも寄与しえた、谷崎研究者・愛読者としての佳い「仕事」になった。
学研からの『泉鏡花』『枕草子』も、そういえば「編纂」の仕事だった、そういえばまた、光文社「知恵の森文庫」で、岡倉天心・幸田露伴・三条西公正・安田靫彦・武者小路実篤・高村光太郎・村上華岳・会津八一・北大路魯山人・亀井勝一郎・吉川英治・宮川寅雄ら近現代十八氏の古美術読本『書籍』をわたしは「編」してもいた。いずれも雇われ仕事で無いわたし自身の渾身の「仕事」であった。
2012 11・16 134
* 仕掛かりの幾つもがあるのに、突如新しい「寓話」が書きたくなって、書き出してみた。躁ではない、だがわたしは鬱でも全くない。こんなに仕事も楽しみもあるのに、海とも山とも分からない病状に「気」で負けていられない。「湖の本」114の校正も進めているが、115の構想も出来つつある。
いま、メールをわたしは殆ど自分から使わない。使い始めれば途方も無く必要な時間が殺がれる。手紙や葉書も、ましてそうで、わるいし申し訳も無いが、妻に、ほぼ全部の必要を助けてもらっている。
したいこと、せねば済まぬ衝動がはてしなく在る。機械の前へ一度坐れば、身をもぎ離すほどでないと「仕事」が止められない。あるいは「生き急いで」いるのかも知れないが、目下はそんな気分に無い。「創作」と「私語の日録」と「機械の整備・整頓」と、それだけでたいへん。しかもそれが「要すれば好き」なのだから仕方が無い。有難い。
2012 11・17 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
凡常の修行者たちは、いつも名前や言葉に執われるため、凡とか聖とかの名前にひっかかり、その心眼をくらまされて、ぴたりと見て取ることができない。
例の「経典」というものも看板の文句にすぎぬ。修行者たちは、それと知らずに、看板の文句についてあれこれ解釈を加える。それはすべてもたれかかった理解にすぎず、(皆是依倚) 因果のしがらみに落ちこんで、生死輪廻から抜け出ることはできぬ。 追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩詞不思議というものだ。
おまえに言う、おまえの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。おまえはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。
ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。(光陰可惜、念念無常) 大にしてはこの身を作る地水火風〔の変調〕に、小にしては一瞬一瞬が生住異滅の転変に追い立てられているのだ。
おまえ、おまえは即今ただいま、これら四種の変化が相(かたち)なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ。
* このおしえを、バグワンにも教わって知解はしているが、これと、「反原発」のいわば闘いとはどういう関わりになるのか。「生住異滅の転変に追い立てられている」だけなのか。
2012 11・19 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
わしの見地からすれば、すべてのものに嫌うべきものはない。おまえが、もし(凡を嫌って)聖なるものを愛したとしても、聖とは聖という名にすぎない。修行者たちの中には五台山に文殊を志向する連中がいるが、すでに誤っている。五台山に文殊はいない。おまえは、文殊に会いたいと思うか。今わしの面前で躍動しており、終始一貫して、一切処にためらうことのないなら、おまえ自身、それこそが活きた文殊なのだ。おまえの一念の、差別の世界を超えた光こそが、一切処にあって普賢である。おまえの一念が、もともと自らを解放し得ていて、いたる処で解脱を全うしていること、それが観音の三昧境だ。(この三つのはたらきは)〕互に主となり従となって、その発現は同時であり、一がすなわち三、三がすなわち一である。
ここが会得できれば、はじめて経典を読んでよろしい。
* とてもわたしは今、経典に向かおうと願わない。今の私には経典がただのファンタジーとしか読めない。いろんな世事に思いを向けて他念なくそれに打ち込む、いわば作務禅に無心に打ち込んでいたい。悟りを待つ気もない。
2012 11・21 134
* 少しだけ告白しておく、わたしはほぼ五年このかた、三つまたは四つとも謂えるが、「小説」に思いを籠めてきた。まだまだ先途は永いだろう、が、ゆっくりでいい、投げ出したくはない。
一つは、平家物語に取材した現代の物語。一つは、「おやじ殿 実父」の人生苦闘のスケッチ、そして男女の徹した性的関係を一つの理想として描こうとする性と人間との探求作で、これは、二通りに書き継いでいるので、あわせて四つの草稿を、女性に託して謂えば陣痛に堪えながら出産しようとし続けている。そのためにもわたしの気力を衰えさせてはならない。自戒として書き置く。
2012 11・22 134
* この時代の宗教家、日本でなら主として仏教家達は国民の苦悩などについてどう考えているのかと、時折、深刻に想像した。ことに他力本願で自力を忌避してみえる浄土系の僧たちは、例えば原発危害のため故郷や肉親知友を失い亡くした人たちをどう眺めているのだろうと。
わたしのところには親鸞仏教センターから「通信」や定期刊行の本格の雑誌類が送られてくる。今し方届いた「通信」43号の巻頭に研究員という肩書きの花園一実氏が「真宗と他者」というエッセイを掲載されていて、すぐ読んだ。信者にだけでなく大事な観点をもった一文であり、お断りも省かせてもらい、早速そのまま此処へ転載させて頂く。
☆ 真宗と他者 親鸞仏教センター研究員 花園一実
最近、ある宗教学の先生が、浄土真宗の公共性について問題提起されている文章を拝見した。東日本大震災を受けて、多くの仏教者が現地において支援活動を行った。そのことの意義を大いに認めつつ、一方で仏教には、ボランティア活動などの公共的役割を果たすうえでの教理的な位置づけが未だ不明瞭ではないのか。特に浄土真宗では、他力念仏の教理を強調するとき、どうしてもそのような公共的活動が自力として退けられてしまう一面があるのではないかと、このような問題提起であった。
この間題に対して、「いや、それは真宗の何たるかを理解していない発言だ」と耳を塞ぎ、真宗とはあくまで「個の自覚の宗教である」と言い張ることはたやすい。蓮如は「往生は一人一人のしのぎなり」と言っているし、『歎異抄』には「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉もある。もちろん他者への関わりを蔑(ないがし)ろにするわけではないが、肝心な問題は一人ひとりが教えに出遇うということにあるのだと。しかし、そう言ってしまえば、この間題はそれで「おしまい」である。他所ではどうなっているかわからないけれど、とりあえず、私たちの宗派ではそのようになっている。だからこれ以上、議論の余地はない。
実を言えば、これは何より私自身がそのように考えていたのである。宗教はどこまでも「個」の問題、すなわち「自己の苦悩」という現実問題を離れて語られることは許されない。このことは今でも変わらない思いとしてあるが、ではその時、「他者」とは一体どこにいるのか。「個の自覚」こそが重要だと言われるその瞬間、「他者」の存在はどこかに流れて消えてしまっているのだろうか。逆に言えば「他者」が問題にならないところに、はたして本当に仏教とは成立するものなのだろうか。このことが、震災を経た今、大きな問題として自分のなかに生まれている。
かつて親鸞は、飢饉に苦しむ民衆を利益するため、自ら三部経を千部読誦することを試みたという。しかし、その行為に拭い切れない「自力の執心」を垣間見た親鸞は、苦悩のすえ読誦を中断し、他力をたのむ名号一つに専念した。後世を生きる私たちは、親鸞が「自力ではなく他力だ」と言ったその結論だけを切り出して、さもそれが親鸞思想の極致であるかのように鼓吹しがちであるが、それは大きな誤りであると思う。自ら民衆を強く思い、たとえ自力であろうが行動せずにはおれなかった、それこそが偽りない本当の親鸞の姿ではなかっただろうか。決して自力は無意味だと、離れた場所で念仏や書き物をしていたのではない。何より他者を考え、その他者との関わりのなかから、どうしても間に合わない人間の現実というものを、念仏の教えのなかに聞き取っていったその人こそが親鸞なのである。
だからこそ、私たちは凝り固まった机上の論理に埋没してはならない。「親鸞の思想にはこうある」ではなく、「親鸞ならどうするか」という、最もシンプルな問いに立ち返るべきではないだろうか。はたして真宗の教えは他者を救いえるのか。否、他者へのまなざしを忘れたところに、決して「一人」の自覚はありえないのである。
* ややたどたどしいが、趣旨には賛成できる。ただし花園氏一人の当座の思いだけでなく、親鸞の徒僧たちがみな同じ観想なのだろうか、むしろそうではないかに読める文脈がある。信仰が「一人」のものなら、「布教」に専念した祖師達は信仰の本義を逸脱していたか、そんなことはあるまい。信仰が人を救うという。この「人」とは僧という善知識にも信者らにとっても「他人・他者」である。阿弥陀や菩薩からみても「他者」を信仰へ誘うことが「他者救済」であった。大経の本願も、人が「皆」、斯く斯く満たされない限り自分は正覚を得ないと言うている。自身の極楽安住など問題にもなっていない。それは、この「通信」の次頁に掲げられた本多弘之所長の講話が「往相の回向と還相の回向」とだいされているのに、本質論として関わるのではないか。
「他力本願」とはどういう事なのかの本質的な問い返しが出来ていないなという、傍観者なりの観察が久しくわたくしに有った。はしなくも目にした花園氏の一文に、だから、目を惹かれたのである。
2012 11・24 134
* 「仕事」が疼くように動いてくると伴って勉強も調べも必要になる。
手元に史籍集覧本の『参考源平盛衰記』が全巻揃えてある。和綴じ古活字本、割り注が夥しく入る。普通に読む平家物語流布本はいわゆる語り本、この源平盛衰記は浩瀚な読み本で、双方の記事には繁簡の大差がある。この数十巻の読み本を読んで行く必要を感じて手元に積み上げた。興味をそそるかなりの発見が期待できる。
もう一つは実父について書いている、そのための父の筆になる原資料の厖大なのを読み解いてゆかねば成らない。これは只に興味だけで読めない、時にはわが生皮を剥ぐつらさも味わわねばならず、つい手がつかぬところが大量に残っている。
こういう仕事も、その実はとても楽しみな探索や探求であり胸がそよぐ。うまく行くとも限らない、しかし執拗に追ってゆけばこそ狩りの面白みも身に添うてくる。
2012 11・26 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
上のような気持ちの時に『臨済録』を開くと、「論説閑話して日を過ごす莫れ」と叱られる。
せめて、「論説」で「閑話」でもないんですと言い訳の利く仕事でありたい。
「但有(あらゆ)る声明文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり。」「仏境は自ら我は是れ仏境なりと称する能わず。」「境は即ち万般差別すれども、人は即ち別ならず。所以(ゆえ)に物に応じて形を現じ、水中の月の如し」と臨済は語る。
「物に応じて形を現じ、水中の月の如し」とあるような仕事に取り組みたい。
2012 11・26 134
* 『参考源平盛衰記』数十巻は、「東京府華族 徳川昭武」が「著者相続人 兼出版人」 「発兌人」は「東京府平民 近藤瓶城」と奥付にある。明治十五年三月三十日に「版権免許」 同十六年七月廿一日「出版」。徳川昭武は、世界博覧会に初めて日本を代表する工藝・美術家たちを勇んで引き連れていった人では無かったか。それは記憶違いもありそうだが、『参考源平盛衰記』をわたしにも閲読可能にしてくれたのは、有難い。都合で「三十四」巻から読み始めた。前にも読んだ。目当てがあって「読む」のはただの通読よりはるかに面白くて有難い。諸本の異聞・異文も割注で漏れなく出ており、読み慣れた語り本の記述とは大いにちがっている。ゆっくりゆっくり読まねばならないが、深い楽しみが一つ増えた。楽しむだけで無く、創作前進への栄養が欲しい。
* 「おやじ」である実の父の草稿や日誌は、おおかた以前に一度目を通したが、平静に読めないことが多く、もともとの風呂敷包みにして蔭に置いていたのを、覚悟も決め、また機械の傍へ持ち出した。へんに身構えずに、わたしの散文が書きたいもの。
2012 11・27 134
* 以下の引用・紹介は、その神髄までがわたし自身の中にもあると信じたい。信じて生きよう、もっと先まで。
☆ ロマン・ロラン作『愛と死との戯れ』より 片山俊彦訳
ソフィー(夫ジェローム・ド・クールヴォアジエへ。ロベスピエールら革命保安委員会の捕吏の今にもかけつけるのを感じながら) ーーそうです、もちろん人間というものは平凡で、下劣で、残酷で、信用のおけないものですわ。……ああ、悲しいことに、私たち自身の中にどんなにたくさんの怪物がかくれているか、とても口には言えないような、私たちを低く卑しくするような、どんなにたくさんの恥知らずな考えがあるかを私よく知り過ぎておりますわ。
……けれど私たちはそれを知ったからこそ、人々を自由にし人々を高めるためにこの(フランス)革命を始めたのですわ。私たちはその困難と危険とを知らなくはなかったのです。おそらくあんまり早く勝利を得られるように信じたことが私たちの誤りだったのでしょう。けれどこの解放運動の最初の頃、フランスのあらゆる魂が互いに抱き合ったことは善いことでした。それを残念に思う理由があるでしょうか? それは永く続くことはできませんでした。けれど、私たちが実際に味わったこの幸福を誰か羨ましく思わないでいられる者があるでしょうか? 未来の世界から振り返るときでも、誰かそれを羨まない人があるでしょうか? この幸福の花を摘んだのは私たちなのです。もうその花は枯れました。それ以来私たちはあの幸福の一瞬間の値を払っています。それは苦しい仕事です。けれど仕方のないことですわ。
あなたはあなたの科学のお仕事の中で自然の法則の苛酷なことと、それを受け入れることとを知るようになりなさった。この場合に、今更懐疑的になったり諦めたりなさるわけはございませんわ。山々を越えた向うの土地と、うねり流れる河とをーー「人間精神の進歩」を、大きい想像力の中に抱きしめることができるには十分なだけ高い場所に登る力をあなたは持っていらっしゃる。その進展の道筋をたどるためには二年三年の月日で十分だなどとあなたは一度だってお信じになったことはないではございませんか。いくつもの障害やいくつもの後もどりをするいく世紀の姿を、あなたは前もって見通していらっしゃる。いいえ、いいえ、私たちは「約束された國」を自分の目で見ることはありますまい。けれど、どこにその国があるかということを知り、そこへ行く道を示すだけで十分ではございませんか?
他の人たちが来るでしょう。もっと若い、もっと強い人たちが来るでしょう。その人たちは、中絶された道を、新しい力をもって歩きつづけて行くでしょう。私たちはこの現在につながれています。やがて来る人々のことを考えて心を慰めましょう! あなたを圧しつける恐ろしい出来事に対して、ジェローム、あなたはご自分の中にたくさんの保護者を持っていらっしやるのですわ。あなたご自身のお仕事、あなたの研究とあなたの発見ーー人間の愚かさも悪意もそこへは届かない「学問の国」を、あなたは持っていらっしゃるのですわ。その学問は、人々が望もうと望むまいと、ついにいつかは人々に解放を与えることでしょう?
(そして最期の最後に、迫りくる跫音を聞きながら)
ソフィー (心に苦悩をたたえて) ほんとうにせめて一人の子供でも残してあれば! ……いったいなんのために、なんのために、人生が私たちに与えられたのでしょう?
ジェローム (確固として) それにうち克つために。
* われわれ日本人は、こういう深い「幸福」を、一度もまだ持てていない。そして今の日本の多くはないが一部の原子科学者は、今が今の目先の利権や利得のあさましい奴隷になってきた。
2012 12・3 135
* 明日いよいよ総選挙。「卆・脱。反原発 即時原発稼働全停止 原発新設反対」「非正規雇用制の撤廃」「軍国化に絶対反対」「憲法改悪に絶対反対」の党を、ぜひぜひ支持し投票する。都知事においても同じ。
どうか五十年を恣に日本丸を沈没させたあの自民党悪政時代を再現せぬよう、せめてそれだけは聡明な、クレバーな有権者諸氏にお願いしたい。断乎として自民党の政権を阻止しよう。
* 原子力規制委員会は、原発の「拡散予測」を、もうなんと四度繰り返して今回は「全原発」の予測を撤回訂正している。担当していたのは「孫請け社員 たったの一人」だった。「放射線量を過小評価」したり、「風上・風下を取り違え」たり、「雨量を10倍にも多く入力」したり、福島の教訓をまるで生かさず、お話にならないその上に、旧保安院も規制委も、データを「自ら検証したことは全く無かった」のである。無責任を通り越し、ダラケ切っている。これも超保守と特権経済におもねった挙げ句の陰険なサボであったろう。許せない。
* 自民党内にも、かねて良識派と黙されてきた加藤紘一議員は安倍総裁らの甚だしい「右傾化に警鐘」を鳴らし、河野太郎議員ははやくから「脱原発絶対必要」と言い続けている。
また特権電力の横暴を削ぐに絶対必要な「発送電分離」を公約で必要と明示しているのは民主党、日本未来の党、共産党、みんなの党、日本維新の会、社民党、公明党の七党だけ。自民党はじめその他群小党は全く賛同していない。、
* またまた、今度は東北電力の東通(ひがしどおり)原発内に活断層の「可能性高い」と規制委の専門家全員が「指摘」している。こういう危うさの真上で原発安全神話は跳梁してきたのだ。「即時稼働全停止」は国土を危殆に瀕させまい第一義の「必要」なのだ。しかもなお東電は、「稼働率重視」を背景にした「福島事故中間報告」を今頃に提出している。死んでも直らない儲け根性の露わさよ。「譲れない 即原発ゼロ」と69歳女性の投稿を新聞は載せている。国民の多くが同感し、決意しているのだ。
* あの「3.11」の「後」に生きて。しかし生物絶滅へ核の影響は1000倍の速度と科学は指さしている。人間もやがては「消滅」かとも。それでも「核」を人間は弄くりまわすのか。
* もとよりわたしの関心事は他にもいっぱいあるが、「投票日の明日まで」は、上のような表明や批判や願望に徹したい。せめてはこのように発信しつづけたい。
たとえ臨済和尚が大喝して、「人有って一句子(いっくす)の語(=例えば、「反原発」など) を拈起して、或は隠顕(おんけん)の中より出づれば、便即(すなわ)ち疑い生じて、天を照らし地を照らし、傍家に尋問して、他(ま)た太(はなは)だ忙然たり。大丈夫児、祇麼(ひたす)ら主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、論説閑話して日を過ごすこと莫(なか)れ。」「但有(あらゆ)る声明文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり」と言われようと、これら言語の奥において背いているとはすこしも感じていないのである。
2012 12・15 135
* 午後にも晩にも、わくわくしながら書きさしの小説を書き進んでいた。なにかしら取り戻しつつあるが……ではでは、さて、この小説、湖の本ででもほんとうに発表できるのだろうか。罵詈に包まれるのではないか。ま、それはいいとしておく、今は。初校が成らねば話にもならないのだから。
2012 12・15 135
* 今度の湖の本114の「あとがき」の頭の方で書いたことだから、此処に重ねるのもどうかとは思うが、野田前総理に顕著であった「権」の大誤解に触れて、こんな歴史的な事実・真実をもう一度も二度も、人に、わけて政治家に、分かって欲しい。そのまま書き写す。
☆ 「権」の意味
*明けの夢で「権」一字を吟味していた。権力、権利、権勢、権門、それに権現(ごんげん)というのも。権(ごん)中納言藤原定家という「権」もある。権妻(ごんさい)というのもある。政権、覇権、選挙権、権柄(けんぺい)などもある。
「権」は、本当の本来ではなく仮に表された、仮に現れた意義を持っている。定員は二人とか三人とか限定されているのに、追加されたので定家卿と限らず大納言や中納言でなく権(ごんの)大納言・中納言たちが存在した。
「権」は、わかりよくいえば神のようなものの「代わり」「代理」「準(なぞら)えたもの」「授けられ与えられたもの」の意義を体しているに過ぎない。帯しているに過ぎない。「ほんものではない」のだ。
それを「ほんもの」の気で、生得の持ち物のように、権力、政権、権勢をふりまわす、それが人間の偽物づくしの歴史だ。仮に預かっているものに過ぎないのに、権柄をふりまわしたがる。権現様と祭られていても「仮に現れた神・佛」で、本地は他に超越的におわすという理解なのである。
「権」は振り回すものでなく、謙遜に預かっているだけ。政治家や会長・社長の類がいちばんモノを心得ていないけれど、いずれ代わりが出来てくる。「権」という制度は、心得ていれば人間の智慧でうまれたとも謂える。 2011.01.13
* あの野田が、口を開けば「わたしは総理大臣、わたしが決める、判断する」と、「民意」を蹴飛ばし続けて政治を大きく誤ったのは、「権」とは預かりモノという謙虚を微塵も持たず、大きな顔で栄達の限りとばかり心得、無反省に上から与え遣わすかのように暴政・悪政を連発し、今回天罰を蒙った。「責任をとるとは、自分の場合、議員辞職すること」と言っていたのも、平然と反古にし、「党代表」を自認しただけとは、さりとも情けない男である。
2012 12・18 135
* 「騒壇余人」の印を、小松の井口さんに頂戴しているのを、もすこし大びらに用いたい。
今ひとつ念頭でうそぶいている私号がある。「有即斎」です、今書いているフィクションの中で使っていて、その「うそくさい」のが気に入っています。「退蔵」という二字をときどき使っている。新井白石に教わった。肩書きを取り払い平服で生きるといった意味と理会している。裏千家から高校卒業時に希望して受けた茶名が、「宗遠」。これも気に入っている。
「退蔵院有即斎宗遠居士」と死後に坊さんが呼んでくれるかどうか、何にしても自己「批評」と心得ています。
2012 12・19 135
* 走りすぎていないかと、それとない危惧の声がきこえる時がある。正直に言えば、疾走している。死期を早めようなどと微塵思っていない。こう生きたいと願うままを可能な限り、暴走ではなく疾走していたい、そういう人なのである、わたしは。霞んで見えないまま文字をまさぐりだして、書いている。禅人は愚かなと大喝を呉れるだろう。友人でも面色をおかして怒るかも。だが、ありのままに走りたければ走るのである。
2012 12・28 135